【小説】マメな食卓を
久々の登場ですが、絵梨とリュシアン。この二人が出てきたということは、あれです。私小説です。といっても、たいした内容ではありません。この二人が初登場したのは「十二ヶ月の組曲」の十月「落葉松の交響曲(シンフォニー)」でしたっけ。スイスに正式移住してそろそろ13年。こんな風に暮らしています。

マメな食卓を
圧力鍋を運ぶときは、いつも盛大な音がする。ガチャガチャと。絵梨は自分が格別に粗野な人間になった氣がする。冷蔵庫からタッパウェアをそっと取り出す。昨夜から水につけておいたひよこ豆。あまり揺らすと水がこぼれてしまう。圧力鍋の所まで持ってくると、漬け水ごと開ける。
圧力鍋のふたをすると、コンロに火を入れる。鍋に圧力がかかり、ぴーと音を立てだしてからは五分加圧するだけ、サルでも出来る簡単な作業だ。
豆を煮るという作業は、自分には絶対に出来ないと思っていた。実際にお正月の黒豆の煮方など全くわからないし、試してみようとも思わない。ここは日本ではなくてスイスだし、絵梨の料理を主に食べる夫リュシアンはおせち料理に興味もなく、何かの機会に黒豆の煮物を食べたときは「もう、いらない」と言ったから。
絵梨はリュシアンに言わせると料理上手だが、実際の所の料理の腕は大したことがないと自覚している。とくに和食の腕は初心者以下なので、スイスで知り合った他の「大和撫子と結婚したスイス男」のように夫が和食好きでいないでくれて大変嬉しいと感じている。
そもそもリュシアンのような男と暮らしていると、和食を日常的に用意するのは不可能だ。彼は氣ままだ。仕事が波に乗れば九時頃まで連絡もなく帰ってこないし、そのあげく「ごめん。お菓子食べちゃったから、いらないや」と言われることもある。その一方、七時頃に玄関を開けた途端「友達連れてきちゃった」と見知らぬ人間をあげた上、食事を期待することもある。
リュシアンが絵梨のことを「料理上手」と評するのは、こういうノーアポイントメントの人間が突然登場しても、なんとか前菜とメイン、それに簡単なデザートぐらいの料理を二十分から三十分程度で用意してしまう器用さにあるようだった。
絵梨の持っている料理本には共通項がある。「簡単にできる」「最小限の努力で」「パパッと素敵に見えるおもてなし料理」といった、時間や特殊な手間をかけずにできるコツが書かれているものが多いのだ。
日本料理のように、一つひとつに大変な手間がかかり、品数がたくさんある料理、さらに素材のよさとそれを生かす技術が料理の出来を左右するような難易度の高いことは絵梨には出来ない。だが、スイスではそういう料理を期待する人が少ないらしく、リュシアンだけでなく多くの彼の友人らは絵梨が料理上手だと誤解している。
絵梨は子供の頃から自分の育った環境が典型的な日本人の家庭とは違うことを意識していた。ありていにいうと、欧米のそれに近かった。両親はクラッシック音楽に関わる職業で、家族はキリスト教の洗礼を受けていた。父親の曾祖母がドイツ人だったため、彼は戦前から洋食に近いものを食べて育った。絵梨の母親は、あまり料理が得意ではなかったので、手間のかかる和食よりも洋食に近いものを料理することが多かった。それが普通だったので、絵梨自身も「和食がなくてもなんともない」少々変わった日本人になった。
食の問題は、結婚生活においては重要なファクターだ。恋愛にどっぷりと浸かっている時は、甘い言葉や相手の容姿、場合によっては相手の年収やら職業が氣にいればそれでいいと思いがちだが、実際に一緒に生活をする段階になってみると、みそ汁の味が濃い薄い、ヨーロッパで言うとジャガイモの茹で方が親と違うなどということの方が、よほど大きな問題になってくる。絵梨の知っている日本人女性は熱烈な恋愛の末、結婚してスイスの田舎に移住してきたが、和食の食材があまり手に入らないことからホームシックになって日本に帰ってしまった。そして、それが原因で離婚した。
絵梨は圧力の下がった鍋の蓋を開けた。茹でたてのヒヨコ豆の香りがふわっと広がった。ブレンダーに豆の半量に茹で汁を少し、ニンニクとタヒンという練り胡麻のペースト、レモン汁、塩を入れて、スイッチを入れる。あっという間にペーストが出来る。中近東風のディップ、フムスが出来上がる。
煮豆は黒く艶やかでありつつ、皺が寄っていなくてはならないと聞いた。煮くずれたり、皮が破れてしまったりしたらその時点でアウトだ。加えて言うなら味が均等にしみていなくてはならず、しかも甘過ぎても塩辛すぎてもいけない。そんな高度な料理が出来るようになるまでには、どれだけひどい豆を食べなくちゃいけないんだろう。絵梨は考える。こうして滑らかなディップにしてしまえば、失敗のしようもない。志が低いと言えばそれまでだけれど、専業主婦でもないのに完璧な家事を目指さなくてもいいと思う。
フムスはパンに付けたり、クラッカーに載せたりして食べる。リュシアンは関節炎の氣がある。尿酸値が高すぎるのは、肉やチーズやワインなど中心の、あまり野菜を食べない生活を長いことしてきたかららしい。それで、「肉は週一日くらいにしろ」と医者に言われたのだ。絵梨は、ベジタリアンやマクロビオティックの料理本を買って、肉を食べない日用のレパートリーを少しずつ増やしてきた。肉を食べない人はタンパク質を他からとる必要があるので、豆や豆製品をもっとよく食べるようにすべきということも学んだ。日本と違って豆腐の仲間にさほどバリエーションがないので、自分で豆を煮るという、日本にいたら絶対にやらなかったことに挑戦する事になったのだが、やはり最低限の手間でできるものが続いている。
いんげん豆を煮る、グリーンピースのポタージュを作る、大豆やレンズ豆のペーストでメンチカツのようなものを作る。絵梨の食卓には豆料理が増えていっている。巨大な平たい鞘に入ったモロッコインゲンのバター炒めや、ソーセージと白インゲンで作るカスレはリュシアンがお氣にいりのメニューだ。それに彼は羊羹が好きだ。
ヨーロッパの人間、特に女性にはじめて羊羹や餡の菓子を出す時には、原材料を先に言うべきではない。それは日本人女性がサツマイモを提供されたかのごとき反応を呼び起こすのだ。
「豆のお菓子なんか食べたくないわ。ガスが出るもの」
「え? お芋じゃなくて?」
「芋でガスは出ないわよ」
どちらが正しいかなんて論じても無駄だ。そう思っている人たちは、それだけで羊羹に嫌なイメージを持ってしまうのだから。何も言わずに食べさせると、大抵の人は「おいしい」と言う。それに、和菓子の繊細で美しい色彩は、大体において好評だ。リュシアンも第一印象がよかったので、和菓子が好きだ。そして、原材料を秘密にして、周りの人間に布教している。
フムスをパンに塗っている時に、突然リュシアンが言った。
「俺さ、ずっと豆が大嫌いだったんだよ」
絵梨はびっくりした。
「何故言わなかったの?」
「お前が作ったものを食べたら、味付けが違って、そんなにまずくなかったからさ。それに、豆の味が嫌だったわけじゃないんだ。子供の頃の思い出」
絵梨が首を傾げると、リュシアンは説明してくれた。
「子供の頃、父さんの給料は手渡しだったんだ。それでさ、一度給料をまるまる落としちゃったことがあったんだ」
リュシアンは三人兄弟の末っ子だ。育ち盛りの少年が三人もいる五人家族が一ヶ月給料なしで過ごすのは相当きつかっただろう。
「それで、母さんは毎日庭で取れる豆しか出してくれなくてさ。豆は二度とみたくないと思ったわけさ」
その義母は、そんなつらいことがあった割には、現在に至るまで毎年欠かさずに豆を植えている。そして、大量に収穫したいんげん豆を絵梨にくれる。だから、下ごしらえをして固めに茹でたものを冷凍しておき、急いでいるときの副菜としてよく利用している。
リュシアンはどんなものでも好き嫌いなく食べるし、よほどのことがないかぎりお皿の上のものは全て食べる。作ってくれた人への敬意を示すべきだし、世界には飢えている人がたくさんいるのに食べ物を捨てるのは許せないという理由からだ。その立派な心がけとレストランの大きすぎるポーションが、彼の腹回りを年々麗しくない状態へと変化させているのだが、それでも絵梨は彼は正しいと思うし、自分も可能なかぎり食べ物を残さないようにしたいと思っている。
一緒に暮らしているのだから、彼は年間を通して絵梨の料理を食べさせられている。「これはおいしい」と思うこともあるけれど、明らかに失敗したと思うときもある。客と違って、新しい試みの実験台にもされるので、必ずしもまともなものだけを食べられるわけではない。それに日本人の作るものを食べるのだから、まずくはなくとも馴染みのないものが食卓にのぼる事もある。でも、彼は一応全部食べてくれる。表立っては「まずい」とは言わない。でも、絵梨にはリュシアンがどう感じているのかがかなり正確に分かる。美味しい時には、積極的にお替わりをして絵梨がもうちょっと食べたいなと思っても残らないくらいのスピードで食べてしまうし、氣にいらないとお替わりはしないし「また作れよ」とは言わないから。
彼のあまり好きでない食材で、何度もお替わりをさせる一皿を出せたときは、ガッツポーズをしたくなる。豆が苦手だったという告白を聞いたときも、少しそんな心持ちだった。彼の母親の味に勝とうなどと言う野望は持っていない。子供の頃から馴染んだ懐かしい味が一番なのは当然のことだろう。でも、たくさんある料理の中には、「ママが作るといまいちだけれど絵梨に作らせると食べられる」なんて味があってもいいかなと思う。料理というのはこういう小さな喜びの積み重ねで上手くなっていくんじゃないかと思うのだ。
絵梨は実家のおせち料理のことを考えた。伊達巻や田作、それに黒豆などは出来合いのものだったけれど、お煮しめは母親が毎年作っていた。それに、鶏肉とほうれん草の入ったおすましの雑煮も懐かしい味だ。スイスのお正月には、おせち料理もなければお雑煮もない。それどころか二日から出勤でお正月ののんびりした氣分とも無縁かもしれない。元旦とはクリスマスの残り火みたいなものだ。全く違う風習の中で、全く違うものを作って食べている。「郷に入ったら郷に従え」って言うわよね。絵梨は自分に都合のいい格言を引っ張りだしてきて、自分らしい生活を楽しもうと思っている。それなりにマメに、でも、嫌にならない程度にずぼらで。リュシアンがそれでいいと思ってくれるのはありがたいことだと思う。破れ鍋に綴じ蓋って、こういうことよね。
鼻歌を歌いながら、残ったヒヨコ豆はどんな風に調理しようかなと、絵梨は簡単料理本のページをめくるのだった。
(初出:2014年1月 書き下ろし)
【小説】白菜のスープ
出てくる白菜のスープ、本当に簡単です。サルでも作れます。でも、連れ合いはこのスープを知りませんでした。冬の間、何を食べていたんでしょうね。この方たち。

白菜のスープ
親の仇であるみたいに白菜を刻んだ。宙、あんたは何もわかっていない。紗英は本来ならば1.5センチ幅に揃っているはずの、しかし、今日は0.8から2センチまでバラエティに富んだ幅をした白菜をざっと集めると鍋に入れた。冷蔵庫からベーコンを出してくる。これまた本来ならば1センチ幅に揃っていた方がいいのだが、やはりまばらになってしまったのを徹底的に無視して同じ鍋に突っ込んだ。そして、湧かしておいた熱湯を注いで、鍋を火にかけた。
「麻央ちゃん、なんていったっけ、生活提案で有名な料理研究家、あの人のファンらしくってさ。玄関にはアイビーのリースだろ、それに箸袋に茶色いフェルトにピンクのビーズのついた飾りがしてあってさ、あれこそ、お・も・て・な・しって感じだよなあ。で、ローストポークとか、季節の野菜の炒め物とか、料理もいちいち凝っていたけれど、最後に出てきたホワイトチョコレートクリームのケーキがバレンタインって感じでさ。女の子にあんな風にもてなしてもらえたのって始めてだし、超感激だよ」
宙があまりにもデレデレしているので、無性に腹が立った。
「それで。あんたは女の子の部屋に上がり込んで期待していた、当初の目的は達成したわけ?」
「おいっ。お前、そのオヤジみたいな身もふたもない言い方はよくないぞ。麻央ちゃんみたいにかわいげがないから、いつまでも次の男ができないんじゃないか」
何が麻央ちゃんよ。名前まで可愛いなんて本当に忌々しい。
宙のことは、彼がハイハイしている頃から知っていた。宙のお母さんは、「ちょっと遠くまでの買い物」とか「近くに高校時代の親友が来ていてね」とか、理由をつけてはまだ小学生だった宙を隣家に連れてきて数時間戻って来なかった。あの頃の紗英は中学に入ったばかりだったが、やはり出て行ったきりなかなか帰って来ない自分の母親の代わりに「お腹がすいた」と泣く弱虫少年の世話をしたものだ。
ところが、高校に入って背丈を追い越された頃から、宙は紗英を「お前」呼ばわりし、好き勝手なことを言うようになってきた。短大に入って、ようやく出来た紗英の彼にダメだしをし、どういうわけか二人の母親も宙の意見に同調した。そう言われると、思っていたほど素敵な人じゃないかもしれないと躊躇しだした。もっとも、紗英が幻滅して彼を振ったわけではなく、あっさり他の女の子に乗り換えられてしまったのだが。
それから三年過ぎて、紗英は社会人になり、宙は大学に入学が決まった。学ランを脱いで、今どき流行の若者っぽいシャツを着て表を行く姿は、それなりに格好いい。母親から「ヒロちゃん、ほんとうにモテるらしいわよ~」と聞かされると、はあ、そうですか、そうでしょうね、素直にそう思う。で、麻央ちゃんやら、優美ちゃんやらが、潤んだお目目でバレンタインのチョコを渡そうとあっちやこっちの角で待っているんだろう。
「塩野さんって、まじめだよね」
同僚が紗英を評して言う。それはつまり、大して褒める所がないという意味だと、紗英自身にもわかっている。地味な服装、平凡な頭脳、そこそこしか出来ない仕事、似た芸能人がすぐには浮かばない容姿。
わかっている。たとえ、そんな女でも、かわいげのある振舞いをすれば、たとえば玄関にアイビーを飾り、ホワイトチョコレートのクリームでケーキを作って、瞳にお星さまを光らせて見つめれば、喜んでくれる男がこの世の中のどこかにはいるかもしれないことぐらいは。でも、そう言うことが出来ないんだからしかたがない。
「ねえ、紗英さ、真剣に彼を作ろうとしないのは、もしかしてお隣のヒロシ君のこと、好きなんじゃないの?」
久美に指摘された時に、紗英は激しく首を振って否定した。
