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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012

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Posted by 八少女 夕

Cantum Silvae - 貴婦人の十字架 あらすじと登場人物

この作品(2014年3月12日より連載を開始します)は、中世ヨーロッパをモデルにした仮想世界で展開する小説です。恋愛要素は大きいとは言え、例によって「恋愛小説です」と断定しにくい作品になっています。主人公たちの生き様を書いたというほうがしっくりきます。出てくる名前、地名などはすべてフィクションです。

「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」by ユズキさん
このイラストはユズキさんからいただきました。著作権はユズキさんにあります。無断使用は固くお断りいたします。



【あらすじ】
教師として宮廷を渡り歩くマックスは、グランドロン王とルーヴラン王女の縁組みが進んでいるので、姫のグランドロン語の教師となるためにルーヴランの都ルーヴを目指す。ルーヴランの宮廷では王女の《学友》ラウラが自由に憧れながら過ごしていた。

【登場人物】(年齢は第二話時点のもの)
◆マックス・ティオフィロス(25歳)
 グランドロン出身の教師。国一番の賢者ディミトリオスの一番年若い弟子。

◆ラウラ・ド・バギュ・グリ(20歳)
 ルーヴランの最高級女官で王女に仕える《学友》。バギュ・グリ侯爵の養女。

◆マリア=フェリシア・ド・ストラス(19歳)
 ルーヴラン王位継承者で絶世の美女。

◆レオポルド II・フォン・グラウリンゲン(29歳)
 グランドロン王国の若き国王。

◆エクトール II・ド・ストラス
 ルーヴラン国王。マリア=フェリシア姫の父。

◆イグナーツ・ザッカ
 ルーヴラン王国の宰相。センヴリ出身のもと聖職者。「氷の宰相」の異名をもつ。

◆テオ・ディミトリオス
 当代一の賢者でグランドロン王の王太子時代の教育係。現在は王政の相談役として親政をしくレオポルド二世を見守る。

◆アンリIII・ド・バギュ・グリ
 バギュ・グリ侯爵。愛娘エリザベスを《学友》にしたくなかったので、孤児のラウラを養女にする。

◆アニー(15歳)
 ラウラの忠実な侍女。平民出身でラウラに親近感を持つとともに心酔している。

◆フリッツ・ヘルマン大尉(31歳)
 レオポルド一世の護衛を務める青年。

◆マウロ(20歳)
 アニーの兄で、ルーヴ城で馬の世話をする青年。マックスに旅籠《カササギの尾》を紹介する。

◆ジャック(19歳)
 ルーヴ城の召使いの青年。マウロの親友で、アニーの親友エレインの恋人。

【歴史上の人物&故人】
◆レオポルド I・フォン・グラウリンゲン
 七代前のグランドロン国王。背が低く醜悪な容姿だったが、不屈の精神で版図を拡大した名君として歴史に名を残している。

◆ブランシュルーヴ・ド・ストラス
 ルーヴラン王女でグランドロン王レオポルド一世の妻となる。絶世の美女で、容姿に自信のなかった夫に西の塔に幽閉されるが、後に開放されている。夫婦仲はとてもよく理想の国王夫妻として語り継がれる。

◆ジュリア・ド・バギュ・グリ
ルーヴラン王国に属するバギュ・グリ侯爵令嬢。母親の死後、ジプシーに加わって出奔し、ルーヴラン宮廷でブランシュルーヴ王女に仕えてから、その輿入れと同時にグランドロンへわたる。かつての馬丁で恋人でもあったフルーヴルーウー伯爵の夫人となる。

◆ハンス=レギナルド・フルーヴルーウー
 もとはバギュ・グリ候に仕えていたジュリアの馬丁。ジュリアに続いて侯国から離れ、グランドロン国王レオポルド一世に仕えることになる《シルヴァ》の果ての未開の地を任されフルーヴルーウー辺境伯に任命される。

◆フロリアンII・フォン・フルーヴルーウー
 先代フルーヴルーウー伯。何者かに毒殺される。

◆マリー=ルイーゼ・フォン・フルーヴルーウー(フォン・グラウリンゲン)
 グランドロン先王フェルディナンドの最愛の妹。熱愛の末フルーヴルーウー伯フロリアン二世に嫁ぎ幸せに暮らしていたが、夫が毒殺され、伯爵位を継いだ二歳の一人息子も何者かによって連れ去られ、その帰還を待っていたが叶わず失意のうちにこの世を去る。

【用語】
◆《シルヴァ》
 ルーヴラン、グランドロン、センヴリ各王国にはさまれた地に存在する広大な森。単純に森を意味する言葉。あまりに広大なため、そのほとんどが未開の地である。

◆《学友》
 ルーヴランに特有の役職。王族と同じ事を学ぶが、その罰を代わりに受ける。

【関連作品】
(断片小説)森の詩 Cantum Silvae I - 姫君遁走より
(掌編小説)大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 ~ 森の詩 Cantum silvae

【関連地図】
Cantum Silvae Map

【参考文献】
中世のヨーロッパの社会・制度・風俗・考え方などは、旅行などで知った事も入っていますが、基本的に下記の文献を参考に記述しています。

阿部 謹也 著 中世を旅する人びと―ヨーロッパ庶民生活点描 (ちくま学芸文庫)
阿部 謹也 著 中世の星の下で (ちくま学芸文庫)
J. & F. ギース 著 中世ヨーロッパの城の生活 (講談社学術文庫)
川原 温 著 中世ヨーロッパの都市世界 (世界史リブレット)
堀越 宏一 著 中世ヨーロッパの農村世界 (世界史リブレット)
F. ブロシャール、P. ペルラン、木村 尚三郎、 福井 芳男 著 城と騎士(カラーイラスト世界の生活史 8)
A. ラシネ 著 中世ヨーロッパの服装 (マールカラー文庫)
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Category : 小説・貴婦人の十字架
Tag : 小説

Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(1)プロローグ 黒衣の貴婦人

さて、長いあいだ騒いでいた「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」、ようやく連載開始です。またしばらくの間、おつき合いくださいませ。なお、この小説、主人公たちがあちこちに動きますので、ストーリーが展開している場所を地図上に矢印で表示しました。

「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(1)プロローグ、黒衣の貴婦人


「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」関連地図(現在位置)

 暗い中、少年は燭台の灯火を頼りに、ゆっくりと廊下を進んでいた。盆に載せた飲み物をこぼさないようにするのは至難の業だった。こんな用事を頼まれるのははじめてだった。マックスが、この国一番の賢者といわれるディミトリオスの下僕としてこの家に来てから、まだ一週間しか経っていなかった。

 なぜここに居るのか、いまだに納得がいっていなかった。どうして彼がここに来なくてはならなかったのか。両親はそれほど金銭に困窮していたのか。だが、彼には質問も口答えも許されていなかったので、黙って言われたことをこなすほかはなかった。そして、召使い頭に言いつけられた通りに、慣れない動きで一階のディミトリオスの書斎に向かっているのだった。

 目指す部屋のドアから、わずかに牛脂灯による光が漏れている。密やかに話す声も聞こえてきた。
「このようなむさ苦しいところにおいでいただくとは」
それは主人のディミトリオスの声だった。

「そんなこと、氣にもなりません」
客は女らしい、マックスは思った。

「誰にも見られなかったでしょうな」
「見られたとしても、どうだというのでしょう。賢者のあなたにギリシャ語を学ぶことは禁じられていませんわ」

「奥方さま」
 ディミトリオスの声には明らかな非難の調子がこもっていた。女はわずかに咳払いをしてから、少し反省したような声を出した。

「わかっています。でも、私の氣持ちはわかっていただけるでしょう? 八年も我慢したのです。どんなに苦しい昼と夜だったか、わかっていただけませんの?」

「さよう。しかし、もっと忍耐強くあらねばならないのです。おわかりでしょう。あなた様がこのようなことをお続けになるのであれば、私は計画を変更せねばなりませぬ」
「待ってください。お願い。後生です。どんなことをも忍びますから」

 扉の前にとっくに着いていたのだが、いつノックをしていいのかわからなかった。だがその物音に氣づいた主人は短く咳をして貴婦人の注意を引いた。マックスは、今かとばかり短いノックをした。
「きたか。今、扉を開けるぞ」

 主人の言葉に緊張して彼はまっすぐに立った。ドアが開いた。たっぷりとした灰色の長衣に身を包み、胸まで届く豊かな顎髭と真っ白い長髪の印象的なこの老人が立っていた。この館に連れてこられた日に会って以来、面と向かって主人の顔を見たのはまだ三回目だった。失敗はしたくない。

「お飲物を持ってきました」
「お持ちしました、だろう」
「あ、はい。すみません。お持ちしました」

 主人は厳しい顔で立っていたので、マックスは今すぐにでも逃げ出したかった。しかし、主人は盆を受け取ってはくれずに、テーブルの方を示した。見ると向こう側にその女性が座っているのが見えた。

 全身を黒で包んだ女性だった。顔には黒いヴェールがかかり、牛脂灯の灯りでははっきりとは見えなかったが、世間知らずの敬語もまともに使えない少年に怒るでもなくじっと黙って二人の会話に耳を傾けていた。

 彼は盆をテーブルに運び、カップをカタカタいわせてようやくこぼさずに貴婦人の前に置いた。
「ど、どうぞ」

「ありがとう」
優しく暖かい声だった。

「ご苦労だったわね。これは好きかしら?」
そう言って、貴婦人はマックスが運んできたすみれの砂糖漬け菓子を示した。少年は、目を輝かせた。先程、飲み物を運ぶように言われて盆を渡され、一緒に載っているその高価な菓子を一目見たときから、せめて一口でも食べてみることが出来たらどんなにいいだろうかと思い続けていたのだ。

 ディミトリオスは厳しい声で割って入った。
「奥方さま、それは困ります。他の使用人に示しがつきません」

 マックスの顔が落胆に曇った。ディミトリオスはドアをきっちりと閉めて、それから目で貴婦人に合図をした。貴婦人は頷くと、ヴェールを外し、口元に人差し指をあてて、少年の顔を覗き込んだ。

 少年の目にその顔がはっきりと見えた。真夏の空のように澄んだ青い瞳、金糸のように輝く髪、教会の聖母像のように美しい女性だった。その瞳がそっと微笑むと、彼の手に全ての砂糖菓子を載せてそっと手のひらを閉じさせた。そしてささやくように言った。
「誰にも見られないようにね」
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Tag : 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(2)森をゆく - 『シルヴァの丸太運び』

「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」の二回目です。先週のプロローグから、14年の月日が経ち、少年マックスは成人しています。そして、先週は主人であり保護者であったディミトリオスのもとを離れて氣ままに旅をしていたりします。

昨日の記事にも書きましたが、大量の固有名詞が出てきますが、それを逐一憶える努力は必要ないと思います。地名や国名については、毎回地図を貼付けますので、わからなくなったらそれを見れば十分かと思います。重要な固有名詞はしつこく出てきますので戻って探す必要はまずないでしょう。主要登場人物の紹介へのリンクも毎回付けますのでご安心ください。


「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(2)森をゆく - 『シルヴァの丸太運び』


「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」関連地図(現在位置)

 男たちは揃いのくすんだ赤い上着と黒い帽子、そして深緑のズボンを身に着けていた。その集団を目にしたのははじめてだった。『シルヴァの丸太運び』と呼ばれる男たちは、巨大なトウヒを切り出してはヴァリエラ川上流からサレア河に運ぶ専門の集団だった。男が両腕で抱えて手が届かぬ木を選び倒す。丁寧に樹皮を取り除き同じ長さの丸太にする。先に穴を穿つ。そして、力を合わせてヴァリエラ川に落とす。川に浮かぶ八本の丸太は穴に通された縄できつく結びつけられて筏が出来上がる。同じような筏が十二槽出来上がると、男たちはそれぞれ櫂になる棒を手に三人ずつ筏に乗り込み、そのままサレア河に合流するまでの舟旅が始まるのだ。

 マックスがどこから来たのかもわからぬ馬の骨で、樹を切り出す作業にも全く役に立たなかったにも拘らず、『シルヴァの丸太運び』たちに受け入れてもらったのは、この舟旅が危険を伴い少しでも多くの男手を必要とするためだった。途中の急流では、ほんの少しの油断で大の男がいとも簡単に川に投げ出されるのだ。

 《シルヴァ》は深い森だった。鬱蒼とした針葉樹が山肌から続いている。平地に馬で何日もかかる道のりを進むのは非効率だった。誰もいなければそうする他はないのだが、『シルヴァの丸太運び』とともに川の流れに乗れば、わずか一日でヴァリエラまで到達することができるのだ。

 マックス・ティオフィロスが赤い上着を身に着けた年若い青年ステファノと意氣投合したのはエーゼルドルフ(ロバの村)というあまり麗しくない名前を持った小さな村の旅籠だった。彼よりもずっと上背があり、上着を脱いで現れた粗末なシャツからは盛り上がった筋肉のシルエットが浮かび上がった。大きく口を開けて笑いこの辺りの旅人としては豪快に注文した。といっても金持ちがするように上質の酒や柔らかい肉などは全く頼まず、単純に量が多かった。
「腹をすかせては大仕事はできないからな」

 ステファノは明日から始まる『シルヴァの丸太運び』のために二日かけてここまでやっていたのだと言った。普段は木こりや雑役として働いている男たちは、ひとたび『シルヴァの丸太運び』が始まるとの連絡を受けると誇り高き赤い上着と黒い帽子を身につけて各地から集まってくるのだった。マックスは隣のテーブルにいたが、興味を持って話しかけているうちに、ステファノの方からテーブルを遷ってきた。そして、マックスがその晩の二人分の勘定を払う代わりに『シルヴァの丸太運び』に参加させてもらうことになったのだ。

 彼は櫂となる棒を渡されステファノの乗る筏に同乗した。途中の急流では投げ出されそうになるのを必死でこらえながら怒号の飛び交う中を水と戦った。
「馬鹿野郎! 流れを読め! 力任せにやってもダメだ!」
「バランスを取れ! できないなら筏にしがみついてろ!」
「来たぞ! 渦だ! ほら、そこ!」

 何度か大人しく川沿いに旅をすべきだったかと後悔したが、渦と戦い、投げ出された仲間を助け、自分も数回落ちてがっちりとした手にしがみついている間に自分が『シルヴァの丸太運び』でないことも、ついていけるか不安だったことも全て消え去った。

 誰が何を支払うかや、社会的身分のことは、この激流の上では全て消え去る。誰をどのくらい長く知っているか、どんな人生を歩んでいるかも。そこに存在するのは力と信頼関係だけだ。この丸太がどのような城のどの部分に使われるかも関係なかった。ただ、力を合わせてやるべきことをやる、それだけだった。それが『シルヴァの丸太運び』の仕事だった。

 夕方にヴァリエラで降ろしてもらい、わずか一日で昔からの友のごとくに親しんだステファノをはじめとする同舟の男たちに別れを告げた時には、マックスはこの運搬に関われたことを生涯の誇りと思うまでになっていた。筏にくくりつけられていた荷物は完膚なきまでに水浸しになっていたがそれすらも誇らしかった。


 彼はヴァリエラで馬を調達して《シルヴァ》を進んだ。この辺りまで来ると栗や椎などの広葉樹が柔らかい光を織り込むようになる。下草や苔に覆われた足下は動き回る小動物の氣配を伝えて、常に騒がしい。鳥の飛び回る羽ばたきに混じって常に耳に届くのはまだ近くにあるせせらぎのリズムある飛沫の音だった。

 マックスが進んでいるのは、深い森の奥ではなくて、ほんの周辺部に過ぎなかったのだが、それでも、それから二日にわたって人影は全く見られず、この世に人は自分一人ではなかったかと錯覚した。

 グランドロンは広大な王国ではあったが、その五分の一の面積は森が占めていた。あまりに浩蕩なため、この地は古代よりほとんど未踏の地であった。人々は名も与えずに、単に森を意味する《シルヴァ》と呼び、どの領主の支配下にも入っていなかった。人々は狩猟をし、生活のために必要な樹木や木の実それからキノコを取りにいくが、それは森のわずかな周辺部で行われていた。《シルヴァ》に接していたのは、ルーヴラン王国に属するバギュ・グリ侯爵領、アールヴァイル伯爵領、ルーヴランの直轄地、いくつかの自由都市、未開の無法者の土地、そしてグランドロン王国の王都ヴェルドンならびに直轄地、ヴァリエラ公爵領、フルーヴルーウー伯爵領であった。

 ヴェルドンを出て旅をはじめてから二年。老師に出て行く許しを請うた日のことを彼は昨日のことのように思い出した。

「まだ早い」
老師は言った。兄弟子たちが老師のもとから旅立ったのは、確かにもう少し歳を取ってからだった。だが、彼は十四年も師事してきて、兄弟子たちよりも知識にしろ経験にしろ勝っている自負があったのだ。

「年齢のことを仰せなのですか。私はもっと世界のことを知りたい。体力のある今こそ、精力的に世間を見て回るチャンスだと思われませんか」

 老師を説得して、旅立つ許可をもらったものの、三年で戻って来いと言われて彼は不満を顔に表した。
「何故ですか」
「わしがいつまでも王に仕えると思っているのか。この老いぼれがくたばる前に、お前が王の補佐をし助けとなるように、どれだけ時間をかけて教育してきたと思っているのだ」

 兄弟子の誰かが戻ればそれでいいではないかと思ったが、せっかくの旅出ちの許可を取り消されたくなかったので、それ以上は争わなかった。


 マックスは森を進んだ。下草の中から突然現われて大木に駆け上るリス。馬が驚いて後ろ足で立ち上がった。彼は振り落とされぬように足踏みをしっかりと踏んだ。

「落ち着け。なんでもない」
彼は、馬をなだめながら、ふいに《ヴィラーゴ》ジュリアの伝説に思いを馳せた。百年前に伝説の男姫もこの森をこんな風に通ったのかもしれない。子供だったマックスにその伝説を話してくれたのは兄弟子だったか、使用人の誰かだったかもう憶えていない。

 とある名のある侯爵家にはびっくりするほど美しいお姫様がいました。その姫様は女性の好きなことは全て嫌いで、男のような服を着て森をいつも駆け回っていました。そのため「男姫《ヴィラーゴ》」と呼ばれていたのです。姫君につけられていた馬丁ハンス=レギナルドは、目も覚めるほど美しく、侯爵家の全ての使用人の女たちから慕われてたくさんの浮き名を流していましたが、本当は《ヴィラーゴ》ジュリアに恋いこがれておりました。ある時、姫君がお城を抜け出して愛馬とともに失踪すると、姫君を追って森へと消えてゆきました。ジュリアは森を住処とするジプシーたちに加わり怪しい旅をしたあげく、ついにグランドロンへと辿り着きました。グランドロンで国王に取り立てられ辺境の領地と伯爵の位を授けられていたハンス=レギナルドはすぐに姫君に氣がつき、二人は結婚して幸福に暮らしました。


Virago Julia by ユズキさん
ジュリア by ユズキさん(このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない使用は固くお断りします)


 大きくなってからマックスはそれが史実であることを知った。《ヴィラーゴ》ジュリアは、隣国ルーヴラン随一の侯国バギュ・グリの令嬢だった。本当にジプシーの一員になっていたかは知る由もないが、確かに令嬢は侯爵のもとを逃げ出して、グランドロンへと辿り着きフルーヴルーウー伯爵夫人となったのだ。

 彼はその《ヴィラーゴ》と反対の方向へと馬を走らせていた。グランドロンからルーヴランへと。王家がグランドロンの言葉や風習をよく知る教師を探しているという情報を得たのは、センヴリ王国に属するヴォワーズ大司教領であったが、王都ルーヴへと最短距離で向かうには《シルヴァ》の真ん中を突っ切る必要があった。そんな危険なことをするものは一人もいない。それで、彼は心ならずも、一度祖国と故郷である王都ヴェルドンにわずかに足を踏み入れ、そこから《シルヴァ》を川沿いに進みながらルーヴランの王都を目指すことになったのだ。

 二年ぶりのグランドロンであったが、彼は王都ヴェルドンでディミトリオスを訪ねることはしなかった。旅をする氣ままな生活を続けるうちに、マックスは老師との約束を守るつもりはなくなっていた。兄弟子たちと違って彼は望んで弟子入りしたわけではなかった。グランドロン王に対する忠誠心も大してなかった。そもそも、若い王とはまだ一度も近しく接見したこともなかった。自由に旅をする。新しい土地へ行き、珍しい街並や風景を楽しみ、土地の酒と食事を堪能する。これ以上の人生があるだろうか。行く先々で軽く恋を楽しむ。けれどそれが深刻で重いものに変わる前に、彼はさっさと新しい雇い主をみつけて旅立った。

 ルーヴにもそれほど長くはいないであろう。だが、王家で働くことが出来れば、その後に新しい仕事先を見つけるのも容易になるに違いない。

 小川の流れが速くなった。木漏れ日が反射して瑞々しい光を放ちながら飛沫が踊りゆく。若駒は飛ぶように駆け出し、下り坂の道を急いだ。コマドリが急に飛び立ち、強い光を放つ森の出口へと誘った。
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(3)《学友》の娘

「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」の三回目です。もう一人の主人公が登場します。マックスはグランドロン人ですが、ラウラはルーヴラン人です。自由に旅をしているマックスと対照的にラウラはずっとルーヴの王城で暮らしています。

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あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(3)《学友》の娘


「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」関連地図(現在位置)

 雪が完全に溶けると、ラウラはまた薔薇園に行くようになった。

 ルーヴランの城の中で、彼女が一人で泣くことの出来る場所はあまりなかった。外を歩くとドレスの裾が汚れ、歩くのにもどのくらい時間がかかるかわからない冬の間は、建物から出ないほうがよかった。鐘楼にこっそりと登り街の終わる彼方を観てはため息をつくのが精一杯であった。

 だが、ようやく長い冬が終わり、マリア=フェリシア姫や城の人々から姿を隠すことができるようになったのだった。

 薔薇は花ひらくどころか蕾すらも茎と見分けがつかぬ程に小さく固く、赤茶色のトゲだらけの茨が永遠と続くようにしか見えなかった。だが、この城で十二年の時を過ごしたラウラは、あと二ヶ月もすればこの同じ場所が香り立つこの世の楽園に変わることをよく知っていた。

 彼女は待っていた。忍耐強く待つことだけが幸福への唯一の道だった。マリア=フェリシア姫は悪い人ではないのだと思おうとした。ただ、ああいう立場に生まれてきて我慢することを、思いやりを持つことを学べなかっただけだと、好意的に考えようとした。彼女は頭を振った。どうでもいい、あと一年。そうしたら私は自由だ。姫は永久に黄金の檻からは出られない。私はどこにでもいける。鐘楼から見たあの地平線の向こう、深く謎めいた森《シルヴァ》の終わるところにも。

 ラウラはふと左側の裾に目を留めた。赤い染みが出来ている。はっと左の腕を見る。美しく金糸で刺繍のされたゴブラン織りの覆い布の下に巻かれた白い木綿が真っ赤に染まり、そこから血が流れ出ていた。心臓がそこに移動したかのようにどくんどくんと脈打つ痛みに慣れすぎて、血が止まっていないことに氣がつかなかったのだ。頭を振ると、再び手当をしてもらうために城の中に入っていった。


「ラウラさま! まあ、申し訳ございません。私の縛り方が弱かったんですね」
アニーが真っ青になった。ラウラは小さく首を縦に振ったが優しく言った。
「きつくしすぎると痛いと心配してくれたんでしょう? ごめんなさい。氣づくのが遅れて裾も汚してしまったわ」
「まあ。すぐにお召しかえを用意しますね。こちらへどうぞ」

「あ~あ。私も姫様付きになりたいなあ」
アニーが、ラウラの着替えを手伝って戻ってくると、リーザが汚れた包帯をさも嫌そうに洗っていた。

「なぜ?」
アニーは汚れたドレスを洗濯女たちに渡すときの手配書を書きながら訊いた。

「だって……。なぜ私がこんな洗濯をしなくちゃいけないのよ。パパがこれを知ったらなんていうかしら」
リーザは爵位こそないが、城下でも有数の商家の生まれで、何人もの召使いを使う家庭で育ったのだ。
「姫様や最高級女官のお世話をしてくれっていうからお城に上がったのに」

「その通りじゃない」
アニーはつっけんどんに答えた。

「そりゃ、ラウラ様の位は最高級だけど……」
リーザが言いよどむ。アニーは手を止めてリーザを睨みつけた。
「だけど、何よ」
「バギュ・グリ侯爵令嬢なんて名ばかりじゃない。どうして私がどこの馬の骨ともつかぬ孤児の汚い血を洗わなくちゃいけないのよ」

 《学友》になるために、バギュ・グリ侯爵の養女となってから宮廷に上がったのだが、ラウラはもともと城下町の肉屋のみなし児であった。もちろん彼女は宮廷に来たかったわけではない。もし、彼女に選択権があり、自分に用意されているのがどんな生活であるか知っていたなら、むしろ街で物乞いになることを選んだであろう。バギュ・グリ候が、ラウラと同い年の令嬢エリザベスを《学友》にしたがらずに、わざわざ誰からも望まれない孤児を養女にしたのも同じ理由からだった。

「ラウラ様の事を、二度とそんな風に言わないで! 貴族の家に生まれてこなかったのは、ラウラ様のせいじゃないわ。それに、優しくて、賢くて、振舞いも完璧で、あの方こそ本当の貴婦人だって、どうしてわからないのよ」

 アニーはこの城に勤めるようになってまだ二年ほどしか経っていないまだ半分子供の侍女だった。

 彼女にとってラウラはもう一人の王女と言ってもよかった。実際ラウラはこの城では唯一無二の特別な存在だった。彼女はただの女官ではなかった。女官と王女の間に存在する特別な存在--ラウラ・ド・バギュ・グリは《学友》だった。王女と同じことを学ぶ。外国語、文学、数学、楽器の演奏と詩作、行儀作法にダンス。女官としてももちろん機能した。手紙を書き、侍女たちへの指示を的確に出す。まだ二十歳になったばかりだが、家令ですらも一目を置くほどしっかりとしていた。

 《学友》、それは百年ほど前に始まったルーヴラン王家の特殊な役職だった。最初の《学友》は、かの男姫ジュリア・ド・バギュ・グリだったといわれている。貴族の子弟が王族と寝食を共にし、全く同じ教育を受ける。王族は単に一人で帝王学を身につけるよりも、ライヴァルが近くにいる方が効率よく学ぶことができる。もうひとつの《学友》存在の必要性は、教育につきものの罰を王族には施せない問題を解決するためだった。王族の受けるべき罰は《学友》が引き受ける。通常、目の前で自分の受けるべき罰を友が引き受けさせられるのを目にすれば、王族は後ろめたさを持ち、自己克己に励むようになる。それは何不足なく育ち傲慢になりがちなルーヴランの王族にとって何よりも必要な帝王教育であった。

 だが、来月十九歳になるマリア=フェリシア王女は、過去のルーヴランの王族とは違う感性の持ち主であった。そして、ラウラ・ド・バギュ・グリが、とるに足らない肉屋の孤児だという意識が彼女の残酷な考えを更に後押しした。王女は彼女が罰を受けるのを何とも思わなかった。むしろ、何もかも完璧にこなし、各方面からの賞賛を得る嫌みな娘に誰が王女なのかはっきりわからせたいという欲望を満たしてくれるので、彼女が罰を受けるのを好んでいるところがあった。

 先代までの《学友》はみな、楽ではないけれどさほど痛みのない罰を受けていたが、王女はそのルールを変えた。《学友》の利き手ではない腕を鞭で叩くことにさせたのだ。

 ラウラの左腕は常に鞭で打たれ、引き裂かれていた。その傷の完全に癒える前に、次の鞭が当てられた。自分自身の振舞いが原因で鞭を当てられることはなかった。城に連れてこられた当初はわずかにあったが、今では全くなかった。王女の分だけで十分つらいのに、これ以上罰されるようなことはしたくなかった。彼女は何を教えられてもすぐに覚え、どんな仕事でも完璧にこなすようになっていた。
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Category : 小説・貴婦人の十字架
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(4)マールの金の乙女の話 -1-

「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」の四回目です。話はマックスに戻ります。しばらくは、章ごとにマックスとラウラの話が交互に登場する事になります。この章は長いので全部で三回にわけています。

「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(4)マールの金の乙女の話 -1-


「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」関連地図(現在位置)

 夕方にマックスは《シルヴァ》の森を離れて、カルヴァに向かった。この小さな村には旅籠もなければ、馬の世話の出来るところもない。だが、グランドロン王国直轄領からルーヴランを目指すものならば必ず通ることになった。サレア河の宿場町であるマール・アム・サレアへと渡る、渡し守がいるからだった。

 マール・アム・サレアは、サレア河の西岸にある三つのグランドロン領の一つであった。東岸はほぼすべてがグランドロン領であったし、西岸のほぼすべてがルーヴラン領であった時代もあるのだが、マールは少なくともグランドロン先王の時代に奪回された。

 サレア河の西にあるルーヴラン王国の王都ルーヴに行くためには、どこかでサレアを渡らねばならない。渡し賃のことを考えれば、グランドロン人であるマックスにとってはグランドロン領で渡る方が都合がいい。他の二つの西岸の町が遥かに南に位置していることを考えると、ルーヴへと旅するグランドロン人がこぞってカルヴァで渡ろうとするのは当然のことであった。

 まだ、春がやってきてさほど経っていなかったが、晴れて温度が上がったために汗ばむほどであった。常に《シルヴァ》の鬱蒼とした木陰の中を進んできた彼は、その強い陽射しを遮るもののない赤茶けた埃っぽい村の中を、多少不愉快に思いながら馬を進めていた。午後のさほど遅くない時間だが、村の家の戸はどこも閉ざされ、よそ者に無関心であるように思われた。それは単なるひがみなのかもしれないが、とにかくそう感じた。

 一本しかない、村の道を西へと進んでいくと、やがてサレアの水音がして渡し場が近いことがわかった。マックスは、舟を見つけて渡し守のいるはずの小屋へと向かった。

 渡し守は彼と馬をじろりと見た。それからぶっきらぼうに「待ってもらうよ」とだけ口にした。

「ごきげんよう」
ムッとしたマックスは、あえて正式の挨拶の言葉を口にして、客に対する礼儀をこの不遜な渡し守に思い出させようとしたが、それはあまり役に立たなかったようだった。河の渡し舟はサレア唯一の交通手段だった。その渡し賃はマールの町とその大権を握るサレアブルグ侯爵が決めており、保護されていた。従って、大して重要人物とも思えず、裕福な商人にも見えない若造一人に対して敬意を示す必要など全く感じなかったのである。もちろん彼はこの夕暮れまでにこの若造をマールへと渡してやらねばならなかった。さもなければ、彼が自腹でこの客の一夜の宿と夕食ならびに朝食を用意せねばならぬ決まりになっていたからだ。だが、夕暮れギリギリまで待って、他に三人ほどの客が集まるまで待って悪いことがあるだろうか。まだ陽は高いのだから。

 マックスはしかたなくあたりをぶらぶらして過ごす事になった。話しかける相手も自分の馬を除いたらその渡し守しかいない。いけ好かない男だが、退屈していたので縄をなっている渡し守に世間話をしてみた。
「ときに、あの向こう側に見えている町外れの大きな建物は何かね」

 渡し守はちらっと川向こうを眺め、それから再び縄をなって答えた。
「女子修道院だよ。でかいけれど、今はがらんどうさ。」
「なぜかね」

「数年前に、あの修道院で流行病があってね。感染を怖れた街の連中が、閉じこめたんでさ。そのために多くの尼僧が医者にもかかれずに死んだ。今では生き延びた尼僧と、その後に入った女たち、全部で十五人くらいしかいないって話だ」
「痛ましい話だ」
渡し守はちらっと彼を眺めたが、同意した様子はなかった。流行病をまき散らされるのはごめんだと思っているのだろう。

 しばらく待っていると、立派な服装に身を包んだ恰幅のよい男が下男を連れてやってきた。青く重みのある外套の下には明るい緑色の上着が見えている。

「渡してもらいたい」
そして、通常の三倍の賃金を渡し、二頭の馬を顎で示した。

「よござんす。舟を出しましょう。さあ、旦那も乗りな」
渡し守は、氣前のいい男と下男、そして二頭の馬を舟に乗せると、マックスとその馬も続けて乗せた。

 舟が動き始めて渡し守に余裕ができた頃を見計らって、マックスは話しかけた。
「マールは初めてなんだ。さほど高くなく清潔でうまいものの食べられる旅籠を知らないか」

 渡し守は鼻で笑った。
「何度も訪れて自分で確かめるんだね」

 貴族と思われる裕福な男は渡し守の横柄な態度をじっと見ていた。
「野うさぎ屋という旅籠があります。もう二十年近く前に泊まりましたので代替わりしているやもしれませんが試してみるといいでしょう」

 男の言葉に下男はギョッとした顔をしたが、何も言わなかった。マックスはなぜこのように位の高そうな紳士が安宿などを知っているのだろうかといぶかった。

 一方、男の方も似たようなことを思ったらしかった。
「旅のお方、身軽な服装に似合わぬ身のこなしと、発音ですな。お生まれがお高いのでは」
「いえ、そうではありません。教師として宮廷を渡り歩く身ゆえ若干の礼儀作法を心得ているだけです。申し遅れました。私はマックス・ティオフィロスと申します」

「そのお名前に、宮廷での教師とは……もしや賢者ディミトリオス殿の……」
「はい、弟子です」
「そうですか。賢者殿がこのようにお若いお弟子をお持ちとは」
マックスは笑った。職探しのためにどこで師事したかを証明すると必ず同じことを言われる。

「では私も名乗りましょうかな。私はヨアヒム・フォン・ブランデスと申します」
すぐ近くにいる者にははっきりと聞こえるが、水音をさせて舟をこいでいる舳先の渡し守には聞こえない程度の声で男は言った。マックスは耳を疑った。
「というと、ランスクの?」
「やはりご存知でしたか。そう、代官をしております」

 ランスクは大きな所領ではないがグランドロンでも有数の塩田があり、代官のヨアヒム・フォン・ブランデスは子爵の家柄ながら国王にも謁見が許されている名士だった。その当人がさほど遠くないもののこのようにわずかな伴を連れるのみで旅をしているのはいかにも不自然に思われた。

「殿様、あなたがいったいどうして……」
マックスが声を潜める。

 ヨアヒムは笑った。
「何故、このようなところに忍びの旅をしているのかと……」
それは奇妙な笑い方だった。あざ笑うような、少し悲しいような表情だった。
「そうですな、それではこの川を渡り終えましたら、若き賢者殿に私の話を聞いていただきましょうか……」
そして、ちらりと水手を見た。

 不遜で、ずる賢い目をした渡し守は話を聞けないことに残念な顔をしたが、黙って川を渡りきった。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(4)マールの金の乙女の話 -2-

三回に分けた「マールの金の乙女の話」の章の二回目です。前回はサレア河をいけ好かない渡し守によってなんとか渡り、同舟で知り合ったランスクの代官である子爵ヨアヒム・フォン・ブランデスが何やら訳ありだと思った所まででした。そう、前回を読んでいなくても、ここまで読めば十分です。

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あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(4)マールの金の乙女の話 -2-


「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」関連地図(現在位置)

 下男に馬を頼み、並んで歩きながらヨアヒムは語りだした。
「わがブランデス家は、ご存知のように名門ではありません。私が若いころは、このように身分を隠してではなく、あなた様のように自由に出歩く事も可能だったのですよ。誰もそれを咎めたりはしませんでしたし、私は館での単調な生活に退屈しきっていましてね」

 マックスは黙って頷いた。ヨアヒムが異例の出世をした影には、ヴァリエラ公爵家の後ろ盾があることは知っていた。現公爵の従姉妹にあたるヒルデガルト・フォン・ブランデス=ヴァリエラと結婚した後、ヨアヒムは公爵の縁者として王家の狩りやサレア河のヨハネ水浴祭で貴婦人たちの警護を務めて名を知られるようになり、瞬く間に出世したのだった。

「野うさぎ屋に泊りましたのは、まだ身ひとつの頃でした。大した家でもないのに堅苦しい宮廷作法を強制する親に反発したかったんですな。こっそりと逃げだしてひとり当てもなく旅をしたのですよ」

 若き日のヨアヒムはわずかな荷物と馬だけを連れて、サレアを渡り、はじめて西岸へと足を踏み入れた。河を一つ越えただけなのに、言葉が変わり、人びとの生活ぶりも変わっていた。楽しく開けっぴろげな人びとと接して、彼はこの地の方が自分には心地がいいと感じた。家から持ち出した小さな財布に入った金で、驚くほど面白おかしい旅ができた。酒を覚え、女も楽しんだ。

 だが、酒場の定食の支払いに山羊一頭が買える銅貨を使ったりすれば、直に良くない者たちに目を付けられたのも当然の事だった。ヨアヒムは強い酒で酔わされた後、何者かに殴られたあげく、身ぐるみ剥がされて森の入り口に放り出された。

「死に損ないの私を助けてくれた男がいたのですよ」
森の小さな小屋には、貧しい木こり男とその娘がひっそりと住んでいた。男はヨアヒムを家に運び、寝台に寝かせた。娘がせっせと世話をして、怪我が良くなるまでずっと側にいてくれた。ヨアヒムがちゃんと立って、家の用事を手伝えるようになるまで数ヶ月がかかった。

「退屈だった事でしょう」
マックスが訊くと、ヨアヒムは頭を振った。
「その娘は朗らかで、氣だてが良く、料理がうまく、私には天使のように思われました。本当に後光が射しているかのようでした。本当に美しい、輝くような金髪でしてね。私は《黄金の乙女》、《金色のベルタ》などと呼んでいたのですよ」

 マックスは納得して少し笑った。ヨアヒムははにかむように笑うと話を続けた。
「私がそろそろ旅立とうとした時に、ベルタの父親が伐採中の事故で命を落としましてね。突然ひとりぼっちになってしまったベルタは泣きました。それで私は旅立ちを遅らせて、しばらく優しい娘と共にいようと思ったのですよ」

 遠からず祝言こそあげていないもの、夫婦のように過ごす事になった。ヨアヒムは木こりの見習いとして働き、ベルタは家庭を守った。数ヶ月だが楽しい日々だった。

「それが、ある日家に戻ったらベルタが消え失せていたのです」
ヨアヒムは眉に皺を寄せて、髭をしごいた。
「かわりに私を待っていたのは、ヴァリエラ公爵家に仕えているとある騎士でした。ブランデスの家とともに私を探していたが、偶然酒場で紋章のついた帽子を被った者を見つけて問いつめた所、殴ってこの森のあたりに捨てた事を白状したというのです」

「それで?」
「私はベルタはどうしたのだと訊きました。そうしたら、事情を説明した所、娘は身分違いを恥じて出て行ったというのです。もちろん、私は騎士の制止を振り切って、近くを探しました。二日二晩、ずっとベルタを探しました。けれど、見つからなかったので諦めて騎士とともにこの地を去ったのですよ」

 マックスは頷いた。ヨアヒムは続けた。
「実をいうと、私は家に帰りたかったのです。木こりの仕事は私にはきつかったし、働いて食べて寝るだけの生活も退屈に思えましたしね。ベルタがいなくなってしまった以上、そこにいる必要も感じませんでした」

 そして、縁組みの進んでいたヴァリエラ家のヒルデガルト姫と結婚した。子宝にも恵まれ、ヴァリエラ公爵の後ろ盾もあってとるに足らない家柄の子爵だったのが国王に謁見を許されるまでに出世した。

「それで? ここにいらしたのは?」
マックスが訊ねると、ヨアヒムは髭をしごいた。
「ヒルデガルトが先日急な病で命を落としましてな」

 マックスはびっくりしてお悔やみの言葉を言った。それを「いいですから」と手で制してヨアヒムは先を続けた。
「最後の晩でした。終油の秘蹟をと大司教に来ていただいているというのに、どうしても他の者を追い出して私と二人だけで話がしたいというのですよ」

 ブランデス子爵夫人ヒルデガルトは、全ての他の者が部屋から出ると夫の手を弱々しく握りながら言った。
「あなたにお詫びしなくてはならない事があります」
「なんだね。お前は常に私の良き妻であり、子供たちの立派な母親だったではないか」
「そうなる前の事です。あなたがマールの森のはずれで木こりとして暮らしていたとき、騎士に命じてあなたの愛していた女を連れ去ったのは私なのです」
「なんだって?」
「私は、どうしてもあなたを失いたくなかった。だから、あの娘を強引にあなたから引き離したのです。この罪をどうしてもあなたには打ち明けられなかった。あなたがあの女のもとに行ってしまうのではないかと怖かったのです」

「もういい。過ぎた事だ。私たちは二十年もの間、夫婦として暮らしてきたのだ。私はお前のした事を許すし、いつまでもお前の夫でいるよ」
ヨアヒムがそういうとヒルデガルトはポロポロと涙をこぼし、せめての償いに彼女が亡くなった後はベルタを迎えにいって、相応の地位に就けてやってほしいと頼んで息を引き取った。

「それで、私は妻の告白した通りに、あの修道院に押しこめられたベルタを訪ねようとしているのです」
ヨアヒムが指差したのは、さきほど対岸からはっきりと見えていた、大きな女子修道院だった。

「ティオフィロス殿。よかったら私と一緒に修道院へ行っていただけませんか。私はルーヴラン語ができると言ってもあなたほどうまくない。ましてや修道女たちは方言を話すかもしれない。通訳がいてくださると心強いのですよ。お礼に、今夜はいい宿屋に私がご招待させていただきます」

 悪くない話だったので、マックスは同意して修道院へと向かった。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(4)マールの金の乙女の話 -3-

三回に分けた「マールの金の乙女の話」の章のラストです。前回はランスクの代官である子爵ヨアヒム・フォン・ブランデスが二十年前に愛した貧しい木こりの娘の話をマックスにし、乙女が閉じこめられたはずの修道院を訪れる所まででした。

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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(4)マールの金の乙女の話 -3-


