「scriviamo!」の前書き
この歓びと感謝の氣もちをお伝えするために、一周年企画として立ち上げたのが「scriviamo!」です。当ブログのタイトル「scribo ergo sum」は「書くからこそ私は存在する」という意味のラテン語ですが、それから派生して「(あなたと私とで)一緒に書きましょう」という意味のイタリア語「scriviamo!」を企画の名前にしました。(ラテン語だとちょっと硬かったので……)
このカテゴリーでお送りする作品は、すべてこの企画に賛同してくださった方々からの素晴らしい作品へのお礼・返事という形を取っています。イラストを描いてくださった方、選び抜いた言葉で詩を書いてくださった方、プロ視点でのショートシナリオで参加してくださった方、看板小説を貸してくださった方、この企画のためにわざわざ新作を書いてくださった方、大切な作品のキャラたちと当ブログのキャラたちとをコラボさせてくださった方。読み返す度に、皆さんの暖かい氣持ちの詰まった一周年記念のプレゼントに、胸が熱くなります。本当に私は幸せ者です。
お返しさせていただいた作品は、かなりの二次創作が含まれています。どなたの作品に対しても私なりの最大の敬意を払って書いたつもりですが、もし、お氣に障る事がありましたらお許しください。
また、こちらをお読みくださる皆様にお願いいたします。すべての作品の頭に、オリジナル作品へのリンクがあります。私の拙い二次創作でイメージが歪められぬよう、ぜひオリジナルの方のブログをお訪ねください。
それでは、どうぞ「scriviamo!」作品群をお楽しみくださいませ。
八少女 夕
【小説】うわさのあの人
scriviamo!の第一弾です。ダメ子さんに「大道芸人たち」の蝶子を描いていただきました。そして、そのお返事として、短編を書くことにいたしました。こんなご要望をいただきました。

私の場合は好きなキャラを好きに使ってもらえれば
いいかなあなんて
で、本当は、ダメ子さんの「ダメ子の鬱」に登場する主人公ダメ子ちゃんのクラスメート、キョロ充という設定のキョロ乃ちゃんをお借りして、彼女とその脳内彼氏のお話を書くつもりだったのですが。
そもそも「キョロ充ってなに?」はい。そうです。私はこの言葉を知りませんでした。で、ネットで調べているうちに、「キョロ充」と「ソロ充」のお話が勝手にできてしまいました。完全に「ダメ鬱」のキョロ乃ちゃんとは別人です。お名前だけ借りた、もしくは、丸ごと、誰かの妄想だった、という設定で、お許しくださいませ。
うわさのあの人
キョロ充 meets ソロ充
——Special thanks to DAMEKO-SAN
その教室はほぼ埋まっていた。あたしは必死だった。オリエンテーションの日に目をつけた、優しそうな女の子たちが自然とグループになっていて、そこにうまく入り込まなくちゃと氣を張っていたのだ。
オリエンテーションの日は失敗した。似たようなグループが三つほどできそうになっていて、あたしは上手いことその一つにするっと入ったつもりだったのだけれど、そのグループがふとした瞬間に他の二つに分裂合流してしまったのだ。あたしは、なかでも一番キツそうな子の行かなかった方に入ろうとしたのだけれど、たまたまそっちに椅子が一つ足りなくて、列をはさんで隣に座った。そのせいで上手く自己紹介とか、メアド交換までいかなかった。だから、今日こそ、あの子たちと一緒に座って、それからさりげなく、もう友達だねってふうに会話に加わらなくてはいけない。そうじゃないと、あたしの大学生活、「ぼっち」になってしまう。
なんとか廊下の先で、みんなに加わり、さりげなく一緒に歩いていた。リーダー格のさおりちゃんがスマホをいじりながら言った。
「あ、待って。彼にメールひとつ送らせて」
それでみんなは足を止めた。他の子たちがどんどん教室に入っていく。そして、さおりちゃんが歩き出してみんなが教室に入った時、まとめて空いている席は六つしかなかった。座らなきゃ。
でも、最後の席に座ろうとしたときさおりちゃんがマキちゃんを手招きして言った。
「ほら、マキ。はやく座って」
だから、あたしの席はなくなってしまった。
「あれ。梨乃ちゃん。ほら、あそこが空いているよ」
さおりちゃんはちよっと前の席を示して、それから「あ」と小さく言った。マキちゃんがくすっと笑った。
「馨サマのお隣だあ」
あたしは、その空いている席に行って、怖々訊ねた。
「ここ、いいですか?」
その人はすっと、こっちをみて黙って頷いた。マキちゃんが「サマ」をつけるだけのことがあって、貫禄のある学生だった。といっても体型ではない。小柄で痩せている、真っ黒の髪の毛を短くなびかせている。黒いジャケットに細身のパンツ。スカイブルーのシャツの衿がきりっと立っていて、なんていうのかすごく格好いい。切れ長の目に、わりと太めでしっかりとした眉。化粧もしていないのに、異様に肌がきれいで唇はうっすらと赤い。こんな中性的なきれいな人がいるんだ。
馨さんかあ。あたしみたいに、誰と仲良くできるかとか、悩んだことなさそう。関心もなさそうだった。授業に真剣に身を入れて聴いている。あたしの携帯が震えて、それを見ていたら、ちらっとあたしを見た。ちょっと軽蔑されたみたいに感じたので、慌てて鞄にしまった。メールが来るなんて滅多にないことだから、本当はすぐに返事をしたかったのだけれど。
あとで、そのメールはやっとメアド交換が済んだばかりのマキちゃんからだったとわかった。授業が終わってから、みんなに置いていかれないかと氣が氣でなくて振り向いたら、マキちゃんとさおりちゃんがちゃんと待っていて、それどころか小さく手招きしている。
「梨乃ちゃん、ねえねえ、どうだった? 馨サマの隣」
それで、あたしは、さっきの子がこのグループの女の子たちの憧れの存在なのだとようやくわかった。あたしは馨さんとたくさん話をしたわけじゃなかったので、どうといわれてもあまり話すことがなくて困ってしまった。みんなは、それで、あたしへの関心を失ってしまったらしい。でも、少なくともランチで「ぼっち」にはならなかったのでほっとした。
でも、学食でまたあたしに災難が。カレーなら早いと思ったからそこに並んだのに、みんなが氣まぐれなさおりちゃんと一緒に瞬時に総菜パンの方に行ってしまったので、また出遅れてしまったのだ。あたしがトレーを持ってみんなに合流したら、また席が一つ足りなくて、あたしは通路をはさんだ隣に座ることになった。前には誰もいなくて、話もとどかないし。
そう思っていたら、前からあの人が歩いてきた。馨さんだ。トレーにはラーメンが載っている。そんな難易度の高いものを食べられるんだ。あたしには絶対無理。だって、みんなの食べるスピードに合わせて、でも、飛び散ったりしないように、音がしないように食べることなんてできないもの。
そう思っていたら、空いた席のほとんど見当たらない学食を見回してから馨さんはあたしを見て肩をすくめた。
「相席していい?」
あたしはもちろん大きく頷いた。だって、みんながまた羨ましそうにこっちを見ているし。
馨さんは、豪快にラーメンを食べた。この人、周りの目を氣にしたりすることってないんだろうな。かっこいいなあ。あたしが女子高の一年生だった時、全校のアイドルだった生徒会長のミチル様、この人に較べると子供っぽくて大してきれいでもなかったなあと思う。この人がうちの高校にいたら、バレンタインデー、大変だったろうなあ。
「あの……」
あたしは、勇氣を振り絞って馨さんに話しかけた。だって、ここでこの人と仲良くなることだけが、遅れを取っているあたしの大学生活を、まともにしてくれそうな予感がしたんだもの。
「ん?」
「あたし、早川梨乃っていうんです」
ラーメンをほぼ食べ終えていた馨さんは、ああ、と思い出したようににっこりと笑うと言った。
「ボクは浅野馨。よろしく」
中性的だと思ったら、一人称も中性的なんだなあ。って、もっと会話を続けなきゃ。なにか、あたりさわりのない、え~と。
「馨さん、履修授業、もう決めましたか?」
隣の聴き耳軍団がちょっと落胆したみたいな顔をしたけれど、馨さんは普通に笑って答えてくれた。
「うん、そろそろ決定かな。どうして? 決められないの?」
もちろん、決められないよ。さおりちゃんたちが何を受講するのか聞き出していないし。
「馨さんのを教えてくださいよ。参考にしたいから」
横からマキちゃんがぱっと会話に加わった。
「う~ん。参考になるかなあ。ボクの履修授業、とりとめもないよ。興味があちこちにあるし、一年のうちにできるだけたくさん単位をとっておきたいしね」
馨さんは、手帳からメモを出して、それをマキちゃんにみせた。みんな目を丸くして一巡して帰ってきた。あたしもその量にびっくりしたけれど、見せてもらってメモをした。みんながこの授業を履修するなら……。
そして、あたしは氣がついたのだ。あたしからみんなを追うと、みんなは逃げるのに、馨さんといるだけで、みんなが寄ってくるし、馨さんは逃げない。ってことは、馨さんの側にいればいいんじゃない?
「ええっ。本氣で、あれ全部登録しちゃったの?」
次の授業で、隣に座った時に馨さんは目を見開いた。
「ええ。でも、他の子たちは、しなかったみたい……」
馨さんはゲラゲラ笑った。
「そりゃそうだよ。楽勝科目ないし」
あたしは、仰天した。馨さんは目の縁から涙を拭って言った。
「君って、噂どおりのキョロ充さんなんだね。面白いからこれからは、キョロ乃って呼ぶよ。そんなにまわりに合わせてばかりいると、息苦しくない?」
ドキリとした。
「馨さんは、心配にならないんですか。友達できなかったらどうしようとか、学食で一人で食事をするのが怖いとか」
「まさか。ボクは子供の頃から一人でいるのに慣れているんだ。いつも誰かと一緒にいたら本も読めないじゃないか」
「本、ですか……」
「そうだよ。予習もしなきゃいけないし。 今日、やっと生協に教科書が届いたみたいだね。ボク、放課後は図書館で予習するけど、キョロ乃も来る?」
キョロ乃と定着してしまったことには納得いかなかったけれど、馨さんに誘われたのが嬉しくてあたしは大きく頷いた。
生協で一緒にずっしりと重い教科書の束を受け取ったあと、あたしは馨さんに引っ付いてはじめて図書館に足を踏み入れた。馨さんは、慣れた足取りで三階へ行った。一階や二階と違って、ほとんど学生がいない。それもそのはず、その階は洋書が置いてあるのだ。
「あった、あった」
馨さんは、一つの棚から大判の本を取り出して眺めている。
「なんですか、それ?」
「ラファエロ前派のちょっと有名な画集の初版。日本ではここと、あと二、三の図書館しか所蔵してないんだ。この大学に決めたのは、図書館の充実度が一番だったんだよね」
えっと。あたしは受けたところの中で一番偏差値が高い本命だったから入ったんだけど……。
そんなにまでして、読みたい本って……。ちょっと横から覗いてみる。画集っていうだけあって、確かに大きな絵も入っているけれど、やたらとたくさん英語も書いてある本で、それを嬉しそうに眺める馨さんにあたしは感心した。英語はわからないから、絵しか見ないあたし。
「ほら、これ、バン=ジョーンズだよ」
「馨さん、絵が好きなんですか?」
「うん。美学を専攻するつもりなんだ。」
うわ。ぴったり。あたしは、何を専攻するかなんて考えてもいなかった。外国語は苦手だから国文にしようかなって思ったぐらいかな。
馨さんの好きなその画家は、とても繊細で柔らかい女性を描いている。肌が透き通るようで、やはり少し中性的。
「この絵の女性、馨さんに似てますね」
あたしがそういうと、馨さんはこっちをみて、ちょっと怪訝な顔をした。でも、何も言わなかった。
その後、あたしは馨さんと一緒にどういうわけかラテン語の予習をすることになった。まだ授業もはじまっていないのに、何でこんなに勉強するんだろう。それに、ラテン語って全然わからない。あ~あ、前途多難だなあ。
それから、あたしと馨さんは一緒に行動することが多くなった。当たり前だ。ほとんど全部同じ授業を履修しているのだもの。食事も一緒にすることがあったし、そうでないときはさおりちゃんたちが興味津々で寄ってきた。
「ねえねえ。ついにつき合うことになったの?」
その言い方に、あたしはびっくりした。
「だって、放課後一緒に図書館にいたって、誰かが言っていたよ」
あたしは、いくら女子校出身でもそのケはないのだと慌てて説明した。そうしたら、みんなはものすごくびっくりした顔をして、しばらく何も言わなかった。それからマキちゃんが、ためらいがちに口を切った。
「ねえ、梨乃ちゃん、もしかして、馨サマのこと女だと思っている?」
あたしは、マキちゃんの言っていることがしばらくわからなかった。それからみんなの顔を見て、それから、言葉の意味が脳みそに到達して……。
えええええええええええええええええええええええええええええええっ?!

イラスト by ダメ子さん
このイラストの著作権はダメ子さんにあります。ダメ子さんの許可のない二次利用は固くお断りします。
そ、そりゃ、低めの声で男前な女性だと思っていたけど、男だったの? うそ~っ。あたしの驚きっぷりを見て、みんなは呆れながらも笑ってくれた。あたしが素早く抜け駆けしたのだと思っていたらしい。
それより、これからどうしよう。男の人と話なんてしたこともないのに。
「したこともないって、もう一週間もずっと馨サマと一緒じゃない」
誰も助けてくれるつもりはないらしい。
動揺したまま、あたしは英語の教室に連れて行かれた。みんなはあいかわらずまとめて後ろに座ってしまって、また馨さんの隣だけが空いている。っていうか、みんな既にあたしの席だと思っている。
平静を装って、席に着く。そう思ってみると、確かに男性なのかも。ボクって普通の一人称だったんだ。でも、文学部だし、後ろの方に座っている数少ない男の人たちと話もしていなかったし、だいたい何でこんなに肌がきれいなのよ!
馨さんは、あたしの妙な様子に氣がついたらしい。こっちを見た。途端にあたしは、自分でもはっきりとわかるほど真っ赤になってしまった。ど、どうしよう。馨さんはにやっと笑った。
「ようやく氣がついたのか。キョロ乃ってキョロキョロしているだけで肝心なこと何も見ていないんだね。おかしい」
それから、授業に集中して、その間、全くこっちを見なかった。あたしは、英語どころじゃなかった。でも、そのうちに氣もちも静まってきた。あたしひとりが意識しても、意味ないんだ。女だとまったく思われていないみたいだし。
授業が終わると、馨さんはすっと立ち上がった。あたしは我に返ってノートや教科書を鞄にしまった。ふと横を見ると、まだ馨さんがそこに立っている。なんだろう?
「行くよ」
「行くって、どこに?」
「忘れたの? ギリシャ語初級。ボクら二人と、大学院生しか履修していないんだから、さぼったらすぐにわかるよ。だいたい予習してきたの?」
あたしは大きく首を振った。なんでそんな大層な授業履修しちゃったんだろう。馨さんに引っ付いて予習を手伝ってもらわないと、留年になっちゃう。泣きそうな顔でついていくあたしを見てさおりちゃんたちが頑張れと親指を立てた。たぶん、全然別の意味で頑張れと言っているんだろうけれど。
……あたしの大学生活、すごいことになっちゃったみたい。
(初出:2013年1月 書き下ろし )
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【小説】哀雪
scriviamo!の第二弾です。仙石童半さんは、この企画にショートシナリオで参加してくださいました。本当にありがとうございます。
童半さんの書いてくださったショートシナリオ 哀傘
今回は、丸々設定をお借りして、過去にとらわれているヒロインについて、童半さんの作品の続きを掌編の形で書いてみました。
「scriviamo!」について
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哀雪
——Special thanks to DOUHAN-SAN
雪は溶けて旅行鞄を伝いブーツに落ちた。結衣は立ち止まって傘と鞄から残った雪を払った。この鞄には、結衣の全財産が入っている。他のすべてを処分し、マンションを解約して、仕事を辞め、身の回りを整理した。引き止める者もなく、結衣は二十七年暮らした故郷を去ろうとしていた。
十年前のこんな雪の日に、この同じ鷺室駅で、結衣は尚哉を見送った。東京へ行く、もう戻らない、そう決意した尚哉にどうか連絡を絶たないでくれと懇願したのだ。けれど、尚哉はもう思い出したくないのだと言った。振り返らずに去った尚哉が見えなくなると、結衣は最後のメールを書いた。たったひと言だけ。
「バイバイ」
返事をくれることを、時間はかかっても、尚哉から再び連絡が来ることを、結衣はいつも待っていた。けれど、もう終わりにするのだ。この町に留まって、悲しく待つだけの人生はやめるのだ。
中央口の改札からほんの少し行ったところで、足元に落ちている灰色の固まりに氣がついた。こんなに古い携帯はもう滅多にみないので思わず目が釘付けになった。尚哉が使っていたのと同じ。
結衣は、その古い二つ折れの携帯電話をそっと手に取った。誰かが落としたのだろう。拾得物の窓口に行かなくては。そう思ってから考えた。――ありがとうございます。では拾得者のお名前とご住所を。そう言われたら、なんと書く? 一人で、あてもなくどこかへ行こうとしているので住所はないと? ああ、窓口にはいけない。一瞬、元あった場所に置きなおそうとして、ふとストラップの位置に目がいった。
嘘よ。そんなはずはない。結衣はポケットから自分の携帯電話を取り出した。ストラップの紐を見る。全く同じ、すり切れて、汚れている組紐。
「ねえ。いいでしょう。せっかくここまで来たんだもの。お揃いのストラップ買ってつけよう」
修学旅行の太宰府天満宮で結衣は上目遣いで甘く頼み込んだ。尚哉は露骨に嫌そうな顔をしていたが、それでもお揃いで買うことに同意してくれた。
「ほら、ちゃんとつけようよ」
結衣がいうと、彼はすっと携帯を渡し、つけてくれと頼んだ。
結衣はあれから二度は機種変更をした。でも、ストラップはずっと変えなかった。色が変になってきても。スマホにしなかったのは、ストラップをつける場所がなかったからだ。
拾った携帯電話についているのは組紐だけで、梅の形のマスコットはちぎれてなくなっていた。でも、組紐は同じ。色の薄れ具合は少なくてずっと使っていない、そう、あの十年前から時間が止まってしまったような状態だった。嘘よ、そんなはずはないわ。あれから十年間も、これがここに落ちていたはずはない。これは単なる偶然、誰か他の人の携帯、そうでしょう? それとも尚哉、またこの町に帰ってきたの? よりにもよってこの晩に、私の前にこの携帯を落っことして?
尚哉がいってしまった時、結衣にはどうしてもわからなかった。複雑な家庭に生まれたのは私も尚哉も一緒でしょう? でも、どうして尚哉は私ごと切り捨てて東京に行ってしまったの? 私との三年間もゴミ箱に入れたいものだったの?
「もう、思い出したくないんだ……」
尚哉の氣まずそうな目が結衣の心を射る。どうしてなの。どうして私だけ忘れられないの?
