樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero あらすじと登場人物
この作品には縦書きPDFを用意しています。

【あらすじ】
奥出雲の樋水龍王神社のお膝元、樋水村で育った少女瑠水は、クラッシック音楽とバイクを愛する青年真樹と出会う。真樹に乗せてもらったバイクの風に、子供の頃から感じていた樋水の「皇子様とお媛様」の世界に通じるものを感じた瑠水は、歳が離れている真樹に心を開くようになる。
【登場人物】(年齢は第二話時点のもの)
![]() | 高橋瑠水(たかはし・るみ)16歳 本作のヒロイン。奥出雲の樋水村で育った少女。樋水の龍王をはじめ、眼に見えないものを見る力がある。 |
![]() | 生馬真樹(いくま・まさき、シン)25歳 出雲に住む消防士。バイクとクラッシック音楽が好きで、奥出雲樋水道で偶然瑠水に出会う。 |
この二枚のイラストは羽桜さんに描いていただきました。著作権は羽桜さんにあります。二次利用は固くお断りします。
◆高橋一 & 摩利子
瑠水の両親。「樋水龍神縁起」本編のサブメインキャラ。二十年ほど前に行方不明になった禰宜、新堂朗とゆり夫妻の親友。
◆高橋早百合(20歳)
瑠水の姉。摩利子や瑠水のような特殊能力はない。新堂ゆりの甥にあたる、幼なじみの早良彰に夢中。
◆関大樹(次郎)
樋水龍王神社の禰宜。
(年齢は登場時点のもの)
![]() | 結城拓人(ゆうき・たくと)28歳 著名なコンサートピアニスト。女たらしとしても有名。 |
![]() | 園城真耶(えんじょう・まや)27歳 著名な美人ヴィオラ奏者。 |
この二枚のイラストは羽桜さんに描いていただきました。著作権は羽桜さんにあります。二次利用は固くお断りします。
【特殊な用語】
◆樋水村(ひすいむら)
島根県奥出雲にある架空の村
◆樋水の龍王
樋水龍王神社の主神。樋水川(モデルは斐伊川)の神格化。樋水龍王神社にある龍王の池の深い瀧壺の底にとぐろを巻いているといわれている。また時おり姿を現すのを村の住人にはよく目撃されている。
◆媛巫女神瑠璃比売命・背神安達春昌命(ひめみこのかみるりひめのみこと・せのかみあだちはるあきのみこと)
樋水龍王神社に祀られている夫婦神。千年前に非業の死を遂げた著名な媛巫女瑠璃と陰陽師安達春昌の神格化。
◆背神代・妹神代(せかみしろ・いもかみしろ)
樋水龍王神社だけに設けられた終身の神職。夫婦で務める。媛巫女神と背神の憑り代であり、背神代は樋水龍王神社の宮司となる。二人のうちどちらかが欠けると空席となる。
◆龍の媾合(りゅうのみとあたい)
樋水龍王神社で九年に一度の満月の夜に起る怪異現象。ただし、背神代と妹神代が空位の場合は何も起こらない。樋水村の住人と許されたもの以外は、この宵には樋水村にいてはいけないことになっている。
◆蛟(みずち)
二十年ほど前から樋水に出現した青白い存在。新たに生まれた樋水川の支流である蛟川の神格化。龍王と一緒に泳ぐ姿が何度も目撃されている。
◆Dum Spiro Spero
ラテン語。キケロによる言葉で「生きている(息をする)限り、私は希望を持つ」という意味。
この作品はフィクションです。実在する地名、団体とは関係ありません。
この小説は既に完結している「樋水龍神縁起」四部作の続編です。
「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
官能的表現が一部含まれるため、成人の方に限られますが……「樋水龍神縁起」四部作(本編)は別館にPDFでご用意しています。

【小説】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero (1)時過ぎて
![]() | このブログではじめからまとめて読む あらすじと登場人物 |
この作品は下記の作品の続編になっています。特殊な用語の説明などもここでしています。ご参考までに。
「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero
(1)時過ぎて
今年の樋水の春はいつもより早かった。摩利子は樋水龍王神社のご神体である瀧のある池のほとりに立っていた。夫婦桜の花の時期にはまだ半月ほどはあるだろうが、レンギョウや寒桜が次々と花を咲かせ、雪柳の枝にも若葉が萌えだしていた。摩利子は、次郎を待っていた。確認しなくてはいけないことがあった。
「ねえ、お母さん。ヒメミコサマって何?」
その日の午後、早百合が訊いてきた。摩利子は答えた。
「神社に祀られている女神さまのことでしょ。どこで聞いたの?」
「ジローセンセ。るみにそう言ったの」
「瑠水に?」
摩利子は早百合から辛抱強く情報を引き出した。早百合と、瑠水と、早良彰とが三人で龍王神社の境内で遊んでいたときのことだったらしい。例によって、同い年で仲のいい早百合と彰は、幼い瑠水を持て余していた。だが、早百合は大好きなパパに妹から目を離すなと厳命されたので渋々龍王の池の横で遊んでいた。瑠水は龍王の池にさえいれば大人しかったのだ。二人は瑠水を好きにさせておいて、縄跳び遊びに興じていた。そこにやってきたのが次郎先生こと関大樹禰宜だった。
「これこれ。ここで遊ぶのは構わないけれど、境内で縄飛びはだめだよ。それに、さっき掃き集めた花びらがぜんぶまた広がっちゃったじゃないか」
「だって、僕たちはなわ跳びがしたいんだ。他にどこですればいいんだよ」
「駐車場とか、『たかはし』の後ろとか、あるだろう」
「あそこだと、るみを見てなきゃいけないじゃない」
「ちゃんと見てればいいだろう。とにかくここで縄跳びはダメだ」
「ジローセンセの意地悪」
「ここで続けるもんね」
なんてききわけのないくそガキだ。次郎は心の中で毒づいた。それが顔に出たのか、じっとこちらを見ていた小さな瑠水が言った。
「こどもがきらいなのよ」
それを聞いた途端、次郎の顔色が変わった。瑠水を見て震えながら言ったのだ。
「媛巫女さま……」
次郎がやってきた。
「お待たせしました」
「お忙しい所、お呼びだしてごめんなさいね、次郎先生。でも、ちょっと聞き捨てならないことを耳にしてしまったものだから」
「とおっしゃると……」
次郎は、摩利子には頭が上がらなかった。摩利子は次郎が見習いである出仕のときからよく知っていて、以前は「あんた、本当に頼りないわねぇ」と、しょっちゅう叱り飛ばしていたのである。しかし、次郎が資格を取って禰宜になってからは、摩利子も言葉には氣をつけるようになっていた。少なくとも対外的には。
「子供の言うことだから、100%信じているわけじゃないんだけどね。早百合がいうには、今日次郎先生が瑠水のことを媛巫女様って呼んだっていうから。どういうことなのかなと思って」
「はあ、申し訳ありません」
「いや、謝ってほしいんじゃなくて、どういう文脈でそうなったのか、知りたいわけ」
次郎は、落ち着きなく龍王の池を覗いた。摩利子はさらに畳み掛けた。
「媛巫女様って瑠璃媛とゆりさんのことでしょ」
「信じてもらっているかわかりませんが、僕には千年前の前世の記憶があるんです。新堂先生と同じように」
「それは信じているわよ」
「この神社の郎党だった千年前の僕が初めて瑠璃媛様にお目見えしたとき、僕は子供に仕えるのは嫌でした。宮司付きの郎党になりたかったので。不満たらたらでご挨拶をした時に数えで五つの媛巫女様はそれをお見抜きになりました」
「童は嫌いであろう。なにゆえ、このような童女にと思っておる」
それが、瑠璃媛が次郎にかけた最初の言葉であった。
「じゃあ、何? 瑠水が子供が嫌いなのよって言ったから、それを思い出しただけってこと?」
「わかりません。自分でも。でも、瑠水ちゃんは、以前から特別でした。幼かった媛巫女様にとてもよく似ているんです。氣も、行動も……」
「瑠水が瑠璃媛の生まれ変わりなんていったら、一に殺されるわよ。まだゆりさんと新堂さんがどこかで生きていると信じているんだから」
「わかっています。僕だって、新堂先生とゆりさんがご無事でいらっしゃることを願っているんです。でも、摩利子さん。瑠水ちゃんの『おうじさまとおひめさま』の話、ききませんでしたか」
摩利子はため息をついた。もちろん摩利子はその話を知っていた。
友人であった禰宜の新堂朗とその妻のゆりが花祭りの晩に突然姿を消してから二年して、高橋一と摩利子には初めての子供が生まれた。ゆりの弟の早良浩一が同じ年に生まれた息子に朗にちなんで同じ音の彰という名前をつけたのに影響されて、一と摩利子は長女に早百合という名前をつけた。二人はまだどこかで生きている、だからこれはあくまでちなんだ名前だというつもりだった。
ちなんだはいいものの、早百合はまったくゆりには似ていなくて、おてんばで活発な子供だった。摩利子にある『見える者』としての能力は早百合にはひきつがれなかった。摩利子はそれをむしろいいことだと思っていた。
四年後に摩利子は二人目の女の子を産んだ。それが瑠水だった。まったく予想していなかったことに、瑠水の方が多くの意味で、ゆりに似ていたのだった。ゆりのように大きくはなかったが瑠水のオーラはゆりのものに近い八重桜色だった。一方、早百合のオーラは摩利子のと似たような黄緑色だった。そして瑠水は『見える者』だった。見えるだけでなく、まだ赤ん坊の頃から、犬の機嫌を変えたりすることもできた。そして、もっとも摩利子を驚かせたのは龍王の池のメルヒェンだった。
新堂朗とゆりが姿を消して以来、摩利子と一は二人がこの樋水龍王神社から逃げて、どこかで幸せに生きていることを祈っていた。けれど、それと同時に摩利子はその特別な能力で、龍王の池と樋水川に異変が起こったことを感じていた。水辺に立つと心の中にどこからか風が吹いてくる。そして、その風にのって、何とも言えない幸福感が広がる。あまりの歓びに泣きたくなる。それが何なのか、摩利子はあまり考えないようにしていた。
瑠水は何もわからない赤ん坊の頃から、格別にこの池のまわりにくるのが好きだった。いまでも、放っておくと夏でも冬でも勝手にこの池に行っている。小さな村で危険はないのでそのままにさせている。ある日、またしてもわき起こった至福の風に涙ぐみかけている摩利子に瑠水は言った。
「みずのそこのおうじさまとおひめさま、きょうもしあわせだね」
龍でも蛇でもなかった。王子様とお姫様? それは摩利子がどうしても認めたくなかった恐ろしい可能性を示唆しているようで、ものすごいショックだった。新堂さんとゆりさんはもしかしてこの池の底にいるの? この幸福感は二人のものなの? 突然泣き出した摩利子に瑠水は驚いた。
摩利子も一も『水底の二人』の話を喜ばないので、瑠水は両親にその話はしないようになった。しかし、瑠水にはわからなかった。どうしてしあわせなおうじさまとおひめさまのはなしをするとパパとママがなくんだろう。瑠水にとって『水底の二人』は嘘でもおとぎ話でもなかった。底にいるのがわかるのだ。
「そうよ。瑠水はあそこに王子様とお姫様がいるって言っているわ。でも、私はそれでもまだ希望を失いたくないのよ。二人の遺体が見つかったわけじゃないんですもの」
「希望……」
「そうよ、何?」
「いや、思い出したんです。かつて新堂先生が僕に教えてくださった言葉を」
「なんていうの?」
「Dum spiro, spero. 生きている限り、私は希望を持つ……」
「そう。新堂さんが、そんな言葉を……。今の私たちにぴったりの言葉じゃない?」
「そうですね」
しかし、それ以来、摩利子は瑠水の言動に氣をつけるようになった。『見える者』であることが悪いわけではない。早百合と瑠水の違いが重要なわけでもない。しかし、瑠水は早百合に較べて危険な立場にあることに氣がついたのだ。樋水の『鬼』である武内宮司に目を付けられて、樋水龍王神社に終身仕える『妹神代』なんかにさせられたら困る。
次の『背神代』は次郎に決まったと聞いている。武内宮司は次郎の嫁に県外の何も知らない六白金星の女性を手配しているそうだ。二十一世紀にもなって神社の都合で政略結婚なんてかわいそうに。まさか先々代は自殺して、先代は人間じゃないものを妊娠したあげく行方不明なんて知らずに嫁いでくるんでしょうね、氣の毒に。そういうわけで、この村では我が娘を神社に差し出したいという親は一人もいないのだった。
【小説】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero (2)百花撩乱の風 -1-
この章は、先週の章からしばらく時間が発っています。とても長いので三週間にわけての発表となります。
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「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero
(2)百花撩乱の風 -1-
今年も春が来た。生馬真樹は愛車のYAMAHAのXT500を引っ張りだして、今年最初のドライブに行った。四月とはいえ、まだ風は身を切るようだが、光のまぶしさがたまらない。奥出雲をひと回りしてから、去年の夏に見つけた奥出雲樋水道の脇のベンチに横たわった。いい具合に木漏れ日が差してくる大きな楠の下にあるのだ。さわやかな風を感じながら、ここで昼寝をするのが楽しみだった。もちろん、愛用のiPodをつけて。
生馬真樹は仲間内では多少変わり者とみなされていた。彼は快活で、学校時代からの友だち、すなわちこの小さな社会では幼なじみである、出雲市内の青年たちとごく普通の友情関係を持っていた。つまり、たまに一緒に飲みに行ったり、出雲大社の祭礼に参加したり、それなりの社会生活をしていた。それでも周りは「あいつは少し変わっているから」と感想を漏らすことが多かった。幼なじみと週末に一緒に遊びに行くようなことは少なかった。というのは、真樹は消防士だったので、土日に決まって休めるということがなかったのである。
だが、周りが真樹を変わり者扱いしたのは、消防士だからではなかった。むしろ彼の音楽の趣味からだった。真樹はロックやラップを好きではなかった。周りがJポップやアメリカのヒットチャートの話をしている時にも、まったく加わってこなかった。真樹はクラッシック音楽を好んだ。
東京や大阪ならまだしも、出雲辺りで若者がクラッシック音楽に夢中になるというのはかなり稀なことだった。親に言われてピアノやヴァイオリンを習っているならともかく、誰にも言われないのに勝手にクラッシックのCDを買ってきては聴くような人はほぼいない。真樹は周りに理解してもらえないこの趣味を一人で楽しむのに慣れていた。
今日も、真樹は買ったばかりの小沢征爾指揮のボストン交響楽団による『新世界から』をiPodに落としてきたので、木漏れ日の下で心ゆくまで堪能するつもりであった。
「え。え。きゃぁっ」
素っ頓狂な声がしたので、真樹は起き上がって周りを見た。木立の向こうの樋水川の土手に制服姿の女学生がしがみついている。どうやら、道をそれて落ちたらしい。
「おい、大丈夫か」
「ええ。あ、あたた」
娘は顔を歪めた。足首を痛めたらしい。真樹は、その娘を助け起こしてやって、ベンチに座らせ、足首を調べた。軽いねんざのようだった。
「こんなところで、何しているんだ」
「歩きながら樋水川を覗いていたら、すみれを見つけたの。採ろうとしたら落ちちゃった」
人なつっこい笑顔でその娘は言った。高校に入学したばかりかもしれない。制服が新しくていまひとつ体に合っていない。丸い形のいい顔、髪の毛も眉も少し茶色がかっている。への形をした薄い眉が笑っていても少し泣いているような印象を与える。しかし、実際には娘はニコニコと笑っているのだった。
「お前、学校の帰りだろう。こんなところで道草食っていていいのか」
「いつも、お母さんに怒られるの。でも、こんな春の氣持ちのいい日に、真っ直ぐバスで帰るなんてつまらないじゃない?」
「しょうがないヤツだな」
真樹は笑った。その氣持ちはよくわかる。
「あたし、高橋瑠水。お兄さんはこんなところで何をしているの?」
「俺は生馬真樹。まさきだけど、仲間はシンキとかシンとか呼ぶな」
「じゃあ、あたしもそう呼んでいい?」
「ご随意に」
「ねえ、シンはここで何をしていたの? やっぱり道草?」
「道草じゃないよ。今日はオフなので、お氣に入りのベンチで音楽を聴いているんじゃないか」
「あら。あたし邪魔しちゃった?」
「別にいいよ。ラジオじゃないから、好きな時に聴けばいいんだ」
「何を聴いているの?」
「アントン・ドボルザーク。交響曲第9番ホ短調作品95『新世界より』」
真樹はどうせまた興味を持ってもらえないと思い込んでむすっと言った。瑠水はちょっと首を傾げてから訊いた。
「どんな曲? ちょっと聴かせてもらってもいい?」
へんな子だな。真樹はイヤフォンを貸してやった。瑠水は黙って聴いていた。普通のティーンエイジャーならば「もういい」と返す頃になっても、ただでさえ大きな目をさらに丸くして聴いていた。
「すごい。こんな曲、聴いたことない」
やがて、にっこりと笑った。
「あ、これは知ってる。『遠き山に日は落ちて』でしょう」

イラスト by 羽桜さん
このイラストの著作権は羽桜さんにあります。羽桜さんの許可のない二次利用は固くお断りします。
第二楽章まで来たんだ。真樹は意外に思った。それから目を閉じて氣持ち良さそうに聴いている瑠水を真樹は面白そうに見ていた。へんなヤツだ。すみれを採ろうとして川に落ちかけたり、足首をくじいているのに、のんきに知らない人に『新世界』を聴かせてもらったり。怖れってものを知らないらしい。
瑠水は、初めて聴くクラッシック音楽の世界に魅せられていた。きらきらと輝く奥出雲の春と、なんとよく合う音楽なんだろう。耳だけでなくて、お腹の底まで響く深みのある音、心を絞られる切ない旋律。驚かせる打楽器とともに激しく動き回る音のダンス。こんな音楽があったなんて。この人、こういう曲をたくさん知っているのかなあ。瑠水は真樹を観察した。ぶっきらぼうだけれど、笑顔が優しい。黒くて短い髪、太い眉が目に近い。目は切れ長で少し目尻が上がっている。少しだけ口が前に出ていて、ともするとむっとしているかのようにも見えるが、機嫌が悪い訳でもないらしい。二十五歳くらいかしら。オフってことは土日に働く仕事をしているのかなあ。
瑠水は三楽章になってもイヤフォンを返さなかった。それどころか、最後まで聴くつもりだった。
「いつまで聴いてんだよ」
真樹は瑠水の左耳からイヤフォンをひとつ取り上げた。ちょうど第四楽章がはじまったところだった。二人は頭を寄せるようにして華やかなフィナーレに聴き入った。ティンパニと弦楽器の掛け合う威厳あるコーダ。力強く歌い上げるそのメロディは、真樹のお氣に入りだった。曲が終わっても、しばらく瑠水は呆然としていたが、やがて言った。

イラスト by 羽桜さん
このイラストの著作権は羽桜さんにあります。羽桜さんの許可のない二次利用は固くお断りします。
「もう一度言って。なんて曲? どこでこんな曲買えるの?」
真樹は笑って言った。
「そんなに氣に入ったんなら、こんどプレゼントしてあげるよ。でも、今日はもう帰らなくちゃダメだ。足をくじいているのに、こんなところで遊んでちゃ」
瑠水は現実的な問題に行きあたった。前のバス停にも、次のバス停にも三キロぐらいある。どうやって行こうかしら。
「お前、どこに住んでいるんだ?」
「樋水村よ」
「OK。じゃ送っていってやるよ」
そういって真樹はYAMAHAを顎で示した。
「あ。バイク」
「怖いか?」
「怖くなんかないけれど、でも、乗ったことないの」
「後部座席は座っているだけだよ」
真樹は、ヘルメットを瑠水に被せた。
「でも、シンは冠らなくていいの?」
「本当はダメだけど。でも、お前の安全の方が大事だろ。女の子だし」
そういうと真樹は瑠水を助けて、後部座席に座らせた。そして、怖がらないか確かめるように、ゆっくりと発車して、山道を登りだした。
