【小説】モンマルトルに帰りて
今日の小説は、「scriviamo! 2023」の第8弾です。TOM-Fさんは、『花心一会』の外伝的な作品で参加してくださいました。ありがとうございます!
TOM-Fさんの書いてくださった 『ソリチュード ~La Route semée d’étoiles~』
TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。現在メインで連載なさっているのは、古事記と日本書紀に見える衣通姫伝説を下敷きにした古代ミステリー『挿頭の花 -衣通姫伝説外伝- 』。もともとの記紀にある人物がみなさんアレなので、もちろんものすごい展開なのですが、そのシチュエーションの中で胸キュンの純愛を織り込むという離れ業に感心しながらドキドキ読ませていただいています。そんなTOM−Fさんは、「scriviamo!」も皆勤、いつも全力で剛速球を投げてくださり、必死で打ち返しております。
さて、『花心一会』ワールドの若い(むしろ若すぎる)家元誕生の成り行きが明かされた今回のお話、ストーリーからいったら当然のことながら華道に対する知識がとても大切なポイントになっているのですよ。お返しを書き始めて困ったのがこれでした。私、全然わかっていない……。
なのにあえて火中の栗を拾いにいってしまいました。以前ヒロインの方のお家元がたった1人のために生ける『花心一会』をなさる様子を勝手に書かせていただいたことがあるのですが、今回はお母様にも無理やりです。ああ、玉砕しそうな予感。でも、レネがメインだから、逃げ切れるかな……。うう、ごめんなさい。
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【参考】
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大道芸人たち・外伝
大道芸人たち・外伝
モンマルトルに帰りて
——Special thanks to TOM−F-san
「やっぱり迷惑なんじゃないかなあ……」
「いや、連絡したときにはそんな感じじゃなかったって」
ここに来るまでに、3回は繰り返した問答を、レネと稔はもう1度した。稔は、つい1週間ほど前に訪れたアトリエの呼び鈴を鳴らした。
中から現れた
今日の装いは落ち着いた紫の絞り小紋に、蒲公英の柄が微笑ましい濃い緑の名古屋帯。この色の組み合わせは早蕨襲、春を感じさせる。そうか。もう3月になったんだっけ。
「お忙しいのに、無理なお願いを聞き遂げてくださり感謝します。彼が、電話で話したレネ・ロウレンヴィルです」
「マダム・ミナセ、はじめまして。どうぞよろしく」
「どうぞよろしく。そんなに恐縮しないでくださいね」
そこは、パリの真ん中にあるというのに、東京以上に日本を感じさせる空間だ。
日本ブームがヨーロッパに広がってから、各地でそれらしい和室を目にしてきたが、畳が正方形だったり、障子の桟が白く塗られた合板だったりと、どこか「なんちゃって」感を否めない和室が多かった。そうした和室は、スーパーで売られる「SUSHI」と同じ香りがした。サーモンとアボカド、またはやけに鮮やかなトビコの安っぽさを眺める度に、「日本はそこまで近くはない」と感じ、かつ自分の方が日本を知っているのだとつまらない自負心を満足させるのだ。
だが、このアトリエには、稔が逆立ちしても叶わない日本文化の真髄が感じられた。
小上がりの座敷には、きちんとした炉が切られている。窓はわざわざ円窓にしてある。
この部屋を維持するのがいかに大変か、稔はよく知っている。日本にいれば電話一本で畳屋が来てくれるし、障子が破けてもホームセンターに行けば簡単に新しい障子紙を購入できる。梅や桃、桜や椿などもさほど苦労せずに入手できるだろう。極上の茶や主菓子も同様だ。
だが、ヨーロッパで、これだけの完璧な日本を維持するのは、並大抵のことではない。もちろんパリは大都会なので、日本人のネットワークを使えばそれは可能だろう。でも、この人は、日本人会などで同国人と固まっているタイプには見えない。まあ、俺には関係ないけれど……。
煎茶とともに小ぶりの大福餅が出てきた。和菓子の大好きなレネの顔が喜びに輝いたのを見て、稔は「本題を忘れるなよ」の意味を込めて肘で小さくつついた。
「それで、私に作ってほしいというのは?」
本題は、彼女の方から切り出してくれた。
「先日、ここにお伺いした日に、水無瀬さんのことを特別な人のための特別な花を生けるプロだって説明したんです。そしたら、彼が花をお願いできないかって……。ただ、俺はうまく訳せなくて英語でフラワーアレンジメントって言ってしまったので、生け花との違いも説明していただけると助かります」
そう言って稔は、レネに顔で続きを促した。
「ある女性のためにブーケかアレンジメントを作っていただけませんか」
レネが頼んだとき、愛里紗の顔にはなんとも微妙な表情が浮かんだ。おそらくそれは、この異国で先入観と無知に彼女の華道がフラワーアレンジメントと混同されたときの一瞬の抵抗なのかもしれないと、稔は思った。
愛里紗は、けれど、レネの頼みを簡単に断るようなことはしなかった。
「大切な女性への花なのかしら?」
「はい」
稔は「ふうん」という顔をした。ヤスミンはここに来ていないとはいえ、義理堅く一途なブラン・ベックがわざわざ特別な花をねぇ。
「承るかどうかを決める前に、どんな目的なのかを訊いても差し支えないかしら?」
愛里紗は、英語で話し続けている。レネとだったらフランス語で会話した方が早いだろうに、稔が同席しているのでそうしているのだろう。
「もちろんです。僕はここにいるヤスたちと出会って大道芸人として暮らし出す前は、ここパリで暮らしていました。その時に出会った女性です」
レネはゆっくりと語り出した。
レネにとって、パリの日々にはつらい記憶が多い。手品師の専門学校を終えて希望を持って花の都に上がってきたものの、ショーの花型になるどころかまともな稼ぎを得ることすら難しかった。
モンマルトル界隈のナイトクラブを転々として、はじめはホールスタッフと変わらぬ扱いを受けた。ようやく前座としてマジックショーを披露できるようになるまでは数年かかり、その間にもいろいろな人に利用されたり出し抜かれたりしながら、いつかは手品だけで食べていける日を夢見て暮らしていた。
恋もした。もともとはホールスタッフとして勤めだしたジョセフィーヌが、レネのアシスタントとして一緒にショーに出演することになってからは、彼女に夢中になった。
ええっ。その女かよ。稔は話を聞きながらぎょっとした。そいつ、ライバルに寝取られた同棲相手だろ?
「お花を贈りたいのは、その方?」
愛里紗が、口をはさむと、レネは首を振った。
「違います。彼女に、僕は夢中だったけれど、ジョセフィーヌはこの街で僕の味方になってくれた人ではなかった。それはエマだけだったと、今になって思うんです」
「エマ?」
稔は思わず訊いた。一度も聞いたことのない名前だったから。
レネは、頷いて彼のパリでの物語を続けた。
ムーラン・ルージュをはさんで、レネの勤めるナイトクラブとちょうど反対ぐらいの距離に小さい煙草屋があった。そこには店の染みのような小さな老婆がいて、いつもなにかに対して文句を言っていた。
「この頃の政治家ってのはなってないね。きれいな顔をして偽善的なことを口にすればまた当選するとでも思っているのかね」
「あんたの横柄な態度になぜこのあたしが我慢しなくちゃいけないのさ。嫌なら2度とこの店に足を踏み入れなければ良いだろ」
「あんたは母国がサッカーに負けたからって、周り中に当たり散らす権利なんかないんだよ」
「禁煙がトレンドだって? ひとの商売の衰退をわざわざ告げに来るとはいいご身分だね」
それがエマだった。
レネは煙草の類いは何も嗜まないので、この店に入るときはチョコレートを買うときだけだった。他の店にはない故郷プロヴァンスの小さな工場で作っている銘柄がこの店にはあったのだ。
レネにとって忘れられない思い出がある。
それは、パリを去った夏のことだ。ナイトクラブからクビを言い渡されたレネは、とぼとぼと帰り道を歩きながら、故郷の懐かしいチョコレートで心を慰めようとエマの煙草屋に入った。
レネは、思わず涙をこぼした。今日の午後、買い物から帰ってアパルトマンのドアを開けたら、なぜか同じナイトクラブで働くラウールが、ジョセフィーヌとベッドの上にいた。それだけでもショックなのに、出勤した途端にオーナーから彼のマジックショーは、今後ラウールとジョセフィーヌがやるのでお前はもう来なくてもいいと宣告されてしまったのだ。
自分の要領がよくないことはわかっていた。ラウールが優れた容姿で客たちから人氣があることもわかっていた。でも、真面目に精一杯生きてきたのに、こんな風に何もかも取りあげられたのかと思うと、やるせなくて涙が止まらない。
エマは「商売の邪魔になるから泣くな」などとはいわなかった。レネが落ち着くまで待って、話を聞いてくれた。今になって思えば、この街で、レネが自分の弱さや悲しみを吐露できたのは、これが初めてだった。
「あの雌狐なら、そのくらいのことをしても不思議じゃないと思うね。だから何度もいっただろ。あの娘には温かい血が流れていないって。あんたがこのチョコを勧めたとき、小馬鹿にしてそっちの大量生産のチョコをわざわざ買ったことがあったよね。人の思い出を踏みにじるようなヤツは、どんなに見かけがよくても中身は爬虫類と一緒だ」
レネは、それを聞いてよけい強く泣いた。ジョセフィーヌが、彼の故郷のあらゆる物を馬鹿にしていたことを思いだした。見下されていたのは彼の生まれ故郷ではなくて、彼自身でもあったのだと思うと情けなくて逃げたしたかった。
「仕事も恋人もなくなって、僕はどうしたらいいんだろう」
また1からこの街で手品をやらせてくれる場を探すかと思うと、レネは心から途方に暮れた。
エマは冷徹にも思える調子で言い放った。
「そもそもこの街はあんたみたいな弱くて純なヤツには向いていないんだよ。ここを離れるのが一番だ」
レネは言葉を失った。ようやくパリに慣れてきたと思ったのに。少し間を置くと、おずおずと言った。
「でも、どこにいったら……?」
エマは、少し温かく思える調子に変えてゆっくりと言った。
「南へお行き。あんたの故郷のプロヴァンスでも、もっと南の地中海でも、どこでもいい。ただし、ニースみたいなスノッブでおかしな人間の集まるところに行っちゃダメだ。広くて、大地に足をつけて人びとが助け合いながら生きている土地に行くんだ。最初にいったところにはいなくても、どこかには必ずいる。それを探すんだね。あんたの正直で優しい心持ちを大切にしてくれる輩がね。それを見つけたら、それがあんたのいるべき土地さ」
稔は、思わずレネの顔を見た。レネは、稔の目を見返して、はにかみながら笑った。
「その通りになったのね」
愛里紗が問う。
「はい。僕は、コルシカでこのヤスに会いました。それから、他の生涯の友達にも」
エマの直接的でお節介なアドバイスが、あの時レネをコルシカ島に向かわせた。悲しみに押し潰れることなく、新しい人生を探すための必要な背中のひと押しをしてくれたのは、店の染みのような小さな老婆だった。
「わかったわ。その方へ捧げるお花、ぜひ私に作らせてちょうだい」
愛里紗が微笑んだ。
「ありがとうございます、マダム」
レネが前のめりで礼を言う。
「でも、1つだけ確認したいの。西洋で作るいわゆるフラワーアレンジメントは、全方向から見られることを意識して作るものだけれど、日本の生け花というのは、たった一つの方向から見ることを想定してデザインするものなの。その方がどのように受け取るかのシチュエーションは決まっていたら教えてほしいわ」
愛里紗が訊くと、レネははっとして、1度下を見てからふたたび愛里紗の目を見据えた。
「正面は……どういえばいいのか。墓石の上に載せるので……。彼女はモンマルトル墓地に眠っているそうですから」
その言葉に、稔と愛里紗が同時に息を飲んだ。
「エマ・マリー・プレボワ ここに眠る」
小さな墓石は、必死で探さないと見過ごしてしまいそうだった。エドガー・ドガ、モーリス・ユトリロ、エミール・ゾラ、アレクサンドル・デュマといった錚々たる有名人の墓は大きく立派だが、そのモンマルトル墓地には、地域の一般人も埋葬される。
まだ、春といっても早いので、陽光は弱く柔らかい。周りの木々には膨らんだ芽はあるが若葉が現れるにはまだしばらくかかるだろう。
「お。来た来た」
稔が手を振ると、かなり向こうから蝶子とヴィルがこちらに向かってくる。
「ごめん。私たちが先につくぐらいだと思ったのに」
「探していた墓は、見つかったのか? ランパルだっけ?」
「ええ。せっかくここに来るんなら、お詣りしたくてね」
フルートの名手であったジャン・ピエール・ランパルも、モンマルトル墓地に眠っている。そういえば、ブラン・ベックはハイネの墓の場所を探していたから、後でそこに行くんだろうな、と思った。
「それが、例の日本人に作ってもらった花か」
ヴィルが珍しく明らかに感銘を受けたとわかる顔つきで訊いたので、稔はそうだろうなと思った。
レネは頷いた。手にしているのは半球型に盛られた、花かごだった。といっても花器として使われている籠は苔山で覆われほとんど見えない工夫がしてあり、まるで何もないところに偶然にも木や草花が育ったかのように見える。
1度左に向かってから弓なりに右に向かう盆栽のような枝振りの木はミモザだ。黄色い花が力強く明るく咲いている。そして、根元に絶妙なバランスでいけられたのは、フランス人のこよなく愛する『
レネがその籠を墓石の上に置くと、まるで彼女の墓から草花が遅い春を待てずに萌えだしたかに見えた。
「すごいわね。ここまでフランスっぽい素材だけを使っているのに、これはフラワーアレンジメントじゃなくって華道だってわかるように作れるものなのね……」
蝶子が感心してつぶやいた。
亡き人を悼む草花は弱い風にそよいでいる。
レネは、眼鏡を取ると涙を拭った。エマの声が蘇ってくる。
「くよくよするんじゃないよ。あんたが悪いんじゃない。今のめぐり合わせとの相性が悪いだけさ。あんたにふさわしい居場所はきっとあるからね」
(初出:2023年3月 書き下ろし)
【小説】そして、1000年後にも
今日の小説は『12か月の○○』シリーズの新作『12か月の建築』1月分です。今年は、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめていくつもりです。
トップバッターは、今年もこのブログでもっとも馴染みのあるグルーブArtistas callejerosです。テーマの建築は、ポン・デュ・ガールです。南フランス、ガルドン川に架かるローマ時代の水道橋です。
このストーリーは本編とはまったく関係がないので、本編をご存じない方でも問題なく読めます。あえて説明するならヨーロッパを大道芸をしながら旅している4人組です。

【参考】
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大道芸人たち・外伝
そして、1000年後にも
陽光は柔らかく暖かいものの、弱々しい。ブドウの木はまだ眠っているようだし、地面の草の色もまだ生命の喜びを主張しては来ない。何よりも浮かれたバカンスを満喫する車とすれ違うことがまったくない。南仏の田舎道は、慎ましくひっそりとしている。
だが、国道100号線を走るこちらの車の内側がシンと静まりかえっているかといえば、そんなことはない。今日ハンドルを握るのはヴィルだ。助手席にはフランス語の標識に即座に反応できるという理由でレネが座ったが、そもそも迷うほどの分岐はほとんどなかった。
日本人2人組は、道を間違えてはならないという緊張もないためか、時に歌い、時に笑い、そうでなければ、ひきりなしに喋り続けていた。
「そういえば、今日のお昼に食べたあの料理、なんて名前だったかしら?」
レネの母親シュザンヌが作る料理は、素朴ながらどれも大変美味しいのだが、今日の昼食はいつもよりもさらに手がかかっていた。ひき肉を薄切り肉で包み、さらにベーコンでぐるりと取り巻いてからたこ糸で縛ってブイヨンで蒸し煮にしてあった。ワインにもよくあって、蝶子は氣に入ったらしい。
「メリー・ポピンズみたいな料理名だったよな?」
稔が適当なことを口にする。蝶子は呆れて軽く睨んだ。絶対に違うでしょう。
「ポーピエットですよ」
レネが振り返って言った。
「今日のは仔牛肉で作っていましたが、白身魚で包んだり、中身を野菜にしたり、いろいろなバリエーションがあるんですよ。煮るだけじゃなくて、焼いたり揚げたりすることもありますし」
「ああ、それそれ。美味かったよな。それに、あのチョコレートプリンも絶品だったよなあ」
普段あまり甘いものに興味を示さない稔がしみじみと言った。
バルセロナのモンテス氏の店での仕事を終えて、イタリアへと移る隙間時間に、4人はアヴィニョンのレネの両親を訪ねた。例のごとく大量のご馳走で歓待され、レネの父親のピエールとかなりのワイン瓶を空にした。それで、4人は今夜も大量に飲むであろうパスティスやその他の酒瓶、それに食糧を仕入れに行くことにした。そして、ついでに『ポン・デュ・ガール』に足を伸ばすことにしたのだ。
『ポン・デュ・ガール』は、ローマ時代に築かれたガルドン川に架かる水道橋だ。高さ49メートル、長さ275メートルのこの橋は、ローマ帝国の高度な土木技術が結集した名橋だ。レネの両親の家から30分少し車を走らせれば着くと聞いて、蝶子が買い出しのついでに行きたがったのだ。
世界遺産にも登録されたためか、駐車場と備えたビジターセンターがあり、そこで入場料を払う仕組みになっていた。ミュージアムの入館料も含んでいるので、橋を渡るだけにしては若干高いが、歴史的建造物の維持に必要なことは理解できる。
4人は、ミュージアムを観るかどうかは保留にして、とりあえず橋を見にいくことにした。センターを越えてしばらく歩くと行く手に橋が見えてくる。深い青空をバックに堂々と横たわるシルエットは思った以上に大きかった。
さらに近づくとその大きさはこちらを圧倒するばかりになる。黄色い石灰岩の巨石1つ1つを正確に切り出して積み上げている。これを、クレーンもない時代に作ったことに驚きを隠せない。
「こんなに高くて立派な橋を作ることになったのはどうして?」
「今のニームにあったローマの都市で水が不足して、ユゼスから水を引くことになったんです。それで、この川を渡る必要ができたんだそうです」
アヴィニョンの東にある水源地ユゼスから、ネマウスス、現在のニームまで水を引くためにはいくつもの難関があった。ユゼスとネマウススの間には高低差が12キロメートルしかなかったので、1キロメートルごとに平均34センチという傾斜を正確に計算し、時に地表を走らせ、時に地中を走らせつつも、幅1.2メートル、深さ1.8メートルの水路を全行程に統一させた。越えられぬ山を通すためにセルナックのトンネルが掘られた。そして、最大の難関がこの渓谷だった。ローマ人は、この難関を奇跡ともいえる建造物を使って克服したのだ。それが、ポン・デュ・ガールだった。
その3層のアーチ構造は、強度を保ちながら少ない材料で橋を高くする合理的な設計だ。それぞれのアーチは同じサイズに揃えられ、部分の石の大きさも統一されている。プレハブで建物を作るように、同じ大きさの部品を大量に作り一氣に建築する方法によって、ポン・デュ・ガールはわずか5年で完成したという。
3層構造と文字で読むと大したことがなく感じられても、実際に目にするとその大きさには圧倒される。49メートルとは、14階建てのビルに匹敵する高さなのだ。1つ6トンもの石を4万個も積み上げたのは、最上階を走る幅1メートルあまりの水路のためだが、その下を歩く人びとにも大きな助けとなり、ローマの土木技術の正確さと、当時の帝国の栄光を2000年経った今も伝えるのだ。
4人を含める観光客が自由に歩き回れるのは、19世紀にナポレオン3世が修復し加えられた最下アーチ上の拡張部分だ。ごく普通の橋であれば、ずいぶん広くて堂々としていると感じるのであろうが、古代ローマ時代の大きく太い橋脚がそびえ立つので、小さな部分のように錯覚してしまう。
水道のある上部は、予約をしたガイド付きツアーの客のみ上がれる。1日の人数制限もあり、思いついて行けるような所でもないらしい。
「子供の時に一度登りましたが、足がガクガクしました」
「ここも、高所恐怖症の人には十分怖いかもしれないわね」
眼下を流れるガルドン川は、紺碧というのがふさわしい深い青の水だ。周りの白っぽい岩石とのコントラストが美しい。
常に穏やかな流れではないガルドン川は、時には大きな濁流となって地域を脅かすこともあった。ポン・デュ・ガールが、長い歴史の中で修復・補強されながらも、現在もこのように立派に経っていることには畏怖すら感じる。それは、大きな水圧にも耐えるよう計算し尽くされた古代ローマの土木技術の賜だ。
「他の地域に大きな被害をもたらした2002年のガルドン川の増水と氾濫でも、この橋はびくともしなかったんですよ」
レネは、説明する。
「水道としての役割はとっくになくなりましたが、橋としては今でも現役ですし、それに、夏には、ここでピクニックをする人がたくさんいるんですよ。2000年前の建造物ですが、人びとの生活や楽しみからかけ離れていない存在なんです」
もちろん、1月はピクニックには寒く、河岸でたくさんの人が寛いでいるわけではなかった。
駐車場方向に戻る途中に、古いオリーブの木が目に入った。レネが3人をそちらに連れて行った。
「ずいぶん古い木ね」
蝶子がいうと、レネは片目を瞑った。
「単なる古い木じゃありません。樹齢1000年を越えているんです」
「ええっ?」
傍らに石碑がおいてある。その石碑自体が古くて半ば崩れたようになっているので、言われるまでそれが石碑だと氣がつかなかった。
Je suis né en l'an 908.
Je mesure 5 m de circonférence de tronc , 15 m de circonférence souche.
J'ai vécu, mon passé , jusqu'en 1985 dans une région aride et froide d'Espagne.
Le conseil général du Gard, passionné par mon âge et mon histoire m'a adopté avec deux de mes congénères.
J'ai été planté le 23 septembre 1988.
Je suis fier de participer au décor prestigieux et naturel du Pont du Gard.
「『私は908年に生まれました。幹周りは5m、株の周りは15mです。1985年までスペインの乾燥した寒い地方に住んでいました。私の年齢と経歴に魅了されたガールの総評議会は、私を2人の同胞とともに養子として迎え入れ、1988年9月23日にここに植樹しました。ポン・デュ・ガールの格調高い自然環境の一端を担えることを誇りに思います』」
レネが、碑文を訳した。
「908年って、日本だと平安時代かしら?」
「確かそうだろ。ほら、菅原道真が遣唐使を廃止したのが894年だったよな」
「ヤスったら、よくそんな年号覚えているわね」
「平安時代だと、『鳴くよウグイス』とそれ以外は何も覚えちゃいないけどな」
4人はオリーブの木と、向こうに見えているポン・デュ・ガールを眺めた。
「こういうのからすると、俺たちの経験してきた数十年なんてのはほんの一瞬なんだろうなあ」
稔がしみじみと言った。
「そうね。人間というのは、ずいぶんとジタバタする生き物だって思っているかもしれないわね」
蝶子は、老木の周りを歩いて風にそよぐ枝を見上げた。
「新たな技術で何かを築き上げては、戦争をして壊しまくる。豊かになったり、貧しくなったり忙しいヤツらだと思うかもな」
ヴィルはポン・デュ・ガールの方を見て言った。
「僕が子供の頃と較べても観光客や地元民の様相は変わったけれど、この樹々とポン・デュ・ガールは全く変わらない。ただひたすら存在するって、それだけですごいことだと思いますよ」
人間がそれほど長く生きられないことはわかっている。いま、自分たちが親しんでいるほとんどの物質や文化も、1000年後には姿形もなくなっていることだろう。
それでも、何かは過去から残り、未来へと受け継がれていく。この古木やポン・デュ・ガールのように。
「1000年後のやつらも、同じようなことを思うのかなあ」
稔はポツリと言った。
「残っていたら、きっと思うわよ」
蝶子がいうと、レネは心配そうに言った。
「残りますかねぇ」
「俺は、現代の人類がよけいなことをしなければ、残ると思うな」
ヴィルは言った。
4人は、彼らと同じ時間ならびにその後の時間を生きる人類が、素晴らしい過去の遺産や生命を尊重し続けるように心から願いながら、再びレネの実家に戻っていった。
(初出:2023年1月 書き下ろし)
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【小説】動画配信!
今日の小説は「scriviamo! 2022」の第4弾です。ユズキさんは、サウンドノベルでご参加くださいました。ありがとうございます!
ユズキさんのサウンドノベル 「scriviamo! 2022 参加作品」
ユズキさんの記事「初サウンドノベル」
ユズキさんは、小説の一次創作やオリジナルのコミックを発表、それにイラストライターとしても活躍なさっているブロガーさんです。代表作であるファンタジー長編『片翼の召喚士-ReWork-』と、その続編『片翼の召喚士-sequel-』、そして、同じくアルファポリスで公開をはじめたばかりのパロディ漫画『片翼の召喚士if』などもとても素敵です。そして大変お忙しい中、私の小説にたくさんの素晴らしいイラストも描いてくださっています。
今回作ってくださったサウンドノベルも、既にたくさんイラストを描いてくださりコラボも幾度もしていただいた当ブログの『大道芸人たち Artistas callejeros』ものです。なんと、4人がコロナ禍でロックダウンにあい、外で稼げない代わりに動画配信をはじめるというもの。タイムリーな話題で面白く乗らせていただきました。動画配信、はじめるそうです。
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大道芸人たち・外伝
動画配信!
——Special thanks to Yuzuki-san
「さて。やるとは決めたものの、どうやるかな」
稔は、チベッカ・ビールの瓶を傾けた。チベッカはバルセロナが本拠地Damm社のセルベッサ銘柄でお手頃価格な上、爽やかで飲みやすいのでここのところ稔が愛飲している。
「まあ、とりあえず配信用のチャンネルの登録はしましたよ。『La fiesta de los artistas callejeros』事務局名義で」
レネが、ブラウザの画面を指さした。
すでに何度目になるかわからないロックダウンで、大道芸も商売あがったり状態の4人は、暇を持て余していた。本来ならば、今ごろはカデラス氏の店で恒例のディナーショーで稼いでいるはずだったのだが、バルセロナ入りした途端に理不尽なロックダウンにあってしまったのだ。
「何度同じことすりゃ、氣が済むんだよ、まったく」
「ついこの間までは二酸化炭素排出を抑えて、氣候変動を止めるためのロックダウンでしたよね」
「その前は、例の疫病だろ? もういい加減にしてくれ」
「なんだかわからないけれど、人びともうんざりでしょうね。ロックダウンと、反ロックダウンデモの繰り返しって不毛だと思うんだけれど」
サロンに入って来た蝶子がため息交じりに言った。
「半年後のフィエスタだって開催できるか赤信号だし、こっちも本当にいい迷惑だよ」
稔が事務局長をつとめている『La fiesta de los artistas callejeros』、通称フィエスタは、世界中からの大道芸人たちが一堂に会する大道芸人たちの祭典だ。だが、国境が封鎖されたり、飛行機が突然飛ばなくなったり、入国する度にやたらと高額な検査を要求されるようになったりすると、大道芸人たちも簡単には来られない。観客ともなるとなおさらだ。
ロックダウンで仕事もなくなり、当面は滞在中のカルロスの屋敷で酒飲みに明け暮れるしかない4人は、とりあえず暇な時間を利用してフィエスタが現地で開催できない場合の代替案としてネット空間上でのフィエスタ開催を模索することにした。だが、それ以前に彼ら自身が動画配信サービスを利用したことすらない状態はまずいだろうということになり、動画配信にトライすることになったのだ。
チャンネル登録はしたものの、何を配信するかという話になるとまとまらない。
「1億回再生って、ホンキの目標かよ」
「あれはヴィルの渾身のジョークでしょ?」
「あれでジョーク?!」
蝶子は、片手に持っているグラスからシェリーを飲んだ。
「いきなり儲けようとしても、そうは問屋が卸さないでしょ。まずは私たちらしい映像で、他の動画配信とは違う部分をアピールする方がいいんじゃない?」
稔は、腕組みをしながら答える。
「俺たちらしいか。大道芸パフォーマンスや演奏はもちろん入れるとして、それだけでない売りになる映像もほしいよな」
「大道芸だけで勝負しないと、またテデスコが邪道だと怒るんじゃないですか?」
レネは心配そうに言った。
「いや、俺たちの大道芸だけでなく、フィエスタの魅力を伝える目的もあるからさ。ロックダウンがこのまま続けば、この動画チャンネル上でフィエスタを開催することになるだろうし、反対にその時期にはアンロックされていたら、このチャンネルが参加者や観客に来場を促進するような内容でもあるべきだろう? だったら、俺たちの大道芸だけのアピールじゃ困るんだよ」
レネは「なるほど」と頷いた。
「じゃあ、バルセロナの魅力を混ぜますか?」
「いいわね。私たちの現状を伝えるだけじゃなくて、アンロックされた場合は開催地のアピールにもなるしね」
「だけど、基本外出禁止なのに、どうすんだよ」
稔が口を尖らせた。
「買い出しがチャンスだ」
3人が顔を向けると、戸口にヴィルが立っている。手にはやはりチベッカの瓶を持っている。
ロックダウン中は、外出許可無く住居を離れることは許されていないが、週に2度ほどめぐってくる「買い出し外出許可」の時だけは別だ。基本的には、住居と買い出しをする店との往復しか許されていないが、外に出られることは間違いない。
「買い出し先をできるだけ遠い店にして、途中の光景を動画に収める」
「なるほど。できるだけ絵になる地域を通って買い出しに行くわけだ。スマホを掲げていると目立つし、警察に難癖つけられる可能性もあるので、機材をどうにかしたいな」
「だったら、これよ。こんなに小さいのに手ぶれ補正までついたアクションカメラ」
なにやら検索をしていた蝶子が示しているWEBサイトには、親指ほどの大きさの白いカメラを胸元につけて動いているモデルが映っている。アクションカメラの商品説明のようだ。
「へえ。小さくて軽い。ハンズフリーでも、手で持っても使える。軽く走ってもぶれない補正。いろいろな場所に固定してさまざまな角度から撮影可能か。この最後の機能は、パフォーマンスを撮るときにも上手く使えそうだな」
「しかも、この充実した機能なのにさほど高くないんですね」
「どう、ヴィル?」
「いいんじゃないか? ある程度の映像を貯めて、それを編集だな」
飲みながら4人はある程度のプランをまとめた。ロックダウンで街頭にはほとんど人がいないが、プロモーション的な観光地の映像を撮るにはかえって好都合だ。そして、同時進行でメインとなるパフォーマンスをこのカルロスの屋敷の敷地内で撮影し、最終的に別に録音した彼らの演奏と組み合わせる。
「よし、じゃあ、行動開始だ。お蝶、お前はギョロ目に穴場的な映りのいい場所を訊いてこい。ガウディだけじゃ芸が無いからな。ブラン・ベックはイネスさん情報をもらってきてくれ。ヴィルは、動画編集のコツやどうやって映える映像を撮るのかを少し研究しくれ。他にも必要な機材があったらまとめておいてくれよな。俺は、ここのでかい敷地内でどこを上手にパフォーマンスの背景に使えるか、ロケーション選定する。そして、行動中にどのパフォーマンスがいいか、曲はどれが映えるか各自考えておくこと。OK?」
稔は、何度も滞在してすっかり慣れたコルタドの館の中を散策した。改めてみると豪華だよな、ここ。
エントランスホールの白い大理石の床の真ん中に置かれた大理石の丸テーブルの上には赤い大きな花瓶が置かれ、いつもトロピカル調の艶やかな花が生けられている。白い天井には黒檀の柱が並行に張り巡らされて、同じ色の階段の手すりやドアがどっしりとした印象を強めている。
パブリック・エリアは天井が高く、大広間は外壁と同じ白と灰色の石の壁に黒檀の重厚な天井。壁面の多くが大理石アーチで修飾されており、下がるシャンデリアは真鍮製だ。普段使う食堂ですら、一般的日本家屋で育った稔には広すぎるくらいだ。
プライヴェート・エリアになっている2階と3階には大小合わせて20以上の部屋がある。稔が滞在の度に自室として使わせてもらっている部屋には、天蓋付きのダブルサイズのベッド、彫刻を施した木製のライティングビューローと椅子、ソファとローテーブル、それにワードローブの他に、とても高いのだろうなと思うアラベスク文様の陶製の壺を使ったランプが置かれている。
アラブ風のタイルで装飾された中庭には、六角形の噴水を中心にオレンジや椰子の木が植えられていて、初めて見たときはアルハンブラ宮殿かよとツッコんだものだ。
玄関と門の間は、内部が見えないようにちょっとした林のようになっていて歩くとけっこうな散歩になる。また裏庭の方はさらに広くて、数カ所の東屋やちょっとした植物園となっているエリアの他に、馬小屋や豚小屋などがあって、庭は稔の散歩コースになっていた。
どこを背景にしても絵になることは間違いない。だが、自分の家ではないし、場所が特定されないように細心の注意をしなくてはならないし、よからぬことを考える人に盗む価値のあるものがあると教えるようなことも避けなくてはならない。
東屋や中庭、それに階段の踊り場でのパフォーマンスは問題ないだろう。それに大広間ではかなり背景をぼかしたり、人物やピアノに寄ったりして、高そうな家財が映らないようなアングルにするか。
それに街を歩きながらの手品や演奏なども少し試してみるか。それだけじゃなくて、他に何かないかな……。
稔はいったん邸内に戻り、自分用と、書斎でPCに向かっているヴィル用に新しいチベッカの瓶を持っていった。
「撮影中に左右にカメラを動かすパンや、ズームをやたらとすると素人っぽいブレやおかしな動きになるので、多用しないほうがいいらしい。それに、何かを撮るときは1カット10秒くらいはとっておき後から編集する方がいいようだ」
「へえ。なるほど。他には?」
「1つの素材に対して、全体像のわかる『引き』と細部のわかる『寄り』の絵を撮っておき、編集でバランスよく出す。それから、自分たちの目線だけでなく、上から、斜めから、下からなどアングルを意識して素材を撮っておく必要があるな」
「なるほどね。平時と違ってなんども撮り直しにいけない分、こうした視点で準備しておくのは大切だな」
「購入したアクションカメラ1つだけでなく、同時にスマホやズームのあるコンデジカメラで撮るようにするか」
ビール瓶を渡すと、ヴィルは礼を言って受け取って飲んだ。彼は赤いラベルの『Xibeca』の字をじっと見つめた。
「これは、どういう意味なんだ?」
「カタルーニャ語でフクロウだってさ。前回の滞在の時、バルで知り合ったカタルーニャ人に奨められた。飲みやすい上に財布にも優しい値段ってのは嬉しいよな」
「これだけ何度もスペインに来ていたのに、それまで知らなかったんだから、探したら他にもこういう掘り出し物があるかもしれないな」
ヴィルの言葉に、稔ははたと思った。
「もしかして、これもいいアイデアじゃないか?」
「何がだ?」
その時、レネが息を切らして入って来た。
「僕、いまイネスさんと話していて思ったんですけれど……」
「なんだ、ブラン・ベック」
「僕と話しながら、イネスさん、ものすごい手際の良さでタパスを作っていたんです。それを見ていたらこういうのが映ったら、みんなスペインやバルセロナに来たくなるんじゃないかなって」
稔は、笑って立ち上がった。
「ちょうど俺もいま、このビールみたいに知られていない美味いものを映すのはどうかなって思っていた所なんだよ」
蝶子が入って来た。
「ねえ。市街地しか歩けないかと思っていたけれど、シウタデヤ公園を横切るように通れば、かなり絵になる映像が撮れそうよ。それに、そのあたりボルン地区のサンタ・カタリナ市場が閉鎖されていなければ、そこを目的地ににするといいかもって。カタルーニャ音楽堂のファサードなども上手く撮れるんじゃないかって」
「よし。じゃあ、次の買い出しの日にボルン地区に行こう。そこで撮影してくるバルセロナの風景。それに、このビールやワインやシェリー酒、それにイネスさんが作っているスペインらしい料理の数々などの映像と、この館のあちこちで撮る俺たちのパフォーマンスを組み合わせようぜ」
「ヤスの好きなイベリコの生ハムもな」
「甘いものも忘れないでくださいよ」
「いいわね。フィエスタに興味を持ってもらえるだけでなく、ロックダウンの鬱屈を忘れられて、これが終わったらバルセロナに絶対に行こうって思ってもらえる映像になりそう」
旅に対する憧れと、自由への讃美を映像に込める。それは、そもそも4人がこの長い旅をはじめた理由に繋がる。計画が楽しくなって、4人は改めて盃を重ねた。今夜もまたたくさん飲むことになりそうだ。
(初出:2022年2月 書き下ろし)
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【小説】ある邂逅
今日の小説は『12か月の○○』シリーズの新作『12か月の楽器』1月分です。今年は、楽器をテーマに小さなストーリーを散りばめていくつもりです。
トップバッターは、このブログでもっとも馴染みのあるグルーブArtistas callejerosです。テーマの楽器は、三味線なんだか、ギターなんだか……。どちらかに絞ることのできない稔の話なので、どっちでもいいですよね。時間軸が2つあって、ひとつは第2部で扱っている「現在」で、もう1つはArtistas callejerosを結成する4年も前、稔が失踪した年です。
また、三味線にお詳しい方々からのツッコミを受けそうな話ですが、素人が調べて書く限界ということでお許しください。

大道芸人たち・外伝
ある邂逅
バルセロナで過ごすいつものクリスマスシーズンは間もなく終わり、移動の時期が近づいている。仕事の合間に飲み騒ぐだけでなく、新しいレパートリーを準備する4人を見て、「そろそろこんな時期か」と思い出したカルロスとイネスは顔を見合わせて頷き、邪魔をしないようにそっとサロンの扉を閉めた。
コモ湖でまもなく始まるショーでは、南米の曲を中心にプログラムを組んでほしいとオーダーが来ていた。すでに何度かプログラムに入れたことのあるピアソラ、レネが歌うルンバ風にアレンジした『Abrazame』など慣れたレパートリーはあるが、せっかくだから新しい曲にも挑戦したいと一同の意見が一致した。
現在、稔が練習している『ブラジル風バッハ』は、20世紀ブラジルの作曲家エイトル・ヴィラ=ロボスの代表作だ。ブラジルの民俗音楽素材に基づき変奏や対位法的処理が行われる、楽器編成や演奏形態の異なる9つの楽曲集で、1930年から1945年までの間に書かれた。邦題としては『ブラジル風バッハ』で通用しているが、正確には『バッハ風でブラジル風の組曲(Bachianas Brasileiras)』という意味だ。
「第5番ね。そもそもギターとフルートの曲じゃなかったわよね?」
象眼細工のテーブルにおかれた楽譜をめくりながら蝶子が訊ねた。横からヴィルが答えた。
「ソプラノ独唱と8つのチェロのための作品だな。もっともギターとフルート用のアレンジは前に聴いたことがある」
「そう。じゃあ、これはあなたが吹く?」
「第4番のピアノアレンジの楽譜が、ここにあるんだけどな」
稔が遠くから聞きつけて口をはさんだ。ヴィルは肩をすくめて楽譜を受け取るためにそちらへと歩いて行った。
「わかったわよ」
蝶子は観念して、楽譜を読むために窓辺に向かった。レネは既におなじヴィラ=ロボスによる『感傷的なメロディ』を練習するために寝室にこもっていた。ソプラノのラブソングだがテノールで演奏されることもあるのだ。
稔にとってヴィラ=ロボスは、特別な存在だった。彼の優れたギター曲に昔から馴染みがあったことは当然だが、それ以上にパリ滞在が彼の作曲に大きな影響を及ぼしたことにも、ある種の強い共感を感じていた。
ブラジルから大志を抱いてパリにやって来た若きヴィラ=ロボスは、当時のサロンの重鎮であったジャン・コクトーに彼の音楽は「ドビュッシーやラヴェルのスタイルの物真似」であると決めつけられた。ヴィラ=ロボスからしてみれば、異国に憧れたフランス人作曲家の方が現代の言葉でいうところの「文化の盗用」だっただろう。だが、当時のパリでは、コクトーだけでなく聴衆もまた無名のブラジル人作曲などに、興味を示すことはなかった。さらには、当時のパリではシェーンベルクやストラヴィンスキーなどがクラシック界に激震を呼び起こし、ジャズやラクダイムが新しい物好きの聴衆を熱狂させていた。
そんな中、ヴィラ=ロボスは、どれほどの自負があってもこのままでは自分の音楽がヨーロッパで認められることは難しいと自覚しでブラジルに戻る。そして、若い頃から親しんだブラジルの民族音楽「ショーロ」をモチーフに『ショーロス』を完成させる。
原生林や、巨大な植物、華やかな鳥類や花と果実、荒々しく妖しい世界。パリの聴衆はその野性味に圧倒された。ヴィラ=ロボスは、洗練されたヨーロッパの技法に、パリの聴衆が求める異国的で野性的なブラジルの熱狂を織り込むことで、フランス人には表現できない南国の薫風を戦略的にヨーロッパに送り込んだ。彼は、パリで受けた冷たい歓待をバネに、自分の音楽のアイデンティティーの一面を表現したのだ。
ギターで弾く『ショーロス』の第1番は、稔のレパートリーに早くから入っている。穏やかで聴きやすい曲だ。だが、たとえばオーケストラで演奏される第10番などは、まさに『ブラジルの野生』という言葉がふさわしい荒々しさを伴っている。
一方、『ブラジル風バッハ』は、パリで世界的名声を得ると同時に、その強調しすぎたエキゾチックさゆえに故国ブラジルの現実から乖離していく音楽を、より自分の目指す音楽に回帰させていった作品だ。名声を手にして、奇をてらってパリの聴衆の氣を引くことよりも、自らの音を表現していった。そして、結局それが彼の代表作となった。
稔にとってパリは厳しい思い出の残る町だ。旅行を終えて日本に帰るはずだった彼が、帰りの航空チケットを破り捨てて放浪の生活をはじめてから、彼は不安と後悔に苛まれるばかりだった。大道芸人としての収入は多くなかったが、それをも切り詰めに切り詰めて可能な限りの余剰金を日本に送った。欺すつもりで受け取ったわけではなかったが返せずにいた300万円を、1日でも早く婚約者となっていた幼なじみに返さなくてはと思っていた。だが、そのめどは全く立たず、たった1人で苛立っていた。道行く人びとはことさら冷たく感じられ、腹一杯食べられることもぐっすりと眠れることもほとんどなかった。
自由を楽しむ余裕はほとんどなかった。何のために逃げたしたのかも、これからどうすべきかも、日銭稼ぎに追われて見えなくなっていた。人はみな独りであることを、この時ほど強く感じ続けたことはない。
稔は、パリである種の奇跡がおこったあの日のことを思い出しながらギターを弾いていた。
稔は、2日ほど前から問題を抱えていた。唯一の財産であり、生計を立てる手立てである三味線の皮が破けたのだ。
皮がいつかは破けることを全く想定していなかったわけではない。日本では湿氣の多い夏に皮が破けることが多かった。破けないようにゆるく張るといい音が出ないので、数年に一度張り替えるのは避けられない宿命のようなものだった。だが、持ってきていたのは練習用の犬皮三味線で、猫皮よりも強いものだったし、湿氣のはるかに少ないヨーロッパで、こんなに早く破れるとは想定していなかった。
弦が切れただけなら、他の弦楽器の弦をで代用するなどして何とかすることができたかもしれない。だが、皮を張るのは素人の自分には不可能だ。
浅草の実家にいるときとは違う。楽器屋に行っても張り替えを依頼することなどほぼ無理だろう。失踪し、浮浪者同然の生活をしている稔に、楽器を修理したり新しい別の楽器を買うような金はなかった。
数ヶ月前に、粉々に引き裂いてしまったのは帰りの航空券だけではなくて、楽器の張り替えや弦の替えを用意してくれた三味線を家業とする実家との繋がりそのものだった。稔は、行き倒れても飢え死にに向かおうとも、実家や友人に助けを求める権利を持たない存在になっていた。
修理ができないか試みたり、他の動物の皮が入手できないかうろついてみたりしたが、もちろんすべて徒労に終わった。三味線以外の方法で道行く人の氣を引こうとトライしたが、相手にもされなかった。今後も三味線がなければまともに稼ぐことはできないだろう。
空腹と不安で、じきにまともに立ち上がれなくなった。それまでも、十分に食べていたわけではなかったが、氣力で生き抜いていたようなものだった。それが失せて、彼は世界から切り離され、見放されたゴミの塊のようにしぼんでいった。
目の前を人びとが通り過ぎる。誰も彼に目を留めず、視界から消し去っていた。
わずかなにわか雨が降る。濡れて意識も遠くなりながら、それでも彼は習慣に従い、使い物にもならない楽器を濡らさないように身体を折って守っていた。
「何をしている」
同じように何度か聞こえた音が、自分にかけられた声だと認識するまでにしばらくかかった。稔は、うつろな瞳をようやく上げて、自分のすぐ近くに黒ずくめの誰かが立っていることを認識した。
「何も」
答えた稔の声は、まともな音量にはなっていなかったが、目の前の人物はそのようなことには頓着しないようだった。
「日本人か」
「そうだよ」
黒衣の男は、頷いた。それからわずかに間をおいてから言った。
「このまま、ここで寝てはならぬ。死ぬぞ」
「そうかもな。でも、他にどうしようもないんだ」
「なぜ」
「三味線の皮が破れちまったから」
そこまで言ってから、稔はこの説明でわかるわけがないだろうと思った。だが、きちんと説明する氣力はなかったし、それを可能にする語学力も不足していた。少なくともそれはフランス語ではなくて英語だったので、相手の言うことはだいたい間違いなくわかった。
「それがお前の問題なら、私と一緒に来なさい」
黒衣の男は言った。
普段の稔なら、こんな奇妙な相手にホイホイと着いていったりはしない。だが、今は万策尽きていたし、警察に連行されることですら今よりもマシだと考えていたので、ふらつきながらも立ち上がった。
黒衣の男は、たくさんは語らなかった。まるで稔などいないかのように歩いたが、稔が遅れると歩みを止めて待った。彼は、石畳の道をつつき進み、小さく暗い裏通りをいくつも曲がった。それから、小さなガラスドアのついている建物の前で止まった。
稔は、そのガラスドアの横に小さな木の表札がついているのを見た。達筆で読めないが、それはどう考えても漢字の崩し字だった。日本語か中国語かまではわからなかったが。
黒衣の男は、ガラスドアを押して中に入り、稔を通してからドアを閉めた。中には、陰氣な顔つきをしたベトナム人のような服装をした老人が座っていて、黒衣の男とフランス語で何かのやり取りをしている。黒衣の男は、店主に500ユーロ札を何枚か渡した。
稔が困惑していると、黒衣の男は振り向いて言った。
「楽器は、この男に任せなさい。数日かかるそうだ。この店の3階に小さな部屋があるので、修理が済むまでそこで休むといい」
「それは、願ってもないですが、俺は一文無しです」
「それはわかっている。いま前金は払ったし、お前が満足する修理が済んだら残りを払う約束をしているので、心配ない」
「でも、そんな大金を返せるアテは当分ないのですが」
「返してもらうのは金ではない」
なんだなんだ。魂とか言い出すんじゃないだろうな。まさかね。犯罪の片棒担ぎかな。稔は不安な面持ちで黒衣の男の顔を見た。
先ほどからずっと一緒にいるのに、そういえば顔をまともに見ていなかったと思った。それは、浅黒い肌に顎髭を蓄えたアラブ系か南欧人のような顔つきの男だった。
「何をお返しすればいいんですか」
「人助けのつもりなので、無理に返してもらおうとは思わぬが、もし、何かを私のためにしたいと思うなら、個人的な手助けをして欲しい」
「具体的には?」
「私は、読めない手紙を持っている。日本人が書いたものだ。プライバシーに関することなので、翻訳会社や私を知っている日本人には頼みたくない。その意味を英語に訳してもらえればありがたい」
狐につままれたような話だった。妖しげなベトナム人店主は、稔の破れた三味線をどこかへ持って行った。稔が滞在した3日間まったく同じような陰氣な顔つきのまま、会話を試みることも経過報告も全くしなかった。3度の食事だけはトレーに載せて部屋に運び込んでくれた。そして、最初の夕飯に添えて、黒衣の男の言っていた手紙のコピーがおかれていた。
それはありきたりで、どうということのないラブレターだった。それも、差出人も受取人も普通の日本人のようだ。何か深い意味があるのか、全くわからないが、これで三味線が直るのならどうでもいいと思いつつ翻訳した。
3日目の夜に、店主は食事と共に三味線の袋を持ってきた。食事もそっちのけで中を見るときちんと修理されていた。弾いてみると前よりもよく響く。期待していなかったが、ちゃんとした修理師がやってくれたようだ。
店主がフランス語で何かを短く言った。「カンガルー」という言葉しかわからなかった。猫でも犬でもなく、カンガルーの皮を張ったととうことなのかもしれない。稔は礼を言って、翻訳の終わった手紙を見せた。店主は初めて笑顔に近い表情を見せると、嬉々として手紙を受け取った。この翻訳と引き換えに相当な金銭が約束されているのかもしれない。
そして、それだけだった。稔は、翌日その店を引き払い、再び大道芸の生活に戻った。黒衣の男と会うことは二度となかった。
4年後にコルシカ島で蝶子とレネに出逢い、Artistas callejerosを結成した。ヴィルとも出逢い、4人でドミトリーに泊まりながら、楽しく稼ぐようになった。300万円も完済し、生きる意味を疑うほどに切り詰めて暮らす必要がなくなった。音は、小銭を得るための手段から、心の糧となる音楽になって戻ってきた。ずっと触れることもなかったクラシックギターが再び手元にやってきた。
稔にとって、パリは、本当に特別な街だった。日本に帰ることを拒否して旅をはじめた街。大道芸人としてのどん底を経験し、不思議な邂逅に救われた街。そのパリに対する愛憎が、ヴィラ=ロボスに対する共感を呼び起こす。
だから、稔はいつかはこの作品をレパートリーに取り入れたいと思い続けてきたのだ。第5番の『アリア』は、ヴィラ=ロボスの代表作と見なされることが多い。
あのパリのどん底生活をしていた頃、知らずに近くのクラブで勤めていたらしいレネ。ドイツでフルートと自由を望む心の葛藤に身を焼いていたらしい蝶子。そして、親の横暴から身を隠しながら演劇を道を目指していたヴィル。その3人がいま一緒に旅をしている。
現在使っているギターは、カルロスから譲り受けた名匠ドミンゴ・エステソ作だ。かつて稔が触ることすら夢見られなかった名品。
稔は、今年も、これからも、この生活が続くことを願いながら、練習を続けた。
(初出:2022年1月 書き下ろし)
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【小説】禍のあとで – 大切な人たちのために
今日の小説は、山西サキさんのリクエストにお応えして書きました。
リクエスト内容
テーマ: 愛
私のオリキャラ、もしくは作品世界: サキさんの知っているキャラ
コラボ希望キャラクター: サキさんの作品のキャラクターを最低1人
時代: アフターコロナ。近未来(2~5年先?)
