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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012

Category:  - 連載小説は古い順に表示されます。小説を最初から読みたい方のための設定です。それ以外は新しい順です。


Posted by 八少女 夕

scriviamo! 2014のお報せ

お知らせです。昨年当ブログ一周年企画scriviamo!を開催した所、予想を超える多くの皆様に素晴らしい作品をお寄せいただき盛り上げていただきました。あれから一年経ちましたが、あの時のワクワクする氣分に未だにやられております。アンケートでもリップサービスだとしても「またやってほしい」というご意見が大半でしたので、懲りずに今年も開催することにいたしました。そういうわけで、皆様のご参加をお待ち申し上げております。ぜひぜひ一緒にお祭りを盛り上げてくださいませ。

scriviamo!


scriviamo! 2014の作品はこちら

scriviamo!」というのはイタリア語で「一緒に書きましょう」という意味です。

私、八少女 夕もしくはこのブログに親近感を持ってくださるみなさま、ずっと飽きずにここを訪れてくださったたくさんの皆様と、作品または記事を通して交流しようという企画です。あ、創作関係ではないブログの方、コメントがはじめての普段は読み専門の方の参加も大歓迎です。昨年も、この「scriviamo!」がきっかけで親しくなってくださった方が何人もいらっしゃいます。特別にこの企画のために新しく何かを用意しなくても構いません、とにかくご参加くださいませ。

では、参加要項でございます。


ご自身のブログ又はサイトに下記のいずれかを記事にしてください。(もしくは既存の記事または作品のURLをご用意ください)

  • - 短編まはた掌編小説(当ブログの既発表作品のキャラとのコラボも歓迎)
  • - 定型詩(英語・ドイツ語・または日本語 / 短歌・俳句をふくむ)
  • - 自由詩(英語・ドイツ語または日本語)
  • - イラスト
  • - 写真
  • - エッセイ
  • - Youtubeによる音楽と記事
  • - 普通のテキストによる記事


このブログや、私八少女 夕、またはその作品に関係のある内容である必要はありません。テーマにばらつきがある方が好都合なので、それぞれのお得意なフィールドでどうぞ。そちらのブログ又はサイトの記事の方には、この企画への参加だと特に書く必要はありません。普段の記事と同じで結構です。書きたい方は書いてくださってもいいです。ここで使っているタグをお使いになっても構いません。

記事がアップされましたら、この記事へのコメント欄にURLと一緒に参加を表明してください。鍵コメでも構いません。「鍵コメ+詩」の組み合わせに限り、コメント欄に直接作品を書いていただいても結構です。その場合は作品だけ、こちらのブログで公開することになりますのでご了承ください。(私に著作権は発生しません。そのことは明記します)

参加者の方の作品または記事に対して、私が「返歌」「返掌編」「返イラスト(絵は描けないので、フォトレタッチの画像です。念のため)」「返事」などを書き、当ブログで順次発表させていただきます。Youtubeの記事につきましては、イメージされる短編小説という形で返させていただきます。(参考:「十二ヶ月の歌シリーズ」)鍵コメで参加なさった方のお名前は出しませんが、作品は引用させていただくことがあります。

過去に発表済みの記事又は作品でも大丈夫です。

期間:作品のアップ(とコメント欄への報告)は本日以降2014年2月28日までにお願いします。こちらで記事にする最終日は3月10日頃を予定しています。

皆様のご参加を心よりお待ちしています。



【注意事項】
小説には可能なかぎり掌編小説でお返ししますので、お寄せいただいてから一週間ほどお時間をいただきます。

小説以外のものをお寄せいただく場合で、返事の形態にご希望がある場合は、ご連絡いただければ幸いです。(小説を書いてほしい、エッセイで返してくれ、定型詩がいい、写真と文章がいい、イメージ画像がいいなど)。

ホメロスのような長大な詩、もしくは長編小説などを書いていただいた場合でも、こちらからは詩ではソネット(十四行定型詩)、小説の場合は5000字以内で返させていただきますのでご了承ください。

当ブログには未成年の方も多くいらっしゃっています。こちらから返します作品に関しましては、過度の性的描写や暴力は控えさせていただきます。

同時にStella参加作品にしていただいても構いません。その場合は、Stellaの規定と締切をお守りいただくようにお願いいたします。もちろん、私の参加していない他の企画に提出するのもOKです。(もちろん、過去に何かの企画に提出した既存作品でも問題ありません)

なお、可能なかぎり、ご連絡をいただいた順に返させていただいていますが、準備の都合で若干の前後することがありますので、ご了承くださいませ。

嫌がらせまたは広告収入目当の書き込みはご遠慮ください。

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締め切り日を過ぎましたので、この記事へのコメント受付を中止しました。
出来上がりの連絡等は、最新の記事のコメント欄やメッセージなどへお願いします。
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Category : scriviamo! 2014

Posted by 八少女 夕

【小説】それでもまだここで

scriviamo!



「scriviamo! 2014」の第一弾です。ポール・ブリッツさんは、拙作『マンハッタンの日本人』 に想を得た掌編をとても短い時間で完成させてくださいました。ありがとうございます! 

ポール・ブリッツさんの書いてくださった小説『歩く男』

ポール・ブリッツさんは、オリジナル掌編小説をほぼ毎日アップするという驚異的な創作系ブロガーさんです。その創作パワーにはいつも圧倒されています。そして、目の付け所がちょっとシニカルでいつもあっというような小説を書いていらっしゃいます。創作系としてはとても氣になる存在のお方です。

お返しの掌編小説は、「マンハッタンの日本人」の世界を再び。そして、自分で書いておきながら存在すらも忘れていたのにポール・ブリッツさんに掘り起こしてもらったあの人も登場……。



「scriviamo! 2014」について
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それでもまだここで — 『続・マンハッタンの日本人』
——Special thanks to Paul Blitz-san


 今年のニューヨークは雪が多い。店の外は灰色に汚れた雪が通行の邪魔をしている。その上を新しい雪が降り、少なくとも新年らしい色に変えている。一月二日。美穂はため息をついた。日本だったらあと二日はこたつでのんびりと出来るのにな。その大衆食堂ダイナーにも多くの客は来なかった。昼時を過ぎて調理師も客も去り、誰もいなくなった店内で美穂は暇を持て余していた。茶色い古びたソファと安っぽいランプがこの店の格を表している。洗濯はしたもののどこか黄ばんだエプロンをしている自分も、同じ格なのだろうなと思った。

 去年のお正月には、少なくともニューヨークの銀行で働くキャリアウーマンであるというのは嘘ではなかった。たとえ仕事の内容が単なる事務でも。五番街のオフィスで摩天楼を眺めながら朝食を食べて優越感に浸っていたものだ。

「人員整理が必要になってね。君は今週いっぱい働いて、それで終わりにしてくれ」
美穂は突然ニューヨークのもう一つの名物、失業者になってしまった。

 生活の問題があると訴えた美穂に上司は冷たく言った。
「子供がいて、どこにも行けない人だって失業しているよ。君は独り者だし、国に帰ればけっこういい暮らしが出来るだろう?」

 それは正論だ。それに日本みたいに、正社員をクビにするのが難しい国でないこともわかっていた。アメリカにいなくてはならない理由は特にない。でも、留学をいい成績で終えて、H-1Bビザ(特殊技能ビザ)を申請してもらって働けることになった時に、自分はアメリカでずっと暮らせるのだと思い込んだ。

 けれど、美穂は移民ではなかった。会社が不要と言えば、その存在意義も吹き飛ぶ短期滞在者だった。日本に帰ればよいのかもしれない。絶対的に無条件で自分を受け入れてくれる国に。でも、帰ったらみんなが訊いてくるだろう。どうして帰ってきたの。向こうでは何をしていたの。自分が築いていたものが砂上の楼閣だったと言われたくなかった。口うるさい母親に、それみたことか、自分の間違いを認めて大人しく結婚相手でも探せと説教されるのがたまらなかった。

 その結果が、このしがないダイナーでのウエイトレスへの転職だった。ビザはH-2A(季節労働者)に変わった。べつにどうでもいいけれど。

 エプロンのポケットには、今年も母が送って来た近況が入っている。一年分大きくなった姪と甥が身につけているのは、ウォルマートで買ったセーター。去年のブルーミングデールズの服とは雲泥の差だ。せめてメイシーズで買えばよかったけれど、送料も考えるとそれは無理だった。彼らは同じように微笑んでいる。安物でも派手な色合いは彼らの氣にいったのだろう。卑屈に思うことなんかないのに。

 ドアが開いて客が入ってきた。安物のジャケットを身につけた黒髪で特徴のない白人だった。
「ハロー」
美穂は反射的に口を開いた。日本語だと「いらっしゃいませ」と言う所だが、この国にはそれに当たる言葉がない。同僚のリサは何も言わないが、美穂はせめて何かを言いたくていつも「ハロー」と言う。

 男は訝しげに美穂を眺めた。
「まさか」

「お食事ですか、それともお茶ですか」
美穂が訊くと、男ははっとして、少し下を向いていたが、やがて顔を上げた。
「スペシャルを。コーラで」
飲み物と料理を格安の値段で提供するメニューだった。このダイナーでは、「残飯整理」と陰で呼んでいるものだ。

 美穂は、男が自分をチラチラと見るのに氣がついた。男には全く見覚えがなかった。いったいなんなのかしら。美穂が温めたポテトガレットと肉の大して入っていないシチューの皿、多少硬くなったパンとコーラを運ぶと、男は小さく「ありがとう」と言った。

 それから、わずかの間を空けてから男は訊いた。
「君、去年の今ごろ、五番街にいなかったかい?」
 
 美穂はびっくりしてステンレスの水差しを抱えたまま立ちすくんだ。
「どうしてご存知なんですか」

「憶えていなくても無理はないけれどね。去年、僕は君を道で追い越したんだ。失業中でね。外国人が国に帰ってくれればこっちに職が回ってくるのにって、思ったのさ。それから、しばらくしてなんとか仕事を見つけたんだけれど、今また元の木阿弥で求職中。去年のことを思い出しながら、労働省に行ったその帰りにここで君にまた会うなんて、いったいどんなめぐり合わせなんだろう」

 美穂は戸惑ったまま、言葉を探した。ええと、これって「なんてすてきな偶然でしょう」ってシチュエーションなのかな、それとも「日本に帰っていなくってごめんなさい」ってことなのかな。少なくとも、今回も私には職があって、この人が失業者なのだとしたら……。

 その想いを見透かしたように、男は頬杖をついて言った。
「訊いてもいい? なぜここで働いてまでアメリカに居続けたい?」

 ダイナーには他には客もいなくて、忙しいのでまた別の機会に、と逃げることも出来ない。美穂は少し考えてから口を開いた。
「帰れないの」
「なぜ? 旅費がないってこと? それとも一度海外に出ると帰れない社会なのかい?」

 美穂は首を振った。確かに大して金銭的余裕はないが、片道運賃くらいはなんとかなる。出戻ったら両親とくに母親にはいろいろ言われるだろうが、結局は受け入れてくれるだろう。仕事だって、現在の時給2.8ドルと較べたら、田舎でももっとましな給料がもらえるだろう。帰れないのではない、帰りたくないのだ。

「ニューヨークで一人で生きているってことだけが、私のプライドを支えているみたい。それがダメだったとわかったら、もう立ち直れなくなりそうなの」
「でも、ウェイトレスの仕事なら東京にでもあるだろう?」
「うん。本当は、銀行の事務の仕事だって、日本でしていたの。でも、ここに来れば、私はもっとすごい人間になれると思っていたの。もっと素敵な人とも出会えるって信じていたし」
「で?」
「私は私だったし、あまり知り合いもいない。恋も上手くいかなかったし、今は生活だけで手一杯でニューヨークを楽しむ余裕なんかないわね」

「僕はニューヨークで生まれ育ったんだ。成功者にはエキサイティングな街だけれど、そんな思いをしてまで居続けたいというのはわからないな。日本は生存が脅かされるような国じゃないだろう? むしろこの成功するのものたれ死にも自由にどうぞって国より、生きやすいんじゃないか?」
「そうね。言う通りかもしれない。戦争のある国から逃げてきたわけじゃない私が、こんなことを言ってしがみついているのは、滑稽かもしれない。でも、そうさせてしまうのがアメリカって国じゃない?」

 男は黙って肩をすくめた。美穂は話題を変えてみることにした。
「どんな仕事を探しているの?」

 男はパンと音を立てて、持っていた求人紙を叩いた。
「なんでもいいよ。最初は証券会社やアナリストなんてのも探したけれど、今はドラックストアの店員でもいいんだ。ホームレスじゃなければ」

 美穂はそっとレジの脇の紙を指差してみた。
「キッチンスタッフ募集。詳細は店主まで」
いつのものだかわからない丸まった油汚れの着いた紙に汚い字で書かれている。男は目を丸くした。
「ここ、入れ替わりが早いの。だから、募集していない時にもこのままなんだって。でも、今は本当に探しているの。給料はロクでもないけれど、最後の手段にはいいかも」

 男はもう一度肩をすくめた。
「考えてみるよ。他に何も見つからなかったらね……」

 コインをかき集めてようやく代金を払うと、男は入ってきた時よりも少しだけ柔らかい表情で美穂に笑いかけた。

 美穂は男が出て行った雪景色の街をしばらく見つめて、それから彼のきれいに食べきった皿と氷だけが残ったコーラのグラスを片付けた。あ、名前も訊かなかった。でも、またいつか会うかもしれないわよね。二度ある事は三度あるって言うし。

 ニューヨークで迎える五度目の正月。美穂は今年がいい一年になるといいなと思った。


(初出:2014年1月 書き下ろし)

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驚くべきことに。これを発表したその日の内に、ポール・ブリッツさんがさらに返掌編を書いてくださいました!

ポール・ブリッツさんの書いてくださった返々掌編『食べる男』

すご〜い。しかも、私のイメージしていた方向性とぴったり! こうなったら「scriviamo! 2014」が終わる頃に、さらに続きを書いちゃおうかな〜。

ポールさん、本当にありがとうございました!
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Category : scriviamo! 2014
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】君に捧げるメロディ — Featuring『ダメ子の鬱』

scriviamo!


「scriviamo! 2014」の第二弾です。ダメ子さんは、うちのオリキャラ結城拓人と園城真耶を「ダメ子の鬱」に出演させてくださいました。ありがとうございます!

ダメ子さんの書いてくださったマンガ『コラボとか』

ダメ子さんの「ダメ子の鬱」はちょっとネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガです。かわいらしい絵柄と登場人物たちの強烈なキャラ、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーがクセになります。この世界に混ぜてもらえるなんて、ひゃっほう!

お返しは、この設定を丸々いただきまして、掌編を書きました。最後の方に拓人がどの女学生にぐらっときたかが出てきますよ。そして、出てきた音楽の方は、追記にて。

そして、「拓人と真耶って誰?」って方もいらっしゃいますよね。ええと、大道芸人たち Artistas callejeros樋水龍神縁起 Dum Spiro Speroに出てくるサブキャラなんですが、大道芸人たち 外伝なんかにもよく出てくるし、かといっていきなりこれ全部読んでから読めというわけにはいかないですよね。この辺にまとめてあります。ま、読まなくてもわかるかな。



「scriviamo! 2014」について
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君に捧げるメロディ — Featuring『ダメ子の鬱』
——Special thanks to Dameko-san


 門松や正月飾りが片付けられると、街は急に物足りなくなる。クリスマス、年末とコンサートに終われ、親しい友人や家族とシャンパンで祝った年明けも過ぎ、忙しい時間が飛ぶように過ぎた後、演奏家たちにはつかの間の休息が許される。そう、二日、三日。そしてまた、リハーサルと本番に追われる日が追いかけてくる。

「それに、また撮影だろ?」
拓人が笑った。そう、撮影。初夏の新色、恋の予感だったかしら。口紅の新製品のポスターとCM撮影は明後日だ。まだ冬なんだけれど。それから、チャリティー番組の密着取材は拓人と一緒だ。

 昨年は忙しくともウィーンのニューイヤーコンサートに行く時間もあったが、今年はそれどころではなかったので、日本にいた。スケジュールが合わず卒業以来出たことのなかった同窓会に、今年は偶然二人とも出られそうだったので、拓人と一緒に参加することにしたのだ。二人で来るならぜひ演奏してほしいと頼まれたので、真耶はヴィオラを持ってくることになった。

「それにしても、まだ早すぎるよ。夕方から出て来ればよかったな」
拓人が退屈した顔で言う。久しぶりに街に出るのだから早めにと言い出したのはそっちなのにと思ったが、退屈なのは真耶も同じだった。クリスマスと正月の商戦で疲れきってしまったのか、街はひっそりとして投げ売りになったセールのワゴン以外に見るものもなかった。二人はやけっぱちになって、あたりを闇雲に歩いたので、少々疲れてもいた。

「ずいぶん寒いわね。どこか時間をつぶす所を探さないと」
真耶がふと見ると、拓人は高校生たちを見ていた。
「地元の女の子たち、発見! 可愛いぞ」
「はいはい。またはじまった」

 それは高校の正門前で、大きな看板がかかっている横だった。
「文化芸術鑑賞会 クラッシック音楽のひと時……ねえ」
「どうやら、あの子たちはこの高校の生徒みたいだね。なかなか悪くないんじゃないか?」
「こんな所でナンパしようってわけ? 児童福祉法違反で捕まるわよ」

「違うよ。悪くないって言ったのは、暇つぶしの方。この鑑賞会、二階席は一般にも公開しているらしいから」
「それは、失礼。無料のコンサートね。誰が演奏して、どんな曲目なのかによるわよね。あら、あの子なんていいじゃない、ちょっと訊いてくるわ」
そういうと、真耶は近くにいた男子生徒の方につかつかと歩み寄った。

 拓人は肩をすくめた。
「人のことを言えるか。一番いい男をわざわざ選びやがって。お前こそ、捕まるぞ」

 男子生徒は楽器らしきものを持っている真耶を見て演奏者の一人かと思ったようだったが、彼女はそれを否定し、首尾よくプログラムを手にして戻ってきた。それを見て拓人は少し意外そうに訊いた。
「なんだ、もういいのか?」
「いいのかって、出演者を確かめただけじゃない。あなたと一緒にしないでよ。相手は子供だし。それにああいうタイプはあなた一人で十分よ」

「それはどうも。でも、あの子、かなりの人気者みたいだぞ。お前と話しているだけで心配そうに見ている女の子たちがあんなに……」
「あらら、そうみたいね。それはそうと、この出演者、見てよ。こんなところで再会とはね」

「ん? げげ。このバリトンの田代裕幸って、あの……」
十年近く前だがつきあっていた真耶を振って去った男の名前を見て拓人は苦笑した。
「それにこのピアニストの名前も見て。沢口純……」
「誰だそれ?」
「また忘れたの? 以前わが家のパーティであなたに喧嘩を売ったあげく泥酔して帰っちゃった人でしょ」
「あ? あいつか。そりゃ、すごい組み合わせだ。どうする、寄ってく?」
「あれ以来あの人たちには全然会っていなかったもの、今どんな音を出しているのか氣にならない?」
「はいはい。じゃ、行きますか」

 二人が話している所に、帽子をかぶった女生徒が近づいてきた。
「あ、あの、結城拓人さんに園城真耶さんですよね。サインいただいてもいいですか?」

「え。ちよちゃん、この人たち知っているの?」
遠巻きにしていた女の子たちも近づいてきた。
「え。もちろん。二人ともクラッシック界のスターだもの。それにほら、『冬のリップ・マジック』のコマーシャルにも……」
「ええ! あ、本当だ。あの人だ~」

 よく知らなくても有名人だと聞けばサインをもらいたがる生徒たちに苦笑して二人は肩をすくめた。
「こんなところをまたあの沢口が見たら逆上するだろうな」
「さあ、どうかしらね」

 多くの生徒は参加の強制されるクラッシック音楽鑑賞会を、つまらないと思い逃げだしたいと思っていたに違いない。けれど、観客席に(よく知らないながらも)その業界での有名人が来たというだけで生徒たちの会場に行く足並みは軽やかになった。生徒のいる一階席はきちんと定刻にいっぱいになり、一般に開放された二階席もそれなりに埋まった。

 ところが、肝心の観賞会がなかなか始まらない。困ったように教師が走り回る音が聞こえて、生徒たちも浮き足立ってきた。

 前方で教師と話をしていたのは先ほど真耶が話しかけた男子生徒とサインを最初にもらいに来たちよちゃんと呼ばれていた少女、それから数人の友人たちのようだった。それから教師に向かって二階席にいる拓人と真耶の方を示した。

 それから、彼らが一緒に二階席にやってきて、教師が頭を下げた。
「はじめまして。お二人のお名前はよく存じ上げております。いらしていただき大変光栄です。私はこの高校で音楽教師をしております山田と申します。今回の観賞会の責任者なのですが、実は大変困った問題が持ち上がりまして」
真耶と拓人は顔を見合わせた。それから続きを促した。

「実は、田代さんと沢口さんは本日大阪からこの会場に直接駆けつけてくださる予定だったのですが、新幹線が停まっていて運転再開のめどが立たないでいるというのです。これだけ会場も埋まっているのですが、お詫びして中止にしようと話していた所、この生徒たちがどうしてもあなた方の演奏を一曲でも聴きたいと申しまして。突然で大変失礼なので、お断りになられるのを承知で、こうして参ったのですが」

「ほら、さっき『聴かせられなくて残念よ』って、言っていたから、もしかしたら弾いてくれるんじゃないかなって」
「茂手くん!」
教師が慌てて男子生徒を制したが、真耶は笑って言った。
「私はかまわないわよ。でも、拓人が伴奏してくれるかは……」
「するする。可愛い女の子たちの点数稼ぎたいし」

 生徒たちは大歓声をあげた。真耶はヴィオラを持ち上げた。
「では、お引き受けしますわ。今夜演奏する予定で用意してきた曲でいいでしょうか」
「もちろんです」
山田はホッとした様子を隠せなかった。

 同窓会のために準備してきたのはシューベルトの「アルペジオーネ・ソナタ」。アルペジオーネという六弦の古楽器のためのソナタだが、チェロやヴィオラで演奏される。拓人と真耶が二ヶ月に一度開催しているミニ・コンサートでも演奏することになっているので、広いホールで演奏するのは二人にとっても悪いことではなかった。哀愁あふれる美しい旋律で、コンサート受けはいい曲だが、普段クラッシック音楽に馴染みのない高校生たちには敷居が高い。それでクラッシック音楽に慣れさせるために、まずはフォーレの「夢のあとに」で反応を見、続いてクライスラーの「美しきロスマリン」を弾いた。どちらもCMなどでよく使われるので馴染みがあるはずだった。それからシューベルトを演奏したところ、生徒たちも慣れたようで熱心に聴いていた。

「悪くない反応だったな」
短い時間だったが、大きな拍手をもらい、主に女の子たちにサインをせがまれて拓人はかなりご機嫌だった。真耶もまんざらでもない様子で、サインをしたり楽器に興味を持った生徒たちと話をしてから、別れを言って同窓会の会場へと向かっていた。

「田代君と沢口氏に会えなかったのは残念だったけれど、楽しかったわ。あなたはなおさらでしょう? 好みの女の子もいたみたいだしね」
「ん? わかった? さて、どの子でしょう。一、ツインテールで胸の大きかった子。二、お前が例の茂手くんと話していた時に泣きそうな顔をしていた茶髪の子。三、僕たちのことを始めから知っていたちよちゃん」

 拓人が茶化して訊いてきたので、真耶はにっこりと笑った。
「誤摩化してもダメよ。あなたのお目当てはね。その三人じゃなくて、みんなの後ろにいた、おかっぱ頭でピンクのマフラーの子」
「げっ。よく氣付いたな」
「当然でしょ。あなたの好みなんてお見通しよ。あの子、目もくりくりしていて、けっこう可愛いのに、いつも自信なさそうに下を向いていて、あなたのサインも欲しそうだったのにあきらめていたし」
「そ。あの子のために頑張って弾いたんだ。もしサインをねだりに来たら、絶対に名前を訊こうと思っていたのにな」

 真耶はしょうもないという風に頭を振ると、肩をすくめる拓人を急がせて同窓会の会場であるホテルへと入っていった。

(初出:2014年1月 書き下ろし)

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Franz SCHUBERT: Sonata for Cello and Piano, in A minor D.821 (1824) "Arpeggione"
ヴィオラとピアノではいい動画が見つからなかったので、チェロとピアノ版です。


こちらは今井信子さんのヴィオラの動画。「夢のあとに」と「美しきロスマリン」はこちら。
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Category : scriviamo! 2014
Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】リナ姉ちゃんのいた頃 -6- Featuring『ハロー ハロー ブループラネット』

scriviamo!


「scriviamo! 2014」の第三弾です。ウゾさんは、うちのオリキャラ、リナ・グレーディクを「いかれた兄ちゃん」シリーズにラジオ出演させてくださいました。ありがとうございます!

ウゾさんの書いてくださった掌編『ハロー ハロー 乳製品の国よりスパイシーを込めて』

ウゾさんは中学生のブロガーさんなんですが、とてもそうは思えない深い掌編と異様な博識さで有名なお方です。この企画にも二年連続で参加くださっている他、普段からいろいろとお世話になっています。

お返しの掌編でも「いかれた兄ちゃん」に登場いただいていますが、この兄ちゃんの魅力はなんとしてでもウゾさんのブログで「ハロー ハロー」のシリーズで真の姿を読んでみてくださいね。

そして、「そもそもリナ・グレーディクって誰?」って方のために。リナ姉ちゃんのいた頃シリーズは、もともとウゾさんのリクエストから生まれた作品です。スイスからの交換留学生、リナ・グレーディクが突然ホームスティすることになった家の三男、中学生の遊佐三貴が右往左往する比較文化小説です。



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リナ姉ちゃんのいた頃 -6- 
Featuring『ハロー ハロー ブループラネット』
——Special thanks to Uzo-san


 日本に来る交換留学生なんて、そんなに珍しい存在じゃないと思う。もちろん我が家にとっては青天の霹靂だったけれど。父さんが言うには、斉藤専務はこれまでに五人くらいの交換留学生をホームステイさせていたんだって。奥さんが高校生の時にアメリカに交換留学に行ってすごく楽しい滞在をしたんだって。だから少しでもお返しをしたくって、日本にはホームステイの受け入れ先が少ないからって率先して協力をしていたそう。そして、リナ姉ちゃんの名付け親ととても親しかったから、姉ちゃんが来るのを楽しみにしていたらしい。ところが姉ちゃんが来る直前になって、奥さんが入院することになり、急遽新たな受け入れ先として白羽の矢が立ったのが、部下である父さんだったんだそう。

 リナ姉ちゃんの故郷はスイスのグラウビュンデン州、カンポ・ルドゥンツ村。人口2000人しかいなくて、牛や山羊が道端を歩いているような所らしい。そんな田舎にも日本からの交換留学生がいたんだって。だから、この1300万人も人の住んでいる東京に、いや、1億2700万の人口のこの日本にどれだけ交換留学生が来ているか、想像もつかない。

 それなのに、なんで姉ちゃんがその代表としてラジオ局に招ばれるの?