高校卒業後に結衣はいくつかの仕事を経験した。長く続いたのは、スナック『パンテオン』での仕事だけだった。……私が水商売に向いていたからじゃない、ママが私を見捨てられなくて面倒を見続けてくれたから。でも、私はママの優しさだけじゃ心の隙間を埋められなくて、告白されたのをいいことに里志と暮らしはじめた。でも、そんなんじゃ、上手くいくはずなかったよね。
「何でお前は俺のことをいつもそうやって見下すんだ。誰と較べているんだよっ」
里志が憤る時、結衣の心の中にいつも尚哉が浮かんできた。尚哉は叩いたりしなかった。尚哉は私の財布からお金を抜いたりなんかしなかった。でも、尚哉は私と一緒にはいてくれなかった……。
里志も出て行った。隠れてつき合っていたほかの女の子を妊娠させたからではなかった。それはただのきっかけだった。里志は結衣が憤り、哀しみ、引き止めたなら、やり直したいとすら思っていたのだ。でも、結衣は簡単に諦めてしまった。
「そうだよね。赤ちゃんのためには、里志が行ってあげるのが一番だよね」
「例の男も、そうやって、『しかたないよね』って送り出したのかよ。お前は、結局自分が傷つきたくないだけだろう。そして、自分だけがかわいそうな子だって、悲劇に酔っているだけなんだよ。反吐が出る」
里志の捨て台詞が耳に残る。手の中には、十年前のフラッシュバック、こすれて傷ついた携帯電話がある。
「すみません、どいてください」
後ろから来た学生たちが声をかける。結衣はまだ改札の近くに立ちすくんだままだったことを思い出す。行かなくては、夜行に遅れてしまう。携帯を改札に渡そうか、それとも、中を開けて尚哉の携帯かどうか確認するか、結衣は再び逡巡した。
これまでと一緒だわ。里志のいう通りよね。
「お前は、何もしない。世界が都合よく変わってくれるのを待っているだけで。ぐずぐず泣いて人に罪悪感を植え付けるだけで」
このまま、何もしないままでいるの? 結衣は、意を決して、そっと携帯電話を開いた。
連絡先、メール。「2002/1/26」。差出人、ユイ。「バイバイ」。涙があふれてくる。……尚哉。どうして、今日なの? あなたを忘れるためにこの町からでていこうと行動に移した日なんだよ? 夜行に乗ったからといって、明日の予定があるわけではない。もし、もし、今夜、彼にもう一度逢えるなら……。結衣は踵を返すと改札を出て、赤い傘をさし、かつて尚哉が母親と住んでいたアパートの方へと歩いていった。
この道を往くのは十年ぶりだった。かつては駅周辺と尚哉のアパートのある地区の間には、草原と畑があって、数分間は街灯すらもないところを尚哉の自転車のライトだけを頼りに移動したものだった。が、今は途切れなく家が建ち、真新しい街灯が規則正しく立っている。夏に自転車の二人乗りをしたこと、秋に香る金木犀を探したこと、雪玉を投げあって駆けたことを思い出す。逢いたいよ、尚哉。十年経っても、全然変わらないよ。
けれど、結衣の目的地には、もうアパートはなかった。新築のマンションが建っていた。
結衣は、尚哉の携帯電話を胸の位置に抱きしめて、立ち尽くした。これが、現実なのだ。尚哉は十年前の過去には存在していない。現実の尚哉は、どこか別のところにいる。たぶん、だれか他の女の人がそばにいて、私のことなど、戯れにしか思い出さないのだろう。この携帯電話をあの駅に落としていったのは、もういらないからなのかもしれない。
里志、ごめんね。あなたの言う通りだった。私はただ待っているだけだった。尚哉のお母さんや、親戚の叔父さんに連絡をとろうともせず、ただ、尚哉から連絡が来るのだけを待っていた。その間、側にいて、一緒に暮らしていたあなたの存在を大事にしなかったよね。
この町は、居心地のいい牢獄だった。自分が変わっていけないのは、すべて寂れたこの町のせいにしておけばよかった。尚哉に拒否されたという哀しみは、結衣の周りに鉄格子を築いた。そしてその哀しみに白く清らかな雪が降り積もることで、結衣の心を冬眠させていた。結衣は十年間にわたり自分の人生を生きてこなかった。
尚哉の携帯電話をコートのポケットに滑り込ませると、旅行鞄をもう一度持ち直して、結衣は駅の方に引き返していった。もう、今夜の夜行には間に合わない。でも、とにかく駅に行こう。もうこの町には私のいる場所はないのだもの。赤い傘、旅行鞄、そして結衣のコートには、次から次へと雪が降り積った。新築マンションの前に残された足跡も、直に雪に覆われて見えなくなってしまった。
(初出:2013年1月 書き下ろし)
【小説】夜のサーカスと黒い鳥 Featuring「ワタリガラスの男」
scriviamo!の第三弾です。(ついでに、ウゾさんの分と一緒にStellaにも出しちゃいます)
ウゾさんは、人氣キャラ「ワタリガラスの男」シリーズと、当方の「夜のサーカス」のコラボの掌編を書いてくださいました。本当にありがとうございます。
ウゾさんの書いてくださった掌編 白い鳥 黒い鳥 そして 白い過去
そういうわけで、「ワタリガラスの男」シリーズの二人のメインキャラをお借りして、「夜のサーカス」の番外編を書いてみました。
本当は、読まされる方の苦痛も考えて、小説は週に二本を限度にしているのですが、今週は日曜日にStellaの発表もあります。で、こちらを来週にしようとも思ったのですが、私自身がそんなに待てません! で、イレギュラーで週三本になりますが、発表しちゃうことにしました。番外編とはいえ「夜のサーカス」シリーズなので、表紙付きです。ウゾさん、表紙にもワタリガラスの男さまをお借りしました。ありがとうございます!
「scriviamo!」について
「scriviano!」の作品を全部読む
「夜のサーカス」番外編
夜のサーカスと黒い鳥 - Featuring「ワタリガラスの男」
——Special thanks to UZO-SAN

漆黒のマントが風に揺れている。風がいつもとは違う調子で唄う。ヒュルリ、カラン、トロンと。イタリアの平凡で何も起こらぬ小さな町は、その唄に驚き首をすくめる。オレンジの薫りがする。どこからするのかわからぬ香氣。いずこから来たのかわからぬ旅人。彼は、まっすぐに町の中心へと向かおうとする。いくつかのバル、小さな商店、午睡にまどろむ広場。人影はほとんどない。
旅人はわずかなすすり泣きを耳にする。小さな、かすれたしゃくり声は、広場の近くの樹々におおわれた公園から漏れてくる。見過ごしてしまうほど狭い遊び場。滑り台が一つと、背の高い鉄棒と、低いのが一つずつ、それから壊れたブランコに、砂場。鉄棒の下で、学校にもまだ入っていないほどの幼子が泣いている。
男は低い声でそっと問いかける。
「何がそんなに悲しいのだ?」
小さな少女が黄金の頭をゆっくりと持ち上げる。男に黄金の双眸が見える。涙に濡れ、砂が頬に張り付いている。
「どうしても、できないの。白い鳥のように飛んで、きれいに回りたいのに」
その答えが、旅人の興味を惹く。ワタリガラスの代理としてこの世を彷徨う男の。
「お前には空を飛ぶ白い翼が必要だというのか」
少女は首を振った。
「翼はなくても、ジュリアは空を飛んでいたわ。真っ白い、キラキラ光る、とてもきれいなブランコ乗りなの」
旅人は少女に微笑みかける。
「ジュリアに飛べるなら、お前も飛べるだろう。飛ぶ練習を怠らなければね」
「今日は飛べないの?」
「飛べない。たぶん明日も飛べないだろう。」
少女は、落胆して肩を落とした。
「明日には薔薇は枯れてしまうわ」
彼女の心には紅い薔薇を持って白く美しいブランコ乗りを追いかけていく哀しい道化師の少年の姿がよぎる。私の運命の人なのに、どうしても届かない。いつも美しいジュリアを追って、舞台の奥へと走っていってしまう。あなたの側にいさせて。ブランコ乗りになるから。ジュリアのように羽ばたいてみせるから。
旅人は幼い少女の頭を優しく撫でた。
「薔薇は次々と咲くのだ。お前が空を飛ぶ日まで、何輪でも。諦めてはいけないよ。飛ぼうとし続ける者だけが、いつか本当に空に向かえるのだ」
少女は、それを聞いて涙を拭い頷いた。そして両手をまっすぐに伸ばして、もう一度鉄棒に向かった。男は少女を助けて鉄棒の上に体を持ち上げてやりながら囁いた。
「お前がはじめて空を飛ぶ日に、私はそれを見届けに行こう」
リハーサルを何度も重ね、何度もやった演技だったが、初舞台の今日は何もかも違っていた。テントの中の人いきれ。青白い眩しいスポットライト。朗々と響く音楽の中、舞台の上を走る道化師ヨナタンの背中。ステラは、半ば震えながら天井のブランコの上で待っていた。大丈夫だろうか。もし、うまくいかなかったら、どうしよう。先月引退したジュリアのようになんて、できっこない。
その時、ステラはヨナタンが紅い薔薇を差し出すのを目にした。出番の合図だ。ゆっくりと下がっていくブランコの上で、ステラはすっと背中を伸ばした。どこからか、声が聞こえてくる。
「薔薇は次々と咲くのだ。お前が空を飛ぶ日まで、何輪も」
少年だったヨナタンは、立派な青年になった。大車輪ができないと泣いたステラは十六歳になっていた。そして、間違いなく薔薇は何輪も咲いた。ようやく、あなたは私を追ってきてくれる。あの人が予言した、そのままに。
ステラは、その人のもう一つの言葉を思い出した。
「お前がはじめて空を飛ぶ日に、私はそれを見届けに行こう」
まさかね。でも、ありがとう。私は、ちゃんと飛びます。白い鳥になって。
「お疲れさま!」
「よく頑張ったな!」
大喝采を背中にステラが袖に入ると、仲間たちが次々と寄ってきて肩を叩いた。演技はあっという間だった。わずかなミスはあったけれど、観客にはわからないくらいだった。いつもは厳しい教師のジュリアも、笑って褒めてくれた。嬉しくて、ステラは涙を拭った。本当に今日からブランコ乗りなのだ。
観客の爆笑とともに、ヨナタンが袖に飛び込んできた。そして、そこに立っているステラと目が合った。道化師は、もともと笑っているような化粧の下の、口元をほころばせて言った。
「よくやった」
そして、ステラの前髪をくしゃっと乱した。
「さあ、カーテンコールだ」
仲間たちが、次々と舞台に走っていく。ステラも、ヨナタンに手を引かれて光の中に戻っていく。
本日の出演者たち全員に、割れるような拍手が贈られる。仲間は、円形の舞台の端にそれぞれ立つ。一番真ん中に、今日デビューのステラ、その隣はヨナタン。眩しい光の中、出演者たちが何度もお辞儀をする。
ヨナタンは、いつものように、一つの客席に眼をやる。そう、かつてみなに嗤われている道化師を、幼いステラが泣きそうになって観ていた席。その悲しい表情にたまらなくなって、彼が紅い薔薇を差し出した、あの席だ。そこには、奇妙なことに白い大きめの人形が座っている。髪が長く、陶器のようなすべすべの肌で、透明な硝子の瞳をぱっちりと開いている。それは人形なのに、生き生きとしていて、今にも話しかけてきそうだった。
その人形の隣には、全身黒尽くめの男が座っていた。周りの他の観客たちが、滑稽なほどのさまざまな色を身にまとって、がやがと落ち着きなく騒いでいるのに、落ち着き払って座っている白い人形と黒い男の、モノトーンのコントラストがヨナタンの眼を惹いた。
ヨナタンは、その人形の、モノとしてはありえないほど恐ろしく生き生きとした様子に、自分がかつて本当に生きていたときのことを思う。この仮面の下に生命を押し込めて生きることになった忌々しい夜のことを思い出す。生きている人形と、生きていない道化師。奇妙な符号だ。意識が離れたがために、手の中にある薔薇の刺が彼の指を刺し、誰にも氣づかれないほどわずかの血が流れていく。ヨナタンは、人形がその痛みを感じている錯覚に陥った。短い、あいまいな幻想。
やがて人形に何かを囁きながら立ち上がり、男はめちゃくちゃに騒いでいる観客たちの間をすうっとすり抜けて、人形を連れて通路を歩いて行った。男は、出口で振り向くと、まだ己を視線で追っている道化師の方をまともに見た。それから、帽子をかぶり、口角をわずかにあげると再び人形に何かを語りかけた。
そのとき、ヨナタンの指の小さな傷口から、オレンジの香りがした。男が戸口に消えると同時に、テントの中には不思議な風が吹いた。ヒュルリ、カラン、トロンと。「あ」小さな声を出して、男の存在に氣がついたステラが、風とともに去ったマントを目で追う。美しく、生命に満ちた若いブランコ乗りの娘が。今日、予言の通り美しく羽ばたくことのできた白い鳥が。
「あの人……。まさか、ね」
ヨナタンはそっと彼女に語りかけた。
「不思議な人形を連れた、カラスのような男だったね」
ステラは無言で頷いた。鳥たちの神様なのかもしれない、ぼんやりと彼女は思った。
(初出:2013年1月 書き下ろし)
【小説】大道芸人たち 番外編 〜 港の見える街 〜 Featuring「絵夢の素敵な日常」
「scriviamo!」の第四弾です。(左紀さんの分と一緒に、またしてもStellaに出しちゃいます)
山西 左紀さんは、おなじみの〝空気の読めないお嬢様〟「絵夢の素敵な日常 」シリーズで、ほぼ私の好み100%の掌編を書いてくださいました。左紀さんのブログの5000HITを私がちゃっかり踏んだのですが、リクエストOKというお言葉をいいことに「(絵夢の執事の)黒磯」と「チョコレート」という無茶なお題でお願いしたのです。このわがままに、素晴らしい作品で答えてくださっただけでなく、なんと当方の「大道芸人たち Artistas callejeros」の四人も登場させて、「scriviamo!」にも快く参加してくださいました。本当にありがとうございます。
左紀さんの書いてくださった掌編 アルテミス達の午後
そういうわけで、絵夢さまをお借りして、「大道芸人たち Artistas callejeros」の番外編を書いてみました。
せっかくのコラボをどうしても並べたかったので、無茶を承知で、今月三本目のStella参加です。
「scriviamo!」について
「scriviano!」の作品を全部読む
「大道芸人たち」をご存じない方へ
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログでメインに連載していた小説です。偶然知り合った四人が大道芸をしながらヨーロッパを旅していくストーリーです。今回発表している物語は、この四人が日本に来日しているという設定のスピンオフ作品です。
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 港の見える街 〜
Featuring「絵夢の素敵な日常」
——Special thanks to SAKI-SAN
窓から見える港をじっと眺めている蝶子の横に、すっとレネが立った。
「パピヨンは海が好きなんですね」
稔がインターネットで目ざとく見つけた格安のビジネスホテルにはバイキング式の朝食がついていた。最上階にある展望式レストランからは神戸の港が一望のもとだった。
蝶子は、いつになく優しい笑顔を見せて答えた。
「この風景は特別好きなのよ。ブラン・ベックにとってのアヴィニヨンの橋みたいなものかしら」
「この神戸で育ったんですか?」
そんなことを蝶子は一度もいわなかったので、少しびっくりした。
「育ったってほどじゃないわ。でも、子供の頃、しばらく神戸に預けられていたの。祖父母が住んでいたから」
それを聞いて、稔とヴィルも寄ってきた。
「そいつは意外だな。お前は関西に縁ないのかと思っていたからさ」
蝶子は、黙ってフルートの箱を握りしめた。
どこにいこうかと稔が訊いた時に、蝶子は氣まぐれな態度で神戸に行かないかと提案した。といっても、行っても行かなくてもどちらでも構わない程度の口調だったので、まさか蝶子にとってここが大切な場所だとは夢にも思わなかったのだ。ガイジン二人は、神戸とはかつて大きな地震のあったところくらいの予備知識しかなくて、何があるのかも知らなかった。
蝶子はあいかわらず、日本の家族とまったく連絡を取ろうとしなかった。稔は蝶子の実家の住所を覚えていなかったし、彼女が家族に対する郷愁をまったく見せなかったので、余計なことは言わないできた。けれど、はじめて見せた一種のノスタルジーにつきあいたくなった。
「よし、今日は、お前の思い出深いところで稼ごうぜ」
「阪神の三宮だったかしら、それとも……」
蝶子は、心もとない感じで地図を眺めた。
「なんだよ。わかんないのかよ」
稔が覗き込む。ガイジン二人は黙って肩をすくめる。
「だって、私、幼稚園児だったのよ。ちゃんと憶えているわけないじゃない」
「じゃ、とにかくそこにいこうぜ。どっちにしても、人だかりはあるだろうし」
三宮駅に着いても、蝶子には、祖父母のマンションのあった場所をはっきりという事は出来なかった。
「何もかも変わっちゃったみたいだわ」
「あんたが大きくなって目線が変わったからかもしれないぞ」
ヴィルが指摘すると、蝶子は肩をすくめた。
繁華街に向けて表通りを少し歩いていくと、レネの眼が輝き出した。稔はレネの視線を追って、それからしたり顔で頷いた。
「ははん。そうか、二月だもんな」
どこもかしこもハートマークの看板のついた、ワゴンが道にせり出していた。その上には山盛りの綺麗に包装されたチョコレートの箱、箱、そしてまた箱。レネはその商品見本を見て、中身が何であるかわかったので、心惹かれているのだ。
「なぜこんなにたくさんチョコレートを売っているんだ? スイスみたいだな」
ヴィルが首を傾げる。
「日本のお菓子メーカーの戦略が当たって、毎年恒例のお祭りになってしまったのよ。聖ヴァレンタインデーに日本では女性が男性にチョコを贈るの」
レネとヴィルは首を傾げた。最愛の人に贈るにしては、一つひとつが小さすぎるし、大体なぜ「女性」だけが贈るのだろうか。
「これは、義理チョコ用だよ」
「ギリチョコ?」
蝶子は二人に手早く「義理」という概念と、日本では聖ヴァレンタインの日に、女性にとって最愛でもない上司や同僚にも大量のチョコレートが配布されている事実について説明した。ガイジン軍団はますます混乱したようだった。
「なあ。ところで、俺も日本男児なんだけど」
稔が、若干もの欲しそうな目つきで蝶子を見た。
「だ・か・ら?」
蝶子は冷たい一瞥をくれた。
「いやあ、せっかく二月に日本にいるんだぜ。義理チョコとは言え、フルート科の四条蝶子や、ヴィオラの園城真耶にチョコをもらうなんて僥倖、当時のクラスメートにうらやましがられると思うんだけどな~」
蝶子は、まあ、という顔をした。
「なぜ、そこで他のクラスメートの話になるんだ?」
理屈っぽいヴィルが突っ込む。
「ああ、ヴァレンタインのチョコの数は、男の人氣のバロメータなんだよ」
稔がそう説明すると、レネがだったら僕も欲しいと言いたげな顔で蝶子を見つめた。
「な、なによ。わかったわよ。チョコの代わりに、今夜は三人の素敵な男性に、私がごちそうするわよ、それでいいでしょう」
チョコレートよりも酒の好きなヴィルは露骨に嬉しそうな顔になり、レネは素敵な男性と言われて舞い上がり、稔も瓢箪から出た駒に、なんでも言ってみるものだなと喜んだ。
商店街をすぎてしばらく行くと、ちょっとした広場があった。四人の勘が「ここは稼げる」と告げたので、ここを仕事場にすることにした。警察がパフォーマンスの許可がどうのこうのと言い出す前に素早くはじめて、さくっと終える必要があった。
パントマイムを交えた音楽劇はあっという間に人だかりを作った。観客のスジを読むと、どちらかというコテコテのものの方がウケることがわかったので、レネは面白おかしい手品を、ヴィルもコミカルなパントマイムを演じた。それから稔と蝶子は「日本メドレー」を明るい調子で演奏した。知っている曲が続いたので、ギャラリーは喜んで小銭の投げ込まれる間隔が短くなった。
アンコールの拍手が続くので、稔はガイジン軍団に目配せをした。先日から用意しておいた「必殺ニホンゴ・ボーカル」。ノリのいい日本人向けのスペシャルだ。稔と蝶子が演奏する『早春賦』にヴィルとレネが加わる。
「ハ~ルノ~、ウラ~ラ~ノ~、スゥミィダガワ~」
観客はどっと笑う。その微妙な発音がおかしくてたまらないのだ。おお、ウケたぞ。『ソーラン節』もいってみよう。稔の悪のりに蝶子は苦笑したが、アンコールなのに、以前よりもたくさんコインが放り込まれている。悪くないわね。
大喝采の後、稔が出会った当時と同じ守銭奴の顔つきでコインを集めていると、フルートの手入れをしている蝶子の所に一人の女性が近づいてきた。きれいに手入れされて艶つやの黒髪が風になびいている。ニコニコしている。
「こんにちは。とても素晴らしい演奏でした」
蝶子は、軽く頭を下げると、その女性の瞳を見つめた。どこかで感じた雰囲氣だと思ったら、園城真耶と同じ空氣をまとっていた。たぶん同じ階層に属するのだろう。灰色のコートの上質さがその推理を裏付けていた。真耶に似ているのは、それだけではないだろう。穏やかで物静かに見えるけれど、瞳の輝きは、強烈な個性を内に秘めていることを物語る。自分のしたいことがきちんとわかっていて、自分の未来をしっかりと切りひらいていける、そういうタイプの女性だった。蝶子は、大学で真耶に会ってすぐに抱いたのとまったく同じに、この見ず知らずの女性にある種の敬意を抱いた。
「どうも、ありがとうございます」
「これで終わりになってしまうのは、残念です。もし、ご迷惑でなかったら、リクエストをしてもいいでしょうか」
女性はハキハキと頼んだ。
「何をお望みですか?」
蝶子は、心の中で付け加えた。あなたのリクエストなら。誰のリクエストでもきくわけじゃないのよ。
女性は戸惑い気味に言った。
「私、ドビュッシーが好きなんです。たとえば……」
「……『シランクス』とか?」
蝶子が即答すると、女性は眼を瞠って、それから頷いた。蝶子は、フルートを構えてゆっくりと吹き出した。
なんてめぐり合わせだろう! 蝶子の心は、三十年ちかく前に戻っていた。彼女は五歳になったばかりだった。二歳年下の妹、華代が入院することになり母親が付き添うことになったので、神戸の祖父母のもとに預けられることになったのだ。
蝶子はいつも両親のわずかな冷たさを感じていた。華代が生まれてからは、その感じは強くなった。母親も華代もいない状態で、祖父母のもとに滞在するのははじめてだった。そして、それは新しい幸福な経験だった。祖父母は孫を十分に甘やかしたから。うな重を一人分注文してくれた。バニラ・ビーンズの散っているおいしいプリンを買ってくれた。六甲山ホテルへ行き満天の星のように輝く神戸の夜景を見せてくれた。そして、港の見えるマンションで、優しくて美しい音楽をたくさん聴かせてくれた。
その曲をはじめて聴いたのは、ある朝だった。窓から見える神戸港。海の上に光がキラキラと反射していた。ゆっくりと大きな船が港を出て行く。そこにラジオから流れている不思議な美しい旋律。幼稚園で聴かされるような騒がしく単純な音ではない。繊細で、複雑な音。フルート奏者になった今ならば、半音階と全音階が複雑に組み合わされ、東洋の影響を色濃く受けた印象派特有の旋律であると説明することが出来る。ギリシャ神話、アルテミスの従者であったニンフの逸話にちなんで作曲された、フルート奏者にとっては避けて通れない大切な曲目であることも。けれど幼き日の蝶子には、ただその美しさだけが心に染み入った。
「これ、なんて音楽?」
そう訊いた孫に祖父母は笑って答えた。
「フルートの音楽だねぇ。ドビュッシーだと思うよ、なんて曲だろうね」
蝶子がフルートに魅せられたのは、それからだった。祖父母が早くに亡くなってしまったので、蝶子はそれから神戸には来なくなった。フルートを吹きたいと願う彼女を支持してくれる味方も一人もいなかった。ただ、フルートと音楽だけが、蝶子の原動力だった。それはミュンヘンにつながり、そして今、大切な仲間たちと生きている。その想い出の『シランクス』をここ、神戸で再び演ることになるなんて!