使わなくてはならないキーワード、小物など: 道頓堀
今だってわからないのに、アフターコロナの道頓堀なんて、皆目、予想がつかないのですけれど、書けとおっしゃるので仕方なく書いてみました。これ、いまから1年後にこうだったら困るかもしれません。笑い話になることを期待しつつ。
さて、登場人物です。実は、こちらで使うキャラクターはすぐに決まったのです。アフターコロナだと、近未来キャラのうち、もう生まれているのがぼちぼちいますので。使ったのは、いつもコンビで登場している2人組です。で、この2人と共演させるためにお借りするのはどなたがいいかなと迷ったあげく、この方にしました。
というのは、メインキャラの方の年齢設定が今ひとつわからなかったので。この方は3代くらいずっとストーリーの中にいらっしゃるので、どこかはかするだろうなと思ったんです。
大道芸人たち・外伝
禍のあとで – 大切な人たちのために
やっぱり赤い街だ。拓人は、思った。青空を額縁のように彩る看板に赤やオレンジの利用率が高い。昨日のホールや泊まったホテルのある周辺はそうでもなかったので、彼は印象を間違って記憶していたのかと訝っていた。
拓人が大阪を訪れるのは2度目だ。2年前は、父親のリサイタルだったので純粋にピアノを聴くために連れてこられたが、今年はどちらかというとシッターが見つからなかったので連れてこられた感がある。母親が従姉妹と一緒にジョイントコンサートをするのだ。その娘で拓人とは再従兄妹の関係にある真耶も、同じように連れて来られていたが、彼女の方は大阪が生まれて初めてだった。
とはいえ真耶は、まだ6才だというのに妙に落ち着いていて、コンサートは当然のこと、新幹線でも街並みでもはしゃいだりしなかった。
2人の母親たちは、今日はワークショップがあり観光につきあってくれる時間はない。ホテルで大人しく待たせるつもりだったのだが、夕方訪れる予定にしていたヴィンデミアトリックス家が観光をさせてから先に邸宅へと連れて行ってくれると申し出てくれたので、安心して仕事に専念しているというわけだ。
「私、歩くのが速すぎやしませんか、お2人とも」
香澄は、訊いた。黒磯香澄は、ヴィンデミアトリックス家で働いている。今日は、東京から来ているお客様の子供たちを観光させてから、邸宅につれていくいわばベビーシッターの役目を任されていた。
「大丈夫です。……だよな、真耶」
拓人は、香澄を挟んで反対側にいる真耶に訊いた。大きなマスクの下から彼女は「ええ」と、くぐもった声を出した。外出時に誰も彼もがマスクをするエチケットは、ようやく薄れてきたが、今日はかつての繁華街に行くのだから、預かる方としては徹底したいと、香澄が2人につけさせたのだ。もちろん彼女自身もしている。
真耶は、道頓堀の繁華街を眺めながら、言った。
「……ここは、なんだか、テーマパークみたいなところね」
真耶は、戸惑っていた。それはそうだろう。大きなタコや、ふぐや、カニがあちこちにあり、騒がしい音がしている。東京の繁華街で見るよりも看板が派手だ。
平日の昼とはいえ、人通りは少ない。これではマスクも必要なさそうだ。かつての賑やかな道頓堀を知る香澄には不思議な光景だった。
「ここ、開店時間、遅いの?」
拓人は、香澄に訊いた。
香澄は首を振った。
「いいえ。もう11時ですもの。例のロックダウンで閉店してしまったお店がたくさんあって、まだ次のテナントが決まっていないところが大半なのね」
未知のウイルスのために、世界中で都市のロックダウンがされてから1年以上が経った。拓人の通っていた小学校も、しばらく登校禁止になった。現在はロックダウンをしている都市はないけれど、社会的距離を保ち感染を防ぐための政策は続いていて、2年前のような賑わいは世界中のどこにも戻っていない。
拓人や真耶の住む東京も、かつては日本でももっとも賑わったと言われる繁華街の1つであるここも、押し合いへし合いといった混み方はもうしないらしい。見れば、シャッターを閉め切ったままの店がいくつもある。
「2年前は、人がいっぱいで、まっすぐ歩けなかったよ」
「そう。そういえば、ずっと外国人観光客が押し寄せていたのよね。それはまた、私には少し不思議な光景だったのだけれど」
香澄は、2人に優しく話しかけた。
「お昼はどこにしましょうか。スイスホテルのラウンジがいいかしら」
拓人は、露骨に不満を表明した。
「えー。せっかく道頓堀にいるのに、そんな洒落たとこに行くの? 東京と同じじゃないか」
「でも……」
香澄は少し困ったように、フリルのたくさんついた可愛らしい洋服を着た真耶を見た。大人しく文句も言わずに付いてきているけれど、この上品な少女は、B級グルメの店には行き慣れていないだろうし、嫌がるのではないかと思ったのだ。
視線を感じた真耶は、香澄を見上げて言った。
「わたしのことなら、大丈夫。拓人、たこ焼きとお好み焼きを食べるって、新幹線からずっと言ってました。ね、拓人」
「うん。ママたち、うちで食べるのとおんなじようなものばっかり食べたがるんだもん。今を逃したら食べられないよ」
香澄は笑いを堪えた。白いシャツに蝶ネクタイとグレーの半ズボン、上品そうな格好はさせられていても、彼はやんちゃ盛りの少年だ。マダムたちの好きそうな小洒落たカフェよりも、目の前の鉄板で繰り広げられるエンターテーメントが楽しいに決まっている。インパクトの強いコクと旨味たっぷりの庶民の味も、子供の舌には合うだろう。
ヴィンデミアトリックス家に勤めて長いので、良家の食事がどんなものであるか香澄はよく知っている。それらは栄養に富み、美しく、繊細で、多くの文化と技術が凝縮されている。子女たちはそれらを日々口にすることで、外見だけでなく内面までも、一両日では真似のできない真の上流階級に育っていくのだろう。
そうであっても、庶民の味の美味しさをよく知る香澄は、B級グルメを心ゆくまで楽しむ幸福もまた人生を豊かにすると思うのだ。せっかくだから、めったにない機会を2人にプレゼントしてあげたいと思った。
普段なら決して許してもらえないだろう、たこ焼きの買い食いからはじめた。かつては長々と行列ができていた有名店もほんのわずか待つだけで購入することができる。たこ焼きだけでお腹いっぱいになっては本末転倒なので、香澄は一舟だけを買い、堀沿いの遊歩道にあるベンチに腰掛けた。
真耶は、小さなハンドバッグにマスクをしまうと、レースのハンカチを取りだして、おしゃまに膝の上に置いた。その間にたこ焼きの1つはすでに拓人の口に放り込まれていた。香澄は慌てた。
「氣をつけて! 中はとても熱いから!」
あまりの熱さに目を白黒する拓人を見て、女2人は思わず笑ってしまった。わずかに火傷をしたらしいけれど、それでも拓人の食欲は衰えなかったようで、嬉しそうに大きな3つを平らげた。香澄と真耶は2つずつを楽しんで食べた。香澄は、ここのたこ焼きが大好きだ。大きなタコのほどよい弾力。生地の外側はカリッとしているのに、中側の柔らかな味わい。ネギや鰹がソースと上手に混じって、ひと口ごとに幸福が口の中に広がる。子供の頃から、たこ焼きは彼女にとって「ハレの日」の食べ物だった。真耶もたこ焼きを氣に入ったようなので、香澄はほっとした。
「こんどはお好み焼きだね」
拓人の言葉に笑いながら、香澄は以前夫に連れて行ってもらった美味しいお好み焼き屋に2人を案内するため、法善寺横町の方へ向かう。
橋を渡り、少し歩いていると、ギターと笛の音が響いてきて、真耶は足を止めた。異国風のメロディーがここらしくないと香澄は思った。見ると南米風の衣装をまとった2人の男と拓人たちと同年代の少女がいた。ギターとケーナを演奏する2人の大人は、背の高さが少し違うものの明らかに兄弟なのだろう、そっくりの見かけだ。傍らの少女は鈴で拍子を取っている。
彼らは東洋人のようでもあるが、肌が浅黒くどこか悲しげな印象を与える。拓人と真耶は、少女の前に歩み寄った。
2人の他に、その演奏に足を止めるものはほとんどいなかった。その空虚さと、ケーナの独特の息漏れと音色のせいで、曲調は決して悲しくないのだが、香澄はなんだか居たたまれない心持ちになった。
真耶と拓人が熱心に聴いてくれるので、鈴を振っている少女は嬉しそうに笑った。その曲が終わると、子供たちは大きく拍手をした。ケーナとギターの大人たちは帽子をとって大きくお辞儀をした。
「すてきでした。南米のどちらからですか」
香澄が訊くとケーナの男がにっと笑った。
「ペルーのクスコですわ」
「あら。こちらにお長いんですか?」
香澄は驚いた。男の返事が、大阪弁のアクセントだったからだ。
「せや。ぼちぼち30年になんねん」
なんとも不思議な心地がする。民族衣装を着た外国人が外国なまりの大阪弁で話しているのを、東京から来た子供たちが不思議そうに見上げているシュールな絵柄だ。大道芸人だろうか。
「音楽家なの?」
拓人がストーレートに訊いた。ギターの方の男が、首を振って答えた。
「いや、その裏でペルー料理屋をやっているんだ」
「まあ。ここにペルー料理のお店が?」
香澄は思わず声を上げた。
「ええ。小さい店です。よかったら、どうぞ」
男は、ギターケースの中に入っていた紙を香澄に渡した。
「なあに?」
真耶がのぞき込む。
「チラシだ」
拓人が受け取って真耶に見せた。ランチタイムセットの案内だ。
香澄は、どうしようかと思った。楽しみにしている拓人はお好み焼きを食べたいだろう。一方、真耶は同じ年頃の少女やいま聴いた音色、ひいてはペルーに興味を示している。ここで意見が分かれたら……。
拓人は、真耶の方を見た。
「行きたい?」
真耶は「お好み焼きはいいの?」と訊き返した。拓人は、にっと笑うとチラシを香澄に渡して、言った。
「ここに行っちゃダメ?」
香澄は、ほっとして微笑んだ。
「行きましょうか。……子供たちの食べられる、辛くない料理もありますか?」
ギターの男が頷いた。
「今日のランチセットは、ロモ・サルタードといって、醤油も入った日本人向けの味ですし、唐辛子は使っていません」
「よかったな。来てくれはる、いうとるよ」
ケーナの男が、少女に言い、彼女はうれしそうに微笑んだ。
その店は、路地裏の地下にあり、狭かった。外から見ると、こんな所に店があるとはわからないぐらいだ。ランチタイムなのにここまで閑散としているのは、どんなものだろう。味はわからないが、店の感じは決して悪くない。店内は暗くならないように木目の壁で覆われ、机の上には刺繍された黄色いテーブルクロスがかかっていた。
奥から女性がひょいと顔を出した。
「ママー!」
女の子がその女性に向かって飛んでいった。
2人はスペイン語で何かを話し、女の子の母親が3人ににっこりと笑った。
「マイド。ドーゾ」
演奏していた2人とくらべると、日本語は片言ではあるが、彼女も優しい笑顔で歓迎してくれた。ギターの男が、3人に水を運んできた。
「注文はどうしますか。ランチセットですか?」
チラシの写真では、肉野菜炒めのように見えたので、3人ともランチセットを注文した。わりとすぐにでできたのは、牛肉の細切りとタマネギやピーマン、フライドポテトを炒めて、醤油やバルサミコ酢で味付けした料理だった。
「おいしいわね」
真耶は、あいかわらず上品に食べている。
少女の母親が調理したのだろうか、家庭料理のような見かけだが、肉は軟らかいし、フライドポテトははサクッっとしていて、パプリカも上手に甘みが引き出されている。醤油とバルサミコ酢もしっかりからんでいて、舌の上でジュワッと旨味が広がる。これだけおいしい料理を出し、感じのいい店主たちの経営する店なのだからもっと繁盛してもいいはずだと香澄は思った。
拓人は、四角錐に盛られたご飯を崩すのがもったいないようだ。
「ご飯が、ピラミッドみたいになってる」
「お、わかったかい。これは僕たちの故郷にあるピラミッドをイメージして盛っているんだよ」
ギターの男が、テーブルの近くにやって来た。真耶の近くに立っている少女を膝にのせると、子供たちにもわかるように答えた。
「エジプトと関係あるの?」
「いや、ないと思うね。僕たちの言葉ではワカっていうんだ。神聖な場所って意味だよ」
「ペルーって遠いの?」
そう拓人が訊くと、女の子は「地球の反対側っていうけど、よく知らない」と言った。
「この子は、まだペルーに行ったことがないんだよ。ここで生まれたから」
父親が説明した。
「コロナが流行ったときに、帰らなかったの? 同じクラスのナンシーの家は、急いでアメリカに帰っちゃったよ」
拓人が訊いた。
彼は首を振った。
「そう簡単にはいかなくてね。向こうには住むところもないし、この店をたたむのも簡単じゃない。それにこの子はここで生まれたから、向こうの学校にはついていけない。ここで踏ん張るしかなかったんだ」
香澄は、この店をめぐる状況を理解した。国の仲間や観光客が来なくなり、外出の自粛の影響も大きく客足が途絶えたのだ。店内で待っているだけでは食べていけないほどに経営が苦しいのだろう。
ケーナの男が出てきて、少女の父親に声をかけた。
「せっかくやから、何か演奏しよか、フアン。坊ちゃんと嬢ちゃん、何がええ? 『コンドルは飛んでいく』?」
奥のわずかに高くなって舞台のようにしてある所に座った。
真耶が訊ねた。
「さっきの曲は、なんていうの?」
「ん? あれは、『Virgenes del Sol 太陽の処女たち』っていうんや。好きなんか?」
真耶は、頷いて訊き返した。
「たいようのおとめたちって、誰?」
ファンが答える。
「昔、ペルーには僕たちの先祖の築いたインカという帝国があったんだ。そして、皇帝のいる都クスコには、全国から集められたきれいで賢い女の子たちが、織物を作ったり、お供えのお酒をつくったりしながら、神殿で太陽の神様に仕えたんだ。あの曲は、その女の子たちのための曲なんだよ」
膝の上の少女は、大きな瞳を父親に向けた。祖先のインカの乙女たちを思わせる優しく澄んだ黒目がちの瞳。フアンは、娘をぎゅっと抱きしめて「頑張らなくちゃな……」と呟いた。
香澄は、ひと気のない街並みのことを思った。興味を持って立ち寄った日本人、観光や出稼ぎで日本を訪れた外国人、それらの人々で賑やかだっただろう、かつてのこの店の様子を想像した。国に帰ることと、ここに残ることのどちらも楽ではない。苦渋に満ちた決断だったに違いない。客引きのため大道芸人のような真似をしてでも、この街のこの店で営業を続けるのは、守るべき大切な家族がいるからだ。
みな頑張っているのだ。愛する家族や仲間たちを守るために。
「フアン~。来てや、弾くで~」
ケーナの男がしびれを切らしたらしい。
「わかったよ」
「ホセのおっちゃん、パパの従兄弟なの。一緒にクスコから来たんだって」
少女が、小さな声で説明してくれた。それから棚から鈴を3つ盛ってきて、2つをテーブルに置き、自分で1つ持った。
拓人と真耶は、同時に鈴に手を伸ばして、駆けていく少女の後を追った。香澄は、2人のよく似たペルー人と、仲良く鈴を鳴らす子供たちが、仲良く演奏する姿を眺めながら、微笑んだ。
(初出:2020年6月 書き下ろし)
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【小説】未来の弾き手のために
「scriviamo! 2018」の第十五弾、最後の作品です。大海彩洋さんは、『ピアニスト慎一』シリーズ作品で参加してくださいました。ありがとうございます!
彩洋さんの書いてくださった短編 『【ピアニスト・慎一シリーズ】 What a Wonderful World』
大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。とてもお忙しくて、特に今年は予期せぬ事態があったにもかかわらず、睡眠時間を削っても、妥協しないすばらしい作品を書いてくださいました。
ピアニスト相川慎一のでてくるお話は、彩洋さんの書いていらっしゃる壮大な大河ドラマの一つなのですけれど、ブログを通してのお付き合いで発表のきっかけというのか、そう言ったご縁が多いせいか、私が特に注目しているシリーズでもあるのです。クラッシック音楽の素人一ファンとして、このシリーズに書かれる音楽の話は本当に興味が尽きませんし、私にはこんなに書けないけれどその分音楽を読む楽しみをいつも与えてくれる物語です。
今回は、その慎一の人生のターニングポイントとも言える一シーンをバルセロナを舞台に書いてくださったのですが、その背景にうちのチャラチャラした面々がちゃっかりと注目を浴びていて、申し訳ないやら、何やってんだあんたたち、という状態でした。ま、みんな仕事しているからいいのか。
お返しは、舞台をウィーンに移して書いてみました。ほら、リアルの私が先週そこから帰って来たばかりだし、それにお借りするあるキャラクターの本拠地ですから。そして、ご指名なので、うちの六人全員を無理やり登場させました。今回は、仕事しているのは一人だけです。最もチャラい奴だけが働いているのって(笑)
今日どうしても発表したかったのは、本日が彩洋さんのお誕生日だから。Happy Birthday, 彩洋さん。創作にも、リアルライフにも実り多くて幸せな一年になりますように!
【参考】
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![]() | 「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部 あらすじと登場人物 |
「scriviamo! 2018」について
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
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大道芸人たち・外伝
未来の弾き手のために
——Special thanks to Oomi Sayo san
あまり高い席は用意しないでくれと釘を刺されていたので、どんな服装でくるのかと思ったが、杞憂だったな。結城拓人はドイツ人のスーツ姿を見て思った。蝶ネクタイではないが、紺のスーツの生地は一目でわかる上質さで、仕立て具合を見れば明らかにオーダーメードだとわかる。
拓人が招聘されてウィーンのコンツェルトハウスで演奏することになったのは、ヨーゼフ・マルクスの『ロマンティックピアノ協奏曲』だった。ウィーンで何世紀にも渡り内外の名だたる大作曲家たちが活躍したためか、祖国ですら存在をあまり知られなくなったオーストリアの作曲家の作品だ。客を集めにくい作曲家の作品であるだけではなく、ピアニストに驚異的なテクニックを要求するために、この作品が演奏されることは滅多にない。拓人にとっても初めての挑戦だった。
かなり図太い神経を持つと自他共に認める彼ですら、この数カ月は胃が痛くなる様な思いをしたが、その甲斐あってまずまずと言っていい演奏をすることができた。普段、日本で当然のように受ける取り巻きたちからの熱烈な喝采と違い、下手な演奏には容赦ないウィーンっ子たちからアンコールを要求されたのだ。彼にとっては枕を高くして眠ることのできる成功だった。
彼の親しい友人であるドイツ人、エッシェンドルフ男爵が今日この場に来て聴いてくれたのは、彼の精神状態を心配して力付けようとしたわけではない。そうしようとしてくれたのは、彼の
真耶と共にカテゴリー2の席に座り、さらにわざわざ終演後に拓人とともにロビーで待ち合わせたのはヴィルだけだったが、それはどうしても紹介して欲しい人がいたからだ。
「すまないな、拓人。無理を言って」
「別に無理でもないさ。僕にできるのは引き合わせることだけ。引き受けてもらえるかどうかはわからないんだから。でも、噂で聞いたほど難しい男ではないと思うけれどな。まあ、氣軽に頼めるとはいえないけれど。今回の調律をしてくれたのは、僕の音楽をお氣に召したわけではないと思うから」
「というと?」
「忘れられたオーストリアの作曲家の名作に再びスポットを当てる手伝いをしたいという男氣がひとつだろうな。そして、もう一つの幸運は僕が日本人ピアニストだったってことかな。彼はある日本人ピアニストの才能に惚れ込んでいて、その縁でハードルを一つ低くしてもらえたってわけだ。おかげで、こちらは『あのシュナイダー氏に調律してもらえる幸運』をお守りに本番に臨めたってわけだ」
「なんの慰めにもならないな。俺はドイツ人だ。しかもまともなピアニストですらない」
そうヴィルが言うと、拓人は魅力的に笑いながら言った。
「だが、お前には父上の遺言という切り札があるじゃないか。ダメ元で頼んでみろよ」
そう話している間に、への字口をした老人が姿を見せた。かろうじて背広といってもいい上着を身に付けているが、シャンデリアの輝くホールでは多少場違いに見えた。だが、そんなことはおそらく誰も氣にしないだろう。その険しい顔を見ると、すれ違うものは自分が悪いことをしている心持ちになり、目をそらしてしまう。
拓人はヴィルの腕を取り、急いで彼の方に歩いて行った。
「シュナイダーさん! 今日の演奏を素晴らしいものにしてくださった喜びは、言いつくせません。なんとお礼を言っていいのか」
拓人の謝辞を遮るように老人は手を眼の前にあげた。「お世辞なぞたくさん、さっさと用を言え」とでもいいたげに。拓人は肩をすくめて、ヴィルを示した。
「ご紹介します。友人のアーデルベルト・フォン・エッシェンドルフ男爵です。先日亡くなったミュンヘンのエッシェンドルフ教授の子息です」
老人はじっとヴィルを眺めた。ドイツ人は、愛想のいい拓人と違いほとんど無表情だった。まっすぐに老人を見て、敬意のこもった声で「はじめまして」と言った。シュナイダー老人は十分に観察をすると口を開いた。
「父上の若い頃に似ているな。ピアノを弾く息子のことは聴いていたよ。だが、音楽はやめたんだろう。もう俺の調律は必要なくなったと父上は連絡してきたが」
それでは、父親があのベーゼンドルファーの調律をもうこの男には頼まなくなったのは、彼が音楽をやめてあの館に足を踏み入れなくなってからなのか。父親は、彼を抱きしめることもなく、共に夢を語ることもなかった。だが、彼のために可能な全ての手を尽くしてバックアップしようとしていたのだ。
急死した父親に代り、先祖代々の領地と館と爵位を引き継いだヴィルは、かつて彼が知っていた音とは違う音を出すベーゼンドルファーを元の状態にしたかった。父親が秘書であるマイヤーホフに残していた指示の一つが、長らく連絡の取れない状態になっている著名な調律師を探し出すことだった。
ウィーンのコンツェルトハウスで演奏することになった拓人と電話で話していた時に、無理だと諦めていた調律師が仕事を引き受けてくれたという話題になった。それが件のシュナイダー氏だと知ったヴィルはすぐにここにくることを決めていた。
「その通りです。私は父の元を離れて生きるつもりでした。そして実際に何年もあのピアノに触れませんでした。今、私が触れるあのピアノは、もはや私が何よりも愛したエッシェンドルフのピアノとは違う存在になってしまっている。亡くなる直前まで父もずっとあなたを探していた。あなたが今日の調律をすると聞き、飛んで来ました。もう一度あのピアノを蘇らせていただけないだろうか」
老人は首を振った。
「諦めてくれ。こっちはこの歳だ。残された時間はさほどない。その時間の全てを捧げたいと思う弾き手のためにしか調律はしない。ましてや弾かないピアノのためにミュンヘンまで行くような時間はない」
拓人は思わず口を挟んだ。
「シュナイダーさん、彼はピアノをやめてはいません。コンサートピアニストではありませんが……」
ヴィルは、その拓人を制した。
「いや、拓人。シュナイダーさんは正しい。あのベーゼンドルファーは、ふさわしい弾き手を持っていない。かつてこの方に調律してもらっていたこと自体がおこがましかったんだ」
老人は、拓人に訊いた。
「お前さんは、この男の腕をどう思う」
「彼は、僕の音楽の同志です。表現する世界と方法は違いますが、同じものを目指していると断言できる数少ない音楽家の一人だと思っています」
拓人は迷わずに答えた。ヴィルは少し驚いた。拓人がそこまで認めてくれているとは知らなかったから。
老人は「ふん」と言った。それからもう一つの問いを発した。
「この男の耳はどうだ」
拓人は怪訝な顔をした。
「耳ですか? 確かだと思っていますが、なぜですか」
老人は、ヴィルをじっと見つめて口を開いた。
「この世には、最高の腕を持つ弾き手がいる。そして、最高傑作である楽器がある。残念ながらその二つが同時に存在することは稀だ。あのベーゼンドルファーは、金持のサロンの飾りであるべきではない。あんたは父上の跡を継いで、あの楽器と有り余る金を手にした。もし、あんたの手に余っているのなら、俺はあんたに聞いて欲しいことがある」
拓人と真耶が滞在しているホテルから五十メートルほど先に、そのワインケラーはある。どっしりとした表構えの店は十七世紀の創業で、地下へ降りて行く階段の手すりなどにも時代を感じる。暖かい照明とガヤガヤとした混み方は、天井が高くて豪華絢爛なコンツェルトハウスの堅苦しい様式美とは打って変わり、落ち着き楽しい。
「ようやく来たのね。もう結構飲んじゃったわよ」
蝶子が、奥の席から手を振った。隣に座る真耶はあっさりとしたワンピースに着替えていた。そうすることでめずらしくブレザーと開襟のシャツを着ている稔やレネとほぼ同じレベルの服装になっていた。拓人はホテルで急いで着替えて来たので、やはり砕けている。ヴィルは上着を椅子にかけてネクタイを外した。
「まず乾杯しなくちゃ。大成功、おめでとう!」
拓人は、仲間と次々とグラスを重ね、ビールを一口飲むとようやく緊張が解けて笑顔になった。
「海外でのコンチェルト、初めてじゃないんだろう? いつもと違うのか?」
稔が不思議そうに訊いた。
「確かにすごい曲だけど、結城さんは普段リストもラフマニノフも楽々と弾いているから、そんなにピリピリすることがあるなんて意外よね。例の後援会のおばさま方が付いてくるのはいつものことだろうけれど、真耶まで応援に来るのって珍しくない?」
蝶子も続けた。
「だって、こんなに青くなって練習している拓人、もう何年も見たことなかったんだもの。マルクスのコンチェルトは日本ではまずやらないし、どうしても本番を聴きたくなって。どちらにしてもミュンヘンでの休暇は決まっていたし、ちょうどいいじゃない?」
真耶はニッコリと笑った。
「う。確かに余裕はなかったな。準備は十分にしてきたのに、先週の始めに通しで弾いた時に途中で真っ白になって、死ぬかと思った」
拓人は、ビールをぐいっと飲んだ。
「デートも全部断ったって、本当?」
蝶子が面白そうに訊いたので、拓人は真耶を睨んだ。
「本当のことでしょう」
「デートどころじゃなかったからね。あんなに大変な曲なのに、問題はそうは聴こえないってことなんだ」
レネは不思議そうに言った。
「どうしてですか。僕はピアノのことは素人ですけれど、見ているだけでわかりましたよ。ものすごくテクニックを必要とされるんだろうなって。そう思わない人がいるんでしょうか」
稔がハーブ塩のかかったフライドポテトをつつきながら言った。
「あの豪華絢爛なオーケストレーションがわかり易すぎるのかなあ」
「どういうこと?」
「ベートーヴェンやチャイコフスキーだといかにもクラッシックって感じがするけれど、今日のはなんだか映画音楽みたいに軽やかに思えるメロディでさ」
「ああ、そうか。たしかに聴いていて心地いいメロディが多かったですね」
「弾いている方は、難関の連続で、心地いいどころじゃないか」
ヴィルは二杯目のビールを飲んでいる。
拓人は大きく頷いた。
「しかも、作曲家が知られていないとなると、演奏会をしても客が入るか心配だろう。ますます誰も弾きたがらなくなって、ほとんど演奏されることがいない。いい曲なのに残念だよな」
「じゃあ、敢えてそのとんでもない挑戦をした拓人に、もう一度乾杯!」
六人はグラスを合わせて笑いながら立ち上がった。
「『ロマンティックピアノ協奏曲』を世に広める、拓人と未来の弾き手たちのために!」
座って飲みながら蝶子がヴィルに訊いた。
「そういえば、もう一つのトライはどうなったの?」
「断られたよ」
ヴィルは肩をすくめた。
「ダメだったんですか?」
レネが驚きの声を出した。
「完全に断られたわけじゃないだろう」
拓人が言った。
「どういうこと?」
四人は拓人とヴィルを代わる代わる見た。
「一度エッシェンドルフに来てくれるそうだ」
「じゃあ、断られていないんじゃない」
真耶は首をかしげる。
「彼の下で学んだことのある若い調律師を連れてくるそうだ。そして、俺が納得したら、今後彼に頼んで欲しいと言われた」
「本人じゃなくて?」
「一度だけの調律ではなくて、しょっちゅうすることになるだろうから。その調律師はバーゼルに住んでいるので、ウィーンよりは近い。シュナイダー氏のように有名ではないから定期的に来てもらうことができる」
「シュナイダーさんと正反対で、若くてチャラチャラした性格らしいけれど、腕は彼が保証するというくらいだから確かなんだろうと思うよ」
「でも、どうして定期的に調律が必要だなんていうの? そりゃ、一度っきりというわけにはいかないけれど……」
蝶子は首を傾げた。
ヴィルと拓人は顔を見合わせて頷いた。それからヴィルが口を開いた。
「あのサロンとベーゼンドルファーを、才能があるけれど機会の少ない音楽家たちに解放していこうと思うんだ」
「へえ……」
四人は、グラスを置いて二人の顔を見た。拓人が肩をすくめた。
「シュナイダーさんは、ヴィルに弾き手としてだけでなく、後援者としての役割を期待していると言っていた。今は、以前ほどクラッシック音楽に理解のある後援者がたくさんいるわけではないし、各種奨学金制度もサロン的な役割まではしてくれないからな」
拓人の言葉にヴィルは頷いた。
「俺が、エッシェンドルフを継ごうと思った理由の一つが、あんたたちの音楽を道端の小遣い稼ぎだけで終わらせたくないことだと言っただろう。あの館を中心にこれまでとは違う活動をするなら、少し範囲を広げていろいろな音楽家たちをバックアップすることも悪くないんじゃないかと思ったんだ。あんたたちはどう思う?」
「賛成よ。あのサロンなら、室内楽の演奏会も問題なくできるわ」
蝶子が言った。
「そういうのの手伝いをするっていうことなら、穀潰しの俺らも、あそこにいる間になんかの役に立つかもしれないよな」
稔の言葉にレネも大きく頷いた。
真耶がすかさず続けた。
「機会があったら、私たちも混ぜてもらいましょうよ、拓人」
「そうだな。悪くない。休暇がてらに滞在して、何か一緒に弾いたりしてさ」
「休暇といえば、今回、結城さんもエッシェンドルフに来ればいいのに」
蝶子が言うと、拓人は残念そうに答えた。
「そうしたいのは山々だけれど、来週の頭から大阪公演なんだ。ちくしょう、いいなあ、真耶。マネージメントに文句いってやる。なんで僕だけこんなに働かされるんだ」
一同は楽しく笑った。ウィーンの古いワインケラーで旧交を温める若い仲間たちは、自らとまだ見ぬ未来の若い音楽家のために、熱い夢を語りつつ何度もグラスを重ねた。
(初出:2018年3月 書き下ろし)
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【小説】In Zeit und Ewigkeit!
「scriviamo! 2018」の第十三弾です。ユズキさんは、『大道芸人たち Artistas callejeros』のイラストで参加してくださいました。ありがとうございます!

このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない二次使用は固くお断りします。
ユズキさんのブログの記事『イラスト:scriviamo! 2018参加作 』
ユズキさんは、小説の一次創作や、オリジナルまたは二次創作としてのイラストも描かれるブロガーさんです。現在代表作であるファンタジー長編『ALCHERA-片翼の召喚士-』の、リライト版『片翼の召喚士-ReWork-』を集中連載中です。
そしてご自身の作品、その他の活動、そしてもちろんご自分の生活もあって大変お忙しい中、私の小説にたくさんの素晴らしいイラストを描いてくださっています。中でも、『大道芸人たち Artistas callejeros』は主役四人を全員描いてくださり、さらには動画にもご協力いただいていて、本当に頭が上がりません。
今回描いてくださったのは、蝶子とヴィルの結婚記念のイラストです。ヴィルは、感情表現に大きな問題のあるやつで、プロポーズですら喧嘩ごしというしょーもない男ですが、ユズキさんはこんなに素敵な一シーンを作り出してくださいました。というわけで、今回は、このイラストにインスピレーションを受けた外伝を書かせていただきました。第二部の第一章、結婚祭りのドタバタの途中の一シーンです。
【参考】
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大道芸人たち・外伝
In Zeit und Ewigkeit!
——Special thanks to Yuzuki san
いつの間にか、ここも秋らしくなったな。ヴィルは、バルセロナ近郊にあるコルタドの館で、アラベスク風の柵の使われたテラスから外を見やった。ドイツほどではないが、広葉樹の葉の色が変わりだしている。
九月の終わりにエッシェンドルフの館を抜け出してから、慌ただしく時は過ぎた。主に、彼と蝶子の結婚の件で。先週、ドイツのアウグスブルグで役所での結婚式を済ませたので、社会的身分として彼はすでに蝶子の夫だった。が、彼にその実感はなかった。
一年前に想いが通じた時、彼と蝶子との関係は大きく変わり、その絆は離れ離れになった七ヶ月を挟んでも変わらずに続いている。一方で、社会的な名称、ましてや結婚式などという儀式は、彼にとってはどうでもいいことだった。彼が急いで結婚を進めたのは、未だに彼女を諦めていない彼自身の父親の策略への対抗手段でしかなかった。
しかし、当の蝶子と外野は、彼と同じ意見ではなく、終えたばかりの役所での結婚で済ませてはもらえない。今も、花婿が窓の外を眺めてやる氣なく参加しているのは、三週間後に予定されている大聖堂での結婚式とその後のパーティの準備に関するミーティングだった。
「おい、テデスコ。聞いてんのかよ」
見ると、稔とレネが若干非難めいた眼差しでこちらをみていた。招待客からの返事や、当日の席順、それにパーティに準備に関する希望など、ある程度の内容を固めてカルロスや秘書のサンチェスに依頼しなくてはならない。
カルロスは大司教に面会に行ってしまったし、蝶子はドレスの仮縫いに行っている。この地域では滅多にない大掛かりな結婚式になりそうだというのに、まったくやる氣のみられない新郎に、証人の二人は呆れていた。
「すまない。もう一度言ってくれ」
それぞれのワイングラスにリオハのティントを注ぐと、ヴィルは自分のグラスにも注いで飲んだ。
「パーティの話だよ。トカゲ女やギョロ目の話を総合すると、着席の会食のあとに、真夜中までダンスパーティをすることになりそうなんだが……ケーキカットとか、手紙朗読とか、スライド上映とか、そういうのはないんだっけ?」
稔は、海外の結婚式には出席したことがないので、いまひとつ勝手がわからない。
「なんですか、手紙朗読って」
レネは首を傾げた。
「ああ、両親に読み聞かせるんだ。これまで育ててくれてありがとうとか。大抵、どっちかが泣くんだな」
今度は稔が二人の白い眼を受ける事になった。そりゃそうだよな。あのカイザー髭の親父にテデスコがそんな手紙を読むわけないよな。
「日本って、結婚式も特殊そうですよね」
レネが言った。うん、まあ、そうかな。稔は少し悪ノリをした。
「うん、ほら白鳥に乗って登場ってのもあるぞ」
「なんですって?」
「え、新郎と新婦が、でっかい白鳥に乗ってさ、運河みたいな感じに仕立てた舞台の奥から入場するんだ」
「なんだそれは。ローエングリンか」
ヴィルは呆れて呟く。
「それはともかく、少し派手に登場するのは悪くないですよね。一生に一度のことですし。スポットライトを浴びて華やかに……ほら、パピヨンを抱き上げて登場するのはどうですか?」
「おお。そうだよな。金銀の花吹雪でも散らしながらってのはどう?」
「いい加減にしてくれ」
一言の元にヴィルは却下した。
やっぱりダメか。そんな顔をしながら、稔とレネは顔を見合わせると、日本から来てくれる友人拓人と真耶とオーケストラとの練習準備について真面目に語り出した。
その間にも、ヴィルの脳内には日本の結婚式に対する想像が展開されていた。紫色の明るいホールに金銀の紙吹雪が舞っている。輝く青い水が流れているその様は、生まれ育ったアウグスブルグの旧市街に縦横に張り巡らされた運河を思わせた。橋の上には白いスーツを身につけた彼がいて、美しいウェディングドレスを纏った蝶子を抱きかかえている。
……いや、いったい何を考えているんだ、俺は。
「おい。今度こそちゃんと聴いているんだろうな」
稔の声で我に返った。
「ああ、すまない」
ヴィルはワインを飲み干した。
「なんの話?」
戸口を見ると、蝶子が帰ってきていた。両手に何やら沢山の紙包みを抱えている。また何か買ってきたのか。
「今度は洋服や靴じゃないわよ、安心して。ほら、今夜も話し込むと思って、少しボトルを仕入れてきたの」
蝶子はウィンクした。レネはさっと立ち上がって荷物を受け取り、稔とヴィルもグラスや栓抜きを用意するために立った。
「話し合いは進んだ?」
蝶子が訊くと、稔は「まあね」といいながら肩をすくめた。相変わらずのヴィルの様子を想像できた彼女は笑った。
「とにかく、どうしても真耶たちに演奏して欲しい曲だけ、連絡すれば、あとはなんとかなるわよ。考えてみるとものすごく贅沢な演奏会とグルメ堪能会が同時に開催されるようなものじゃない? 結婚するのも悪くないわよね」
稔とレネは大きく頷いた。ヴィルも僅かに口角をあげた。嫌々同意するとき彼はこういう表情をするのだ。蝶子は勝ち誇ったように彼のそばに来るとワイングラスを重ねた。
「ねえ。そういえば、結婚記念のプレゼント、まだもらっていないわよ」
「俺もあんたから、何ももらっていないぞ」
憮然とするヴィルに怯むような蝶子ではない。
「あら。あなたは、生涯この私と一緒にいる権利を獲得したのよ。これ以上何が欲しいっていうの」
ヴィルは、ちらりと蝶子を見た。稔とレネは、ここから舌戦が始まるのかと興味津々で二人を眺めた。ヴィルは、蝶子の言葉に何か言いたそうにしたが、言わなかった。その代わりに立ち上がると「じゃあ、記念に」と言ってピアノに向かった。稔はひどく拍子抜けした。
ヴィルは、ゆっくりと構えるととても短い曲を弾いた。静かで、ちょうど秋がやってきている今のこの季節に合っていた。優しくて静かな曲だった。
稔は、微笑んで満足そうに耳を傾けている蝶子を不思議そうに見た。それまでの挑発的な様相はすっかり引っ込んでしまった。なんだなんだ? そりゃ、いい曲だけれど、なんでこれだけでトカゲ女を大人しくさせることができたんだ?
横を見ると、レネまでが眼を輝かせてうっとりと聴いている。稔は、そっと肘で小突いた。レネは小さくウィンクをして小声で囁いた。
「グリーグが自ら作曲した歌曲をピアノ用に書き直した作品の一つです。もともとの歌曲は童話で有名なアンデルセンの詩に曲をつけたんですよ。僕、歌ったことがあるんです。『四つのデンマーク語の歌 心のメロディ』の三曲目です。あとでネットで検索するといいですよ」
なんだよ、そのもったいぶりは。稔は首を傾げた。氣になったので、夕食の前に言われた作品をネットで探した。すぐに出てきた。三曲目ってことは……これか。デンマーク語で「Jeg elsker dig」、ドイツ語では「Ich liebe dich」、日本語では「君を愛す」。
E.グリーグが妻となったニーナと婚約した時に捧げた曲で、デンマーク語やドイツ語の歌詞もすぐに見つかった。テデスコはドイツ人だから、このドイツ語の歌詞を念頭に置いて弾いているのかな。どれどれ。
Du mein Gedanke, du mein Sein und Werden!
君は僕の心、僕の現在、僕の未来
Du meines Herzens erste Seligkeit!
僕の心のはじめての至福
Ich liebe dich wie nichts auf dieser Erden,
地上の何よりも君を愛す
Ich liebe dich in Zeit und Ewigkeit!
いま、そして永遠に君を愛す
Ich denke dein, kann stets nur deine denken,
君のことだけをひたすら想う
Nur deinem Glück ist dieses Herz geweiht,
君の幸福のみを祈り、心を捧げる
Wie Gott auch mag des Lebens Schicksal lenken,
どのように神が人生に試練を課そうとも
Ich liebe dich in Zeit und Ewigkeit!
いま、そして永遠に君を愛す
……ひえっ。なんだよ、このコテコテな歌詞は。これを知っていたら、そりゃあのトカゲ女も黙るはずだ。
稔は、普段はぶっきらぼうなヴィルもやはりガイジンで、ヤマト民族である自分とは違う表現方法を使うことを理解して茫然とディスプレイを眺めた。
(初出:2018年2月 書き下ろし)
註・引用した歌詞は下記のドイツ語版、意訳は八少女 夕
Ich liebe dich (Jeg elsker dig)
Music by Edvard Grieg
Original Lyrics by Hans Christian Andersen
German lyrics by F. von Holstein
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【小説】君と過ごす素敵な朝
今日は「十二ヶ月の情景」二月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月以降は、みなさまからのリクエストに基づき作品を書いていきます。まだリクエスト枠が三つ残っていますので、まだの方でご希望があればこちらからぞうぞ。
今日の小説は、ユズキさんの30000Hit記念キリ番リクエストに応募して描いていただいたイラストに合わせて書いてみました。

このイラストの著作権はユズキさんにあります。無断転用は固くお断りします。
お願いしたのは「大道芸人たち Artistas callejeros」の主人公の一人レネとその恋人のヤスミンです。せっかくなので、この幸せな情景は幸せな日に合わせて発表したくなりました。

【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は当ブログで連載している長編小説です。第一部は完結済みで、第二部のチャプター1を公開しています。興味のある方は下のリンクからどうぞ
![]() | 「大道芸人たち 第一部」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
![]() | 「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
大道芸人たち・外伝
君と過ごす素敵な朝
柔らかい光が窓から差し込むようになった。外を歩くにはまだ分厚いコートが必要だけれど、昼の長さは日に日に増えてきて、春が近づいていることを知らせてくれる。
昨夜の狂騒が嘘のように静かな朝、いつもよりもゆったりとした時間を過ごすことができてヤスミンは嬉しかった。
昨夜は、『
今日は『灰の水曜日』。ヤスミンが子供の頃に行った教会の礼拝では、灰を信者の額につけて「人は灰から生まれて灰に帰る」と聖職者に言われた。この儀式はカトリックはどこでも、プロテスタントでもルター派などではやるらしいが、ティーンになってからは教会に全然通わなくなったヤスミンは、あまり儀式に興味はなかった。わかっていることは、キリスト教では本来、この日から復活祭前の四十日間の潔斎が始まることだ。「本来」というのは、今どき四十日間、肉をまったく口にしないドイツ人には滅多に会えないからだ。
でも、「それだけ長い間、節制をしいられるならその前に飲んで食べて騒ごう」という趣旨で生まれた祝祭『
『
石畳を音を立てて歩き回り、飲んで食べて騒ぐ宵。冬の憂鬱を吹き飛ばすいつもの楽しみだけれど、今年は格別楽しかった。レネが来ていたから。
レネは、以前よりはミュンヘンにいることが多くなったとはいえ、この時期にドイツにいることは少なかった。なんといってもドイツの冬は大道芸には厳しすぎるのだ。彼は、南フランスのブドウ農家の息子で、家業を手伝う時期以外は、仲間とヨーロッパ中を旅する生活をしている。
レネと出会ったのは、一年ほど前だ。彼女は美容師として働く傍ら、劇団『カーター・マレーシュ』のボランティアをしていて、元団員のヴィルを父親の元から逃す協力を依頼してきた彼らと意氣投合したのだ。
そのヴィルは結局亡くなった父親の跡を継いだので、大道芸人の仲間たち《Artistas callejeros》はミュンヘンの館に滞在することが多くなった。そういう時には、レネは必ずヤスミンの住むアウグスブルグに寄って一緒に時間を過ごしてくれる。二人が会える機会はたくさんないけれど、その分、密度の濃い実りある時間を過ごしていた。
ヤスミンが目を覚ましたのは、よく通る犬の鳴き声が響いたからだ。夢の中で、彼女はそれをレネの歌声に似ていると思った。彼は大道芸やステージの時以外は、恥ずかしがって滅多に歌わないのだが、子供の時から教会の聖歌隊に加わっていたとかで、とても明るい素敵なテノールなのだ。
起き上がって、ぼんやりと「ああ、あれはハチだ」と思った。この一週間、旅行に出かけた友人から預かっている飼い犬だ。それから、不意に思い出した。今朝はハチだけでなく、レネも一緒にいることを。あら、彼はどこ?
「しっ。静かに。ヤスミンが起きてしまうよ」
レネは、覚えたてのドイツ語で犬に語りかけていた。キッチンに入っていこうとしていたヤスミンは、彼の優しさと尻尾をふって応えるハチの愛らしさに嬉しくなって微笑んだ。
「おはよう、レネ。おはよう、ハチ」
ハチは思い切り尻尾を振って見せたが、レネの顔もそれに劣らず喜びに満ちていた。残念ながらフランス人には振る尻尾がなかったのだが。
「おはよう。ヤスミン。すぐに朝ごはんができるよ」
「いい匂いね。朝食を作ってもらうなんてなん年ぶりかしら」
煎りたてのコーヒーと卵料理の湯氣、それに焼きたてのパンの香ばしさ。
「君の口に合うといいな。あ、コーヒーは熱いから、氣をつけて。君はブラックだったよね」
レネは二つのマグカップを持ってきた。自分の分は砂糖とミルクがたっぷり入っている。ヤスミンが不思議に思う事の一つに、レネは甘いものに目がないのだが、全く太らないのだ。どうなっているんだろう。
「あ、フォークが出てないね。ごめん、ちょっと待ってて」
そう言うレネに彼女は言った。
「フォークなんてなくて大丈夫よ。パンに挟んじゃうもの。それより冷めないうちに食べましょう」
レネは「うん」と言ってちらっとあと一つしかない椅子を眺めた。その視線を追ってヤスミンは思わず吹き出した。いつの間にかハチが椅子に座っているのだ。
「ダメよ、ハチ。レネがいない時は、特別にそこに座ってもいけれど、今は遠慮して。そこはレネの特等席なんだから」
ヤスミンに言われて、ハチは大人しく降りた。レネは嬉しくなった。ヤスミンのホームの特等席に座れているのだ。
「ハチって、変わった名前だね」
彼は、犬を見つめた。賢しこそうな中型犬だ。
「日本の名前みたいよ。どういう意味なのかわからないけれど。飼い主は、しばらく日本で暮らしていて、去年こちらに帰ってきたの。それで、向こうで飼っていた犬と別れたくなかったから連れてきたんですって。とっても飼い主に忠実な賢い種類らしいわ」
「へえ。そうなんだ。パピヨンに意味を訊いておくよ。僕、犬は大好きなんだ。アビニヨンの両親の家でもずっと犬を飼っていたからね」
「自分で飼いたいと思う?」
ヤスミンは訊いた。
「飼えるものならね。今の生活だと難しいけれど」
彼は肩をすくめた。
「私も犬は好きよ。でも、こんな街中のアパートメントじゃダメよね。広い庭があって、犬が走り回れるような環境のところに住んでみたいなあ」
レネの頭の中では、実家の葡萄園の広い敷地をヤスミンとハチが駆け回っている。完全なる希望的観測による光景だ。
その妄想のために彼がしばらく黙っていたので、彼女はその間に窓際に目を移した。置かれた花瓶にピンクのチューリップの花束が活けられている。あれ? 昨日まではなかったのに、どこから来たの?