 姉ちゃんは朝から大騒ぎだった。例によって前夜からファッションショー。勝負服なので赤を着るんだって。その理屈はよくわからないけれど、逆三角形のシェイプがカッコいい赤地に黒でアクセントの入った革のジャケットとスカートにしたみたい。

「どうしよう。髪型が決まらない。新しいカットソー、買っておいてよかった! それにストッキング、蝶柄と孔雀の羽模様とどっちがカッコいいと思う?」
僕はため息をついてから指摘した。
「姉ちゃん。オンエアーされるって言っても、ラジオだからどんな格好をしていても視聴者には見えないよ」
「そんなこと、問題じゃないわ!」
じゃあ、どういう問題なのさ。

 とにかく、僕は例によって姉ちゃんの日本語の通訳としてラジオ局まで同行することになった。いま一番クールなラジオ局「ブループラネット」に行けるんだ! 栄二兄ちゃんはものすごく羨ましそうで、僕の代わりに行きたがっていたけれど、兄ちゃんの高校で生徒会の大会があるので行けなかった。いちおう、これでも生徒会長だしと悔しそうだった。

 僕は知らなかったけれど、東京にある「ブループラネット」は支局なんだって。なんで「地球支局」って書いてあるのか理解できないけれど、とにかく時間通りに僕と姉ちゃんはちょっとアバンギャルドなインテリアの建物に入っていった。リナ姉ちゃんはぶっ飛んだ性格だけれど、時間だけは厳守する。これはありがたいことだよね。

 僕たちを迎えてくれた人たちは、日本人もいたけれど、外国人なんだかちょっとわかりかねるような微妙な顔立ちの人もいた。変な色のドウランを塗っている人もいたけれど、あれは何のコスプレなんだろう? 僕たちは「第一スタジオ」と日本語となんだかよくわからない記号みたいなのが書かれた部屋に連れて行かれた。ガラス越しに中で喋っている人を見ると、なんかすごいテンションだった。

「あれが今日のDJ、通称《いかれた兄ちゃん》だよ」
ディレクターが、呼びかけるのに差し障りがありそうな愛称をさらりと言った。僕はこれが冗談なのかどうか判断できなくて姉ちゃんを見たけれど、姉ちゃんはケラケラと笑っていた。いいのかなあ。

 で、僕たちは音楽の間に短くDJ《いかれた兄ちゃん》と引き合わせてもらって、それからすぐにオンエアーとなった。

 いつも姉ちゃんには驚かされる。絶対にあがったり、オロオロしたりしないんだね。そりゃ中学生の僕よりは年上だけれど、まだ16歳なのにどうしてこんなに肝が据わっているんだろう。

 DJにどこから来たとか、なぜ日本にいるのとか話すのも堂々としている。だけど、なんで日本で一番氣にいった場所が100円ショップなんていうのかなあ。

 次に姉ちゃんが話しているのは、日本人がスイスに関する話題でいつもハイジのことを持ち出すこと。うん、確かに。でもさ、姉ちゃんの住んでいるグラウビュンデン州ってハイジで有名なところじゃない。住んでいる谷は、ハイジのおじいさんの出身地だって教えてくれたじゃない。

「ヘィヘィヘィィィィ、キュートなエンジェルちゃん。視聴者から質問が来ているぜぃ。気が向いたら答えてやってくれぃベイベー」
そういってDJはFAXの紙を取り出した。

匿名希望 遊
斉藤専務ってどんな人だか知っていますか。あの人には逆らわない方がいいって噂を聞いたんですけれど、本当ですか



淡々と読み上げるDJの言葉を聞いて、僕はぎょっとした。「あの人には逆らわない方がいい」って言ったのは母さんだ。それを知っている「遊」ってまるで僕みたいじゃないか。ガラス越しだから近くには行けないけれど首を伸ばして紙を見る。げっ、あの金釘流の字は、栄二兄ちゃん! なんて質問するんだよっ。もし、斉藤専務がこの放送を聴いていたら……。いや、聴いているに決まっているじゃん! これを止めなかったら、後で父さんが専務に怒られる。そして、僕の来月のお小遣いはどうなる? 僕は必死でディレクターに食いついた。あんなことを答えさせないでって。

 ディレクターは慌てて紙に、僕には全然読めない変な記号をいっぱい書いて、それをDJに振りかざした。それはなんらかの効用があったらしくDJは顔色を変えた。

「そうね。秘密と言うか。私もあまり知らないの。でもね…… そうね……」
リナ姉ちゃんが話そうとするのを彼が必死で止めている。でも、なんか変なこと言っているな。

「斉藤専務の代理人って人物から警告が送られてきた」
えええ。そんなこといったら、斉藤専務が悪者みたいに聞こえちゃうじゃない! やばい。どうしよう。

 ああ、願わくは斉藤専務が腹痛でも起こしてトイレに籠っていてくれて、この放送を聴いていませんように! ダメかな。

 胃が痛くなりそうな僕とは対照的にリナ姉ちゃんは終始ご機嫌だった。放送が終わってからDJとスタッフと一緒にオレンジジュースで乾杯して、出してもらったお菓子を楽しそうに食べていた。それから、ふとスタジオの片隅に積まれている「本日の提供 商品」という一角に目を向けた。僕もしょっちゅうコンビニにいくけれど、こんな変なパッケージのカレーはまだ見たことがない。ビキニ姿の小悪魔がカレーのパッケージを持っていて、そのパッケージの中にも同じ小悪魔がいて、それがずっと繰り返されるデザイン。それに相変わらず読めない記号がいっぱい。これどこの国の文字なんだろう。

 でも、姉ちゃんは細かいことは氣にならないみたい。
「ねえ。このレトルトカレー、何味なの? 悪魔が笑っているけれど、そんなに辛いの? 持って帰っていい?」
「リナ姉ちゃんっ!」

「いいともさー。持ってけ、ドロボー」
DJはご機嫌だった。でもさ、姉ちゃん。いくらいいって言われたからって、50食分も持って帰るのはやめようよ。どうせ持てなくて僕に押し付けるんでしょ。


(初出:2014年1月 書き下ろし)
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Category : scriviamo! 2014
Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】彼と彼女と赤い背表紙と — 『息子へ』二次創作

scriviamo!


「scriviamo! 2014」の第四弾です。ヒロハルさんは、息子さんに伝えたい人生を歩むための灯火、掌編集『息子へ』で参加してくださいました。ありがとうございます!

ヒロハルさんの書いてくださった掌編「『息子へ』 其の三 自分のお宝を鑑定したくなったら」

ヒロハルさんはわりと最近お知り合いになったブロガーさんです。普段は、よき旦那さま、そして目に入れても痛くない息子さんのパパ。ブログではたくさんの小説を発表なさっていらっしゃいます。いくつか読ませていただいた作品には、暖かいお人柄がにじみ出て、等身大の人物に共感することが多いです。そして男性心理を研究中の私には、とても参考になります。

さて、お返しの掌編ですが、ヒロハルさんの作品の主人公と出てきた少女をお借りして二次創作しました。ただし、設定を壊さないように、もう一人関係キャラを作りその人物視点の話になっています。「宝の価値を誰かに決めてもらう必要はない」という、ヒロハルさんの息子さんへの教訓ともちょっとリンクする内容になっているかな……?



「scriviamo! 2014」について
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彼と彼女と赤い背表紙と —『息子へ』二次創作 
——Special thanks to Hiroharu-san


 城戸朋美はきれいな少女だった。肌が白くて、まつげが長く、シャンプーのコマーシャルにちょうどいいような綺麗な黒い直毛。柔らかい焦げ茶色の瞳だけがいたずらっ子のように煌めいていた。静かで大人しい優しい子だったけれど、芯があって曲がったことが嫌いだった。高校三年生になった時のクラス替えで、同じ五組になった時は、私は朋美のことを知らなかった。最初の席順で隣になったのは、私が木下姓だったから。

 友達になりたい、自分から強く思ったのは生まれてはじめてだった。教科書を開いて、すっと背中を伸ばしている姿、それとも、エネルギーを持て余して騒ぐ同級生を少し眩しそうに眺める瞳、その高潔な佇まいに私は魅せられた。ひと言も口をきかないうちに、私はこの少女に憧れを抱いてしまったのだ。

「わあ、かわいいお弁当ね。炒り卵の菜の花と、でんぶの桜の樹ね!」
お弁当の時間に、私はそんな風に話しかけた。自分で作ったのと訊くと、朋美は静かに微笑んだ。完璧。理想の美少女! 絶対に友達になろうと思った。そして、それはそんなに難しいことではなかった。隣の席だったし、二日くらい一緒にお弁当を食べているうちに、いつも一緒に行動する友達グループというのはなんとなく決まる。私は前からの友達のグループにさりげなく朋美を入れて、卒業するまでの一年間、同じ仲良しグループで居続けることに成功した。

 そして、卒業しても時には彼女の家に行ってお喋りするくらいに、仲のいい友達ポジションにおさまったのだ。それは柔らかい光が射し込む穏やかな午後で、私たちは進路は別れたものの、お互いの未来について希望を持って語り合っていた。私は大好物のシューアイスを十個持っていったのだけれど、朋美のお母さんが買い物から帰ってきた時には六個に減っていた。

「こんにちは、佳代ちゃん。お祝いを言っていなかったわね、おめでとう、晴れて大学生ね」
「お邪魔しています。ありがとうございます」
「どこか遠くに行くって朋美が言っていたわね。どこなの?」
「仙台です。はじめての一人暮らしだから、親は心配しています」
「大丈夫よ。佳代ちゃんはしっかりしているもの」
朋美はそういってくれたけれど、私は遠くに一人で行くのが少し不安だった。親元を離れて、知らない土地で、朋美みたいに何でも話せる友達もいなくなって、やっていけるのかって。

 朋美のお母さんは、娘そっくりの柔和な笑顔を見せて、娘の意見を後押ししてから「ごゆっくり」といって出て行こうとした。
「あ、忘れる所だった。朋美、これが届いていたわ」
そういって朋美に白い封筒を渡した。

 綺麗な字で書かれた表書きを朋美は訝しげに見て、それから裏をひっくり返した。首を傾げているので、私は覗き込んだ。そして、その名前を見てどきっとした。それから努めて明るい声で言った。
「ああ、ヒロハル君だあ。朋美、これ、ラブレターだよ、きっと!」
朋美はびっくりしたように私を見た。
「佳代ちゃん、この人知っているの?」

 もちろん知っていた。それは一年の時に私がヒロハル君と同じクラスにいたからだけではない。来たるべきものが来たのだ。ようやく。

 朋美に崇拝者がいることを知っていたのは、私だけだったかもしれない。六組のヒロハル君に氣がついたのは夏だった。よく遠くから眺めていた。最初は偶然かなと思ったけれど、逢う度に立ち止まってこちらを見ているので、なんだろうなと思った。視線の先には朋美がいたので、私にはピンと来た。君、なかなかいい趣味をしているね、最初はそんな感じで秘かに応援していたのだ。

 でも、ヒロハル君は全く行動を起こさなかった。何をやっているんだろう。朋美はヒロハル君の存在に氣付いた様子はない。夏祭り過ぎちゃったよ。もう秋だよ。文化祭も終わっちゃったよ。受験になっちゃうよ。そんな風に私はヤキモキしていた。誰にも言わずに。

 何も言えないでいるヒロハル君のことをずっと見ていた。私も卒業したら離れていってしまう朋美を失いたくないと不安に思っていた。だから、それは一種の共感で、勝手に彼のきもちになってドキドキしたり、悲しんでいたりした。切ないバランスを欠いた心で逆観察していたのが、いつの間にか私自身にとってヒロハル君が特別な人になってしまった。

 それに氣がついたのは、十二月だった。きっかけを逃して残ってしまった最後のイチョウの葉がひらひらと、弱まった陽射しの間を舞っていた。私は一人校門に向かって歩いていた。自転車置き場が遠くに見えた。赤い自転車に近づく朋美が遠くに見えた。そして、その近くにヒロハル君がいるのが見えた。彼が朋美の方に向き直っていた。私は息を飲んだ。だめ、言わないで……。

 応援していたはずだったのに。胃の所にきゅうっとねじれるような感覚があった。それで私は思い知ったのだ。

 もし、ヒロハル君が告白して、朋美がOKしたら……。二人がつき合うようになったら……。ヒロハル君は幸せで、朋美も幸せだろうけれど、私はこれまでのように朋美のことを大好きでいられるかな……。

 だから、朋美がいつまでも氣付かないことを、ヒロハル君が勇氣を持たないでくれることを願っていた。そして、その時ヒロハル君が朋美に話しかけなかったから、その後も卒業式まで何もなかったから、安心していた。

 でも、来たるべきときは来たんだね。白い封筒を見て思った。不自然にならないように頑張ったけれど、少し声が裏返って震えていたかもしれない。

 朋美は黙って立つと、封筒をデスクの引き出しにしまった。
「読まないの?」
私が訊くと、小さく首を振って「後で」と言った。そう、朋美はそういう子なのだ。たとえ知らない人でも、丁寧に書かれた手紙を第三者の前で開封して内容を漏らしたりなんかしない。それで私は手紙が予想通りの内容だったか、ましてや朋美がどんな返事したかをも知ることが出来ず、つまり自分か失恋したかどうかもわからないまま仙台に旅立つことになったのだ。

 私は高校の卒業アルバムを引っ越しの荷物に入れた。朋美と私の写真、ヒロハル君の緊張した顔、それに住所が載っている。彼が朋美にそうしたように、私も手紙を送ることが出来る。だから……。

 でも、私は送らなかった。数年経って、朋美とヒロハル君がつき合わなかったことを知ってからも、私は何もしなかった。ヒロハル君の好みをよく知っていたから、告白するのは恥をかくだけみたいに思えたし、それに時間が経ってしまってからは、想いも薄れてしまったのだ。大学生活では新しい友だちができた。朋美のように秘かに憧れる人は他にはいなかったけれど、生涯つきあっていけるいい友達が何人もできた。それから就職して、恋もして、結婚もした。朋美との友情は、高校の時ほど密ではないけれど、ずっと続いている。

「なあ、佳代、小学校のも中学校のも大学の卒業アルバムも全部処分したくせに、なぜこれだけとっておくんだ?」
夫が年末の大掃除の時に訊いた。

「朋美の写真や住所が入っているもの」
「だって、朋美ちゃんは結婚して引越したし、今だってしょっちゅう逢っていていくらでも写真持っているじゃないか」

 私にもわからない。ヒロハル君のことを今でも好きなわけではない。それにこの住所だって、もう有効ではないだろう。彼が振り絞った勇氣すら持たなかった私のノスタルジーは夫に説明してもわかってもらえないだろう。むしろ面倒を引き起こすだけだ。でも、私はこの卒業アルバムを処分したりはしない。

 朋美はヒロハル君の手紙になんて返事をしたか言わなかったし、私も彼に対して持っていた想いのことだけは言ったことがない。もしかしたら朋美が何もかも知っていたのかもしれないと思うこともある。今となっては、笑い話にしてしまえるほど他愛もないことだけれども、当時の私たちにとってはどんな小さなことも神聖だったのだ。だから、私はこの話をずっと心の宝箱にしまっておくつもり。

 朋美も私も、普通の大人になってしまった。変わってしまった。別に悪くなったわけではないけれど、純粋で無垢だったあの時代は今でも眩しくて愛おしい。赤いアルバムの背表紙に触れながら、私はどこか遠くにいるはずの彼の幸せを願った。

(初出:2014年1月 書き下ろし)
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Category : scriviamo! 2014
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 番外編 〜 アンダルーサ - 祈り

scriviamo!


「scriviamo! 2014」の第五弾です。limeさんは、うちのオリキャラ四条蝶子を描いてくださいました。ありがとうございます!

limeさんの描いてくださったイラスト『(雑記)scriviamo! 参加イラスト』
「大道芸人たち」蝶子 by limeさん


limeさんは、主にサスペンス小説を書かれるブロガーさんです。緻密な設定、魅力的な人物、丁寧でわかりやすい描写で発表される作品群はとても人氣が高くて、その二次創作専門ブログが存在するほどです。お知り合いになったのは比較的最近なのですが、あちこちのブログのコメント欄では既におなじみで、その優しくて的確なコメントから素敵な方だなあとずっと思っていました。いただくコメントで感じられる誠実なお人柄にも頭が下がります。そしてですね、それだけではなく、ご覧の通りイラストもセミプロ級。その才能の豊かさにはいつも驚かされてばかりの方なのです。

さて、描いていただいたのは、当ブログの一応看板小説となっている「大道芸人たち Artistas callejeros」のヒロインです。黄昏の中で少女と出会ったシーンからはすぐに物語が生まれて来ますよね。で、これにインスパイアされた掌編を書きました。舞台はどこでもいいということでしたので、私の好きなチンクェ・テッレにしてみました。例によって、出てきた音楽の方は、追記にて。


【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ

「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む このブログで読む
縦書きPDF置き場「scribo ergo sum anex」へ行く 縦書きPDFで読む(別館に置いてあります)
あらすじと登場人物

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大道芸人たち 番外編 〜 アンダルーサ - 祈り
——Special thanks to lime-san


 お母さんは帰って来ない。陽射しが強いから。空氣が重いから。この街は小さな迷宮だ。お店とアパートを結ぶ細い路地をまっすぐ帰ることはしない。できるだけ回り道をするのだ。この新しい道は新しいひみつ。でも、きっと誰も興味を持たないだろう。

「パオラ。ここは子供の来る所じゃないよ」
そう言ったお母さんは、また違う人の首に腕を絡ませていた。お店は昼でも暗い。外にはキビキビと歩く観光客や、ランニングシャツ姿で魚を運ぶおじさんがいて、リンゴの値段をめぐって誰かが怒鳴りあっている。海に反射する光が眩しいし、カラフルな壁が明るくて、生き生きとしている。なのに、お母さんのいるお店だけは、みんなノロノロと動き、光から顔を背けていた。

 お母さんは菓子パンを二つ手渡した。遅いお昼ご飯、もしくは晩ご飯を作ってくれるためにアパートに帰るつもりはないんだなと思った。角を曲がるまでにひとつ食べて、波止場で舟を見ながら二つ目を食べ終えた。あたしは海に手を浸して、ベトベトを洗った。おしまい。スカートで手を拭うと、冒険に出かけた。こっちの道はアパートに少しでも遠いかな。

 ぐちゃぐちゃの部屋は湿っていて居心地が悪い。冷蔵庫の牛乳は腐っていたし、わずかなパンはひからびて崩れてしまった。それに、ワインの瓶が倒れていたせいであたしのお人形は紫色になってしまった。あの部屋に、いつもひとり。永遠に思える退屈な時間。あたしが神様にお願いするのはたったひとつ。早く大人になれますように。そうすればあそこに帰らなくていいもの。

 一日はゆっくりと終わりに向かっていて、壁の色は少しずつ暖かい色に染まりだしている。その路地は少し寂しかった。騒がしい街から切り離されたようにぽつんと存在していて、奥に階段が見えた。甲高い楽器の音がしている。あ、あの人だ。階段に腰掛けて、フルートを吹いている女の人。速くて少し切ない曲だ。

 目を閉じて、一心不乱に吹いている。黒い髪が音色に合わせて、ゆらゆらと揺れた。あたしが近づいてじっと見ていると、その人はふと目を上げた。それから、口から楽器を離してちらっとこちらを見た。彼女もあたしもしばらく何も言わなかった。少し困ったので訊いてみた。
「もう吹かないの?」
「あなたが私に何か用があるのかと思ったのよ」
「それ、なんていう曲なの?」
「エンリケ・グラナドスの『十二の舞曲』から『アンダルーサ』またの名を『祈り』」

 その人は、どこか東洋から来たみたいだった。少しつり上がった目。ビー玉のように透明だった。上手に話しているけれど発音が外国人だ。
「あなたの国の音楽なの?」
「まさか。私は日本から来たの。これはスペイン人の曲よ」
「スペインも日本も外国ってことしかわからない。この街の外は知らないの」

 女の人は、そっと乗り出して地面に指で地図を描いた。
「これがイタリア。あなたがいるのはここ、リオマッジョーレ。そして、これがスペイン。アンダルシアはこのへん」
あたしは身を乗り出した。そしたら、彼女はふっと笑って、少し優しい表情になった。

「遠くに行ってみたい?」
あたしは小さく頷いた。
「うん。行ってみたい。あなたはいろいろな国に行ったことがあるの?」
「ええ。旅して暮らしているの」
「本当に? どうやって?」
「これを吹いて。私は大道芸人なの」
「どうして誰もいない所で吹いているの?」
 
 彼女は少しムッとしたように口をゆがめ、それから一度上の方を見てからあたしに視線を戻して白状した。
「練習しているの。上手く吹けなくて仲間に指摘されて悔しかったの。絶対に今日中にものにするんだから」
そういって、もう一度フルートを構えた。あたしは頷いて、階段に腰掛けた。先ほどのメロディーが、もう一度始めから流れてきた。どこがダメなのかなあ。こんなに綺麗なのに。

「あ、いたいた。パピヨン、探しましたよ」
声に振り向くと、もじゃもじゃ頭で眼鏡をかけた男の人が階段から降りて来た。彼女は返事もしないでフルートを吹き続けた。この人と喧嘩したの? 男の人はまいったな、というようにあたしの方を見て肩をすくめた。優しいお兄さんみたい。

 キリのいいところにきたら、パピヨンと呼ばれた女の人はフルートを離してお兄さんの方を振り向いた。
「探して来いって言われたの、ブラン・ベック」
「いいえ。テデスコはヤスと楽譜の解釈でやりあっていて、僕ヒマだったんで」
「そう。私、このお嬢さんと一緒に広場に行って、ちょっと稼ぐ所を見せてあげようと思うんだけれど、あなたも来る? 道具持っている?」
「え、はい。カードだけですけれどね」

 あたしはすっかり嬉しくなった。二人を連れて駅前の通りに連れて行った。このリオマッジョーレがチンクェ・テッレで一番大きい町といっても、人通りが多いのはここしかないから。
「パピヨン、ブラン・ベック、こっちにきて。あ、あたしの名前はパオラよ」

 彼が戸惑った顔をした。一瞬、目を丸くさせた彼女はすぐに笑い出した。 
「どうしたの?」
そう訊くと、彼が頭をかきながら説明してくれた。
「それ、僕の名前じゃないんだ。たよりないヤツっていう意味のあだ名なんだよ。僕はレネ。それから、この人は蝶子」

 ふ~ん。本当に頼りない感じだけれどなあ。蝶子お姉さんよりもたどたどしいイタリア語だし。でも、レネお兄さんって呼ぶ方がいいんだね。

 駅前通りにはギターを弾いている東洋人とパントマイムをしている金髪の人がいた。レネお兄さんが「あ」と言って、蝶子お姉さんはぷいっと横を向いた。でも、ギターを弾いていた人が、来い来いと手招きしたら、二人ともまっすぐそちらに歩いていった。

 ギターが伴奏を始めると、蝶子お姉さんは躊躇せずにフルートを構え、あの曲を吹いた。海の香りがする。太陽の光がキラキラしている。この海の向こうにスペインがあって、アンダルシアもある。心が逸る。まだ行ったことのない所。お母さんの顔色を見ながら、この迷路みたいな町で生きなくてもいいのなら、あたしも旅をする人生を送りたいな。

 人びとは足を止めて四人の演技を見ていた。ギターとフルート、カードの手品に、銅像のように佇むパントマイム、誰と喧嘩したのかわからないし、蝶子お姉さんのフルートのどこがまずかったのかもわからない。あたしには何もかも素敵に見える。周りの観光客たちや、町のおじさんたちもそう思ったみたいで、みな次々とお金を入れていった。

 その曲が終わると、みんなは大きな拍手をした。コインもたくさん投げられた。
「よくなったじゃないか」
座ってポーズをとったままの金髪の男の人がぼそっと言ったら、蝶子お姉さんは、つかつかと歩み寄ると、その人の頭をばしっと叩いた。ギターのお兄さんとレネお兄さんはゲラゲラ笑った。

 暗くなったので、観光客はひとりまた一人と減った。ギターのお兄さんが立ってお金の入ったギターの箱をバタンと閉じると、他の三人も芸を披露するのをやめた。残っていた観客は最後に拍手をしてからバラバラと立ち去った。

「どうやったら大道芸人になれるの?」
あたしはペットボトルから水を飲んでいる蝶子お姉さんに訊いた。彼女はもう少しで水を吹き出す所だった。げんこつで胸元を叩いてから答えた。
「なるのはそんなに難しくないけれど、憧れの職業としてはちょっと志が低くない?」
「あたし、自由になりたいの。いつ帰ってくるかわからないお母さんに頼って生きる生活、こりごりなの」
叫ぶみたいに、一氣に言葉が出てしまった。

 それを聞いて、蝶子お姉さんはじっとあたしを見た。それからしゃがんで、あたしと同じ目の高さになって、あたしの頭を撫でながら言った。
「大丈夫よ。大人になるまではあっという間だから。それまでに、一人で生きられるだけの力を身につけなくちゃね。学校で勉強したり、スポーツを頑張ったり、いろいろな可能性を試してご覧なさい。どうやったら一番早く独り立ちできるか、何を人生の職業にしたいか、真剣に考えるのよ」

「お前、やけに熱入ってんだな」
ギターを弾いていたお兄さんが言った。蝶子お姉さんは振り向いて言った。
「だって、私の小さいときと同じなんだもの」

 あたしは大きく頷いた。蝶子お姉さんがあたしと同じようだったと言うなら、あたしも大きくなったらこんな風に強くて素敵になれるのかもしれない。お姉さんはあの曲は『祈り』ともいうんだって言った。だったら、あたしは新しい祈りを加えることにした。早く強くて素敵な女性になれますように。

「それはそうと、そろそろ飯を食いにいくか」
ギターのお兄さんが言った。
「パオラ、お家は遠いの?」
蝶子お姉さんが訊いた。あたしは首を振って、それから下を向いた。

「どうしたのかい?」
レネお兄さんがかがんで訊いた。
「誰も帰って来ないし、食べるものもないもの」
四人は顔を見合わせた。
「お家の人、いないの?」

 あたしはその通りの外れにある、お母さんがいるお店を指差した。
「お母さん、男の人と一緒だから、帰りたくないんだと思う」

 蝶子お姉さんは黙って、お店に入っていったが、しばらくすると出てきた。
「この隣のお店で食べましょう。パオラ、一緒にいらっしゃい」

 隣は、ジュゼッペおじさんの食堂だ。美味しい魚を食べられる。ときどき残りものを包んでくれる優しいおじさんだ。お母さんは、お店の扉からちらっと顔を出して、ジュゼッペおじさんとあたしをちらっと見た。
「遅くならずに帰るのよ」
それだけ言うと、またお店に入ってしまった。

 ギターのお兄さんが言った。
「パオラ、好きなものを頼みな。腹一杯食っていいんだぞ。それから、俺は稔って言うんだけどな。こっちはヴィル」
そういって、水をコップに汲んでくれている金髪のお兄さんを指差した。

 あたしは嬉しくなってカジキマグロを注文した。蝶子お姉さんが大笑いした。
「好物まで一緒なのね。私にもそれをお願い、それとリグーリア産のワイン」
「ヴェルメンティーノの白があるぞ。これにするか」
ヴィルお兄さんが言うと蝶子お姉さんはとても素敵に笑った。あれ、仲が悪いんじゃないんだぁ。

 四人はグラスを合わせる時にあたしの顔を見て「サルーテ(君の健康に)!」と言ってくれた。あたしはカジキマグロを食べながら、こんなに楽しいことがあるなら、大人になるまで頑張って生きるのも悪くないなと思った。


(初出:2014年1月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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Duo Cantilena performs Playera - Enrique Granados

Sally Wright on Flute and Steven Peacock on Classical Guitar

今回選んだ曲は、グラナドスの「アンダルーサ」です。イタリアの話なのになぜスペインものとお思いでしょうが、いただいた絵のイメージがこれだったのですよ。哀愁あふれる異国への憧れを秘めた曲。眩しいイタリアの陽光のもと、地中海の向こう側、スペインを想ってみました。
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Category : scriviamo! 2014
Tag : 小説 読み切り小説 いただきもの

Posted by 八少女 夕

【小説】夜のサーカスと赤錆色のアーチ - Featuring「物書きエスの気まぐれプロット」

scriviamo!