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 近くに寄ってみると、その修道院は半分崩れかかったかのようだった。壁にはあちこちに蜘蛛の巣がかかり、墓地には雑草が生えて墓石も崩れていた。下男が大きくノックをすると、中から若い修道女が顔を出し、用件を院長に伝えるために中に引っ込んだ。そのまま四半時ほど誰も出てこなかった。忘れられたのか、それとも故意に無視するつもりなのかと訝りはじめたころ、再び入り口が開き、先ほどの修道女がどうぞ中へと言って、三人を門の中に入れた。下男と三頭の馬を庭に残し、ヨアヒムとマックスは応接室に案内された。古い椅子に座って待っていると、静かな音をさせて黒い布のベールと白い尼僧衣を身につけた女が入ってきた。

「お待たせいたしました。私が修道院長でございます。どなたかをお探しとの事ですが」
四角く厳つい顔をした初老の女で、眉間にくっきりと刻まれたの縦皺が印象的だった。艶のない、ざらざらとした肌にはたくさんのしみがあり、口元はへの字型に下がっていた。そして、すこししゃがれたような低い声で話した。

「今から二十年ほど前に、ヴァリエラ公爵付きの騎士がお連れしたベルタという名の尼僧を捜しているのです。歳の頃は現在三十七、八というところでしょうか」
「はて、存じませぬ。ご存知かもしれませぬが、この修道院には七年前まで百人以上の尼僧が生活しておりましたが、現在残る十六名を除いて、全て流行病で命を落としました。私は生き残った者の中で最年長でしたので、このように急遽院長を仰せつかりましたが、二十年前に誰がどうしたかを知っていた、高位の修道女の皆様はどなたもおられません。また、流行病が広がらぬように、衣類や書類などのほとんどが焼かれてしまったのです。お探しの尼僧はどのような容貌の娘でしたか」

 そう訊かれると、ヨアヒムは少し考えた。
「きれいな若い娘でした。輝くような金髪で、そうですね、あなたのような水色の美しい瞳をしていました。ただ、そういわれると、どんな顔だったかはっきりとは思い出せない。肌がきれいだった事や、髪が美しかった事ばかり思い出す」

 修道院長は、小さい低い声で先ほどの若い修道女を呼ぶと、何を命じた。やがて、応接間に三人の修道女がやってきた。四十くらいの修道女で、一人は背が高く、一人は背が低く、もう一人は小太りだった。
「こちらの殿様が、ベルタという名の金髪の修道女を探しているのです、あなたたちのうちの誰かがそのベルタですか」

 それを聞くと三人は揃って頭を振った。それから何か言いたげに修道院長の厳しい顔を見たが、修道院長はさらに口角をさげて「行ってよろしい」とだけ言った。それからヨアヒムに向かって一礼をして言った。

「お氣の毒ですが、現在この修道院には、あなたのお探しの女性はいないようです。例の流行病か、もしくは、ここに来てすぐに命を落としたのでしょう。どうぞお引き取りください」

 ヨアヒムは礼を言って、いくらかの寄進をすると、マックスと下男を連れて修道院を後にした。
「残念でしたが、これですっきりしました。こんなぞっとする所に、ベルタがいたのは氣の毒でしたが、まあ、生き残ってあの恐ろしい婆院長にこき使われるよりはマシでしょうね。ティオフィロス殿、本当に助かりました」

 そういうと、約束通りマールで一番評判のいい宿屋にマックスを案内すると、丁寧に別れの挨拶をして、日の暮れぬうちに再び東岸へ渡してもらうべく、下男と馬に乗って去っていった。

 マックスは、荷物を解きながら、先ほどの修道院での出来事を考えていた。いくら百人以上の修道女がいたからと言って、誰もその女の事を知らないなんてことがあるだろうか。それにあの三人の女たちの態度が氣になる。もしかして、《金色のベルタ》は「誰が訪ねて来ても隠せ」と言われているのではないだろうか。そう思えば思うほど、いても立ってもいられなくなってきた。

 彼は宿屋から出ると、再び修道院に向かう丘へと登った。正門から訪ねて行っても、同じ事になるだろうから、裏から入れないかと壁際に少し歩いた。丘の裏手は小さな林となっており、小川の流れがチョロチョロと響いていた。裏口が見つからず、反対側を見るために戻ろうと踵を返した所、不意に川の流れに混じって女のすすり泣きが聞こえてきた。彼は、急いで声のする方に向かった。

 小川の向こうに小さな池があり、先ほどの尼僧たちと同じ服を身につけた女が背を向けうずくまって泣いていた。黒いベールを脱いで、髪を梳かし池に自分の姿を映していた。豊かな金髪が木漏れ陽を受けてつやつやと輝いていた。

「あなたが《金色のベルタ》なのですね。あの修道院長は嘘を言ったのですね!」
マックスが叫ぶと、女ははっとして、それからゆっくりと振り向いた。その顔を見て、彼は「あっ」と言って立ちすくんだ。女はもっと激しく泣き出したが、彼は何と声を掛けていいかわからなかった。

 それは先ほどの修道院長だった。

 しばらくすると、女は泣き止み、低い声で語りだした。
「どうして、目の前にいるのにわからないのだろうと思いました。でも、この顔をみてわかるはずはありませんよね。こんなに醜く、年老いて……」
水鏡には皺のたくさん刻まれた疲れた女が映っていた。

 髪を三つ編みに結い、再びベールを被り、涙を拭うとベルタは立ち上がった。
「はじめの頃、いつか迎えにきてくださるようにと、神に祈りました。それがかなえられなかったと思うと、奥さまを恨みました。なぜ私だけがこんなひどい目に遭うのだろうと、不満に思いました。前の院長や先輩の尼僧たちに、結婚もせずに男を知った穢れた女と蔑まれ、厳しくあたられました。神父や院長たちが嫌いで、他の修道女たちも嫌いで、後輩には同じように厳しくあたりました。七年前の流行病で祈りも虚しく、皆がバタバタと死に、閉じこめられて自分も病にかかる恐怖に怯え、祈っても無駄なのだと思いました」

 マックスは何かを口にすることはできなかった。ベルタは、ひとり言のように続けた。
「迎えにきてくださった。祈りを神は叶えてくださった。でも、その時にふさわしい朗らかで氣だてのいい《黄金の乙女》は消え失せていました。私はこの二十年間、祈りと信頼の代わりに、怒りと猜疑心をこの顔に刻んでしまった。なんて愚かだったのでしょう」

 肩を落として、修道院へと消えてゆくベルタの後ろ姿を見ながら、彼はやりきれない想いに襲われた。ヨアヒムの探していた氣だてのいい乙女とこの女はこれほどまでに違っていた。その責は二十年という時間だけにあるのではなかった。この女の生きた日々を思えば、修道院にいつつ神を信頼しなかったことを責めることもできなかった。そして、それを神の罰と断じるのはあまりにも悲しかった。この崩れそうな修道院で、全ての望みを絶たれ、厳格で年老いた尼僧として生涯を終えるだろう金色の乙女。彼は首にかけている黄金の十字架をぎゅっと握りしめた。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(5)城と城塞の話 -1-

話はまたラウラのいるルーヴラン王国の都ルーヴに戻ります。この章も二つに分けましたが、なんだか肝心の人物が出てくる前で終わっちゃいました。お城の中、ルーヴランとグランドロンの力関係などをひたすら説明していて若干退屈かもしれませんが、世界観に興味のある方はどうぞ。そうでない方は、今回は飛ばしても構いません。

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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(5)城と城塞の話 -1-


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 ルーヴの街を遠くから見ると、それは大きな一つの固まりに見えるが、実際には城は街とははっきりと隔てられた世界だった。街そのものも大きな円塔を備えた門が三カ所ある防壁に取り囲まれているのだが、もっとも北側にある王城は背後の北側を除いて強固な城壁と水を張っていない空堀と水を張った濠に囲まれて街からは跳ね橋を通してしか入る事ができなかった。ルーヴの北側は絶壁で自然の要塞となっていた。

 その強固な守りは、一方で外敵の侵入から城に住まうものを守ったが、他方で城からほとんど出た事のない世間知らずな者たちを作った。城の中に入ると人びとが活発に行き会う外庭があった。そこは小さな街の様相をなしていて、木造の家が並び、動物や馬車が行き交い、指物師、馬具工、陶工などの職人たちや、農作物を運び込む農民たち、水を汲んだりパンを焼いたりする人びとでいつも賑わっていた。城の使用人たちやその子供たちが生活をしていたのだ。

 その内側には門を通ってしか中に入れない石造りの建物があった。これは地上は三階建てであり、大小の入り組んだ部屋と天守閣を含む四つの塔、礼拝堂、それに大きな二つの中庭といくつかの小さな庭を囲んでいた。一階および何層かに分かれた地下は使用人や兵士たちが作業し住む空間となっており、二階は大広間をはじめとする城の公の空間、そして三階が王族や貴族、そして高官や女官たちの住居となっていた。

 ラウラもこの三階に部屋を与えられて暮らしていた。王と王妃や王女の部屋ほどではないが、最高位女官であるバギュ・グリ侯爵令嬢として相当の広さと豪華さだった。ただ、調度や飾りが最小限で、品はいいもののあっさりしすぎている感があった。王女の部屋が色鮮やかな南国の鳥の羽根や、宝石、金銀、手のかかった織物や東から運ばれてきた絹などであふれかえっているのと対照的だった。

 たくさんの楽器や詩や物語を綴った羊皮紙が散乱する姫の部屋では、ラウラにつけられた三倍の侍女が毎日片付けに精を出しているにも関わらず時おり物がどこにあるのかわからなくなったが、彼女の部屋では侍女は掃除はしても片付けをする必要はなかった。本も、楽器も、衣類も全てが正しいところから取り出されて、使用後は正しい場所にしまわれた。美しいだけで役に立たない物などはまったくなかった。これはラウラ本人の性格にもよるのだが、バギュ・グリ侯爵をはじめとして誰一人として「ただ喜ばせるためだけ」に彼女に何かを贈る人がいなかったからだ。

 自由な時間、ラウラは書物を読むか、楽器を奏でるか、もしくは庭を散策するなど一人でいる事が多かった。マリア=フェリシア姫の近くに来る事はほとんどなく、それがますます姫との関係に溝を作った。

 ルーヴラン王国の国土は、偉大なるアンセルム三世の時代と較べると四分の三ほどの大きさとなっていた。といっても、ほとんど未開の地である深い森《シルヴァ》を含めての比較である。現国王であるエクトール二世には、兄の急逝によって突如として王冠が転がり込んできたため、帝王教育もなされていなければ国土を奪回するための覇氣もほとんどなかった。実際に王妃はアールヴァイル伯爵の次女でしかなく、側近も大して力のあるものがいない。そもそもルーヴランがこの百年に次々と国土を失ったのは、隣国グランドロンの辣腕な政治力と軍事力によるものであった。

 マール・アム・サレア、サレア河の西岸にある街は三代ほどルーヴランの手にあった。そのため、現在でもかの地ではルーヴラン語が話されている。この街はグランドロン先王フェルディナンド三世によって奪回され、現在はグランドロン領だ。そして、ペイノードのことがあった。

 ペイノード、またはノードランドと呼ばれる土地は、ドーレ大司教領の東にある。その名が示すように北の外れにあるにもかかわらず、暖流がノーラン湾に流れ込み、またフェーン現象も起こるために比較的温暖で穀物がよく穫れる。山岳地帯には鉄鉱床がありさらに海岸では良質の海塩が産出される。もともとは、この土地に住む人びとの言葉でノーランと言われ、王家の支配下にある場合もノーラン人の代官による半自治を確立している特殊な土地である。

 古くは現在のヴァリエラ公爵の祖先にあたるギョーム・ヴァリエラによって開拓され、計画的な鉄採集や製塩が始められた。グランドロン、ルーヴラン両王国との自由交易をしていたが、三代前のアウレリオ・ヴァリエラがグランドロン配下に入り公爵位を賜った。これに不服を申し立てルーヴランがグランドロンに宣戦布告をした。結果はほぼ引き分けで、ルーヴランが三分の一にあたる西ペイノードを、残りをグランドロンのヴァリエラ公爵がノーラン人のロートバルドを代官として支配することとなった。ルーヴランはヴァリエラ公爵を承認するのと引き換えにノードランドとの自由交易権を保持することとなった。だが、グランドロン先王フェルディナンド三世は、西ペイノードを奪回してノードランド統一後、ルーヴランとの自由交易を禁止した。

 五年前にフェルディナンドが急逝すると、ルーヴランはこれが好機と、戴冠した若きグランドロン王レオポルド二世に宣戦布告して、一時西ペイノードを得たが半年後に再奪回された。その後、若きグランドロン王はことさら軍事増強に力を入れているとの噂でルーヴラン王の心は穏やかではなかった。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(5)城と城塞の話 -2-

「城と城塞の話」の後編です。やっぱりマックスのようにフラフラしていた方が、お話らしいことが起こりますね。こっちは何も起こらないや。ラウラの話は、もうちょっと後で動きます。今回も説明ばかりになります。あ、侍女たちがお喋りしています。女の噂好きはいつの世も、そして、どこでも一緒。

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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(5)城と城塞の話 -2-


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 そのエクトール二世のもとに、二年ほど前に自ら売り込みにきたのが、ドール大司教の腹心であったイグナーツ・ザッカであった。ザッカはもともとルーヴラン人ではなく、隣国センヴリの出身であったが、聖職者となってドールに遷り、その非凡な頭脳と政治力で瞬く間に大司教の目に留まった異例の経歴の持ち主であった。

 ルーヴランの宮廷に来てからは、宰相ギュスターヴ・ヴァンクールのもとで補佐をしていたのだが健康きわまりなかった宰相の突然の死に伴い、半年前に宰相の座に登り詰めたのだった。聖職者の面影を残すのは、常に着用する黒いベルベットの衣装だけで、その冷徹な振舞いから《氷の宰相》と陰で呼ばれるようになっていた。

「ド・ヴァランス夫人が宮廷奥総取締役を退かれた経緯を知っている?」
ラウラ付きの侍女リーザは噂話が好きだ。ゴシップを話しているとラウラに嗜められるので、彼女が部屋にいない時にはここぞとばかりにまくしたてる。

「ヴァンクール様ととても親しかったからでしょう。その、つまり、単なる友情以上にってことだけれど」
「やっぱりそうなの? でも、あの方にも夫君がいるんでしょう」
「ご主人は田舎貴族で、影が薄いの。夫人がヴァンクール様のお引き立てで宮廷奥総取締役に就任してからやっと国王陛下にお目通りが叶ったって体たらくだったもの」
「ヴァンクール様が亡くなられて夫人の形勢が悪くなった後も、離縁する事もできないみたい」

「ド・ヴァランス夫人が退かれて、姫様はご機嫌が悪いのよね」
アニーがそっとつぶやいた。侍女たちは目を合わせて頷く。世襲王女には、宝石やダンスの他にもっと大切な事がたくさんある。十六になってから、姫は領地と年貢の管理や、直轄領における裁判、それに宗教行事など国王の仕事のほとんどに同席する事を求められた。彼女が好んだのは東方や南方からの珍しい品々を運んでくる上納品の確認だけで、あとの多くについては、ありとあらゆる理由をつけて避けようとした。宮廷奥総取締役であったド・ヴァランス夫人は自分の立場を強固にするためには誰を味方に付ければいいかよく知っていたので、姫の都合のいい口実を次から次へと生み出しては表方に奏上した。夫人と「非常に親しい」宰相がこれに反対するはずもなく、姫君は好き勝手を通す事ができていたのだった。

 ところが、《氷の宰相》が夫人を上手に厄介払いしてからは、勝手が違ってきた。新たに奥総取締役に任命されたのはアールヴァイル伯爵家の遠縁にあたるベルモント夫人だった。厳格な性格の上、娘のわがままに手を焼いていた王妃と親しい事もあり、姫の自由はかなり制限される事となった。さらに、公の場で《氷の宰相》が、姫の無知をさらさないように骨を折る事がなく、何度か恥ずかしい目に遭わされていたので、王女はザッカを毛嫌いしていた。

 それゆえ、どうしても自分が出向かなくてはならない場合を除き、姫は宰相に会う用事をことごとくラウラに押し付け、さらに政が行われている場にも同席し攻撃の矢面に立たせようとした。それで本来は政治や軍事に関わる必要のないラウラが宮廷の表によく顔を出す事になっていた。

「国王陛下はザッカ様をずいぶん信頼なさっているのよね。どんどん改革を進めていらっしゃるけれど……」
リーザは声を潜める。
「それに何の問題が?」
「財政の緊縮、いよいよ私たちの所でも始まるみたい。まあ、姫様のお買い物が主なターゲットだと思うけれど」

「ラウラ様のお手当は減らされないわよ。だって、もともと必要最小限の物以外はほとんどお買いにならないんですもの」
「そうかしら。里下がりの時の特別手当を削られたら嫌だなあ」

 侍女たちは三ヶ月に一回一週間ずつ里下がりが許されている。明日はリーザとアニーの番だった。アニーはちらっと冷たい眼でリーザを見た。
「いただいているお手当の他に、毎回このお部屋からお菓子を根こそぎ持っていっている人がよくいうわよ」
「あら。ラウラ様が召し上がらないんだもの。悪くなるよりいいでしょ」
「あのね。里下がりする子は他にもいるんだから、ちょっとは考えなさいよ」

 そう言いあっているうちに、扉が開いてラウラが戻ってきた。
「何の騒ぎ?」
「い、いえ、なんでも」
アニーもリーザも顔を赤くしてうつむいた。他の侍女たちはくすくす笑っている。

 ラウラは高杯の上に山盛りになっている果物を見て言った。
「これも二人で分けなさい。お家の方によろしくね」
それから、手にしていた本を広げて窓辺に座った。

 アニーはそのラウラの横顔を見て、急に申し訳なくなった。両親のもとではなくて叔母の家とはいえ、少なくともアニーには帰る家がある。でも、ラウラはどこにも帰れないのだ。表向きはバギュ・グリ侯爵家が彼女の実家だが、誰も彼女が戻ってくる事を望んでいなかった。彼女は他の女官たちのように里下がりをする事がなく常にこの城の中にいた。城壁の外に出られるのは、彼女がこの城から出て行く時だけなのだろうと思うととても切ない氣持になった。

「来週の日曜日、そんなに遅くならずに戻って参ります」
アニーが少し思い詰めた様子で言うと、ラウラは本から眼を上げて不思議そうにアニーを見た。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(6)旅籠の娘

マックスはグランドロン領からルーヴランに入りました。マックスはディミトリオスの弟子だけあって、いくつもの言葉を流暢に操ることが出来ます。旅をする上でこれはとても重要です。言葉はその世界への扉を開く鍵です。そして、彼はまた一つの人生をかいま見ることになります。今回も前後編に分けるはずでしたが、来週は新作発表で次は二週間後になるので、一度に発表することにしました。

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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(6)旅籠の娘


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 たったひとつ川を超えただけというのに、どうしてこのように変わるのだろう。マックスは久しぶりにルーヴランに足を踏み入れてつくづくと感じいった。旅籠にはたくさんの男たちと娘たちが集っていた。彼らは衣食が足りて有り余っているようには見えなかった。男たちの上着はすり切れていて、色あせていた。女たちのショールも荒いウールの平織りであった。しかし、彼らは愉快で、わずかな酒や料理を実に楽しんでいた。卑猥な冗談が飛び交い、女たちは明るくそれを笑い飛ばしていた。

 グランドロンでは滅多に見られない光景だ。あそこでは、まず女たちは料理屋に足を踏み入れたりはしない。きちんと家庭を保つ事、厳格ですました態度こそが好ましい女の姿だった。男たちも、黙ってカードゲームに興じるか、厳しい顔で収穫の事や疫病の事などを低い声で論じるのがぴったりした。

 彼はいくつもの言葉を自由に扱う事が出来た。言葉を切り替えると、自分の性質までもが少し変わるように思える事がある。ルーヴランの言葉は柔らかく韻律に富んでいる。詩や愛のささやきが似合う。グランドロンの言葉は硬くはっきりとしている。そう、法律や論理を論じるのに適している。人々の態度も、その言葉に支配されているようだ。陽氣で感覚を優先するルーヴラン人と勤勉でまじめなグランドロン人。もちろん、個人差はある。だが、一般的な両国の国民性にはこのようなイメージがついてまわっている。彼は、明らかに典型的なグランドロン人ではなかった。それだけに、この軽やかなルーヴランの人々の様子は好ましく思えた。

 角の席に座っていた若い娘が、体を斜めにねじって、マックスの方を物欲しそうに眺めた。例えば大司教領など、教会の力の大きい所では、女がこのような公の場であからさまに誘ってくる事はない。亭主が長いこと不在で身を持て余している女ならまだしも、あきらかに未婚と思われる服装の娘が酒の出る場に出入りしているだけでなく、見ず知らずの男に誘いをかけてくる。いったいどういう事なのだろう。もしかして、服装は生娘のようだが、体を売って生計を立てている女なのではないだろうかと思った。

「親爺、こちらにもう一杯ワインと、それから水をまわしてくれないか」
彼はルーヴランの言葉で頼んだ。それを聞いて、周りの男たちが明らかに意識して彼に注目した。

「旅のお方よ。あんたは、どこから来たのかね」
斜め前に座っていた相席の男が口を開いた。
「サレアの向こうからだが、なぜかね」
「あんたが宿の主人に話しかけたからさ。あんたはあの娘に注文しなくてはいけない。見なかったかね。あの娘がさっきからあんたにしなを作っているのを」
 
 マックスは意味が分からなかったので、首を傾げて返事をしなかった。それで男は声を顰めて付け加えた。
「いいかい、ここでは客が今夜一緒に寝る女を決めるんじゃない。女の方が客を指定するんだ。そのかわり娘に選ばれた客の世話はすべて娘自身がするんだよ」
「そんな事を言われても、こっちにそのつもりがない時だってあるだろう。ものすごく醜い娘に選ばれたらどうするんだい?」

 男は肩をすくめた。
「寝るか、野宿するか、選択肢は二つしかないんだよ。もう夜も遅いし」

 そんな話をしているうちに、件の娘がワインの入った水差しと木のコップに入った水を持ってマックスの前に座ると、ちらっと相席の男を眺めた。男は笑うと、自分の盃を持って娘の座っていたテーブルへと遷っていった。男たちがどっと笑うと、再び何もなかったかのように、それぞれの食事やゲームや討論に戻った。

「マリエラよ。こんばんは」
「僕はマックスだ。ずいぶんと変わった風習の街なんだね」
マリエラと名乗った娘は、クスッと笑った。絶世の美女というのではないが、ご免こうむるというほどの容貌でもなかった。ほんの少し目の形が小さくてアンバランスだが、笑う時に出るえくぼは魅力的と言えなくもなかった。わざとやっているのだろうが、少しだらしなく広げた襟元から胸の谷間が見えている。だが宮廷で見る娘たちと違って肌はかさつき、鎖骨が痛々しかった。

「この一帯で、私たちが働けるのはこの街だけなの。そして、私たちは専門的に旅人を接待することになっているのよ。あんたが今夜の最後の旅人。さっき宿代を先払いをしちゃったでしょ。あの親爺は一度受け取った金は死んでも返さないから、私と一緒に暖かい布団で眠っても、外で凍えても、あんたは同じ値段をこの旅籠に払う事になるってわけ」
「そして、君が夜中に僕の荷物をごっそりあさって朝までに消えてしまうって算段かい?」
「馬鹿なことを言わないで。私たちの仕事は信用第一なの。あんたが次の行き先で身ぐるみ剥がされたなんて言ったら、この街を通る旅人がいなくなってしまうじゃない。ねえ。私、努力家なのよ。いい思いをさせてあげるわ」

 旅の途中に何度も商売女と夜を過ごしたから、押し掛けでなければこの話に抵抗はなかった。彼は肩をすくめると、彼女に盃を差し出した。ワインが注がれ、自分の盃にも勝手に注いだ娘と一緒に乾杯をした。

 マリエラは五つ先の村の出身だと言った。ごく普通の農村で生まれたが、飢饉の時に村に食べるものがなくなり街に働きにいくように家族に言われたと話した。
「働くと言っても、つてもなにもない私は奉公にも出られない。兄さんたちのように職人の見習いにもなれない。女給つまりこの仕事をするしかなかったってわけ」
「もっと別の仕事がしいたんじゃないのか。たとえば、他の街に行けば、少なくともただの女給としての仕事があるんじゃないのか」

 マリエラは首を振った。
「おおっぴらにやるか、こっそりやるかの違いだけよ。あのね。私たち女給にはこれといった賃金がないの。旅籠の持ち主と結婚するのではなければ、こうやって生活費を稼ぐほかはないのよ。私はそんなに嫌じゃないわ。だって、少なくとも自分がどうしても嫌な客とはしなくてもいいんですもの」

 なるほど。では、少なくともこの娘の一晩の客としては合格したってわけだ。話がつくと、マリエラは安心して立ち、厨房からマックスと自分の料理を運んできた。他の客たちの料理は少し遅れて旅籠の女将と親爺が運んできたが、明らかにマックスたちのほうが量も多く、肉も大きい部位が選ばれていた。

 水っぽいスープにはいろいろな野菜がくたくたに煮こまれていた。肉もあまり若くはない雌牛をつぶしたためか非常に長い時間をかけ煮込んで柔らかくしてあった。腹を膨らませるために穀物の粉を臼で挽いて作った粥がでる。それからざらざらしたパンだ。

 グランドロン王家が全幅の信頼を寄せる賢者ディミトリオスのもとで育ったマックスは、旅に出るまでこのような食事をした事はなかった。ディミトリオスの家では主人の他に何人もの弟子たちがテーブルクロスのかかった長いテーブルに行儀よく座り、きれいに用意された食器に召使いたちが順にスープを注いでいった。同じスープでも丁寧に裏ごしした人参が色鮮やかで滑らかなポタージュや、青エンドウがきれいに浮かぶコンソメなどだった。肉も子牛のステーキや、丁寧に作られた腸詰めなど決して安くなく手間のかかったおいしい料理が出た。彼がディミトリオスの屋敷に引き取られた時は弟子としてではなくただの使用人としてだったのだが、それでもこの旅籠で出る料理よりはいい物を食べていた。

 ディミトリオスに引き取られた当初は、家に帰り両親や兄弟たちと暮らしたいと思った。主人は厳しく仕事も楽ではなかったから。けれど、次第に提供される生活のレベルに慣れてしまい、常に空腹に悩まされる鍛冶屋の次男の生活には戻りたくないと思うようになった。貧富の差は大きかった。社会の壁も厚かった。偶然老師の家に引き取られ、しかも、下僕から弟子と身分が変わったことも幸運だった。わずかな知識は剣や生まれには打ち勝てない。だが、ディミトリオスほどの賢者と彼にあらゆる知識を習った弟子たちの持つ学問は、それだけで先祖伝来の財宝や何万もの軍馬を連れた戦隊よりも価値があった。王家に出入りし一定期間学問と礼儀作法を子女に教えると、その倍以上の時間を自由氣ままに旅をするに十分な報酬を手にする事ができた。それは鍛冶屋の父が一生かかっても目にする事のできなかったであろう大金だった。

 マリエラにとっては客の相伴で食べる、他の人たちよりはほんの少し大きい肉が最大の贅沢だった。彼女がそうすることでしか食べていく事ができないと言うならば、彼の実はとても重い財布からほんの少しの金を使うことにはためらいはなかった。

 マックスは、夜が更ける前にマリエラを連れて部屋に向かった。部屋は質素で寝台は狭く、この女の寝相が悪かったら自分は床の上で朝を迎えるのだろうと思った。上着を取り靴紐を解いてそれから一つしかない椅子に座った。マリエラはどっかりと寝台に腰掛けていたので。彼女は窓によりかかり遠くに見える山の方を眺めていた。

「君の故郷かい?」
その問いに、彼女は黙って頷いた。
「時おり帰って、家族に会う事もあるのかい?」
彼が重ねて問いかけると、マリエラははっとしたように彼の方を振り返った。それから視線を落として首を振った。
「私は死んでいるのよ」

 意味を図りかねた。それを察してマリエラは少し笑った。
「私は自由人じゃないの。あの家から出るには、花嫁行列か葬列しかないの。でも、初夜権を誰も買ってくれなかったから……」
農村の多くの民はそうだった。移動の自由はなく、職業を変えるのも土地を出て行くのも領主の許可がいた。領地に属する娘と初夜を過ごす権利も領主にあった。もちろんすべての結婚する村娘と本当に寝るほど酔狂な領主は多くなく、たいていは花婿がこの権利を買い取る一種の結婚税であった。だが口減らしをするような貧しい農村では嫁を迎え初夜権の支払いをしてくれるような青年はなかなか見つからなかった。だからマリエラは領主にとって死んだ事にしてしまわねばならず、二度と故郷に帰る事はできないのだった。

 彼は今宵はこの娘にできるだけ優しくしてやろうと思った。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(7)狩り

またルーヴの王城に戻ってきました。今回の話も短く、さらにストーリーそのものは全く動いていません。中世における貴族たちの生活の一端を除いていただこうと思います。余談ですが、この間の週末に、この鷹匠のショーを見学してきました。アメリカオオワシなんかが頭の上を飛ぶんですよね。大きい! びっくりしました。

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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(7)狩り


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 シャーッという音がして、何か大きいものが横を通り過ぎた。
「きゃっ」
アニーは頭を抱えて座り込んだ。里下がりから戻り、一刻も早くラウラのもとに戻ろうとしていた所だった。

 元服を迎える少年が手を広げたくらいの翼を広げて颯爽と飛び過ぎたのは王の鷹だった。顔を上げると、数間先に鷹匠が立っていた。獰猛で氣性の激しい鷹を自由に操る鷹匠は冷酷で氣位が高く、取っ付きにくい男であった。目つきが鋭くにこりともしない。ましてや侍女とは言え、もう少しで怪我をさせそうになった女に対して謝罪をしようとは全く考えていないようであった。

 鷹匠は高位ではない。「青い血の流れている」つまり貴族の生まれのものはほとんどいない。けれど、鷹は狩りの楽しみの半分以上を占めていたので、鷹の持ち主にはできない訓練をする鷹匠は必要不可欠な存在であった。

 たいていの人間の人生や待遇は、生まれとともに決定する。貴族として生まれれば、毎日召使いに傅かれ毎日のパンの事を心配する必要はない。土地に縛られた農民として生まれた者は、どれほどの努力や忍耐をもって朝から晩まで働いても肉の入ったスープを毎日口に入れる事など望む事すら許されない。

 だが、特別な職業があった。僧侶、教師、薬剤師、写本師のように、王侯貴族でも手にできない知識を持ち、それを極めたものはその出自を問われなかった。同様に優秀な鷹匠ともなると個人的な性格がどうであれ、たとえ王に対する態度が横柄でも問題はなかった。いま目の前に立っているのは、この城でももっとも無愛想な、つまりもっとも高い報酬で迎えられた男ブゼだった。

 彼は肘まである革の分厚い手袋の上に鷹を停まらせるとアニーの方を見た。雌鷹の厳しい黄金の瞳とブゼの冷酷な瞳に見つめられてアニーはぞっとした。鼠や小さな鳥たちのようなひどい目に遭わぬうちに、頭を下げてさっさと逃げだした。

 城の中庭には「鷹の館」と呼ばれている建物がある。ここには、ブゼを始めとする鷹匠とその見習いたち以外の立ち入りは禁じられている。暗い部屋には猛禽たちの種類に合わせてたくさんの止まり木が、小さな森のように設置されていた。砂利が敷き詰めてあり、その高い天井の建物の中を猛禽たちは自由に飛び回る事ができた。鳥らはここで寝泊まりし、保護されていた。優秀な鷹やハヤブサはその卵の大きさの宝石よりも価値があると考えられていたからだ。

 鷹たちほどの価値は認められていなかったが狩猟犬も、丁重な扱いを受けて飼われていた。鹿狩りや猪狩りは王侯貴族たちの大切な楽しみで、鹿や猪の習性を知り尽くした猟師たちも重宝されていた。鷹匠と違って彼らは城には住まず、大切な犬たちとともに《シルヴァ》の森にある王侯貴族たちの豪華な狩猟用別荘の近くに住んでいた。このように狩りのためには多くの専門家と動物が関わっていて、年間を通して大層な手間と金品が費やされていた。

 アニーは、国王の狩猟用別荘の一つのあるヴァレーズ地域の出身であった。両親とも健在だが鼠のように貧しく、父親は長男のマウロと長女のアニーのことを妹に頼んだ。妹は裕福な寡婦で、その亡くなった夫は王家直属の森林管理官として財を成した。その縁で兄妹は王城での召使いとして雇われ、里下がりのときもこの叔母の所に滞在するのが常だった。アニーは叔母にはラウラが用意してくれた手当金で買った王都でしか手に入らないレース編みや装飾品を贈り、そしてわずかな時間を見つけては実家へも足を運んでは幼い妹や弟にやはりラウラが持たせてくれた菓子や果物を持っていってやった。その道すがら王家の狩猟用別荘の横を通る。王城とは較べ物にはならないとは言え、この地域では他にはない豪華で立派な屋敷で、子供の頃その中に入る事を夢みていた事を思い出した。

 この大きな別荘の隣には森林管理役場が建っている。森番の長としてフランソワ・ド・ジュールという名の下級貴族が任命されていて、国王の森林保護の名のもとに大きな権威を振りかざして領民たちに毛嫌いされていた。《シルヴァ》で行われる狩りとは国王の持ち物である鹿や猪をゲームとして捕まえる行為でありその獲物を他の人間が横取りするのは犯罪であった。けれど、近隣に住む人びとにとっては森に入り薪や家の修理に使う木材を手に入れ、食べられる植物や動物を得るのは死活問題だった。農村では天候によって収穫に大きな差が出た。飢饉の年は年貢を納めると自分たちが食べるものもほとんど残らぬこともあり、人びとは森の豊かな恵みに頼る他はない事もあった。

 森は深く、秘密に満ちている。その奥には、大小異なる多くの生きものの他、まだ人の子が見た事もないような大きな鹿や、荒ぶる猪、大人が五人で囲んでも手が届かない大木、そして、たくさんの食べられる木の実などがあるといわれている。だが、人びとが関わる事のできるのはほんの周辺部分だけで、その奥深くへ進めば、道を失いもう戻ってくる事ができないと畏れられていた。狼や熊に襲われる危険を冒してようやくわずかな森の恵みを手にして帰ってくると、それを横取りしようとする不届きものもいた。

 かくして森の盗賊が横行し、森番は取り締まりを強化した。不幸にも捕まって罰せられた領民たちに対する監督責任として大量の罰金を課される貴族がいる一方で、密猟を組織的にしているのにジュールに袖の下をつかませる事で検挙を避けている集団もあった。その不公平とあからさまな蓄財ぶりに、ヴァレーズ地方ではジュールを快く思う者はなかった。

 だが、アニーが城に来て驚いた事に、ルーヴの宮廷ではジュールを悪くいう者はほとんどいなかった。ジュールは別荘に現れた王侯貴族に実にそつなく対応したし、王は鹿や猪を追う楽しみと素晴らしい狩猟料理にしか興味がなかったからだ。彼女はその事にひどく落胆したが、一度だけ「おや」と思う事があった。

 その日、ラウラは森林管理に関わる審理に同席するために広間にきていた。本来はもちろん世襲王女であるマリア=フェリシアが同席すべき所なのだが、新しい絹織物を持ってきた商人と会う時間を割かれるのは惜しいと思った姫は、彼女だけを広間へと送ったのだ。アニーはその供をしていた。登城していたジュールが恭しく美辞麗句を述べて森林管理が何の支障もなく行われていると報告するのを、うつむきながら苦々しく思っていたのだった。ラウラは、わかっていますというようにアニーの方に目配せをしてくれた。それだけで彼女の氣持は少しは慰めたられたのだが、午餐をとるため王や廷臣たちがジュールとともに食堂に去ったあと一人残った《氷の宰相》ザッカが小さな声で「狐め」とつぶやいたのを耳にしたのだった。

 アニーは、ラウラも意外そうに宰相を眺めているのを見た。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(8)水車小屋と不実な粉ひきの妻 -1-

マックスはルーヴに向かう途中です。読んでくださっている方の感想にもあるように、この時代のヨーロッパの人びとは現代の感覚とは違う常識と意識の中で暮らしていました。善悪の感覚も現代の私たちの常識では計れないところにありました。「粉屋は騙すに決まっている」という常識も現代の感覚からすると「?」だと思います。けれど、現代でも同じように色眼鏡で人を見ることはあると思います。単に「粉屋」ではないだけで。

今回も二回に分けての更新です。後編は来週になります。


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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(8)水車小屋と不実な粉ひきの妻 -1-


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 失敗したなと思った。宿を探すのが遅すぎた。当てにしていた宿屋がいっぱいだと断られたので、他の旅籠がないかと馬を進めた。だが、どうやら町から遠ざかってしまったようだ。農村で日がとっぷり暮れてしまったので、農家にでも泊めてもらおうかと思ったが、断られてしまった。一軒で上手くいかないと、隣でも上手くいかなくなる。他の奴らが断ったのは何か理由があるからだと思い、人びとの警戒心が強くなる。

 川の水音と、水車の音が聞こえてきた。ああ、ここなら村の住民と違う反応をしてくれるかもしれない、そう思った。水車小屋に住む粉ひきは、村の農民たちから距離を置かれるのが普通だったからだ。

「誠実な粉ひきはいない」「粉ひきは悪魔の友達」と散々ないわれようをしている原因が、領主の都合による水車小屋利用強制であることをマックスは理解していた。人びとの暮らしの中心にはパンがあり、小麦粉があった。農民は年間を通して汗水たらして働き小麦を自ら育てた。それを自らの挽き臼で粉にすれば手間はかかっても金はかからないのに、挽き臼の使用を禁止され水車小屋で使用料を払って挽くように決められていた。年貢の他にこうして搾り取られることを農民たちは快く思っていなかった。だが、その怒りの矛先は見た事もない領主さまではなく、水車小屋を借りて中間手数料でがっぽり儲ける粉ひきに向けられるのだった。

 どうしても関わらざるを得ないけれど憎悪のある関係がどの農村でも見られたので、もめ事に巻き込まれたくないマックスは出来るだけ水車小屋には近寄らないようにしていた。農民たちの肩をもつわけではないが、感じが良くて親切そうな粉ひきにはこれまでに出会ったことがなかったのだ。だが、今晩は背に腹は変えられない。彼は明かりと水音、水車の動く木のきしむ音を頼りに馬を進めた。

「水車小屋に泊めてもらおうなんて、あんた、よっぽどの世間知らずなの?」
出てきた女房は皮肉っぽく言った。若くこぎれいな女だった。町で流行っているデコルテがかなり開いた上衣を着て、しゃれた上履きも履いていた。

「そうとも思えないが、でも、水車小屋に一晩の宿を頼むのはこれがはじめてだ。嫌なら断ってくれればよそをあたるよ」
その返事に興味は全くなさそうだったが、値踏みするように着ているもの、馬などをじろりと見た。
「旅籠より安く泊れるなんて思わないでおくれ。もっとも大した料理は出せないけれどね」
「今夜休めれば、それでいい。助かるよ」

「亭主は、領主さまの所に出かけていて不在なんだ。今夜遅くか、明日の朝には戻ると思うけれどね」
脳裏に「不実で美しい粉ひきの妻」というお決まりの文句が浮かんだが、何もそこまで地で行くこともないだろうと思い返した。女は彼を水車に近い階段を上がった半二階の小部屋に案内して、荷物を置いたら食事に降りてくるように言った。

 マックスは小部屋を見回した。こざっぱりとした木の床と壁の部屋で、小さな寝台と物を置けるようになっている台、それに小さい椅子が一つあった。窓からは星が覗けて、水と軋む車輪の音が常にしていた。

 食事に降りて行くと、女はスープとパン、それにいくらかの干し肉やチーズを並べ、木の盃にワインを入れて出した。同じものを食べるのに、自分は水を飲んでいた。
「僕だけワインを出してくれなくてもいいのに」

 女は笑って言った。
「金を取るだけとって、ワインも出てこなかったと言いふらされると困るからね。私たちは何も悪い事をしないのに粉屋だというだけで人びとは悪口を言うんだ。これ以上悪く言われるのはごめんさ」

 彼は盃を口に運び、少し口に含んでから、盃の中を見た。ワインらしくない風味を感じたのだ。女がじっとその様子を見ていた。何も悪い事をしていないのに、か。そう思いながら、そのまま飲み込んだ。

 
 マックスが寝台に横たわってから、小一時間が経った。月の光に青白く照らされた女の腕がゆっくりと伸びた。彼の衣類をそっと触り、目をつけていたものを探していたがそこにはなかったのでもう少し側に寄ると肌掛けをそっとずらし、淡い月の光にきらりと光る黄金の十字架につと触れた。

 それと同時に、それまで動かなかった彼の右手がはっしとその女の手首をつかんだ。
「まさか! 動けるのか」
粉挽きの妻は思わず叫んだ。彼は寝台から起き上がった。
「毒入りのワインをありがとう」

「飲まなかったのか」
「飲んだよ。ヒヨスだったね。残念ながら、僕にはこの程度の量では効かないのだ」

 女は、唇を噛んで小さな椅子に座り込んだ。

「どうするつもりだったんだ。毎回、泊った客に毒を飲ませて、命を取っても、死体の処理に困るだろうに」
「殺しはしないさ。でも、目が覚めても数日間は頭がはっきりしないから、たぶんここで盗られたと思っても、騒ぐ事は出来ない。いつもうまくいったんだ。毒の効かないヤツがいるとはね。あれを飲んでもなんともないなんて、あんたは何者だい、悪魔に魂でも売ったのか」
「悪魔に魂を売ったのはそっちだろう。君は、何も悪い事をしないのに粉屋だというだけで人びとが悪口を言うと言っていたね。なのに、なぜ……」

「皆がいつも騙すと蔑むと、いつの間にか本当にそういう人間になってしまうんだよ。どんなに真面目にやって、仲良くしたくても全然受け入れてもらえない。そのうちに、だったらやってやると思うようになっちまうんだよ。うちの人だってそうだ。村の奴らや、あんたみたいにいつも敬意を持たれているヤツにはわからない」