「これ、どうしたの?」
レネは、我に返った。そして、彼女が花のことを言っているのがわかると、嬉しそうに笑った。
「さっきパンと一緒に買ってきたんだ。今日はどうしても君に贈りたかったから」
「今日?」
彼女は首をかしげた。昨夜が『
「やだ。今日は二月十四日だったわ」
ローマの時代にまでその起源を遡る恋人たちの誓いの日なのだ。ヤスミンはすっかり忘れていたけれど。
「その通り! 『聖ヴァレンタイン・デー』、おめでとう」
「ありがとう。レネ。この日にあなたといられるのって、本当にラッキーよね」
彼は、恥ずかしそうに言った。
「君に会える時は、いつも聖ヴァレンタイン・デーみたいな氣がするけれどね」
「そういう風に言ってくれるレネ、大好きよ!」
ヤスミンは、彼の頬にキスをした。
真っ赤になっている彼をみて、ハチは「ワン!」と日本風に吠えて、尻尾を振った。
(初出:2018年2月 書き下ろし)
【小説】そばにはいられない人のために
ご希望の選択はこちらでした。
*現代日本
*園芸用花
*一般的な酒類もしくは嗜好飲料
*家
*雨や雪など風流な悪天候
*「大道芸人たち」関係
*コラボ、『花心一会』の水無瀬彩花里(敬称略)
『花心一会』は、WEB誌Stellaでもおなじみ、若き華道の家元水無瀬彩花里とその客人たちとの交流を描くスイート系ヒーリングノベル。優しくも美しいヒロインと花によって毎回いろいろな方が癒されています。今回コラボをご希望ということで勝手に書かせていただいていますが、本当の彩花里の魅力を知りたい方は、急いでTOM-Fさん家へGo!
今回の企画では、リクエストしてくださった方には抽象的な選択だけをしていただき、具体的なキャラやモチーフの選択は私がしています。どうしようかなと思ったんですけれど、せっかくお家元にいらしていただくのだから、日本の伝統芸能に絡めた方がいいかなと。花は季節から芍薬を、嗜好飲料はとある特別な煎茶を選ばせていただきました。そして「家」ですけれど、「方丈」にしました。お坊さんの住居だから、いいですよね。ダメといわれてもいいことにしてしまいます。(強引)
TOM-Fさん、『花一会』の流儀、いまいちわからないまま書いてしまいました。もし違っていたら直しますのでおっしゃってくださいね。
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説で、現在その第二部を連載しています。興味のある方は下のリンクからどうぞ

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大道芸人たち Artistas callejeros 番外編
そばにはいられない人のために Featuring『花心一会』
瞳を閉じてバチを動かすと、なつかしい畳の香りがした。湿った日本の空氣、夏が近づく予感。震える弦の響きに合わせて、放たれた波動は古い寺の堂内をめぐり、やがて方丈に戻り、懐かしいひとの上に優しく降り注いだ。
浄土真宗のその寺は、千葉県の人里から少し離れた緑豊かな所にあった。『新堂のじいちゃん』こと新堂沢永和尚は四捨五入すると百の大台に乗る高齢にも関わらず、未だにひとりでこの寺を守っていた。日本に来る度に稔はこの寺を訪れる。これが最後になるのかもしれないと思いながら。
彼の求めに応じて三味線を弾く。または、なんてことのない話をしながら盃を傾ける。死ぬまで現役だと豪語していた般若湯(酒)と女だが、女の方は昨年彼より二世代も若い馴染みの後家が亡くなってから途絶えたらしい。
「これもいつまで飲めるかわからん。心して飲まねばな」
カラカラと笑って大吟醸生『不動』を傾ける和尚を稔は労りながらゆっくりと飲んだ。
「何か弾いてくれ」
「何を? じょんがら節?」
「いや、お前がヨーロッパで弾くような曲を」
それで稔は上妻宏光のオリジナル曲を選んだ。その調べは白い盃に満たされた透明な液体に波紋を起こすのにふさわしい。懐かしくもの哀しいこの時にも。Artistas callejerosはこの曲を街中ではあまり演奏しなかった。コモ湖やバルセロナのレストランでの演奏の時に弾くと受けが良かった。頭の中ではヴィルがいつものようにピアノで伴奏してくれている。
まだ弾き始めだったのだが、和尚は小さく「稔」と言った。バチを持つ手を止めて、彼の意識のそれた方に目を向けると開け放たれた障子引き戸の向こうに蛇の目傘をかざし佇む和装の女性が見えた。
「ごめんください」
曲が止まったのを感じて、彼女は若く張りのある声で言った。和尚は「いらしたか」と言うと、稔に出迎えに行けと目で合図した。客が来るとは知らなかった稔は驚いたが、素直に立ち上がって方丈の玄関へと回った。
その女性は、朱色の蛇の目傘を優雅に畳んで入ってくると玄関の脇に置いた。長い黒髪は濡れたように輝き、蒸し栗色の雨コートの絹目と同じように艶やかだった。そして、左腕には見事な芍薬の花束を抱えていて、香しい華やかな薫りがあたりに満ちていた。
「どうぞお上がりください」
稔はそれだけようやく言うと、置き場所に困っている女性から芍薬を受け取った。彼女ははにかんだように微笑むと、流れるような美しい所作で雨コートを脱ぎ畳んだ。コートの下からは芍薬の一つのような淡い珊瑚色の着物が表れた。
色無地かと思ったが、よく見たら単衣の江戸小紋だった。帯は新緑色に品のいい金糸が織り込まれた涼やかな絽の名古屋、モダンながらも品のいい色の組紐の帯締めに、白い大理石のような艶やかな石で作られた帯留め。この若さで和装をここまで粋に、けれども商売女のようではなくあくまでも清楚に着こなせるとは、いったい何者なのだろう。
「おう、遠い所よくお越しくだされた。何年ぶりでしょう。実に立派になられましたな、彩花里さん。いや、お家元」
居室に案内すると、和尚は相好を崩して女性を歓迎した。
「ご無沙汰して申しわけありません。お元氣なご様子を拝見して嬉しく思います」
きっちりと両手をつき挨拶する作法も流れるように美しく稔は感心して「お家元」と呼ばれた可憐にも美しい女性を見つめた。
「あ~、このお花、花瓶に入れてきましょうか」
稔が訊くと、和尚は大笑いした。
「いかん、いかん。お前なぞに活けられたら芍薬ががっかりしてしぼむわい。わしもこの方に活けていただく生涯最後のチャンスを逃してしまうではないか」
それから女性に話しかけた。
「ご紹介しましょうかの。ここにいるのは、わしの遠縁の者で安田稔と言います」
「安田さん……ということは……」
「その通りです。安田流家元の安田周子の長男です。稔、こちらは華道花心流のお家元
稔は、畳に正座してきちんと挨拶した。
「はじめまして。大変失礼しました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします」
「こやつは三味線とギターのこと以外はさっぱりわからぬ無骨者で、しかも今はヨーロッパをフラフラとしている根無し草でしてな。華道のことも、あなたが本日わざわざお越しくださっている有難さも全くわかっておりません」
彩花里は、微笑んだ。
「いいえ。私たちが一輪の花を活けるのも、一曲に全ての想いを込めて奏でるのも同じ。先ほどの曲を聴いてわかりました。安田さんは、私と同じ想いでここにいらしたのですね」
それから稔の方に向き直った。
「花心流の『花一会』はひとりのお客さまのために一度きりの花を活けます。本日は、和尚さまへのこれまでの感謝とこれからの永きご健康をお祈りして活けさせていただくお約束で参りました。安田さん、私からひとつお願いをしてもかまわないでしょうか」
「なんでしょうか」
「私が活けるあいだ、先ほどの曲をもう一度弾いていただきたいのです。私が来たせいで途中になってしまいましたから」
「わかりました。よろこんで」
それから和尚の前の一升瓶を見て、彩花里はわずかに非難めいた目つきを見せた。般若湯などと詭弁をろうしても、住職が不飲酒戒を破っていることには変わりない。ましてや陽もまだ高い。堂々と一升瓶を傾けるのはどうかと思う。
「お届けしたお茶はお氣に召しませんでしたか?」
和尚は悪びれることもなく笑った。
「いやいや、あの特別のお茶とお菓子はあなたとご一緒したくてまだ開けておりませんのじゃ。どれ、湯を沸かしてきましょうかの」
彩花里が花の準備をしている間、稔は和尚を助けてポットに入れた熱湯と、盆に載せた茶碗、そして美しい茶筒、三つ並んだ艶やかな和菓子『水牡丹』を居室に運んだ。
準備が整うと、彩花里は和尚の正面に、稔はその横の庭を眺められる位置に座して三味線を構えた。
「それではこれから活けさせていただきます」
彩花里は深々と礼をした。彩花里の目の合図に合わせて、稔は先ほどの曲をもう一度弾きだした。
彩花里の腕と手先の動きは、まるで何度もリハーサルを繰り返したかのように、稔の奏でる曲にぴったりとあっていた。活けるその人のように清楚だが華やかな花の枝や葉を、たおやかな手に握られた銀の鋏が切る度に馥郁たる香りが満ちる。
稔はかつてこの空間にいたはずの、和尚の失われた息子のことを考えた。彼のために奥出雲の神社で奉納演奏をしたのは何年前のことだったろう。妻に先立たれ、ひとり息子を失い、生涯が終わる時までこの寺で独り生きていく大切な『新堂のじいちゃん』の幸について考えた。
この美しい女性も、たった一度の花を活けながら今の自分と同じ氣持ちでいるのだと考えた。真紅、白、薄桃色。雨に濡れて瑞々しくなった花が彼女の手によって生命を吹き込まれていく。寂しくとも、悲しくとも、それを心に秘めて人のために尽くし続ける老僧を慰めるために。
バチは弦を叩き、大氣を振るわせる。その澄んだ音色は、もう一度、和尚の終生の家であるこの方丈の中に満ちていった。
外は晴れたり降ったりの繰り返しだった。眩しいほどに繁った新緑がしっとりと濡れている。その生命溢れる世界に向けて三味線の響きは花の香りを載せて広がっていった。消えていく余韻の音を、屋根から落ちてきた滴が捉え抱いたまま地面に落ちていった。
彼がバチを持った手を下ろして瞼を開くと、彼女は完成した芍薬を前にまた頭を下げていた。
ほうっと和尚が息をつき、深く頭を下げた。
「先代もあなたがここまでの花をお活けになられると知ったらさぞお喜びでしょう」
彩花里は、穏やかに微笑みながらゆったりとした動作で茶を煎れた。その色鮮やかな煎茶の香りを吸い込んで、稔は日本にいる歓びをかみしめた。
「八十八夜に摘んだ一番茶でございます。無病息災と不老長寿をお祈りして煎れさせていただきました」
「水牡丹」の優しい甘さが、新茶の香りを引き立てている。稔は、茶碗を持ったまま瞳を閉じている和尚に氣がついた。飲まないんだろうか。
「和尚さま、このお茶の香りに、お氣づきになられましたか」
彩花里は優しく言った。
「奥出雲の山茶……」
彼は、わずかに微笑みながら言った。
「はい。日本でもわずかしかない在来種、実生植えされ、百年も風雪に耐え、格別香りが高いこのお茶こそ、今日の『花一会』にふさわしいと思い用意いたしました」
そうか。あの神社から流れてくる川の水で育ったお茶なんだな。それを飲んで無病息災を願う。本当にじいちゃんのために考え抜いてくれているんだ。
「お前もこの日本の味を忘れぬようにな」
彩花里が完璧に煎れてくれた一番茶を味わっている稔の様子を和尚はおかしそうに見ていた。
「安田さんは、ヨーロッパにお住まいとのことですが……どこに」
彩花里が思い切ったように口を開いた。
「はい。俺は大道芸人をしていて、あちこちに行くんです」
「では、あの、パリに行くことなども、おありになるのでしょうか」
「時々は。どうして?」
「母が、パリにいるんです」
「先代お家元の愛里紗さんは、彩花里さんに家元の座を譲られてからパリで華道家として活躍なさっていらっしゃるのじゃ」
和尚が「水牡丹」を食べながら言った。
「何か、お母様にお渡しするものがありますか?」
彩花里は首を振った。
「いま弾かれた曲を、母の前で弾いていただけませんでしょうか」
稔は訊いた。
「無病息災と、不老長寿を祈願して?」
彩花里は「はい」と微笑んだ。
稔は彼女の母親は、この曲の題名を知っているのだろうかと考えた。『Solitude』。彼は、和尚にはあえて言わなかった。家元の重責に氣丈に耐えているこの女性もおそらく知っているけれど、あえて口にすることはないのだろう。共にはいられないことを言い募る必要はない。ただ想う心だけが伝われば、それでいいのだと思った。
(初出:2016年6月 書き下ろし)
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【小説】大道芸人たち 番外編 — アウグスブルグの冬
お題ワードを使いきるのに、かなり無理をしている分、ドイツでも最も古い都市ながら日本には馴染みのないアウグスブルグについてのミニ知識をあちこちに散りばめました。少し早いクリスマスのムードも楽しんでいただけると嬉しいです。(ヴィルの所属していた劇団と、待ち合わせをしたレストランは架空です。念のため)
この66666Hit企画は、六名の方から出していただいた名詞をそれぞれ一つ以上使うというルールがあります。今回、使った名詞は順不同で「禁煙」「飛行船 グラーク ツェッペリン」「オクトーバーフェスト」「ロマンティック街道」「ピアノ協奏曲」「彗星」「博物館」「羽」「シャープ」「ガラス細工」の十個、これで35ワード、コンプリートです。この企画にご協力くださった、出題者の皆様、そして、一緒に書いて(描いて)くださった皆様、本当にありがとうございました。あ、まだという方も、まだまだ募集中です。ぜひご参加くださいませ。
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編
アウグスブルグの冬
黄土色の壁が目に眩しい一画を、三人は歩いていた。ヴィルが壁を指差した。
「これが、フッガーライ。低所得者のための社会福祉住宅としては、ヨーロッパ最古と言ってもいい」
ドイツ南部の街アウグスブルグにあるフッガーライは、16世紀に世界的大富豪であったヤコブ・フッガーが建てた貧者のための集合住宅だ。アウグスブルグ出身の勤勉だが貧しいカトリック教徒がほんのわずかの家賃で住むことができた。
アウグスブルグは、ロマンティック街道の中心都市。ローマ皇帝アウグストゥスにその名前の起源を持つ二千年の古都だ。日本人の稔と蝶子にはあまり馴染みがなかったが、ヴィルにはなつかしい故郷だ。彼が蝶子たちにアウグスブルグの名所を案内するのは、今日が初めてだった。
「最古の福祉住宅ね。で、今でも、人が住んでいるのか?」
稔が見回す。ヴィルは頷いた。
「ああ、家賃は今でも1ライングルデン。0.88ユーロだ」
「ええっ? ひと月?」
「年間だ」
蝶子と稔は顔を見合わせた。
「それって、要するにタダってこと?」
「まあな。光熱費は別だが」
「それなら俺にも払えるぞ」
「住みたければそれでもいいが、しょっちゅうやってくる観光客に家を覗かれるのは、そんなに心地いいものじゃないぞ」
フッガーライを通り過ぎ、ヴィルは蝶子と稔を『アウグスブルガー・プッペンキステ』という人形劇博物館へと連れて行った。1943年にエーミヘン一家が始めた操り人形よる劇は、戦後テレビ放映されたことから全国的な人氣を博した。
「へえ。ずいぶん大掛かりなものもあるんだな」
「ブラン・ベックも連れて来ればよかったわね」
稔と一緒に感心しつつ、蝶子が言った。レネは、久しぶりに逢うヤスミンとの時間を過ごすために別行動なのだ。後で、劇団『カーター・マレーシュ』の仲間であるベルンと待ち合わせしているレストランで落ち合うことになっていた。
「これが、『
ヴィルは、バイクに乗っている白黒の猫の人形を指した。ドイツやオーストリアなどのドイツ語圏の子供ならば、テレビで一度は観たことがあるという、ポピュラーなシリーズで、『アウグスブルガー・プッペンキステ』というと、この猫を思い出す人も多いらしい。
「ああ、これをもじって『カーター・マレーシュ』なのね」
「マレーシュは、アラビア語で上手くいっていない時に『氣にするな』ってかける常套句だ」
「その二つの組み合わせかよ。それじゃ、日本人には、ピンとこないよな」
ヴィルは『カーター・マレーシュ』の俳優だった。逃げるように去ったこの街に、ようやく何の問題もなく戻ってこられるようになった。Artistas callejerosの仲間たちと一緒に。劇団の仲間ともあたり前のように逢って、酒を飲んで旧交を温めることが出来る。彼は、クリスマス前のアウグスブルグ観光を楽しむ蝶子と稔を見ながら、感慨にふけった。
時間より少し遅れて、三人は『Starrluftschiffe(飛行船)』というレストランの扉を押した。頭上に黄金の飛行船のプレートがある。
「レストランに飛行船モチーフって珍しいよな」
「そうね。なぜ飛行船って名付けたのかしら」
蝶子も首を傾げた。
赤い玉や、樅の木の飾りなどクリスマスらしい装飾で満ちた店内には、既にベルン、ヤスミン、そしてレネが座っていた。三人は、テーブルに向かいお互いに抱き合って再会を喜んだ。
「クリスマス市に行くにはまだ早いから、少しここで腹ごなししておこう」
先に来ていた三人の前には、既に飲み物が来ていた。レネはワイン、残りの二人はわりと小さめのグラスでビールだった。
「どうしたんだ?」
ヴィルが、ベルンに訊いた。ジョッキで飲まないとは珍しい。
「オクトーバーフェストで飲み過ぎて以来、ちょっと控えめにしているんだ」
彼が、肩をすくめると、ヤスミンが補足した。
「とんでもない醜態を晒したのよ。私が行った時にはぶっ倒れてお医者様が呼ばれていたの」
四人に、へえという顔をされて、ベルンは少し赤くなって自己弁護をした。
「元はと云えば、隣の席にいた日本人カップルが、いい調子でがぶ飲みしていたせいだよ。バイエルン人の誇りにかけて負けてはならじと……」
「ええっ。あれは、カップルじゃないでしょう」
ヤスミンは、何を言うのかといわんばかりの剣幕だった。
「え。違うのか?」
「とても歳が開いてみたいだし、それに、あんなに他人行儀なカップルはないわよ」
「そうかな? でも、娘があんなに飲むのを放置する親父っていうのも変だぞ?」
稔とレネは、二人の会話を聴きながら、顔を見合わせた。どんな二人組だったんだろう?
その話題をまるっきり無視してメニューを見ていた蝶子が「あ。なるほど!」と言った。
「何が、なるほどなんだ?」
稔が訊くと、蝶子はメニューの内側の最初のページを見せた。そこにはやはり飛行船の絵と、レストランの名前が大きく書かれていた。
「飛行船 グラーク ツェッペリン」
「これが?」
「ほら、この下の方を見てご覧なさいよ『グラーク=ツェッペリン家(Familie Glag-Zeppelin) 』って、書いてあるでしょう? これ、苗字なのよ。たまたまグラークさんとツェッペリンさんが結婚して、まるでツェッペリン伯爵みたいな響きになったんで、面白がってレストランに『飛行船』って付けたんだわ。『雄猫ミケーシュ』をもじって『カーター・マレーシュ』って名付けたみたいなものなのね」
「
「本物の伯爵が大衆レストランを経営する訳はないだろう」
ヴィルが口を挟んだ。
三人は飲み物につづいて料理も頼んだ。自分の頼んだグーラッシュが目の前に置かれて、稔は「ああ、これか!」と言った。
「何が?」
「シチューだったんだな。グーラッシュってなんだっけと訝りつつ頼んだんだ」
「まあ、わかっていなかったの?」
「うん。これ、ご飯がついていたらハヤシライスみたいだよな」
「ハヤシライス?」
レネが訊いた。
「ハッシュドビーフ・ライスのことよ。日本ではハヤシライスっていい方をする場合もあるの」
蝶子が、説明した。
「ハッシュドって、そもそもどういう意味だっけ?」
稔が訊く。
「細かく刻んだって意味でしょ」
「電話についている、ハッシュマークも同じ意味なのかな?」
「語源は同じなんじゃないの? 細かく刻んでいるみたいに見えるし」
「あれって、シャープマークじゃないんでしったけ?」
レネが、ザワークラウトと格闘しながら訊いた。
「似ているけれど違う。シャープは横棒が斜めで、ハッシュは縦棒が斜めになっているんだ」
ヴィルが、ビールを飲みながら答えた。
「ドイツ語ではなんて言うんだ?」
稔が訊いた。
「シャープはクロイツ。ハッシュはドッペルクロイツ」
ベルンの返事にレネが首を傾げる。
「クロイツって十字マークじゃ」
蝶子は笑ってさらに混乱させることを言った。
「バッテンも、シャープもクロイツよね」
「わかりにくいな」
食事が終わると、ベルンが席を外した。
「トイレにしちゃ長いな」
稔が言うと、ヤスミンが煙草のジェスチャーをした。ああ、と稔は頷いた。
「ドイツも吸えないんだっけ」
「公共の場での喫煙は禁止されているの。レストランも同様。だから、吸いたければ、外で吸うしかないんだけど、なんせマイナス15℃ぐらいまで下がるからね。冬の間に禁煙に成功する人も多いのよ。もっともここ数日は暖かいから、彼は当分止められないでしょうね」
ヤスミンが言うと、四人は笑った。
「それで、公演は終わったのか?」
ヴィルが訊くとヤスミンは頷いた。彼女は、『カーター・マレーシュ』の重要な裏方だ。
「三十年戦争終結四百周年の記念イベントに私たちも参加したの。アウグスブルグの十七世紀って、盛りだくさんだったのね」
「当時の歴史に関する劇だったのか?」
「ええ。最初は三彗星の出現から始まったのよ」
1618年の秋に、ヨーロッパには三つもの彗星が同時に現れた。同時に二つ以上の彗星が現れたのは、それから2004年までなかったことを考えると、彗星のめぐる仕組みが知られていなかった当時の人びとにとってそれがどれほどの異常事態であったかは想像に難くない。現在のように明るいネオンのなかった時代、いくつものほうき星の出現は、さぞ人びとを不安にしたことだろう。
その年に、三十年戦争が始まり、アウグスブルグも一時スウェーデンに占領されることになった。件のフッガーライの貧しい住民たちも追い出されて、一時は兵舎となったのだ。
「そのせいで、団長にスウェーデン語のセリフがあって。稽古にやたらと時間がかかったよ。それより大変だったのはベルンのピアノだけれど」
「ピアノ?」
「ああ、スポンサーがどうしてもモーツァルトを絡ませたいというので、現代人である主人公が、ピアノを練習しているうちに夢を見たという設定にしたの」
「でも、なんでモーツァルト?」
レネが訊く。
「アウグスブルグは、モーツァルトゆかりの街という観光キャンペーンもやっているから」
ヤスミンが言うと、蝶子は茶化した。
「モーツァルトと言っても、お父さんの方、レオポルド・モーツァルトのゆかりじゃない」
「そう、だから、なんとしてもヴォルフガングの方とアウグスブルグを結びつけなくちゃいけなかったの。でも、ベルンはピアノなんてできないから、弾いている振りして、録音した音源と合わせたの。このシンクロがなかなか上手くいかなくて、稽古にやたらと時間がかかって。あなたがいてくれたら、自分で弾けたのにね」
そういってヴィルを見た。
「何を弾いたんだ?」
「ピアノ協奏曲第六番変ロ長調 K.238」
蝶子が目を丸くした。
「ずいぶんマニアックな選曲ね。同じコンチェルトでも21番や23番みたいにポピュラーなものもあるのに」
「第六番は、ここアウグスブルグで、モーツァルトが自ら演奏したって記録があるんだ。モーツァルトの街を自認するアウグスブルグならではの選曲だと思う」
ヴィルの説明に、蝶子たちは納得して頷いた。
噂のベルンが戻ってきた。
「外はだいぶ暗くなってきたぞ。そろそろ行くか」
市庁舎の前では、『
本物の羽根を使って作った小鳥や、ガラス細工の大きな雪のオーナメントがぎっしりと屋台に飾られていて、明るい照明の中でキラキラと輝いている。ヤスミンとレネは、靴の形をした一つの同じ容器からグリューワインを飲んで微笑んでいた。蝶子は、クリスマスツリーに付ける新しいオーナメントを買った。
突然、オルガンの高い音が響いた。人びとがざわめき、市庁舎の窓を見上げた。窓に灯りがつく。そして、開いた窓から、一人、また一人と、背中に翼を付けた奏者たちが窓に現れた。『
「なんだ。あそこにいるの、マリアンじゃないか」
ヴィルが言うとベルンが頷いた。
「そうだよ、それにユリアもあっちにいる。エンゲル・シュピールも毎回出演すると、結構な餅代が出るしな。俺みたいにむくつけき輩は、残念ながら天使にはなれないんだが」
劇団員は、生活費を捻出するためにあちこちでバイトをするのが常だ。かつてはバーでピアノを弾いていたヴィルも、配送業の仕事をするベルンも、美容師の仕事とかけ持ちをしているヤスミンも例外ではなかった。
「クリスマス市の季節か。こうなると今年も、あっという間に終わるな」
ベルンがグリューワインを飲みながら言った。
「そうね。来年もみな健康で、いいことがたくさんあるといいわね」
蝶子が言うと、ヤスミンがウィンクをした。
「それに、あなたたちは、あまり大立ち回りのない平和な一年になるといいわね」
いろいろありすぎたこの一年のことを思い出して、蝶子は肩をすくめた。それから大切な仲間、一人一人とグリューワインで乾杯をして、来年が平和になるよう、心から祈った。
(初出:2015年11月 書き下ろし)
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【小説】ロマンスをあなたと
リクエストですが、「園城真耶」でお願いします。久しぶりに、彼女の鬼っぷり……もとい、神っぷりが見たいです(笑)
ということですので、思いっきり趣味に走らせていただくことにしました。舞台はウィーン。音楽はマックス・ブルッフ。そして、真耶と言ったら、セットは拓人(なんでといわれても困りますが)です。
途中で新聞記事上に日本人女性がでてきますが、TOM-Fさんのキャラを無断でお借りしています。50000Hitの時に「ウィーンの森」のお題で書いてくださった掌編、それにこの間のオフ会にも出てきている、TOM-Fさんのところの新ヒロインです。
あ、そもそも「真耶って誰?」「それからここに出て来る拓人ってのは?」って方もいらっしゃいますよね。「大道芸人たち Artistas callejeros」や「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」に出てくるサブキャラなんですが、「大道芸人たち 外伝」なんかにもよく出てきています。この辺にまとめてあります。ま、読まなくても大丈夫だと思います。
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編
ロマンスをあなたと
六月は、日本ではうっとうしい季節の代名詞だが、ここヨーロッパでは最も美しい季節のひとつに数えられる。特に今日のように太陽が燦々と降り注ぐ晴れた日に、葡萄棚が優しい影を作る屋外のレストランで休日を楽しむのは最高だ。
『音楽の都』ウィーンで、真耶がのんびりとホイリゲに腰掛けているのには理由があった。昨夜、楽友協会のホールでソリストとしての演奏をこなし、拍手喝采を受けた。その興奮と疲れから立ち直り、次の演奏の練習に入るまでの短い休息なのだ。
マックス・ブルッフの『ヴィオラと管弦楽のためのロマンス ヘ長調 作品85』は、日本ではもう何度も演奏していたが、海外で演奏するのははじめてだった。真耶の透き通った力強い響き、そして、冷静に弾いているように見えるのに激しい情熱を感じる弓使いは、屈指の名演を聴き慣れているウィーンっ子たち、それに手厳しい批評家たちをも唸らせた。
黄金に輝く大ホール。美しく着飾った紳士淑女たち。オレンジの綾織りの絹のドレスを着て強い光の中に立ちながら、真耶は見えていない客席に向かって彼女に弾ける最高の音を放った。それが、日本でもウィーンでも関係なかった。目指すものは全く同じだった。
そして、その客席の中に、彼が座っていることが、真耶の昂る神経に対してのある種の重しになった。二人で目指した同じ芸術。彼がピアノ協奏曲のソリストとして、客席に座る真耶の一歩前に出てみせれば、次の演奏会で、真耶がさらに先へと進んでみせる。そして、時には同じ舞台の上で音を絡ませ、共に走る。子供の頃からあたり前のように続けてきた道のりだ。
昨晩も、彼は真耶の音の呼びかけを耳にしたに違いない。そして、もし彼が忘れていなければ、彼女の奏でた音の中に、豪華絢爛な楽友協会大ホールとは違う、緑滴る小道での爽やかな風を感じたはずだ。小学生だった真耶と拓人が、あの夏に歩いた道。
結城拓人の父親は、軽井沢に別荘を持っていた。幼稚園の頃から、夏になると結城家は避暑で軽井沢へ行く。もちろん、別荘にもグランド・ピアノが置いてあり、拓人は夏の間も自宅と同じようにピアノ・レッスンをさせられた。
拓人の母親の従姉妹である真耶の母親は、毎年二週間ほど真耶を連れてその結城家の別荘へ行っていた。真耶自身は拓人と違い、放っておいても幾らでもレッスンをしたがった。当時真耶が習っていたのはヴァイオリンだった。
普段はレッスンをサボりたがる拓人も、一つ歳下の真耶に笑われるのが嫌で、彼女が来たときだけは毎朝狂ったようにレッスンをした。それで、安心した母親二人は連れ立ってショッピングに行くのだった。
あの日も、そうやって午前中を競うようにしてレッスンで過ごし、お互いの曲についてませた口調で批評し合った。その日の午後は、街に行って「夏期こどもミュージックワークショップ」に行くことになっていたが、母親たちは遠出をしていたので、二人で林を歩いて街まで行くことになっていた。
蒸し暑い東京の夏と違い、涼しい風が渡る美しい道だった。蝉の声に混じって、秋の虫の声もどこからか聞こえてくる。そして、遠くからエコーがかかったような鳥の鳴き声が聞こえていた。半ズボンを履いた11歳の拓人は紳士ぶって、真耶のヴァイオリンケースを持ってくれた。それから時おり「足元に氣をつけろよ」などと、兄のような口をきいた。
樹々の間から木漏れ陽が射し込んだ。風が爽やかに渡り、真耶のマンダリン・シャーベット色のワンピースと帽子のリボンが揺れた。
「あっ」
突如として強く吹いた風に、麦わら帽子が飛ばされて、真耶は少し林の奥へと追うことになった。拓人も慌ててついてきた。そして、今まで近づいたことのない木造の洋館の近くで帽子をつかまえた。
二人は、窓を見上げた。白いレースのカーテンが風になびき、開けはなれた窓から深い響きが聞こえてきたのだ。それが、マックス・ブルッフの『ヴィオラと管弦楽のためのロマンス』だった。それも、たぶん当時でもかなり珍しいレコードの特徴のある雑音の入った演奏だった。
「待たせてごめん!」
その声に我に返ると、待ち人がようやくこちらに向かってきていた。ベルリン公演が終わったあと、帰国の予定を変更して、昨夜ウィーンに駆けつけて聴いてくれた
「私も15分くらい前に来た所なの。だから、まだ何も頼んでいないから。それで、デートは終わったの?」
真耶は、拓人が荷物を置けるように自分の隣の椅子を少し動かした。
彼は少しふくれっ面をした。
「デートじゃないよ。後援会長。でも、さすが日本人だね。ここまで来たらブダペストにも行きたいって、たった三日の旅程なのに行っちゃったよ。あの歳なのに、元氣だよな。おかげでこっちはお相手する時間が少なくて済んだけれど」
「文句言わないの。今度の大阪公演のチケットも大量に捌いてくれるんでしょう?」
「まあね」
拓人は、真耶の前に座ると、荷物からドイツ語の新聞を取り出した。
「それより、ほら。ちゃんと買ってきたよ」
真耶は、それが昨日のマックス・ブルッフの批評のことだとわかっている。言われるページを開けてみると、タイトルからして悪くなかった。
「柔らかい動きの弓にのせて、ロマンスは躍動した……ね」
「美しき日本のヴィオリストは、我々に改めてヴィオラという楽器の奏でる控えめだが力強い主張を教えてくれた……。これは、あの辛口批評家のシュタインミュラーが書いたんだぜ。文句の付けようがなかったってことだろう?」
「どうかしら。後から演奏されたブルックナーの方も絶賛されているもの。辛口批評をやめただけなんじゃないの?」
「いずれにしたって、極東から来たヴィオラ奏者が褒められたんだ。立派なもんさ」
真耶は、その隣のページのサイエンス欄にも目をやった。
「あら、ここにも日本から来た女性が取り上げられているわよ」
拓人は、ウィンクをして言った。
「うん、じっくり読んだよ。美人の話は氣になるからね。そんな可愛い顔しているのに、なんとCERN(欧州原子核研究機構)で活躍している物理学者らしいぜ」
「CERNって、ジュネーヴでしょう? スイスで活躍する日本人が、なぜウィーンの新聞に?」
「ああ、そのイズミ・シュレーディンガー博士は、ウィーンで育ったらしいんだ。その真ん中あたりに書いてあった」
まあ、そうなの。同じ日に二人の日本人女性がウィーンの新聞に並んで載ったのが少し嬉しくて、真耶は新聞を大切にバッグにしまった。
ウェイトレスが、注文を訊きにやってきた。
「あれ、まだ全然メニューを見ていないや。ここは何が美味いんだろう?」
拓人が訊く。メニューを見せながら真耶は言った。
「この季節限定メニュー、アスパラガスのコルドンブルーって、美味しそうじゃない?」
「ああ、そうだな、それにしよう。ワインは?」
「白よね。これに合わせるとしたらどれがおすすめ?」
ウェイトレスは、フルーティで軽いGrüner Veltlinerを奨めた。ピカピカに磨かれたワイングラスに葡萄棚からの木漏れ陽が反射した。
拓人は、乾杯をしながら、葡萄棚を見回した。
「ここは氣持ちいいなあ。よく見つけたね」
「何を言っているのよ。ここに来たのははじめて?」
真耶は、首を傾げる拓人に笑いかけた。
「この店? 『
「ここはね、ベートーヴェンが第九を書いた家として有名なホイリゲなのよ。日本人がベートーヴェン巡礼にしょっちゅう来ているわよ」
「へえ。そうなんだ。確かに『田園』の着想を得たって言うハイリゲンシュタットだもんな。その向こうの『遺書の家』記念館は、ずいぶん前に一度行ったよ」
「でしょう? だから、ここにしようと思ったの」
拓人は、若干げんなりした顔をした。真耶のいう意味がわかったのだ。東京に帰ったら、次のミニ・コンサートで彼女が弾きたがっているのがベートーヴェンの『ロマンス 第二番』なのだ。もともとはヴァイオリンのための曲だが、一オクターブ下げてヴィオラで弾くバージョンを、拓人も氣にいっているのは確かだ。だが、昨日の今日で、もう次の曲の話か……。
「そういえば、昨日のも『ロマンス』だったな」
拓人は、ぽつりと言った。真耶は、周りの滴る新緑を見上げた。そうよ。あの時に聴いた曲だわ。
「ああ、そうだ。軽井沢、こんな感じだったよな」
拓人は、あたり前のごとく言った。憶えていたのね。真耶はニッコリと笑った。もちろん彼女は一度だって忘れたことはない。ヴァイオリンではなくてヴィオラを習いたいと突然言いだして、親を慌てさせたのは、あの洋館から聴こえてきたマックス・ブルッフの『ロマンス』が、きっかけだったから。
そして、あの時は、全く考えもしなかったことがある。兄妹のように憎まれ口をたたきながら育ち、どんなことも隠さずに話してきた親友でもある再従兄、音楽と芸術を極めるためにいつも共にいた戦友でもある目の前にいる男のことを、いつの間にか『ロマンス』と名のつく曲を奏でる時に心の中で想い描くようになったこと。
だが、そのことは口が裂けてもこの男には言うまいと思った。そんな事を言う必要はないのだ。ロマンスがあろうとも、なかろうとも、二人が同じ目的、一つの芸術のために生きていることは自明の理なのだから。彼女のロマンスは、常にその響きの中にある。そして彼は、いつもその真耶の傍らにいる。
二人の話題は、次第に来月のベートーヴェンの『ロマンス 第二番』の解釈へと移っていった。葡萄棚からの木漏れ陽は優しく煌めいていた。六月の爽やかな風がウィーンを渡っていった。
(初出:2015年7月 書き下ろし)
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【小説】大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 風の音
scriviamo!の第十三弾です。
けいさんは、当ブログの55555Hitのお祝いも兼ねて「大道芸人たち Artistas callejeros」のあるシーンを別視点で目撃した作品を書いてくださいました。ありがとうございます!
けいさんの書いてくださった小説『旅人たちの一コマ (scriviamo! 2015)』
けいさんは、オーストラリア在住の小説を書くブロガーさん。心に響く素敵なキャラクターが溢れる、青春小説をお得意となさっていらっしゃいます。読後感の爽やかさと、ハートフル度は、ブログのお友だちの中でも群を抜いていらっしゃいます。雑記を読んでいても感じることですが、なんというのか、お人柄がにじみ出ているのです。まさにタイトル通り「憩」の場所なのですよね。2月12日に、40000Hitを迎えられました。おめでとうございます!
海外在住ということで、勝手に親しみを持ってそれを押し付けているのですが、それも嫌がらずにつき合ってくださっています。いつもありがとうございます。
さて、「scriviamo!」初参加のけいさんが書いてくださったのは、このブログで一番知名度が高い「大道芸人たち Artistas callejeros」に関連する作品。「●●が○○に△△した」あのシーンです。ってわかりませんよね。これです。自分でも好きなシーンなので、注目していただけて、さらにけいさんらしい優しい視線でリライトしていただけて感激です。端から見ると、そうなっていたんですね(笑)
というわけで、この目撃者を捕まえちゃうことにしました。折角なので、私もけいさんの作品の中で最初に読破した代表作「夢叶」を使わせていただくだけでなく、勝手にとあるキャラとコラボさせていただくことにしました。作品を読んでいる時から注目していた、あの人です。
なお、この作品には、「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(チャプター4)のネタバレが含まれています。大したネタバレではありませんし、すでに既読の方の間では既成事実となっているので「今さら」ですが、「まだ知りたくない!」という方がいらっしゃいましたら、お氣をつけ下さいませ。あ、あと「夢叶」もちょっとだけネタバレです、すみません!
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
【小説】大道芸人たち Artistas callejeros 番外編
風の音 - Featuring「夢叶」
——Special thanks to Kei san
ゆっくりと階段をひとつひとつ踏みしめて登った。心地よい風が耳元で秋だよと囁く。サン・ベノア自然地学保護区にある遊歩型美術館に行こうと口にしたのは蝶子だった。ここは、南仏プロヴァンス、ディーニュ・レ・バン。今ごろはニースで稼いでいるはずだった。実際に、稔とレネは今ごろどこかの広場で稼ぎながら待っていることだろう。
蝶子は、前を行くヴィルの背中を見上げた。青い空、赤い岩肌、オリーブ色の乾いた樹々。何と暖かく、心地よく美しく見えることだろう。この男の存在する世界。アンモナイトや恐竜の眠る、太古の秘密を抱くこの土地で、彼女は今を生きていることを感じる。迷う必要はなかった。苦しむこともなかった。これでいいのだと魂が告げるのだから。
彼が振り向いた。そして、蝶子が少し遅れているのを見て、手を差し出した。あたり前のごとく。昨日までは、見つめることしか出来なかった。諦め、去っていこうとすらした。彼もまた、迷いを取り去ったことを感じて、蝶子は手を伸ばした。二つの、銀の同じデザインの指輪が、強いプロヴァンスの光に輝いた。二人は、階段の曲がり角に立ち、赤茶色の屋根の並ぶディーニュの街を見下ろした。
風の音に耳を傾けた。
人生とは、何と不思議なものなのだろう。閉ざされていた扉が開かれた時の、思いもしなかった光景に心は踊る。フルートが吹ければそれでいい、ずっと一人でもかまわないと信じていた。世界は散文的で、生き抜くための環境に過ぎなかった。
だが、それは大きな間違いだった。蝶子は大切な仲間と出会い、そして愛する男とも出会った。風は告げる。美しく生きよと。世界は光に満ちている。そして優しく暖かい。
ヴィルが蝶子の向こう側、階段の先を見たので、彼女も振り向いた。そこには一人の青年が立っていて、信じられないという表情をしていた。蝶子はこの青年にはまったく見覚えがなかった。だが、それはいつものこと、彼女は関心のない人間の顔は全く憶えておらず、大学の同級生であった稔の顔すら忘れていたことを未だにいじられるくらいだから、逢ったことのある人だと言われても不思議はないと考えた。
「
「スイス人か」
「ええ。ドイツの方だとは思いませんでした」
二人の会話で、蝶子にも納得がいった。二人はドイツ語で話している。先ほどのはスイス・ジャーマンの挨拶なのだ。
「申し訳ないが、どこで逢ったんだろうか、大道芸をしている時に見ていたのか?」
そうヴィルが訊くと、青年は首を振った。
「いいえ。僕は昨日着いたばかりなんです。駅であなたたちをみかけました。はじめまして、僕はロジャーと言います」
ヴィルは無表情に頷き「ヴィルだ。よろしく」と言った。蝶子は、赤面もののシーンを見られていたことへの恥ずかしさは全く見せずににっこりと微笑むと、ヴィルとつないでいた手を離してロジャーと握手をした。
「蝶子よ。よろしく」
「ここは、素敵ですね」
青年は言った。
「プロヴァンスは、はじめてなのか?」
「ええ。バーゼルに住んでいるのに、休暇で南フランスへ行こうと思ったのは初めてなんですよ。隣町がフランスだというのに。ここは、まるで別世界だ」
「俺もプロヴァンスは好きだ。風通しが良くて、酒もうまい」
「南フランスがはじめてなら、普段はどこへ休暇に行っているの?」
蝶子が訊くと、ロジャーは笑った。
「遠い所ばかり。南アフリカ、カナダ、カンボジア、それに、休暇ではないけれど、学生時代にかなり長いことオーストラリアにもいたな。ここの赤い岩肌は、あの国を思い出させる……」
「エアーズロックかしら?」
蝶子が訊くとロジャーは頷いた。
「あなたは、日本人ですか?」
「ええ。日本人よ。どうして?」
「僕は、あそこで日本人と友達になったんだ。とてもいいヤツで、またいつか逢えたらいいと思っている。今、彼のことを思い出しながら、ここを歩いていたんです」
そういうと、彼は、小さく歌を口ずさみだした。蝶子とヴィルは、顔を見合わせた。それからヴィルが下のパートをハミングでなぞった。ロジャーは目を丸くして二人を見た。
「どうしてこの曲を?」
その曲は、ロジャーの日本の友人がエアーズロックで作曲したばかりだと聴かせてくれたオリジナル曲だった。なぜ南仏で出会った見知らぬ人たちが歌えるんだろう。
蝶子はウィンクした。
「それ、私たちのレパートリーにも入っているのよ。スクランプシャスの『The Sound of Wind』でしょ?」
スクランプシャスは、日本でとても人氣のあるバンドで、最近はアメリカでもじわじわと人氣が広がっている。ヨーロッパでも、ツアーが予定されているので、いずれはこちらでブレイクするだろう。日本に帰国した時に、稔が大喜びでデビューアルバム『Scrumptious』のCDと楽譜を買ってきたのだ。
「じゃあ、ショーゴは、デビューしたんですか? 夢を叶えたんですね?」
「ショーゴって、ボーカルの田島祥吾のことよね。ええ、彼は今や大スターよ」
ロジャーは、微笑んで大きく息をついた。
「ウルルで、彼は僕にこう言ったんですよ。『夢を誰かに話すと、その夢は叶う』って。本当だったんだ」
ロジャーは、ヘーゼルナッツ色の瞳を輝かせた。
「あんたも、彼に夢を話したのか?」
「ええ。『世界を駆けるジャーナリストになる』ってね。あの頃、僕はただの学生でしたが、今は、本当に新聞社に勤めている。まだ『世界の……』にはなっていないけれど、言われてみれば、少しずつ進んでいますね」
「じゃあ、きっと叶うわ。だって、ここで私たちに夢を話しているもの」
蝶子は、フルートを取り出すと、ディーニュの街へと降りてゆくプロヴァンスの風に向かって、『The Sound of Wind』を演奏しはじめた。ロジャーとヴィルがそのメロディを追う。通りかかった人たちも、微笑みながらその演奏に耳を傾けていた。
風は、地球をめぐっていた。アボリジニたちの聖地で生まれた歌が、世界をめぐり、南仏で出会う。秋の優しい光が、旅人たちを見つめている。ひと時の出会いを祝福しながら。
(初出:2015年2月 書き下ろし)
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【小説】大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 Paris - Ker Is
ウゾさんが書いてくださった作品: 『パリ - イス 』
で、これまた難しいお題でした。題名指定って、単なるテーマ指定と違って、ものすごく大変なことが分かりました。二度とやらないと思います。
「パリ 椅子」でギャグにしてもよかったのですが、あえていただいたウゾさんの作品に寄せて、同じケルトの伝説イースを持ってきました。でも、同じものを書いてもしょうがないので、困ったときの「大道芸人たち」(しょーがないなあ……)本編が始まる数年前のお話で、あの人が登場です。パリだから。
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大道芸人たち Artistas callejeros 番外編
Paris - Ker Is
男たちと女たちの妖しい上目遣いが紫とピンクのライトの光に染まっていた。肩や足が露出している女たちですら、その熱氣に喘いでいる。スーツを着こなした男たちは懐から白いハンカチを取り出して、時おり汗を拭わねばならなかった。
週末でもないのにそのクラブは満員で、お互いの声がよく聴き取れないほどに騒がしかった。テーブルに置かれたカクテルグラスに注がれたギムレットが、ざわめきで揺れていた。この店は、パリ、モンマルトルにある高級クラブの中でも特に敷居が高く、団体の観光客などは一切入れない。
レネ・ロウレンヴィルのようなしがない貧乏人がこの場にいるのは、もちろん仕事でだった。彼は駆け出しの手品師で、故郷のアヴィニヨンから出てきてからまだ一年も経っていなかった。普段は観光客の多い有名キャバレーの隣のクラブで前座を務めているのだが、今夜はこのクラブのマジシャンが高熱を出したというので、代打に送り込まれたのだ。
「こっちの舞台の前座はどうでもいいが、あっちに穴をあけるわけにはいかないからな」
オーナーは髭をねじった。
「そういう高級クラブでは、どんな手品が観客受けするんでしょうか」
レネはおどおど訊ねた。
オーナーはナーバスになったレネを笑った。
「何だっていいんだよ。あそこの客は手品なんかまともに見ちゃいねえ。ビジネスをしているか、ラリっているか、それとも女を口説いているかだ。とくに《海の瞳のブリジット》を」
オーナーの言葉は正しかった。レネの演技はおざなりな拍手で迎えられ、得意のリング演技は私語に邪魔された。観客の関心のない様子には落胆させられたが、退場のみやたらと大きな拍手をもらった。演技に集中していたレネですら、その時の人びとの興味の中心がどこにあるのかがわかった。舞台と反対側の奥に置かれたVIP用ソファーに案内された青いワンピースドレスの女性だった。
ああ、では、あれが《海の瞳のブリジット》なんだ。数週間前に突然現れたという、パリ中の若い御曹司や成金たちが競って愛を求めている謎の美女。金箔入りのシャンペンを浴びるように飲み、プレゼントの宝石で身動きが取れないほどで、しかも、次々と求婚者を袖にして絶望の縁に追いやっているとオーナーが話していた。
ブリジットは、膝丈ドレスの過剰なフリルを払ってソファーで足を組みなおした。それは少しずつ彩度の異なる青いオーガンジーを重ねた繊細なオーダーメードで、とくにマーメイド部分のフリルはデザイナーが三日もかけて何度もやり直させたこだわりの細部だったのだが、彼女は自分が美しく見えさえすれば、デザイナーや針子の努力などはどうでもよかった。
彼女の周りには、その金糸のごとく光る豊かな髪に触れ、その青く輝く瞳を自分に向けさせようと、多くの男たちが面白おかしい話や、長く退屈な家系の話、それに金鉱山を買い取った話などをしていた。彼女は艶やかに笑って、一人一人を品定めしていた。仕事を終えたレネはその噂に違わぬ艶やかな様子に心奪われて、礼儀も忘れて近くへと歩み寄っていった。
あら、見かけない顔ね。ああ、さっき手品をしていた芸人ね。どうりで黒いスーツがまったく似合っていないこと。でも、退屈しのぎにはいいかも。彼女はニッコリと笑いかけた。
「こっちにいらっしゃいよ、手品師さん。お仕事が終わったなら、ここで私を少し楽しませて」
レネは、顔を赤らめてブリジットのソファの前にやってきた。新しいライバルにはなりえないと判断した男たちは、手足がひょろ長くもじゃもじゃ頭の手品師のことをあからさまに笑った。
手品の用具は舞台裏に置いてきてしまったので、レネは常に内ポケットに入っているタロットカードを取り出した。レネが誰かを驚嘆させることのできるたった一つの特技、それがタロットカードによる占いだった。華麗な手さばきでカードを切る。右の手から左の手に移す時に、カードは一枚ずつ弧を描くように空を飛んだ。それがとても見事だったので、ブリジットの青い瞳は初めて感嘆に輝いた。
レネが扇のように開いたカードの群れを彼女に差し出すと、男たちがどよめいた。不吉な予感がした。
「いけない、ブリジット……」
「何がいけないの。たかがカードじゃない」
「いや、そうだが……確かに、そうだが……」
海のように青いドレスを纏い、黄金の髪を王冠のように戴いた美女は、挑むような目つきでカードに手を出した。銀色のマニキュアが震えている。レネは、自分でもいったい何が起こっているのかわからなかった。このクラブは暑すぎる。息苦しい。
「きゃあ!」
彼女はカードを投げ出した。「塔」のカードを。塔には、天からの稲妻があたり、二人の人間が落とされている。レネは彼女が「たかがカード」と言ったわりに、恐ろしく動揺しているのを不思議に思いながら、柔らかく不安を取り除くような解釈を口にしようとした。本当は、大アルカナカードの中でもっとも不吉なカードであるけれど。
だが、ブリジットも取り巻きの男たちも、レネを見ていなかった。その後ろにいつの間にか立っていた一人の背の高い男に畏怖のまなざしを向けていた。
「ゼパル……。どうしてここに」
ブリジットが震えていた。レネは一歩退き、ゼパルと呼ばれた男をよく見た。背の高い男は撫で付けた漆黒の髪と暗く鋭い光を放つ瞳を持ち、黒いあごひげを蓄えていた。真っ赤な三揃えの上から真紅のマントを羽織っていた。先の尖った赤いエナメル質の靴を履いている。そして、その姿なのに、この熱氣に汗一つかかずに背筋を伸ばして立ち、ブリジットを見据えて低く言葉を発した。
「実にあなたらしいことだ。享楽を愛する淫らな人よ。だが、ここはあなたのための都ではない。迎えにきました」
「いやよ。私があんな所に戻ると思って?」
「それでも、あそこはあなたのために存在する城です。私はあなたの番人だ。どこへ逃げても地の果てまで追いかけて、あなたを連れ戻しましょう」
レネはこの美しい女性は、どこか外国の囚われの姫君なのかと考えた。映画「ローマの休日」を地でいくように、わずかな自由を楽しんでいる所なのかと。その一方で、記憶の奥底で「これは知っている」と囁くものがあった。なんだったかな……。
「あっ」
レネは思い至った。全身赤い服を纏った男に心を奪われて水門の鍵を渡してしまった王女……。ブルターニュにあったという伝説の都イースには、夜な夜な貴公子たちと愛を交わす美しい王女がいた。そして、その都は神の怒りに触れて、いつまでも海の底に沈んでいるという。
「お前は誰だ! ブリジットは嫌だと言っているじゃないか」
取り巻きの男たちがいきり立ったが、赤装束の男は微動だにしなかった。レネはぞっとした。伝説での赤い服を来た貴公子は悪魔が化けていたから。いや、待てよ。あれはあくまで伝承だから、二十一世紀のパリで怯えることはないかな……。でも、これからケンカになるかもしれないから、ちょっと離れておこうかな……。
巻き込まれる前に、愛用のカードを回収して去ろうとすると、「塔」のカードに目をやった真紅のゼパルは口を開いた。
「そう、かつて、悪徳の都は崩壊し、大きな災害が押し寄せた。ところで、人類は歴史に何かを学ぶことができたと思うか」
自分に向かって話しかけられていることを感じたレネは不安げに男を見上げた。彼はレネを見ておらず、酒に酔い、妖しげな薬剤を用い、淫らに騒ぐクラブの客たちを見回していた。それは、確かにヨハネ黙示録に描かれた滅ぼされるべき淫蕩のバビロンを彷彿とさせる風景ではあった。
レネは人類とパリを救わねばならないような氣持になっておずおずと答えた。
「ここは、ちょっと騒がしいですが、パン屋は早起きをしておいしいパンを焼いていますし、僕の生家では、両親が心を込めて葡萄を作っていますよ。それに、教会にちゃんと通っている人も多いですし……」
男はレネが自分を、最後の審判を下す恐ろしい天の使いか、イースを海の底に沈めた悪魔だと思っていると悟ったのだろう。思わせぶりに、にやっと笑った。それからおもむろに、ブリジットの方に手を伸ばすと、嫌がる彼女を軽々と肩の上に載せ、唖然とする人びとの間を巧妙にすり抜けて去っていった。
取り巻きの男たちが、騎士道精神を発揮して真紅の男と抱えられた姫を追うとしたが、クラブの人混みに遮られてままならなかった。そして、男たちがクラブのドアから出ると、どういうわけか二人の姿は影も形もなかった。
レネが、そのクラブで仕事をしたのはその一晩だけだったので、《海の瞳のブリジット》がその後どうなったのかはわからなかった。オーナーによると、あれから二度と現れていないそうだ。
「ったく、いい客寄せになったのにな。婚約者かなんかに見つかって連れ戻されたんだろうか」
そうなのかもしれない。だがレネは、まだあの二人がケルトの異世界からやってきたとのではないかと疑っていた。伝説のイースの王女ダユはケルトの女神ダヌと同一視されているが、そのダヌと女神ブリギットも同一視されている。名前までもケルトっぽいんだよなあ。赤い悪魔、天の使い魔ゼパルが、快楽と淫蕩に満ちたパリの街に警告を与えにきたのではないかな。
とはいえ、その街パリは、レネにとって日々のパン代を稼ぐ職場だった。つべこべ言っている余裕はなかった。ああ、神様。もしパリを沈めてイースを甦させるおつもりなら、もうしばらく、つまり、あと百年くらいお待ちください。レネは小さくつぶやくと、モンマルトルの派手なネオン街をもう一度見回した。
Pa vo beuzet Paris
Ec’h adsavo Ker Is
パリが海に飲み込まれるときは
イースの街が再び浮び上がるであろう
(初出:2014年10月 書き下ろし)
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【小説】大道芸人たち 番外編 白い仔犬 - Featuring「ALCHERA-片翼の召喚士」
フェンリルは、ユズキさんが連載中の異世界ファンタジー「ALCHERA-片翼の召喚士-」に出てくる白い狼の姿をした神様です。本当の姿を現わすと一つの街がつぶれちゃうくらい大きいので、普段は白い仔犬の姿に変わって常にヒロインの側にいます。本文の描写の中でも可愛いのですが、ユズキさんご本人の描かれる挿絵の仔犬モードフェンリルも、とってもキュート!