ヴィルは、もちろん何度も『シランクス』を演奏したことがあった。父親のエッシェンドルフ教授なら、この蝶子の演奏を即座に停めさせて、もっと東洋の影響を排除させた響きを要求することだろう。それに、テンポがすこし揺れている。しかし、ヴィルにはいまのこの蝶子の演奏が、どこか西洋的なこの東洋の街にじつによくマッチして聴こえた。心地のいい響き、強い郷愁。稔やレネも、それどころか先ほどまで笑い転げていた観客たちも、水彩画のような透明な響きに魅せられて、耳を傾けていた。
曲が終わると、再び大きな拍手がおこり、再びコインがチリンチリンと音を立てた。稔はあわてて、音の先を追って小銭を回収した。
「どうもありがとう。思った通り、素晴らしい演奏でしたわ」
「どういたしまして。私にとって神戸の思い出につながる大切な曲なんです。縁を感じますわ。リクエストをいただいて感謝しています」
「どちらからいらっしゃったんですか?」
女性は、ヴィルとレネに氣をつかって、英語に切り替えて質問した。
「僕たち、普段はヨーロッパで大道芸をしているグループなんです。神戸にははじめて来たんですよ」
レネがニコニコして答えた。女性はにっこり笑って言った。
「まあ、ようこそ神戸へ」
しばらく談笑して、名残惜しそうに別れを告げた後、女性は待っていた二人の連れの方へと帰っていった。蝶子は、去っていく三人の後ろ姿をじっと見ていた。私、やっぱり、神戸がとても好きだわ。
「さ。警察が嗅ぎ付ける前に、撤収しようぜ」
稔の声で我に返った蝶子は、フルートをしまうと三人に向かって笑いかけた。
「決めたわ。今晩は、六甲山ホテルで食事をしましょう。あそこからみる神戸の夜景は本当に素晴らしいのよ」
稔は眼を剥いた。
「おい。いいのかよ。忘れていないか? 今夜はお前のおごりだぜ」
蝶子はウィンクして言った。
「忘れていないわよ。でも、ヤスこそ忘れているんじゃないの? 来月のホワイトデーは、倍返しでよろしくね」
そして、キャッキャと騒ぎながら、四人は神戸の街を下っていった。
(初出:2013年1月 書き下ろし)
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【定型詩】海の月と空の月 L'amore è il veleno mortale
「scriviamo!」の第五弾です。
canariaさんは、「大道芸人たち Artistas callejeros」のヴィルを描いてくださいました。本当にありがとうございます。

canariaさんが描いてくださったイラスト 嘆きのシュメッタリング
私の方からは、恐れ多くもcanariaさんの看板作品「侵蝕恋愛」のケイ様の心の中をイメージしたソネット(14行による定型詩)に、ヒロイン(っていっていいのかな?)のセイレンたんのイメージ画像を組み合わせてみました。
「侵蝕恋愛」は、イラスト、絵画、マンガ、動画、詩、そして小説からなる総合芸術です。生と死を繋ぐ二つの性、聖なるものと俗なるもの、対照的な二人の男性と、二つの性を兼ね備える太陽と月に象徴される二人、危険だけれど逃れられない狂おしき愛が、有無を言わさずに巻き込んでくれる強烈な世界です。
私はもちろんですが、多くの熱烈な読者を持つこの世界に、おこがましくも触れるのは、大変勇氣がいたのですが、canariaさんがOKしてくださったので、私の憧れの氣もちを表現させていただきました。なお、題名とイラスト中で使っているイタリア語は「この愛は猛毒(死にいたる毒)」という意味です。canariaさんの「侵蝕恋愛」のサブタイトル、「それは、恋愛。ヘビーシロップ漬けの猛毒の果実」を超訳のイタリア語にしてみたつもりで。(全然違うと怒られそうですが……ごめんなさい、ごめんなさい)
日本語ソネットとしての脚韻はa-b-c-d, a-b-c-d, e-f-g, e-f-gで踏みました。定型詩なので、使える言葉の数が限られて苦悩しましたが、今の私に出来る、最大の力を振り絞って書きました。妙な所についてはどうぞお許しください。(ソネットとはなんぞやについては、この記事を参照してください)
昨年末より、体調を崩されているcanariaさんが、一刻も早くお元氣になられますように。
「scriviamo!」について
「scriviano!」の作品を全部読む
海の月と空の月 L'amore è il veleno mortale
Inspired from「侵蝕恋愛」
——Special thanks to canaria-SAN

重たげに憂いに満ちた頭をもたげ
億千の男を惑わす
溢れて襲う わが追憶の河
蒼蒼の墓場にとどく月の影
幾万の異形の影が砂地を
掴むは消えゆく水の泡
哭き叫ぶ魂 乗せた難破船
杭もなき儚き波止場に辿りつく
水底に薨ずる想いは夢の奥
海と空、二つの月結う茨の螺旋
深海へ揺れて消えゆく血の滴
愛、それは、この身を滅ぼす
(初出:2013年2月 書き下ろし)
【エッセイ】好きな作家はと問わるれば……
「scriviamo!」の第六弾です。
hedgehogさんは、fc2の外からはじめて、エッセイでこの企画に参加してくださいました。本当にありがとうございます。
hedgehogさんが書いてくださったエッセイ 好きな作家は?
返事はエッセイでというご希望だったので、直球でこのテーマに取り組ませいたただきました。創作系の方の参加ばかりで躊躇なさっていらっしゃる方、こういうのもありですので、どうぞお氣軽にご参加ください。二月いっぱい、受け付けております。(しつこい!)
ここでhedgehogさんについて。この方、私、八少女 夕の(狭義でいう)友です。「(狭義でいう)友」という訳は、メールアドレスの交換をした人や、知り合いや、同僚や、クラスメートなどではなく(かつては確かにクラスメートではありましたが)、お互いにどんなことでも話し合うことの出来る特別な存在ということです。私には「(狭義でいう)友」はさほどいません。かろうじて両手の指から溢れる程度です。性格も興味の対象も、文化的バックグラウンド(私は関東人)もまったく違うにもかかわらず、私の人生の半分以上を「(狭義でいう)友」ポジションに位置し続けている、そういう方です。
似ているのは、お互いに興味のないことはしない、つまり、「こういう企画で参加してくれる人がいないと寂しいからお願い〜」と言っても、本当に興味がなければスルーするhedgehogさんです。そのかわり、興味のあることに対するのめり込み方は、半端ではありません。リンク先のエッセイに出てくる、hedgehogさんの人生を捧げている作家ダグラス・アダムスの『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズに関するホームページの充実ぶりは、英語版の伝記作成者のサイトにリンクされているわ、日本語版新訳の翻訳者が後書きでサイトに言及してしまうなど、個人の趣味の範囲をとうに超えて、100億光年の彼方にいっちゃっています。(リンク先のブログは、この有名なサイトとは別です。こちらは主にエコのことと、本や映画の紹介をする個人ブログです)で、この方がまた、本を読むんだな。映画も観ますけれどね。こういう方に「好きな作家は?」と振られると、ドキドキしますよ。
「scriviamo!」について
「scriviano!」の作品を全部読む
好きな作家はと問わるれば……
——Special thanks to hedgehog-SAN
友のエッセイに、「好きな作家は?」と問われて、まだ一冊も完読したことのないドストエフスキーの名前を挙げてしまったお方の多少痛いエピソードがでてきた。まあ、どれだけご本人がいたたまれなかったかは別として、こういう話を辛いと思ってしまう私も「好きな作家」の名前を挙げるのが苦手だ。
それは、実をいうと、そのエッセイを書いた当の友のせいでもある。その人はイギリスのユーモア作家、ダグラス・アダムスの熱烈なファンだ。単に「好き」などと言う範疇はとっくに越えていて、うっかり「面白そうかも」などと言ってしまった日には、貸し出し用と本人が決めた文庫本を持ってきて熱心に読むことを薦める。それは『銀河ヒッチハイク・ガイド』という五冊からなるシリーズで、本当に面白い。ただし、カルトなファンの多い欧米と違って、この友を除いてここまで強烈にこの作品を愛している日本人に、私はまだ会った事がない。どうしてなんだろう。それはさておき。
もし、友人がその作家の本しか読んでいなければ、私も「好きな作家は?」の問いに躊躇することはなかっただろう。人の好みはそれぞれだし、私が他の作家に夢中になっていても、それはそれでいいはず。けれど、友人はそれ以外のあらゆる本を読んでいる。そして「好き!」と思った作家と作品に対する思い入れが強く、一度語らせると半日はこちらが無言でも何の支障もなくなる。おわかりだろうか、私にはそこまで語れるほど好きな作家はいないのだ。
もともと日本人は、本をよく読む民族だ。これはヨーロッパの普通の家庭に行けばすぐにわかる。本棚の数が違うのだ。個室ごとに本棚なんかない。それどころか本棚のない家庭も多い。「本がないと生きていけない」というセリフを日本人以外から聞いたこともない。そういう環境にいると、ますます本を読まなくなり、(日本語の本も売っていないし)私の読書量は、日本にいた時の十分の一以下である。
もちろん、どっかのアイドルではないので、「これまでに読了した本ってはじめてですぅ」なんてことはない。夢中になり、長く語れるほど惚れ込んだ作家は何人もいる。たとえば、ヘルマン・ヘッセ、ライアル・ワトソン、ガルシア・マルケス、カルロス・フエンテス、マイクル・クライトン。これらの作家の書いた本のうち何冊かは、ボロボロになるくらい読んだ。寝食を忘れるほど、夢中になって読んだ。しかし、「どの巻のどのあたりに、どんなセリフが出てきて」まで暗記している本と言えば、結局『銀河ヒッチハイク・ガイド』にはおよばない。私がのめり込んでいる本と作者ではないのに、かの友人と付き合い、話しているうちに全部脳に刻まれてしまっているのだ。こんな恐ろしい勢いで、他人に影響を与えられるほど好きな作家……。この人に「好きな作家は?」とお題を振られる私の苦悩がおわかりいただけるだろうか。
そこまで、何もかも一体化するほど、誰よりもよくわかり、何度も読んでいる作品、それは、あれである。「大道芸人たち Artistas callejeros」「樋水龍神縁起」「夜のサーカス」。そう、自分の作品に他ならない。これなら間違いなく数日間ぶっ通しで語れる。誰にどう突っ込まれても、「いや、それはあそこの○○の章に、別の記述があるよ」と言えるだけ、すべて頭に入っている。
反対に言えば、自分の創作の世界で自由に遊ぶことを憶えてしまったために、私には「好きな作家」と胸を張って言えるほどのめり込める作家がいなくなってしまったのかもしれない。
【小説】君たちが幸せであるように
「scriviamo!」の第七弾です。
紫木 紫音さんは、オリジナル小説で参加してくださいました。本当にありがとうございます。
紫木 紫音さんが書いてくださった小説 ひだまりとひまわりの午後。
紫音さんは、小説家になる夢をお持ちの若い学生さんです。このブログでたくさんのものを書く方と知り合えるきっかけになった自分自身さん主宰の「短編小説書いてみよう会」で知り合いました。お互いに、いろいろな方に作品を読んでいただきたい、それをもとに向上したいという想いを持って、おつき合いしています。
ほかの作品もそうですが、この作品についてはとくに、まず紫音さんの書いてくださった作品をお読みくださるようお願いします。というのは、第一にネタバレが含まれています。それから、第二に紫音さんの作品のイメージをまず先に抱いていただきたいと思うからです。そう、意識して別のトーンを混ぜています。今回は、とても短く書きましたが、紫音さんという作家を象徴するトーンと、私を象徴する文章のトーンの違いが今回のテーマです。紫音さん、作品のヒロインたち、お借りしました。ありがとうございました。
「scriviamo!」について
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君たちが幸せであるように
——Special thanks to SION-SAN
ひまわりが揺れているな。重い瞼を少々持ち上げて、彼は騒がしい公園を見回した。晴れている日は好きだが、この歳になると熱さと湿氣が少々こたえる。
「あ。権兵衛がいるよ!」
うるさいな。この声は、スキンシップが好きで仕方ないタロウだろう。ドタドタと音がして、何人かの小学生が権兵衛の周りに座った。もともとは明るく艶やかだった背中の毛を、なんどもなんども撫でる。めったにシャンプーをしてもらえなくなった権兵衛の毛並みからは艶が失せていた。だから大人たちは権兵衛に触れることをためらった。けれど少年たちは手が汚れて、臭くなることも何とも思わない。彼らに代わる代わる撫でてもらうと、権兵衛はうっとりと眼を閉じて横たわり、前足を持ち上げて腹を見せた。少年たちは慎重に優しく老犬の腹を撫でた。
権兵衛は十五歳の誕生日を迎えたばかりのスパニエルだが、もちろん誰も誕生祝いなどはしなかった。子犬だった頃はこの小学生たちのようにかわいがってくれたケイコさんやミチオくんも、最近は散歩よりも大事なことがあって、散歩はつい先日定年退職をしたお父さんの日課となった。
お父さんはどちらかというとパチンコに行きたいらしいので、散歩の途中にこの公園のベンチに権兵衛を結びつけるとこういうのだった。
「しばらく大人しくしていろよ」
お父さんがいなくなると、権兵衛はじっと眼を閉じて、鳥の声や樹々のざわめきに耳を傾ける。それから、こうして子供たちの相手をしたり、ベンチに座る孤独な老人たちの一人語りに相槌を打って過ごしたりするのだった。
それから、時おりあの子が姿を見せると、しゃきっとして尻尾を振る。首に小さな鈴をつけた真っ白い猫、ヒナだ。ヒナのことは彼女がまだ人間の掌におさまりそうな子猫だった時から知っている。ケイコさんがまだ散歩に連れて行ってくれた頃、静かな住宅街をのんびりと歩いていたら、ぴょんと飛び出してきたのだ。
「きゃあっ」
不意をつかれたケイコさんは大声を出して、子猫はそれにびっくりして逃げだそうとした。そして、慌てたせいか権兵衛の足元に突っ込み、怯えて「みゃー」と叫んだ。
「おい、大丈夫か」
権兵衛が声をかけると震えながら叫んだ。
「ごめんなさい、食べないで!」
誰が猫なんか食べるか。
「新参者だな。この辺の子なのか?」
権兵衛が落ち着いて声を掛けたので、落ち着きを取り戻したヒナはこくんと頷いた。
「いや~ん! 子猫ちゃん、かっわいい~」
ケイコさんがヒナを抱こうとするので、驚いたヒナはじたばたした。
「大丈夫だ。怖いことはしないから、ちょっとだけつき合ってやってくれ」
権兵衛はヒナに頼んだ。
それから権兵衛は時おりヒナに出会うようになって、犬と猫という種の違いと、人生、もとい猫生のはじまりと犬生の終わりという年齢の違いを乗り越えて、一種の友情を育んだ。好奇心旺盛で物怖じしないヒナは、たちまち街の人氣者になっていった。ケイコさんやミチオくんの興味が薄れ、人びとから少しずつ忘れられるようになっていった権兵衛と対照的だった。
ヒナが、はじめて塀の上を歩いた時に「氣をつけろよ」と声を掛けてやったし、やんちゃな小学生たちの前に出た時にも立ちはだかってやったが、しだいにそんな必要もなくなってきた。ヒナはどんどん大きくなり、どこにでも出かけ、そして、みんなにかわいがられていた。
それから、一年近く前に、ヒナに友だちが出来た。そう、今日も連れてきた黒いタケだ。若い俊敏な雄猫で、権兵衛と違ってどこかに縛り付けられているわけではない。猫らしく、ヒナと一緒に塀を登り、裏道を抜けて、つむじ風のように駆けている。ああ、よかったな。ボーイフレンドが出来たんだな。
「あ。タケとヒナだ!」
権兵衛の腹を撫でていた小学生は、わーっと騒いで二匹の猫のもとに走っていった。権兵衛は大儀そうに体を動かして、大切な腹を隠した。穏やかで平和な夏の午後。緩やかに時間が流れていく。こんな午後を楽しめるのもあとどのくらいだろうか。権兵衛は舌を出してハアハアと喘いだ。
「ねえ、タケちゃん」
ヒナがタケににこにこと話しかけている。
「何だ?」
「来年もひまわり、見にこようね」
「ああ……そうだな」
二匹の猫たちは、楽しそうに笑いあっている。
ベンチの下に伏せながら、遠くから茶色い犬がその二匹を眺めている。君たちが、いつまでも、そう、この老犬がいなくなった後も、ずっと幸せであるように。そう心から願うと、権兵衛は日だまりを背中に感じて眼を閉じた。
(初出:2013年2月 書き下ろし)
【小説】タンスの上の俺様 - 「カボチャオトコのニチジョウ」シリーズ 二次創作
「scriviamo!」の第八弾です。
イマ乃イノマさんは、オリジナル小説で参加してくださいました。「月刊・Stella」をお読みの方にはおなじみの「カボチャオトコのニチジョウ」の中の一本です。本当にありがとうございます。
イマ乃イノマさんご指定の小説 「カボチャオトコのニチジョウ」(クリスマス編)
さらに使わせていただいた小説 新年に向けての「カボチャオトコのニチジョウ」
イマ乃イノマさんはStellaでお世話になっているブロガーさんです。たぶん、学生さん。別の記事で「カボチャオトコで書いてほしい」というご希望をちらっと目にしたので、こてこての二次創作にさせていただきました。たぶん、イマ乃イノマさんの設定の邪魔はしていないつもり。でも、していたら、笑ってスルーしてくださるとありがたいです。それから、まったく根拠もなく、威張って上から目線な「俺様」の存在も……。
「scriviamo!」について
「scriviano!」の作品を全部読む
タンスの上の俺様 - 「カボチャオトコのニチジョウ」シリーズ 二次創作
——Special thanks to IMANOINOMA-SAN
俺様はタンスの上に鎮座している。カボチャオトコの野郎は、俺様をただの白い猫の置物だと思っているらしいが、もの知らずなのだから仕方ない。この右の前足をきちんと持ち上げて「幸福を招く」ところに俺様の本分がある。とある世界の、とある島国では、大層ありがたがられている縁起物なのだ。
「ねえ、カボチャオトコ~」
リリィが甘ったるい声を出す。
「なんだ?」
「何で、こんなところに猫を飾っているの?」
カボチャオトコは首を傾げた。
「それがどうも思い出せないんだよな。どこでそんな変な置物を買ったんだろう?」
なんて失敬な。変な置物とは何だ、変な置物とは。大体、お前が一人ほっちではなくなり、もったいないほどの美少女が入り浸るという幸福にひたれているのを、いったい誰のおかげだと思っているのだ。こんな失敬なヤツにも、いつも幸福を招き寄せる寛大な俺様なのだ。
俺様が、恐れ多くも、魔界のこんな辺鄙な片隅にある、寂れたあばら屋に来てやったのは、そう、クリスマスの少し前のことであった。といっても、去年のクリスマスではないぞ、もっと前だ。思えばそれはちょっとした偶然であった。
「いつもすまないな」
サンタクロースの御大は、申しわけなさそうにカボチャ頭の若者に謝った。毎年、プレゼント配布にとても手が回らないので、ボランティアとしてこの野郎に手伝いを頼んでいるのだ。
「当日だけでなくて、こうして下準備にも来てくれるから、本当に助かるよ、カボチャオトコ」
「いいえ、大したことじゃありませんから。一人で家にいてもつまらないし」
俺様はそのセリフを袋の中で聞いていた。こいつは、ひとりぼっちで、つまらない家なんかに住んでいるのか。ろくでもない野郎だ。
「どうだ、カボチャオトコ。お前さんには給料も払えないが、よかったら何かこの中からひとつ、プレゼントを持っていったら」
「えっ。いいんですか?」
カボチャオトコの野郎は、やけに嬉しそうな声になったっけ。サンタクロースの御大はニコニコと頷いている。
「じゃあ、この真っ白い肌が綺麗な女の子のお人形を」
カボチャオトコがそれに手を伸ばした時に、サンタクロースの御大の顔はさっと曇った。
「いや、それはだな。病で明日をも知れぬ女の子が、どうしてもと所望した……」