あ……。瑠水は、つぶやいた。『水底の皇子様とお媛様』の風だ。物心ついた頃から、いつも感じていた龍王の池から流れ込んでくる幸福な風。その感覚がなんだかこれまで瑠水にはわからなかった。けれど、バイクの後ろで感じる風は、まさに瑠水がいつも感じている『水底の二人』の幸福感そのものだった。龍に乗っているのかと想像していたけれど、あれはバイクだったんだ。
「瑠水! いったいどうしたの?」
バイクの音に驚いて出てきた摩利子が言った。
「お母さん。ねんざしちゃった。この人が送ってきてくれたの。シン、これ、私のお母さん。お母さん、生馬真樹さんよ。さっき友達になったの」
いつ、友達になったんだ。真樹は心の中でつぶやいたが、とくに訂正はしなかった。
「まあ、それはお世話になりまして、ありがとうございました。瑠水、また道草していたんでしょう」
大当たり。真樹はちらっと瑠水を見たが、特に反省している様子はないようだった。
「ありがとう。シン。また今度、音楽聴かせてね」
「いいよ。じゃあな」
真樹は、ヘルメットを冠るとスターターに体重をかけた。
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【小説】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero (2)百花撩乱の風 -2-
マーラーの「巨人」は、のめり込むタイプの人が好きになる音楽じゃないかなあと思います。私がこの曲を知ったのは、ずいぶん子供の頃でした。父がソロ部分を弾くのでかなり練習していたのです。ヴァイオリンなどと違って、オーケストラでソロになることなどほとんどない楽器でしたから、父のソロはかなり珍しかったので記憶に残っているのでしょう。あ、すみません。本文とは全く関係のない話でした。
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「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero
(2)百花撩乱の風 -2-
「あ。いた、いた」
その声に目を開けると、瑠水が覗き込んでいた。
「この間も火曜日だったから、今日はここにいるんじゃないかと思ったの。大正解だったね」
「お前、また道草か」
「今日は、道草じゃないもん。シンに会いにきたんだから」
「俺に?」
「うん。この間のお礼。昨日お母さんがクッキー焼いたの、とっておいたの。どうぞ」
「それは、ありがとう。でも、俺がここにいなかったらどうするつもりだったんだ?」
「もちろん自分で食べちゃう。ここ、いい場所よね。ピクニックに最高」
真樹は笑って、クッキーの包みを開けると瑠水に差し出した。瑠水は当然のごとくそれを頬張った。遠足に来たガキみたいだな、そう真樹は思った。
「今日は、何を聴いているの?」
「マーラーの交響曲第一番『巨人』だよ。聴くか?」
「うん。あれから出雲のCDショップに行って、クラッシックのコーナーに行ったんだけど、あんまりたくさんあって何がいいのかわからなかったの。シンにもっと教えてもらってから買おうかなと思って」
真樹はうれしそうに笑った。
「お前、足はもういいのか?」
「うん。三日くらい痛かったけど、もう大丈夫。この曲、すてきねぇ。春にぴったりね」
「そうだね。一楽章は、まさにそんな感じだね」
瑠水は、ちらっとYAMAHAを見た。あれに乗りながら聴いたら素敵だろうなあ。そのYAMAHAの停まっている隣に、奥出雲の方から走ってきた車が急停車した。中からはすごい勢いで若い男が出てきた。
「瑠水! 何をやってるんだ」
「あれ? 彰くん。来ていたんだ」
「今、早百合をお宅に届けてきたところだよ。こんなところでいったい何をしているんだ」
早良彰は真樹を厳しい目で見た。どう考えても自分より若い、免許の取り立てのような男に睨まれて真樹はとまどった。
「クラッシック音楽を聴いているのよ」
「制服のままで。学校の帰りだろう。その男は誰だ」
「友だち。シンっていうの。シン、こちらは彰くん。東京に住んでいる幼なじみ」
「はじめまして」
真樹の挨拶を彰は軽く無視した。
「お父さんとお母さんが心配するぞ。バスも来ないところだし」
「俺が送っていきますよ」
少しだけムッとして真樹は言った。その言葉に彰はさらに剣呑な目を向けていった。
「いや、瑠水は僕が送っていく。来なさい、瑠水。何かあったら、お父さんとお母さんに僕が怒られる」
何だこいつ。真樹は思ったが、瑠水が困るだろうからあえて逆らわなかった。瑠水は悲しそうな目を向けていった。
「じゃあね、シン。続きはまた次回聴かせてね。バイクにも乗せてね」
次の日曜日は、珍しく非番だった。そして、二日ほど前から山おろしが吹き、突然暖かくなったので、初夏のような暖かさになった。山は一斉に芽吹いているに違いない。こんなうってつけのバイク日和はなかなかない。真樹はいそいそとバイクの用意をした。
iPodにはマーラーが入ったままになっている。その時にふと瑠水のことを思い出した。続きが聴きたいって言っていたよな。今日みたいな日にドライブに連れて行ってやったら、喜ぶだろうな。まあ、こんないい天氣の日曜日にはもう家にいないかも知れないけれど。真樹は、サイドボックスに、もうひとつヘルメットを入れて、とにかく樋水村へと向かった。
バイクの音を聞きつけて、瑠水が二階の窓から顔を出した。
「シン! 今日もドライブに行くの?」
「ああ。よかったら一緒に行かないか。山は花でいっぱいだ」
「行きたい!」
瑠水は、すっ飛んで降りてきた。姉の早百合があわてて止めた。
「ちょっと瑠水! あの人誰よ」
「友だち。シンっていうの」
「友だちって、そういう歳じゃないでしょ。あんた、なに簡単に誘いにのっているのよ」
「シンはいい人よ。それに、私、バイク好きなの」
「なんで」
瑠水はそれに答えなかった。『水底の二人』の話は早百合にはしたくなかった。いつも馬鹿にするのだ。
摩利子が一階で二人のやり取りをきいていた。瑠水は十六歳だわ。ボーイフレンドの一人や二人、いてもおかしくない。私があの子の年齢の時には、もう初キスだって済ませていたし。摩利子は黙って考えた。
シンくんは悪い人には見えない。オーラも明るいきれいな水色だ。だいぶ歳は違うみたいだけれど、振る舞いは紳士的だし、ここに堂々と来たってことは乱暴なことはしないだろう。瑠水が見かけよりもずっと子供だってことをわかってくれる人だといいけれど。
「瑠水、待ちなさい。その格好で行くの?」
瑠水はジーンズに薄いジャケットを着ていた。
「だめ?」
「ダメよ。バイクなんだから」
摩利子は、地下にある物置に降りていくと、しばらくしてから黒地に水色のラインの入ったバイクスーツと黒いヘルメットを持って上がってきた。新堂ゆりが残していったものだった。
次郎が結婚してあの龍王の池のほとりの離れに引っ越すことになった時に、新堂朗とゆりの荷物を運び出すことになった。一部は朗の父親やゆりの弟の早良浩一がひきとったが、大半の荷物は一と摩利子が引き取って、地下の物置に保管したのだ。もしかしたら、いつか必要になるかもしれないと思って。しかし、もう二十年近く経っている。Kawasakiももうないのだ。瑠水がバイクに乗るというなら、使って悪いことはないだろう。ゆりさんだって、瑠水の役に立つなら喜ぶと思う。
「お母さん。これどうしたの?」
「友だちにもらったものよ。最新流行のものじゃないけれど、文句言わないで着なさい」
「ええ。暑いんじゃないの? 上にいってGジャンとってくるから、それじゃダメ?」
「それを着た方がいい」
そういったのは真樹だった。真樹はスーツの肘や膝の部分を瑠水に触らせた。
「ほら、ここに保護材が入っているだろう。何かあった時に、専用のスーツの方が安全なんだ」
「ふ~ん」
瑠水は大人しくパンツとジャケットを身につけた。摩利子は頷いた。ぴったり。我が子がゆりさんのサイズに育つほど時間が経ったとはねぇ。それにしても、シンくんはけっこう信用置けそうね。摩利子は安心して二人を送り出すと、文句を言う早百合をなだめた。
山は本当に花でいっぱいだった。山桜、八重桜、山吹、山藤、遅れて咲いた木蓮や誰かが植えた花水木までなにもかも一緒になって花ひらいていた。風に吹かれて桜吹雪がおこり、二人に襲いかかる。力強く萌えたつ新緑がきらきらと輝いている。
瑠水は『水底の二人』の幸福感を感じていた。横を流れる樋水川から溢れてくるいつもの至福の他に、この風の中に特別な歓喜がある。空が広がり、森が揺れる。そして、自分の目の前に、確かな存在感で生身の人間がいる。
シンはわかってくれる人だ。瑠水はそう直感していた。真樹の聴かせてくれた音楽は、瑠水にとって本当に『新世界』だった。
瑠水はいつも孤独だった。一や摩利子は愛情と慈しみを持って育ててくれたが、瑠水にとって一番大切なものだけはわかってくれなかった。学校の友だちや姉の早百合は、まったく違う世界に住んでいた。つまり龍や神域の存在しない世界だ。その代わりにアイドルや人氣俳優が存在していた。アメリカのスターに憧れ、年頃の男の子と恋をして、化粧法や最新ファッションの研究に余念がない。瑠水が憧れ夢見ている『水底の皇子様』とは相容れない世界だった。
真樹が連れて行ってくれる世界は、その二つの世界の中間にあった。むしろ、瑠水の世界に近かった。自然と、風と、クラッシック音楽と。どれもが瑠水の樋水と『水底の二人』への憧れと似ていた。真樹は瑠水が変な事を言っても嗤ったり馬鹿にしたりしなかった。それが瑠水にはとても嬉しかった。
「お社のね、一番奥にご神体の瀧があるの。あそこの池に龍がいるって言ったら、クラスのみんなに嗤われたの」
瑠水は悲しそうに言った。
樋水村には高校はないので、出雲の高校に通うことになった。そして初めて樋水村の常識が、外の世界では通じないことを知ったのだった。
真樹はその瑠水の告白を聞いて、先日同僚に言われたことを思い出した。早良彰が睨みつけて瑠水を連れ帰った翌日のことだった。
「よう、シン。お前、昨日、奥出雲樋水道で女の子と一緒にいなかったか?」
「ああ、いたよ。あそこを通ったのか?」
「うん。ちらっと見た時に、お前に似たヤツがいたなと思ったんだ。でも、もう一人が高校生だったからまさかなと思って」
「まさかと言われても、別に変な関係じゃないよ」
「うん。お前に限ってな。お堅いヤツだからさ、お前は」
「べつに、お堅くはないさ」
「どこの子だ?」
「出雲の高校に通っている子だよ。樋水村に住んでいるんだけど、よく道草をしているみたいだ」
「樋水村……。そりゃ、ヤバいぞ」
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【小説】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero (2)百花撩乱の風 -3-
前回、真樹の同僚の「樋水村……。そりゃ、ヤバいぞ」で切ったのですが、その続きです。いかにも「続きは次号で!」や「衝撃の事実はCMの後!」のような引っ張り方ですが、まあ、例に漏れず(以下省略)。
それと、おわかりだと思いますが、この小説はフィクションです。実在する団体、人名、地名、宗教とは一切関係がありませんので、混同なさいませんようお願いいたします。
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この作品は下記の作品の続編になっています。特殊な用語の説明などもここでしています。ご参考までに。
「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero
(2)百花撩乱の風 -3-
「何がヤバいんだよ」
「あの村は特別なんだよ。樋水龍王神社はあんなに小さいくせに、やたらと崇敬者が多いし、宮司には出雲大社を動かすほどの力があるんだ。村人の四人に一人は霊感があるって言うし、変な事が実際に起きるらしい。それだけに結束がやたらと強くて、よそ者に厳しいんだ。以前、若い娘を松江の男が孕ませたら、徹底的に破滅させられたって話だぜ。お前も氣をつけろよ」
小さな神秘的な村。瑠水はその四人に一人の能力があるのだろう。神社の池に龍がいるなんていう高校生がいれば、そりゃあクラスメイトはひくだろう。だが、たぶん瑠水の今までの環境では、それは当たり前のことだったのだ。
「龍って、どういう形をしているわけ? 絵に書かれているのと似てる?」
好奇心から真樹は訊いてみた。
「龍王様の方は、ほぼ同じ。角があって、鱗のある長い胴体があるの。顔はトカゲみたいでもあるし、おじいさんみたいな感じでもあるかな。色は真っ白なのよ」
「龍王様の方はってことは、他にもいるのか?」
「青白いのがね。お母さんは龍とはいわないで
「どうして?」
瑠水は戸惑った。龍のことや蛟のことは樋水村では事実として受け止められていた。『見える者』とそうでないものがいたが、とにかく存在するのだということは、宮司のお墨付きで認められていた。けれど『水底の皇子様とお媛様』のことは、瑠水の妄想だということになっていたのだ。瑠水にとってはあの二人が本当でないなら龍だって同じなのだが、他の人にはそうではないらしかった。
「あのね。子供の頃から大切にしている夢物語があるの。それは蛟が通る時にとても強くなるの。だから、私は蛟が好きなの」
真樹はちっともわからないという顔をしていた。瑠水はため息をついた。せっかく仲良くなったのに、こんなことで氣味の悪い子と思われたくない。
「池の底にね。誰かがいるの。二人。その二人はいつも一緒で、とても幸せなの。私は、子供の頃からその二人を感じていて、皇子様とお媛様って呼んでいるの。その二人を感じる時には、心の中に風が吹いてきて、幸せで泣きたくなるの。ちょうどバイクに乗っているときみたいな風なの」
「なんで瑠水はそんな悲しそうな顔で、その二人のことを話すんだ?」
瑠水は、驚いて真樹を見た。真樹はうんざりした顔も、馬鹿にした顔もしていなかった。
「だって、みんなそんな二人はいないって言うんだもの。私だけの妄想みたいに言われているの。だから、二人のことは子供の頃からずっと誰にも話していなかったの」
真樹はぽんと瑠水の頭を叩いた。
「自分が見えないからって、威張ることはないよな」
真樹はもちろん龍とも霊とも無縁だった。だが、自分の感性だけを基準にして相手の感性を全否定する人たちの心ない言葉のことはよくわかっていたので、この感受性の鋭い少女の孤独がよくわかった。
「シンはこういう話、氣味悪くないの? 出雲の人たちはみんな私のことを変な子だって言うよ」
「お前がへんなのは間違いないけれど、その二人が見えるからじゃないよ。俺にはお前に見える龍だの皇子様だのはたぶん見えない。でも、俺はお前が馬鹿げた嘘をつくような子じゃないことはわかっているよ。それに、その風がバイクの風だっていうなら、なおさらだ」
「どうして?」
「具体的だからさ。どういう感覚か、俺にもわかるもの。なあ、大切なものはいずれにしても人の目には見えないんだ。そうだろう? クラッシック音楽を聴いた時に湧き上がる感情や、バイクに乗るのが好きな理由、それに人を愛することだって数学の公式みたいには証明できないんだ。お前はお前のままでいいんだ。見えているもの、大事なものを大切にしろ」
「うん。ありがとう。そんな風に言ってくれたの、シンが初めて」
それから、瑠水と真樹は定期的に出かけるようになった。
一は早百合が生まれた時に、いずれは自分も娘のボーイフレンドに大騒ぎするようになるのかと思っていたが、早百合が幼児の頃から早良彰にべったりだったのでそのチャンスを逃していた。いよいよ、騒ぐべきときが来たかと思ったが、意外にその氣になれなかった。真樹はぶっきらぼうだったが礼儀正しくて、しかも、毎回堂々と『たかはし』に瑠水を送り迎えするので特にケチを付けるところもなかったのである。しかも、瑠水は完全にお友達感覚で、男とつきあっているという意識がなかった。
真樹が帰った後に、摩利子がぼそっと言った。
「仲いいみたいだけど、このまま恋仲になるのかしらねぇ。どうしたものかしらね」
「シンくんは瑠水の相手としてはダメかい?」
一は摩利子に話しかけた。
「ダメだなんて言っていないわよ。でも、別におすすめじゃないわよね」
「なんでさ。バイクに乗っているから不良って言うんじゃないだろうね。新堂さんだってバイクに乗っていたよ」
「不良だとは思ってないけど、でも、そういうシンクロが氣になるのよ。瑠水はやけに樋水や龍王の池に固執するし、六白金星だし。シンくんだって六白なのよ。タヌキ宮司に目を付けられて『背神代』と『妹神代』にでもされたら困るじゃない」
「武内先生をタヌキっていうのやめろよ」
「ふん。新堂さんだってタヌキって言っていたわよ。タヌキはタヌキだもの」
「せめて外や子供たちの前では言うなよ」
「わかっているわよ」
一は深く息をついた。
摩利子は意地悪そうに言った。
「普通は、娘に虫がつかないように騒ぐのは男親の方なんじゃないの?」
一はムッとしたように言った。
「虫はつけたくないけど、シンくんは悪い子じゃないよ。それに、俺だって摩利ちゃんのお父さんから見たらロクでもない虫だったんだろうから、俺はシンくんに同情するんだよ。誰もが新堂さんや彰くんみたいに出来た男じゃないんだ」
「彰くんねえ。勉強はできるし、エリートコースまっしぐらなのは間違いないけれど、新堂さんと較べるのはちょっと。大体、早百合の勢いに押されっぱなしで」
「まあ、それはそうかも。早百合は彰くんに夢中だからな。ま、平凡だけれどいい奥さんになるんじゃないか」
「そうね。でも、瑠水はねぇ。我が娘ながら、どっか超越しちゃっているのよねぇ。次郎さんは媛巫女さま扱いだし……」
「だから言っているだろ。瑠水はゆりの生まれ変わりなんかじゃない。ゆりはきっとどこかで生きているんだ。それにシンくんだってあまりにも新堂さんとはキャラが違いすぎるよ」
「シンくんが新堂さんの生まれ変わりじゃないことははっきりしているわよ」
「なんでさ。オーラの違い?」
「馬鹿ね。計算してみなさいよ。シンくんが生まれた頃は、新堂さんはうちで山崎を飲んでいたでしょ」
「あ、そっか。千年祭の年の生まれなんだ」
「私は瑠水もゆりさんの生まれ変わりではないと思うのよね。オーラの色は似ているし、『見える者』であることも間違いないけど、でも、なんとなく違うと思うのよ。でも、それでも心配なの。あまりにも樋水の申し子っぽくて『鬼』に目をつけられるんじゃないかって。だからボーイフレンドが申し合わせたように六白だったりバイクに乗っていたりすると、よけい心配になっちゃうのよねぇ」
【小説】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero (3)新しい媛巫女さま -1-
繰り返しますが、この小説はフィクションです。実在する団体、人名、地名、宗教とは一切関係がありません。
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この作品は下記の作品の続編になっています。特殊な用語の説明などもここでしています。ご参考までに。
「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero
(3)新しい媛巫女さま -1-
「瑠水。あんた、まだあのロリコン消防士とつきあっているの?」
早百合の言い方に瑠水はムッとした。
「お姉ちゃんの言い方、品がなさ過ぎるわ。シンと私はいい友だちなの。やらしい変な関係じゃありませんから」
早百合は馬鹿にしたように言った。
「それはあんたがそう思っているだけでしょ。いい大人が何の下心もなしで高校生と三年間も定期的にドライブに行く? その間、あの男、つきあっている彼女もいないんでしょ? あり得ないよ」