大好きなフェンリルを貸していただいたので、どうしようかなと悩みましたが、こんな感じでわずかな時間だけ四人につき合っていただくことにしました。舞台は、フランスのモン・サン・ミッシェルです。どなたもお氣になさっていないかと思いますが、「大道芸人たち Artistas callejeros」は2045年前後の近未来小説なので、モン・サン・ミッシェルに関する記述の一部もそれを意識したものになっています。
【追記】なんとユズキさんがご紹介記事を書いてくださり、その中にフェンリルを隠しているヴィルを描いてくださりました!嬉しい! ものすごく男前(だけど笑える)なのです。みなさま、いますぐユズキさんのブログにGO!
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編
白い仔犬 - Featuring「ALCHERA-片翼の召喚士」
潮が引いた。朝もやの中に城塞のように浮かび上がるのは大天使ミカエルを戴いた島だ。その優雅な佇まいを見て稔は感慨深くつぶやいた。
「これがモン・サン・ミッシェルか……」
天使の砦を覆っていた霧が晴れ四人を誘うように隠れていた橋が浮かび上がった。かつては常にこの島へと渡れるように道が造られていた。ところがこの道のせいで堆積物が押し寄せ、海に浮かんでいた幻想的な島はただの陸続きの土地となってしまった。再び工事をして道を取り除き海流が堆積物を押し流すまでかなりの時間がかかったが、今では潮の満ち引きで完全に島となる時間がある。
「行くぞ」
荷物を肩に掛けた。蝶子もベンチから優雅に立ち上がった。残りの二人が後ろから続いてくる様子がないので振り向くと、レネがぽうっとした様相でバス停の方を見ている。
「何よ。また美人でもみかけたの?」
「ええ、パピヨン。いまそこに、本当に素敵な女性がいたんですよ。長い金髪で青空のような澄んだブルーのワンピースを着ていて……」
「はいはい、わかったから。ここにいたなら、その女性も間違いなくあの島に行くだろうから、早く行きましょ。ところでヴィルはどこに行っちゃったのかしら」
「え。さっきまでここにいたのに。あれ?」
レネはキョロキョロとドイツ人を探した。二人は同時に少し離れたところでかがんでいるヴィルを見つけた。
「何してるの? 早く行きましょうよ」
蝶子が覗き込むと、ヴィルは顔を上げた。それで、彼の足元にいた白い仔犬が見えた。
「ひゃっ。可愛い!」
レネが叫ぶ。つぶらな目をまっすぐに向けたその仔犬は、ヴィルが背中を撫でるままにさせていたが、レネの賞賛に嬉しそうにするわけでもなく、蝶子の「あら」という冷静な反応に反発するようでもなかった。つまり、尻尾も振らなければ、唸りもしなかった。
「ここにいたんだ。親犬か飼い主とはぐれたのかもしれない」
ヴィルが無表情のまま言った。レネと蝶子は顔を見合わせた。人間の赤ん坊が泣き叫んでいても、いつものヴィルなら無視して横を通り過ぎるだろう。その彼が、仔犬の心配をしている。びっくりだ。
「おい、お前ら、いったいいつ来るんだよ」
先を歩いていた稔も戻ってきた。そして、ヴィルが仔犬から離れられないでいるのを見て目を丸くした。
「意外でしょ? 犬の方は、そんなに困っているようには見えないんだけれどね」
蝶子がささやいた。稔は宣言した。
「いいから犬ごと来い。早くしないといつまでも島に行けないぞ」
その言葉がわかったかのように、白い仔犬はすっと立ち上がり、稔の側まですたすたと歩いてからヴィルの顔を見上げて「早く行こう」と言わんばかりに頷いた。ヴィルが呆然としているので蝶子とレネはくっくと笑った。
カトリックの聖地として、サンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼地の一つにもなっているモン・サン・ミッシェルだが、もともとここはケルト人たちが「墓の山」と呼ぶ聖地だった。ここから遠くないブルターニュ地方では、今でも人びとはケルト系の言語を話している。
遠くから見るとまるで一つの建物のように見えるが、実際には頂上に戴くゴシック様式の尖塔を持つ修道院へと旋回して登っていく門前町だ。路地は狭く、そこに観光客がひしめくので曜日と時間帯によってはラッシュアワーのパリの地下鉄のような混雑になってしまう。幸いまだ朝も早いので、それほどの混雑ではなかった。
四人と一匹は朝靄が晴れたばかりの清冽な時間をゆっくりと進んでいった。島内のホテルに宿泊した観光客たちはまだ朝食にも降りてきておらず、普段は観光客でごった返す名物のスフレリーヌを提供する「la Mère Poulard」の店の前にも誰もいなかった。とはいえ、そんなに朝早く食べる類いのオムレツでもなく、それに観光客が大挙して押し寄せるところを毛嫌いするヴィルとレネに配慮して、蝶子と稔は目を見合わせて肩をすくめるだけで前を素通りした。
人出の少ない石造りの道は、どこか中世を思わせ、サン・マロ湾から吹く潮風が時の流れすらも吹き飛ばしていくようだった。一番前を行くヴィルの足元を時には追い越し、時には後ろになりトコトコと歩いていく白い仔犬は静かだった。
「ねぇ、妙な組み合わせじゃない?」
蝶子が囁くと、レネは頷いた。
「犬好きだなんて今まで一度も聞いたことなかったですよね」
それが聞こえたのかヴィルは立ち止まって三人を見た。それから仔犬を抱き上げて頭を撫でながら言った。
「子供の時に唯一の友達だった犬に似ているんだ」
「うわっ。やめてくれ。何だよその暗いシチュエーションは」
稔がびびった。ヴィルは肩をすくめた。
「なんて名前だったの、そのお友だちは?」
蝶子が訊いた。
「クヌート。シロクマの子供みたいだったからな」
「じゃ、この子もシロクマですかね」
レネが仔犬を覗き込んだ。わずかに馬鹿にしたような顔をされたように感じたが、氣のせいだろうと思った。
「シロクマじゃないだろう。どっちかって言うと、白い狼って感じだぜ。それにしても小さくて可愛いのに変わった目してんな」
稔が首を傾げる。
「変わっている?」
犬に詳しくない、というよりもほとんど興味がないために近寄ったことのない蝶子が訊き返した。
「うん。なんかさ、目だけ何もかもわかっている老犬みたいだ。今もテデスコに甘えているっていうよりは、撫でさせてやってる、苦しうないって風情だろ」
「ふ~ん。あれじゃないの。大天使ミカエルが化けているのかも」
「パピヨン、妬けますか?」
「ふふん。そんなわけないでしょう」
そういいつつ、蝶子は仔犬を肩に乗せて歩いていくヴィルをちらりと見てから、ぷいっと別の方向を見た。
修道院についた。中を見学しようと入口に行くと、ペット持ち込み禁止のサインがついていた。三人は黙ってヴィルを見た。ヴィルはまったくの無表情のまま白い仔犬をつまみあげると自分の上着の中に入れてファスナーを閉じた。蝶子はしょうもないという顔をして頭を振った。仔犬はまったく抵抗していない。稔とレネは肩をすくめて何も見なかったことにした。
修道院の中はゴシック式のアーチの連なりが美しく、天井に近い窓からこぼれる光が射し込んで荘厳な雰囲氣を創り出していた。今のように観光客のアトラクションとなる前は、多くの人びとが祈りを捧げてきたのだろう。その前は、ケルトの民が海に浮かぶ特別な山に祈りを捧げてきたはずだ。信仰や歴史のことはわからなくても、特別な場所に立っていることだけはわかる。
「天使か……」
蝶子はぽつんとつぶやいた。
「多くの人たちが祈りを捧げてきたんでしょうね」
レネが並んで上を見上げた。
「後で、外で奉納演奏していくか、いつものように」
稔が言うと、ヴィルも横に並んで黙って頷いた。
外に出ると、ヴィルは上着を脱いで、白い仔犬を外に出してやった。仔犬は黙って四人を見つめていた。稔はギターを、蝶子とヴィルはフルートを取り出して、モンの頂上に立つ剣と秤を持った大天使ミカエルを見上げてから息のあったタイミングでフランクの「パニス・アンジェリクス」の伴奏をはじめた。レネが澄んだテノールで朗々と歌い上げる。
白い仔犬は体を伏せて両前足の上に頭を載せ、目を閉じて四人の奏でる楽の音にじっと耳を傾けていた。
「敬愛する神よ、どうか私たちを訪れてください。あなたの道へ私たちを導いてください。あなたの住みたもう光の許へ私たちが行き着くために」
いつの間にか、彼らの周りには人垣ができていた。人びとは天使の砦に捧げられた「天使の糧」のメロディに心とらわれて立ちすくんでいた。レネが最後の繰り返しを歌い終え、三人が静かに演奏を終えると、しばらくの静寂の後に拍手がおこった。
四人はお辞儀をした。人びとがアンコールを期待して拍手を続けるので顔を見合わせた。
「どうしましょうか」
レネが稔をつついた。
「さあな。その仔犬も期待しているらしいな。しっぽ振ってるぞ」
蝶子は片眉を上げてヴィルに言った。
「ですって。あなた、『こいぬのワルツ』でも吹けば?」
それを聞いて、レネと稔も笑いながらヴィルを見た。ヴィルは肩をすくめてからフルートを持ち上げると、ショパンの「こいぬのワルツ」を吹いた。
仔犬はじっとヴィルの顔を眺めながら流れるような調べに耳を傾けていた。
その曲が終わると、人びとが再び拍手をした。ヴィルは仔犬に手を伸ばしたが、仔犬は観客の後ろかに聞こえてくる別の声に耳を傾けていた。
「フェンリル? どこ?」
白い仔犬はさっと立ち上がるとその声のする方に猛スピードで走り出した。びっくりした観客がさっと道をあけた。すると道の向こうに青空色のワンピースを身に着けたほっそりとした美しい女性が見えた。
レネが「あっ、あのひと」と言った。稔と蝶子は顔を見合わせた。ブラン・ベックのいつものビョーキが始まった、と無言で確認したのだ。
女性めがけて一目散に走り、途中まで行ったところでフェンリルは振り向いた。手を伸ばしたままで無表情に見つめているヴィルのところに戻ってくると、その手をそっと舐めた。それから再び全力で女性の許に走っていき、その細い腕の中に飛び込んだ。
去っていく女性に見とれているレネと寂しそうに立っているヴィルを、稔がぐいっと引っ張った。
「ほら。飯食いにいくぞ」
「お腹空いた。わたし、ブルターニュ風のそば粉のクレープが食べたい。シードルつきで」
蝶子の声で我に返った二人は顔を見合わせて頷くと、荷物を肩に掛けて、女性とフェンリルが去っていったのと反対側にあるレストランに向かって歩き出した。
尖塔のてっぺんのミカエル像は微笑んでいるようだった。
(初出:2014年6月 書き下ろし)
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【小説】大道芸人たち 番外編 〜 郷愁 - Su patria que ya no existe — 競艶「じゃわめぐ」
scriviamo!の第十六弾です。
大海彩洋さんは、最愛のキャラ真とうちの稔が三味線で競演する作品を書いてくださいました。ありがとうございます!
彩洋さんの書いてくださった小説『【真シリーズ・掌編】じゃわめぐ/三味線バトル』
彩洋さんはいろいろな小説を書いていらっしゃいますが、自他ともに認める代表作はなんといっても「真シリーズ」でしょう。これは一つの作品の題名ではなくて、五世代にわたる壮大な大河小説群です。その発端の人物であり、ご本人も最愛と公言していらっしゃる真は、他のブログの錚々たる人氣キャラのみなさんと競演はしていらっしゃいますが、好敵手としてここまで持ち上げていただいたのは稔が始めてでしょう。他の方のキャラよりもうちの稔が魅力的だったからではなく、ひとえに稔が三味線弾きだったからです。ありがたや。
しかしですね。私は三味線を弾くどころか、実はどんな楽器かもよくわかっていない素人。そして、彩洋さんは……。言うまでもないですね。上記の作品を読んでいただければ、おわかりいただけると思います。このお返しに、三味線の話を私が書けると思いますか? いや、書けまい。(漢語翻訳調)ええ、敵前逃亡とでもなんとでもおっしゃってください。無理なものは無理ですから。
もともとは「scriviamo!」のつもりで書きはじめたけれど別のものを出したから、とおっしゃっていたので無理してお返しを書く事もないかと思ったのですが、でも、ここまで魂の入った作品を書いていただいたら、そのままにできないじゃないですか。かといって、まだ私には真や竹流を彩洋さんが納得できるように書ける氣は全然しないので、もう一人のキャラ美南をお借りしました。美南は谷口美穂のエイリアスのような裏話もいただきましたので、話はそっちに行っています。はい、私の土俵に引きずり込みました。なお、お返しは五千字以内とか宣言したような記憶もどこかにありますが、すみません、大幅に超えております。
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
「scriviamo! 2014」について
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
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大道芸人たち 番外編
郷愁 - Su patria que ya no existe — 競艶「じゃわめぐ」
——Special thanks to Oomi Sayo-san
昨夜はすこし飲み過ぎたようだ。田酒は久しぶりだったし、真鱈の昆布〆めやばっけみそが出てきたから、ついつい盃が進んでしまった。美南には普段一緒に飲みにいく友達はいなかったし、ましてや津軽ことばが飛び交うような店に行くことはなかった。あの響きだけで、これほど簡単に心のタガが外れちゃうんだ……。しゃんとしないと、課長に怒られちゃう。
「成田君」
始業三分前に飛び込むと、藤田課長は不思議そうな顔をした。そうだろう。美南はいつも課長よりずっと早く出勤していたから。
「今日に限って、遅かったね。悪いけれど、今すぐ一緒に外出しなくちゃいけないんだが、大丈夫か」
「外出ですか?」
美南はあまり規模の大きくない清掃会社に勤めている。事務が半分、清掃の実動部隊としてが半分の仕事で、営業のような仕事はまだ任された事がない。営業に飛び回っている藤田課長と一緒に外出した事はなかった。ハンドバックを肩にかけて、急いで課長に従った。
「急で悪いんだけれどね。ちょっとイレギュラーな仕事が入りそうなんだ。それもちょっと変わっている件でね。一度きりの野外イベントの清掃プランなんだよ。僕が担当する事になりそうだが、手一杯なんでね、君にアシスタントを頼みたいんだ。君にもいい経験になるだろう」
藤田は電車の中で手早く説明した。
「どうして、イレギュラーなお仕事を無理していれる事にしたんですか?」
「話を持ってきたのがね、ちょっと有名な音楽マネージメント会社なんだ。君、園城真耶って知っている?」
「あ、はい。テレビによくでているヴィオラ奏者ですよね」
「うん。今回のイベントは彼女の紹介で、彼女のマネージメント会社が日本側の窓口なんだそうだ。それでさ、あれだけの大手だと、大きいコンサート会場やビルの定期清掃の受注に関連して来るんだよ。うちみたいな小さな会社には願ってもないコネだろう?」
「はあ。あの、今、日本側窓口っておっしゃいましたけれど……」
「うん。ヨーロッパに本部のある団体が、来年、大道芸人の祭典を東京で開催するらしいんだ。今日会うのは、その事務局」
ということは、会うのは外国人なんだろうか。美南は不安になった。課長が忙しいからって丸投げされて、外国人と自力でコンタクトしろと言われても困る。
新宿の高層ビル街にあるホテルの三階の小さい会議室に通された時、美南は「最悪」と思った。ドアを開けたとき、窓の外を眺めていたのはグレーのスーツをきっちりと着込んだ金髪の青年一人だった。二人がホテルの従業員に案内されて入ってくると、こちらを振り向いた。儀礼的に微笑んでいたが、青い瞳は突き刺すようで、恐ろしかった。典型的外国人だった。金髪で目が青くて、氣味が悪いくらい整った顔立ちだ。しかもその服装ときたらミラノの新作コレクションの品評会で発表しそうな感じだ。新作コレクションを実際に観た事はないけれど。
課長がしどろもどろの英語で挨拶をした。美南はぺこんと頭だけ下げた。外国人は流暢な英語で初対面の挨拶をした。はっきりとした発音だったので、美南にもその内容がわかった……ような氣がした。長い名前だ、アルティスタスなんとかの、なんとかドルフ。途中は聴きとりそびれた。誰かが遅れているって言ったかも?
「すみませんっ。遅れました!」
突然、日本語とバンっと言う音がして、扉から誰か飛び込んできた。藤田課長は心底ホッとした顔をした。その男はいちおうビジネスっぽい紺のスーツは着ているもの、金髪男と違ってどうも着慣れていないようで借りてきたみたいに見える。
「ああ、安田さまですね。昨日、電話でお話しいたしましたクリーン・グリーン株式会社の藤田です。それと、本日は部下を連れて参りました。成田美南です」
そういって、横を見た。当の美南は、入ってきた男をぽかんと口を開けて眺めていた。男も美南を見てびっくりしたようだった。
「あれっ。美南ちゃん……?」
それは、昨夜、津軽料理を出してくれる居酒屋で知り合った青年、安田稔だった。
「なんだ、ヤス。知っているのか」
金髪青年が訊くと、稔は頷いて英語で答えた。
「うん。昨夜、浅草で逢った子だ。いい声しているよ。フェスタに参加してもらいたいくらいだ」
「成田君? 知り合い?」
藤田課長が美南に囁いた。
「あ、たまたま昨夜知り合った方なんです」
「そりゃ、すごい偶然だ。これをご縁に、どうぞよろしくお願いします、安田さん、エッシェンドルフさん」
それから安田稔の通訳を介してもう一度正式に紹介しあい、仕事の全容を話し合う事になった。ここにいる二人はヨーロッパで大道芸人をしていて、仲間やパトロンと主催した「大道芸人の祭典」を開催するようになって三年目だということ。その事務局長を担当しているのが安田稔で、主に対外交渉を担当しているのが隣にいるエッシェンドルフという苗字のドイツ人であること。
「名前長いんで、ヴィルって呼べばいいから」
稔がウィンクして言った。
「世界各国からかなりの数の大道芸人たちが集まります。例年だと見学する側も国籍がかなり混じります。日本人の常識的な清掃プランだと、上手く回らない可能性があるんで、どちらかというと融通と小回りの効く会社がいいと話していたわけです」
稔とヴィルが会場プランを見せ、日程表とともに示した。稔さんが昨夜、野暮用で日本に来たって言っていたのは、これのためだったんだ。美南は納得した。
「美南ちゃん、せっかくだからまたプライヴェートで飲もうよ。こいつ、こんな怖そうな顔しているけれど、よく知り合えばいいヤツだからさ。特に酒が入ると」
打ち合わせが終わると、稔はヴィルを示して美南に提案した。
美南はその日の仕事が終わってから、もう一度、新宿に向かった。稔とヴィルとスペイン料理のレストランで会う事になっていた。今日はあまり飲まないようにしなくちゃ、美南は思った。
店の中を見回すと、二人はもう来ていて、こちらに向かって手を振った。それはレンガと石で装飾された半地下の店で、スペインのタブラオを模していた。奥には舞台があって、そこはアーチ上に装飾された柱で区切られていた。たぶんフラメンコを踊るのだろう、そこだけ木板が張られた床だった。いくつか椅子が置かれている。演奏者のものだろう。
「来てくれて、ありがとうな。美南ちゃん、日本酒はいける口だったけれど、ワインも好きかな? それともサングリアなんかのほうがいい?」
そういう稔はどうやら既にワインをヴィルと一緒に半分くらい空けていたようだった。
「あ、私もワインをいただきます。でも、昨日飲み過ぎちゃったみたいなので、今日は控えめに……」
そういうと、二人は目を見合わせた。
「そうだったな、いつもの俺たちのペースで飲ませたらまずいかもな。お蝶じゃないんだし」
稔はそういったが、彼らの飲むペースは、昨日の津軽料理の居酒屋とは違っていた。昨夜の居酒屋にいたメンバーは、大きな声を出して、赤くなりながらどんどんと盃を重ねていた。居酒屋で飲むというのはそういうことだ。そして、このスペイン料理屋でも隣の席にいる日本人たちはそれに近い状態で飲んでいる。けれど、稔とヴィルは飲んでいるのに酔っている様子がなかった。会話の声もあまり大きくならない。
稔がTシャツとジーンズになっていただけでなく、ヴィルもラフなシャツ姿に変わっていた。たったそれだけで先ほどとはずいぶん印象が変わって見えた。美南はここに来るまでヴィルを怖いと思っていたのだが、服装が変わっただけでその恐ろしさも半減したように思われた。
会議中と違って、稔はヴィルの言葉を日本語に訳さなかった。そして美南がわからないという顔をしないかぎり英語で話した。美南もはじめは日本語で稔に向かって話していたのだが、二人ともが自分に向かって英語で話すので、いつの間にか自分も英語を口にしはじめた。そんな事が可能だとは思ってもみなかった。通訳なしでも相手の言葉がわかるし、自分の話す英語も拙いながらもこの外国人に通じている。それは新鮮な驚きだった。私、英語、できるんだ。英語など絶対に話せないと思い込んでいたが、少なくとも六年は学校で学んだのだからこんな簡単な会話は理解できて当然なのだ。そうやって会話をしているうちに、ヴィルを怖いと思う氣持ちはどこにもなくなっていた。
拍手の音に顔を上げると、フラメンコダンサーとミュージシャンたちが入ってきていた。客たちが「おおーっ」と喜び拍手をする。
「あ、ちょっと行ってくる」
そういうと稔は立ちあがり、舞台の方に歩いていった。拍手が大きくなり、マイクの前に立っていた男とその隣にいたやはりギターを持った男が稔に頭を下げた。
「え。稔さん、弾くんですか?」
「ああ、ここのオーナーとはバルセロナのフェスタで知り合ってね。日本に来たら絶対に一度は弾きにきてほしいと頼まれていたよ」
ヴィルが美南のグラスにそっとワインを注いだ。
ダンサーたちは腰に手を当てて立っている。舞台にいた男がギターを奏でだすと、歌い手は手拍子を打ちはじめる。客の中にも手拍子をしている人たちがいる。このレストランのフラメンコショーは有名なのだろう。美南はフラメンコの舞台を生で観るのはははじめてだったので興味津々だ。
稔が加わり、派手な掛け合いになる。不思議な手拍子で、美南には間を取る事ができない。ダンサーたちが舞台の上で踊りだした。靴についた釘がびっくりするほどの音を出す。旋回し、睨みつけ、激しく打ち付ける。挑みかけてくる。男と女は戦っているようだ。歌い手とギターの弾き手も戦っている。津軽三味線の競演とは全く違う。何が違うのかと言われても答えられない。
はじめは楽しく活氣のある踊りだと思った。演奏もそうだった。だが、稔がソロを弾き、それに歌い手ともう一人のギタリストが覆い被さり、踊り手がもっと激しく踊りだすと、世界が少しずつ変わっていった。乾杯をして騒いでいた隣の席の客たちも押し黙った。

美南がギターの演奏を聴いたのは始めてではない。けれど彼女がこれまで知っていたギターの演奏は、もっと軽やかで心地いいものだった。その軽やかさに、津軽三味線の響きとは違う、土の香りのしない都会の音だとの印象を持っていた。けれど、稔が奏でているこの音は、都会の洒落た世界とは全くかけ離れていた。それは楽しい音楽と踊りではなかった。どちらかというと苦しい世界だった。踊り手と専属ギタリストが休み、稔がソロで曲を奏でだすと、その苦しさはもっと強くなった。
奇妙な感覚だった。津軽の寒く凍える世界から生まれた響きは、腹の底から熱くなる。田酒が人びとを真っ赤に熾る炭のように酔わすのに似ている。けれど、アンダルシアの燃えるように熱い世界から生まれてきた音楽を奏でる稔の響きは、鉄の柱を抱くように黒く重くて冷たい。これはなんなのだろう。
「ドゥエンデだ」
戸惑っている美南を見透かしたように、ヴィルが言った。美南はわけがわからなくて、黙って青い目を見た。
「運命、神秘的で魅力的な何か。強い情念。英語にはきちんと訳せない。時には死に憧れるような暗さも伴うんだ」
美南は不安になって、稔を見た。稔はギターの世界に入り込んでいた。打据えるようにギターと戦っていた。昨日、美南の唄を優しく支えてくれた朗らかな男は、いつの間にか彼の殻の中へと入り込んでいた。
「君は、彼の三味線も聴いたんだろう?」
ヴィルが訊いた。美南は黙って頷いた。
「この音との違い、どう思う?」
この人も、違いを知っているんだ。美南は思った。
「明るくて、強くて、思いやりがあって、春の光が外に向かって放たれていくような音だったんです」
ヴィルは頷いた。それからワイングラスを覗き込むようにして語りだした。
「彼の中、その奥深くにはもともとドゥエンデがあった。俺の中にもあるように。ヤスと俺たちが出会ったとき、彼は三味線を弾いていた。まさに君が言うような思いやりのある暖かい音を出していた。今でもそうだ。彼は俺たちのリーダーで、バランス感覚に富み、暖かい。日本にいた頃からクラッシックギターを弾く事もできた。三味線と同じように優しく暖かい、朗らかな音を出していた。だが、彼はセビリアでフラメンコギターに出会った。ヒターノ、本物のジプシーが彼を新しい音に導いた。彼のドゥエンデに火をつけたんだ」
「あの……」
美南は困って口ごもった。ヴィルはワインを飲むと、稔の方を見て、それから再び美南の方に向き直った。
「東京をどう思う?」
「え?」
「俺は、この街にくるのは三度目だ。いい街だと思う。便利で、楽しくて、上手い物が食える、最高の酒も飲める。だが、この街は何度来ても、来る度に知らない街になっている。決して懐かしいいつもの街にはならない」
ヴィルがなぜそんな事を言いだしたのか美南にはわからなかったが、それは美南が常々感じている事でもあった。何年住んでも、決して親しい自分の街にはならない。冷たくはない、何でもある、誰でも受け入れてくれる。でも、ここはいつもよその街だった。
「ヤスは浅草で生まれた。ここはあいつの正真正銘の故郷だ。あいつを大切に想うたくさんの人間がいて、ここで将来を嘱望されて育った。あの三味線の音色はそうやって培われた。だが、あいつは自分に正直でいるために、それを捨ててしまったんだ」
「そうなんですか?」
「俺たちはみな、どこからか逃げだしてきたヤツの集まりなんだ」
ヴィルは始めて少し笑ったように見えた。
「仲間のもう一人の日本人は、これまで居心地のいい場所を知らなかった。彼女は、だからこそ居心地のいい場所を自ら作る事ができた。俺もそれに近いだろうな。もう一人は、もともと持っていた居心地のいい場所を決して手放さなかった」
美南は昨夜知り合ったもう一人の三味線弾き真が形容してくれた、稔たち四人組の大道芸人のことを思い浮かべていた。稔の他に、フルートを吹く日本人女性、手品をするフランス人の青年、そしてパントマイムをするドイツ人、ヴィル……。羨ましいほどに仲のいい自由な仲間たち。
ヴィルは全く表情を動かさずに淡々と続けた。
「ヤスは俺たちとは違う。自由への憧れと望郷に引き裂かれている。その裂け目からドゥエンデが顔を出すんだ。あいつは何も言わない。だが俺たちは音を聴きとる。肌で感じるんだ。可能ならば、あいつの故郷へと一緒に向かってやりたいとも思う。だがその故郷はもうないんだ」
「ないって、どういうことですか? ご家族がもういないんですか?」
「家族じゃない。居場所がないんだ。家族が、東京が、かつて彼がいたままの場所ではない。いない間に変貌してしまった」
ヴィルはボトルを傾けて美南のグラスに注ごうとしたが、いっこうに減っていないのを見て、最後の一滴まで自分のグラスに空けた。厚い淡緑色のグラスは再びリオハのティントの暗い色で満ちた。
「どんな場所もいつかは変わっていく。だが東京ほどのスピードで変貌する場所はまずない。環境が変わると人はそれに順応していく。日本人の順応の速さは尋常ではない。それは東京のように秒速で変わっていく環境でも有効なんだ。だから、あいつのいた世界はほとんど残っていない。俺のような異邦人ですら感じるんだ。あいつの故郷はもう存在しないんだと」
美南は昨日の三味線の競演と、稔の奏でていた自由で朗らかな音の事を考えた。それから青森の自分の家族の事を考えた。真っ白い雪を思い出した。雪に覆われて角のなくなった屋根や塀、囲炉裏で火が爆ぜる音、津軽言葉の柔らかい響き、待っていてくれる家族。
「みなみ、いづだかんだ帰って来いへ(いつでも帰っておいで)」
ここではない、ここにはない暖かさ。深い深い安心感。それを永遠に失う事を考えた。涙が出てきた。
「もうどこにもない故郷は三味線の音の中だけに存在し続けている。だからあいつの三味線はあれほどに暖かい。だがひとたびフラメンコギターを奏でれば寄る辺なき自由を愛するヒターノの魂はドゥエンデに向かうんだ」
大きな拍手の後に、再び手拍子が聞こえだした。歌い手はセビリジャーナスを朗々と歌い上げ、ダンサーたちは向かい合って旋回しだした。
「テデスコ、お前、美南ちゃんを泣かせたのか?」
顔を上げると、稔がテーブルの横に戻ってきていた。
「泣かせたのは俺じゃなくてあんただ」
ギターの音の事だと思ってホッとした様子の稔の前で、ヴィルは空になった瓶を振った。
「いない間に、酒は空けておいた」
「お、おいっ!」
「もう一本飲むか。あんたの好物のイベリコ豚もおごってやるよ。美南、君も好きなものを頼むといい」
ヴィルは、メニューを美南に渡した。
美南は紙ナフキンでそっと涙を拭うと、タパスを選びだした。
「そのヒヨコ豆とほうれん草を煮たのは美味いぜ。チョリソーも外せないかな。あと、イカスミのパエリヤはどう?」
稔が先ほどまでと同じ朗らかな様子で話しかける。
美南はメニューから目を離してためらいがちに口を開いた。
「稔さん。いま氣づいたんですけれど、浅草のご出身で、安田さんって、もしかして安田流の……?」
それを聞くと、稔もメニューから顔を上げて、不思議そうに美南を見た。それから屈託のない笑顔を見せて、きっぱりと首を振った。
「いや、俺は根なしの大道芸人さ」
(初出:2014年3月 書き下ろし)
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【小説】大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 森の詩 Cantum silvae
「scriviamo! 2014」の第十二弾です。ユズキさんは、「大道芸人たち Artistas callejeros」の四人を描いてくださいました。ありがとうございます。

このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない使用は固くお断りします。
ユズキさんの描いてくださったイラスト scriviamo! 2014参加作品
ユズキさんは、素晴らしいイラストと、ワクワクする小説を書かれるブロガーさんです。私はユズキさんの書かれるキャラのたった女性や、トップ絵に描かれるクールな女性が大好きなのですが、版権ブログの方でお見かけする突き抜けたおじさんキャラやデフォルメした動物キャラも素晴らしくて、自由自在な筆のタッチにいつも感心しているのです。すごいですよ、本当に。
そして、そのユズキさんが、どういうわけだかうちの「大道芸人たち」と氣にいってくださいましてファンアートをどんどん描いてくださるのです。もう、これはモノを書いている人ならきっとわかってくださるかと思いますが、夢のまた夢ですよ。ああ、生きていてよかった。恥を忍んで公開して本当によかったと思います。
そのユズキさんが今回のために描いてくださったのは、なんと森の中で演奏する四人。この深い森のタッチをどうぞご覧ください。ええ、これは私、はまりました。ユズキさんはご存じなかったのですが、「scriviamo! 2014」が終わり次第連載をはじめようとしている新作「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」にどっぷりはまっている私には、これはその新作の森《シルヴァ》にしか思えなくなってしまい……。そして、新作宣伝モードに……。ユズキさん、わけがわからないことになりましたが、どうぞお許しください。
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
「scriviamo! 2014」について
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
大道芸人たち 番外編
森の詩 Cantum silvae
——Special thanks to Yuzuki-san
「何それ」
蝶子はレネが持っているというよりは、バラバラにならないように支えている、古い革表紙の小さな手帳のように見えるものを指した。
「昨日、街の古い書店で見つけたんです。ずいぶん長い時間を生き延びてきたんだなと思ったら、素通りできなくて。嘘みたいに安かったんですよ」
「お前、それ読めるのか? ずいぶん古めかしい字体だし、何語なんだろう」
稔が覗き込んだ。
「大体の意味はわかりますよ。ここは、ラテン語です」
「ラ、ラテン語?」
レネがドイツ語やイタリア語、はてはスペイン語の詩も読んで頭に入れているのは知っていたが、会話の方は大したことがなかったので、まさかラテン語ができるほど学があるとは夢にも思っていなかった稔は心底驚いた。
「いや、フランス語はラテン語から進化したので、ヤスが思うほど難しくないんですよ。それに、この本の中でラテン語なのは詩だけで、残りの部分は古いフランス語なんです。しかも僕はこの詩を前から知っているんですよ」
そういうと、すうっと息を吸ってから朗々と歌いだした。
O, Musa magnam, concinite cantum silvae.
Ut Sibylla propheta, a hic vita expandam.
Rubrum phoenix fert lucem solis omnes supra.
Album unicornis tradere silentio ad terram.
Cum virgines data somnia in silvam,
pacatumque reget patriis virtutibus orbem.
「ああ、それか」という顔をして、ヴィルがハミングで下のパートに加わった。蝶子と稔は顔を見合わせた。全然聴いたことがなかったからだ。それはサラバンドに近い古いメロディだった。
「あなたも知っているの?」
蝶子はヴィルの顔を覗き込んだ。
「ああ、今から十五年くらい前かな。とある修道院から、四線譜に書かれたこの歌の羊皮紙が発見されて、ヨーロッパ中でセンセーショナルに取り上げられたんだ」
「なんでセンセーショナル?」
稔が首を傾げると、レネが説明をしてくれた。
「だれもが知っている古いおとぎ話に関連するものだったからですよ。『Cantum Silvae - 森の詩』というサーガで、ヨーロッパの中央にあった、おそらくは黒い森を中心とした荒唐無稽な数世代にわたるストーリーなんです」
ヴィルが続ける。
「その話は、口承の形では断片的に残っていて、15世紀の文献にも言及があったんだが、それまでは17世紀以降の伝聞による作品しか現存していなかったんだ。で、南フランスの修道院で出てきた羊皮紙はもっとも古い、オリジナルに近い文献だということで大騒ぎになったんだ」
「僕たちは子供の頃から親しんでいた物語だから、興奮しましたよね」
「ああ、で、学校の催し物でも生徒にこの曲を歌わせるのが流行ったな」
蝶子と稔は再び顔を見合わせた。
「有名なのね。いったいどんな話なの?」
「馬丁から出世したフルーヴルーウー辺境伯の冒険……」
「麗しきブランシュルーヴ王女と虹色に輝く極楽鳥の扇……」
「
「ああ、一角獣に乗った黄金の姫の話もありましたよね!」
ヴィルとレネが懐かしそうに次々と語るその話は、日本人の二人には初耳だった。
「う~ん、ありえない度で言うと、古事記みたいなもんか?」
「そうね。聞いた事もない国の名前に、変わった姫君たち。ファンタジーかしらね」
ヴィルがレネの古本を覗き込んだ。
「で、古フランス語の本文は何が書いてあるんだ?」
レネは嬉しそうにめくりながら語った。
「《一の巻 姫君遁走》か。ああ、これは
ジュリアは行く手の樹木の間から煙を見た。ジプシー。聖アグネスの祭りだ。彼らは侯爵夫人の喪になんか服さないだろう。
森の空き地に数台の幌馬車が停まり、炎の周りでジプシーたちは踊っていた。ジュリアには誰も氣に留めずに、めいめいで歌ったり踊ったりしているので、少しずつ中に入っていった。やがて一人の老女がじっと見つめているのに氣がついた。
「バギュ・グリの姫さんが何の用かね?」
老女は言った。
「あたし、お前に会ったことないけれど」
「私らは何でも知っているよ」
「嘘ばっかり。私がなぜここに来たかわからないくせに」
「知っているともさ。お前は別れに来たんだよ」
「誰とさ」
「全てとね。まず、その男物の服をなんとかしよう。それでは踊っても楽しくないだろう」
「そうね。でも、こうしていないと男どもが寄ってくるのよ」
「悪いことじゃあるまい。寄ってくる男どもをあしらうのは、女の楽しい仕事さ。それともダンスもできない方がいいのかね」
「わかったわ。この服とはお別れしよう。私を変身させて」
老婆はジュリアを幌馬車に連れて行った。再びジュリアが出て来た時ジプシーたちはもはや彼女に無関心ではいられなかった。薄物を纏い、しなやかに歩み出る彼女は深夜の月のようだった。彼女は踊り始めた。その悩ましさは例えようもない。ジュリアにとってもこの夜は麻薬だった。踊りの恍惚。自分が誰かも忘れ、夢の中にいるように狂った。
深夜に老婆は緑色に透き通る液体を差し出した。
「これをお飲み。聖アグネス祭の今宵、お前さんは愛する男を夢に見るだろう」
ジュリアは口の端をゆがめて言った。
「あたしは誰も愛していないわよ。嫌いな男ばっかり」
「だからこそ、この薬が必要なんじゃ」
ジュリアは受け取って一息で飲んだ。強い酒だった。
「へえ。こういう話なんだ」
「そう。この後、ジュリアは世にも美しい馬丁と結ばれるんですが、そのままジプシーに加わっていなくなってしまうんです。姫と別れた馬丁のハンス=レギナルドは、森を彷徨ってからグランドロン王国にたどり着き、そこでレオポルド一世に仕えることになるんですよ」
「何世代か後に、レオポルド二世とルーヴラン王女の婚姻話が持ち上がるんだったな」
「そうです。《学友》ラウラがその王女に仕えていて……」
「わかった、わかった。思い出話が長くなりそうだ。それってこういう森を舞台に話が進むんだ?」
四人は、森の中をゆっくりと進んでいた。黒い森ではなくて、アルザスにほど近い村はずれの森で『森の詩』に謳われている《シルヴァ》に較べると林に近いものだったが、浅草出身の稔にとっては十分に深い森だった。
木漏れ陽がキラキラと揺れている。四人が下草を踏みしめながら進んでいくと、よそ者の訪問に驚いたリスや小鳥が、大急ぎで移動していくのがわかる。時おり、松やにのような香りが、時には甘い花の芳香も漂ってくる。
「そうですね。《二の巻》の主人公、マックスは森を旅していましたよね」
「人里にいる時の方が多かったぞ」
「ああ、それにラウラはお城で育っていましたよね」
「でも、『森の詩』なの?」
「そうなんです。森は話の中心ではないけれど、いつもそこにあって、人びとの生活と心の中に大事な位置を占めているってことだと思うんですよね」
「当時は、今ほど文明が自然と切り離されていなかったってことなんだろう」
ヴィルが言うと、レネは深く頷いた。
「この歌そのものが『Cantum Silvae - 森の詩』といって、グランドロン王国で祝い事がある時には、必ず歌って踊ったと伝えられている寿ぎの曲なんです」
「じゃ、せっかくだからそのメロディを演奏してみましょうよ。そんなに難しくなさそうだし」
蝶子が鞄を開けて青い天鵞絨の箱からフルートを取り出した。ヴィルも自分のフルートを組立てる。
「サラバンド風か。ちょっと風変わりに、三味線で行くか」
稔がいうと、レネは嬉しそうに頷いて、本をそっと太陽に向けて掲げ、伴奏に合わせて歌いだした。それはこんな意味の歌だった。
おお、偉大なるミューズよ、森の詩を歌おう。
シヴィラの預言のごとく、ここに生命は広がる。
赤き不死鳥が陽の光を隅々まで届け、
白き一角獣は沈黙を大地に広げる。
乙女たちが森にて夢を紡ぐ時
平和が王国を支配する。
(初出:2014年2月 書き下ろし)
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【小説】大道芸人たち 番外編 〜 黄昏のトレモロ - Featuring「Love Flavor」
「scriviamo! 2014」の第十一弾です。栗栖紗那さんは、純愛ラノベ「Love Flavor」本編の最新作でご参加くださいました。ありがとうございます。
栗栖紗那さんの書いてくださった作品 Love Flavor 007 : "感情?"