おい、カボチャオトコ。そんなものを欲しがってどうするんだ。いい歳してままごとでもするのか。俺様は怒りに震えて、カタカタと動いてやった。
「えっ。いや、そんな事情も知らずに、すんません。じゃ、これでいいです。これも白いし」
おいっ。俺様に氣安く触るんじゃない! それに「これでいい」とはなんだ、「これでいい」とは。
「ほう。それを選ぶとは、お前も眼が高いな。大切にしてやれ。いいことがあるかもしれないぞ」
サ、サンタクロースの御大……。「かもしれない」っていい方、ひどくないですか? ともかくそんなわけで、カボチャオトコの野郎は、もったいなくも、この俺様をあばら屋に連れ帰ったという訳だ。
「ネコかあ」
家につくと、カボチャオトコは俺様を興味もなさそうにちらっとみて、ポンとタンスの上に置いた。失礼なヤツめ。お前だって、カボチャの頭をしている、大して強そうでもない魔物ではないか。よいか、この俺様の実力を見せてやる。憶えていろ。その日から俺様はタンスの上に鎮座して、カボチャオトコのために福を呼び寄せているのだ。ヤツは憶えてもいないらしいが。
俺様がありがたがられている、とある世界の、とある島国では、俺様のような「福を招く」猫がたくさん作られている。ありがたがっている奴らは何も知らないが、実は、俺様たちにも天命というものがある。持ち帰ってくれた奴らが、いかに福の招きがいのない、つまらない野郎であろうとも、精魂込めて福を招くのだ。うまくいく場合と、いかない場合がある。俺様たちにも出来ないことだってあるのだ。俺様たちは、魔法を使うのではない。単に日々、夜な夜な、ひたすら「福よ来い」と招くだけだ。
無事に福がそいつの家にやって来て、そいつの幸福度がアップすることが三度重なると、俺様たちの天命は全うされる。その時には、俺様たちは自然と壊れて土に帰る。そして、面白おかしく楽しい生命に生まれ変わることが出来るといわれている。本当かどうかは知らない。なんせ俺様はまだ壊れていないからな。
だが少なくとも二つは変わったのだ。もちろん、俺様が思うには、だが。一つはリリィだ。俺様が、このタンスの上で渾身の力を振り絞り、福を招き出してから数日、この野郎はふたたび、サンタクロースの御大を手伝いに出かけていった。そして、帰ってきた時には、どういうわけか、肌の真っ白い美少女を連れてきていたのだ。
考えてもみろ。「行く所がない」なんて理由で、得体の知れぬ美少女がそこら辺をウロウロしたあげく、よりにもよってカボチャ頭の男のもとに入り浸るか? こやつらは「不思議な偶然」などと呼ぶのかもしれないが、この俺様の実力のほどがわかるというものだ。
そして二つ目がゲーム運だ。本日の今の話だぞ。俺様の目の前で、カボチャオトコはリリィとトランプをしている。年が明けようというのに、他にすることはないらしい。しかもこの野郎の弱さときたら眼を覆うばかりだ。こんなに弱いのに、なぜトランプなどをやろうと思うのだ。まったく理解に苦しむ。
「弱いわね、あなたって。」
10度目に勝って、リリィは鼻で笑った。
「……くっ、くそぉ! も、もう一回だあ!」
カボチャオトコはトランプをかき集めて、シャッフルする。やめておけ、無駄だって。そもそも、お前は腕力ですら常にリリィに負けているではないか。そっちこそ、なんとかしろ。俺様は、こっそりとため息をついた。
「いいけど……あなた勝てるの?」
リリィが心配そうにいうと、勢いよく立ち上がり、カボチャオトコの野郎は人差し指を美少女の鼻先に向けて宣言しやがった。
「ああ、今のカボチャオトコは今までのカボチャオトコではないッ!」
このあと、二人だけではなく俺様も驚いたことに、この時、カボチャオトコの方に運が向いてきたのである。
俺様が変えてやったとは言わない。実をいうと、どうやったら独り者の男がかわいい女の子に出会えるのかとか、へたくそで仕方ないゲームで勝てるようにしてあげられるのかとか、俺様はとんと知らないのだ。単に、俺様は福を招いているだけなのだ。しかし、これで二つと。三つ目の福が向いてきた時に、どうなるのか、俺様はドキドキしてきた。
そう。今までは、俺様には縁のないことだったので、よくは考えたことがなかったのだが、もし、天命が全うされたら、どんな生命に生まれ変われるのかなど、多少は考えておくのも悪くはあるまい。うむ、そうだな。カボチャ頭なんぞになるのはごめんだ。それから、いくら綺麗でも、こんな怪力少女もな……。ふむ。平凡かもしれないが、ネコは悪くあるまい。希望をいえるなら、チンチラ……、いや、ブリティッシュ・ショートヘア……、やめとけ、キャットフードの宣伝じゃあるまいし。やっぱり、図太く、雄々しい虎猫だろうな。そうなるといいが。
それまでは、俺様は、一刻も休まずに、このわりと恵まれた男に福を招き続けてやろう。よし、渾身の力を込めて……。う? なんか妙な音がしないか? この家の外だと思うが、風を切るような……。何かが近づいてくるよう……。
ドッガァァァァン!
カボチャオトコの家は強い光に満たされた。どういう訳だか、いや、つまり、近づいていた飛行物体が衝突したその衝撃で屋根に穴が穿たれ、そのために飛行物体そのものが輝いているのが視界に入ったという訳だった。
「わっ! まぶしっ!」
その飛行物体は、次第に下降してきながら、光を弱めてきた。
「あれ、人間の子供じゃない?!」
リリィが叫び、カボチャオトコがあわてて、落ちてくるその子供を抱きとめた。
カボチャオトコとリリィは、落ちてきた子供と、完全に破壊された天井の損害に氣をとられていて、まったく意に介していなかったが、つい先ほどまでタンスの上に鎮座していた白い猫の置物は天井の破片があたり、粉々に破壊されていた。これまで、幾度もリリィがカボチャオトコに戦闘をしかけ、家具やカボチャオトコその人がこの家の中を飛んでいても、一度たりとも当たったことなどなかったのだが。
カボチャオトコとリリィが、派手に散乱した天井の破片とその他の壊れた品々を片付け、不思議な登場をしたばかりの子供が真っ青な瞳をぱっちりと開けてその二人を眺めているその時に、あらたな歳の到来を告げるチャイムが鳴った。
(初出:2013年2月 書き下ろし)
【小説】海藤氏の解答 - 『伝説になりたい男』 二次創作
「scriviamo!」の第九弾です。
十二月一日晩冬さんは、大切なブログ最後の記念掌編で参加してくださいました。本当にありがとうございます。
十二月一日晩冬さんの掌編小説 『伝説になりたい男』
晩冬さんは、サッカージャーナリストを目指していらっしゃいます。文章の鍛錬として、書評や掌編小説を発表していらっしゃいました。私とほぼ同じ頃にブログをはじめ、早速リンクをしてくださり、いつも楽しいコメントをいただき、親しくお付き合いをしてきました。ご自分の夢を叶えるために、ブログの更新はおやめになるそうです。寂しいですが、そういう前向きな理由とあれば仕方ありません。近いうちに夢を叶えられて、プロとしての晩冬さんにお目にかかれる事をお祈りしています。そして、一個人として、やっぱりもとのブログ仲間の所にも時々顔を見せていただければこんなに嬉しい事はありません。
今回の返掌編は、ウィットの効いた晩冬さんが好きじゃないかなと思うおふざけで書きました。晩冬さんからいただいた宿題の掌編は、「怪盗」と「会頭」をかけた言葉のお遊びが効いているお話でした。というわけで、こちらも中にいくつ「カイトウ」が入っているか、そのお遊び。主人公の名字も一つという事で。
「scriviamo!」について
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海藤氏の解答 - 『伝説になりたい男』 二次創作
——Special thanks to BANTO-SAN
ビルの谷間に突風が吹いた。眼にホコリが入らないように、山高帽を目の前に下げると海藤はトレンチコートの襟を合わせて肩をすくめた。くわえたタバコの灰が飛んで佐竹の瞼の近くをかすめた。
「ちょっ。待ってくださいよ、海藤さんっ」
佐竹は眼をこすると、慌てて海藤の後を追う。同じようにトレンチコートは着ているのだが、多少太り過ぎの体を隠しているためかパンパンに膨らみ、後ろから見るとクマのぬいぐるみのように見えた。この佐竹と一緒にいると、海藤のハードボイルドな雰囲氣はいちいちぶち壊しになった。
「そ、それって、どういう事なんです?」
佐竹は、海藤がもらした言葉の意味を図りかねていた。佐竹は会東新報社の社会部に勤めている。上司はもちろん海藤。いま追っているのは、伝説の大泥棒「怪盗乱麻」だ。そして、その怪盗乱麻の唯一の目撃者で《怪盗乱麻ファンクラブ》を立ち上げた警備員に一番早く接触したお手柄で、二人は社内で表彰されたばかりだった。
しかし、それだというのに海藤の眉には深いシワが刻まれている。その理由を訊ねた時に、海藤は意外な事を言ったのだ。
「だから、あのクリークって男、ただの警備員じゃないって事だよ」
「金持ちだからっすか? 自分でも言っていたじゃないっすか、祖父さんの遺産だって」
海藤は、眼を細めて佐竹をじろりと見た。
「《怪盗乱麻ファンクラブ》の会頭。警備員にしては頭が回りすぎる。お前、最初にあのビルに言った日の事を憶えているか?」
「え? もちろんっすよ。あのクリークが、僕たちに目撃談を話して、さらに例の《怪盗乱麻ファンクラブ》の立ち上げを告白した記念すべき日じゃないですか。いやぁ、びっくりしましたね。あんなに高い会費なのに、あっという間に会員数がふくれあがって。会員ナンバーが一桁の会員証って、それだけでけっこうなお宝なんっすよね」
そういいながら、佐竹は自分の会員証を嬉しそうにこねくり回す。
こいつの目は本物のフシアナだな。海藤はため息をついた。ヤツの高級マンションの一室、あのだだっ広い空間を一室という事が許されるならだが、とにかくあそこには見事なお宝がたくさん飾ってあった。ヤツはそれを《怪盗乱麻ファンクラブ》の会頭として作らせたレプリカだと言った。「皇帝の夜光の懐中時計」をはじめ、例の盗人が華麗に奪った有名な美術品の数々。精彩に描かれた図柄の美しい18世紀の陶器、マリー・アントワネットの襟元を飾ったと言われるダイヤの首飾り、水晶とルビーで出来たロシアの高杯、中国古代の素晴らしい灰陶、ピサロがインカ帝国から持ち帰ったと言われる黄金のマスク、空海和尚が使ったと言われている戒刀。
「すっごいお宝に見えましたよね。レプリカだから、実際には大した値段ではないんでしょうけれど」
佐竹はのほほんと言う。
「俺は、あれらは本物じゃないかと思うんだ」
海藤は足を止めて言った。再び突風が吹き、トレンチコートが海濤のようにおおきくうねり、ばさばさと音を立てた。
佐竹は風が通り過ぎると、あわてて上司を追い、息を切らせて訊いた。
「ちょっ、そ、それは、つまり、あのクリークが? そんな、馬鹿な! 海藤さん、根拠があって言ってんっすか?」
「あの部屋を思い出せ。あそこにあったものをひとつひとつ。おかしな物はなかったか?」
「なかったっすよ。どれも怪盗乱麻が実際に盗んだものと同じに見えましたし、それ以外には豪華な調度品と、高そうなワイングラスと……」
「絵は」
「ありましたね。ゴヤ、ルーベンス、エル・グレコ……。でも、いくら金持ちでも買えるわけないし、怪盗乱麻が盗んで以来見つかっていないものばかりだし」
「あの、『聖母被昇天』は?」
「ああ、確かあった……、あれ? 一昨日行った時にはなかったような」
「そうだ。なくなっていた。俺たちが行った初日にだけあったんだ」
佐竹は口の先で笑った。
「まさか、それが根拠で、クリークが怪盗乱麻だなんていうんじゃないでしょうね」
「まさにそれだ」
佐竹は、真面目な顔になって、海藤の方に向き直った。
「すんません、どういうことか、ちゃんと教えていただけないっすか?」
「俺たちはあの『聖母被昇天』が怪盗乱麻に盗まれた事を知っている、なぜだ」
「なぜって、ほら、スクープを用意して徹夜……あっ!」
佐竹にもようやく合点がいった。『聖母被昇天』の盗難に怪盗乱麻が成功した事を記事にしたのだが、印刷屋に送る寸前にストップがかかり、あの記事はお蔵入りになったのだ。盗まれたのは会東新報の大株主でもある甲斐棟建設の社屋からだった。だが、時価58億円のあの絵は二重の抵当に入っていた。絵が怪盗乱麻に狙われた事も、そしてまんまと盗まれてしまった事も絶対に表沙汰にしてはならぬと圧力がかかった。そう、表向きは『聖母被昇天』はまだ甲斐棟建設の社屋にある事になっているのだ。
「あいつはあの絵が盗まれた事を知っていた。『皇帝の夜光の懐中時計』のあった博物館のただの警備員が……」
「そして、《怪盗乱麻ファンクラブ》を世間に公開した時には、あの絵は隠されていた。ヤツはあの絵を人に見られてはならない事をよく知っているのだ。つまり、我々があの絵を目にしたのは、ヤツにとっては本当の奇襲だったのだ。そうだよ。ただの警備員なんかじゃない。つまり、ヤツこそ本物の怪盗乱麻だよ」
「海藤さんっ。すごいじゃないですか。これはスクープっすよ。俺たちは英雄となり、懸賞金も……」
佐竹は叫んだ。
だが海藤は眼を細めて愚鈍な部下をきっと睨んだ。
「馬鹿野郎。大きな声を出すな」
「す。すんません。極秘ですね」
「極秘どころか、俺たちはヤツを警察に渡す事は出来ない」
「ど、どうして?」
「まず証拠がない。それに、証拠を得るためには警察にこの件を話さなくてはならないが、そうすると甲斐棟建設は倒産の憂き目に遭う。それを阻止するために、甲斐棟建設は組の人間を派遣して俺たちの口を封じようとするだろう」
佐竹は青くなった。海島綿のフリルのついたハンカチを取り出すとしきりに額を拭いた。
「やっぱり快刀乱麻を断つってわけにはいかないもんだな。あの男は、とんでもなく頭がいい。俺たちに何も出来ないのをわかっていやがる」
「僕たちの全面降伏っすね。ねえ、海藤さん、ひとつだけ出来る事がありますよ」
「なんだね?」
「僕たちだけ脱会してきましょう。そして、何も知らなかった事に」
「そうだな。もしヤツが逮捕でもされたら払い戻しで大騒ぎになる。それに、その前にやつが高飛びをするかもしれないしな。とにかくへそくりだけは取り返さないとな」
「へそくりだったんですか?」
「そうなんだよ。何がまずいって、俺が入会している事を山の神に知られるのが一番まずい。どこにそんな金があったのかって、尋問されたら、俺はオシマイだ」
海藤は、(彼にとっての)正しい解答をみちびき出すと、さらにコートの襟を立てて、寒そうに摩天楼の谷間を歩いていった。
(初出:2013年2月 書き下ろし)
【小説】二十年後の私へのタイムマシン
「scriviamo!」の第十弾です。
akoさんは、すてきな詩で参加してくださいました。本当にありがとうございます。
akoさんの詩 『明日の私へ』
akoさんは、短い詩と美しい画像を組み合わせた作品を発表なさっているブロガーさんです。ブログ『akoの落書き帳』は、前向きで優しい珠玉の言葉たちが、忙しい生活の中でささくれ立った心をそっと癒してくれる、そういう空間です。
今回のご要望は、akoさんの紡ぎ出した言葉に、なんと私の作る画像を組み合わせてほしいという、異例のお申し出でした。いや、こんなに沢山の素晴らしい絵師様たちがいるのに、いいのかな、と思いつつも、せっかくの機会ですのでイメージ画像を作ってみました。akoさんがそれに詩を載せてくださったのがこちらです。

画像だけではあまりにも手抜きなお返しですので、akoさんの言葉からインスパイアされた掌編小説を書いてみました。akoさん、本当にありがとうございました。
「scriviamo!」について
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二十年後の私へのタイムマシン
Inspired from 『明日の私へ』
——Special thanks to ako-SAN
同窓会に行って「タイムマシン」と名付けた小さな瓶(タイムカプセル)をもらうことになった。小学校のときの私が書いた作文、「二十年後の私へ」が入っているらしい。らしい、というのは、当の本人が全く記憶にとどめていないからだ。
「本当に忘れているんだ。情けない人ねぇ」
幼なじみの亜矢子が呆れて言った。彼女はどうやら憶えていたらしい。懐かしそうに受け取ってきたばかりの小さな筒をあけて中を覗き込んだ。
「どんな作文?」
「ふふっ。女優として大成功している未来の私へって書いてある」
「あはははは。らしいね」
亜矢子は頬をふくらませて私を睨むと、こつんと私の頭を叩いた。
亜矢子が女優になる夢を見ていたのは憶えている。最初はアイドルだった。でも、アイドルよりも女優の方がちゃんとした職業だからと、高学年になってからは「女優になりたい」と言うようになった。もっともどんな演技がしたいとか、どんな役をやりたいからとかではなく、単純にスターになりたいと夢みていたのだ。子供の夢なんてそんなものだ。彼女は、少なくともその美貌を生かして、一部上場企業の受付嬢の職と弁護士の婚約者を手にした。
一方、私は可もなく不可もないような、平凡な二十年を過ごしてきた。ごく普通の短大を卒業して、中堅の商社に勤め、三年前からは一人暮らしもはじめて、平凡な生活をしている。難があるとしたら、白馬に乗った王子様との出会いがこれまでになく、今後も全く予定がないことくらい。亜矢子が大女優やスターにはならなかったおかげで、二十年経った今でも時々一緒にお茶をして、お互いの話をし、それから私の趣味にもつきあってもらえている。
私は亜矢子みたいに綺麗ではない。学校の成績もいまいちだったし、仕事でも上司に重宝されているわけでもない。唯一、私が私であると思えるのは、小説を書いているときだけ。それも、趣味の範囲で。読者は亜矢子だけ。彼女は時に好意的な、でも、時には鋭い批評をしてくれる。それが、嬉しいときもあるけれど、最近は、私には才能ないのかなあとがっかりする事が多くて、筆が進まない。
「ねえ、『オズワルドの春風』、いつになったら最終章が読めるの?」
亜矢子が言う。期待してくれるのかなと思うと嬉しい。でも、「すごい。本当に面白かった。また読みたいよ」って言ってくれるような結末が思いつかなくって、迷ってしまっている。好きだからずっと続けているけれど、小説を書く事に意味があるのかな。
「さあ、早く取りにいきなよ」
亜矢子が私の背を押した。恩師が一人一人に手渡している小さな筒。本当に全く憶えがないので、行って「あなたの分はありません」と言われるのが怖かった。でも、先生は、私の姿を見かけてニコニコして、袋を探った。
「ああ、ありました。これがあなたのですよ」
そういわれて手渡された小さな筒には、シールラベルが貼ってある。そのみっともない筆跡は、紛れもなく、子供の頃の私のもので、かなり乱れた感じで私の名前が書いてあった。本当にあったんだ。
ドキドキしながら、私はその「タイムマシン」の封を切った。どんな手紙が入っているんだろう。小学生の私はどんな20年後を期待していたんだろう。
筒の中には、ずいぶん沢山の紙が入っていた。亜矢子のは、たったの二枚だったのに。つっかえていてなかなか出ない紙の束を、もどかしく取り出す。
「あ……」
後ろから覗いていた亜矢子の眼が輝いた。
「あれっ。マンガだぁ」
それはマンガの作品だった。定規でコマ割をした鉛筆描きで、何の作品かはすぐにわかった。小学校の時に夢中になって創作していた「タイムマシンもの」だった。「二十年後の私へのタイムマシン」と言われて、皆と同じように未来の自分宛に手紙を書いたりせずに、一人だけ「タイムマシン作品」を突っ込んでおいた自分のウィットがおかしくて仕方なかった。
「ねえ、読ませてよ」
亜矢子は手を伸ばす。
「だめっ」
「なんで? いつも小説を読ませるくせに、これはダメなの?」
私はその紙束を鞄に突っ込んで言った。
「ものすごく、くっだらない、恥ずかしいストーリーなんだ。タイムマシンに乗って、歴史上の有名場面に行くんだけれど、いちいちそこに自分の前世がいてね」
「それにしては、嬉しそうじゃない?」
亜矢子は不思議そうに言った。
私は、実をいうと、とても嬉しかった。その恥ずかしい、稚拙で、情けない創作物を送りつけてきたのは二十年前の小さな私だった。でも、彼女は、私と同じ方向を向いていた。二十年後に生きている自分に、その当時の彼女に出来るかぎりの最高傑作を届けてきたのだ。
