「樋水龍神縁起 東国放浪記」の脳内テーマ
今日の話は「BGM / 音楽の話」に入れるべきかもしれませんが、後から探すときにこちらを探すように思ったので、「樋水龍神縁起の世界」カテゴリーに突っ込んでおきます。
私の小説群、いろいろとある(しかもあちこちで繋がっている)のですけれど、一つの大きな世界観を持っているのが『樋水龍神縁起』です。もっとも、本編を隔離して置いてあるせいか、このブログで発表した続編などの方が知られているかもしれません。
題名から、全て時代劇と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、『樋水龍神縁起』本編と、その続編『樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero』は、現在から近未来の小説です。
そして、まだ未完で時折発表している『樋水龍神縁起 東国放浪記』や外伝の多くは、千年前の(つまり主人公たちの前世)の話で、元陰陽師の安達春昌とその従者である次郎が放浪をしているストーリーです。
この小説を書く時に、いつも私が聴いている曲があります。今回貼り付けた動画がそうなんですけれど、アルメニアの作曲家、アルノー・ババジャニアンの『ノクターン』です。日本の曲じゃないのですが、妙に懐かしいというか、こう、昭和にあった時代劇のテーマ曲みたいに響く曲なんですよ。(全部なんか聴いていられるかと思われる方は、大体2:25あたりから聴いてください)
Arno Babajanyan - Nocturne
子供の頃、時代劇が好きでした。もちろん大河ドラマのように史実を元にした時代劇も好きだったのですが、将軍様やお奉行様や浪人が毎週問題を解決しちゃう、「そんなはずないだろう」がてんこ盛りな時代劇も大好きでした。そして、某南町奉行様のお話の「るーるるる〜」というテーマ曲もものすごく好きだったんですよ。今時、ああいうテーマ曲は流行らないでしょうけれど。
この『ノクターン』は、アルメニア産の曲なのに、なぜかその「昭和な時代劇」の空氣を纏っていて、初めて聴いた時から『樋水龍神縁起 東国放浪記』に結びついてしまいました。ブラウン管の画面の中、花や落ち葉が舞う中を、色褪せた狩衣を着て馬に乗って去って行く春昌たちを想像しています。あ、だから、痛いって自覚はありますったら。
これを書いているってことは、そうです。私の中で「これの続き書きたいな」という思いがムクムクしていたりするのです。ただし、書いている時間がない? っていうか、そんなの書いている場合じゃないだろうってことなんですけれど……。
【参考】

樋水の媛巫女
樋水龍神縁起の日です

2011年から2012年にかけて書いた小説、「樋水龍神縁起」四部作では、重要な日付が二つほどあります。一つが「千年祭」で、これは2012年10月30日でした。「六白の年、六白の月、六白の日」が重なる満月です。しかも、辰年でした。この日は私の小説「秋、白虎」の中では、「龍の
そして、それから891日、すなわち九×九九日後、今度は「三碧の年、三碧の月、三碧の日」がめぐってきて期が満ちるのです。三碧は四神相応の方位では青龍にあたります。そして、私の作品「春、青龍」の中ではこの日に、新しい川「
「大道芸人たち Artistas callejeros」が未来の話になってしまったのも、オリキャラのオフ会を強引にこの日に設定したのも、暦でこれだけの特別が揃う日が、他に見つけられなかったからです。反対に、たまたま書き終えて発表しようと決めた年が「千年祭」の歳だったことや、その歳からブログをはじめたこと、創作を再びものすごい勢いでし始めたことなど、とても偶然とは思えず、私にとっては思い入れのありすぎる二日です。そう、この二日、何かの元ネタがあってそれをパクって使ったのではありません。暦を見ていて自分で見つけたのです。普段そんなインスピレーションが湧くタイプではありませんので、やはりこれの執筆中は、何かがいつもとは違ったのだと思います。
そして、「千年祭」の日に、ブログの記事で「891日後にもこのブログを続けていられるといいなと思います」と書きました。ええ、続けていました。それどころか「オリキャラのオフ会」を企画していました(笑)
「樋水龍神縁起」は、私の作品の中では若干異質な上、読者も限られている作品です。が、一番大切な作品を一つ選べと言われたらこの作品になると思います。再生した私の最初の作品であると同時に、言いたいことを全て網羅した作品、そして、二度と書けない類いの作品です。
「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
官能的表現が一部含まれるため、成人の方に限られますが……「樋水龍神縁起」四部作(本編)は別館にPDFでご用意しています。

