【小説】大道芸人たち あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
【あらすじ】
コルシカからイタリアへ渡るフェリーの中で、レネはフルートを奏でる美しい東洋人に出会う。声を掛けようとした時に先を越したのは、以前に会った事のある大道芸人。偶然にも二人の日本人は同じ音楽大学のクラスメイトだった。一人でいるよりも、一緒の方が便利なので、蝶子と稔、レネ、そしてミラノで出会ったヴィルの四人は一緒に大道芸をしながら旅をする事にする。
【登場人物】
◆四条蝶子(お蝶、パピヨン、マリポーサ、シュメッタリング)
日本人、フルート奏者。ミュンヘンに留学していたが、エッシェンドルフ教授から逃げ出してきた。
◆安田稔 (ヤス)
日本人、三味線およびギター奏者。数年前より失踪したままヨーロッパで大道芸人をしている。
◆レネ・ロウレンヴィル(ブラン・ベック)
フランス人、手品師。パリで失業と失恋をし、傷心の旅に出た。
◆アーデルベルト・W・フォン・エッシェンドルフ(ヴィル、テデスコ)
ドイツ人、演劇青年で、もとフルート奏者。父親の支配を嫌って失踪する。偶然逢った蝶子に自分の正体を知らせずに同行する。
◆カルロス・マリア・ガブリエル・コルタド(カルちゃん、ギョロ目、イダルゴ)
裕福なスペイン人の実業家。蝶子に惚れ込んで四人を援助している。
◆ハインリヒ・R・フォン・エッシェンドルフ男爵(エッシェンドルフ教授、カイザー髭)
ドイツ人、蝶子の恩師で元婚約者。アーデルベルトの父親。
参考:絵師様用 オリジナル小説のキャラ設定 「大道芸人たち」編
この小説のイラストを描いてくださる奇特な絵師様が参考にするためのキャラクター設定をまとめたものです。本編を読まなくても描けるように若干のネタバレが含まれています。お氣をつけ下さい。
【関連地図】

【小説】大道芸人たち (1)コルシカ〜リボルノ、結成
大道芸人たち Artistas callejeros
(1)コルシカ〜リボルノ、結成
風が舞い上がる。コルシカフェリーの甲板にはギラギラとした陽光が降り注いでいた。レネ・ロウレンヴィルは、波の上に目を走らせた。繰り返す波の満ち引きが傷ついたレネの心を癒す揺りかごのようだ。そもそも、この船の上にはレネのように傷心の人間は乗っていないはずだった。コルシカ島には通常はヴァカンスで行く。もしくは住んでいるので家に帰る。例えばレネの叔母のように。
仕事も恋人も同じいけ好かない野郎にことごとく持っていかれた間抜けなレネは、その痛手を癒してもらうために、一週間ほど前に叔母の住むコルシカ島に降り立った。サン・フロランに住む叔母は、突然の来訪とはいえレネを暖かく迎えてくれるはずだった。予定では。
「え。今は困るのよね」
彼女は容赦なかった。家の中には若い男がいた。ロウレンヴィル家の大きな問題の一つとして、到底処理しきれないような厄介な相手に惚れてしまうという特性があった。レネもそうだし、叔母のマリも同じだった。マリの26人目の厄介な男は、どうやら甥のレネとも変わらないような歳の男らしい。マリの必死さも並大抵ではないらしく、甥ごときに邪魔されている場合ではなかった。
大した金を持ってきているわけではない。傷心を癒すほど長く滞在するにはコルシカは少々高過ぎた。だれか旅の道連れでもいれば話は別だと思うが。
レネは少なくとも多少の旅賃でも稼ぐかと、サン・フロランの海岸に向かった。パリでは手品で生計を立てていたので、観光客相手に手品を見せるぐらいはどうってことはなかった。もしかしたら、自分に惚れてくれるコルシカ娘がいて、家に泊めてくれるかもしれないし。
海岸には既に先客がいた。見たこともない変な弦楽器を奏でる東洋の若者だ。その不思議な侍コスチュームのおかげで、彼の周りにはそれなりの人だかりができていた。形勢不利。レネは思ったが、物見高い連中が揃っているのなら、多少はおこぼれに与れるかもしれない。
レネはカードからはじめた。鮮やかなカードさばきに最初に歓声を上げてくれたのは一人の少女だった。それから、レネの周りには少しずつ人が集まり始めた。リング、それに布と花など大して失敗のしようのない簡単な手品を繰り返して、レネは少しずつコインの音を聞き始めた。
東洋の男の方も大したレパートリーだった。エキゾチックなメロディもあったが、「フレール・ジャック」や「アビニヨンの橋の上で」のようなフランスの民謡を彼の楽器に合わせてアレンジした曲もあり、その技術も確かだった。