栗栖紗那さんは生粋のラノベ作家ブロガーさんです。この方もブログでの小説交流をはじめたもっとも古いお友だちの一人で、書いているもののジャンルが全く違うにもかかわらず、積極的に絡んでくださる嬉しいお方です。紗那さんらしい人氣作品では「グランベル魔法街へようこそ」や「まおー」などが有名なのですが、私としては、この学園青春ラノベだけれど、ちょっと深刻なものも含まれる「Love Flavor」を一押しさせていただきます。この作品に絡んで去年のscriviamo!で東野恒樹というオリキャラを誕生させて書きましたし、その後も「リナ姉ちゃん」シリーズと共演していただくなど、うちの作品とはとても縁が深いのです。
さて、今回は「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」に絡んで、うちのオリキャラ結城拓人をなんと本編の中に出していただきました。お返しをどうしようかなと思ったのですが、さすがに拓人と蓮さまや紗夜ちゃんがバッタリ出会うというのは難しいので、紗那さんの作品の中に出てきた一セリフに飛びついて、全然違う話を作らせていただきました。実は、拓人が失恋した時期と、うちのとあるキャラが失踪した時期、ほぼぴったりなのですよ。そういう訳で、「大道芸人たち」外伝、お借りしたのは今年も再び白鷺刹那さまです。
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
「scriviamo! 2014」について
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
大道芸人たち 番外編
黄昏のトレモロ - Featuring「Love Flavor」
——Special thanks to Kuris Shana-san
「ち。上手くいかない」
普段、表ではまず口にしない乱暴な舌打がでてしまった。もし、彼女を知っている人がそれを見たらぎょっとしたことだろう。たとえば、数年前にティーンエイジャー向けのファッション雑誌の愛読者だったなら彼女を知らないということはありえない。そうでなくても蜂蜜色の髪と日本人離れしたスタイルは容易にかつて出演していた広告を思い出させるので、名前は知らなくてもあの人だとすぐに氣付かれる。だからモデルとしての活動をやめても、白鷺刹那は表ではかつてのように女らしく麗しく振る舞うのを常としていた。
しかし、今日はすっかりそれを忘れていた。ここは町内の小さな公園、午前中には若い母親たちが我が子を連れて社交に精を出すが、この夕暮れには誰も見向きもせず、刹那がギターの練習をするには格好の場だった。
刹那はギターをはじめてまだ二ヶ月だ。最初はいくつかコードを弾けるようになってそれで満足していた。同時にベースもやっていたのでそちらにまずは夢中になった。だが、どうもギターの他の奏法が氣になってきて、ここのところはクラッシックギターを練習している。アルペジオ奏法はそんなに難しくなかった。セーハが上手くいかなかったので、途中のレッスンを飛ばして「アルハンブラ宮殿の思い出」を弾こうとした。だがこちらもそう簡単にはいかなくて苛立っていた。
「何やってんだ?」
刹那が顔を上げると、そこに男が立っていた。黒髪がツンと立った男で、歳の頃は二十代の終わり頃だろうか。刹那をというよりは、刹那の右手を見ていた。
「上手く弾けないのよ、やになっちゃう」
刹那は乱暴な言葉遣いを聴かれたと思ったので、やけっぱちになって半ばふてくされるように答えた。
「ギターはじめてどのくらいだ?」
「二ヶ月。独学なの」
男は呆れたというように空を見上げた。
「そんな早くトレモロは弾けないだろう」
「なんで」
「訓練しないと全部の指に均等に力が入らないんだ。毎日やっていればそのうちにできるようになるよ」
刹那はすっと立つと男にギターを差し出した。
「そういうからには、あなたは弾けるんでしょう。やってみてよ」
男は素直に受け取ると、刹那の立ったベンチに座るとギターを構えて静かに弾きだした。はじめの音からすぐに脱帽ものだとわかった。刹那が上手く動かせない右の指は軽やかにけれど均等に弦を弾いて、アルハンブラ宮殿の陽光に煌めく噴水を表現しはじめた。トレモロの部分だけでなく、その下を支えるメロディもしっかりと歌っている。
刹那は、その演奏を黙って聴いていた。まだ肌寒い公園には、樹々も葉を落とし眠っているが、刹那と男の周りだけは夏のアンダルシアの幻想が広がっていた。しかも、それはそれだけではなかった。遠い憧れや、哀しみや、それにそれだけでない何かも表現されていた。今までに何度も聴いた「アルハンブラ宮殿の思い出」の演奏とは違う、特別な演奏だった。強い感情が感じられた。上手い人間が単純にギターを弾いているのとは違った。
演奏が終わると、五秒ほど放心したようにギターの弦を見ていたが、男はゆっくりと立ち上がってギターを刹那に返した。
「こういうわけだ。長く続けていけばそのうちに弾けるようになるよ。もっとも、あんた忙しくて練習する時間ないかもしれないけれど」
それを聞いて刹那は首を傾げた。
「ボクを知っている?」
「あん? まあな。モデルの白鷺刹那さん。知らないヤツの方が珍しいだろ。あ、俺はただの一般人で、安田稔っていうんだけどさ」
刹那はため息をついた。
「もうモデルやっていないんだけれどね」
「ああ、最近、あまり見ないと思ったら、そうだったんだ」
「ねえ、安田さん、あの、唐突に失礼だけど……」
「なんだ」
「う〜ん、やっぱやめる」
「なんだよ、言えよ」
「わかった。演奏で思ったんだけれど、あなた、何か悩んでいるんじゃない?」
刹那がそういうと、稔はぎょっとした顔をして、それから再び青空を眺めた。
「そんな音していたか」
「音、かな……。それとも表現……ううん、顔の表情で思ったのかも。とにかく、単に公園でギターを爪弾くっていうのとは全然違っていた。すごく上手だったけれど、演奏って言うのを通り越して、まるで迷って苦しんでいるみたいだった」
稔は刹那のギターをじっとみつめたまま言った。
「わかるもんだな……。俺さ、ギターで身を立てたいってずっと思っていたんだけれど、その夢におさらばしたばっかりなんだ」
「どうして? そんなに上手いんだから、あきらめることないのに」
刹那の強い言葉に、稔は口を歪めた。
「ありがとう。でも、どうしようもないんだ」
「もし、ギターが本職じゃないなら、ふだんは何をしているの? サラリーマン?」
「いや、津軽三味線弾き」
刹那は目を丸くした。
「両方弾けるってすごくない?」
「ギターの方は趣味だったんだ。君と同じで独学。でも、三味線は家業だから、流派のことや後継者のことが絡んでいる。俺一人の問題ではなくなっている。ギターで食っていきたいと言っても、そう簡単にはいかないんだ。それに……」
刹那が首を傾げて続きを促すと、稔は横を向いた。
「たとえば、モデルみたいな世界だったら三百万円なんてはした金かもしれないけどさ。俺にはどうしても必要だったから、その金額で自分の未来を売っちゃったんだ」
刹那は口を尖らせた。
「モデルだって、三百万円をはした金なんて言える人はそんなにいないよ。未来を売っちゃったって、お金を受け取るかわりに、ギターをやめたってこと? どうしてもしたいことをそんなに簡単にあきらめていいの? 他に試せることはないの?」
稔は考え込んでいるようだった。刹那は続けていいの募った。
「安田さんは、ボクにトレモロは毎日少しずつ練習しなくちゃ弾けるようにならないって言ったけどさ。そのどうしても必要な三百万円だって、少しずつの積み重ねで何とかなるんじゃないの? 自分にとって大切なことをお金と引き換えなんかにしちゃダメだよ」
稔は刹那を見た。彼女は本氣で訴えかけていた。たまたま公園で知り合った通りすがりの人間にずいぶんと熱心だな、彼は少し驚いた。刹那は自分の剣幕を恥じたのか、下を向いてつぶやいた。
「どうやっても取り返しがつかなくなることもあるんだ。そうなってから後悔しても遅いんだから……」
「ありがとう。そんなに真剣に言ってくれて。本当は、その金だけの問題じゃないし、いろいろなことに外堀を埋められているのが現状だけれど……。そうだな。俺、明日から旅にでるんだ。そこでよく考えてくるよ」
「旅?」
「うん。最後のわがままって言って、ヨーロッパへの貧乏旅行に行くことを許してもらったんだ」
「ふ〜ん。アルハンブラにも行く?」
「ん? 行くかもしれないな」
「もし行ったら、そこでもう一度ボクの言ったことを考えてみて。後悔しないように。ボクは、安田さんと次に遭う時までにトレモロを練習しておくから」
稔は何かが吹っ切れたように笑った。
「わかった。じゃあ、次に遭った時は、二人で何か二重奏しようか」
公園は夕陽で真っ赤に染まった。しっかりとした足取りで去っていくその背中を眺めながら、刹那は稔の旅の安全を祈った。
(初出:2014年2月 書き下ろし)
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【小説】大道芸人たち 番外編 〜 アンダルーサ - 祈り
「scriviamo! 2014」の第五弾です。limeさんは、うちのオリキャラ四条蝶子を描いてくださいました。ありがとうございます!
limeさんの描いてくださったイラスト『(雑記)scriviamo! 参加イラスト』

limeさんは、主にサスペンス小説を書かれるブロガーさんです。緻密な設定、魅力的な人物、丁寧でわかりやすい描写で発表される作品群はとても人氣が高くて、その二次創作専門ブログが存在するほどです。お知り合いになったのは比較的最近なのですが、あちこちのブログのコメント欄では既におなじみで、その優しくて的確なコメントから素敵な方だなあとずっと思っていました。いただくコメントで感じられる誠実なお人柄にも頭が下がります。そしてですね、それだけではなく、ご覧の通りイラストもセミプロ級。その才能の豊かさにはいつも驚かされてばかりの方なのです。
さて、描いていただいたのは、当ブログの一応看板小説となっている「大道芸人たち Artistas callejeros」のヒロインです。黄昏の中で少女と出会ったシーンからはすぐに物語が生まれて来ますよね。で、これにインスパイアされた掌編を書きました。舞台はどこでもいいということでしたので、私の好きなチンクェ・テッレにしてみました。例によって、出てきた音楽の方は、追記にて。
【大道芸人たちを知らない方のために】
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大道芸人たち 番外編 〜 アンダルーサ - 祈り
——Special thanks to lime-san
お母さんは帰って来ない。陽射しが強いから。空氣が重いから。この街は小さな迷宮だ。お店とアパートを結ぶ細い路地をまっすぐ帰ることはしない。できるだけ回り道をするのだ。この新しい道は新しいひみつ。でも、きっと誰も興味を持たないだろう。
「パオラ。ここは子供の来る所じゃないよ」
そう言ったお母さんは、また違う人の首に腕を絡ませていた。お店は昼でも暗い。外にはキビキビと歩く観光客や、ランニングシャツ姿で魚を運ぶおじさんがいて、リンゴの値段をめぐって誰かが怒鳴りあっている。海に反射する光が眩しいし、カラフルな壁が明るくて、生き生きとしている。なのに、お母さんのいるお店だけは、みんなノロノロと動き、光から顔を背けていた。
お母さんは菓子パンを二つ手渡した。遅いお昼ご飯、もしくは晩ご飯を作ってくれるためにアパートに帰るつもりはないんだなと思った。角を曲がるまでにひとつ食べて、波止場で舟を見ながら二つ目を食べ終えた。あたしは海に手を浸して、ベトベトを洗った。おしまい。スカートで手を拭うと、冒険に出かけた。こっちの道はアパートに少しでも遠いかな。
ぐちゃぐちゃの部屋は湿っていて居心地が悪い。冷蔵庫の牛乳は腐っていたし、わずかなパンはひからびて崩れてしまった。それに、ワインの瓶が倒れていたせいであたしのお人形は紫色になってしまった。あの部屋に、いつもひとり。永遠に思える退屈な時間。あたしが神様にお願いするのはたったひとつ。早く大人になれますように。そうすればあそこに帰らなくていいもの。
一日はゆっくりと終わりに向かっていて、壁の色は少しずつ暖かい色に染まりだしている。その路地は少し寂しかった。騒がしい街から切り離されたようにぽつんと存在していて、奥に階段が見えた。甲高い楽器の音がしている。あ、あの人だ。階段に腰掛けて、フルートを吹いている女の人。速くて少し切ない曲だ。
目を閉じて、一心不乱に吹いている。黒い髪が音色に合わせて、ゆらゆらと揺れた。あたしが近づいてじっと見ていると、その人はふと目を上げた。それから、口から楽器を離してちらっとこちらを見た。彼女もあたしもしばらく何も言わなかった。少し困ったので訊いてみた。
「もう吹かないの?」
「あなたが私に何か用があるのかと思ったのよ」
「それ、なんていう曲なの?」
「エンリケ・グラナドスの『十二の舞曲』から『アンダルーサ』またの名を『祈り』」
その人は、どこか東洋から来たみたいだった。少しつり上がった目。ビー玉のように透明だった。上手に話しているけれど発音が外国人だ。
「あなたの国の音楽なの?」
「まさか。私は日本から来たの。これはスペイン人の曲よ」
「スペインも日本も外国ってことしかわからない。この街の外は知らないの」
女の人は、そっと乗り出して地面に指で地図を描いた。
「これがイタリア。あなたがいるのはここ、リオマッジョーレ。そして、これがスペイン。アンダルシアはこのへん」
あたしは身を乗り出した。そしたら、彼女はふっと笑って、少し優しい表情になった。
「遠くに行ってみたい?」
あたしは小さく頷いた。
「うん。行ってみたい。あなたはいろいろな国に行ったことがあるの?」
「ええ。旅して暮らしているの」
「本当に? どうやって?」
「これを吹いて。私は大道芸人なの」
「どうして誰もいない所で吹いているの?」
彼女は少しムッとしたように口をゆがめ、それから一度上の方を見てからあたしに視線を戻して白状した。
「練習しているの。上手く吹けなくて仲間に指摘されて悔しかったの。絶対に今日中にものにするんだから」
そういって、もう一度フルートを構えた。あたしは頷いて、階段に腰掛けた。先ほどのメロディーが、もう一度始めから流れてきた。どこがダメなのかなあ。こんなに綺麗なのに。
「あ、いたいた。パピヨン、探しましたよ」
声に振り向くと、もじゃもじゃ頭で眼鏡をかけた男の人が階段から降りて来た。彼女は返事もしないでフルートを吹き続けた。この人と喧嘩したの? 男の人はまいったな、というようにあたしの方を見て肩をすくめた。優しいお兄さんみたい。
キリのいいところにきたら、パピヨンと呼ばれた女の人はフルートを離してお兄さんの方を振り向いた。
「探して来いって言われたの、ブラン・ベック」
「いいえ。テデスコはヤスと楽譜の解釈でやりあっていて、僕ヒマだったんで」
「そう。私、このお嬢さんと一緒に広場に行って、ちょっと稼ぐ所を見せてあげようと思うんだけれど、あなたも来る? 道具持っている?」
「え、はい。カードだけですけれどね」
あたしはすっかり嬉しくなった。二人を連れて駅前の通りに連れて行った。このリオマッジョーレがチンクェ・テッレで一番大きい町といっても、人通りが多いのはここしかないから。
「パピヨン、ブラン・ベック、こっちにきて。あ、あたしの名前はパオラよ」
彼が戸惑った顔をした。一瞬、目を丸くさせた彼女はすぐに笑い出した。
「どうしたの?」
そう訊くと、彼が頭をかきながら説明してくれた。
「それ、僕の名前じゃないんだ。たよりないヤツっていう意味のあだ名なんだよ。僕はレネ。それから、この人は蝶子」
ふ~ん。本当に頼りない感じだけれどなあ。蝶子お姉さんよりもたどたどしいイタリア語だし。でも、レネお兄さんって呼ぶ方がいいんだね。
駅前通りにはギターを弾いている東洋人とパントマイムをしている金髪の人がいた。レネお兄さんが「あ」と言って、蝶子お姉さんはぷいっと横を向いた。でも、ギターを弾いていた人が、来い来いと手招きしたら、二人ともまっすぐそちらに歩いていった。
ギターが伴奏を始めると、蝶子お姉さんは躊躇せずにフルートを構え、あの曲を吹いた。海の香りがする。太陽の光がキラキラしている。この海の向こうにスペインがあって、アンダルシアもある。心が逸る。まだ行ったことのない所。お母さんの顔色を見ながら、この迷路みたいな町で生きなくてもいいのなら、あたしも旅をする人生を送りたいな。
人びとは足を止めて四人の演技を見ていた。ギターとフルート、カードの手品に、銅像のように佇むパントマイム、誰と喧嘩したのかわからないし、蝶子お姉さんのフルートのどこがまずかったのかもわからない。あたしには何もかも素敵に見える。周りの観光客たちや、町のおじさんたちもそう思ったみたいで、みな次々とお金を入れていった。
その曲が終わると、みんなは大きな拍手をした。コインもたくさん投げられた。
「よくなったじゃないか」
座ってポーズをとったままの金髪の男の人がぼそっと言ったら、蝶子お姉さんは、つかつかと歩み寄ると、その人の頭をばしっと叩いた。ギターのお兄さんとレネお兄さんはゲラゲラ笑った。
暗くなったので、観光客はひとりまた一人と減った。ギターのお兄さんが立ってお金の入ったギターの箱をバタンと閉じると、他の三人も芸を披露するのをやめた。残っていた観客は最後に拍手をしてからバラバラと立ち去った。
「どうやったら大道芸人になれるの?」
あたしはペットボトルから水を飲んでいる蝶子お姉さんに訊いた。彼女はもう少しで水を吹き出す所だった。げんこつで胸元を叩いてから答えた。
「なるのはそんなに難しくないけれど、憧れの職業としてはちょっと志が低くない?」
「あたし、自由になりたいの。いつ帰ってくるかわからないお母さんに頼って生きる生活、こりごりなの」
叫ぶみたいに、一氣に言葉が出てしまった。
それを聞いて、蝶子お姉さんはじっとあたしを見た。それからしゃがんで、あたしと同じ目の高さになって、あたしの頭を撫でながら言った。
「大丈夫よ。大人になるまではあっという間だから。それまでに、一人で生きられるだけの力を身につけなくちゃね。学校で勉強したり、スポーツを頑張ったり、いろいろな可能性を試してご覧なさい。どうやったら一番早く独り立ちできるか、何を人生の職業にしたいか、真剣に考えるのよ」
「お前、やけに熱入ってんだな」
ギターを弾いていたお兄さんが言った。蝶子お姉さんは振り向いて言った。
「だって、私の小さいときと同じなんだもの」
あたしは大きく頷いた。蝶子お姉さんがあたしと同じようだったと言うなら、あたしも大きくなったらこんな風に強くて素敵になれるのかもしれない。お姉さんはあの曲は『祈り』ともいうんだって言った。だったら、あたしは新しい祈りを加えることにした。早く強くて素敵な女性になれますように。
「それはそうと、そろそろ飯を食いにいくか」
ギターのお兄さんが言った。
「パオラ、お家は遠いの?」
蝶子お姉さんが訊いた。あたしは首を振って、それから下を向いた。
「どうしたのかい?」
レネお兄さんがかがんで訊いた。
「誰も帰って来ないし、食べるものもないもの」
四人は顔を見合わせた。
「お家の人、いないの?」
あたしはその通りの外れにある、お母さんがいるお店を指差した。
「お母さん、男の人と一緒だから、帰りたくないんだと思う」
蝶子お姉さんは黙って、お店に入っていったが、しばらくすると出てきた。
「この隣のお店で食べましょう。パオラ、一緒にいらっしゃい」
隣は、ジュゼッペおじさんの食堂だ。美味しい魚を食べられる。ときどき残りものを包んでくれる優しいおじさんだ。お母さんは、お店の扉からちらっと顔を出して、ジュゼッペおじさんとあたしをちらっと見た。
「遅くならずに帰るのよ」
それだけ言うと、またお店に入ってしまった。
ギターのお兄さんが言った。
「パオラ、好きなものを頼みな。腹一杯食っていいんだぞ。それから、俺は稔って言うんだけどな。こっちはヴィル」
そういって、水をコップに汲んでくれている金髪のお兄さんを指差した。
あたしは嬉しくなってカジキマグロを注文した。蝶子お姉さんが大笑いした。
「好物まで一緒なのね。私にもそれをお願い、それとリグーリア産のワイン」
「ヴェルメンティーノの白があるぞ。これにするか」
ヴィルお兄さんが言うと蝶子お姉さんはとても素敵に笑った。あれ、仲が悪いんじゃないんだぁ。
四人はグラスを合わせる時にあたしの顔を見て「サルーテ(君の健康に)!」と言ってくれた。あたしはカジキマグロを食べながら、こんなに楽しいことがあるなら、大人になるまで頑張って生きるのも悪くないなと思った。
(初出:2014年1月 書き下ろし)
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【小説】君に捧げるメロディ — Featuring『ダメ子の鬱』
「scriviamo! 2014」の第二弾です。ダメ子さんは、うちのオリキャラ結城拓人と園城真耶を「ダメ子の鬱」に出演させてくださいました。ありがとうございます!
ダメ子さんの書いてくださったマンガ『コラボとか』
ダメ子さんの「ダメ子の鬱」はちょっとネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガです。かわいらしい絵柄と登場人物たちの強烈なキャラ、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーがクセになります。この世界に混ぜてもらえるなんて、ひゃっほう!
お返しは、この設定を丸々いただきまして、掌編を書きました。最後の方に拓人がどの女学生にぐらっときたかが出てきますよ。そして、出てきた音楽の方は、追記にて。
そして、「拓人と真耶って誰?」って方もいらっしゃいますよね。ええと、「大道芸人たち Artistas callejeros」や「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」に出てくるサブキャラなんですが、「大道芸人たち 外伝」なんかにもよく出てくるし、かといっていきなりこれ全部読んでから読めというわけにはいかないですよね。この辺にまとめてあります。ま、読まなくてもわかるかな。
「scriviamo! 2014」について
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
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君に捧げるメロディ — Featuring『ダメ子の鬱』
——Special thanks to Dameko-san
門松や正月飾りが片付けられると、街は急に物足りなくなる。クリスマス、年末とコンサートに終われ、親しい友人や家族とシャンパンで祝った年明けも過ぎ、忙しい時間が飛ぶように過ぎた後、演奏家たちにはつかの間の休息が許される。そう、二日、三日。そしてまた、リハーサルと本番に追われる日が追いかけてくる。
「それに、また撮影だろ?」
拓人が笑った。そう、撮影。初夏の新色、恋の予感だったかしら。口紅の新製品のポスターとCM撮影は明後日だ。まだ冬なんだけれど。それから、チャリティー番組の密着取材は拓人と一緒だ。
昨年は忙しくともウィーンのニューイヤーコンサートに行く時間もあったが、今年はそれどころではなかったので、日本にいた。スケジュールが合わず卒業以来出たことのなかった同窓会に、今年は偶然二人とも出られそうだったので、拓人と一緒に参加することにしたのだ。二人で来るならぜひ演奏してほしいと頼まれたので、真耶はヴィオラを持ってくることになった。
「それにしても、まだ早すぎるよ。夕方から出て来ればよかったな」
拓人が退屈した顔で言う。久しぶりに街に出るのだから早めにと言い出したのはそっちなのにと思ったが、退屈なのは真耶も同じだった。クリスマスと正月の商戦で疲れきってしまったのか、街はひっそりとして投げ売りになったセールのワゴン以外に見るものもなかった。二人はやけっぱちになって、あたりを闇雲に歩いたので、少々疲れてもいた。
「ずいぶん寒いわね。どこか時間をつぶす所を探さないと」
真耶がふと見ると、拓人は高校生たちを見ていた。
「地元の女の子たち、発見! 可愛いぞ」
「はいはい。またはじまった」
それは高校の正門前で、大きな看板がかかっている横だった。
「文化芸術鑑賞会 クラッシック音楽のひと時……ねえ」
「どうやら、あの子たちはこの高校の生徒みたいだね。なかなか悪くないんじゃないか?」
「こんな所でナンパしようってわけ? 児童福祉法違反で捕まるわよ」
「違うよ。悪くないって言ったのは、暇つぶしの方。この鑑賞会、二階席は一般にも公開しているらしいから」
「それは、失礼。無料のコンサートね。誰が演奏して、どんな曲目なのかによるわよね。あら、あの子なんていいじゃない、ちょっと訊いてくるわ」
そういうと、真耶は近くにいた男子生徒の方につかつかと歩み寄った。
拓人は肩をすくめた。
「人のことを言えるか。一番いい男をわざわざ選びやがって。お前こそ、捕まるぞ」
男子生徒は楽器らしきものを持っている真耶を見て演奏者の一人かと思ったようだったが、彼女はそれを否定し、首尾よくプログラムを手にして戻ってきた。それを見て拓人は少し意外そうに訊いた。
「なんだ、もういいのか?」
「いいのかって、出演者を確かめただけじゃない。あなたと一緒にしないでよ。相手は子供だし。それにああいうタイプはあなた一人で十分よ」
「それはどうも。でも、あの子、かなりの人気者みたいだぞ。お前と話しているだけで心配そうに見ている女の子たちがあんなに……」
「あらら、そうみたいね。それはそうと、この出演者、見てよ。こんなところで再会とはね」
「ん? げげ。このバリトンの田代裕幸って、あの……」
十年近く前だがつきあっていた真耶を振って去った男の名前を見て拓人は苦笑した。
「それにこのピアニストの名前も見て。沢口純……」
「誰だそれ?」
「また忘れたの? 以前わが家のパーティであなたに喧嘩を売ったあげく泥酔して帰っちゃった人でしょ」
「あ? あいつか。そりゃ、すごい組み合わせだ。どうする、寄ってく?」
「あれ以来あの人たちには全然会っていなかったもの、今どんな音を出しているのか氣にならない?」
「はいはい。じゃ、行きますか」
二人が話している所に、帽子をかぶった女生徒が近づいてきた。
「あ、あの、結城拓人さんに園城真耶さんですよね。サインいただいてもいいですか?」
「え。ちよちゃん、この人たち知っているの?」
遠巻きにしていた女の子たちも近づいてきた。
「え。もちろん。二人ともクラッシック界のスターだもの。それにほら、『冬のリップ・マジック』のコマーシャルにも……」
「ええ! あ、本当だ。あの人だ~」
よく知らなくても有名人だと聞けばサインをもらいたがる生徒たちに苦笑して二人は肩をすくめた。
「こんなところをまたあの沢口が見たら逆上するだろうな」
「さあ、どうかしらね」
多くの生徒は参加の強制されるクラッシック音楽鑑賞会を、つまらないと思い逃げだしたいと思っていたに違いない。けれど、観客席に(よく知らないながらも)その業界での有名人が来たというだけで生徒たちの会場に行く足並みは軽やかになった。生徒のいる一階席はきちんと定刻にいっぱいになり、一般に開放された二階席もそれなりに埋まった。
ところが、肝心の観賞会がなかなか始まらない。困ったように教師が走り回る音が聞こえて、生徒たちも浮き足立ってきた。
前方で教師と話をしていたのは先ほど真耶が話しかけた男子生徒とサインを最初にもらいに来たちよちゃんと呼ばれていた少女、それから数人の友人たちのようだった。それから教師に向かって二階席にいる拓人と真耶の方を示した。
それから、彼らが一緒に二階席にやってきて、教師が頭を下げた。
「はじめまして。お二人のお名前はよく存じ上げております。いらしていただき大変光栄です。私はこの高校で音楽教師をしております山田と申します。今回の観賞会の責任者なのですが、実は大変困った問題が持ち上がりまして」
真耶と拓人は顔を見合わせた。それから続きを促した。
「実は、田代さんと沢口さんは本日大阪からこの会場に直接駆けつけてくださる予定だったのですが、新幹線が停まっていて運転再開のめどが立たないでいるというのです。これだけ会場も埋まっているのですが、お詫びして中止にしようと話していた所、この生徒たちがどうしてもあなた方の演奏を一曲でも聴きたいと申しまして。突然で大変失礼なので、お断りになられるのを承知で、こうして参ったのですが」
「ほら、さっき『聴かせられなくて残念よ』って、言っていたから、もしかしたら弾いてくれるんじゃないかなって」
「茂手くん!」
教師が慌てて男子生徒を制したが、真耶は笑って言った。
「私はかまわないわよ。でも、拓人が伴奏してくれるかは……」
「するする。可愛い女の子たちの点数稼ぎたいし」
生徒たちは大歓声をあげた。真耶はヴィオラを持ち上げた。
「では、お引き受けしますわ。今夜演奏する予定で用意してきた曲でいいでしょうか」
「もちろんです」
山田はホッとした様子を隠せなかった。
同窓会のために準備してきたのはシューベルトの「アルペジオーネ・ソナタ」。アルペジオーネという六弦の古楽器のためのソナタだが、チェロやヴィオラで演奏される。拓人と真耶が二ヶ月に一度開催しているミニ・コンサートでも演奏することになっているので、広いホールで演奏するのは二人にとっても悪いことではなかった。哀愁あふれる美しい旋律で、コンサート受けはいい曲だが、普段クラッシック音楽に馴染みのない高校生たちには敷居が高い。それでクラッシック音楽に慣れさせるために、まずはフォーレの「夢のあとに」で反応を見、続いてクライスラーの「美しきロスマリン」を弾いた。どちらもCMなどでよく使われるので馴染みがあるはずだった。それからシューベルトを演奏したところ、生徒たちも慣れたようで熱心に聴いていた。
「悪くない反応だったな」
短い時間だったが、大きな拍手をもらい、主に女の子たちにサインをせがまれて拓人はかなりご機嫌だった。真耶もまんざらでもない様子で、サインをしたり楽器に興味を持った生徒たちと話をしてから、別れを言って同窓会の会場へと向かっていた。
「田代君と沢口氏に会えなかったのは残念だったけれど、楽しかったわ。あなたはなおさらでしょう? 好みの女の子もいたみたいだしね」
「ん? わかった? さて、どの子でしょう。一、ツインテールで胸の大きかった子。二、お前が例の茂手くんと話していた時に泣きそうな顔をしていた茶髪の子。三、僕たちのことを始めから知っていたちよちゃん」
拓人が茶化して訊いてきたので、真耶はにっこりと笑った。
「誤摩化してもダメよ。あなたのお目当てはね。その三人じゃなくて、みんなの後ろにいた、おかっぱ頭でピンクのマフラーの子」
「げっ。よく氣付いたな」
「当然でしょ。あなたの好みなんてお見通しよ。あの子、目もくりくりしていて、けっこう可愛いのに、いつも自信なさそうに下を向いていて、あなたのサインも欲しそうだったのにあきらめていたし」
「そ。あの子のために頑張って弾いたんだ。もしサインをねだりに来たら、絶対に名前を訊こうと思っていたのにな」
真耶はしょうもないという風に頭を振ると、肩をすくめる拓人を急がせて同窓会の会場であるホテルへと入っていった。
(初出:2014年1月 書き下ろし)
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【小説】大道芸人たち 番外編 〜 Séveux 芳醇
このストーリーは、いつも素敵な「Dum Spiro Spero」の挿絵を描いてくださる羽桜さんに捧げます。ちょびっと、羽桜さんのご希望の方向に寄っています。
途中で「大道芸人たち」の話が出てきます。この外伝はちょうど第一部が終わる直前くらいの話です。お読みになった方は拓人の推測に「違うよ」と心の中でつっこんでくださいませ。そして、お読みでない方は、この外伝とはまったく関係ありませんのでご心配なく。心置きなくスルーしてくださいね。
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 Séveux 芳醇
羽桜さんに捧ぐ
「拓人。今夜はデートなの?」
真耶から電話があった。
「昨夜が遅かったら、今日はオフにしてある。何故?」
「あなたが飲みたがっていたアマローネ、昨夜お父様が開けたのよ。まだ三分の二残っているの。今から来るなら残しておくけれど」
アマローネの赤ワイン、2003年もの。これを逃したら一生飲めないだろう。
「行く! それならデートをキャンセルしてでも行くって」
「あなたって、本当にどうしようもない人ね」
真耶は少し笑って電話を切った。
デートをキャンセルしてでもなんて本音を言える女は真耶だけだろう。話の途中で急に今かかっている曲の数小節のことが氣になって指を動かしだしても怒ったりもしない。それどころか、一緒に口ずさみ意見を交わしてくれる。面倒が何もないのは子供の頃からの信頼関係ゆえだろう。
だが、女とのつきあいでは多少の面倒さも一種のスパイスだ。だから必要があるのかないのかわからないままに、次々と女とつきあう。ずっと同じ女とは一度だけというルールを自分に課していた。もう何年も前になるが、ちょっと本氣になったことがあって、彼女にふられてから少し真面目に女性たちと向き合おうとした事もあった。つまり二回か三回めになるまでつき合ってみて、相手の興味対象やそれまでの事を知ろうとした事があった。でも、いろいろと面倒になってしまって、結局、前のやり方に戻した。
「無理して恋をしなきゃなんて思う事はないわ。あれはしようと思ってするものじゃないでしょう」
真耶のいう事ももっともだと思ったので、自分の生活スタイルを保つ事にしたのだ。そもそも、食事をしたり、話をするだけなら真耶に匹敵する女なんかいない。どこに連れて行っても恥ずかしくないし、周りも当然のように受け入れる。マスコミだって同じだ。真耶と僕が一緒にいてもスキャンダルにもなりはしない。もっとも僕と女との付き合いもスキャンダルにはならない。どっちにしろ長続きしないのはマスコミもその読者も知っているのだ。知らないヤツは、そもそも僕の名前すら知らないから、同じ事だ。
園城の家に着くまでには七時を少し越えた。ああ、愛しのアマローネちゃん、残っていてくれよ。
「遅かったじゃないか、拓人くん」
そう声を掛けたのは園城のおじ様、真耶の父親だ。この家で会うのは久しぶりのような氣もするが、つい先日ブラームスのコンチェルト第一番で一緒したばかり。日本でも有数の高名な指揮者として、音楽に対する姿勢は厳しいが、プライヴェートで逢うと子供の頃から親しく出入りしていた従叔父としての優しさが前面に出る。
「これでも急いだんですよ。電話を受けたときは大船にいたんですから」
「君が来ないと、真耶がボトルに指一本触れさせてくれないんだ。いったい誰のワインなんだか……」
僕は真耶を拝んだ。やっぱり、真耶は最高だ。
透明なムラノ製のクリスタルグラスにワインが注がれる。通常の赤ワインよりもずっと混濁した不透明な葡萄色が重たげにグラスの底に沈んだ。そっとグラスを右の掌に置くとゆっくりと揺らしながら香りを楽しむ。ああ、それは味に対する期待をぐっと盛り上げる芳醇たる幽香だ。揺れて酒に触れたグラスには、透明に輝くアーチが残る。真耶と園城氏が微笑みながら見守る中、待ち望んでいたひと口を嗜む。
口蓋に薫りが広がる。それは薔薇のように華やかであり、熟したベリーのような甘く若々しいものだ、けれど、その印象を覆すようにもっと深く複雑な薫りが続く。甘い葡萄そのものが一瞬感じられ、極上の蜂蜜を口にしたときのような濃厚な一撃が続く、そして、それは薫りではなくて味覚なのだと自覚する間もなく、喉の奥を通って灼熱の何かが消えていく。鉄、それとも、血潮? なんて深い……。
瞼を開けると、二人はまだ僕を見ていた。が、その微笑みはもっとはっきりしている。
「感想も出ないってわけね」
真耶が自分のグラスを持ち上げると、僕はたっぷり五秒くらい使ってようやく口を開いた。
「ああ、真耶。このお礼に、何でもいう事をきくよ」
親娘は顔を見合わせて吹き出した。
「だったら、再来月、つき合ってもらおうかしら」
「何に?」
「ボランティアでミニ・コンサートを企画しているの。テレビ局の密着取材つき。で、伴奏者が必要なんだけれど、絵になる方がいいって言われちゃったのよ。一週間くらいスケジュール開けて」
「再来月? イギリス公演と北海道コンサートツアーがあるんだぜ。一週間!」
「なんとかしてくれるでしょう、私のためなら」
僕は頭を抱えた。この僕に、こんな無茶をしかけてくるのも真耶一人だけだ。いや、それをなんとかしてしまおうと思わせる、特別なやり方を心得ているのはって意味だが。
「なんとかって。せめて、初見の曲を弾かせたりしないでくれよ。本当に時間がないんだ」
「大丈夫よ。シューマンの『おとぎ話の絵本』」
それならちょっとは安心だ。この曲ははじめて二人でやったミニ・コンサート以来、何度もやっているから、大して合わせなくてもなんとかなる。頭の中で素早く予定調整をしながらぶつぶつとつぶやいた。
「お前って、例のドイツ人に難題をふっかける蝶子そっくりだ」
その言葉を聞いて、真耶の眉が少し顰む。彼女は立ち上がって、ライティング・デスクに置かれていたハガキを持ってきた。ガウディのサクラダ・ファミリア、つまりバルセロナから届いたんだな。
「また三人の名前しかないのよ」
僕は真耶から葉書を受け取る。
「どうしている? キノコが美味しい季節になったので食べてばっかり。また太っちゃう。蝶子」
「タレガのすげー欲しい楽譜見つけたんだけど高過ぎ。買うか三日悩んでる。稔」
「日本で食べた黄身餡そっくりなお菓子を見つけたんですよ。また日本に行きたくなりました。レネ」
あのドイツ人の名前がない。真耶が心配している事情。僕には予想がつく。あの男は三人のもとを去ったのだろう。蝶子が事実を知り、受け入れられなかったのだろう。無理もない。だが、それは推測に過ぎない。そして、その推測の元になる事実、僕が偶然知った事を口にする事は出来ない。あのドイツ人と約束したのだから。このハガキの様子だと、蝶子の精神状態はそんなに悪くなさそうだ。だったら、早く事情を真耶に言ってくれよ! 真耶に、この僕が秘密を持ち続けなくてはならないこの苦悩を察してくれ!
僕はもうひと口、アマローネを飲む。真耶の瞳を避けるために酔ってしまいたいと思うが、この酒は僕を全く酔わせない。たまにこういう酒があるものだ。アルコールは強いはずなのに頭に向かわず、喉から体の中、たぶんハートに向かって消えていく。何本飲んでもなんともないはずだ。残念な事に、二本めは存在しないので確かめようがないが。
「ほら。感想はまだなの?」
そういわれても、適当な言葉が出てこない。豊かなボディー。薫りが口の中に広がる。そんなありきたりの言葉で表現するのは冒涜のように感じられる。
「たったひと言で表現できるはずなんだけれどな。この、深く複雑なのに明瞭に突き抜けた感じ。ぴったりする何かを知っているはずなんだ」
真耶がそっと微笑む。例の化粧品のCMで見慣れた、最上級の微笑みだ。熱烈なファンの男たちが見たら、僕を殺したくなるに違いない。
「それはそうと、真耶」
園城のおじ様が咳払いをした。
「お前、結城先生から回ってきた縁談の報告はしたのか?」
僕は、もう少しで何よりも大切なアマローネを吹き出す所だった。
「どうしたのよ、拓人」
「い、今、なんて?」
親子は顔を見合わせた。
「拓人ったら知らなかったの?」
「君のお父さんが縁談を持ってくるなんて珍しいから、私はてっきり君が裏で糸を弾いているのかと……」
「んなわけ、ないでしょう。そんなことをしたら、真耶に叱り飛ばされるに決まってんのに。親父のヤツ、何を考えて」
「いやあ、さすが結城先生が紹介してくださるだけあって、すごい方だったよな、真耶」
僕は恐る恐る真耶の顔を見た。真耶はワインを優雅に飲むとそっと赤い唇を開いた。
「そうね。申し分のない方ね。本物の紳士で、驚くくらい見識が深いの。それに素晴らしい人格者なのよ。スポーツも万能みたいだったし」
「なんだよ、それ。胡散臭いじゃないか。女たらしじゃないのか」
真耶は声を立てて笑った。
「あなたにそんな事を言われるなんてお氣の毒だわ。本人は女性とつき合った事が少なくてとても緊張するっておっしゃっていたのよ」
けっ。どうだか。
「で、どうするんだ?」
父親の言葉に真耶は肩をすくめた。
「どうするって、お断りしたわよ」
「何故?」
困惑する父親に真耶はきっぱりと言った。
「他の事はすべて申し分なかったんだけれど、結婚したら家庭に入ってほしいって言われたの。それって、演奏活動をやめろってことでしょう。無理よ。結城の叔父さまには先ほど謝罪の電話をした所なの」
どこかホッとしている事を自分でも意外に思っていた。僕も真耶も、お互いに自由に生きながら、何でも話し、ときどき一緒に演奏する、子供の頃から変わっていない関係はずっと続くんだと思っていた。でも、それは本当は永遠ではない。そして、だからこそ、どんな存在にも分たれる事のない僕たちのこの芳醇なひと時は何にも増して愛おしいのかもしれない。
もうひと口、アマローネを口に含んで、不意に思い当たった。正統的で誰にでも好まれるのに単純ではない味わい。濃厚でありつつ、突き抜けた明快さ。文句のつけようのない最高の存在。
「真耶。お前のヴィオラの音だ」
文脈が飛んだので、一瞬わからないという顔をした後、アマローネの形容だと得心して、彼女はもう一度、例の最高の微笑みを見せた。
(初出:2013年10月 書き下ろし)
【小説】大道芸人たち 番外編 〜 Andiamo! — featuring「誓約の地」
最後にお借りして登場していただいたのは、修平さまです。最初の回でお借りした杏子姐さんが惚れるくらいですからいい男に決まっています。で、こちらが最後までとっておいたのは、蝶子です。今回はカルちゃんは出番がなくなってしまいました。もっとも、この後、カルちゃん+Artistas callejeros+「誓約の地メンバーズ」がどこかで大集合する事になっています(たぶん)ので、修平さんもいずれはカルちゃんと知り合える事でしょう。
「Andiamo!」(行きましょう!)は、だらだらとフィレンツェにお借りした四人を足止めし、いつまでも遊んでいるArtistas callejerosが、「楽しかったね、じゃ、そろそろお開きにして出かけようか」というつもりでつけました。ついでにプラトリーノでArtistas callejerosはウゾさんちのキャラと宴会したりと好き勝手やっていましたが、そろそろ真面目に大道芸の旅に戻るようです。これほど長くおつき合いくださった読者の皆様、そして大事な大事なキャラをどーんとまとめて四人貸してくださいましたYUKAさん、ありがとうございました。
前回までの話とは独立していますが、一応シリーズへのリンクをここに載せておきます。
『大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 熟れた時の果実 — featuring「誓約の地」』
『大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 Vivo per lei — featuring「誓約の地」』
『大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 薔薇の香る庭 — featuring「誓約の地」』
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 Andiamo!
— featuring「誓約の地」
「たまげるな」
赤茶けたタイルはコトーンと乾いた音をさせた。朝一番の予約で入ったのでほとんど誰もいないその部屋に青年は佇んでいた。中学一年生の時に美術の教科書で見た絵が目の前にある。思っていたよりもずっと大きい。あまりに大きいので、後ろに下がって見なくてはならない。巨大なあこや貝の上に乗って豊かな金髪で体の前面を隠している。ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』。美術に興味があろうとなかろうと、題名と作者がすぐに浮かんでくるだろう名画中の名画だ。そして、その立ち位置で顔を右に向けると『春』があるのだ。
日本だったら、一つで美術館がひとつ建つレベルのお宝が、ここでは一つの部屋にいくつも押し込められている。そして、これはかつて彼が留学していたアメリカのいくつかの大きな美術館で目にした名画のように、財力にものを言わせて遠くから購入して集めて来たものではなく、これを描いた巨匠が、これを注文したメディチ家の主が生きて歩いたフィレンツェの当時の面影を残す建物の中にあるのだ。「ウフィツィ」。それは「事務所」を意味する。ルネサンスのこの巨大な建物は、実際にオフィスだったのだ。
「スケールが違う」
そう言って、もう一歩下がったところで、彼は誰かとぶつかった。
「うわっ、失敬」
思わず日本語で叫んでから、その東洋人の女の顔を見て、あわてて英語で謝った。
「Excuse me!」
女はちらっと白けた顔をして答えた。
「大丈夫です。日本語でも」
「え。日本人でしたか、重ね重ね失敬」
とっさに絶対に大陸の女性だと思ってしまったのは、その顔のせいだった。目がね、つり上がっているし。青年は短い髪をカリカリとかいた。
「早起きですね。宿題は朝の涼しいうちに、なんちゃって」
話題を変えるべく、そう青年が言うと、女性はニッコリと笑った。
「懐かしい事を言うのね。そうよ。混んで来たり、歩き疲れる前にここに来たかったの。あなたも?」
「ああ、ウフィツィ美術館は時間がかかるって仲間たちが言っていたから」
「お仲間たちは?」
「もう二度も見たからって、三人とも別のところに行った。自由行動日なんだ」
「へえ、私と一緒ね。良かったらこの先も一緒に観る?」
「お、よろしく。俺、石野修平っていうんだ」
「はじめまして。四条蝶子よ」
蝶子は大都市に行く度に必ず美術館を見て回るようになっていた。フィレンツェに来たのは初めてではないが、前回はパラティーナ美術館に行ったので、このウフィツィ美術館がお預けになってしまった。フィレンツェがすごいのは、このように必見の美術館が一つではないところだ。
ちらりと隣を歩く青年を見た。黒いジーンズに落ち着いたグレーのシャツというさりげない服装だが、よく見るとどちらもイタリアのディーゼルのデザインものだ。背が高い。普段一緒にいるゲルマン人や、ひょろひょろしているフランス人の背が高いのは当然だと思っていたが、ここにいる青年も日本人にしてはずいぶん長身だ。堂々として姿勢のいい歩き方や流暢な英語も日本人離れしていたのでハーフだろうかと思ったが、非常に整ってはいるものの外国人の血が混じっている顔には見えなかった。
「うわ、ここにもあった」
修平がフィリッポ・リッピの『聖母子と二天使』をみてぎょっとして言った。
「何が?」
「いや、なんていうのかな、犬も歩けば名画にあたる状態? 尋常じゃない美術館だ」
蝶子はくすくすと笑った。
「言い得て妙ね。しかも、こんなに空いているなんて日本じゃ考えられないわよね」
「ああ、これの一つでも来たら、それだけで長蛇の列。『立ち止まらないでください』と係員が声をからす状態になる事請け合いだよな」
それから、ふと思いついたように言った。
「でも、君はそういうところには行かないんじゃないか?」
「なぜそう思うの?」
「う~ん、勘。群れるのとか、大人しく行列で待つのとか、嫌がりそうに見える」
蝶子はケラケラと笑った。
「あたり。日本にいた時は、そんな時間もあまりなかったし」
「今は日本にいないのか?」
「ええ。こっちにいるの。あなたは旅行?」
「まあね」
蝶子は何か事情があるのね、とでも言いたげに曖昧に笑って、その話題からすっと離れた。それがあまりにも自然だったので、かえって修平はおやと思った。
「訊かないわけ?」
「言いたければ、自分で言うでしょう?」
あまりに広いので、全て観るのはあきらめて二人は出口に向かった。蝶子はいつもの習慣でハガキを買う。やっぱり『ヴィーナスの誕生』かしら。
「あれ、チェーザレ・ボルジアの肖像なんてあったんだ」
修平がコレクションの一枚をポンと指で叩いた。
「観たかったの?」
「いや、どうしてもこの絵が観たかったわけじゃないさ。よく考えたら、この場所にも彼が立っていたのかもしれないよな。そう考えるとすごいところだ」
シニョリーア広場の方へと歩きながら、二人はチェーザレとルクレツィア兄妹の事を話した。
「父親と兄に政治利用されて、右へ左へと嫁がされた悲劇のヒロインっていうけれど、こっそり好きになった人の子供を産んだり、慈善事業をおこしたり、ちゃんと意志もあった女性なんじゃないかしら」
「俺も、そう思う。時代の制約はあったにしろ自分の人生を精一杯生きたんだろうな。チェーザレもそうかも」
「彼は、評価のわかれる人よね」
「ああ。極悪人とも言われているし、稀代の政治家とも言われている。軍人になりたかったのに、父親に言われるままに枢機卿となった、父親に政治利用されたっていうけれど」
修平はちょっと考え込んだ。
「俺さ、むしろチェーザレは父親の駒である事に反発してのし上がろうとしたんじゃないかと思うんだ」
「どうして?」
「父親の言いなりな人間が冷徹にライバルを消すような判断力は持たないと思うからさ。彼は、教皇の息子としてじゃなくて自分自身の力を、このフィレンツェで試したかったんだと思う」
そう言って、周りにそびえる華麗な建物の数々を見上げた。
蝶子は微笑んだ。前向きで力強い人だ。この口調からすると誰かの言いなりになるまいと、プレッシャーをはねのけて生きてきたのだろう。本当に欲しい物を手に入れるために、全力を尽くしたにちがいない。蝶子はフルートのために戦った自分の人生と重ねあわせて、この青年に対して共感した。
フィレンツェ。明るくて力を感じさせる街だ。大聖堂の華やかで美しいシェイプ。大きくて高い建物。色鮮やかに飾られていながら調和した街並。エネルギーあふれる人びと。笑顔と歌。おいしい酒にたっぷりの料理。全てが朗らかでありつつ上品で、しかも力強かった。同じ道を歩きながら修平も同じ事を感じたのだろう、こう付け加えた。
「ここは、そんな氣にさせる街だよ。華やかで野心を呼び起こす。俺もやってやるって、心が奮い立つ」
「じゃあ、あなたも、親に反発してのし上がるの?」
修平はウィンクして答えた。
「もうとっくにしたよ。君は?」
蝶子はウィンクを返した。
「ずいぶん昔にね」
二人は声を上げて笑った。
シニョリーア広場の近くには、小さいが個性的な品揃えのセレクトショップがいくつもあった。蝶子はいつものように眼を輝かせたが、男性なのにその手のショップを嫌がらない修平を意外に思った。ヴィルはいつも露骨に嫌な顔をしたし、稔は蝶子がショッピングをはじめると逃げだした。レネですらしばらくつき合うと、ちょっと本屋に行ってきますと言い出すのだ。
「珍しいわね。こういう店、好きなの?」
「うん? ああ、職業的関心だよ。さすがなんだよなあ。この一点ものっぽいバッグ、斬新なんだけれど奇抜にはならないギリギリの線を守っている。それでいて、2ウェイで使える利便性も備えている。値段も手頃だ。ヨーロッパは保守的な面もあるけれど、こういうデザインに関しては本当にいいよ」
「そう言われて見ているうちに、本当に欲しくなってきちゃったわ。どうしてくれるのよ」
「あん? じゃあ、こっちの方はショルダーになるサイズで手頃だな。これにすれば?」
蝶子は修平をひと睨みすると、黙ってそのバッグを店の女性に渡して購入した。それだけでなく、今まで持っていたバックから中身を取り出して、新しいバックに入れ替えると、古いバックを処分してくれと店の女性に頼んでいた。
「え? なんで処分しちゃうの?」
さっさと店の外に出た蝶子を追いながら修平が慌てて訊くと、彼女は青いビロードの箱を新しいバッグにしまいながら答えた。
「私たち、持っていける荷物に限りがあるの。新しく何かを買ったら古い物は処分するの」
「私たち? 何の団体?」
「大道芸人よ」
修平は白い目をして言った。
「嘘つけ。そんなにしゃれた格好をした大道芸人がいるか」
蝶子は、彼がいつも行動を共にしている二人の女性と対抗できる小じゃれた様相だった。白とオレンジのシャープな幾何学模様のワンピースと白いパンプス。どう考えてもいいところのお嬢様か裕福な有閑マダムだ。
蝶子はシニョリーア広場にネプチューン像の側で写真を撮るたくさんの観光客を目にするとにやっと笑った。
「じゃあ、見ていて」
バッグから先ほどの青い箱を取り出すと、中から現れたフルートを組立てると箱を自分の前にそっと置いた。そして、大きく息を吸い込むと、澄んだ音色を響かせた。とても速くて軽快な曲で、周りにいた観光客たちが思わず振り向いた。ゴセックの『タンブーラン』。そんなに長い曲ではないのに、あっという間に人びとが寄ってきて、彼女が吹き終えてフルートを口から離すと、拍手がおこり、コインが投げ込まれた。蝶子は優雅な動きで箱を捧げ持つと、思わず引き込まれるような魅力的な笑顔で、ギャラリーの前をひと回りした。観客たち、特に男性は迷わず手持ちのコインやユーロ札をフルートの箱に入れていった。
そして、蝶子はその営業用スマイルのまま修平の前にぴたっと立って箱を差し出した。慌ててポケットを探ってコインを探る彼を見て声を立てて笑った。
「違うわよ。ちょっと持っていてって意味」
修平がその箱を持ち支えると、彼女は箱から中身を出して財布にしまい、フルートをテキパキ畳んで箱に収め、新しいバッグに投げ入れて言った。
「バッグの値段の四分の一は稼げたかしら。さ、お茶にしましょう」
修平は、一瞬ぽかんとしていたが、破顔して高らかに笑うと言った。
「了解。昨日見つけた劇的に美味いカフェに行こう。君、氣にいったよ。大道芸人のお仲間たちにもぜひ逢いたいな。俺の仲間たちにも引き合わせたいから、その話もしよう」
「いいわよ。私たち今晩、美味しいレストランに行く予定なの。よかったらそこに行かない?」
二人は、まだ蝶子の次の演奏を待っている観客たちを残して、シニョリーア広場から出て行った。太陽はフィレンツェの真上には来ていなかった。古都を楽しむ旅の休日は、まだ楽しく続きそうだった。
(初出:2013年9月 書き下ろし)
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【小説】大道芸人たち 番外編 〜 アペニンの麓にて - Featuring「プロフェッサー 華麗に登場」
丁度こちらの探偵もどきが イタリアを訪問中なので…
大道芸人たちの人物たちと酒場で会った とか 路上での演奏を見たとか 其の類でお願いします。
ウゾさんのブログの読者の方ならご存知、名探偵ハロルドとパスタを独自の調理法で茹でる優秀な弟子ワトスン君(本名不明)を中心にした大人氣シリーズ物のみなさんとのコラボをとのご指定です。
舞台に選んだのは、フィレンツェ郊外のプラトリーノ。死ぬまでに一度行ってみたい所に入っていたりします。
ウゾさんちのキャラで傍若無人に遊んじゃいましたが、魅力的な面々の本当の姿をご覧になりたい方は、ぜひウゾさんのブログへGO!