 彼は首を振った。
「いつも敬意なんてもたれたりしていないさ。そうだったら毒の効かない体になんかなるわけないだろう」

 女は薄氣味悪そうに見た。
「あたしをどうするつもりだい」
「どうもしないさ。遅く帰って来た旦那に誤解されないように、さっさと自分の寝床に帰ってくれ。それに、明日発つまで二度と僕を襲わないでくれればそれでいい」

「なぜ……」
「僕は一夜の宿が欲しかったんだ。それ以上の大騒ぎはごめんだし、足止めもされたくない。ただ、忠告しておくよ。こんな事を続けると、そのうち必ず痛い目に遭う。今回の事が天からの忠告だと思って、足を洗うといい」

 女は何も言わずに部屋を出て行った。彼はしばらくうとうとしたが、再び物音で目が覚めた。どうやら亭主が帰って来たらしい。女とひそひそ話をしているのが聞こえた。マックスをどうするか二人で話しているらしかったが、やがて、余計な事をしない方が身のためだと結論づけたのか、二人は寝室に消えて静かになった。マックスは、ようやく安堵して眠りに落ちた。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(8)水車小屋と不実な粉ひきの妻 -2-

「水車小屋と不実な粉ひきの妻」の後編です。のんきに旅をしているマックスですが、じつは美味しいものだけを食べてのほほんと育ったわけではありません。前編で明らかになった毒耐性をどうして持つことになったかが明かされます。マックスに国やディミトリオスに対する忠誠心というものが今ひとつ欠けている原因もじつはこれです。

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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(8)水車小屋と不実な粉ひきの妻 -2-


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 朝になって、マックスは奇妙なくらい愛想よくする亭主に何事もなかったかのように対応した。歓待に礼をいい、旅籠に泊まる時の相場を渡して水車小屋を後にした。

 あの二人は悔い改めたりはしないだろう。彼は思った。ヒヨスは歯の痛みをとるためにも使われているし、持っている事を問われる毒物ではない。量を間違えれば死にいたるが、経験豊かなあの二人はそんなヘマはしないつもりだろう。

 皆がいつも騙すと蔑むと本当にそういう人間になってしまう。あの時の女の言葉は彼の怒りを鎮めた。粉ひき夫婦が誠実なはずはないとマックスですらどこか思っていた。その偏見が彼らをやはり不実な粉ひきにしてしまう。彼らのやっている事が罪であるのは間違いない。だが、それを裁くのは一介の旅人である自分でなくてもいいはずだ。僕は裁判官でもなければ、神の奇跡でもない。毒が効かない男でしかない。

「またか。かわいそうに」
兄弟子たちのひそひそ声が甦る。暗い召し使い部屋で何度めかの苦しみに悶えた後だった。マックスを苦しめているものが、ディミトリオスに定期的に飲まされる様々な薬のせいだという事は、屋敷中の誰もが知っていた。時には激しい嘔吐、時には腸がねじれるような痛み、またある時は体中におぞましい湿疹が出た。割れるような頭痛や呼吸が出来なくなる事もあった。

「なぜあの子にあんなことを?」
「王太子さまのためだよ」
ひそひそ声は続いた。少年が眠っているのだと思って。

「王太子さまに毒耐性をつけるために、老師は少しずつ毒を飲ませていらっしゃるのだ。だが、大人と違ってどのくらいの量を飲ませていいか確かでないものだから、マックスで実験をしているのだ。彼は王太子さまより小さいし、あの子が耐えられた半分の量なら安全だっていうんでな」
「なっ……。じゃあ、必要もないのにマックスみたいな子供を雇ったのは……」
「そうだよ。このためだ」

 高熱が引いてきた後のだるくて力の入らない体をそっと動かすと、彼は兄弟子たちに泣いている事を悟られないように壁の方を向いた。《黄金の貴婦人》とマックスが呼んでいた、あの美しい女性にお茶を運ぶ度に、お菓子をもらうのを見過ごしてくれた主人。もしかしたら、自分を氣に入ってくれているのではないかと思っていた。けれど、自分の存在意義はそんな事だったのかと悲しくなった。両親がこの事を知っていたのかどうかはわからなかったが、もはや逃げだして帰る事も出来ないのはわかっていた。

 耐えられたのは、やはり《黄金の貴婦人》の存在があったからだった。ある夜、激しい下痢の後でぐったりして、ようやく痛みが治まってうつらうつらとしていた時、屋根裏の小さな部屋に主人に案内されて、かの貴婦人がやって来たことがあった。マックスはびっくりしてディミトリオスを見た。

「いつもお茶を運んでくれるあの少年はどうしたとおっしゃるので、病に臥せっていると申し上げたらどうしてもお見舞いにとおっしゃるのだ」
主人は苦虫を噛み潰したような顔をしてこっそりと言った。
「奥方さま、他の使用人の手前というものもありましてな」
「それが何だというのでしょう。こんなに小さいのに、けなげに働いているんですもの。まあ、弱ってかわいそうに」

 その優しい声と、心から心配してくれている美しい顔を見て、彼の遣り切れない心持ちはすっとほどけていった。
「大丈夫です。もう、治ってきましたから」
マックスがそう言うと、《黄金の貴婦人》はしばらく片手で彼の頬を、もう片方の手でその弱々しく差し出した手を優しくしっかりと握りしめていたが、やがて自分の首から十字架を外すと少年の首にかけた。
「あなたを神様が守ってくださいますように」

 マックスは、この女性はなぜ自分がこのような目に遭っているのかを知っているのだと思った。ディミトリオスの様子や、一目で分かる高貴さから、この方はもしかすると王太子の縁者なのかもしれないと思った。王太子のために自分がこのような苦しみを受ける事を知っていて、それでいつも格別に優しくしてくれるのかもしれないと。そうだとしたら、このひどい役目に選ばれた事も悪い事ばかりではないのだと思った。

 馬を進めながら、マックスは子供時代の想い出に浸っていた。《黄金の貴婦人》のくれた十字架の効果かどうかはわからないが、彼は無事に生き延びた。老師に飲まされる毒にも次第に体が慣れて、かなり強いものを飲まされても何ともなくなってきた。

 マンドレイク、ウェラトゥルム、絹の道のナッツ(ストリキヌス)、ドゥルカマラ、オピウム、ヒヨス、ヘレボルス(クリスマスローズ)、つる草の毒野瓜(コロキンテ)、毒ニンジン(コニウム)、去痰に使われるブリオニア、ベラドンナ、ハエ殺しのキノコ(アガリクス)、毒矢草(トリカブト)、踊蜘蛛(タレンテュラ)、クロタロス(ガラガラヘビ)、蜂、南の玉虫(カンタリス)。どれを使ってももはや彼を簡単に殺す事は出来ない。本来は現在の国王であるレオポルド二世を毒殺から守るための老師の策が、マックスを粉ひき夫婦の奸計から救った。皮肉な事だなと彼は笑った。

 あの女はよりにもよってこの十字架を盗ろうとしたのだ。彼は黄金の十字架に手をやった。《黄金の貴婦人》の優しい手の感触が甦る。あなたがいつも私を守ってくださるのですよね。彼は馬を進めて行った。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(9)氷の宰相

だんだんチャプター1も終わりに近づいてきました。これまでほとんど何もしていなかったラウラがようやく小説の筋の流れに乗ることになります。道先案内人は、もと聖職者という異例の経歴を持った新宰相イグナーツ・ザッカです。少し長いですが、途中で切るような内容ではないので、そのまま載せてしまいます。

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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(9)氷の宰相


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「あの、ラウラさま……」
マリア=フェリシア姫付きの召使いエレインが呼びかけた。ラウラはその戸惑った様子にすぐに氣がついた。

「どうしました?」
「その、宰相さまが、姫さまとラウラさまにお会いしたいと、おっしゃって使いをよこされたのですが……」
「姫が、なんとおっしゃったの?」
「その……。『氷は鍾乳洞にでもこもっていればいい、坊主に興味はない』と」

 周りの召使いたちが思わず笑い声をもらしたが、ラウラがにこりともしなかったので慌てて咳払いをしてごまかした。

 彼女はため息をついて、立ち上がった。
「わかりました。宰相殿はどちらに?」
「孔雀の間でお待ちです」

 彼女は左腕に覆い布を被せると、宰相に会うために出て行った。

「ねえ。宰相さまが姫さまに何の御用があるんだと思う?」
アニーは親友であるエレインに問いかけた。エレインは首を傾げて答えた。
「わからないわ。でも、ここのところ、多いのよね。ヴァンクール様は一度だって姫様に会おうとなさらなかったのに」

 アニーは口には出さなかったが、あの姫様に会ったって、国政の事なんかまるで関心がないのにと思っていた。さらに、亡くなられた前宰相ヴァンクールさまとは、ずいぶん違うやり方をなさるおつもりらしい、そう思った。

「お待たせいたしまして、申し訳ございません」
ラウラは、孔雀の間に入ると、窓から外を見ている黒衣の男に声を掛けた。男はゆっくりと振り向いた。
「これは、バギュ・グリ殿。つまり、姫はお見えにならないんですね」
「お見えになりません」

 彼女は理由を言わなかった。嘘をついても、この鋭い男には通じない。
「構わないのですよ。どちらにしても、姫とはあなたとするようなディスカッションは期待できません。かといって、声をおかけしないわけにもいきませんからね」

 彼女は顔色一つ変えずに口を開いた。
「姫や私とお話をなさる事が、どうして必要なんですか」
「姫は将来この国の女王となられる方です。ふさわしい判断力を持っていただく必要があります。それが出来ないのであれば、補佐をする方に正しい判断力を持っていただかねばなりません」

「私は姫が女王になる時に、ここにいるとは思いませんわ」
「なぜです?」
「あと一年で姫が二十歳になられると、私の役目は終わるからです。姫がその後も私を必要とされるとは思いません」

 ラウラはマリア=フェリシア姫が鞭打つ楽しみを失ったあとも自分に側にいてほしいと思うほど好かれていない事をはっきりと自覚していた。そしてそれは残念な事ではなかった。現在のような暮らしはもう二度と出来ないだろうが、良家の子女の家庭教師や女官としての仕事ならいくらでも見つかるに違いない。少なくとも自分の力だけで生きていけるだけの教育を授かった事をありがたく思っていた。

「姫があなたになんとおっしゃったかはわかりませんが、少なくとも国王陛下はあなた以上の補佐の出来る女性を簡単に見つける事が出来るとは思っておられませんよ」
「補佐の女など必要ないではありませんか。たとえ、姫がすぐに戴冠せねばならない事になっても、あなた方、廷臣の皆様が実際の政治をなさるのでしょう」
ラウラは言葉を選びながら、真剣に答えた。

 本当に女にしておくのは惜しい。《氷の宰相》は感心した。

 先日、国庫の財政状況の改善について、姫の意見を伺った時にも、姫と他の女官たちが馬鹿にしたような顔で興味のなさを露呈したのに、ラウラだけは建設的で意味のある意見を口にした。もちろんザッカにしてみれば、理想に走りすぎた優しい意見に過ぎなかったのだが、少なくとも彼女は国庫にとって重要な意味を持つ通行税や関税の減少について知っていたし、タタム峠に至る《シルヴァ》を横切る道の整備でグランドロンに流れた商人たちを呼び戻せる可能性に言及した。他の女官たちは、タタム峠がどこにあるかもわかっていなかったのだ。

 女たちは衣装と遊びにしか興味がない愚かな存在だと、ザッカは思ってきた。そのくせに、自分の利に関する事に関しては、後先を考えずに政治に口を出そうとする、厄介な存在だと。女には冷静に物事を判断する能力が欠けている。だが、この娘だけは別だった。大臣にも匹敵する知識と能力があるにもかかわらず、女である故に政治に関わる事はないと冷静に自分の立場をわきまえている。意見ははっきりというが、それを受け入れてもらえる余地があるとは思っていない。その冷静さを知って以来、ザッカは彼女に一目置くようになっていた。

「姫には、あなたが必要ですとも」
ザッカは不敵な笑みをもらした。彼女にはその意味が分からなかったが、問いただしたいとも思わなかった。

「私をお呼びになったのは、その話をなさりたいからではありませんのでしょう?」
「違います。今日は、聖カタリナ修道会の閉鎖について、姫とあなたのご意見について伺うつもりで参ったのですが……」

 彼女が黙って宰相の次の言葉を待っていると、彼は考え込むような顔をして言葉を切った後、不意に言った。
「憶えていらっしゃいますか、前回、お話をした時に、水路の迂回の話をした事を」
「ええ、もちろんですわ。もうじき工事が始まるとおっしゃった事も」

 ザッカはゆっくりと頷いた。
「そう。私はこれから非公式視察に行くつもりなのです。姫がおいでにならないなら好都合です。一緒に行きませんか」

 ラウラは息を飲んだ。それから頷いた。
「ぜひ行きとうございます。でも……」

「でも、何ですか?」
「私も同行して人に知られずに視察が出来るのでしょうか」

 ザッカは彼女の品はいいが贅沢な金刺繍のされたドレスを上から下までじろりと見て言った。
「その服装では無理ですな。目立たぬものを用意いたしましょう。二刻後に鐘楼に至る階段のところに一人でお越し下さい。くれぐれも他のものに見られぬように」
ラウラは黙って頷いた。

 彼女が鐘楼の階段に着くと、ザッカはもう来ていた。彼は托鉢用の茶色い粗末な僧衣を着てフードを被っていた。彼の聖職者姿を見るのははじめてだった。いつもの冷たく残忍にすら思える彼の顔が、この服装をすると厳格で敬虔な神父に見えるのが不思議だった。

 ラウラの姿を目に留めると、彼は階段の間近の床の文様を足で踏みながら不自然に手を伸ばして、少し遠くの壁を押した。今までただの壁だと思っていたところが、わずかな隙間をみせ、それは扉である事がわかった。

「ここを踏みながらでないと、開かない造りになっているのですよ」
その言葉に、ラウラは息を飲んで頷いた。

 ザッカは彼女に牛脂灯を渡して言った。
「服を用意してあります。中で着替えて下さい。着替え終わったら、ノックをして下さい。私も入りますから」

 ラウラは黙って頷いて、その扉から秘密の部屋に入った。牛脂灯の光では遠くまで見えなかったが、下へ向かう狭い階段があるのがわかった。閉まったドアの内側に、確かにドレスがかかっていた。ドレスもフード付きの外套も全て非常にくらい色で、暗闇の中では真っ黒に見えた。彼女はドレスを脱いで、その暗く荒い生地の服に着替えた。その服はラウラにはわずかに大きかったが着て不自然に感じるほどではなかった。彼女は手早く外套も身に着けると、扉をノックした。

 静かに扉が開き、僧衣の男は黙って入ってきた。そして、何も言わずに扉を閉めると階段を降りていった。

 これほど深い階段が、こんなところにあったとは! 十二年もこの城の中に住んでいたというのに、ラウラは知らなかった。これは、いざという時に秘密裡に城から出入りするための、この城の最高機密に違いなかった。階段を降りきると、石畳の暗い道が続いていた。そのトンネルの上部に時おり窓が見えた。といっても、それはほんのわずか穴が開いているに過ぎなかった。そこを通して、外界の音が漏れてくる。完全な静寂から、動物や鳥の鳴き声、樹々の間をわたる風の音、水音。

 緩やかな下りとなった後、またしばらく完全な静寂に戻ったのは、内側の城壁の下を通っているに違いない。ほどなくして、窓の光が再び見えてきた。聞こえてくるのは騒がしい街の様相だった。人々の行き交う様子、行商の声、家畜の鳴き声、扉を開けたり荷車を動かす忙しい日常の物音だ。子供の頃には彼女自身も馴染んでいた城下の風景だった。

 やがてトンネルはずっと狭くなり、行き止まりになった。ザッカはゆっくりと正面にある石を右側にずらした。そこに小さな取手があるのが見えた。彼が手前に引くと、壁は低い音を立てて横にスライドした。急に明るくなったので、ラウラは目をしばたいた。

 目が慣れてくると、向こう側は小さな民家の狭い部屋である事がわかった。宰相の目に促されて彼女はその扉から向こう側へ出た。牛脂灯を吹き消してザッカは彼女に続き、ゆっくりと扉を閉めた。部屋の側から見ると、その扉は飾り棚で覆われていて、傍目にはそれとはわからなかった。

「驚きましたか」
ザッカは口先だけをゆがめて笑った。ラウラは頷いた。
「この通路は古いものなのですか」

「ええ。城の建築当初からあったのですよ。この通路の存在を知っているものは、ほんのわずかです。国王陛下や王太女殿下も知りません。特に、あの姫に報せたりしたら、どんなに愚かな理由で使われるかわかったものではありませんからね。いざという時のために極秘にしておかねばならないのです」

 これはザッカからの口止めだった。それと同時に、宰相がマリア=フェリシア姫に対してどのような意見を持っているかの表明でもあり、大して尊敬も持っていない事をも示していた。ラウラは簡潔に答えた。
「わかりました」
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(10)村、農耕とフェーデ

マックスの旅の方もそろそろ終わりです。アニーのお里にあたる場所までやってきました。今回、彼がオブザーバとして眺める中世の世界、最後にご紹介するのは農村とそれを襲ったフェーデです。あるものの権利と正義は、ほかの者にとっては災難でしかない。それであっても人間は必死で生きていく。マックスは基本的に自分のことしか考えずに享楽的に生きたいタイプですが、それでも心を痛めています。

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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(10)村、農耕とフェーデ


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「申し訳ない、訊きたい事があるんだが」
ヴァレーズ地方に入り、しばらく馬を歩かせていたマックスは、村の外れにある畑で農民らしき男に声を掛けた。振り向いた男に対し、縁なし帽を少し持ち上げて黙礼をした。この縁なし帽はには白い羽が飾ってあるが、宮廷に出入りする時にかぶるきちんとしたものではなく、酔狂な自由民に思える程度の質素なものを使っていた。

 それでも、マックスの服装は男の身なりと比較してかなりよかった。宮廷や上流階級で教師としての仕事をする時、それからこうして一市民として人びとの間を歩いていく時、彼は常に自分を全く別の存在に感じた。時に彼は得体の知れない異国人であり、時にははるかに裕福なよそ者であり、時にはとるに足らない下層階級者だった。

 ディミトリオスからは、いくつもの言葉、古今東西の古典、哲学者や為政者の考え方、地理や文化、数学や薬学など多くの知識を体系的に学んだ。それは本来ならばマックスのように若い青年が到底身につけられないほどの量で、ディミトリオスの体系だてたメソッドによってのみ可能な教育だった。けれど、老師のもとを離れて、この二年間に彼が旅と仕事で見聞きしたすべては、全く体系的ではなくまとまった意味をなしていないにも拘らず、彼の考え方と知識に深い影響を与えた。

 僧と為政者は、全く違う考え方をした。彼らには全く違う種類の善悪や正義があった。手工業の職人と商人も全く違う考え方をした。彼らの誇りと怒りは全く違うものに向けられていた。そして町の人間と村の人びとも違っていた。

 この二年間の幾度かの失敗から、彼は村を通る時にはどのような態度と服装をすべきかを知っていた。

「なんだね」
深い緑色の短い上着を着てつばのある帽子を目深に被った農夫は、あまり歓迎しているとは思えない様相で大儀そうに言った。
「ルーヴに向かっているんだが。この近くで夕暮れまでに宿屋のある町に辿りつけないかね」
「その馬を走らせりゃね」

 マックスは肩をすくめた。
「馬が朝から脚を引きずっているんだ。まずは蹄鉄屋に行かないといけないようだ」
男は顎で村の方を示した。
「蹄鉄屋なら隣の村にいるが、あいつは飲んでいてね。今日はもう行っても無駄だよ。この村にも隣の村にも旅籠はないがね」

「だったら、この村でわずかな金と引き換えならよそ者を泊めてもいいという家を教えてくれないかね」
「どのくらいだね」
男がちらりと興味を持ったように見えたので、彼はあまり高くない旅籠で払った金額の三分の二の価格を口にした。すると男は口をへの字に曲げてから言った。
「馬に飼い葉をやらなくてはならないんだろう。それは別でいいのかね」
マックスは、少し考える振りをした。何もなければ、出る時には旅籠で払ったのよりも少し多い額を置いていくつもりだった。

 このような無愛想な男にどうしてこんな嫁が来たのかと驚く、快活な女房は彼を見ても大して驚かなかった。どうやら、村のはずれに住んでいるこの男は、これまでにも何人もの旅人に宿屋代わりに寝床を提供してきたのだろう。

 藁葺きの家は狭くて暗いだけでなく、床板が張っていなくて粘土で固めてあるだけのようだった。板張りの壁の隙間には苔が詰めてあるだけで、扉にも蝶番はなく革で止めてあった。春先とは言え、夜はこれでは相当寒いに違いないと、彼は思った。

「すみませんねえ。こんなものしかなくて」
女房は、蕪と青菜を脂身で煮たスープを木のボールに注いで言った。他には固そうなパンしかなかったから、今夜の食事はこれだけなのだろう。貧しいとは思っていたが、このあたりの暮らしは相当厳しいらしい。彼は黙って感謝を捧げて木製の匙でその薄いスープを掬った。

「去年はもっとましな生活を送れたんだが」
ジャコと名乗った農夫は、口ごもるように言った。
「去年は、センヴリもグランドロンもどちらかというと豊作だったようですが」
マックスは首を傾げていった。ルーヴランに入ってからアールヴァイルを通ってきた時も、さほど景気が悪いようには見えなかった。

 ジャコはため息をついた。
「フェーデがあったんでね」

 マックスは眉をひそめた。フェーデ(私闘)とは、ある者が別の者に権利を侵害され繰り返し抗議を申し立てても加害者が誠意を示さない時に、相手を協議の席につかせる被害者による一種の実力行使を意味する。具体的には私闘宣言をした後に相手の支配下にある土地を襲って略奪や放火などを行うのである。

 この権利は、もちろん誰にでも認められていたわけではない。貴族身分や、武器の携帯を許された「名誉ある」自由民だけの特権であった。

「この村の領主はどなたなのですか」
「ジュールさまさ。陛下の森番の長として、狩り用の別荘と森林管理をしていてね。この地方ではもっとも羽振りのいいお方なんだ。だが、上の方に見せる顔と、下に向ける顔があまりに違うお方でね。森番たちやお抱えの騎士さまたちは一つや二つではない恨みを抱いているのだ」
「フェーデのためにこの村が襲われたのはこれが始めてじゃないんですよ」
女房もため息をついた。

「今回はジュールさまが、とある騎士の妹にひどい事をしてね。その誠意のない態度は、騎士殿にとっては腹に据えかねる事だったろうよ。部下にフェーデを起こされるなんて、しょうもない話になったのさ。だが、襲われて一年間分の働きに火をかけられる我々の身にもなっていただきたい。こんな目に遭っても、年貢の方はさっ引かれる事もなく持っていかれるんだ」

 マックスは、惨い運命を心から憎く思った。貧しい暮らしの中で働き続ける事でしか生存できない人びとに何の罪があるというのだろう。

 自由民(粉屋、大工、靴屋、革なめし工、織物工など)と違い、農業や牧畜に従事する小作たちはその土地に縛り付けられていた。自分の意志で他の領主に仕える事も許されず、生まれた時にその運命が決まる彼らは、名前こそ違えども奴隷と大して違わなかった。街に行って面白いことを探したり、隣の荘園の小作の娘と結婚したりする事はできなかった。不作やこの村でおこったような不幸でも、容赦なく年貢は取り立てられた。だが、それでも多くの人間は領主に反抗したり逃げたしたりしようとはしなかった。捕まえられてみせしめに殺されたりする事も怖れていたが、それ以上に他の生き方を知らなかったのだ。

 腹にたまらない薄いスープとパン、隙間風で冷え込む寝床は、マックスの旅の中でもひときわ惨めな一泊のうちに数えられたが、翌朝その家をでる時に、彼は旅籠に三晩泊ったよりも少し多い額を渡してやった。本当はひと夏中の食料をまかなえるほどの金を置いて行くことも可能だったが、そんな事をすると生活のリズムを壊し、村での彼らの立場を難しい物にする。
「可能なら、これで少し精のつく物を買って食べなさい。この夏を乗り切る事ができるように」

 昨日とはうってかわって、ペコペコと頭を下げるジャコと女房に礼を言うと、馬にまたがって彼は隣村の蹄鉄屋を目指して去っていった。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(11)城下 -1-

宰相イグナーツ・ザッカと城下にくり出したラウラ。子供の頃に侯爵家に引き取られて以来、ルーヴの街に出かけるのははじめてです。城の中で本を読み、人から伝え聞くとの、実際に現実を目の当たりにするのでは天地の差があります。長い章ですので、来週と前後二回に分けました。今週の分はいいとして、来週の分はストーリーの根幹に関わる話です。前振り長くてすみません……。

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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(11)城下 -1-


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「参りましょう」
ザッカは小屋の扉を開けると静かに外に出た。騒がしい小路の押し合いへし合いした小さな家の一角だった。一人の貧しそうな神父と未亡人のような服装の女が歩いていても、興味を持って立ち止まるものはない。埃っぽい小路をガラガラと荷台が通り過ぎ、人々は大きな声で語り合っている。活氣のある通りだった。

 ラウラは道ゆく人の服装に目を留めた。埃っぽく擦りきれた少年たちの上着。彼らは靴を履いていなかった。女たちのスカーフやショールも色あせてくたびれていた。もう何年も同じものを使い続けているのだろう。後払いを懇願する声、商品の値段に文句を付ける輩、道の脇にうずくまるやせ細った老人。彼女は身震いした。

 子供の頃、ラウラは城下で育った。いつもお腹をすかせていた。とくに両親が病に倒れ、収入が途絶えてからは、それはひどくなった。家に家主が怒鳴り込み、金目のものを奪い取っていった。

「お医者様を呼んでくるから」
そういう幼いラウラに母親は首を振った。
「無理だよ。お医者様はお金持ちの所にしかいかないのだから」

 ほどなくして両親は相次いでこの世を去った。叔父と叔母がやってきて、そそくさと葬儀を済ませた後、家の中をかき回し残っていたわずかな金を持っていった。父親の肉屋はすぐに誰かの手に渡った。その人は叔父に何かを支払っていた。

 葬儀の間だけは、叔父の所で一緒に食事をする事を許された。その家の子供になるのだと思っていた。しかし、叔父たちはラウラを養う余裕などないと言った。なんという心ない冷たい親戚なのだろうと、彼女は思っていた。

 しかし、十二年ぶりに街の様相を見れば、叔父たちが必死だった事も理解できる。荒んだ街だ。あの塀の向こう側には、絹と羽毛に包まれた豊かな暮らしがある。先程まで彼女が身につけていた綾織りの緞子はこの人たちの何年分の収入の価値があるのだろうか。


 水路の工事現場は、隠し扉のある家からほど遠くないところにあった。サン・マルティヌス広場を抜けてしばらく歩き、堀沿いに進むとやがて二十人ほどの男たちがわずかな肌着だけを身に着け、泥の中に半ば埋まりながら作業している場所に来た。その半分ほどの数の牛馬が、のろのろと荷を引いているが、水に足を取られてなかなか上手く行っていないのが見て取れた。お互いに声を掛けあいながら作業する男たちは、脇に積み上げられた岩石を組み合わせながら器用に新しい水路を作り出しているのだが、全て人力と牛馬の力によるもので、その進み方はゆっくりだった。

「これはザッカ殿」
一番大きな声を出していた男が宰相の姿を認めた。彼は、何かを相方の男に囁くと、彼らから離れてザッカとラウラの側まで歩いてきた。残った男たちは、そのまま作業を続けた。

「宮廷用の服を脱ぎ、そなたも泥の中で働く事になったのか、ウルバンよ」
ザッカは髭をしごきながら訊いた。
「へぇ。上から監督しているだけでは、なかなか指示が上手く伝わりませんで。それに今は、一人でも多くの力がいる。ここの工事が上手くいけば、先は少し楽になるはずですから。なんですか、今回は。遅れについての報告は昨日したはずですが」
「そのことではない。工事の遅れのことよりも、安全に氣を配れ。もし、ここが崩れて大事故でも起きると、熟練した作業員を多く失う事になる。そうなると工事はもっと遅れるからな」

 水路の建設と言われて、ラウラはもっと簡単な作業を思い浮かべていた。先に土を堀り、水が入ってくるのはその後だと。ザッカの説明によるともちろんそうする場所もあるが、水路を作る時には、まず自然の地形を鑑みてもとの水系を利用し作業するというのだった。自分たちの工事に都合のいい乾いた場所に水路を造っても、何年かするうちに水が枯れてしまう事がある。それは大地に水のヘビの通っていない所に水を流そうとするからで、そうなると何年もかかった大きな工事が無駄になってしまう。だから、水路は必ず水のヘビの場所をわかっている専門家のプランに従うのだと。

「あの男は、この国で一番の『水のヘビ使い』なのですよ」
ザッカは、視察を終えてもと来た道を戻りながら、ラウラに事情を説明する時に多少詩的な言葉遣いをした。彼女は頷いた。今回迂回される水路はずっと山まで通すはずであった。工事は始まったばかりとは言え、これだけの工事をしながらのことだ、いったいいつになったら出来るというのだろう。

「心配ありませんよ。現在は専門知識が必要とされる工事なので、あれだけの人間でやっていますが、もう少し楽な局面では村から人足の供給を受けて一斉に作業させる事になっています」
「その人足たちとはどのような方々がなさるのでしょうか」

「普通は村の農民です。それに、力仕事を求めている人びとがいます。農家の次男坊、三男坊など、親の仕事を引き継げなくて手工業も手につけられなかった男たちが仕事を求めて集まってくるのです。そうした男たちには賃金を払い、農民たちの場合はこの作業と引き換えに年貢を減らすわけです」

 それからしばらく言葉を切って、通りの向こう側をじっと見つめた。その奇妙な様子に、ラウラは首を傾げた。彼が言葉をつないだ。
「そう、仕事のないものには、手遅れになる前に仕事を与えなくてはならない。食べるものを買えなくなってからでは遅いのだ。貧しさは悲惨さを呼ぶ」

 街が活氣に溢れているのに、その北の一角だけは人びとが近寄ろうとしないためにがら空きになっている空間があった。石畳の敷き詰められた灰色の一角だったが、人ひとりいない割に道は薄汚れて湿っぽかった。そしてその奥、ラウラからはよく見えないあたりにわずかに人の声のようなものが聞こえていた。

「あれは……」
彼女は戸惑ってザッカの顔を見た。

 ザッカはしばらく黙っていたが、やがて髭をしごきながら言った。
「さよう、あなたはこの国の光の部分をよくご存知だ。であるならば、影の部分を見ていただくのも決して悪い事ではありますまい。悲惨な事に直面する勇氣はおありでしょうな」

 彼女は不安に満ちてザッカの顔を見ていたが、彼はラウラの返事を待たずに歩き出した。
「こちらへ」

 暗い通りを抜けると、全く違う光景が姿を現した。その通りはひどい悪臭がした。思わずラウラは両手で鼻と口を覆った。ザッカは口の端でわずかに笑った。

 どこからともなくうめき声が聞こえる。

「あ、フランチェスコ様」
老いしわがれた声がし、振り向くと、よろよろとした薄汚れた老人がザッカの方に歩いてきていた。
「ハンスか、どうした」
ザッカはその男に声を掛けた。ラウラはフランチェスコというのがここでのザッカの偽名なのだと理解した。

「例のミリアムが昨日亡くなったんでさあ。三日ほど前に隠者のドメニコ様に終油の秘蹟をお願いしたんだが、お忙しくていまだにいらしていただけていないんで。このままでは腐りだしてしまいますわな」
「わかった。行こう」

 それからラウラの方に向いて言った。
「奥方さま。申し訳ないが、ご同行願えませんか。辛いものをお見せする事になるかと思うが、あなたをこのままこの小路でお待たせする事は危険で出来ませぬのでな」
「わかりました」
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(11)城下 -2-

宰相イグナーツ・ザッカと城下にくり出したラウラ。今回はその後編です。もともとは庶民の出とはいえ、侯爵家に引き取られてから衣食住なんの不足もない城の暮らしをしてきたラウラ。その彼女がはじめて目にする、王都ルーヴの貧民街です。チャプター1でのラウラの登場はこれでおしまいです。

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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(11)城下 -2-


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 彼女は、ザッカが躊躇せずに向かう方へと付いていった。ひどい匂いはもっとひどくなる。ハエがやたらと飛んでいる。ハンスと呼ばれた老人は足を引きずっている。よく見るとその裸足の右足のくるぶしの辺りがひどく化膿してウジが湧いているのがわかった。

 小路の向こうには、家はなかった。代わりにボロ板を寄せ集めたような醜い小屋が何十軒も押し合うように建っていた。本当は今にでも崩れてしまってもおかしくないほどに傷んでいるが、隣の同じような小屋の壁と支えあってようやく形状をとどめているのだった。ひどい匂いはますますひどくなったが、あまりにも長く嗅いでいたので彼女は既にほとんど辛さを感じなくなっていた。

 それよりも目にしているものの方がずっと辛かった。多くの人たちがうずくまってこちらをぼんやりと見上げていた。体中にハエがたかっているが、それを追いもしなかった。ハンスのようにあちこちに傷があってそこに蛆がたかっている。空腹に何も考えられなくなった諦めきった表情。

 ハンスとザッカは小路の奥の小屋の一つに入っていった。ラウラは思わず口元を手で塞いだ。それまでもひどい臭いだと思っていたが、これほどの強い悪臭ではなかった。深く息をしなければ倒れてしまいそうだったが、そうすればこの小屋に溢れる苦しさを体の中にいれる事になる。瞳を閉じて震えが止まるまでしばらくそうしていた。

 ゆっくりと瞳を開けると、暗闇に慣れた目に恐ろしい光景が浮かび上がった。骨が浮き上がった痩せた女の遺体が寝台に横たわっていた。大きく開いた口からは歯がにょきっとはみ出していた。いくつもの歯が抜けてしまっているので、残った歯は牙のように見えた。体が妙な具合にねじれて事切れている所を見ると、決して楽な最後ではなかったのだろう。ガリガリの腕や顔にただれた斑点がたくさんあった。誰か仲間が閉じてやったのだろう、少なくとも瞼だけは閉じられていた。

「この聖なる塗油により、慈しみ深い主キリストが、聖霊の恵みであなたを助け、罪から解放してあなたを救い、起き上がらせてくださいますように」
ザッカは全く平然としてミリアムの遺体に聖油を塗り、聖句を唱えた。だがその声の深い響きから、ラウラは彼が周りの人びとが言うようなただの冷たい人間ではない事を感じた。彼はこの事態に何も感じないのではない。彼はこれに慣れているのだ。黙って目を閉じて立ち会うハンスも、ここにいる全ての人びとが、この生活を毎日続けているのだ。彼女は、取り乱したりせずにこの状況を直視しようと思った。


「どうお思いになりましたか」
暗い通路の中で、ザッカの声が響いた。
「ひどい、あまりにもひどい。知りませんでした。あんな風に苦しむ人たちがいるなんて。私のお城からいただいているお手当で何かできないのでしょうか」

 カツンという靴の音がして彼が止まった。
「あなたのお手当で何かできる程度のことならば、私の報酬で事態を変えていますよ」

 ラウラはうつむいた。ザッカが再び歩き出したので、ラウラも後を追った。
「国王陛下はこの事をご存知なのですか」
「ええ。私がお伝えしましたから。しかし、陛下は自らの目でご覧になったわけではない。それに、ひどい状態なのはあそこだけではない。ルーヴランの全ての貧民街をなんとかすることは、いまの財政では無理なのです」
「でも、せめてお医者様だけでも」

 ザッカは足を止めた。そしてしばしの沈黙の後に答えた。
「彼らは貧民街になど絶対に足を踏み入れません。あそこに行くのは聖職者、しかも托鉢僧だけなのです」
ラウラは息を飲んだ。

 ザッカは低い声で言った。
「バギュ・グリ殿」
「はい」
「あなたには勇氣がある。先ほどのあなたのしっかりとした態度には感銘を受けました」
「宰相様……」

「あの困難に直面することのできる貴人は多くありません。この壁の向こうでふやけたパンのような生活をしている人間は目が曇っているのです。国力の衰えも民の疲弊も見えなくなるのです」
「私にお手伝いできることがありましたら、何でもいたします。どんなことでも」
「それは頼もしい」
暗闇で表情は見えないが、ラウラはザッカが笑ったように感じた。

 しばらく無言で歩いていたが、やがて彼は再び口を開いた。
「私がなぜ政治の世界に足を踏み入れたか、ご存知ですか」
「いいえ」
「神の家こそが、彼らを救うと信じて修道院に入りました。しかし、祈るだけでは何も変わらない。私は神が奇跡を起こすのを悠長に待つのはやめたのです」
「宰相様……」

「だが、この国を変えるためには決定的に金が足りないのです。王族のくだらない贅沢をやめさせて倹約しても、焼け石に水だ。この国は、もっとコンスタントに金を生み出す方法を考えねばならぬのです。グランドロンがあれほど大胆な改革ができるのは、国王の覇氣の問題だけではない。かの国はわが国よりもずっと富んでいる。それどころか、ルーヴランはここ百年の間に、金を生み出す土地をグランドロンに奪われた。マールも、ペイノードも! そして、それだけでは飽き足らずに我々の息の根を止めんと軍備を増強しているのです。そうなったら国中に先ほどあなたが見てきたような絶望の中で死んでいくものたちがあふれかえることになる」

 ラウラは震えながらザッカの言葉を聞いていた。
「マールやペイ・ノードを奪い返す必要があると、グランドロンと戦争をしなくてはならないとお考えですか」
「ええ。だが、我々の状況を変えるには、失われたルーヴラン領を取り戻すだけでは足りない」
ザッカは厳かに言った。思い詰めた表情だった。彼女はとても不安になった。

 そのまま僧衣を着た男は黙ってしばらく歩いた。ラウラが先ほどの話題は終わったのだと思い出した頃、突然彼は立ち止まって言った。窓から光が入ってきて、ザッカの表情が見えた。
「わがルーヴラン王国の宝の山がどこにあるかご存知ですか」
「宝の山?」
「十分な埋蔵量のある金山、豊富な鉄鉱石、そして、南へ向かう四輪車の通れる峠のある土地」

 知識を試されていると思った。彼女の知るかぎり、ルーヴランにはそのような土地はなかった。
「そのようなルーヴランの土地を私は知りません。でも、グランドロン王国に属する国なら……」
《氷の宰相》は口先だけで笑った。
「その土地は?」

「フルーヴルーウー伯爵領……」
彼女は不安な面持ちでザッカを見つめた。

「そうです。初代フルーヴルーウー伯爵夫人が誰かはご存知ですよね」
「はい」
ラウラは養女で実際に血のつながりはないが、フルーヴルーウー伯爵夫人となったジュリアはバギュ・グリ侯爵令嬢だった。そして、夫のフルーヴルーウー伯爵は、伯爵位をグランドロン王から授けられたが、もともとはジュリアの馬丁でありルーヴラン生まれであった。
 
「あなたのお父上バギュ・グリ候は《男姫》ジュリアの弟であるバギュ・グリ候マクシミリアン一世から数えて六代目。フルーヴルーウー伯爵領を継ぐ資格は十分にあります。そして、現在、伯爵位は空位だ」

 先代伯爵、フロリアン二世が不慮の死を遂げてから四半世紀が過ぎた。伯爵は毒殺されたのではないかと言われている。幼児であった伯爵の長男が伯爵位を継いだが、その新伯爵はそれから数日後に行方不明となった。

「表向きはどこかにいるはずの伯爵の代わりに前伯爵の叔母の婿ジロラモ・ゴーシュ子爵が代官として統治し、そして金山は王が直轄する形になっている」
ザッカは冷たい目をして髭をしごいた。

ラウラは青ざめた。
「どうなさるおつもりですか」
「奪回するのです。バギュ・グリのものはバギュ・グリに、ルーヴランのものはルーヴランにね」
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(12)『カササギの尾』 -1-

さて、チャプター1最後の章です。マックスがついにルーヴランの王都ルーヴにつきました。もはや誰も氣にしていないと思いますが、「今ここマップ」で、マックスの矢印とラウラの矢印が同じ場所になりましたよ。ちなみにヴェルドンに新しくついた黄色い矢印はグランドロン国王レオポルド二世の現在位置です。(それがどうした、かもしれませんね)

この章でマックスが出会う青年マウロは、ラウラの侍女であるアニーの兄です。今回も長いので二回に分けます。


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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(12)『カササギの尾』 -1-


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 今日の午後にはルーヴにお着きになるでしょう、そう言われてマックスは大きく息をした。

 旅、それはいつも危険と隣り合わせだった。今回も何度か下手すれば命を落としかねない目に遭ってきた。街道の十字路では多くの人びとが捧げものをして旅の無事を祈るのに倣ってきた。十字路の精霊への捧げものとはいくつかの矛盾をはらんでいる風習だ。唯一の父なる神とその御子に無事を祈るなら十字路ではなくて聖堂で祈ればいい事だ。それに、たとえ捧げものをしても多くの旅人があいかわらず危険に晒されている。

 だが、十字路の精霊や森に棲む何かは、救世主がこの世に送られてくるずっと以前から贈り物を強要し、人びとはそれに丁寧に応えてきた。捧げものをしても、神に祈っても、危ない目には遭う。それすらもしなかったらどんな事になるやら。ギリシャ的演繹法を叩き込まれたマックスですら、十字路や聖堂では祈り、わずかな捧げものをする。人とはそういうものだ。彼は自嘲した。だからこそ、ひとつの旅が無事に終わる事を彼は喜ぶ。

 安全な街で、心地よい城で、運良く仕事をもらえれば、何ヶ月かに渡って贅沢で楽な日々が約束されるだろう。彼はしばらくそれを幸福に思うに違いない。けれど、だからといってどこかの土地に未来永劫留まりたいとは思わなかった。しばらくすると彼の心は再びあの《シルヴァ》、暗く危険な森へと誘われて行く。リュートの優雅な響きや饒舌な男たち、浅はかで贅沢な女たちとの退屈な時間に疲れてくるのだ。もっと遠くに行きたい。もっと他のものが見たいと。それを知りつつ、彼は次第に往来を増す道を急ぐ。馬は主人の逸る心を感じるのか小走りになる。