「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」座談会 その2
「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」座談会 その1
「その2」は「瑠水をめぐる男たち」でお送りいたします。
大手町のBar『Bacchus』にて。
(田)今日は、お忙しいところ、皆さんお集まりいただきましてありがとうございます。今回の座談会は、東京はこの店で開催しろという事で、司会も仰せつかりました。私は当店のバーテンダー田中佑二です。って、新堂さんじゃないですか、大変ご無沙汰しています。(作者注・新堂朗は『樋水龍神縁起』本編の主役で『Bacchus』の常連でした。ついでにいうと樋水龍王神社で祀られている三柱のうち背神安達春昌命ならびに最近よく現れる蛟はこの人という設定です)
(新)こちらこそ、久しぶりだね。今回のメンバーは、皆勝手に話すはずなんで、特に仕切らなくてもいいそうだ。
(田)ええと、今回は、龍王様はいらっしゃらなかったんですか?
(新)神在月だからね。龍王神と媛巫女神は行事が目白押しでね。あとで「なかったことにする」のと、島根組が通ってきた根の道を閉じなくちゃいけないので今回は私が来たんだ。前回同様コストは樋水龍王神社に請求してくれたまえ。
(田)はい。それで今回は「瑠水さんをめぐる青年たち」編ですか。で、いらっしゃった方は……。
(真)生馬真樹です。出雲から来ました。お忘れかもしれませんが、チャプター1で主役だったはず……。
(拓)結城拓人です。ピアニストやってます。チャプター2で瑠水といろいろあった所です。
(彰)早良彰です。瑠水の幼なじみで義兄です。本当はずっと瑠水の事を……いや、言うまい。
(稔)えっと、作品違うんですけれど、瑠水さんにときめいたつながりで来てみました。安田稔って言います。(作者注・稔は『大道芸人たち』の日本編で瑠水にデレデレでした)
(三)三ちゃんこと、三造です。「大衆酒場 三ちゃんの店」をやってます。ただの部外者です。瑠水ちゃんにもときめいたりしてませんが、新堂先生がシン君連れて飲みにいくって聞いちゃね。ま、みんな勝手にやってて。バーテンさん、この間と一緒で、梅酒サワーとチェイサーとして焼酎ね。
(真)あの……もしかして、あの結城拓人さんですか? うわっ、本物なんですね。あの、サインをいただいても……。
(拓)ああ、サインね、はいはい。ん? 君、出雲から来たって言ったか?
(真)はい。そうですが?
(拓)ってことは、お前が例の島根男かっ! くっそ〜。
(彰)拓人さんはいいじゃないですか。瑠水の水揚げもしたし、いい人扱いだし。僕なんてただの悪役ですよ。
(稔)なんだって、結城、お前いつの間に!
(拓)んな事言ったって、僕だっていい面の皮だったんだからさ。く〜(泣)
(真)えっと、東京でいったい何が? (作者注・田舎者で、会話の意味について行っていません、幸い)
(拓)(冷たく)君は何も知らなくていいよ。
(彰)ところで、瑠水は今どこに?
(拓)(島根に帰ると)聞いたけれど、教えてやらない。(と、ちらっと真樹をみる)
(稔)お前、陰険だぞ。
(拓)うるさい! 失恋してまだ一週間経っていないんだ!
(稔)他の女に慰めてもらえばいいだろ。それか園城にさ。
(拓)他の女じゃ代わりにならないよ。それに真耶は「デートしないで時間があるなら、練習でもしろ」って冷たいしさ。
(彰)自業自得……。
(新)君、会話に加わらないの。
(真)いや、どうも氣遅れしちゃって。都会の皆さんとはテンポが違うのかな。それに、どうも結城さんにも嫌われているみたいだし。
(田)まあ、理由はさっきからの会話を聞いているだけでも、なんとなくわかりますが。(といって、真樹と朗にウィスキーをそっと出す)
(三)あ。バーテンさん! 俺っちもそれ飲みたいな。
(真)あの、この後の事なんか、訊いてもいいですか? (すっかり朗と飲むモード)
(朗)訊いてもいいけれど、この座談会が終わったら記憶消すことになっているよ。
(真)だったら訊いてもしかたないか。ふう。
(朗)チャプター3は、君の話から始まるってことだけは伝えておこうかな。出番が近づいているから、覚悟しておいてくれよ。
(真)はい。読者の皆さんも、今後ともどうぞよろしくお願いします。