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 アペニンの麓にて - Featuring「プロフェッサー 華麗に登場」

「で、ここがなんだというのかね」
フィレンツェ郊外、バスに乗って数十分、終点プラトリーノで降りて五分ほど歩くと巨大な公園とおぼしき場所の入り口があった。
五人はその入り口に、後ろから入ってくる人が通れないくらいに広がったまま立ち尽くしていた。はじめに口をきいたのは、背が高く痩せて紫かがった青い瞳をした品のある青年だった。オーダーメードで作ったと一目で分かる質のいいグレーの背広をきちんと身に付けている。
「ここが、メディチ家の栄華、贅沢の極みを誇った、大公フランチェスコ一世が愛妾と暮らすために作ったヴィラ・デミドフ、またの名をプラトリーノのヴィラですよ」
そう答えたのは、やや個性的でカジュアルなチェックの背広を身に着けた緑の瞳の青年。
「でも、全然豪華には見えないんだけれど」
ふくよかと表現するのが妥当に思える女がサバサバした調子で言った。
「当時作られた驚異のほとんどが十九世紀までに取り壊されてしまって、なんてことのない英国風庭園ばかりが残っているのですよ。かつてはいくつものグロット、技術のかぎりを尽くした水仕掛け、豪華な建物がありましてね。大変な造営費用がかかったのですよ。父親のコジモ一世が威信をかけて作ったウフィツィ宮殿の二倍の増築費用がかかったんですからね。しかも、政治にはほとんど興味がなくここで呆けたまま死んだというのですから、無駄に金だけを持っている君にふさわしい場所じゃありませんか、アルフレド君」
アルフレドと呼ばれた灰色背広の青年は、チェック柄背広の青年の慇懃無礼、というよりはまったくもって無礼な態度に腹を立てている様子もなく、むしろ氣にいっている様子だった。
「グロテスクの極み、悪趣味な仕掛け、それを考えるとハロルド君、君にもぴったりだと思うよ」
アルフレドは、ハロルド青年に痛烈に応酬した。誰もハラハラした様子をしていない所を見ると、この手の会話は彼らの日常のようだった。
アルフレドの隣にすっと立っていた妙齢で薄い水色の瞳の女性が話の流れを全く無視して言った。
「お兄様。あちらに巨大な石像が見えますわ」
「ああ、あれが有名なアペニン像だろう。アペニン山脈の寓意だ」
「その通り。そして、その手前にあるのが、ワトスン君、君の大好きな池だよ。昔は釣り用と食用の魚がたくさん飼われていたそうだ。つまり、ここは君にもふさわしい所なのだよ」
ハロルドは、小柄で「I love fishing」と書かれたジャケットを来ているもう一人の青年にニヤリと笑いかけながら言った。わざわざ「昔は」と言っている所を見ると、どうやら現在は魚釣りができない事を知っていてわざと言及したフシがあった。
「あ、食べ物のいい匂いがするよ。あ、あそこにテントがいっぱい! 食べ物があるなら、ここは私にもぴったりって事よね! ゾーラ、いこう」
ふくよかな女性が、てきぱきと走り出した。アルフレドの妹ゾーラは笑って、「待って、アリア」と、その女性の後を優雅に追った。
かつて、メディチ家の栄華を誇り、大公が愛妾とこの世のもう一つの楽園を楽しもうとした広大な空間は、公園としてわずかな入場料で一般市民に公開されていた。テントの下でソーセージやらピッツァやら、ギトギトのフライドポテト、それに何で色を付けているのかわからないような毒々しいジェラートが提供され、タンクトップ姿の小太りの女性や、こんなところでいちゃいちゃしなくてもいいだろうというようなカップル、躾のされていない犬、それにビールで心地よくなりカンツォーネを歌う迷惑な親爺などがゴロゴロする、かなり格調低い空間となっていた。
アペニン像は、十一メートルもある多孔質の石灰岩でできている。怪物を押さえ込んだ老人のような巨像であるが、中は三層に別れたグロットとなっている。遠くからでもよく見えるが近寄ると、その大きさに驚く。売店のテントやそこでくつろぐ人びとがとても小さく見える。
夏はそろそろ終わり朝晩は冷え込む季節だが、日中の陽射しは強く、アペニン像の前の池とその水音は心地よかった。アリアは売店で、食べ物を買うのに夢中になっていたが、同行の四人は水音に混じって聞こえてきた音楽の方に目をやった。
そこだけは若干の人だかりができていた。そこにいたのは四人組の大道芸人で、灰色のドウランと服装でアペニン像のごとく装い緑色の蔦の髪飾りをつけていた。一人はギターをつま弾き、二人はフルートを手にしていた。奏でているのは、ヴィヴァルディのマンドリンコンチェルト。そして真ん中にいる眼鏡をかけた青年がそれに合わせて目にも停まらぬ早さで、次々花やリングやカードを取り出していく。
かつてこのヴィラ・デミドフには水オルガンがあったという。遠くアペニン山脈より引かれた水で、水の不足がちなこの土地に精巧な仕掛けの機械が自動で動いていた。水が溢れ、人びとを驚かせ、歓声を上げさせた。女たちの嬌声が響き、男たちはそれに心を躍らせた事だろう。長い中世を、キリスト教的節制のもと過ごした後に、突如として花ひらいたルネサンス。酒に酔い、人体の美しさに目覚め、遊び楽しんだ徒花の時だった。水音はアペニン山脈からの涼しい風を運んだ事だろう。
メディチ家の栄華はもはや遠い昔の歴史になってしまっている。今では、数ユーロの入場料を払って、カップルたちが寝そべりながら、家族が犬と戯れながら、あるいはジェラートやポテトを頬張りながら、大道芸人たちの奏でるバロック音楽と、めまぐるしく展開される手品を楽しんでいる。
しばらくすると、芸人たちは演技と演奏を止めて、別々のポーズで一カ所に固まって動きを止めた。そうするとそれがまるでもう一つの石像で、ルネサンス時代からの時の流れで蔦が生えてしまったかのような錯覚を呼び起こした。石像のパントマイムそのものもれっきとした大道芸なのだが、静かになり、動かなくなると、それはそれで氣になるものだ。水音が単調に響くのが堪え難くなり、人びとはコインを投げ入れだす。そうすると、彼らは少し動く。別の人間が2ユーロコインを投げ込むと、手品をしていた男の所にポンポンっと立て続けに花が咲いた。別の人間が5ユーロ札をそっと置くと、今度は女がフルートを奏でだす。それを繰り返して、四人はどんどんと稼いでいった。
「いやあ、『銀の時計仕掛け人形』いや、今回は『灰色の彫像』か。とにかく、この芸は本当に実入りがいいよな」
一時間後に、集まった金を回収して、専用財布にきちんと収めてから稔が言った。
「それに、ここに来てよかったわよね。街角と違って他に観光するものもあまりないから、観客が集中してくれて」
蝶子は灰色に塗られた顔のままニッコリと笑った。
「ワインを買ってくるか」
ヴィルが現実的な提案をすると、四人はあっという間にそれぞれのテントへと分散して、ワインやビールの他につまみになりそうなものを入手してきた。アペニン像の前で、それに似た灰色の彫像のような妙な集団が酒盛りをしているのは、それはそれでシュールな光景だったので、新しくやってきた観光客たちは物珍しそうに写真を撮った。
「あの~」
ピッツァを手にしたままアリアが近づいてくる。
「楽しそうなんだけれど、ピクニックに混ぜてくれない?」
意外な申し出に四人は顔を見合わせたが、特に断る理由もないので「どうぞ」と一人分の場所を作った。するとアリアは手を降りながら、離れた所でアペニン像を見ている(ワトスン君だけは池の中の方に興味がありそうだったが)仲間たちに叫んだ。
「お~い、ゾーラ、みんな、こっち! ここで食べよう」
「アリアったら、いつの間にピクニックに参加しているの?」
ゾーラが呆れたような声を出すと、その麗しい姿を見てレネの顔はぱっと明るくなった。
「では、ワトスン君、悪いが我々のピクニックの食料品を調達してきてくれたまえ」
ハロルドが言うと、池に未練たっぷりの一瞥をくれてからワトスン君がテントへと向かった。Artistas callejerosは、その間に場所を作って五人が座れるようにした。
それを見ていた他の観光客たちも、それぞれのワインやジェラートを持って次々とこの謎の集団の周りにやってきては座って、一緒に飲みだした。
それは壮大なピクニックとなった。先ほどまでただその場にいるだけで何の関わりもなかった同士が、プラスチックのカップに入ったワインで乾杯する。それからいつの間にか、カンツォーネを歌いだす者がいると、それに合わせて別の人間が歌いだす。Artistas callejerosも笑って、時どき伴奏をつけてやる。
レネはゾーラと話をしようと隣に座りたがるのだが、何故かアリアにどっかりと横に座られて話しかけられている。その間にゾーラは蝶子とヴィルに話しかけてフルートの話で盛り上がっている。
ハロルドとアルフレドは相も変わらず言葉の応酬を繰り返しながらも楽しそうにワインを飲んでいる。そしてワトスン君は稔と魚のことについて楽しそうに話していた。(ただし、ワトスン君は釣り、稔は皿の中の話をしていたが)
アペニン像は、大公フランチェスコがいたメディチ家全盛時代から、一度も見たことのない奇妙な大宴会を目にして、それが氣にいったのかほんの少し微笑んだようだった。それとも、それは秋の陽射しが池に反射してみせた眼の錯覚なのかもしれない。
(初出:2013年9月 書き下ろし)
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【小説】大道芸人たち 番外編 〜 Allegro molto energico
この話での真耶は22歳。大学を卒業する目前です。同じ大学には稔や蝶子も通っていて、もちろん二人ともまだ大道芸人にはなっていません。真耶も後の輝かしいキャリアに踏み出す手前です。
大好きな曲と一緒に登場させました。追記に動画をつけましたので、ご存じない方はぜひ。
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 Allegro molto energico
力強い音色が澄んだ空氣を切る。肘の動きは優雅で弧を描くようだが、どこにそのような強い響きがこもるかと驚くような音がする。Allegro molto energico。とても速くエネルギッシュに。アンリ・カサドシュの、またはJ.C.バッハのとしても知られているヴィオラ・コンチェルトの第三楽章に指定された音楽記号は、園城真耶の生き方そのものでもあった。
朝目が覚めて、最初に考えるのは昨日の夜に考えていたことの続き、すなわちいま弾いている曲の音についてだった。洗面所の鏡の前でもあの響きはもっとこう、などと思っている。歯を磨き顔を洗う頃になって、ようやく想いは現実に戻ってくる。
鏡には二十二歳の若い娘が映っている。真耶は子供の頃から「なんてきれいなお嬢さん」と驚かれれることに慣れていたので、自分が美しいことを知っていた。丁寧に髪を梳ききちんと整える。ゆっくりと基礎化粧をして眉を整える。薄く口紅をつけると、もうどこに出しても恥ずかしくない美貌のお嬢様の体裁が整う。完璧に美しくあること、それはほとんど真耶の義務だった。けれど真耶の想いのほとんどは鏡の中ではなく、今はカサドシュのコンチェルトに向かっている。
大学にもあと二ヶ月は通わなくてはならない。けれど、彼女の想いはもっと先に向かっている。昨年国内のヴィオラコンクールで優勝して以来、彼女のキャリアはどんどんと動き出していた。四月には、カサドシュのコンチェルトではじめてオーケストラと競演する。ピアニスト結城拓人とのミニコンサートも企画されている。拓人が夏からミュンヘンに留学することが決まっている今、彼女もまた近いうちにヨーロッパへの留学をしたいと準備を進めている。彼女の演奏活動は未来に向けて広がりだしたばかりだった。
真耶は薄いオレンジのブラウスと白いマーメードラインのスカートを身に着け、コーヒーを一杯飲んだだけで朝食を断りそのまま大学に出かけた。いつもどこかで音楽が聴こえているその構内の中で、たった一カ所、真耶が足が停めてしまう場所があった。真耶がよく使う西門の脇には声楽部の使う第三校舎があった。揺れるヒマラヤ杉の枝がそっと腕を伸ばすその一番端に、朝の七時半頃に行くといつも同じ声が聞こえていた。バリトンで深みのあるいい声だった。その声の持ち主のことは、長いこと何も知らなかったのだが、つい先日ひょんなことで、知り合いになったばかりだった。
その日真耶は一人で遅い昼食をとった。生協に頼んであった新譜が入ったというので、いつも一緒に食事ををする友人たちに先に行ってもらって、とにかく楽譜を受けとりに行ったのだ。受け取りに思ったよりも手間取ったが、楽譜を手にしたことが嬉しく開いてしばらく読みながら歩いていた。
「おっと、危ない」
学生食堂の入り口で、声にはっとして前を見ると、もう少しでギターを持って後ろ向きに歩いている青年とぶつかるところだった。彼がたまたま後ろを見たので事故は起らなかった。
「あら、安田くん、ごめんなさい」
真耶は謝った。
「あ、園城か。いや、こっちも変な歩き方していたからさ、すまない」
その青年、ギターを持ってはいるが、実は邦楽科の学生である安田稔も謝った。その時、稔と一緒にいたもう一人の青年がとても驚いたように稔に言った。
「園城真耶さん! 安田、お前、知り合いなのか?」
稔は、おやという顔をして、それから頷いた。
「ああ。一年の時、同じソルフェージュのクラスにいたからな。園城、紹介するよ。こいつは田代裕幸。声楽科の四年生」
真耶はにっこり笑って「はじめまして」と手を出した。裕幸は少し赤くなって、それでもしっかりと握手をして「よろしく」と言った。
「園城が、ながら歩きなんてらしくないな。なんだその楽譜?」
稔が楽譜を覗き込んだ。
「カサドシュよ。持っているのと違ってフランス語の注釈がついているの。ようやく生協に届いたっていうからもう待ちきれなくて」
「それで、こんな時間まで食事もせずにね。夢中になると時間を忘れるのは田代と一緒だな」
そう言って稔は裕幸をみて笑った。
「そうなの?」
裕幸ははにかんだように笑った。真耶は田代裕幸をよく観察した。リラックスしている稔に較べて彼は少し身構えているようだった。ライナーの入ったトレンチコートを脱ぐと茶色い厚手のセーターを着ていた。四角い黒縁眼鏡も着ているものも動きもとにかくまじめという印象が強かった。そして、その声が印象的だった。声楽科だからといって全ての人が歌うように話すわけではない。だが彼の声はごく普通の話をしている時もバリトンだった。だがそれは大仰ではなく、耳に心地よく響いた。この声、もしかして……。
がつがつとカツ丼を食べる稔の横で、まだ少し緊張しているようにカレーを食べている裕幸に、真耶は疑問をぶつけてみた。
「ねえ、もしかして、毎朝第三校舎で声を出しているのは、田代くん?」
裕幸はあわててスプーンを取り落とした。稔がさっとそのスプーンをキャッチしていなければ、それは地面まで落ちていた。真耶は笑った。
「ど、どうして、園城さんが、そのことを?」
「声に聞き覚えがあったの」
それから、朝ヒマラヤ杉の下を通る時に、真耶は窓に田代裕幸の姿を見つけると手を振りしばし彼の歌声に耳を傾けるようになっていた。
裕幸は窓を開けた。
「おはよう、園城さん」
「おはよう、田代くん。今日の音階少しへんよ。風邪でもひいたの?」
「え。わかりますか。参ったな」
「毎朝、聴いているもの」
裕幸は急いで降りてきた。その朝はアラン編みの白いセーターだった。眼鏡の奥の瞳が輝いている。息を切らして、セーターの下の胸のポケットから白い封筒を取り出した。
「あ、あの。この間、学食で、メトロポリタンの『魔笛』のチケットを取り損ねたと安田に言っていたから……。その、A席しか取れなかったけれど、もし、僕の隣で嫌でなかったら……」
真耶はその少ししわくちゃになった封筒とチケットを見て、それから裕幸を見上げた。ほんの少し黙って考えた。それからニッコリと笑いかけた。
「どうもありがとう。喜んでご一緒させていただくわ」
「それで。僕にチケットを返すってわけ?」
家に帰って、自宅のサロンで勝手にピアノを弾いていたのははとこの結城拓人だった。
「ごめん。ナンバー24ちゃんでも誘ってあげて」
「悪いが、もう24とは終わったよ。今は26。オペラには興味ないだろうな。大学在学中だったら、もう一度フルート科の四条蝶子にでもアタックしたんだけれどな」
「なんでもいいけれど、とにかく今回は、ごめん」
「ったく。僕が取ってやったのはSS席だよ」
A席でオペラをみるのはめったにないことだった。でも、裕幸はチケット代を払わせてくれなかった。裕福な音楽一家の家庭に生まれた真耶や拓人は例外で、学生が二枚のオペラチケットを払うのは簡単なことではないと知っていたので、真耶は文句を言うつもりはなかった。
『魔笛』をみている間、裕幸は舞台に釘付けになっていた。真耶は今まで何度かした音楽会でのデートでいつも相手を忘れて演奏に没頭してしまい、それが原因で上手くいかなくなったことが何度かあったので、同じように音楽に溺れている裕幸に微笑んだ。それから二人は定期的に一緒に出かけるようになった。
「ふ~ん。いい音出しているじゃん。新しい彼とは上手くいっているんだな」
拓人がカサドシュを練習する真耶の横でぽりぽりとピスタチオを食べながら言った。
「わかる? あ、ちょっと、殻を散らさないで。佐和さんが掃除機をもって駆けつけてくるわよ」
「わるい」
拓人はそういうと園城家の古くからのお手伝いを困らせないように殻を拾って盆に置くと、再び真耶の方を見つつシャンパンを飲んだ。
「短調の曲だけれど、生命力に溢れた感じにしたいの」
「Allegro molto ma maestosoか。とても早く、しかし力強くね。アレグロってのはイタリア語本来の意味では朗らかにとか快活にって意味だから、たしかに短調のための言葉じゃないよな。でも、お前には合っているよ。特に、今の感じとね」
真耶はちらりと拓人を見た。たまにはいい事を言ってくれるじゃない? 人間というのは、恋をはじめた時にもっとも生命力が強くなるのではないだろうか。相手をもっと知りたいという想い、今日も明日もあの人にもっと近づいて行けるという予感。裕幸のぎこちなさが次第にほどけて、代わりに瞳の中に情熱が増えていくのを日々感じることができた。それは真耶をとても幸福にした。彼のバリトンの響きで紡がれる言葉が、真耶の内なる和音を広がらせていく。
真耶は努力を重んじる。彼女は裕福な音楽一家に生まれ、望めばたくさんのコネを利用することができる立場にいた。そして、同じようにそれを利用してきた多くの音楽家が、デビューは華々しかったものの実力が伴わずに忘れられていくのを子供の頃からたくさん目にしていた。真耶の耳は芸術とそうでないものを聴き分けることができた。そして、音楽は財力や縁故の力では絶対に手に入らないもの、誰にでも等しく日々の努力でしか手に入らないものであることを、本当に小さい子供の頃から理解していた。いつも一緒にいた拓人ととは切磋琢磨し、同じように努力を重ねることでともに音楽界での立ち位置を築いてきた。忌憚なく意見を交わし、支えあってきた。
ただ、恋に関しては、お互いに一人で戦いに臨まなくてはならなかった。もっとも、拓人も真耶も恋に関してはあまり苦しい戦いを強いられたことがなかった。こちらは音楽とは違って、生まれながらの容姿や立ち居振る舞いによってかなり優位な位置に立つことができたからだ。真耶は裕幸の心をはじめからつかんでいることを感じていた。それでも、もっと自分を知ってもらいたいと思った。
電話が鳴った。表示された番号をみて真耶の口元が弛んだ。拓人は、にやっと笑って席を外そうと扉の方に歩いていった。しかし、その通話は拓人が完全に扉を閉めるまでも続かなかった。
「田代くん、明日のこと? え……。そう、そうなの、しかたないわね。じゃあ、月曜日にまた大学で。ええ、おやすみなさい」
拓人は戻ってきて言った。
「なんだ。デートはキャンセルか」
「ええ。知り合いの子を病院に連れて行くことになったんですって」
「知り合い? 家族でもなくて」
真耶は肩をすくめた。
「時間が開いたから、もう少し譜面を読み込むわ。拓人は明日はデートなの?」
「いや、僕も暇だからつきあうよ。ミニコンサートの初合わせしとくか」
真耶と裕幸の付き合いが長くなるにつれて、その「知り合いの子」が割り込んでくることが多くなった。真耶は裕幸の生活に土足で踏み入りたくはなかったが、デートを予定すると三度に一度はその子の具合が悪くなるので、いったいどんな知り合いなのかと疑問がわいてくる。
「春菜は幼なじみなんだ。ずっと隣の家に住んでいて、家族ぐるみの付き合いをしている。彼女は今年高校を卒業するんだ。ここのところ気管支喘息の発作を起こすことが多くて、発作が起ると吸入剤を使用するんだけれど、そうなったら必ず翌日に医者のところに通院することになっているんだ。彼女の両親は車を持っていないので、今までも後治療の通院は僕が行っていたんだ」
「そう。確かに彼女ができたから誰か他の人に連れて行ってもらえとはいいにくいでしょうね」
「君にイヤな思いはさせたくない。でも、この冬まで、ほとんど発作は起きていなかったのに、どうしてこんなに頻繁に起きるようになったんだろう。近いうちに落ち着いてくれることを望むよ」
「それは、あやしいな」
拓人が言った。
またしてもデートがキャンセルになり、真耶は予約してあったレストランに拓人と来ることになった。拓人は珍しくつき合っている女がいない状態だったので、ごちそうしてもらえるときいて飛びついてきたのだ。
「何の話?」
「その春菜ちゃんだよ。幼なじみの裕幸くんがデートの予定だときくと喘息の発作がちょうど起きるとはね」
「拓人。喘息の発作ってとってもつらいのよ。好き好んでそんなもの起こすわけないでしょう」
「もちろん、意識して発作を起こしているわけじゃないだろうさ。でも、裕幸くんが彼女に会うときくとショックと不安で発作を起こしてしまうとかさ」
真耶は、牛肉のカルパッチョを優雅に切って答えた。
「たとえそうだとしても、田代くんにはどうしようもないじゃない」
「まあね。でも、その男とつき合う以上、ずっとその春菜ちゃんが亡霊のように邪魔をし続ける、そんな予感がするよ」
真耶は拓人を見つめて、ワインを飲んだ。
「あなたみたいに、短い期間で次々とりかえるのなら、それも氣にならないでしょうけれど……」
「うん。それは言えるな」
朝目を覚ますと考えているのはやはり音のことだった。シューマンの「ピアノとヴィオラのためのフェアリー・テイル」拓人とのミニコンサートで弾くために仕上げている曲だ。それから、ゆっくりと身支度しながら、朝のバリトンのことを考える。あの声に包まれたいと思う。かなり深く恋に落ちていると自分でも思う。真耶は朝食を食べずに大学へと向かう。もう、あと数日しかこの習慣は続かない。二人とも卒業するのだ。逢う時間は減るだろう。お互い演奏家としての仕事があり、今までとは違ってきちんと意志を持って連絡を取り合わないと、逢うことも難しくなる。けれど真耶はさほど心配していなかった。
「話がある」
裕幸はその朝、第三校舎の前で待っていた。二人はようやく春らしくなってきた構内を、あと数日で日常の光景ではなくなる樹々の間を歩いた。
「どうしたの」
「君とつき合いたいと思ったのは、本当に心からの願いだった。今でも君のことが好きで憧れている。でも、これ以上つき合っていくことができない」
青天の霹靂だった。真耶は息を飲み、しばらく黙っていたが、やがて落ち着いて静かに訊いた。
「私が何か直せばいいの?」
「君は悪くない。本当に君は完璧だ。そうじゃない。僕もどうしていいのか、自分でもわからない」
「理由を教えてくれる?」
「春菜が僕を失うなら死ぬって言うんだ」
真耶は、拓人の言う通りになったなと思った。
「あなたも春菜さんの方がいいと思ったの?」
「僕は君のことが好きなんだ」
「だったら、どうして一足飛びに別れるって話になってしまうの?」
「春菜には僕しかいないんだ」
「もし、私があなたを失うくらいなら私も死ぬって言ったらどうするの?」
「君はそんなことは言わない。君にはヴィオラと音楽がある。素晴らしい友人たちにも恵まれている。健康で美しくて何もかも持っている。君は春菜どころか、誰よりも強い人だ。君は恋人を失ったぐらいで立ち止まったりしないだろう」
その言葉で十分だった。弱いものが強くなることはできる。しかし、逆は無理だった。
真耶は裕幸と握手をして、涙も見せずに立ち去った。そして、それから卒業までの数日間、西門から大学に足を踏み入れることはなかった。
力強い音色が澄んだ空氣を切る。肘の動きは優雅で弧を描くようだが、どこにそのような強い響きがこもるかと驚くような音がする。カサドシュのヴィオラ・コンチェルトを真耶は一人弾く。音の一つひとつに想いを込めながら。
健康で美しく強い。それは正しい。全てに恵まれた存在であることも。真耶は確かに恋を失ったぐらいで死を選んだりはしない。たぶん、その少女も本当はそれほど弱くはないだろう。でも、彼は彼女を選んだ。それが事実だった。選ばれなかったからと言って立ち止まっているわけにはいかない。
ハ短調の悲しみの響きが、真耶の中に強く流れる。ヴィオラが真耶の代わりに泣いている。Adagio molto espressivo。ゆっくりと表情豊かに。そしてAllegro molto energico、とても速くエネルギッシュに。
全ては音楽に向かう。それが真耶の生き方だった。
(初出:2013年8月 書き下ろし)
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【小説】大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 緋色の蝶
今回は、蝶子がミュンヘンに留学して一年、教授と知り合い弟子にしてもらうまでのストーリーです。本編(第一部の一章)からみると六年前ということになります。
エッシェンドルフ教授に対する蝶子やヴィルからの視点は、本編で幾度も出てくるのですが、ハインリヒ自身がどう感じていたのか、なぜ歳がこれほど離れさらには外国人である蝶子と結婚したいとまで思うようになったのか、その辺は第二部も含めて本編では全く出てきません。
前回はハインリヒとヴィル、今回はハインリヒと蝶子に関するストーリーで、二つで一つの話だと思っています。他の外伝と較べて重い上、ヴィルや蝶子に対する印象が大きく変わる可能性もあります。もし、まだ本編をお読みになっていらっしゃらないで、こちらだけをお読みになる場合は、そのことをご承知おきください。
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 緋色の蝶
どこで見たのか、どうしても思い出せない。ハインリヒは首を傾げた。彼はそれまで一度も東洋人の弟子を取ったことがなかった。長い黒髪と切れ長の瞳を持つ日本人と似ている人間と会った事がないのには自信があった。彼はゲルマン民族優勢主義信奉者ではなかったが、かといって全人類が平等だと信じているわけでもなかった。ありていにいうと、アジア女に興味を持った事もなければ、極東から来た野蛮人がまともにフルートを吹けるはずもないとどこかで思っていた。だが、学年末の試験ではじめてその学生を目にし、その音色に耳を傾けた時に、その意識を改めた。それが四条蝶子だった。
彼女は東洋人だった。ヨーロッパの血など一滴も流れていないと断言できるほど、どこまでも東洋的だった。ハインリヒがかつて見た事のある東洋人と違っていたのは、彼女の全てのパーツが完膚なきまでに整っていたことだった。顎の線がきりっとした小さめの顔に、少しつり上がった目、高すぎずも低すぎずもせず長くも短くもない鼻、口紅の宣伝に使えるほど形のいい唇が配置されていた。ルネサンスの巨匠が半ばパラノイアぎみにこだわったごとく、ミリ単位ですら合致しているに違いない黄金比率。そして、ヨーロッパ人がどれほど望んでも手にする事ができない射干玉色の長く艶やかな髪が印象を強めていた。試験官としてその場にいたどの教官も一瞬息を飲んだ。それほど彼女の容姿は印象的だった。
服装は、あまり感心できなかった。彼女の素材の美しさを生かせない、実に平凡な、あからさまに言えば安物の中途半端な丈の赤いワンピースだった。靴も平凡きわまりなかったが、ハインリヒは少なくとも足の形も彼の好みに完全に合致している事を確認する事ができた。
その美しさが試験官たちの注意を奪っていたのは、彼女が最初の音を出すまでだった。その日の試験で、ハインリヒは何人もの学生にかなり辛辣な点を付けた。学生の質は年々下がっていると憤懣やるかたない思いで課題曲のメロディーすら間違えずに吹けない学生たちを睨みつけてきた。だから、極東の田舎者ですら入学できるのかと思っていたのだ。だが蝶子の音色は、他の学生とは一線を画していた。
後から思えば、それは大学に入学するための準備をしてきた受験生の色と、それよりもずっと先を行っている音色の違いだった。蝶子が一心不乱に課題曲を吹く様相を見て、ハインリヒは落ち着かなくなってきた。どこかで、見た。いや、聴いた。だが、思い出せないと。
それから構内で彼女をよくみかけるようになった。正確には蝶子は一年間ずっと従っていた時間割通りに、構内の同じ場所にいたのだが、ようやくハインリヒの目に留まるようになったのだ。
三日ほどして、自宅に帰ろうと構内を歩いていたハインリヒは、中庭を横切る蝶子を見かけてわざわざ踵を返し、同じ校舎へと入っていった。世界に名だたるエッシェンドルフ教授とすれ違った蝶子はもちろん頭を下げて挨拶をした。
「君は、この間の試験にいた学生だね」
普段は一年生になぞ簡単に声をかけない教授に話しかけられて、蝶子は頬を紅潮させた。
「はい。四条蝶子です。直接お話ができて光栄です」
発音は奇妙だが、丁寧なドイツ語だった。
「いい演奏だった。どこの出身だったかな」
「日本です」
「そうか。どの先生にみてもらっているのか」
「レーマー先生に、週に一度教えていただいています」
ハインリヒは少し眉をしかめた。助手か。あんな青二才に習ってどうする。
「それはもったいないな。私はマイヤー君の弟子なのかと」
蝶子は少し顔を曇らせた。
「著名な先生にみていただけるような紹介状もなくて……」
ハインリヒは改めて蝶子を見た。若く美しい。けれどその素材のすべてが台無しになっている。安物のオレンジ色のプルオーバー、緊張感のみられない立ち方、奇妙な発音のドイツ語。低俗な階級に属するのだろう。切れ長の双眸に宿る強い意志だけは、教えれば響いて返ってくる可能性を示していた。頭の中で素早くスケジュールをたどり、言った。
「今週の金曜日の三時に私の屋敷に来なさい。みてあげよう」
蝶子は耳を疑った。けれど、すぐに眼を輝かせて礼を言った。
蝶子は、時間の五分前にエッシェンドルフの館の呼び鈴を鳴らした。時間厳守がまずハインリヒを満足させた。もちろんそれは当然のことなのだが、日本人に時間が守れるかどうか定かではなかったのだ。その日の服装は、黒いプルオーバーにオレンジ色のスカーフをしていた。例によってあまり質のいいものではなく、髪が帯電していた。色の組み合わせから、彼はタテハチョウを思い出した。何万も固まって移動する個性のない蝶。多くは旅の途中に力つきて死んでしまう。それを誰も眼にとめないだろう。
レッスンの途中に、彼は再び奇妙な想いにとらわれた。よく知っている。姿ではない。だが音でもない。蝶子の音色には華やかで聴くものを惹き付ける魅力があった。フルートは中堅のそこそこの楽器を使っていた。服装ほどの安物ではないし、立ち居振る舞いのような低俗さはない。だが、教師はこの華やかさを引きだすために緻密さを犠牲にしたらしい。レーマーは一年も何を教えていたのか。
「左の小指と中指が少し弱いな。この練習曲を毎日、指慣らしに使いなさい」
それから短い時間で、彼女の現在取りかかっている曲を手直ししていった。蝶子ははじめのうちはただ素直に頷いていたが、教授が彼女の欠点を簡単に指摘し、短い時間でどんどん修正していくのを感じて眼が輝いてきた。
ずっと望んでいたことだった。エッシェンドルフ教授は裕福な名士であるだけではなく、卓越した演奏家であり、真に優秀な教師であった。彼の弟子になることは世界中のフルート学生の夢だった。たとえ、女性にとってはある種の危険が伴うことであっても。
氣がつくと軽く90分が過ぎていた。
「ここまでにしよう」
蝶子は心から礼を言った。
「それと、あの、レッスン代は、いくらお払いしたらいいのでしょうか」
ハインリヒはつまらなそうに手を振った。
「いい。単に興味があっただけだ。金を払ってもらおうとははじめから思っていない」
けれど、それは続けてみてもらえない宣言のようなものだった。彼は次はいつ来いとも、今後のプランも言わなかった。蝶子はひどく落胆した。
蝶子がフルートを仕舞う時に、けばけばしい赤い服の一部がハインリヒの眼に留まった。眉をひそめると厳かに口を開いた。
「フラウ・四条。君に言っておくことがある」
「はい」
「もっと背筋を伸ばしなさい。立ち方がよくない」
「フルートを吹く時にですか?」
「そうではない。常にだ。フルートを吹く時だけしゃんと立ち、舞台に立つ時だけ華やかな服を着てもダメなのだ。普段から二十四時間エレガントに動き、質と品のいいものを身につけてこそ、芸術にふさわしい音が出るのだ。おかしなドイツ語を話し、下層階級者のような立ち居振る舞いをし、その鞄の中にあるような下品なものを身につけていると、音楽どまりだ。芸術にはならない」
蝶子は一瞬怯み、それからふと目の奥に不思議な光を宿した。ああ、この目だ。ハインリヒは思った。どこかで見たと思ったのは。蝶子は視線を落とした。
「おっしゃる通りだと思います」
その姿がとても悲しげだったのでハインリヒは続けた。
「ところで、この後、よかったら食事をしていかないか」
蝶子は心底驚いたが、丁寧に断った。
「お申し出は本当にありがたいのですが、このあと、仕事なのです。この下品な服を着て……」
「何の仕事だ」
「ビヤホールで、給仕を」
ハインリヒは、ため息をついて首を振った。よりにもよって。
「低俗すぎる。ジョッキを運び、がなり立てる低能どもとつきあうってわけか」
「おっしゃることはよくわかります。でも、私にはどうしてもお金が必要なのです。奨学金だけではレッスン代は出ないんです」
ハインリヒは蝶子の顔をじっと見た。それから安物の服を。彼女はその視線を感じて自分の服に目を落とした。
「そう、安物です。でも、ここミュンヘンにいる間は、服のことよりも一時間でも多くレッスンを受けたいんです」
それを聞いて、思い出した。
「俺はあんたのように遊んで暮らせるような金のある家庭には生まれてこなかったんだ」
そして、ハインリヒは突如として悟った。どうしても思い出せなかった蝶子に似ている誰かとは、彼の一人息子、アーデルベルトだった。従順に彼の言っていることを守っているが、絶対に心を許さない野生動物のような目つきをしていた。アウグスブルグの貧しいアパートメントの一室で、山猿のように育ち、才能を腐らせかけていた幼い少年に対する憐憫と同じ感情がハインリヒを襲った。その瞬間、蝶子はただの少々フルートの巧いが品のない東洋の学生ではなくなっていた。
蝶子が再び礼を言って彼の屋敷を後にし、全く直っていない歩き方で門から出て行くのをサロンの窓から眺めていたハインリヒは、突然ドアに向かうと、運転手のトーマスを呼んだ。
ビアホールで、六リットル分のビールをテーブルに運び、既に出来上がった男たちに卑猥な冗談を浴びかけさせられながら、蝶子は教授の言葉のことを考えていた。胸をやけに強調させる民族衣装は本当に下品だった。その衣装は特に低俗な男たちをそのビアホールに呼び、一晩に何度も必要のないところを触られたりする腹の立つ職場だった。蝶子の美貌はすでにここでは有名になっていて、彼女目当てでやってくる男たちもいた。特にしつこい男たちもいて、今夜はそのうちの一人、ベロベロに酔っては愛人にならないかと持ちかけてくるロレックスが自慢の成金男がずっと座っていた。
蝶子はいつもは相手にもしないのだが、今日は別だった。普段から二十四時間エレガントに動き、質と品のいいものを身につけてこそ、芸術にふさわしい音が出るのだ。教授が最高級のツイードを着て、堂々とした態度で口にした言葉が蝶子を打ちのめしていた。みっともないドイツ語。下品な立ち居振る舞い。自分一人の努力では絶対に変えられないことばかりだ。
これまで、誰にも助けてもらえなかった。レッスン代を稼ぐのが精一杯で、どんなに好きでも質と品のいいものを手にする機会などなかった。フルート以外の文化や芸術や上流社会に関わる時間もなかった。それはこれからもずっと変わらないだろう。自力でそこに到達することなんて、永久にない。このロレックス男がせめて生活費とレッスン代をなんとかしてくれるなら……。
「なんだ。今日は逃げないのか。ようやく、わかったのか。ここに座って、相手をしろよ……」
完全に酔っぱらったロレックス男は生理的な嫌悪感を示す蝶子に構わず抱きついた。
「悪いようにはしないからさ。なっ」
そう言って人前だというのに、スカートの中に手を入れようとしてきた。
「ちょっと、やめてください」
「ふん。そのつもりなんだろ」
周りの男たちがひやかして口笛を吹き出した、蝶子は悔しさと情けなさで真っ赤になって抵抗をしていた。その時に、男と蝶子の顔の間に棒があらわれた。突然のことに周りの男たちが静まり返り、蝶子が棒の先をみると、ステッキを持って立っているのはハインリヒだった。誰もがあっけにとられている間に、教授は毅然とした態度で蝶子に命じた。
「来なさい」
ロレックス男は反応するには酔いすぎていたし、この場末のビアホールにはあまりにも場違いな威厳ある態度だったので、誰も何も言わなかった。蝶子の雇い主である店主ですら、扉を出る時の教授のひと睨みにすくんでしまったかのように何も言わなかった。蝶子は、店を出て、どんどん歩く教授の後を追いながら、何を言うべきか言葉を探していた。
「あの……」
まず礼を言わなくてはいけないことはわかっているのだが、なぜ教授がこんなところにいたのか、どうして助けてくれたのか、そちらに想いが行きひどく混乱していた。その間に二人は表通りに出た。黒いベントレーが停まっていた。教授の姿を見た運転手はすぐに出てきてドアを開けた。
「乗りなさい」
ハインリヒの言葉に蝶子は素直に従った。
「待ちなさい。そんなふうに頭から乗り込むな。やり直しなさい。まず座席に腰掛けて、それから足を入れるんだ」
蝶子は黙ってその通りにした。隣に堂々と教授が乗るとトーマスは扉を恭しく閉めて運転席にまわり屋敷に向かって車を走らせた。
蝶子は黙って項垂れていた。教授は容赦なく言った。
「君は、私の忠告を何も理解できないほど愚かなのか」
「もうしわけありません。危ないところを助けていただき、本当にありがとうございました」
「あれが仕事か」
蝶子はすっかり打ちのめされ、唇を噛んでいた。
「あの仕事をする必要はもうない。レーマー君には、私から連絡をする。もう君をみる必要はないと」
「先生……。退学になるのでしょうか」
蝶子は青くなってハインリヒの方を見た。
「そうではない。君のレッスンは私がみる。レッスン代は必要ない。私はそれで生計を立てているわけではないから」
「でも、どうして……」
ハインリヒは、ずっと前を向いていたが、ゆっくりと蝶子の方に向き直った。
「君は助けを必要としている。そうだろう。フルートを極めたいともがいている。だが、自力ではどうすることもできない」
彼女の顔が驚きと安堵で弛んだ。だが、目の奥に例の反抗的な光がわずかに残っていた。アーデルベルト。お前にも、もっとはっきりと伝えるべきだった。ゆっくりと蝶子の頬に手をあて、それからゆっくりと彼の方に引き寄せて胸に彼女を抱いた。
「君を本物の芸術家にしてやろう。安心して自分を磨くことだけを考えられる環境を用意してやろう」
優しく父親のようだった。先ほどの酒臭いロレックス男の虫酸が走る抱擁とは、全く違っていた。騒がしく猥雑な飲食街を離れて、フクロウの鳴き声と風の音しかしない彼の館へと車は向かっていた。
ハインリヒは、他の女たちと違い、蝶子を簡単にベッドには連れて行かなかった。実際に二人が本当に恋愛関係と言える仲になったのは、周りの誰もが新しい愛人だと納得してしまってから半年も経ってからだった。ハインリヒは蝶子の躯を堪能できればそれでよかったわけではなかった。彼は蝶子の信頼を得たかった。
一度も媚びず、ハインリヒのぬくもりを求めてこなかったアーデルベルトは、音楽を通してだけ心の悲鳴を訴えかけていた。そのフルートの音色が、ベーゼンドルファーの鍵盤から紡ぎだす響きが、ずっとハインリヒを捕らえ続けていた。だが、ハインリヒは息子に愛を伝える術を知らなかった。厳しく威厳を持って接する以外のアプローチを考えつかなかったのだ。それでも彼は息子に愛情を伝えようと骨を折った。だがそれが通じることはなかった。アーデルベルトは彼の手を拒否し、フルートをやめ、館に来る事もなくなり、姿を見る事もなくなってしまった。
だが、彼は蝶子を捕らえる事ができた。血のつながっていない女に対しては、息子に対しては決してできない方法を使うことができた。彼女の理性を奪い、彼の虜にする方法も知っていた。彼の両腕と、身体の重みと、秘められた感じやすい部分を使って、その情熱を伝える事ができた。そして、それに対する蝶子の冷たくて熱い反応がハインリヒに新たな焔を呼び起こした。
アーデルベルトが去ってからずっと空いていた彼の心に、ようやくぴったりと嵌まるピースが見つかった。同じ音色、魂の叫びを持つ存在をハインリヒは見つけた。決して媚びず、策略をしかけようとせず、強い反抗の光を目に宿し、ただ音楽のためにここにいる女だった。その女はハインリヒの首に両腕を絡ませてくる。彼の口づけに、熱く応えてくる。私の女だ。ハインリヒは思った。ようやく見つけた、完全に私だけのものになるべき女だ。ハインリヒは蝶子を絶対に逃すまいと思った。網で捕らえ、羽を広げて、ピンで突き刺して。
(初出:2013年7月 書き下ろし)
【小説】大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 菩提樹の咲く頃
リクエストをくださったのは私のもっとも古いブログのお友だちの一人のあずまなかいじさんで、こんなリクエストでした。
個人的には、“ヴィルパパサイド”をもっと掘り下げたスピンオフとかも読んでみたかったりw
己の大儀は、誰かにとっての悪。己にとっての悪は、誰かの大儀。
『敵役の正義』も明確にできると、物語に更に奥行きもでてきたりもします。
お気が向きましたらば、ご一考下さいませ。
ヴィルパパとは、「大道芸人たち」を読んでくださった方ならご存知のカイザー髭ことエッシェンドルフ教授です。このリクをいただいた時に、「うわ、やられた」と、思いました。第一部では、ただの悪役なのですが、第二部でArtistas callejerosが変わっていくのにあたって大きな役割を果たしていまして、いつかは掘り下げなくちゃいかんと思っていた矢先のことでございました。
今回のストーリー、本編でいうとチャプター5のはじまる三ヶ月前を基点に、教授は想いを過去に向けています。
普段は、外伝はお遊び的要素が強く独立していますが、この作品と次に発表するもう一本の外伝は、半分本編のようなもので、さらにいうと重いです。小説を読むのに順番を指定したりするのは、作者のエゴだと思いますし、本編を読んでいない方に外伝だけでも読んでいただくのもとてもありがたいことなのですが、こちらから読むと本編を読む印象が大きく変わると思います。それだけご承知おきくださいませ。
10:50 追記。
「大道芸人たち Artistas callejeros」本編のチャプター5をお読みになっていらっしゃらない方へ。ネタバレがあります。ここでネタバレされたくない方は、先に本編をどうぞ。
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 菩提樹の咲く頃
白く煌めく光が、菩提樹の花の間を通る。風が柔らかく薄い黄色の花をそよがせる。六月の陽射しは強いというよりは鋭い。ハインリヒの、もう若いとは言えない肌を刺すようだ。彼はしばし見上げて眼を細めた。彼が乗り込むのを待つ間、トーマスは開いた車のドアの前で微動だにせずに立っていた。
ハインリヒはこの樹はかつては建物の高さと変わらなかったのにと思った。そう、彼がこの館の主となってさほど時間が経っていなかった頃。彼の勝利の始まりだった、あの頃。
ハインリヒ・ラインハルト・フォン・エッシェンドルフは、広大な領地と由緒ある城館を所有し、長い伝統を誇る男爵家の長男として生まれた。颯爽とした身のこなし、先祖伝来のゲルマン的な整った風貌に加えて、優秀な頭脳にも恵まれていた。低俗な子供たちと交わる事もなくミュンヘンの城館で家庭教師によって教育を受けた。若くして母親を亡くしたが、彼を十分に甘やかす召使いたちに囲まれ足りないものはなかった。
ハインリヒは、最年少で大学教授となった。父親のエッシェンドルフ男爵は、ハインリヒがフルートを専門とする事にいい顔をしなかった。上流階級のたしなみとして若干のクラッシック音楽の趣味を持つのも悪くないと勧めたのは彼自身であったが、エッシェンドルフの子息が舞台の上で演奏するなど、到底許されない事のように思ったのだ。だが、ハインリヒは父親を説得するために教鞭を取る身となった。大学教授となれば、芸人まがいのフルート吹きとは違う。ようやく父に認められたハインリヒは満足だった。
その少し前に、ハインリヒはもう一つ、父親に反抗した。遠縁にあたるマリエンタール家のエルザとの結婚を決めたのは父だった。ハインリヒはまだ結婚したくなかった。さらに高慢で世間知らずな妻に我慢がならなかった。ハインリヒが演奏旅行でベルリンに行く時にエルザはパリへと買い物に行った。ハインリヒに三日遅れてエルザがミュンヘンに戻ってきた時に、彼女の家財はすべて実家に送られていてハインリヒはエルザに会うのを拒んだ。プライドの高い彼女が実家から冷たい手紙とともに指輪を送ってきたので、ハインリヒは離婚届を送り返した。父の男爵は経過すら知らされておらず、間に入ろうとした時にはすべて手遅れだった。
時を置かずして父の男爵がこの世を去ると、ハインリヒは男爵位を相続し、名実共にエッシェンドルフの主人となった。若く、裕福で、名声もある青年は、はじめて自分のしたいことを思うがままに出来るようになったのだ。そうだ、あの時もこうやって、この菩提樹の樹を見上げたのだったな。ハインリヒはつぶやいた。
「総合病院でございますね」
運転手のトーマスが確認した。
「そうだ。予約は二時だ。シュタウディンガー博士も向こうに行っているはずだ」
「アーデルベルト様がよくなられて本当にようございました。さぞご安心なさった事でございましょう」
「そうだな、この春まではまだ予断を許さない状態だったからな」