二十年後の私が、現在の私の作品を読んだら、やっぱり頭を抱えるような氣がする。でも、これから書き直す事も可能だ。できれば、二十年後の私が時も忘れて没頭するようなそんな作品にしたい。そんな「タイムマシン」を用意したい。
「ねえ、亜矢子。私、頑張って書くよ。『オズワルドの春風』、この夏中に完結させる」
私が言うと、亜矢子はふーんと鼻で笑った。
「待っているよ。鬼の編集者みたいに催促するから」
亜矢子の皮肉はもう耳に入らなかった。構想を練るモードに入ったのだ。久しぶりに。
(初出:2013年2月 書き下ろし)
【寓話】小鳥と木こりと世にも美しい鳥かごの話
「scriviamo!」の第十一弾です。
とあるブロガーさま(仮に「秘密の詩人」さまとお呼びします)は、美しい詩で参加してくださいました。本当にありがとうございます。テーマはヒツジグサ。「秘密の詩人」さまのメッセージを引用しますが、このハス科の植物は「葉の形が心臓で、花言葉が「清純な心・純潔」なんです。 花が咲くのは午後二時(未の刻)だけ」だそうです。私とそのブログのこの辺の記事をイメージして書いてくださったとおっしゃるのですが、いや、その、とんでもない。汗だくになります。実は未年なので、えっ、どうしてわかったのと焦ったのは内緒です。(これで歳がわかるな……)
未の末
産湯にただよい
ぷかぷかと浮いては沈んで
白々しい肌 見せしめて
音なき波紋 しずかに拡がる
つばの生臭さ
日に日に 濃さをましては
葉に隠れ 抱きよせた
泥水にすける肌
脈うつ葉 濡れゆくたび
心うばわれる
鴉の啼き声
沼と空に吸い込まれ
白々しい花 朽ちてゆく
この詩の著作権は「scriviamo!」参加のとあるブロガー様にあります。ご本人の承諾なしのコピーならびに転載、二次使用は固くお断りします。また画像の出典はウィキメディア・コモンズよりE-190氏によるヒツジグサ(http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Hitsujigusa.jpg)です。
お返しする作品をいろいろと考えたのですが、この魂の叫びのような強い情念のこもった清冽な詩に、中途半端なソネットや、知ったかぶりの知識と言葉で何かを返すつもりにはなれませんでした。それで、お読みになる他の方には関連性が「?」になるのを承知で、これまでと趣向を変えて、寓話(メルヒェン)の形をとって、この「秘密の詩人」さまへの想いを書く事にしました。
「scriviamo!」について
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小鳥と木こりと世にも美しい鳥かごの話
——Special thanks to secret minstrel
ある鬱蒼とした森の奥に、大きな大きな菩提樹が立っていました。夏の光に萌黄色の輝きを反射し、爽やかな風にさわさわと葉を鳴らしていました。そのてっぺんに、つがいの鳥が心を込めて巣を作りました。美しい葉に隠れて雛たちが猛禽から見つからず、とても高くてイタチや山猫は登ってこないという利点はありましたが、足場がさほどよくなかったのでとても小さな巣になってしまいました。
雛たちは狭い巣の中で大きく口を開けて、両親を呼びました。ばさばさと羽音をたてて親鳥は少しずつエサを運んできましたが、六匹もいる雛たちに一度でお腹いっぱいになるようにすることはできませんでした。雛たちは狭い巣の中で押し合いへし合いして、お腹がすいて満ち足りぬ日々にへきえきしていました。
一番小さな雛は、お腹がすいている事よりも、兄弟たちに押されて踏みつけられる事が嫌でしかたありませんでした。父さんや母さんのように飛べたら、あたしは一人でどこまでも飛んでいけるのに。そう思って巣の中で羽ばたきを繰り返しました。兄さんたちは狭い巣の中でそんな事をするのは迷惑だと憤慨しました。それで雛は、もうあたしは雛なんかじゃない、立派な小鳥だと言って、空に飛び立ちました。
父さんや母さんは楽々と飛んでいるように見えて、それはとても簡単なように思われたのですが、実際に飛んでみると、風があたり、足元には支えるものが何もなく、恐ろしい勢いで落ちていくのでした。必死に翼を動かしましたが、ふわりと浮くにはほど遠く、菩提樹の枝と枝の間にぶつかりながら、ガサガサとぶざまに落ちていったのでした。
氣がつくと、小鳥は菩提樹の根元に身を伏せていました。右の翼の付け根がずきずきと痛み、腹の下にもどくどくと血が流れていました。飛ぶどころか、歩く事も、伸びきった翼をたたむ事も出来ませんでした。何とかしなくてはならないという本能だけが頭の中で明滅し、傷ついていない左の翼だけで飛べないかと、ばさばさと動かしました。その度に、腹の傷が痛みました。
しばらくすると、そこを子供が通りかかりました。傷ついた小鳥をみかけると、走って近寄り様子を見ようとしました。小鳥は危険を感じて子供の手を強くつつきました。子供はびっくりして走って逃げました。
もうしばらくすると、今度は老婦人が側を通りかかりました。この女は小鳥の傷ついた状態がわかったので、そっと近寄り眼を閉じさせて医者に連れて行こうとしましたが、あまりの痛みに耐えかねて、小鳥が力のかぎりに抵抗したので、どうしようもなく小鳥をその場に置いて去っていきました。
ぐったりしている小鳥の横を、こんどは一人の木こりが通りかかりました。木こりもまた、小鳥の危険な状態がよくわかりました。それで老婦人と同じように近づき、小鳥に触れました。小鳥は先ほどと同じように抵抗しました。子供にしたように激しくつつき、老婦人にしたように力のかぎり暴れました。けれど木こりはそれで諦めたりはしませんでした。
「大丈夫だ。安心しろ。お前を助けたいんだ」
木こりは小鳥をぎゅっと抱きしめました。
木こりは小鳥を小さな小屋に連れ帰ると、丁寧に傷の手当をしました。手当はとても痛かったのですが、包帯をされて血がとまり、だらんと伸びていた翼に添え木がされて痛みが楽になると、小鳥はほんの少し大人しくなりました。木こりは森の中をかけずり回って、小鳥の好きそうな毛虫を集めてきては食べさせてくれました。そして、果物かごに布団を敷いてそっと小鳥を寝かせました。イタチやフクロウの襲ってこない、森の小屋の中で小鳥はぐっすりと眠りました。
木こりは辛抱強く小鳥の面倒を見ました。警戒心が強く、人を信じずに攻撃を繰り返しても、いつも優しく語りかけました。
「大丈夫だ。安心しろ。お前に害はくわえないから」
やがて、怪我が少しずつよくなってくるのが、小鳥にもわかりました。毎日かかさず食事を用意してくれるので、木こりが自分の味方だとわかり、つつかないようになりました。木こりに何かお礼が出来ないかと思って、父さんと母さんがしたように歌ってみました。木こりは眼を輝かせて喜んだので、小鳥はもっとたくさん歌えるようになりたいと思いました。
何日か経って、木こりはつまらない灰茶色をした小鳥の羽がどんどん抜け変わるのに氣がつきました。そして、その羽がすべて生え変わった時に、自分の小屋にいるのが七色に輝く世にも美しい鳥だという事を知りました。そして、天使の歌声もかくやというようにさえずるのです。
もともと木こりは、小鳥の怪我が治ったら、野生に返してあげようと思って面倒を見ていました。けれど、あまりにも小鳥が美しくて貴重に思われ、なついて慕ってくるのも可愛くて、すっかり好きになってしまい、このままずっと小屋にいてくれたらいいと思うようになりました。それで、街に出かけてゆき、真鍮で出来たきれいな鳥かごを買ってきました。そして、そのシンプルな鳥かごでは、世界で一番美しい小鳥には似合わないと思い、母親が遺してくれた小さな宝石箱を取り出して、中に入っていた色とりどりの貴石で鳥かごを装飾しました。
天蓋を真珠とルビーで覆いました。ほっそりとした柵にはサファイアとエメラルドを交互に取り付けました。そして床は珊瑚と桜貝で埋め尽くしたのです。質素で贅沢なものの何もない小屋の中で、鳥かごは一つだけ宵の明星のようにキラキラと輝いていました。そして、眠っている小鳥をそっとその鳥かごの中に移したのです。
朝、目が醒めると、小鳥は黄金の鳥かごの中にいる事に氣がつきました。朝日を浴びてキラキラと光っていて、王様の御殿の中にいるようでした。柵の中から覗くと、優しい木こりがいつものように笑って、食事と水を用意してくれるのでした。それで小鳥はいつものように力のかぎり歌いました。
次の日も、その次の日も同じでした。怪我はすっかりよくなり、本当だったらもう外を飛び回ってもかまわないはずだったのですが、小鳥はずっと鳥かごの中にいたのです。
知っている歌はすべて歌ってしまいました。語れる詩はみな語り尽くしてしまいました。小鳥は世界と新しい歌を知る事もなく、鳥かごの中でうつろに動くようになりました。
「どうして歌ってくれないのかい、僕の小鳥さん」
木こりはある朝、訊ねました。
「あたしには歌が残っていないの。あたしは何も見ていないの。巣の中にいた時と同じなの」
小鳥はそう答えました。
それを聞いて、木こりはさめざめと泣きました。大好きでいつも側にいてほしいと思って作った鳥かごが、小鳥を不幸せにしている事を、木こりはよく知っていたのです。
それで、木こりはそっと鳥かごの扉を開けて言いました。
「それでは、空を飛び回り、お前の歌を探しなさい」
小鳥は、言われたように籠から出ると、開け放たれた小屋の扉を抜けて、外に出て行きました。巣から出た時には、あれほど困難だった飛行はちっとも難しくありませんでした。それで、大空に向かって翼をはためかせ、ぐんぐんと昇っていったのでした。
木こりは鳥の姿が視界から消えると、辛くて悲しくて、地面に突っ伏して大声で泣きました。けれど、いつまでも泣いているわけにはいかないので、いつものように仕事に行きました。
夕暮れに小屋に戻ると、扉を閉めて、静寂の中で食事をしました。小鳥に出会う前よりも、一人でいる事が寂しくて、涙をぽろりとこぼしました。
すると、扉の外から、コツコツという音がしてきました。こんな時間に、誰が来たのだろうと不思議に思って扉を開けると、彼の大好きな小鳥がぴゅーっと入ってきました。
「どうしてあたしが帰ってくる前に食事をしたの?」
木こりは泣き笑いのまま、小鳥に謝りました。
小鳥は、木こりが食事をしている間中、世界で見てきたたくさんの事を語りました。王宮の大広間で踊る三人の王女様のこと、大海原を走る白い帆船のこと、不思議な形をした岩山の事、そのすべてを新しい歌にして語りました。
夜になって、木こりが世にも美しい鳥かごの扉を開けて、寝床を示すと、小鳥は小さく首を振りました。小鳥は木こりの暖かい寝床に潜り込み、まだ語り尽くせていない新しい詩を夜更けまで歌い続けました。
これが世にも美しい鳥かごのいらなくなった、小鳥と木こりの幸せなお話。遠い、遠い国の、昔むかしのお話。
(初出:2013年2月 書き下ろし)
【小説】君をあきらめるために - 「Love flavor」二次創作
「scriviamo!」の第十二弾です。
栗栖紗那さんは、「大道芸人たち Artistas callejeros」の蝶子を描いてくださいました。ありがとうございます!

お返しは詩か小説でとのご希望でしたので、せっかくなので紗那さんのオリキャラをお借りした小説にしようかなと考えました。紗那さんは正統派のライトノベル作家さんです。「グランベル魔法街へようこそ 」や「まおー」などたくさんのラノベを発表なさっていらして、私もひそかに(全然ひそかじゃないかも)お氣に入りキャラに入れあげたりしているのですが、私にラノベは「無理」です。それでもめげずに二次創作するために、私でも書けそうな題材を探してしまいました。
お借りした小説は、私のサイトでいう所の「断片小説」で、一部だけ発表なさっていて、まだ全貌がわからないもの。でも、一部だけなのに実に「二次創作ゴコロ」を刺戟するお話です。
お借りした断片小説『小説未満(Love flavor)』
断片を読んで勝手に出てきた妄想ですので、知らず知らずのうちに設定を壊しているかもしれません。もしそうなっていたらごめんなさい。勝手に増やした(一応、一掃しておきました)キャラですが、「蓮くんに憧れている女」か「刹那さんに惚れている男」のどちらかにしようと考えました。で、蓮くんは出てこなかったからよくわかんないので、こっちにしました。ついでに「リナ姉ちゃんのいた頃」のサブキャラがちょこっと出てきています。
「scriviamo!」について
「scriviano!」の作品を全部読む
君をあきらめるために - 「Love flavor」二次創作
——Special thanks to SHANA-SAN
「コーキ先輩っ!」
バタバタと駆けてきたのは、遊佐栄二だった。
「次期生徒会長が廊下を走るな」
東野恒樹は振り向きながら、そう言った。
「いや、廊下どころじゃないっすよ。本当なんですか? 生徒会長が、転校していなくなるなんて、前代未聞ですよ!」
恒樹は肩をすくめた。
「生徒会長が、じゃないだろう。俺が生徒会長なのは、今月いっぱい。いなくなるのは来月だ」
「だっ、だけどっ。コーキ先輩がフォローしてくれると思ったから立候補したのにっ」
知るか。俺がいつ、院政を敷くって言ったんだよ。
「俺も、前任者も、はじめは新米会長だったんだ。お前も頑張れ。副会長はしっかり者だし、力を合わせてやればなんとかなるよ」
栄二を軽くあしらいながら、恒樹は廊下に出てきたばかりの彼女が二人の会話を耳にとめてこちらを見たのを感じた。ゆっくりと前を通り過ぎる。蜂蜜色の長い髪を目の端で捉えながら、彼は氣にもとめない様子で歩いていった。
「東野くん」
ハスキーな声が、恒樹を押しとどめた。恒樹は振り向いて、まともに白鷺刹那を見た。刹那は片手に日誌を持っていた。
「職員室に行くなら、これ持っていってよ」
「わかった」
短く答えて、手を出したが、彼女は恒樹がそれをつかむ直前に、引っ込めた。
「なんだよ」
「本当なの。転校するのって」
「転校っていうのが適当かどうかはわかんないけど、来月からここにいないのは本当さ」
「きいていない」
「お前の許可はいらないだろう」
栄二は、二人の間のただならぬ空氣を感知して、そそくさと去っていった。このそつのなさが、学力や押しの弱さをカバーして、生徒会長選挙で有利に働いた事は間違いないだろう。その調子で荒波を泳ぎ抜け。
栄二の背中を見送っている恒樹を、刹那は日誌ではたいた。
「いてっ。なんだよ」
「どこへ行くのよ」
「ロンドン」
「なんで」
「親の転勤だよ」
「ついていく事、ないでしょう」
「最初は下宿してでもここに残ろうかと思ったんだ。だけど……」
「だけど、何」
「親が借りた部屋が、ベイカー街にあるんだよ。シャーロッキアンの俺としては行くしかないだろう?」
恒樹はおどけてみせた。それは、半分本当だった。そして残りの半分は、いま目の前でこちらを睨みつけているのだ。
「ボクは……」
刹那は口走ってから、はっとして、唇をかみながら下を向いた。それから小さな声を出した。
「蓮は知っているの?」
やっぱり蓮か……。
「親が転勤になるかもとは言ったけれど、決めた事はまだ言っていないよ。胡桃崎だけが知っていたらどうだっていうんだよ」
刹那はきっと睨みつけた。
「そうだね。ボクには関係ないよね」
恒樹には刹那がそれを氣にしているのが意外だった。俺にはずっと興味もなかったじゃないか。
胡桃崎蓮と白鷺刹那とは、幼なじみだった。もちろん、蓮と刹那の絆ほど固いわけではない。小学校からずっと同じ学校に通っていたというだけだ。放課後に二人と遊んだのは小学生までだった。中学に入ると恒樹は塾通いが忙しくて二人と疎遠になった。モデルになった刹那にも時間がなくなった。蓮にも彼女が出来て、話をする事が少なくなった。それに、あの事件が起ってから、蓮は心を閉ざしている。
恒樹はずっと知りたかった。そして、知るのが怖かった。あの夜、刹那が本当に意味していた事を。あれはあの事件からそんなに経っていなかった。モデルの仕事が忙しくて、滅多に会えない刹那が、あの事件の後だけは仕事をしばらく休み、合唱部によく顔を出していたのだ。事件のショックをどう咀嚼していいのかわからなかったのだろう。久しぶりに見る刹那は恒樹には眩しかった。見る度に美しくなっていき、モデルになって届かない所に行ってしまっていたかのようだったのに、中身はほとんど昔と変わっていないように思えた。
その夜、帰宅の途中で偶然二人だけになった時に、恒樹は突然、告白しようと思い立ったのだ。
「なあ、白鷺。俺、実はさ、ずっとお前の事を……」
けれど、刹那はそれを遮った。
「だめ。お願い、何も言わないで」
刹那は瞳を閉じて立ちすくんでいた。
「ダメだよ。男とか女とか、つき合うとかそんなんじゃなくて、ボクと蓮と、ただ遊んでいられたあの頃みたいに、ずっと友だちのままでいさせてよ」
「やっぱり、蓮なのか。お前が好きなのは」
恒樹は、打ちのめされて口にした。
「だから、そういうんじゃなくて。どっちにしても、蓮にあんな事があったばかりなのに、今、ボクが彼氏とかつくっている場合じゃないでしょ。あれは、ボクのせい……」
「白鷺のせいじゃない。犯人だってつかまったじゃないか!」
蓮の最愛の彼女が、通り魔に殺されたのはデートの後だった。刹那が仕事の帰りに蓮に迎えにきてほしいと頼んだので、彼女は一人で帰ったのだ。恒樹は自分を責めて苦しんでいる刹那を見ているのが辛かった。
「ごめん。東野くん。ボク、何も聞かなかった。だから、ずっとこのままでいようよ。ボクと、蓮と、それから東野くんと……」
それが体よく振るための口実だったのか、それとも刹那の本当の願いだったのか、恒樹にはわからなかった。でも、そのまま合唱部にいるのがいたたまれなくなり、恒樹は生徒会の方にのめり込んだ。刹那とは疎遠となり、あれ以来ほとんど話をしていなかった。
「ボクには関係ないよね」
そういう刹那に「そうだよ。お前が俺を振ったんだろ」と突き放す事も出来る。でも、俺はまだ引きずってんだよっ。恒樹は腹の中で舌打をする。
勝手な話だが、蓮と刹那が上手くいってくれればいいと思う。亡くなった彼女や事件のことを蓮が忘れる事は出来ないだろう。でも、蓮だって前を向いて進んでいかなくちゃならない。白鷺と蓮はお似合いだ。あいつだったら、俺でも仕方ないと思える。容姿や頭の出来がいいだけじゃない。本当にいいやつだから。
「みんな、バラバラに離れていっちゃう……」
刹那が小さくつぶやいた。
「お前には蓮がいるだろ。俺なんかいてもいなくても……」
「誰がそんな事、言ったよ!」
刹那は叫んだ。
「あの時、言ったじゃないか。ずっと、あの頃のままでいたかったって。男とか、女とか、将来とか、夢とか関係なく、今だけを見て遊んでいられたあの頃……」
「白鷺……」
「東野くんなんか、ベイカー街でにも、パスカヴィル家にでも、行っちゃえばいいんだ」
刹那は日誌を恒樹の手に押し付けると、そのまま走って去っていった。
ってことは、あれは口実ではなかったんだな。けれど、恒樹には、いまだにわからなかった。あの頃のままでいたいというのは、蓮との間に彼女の存在などなかったからなのか、それとも彼女が「女」になってしまう前の存在に戻りたいからなのか。ふ。どっちにしても彼女には、俺の彼女になるという選択は徹底的にないらしい。
長い蜂蜜色の髪が揺れていた。潤んだ瞳が心を突き刺した。容姿にまったく合わない、一人称と性格。人生のはじめに、お前みたいな女に会うなんて、本当に厄介だ。これを忘れるってのはずいぶんな大事業だな。何もかも全く異なる所で人生をリセットするぐらいがちょうどいいんだ。
彼女のぬくもりのわずかに残る日誌を手にして、恒樹はしばらく夕陽の射し込む廊下に佇んでいた。金髪の女なんか珍しくもない国に行くんだ。スタイルのいい女だってたくさんいるだろう。これ以上貴重な青春を、見込みのない片想いに費やす事もないさ。恒樹は日誌を手でもてあそびながら、職員室に向けて歩き出した。
(初出:2013年2月 書き下ろし)
【小説】「樋水龍神縁起」 外伝 — 桜の方違え — 競艶「妹背の桜」
「scriviamo!」の第十三弾です。TOM-Fさんの小説と一緒にStellaにもだしちゃいます。
TOM-Fさんは、「樋水龍神縁起」の媛巫女瑠璃を登場させて「妹背の桜」の外伝を書いてくださいました。ありがとうございます!