 やがて馬は開けた丘の上に飛び出した。彼は眼下に広がる壮麗な光景に思わず息を飲んだ。赤茶色の屋根瓦の家々の向こうに立派な城が堂々とそびえ立っていた。薄緑の花崗岩の壁、オレンジ色の屋根瓦にたなびく王家の旗。ルーヴラン王国の王都ルーヴだった。

 彼はすぐに王城を訪ねたりはしなかった。長旅で疲れ、持ち物と自分自身がみすぼらしくなっているのはわかっていた。仕事をもらう時に大切なのは、相手に足下を見られない事だ。仕事が欲しくて仕方のないように見られてはならないし、重要でない人物と判断されてもならなかった。というのは、彼がそうでなくても年若く軽く見られがちであったからだ。それに王城に住んでいる人たちというのは、経験や知識など人の内部にあるものよりも、衣装やどれだけ有名な人を知っているかなどの表面的な事に囚われている事が多い。今マックスに必要なのは、旅籠と公衆浴場で休み、それからルーヴランで流行しているしゃれた衣装を購入する事だった。

 大通りを進むと、ちょうど外壁と城との真ん中ぐらいのところに大きな広場があった。サン・マルティヌス広場である。ここを起点に旅籠探しを始めるのが効率的だろうと思った。彼はまず城を正面に見て右手の道を進んでみることにした。

 その道は袋小路になっていて、しかも狭く複雑な迷路のようだった。彼は歩きながらいぶかしげに小さな家の間を覗き込んでいたが、ついには馬の両脇についた荷物の幅が道幅ぎりぎりとなってしまい、もと来た道へと引き返すことに決めた。が、実のところその頃には自分がどこにいるのかまったくわかっていなかった。

「旅のお方。どちらへいらっしゃるのかね」
声に振り向くと、質素ながらもわりときちんとした服装をした青年が立っていた。

「初めてルーヴに来たんだ。心地が良くてあまり高くない旅籠を探しているんだが、どうやら間違ったところを探して迷ってしまったみたいだ」
率直にマックスが答えると青年はからからと笑った。
「ここでよかったですね。もう少し向こうにはぞっとしない光景の貧民窟があって、とんでもない病をもらうことだってありますからね。もっともここにも旅籠はありませんが」

 そういうと、すっと馬の手綱をとり、右側の道へと誘導した。その動きがとても自然で、馬もおとなしく従ったので、マックスはこの男が馬を扱いなれた、多分従僕のような仕事をしている人物なのだろうとあたりをつけた。

「市場からさほど遠くないところに、私どものいきつけている『カササギの尾』という旅籠がありましてね。面倒見のいい人好きのする女将と、無口だがうまいものを食わせてくれる主人は、旦那のお氣に召すと思いますよ。まずはそこに言って、ご自分の目で確かめられてはいかがですか」

 マックスは頷いた。長い旅の間に身につけた勘によって、彼は自分をだまそうとする人間の誘い方と、好意のある人間の誘い方をだいたい見分けられるようになっていた。その『カササギの尾』がいい旅籠かどうかも実際に自分で見てみればだいたいわかる。もし二三日逗留してよくないと思ったら、それから別に移ればいいことだ。そう思って、まずは青年についていくことにした。

「ありがとう。マックスと呼んでくれ。君は立派な家に勤めている従僕のように見えるけれど、僕の予想はあたっているかな」
そう訊くと青年はにっこりと笑った。
「その通りです。私はマウロと申しまして、お城の召使い、主に馬周りの仕事をしているんでさ」
「ほう。だったら、僕がうまく仕事をもらえたらまたお城で再会できるかもしれないね。ときに僕はどんな人間に見えるかい?」

 マウロはじっと彼を上から下まで見た。お城で仕事をもらうと言っていたけれど、自分のような召使いの仕事をするようには見えない。
「難しい問いですな。旦那は商人には見えないし、遍歴職人でもなさそうだ。かといって、王宮の騎士に加えていただこうとするお金持ちの貴族さまならこんなところにいないでしょうし」

 彼は笑った。
「実は、王女さまの教師を探しているという話を聞いて、やってきたんだ」
マウロはぎょっとした顔をした。
「旦那が? そんなにお若いのに王宮の教師の資格をお持ちなんですか?」
「ああ、実はそうなんだ」

「でも、だったら『カササギの尾』なんかじゃなくて、貴族さまのお泊まりになる『白鷲亭』にご案内しないと」
「いや、そういうところには行きたくないんだ。もし、仕事をいただいたらその手の連中とばかりつきあうことになるだろう? 僕はどちらかというともっと街の実際に生活を支えている人々の間で、この国のことを見聞きしたいんだ」

 マウロはマックスのことをじっと見た。
「変わった旦那だ。達者に話されていますが、ルーヴランのお方ではないのでしょう。どこからおいでなさった」
「僕はグランドロン人だ」
「というと、姫さまとご縁談の進んでいる王様をご存知なんで」

「まあ、接見はしたけれど、話をしたことがあるって訳じゃない。師の付き添いで祭儀の数合わせで行ったけれど、ずっと頭を下げていただけさ」
「率直なお人ですね。いくら自慢しても私にはわかりませんのに」
「僕は口先の嘘で世の中を渡ったりすることが嫌いなんだ。必要があれば、若干のはったりは使うけれどね」

 そんな話をしている間に、二人は迷路のような小路を抜けてサン・マルティヌス広場に出た。市場が立っていて騒がしかった。肉や魚の血の臭いがして、足下には野菜の切れ端や犬の糞が転がっていた。人々は喧噪に負けないように大きな声で怒鳴り合っていた。

 彼はマウロと馬について市場を横ぎり、別の小路へと入っていった。すぐに黒と白の尾の長い鳥の看板が目に入った。賑わっている料理屋からはスープのいい匂いがしていた。マウロは扉から顔を突っ込んだ。
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(12)『カササギの尾』 -2-

さて、今回でチャプター1が終了です。小説でいうと三分の一が終了しました。なのに、まだ主人公とヒロイン出会っていません。

今回は、下層社会に馴染みながら旅をしてきたマックスが、上流階級に自らを合わせていくための変身といったところでしょうか。実際には、こんな風にいくつかの階層を自在に生きた人間は少なかったと思います。でも、いなかったとは言いきれません。


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「いらっしゃい、マウロ!」
奥から声がして女主人がこちらへやってきた。

「マリアンヌ! お客さんだ。心地が良い宿をお探しなんだと。部屋はあいているかい?」
「ああ、もちろんだとも。まだ日も高いからね」

「マックスの旦那、部屋を見られますか? その間、私が馬を見ていますよ」
マックスは首を振った。
「部屋は見なくてもいい。君が保証するなら、清潔に決まっている」

 二人のルーヴラン人は顔を見合わせてから、満足そうに笑った。グランドロン人がルーヴラン人に嫌われるのは、すべてを自分の目で見てコントロールしたがり、あらゆることにケチを付けたがるからだ。だいたいにおいて、ルーヴランの宿はグランドロンのそれほど清潔ではないことが多い。だが、それを指摘して何になるのだというのだろう。多少しわのよったシーツと、このいい香りのする料理を天秤にかけなくてはならないなら、マックスは喜んでルーヴランの平均的旅籠を選ぶだろう。

「ところで、マックスの旦那。ずいぶん荷が軽いようですが、後からお荷物が着くんですか?」
マウロが馬から外した荷物を運び入れながら訊いた。

 マックスは少し微笑んで答えた。
「いや、荷は届かない。その代わりに、僕はまともな服装を揃えなきゃならないだろうな。マウロ、いい仕立て屋と靴屋を知っているかい?」

 旅籠の女主人マリアンヌとマウロは再び笑った。こうしているうちに、彼らと以前からの友人のようにすっかりと親しくなってしまったのだった。

 旅籠『カササギの尾』には、母屋の上にごく普通の客室もあったが、流行っている居酒屋ゆえ毎晩の酒盛りで安眠が妨げられる怖れがあるとマリアンヌは告げた。マックスは長期滞在するつもりだったので、離れの部屋を借りる事にした。居酒屋の裏の小路を少し進んだ奥にあって、通りの喧噪からわずかに離れただけなのに驚くほど閑静に感じられた。寝室兼居室は暖炉で暖かく、もう一部屋はその火で簡単に食事なら自分で煮炊きもできる小さい台所のようになっていた。これなら朝、暖かい湯で顔を洗う事もできる。マックスはこの新しい住居がたいそう氣にいった。

 とはいえ、自分で料理するつもりには全くなれず、『カササギの尾』に早速戻って、親爺の自慢のスープを頼んだ。この居酒屋がいつも混んでいるという理由はすぐにわかった。ここにいる間に太ってしまうかもしれない。マックスは思った。

 二日明けた朝、マックスは公衆浴場へと向かった。都市の浴場は貴族から乞食まで広く開放されている。もちろん乞食が自分で代金を払えるわけではない。公衆浴場は月に一度、開放されて貧民や乞食など普段は入れない人びとも自由に入場できる。この費用は貴族や街の富豪たちの喜捨でまかなわれており、入場する時には主には既に死亡している寄進者の魂の救済の祈りを唱えることになっていた。開放日は浴場は汚れて得体の知れない者でいっぱいになるので、自分で払って楽しみたい客は行かない。そして、その翌日も、まだ前日の奇妙な臭いが残っているという理由で、ひどく空いているのだった。彼がわざわざ選んだのはこの朝だった。

「変わったお客さんだね。わざわざ今日を選んでいらしたんですかい」
浴場の親父は目を丸くした。
「そうだ。少し念入りにしてもらいたいんでね、君たちに時間がたっぷりある方がいいんだ」
「なるほど。それでは、まずこちらからどうぞ」

 親父はトビアスという名の青年にマックスを案内するように言った。トビアスはかしこまって彼を奥へと連れて行った。

 脱衣室で衣服を脱ぎ、まずはトビアスにカミツレの入った灰汁をかけてもらってからマッサージを受ける。全身をくまなく揉み解してもらい旅の間に強ばった筋肉を弛緩させる。それから小部屋の寝台に横たわる。すぐ側の真っ赤に熱せられた石に水が掛けられると、部屋は蒸氣でいっぱいになる。しばらくはそうしてサウナで汗を流す。トビアスはその間も白樺の細い枝を束ねたものでマックスの全身の皮膚を叩いていた。乾燥しささくれ立った手足の皮膚も丁寧に削ってもらう。

 サウナの次は洗い場だ。上級のコースを頼みさらに割増賃も払ったので、トビアスは高級な石けんを使い、身体と髪を丁寧に洗っていく。
「ずいぶん絡まっていますね、旦那さま」
「悪いが貴族の頭みたいにしてくれ」
マックスは頼んだ。トビアスは無理難題を言われると奮い立つ性質らしく、絡んだ客の髪を狂ったように梳いて、丁寧に洗い、どこに出ても恥ずかしくない状態にしてくれた。そういう訳で、彼がさっぱりして階下に降りて行くと風呂屋の親父すら驚くほど清潔で綺麗になっていた。

 浴場の次に訪れたのはマウロとマリアンヌに薦められた仕立て屋で、マックスはここで何着かの登城用の服をこしらえた。彼は一点は式典の時にも着用できる袖がふくらみ、襞もたっぷりある絹織物で、色は深い青にしてもらった。本来はもう少し明るい青が好きなのだが、式典ともなると服装にもうるさい輩が多いだろうから、わずかでも高貴に見える色合いにしてもらったのだ。当然染色の手間がかかるので値段も張る。残りの数着は少し色合いの違う明るい青の上着と、流行のスカーレットの毛織物の上着。これに脛までの麻のズボン、白いシュミーズ、絹のタイツに、滑稽なほど先の尖って反り返った靴など、宮廷で必要な服装を取り揃えた。

 こうした馬鹿げた服装は値段も張るが、とにかく布の量が多くて持ち運びが不便だ。だから彼は旅の間中持ち歩くことよりも、こうして必要な時に仕立てることを好む。これらの金額があれば、旅では一ヶ月以上楽しい思いが出来るだろう。だが、しかたがない。この衣装なしでは王女の教師の職は手に入らないだろうから。彼は王宮を訪ねる段取りについて考えはじめた。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(13)グランドロンからの教師

今回からチャプター2です。ようやく、交互に登場していた主人公とヒロインが出会って同時に話が進行していくようになります。

さて、普通は主人公とヒロインの出会いというのは、電撃的に恋に落ちないまでも、もう少し好印象なものだと思うのですが、なんだか、そんな感じはほとんどありませんね。


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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(13)グランドロンからの教師


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 日の長さが明らかに夜よりも長くなってきた頃、王太女マリア=フェリシアには新しい教師が付けられる事になった。グランドロンの言葉、宮廷の作法ならびに歴史に詳しい教師を探していた所、グランドロンの王の教育を担当した当代一の賢者ディミトリオスの門下の者を迎える事が出来たのだった。

 七十五歳はとうに超えたと言われる賢者の弟子にしてはあまりにも若く見えたので、ザッカは驚いたが、少し話してみれば、何を訊いても的確な答えが帰ってくる。これほどの才を持つ者であれば、なるほど賢者が最後の弟子に選ぶのも納得がいくと思い直した。

「それで、ティオフィロス殿、そなた、歳はいくつになる」
ザッカは訊いた。
「先月、二十六となりました」
柔らかい栗色の髪と深い海のような瞳を持つ若者は、有名な《氷の宰相》の前にも臆する事がなかった。

「賢者殿にはどのくらいついたのだ」
「私が十になった時に、屋敷に引き取られ、二年前に国を出るまで教えを受けました」

 ザッカは多少驚いた。
「賢者殿は、そのように若い者の教育までするのか」
「私が最初で最後でございました。何かと手がかかりましたので、懲りたのでありましょう」

 賢者と十四年も寝食を共にしたとあっては、そこらの学生上がりとは違うはずだ、ザッカは黙って頷いた。

「そなたに期待される役目であるが……」
宰相は髭をしごきながら言った。職を得た事を知った青年は微笑みながらかしこまった。

「期間は三か月、可能な限り多くのグランドロンの知識を伝えていただきたい。学問だけではなく、作法や宮廷で踊られるダンスなど、姫があちらの宮廷でグランドロン人のごとく振る舞えるようにしていただきたい。生徒は二人だ。当然ながらグランドロン国王とのご縁組みが進んでいるマリア=フェリシア王太女殿下。そしてもう一人は姫の《学友》と呼ばれる女官だ」
「《学友》……。ああ、こちらの宮廷にはその習慣がございましたね」
マックスは頷いた。


 これは、対照的な。これが二人の生徒に対するマックスの最初の印象だった。この二年間、旅をしながら各国の貴族の家庭で教師を勤めてきた彼は、一目で王女が簡単な生徒でない事を見て取った。王女は噂に違わず美しかった。燃え盛る炎のような輝く赤毛に明るい緑の瞳がよく映えた。丸く白い顔にきりっとした小さめの鼻、赤く少し突き出た薄い唇が駄々っ子のようで魅惑的だった。男としてはその顔に魅力を感じても、教師としては手強さを感じた。太い眉や少し尖った顎は、生来の強情さを示している。その瞳の輝きは誰であっても見下し馬鹿にしてきた、王女ならではの傲慢さに満ちていた。

 一方、その後ろに控えるバギュ・グリ侯爵令嬢と紹介された娘の方は、とても令嬢には見えなかった。どこかの、具体的に言えば深く神秘に満ちた《シルヴァ》の森で、何十年も隠遁生活を送ってきた隠者か、戦争と飢饉に苦しむ辺境地からようやく戻ってきた兵士のような、悲しみをたたえた瞳が印象的だった。王女とさほど変わらぬ、質のいい衣装に身を包んでいるが、色目が全く違った。

 王太女のドレスは明るい朱の地色にクレマチスの文様が浮かび上がっている。金と緑をねじらせた縁飾りが広く露出したデコルテラインを強調していた。《学友》のドレスは熟成したワインの色だった。わずかに光沢のある綾織りで、細かい菩提樹の葉の柄だった。首の付け根近くまで覆われた丸衿で、肌の露出は最低限だった。しかも彼女は長袖を着ていた。冬の終わりの椎の葉の色をした髪はきっちりと後ろで結わえられ飾りは最小限だった。つまり、こちらの娘は全く華やかさに欠けていた。よく見れば、整った弓形の眉と焦げ茶色の意志の強そうな瞳、そして聡明そうな優しい額など、美しいと判断していい素材を持ち合わせていたが、礼儀正しすぎる程の佇まいが堅く、女性としての魅力はほとんど感じられなかった。

 二人はほぼ同じ歳だと聞いていたのだが、マックスには十年以上の歳の開きがあるように思えた。

「本日より、特にグランドロンに関する事をご講義いただくティオフィロス先生です」
宮廷奥総取締のベルモント夫人が紹介した時に、マリア=フェリシア姫はことさら馬鹿にしたような顔になった。
「馬鹿みたい。私と結婚したいならグランドロン王がルーヴランの言葉を憶えればいいじゃない」

 ベルモント夫人はコホンと咳をしたが、マックスは全く物怖じせずに答えた。
「我が師の言葉によればレオポルド二世陛下は私以上にルーヴランの言葉をお話しになれるそうですよ。ただ、宮廷の者のレベルはそれほど高くないんです。あちらで王太女殿下が命令をお下しになるおつもりならば、グランドロンの言葉を習われるのは、そう無駄にはならないと思いますね」

 部屋にいる姫以外の全ての者は、国の力の差を全く認識していない浅薄な王女がグランドロンでどれほど馬鹿にされるか薄ら寒く思ったが、それを全く感じ取っていない当人は、この教師の言葉に一理を見いだしていた。

 マックスは授業を始めるにあたって二人の生徒にグランドロン王国とレオポルド二世に対する印象を訊いた。
「国土は広いけれど、寒かったり辺境が多いんでしょう。殺風景なお城と、軍隊が強いけれど粗野な廷臣たち。違う?」
マリア=フェリシア姫は容赦がない。マックスは苦笑した。

「ルーヴのお城の華やかで装飾の美しいこと、それに比較するとヴェルドンの城は確かに装飾は少ないことかと思います。ただ殺風景というほどの簡素さでもないのでご安心くださいませ。廷臣の方々も、詩歌やリュートの腕前は存じませんが、殿下の前で醜態は見せないほどには礼儀作法を心得ているものかと思われます」

 それからラウラの方を見た。
「バギュ・グリ殿。あなたはどのような印象をお持ちですか」

 ラウラは困ったように答えた。
「厳格で、秩序を重んじ、曖昧さを許さないという印象がございます。先の国王陛下も、レオポルド二世陛下も、どちらかというと好戦的であられると伺っていました」

「なるほど。確かに現在のグランドロン王国では、体系だった軍事訓練に非常に力を入れ、さらに新しい技術の開発にも余念はございませんが、とくに他国に対して好戦的ということではないかと思われます。むしろ守りを強固なものとするために、以前よりも王国内で国王への求心力を高める努力をしているのでしょう。これは国王が多くの廷臣よりも年若いということもあるのでしょうね」

「でも、レオポルド様って、政治なんてそっちのけで、女遊びが尋常じゃないんでしょう?」
姫の質問にマックスはどきりとした。姫だけでなく控えている女官たち、そしてラウラも眉をひそめている。若いご婦人がたには許しがたいことなのであろう。マックスの目は宙を泳いだ。

 尋常でないかは別として、グランドロン現国王が何人もの下賎な娘たちを城に呼び騒いでいるという話は、一度ならず聞いたことがあった。それも、噂ではなく、国王の教育責任者をずっと務めているディミトリオスの口からだ。

 老師ディミトリオスは若き国王の女遊びに諸手を挙げての賛成ではなかったが、それでもやめさせようとは思っていなかった。

「何故ですか?」
まだ初な少年だったマックスには、それはとても軽はずみで馬鹿げた振舞いに思えた。もしかしたら国王は暗君であるのかと心配すらした。しかし、ディミトリオスは笑った。

「臣下が憂慮すべき事態というのは、そういうものではない。もし、王が宮廷女官の一人に懸想し、その女や親族に地位や領地を与えたりしだしたら、それこそ由々しき問題だ」

 レオポルドが呼ばせている女たちは彼の個人的な好みとは関係がなかった。ベフロアという女の仕切る高級娼館が恥ずかしくない程度の口を利ける女たちを適宜選んで派遣しているだけだった。同じ女がくりかえし来る事もなかった。

 マックスは旅に出てから女遊びを覚えた。仕事が終わった後には居酒屋に行き、女たちと楽しく恋の駆け引きをする。寝室に連れ込む事に成功し、しばらく短い恋の花を咲かせる。その土地を離れるまでの楽しいゲームだ。だから、国王が女と遊ぼうと特に悪い事だとは思わないようになった。彼は居酒屋には行けないから城に呼んでいるだけだ。

 だが、すべての人間がマックスと同じような寛容な意見を持っているわけではない事も彼は知っていた。女性、とくにこれからその男の妻になるやも知れぬ女にとっては、そのような噂は聞き捨てならぬであろう。彼にとってこの際重要なのは、自分の意見でこの話が破談になったりしない事であった。それはとりもなおさず彼自身の失業を意味するから。

「畏れながら、私はその噂の真偽については存じませぬ。少なくとも政を疎かにしてまでということはございますまい。それに、どのように女癖の悪い男であろうと、姫のようにお美しい貴婦人を一目見たが最後、二度とくだらぬ遊びはしなくなるものでございます」

 我ながらひどい戯言だ。マックスは心の中で思った。彼はその場にいたもう一人の娘の眉が、悲しげに歪んだ事には氣がつかなかった。
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(14)白薔薇の苑 -1-

ちょうど中世のお城をいくつかみて帰って来た所ですが、その目でこの小説の記述を読み直してみても、幸いな事に大きな違和感はありませんでした。あ、わざわざ詳細な記述を避けていた所も多いのですが、書いた所に関しては大丈夫だったのでひと安心。

今回も少し長いので来週と二つに分けました。切るとしたらここだなという所が大体半分だったのでよかったのですが、ここには白薔薇の苑は出てきませんでしたね。まあ、いいや。


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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(14)白薔薇の苑 -1-


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 それからマックスはほぼ毎日城へやってきた。城内に住居を用意すると言われたが、わざわざ断り、『カササギの尾』に留まる費用だけを王家に払ってもらうことにした。

 王家としてはその事には異存はなかった。サン・マルティヌス広場は王宮から近くいざという時にはいつでも呼び出せたし、『カササギの尾』の一日の滞在費用は王家にとって午餐の一人分にも当たらぬものであったから。王宮では、一日三食の食事が出された。比較的簡素な朝食、それからたっぷりの酒とご馳走のでる昼食と夕食である。スープが出た後、豚肉、羊肉、牛肉、家禽などを二種類から三種類、それぞれ別の調理法で煮たり焼いたり冷製にしたりして合計で九種類ほどの料理として次々と提供する。これに豆類や様々なフルーツなどが加わり、大量のパンとともに提供された。食事時間は二時間以上に及び、マックスには退屈だった。立派な服装で食卓につかなくてはならないのもうんざりだった。

 宮廷を一歩出ると、もっと簡素な食事が待っていた。豆や野菜や穀物のごった煮スープや、わずかな肉を干したり刻んだりした食事だ。それに『カササギの尾』には常連としてマウロや親友のジャックが《肉まな板》をよく運んできたので、人びとはこれを楽しんだ。《肉まな板》とは、王宮で肉を切る時のまな板代わりに使われる固いパンで、食事の後には貧民や動物に与えられていたのだ。肉汁をたっぷり吸っているため、肉を食べられない貧しい客たちにも好評だった。

 マウロやジャックとは、宮廷でも『カササギの尾』でも、よく顔を合わせた。ジャックは召使いで、主に広間で顔を合わせる事が多かった。もちろん宮廷では「ティオフィロス先生」に召使いが声をかけるなどということは許されないので、目礼をするだけである。馬周りの仕事をしているマウロも同様だ。だが、二人と『カササギの尾』で親しく話をするうちに、マックスはマウロが、バギュ・グリ侯爵令嬢ラウラに使える召使いアニーの兄であることや、そのアニーの親友である姫の召使いエレインとジャックが恋人同士であることも知ることになった。それで、彼は表立っては訊けない姫君の評判や、ラウラの立場についても少しずつ知ることとなったのである。

* * *

「ねえ。レオポルド様って、サルのように醜くて、矮人のように背が低いの?」
マリア=フェリシア姫は、極楽鳥の羽で出来た大きな扇で左右から侍女に風を送らせていた。その妖艶で自信に満ちた笑顔は、明らかに容姿の劣る存在を馬鹿にしている事を示していた。マックスはその言葉の奥に込められた自分の出身国の支配者に対する侮辱に腹を立てたりはしなかった。国力の違いは誰の目にも明らかであるし、容姿にしか興味のない多少資質に問題のある王女が担う予定のこの国の未来にもさほど興味がなかったからだ。

「姫様がお話になっておられるのは、現国王であるレオポルド二世陛下の事ではなく、かのブランシュルーヴ王女と結婚なさったレオポルド一世陛下の事でございますね」
「あら、違うわ。そっちがサルみたいに醜い小男だったのは百も承知よ。私が言いたいのは、なぜ前国王がよりにもよってそんな醜い男と同じ名前を付けたのかってことなの。生まれた時にあまりに醜かったからそうしたのかなって思ったのよ」

 いくらか常識を心得ている女官たちはあまりの無礼な物言いにぞっとしたが、マックスがそれに構う様子もなかったのでホッとした。間もなく実現するはずのグランドロンからの使者との謁見で王女が何を言いだすかと思うと彼女たちの心は重くなった。

「前国王陛下は、容姿の事でお名前を付けられたのではないと思われます。現に国王陛下はレオポルド一世陛下の再来と言われるほどに力強く版図を拡大され、国内の事業を勇猛に進められています。その意味で、ブランシュルーヴ王女の再来との評判高き美姫である姫様とは真にお似合いかとお喜び申し上げます」

 全世界でかつて存在した事がなく、これからも存在しないであろうと謳われる美女、ブランシュルーヴ王妃と比較するとは我ながらおべっかにも程があると思ったが、姫の方はまんざらではないと思ったらしい。
「じゃあ、そんなにみっともないお姿じゃないと期待していいわけ?」

 彼は微笑みながら答えた。
「私めは女性ほどには男性の容姿に興味を持つ方ではありませぬが、わが君主はなかなかの男丈夫かと思われます。背は私よりも頭半分ほど高く、まっすぐ艶やかな長い黒髪をしておられます。大変な自己克己の持ち主でおられ、日々剣の鍛錬も怠られぬため、しっかりとした胸板と肩幅、甲冑を身に着けられたお姿は惚れ惚れするほどでございます。ただし、これは私めの意見、目の肥えられた姫様がご自身で判断なさるとよろしいでしょう」

 姫は複雑な顔をしていた。縁談の進んでいる相手が醜いサル同様の容姿でない事は歓迎すべきニュースのように思われたが、そのように屈強で粗野な男が、自分の美しさを本当に理解して大切にするつもりがあるのかどうか不安だったのだ。王の女遊びの噂についても真偽が確かめられていないし、出来る事ならばこの話をどうにかして断りたいと思っていた。その一方で、実際に有名なグランドロン国王に会い、「何と美しい姫君だ」と言わせてみたいとも思うのだった。

 マリア=フェリシア姫が執拗にグランドロン国王の容姿について問いただしている間、側に控えていたラウラは窓の方へと顔を向けていた。彼はその様子に氣がついて、《学友》の娘をそっと観察した。ラウラには容姿がどうこうという以前に、グランドロン王レオポルド二世に対しての不快感があるように見受けられた。

 センヴリで働いている時にもそうだったが、グランドロンとその国王に対して好意的に受け止められていることは少なかった。ルーヴランでも、センヴリでも、グランドロンという国は面白みのない冷たい人間の住んでいる土地という印象が強いらしい。加えてここ数世代のグランドロンの版図拡大と戦争の記憶からか、恐ろしい人びとと思われていることすらある。この数十年の間にマールとノードランドを実際に失ったルーヴランの王宮でグランドロン国王がよく思われているはずはないと思っていた。

 けれど、それを差し引いても、ラウラの不快そうな表情にはひっかかる。結婚の話が進んでいるのは姫の方なので、そのことを氣にする必要はないのだが、他のことには理性的なものの見方をするこの娘らしくないと訝った。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(14)白薔薇の苑 -2-

二つに分けた章の後編です。ようやく、主人公とヒロインが一対一で会話を交わす、しかも薔薇の苑で。もっとロマンティックでもいいと思うんですが、まあ、実際にも、こんなものでしょう。

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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(14)白薔薇の苑 -2-


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 その日の午後は授業がなかったのだが、マックスは進捗状況をザッカに報告するために登城した。簡単に報告をしている間、向かいの広間で矮人である道化師に滑稽な踊りをさせているマリア=フェリシア姫とその仲間たちの馬鹿げた笑いが聞こえてきた。マックスもザッカもそのためにわずかに言葉を切った。彼は不快感が顔に出ないように骨を折ったが、ザッカは隠そうともせずに首を振った。
「まったく……」

 報告を終えると退出するために彼はザッカの為政室を出て、王女のいる広間の前を通らないように裏庭に近い方の階段を使った。そこは大きなバルコニーヘと続いていた。こちらに来ることは滅多になかったので、彼はゆっくり歩くことにした。

 バルコニーから眺める景色はなかなか美しかった。すぐ下には中庭となっている白薔薇が咲き乱れる苑があった。見事に手入れされており、その手間は大変なものであろうが、王女や取り巻きの女官たちは全く見向きもしていないようで、人影もなかった。おや、そうでもないな。彼はつる薔薇の間をゆっくりと進む深緑のドレスに目を留めた。そう、午前中に教えていた生徒の片方だ。

 あの娘は、いつもあのように一人なのだろうか。マックスは、後ろから響く王女たちの騒がしい笑い声の方を振り返って見た。こんなひどい騒ぎに加わりたがらずに薔薇を眺めている娘がいることが好ましくて、彼はそっと微笑んで階段を降りていった。

 上から見ていた時にはわからなかったが、降りてみるとその苑は薔薇の香りに満ちていた。香りは体を浮かせるような効果があった。きちんと歩いているにもかかわらず、足元が軽く地面から離れているように感じるのだ。広間から聞こえる馬鹿騒ぎに苛ついていた神経があっという間に静まっていった。

 そのまま歩いていると、緑色のドレスが目に入った。
「バギュ・グリ殿」

 ラウラははっとして振り向いた。
「先生……」

「上から姿を見かけたので。邪魔をしたでしょうか」
「いいえ、とんでもない。ただ、歩いていただけですから」

「こんなに美しい苑がこの城にあったとは知りませんでしたね」
マックスが見回しながら関心するのを見てラウラは小さく笑った。
「お城にずっと住んでいても花の時期をご存知ない方が多いのです。ここはあまり人が来ないので。そのほうがいいんです。独り占めできますから」

 マックスは一人の若い娘がここにいるとはじめて感じた。それはとてもおかしな言い草だが、彼の実感だった。この職を得てから彼の意識はずっともう一人の生徒に注がれていた。マリア=フェリシア姫が類いまれな美女であるからだけではなかった。彼の仕事の評価は姫が何を習得したか、本人と国王がどう満足したかにかかっていた上、その仕事が大変困難であったからだ。

 姫の頭脳は格別ほかの者に劣っているというほどではないと思うのだが、進歩は遅かった。何よりも彼女は非常に怠惰だった。課題を熱心にこなすよりも、ほんのわずか魅力的に微笑んで課題そのものをなかったことにしてもらうのを好んだ。それはどうやら常に成功してきたメソッドらしかった。実際、マックスが何度か彼女のこの抵抗に屈してしまった。形のいい口元と緑の輝く瞳の魅力に屈したのか、権力に屈したのか、まだ判断が難しい所だった。だが、このままでは彼の教師としての評価に差し支えるということを忘れるほどにはその微笑の虜になっているわけではないのが幸いだと思っていた。

 彼の頭にある生徒はマリア=フェリシア姫一人だった。たとえ常にもう一人の娘が授業に参加して、同じ課題に挑戦していたとしても。マックスがその存在をしばしば忘れてしまうのは、ひとえに彼女が全く手のかからない生徒だったからだ。彼女は出した宿題を必ずやってきた。授業中に課題を与えると、やろうとしない姫の方に意識を集中して手助けをしているだけでかなりの時間が過ぎてしまう。氣がついてラウラの課題に意識を向けると、それは既に終わっており、さらに訂正すべき箇所もどこにもなかった。彼女は賞賛を求めるような表情も見せず、それゆえ彼は本来ならば全く褒めたくない姫の情けない回答に与える賞賛の五分の一もラウラを褒めたことがなかった。

 姫がいない、そして授業でもないこのわずかな時間、マックスははじめて添え物の生徒としてではなくラウラその人に氣をとめた。品はいいが相変わらず地味な色合いの長袖のドレスに身を包んで、長い髪をきっちりと後ろで縛りまとめ、小さい真珠の飾りのついたネットで覆っている。どこにも隙がないその立ち姿は、親しい語らいを拒否しているような印象を与えるが、マックスが話しかけても立ち去ろうとしない所を見るとそういう訳でもないらしい。

「私の授業の教え方はいかがですか。なかなかあなたの意見を伺う機会がないのは残念です、バギュ・グリ殿」
ラウラは驚いたように顔を上げて、それからわずかに嬉しそうな表情になった。
「とてもわかりやすくて、素晴らしいと思いますわ。題材も広範囲に渡っていて、毎回新しいことを学ぶのが楽しみです」

「そうですか。それはよかった。私の質問に驚かれたようですが……」
マックスがそういうと、ラウラはわずかに微笑んだ。
「今までどの先生も、私が授業をどう思うかなんて氣になさらなかったものですから」

 マックスはぎくっとした。自分自身もつい数分前まで同じだったからだ。
「あなたのような熱心な生徒に失礼なことですよね」
「いいえ、授業料を払う方にとって大切なのは、私が何を学んだかではありませんから。私は、最高の教育を受ける機会を得られてありがたいと思っています」
彼女の表情はわずかに憂いに満ちたように感じられた。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(15)森の詩

作品タイトルと章のタイトルがかぶってしまった……。以前「大道芸人たち」のキャラを使ってこの作品のアピールをした事がありますが、その時にご紹介した「森の詩」がはじめて登場しました。もともとは三部作だった「森の詩 Cantum Silvae」で、この歌だけは必ずでてくるという設定でした。グランドロン王国の祝祭歌なんですね。もちろん、私の創作です。ラテン語がかなり怪しい……。

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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(15)森の詩


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「どうして城に住まないわけ?」
マリア=フェリシアは少々いらだって訊いた。午後にお抱え商人が東の国からの絹の見本を持ってくるというので語学の時間を朝に変えたかったのに出来なかったからだ。

「城下町の事を親しく見聞きする事が出来ますのでね」
「そんなこと何の役に立つのよ」

 絹を見たい姫は、授業をさっさと切り上げさせてさっさと孔雀の間に行ってしまった。

 苦笑して羊皮紙をたたんでいるマックスの側に、そっとラウラが近づいてきた。
「先生は城下をくまなく歩かれていらっしゃるのですか」
おずおずと彼女は訊いた。

 教える事はいつでもすぐに覚え、知識も豊富なのに、いつも控えめでほとんど会話をしようとしないラウラが、敢えて質問をしにきた事をマックスは意外に思った。

「いいえ。まだ、くまなくというほどは。市場や職人街など活氣のある場所はほとんど行きましたが」
「あまり活氣のないところも……たとえば貧しい人たちのいるところは」

 マックスはラウラの顔をじっと見た。
「ええ。行きました。驚きましたね。あなたがあそこの事をご存知とは」

「いえ。よく知っているわけではないのです。でも……。どうなのでしょう。グランドロンでも貧しくてただ死を待つだけのような人々がたくさんいるのでしょうか」
ラウラは思い詰めたように訊いた。

 この娘は。マックスは、はじめて目立たない《学友》の、王女の影ではない、真の人間としての姿を感じた。今まで多くの貴族の令嬢を目にしてきた。義務やポーズとして貧しい者に幾ばくかの金を恵む事をたしなみとして実行した者はいたが、死を待つばかりの貧民たちの事で心を痛めているような娘は見た事がなかった。そもそも、彼女たちはそのような場に行くチャンスすらないのだ。

 けれど、この娘は、あそこを知っている。どういうきっかけで知る事になったのかわからないが、あの悲惨さに直面する勇氣もあるのだ。彼は思い悩む様子の彼女を力づけようと優しい目を向けた。

「バギュ・グリ殿。貧しい者たちはルーヴランだけでなく、グランドロンにもセンヴリにも、世界中のどこにでもいます。旱魃や疫病も繰り返しこの世のどこかを襲います。辛く悲しい事もなくなりはしません。けれど、各国の支配者たちは、少しずつですが彼らがただ惨めな死にだけ向かわないように努力を続けているのではないでしょうか。この国で、ザッカ殿が進められている治水事業のように。グランドロンでも、国王陛下は確かに貧しい人々の救済措置を進めています。ご安心ください」

「グランドロンの王様が?」
ラウラは意外だといわんばかりに目を見張った。マックスは笑った。やはり、この方には、我が王はよほどの悪者と思われているらしい。

* * *


 次の授業に、マックスは広間に移動し、楽人たちに同席するように頼んだ。ダンスのレッスンだった。

「これは『森の詩』と呼ばれるメロディでございます。グランドロンでは、新年、婚礼、それから夏至祭に、この曲に合わせて踊る習慣があります。王と王妃は公式の場で最初に踊ることになっていますので、なんとしてでも覚えていただく必要がございます」
マックスはリュートを抱えて、ゆっくりと歌いだした。

O, Musa magnam, concinite cantum silvae.
Ut Sibylla propheta, a hic vita expandam.
Rubrum phoenix fert lucem solis omnes supra.
Album unicornis tradere silentio ad terram.
Cum virgines data somnia in silvam,
pacatumque reget patriis virtutibus orbem.