月刊・Stella ステルラ 1、2月号参加 掌編小説 月刊・Stella ステルラ


scriviamo!の第六弾です。(ついでに、左紀さんの分と一緒にStellaにも出しちゃいます)
山西左紀さんは、人氣シリーズ「物書きエスの気まぐれプロット」と、当方の「夜のサーカス」ならびに「大道芸人たち Artistas callejeros」のコラボの掌編を書いてくださいました。本当にありがとうございます。


山西左紀さんの書いてくださった掌編 物書きエスの気まぐれプロット6

山西左紀さんは、小説書きのブロガーさんです。代表作の「シスカ」をはじめとして並行世界や宇宙を舞台にした独自の世界で展開する透明で悲しいほどに美しくけれど緻密な小説のイメージが強いですが、「絵夢」シリーズや今回の「エス」シリーズのようにふわっと軽やかで楽しい関西風味を入れてある作品も素敵です。普通は女性のもの書きがとても苦手とする機械関係の描写も得意で羨ましいです。

左紀さんのところのエスとうちのオリキャラのアントネッラのコラボははじめてではなくて、もう何度目かわからないほどになっています。この話を読んだことのない方のためにちょっと説明しますと、この二人はもともと独立したキャラです。でも、二人ともブログ上で小説を書いているという設定なので無理矢理にブロともになっていただき、交流していることになっています。今回の左紀さんの作品では、アントネッラが「scriviamo!」を企画し、エスがアントネッラの小説「Artistas callejeros」のキャラとコラボした、ということになっています。つまり実際の私と左紀さんの交流と同じようなものとお考えください。

そういうわけで、「物書きエスの気まぐれプロット」のメインキャラのエスと、劇中劇の登場人物コハクをお借りして、「夜のサーカス」の番外編を書いてみました。舞台は、アントネッラのいるイタリアのコモと劇中劇の方ではスペインのコルドバ、使ったキャラはカルちゃんです。(カルちゃんって誰? という方はお氣になさらずに。ただのおじさんということで)

番外編とはいえ「夜のサーカス」シリーズなので、表紙付きです。



「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物


「scriviamo! 2014」について
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「夜のサーカス」番外編
夜のサーカスと赤錆色のアーチ - Featuring「物書きエスの気まぐれプロット」
——Special thanks to Yamanishi Saki-SAN

夜のサーカスと赤錆色のアーチ

「あらあら。なんて面白い試みをしてくれるのかしら。さすがはエスね」
アントネッラはくすくす笑った。

 一月のコモは、とても静かだ。クリスマスシーズンに別荘やホテルを訪ねていた人たちはみな家に帰り、スノップな隣人たちは暖かい南の島や、スイスやオーストリアのスキーリゾートへと出かけ、町のレストランも長期休暇に入る。

 アントネッラにはサン・モリッツで一ヶ月過ごすような真似はもちろん、数日間マヨルカ島に留まるような金銭的余裕もなかったので、大人しく灰色にくたびれた湖を臨む彼女のヴィラの屋上で一月を過ごすことにしていた。今年、彼女がこの時期にここを離れない理由は他に二つあった。一つは、先日から関わっている「アデレールブルグ事件」がどうやら進展しそうな予感がすること。つまり、チルクス・ノッテのマッテオが新情報を持っていつ訪ねてくるかわからないことや、ドイツのシュタインマイヤー氏から連絡が入るかもしれないという事情があった。そして、もう一つは、趣味の小説ブログで自分で立ち上げた企画だった。「scriviamo!」と題し、ブログの友人たちに書いてもらった小説に返掌編を書いて交流するのだ。企画を始めてひと月、友人たちから数日ごとに新しい作品を提出してもらっているので、ネットの繋がらない所にはいけないのだ。

 そして、今日受け取ったのは、ブログ上の親友エスの作品だった。エスは日本語で小説を書く日本人女性らしいが(詳しいプロフィールはお互いに知らない)、どういうわけかイタリア語も堪能で、小説を二カ国語で発表している。そして、アントネッラの小説もよく読んでくれている上、情報検索が上手くできないアントネッラを何度も助けてくれるなど、既にブログの交流の範囲を超えた付き合いになっていた。

 エスが書いてきた小説は、先日発表された「コハクの街」の前日譚で、主人公のコハクがアントネッラの代表作「Artistas callejeros」のキャラクター、ヤスミンと邂逅する内容だった。アントネッラがコラボレーションで遊ぶのが好きだとわかっていて、わざわざ登場させてくれたのだろう。
「まあ、コハクは設計士候補生なの。そして、スペインのイスラム建築を見て、建築のスタイルに対して心境の変化が起こったのね」

 アントネッラは、ベッドの代わりにデスクの上に吊る下げているハンモックによじ上り、しばらく静かに眠っているようなコモ湖を眺めながら考えていた。彼女が、数年前に訪れたアンダルシアのこと。掘り起こしていたのは「Artistas callejeros」を書くに至った、心の動き。美しいけれど古いものをどんどん壊していく現代消費世界に対する疑問なども。

 それから、ハンモックから飛び降りて、乱雑なものに占領されてほんのわずかしかない足の踏み場に上手に着地すると、デスクの前に腰掛けてカタカタとキーボードを叩きはじめた。


 また悪いクセだ。カルロスはひとり言をつぶやいた。先ほどからそこにいる女性が氣になってしかたがない。女性が彼の好みだと言うのではなかった。それは少女と表現する方がぴったり来る、いや、少し少年にも似通う中性的な部分もあり、カルロスがいつも惹かれるようなセクシーで若干悪いタイプとは正反対だった。カルロスが氣になっているのは、それが日本人のように見えたからだった。

 見た所、その女性は困っているようには見えなかった。だが、問題がないわけでもなさそうだった。メスキータ、正確にはスペインアンダルシア州コルドバにある聖マリア大聖堂の中で、十五分も動かずに聖壇の方を見ているのだ。声を掛けようかどうか迷いながら横に立っていると、向こうがカルロスの視線に氣付いたようで、不思議そうに見てから小さく頭を下げた。

「不躾に失礼。でも、あまりに長く聖壇を見つめていらっしゃるのでどうなさったのかと思いまして」
カルロスは率直に英語で言ってから付け加えた。
「何かお手伝いできることがあったらいいのですが」

 女性は知らない人に少々警戒していたようだが、それでも好奇心が勝ったらしくためらいがちに言った。
「その、勉強不足でよく知らないんですが、これはキリスト教の教会なんですよね? でも、当時敵だったイスラム教のモスクの装飾をそのまま使っているのはなぜなんですか?」

 カルロスは小さく笑った。それが十五分も考え込むほどの内容ではないことはすぐにわかったので、この女性の心はもっと他にあるのだと思ったが、まずは彼女が話しかけることを許してくれたことが大事だった。
「いくら偏狭なカトリック教徒でも、これを壊すのは惜しいと思ったのでしょう。美しいと思いませんか?」

「ええ、とても」
「もともとここには教会が立っていたのです。八世紀にこの地を征服した後ウマイヤ朝はここを首都として、モスクを建設しました。十三世紀にカスティリャ王国がこの地を征服して以来、ここはモスクとしてではなく教会として使われるようになり、モスクの中心部にゴシックとルネサンスの折衷様式の礼拝堂を作ったのですよ」

「壊して新しいものを作るのではなく……」
「そうですね。壊してなくしてしまうと、二度と同じものはできない。その価値をわかる人がいたことをありがたく思います。当時のキリスト教というのは、現在よりもずっと偏狭で容赦のないものだったのですが」

 二人はゆっくりと広い建物の中を歩いた。「円柱の森」と言われるアーチ群には赤錆色とベージュの縞模様のほかには目立った装飾はなかった。だがその繰り返しは幻想的だった。天窓から射し込む光によって少しずつ陰影が起こり、近くと遠くのアーチが美しい模様のように目に焼き付いた。

 聖壇の近くのアーチには白い聖母子像と聖人たちの彫像が配置されている。本来のモスクには絶対に存在しないものだが、光に浮かび上がる白い像は教義に縛られてお互いを攻撃しあってきた二つの宗教を超越していた。どちらかを否定するのではなく、また、どちらかの優位性を強調するのでもなく。

 ステンドグラスから漏れてきた鮮やかな光が、縞模様のアーチにあたって揺らめいていた。ほんのわずかな陰影が呼び起こす強い印象。

 メスキータから出ると、外はアンダルシアの強い光が眩しかった。カルロスはさてどうすべきかと思ったが、女性の方から話しかけてきた。
「あの、お差し支えなかったら、もう少しアンダルシアの建築のことを話していただけませんか?」

 カルロスはニッコリと笑うと、頷いてメスキータの外壁装飾について説明していった。

「あなたは建築に興味をお持ちなんですか?」
「え、ええ。わたしは建築士の卵なんです。日本人でシバガキ・コハクと言います」
「そうですか。私はバルセロナに住んでいまして、カルロス・マリア・ガブリエル・コルタドと言います。やっぱり日本の方でしたね」
「やっぱりというのは?」
「私には親しくしている日本の友人がいましてね。それで、東洋人を見るとまず日本人かどうかと考えてしまうのですよ」
「それでわたしを見ていらしたのですね」
「ええ。もっとも、氣になったのはずいぶん長く考え込んでおられたので、何か問題がおありなのかなと思ったからなのです」

 コハクは小さく息をつくと、わずかに首を傾げて黙っていた。カルロスは特に先を急がせなかったが、やがて彼女は自分で口を開いた。
「関わっていたプロジェクトから外された時に、なぜ受け入れられなかったのかわからなかったのです。所長はわたしの設計が実用的・画一的、面白みに欠けるって言いました。学校で習った時から一番大切にしていたのは、シンプルで実用的、そして請け負って作る人が実現しやすい設計で、さらに予算をクリアすることです。それは所長だって常々言っていたことです。それなのにいきなり面白みなんていわれても……」

 カルロスはなるほどと頷いた。
「わたしの信念、間違っているんでしょうか」
コハクが思い詰めた様子で訊くと、カルロスは首を振った。
「そんなことはありません。私は実業家なのですが、実用性や予算を度外視したプランというものは決して上手くいかないものです。あなたの上司も、あなたにアルハンブラ宮殿の装飾やサクラダ・ファミリアのような建築を提案してほしいとおっしゃっているわけではないのだと思いますよ」
「だったら、どうして」

「それは、教えてもらうのではなく、あなたが考えるべきことなのです。ここに来たのは本当にいい選択でした。ご覧なさい」
そう言って、外壁の細かい装飾を指差した。ひとつひとつはシンプルな図形だが、組み合わせによって複雑になるアラブ式文様だった。アーチ型を重ねることでメスキータの内部の「円柱の森」を思わせた。

「壁という目的だけを考えればこれは全く不要です。省いても雨風をしのぐという目的は同じように果たせるでしょう。けれどもこの文様にはこの建物全体に共通の存在意義があるのです」
「それは?」

「祈りです。偉大なる神への畏敬の念です。それは彼らにとってはコストや手間をかけてでも表現しなくてはならないものだったのです。建物を造るよう命じたもの、設計者、工芸家一人一人が心を込めて実現し、そして、人びとはその想いのこもった仕事に驚異と敬意を抱いたことでしょう。その真心に七百年の時を経ても未だに人びとは打たれ、同じようにここに集うのです。もし、ここが何の変哲もない柱と屋根と壁だけの建物であったなら、人びとはさほど関心を示さなかったでしょう。そして、為政者が変わった時にあっさりと取り壊されてしまったのではないでしょうか。カスティリャの人びとは、これを作った一人一人の心を感じたからこそ、イスラム教の人びとの手によるものだとわかっていても、尊重し後世に残そうと、そして同じ場所で祈り続けようと決めたのではないでしょうか」

 コハクはじっとカルロスの大きな目を見つめた。
「建物自身から感じられる存在意義……。使う者が感じる、作った者の心……」
それから大きく頷いた。
「そうですね。わたしは事業としての建築や建設の使用目的については真剣に考えていたのですが、空間としての建物の意義を見落としていたのかもしれません。まだもう少し旅を続けますので、よく考えてみようと思います」

 カルロスは嬉しそうに頷いた。それから胸ポケットから名刺を取り出した。
「私は普段ここにいます。バルセロナの郊外です。もしバルセロナに寄ることがあったら、連絡をください。今、私の日本人の友人たちもしばらくは滞在していますのでね」



 アントネッラは時計を見た。あらやだ。もう夜中の一時だわ。そろそろ寝なくちゃ。この最後の部分はもう少し練らないとダメね。なぜArtistas callejerosの仲間たちがバルセロナにいるのかはまだ内緒だし。ま、でも、いいかしら。お祭りの企画だから。

 彼女はコンピュータの電源を落とすと、再び器用にハンモックによじ上って毛布をかけた。今夜はメスキータの夢が見られそうだった。

(初出:2013年1月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 月刊・Stella コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】樋水龍神縁起 外伝 — 麒麟珠奇譚 — 競艶「奇跡を売る店」

scriviamo!


「scriviamo! 2014」の第七弾です。大海彩洋さんは、人氣作品「奇跡を売る店」にうちの作品「樋水龍神縁起」のモチーフを埋め込んだ作品を書いてくださいました。ありがとうございます!

彩洋さんの描いてくださったイラストと小説『【scriviamo!参加作品】 【奇跡を売る店】 龍王の翡翠』

「龍王の翡翠」 by 大海彩洋さん
このイラストの著作権は大海彩洋さんにあります。彩洋さんの許可のない二次利用は固くお断りします。

彩洋さんは、主に小説を書かれるブロガーさんです。主にと申し上げたのは、発表しているのが主に小説だからで、今回いただいたイラストもそうですが美術にも造詣が深く、さらに三味線もなさる多才なお方。どうもお仕事もとてもお忙しいようなのですが、その間にとても重厚かつ深いお話を綴られています。「奇跡を売る店」は「巨石紀行」シリーズの記事にも見られる天然石への造詣の深さを上手に使われたシリーズ。彩洋さんの代表作である「真と竹流」大河小説(こういうまとめかたはまずいのかしら。詳しくは彩洋さんのブログで!)の並行世界のような別の世界です。

今回彩洋さんが取り上げてくださった「樋水龍神縁起」は、「大道芸人たち」と並ぶ代表作的位置づけの長編なのですがブログではなく別館での発表となっているために、ご存じない方も多いかと思います。昨年連載していた長編「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」とも共通の世界観となっています。この掌編だけ読んでも話は通じるかと思いますが、若干特殊な世界ですのでもう少し知りたいと思われる方もおられると思います。さすがにこの企画のために全部を読めというわけにも行きませんので、この下に「これだけ読んでおけばだいたいわかる」リンクを並べました。(ただし、『龍の媾合』については、本編と切り離した単純な説明はできませんので、興味のある方は本編をお読みくださいませ)


この小説に関連する断片小説「樋水龍神縁起 第一部 夏、朱雀」より「樋水の媛巫女」」
この小説に関連する記事「愛の話」

「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」 あらすじと登場人物

お返しをどうしようか、ちょっと悩みましたが、ごくストレートに「(『奇跡を売る店』の)お二人がここのものだと思われる石を持ってきた」で進めることにしました。もっともその前に登場するエピソードは平安時代のものです。はい、今回のためにまた創りました。彩洋さんが拾ってくださった「龍の媾合」の話は、ここでは思いっきりスルーしています。五千字前後でコラボ入れて、あの話まで突っ込み、かつ読んでいない方にまで納得させる話は無理。そのかわりに「龍の媾合」現象も含めた「樋水龍神縁起」でメインとなっている世界観について詰め込みました。

お時間があって読みたいと思ってくださった方はこちらへ
官能的表現が一部含まれるため、成人の方に限られますが……「樋水龍神縁起」四部作(本編)は別館にPDFでご用意しています。続編「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」のPDFもあります。
縦書きPDF置き場「scribo ergo sum anex」へ行く 縦書きPDFで読む(scribo ergo sum: anex)

【長編】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero は、このブログでも読めます。

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樋水龍神縁起 外伝 — 麒麟珠奇譚 — 競艶「奇跡を売る店」
——Special thanks to Oomi Sayo-san


 深い森だった。男は鬱蒼とした下草を掻き分けるようにして進んでいた。逃げるあてはない。ここ数日、ほとんど眠っていない。検非違使からも追捕からも逃げ果せる自信があった。世話になった宮司からも。だが、彼女からは逃れられないのだ。逃亡の旅で疲れ果てた身体を横たえて目を瞑り眠りに落ちようとすると、すぐに現れる。
「牛丸。麒麟の勾玉を戻しなさい。そなたは自分が何をしたのかわかっていないのです。あれは単なる社宝ではありませぬ。神宝なのです」

「お許しくださいませ、媛巫女さま!」
牛丸は身を起こすとさめざめと泣いた。誠にあれはただの勾玉ではなかった。あの方もただの巫女ではなかった。次郎は正しかったのだ。

「よう次郎。俺もついに郎党になった。しかも、そなたのなりたがっていた宮司さま付きだ。これでようくわかったであろう。俺はそなたに劣る者ではない」
「牛丸。俺はそなたを劣っているなどと言ったことはないぞ」
「口に出さずとも、そなたも、母者も、いつも俺を見下している。本来仕えるべき神社の方々に逆らっている」
「逆らってなどいない。俺を媛巫女さま付き郎党にしたのも、そなたの母上を媛巫女さまのお世話をするように決めたのも、宮司さまだ。我々は、仕えるべき方にお仕えする本分をわきまえているだけだ」
「媛巫女さま、媛巫女さまって、まだ十二になったばかりの小娘ではないか。神のようにあがめおって」
「媛巫女さまはただの娘とは違う。言葉を慎め」

 母も、次郎も同じ事を言った。彼は神に選ばれた巫女なんて信じなかった。幼なじみの次郎が多くの雑役を免除されて媛巫女の用事しかしないのも、母がめったに帰って来ないのもあの女がまやかしをするせいだと、忌々しく思うだけだった。宮司つきの郎党になっても、自らの扱いはさほど変わらず、美味い物も食えなければ、面白おかしいこともなかった。このままこの神社に縛られてこき使われるだけかと思うとぞっとした。

 俺らの生まれた身分では神職にはなれぬ。いずれは村の娘と結婚し、父者や母者のようにお社にこき使われ、さらに同じ定めの子孫をつくるだけだ。心を尽くして勤めても未来永劫報われることなどない。だから、彼奴らの言った通りにお宝を持っていった。先日の祭礼で宝物殿を開ける所に立ち会った俺は、奴らにとっては願ってもいない内通者だった。あの勾玉一つで一生遊んで暮らせる金をくれると約束してくれた。

 勾玉はあいつらに渡してしまった。受け取った金で楽しく遊んで暮らせたのは半月ほどだった。賭場で多くを失った。金を狙う奴らに襲われ、お社に捕まるのを怖れて村にも戻れず、いつ追っ手が来るかもわからず怯え、そして夜は媛巫女が悲しそうにじっと見つめて話しかけてくる。次郎は正しかった。宮司さまは俺が逃げだそうが盗もうが何もできない。だが、媛巫女さま、あの方は何もかもご存知なのだ。勾玉が宝物殿からなくなっていることも、他ならぬこの俺が盗ったことも。

 牛丸はよろめきながら、暗い森の中を彷徨い歩いた。ガサガサっという音にぎょっとして振り返ると、暗闇に二つの目が浮かび上がった。狼だ! 怯えて逃げようと思ったが、下草に足を取られて倒れた。

* * *


 几帳の向こうで微かな叫び声がした。次郎は瑠璃媛が起き上がるのを感じた。
「いかがなさいましたか、媛巫女さま」
瑠璃媛は声を震わせて答えた。
「次郎……。もうどうすることもできません」
「いったい何が……」
「牛丸はもうこの世におりません」
「なっ……!」

「媛巫女さま。こうなったら宮司さまにお知らせした方が……」
「それはなりませぬ。もし牛丸が単に失踪しただけでなく、あれを持ち去ったことがわかったらツタに類が及びます。それどころか、息子があんなことをしでかしたとわかったらツタは命を持って償おうとするでしょう」
「しかし、いつまでも麒麟の勾玉がなくなっていることを隠してははおけませぬ」
「次にあの勾玉が祭司に必要になるのは四十六年後。それまでは誰もあの桐箱を開けないでしょう。それまで隠し通せば、あれが牛丸の仕業とは知れないでしょう」
「しかし、勾玉が盗まれたままでいいのですか」

 瑠璃媛は立ち上がると几帳の陰より出てきて、龍王の池に面して座った。爪のような有明の月が東の空に上りはじめていた。空はゆっくりと白みはじめている。
「龍王様におまかせしましょう」
「媛巫女さま! 龍王様がお怒りになるのではありませぬか」

 瑠璃は宝物殿の奥に納めてある桐の箱の中に想いを馳せた。奴奈川比売が出雲に持ってきたとされる神宝、本来ならば五つの翡翠勾玉が絹に包まれて収まっているはずだった。だが、今は玄武、朱雀、白虎の三つしか入っていない。青龍の勾玉は遥か上代に朝廷に献上された。そして、麒麟の勾玉は牛丸に盗み出されて失われてしまった。

「ツタを守るための隠匿を龍王様がお怒りならば、その責めは私が受けましょう。よいか。宮司さまをはじめ、誰にも口外してはならぬ」

* * *


「お待ち申し上げておりました。私は当神社の宮司、武内信二と申します。この者は禰宜の関大樹、当社の社宝や故事に詳しいので連れて参りました。同席をお許しくださいませ」

 二人の訪問者は軽く頭を下げた。ひとりは外国人で、もう一人は日本人青年だった。彼らは今朝、新幹線で京都を発ち、岡山発の特急やくも号に乗ってやってきた。松江からさらにバスで一時間ほど、ここが樋水村だった。過疎の寒村なのに、妙に立派な神社があった。それが彼らの目的、樋水龍王神社だった。本殿の奥に見事な瀧のある大きな池があり、その脇に小さな庵があった。 

 金髪に青灰色の瞳をした背の高い男は大和凌雲という名で、その見かけによらず流暢な日本語を話し、しかも黒い法衣に黄土の折五条を着けていた。京都の大原に庵を結ぶ仏師で仏像の修復師だと言う。同行者は友人の釈迦堂蓮だと紹介した。

「突拍子もない話にお時間を割いていただき、感謝しています。これが、お電話でお話した石なのですが……」
凌雲は桐の小さい箱をそっと開けた。中から黄の強いひわ色をした透明な勾玉が姿を現した。武内宮司と関禰宜は思わず息を飲んだ。他の者に見えぬものを見る事の出来る二人は、その勾玉が並ならぬ氣を纏って輝いているのを見ることができた。

「次郎。宝物殿に行って、あの箱を持ってきなさい」
関禰宜は黙って頷き、静かに退出した。

「あの方は……」
蓮が首を傾げた。宮司は笑った。
「氣がつかれましたか。そうです。我々は彼を本名ではなくて、別の名前で呼んでおります。彼のたっての希望なのです」

 蓮は落ち着かなかった。ここはどこか恐ろしい。空氣は澄み、池の水面は鏡のようなのに、心が騒ぐ。鳥居でも感じたが、奥に行けば行くほど落ち着かなくなる。この宮司もどこか妙だ。こちらを見透かすような目つきをしている。そして、変な名前で呼ばれたがる禰宜の様子はもっと変だ。勾玉を見た時の動揺はただ事ではなかった。

 関禰宜は無言で再び入ってきた。少し大きい桐箱を捧げ持っている。浅葱色の袴をさっとはらって座ると、ゆっくりと桐箱を開けた。今度は蓮と凌雲が息を飲んだ。

 中には白い絹に抱かれて四つの勾玉があった。
「これは……」

 宮司は低い声で言った。
「奴奈川比売が大国主命に輿入れをした時に糸魚川より出雲に贈られたと伝えられている神宝でございます。もともとは大社に納められていたのではないかと思われますが、すでに平安時代には当社に納められるようになっておりました。このうち三珠は、記録されているかぎり、少なくとも千百年はこの村の外に出たことはございません。こちらの玄武の勾玉は黒翡翠、白虎の勾玉は白翡翠、朱雀の勾玉はかなり赤みが強いラベンダー翡翠です」