夕方になり、観光客が姿を消すと、東洋の男はにやりとして儲けを数え始めた。どのくらい長く働いていたのかわからないが、相当稼いだのは確かなようだった。レネの方はたくさん稼いだとは言い難かったが、それでも今夜の食事とホテル代くらいはなんとかなりそうだった。レネはそうやって一週間ほどコルシカ島に滞在した。サン・フロラン、カルヴィ、コルテとまわった。もちろん南のアジャクシオやポルト・ヴェッキオにも行ってみたかったが、なんせ物入りすぎる。今回はこれでいいことにして、傷心はイタリアで癒すことにしようと、バスティアでリボルノ行きのフェリーのチケットを買った。
そして、レネは甲板の上で未だ傷心のまま波の揺りかごに心を洗ってもらおうとしていたのである。
おや。レネは思った。傷心なのはレネだけではないらしい。甲板の先にすらりとした一人の女の背中を見つけたのだ。腰まである真っ直ぐな黒髪。柔らかく風にそよぐ透けたブラウス、膝まであるタイトスカートのスリットから見える足は完璧な形だった。こんなに揺れる船の中でハイヒールで踏ん張っていられるというのは、実は大した脚力の持ち主なのだが、レネはロマンチストでそこらへんの実際的なことにはまったく興味がなかった。
女はその手にフルートを構えていて、切々たる響きを奏でていた。ええと、何だっけな、この曲。レネは脳内をかき回したが曲名はどうやっても出て来なかった。女のフルートは甲板にいた人びとの注目を集めた。風に散らされているとはいえ、その音色は美しく、彼女が趣味以上にこの楽器に精通していることがわかった。レネはその切ない響きにすっかり魅せられて、彼女の方に近づいた。
女は背を向けて海の方に向かって吹いていたのだが、時おりその横顔がレネの方に見えた。
東洋人だった。切れ長の神秘的な目から涙が溢れているように見えた。それとも、これは波の飛沫なのだろうか?
マドモアゼル、もう泣くことはありませんよ。私があなたのためにここに居ます。というようないくつかの台詞を噛み締めて、レネはいつこの美しい女に話しかけるべきかタイミングを計っていた。
女は長い曲を吹き終えた。レネが声をかけるのは今だと思った途端、甲板の他の客たちが拍手をした。え。そういう状況じゃないだろうと思ったのはレネだけでなくて女も同じだったようだ。薄く形のいい眉を顰めて船の方に振り向いた途端、カラフルな姿がさっと、彼女の側に行き座り、ベベベンと、彼の弦楽器を奏でだした。
この間のサムライ姿の大道芸人じゃないか!レネは目を丸くした。それはつい今しがた女が奏でていたフォーレの『シシリエンヌ』を現代風にポップにアレンジしたものだった。女は口の端で笑うと、その三味線に合わせて切ないメロディをやはりポップに奏でだした。まるで何度もリハーサルしたかのように見事なアンサンブルだった。人びとは大喜びだった。退屈な四時間のフェリーの乗船時間になんだかよくわからないがめったに聴けない音楽が聴けたのだ。
一曲ごとに、裃を着た男は帽子を差し出し、それなりのコインや紙幣を集めた。四時間で稼ぐ額としては大したものだといってよかっただろう。
フェリーがリボルノに着き、レネは女に話しかける機会を得られないまま、荷物をまとめに降りて行った。甲板に残された裃の男は、嬉々として帽子の中の金を数えて立ち去ろうとして、きつい声で呼び止められた。
「待ちなさいよ」
「なんだよ」
「そのお金、半分は私のものでしょ」
「なんだよ、あんたは大道芸で食っているわけじゃないだろ」
「うるさいわね。こっちだって打ち出の小槌で旅行しているわけじゃないのよ。もらえる収入はいただかないと。半分がだめなら、せめて今晩の食事くらいおごりなさいよ」
「しかたないな。きっちり折半にしてもいいけど、そのかわり明日の朝も稼ぎに協力してくれよ」
「なぜよ」
「せっかく明日の宿代まで稼げたと思ったのに、またゼロからやり直しだからさ。あんたとだと効率がいいから、朝だけでなんとかなりそうなんだ」
女はしばらく考えていたが、やがて笑顔を見せて言った。
「じゃあ、しばらく協力して稼がない?私に大道芸のノウハウを教えてよ」
男は目を丸くしたが、悪いアイデアではないと思った。東洋の神秘みたいな女のフルートはがぜん注目を集める。
「じゃあ、そういうことで、よろしく。俺は安田稔」
「私はタナカユウコよ」
だが、稔は女をじっと見据えて指摘した。
「違うな。あんたはタナカユウコじゃない。フルート科の四条蝶子だ」
蝶子は眉一つあげずに、稔を見返した。
「あんたは俺を憶えていないだろうが、あんたみたいに目立つ女はクラスにはあんたの他には園城真耶しかいなかったよ」
「園城真耶もいたってことは大学のソルフェージュのクラスね。大昔のことじゃない。邦楽科も確かにいたわね。津軽三味線の名取が、こんなところで何をしているの」
「見ての通り、大道芸さ」
「私を知っているなら、話は早いわ。わがままなのもわかっているでしょ?今夜はカジキマグロが食べたい氣分なの。サンドイッチ屋なんかには行きませんから」