瑠水と真樹が知り合って三年の月日が経っていた。瑠水は高校三年生になっていた。
早百合は短大を卒業して、松江の小さな商社で事務の仕事をしていたが、一刻も早く寿退社がしたいと常々吹聴していた。
「お姉ちゃんこそ、お父さんとお母さんに隠れて彰くんとやらしいことしているんでしょ」
「ふふん。私たちは大人の関係なの。それに、彰くんのうちとは家族ぐるみの付き合いなんだから。彰くんが東大を卒業したら、一刻も早く結婚したいなあ。東京に行けるし。こんなつまんない田舎、もう飽き飽き」
早百合は子供のときから彰が大好きだった。早良浩一は、しょっちゅう彰をつれて樋水村を訪れた。一と摩利子は夏休みには三週間ほど、冬休みと春休みには一週間ずつ彰を預かり、田舎の生活を体験させた。それで、彰は高橋家にとってただの知り合いの子供以上の存在になっていた。同い年の彰と早百合はずっと仲がよかったし、思春期になると早百合はすっかり彰にのぼせ上がった。
瑠水の方は兄のような感覚で彰と接していたが、早百合と同じで瑠水の大切にしているもの、つまり樋水や龍王の池や『水底の二人』などを馬鹿にするので、あまり近しくは感じられなかった。最初は四つという年齢の差が、この距離感を生むのかと思っていた。しかし、真樹と会って、年齢の差にはあまり意味がないのだと思うようになっていた。真樹は彰よりずっと年上だったが、瑠水にはずっと近い存在だった。
確かに真樹は大人だった。瑠水はまだ高校生だった。その差を感じさせる出来事が一年ほど前にあった。瑠水が通う高校に、出雲消防署が特別授業に来たのだ。何人かの消防士に混じって、真樹も来ていた。校庭に集まった全校生徒の前で、火災が発生した場合にどうやって一酸化炭素中毒を防ぐかという講義をしたり、天ぷら油に発火した場合に水をかけたりするとどうなるのかという実演をしたのである。
真樹はそのもっとも危険な実演を担当していた。瑠水は真樹がいるのが嬉しくて手を振ったのだが、厳しい顔をした真樹はそれに応えなかった。近くに寄りたがる女学生たちを、他の消防士たちができる限り遠くに誘導した。火のあがった天ぷら鍋に、真樹がかけた水が届いた途端、ものすごい勢いで炎が天に立ち上り、もう少しで真樹を焼き尽くすところだった。瑠水は蒼白になった。真樹はまったくひるまずに他の消防士たちと一緒にその炎を消し止めて実演を終了した。ほかの生徒たちは拍手と歓声を送ったが、瑠水にはそんなことは出来なかった。
「なぜあんな危険なことをするのよ。シンが本当に焼けるかと思ったのよ」
次に会った時に瑠水は半泣きになって怒った。真樹は厳しい顔をして言った。
「あれが、俺の仕事なんだ。あれは実演だからコントロールされた火だけれど、火事のときはコントロールの利かない炎の中で闘うんだよ。火は怖い。だから、ああやって実演をして、正しい防火の知識を一般の人につけてもらわなきゃいけないんだ」
瑠水は自分が子供で、真樹は大人だと感じた。仕事とは、そんなに厳しいものなのだろうか。瑠水は大人になることに不安を持った。
「危険な仕事に就かなければいいじゃないか」
「そっか。そうよね」
「瑠水はどんな仕事がしたいんだ?」
「私、何か樋水のためになる仕事がしたいな」
「例えば?」
「私は石が好きだから、最初はアクセサリーづくりとかいいなと思っていたんだけれど、シンの仕事を見ていたら、なんかもっと人の役に立つような仕事ないかなと思って。防災とか。石と防災って関係ないかしら?」
「土砂崩れがおきやすいところを調べて、対策を立てるっていうような仕事もあるんじゃないか?」
「そうね。そういう仕事を探してみようかなあ。理系かなあ」
真樹は瑠水をまぶしそうに見た。まだ、高校生だもんな。これから勉強して、仕事を見つけて。結婚なんかはまだずっと先だろうな。
もうずいぶん前から、真樹にとって瑠水はただの友だちではなくなっていたので、瑠水が大人になるのがそれほど先のことだと思うのは多少辛かった。思いを伝えたい衝動はいくらでも起こったが、瑠水の深い友情と信頼が真樹の足かせになっていた。
この三年間、真樹は週に一度は樋水村に行っていた。神の国、出雲の人間にとっても樋水村というのは神秘的で独特だった。基本的な村人の考え方は五百年前とあまり変わりがなかった。人びとは洋服を着ており、バスも通っていて、子供たちは出雲の高校に通い、必要な時には松江の百貨店にも行くのだが、それでも村の中心には樋水龍王神社があり、村は神域である森の内側にあった。村の中でカミの怒りに触れるようなことはめったに行われない。神罰が実際に下るとも噂されていた。
氏子である村人、島根以外にも広がる多数の崇敬者らは、冗談でなく龍王神社の瀧壺に龍が住んでいると信じている。そして、その龍は神事でなくても平氣でばんばん出没するのだそうだ。
二十年以上前からは、その瀧壺の住人が増えたともいわれている。それと時を同じくして、樋水川には支流が一本増えたのである。
その新しい蛟川と呼ばれている支流の周辺に住んでいた人は、非常に迷惑をしたようだ。ある時から、自分の家の敷地の一部が湿り大雨の度に浸水するようになった。そしてその水はなかなか引かず、結局一年ほどで完全な川になってしまった。今では通年流れる支流となり、せき止めようと努力を続けた家の持ち主も行政も諦めてしまった。
樋水村では、奥出雲の治水行政のことを「止められやせん」とせせら笑っていたそうである。
【小説】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero (3)新しい媛巫女さま -2-
繰り返しますが、この小説はフィクションです。実在する団体、人名、地名、宗教とは一切関係がありません。
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この作品は下記の作品の続編になっています。特殊な用語の説明などもここでしています。ご参考までに。
「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero
(3)新しい媛巫女さま -2-
瑠水や繁く通った樋水村の影響で、真樹はこの村の奇妙な常識にすっかり馴染んでしまっていた。瀧壺に白い龍が住んでいることや、時にその龍にまとわりついて現れる青白い蛟のことも、見えないにも関わらずまったく疑わなくなってしまった。それと同時に、二十一世紀とは思えない前時代的な樋水龍王神社の支配にも慣れてしまった。
たとえば、この神社には変な役職があり、神主やその妻の人格を無視したことが平氣で行われていた。その決定は神社の神職の長である宮司の権力に絶対的にゆだねられており、神職たちや氏子の代表である総代たちも一切口が挟めなかった。それどころか出雲大社や神社庁ですら、この神社の伝統には一切手が出せなかったのである。
この神社には、樋水川の瀧そのものをご神体とした樋水龍王神と千年前に実在した巫女を神格化した媛巫女神瑠璃比売命、その夫であった背神安達春昌命の三柱が祀られている。二人の悲恋と死の後、この神社には他の神社には全くない特別な役職が設けられるようになった。それが『背神代』と『妹神代』である。
表向きには『背神代』は宮司を継ぐもの、もしくは宮司と兼任すべき神職とされ、その妻である『妹神代』は神事で媛巫女神を憑りつかせて龍王の神託を伝える巫女の役割をするということになっている。
だが、この村にとってもっとも重要だったのは、九年に一度の六白金星の年、秋の六白の月の満月になった真夜中に起こる『龍の
村中で普段ではあり得ない性体験ができるということになっており、実際に経験したものあるのだが、口外したりおおっぴらに自慢したりすると神罰が下るらしい。実際に神罰を受けたものがいるかどうかの正確なデータはない。過去百年に噂を聞きつけて記事にしようとしたマスコミ関係者が、何度も何らかの圧力により遠ざけられたり、企画が通らないようにされたりしたことから、出雲周辺ではこの噂に手をつける者はもういなかった。
九日間にわたり閉め切られた神社の内部で実際に何が起こっているかは、村人にすらわからない。これを知っているのは神社の神職と限られた総代、それに出雲大社の要職にある者ぐらいである。ここ数代の『背神代』と『妹神代』は揃って幸せとは言い難い状態になった。しかし、表向きには何もおかしなことはなかったことになっている。
現在の『背神代』である通称次郎先生こと関大樹禰宜は、十二年ほど前に大阪出身の娘と結婚した。宮司の手配による本人たちの意思はまったく考慮されない見合い結婚であったにもかかわらず、二人の仲は悪くなかった。しかし、九年前の『龍の媾合』の神事を境に、妻の恭子は急に変わり、ひと月も経たないうちに逃走した。それ以来、その行方は知られていない。
真樹は長く樋水に通ううちに、断片的な情報からそれらのことを知るようになった。次郎についての瑠水の態度は微妙だった。それは、次郎が瑠水に対して特別な態度を取ることが原因だった。二人で龍王の池に行った時に、真樹は何度か次郎に会っていた。親切できちんとした神主というごく普通の印象を持ったが、瑠水は居心地悪そうだった。
「次郎先生はね。どうしてだか、私を特別扱いするの。誰かに似ているからみたいなんだけど」
瑠水は後で真樹に打ち明けた。
瑠水が七歳くらいのときのことだった。手のつけられない悪ガキだった当時の彰と早百合が、『お社のジローセンセ』をからかう面白いネタを見つけた。小さな瑠水に対しては次郎が恭しいといってもいい丁寧な調子で話しかけるのに、早百合に対してはただの子供として扱うことが面白くなかったのかもしれない。瑠水の大切にしているウサギのぬいぐるみを人質にとり、瑠水に対して次郎に命令を下すように言いつけたのである。
「今から、お社の鳥居の前で裸踊りをしろって言え」
「媛巫女様の命令だっていうのよ」
それをみて囃し立てるというのが二人の悪戯のプランだった。瑠水は小さな胸を痛めた。ウサギを返してもらえないのはものすごく辛かった。だが、子供心にも理由はわからないが自分を特別に大切に扱ってくれる大人に大恥をかかせる命令なんかしてはいけないことがわかっていた。一や摩利子に言いつけたりしたら、二人がものすごく怒られて、あとで瑠水が二人に虐められるのは火を見るより明らかだった。
瑠水は泣きながら、二人にせき立てられてお社に向かった。次郎が泣いている瑠水を見て心配して寄ってきた。
「瑠水ちゃん、どうしましたか」
瑠水は、後ろに二人が監視しているのを感じながら、どうしていいかわからないままに、ウサギがウサギがと泣いた。そして、次郎に促されてやっと二人に何を命令するように言われたか告白した。
「瑠水ちゃんが泣かずに済むなら、僕はよろこんで裸踊りをしますよ」
次郎は優しく言った。その途端に瑠水は二人の意地悪に屈服してはいけないという雄々しい氣持ちになった。
「だめ。絶対に裸踊りなんかしないで。お願い。しないで」
それを聞いて次郎はとても嬉しそうに頷いた。それから二人の悪ガキの元に行き、今すぐウサギを返せ、今回は見逃してやるが、次回は一さんにはっきり言うからな、と断固として言った。
その時は、早百合と彰に軽く叩かれたくらいでウサギも無事戻り、瑠水は全てが上手くいったと思っていた。
しかし、その一週間後の秋の祭礼で問題が起こったのだった。この祭礼では樋水龍王神社の斎主である宮司を除いた全神職と出雲大社から応援に来た数名の神職が奉納舞いをする伝統になっていた。しかも、その舞は彼らが褌姿で樋水川に禊に入り、大祓詞を唱えた後にそのまま川の中で行う特別の舞いだったのである。しかし、次郎が頑としてこの舞いに参加することを拒んだ。宮司がなんといっても首を縦に振らず、理由もいわなかった。
去年までは普通に参加していた神事だった上、次郎が普段はどんなことでもまじめに精進するのは有名だったので、宮司も村人も首を傾げた。摩利子と一が不思議そうにそのことを話すのを聞いて瑠水は青くなった。瑠水は命令なんかしたくなかっただけなのに、次郎を困らせる大きな命令をしてしまっていたのだ。もちろん早百合も彰もそのことには氣がつかなかった。瑠水があわてて次郎の元に行き、そんなつもりじゃなかった、命令なんかしたくなかったのにと泣いて謝ったので、結局次の年からは次郎も奉納舞いに再び参加するようになり、この件のことは誰にも知られなかった。だが、この時から瑠水は次郎に対して何かをいう時には慎重にしなくてはならないことを学んだのである。
真樹はその話を瑠水から聞いて、改めて次郎を見た。とにかく変わった男だった。名前は関大樹なのに誰もが次郎と呼ぶし、本人もそれでなければ返事をしないという。媛巫女神に対する異常なほどの畏敬ぶりも有名だった。なぜ瑠水のことを『新しい媛巫女様』扱いするのか真樹には皆目分からなかったが、樋水特有の特別な理由があるに違いないと思った。どちらにしても真樹にはわからないことばかりで、それがひとつ増えたからといって、大して意味はなかったのだ。
少なくとも、次郎は瑠水にまとわりつく真樹に対して、剣呑な態度は取らなかった。ただ、瑠水が樋水にとって特別な存在だということはわかった。次郎だけでなく、たぶん龍王や蛟といわれる存在や、『鬼』と陰で呼ばれる武内宮司にとっても。それは、真樹の瑠水に対しての行動ひとつで、出雲大社や神社庁を引っ張りだしての大騒動になることを意味していた。
瑠水に対して真剣な氣持ちになるにつれ、真樹は樋水村や神社を強く意識せざるを得なくなった。
【小説】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero (4)龍の宵 -1-
今回は、九年に一度、十月の特別な満月の深夜に樋水村でおこる怪奇現象の話です。(あ、もちろんフィクションですから!)
本編を読まれた方は、このシーンに対する私の思い入れをご存知でしょうが、「Dum Spiro Spero」だけの読者の方は反対に引かれるかもしれません。ちょっと妙な世界なのですが、ご安心ください。この普通でない世界は、この作品ではここまでです。あとはごく普通の(?)人間界の話に戻って参りますので。
さて、「樋水龍神縁起の世界」の記事で予告したように、この話でBGMにしていた曲を追記につけておきますね。
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この作品は下記の作品の続編になっています。特殊な用語の説明などもここでしています。ご参考までに。
「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero
(4)龍の宵 -1-
「こんな遅くまで何をしていたの!」
摩利子の声は厳しかった。剣幕が普通ではなかった。取り乱しているといってもいいくらいだった。真樹はきちんと謝った。
「申し訳ありません。届ける途中でバイクがエンコして、なんとか動くようになるまで時間がかかったんです」
「よりにもよって、この晩に。瑠水、今すぐ家に入りなさい。シンくんは届けてもらって悪いけれど、今夜はすぐに帰って」
「でも、お母さん。こんなに寒いんだし、熱いお茶でも……」
「ダメよ。シンくん。今すぐに樋水村から離れて。日付けが変わるまでに出雲に戻ってよ、いいこと?」
「お母さん?」
「瑠水、言ったことを聴いてなかったの。早く入りなさい」
「失礼します」
真樹は黙って引き下がった。噂で聞いている樋水村の『龍の
「シン、ごめんね。ありがとう。また来週、逢おうね」
真樹は、笑って手を振った。
戸口が閉められる音と、中で瑠水と摩利子が言い合っている声が聞こえた。こんな風に神経を尖らせている摩利子を初めて見た。自分があまり歓迎されないのは無理もないと思う。が、そうであっても高橋一と摩利子はフェアな方だった。姉の早百合は馬鹿にした目で見るし、幼なじみとかいう早百合の恋人にはゴミのような扱いをされている。そんな扱いを受けるいわれはないのに。
冷えきった道を、真樹はゆっくりと出雲に向かって走らせていた。満月が明るい夜だった。『龍の媾合』って、いったいなんだろう。なぜ、常識的な瑠水のお母さんがあそこまで取り乱しているんだろう。
出雲市内に入りもうじきアパートにつく頃に、ふいに、真樹に、妙な予感がした。ばかな。もう十一時半だ。早く寝よう。だが、その嫌な感じはどんどん大きくなる。いても立ってもいられない。どうにもならない胸騒ぎだ。何故だ。理性的になれ。今から戻ったりしたら、こんどこそ高橋家に出入り禁止になる。変な村のおかしな風習に首を突っ込む必要はない。
瑠水。真樹は彼女の笑顔を思い浮かべた。樋水川に映る黄金の月がやけに強く輝いている。胸騒ぎはどんどん強くなる。いま行かないと、瑠水が大変なことになるという予感。ちくしょう。真樹は毒づきながら、再びバイクに跨がった。
瑠水は摩利子と言い争った後に、泣きながらベッドに入った。摩利子ももう寝室に入った。『妹神代』がいない上、『背神代』も今夜は宮司の命令で出雲に行っている。だから、本当は何も起こらないはずであった。だが、『背神代』と『妹神代』のどちらも死んだわけではない。不在の『龍の媾合』に何が起きるか、誰にもわからなかった。宮司の通達に従って、全ての村人は、『龍の媾合』が起こる場合と同じように扉を閉め切って備えた。高橋家でもぴりぴりしていた。だが少なくとも早百合は東京に行っているし、瑠水もシンくんからは引き離した。摩利子はとりあえず安心して眠りについた。
瑠水は今度という今度は我慢がならなかった。誰も信じてくれない。瑠水が大切にしているものを皆が否定する。シンとはいやらしい変な関係じゃないとあれほど言ったのに。龍のことは誰も否定しないのに『水底の二人』のことは誰もが否定する。今夜だってへんな神事のことでは大騒ぎしたのに、私のいうことはひと言も信じてくれない。
悲しくて悔しくて仕方ない瑠水は、そういう時にいつもするように、龍王の池にいこうとした。もちろん真夜中に行ったことなどなかった。だが、今夜は『龍の媾合』とやらで、幸い誰もお社には近づかない。池の側に住んでいる次郎先生も不在だ。行ってみよう。瑠水はこっそりと足を忍ばせて神社へと向かった。
満月が輝いている。龍王の池は金色の光で満ちていた。月の光かと思っていたが、近くに寄ってみるとそれは水の底から湧き上がってくる淡い光だった。どうすることもできないほどの歓びが胸を締め付ける。いつもよりも強い。瑠水は澄んだ水の奥に、いつも感じている皇子様とお媛様を見た。水紋に揺らされてはっきりしないが、二人がいつもより近くにいることを感じた。見えるかもしれない、瑠水は近づこうとした。
「冷たい」
池の水が足に当たった。瑠水はひるんだ。それから、池が虹色にリズミカルに光る金色の光でどんどん満ちていくのを見た。
九年に一度の特別な満月の夜。もしかしたら二人の姿をはっきりと見ることが出来るのは今夜だけかもしれない。そう思った途端、瑠水は服を脱いで水に入った。泳ぎながら、光のもと、『水底の二人』のいる瀧壺の方、下へ下へと向かっていった。
冷たかったのは最初だけだった。直に寒さは感じなくなった。二人は近くにいるようで、もっと寄ると蜃氣楼のように更に遠ざかった。ある時は青白い蛟に見え、次の瞬間には夫婦桜の老木のようにも見えた。かと思えば、もう少しで二人の顔がはっきりわかるほどにまで人らしく見えた。底に向かって泳げば泳ぐほど歓喜も強くなり、どうしてもそこに加わりたいという思いが湧いた。
もう少し近づけば、あと、少しだけ、それを繰り返しているうちに、突然瑠水はかなり深くまで潜っていることに氣づいた。これ以上は危険だ、戻らなくちゃ。でも、あと少しだけ……。しかし、近づいてみればそれは単なる幸福ではなかった。哀しさや苦しみも含まれた感情だった。自分の感じている歓びと息苦しさがほぼ同じものだと意識した時に瑠水は恐怖を感じた。

イラスト by 羽桜さん
このイラストの著作権は羽桜さんにあります。羽桜さんの許可のない二次利用は固くお断りします。