「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」座談会 その1
お遊び的な座談会みたいなのも好きです~( ´艸`*)二度美味しい気がして・・
あああwリクしていいなら!完結した後でもいいのでw緩い感じのなんでもありの座談会みたいなのも見てみたいですw
ほほっ。考えてもみなかったけれど、バトンでもいろいろと開示している続きで、登場人物たちがゆる〜く、語っちゃう座談会を開催してしまう事にしました。というわけで、「その1」です。つまり「その2」もあります。(チャプター2が終わったらね)
「その1」は「瑠水の周りの大人たち」でお送りいたします。
(龍)こんにちは。座談会の司会の龍王です。あ、ご存じない方ははじめまして。樋水龍王神社の主神で、川です。今日は、お忙しいところ、皆さんお集まりいただきまして。まずは自己紹介からどうぞ。
(一)高橋一です。ヒロイン瑠水の父親です。妻と樋水村で「お食事何処 たかはし」を経営しています。
(摩)高橋摩利子です。その妻です。早百合と瑠水の母親です。
(次)樋水龍王神社の禰宜、関大樹です。次郎の通称で通っています。瑠水ちゃんをひいきしています。
(三)三ちゃんこと、三造です。「大衆酒場 三ちゃんの店」をやってます。ただの部外者です。今日はひやかしでやってきました。あと、無料で呑めるって聞いたんで。
(宮)樋水龍王神社の宮司、武内信二です。職務に忠実なだけなのに『鬼』とか呼ばれています。
(摩)(こっそりと)ちょっと。緩い座談会だって言うから来たのに、なんでタヌキ宮司もいるのよ。
(一)知らないよ。これじゃ言いたい事も言えなそう。
(龍)心配ありません。ここで話した内容は、小説内ではなかった事になるから。
(摩)あっそう。安心した。
(田中)お飲物のご注文をどうぞ。
(摩)あれっ。『Bacchus』の田中さんじゃない。なんでこんなところに。
(田中)バイトで龍王様に呼ばれました。摩利子さんが座談会に集中できるようにって。
(一)へえ、ご神体も氣が利くねぇ。じゃ、僕はね、ブラッディ・マリー(笑)
(摩)なんですって?
(一)ごめん、摩利ちゃん!
(摩)いいわよ。私もそれにして。
(次)僕は冷酒でお願いします。
(三)こっちは梅酒サワー。あ、チェイサーは焼酎にして!
(宮)三造さん。それはチェイサーではないと思いますが。
(三)かたい事言うなよ、武内センセ。十歳までおねしょしていた事をばらすよ。
(宮)もうばらしているじゃないですか。私は山崎でお願いします。
(摩)ええっ? タヌキ宮司が、新堂さんの好きなウィスキーを飲むとは! (作者注・新堂さんそして後から出てくるゆりは『樋水龍神縁起』本編の主人公です)
(一)摩利ちゃん! いくらご神体が後で消去してくれるからってタヌキって連呼しすぎ……。
(龍)もうそのくらいにして。本題に入れないから。
(一同)すみません。
(龍)そういうわけで、今日のテーマは、「大人たちから見た高橋瑠水」だね。どう思う、あの子の事。
(次)どうって、大切な「あたらしい媛巫女さま」だし。(作者注・次郎は生まれ変わる前の千年前に媛巫女瑠璃に使えていた郎党としての記憶があります)
(一)ちょっと待てよ。うちの娘は、瑠璃媛やゆりの生まれ変わりなんかじゃないって何度言ったら……。
(次)だから、ちゃんと「あたらしい」を入れてんじゃん。
(摩)でも、あの子、いろいろと見えるだけで、ただのヘタレよ。(作者注・言いたい放題の摩利子も見えるだけの人です。三造さんも)
(三)それは言える。俺っちと一緒だ、ははは。バーテンさん、チェイサーをお代わり!
(宮)まあ、貴重な六白金星生まれだし、たしか、あれでしょ? ボーイフレンドの生馬真樹君も六白だったよね。どう? 宮司夫人の座が確約されるってのも悪くないと思うけれど。
(摩)宮司夫人っていうか「妹神代」でしょ。『龍の媾合』をなしにしてくれるんならいいけれど。(作者注・この辺の事情はちょいと複雑なので、わからない方は飛ばしてください)
(一)その問題は、ひとまず置いておこう。それよりさ。瑠水のシン君への態度について、どう思う?
(龍)司会はこっちなんだけど。勝手に話をすすめやがって。
(一)わあ、ごめんなさい。
(龍)いいよ、そのテーマ、行こう。