「あのね。あいつは私より三つも歳下だよ! 鼻たらしているヤツの世話をしていたんだよ! 全くそういう対象じゃないよ」
「そ~お? そりゃ、中学生一年生と小学四年生の差は大きいけどさ。いまや、ちゃんとしたイイ男じゃん。アタシ的には、ヒロシ君、大いにありだけどなあ」
紗英は勘弁してくれと思う。理想は社会人だ。大人で、言葉に思いやりがあり、紗英の知らないことに対して豊富な知識があって、すぐにホテルに行こうとか言いださない紳士。おお、宙と真逆じゃないのさ。別に大金持ちとか、一流企業に勤めていてほしいとか、そういう条件を出しているわけではない。でも、理想の人と出会えるような氣は全然しない。自分でも、誰かに指摘されなくても、自分に魅力がないと思うから。
そんなわけで、今年もチョコレートを贈る相手もないまま二月が過ぎていく。そのことにガッカリしたりするつもりはなかったけれど、宙にあんな風に言われるとすっかり憂鬱になる。バレンタインデーの「おもてなしランチ」なんて大嫌い。可愛い女の子なんて絶滅しちゃえばいい。
眼鏡が曇る。白菜とベーコンのスーブから出る湯気のせいか、それとも、情けない自分のせいなのかよくわからない。白菜とベーコンに火が入り、いい感じにくたっとなってきた。バターを落とし、塩こしょうで味を整える。あまりにも簡単なスープ。どうせ料理研究家提唱のおしゃれランチとは違うわよ。ふん。
「おい、おい、おいっ」
声がどこからかしている。紗英は眼鏡の曇りをとって、涙を拭い、もう一度眼鏡をかけると窓を開けた。キッチン窓の向こうは、宙の部屋だ。
「何よ」
「お前、何作ってんの」
「何って、白菜のスープよ」
「げっ。うそっ。食いたいっ。今からそっち行っていい?」
「なんで。あんた、麻央ちゃんの所でたらふく食べてきたんじゃないの」
「うるさい、今行く」
宙は二分で駆け上がってきた。いや、いちおう人の家なのに、勝手に上がるか。紗英は呆れる。
「なんなの、あんた」
「いや、俺、このスープに煩悩してんだよ」
「そういえば、あんたがめそめそ泣いている時によくこれ作ったよね」
「うるせー。黙って、よそえ」
「なに威張ってんの。自分で作ればいいじゃん。中学一年生にも作れた簡単なスープだよ」
「そうだけどさ。よくわかんね。ここでこうやって食うのが美味いんだよ」
わかんないヤツだな。そう思いつつも、紗英はちょっと嬉しそうにスープ皿にスープをよそう。スプーンを持って待っている宙は、泣き虫小学生の頃と変わらない瞳をしている。何にだかわからないけれど、紗英は「勝った」と思った。
(初出:2013年3月 書き下ろし)
【小説】思い出のコールスロー
デジャヴを感じる方もいらっしゃるでしょう。「十二ヶ月の組曲」の十二月分「樹氷に鳴り響く聖譚曲」ででてきた沙羅の再登場です。登場人物のあり方については批判があるかもしれません。苛つく方もおありでしょう。そんなタイプも含めて人間という存在を描くのがこの「十二ヶ月の……」シリーズです。

思い出のコールスロー
はじめてそのキャベツを眼にした時は、何の冗談かと思った。小人の被っている帽子みたいに三角錐だった。普段買いにいっている有機農家のディノがつやつやの淡い緑をぽんと叩いた。
「ものすごく美味しいんだよ。たった今収穫したばかりさ。それに日本原産なんだよ」
そう言われたら買うしかない。でも、二人暮らしでこんなに大きなキャベツを消費しきれるんだろうか。沙羅は予想外に重くなった買い物バックを抱えるようにして歩いた。ヴェローナの郊外、街の喧噪から離れ、けれどざわめきが恋しくなればすぐに戻っていける絶妙な位置にある小さいヴィラはグイドーのお氣に入りだった。1800年代の終わりの建物は、最近のベコベコした建築と違い、どっしりとして美しく彼の鋭い審美眼に適った。天井が高く暖房効率が悪かったので、彼は居間と寝室を徹底的に改装したと話してくれた。それでも真冬ともなれば決して快適とは言いづらい。そういえば彼の離婚した妻が去ったのは、真冬だったと聞いている。
沙羅がこの家に越してきたのは一年と少し前、つまり今は二度目の冬が明けた所だった。一年以上もこの同居が続くとは自分でも思っていなかった。一緒に住もうというのは、彼のよくある氣まぐれだと思っていた。他人事のように考えてしまう自分にはどこか欠陥があるのかもしれない、沙羅は思った。
重たい玄関の扉を開けると誰に言うでもなく「ただいま」と言った。すると奥から「オカエリ」という声が聞こえた。グイドーはアトリエにいるものだと思っていたので沙羅は驚いた。彼は台所でワインを開けていた。
「おや、重そうだね」
すぐに戸口までやってきて沙羅の抱えている買い物鞄を受け取った。それから沙羅の頬に優しくキスをした。沙羅はこの習慣に慣れなかった。
つまり、あのモデルは帰ったのだろう。きちんと暖房のきくアトリエ。モデルが寒くないように、ここだけは断熱して改装し、二重窓にしたらしい。大きい窓から射し込む春の柔らかい陽射しに浮かび上がる若くて張りのある肉体をグイドーが細部にわたり観察をするとき、沙羅は頼まれもしないのに少し遠くまで買い物に出かける。画家とモデルという関係にしては不都合な奇妙な雑音を、二人が沙羅を氣にせずに発生させてもいいように。
たぶん、しばらくするとあのモデルは我が物顔でこの家に入り浸るようになるだろう。そして沙羅にここを出て行くようにと示唆するのだ。これまでもそういう事があった。沙羅は素直にそうすべきかと思うが、少なくともこれまではグイドーがモデルに出て行くように言い、そして二度とそのモデルは使われなかった。
沙羅はキッチンで料理を始める。先の尖った変わったキャベツは、外側の葉が丸まっていないので通常のキャベツより剥がしやすかった。イタリアで見るキャベツは、日本で馴染んでいたものよりもはるかに小振りで、外の葉だけを数枚剥がすのは困難だった。
「変わったキャベツだな」
グイドーがワインを飲みながら話しかけてくる。沙羅は微笑んで「知らなかったけれど日本原産なんですって」と言うと手早くキャベツをさっと茹でていった。ロールキャベツを作るのは何年ぶりだろう。グイドーに食べさせるのは少なくともはじめてのはずだった。
「それは日本料理?」
沙羅は笑って首を振った。
「フランスかどこかの家庭料理じゃないかしら。詳しくはわからないけれど、日本料理じゃない事だけは確かね」
「そうか。いい匂いだ。君みたいに料理のうまい女性と暮らせて僕は幸せだな」
モデルが帰ったあとのグイドーは、とても優しい。そんな必要はないのに。沙羅は彼と結婚していないのだから、彼の不実を責める立場ではないと思っている。それに、不実なのは彼だけではないのだ。どうして彼を責める事ができるだろうか。グイドーは沙羅に不実を知られている後ろめたさをもっているが、沙羅は知られていないから後ろめたい。それともグイドーは画家としての細やかな観察力ですべてを理解した上で、そのままの沙羅を受け止めているのかもしれない。
フィレンツェの美術専門学校で修復コースを終了する一ヶ月前に、沙羅はグイドー・バリオーニに出会った。ミラノのガッレリア・デイタリアでイロッリの印象的なオレンジを眺めている時に話しかけてきたのだ。コースを終了したら再び日本に戻るつもりだった。けれどグイドーはあっという間に沙羅にミラノでの仕事を見つけてきた。イタリアで仕事をしながら経験を積めるチャンスなど二度とめぐって来ないだろう。だから、彼女はそれに飛びついた。
そして、グイドーと逢う事も増えた。美術界に影響力を持つ壮年の画家が、日本の名もない修復師の卵に興味を持つとは思っていなかった。たとえ持ったとしても一時的なもので、それは便宜を図ってもらったからには果たすべき義務のように感じていた。彼に恥をかかせてはならないと。そして、あっさりと忘れてしまわれても当然だと思っていた。事実、グイドーはモデルだけでなく、多くの女性たちと華やかな浮ついた関係を持つ男だった。
だが、彼は沙羅とだけはいつまでも関係を持ちたがった。ベッドの中の関係だけでなく、郊外の農園に連れて行ったり、オペラへ同伴したり、もしくは夕暮れに自宅で単にワインを楽しむためだけに沙羅に声を掛けた。多くの女たちが沙羅を敵視したが、彼女が身を引こうとすればするほどグイドーはさらに近づいた。そして、更にヴェローナでのもっと待遇のいい仕事を紹介し、ヴィラで一緒に暮らそうと提案してきたのだった。女との同居は彼の離婚以来はじめてのことだった。
「どうして私なの?」
沙羅は訊いたことがある。彼と一緒に暮らしたい、関係を持っている女は他にたくさんいた。もっと美しい、もしくはもっと彼と釣り合う社会的地位のある女たちが。
グイドーは沙羅を抱きしめて言った。
「君のそういう所がいいんだ。僕を縛り付けようとしない。自由でいさせてくれる。男は海に出かける船みたいなものだ。どんな島にでも行きたいと強く願うんだ。だが、船はかならず自分の港に戻ってくる。君は僕の出会ったもっとも心地のいい港なんだ」
港、私には港はないのに……。沙羅は日本に想いを馳せた。ずっと好きだった人がいた。高校生の時から忘れる事ができなかった。だが彼は別の女性を選んだ。二十年も引きずったまま、誰ともつきあわず、誰からも求められずに、仕事に生きようとした。美術館で勤めた後、修復師として自立するためにイタリアに来たが、日本に戻ってどう生きたいか自分にも見えていなかった。どうでもよかった。
考えたくなかったから、彼の言葉を受け入れた。彼が「もういらない、出て行ってくれ」と言うまでの間、彼の生活のパートナーとして暮らしてみようと。
学会でスイスに来るので逢いたいと各務慎一が連絡してきたのは十二月だった。沙羅はサン・モリッツに行き、二十年ぶりに彼に逢った。逢うべきではなかったのに、逢いに行ってしまった。心のどこかでは願っていた。ずっと同じ想いだったのだと、これまでが間違っていたのだと、そう告げてくれる事を。
けれど、慎一は彼の家族のもとに帰って行った。グイドーの言葉が心に突き刺さる。「船はかならず自分の港に戻ってくる」そうなのだ。彼の港は、沙羅ではないのだ。二十年想おうとも、躯を重ねようとも、それを変える事はできない。沙羅の心は完全に方向を見失った。過去にも、未来にも踏み出す事ができないまま、日常に流されていた。それはこれまでと同じだった。
調理台の上の残ったキャベツを見た。こんなにたくさんどうしよう。トンカツの付け合せにもしないし……。大量に消費できるのは、他には……。
沙羅は日本から持ってきた、素材別に献立を決められる料理本を探した。あった。キャベツ、キャベツ。あ、コールスローがあった。千切りキャベツよりも日持ちがする上、かさが減って思ったよりもたくさん食べられる。これなら、グイドーも食べるに違いない。
コールスローサラダを好きになったのは、高校生の時によく行ったチキン専門のファーストフード店でだった。生徒会が終わった後に、メンバーでよく食べに行った。各務慎一がいた。姫こと今は慎一の妻となっている麻紀がいた。たくさんの懐かしいメンバーがいた。まだ、誰かが誰かとつき合うなどということもなく、ただワイワイと楽しんでいた。ワインなどではなくMサイズのオレンジジュースを飲みながら日が暮れるまでおしゃべりをした。チキンでベトベトになった指を舐めながら笑い転げた。
「これ、おいしいよ」
慎一が薦めてくれたコールスローサラダを食べたら美味しかった。それからは、高校を卒業してからも、そのファーストフードに行く時は必ずコールスローサラダを頼んだものだ。イタリアにはそのチェーンはないので、沙羅はもう何年もコールスローサラダを食べていなかった。
キャベツを千切りにする。人参を四角いチーズおろしの目の粗い方で削る。マヨネーズ、エクストラバージンオリーブオイル、白ワインビネガーのかわりにバルサミコ・ビアンコ、キャラウェイシード、そして塩こしょうを混ぜて馴染ませるだけ。とても簡単なサラダだ。作ってすぐよりも一日くらい置いた方が味がしみる。
グイドーが鼻歌を歌いながらロールキャベツの味見をしている。沙羅はテーブルの上にスープ皿とカトラリーをセットしていく。穏やかな一日がゆっくりと暮れて行く。沙羅はガラスのボールに蓋をして、思い出と一緒にコールスローサラダを冷蔵庫にしまった。
(初出:2013年3月 書き下ろし)
【小説】あの子がくれた春の味

あの子がくれた春の味
かのんはお姫様キャラを前面に押し出していた。あのキャラづくりは、途中からは本人の責任だけれど、もともとはあの子の母親が作ったものだった。茶色っぽいくるくるした髪は当時からパーマ疑惑があったけれど、ずっと「天然パーマ、クォーターなので」で通したすごいおばさんだった。高校生になって、世間で黒髪ストレートが流行りだすと、かのんは平然とさらさらストレートにしてきた。そして「本当はこうだもの」とこっそりと打ち明けた。クォーターも嘘っぱちだとその時に聞いた。
でも、いつもそうやってキャラを作っていると、本当にそうなってしまうものなのかもしれない。あの子は砂糖菓子みたいだった。ベトベトに甘くていつも大きな瞳を上目遣いに潤ませていた。
「あの子って、親友、いるのかなあ」
私がいつだったか、ふと漏らした言葉に、級友たちはびっくりした。
「え。あんたじゃないの?」
そう、私は小学生の頃からずっと、どういうわけだかかのんにつきまとわれていたから、誰もが私とかのんを親友だと思っていた。私自身は一度も思った事がないのに。
私はただ群れるのが苦手だっただけだ。特に小学生の頃は、グループの級友たちに上手く入っていく事ができなくて、休み時間にも一人で本を読んでいる事が多かった。本当は、本の内容がきちんと頭に入っていたわけではない。私を仲間はずれのダメな子と噂しているんじゃないかと、心を痛めていたから。
「ねえ。麻美ちゃん。かのん、消しゴム忘れちゃったの」
そう言って唐突に近づいてきた林かのんに私は仰天した。いつの間に私の下の名前を憶えたんだろう、この子。その芝居がかった振舞いに、本能で違和感を覚えていた私は、ひとりぼっちであってもこの子には近づくまいと思っていたのだ。だからペンケースから消しゴムとを取り出すと、ぐにっと二つに断ち切って、黙って彼女の可愛らしい手のひらに置いた。桜色の爪。あれはおばさんが必死で磨いていたのかもしれない。
かのんは目を大きく見開いた。
「かのんのために、大事な消しゴムを折ってくれたの? ごめんね」