TOM-Fさんの書いてくださった小説『花守-平野妹背桜縁起-』「妹背の桜」外伝 競艶 「樋水龍神縁起」
現在TOM-Fさんが執筆連載中の「フェアリ ーテイルズ・オブ・エーデルワイス」は舞台がロンドンで、「大道芸人たち」のキャラが押し掛けて、当ブログ最初のコラボ作品を実現する事が出来ました。TOM-Fさんはとても氣さくで、「コラボしたい〜」という無茶なお願いを快く引き受けてくださったのです。ですから今回のコラボは二度目です。TOM-Fさんの「妹背の桜」は、私と交流をはじめる前に完結なさっていた小説です。もともとは天平時代の衣通姫伝説を下敷きにしているミステリー風味のある時代小説ですが、設定上は平安時代のお話になっています。そこで確かに「樋水龍神縁起」の二人と時代が重なるわけです。
お返しは、最初はストレートに瑠璃媛を出そうかと思ったのですが、この女性、この時点では出雲から一歩も出たことのない田舎者ですし、キャラ同士の話の接点が作れません。そこで思いついたのが、もう一人の主役、安達春昌。こっちはフットワークも軽いですしね。TOM-Fさんの「妹背の桜」からは橘花王女と桜を二本お借りしました。ありがとうございました! 『花守-平野妹背桜縁起-』を受けての桜の移植がメインの話になっています。
もっとも、「瑠璃媛」だの「安達春昌」だのいわれても、「誰それ?」な方が大半だと思います。「樋水龍神縁起」本編は、FC2小説と別館の方でだけ公開しているからです。だからといって、「scriviamo!」のためだけにこの四部作を今すぐ読めというのは酷なので(もし、これで興味を持ってくださいましたら、そのうちにお読みいただければ幸いです)、一部を先日断片小説として公開いたしました。この二人は基本的に本編にもここにしか登場しないので、手っ取り早くどんなキャラなのかがわかると思います。ご参考までに。
この小説に関連する断片小説「樋水龍神縁起 第一部 夏、朱雀」より「樋水の媛巫女」」
「scriviamo!」について
「scriviano!」の作品を全部読む
官能的表現が一部含まれるため、成人の方に限られますが……「樋水龍神縁起」四部作(本編)は別館にPDFでご用意しています。

「樋水龍神縁起」 外伝 — 桜の方違え — 競艶「妹背の桜」
——Special thanks to TOM-F-SAN
退出する時に、左近の桜をちらりと見た。花はとうに散り、若々しい緑が燃え立つが、特別な氣も何も感じない、若い桜だ。ただ、南殿にあるということだけが、この木に意味を持たせている。殿上人たちと変わりはない。今これから動かしにいく大津宮の桜も同じであろう。かつての帝が植えさせたというだけ。斎王を辞したばかりの内親王に下賜され、平野神社に遷されるのだそうだ。木の方違えとはいえ、師がご自分で行かないということは、やはり大した仕事ではないのであろう。
安達春昌は二年ほど前に陰陽寮に召し抱えられたばかりの年若き少属である。彼は安倍氏の流れもくまず賀茂氏とも姻戚関係はなく、安達の家から御所への立ち入りを許された最初の者であった。従って、本来ならば殿上人にお目見えする機会などもないはずであったが、あらゆる方面にすぐれた知識を持つだけでなく、陰陽頭である賀茂保嵩がここぞという祓いにかならず同行するので、すでに右大臣にも顔と名を知られていた。とはいえ、彼はいまだに従七位上である陰陽師よりも遥かに下位の大初位上の身、昇殿などは望むべくもなかった。
春昌は野心に満ちて驕慢な男であったが、陰陽頭に対しては従順であった。摂津にいた彼を見出し、その力を買って陰陽寮に属する見習い、得業生にしてくれたのは他でもない陰陽頭であった。それは彼の力が見えているということだった。実をいうと、陰陽寮には「見えるもの」は数名のみであった。見えていない者が判官となり助となっていることは春昌を驚かせたが、彼の力と野心をしても、いまだに陰陽師どころか大属への道も開けなかった。生まれ持った身分で人生が決定するこの世の常は、彼を苦しめた。はやく手柄を、明確な力を示す実績を。春昌は焦っていた。
それだというのに、桜の方違えだ。御所の庭にも《妹背の桜》と言われる桜が植わっている。大津の同じ名で呼ばれる桜とともに平野神社へ遷されるという木で、もともとは二本揃って吉野に立っていたものだと聞かされた。春には滴るごとく花を咲かせ見事な木ではあるが、それだけのことで陰陽寮の者による方違えが必要とも思えぬ。同じような木であるならば、何ゆえ師は、この私に大津へ行けなどと申し付けられたのか。
「よいか。今、私と安倍博士は御所を離れられぬ。ここしばらく皇子様の瘧、甚だしく、しかも祓っても祓っても、よからぬものが戻ってくる。だが、あの桜の方違いに『見えぬ』陰陽師を遣わすわけにはいかぬ」
陰陽頭みずからにそういわれては、「私めも皇子様の祓いに加わらせてくださいませ」とは言えなかった。
「その桜には、何かが取り憑いているのですか。平野神社に遷す前にそれを祓えばいいのでしょうか」
春昌が、手をついて伺うと、陰陽頭は小さく首を振った。
「確かに特別な桜だが、何も祓う必要はない。祓うなどという事も不可能であろう。平野神社に着くまでに、怪異が起らぬように、そなたが監視すればそれでよい」
なんだ、やはり大したことのない仕事か。その思いが顔に出たのであろう、陰陽頭はじっと春昌を見て、それから、つと膝を進めた。
「春昌、そなたに言っておくことがある」
そして、安倍天文博士に目配せをした。頷いた博士はその場にいたすべての者を連れて部屋を出て行った。
「春昌。そなた、ここに来て何年になる」
陰陽頭は、厳しい表情の中にも、暖かい声色をひそませて、この鋭敏な若者を見つめた。
「故郷でお声をかけていただいてから、八年に相成ります」
「その間、そなたは実に精励した。文字を読むのもおぼつかなかったのに、寝る間も惜しみ、五経を驚くべき速さで習い、天文の複雑な計算を覚え、医学や暦、宿曜道に通じた。他のものには見えぬ力も、強いだけで制御もままならなかったのに、たゆみなく訓練を続け、符呪をも自由に扱えるようにもなってきた」
思いもよらなかった褒め言葉に、春昌は儀礼的に頭をもっと下げた。
「だが、陰陽師になるには、それだけではだめなのだ」
春昌はその言葉を聞いて、弾かれたように師の顔を見た。陰陽頭の顔は曇り、目には哀れみの光がこもっていた。
「忘れてはならぬ。そなたの未来を阻んでいるのは、特定の人や、生まれついた身分などではない。その驕り高ぶった、そなたの不遜な態度なのだ」
「師。私は決して……」
「言わずともよい。そなたはまだ若く、私の言う事を腹の底から理解する事が出来ぬのはわかっている。だが、大津に行って、あの桜に対峙しなさい。あの痛みを感じるのだ。今のそなたに必要なのは、一度や二度の皇子様の祓いに参加する事などではない。よいか。大津に行かせるのは、そなたのためなのだ」
近江は忘れられた京だった。造営の途中で戦乱となり、打ち捨てられたために、にぎわいを見せたこともなく、ただ大津宮が近淡海を見下ろすように立っている。摂津より京に上がった春昌は、近江には二度ほどしか来たことがなかった。一人でここまで来るのははじめてだった。
伴としてついてきた下男に馬を任せ、春昌は大津宮にほど近い丘の上から近淡海を見渡した。なんという開放感。いつもの京の雑踏、光の足らぬ陰陽寮での息を殺した測量と卜占・術数が、どれほど氣をめいらせていたかがわかる。心を割って話せる友もなく、取るに足らぬ家に生まれたくせに生意氣な奴と蔑まれる日々に疲れていた事にもはじめて思い至った。
師が言わんとした事は、わかったようで、はっきりしなかった。
得業生となったのは私よりも後なのに、左大臣様の姻戚というだけで、あっという間に出世した判官どのや助どの。彼らに対して隠そうとも燃え立ってしまう妬みの氣を、師は見ていたのかもしれぬ。春昌はため息をついた。
視線を背後の大津宮に移そうとして、ふと氣配を感じた。
「だれ……。あなた? あなたなの? ようやく、来てくださったの……」
なんだ、この氣は? それは突然、風のように増幅して、丘の上を満たした。この季節に咲いているはずのない満開の桜の氣だった。これが師のおっしゃっていた桜なのか?
春昌は、京で何度か陰陽頭とともに百鬼夜行をやりすごしたことがあり、禍々しいものを祓ったことも数多くあったので、怖れはしなかった。だが、それは悪意の漂う怨霊の氣配とはまったく異なるものだった。かといって、聖山に満ちる清浄な氣とも違っていた。
ねっとりとまとわりつく、真夏の宵のような氣、カミに近い清らかさはあるものの、どこかで感じた、もっと身近なものに似通う重さもある。
ああ、五条の芦原の女房だ。春昌は、愛想を尽かしてしまった品のない女のことを思い出す。
「お恨み申し上げます。私のことは、遊びだったのですね。これほどお慕い申し上げても、お返事もくださいませんのね」
涙で白粉がはがれ、それでもこちらの氣持ちが変わるのを期待するように、袖の間から覗く、どこかずる賢い女の視線。こびりつく妄執。離すまいと縋り付く、重い、重い、想い。
「おのれ。出たか」
春昌は、身構えた。だが、氣はそれ以上近寄ってこようとはしなかった、それどころか、急激に規模を小さくしている。
「なぜ……。私は、あなたを待っていただけなのに……」
春昌は、ひと息つくと、身を正して大津宮の門へと歩を進めた。そして、怖々と、しかし、氣を引かんとするように、こちらの身に度々触れる例の氣を感じながら、礼を尽くして訪問の意を伝えた。
「お待ち申し上げておりました」
中からは、年を経た郎党が深々と頭を下げて迎え入れる。何人かの老女と、桜の移植のためにすでに控えている人足たちが土に手をついて都からの陰陽寮職員を迎えた。
「実は、平野神社には前斎王様がお忍びでお見えになっており、この桜の到着を待っているとの報せがございました。長旅でお疲れの所、誠に申しわけございませんが、すぐにはじめていただきたいのです」
春昌は眉をひそめた。
「吉日である明日に事をはじめるよう、準備をして参りました。今すぐはじめるのであれば、再び方位を計算しなおさねばなりませぬ」
「それでも、是非」
「明日から始めたのでは、前斎王様の物忌みにさしつかえてしまうのです」
春昌は大きくため息をついた。わがままな内親王め。こっちの迷惑も考えろ。だが顔に出すわけにはいかない。まじめに計算しなおしていたら、明日になってしまう。彼は、腹を決めて、桜の木の助けを求める事にした。こちらにはありとあらゆる星神の位置を鑑みて計算しなければわからない事でも、この桜にははっきりわかっているはずだ。本人にとって大切な事なのだから、文句は言わずに教えてくれてもいいだろう。
彼は黙って、桜の前に座った。新緑の燃え立つ、葉桜だ。しかし、いまだに満開の花氣を発している。奇妙な木だ。師のおっしゃっていた意味が分からない。この木の痛みを感じる事がどうして私のためになるのか。
「私に何をしてほしいの?」
春昌は、声に出さずに、木に語りかける。
「今すぐに、あなたを平野神社に遷さねばなりませぬ。予定してきた明日の方位は使えませぬ。あなたにとって一番の移動の方位をお示しください」
「なぜ、ここにいてはいけないの? 私は、待っているのです。ここにいないと、あの方は私に帰り着かないでしょう」
「平野神社にお連れするのは、主上さまの御意志です。あなたをもう一本の桜と一緒にするためだそうです」
「どの桜?」
「あなたと同じく《妹背の桜》と呼ばれる御所にある桜です。確か、吉野ではあなたと一緒に立っていて、みまかりし先の帝がここと御所とに……」
「ああ、ああ、ああ」
春昌が語り終えるのを待たずに、桜の氣は再び大きくなった。激しい歓びの氣だ。
「今すぐに平野神社に行けば、また私たちは一緒になれるのですね」
急にハッキリとした意志を持ったかのように、桜は氣を尖らせてまっすぐに近淡海の南端を示した。その先には、石山寺がある。一夜を明かすのにふさわしい。そして、そこから再び折れてまっすぐに平野神社の方位を示した。春昌はかしこまり、その方位を懐紙にしたためた。
平野神社に着いたのは二日後の夕暮れだった。ねっとりとした女の氣に辟易しながらも、それにも慣れてきた頃だった。何ゆえにこの桜は、いつまでも満開の氣をしているのだろう。なぜ、これまで誰も祓おうとしなかったのだろう。明らかに、ただの桜ではないのに。旅の途上で春昌が思う度に、桜は責めるように、けれど、どこか誘うように生温い氣を這わせてくるのだった。それで、春昌は一刻も早く、物好きな前斎王にこの木を引き渡したいと願った。
平野神社には、驚いた事に、御所にあったもう一本の桜が既に届いていた。そちらは、当然のごとく花の氣ではなく、季節に応じた氣を漂わせていたが、御所で見た時のような凡庸なものではなく、内側から震えるように輝き、大津の《妹背の桜》を心待ちにしていた事がわかった。
「ようやく、ようやく、願いが叶った」
「ああ、やっと、ほんとうにお逢いできたのですね。あなた……」
すべての儀式を終え、退出の準備をしている所に、位の高そうな女房が近づいてきた。
「もうし……」
春昌が、かしこまると、前斎王様が直々にお逢いしたいと仰せだと春昌を本殿へと連れていった。春昌は言われた通りに、本殿の前に用意された桟敷の上に座り、頭を下げた。
御簾の向こうから衣擦れの音がした。
「どうぞ、頭を上げてください」
暖かく、深い声が聞こえてきた。名に聞こえた伝説の斎王がその場にいる。春昌は武者震いを一つした。
「無理を言った事をお許しくださいね。どうしても、一刻も早く桜を見たかったのです。主上さまや陰陽頭には私から重ねて礼を伝えさせていただくわ」
やれやれ。そうこなくては。春昌はかえって都合が良くなってきたと腹の内で喜んだ。
「あなたは、とても早く新しい方位を割り出してくださったと、みなが驚いていました。どうやったのですか?」
長く斎王をつとめ、賀茂大御神に愛された偉大な巫女ともあろう方が、このような質問をするとは。
「《妹背の桜》ご自身にお伺いしたのです。急な変更で、計算する時間がございませんでしたので」
前斎王は、はっと息を飲むと、衣擦れの音をさせた。御簾にもっと近づいたらしい。
「話をしたのですね。あなたは、桜と話せるのですね」
なんと、このお方は「見えぬ者」なのか。わずかに呆れながらも春昌はかしこまった。
「教えてください。桜はなんと言っていましたか。私の決定は間違っていないと言っていましたか」
春昌は、面を上げて、御簾の、前斎王がいると思われる場所をしっかりと見据えて答えた。
「ご安心くださいませ。かの桜の喜びようは、またとないほどでございました」
「桜が……喜んでいるのね」
「はい」
御簾の向こうから嗚咽が聞こえた。どれほど長い事、こらえていたのだろうか。引き絞るような深い想いだった。春昌は、御簾の向こうの前斎王の強い氣を感じた。それは、一瞬にして甦った過ぎ去りし時の記憶だった。春昌のまったく知らない人びとの幻影が通り過ぎる。衣冠をつけた若く凛々しい青年、華やかで匂いたつような美しい女、帝の装束を身に着けた壮年の男、高貴で快活な青年……。二本の桜から立ち昇る歓びの氣と、前斎王の記憶に混じる楽しさの底に、同じ哀しみが流れている。春昌が、これまで愚か者の妄執と片付けていた、ひとの情念。生きていく事そのものの哀しみと痛み。
ああ、師のおっしゃっていた、感じてくるべき痛みとはこの事なのだろうか。悼むというのは、この感情を持つ事なのだろうか。
前斎王がこの桜にどのような縁があるのかはわからなかった。だが泣いているということは、相当深い縁なのであろう。三人の帝に、斎王として仕えた長い人生。我々が知る事も出来ないほどの過去に、何かがあったのであろう。春昌は退出すると、狂喜乱舞しながら哭く二つの桜の氣を背中に感じて、京への帰途に着いた。
別れ際の前斎王の言葉が耳に残る。
「あなたのように、本当に能力のある人が、主上さまにお仕えしているのは、頼もしい事です」
「もったいなきお言葉です」
「つい先日、あなたのように素晴らしい能力を持った方にお会いしたわ。奥出雲で」
「樋水の媛巫女さまでございますか」
「ご存知なの?」
「滅相もございません。お名前を噂で漏れ聞くばかりでございます」
「そう。お美しい方でした。神に愛されるというのは、ああいう方の事をいうのね」
この私とは正反対だな。春昌は心の中で笑った。
「陰陽寮と奥出雲、場所も立場も違いますが、あなた方のような若い人たちに未来を託せるというのは嬉しい事です」
前斎王の声には、疲れが響いていた。長い人生。見てきた事、見続けるだけで果たせなかった事。未来を夢みる事のなくなった響き。
「私は、ようやくこれで、安心して眼をつぶれます。大切な二本の桜が私を弔ってくれる事でしょう」
帝の内親王として何不自由なく育った女の低いつぶやくようなささやきは、春昌の心にしみた。生まれの高いものを羨み、妬みや悔しさに身を焼く自分の苦しみは、この女にはなかったであろう。だが、そうではない痛みに長く貫かれてきたのだろうことは、彼にも想像できた。やんごとなき血に生まれようとも、何十年ものあいだ神聖なる社で過ごそうとも、人はやはり人なのだった。春昌もまた、陰陽寮にて市井では得られぬ知識を学び、他の者には見えぬものを見て祓うことができようとも、ひとの心の中にうごめく情念と哀しみは如何ともしがたかった。