「いいけど、それならシングル二つは無理だぜ。ドミトリーかツインルームで割り勘だ」
「ご随意に」
変な女だ。それが蝶子と稔の再会というよりは出会い、後のArtistas callejerosの結成だった。
明くる朝、リボルノ駅で、レネは目を疑った。あれは昨日の東洋のお姫様じゃないか。何で未だにサムライ男と稼いでいるんだ?レネはこのつまらない港町をさっさと発ってピサにでも行こうかと思っていたのだ。駅についたら構内でフルートと例の妙な弦楽器の音が聞こえた。それで、あわてて人手をかき分けて、間違いなく例の二人だと確かめた。
レネの目が確かなら、お姫様は大道芸人ではなかった。昨日は明らかに、そこのサムライ男に巻き込まれていたのだ。しかし、今のこのハマり様はいったいなんなんだ。二人はまるでいつもパートナーを組んでいるコンビのように見えた。今日は男が昨日の変なサムライ・コスチュームを着ていないので、二人の服装の違和感もなかった。そして、二人とも確かな腕を持っていた。大道芸でなくてもやっていけそうな技術に、豊かなレパートリー、そしてサービス精神満載の演技力。いったいなんなんだ、この二人は。
帽子とフルートの箱には、結構な量のコインとお札が入っていた。ある程度演奏すると、二人は少し休み、儲けを片付けて、それから水を飲んだり果物を食べたりしていた。
稔は蝶子にささやいた。
「見ろよ。あそこにずっといるメガネ男、昨日フェリーでお前に話しかけたがっていたヤツだぜ」
「そうなの?確かに、昨日甲板にいたわよね」
「サン・フロランで、となりで手品やっていたよ。あいつも同業者だ」
「ふ~ん。縄張り荒らしとかあるの?」
「音楽同士はダメだな。でも、音楽と手品ならむしろ相乗効果になるよ」
「じゃあ、声かけてみれば?」
蝶子がそういったので、それも一案だなと稔は思った。
「よう。お前は今日は祝日か?」
話しかけられてレネはびっくりした。
「いや、ピサに移動してからと思っていたんだけど…。僕を憶えていたんだ」
「サン・フロランで手品していただろ。昨日もフェリーにいたし」
「うん。君たちはチームなのかい?」
「そうさ。実を言うと、昨日、結成したんだ。俺たち同じ日本人同士だし、一緒だと効果的なんでね。お前もなんならここで稼ぐか?俺たち、これから交代でメシに行くつもりなんだけど、お前が手品するならかわりばんこにBGMしてやるぜ。そのかわり稼ぎは折半だけどさ」
レネの顔は輝いた。ようやくお姫様に近づける。それに心強そうな大道芸人のバックアップも。もしかしたら、しばらく旅の道連れにしてもらえるかもしれない。一人で傷心旅行を続けるのに、レネは既に飽き飽きしていたのだ。一人だと話す人もいないし、食事も寂しく、宿を探すのも難しい。
「もちろん。僕はレネ・ロウレンヴィル。パリの出身だよ。君たちは?」
「私は四条蝶子」
「シジョチョコ?」
「チョウコ。バタフライって意味だよ。俺は安田稔。ヤスでもミノルでも呼びやすいヤツで呼んでくれ」
「ヤス、ですね。カードゲームの名前と同じだ。それなら絶対に間違えないな。そう呼ばせてください」
「あら。じゃあ、私もヤスって呼んでいい?」
「好きにしな」
「マドモワゼルのことはマドモワゼル・パピヨンと呼んでもいいですか?」
「マドモワゼルはいらないわよ。じゃ、あたし、コーヒー飲んでくるから荷物よろしくね」
「おう、任せとけ。レネ、さっさと手品始めな」
稔は大満足だった。朝食前に今日の予定額を既に稼いでしまった。蝶子は大学時代から上手だったが、あの時とは較べものにならないほど腕を上げていた。こんな所で何をしているのかわからないが、本職は大した演奏家なのかもしれない。最後に聞いた噂ではドイツに留学したってことだったがもうずいぶん前のことだった。
蝶子は大学ではとても目立っていた。邦楽の稔ですらも、ソルフェージュのクラスメイトだった洋楽の連中から時々噂を聞くことがあった。清冽な美貌のせいでもあったが、その技術とそれに負けないきつい性格のせいでもあった。一匹狼で友人も少なかった。裕福な子女の多い音楽大学の中で、親に反対されて奨学金とアルバイトだけで通っている変わり種とも聞いていた。同じクラスにいた究極のお嬢様の園城真耶と常に比較されていた。
ヴィオラ専攻の園城真耶が、大学卒業後に順調にキャリアを重ね、いまやクラッシック界を代表する若手ホープとなっているのに、蝶子の噂は留学以来ぷっつりと途絶えていた。しかし、この腕からすると、もしかするとヨーロッパで活躍しているのかもしれない。
そんなことを考えつつ、稔はレネの手品に合わせて、あまり邪魔をしない適当なメロディを弾いていた。