「こちらは青翡翠ですか」
蓮が訊いた。彼は貴石を扱う店と縁が深く、天然石の知識がある。糸魚川で青翡翠が産出するのは知っていたが、これほど透明でひびもシミもないものは見た事がなかった。

「ええ。この青龍の勾玉は、上代にその貴重さから一度朝廷に献上されたのです。今から千年ほど前に、現在当社でお祀り申し上げている御覡の瑠璃媛が親王の命をお救い申し上げた功で下賜されました。瑠璃媛の死後、もう一柱お祀り申し上げている背の君、安達春昌の手に渡り、以来、千年以上この神社を離れていましたが、四年前、千年祭の歳にこの神社に戻って参りました。四神相応の勾玉が揃ったのは実に千年ぶり、私どもの歓びはお察しいただけるでしょう。

「じゃあ、今日持ってきたこっちの翡翠は……」
蓮が凌雲を見た。仏師は宮司の方に向き直った。
「この翡翠はある木彫り像の中から発見された物です。言い伝えや資料によると、こちらの神社と縁があるということだったのですが」

「そう、当社にも、もう一つの翡翠の言い伝えがございます。四神は東西南北に対応いたしますが、その中心に麒麟を配した五神は陰陽五行と繋がります。当社にあったとされているもう一つの翡翠は麒麟の勾玉と申します。千年近く行方がわからず、青龍の勾玉と違ってなくなった経緯も不明でございまして、存在そのものが疑問視されておりました。黄色い翡翠ではないかと先代の宮司は申しておりましたが、なるほど、色・形・透明度どれ一つをとっても、四神相応の勾玉に引けを取りませぬな。失礼して……」

 宮司は凌雲の持ってきたひわ色の勾玉を大きな桐箱の中央、四つの勾玉に囲まれた場所にそっと置いた。それと同時に宮司と次郎は、これまでの五つの勾玉から発せられていた氣が激しく増幅されて室内に虹色に輝く光が満ちたのを見た。

「えっ」
蓮は急に熱風のようなものに襲われた氣がして、思わず後ろに下がった。宮司と次郎はその蓮を見て頷いた。

「釈迦堂さんとおっしゃいましたね。あなたは怖れていらっしゃる、そうではありませんか」
濃い紫の袴をつと進めて言った宮司の言葉に蓮ははっと息を飲んだ。それから、凌雲の興味深そうな目を避けるようにしてそっぽを向いたが、やがて小さく頷いた。

「どういうわけかわかりませんが、この神社、そしてその勾玉、この勾玉の入っていた像の側で見た夢、すべてが心を乱し落ち着かなくするのです。厳しいこと、正しいことが待っているようでもありますが、正しくないこと、後ろめたいことが増幅される氣もします。神宝と言われるもの、格式の高い神社に対して失礼だとはわかっていますが」
「蓮……」

 凌雲が何かを言おうとするのを押しとどめて宮司は言った。
「いいのです。この方がおっしゃっていることは、この神社の本質を指しています。あなたは正しくないこと、後ろめたいこととおっしゃったが、正しいことと正しくないこととを分けたのは神ではなくて人です。龍王神を奉じる我が社では、全てが同じだと説きます。あなたが怖れるのはそれがよくないものだと断じているからです。けれどそれは良いのでもなく悪いのでもない。生と死も、生命と物質も、男と女も、そして善と悪も、概念によって分けられていますがそれは人が理解するため、社会のために便宜上分けたものです。この神域ではその境目がなくなります。あなたは感受性が鋭く、それを感じ取られて不安に思われるのでしょう」

「是諸法空相不生不滅不垢不淨不増不減……」
凌雲が般若心経に通ずるものを感じて口にした。
「そう。その先には『心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃』とありますな。真に理とは、仏法も神道もなく、どの形をとりましてもひとつでございます。あなたが日本においでになり、不思議なめぐり合わせでこの翡翠をこちらにお運びくださったのも、実に尊いご縁です。次郎。どうだ、この勾玉は本物であると思わぬか」

 次郎は両手で顔をおおい震えて頷いた。
「間違いございません……。媛巫女さま……」

 千年前、老女ツタがもはやこの世にはいなくなっていた息子に再び会えるのを切望しつつ世を去ったとき、次郎は瑠璃媛に手をついて伺ったのだ。
「媛巫女さま。麒麟の勾玉が失われていること、今こそ宮司さまに打ち明けた方がよろしいのではないですか。時が経てば経つほど取り戻すのが困難になるかと思われますが」

 瑠璃媛は忠実な郎党次郎をじっと見て低い声で答えた。
「そなたは私の言葉を忘れたのですか。私は龍王様におまかせすると言ったではありませんか」
「もちろん覚えております。でも、あれから五年も経っております。龍王様がそのおつもりなら翌日にでも戻ってくると思っておりましたが……」

 媛巫女はそれを遮った。
「いつ取り戻してくださるかはそなたや私の知ったことではない。明日でも、千年後でも。龍王様におまかせするといったらおまかせするのです。人の時の流れを基にしたこらえ性でものを申してはなりませぬ」

 あれから次郎の時もめぐった。彼自身の放った矢が、誰よりも大切だった媛巫女の命を奪い、青龍の勾玉と春昌も彼の前から姿を消した。再びこの世に生まれ、安達春昌と瑠璃媛の再来と同じ時を過ごした。だが、次郎には理解できなかったことに、大切な媛巫女の生まれ変わりも苦しみぬいて姿を消した。次郎は幾度も逡巡した。龍王様はなぜ媛巫女さまを幸せにしてくださらなかった。

 だが、いま次郎の前には答えが、麒麟の勾玉があった。悠久の時を経て、何事もなかったかのように五珠の勾玉が虹色の氣を発している。千年前に目にした神宝だ。媛巫女さまはついに一度も五珠揃ったのをご覧にならなかったのに、この私が見届けることになるとは……。

「龍王様におまかせするのです」
「神域には善も悪もありません」

 おっしゃる通りです。媛巫女さま。私はいまだに何もわかっていない卑しい郎党でした。お約束したように、私は牛丸のことを、この翡翠が失われた経緯を、誰にも語らずに墓場まで持って参ります。人ごときの短絡的な考えで、あなたを幸せにしてくれなかったことを恨むのではなく、あなたがそうなさったように龍王様に仕えて参ります。媛巫女さま、媛巫女さま、媛巫女さま……。

 次郎が勾玉を前に哭き続ける姿を、三人の男たちは無言で眺めていた。


(初出:2014年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ いただきもの

Posted by 八少女 夕

【小説】花見をしたら

scriviamo!


「scriviamo! 2014」の第八弾です。ウゾさんが、もともとこの企画のために書いてくださったという掌編にお返しを書いてみました。ウゾさん、ありがとうございます!

ウゾさんの書いてくださった掌編『其のシチューは 殊更に甘かった 』

ウゾさんはその年齢とは思えないものを書くことで定評のある中学生ブロガーさんです。書いてくださった作品も隅の老人視点ですよ。そして書いてくださったのは何故か今年やたらと注目を浴びている「マンハッタンの日本人」の美穂の話。はい、続きを書きました。あまり進んでいませんが。

特に読まなくても話は通じるかとは思いますが、このシリーズへのリンクです。(そろそろ新カテゴリーにしようかな)
 マンハッタンの日本人
 それでもまだここで - 続・マンハッタンの日本人

ええと、今年の参加一度目の方が全部終わってからにしようと思ったのですが、二度目参加の方がお二人になりましたので、来た順でガンガン発表しちゃうことにしました。はい、そうです。scriviamo! 2014は何度も参加してもかまいません。あ、締切は変わりませんので、二度目にトライしたい方はお急ぎくださいませ。


「scriviamo! 2014」について
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花見をしたら 
 〜 続々・マンハッタンの日本人
——Special thanks to Uzo-san


 最悪。美穂は口を尖らせながら歩いた。五番街を通ったら、トレイシーとすれ違っちゃった。正真正銘のキャリアウーマンで、八ヶ月前まで同じオフィスで仕事をしていた。美穂は彼女に憧れて、いつもにこやかに挨拶をしていたのだが、ある時彼女が仏頂面で言ったのだ。
「用もないのにヘラヘラしないで」

 ムシの居所が悪かったのかもしれないし、失恋でもしていたのかもしれない。でも、そのいい方に美穂はひどく傷ついたし、それからしばらくして銀行をクビになり、五番街のオフィスから追い出されてしまってからはより一層逢いたくない女になった。トレイシーはそんな美穂の想いを全く無視して「ハロー!」と笑いかけてきた。

「久しぶりね。今、どこでどうしているの?」
「仕事を見つけて働いています。小さなダイナーですが」
「この辺りなの? 私の知っているお店かしら」
「いいえ、普段勤めているのはユニオン・スクエアのあたりです。それに、あなたが行くような洒落たお店じゃないんです」

 トレイシーは、あら、と氣まずそうな顔をしたが、すぐに何ともないように言った。
「今日はオフなの? 買い物かしら」

 安食堂に勤めている私が五番街でショッピングをするわけないじゃない、そう思ったが怒ってもしかたない。そうだった、トレイシーってこういう無神経なことをいう人だったわね。
「いえ、今日も仕事です。ときどき、オーナーが経営しているもう一つの店にヘルプで行かされるんです。メトロポリタン美術館の近くにあります。こっちのほうが少しはマシだけれど、それでもあなたの行くような洒落たお店じゃないですね。《Cherry & Cherry》っていいます」

 あまり来たくもなさそうなのに愛想笑いをするトレイシーとハグをかわして、美穂は先を急いだ。好きでもないのにハグしたり、キスしたり、愛想笑いよりずっと偽善的じゃない。数年前はこんなことは考えなかった。アメリカは全てにおいて日本より優れていると思っていたし、日本にいるのは井の中の蛙で偏狭な人たちだと思っていた。

 でも今はそんな風には考えていない。日本の方がいいとは思っていないけれど、アメリカの方が優れている、マンハッタンにいる自分が素晴らしいとも、全く思えない。どちらの国にもいろいろな人がいる。いろいろなことがある。その中で、精一杯生きていく、それだけだ。

 ダウンタウンにある《Star's Diner》に勤めるようになったのは、もとはといえばアパートから遠くなかったからだが、もとの勤務先のある五番街や華やかな地域から離れられてほっとしていた。クビを言い渡した上司や、未だに肩で風を切って通勤している同僚たちに遭うのはつらかったし、今まで親しかった街に拒否されているようで悲しく思っただろうから。だから、二ヶ月ほど前にオーナーから《Cherry & Cherry》のヘルプに行ってくれと言われた時にはどきっとした。

 《Cherry & Cherry》と目と鼻の先にあるメトロポリタン美術館は、五番街に勤めている時の美穂のお氣にいりスポットだった。100ドルの年間パスを購入して、何度も訪れたものだ。今はとても払えないので、年間パスは買わないし、行くとしても美術館側の一回入場の希望額25ドルも高すぎる。でも、たとえば5ドルで入ることにも抵抗がある。だから、行かない。五番街を通って、メトロポリタン美術館を目にするようなところで働くのが不安だった。古傷をえぐられるみたいで。

 でも、ズキッとしたのは最初の日だけで、後はごく普通の日常になった。五番街は違って見えた。最初に海外旅行で来た時の憧れ、働くようになって「これが私の住む街なの」と誇りに思っていたこと、そのどちらの五番街とも違って見えた。それはアスファルトと石畳に覆われた道だった。憧れや誇りではなくて、通過する場所だった。トレイシーだって、他のもと同僚たちだって、きっと何ともなくなっていくに違いない。

 迷いもせずに《Cherry & Cherry》に辿りつき、ドアをあけようとした時、風に飛ばされてきた白い花びらが手の甲に載った。あ、桜! そうか、もう四月も終わりだものね。故郷の吉田町では一ヶ月も前に終わったであろう桜。ふいに子供の頃の春の光景が浮かんできて、美穂はぐっと涙を飲み込んだ。泣いている場合じゃないし。仕事、仕事。

 ドアを開けた。品の悪いフューシャ・ピンクのソファーが目に入る。ウェイトレスのキャシーが露骨に嬉しそうな顔をした。遅番である美穂が来たら帰ってもいいことになっているのだ。相変わらずぽつりぽつりとしか客がいない。後から他のウェイトレスたちも来るだろうし、18時にもなれば息をつく間もなくなるのだろうが、しばらくはのんびりできるだろう。エプロンをしてカウンターに立った。

 カウンターの一番奥に、茶色い鳥打ち帽を被った老人が座っていた。美穂は帰ろうとするキャシーをつかまえて訊いた。
「あの人の注文は?」
「ああ、まだよ。さっき入ってきたとき、息があがっていたので、あとでまた注文に来ますって言ったんだ」
手をヒラヒラさせながら、キャシーは出て行った。

「こんにちは。ご注文を伺います」
美穂は老人の前に立った。

 老人は、ゆっくりと視線を上げた。
「見ない子だね。新入りかい?」
「ええ、まあ。普段はユニオン・スクエアの店にいるんです」
「外国人だね」
「はい。日本人ですよ」

 なるほどとつぶやいたようだった。なにがなるほどなのだかわからないけれど。

「桜は見たかね。今日は満開だったよ」
「いいえ、今年はまだ。さっき花びら一枚だけ見ました。普段は思いだしもしないのに、軽いホームシックにかかりましたよ」
「ああ、日本の桜は有名だからね。華やかで綺麗な花だな」

「華やか……ですか。まあ、そうですね。私たちはそんな風に表現しないかな」
「では、なんと」

 美穂は言葉に詰まった。言われてみれば満開の桜は間違いなく華やかだった。だが、桜にはそれとは別のファクターが常に付いて回っている。儚い、幽玄な、それとも潔い……う~ん、なんだろう。ぴったりくる言葉がみつからない。というよりも、それを言葉で説明しようとしたことがなかった。

「ごめんなさい。ぴったりくる表現がみつからないわ」
「英語にはない概念かい?」
「そうじゃないの。私が感じているものを理論的に言葉にして考えたことがないのを、今ようやくわかったの」
老人はびっくりしたようだった。
「感じているのに考えたことがないって?」

 美穂は肩をすくめた。不意に自分は完膚なきまでに日本人なのだと思った。

 老人はそれ以上追求してこなかった。メニューを見もせずにスペシャル、つまり格安の定食を頼んだ。昨日残った肉や野菜を詰め込んで煮たシチュー。少し固くなったパン。アメリカらしく半リットルもある飲み物だけは太っ腹だが、それ以外はケチなメニューだ。だが、老人はスペシャル以外は頼まないと心に決めているようだった。

「アメリカに来てどのくらいだね」
他に客もいなくて、手持ち無沙汰の美穂は素直に老人の話し相手になることにした。どうせよく聞かれる質問だ。

「五年ちょっとです」
「ニューヨークにずっと?」
「ええ。最初は留学、それから五番街の銀行で一年半。失業三ヶ月、それから今の仕事です」
「日本に帰りたくないのかね?」

「ふるさとは遠きにありておもふもの」
美穂は思わずつぶやいた。

「なんだって?」
日本語を知らない老人には呪文のように聞こえたことだろう。美穂は英語に切り替えて言った。
「室生犀星という日本の詩人による詩の一節です。故郷というものは遠く離れた所で懐かしがっているのが一番いい。帰ったから天国ってわけじゃないんです」

「この世に天国はないからね」
やはり天国には住んでいない老人はそうつぶやくと具の少ないシチューを口に運んだ。

「桜を見に行ってきなさい。日本のと同じかどうかは知らないが、あんな綺麗なものを見過ごすのはよくないよ。あれは金持ちも貧乏人も関係なく平等に得られる幸福の一つだ」
「そうね、そして時が過ぎると、金持ちも貧乏人も関係なく見られなくなってしまうものだものね」

 ふさぎ込んでいても、傷ついていても、人生は前には進んでいかない。どこにも天国がないのはわかっている。だったら、それなりに楽しくやっていかなくちゃ。

 そう考えたら銀行をクビになって以来感じなかったほどにすっきりとした心持ちになってきた。そうだ、花見に行こう。日本とかニューヨークとか、こだわるのではなくて、ただ花を楽しもう。美穂は笑って老人の皿にお替わりのシチューを入れてやった。

(初出:2014年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】追跡 — 『絵夢の素敵な日常』二次創作

scriviamo!


月刊・Stella ステルラ 3月号参加 掌編小説 二次創作 月刊・Stella ステルラ


「scriviamo! 2014」の第九弾です。山西左紀さんの今年二つ目のご参加は、大好きな『空気の読めない(読まないかな?)お嬢様』絵夢の活躍する「絵夢の素敵な日常」シリーズの最新作です。私の大好きな街ポルトを題材にした作品、私の写真も共演させていただいています。ありがとうございます。

山西左紀さんの書いてくださった掌編 絵夢の素敵な日常(12)Porto Expresso

山西左紀さんは、ブログでの小説交流をはじめたもっとも古いお友だちの一人で、私の作品にコメントをくださるだけではなくて、実にいろいろな形で共演してくださっています。先日発表した「夜のサーカス」のアントネッラと「もの書きエスの気まぐれプロット」のエスの交流や、「254」シリーズのコトリたちとうちの「リナ姉ちゃん」シリーズだけでなく、そしてこの「絵夢」シリーズでもArtistas callejerosと共演してもらったり、リクエストをして脇キャラストーリーをたくさん作っていただいたり、毎回無茶をお願いしてもちっとも嫌がらずに、ほとんどオーダーメードのように作品を書いてくださるのです。

今回の話は私の休暇の話からイメージをふくらませて書いてくださった、ポルトが舞台のお話。とてもよく調べてあって「本当に行ったことがないの?」とびっくりするくらい細かい所をご存知でした。で、せっかくなのでポルトの話を続けます。個人的にツボだったサキさんの作品の最後の一文からふくらませたしょうもないトーリーです。短いんですが、これ以上引き延ばすほどの内容でもないので(笑)左紀さん、キャラ四人まとめて貸していただきました。ありがとうございました。



「scriviamo! 2014」について
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追跡  〜 『絵夢の素敵な日常』二次創作
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 最高の秋晴れだ。幸先がいい。

 アパートを出て、最初に寄ったのはセウタ通りの菓子屋。何種類もの菓子パンやミニタルト。ばあちゃんに頼まれたものだけれど、アリアドスにつくまでに二つ胃袋に消えた。ここの坂は勾配がきつくて転げ落ちるみたいに小走りになる。たくさんの車が市役所前広場を通って、サン・ベント駅の方へと曲がっていく。僕も同じ方向へと行く。徒歩だから橋まではちょっとあるけれど、それでも渋滞中の車よりも早く着くだろう。

 リベルダーデ広場にはいくつものカフェの椅子とテーブルがでていて、観光客たちが眩しい陽光を楽しんでいる。通りの向こうには、赤や黄色の観光客用の二階建てバスが出発時間になるのを待っていた。真っ青な空、白い市庁舎、ドン・ペドロ四世の銅像。僕が生まれ育ったこの美しい街の誇りだ。

 経済の悪化とともにリスボンの治安はとても悪くなったが、ポルトガル第二の都市ポルトは危険なこともほとんどなく観光客の受けもすこぶるいい。だから、いつもたくさんの外国人が来て、旅を楽しんでいる。真夏はさすがにとても暑いけれど、さすがに過ごしやすくなってきた。

Porto


 今日は休みなので、僕は橋を渡ってワイン会社が軒を重ねる対岸へ行く。観光客のためにポートワインの試飲をやっているので、適当に混じるのだ。たぶん、もう僕が観光客じゃないのはバレていると思うけれど。でも、僕はちょっとだけ東洋人みたいな顔をしているので、彼らについていく。最近は中国人観光客の方が多いのだけれど、彼らは独特の騒ぎ方をして、僕は上手く溶け込めないので、日本人をさがす。あ、いた! あの三人は日本人っぽいぞ。

 一人は年配の女性、それから髪をツインテールにしたティーンエイジャー、そして髪が長くて綺麗な女性だ。妙なことに三人は英語で話している。年配の女性が二人をワイナリーに案内するらしい。しめしめ。上手く警戒されないくらいに近くに行って、試飲のご相伴に……。

 そこで僕は妙なことに氣がついた。僕よりも三人に近い位置に、妙な黒服の男がいる。やはり東洋人だ。三人の連れではないようなのだが、男はじっと例の若い女性の方を見ている。年配の女性が何かを説明するために立ち止まったら、そいつもぴたりと止まった。なんだあいつ、あの三人、いや、あの女性を付けているのか?

 三人の誰もあいつには話しかけないから、知り合いじゃないだろう。大体、コソコソ付けているなんて普通じゃない。あの服装は、いかにもマフィアらしい! 東洋人なのは変だけれど、日本にもマフィアはきっといるんだろう。僕はどうしたらいいんだろう。このままにしておいたら、近いうちにあの女性は誘拐されるかもしれない。そうだ、ワインでほろ酔いになるのを待っているんでは。このままにしておいたら彼女が危ない!

 僕は男が女性に意識を集中しているのをいいことにそっと近づいた。そして一氣に足にタックルして男を突き倒した。そして反撃されないよう、全力でふくらはぎに抱きついた。

「うわっ!」
男は情けない声を出した。それを聞いて、周りの観光客と一緒に例の三人組もこちらを振り向いた。すぐに行動を起こして駆け出したのは例の女性だった。
「山本!」

「何、何が起こったの?」
年配の女性が叫んだ。あれ、ポルトガル語だ。この人、もしかして日本人じゃないの?

 日本語で何かわめく男と、びっくりして助けに来る女性、それに年配の女性の言葉で、僕はわけがわからなくなってきた。

「あんた、いったい、何やっているのよ」
腰に手を当てて、両足を肩の広さに広げてツインテールの女の子が言ったので、僕はしぶしぶ彼のふくらはぎから手を離した。

「こいつが、その人を尾行していたみたいだったから」
「尾行じゃないわよ、警護でしょ! だいたい、あんた、どこの子なのよ」
「え……」

 どうやらこの男はこの人たちの知り合いみたい。じゃ、マフィアが誘拐しようとしているってのは、僕の勘違い?
「その人の誘拐を企むマフィアだと思ったんだ」

 僕の説明を年配の女性が訳してくれて、一同はどっと笑った。きれいな女性は僕の頭を撫でて
「助けてくれようとしたのね、ありがとう」
と言った。

「私は絵夢。はじめまして。こちらは、メイコにミクに山本。あなたは?」
女性が順番に紹介してから、僕に手を差し出した。僕は助けてもらって立った。そしたら彼女の胸までにも届かない背しかなかった。

「僕、ジョゼです。この近くの小学校に通っています」
「地元の小学生が、こんな所で何してんの?」
ミクが痛い所を突っ込んでくる。ポートワインの試飲の話をしたら、四人は目を丸くした。
「一緒について来てもいいと言いたい所だけれど、ワインはダメよ」

 それでも、四人は僕を川岸の眺めのいいレストランに連れて行ってくれた。大人三人はポートワインで、そしてミクと僕は絞りたての葡萄ジュースで乾杯した。こうして僕には、新しい友だちができたんだ。

(初出:2014年2月 書き下ろし)
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Category : scriviamo! 2014
Tag : 小説 読み切り小説 コラボ 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

【小説】彼女のためにできること

scriviamo!


「scriviamo! 2014」の第十弾です。中島狐燈さんは、二年前に発表した私の短編「桜のための鎮魂歌(レクイエム)」の続編を書いてくださいました。ありがとうございました。本来ならば狐燈さんのブログにリンクを貼るべきなのですが、鍵つきでここを訪れてくださる方のほとんどが読めないと思われるため、狐燈さんの許可を得てこの下に転載しました。

中島狐燈さんの書いてくださった掌編 【scriviamo!参加作品】臨床日誌(或る花冷えの日)

こちらからお読みください

【scriviamo!参加作品】臨床日誌(或る花冷えの日)

 予約を受けた時、久々に緊張するお客様だな、と分かったのは、自分と同世代位な声の感じの女性、標準語できちっとした電話応対だったせいだ。都会で仕事をしている人ならごく普通の事だが、このあたりでこういう人は少ない。都会から、この街に来る人たちの多くは観光なのだが、こういう予約電話の方の場合、仕事や何らかの用事があっていらっしゃる人だ。そして、そういう都会の女性たちはたいていバリバリに肩が凝っている。その手のお客様だろう、と予測しておいた。
 
 予約時間の5分前に扉を開けて入ってきた彼女を見た瞬間、ああこれは想像より深刻な用事だったか、と悟った。だがこういう深刻な方の場合の予約は、ほとんどが鍼のコースなのだが、マッサージコースの予約だったので予測が甘くなってしまったのだ。内心、困ったなぁと思いつつ、とりあえず何食わぬ顔で招き入れて、凝りの気になる部分などを聞きながらマッサージを開始した。それ以上の事を話しかけるかどうするか悩んでいると、彼女の方から話し始めた。

「こちらは南の方なのに、意外と寒いんですね」
「皆さん結構驚かれて、そうおっしゃるんですよ。沖縄に行くのと同じくらいの感覚でいらっしゃるみたいで。想定外なので多分余計に寒く感じるんですよねー。私も数年前までは東京だったので、最初来たときはいきなり風邪ひいちゃいましたよー」

 せっかく会話が始まったので、できるだけ明るい雰囲気に持っていきたい。でも自分の発した言葉のトーンは、明らかにいつもに比べてうわずっているし、身体は少し触っただけでやっぱり深刻な感じの硬さがあるので、色々な意味で自分の作り笑顔が引き攣っている。顔を見られない状態の位置関係でよかった。

「東京にいらしたんですか。どうしてこちらに?」

 もう何度聞かれたか覚えていないくらいの質問。答えはいくつかのパターンがあって、たいていは差障りのない無難な回答をする。でも、自分でも意外な事に真実に近い方の回答を勝手に口走り始めた。

「いやー話せば長い話なんですが、ウチの親父っていうのがロクでもない親父でしてね、まあいろいろあって東京にいられなくなっちゃったんですよー」

 自虐的な笑い話を始めたつもりだったのだが、彼女の身体が一瞬こわばったのがわかった。

「でね、一家でこっちに移住してきちゃったんですけど、そのダメ親父がまたサッサと死んじゃいましてね。親父のせいで東京を捨てたっていうのに、今更戻れもしないし全くいい迷惑でしたねぇ。でもまあ住めば都って言いますけど、そんな感じで、のんびり仕事させてもらってます」
「…お父様、ご病気だったんですか?」

 ああこれは話の流れがマズい方向に行っているのではなかろうか。でも仕方がない。

「そうなんです。気づいた時はちょっともう手遅れで。私も何しろ親父が大嫌いだったもんですから、よくよく体調の変化にも気づいてやれなかったんですよね。なるべく顔も見ないようにしてたんで」
「そんなにお嫌いだったのに、お父様を見捨てないで一緒に来たんですね」
「母のほうがね、親父をなかなか見捨てないもんですから、仕方なく、ですね。私は母を見捨てるつもりはなかったもんですから」
「なんだか、ウチとちょっと似てます。違うのは母が父を見捨てたところくらい」
「ホントですかぁ?いやでもきっとウチの親父よりは、ずっとマシなお父さんのはずですよ。ああそういえば、もうすぐ命日だなぁ。桜が散る丁度いい時期に死んだんですよね」

 彼女からの返事はない。しまった。陰気な話になり過ぎた。しかも死んだ事を連呼している。深刻な体調の人に向かって、私は何をしている?