おお、偉大なるミューズよ、森の詩を歌おう。
シヴィラの預言のごとく、ここに生命は広がる。
赤き不死鳥が陽の光を隅々まで届け、
白き一角獣は沈黙を大地に広げる。
乙女たちが森にて夢を紡ぐ時
平和が王国を支配する



 そのメロディをなぞりながら、楽人たちはゆっくりと演奏をはじめた。マックスはしばらく共に演奏していたが、満足のいく状態になると、自分は演奏するのをやめてリュートを脇に置き、ラウラの前に立った。伸ばした両手を繋ぎ、斜めに体をにじってお互いに対照的な方向にステップを踏み出す。反対にも踏んだ後、ゆっくりとお互いの周りを回る。

「そうです。その通り。次は反対に。私の腕の下を通って、はい、こちらへ」
彼の声が耳のすぐ側で聞こえる。繋がれた手に優しい暖かさを感じる。彼女の頬は紅潮した。

 彼は不思議そうにラウラを見た。何かを訴えかけるような瞳の輝きは、単なるダンスのレッスンにしては、大げさだった。彼女は、はっとしたようにうつむいた。それで、彼はようやく氣がついた。この娘は、男とダンスを踊った事などないのだろう。政治や歴史の話などをよどみなく語れても、恋愛に関してはまだ少女と変わらないのだ。こんなにうろたえている。

 この娘は、姫やこの場にいる若い侍女たちの多くよりも年上だが、恋愛に関してはもっと幼い少女のようなのではないかと思った。男に対して媚びたり、恋愛ゲームを楽しもうとしたりした事はないのではないだろうか。それは初でその手の駆け引きを知らないからというよりは、その隙のない様がずっと若い男たちを遠ざけてきたからだと思われた。

 ラウラに恋愛経験がなさそうなのは、彼女の特殊な事情が絡んでいるのだと理解していた。侯爵の実の娘ではない、《学友》となってからは、侯爵家にもよりつかないらしい孤独な娘との関係など、将来の邪魔にしかならないと誰もが思うのであろう。多少の野心のある宮廷の男たちなら、同じバギュ・グリ侯爵令嬢でもこの娘の妹である令嬢エリザベスに関心を示す。実際にエリザベスの方は、女官とは名ばかりで、毎日宮廷で男たちに囲まれて次々と恋の花を咲かせているとの噂を耳にしていた。

 ラウラが問題なく踊れるようになると、彼はその手を離して、マリア=フェリシア姫に向き直った。さてさて、こっちの方が問題だな。

「さて、姫君。ステップは覚えていただけたでしょうか」
「だいたいね」
そういうと姫はことさら華やかで美しい笑顔を、彼がはっとして、見入ってしまうような角度で花開かせた。楽人たちが、ずっと真剣に重厚に演奏を始めると、二人は広間の中央で踊りだした。

「そう。お上手です」
そういいながら、姫を見つめるマックスを、部屋の隅からラウラが憂いに満ちた目つきで追っていた。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(16)隠せぬ想い

今回はヒロイン・ラウラの想いと、性格と、能力と、それから立場が全部詰まった章になりました。作中でマックスが提案した《強いもの較べ》は、特に中世にあったゲームというわけではありません。私が作った遊びです。ただ、出てくる言い回しは、実際のラテン語の諺などを使っています。「○○といいますが」というようなセリフの論理に「?」と思われても、これは諺なのだとスルーしてください。

今回はいつもだと二つに切る長さなんですが、上手く真ん中で切れなかったのでこのまま丸ごと一章をアップします。その代わりというわけではないのですが、来週は「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」はお休みです。


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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(16)隠せぬ想い


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「赤くなってたわね」
マリア=フェリシアは馬鹿にして言った。ラウラは困ってうつむいた。

「よくわかっていないみたいだけれど、王家に出入りする教師は少なくとも男爵家の出身でなくてはいけないはずよ。つまり、あなたにはチャンスがないってわけ。もっともあの人、下等な趣味があるから、上手くいけば愛人ぐらいにはなれるかもね」
「いいえ、私は、そんな……」

 姫は高らかに笑った。新しい楽しみが出来たわ。あの軽薄教師をきりきり舞いさせれば、この腹立たしい娘を苦しめる事が出来る。鞭も悪くないけれど。

 ラウラは姫の言葉に傷ついたりはしなかった。初めて会ったその日から、王女は常に彼女を貶め馬鹿にした口調でしかものを言わなかった。彼女はそれに慣れていた。そして、その王女のことを多くの貴公子や女官たちが「なんて美しい方だろう」と褒めそやすことにも反発の思いや怒りを感じることもなかった。

 けれど、今日は違った。マックス・ティオフィロスが、ラウラの腰に手を回し、息がかかるほど近くに顔を寄せて踊った時に、彼女の胸は高鳴り、楽人たちの奏でる歌が永久に止まらなければいいと願った。けれど、それはとても短い時間だった。彼は、ステップを憶えた姫の手を取り優雅に踊った。自信に満ちて微笑む姫はいつもに増して美しかった。彼は姫がステップを間違えても叱ったりせずに、長い時間をかけて踊っていた。

 わかっている。どんな殿方も、姫の手を望むのだ。深夜まで予習と復習をする努力も、心を込めて仕事をすることも、姫の美しさ、華やかさ、ぎりぎりに魅惑的なわがままの前では何の価値もない。それは先生も同じなのだ。

 ラウラは毎日のマックスの授業を心待ちにしていた。たとえ、いつもほとんど話しかけてもらえず視線も合わせてもらえないにもかかわらず、わずかな会話にでも加われるようにとグランドロンの詩集を暗唱し、城に一冊だけあったディミトリオスの著作を読んだ。

 マックスは話す度にラウラのグランドロン語が飛躍的に上達していることに驚いたが、まさか難解で知られる老師の著作を原語で読むほどの努力を重ねているとは夢にも思わなかった。

 一方で、王女の一向に上達しないグランドロン語には危機感すら持っていた。グランドロン人どころか、外国人にもわかってしまうほどのお粗末さだ。これが知れ渡ったら彼の今後の仕事にも差し支える。彼は躍起になって姫の教育に時間をかけた。

「ねえ。書物で言葉を憶えるのって、とても退屈だわ。何かもっと面白い方法はないの」
マリア=フェリシア姫が言ったので、マックスは肩をすくめると本を閉じて言った。
「承知しました。では、本日はちょっとした言葉遊びをしてみましょう。お二人がどのくらいグランドロンの言葉をお使いになれるかもわかりますしね」

「どんな遊び?」
姫は少しだけ期待して首を傾いだ。こうしたちょっとした動きがとてもチャーミングだった。これまでの教師たちが怠惰でやる氣のない態度に強く文句を言えなかったのがよくわかるとマックスは心の中で思った。

「《強いもの較べ》というゲームです。お二人と私の三人で順番に、より強いものをグランドロン語であげていくだけのゲームです。なぜそれが強いのかもグランドロン語で説明してくださいね。それと、何にも増して強いことがわかっている天におわす神様だけは答えにしてはなりません。それ以外でしたら、ものでも概念でも全くかまいません、いいですね」

 大して面白そうでもないと思ったのか、姫は口を尖らせたがマックスはかまわずに続けた。
「では、このお菓子からはじめましょう。さあ、殿下、お菓子よりも強いものをあげてください」

「お菓子を作るのになくてはならないもの。それが砂糖です。だから砂糖の方がお菓子より強いのです」
このような単純な文章でも、慣れない外国語で述べるのは大変だった。まじめに言葉を学んでこなかった姫はカリカリしていた。

「その調子です。では、バギュ・グリ殿。どうですか」
彼の言葉に、ラウラはすぐに答えた。
「砂糖を運んでいく姿をよく見ますから、蟻は砂糖より強いでしょう」

 マリア=フェリシア姫は、言えるうちにと、急いで続けた。
「蟻なんか、刃で切っちゃえるでしょう。刃よ」

 彼は少し笑って続けた。
「火がなければ刃を溶接・鍛造することはできません。火がより強いでしょう」

 マックスに先を促されてラウラは続きを口にした。
「岩に火を近づけても燃やすことはできません。ですから岩の方が強いと言ってもかまわないでしょう」

 マックスに促されたけれども先を思いつかなかった姫はむすっと口を閉ざして横を向いた。マックスは姫に恥をかかせないように続きを自分で言った。
「一滴、また一滴と落ちる滴が岩に穴をあけることがあるのをご存知ですね。つまり水が岩よりも強いのです。どうですか、バギュ・グリ殿」

 ラウラは窓の外を少し見てから答えた。
「水をどんどん吸って自分の中に取り入れていく植物は水を支配しています。水はそれに逆らうことができません。ですから植物はもっと強いと思います」

 マックスが頷いて同意すると、まったく詰まることなく答えるラウラに腹が立ったのか、姫が大きな声を出した。
「植物なんか必要ならいくらでも買えるわ。だから富よ」

 マックスは微笑んで続きを言った。
「友あるところにこそ富ありと言うではないですか。そうなると友情の方が強いと言ってもいいですよね、バギュ・グリ殿、続きをどうぞ」

 ラウラはマックスを見ていた。姫の答えは内容も情けないが、語順や使う単語もマックスが辛抱強く教え続けている宮廷で通用するグランドロン語からはほど遠かった。けれど、それに落胆した様子もなくにこやかに笑っている。もしかしたら、マックスにとっては姫の言葉は吟遊詩人の端麗な詩よりも心地よく響くのかもしれない。

 友情……。確かに富より力がある。富ではつなぎ止められない人も深い友情のためなら留まるだろう。たとえば姫との間にもっと友情と思える深い情交があったなら、ラウラは義務である姫の二十歳の誕生日を超えても、仕えようと思っただろう。かつてかの伝説の男姫ヴィラーゴ ジュリア・ド・バギュ・グリがグランドロンへと嫁ぐブランシュルーヴ王女に従って異国へと行ったように。けれど、姫とラウラの間には義務しかなかった。これまでの仕打ちを思えば、ザッカが口にしたように、いつまでも姫に仕える事など考えられない。

 けれど……。ラウラは知っている。たとえ冷たくされようと、無視されようと、その人のためにすべてを置いてでも駆けつけたくなる想いがある事を。決して報われないのだといわれても、変わる事のない強い想いを。彼女はしっかりとした態度で続きを口にした。
「愛はときに友情をも引き裂くと詩に詠われています。ですから愛の方が強いように思われます」

 王女は馬鹿にした口調で、けれど趣旨をを全く無視してルーヴランの言葉で吐き捨てた。
「愛なんて。王がほかの男と結婚しろといったらそれでおしまいでしょ。だから王権の方が強いに決まっているわ」

 マックスはその王女のいらだちをなだめるように、しかし、グランドロン語の授業であることを思い出させるべく言語を変えて言った。
「世界中の権力を握った王ですら、美しき女性には逆らえません。つまり美は王権にも勝りますかな」

 それはラウラにはひどくつらい言葉だった。マックスに目で続きを求められて彼女は下を向いた。何を言っても殿方の心をとらえている美に対するひがみにしか聞こえないだろうと思った。やがてうつむいたまま答えた。
「美しい薔薇も時間が経つと枯れてしぼんでいきます。老いは美よりも強いのかもしれません」

 マックスは深く頷いた。マックスはラウラが考えていたように、マリア=フェリシア姫の麗しさに惑わされていたわけではなかった。単に難しい生徒に授業を放棄させないためにご機嫌をとっていただけだった。その王女はへそを曲げてもうひと言もグランドロン語を話そうとはしなかった。口にしたくとも彼女の知識で使える単語が考えつかなかった。

 マックスは姫に解答を続けさせる事をあきらめた。ここから先は授業ではなかった。ラウラのグランドロン語はもっとずっと先をいっていたから。彼女のグランドロン語用法や知識ではなく、これまでほとんど氣に留めたこともなかった彼女の深く哲学的な想いに興味をそそられた。マールの「金色のベルタ」の哀れな後ろ姿が浮かんだ。神の家にいながら人生のほとんどを虚しく待ち、老いることだけに使ってしまった女。マックス自身にはその救いが考えつかなかった。この娘はなんと答えるのだろう。

「老いた人びとが傷つき苦しむのは、人びとに忘れ去られて省みられなくなることです。どうですか、バギュ・グリ殿。忘却よりも強いものをおっしゃれますか」

 ラウラははっとしてマックスを見た。マックスはゲームが始まった時のような朗らかな表情はしていなかった。この城の中で、省みられないことへの苦しみについてラウラほど考えている人間はわずかしかいなかった。ザッカがラウラに見せた恐ろしい貧民窟はこの城から見えるほど近い所にある。多くの人びとが、王国からも街の人びとからも忘れ去られ、なす術もなく死んでいこうとしている。彼女は「死」をあげようかと思った。哀れな貧しいミリアムの苦しみを終わらせたのは「死」だった。

 けれど、彼女は頭を振った。ラウラには全能の神がその絶望的な答えを求めているとは思えなかった。ザッカが彼女にあの貧民窟を見せた、本当は王女に理解させてこの国の未来を託したいと思ったのも、その答えのためではないと思った。親戚からも養父からも関心を示されず、この城の中で耐えて生きている自分が、省みられないことを乗り越えるために必要なのはどんなことだろうかと考えた。答えは一つしかなかった。

「赦しは魂を解放すると申します。ならば忘れ去られる苦しみからも解き放ちましょう。赦しです」

 彼もまた「死」という答えを思い描いていた。そして、ラウラがしばらく逡巡していた思考の内容を推し量ることはできなかった。だが、彼女が澄んだ瞳で言葉を選んだ時の佇まいに強い印象を憶えた。しばらく言葉を継げなかった。少し間を置いてから言った。

「それこそ真の貴婦人の回答です。あなたがこのゲームの勝者です」

 マリア=フェリシア姫は、不満に鼻を鳴らした。自分がグランドロン語でラウラに適わないだけならともかく、マックスがラウラに女性として最高の賞賛を与えたのは許しがたかった。貴婦人ですって? その子が卑しい肉屋の孤児だと教えてやりたい。しかし、今そんな発言をするのは、自分が貴婦人でない証明のようなものだったので、かろうじて発言を控えた。

 マックスは姫の態度にそろそろ苦言を呈すべきではないかと思った。いくらレオポルド二世がルーヴラン語に堪能だと言っても、グランドロンの豪胆な国王なのだ。この城の召使いのように、この美しいだけの姫の顔色を伺ってくれるとは思えない。それにラウラがめざましい進歩を見せたとしても、本来の生徒である姫の進歩がこの程度ではマックスの教師としての評判にも影響する。

「さて、王太女殿下には、申しわけございませんが、すこし罰を受けていただかなくてはなりませんね。授業の最中にルーヴラン語は使わないという決まりをこれで三度も破られましたから。どんな罰にしましょうかね……」

 そう言った途端、マリア=フェリシア姫はけたたましく笑い、ラウラが青ざめて、長い袖で覆われた左腕を押さえて後ずさった。マックスはそのどちらの反応もよく理解できなかった。いつも扉の所に控えていた無表情で何をするのかわからなかった男が、腰の所から鞭を取り出してラウラの方に近づいてきた。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(17)貴婦人の面影

50000Hit記念作品と「Infante 323 黄金の枷」が挟まったため、前の更新からかなり経ってしまいましたが、「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」の続きです。

間が空いたからといって、話がどーんと進むわけでもなく、未だにもどかしい展開ですが、来週から大きく動いていきますので、もうすこし我慢して読んでくださると嬉しいです。


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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(17)貴婦人の面影


「許して下さい」
その言葉に、ラウラはびくっと身を強ばらせて恐る恐る振り向いた。誰かがくるとは思わず、安心して泣いていたのに。薔薇園の片隅はラウラの秘密の隠れ場所だった。

「……先生」
探してきてくれたのだろう。マックスの顔は青ざめていた。ラウラは慌てて涙を拭った。

「知らなかったで済まされる事ではない。あなたが姫の罰を受けさせられる事は聞かされていたのだから罰の話などすべきではなかったのだ。本当にすっかり忘れていたのです。それに、まさか侯爵令嬢のあなたに、あんな罰を……」

 マックスは姫にグランドロンの物語を清書させるような罰を考えていた。だが、王女も周りの人間も、姫の罰は全てラウラが左腕を三十回鞭で打たれる事だと言った。マックスが罰を撤回すると言っても無駄だった。鞭を持った無表情の召使いは、まったく手加減せずにラウラの左腕、はじめて見た赤くただれている哀れな肌を鞭打った。まだ前の怪我が治りきっていない弱い肌は、既に一度目の鞭で切り裂かれ、《学友》は痛みに涙ぐみながら歯を食いしばった。

 罰が終わると、すぐに忠実な召使いアニーが用意していた布でラウラの傷口を抑え、よろめく彼女を支えながら手入れのために別室へと連れて行った。姫はうっすらと笑いすら浮かべていた。マックスはその様子にぞっとした。ひどい。こんな女性が次期女王だなんて、とんでもない国だ。しかし、彼女は彼の国の后にもなる予定の女性なのだ。国に戻って国王に仕えよと言った老師の言葉をマックスは完全に忘れる事に決めた。

 しかし、彼にはどうしても理解できなかった。ラウラは王女ではないが、少なくともバギュ・グリ侯爵令嬢ではないか。あんなにひどい事をどうして誰も止めないのだろう。

 授業が終わったので、彼は退出してもよかったのだが、どうしてもラウラに謝りたくて城の中を探した。アニーは「どこにいらっしゃるのか、存じ上げません」と言った。そっとしてあげたいという思いやりがにじんだ言葉だった。マックスは、それを無視して先日ラウラを見かけたここへとやってきたのだ。

 ラウラは何かきちんとした事を言おうとしたが、何も思いつかなかった。ため息をついて肩を落とし足元をじっと見つめた。
「先生。どこの国でも同じなのでしょうか。貴族に生まれてこなければ、どんな目にあっても耐えなくてはならないのでしょうか」
「バギュ・グリ殿?」

ラウラは首を振った。
「私は侯爵令嬢ではありません。城下の肉屋の娘として生を受けた者です。両親が流行病で亡くなった後、どの親戚からも引き取りを拒否された、みなし児です。ここに来るために形だけ侯爵さまの養女となったのです」

 彼は驚いて、うつむきつぶやくラウラの姿をじっと見た。
「知られたくありませんでした。教わる資格などない、取るに足らない存在とお思いでしょうね」

 彼は激しく頭を振った。
「出自が全てだと言うなら、僕こそ、あなたに教える資格などない。僕は鍛冶屋の次男だ」

 ラウラは面を上げた。
「我が師は、出自など氣にしなかった。何を学び、何を得たか、それが全てだった。あなたもそうだ。肉屋で生まれようが、先祖に一人も貴族がいまいが、この宮廷のほとんどの者がわかっているはずだ。――あなたがこの国でも有数の貴婦人である事を」

 彼はラウラの瞳を覗き込んだ。どうしてだかわからないが、言葉があふれてきた。
「僕は旅をしてきた。センヴリにも行った。ヴォワーズでも仕事をした。常に上流階級で、名家の子息や令嬢ばかりだった。だが、家柄だけが人を尊くするわけではない」

「貧しく生きるだけで精一杯の人びとが、天なる父の御心に叶う尊い生き方が出来ないのは確かだ。だが、それは生まれが低いからではない。それを証ししているのが、他ならぬあなたではありませんか」
彼の熱のこもった言葉に、ラウラは燃えるように痛む手首を一瞬忘れた。

「私はここに来るまで本当の貴婦人と呼ぶにふさわしい女性を一人しか知らなかった。僕の《黄金の貴婦人》に匹敵する方は一人もいなかったのだ」
「《黄金の貴婦人》……?」

「子供の時に数回だけ会った方だ。我が師を訪ねてこられた時に、お茶をお持ちしてお言葉をかけていただいた。優しくて美しくて、天国にいる聖母とはこのような方かと思ったものだ。一度、師のお供で宮廷に上がり、現在の王太后である女王陛下にお目通りした事もあるが、あの方と較べたら陛下は女官とも変わらなかった」

 ラウラは遠い目で子供時代の思い出に浸るマックスをじっと見つめていた。彼は白いハンカチーフを取り出すと、包帯を通して血がにじみでてきたその左腕をそっと取ってゆっくりと傷にあてた。
「いけません。汚れますわ」
「氣の毒に。僕のせいで」

「先生のせいではありません。姫は、あれを見るのがお好きなのです。だから、先生でなければ他の方の前で、わざと罰しなくてはならないことをなさるでしょう」
「あなたは、こんな仕打ちにずっと一人で耐えてこられたのか」

 答えずに彼女は遠くを見ていた。彼がその視線を追えば、それはどこまでも続く深い森《シルヴァ》へと向かっていた。
「バギュ・グリ殿?」
「……もう少しです。長くても、あと一年。もし姫のお輿入れが決まれば、もっと早くに、私は自由になれるのです」
「自由に?」

 彼女はマックスの顔を見た。そして、自分が誰にも言わなかった望みをうかつにも口に出してしまった事を恥じてうつむいた。彼は答えを促さずに彼女の顔を見つめていた。その瞳は優しく自分は味方だと伝えているように思えた。鍛冶屋の息子だと言ったのもラウラを勇氣づけた。彼女は小さな声で続けた。

「姫がご結婚なさるか成人なされた時に、《学友》の役目は終わります。その時には、私はどの国に行っても通用する《正女官》のディプロマをこの手に頂ける事になっているのです。バギュ・グリ侯爵にご迷惑をかけることを怖れる必要もなく、姫からも離れて、自分以外の咎を責められる事もなく自由に生きられるのです――先生のように」
「私のように?」
「国から国へ、街から街へ、行きたい所へご自分の意志で旅をなさる。私もそんな風に生きたいのです」

 マックスは微笑んだ。哀れに思ったのは失礼な事だったのかもしれないと心の中でつぶやいた。たおやかに見えて強い人だ。
「あなたはきっと自分の道を見つけるでしょう。今まで苦しんだ分、誰よりも幸せになってほしい」
ラウラはさっと顔を赤らめた。それから、物言いたげに上目遣いで彼を見た。けれど、彼女は何も言わなかった。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(18)若き国王

「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」です。突然ですが、いきなりくるはずのない方が来てしまいました。「いまここマップ」に黄色い矢印が増えています。これは今ごろ登場した準主役のマークです。

で、これまで目立たなかったラウラにスポットライトがあたったことによって、激しく動揺している人が一名。波風が立ちはじめます。(いい加減、何か起こらないと退屈すぎ)


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あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(18)若き国王


「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」関連地図


 宮廷はざわめいていた。
「それはどういうことだ!」
《氷の宰相》が取り乱したのを廷臣たちははじめて目にした。

「ですから、こちらに間もなくお見えになるのは、使者殿ではなく、グランドロン国王その人だというのです」
取り次ぎの伝令は、汗でびっしょりになっていた。ただの使者が来るにしては、あまりにも護衛の部隊が多いので、念のためにザッカが使者は何者なのかと確認させた所、もはや城下に入っているグランドロン側が伝えてきたのだ。

「うむ、それは困った」
ザッカは頭を振った。グランドロン国王レオポルド二世が来た理由はわからなかった。まさか姫本人の顔を見たいわけでもあるまい。姫は噂に違わず美しい。その点の心配はない。だが、わずかの時間でも言葉を交わせば、あの軽薄な人柄が知れる。あのマリア=フェリシア姫を目の前にして結婚したいと思う男などいないだろう。あの王は、すでに、センヴリ王国や、マレーシャル公国でも姫君を様々な口実をつけては袖にしてきているのだ。だからこそ、使者に姫を会わせるつもりもなかった。だがレオポルド二世が訪れているのにマリア=フェリシア姫が奥に引っ込んでいるわけにはいかない。

 ザッカは副官であるのジュリアン・ブリエに言った。
「ベルモント夫人をここにお呼びして」

 ブリエは、急いで宮廷奥総取締を勤める女官を呼びに行った。夫人は、息を弾ませてブリエとともに入ってきた。
「お呼びと伺いました。姫君のお召しかえの事で?」

「姫は、国王の滞在中は奥にいていただくように。バギュ・グリ殿に赤毛のカツラを用意しなさい。出来る限り濃いヴェールをし、顔が見えないようにしなさい。服は、もちろん長袖のものを」

 夫人は震えた。
「ラウラに、姫の身代わりを……?」
「今の殿下にグランドロン王との社交の会話は不可能だ。語学力だけではない、話す内容そのものもだ。いいか、国王にこの縁談を断らせてはならぬ。断るのはこちらでなくてはならぬのだ」
彼女は震えつつも頷くと、急いで奥に戻っていった。

「宰相殿は氣でも違ったのですか? 私に王太女殿下のフリをせよとおっしゃるのですか?」
ラウラはベルモント夫人を見つめて身を震わせた。

「その通り。心配いりません。宰相殿もこのお話を破談にしたいみたいなの。ただ、姫の名誉にかけて、向こうから断られるような事があってはならないというのよ。姫は二ヶ月経っても、いまだにグランドロンの言葉での挨拶もおぼつかないでしょう。あちらの情勢も頭には入っていないし、国王と対等にお話をするなんて不可能だと、宰相殿は考えていらっしゃるの。まあ、お考えは間違っているとは言えませんよね。わかるでしょう、ラウラ。全てはあなたにかかっているの。とにかく、あちらに断る理由を与えない、無難な対応をしてほしいの」
ラウラは青ざめた顔で頷く他はなかった。

 ルーヴラン国王エクトール二世が王女に対する侮辱とも取れるこのような提案を、なぜあっさり承諾したのかラウラにはわからなかったが、少なくとも彼はそのことに対するとまどいは全く見せなかった。ラウラが国王と手をつなぐのははじめてだった。広間に入る前に低い声で囁いた。
「頼むぞ、ラウラ」
「はい、陛下」

 ラウラは公式の場で貴婦人が使う円錐型の帽子を冠りヴェールを顔の前にたらしていた。これまでにルーヴランが使った伝統的なヴェールは白く非常に薄い形式的なものだったが、今回は黒くてしかも編みが密で、ラウラ自身も周りの状況がはっきりとは見えていなかった。

 国王に手を引かれて広間に入っていくこと自体、本来なら動揺して堂々とできそうもなかったが、ヴェールのせいで暗い廊下では一人ではしっかりと進めなかったので、エスコートされる歩みも自然になった。そして、広間の中心でグランドロン王に紹介されてその手を渡される時にも、不安に満ちた表情を見られるのではと怖れることもなかった。

 明るい光のもとではラウラの方からはグランドロン王を見ることができた。背が高く、黒いまっすぐな髪を後ろで束ねている。赤いどっしりとした天鵞絨の上着は華やかな飾りと相まって非常に重いに違いないが、それを感じさせずに胸を張って立っている。濃い眉とはっきりとした鼻梁が目につく。

「マリア=フェリシア姫、お会いできて光栄です」
流暢なルーヴラン語の挨拶とは裏腹に、マリア=フェリシア姫を前にした時にどの男性もそうなる、驚きと賞賛のまなざし、そしてすぐにわかる心惹かれた様子を全く見せなかった。そして、それは当然のことだった。ヴェールのせいで目の前にいる相手の顔などは全く見えなかったし、見えたとしてもそこにいたのは姫ではなかったから。

「私こそ光栄でございます、陛下。遠くからようこそルーヴランにお越しくださいました」
ラウラがそういうと、レオポルドは少し意外そうに見た。
「流暢なグランドロン語だ。称賛に値します」
「はじめたばかりで拙く、失礼がございましたらお許しくださいませ」

 ザッカの合図で楽士たちが円舞曲を奏ではじめた。広間の中心で、礼儀作法に則った一礼をすると、レオポルドとラウラは踊りはじめた。それを合図にルーヴラン国王夫妻、両国の臣下たちがゆっくりと踊りに加わった。

 マックスは何かあった時に姫と国王の通訳をすることができるようにと、この謁見への同席を認められて広間の片隅に立っていた。だが、実際には通訳はまったく必要なかった。国王レオポルド二世はマックスと同じくらい自由にルーヴラン語を理解したし、ラウラのグランドロン語もこの程度なら全く困らないほどになっていることはわかっていたから。もちろん、マリア=フェリシア姫のグランドロン語であったなら、こうはいかなかったことははっきりしていた。

 彼は召使いの差し出した盆から、銀の盃を受け取るとそれを飲みながら広間の踊りを見ていた。その視線の先には、いずれは仕えるようにと師匠に命ぜられた彼の君主と、ここ数ヶ月の日常生活で常に側にいる彼の生徒がいた。レオポルドの口元が定期的に動いているので、二人が踊りながら会話をしていることがわかる。何を話しているのだろうと思った。ベフロア娼館の女たちと遊んでいるうちに憶えた甘く心にもないささやきを、あの無垢な娘に告げたりしているのではないだろうか……。

 そこまで考えて、はっと我に返った。そんなわけはない。わが王はあれを王女だと思っているのだ。ルーヴラン王国の未来と誰もが羨む美貌を兼ね備えた、政略の花嫁候補だと。だからといって、なぜそんなに近づかなくてはならないのか。

 マックスはこれまで若き国王に対して親しみを持ってきたことはなかった。彼の安全のための実験係として苦しんだことに対して怒りを持ったことはなかった。どちらにしても彼がそんなことを知っていたはずはないから。ただレオポルド二世は鍛冶屋の次男だった彼には遠すぎる貴人だった。老師に「いずれは我に代わってお前があの方にお仕えするのだ」と何度言われても実感が湧かなかった。まともに言葉を交わしたこともなければ、興味を持ってもらったこともなかった。いつか自由になることだけを秘かに願い続けてきたマックスには親しくしてもらわなくても構わなかった。

 だから、今レオポルドが誰と踊ろうが何も感じないはずだった。だが、このはっきりとした不快感はなんなのだろう。ようやく思い当たって、彼は愕然とした。相手がラウラだからだ。

 なんてことだ。僕はあの娘に惹かれているらしい。そんなばかな。落ち着け。たぶんこれは単なる憐憫だ。あの娘の境遇が、毒の実験係に使われた自分のそれと重なるから……。マックスは盃をあおった。

 曲が変わった。マックス自身が教えたグランドロン王国の舞踏祝祭曲『森の詩』のメロディだった。グランドロンからの一行は国王を含めて一様にこの歓迎に驚きの表情を見せた。レオポルドはそのままラウラと『森の詩』を踊りはじめた。ラウラはマックスに習ったようにきちんとステップを踏んだ。右へ、左へ、そして右に踏み出してお互いの周りを回る。ヴェールのすぐ近くにまでレオポルドの顔が近づいている。国王はまだラウラに話しかけている。マックスは顔を背けた。何に対してこれほど苛だっているのか説明ができなかった。そして、黒いヴェールの向こうで王女の替え玉にされた娘が何を考えているのかをも知ることはできなかった。

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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(19)孤独な二人

間が空きましたが、「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」の続き。グランドロン国王レオポルド二世はまだルーヴの王宮にいます。

マックスは旅籠「カササギの尾」でぐっすり眠っている頃ですが、ラウラは王女の衣装とヴェールを脱ぎ誰もいないはずの広間にやってきました。電灯などはなく月明かりだけが頼りの中世の夜。この舞台ならもっと萌え萌えシーンになってもいいはずなのに、ホントに地味だな、このヒロイン。


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あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(19)孤独な二人


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 風がわずかに吹く夜だった。寝付かれずに、そっと部屋を抜け出してガランとした城の中を歩いた。誰にも邪魔されない深夜は、ラウラの時間だった。影としての勤めから抜け出して、本当の自分の顔に戻ることの出来る、数少ない瞬間だった。彼女はグランドロン王訪問の緊張がまもなく終わることを心から喜んでいた。

 先程、王と踊った広間にも誰もいなかった。影としての生活は間もなく終わる。どこかの国王と踊るなどということはもう二度とないであろう。それは不思議な感覚だった。ずっと怖れていたグランドロン国王という怪物が、自分の手を取り腰に手を回し、広間を旋回した。きちんとしたリードであったが、決して強引ではなかった。

 ラウラは混乱していた。マックス・ティオフィロスに対するような、純粋な信頼や思慕の氣持ちとは異なっていた。冷たく頭脳優秀な宰相ザッカに対する敬意とも違っていた。娼館の女たちといかがわしい遊びをする低俗な王と思っていたのに、その礼儀正しく理知的な会話に驚かされた。ラウラの国にとっては憎むべき敵、岩山のごとく征服すべき相手は、力強く自信に満ちているだけではなく、優しく暖かい手をしていた。

 彼女はもう少し風にあたりたくて、バルコニーに向かった。戸はしっかりと閉まっていなかった。召使いが戸締まりを忘れたのか、いずれにしてもここは地上からはどうやっても届かない自然の要塞の上に浮かぶ広間なので、怖れずに外に出た。

 半月の浮かぶのみの暗闇の中、誰かがそこに立っていた。それは先程の豪華な衣装ではないが、背格好からここにいるはずのない賓客その人だとすぐにわかった。レオポルド二世も、現われた女にすぐに氣づいた。

「……陛下」
その声で、グランドロン国王は、自分の花嫁候補が突然現われたことを知り、やはり驚いたようだった。
「そなたを呼んだつもりはなかったのだが」
「呼んだ?」

 国王は、月の方に顔を向けてしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと言葉を探しながら再び口を開いた。
「国王というものは、不便な身分だと考えていたのだ。自分の花嫁候補とゆっくり話をしたくとも、周りに何十人もの廷臣や召使いが控えている。数回の食事での会話やダンスの合間に、何を知ることが出来るのだろうとね。そなたもそう思ったことはないか」

 ラウラは、ゆっくりと言葉を選んで答えなければならなかった。王女の回答に聞こえるように。しかし、嘘はつきたくなかった。
「私が生まれて以来、自分の思うように行動できたことはありませんでした。誰もが生まれ持った役目を全うせねばならぬのなら、多少の不便は諦めるしかないのではないでしょうか」

 暗闇の中で、王が笑うのが聞こえた。
「不思議だ。悪く思わないでいただきたい。余はそなたが聡明な女性だという期待はまったく持ってこなかったのだ。美しいという評判はもちろん聞いたが、いずれ女王になる身としては、容姿ばかりが評判になるのは悔しくはないか?」

「美しいと言われることは、女にとって何よりもの喜びなのです。それがたとえ身分を慮って水増しされた讃辞であろうとも」
そういうラウラの口調には、反対に美への関心はほとんどないような響きがあった。レオポルドはよく見えないのに、暗闇の中にうっすらと浮かび上がる女の表情をじっと見つめた。

 マリア=フェリシア姫は美しい。ラウラはそれを誰よりもわかっていた。どんなドレスを着ても、はじめて見るときは女のラウラでもはっとするほどだった。けれど彼女はその美しさを羨ましいと思ったことはなかった。たとえ、もし姫の半分の美しさでもあれば、マックスの視線をわずかでもとどめておくことが出来ると知っていても。

 彼女は王女にはなりたくなかった。ただ、ほんの少しでも敬意を払われ、世界を自分の思い通りにすることの出来る力がこの手に欲しいと思ったことはあった。ザッカに連れられて目にした城下の貧民街で饐えた臭いを放ちながら死を待っている男の目を見た時、塔から騎馬に蹴られている下働きの少年の姿を目にした時、姫の代わりに打ち据えられて流れ出る深紅の血が白薔薇の茂みを穢していった時、ラウラは本当の侯爵令嬢であったらどんなによかっただろうかと思った。

「美しいと賛美されることがそなたの望む全てなのか」
想いに沈んでいる時にその言葉を聞いたので、彼女は自分が姫の代わりを務めていることを一瞬忘れてしまった。
「いいえ! いいえ。私は美よりも力が欲しいのです」

「力?」
「貧しい人々は医者や食べ物を待っている。家畜は水場を求めている。それなのに私はこれほどまでに無力で……」

 レオポルドはそっと手を伸ばして女の頬に触れた。彼女ははっとして、我を忘れたことを恥じた。
「そなたは余に似ている。余も王太子の時代に同じいらだちを感じていた。今も、したいことが全て出来るわけではないが、志は忘れていない。心配するな。そなたはいずれ女王になり無力ではなくなる」

 彼女は言葉を見つけられずにいた。
「そなたは、もう一人ではない。人々はグランドロンとルーヴランは不倶戴天の敵だという。だが、そなたと余は同じ志を持つ友だ。そうではないか?」

 ラウラは、ショックを受けて震えた。
「陛下……」
「余は、この話を九割がた断るつもりでここに来た。だが、断る前に一度、そなたのことをよく知りたかった。結婚しようと、敵味方に分かれようと、グランドロンとルーヴランは無関係でいられぬ。そなたと余は生涯関わり続ける存在だ。余は、神に感謝したい。ルーヴランを担う世襲王女がそなたであったことを」

 ラウラは心の中で叫んだ。
(違うのです! 私は姫ではありません)
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(20)申し込み

「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」の続きです。最初にでてくるのは、旅籠『カササギの尾』でマックスとお友だち状態であるジャックと、その恋人で姫の侍女であるエレイン。地下で逢い引き中です。

二人の会話から、二王国の縁談がまとまってしまったことがわかります。主人公二人にはこの縁談は他人事ですので、反応ものんきかもしれません。
(しばらくリードが間違っていました。「?」と思われた方、お詫びいたします)


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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(20)申し込み


「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」関連地図

「し~っ。静かに。本当は、まだ私、姫さまの御用で街にいる事になっているんだもの」
「わかっているよ、エレイン。でも、この前に逢ったのは十日も前だぜ。お前、俺に逢いたくなかったかい」
「そりゃ、もちろん、ジャック……」
「じゃあ、どうして、昨日の手紙に返事をくれなかったんだよ。俺、マウロが手紙を持ってきてくれなくて、ものすごくガッカリしたんだぜ。アニーと喧嘩でもしたのか?」

 暗い部屋にはほんの少しの明かりが小さな窓から入ってきていた。城の最下層は半地下になっていて、倉庫や武具、それに飼料などが納められていた。ここには用事のある召使いたちや下級兵たちしかやってこない。ジャックとエレインが勤務中に逢い引きをすることはもちろん認められていなかったので、仲間の誰にも見られないように周りを氣にせねばならなかった。二人はお互いの親友であるマウロとアニー兄妹の協力を得てわずかな逢瀬をもっていた。

「違うの。マウロにあなたが預けてくれたあの手紙ね。アニーは昨日からなんとか私に渡そうとしてくれたんだけれど、それどころじゃなくて」
「何があったんだい」
「驚かないでね。グランドロンの王様から正式に姫さまに結婚の申し込みがあったのよ」

「なんだ、そのことなら、こっちでも聞いていたよ」
「あら、だったらわかるでしょう。私たちがどんなに慌てたか。どうして宰相さまは早くお断りしなかったのかしら」
「何の問題があるんだい? このご縁談は前から進んでいたじゃないか。そのつもりでティオフィロス先生に来てもらったんじゃないか。この間グランドロンの王様が来た時も、姫さまと上手くいきそうだったらしいし」

 エレインはそっとジャックの耳に口を寄せた。
「あれは姫さまじゃなかったのよ。あの姫さまに王様を満足させるような応対がおできになるわけないでしょう?」

 ジャックはびっくりして暗闇の中でよく見えもしない可愛い恋人の表情を読もうとした。
「じゃ、グランドロンの王様と踊っていたのは……」
「ラウラさまだったの。お断りするからバレないって話だったのに……」

「なんでそんな事をしたんだ?」
「姫さまに会ったら、断られるに決まっているじゃない。会って断られたなんて、姫さまの名誉に傷つくわ。だから、まずはそこそこ氣にいってもらえるようにして、こちらから内々に断るってはずだったのよ! でも、正式に申し込まれてしまってから断ったら今度はあちらの名誉に関わってくるじゃない。それで、いったいどういう事なんだって、昨日は大騒ぎだったの。だから、アニーと私の二人きりになる機会が全然なかったの」

「おかしいな、ザッカさまも国王陛下も、そんなに慌てているようには見えなかったんだが」
「そうなの? どうするおつもりなのかしら」

 それから数日経って、マリア=フェリシア姫がこの婚儀に正式に合意した事が発表された。王太女である姫がグランドロン王との婚姻を結ぶ事は、すなわち二つの王国が次の代には一人の国王によって治められる事を意味していたので、大きな驚きが内外に広がった。既に長い事水面下で調整されていたため直ちに婚儀の日程が決定され、わずか一ヶ月後に姫はグランドロンへと向かい、到着後一週間待ってから婚姻の儀が執り行われる事となった。父親である国王エクトール二世は姫に堂々たる様子で祝福を伝え、姫は艶やかに笑ってそれを受けた。

 事情を知っているわずかな人間は、この楽観が全く理解できず、一体どうなる事かと眉をひそめた。

「だって、そうでしょう。ラウラ、あなたはレオポルド陛下とかなりたくさんお話をしたように見えたのだけれど……」
宮廷奥総取締のベルモント夫人は不安そうに言った。
「はい。とにかく断られる口実を作らないようにと言われましたので、グランドロン語で……」
「それでは、向こうについた一日目には、もうわかってしまうと思うのだけれど」
ラウラは否定しなかった。

 国王も姫もそれで構わないと思っているように見えた。あの時、断るからと言ったはずのザッカまでもがその事にはまったく憂慮しているようには見えなかった。

 ラウラはレオポルド二世の事を考えた。あの時、同じ志を持つ友だと言ってくれた彼は姫と結婚してどう思うのだろう。こんなはずではなかったと思うのだろうか。それとも、ルーヴランが手に入ればそれでいいと思うのだろうか。

 ラウラの心の半分はその憂慮を離れて突然降って湧いた一ヶ月後の自由に喜び踊っていた。一ヶ月後にマックス・ティオフィロスが新天地を求めて旅立つのと時を同じくして、彼女は自由になれる。もう二度と姫の代りに打据えられる事もなくなる。どこへ行き何をするのか、全て自分で決定できるようになる。

 ラウラはバギュ・グリ侯爵に自由を願い出るつもりだった。養女とは言え、一度たりとも父親らしく家に迎えてくれた事もなければ、実の娘のエリザベスに届けていたような贈り物も受け取った事がない。それどころか優しい言葉を聞いた事もなかった。鞭で打たれるためだけに存在した娘なら、役割が終わった時に再び肉屋の孤児に戻してくれるように頼んでも構わないだろうと思った。

 ここを出て行きたい。それだけがかつてのラウラの願いだった。姫のいない所であればどこでもよかった。どこかの宮廷や高位の者の家庭にて、穏やかに暮らせればそれでいいと思っていた。けれど、今はもう一つの願いを持っている。マックスに再び逢える街に行きたい。街で出会い、再び話をする事のできる場所に行きたい。たとえ想いは届かなくても、ただその姿を見る事の出来る所に行きたい。

 旅籠『カササギの尾』でマウロやジャックと一緒に楽しく寛ぐマックスの話を、マウロの妹である侍女のアニーから聞いて、ラウラはそこに自分が行くことを夢想していた。そこは、もともとラウラの属していた世界だ。だから、彼女はそこに戻りたいと願っていた。どこかの宮廷で紳士や貴婦人に堅苦しい作法や文学を教えるマックスが、帰って来てリラックスできる場所。彼女が行きたいと願っていたのはそんな場所、この世のあらゆる場所にあるもう一つの『カササギの尾』だった。

 だが、そのためにはどうしてもバギュ・グリ侯爵令嬢の名前を取り除いてもらわねばならなかった。ラウラは王女の輿入れが終わるまで、一切の汚点を残さず、王家や侯爵の機嫌を損ねぬよう慎重に行動するつもりだった。

 マックスにとっては、この話が決まったことはさほど驚くようなことではなかった。そもそも、婚姻の話があったからこその仕事だった。それに、彼はラウラと国王レオポルドが会話をしたのは、公式の場だけだと思っていて、あの夜に二人がバルコニーで出逢い語り合ったことを知らなかった。だから、あの時広間にいたのが姫ではなかったことは隠し通せるかもしれないと思っていた。だが、もちろん、レオポルド二世に対する同情の氣持はあった。あの王女を妻にするなんて、ぞっとする。

 だが、いずれにしてもこの話は彼にとっては人ごとだった。彼の頭を占めていたのは、次の行き先だった。マリア=フェリシア姫に対する教育の成果は、彼の基準ではまったくもって情けないものだったが、ルーヴラン国王エクトール二世も宰相ザッカも彼に対して不満を漏らすことはなかった。それどころかグランドロンからの正式な申し込みがあった途端、ザッカはマックスを呼び出して契約よりもかなり多い報酬と、彼が待ち望んでいた証書を手渡してくれたのである。

「まだ、一ヶ月ございますが」
「もちろん、婚儀の行列がこのルーヴランを去る前の日まで、引き続き殿下の教育はお願いしたい。だが、国王陛下はこの婚儀が無事に決まったことをお喜びなのだ。なんといっても、わずか二ヶ月で全くグランドロン語を話せなかった状態からレオポルド二世陛下と会話が成立するほどにしていただいたのだから」

 マックスは「それはバギュ・グリ殿の功績でしょう」と言いたかったが、この際、黙っておくことにした。下手にラウラの功績をたたえれば、彼らはラウラを引き立てようとするかもしれない。だが、あの娘はこの城から出て行きたいのだ。

「時に、ティオフィロス殿。不躾で申し訳ないが、次の仕事はもうお決まりか」
ザッカは慎重に口を切った。マックスは証書をたたんでしまいながら、宰相の顔を見た。
「いいえ、まだ。ゆっくりと次の勤め先を探しつつ、グランドロンの方へ戻ろうかと考えておりましたが。何か?」

 ザッカは顎髭をしごきながら言った。
「うむ。実はだな、たまたまヴォワーズ大司教から優秀な教師を知らないかと問い合わせがあったので、貴殿のことを報せようかと思ったのだ」
「そうですか。センヴリのマンツォーニ公爵のご子息をお教えした時に、ヴォワーズ大司教と大修道院の噂を耳にしました。有名な蔵書の数々を拝見したいとかねがね願っておりましたので、お近づきになれれば幸いです」

 ザッカは満足そうに頷いた。
「では、一ヶ月後に、大司教様あての推薦状をお渡しすることにしよう。よければ、そのままセンヴリへと向かっていただけるとありがたい」
「ありがとうございます。では、そういたしましょう」
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(21)告知

今年の「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」は今日を含めてあと二回、ちょうどチャプター2の終わりまでの発表となります。来年も「scriviamo!」を開催するつもりなので、切りのいい所まで発表したかったのですね。そのため、普段なら二つに切る長さのこの章をまとめて載せることにしました。