突然目の前を大きな白く黄金に輝くものが、遮るように泳いだ。あまりに近かったので、瑠水にはそれがなんだかわからなかった。だがよく見ると、それは自分の身丈ほどもある大きな目だった。その横に、もう一つ目がある。白い、巨大な龍だった。龍王様! こんなに大きかったはずはない。だが、小さかったという証拠もない。それは光り、黄金に燃えたっていた。強い激しい意志を持っていた。瑠水と二人の間に厳しく断固として立ちはだかり、瑠水を押し返した。
それまで鏡のように静かだった龍王の池に、竜巻のごとき水流の嵐が起こった。その激流にのまれ、瑠水は助けを求めてもがいた。
瑠水の体を、何かがしっかりとかき抱いた。そして、力強く月に向かって泳いだ。誰?『水底の皇子様』? そこで瑠水の意識は途絶えた。
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【小説】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero (4)龍の宵 -2-
本編を知らない方のために一つだけ解説をしておきます。『ヴィジョン』という言葉が出てきます。これは瑠水の母親である摩利子が持っている特殊能力で、相手が自分ではコントロールできないほどの強い感情を持つ時に、それが彼女には映像として見えてしまう、というものです。見えたからといって何か出来るわけではないのですが。(またしても繰り返しますが、フィクションです)
さて、6月に入ってから発表する次の章では、この小説の影の主役が登場します。といっても人物ではないですよ。ぜひまたお読みいただけると嬉しいです。
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「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero
(4)龍の宵 -2-
「瑠水!」
池から瑠水を引き上げると真樹は必死に胸を押した。消防士なので応急処置は身に付いている。大量の水が流れ出る。瑠水。いったい何をやっているんだ。何故こんなところで溺れかけているんだ。
樋水村に戻ると、真樹は真っ直ぐにこの池にやってきた。村の全ての家は堅く扉を閉じていて、唯一明るいのは月だけだった。その月が異様に光りながら神社を照らしていた。胸騒ぎはどんどん強くなった。あのおかしな神社にいる。
真樹の妙な予感は当たっていた。見ると風もないのに突然豪流になった池の中で瑠水が溺れかけている。真樹はすぐに飛び込んで瑠水の体ををつかんだ。やっとのことで意識のない瑠水を岸まで連れて行ったのだ。
応急処置を終えると、真樹は改めて月明かりのもと周りを見回した。岸に池のほとりに次郎の住んでいる離れがある。広い縁側がやけに明るく月に照らされている。真樹は瑠水を抱いてそこに連れて行った。
真樹自身にも次第におかしなことが起こりはじめていた。体中が痛くなってくる。血が激流となって流れている。欲望が身をもたげている。すぐ側に意識がない下着だけの姿の瑠水。瑠水に対して欲望を感じたことは今までもいくらでもあった。だが、これほどの激しさで感じたことはなかった。今は、そういう時じゃないだろう。真樹は瑠水から必死で離れた。あと一度でも触れたら、自分が何をするか保証できなかった。
痛みに耐えながら、真樹は瑠水をそのままにして、神社を出た。『たかはし』までたどり着くと、必死でベルを鳴らした。茫然とした一と怒りに燃えた摩利子が出て来た。
だが、二人はびしょぬれの真樹の様子を見て顔色を変えた。摩利子には真樹の体から、『龍の媾合』の時の金の光が飛び回っているのが見えた。
「今すぐ、次郎先生の離れに行って下さい。瑠水が、溺れかけた」
「シンくん。あなた、どうして……」
「何故戻って来たのかとか、どうしてわかったのかとか、訊かないでくれ。俺にも何もわからないんだ。ここに連れてくることもできなかった。俺はいま瑠水に近づけない。近づいたら、とんでもないことになる」
そういって、痛みによろめきながら、村の外へと向かって行った。
一と摩利子は急いで神社に向かい、意識を失っている瑠水を見つけた。水は飲んでいなかった。
翌朝、瑠水は自分のベッドで目を覚ました。だが、摩利子と一の様子から、昨日のことが夢ではなかったことを知った。摩利子たちは瑠水が『水底の皇子様』に助けられたと思っていることに驚いた。意識のなかった瑠水にも黄金の光が舞っていた。だが、『龍の媾合』の怪異現象には至らなかった。つまり、それは真樹があの状態で帰って行ったことに関係があるのかもしれないと思った。
「内密に話があるんです」
一夜明けて出雲から戻って来た次郎を捕まえると、摩利子は『たかはし』の裏手に連れて行った。
「どうなさったんですか」
「『龍の媾合』で何があるのか、教えてほしいの」
単刀直入に摩利子は訊いた。
それだけで十分だった。九年前の『龍の媾合』で次郎の心に刻まれた深いショックは『ヴィジョン』となって摩利子の心に映像化された。
龍王の池から起こる金色の光、次郎と恭子の二人に起こる激しい痛みと性衝動、体からこぼれた金色の光は、二人がひとつとなった時には激流となりお互いの中を駆け巡る。それから氣の遠くなるほどの絶頂感と裏表になった苦しみ。お互いに動くこともできないほどの苦痛の中で溢れる虹色に蠢く金の光。それが溢れて屋根を突き破り、外に溢れ出す。生と死、歓喜と苦痛、過去と未来、体と魂、愛と憎しみ、善と悪が全て同じものであるというカミとの統一体験をする。
堪えられないほどの苦しみでありながら、そこに居続けたいと願う相反する経験は、心の準備をしていた次郎にとっても忘れられないトラウマになった。何も知らずに嫁いできた恭子のショックは計り知れないものだっただろう。次郎はそのために妻を失った。その果てしない無力感と喪失感が摩利子に伝わった。
これが『龍の媾合』なんだ。武内宮司の奥さんを自殺に追い込み、新堂さんとゆりさんの人生も大きく変えてしまった。
「ごめんなさい。次郎さん。何も言わなくていいわ。私、いま見えたから」
震えながら、次郎は両手で顔を覆った。摩利子は申し訳なく思いながら次郎が立ち直るのを待った。
「摩利子さんは、見えるんですよね、忘れていました」
「強い感情のときだけね。ごめんなさい。普段は自分が知りたいことのために『ヴィジョン』を利用するなんてことは絶対にしないんだけど、今回だけはどうしても必要だったの。昨夜、瑠水に何が起こったか知りたかったから」
「瑠水ちゃん? なにか起こったんですか?」
「ええ。あの子、よりにもよって昨夜龍王の池で泳ごうとしたらしいの。何があったか一切言わないんだけれど、そこで溺れかけて。どういうわけだかシンくんがその場にいて、瑠水を助けてくれたの。でも、完全に介抱することができないで、私たちに助けを求めてきたの。その時にシンくんはものすごく体が痛そうで、今は瑠水に近づけない、近づいたらとんでもないことになるって。で、そのまま帰っちゃったんだけれど、シンくんにも瑠水にも金色の光が蛍みたいに飛び交っていたの」
「今は近づけない、といって痛そうに帰っていったんですね」
「ええ」
「だったら、瑠水ちゃんは無事ですね。シンくんは堪えたってことですよ。あれがはじまってしまったら、もう離れるのは不可能ですから」
「そう。でも、これって……」
「『背神代』と『妹神代』にしかおこらないことが、二人に起こったってことですよ。もし、シンくんが堪えきれなかったら、『龍の媾合』の異変が起こって完全にお社と樋水村の既成事実になってしまったことでしょうね」
「瑠水は樋水から遠ざけなくちゃダメね」
「瑠水ちゃんをあの苦しみから守るためには、そうするしかないでしょうね。ただし、守りきれるかどうかは自信がありませんが。もし、二人を次の『背神代』と『妹神代』にするという龍王様の決定なら、我々が何をしても同じでしょうから」
「ご神体はともかく、武内先生には隠せるでしょう、今なら」
「たぶん」
一と摩利子はこのことはどんなことがあっても武内宮司に隠し通すことにした。次郎の協力もどうしても必要だった。瑠水に樋水の危険が迫っている。瑠水には真樹が戻って来て瑠水を救って行ったことは話さなかった。娘の命を救ってくれた真樹には申し訳ないが、このまま二人を放っておくわけにはいかなかった。
【小説】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero (5)ピアノ協奏曲
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この作品は下記の作品の続編になっています。特殊な用語の説明などもここでしています。ご参考までに。
「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero
(5)ピアノ協奏曲
早百合は、秘密を持っていたので、家の空氣に敏感だった。東京へ行ったのは、大きなニュースを彰に伝えるためであった。それは早百合の賭けでもあった。
早百合はここ数年間大きな猜疑心に苦しめられてきた。子供の頃からずっと好きだった彰が、自分ではなくて妹の瑠水の方を愛しているのではないかという疑いである。瑠水の方には彰にほとんど関心がないこともわかっていた。あの子はあの消防士といる方がいいのだ。変な趣味だと思ったが、彰に興味を持たれるよりずっとよかった。
彰は今でも繁く樋水にやってきた。早百合は半ば誘惑するような形で彰と関係を持ったが、それでも樋水に来た彰が目を輝かせるのは、瑠水の姿を見た時だった。
早百合はいつも瑠水に対して「理解できない」何かを感じていた。瑠水には『見える者』としての能力があり、龍王や蛟に深く魅せられている。田舎が嫌いな早百合と違って、瑠水は樋水が好きでしかたなかった。山や自然に対する愛情も尋常ではなかった。
次郎の瑠水に対する態度も早百合には理解できなかった。私と瑠水のどこがそんなに違い、次郎先生は瑠水を特別扱いするんだろう。早百合は次郎に傅かれたくはなかったが、自分と瑠水とのその違いが彰にも影響しているとしたら由々しき問題だった。
早百合に出来るのは、彰を既成事実で囲い込むことだけだった。そして早百合は賭けに勝ったのである。
彰と結婚する、来年には子供もできるという電撃ニュースを持って、早百合が樋水の我が家に帰ってきたとき、家にはそういうことを発表しにくい重さが漂っていた。早百合がいない数日の間に、瑠水が龍王の池で溺れかけ、一と摩利子が厳しい顔で今後のことを話し合っていたのである。
一と摩利子の態度だけでなく、瑠水自身の様子も変であった。瑠水の顔からは、以前のような無邪氣さが消えていた。何かよほどショックなことがあったらしい。早百合は摩利子に訊いた。
「あのロリコン消防士に襲われたかなんかして、ショックで身投げでもしたんじゃないの?」
摩利子はそれを即座に否定した。だが早百合には『龍の媾合』のことは話さなかった。早百合はいつまでも自分のニュースを隠しておけないので、その日のうちに妊娠と結婚について発表した。一と摩利子は驚いたが、もちろん祝福して喜んだ。瑠水ももちろん祝福したが、その心はどこか遠くにあった。
高校卒業後の進路として、瑠水は地質学を学べる大学への進学を希望していた。島根大学を受験したいと言っていたが、一と摩利子は東京に行くことを勧めた。いい教授は東京に集中している、いつまでも田舎にばかりいてはいけないというのがその理由だった。数日前までは瑠水は樋水から離れたくないし、地元に即したことを学びたいと主張していたのだが、『龍の媾合』以来、前ほど島根にこだわった発言をしなくなっていた。それに一と摩利子も東京進学を強要していた。
瑠水はひどく傷ついていた。『水底の二人』の幸福に加わりたかったのに、龍王様に厳しく拒まれた。お父さんもお母さんも私を追い出そうとしている。次郎先生に相談した時にも、東京に行く方がいいと言われた。樋水全体に拒まれている。そう思った。何がおきたのか自分でもわからなかった。
瑠水は考えたくなかったので受験勉強に集中した。真樹に東京の大学を受験すると言った所、残念そうだったが止めはしなかった。一や摩利子と同じようなことを言った。一と摩利子もいつまでも瑠水のことばかり心配しているわけにいかなかった。早百合の結婚式はまったなしで、その準備にも忙しかったからだ。
月日は飛ぶように過ぎ、瑠水は東京の大学進学を決めた。卒業までの短い時間に、瑠水は引越の準備をしたり、真樹とクラッシック音楽のコンサートに行ったりして忙しく過ごした。真樹と離れるのはつらかったが、それで縁が切れるとは思っていなかった。大学を卒業したら、できるだけ早くまた樋水に戻ってくる。その時にまた一緒にクラッシック音楽を聴いたり、バイクに乗せてもらったり、同じことが出来ると思っていた。
瑠水が東京に引っ越す予定の二日前に、二人は出雲で会った。どこに行きたいかと訊く真樹に瑠水は真樹と音楽が聴きたいと言った。それで真樹は今まで連れて行ったことのない自分のアパートに瑠水を連れて行った。
それは小さなアパートだった。居室とダイニングキッチン、それに風呂場だけのシンプルな間取りで、おしゃれでもなければ、大して片付いてもいなかった。しかし、真樹らしいシンプルで飾りのない部屋だったので瑠水の心は落ち着いた。
真樹がコーヒーを淹れに行っている間、瑠水は物珍しそうにCDの棚を眺めていた。こんなにバラバラになっていて、どうやってかけたいCDを探せるのかしら。ドボルザークの『新世界から』は棚の上に置かれていた。ハチャトリアンの『スパルタクス』はクイーンの隣にあった。
CDプレーヤーの電源を入れると、もう中に何か入っていた。プレーヤーの上に空のジャケットが載っている。ラフマニノフ・プレイ・ラフマニノフ。作曲者本人が演奏しているピアノ協奏曲第二番。瑠水は好奇心に駆られてプレイボタンを押した。
真樹がコーヒーを載せた盆を持って入ってきた。かかっているラフマニノフにちょっと耳を傾けた。いつものように解説などはしなかった。ただ黙っていた。甘い旋律。瑠水も黙っていた。狭い六畳の居室にいることも忘れて、オーケストラとピアノが対話するように奏で、心の中をかき回すロマンティックな音に没頭していた。ラフマニノフ自身が演奏したという古い音源には雑音が入り込んでいたが、それすらも耳には入らず、ひたすら痛み感じさせるほど叙情的な旋律に入り込んでいた。
第二楽章になると、旋律はもっと甘く切なくなった。音によって、心とからだがどこかへと昇ってゆく。自分が感じているものが何なのかを、瑠水は正確にはつかめなかった。
氣がつくと、真樹は瑠水の隣に座っていた。ごく自然に、しかし、その距離は不自然だった。狭い六畳とはいえ、そこまで近くに座る必要はなかった。けれど、その近さは、今の瑠水にはごく当たり前に思われた。バイクの後ろにいるときの近さ。樋水の風を感じるときの歓喜。『水底の二人』が放つ光に似た、どこか奥底から湧き上がる甘い歓び。
その旋律の甘さが最高潮に達している時に、真樹は瑠水の唇を塞いだ。ごく自然に、でも激しく。その長いキスは、第二楽章が終わるまで続き、瑠水は甘さに囚われてされるがままになっていた。
弦楽器が掛け合う第三楽章がはじまると、瑠水は我に返った。真樹の手が瑠水のブラウスのボタンを外している。違う。そうじゃない。みんながなんと言おうと、私はシンを信じていたのに。渾身の力を込めて真樹を突き飛ばすと、瑠水はバックとコートをつかんだ。
「瑠水!」
真樹の声を振り切るように、瑠水は靴を履き玄関から飛び出した。混乱して、涙が止まらなかった。
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【小説】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero (6)共鳴
なお、ここ数日リアルライフがとても忙しく、皆様にご無沙汰をしています。多分本日の訪問は無理で、コメ返は明日になる可能性もあり大変恐縮でございますが、コメは大好きですのでいつも通りお待ちしております。
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この作品は下記の作品の続編になっています。特殊な用語の説明などもここでしています。ご参考までに。
「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero
(6)共鳴
「悪いけれど、瑠水は今日もう出発してしまったわ。一足遅かったわね」
訪ねてきた真樹に、摩利子は言った。
「明日だったんじゃないんですか」
「急に予定を変更したのよ。でも、あの子が自分でそうしたのよ」
「そうですか」
「瑠水も、変だったよね」
唇を噛んでうつむく真樹を送り出したあと、一は摩利子に話しかけた。
「ケンカでもしたんじゃないの? ま、しばらく会うこともないだろうから、そのうちにシンくんの瑠水への熱も冷めるでしょう。瑠水みたいな子供じゃなくて、年相応の恋人でも見つければいいのよ」
「摩利ちゃん、あいかわらずシンくんにひどくないかい」
「一はほんとうにシンくんのシンパよねえ。彰くんには大して思い入れないみたいだけど」
「彰くんはいいんだよ。ほっておいても何でも出来るし。東大から財務省なんて、世界が違うよ。俺が肩入れするなんておこがましいじゃないか」
「できちゃった結婚になるなんて、そんなに出来た男じゃないわよ」
「俺、彰くんはどっちかという瑠水の方にご執心なのかと思っていたけど」
「私もよ。でも、早百合の執念が勝ったんでしょ。ああいう所だけは私の娘なのよねぇ」
「……摩利ちゃん」
「彰くんと早百合は普通のカップルだから、何の心配もないの。でも、瑠水はほっておけない。あの『龍の媾合』の夜の恐怖は死んでも忘れないわ。シンくんと瑠水の両方から、あの金の光が飛び回っていた。あのまま、ここ樋水に置いておいたら、早かれ遅かれ瑠水は『妹神代』にされてしまう。そんなことは絶対に阻止しなくちゃ」
「でもさ。あんなに瑠水のことを好きなシンくんがかわいそうじゃないか」
「瑠水が離れたくないと泣いたのを引き離したわけじゃないわよ。瑠水が自分で決めたんだから」
「まあね。四年間離れていたら、お互いに新しい展開があるかも知れないよな。それでも一緒になるなら何があっても一緒になるだろうし」
「瑠水だって、ここを離れて他の世界をみてみなくちゃ。樋水への執着も、単に外を知らないからかもしれないでしょ」
真樹は諦める氣などなかった。もう東京に行ったというなら、追いかけていってもう一度氣持ちを伝えるだけだ。ひどく動揺していることは確かだった。少しは好かれているかと思っていた。キスにも応えていたのに。瑠水はさよならも言ってくれなかった。ただ、黙って旅立ってしまった。あれで終わりにしてしまうつもりなのだと思うと、傷ついた。
自然とアクセルをふかしていた。瑠水を乗せる時には絶対にしないようなスピードだった。突然飛び出してきたリスが、真樹を我に返らせた。だが、その時には遅かった。リスを避けようとしてスリップしたYAMAHA XT500は、樫の老木にまともにぶつかり倒れた。真樹はその下に半分体をはさまれ意識を失った。
新幹線の中で、瑠水は突然の戦慄に襲われた。真樹の叫びを感じた。昨日から何度も心の中で繰り返された彼が瑠水を呼んだ声ではなく、もっと深刻な、音にならない、暗闇の中から絞り出すような叫びだった。瑠水は、携帯電話を取り出して真樹にかけた。不通だった。震えが止まらない。不安でたまらなかった。
下宿についてからも何度もかけたが電話は通じなかった。新幹線の中でのようなショックは二度と襲ってこなかったので、もしかしたら自分の思い過ごしかと思い逡巡した。でも、確認したかった。シンが無事ならそれでいい。でも、どうしたら確かめられる? お父さんやお母さんには言えない。あのことがわかっちゃうもの。どうしたらいい?