「…私ね、実は今年の桜はもう見られないかもと思っていたんです。でもとりあえずまだ大丈夫だったみたい」
「…あー。。。そうでしたか。。。でも、そこまでおっしゃるほどにはヤバくなさそうですよ?」
「え?」
「正直言うと結構お身体キツそうなのはわかりました。でもね、近日中にどうこうって感じではないですし、免疫上げていけば、まだまだ普通に回復する範疇だと思いますよ」
「・・・」
「実はね、ウチの親父なんか、もっともっと酷い状態だったんですけど、免疫上げるためにいろんな事試して医者も驚くくらい相当改善してたんです。なのにヤツは馬鹿なんで、良い検査結果を聞いた直後に事故って即死でした。貴女はまだまだ大丈夫。たぶん十年後の桜も見れますよ」

 別に慰めを言うつもりではなく本当に正直な私見を述べたつもりだったが、彼女には気休めにしか聞こえないかもしれない、とも思った。その後は二人とも黙ったままで施術は終了した。彼女の去り際に、もう一言だけ声をかけた。

「今日は花冷えが強いですし、お気をつけて。またお待ちしてます」
「ありがとう…。……」

 ありがとうの次の言葉が聞き取れないままだった。旅人がこの地を訪れるのは観光や慰安のためだ。療養や湯治の方は治療のためだ。彼女はそのどちらとも言い難い雰囲気だったし、私のところに来たのも何故だったのか結局聞きそびれてしまった。全体的にあまり良い施術ができたようにも思えなかったし申し訳なかった。もう会うこともないかもしれないが、どこかで十年後の満開の桜を見て欲しい。そう思った。


上の作品の著作権は中島狐燈さんにあります。中島狐燈さんの許可のない利用は固くお断りします。


狐燈さんは私の高校の時の同級生で、現在に至るまで親しい関係を続けている数少ない友人の一人です。私と違ってちゃんと文芸のことを学んだ経歴もあり、93年に発表した「La Valse」を掲載した同人誌「夜間飛行」への参加を薦めてくれたのもこの方です。現在は二人とも東京から離れているために連絡はネット上に限られていますが、まじめで人に優しい人柄は高校の頃から全く変わりません。

これだけある私の作品の中から「桜のための鎮魂歌」を選んでくれたのは、現実の当時の私の感情と重なるものをみて氣になったのだろうと思います。「桜のための鎮魂歌」の設定はフィクションですが、根底に流れる複雑な感情がこの作品をちょっと異色の重いものにしていると思います。

返掌編については少し悩みました。同じテーマについて書くことはただの繰り返しになりますので、視点を変えました。主人公の救いのなさについて別の人物がアプローチをしています。「桜のための鎮魂歌」を読まなくても話は通じるかと思いますが、読めばこの女性がなぜ心に鎧を着ているのかを理解しやすいかもしれません。



「scriviamo! 2014」について
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彼女のためにできること
続・桜のための鎮魂歌(レクイエム)
——Special thanks to Koto-san


 千秋が部長の席の前に立っていた。休暇の申請をしていた。彼女がプロジェクトを外れたという噂を聞いていたので氣になっていた。

 千秋はいつも鎧をつけているようだった。付き合いも悪くないし、下ネタにもイヤな顔はしないから、楽しくつき合えるヤツだと、もしくはいい感じになれるのかと近づこうとすると、その鎧に打ち当たる。何度か二人で飲みに行ったことがある。もちろん下心ありで。たくさん飲んで、こちらは正体がなくなるほど酔ってしまったが、トイレに立つ時も、会計をする時も彼女の足取りはしっかりしていて、何よりも目が酔っていなかった。

 俺は千秋を口説くのをやめて、もっとかわいげがあって隙のある子たちとつき合ってから、六年前に麻奈と結婚した。理想通りとは言いがたいけれど、俺にはちょうどいいヤツで、感謝もしている。浮氣心がなくなったとは言わないが、俺にとって一番の女性は、結局妻だと思う。

 それでも、俺は千秋を氣にかけている。あいつ以外の同期の女の子たちは、結婚や出産を機に辞めたり最前線ではない部署に異動したりした。かつてのような殺人的な忙しさではなくなったとはいえ、未だに深夜までの残業や土日の出勤も珍しくないから、パートナーのいる女性には難しい職場だ。千秋はずっと変わらない働き方をしていた。これまでには何度か彼がいたこともあったらしいが、最近では誰も現状について触れられない。

 だが、俺が氣になっているのは、その件じゃない。むしろここ一年ほどの彼女の変化だ。どこがどうと指摘はしにくいが、身体が本格的におかしいのではないかと心配だ。ものすごく痩せたというのではない、だが顔を見ると以前の健康そうだった彼女とは明らかに違う。体調を崩して休んだ、精密検査に行ったという話も聞いた。

「なんだよ、松野、お前、北原千秋に惚れたのか」
声にはっとした。庄治がニヤニヤと笑っていた。
「そんなんじゃないよ」
そう言いながら、俺は食うことも忘れて手にしていた茶碗に意識を戻した。

 社食はそこそこ混んでいて、俺と庄治は運良く席を見つけて食事を終えようとしていた。後から入ってきた千秋が携帯で話しながら席を探しているのをいつの間にか目が追っていたのだ。うるさい社食の常で千秋はかなり大きな声で話していた。
「ええ、そうです。二泊でお願いします。そちらは別府駅から歩ける距離ですか?」
休暇で別府に行くのか、そう思った。

 俺は飯を食い終えて、冷えた煎茶を飲みながら庄治に訊いた。
「なあ、知っているか、千秋のやつ、プロジェクトから自分で降りたらしい。一体どうしたんだと思う?」
「あん? お前知らないのか? 入院するんだってさ」
「入院って、なんの?」
「病名までは知らないよ。去年の今ごろから通院はしていたらしいけれどな。もしかしたら同期最後の総合職女子も退職することになるのかもな」

 退職とか一般職になるとかの話ならまだいい。庄治も縁起でもないので口にはしなかったが、俺と同じ別のことを考えているんじゃないかと感じた。俺はそれからしばらく上の空だった。終業後の酒の誘いも断って家に帰り、あまりに早かったので却って麻奈に心配される始末だった。

 そうか、あの不自然に黄色い顔だ、千秋に対するどうしようもない不安のもとは。俺は妻の顔をじっとみつめた。ファンデーションの美白効果もあるかもしれないが、うっすらと白い肌に頬がピンクに染まっている。結婚した途端に自分のことにかまわなくなってしまう女がいるとよく聞く中で、麻奈は勤めていることもあるが、結婚前と見かけがほとんど変わっていない。残業の多い俺の仕事のことも理解してくれて、家庭のことはほとんどやってくれるしあまり不満も口にしない、俺にはでき過ぎたほどの嫁だ。とはいえ、俺もここで千秋の名前を出すほどの軽率なことはしない。たとえ千秋に対して現在とくに恋愛感情を持っていないと言っても、麻奈は信じないだろうから。

「なあ、顔が黄色になる、重大な疾患ってなんだ?」
俺の言葉に麻奈はきょとんとした。
「何よ、薮から棒に。あなたの顔は全然黄色くないわよ」
「俺じゃないよ。同期でさ、入院することになったらしいって噂のヤツがいてさ」
「あら、そうなの。ええと、黄色いってことは肝障害かなんかじゃないの。私はそういうのあまり詳しくないからわからないけれど」
「そうか……」

 千秋と七、八年前に飲みに行った時のことを思い出した。あのとき俺はまだ、あわよくばあいつを口説こうとしていた。
「ここのところ、ふさぎ込んでいるみたいじゃないか。どうしたんだ?」

 千秋はいつものように醒めた目つきをしてから、下を向いて少し笑った。
「ばれちゃった、か……。まあね。これでもそんなに鋼鉄の神経じゃないってことかしら」
「何があった?」
「ああ、何でもないの。ちょっと、親が死んでね」

「おい。どこが何でもないんだよ」
俺は慌てて言った。千秋は忌引休暇をとらなかったし、誰もその話を聞いていなかったはずだ。

「ずっと縁を切っていたのよ。うちね、両親が熟年離婚したの。で、私はそれ以来あの人を父親とも思っていなかったし、その前からあの人のことを大嫌いだった」
「でも……」
「その、でも、なのよ。数ヶ月前に連絡してきてね。病室で謝られちゃって。それで、死なれちゃって……」

 俺はあのとき、本氣で千秋の力になりたいと思った。俺がずっと側にいてやるから安心しろと言ってやりたかった。実際に、それに近いことを言った。でも、千秋はあの醒めた目で、俺をじっと見つめた。
「そういうことを、何人もの女性に言うもんじゃないわ。私を男性不信にしたのは、父親だけだと思っている?」

 そう、俺はすでに麻奈とつき合いだしていた。千秋はそれを知っていた。結局俺はかわいげのある麻奈とゴールインして別の人生を歩みだした。俺の人生のためにはそれが一番だと思った。

「黄色くて縮んでしまった顔の父を見た時にね。わからなくなったの。ずっとあの人を憎んでいた。あの人は母に対して許せないことをしてきた。姑息で誠意の欠片もないひどいことを。けれど、愛人にも元妻にも娘にも拒まれたままで、ひとりぼっちで死んでいくあの人を許さない自分はどれだけ立派なんだろうって思ったわ。何もかもが虚しくなってしまった」
あのとき千秋はいつものように全く酔ったそぶりを見せずにグラスを傾けていた。俺は自分の方が酔ってしまって朦朧とした頭で、その言葉をぼんやりと聞いていた。

 その千秋が今、黄色い顔をして入院しようとしている。

「その方、親しいお友だちなの?」
麻奈の声にはっとした。俺は頭を振った。
「ものすごく親しいってわけじゃない。入院のことも他のヤツから聞いたくらいだし」
「そう。大した病状じゃないといいんだけれど。ご飯にする? それとも先にお風呂に入る?」

 俺はそのまま麻奈との普通の日常に戻った。実際の所、俺にできることはその晩は何もなかったから。こんな俺が、それでも千秋のことを氣にするのは間違っているんだろうか。

 それから一週間が経った。その間に桜前線はどんどん上昇して、昨日はついに東京でも咲き出した。俺は新人に花見の席とりの心得について廊下で説教をたれている時に、向こうを千秋が歩いていくのを見た。「もういい」と言って新人を帰し、急いで彼女の後を追った。

「千秋!」
エレベータの手前で紺のスーツ姿がぴたりと止まった。ゆっくりと振り向いた時に、俺はあれ、と思った。以前と何かが変わったわけではなかったが、とにかく何かが違うように感じた。

「何、松野君」
俺は突然、何を話していいのかわからなくなった。「精密検査で悪い病氣だったんだって」とは訊けないし、「休暇でどこに行っていた」と訊ねるのも筋が違うように思える。それでこう言った。
「今日、久しぶりに飲みにいかないか?」

 千秋はしばらく例の醒めた目つきでじっと見ていたが、やがて言った。
「いいわよ。夜桜の見えるところに連れて行って」

 結婚して以来、ずっと距離を置かれていたので、この提案には正直びっくりしたが、それを見越したように彼女が続けた。
「わたし、今、ドクターストップでアルコールは飲めないから、酔わせてどうこうは無理よ」

 高輪にあるとあるホテルのラウンジからは見事な夜桜が楽しめる。俺はクライアントにも麻奈の知り合いにも出くわさないことを祈りながらも、青白く輝く桜の照り返しを受けた千秋の横顔に少しだけときめいていた。俺は千秋を見ていたが、彼女は桜をみつめていた。

「噂を聞いたんだ」
「何の?」
「お前の。T社はお前のアイデアだからこそGOを出したんだろ。そのプロジェクトを降りるなんてよほどのことだと思ってさ」
「病院から会議には参加できないもの」
「じゃあ、本当に……。手術でもするのか」
「いいえ。できないの。だから、長くかかるみたい」

 人ごとみたいだった。俺はなんといっていいのかわからなかった。
「そんな顔をしないで。心配してくれたんでしょう、ありがとう」
「千秋……。俺は……」

「私ね、今年の桜はもうだめだと思っていたの。でも、二度も観る事になったわ」
「二度?」
「別府で観たし、それからここでも。不思議ね、桜って。梅や紫陽花では、来年もまた観られるだろうかなんて考えないのに、桜だけはそう思わせるのよね」

「なあ、千秋。また、ここで桜を観ような。五年後も、十年後も……」
彼女は、桜から目を離して、まともに俺の方を見た。いつもの醒めた目で少し揶揄するように笑った。
「そんな約束をしちゃダメよ。そういうのは、奥さまやお子さんとするものよ。それに私、十年後の桜は先約があるの」
「は?」

「別府でね、十年後のことを保証してくれた人がいるの。あの人と別府の桜を観に行くのよ」
そう言って千秋はペリエを飲んだ。ああ、それでか。俺は思った。彼女が少し変わって見えたのは。別府の誰かは彼女に希望を与えたに違いない。

「そうか……。支えてくれる人がいるんだな。俺は、千秋のために何かできないかって、考えていた。でも、結局は空回りだったみたいだな」
そういうと千秋は笑って首を振った。
「誤解しないで。別府にはただの旅行で行ったのよ。それに、その人は個人的な知り合いじゃなくて、むこうの治療院でマッサージをしてくれた針灸師の方よ」

 千秋は自分の掌を広げて見つめた。それから二つの掌をそっとすり合わせた。
「こうやってゆっくりとね、首の方から背中へと緩やかに円を描いていくの。強くもなく、弱くもなく。その度に、乾いていた土に水が沁みていくように、何か足りないものが細胞の一つひとつに満ちていくようだったの。最初は、それも上手くいかなくてね。たぶん、私があまりにも長くそういう接触を拒否していたからだと思うの。その方はそれを感じて、二度同じことをしてくださったの。マッサージはその方にとってお仕事だったんだけれど、私にとっては単なる身体の癒し以上の何かだったのよね」

「それは……」
「私、ずっと一人だったでしょう。誰かに助けてもらいたくなんかない、一人で生きていけるって思っていた。お金を稼いで、マンションという自分の城を持って、家事も一人でして、それで大丈夫だと思っていたの。完璧な人格者で私のためだけに存在してくれるような誰かでなければ、パートナーなんかいらないと思っていたし、そんな人は存在するわけはないとも思っていた。でも、そんな極端なことじゃなかったのよ。たった40分間、その方は単純にご自分の仕事をなさっただけなんだけれど、その掌は私のために、私の必要としていた何かを与えてくれたの」

 今度は俺が夜桜を観ていた。千秋のまっすぐな視線を見る勇氣がなかった。千秋が語っているのは肝臓の病の話ではなかった。本当は、たぶん俺がもしかしたらずっと前に与えてやれたかもしれない何か、けれど、俺が自分の快適さと幸せのために見なかったことにしてゴミ箱に捨ててしまったものだった。たぶん麻奈が俺に与えてくれているから、こうして健康でいられる何か。俺が千秋に与えようとすれば、麻奈と千秋の両方を苦しめるだけでしかない何か。

 千秋はその俺の心を読んだのかもしれない。笑ってこう続けた。
「ねえ。松野君。袖振りあうも多生の縁っていうわよね。わたしは、ずっと誰も信じない、一人でもかまわないって思ってきたけれど、誰かのほんの少しの言葉や氣遣いに生かされているって、ようやく思えるようになってきたの。松野君がこうやって氣にかけてくれるのも、そのひとつね。今の私にはそれで十分なの。私が言いたいのは、そういうことよ」

 千秋はペリエを飲み干すとすっと立った。
「今日はありがとう。私、桜の下を歩いてから帰るわね」

「千秋、頑張れよ」
そう言うのが精一杯だった。彼女は笑って去っていった。会計をしようとしたら、「もうお連れさまが済まされました」と言われてしまった。

 俺は少し前に千秋が眺めたであろう夜桜を見上げながら歩いた。夜風はまだ冷たかった。花の下でビールを傾けている客たちが寒さに文句を言っている。毎年の光景だった。でも、俺は二度とこんな風に花見の馬鹿騒ぎに加われないだろう。

 五年後、十年後、千秋がまだ桜を観られることを願っている。もっとも俺自身が健康に花見を続けている保証もない。だから、今年の桜をよく見ておこう。千秋と一緒に観たこの花を脳裏にしっかりと焼き付けておこう。

(初出:2014年2月 書き下ろし)
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Category : scriviamo! 2014
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 番外編 〜 黄昏のトレモロ - Featuring「Love Flavor」

scriviamo!


「scriviamo! 2014」の第十一弾です。栗栖紗那さんは、純愛ラノベ「Love Flavor」本編の最新作でご参加くださいました。ありがとうございます。

栗栖紗那さんの書いてくださった作品 Love Flavor 007 : "感情?"

栗栖紗那さんは生粋のラノベ作家ブロガーさんです。この方もブログでの小説交流をはじめたもっとも古いお友だちの一人で、書いているもののジャンルが全く違うにもかかわらず、積極的に絡んでくださる嬉しいお方です。紗那さんらしい人氣作品では「グランベル魔法街へようこそ」や「まおー」などが有名なのですが、私としては、この学園青春ラノベだけれど、ちょっと深刻なものも含まれる「Love Flavor」を一押しさせていただきます。この作品に絡んで去年のscriviamo!で東野恒樹というオリキャラを誕生させて書きましたし、その後も「リナ姉ちゃん」シリーズと共演していただくなど、うちの作品とはとても縁が深いのです。

さて、今回は「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」に絡んで、うちのオリキャラ結城拓人をなんと本編の中に出していただきました。お返しをどうしようかなと思ったのですが、さすがに拓人と蓮さまや紗夜ちゃんがバッタリ出会うというのは難しいので、紗那さんの作品の中に出てきた一セリフに飛びついて、全然違う話を作らせていただきました。実は、拓人が失恋した時期と、うちのとあるキャラが失踪した時期、ほぼぴったりなのですよ。そういう訳で、「大道芸人たち」外伝、お借りしたのは今年も再び白鷺刹那さまです。


【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ

「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む このブログで読む
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あらすじと登場人物

「scriviamo! 2014」について
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大道芸人たち 番外編
黄昏のトレモロ - Featuring「Love Flavor」
——Special thanks to Kuris Shana-san


「ち。上手くいかない」
普段、表ではまず口にしない乱暴な舌打がでてしまった。もし、彼女を知っている人がそれを見たらぎょっとしたことだろう。たとえば、数年前にティーンエイジャー向けのファッション雑誌の愛読者だったなら彼女を知らないということはありえない。そうでなくても蜂蜜色の髪と日本人離れしたスタイルは容易にかつて出演していた広告を思い出させるので、名前は知らなくてもあの人だとすぐに氣付かれる。だからモデルとしての活動をやめても、白鷺刹那は表ではかつてのように女らしく麗しく振る舞うのを常としていた。

 しかし、今日はすっかりそれを忘れていた。ここは町内の小さな公園、午前中には若い母親たちが我が子を連れて社交に精を出すが、この夕暮れには誰も見向きもせず、刹那がギターの練習をするには格好の場だった。

 刹那はギターをはじめてまだ二ヶ月だ。最初はいくつかコードを弾けるようになってそれで満足していた。同時にベースもやっていたのでそちらにまずは夢中になった。だが、どうもギターの他の奏法が氣になってきて、ここのところはクラッシックギターを練習している。アルペジオ奏法はそんなに難しくなかった。セーハが上手くいかなかったので、途中のレッスンを飛ばして「アルハンブラ宮殿の思い出」を弾こうとした。だがこちらもそう簡単にはいかなくて苛立っていた。

「何やってんだ?」
刹那が顔を上げると、そこに男が立っていた。黒髪がツンと立った男で、歳の頃は二十代の終わり頃だろうか。刹那をというよりは、刹那の右手を見ていた。

「上手く弾けないのよ、やになっちゃう」
刹那は乱暴な言葉遣いを聴かれたと思ったので、やけっぱちになって半ばふてくされるように答えた。

「ギターはじめてどのくらいだ?」
「二ヶ月。独学なの」

 男は呆れたというように空を見上げた。
「そんな早くトレモロは弾けないだろう」
「なんで」
「訓練しないと全部の指に均等に力が入らないんだ。毎日やっていればそのうちにできるようになるよ」

 刹那はすっと立つと男にギターを差し出した。
「そういうからには、あなたは弾けるんでしょう。やってみてよ」

 男は素直に受け取ると、刹那の立ったベンチに座るとギターを構えて静かに弾きだした。はじめの音からすぐに脱帽ものだとわかった。刹那が上手く動かせない右の指は軽やかにけれど均等に弦を弾いて、アルハンブラ宮殿の陽光に煌めく噴水を表現しはじめた。トレモロの部分だけでなく、その下を支えるメロディもしっかりと歌っている。

 刹那は、その演奏を黙って聴いていた。まだ肌寒い公園には、樹々も葉を落とし眠っているが、刹那と男の周りだけは夏のアンダルシアの幻想が広がっていた。しかも、それはそれだけではなかった。遠い憧れや、哀しみや、それにそれだけでない何かも表現されていた。今までに何度も聴いた「アルハンブラ宮殿の思い出」の演奏とは違う、特別な演奏だった。強い感情が感じられた。上手い人間が単純にギターを弾いているのとは違った。

 演奏が終わると、五秒ほど放心したようにギターの弦を見ていたが、男はゆっくりと立ち上がってギターを刹那に返した。
「こういうわけだ。長く続けていけばそのうちに弾けるようになるよ。もっとも、あんた忙しくて練習する時間ないかもしれないけれど」

 それを聞いて刹那は首を傾げた。
「ボクを知っている?」
「あん? まあな。モデルの白鷺刹那さん。知らないヤツの方が珍しいだろ。あ、俺はただの一般人で、安田稔っていうんだけどさ」

 刹那はため息をついた。
「もうモデルやっていないんだけれどね」
「ああ、最近、あまり見ないと思ったら、そうだったんだ」

「ねえ、安田さん、あの、唐突に失礼だけど……」
「なんだ」
「う〜ん、やっぱやめる」
「なんだよ、言えよ」

「わかった。演奏で思ったんだけれど、あなた、何か悩んでいるんじゃない?」
刹那がそういうと、稔はぎょっとした顔をして、それから再び青空を眺めた。
「そんな音していたか」

「音、かな……。それとも表現……ううん、顔の表情で思ったのかも。とにかく、単に公園でギターを爪弾くっていうのとは全然違っていた。すごく上手だったけれど、演奏って言うのを通り越して、まるで迷って苦しんでいるみたいだった」

稔は刹那のギターをじっとみつめたまま言った。
「わかるもんだな……。俺さ、ギターで身を立てたいってずっと思っていたんだけれど、その夢におさらばしたばっかりなんだ」
「どうして? そんなに上手いんだから、あきらめることないのに」
刹那の強い言葉に、稔は口を歪めた。
「ありがとう。でも、どうしようもないんだ」

「もし、ギターが本職じゃないなら、ふだんは何をしているの? サラリーマン?」
「いや、津軽三味線弾き」
刹那は目を丸くした。

「両方弾けるってすごくない?」
「ギターの方は趣味だったんだ。君と同じで独学。でも、三味線は家業だから、流派のことや後継者のことが絡んでいる。俺一人の問題ではなくなっている。ギターで食っていきたいと言っても、そう簡単にはいかないんだ。それに……」

 刹那が首を傾げて続きを促すと、稔は横を向いた。
「たとえば、モデルみたいな世界だったら三百万円なんてはした金かもしれないけどさ。俺にはどうしても必要だったから、その金額で自分の未来を売っちゃったんだ」

 刹那は口を尖らせた。
「モデルだって、三百万円をはした金なんて言える人はそんなにいないよ。未来を売っちゃったって、お金を受け取るかわりに、ギターをやめたってこと? どうしてもしたいことをそんなに簡単にあきらめていいの? 他に試せることはないの?」

 稔は考え込んでいるようだった。刹那は続けていいの募った。
「安田さんは、ボクにトレモロは毎日少しずつ練習しなくちゃ弾けるようにならないって言ったけどさ。そのどうしても必要な三百万円だって、少しずつの積み重ねで何とかなるんじゃないの? 自分にとって大切なことをお金と引き換えなんかにしちゃダメだよ」

 稔は刹那を見た。彼女は本氣で訴えかけていた。たまたま公園で知り合った通りすがりの人間にずいぶんと熱心だな、彼は少し驚いた。刹那は自分の剣幕を恥じたのか、下を向いてつぶやいた。
「どうやっても取り返しがつかなくなることもあるんだ。そうなってから後悔しても遅いんだから……」

「ありがとう。そんなに真剣に言ってくれて。本当は、その金だけの問題じゃないし、いろいろなことに外堀を埋められているのが現状だけれど……。そうだな。俺、明日から旅にでるんだ。そこでよく考えてくるよ」
「旅?」
「うん。最後のわがままって言って、ヨーロッパへの貧乏旅行に行くことを許してもらったんだ」

「ふ〜ん。アルハンブラにも行く?」
「ん? 行くかもしれないな」
「もし行ったら、そこでもう一度ボクの言ったことを考えてみて。後悔しないように。ボクは、安田さんと次に遭う時までにトレモロを練習しておくから」

 稔は何かが吹っ切れたように笑った。
「わかった。じゃあ、次に遭った時は、二人で何か二重奏しようか」

 公園は夕陽で真っ赤に染まった。しっかりとした足取りで去っていくその背中を眺めながら、刹那は稔の旅の安全を祈った。

(初出:2014年2月 書き下ろし)

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この後、稔はヨーロッパで失踪してしまいます。四年後にArtistas callejerosを結成した後、稔ははじめてグラナダを訪れ、蝶子の求めに応じてこの曲を演奏しています。その時にはきっと刹那さんのことを思い出しながら弾いていたことでしょうね。

この曲は、動画を貼付ける必要がないくらいに有名だと思いますが、一応。


Kaori Muraji Recuerdos De La Alhambra Francisco Tarrega アルハンブラの想い出
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Category : scriviamo! 2014
Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 森の詩 Cantum silvae

scriviamo!