人はみな、苦しみや哀しみと無縁ではいられぬのであろうか。呪を操る世界に生きるという事は、このような哀しみと痛みを感じ続けるという事なのだろうか。師のおっしゃっていたのは、こういうことなのだろうか。
彼は初夏の風を受けながら、魍魎のうごめく京へと戻っていった。大津の自由な風、歓びに震える桜の木の叫び、そして、哀しく終焉を待つ女の静かな祈りは春昌の中に残り、静かに沈んでいった。彼が陰陽頭である賀茂保嵩の推薦を受けてようやく陰陽師となったのは、それから二年後の事であった。
(初出:2013年2月 書き下ろし)
【小説】その色鮮やかなひと口を
「scriviamo!」の第十四弾です。
ココうささんは、素晴らしい揮毫とともに、優しくも暖かい詩を書いてくださいました。ありがとうございます! 見事な筆跡は、どうぞ、ココうささんのサイトでご覧ください。
ココうささんの書いてくださった詩と揮毫『あなたいろ』
『あなたいろ』
ツンとした空気が
ふんわりした風に変わる頃
つぼみが膨らんで
誰かを待っているように
足踏みしていた気持ちが目をさます
ゆっくりとあなた色に染まる季節
春
ココうささんは女性らしさに溢れた優しい詩をお書きになっています。青春の眩しい輝きをぎゅっと閉じ込め、その周りをパステルカラーのシンプルなリボンで包んだような、そんな響きです。でも実は、酸いも甘いも経験して、人生の辛苦にもきちんと向き合ってきた方で、だからこそ、その優しい言葉がただの甘いメルヘンにはなっていないのです。
お返しは掌編小説にさせていただきました。どんな「あなた色」にしようかなと頭をしぼりました。絵画を題材にしたのはもう書いた事があるし、生け花などは私の知識があやしすぎる。ウウム困った。で、こうなりました。
「scriviamo!」について
「scriviano!」の作品を全部読む
その色鮮やかなひと口を Inspired from 『あなたいろ』
——Special thanks to KOKOUSA-SAN
ルドヴィコは妙なガイジンだった。肩幅が広く、服の上からでも筋肉が盛り上がっているのがわかる。小柄な怜子には雲をつく巨人のようにも見えるが、実際には180センチメートルを少し越えたぐらいだろう。けれど、昔ながらの日本家屋の戸口は低く、油断すると頭をぶつけていた。
彼は流暢な日本語を話す。怜子が「らぬき言葉」などを遣うと、ちっちっと人差し指を立てて不満を表明した。その指がまた特徴的だった。頑丈そうなガタイに似合わず、長くて細い、いかにも繊細そうな手先なのだ。そして、性格もまた、かなり変わっている。日本が大好きなのはいいとしよう。もともとはアニメのポケモンから入ったらしいが、どういうわけかその熱が高じて日本に移住し、和菓子職人として修行をする事になったのだ。
多少寂れたこの街の自慢は、一にお城の跡地で、二に湖で採れるしじみ、そして三つ目に来るのが和菓子だった。そして、この街には人口に比例して、どう考えても多すぎる和菓子屋が乱立していて、怜子が半年前からアルバイトをしている「石倉六角堂」はその一つだった。しかも、全国に名が知られるような有名老舗でもなければ、斬新な試みで名を馳せる先鋭店でもなかった。どういうなりゆきで、わざわざヨーロッパから移住してきて、こんな店で修行する事になったのか、怜子はいつも疑問に思っていた。
「怜ちゃん、来てすぐで悪いんだけど、急ぎの注文、包装してほしいの」
店に入るなり、社長の妻である石倉夫人が頼んだ。
「は~い。品はどこですか?」
「いま、ルドちゃんが作ってる」
怜子は眼を丸くした。そんなに急ぎなんだ。奥に箱やプラスチックの容器を持って入っていくと、ルドヴィコが真剣な顔をして整形していた。
「うわ。綺麗」
怜子は思わず口にした。それを聞いて、ルドヴィコは怜子の方を見てにやりと笑った。
「こんにちは。怜子さん。綺麗ですか」
怜子は力強く頷いた。若草色のきんとんにピンクや紫や黄色い花が咲いている。透明にふるふると光っている錦玉は青空のようなブルーだが、食欲を失わない微妙な淡い色合いに押さえられていて、わずかに白い雲のように見えるのは中に隠れている求肥だろう。金粉が輝いているつやつやの栗かのこ。誰がイタリア人が作ったなんて信じるだろうか。でも、イタリア人と言われれば納得の部分もある。どこが違うのかと訊かれても困るのだが、微妙に怜子の馴染んだ和の色合いではないのだ。
怜子は小さな宝石を扱うように、一つひとつをプラスチックのケースに収めていく。そして、四つずつ箱に入れようとした時、ルドヴィコがまた人差し指を立てて抗議した。
「違います。これが左上。となりはこれ。それから、こう並べてください」
ルドヴィコが収めた箱を見て、怜子は感心した。一つひとつも綺麗だと思っていたけれど、四つ並んだその形と色合いは、本当に一服の絵を見るようだった。なんて不思議な色のマジックだろう。並べてどうなるかまで計算して作っているなんて。
「急ぎの仕事なのに、ここまで考えて作ったの?」
びっくりする怜子に、ルドヴィコは片目を閉じた。
「もちろんです。どんな時でも全力投球ですから」
怜子は次々と菓子を箱に収めていった。引き出物かしら。それにしてはどうしてこんなにギリギリに大量注文するんだろう。ルドヴィコがいなかったらどうするつもりだったのかしら。佐藤さんは今日は休みで、義家さんは午前中に仕込みを済ませて、社長と一緒に京都の研修会に行ったはずよね。
「あ、怜子さんの分も作りました。あとで食べて感想をお願いします」
「えっ。だから私はダイエット中だってば」
ルドヴィコは青い瞳に悲しみに満ちた光をたたえて怜子を見た。
「う。わかったわよ。でも、四分の一サイズしか食べないから」
「そう言うと思って、小さく作りました」
そういって、作業台の片隅を示した。確かに一口サイズになっている。けれど、それが八種類もあるのだ。
ルドヴィコになつかれるのは悪くない。和菓子も好きな方だ。でも、毎回どうして私にだけこんなに食べさせるのよ。これだから、ダイエットが全然進まないのよね。
彼は、昔ながらの古い民家に住んでいる。小さな庭では鹿威しがカーンと音を立てている。家に戻ると、和服に着替えて、文机に向かい、ジャパニーズ・ライフについて墨書きでつらつらとしたためているらしい。墨書きでイタリア語って、難しそう。怜子は思った。その家にはプラスチック製のものが何もない。そんなものは美しくないというのがその理由だった。
ルドヴィコは美しさというものに異様に執着していた。100円のボールペンなど絶対に使わない。家では墨書きで、外出先では金の蒔絵のついた万年筆を愛用するのだ。美意識にかなう炊飯器が見つからなかったという理由で、鍋でご飯を炊いていた。そして、時代物の蓄音機でざらざら雑音の入る復古版のレコードを聴きながら、庭の四季を眺めるのだ。怜子は、ごく普通の日本人なので、こんなに時代遅れの生活をする人間がいるなんてと、ひどく驚いたものだ。もう慣れたが。
店では怜子はルドヴィコの彼女だとみなされていた。よく散歩や街歩きに誘われるし、彼の明治時代のような自宅にも招待されて何度も食事をご馳走になっていたので、そう思われるのは無理もないが、実際にはそのような特別な関係は何もないのだった。私、そんなに魅力ないかな。怜子は思ったが、さほど残念でもなかったので、完全にただの友人としての付き合いを続けている。それに、彼の作った和菓子の試食係である。
「怜ちゃん、どうもありがとう。おかげで納品に間に合ったわ」
ルドヴィコが先方に注文品を届けに行ったのを見送ってから、夫人が奥に入ってきた。怜子は、ルドヴィコの作った試食用の練りきりを頬張っているところだったので、あわてて飲み込み、それが喉につかえて咳き込んだ。
「まあ。そんな所で立って。お茶を淹れてあげるから、ちゃんと座って試食しなさい」
石倉夫人は言った。
「す、すみません。勤務中ですし……」
「いいのよ。試食も仕事のうち。それに怜ちゃんの意見がモチベーションになってルドちゃんがどんどんいいものを作ってくれるんですもの」
怜子はこのあたりで誤解を解いておいた方がいいと思った。
「あの、私とルドヴィコはそういう関係ではなくて、彼も友だち以上には思っていないと……」
石倉夫人は眼を丸くした。
「あら嫌だ。怜ちゃんったら、この間のルドちゃんの告白をきいていなかったの?」
「は?」
「ほら、うちの人が、『ガイジンにとっての日本の一番の魅力って何だ』って、訊いたじゃない」
怜子は首を傾げた。その話題は憶えている。新年会の席で酔っぱらった社長の石倉がルドヴィコに質問したのだ。彼はまったく酔った様子もなく、盃をきちんと置いて答えていたっけ。
「それは人によって違いますよ。伝統の文化や自然とのかかわり方に惚れ込む人もいますし、武道などの形式美に夢中になる人もいます。若い世代にはアニメやマンガやビジュアル系バンドも大人氣ですよ」
石倉は、そのルドヴィコの肩をぽんぽんと叩いて言った。
「で、ルド、お前はどうなんだ。日本に来て、和の暮らしをして八年。現在はどう思う?」
その時、みんなが注目している中、ルドヴィコは澄まして答えたのだ。どういうわけか怜子の方を見て。
「日本の美については、僕は小泉八雲のと同意見です」
そして、その時、周りは「おお~」と笑いながら盛り上がったが、怜子には全く訳がわからなかった。
「確か、小泉八雲がどうのこうのと……」
そういう怜子を見て、石倉夫人は呆れた顔をした。
「まあ、知らなかったのね。訊けばいいのに」
そういって、小泉八雲、すなわち、ラフカディオ・ハーンの著作について説明してくれた。
日本の最上の美的産物は、象牙細工でもなく、青銅製品でもなく、陶器でもなく、日本刀でもなく、驚くべき金属製品や漆器でもなくて、日本の婦人である。現世界にこのような型の女性は、今後何十万年経るといえども再び現れないであろう
小泉八雲著 「封建制の完成」
怜子はのけぞった。
「そんな回りくどいことを言われても、わかりませんよ。それに、それは告白っていうか、ただの一般論では。本当にルドヴィコが私の事を好きなら、イタリア人っぽく『Ti amo(愛してる)』とか言って、ガンガン押すだろうし……」
石倉夫人は、ちらりと怜子を見て言った。
「ほんとうに、鈍い人ねぇ。ま、いいわ。ルドちゃんがそういうあなたを好むんだから」
そういって、お客さんが来たので、お店に行ってしまった。
あ~あ、どうしよう。ルドヴィコが帰って来たら、意識して顔が赤くなっちゃうよ。怜子は二杯目のお茶を飲みながら、宝石のように美しい錦玉を手に取った。ううん。さっきまで青空の色だったのに、ルドヴィコの瞳の色になっちゃっているよ。困るなあ。甘すぎないふるふるで優しい寒天、中の求肥に包まれた淡い黄色のこし餡のわずかなゆずの香りが絶妙だ。ああ、美味しいなあ。こんな事を続けていたら、どうやってもダイエットには成功しないだろうなあ。
(初出:2013年3月 書き下ろし)
【小説】彼岸の月影
「scriviamo!」の第十五弾です。tomtom.iさんは、ご覧になった夢をもとにした幻想的な詩で参加してくださいました。ありがとうございます!
tomtom.iさんの書いてくださった詩『慟哭』
『慟哭』
白濁色の夢を見た
二つの月と曼珠沙華
僕等夢中で貪った
ぶつかり合うのは肉と骨
朧気な記憶は滴り落ちて
背徳の白昼夢ハイライト
白けた指で弄くり合った
影に隠れた通り雨
僕の焦燥を呑み込んで
疼く傷を舐め回して
月の隙間を這う蛇の名は
只の欲望と知っていたのか
お返しは掌編小説にさせていただきました。ご覧のように成人向けの内容です。小説にするのにあたって、R18を書くわけにはいかなかったのですが、この雰囲氣は壊したくありませんでした。そこで曼珠沙華に助けてもらい、ホンのちょっぴりオカルトテイストを混ぜる事にしました。あ、テイストだけで、全くオカルトではありません。
tomtom.iさんは、音楽のこと、サッカーや日常のことなどを丁寧に書き綴っていらっしゃる、大分のブロガーさんです。特筆すべきは、この方、作詩作曲をなさるのです。この幻想曲な詩がいずれは音楽になるのかと思うと、ドキドキしますね。
「scriviamo!」について
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彼岸の月影 Inspired from 『慟哭』
——Special thanks to tomtom.i-SAN
晃太郎の故郷の村は、名産もなければ有名人の一人も出ない、小さな寒村であった。人口は数百人。閉鎖的で現代社会から取り残されていた。東京に住む晃太郎は、一年ぶりにこの寂れた村に戻ってきた。
「知っておるか、晃太郎よ。地獄沼のいわれを」
彼が祖父の酒の相手をしていると、徳利を持つ手を止めて、芳蔵じいさんは突然言った。
村はずれには、何の変哲もない沼がある。しかし、このつまらない水たまりは、地獄沼と呼ばれている。秋になるとどういうわけかこの沼の北側にびっしりと、この辺りでは地獄花と呼ばれている彼岸花が開くからだった。
「あそこで地獄花が一斉に咲くからだろう?」
「そうだが、何ゆえにあそこにあんなに咲くかって言い伝えをじゃよ」
晃太郎は知らなかったので首を振った。
ほろ酔いになった芳蔵じいさんは、声を顰めて語り出した。
「昔な、とあるお侍様が国への旅路の途中で、この村に一晩泊まったのよ。ここは今と変わらずシケていたらしく、美味いものもなければ、芸者もいない。つまらなく思ったお侍様は、酔狂な心を起こして、暗くなってから例の沼の方へ一人で遊びにいった。どういうわけか、そこにいたのが、村一番の器量よしで、隣村への輿入れが決まっていたお壱。お侍様は沼の裏手の阿弥陀堂にてこの娘を自由にし、翌朝に村を発って二度と戻らなかったそうじゃ」
晃太郎は、わずかに顔を青ざめさせたが、じいさんはそれに氣を止めた様子もなかった。
「輿入れの前に孕んだお壱の縁談は流れ、父なし児を生んだ後、半ば狂乱してこの世を去ったそうじゃ。ある者は葬式を出せずに困った親が屍を沼に投げ込んだといい、またある者はお壱自身が沼に身を投げたともいう。いずれにしても、それ以来、あの阿弥陀堂の前には毎年紅蓮のごとき地獄花が開くようになったという事じゃ」
盃を持つ手が震えた。地獄沼。廃堂となった阿弥陀堂。紅蓮の花。月の光が畳の上を走る。漆黒の髪がその淡い光に浮かび上がる。
「どうした」
「いや、なんでもない。少し酔ったようだ。風にあたってくる」
晃太郎は一年前の帰郷の記憶にとらわれている。今日まで思い出しもしなかった、しかし、常に脳の遥か奥で燃え続けていた赤い焔が、恐るべき不安となって胸をかきむしる。
地獄沼には月が映っていた。十六夜の晩だった。そのお侍と変わらぬ酔狂で村はずれを散歩していた彼は廃堂の前に佇む女を見たのだ。一度も見たことのない若い女だった。黒字に赤い極細の縦縞が入った小紋。無造作にアップにした髪。多めに抜かれた衣紋から白いうなじが月光に浮かび上がっている。そう、村で女給をするような田舎娘とは違う。深川辺りの玄人筋のような幽玄な佇まいであった。月の光に惑わされたか、それともむせ返る曼珠沙華の薫りにやられたか、その後の記憶は所々途切れている。
名前も知らなかった。人となりをも知ろうとしなかった。ただ、むさぼるような時間を過ごした。途切れた記憶に浮かび上がるのは、廃堂の縁側に射し込んでいた月の光が、次の記憶では女の乱れた黒髪と肌を浮かび上がらせた事。そして、次はもう朝だった。側には誰もいなかった。夢かと思ったが、手に絡まった数本の長い黒髪と背中の爪痕の痛みが、幾ばくかの事実を示唆していた。
僕は、お壱の霊に化かされたのだろうか。晃太郎は、祖父の語った伝説に身震いをした。今宵も月が明るい。一年前のあの夜のようだ。地獄花は、また燃え盛るように咲いているのだろうか。そして、女は……。
「晃太郎」
家の奥から母親が呼んでいる。
「あ、ここだけど、何?」
「今、村長さんから電話があってね。お祖父ちゃんったら、これから行くって言うの。けっこう酔っているみたいだし、暗いから、悪いけれどあんたも一緒に行ってくれない?」
村長の北村は芳蔵の竹馬の友で、しょっちゅう行き来しているようだったが、晃太郎はいつも彼岸の墓参りだけでとんぼ返りだったので、もう十年以上会っていなかった。
「わかった。あそこは美味い肴がでてくるんだよな」
「肴はいいけれど、お祖父ちゃんのお目付役なんだから、あんたは酔いつぶれないでね」
「わかっているって」
村長の家に着いたのはもう八時で、北村も晩酌で十分にでき上がっていた。
「晃太郎か。久しぶりじゃないか」
「ご無沙汰しまして」
「硬いことを言わないで、さあ、上がれや」
通された座敷には、お膳が三つ用意されていて、芳蔵はさっさと座って北村と飲みはじめた。昔から変わらぬお手伝いのお佳さんが、肴を運んできて、つぎつぎとお膳に置いていく。軽く頭を下げて、盃を差し出し、酒を注いでもらっている時に、上の階からか赤子の泣き声が聞こえた。この家に赤ん坊が?