そうじゃなかったら、どうしろというのだ。私に一日消しゴムなしで過ごせと? こんなにみっともない折れた消しゴム、きっとこの子は一日で捨てちゃうんだろうなと思った。かのんにはフルーツの香りのするファンシーな消しゴムが似合う。私の使っていた実用第一の白いもの、しかもみっともなく手で折ったようなものは、あの親子の審美眼には適わないだろう。私は小学生の頃から、こういう醒めたものの見方をする子で、だからクラスでも浮いていたのだと思う。
しかし、かのんは私の予想を裏切って、ファンシーなピンクの消しゴムの横にいつまでも私の譲った消しゴムを入れていた。そして、それから私に引っ付くようになったのだ。
同級生は私に対する見方を変えたらしかった。クラスでひとりぼっちでおどおどとしている子だったのが、お姫さまキャラの女の子にまとわりつかれているのに半ば邪険にクールにしている女の子とみなされるようになったのだ。それは私の小学生、中学生、そして高校生活をも変えた。私はますます一人でいてもいっこうに構わないサバサバした性格に拍車がかかって、同級生にどう見られるかはどうでもよくなり、ますますかのんを邪険に扱っていたのだが、彼女はニコニコしたまま子犬のようにくっついてくるのだった。
もともとの見かけの可憐さに加えて、あの芸術的なキャラづくりが功を奏し、かのんはよくもてた。女の子たちに好意を持たれていただけでない。少年たちがわらわらと寄ってきた。どうあっても引っ付いてくるので毎日一緒に下校していたが、月に一度くらいの頻度で、男がアプローチしてきた。どの男も私に対して「邪魔者は消えろ」光線を浴びせてくるので、私はさっさと消えたが、うるうるの瞳でまんざらでもなさそうに話をしていたくせに、翌日になるとまた私と帰りたがるのだ。
「昨日の子はどうしたのよ」
「え? もちろん、お断りしたのよ。かのん、まだ、男の子とおつきあいするのは早いと思うの。それに麻美ちゃんが、あの子なら絶対におすすめって言ってくれない人とはおつき合いできないわ」
私が太鼓判を押せば、引っ付き虫を男に押し付けられるという誘惑に負けかけたが、嘘をつくのが下手な私が「あの子はおすすめ!」と断言できるような男はまったく寄って来なかったので、かのんに本当に彼ができたのは高校を卒業してからだった。それが遅いというつもりはない。私が男性とつき合ったのは、もっとずっと後、夫とがはじめてだったのだから。
かのんは時々我が家にもやってきた。彼女が私を招待してくれた時には、スフレだの、ハムのテリーヌだの、とろけるチョコレートムースだの、実に女の子らしい難易度の高い料理が出てきたので、私は親に作ってくれというわけにもいかず、自分に作れるそれなりの料理を出した。ガサツな私にぴったりのカレーやら、クラブサンドイッチなどだ。
あの日、私たちが高校を卒業して、進路が別れてしまったあの春の日、私はアッシ・パルマンティエを作った。フランス語でいうと聞えはいいが、要するにひき肉とジャガイモのグラタンみたいなものだ。マッシュポテト、タマネギと炒めたひき肉、それに茹でグリーンピースのつぶしたものを重ねてパン粉をかけてオーブンで焼く、失敗しようもない簡単な料理だ。だからこそ、これは私の数少ない自信作でもあった。
いつものようにくりくりとした瞳を輝かせて、食べていたかのんは言った。
「美味しいけれど、麻美ちゃん。アッシ・パルマンティエのグリーンピースは冷凍よりも生のを自分で茹でた方がずっと美味しいのよ」
私はカチンと来て、ふだんは言わないようなきつい言葉を遣ったように思う。もう、忘れてしまった。でも、忘れられない事がある。あの時、かのんの潤んだ瞳からは本当に涙がこぼれ出てきたのだ。私はしまったと思った。でも、イライラがおさまらなくて、そのまま彼女を追い返してしまった。
進路が離れて、かのんと毎日会わない日々が始まった。それは待ち望んでいたせいせいする日々のはずだったけれど、そうはならなかった。泣きながら帰っていったかのんの後ろ姿が、長い間私の罪悪心を呼び起こし続けた。かのんと逢わないのは、機会がないからだけれど、休みの日にも彼女はそれまでのように押し掛けてきたり、電話をかけてきたりしなかった。小学校の頃から、いつもアプローチするのが彼女だったせいで、私は自分から彼女に連絡する事ができなかった。風の噂で、彼ができて幸せにしていると聞いた。それなら、それでいい。もっとあんたの価値をわかってくれる人といるほうがいいよ。私はひとり言をつぶやいた。ひとり言ですら「ごめんね」が言えなかった私は天の邪鬼だった。
私は大学に進学し、それから就職した。がさつで、人付き合いは下手なままだったけれど、それでもいいと言ってくれる人がいて、結婚する事になった。結婚式の招待状リストを書き出している時に、ふいにかのんのことを思い出した。たぶん、このチャンスを生かさなかったら、私は生涯かのんに「ごめんね」が言えないだろう。そう思って、もう実家にはいないだろうと思ったけれど、そこしか知らなかったので、招待状に「あの時はごめんね。もしイヤじゃなかったら、来てね」と書いて送った。
かのんからすぐに電話があった。
「おめでとう! かのん、絶対に駆けつけるから!」
実際には、かのんは披露宴に来られなかった。臨月だと聞いていたから、もしかしたらと思っていたが、本当にその日に破水してしまったらしい。でも、お互いにおめでたい事だから喜んで、翌日新婚旅行に出かける前に病院に駆けつけて祝福しあった。
そして、今日、かのんから小包が届いた。
「かのんが収穫したんだよ。ぜひ食べてみて!」
どういう経緯だかわからないけれど、あのお姫様キャラで、砂糖菓子以外とは無縁だったはずのかのんは、よりにもよって農家の長男と結婚したらしい。そして、あの桜色の爪の間に土が入り込むような仕事をしているらしい。
「ああ、かのんちゃんからだね。へえ。新鮮な野菜がいっぱいだ」
夫は嬉々として小包を覗き込む。私は生き生きとしたキャベツや人参の間に、たくさんの色鮮やかなエンドウの鞘があるのを見つけた。かのんめ……。
献立を変更して、アッシ・パルマンティエを作る事にする。鞘から取り出した丸々として固いエンドウ豆を細心の注意を払って茹でた。ああ、なんて綺麗な色。いい香り。つぶした時にふわっと漂う春の歓び。
「げっ。すげえ美味い!」
オーブンから取り出してざくっとよそうのを待ちきれないようにして口に入れた夫が絶叫した。私は少々ムッとしながら、フォークを口に運んだ。グリーンピースがふわっと薫った。甘くて旨味がたっぷりだった。
かのん、私の完敗だわ。ごめん。私と夫は、四人前用レシピのその料理を、その晩のうちに完食してしまった。
(初出:2014年4月 書き下ろし)
【小説】冷たいソフィー

冷たいソフィー
また失敗した。霜の降りてしまった植木鉢を眺めながらファビアンは思った。四月の末まで夏が始まったかのように暖かかったので完全に油断した。ローズマリー、キョウチクトウ、ヤシ。まさか五月に入ってから氷点下になるなんて。
この地域では、植木を外に出すのは「氷の聖人たちが過ぎ去ってから」という。「氷の聖人たち」とは、5月11日の聖マルメルトゥスから5月15日の聖ソフィーの日までのことを指している。統計的にこの時期に寒さがぶり返すことが多いために慣用句となったのだろう。「氷の聖人たち」と言う代わりに「冷たいソフィー」と言ういい方もする。
「だから言ったでしょう」
ファビアンが顔を上げると、そこに彼女がいた。彼の顔は真っ赤になった。四月の末に彼が植木を庭に引っ張りだしている時に、隣に住むこの女が「まだ早すぎるわ」と言ったことを彼は忘れていなかった。今朝もニコリともしなかった。青い瞳は海王星のように冷たいに違いない。
「おはよう、ソフィー」
「おはよう、ファビアン。霜の降りたローズマリー」
「わかっているよ!」
ファビアンがソフィーにいい所を見せようと思うと必ず裏目に出る。そもそも、ここに引越してきたことが失敗のもとだった。彼の男らしさ、有能さに彼女が氣がつくどころか、引越す前よりも印象を悪くしている可能性が高い。ファビアンの魅力に心がとろけて笑顔になるはずが、逢う度に冷ややかな態度になってきているようだ。けれどその冷たさは彼女の美しさをますます際立たせた。
「ねえ、ソフィー。今夜の予定は?」
「特にないけれど、それがあなたに関係あるのかしら」
ファビアンに誘ってほしいとの期待は全く感じられない調子だが、そこで負けては引越してきた意味がない。
「たくさんのアスパラガスを入手したんだ。ごちそうしようと思って」
「緑、それとも白?」
「白」
「悪くないわね。何時?」
ファビアンは心の中でガッツポーズをした。
「七時はどう?」
「わかったわ。今日の仕事はそんなに遅くならないはずだから」
アスパラガスが店に出回るようになるのは毎年早くなっていた。もともは初夏にしか食べられない食材のはずだが、四月にはスペイン産やトルコ産のものが主流だし、それより前だとメキシコから送られてくるのだ。五月に入ってようやくドイツ産のものも見かけるようになった。
けれどファビアンが待っていたのはスイス産アスパラガスだった。畝にした土の中で太陽の光を当てないようにして育てたホワイトアスパラガスは旬の味として珍重される。その分大量消費される食材の宿命で、味も安全性も玉石混合となる。ファビアンが高価なスイス産のものしか買わないのは、外国ではスイスでは安全性のために禁止されているような化学肥料や除草剤が使われていることもあるからだった。
一本の直径が2.5センチメートルほどで長さも20センチほどあるアスパラガス。購入の単位は一キロ束だ。ピーラーで皮を剥き、根元を切り落としてから、深鍋に入れて一時間ほど茹でる。その茹で汁は後日スープにする。すっかり柔らかくなった熱々のアスパラガスと新ジャガにオランデーゼソースをかけて食べるのだ。
「よし、いい香りがしてきたぞ」
アスパラガスのゆで上がりまであと15分という所だろう。ジャガイモもしっかりと蒸し上がった。ファビアンは、冷蔵庫で冷やしておいたシャンパンをクラッシュアイスの入ったワインクーラーに移し替えた。クリーム色のテーブルクロスをキッチンの小さな木のテーブルに掛け、二人分の皿とカトラリーをセットした。燭台に白いロウソクを立てて火をつけた。低く生けた薔薇とガーベラ。これは食事の前にどけないと、ソースを置く場所がなくなるなと思った。
テトラパックのオランデーズソースを戸棚から取り出した。それをソースパンに入れて火に掛けた。途端に、呼び鈴が聞こえた。彼女だ! ファビアンは走って玄関に向かった。
「ハーイ。ご招待ありがとう」
扉の前に立っていたソフィーは、いつものパンツ姿ではなくてクリーム色のワンピースを着ていた。そして、輝くようなあの美しい金髪をポニーテールにし、うっすらとローズの口紅を差していた。ソフィーにしてみたらごく普通の外出着だったのだが、ファビアンには女神が降臨したかのようだった。
「ようこそ。ああ、なんて綺麗なんだ」
大仰に誉め称える彼に対し、彼女はいつも通り冷たかった。手みやげのよく冷えた白ワインを手渡しながら簡素に答えた。
「ありがとう。でも、大袈裟よ」
それから眉をひそめた。
「何かが焦げているみたいだけれど……」
ファビアンはギョッとしてキッチンに走った。ソースパンのオランデーズソースが沸騰して外に吹きこぼれてしまっていた。
「うわ!」
慌てて火からおろした。その時にソースが跳ねて彼の指を直撃した。
「あちっ!」
揺らしたために残り少ないソースがまたこぼれた。鍋底は完全に焦げてしまい、ソースはほぼ全滅だった。
「まあ」
ソフィーは後ろからやってきて、惨状を目の当たりにした。
「車で、ちょっとソースを買いにいってくる」
「どこに? スーパーはもうとっくに閉まっているわよ」
「ガソリンスタンド」
「オランデーズソースなんてあるかしら」
ソフィーの冷静な意見ときたら、いちいち的を得ている。ファビアンは泣きたくなった。オランデーズソースなしに、どうやってアスパラガスを食べろって言うんだ。まさかマヨネーズでってわけには、いかないよね。
「ねえ、オランデーズソースくらい自分で作ればいいじゃない」
「え?」
ソフィーはファビアンのしているエプロンをさっと取り上げて自分に掛けた。それから眉一つ動かさずに言った。
「卵一つ。白ワイン、バター、レモン汁かお酢、それに牛乳を少々」
彼は慌てて冷蔵庫に走り、言われたものを用意した。
彼女は小さい鍋にバターを入れて溶かした。それを小さいボールに遷すと、同じ鍋に溶き卵とワインと牛乳をよく混ぜ合わせて入れてから、泡立て器で手早くかき混ぜたまま、ごく小さな火に掛けた。
ファビアンが見とれていると彼女はぴしゃりと言った。
「ボーっとしている暇があったら、その焦げてしまった鍋を水につけておきなさいよ」
彼は言われたままに鍋をシンクに置いて水につけ、それから汚れた床をとりあえず綺麗にした。その間にソフィーはとろみのついてきたソースに溶かしバターを混ぜて、最後にレモン汁と塩こしょうで味を整えた。
「ほら、もうできた」
「そんなに簡単にできるソースだったんだ」
彼は目を白黒させた。ソフィーはソースを用意された器に注ぎ込むとスプーンを添えてテーブルへと運んだ。そしてエプロンをとってファビアンに渡した。
怒って帰ってしまってもおかしくない事態だったのに、彼女はむしろフォローしてくれた。それがファビアンには嬉しかった。ソフィーは外からは冷たく見えても、本当は優しい素敵な女性なんだ。
「さあ、早く食べましょうよ。お腹ペコペコだわ」
シャンパンを抜き、二つのフルートグラスを満たす。グラスには美しい彼の女神の姿が映っている。ファビアンは小さい声で「乾杯」と言った。
ソフィーは微笑みながら「乾杯。そしてありがとう」と言った。ホワイトアスパラガスの茹で具合は完璧だった。ジャガイモもおいしくできていた。何よりも手作りのオランデーズソースはいつものテトラパックの何倍も美味しかった。
「次回は、僕も手作りのソースにするから、シーズン中にもう一度食べようよ」
ロウソクの長さが半分くらいになり、あらかたのアスパラガスとジャガイモがなくなった頃に、ワインでほろ酔いになったファビアンは言った。
「そうね。でも、アスパラガスの季節っていう暖かさじゃないわよね」
いつもの冷たい調子で答えるソフィーに、ファビアンはあまり真剣に落ち込んだりしていなかった。心は次のデートのことでいっぱいだったから。ああ、今夜はなんてロマンチックな宵だろう。ほら、雪まで降って……。ええっ、雪?!