大したものよね。朝食を終えて戻って来た蝶子は稔を見て思った。津軽三味線で伝統の曲を弾けるだけならさほど驚かなかっただろう。邦楽の連中は、普通は大学に来る頃には名取になっていて、大学は単なるハク付けのためだけでしかないことが多い。つまり、洋楽と違って技術的にはほとんど完成していることが多いのだ。しかし、稔は自由自在にこの楽器を扱っていた。日本民謡、ポップス、カンツォーネ、映画音楽。音色も微妙に変え、アレンジも自由自在だ。舞台やホールのためではなくて道行く人を短い間にどれだけ唸らせることが出来るか、そのサービス精神が凝縮している音楽だった。稔のさっぱりした性格も氣に入った。昨夜以来一緒にいるが、妙な詮索は一切しなかった。昨日甲板で私が泣いていたのを知っているだろうに。
蝶子はここ半月ほどひどい精神状態にあった。行くところも帰るところもなかった。でも、いまはその事を考えなくていい。少なくとも数日間は何も知らないこの男と大道芸に集中しようと思った。それが生きるための新しいレールになる予感があった。
「代わるわよ」
蝶子は稔に言った。レネの目が輝いた。蝶子はレネに微笑みかけた。真っ赤になっている所を見るとあまり女に慣れていないらしい。フランス人なのに。茶色い巻き毛、ひょろ長い手足。あまり知的に見えないメガネ。年下かしらね、青二才っぽいわねぇ。そう呼んじゃおうかしら?
蝶子は適当に映画音楽を吹いてやった。手品の腕は確かそうだった。とくにカードの扱いは見事だ。プロみたいね。大道芸人ってたくさんいるのね。自分がするまで、こういう人たちのこと、よく見たこともなかった。
十一時ころまで稼いで、三人は一度、撤収した。一つには本日の目標の倍近く稼いでしまったからだ。それに、いつまでもこんなつまらない港町にいないでどこかに移動したいと蝶子が言い出したからだ。それは正論だった。
「一番近い所でピサに行きますか?それともミラノかフィレンツェへ?」
「お前、予定や期限はあるのか?」
稔が蝶子に訊いた。蝶子は首を振った。
「何もないわ。どこに行ってもいいし、いつまででも構わない。ヤスは?」
「俺は風来坊だ。レネはパリに帰る予定があるのか?」
「僕は帰る予定のない旅に出てまだ一週間です。少なくとも数ヶ月は稼ぎながらあちこち見れればいいなと」
「じゃあ、多数決で行き先を決めようぜ。俺はフィレンツェに行ってみたいな」
「フィレンツェも行きたいけれど、先にピサは?近いし、いまからフィレンツェに行くと宿探しが大変そうじゃない?」
「僕もパピヨンに賛成です。ピサに行ってから、フィレンツェに行きましょう」
「OK」
三人は、窓口に切符を買いに向かった。
【小説】大道芸人たち (2)ピサ、大道芸人入門
大道芸人たち Artistas callejeros
(2)ピサ、大道芸人入門
「斜塔に登る!」
蝶子が言った。三人はピサの斜塔の真ん前にいた。
「そんな簡単に登れませんよ」
レネが困ったように答えた。
「登れないの?せっかくピサまで来たのに?」
「制限があるんだってさ。ツアーを予約しておかないと無理みたいだ」
稔が掲げてある説明書きを苦労して読んでいる。
蝶子は振り返って訊いた。
「イタリア語できるんだ?」
「出来ないよ。読んでいるのは英語だ。お前は?」
「イタリア語は簡単な会話だけね。フランス語は皆無」
「それはレネに任せとけばいいだろう。英語は達者みたいだな。ドイツ語も出来るんだろう?」
「そうね」
「ってことは。イタリア、フランス、英国、ドイツ、スイス、オーストリアは問題なく行けるな」
「ドイツに行くの?」
蝶子は眉をしかめた。稔は「お」と思ったが何でもないように聞き返した。
「なんだよ、イヤか?」
「私、ミュンヘンには行きませんから」
「へ?いいよ。じゃ、ミュンヘンはやめよう。他に行きたくない所は?レネ?」
「パリ」
「わかった、わかった」
どいつもこいつも、スネに傷持っているんだな。
「ヤスは?」
レネが訊いた。
「俺?どこでもOK。日本以外」
今度は蝶子が「ふ~ん」という顔をした。
「斜塔が無理なら、とにかく、他のものを観に行きましょう。ドゥオモとか」
「そうだな」
「なぜ、とにかく観に行くんですか?」
レネが訊いた。蝶子は聞き返した。
「わざわざピサまで来たのに観光しないの?」
「観たいものがあるから行くならわかるけれど、とにかくっていうのは新鮮ですね」
蝶子と稔は不思議そうにレネを見た。レネはニコニコと笑った。
「僕、そこのカフェで待っています。よかったら荷物を見ていますよ」
「前にピサに来たことがあるの?」
「いや、初めてです」
蝶子と稔は顔を見合わせたが、好意に甘えることにした。
「おい。あいつが荷物持って消えたらどうする?」
「信用した私たちが馬鹿だったってことでしょ?三味線は?」