(摩)なんだか、煮え切らない付き合いよね。バイクに乗って、音楽聴いて帰ってくるだけって、小学生じゃあるまいし。
(一)母親がそんなこというなよ。健全でいいじゃないか。
(摩)あのね。シン君は27歳なのよ。一が27歳の頃って、何していたのよ。
(一)あ〜、ゆりとつきあっていたよ。
(摩)ほら、やることやってたんじゃない。
(一)うん。それでゆりは新堂さんと行っちゃったんだ。で、その後に摩利ちゃんと出会ったんだよね〜。
(摩)その話はどうでもいいのよ。私が言いたいのは、そんな付き合いで、シン君はいいのかってことなの。
(次)でも、あの二人は単に仲がいいだけじゃなくて、もっと深いつながりがあるんだと思うんですよね。事故の事も瑠水ちゃん感じ取ったみたいだし。
(摩)事故って何の事?
(次)シン君バイクで事故ったんですよ。瑠水ちゃんがそれを感じて、僕に何が起こったか確かめてほしいって。
(一)嘘だろう? 大変じゃないか。
(摩)なぜ私たちに訊かなかったのかしら。
(次)え。二人の間のいざこざをご両親に知られたくなかったみたいです。シン君が告白したのを拒否しちゃったみたいですよ。詳しくは訊いていないけど。あ。ぜんぶひっくるめて秘密だったのに喋っちゃった! 龍王様、どうしよう。
(龍)だから、ここの発言はなかった事に出来るから。
(次)そっか。じゃ、安心して。それでね。事故の事を報せると、瑠水ちゃんの未来を邪魔するからって、報せるなって言われて。
(一)シン君……。泣けてくる、いいやつだ。それに引き換え、瑠水は鈍感にも程があるな。
(摩)子供だからねぇ。やけに早熟だった早百合と足して二で割ると、ちょうどいいんだけれどねぇ。
(三)割るとねぇ。バーテンさん、チェイサーをおかわり!
(宮)ちょっと三造さん。もう出来上がっているんですか?
(龍)じゃ、そろそろまとめるか。
(一)瑠水は悪い子じゃないけど、ちょっと子供過ぎるな。
(摩)東京暮らしで少しは成長するといいけれど。「大道芸人たち」でおなじみのメンバーも出てくるらしいわよ。
(龍)あの二人は、もともとこっちのキャラで、「大道芸人たち」を書く時に流用されただけです。
(次)へ。それは知らなかった。僕たちの出番は?
(龍)チャプター3までお預けです。じゃ、皆さん、お疲れさまでした。読者の皆さん、長い座談会におつき合いくださいまして、ありがとうございました。今後とも「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」をよろしくお願いします。
樋水龍神縁起の世界 - 8 -
「樋水龍神縁起」の本編、「第二部、冬、玄武」には、モチーフとしてこのモーツァルトのレクイエムが出てきます。主人公の一人、新堂朗が若くしてなくなった友人の葬式代わりに開催された「レクイエム」の演奏会を聴きに行くシーンです。冬をモチーフにしたこの作品の中で、私は死と喪失についての考え方を朗の思考という形で綴りました。
私は小学校で同級生がアイドルの歌に夢中になっている頃に、父親にテレビを観る事を禁止されて一緒にクラッシック音楽を聴かされていました。その中で好きで印象に残っている曲の一つがこのモーツァルトの「レクイエム」でした。「フィガロ」や「魔笛」などの他のモーツァルト作品はあまり好きではなかったのですが、この「レクイエム」だけは、ものすごく好きでした。父の持っていたレコード(そういう時代です)のジャケットは、本当に亡くなった方の青くなった足がアップで並んでいるショッキングなもので、それ自体は怖くてしかたなかったのですが、「三つ子の魂百まで」なのか、いまだに「レクイエム」はどなたかが亡くなったというようなこととは無縁によく聴いています。
本編の「第四部 春、青龍」の「和解」の章は最後の最後に書き直したのですが、その書き換えをした時にBGMとして聴いていたのは、実はこの「レクイエム」の一番最初「Intros」の部分でした。来週の「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」の更新では、その章を書く時に聴いていたBGMを追記につけようと思っています。ちょうど、二つの物語が似て非なるものである事、それでいてリンクしていることを表すもう一つの選曲、そちらも聴いていただければと思っています。