「あらあ、降ってきちゃったわね。ちょうど今日は『冷たいソフィー』だし。あなた、今夜こそローズマリーは仕舞ってあるんでしょうね」
「ないよっ!」
ファビアンはローズマリーの鉢を室内に取り込むために、重たく冷たい雪の中に飛び出していった。
(初出:2013年5月 書き下ろし)
【小説】きみの笑顔がみたいから
今回の二人は、昨年登場した「ロメオとジュリエッタ」です。どんな話だか忘れてしまった方、読んでいない方も全く問題ありません。
読みたい方はこちらへ 「世界が僕たちに不都合ならば」

きみの笑顔がみたいから
ミラノは忙しい街だ。イタリアの他の地域が太陽とトマトとワインを楽しんでいる時にも、ミラノ人だけはせっせと働いていると言われている。実際に、ロメオの勤めているソヴィーノ照明事務所では、誰も彼もがワーカホリックのように見えた。ロメオ自身は、もう少し典型的イタリア人に近いと思っている。彼は照明の位置を二センチずつずらして、組み合わせの効果を百回も試すよりも、まだ明るいうちに帰ってワインを飲む方が好きだった。それはロメオが照明デザイナーではなくて、事務と経理を担当しているからでもあった。
それなのに、ロメオが恋に落ちてしまった女性は、国民全体がワーカホリックだと評判の日本人だった。珠理は同じ事務所で働く照明デザイナーだ。彼女の創り出す光はとても暖かく繊細だ。まるで彼女自身のようだった。
ロメオは楽しみにしていた八月の休暇をふいにしてしまった。夢破れて日本に帰ろうとした珠理を追って、ついうっかり日本へ行ってしまったのだ。そして、空港で珠理を捕まえて、ついでに日本を旅してきたのだが、そこで有給休暇を使い果たしてしまった。
でも彼は後悔していなかった。珠理はミラノに、そして、ソヴィーノ事務所に戻ってきてくれた。それだけではなくて、ロメオのアパートメントで暮らすことになったのだ。ソヴィーノは「わっはっは」と笑った。「お前もやる時はやるな」という意味である。
日本に追いかけていったぐらいで、ただの友達以下の関係から同棲相手へと昇格出来るとは自分でも思っていなかった。ただ、荷物が船便で日本に帰ってくるので、それを受け取らないと何も出来ないと渋る珠理を説得して、まだ海の上にある荷物が日本国内に着いたら即座にイタリアに返送してもらう手続きに行き、そこで転送先の住所が必要になったのでロメオの住所を書いたのだ。
とりあえずの新しい住所がロメオのアパートメントになり、それを何度も手続きのために書いている間に、珠理自身にとってもそれが自然になってしまった。同じ飛行機に乗って再びイタリアに向かう時も特にはっきりとした話をしなかったのだが、ミラノについてから直接ロメオのアパートメントに向かい、そのままなんとなく同居にこぎ着けてしまったのだった。
「今日は遅くなる?」
書類を引き出しにしまって退社の支度をしてから、ロメオは珠理のデスクの所に行って小さい声で訊いた。隣にいたマリオやアンドレアがニヤニヤ笑ったので、ロメオは珠理に申し訳ないことをしたと思った。
珠理はやはり小さい声で答えた。
「これをやってから帰りたいの。二時間くらい遅くなると思う」
「時間は氣にしなくていいよ。僕は買い物をしてから帰るよ」
ロメオはスーパーマーケットに寄るつもりでいつもの道を歩いた。角を曲がったら奥の広場に市場が立っていた。だったらスーパーマーケットに行くなんてもったいない。足を速めて市場にたどり着いた。
丸々太ったおばさんがオリーブを量り売りしていた。山盛りのペパロニが鮮やかだった。チーズ専門の屋台。レース編みのカーディガン、大量の靴下や下着、各種の帽子。彼は喧噪の中を黙々と歩いた。頭の中で、冷蔵庫には何があっただろうかと考える。主に料理をしているのは珠理だから、記憶はかなりあいまいだ。もともとロメオが作ることのできるメニューは限定されている。とにかく使い切れるだけの物を買えばいいか、そう思った。
「いらっしゃい」
「そのルッコラを一束ください」
「はいよ、他には?」
「いや、それでいい」
水牛のモツァレラとパルミジアーノの塊、それにヴァルテリーナの赤ワインを買い、それからやはりスーパーマーケットに寄ってピッツァの台を買った。
アパートはひんやりとしていた。ずっと一人で住んでいた部屋だ。何も思うはずはないのに、どういうわけだがガランとして感じられた。人と話すのが苦手で一人でいるとホッとすると思っていた。勢いで珠理と同居することになってしまったけれど、二人でいることに苦痛を感じるのではないかとこっそり思っていた。けれど、それは全く逆だった。珠理はこのアパートに昔から置きっぱなしになっていた置き時計か、あったことも忘れていたクッキー缶のようにすんなりとおさまり、部屋は全く狭くならなかったし、騒がしくなることもなかった。
言葉に慣れていないためかゆっくりとしたペースで、考えながら話す。かかっている音楽を黙って一緒に聴く。二人の間の沈黙は据わりが良い。無理して話す必要もなければ、いやいや耳を傾ける必要もない。ただ、優しく静かな時間が流れている。
ピッツァを焼くのは珠理が帰って来てからの方がいいだろう。でも、下準備はしておいた方がいい。そう考えたロメオはワインのコルクを抜いてデキャンタに移した。ピッツァ台を天板の上に広げ、ニンニクのみじん切り、窓辺に置いた鉢からオレガノ、ローズマリーを少しとってきて、細かくしてから載せた。オリーブオイルと黒こしょう。薄切りにしたモツァレラを散らす。今日はピッツァ・ビアンカにするのだ。
「ロメオは本当にイタリア人?」
初対面の人によく言われるセリフだ。あまりに口数が少ないから。故郷の家族や親戚と一緒に過ごしたがらないから。でも、彼だってトマトやピッツァが嫌いなわけではない、ごく普通のイタリア人と同じように。
小さいバルコニーに出た。夏至が近いのでまだ明るいが、風が出てきて涼しくなってきた。ロメオはテーブルクロスを一度外してぱっと叩いた。それから丁寧にセットした。ガラスに入ったロウソクとワインのデキャンタ、皿とワイングラス、カトラリーを持っていった。その時、玄関で音がした。
「ごめんね、ロメオ。遅くなっちゃった」
アパートにわずかに色彩が増したように感じた。珠理がこだわっている一センチか二センチか、その程度の照明の違いのようなわずかさで、何が違うのかと訊かれると答えられない変化。
「お帰り、珠理。すぐにご飯用意するよ」
オーブンを温めて、ピッツァを入れる。
「このまま? 真っ白ね」
珠理は珍しそうに眺める。
「うん。今日はピッツァ・ビアンカにしたんだ。でも、これで終わりじゃないから安心して」
ロメオは笑って珠理の頬にキスをすると、ルッコラを洗い、パルミジアーノを薄く削った。珠理はルッコラの水氣ををタオルで拭き取る役目を引き受けた。
「さあ、できた!」
パリパリに焼き上がったピッツァの上にルッコラとパルミジアーノをたっぷりと載せてロメオはバルコニーに急いだ。珠理はバルコニーの扉を開ける。
ロウソクの光が揺れている。空が少しずつオレンジになっていくのを珠理は目を細めて見守った。ロメオはその珠理を眩しそうに見ている。
「さあ、ピッツァが冷めないうちに」
「ありがとう、ロメオ。なんて素敵な夕方かしら」
「うん。きれいな夕焼けだよね」
そういうと珠理はまあという表情をした。
「夕焼けだけじゃないわ。帰って来たらこんなに素敵なテーブルが整っていて、ロマンティックで、それに美味しいピッツァがあって」
ロメオはそれに続けた。
「そして、向かいに君が座っているんだ」
二人は一緒に笑った。
ルッコラとパルミジアーノがわずかに風に揺れている。ほのかに胡麻のような薫りがする。シンプルなのに深い味わいで飽きない。人生の歓びもこれに近いのかもしれない。珠理がワイングラスを傾けながら微笑んでいる。二人にたくさんの言葉はいらない。
(初出:2013年7月 書き下ろし)
【小説】帰って来た夏

帰って来た夏
暑い。湿氣ている。蝉もうるさい。なんなのよ、この国は。宏美はムッとしながらバルコニーの日よけを降ろした。
「クーラーの効いた部屋で食べればいいのに」
冷やし素麺を父親と食べていた母親は呆れたが、「いいの」と押し切った手前、いまさら室内には戻れない。それに、母親は十分な量の冷やし素麺を用意したのだから、わざわざ違うものを食べることないのにと言ったがそれも無視した。
一刻も早く仕事と住む場所を見つけなくちゃ。六年ぶりの日本。これまでのような一週間程度の里帰りではなくて、出戻りだ。宏美が突然戻ってきて「別れた」と言ったとき、両親は驚いたけれどホッとしたような顔をした。それも数日のことで、まだ口には出さないけれど、これからどうするつもりだと顔が語りだしている。言われる前になんとかしなくちゃ。
でも、そんなに簡単に話は進まない。まずは仕事。引っ越しはその後。突然のことで、自分がどうしたいかもまだはっきりしていない。別れて本当によかったのかも。いや、他の選択があったわけではない。あっちの人に子供ができちゃったから。やれやれ。
最後に言いたかったことを全部言ってやった。あいつが大事にしていたワイングラス、投げてやろうと思ったけれど、できなかった。粉々にしたかったのに。それができたら、本当にヨーロッパに馴染んだ自分になれたように思う。でも、無理だった。その時に、もういいかなと思ってしまった。
ジュゼッペと別れ、イタリアを離れて日本へ帰って来たけれど、今日のランチはカプレーゼとバゲットだった。トマト、モツァレラチーズ、バジルを交互に並べて、オリーブオイルとバルサミコ酢、塩こしょうだけで味を付けたシンプルなサラダ。色がイタリア国旗と同じ組み合わせなので、母親は何か言いたそうな顔をした。べつに未だにかぶれているわけじゃないわよ。単にこれが好きなの。まあ、かぶれていないとは言えないけれど。
宏美はトマトが好きだった。365日の三度の食事に毎回出てきても構わないくらい好きだった。ジュゼッペが他の国の人間だったら、あんな簡単に結婚と移住を決心しなかったかもしれない。でも、イタリアはトマトの国だと思っていたので、素早く決めてしまったように思う。実際には、日本に出回っているトマトの方が美味しかったよう。だから、帰って来れたんだけれど。
「あ、本当に帰っているじゃん」
ガラスの引き戸から顔を出したのは史郎だった。史郎は高校の同級生でもあるが姻戚でもある。具体的には姉の義弟。つまり彼の兄と宏美の姉が結婚したのだ。
「ちょっと。何勝手に人の家に入ってきているのよ」
「勝手じゃねーよ。おばさんが、お前はバルコニーにいるっていうからさ」
「だいたい、なんで平日にこんなとこにいるのよ」
「あん? 遅番だもん」
彼は確かにシフト勤務をしていた。病院に勤めているけれど医者ではない。なんとか放射線技士っていったっけ。
「で、お前は何やってるんだ?」
「何って、お昼ご飯よ」
「このくそ暑い中で?」
「うるさいっ!」
イタリアとは何もかも違う。テラスにテーブルを出して、カプレーゼと赤ワインでランチ。そんなのあたりまえだったのに。まだ食べはじめてもいないのに、もう蚊に刺されて、さらには好奇の目に晒されている。まあ、氣まずいはずだった史郎との再会が、普通だったのはよかったけれど。
「イタリアなんて行くなよ」
いつもふざけている史郎が、ものすごい真面目な顔をして止めたのは昨日のことみたいだ。六年前の宏美はジュゼッペの甘いささやきに盲目になっていたので聴く耳をもたなかった。そのすぐあと、新婚旅行で買ったオーデコロンがまだ上から一割ぐらいしか空いていないのに、もう浮氣をされて大げんかになった時も、ジュゼッペの母親に息子は悪くないという趣旨のことを言われた時も、いつも史郎の言葉を思い出していた。
間違った決断をしたなんて思いたくなかった。今でもそうだ。必要な経験をして帰って来たのだと。イタリア語も喋れるようになったし、前よりも一人で何でもできるようになった。ちょっと年を食ってしまったから就職には難があるかもしれないけれど。
史郎は引き戸を閉めるとバルコニーの奥から折りたたみ椅子を持ってきて、どかっと座った。
「ワイングラス、もう一つ持ってこいよ。一人で飲むことないだろう?」
「出勤前なのに、いいの?」
「夕方までには醒めるって。いいから、早く。お前の帰国に乾杯しよ?」
宏美はぶつぶつ言いながら、台所に降りてワイングラスを持ってきた。何ドキドキしているんだろう、私。やっぱり、意識しちゃっているのかなあ。最後があれだったからなあ。
史郎に好かれているなんて夢にも思わなかったから、結婚すると言った時にプロポーズつきで止められてものすごくびっくりした。十年近くもそばにいたんだから、早く言ってくれれば考えないでもなかったのに。でも、あれから六年も経っているから、もう私のことはどうでもよくなったかもしれないし、彼女がいるのかもしれない。こんなに意識する必要はないと思うんだけれど。
宏美はいつものクセでワイングラスを太陽にかざし、指紋や汚れがないか確認する。一度ジュゼッペに汚れを指摘されて、それ以来いつも氣をつけていたのだ。それなのに「彼女は君みたいに細かいことにこだわらないから、一緒にいて心地いいんだ」と言われてしまった。浮氣をして子供を作られたことよりも、その心ない発言の方がずっとこたえた。
バルコニーに戻ると、ぴしっと蚊を叩いている音がした。
「あれ、グラスだけ? 俺の取り皿は?」
宏美を見て史郎はぬけぬけと言った。
「史郎がカプレーゼを食べるとは思わなかったから」
宏美はグラスを彼の前に置くと、再びキッチンに戻って小皿とカトラリー、それに紙ナフキンを持って戻ってきた。家の中はクーラーが効いていて涼しい。こうなると、なぜバルコニーにいなくてはいけないのか、自分でもわからなくなってきた。でも、史郎が待っているから、いっか。
戻ると彼は二人分のグラスの中に、ワインを注いでいた。
「昼間からワインを飲めるようになったんだな」
そう嫌味でもひがみでもないトーンで、たださらりと言った。
「史郎こそ、このサラダを食べようだなんて、どうしちゃったの?」
史郎はトマトが大嫌いで、何があろうと口にしなかった。だから、彼からされた突然のプロポーズを断るために、宏美はこう言ったのだ。
「私、トマトの食べられない人とは暮らせないもの」
もちろん、本心からそう思っていたわけではない。正直言って史郎には他にマイナスポイントがなかったのだ。超美形ってわけではないが、それはお互い様だし、性格もよくて氣も合った。単にそういう風に考えたことがなかったので、それに姻戚だから、一度もつき合う対象として考えたことがなかった。
史郎は、サラダを自分から取り分けた。トマトもたっぷり取っている。
「トマト、いつから食べられるようになったの?」
「六年前」
「どうやって?」
「死ぬほど悔しかったから、食べてみた。そしたら、思っていたほどまずくなかった」
それから宏美の目をまともに見て、ワイングラスを掲げた。
「お帰り」
彼女は少し黙っていたが、やがて口元をほころばせると、グラスを重ねて言った。
「ただいま」
帰って来てよかったなと、はじめて思った。この湿氣もうるさすぎる蝉の声も、それから、家族や史郎のあっさりした感情表現も、ようやく懐かしくしっくり自分に馴染んでくる。私、ここで、日本で、また頑張るんだ。
「ああ、ほんっとに、美味しいよ、日本のトマト」
宏美が幸せそうにつぶやく。史郎はテーブルの上のバルサミコ酢を持ち上げて不思議そうに眺めた。
「なんだこれ、やけに美味い」