「持ってるよ。フルートは?」
「ここよ。貴重品と楽器だけは絶対に離さないわ」
「結構。じゃ、安心して、ガリレオの振り子を観に行こうぜ」
二人はドゥオモの中に入って行った。ロマネスク様式、イスラム様式、それにビザンチン様式などが入り交じった白い建物は、大きくて荘厳だった。「ガリレオのランプ」も内陣に下がっていたが、どこかで観た他のブロンズのランプと違わないようだった。
「これを見て、振り子の特性を発見した?」
「教会にいる間、長いこと上の空だったってことよね?」
アーチにシマウマのような黒と白の模様がある。こっちのほうが珍しい感じで「観光した」という氣分にさせてくれた。しかし、レネに言われた「とりあえずってのは新鮮」という言葉が二人の心に引っ掛かっていた。考えたこともなかったが、日本人の二人にとって有名観光地に来たら「とりあえず」観光するのは当然のことだった。けれど、それは本当に必要なのだろうか?
カフェに戻ると、レネは菓子パンを食べていた。イタリアによくある、不必要にネトネトして甘ったるい、見ているだけでベトベトしてくるようなあれである。ニコニコと二人に笑いかけた。疑ったことを申し訳なく思うような笑顔だった。
テーブルに座ると蝶子はラッテ・マッキャートを、稔は普通のコーヒーを頼んだ。
「おいしい?」
蝶子はちよっと眉を顰めてレネに訊いた。レネは満面の笑顔で答えた。
「ええ。パピヨンも頼みますか?」
「勘弁して」
蝶子は長い髪をすきあげて冷淡に答えた。取りつく島もない女だ。稔は思った。レネがこんなに尻尾を振っているのに。
「この後、とにかく宿を探そうぜ。お蝶、お前、どこまでひどいホテルに泊まれる?」
「さあ、昨夜ぐらいが私の今まで泊まった最低ラインだけど?」
「なんだよ。やっぱりお嬢だな、お前も。あれは俺には最高クラスだ」
二人が日本語で話しているとレネが割って入った。
「すみませんが、できるだけ英語で会話してくれませんか?」
「おう。すまん。そうだな。ルールを決めよう。三人でいる時には日本語はどうしてもわからない単語以外は使わないよ。ところで、レネ。お前も高級宿じゃないとダメか?」
「とんでもない。僕は安ければ安いほどいいんです。でも、パピヨンがいやがるような所はやめましょう」
「私の心配なら無用よ。安宿だって試してみなくちゃ。別に裕福なお嬢様じゃないんだから」
「俺たちはドミトリーに泊まるだろう。そういう宿でもシングルがある場合もあるから、そうしてもいいんだぞ」
「馬鹿にしないで。私だってドミトリーに泊まるわよ」
蝶子はそういったものの、はじめての経験にドキドキしていた。
昨夜は稔とツインに泊まった。蝶子は稔が手を出してくることを覚悟していたが、稔は何もしなかった。蝶子を大切にして手を出さなかったというよりは、まったく興味がない、という風情であった。蝶子はいつものようにシャワーを浴びたが、稔にとって暖かいお湯のたっぷり出て、リキッドソープやシャンプーの揃っているようなホテルは久しぶりだったらしい。
「ひゃ~、久しぶりだときもちいいよな」
と、満悦していた。そのエロティックゼロのリラックスぶりは、蝶子を安心させた。稔のことはまったく憶えていなかったが、園城真耶と自分を憶えていたというだけで、十分だった。
この七年間、蝶子は常に氣を張っていた。日本を離れ、ミュンヘンに留学した。留学するなら縁を切るといわれて、親と連絡を絶った。背水の陣で学んだ努力が実り、ヨーロッパでもトップクラスの教授に師事できることになった。名を為して生きていくためには、誰よりも秀でなければならないと、練習に没頭した。だが、蝶子に今残っているのは一本のフルートと、自分の奏でる音楽だけだった。
稔の乾いた態度は、蝶子には救いだった。この男と旅をしていれば、昨日のように涙を流すこともないだろう。そのためにはドミトリーだってトライしなくちゃ。
「ちょっと、あのシャワー、なんなのよ!」
蝶子は激怒していた。男女混合の六人部屋には文句はなかった。知らない女だけでの六人部屋よりも稔とレネが一緒の方がずっと心強かった。しかし、チェックイン時にトイレとシャワーのある洗面所をチェックしなかったので、特殊なシャワーに氣がつかなかったのだ。そのシャワーは節水型で、ボタンを押すと数秒間だけお湯が出る。だが、すぐに止まってしまう。やたらと高い所に固定されているため水量も弱く、蝶子の長い髪を洗うにはまったく向いていなかった。蝶子は、髪を濡らしただけでその問題点を把握し、とりあえず出てきたのだ。
稔は、この手のシャワーには慣れていたので、蝶子の問題がすぐにわかった。荷物をごそごそと探ると小さなメラミンの洗面器を取り出して蝶子に投げてやった。