「scriviamo! 2014」の第十二弾です。ユズキさんは、「大道芸人たち Artistas callejeros」の四人を描いてくださいました。ありがとうございます。

「大道芸人たち」 by ユズキさん
このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない使用は固くお断りします。

ユズキさんの描いてくださったイラスト scriviamo! 2014参加作品

ユズキさんは、素晴らしいイラストと、ワクワクする小説を書かれるブロガーさんです。私はユズキさんの書かれるキャラのたった女性や、トップ絵に描かれるクールな女性が大好きなのですが、版権ブログの方でお見かけする突き抜けたおじさんキャラやデフォルメした動物キャラも素晴らしくて、自由自在な筆のタッチにいつも感心しているのです。すごいですよ、本当に。

そして、そのユズキさんが、どういうわけだかうちの「大道芸人たち」と氣にいってくださいましてファンアートをどんどん描いてくださるのです。もう、これはモノを書いている人ならきっとわかってくださるかと思いますが、夢のまた夢ですよ。ああ、生きていてよかった。恥を忍んで公開して本当によかったと思います。

そのユズキさんが今回のために描いてくださったのは、なんと森の中で演奏する四人。この深い森のタッチをどうぞご覧ください。ええ、これは私、はまりました。ユズキさんはご存じなかったのですが、「scriviamo! 2014」が終わり次第連載をはじめようとしている新作「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」にどっぷりはまっている私には、これはその新作の森《シルヴァ》にしか思えなくなってしまい……。そして、新作宣伝モードに……。ユズキさん、わけがわからないことになりましたが、どうぞお許しください。


【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ

「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む このブログで読む
縦書きPDF置き場「scribo ergo sum anex」へ行く 縦書きPDFで読む(別館に置いてあります)
あらすじと登場人物

「scriviamo! 2014」について
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大道芸人たち 番外編
森の詩 Cantum silvae
——Special thanks to Yuzuki-san


「何それ」
蝶子はレネが持っているというよりは、バラバラにならないように支えている、古い革表紙の小さな手帳のように見えるものを指した。

「昨日、街の古い書店で見つけたんです。ずいぶん長い時間を生き延びてきたんだなと思ったら、素通りできなくて。嘘みたいに安かったんですよ」

「お前、それ読めるのか? ずいぶん古めかしい字体だし、何語なんだろう」
稔が覗き込んだ。

「大体の意味はわかりますよ。ここは、ラテン語です」
「ラ、ラテン語?」
レネがドイツ語やイタリア語、はてはスペイン語の詩も読んで頭に入れているのは知っていたが、会話の方は大したことがなかったので、まさかラテン語ができるほど学があるとは夢にも思っていなかった稔は心底驚いた。

「いや、フランス語はラテン語から進化したので、ヤスが思うほど難しくないんですよ。それに、この本の中でラテン語なのは詩だけで、残りの部分は古いフランス語なんです。しかも僕はこの詩を前から知っているんですよ」

 そういうと、すうっと息を吸ってから朗々と歌いだした。

O, Musa magnam, concinite cantum silvae.
Ut Sibylla propheta, a hic vita expandam.
Rubrum phoenix fert lucem solis omnes supra.
Album unicornis tradere silentio ad terram.
Cum virgines data somnia in silvam,
pacatumque reget patriis virtutibus orbem.



「ああ、それか」という顔をして、ヴィルがハミングで下のパートに加わった。蝶子と稔は顔を見合わせた。全然聴いたことがなかったからだ。それはサラバンドに近い古いメロディだった。

「あなたも知っているの?」
蝶子はヴィルの顔を覗き込んだ。
「ああ、今から十五年くらい前かな。とある修道院から、四線譜に書かれたこの歌の羊皮紙が発見されて、ヨーロッパ中でセンセーショナルに取り上げられたんだ」

「なんでセンセーショナル?」
稔が首を傾げると、レネが説明をしてくれた。
「だれもが知っている古いおとぎ話に関連するものだったからですよ。『Cantum Silvae - 森の詩』というサーガで、ヨーロッパの中央にあった、おそらくは黒い森を中心とした荒唐無稽な数世代にわたるストーリーなんです」

 ヴィルが続ける。
「その話は、口承の形では断片的に残っていて、15世紀の文献にも言及があったんだが、それまでは17世紀以降の伝聞による作品しか現存していなかったんだ。で、南フランスの修道院で出てきた羊皮紙はもっとも古い、オリジナルに近い文献だということで大騒ぎになったんだ」

「僕たちは子供の頃から親しんでいた物語だから、興奮しましたよね」
「ああ、で、学校の催し物でも生徒にこの曲を歌わせるのが流行ったな」

 蝶子と稔は再び顔を見合わせた。
「有名なのね。いったいどんな話なの?」

「馬丁から出世したフルーヴルーウー辺境伯の冒険……」
「麗しきブランシュルーヴ王女と虹色に輝く極楽鳥の扇……」
男姫ヴィラーゴジュリアがジプシーたちに加わり森を彷徨い……」
「ああ、一角獣に乗った黄金の姫の話もありましたよね!」
ヴィルとレネが懐かしそうに次々と語るその話は、日本人の二人には初耳だった。

「う~ん、ありえない度で言うと、古事記みたいなもんか?」
「そうね。聞いた事もない国の名前に、変わった姫君たち。ファンタジーかしらね」

 ヴィルがレネの古本を覗き込んだ。
「で、古フランス語の本文は何が書いてあるんだ?」

 レネは嬉しそうにめくりながら語った。
「《一の巻 姫君遁走》か。ああ、これは男姫ヴィラーゴジュリアの話ですよ。ちょっと訳してみましょうかね」

 ジュリアは行く手の樹木の間から煙を見た。ジプシー。聖アグネスの祭りだ。彼らは侯爵夫人の喪になんか服さないだろう。

 森の空き地に数台の幌馬車が停まり、炎の周りでジプシーたちは踊っていた。ジュリアには誰も氣に留めずに、めいめいで歌ったり踊ったりしているので、少しずつ中に入っていった。やがて一人の老女がじっと見つめているのに氣がついた。

「バギュ・グリの姫さんが何の用かね?」
老女は言った。

「あたし、お前に会ったことないけれど」
「私らは何でも知っているよ」
「嘘ばっかり。私がなぜここに来たかわからないくせに」
「知っているともさ。お前は別れに来たんだよ」

「誰とさ」
「全てとね。まず、その男物の服をなんとかしよう。それでは踊っても楽しくないだろう」
「そうね。でも、こうしていないと男どもが寄ってくるのよ」
「悪いことじゃあるまい。寄ってくる男どもをあしらうのは、女の楽しい仕事さ。それともダンスもできない方がいいのかね」
「わかったわ。この服とはお別れしよう。私を変身させて」

 老婆はジュリアを幌馬車に連れて行った。再びジュリアが出て来た時ジプシーたちはもはや彼女に無関心ではいられなかった。薄物を纏い、しなやかに歩み出る彼女は深夜の月のようだった。彼女は踊り始めた。その悩ましさは例えようもない。ジュリアにとってもこの夜は麻薬だった。踊りの恍惚。自分が誰かも忘れ、夢の中にいるように狂った。

 深夜に老婆は緑色に透き通る液体を差し出した。
「これをお飲み。聖アグネス祭の今宵、お前さんは愛する男を夢に見るだろう」

 ジュリアは口の端をゆがめて言った。
「あたしは誰も愛していないわよ。嫌いな男ばっかり」
「だからこそ、この薬が必要なんじゃ」

 ジュリアは受け取って一息で飲んだ。強い酒だった。



「へえ。こういう話なんだ」
「そう。この後、ジュリアは世にも美しい馬丁と結ばれるんですが、そのままジプシーに加わっていなくなってしまうんです。姫と別れた馬丁のハンス=レギナルドは、森を彷徨ってからグランドロン王国にたどり着き、そこでレオポルド一世に仕えることになるんですよ」
「何世代か後に、レオポルド二世とルーヴラン王女の婚姻話が持ち上がるんだったな」
「そうです。《学友》ラウラがその王女に仕えていて……」

「わかった、わかった。思い出話が長くなりそうだ。それってこういう森を舞台に話が進むんだ?」
四人は、森の中をゆっくりと進んでいた。黒い森ではなくて、アルザスにほど近い村はずれの森で『森の詩』に謳われている《シルヴァ》に較べると林に近いものだったが、浅草出身の稔にとっては十分に深い森だった。

 木漏れ陽がキラキラと揺れている。四人が下草を踏みしめながら進んでいくと、よそ者の訪問に驚いたリスや小鳥が、大急ぎで移動していくのがわかる。時おり、松やにのような香りが、時には甘い花の芳香も漂ってくる。

「そうですね。《二の巻》の主人公、マックスは森を旅していましたよね」
「人里にいる時の方が多かったぞ」
「ああ、それにラウラはお城で育っていましたよね」

「でも、『森の詩』なの?」
「そうなんです。森は話の中心ではないけれど、いつもそこにあって、人びとの生活と心の中に大事な位置を占めているってことだと思うんですよね」
「当時は、今ほど文明が自然と切り離されていなかったってことなんだろう」
ヴィルが言うと、レネは深く頷いた。
「この歌そのものが『Cantum Silvae - 森の詩』といって、グランドロン王国で祝い事がある時には、必ず歌って踊ったと伝えられている寿ぎの曲なんです」

「じゃ、せっかくだからそのメロディを演奏してみましょうよ。そんなに難しくなさそうだし」
蝶子が鞄を開けて青い天鵞絨の箱からフルートを取り出した。ヴィルも自分のフルートを組立てる。
「サラバンド風か。ちょっと風変わりに、三味線で行くか」
稔がいうと、レネは嬉しそうに頷いて、本をそっと太陽に向けて掲げ、伴奏に合わせて歌いだした。それはこんな意味の歌だった。
 

おお、偉大なるミューズよ、森の詩を歌おう。
シヴィラの預言のごとく、ここに生命は広がる。
赤き不死鳥が陽の光を隅々まで届け、
白き一角獣は沈黙を大地に広げる。
乙女たちが森にて夢を紡ぐ時
平和が王国を支配する。



(初出:2014年2月 書き下ろし)

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誤解なさる方がいらっしゃると困るので、解説しておきます。レネとヴィルが話している「森の詩 Cantum silvae」の話は、ヨーロッパのよく知られたメルヒェンなどではございません。私のオリジナル小説です。「森の詩 Cantum silvae」は私が高校生の頃から勝手に妄想していた三部作で、「第一部 姫君遁走」「第三部 一角獣奇譚」はお蔵入りになり、「第二部 貴婦人の十字架」のみをこの三月から連載予定です。今日の話に出てきたジュリアとハンス=レギナルドやレオポルド一世とブランシュルーヴ王女はお蔵入りの第一部の登場人物です。

なお、本文中に登場させたラテン語による「森の詩 Cantum silvae」は私が作ったもので、文法が間違っている可能性がとても高いです。詳しい方で直してくださるというか方がいらっしゃいましたらどうぞよろしくお願いします。
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Posted by 八少女 夕

【小説】歩道橋に佇んで — Featuring 『この星空の向こうに』

scriviamo!

月刊・Stella ステルラ 3月号参加 掌編小説 月刊・Stella ステルラ


scriviamo!の第十三弾です。(ついでに、TOM-Fさんの分と一緒にStellaにも出しちゃいます)
TOM-Fさんは、 Stellaで大好評のうちに完結した「あの日、星空の下で」とのコラボの掌編を書いてくださいました。本当にありがとうございます。


TOM-Fさんの書いてくださった掌編 『この星空の向こうに』-Featuring『マンハッタンの日本人』

TOM-Fさんは、小説書きのブロガーさんです。代表作の『フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス』、天平時代と平安時代の四つの物語を見事に融合させた『妹背の桜』など、守備範囲が広いのがとても羨ましい方です。こだわった詳細の書き込みと、テンポのあるアクションと、緩急のつけ方は勉強になるなと思いつつ、真似できないので眺めているだけの私です。

「あの日、星空の下で」は、TOM-Fさんの「天文オタク」(褒め言葉ですよ!)の一面が遺憾なく発揮された作品で、さらに主人公のあまりにも羨ましい境遇に、読者からよくツッコミが入っていた名作です。お相手に選んでいただいたのが、何故か今年引っ張りだこの「マンハッタンの日本人」谷口美穂。TOM-Fさんの所の綾乃ちゃんと較べると、もう比較するのも悲しい境遇ですが書いていただいたからには、無理矢理形にいたしました。今年も同時発表になりますが、できれば先にTOM-Fさんの方からお読みくださいませ。


とくに読む必要はありませんが、「マンハッタンの日本人」を知らない方でお読みになりたい方のためにリンクを貼っておきます。
 「マンハッタンの日本人」
 「それでもまだここで 続・マンハッタンの日本人」
 「花見をしたら 続々・マンハッタンの日本人」



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歩道橋に佇んで 〜 続々々・マンハッタンの日本人
— Featuring 『この星空の向こうに』

——Special thanks to Tom-F-SAN

 風が通る。ビルの間を突風となって通り過ぎる。美穂はクリーム色の歩道橋の上で忙しく行き来する車や人のざわめきをぼんやりと聞いていた。

「あ……」
髪を縛っていた青いリボンが、一瞬だけ美穂の前を漂ってから飛ばされていった。手を伸ばしたが届かなかった。艶やかなサテンは光を反射しながらゆっくりと街路樹の陰に消えていった。

「お氣にいりだったんだけれどな……」
留学時代や銀行に勤めていた頃に手に入れたものは、少しずつ美穂の前から姿を消していた。仕事や銀行預金だけではなくて、もう着ることのなくなったスーツ、高級さが売り物の文房具、デパートでしか買えない食材は今の美穂とは縁のないものだった。

 美穂の勤めている《Star's Diner》に、突然現れたあの少女のことが頭によぎった。春日綾乃。かちっとした紺のブレザー、ハキハキとした態度。希望と野心に満ちた美少女。コロンビア大学の天体物理学に在学中で、ジャーナリズム・スクールにも所属しているとは、とんでもなく優秀な子だ。はち切れんばかりのエネルギーが伝わってきた。私も、かつてはあんなだったんだろうか。ううん、そんなことはない。私はいつでも中途半端だった。学年一の成績なんてとった事がない。そこそこの短大に進み、地元のそこそこの信用金庫に就職して、これではダメだと自分を奮い立ててようやくした留学だって、ただの語学留学だった。そして、ニューヨーク五番街にオフィスを構える銀行の事務職に紛れ込めただけで、天下を取ったつもりになっていた。それだって、もはや過去の栄光だ。

 昨日も彼女は、自転車に乗って颯爽とやってきた。レポートを完成するために取材をするんだそうだ。何度書いても突き返されると彼女はふくれていた。課題は「マンハッタンの外国人」で、ありとあらゆるデータを集めて、貧困と失業と犯罪に満ちた社会を形成する外国人像を描き出したらしい。
「でも、受け取ってくれないの。間違いを指摘してくださいと言っても、首を横に振って。私は答えが欲しいのに、あの講師ったらわけのわからないことを言ってはぐらかすだけなんですよ。せっかく早々と入学が認められて、留学の最短期間で効率よくジャーナリストのノウハウを学べると思ったのに、外れクジを引いちゃったのかな」

「効率よく、か……」
「ええ。私にはぐずぐずしている時間なんてないんです。一日でも早くジャーナリストになるためにわざわざニューヨークまで来たんだから、必要な事だけを学んだら、どんどん次のステップに進まなくちゃ」

 美穂は自分の人生について考えてみた。効率よく物事を進めた事など一度もなかったように思う。綾乃のように明確な目標と期限を設定して、自分の人生をスケジュール化した事もなかった。 

 綾乃にレポートのやり直しを求める講師が何を求めているのか、美穂にはわからない。けれど、綾乃のレポートの内容には悲しみを覚える。それは完膚なきまでに正論だった。正しいからこそ、美穂の心を鋭くえぐるのだ。美穂自身も貧困と失業と犯罪に満ちた社会を形成するこの街のロクでもない外国人の一人だ。もっと過激な人間の言葉を借りれば排除すべき社会のウジ虫ってとこだろう。なぜそれでもここにいるのかと問われれば、返すべきまっとうな答えなどない。けれど、自分がこの世界に存在する意義を声高に主張できる存在なんて、どれほどいるのだろうか。

 最低限のことだけをして効率よく泥沼から抜け出す事ができれば、だれも悩まないだろう。それはマンハッタンに限った事ではない。

 《Star's Diner》で要求される事はさほど多くはなかった。正確に注文をとり、すみやかに出す事。会計を済まさずに出て行く客がいないか目を配る事。汚れたテーブルを拭き取り、紙ナフキンや塩胡椒、ケチャップとマスタードが切れていたらきちんと補充する事。可能なら追加注文をしてもらえるように提案をする事。美穂にとって難しい事はなかった。かなり寂れて客も少ない安食堂で、固定客が増えてチップをたくさんもらえる事が、生活と将来の給料に直接影響するので、美穂は愛想よく人びとの喜ぶサービスを工夫するようになった。

 おしぼりサービスもその一つだ。大量のミニタオルを買ってきて、用意した。一日の終わりにはふきん類を塩素消毒するのだから一緒に漂白消毒して、アパートに持ち帰ってまとめて洗う。自分の洗濯をするのと手間はほとんど変わらない。勤務中のヒマな時間にはダイナーの隅々まで掃除をする。害虫が出たり、汚れがついて客がイヤな思いをしないように。

 そうした契約にない美穂の働きに、同僚はイヤな顔はしなかったがあまり協力的ではなかった。それに賛同してくれたのは、新しく入ったポール一人だった。先日、失業していると言っていたのでこのダイナーがスタッフを募集している事を教えてあげたあの客だ。彼はもともとウォール街で働いていたぐらいだから、向上心が強い。言われた事を嫌々やるタイプではないので、美穂が何かを改善していこうとする姿勢については肯定的だった。ただ、彼自身はこのダイナーの経営にはもっと根本的な解決策が必要だと思っているようだった。美穂にはそこまで大きなビジョンはない。小人物なんだなと自分で思った。

 はじめは無駄のように思われた美穂の小さな努力だったが、少しずつ実を結び、必ずチップを置いていってくれる馴染みの客が何人もできた。ウォール街で誰かが動かしているようなものすごい金額の話でもなければ、成功と言えるような変化でもない。けれど、そうやって努力が実を結んでいく事は、美穂の生活にわずかな歓びとやり甲斐をもたらした。

 でも、綾乃のレポートの中では、美穂もポールも地下鉄の浮浪者も「低賃金」「貧困」を示すグラフの中に押し込められている。マンハッタンの煌めく夜景の中では、存在するに値しない負の部分でしかない。「いらないわ」綾乃の言葉が耳に残る。もちろん、彼女は「マンハッタンに外国人なんかいらない」と言ったわけではない。「アンダンテ・マエストーソ、あの部分はいらない」そう言ったのだ。綾乃との昨日の会話だった。

「ジョセフにヘリに乗せてもらって、マンハッタンの夜景を見せてもらった時に、ホルストの『木星』のメロディを思い浮かべたんですよ。知っています、あの曲?」
「ええ。『惑星』はクラッシックの中ではかなり好きだから。綾乃ちゃんは天文学を学ぶだけあって、あの曲はやっぱりはずせないってところかしら」
「ええ、そうなんです。でも、『木星』はちょっといただけないな」
「そう? どうして?」
「ほら、あのいきなり民族音楽みたいなメロディになっちゃうあそこ、それまでとてもダイナミックだった雰囲氣がぶち壊しだと思うんですよ。ロックコンサート中に無理矢理聴かされた演歌みたい。アンダンテ・マエストーソ、あの部分はいらないわ」

 美穂は小さく笑った。確かにSF映画に出てくる惑星ジュピターをイメージしていたら、違和感があるかもしれない。合わないからいらない、その言葉はちくりと心を刺した。

「演歌ね、言い得て妙だわ。ホルストもそう意図して作ったんじゃないかな」
「えっ?」

「あの曲、『惑星』という標題があるために『ジュピター』は木星の事だと思うじゃない? でもホルストが作曲したのはローマ神話のジュピターの方みたいよ」

 綾乃のコーラを飲む手が止まった。
「天体の音楽じゃないんですか?」
「そう。もともとは『七つの管弦楽曲』だったんですって。第一次世界大戦の時代の空氣をあらわした一曲目がローマの戦争の神になり、他の曲もそれぞれローマの神々と結びつけられて、それからその当時発見されていた惑星と結びつけられて『惑星』となったってことよ。本当かどうかは知らないけれど、私はそう聞いたわ」

 美穂は、忙しくなる前に各テーブルにあるケチャップとマスタードを満タンに詰め直しながら続けた。
「あの『the Bringer of Jollity』って副題、快楽をもたらすものと日本語に訳される事が多いけれど、実際には陽氣で愉快な心持ちを運ぶものってことじゃない? 人びとの楽しみや歓びって、祭典なんかで昂揚するでしょう。とてもイギリス的なあのメロディは、それを表しているんだと思うの。それってつまり、日本でいうと民謡や演歌みたいなものでしょう?」
「そうなんですか……」

 美穂は日本にいた頃は『木星』を好んで聴いていた。冒頭部分はファンファーレのように心を躍らせた。その想いは輝かしい前途が待ち受けているように思われた人生への期待と重なっていた。でも、あれから、たくさんのことが起こった。自分を覆っていたたくさんの金メッキが剥がれ落ちた。人生や幸福に対する期待や価値観も変わっていった。テレビドラマのような人生ではなくて、みじめで辛くとも自分の人生を歩まなくてはいけない事を知った。綾乃とは何もかも正反対だ。最短距離でも効率的でもなく、迷い、失敗して、無駄に思える事を繰り返しつつ、行く先すらも見えない。

 今の美穂の耳に響いているのは同じホルストの『惑星』の中でも『木星』ではなくて『土星』だった。『Saturn, the Bringer of Old Age』。コントラバスとバス・フルートが暗い和音をひとり言のように繰り返す。長い、長い繰り返し。やがて途中から金管とオルガンが新たなテーマを加えていく。それは、次第に激しく歌うようになり、怒りとも叫びともつかぬ強い感情を引き起こす。けれど最後には鐘の音とともに想いの全てが昇華されるように虚空へと去っていく。

 美穂は老年というような年齢ではない。それでも、今の彼女には希望に満ちて昂揚する前向きなサウンドよりも、葛藤を繰り返しつつ諦念の中にも光を求める響きの方が必要だった。

 綾乃の明確な言葉、若く美しくそして鋼のように強い精神はとても眩しかった。そして、それはとても残酷だった。この世の底辺に蠢く惨めな存在、這い上がる氣力すら持たぬ敗者たちには、反論すらも許されないその正しさが残酷だった。階段を一つひとつ着実に駆け上がっていくのではなく、青いリボンが風に消えていくのを虚しく眺めているだけの弱い存在である自分が悲しかった。

 自分もまた、あんな風に残酷だった事があるかもしれない。美穂は思った。挫折と痛みを経験したことで、私は変わった。失業を繰り返していたポール、桜を観る事を薦めてくれた鳥打ち帽のお爺さん、よけいな事をやりたがらない同僚たち、地下鉄で横たわる浮浪者たち。このマンハッタンにいくらでもいるダメ人間たちの痛みとアメリカンドリームを目指せない弱さがわかるようになった。

 綾乃に話しても、きっとわからないだろうと思った。頭のいい子だから、文脈の理解はすぐにできるだろう。レポートを上手に書きかえる事もできるだろう。でも、本当に彼女が感じられるようになるためには、彼女が彼女の人生を生きなくてはならないのだと思った。美穂は綾乃には何も言わない事にした。そのかわりに五番街で買った青いリボンの代りに、今の自分にふさわしいリボンを買おうと思った。簡単にほどけないもっと頑丈なものを。

(初出:2014年2月 書き下ろし)

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作中に出てくるホルストの『惑星』です。高校生くらいのとき、LP(というものがあった時代です)で、聴きまくりましたね〜。「土星」だけの動画もあったのですが、ホルスト自身がバラバラにするのを好まなかったというので、全曲のものを貼付けておきます。


G. Holst - The planets Op. 32 - Berliner Philharmoniker - H. von Karajan
00:00 I.Mars, the Bringer of War
07:21 II.Venus, the Bringer of Peace
15:58 III.Mercury, the Winged Messenger
20:14 IV.Jupiter, the Bringer of Jollity
27:50 V.Saturn, the Bringer of Old Age
37:12 VI.Uranus, the Magician
43:15 VII.Neptune, the Mystic
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Category : scriviamo! 2014
Tag : 小説 読み切り小説 月刊・Stella コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】午睡から醒めて —「タンスの上の俺様 2014」

scriviamo!


scriviamo!の第十四弾です。

篠原藍樹さんは、 Stellaでおなじみの異世界ファンタジー「アプリ・デイズ」の後日談を書いてくださいました。本当にありがとうございます。


篠原藍樹さんの書いてくださった掌編 『外伝アプリ企画参加用(?)』

篠原藍樹さんは、月間Stellaの発起人のお一人で、そちらでも大変お世話になっている高校生の小説書きブロガーさんです。いや、そろそろ高校卒業でしょうか。代表作の『アプリ・デイズ』は、ものすごい設定で唸りました。登場人物たちが高校などの日常世界を離れて戦うというところまでは他の小説でもあるでしょうが、未来小説らしくそれぞれの人間にアプリをインストールできる事になっていて、その世界観がワープロ時代に育った私には想像もできないデジタルな世界になっていまして。最近の高校生の脳みそはこんな風になっているのか! と、驚愕したものでした。

今回、書いてくださったのは、その「アプリ・デイズ」の後日談です。本編を離れて、ほのぼのとしたいい感じの主人公たちにほんわかさせていただきました。お返しをどうしようかと思いましたが、「アプリ・デイズ」の二次創作はどう考えても無理なので、トリビュート掌編にさせていただきました。藍樹さんの書いてくださった作品そのものがネタバレを含んでいますので、そのモチーフを使わせていただいています。本編をこれから読むおつもりの方はお氣をつけ下さい。登場するオリキャラがあまりにもパンチが弱いので、去年のscriviamo!の一番人氣キャラを配置しました。



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午睡から醒めて —「タンスの上の俺様 2014」
(Homage to『Appli Days』)

——Special thanks to Shinohara Aiki-SAN

 日曜日の午後、僕はほんの少しだけソファに横になる。月曜日から金曜日までぎっしりと働き、土曜日は莉絵につきあって郊外のショッピングセンターまで買い出しにいく。様々な用事をしてくたくただ。のんびりと昼寝を楽しむこの時間だけは莉絵も文句は言わない。これはまずまず幸せと言ってもいいだろう。

 夢の中では、白い長い髪の儚げな少女がそっと呼びかけていた。
「ごめんね……。わたし、どうしてもリュウ君ともう一度逢いたかった……」
オルナ……。僕は何度でも君の事を許すよ。大好きなんだ、君の事を……。美少女は僕の腕の中で震えている。その柔らかい髪は甘い香りとともに僕の鼻腔をくすぐり……。くすぐり……、く、くすぐったい……、あれ?