「ああ、これね。最高級の黒い星付きなの。カプレーゼは、オリーブオイルとバルサミコ酢の品質でぐっと味が変わるのよね。でも、これ、日本では手に入らないかもな……」
史郎はふんと鼻を鳴らした。
「なくなったらそれまでさ。トマトには他の食べ方もあるからな。肉詰めとか棒棒鶏風とかさ」
そう言って、最高級バルサミコ酢を惜しげなく使いだした。そうだよね。使っちゃえ、使っちゃえ。宏美は笑って、自分も同じようにした。
(初出:2013年7月 書き下ろし)
【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 - 秘め蓮
ユズキさんの記事 「蓮の花絵フリー配布 」
六月に拝見したときから、ぜひ使わせていただきたいと思っていたんですが、蓮は難しいですね。「桜」と「三色すみれ」のときのように氣軽には使えず、悩みに悩んでこの話を創り出しました。この作品は、「樋水龍神縁起」のスピンオフです。平安時代編。男の二人旅の話。行き詰まっていた時に、助け舟を出してくださったのは、ウゾさん。「大和高田市奥田の蓮取り」という素晴らしいヒントをくださいました。本当にありがとうございました。
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樋水龍神縁起 東国放浪記
秘め蓮
蓮の葉が広がる池だった。風が細かい水紋を起こした。次郎は故郷を思い出した。遠く離れ、戻るあてもない。深い森の奥に俗世界から守られるようにして記憶の中の池はあった。正面に瀧があり、常に清浄な氣に溢れていた。彼はそこに住む神聖なるものを見ることができた。それは、常にそこにいた。彼が生まれる前から。
神社付きの郎党であった次郎は生まれてからずっと出雲国から出たことがなかった。今、彼が仕えている主人が彼の住んでいた神域にやってくるまで。次郎は馬の手綱を握り直して、馬上の主人を見上げた。主人は何も言わずに目の前の池に目をやっていた。彼もまた思い出しているに違いない。樋水の龍王の池と、その池のほとりに住んでいた御覡を。彼のせいで命を落とした媛巫女を。
「春昌様。あちらに小さい庵がございます。そろそろ今宵の宿を探した方がようございます」
次郎が話しかけると、安達春昌は黙って頷いた。
池のほとりにある庵は村から離れて寂しく建っていた。よそ者を快く泊めてくれるかどうかはわからぬが、そろそろ陽は傾きだしている。次郎は庵の戸を叩いた。
「もうし」
誰かが出てくる氣配はなかった。中から苦しそうな咳が聞こえる。次郎はどうしようかと迷い、馬上の春昌を見上げた。主人が次郎に何かを言おうとしたとき、馬の後ろから声がした。
「何かご用でございますか」
二人が振り向くと、泥だらけの誰かがそこに立っていた。声から推測すれば娘のようだが、そのなりからは容貌もほとんどわからなかった。
「旅の者でございます。一夜の宿をお借りできないかとお願いに参りました」
次郎が丁寧に申し出ると、娘はそっと馬上の春昌を見上げた。
安達春昌の服装は、大して立派とは言えなかった。かつて次郎がはじめて春昌に逢った時は、右大臣の伴をして奥出雲にやってきただけあり、濃紺の立派な狩衣を身につけた堂々たる都人であった。が、道を踏み外し流浪の民となってから数ヶ月、狩衣の色は褪せ、袴もくたびれていた。もっとも、都を遠く離れたこのような村では狩衣を身に着け郎党を従えた男というだけで、十分に尊い貴人であった。そして、娘が驚いたのはまだ年若いと思われるその男の何もかも見透かすような鋭い目つきであった。
娘は慌てて春昌から眼を逸らすと、頭を下げて「ばば様に訊いてまいります」と中に入っていった。娘の抱えている緑色の束から、微かに爽やかな香りがした。
ほんのわずかの刻を立ち尽くしただけで、二人は再び娘が玄関に戻ってくる音を聞いた。娘は狭い土間にうずくまり頭を下げた。
「病に臥せっている者がおり、狭く、おもてなしが十分にできませぬが、それでよろしければどうぞお上がりくださいませ」
「お心遣い、感謝いたします」
春昌が言うと、次郎も深々と頭を下げた。
次郎が馬をつなぎ、荷を下ろしてから家の中に入ると、春昌は案内された小部屋ではなく、隣の媼が伏せている部屋にいた。
「春昌様」
次郎が声を掛けると春昌は振り返った。
「次郎、頼まれてくれぬか」
「なんでございましょう」
「林の出口付近に翁草が生えていた。あれを三株ほど採ってきてほしい。汁でかぶれるので直接手を触れぬようにいたせ」
「はい。しばしお待ちくださいませ」
娘は、目鼻がわかる申しわけ程度に顔と手を洗って媼の横たわる部屋にやってきたが、先ほどまで苦しそうにしていた老女のひどい咳が治まっているのに驚いた。客は媼の手を取り瞳を閉じて何かの念を送っているように見えた。
半時ほどすると、馬の蹄が聞こえて、次郎が戻ってきたのがわかった。郎党は足早に上がってきて、部屋の入口に座り懐から紙に包まれた翁草を取り出して主人に手渡した。春昌は立ち上がって娘に言った。
「これを煎じたい」
「でも、それは……」
娘は困ったように春昌を見つめた。
「わかっている。この草には毒がある。毒を薬にする特別な煎じ方があるのだ」
娘は頭を下げると春昌を竃の側に案内した。娘は春昌が慣れた手つきで翁草をさばき、花や根を切り捨てるのを見た。それから何かをつぶやきながら、今まで見たこともない方法で葉と茎を煎じるのを不思議そうに見た。彼はそれから煎じ液の大半を捨て、水を加えて再び煮立てた。それを何度か繰り返し、見た目には白湯と変わらぬ煎じ薬を茶碗に入れると、再び媼のもとに戻った。
「さあ、これをお飲みなさい。今宵は咳に悩まされずに眠れるでしょう」
媼は黙って薬を飲んだ。娘は再び驚いた。翁草には毒があるので触ったり食べたりしてはいけないと教えたのは他ならぬ老女自身だったから。普段一切よそ者を信用しないのに、今日に限り従順になったのはなぜだろうと訝った。老女は春昌に耳を近づけてようやく聴き取れるほどの声で礼を述べると横になり、次の瞬間にはもう眠りについていた。春昌は何もなかったかのように立ち上がり、自分たちにあてがわれた小さな部屋に戻った。
娘は若い蓮の実とできはじめたばかりの蓮根を洗って調理を始めた。そしてわずかに残っていた粟とともに粥にした。それから二人のもとに運んで言った。
「こんなものしかございませんが、どうぞ」
春昌は手を付けずにその粥をじっと見ていた。
「いかがなさいましたか」
「この蓮は目の前の池のものですか」
「はい」
「春昌様?」
次郎が不思議そうに見た。主人は不安がる郎党を見て少し笑った。
「素晴らしい蓮だ。次郎、心して食しなさい」
それから娘を見て言った。
「明朝、この蓮を穫った場所へご案内いただけますか」
娘は「はい」と答えて粥をかき込んだ。春昌が椀に手を付けたので、次郎もほっとして箸に手を伸ばした。娘は客人を待たずに食べだしたことにようやく氣がつき赤くなった。次郎は貧しく泥まみれの娘を半ば氣の毒そうに、しかし半ば軽んじて見やった。
明け方に次郎は隣の間から聞こえてくるバタバタした音で目を覚ました。身を起こすと、春昌はすでに起きて身支度をし夜が明け白んでくる蓮池を見やっていた。
「もうしわけございません」
慌てて次郎が起き上がると春昌は振り返った。
「よい。あの蓮が効き、よく休めたのであろう」
急いで身支度をしながら次郎は主人に訊いた。
「あの蓮は何か特別なのでしょうか」
陰陽師である主人はわずかに微笑みながら答えた。
「そなたもあの波動は感じたであろう。五色の氣は見えなかったか」
「五色? いいえ。普通の蓮よりも強い氣を発しているのは感じましたが。穫れたて故、あれほど美味なのかと思っておりました」
次郎が袴の紐を絞ると同時に、部屋の外から娘の声がした。
「お目覚めでしょうか」
次郎が破れかかった障子をそっと開けると、昨日の汚れが乾いたままの様相をして、娘は頭を下げた。
「お早うございます。よくお休みになれたでしょうか」
「ああ。礼を申す」
そういって春昌は娘が横に置いた籠に目をやった。
「池にいくのか」
「はい。もし、よろしければどうぞご一緒に」
「ぜひ見せていただこう」
立ち上がった春昌の後を、次郎は慌てて追った。
ようやく昇りかけている朝日を浴びて、蓮池は霧を少しずつ晴らしている所であった。樋水の龍王の池にも劣らぬ清浄な氣を感じて、次郎は身震いをした。昨夕は全く感じなかったのに一体どうしたことであろう。
娘が庵と反対側にある非常に多くの蓮の葉が集中している所に来て、そっと薄鴇色の花を指差した。

このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない使用は固くお断りします。
それは明らかにただの蓮の花ではなかった。二輪の花が並んで咲いている。その花の周りに次郎にもはっきりとわかる強い氣の光輪が広がっていた。赤、青、黄、紫、そして白。よく見るとその二輪の花は一つの茎からわかれ出ていた。次郎は思わず息を飲んだ。春昌は何かを小さくつぶやいていた。
「奥田の香華……」
「春昌様?」
「わが師は賀茂氏であった。大和国葛城に戻られる時にはよくお伴をしたものだ。一度、奥田の捨篠池に私を伴われたことがあった。その時に、かの役行者と縁深き一茎二花の蓮花は、失われたのではなくいずこかに今でもあるはずだとお話しくださったことがあったのだよ」
「役行者の蓮でございますか?」
「かつて尊き五色の霧をともなった神の蓮がかの池を覆っていたというのだ。言い伝えでは役行者の母君が金の蛙に篠萱を投げつけて、その目を一つ射抜いてしまい、それ以来、一茎二花の蓮も普通の蓮になってしまったということになっている。わが師は、珍しくて尊い花ゆえ人びとが競って朝廷へ献じたために、失われてしまったのであろうとおっしゃっていた」
「いま見ているこの蓮が、その尊き花なのですね」
「そうだ。最後の花の種はどこか、都人の口の端に上らぬ所に隠されたとおっしゃっていた。あれはここのことだったのだ。見よ、何と美しいことか」
「朝廷に奏上した方がいいのでしょうか」
次郎がいうと、娘は怯えたように二人を見た。
春昌は首を振った。
「同じ間違いを犯してはならぬ。私は師の期待を裏切り、慢心し、決して失われるべきではない尊い神の宝を死なせてしまった。神がここに咲かせた花は、ここで咲かせるべきだ。そうではないか」
娘は泥池の中に入り、蓮根と、花の終わった青い花托をいくらか収穫してきた。泥に汚れ、またしても男だか女だかわからなくなってしまった娘を、次郎は少し呆れた様子で眺めていた。だが、特別な蓮の花托を抱えているせいなのか、次郎にもわずかに見えている娘の氣は、朝の光の中でやはり五色にうっすらと輝いて見えた。次郎は思わず目をこすった。春昌は口先でわずかに笑った。
庵に戻り、出立の支度をしていると、再び娘がやってきた。
「ばば様が目を覚まし、旦那様にお礼を申し上げたいそうです。お邪魔してもよろしいでしょうか」
「まだ起きるのはつらいであろう。私がそちらへ行こう」
隣の間で布団の上に起き上がっていた媼が、春昌の姿を見てひれ伏した。
「何とお礼をもうしていいやら。息をするのも苦しく、幾晩も眠ることもできませんでしたのに、嘘のように咳も苦しさも治まりました」
「呪禁存思にてそなたの体内に流れていた風を遮った。翁草は滅多にしない荒療治であったが効いたようで何よりだ。そなたたちが同じことをすると危険ゆえ、代わりに大葉子を煎じて一日に三回飲むようにするとよいだろう」
「あなた様は、いったい……」
「道を踏み外し、名を捨てた者だ。だが、心配はいらぬ。わが呪法は京の陰陽寮で用いられているものと同じ。暖かきもてなしと、神の蓮に逢わせていただいた礼だ」
それを聞いて媼はびくっとした。春昌は媼をまっすぐに見据えて続けた。
「尊き蓮を守られるご使命をお持ちですね」
「はい。私は、かの蓮をさるやんごとなきお方よりお預かりし、時が来るまでここで泥の中に隠すように申しつかっております」
「賀茂氏のご縁のお方か」
「はい」
「では、蓮を受け取りにこられる時に、安達春昌より心からの恭敬と陳謝の意を伝えていただきたい」
「承知いたしました。必ず」
媼と娘に別れを告げて、二人は森を通りさらに東に向かった。
「春昌様。お伺いしてもいいでしょうか」
次郎は馬上の主人を見上げた。
「なんだ」
「いずれはあの蓮の花を、陰陽寮の方がお引き取りにお見えになるということなのですか?」
次郎は、媼と春昌の会話の意味が半分も分かっていなかった。
「蓮の花ではない」
「え?」
春昌は次郎を見て笑った。
「そなたも氣がついたと思ったのだが」
「え? 何をでございますか」
春昌は前を向いた。
「あの娘だ。あれは特別な女。おそらく三輪の神にお仕えする斎の媛にするつもりなのであろう。師も苦労の絶えぬことだ。蓮のように泥の中に隠さねばならぬとは」
「泥の中に隠す?」
「あの娘を湯浴みさせ、髪を梳き、それなりの館にて育てたら、その美しさにたちまち噂が広がり、やれ我が妻に、やれ皇子様の后にと大騒ぎになるはずだ。あれは
「ぱどみに? それは何でございますか」
「天竺では女を四つに格付けしているのだ。下から
次郎は目をしばたたかせた。なぜそれを昨夜教えてくれなかったかと、つい言いそうになったが寸での所で留まった。
次郎も、もう一人の至高の女を知っていた。やはり神に捧げられた尊い媛だった。ひと言も口にせずとも、主人が何を想っているかがわかる。春昌にとって生きることと旅をすることは、償いであり神罰でもあった。彼はいくあてもなく彷徨うしかない存在だった。
「ゆくぞ」
木漏れ日の中を馬上にて背筋を伸ばし進んでいく主人の色褪せた狩衣を追い、次郎は再び歩き出した。
(2014年8月書き下ろし)
【小説】オーツくんのこと

オーツくんのこと
なんて大きな月だろう。黒い墨のような空にわずかにたなびく薄い雲が、その光を受けて輝いていた。月の中にはくっきりと文様が浮かび上がり、あれはウサギが楽しく餅をついているのではなくて、暗く空氣の薄い世界に広がる孤独なクレーターの集合なのだと訴えてくる。
私は自転車を停めて、麦畑の前に立った。風がそよぐ。麦たちが行儀良く右へ左へと傾いで、さわさわと語りかける。すっかり涼しくなった。九月。ここにいない人の事を想って立ちすくむ。ごめんね、オーツくん。私は今も月を見ているよ。
中学一年生のとき、私は背が低かった。整列するときはいつも一番前で、隣にいたのはやはり小柄な大津くんだった。もの静かであまり目立たない少年。彼と最初に話をしたのは、一学期も終わる頃だった。体育祭でフォークダンスを踊る事になって、身長順で彼と組まされる事になったのだ。
そのフォークダンスは、学年中で不評だった。男子と女子とにはなんらかの身体的違いがあって、小学生だった頃のようにただの同級生として分け隔てなくつき合えなくなりかけていた。二年生の不良っぽい佐野先輩が、高校生とつきあっているという噂があって、それをクラスの女子たちが補導された生徒に対するようにひそひそと非難していた。山下くんが美弥ちゃんのスカートをめくってからクラスの女子の大半に避けられるようになったのもこの頃だった。
小学校の頃は何とも思わなかったのに、横に並んで手をつないで右や左に動くだけの事が、とても苦痛になっていたのは、たぶん男子も女子も同じだったに違いない。もう五年も経てば「あれっぽっちのことで」「むしろ羨ましい」になったことだったけれど、私たちは微妙な顔をして嫌々練習をしていた。