「これを使って、シャワーじゃなくて洗面台で洗いな。その方が早い」
蝶子は目を丸くして受け取った。蛇の道は蛇ね。
「サンキュ」
女って大変だな。あのレベルをどのくらい保ち続けられるだろう。稔は思った。ドミトリーに泊まるような女じゃないのだ。もともと。
しかし、蝶子は難しい女ではなかった。最低限の清潔さは保とうと思えばどんな所でも保てることを証明してみせた。それでいて厄介な問題は何も引き起こさなかった。荷物をまとめるのも早いし、身だしなみも素早い。ドミトリーで男と雑魚寝をしていても、堂々としていて恥ずかしげな様子は見せない。が、だからといって女を捨てているわけではなかった。むしろ逆だった。どんなところにいようと、まったく変わらない清冽な美しさを保っていた。腰まである長い髪では、大道芸人生活にはむかないと判断したので、翌日には美容室に出かけていき、肩までの長さにバッサリと切ってしまった。その思いきりのよさも稔には好ましかった。
ピサに四日ほど滞在し、ドウォモ前でやはり満足の行く稼ぎを繰り返しているうちに、稔は蝶子に対する尊敬と仲間意識を強めていった。こんなにしなやかで強い女には会ったことがないと思った。レネの方は、日に日に蝶子に惹かれていくようだった。甲斐甲斐しく蝶子の面倒を見、食事のときはパンを切ってやったり、飲み物をついでやったりした。蝶子を賞賛する言葉も、日ごとに大げさになっていく。
「おい、レネはあれでいいのか?」
レネがシャワーに行った時に稔は半ばからかうように蝶子に訊いた。
「わかっているわよ。いいんじゃないの?私は興味ないけれど」
蝶子は言い放った。
「お前、面食いか?」
「そうでもないと思うけど。でも、私、ブラン・ベックはちょっと」
「なんだ、そりゃ?」
「日本語に訳すとくちばしの白いアヒルってことよ。青二才を意味するフランス語」
稔は吹き出した。確かにあいつにぴったりな表現だ。
翌日、蝶子は外泊するといった。休憩の時に話しかけてきたイタリア人と意氣投合したというのだ。
「おい、本氣か?」
稔は言った。
「明日の朝、帰ってくるから。荷物はよろしくね」
【小説】大道芸人たち (3)フィレンツェ、椅子の聖母
大道芸人たち Artistas callejeros
(3)フィレンツェ、椅子の聖母
その日は定休日だった。三人がチームを組んで稼ぎだしてから、そろそろ二週間になる。定休日を設けようと言い出したのはレネだった。稔はずっと一人で稼いでいたので、定休日のことなど考えたこともなかった。蝶子は大道芸そのものが目新しかった。キリスト教徒のレネにとっては日曜日が定休日だったのだが、一番人通りの多い曜日に休む馬鹿がいるかと稔に指摘されてその案はひっこめた。基本的に雨が降れば、その日を定休日にする。でも、晴れている日が一週間続いたら、月曜日が定休日になった。そういうわけで、この月曜日に三人はゆっくりとフィレンツェを楽しんでいた。
蝶子はポンテ・ベッキオで銀の指輪を買った。唐草模様の細工がきれいなもので、人差し指につけて太陽にかざして楽しんでいた。
レネはウフィツィ美術館でボッティチェリの金箔押しのタロットカードを買った。そして嬉しそうにカードを切っていた。その鮮やかな手さばきに、稔と蝶子の目は惹き付けられた。隣のテーブルの人まで、身を乗り出して見ている。
レネはカードを扱うときだけは、青二才ではなく大人の顔つきになる。謎めいてもののわかった様相だ。手品は職業だが、カード占いは趣味だった。自分でも当たるとは思っていない。しかし、不思議なことに、迷う人間はいつもレネの差し出すカードの中から的確なカードを一枚引いてしまうのだった。
レネは黙ってカードを広げて、稔に差し出した。稔はおそるおそる一枚引いた。なんだかわからないままそれを表に返す。
「愚者。逆位置。何か軽率なことをしたか、どこかに心残りがある」
稔は少しだけ顔色を変えた。蝶子はちらりとその顔を見て、当たっているのね、と思った。
「私も引く」
レネはもう一度カードを切り直して、今度は蝶子に差し出した。蝶子はそっと一枚引いて表に返した。
「また逆位置だな。塔か。全てを一からやり直す。必要な破壊」
「ふ~ん」
蝶子は口の端で笑った。いいカードを引いたじゃない、私。
「見直したわ。大したものね」
「僕に能力があるんじゃありませんよ。あなた方が選んで引いたんです。僕は、一般に言われている解釈を口にしただけ。でも、誰でも心残りややり直しの希望があるもんじゃありませんか?」
レネはそう言った。
「俺たちのカードが入れ替わっていても、大したものだと思うか?お蝶よ」
「ううん。私はドンピシャなのを引いたと思うわ」
「俺もだ」
稔はその後しばらく口数が少なかった。