官能的表現が一部含まれるため、成人の方に限られますが……「樋水龍神縁起」四部作(本編)は別館にPDFでご用意しています。

樋水龍神縁起の世界 - 7 -
さて今日は、写真を使って、連載小説「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」に興味を持っていただこうとするコーナーです。

「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」に当たり前のようにポンポンと出てくるフレーズ、「生まれ変わり」「オーラ」「龍」などなどに抵抗のある方って多いんじゃないでしょうか。ラノベで「魔法」が出てきてもすんなりと受け入れる方でも「なぜこの話で、この単語?」と戸惑われるんじゃないかと。
基本的に、私の書く小説でこの手の話がでてくるのは、「樋水龍神縁起」関係だけです。私自身はこの小説でいうところの「見えぬ者」です。つまり霊感ゼロ。前世の記憶なんてものも全く持ち合わせていないし、つぎに何かに生まれ変わろうと野望に燃えているわけでもありません。
でも、「フィクションだから、ありえない」と完全否定しているわけでもありません。「見えている」とおっしゃる方々の意見が一致しているなら「存在しているかもね」と思うのです。
そもそも、私は小説の世界をフィクションとノンフィクションにわけて考えたことはありません。反対に言うと、現実に起らないことを単なるエンターテーメントとして書くために長編を書くことはありません。それは私が小説で伝えたい事ではないので。(短編や掌編ならありですが)
話がどんどんずれていますが、要するに、瑠水や摩利子が見ているように世界を見ている人たちも存在するんじゃないかなと思っているのです。
言葉で表現する時にそれはさまざまな形をとります。例えば東京からやって来た摩利子は「オーラ」という表現をつかう「何か」を平安時代の記憶を持ち続けている(という設定の)次郎は「氣」と表現します。見方によっていろいろな形をとるという意味では、ある人には「樋水川」である存在が別な人には「龍王」であることもありえるのではないでしょうか。そう、日本の現実の河川である斐伊川が神話の世界では「八岐大蛇」という形をとったことがあるように。

官能的表現が一部含まれるため、成人の方に限られますが……「樋水龍神縁起」四部作(本編)は別館にPDFでご用意しています。

樋水龍神縁起の世界 - 6 -

三回に分けてアップしている「百花繚乱の風」の章のイメージは、やはりスイスで私が連れ合いにバイクに乗せてもらって知った幸せな感覚から来ています。
日本では、バイクに乗ったことはありませんでした。車の中で、電車の中で観る光景と、風を受けながら感じる光景は全く違っています。
子供の頃から、私は風が好きでした。風は気象の一形態にすぎないのですが、私にとっては空氣がある場所から別の場所に移動する、それだけの現象とは全く違っています。
「樋水龍神縁起」で主人公の幸福を表すのに使った、二人で受ける風の世界を、続編でも繰り返すことによって、同じ人間ではなくても感じることのできる普遍的な想いを表現できたらいいなと思っていました。
この写真の花水木はイタリアのオルタ湖の近くで撮影したものです。長い冬が終わり、バイクを引っ張りだしてイタリアまで行きました。湖は輝き、丘の上にはありとあらゆる花が咲き乱れて、春らしい香りに満ちていました。
自然は、生命を謳歌していました。どれほど灰色で冷たい冬が永遠に思われても、大地はやがて甦り、このように誇らしくも輝かしい春が生命をほめ歌うのです。自然の不思議と美しさを実感する時間です。真樹と瑠水がバイクの上で共有した時間は、このイメージからできているのです。

官能的表現が一部含まれるため、成人の方に限られますが……「樋水龍神縁起」四部作(本編)は別館にPDFでご用意しています。

樋水龍神縁起の世界 - 5 -

「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」は、本編の方が完結して放心した後に書いた小説です。実をいうと、本人としては本編で書きたいことを究極に書ききってしまったつもりだったので、もう何も書けないのではないかと思っていました。小説を書くことも、これでおしまいかと思ったのです。でも、「もう一度だけ、ここまで行かない、人間視点の物語を書いてみよう」と思ったのが、この作品の誕生のきっかけでした。これがなんとか書けたので、それから「大道芸人たち」が生まれ、そして、ブログをはじめて現在に至ります。反対にいうと「Dum Spiro Spero」を書かなければ、このブログは存在しなかったということになります。だから、私にとっては、かなり思い入れの深い作品なのです。
さて、樋水龍王神社で咲く桜のイメージは、実は八重桜です。ソメイヨシノでもいいのですが、禰宜がぶつぶついいながら掃いている絵柄からすると、儚さの象徴のソメイヨシノよりは、ピンクの鮮やかな八重桜がイメージなのです。
それに、今回の連載とはあまり関係ないのですが、本編の方でとても重要な役割を持っていた、龍王の池のほとりに立つ二本の桜が絡み合った夫婦桜も八重桜です。この桃色は、媛巫女瑠璃を象徴する色でもあります。
スイスの田舎である私の村にも、たくさんの八重桜が咲きます。真っ白いアルプスと、青空をバックに花見をするのは最高の贅沢です。五月までお預けかな……。