大津君は乾いた手をしていた。手に触れる時に、強すぎる事も弱すぎる事もなく、とても自然に、まさにフォークダンスを踊っていたのだと思う。私と手を繋がなくてはならなくても、嫌な顔もしなかったし、反対に嬉しそうでもなかった。彼は目立たないけれど、クラスの子たちに信頼されているちゃんとした少年だった。
英語を習いはじめた私たちは、ちょっとでも知っている単語を使いたかった。誰かがオートミールに使われている燕麦を「オーツ」と呼ぶのだと聞きつけて、彼の事を「よう、麦!」と呼ぶようになった。私は麦君とは呼ばなかったけれど、私の中では彼の名前の表記が「オーツくん」に変わってしまった。
あの夏休みに、私は初めて一人で新幹線に乗った。お母さんは新横浜まで送ってくれて、おばあちゃんが浜松の駅で待っていてくれたので、私のする事といったら間違わずにこだまに乗って、浜松到着のアナウンスを聞き逃さないだけだったのだが、秘境探検に出かけるかのようにドキドキしていた。そうしたら新横浜駅のホームで突然呼び止められたのだ。
「佐藤!」
オーツくんが手を振っていた。隣にいたのはたぶんお父さん。背は高いけれど、彼にそっくりだった。
「オーツくん、どこに行くの?」
「岡山のおじいちゃんの所。佐藤は?」
「浜松。おばあちゃんのとこ」
「一人なのか? すごいな」
「うん。えへへ」
私はちょっと誇らしかった。
「でも、オーツくん、岡山までこだまで行くの?」
「ううん、名古屋まで。名古屋からはひかりの指定がとれたんだ。浜松までだったら、僕たちと一緒に行こうよ」
私は頷いた。やはり一人で乗ったら、乗り過ごさないか不安だった。オーツくんのお父さんがちゃんと浜松を教えてくれると思ったらほっとした。
新幹線の中で、オーツくんのお父さんが、オレンジジュースやお菓子、それにさきいかや笹かまぼこなどを奨めてくれた。そして、何かと話しかけてくれたので、私は学校でほとんど話した事のなかったオーツくんともたくさん話す事になった。オーツくんが寡黙ではなかったのでびっくりした。
夏休みの自由研究のために春からワタを植えていたこと。どうやら夏休みが終わるまでに綿の実ができそうだと嬉しそうに語った。それから、彼の田舎は吉井川の流域にあって、親戚は農家、秋になると稔った麦穂であたりがみごとな金色に染まるのだと教えてくれた。
「え。じゃあ、本当にオーツくんだったんだ」
私がそういうと、お父さんも彼も楽しそうに笑った。
「満月の夜に麦畑に立つと、すごく幻想的なんだぜ。佐藤にも見せてあげたいな」
私は、いつかきっとオーツくんと満月の麦畑を見るのだと、その時に思ったのだ。フォークダンスを踊らされていた時の、居心地の悪さはどこかへと消えていた。オーツくんは「クラスの男子」の一人ではなくて、ちゃんと話のできる友達になっていた。
次が浜松だとオーツくんのお父さんが教えてくれたとき、私はとても残念だった。できることならこのままオーツくんの田舎に行って、満月の麦畑に立ちたいと思ったのだ。
「二学期にまた逢おうな」
網棚の荷物をお父さんに降ろしてもらっている時にオーツくんは言った。
「うん」
「そうだ。真成寺の裏手に、ススキがいっぱい生える所があるの知っているか?」
突然彼は言った。私は知らなかったので首を振った。
「じゃあ、中秋の名月の頃は早すぎるけれど十三夜の頃に一緒に行こうよ。月見団子持ってさ」
金色の麦畑のかわりに、たくさんの銀のススキ。月明かりでどんな風に見えるのか、楽しみだった。私は大きく頷いて、二人に手を振った。
宿題をたっぷりと残したまま夏休みは終わった。オーツくんと違って自由研究も全く準備をしていなかったので、高校野球が始まった頃に私は泣きべそをかいた。看護師で忙しい母は手伝ってくれなかったし、その年も間に合わせの情けない研究でお茶を濁したのだと思う。どういうわけか、私はどんな研究をしたのかまるで憶えていないのだ。オーツくんの綿の観察の事は憶えているくせに。
いたたまれない二学期の始まりをなんとかこなし、授業に、体育祭の準備に、忙しい日々を過ごしているうちに台風が過ぎて、秋らしくなっていった。
体育祭の二日前に、私は風邪を引いた。ただの鼻風邪ではなくて、高熱が出て、母は職業的権威を振りかざし私が体育祭に出るのは不可能だと宣言した。私は運動音痴で体育祭なんか大嫌いだったので、いつもなら大喜びする所だった。でも、私が休んだらフォークダンスでオーツくんはどうなるんだろう。あんなに真面目に練習していたのに。
「だって、フォークダンスが……」
「何言っているのよ。そんなフラフラでダンスなんか踊れるわけないでしょう。だいたい、あんな文句言っていたくせに」
今ごろみんな踊っているかな。ごめん、オーツくん、わざとじゃないんだよ。私は布団の中でつぶやいた。そしてそのまま眠ってしまった。
「真美。お友だちがお見舞いにきたわよ」
母の声で目を覚まして部屋の入口を眺めると、そこにオーツくんが立っていた。
「オーツくん!」
「佐藤、休んでいる間のノート、持ってきた。あと、体育祭で全員に配られた景品」
「え。ありがとう。ごめんね。フォークダンス、あんなに練習したのに」
「大丈夫。山下も休みだったから、残りもの同士で組んだよ」
「そっか、美弥ちゃんも踊る相手がいてよかったんだね」
「それより、熱は大丈夫?」
「うん、体の痛いのも、だるいのも治ってきたみたい。きっと下がってきたんだね。明日か明後日にはまた学校に行けると思う」
「そうか。十三夜は一週間後だし、それまでに元氣になるといいな」
「うん。そうだね。ありがとう」
オーツくんがお見舞いにきてくれた事にも驚いたけれど、新幹線での約束を憶えていた事にもびっくりした。私はそのことが確かに嬉しかったのだ。
でも、学校に出て行ったら、状況が全く違っていた。教室に入ったら、山下くんたちが「ひゅーひゅー」と囃し立てた。
「麦! 奥さんが来たぞ~」
「よっ。麦夫人。旦那が待っていたぞ」
オーツくんの親切がクラスのみんなに知られて、私たちは相合い傘を書かれる仲にされてしまっていた。私はそれを笑い飛ばせる心の余裕がなかった。ただ慌てふためき、クラスで非難される穢れた存在ではないことを証明しなくてはならない氣になっていた。
「ち、違うよ! 私、オーツくんとはなんでもないもん!」
そう言ったとき、オーツくんの表情がわずかに歪んだように感じた。彼だって、こんな風に囃し立てられて迷惑に違いないと思っていた私は、彼の傷ついた表情にズキリとした。でも、私がやってしまったことはこれだけではなかったのだ。
十三夜が大雨になる事を願っていたのに、これ以上ないほどの晴天だった。私は真成寺の裏手に行くかどうか、夕方からずっと悩んでいた。でも、もしオーツくんといる所をクラスの子に見られたら、本当につき合っている事にされてしまう。それに、オーツくんだってそれを心配してこないかもしれないし。学校ではできるだけ彼と話さないようにしていたので、待ち合わせなどはまったくしていなかった。私は晩ご飯を食べ終えると、布団をかぶって寝てしまった。
次の日、オーツくんが学校を休んだ。夜中まで外にいて風邪を引いたと男子たちが話をしていた。
「夜中まで何をしていたんだろうな。おい、麦夫人、お前知らないのか?」
私は知っていた。オーツくんがしてくれたように、ノートを持って見舞いにいき、「ごめんね」と言った方がいいと思った。なのに、私にはその勇氣がなかった。クラスのみんなに囃し立てられるのがなぜそれほど嫌だったのかわからない。学校に出てきたオーツくんは、二度と私の方を見なかった。卒業するまで、一度も話しかけてくれなかった。私は、彼を怒らせてしまった事と、クラスのみんなの噂が怖くて、ついに彼に謝る事ができなかった。
そして、二十年の月日が経った。私は異国に嫁いだ。パンが主食で、燕麦もたくさん食べる国。秋になると小麦畑が金色に染まる。麦の穂が頭を垂れだすのは、たぶん日本よりも早い。さわさわと音を立てて、風が寂しい秋の訪れを告げる。夏至の頃と違い、日暮れも早くなった。
今日は中秋の名月。冷たい待宵の月が天空にぽつりと浮かんでいる。大きい、明るい月だ。オーツくん、あなたは今、どこにいるの。結婚して幸せになったかな。奥さんと一緒に月を眺めているかな。ごめんね、オーツくん。私は人の心をわかっていない、嫌な子供だったよね。あの時に行けなかったお月見を、私は生涯し続けると思う。今宵も風が冷たいね。
(初出:2013年9月 書き下ろし)
【小説】あなたの幸せを願って
先日の休暇中に練った話なので、舞台は北イタリアの山の中です。

あなたの幸せを願って
クラーラの家は、ボコボコする道をオンボロバスに揺られて30分も登った所にあった。彼女の他には、もともとは20家族くらいが常時住んでいたらしいが、今では夏の休暇用に貸し出している家が三軒あるだけになっている地域だ。冬の運行時間になるとバスも通らなくなってしまう。
リーノの両親が今年最大の派手な喧嘩をして、母親がナポリに帰ってしまったので、彼はしばらく父親の妹であるクラーラの所に預けられることになった。はじめは妹のアーダと一緒に祖母に預けられたのだが、二人が喧嘩ばかりするので、祖母は二人一緒は勘弁してくれと父親に直談判したのだ。
たしか三歳くらいの時に逢っているはずだが、彼は叔母のクラーラを憶えていなかった。
「あれは偏屈の変わり者だよ」
だいぶ前に母親がそういったので、リーノは氣味の悪い魔女のようなおばあさんが迎えにくるのかと思っていたが、母親よりもずっと若くみえた。茶色い髪を素っ気なく後ろで結び、飾りの全くないブラウスとスカート姿だった。リーノは叔母がまずまず氣にいった。
クラーラに連れられてバスを降り、ほんの少し山道を登ると、山に抱かれるように小さな庭があって、いくつもの南瓜が実っていた。黄色いコスモスやエンドウ豆の仲間のようなピンクの花も風に揺れていた。その奥には、小さい石造りの家があって「さあ、ここよ」とクラーラは木の扉を開けた。
白い壁の小さな台所はスープの匂いで満ちていた。今どき、薪オーブンで調理しているらしい。古ぼけた薄水色の木の棚のガラス窓に、いくつもの瓶詰めやジャムが見えた。リーノが物珍しさに興奮しているのを見て、クラーラは優しく笑った。
クラーラはリーノを寝室に案内した。
「小さいけれど我慢してね」
小さいなんて問題じゃなかった。リーノは自分一人の部屋を持ったことがなかった。これからどのくらいかはわからないけれど、この部屋を独り占めできるんだ。古い木の寝台、机と椅子に小さいタンス、そして、洗面器と水差しが置かれている。
「お腹がすいているでしょう。すぐにご飯にしましょうね」
クラーラは台所に戻ると鍋をかき回した。リーノは荷物をタンスにつっこむと、いそいそと台所に戻った。そして、クラーラについて彼の村で噂されている言葉について率直に訊いてみた。
「ねえ、
リーノが訊くと、クラーラの手はぴたっと停まった。しばらくの不自然な間で、少年にも絶対に訊くべきでなかったことなのだとわかった。クラーラは甥の方を見て、ぎこちなく笑った。
「誰か他の人が幸せになったってこと。でも、他の人に、そんな言葉を遣っちゃダメよ。言っちゃいけない言葉の筆頭だわ」
クラーラの説明では、リーノにはそれが悪い言葉のようには全く聞こえなかったが、この称号は、かなり悪いことなのだろうと思った。どうしてなんだろう。いい人に見えるのに。
「さあ、食べましょう」
パルミジアーノ・レッジャーノの塊と、薄くカットされたパン、それに鍋から注がれたオレンジ色のスープ。クラーラはリーノの前に腰掛けて微笑んだ。
リーノは南瓜のスープはあまり好きじゃないんだと言い出せなかった。湯氣の向こうの微笑みを壊さないように、渋々スプーンを動かし、ふうふうと息を吹きかけてから観念してスープを口に運んだ。
「あ、美味しい」
彼がつぶやくと、クラーラの微笑みはぱっと笑顔になって花ひらいた。
リーノが苦手だった、薄くてあまり味のないスープと違って、この南瓜のスープは濃厚だった。塩と胡椒でシンプルに味付けされているだけのようなのに、どちらも豊かに感じた。そして、それが甘味とコクを引き出している。タマネギの香りはするけれど、とても滑らかでどこに入っているのかも目には見えない。
「母さんの作る南瓜のスープと全然違うよ。こんなに美味しいの初めて食べた」
そういうと、クラーラは少し困ったような顔をした。義姉の料理にケチを付けるような会話はできないと思ったのかもしれない。わずかに論点をずらして回答した。
「少し甘味のある種類を植えてみたの。この南瓜は、評判いいのよ。明日、注文してくれた人たちに届けにいくから、一緒に行かない?」
土曜日はいつもテレビでアニメを観るから行きたくないと答えそうになったけれど、この家には衛星チャンネルの映るテレビはありそうにもなかった。リーノは頷いた。一人で待っているなんて退屈だろうし、宿題をするよりは面白いだろう。
「クラーラは南瓜を売って暮らしているの?」
彼女はその質問に笑った。
「そうしたいけれど、それだけじゃ食べられないわ。翻訳の仕事をしているの」
「だったら、もっと都会に住めばいいのに。周りに誰もいない山の中って、つまらなくない?」
「つまらなくないわ。逢いたい人には自分から逢いに行けばいいし、逢いたくない人とは逢わなくてもいいもの。それに、幸せは周りがどんなだかとは関係ないの。幸せな人はどこにいても幸せなんだと思うわ」
彼女は微笑んだが、ほんの少し寂しそうに見えた。
次の朝、新鮮な絞りたてのミルクと、焼きたてのパン、それに手作りのジャムの朝食が待っていた。
「このミルクどうしたの?」
「この上で放牧している、ジュゼッペおじいさんが、牛乳やクリームやチーズを売ってくださるのよ。そろそろ牛が里に帰ってしまうから、そうしたら村に買いに行かなくてはいけなくなってしまうけれどね」
「パンはクラーラが焼くの?」
リーノは薪のオーブンをちらっと眺めて訊いた。彼女は頷いた。
このパンのために、きっと彼女はリーノよりもずっと早くに起きたのだ。畑仕事をして、牛乳を取りに行き、朝食を用意する。昨夜、トイレのために起きた時に、クラーラは自室で仕事をしていた。テレビやたくさんのお店がなくても、やることがないと暇を持て余しているわけではないのがわかった。
朝食が終わってから、クラーラは小さなリヤカーを庭の裏手の小屋から出してきた。オレンジで小人の帽子のように尖っているもの、それにクリーム色の瓢箪のように見える南瓜がまず運び込まれた。それに小さくてとても食べられないように見えるミニ南瓜は、リーノがやっと抱えられるような大きめの籠に入れられてリヤカーに載せられた。
ゆっくりと山道を下っていく間、クラーラはリーノのかけ算の暗唱につき合ってくれた。それから、月末にクラスでハロウィーンの催しがあると話したら、子供の頃に憶えた幽霊の出てくる詩を教えてくれた。
バス停を通り過ぎて、しばらく歩くと数軒の家があった。「待っていたのよ。あなたの南瓜はお店で買うのよりもずっと美味しいから」と話しているのが聞こえた。リーノは自分のことのように嬉しくなった。
少し軽くなったリヤカーを牽いて、さらに歩き大きな建物の門に着いた。「ホテル・アペニーノ」だった。クラーラはほっと息をついて汗を拭くと、裏手にまわってキッチンに通じる扉の呼び鈴を押した。中からは白い上着を着た学校を卒業したばかりのような若い青年が出てきた。
「ラッジさんですか。ああ、聞いています。南瓜ですよね。運び込むの手伝いますね」
ニキビ面の青年は、リヤカーに残っていた全ての南瓜と籠に入ったデコレーション用のミニ南瓜をキッチンに運び込んだ。クラーラが納品済のサインをもらおうとすると、青年は頭をかいた。