稔は二人と違って、余分なものを何も買わなかった。レストランで食べるときも、カフェでも最小限の値段のものばかり頼んだ。一緒に稼ぎ、収入を折半し、同じ所に寝泊まりしているので、蝶子には稔の収支のことがだいたいわかった。蝶子には新しいワンピースを買ったり、比較的高い料理を頼んだりしても問題ない金額が手元にあった。もちろん高級ホテルに泊まったり、最高級レストランに行くような余裕はない。けれど、ここまで稔が切り詰めている理由が今ひとつわからなかった。
稔は金の亡者といってもよかった。レストランで食べた分はきっちりしか払わない。レネがワインやチップや蝶子の分を進んで負担したがるのと対照的だった。仕事のときも、儲かる時間帯や場所にこだわった。
だが、チームを組んでから三人には暗黙の了解ができていた。お互いのことは詮索しない。蝶子がフェリーで泣いていた理由を稔が訊かない以上、蝶子も稔の事情に踏み込む氣にならなかった。レネの方は問題なかった。誰も訊いていないのに、勝手にぺらぺらしゃべるのだ。
「パリで、僕はムーラン・ルージュの近くのナイトクラブで手品のショーをして生計を立てていたんです。アシスタントのジョセフィーヌは、こぎれいなパリジェンヌで、長いことアタックしてようやく同棲にこぎ着けたんですよ。でも、ある日買い物から帰ってくると、同じクラブで働いていたラウールがジョセフィーヌとベッドの上にいましてね。仕事もアシスタントもいつの間にかラウールだけのものになってしまっていて。それで何もかもイヤになってコルシカの叔母の所に行こうと思ったんです」
レネがメガネをずり上げながら、淡々とそんな話をするので、蝶子と稔は顔を見合わせた。
「じゃあ、なんでコルシカでのんびりしなかったんだ?」
「叔母のところにラウールそっくりのいけ好かない男がいました。叔母に邪険にされたんですよ」
蝶子はクスッと笑った。
「うちの家系なんですよ。手に負えない相手に惚れちゃうんです」
そして、切なそうに蝶子を見つめた。
「俺は手に負えない女なんかごめんだ」
蝶子は面白そうに先を促した。
「どんな女性が好みなの?」
「可憐で優しくてかわいい子」
「ふ~ん。そういうのは見た目よりしたたかなのよ」
「それでも、そういう子じゃないとその氣にならないんだよっ」
三人は爆笑した。
蝶子はその後ひとりでパラティーナ美術館に行った。ラファエロのコレクションが充実しているので、一度足を運んでみたかったのだ。二人は「絵はもういい」と言ってボーボリ庭園に行った。蝶子は他の絵には目もくれず、サトゥルヌスの間に直行した。『大公の聖母』『椅子の聖母』『フェドラ』『マッダレーナ・ドーニの肖像』などのラファエロの名作が並んでいるのだ。
その部屋に佇んだ時、蝶子はようやく「ああ、これでよかったんだ」と思った。七年間もヨーロッパにいて、一度もここに来ていなかった。蝶子の七年間はすべてミュンヘンにあった。ゼロから積み立てた巨大なバベルの塔。それが崩壊した。必要な破壊。どうしてもあそこから逃れなくてはならなかった。それはわかっている。けれど、ここまで社会から離脱した逃避行が必要だったのだろうか、それが蝶子の疑問だった。日本に帰ってもよかった。親のもとに、私が間違っていましたと言って。
けれど蝶子が選んだのは、稔とレネとの奇妙な旅だった。愚者の旅立ちだ。
『椅子の聖母』は横目でこちらを見ながら、微笑んでいる。聖母というよりは悪戯をしたがる若い女性。宗教画ではなくて人生の楽しみを奨めるしなやかな表情。それが蝶子の心を肯定した。私は自由になっていいのだ。苦しむのはもう終わりにしよう。
蝶子は『椅子の聖母』の絵はがきを買った。
待ち合わせのカフェに行くと、ちょうど稔も着いた所だった。
「レネはもう中にいるはずだ。俺は、まず郵便局に寄ってくる」
「近くなら、私も行こうかしら」
「そこだよ」
それで蝶子は稔に付いて郵便局に入っていった。
もともと誰かにハガキを書こうと思っていたわけではない。けれど、郵便局で不意に誰かに送ってみたくなった。実家に書く。すぐに却下した。ミュンヘン。論外。日本の数の少ない友人の住所はどこにもない。その時ふいに思い出した。千代田区に住む園城真耶。お嬢様ぶりが住所にも現れていた。一丁目一番地一号。その住所はクラスで一時話題になったものだ。蝶子は真耶の住所を『椅子の聖母』のハガキに書いた。「元氣?蝶子」それだけ書いた。
「おい。お蝶、助けてくれよ」
稔の声で我に返った。稔は窓口で蝶子を呼んでいた。
「英語が通じないんだ」
蝶子は、窓口に行って稔の手元にある札束を見て片眉を上げた。
「この金を日本に送りたいんだ」
それは結構な金額だった。一ヶ月分の稼ぎに当たるくらいの金額だった。送金先は安田家ではなく女性の名前だった。エンドウヨウコ、ふ~ん?