総合病院には、四月の半ばまでアーデルベルトが入院していた。二月にニースで一人息子はチンピラに刺され、肺に達する大けがをした。一年以上も消息不明になっていたかと思えば、大道芸人をして暮らしていたという嘆かわしいニュースとともに、フランスの警察からの連絡があった。父親として出来るかぎりの事をしてやったつもりだが、彼は反抗ばかりする。こうなってはじめて自分の事を父親がどう思っていたかを、ハインリヒはわずかに悟った。
アーデルベルトは、笑わない子供だった。
エルザとの不幸な結婚に懲りたハインリヒは、当分結婚するつもりはなく、次々と寄ってくる女たちとの情事を純粋に楽しんだ。裕福で名声と前途のある自分を絡めとろうとする女郎蜘蛛のような女たちがどんなゲームをしかけてこようとも、彼は常に心の中でせせら笑っていた。大学で教えていたマルガレーテ・シュトルツもその手の女の一人だった。美しかったが鼻っ柱が強く、プライドの高さはエルザに似通うものがあった。ハインリヒがマルガレーテと同衾している時、どこかエルザを手篭めにして辱めている感覚があった。普段はどれほど高慢な女でも、組み敷かれている時は彼の支配下にある。彼はマルガレーテを、つまりエルザを支配して罰した。そうすればするほど、我が強く、反抗心を持った女はハインリヒに心酔していった。ハインリヒは図らずも女の支配のしかたをこの女から学んだ事になる。
マルガレーテはハインリヒにのめり込み、自分が唯一無二の女だと思い込むようになった。そして、ある日得々として報告してきたのだ。
「赤ちゃんが……あなたと私の愛の結晶が、ここに宿っているの」
彼は激しい嫌悪感を持ってその報告に臨んだ。狂ったように、他の女と情事を重ね、マルガレーテの存在を無視しようとした。連絡を絶ち、子供が生まれたので逢ってほしいという願いすら退けた。「私の子供だと言う証拠はない」と告げた言葉がいけなかった。マルガレーテが裁判所を通じて正式なDNA鑑定を申請したあとで、彼は認めざるを得なかった。ヴィルフリード・シュトルツとして役所へ届けられた子供はたしかにエッシェンドルフの血をひいていた。そうなったからには、彼は名前を与えてやらなくてはならなかった。子供の名前はアーデルベルト・ヴィルフリードと届け直された。それでも、ハインリヒは当分マルガレーテと子供に逢うつもりはなかった。
その意志を数年後に曲げる事になった。息子に音楽の才能がある、このまま埋もれさせるのは惜しいと言う連絡に興味をおぼえたのだ。マルガレーテの策略だと思いつつも、万が一本当に才能があるならば、早くきちんとした教師につけなければ取り返しのつかない事になる、そう思ったのだ。マルガレーテの癖のあるフルートの音色がつけば、息子のキャリアには致命的になるだろう。また、自分ももっと早くにいい教師につけていれば回り道をせずにすんだと思っていたこともある。父親が音楽に理解がなかった事をハインリヒは不快に思っていた。
アウグスブルグの集合住宅に足を踏み入れたとき、ハインリヒは思わず眉をしかめた。灰色のコンクリートが打ちっぱなしの建物は趣がなかった。外には工場の騒音がどこからともなく満ちて、落ち着かなかった。アパートメントの暗く天井の低い部屋も時計の針の鬱屈した音を増幅した。
久しぶりに見たマルガレーテは、疲れた顔をしていた。目の下に隈があり、学生の時よりも安っぽい体に合わない服を着ていた。憐憫を感じる事はなく、ただ不愉快でたまらなかった。
だがわずかに射し込んだ陽は、部屋の隅にいた少年の髪にあたって柔らかい金の光がダンスを踊っているように錯覚させた。小さな手には不釣り合いなフルートもまた輝いていた。母親のピアノの伴奏に合わせてそのフルートから澄んだ音が響いてきたとき、ハインリヒは幼かった自分の子供時代に戻っていた。フルートの音色に惹かれていった、あの遠い日々に。
あれほど意固地になって無視しようと思っていた少年に対して奇妙な関心が芽生えた。マルガレーテの、何度言っても直らなかったおかしなビブラートを微かに感じていても立ってもいられなかった。これは一刻も早くきちんとした指導をしなくてはならない。
週に一度、トーマスの迎えで館にレッスンに来る息子は、ドイツで期待できる最高の教育環境のもとあっという間にその才能を花ひらかせていった。
アーデルベルトは決して媚びなかった。何かを欲しがる事も、父親の歓心を得るために姑息な行動をとる事もなかった。ほとんど口を利かず、表情を変える事もなかった。笑わなかった。そして泣かなかった。だが、すべての想いは、フルートの調べに、ピアノの響きに乗って天上へと昇華していった。貧しいアパートであれ、エッシェンドルフの館であれ、それはまるで変わらなかった。
多くを語らず、喜怒哀楽も示さず、何も要求しない従順な少年は、全く別の形で雄弁だった。館のサロンに置かれたベーゼンドルファーのピアノに触れる時に、いつもわずかに息を飲む。それは恋いこがれた女に何週間ぶりにようやく逢って触れる事を許された青年のようだった。一週間、あの灰色のコンクリートの集合住宅に置かれた安物のピアノでひたすら練習してきた課題を、暗唱してきた恋文を披露するかのように溢れさす。その音色の違いに彼の瞳は輝き、頬は紅潮する。
ハインリヒの目はそんなアーデルベルトに釘付けになった。子供なぞ関心を持った事もない。やっかいな未熟な存在として、避けてきたはずだった。だが、息子の小さな掌から溢れてくるメロディーは、それが大して難しいものでないにしても、ただの練習曲ではなくて、彼の目指す音楽そのものだった。ことさら厳しい顔をして技術の事をいかめしく口にするが、そうしなければ心の中に湧いてくる予想のつかない感情を制御できないように感じたからだった。
フルートを吹きながら傾げている頭に、窓から射し込む陽の光が反射している。実に美しい光景だった。はじめて見た時から感じたその美しさは、共に過ごす時間が増える度に、何とも言えぬ喜びと誇りとなってハインリヒの中に育った。アーデルベルトはもはやマルガレーテが無理にこの世に送り出したやっかいな存在ではなくなっていた。これが私の息子だ。エッシェンドルフの正当な跡継ぎだ。誰よりも優れた血筋だ。
時間が経つにつれて、アーデルベルトの背は伸び、小さかった手も次第に大きくなっていった。しなやかな肢体に、生命力が宿りだす。骨が、筋肉が、丸まるとして柔らかかった肌よりも目立ちだした。声が変わり、少年から男になっていく体の変化に戸惑い、秘め事に悩んでいるのを感じる事が出来た。それほど彼の音色は雄弁だった。
その当時、ハインリヒが定期的に逢っていたリディア・ハースという女が、アーデルベルトを厄介払いしようとした事があった。彼女はエッシェンドルフ男爵夫人になるためにありとあらゆる布石を置きながら、ハインリヒには賢明にもその目的を巧妙に隠していた。だが、週に一度現われてはフルートとピアノのレッスンを受ける少年がハインリヒの子供であるという噂を聞きつけると、行動にでたのだった。
「話があるんだ」
ある時、レッスンが終わってからアーデルベルトがハインリヒを引き止めた。
「何だね」
「来月から、少しレッスンのペースを落としてほしい」
「何故だ」
「ギムナジウムの受験の準備を始めたい」
ハインリヒは眉をしかめた。
「ギムナジウム?」
「そろそろ将来の事を考えなくてはならない」
「コンセルヴァトワールから大学へ行けばいいだろう」
「音楽を職業にする事は考えていない」
「なんだと。何故だ」
アーデルベルトは小さく肩をすくめた。
「うちにはそんな金はない。あんたの氣まぐれが終了して、自分でレッスン代を捻出することになったら、破産だ」
「氣まぐれだと?」
ハインリヒは半ばショックを受けた。息子が「うちには金がない」と言った事も予想外だった。
「俺はあんたのように遊んで暮らせるような金のある家庭には生まれてこなかったんだ。現実的な選択をするしかないだろう」
ハインリヒは耳を疑った。
「何を言っているんだ。私の持っているものは、やがてすべてお前のものになるんだ。お前は私の息子なんだぞ。忘れたのか」
アーデルベルトは肩をすくめた。
「遺伝子はそうかもしれないが、社会的には俺とあんたは他人だろう」
ハインリヒはようやく思い出した。彼は社会的には「アーデルベルト・W・シュトルツ」だった。ハインリヒには嫡子はいなかった。心の中ではとうに彼こそがエッシェンドルフを継ぐ唯一無二の存在になっていたというのに。アーデルベルトの冷たく関心の無い物言いが心に引っかかった。そんなことが、彼の心を茨のように突き刺すとは考えてもみなかった。ハインリヒははじめて氣がついた。彼は息子を愛していたのだ。
「あんたがあの女と結婚して、ちゃんとした子供をもうけたら、そいつを大学に入れればいい」
その言葉を聞いて、ハインリヒはすぐに理解した。勝手な事を息子に言ったリディア・ハースとすぐに別れると同時に、弁護士を通してアーデルベルトをエッシェンドルフの嫡子とする手続きを開始した。我が子がフォン・エッシェンドルフ姓を名乗る事になった事を、母親のマルガレーテが大喜びしたのは間違いない。ハインリヒはすぐにも息子を引き取りたがったが、母親から子供を取り上げると法的に厄介な事になるので、しばらくお待ちなさいと弁護士に諭されてあきらめた。
ハインリヒは、しばらく満ち足りた時間を過ごした。アーデルベルトは従順に音楽を続けた。名実共に自分の息子になったことが、彼を幸福にした。大学在学中にコンクールで優勝し、彼の前途は約束されたようなものだった。
同じ頃、彼は母親と住んでいたアパートメントを出て若者と共同生活をはじめた。ハインリヒが辛抱強く待っていたのはそれだった。独立した息子なら母親には法的な便宜を一切図らずに済む。マルガレーテの存在を無視したまま、アーデルベルトを跡継ぎとしてミュンヘンの屋敷に引き取れるのだ。彼は、息子に引っ越しを命じた。
だが、アーデルベルトはそれを断ったばかりか、突然フルートをやめると言い出した。用意したデビュー演奏会をキャンセルすることになった。遅い反抗期かとさほど心配もしていなかったが、本当にきっぱりとフルートをやめてしまった。それから……。
車は総合病院についた。トーマスがドアを開けると、どこからともなく菩提樹の香りが漂ってきた。車から降りて見上げると病棟の前に大きな樹がたくさんの花をそよがせていた。
ハインリヒの心と言ってもいいフルートを置き去って、出て行ってしまったアーデルベルト。愛しい女を失い、これからは息子と二人で生きていこうと思っていたのに失踪してしまった我が子。死にかけたと聞いて、心もつぶれるかと思うほど心配して迎えにいった二月の朝。それから、息子の指に光る指輪をみつけたこと。その指輪が、愛する女の指にあったのと同じデザインだと氣づいてしまった事。
そのすべてが、彼の心臓を締め付けた。それは、今、息子が途切れがちに、激痛をこらえながら吹こうとしているフルートの悲痛な音色に似ていた。だが不思議だった。どれほど反抗し、どんな形で裏切ろうとも、ハインリヒはアーデルベルトをそのまま受け入れていた。彼は息子を愛していた。自分でも信じられないほどに深く、無条件に。
愛する事は痛かった。彼の持っている、持ちすぎているともいえる全てを差し出しても決して得る事のできない想いに絡めとられる事は苦しかった。だが、なかった事にはできなかった。
彼はしっかりと前を見据えると、今後の治療方針について医師達と話し合うために病院へと入っていった。
(初出:2013年7月 書き下ろし)
【小説】大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 ミントアイスの季節
実は、以前からリクをいただいているカイザー髭ことエッシェンドルフ教授の外伝も並行して進めていたのですが、そっちのほうが長くなって二つの掌編になってしまい、まだ一つ目しか終わっていないので、先にこちらをアップすることにしました。
劇中劇の設定で日本のアニメを原作にした演目の話が出てきます。深い意味はありません。ちょっとドイツだったので遊んでみたくなっただけでございます。お若いサキさんはピンと来ないかも、でも、相方の先さんならどのアニメかわかる事でしょう、って思っていましたが、リメイクされるんでまた話題になっていましたね。そうです、あのアニメです。
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 ミントアイスの季節
翼を広げた黒い双頭鷲の紋章と二つのミントグリーンをしたタマネギ型の塔を備えるアウグスブルグ市庁舎を眺めながら、ヤスミン・レーマンはカフェのテラスで銀色の椅子にどっかりと腰掛け、コーンに盛られたアイスにとりかかった。チョコチップ入りのミントアイスは、彼女の一番のお氣に入りで、この場所は夏の特別席だった。
仕事が終わり、劇団に行くまでの三十分ほどの自由時間をどのように堪能するか彼女はよく知っていた。今日は一日忙しかった。フッガーハウスにほど近い美容室の店長はヤスミンを重宝していた。彼女は男性の髪も女性の髪もどちらも上手にカットする事ができる上、勉強熱心で最新流行の髪型を器用に取り入れる事が出来た。加えて快活で人当たりがいいので予約が絶えなかった。しかし、それはつまり、仕事中にほとんど休憩する時間がないという事で、立ちっぱなしの一日の終わりには足が棒のようになっていた。
『カーター・マレーシュ』は、若者たちの間ではそろそろ名の知られてきた小劇団で、五年ほど前から関わっているヤスミンは、時間の許すかぎり半ばボランティアのような形で協力をしていた。といっても、彼女は女優ではない。メイクアップ・アーティストとして、それから広報としてバイエルン各都市の企業や裕福な個人に寄付金を依頼しに飛び回っていた。フルタイムで働いた日に劇団に行くことは珍しいが、今日は特別だ。間もなくはじまる新しい演目のメイク・テストなのだった。
「大口を開けて。百年の恋も醒めるぞ」
その声に横を見ると、ヴィルが立っていた。ヴィルフリード・シュトルツは『カーター・マレーシュ』の役者だ。そして、今日のメイク合わせで特殊メイクをしなくてはならない三人のうちの一人だった。
「あら、早いのね。せっかくだから一緒に行かない? ちょっと待っていてよ」
ヤスミンが言うと、ヴィルは頷いて前の席に座った。ウェイトレスがすかさず注文を取りにきたので、彼はコーヒーを頼んだ。
「ホット・コーヒー? こんな日に」
ヤスミンが訊くとヴィルは大して表情を変えずにコーヒーを飲んだ。
「ひどい色だな」
彼の青い瞳がヤスミンの食べているアイスを見ていた。彼女はくすくす笑った。
「これ、あなたの肌の色よね」
「俺のじゃなくて、俺のメイクの、だろう」
表情は変わらなくてもその迷惑そうな声音から、ヴィルがこの演目を馬鹿馬鹿しいと思っている事がわかる。実をいうとヤスミンもそう思っていた。
「ねえ。あなたのやる『総統』役って、ヒトラーのパロディでしょ? でもミント色の顔の宇宙人。ちょっと突拍子もない設定よね」
ヤスミンは以前からの疑問を口にした。
「団長の趣味だよ。昔の日本のアニメを原作としているんだとさ。放射能を除去するための機械をとりに行くのを異星人が邪魔するって話さ。原作では顔は青いらしい」
「でも、行く先はエジプトのアレクサンドリアなの?」
ヤスミンは混乱して首を傾げた。
ヴィルは少しだけ口元を歪めた。
「イスカンダルっていってもエジプトじゃない。日本人には馴染みがなくてよその星の名前みたいに響いたんだろう」
ふ~ん。よその星ねぇ。
どんな役をもらっても、ヴィルは黙々とそれをこなす。彼にしてみたらこの間の極悪ナチスの将校みたいな役より、少々コミカルなこの悪役の方がいいのかもしれない。それに、ミントグリーンにしちゃえば、誰だわからなくなるし。ヤスミンは考えた。
周りには隠しているが、ヴィルが本当は大金持ちの子息だという事を、ヤスミンは知っていた。つい先日、寄付を頼みにいったミュンヘンのエッシェンドルフ教授が、チラシに載ったヴィルの名前に反応したので本人に訊いたら、あれは父親だと告白したのだ。けれど、ヴィルは父親と縁を切ったとも言った。違う苗字を名乗り、ナイトクラブでピアノを弾いて生計を立てていた。
劇団からも多少の出演料はでる。でも、それで食べていける人間なんか一人もいない。団長だってそうだ。『カーター・マレーシュ』は定期公演もするし、プロ志向の強い俳優たちが集まっているけれど、世の中はそんなに甘くない。好きな事だけして暮らしていける自由があったらいいのに。ヤスミンはふと、エッシェンドルフ教授の館で見かけた女性の事を思い出した。
教授とはかなり歳が離れて見えるアジア人だった。ものすごくきれいで、上質の朱色のワンピースを身に着けていた。平日だっていうのに、優雅にも美容院に行くって言っていたっけ。
世の中はかなり不公平に出来ている。でも、ヤスミンはそのことで愚痴をこぼしたいとは思わなかった。少なくとも失業しているわけじゃないし。こうして大好物のミントアイスを市庁舎前広場で食べられるんだし。
「そろそろ行くぞ」
ヴィルがテーブルに代金を置いて立ち上がった。真っ青に晴れ渡った空が目に眩しい。二人は石畳を快活に歩いていく。
アウグスブルグは二千年以上の歴史を持つ古い都市である。シュヴァーベンの中心地であり、古くから商業都市として栄え、モーツァルトゆかりの文化都市でもある。緑豊かで美しく、自然と便利な都市生活が共存するヤスミンの自慢の故郷だった。今も残るいくつかの大きな城門に囲まれた旧市街は美しく保存されていて、張り巡らされた数多くの運河網にかかる500もの橋とともに歩く者の眼を楽しませる。
ヤスミンとヴィルはアウグストスの噴水の脇を通って市立劇場も通り過ぎ、劇団の借りている19世紀の工場跡の建物に入っていった。建物の保存状態はあまりよくなくて、他の旧市街の美しい建物と較べると若干殺風景だが、広い多少荒れた敷地のおかげで周りから騒音の苦情も来ず、何よりも賃料が安かった。そして、舞台と同様に走り回れるような広い空間がある建物なので舞台稽古にも適していた。
だが、今日は広い稽古場は必要ではなかった。団長と、ヴィル、それからベルンの三人に宇宙人メイクを施すテストと打ち合わせで集まるのだから。ベルンはまだ来ていなかったが、団長は彼が「司令室」と呼んで悦に入っている小部屋でビールを飲みながら台本を読んでいた。
「お、来たか。じゃ、さっそくはじめようか」
最初に緑色にされるのはヴィルだった。団長はヤスミンが塗っていくドウランの色合いについて意見を言っていく。
「うん、そうだな。そんなに弱いと、ただの青ざめたヤツみたいになるから、少し緑を鮮やかにするか」
「でも、肌だけが浮くと違和感あるでしょ?」
「宇宙人だからなあ」
宇宙人だってなんだって、こっちの美意識がねぇ。結局、ヤスミンが提案して、銀色のつけまつげと眉や口紅にメタリックな銀を採用する事でバランスを取った。
「こんなブキミなメイクが、似合うな、ヴィル」
感心する団長にヴィルはさも不満そうに鼻を鳴らした。ヤスミンは団長にも同じようにメイクし、その間にやってきたベルンにもやはりミントグリーンの化粧をすませた。夕闇が射し込む古い工場跡に三人ならんだ緑の顔の男たちは異様だった。ヤスミンはくすくすと笑った。
「こんな変な人たちが私たちの国を戦争に導こうとしたら、誰もついてこなかったでしょうね。ね、総統」
ヤスミンが言うとヴィルは憮然としたまま答えた。
「文句は団長に言ってくれ。せめて次はもう少しまともな演目にして欲しい」
けれど、次の演目にヴィルが出演する事はなかった。そもそも総統役のメイクを本番で披露する事もなかったのだ。父親の差し金で劇団から解雇されたヴィルはしばらくミュンヘンにいたが、その後失踪してしまったらしい。エッシェンドルフ教授に匿っているのではないかとしつこく疑われたが、団長をはじめ誰もヴィルの消息を知らなかった。
仕事を終えて、市庁舎前広場にさしかかると、ヤスミンは複雑な想いを持つ。カフェに座り、さほど暑くもないのにミントアイスを注文する。
「大口を開けて」
ヴィルが非難する声が耳に響く。でも、彼はそこにはいない。いったいどこに行っちゃったのかなあ。もし、私があのときカイザー髭教授のところに寄付金を頼みにいったりしなかったら、ヴィルはまだこのアウグスブルグにいたのかしら。
ヤスミンは、チョコレートチップをつんつんとつつきながら、彼がどこかでコーヒーを楽しんでいる事を願う。眼のまえのタマネギ型の二つの塔の屋根を見上げて、アイスクリームにかぶりつく。いつかまた逢えるといいな。出来ればこのアウグスブルグで。夏はそろそろ終わりそうだった。
(初出:2013年7月 書き下ろし)
【小説】大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 薔薇の香る庭 — featuring「誓約の地」
今回お借りして登場していただいたのは、ヒロインの優奈さまです。最初の回でお借りした杏子姐さんもそうでしたが、このヒロインも才色兼備。しかも、なんというのか菩薩のようにすべての人に優しく、誰にでも愛されるちょっと特別なお方です。屈折した癖のある人間ばかり書いてきた私には、かなりの難題でした。で、お相手を務めるのは麗しい女性と一緒に出てくると言ったらこの人でしょう、我等がブラン・ベックことレネ。もちろんお約束通りぽーっとなりますので。
前回までの話とは独立していますが、一応シリーズへのリンクをここに載せておきます。
『大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 熟れた時の果実 — featuring「誓約の地」』
『大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 Vivo per lei — featuring「誓約の地」』
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 薔薇の香る庭
— featuring「誓約の地」
ほの暗い店内に天窓から一筋の光が射していた。その光はマーブル模様を描き出す水盤と、それをじっと見つめる女性の横顔をくっきりと映し出していた。レネは子供の頃に近所の教会で見た聖母マリアの彫像を思い出した。
その工房はピッティ宮の前にあった。ドゥオモで仲間と別れ、ゆっくりと歩いてきた。ヴェッキオ橋を渡るときに、アルノ川の水音に耳を澄ませた。けれど川も午睡の時間なのか覇氣なく流れ、強い陽射しに対する涼ももたらさなかった。レネはふうと息を吐くと、色鮮やかな店に入って行った。
16世紀にイタリアに伝わった手漉きマーブル紙は、偶然の芸術だ。水溶液の上に顔料を流し、動きのある水が創り出す文様を手漉き紙に写し取る。その文様は二度と同じ形にはならない。ここにはその伝統を引き継ぐ工房を兼ねた有名な店があると聞いていたので、レネは一度訪れたいと思っていた。そして、扉を開けた途端に一幅の絵のような光景に出くわしたのだ。
ストレートの長い髪に日光が当たって、茶色く艶やかな光が踊っていた。目の前で繰り広げられる水の上の魔法に魅せられて、瞳が輝いていた。薄桃色の袖のないブラウスが柔らかいドレープを描いてふわふわとその壊れそうな体を守っている。それがレネの第一印象だった。レネはその女性と、彼女に纏わる空氣と天窓からの光、そして水盤を踊るマーブル模様すべてを一幅の絵のようだと思った。
「なんて……きれいな……」
職人はまさに紙にマーブル模様を移そうとしている瞬間だったので、客であるレネの存在を完全に無視したが、その華奢な女性はすっとレネの方を向くとそっと微笑んで、また水と色の創り出す芸術の偉大なる瞬間に瞳を戻した。
薄桃色、すみれ色、橙色、そして空色の大胆な大理石文様が大きな紙に現われた。
「ああ、本当にこんな風に色が写るんですね!」
女性の口から漏れたのは何とも流暢なイタリア語だった。レネは少し驚いた。その女性はアジア人に見えたからだ。もちろん英語以外のヨーロッパの言葉を流暢に話せるアジア人をレネは何人も知っている。一緒に旅をしている蝶子はもちろん東京で会った真耶や拓人も自由にドイツ語を話していた。とはいえ彼らはわずかな例外で、出会った頃の稔のように特徴のある発音の英語しか話さない日本人や、何年フランスにいても片言の奇妙なフランス語しか話さないタイ人などの方が多かったので、まさかここでこんなにきれいなイタリア語を耳にするとは思わなかったのだ。
女性は実演に丁重に礼を言うと、陳列されている棚から、やはり薄桃色が美しい小さなダイアリーを購入した。
「ありがとうございます。楽しいご旅行を」
満面の笑みで言った後、店の男はレネを向いて言った。
「で、あんたは何がお望みなのかい。マーブル模様の実演かい、それとも欲しいものがあるのか」
レネは、女性の姿にぽうっとなっていたので、一瞬、男の言葉が頭に入らなかった。レネも長い大道芸人生活で、イタリア語の日常会話は困らなくなっていたのだが、氣が動転したために言葉につまり、意味のないフランス語を二言三言つぶやいてから、やっと脳をイタリア語に切り替えた。
「何かお望みがありますか、実演をご覧になりたいのか、それともお買い物ですかっておっしゃっていますけれど」
レネが答える前に、女性がニッコリと笑ってやはり流暢なフランス語で言った。店員とレネは唖然とした。
「フランス語も出来るんですか?」
女性は微笑んで、通訳業に従事しているんです、と短く答えた。相手の言っている事がわかっているにも拘らず、この女性と話をしたい一心でレネは買い物で必要な会話をフランス語で通した。
「確かワインの記録をつける手帳を売っていたと思うんですが、まだあるでしょうか」
店員は、棚から数冊のワイン帳を持ってきた。
「どの色がいいと思いますか?」
「どれも素敵な色ですけれど……」
そういって女性は少し首を傾げ、それぞれの手帳を手に取っていたが、やがてニッコリと笑うと一冊の手帳を示した。
「この本当の石みたいな文様は、滅多になくて素敵ですし、使い込むほどに味が出てくるように思いますわ」
ブルーグレーの落ち着いた表紙は、確かに使い込んで手垢がついても、年輪を感じさせる重厚な表紙に育っていく事が想像できた。レネは嬉しくなって、そのワイン手帳を購入した。
店を出るとレネは女性に自己紹介をした。
「僕、レネ・ロウレンヴィルって言います。フランス人です」
女性は優しい微笑みを見せてレネの差し出した手を握った。
「鳴澤優奈です。日本人です」
レネは嬉しそうに笑った。
「僕、日本人の友達と旅をしているんですよ。日本に行った事もあります」
「まあ」
レネはこのままこの素敵な日本人女性と別れてしまうのが惜しくてためらいがちに提案した。
「あの、買い物を助けていただいたお礼に、お茶をごちそうさせていただけませんか?」
優奈はほんの少し困ったように首を傾げた。
「お申し出はとてもありがたいんですが、ほんの少し前にお茶を飲んだばかりなんです」
その言葉を拒否と受け取って項垂れるレネの姿にほんの少し慌てたように、優奈は言葉を続けた。
「あの、私はこれからボーボリ庭園を観るつもりなんですけれど、もしその後でよかったら喜んでご馳走になりますわ」
レネの顔はぱっと明るくなった。
「僕もボーボリ庭園にいくつもりだったんです。ぜひご一緒させてください」
優奈は微笑んで頷いた。
二人は、ボーボリ庭園正面入り口からまっすぐの階段になっている坂道を登った。陽射しが容赦なく照りつけ、長い登りにレネの息は荒くなってきた。大丈夫ですかと声を掛けようとして隣を見ると、優奈は蝶子より遥かに白い肌に汗をかくことも息が上がっている様子もなく、一歩一歩を踏みしめて静かに歩いているのだった。薄桃色のブラウスと榛色の柔らかい髪が風にわずかにそよいでいる。
レネの視線を感じて、優奈はこちらを向き、頭をわずかに傾げて訊いた。
「日本人のお友達は、今日は?」
「僕たち、四人で大道芸人として旅をしているんですが、定休日の今日は自由行動にしたんです」
優奈は目を瞠った。
「まあ! 私たちも四人で旅をしていて、今日は自由行動なの。こんな面白い偶然があるのね」
「皆さん、日本の方なんですか?」
「いいえ、三人が日本人で、一人は韓国人なの。レネさんのお仲間は?」
「日本人二人と、ドイツ人です。僕の仲間たちを優奈さんたちにぜひ紹介したいなあ」
「素敵だわ。夕方に集まるから、みんなに提案してみるわね」
そう話しているうちに、二人は階段を登りきった。そして、陶器美術館の前に広がる薔薇園の光景に言葉を失った。きっちりと幾何学的に剪定されたフランス式庭木の間から薔薇の木が数しれず顔を出している。一つひとつに咲く花はごく普通の八重ではなく、ヨーロッパの絵画にあるようにさらに密な花びらを抱きしめていた。優しいスモモ色の花にはわずかにオレンジとも赤茶ともいえぬグラデーションがかかっていた。その様相は、若くてつんとした娘のようではなく、喜びも悲しみも経験した貴婦人のように高雅で暖かった。白い花も香り高く咲き誇っていたが、やはり優しく微笑むようだった。
レネの心は、まずパリに飛んだ。大好きだったアシスタントのジョセフィーヌとようやく同棲にこぎつけて、多いとは言えない給料の中から工面してたくさんの紅い薔薇の花を買っては贈り続けた事。楽屋で得意そうに笑う彼女が同僚の手品師ラウールに意味ありげに薔薇を見せていた事。ラウールがワインを傾けながらやはり意味ありげに笑った事。それから数日後に自分たちのアパートでラウールと一緒にいるジョセフィーヌと鉢合わせてしまった。紅い薔薇の花びらが部屋に溢れていた。ワインの瓶が床に倒れていた。彼らの嬌声が耳にこびりついた。「酒とバラの日々」を歌う酔った二人。愛も仕事も失ってパリを逃げだす事になった。
それから、しばらく薔薇が嫌いだった。「酒とバラの日々」も聴きたくなかった。でも、それが少しずつ変わっていったのは、Artistas callejerosの仲間と酒を飲んで馬鹿騒ぎをするようになってからだった。
「ブラン・ベックったら、また薔薇を見て暗くなっているの?」
「しょうがないな。もっと飲め、ほら、グラス出せよ」
蝶子がリストランテのテーブルの一輪挿しから薔薇を抜いてレネの前で振りかざし、稔がトクトクとワインをグラスについだ。そして、二人して楽しそうに「酒とバラの日々」を歌った。ヴィルが加わってからは、意地悪をする蝶子に彼が辛らつな言葉を投げかけ、彼女が応戦して高笑いすると、レネは「大丈夫です、こだわっていませんから」と二人の間に割って入る羽目になった。そして、いつの間にか、本当にレネは「酒とバラの日々」に対するトラウマを克服していたのだ。薔薇を見ると、ワインを飲んで笑い転げる仲間たちの姿が浮かぶ。あのメロディを耳にしても、楽しいだけになった。
「何か、愛おしい想い出があるのね」
声にはっとして横を振り向くと、優奈が優しく微笑んでいた。薄紅色のブラウスと榛色の長い髪が丘の上をゆっくりと抜けていく風にあわせてそよいでいる。ただの薔薇よりもずっと密度のあるたくさんの花びらを持つ優美な花に溶け込んでいた。レネは泣きたくなった。花咲く都、フィレンツェ。ここで出会ったこの女性は、まさに花の女神フローラだった。
「そうなんです。ずっと薔薇が嫌いだと思っていたんですが、今、薔薇にはとてもいい想い出がたくさんある事がわかったんです。優奈さんと一緒にここに来れて、本当によかった。僕、この光景を生涯忘れないと思います」
「本当にきれいな場所よね。見て、フィレンツェの街が見渡せるんだわ」
二人は、ゆっくりと歩いてアルノー川の向こう岸のドゥオモやその先のトスカナ平原が見渡せる位置にやってきた。カフェ・ハウスが閉まっていたので、レネが約束したお茶をごちそうするためにボーボリ庭園から出て少し散歩する事にした。
「ここにしませんか?」
ピンクの外壁に薔薇が飾られているカフェを見つけてレネが言った。優奈はとても嬉しそうに笑って頷いた。
中に入ると、「なんてことだ!」という英語が響いた。レネが振り返ると、カルロスが東洋の初老の男性と一緒に座っていた。
「今日は、いったいどうしたんでしょうね。今度はレネ君が東洋のお嬢さんと一緒だ」
レネはカルロスの言っている意味が分からなかった。何か誤解されているのかと思っておどおどしながら弁解した。
「こちらの優奈さんに先ほど買い物で助けていただいたんです」
「そうですか。私もレネさんの友達の一人です。スペイン人でカルロス・コルタドと申します。どうぞよろしく。こちらは商談相手で韓国からいらしたパクさんです」
優奈はにっこりと微笑みながら、それぞれと握手をして「どうぞよろしく」と言った。スペイン語と韓国語で。レネとカルロスとパク氏が揃って唖然とした顔をしたので優奈は控えめに笑った。
「優奈さん、僕にここで赤ワインをごちそうさせていただけませんか? 僕、どうしてもこの薔薇のカフェで、僕にとってのフローラであるあなたと乾杯したいんです。イダルゴとパクさんも、もしよかったらご一緒に」
レネの提案に三人が喜んで同意した。サン・ジョベーゼのキャンティが運ばれてきて、四人はにこやかに乾杯した。レネは買ったばかりのワイン手帳の一ページ目を記入して優奈のサインを入れてもらった。フィレンツェの午後は薔薇の薫りをのせて緩やかに過ぎていった。
(初出:2013年6月 書き下ろし)
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【小説】大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 Vivo per lei — featuring「誓約の地」
22222Hitリクエストの最後はYUKAさんからいただきました。20000Hitの時に『大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 熟れた時の果実 — featuring「誓約の地」』という小説を書かせていただいたのですが、その続きをとのリクでございます。
YUKAさんのブログで連載中、それも大変たくさんのファンを持つ『誓約の地』と当ブログの『大道芸人たち Artistas callejeros』とのコラボです。
今回お借りして登場していただいたのは、ヒーローのヒョヌさまです。韓流スター、見目麗しく才能がありしかも性格もいいという欠点のないお方。で、私の書く小説の中ではほぼ唯一といっていい見かけのいい男ヴィルがお相手を務めています。ただ、こちらは見かけだけはいいけれど、屈折しまくっている無表情男。
この二人に歌わせるために選んだ曲「Vivo per lei(彼女のために生きている)」。もともとの歌詞では「彼女」とは「音楽(女性名詞)」のことですが、この二人が「僕は彼女のために生きている」と連呼すると……。まあ、ヒット曲ですし、彼女とは「音楽」のことです。そういうことにしておきましょう。
自分で書いておいてなんですが、こういう書き方をしてしまうとこの話は、どう考えてもあと二回は必要です。前回は杏子姐様+稔、今回がヒョヌさん+ヴィルと来ていますので、どう考えても優奈さん、修平さんとレネ、蝶子を組み合わせて出さないと……。ま、残りはYUKAさんが書いてくださるかも。(こちら、何も考えていません。前回も今回も行き当たりばったりの綱渡りで書いています。すみません……)
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 Vivo per lei
— featuring「誓約の地」
ウフィツィ美術館に入るための人びとの列を横目で見ながら、ヴィルはシニョリーア広場を横切った。現役のフィレンツェ市庁舎でもあるヴェッキオ宮に所用で寄って、ついでに『秘密のツアー』に参加してくるつもりだった。
ミケロッツォの中庭はみごとな漆喰装飾とフレスコ画で埋められていた。贅沢な市庁舎だと小さくつぶやきながら、階段を登っていった。昨夜カルロスに会った時に、急ぎの書類提出があるのだが市庁舎の開いている時間帯には商談で行けないと困っていたので、代行を申し出たのだ。
「どうせあそこに行くなら、『秘密のツアー』に参加していらっしゃい。私が予約を入れておきますから」
カルロスはそう言った。そんなものがあるとは知らなかったが、滅多に行く機会はないだろうから断らなかった。
言われたツアー開始場所に行くと、もう一人の男性が立って待っているだけだった。東洋人だが、平均的な日本人よりは体格と姿勢がいい。それに美麗な男だった。男に対する、しかもサングラスをしている人間に対しての形容として正しいのかどうかわからないが、それが第一印象だった。
「あんたも『秘密のツアー』とやらに参加するのか」
ヴィルが訊くと、男は短く頷いた。やはり日本人ではないみたいだ。頷き方、振舞いが少し違う。
「中国人、いや違うな、韓国人か」
男はちらっとヴィルを眺めると、サングラスを外した。思った通り、欠点のないほど整った顔だった。東洋人には珍しい。
「よくわかったな。君は、北欧の出身かな」
「ドイツ人だ」
ヴィルは答えた。
「さ、ようこそ。ツアーはこちらです」
中年の女の声がしたので、二人は振り返ってドアの方を見た。鍵を開けてもらって、中に入ると彼女の後ろについて細い階段をひたすら上っていく。
説明によるとこの秘密の部分は分厚い壁をくりぬいて作られたものだそうで、いざという場合の抜け道、秘密の通路として建設されたらしい。中には書斎として使っていた部屋もある。壁といい天井といい、豪華な絵や装飾で埋め尽くされた贅沢な部屋で、緊急用の狭い小部屋を想像していたヴィルは驚いて見回した。韓国からの男も目を細めて見回していた。
「これはすべて寓意画なのですね」
男が質問するとガイドは深く頷いた。
「そうです。この絵は母性を象徴しています。だから人間だけでなく動物たちが母乳をもらおうと待っているわけです。こちらは四元素をあらわしているアレゴリーです……」
ガイドの説明を聞きながら、ヴィルは部屋を見回した。黄金の見事な装飾と絵。天井も十分に高い。けれど息が詰まりそうだった。窓がない。光が射さない。閉じこめられているようだ。
かつてのヴィルならばこの部屋に何も感じなかったもしれない。彼はいずれにしても父親と土地と日常生活に閉じこめられていた。そして、そこから出て行けるなどと考えたこともなかった。だが、今の彼はもはや当時のアーデルベルトではなかった。黄金の檻は彼には息苦しい。
やがてガイドは二人を連れて500年代広間の天井にあたる場所へと連れて行った。たくさんの梁に支えられたこの宮殿の裏側を垣間みることが出来る空間だ。天窓から入る光が暗闇の中から出てきた二人には眩しい。ツアーの終了した後に500年代広間から階段を登ってテラスに出て、フィレンツェの街を見回した。
「こんな風にゆっくりと街を眺めたことってどのくらいあっただろうか」
男がぽつりとつぶやいたので、ヴィルは改めて男の顔を見た。
「時間に追われた生活をしているのか」
「ああ。朝から晩まで。世界中のあらゆる美しい街に行ったが、いつもホテルと名所とレストランと仕事場にしかいかなかった。屋根裏や市役所の上のテラスから街を眺める時間を持った記憶はないな」
ヴィルはこの男に一種の共感を感じた。彼もまた黄金の檻に息苦しさを感じることがあるのかもしれない。
「それで一人で旅に出たのか」
ヴィルがそう訊くと、男は小さく笑って首を振った。
「いや、一人じゃない。今日は自由行動なんだ」
「そうか。じゃあ、俺と同じだな」
二人はヴェッキオ宮から出て通りをしばらく歩いた。韓国人は白麻のジャケットの袖を少しずらして時計を見た。正午を少し過ぎていた。
「昼時だし、一緒に食事でもしないか。一人の時間を楽しみたいのでなければ」
そう誘われてヴィルは首を振った。
「一人になりたかったわけじゃない。ただ、さっきもらってきた書類を依頼者に届ける予定になっているんだ。ちょうどリストランテで逢う予定だから、そこに行っても構わないか?」
「もちろん」
男が微笑んだ。妙に魅力的な笑い方をする男だ。ヴィルは思った。一方、男の方は先ほどから一緒にいるドイツ人の顔に一度たりとも喜怒哀楽が現れないことに驚いていた。
ヴィルはカルロスと待ち合わせしたドゥオモにほど近いリストランテに入って行った。
「『リストランテ・ムジカ』か……。音楽の聴けるレストランなんだろうか」
ヴィルは奥にグランドピアノがあるのを目にしたので、男の問いかけに答えようとした。だか、その時、リストランテの中にいた男が素っ頓狂な声を出したので、それは中断されてしまった。
「カン・ヒョヌ! なんてことだ! 君と、このフィレンツェで再会できるとは!」
その人物は、カルロスと同じテーブルに座っている初老の東洋人だった。ヴィルの連れの男は、思わぬ知人との再会にかなり動揺している様子だった。
「パクさん……」
その後のちょっとした騒ぎと韓国語と英語の会話の後で、カルロスが商談相手であるパク氏とヴィルを、パク氏がカルロスとヒョヌをそれぞれ紹介した。
「ご存知かもしれませんが、ここにいるカン・ヒョヌはわが韓国を代表する映画俳優で人氣スターなんです」
ヴィルは、少し眉を持ち上げて再びヒョヌを見た。なるほど、映画俳優か。
「ヒョヌ君。ここでキミに逢えたのだから、どうしてもあの美声を聴かせてもらいたいな」
パク氏は唐突なことを言った。ヒョヌはにこやかに、けれど明らかに迷惑しているとわかる声音で答えた。
「他ならぬパクさんのリクエストにはぜひお応えしたいのですが、ここには伴奏してくれる人もいなさそうですし……」
それを聞くと、カルロスは嬉しそうに言った。
「おや、伴奏と言ったら、ここにいるヴィル君に勝る適任者はいませんよ。私もぜひ韓国が代表するスターと、わが敬愛するArtistas callejerosのヴィル君の競演が聴きたい」
ヒョヌはぎょっとしてヴィルを見た。
「君、音楽家なのか」
「すまない。言いそびれたがそうなんだ」
諦めたようにピアノの側に向かいながら、ヒョヌはヴィルに囁いた。
「君はあの眼の大きい紳士のいう事は断れないのか」
「断ってもいいんだが、あの男には今晩、フィレンツェで一番酒のうまいレストランに連れて行ってもらうことになっているんだ。俺の一存で機嫌を損ねると、大騒ぎして怒る輩が三人もいてね。それはそうと、あんたもあの韓国人には頭が上がらないみたいだな」
「ああ、駆け出しの頃、相当世話になったんだ。枕営業をさせられそうになった時にも、あの人が助けてくれたんでやらずに済んだし。でも、苦手なんだよ、あのじいさん」
ヴィルは氣の毒にといいたげに肩をすくめた。
「で、何を弾けばいい?」
ヒョヌは少し考えていたが、やがてヴィルをじっと見つめてイタリアン・ポップスの題名を言った。
「Vivo per lei」
「あれはデュエットじゃないか」
ヴィルが言うと、ヒョヌは韓国や日本の女性ファンたちが卒倒するような魅力的な笑顔を見せた。
「そう。君にも歌ってもらうよ」
フィレンツェ一うまい酒を待つ仲間の無言の圧力と、この魅力的な男を殴って逃走する爽快さを秤にかけたあと、小さく肩をすくめると、ヴィルはピアノの椅子に腰掛けてイントロを静かに弾いた。低めでセクシーな東洋のスターの歌声がレストランに響きだした。
(初出:2013年5月 書き下ろし)
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【小説】大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 熟れた時の果実 — featuring「誓約の地」
優奈や杏子がヨーロッパを旅して、大道芸人たちと出逢えたらいいなって思ってました^^
実は私が書きたかったともいいますが(笑)
YUKAさんのブログで連載中、それも大変たくさんのファンを持つ『誓約の地』と当ブログの『大道芸人たち Artistas callejeros』とのコラボです。そして、その後の確認でご指定の都市はフィレンツェということでございました。
『誓約の地』は、事故で無人島に漂着した主人公たちが、その遭難生活の中で恋に落ちていく、長編恋愛小説です。もちろん、小説の中ではまだみなさんは漂流していますので、フィレンツェに観光旅行にいらしたりはしないのですが、こちらは番外編ということで、ちょっと息抜きにワープしていらしたということになっています。(YUKAさんご了承済み)
まずはじめにお詫びを一つ。私はこのリクをいただいてから『誓約の地』を読破しました。そういうわけでいまだに『誓約の地』の素人です。そして、ヒロイン優奈さまを動かすには、私の筆力ではあまりにも力不足、ファンの方々を満足させられるようなコラボは書けないと(満足させるつもりだったのかというツッコミはさておき)判断し、私の筆力でも「しかたないわね、動いてあげるわよ」と姉御肌でご了承くださった杏子姐さまだけを出演させています。
もう一つ、お詫びを。すみません。完全に「to be continued...」状態です。誰か(YUKAさんに言っているのか、『誓約の地』のファンにお願いしているのか)、続きを書いていただけると。いや、自分で書けというご要望があれば、そのうちに……。
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 熟れた時の果実
— featuring「誓約の地」
彼女は背筋を伸ばして佇んでいた。つばの広い帽子から流れ出た波打つ豊かな髪が風に踊る。絹かシフォンのように柔らかい素材のベージュのパンツも、トスカノの秋の小麦畑のような波紋を見せていた。
カルロスがその女性に目を留めたのは、彼の親しくしているある女性と同じ民族のように見えたからだった。そのマリポーサこと四条蝶子とその仲間たち、つまり彼がことあるごとに援助をしているArtistas callejerosと呼ばれる大道芸人たちのグループとは、今晩リストランテで逢う予定になっていた。カルロスはここフィレンツェに来たそもそもの目的すなわち商談に向かう最中だった。スケジュールを組む秘書のサンチェスは時おり文句を言う。
「フランスやドイツ、それにわが国のクライアントも次々に面会を依頼してきているのですよ。商談相手の優先順位を決めるのに、Artistas callejerosの滞在先ばかりを考慮に入れるのはやめていただきたいのですが」
「まあ、いいじゃないか。彼らはそのうちにドイツやフランスにも向かうんだから。それに、緊急の商談にはちゃんと対応しているしな」
サンチェスはため息をもらした。
ところで、いまバス停に佇む女性の方は、特に困っている様子も見られなかった。さすがに「日本人に見えたから」という理由で声をかけるのもはばかられ、カルロスは黙って同じバス停の前で待っていた。バスがやってきた。彼は女性に先を譲る仕草をした。
「ありがとう」
女性は微笑みバスに乗り込んだ。車内は混んでいるというほどでもなかったが空いている席はなかった。カルロスと女性は手を伸ばせばやっと届く程度の距離を置いて立っていたが、次のバス停でカルロスの前に座っていた女性が降りて行った。カルロスは女性に英語で声を掛けた。
「どうぞ。あなたの言葉でいうとドーゾになるのかな」
女性は微笑むとその席に座って英語で答えた。
「そんなに長くは乗っていないんですけれどありがとう。私が日本人だと、どうしてわかりました?」