官能的表現が一部含まれるため、成人の方に限られますが……「樋水龍神縁起」四部作(本編)は別館にPDFでご用意しています。

樋水龍神縁起の世界 - 4 -

「樋水龍神縁起」本編と、これから連載する「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」で、大きな役割を果たしているのが川です。この作品の中では樋水川と名付けられた川を神格化したものが、樋水龍王神社の主神である龍王ということになっています。
この川は島根県の斐伊川をモデルにしていて、八岐大蛇がこの斐伊川のことだとも言われています。蛇、竜という水神と川の関係は深く、自然と人間、カミとヒトとの関わりを象徴しています。
で、なぜ川、龍に大きな役割を持たせる話を書いたのかというと、それは私が川の側に住み、日々関わって生きているからです。そう、ライン河です。
川は農作物を実らせ命を潤すと同時に、時に氾濫して恐ろしく暴れ回ります。生と死を共につかさどり、地を流れ海に流れ込み、そして空に帰ってから雲となりまた地に戻ってきます。すべてに満ち、それでいて同じところには留まらない。生を育み、そして死をも呼びます。どこにでも存在し、どこにも存在せず、循環している存在。そう、私の書きたかった「樋水龍神縁起」本編のテーマにぴったりの存在なのです。
「Dum Spiro Spero」の方では、その思想自体はあまり重要ではありません。ごく普通の物語になっています。それでも、同じ世界観の中で、ヒロインは常に樋水川とともに生きているのです。
官能的表現が一部含まれるため、成人の方に限られますが……「樋水龍神縁起」四部作(本編)は別館にPDFでご用意しています。

「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物

【登場人物】
◆早良(新堂)ゆり
普通の者には見えないものが「見える者」。自分の異質さと夢に見る記憶を隠して生きてきたが、朗に会い運命に導かれて奥出雲にある樋水龍王神社で奉職する事になる。平安時代の媛巫女瑠璃の生まれ変わり。
◆新堂朗
「見える者」であり、かつ「祓える者」。瑠璃媛を盗み出しその死の原因を作った陰陽師安達春昌の生まれ変わり。千年にわたり何度生まれ変わっても記憶を失う事がなく、瑠璃媛の生まれ変わりに会う事を切望していた。後に禰宜となって神社に奉職し、樋水へと導かれていく。
◆高橋一
樋水村の出身者で、ゆりの元婚約者だった。二人が樋水龍王神社に奉職する事になったのと時を同じくして、樋水村に戻る。二人の親友として陰に日向に力となる。「見えぬ者」
◆広瀬(高橋)摩利子
高橋一と結婚して樋水村にやってくる。都会的で前向きな女性。「見える者」であり、人が強い感情を持つと「ヴィジョン」としてそれが見えるという特殊能力を持つ。一とともに親友として二人のために尽力する。
◆関大樹
樋水龍王神社の出仕(見習い)。瑠璃の郎党だった次郎の生まれ変わり。
◆武内信二
樋水龍王神社の宮司
◆新堂沢永
朗の父親。千葉の寺の住職。
◆媛巫女瑠璃
平安時代に生きた有名な覡(かんなぎ)。樋水龍王神社で龍王の神聖な巫女として神託を受けていたが、安達春昌と恋に落ちて命を落とす。
◆安達春昌
陰陽師。京から奥出雲を訪れて媛巫女と恋に落ちた。瑠璃を盗み出し、その死の原因を作ってしまう。
◆次郎
瑠璃媛の忠実な郎党。盗まれた媛を取り返すために春昌に矢を射て、盾となった媛を射殺してしまう。瑠璃媛の遺言に従い、春昌が死ぬまで忠実に従った。
◆龍王
樋水龍王神社のご神体。樋水川(モデルは斐伊川)ならびに樋水龍王神社にある瀧がその実態。
※ここに出てくる固有名詞、地名、神社などはすべてフィクションです。(おわかりだとは思いますが、念のため)
【あらすじ】
以下は、時間がなくて本編を読まない方、もしくは官能的表現が苦手、または未成年で読めない方用の「10分でわかる『樋水龍神縁起』(本編)」です。あらすじですので、中に流れる思想などには一切触れていません。100%ネタバレですので、いちおう隠してあります。
「第一部 夏、朱雀」
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「第二部 冬、玄武」
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「第三部 秋、白虎」
あらすじを表示する クリックで開閉します
「第四部 春、青龍」
第四部には、R18要素は、一切ありません。未成年の方がお読みになっても問題はありません。
あらすじを表示する クリックで開閉します
樋水龍神縁起の世界 - 3 -