やがて瑠水は一人だけ無条件に『お願い』をきいてくれる人を思いついた。樋水龍王神社の電話番号を探した。
「次郎先生? 私、高橋瑠水です」
次郎は瑠水からの突然の電話に驚いていたが、ちゃんと聞いてくれた。
「シンになにか起こったのか、彼が無事か知りたいんです。でも、お父さんやお母さんには頼めないの。シンは私のことを怒っているかもしれないし、私になんかに心配されたくないかもしれない。でも無事でいるとわかればそれでいいの。こんなこと頼むのは心苦しいけれど、わたし次郎先生にしか、頼める人がいないの」
次郎はもちろん『あたらしい媛巫女さま』の『必死のお願い』をきいてくれた。内密に出雲の消防署に連絡を取り、真樹が事故を起こし出雲総合医療センターに運ばれていたことを知った。次郎が病室に駆けつけたとき、全ての処置は終わっていた。少なくとも命には別状はないということだった。
「次郎センセ……」
突然、樋水の神主が現れたことに、真樹は驚いた。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃないみたいだ。もしかしたら脊髄損傷しているかもしれないっていわれた。一生、車いすかもしれない」
「シンくん……」
「どうして、ここに? いくら何でもまだ噂は届かないだろう?」
「瑠水ちゃんに頼まれた」
真樹は弾かれたように次郎を見た。
「君の身に何かあったことを感じたらしい。君が無事か調べて報せてほしいと頼まれた」
真樹は黙ってしばらく唇を噛んでいた。それから手のひらで目を覆った。次郎は何も言わなかった。瑠水の電話の様子で、二人の間に何かがあったことは予想できていた。
しばらくすると真樹は言った。
「何事もなかった、普通に元氣でいると伝えてくれよ」
「どうしてそんな嘘を」
「今、あいつは新しい人生を踏み出した所だ。あいつの選んだ人生だ。この事故のことを報せたら、俺がこうなったことを知ったら、あいつはたぶん俺のために自分を犠牲にして戻ってくる。あいつに対する俺の氣持ちを知っているんだ。俺はあいつに罪悪感を植え付けたくない。俺を愛せないのに自己犠牲で側に来てもらいたいとも思わない。何も知らないでいるのがあいつにとって一番だ」
「でも、瑠水ちゃんは、感じたんだ。君とはそれだけ深い絆があるんだろう」
「絆? あいつは俺を拒んで去ったんだ」
「それでもだよ」
「次郎センセ。瑠水はあんたの媛巫女さまなんだろ。あいつを大切に思うなら、言わないでくれ。今はあいつの人生でとても重要な時期なんだ。あんたにもわかるだろう? あいつが選んだ未来を自由に歩ませてやってくれよ」
「でも、君はそれでいいのか。今の君には支えが必要だろう」
「もう、どうでもいいんだ。どうせこっちに未来はないんだから」
再び手のひらで目を覆う真樹に、次郎の心は締め付けられた。
「シンくん。人生には時おり、不公平で辛いことが起こる。今の君がどんな状態なのか、僕にはわかる。だけど希望を失うな。どんなときでも希望を持つんだ」
「悪いけど、あんたに言われても、はいそうですか、とは思えないね」
「僕の言葉じゃないよ、これは瑠水ちゃんの『水底の皇子様』の言葉だ」
「?」
「どんな苦難にも平然と堪える人だった。どうしてそんな風にいられるのかと訊いた若くて頼りなかった僕に、彼が教えてくれた言葉があるんだ。- Dum spiro, spero. ローマのキケロの言葉だそうだ。息をし続ける限り、つまり命ある限り、私は希望を持つ、って意味だ。僕は、辛いことがあると、いつもその彼の言葉を思い出して凌いできた。だから、君にも、この言葉が役に立つといいと思うよ」
真樹は次郎をじっとみつめていた。次郎は真樹の希望に従って、瑠水に事故のことを報せなかった。
【小説】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero (7)ピアノを弾く人 -1-
瑠水はチャプター1の時には高校を卒業したばかりでしたが、それから五年の月日が経っています。チャプター2では「大道芸人たち Artistas callejeros」のサブキャラとしておなじみの二人が出てきます。実は、もともとはこの作品のために生まれたキャラでした。羽桜さんがカラーイラストのラフとして描かれたものを例によって頂戴し、「あらすじと登場人物」記事に貼付けさせていただきました。嬉しいです。
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この作品は下記の作品の続編になっています。特殊な用語の説明などもここでしています。ご参考までに。
「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero
(7)ピアノを弾く人 -1-
エスカレーターに乗るときの最初の一歩で、瑠水はまたタイミングを逃した。東京に来てもう五年になるのに、未だに他の人たちのようにすっと乗ることが出来ない。出雲や松江にももちろんエスカレーターはあった。だが、秒刻みで皆が規則正しくエスカレーターに乗り込むなんて状況はまれだった。少なくとも瑠水の人生では一度もなかった。
人が多く、広告が溢れ、車がひっきりなしに通り、同じような建物がやたらとたくさんある。コンクリートやアスファルトだけの空間があり、計画的に植えられた樹が行儀よく並んでいる。瑠水は都会のリズムに何年も慣れなかった。姉の早百合は、すっかり東京になじんでいる。甥の学を抱き上げながら、もっと早くこっちに来たかった、そういった。瑠水は、いつも樋水のことを思った。帰りたいと思ったが、途端に悲しくなった。
樋水に帰るところがなかった。摩利子と一の東京行きの決め方は普通ではなかった。早百合は松江の短大に行ったのに、なぜ瑠水に島根大学を受けさせてくれなかったのだろう。次郎先生もやたらと東京に行く方がいいと言った。樋水に居たいといいたかったが、その度にあの晩の龍王のことを思い出した。ご神体にまで否定されたという思いが瑠水をひどく傷つけていた。
そして、真樹のことがあった。
時間が経てば経つほど、自分の愚かさがはっきりしてきた。なんて子供だったんだろう。男の人と女の人がいつも一緒にいたら、いずれそういうことになるとは思いもしなかった。あのときの私の振る舞いは誘っているも同然だったわよね。
実際に、あのキスを瑠水は嫌ではなかった。反対だった。次郎から真樹はなんともないという短い返事をもらった後も、瑠水はしつこくあの時のことを想い描いていた。やがて、瑠水は自分も真樹に恋をしていたのだとようやく思い至った。一切の連絡がなく、完全に終わってしまったことを思い知った後も、思い出を過去のものにすることができないでいた。
シン。いま、どうしているの。
三ヶ月以上経ってから、思いあまって瑠水は真樹に電話をかけた。電話番号がなくなっていた。携帯の番号を変えてしまったのだ。あのとき、瑠水が何度もかけたことを真樹は受信記録で知っているはずだ。それなのに、いや、だからこそ何も言わずに携帯番号を変えたのだろう。瑠水は真樹にまで否定されたのだと思った。もちろん、自分が悪かったからしかたないのだけれど。
樋水には帰れなかった。だれも帰ってこいとは言ってくれなかった。正月には、家族全員が東京にいるのだからと摩利子と一が東京に上京してきた。だから、この五年間、瑠水は一度も島根に足を踏み入れていなかった。
樋水と龍王の池が恋しくておかしくなりそうなときがある。真樹を想って眠れない夜もある。だが、それは常に一方通行の想いだった。
やがて就職を決めなくてはならなかった。瑠水は当然のように東京で活動をした。地質学協会の仕事が決まった。早百合はいった。
「やっぱり、そうでしょう? 今さら奥出雲に帰るのなんかまっぴらよね~」
瑠水は、唇を噛んだ。帰れるものなら、いますぐにでも飛んで帰りたい。
瑠水は東京に慣れた。地下鉄の路線図もだいたい頭に入った。エスカレーターだけはタイミングが計れないが、人ごみの中でも、流れにのって歩けるようになった。友人や同僚との適度な距離をもった付き合いや、相手を困らせない程度にどうでもいい世間話などもこなせるようになった。けれどやはり孤独だった。
早百合の家庭にもあまり足が向かなかった。瑠水が行くとなぜか早百合と彰が険悪な雰囲氣になることが多かった。彰が瑠水に親切なことを言うと早百合がきついイヤミをいい、それからケンカになるのである。それに、二人とも樋水時代のことを話す時に決まって真樹のことを悪く言うのだった。これだけは夫婦ともに共通していた。早百合も彰もクラッシック音楽には何の興味もなかったし、バイクは不良の乗るものだという認識も共通していた。『水底の皇子様とお媛様』のおとぎ話なぞ、十歳の頃から馬鹿にしていたので、瑠水が真樹に対して持っている尊敬、人間性、そして愛情はまったく理解してもらえなかった。ましてや五年経っても忘れられないでいることなど言えるはずもなかった。
瑠水は、大抵の時間を一人で過ごした。仕事の後も同僚とどこかに行くことは稀だった。勤め先は大きいビルの中に入っていたので、三階のショッピングモールに入っているCDショップによく行った。真樹に聴かせてもらったいろいろな曲を買った。ラフマニノフのピアノ協奏曲だけはまだ買えなかった。
ある日の午後ことだった。二階にあるコンサートホールの扉がわずかに開いていて、中からピアノの調べが聞こえてきた。中で誰かがリハーサルをしているのだ。その音に、瑠水は思わず足を止めた。
あの第二楽章だった。オーケストラはついていないが、忘れられないあのメロディだった。瑠水は、エスカレーターから降りて、思わずその扉に向かった。
小さなホールの舞台でグランドピアノを弾いているのはカジュアルなパンツにワイシャツをラフに着た男だった。半ば目を閉じるようにしてゆっくりと体を動かしながら、甘いメロディを弾き続ける。瑠水は怒られることを覚悟で、中に入って一番後ろの客席に座り、その音に聴き入った。
真樹の部屋が甦った。端のかけたマグカップに入った瑠水のためのミルクコーヒー。手をつけなかった。横に座った真樹のぬくもり。それから……。瑠水は思わず顔を手で覆って深いため息をついた。
第二楽章を弾き終えると、その男は不意に言った。
「真耶か。遅いぞ。普段は時間厳守だとかギャーギャー騒ぐくせに」
我に返って、瑠水は椅子から立ち上がった。その音でこちらを見た男はびっくりしたようだった。
瑠水は、頭を下げて謝った。
「すみません。すぐに出て行きます」
あわててバッグをとろうとしたが、革ひもが隣の椅子に引っ掛かって手こずった。その間に男は舞台から降りてこっちに近づいてきた。
「そんなに慌てなくても、いいよ。君、誰?」
「すみません、このビルで働いているものです。扉が開いていてラフマニノフが聞こえたものだから、つい」
「ふ~ん。いいよ、そんな言い訳しなくても。その手を使ったのは君が初めてじゃないし」
瑠水は男の馴れ馴れしい口調と、訳の分からない言い草に戸惑った。瑠水は男とドアの間に挟まり、やたらと近くに寄られて体を強ばらせた。
「でも、今までにいないタイプだな。このビルのどこで働いているの?」
瑠水は、なんでそんなことを言わなくちゃいけないんだと思いつつ、ついまじめに答えてしまった。
「地質学協会……」
男は目を丸くしてそれから爆笑した。
「そんな仕事があるんだ。それで、いつから僕に近づくきっかけを狙っていたわけ?」
「いえ、そうじゃなくて、本当にすみません。失礼します」
「待ってよ。せっかくだから、食事でも一緒にどう?」
何なのよ。このナンパな男は。さっきのピアノの音色と大違い。瑠水が真剣に困っていると舞台からよく通る声がした。
「何やっているのよ、拓人」
男は振り返っていった。
「ようやく来たか。あんまりお前が遅いから、消えようかと思ったよ。このお嬢さんとね」
「それは申し訳ないわね。渋滞に引っ掛かったのよ。ここあと30分しか借りていないんでしょ、さっさとリハしましょう」
「あと30分待っていてくれる?」
瑠水は思いっきり首を振った。
「本当にすみません。わたしこれで失礼します」
逃げるようにして、帰った。それが、結城拓人との出会いだった。
【小説】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero (7)ピアノを弾く人 -2-
さて、今日の瑠水は拓人にナンパされています。そういえば、羽桜さんは笑っていらっしゃいましたね。瑠水の拓人に対する心の中のツッコミがツボにはまったって(笑)
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「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero
(7)ピアノを弾く人 -2-
それから二週間ほど後のことだった。残業を終えて、瑠水は一階のカフェテリアに行った。
(疲れちゃったし、今夜料理をするのはうんざり。あそこでBLTサンドイッチでも食べよう)
東京でいいことのひとつは、こういうおいしいものがたくさんあること。ちょっと高いけれど、ここのBLTとアイス・ラッテ・マッキャートはちょっとした心の贅沢だわ。
瑠水が大口を開けてBLTを食べようとしたとき、目の前に同じものを載せたトレーがポンと置かれた。瑠水が目を上げると、先日のナンパ男が笑っている。羽毛のような焦げ茶色の髪。いたずらっ子のようにきらめく瞳。愉快に口角が上がった薄い唇。深緑のタートルネックのセーターは上質なカシミヤだった。この服装ということは、またリハーサルだったのかしら。
「また遇ったね。君とは趣味も合うみたいだ、ここのBLTは絶品だよね」
「……」
「この間、待ってくれなかったのは残念だったな。リハはすぐ終わったんだ。でも、このビルに働いているなら、絶対また遇えると思っていたよ」
「あの……」
「僕は結城拓人。ま、名前は知っているよね、きっと。君は?」
知りませんとも。あなた誰よ。
「私は高橋瑠水です。先日は失礼しました。でも、何か勘違いなさっているみたいですけれど、私は本当にあなたの氣を惹きたくてあそこにいたわけじゃ……」
「わかった、わかった。で、どう? この後、一緒に軽く飲みにいかない?」
「いえ、けっこうです。明日も仕事ですし……」
拓人はまた爆笑した。いままで、翌日仕事があるという理由で誘いを断った女はいなかった。これは新たなタイプだ。面白い。なんとしてでも落とさなきゃ。
「今度の土曜日、この間のヴィオリストと一緒にあのホールでミニ・リサイタルをするんだ。よかったら聴きにおいでよ」
瑠水はこれには素直に頷いた。この人のピアノはまた聴きたい。コンサートを聴きにいくだけなら、この馴れ馴れしい態度とも無縁だし、それに、この間のきれいな女性のヴィオラも聴いてみたい。
「下の事務所でチケット買います。まだ残っているといいけれど」
「チケットを買うことはないよ。入り口に招待券出しておくから」
「でも……」
「だから、漢字、教えて」
拓人はメモ帳を差し出した。瑠水はしかたなく名前を書いた。
「へえ。みは水なんだ。きれいな名前だね」
早くいなくなってくれないかしら。そう思っている瑠水の前から、拓人は退こうとしなかった。瑠水は諦めてサンドイッチを食べ始めた。なんでこんな変な人と関わっちゃったんだろう……。
「ねえ、高橋さん、昨日結城拓人とご飯食べていなかった?」
翌日、職場で瑠水は同僚の田中誠治に話しかけられた。瑠水はびっくりして訊いた。
「田中さん、あの人知っているの?」
「もちろん知っているよ。よくテレビに出ているじゃないか。中学生の頃、史上最年少でショパンコンクールで優勝して、いまやもっとも売れているコンサートピアニストだよ。クラッシックに興味なんかない俺でも知っているくらいだから、超有名人といってもいいね。知らないでご飯食べてたの?」
それで名前は知っているだろうとか言っていたんだわ。あいにくだったわね。こっちは田舎者で。テレビも持っていないし。
「勝手に相席してきたんです。前にひと言くらい話をしたことはあったけれど」
「へえ。ピアノの腕でも有名だけど、女たらしでも有名だからね。超お堅い高橋さんも簡単に夢中になったのかとびっくりしたよ」
瑠水はおかしそうに笑った。
「この土曜日にこのビルの二階のホールでコンサートするんですって」
「ああ、知っているよ。園城真耶とだろ。二ヶ月に一度、ここでやるんだよ。両方とも熱狂的なファンがいるから、チケットはなかなかとれないらしいね」
「園城真耶さん?」
「知らないの? これまた有名なヴィオリストだよ。いろんな賞を総なめにしているから、海外でも有名なんだけど、日本では化粧品のCMに出ているのでそっちの方が有名かもな。女優顔負けの美貌なんだ。二人は親戚じゃなかったかな。有名な音楽一家だよ、確か」
へえ。そんなプラチナチケット、もらっちゃっていいのかな。じゃ、花でも持っていかないとダメかもしれないわね。
会場に行って、瑠水はその雰囲氣に圧倒された。瑠水が想像していた東京のクラッシックのファンとは、もっと落ち着いて上品な人たちだったのだが、この会場にいるのはどちらかというとアイドルの追っかけをしているようなタイプの女性がやたらと目立った。招待券を受け取る時に、受付の女性に睨まれた。花を預けて、会場に入る前に周りの女性たちに悪意あるひそひそ話をされた。妙な雰囲氣だった。
だが、コンサートの間は、それを忘れていられた。それどころか久しぶりに樋水のことや真樹のことも忘れることが出来た。園城真耶は本当に美しかった。彼女に瑠水はすっかり魅せられてしまった。ヴィオラという楽器は音も曲も、ヴァイオリンと較べて地味なのだが、彼女の容姿と落ち着いた様子はヴィオラにしっくりと合った。そして二人が息ぴったりに演奏を始めると、全てが消え去り、音楽だけが瑠水を支配した。
ブラームスのヴィオラ・ソナタ。結城拓人はピアノを弾いている時には別人だった。真耶の優しく力強い情熱的な弓使いに、時に語るように、時に制するように激しく掛け合い、絡み合った。二つの音色が、光り飛び散る夏の川の水飛沫のようにホールを駆け巡る。来てよかったと瑠水は思った。
しばらくして、瑠水が再びカフェテリアにいるとき、またしても瑠水の前にトレーが置かれた。心なしか乱暴に。今日はBLTじゃないわよ、と思って見たら、そっちも照り焼きチキンサンドだった。なぜか負けたような氣になった。相手はむすっとした顔で目の前に座った。勝手に。
「チケットに書いておいたメモを無視した」
瑠水はため息をついた。確かに招待券には拓人のメールアドレスが書いてあって、感想をそこへ送るようにとあった。でも、それって私のメールアドレスを教えるってことじゃない、そんな見え透いた手を使われても。
「再来月の分は、もう事務局で申し込みました。とっても素敵だったから、毎回行こうと思って。会員になると優先予約できるんですね。楽しみにしてます」
「花も、楽屋まで持ってきてくれなかった」
何すねてんのよ!
「今日こそ、絶対に連絡先をゲットする」
他の女をナンパするのに忙しいんじゃないの? 瑠水は上目遣いで拓人を見た。
「結城さん。私は、もう十分あなたと真耶さんの音楽のファンですから、それでいいじゃないですか。恋愛ゲームは他の人としてください」
「ゲームじゃなきゃいいのか。食事して、それからなんだっけ、化石学協会のこととか話そうよ」
「地質学です」
「そう、それ。どんなことをしているのか興味がある。君は僕の仕事のこと知っているじゃないか」
「結城さんって超有名人なんでしょう。次から次へとガールフレンドを取り替えるってききました。そんなにお忙しいのに、地質学のことなんか知ってどうするんですか?」
「地質学のことが知りたいんじゃない、君と君の仕事のことが知りたいんだ」
「結城さん。変わった方って、言われませんか?」
「それはお互い様だろう?」
確かに。瑠水は妙に納得してしまった。それで、どういうわけか瑠水は金曜日に拓人と食事に行くことに同意してしまったのだった。
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【小説】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero (8)218人目
話は変わりますが、11月に帰国するので旅行先を考えているのですが、また性懲りもなく島根に行っちゃおうかなあと考えるのは、やっぱりこのシリーズのせいですよね。ううむ。
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この作品は下記の作品の続編になっています。特殊な用語の説明などもここでしています。ご参考までに。
「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero
(8)218人目
あれは、拓人が言い寄っていた子じゃないかしら? 園城真耶はエレベーターに乗り込む時に考えた。それにもう一人は、拓人の親衛隊。高層ビルのエレベーターホールには、三列になって四機ずつのエレベータがあった。真耶は八階の控え室に行くので一番奥で待っていたのだが、一番手前のエレベーターの横を通った時に、奥に数人の女性がいるうちの二人の顔が見えたのだ。あまりいい雰囲氣じゃなかったわね。
園城真耶は結城拓人を赤ん坊の頃から知っていた。真耶の母親は拓人の母親のいとこで、どちらも著名な音楽家に嫁いだので、お互いの家をよく往復していた。指揮者である父親がいい音楽家にしたいと願いを込めて、指揮棒にちなんで拓人と名付けた話を本人から直接聞いた。真耶と拓人はひとつ違いで、同じ音楽高校と大学に進んだ。真耶のデビューには既にプロのピアニストとしてデビューしていた拓人が伴奏をしてくれた。
そういえば拓人が女遊びを覚えたのも、ほぼ同じ頃だった。
「そんなことしている暇があるなら、レッスンしなさいよ」
真耶がいうと、拓人は笑って言った。
「叙情的な演奏のためのレッスンさ」
真耶は恋に夢中になったりはしなかった。真耶にとってレッスンと演奏が第一で、恋愛や楽しみは二の次だった。拓人もその点は似ていた。常に女をとっかえひっかえしていたが、「後腐れのない」ことが第一条件だった。同じ女とは一度しか寝ない。名前もつきあっているときだけしか記憶に留めない。だから真耶は最初から拓人の女の名前を覚える努力はしなかった。拓人は10人目を超えた頃から女をナンバーリングして真耶に話すようになった。ナンバー156とは別れた、157はフライトアテンダントだ、という具合に。わりと最近200人を超えた。よくもまあ、次から次へと寄ってくるわよね。
「真耶、遅かったじゃないか。また渋滞か」
控え室につくと、隣から拓人が顔を出した。真耶はちょっと考えてからやっぱり言うことにした。
「ねえ。あなたの218人目、もう終わったの?」
「つまり、君が言いたいのは最新の、ってことか?」
「私の知っている限りね。この間、リハーサルにいた毛色の違う子」
「瑠水か。まだ終わっていないけど、何か?」
るみっていうのね。名前で話すなんて珍しい。
「今、下でね。あなたの親衛隊と一緒にいたみたいだったから。もう興味がないなら、そのままでもいいだろうけれど」
真耶が言い終わる前に、拓人はもうエレベーターに向かって走り出していた。あら、珍しいわね。そんなに騎士道精神を発揮するなんて。
真耶が親衛隊と呼ぶ数人の女性は、拓人の熱心なファンだった。そのうちの何人が拓人の恋愛ゲームの餌食になったのかは真耶は知らない。でも、彼女たちの間には、ある種の協定があり、妙な絆で結ばれている。拓人から掟破りの女を引きはがす役割だ。拓人は親衛隊に感謝している。ナンバー148がしつこく押し掛けてきたときも、174が大立ち回りを演じた時にも親衛隊が結束して話をつけたらしい。だから女か親衛隊かという時には、拓人はたいてい親衛隊の好きにさせておいた。親衛隊は拓人の一夜の相手にケチを付けたりしない。最近寄ってくる女はみな拓人と二度目はないことをよくわかっているので親衛隊が口を挟んだのは久しぶりだった。でも、へんね。真耶は思った。まだ終わっていないなら、なぜ親衛隊が口を出すのかしら。
「あなた、何のつもりなの」
そういわれて、瑠水は困った。このあいだのコンサートで睨んでいた人たちだ。
「どういう手を使ったのかわからないけれど、拓人様から招待券をもらったり、何度も食事に行ったり」
「ベッドの誘いにのらなければ、付き合いを長引かせられると思っているんじゃないでしょうね」
瑠水は激しく首を振った。
「いいこと、よくわかっていないようだから、私たちのルールを教えてあげるけれど、拓人様とは一度限りよ。独占はできないの。そんなことをすると拓人様の迷惑になるの。わかった?」
一度も何も、私はピアノを聴きたいだけなのに。
「拓人様もどういうつもりなのかしら、こんなどうでもいい子に」
「フランス料理を食べ過ぎて屋台の焼きそばが恋しくなったんじゃないのかしら」
外野もがやがやいっている。失礼な。その通りかもしれないけれど。瑠水は思った。
「もう一度いうけど、あなたが拓人様の最後の恋人になるなんてことは不可能なのよ。拓人様は、真耶さんと婚約しているんだから」
え。瑠水はまた、拓人に関わったことを後悔しだしていた。やっぱり、あの高級レストランに連れていってもらったりしなければよかった。真耶さん、ごめんなさい。
恐ろしいお姉様方が行ってしまった後に、瑠水はすっかり意氣消沈してその場に立っていた。二ヶ月ぶり二度目のコンサートで、二人の演奏を楽しみにしてきたのに、会場に行く氣がなくなってしまった。関係ないじゃない。チケットは買ったんだから、聴きにいってどこが悪いの。そう思う自分と、あの人たちの睨んでいる会場には行きたくないと思う瑠水が、心の中で闘っていた。
そうやってつま先を見ていると、突然抱きしめられた。
「大丈夫か」
燕尾服を着ている拓人だった。
「ごめん。君に辛い思いをさせた」
いや、あなたがそういうことをするから、こんなことになるんじゃ……。瑠水はさっきの人たちがどこにもいないことを祈った。こんな場面を見られたら、ただではすまない。
「演奏を聴きたいだけなのに、どうして?」
瑠水は半泣きで腹立ちまぎれにいった。それを聞くと拓人は瑠水の手を取って、どんどん歩き出した。
「待ってください、結城さん。どこへ行くんですか」
「楽屋へ連れていく。君は袖で聴くといい。あいつらに会わないですむし、真耶の演奏ももっと近くで見られる」
確かに、それならあの人たちに見つからないだろうけれど、そんな特別扱いされたのがわかったら……。しかし、瑠水は二人の演奏を近くで聴ける誘惑に勝てなかった。
「でも、真耶さんは嫌なんじゃないんですか?」
「なんで真耶が嫌なんだ」
「だって、結城さんと真耶さんは婚約しているって。結城さんが女の人を連れてきたら、演奏の妨げになりませんか」
「あいつら、何を言っているんだ。僕と真耶が婚約するわけないだろう。あいつは一緒に育った妹、いや、威張っているから姉みたいなもんだ」
お似合いだと思うのに……。と瑠水は心の中でつぶやいた。
「それにあんな『音楽の鬼』と結婚したら一時も氣が休まらないよ。ベッドの中でまで、あの小節の何拍目の呼吸がどうのこうのといわれそうでさ」
確かに、そういうことを言ってもおかしくない雰囲氣はあるけれど……。
【小説】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero (9)あなたがほしい
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この作品は下記の作品の続編になっています。特殊な用語の説明などもここでしています。ご参考までに。
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樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero
(9)あなたがほしい
サティの『あなたがほしい』ね。甘い曲を弾くじゃない。やたらと上手だけど、誰にピアノ演奏を頼んだんだったかしら? 真耶は振り返り、あまりの驚きでサングリアをドレスにこぼしそうになった。弾いているのは拓人だった。ピアノの側には高橋瑠水が立っていた。
拓人は女にはマメだった。高級レストランや花束、それに夜景を独り占めできるスポットなどを使って、女をメロメロにするのはお手の物だった。だが、こんなにベタな曲を弾いて女の氣を惹いたことなど一度もなかった。どうしちゃったの、拓人?