前回のザッカや国王たちがグランドロン王国からの結婚の申し込みに不可解な反応をした理由が明らかになります。そして、ようやくタイトルの元になった言葉が出てきます。その言葉を口にするのは《氷の宰相》です。


「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(21)告知


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 一ヶ月は飛ぶように通り過ぎた。ラウラは幸せなひとときを過ごした。マックスはまもなく輿入れする王女のために熱心に登城して嫌がる王女のご機嫌を取りつつも以前より多くの授業をした。そして、ラウラの課題の出来をはっきりと賞賛した。彼女は授業のあと、王女がさっさと去ってしまった後に、マックスを呼び止めてグランドロンやセンヴリの地理や歴史について質問をした。するとマックスはとても熱心に、優しく答えてくれた。それどころか時おり授業のない午後にも城に残り、一緒に例の白薔薇の苑を散策することがあった。

 最期の授業を終えた日も、二人は白薔薇の苑を散策した。陽射しは強く、夏らしくなっていた。一重の花びらはどれも大きくひらき、芳香で満ちていた。

「先生は……このお仕事が終わったらどこへ向かわれるのですか」
ラウラは自分の声の緊張が伝わらなければいいと願った。マックスはだが、そのラウラの質問の意図を感じ取った。彼女の手を取り自分の方へ引き寄せたい強い衝動をおぼえた。けれど彼はぎゅっと拳を握りしめた。
 
 想いを打ち明けた所でどうなるというのだろう。街の場慣れした娘たちとは違うのだ。ひどい仕打ちに一人耐え、優しさに飢えている純真な娘だ。甘い言葉を囁けば、はるかに大きな期待を持たせることになってしまう。

 生まれがどうであれ、ラウラは城の中で育った人間だった。柔らかい羽布団と、高級な絹の間で。マックスが出会ってきた地を這っている貧しい人たちとは違う。旅籠で春をひさいで暮らしていたマリエラ、蕪と青菜の薄いスープしか食べられないジャコ夫妻、旅人に毒を盛って金品を巻き上げていた粉屋の夫婦、肉など何ヶ月も口にしていない『カササギの尾』の常連たち。マックスが旅で身を置くのはそういう世界だ。駄目だ。この人は世界の違う貴婦人なのだ。

「宰相殿のおすすめでヴォワーズに参ります。大修道院で貴重な書籍を拝見するのが楽しみです」
ヴォワーズ大修道院は厳格なことで知られ、使役や下働きの者に至るまで男性だけで有名だった。大司教座の周りには城下町に近い空間があったが、特別な許可がない限り修道院への出入りはできない。

 ラウラは「そうですね」と相槌を打つことしか出来なかった。マックスが続けて言った「あなたのような優秀な生徒がまたいるといいのですが」という言葉に打ちのめされていた。自分は生徒に過ぎないと言葉通りに受け取ったので。もし、彼女がその時に彼の表情を見ていたならば、彼の意図は言葉とは違ったことを読みとれたであろう。

* * *

 姫が旅立つ前の日、マックスは大広間に正式の別れの挨拶にやってきた。国王とマリア=フェリシア姫に対して、良縁に対する技巧の限りを尽くした祝辞を述べ、堂々たる様子で深い礼をした。彼は瞳の端で、王女の後ろに控えているラウラが強い想いと願いを込めて自分の方を見ているのを感じ取った。

 だが彼はラウラには話しかけなかった。バギュ・グリ侯爵の方を向き、令嬢への儀礼的な賞賛を述べた上で、二人の令嬢の今後の幸せを祈るという、非個人的な祝辞を付け加えた。ラウラが傷ついて青ざめているのがわかった。マックスは「この方がいいんだ」と自分に言い聞かせた。次回はもっと身の丈にあった女性に惹かれるといいんだが、そう思いながら。

* * *

 打ちのめされて広間から出たラウラは、上機嫌の姫に従って、孔雀の間へと移動した。廷臣や衛兵たちの集う堅苦しい謁見が終わったので、姫の取り巻きの女官たちも大きな声で私語をはじめ、準備されている大きな宝石のついた長持ちや美しい贈り物の数々について語り合った。

 バギュ・グリ侯爵令嬢、つまりラウラの養父の実の娘である女官エリザベスが言った。
「姫さまが明日からいなくなるなんて、寂しくて耐えられませんわ」

 するとマリア=フェリシア姫はけたけたと笑った。
「心配しないで。私はいなくならないから」
「まあ、姫様、なぜそんな事をおっしゃるんですか?」
侍女のエレインはは謁見に使われたマントを丁寧に畳みながら訊いた。

 姫は窓の外を眺めているラウラを扇子で示した。
「行くのは彼女よ」

 皆の視線が急に自分に集中したのを感じて、ラウラは視線を部屋に戻した。王女が何を言っているのか理解できなかった。
「ふふふ。ザッカははじめからそのつもりだったのよ。だからあの王が来た時に、ラウラに私のふりをさせたんだわ」

 王女の取り巻きの女官たち、侍女たちも姫が何を言っているか、よく理解できなかった。
「大丈夫よ。結婚式までヴェールを外さず、花婿に顔を見せないってことだけは、あの傲慢な王に納得させたんだもの。違う人間が行ってもわかりゃしないわ」
「でも、姫様! 結婚したらすぐにわかってしまうじゃないですか」
エレインはいい募った。

「結婚する事などないのだ」
突然、ザッカの声が聞こえたので、一同は戸口に目を移した。ザッカが兵士の一団と一緒に立っていた。

「バギュ・グリ殿。誠に申し訳ないが、私と一緒に来ていただこう」
ラウラは言葉もなく立ち尽くした。マリア=フェリシアはけたたましく笑った。

 ザッカも兵士たちも手荒な真似は一切しなかった。けれどその有無をいわさぬ威圧感にラウラは怯えた。彼女は西の塔に連れて行かれた。同行して世話をする事を許されたのはアニー一人だった。
「いずれにしてもアニー殿にもバギュ・グリ殿と同じ運命を担ってもらわねばならぬ。危険はわずかに少ないとは言え」

 彼女はきちんとした調度はあっても、あかりとりの小さな窓しかない、牢獄のような空間を見回してから、不安そうにザッカに言った。
「これはどういうことなのか、お伺いしても構いませんか」

「もちろんです。バギュ・グリ殿。あなたには理解して納得してもらわねばならない。我が国の命運が、今あなたのその肩にかかっているのです」
ザッカは真剣な目で語りかけた。

「憶えていらっしゃいますか、あの貧民街に行ったあの日、あなたはこうおっしゃった。『この人たちを救う事が出来るならば何でもする』と……」

 ラウラは頷いた。その氣持ちに偽りはなく、今でも変わっていなかった。
「あの時、私はあなたに賭ける事にしたのですよ。私の計画はご存知でしょう」
「グランドロン王国から失われたルーヴラン領とフルーヴルーウー伯爵領を奪回すると……」
《氷の宰相》は深く頷いた。

「そうです。だが、グランドロンの軍事力は我々よりも強い。当たり前の戦争をしても勝つ事は出来ない。我々は奇襲をかけねばならぬのです」
「奇襲?」

「そう、グランドロンに普段のような王城の守りのない特別な祝祭に、花嫁側招待客の行列を隠れ蓑に王都ヴェルドンまで入り込んだルーヴランとセンヴリの連合軍が一氣に攻め込むのです。レオポルド二世には軍を配置する時間すらない。自分の婚礼の真っ最中とあってはね」

「それで、姫ではなく私を……」
ラウラは青ざめてつぶやいた。アニーが叫んだ。
「でも、そんなことをしたら、ラウラ様は!」

「そう、花嫁は危険にさらされる。それをわかっていて、この国のために婚礼の瞬間まで持ちこたえる事が出来るのは、あなたしかいません。そうでしょう、バギュ・グリ殿?」

 ラウラは恐ろしさに震えた。そのような陰謀に加担する事が、重要な役目を担って敵地に赴く事が出来るとは思えなかった。

「お約束します。我々が攻め入って、一番にする事は、あなたとアニー殿を救い出す努力だと。それでも、あなたにはずっと危険がつきまとう。婚礼までの一週間に、もし本物の王女でない事が露見したら、その時点であなたは処刑されるでしょう。それを覚悟で、どうしてもあなたに行ってもらわねばならない。我が国の悲惨な状況をダイナミックに改善するには、これしか方法はないのです」

 たとえ、ザッカの約束が嘘でないにしても、助けが来るまで生きていられる事はないであろう。彼女は他人事のごとく思った。
「私が、嫌と言ったら?」
ラウラは静かに訊いた。ザッカはひるんだ様子もなく答えた。
「あなたは嫌とはおっしゃらない。あの哀れなミリアムの屍をあなたはその目で見たのだから」

「もし露見したらどうなるのですか」
「怒り狂ったレオポルド二世があなた方を殺して攻めてくるでしょうな。感情を持たぬ冷たい兵士たちによって残虐な殺戮が行われ、国中にあのミリアムのような悲惨な死を待つ貧民たちが溢れることでしょう」

「あの方がそのように残虐なことをするとは思えません」
ラウラは青ざめて言った。ザッカは笑った。
「これはこれは。ダンスを踊って社交辞令を耳にしただけで、人格者と判断されるのですか。忘れているようですが、あの王と我々は既に戦争をしてる。ペイ・ノードを守ろうとしたわが国の兵士たちが血を流して死んでいったことをお忘れですか」

 ラウラは黙ってうつむいた。ザッカのいう通りだ。それから顔をあげて、アニーの方を見ながらザッカに言った。
「この若く将来のある娘を巻き込むのはおやめください。犠牲になるのは私一人で十分です」
「そういうわけには参りません。姫がご自身で着替えをすることはない。そしてあなたにはグランドロンの侍女には絶対に見られてはならない左腕の傷がある」

 彼女はザッカの方を睨んだ。
「では、傷のない者が身代わりになればいいでしょう!」
「バギュ・グリ殿。あなたにはわかっているはずだ。この役目が出来るのはあなた一人だ。グランドロン王が、花嫁として迎えたいと願ったのは、あなたなのだから」

 それからすこし取りなすように言った。
「アニー殿は婚儀の時にはもうお近くにはいません。この娘は賢い。自分で安全が確認されるまで隠れている事も、場外に逃げる事も可能だ。あなたが心を配らなくてはならないのは、何としてでも婚儀までは偽物とグランドロン側に氣づかせない事だ」

 ザッカはゆっくりと近づいてきた。それからラウラの目をまともに見て言った。
「あなたは、真の貴婦人だ。生まれや年齢や位には関係なく。それは立ち居振る舞いや優しい心だけの話ではない。勇氣の問題なのだ。私があなたに負わせようとしているのは、どの修行僧でも屈強な兵士でも怖じけづくほどの重い十字架だ。私はそれをわかっている。だが、どうしてもあなたにしか出来ぬ事なのだ。この国の惨状を見て同じ無力さに苦しんだ同志として、あなたにこの国のすべてを託したい。どうかこの十字架を受けていただきたい」

 それから、踵を返し戸口に行くと、兵士たちに命令を下した。
「今夜は、誰一人といえども、この西の塔に近づけてはならぬ。国王陛下であろうと、誰であろうとだ。この部屋に出入りできるのは、アニー殿一人だ。バギュ・グリ殿のお世話は彼女がする、いいな」

 重い扉が閉じられて、彼らが階段を下りて去って行く音が消えると、ラウラは力を失って長椅子に沈み込んだ。
「ラウラ様!」
アニーが涙ながらに膝まづいてきた。

 ラウラは侍女の頬の涙を拭ってやりながら言った。
「許しておくれ。お前を危険から救ってあげる事が出来なくて」

「何をおっしゃるのです。自分だけ逃れて、ラウラ様を一人で行かせて、それで私が幸せだと? それにしてもひどい。私たちは平民だから、たとえ命を落としても誰も文句が言えないと思っているのですわ」

 ラウラは微笑んだ。それから深くため息をついた。
「明日になれば、自由にこの城から出て行けると思っていたのに……」

 子供の頃から、ずっと夢みて憧れていた《シルヴァ》。あの森を通って、どこか知らない土地へと自由に旅していけるはずだった。国から国へ。街から街へ。マックスが行く所を目指し、その街の『カササギの尾』のような旅籠で働きたいと夢みていた。ただ時おり、食事に立ち寄る彼と言葉を交わすために。

 思慕が、どっと押し寄せてきた。あんな遠くから、わずかにお声を聞くだけのお別れになってしまった。いつかまた、お会いしたいからヴォワーズの次の行き先を教えていただきたい、その質問をする事すら出来ずに。明日自由になったら、一番最初にしようと思っていた事。その下宿を探し出して、氣持ちを伝える事。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(22)優しい雨

今年の小説の発表はこれが最後です。折しも「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」はチャプター2がここでおしまいとなります。

自由に生きることを諦め死を覚悟したラウラが、人生のたった一つの心残りに決着を付けようと行動に出ます。彼女の想いは報われるのでしょうか。私ならこの機会に逃げるけれど、身代わりになって残ってくれているアニーを見捨てられないのが地味とはいえヒロイン。


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あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(22)優しい雨


「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」関連地図

 ザッカは鐘楼の下の秘密の扉を開けた。牛脂灯の光でゆっくりと扉の内側を照らすと、そこにあるはずの濃紺の外套の代わりに、白い絹の部屋着が吊ってあった。炎が揺れた。しばらくそこに立ちすくみ、考えをまとめようとした。

 ザッカは音がしないように扉を閉めて、広間には戻らず西の塔に向かった。半刻ごとに異常がないか見て回る衛兵は、自分の仕事がきちんとなされていることを誇るかのように胸を張って敬礼してみせた。
「異常はありませぬ。私は食事のとき以外はずっとここにおります。バギュ・グリ殿はずっと祈られていらっしゃいます」

 ザッカは黙って頷くと、塔を登っていった。階段に靴音が硬く冷たく響く。確かに女の祈りの声が響いてくる。ラウラの声に聴こえない事もないが、ザッカはそれを信じなかった。

 扉の前に立つと、小さくノックをする。女の声は止み、沈黙が訪れる。長い、不自然な時間。だが、やがて、ゆっくりとほんの少しだけ扉が開かれる。アニーの顔が牛脂灯の光でわずかに浮かび上がる。
「何事でございますか、宰相殿」

「バギュ・グリ殿にお変わりはないか」
「ございません」
きっぱりとしたアニーの声は挑むようだった。

「その……。バギュ・グリ殿が平静を保たれておられるか、心配になってな」
ザッカが髭をしごきながら見据えたので、アニーの目には少し戸惑いが浮かんだ。震え、青ざめている。《氷の宰相》は、自分はどんな顔をしているのだろうかと考えた。

 短い沈黙を破るように、アニーは早口に続けた。
「今夜は、どなたであろうとも、ラウラ様にお取り次ぎしてはならぬと厳命を受けております。たとえ、姫様であろうと、国王陛下であろうとです。宰相殿が一番よくご存知ではありませんか」

「そうだ。よく知っている。バギュ・グリ殿にお伝えくだされ。あなたの勇氣と犠牲に感謝していると」
もし、伝える事が出来るならば。踵を返し、塔の階段を降りていきながら、ザッカはつぶやいた。

 このままあの女が戻らなかったなら何が起こるのだろう。計画は中止だ。グランドロンと戦をして勝てるチャンスはもうないだろう。だが、なんとグランドロン側に伝えればいいのだろう。花嫁は行きませんと? 明日の昼には花嫁の行列に付き添うグランドロンからの護衛部隊も到着する。その時に花嫁の準備が済んでいなければ、あちらはすぐに疑念を持つだろう。そして、さほど遠くないうちにグランドロンは氣づくだろう。あの日会わせた女が王太女ではなかったことに。我々の策略に。そうなった時のための準備をしなくてはならぬのか。

 頼みの綱はただ一つだ。あの娘が身代わりとなった侍女を犠牲にするような性格ではないという私の読みがあたること。もし、そうでなければ……。

 ザッカは自嘲した。これほど綿密に立てた計画すべてが、女の慈悲心一つにかかっているとはな。あの娘には何もかも捨てて逃げるだけの理由がある。あの聡明な女にわからぬはずはない、捨て石にされて残酷な死に向かわされる事を。

 私は神に祈ったりはしない。ザッカは立ち止まって小さな窓から空を見上げた。先程までの明るい月は、暗い雲にかき消されている。広間の方から人々のざわめきが聴こえる。王女の輿入れ前夜の宴だ。軽薄な赤毛の姫が騒いでいる声も耳に届く。何が起こるかも知らずに。

 神は、私の思惑を超えて駒を進める。だが、明日の朝まで、騒ぎは起こすまい。逃げたければ逃げよ。そうなった時には、私は全てを負わねばならぬな。ザッカは心の揺らめきを悟られぬよう、いかめしい顔をして広間に入っていった。

* * *


 ラウラはその頃、秘密の地下道を通り抜けて、城下に入っていた。この通路を知らなければ諦めたに違いない。誰かに見つかる危険を想定しないわけにはいかなかった。みつかればアニーもただでは済まない。私のわがままを、あの子は黙って許してくれた。賢い優しい子。あの子に出会えた事を感謝しなくてはならない。

 かき曇る空を見上げた。ぽつりぽつりと雨が外套にかかる。彼女は目を閉じた。狂っているのかもしれない。それでもいい。躊躇している時間はないのだ。二十年。一度も自分の命を生きてこなかった。明日は再び姫の影に戻る。そして、二週間で全てが終わる。自由になる事もない。だから、せめて一度だけ、本当に自分のしたかった事をさせてほしい。報われなくてもいい、どのように罰されてもいい、どうしてもあの方に逢いたい。

 サン・マルティヌス広場への道も、先日ザッカと通ったので探し立ち止まる必要もなかった。旅籠『カササギの尾』は、すぐに見つかった。その脇の小路を進むと、いくつもの同じような家が並んでいた。アニーから伝え聞いたマウロの話では、マックスは一番奥の建物を借りているということだった。そこは窓の鎧戸も扉も閉ざされていた。ラウラは少し躊躇したが、扉をノックした。最初は小さく、答えがないのでやがて大きく。しばらくすると二軒先の建物から、年配の女性が顔を出して叫んだ。
「ティオフィロスさんなら昼から出かけているよ!」

 雨が次第に強くなってきた。冷たい風が追い討ちをかける。結局、そういうことなのだ。期待をしてはいけないと、自分に言い聞かせてきたつもりなのに。一目逢えれば、それでよかったのに、それすらも叶わないのだ。ラウラは扉にもたれかかって肩をふるわせた。

「《黄金の貴婦人》……?」
低い声が聞こえて、彼女は振り向いた。雨が視界を遮り、立っている茶色いマントの男がマックス・ティオフィロスだと判断するのは難しかった。だが、その声は紛れもなかった。

「バギュ・グリ殿!」
先生……。彼女のつぶやきは音にならなかった。
「どうして、ここに? 寒いだろう。すぐ中に」

 彼は急いで戸を開けてラウラを中に誘った。マントを脱ぎ捨てるように戸口に掛けると、玄関に置かれた薪の山から数本を取って居間の暖炉にくべると、衰えていた残り火に息を吹き込んで熾らせた。

「マントをここにかけなさい。そんなに濡れて、風邪をひく。ここに来て暖まってください」
そして振り向いて、はじめてラウラの青ざめた様相に目を留めた。彼女は視線を足下に落として、寄る辺なく立っていた。そして、声を絞り出した。
「申し訳ありません」

「なぜ謝る?」
マックスは戸惑っていた。雨の中に立つマント姿の女を《黄金の貴婦人》と見間違えたことを、自分で理解が出来なかった。子供の頃に数度見た貴婦人は、今ラウラが着ている粗末な服地ではなく、漆黒のしかし一目でわかる最高級の絹で出来た服に身を包んでいた。そして、もちろん一人で雨の中を歩くなどということはなかった。

 王宮でラウラを《黄金の貴婦人》と見間違えたことも一度もなかった。だが、先程のラウラの佇まいは彼を十歳の子供に引き戻した。それは深い悲しみのにじみ出た後ろ姿だった。

「どうしてもお逢いして、ひと言お別れを申し上げたかったのです。先ほどはお話しすることもかないませんでしたから」
彼女は足下をみつめたままで、いたずらを見つかってしょげている小さな子供のようだった。

「よく無事で来られた。供も連れずに一人でこのような所に来るのはあなたのような貴婦人のなさることではありませんね」
笑ってそう言ったマックスの言葉に、ラウラは目に涙を浮かべた。彼ははっとした。

「私は貴婦人になりたかったわけではありません。肉屋の孤児なら氣軽に逢ってくださるというならそうありたかったと思います。先生の後を追って遠くの国へ行きとうございました。遠くからでもお姿を見ていたかった。でも、私の想いを迷惑と思われているのは、今朝の先生のご様子でわかりました。神もそれを望まれていませんでした。だからこそ、生涯の思い出にせめてただひと度お逢いしたかったのです。それすらも許されないのでしょうか」

 マックスはラウラの頬を伝う涙に手を添えた。
「許してください。あなたを苦しめるつもりではなかったのです。迷惑だなんてとんでもない。私もあなたに惹かれています。昨日もそう伝えようかと迷ったのです。でも、あなたは私の旅してまわるような賎しい世界に属する人ではない。だから何も告げずに別れるのが一番だと思ったのです」
「先生……」

「マックスと呼んでくれませんか、ラウラ……」
そういって彼は震える女をそっと抱き寄せた。彼女はもっと激しく泣き出した。その髪を梳きながらマックスは思った。自由氣ままな旅もこれで終わりになるかもしれない。
「明日、行列が去ってから、もう一度お城へ行きます。侯爵様のお許しが簡単に得られるとは思えないが、努力してみましょう」

 ラウラはそっと顔を上げた。明日、行列が去った後に城に行っても彼は彼女に会うことは出来ない。だから、逢いにきてよかったのだ。
「いいえ。いいえ。どうかこれまでのように自由に生きてください。私にはそのお言葉だけで十分ですから」
「何も言わなくていい」
 マックスの顔が近づいてきた。彼女は一夜の夢を見るために瞳を閉じた。
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(23)逃走

お待たせしました。「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」の連載再開です。今日発表する分からがチャプター3、最後のパートになります。

ラウラと幸せな旅立ちをするつもりで、城を訪ねたマックス。思ってもいなかった事実を知りショックを受けます。ラウラは王女の代わりとして、既に出発してしまいました。久しぶりに「今ここマップ」が必要になりましたね。

なお、ユズキさんから、とても素敵なイラストを頂戴しています。詳しくは、こちらこちら

マックス by ユズキさん
このイラストの著作権はユズキさんにあります。無断転用は固くお断りします。

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あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(23)逃走


森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架 関連地図

 前夜の可憐なラウラを思い浮かべながら、彼が城へと向かうと、様相が違っていた。マックスは一人の男がザッカとともに孔雀の間に入っていくのを見た。どこかで見たことのある男だった。ここにいるはずのない誰か。訝りながら西の棟へと愛する女を訪ねて行くと、信じられない光景を目にすることになった。開け放たれた紺青の間にいつもの通り馬鹿げた笑い声を響かせるマリア=フェリシア姫と女官たち。迎え出たエレインが呆然とする彼をダンス室へと誘導し、ラウラが身代わりとして輿入れしたことを告げたのだった。

 エレインはラウラとともにグランドロンに行ったアニーの親友で、彼女の他にラウラのマックスへの想いを知っていた数少ない味方だった。そしておそらく前夜のことも知っていたのだろう。
「何故、こんなばかげたことを。いつまで隠し通せると思っているのだ」
「長い必要はないのです。婚姻の日まで隠し通せれば。ああ、かわいそうなラウラ様、哀れなアニー……」

 彼は歯がみした。はじめからわかっていてもよかったのだ。《氷の宰相》イグナーツ・ザッカは、突然現われたレオポルド二世にラウラを世襲王女と偽って会わせた。はじめから身代わりを送り込むつもりだったからだ。あの時は断るから問題ないと言っていたのに、結局は婚儀が決まった。だが、ラウラがヴェールをしていたから、わからないであろうと言われた戯言を信じていた自分の愚かさに腹が立って仕方なかった。

 ラウラが泣きながら暇乞いに来た意味も深く考えなかった。マックスは帰ろうとする彼女の額に口づけをしながら言ったのだ。
「明日、婚礼行列が去ったら、城に君を訪ねる。一緒にこの国を出よう」

 突然思い出した。そうだあの男は、センヴリの王宮にいた男だ。宰相ベリオーニの側にいつもいた。今ルーヴランとセンヴリとがひそかに通じる理由は一つしかない。軍事同盟だ。偽王女との婚礼の隙を狙ってグランドロンに奇襲を仕掛けるつもりなのだ。ラウラとアニーを犠牲にして。

「ティオフィロス先生。国を出たはずのあなたがここでいったい何をなさっているんですかな」
その声に二人が振り返ると、そこには衛兵たちを従えた《氷の宰相》が立っていた。

 マックスは西の塔へと連行された。そこは、彼は知らなかったが昨日までラウラが幽閉されていた場所だった。窓がかなり上の方に一つしかないのを見て取った彼は閉じこめられてなるものかと抵抗したが、衛兵たちは槍の柄で殴り掛かり、倒れた彼を蹴った。これまでこの城で彼が受けていた敬意の欠片も示さなかった。そして、重い音を立てて扉が閉められた。

 衛兵たちは二人ずつ三交代で、寝ずの番をしていた。懐柔する余地も全くなさそうだった。余計な事をするよりはチャンスを待った方がいい、マックスははやる心を抑えながら出される食事をきちんと食べて体力の温存を図った。以前のように王侯貴族の相伴で食べていた食事ではなく、召使いたちが食べているような簡素な食事だったが、農民たちがようやく命をつないでいた薄い粥や、古くなりかけた肉とは違って、十分に食べられるものだった。この程度の扱いで堪えると思うなよ。マックスは心の中でつぶやいた。なんとか逃げる手だてがないか、彼が考えている間に二昼夜が過ぎた。

 変化が起きたのはその翌日の午後だった。交代する衛兵と食事を運ぶ侍女しか来なかった塔に、大きな物音がして何人かの人間がやってきた。多くの衛兵の数からすると、宰相でも来たのかと予想した。扉が開けられるとそこには果たしてザッカが立っていた。しかし、それだけではなく、バギュ・グリ侯爵の姿もあった。二人は衛兵たちをドアの近くに立たせて、盃を持った召使いジャックと一緒に彼の近くに寄ってきた。
「侯爵様! 宰相殿!」

 ザッカは髭をしごきながら上目遣いで言った。
「非常に残念ですな。何も知らないまま、ヴォワーズへと旅立っていてくだされば、あなた様に害を加えるつもりはなかったのです。優れた人材というものは、国を越えてのこの世の宝です。みすみすその命を絶つのは私にとっても苦しい決断なのですよ」

「侯爵様! この男のいうなりになって、奸計を押し進められたのか。たとえ血は繋がっていなくとも、ラウラはあなたの娘ではないですか。この王宮に仕え、その働きぶりであなたの家名をも高めた功労者である彼女に対しての父親としての報いがこれなのですか」
マックスは食って掛かった。

「何を言っているのかわからないね。わが娘ラウラはグランドロンへと嫁がれた王太女殿下の《学友》としての大役を終え、わが領地に戻り幸福に暮らしているのだ。いいかね。私も宰相殿も国王陛下も何の策略もしてはいない。城の記録にはバギュ・グリ候令嬢はつつがなくこの城を出た事だけが記されるのだ」

そこで《氷の宰相》が言葉を継いだ。
「そして、教師であったマックス・ティオフィロス殿もだよ」
彼は懐から小さな紙包みを取り出して、そっと広げた。白っぽい粉が現れた。召使いジャックが捧げ持った銀の盃を手にとり、それを入れてゆっくりと揺らしながら溶かして、ゆっくりと進み出た。
「さあ、これを飲んでいただきましょうか」

「それは……」
マックスは眉をひそめて、狼狽えた様子を見せた。ザッカは銀の盃を持つと、じっとその目を見つめて言った。
「叡智を尊び、わざわざギリシャ風に名乗られているあなたにふさわしい最後を。ギリシャではこの毒による死は永遠の不死に至る扉を開くと信じられていたそうではないですか」

 その時、バギュ・グリ候が《氷の宰相》を押しとどめた。
「神に身を捧げたあなたにそれはさせられない」
そういって盃を手に取ると自分が進み出てマックスの前に差し出した。彼はジャックが青ざめて震えているのを見た。
「さあ、観念して、これを飲むのだ。これは我々の情けだよ。死ぬまで飢えさせられたり、馬車に引き裂かれるような最後は迎えたくないであろう?」

 あざ笑う侯爵を睨みつけると、彼はその盃を受け取った。液体はぬるま湯のようで、盃は暖かかった。
「私はラウラと夫婦になる誓いを立てました。あなたは娘殺しだけでなく、婿殺しの罪をも背負って神の前に出る事になりますよ」

 侯爵は感銘を受けた様子もなく鼻で笑った。マックスはさらに青ざめるジャックを見た。それから侯爵とザッカを睨みつけると、その毒杯を一氣に呷った。ザッカが言った通り、ソクラテスを死に追いやった毒ニンジンだった。勝ったと思った。この量なら全く問題ない。十二歳の時に飲まされたものはもっと強かった。あの時の苦しみを思い出しながら、彼は苦悶に身を歪める振りをした。10分くらい待ってからゆっくりと手足の力が抜けるようにその場にうずくまった。それから時間をかけながら顔がひきつり、息ができない振りをした。ザッカと侯爵を睨みながら、その場で息絶えたように力を抜いた。

 《氷の宰相》は小さく十字を切った。侯爵は目の前で起こした殺人の罪にさすがに震えていたが、ザッカとジャックの手前ことさらしゃんと立ち、大きく息をつくと衛兵を従え踵を返して塔から出て行った。ザッカはジャックに刑死体置き場へと遺体を運ぶように言いつけて出て行った。

 ジャックは震えながらマックスの体に触れた。それから死体を引きずるような事はせずに、患った大切な人間を扱うように背負って、ゆっくりと階段を降りていった。ふらつきながら堪えきれずにすすり泣いているのがわかったので、彼はほんのわずかに指を動かしてジャックの上着をつついた。ジャックはびくっとして、自分の肩にもたれかかっている死体であるはずの男の顔を怖々と見た。小さくウィンクするとそのまま死んだフリを続けた。召使いは仰天したが声を上げたりはしなかった。再び死体のフリをしている男を背負い直すと、先ほどよりもしっかりとした足取りで階段を降りていった。

 城の最下層にある刑死した罪人たちの死体置き場まで来るとジャックはマックスをそっと床に降ろして急いで扉を閉めると「だんな様!」と言った。

 マックスはそっと起き上がるとジャックに耳打ちした。
「目立たぬ服装と行き倒れの死体を用意してくれぬか」
「はい。しかし、お体は大丈夫なのですか? 毒は……」
「なんともない。心配するな」

 ジャックは頷くと外へ出て行った。マックスはその暗い小さなあかりとりの窓しかない空間に残された。幸い現在はここに刑死体はないようだが、何ともいえないすえた臭いがしていた。少なくともこの場所には高貴なる方々は来ない。ジャックがうまくやってくれれば無事に逃げられるはずだ。わずかな時間も惜しくて、彼は自分の登城用の衣装を脱いで下着姿になった。

 二刻ほどしてジャックとマウロがやってきた。二人は一人の男の死体を運んできた。用意された町民の服をマックスが着て靴の紐を締めいてる間に、二人は死人に彼の衣装を着せて、ジャックが石で死体の顔を叩き判別が出来ないようにした。
「運んだ時に落としてこうなったと言っておきます。まず、誰も確認に来ないとは思いますが」

 それからマウロは後の事をジャックにまかせ、マックスを連れて使用人通路から城の外へ出た。林の近くの小さな小屋の外に一頭の馬がつながれていた。小屋から小さな背負い袋を持ってくると、マウロは中に入っているいくらかの食料と金を見せた。
「急いで用意できたのはこれだけでした。申しわけありません」
「十分だ。本当にありがとう。ラウラだけでなく、君の妹アニーも救えるよう、全力を尽くすよ」
「ありがとうございます。幸運をお祈りします」


 彼はもどかしげにまたがると、馬をグランドロンに向けた。戻るつもりのなかった祖国。義理すらも果たせていなかった恩師のもとに戻る恥ずかしさすらも感じなかった。どうしても王宮に行かなくてはならない。自分一人ではどうやってもラウラを救えない。

 彼の人生は常に自由への憧れで占められていた。ディミトリオスの厳しい指導に耐えたのも自由になるためだった。ようやく手に入れた誰にも束縛されない生活。国から国へ、街から街へと氣ままに遷り、自分の力だけで生きる。それが出来るようになってまだたったの二年だった。だが、今の彼にはその生活を失うこともなんでもなかった。

 ラウラ。だめだ。死なせたりなんかしない。待っていろ。

(追記: 3/9 一部を書き直しました)
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(24)姫君到着

マックスが馬を走らせてグランドロンに向かっている頃、ラウラを連れた花嫁行列はグランドロンに到着しています。待っているのは、もちろんあの王様。

ラウラは敵地にアニーと二人取り残されます。一週間、ヴェールをつけたまま、なんとか見破られないようにしなくてはなりません。

既に何回かご紹介していますが、ユズキさんから、とても素敵なイラストを頂戴しています。詳しくは、こちらこちら

レオポルド by ユズキさん
このイラストの著作権はユズキさんにあります。無断転用は固くお断りします。

「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(24)姫君到着


森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架 関連地図

 グランドロンはルーヴランよりも夏の来るのが遅かった。一昨日、城を出る前に見た大きな栃の大木には大きな白い燭台のような花が咲き誇っていたが、ここでは蕾が固かった。しかし、夏は婚姻行列とともに到着したらしく、若緑の大きな葉の間から、突き刺すほどの強い光が射し込んでいた。

 ラウラはそっと衿の下に隠された十字架に手を当てた。他の全てはマリア=フェリシア姫の衣装だったが、これだけは彼女自身のものだった。愛を交わした後、帰ろうとするラウラを呼び止めマックスが微笑みながらそっとその首に掛けてくれたのだ。

 馬車が停まり、扉が恭しく開けられると、そこに立っていたのはルーヴランの従者たちではなかった。わずかに離れた所にアニーが立っている。それだけが唯一の心の支えだった。従者の助けで馬車を降りると、しっかりと面を上げてグランドロン城の正面階段を見上げた。顔を隠すヴェールの向こうに、壮麗な城が見えた。なんと美しい城だろう。淡いクリーム色の壁、白い大理石の彫刻、たくさんある窓はルーヴランのものよりも大きかった。

 正面階段は三十段ほどあるだろうか、その上に、ラウラは懐かしい人影を見た。赤いどっしりとした上着を着た、黒髪の青年王。その横には、あの時もぴったりと横にいたヘルマン大尉が控えている。この懐かしさと安堵感はどういうことなのだろう。彼女は訝った。七日もしないうちに、私はこの人に憎まれて処刑されるというのに。

 ラウラの心に、あの月の光の下での近しい会話が蘇る。頬に触れた暖かい手のひら。

「よくお越し下された。さぞ長旅で疲れたことであろう」
よく通る声で王は言う。その顔には隠しきれない喜びがあふれている。ラウラは目を伏せた。
「いいえ。徒歩で来たものの疲れを思えば、私など……」

 それを耳にしたアニーは、心の中で思った。姫君だったら、さぞ疲れたと大騒ぎしたでしょうね。

 姫君を連れてきたルーヴランの馬車行列がそれぞれ王とその花嫁に敬礼をしてからその場を離れていった。ラウラは脇に退いて佇んでいるアニーをちらりと見た。この小さな娘と自分を守っていたルーヴランの鎧は、全て消え去っていく。

 ザッカの約束など信じていなかった。彼らは二人を犠牲にするつもりだ。どんなことがあっても、この忠実な娘だけは婚礼の前に安全な場所に逃がさなくては。そのためには、婚礼の日までなんとか持ちこたえねばならない。

「震えているのか」
レオポルドが訊いた。ラウラは頷いた。
「はい。これまでずっと側にいたものたちが、急に去るとやはり心細く感じます」

 国王は笑った。
「率直でよい。心配するな。一週間後、我々の婚儀には、再びそなたの父である国王陛下の使者と貴族たちがこの宮廷にやってくる。そして、そのうちにそなたにとって近しく側にいるものとは、余とこの宮廷のグランドロン人となるだろう」

 最後の馬車が王宮前広場から去ると、レオポルドはそっとラウラの手を取った。
「さあ、ようこそ、そなたの新しい我が家へ」
二人が王宮へと入っていくと、ヘルマン大尉をはじめ並んでいた廷臣たちも二人に続いた。

 大広間に足を踏み入れ、ラウラは思わず息を飲んだ。広く天井がとても高かった。ルーヴの王宮のような金細工や細かな装飾はあまりなかった。まっすぐに天へ伸びる大きな大理石の柱は上部で鋭利な曲線を描き天窓に集合するようになっていた。計算し尽くされた光の魔術で、広間には荘厳な空氣が漂った。それは厳しくもあり、さらに輝かしくもあった。ルーヴの城が文化と芸術の勝利であるのならば、このヴェルドンの王城は力強さと正義の讃歌と言い表すことができた。強い軍隊。質実剛健。厳格でもあり実利的でもあった。

 ラウラはとんでもないところに来てしまったと感じた。この城を最上と考える人びとを簡単に騙すことなどできるのだろうか。美しいもの、そして楽しいものを追い求め、美食と狩りと贅沢な品々に囲まれたあの将校たちの率いる軍隊が、規律と厳格さに統率され、一分の隙も見せずにこの場に立ち並ぶ男たちに戦いを挑んで勝つことは可能なのだろうか。

 広間には楽人たちがいた。レオポルドが頷くと、控えていた侍従長が合図をし、楽人たちが『森の詩』を奏でだした。王は笑ってラウラの手を取り広間の中央へ向かった。

「また少し上手くなったな」
「何がでございますか」
「言葉と、それからこの踊りだ」

 ラウラは何と答えていいのかわからなかった。あれから一ヶ月、彼女は歓びに満ちてグランドロン語を習った。マックスの生まれ育った国の言葉、彼の話してくれるヴェルドンの様相、老師ディミトリオスの難解な哲学と知識に恵まれた彼の少年時代、旅で経験した時に面白おかしく時に物悲しい逸話。マックスの優しい語りに酔いながら、ラウラはグランドロン語の夢まで見た。そして、この『森の詩』のダンスも婚礼で姫が恥をかかぬようにと十日ほど前に再び練習したのだ。マックスの手に触れて、すぐ近くで踊る幸せをかみしめたのは昨日のことのようだった。ラウラが涙を浮かべたのはヴェールに遮られてもちろんレオポルドには悟られなかった。

 彼は上機嫌でラウラに話しかけた。
「そなたが結婚に承諾してくれたと聞いて、余は子供のように喜んだのだ。わかっているのか」

 ラウラは不思議に思って見上げた。
「グランドロンの国王陛下に申し込まれた結婚を断る国はございませんでしょう?」

 彼は当然だといいたげに頷いた。
「それはその通りだ。そもそも、そなたや余のような身分では、結婚相手に求められるのは家柄や政治にどのように役に立つかだけだ。実のところ外見や氣だての良さ、それに相性も考慮されることはない。だが、そういうものだとわかっていても、余は亡き父と王太后である母のような夫婦のあり方ではなく、ずっとあるべき結婚の鑑としてある夫婦の姿を思い描いていた」

「それは……?」
「今は亡き父の王妹マリー=ルイーゼとその夫のフロリアン・フォン・フルーヴルーウー伯爵だ。お互いに深い愛と信頼で結ばれ、尊敬し高めあっていた。残念ながらその幸福は数年しか続かず、伯爵は何者かに殺害され、叔母も失意のうちにこの世を去ったが」

「フルーヴルーウー伯爵……」
ラウラはその名を聞いて戦慄した。《氷の宰相》ザッカの指揮でルーヴランが、グランドロンから何を置いてでも奪おうとしているのは、金山と鉄鉱石、そして南へ向かう峠のあるフルーヴルーウー伯爵領だった。

「あの宵に決めたのだ」
ラウラは国王の言葉にはっとした。
「そなたと言葉を交わしたあの月の宵に。善き国王と女王であるだけでなく、お互いに信頼し尊敬しあえる伴侶になれると確信が持てたのだ。今まで多くの姫君と直接逢ったが、そなたのような相手は一人もいなかった。それがルーヴランの世襲王女なのだから、これ以上の幸運は望めないと思った」
「陛下……」

 広間に集う貴族たちが次々と踊りの輪に加わった。厳格に見えた広間も、華やかな衣装で踊る人びとで明るくなった。グランドロンは、ルーヴランとセンヴリの連合軍が攻めて来ることも知らず祝祭ムードに酔っていた。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(25)疑い

ラウラは、結婚式までの間グランドロンの王宮で、アニーだけに身近な世話をさせています。ほぼ敵国からの政略結婚とは言え、部屋の中でもヴェールを外さず、グランドロンの召使いを寄せ付けない様子は、やっぱり少し変ですよね。綻びは少しずつ……。

そして、今回、二人ほど新しい女性キャラクターが登場します。一人は宮廷奥総取締役の女官長。そして、もう一人が高級娼館のマダム。どちらも、この小説だけでなく、これから書こうかなと思っている続編でもう少し自由に動く予定の人物です。


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(25)疑い


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「陛~下っ」
甘ったるい声がした。ハイデルベル夫人は反射的にきつい顔になって、声のした方を振り向いた。レオポルドは多少困ったように口端をゆがめた。
「ヴェロニカか。なんだ」

「『なんだ』は、ないでしょう? 花嫁様にご紹介いただけませんの?」
香水の匂いをまき散らしてデコルテが大きく開き、豊かな胸を強調したえび茶色のドレスをまとった女はその肉感的な厚い唇をゆっくりと閉じてみせた。ハイデルベル夫人は我慢できずに前に進み出た。
「恥を知りなさい。あなたみたいな女が未来の王妃の友情を勝ち得る可能性があるなんて思わないことね。つまみ出される前に消えなさい」