「困ったな。僕はまだ見習いで、サインしちゃいけないって言われていて。シェフは、ついさっき急用で出かけちゃったので……。待っていてください、オーナーを呼んできますから」
そういうと、クラーラの様子も氣に留めずに、奥へと行ってしまった。
今までずっと穏やかだったクラーラが、ひどく慌ててそわそわする様子を見て、リーノは不思議に思った。
「クラーラ、どうしたの?」
その声で、我に返った彼女は、リーノに切羽詰まった様子で懇願した。
「ああ、リーノ、お願い。今の人とオーナーが戻ってきたら、この受領書にサインをもらってちょうだい。私は、門の所で待っているから」
「え?」
押し付けられた受領書とペンを持ってぽかんとしている間に、クラーラは急いでリヤカーを牽いて出て行ってしまった。しかたなく彼はキッチンの片隅で青年たちを待った。
ほどなくして青年が、立派な服装をした背の高い紳士と一緒に戻ってきた。
「あれ? ラッジさんは?」
リーノは進み出て受領書とペンを差し出した。
「叔母は、リヤカーと先に出ました。サインをお願いします」
ホテル・アペニーノのオーナーらしい紳士は、じっとリーノを見つめた。
「君は、ラッジさんの甥なのかい」
「はい。リーノ・ラッジです」
「そうか。確かに似ているな」
彼は茶色い瞳の目を細めて少し寂しげに笑ってから、受領書に書かれたクラーラの字をじっと見つめてから、丁寧にサインをした。受け取ってからぺこりと頭を下げて出て行こうとするリーノにこう言った。
「叔母さんによろしく伝えてくれ。代金は今日中に振り込ませると……あ、待ってくれ」
内ポケットから札入れを取り出すと、50ユーロを彼の手に握らせた。それは南瓜を運んできた労力に対するチップとしてはいくらなんでも多すぎるので、リーノも青年も目を丸くした。オーナーは、しかし、それには構わず、キッチンの中を見回して、テーブルセッティングのために用意された花籠から紅い薔薇を一本抜き取ってリーノに渡した。
「ラッジさんに……いや、クラーラに渡してくれ」
ホテルの裏門で、リヤカーにもたれかかるように立っていたクラーラの横顔は憂いに満ちていた。
「ありがとう、リーノ。ごめんね」
そういう彼女に彼は50ユーロ札と、紅い薔薇を差し出した。
「よろしくって。代金は今日中に振り込ませるって」
クラーラは困惑した顔をした。
「だって、これだけでもう代金を超えているわ……」
「でも、代金の話をした後にこれをくれたんだよ。それとこの花も」
彼女は、50ユーロを返そうかと迷っていたようだったが、やがてため息をついてポケットにしまうと、紅い薔薇をリヤカーに引手の脇に差して歩き出した。
「ねえ、クラーラ。あのオーナー、知っているの?」
「どうして?」
「だって、ラッジさんにと言ってから、わざわざクラーラにって言い直したよ」
風が吹いて、クラーラの茶色い髪はゆっくりと泳いだ。彼女の灰緑の瞳は、紅い薔薇を見ていた。それから、ゆっくりとリーノの方に視線を移すと、もとのように穏やかに微笑んだ。
「ええ。昔の友達なの。とても仲がよかったのよ。私ね、昔、あのホテルで部屋係として働いていたの。彼は、その時に一緒に働いていたウェイターだったの」
リーノは首を傾げた。
「オーナーなのにウェイター?」
「オーナーのお嬢さんと結婚したのよ。今は二人でホテルを経営しているの」
「ふ~ん。クラーラが、あの人に逢いたくないのはどうして? 嫌いになったの?」
リーノが訊くと、クラーラは首を振った。
「いいえ。嫌いじゃないわ。でも、逢わない方がいいの。あなたが面白いゲームをしている時に、同じゲームをしたくてもできない人がじっと見ていたら楽しめないでしょう。だから……」
彼には、叔母がなぜ突然ゲームの話をしだしたのかよくわからなかった。そういえば妹のアーダとの最後の喧嘩のきっかけはゲームだった。妹は一緒に遊んでほしかったのに、リーノは邪魔をしないでほしかった。一日にゲームをしていいと許されているのは30分だけだったから。横でぐすぐすと泣くアーダ。ゲームに集中できなかったのは、それがうるさいからではなくて、心になにかが刺さるように神経をざらつかせるからだった。
でも、いま思いだすのは、アーダの涙に濡れた瞳で、決してセーブしてリュックサックに入れて持ってきたゲームの続きをすることではなかった。あの時、遊んでやればよかったな。僕、もう、アーダとも、パパやママとも逢えないのかな。
心細くなってクラーラの顔を見上げると、彼女は薔薇の花を見ていた。彼は、クラーラの瞳にずっと浮かび続けている寂しそうな光がなんだかわかったような氣がした。アーダのように泣きたくても、大人は泣けないのかな。
「クラーラ、僕、アーダのこと嫌いなわけじゃないんだ。あの時はわかんなかったんだよ。ゲームを楽しめるのは今だけで、アーダと遊ぶのはいつでもできると思っていたんだ」
彼女は微笑みながらリーノの頭を撫でた。
「わかっているわ。アーダがそれをわかるにはまだ時間がかかると思うけれど」
「僕、アーダに絵を描いて、送ってあげようかな」
「そうね。そうするといいわ。絵が描けたら、一緒に郵便局に行きましょうね」
リーノは南瓜とクラーラの絵を描いて、アーダに送った。返事の代わりにアーダからリーノの絵が送られてきて、彼は泣いてしまった。それからすぐにリーノは家に戻ることになった。母親がナポリから帰って来たのだ。クラーラと別れる時にもリーノは泣いた。彼女も目を赤くして「家族へのクリスマスプレゼントを買うときに使いなさい」と、あの50ユーロ札をくれた。
普通の生活に戻って忙しくしていても、家で、スーパーで、南瓜を見かけると、リーノはクラーラの悲しい瞳とホテル・アペニーノのオーナーの渡した紅い薔薇を思いだす。
「誰か他の人が幸せになったってこと」彼女はそう言った。誰かとはあのオーナーのことなんだろうか。幸せのお礼にあの花とお金と、それからたくさんの注文をクラーラにくれたんだろうか。
ずっとクラーラの側にいて元氣づけたいと思ったけれど、そうしたらアーダが泣いちゃう。僕もママやパパが恋しくてつらい。みんな幸せになるのって難しいなあ。リーノは母親の相変わらず薄くて美味しくない南瓜のスープを食べながら考えた。
クラーラどうしているだろう。もう、あの薔薇は枯れちゃったかな。リーノは彼女へのクリスマスプレゼントに、紅い薔薇の刺繍のついたハンカチを買おうと思った。
(初出:2013年10月 書き下ろし)
【小説】ブラウン・ポテトの秋
登場するのは「今年脚光を浴びた人」谷口美穂。去年書いた作品の一回きり登場のキャラのはずでしたが、scriviamo! 2014でポール・ブリッツさんに取り上げていただいてからどういうわけか起用が相次ぎました。で、まだ早いけれど、今年の総決算モードということで再登場。で、準レギュラーキャラの名前はポール・ブリッツさんからいただきました。
とくに読む必要はありませんが、「マンハッタンの日本人」を知らない方でお読みになりたい方のためにリンクを貼っておきます。
「マンハッタンの日本人」
「それでもまだここで 続・マンハッタンの日本人」
「花見をしたら 続々・マンハッタンの日本人」
「歩道橋に佇んで 続々々・マンハッタンの日本人」

ブラウン・ポテトの秋 続々々々・マンハッタンの日本人
3キロのジャガイモがふかし上がった。美穂はキッチンスタッフではないが、モーニングセットの準備でブラウン・ポテトを作るのは彼女の仕事になってしまっている。熱々のジャガイモの皮は自然と割れて剥がれているので取り除く。7ミリくらいの厚さに切っていく。
大きな鉄板にサラダ油とベーコンの細切れを入れてじっくりと油がでるまで炒めたら、薄切りの玉ねぎを入れてしんなりするまで炒める。それからジャガイモを加える。
バターを時々足して、鉄板にジャガイモを押し付けながらきれいな茶色に焦げるように炒めていく。この頃になるとキッチンはいい香りで満ちる。それを見計らったかのようにポールが入ってくる。
「おはよう、いい匂いだな」
「おはよう、ポール」
これが、毎朝のお決まりの挨拶になっている。
ダウンタウンにある《Star's Diner》のモーニングセットの目玉が、このブラウン・ポテトだ。ポールがこの店に勤めだして、一週間もしないうちにオーナーに訴えたのが、それまで出していたブラウン・ポテトのまずさだった。
「こんなまずいブラウン・ポテトに我慢できるニューヨーカーなんかいるものか。ブラウン・ポテトはニューヨーカーの心なんだ」
日本人である美穂には、ポールのその理屈は全くわからなかったが、確かに《Star's Diner》のブラウン・ポテトは大したことのない味だった。オーナーはその批判にぶち切れたのか、それとも納得したのかよくわからないが、突然ポールを「ブラウン・ポテト改善プロジェクト」の責任者に任命した。
ポールには一つの問題があった。ブラウン・ポテトに対する強い思い入れに匹敵するほどの料理の知識に欠けていたのだ。そして、プロジェクトをサポートするのは朝番のウェイトレスたちの仕事になったのだが、普段より早く来ることを好まないほかの女の子に上手く逃げられた結果、結局美穂にお鉢が回ってきたのだ。
「こればかりは、時間短縮ができないの。とにかくじっくりと焼き色をつけないと」
なぜ日本人の自分が生粋のニューヨーカーにブラウン・ポテトの作り方を教えなくてはいけないのかわからない。
美穂は作り方をポールに教えて、朝番を交代にしてもらおうとした事が何度かある。けれど、どうしても美穂が作るようにはならない。玉ねぎが黒焦げになるか、ジャガイモが黄色いままか、塩味がきつすぎるか、とにかく上手くいかなかった。
「証券を売るのは得意だったんだけれどね」
彼はごにょごにょと何かを言った。
結局、美穂が毎朝ブラウン・ポテトを作る代わりに、一時間早く上がっていいという許可を得て、「ブラウン・ポテト改善プロジェクト」の責任者代行に就任することで話は決着した。
少なくともポールの主張は間違っていなかった。ブラウン・ポテトが改善されてから《Star's Diner》でモーニングセットを食べていく客が明らかに増えたのだ。
「でも、これっぽっちの改善じゃダメなんだよな。もっとドラスティックな改革をしないと」
ポールは証券アナリストの目つきになって腕を組んだ。美穂は肩をすくめた。
美穂にとって、仕事とは上司に命じられたことをきちんとこなすことで、その経営方針に沿った小さな改革はしても、路線の変更など大きな改革とは無縁だと思っていたからだ。数ヶ月前に一人で始めたおしぼりサービスや、掃除の徹底、ブラウン・ポテトの変更に関わることはできても、改装プランやメニューの変更のような大きな変革はオーナーが考えるべきことだと思っていた。
でも、ポールはそう思わなかったのでオーナーに直訴した結果、突然彼は店長代理になった。実のところ店長が他店に引き抜かれていなくなってしまったばかりなので、ポールは実質的な店長になったのだ。代理と本物の店長との違いは給料だけだったが、それでも美穂たちとは大きな差がついた。
美穂も軽い嫉妬をおぼえたが、もっと前からいるスタッフたちはあからさまに不満を表明した。中でもキッチンを仕切っていたジョニーは、メニューを批判されたこともあって大きく反発した。確かにジョニーは本当に調理師免許を持っているのか疑問を持ちたくなるような腕なのだが、新参者であるポールがズケズケとそれを指摘するのは「和をもって尊しとする」美穂の日本的感覚には合わなかった。
「そんな事を言っていると、職場自体がなくなるぞ。お前は日本人だし料理のプロでもないけれど、ジョニーよりはよっぽどマシなんだから少し協力しろ」
ポールはかなり強く要請してきたが、実際の所、スタッフの中で反発しておらず改革に協力してくれそうなのは美穂一人だった。というよりは、言われるとノーと言えないだけなのだが。
ブラウン・ポテトの調理は佳境に入っていた。塩こしょうで味を整え、たっぷりのパセリを加える。ポールが清掃と設備の点検を済ませたころにようやくダイアナが出勤してきて、それとほぼ同時に最初の客たちが入ってくる。この瞬間から九時頃まで美穂たちの忙しい朝が始まる。
風が強い。クリスマス商戦は始まっている。五番街のOLでなくなって二度目のクリスマスが来る。最近は日本の家族にもほとんど連絡しなくなった。そろそろ甥と姪のクリスマスプレゼントを買いにいく時期だ。そのつもりになれない。そう言えば、買い物をしたり、美術館に行ったり、彼を探したりといったポジティヴな行動をここの所全然していない。美穂は枯葉がカサカサと音を立てて舞い踊る歩道橋の上でじっと立ち止まった。
故郷の吉田町で決まったばかりの語学留学に心をときめかせていた数年前のことを思いだした。肩パッドの入ったシャープなコートと革ブーツでニューヨークを颯爽と歩くのだと夢みていた。フリースのマフラーをダッフルコートに押し込んで、スニーカーにジーンズ姿で、ダウンタウンに住み着くなんて考えもしなかった。
「おい。せっかく早く上がったのに、こんなとこで何をしているんだ?」
その声に振り向くと、ポールが立っていた。ダイアナと一緒だ。二人は住んでいる所は全く違うので一緒に帰る理由はない。そうか、この二人、つき合っているのか。
「何って、ちょっと考え事」
「考えんなら、もっと暖かい所でしろよ。なんなら、僕らと一緒に飲みにいくか?」
ポールがそう言うと、ダイアナの表情が若干険しくなった。美穂はあわてて首を振った。
「今日は、いいわ。また今度……」
「そうか。じゃあな、また明日」
二人が行ってしまうと、美穂はため息をついて街の向こうを見た。なんだかなあ。私何をやっているのかな。鞄の中には、塩素で消毒したふきんとハンドタオルが入っている。もともとは当番制だっけれど、他の誰もがやらないのでこれを持ち帰って洗濯するのは美穂だけだ。
スーパーマーケットで安い食材を買って、一人で料理して一人で食べる。ウェイトレスの給料でできる贅沢は限られている。その食費を削って、日本の家族にプレゼントを贈る。送料も馬鹿にならない。
ポールのようにきちんと自己主張をして、リスクも怖れずに進んでいってこそ、サクセス・ストーリーも可能なのかもしれない。事務職でいい、ウェイトレスでいいと守りに入っている自分は、きっと大きな昇進などありえないのだろうし、ずっと時給2.8ドルのままなのかもしれないと思った。ポールが店長になった時に、「私も頑張っているんだから、時給を上げて」くらいの主張をすればよかったけれど、言えなかった。夕食の玉ねぎを刻みながら美穂はため息をついた。それからキッチンペーパーで涙を拭った。
鉄板のベーコンがジューと踊りだしたので、美穂は玉ねぎを投入してしんなりするまで炒めた。そして薄切りポテトを入れた。ブラウンになるまで根氣づよく、じっくりと炒める。いつもの朝の光景。彼女はモチベーションを上げようと鼻歌を歌う。Jポップのレパートリーが切れたので、フランク・シナトラまで持ち出した。
「おはよう、『マイ・ウェイ』か。いい声だな」
「おはよう、ポール」
美穂は、自分を鼓舞するために元氣に挨拶した。
「お。少し浮上したか」
その言葉で、落ち込みを悟られていたのかと、意外な思いがした。
「まあね」
ポールはブラウン・ポテトを一つつまみ上げて「あちっ」と言いながら口に放り込んだ。
「う~ん。これこれ。これこそニューヨーカーのブラウン・ポテトだ」
「ニューヨーカーのじゃないでしょ。ジャパニーズのだよ」
美穂が抗議すると、ポールはちらっとこっちを見て笑った。
「あん? はいはい、ニューヨークのジャパニーズ」