「はいはい。起きてよ~」
眼を開けると、顔のすぐ側に茶色い毛玉があった。僕はぎょっとしてソファーの背に飛び乗った。そして、その毛の塊をよく見た。仔猫だ。茶色のトラだ。しかも形相が悪い。ガンを付けている、というのが正しい表現かもしれない。オルナちゃんじゃない!

 僕は高校生の時にあの名作「アプリ・デイズ」に出会った。篠原藍樹さんという高校生がブログで連載していた小説だ。高校生が書いたとは思えないほど完成された世界観、手に汗を握るストーリー、そして、永遠のヒロイン、オルナ・テトラ……。読みながら、僕は主人公の遠雁隆永に入り込み、そして主人公がしていないのにオルナに恋をした。儚くて壊れそうな白い美少女。

 そして、僕は大学に進み、就職してから直に僕自身のオルナと出会った……はずだった。それがいま僕の目の前で、目つきの悪い仔猫を差し出している血色のいい莉絵だ。出会った時は、オルナちゃんの再来かと思うほど色が白く、はかなげで明日の命すら知れないと思われた。それが今は見る影も無い。病院に行かないでもいいのは、悪い事じゃないが。

「かわいいでしょ?」
莉絵はにっこりと微笑む。か、かわいい? 僕はその仔猫に睨まれているんだが……。
「連れて帰ってください、って箱に入っていたの。とてもそのままにしておけなくって」
要するに捨て猫か!

「ニコラって名前にしたから」
世帯主で、一家の大黒柱である僕の意見も聞かずに、この猫を飼う事だけでなく名前まで決定したらしい。しかも、ニコラなんてかわいい名前を付けてどうするんだ! こんなふてぶてしい猫、見た事ないぞ。まだ手のひらサイズなのに、みゃあと可愛く鳴きもせずに、ひたすらこれからお世話になる家の主人を睨みつけている。

 莉絵にはこの猫がとても可愛く見えるらしかった。僕がかなり氣にいっていた、パンのおまけでついてきたシリアルボウルをさっと取り出すと、ミルクを入れてやり仔猫に飲ませてやっていた。小さい生きものに優しい所は、莉絵の利点だ。

 莉絵が現われた時、僕は運命だと思った。ある時、アパートの郵便受けの前でウロウロしている美少女がいたのだ。そして、僕が郵便受けを開けようとすると「あ」と言った。

「え?」
「あ、あの……。私の指輪が、そこに入ってしまったんです」
「え?」

 その時は、どうやったら見ず知らずの人間の郵便受けに指輪が入るシチュエーションになるのか、疑問を持って良さそうなものだったが、僕にはオルナちゃんが突然現れたようにしか思えなかった。実際に、莉絵は身体が弱く、そのために痩せ細り透き通るように白い肌をしていた。もちろん髪は黒かったけれど。僕は指輪を渡して、それから、自己紹介をして、デートにこぎ着けた。

 莉絵が入院して、手術をしないと助からないという話を聞いた時には、彼女の命を助けるためには何でもすると叫んだ。莉絵にはいくつもの臓器疾患があって、特にその時は至急腎臓の移植をしなくては助からないと言われていた。そして、奇跡が起こった、と皆が思った。つき合っていたこの僕が、20万人に一人しかいないといわれている適合タイプだったからだ。もちろん僕は愛する莉絵、僕のオルナちゃんのために腎臓を一つ提供し、手術は成功した。彼女はすっかり健康になり、僕たちは結婚した。

 莉絵がはじめから腎臓のために僕に近づいたことを知ったのは、結婚してからだった。彼女はスポーツもできないし、塾にも行かせてもらえない、ずっと自分の部屋にこもった生活をしてきた。コンピュータを操るスキルがそれで上がってしまい、ハッカーのような事までしていたらしい。僕の朝食を作ってくれる氣はさらさらない彼女だけれど、国の中央セクションにある健康診断データを閲覧するなんて高校生の頃から朝飯前だったらしい。そして、最適合の僕の存在を知ると、わざわざアパートにやってきて指輪を郵便受けに入れて僕を待っていたのだ。

 まあ、でも、そんなに悪い事じゃなかった。彼女のいなかった僕が、夢にまで見たオルナちゃんの再来かと思うばかりの儚げな美少女の命を救い、結婚する事になったんだから。それに、「アプリ・デイズ」の主人公と違って、命を狙われたってわけじゃないからな。許すとか許さないとかいうほど悪い事をされたわけじゃないよな。

 その後はめでたしめでたしと言っていいのかわからない。片方の腎臓を摘出して以来、どうも無理がきかなくなって痩せる一方の僕とは対照的に、莉絵は血色が良くなり、どんどんふくよかになった。毎日、昼ドラを見ながら五食は食べているらしい。まだ、心臓には問題があるらしいのに、いいのか? もっとも心臓ばかりは脳死の提供者がないかぎり手術できないから、莉絵は手術をあきらめているみたいだ。僕は彼女が不憫なので、パートに行かせたりしないで家でゆっくりできるようにしている。

 どんどん食べて体重を増やしているのは莉絵だけではなかった。そのまま我が家に居着いたネコは、僕の大事なボウルを二つも占領して着実に大きくなってきている。莉絵はニコラと呼び続けているが、その名前に反応したことは一度もない。なんともまあ、態度のでかい仔猫で、いつもガンをつけているような目つきをしている。仔猫ならかわいらしく身体をくねらせたりすればいいものをそれもしない。たまに前足で顔を洗っている様子などはさすがに可愛いと思うが、それに見とれていると「何を見ているんだ」とでもいいたげにキッととこちらを睨む。

Oresama

 エサが欲しい時もかわいらしくにゃあにゃあ言ったりはしない。きちっと前足を揃えてボウルの前に座り、僕の顔を見る。その様子を見ると、急に悪い事をしたような氣になる。
「す、すみません。氣がつきませんで」
俺はあわててキッチンの戸棚に向かい、エサを用意するのだった。

「ニコラって感じじゃ絶対にないよなあ。なんでお前はそんなに高飛車なんだ。俺様って感じだぞ」
そういうと、ネコはこちらを向いた。今まで何度ニコラと呼んでも無視されていたので、その反応にはびっくりした。

「なんだよ。俺様っていわれて氣分を害したのか?」
やはり俺様というと反応する。変な猫だ。それ以来、僕はこいつを俺様ネコと秘かに呼ぶようになった。

 そんな日曜日の午後だ。僕はつかの間の午睡を楽しみ、莉絵はリビングでこたつに寝そべりながらテレビを観ている。そして、俺様ネコは……、やべっ。コンピュータの前で遊んでいる。データでも消されたら大変だ。
「おいおい、そこはまずいから降りてくれよ」

 画面には30近いブラウザの窓が開いていて、一番手前の入力フォームには意味不明の文字が大量に入力されていた。やっとの事で俺様ネコをキーボードの上から追い払うと、僕は椅子に座ってデスクトップを片付けだした。危ない、危ない。次に昼寝する前にはPCの電源を落とさないとダメだな。だから動物なんか飼うのは……。

 開いていたブラウザは、どうやら僕や莉絵のブラウザ閲覧履歴が表示されているようだった。莉絵のヤツ、またこんなギャル服の通販を。げっ、エッチなサイトの履歴が残ってた! 莉絵に発見されなくてよかった。僕はあわてて一つひとつウィンドウを閉じていった。そして、あるページで手が止まった。

 脳死時における臓器提供意思表示? 表示されているのは、僕が脳死になったら全ての臓器を提供するって申請をした確認画面。

(そ、そんな……。いつの間に)

 臓器提供意思表示は生体認証キーによる本人確認が大前提だ。つまり、僕自身が入力するか、もしくはこのコンピュータに僕としてログインし、保存されている生体認証キーを使って入力しない限りこのデータベースに僕の名前が登録される事はないはずだ。それができるのは……。僕は、ちらっと開け放たれたドアからリビングの方に顔を向けた。馬鹿馬鹿しいコントに大笑いする、僕のオルナちゃんの声が聞こえてきた。

 確かに僕は「アプリ・デイズ」の大ファンだよ。だけれど、ここまで一緒じゃなくてもいいんだけれどな……。

 呆然とする僕に同情のスキンシップをするでもなく、俺様ネコは軽やかにコンピュータ・デスクから飛び降りると、ぴんと尻尾を立ててエサ用食器の前へと歩いていった。僕は、その姿を目で追った。

 俺様ネコはしっかりと頭をもたげて、じっとこっちを見た。何もかも放り出して最優先で行かなくてはならない氣にさせる、あの高飛車な目つきで。僕は、臓器提供確認ページを閉じると、いそいそとキッチンに向かい戸棚からキャットフードを出してきて彼が待つ猫用食器の中に恭しく満たした。礼を言う氣配もなく食べる俺様ネコを見ながら、僕はこれからもこの家でのヒエラルヒーの最底辺に居続けるだろう事を理解した。

(初出:2014年3月 書き下ろし)
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Category : scriviamo! 2014
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】Carnival —『青ワタと泡沫の花』二次創作

scriviamo!


scriviamo!の第十五弾です。

玖絽さんは、 Stellaで連載中の「青ワタと泡沫の花 」の外伝を書いてくださいました。本当にありがとうございます。


玖絽さんの書いてくださった掌編 『閑話・ベルトランの思い出話 』

玖絽さんは、学生のブロガーさんで、主に小説とイラストを発表なさっていらっしゃいます。月間Stellaでも大変お世話になっています。『青ワタと泡沫の花』は、異界ファンタジーというのでしょうか、伝説上の生きものや精霊たちがごく自然に現れる世界をアムピトリテ号にて航海していく仲間たちのお話です。玖絽さんの水妖や精霊たちに対する深い知識を伺わせる作品で、彼らの登場はとても自然、いつの間にか引き込まれています。

今回、書いてくださったのは、私の大好きなキャラ、ベルトランという名前の妖精(アダロという種類)を登場させてくださった『青ワタと泡沫の花』外伝。再びベルトランに会えて、小躍りしてしまった私です。お返しは……。ちょっと趣向を変えました。玖絽さんからいただいた作品の二次創作で一人キャラをお借りしています。ちょうど現在盛り上がっているカーニヴァルをモチーフに、現実と異界の境界があいまいになる瞬間を書いてみました。精霊の王のお付きで出てきた連中がいますが、私の長編をいくつかお読みになった方は「ああ、あいつらか」と思われる事かと思います。もっとも彼らに深い意味はありませんので、ご存じない方はスルーしていただいて問題ありません。



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Carnival —『青ワタと泡沫の花』二次創作
——Special thanks to Kuro-SAN

 サンバのリズムが聞こえてくる。老人は車椅子に身を沈めて往来の騒ぎに想いを馳せた。生まれ故郷は今は真冬のはずだった。二メートルにも及ぶ雪。出入り口が塞がれないように雪かきをしたその後に、春を待ち望みながらカーニヴァルの行列に参加したものだ。けれど、ここでは季節が逆になっている。わずかな布だけを身につけた小麦色の娘たちが、華やかなダチョウの羽で身を飾って朝まで踊り狂う真夏の夜が来る。

 往来は紙吹雪が舞い春のようにカラフルだった。老いも若いも、仕事を放り出して、道へとくり出していく。老人の世話をしていた若い娘も「もういいから行っておいで」というと、いそいそと出て行った。

 強い陽射しと重たい空氣。弱った彼には快適とは言えない暑さだった。天井のプロペラが軋みながらだるそうに回っている。彼はよく動かない車いすの舵を取って、なんとか窓辺に近づいた。行列が近づいてくる。彼は世界中を旅して、様々な国のカーニヴァルを見てきた。見てきたのはカーニヴァルだけではない。この世の不思議なものをたくさん見てきた。彼は学者だった。世界各地の精霊とその伝承にとりつかれて、たくさんの著作を残した。思い出も。

 最初はただの言い伝えだと思っていた。精霊などこの世にいるはずはないと。けれど、インドでありえないことが起こって以来、彼の研究対象は伝承ではなくなった。彼は実際に精霊たちに遭う僥倖を得たのだ。

 今でも思い出す。夜明けのヒマラヤ山脈が、ゆっくりと紫色に染まっていく。おかしな薬に惑わされて、三日ほど野を彷徨っていた彼は、新しい灼熱の一日が始まるのに怯えていた。身を切るように冷たい地面に光とともに、生温い風が送り込まれてくる。埃が舞いたち、彼は目をこすった。木立の間から、誰かがゆっくりと歩いてきた。華奢な立ち姿と背中まである黒い長い髪から、はじめは女だと思ったが、女である証の豊かな乳房のふくらみは見られず、かといって男であるとも断定しかねた。人とは思えぬほどに美しく、浅黒い肌は朝日に光っていた。

「死神か……。迎えにきたのか……」
呻く彼の前に音もなく立つと、その美しい者はそっと微笑んだ。
「お前の使命はまだ終わっていない」
「使命……?」
「我々を……、この地上から消え行く種族を書物の上に残す事……」

「お前は、誰だ……」
美しい者はその質問には答えなかった。ヒマラヤが暁色に染まりだした時、その背に扇のようにマラカイト色の羽が広がった。いくつもの瞳のような文様が、同時に学者を見つめていた。それで彼は目の前にいる美しい者が誰であるかわかった。マハーマーユーリー、孔雀の化身だった。この地に伝承が多く残ると聞いて訪れ、美しい壁画の数々に魅せられ、数ヶ月も滞在させたその本人が、突然目の前に現れたのだ。

「ここを発ち、お前の見聞きしたものを全て記しなさい。世界中を周り、空と陸と海の精霊たちを探すのだ。これをお前にやろう」
学者の手の中には、いつの間にかキラキラと輝く孔雀の羽が一本あった。
「これは……」
「この羽を使えば、お前はインクを使わずに書く事ができる。さあ、もう行きなさい。人の子に許された時は短く、精霊たちは世界中に散らばっている」

 目を覚ますと、既に正午でうだるような暑さの中、彼の服は汗でぐっしょりと濡れていた。なんて夢を見たんだと頭を振りながら起き上がると、はらりと孔雀の羽が落ちた。マハーマーユーリー。彼は信じないわけにはいかなかった。その羽を使うと、本当にインクを使わなくてもスラスラと書く事ができた。

 それからずっと旅をしていた。精霊がいると聞けばどんなに辺鄙な所にでも行った。陸と山の精霊を調べて、孔雀のペンで書き留めた。旅の途中に出会った写本師たちが、彼の原稿を写し取り、世界に広めてくれた。

 彼はそれから港へ行き、船に乗せてもらった。沖に出た途端に嵐に巻き込まれ、船が難破してしまった。小さな板切れにしがみついて、もうこれで俺の人生も終わりかと覚悟をした時に、アダロという精霊が彼を助けてくれた。命を救ってくれたお礼に彼は例の孔雀の羽ペンをプレゼントした。それが彼の一番の宝だったから。命を救ってくれた人に、二番目や三番目の宝物を差し出すような事はできなかったから。

 マハーマーユーリーはその事を怒らなかったのだろう。彼はその後もたくさんの精霊たちと出会い、孔雀の羽ペンなき後もそれを記す事ができた。彼は成功し、旅の資金を得て、また旅立ち、そして、ここに辿りついた。

 地球の裏側。遠い遠い果て。彼の最後の使命が残っている。この地にカーニヴァルの黄昏、世界から忘れられかけている精霊たちの王が現れるというのだ。喧噪に紛れ、現実と非現実の境目が崩壊するオレンジの香りの夕暮れに、輝く山車に乗ってやってくる。その様子を書き留めたら、彼はようやく使命を果たして、眠りにつく事ができるだろう。

 学者である老人は、震える手で窓の桟に触れた。日がゆっくりと傾いてくる。通りはダチョウの羽で着飾った、半裸の女たちの踊りを見る見物人たちでごったがえし、サンバのリズムと踊り狂う者たちのスパンコールの鳴らすしゃらしゃらという音でにぎやかだった。沼地のようなすえた匂いがし、くたびれた日常を脱ぎ捨ててつかの間の陶酔に狂う女たちが旋回していた。男たちは氣にいったダンサーたちを不道徳な世界へと引き込むために手を伸ばした。

 子供らを空腹にさせてまで買い込んだ強い酒や、犯罪に手を染めた者どもが運ぶ粗悪な薬を使わずとも、今宵だけは人びとは大いに酔う事ができる。一年を耐えたのはこのたった一晩のためだった。人の世と現実の冷たさから離れて、存在しないはずの夢と狂喜の世界へと誰もが誘われているのだった。

 だが、私にはその陶酔は必要ないのだ。老人は瞳を閉じた。私は一年に一晩だけでなく、望めばいつでも、もうひとつの世界へと渡っていけるのだから。

 アダロが歌ってくれた詩を思い出す。いい歌だった。世界は素晴らしい精霊たちで満ちていた。精霊なんていないと、皆が馬鹿にするのを振り切って、この道を究めるのだと決めた事を誇りに思った。

 人びとのざわめきが聞こえた。サンバではない、不思議な音楽が流れてきた。はるか遠くから。西からでもなければ東からでもない。南からでもなければ北からでもない。どこからかわからないがそれはゆっくりと近づいてくる。黄金の夕陽が学者の眼を射た、その瞬間に彼は行列を見た。
 
 行列の一番前に四人の奏者がいた。黒髪の女と金髪の男は横笛を吹いていた。東洋人の男が、アダロの抱えていたようなリュートを爪弾いていた。いや、それは他の楽器だったのかもしれない。キラキラと輝く真珠貝の内側を破片にして、モザイク状にはめ込んだ弦楽器。どこかで聞き覚えのあるメロディだった。茶色い髪をしたひょろっとした男が、どこからそんないい声が出るのか驚くばかりのテノールで歌っていた。

 アダロのメロディだ! あの精霊が爪弾いてくれた、あの歌だ。彼は男の歌う詞に耳を傾けた。それは素晴らしい韻律の完全なる定型詩だったが、はじめて聴く内容だった。南海の果ての嵐の夜。荒れ狂う波間を漂う頼りない板、それにしがみつく若き青年。まさか……、この歌詞は……。

 テノールが紡ぎだす第二連は、トビウオたちに守られた角のある海の精霊が青年を救い出すところだった。岸辺にたどり着いた途端に、命の恩人に学術的な質問をする青年。若き学者と海の精霊の愉快な会話。これは私とあのアダロの出会いの歌だ!

 第三連は悲しげに転調した。辛い別れ、孔雀の羽でできた魔法のペンが精霊に贈られる。二度と逢う事のできなくなったお互いに対する想い。なつかしく、優しい想いが五十年の時を渡る。

 なんということだ。老人は涙を流した。

 第四連は再び明るい調子になった。嵐にあったアダロを助けてくれた人間たちが、金の縁取りの本を見せてくれた事。その本にはアダロの挿絵とともに二人の出会いが語られていた事。『幸運のアダロに、礼を述べる』歓び踊る年若きアダロ……。

 老学者は涙を拭いながら、歌に感謝した。これはあのアダロが贈ってくれた歌だ。この命が終わる前に、この歌を聴く事ができたなんて、何と幸せな事だろう。

 四人の楽人の後ろには、華やかなサーカスの一団が続いていた。四頭の白い馬がぴったりと並んで歩き、真ん中の二頭の背にそれぞれの足を乗せて赤と青の派手な縞の上着を着た男が立っていた。その後ろには白い馬に乗り双子を左右に従えた妙齢の女が続く。棒の上に逆立ちしたまま歩く、褐色の肌の男が続いた。そして、七頭のライオンたちを従えた赤毛の女。仔ライオンと戯れながら白いレオタード姿の少女が、そして、若い青年が倒立や回転を繰り返しながら飛び跳ねている。そして、その後ろを行くのは八つのボールを器用にジャグリングしながら歩いていく道化師だ。

 ああ、なんて華やかな行列なんだろう。その後ろに堂々と進む山車があった。人間のダンサーたちのけばけばしい山車と違って、それは真っ白な美しい羽で覆われていた。大きな天蓋に覆われていて、老学者からその中にいる人物が見えない。なんてことだ。若く元氣だった頃なら、階段を駆け下りて観に行く事ができるのに。ここまで来て、精霊の王の姿を見る事ができないのか?

 窓の桟に震える両手でしがみついて身を乗り出した。どうかひと目でも、その姿をこの眼に……。老学者は小さくそう言った。

 行列が止まった。山車を覆っていた真っ白な羽の天蓋がゆっくりと開いた。彼は一人のすらりとした立ち姿を眼にした。その人物の背中に、ゆっくりと扇のように羽が広がっていくのが見えた。真っ白い孔雀の羽。その外側にマラカイトグリーンと紺の輝く羽。そして、その外側にもう一度白い羽……。精霊の王を、老学者はよく知っていた。それは、インドで出会った時から全く変わらぬ姿のマハーマーユーリーだった。男とも女ともわからぬ美しい姿。浅黒い肌に漆黒の長い髪。精霊の王はゆっくりと窓の上の老学者を見上げて微笑んだ。

 ジャスミンの香りが満ちた。人びとのため息がシャボン玉のように弾けた。アダロの歓びの歌が、サーカスの芸人たちが、馬とライオンと巨大な山車が、光の中で色あせて消えていった。一筋の強い光が、老学者の顔に当たった。それはまさに沈む瞬間の夕陽だった。
「あ!」
瞳をしばたたかせて、もう一度目を開けると、精霊の王とその従者たちは跡形もなく消えていた。

 道にはサンバを踊る女たちと、彼女たちを求める観衆たちが狂ったように騒いでいた。だが、老人の手にはもう一度孔雀の羽が舞い落ちた。雪のように白い美しい羽だった。再び彼が物語を紡げるようにと渡された約束のペンだった。

(初出:2014年3月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 番外編 〜 郷愁 - Su patria que ya no existe — 競艶「じゃわめぐ」

scriviamo!


scriviamo!の第十六弾です。

大海彩洋さんは、最愛のキャラ真とうちの稔が三味線で競演する作品を書いてくださいました。ありがとうございます!


彩洋さんの書いてくださった小説『【真シリーズ・掌編】じゃわめぐ/三味線バトル』

彩洋さんはいろいろな小説を書いていらっしゃいますが、自他ともに認める代表作はなんといっても「真シリーズ」でしょう。これは一つの作品の題名ではなくて、五世代にわたる壮大な大河小説群です。その発端の人物であり、ご本人も最愛と公言していらっしゃる真は、他のブログの錚々たる人氣キャラのみなさんと競演はしていらっしゃいますが、好敵手としてここまで持ち上げていただいたのは稔が始めてでしょう。他の方のキャラよりもうちの稔が魅力的だったからではなく、ひとえに稔が三味線弾きだったからです。ありがたや。

しかしですね。私は三味線を弾くどころか、実はどんな楽器かもよくわかっていない素人。そして、彩洋さんは……。言うまでもないですね。上記の作品を読んでいただければ、おわかりいただけると思います。このお返しに、三味線の話を私が書けると思いますか? いや、書けまい。(漢語翻訳調)ええ、敵前逃亡とでもなんとでもおっしゃってください。無理なものは無理ですから。

もともとは「scriviamo!」のつもりで書きはじめたけれど別のものを出したから、とおっしゃっていたので無理してお返しを書く事もないかと思ったのですが、でも、ここまで魂の入った作品を書いていただいたら、そのままにできないじゃないですか。かといって、まだ私には真や竹流を彩洋さんが納得できるように書ける氣は全然しないので、もう一人のキャラ美南をお借りしました。美南は谷口美穂のエイリアスのような裏話もいただきましたので、話はそっちに行っています。はい、私の土俵に引きずり込みました。なお、お返しは五千字以内とか宣言したような記憶もどこかにありますが、すみません、大幅に超えております。


【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ

「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む このブログで読む
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あらすじと登場人物

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大道芸人たち 番外編
郷愁 - Su patria que ya no existe — 競艶「じゃわめぐ」
——Special thanks to Oomi Sayo-san


 昨夜はすこし飲み過ぎたようだ。田酒は久しぶりだったし、真鱈の昆布〆めやばっけみそが出てきたから、ついつい盃が進んでしまった。美南には普段一緒に飲みにいく友達はいなかったし、ましてや津軽ことばが飛び交うような店に行くことはなかった。あの響きだけで、これほど簡単に心のタガが外れちゃうんだ……。しゃんとしないと、課長に怒られちゃう。

「成田君」
始業三分前に飛び込むと、藤田課長は不思議そうな顔をした。そうだろう。美南はいつも課長よりずっと早く出勤していたから。
「今日に限って、遅かったね。悪いけれど、今すぐ一緒に外出しなくちゃいけないんだが、大丈夫か」
「外出ですか?」

 美南はあまり規模の大きくない清掃会社に勤めている。事務が半分、清掃の実動部隊としてが半分の仕事で、営業のような仕事はまだ任された事がない。営業に飛び回っている藤田課長と一緒に外出した事はなかった。ハンドバックを肩にかけて、急いで課長に従った。

「急で悪いんだけれどね。ちょっとイレギュラーな仕事が入りそうなんだ。それもちょっと変わっている件でね。一度きりの野外イベントの清掃プランなんだよ。僕が担当する事になりそうだが、手一杯なんでね、君にアシスタントを頼みたいんだ。君にもいい経験になるだろう」
藤田は電車の中で手早く説明した。
 
「どうして、イレギュラーなお仕事を無理していれる事にしたんですか?」
「話を持ってきたのがね、ちょっと有名な音楽マネージメント会社なんだ。君、園城真耶って知っている?」
「あ、はい。テレビによくでているヴィオラ奏者ですよね」
「うん。今回のイベントは彼女の紹介で、彼女のマネージメント会社が日本側の窓口なんだそうだ。それでさ、あれだけの大手だと、大きいコンサート会場やビルの定期清掃の受注に関連して来るんだよ。うちみたいな小さな会社には願ってもないコネだろう?」

「はあ。あの、今、日本側窓口っておっしゃいましたけれど……」
「うん。ヨーロッパに本部のある団体が、来年、大道芸人の祭典を東京で開催するらしいんだ。今日会うのは、その事務局」
ということは、会うのは外国人なんだろうか。美南は不安になった。課長が忙しいからって丸投げされて、外国人と自力でコンタクトしろと言われても困る。

 新宿の高層ビル街にあるホテルの三階の小さい会議室に通された時、美南は「最悪」と思った。ドアを開けたとき、窓の外を眺めていたのはグレーのスーツをきっちりと着込んだ金髪の青年一人だった。二人がホテルの従業員に案内されて入ってくると、こちらを振り向いた。儀礼的に微笑んでいたが、青い瞳は突き刺すようで、恐ろしかった。典型的外国人だった。金髪で目が青くて、氣味が悪いくらい整った顔立ちだ。しかもその服装ときたらミラノの新作コレクションの品評会で発表しそうな感じだ。新作コレクションを実際に観た事はないけれど。

 課長がしどろもどろの英語で挨拶をした。美南はぺこんと頭だけ下げた。外国人は流暢な英語で初対面の挨拶をした。はっきりとした発音だったので、美南にもその内容がわかった……ような氣がした。長い名前だ、アルティスタスなんとかの、なんとかドルフ。途中は聴きとりそびれた。誰かが遅れているって言ったかも?