ざわめいている。結城拓人が、いきなりピアノを弾きだしたのだ。瑠水は次第に人びとの目がピアノに集中していくのを感じて、その場から逃げ出したくなった。
こんな人目のあるパーティにどうして連れて来たの? 私一人だけつまらないワンピースを着ていて、ものすごく場違いよね。
パーティのことを聞いただけで、瑠水はおそれをなして断った。
「そんな大したパーティじゃないんだ。よく知っている人たちが集まって、音楽談義をしたり、サンドイッチをつついたりするような、簡単なものさ。夜じゃなくて昼間だし、つきあってくれよ。一人で行きたくない氣分なんだ」
「音楽関係のパーティなら、真耶さんと行けば……」
「真耶といくのは無理だ。真耶の家のパーティだからな。あいつはホステス役さ」
それなら、一人で行っても問題ないんじゃ……。渋る瑠水に拓人は畳み掛けた。
「真耶がヴィオラを弾いてくれるかもしれないぞ。聴きたくないのか」
ようやくどこか目立たないところにいてもいいと了承をとりつけて、瑠水は拓人についていくことにした。だが、来てやっぱり後悔した。どこが昼間のパーティだから簡単なのよ。みんな極楽鳥みたいに着飾っているじゃない。会う人会う人が変な顔している氣がした。しかも、拓人がまめまめしく飲み物をとってくれたり、真耶の家族に、つまりこのパーティの中心で、瑠水を紹介したりするので、瑠水はちっとも目立たないところに隠れていられなかった。
真耶と拓人は本当に華やかだった。世界が違うというのはこのことを言うのだな、と瑠水は人ごとのように思った。拓人は何をしても様になる。軽薄で女好きだけれど、でも、もてるのは当然よね。それに、一時の氣まぐれだとしても、とても優しくていい人よね。
氣障な台詞や、高級レストランに、瑠水は辟易していた。取り巻きの女性に睨まれるので、人前で親しげにしないでほしかった。大人しくコンサートの切符を買って、客席で聴くから、それだけでいさせてほしいと何度頼んだことか。その度に拓人は言った。
「僕といるの、そんなに嫌なの?」
もちろん嫌ではなかった。でも、わからなかった。同じ女性と二度とデートしないってモットーは? 私みたいなつまらない女にどうしてそんなに連絡してくるの?
「おや、結城拓人さんじゃないですか」
客の一人に拓人は呼び止められた。
「憶えていないでしょうね。僕もピアノを弾くんですよ。沢口って言います。あなたが優勝したコンクールで、三位入賞したんですけどね」
「すまない。いろんな人に会うんで」
「華々しいご活躍と、たくさんの女性のお相手で、お忙しいですからね」
そういって、男は瑠水をちらっと見た。拓人は否定もせずに肩をすくめた。
「まったく羨ましいですよ。入賞した後も、こっちは、バイトをしてやっと食いつなぐ生活なのに、そちらは次々と立派なコンサート。すべくしてした成功ってやつですかね。金と権威ある一家がバックアップしてくれれば、僕もあなたや園城さんみたいに楽な人生を歩めるんですけどね」
言いたい嫌味だけ言って、男はさっさと行ってしまった。なんて感じの悪い人かしら。瑠水は少しだけ拓人がかわいそうになった。女たらしだからよけい嫉妬されるのかしら。
「すべくしてした成功か。言われたな。僕たちは確かに恵まれている。チャンスも環境も最高なのは間違いないさ」
「そうじゃないわ。結城さんや真耶さんの音楽が素晴らしいのは、たった一小節にこだわって、氣が遠くなるほど練習しているからでしょう。誰もが結城さんや真耶さんみたいな音を出せるわけじゃないのよ」
拓人は目を瞠って瑠水を見た。瑠水は拓人をナンパな男と軽蔑したことを恥ずかしく思っていた。ピアノにかける拓人の情熱は、拓人が『鬼』と呼んだ真耶の芸術への執念と同じ種類のものだった。
シンも仕事に真剣だった。命を張って火を消し、防火にも情熱をかけていた。お父さんとお母さんは心を込めて新しいメニューを作って、樋水のみんなを幸せにしている。では私は? 真剣に仕事に取り組んでいない。ただ、生活の糧を得るためだけに職場に通っている。地質学を学ぼうと思ったのは、樋水と出雲の防災に貢献したかったからのはずなのに、ただの惰性で勤めているだけ。集まってくるデータは、日本中のフィールドワーカーが、汗を流して真剣に集めているものなのに、私はそれをベルトコンベアで運ばれてくる缶詰みたいに扱うだけだ。
だが、拓人は瑠水が何を考えているか思い至らなかった。瑠水にナンパなダメ男とみなされていると思っていたので、そんな風に見てもらえたのは意外だった。それで、珍しくはにかんだように笑うとグランドピアノを開けて言った。
「じゃあ、ほめてもらったお礼になんか弾くかな」
思いもよらない言葉に、瑠水の目は輝いた。その瞳と微笑みに拓人の心は締め付けられた。拓人は瑠水がほしいと思った。ゲームのように落としたいのではなくて、側にいて何度も今のように微笑んでほしいと思った。
瑠水は拓人の演奏に惹き付けられた。優しい曲だった。軽快で甘い。この人は、ピアノを弾いているときが一番素敵だ。変なプレイボーイではなくて、尊敬できる素晴らしい人になる。奏でる音を聴けば心が温かくなる。樋水に春が来た時みたい。
瑠水は曲名を知らなかった。後で、『あなたがほしい』という題名だときかされて、蒼白になった。ピアノの横に立っていた私に、結城さんがそうメッセージを送ったみたいじゃない。とんでもないわ。実際には、拓人は明らかにメッセージを送っていたのだった。その場にいた多くの人がそれに氣づいたが、肝心な瑠水にそれは伝わっていなかった。
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【小説】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero (10)即興曲
さて、今回も 羽桜さんがとても素敵なイラストをつけてくださいました。挿絵がつくと、小説って五割増でよくなったように錯覚しませんか? 羽桜さん、お忙しいところいつも本当にありがとうございます!
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「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero
(10)即興曲
バルコニーに向けた全面の窓ガラスからは東京の夜景が見渡せた。黒く輝く大理石の床の上に、アイボリーの起毛カーペットが敷かれており、黒光りのするスタンウェイのグランド・ピアノがぽつりと置かれていた。港区の高層マンション。今日もレストランに行くのかと思っていたが、拓人は黙って車を走らせ、自宅に瑠水を連れてきた。
玄関には大輪のカサブランカが飾ってあり、冷蔵庫にはシャンペンとキャビアが入っていた。尋常ではない暮らしだ。掃除をしているのは使用人に違いない。拓人は素早くラザニアをオーブンに入れると、鼻歌を歌いながらサラダを用意した。それからシャンペンとキャビアを開けると、グラスを瑠水に差し出した。瑠水の心は定まらなかった。
そもそも、なぜ今度こそはっきり断らなかったのだろう。そんなつもりはないって。たぶん、私は揺れているんだろう。樋水から離れ、シンに会えなくなってから、ずっと寂しかった。この人といると、この東京でひとりぼっちなのではないと思える。おとぎ話の中にいるみたいに、華やかな世界。真の才能。モノトーンな毎日に訪れた本物ではないシンデレラ・ストーリー。私はそれを楽しみたいのかもしれない。はかないシャンペンの泡を見て思った。
「拓人様とは一度きりよ」
あの怖い女の人はそういった。そうなのだろう。この人は、ゲームを終わらせようとしているのかもしれない。もし、私が落ちれば、それで簡単にゲームオーバーになるのだろう。私には静かで代わり映えのしない日常が戻ってくる。けれど、その時には、もう私は胸を張ってシンを愛しているとは言えなくなる。全てが終わってしまう。瑠水には自分が終わらせたいのか、このままでいたいのかがわからなかった。真耶さんのように確かな世界を持っていれば、何があってもしっかりと立っていられるのだろう。けれど、私は誰にでも出来る仕事をするだけのどうでもいい女だ。結城さんにとってだけでなく、シンにとっても、龍王様にとっても。どこへ行けばいいのか、わからない。
拓人は、対面キッチンの奥から窓の夜景を眺める瑠水の横顔を見ていた。真耶の言葉を思い出した。昨日の曲合わせで真耶の家に行ったときのことだ。
「この間は驚いたわ。あなたが瑠水さんを舞台袖に連れてきたんだもの。そんなにひどい目に遭わされていたの? 親衛隊に」
「さあ。僕が行った時には、連中はもういなかったんだ。でも、瑠水はもう会場に行きたくなさそうだったから」
「珍しいわね。あなたが、そんなに女の氣持ちを慮るなんて」
「彼女は特別なんだ。もしかしたら運命の女性かもしれない」
「まあ。そうなの?」
「うん。会うだけでドキドキする。朝から晩まで、彼女のことを考えている。ピアノを弾いている時にも」
真耶は、軽く眉を上げた。
「ちょっと待って。もしかして目が合うとドキドキする? 彼女が自分のことをどう思っているのか、不安になるって感じ?」
「その通りだよ。真耶、ファム・ファタールってのは意外なところにいるもんだよな」
「拓人。申し訳ないけれど、あなたは世紀の大恋愛をしているんじゃないわよ」
「なんでさ」
「それは、ごく普通の恋よ。あなた、217人もの女性と寝ておいて、まさか今まで一度もそういう氣持ちになったことがないっていうわけ?」
「……ない」
「あきれた。いったいいくつなのよ」
「お前とひとつ違いだ。28歳」
「しょうがない人ね。それが初恋なら、簡単にプロポーズなんかしない方がいいわよ。それは麻疹みたいなものだから。その調子じゃ、このあといったい何人のファム・ファタールに会うことか」
「プロポーズなんか、簡単にはできないよ」
拓人は唇を噛んだ。真耶は拓人を覗き込んだ。
「どうしたの? いつもの自信過剰くんが」
「瑠水には誰か好きな男がいるんだ。それに打ち勝つまではそれどころじゃないよ」
「まあ。あんな大人しい人が二股かけているってこと?」
「違うよ。二股じゃない。たぶん、瑠水は誰ともつきあっていない。それに、僕もいまだに受け入れてもらっていないんだ」
「あなた、何やっているの? 馬鹿な人ね。でも、その方がいいのかもね。218人目にしてようやく叙情的演奏のためのレッスンが出来そうだから。頑張って。私、瑠水さんが好きだわ。私の大切なはとこ殿をこんなにきりきり舞いさせられる女性なんて、そうそういないものね」
本当にきりきり舞いだった。拓人は瑠水のことをもうずいぶん知っていた。地質学などという、聞いたこともない学問についても、前よりはわかっていた。島根の奥出雲で高校まで過ごしたことも、そこが何やらミステリアスな伝統を持つ村だということも。両親はその小さな村で料理屋をしている。それ以外の家族はみな東京にいる。今までの女たちには、こんなに根掘り葉掘り人生のことを聞いたりはしなかった。
もっと自分の人生や過去にも興味を持ってほしかった。未来のことについても話をしたかった。できれば、同じ道を歩む未来について。けれど、今、彼女の視線の先にあるのは、未来ではなく過去だった。瑠水からはいろいろなことを聞き出せたけれど、その男に関することだけは何も情報が得られなかった。瑠水は誰かを愛し続けているとはひと言も言わなかった。過去に誰かとつきあったというような話もまったく出てこなかった。話がそちらへ行きかけると、花がしおれるように生氣が失せ、頑に黙りこんでしまう。やっかいな島根男め。今に見ていろ。
食事が済むと、瑠水は皿を洗うと言った。食器洗浄機があるのだが、一緒に何かをするのが嬉しかったので、拓人は皿を洗い、瑠水に皿を拭いてもらった。それからグラスにポートワインをついで窓際のピアノのところに連れて行った。
「何を聴きたい?」
瑠水は、実際のところたくさんのピアノ曲を知っているわけではなかった。クラッシック音楽の知識は全て真樹から受け継いだものだ。真樹はオーケストラ曲が好きだったので、瑠水はピアノの独奏曲はリストかショパンのとても有名なものしか知らなかった。
「まだ知らない曲を……」
それは、真樹から離れるための第一歩でもあった。

イラスト by 羽桜さん
このイラストの著作権は羽桜さんにあります。羽桜さんの許可のない二次利用は固くお断りします。
拓人は、シューベルトの即興曲作品90の第三曲を弾いた。羽毛のような柔らかい髪が、間接照明に揺れた。ピアノの上に置かれたポートワインのグラスが響きに合わせて動く。水面が乱される。瑠水の心も波だっていた。現実のものとは思えないインテリア。優しく情熱的な演奏。星のように散らばる東京の明るい夜景。夜空のような大理石。何もかも終わりにしてしまおう。樋水も、シンも、それにこの美しすぎる幻も。
瑠水は、拓人のありとあらゆる演出に逆らわなかった。あと数時間で全てが終わる。そうしたら、私はまた灰色で冷たい東京のアスファルトを這う、みじめな存在に戻ろう。拓人の唇と手は、真樹の行動を追い、追い越して、それから瑠水を支配した。ラフマニノフ第二番の二楽章が瑠水の脳裡に浮かんで消えた。
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【小説】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero (11)詩曲
今回の設定は、私の小説書き人生の中ではもっともつっこみどころのある無茶な設定です。なぜそうなってしまったのかのいいわけは追記に書きました。もっとも、この世界観では、それ以前に龍だの何だのがありますので、「はいはい、ファンタジーでしょ」でスルーしていただいても構いません。
さて、今回も 羽桜さんがとても素敵なイラストをつけてくださいました。しかも特殊な効果を狙って描いてくださいましたので、こちらもちょっと特殊効果をつけさせていただきました。羽桜さん、お忙しいところいつも本当にありがとうございます!