和室の魅力ってあると思うのですよ。古くなればなるほど趣を増す、木の柱。畳の陰影。
「木と紙の家をなぜ建てるのだ」と欧米人に訊かれるのです。「三匹の子豚」の童話ではありませんが、スイスの外壁の厚みが一メートルもあるどっしりとした家と較べて、日本の家はいかにもぺらぺらな建築に思えるようなのです。
日本の、スイスほど寒くならない地域の建物に限るでしょうが、障子一枚+雨戸のような建物には、外界からの遮断は家の目的ではないように思えるのです。そうではなくて目に入る景色(借景も含めて)、風や音を家の中でも共に楽しむ、そういう作りになっているのではないでしょうか。
「大道芸人たち」の出雲の章にもちらっと出てきましたが、「樋水龍神縁起」のメインの舞台である樋水龍王神社の境内には、龍王の池に面して離れが建っていることになっています。この場所は平安時代に既に家が立っていてそこに媛巫女瑠璃が住んでいたのでした。それから何度か建て直されていますが、イメージとしてはやはりこういう日本建築です。ここで、月の光や龍王の池とともに神社の日常が紡がれた、そんな舞台です。
官能的表現が一部含まれるため、成人の方に限られますが……「樋水龍神縁起」四部作(本編)は別館にPDFでご用意しています。

樋水龍神縁起の世界 - 2 -

この写真は、スイスで撮ったものです。「樋水龍神縁起」本編を書いたのも、その続編である「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」を書いたのも、すべてスイスにおいてでした。これらの小説の背景はすべて日本で、さらにモチーフは平安時代だったり、京都や奥出雲の山奥だったりと、ことさらジャパニーズな世界なのですが、実際に書く時に観察してイメージをふくらました自然そのものは、(私にとって)もっと身近な、スイスやヨーロッパのものだったりもするのです。
これは、私が東京では、ここスイスにいるほどには自然に近くなかったという事情があります。この話は、男と女の関係の話であると同時に、人間と自然の関係の話でもあるので、個人的には自然の描写がとても大切だったのです。
日本に行った後に、樋水川のモデルにした斐伊川をさかのぼる列車の旅をして確認した事ですが、スイスと日本とがこれだけ離れていても、山や谷の光景というのは似通った所があって、私がイメージしていたものとほとんど違いがありませんでした。
「樋水龍神縁起」本編は、四部構成になっているのですが、すべてに四季をあてはめています。その分、その巻では他の四季にあたる描写が書けない制限がありました。「Dum Spiro Spero」の方はあえてその縛りを外しました。構成に縛られない分、思うがままに書いた「Dum Spiro Spero」は、どちらかと言うと、本編よりも普段の私のスタイルの小説になっています。
官能的表現が一部含まれるため、成人の方に限られますが……「樋水龍神縁起」四部作(本編)は別館にPDFでご用意しています。