 女はまったく動じた様子もなかった。マダム・ベフロアの名で知られるヴェロニカは城下にルーヴラン風のインテリアの高級娼館《青き鱗粉》を経営している。彼女の一番の顧客は国王その人であり、定期的に何人もの女たちを派遣していた。だが、レオポルドは一人の娼婦を連続して呼ぶ事がなかったので、愛人のように振る舞える女はいなかった。その代わりに、派遣元のヴェロニカがかなり頻繁に出没しては愛人のごとく自由に振る舞っていたので、ハイデルベル夫人は腹に据えかねていた。そもそも、何がマダム・ベフロアだ。ここはグランドロンなのにルーヴランのような名前を名乗っているのが氣にくわない。その方が華やかで文化的だとでも言いたいのだろうか。

「あなたの意見なんかきいていませんわ、ハイデルベル夫人。陛下、まさか、結婚するからって、私たちの楽しい遊びをおやめになるわけじゃないでしょう?」

「ううむ。どうかな」
レオポルドの歯切れは悪い。二人の女は思わず顔を見合わせた。結婚するぐらいで、国王が女遊びをやめる可能性など欠片も考えていなかったからだ。王が即座に否定しなかった事にひどく驚いた。

 ベアーテ・ハイデルベル男爵夫人は、サンドロン侯爵の四女で王太后の従姉妹にあたる。女官として早いうちから後宮に務めたが、まじめで浮ついた所がないために早くから侍従長と王妃の両方に信頼され、前国王フェルディナンド三世が若いという反対意見にも拘らず宮廷奥総取締に取り立ててから二十年近く経っていた。現在の王太后である王妃だけでなく、社交の中心でもあったフェルディナンド三世の妹、フルーウールーウー伯爵夫人マリー=ルイーゼからも信頼が厚く、それゆえ今は亡き伯爵夫人を敬愛する現国王レオポルド二世もハイデルベル夫人を父王と同じように尊重していた。

 ハイデルベル夫人は、レオポルドが馬鹿げた女遊びをする事に大賛成だったわけではないが、自分が意見をしてやめさせるべき事だとは思っていなかった。国王は節度を持って遊びと政治を分けていたし、また、結婚相手をふさわしい姫君と決めていたのをわかっていたからだ。

 レオポルドは、多くの花嫁候補に対して非常に手厳しかった。センヴリ王国のイザベラ王女や、マレーシャル公国のクロディーヌ姫は、家柄も評判も悪くなかったにも拘らずさっさと断ってしまった。

 マリア=フェリシア姫はルーヴランの世襲王女で家柄と結婚で得られる領国が別格であり、さらに絶世の美女との評判も耳にしていたが、ハイデルベル夫人はこの話がまとまるとは夢にも思っていなかった。マリア=フェリシア姫の美しさ以外の資質についての噂は、あまりにも芳しくなかったし、レオポルドの普段の言動からしてそのような姫を生涯の伴侶に選ぶとは考えにくかったからだ。

 ところがレオポルドはルーヴランから戻ってきてすぐにマリア=フェリシア姫に正式の結婚申し込みをした。濃いヴェールに阻まれて、未だに姫の顔を見たことのないハイデルベル夫人は、噂のわがままで浅薄な王女がどうやってレオポルドの心を射止めたのかどうしても納得がいかなく、到着した花嫁に非常に強い警戒心を持っていた。

 しかも、この王女は新しく彼女に仕える事となったグランドロンの侍女たちを信用していなかった。親しく打ち解ける事がないばかりか、着替えや身支度の時にルーヴランから連れてきた侍女以外のものが同室する事を禁じたのだ。ハイデルベル夫人は侍女たちからの報告を受けて、すぐに表にいってレオポルドに報告した。

「おかしいと思いませんか? 着替えの間、あの二人以外は同室できないんですよ。何か危険なものでも隠し持っていないとも言い切れませんよ。十分にご注意なされませ」

 王は笑って頷くだけだった。いったいどういうことなのだろう。他のことはともかくこの花嫁のことになると、どうも陛下の判断力は著しく低下している。ハイデルベル夫人も側に控えているフリッツ・ヘルマン大尉も思った。

「たとえ刃物を持っていようとも、あの細腕では余にかすり傷一つ追わせることは出来ない。それに……」
王はそれ以上は口にしなかった。
(あれと余の心は通いあっているのだ。国同士の仲がどうであろうとも……)

 ヴェロニカは王の居室から出て、いつものごとくプラプラしていた。怒りとも不安ともわからぬ感情に支配されていた。一つだけわかるのは、やってきた王女のことを過小評価し過ぎていたということだった。美貌だけれども浅薄でわがままな女だったのではないのか。

 王の愛人やそれに準ずる地位に就きたいと思ったことはない。王族貴族やそれに準ずる貴婦人と張り合うつもりも全くなかった。彼女は自分の力で築き上げてきた娼館《青き鱗粉》を誇りに思っていた。他の全てには決して超えられない階級の壁があるが、彼女の王国では誰もが同じだった。同じ欲望、同じ衝動、同じ鼓動。それを支配するのは、天におわす神と、人を惑わす悪魔の両方だった。人には決して逆らえない。その支配は何よりも誰よりも強いはずだった。

 ヴェロニカとにとって、レオポルドは最上の顧客であると同時に、一種の友情もしくは戦友に近い感情を共有する仲だった。ヴェロニカは、その口の堅さを王に示し信頼を勝ち得ていた。また、彼女は彼の必要とする情報を独特の方法で手に入れて、若い王の親政を補佐した。賢者ディミトリオスやヘルマン大尉が表の正式な面から補佐したのと同じように、彼女はレオポルドを裏の隠れた面から支えてきたという誇りがあった。賢者やフリッツ・ヘルマンと全く別の次元で、彼女はレオポルドの最大の理解者であると同時に、どの女にも負けない特別な地位を彼の心の中に占めていると感じていた。

 だが、ルーヴランからやってきたあの女は、突然、王の心の中に居座った。顔も見た事がなく、誰も逆らえない本能の焔でねじ伏せたわけでもなく、わずかな会話をしただけで。いったいどうやって。

 彼女はふと足を止めた。見慣れぬ娘が向こうからやってきたのだ。服装からすると侍女のようだが、服装がグランドロンのものと少し違う。袖の膨らみや腰の絞り方などがわずかに華やかに見えるのだ。ということは、あれがハイデルベル夫人の言っていた王女づきの侍女なのね。

 その娘はまだ半分子供のようだったが、妙な緊張が感じられた。何かを隠しているような印象だ。ヴェロニカとすれ違う時に下を向いて頭を下げた。腕の所に非常な力が入っている。手に持っているのは洗濯物のようだが見られないように抱えている。それは奇妙な行動だった。洗濯ものは専門の侍女が部屋に取りに行くはずだ。では何を洗おうとしているのだろうか。しかも、グランドロンの人間に知られないように。

 ヴェロニカは少し考えてから、女官たちの控えている部屋に向かった。普段ならできるだけ近寄りたくない、面倒な場所だが、今回は利害が一致するように思った。ハイデルベル夫人を呼んでもらおうとしたが、残念ながらもう退出したと言われた。ヴェロニカはハイデルベル夫人づきの侍女の中で一番口の堅そうなアナマリア・ペレイラを連れ出した。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(26)賢者の嘆き

マックスはようやくグランドロンに到着しました。向かったのは後足で砂を蹴ってトンズラを決め込もうとしていた恩師のもと。

今回、プロローグから引きずってきた一番大きな伏線をようやく回収しました。伏線読みの皆さんにはとっくにおわかりになっていたと思いますが。そう、これが出てきたということは、もうあとは風呂敷を畳む一方です。


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(26)賢者の嘆き


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「お前は、氣が違ったのか」
ようやく帰ってきたと思えば、なんということを。ディミトリオスはマックスの話が上手く飲み込めなかった。青年は、帰ってくるなり懇願したのだ。
「どうかラウラの命を救って下さい」

 老賢者には何のことか全くわからなかった。それから、マックスがルーヴランの策略、つまり婚礼の日にセンヴリとともに攻めてくることを口にすると、信じられなくてただ首を振った。
「世襲王女を犠牲にしてか?」

「王女ではないのです。ザッカのやつ、はじめからラウラを犠牲にするつもりだったのだ。ラウラは全て承知でここに殺されに来たのです」

「ラウラとは何者だ」
老師が訊くと、マックスはディミトリオスをまっすぐに見つめた。
「王女の《学友》です。そして、僕と将来を約束した女です」

 老賢者はふらつきながら椅子に座ると、額に手を当てた。この青年の話を総合すれば、二日前に大歓迎のもと到着した姫君は偽物だということになる。ルーヴランが攻めてくるのが本当なら、今すぐ情報を届けなければならない。婚礼まで七日間しかないのだ。

 だが、そうなればその女は即座に処刑されるだろう。いま目の前にいる若者はそれをわかっていて、よりにもよってこの自分に、愛する女を救えと言っている。無茶苦茶だ。

 マックスは、ディミトリオスの前に膝まづいた。
「老師、聴いてください。僕は旅で多くの人生を見てきました。わずかでも関わった人間もいれば傍観していただけのこともありました。彼らの人生は、僕の人生とはわずかに交わるだけだった。僕はそれでいいと思っていた。僕にとって意味のある、命を捧げても惜しくない貴婦人はずっと《黄金の貴婦人》ただ一人だったから。だが、今は違う。ラウラを見殺しにして生き延びても、その瞬間から僕の人生は意味のない、穢れたものになってしまう。僕は、僕の貴婦人を救わなくてはならないんです!」

 髭をしごきながら、書斎を落ち着きなく歩きまわるディミトリオスに彼は畳み掛けた。
「どんな方法でもいい、彼女を王宮から連れ出せさえすれば、それでいいのです」

「その女をどうするつもりだ」
「どこか遠くに連れて行きます。誰にも知られない、グランドロン人など一人もいない、この世の果てで二人で暮らします」

「馬鹿なことを言うな! 約束を忘れたのか。そなたがフラフラしていていいのは三年だけだ。そなたはグランドロンで生きねばならぬというのに」
「先生。鍛冶屋の息子が一人減ろうと、グランドロンは何も変わらぬではありませぬか! 僕の役目はもう終わったはずだ」

 ディミトリオスは厳しい顔をして言った。
「何だと。それはどういう意味だ」

 マックスはずっと言えなかった言葉を口にした。
「王は無事に毒耐性を身につけられた。あなたが子供への教え方について試行錯誤をする必要もなくなった。あなたと、あの方《黄金の貴婦人》が望んでいた通りの強くて聡明な王者になられた。実験台の子供はもう必要ないでしょう!」

 ディミトリオスは彼に座るように目で指図して、ドアを閉めた。
「《黄金の貴婦人》が誰だかわかっているのか」

 マックスは座らなかった。
「いいえ、はっきりとは。でも予想はついています。フルーヴルーウー伯爵夫人、マリー=ルイーゼ王妹殿下でしょう。亡くなられたのとあなたのもとにいらっしゃらなくなった時期が一致していますし、いただいた十字架の後ろについていた双頭の馬の紋章は伯爵家のものですから。夫と子供を同時に亡くされ、全ての希望を甥であるレオポルド様に託されたのだと、旅の途上で思い当たりました」

「そこまでわかっていて、お前は自分がレオポルド王子のための実験台だと信じていたのか」
「違うとおっしゃるのですか」

「もちろん違う。他のものたちが、お前の事を毒の試し役だと噂していたのは知っている。そう思われる方が都合が良かったので訂正しなかった。絶対に知られてはならなかったが、毒耐性を何を置いてもつけなくてはならなかったのは王子ではなくてお前だったのだ」

「?」
「考えろ。毒で命を落としたのは誰だ。そして、同じ危険に晒されていたのは」

 マックスが知る限りで毒で命を落とした貴人は一人だった。マリー=ルイーゼ王妹殿下の夫、フルーヴルーウー伯フロリアン二世。そして、二人の間に生まれた子供は、二歳にして父の後をついで伯爵になったが、常に毒殺の危険に晒されていた。失踪するまで。それから二十数年間姿を現さないので、誰もが死んだものだと思っていた。マックスも。
「ま、まさか」

「そう。お前こそが、マクシミリアン三世、王妹殿下の子ゆえ王位継承権一位の失われたフルーヴルーウー伯なのだ。王妹殿下は私に逢いにいらしていたわけではない。知られれば再び毒殺の危険に晒されるため、抱く事も許されぬ我が子をひと目でもみたくて、私の反対を押し切って何度も足を運ばれていたのだ」

 マックスは大きく目を瞠り、黙ってディミトリオスを見つめた。《黄金の貴婦人》が、何のために老師を訪ねてきたのか、飲み物を運んでくる少年にいつも優しく話しかけたのは何故か、贈り物が何を意味するか、彼は自分の素性と繋げて考えた事がなかった。身分の違う手の届かない貴婦人だと信じていたから。自分は王太子のための毒実験に使われる庶民の一人だと頑に信じていたから。
「そんな荒唐無稽な話を誰が信じると……」

「だからこそ、王妹殿下は遺言を残されたのだ。フルーヴルーウー伯爵家家宝の、あの黄金の十字架を持つものこそ、フルーヴルーウー伯マクシミリアン三世だとな。そなた、《黄金の貴婦人》にいただいた十字架は持っているのだろうな」

 彼は戦慄した。突然、ありとあらゆる事が頭の中で一致した。

 彼女がくれた十字架、絶対に手放してはならないと繰り返し行った言葉、いつかお前は国王に仕えるのだと繰り返し言った賢者。双頭の馬。伝説の《男姫ヴィラーゴ 》ジュリアと伯爵位を授かった馬丁ハンス=レギナルドを象徴する、フルーヴルーウーの紋章。その紋章のついた十字架は単なる装飾品ではなくて、家宝であったに違いない。それをただの平民の子供に渡したのは貴婦人の優しさの範囲を大きく超えていることを考えたことがなかった。

 マックスは打ちのめされて両手で顔を覆った。絶対に手放してはならぬと言われていたその十字架を彼は手放してしまった。あの夜、誰よりも愛しい女に永遠の愛の証として。彼の真心を示すために。翌日には再び一緒になるのだと信じていた。常に一緒にいるのだから、彼女が持っていても構わないだろうと思ったのだ。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(27)遠乗り -1-

マックスが助けにきているとは夢にも思わないラウラ。婚礼の日まで、ひたすらバレないようにということだけを念じながら過ごしています。一方、少々型破りな国王は、伝統をどんどん破って好き勝手に振る舞っています。

大体、皆さんの予想の通りの状況になりつつあります。若干長いので二つにわけました。


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(27)遠乗り -1-


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「おや。デュランの旦那。それが嫁さんですかい?」
貧しい身形をした男がいともたやすくレオポルドに話しかけたのでラウラは驚いた。

 国王はそれに対して機嫌良く答えていた。
「そうだ。なんとかいう面倒くさい伝統で、まだ素顔を見せてはいけないそうで、結婚するこの余ですら顔をみた事がないんだが」
「なんとまあ。国王ともなると、そんな妙な伝統にも従わなくっちゃならんというわけですね。わしは国王じゃなかったおかげで、好みの女をかかあに出来ましたぜ」

 レオポルドは簡単に肩をすくめた。
「顔はどうでもいいのだ。だが、王女ならどんな女でもよかったわけではない。だからもう一つの伝統は無視して、会いに行って決めたのさ。マリア=フェリシア、これは余の古くからの知り合いでトマスという靴屋だ」

「よろしく」
ラウラは戸惑いながらトマスに軽く会釈をした。
「本物の姫さんと口を利くなんてはじめてですよ。ようこそ、グランドロンへ。お幸せをお祈りいたします」

 トマスと話している間に、家々の間から、やはり粗末な身なりの男や女たちがつぎつぎと出てきた。
「デュランの旦那だ」
「ああ、あれがルーヴランの姫さんだとさ」
口々に話す声が聞こえる。ルーヴランではあり得ない光景だった。

「陛下、この方々は……」
ラウラは小さな声で訊いたが、トマスには聞こえたらしくゲラゲラ笑いながら勝手に答えた。

「姫さん、この方はね、まだ王子だった頃に、身分を隠してよくこの辺りにお忍びでいらしていたんですよ。わし等は、どこかいい所の坊ちゃんだとは思っていたんですが、まさか王太子殿下とは夢にも思わんでね、名乗られるまま『デュランの若さん』なんて呼んで、靴の修理を教えたりしてね」

「それで、カレウス村での疫病はどうなったのだ。ねずみの駆除はきちんと行われたのか?」
レオポルドはトマスに訊いた。

「はい。例のお役人さんはやる氣がまったくなくて、駆除を請け負うシュルツのヤツとくだらない金額交渉に時間をかけているとお話ししましたよね。旦那が話を聴いてくださったおかげで、郡司のマーシャル様が自ら指揮を執るようになったんですよ。おかげで三日目には村はきれいになりましてね。寝込んでいる奴らも半分になっているそうです」

「医者は」
「もちろん、ボウマー先生やロシュ先生が足を運んでくださってます。粉屋のパウルが感激していましたよ。あいつお医者さんが村に来るなんて信じられなかったようで」

 レオポルドは満足そうに頷いた。ラウラは宮廷で使うのとは違うトマスの言葉づかいに必死で耳を傾けていた。二人の会話の意味はようやく聴き取れていたが、本当に自分が耳にしている言葉が正しいのか自信がなかった。そんなことがあるだろうか。この貧しい人たちの所に医者が派遣されているというのは。

 レオポルドと村人たちはなおも親しく会話をしていたが、トマスがふとレオポルドの後方に目を留めた。
「あれ、丘の方からけっこうな馬たちが来ますね。大方、ヘルマンの旦那たちでしょうね」
そう遠くに舞い上がる土ぼこりを見て笑った。

 国王はうんざりした顔をして頭を振った。
「なんだ。もうみつかったのか。トマス、悪いがあいつ等を少し足止めしてくれ。少しは未来の花嫁と自由な時間が欲しいんでな」
そう言うと、レオポルドは再びラウラを軽々と馬に乗せて自分も飛び乗ると《シルヴァ》の中へと逃げ去った。トマスは笑って頷いた。

* * *


 一刻ほど前、後宮のラウラが居る部屋にレオポルドは突然やってきた。
「マリア=フェリシア、そなたに見せたいものがある。ついてまいれ」
ラウラは驚いて「今でございますか」と訊いた。

「そうだ。うるさいフリッツを巻いてきた所だ」
そう言ってから彼は彼女の方をちらりと見た。
「こんな部屋の中でまでそのヴェールをしているのか。鬱陶しくないのか」

 レオポルドだけでなく、誰にも顔や左手首の傷を見られるわけにいかないから、室内でも常にヴェールを被っていたが、そうでなくて部屋着でリラックスしていたらどうするつもりだったのだろう。いくら間もなく結婚する相手とはいえ、遠慮がなさ過ぎる。アニーは少々ムッとして、レオポルドに手を引かれてと部屋を出ようとするラウラの後を追った。

 彼は振り向くと迷惑そうに言った。
「そなたは来ずともよい。氣のきかぬ侍女だな」

 ラウラはつい笑ってしまった。それからアニーに「お前は少し休んでいなさい」と優しく言った。

 それから、彼は慣れた足取りで後宮の目立たない所を通り、使用人の利用する出入り口からラウラを連れて外に出た。そこでは少年が分かった様子で馬を連れて黙って立っていた。レオポルドは「よくやった」と少年を褒めてから、軽々とラウラを抱き上げて馬に乗せ、自分もその後ろに座ってあっという間に王宮を抜け出して森へと入っていった。

 そして、慣れた綱さばきで、トマスたちの村へと馬を走らせたのだ。だが、フリッツ・ヘルマン大尉もレオポルドとの付き合いが長い分、どこへ行ったかすぐにわかったらしく追って来たようだった。レオポルドはさらに馬を走らせて王宮とは反対側の道を進んだ。強引だが乱暴ではなく、ラウラも不思議と怖れを感じなかった。それよりも、先ほど彼とトマスが話していた内容に驚きを隠せなかった。

「陛下。こちらのお医者様は、貧しい者たちの所にでも診察に行くのですか?」
「ああ、診察費は王家が負担している。もちろん数が多いので、貴族が服用するような高い薬は使えない。だが、実際には正しい休みかた、清潔な処置、民間でも簡単に手に入る薬草などで救える命もたくさんあるのだ」

「お医者様が、派遣されるのを嫌がったりはなさらないのですか」
「ボウマーやロシュはもともと貧民の出で、疫病で両親を亡くしたからな。年々、平民出身の医者の数が増えているので、以前よりずっと状況はよくなっている」

「平民出身の方が、どうやって学費を?」
「学費を余が負担したのだ。ボウマーたちはずいぶんと肩身の狭い思いをしたらしいが、諦めずに医学を修めてくれたのは、高い医療費を払えない貧しい者たちを一人でも救いたいと言う熱情があっての事だ」

 ラウラは黙って王の顔を見つめた。レオポルドは小さく笑った。
「はじめてトマスに逢ったのは、《シルヴァ》でだった。余は、単にお目付役のフリッツから逃れたくて馬で遠乗りに来ていた。ガリガリに痩せたトマスは苦くてまずい木の実を集めていた。それを食うのだと。そして弱った家内に持って行くのだと」

 それから、レオポルドは少し遠くを見つめた。ラウラは黙って彼が続きを話すのを待った。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(27)遠乗り -2-

長いので二つに分けた「遠乗り」の後編です。ラウラは、遠乗りを通して、君主としてのレオポルドのことをもっとよく知ることになります。陛下、外に行ってフラフラしたがるのは、従兄弟である誰かさんと一緒ですね。血筋なのかしら?

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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(27)遠乗り -2-


「翌日、城の広間で山積みになっていた焼き菓子をごっそりと集めると、トマスが住んでいると言っていた村へ行った。ひどい状態だった。飢えていたのはトマス夫婦だけではなく、村にはろくな食料がなかった。山のようにあったはずの菓子は、一人一つくらいしか渡らなかった」

 レオポルド少年は、そのことを教師のディミトリオスに訊いた。貧困と飢えに苦しんでいるのはトマスの村だけではなかった。ディミトリオスは貧困の連鎖について、わかりやすく説明してくれた。そして父王に簡単に貧困問題を解決できない事情も。

 レオポルドは無力な少年である事を恥じた。旱魃が解消され、少しは状態が良くなってきた村人たちと少しずつ交流しながら、王宮では知り得ない事情を目の当りにした。ディミトリオスは、彼が時々王宮を抜け出して行くのを知っていたが、好きなようにさせておいた。トマスたちはディミトリオスのような系統だった教育は出来なかったが、若き青年に権力者として必要な健全な感覚を植え付ける事の出来る大切な教師だったからだ。権力を手にするまでに、王子が学ぶべき事は山のようにあった。

「国王になりさえすれば、トマスたちを簡単に楽な暮らしに導いてやれると信じていた。だが、もちろんそんな単純な問題ではなかった。トマスたちと『デュランの旦那』は友だちだが、王は自分の友だちだけを優遇する事は許されない。だから、王に出来る範囲で、ルールを変えて行くしかない。貧しい医学志望者の援助はそのわずかな成果の一つだ」

「大きな成果ですわ、陛下」
ラウラは静かに言った。なんという違いであろう。ザッカとともに見た、あの貧しく救いのない貧民街では、多くのルーヴランの民が無駄に死を待つばかりだった。彼らは終油の秘蹟は待っていたが、医者の診察などは夢みる事すら許されなかったのだ。

「見なさい。あそこが医学アカデミーだ」
レオポルドは、《シルヴァ》が終わり開けた日当りのいい所にある石造りの長屋を示した。城の近くにあった歴史のある建物の施設は古く、多くの学生が学ぶ事は空間的にも無理だった。かつては特権階級だけが入学していたので新しい入門者は年に二人か三人だった。だからそれでもよかったのだ。王位についてレオポルドはまず、この旧アカデミーに平民を入学させようとしたが、視察をしてそれが無理だと悟ったのだ。
「現在は、年間三十人の入学者でも問題はない。空間の問題を盾に、平民の入学を断っていたジジイどもは黙るしかなくなった」
レオポルドは笑った。

 ラウラは、力なく横たわり死を待つだけのルーヴランの貧しい病人の事を思った。
「グランドロンに生まれた人々はたとえ病に伏せる事になっても希望があるのですね」
彼女の深いため息を聞いて、レオポルドは笑った。
「ルーヴランにはまだ民間の医学志望者が通える学校はないと聞いている。それならば、ここにルーヴランの者たちも受け入れよう。あちらで学校を立ち上げるまでの間、一人でも多くの医者を輩出できるだろう」

 ラウラは驚いてレオポルドを見た。宰相ザッカはグランドロン人がルーヴランの民が死に絶えるのを待っているように言っていた。特にレオポルド二世は、ルーヴランの国力が弱るのを待って遅かれ早かれ併合するつもりだと。だから、その前に奇襲をかけなくてはならないのだと、そう彼女を説き伏せたのだ。ルーヴランの民を守るためには、グランドロンを倒し、フルーヴルーウー領を奪い、ルーヴランを豊かにする事、それしかないのだと。

 けれど、そのレオポルド自身が、ルーヴランの貧しい民を国王エクトール二世以上に思っている。何もかも間違っていたのだ。自分は愚かな井の中の蛙だった。もっと別の形でこの王を知りたかったと、ラウラは思った。上に戴きたい君主とは、こういう人の事を言うのだと。たぶんこの王のためなら《学友》にされ鞭で打たれるとしてももさほど辛くなかっただろう。そして、自分はその人と国を滅ぼすためにここにいるのだ。

「その馬鹿げたヴェールを外せ」
レオポルドは不意に言った。
「余はそなたと腹を割って話している。きちんと目を見て話したいのだ。古くさい伝統はそれ以上に大切なことなのか」

「いいえ。私も陛下の目を見て話しとうございます」
ラウラは覚悟を決めた。全て終わりにするきっかけを待っていた。祖国を裏切り、哀れなアニーにも害が及ぶことになるが、それでもザッカの計画にこれ以上加担するつもりにはなれなかった。

 ゆっくりとヴェールを上げると、王の表情がはっきりと見えた。彼の瞳は漆黒ではなくて濃い茶色だった。強い眸の光は信頼と好意に満ちている。だが、その黒い眉がふと顰まった。
「緑の瞳ではなかったのか。伝聞はあてにならぬな」

「違うのは瞳の色だけではございません。髪もこの色ではないのです。濃く長いヴェールをしなくてはならなかったのは姫の絵姿と似ていないからだけではなく、これをも隠さねばならなかったからでございます」
潤んだ瞳で王を見つめながらゆっくりと左腕を上げると、右手で袖をまくり上げて未だ完全には塞がっていない醜い傷痣を見せた。

 レオポルドは、しばらく口を利かなかった。だがひどく驚いた様子も見せなかった。怒りに震えているようでもなかった。ラウラには彼の表情にわずかな失望の色が浮かぶのがわかった。

「そなたはいったい誰なのだ」
恐るべき冷静さだと思った。なんという精神力なのだろう。彼女は自分の声が震えているのを感じた。
「ラウラと申します」

「……。ラウラ・ド・バギュ・グリ、《学友》か」
「はい。《学友》でございます。けれど、バギュ・グリ家の者ではありません。名もなき捨て駒でございます」

 その時、森の奥から蹄の音が聞こえてきた。
「陛下ーッ!」
ヘルマン大尉の声だった。樹々が大きく揺れると大きな黒駒が飛び出してきた。

「陛下! その女は、ルーヴラン王女ではございませぬ!」
いずれにしてももう露見したのだ。彼女は少しだけほっとした。少なくともこの国王に自分の口から言えたことを嬉しく思った。

「何事だ、フリッツ」
「賢者様が、先ほど登城され、ルーヴランとセンヴリの謀の情報をお持ちくださったのです。婚儀で城の守備が薄くなるのを狙って襲う計画だと……」
そう言いながら馬から飛び降りたヘルマン大尉はラウラにサーベルを向けた。

 彼女は動かなかった。動いたのはレオポルドだった。サーベルとラウラの間に腕を伸ばして言った。
「よせ。フリッツ。この女はちょうど今、真実を語りだしていたところだ」
「陛下!」

「すぐに城に戻るぞ。いいか。我々が氣づいたことをルーヴランに悟らせてはならぬ。この女の尋問は城で極秘裏に行う」
「はっ」

 ラウラは人ごとのように森の奥を眺めていた。

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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(28)逮捕

ついにルーヴランの奸計はグランドロンの知る所となりました。ラウラとアニーは別々に逮捕されています。そして、「影が薄い」「サブキャラに負けている」と読者と私から散々のいわれようで孤立無援だった主人公マックスがようやく登場します。
……しますけれど、読者の評価は当たらずとも(以下自粛)頑張っているんですけれど、文人ですしねぇ……。少なくとも、言うべきことは、言ってます。これが精一杯だけれど……。


「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(28)逮捕


 王宮に戻ると、王はヘルマン大尉とわずかな護衛を連れて、執政室にラウラを連れて行った。彼女はそこで後ろ手に縛られ、床に座らされた。時を置かずにヘルマン大尉の副官、ブロイアー中尉が誰かを連行してきた。

 最初に見えたのはやはり後ろ手に縛られたアニーだった。ラウラの姿を見るなりアニーは目に涙を浮かべて言った。
「申しわけございません。私の不手際のせいで……」
ラウラは首を振った。

「ラウラ様も……先生も……」
泣きながら小さく続けた言葉に、彼女は眉をひそめて、侍女を見た。それから、再び扉が開けられて連行されてきたのは、他でもないマックスだった。ラウラは自分の目が信じられなかった。

 ブロイアー中尉が口を切った。
「マダム・ベフロアが、姫の侍女のこそこそした動きを不審に思い、ハイデルベル夫人付きのペレイラ嬢に進言したのです。そしてペレイラ嬢が内密に調べた所、この侍女が大量に血の付いた包帯を隠していることがわかりました。姫君がそのような怪我をしているのに医師に見せないのはどう考えても不自然と、誰の血痕なのか、侍女を拘束して尋問するつもりでおりました」

 ヘルマン大尉が言葉を継いだ。
「私どもは賢者殿が、恐るべき陰謀についての情報を持っていらしたので、この女が偽物であるという事がわかり、陛下とこの女を探していました。その間に、賢者殿の従者として城に上がったこの者が、あろうことか拘束中のこの侍女を救い出し、この女の行方を聞き出そうとしたのです。当然すぐさま捕らえる事となりました」

 へルマン大尉は、後ろ手に縛られたマックスを手荒に突き倒してラウラの隣に膝まづかせた。

 彼女は蒼白になってレオポルドに懇願した。
「陛下。どうか、お聞きください。私の事は、ご明察の通りです。何の弁解もございません。でも、この方は、この事には全く加担していないのです。本当に何もご存じなかったのです」

「加担していないならば、なぜ侍女に近づき逃がそうとした」
レオポルドは厳しい目でマックスを見下ろした。ラウラはうなだれた。
「私が、私が巻き込んでしまったのです。先生は同情してくださっただけです。ああ、なんてこと」

 レオポルドはもっと厳しい目でマックスを見据えると訊いた。
「この女の申す事は本当か」

「本当の事なぞ、どうでもいい。国同士の確執や陰謀にも関わりたくない。僕はただ、将来を誓った娘の命を救いたいだけだ」
マックスの言葉に、彼女ははっと顔を上げた。彼はラウラを見て頷いた。
「君を救って、二人で自由に生きたかった。それが不可能なら、せめて最後まで君の側にいる。君を一人で死なせたりなんかしない」

 レオポルドはその二人を冷たく見ていた。先程よりも強い苛立ちと不快感が見て取れた。それをようやく押さえつけると、静かにヘルマン大尉に命じた。
「三人とも牢に入れろ。もちろん、別々にだ。情報が漏れぬよう、誰であるかはわからぬようにしろ。とくにその口の軽そうな侍女がものを言えないようになんとかしろ」

 それからラウラとマックスに言った。
「勝手な事をすると、お互いの命に関わるぞ。考えるんだな」


 三人が連れて行かれると、王はどっかりと椅子に座った。右肘をついて両目を手のひらで覆い、しばらくそうしていた。

 戴冠してすぐ、一度だけ戦に負けた事がある。戴冠のどさくさにルーヴランに宣戦布告をされて西ノードランドを失ったのだ。あの時の背筋が寒くなるような焦りと不安を思い出した。国を治める事が怖くなり、何もかも投げ出したくなった。

 背中を見続けてきた父はもうこの世にはいなかった。母は贅沢にしか興味がなく頼りにならなかった。ヘルマン大尉をはじめ、臣下のものは不安な瞳で、怯えていた。そう、誰も、先程の青年のように命を投げ出してでも状況を変えようとする強い勢いをもっていなかった。

 ただ、父王が生涯師事し続け、自分の教育もしてきた年老いた賢者だけが、穏やかで光をたたえた目つきで、じっと待っていた。
「どのようにでも構いませぬ。王よ、決断なされませ。あなた様はこの国を率いなくてはならぬのです。年若いなどという言い訳は許されませぬ。ただ、決断なされませ。そして全てを背負うのです。それが王たるものの宿命ですぞ」

 迷いを真に克服できたのは、同じ相手に挑んで今度は勝ち、領地を奪回できた時だった。

 戴冠したてのレオポルドは、まだ自分が国を治める覚悟ができていなかった。父に仕えていた将軍をはじめとする廷臣たちも、若い王に対して信頼を寄せていなかった。彼らは覇氣がなく、それでいながら、それぞれのやり方に固執し命令系統がバラバラだった。

 レオポルドは、父王に仕えていた軍人たち中心の指揮系統を一新し、経験は少なくとも若くアイデアに満ちて、レオポルドに従う若い軍人たちを中心に作戦を練り直した。その中心となったのが親友でもあるヘルマン大尉だった。その賭けが実を結び、全ノードランドを再びグランドロンのものとすることができた時に、レオポルドは真の王としての自信を持つことができたのだ。

 今、あの時と同じ敗北感が襲ってきている。謀は未然に防がれたというのに。ルーヴランに騙された事ではない。噂の宰相ザッカならそれくらいの事はやるだろう。レオポルドは先程の二人の姿を思い浮かべた。かつて、叔母とその夫の睦まじい姿を見て胸に育てた小さな憧れ。来週には実現するはずだった未来。裏切られたのはその未来にだった。

「陛下。お邪魔して申しわけございません」
フリッツ・ヘルマンの声にレオポルドは不機嫌な表情のまま顔を向けた。
「なんだ」

「賢者殿が陛下にお話があると」
「陰謀の全容をそなたが聞いたのではなかったのか」
「それが、それとは別のお話だとおっしゃるのです」
「この件が終わってからにしてくれ」

「それが、どうしても今でないとならないとおっしゃるのです。断られたら、マリー=ルイーゼ王妹殿下のご遺言に関する事だと、お伝えしてほしいと」

 レオポルドは眉をひそめていたが、たった今想っていた叔母の名に、意見を変えた。
「わかった。通してくれ」

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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(29)国王と貴婦人 -1-

さて、前回更新分から、小説内での時間も一週間経っています。その間にグランドロンで何が起こり、そしてルーヴランの奸計や戦争はどうなったのか。たぶん、「えっ」というような肩すかしかと思いますが、こうなりました。

完結も近いのですが、急いでもしかたないので2000字程度で二つに分けました。一度は、五月中に頑張って完結させて、こっちをアルファポリスの「歴史・時代小説大賞」に出そうかとも思ったんですが、「歴史・時代」というには、架空の国設定ですからねぇ。というわけで、こちらは通常運転のままで行きます。


「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(29)国王と貴婦人 -1-


 昼の時間を十分ほど過ぎてから、ハイデルベル夫人は暇を告げて御者が扉を開けて待つ華奢な馬車の中へと消えて行った。最後まで昼食を出すべきか迷っていた使用人たちはほうっと息をついた。
「ここのところ、毎日ですものねぇ」
「宮廷奥総取締の女官長が仕事もそこそこに何を話されているのかしら」

 ハイデルベル夫人は宮廷奥総取締を二十年近く勤めていた。王太后や、十年前に薨去したマリー=ルイーゼ前王妹殿下の信頼も厚く、彼女に会いたい人間は自分から王宮に行くのが筋だった。けれど、この森にわざわざ通い詰めている。使用人たちが首を傾げるのも不思議はなかった。

「どうしてもわからない。奥方様はいったいどこの誰なのかしら?」
野菜の皮を剥きながら下働きの娘がつぶやけば、床を掃除していた下男はニヤニヤとして言った。
「そりゃ、国王陛下の大事なお方でしょう。ここは陛下の持ち物なんだから、他にはあり得ないよ」
「でも、それにしては陛下は一度もお見えになっていないじゃない」

 奥方様と呼ばれている女は、一週間ほど前にヘルマン大尉が馬車で連れてきたのだ。朽ち葉色をした艶のある髪を、後ろできっちりと結わえ、飾りの少ないが質のいい灰色のドレスを着ていた。へルマン大尉はこの女を貴婦人として扱い、丁寧に世話をするように申し付けたが、こうも付け加えた。
「奥方様が外出したいと申し出られたら丁重にお断りするように」

 つまり、この女はこの《シルヴァ》にある国王の狩猟用別荘に軟禁されているのだった。

「するってえと、あれかな。ヘルマン大尉の愛人かな?」
下男の想像はますますおかしな方向に向かっていた。

 午後になると、再び馬車が向かってくるのがわかった。
「なんと、今度は王家の馬車だな。王太后様か?」
使用人たちは緊張して入り口に並んだ。中から飛び降りるようにして出てきたのは、国王その人だった。足取り軽く、貴婦人のいる居間に入ると、使用人たちを人払いした。女中たちは、やはりというように目を合わせると控えの部屋へと出て行った。

「しばらくであった。ラウラ。足りていぬものはないか」
「おっしゃる意味が分かりません。私はなぜこのようにもてなされているのでしょうか」
「なんだ、知らぬのか。ハイデルベル夫人に訊かなかったのか」
「ヘルマン大尉がここへ私をお連れになった時に、陛下以外にこの待遇の意味を質問してはならぬとおっしゃいましたので」
「ああ、そうか」

「私は、いつ処刑されるのでしょうか。結婚式の予定だった昨日だと思っていましたが、何も起こりませんでしたので、ぜひお伺いしたいと思っておりました」
「ああ、それも知らぬのか。ルーヴランが送り込んだ偽物の姫なら、あの翌日に処刑した。血塗れた婚礼衣装と縛り付けた侍女を送り返したら、翌日にはセンヴリの奴らが寝がえって贈り物をしてきた。ルーヴランはこちらが宣戦布告をする前に、勝手に直轄領の一部と《シルヴァ》の四分の一を差し出してきた」

 ラウラは眉をひそめて訊き返した。
「どなたを処刑なさったのですか」
「豚だよ」
「まあ」
彼女は大きく目を見開いた。それから視線を落とし、しばらく迷っていたが、やがて思い詰めた様子で国王を見た。

「ティオフィロス先生は……」
レオポルドは、きたかという表情をした。
「氣になるか?」
「もちろんでございます。罪のないあの方を巻き込んでしまったのは全て私の咎でございます。あの方には、お国に対しての叛心はまったくございません。どうか……」

 国王は、言い募るラウラを制した。
「心配はいらぬ。そなただけを助けたのではない。そもそも彼が情報をもたらしてくれたので、我らは速やかにルーヴランの奸計に対処することができた。動機はどうあれ、彼のその行動が国を救ったことは事実だからな。それに、老師の助命嘆願を無碍にして、そなたの命だけを救うのは公平ではないだろう」

 彼女はほうっと息を一つついた。
「なぜ、私をお救いくださったのですか?」
「そなたを死なせたくない人間が三人いたからだ」
「三人?」
「一人はハイデルベル夫人だ。つい先日までは、何を隠しているのかわからず怪しいと言っていたくせに、そなたの境遇を聴いて以来、同情でいても立ってもいられないと」

 彼女は困ったように笑った。
「先程もご親切にもお見えになりましたわ。お忙しいでしょうと申し上げたのですが……」

「あれは極端な女でな。毎日戻ってきては、どれほどそなたの知識が豊富で宮廷の奥のことに精通しているか、延々ときかされているのだ。数年後に宮廷奥総取締職を辞す時に代わりを託せるのはそなたしか考えられぬと言い出している」
「ルーヴランの、肉屋の孤児に、ですか?」
「まあ、身分はなんとかせねばならんだろうな。いずれにしても現在そなたには名がない」

「……私を死なせたくないとおっしゃっている後の二人は?」
「余と、それから余の従兄弟のフルーヴルーウー伯爵だ」

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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(29)国王と貴婦人 -2-

二回にわけた「国王と貴婦人」の後編です。前回、ラウラは国王に命を助けられたことと、ルーヴランならびにセンヴリとの戦争が回避されたことを知りました。そして、自分を助けたいと願った人間のひとりが「フルーヴルーウー伯爵」だと国王に告げられ戸惑います。

また、今回は「マックスはやめて国王にしちゃいなよ、ラウラ」同盟(そんな同盟あるんか)の読者の皆様には、要のエピソードかと思います。ちなみに、私なら、どっちにするかですって? あ、どなたも訊いていらっしゃいませんね。


「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(29)国王と貴婦人 -2-


 ラウラは首を傾げた。
「それは、行方不明になられている方ではありませんか?」
「そうだ。見つかったのだ。ただ、本物の証だけが欠けている。別の人物の手に渡っているのだ」
「……誰の?」

 王はラウラの襟元に光る黄金の十字架に手を伸ばした。
「そなたの首にかかっている、これだ」

 彼女は、黙って考えた。それから、ゆっくりと息をつくと十字架を外し、王の手に載せた。王はその十字架を裏返し、双頭の馬の文様とその間に収められたルビーを確認した。間違いなく、かつて叔母が触らせてくれたフルーヴルーウーの家宝だった。彼女はそのレオポルドの手の中にある十字架を見つめていたが、やがて黙って下を向いた。

「どうした。誰の事を言っているのかわかっているのだろう?」
「つまり、ティオフィロス先生がお話しになっていた《黄金の貴婦人》とは、王妹マリー=ルイーゼ殿下だったのですね」