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「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero
(11)詩曲
連絡が途切れるはずだったのに、拓人はそうしなかった。
「明日、文化会館の大ホールで真耶と弾くんだ。上野に着いたら電話してくれ。楽屋に向かう裏道を教えるから」
行くとも言わないうちに楽屋を訪ねることになってしまった。瑠水は今日から着信拒否扱いになるものだとばかり思っていたので、連絡が来たことに驚いてしまい、電話が切れるまですっかり彼女扱いされていることに違和感を持たなかった。ちょっと肩をすくめて、仕事に戻る。嬉しかった。
その日の出演者は、真耶と拓人の二人の他に、著名なヴァイオリニストの吉野隆がオーケストラと一緒に共演することになっていた。真耶はクライスラーを、拓人はリストを独奏で弾き、二人でグリンカのソナタを演奏することになっていた。そして最後にオーケストラと一緒に吉野隆がショーソンの『詩曲』を弾くというプログラムだった。
瑠水を拾いに拓人が席を外している間に、吉野隆と真耶が控え室で二人になっていたのだが、瑠水と拓人が戻ると、吉野が声を荒げていた。
「私を誰だと思っているんだ。タレントまがいの女が失礼なことを言うな」
拓人が急いで楽屋に入ると、不必要に真耶の近くにいた吉野がかなりあわてて離れた。真耶の顔は怒りに燃えていた。どうやら拓人が席を外した隙に、真耶に迫って拒絶されたらしい。憤懣やる方ない吉野は捨て台詞のように言った。
「ヴァイオリンで大成できないから、ヴィオラに崩れたくせに」
「吉野先生。どうなさったんですか」
拓人はわざと冷静に訊いた。瑠水は拓人も怒りに燃えているのがわかった。真耶は軽蔑の表情で吉野を見ていた。
「なんでもない。この失礼な女とは一瞬でも一緒にいたくないね」
そういってストラディヴァリウスを持って、出て行った。
「大丈夫か、真耶」
「ふん。初めてじゃないわよ。こういう目に遭うのは。演奏で見返すしかないわよね」
「美人は大変だな」
真耶は口先で微笑んだ。
二人はプロだった。こんなことがあったのに、聴衆の前では、何事もなかったかのように演奏し、いつも通りの喝采を得た。瑠水は二人をますます尊敬するようになった。一昨日で、拓人と終わりになってしまわなかったことを、嬉しく思った。二人が演奏している間、瑠水は舞台袖に置かれたパイプ椅子に座って聞いていたが、ふいに妙な叫び声が聞こえた。
声は楽屋に続くドアの方から聞こえたので、瑠水はそっと立って、そちらを観に行った。そこには吉野隆がいて、左手を右手で押さえていた。血が出ている。瑠水はびっくりしてドアをそっと閉めると訊いた。
「どうなさったんですか」
「弦が切れて……」
左手の小指を傷つけたのだ。瑠水は急いでハンカチを取り出すと吉野の傷を覆い縛った。喝采が聞こえて、二人の出番が終わったことがわかった。休憩時間に入るのだ。
ドアが開いて拓人と真耶が出てきた。
「瑠水、なんで最後まで聴いて……」
拓人はいいかけて、吉野の手当をしている瑠水に氣がついた。
「吉野先生、いったい」
「急に弦が切れたんだ。小指がざっくり切れた。この指で弾くのは無理だ」
真耶はすぐに主催者を呼んで来た。休憩時間は二十分だ。その間に対策を練らなくてはならない。
「そんな……」
主催者は蒼白になった。オーケストラは準備に入っている。ソリストなしでは話にならない。今からでは代役のヴァイオリニストも頼めない。
「中止にはできないんですか」
瑠水は小さな声で拓人に訊いた。
「無理だろうな。オーケストラも切符を売っているんだ。一曲も演奏しないまま帰りますってわけにはいかないだろう。オケじゃ、代わりに速攻で別の曲を準備することも出来ない。代役を立てるしかないね」
そういってわけありげに真耶を見た。真耶もにやりと笑った。
「差し出がましいかも知れませんが、私が弾きましょうか」
「園城さん! 弾けるんですか?」
「もともとはヴァイオリンから始めましたしね。今でも家では両方弾くんですよ。今日は持ってきていませんから、楽器は手配していただかないといけませんけれど、楽譜はいりませんわ」
全員の目が、吉野隆のストラディヴァリウスに向いた。吉野はきまり悪そうに楽器を差し出した。
「お願いいたします。替えの弦は控え室にあります」
「面白くなってきた」
休憩が終わって、オーケストラは舞台に揃った。そして、吉野隆の代わりに、ストラディヴァリウスを持った園城真耶が舞台に出てきたとき、オケと客席の両方からどよめきが起こった。ヴィオリストの園城真耶がどうして、というざわめきだった。だが、全てを制するような自信に満ちた態度で、真耶は舞台の中央に立ち動きを止めた。指揮者が頷き沈黙が起きた。
不安な顔で舞台を見つめる瑠水に拓人は言った。
「大丈夫だ。聴いていてごらん」
オーケストラが、暗闇の中から這い出るように、悲観的な旋律で動き出す。管楽器、弦楽器も否定的な悲しみに満ちた音で舞台に広がる。そして、突然、全オーケストラが動きを止め、弓を構えた真耶に挑むように静寂が訪れる。真耶は雄々しく最初の旋律と和音を響かせる。その音には悲しくも力強い生命が込められている。これほどの力がこの細い体のどこに隠れていたのだろうか。オーケストラには生命が吹き込まれ真耶に従う。真耶のビブラートはさらに力強く響く。ヴァイオリンという楽器には魔力が潜んでいる。小さくとも、それは大量の楽器を引き連れ、遠慮なく聴衆の心に踏み込んでゆく。荒々しく、官能的に、悲しみをたたえて。
イラスト by 羽桜さん
このイラストの著作権は羽桜さんにあります。羽桜さんの許可のない二次利用は固くお断りします。
もう誰も真耶がヴィオリストだということを意識していなかった。このストラディヴァリウスが誰に属するかも問題ではなかった。楽器は真耶に支配されている道具だった。音の魔法に引き込まれ、オーケストラですら彼女の音楽の世界に飲まれていた。真耶はただの容姿端麗な音楽家ではなかった。人びとの心を存在しない世界に引き込む魔女だった。瑠水は、自分がどこにいるかを忘れていた。ここは樋水ではなかった。しかし、瑠水を怖れさせる東京でもなかった。真耶がオーケストラを連れていくその先には、池の中で龍王が見せた虹色に光る黄金の王国があった。真耶の音楽には神域があったのである。
悲しみの旋律は、狂おしく激しくなり、燃え立つ。それは、目に見えぬ敵に戦いを挑む。焦燥感、苛立ち、そして絶望。しかし、その情念は全てを制し、狂ったように燃え上がり、自らに打ち勝つ。それでも消えぬ強い悲しみがビブラートとなって、むせび泣く。オーケストラが慰めるように長いリフレインを残して音を消し、真耶の弓が弦から離れると、しばしの静寂がホールを襲った。たった13分だった。そして割れんばかりの喝采、スタンディングオベーション。
瑠水は涙を流して、呆然と真耶を見ていた。拓人は笑った。
「やられたな。吉野のおっさんの顔を見ろよ。当分口を慎むだろうな」
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【小説】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero (12)愛
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(12)愛
瑠水を抱いているのは拓人ではなかった。『水底の皇子様』でもなかった。
シンと私は肌と肌で触れたことはないのに、どうして私は彼の肌を思い出すんだろう。あのキスの先はなかったのに。あの時の私にとって、これは穢らわしいことだった。けれど、いま私がしていることは何だろう。他の人のことを想いながら、誰かに体をゆだねている。
なぜ二度目があったのか、瑠水には理解できなかった。一度で十分だろうに。
「フランス料理ばかり食べていると、たまには屋台の焼きそばが食べたくなるんじゃないの」
取り巻きの人も、何十人目かのガールフレンドも、それから真耶さんも、きっと呆れている。そんな不釣り合いな存在なのに、私はまったくありがたく思っていない。それどころか、私は結城さんに再び抱かれたことをこうして遠くから観るみたいに、どうでもよく思っている。私に飽きて放り出す前に、またピアノを弾いてほしい。もう一度。そうすれば、私はシンのところに帰って行ける。現実ではもう二度と逢えないシンに。
瑠水は真樹とのことを過去には出来なかった。拓人とのことも終わりに出来なかった。拓人に結婚を申し込まれた時に、あまりの驚きで何も言えなかった。拓人は言った。
「急いで返事はしないでくれ。君に時間が必要なのはわかっている。僕は氣長に待つつもりだから」
瑠水は拓人が遊んでいるのではないことを知り、罪悪感に悩まされた。この人の優しさに、どうやって応えたらいいんだろう。
拓人は、瑠水の心がここにないことに傷ついていた。数ヶ月前の拓人は女に心があるかどうかなんて考えたこともなかった。自分が一晩だけ愛して、あとは連絡先すら消してしまった女性たちが、どんな思いをするかなどということにも想像を向けたことがなかった。行為の最中に、別のデートのセッティングを考えたり、次のコンサートのテーマを考えたりしたこともあった。泣く女は苦手だった。せっかくの時間をどうして無駄にするのだろうと思った。だが、いま拓人は泣いた女たちの氣持ちがよくわかった。
瑠水は、誰かを深く憶っている。愛に囚われている。その牢獄は扉が開き、出て行くようにいわれているのに、自ら出て行くことを拒み、蹲っている。拓人はその牢獄から彼女を連れ出すことが簡単にできると思っていた。しかし、拓人が真剣になればなるほど、心を尽くせば尽くすほど、瑠水の心は深く牢獄の奥へと沈んで行く。その見えぬ男への嫉妬で拓人はどうにかなりそうだった。
瑠水のわずかな微笑みのために、一日中でもピアノを弾いてやりたいと思った。目が覚める前から、一日中、夜遅く夢を見始めるまで、常に瑠水のことでいっぱいになっている。階段の脇の大理石を見ると、レッスンで優しい音を奏でた瞬間に、花壇のストックの香りを感じるたびに、それどころか、水の入ったグラスに触れるだけで、想いは瑠水へと移っていく。真耶はこれが恋だと言った。ごく普通の、だれでもかかる麻疹みたいなものだと言った。だれもがこんな苦しい思いをするなんて信じられなかった。誰がこんなことに関わりたがるだろう。
「あの女のどこがそんなにいいの?」
嫉妬に駆られたナンバー208が言った。206だったかな? どうでもいい。
瑠水のどこがいいのか、自分でもわからない。最初はただの好奇心だった。畑が違って面白かったのかもしれない。だが、たぶん最初に嬉しかったのは、男としての自分ではなく、純粋に音楽に興味を示してくれたことだ。氣を引くためにピアノをほめてくれた女はいくらでもいる。だが瑠水は本当に僕の音楽が聴きたかったのだ。それが今の一番の問題になっている。
どうして音楽だけなんだ。
【小説】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero (13)第三楽章 -1-
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この作品は下記の作品の続編になっています。特殊な用語の説明などもここでしています。ご参考までに。
「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero
(13)第三楽章 -1-
そして、N交響楽団との共演の日がやってきた。ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番を拓人が練習していたのはこの日のためだった。プログラムの最初がこの曲だった。瑠水はこの日が来るのが怖かった。真樹の部屋を飛び出して以来、まだこの曲をきちんと聴いたことがなかった。その整理されていない心のまま、拓人との関係ものっぴきならない所に来てしまっていた。このままではいけないと思いながらも、どうしていいかわからない。
真耶は拓人にはっきりと言った。
「このまま、いつまでも瑠水さんを舞台袖に隠しておくわけにいかないでしょう。今日だって、あなたは大舞台に集中できないじゃない」
「でも、会場で彼女を一人にするのは……」
「じゃあ、私が一緒にいる。私がいれば親衛隊だって簡単には近寄れないはずだもの」
「わかった。頼む」
あたりを払う堂々とした姿の真耶と一緒に、瑠水は会場に入っていった。取り巻きの女性たちのざわめきに心が揺らいだが、もし拓人と一緒に居続けるならばこれに慣れなくてはならないのだと思った。
隣にいる真耶を見た。この人はここに属している人だ。結城さんと同じ世界に、この大ホールに。だが瑠水はそうでなかった。
演奏前の拓人は基本的には誰にも会わない。主催者か、マネジメント会社の人間か、そして家族だけが楽屋に行くことができる。親衛隊はそれを知っていたので、誰一人楽屋には向かわなかった。
真耶は常に唯一の例外だった。そして、今日、真耶は当然のように楽屋に瑠水を連れて行った。親衛隊の目が背中に突き刺さったが、真耶の堂々とした動きが誰にも何も言わせなかった。
楽屋のある階につくと真耶は言った。
「あそこの突き当たりよ。私はここにいるから」
「真耶さん」
「今、拓人にはあなたが必要なの。行ってきて」
瑠水は黙って頷くと、廊下を進み、拓人の楽屋のドアをノックした。出て来た拓人は、瑠水を中に入れると何も言わずに彼女をきつく抱きしめた。瑠水には拓人が大舞台の前でいつもよりもずっと大きな不安を持っているのがわかった。
拓人は瑠水に会うまでずっとある種のスランプに陥っていた。彼のキャリアは常に上向きだった。中学生の頃の華々しいデビュー以来、テクニックは常に研ぎすまされ、多くのファンに恵まれてすっかり有名になっていた。全てが順風満帆だと世間では思われていた。しかし、拓人も真耶も知っていた。拓人は単なる技術屋になりかけている。芸術家としてのもう一つの階段がどうしても昇れない。真耶が出すような、魂を揺さぶる音が出せない。それはどれほど練習を重ねても得られないものだった。拓人の人生は安易すぎた。血のにじむような努力はしたが、それさえすればいくらでも手に入る立場と環境にいた。簡単に言えば苦悩を知らなかった。
この半年で拓人の人生は大きく変わった。はじめて簡単に手に入らない女に出会った。瑠水を愛するようになって、しかも瑠水の心を得られないことで、男としての自信がぐらついた。それがピアノにも影響するようになった。ピアノに向かう時に、どんな音を出せばいいのか突然わからなくなった。
ラフマニノフは瑠水が初めて現れた時の思い出の音楽だった。この大舞台で、自分がきちんと弾けるのか、拓人は本番直前になって突然不安に襲われた。そこに、瑠水が一人でやってきた。いつもの澄んだ瞳で。泣きそうに見える表情で。拓人は瑠水を何も言わずにしばらく抱いていた。瑠水も何も言わなかった。そのぬくもりが、次第に拓人の心を落ち着かせていった。
「もう大丈夫だ。ありがとう」
瑠水は頷くと、そのまま無言で外に出た。涙が出そうになったが、こらえて真耶の元に戻った。真耶は黙って、エレベーターのボタンを押して、客席へと向かった。
客席に座ると、真耶は静かに言った。
「ねえ、瑠水さん。私は拓人があなたに会えて、本当によかったと思っているのよ」
「真耶さん」
「悪く思わないでね。拓人と私は双子のように本当に何でも分かち合うの。だから、あなたのことも拓人からたくさん聞いているのよ。拓人はあなたに好きな人がいることも知っている。それでも拓人はあなたと人生を共にしたいのよ。でも、瑠水さん。自己犠牲で結論を出さないで」
「……」
「あなたとのことは拓人には、どうしても必要だったの。つまり拓人の音楽にはね。だから引け目を感じたりしないで。もし、時間をかけても拓人を本当に愛せるようになると自信があるなら、拓人と結婚するといいわ。彼は日常生活では軽薄だけれど、素晴らしい魂を持っている。あなたと彼はきっと幸せになるわ」
「真耶さん。私が結城さんに釣り合わないとはお思いにならないんですか」
「馬鹿なことをいうのね。あなたはすてきよ。でも、私は拓人が言っていたように『音楽の鬼』なの。彼にも『鬼』でいてほしいの。だから、私にはあなたが彼の音楽に与える恐ろしいほどの影響力の方がずっと大事で、もっと評価しちゃうのよ。私はそういう風にしか生きられないの。でも、あなたは私たちの音楽に奉仕する必要はないわ。あなたの人生をあなたらしく生きればいいの。わかる?」
「真耶さん」
ベルが鳴り、会場が暗くなる。オーケストラが入ってくる。指揮者が、拍手の中入ってくる。真耶は真っ直ぐ前を見据えた。瑠水も口を閉ざした。
やがて更に大きな拍手に迎えられて拓人が入ってきた。軽く頭を下げた後、拓人は燕尾を翻して、椅子に腰掛けた。落ち着いた顔をしていた。瑠水は真っ直ぐに座り直した。
指揮者と目を合わせると、拓人の手がゆっくりと挙がり、最初の和音を響かせる。ゆっくりとクレッシェンドしてゆき、オーケストラが加わり華麗な主題を奏でだす。ゆったりとした、あるいは華やかなオーケストラの響きとみごとに調和しつつも拓人は激しい動きで装飾音型を奏で続けている。CDで聴いていた時にはまるで氣がつかなかった華麗なテクニック。だが、それは単なる技量に終わらず、オーケストラの美しい旋律からも遊離せず、曲全体として聴き手の心をつかむ。
第二楽章になり、瑠水の体は緊張で固まった。拓人は完全に曲を自分のものにしていた。木管楽器とやさしく絡みながら、甘い旋律を紡ぎだしていく。その音色には甘いだけでなく、どこか苦さが感じられた。ピアノから聴こえてくる音は、鍛錬によって培われた類い稀な技術から出てくるのではなかった。音と音との間に含まれる微妙な沈黙が、これまでの拓人の音色になかったなんとも言われぬ深みを出していた。
真耶は目を輝かせて聴き入った。お互いに文字を覚えるよりも先に厳しくしつけられたレッスンの日々。真耶は拓人がどれほどの情熱を賭けて技を磨いてきたか誰よりもわかっていた。だが、それだけではどうしても出せなかったこの深みを、どうしても伝えられなくてどれほど悔しい思いをしたことか。だが、拓人はようやくジュニアのピアニストでも、著名なアイドルピアニストでもなく、真の芸術家への道を踏み出したのだ。真耶が共に目指したいと思っている高みを目指せる同志になったのだ。
瑠水は、身じろぎもせずに拓人を見ていた。はじめて拓人のピアノを聴いた時とは違っていた。あれから半年も経っていないのに、拓人はまったく違う音色を奏でていた。そして瑠水にとっても、いま目の前でピアノを弾いているのはどこかの知らないピアニストではなくなっていた。どれほどの努力と想いがこの三十分の協奏曲に込められているのだろう。どれほどの情熱が彼の中で燃えているのだろう。尊敬の念でいっぱいになった。
けれど、第二楽章の最後の部分が再び訪れたとき、その楽音に込められた拓人の深い感情をも突き破り、瑠水は出雲のあの小さな部屋へ戻っていた。あの口づけだけが瑠水を支配していた。溢れて止まらない真樹への想い。どうしても忘れられない樋水での幸福な三年間。笑顔と、思いやりと、信頼と。そのすべてが東京ではどこにもみつからない樋水の光とともに瑠水の心に溢れた。どうしようもなかった。
シンに会いたい。もう遅くても、叶わなくてもいい。
流れる涙を止めることも出来なかった。その瑠水に、優しく語りかけるように、第二楽章は終わった。
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【小説】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero (13)第三楽章 -2-
ラフマニノフのコンチェルト第二番といったら、誰がなんといおうとこの第三楽章のメロディなのですが、瑠水はなんとこの日まで聴いたことがなかった、という設定です。思い出が強烈な第二楽章の終わりを聴くのが怖いと避けていたから、当然第三楽章にはいかないわけです。なんてもったいない。中学の時からもしかしたら一番たくさん聴いているクラッシックかもしれません。「どんな曲?」と思われた方は、先週の更新分にくっつけた動画へどうぞ。今日のは拓人の最後の一曲をイメージしてくっつけてあります。
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この作品は下記の作品の続編になっています。特殊な用語の説明などもここでしています。ご参考までに。
「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero
(13)第三楽章 -2-
わずかな間があり、第三楽章がはじまった。オーケストラの華やかな導入にあわせて、拓人は再び華麗に装飾音型を紡ぎだしていく。真樹の部屋から逃げ出してしまったために、今まで瑠水が聴いていなかった、美しい第二のテーマが流れる。確認するごとく拓人が力強く奏でる旋律は瑠水の心を強くつかんだ。
私はたった三十分の曲ですら第三楽章まで聴かなかった。シンはこの曲を最後まで知っていた。知っていて、もう一度最初から私と聴いてくれた。私が大人になるのを三年もの間ひたすら待っていてくれたのだ。私は知らないまま逃げ出した。
樋水のためになることをしたいと言いながら、まだ何もしないうちにもう、瀧壺の底の、カミの世界の至福を手に入れようとした。あの池の底で感じた『水底の皇子様とお媛様』の苦しみをすべて飛び越して。龍王様は私をどんなに思い上がった小娘だと思ったことだろう。
拓人の演奏は、佳境に達していた。真耶がショーソンの『詩曲』で魅せた、あの神域の世界をいまや拓人が実現していた。虹色に輝く黄金の世界。
瑠水は突然悟った。真耶さんや結城さんは、ここで至高の存在に仕えている。シンが消防士として真剣に天命を果たそうとしていたように。では、私は、何をしているのだろう。樋水のために何かをしたいと防災地質学を学んだというのに、何もしていない。愛してくれたシンや結城さん、それに私に神域を見せてくれた真耶さんに胸を張って誇れるようなどんなことも成し遂げていない。
私はただ待っていただけだ。自分のすべき仕事が与えられるのを希んでいた。『水底の二人』の至福にただ加わらせてもらおうとした。シンが連絡してくれるのをひたすら望んでいた。結城さんが愛してくれるのを、または飽きて捨ててくれるのをただ期待していた。両手を広げて星が降ってくるのを待ち受けていた。星をつかもうと手を伸ばしたことすらなかった。
生身のシンに『水底の皇子様』の抽象的な愛だけを求めたように、寂しかったから結城さんにシンの身代わりをさせようとした。私がこんなだから、龍王様が私を『水底の二人』の幸福に加わらせてくれなかったんだ。
オーケストラと拓人の激しくも力強い手の動きは、階段を昇るかのように聴衆を連れて盛り上がり、幸福の絶頂に伴って華麗にフィナーレを迎えた。
割れるような喝采がおき、聴衆が一斉に立ち上がった。立ち上がっていない真耶は、隣にいる瑠水の涙と決意に満ちた横顔を黙ってみつめた。激しい喝采に拓人が何度も袖と舞台を往復しているその興奮の中、真耶と瑠水の席だけは違う空氣が漂っていた。
瑠水は静かに低い声で言った。
「真耶さん。ありがとうございました。私、二人にお会いしたことを生涯忘れません」
真耶は、それだけで瑠水が何を決心したか理解したようだった。
「ありがとう、瑠水さん。私もあなたが拓人にしてくれたことを生涯忘れないわ。幸せになってね」
オーケストラには、休憩の後まだ別のプログラムがあり、場内は二十分の休憩になった。聴衆はまだロビーや客席にいたが、その間に瑠水は一人で楽屋の拓人のもとに向かった。
楽屋で拓人は瑠水に抱きついた。
「ありがとう、瑠水。君のおかげだ」
瑠水はじっと目を閉じて、それからはっきりとした声で言った。
「私こそ、お礼をいわなくては。結城さん。本当にありがとうございました。私、島根に帰ります」
拓人は信じられないという顔をして瑠水を見た。