「すみませんっ。遅れました!」
突然、日本語とバンっと言う音がして、扉から誰か飛び込んできた。藤田課長は心底ホッとした顔をした。その男はいちおうビジネスっぽい紺のスーツは着ているもの、金髪男と違ってどうも着慣れていないようで借りてきたみたいに見える。

「ああ、安田さまですね。昨日、電話でお話しいたしましたクリーン・グリーン株式会社の藤田です。それと、本日は部下を連れて参りました。成田美南です」
そういって、横を見た。当の美南は、入ってきた男をぽかんと口を開けて眺めていた。男も美南を見てびっくりしたようだった。

「あれっ。美南ちゃん……?」
それは、昨夜、津軽料理を出してくれる居酒屋で知り合った青年、安田稔だった。

「なんだ、ヤス。知っているのか」
金髪青年が訊くと、稔は頷いて英語で答えた。
「うん。昨夜、浅草で逢った子だ。いい声しているよ。フェスタに参加してもらいたいくらいだ」

「成田君? 知り合い?」
藤田課長が美南に囁いた。
「あ、たまたま昨夜知り合った方なんです」
「そりゃ、すごい偶然だ。これをご縁に、どうぞよろしくお願いします、安田さん、エッシェンドルフさん」

 それから安田稔の通訳を介してもう一度正式に紹介しあい、仕事の全容を話し合う事になった。ここにいる二人はヨーロッパで大道芸人をしていて、仲間やパトロンと主催した「大道芸人の祭典」を開催するようになって三年目だということ。その事務局長を担当しているのが安田稔で、主に対外交渉を担当しているのが隣にいるエッシェンドルフという苗字のドイツ人であること。

「名前長いんで、ヴィルって呼べばいいから」
稔がウィンクして言った。

「世界各国からかなりの数の大道芸人たちが集まります。例年だと見学する側も国籍がかなり混じります。日本人の常識的な清掃プランだと、上手く回らない可能性があるんで、どちらかというと融通と小回りの効く会社がいいと話していたわけです」

 稔とヴィルが会場プランを見せ、日程表とともに示した。稔さんが昨夜、野暮用で日本に来たって言っていたのは、これのためだったんだ。美南は納得した。

「美南ちゃん、せっかくだからまたプライヴェートで飲もうよ。こいつ、こんな怖そうな顔しているけれど、よく知り合えばいいヤツだからさ。特に酒が入ると」
打ち合わせが終わると、稔はヴィルを示して美南に提案した。

 美南はその日の仕事が終わってから、もう一度、新宿に向かった。稔とヴィルとスペイン料理のレストランで会う事になっていた。今日はあまり飲まないようにしなくちゃ、美南は思った。

 店の中を見回すと、二人はもう来ていて、こちらに向かって手を振った。それはレンガと石で装飾された半地下の店で、スペインのタブラオを模していた。奥には舞台があって、そこはアーチ上に装飾された柱で区切られていた。たぶんフラメンコを踊るのだろう、そこだけ木板が張られた床だった。いくつか椅子が置かれている。演奏者のものだろう。

「来てくれて、ありがとうな。美南ちゃん、日本酒はいける口だったけれど、ワインも好きかな? それともサングリアなんかのほうがいい?」
そういう稔はどうやら既にワインをヴィルと一緒に半分くらい空けていたようだった。

「あ、私もワインをいただきます。でも、昨日飲み過ぎちゃったみたいなので、今日は控えめに……」
そういうと、二人は目を見合わせた。

「そうだったな、いつもの俺たちのペースで飲ませたらまずいかもな。お蝶じゃないんだし」
稔はそういったが、彼らの飲むペースは、昨日の津軽料理の居酒屋とは違っていた。昨夜の居酒屋にいたメンバーは、大きな声を出して、赤くなりながらどんどんと盃を重ねていた。居酒屋で飲むというのはそういうことだ。そして、このスペイン料理屋でも隣の席にいる日本人たちはそれに近い状態で飲んでいる。けれど、稔とヴィルは飲んでいるのに酔っている様子がなかった。会話の声もあまり大きくならない。

 稔がTシャツとジーンズになっていただけでなく、ヴィルもラフなシャツ姿に変わっていた。たったそれだけで先ほどとはずいぶん印象が変わって見えた。美南はここに来るまでヴィルを怖いと思っていたのだが、服装が変わっただけでその恐ろしさも半減したように思われた。

 会議中と違って、稔はヴィルの言葉を日本語に訳さなかった。そして美南がわからないという顔をしないかぎり英語で話した。美南もはじめは日本語で稔に向かって話していたのだが、二人ともが自分に向かって英語で話すので、いつの間にか自分も英語を口にしはじめた。そんな事が可能だとは思ってもみなかった。通訳なしでも相手の言葉がわかるし、自分の話す英語も拙いながらもこの外国人に通じている。それは新鮮な驚きだった。私、英語、できるんだ。英語など絶対に話せないと思い込んでいたが、少なくとも六年は学校で学んだのだからこんな簡単な会話は理解できて当然なのだ。そうやって会話をしているうちに、ヴィルを怖いと思う氣持ちはどこにもなくなっていた。

 拍手の音に顔を上げると、フラメンコダンサーとミュージシャンたちが入ってきていた。客たちが「おおーっ」と喜び拍手をする。

「あ、ちょっと行ってくる」
そういうと稔は立ちあがり、舞台の方に歩いていった。拍手が大きくなり、マイクの前に立っていた男とその隣にいたやはりギターを持った男が稔に頭を下げた。

「え。稔さん、弾くんですか?」
「ああ、ここのオーナーとはバルセロナのフェスタで知り合ってね。日本に来たら絶対に一度は弾きにきてほしいと頼まれていたよ」
ヴィルが美南のグラスにそっとワインを注いだ。

 ダンサーたちは腰に手を当てて立っている。舞台にいた男がギターを奏でだすと、歌い手は手拍子を打ちはじめる。客の中にも手拍子をしている人たちがいる。このレストランのフラメンコショーは有名なのだろう。美南はフラメンコの舞台を生で観るのはははじめてだったので興味津々だ。

 稔が加わり、派手な掛け合いになる。不思議な手拍子で、美南には間を取る事ができない。ダンサーたちが舞台の上で踊りだした。靴についた釘がびっくりするほどの音を出す。旋回し、睨みつけ、激しく打ち付ける。挑みかけてくる。男と女は戦っているようだ。歌い手とギターの弾き手も戦っている。津軽三味線の競演とは全く違う。何が違うのかと言われても答えられない。

 はじめは楽しく活氣のある踊りだと思った。演奏もそうだった。だが、稔がソロを弾き、それに歌い手ともう一人のギタリストが覆い被さり、踊り手がもっと激しく踊りだすと、世界が少しずつ変わっていった。乾杯をして騒いでいた隣の席の客たちも押し黙った。

フラメンコ


 美南がギターの演奏を聴いたのは始めてではない。けれど彼女がこれまで知っていたギターの演奏は、もっと軽やかで心地いいものだった。その軽やかさに、津軽三味線の響きとは違う、土の香りのしない都会の音だとの印象を持っていた。けれど、稔が奏でているこの音は、都会の洒落た世界とは全くかけ離れていた。それは楽しい音楽と踊りではなかった。どちらかというと苦しい世界だった。踊り手と専属ギタリストが休み、稔がソロで曲を奏でだすと、その苦しさはもっと強くなった。

 奇妙な感覚だった。津軽の寒く凍える世界から生まれた響きは、腹の底から熱くなる。田酒が人びとを真っ赤に熾る炭のように酔わすのに似ている。けれど、アンダルシアの燃えるように熱い世界から生まれてきた音楽を奏でる稔の響きは、鉄の柱を抱くように黒く重くて冷たい。これはなんなのだろう。

「ドゥエンデだ」
戸惑っている美南を見透かしたように、ヴィルが言った。美南はわけがわからなくて、黙って青い目を見た。
「運命、神秘的で魅力的な何か。強い情念。英語にはきちんと訳せない。時には死に憧れるような暗さも伴うんだ」

 美南は不安になって、稔を見た。稔はギターの世界に入り込んでいた。打据えるようにギターと戦っていた。昨日、美南の唄を優しく支えてくれた朗らかな男は、いつの間にか彼の殻の中へと入り込んでいた。

「君は、彼の三味線も聴いたんだろう?」
ヴィルが訊いた。美南は黙って頷いた。
「この音との違い、どう思う?」

 この人も、違いを知っているんだ。美南は思った。
「明るくて、強くて、思いやりがあって、春の光が外に向かって放たれていくような音だったんです」

 ヴィルは頷いた。それからワイングラスを覗き込むようにして語りだした。
「彼の中、その奥深くにはもともとドゥエンデがあった。俺の中にもあるように。ヤスと俺たちが出会ったとき、彼は三味線を弾いていた。まさに君が言うような思いやりのある暖かい音を出していた。今でもそうだ。彼は俺たちのリーダーで、バランス感覚に富み、暖かい。日本にいた頃からクラッシックギターを弾く事もできた。三味線と同じように優しく暖かい、朗らかな音を出していた。だが、彼はセビリアでフラメンコギターに出会った。ヒターノ、本物のジプシーが彼を新しい音に導いた。彼のドゥエンデに火をつけたんだ」

「あの……」
美南は困って口ごもった。ヴィルはワインを飲むと、稔の方を見て、それから再び美南の方に向き直った。

「東京をどう思う?」
「え?」

「俺は、この街にくるのは三度目だ。いい街だと思う。便利で、楽しくて、美味い物が食える、最高の酒も飲める。だが、この街は何度来ても、来る度に知らない街になっている。決して懐かしいいつもの街にはならない」
ヴィルがなぜそんな事を言いだしたのか美南にはわからなかったが、それは美南が常々感じている事でもあった。何年住んでも、決して親しい自分の街にはならない。冷たくはない、何でもある、誰でも受け入れてくれる。でも、ここはいつもよその街だった。

「ヤスは浅草で生まれた。ここはあいつの正真正銘の故郷だ。あいつを大切に想うたくさんの人間がいて、ここで将来を嘱望されて育った。あの三味線の音色はそうやって培われた。だが、あいつは自分に正直でいるために、それを捨ててしまったんだ」
「そうなんですか?」

 「俺たちはみな、どこからか逃げだしてきたヤツの集まりなんだ」
ヴィルは始めて少し笑ったように見えた。

「仲間のもう一人の日本人は、これまで居心地のいい場所を知らなかった。彼女は、だからこそ居心地のいい場所を自ら作る事ができた。俺もそれに近いだろうな。もう一人は、もともと持っていた居心地のいい場所を決して手放さなかった」
 
 美南は昨夜知り合ったもう一人の三味線弾き真が形容してくれた、稔たち四人組の大道芸人のことを思い浮かべていた。稔の他に、フルートを吹く日本人女性、手品をするフランス人の青年、そしてパントマイムをするドイツ人、ヴィル……。羨ましいほどに仲のいい自由な仲間たち。

 ヴィルは全く表情を動かさずに淡々と続けた。
「ヤスは俺たちとは違う。自由への憧れと望郷に引き裂かれている。その裂け目からドゥエンデが顔を出すんだ。あいつは何も言わない。だが俺たちは音を聴きとる。肌で感じるんだ。可能ならば、あいつの故郷へと一緒に向かってやりたいとも思う。だがその故郷はもうないんだ」

「ないって、どういうことですか? ご家族がもういないんですか?」
「家族じゃない。居場所がないんだ。家族が、東京が、かつて彼がいたままの場所ではない。いない間に変貌してしまった」

 ヴィルはボトルを傾けて美南のグラスに注ごうとしたが、いっこうに減っていないのを見て、最後の一滴まで自分のグラスに空けた。厚い淡緑色のグラスは再びリオハのティントの暗い色で満ちた。
「どんな場所もいつかは変わっていく。だが東京ほどのスピードで変貌する場所はまずない。環境が変わると人はそれに順応していく。日本人の順応の速さは尋常ではない。それは東京のように秒速で変わっていく環境でも有効なんだ。だから、あいつのいた世界はほとんど残っていない。俺のような異邦人ですら感じるんだ。あいつの故郷はもう存在しないんだと」

 美南は昨日の三味線の競演と、稔の奏でていた自由で朗らかな音の事を考えた。それから青森の自分の家族の事を考えた。真っ白い雪を思い出した。雪に覆われて角のなくなった屋根や塀、囲炉裏で火が爆ぜる音、津軽言葉の柔らかい響き、待っていてくれる家族。
「みなみ、いづだかんだ帰って来いへ(いつでも帰っておいで)」

 ここではない、ここにはない暖かさ。深い深い安心感。それを永遠に失う事を考えた。涙が出てきた。

「もうどこにもない故郷は三味線の音の中だけに存在し続けている。だからあいつの三味線はあれほどに暖かい。だがひとたびフラメンコギターを奏でれば寄る辺なき自由を愛するヒターノの魂はドゥエンデに向かうんだ」

 大きな拍手の後に、再び手拍子が聞こえだした。歌い手はセビリジャーナスを朗々と歌い上げ、ダンサーたちは向かい合って旋回しだした。

「テデスコ、お前、美南ちゃんを泣かせたのか?」
顔を上げると、稔がテーブルの横に戻ってきていた。
「泣かせたのは俺じゃなくてあんただ」
ギターの音の事だと思ってホッとした様子の稔の前で、ヴィルは空になった瓶を振った。

「いない間に、酒は空けておいた」
「お、おいっ!」
「もう一本飲むか。あんたの好物のイベリコ豚もおごってやるよ。美南、君も好きなものを頼むといい」
ヴィルは、メニューを美南に渡した。

 美南は紙ナフキンでそっと涙を拭うと、タパスを選びだした。
「そのヒヨコ豆とほうれん草を煮たのは美味いぜ。チョリソーも外せないかな。あと、イカスミのパエリヤはどう?」
稔が先ほどまでと同じ朗らかな様子で話しかける。

 美南はメニューから目を離してためらいがちに口を開いた。
「稔さん。いま氣づいたんですけれど、浅草のご出身で、安田さんって、もしかして安田流の……?」
それを聞くと、稔もメニューから顔を上げて、不思議そうに美南を見た。それから屈託のない笑顔を見せて、きっぱりと首を振った。
「いや、俺は根なしの大道芸人さ」

(初出:2014年3月 書き下ろし)

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フラメンコのリズムはいろいろありますが、12拍の中に強弱をつけるタイプのものがもっとも多いようです。実際に一緒に手を叩いてみようとするとわかりますが、これが大変難しいのです。タブラオなどでは、下手に真似して叩いたりしない方が無難だと思いました。下手するとダンサーの方の邪魔になってしまいそうで。

下に書く時にBGMにした二つのフラメンコギター系の曲を貼付けておきます。一つは少しポップっぽいもので、もう一つが伝統的な感じです。

Tormenta De Fuego


Sabicas - Punta y Tacón
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Category : scriviamo! 2014
Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】夜のサーカスと黒緑の訪問者 Featuring「チュプとカロルとサーカスと」

scriviamo!

月刊・Stella ステルラ 5月号参加 掌編小説 月刊・Stella ステルラ


scriviamo!の第十七弾です。(ついでにStellaにも出しちゃいます)
スカイさんは、受験でお忙しい中、北海道の自然を舞台にした透明な掌編を描いてくださいました。本当にありがとうございます。


スカイさんの書いてくださった掌編 チュプとカロルとサーカスと

スカイさんは、現在高校生で小説とイラストを発表なさっているブロガーさんです。代表作の「星恋詩」をはじめとして、透明で詩的な世界は一度読んだら忘れられません。また、篠原藍樹さんと一緒に主宰なさっている「月間・Stella」でも大変お世話になっています。

「Stella」で一年半ちかく連載し、間もなく完結する「夜のサーカス」はもともと10,000Hitを踏まれたスカイさんのリクエストから誕生しました。それまでどこにもいなかったサーカスの仲間たちは、スカイさんのおかげでうちのブログの人氣シリーズになったのです。

今回スカイさんが書いてくださったお話は、北海道を舞台にゴマフアザラシと本来ならその天敵であるはずのワタリガラスの微笑ましい友情を描いたお話ですが、「チルクス・ノッテ」が少し登場します。そこで、とても印象的なワタリガラスのライアンをお借りして、「夜のサーカス」の番外編を書いてみる事にしました。



「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物


「scriviamo! 2014」について
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
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「夜のサーカス」番外編
夜のサーカスと黒緑の訪問者 Featuring「チュプとカロルとサーカスと」
——Special thanks to Sky-SAN

夜のサーカスと黒緑の訪問者


 風が吹いてきて、バタバタとテントを鳴らした。バタバタ、バタバタと。エミリオが大テントの入口の布を押さえようと顔を出して、山の向こうからゆっくりとこちらに向かってくる真っ黒な雲を眼にした。
「あれ、ひと雨来るかな……」

 それ以上バタバタ言わないように、入口の布をくるくるっと巻いて、しっかりと紐で縛っている時に氣配を感じた。真横にいつの間にか一人の男性が立っていた。

 黒い三つ揃いのスーツは、不思議な光沢だった。光の加減で緑色に見えるのだ。しかも、その男は黒いエナメルの靴、黒いシルクのワイシャツ、そして黒いネクタイに、黒いシルクハットを被っていた。真っ黒い前髪が目の辺りまであって、その奥から黒い小さい瞳がじっとこちらを眺めている。

 エミリオはとっさにどこかの王族かなにかだと思った。こんなに堂々とした様子で立っている、しかもひと言も発しない相手ははじめてだった。男はエミリオの顔を注意深く観察すると、納得したように頷いてから堂々とした足取りで大テントの中に入ろうとした。

「あっ。いや、まだ入れないんですよ。開場時間は午後七時なんです」
男は何も言わずにエミリオをじっと見つめた。何も悪い事をしていなくても「ごめんなさい」と謝ってしまいたくなるような鋭い一瞥だった。だが少なくとも彼はエミリオの制止を振り切るつもりでないらしく、黙って立っていた。

「え。あ、いや、だから、あと二時間経ってから、暗くなってから来てくださいよ」
しどろもどろでエミリオが言った。それでも入ってきてしまったら、僕には止められないな、そう思いながら。だが、男は納得したようで、黙って頷くと踵を返して歩いていった。あのひと足が悪いのかなあ、変な歩き方だ。エミリオは首を傾げた。

 まったく今日は変な闖入者の多い日だ。午後一番には、テントでリハーサルをしていたマッテオがエミリオにあたりちらしたのだ。
「お前! 何テントにカラスを入れてんだよっ!」
「えっ?」
そう言われて客席を見ると、こともあろうにVIP席の背もたれに、ワタリガラスが停まっていた。

「うわぁ」
背もたれに粗相でもされたら、団長とジュリアにこっぴどく怒られる。エミリオは棒を振り回しながら、その巨大な鳥をテントから追い出そうとした。一体どうやって入ってきたんだろう。だがカラスはポールの上の方へと飛んでしまって、なかなか降りて来ない。どうしたもんだろうかと考えあぐねていたが、たまたまマッダレーナがリハーサルのためにヴァロローゾを連れて入ってきたので問題は解決した。雄ライオンがエミリオも逃げだしたくなるようなものすごい咆哮を轟かせた途端、ワタリガラスは入口へと一目散に向かい、そのまま出て行ってしまったのだ。

 無事に開演準備の仕上げを終えると、共同キャラバンへと走った。わぁ、みんな食べ終わっちゃったな。すっかり遅くなってしまった。キャラバンに駆け込むと、案の定、そこにはもう今日の当番のステラしかいなかった。
「ごめん。遅くなった」
「大丈夫。まだ時間あるから。みんなは本番前に集中したいからって、もう行っちゃったけれど。でも、何か問題があったの?」
「いや。風が強かったから、全ての入口の布を丸めていたんだ。そしたら、変なヤツが来てさ」
「変なヤツ?」
「うん。全身真っ黒のスーツを着た男。まだ開演時間でもないのに中に入ろうとしてさ。ダメですって断ったら帰ってくれたんだけれど、ひと言も喋らなくてさ……」
「そう……」

 その真っ黒な男は、その日から興行に毎晩やってきた。マルコはその晩のチケット担当だったのだが、エミリオから話を聞いていたのですぐにわかった。立派な服装なのに、チケットは誰かが落として踏みにじられたようなしわくちゃ紙だった。その次の日はマッテオが本番前に見かけたと言うし、次の日にはマッダレーナも「私も見た」と報告してきた。

「毎日チケットを買っていらしてくださるとは、大事なお得意様じゃないか。喜べ」
団長が団員の不安を笑い飛ばしたので、彼らもそれもそうかとそのままにしておく事にした。

「それよりも、ステラ。ジュリアが言っていたが、三回転半ひねりが上手くできなくて、二回転半で誤摩化していると言うじゃないか。チラシにわざわざ載せたんだし、しっかりしてくれないと困るな」
「すみません」

 実際には三回転半のジャンプそのものは成功していて、ちゃんと毎晩披露していた。問題は、二回転と三回転半の連続技で、タイミングがまだはっきりとつかめていない。落ちるのが怖くて上手くできないのだ。いや、以前のシングル・ブランコのときだったら落ちても下にいるのはヨナタンで、きっとネットを拡げて受け止めてくれると信じていたので安心して飛ぶ事ができた。でも、この興行で下にいるのはマルコだ。マルコもちゃんと受け止めてくれるとは思うのだが、ヨナタンほど信用できない自分が情けなかった。

 ステラはレッスンを終えてから自分のキャラバンに戻りながら、自分の腕を目の前で泳がせてタイミングを反復してみた。
「ここで、一、二、んで、ジャンプ! 一回転、二回転……」

 その時、「カポン」という声がした。

「ん?」
ステラが見上げると、目の前の楡の木にワタリガラスが停まっていた。大きな翼を一、二度拡げたり閉じたりしてから再び「カポン」と叫ぶと、不意に黒い鳥は飛び上がった。そして、二回転半してから隣の枝に一瞬脚を掛けると、停まらずにすぐに飛び立って三回転半をしてみせた。

 ステラはぽかんと口を開けた。その間にワタリガラスはもっと上の枝に着地するとまた「カポン」と鳴いた。

「ねえ! もう一度、やって、お願い!」
そうステラが頼むと、まるで人間の言葉がわかっているかのように、黒い鳥は同じ連続ジャンプをすると、今度は停まらずに飛んでいってしまった。ステラは呆然として、もう一度練習するために大テントに向かって歩き出した。
「あのタイミングなんだわ……」

* * *


 風がバタバタいう宵だった。色とりどりのランプが、ひゅんひゅんと何度もテントに打ち付けられた。チルクス・ノッテは満員だった。この街で最期の興行なので、一度観にきた観客たちももう一度駆けつけてきた。あのセクシーなライオン使いをもう一度観たいな……。俺は、あの馬の芸を観ておきたいよ。チラシで宣伝していたブランコ乗りのデュエットも、悪くないよな。

 ステラは、舞台の袖でマッテオと一緒に立っていた。衣装の左胸の裏側にはいつものお守り、黄色い花で作った押し花も入っている。大丈夫……。ヨナタンが応援してくれると、もっと心強いんだけれどな。もう何日もヨナタンと話をしていなかった。こんなことは入団以来はじめてだった。でも、いつかは、また……。涙をこらえるようにして、左胸に手を当てた。あふれそうになった涙を抑える。いけない。今は演技に集中しないと。

 マッテオに泣いているのを見られないように、急いで後ろを向いた。すると誰かが更に奥の袖にさっと隠れた。ステラはその衣装を目の端でとらえていた。コメディア・デラルテのアルレッキーノの衣装。ヨナタンだ。団長に怒られていたから、心配して見に来てくれたのかな……。ステラは嬉しくなって、下を向いた。頑張るね。

 舞台の眩しい光。観客の割れるような拍手。熱氣。マッテオがみごとな大回転でブランコに膝の裏でつかまり、ゆっくりと揺れはじめる。ステラは、タイミングを数えはじめる、あのワタリガラスを思い出しながら。いち、に……。

 華麗な二回転半の後、マッテオの手にしっかりと掴まったステラは、そのまま再び飛び立った。一回転、二回転、三回転半! 手はしっかりともう一つのブランコをつかんでいた。できた! 今日も二回転半だと思っていたジュリアとロマーノが袖であっけにとられて立ちすくんだ。エミリオの「やった!」という声は観客の大拍手でかき消された。派手な衣装と仮面を身につけた青年も袖から眩しそうに少女を見上げていた。

 観客席には、真っ黒い衣装を身に着けた例の男がじっと座っていた。その隣には、やはり緑の光沢のある黒いドレスを身に着けた黒髪で黒いトーク帽に黒いヴェールをかけた女が座っていて、そっと体を傾けて黒服の紳士に顔を近づけた。紳士は大きく頷いてから他の観客には聞こえない小さな声で「カポン」と言った。
 
(初出:2013年4月 書き下ろし)

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この小説の不思議な設定は、すべてスカイさんの小説をもとにして書いてあります。大体の事は想像できるように書いたつもりですが、もし氣になった方はスカイさんの小説で設定をご確認ください。

本文中にはまったく出てこないのですが、今回のBGMです。

Nocturne from Cirque du Soleil's Alegria
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Tag : 小説 リクエスト 月刊・Stella 読み切り小説 コラボ