「そうだ。余の大切な叔母、前フルーヴルーウー伯爵夫人だったマリー=ルイーゼだ。命を付けねらう狡猾なジロラモ・ゴーシュから守るために、伯爵マクシミリアン・フォン・フルーヴルーウーは密かに賢者のもとでマックス・ティオフィロスとして育てられたのだ。そなた、嬉しくないのか?」

 一度氣のない様子で首を縦に振ったラウラは、やがて横に振りなおした。
「なぜ?」
「あの方のために、お喜びしとうございます。でも……。陛下はお笑いになるでしょうね。これでも私にも夢があったのです」

 王は黙って先を促した。彼女は窓の側に寄り、深い《シルヴァ》の森を眺めた。
「かつて、《学友》を勤め上げて自由になったら、自分の足でこの森を歩いていきたいと、そう夢みて生きてきました。姫が二十歳になれば、わたしは自由になれるはずでした……」

「自由になったなら?」
「街から街へ、国から国へ、ティオフィロス先生の向かう街で一番美味しい食事処の女給となって、働いて暮らそうと」

「待て。それがそなたの夢なのか? なぜ、女給なのだ」
「あの方が足を向け食事にいらっしゃり、その日のことを話してくださるのを待つことができますから」

 国王は大きなため息をついた。
「随分ささやかな夢だな」

「振り向いてくださらなくてもいい。ただお目にかかってお話が出来ればいい。生まれた身分が違うから、それ以上の期待はしていませんでした。でも……」
ラウラは一筋の涙をこぼした。
「身分の違いなどない、鍛冶屋の次男だとおっしゃってくださった。どこか遠くで一緒になろうと。それが叶わぬのならば、せめてこの身の終わる時まで側にいてくださると。それがとても嬉しかったのです」

 けれど、彼はマクシミリアンだった。フルーヴルーウーの伯爵、しかも王妹の血を引く、王位継承権一位の貴人だった。ルーヴランの孤児との結婚はおろか、もう二度と氣ままな旅などはしないだろう。街の食事処や居酒屋などにも顔は出すこともなければ、囚人を訪れることもないだろう。
「終生罪を償わねばならぬ身で、何を馬鹿な話とお笑いくださいませ」

「言ったであろう。ルーヴランの送ってきた偽物の姫は、既に処刑された。この世には、その罪を問われる者はもうどこにもいない。かといって、そなたが女給になるという案には賛成しかねるが」
「陛下?」

 レオポルドは、しばらく黙ってラウラの顔を見ていた。それから視線を逸らすと《シルヴァ》の奥で羽ばたく鳥を目で追いながら言った。
「何度も考えた。他に道はないのかと。どこか辺境の貴族の娘ということには出来ぬか、バギュ・グリ侯爵に正式に申し込むのはどうか、ただ、このまま森の中に生涯隠し通すことは出来ぬか」
「おっしゃる意味が……」

 ラウラの唇に人差し指をあてて、王はそれを制した。
「余は、そなたと結婚して共にこの国を治めていきたいと真剣に願ったのだ。だが、国王にもどうすることも出来ないことがある」
「陛下」

「余が権力でもってそなたを我がものにすれば、マクシミリアンは余を憎むようになる。危険な存在になり、取り除かねばならなくなる。だが、死の床で息子のことを頼むと懇願した叔母との約束は違えられない。女のために臣下を殺した暗君とみなされれば、国を治めるのも楽ではなくなる。味方にすれば博学で信頼に足る従兄弟を失うのも馬鹿げている。それに、そうまでして奪ったとしても、そなたの愛は得られない、そうだろう?」

「陛下。私は、陛下のような主君を戴く国に生まれとうございました。心から尊敬申し上げております」
ラウラは真剣に言った。

 王は目を閉じると、しばらく黙っていたが、やがてしっかりと頭を持ち上げて、ドアの方へと向かい扉を開けて控えの間にいる女たちを呼んだ。

「お呼びでございますか、陛下」
女たちは小走りに部屋に入ってきた。

「奥方様の外出の用意をするように。半刻後に、外の馬車に乗せるのだ」
ラウラは驚いて、レオポルドの方を見たが、王は振り返らずに部屋から出て行った。

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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(30)失われた伯爵

さて、今回は「影の薄い主人公」マックスの再登場です。本文では全く触れられていませんが、彼が今いる部屋は、かつてルーヴランから嫁いできた伝説の王妃ブランシュルーヴが、一時期レオポルド一世に幽閉されていた場所です。この二人が現国王レオポルド二世の先祖です。そして、この部屋には、ブランシュルーヴについてグランドロンへとやってきたマックスの先祖男姫ヴィラーゴ ジュリアもしばらく通っていたのです。

微妙な長さで、二つに切るかどうか悩んだんですけれど、来週は月末で他の連載が入るので、今回は一つで行っちゃう事にしました。まだこれでは完結ではありません。念のため。


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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(30)失われた伯爵


 今から一週間ほど前の事だった。レオポルドは逮捕されて牢で一晩を過ごしたマックスを訪ねた。

 牢の中から半ば敵意をもち、半ば絶望したように見る彼に、国王はなんと声をかけるべきか迷った。ずっと探していた従兄弟がここにいる。よく見れば叔母の面影がある。叔父フロリアンにもよく似ている。

「そなたは何者か、名乗れ」

 ようやく口を開いた国王の声が、前日のような怒りや憤りの感じられぬ戸惑ったものだったので、マックスは拍子抜けした。それから格子の方に近づくと膝まづいた。

「マックスと申します。鍛冶屋の次男でございます。陛下と同じくディミトリオス様に師事し、二年前ティオフィロスの姓を頂戴しました。それから教師として生計を立てております」

 手元に十字架がない今、自分が本当はフルーヴルーウー伯らしいと言っても通じない。自分自身でも信じられない話をどうやって自分を懲らしめようとしている国王に信じさせられるというのだろう。

「その両親は息災か」
「存じませぬ。十歳の時に、ディミトリオス様に引き取られて以来会う事を禁じられておりました。独立してから会いに参りましたが、何処ともなく立ち去ったとの事でございました」
「老師に聞いたが、そなたは黄金の十字架を持っているそうだな」

 マックスは驚いて顔を上げた。真剣な目で見下ろしている国王と目が合った。ディミトリオスが十字架を取り戻す前にその話を国王にしたとは夢にも思っていなかった。
「いいえ。十字架はラウラが持っているはずです。もし、彼女が手放していなければ」

「その十字架を、そなたはどうやって手に入れたのだ」
「ある貴婦人が……ディミトリオス様を訪ねてこられた《黄金の貴婦人》とお呼びしていた方が、私にくださいました。この十字架だけは、決して手放すなと、いつの日か心を込めて国王陛下にお仕えするようにと、おっしゃいました。私は、誰よりも大切に思っていたあの方との約束を二つとも破る事になってしまいました。それでも、どうしてもラウラを救いたかったのです」

 国王はサーベルを抜くとゆっくりとマックスの後ろにまわした。マックスは頭をもっと下げる事になり、後ろの首があらわになった。そして、王はそっと首筋にかかっている襟を更に下にずらした。そこには斜めにならんだ二つの黒子が、少し薄くなった色できちんと残っていた。子供の頃に従兄弟の首筋に見たのと全く同じだった。

 レオポルドは小さく息をつくと、後ろに控えていたヘルマン大尉に言った。
「縄を解き、牢から出して、ブランシュルーヴの間に連れて行け。客人として扱え」
「陛下! ご乱心あそばれたのですか?」
「いいか、誰にも知られてはならぬ。ここにいるのはフルーヴルーウー伯爵だ」

 ヘルマン大尉は腰を抜かすかと思った。マックスも証拠もなしに国王が自分を受け入れた事を意外に思って何かを言おうとした。レオポルドは静かに言った。
「黄金の十字架は他の者でも持てる。伯爵を殺して奪えばいいのだ。だが、叔母の腕に抱かれた赤子をこの目で見た余の目は誰にも誤摩化せぬ。そなたが本物である事は余が証し、それを覆せる者はおらぬ。だが、今は余計な事をするな。そなたが誰であるかをまだ誰にも告げてはならぬ。もし、そなたが未だにラウラの命を救いたいと思っているのならば」

「彼女は、どうなるのです。無事なのでしょうか。私はどうなってもいい。差し出せるものがあるならばどんなものでも差し出します。どうか、彼女を……」
「言ったであろう。余計な口はきくなと」

 それからの一週間、マックスは食事もろくに喉を通らなかった。

 ブランシュルーヴの間と呼ばれる客間は、青空に向かう美しい天使たちを描いた豪華な天井画と、たくさんの窓のある広い部屋だった。中央にある天上の高い白亜の居室の他に寝室の小部屋と、召使いの控える小さな空間など五つほど備えていた。しかし優雅に見えるのは内側だけであり、バルコニーに出ればそこが200フィートほどの掴まるもののない塔の上に備えられている事がわかる。飛び降りれば死ぬ他はない。

 彼に付けられた召使いは三人ほどの若い娘たちだったが、部屋の中には常に二人の屈強な男たちがいてマックスが余計な事をしないか監視をしていた。

 ラウラがどこにいるのか知りたくて、召使いの女たちのおしゃべりに必死で耳を傾けた。

 女たちはおかしな事を話していた。ルーヴランの謀が明らかになり、その日のうちに偽の王女は殺されて、血塗れた衣装と侍女が送り返されたと。

 だが、それでは話が合わない。レオポルド二世はまだ彼女が生きているような事を言っていた。そんな嘘をつく理由がどこにあるのか、それを彼に隠し通せるはずなどないのになぜそんな事を言ったのか。ましてや、この口の軽い女たちがペラペラと喋るままにさせておくとはどういうことか。

 女たちはマックスが誰か本当に知らないようだった。彼女たちは「旦那様」と言った。一般的な貴人に対する呼称だ。彼が誰であるかを隠し、彼に報せるべきでない情報は隠さない。それを考えあわせると、どうやらラウラはまだ死んでいないと考える方が自然だった。

 露見したあの場で、王は即座にラウラの処刑を申し渡さなかった。それどころか誰であるかわからぬよう、自分から誰であるかも言わないように口止めして引き離した。どういうことなのだろう。

「旦那様」
召使いの声にはっとして振り向くと、一番年長の女が戸惑ったように側で声を掛けていた。

「すまない、考え事をしていた」
彼は謝った。
「あの、これから国王陛下がお見えになるそうです。それでお召しかえを……」

 彼は、肩をすくめた。いま着ている白いシャツも、質のいい黒いズボンも、自分の給料で買った、王侯貴族の前に出るための一張羅よりもずっと質のいいものだった。だが、どうやらこれは普段着らしい。彼は頭を振った。
「わかった、着替えよう」

 小部屋に用意された服は、上質の絹で肌触りは最高だった。セルリアンブルーのしっかりとした緞子の上着は少し重かったが、どうやってこれほどぴったりくるものを誂えたのだろうと驚くほど彼の体に馴染んだ。

 上着の袖から出たレースの白い袖を見て、彼はやれやれと思った。未だに自分がフルーヴルーウー伯爵であることがよく把握できていない。当分慣れないだろう。一介の教師の方が肌に合っているのに。

 がちゃがちゃと、護衛の一団が階段を上がってくる音が響き、マックスは本当に国王がここにやってくるのだと思った。

 開かれた扉の向こうにレオポルド二世その人とヘルマン大尉、それにその部下たちが続いているのが見えて、彼は頭を下げた。

「久しぶりであったな、伯爵。ごきげんいかがかな」
国王にそういわれて、彼は頭を下げたまま、なんなんだとひとり言を飲み込んだ。

「お氣づかい、おそれいります。国王陛下に於かれましては、ご健勝の事とお慶び申し上げます」
教師時代の王侯貴族に対するセリフはスラスラと出てくる。これからどうなるのかと考えつつも。
「余は元氣だ。そなたに用意した伯爵夫人も息災だ」

 それを聞いて、彼は反射的に顔を上げた。再び反感の混じった目つきを見てレオポルドは嬉しそうに笑った。
「そなたの母が死の床で余に頼んだのだ。そなたを助け、支えてほしいとな。余が伯爵家にふさわしい貴婦人を妻として贈るのも、そのひとつだ」

「恐れながら、陛下。私には将来を誓った……」
彼がいい募ろうとするのをレオポルドは止めた。
「まあ、そういうな。先に娘を見てから言うがいい」
そう言って、扉の所で控えているヘルマン大尉に目配せをすると、大尉はドアを開けて、そとから水色のドレスを着た女を中にいれた。

 マックスは自分の目が信じられなかった。
「ラウラ……」
「マクシミリアン様……」
ラウラは目に涙を溜めて、そこに立ち尽くしていた。彼が手を差し伸べると、レオポルドは彼女の背中を押した。彼女はそのまま夢にまで見た男の腕の中に飛び込んだ。

「そう。これで、真のフルーヴルーウー伯爵と、その証の黄金の十字架、そして伯爵夫人が揃ったというわけだ」
国王の言葉に、召使いの女たちが思わず驚きの声を漏らした。その三人を見て、国王は厳しい顔をして言った。

「まだ伯爵夫妻がここにいる事を場外にもらしてはならぬ。そなたたちは、しばらくこの塔から外に出る事を禁じる。余がいいと言うまでな」

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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(31)奸臣の最後 -1-

さて、主人公二人が助けられ再び一緒になる事が出来たと言っても、まだめでたしめでたしではありません。多くの人物が喉から手が出るほど欲しがっている豊かな領地であるフルーヴルーウー辺境伯の正統な持ち主、しかも現在のところグランドロン王国の推定後継者でもあるマクシミリアン・フォン・フルーヴルーウー伯爵。彼の発見と領地の返還には、少なからぬ抵抗が予想されています。今回から今月末の最終回までは、この悶着が語られる事になります。

で、まずは代官のジロラモ・ゴーシュ子爵の顛末です。少し長いので二つに分けました。


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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(31)奸臣の最後 -1-


 フルーヴルーウー伯爵領の代官として長い事あいだ権勢を誇った子爵ジロラモ・ゴーシュが死の床についているという噂は、グランドロン王国を駆け巡った。

 先代伯爵、フロリアン・フォン・フルーヴルーウーが不慮の死を遂げて以来、ゴーシュは伯爵領を思うがままにしてきた。

 前伯爵もそうだったように、ゴーシュにとって都合の悪い人物はことごとく急に亡くなったが、その死をゴーシュの仕業だと確定する証は何もなく、死神を味方につけているに違いないと怖れられていた。幼児の頃に行方不明になって久しい現伯爵、マクシミリアン・フォン・フルーヴルーウーも、あるいはもう死神の手によってあの世に連れ去られたのであろうというのが、市井の見方であった。

 五年前に新しい国王が即位した時に、人びとはフルーヴルーウーは直に国王の直轄領になるであろうと噂した。フロリアン夫妻には他に子供はなく、一番近い近親者は伯爵夫人の甥にあたるレオポルド二世その人であった。

 しかし、ゴーシュ子爵もまた三代前の伯爵の血を引く娘と結婚しており、これまでの功績を盾に、自分を新たな伯爵に任命するようにと事あるごとに国王に迫っていた。国王の返事はただ一つだった。
「わが従兄弟マクシミリアンが亡くなった証がみつかるまでは、それはまかりならぬ」

 ディミトリオスは、今は亡き伯爵夫人、マリー=ルイーゼ王妹殿下の遺言を果たすために身近で育てたマクシミリアンに知識を総動員してありとあらゆる毒薬への耐性をつけさせたが、その伯爵を国王のもとに連れてくる事はできなかった。ゴーシュがどのような手段で前伯爵をはじめ、邪魔な人間を次々と手にかけたのかわからなかったからだ。

 さらにいえば、フルーヴルーウー伯爵位とその豊かな領地を狙っているのはゴーシュ子爵だけではなかった。初代フルーヴルーウー伯ハンス=レギナルドはバギュ・グリの《型破り候》テオドールの臣下であり、伯爵夫人ユリアはバギュ・グリ侯爵令嬢であった。そのため、現バギュ・グリ侯爵アンリ三世はフルーヴルーウーの相続権を主張していた。ルーヴランが奇襲で奪おうとしたことからわかるように、ルーヴラン側はフルーヴルーウー伯爵領に魅力を感じて狙っている。つまり、たとえ正統な伯爵マクシミリアンが見つかったと宣言しても、偽物だと言いがかりをつけて相続を主張する可能性も高かった。

 だからディミトリオスは、マリー=ルイーゼ王妹殿下との取り決めを国王に打ち明け、伯爵の生存を明らかにする時期を慎重に待っていたのだ。少なくとも、ジロラモ・ゴーシュがもっと弱り、さらに、王女との婚姻問題にカタがつき、ルーヴランとの関係が安定化するまでは、自分の胸の内に納めておくはずだった。だが、ルーヴランの偽王女を救う騎士の役割を買ってでて、事もあろうにマクシミリアン本人が逮捕されてしまったので、全ての計画は狂ってしまった。

 だが、結果として、全ては上手くいった。マクシミリアンはその妻とともに、ディミトリオスが考える限りグランドロン王国で最も安全な場所に匿われる事となった。

「もう、いいのではないか?」
レオポルドは人払いをして自室に呼び寄せた賢者に訊いた。

「お待ちくださいませ。死の床についているというのも、もしやあのずるいオオカミの策略やも知れませぬ」
「だがな、老師よ。そろそろこの城でも噂になっているのだよ。滞在している謎の夫婦は何ものかとね」
「恐れ入ります」

「大体、なぜここであの二人を匿わなくてはならぬのだ。お前の所に置けばいいではないか」
「いえ、このお城ほど安全な場所はございませんから。それに、私の所に匿えば、陛下が足繁く通いゴーシュに目を付けられかねません」

「余が足繁く通うなどと、なぜわかるのだ」
「王妹殿下も、何度申し上げてもお忍びでお越しになりましたのでね。かなりヒヤヒヤいたしました」

「余はそなたに腹を立てているのだ。余があれほどマクシミリアンを探していたのを横で見ていたくせに、これほど長く隠していたんだからな」
「王妹殿下に、居場所を報せた事を後悔いたしておりましたので。あの方が何度もお越しになる事で伯爵は真の危険に曝されていたのでございます」

「まあいい。で、どうするつもりだ。ゴーシュがくたばるのを何十年も待つつもりか?」
「いえ、いかがでございましょう。お見舞いになど行かれては」

 レオポルドはにやりと笑った。
「つまり、お付きに例の謎の夫婦も連れてという事か?」
「まあ、そういうことになりますかな。申しわけございませんが、今回だけは必ずヘルマン大尉や護衛の部隊もお連れください。なにかありましたら困りますからな」
「わかっておる」

 レオポルドは賢者を見送ると、城内のプライヴェートエリアに向かった。西の塔のかつての伝説的なブランシュルーヴ王妃が使った居室に、フルーヴルーウー伯爵マクシミリアン三世とその妻は匿われていた。

「おい。準備はできているか」
国王はずかずかとブランシュルーヴの間に入っていくと居間を覗き込んだ。

 国王の突然の来訪に召使いたちが慌てたが、居間の暖炉の前でリュートを合奏していた二人は演奏の手を止めて国王を見た。
「何の準備でございましょう?」

「なんだ。出かける準備をしておけと、フリッツは伝えておかなかったのか」
「ヘルマン大尉は、本日お見えになっていませんが」
「わかったから、さっさと準備をしなさい。上手くいけば、今日にでも隠れんぼうはおしまいだ。おい、伯爵にはサーベルを、伯爵夫人に短剣を用意するのを忘れるな」
レオポルドは女中たちに言った。マックスは眉をひそめた。

「陛下、どういう成り行きなのか、ご説明いただけませんか」
「馬車の中で話す。ああ、忘れないように今言っておくが、ラウラ、そなたは先方で何が出ても絶対に口にするな、いいな」

 それで、マックスはわかったような顔になった。

「あの……?」
不安な顔をして見るラウラの頬に手を当てて、マックスは言った。
「毒殺者の所に行くらしい。大丈夫。僕の側にいれば」

 その様子を見て、レオポルドが茶々を入れた。
「心配するな。ちゃんと護衛がついていく。それより二人とも早く準備をしてくれ。部屋着で見舞いにいくのも妙だろう」

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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(31)奸臣の最後 -2-

前伯爵を毒殺し、代官としてフルーヴルーウー領を思いのままにしてきたと疑惑をもたれているゴーシュ子爵。新たな伯爵任命を迫る子爵の許に、国王レオポルド二世は暗殺を怖れて隠されていた伯爵マクシミリアン三世を連れていきます。これまで証拠がなくて罰することの出来なかった奸臣を、彼はどのように追い込むつもりなのでしょうか。

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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(31)奸臣の最後 -2-


 夏の終わりに体調を崩したゴーシュは、名医と評判のボウマー医師の診察を受けるために王都ヴェルドンへと上ってきた。だが、病状が捗々しくなく、領地へ戻ることもできぬまま、ヴェルドン郊外の狩猟用の館で臥せっているのだった。

「これは、陛下が自ら足をお運びくださるとは、何とありがたいことでございましょう。これはなんとしてでも回復して、一刻も早く登城をせねばなりませぬ」

 そう急いで回復する必要もあるまい、そう思ったがレオポルドは口には出さなかった。

「時に、ゴーシュよ、そなたのかつてからの願いの件だが」
「なんと、陛下、ついにお許しいただけるのでしょうか。私ども夫婦の先王様の頃からのお願いを。ついに、この私めをフルーヴルーウー伯爵としてご任命いただけると……」
「いや、残念ながら、新しいフルーヴルーウー伯爵を任命する必要はなくなったようでな。それを伝えにきたのだ」

「なんですと! まさか、直轄領になさるおつもりですか! それはあんまりな。この私めは四半世紀に渡り、あの土地を守り栄えさせてきたというのに」
「いや。そうではなくて、伯爵が見つかったのだ。伯爵だけでなく、その妻は未来の伯爵を身籠っているというおめでた続きでな」

 そう言われて、ジロラモははじめて国王が連れてきた見慣れぬ男を見た。枕元にいたゴーシュ子爵夫人も、皺のよった氣の強そうな額をゆがめた。ジロラモは、先ほどまでの弱々しい態度はどこに行ったかというように、ガバと寝台に起き上がると叫んだ。
「まさか、今さら……?」

「そう、今さらだが、ほら、この通り叔母の言っていた十字架もこうして持っていてだな」
そういって、マックスの胸にかかっている十字架を引っ張って見せた。

「信じるとおっしゃるのですか? 十字架がどのようなものか知っている者ならば、ねつ造することだって出来るでしょう。誰か邪な者の差金に違いない。陛下ともあろうお方が、そんなお人好しなことで……」

 子爵夫人は、夫と国王が話している横をそっと通り、部屋を出て行った。ヘルマン大尉と護衛兵たちはそっと目配せをしあった。

「余には、この者は叔父にも叔母にもそっくりに見えるが、そなたはそう思わぬのか?」
ゴーシュは怒りに震えながら答えた。
「そっくりとは思えませぬ。それに、多少似ていたとしても、他人のそら似ということもございます。替え玉なら多少は似ているものを探すでしょう。こんなに長いこと申し出なかったのに、突然本物だと言われましても、承服できかねますな」

「よいか、ゴーシュ。そなたの前にいるのは国王である余と、現在未婚である余に何かがあった時に王位継承権すら持つフルーヴルーウー伯マクシミリアンであるぞ。いい加減に口を慎め」

「それでは、なんとあっても、そのものを伯爵と認めると……」
「当然ではないか。証もきちんとしているのだからな。見ての通り伯爵夫妻は若くて健康なので、領地を治めるのに代官はいらないであろう。そなたもこれまでご苦労であった。ゆっくりと療養につとめられよ」

 怒りに震えているゴーシュのもとに、夫人が戻ってきた。見れば従っている召使いが四つの銀の盃を盆に捧げ持っている。
「真におめでたいことでございます。それでは陛下、新しい伯爵夫妻、そしてあなたで乾杯をなされませ」
そういって、手前の二つの盃を自らとって、国王と夫に手渡した。それから、残りの二つをマックスとラウラに手渡した。

 ゴーシュ夫妻の目がさりげなくその二つの盃を見ている。レオポルドはわずかに笑って、マックスの盃に手を伸ばした。
「何だそっちの方がたくさん入っているではないか。それを余によこせ」

「へ、陛下。陛下にお渡しした盃は、当家の家宝でサファイアがついております……。お酒は、またおつぎしますので……」

 それを聞くとレオポルドはマックスの目を見て「そうか」と言った。マックスはラウラに渡された盃を取り上げた。
「大変申しわけございませんが、妻は今、酒を飲むことを医師から禁じられておりまして……」

 その言葉を継いで、レオポルドはその盃を子爵夫人に差し出した。
「それでは、そなたと乾杯しよう」

「え……。しかし、これは、お客様用の……」
「この余が乾杯しようと言っているのだ」

 子爵夫人は、震えながら盃を一度は受け取った。手が激しく揺れていた。盃を怯えたように覗き込んだ。それからしどろもどろになって言った。
「も、もうしわけございません。私、具合が悪くて、お酒は……」

 するとレオポルドは、あっさりと盃を夫人の手から取り上げると、控えている医師を振り返った。
「そうか。それなら、ボウマー、お前が一緒に乾杯をしろ。だが、子爵殿だけでなく奥方の診察もしなくてはならないから、飲むのは夜までお預けだ。いいな」

 夫人はよろめきながら部屋から出て行った。青ざめたジロラモはその妻の様子を目で追いつつ、吹き出す汗を必死に拭いながらなんでもない振りをしていた。

 ゴーシュとレオポルド、盃を受け取ったボウマー医師、そしてマックスは乾杯をし、ボウマーを除く三名が酒を飲んだ。ラウラとヘルマン大尉たちは、酒に何が入っているのか怯えながら見守った。

「どうもゴーシュ夫妻の体調は思った以上に悪いらしい。我々が長居するのは体に触るようだな。そろそろ失礼するとしよう。時に、マクシミリアン、そなた酒は強いのか?」
「ええ。多少、薬草臭い酒でございましたが、酔うほどのものではございませぬ」
ジロラモが、じっと見つめながら頭を下げた。

 外に出て馬車に乗ると、レオポルドは言った。
「なんだった」
「東洋のゲルセミン」
「ふむ。下痢をして呼吸困難になるやつだな。量的には問題ないのか」

 マックスはちょっと腹をさすった。
「今夜と明日は、この辺の具合が良くないでしょうね。緩慢に効くので、ここでではなく帰ってから死ぬように計算したのでしょう」

 ラウラが心配そうに見た。
「心配はいらない。あの量なら、陛下が飲んでも命には別状なかった程度だ。もっともヘルマン大尉や君が飲んだらその保証はないけれど……」

 レオポルドは満足そうに言った。
「我ながらいい手だったな。世継ぎを妊娠していると言えば、絶対にラウラにも一服盛るという読みが当たったからな」

「ボウマー先生は大丈夫でしょうか。我々のように毒耐性がなければ、あの量でも命に関わりますよ」
「ちゃんとあらかじめ伝えてあるから大丈夫だ。それに、たった今、伯爵が馬車の中で倒れたと伝令を走らせたから、ボウマーはあの盃を余の命で堂々と調べる事ができる算段だ。ようやく物証が手に入り、堂々とゴーシュを告発できるというわけだ」

 ゴーシュ邸にいたボウマー医師は、盃に毒が入っていた事をつきとめた。そもそもそのワインは、フルーヴルーウー伯爵夫人に渡すために子爵夫人が自ら持ってきた事、伯爵が東洋のゲルセミンの中毒症状で生死を彷徨っている事を理由に、国王レオポルド二世は子爵の取り調べを命じた。

 だが、ヘルマン大尉が再びゴーシュ邸に辿りついた刻には、ジロラモの容態は急変し、ボウマー医師が神父を呼ぶように指示している所だった。そして、子爵夫人もヘルマン大尉たちから逃れられないと観念したのか、自室でヒヨスを呷って事切れていた。

 ゴーシュ子爵夫妻の葬儀を待たずに、国王レオポルド二世は「奇跡的に回復した」フルーヴルーウー伯爵の帰還を公告した。グランドロン王国はもとより、周辺各国でも伯爵再発見のニュースは大きな驚きをもって伝えられる事になった。

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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(32)フルーヴルーウー伯爵の帰還 -1-

昨年から連載してきたこの「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」もついに最終話となりました。二回に分けましたので、今回と来週で完結となります。ルーヴランで王女の《学友》として貴婦人に育った孤児のラウラ、老師の弟子として育てられたフルーヴルーウー伯爵マックス。数奇な運命の果てに辿りついたグランドロンで、二人の新しい人生が始まろうとしています。

最終回の前に、今回はとある登場人物が再びグランドロン王国へとやってきます。ある目的を持って……。


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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(32)フルーヴルーウー伯爵の帰還 -1-


 ヘルマン大尉は馬車を門番に託すと挨拶もそこそこに館の中に入っていった。娼館《青き鱗粉》は《シルヴァ》の森を見渡す小高い丘の上にある。黒とオレンジを基調とした洒落たインテリアの待合室でマダム・ベフロアことヴェロニカを待ちながら大尉は苛ついた表情を見せた。昼間から高級娼館に出入りしているなどと噂を立てられるのは本意ではなかった。彼女からの伝言を受けて、急いでやってきたのは、もちろん国王レオポルド二世の命によってだった。

「ただいま、マダムがお見えになります」
老召使いがもったいぶって姿を消した。どうでもいいから早くしろ。ヘルマン大尉は扉を睨みつけた。

 やがて小走りの音がして、扉がわずかに開くとヴェロニカがそっと入ってきた。
「ああ、大尉。お待ちしてましたわ。こちらにいらして」

 ヴェロニカは天鵞絨のカーテンが幾重にも重なる、暗い部屋へと彼を誘った。途中にいくつもの扉があって、女たちのきつい香水とクスクスと笑う囁きが聴こえた。彼女たちは昼間から娼館を訪れた酔狂な客だと思っているのだ。「こっちにいらっしゃいよ」白い手がいくつも出てきたが、大尉は迷惑そうにそれを振りほどいてヴェロニカの後を追った。娼館の女主人であるマダム・ベフロアは笑いながら更に奥へと進み、一番奥で鍵を取りだして解錠した。

 暗い部屋の中に、幾重にも縛られて猿ぐつわを嵌められた娘がいた。扉が開いたのを見ると二人を睨んで猛烈に暴れた。暗闇に目が慣れた大尉は娘をよく観察した。娼婦のよく着るようなヒラヒラしてだらしない服を身につけ、猿ぐつわに真っ赤な口紅が移っていた。だが、その娼婦のなりが全く似合っていない。この子供みたいな顔は、どこで見たのだったか……。
「あの召使いか!」

 ヴェロニカが耳元で囁いた。
「そうよ。あの偽王女の侍女。どうやら侯爵にくっついてルーヴランにやってきたみたい。娼婦たちに混じって後宮に入り込もうとしたので、うちの子たちが捕まえたの。警備をかいくぐって陛下に近づこうって魂胆だと思うけれど」

 ヘルマン大尉はヴェロニカに口止め料を渡すと礼を言って、アニーを引っ立てると用意してきた馬車に押し込んだ。

 あまりに娘が暴れるので、彼はサーベルを鞘から抜くとアニーの首筋にあてて「怪我をしたくなかったら大人しくしろ」と脅した。

 国王レオポルドからはこの件に関しての全権を委任されていた。フリッツ・ヘルマンはしばし考えた。このまま国王の前に連れて行き大騒ぎになると、事情を知らない人間に余計な事を知られる可能性がある。彼は御者に言った。
「フルーヴルーウー伯爵のお屋敷に行ってくれ」

 伯爵邸につき召使いに案内されて中に入ると、外出の用意をしたマックスが階段を下りてきた。
「これは、ヘルマン大尉。あなたがわざわざお迎えにいらしたのですか」
「いいえ、伯爵。本日、王宮に向かわれる前に、このままにできない厄介ごとを処理していただきたいのです」
「厄介ごと?」

 フリッツは馬車から御者が引っ立ててきたアニーを縛っている縄を引っ張った。
「この娘がどうやら後宮に入り込んでよからぬことを企んでいたようで」

 マックスは娼婦のような服を着て立っている娘を見てぎょっとした。
「アニーじゃないか!」

 アニーはすっかり貴公子然として、ヘルマン大尉と親しく話しているマックスを見て、怒りの涙を浮かべながら猿ぐつわの向こうから何かを叫んだ。先生が伯爵ですって。ラウラ様と将来を約束したと言っていたのに、その仇によくも心を売ったわね! 言いたいのはそんな所だろうかと、フリッツもマックスも考えた。

「それは、大変ご迷惑をおかけした。この娘はもちろんこちらで引き取ろう」
そういうと召使いの方を向いた。
「すぐに伯爵夫人をここへ呼んでくれ」

 召使いは、かしこまって奥へ入っていった。アニーは伯爵夫人という言葉を聞いてさらに怒り狂って暴れだした。ラウラ様が亡くなってまだ一ヶ月も経たないのに、もう別の誰かと結婚したなんて!

「アニー!」
暴れていた娘は動きを止めた。聴こえるはずのない人の声だった。

 振り向くと、その時には水色のドレスを着た女性に抱きしめられていた。生きているはずのない女主人ラウラの突然の登場に呆然としていると、フリッツ・ヘルマン大尉はサーベルで彼女を縛っていた縄を断ち切った。それとほぼ同時にマックスが猿ぐつわを外してやった。

 アニーは泣きながらつぶやいた。
「ラウラ様……ご無事だったのですね……」

「そういうわけだ。陛下に何をするつもりだったのか知らんが、今回だけは何もなかった事にしてやろう。少し行儀作法を仕込んでやってくれ」
そういってヘルマン大尉が去ると、マックスとラウラは揃って頭を下げた。

 マックスは召使い頭に命じた。
「悪いが、僕たちが帰ってくるまでに、この娘にまともな召使いの服装を用意してやってくれ。今日からこの子には伯爵夫人の世話をしてもらう事にするから」

 ラウラはそれをルーヴランの言葉に訳して囁いた。アニーがびっくりして顔を上げると、優しく頷いた。
「すぐに帰ってくるから、それまでこの人たちの言う事をきいて待っていてね」

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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(32)フルーヴルーウー伯爵の帰還 -2-

昨年から連載してきたこの「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」、ついに今日で最終回です。自分こそフルーヴルーウー伯爵位の正統な継承者だと言ってルーヴランから乗り込んできたのは、残酷な王女の犠牲となる《学友》にするためラウラを養女にしたバギュ・グリ侯爵です。マックスは、無事に伯爵位を守り通すことが出来るでしょうか。

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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(32)フルーヴルーウー伯爵の帰還 -2-


 マックスとラウラは表で待っていた馬車に乗って王宮に向かった。ルーヴランからフルーヴルーウー伯爵の発見の報に異議を唱え、相続権を主張してバギュ・グリ侯爵が乗り込んできているとの報せを受けたのだ。

 王宮の応接室では、国王レオポルド二世が最高級のワインを共に飲みながらバギュ・グリ候の相手をしていた。非常に礼儀正しく話をしているが、その話題は挑発ぎりぎりといってよかった。
「時に、あれ以来噂を聞かぬのだが《氷の宰相》ザッカ殿はいかがなされておられるのか」

 バギュ・グリ候は、ぎょっとした顔をし、そっと汗を拭きながら答えた。
「わが国王陛下と王太女殿下を欺き、偽の王女をこちらへ送り出した罪により、役を解かれ全財産を没収の上、投獄されました。新しき宰相が任命されるまでの間、国王陛下の親政が敷かれております」
「そうか。陛下にもご心労が多い事とご推察つかまつる」

 ヘルマン大尉が入ってきて、フルーヴルーウー伯爵夫妻が登城したと耳打ちすると、「ここに連れてくるように」と指示をして、侯爵にしっかりと向き直った。

「侯爵殿。一つお訊きしたい」
「なんでしょうか、陛下」

「初代フルーヴルーウー伯爵位はグランドロンが授けたものであり、バギュ・グリ家の血を引くのは伯爵その人ではなく伯爵夫人ユリアであった。この事を正しいと認識されておられるか」
「然り」

「では、正統なフルーヴルーウー伯が、バギュ・グリ侯爵令嬢と再び婚姻を通して縁を深めることに異存はありますまい」

 侯爵は眉を一つ上げて言った。
「正統な、と。二十四年も姿を消していて、突然正統なと言われましてもな。それにわが娘は二人ともわが領地におります。どこかの馬の骨と結婚してフルーヴルーウー伯爵夫人を騙ったりすることなどありえませぬ。それこそが其奴らが偽物の証拠。私がそれを証明してみましょう」

 レオポルドは口元を歪めて笑った。
「ではどうぞ、ご随意に」

 王が目配せをすると、ヘルマン大尉が隣の部屋に通じる扉を開け、二人が入ってきた。
「なっ! 先生、ラウラ!」

「父上様、お久しゅうございます」
「侯爵殿、その節は素晴らしいお飲物をありがとうございました」

 ラウラとマックスは臆する事もなく、侯爵がした仕打ちに怒っている様子もなく、近づいてきた。その冷静な佇まいが却って侯爵を慌てさせ、彼はレオポルド二世の前で取り繕う事も出来なくなってしまった。

 王は侯爵の前に進み出た。今までのような儀礼的な歩み寄り方ではなく、威嚇するように大股で。
「紹介の必要もありませんでしたな。親しく名前を呼ばれたのをしかと耳にしましたぞ」
「う……」

「王女の婚姻と同時にあなたの領地に帰ったはずのご令嬢が、わが領地にいるのは何故でしょうね。フルーヴルーウー伯に嫁がせたからでしょう? それとも何か他の邪な理由でわが国に送り込まれたのですか?」

「それは、その……」
「いろいろと、根も葉もない噂をするものもおりましてな。例の偽王女がバギュ・グリ候と関係があるのではないかとか、それを知った娘婿フルーヴルーウー伯に毒を盛って殺そうとしたとか……。もしその噂が本当だとなるとわが国が宣戦布告をするのは、侯爵殿、あなただということになりますが」

「いや、偽王女の件は、私とは……」
侯爵は真っ赤になり、西の塔でマックスに対して示した態度を恥じながら、視線を避けた。

 レオポルドは畳み掛けた。
「では、フルーヴルーウー伯爵にあなたがご令嬢を嫁がせたと余が聞いている話は、確かに真実なのですな」

 バギュ・グリ候は項垂れて肯定した。それより他に方法はなかった。ザッカと同じような目に遭うのは嫌だった。

 レオポルド二世が頷くと、ヘルマン大尉が側にいた衛兵たちに指令を出した。衛兵たちは剣を構えると一斉に胸の位置に捧げ持ち右足を左足のもとにそろい踏みして叫んだ。
「フルーヴルーウー伯、万歳!」
「グランドロン王、万歳!」

 祝砲が撃たれた。フルーヴルーウー伯爵領の人びとは歓びの声を上げて若き領主の帰還を祝った。王侯貴族も、町の商人たちも、それから農民たちも仕事をやめて祭りとなった。

 祝いの酒や食事の種類はそれぞれに違ったが、一つだけ共通しているものがあった。それは人びとが歌っているメロディ「森の詩」。いにしえより受け継がれた寿ぎがグランドロンの青く高い空に響き渡った。

O, Musa magnam, concinite cantum silvae.
Ut Sibylla propheta, a hic vita expandam.
Rubrum phoenix fert lucem solis omnes supra.
Album unicornis tradere silentio ad terram.
Cum virgines data somnia in silvam,
pacatumque reget patriis virtutibus orbem.

おお、偉大なるミューズよ、森の詩を歌おう。
シヴィラの預言のごとく、ここに生命は広がる。
赤き不死鳥が陽の光を隅々まで届け、
白き一角獣は沈黙を大地に広げる。
乙女たちが森にて夢を紡ぐ時
平和が王国を支配する



(初出:2015年6月 書き下ろし)

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ここから先は、後書きです。

2014年3月から連載したこの小説もついに完結しました。ご愛読くださった皆様に篤く御礼申し上げます。

この小説は、いくつかの意味で私の書く小説の中では特殊で、読んでいて戸惑われた方もいらっしゃるかもしれません。

中世ヨーロッパをモデルにしていますが、実在の国家ではなく架空の王国を舞台にしましたので、慣れない固有名詞に混乱された方も多かったと思います。また、チャプター1では、なんと主人公とヒロインが出会わないままでした。庶民の間を旅する主人公、城で貴族に囲まれた生活をするヒロインと一緒に、実際の中世にあった様々な風俗や習慣をかいま見る、ごく普通の小説では使わない手法で、中世ヨーロッパの限界の中で生きる主人公たちに慣れていただきました。

架空の世界なので、もっと魔法やら冒険があるかとおもいきや、まったくそういうものはない、さらには、あまり主人公たちが活躍しない小説でした。

この小説で、私が描き出したかったのは、正にそういうものでした。全ての人は、それぞれの人生の主人公ですが、決して全員がスーパーマンではありません。高校生の時に何も考えずに書いていた「スーパー単純お伽噺」を下敷きにしつつも、それぞれの持つ限界の中で、必死に生きる、そんな主人公たちの姿を書いてみたかったのです。

連載中にとても嬉しかったことがいくつかありました。悪役的立場に居た人物、もしくは主人公たちを手助けした人物に、単純な敵役・味方役としての評価だけでなく、それぞれの立場と思想と信念に従っての行動を読みとってくださった方がたくさんいたことです。

書き方が特殊だった分、どれだけの方が読むのが嫌になってしまうのだろうと、心配しながらの連載開始でしたが、皆様のコメントや拍手に支えられて、完結することが出来ました。支えてくださった皆様、何度も校正役をさせてしまったTOM-Fさん、そして、なんといっても、もったいないほどの素晴らしいイラストで、この世界に花を添えてくださったユズキさんに心から御礼申し上げます。

国王レオポルドの幸せの行方、もしくはルーヴランの『氷の宰相』ザッカや、ちょっとすごいお姫様マリア=フェリシアのその後などを知りたいと言うお声をいくつか頂戴しています。ちょうど私の頭の中で走り出している妄想に重なりますので、もし筆が進めば、いずれはこの世界の続きの話を書くことがあるかもしれません。

その時には、また読んでいただけたら、これほど嬉しいことはありません。

長いこと、このストーリーをご愛読いただき、本当にありがとうございました。
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