そのおどけた様子に美穂は笑ってしまった。ま、いっか。職場の居心地が悪くないだけでも。
ポールは美穂の方をまともに見て言った。
「心配すんなよ。お前が一人で頑張っているの、ちゃんとオーナーに伝えているし、時給を倍にしろって交渉中だからさ」
美穂はびっくりしてポールを見た。ポールはウィンクすると、『マイ・ウェイ』を歌いながら、モップを取りにバックヤードに入っていった。
(初出:2014年11月 書き下ろし)
【小説】君の話をきかせてほしい
去年初登場した『でおにゅそす』の涼子が登場しました。そして、客としてやってきた青年。読んでいくうちにデジャヴを感じるかもしれません。
とくに読む必要はありませんが、『Bacchus』の田中佑二と『でおにゅそす』の涼子を知らない方でお読みになりたい方のためにリンクを貼っておきます。
「バッカスからの招待状」シリーズ
「いつかは寄ってね」

君の話をきかせてほしい
吐く息が白くなるこの時期は、年の瀬を感じて誰もが早足になる。華やかな街の喧噪にどこが浮き足立った人たちが忘年会やクリスマス会食をはしごする。カウンター席しかない二坪ほどの小さな『でおにゅそす』もこの時期はかきいれ時だ。会食で飲み足りない男たちが、ほろ酔い加減で立ち寄り、涼子の笑顔と数杯の日本酒に満足して家路につく。
だが、その青年はそうしたほろ酔い加減はみじんも感じさせなかった。引き戸をためらいがちに開けて、小さな看板と手元のメモを見較べながら入ってきたので、誰かからの紹介なのだなと思った。実際、涼子の一度も見たことのない客だった。歳の頃は三十代半ばというところだろうか。
「いらっしゃいませ」
ちょうど多くの客が帰りほとんどの席が空いていたが、その青年の佇まいから彼女は騒ぐ常連たちから離れた入口に近い席を勧めた。青年は軽く会釈をしてトレンチコートを脱いだ。焦げ茶色のアラン編みのセーター。勤めの帰りではないらしい。
「何になさいますか」
おしぼりを手渡しながら涼子は訊いた。青年は戸惑いながら、カウンターに立っている小さなメニューを覗いた。
「では、日本酒を……どれがいいんだろう。詳しくないのでお任せします」
常連の西城が赤い顔をしてよろめきながら近づいてきた。
「兄ちゃん、見慣れない顔だね。この店を見つけたのはらぁっきぃってやつさ。せっかくだから『仁多米』にしなさい。ありゃ、美味いよ」
それから涼子に満面の笑顔を見せた。
「じゃあね、涼ちゃん。今日はかかあの誕生日だからさ、帰んなくっちゃいけないけど、また明日来るからさ」
その後に青年に酒臭い息を吹きかけて言った。
「楽しんでいきなよ。でも、涼ちゃんを誘惑しちゃダメだよ。俺らみんなのアイドルなんだから……」
青年は滅相もないと言いたげに首を振った。
「もう、西城さんったら、失礼だわ。若い方がこんなおばさんに興味持つわけないでしょう」
「涼ちゃんは、歳なんか関係なく綺麗だからさ。今日のクリスマス小紋もイカすよ」
黒地に南天模様の小紋に柊をあしらった名古屋帯を合わせた涼子のセンスをを褒めてから西城は出て行き、店の中には西城の近くに座っていた半従業員のような板前の源蔵と、青年だけになった。
涼子は少し困ったように笑った。
「ごめんなさいね。西城さん、いい方なんだけれど、ちょっと酔い過ぎているみたい」
「いいえ。とんでもない。あの方のおすすめのお酒をお願いします」
礼儀正しく青年は答えた。
涼子は小さいワイングラスに常温の日本酒を注いだ。
「このお酒ね。奥出雲にいる知り合いの方が送ってくださったの。こうして飲んでみてって」
青年は黙って頭を下げると、ワイングラスを持ち上げてそっと香りをかいだ。服装や佇まいには都会の匂いがないが、ワイングラスを傾ける姿は洗練されている。どの畑の人なのだろうといぶかった。そもそも誰がこの店に送り込んだのだろう。
青年の携帯電話がなった。礼儀正しく「失礼」と言うと青年は電話を受けた。
「あ、うん。そうか。まだ当分かかるんだね。いや、氣にしないでくれ。今、神田にいるんだ。……ああ、終わりそうになったら、電話してくれれば、またさっきの『Bacchus』へ行くから……」
涼子は目を丸くした。電話を切った青年をまじまじと見た。
「佑二さん、いえ、大手町『Bacchus』の田中さんが、ここを?」
青年は黙って頷いた。それからコートの内ポケットから、名刺を取り出してしばらく迷いつつ手元で遊ばせていた。それから、ゆっくりと顔を上げると、決心したようにその名刺を涼子に手渡した。
忘れもしない、佑二の筆跡が目に入った。
「涼ちゃん。身につまされる悩みを抱えたお客さんなんだ。よかったら女性の観点から君の意見を話してあげてくれないか。田中佑二」
瞬きをしながら言葉を探している涼子に、青年はもう一度頭を下げてから急いで言った。
「すみません。実は先ほど、『Bacchus』でつき合っている女性と飲んでいたんですが、彼女が急遽仕事で呼び出されて。それで一人で田中さんと話しているうちに、人生相談みたいなことをしてしまって。心配した田中さんが、ここへ行って女性の考えを訊いてみろって。本当に相談するつもりで来たわけではないんですが、待ち時間がかなりあってずっとあそこにいたら、忙しい田中さんにも迷惑だろうし、東京には滅多に来ないので、店もほとんど知らなくて……」
涼子は、ふっと笑った。
「ご飯は食べていらしたんですか?」
青年ははっとしたように顔を上げた。
「あ、いや、まだ……」
源蔵がすっと立って、涼子に話を聞いてやれと目配せをした。そして、カウンターに入って、簡単なつまみを用意しだした。涼子は小皿と割り箸を用意し、突き出しの蒟蒻と小松菜のごま油炒めを青年の前に置いてやった。青年は再び頭を下げた。
「それで。どちらからいらしたの?」
「静岡です。新幹線に乗るのも何年ぶりだろう。自分の街からほとんどでたことがなくて。東京がこんなに広くて華やかなのをすっかり忘れていました」
「いらしたのはその女性に逢うため?」
「はい。ずっと昔に東京に引越した女性で、数ヶ月前に再会してから、ほぼ毎週末に来てくれるんですが、たまには自分が逢いに来るべきだと思って」
「平日に?」
「僕も飲食店をやっていて、明日が定休日なんです。クリスマスはかきいれ時なんで、今日明日を逃したら当分は来られません。彼女は僕が来ると知って明日の有休を取ってくれたんですが、どうしても対処しなくてはいけないことができて、明日休むためにまた仕事に戻ることになって……」
涼子にも、青年の暗い顔の原因がこの女性に関することなのだろうと推測できた。でも、佑二さんの「身につまされる悩み」っていうのは何かしら。
青年はサーモンと白菜の和風ミルフィーユ仕立てをゆっくりと食べると、「仁多米」を味わうように飲み、目を閉じた。それからほうっと息をついた。
「美味しいですね。こういう味、本当に久しぶりだ。ほっとします」
この青年は疲れているのだと思った。
「お店は、洋食関係なの?」
涼子が訊くと青年は頷いた。
「カフェなんです。うちのあたりには、料理もケーキも、それからコーヒーの淹れ方までもこだわった本格的な店はなくて、かなり自負を持っているんですが、東京だと珍しくもなんともないですね」
「おつき合いなさっている方がそうおっしゃったの?」
「いいえ。彼女は、僕のやっていることを尊重してくれています。だから、仕事が忙しくて疲れていても来てくれるし、僕の方でたくさん時間が取れなくても文句も言わずに手伝ってくれます」
「羨ましいくらいに、お幸せに聞こえるけれど……違うの?」
青年はため息をもらした。
「ええ、そうですね」
涼子は源蔵と顔を見合わせた。青年はしばらく黙っていたが、グラスの透明な日本酒を揺らすのを止めて顔を上げた。
「東京は華やかですね。この時期に来るのは初めてなんですが、どこもイルミネーションが……」
「ああ、ここ数年、派手なイルミネーションが増えたねぇ。節電のなんとかっていう技術が発達してから、やけに増えたんじゃないか?」
「まあ源さんったら、LEDでしょう。そうね。そう言えば昔はこんなになかったわよね」
「華やかなライトに照らされたショーウィンドウに、高価で洒落た商品がたくさん並んでいて、彼女の着ているスーツも洗練されていて、なんだか自分だけ場違いな田舎者みたいだし、用意してきたプレゼントもつまらない子供騙しに思えてしまって……」
涼子ははっとした。源蔵もなるほどね、という顔をした。
「わかるな。俺もはじめて東京に来た時、氣後れしたしさ。だけどさ、悩むほどのことでもないと思うぜ?」
源蔵の言葉に青年は首を振った。
「そのことで悩んでいるわけじゃないんです」
「じゃあ、何を?」
涼子が訊くと青年は、困った顔をした。
「すみません、こんな湿っぽい話をして」
「氣にするなよ。王様の耳はロバの耳って言うじゃないか。田舎と違って、ここで話したことはどこにも伝わらないし、話せばすっきりするぞ」
源蔵の言葉に涼子も微笑んで頷いた。青年は観念したように口を開いた。
「ここに、東京に来るまでは、たぶん単純に浮かれていたんでしょうね。新しい関係やぬくもりに。彼女は僕よりずっと若くて、きれいで、それなのに僕を慕ってくれて。夢みたいだと思ったんです。いつもの世界が華やかで明るくなり、心も身体も満足して。このまま関係を進めていけばお互いに幸福になれると」
「違うの?」
涼子は、そっと手を伸ばして空になった小鉢を引っ込めた。源蔵は黙ってゆずの皮を削った。
「僕は一度結婚に失敗しているんです。前の時のことを思いだしました。はじめは朗らかだった妻が、しだいに笑わなくなって……。一緒にいても苛立ちと不満のぶつけあいになっていきました。あの時、僕は彼女の変化の原因が分からなかった。ここにいたくない、大阪に戻りたいという妻の言葉をわがままとしかとらえられなかった。大して儲からない店に固執するのは馬鹿げているとも言われました。確かに楽な暮らしはできないのですが、店に対する熱意は僕の存在意義そのもので、それを否定されてまで一緒にいられなかった」
涼子はじっと青年を見つめた。涼子の姉である紀代子が、田中佑二のもとを去って姿を消してしまった時、彼女も佑二も理解ができなかった。涼子はできることならば姉の立場になって『Bacchus』に全てを捧げる佑二を支えたかったから。佑二さんの「身につまされる悩み」っていうのはこれね……。
「今つき合っている女性は僕と店のことをよくわかっていて、きっとうまくやって行けるんじゃないかと思っていたんです。でも、この東京で颯爽と働く彼女の姿を見ていたら、これがこの女性の人生と生活なんだと、僕とはまるで違う世界に属している人なんだと感じました。僕が彼女に側にいてほしいと願い、あの小さなつまらない街に閉じこめたら、あの生き生きとした笑顔を奪うことになるのかもしれない。次第に不満だけがたまって、やがて別れた妻と同じように僕のことを嫌いになっていくのかもしれないと」
「私はそのお嬢さんと逢ったことがないからわからないけれど、仕事と東京での暮らしが人生を左右するほど大切だったら、週末ごとにあなたの所に通ったりしないと思うわ」
「でも……」
涼子はにっこり笑って青年の言葉を制した。
「確かに女ってね、仕事は仕事、愛は愛って分けられないの。全て一緒くたになってしまうのよね。もちろん全ての女性がそうだというつもりはないけれど」
「だとしたら……」
「あなたは男性だから、お仕事に関することは妥協できないんでしょう。お店を閉めてまで、彼女のために東京で暮らそうとは思わない。だから彼女に仕事を諦めてあなたの側に来てほしいと願うことは信じがたい苦痛を強いるように感じるんじゃないかしら。でも、私、きっと彼女はもっと簡単に幸福への道を見つけると思うわ」
涼子は大根の煮物を黙っている青年の前に置いた。
「ねえ、これを召し上がってご覧なさい。私ね、女って大根の煮物みたいなものだと思うの」
彼は訝しげに涼子を見たが、箸を取りすっと切れる柔らかい大根を口に入れた。出汁と醤油の沁みたジューシーな大根が舌の上で溶けていった。
「色は完全に染まってしまっているし、細胞の隅々まで出汁に浸かっている。それでも、出汁でもないしお醤油でもない、お大根そのものの味でしょう?」
青年は目を見開いた。それから、再び箸を動かして大根を口に入れた。涼子は続けた。
「お大根は淡白で、主張が少ないからどんな食材の邪魔もしないけれど、でも、あってもなくてもいいわけじゃないわ。たとえばおでんに入ってないなんて考えられないでしょう。ステーキやピッツァのような強い主張もないし、熱になるカロリーは少ない。その目的には向いていないわね。でも、食物繊維や消化酵素の働きで、消化を助けて胃もたれや胸焼けも解消してくれるとても優秀な野菜よ。どちらがいいというのではなくて役割が違うのね」
涼子は微笑んで続けた。
「女は本来とても柔軟なの。愛する人間に寄り添えるように、どんな形にでも姿を変えて、道を見つけることができる。でもね、それがあまりに自然なので、時おり男性はそれをその女性の本来の姿だと思ってしまうのね。あたり前なのだと思って意識しなくなってしまうの。そうやって認められなくなると、女のエネルギーは枯渇してしまって、もう合わせられなくなってしまう。男は女が変わったと思い、女はわかってもらえないと悩む。その心のずれを修復できないと、二人はどんどん離れていってしまうんだと思うわ」
青年はじっと涼子の顔を見た。彼女は安心させるように笑った。
「あなたはそのお嬢さんのことをちゃんと思いやっている。でも、言葉にするのをためらっていると、伝わらないわ。一生懸命やっていればわかるだろうなんて思わずに、あなたの想いを彼女に伝えてご覧なさい。どれだけ大切に思っているか、仕事のことも尊重したいと思っていること、側にいてくれたらいいと願っていることもね。彼女がどうしたいのかもちゃんと言葉にして訊いて、その上で、お互いに譲り合える所、妥協はできない点をすり合わせていけばいいのよ」
青年は頷きながら大根を噛みしめていた。
「今は二十一世紀だもの、いろいろな関係があっていいと思うの。男性に単身赴任があるように、女性にあってもいいでしょう。毎日出勤しなくてもいい働き方もあるし、別の仕事を見つけることもあるかもしれない。でも、全ての工夫は何があっても関係を保ちたいとお互いが意志を持つことから始まるんじゃないかしら。私はそう思うわ」
源蔵が笑った。
「涼ちゃん、いいこというねぇ。この人にここへ来いって言った、その『Bacchus』の田中さんとやら、よくわかっているんだねぇ」
涼子は口を尖らせた。
「とんでもないわ。佑二さんはもう少し女心を研究すべきよ。あの唐変木……」
そう言いながら、用事だけしか書かれていない田中の名刺を大切に懐にしまった。
源蔵は吹き出し、青年もようやく笑顔を見せた。折しも再び携帯電話が鳴り、彼は急いで「仁多米」を飲み干すと、アドバイスに心からの礼をいい、少し多めの代金を置いて立ち上がった。涼子は彼の迷いが晴れたことにほっとしながら訊いた。
「ところであなたのお店はどこにあるの。静岡に行くことがあったらぜひ寄りたいわ」
青年は嬉しそうに懐からコートから名刺を二枚取り出した。
「名乗るのが遅れてすみません。僕は吉崎護といいます。店は『ウィーンの森』といって、この駅のすぐ側です」
引き戸から立ち去る護の後ろ姿に、雪が舞いはじめた。少し早いクリスマス氣分。天も恋人たちのロマンスに加勢しているらしい。涼子と源蔵は嬉しそうに笑って、「仁多米」でもう一度乾杯をした。
(初出:2014年11月 書き下ろし)