樋水龍神縁起の世界 - 1 -

この写真は、2011年の秋に日本に行った時にはじめて行った出雲大社での一枚です。「樋水龍神縁起」という題名から、この小説は時代物だと思われる事が多いのですが、メインの舞台は現代です。それどころか「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」にいたっては、近未来小説です。でも、書いている本人としてはメインの舞台が現代でも平安時代でもあまり変わらない感じで書いています。そうなる原因が、出雲という場所にあるのです。
この写真、平安時代の物語のイメージ写真としても十分にいけると思いませんか? 千年前も今も同じように佇む世界。ここに息づくあってなきもの、延々と繰り返される自然と人の営み。これが私の中の「樋水龍神縁起」の世界観だったりします。
新連載「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」と、写真で語る「樋水龍神縁起の世界」、しばらくおつき合いいただく事になりますが、どうぞよろしくお願いいたします。
官能的表現が一部含まれるため、成人の方に限られますが……「樋水龍神縁起」四部作(本編)は別館にPDFでご用意しています。
縦書きPDFで読む(scribo ergo sum: anex)
大事な日
方位を氣にするようになったのです。自分が旅行が好きだということもあって、どうせいくなら吉方位をというような。これは単に自分のことです。人がどこに行こうが、それが凶方位だろうが、もしくは「ナンセンス言ってんじゃないよ」と言われようが、一切意見をしたりしないようにしています。というのは、この方位というものを見だすとたいていの人が友達や家族と旅行などに行けなくなってしまうからです。(私と旦那は吉方位が同じなので自分に都合のいい所をプランすればそれでOK)で、せっかく行くのに「そっちは大凶だから」などと言われるのは嫌じゃないですか。だから、私は他人の方位に関しては一切調べないことにしています。「見てください」ってのも断ります。本氣で知りたければ、いくらでもネットで調べられますしね。そのくらいの手間を惜しむ方はこんな面倒なことに手を出したりしない方がいいでしょう。
さて、前置きが長くなりましたが、そんなところから私は九星に関心を持つようになりました。それから芋づる式に陰陽五行やら四神相応にも興味を持つようになって、現在に至ります。まあ、だから何だというわけではないのですが。
で、今日なのですが、とても珍しい日なのですよ。六白金星が年、月、日と重なっています。それだけなら九年に一度は必ず起こるのですが、実は満月も重なっているのです。そして、私は六白金星生まれなのです。
龍に関する小説を書き出した時に、この日の事を知っていたわけではありません。けれど、実は誰かに教えてもらったわけでもないのです。自分で暦を見ていて、偶然見つけたのです。それが辰年だと氣がついた時には「げげっ」と思いました。891日後、つまり9×99日後に三碧木星が三つ重なる日が来ますが、これも自分で見つけました。満月ではありませんがお花祭りの日です。一人で「これは!」と唸りました。ほとんどプロットのできていた小説がここでぴたっとおさまりました。この二つの日に、特別なことを設定して小説を完成しました。今から二年ほど前のことです。
書いていた時には、この日を自分が迎えるのはずっと先だと思っていました。けれど、それは今日です。私は日本から遠く離れたスイスにいますが、この日がなぜ私にとって重要なのかご存知の方がすくなくとも数名は日本にいるのだと思うと、ものすごく感慨があります。
891日後にもこのブログを続けていられるといいなと思います。その時には、「あ、忘れていた」になっている可能性もありますね。あれからもたくさんの物語が生まれました。891日後はどうなっているのだろうと、楽しみでもあります。今夜が素晴らしい満月になりますように。
愛の話
こうやって、まとめていくつかの短編を読んでみると、
○ちゃんは「ラブストーリー」を書く人なんだなあとしみじみ。
長編を読んでいると、つい他の意匠
(ファンタジーだったり比較文化論だったり)に気をとられて
つい「ラブストーリー」ってことを忘れちゃうんだけどさ。
でも、根本はあくまで「ラブストーリー」だなあ、と。
これはある意味であたっているけれど、本質的にはそうではないんですよね。
あたっているというのは、私にはバトルファンタジーは絶対に書けないし、社会の暗部をえぐり出す問題作もたぶん書けない。私は私の日常の側にあるものからストーリーを作るヒトだから。身近な題材に恋愛ものが多いのは当然で、かなりの数のものが一対一の人間の関係、多くがラブストーリーに落ち着くわけです。
本質的にはそうでないというのは、私の小説のすべてで追い続けている根幹テーマは「愛」ではないから。様々なラブストーリーの皮をまとっているストーリーの中で描き出そうとしているのはもっと別なもの。それが何かはここでは書きません。一つの読み方を押し付けるような事はしたくないので。
で、数だけはやたらと書いてきた作品の中で、唯一本当に「愛」をテーマにしたのが「樋水龍神縁起」です。ただ、この場合の「愛」とは「ラブストーリー」ではありません。この作品は、2010年から2011年にかけて一氣に書き上げたのですが、書き上がった途端に東日本大震災が起こって一度公開を断念しました。
私が書いた小説の中では、唯一ガチガチに構成を組み、「愛」の四段階を一つずつ、四季にあてはめて書きました。そのために避けて通れない描写があり成人向けの小説になっています。ま、今どきのジュニア小説やマンガと較べても、大した描写ではないんですが。そのためブログでは公開せず、FC2小説の方にだけアップする事にしました。
突然、公開しだしたのは、まあ、いろいろ理由はあるのですが、2012年10月30日がこの小説でものすごく大切な日で、それまでに公開したかったから。それと、訪問させていただいているブログのおともだちのところのメッセージ欄で「愛の本質」について語る事が時々あって、これを公開しない事には私の言いたい事は伝わらないかなと思った事があります。
私はかなり特殊な宗教観も持っていて、表向き(スイスで宗教税を払う先)はローマ・カトリックなのですが、お世辞にもまともな信者ではなく、一番近いのはたぶんサンスクリット語で語られる「般若心経」の思想だと思います。「樋水龍神縁起」では神道の世界が出てきますが、大半の記述は正統の神道からは外れたものになっていると思います。ただ、どの宗教思想も侮蔑愚弄するつもりはまったくありません。もし不愉快な記述があったとしたら私の不徳のいたす所ですので、そうご理解いただきご容赦ください。
十年近いインターバルの後の復帰作として書き出した長編でした。とても長い上に、「大道芸人たち」ほどのオリジナリティのある設定ではありません。それでも、書き終えた時に、「これですべて書いた。このまま死んじゃってもいいや」とまで思った、言いたい事のつまった小説です。これ以上言いたい事はないし、もう小説は書けないだろうとまで思いましたが、その後にスピンオフというかその後のストーリー「樋水龍神縁起 DUM SPIRO, SPERO」が勝手に出てきたのを皮切りに、「大道芸人たち」やその他の現在皆様にお見せしている小説がわさわさ出てくる事になりました。
多分この小説を書かなければ、私は自分の小説を生涯一般に公開しなかったでしょうし、ここにブログを開設する事もなかったと思います。