「お孫さんですか?」
晃太郎がそういうと、老人二人は顔を見合わせて、それからどっと笑い出した。何がおかしいのかわからず戸惑う晃太郎を見て芳蔵が言った。
「お前は知らなかったんだったな。こいつが孫ほどの歳の嫁をもらった時の、去年の村の大騒動を。しかも、ひ孫が出来てもおかしくないのに息子が生まれたんだから、またひと騒動だったんじゃよ」
北村は苦笑いをして、それからお佳さんに言った。
「翔が寝付いたら、お客様にご挨拶をするように燁子に言っておくれ」
お佳さんは頷くと黙って出て行った。
晃太郎は、予感に身を震わせて、その若い後添いが現われるのを待った。やがて、シャッという衣擦れの音がして、襖がすっと開いた。そこにいたのは、紛れもないあの女だった。白い大島紬に芥子色の名古屋帯を低い位置で締めている。帯に描かれているのは和服の図案としては珍しいアガパンサスの白花だ。
「お客様とは、佐竹さまでしたか。ご挨拶が遅くなりまして申しわけございませんでした」
曼珠沙華と月の光が妖しげに浮かび上がらせていたあの黒い小紋姿と違い、清楚で明るい若妻には見えるが、晃太郎の周りにいくらでもいる同年代の女にはどうやっても太刀打ちできない色氣がある。初対面だと信じて紹介をする北村の言葉に儀礼的に硬い返答をする。
「佐竹晃太郎です。はじめまして」
「燁子です。どうぞお見知りおきを」
酒をつぐ白い手に憶えがある。大島紬の擦れるシャッという音、老人たちの冗談に笑う紅い口元。結い上げた黒髪とうなじの白さ。まるで何もなかったのように振る舞う女の態度に晃太郎はわずかに傷つき静かに盃の酒を飲み干した。燁子の手は銚子に伸びる。
「いえ、これ以上は……。祖父を無事に家に届けるためについてきたのですから」
それから、いつまでも昔語りをしたがるのを切り上げさせて、ようやく家まで送り届けた祖父が寝付いたのは日付の変わる頃であった。家人が寝静まった生家の小さな客間には、月の光が射し込み冴え渡る。
晃太郎はいつまでも寝付けず、再び外套をまとい、ひとり地獄沼へと向かう。凝り固まった想い。あの女が、いや、北村燁子が地獄花のもとに立っているのではないかと。
たった一晩の、酔狂のはずではなかったか。お互いに何かを望んだわけでもなかったはずだ。あの女はお壱ではない。違うのだ。だが……。
廃堂の前には、例年のごとく燃え盛るように曼珠沙華が満ちていた。冷たい月の光が沼の中にもう一つの月を揺らめかせていた。風がわずかに吹き冷たいが、そこには誰もいなかった。晃太郎以外には。
廃堂の屋根は一部が崩れ、中に入るのはためらわれた。一年前に二人が過ごした時間も、もはやお壱の伝説と同じように過去の残照に属していた。月と沼と花だけが、変わらずに妖しげに、彼を惑わし揺らめいていた。
路の辺の 壱師の花の 灼然く 人皆知りぬ 我が恋妻を 柿本人麻呂
(意訳:道のあたりの壱師[彼岸花が有力と言われているが不明]の花のようにはっきりと、人びとは私の愛する女のことを知ってしまった)
(初出:2013年3月 書き下ろし)
【小説】星売りとヒトデの娘 — 『星恋詩』二次創作
「scriviamo!」の第十六弾です。スカイさんは、「大道芸人たち」の蝶子と、そのフルートに耳を傾ける私のイメージイラストを描いてくださいました。ありがとうございます!

スカイさんの描いてくださったイラスト「Dedicate to 『scribo ergo sum』」
スカイさんは、おなじみ「月刊・Stella ステルラ」の主宰者さんのお一人で、とてもお世話になっている方です。学生さんで、星と空をモチーフにした素晴らしい小説やイラスト、私の大好きなノート生まれのキャラたちなどを次々と生み出されています。
さて、お返しは掌編小説にさせていただきました。スカイさんの代表作「星恋詩」から主役の星売りさまをお借りして、二次創作をさせていただくことにしました。
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星売りとヒトデの娘 — 『星恋詩』二次創作
——Special thanks to sky-SAN
祭は終わった。年老いた賢人の瞳と、獣の尾をもち、過去の記憶を持たない少年が、暗闇の中を一人歩いていた。彼を祭に連れてきた鬼の子は、姫君の生み出した星に乗り、天上へと帰っていった。だから、彼は一人、祭に背を向けて、夜の暗闇へと潜り込もうとした。
けれど、彼は星売りだったので、歩き動く度に、頭から金粉が舞落ちた。それが一つひとつ星となり、あたりを輝かせるので、完全な暗闇に沈むことは出来なかった。
ザワザワンと打ち寄せる波を、遠くに聞いた。その繰り返す波にのせて、わずかなすすり泣きが届いたので、彼は足をそちらへと向けた。
海だった。そこには、ぐっしょりと濡れた、赤い娘がいた。両手で瞳を覆い、ヒュクヒュクと震えて泣いていた。
「いったい、どうしたというのだ」
星売りは尾を振るわせて訊ねた。赤い娘は振り向いて星売りを見た。そして、彼の頭からキラキラキラと、星が舞落ちるのを見て、一層悲しげに泣き出した。
星売りは困って、頭を傾げた。するともっとたくさんの星がこぼれ落ちてシヤンシヤンと音を立てた。そこで娘は泣くのをやめて小さく答えた。
「私は、海の底のヒトデでございます。海星と言われているのに、私は全く光ることが出来ません。それを申し上げたら、海神さまがお前はくだらないことを考えて本業をおろそかにしているとお怒りになられました」
星売りはつと考えた。ヒトデならば、海の底の珊瑚の林で合唱をしているはずであった。確かに娘の声は鈴が鳴るように美しかった。
「海神さまは正しい。お前の美は体にではなく、その声にあるのだから」
「でも、私はあなたのように美しく光りたいのです。どうあっても、光ることは出来ないのでしょうか。たとえば、あの祭の火吹き男に松明をわけてもらうことはできないのでしょうか」
祭の火吹き男は、アルデバランの赤蠍の一人息子であった。本当ならば真っ赤な玉座の上で、紅玉でできた盃から蠍酒を傾けている結構な身分なのだが、周り中が赤くてかなわんと言って、放浪の旅に出た王子だった。星売りはかつて赤蠍王からの使者に頼まれて、火吹き男に一瓶の蠍酒を届けた縁でこの男をよく知っていた。火吹き男の舌にはいつもチラチラと焔が燃えていて、蠍酒やその他の強い酒を飲もうとすると、大氣に酸素が多く含まれているこの星では、口から劫火が生まれてしまう。だから火吹き男は常に息を吹き出して焔が軀の他の部分に燃え移らないようにしていた。それがいつの間にか松明に火をつけて人びとを魅了する芸人のようになってしまったのだった。
星売りは頭を振った。大好きな強い酒を飲む度に、焔を吐き出さなくてはならない火吹き男はヒトデの娘が思うほど幸せに燃えているわけではない。一方、この娘が同じような焔を口の中に持ったとしても、水の中では火は消えてしまう。それを避けようと焔を飲み込めば、その熱は娘の美しい声を生み出す黄金の喉を焼いてしまうだろう。
「だめだ。お前の大切な声を失わずに、その舌で火を安全に燃やすことは出来ないから」
「それでは、天上に輝く月の柔らかい光を、ぎゃまんの瓶に閉じ込めて、私の額にとりつけることはできませんか?」
星売りは、そのアイデアについて考えた。天の川にいくらでも落ちいてる天のぎゃまんの瓶にならば、満月の冷たく明るい光を閉じ込めることができる。けれどその光は地上にいる時にだけ光り、海の底へ行くとぎゃまんの瓶をすり抜けて、泡となって消えてしまうのだった。
「お前が、ずっと海の上にいるならいいけれど、そうでないと月の光は一晩と持たないのだよ」
それを聞くと、娘は絶望して、再び泣きはじめた。これではいけないと思った星売りは、尾を振ってもう一度考えた。考えて、考えて、考え抜いた。けれど、何も思いつかなかったので、残念だと頭を振った。すると星がふたたびシャラランと音を立てて、波間に落ちた。その星は、すぐに海の夜光虫になって、優しく輝きながら海の底へと泳いでいった。これだ。星売りは思った。美しく光る海の生きものもいる。それと協力すればいいと。
「いいことを思いついた」
「なんでしょう」
娘は涙を拭いて、星売りを見て首を傾げた。シャラララと麗しき音がした。

イラスト by スカイさん
このイラストの著作権はスカイさんにあります。スカイさんの許可のない二次利用は固くお断りいたします。
「美しく光るがためにいつも魚たちに追われている海の夜光虫と友達になりなさい。そして、彼らをその胸の中に隠してあげなさい。そうすれば、歌って息を吸い込む度に、夜光虫がお前の体を照らし輝かすだろう。美しく歌えば歌うほど、お前は輝くだろう」
その助言を聞いて、海星の娘は大喜びになり、本来の姿を現した。それは、海神の美しき七人の娘の末っ子で、つやつやと滑らかな赤い腕の一つひとつに、ぎっしりと真珠がついていた。
「ありがとう、星売りさん。あなたに海のすべての幸運が授かりますように」
そう言って、娘は海の底の珊瑚の宮殿へと戻っていき、姫君を待ち望んでいた合唱団の真ん中におさまり、コロラトゥーラソプラノで深海のあらゆる賛美を歌った。
ザワザワンと打ち寄せる波の間に、その麗しき旋律を聴いた星売りは、満足して頭を振った。するとたくさんの星がシャラシャランとこぼれ落ちて、波の合間消えながら幾万もの海の夜光虫に変わった。小さな光る虫たちは、姫と合唱団のコーラスに惹かれて、ぐんぐんと海神の宮殿に向かった。それぞれが姫や合唱ヒトデたちの胸の中に飛び込んで、その歌を子守唄に眠った。
夜光虫たちの夢みる輝きは、合唱団を光らせ、喜んだ姫たちはますます美しい歌を海神に捧げた。星売りは、ぼうっと光る海の底を眺めて、いたく満足し、シャランと音をたて、それからまた、尻尾を振りつつ、暗闇の中を星を振りまきながら歩いていった。
(初出:2013年3月 書き下ろし)
【小説】教授の羨む優雅な午後 — 『ニボシは空をとぶ』二次創作
「scriviamo!」の第十七弾です。高橋月子さんは、『ニボシは空をとぶ』 シリーズの世界に、なんと私を登場させてくださいました。ありがとうございます!
高橋月子さんの書いてくださった小説『桜坂大学医学部付属薬学総合研究所 桜井研究室のある一日』
月子さんは、オリジナル小説をメインに、イラストや活動日記などを載せていらっしゃる星と猫とお花の大好きなブロガーさんです。月刊・Stellaでもおなじみの『ニボシは空をとぶ』 シリーズでは有能で個性的な研究者と優しい事務の女性が活躍するとても楽しくて素敵な小説です。
お返しの掌編小説は、月子さんの小説の設定そのまま、翌日の設定で作らせていただきました。せっかく小説家「ヤオトメユウ」(何故かプロの小説家になっていて、拙作「夜のサーカス」が書店で平積みになっているらしいです!)を登場させてくださったのに、結局こうなってしまうのは、私のお茶やお菓子に対する煩悩が……。
※まさか、本氣になさる方はいらっしゃらないとは思いますが、この話はフィクションです。私は小説家デビューはしていませんし、「夜のサーカス」が出版されている事実もありません。念のため。
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教授の羨む優雅な午後 — 『ニボシは空をとぶ』二次創作
——Special thanks to TSUKIKO-SAN
「ところで、フラウ・ヤオトメ」
クリストフ・ヒルシュベルガー教授は、歩みを緩めて厳かに口を開いた。
「なんでしょうか、教授」
花が咲き乱れ彩りに満ちた桜坂大学の広い構内を、シンポジウムの会場間の移動中であった。開始時間が氣になっていた彼女は、片眉をちらりとあげて、教授の真剣な面持ちを見た。教授はツィードの仕立てのいい背広の襟をきちっと合わせ直し、まともに彼女を見据えて問いただした。
「あなたは、私に隠していることがあったのだね」
「おっしゃる意味が分かりませんが」
う~、今はやめてほしいな、と心の中で舌打をしながら、夕は教授の厳しい追及を逃れられないことを感じていた。
「まず第一に、『チルクス・ノッテ』とは、何かね?」
「なぜ、その単語を?」
夕は、訝しく思った。教授が日本語をひと言も解せないのは間違いない。昨日、桜井准教授の研究室で何名かが話題にしていた彼女の小説『夜のサーカス』のことがわかるはずはないのだ。
夕は国際結婚をしてスイスに住んで十三年になる。ようやく長年の夢が叶って日本で小説が出版されたが、それだけで食べていくことは到底無理で、秘書業務をしていた。ヒルシュベルガー教授の研究室に秘書として雇われ、週に四日は研究室に通っている。三日前より日本での国際医学シンポジウムに出席する教授の通訳を兼ねて、久しぶりに日本に帰って来ていた。本来ならば、勤めて半年で海外シンポジウムに同行することなどありえないのだが、行き先が日本だったことと、扱いの難しい教授の世話が上手だという評判で、大学側も喜んで旅費を計上してくれたのだった。
せっかく日本に帰って来たので、わずかな自由時間に書店に出向いた。わずかの間とはいえ、自分の本が書店に並んでいるのは嬉しくて思わず顔が弛む。ましてや、目の前で自分の本を買ってくれる人を見るなど、夢にも思っていなかった僥倖だった。それをしてくれたのが、偶然にも、昨日桜井研究室で紹介された今井桃主任だった。聡明で自信に満ちた優秀な研究者が、小説を褒めてくれたのだ。でも、日本語のわからないヒルシュベルガー教授がどうやってその話題に感づいたのだろう。
「フラウ・イマイと、フラウ・イヌイの手にしていた、同じ本の表紙に、その単語が書かれていた。あなたはあの本について、とても詳しそうに話していたね」
ちっ。確かに、装丁にはアルファベットで「Circus Notte」と書かれている。それを見られてしまったのか。夕は天を見上げた。面倒くさいことになってきたな。
「実は、あれは、私の書いた小説です。でも、日本でしか売られていない本ですし、教授があのような本に興味があるとは夢にも思いませんでしたので、申し上げなかっただけですわ」
「興味があるかどうかは、私が自分で判断する。あなたは、私の秘書なのだから、公式な活動のすべてをきちんと報告する義務があることを忘れないように。次回からは、本が出版されたら必ず報告しなさい。それから、帰りの飛行機の中で、その本を朗読してもらおうか」
「え。朗読しても、教授には日本語がおわかりにならないではないですか」
「もちろん、ドイツ語に翻訳しての朗読だ」
夕は、頭を抱えた。この教授付きの秘書になってまだ半年だが、彼女はここ数年で勤務暦が一番長い女性だと、周りから驚愕されていた。彼がことごとく型破りな要求をするので、なかなか秘書が居着かないのである。
「それだけではない」
続けて教授は畳み掛けた。
「なんでしょう」
「昨夜、テッパンヤキの店に行くことを断った、納得のいく理由をまだ聞いていない」
夕は毅然とした態度で言った。
「昨夜は歓迎パーティに出席なさると、二ヶ月も前からお返事なさっていたではないですか。パーティのお料理がそんなにお氣に召さなかったのですか」
「ふむ。あれは前菜みたいなもので、適当にぬけ出して、マツザカ・ビーフを食べようと来る前から思っていたのだ。それを、あっさりと却下したね。だいたい、あなたはパーティでもほとんど料理に手をつけていなかった。何か理由があるのではないか」
ううう。なんて鋭いのよ。夕はたじたじとなった。これだけは知られないようにしようと思っていたのに、仕方ない。
「すみません、パーティの前にちょっと食べ過ぎてしまいまして、ほとんど食欲がなかったのです」
「パーティの前とは、私が、あのつまらない学長にミュンヘンの思い出を語られていたときだね。グリーン・ティしか出てこなくて、私がひもじい思いをしていた時に、あなたがいったい何を食べていたのか、報告してもらおうか」
「はあ、実は、桜井先生の研究室で、美味しいお茶を……」
「お茶だけかね」
「いえ、その、三色さくらプリンや……」
「三色さくらプリンだと!」
はじまった……。夕は絶望的な心地がした。どうしてこの人は、こんなに甘いものに固執するんだか。
「あの学長と私が薄い茶を啜っている時に、あなたはフラウ・イマイやフラウ・イヌイと三色さくらプリンを食していたというのか? 断じて許せる行為ではない!」
「わかりました。この後、再びフラウ・イマイに連絡して、どこで入手できるか確認して調達しますので、とにかく今はシンポジウムの会場に行ってください。本当に、もう」
シンポジウムがはじまると、夕はそっと会場をぬけ出して、昨日楽しい時間を過ごした研究棟に向かい、入り口から今井桃主任に電話を入れた。
「主任~、入り口からお電話です」
今井桃は銀縁眼鏡の長身の青年から怪訝な顔で受話器を受け取る。
「誰かね」
「それが、昨日の、あのヤオトメユウさんですよ」
「なんだって」
研究室の桜井チームの面々は、電話で話す今井桃の様子を興味津々で伺っていた。最初は怪訝そうだった桃は、次第に笑顔になり、それから大声で笑ってから言った。
「心配ありません。今からうちの高木研究員をデパートに走らせます。ええ、シンポジウムが終わりましたら、どうぞ教授とご一緒にお越し下さい。昨日のミーティングの続きですな」
「デパート?」
高木研究員は、自分の名前が出たので首を傾げながら、受話器を置いた桃に訊いた。彼女は愉快そうに笑いながら言った。
「昨日の三色さくらプリンを、あるだけ買い占めてきておくれ。それと、君の偉大なセンスで、日本国最高のスイーツを厳選したまえ。どうやらヒルシュベルガー教授は我々の同志らしい。このあと、教授と桜井准教、それから夕さんもまぜて盛大なミーティングだ」
その午後に桜井研究室では再びミーティングという名のお茶会が催された。テーブルの上には、桜のフレーバーティに、イチゴのタルト、チョコレートブラウニーに、クリーム入りどら焼き、さくっと軽いパイ菓子、種類の豊富なクッキー、オレンジ・ティラミス、そして、もちろん三色さくらプリンが、所狭しと並べられていた。そのほぼ全種類に舌鼓を打ったヒルシュベルガー教授は、すっかり今井桃主任と意氣投合し、来年のチューリヒでのシンポジウムに桜井准教授と必ず一緒に来るように約束させた。
「我が家で、チョコレート・フォンデュを一緒にしましょう。日程の調節はまかせたよ、フラウ・ヤオトメ」
イチゴのタルトに夢中になっていた夕は、我に返ると急いで口元を拭いた。桜フレーバーティを飲んでから、取り繕ってにっこりした。
桜井研究室は今日も春らしい和やかな笑いに満ちていた。
(初出:2013年3月 書き下ろし)
「scriviamo!」に関するアンケートにご協力ください。
まだ手を挙げてくださった方で、いろいろと事情があってご連絡が遅れていらっしゃる方もあるのですが、とりあえず一区切りがついたということで、読者の皆さんに「scriviamo!」についてのご意見を伺わせてください。
「scriviamo!」は私にとってのはじめての参加型企画でした。たくさんの作品を読む楽しみと、どうお答えするかで脳みそを絞るゲーム感覚を十二分に味あわせていただいたのですが、参加者の方、読者の方としてはどうだったのだろうと氣になっています。
次回の開催をするかの判断材料にしたいので、大変お手数ですが、アンケートにお答えいただけると幸いです。また、この企画についてどう思われたか、細かいご要望などを、コメント欄の方に入れていただくと嬉しいです。
なお、この投票フォームは15分間だけ再投票を制限しています。他の選択肢にも投票したい場合は、後ほどお試しくださいませ。
(1) まずは、「scriviamo!」の開催に関してです。来年以降もやるかどうかについての参考にしたいのです。
(2) 次は、この企画で新登場したオリキャラについて。バラエティ豊かに出てきましたが、どんなのがウケたのか参考にしたいです。
ご協力ありがとうございます。