「結城さん。あなたが教えてくれたんです。どうやって生きるべきか、どういう風に人を愛するべきか。私は、何もせずに待っているだけの弱虫でした。あなたの音楽が、私に勇氣をくれたんです。あなたと真耶さんの音楽には到底較べられないけれど、私も天に応えられるように、自分の人生を踏み出します」
拓人は、黙ってしばらく瑠水を抱きしめていたが、やがて言った。
「どうしてもか?」
「ええ、どうしても」
「そうか」
深いため息が聞こえた。拓人にもわかっていた。この世にはどうしても変えられないことがある。拓人はどれほど好きでも島根に瑠水を追いかけていくことは出来ない。音楽と瑠水を天秤にかけなくてはならないなら、あきらかに音楽の方が重かった。
「もし、島根でどうしてもうまくいかなかったら、僕の所に帰っておいで。しばらくは一人でいるだろうから。いつまでとは約束できないけどね」
瑠水は一度拓人を強く抱きしめてから、「さようなら」と言って、その場を離れた。そして、涙も拭かず、後ろも振り返らずにホールを後にした。
チャイコフスキーの『悲愴』がはじまったが、真耶は客席には戻っていなかった。そっと、楽屋に向かうエレベーターに乗った。楽屋におかれたアップライトピアノの音色がわずかに聞こえていた。
ドアを開けて音を聴いた真耶は微笑んで頷いた。拓人の弾くショパンの『幻想即興曲』はこれまでに何度も聴いていた。だが、どうしても技術だけが勝り、感心する演奏を聴いたことがなかった。いまのこの音は違う。目の色も違っていた。テンポが揺れていたが、その音には凄みがある。真耶は、拓人の経験に足りないのは嫉妬と絶望だと常々思っていた。そして、いま彼はそれを手に入れたのだ。次は『革命』が聴きたいわね。今ならいい演奏になるはずだわ。
「なんだよ」
拓人は弾き終わってから一分ほど経ってから振り返り、ドアにもたれている真耶に声をかけた。
「見事だわ」
「お前は、何でも演奏の肥やしになればいいと思っているんだろ」
「そうね。でも、あなたを心配していないわけじゃないのよ。なんせ、最初の失恋ですものね」
「馬鹿にしているのか」
「まさか。もっと弾いてよ。こんなにあなたのピアノが聴きたいと思ったの、久しぶりだわ」
「それは瑠水に言ってほしかったな」
真耶は優しく妖艶に微笑んだ。本当にどこまでもわかっていない男ね。いつか思い知らせてやるわ。
拓人は『別れの曲』を弾いた。思い出のように甘い穏やかな旋律、心かき乱されていく中央部、全て失ったあとに諦念の叫びのように繰り返される最初のテーマ。真耶は拓人がひとつ階段を昇ったことを感じた。今すぐ家に戻ってヴィオラを弾きたいと思った。いい音が出せる確信があった。
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【小説】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero (14)時間
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樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero
(14)時間
火花が散り、回転砥石で少しずつ石が滑らかになっていく。勾玉磨きは氣の遠くなる作業だ。縁結びのお土産として誰かに買われ、直に忘れ去られてしまうには、惜しい量の仕事だった。真樹は黙々と石を磨く。午前中に、勾玉やペンダントなどの大量注文品を次々と片付ける。そして午後は、置物など大きい石の加工をする。
真樹の作品はここのところよく売れたので、オーナーは前よりも注文を増やした。最初はネコの手でも借りたかったので雑用係を兼ねて石を加工させていたが、最近は雑用を頼むことはかなり稀になった。仕事にムラがなく、また、プライベートの時間を考慮する必要もなかったので、無理な注文がくればここ二、三年はいつも真樹が駆り出された。
事故の後、真樹が松葉杖で外に出られるようになるには三ヶ月ほどかかった。不屈の意志でリハビリを繰り返し、なんとか歩けるようになったが、左足はもう元のようには動かなかった。だが、脊髄が損傷していなかっただけでも、ありがたいと思わなくてはならなかった。
やがて、真樹は仕事を探した。消防士としてはまったく役に立たなかったので退職した。自動車工場のライン生産の仕事も試したが、長く立っていられないことがわかり続けられなかった。事務関係の仕事は真樹の性格には向かなかった。特に電話をとるのが苦痛だった。
暗い顔をして帰宅途中、アパートから一ブロックしか離れていない所で求人の張り紙を見つけた。それはこの辺りには多い石材加工の工房だった。事務の仕事とほとんど変わらない給料で、黙々と石を磨くだけ、また時にはオーナーに頼まれた雑用をするという仕事内容が氣に入った。歩いて数分でアパートに帰れるというのもありがたかった。
オーナーはやり手で、パワーストーンブームにのってあちこちの土産物屋に勾玉やアクセサリーを売り込み、ネット販売もいちはやく手掛けていた。中には妙な石で勾玉を作ってほしいという依頼もあるので、いわれたことを黙々とこなす真樹は便利な存在だった。
一人で加工の工程をこなせるようになり、先輩のチェックを必要としなくなってから、しばらく真樹の勾玉が上手く売れない時期があった。勾玉は型があっても手作りのため、最終的には作り手の癖が出る。真樹の勾玉は、どこがどうというのかわからないが、比較的選ばれにくい形になっていた。
オーナーは真樹に一日に二回、出雲大社に行くように言った。意味がわからなかったが、真樹はいう通りにした。手水をとり、参拝し、帰る。それだけだが、季節のめぐる大社に通ううちに、真樹の心のわだかまりが融けていった。
事故に遭って以来、真樹は神社に行かなくなっていた。それまでの正月の吉兆さんといわれる神事では、仲間達と高さ10メートルの「吉兆幡」を担いでいたが、消防署を辞めて以来、観にもいかなくなった。
神社にいくと、樋水龍王神社を思い出す。そして、その記憶は高橋瑠水に繋がる。忘れられない遠い記憶が、敗北感をいっそう強める。白い病室で、アパートの暗い部屋の中で、瑠水の姿が幾度も浮かんだ。事故の時に壊れた携帯とともに、連絡する可能性も絶たれた。そして時間が経ち、真樹は瑠水に忘れられたのだと諦めた。幸せな大学生活を送っているのだろう。東京というところは刺激的で楽しいところだという。新しい出会い、友人があり、恋もしているだろう。
神社に通い始めた頃は、避けていた痛みが疼き、苦しかったが、しつこく繰り返すうちにそれにも慣れてきた。瑠水を想うことも日常になり、尖った神経は和められてきた。次郎に年賀状も出すようになった。もしかしたら瑠水のことを知らせる返事が来るかもしれないと期待した。次郎からは暖かい言葉の返事が届くが、瑠水に関することは何も書いていなかった。
真樹の暗い後ろ向きな精神は、人びとを遠ざけた。消防士時代の同僚とも、幼なじみとも疎遠になった。新しい恋をする氣にもならずひたすら仕事だけに打ち込む日々が続いた。
オーナーは満足だった。少しずつ穏やかになっていく真樹は売れる勾玉を作れるようになっていた。口数が少なく、人付き合いはなかったが、仲間といざこざを起こすようなこともなかった。一人で音楽をイヤフォンで聴きながら石に向かっている。何を聴いているのかと訊いたらよりにもよってクラッシックだった。だが、それでいい仕事ができるならオーナーに異存はなかった。見合いの話がきたこともあったが、子供でも出来たら今のようには働かせられない。握りつぶしてしまった。
やがて真樹は、もう少し大きくて創作的なものも作ってみたいと言ってきた。オーナーはそれを許した。最初はとても売れるようなものではなかったが、少しずついい作品を作るようになった。真樹には石の中に潜むもとからある形を読み取る能力があった。自分の好きなものを彫るのではなく、生まれこようとするものを見つけて手助けする力だった。あるときは石はイルカになり、果物の溢れる籠になり、月になった。最初に高い値段で売れた作品は、海の中から走ってくる馬だった。
一度、記憶にある瑠水の横顔を彫ろうとしたことがあった。だが、石はそれを望まなかった。真樹はその石を砕いて勾玉にしてしまった。
【小説】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero (15)真実のとき
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樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero
(15)真実のとき
「せっかく帰ってきたんだから、出雲に行ってきなさい」
摩利子が言った。瑠水は、真樹のことを言われているのかと思ったが、いくら勘の鋭い摩利子でも、いきなりそんなことには氣がまわらないだろうと首を傾げた。
「次郎先生が、総合医療センターに入院しているのよ。あんまりよくないみたいだから、早くお見舞いに行ってきなさい。この五年間、いつもあなたがどうしているか訊いていたからね。大切な『あたらしい媛巫女さま』なんだから」
知らなかった。次郎先生が病氣だったなんて。
瑠水は、あの『必死のお願いごと』以来、次郎に連絡を取っていなかった。自分の恩知らずぶりに少し後ろめたさを感じながら、瑠水はバスに乗った。
樋水川はいつものように輝いていた。『水底の二人』の至福の風も同じように、瑠水の心に入り込んできた。東京では、樋水を忘れて生きるのが定めだと諦めていた。そうじゃない。樋水は、出雲は一度だって私を拒まなかった。私が勝手にそう思っていただけだ。
松江への転勤を申し出たことを聞いて、同僚の田中は言った。
「この空調の利いた快適な職場が懐かしくて泣くぞ。地方はきついからね。僕は長崎でしばらく働いたけれど、人手が足りないから、半分以上フィールドワークに駆り出されていたよ。真夏に灼熱の海岸でボーリングしたり、真冬に足場の悪い所で路頭調査したり。変な虫や蛇も出るし、おかしな村では伝統の風習を盾に調査の邪魔をされたりさ」
「そういうことをしたいんです」
瑠水は微笑んだ。田中は目を丸くした。
瑠水はそれ以上のこと説明しなかった。空調の利いた快適なオフィスではなくて、苦労して地面に触れてこそ、樋水に、出雲に、島根に貢献できる。私は、変わりたいのだ。自動的に安易に与えられる幸福を弄ぶのではなくて、あの池の底で感じたみたいに苦しみを通して幸福を獲得したいのだ。瀧壺にではなく私自身の中にあの至福の風を見つけるために。
風。瑠水は泣きたくなった。真樹の運転するバイクの後ろで感じた幸福の風。真樹が与えてくれた全てのこと。それを全て置いて逃げた自分。どれほどの遠回りをして、結局は自分の心の中にあった答えを見つけることになったのだろう。真樹に再び会えるかどうか、瑠水にはわからなかったが、どうしても会って伝えたかった。自分が間違っていたことを。ようやくわかった自分の心を。受け身に愛を望むのではなく、自分が愛し続けるということを。
痩せて肩で息をする次郎を見て、瑠水は瞳に涙を溜めた。こんなになってしまったなんて。
「悲しむことはない。僕は大丈夫だ」
「次郎先生……」
「休暇かい?」
「いいえ。松江に転勤にしてもらいました。樋水から通えるように」
「よく決心したね。嬉しいよ」
瑠水は寂しそうに笑った。
「ずっと、樋水から追い出されたんだと思っていました。みんなに厄介者にされたんだと」
「どうして?」
「みんな不自然に東京に行けって、そのあとも誰も帰ってこいといわなかったから。それに……」
「それに?」
瑠水は初めてあの『龍の媾合』の宵のことを話した。『水底の二人』の至福に加わりたくてどんどん潜っていったこと、あそこでは歓びと苦しみが同じものだと悟ったこと。龍王が現れて瑠水を阻んだこと。
「ずっと、龍王様に拒まれたんだと思っていました。でも、やっとわかったんです。龍王様は私に『生きろ』とおっしゃっていたんだってことを。幸せであり苦しみであるものは、水の底にではなくて、私の人生の中にあるのだということを」
瑠水はもう次郎の小さなお媛様ではなかった。
「そこまで、わかったなら、そろそろいうべきだな」
「何のこと?」
「ずっと君に本当のことを伝えたかった。嘘を墓場まで持っていきたくなかった」
「嘘って?」
「あのとき、シンくんは大事故に遇っていたんだ。命に別状はなかったが、彼は仕事も失い、障害も負った。だが、彼に君には絶対に報せないでくれと頼まれた。だから君には彼は何ともないと言った」
瑠水は、青くなって、椅子に倒れ込んだ。
「どうして……」
「君のためだ。シンくんは、君の幸福と将来を何よりも大切に思っていた。君の選んだ未来の邪魔をしたくないってね。支えが必要な時期だったが、一人で堪えるといっていた。そして実際耐え抜いた。消防の仕事はできなくなったが、深刻な障害も残らず、新しい仕事もはじめて、生き抜いている」
「いま、どこでどうしているか、ご存知ですか」
「勾玉磨きや、石の彫刻で食べているよ。前と同じ所に住んでいる。年賀状をくれるんだ」
次郎は肩で咳をしながら、サイドボードから、何年か前の年賀状を探し出して、瑠水に渡してくれた。石材工場の住所が添えてあった。あの日飛び出したアパートのすぐ近くだった。
「シンの携帯が通じなくなったのも、素っ氣ない返事しかもらえなかったのも、嫌われたからだと思っていました。ずっと、東京でもう終わったことだと自分に言い聞かせていました。でも、わかったんです。シンのことは私には生涯終わらないって。樋水に帰りたいという氣持ちと同じで、もう私の一部になってしまっているんだって。だから帰ってきたんです。遅すぎても、届かなくても構わない。どうしてももう一度逢って、氣持ちを伝えたいんです」
次郎は目を閉じた。そして、苦しそうに言った。
「君たちには、お互いに思っている以上の深い縁と絆がある。僕と君のご両親はそれを知っていた。知っていたからこそ君を樋水から遠ざけようとした。君のことが大切で守りたかったから」
「……守りたいって、シンから?」
「違う。樋水と龍王様からだ」
瑠水は、次郎の顔を黙って見つめた。
「君たちが向かっていたのは、『水底の二人』と同じ道だ。私と妻もそこを目指すはずだったが果たせなかった。だが、君はひとりでそこにたどり着いたようだ」
「どの道ですか?」
「龍王様の池で、それから東京でたどり着いた道だよ。至福と究極の苦しみが同じものになる世界だ。君はもう大人の女性だ。どんなに大切でも、我々が隠し守ることは出来ない。君は樋水に属すことを選んだが、もともとそこに属していたんだ。『水底の二人』の世界に、そしてシンくんへの愛にね」
瑠水はそっと目を閉じて、次郎の言ったことを考えた。正しいことがわかった。
「次郎先生、『水底の二人』をご存知なんですか」
「とてもよく知っている。君のご両親も二人を家族のようによく知っている。二人がどれほど苦しんであそこに至ったのかも。だから、君を樋水から引き離そうとしたことを、悪く思わないでくれ。僕たちはみな、とても君のことを大切に思っていたんだ」
【小説】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero (16)命ある限り
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(16)命ある限り
病院を出ると、瑠水は家に帰らず、石材工房を探すためになつかしいあの街に向かった。あたりはほとんど変わっていなかった。工房もきっとあの頃からあったのだろう。でも当時は、消防士だった真樹自身もその工房には興味を示していなかったにちがいない。
工房は直に見つかった。引き戸は開いていて、中で誰かが会話をしているのが聞こえた。瑠水は背中を見せている女性の張りのある笑い声に耳を傾けた。
「じゃあ、生馬さん、来週時間を取ってくれる?」
瑠水は、動きを止めた。女性はシンに話しかけているんだ……。
「わかりました。よろこんで」
忘れもしない真樹の声だった。そのひとのために喜んで時間を取るんだ。じゃあ、今、私が入っていったら、迷惑かもしれない。出直そう。瑠水は、黙ってもと来た道を引き返そうとした。だが、中にいた真樹は、瑠水の姿に氣がついた。
「瑠水!」
瑠水は背を向けたまま立ち止まった。女性を店の中に残したまま、真樹は急いで出て来た。
「瑠水だろう?」

イラスト by 羽桜さん
このイラストの著作権は羽桜さんにあります。羽桜さんの許可のない二次利用は固くお断りします
瑠水はゆっくりと振り返って真樹を見た。強い目の輝き。ほとんど変わっていなかった。ほんの少し、歳を取った。目尻にしわがある。前よりも落ち着いて見えた。作務衣を来て、歩く時に左足を引きずっている。瑠水はものも言えずに真樹を見上げていた。真樹の顔は喜びに輝いていた。あの時の氣まずさなどすべて吹き飛んだようだった。
女性は、その雰囲氣を察知して中から出てくると、
「じゃ、来週、よろしくね」
と去っていった。
「いいの?」
瑠水は去って行く女性の背中を見ながら真樹に訊いた。
「あの人? オーナーの奥さんだよ。来週、売店の棚卸しの手伝いをしろって。君はいつ、島根に戻って来たの?」
「昨日。しばらくお休みなの。来月からこっちに転勤にしてもらったの」
「何をしているの」
「地質学協会ってところで働いている。種類は違うけど、やっぱり石の仕事よ」
「そうか」
真樹は、しばらく黙ってみつめていたが、やがて訊いた。
「どうしてここがわかった?」
「次郎先生が、教えてくれたの。事故のことも……」
「あいつ、約束を破ったのか」
「次郎先生、病氣なの。とても悪いの。お墓に嘘を持っていきたくないって。私、シンがどうしているか知りたかった。あの時のことも謝りたかったし、それにシンが一番辛い時に側にいられなくて……」
「もう時効だろう。お互いに」
真樹は、昔のように瑠水の頭をなでて笑った。
工房はあまり大きくないけれど、よく整頓されていた。勾玉やペンダントトップなどの納められた箱が大きな箱の中にいくつも並べられていた。
「それは、大社の前の土産物屋にいく分だ」
道具を洗ってしまいながら真樹は言った。いま加工しているのはもっと大きい彫刻のようなものだった。
「これは?」
「何だと思う?」
柔らかな青と薄緑色のグラデーションのかかった石だった。二人の男女が抱き合いながら上を見ている。水の中にいるようだ。なんてきれい……。
「水底の皇子様とお媛様」
「そうみえるか?」
「違う?」
「違わない」
瑠水は、微笑みながら石に触れた。
「シンだけは、絶対に嗤ったり馬鹿にしたりしなかったわよね……」
「もう、いなくなっちゃったのか?」
瑠水はすっかり大人になっていた。都会の暮らしであか抜けて前よりもずっときれいになっていた。
「いいえ、樋水にはいつもいるわ」
「それを聞いて安心した」
真樹は、全ての片付けを終えると、カーテンを閉めて戸締まりをした。
「店じまいだ。アパートに行って話をしよう」
瑠水は黙って頷いた。
アパートは、まったく変わっていなかった。同じように適度に乱雑で生活の香りがした。結城拓人の都会的な高層マンションの部屋を思い出した。もう現実のものではない遠い夢みたい。瑠水は足下に落ちている新聞やTシャツをさりげなく拾った。真樹は肩をすくめるとCDの棚を指差した。
「何か好きなものをかけて」
真樹は、キッチンに向かった。瑠水がCDの乱雑に入った棚を見ていると、向こうから声が聞こえた。
「ごめん。コーヒーが切れている。ほうじ茶しかない」
「構わないわよ」
この際、飲み物なんかどうでも。
瑠水はようやく見つけたお目当てのCDをプレーヤーに入れようと、スイッチを入れた。中にはエリック・サティが入っていた。「あなたがほしい」そうね。これが私だったらいいんだけど。瑠水は大きく息をつくと、彼女にとっての大きな賭けをはじめた。プレーヤーを閉めて、再生ボタンを押した。ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番。
響いてくる最初の和音と一緒に、真樹が近づいて部屋に入ってきた。どんな顔をしているのか見る勇氣がなかった。呆れているのか、怒っているのか、それとも……。真樹はテーブルにお盆を置いた。恐る恐る顔をみると、真樹は笑ってもいなければ、怒ってもいなかった。ただ、瞑想するような真剣な表情だった。それから、黙って隣に座った。あの時のように、不必要に近く。けれど、あの時と違って、真樹は第二楽章の終わりまで悠長に待ったりはしなかった。
「これ、何?」
手を伸ばして、瑠水はベッドに彫られた文字をなぞった。- Dum spiro, spero.
「生きている限り、希望を持つ。キケロだそうだ」
真樹は瑠水の顔にかかった髪の毛に触れて言った。瑠水は目を丸くした。
「どこで習ったの?」
「次郎センセが教えてくれたんだ。あの時、病院のベッドでよほど絶望した顔をしていたんだろうな。ここに戻ってから、彫った。助けられたよ。くじけそうになると、これを唱えて堪えた。何もかもダメになったと思っていたけれど、時間が経ったら、歩けるようになった。新しい仕事も見つかった。またバイクにも乗れるようになった。それに……」
そういって真樹がキスをしながら覆い被さってきたので、瑠水はもう今日のバスには乗れないなと思った。
帰宅が遅い瑠水を心配する摩利子が送ったメールが携帯で点滅していた。ひどく怒られるだろうし、呆れられるだろう。でも、きっとお父さんとお母さんは、祝福してくれるに違いない。ようやく私の皇子様にたどりついたのだ。
携帯にメールが届いた。摩利子は東京の早百合から電話を受けているところだった。
「お母さん? 聞いているの? それで瑠水ったらね、私に何にもいわないで東京を引きはらっちゃったのよ。信じられない。あの結城拓人のプロポーズを断ったなんて。いったい何を考えているのかしら。ちょっと話させてよ」
摩利子は、瑠水からのメールを横目で見て、眉をひとつ上げた。私には何が起こっているか明白だわ。
「早百合、瑠水は今夜は戻らないそうよ。シンくんのところに泊まるって」
「な、なんですってぇぇ? あの子、まだあのロリコン消防士と切れていなかったの?!」
「その言い方は、もうやめなさい。近いうちにあなたの義弟になるかもしれないんだから」
早百合との通話を終えると、摩利子は瑠水にメールを送った。
「了解。シンくんに『龍の媾合』の時に命を救ってもらったお礼を忘れずに言いなさい」
これで、二人の恋路の邪魔はおしまい。それで幸せなら、勝手にしなさい。
次郎を見舞うために、二人は総合医療センターに向かっていた。次郎は『あたらしい媛巫女さま』がようやく見つけた幸福を喜んでくれるだろう。バイクを走らせる真樹の後ろに座って、瑠水は樋水川の輝きを見ていた。『水底の二人』の幸福は、今や瑠水のものだった。
遠い東京では、拓人が真剣にピアノに向かっている。真耶が喝采に応えている。瑠水はそれを感じることが出来た。
この世界に満ちる特別な存在には、みながそれぞれの方法で仕えている。音楽で、神職として、病と闘いながら、水底にいることで、おいしいコーヒーと料理と笑顔で。瑠水と真樹も二人なりの方法で仕えることが出来る。この奥出雲で、風を感じながら。
病室のベッドでは、次郎が肩で息をしていた。息をする限り、希望を持ち続ける。かつて、生馬真樹に語った言葉を、次郎は思い浮かべた。
次郎には確信があった。あの二人は一緒になるだろう。千年前の瑠璃媛、この世で数年だけ一緒にすごした新堂ゆり、二人の媛巫女が次郎の前から姿を消して、彼自身の『妹神代』も去り、次郎の心は何度もくじけそうになった。けれど、樋水はくじけなかった。次郎の目の前で、新しい希望が育っていく。
瑠水と真樹のカップルは、樋水の新しい至福の風になるだろう。そして樋水には、生まれ変わりかどうかに限らず、永遠に新しい媛巫女と背の君、そして至福の風が鎖として繋がり伝わっていく。そして、次郎もいずれ、あの瀧壺の底の歓喜の光に加わることが出来るだろう。次郎は希望に満ちて息を吸った。
(初出:2011年4月 書き下ろし)
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