「実をいうと、確信はなかったんです。でも、私には親しくしている日本人女性がいましてね。だから、アジアの女性を見るとまず日本人かなと思ってしまうのです」
「私にもヨーロッパの方の国籍の違いは、わかりませんのよ。あなたは、イタリア人かしら。それとも……」
「スペイン人です。カルロス・ガブリエル・マリア・コルタドと申します」
「私は相田杏子です」
「杏子さんはご旅行中ですか?」
「ええ、三人の友人と来ているんです。今日は、それぞれ別行動なんです」
「そうですか。フィレンツェは見所も多いですからね。興味対象が違うなら別行動するのはいい選択でしょう。特にあなたのようにしっかりなさった方なら」
「しっかりしているように見えます?」
杏子は艶やかに微笑んだ。自信のある対応は蝶子に似ている。長い海外生活もその佇まいを変えただろうが、やはり個性によるものが強かった。カルロスが出会った平均的な日本女性像とそれはかなり離れていた。この相田杏子という女性も一目見ただけでわかる強烈な個性を持っていた。
「その質問は、必要ないのではありませんか?」
杏子は再びミステリアスに微笑んだ。手強い女性のようだ。バスがサン・ロレンツォに着くと彼女は再び礼を言うと立ち上がった。
「よいご旅行を。再びお目にかかれることを祈っていますよ」
そのカルロスの言葉に、彼女は振り向いた。
「では、またお逢いする時まで」
杏子はバスをしばらく見送っていた。時になんでもない言葉が予言となることがあるのを彼女は知っていた。今かわした会話もその類いの言葉ではないかしら。だからといってどうだと言うのだろう。不思議な人。びっくりするくらい目が大きいから、次に逢ったら瞬時にわかるだろう。
杏子はゆっくりとサン・ロレンツ教会の方に歩き出した。そして、ふと、教会脇の露天をふらふらと歩いている見知らぬアジア人に目を留めた。背中にかかっている袋から三味線の竿と天神が顔を出している。ツンツンとした髪をカリカリとかきながら、露天を眺めていた。その後ろからいかにもジプシーの風袋をした女が、そっと近づいていっている。杏子はそれを見るとさっと男に近づき、その腕を引っ張って自分とジプシー女が男の目に入るようにした。
「ごめん、待たせた?」
男はかなり面食らったようだが、途端に目に入ったジプシー女の姿に即座に事態を把握し、背中の三味線の袋をさっと腹の前に抱えて女を睨んだ。それで女はすぐにその場を離れていった。
「助かったよ。ありがとう」
やっぱり、それは日本人だった。
「どういたしまして。たまたま目にしちゃったので、放っておけなかったの」
稔はまじまじと杏子を見た。すげぇ、美人。お蝶や園城も顔負けだ。しかも、性格もあの二人に負けてなさそうなタイプだな、こりゃ。くわばら、くわばら。
「あの女に氣づいてからの反応は早かったから、あの手の輩には慣れていそうね。何に氣をとられて注意力散漫になっていたのかしら」
「ああ、せっかくフィレンツェに来たんだから財布を買おうと思っていたんだ。でも、どうもピンと来なくってさ」
「あら、ここで探しても、フィレンツェのものは見つからなくてよ。ここは外国産の安物しか売っていないもの」
「へ?」
杏子は、稔のラフな服装をじろりと見てから付け加えた。
「とはいっても、ブランドものを買いたいわけでもないようね。だったら、サンタ・クローチェのレザー・スクールはどう? 職人学校の直売所」
稔は肩をすくめた。
「そりゃ、いいかもな。あんた、詳しいな。ここに住んでいるのか?」
「いいえ。旅行よ。でも、フィレンツェに来るのは三回目なの」
「へえ。で、そこはここから遠いのか?」
「バスでも歩いてもあまり変わらないくらいね。何なら、今から一緒に行く? 私も行きたいとと思っていたところだし」
「そいつは、ありがたいや。頼むよ。俺、安田稔っていうんだ」
「私は相田杏子よ」
それで二人は、アルノ川の方へと歩き出した。稔はちらっと杏子の方を見た。いいもん着てんな。ヨーロッパの観光地ではいくらでも見る、廉価品のカジュアルに身を包んだ二人連れや三人連れの日本人女性とはあきらかに違っている。柔らかいドレープの絹のブラウスも、大きなつばの白い帽子も、名のあるブランドのものに違いないのだろうが、そんなものは毎日身につけているのだろう、完全に自分のものにしていた。園城クラスの金持ちか。しかも、一人で俺みたいな浮浪者同然の男にも平然と話しかけるんだから、ただのお嬢様じゃないな。
サンタ・クローチェのレザー・スクールは、フランチェスコ会が戦争孤児の職業訓練のためにはじめた革工芸の学校でかつての僧房が工房と、作業所ならびに販売所となっている。
「あれ、ずいぶん日本人がいるな」
作業所を覗き込んで稔は言った。
「三時間や一日の体験コースがあって、有名なのよ」
杏子の説明に稔は肩をすくめた。なるほど。
稔は販売所で、期待していた本革のしっかりとした財布を見つけた。
「これこれ、こういうのが欲しかったんだ」
露天の店よりは、かなり値が張ったが、しょっちゅう買うものではない。日本を発ってからずっと使っていた財布は壊れかけていた。彼はその財布と、メディチの百合をあしらった大きめのチャックつきの小物入れを買った。化粧するわけでもないのにそんな袋をどうするのだろう。杏子は思った。
「ところで、あんたはあそこを散歩していたんじゃないだろう? 本来の目的はいいのか?」
外に出てから、稔は杏子に訊いた。
「そうね。本当はサンタ・マリア・ノヴェッラの方に歩いて行くつもりだったの」
「中央駅に?」
「いいえ、教会。あそこに13世紀からの薬局があるのよ。職業的興味があって行こうと思っていたんだけれど……」
稔は歩みを止めた。ここに来るのに、サンタ・マリア・ノヴェッラから遠ざかったのだ。
「そりゃ、悪かったな。俺、助けてもらって、アドバイスももらって、さらに邪魔したのか。礼をしなきゃ」
「別にいいのよ。明日にでも行くわ。いずれにしても三回も来ているんだから、どこだって既に一度は行っているのよ」
「あんたはよくても、こっちの氣が済まないよ。これでも礼節ってもんにはうるさいんだ。飯をおごるのがいいか、それとも?」
杏子は稔を見てため息をついた。やけにきっぷがいいけれど、江戸っ子かしらね。大したことじゃないのに。
「ご馳走にならなくていいわよ。下手なことすると、連れが焼き餅焼いて面倒なことになるし」
「へ? 一人旅じゃないんだ」
「ええ。今日は単独行動の日なの。あとで友人たちと待ち合わせしているのよ。どうしてもお礼をしたいなら、こうしましょう。あなた、音楽家なんでしょう? 私のために何か演奏してよ」
「何を?」
杏子はにやっと笑った。リクエストを訊いてきたわね。この私が簡単なものを頼むと思ったら甘いわよ。
「それ三味線でしょ。でも、ここフィレンツェだから、クラッシック音楽の方がいいわ。何か、この街にぴったりの、でも、暗くない曲を弾いて」
「いいよ」
稔はあっさりと言った。そして、袋から三味線を取り出すと、簡単に調弦をした。そして、バチをとって体を大きく動かすと、いかにもバロック的なメロディを弾きだした。杏子は知らなかったが、それはJ. S. バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」から「ソナタ第二番イ短調、アレグロ」だった。
杏子はその音色に聴き入った。三味線で自由にバロックを弾けるものだとは夢にも思っていなかったが、その音色はクラッシックの単なるまねごとではなかった。この男は、このような曲を自由に弾くプロなのだ。
ルネサンス様式の建築は人体の比例と音楽の調和をとりいれた。だから、その代表的な街フィレンツェは、開放的で丸みがある。数学的比率で緻密に計算されているからこそ、目に優しい美しさなのだ。この耳に心地よいバッハの和音は、現在目にしている街の調和と同じ比率で杏子の体の中をめぐっていく。ルネサンスの栄光である街は、時を経て、雨風にさらされ、微妙に色を変えている。それは実りたての固い果実ではなく、美酒のごとく熟れて芳醇に薫りを放っているのだ。樺茶色のレンガ屋根に暮れはじめた暖かい光が彩りを添える。
曲が終わっても、杏子は黙っていた。拍手や「上手だったわ」などというありきたりの言葉では、今の曲にはふさわしくない。
拍手が聞こえて、コインがチリンチリンと音を立てたので、彼女ははっとした。いつの間にか、周りには野次馬がたかっていて、さまざまな国籍の人びとがコインを投げていた。稔は躊躇もせずに、そのコインを拾い集めて買ったばかりの小物入れにおさめた。
「あなた、大道芸人なの?」
杏子が歩きながら訊くと、稔はにやっと笑った。
「ああ」
「ヨーロッパで、一人で?」
「いや、俺も仲間と旅をしているんだ。あんたと違って、期限はないけどな」
「さあ、どうかしら。私は期限がある旅なんて言っていないわよ」
稔は訝しげに杏子を見た。杏子はウィンクをした。
「期限がないとも言っていないけれどね」
杏子はドゥォモの前に来ると、右手を差し出した。
「じゃあ、ここで。友人たちと待ち合わせしているから」
「ありがとう。助かったよ。またいつか逢えるといいな」
稔は、杏子の手をしっかりと握った。
「さっきもそんな事を言われたわ。私の勘って、よくあたるの。近いうちに二つとも現実になりそう。その時には、赤ワインでもごちそうしてね」
「おお、まかせとけ」
そして杏子はすぐ眼のまえのしゃれたカフェに入って行った。稔は一人の女性と二人の男性が杏子の方に手を振るのを見届けてから、Artistas callejerosの仲間たちと待ち合わせたサン・ジョバンニ洗礼堂の前のバルへと去って行った。
(初出:2013年4月 書き下ろし)
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【小説】大道芸人たち 番外編 〜 港の見える街 〜 Featuring「絵夢の素敵な日常」
「scriviamo!」の第四弾です。(左紀さんの分と一緒に、またしてもStellaに出しちゃいます)
山西 左紀さんは、おなじみの〝空気の読めないお嬢様〟「絵夢の素敵な日常 」シリーズで、ほぼ私の好み100%の掌編を書いてくださいました。左紀さんのブログの5000HITを私がちゃっかり踏んだのですが、リクエストOKというお言葉をいいことに「(絵夢の執事の)黒磯」と「チョコレート」という無茶なお題でお願いしたのです。このわがままに、素晴らしい作品で答えてくださっただけでなく、なんと当方の「大道芸人たち Artistas callejeros」の四人も登場させて、「scriviamo!」にも快く参加してくださいました。本当にありがとうございます。
左紀さんの書いてくださった掌編 アルテミス達の午後
そういうわけで、絵夢さまをお借りして、「大道芸人たち Artistas callejeros」の番外編を書いてみました。
せっかくのコラボをどうしても並べたかったので、無茶を承知で、今月三本目のStella参加です。
「scriviamo!」について
「scriviano!」の作品を全部読む
「大道芸人たち」をご存じない方へ
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログでメインに連載していた小説です。偶然知り合った四人が大道芸をしながらヨーロッパを旅していくストーリーです。今回発表している物語は、この四人が日本に来日しているという設定のスピンオフ作品です。
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 港の見える街 〜
Featuring「絵夢の素敵な日常」
——Special thanks to SAKI-SAN
窓から見える港をじっと眺めている蝶子の横に、すっとレネが立った。
「パピヨンは海が好きなんですね」
稔がインターネットで目ざとく見つけた格安のビジネスホテルにはバイキング式の朝食がついていた。最上階にある展望式レストランからは神戸の港が一望のもとだった。
蝶子は、いつになく優しい笑顔を見せて答えた。
「この風景は特別好きなのよ。ブラン・ベックにとってのアヴィニヨンの橋みたいなものかしら」
「この神戸で育ったんですか?」
そんなことを蝶子は一度もいわなかったので、少しびっくりした。
「育ったってほどじゃないわ。でも、子供の頃、しばらく神戸に預けられていたの。祖父母が住んでいたから」
それを聞いて、稔とヴィルも寄ってきた。
「そいつは意外だな。お前は関西に縁ないのかと思っていたからさ」
蝶子は、黙ってフルートの箱を握りしめた。
どこにいこうかと稔が訊いた時に、蝶子は氣まぐれな態度で神戸に行かないかと提案した。といっても、行っても行かなくてもどちらでも構わない程度の口調だったので、まさか蝶子にとってここが大切な場所だとは夢にも思わなかったのだ。ガイジン二人は、神戸とはかつて大きな地震のあったところくらいの予備知識しかなくて、何があるのかも知らなかった。
蝶子はあいかわらず、日本の家族とまったく連絡を取ろうとしなかった。稔は蝶子の実家の住所を覚えていなかったし、彼女が家族に対する郷愁をまったく見せなかったので、余計なことは言わないできた。けれど、はじめて見せた一種のノスタルジーにつきあいたくなった。
「よし、今日は、お前の思い出深いところで稼ごうぜ」
「阪神の三宮だったかしら、それとも……」
蝶子は、心もとない感じで地図を眺めた。
「なんだよ。わかんないのかよ」
稔が覗き込む。ガイジン二人は黙って肩をすくめる。
「だって、私、幼稚園児だったのよ。ちゃんと憶えているわけないじゃない」
「じゃ、とにかくそこにいこうぜ。どっちにしても、人だかりはあるだろうし」
三宮駅に着いても、蝶子には、祖父母のマンションのあった場所をはっきりという事は出来なかった。
「何もかも変わっちゃったみたいだわ」
「あんたが大きくなって目線が変わったからかもしれないぞ」
ヴィルが指摘すると、蝶子は肩をすくめた。
繁華街に向けて表通りを少し歩いていくと、レネの眼が輝き出した。稔はレネの視線を追って、それからしたり顔で頷いた。
「ははん。そうか、二月だもんな」
どこもかしこもハートマークの看板のついた、ワゴンが道にせり出していた。その上には山盛りの綺麗に包装されたチョコレートの箱、箱、そしてまた箱。レネはその商品見本を見て、中身が何であるかわかったので、心惹かれているのだ。
「なぜこんなにたくさんチョコレートを売っているんだ? スイスみたいだな」
ヴィルが首を傾げる。
「日本のお菓子メーカーの戦略が当たって、毎年恒例のお祭りになってしまったのよ。聖ヴァレンタインデーに日本では女性が男性にチョコを贈るの」
レネとヴィルは首を傾げた。最愛の人に贈るにしては、一つひとつが小さすぎるし、大体なぜ「女性」だけが贈るのだろうか。
「これは、義理チョコ用だよ」
「ギリチョコ?」
蝶子は二人に手早く「義理」という概念と、日本では聖ヴァレンタインの日に、女性にとって最愛でもない上司や同僚にも大量のチョコレートが配布されている事実について説明した。ガイジン軍団はますます混乱したようだった。
「なあ。ところで、俺も日本男児なんだけど」
稔が、若干もの欲しそうな目つきで蝶子を見た。
「だ・か・ら?」
蝶子は冷たい一瞥をくれた。
「いやあ、せっかく二月に日本にいるんだぜ。義理チョコとは言え、フルート科の四条蝶子や、ヴィオラの園城真耶にチョコをもらうなんて僥倖、当時のクラスメートにうらやましがられると思うんだけどな~」
蝶子は、まあ、という顔をした。
「なぜ、そこで他のクラスメートの話になるんだ?」
理屈っぽいヴィルが突っ込む。
「ああ、ヴァレンタインのチョコの数は、男の人氣のバロメータなんだよ」
稔がそう説明すると、レネがだったら僕も欲しいと言いたげな顔で蝶子を見つめた。
「な、なによ。わかったわよ。チョコの代わりに、今夜は三人の素敵な男性に、私がごちそうするわよ、それでいいでしょう」
チョコレートよりも酒の好きなヴィルは露骨に嬉しそうな顔になり、レネは素敵な男性と言われて舞い上がり、稔も瓢箪から出た駒に、なんでも言ってみるものだなと喜んだ。
商店街をすぎてしばらく行くと、ちょっとした広場があった。四人の勘が「ここは稼げる」と告げたので、ここを仕事場にすることにした。警察がパフォーマンスの許可がどうのこうのと言い出す前に素早くはじめて、さくっと終える必要があった。
パントマイムを交えた音楽劇はあっという間に人だかりを作った。観客のスジを読むと、どちらかというコテコテのものの方がウケることがわかったので、レネは面白おかしい手品を、ヴィルもコミカルなパントマイムを演じた。それから稔と蝶子は「日本メドレー」を明るい調子で演奏した。知っている曲が続いたので、ギャラリーは喜んで小銭の投げ込まれる間隔が短くなった。
アンコールの拍手が続くので、稔はガイジン軍団に目配せをした。先日から用意しておいた「必殺ニホンゴ・ボーカル」。ノリのいい日本人向けのスペシャルだ。稔と蝶子が演奏する『早春賦』にヴィルとレネが加わる。
「ハ~ルノ~、ウラ~ラ~ノ~、スゥミィダガワ~」
観客はどっと笑う。その微妙な発音がおかしくてたまらないのだ。おお、ウケたぞ。『ソーラン節』もいってみよう。稔の悪のりに蝶子は苦笑したが、アンコールなのに、以前よりもたくさんコインが放り込まれている。悪くないわね。
大喝采の後、稔が出会った当時と同じ守銭奴の顔つきでコインを集めていると、フルートの手入れをしている蝶子の所に一人の女性が近づいてきた。きれいに手入れされて艶つやの黒髪が風になびいている。ニコニコしている。
「こんにちは。とても素晴らしい演奏でした」
蝶子は、軽く頭を下げると、その女性の瞳を見つめた。どこかで感じた雰囲氣だと思ったら、園城真耶と同じ空氣をまとっていた。たぶん同じ階層に属するのだろう。灰色のコートの上質さがその推理を裏付けていた。真耶に似ているのは、それだけではないだろう。穏やかで物静かに見えるけれど、瞳の輝きは、強烈な個性を内に秘めていることを物語る。自分のしたいことがきちんとわかっていて、自分の未来をしっかりと切りひらいていける、そういうタイプの女性だった。蝶子は、大学で真耶に会ってすぐに抱いたのとまったく同じに、この見ず知らずの女性にある種の敬意を抱いた。
「どうも、ありがとうございます」
「これで終わりになってしまうのは、残念です。もし、ご迷惑でなかったら、リクエストをしてもいいでしょうか」
女性はハキハキと頼んだ。
「何をお望みですか?」
蝶子は、心の中で付け加えた。あなたのリクエストなら。誰のリクエストでもきくわけじゃないのよ。
女性は戸惑い気味に言った。
「私、ドビュッシーが好きなんです。たとえば……」
「……『シランクス』とか?」
蝶子が即答すると、女性は眼を瞠って、それから頷いた。蝶子は、フルートを構えてゆっくりと吹き出した。
なんてめぐり合わせだろう! 蝶子の心は、三十年ちかく前に戻っていた。彼女は五歳になったばかりだった。二歳年下の妹、華代が入院することになり母親が付き添うことになったので、神戸の祖父母のもとに預けられることになったのだ。
蝶子はいつも両親のわずかな冷たさを感じていた。華代が生まれてからは、その感じは強くなった。母親も華代もいない状態で、祖父母のもとに滞在するのははじめてだった。そして、それは新しい幸福な経験だった。祖父母は孫を十分に甘やかしたから。うな重を一人分注文してくれた。バニラ・ビーンズの散っているおいしいプリンを買ってくれた。六甲山ホテルへ行き満天の星のように輝く神戸の夜景を見せてくれた。そして、港の見えるマンションで、優しくて美しい音楽をたくさん聴かせてくれた。
その曲をはじめて聴いたのは、ある朝だった。窓から見える神戸港。海の上に光がキラキラと反射していた。ゆっくりと大きな船が港を出て行く。そこにラジオから流れている不思議な美しい旋律。幼稚園で聴かされるような騒がしく単純な音ではない。繊細で、複雑な音。フルート奏者になった今ならば、半音階と全音階が複雑に組み合わされ、東洋の影響を色濃く受けた印象派特有の旋律であると説明することが出来る。ギリシャ神話、アルテミスの従者であったニンフの逸話にちなんで作曲された、フルート奏者にとっては避けて通れない大切な曲目であることも。けれど幼き日の蝶子には、ただその美しさだけが心に染み入った。
「これ、なんて音楽?」
そう訊いた孫に祖父母は笑って答えた。
「フルートの音楽だねぇ。ドビュッシーだと思うよ、なんて曲だろうね」
蝶子がフルートに魅せられたのは、それからだった。祖父母が早くに亡くなってしまったので、蝶子はそれから神戸には来なくなった。フルートを吹きたいと願う彼女を支持してくれる味方も一人もいなかった。ただ、フルートと音楽だけが、蝶子の原動力だった。それはミュンヘンにつながり、そして今、大切な仲間たちと生きている。その想い出の『シランクス』をここ、神戸で再び演ることになるなんて!
ヴィルは、もちろん何度も『シランクス』を演奏したことがあった。父親のエッシェンドルフ教授なら、この蝶子の演奏を即座に停めさせて、もっと東洋の影響を排除させた響きを要求することだろう。それに、テンポがすこし揺れている。しかし、ヴィルにはいまのこの蝶子の演奏が、どこか西洋的なこの東洋の街にじつによくマッチして聴こえた。心地のいい響き、強い郷愁。稔やレネも、それどころか先ほどまで笑い転げていた観客たちも、水彩画のような透明な響きに魅せられて、耳を傾けていた。
曲が終わると、再び大きな拍手がおこり、再びコインがチリンチリンと音を立てた。稔はあわてて、音の先を追って小銭を回収した。
「どうもありがとう。思った通り、素晴らしい演奏でしたわ」
「どういたしまして。私にとって神戸の思い出につながる大切な曲なんです。縁を感じますわ。リクエストをいただいて感謝しています」
「どちらからいらっしゃったんですか?」
女性は、ヴィルとレネに氣をつかって、英語に切り替えて質問した。
「僕たち、普段はヨーロッパで大道芸をしているグループなんです。神戸にははじめて来たんですよ」
レネがニコニコして答えた。女性はにっこり笑って言った。
「まあ、ようこそ神戸へ」
しばらく談笑して、名残惜しそうに別れを告げた後、女性は待っていた二人の連れの方へと帰っていった。蝶子は、去っていく三人の後ろ姿をじっと見ていた。私、やっぱり、神戸がとても好きだわ。
「さ。警察が嗅ぎ付ける前に、撤収しようぜ」
稔の声で我に返った蝶子は、フルートをしまうと三人に向かって笑いかけた。
「決めたわ。今晩は、六甲山ホテルで食事をしましょう。あそこからみる神戸の夜景は本当に素晴らしいのよ」
稔は眼を剥いた。
「おい。いいのかよ。忘れていないか? 今夜はお前のおごりだぜ」
蝶子はウィンクして言った。
「忘れていないわよ。でも、ヤスこそ忘れているんじゃないの? 来月のホワイトデーは、倍返しでよろしくね」
そして、キャッキャと騒ぎながら、四人は神戸の街を下っていった。
(初出:2013年1月 書き下ろし)
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【小説】大道芸人たち 番外編 〜 ロンドンの休日 〜 featuring「フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス」
「フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス」は、ロンドンを舞台に、スコットランドヤードの若きエリート刑事と、見かけも身分も手の届かぬ雲の上の少女が、猟奇的殺人事件を通してめぐり逢い行動を共にするローファンタジー小説です。超自然的な能力を操る集団が闘争するドキドキものの展開、手に汗を握るストーリー、ほどよいロマンス風味、イギリス好きなら見逃せない観光案内、あり得ないはずのロンドングルメ案内など、私のツボを押さえたお話で、毎回楽しみにしているのです。というわけで、三人にお会いしたくて、四人を無理矢理ロンドンへと派遣しちゃいました!(ついでに拓人の元カノも再登場……)
TOM-Fさんのブログからお越し下さいました皆様、こんにちは。三人のイメージを壊さないように頑張りました。当方の作品をお読みになった事のない方のために、ここに「大道芸人たち」のあらすじと登場人物へのリンクが貼付けてあります。
TOM-Fさん、競作の作業、とっても楽しかったですよね。いきなりの申し出に、快く承諾していただき、さらには共同作業がしやすいように、数々の準備を黙々としてくださって、本当にありがとうございました。おんぶにだっこで、呆れたでしょうが、これに懲りずに、またコラボしていただければ幸いです。
【小説】大道芸人たち あらすじと登場人物
同時発表:TOM-Fさんの「フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス」Chapter X ロンドンの休日(Layer-3, Overlook) featuring 「大道芸人たち Artistas callejeros」はこちらから
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 ロンドンの休日 〜
featuring「フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス」
「アーデルベルト、アーデルベルトじゃない? まあ、なんて偶然かしら」
ヴィルは、いつもの無表情のまま、ゆっくりと振り向いた。ロンドン・サウスエンドには、いくつかのフルートの工房がある。定休日で各々が自由に過ごしたこの日、ロンドン中心部で思いついて楽器店に入ったヴィルは、この地区の職人たちの噂を聞き、その足でとりあえずやってきたのだ。声を掛けたのは、その内の一つの工房から出てきた女だった。
「エヴェリン、あんたか」
それはミュンヘン大学でフルートを習っていた時代に一学年先輩だったエヴェリン・レイノルズだった。
「まあ。こんなところで再会するなんて。いつ、ロンドンに? どうしているの? あなたもフルートの調整に?」
畳み掛けられる質問に、ヴィルは苦笑した。
「ロンドンには仲間とちょっと寄っただけだ。俺はあんたも知っているように、もうフルートは吹いていない」
「だったら、どうしてここに?」
エヴェリンの疑問はもっともな事だった。
「ちょっと、観光中にここの噂を聞いたんだ。知り合いのフルートの事が氣になっていたから」
そう、調整が必要なのは、蝶子のフルートだ。その事は、本人がよくわかっているはずで、ヴィルがそれを氣にするのは全く余計なお世話だった。
「そう。その情報は、あたりよ。ここは、ロンドンで最も腕が良くて、良心的な職人たちが工房を持っているの。それと、私みたいに急いでいる人間にも、嫌な顔せずに対応してくれるの」
それは、いい事を聞いた。ヴィルは思った。ロンドンにはそう長く居るとは思えない。何日も待たされるようでは困る。
エヴェリンが、まだいろいろと訊きたそうなので、それを封じるためにヴィルは特に興味もなかったが彼女の事を話題にした。
「あんたはどうしているんだ? 俺はあれから音楽界の事情には疎いんで、当然知っているべき名声についても知らないんだ。氣を悪くしないでくれ」
エヴェリンは悲しそうに微笑んだ。
「ふふ。名声なんてないわ。私のキャリアの最高点は、あの時、あなたが優勝したあのコンクールで六位入賞したあの年だったのよ」
ヴィルは余計な口を挟まなかった。
「ロンドンのオーケストラに二年ほど勤めたけれど、結局新しい人たちに座を明け渡す事になったわ。今は、ミュージカルのオケ・ボックスで吹いているの。しかたないわよね。職があるだけでもありがたいと思わなきゃ」
「そうか」
エヴェリンは、この青年の無表情をありがたいと思った。この男はどんな時でも、大して感情を持たないのだ。下手に同情されるよりずっといい。
「あなたが、フルートをやめたって聞いた時、これで私に少しはチャンスが回ってくるかと思ったわ。でも、そんなものじゃなかった。上手い人が一人いなくなったからって、私の人生には大して変化はなかったんだわ」
「そうだな」
ヴィルは、ぼんやりと蝶子のことを考えた。自分が父親の一番の弟子だったとしても、蝶子は父親の元でフルートを学んだだろう。そして、自分がいようといまいと、結局は自由を求めて父親の元を去っただろう。
だが、もし蝶子がフルート界に戻ろうとするならば、かならず親父の目に留まる。その時には、俺と一緒にいる事は叶わないだろう。つまり、俺といる以上、蝶子の音楽に未来はないのだ。
ヴィルは蝶子のフルートのきしんだ音色に苦痛を感じた。
ヴィル本人は大道芸人として生きる根のない生活を心から愛していた。フルートをやめた事も、全く後悔していなかった。時おり蝶子に吹かせてもらう、フルートの音色を響かせるだけで完全に満足していた。名声も、金も、何もいらなかった。だが、あふれるばかりの野心とともに日本からやって来た愛する女の音楽をこのまま摘み取ってしまうのかと思うと、腹の底が捩じられるようだった。微妙な狂いが楽器に生じてくる。それは、道を往く観光客には聴き取れないほどわずかなものだ。だが、ヴィルにはわかる。蝶子はもちろん、稔にもわかるだろう。
稔はいい。もし彼が望めば、彼は日本で再び三味線の活躍の場が与えられるだろう。あの卓越したギターにも、別のチャンスが待っているかもしれない。
だが、蝶子は……。エッシェンドルフ教授と息子のヴィル、二人の男に愛されたがために、彼女の芸術は、行き場を失っている。彼女の音楽を誰よりも愛するヴィルにはそれが何よりもの苦痛だった。
「じゃあ、アーデルベルト、またいつか逢えるといいわね」
「ああ、エヴェリン、あんたもな。活躍を祈っているよ」
らしくない親切な言葉に、エヴェリンは首を傾げた。
アーデルベルト・フォン・エッシェンドルフが立ち去ってからしばらくして、彼女は肝心な彼の事を訊きそびれた事を思い出して悔しがった。そういえば、数年前に聞いた噂では、エッシェンドルフ教授が、私と歳のほとんど変わらない日本人の生徒と結婚するって事だったわよね。新しい義母の事についても訊くべきだったのよ! ああ、失敗しちゃった!
稔は、レネを拾いにハロッズに入って行った。高級デパートか。全く俺の趣味じゃないんだよな。でも、待ち合わせにわかる名前がそのくらいしかなかったんだ。
「ええと、カフェ・フロリアン、三階か……」
ハードロック・カフェは楽しかった。ピカデリー・サーカスやロンドン塔ってのもなかなか面白かった。稔は以前一度ロンドンに来たことがあった。まだArtistas callejerosを結成する前で、手持ちの金に全く余裕がなかったので、観光らしい観光はまったくしてこなかった。特に入場料のかかるような観光は全然しなかった。
蝶子が、大英博物館に行くと言った時には断った。
「俺、もう行ったんだ。あそこはタダだったからさ。それより、今度は二階建てバスに乗りたいんだ」
公共バスの方がもっとお金がかかるのだ。稔は一日乗車券を買って、何度もバスに乗ったり降りたりしていた。
あっという間に、待ち合わせの時間の一時間前になった。稔は二階建てバスで遊ぶのをやめて、ナイツブリッジに向かった。
(ハロッズかあ。ブラン・ベックのヤツ、こんなところで退屈してんじゃないのかなあ。本屋で待ち合わせればよかったんだよな、まったく)
そうして、エレベータを待っていると、隣に男がすっと立った。きっちりとスーツを着こなした金髪碧眼の青年でいかにも英国紳士らしき礼儀正しい佇まいだった。だが、その男の醸し出す雰囲氣に、稔はさっと身構えた。
サツだ、こいつ。それは四年間の浮浪者同然の生活で、自然と備わった野生の勘のようなものだった。稔は、すっと後ずさりをして、その男から離れた。
なんて馬鹿げた振舞いなんだろう、稔は自嘲した。これじゃ、俺、まるで犯罪者じゃないか。稔は、現在はもちろん過去にも、警察を怖れなくてはならないことはしていなかった。公には。だが、あの四年間、遠藤陽子との結婚の約束を反古にして失踪し、ヴィザも住むところもない四年を過ごしていた間、ずっと犯罪者と同じ心持ちだった。そうだ、俺は、陽子が黙って受け入れて警察にいかなかったから犯罪者にはならなかったが、本当は結婚詐欺を働いて逃げている犯罪者だったのだ。
詐欺男として警察に捕まるのが嫌だったのか、居場所がわかって日本に帰らなくてはならないのが嫌だったのか、はっきりしなかった。けれど、稔はいつも警察を怖れていた。それで、私服を着ていようと、完膚なきまでの紳士の姿であろうと、警官や刑事がどういう訳だかすぐにわかる特技を身につけてしまったのだ。そして、もう、怖れる理由がどこにもなくなった現在でも、その本能的な忌諱を発動してしまうのだった。
蝶子は、大英博物館の大理石の床に静かにハイヒールの音を響かせていた。その冷ややかな音は、あたかも大聖堂の中にいるような敬虔で静謐な感覚を呼び起こす。
ひとり静かに美術を鑑賞する。これは蝶子がイタリア時代から定休日に続けてきた習慣だった。他の三人はさほど美術館や博物館に興味がないので、これは一人を楽しむ時間と決めていた。
『エルギン・マーブル』展示スペースに入った時には、誰もいなかった。巨大な大理石の群像が圧倒する迫力で置かれているのを、蝶子は黙って見ていた。
やはり、静かな靴音がして、誰かが入ってきたのを感じた。その音は、他の鑑賞者の邪魔をすまいとする心遣いにあふれていながら、しっかりとした自信を感じさせるものだった。蝶子は振り向いてはっとした。そこにいたのは実に質のいいスーツを身に着けた紳士だった。ウェーブのかかった金髪と、凍り付きそうな青い瞳、それは、蝶子が知っているある男には似ていなかった。けれど、あたりを威圧する佇まい、自分が誰だか、どれだけ重要な人物かよくわかっている人間の立ち姿がエッシェンドルフ教授を思い出させた。その記憶から目を逸らして『エルギン・マーブル』に意識を戻そうとした途端、突然の喧噪がすべてを中断した。
「あっ、これだ、これっ」
「銀行のコマーシャルで使われていたヤツだね。同じポーズしようぜ」
「チーズっ」
東洋人観光客だった。二人の目の前を遮るように写真を撮ると、ガヤガヤ話しながらさっさと去って行った無粋な若者たちに、蝶子は眉をひそめた。
蝶子自身はカメラを持っていない。何かを撮影して、それだけで満足するような芸術の鑑賞をしないでいることを、蝶子はとても嬉しく思った。もちろん、それは所有するものの限られる大道芸人生活という制限があっての事だったが。
ふと、紳士もその集団に眉をひそめていたのを目にし、蝶子はにっこりと微笑んだ。
「困ったものですわね」
紳士は、表情を緩めて向き直った。
「本当に。マナーのなっていない者には、芸術を鑑賞する資格はない」
「全く同感ですわ。でも、幸い、あの手の人たちは長居はしません。静かになりましたから、これからゆっくりと鑑賞することにしましょう」
二人は、ゆっくりと『エルギン・マーブル』を正面から見据える事の出来る、少し後ろの方へと移動した。
「申し遅れました。私は、アーサー・ウイリアム・ハノーヴァーといいます」
「四条蝶子です」
「エルギン・マーブルに興味がおありですか?」
ハノーヴァー氏の問いかけに、蝶子は小さく頷いた。
「ええ。一度観てみたいと思っていました。こんなに大きなものだったなんて。よくイギリスまで運んでこれたと思いますわ」
相槌を打ってハノーヴァー氏は続けた。
「エルギン伯爵トマス・ブルースがパルテノン神殿から略奪してきたものだ、と言われています。いちおう時の領主であったセリム3世の許可はとったらしいが……まあ、略奪といっていいでしょう」
ヨーロッパには、ロンドンやパリやローマには、そんなものばかりが残っている。蝶子は、この国のことをさぞ誇らしく思っているに違いないこの完膚なきまでの英国紳士を少しちゃかしてみたいいたずら心に駆られた。
「ギリシャに返却すべきものだとはお思いになりませんか?」
彼は、怯んだ様子も、腹を立てた様子も見せなかった。ただ、少しだけ顎を撫でて考えてから口を開いた。
「もちろん、本来なら、パルテノン神殿と一体となった状態で評価されるべきものだ。しかし、あの時代のギリシャに放置していたら、もうとっくに崩れて風化し、ただの瓦礫となっていた事でしょう。ここに置いてあるかぎり、このレリーフは安泰です。芸術というものは、それにふさわしい所にあってこそ、その本来の輝きを放てるものだと思いませんか」
蝶子は、はっとした。
「……。おっしゃる通りかもしれませんわね」
虚をつかれたようだった。芸術はふさわしい所にあってこそ……。フルートをぎゅっと抱きしめる。もうとっくに調整に出していなくてはならないはずだった。大道芸人の暮らしでフルートは悲鳴を上げている。私たちの音楽も、路上で風化し、瓦礫と化してしまうのかもしれない。
蝶子は、ふとこの紳士に、芸術のあるべき場所について、もっと訊きたくなった。言葉をまとめて声を掛けようとした時、紳士が不意に胸ポケットに触れて、携帯電話を取り出した。眉を顰めている。何か大切な用件なのだろう。
「貴女とは、もっと親交を深めたいところだが。あいにく、今日は時間の持ち合わせが少なくてね。じつに、残念だよ」
蝶子は落胆の表情を見せないように努めながら、微笑んだ。
「お話が出来て、光栄でした。閣下」
なぜ、そんな敬称が出てしまったのか、自分でもわからなかった。しかし紳士は訂正せずに別れの言葉を口にするとゆっくりと出口に向かって歩いていった。答えは自分で見つけなくてはならないのだわ。蝶子はひとり言をつぶやいた。
レネは、その頃、約束通りハロッズ三階の「Caffè Florian」の一角に座っていた。大好きな本屋巡りをした後、一足先に着いて甘いものを堪能しようとしたのだ。
彼は、渡されたメニューを開いて目を疑った。嘘だろう? これって本当にポンド建てなの? ユーロにしてもこんなに高いなんてあり得ない。黒いスーツを着たウェイターが礼儀正しく、ただし馬鹿にした目でレネの慌てた様子を見下ろしていた。
その時、ウェイトレスに案内されて隣の席についた客があった。ウェイターがはっとしたようにそちらを見たので、レネも一緒に隣に座ったいい香りのするふわりとした布の方を見た。そして、目が釘付けになってしまった。それは少女だった。美しい乙女。しかし、それだけなら、この世にはいくらでもいる。そこに座っていたのは、どこにでもいるような美少女とは全く違っていた。
まず、髪が艶やかな真珠の色だった。透き通るような肌と紅い瞳が次に目に入ったので、ああ、アルビノなんだと思った。ところが、ぶしつけなレネの視線に不審げにこちらを顔を振り向けたので、もう一つの瞳が見えた。海の底のように碧かった。オッドアイ! ネコは別として、レネは今まで本物の虹彩異色を見た事がなかった。隣に、そんな美少女がいる。ふわりとしたクリーム色のジャンパースカートから、花のようなほのかな薫りが漂っている。
「ミスター、ご注文はいかがいたしましょうか」
ちいさな咳払いに続いて、ウエイターが畳み掛けてきて、レネは慌てて目をメニューに戻した。
「あっ。では、コーヒーとティラミスを……」
つい、そう答えてしまってから、レネは財布にいくら入っているか心配になった。ウェイターが去ると慌ててポケットを探る。隣の少女の視線が氣になり、ますます落ち着きがなくなった。でない、でない、この財布が。
「あっ」
そう思った時には財布の代わりに飛び出たカードが、床に散らばっていた。ウフィッツィ美術館の金箔入りタロットだ。
彼女は慌ててカードを拾うレネをじっと見つめていた。集めるときの鮮やかな手つきが、ドジでひょろひょろしたダメ男に似合わない。カードはレネの手の中で生き物のように礼儀よく整列し、タララララと音を立てて、一つの束に収まった。
「ねぇ……」
どこからか声が聞こえたような氣がする。隣の美少女のあたりから。まさか。また僕の妄想かな。
しかし、それは妄想ではなかった。少女はレネが聴こえなかったのかと思ったのか、もう少しはっきりと話しかけてきた。
「あなた占い師なの?」
神様! 彼女が僕に話しかけている。ありがとうございます。このチャンスを大切にします。レネは嫌われないように、慎重に、真剣に答えた。
「いえ、本職は違うんですが、でも、占いもします。友だちにはいつも一枚だけ引いてもらいます。よくあたるって言われますよ」
少女が、美しい紅い唇をほんの少し動かして微笑んだ。スカートの衣擦れがして、もっとこちらに向き直った。あ。自己紹介しなくちゃ。
「ああ、僕はレネ・ロウレンヴィルといいます」
少女は、はっきりと笑って答えた。
「わたしは、エリザベート・フォアエスターライヒよ。……一枚引かせてくれる?」
レネは心から嬉しく思った。他のどんなこともレネは人並み以下だったが、カードの腕前だけは誰もが褒めてくれる。パピヨンですら、僕のカードは天下一品だって保証してくれるぐらいなんだから。
レネは頷くとカードを切った。先程カードを拾ったときよりももっと早く、華麗だった。もちろん、このパールホワイトの髪と輝く二色の瞳を持つ美少女に自分をよく印象づけるためである。美しく輝く金箔押しのカードの扇が少女に差し出される。エリザベートの美しい指先が、微かに震えながら一枚のカードを抜き取った。ゆっくりと表に返される時の永遠にも思える時間。車輪が目に入る。おお。
「これは?」
「『運命の輪』。正位置ですね」
「どういう意味かしら?」
「どんなことも必然というカードです。必要な時に、必要なことが起こり、必要な時に必要な人と出会う」
レネは、その後に「僕とあなたがここで出会った事も、運命ってことなんです」と続けようとした。この状況を利用するのではなく、これこそが運命なのだと思ったから。マドンナの天上の碧とカルメンの情熱の紅。二つの輝く瞳がふふっと優しく笑った。運命の女神がようやくレネに微笑みかけたかのように。
「失礼」
その無粋な、けれど完璧なマナーに則った声が聞こえて来たのはその瞬間であった。
レネは、呆然と声の方を見た。この暑いのにきちっとジャケットを着込んだ若い青年だった。そして少女に話しかける。
「こちらの紳士は、おまえの知り合いなのか?」
「さあ、どうかしら」
エリザベートがそう答えたので、青年は憤慨したように正面の席に腰を下ろした。
「すこし、話を聞きたい。あんた、エミリーとは、どういう関係なんだ」
その剣幕があまりに激しいので、レネは少し腹が立った。イギリス人って、どいつもこいつも警官みたいだ。誰なんだろう、この人。それに……。
「エミリーって?」
稔は、エレベーターを使いたくなかったので、わざわざ建物の反対側まで歩いてエスカレータを探した。ようやくお目当てのカフェにたどり着いた彼は、入り口で目を疑った。さっきのサツ野郎、こともあろうにブラン・ベックを尋問しているぞ。ってことは、あいつはあんまり優秀じゃないな。ブラン・ベックって犯罪を犯す、最後の人間ってヤツじゃないか。英語の文法風に言えば。
「とぼけるなよ。もしかして、あんた薔薇十字……」
そういって青年が立ち上がったとたん、テーブルが揺れて、ガチャンという甲高い音がした。
「あ」
レネの前にあった水の入ったグラスが、テーブルの上に倒れていた。呆然とするレネと青年が眺めている間にテーブルから零れ落ちた水は、レネの足にかかった。あちゃ~。稔は面白がって先行きを眺める。
レネの隣に座っていた白い髪の少女がバッグからすばやくハンカチを取り出して差し出した。
「これを使って」
警察関係と稔が見立てた青年は、慌てて倒れたコップをもとに戻した。少女はきつく非難した。
「ほんとうに、がさつで役立たずなひとね。この人とは、たまたま席が隣になったので、すこしお喋りしていただけよ」
青年ははっとしたようだが、レネの方もがっかりした。たまたま隣になっただけ。この青年はエリザベート嬢とかなり親しそうだ。僕の運命の輪はどうなっちゃったんだろう。
「すまない、失礼をした」
青年の謝罪に、レネは必死に作った笑顔で、いいですよ、と答えるしかなかった。
「それは、返してくれなくていいわ。ごめんなさいね」
そう言って、レネの手の中の濡れたハンカチを一瞥すると、エリザベートは軽い会釈をしてから、さっさと歩き出した。青年が慌てて後を追う。
稔は、少女が自分の横を通る時に改めてその顔をちらりと見た。へぇ。こりゃブラン・ベックがぽうっとなる典型的なタイプだね。
「おい、どこに行くんだ」
追って来た青年も稔とすれ違う。出て行く二人を背中越しに一瞥してから、肩をすくめると稔は項垂れているレネのもとに歩いていった。
「なんだよ、ブラン・ベック。またかよ」
「なんて綺麗な人なんだろう、ヤス、見ました? あの瞳を」
「ん? ああ、もちろん。片っぽだけカラーコンタクト入れるなんて、自意識過剰の変な女だな。ありゃ、ギョロ目の別れたコブラ妻より厄介だぞ」
「なんて失礼な事を言うんです。あれは、オッドアイって言うんですよっ!」
「で? また記録更新しちゃったの?」
ドミトリーに戻ると、他の三人はもう戻っていた。蝶子は、一目でレネが再び失恋したのに氣がついた。蝶子の鋭い指摘にレネは肩を落とし、手に持っていた白いハンカチを見つめてため息をついた。
「もしかしたら、運命の女性だったかもしれないのに。でも、あの青年とはずいぶん親しそうだったから……」
「って、そのサツ野郎に尋問されていたじゃないか。ああいうのとは、関わらない方がいいって」
「どうしてヤスはそうやって勝手に決めつけるんですか」
蝶子はレネが大切に握りしめている白いハンカチに手を伸ばした。
「ちょっと見せて」
「え。いいですよ。どうぞ」
彼女はその白い小さな布をそっと拡げた。
「ヤスの言う通りね。このハンカチの持ち主が、大道芸人と結ばれるとは思えないわ」
「どうしてですか?」
「見てご覧なさいよ。このレースの部分、手刺繍よ。ついているタグを見ると、スイスのザンクト・ガレンで作らせたものみたい。ま、350スイスフランは下らないわね。これを返さなくていいって言ったんでしょ。とんでもない大金持ちだわ。それに、この香水……」
「いい香りですよね。お花でしょうか」
「『リリー・オブ・ザ・バレー』よ。英国王室御用達フローリスのものじゃないかしら。鈴蘭は可憐に見えるけれど、猛毒があるんですって。触らぬ神に祟りなしっていうわよ」
レネががっかりし、稔は高らかに笑った。
「それはそうと、お前はどうしていたんだ?」
稔の質問に、蝶子の顔は少しだけ曇った。
「大英博物館に行ったのよ」
「つまんなかったのか?」
「そんなことないけれど、どうして?」
「なんか歯切れが悪いからさ」
なめたらダメね。すっかり見透かされている。
「ちょっとね。出会った人に芸術の風化について言及されちゃったの」
それを聞いて、ヴィルの眉が動いた。彼はポケットから一枚のメモを取り出すと、蝶子に渡した。
蝶子は、目を疑った。フルートの修理とチューニングの専門店の住所だった。
「どうしてわかったの?」
「たまたまだ。前から氣になっていた」
蝶子は、肩をすくめて、それからいつもの笑顔になった。
「ありがとう、明日、行ってくるわ」
稔が横から覗き込んだ。
「ふ~ん。サウスエンドか。じゃ、明日はこの近くで稼ぐか」
四人は、それからいつもの通り、酒盛りを始めた。
(初出:2012年10月書き下ろし)