送金を無事終えた時に、蝶子がついでに差し出したハガキを見て稔も「おや」という顔をした。園城真耶に?仲悪かったんじゃないのか?
「お前が園城真耶と仲良しだったとは意外だな」
「仲良くないわ。なぜか急に思い出して送ってみたくなったのよ。住所も知っていたし」
「それだけ?」
「ええ。もっとも、実は一ヶ月くらい前にたまたま遇ったのよ」
「どこで?」
「ザルツブルグ音楽祭」
「へえ?」
「短い間だったけれど話をしたの。あの時はまだ同業者だったからね」
今は、ずいぶん違う世界にいるけれど…。
【小説】大道芸人たち (4)ローマ、噴水に願いを
大道芸人たち Artistas callejeros
(4)ローマ、噴水に願いを
いつもより早く起きたのは、出て行くのを父親に悟られないためだった。ひと月前に突然母親が他界するまで一度も一緒に暮らしたことのない父親には、二度と会えなくなるとしても特別な感慨があるとは思えなかった。その男は厳しい教師でしかなかった。彼から受け継いだのは名前と、それからフルートを操る能力、そして音楽を愛する心だった。だが、フルートを持っていくつもりはなかった。八年前にこの家の楽器置き場に置き去ってから、そのフルートには一度も触れていない。父親は怒り、なだめ、すかし、たった一人の跡継ぎ息子にフルートを再開させようとした。だが、彼は領地もこのミュンヘンのエッシェンドルフの館も、フルート奏者としての栄誉も父親から受け継ぐつもりはなかった。やがて、父親のフルート教師としての関心は、他の生徒に移った。そのことが彼をもっと意固地にした。母親が死んだことも、それに対する父親の態度も、彼の心をさらに冷えさせた。
父親の書斎にある金庫を開ける。ここに着いた日に父親が暗証番号を教えた。少なくとも息子に対する信頼はあるらしい。その信頼を裏切るつもりはない。だが、どうしても開けなくてはならなかった。中には彼自身のパスポートが入っている。現金や金塊、それに先祖代々の宝石類に冷たい一瞥をくれて、彼は金庫を閉めた。彼自身の金は銀行にある。大した金額ではないが、十年前にコンクールで優勝したときの賞金もまだそのままそっくり残っている。緊急のときの足しにはなるだろう。
彼はパスポートを胸の内ポケットに収め、静かに廊下を歩いた。
「アーデルベルトか。もう起きているなら、郵便を持ってきてくれないか」
父親の部屋の前を通った時に、よく通る声がした。
「はい、お父さん。いつものように食堂に置いておきます」
彼は、郵便受けに向かい、新聞や何通かの封書などを持って食堂に入った。新聞、広告、重要な手紙などを簡単に分けて、きっちりとテーブルに置いた。一枚の葉書が目に留まった。わずかなドイツ語の他は読めないアジアの文字で書かれている。宛名を見ると
Frau Chouko Shijyou
c/o Prof. Dr. Heinrich Reinhard Freiherr von Eschendorff
となっている。
本文のドイツ語部分に目を通すと
「尊敬する先生、
あなたの婚約者からフィレンツェからのとても謎めいた葉書をいただきました。残念ながら彼女のミュンヘンの住所を知りませんので、こちらに送らせていただきます。お手数ですが彼女にお渡しいただけると幸いです。Maya Enjyou」
とあった。
彼は無表情に葉書を眺めていた。その婚約者はもうここにはいないのだ。父親は彼女にこの葉書を渡すことは出来ない。狂ったようにその女を捜し、絶望し、ようやく彼女のいない日常に慣れて来たばかりだ。彼自身はその女に会ったことはなかった。何人もいた父親の他の愛人たちと同じく興味もなかった。父親に近いうちに会うよういわれていた。お前の義理の母親になるのだからと。だが、その機会が来る前に女は姿を消した。
この葉書が父親にどのような影響を与えるのか、すこし考えた。そのまま、封書の束の上に置こうか迷ったが、躊躇の末パスポートの入った内ポケットに入れた。それから、荷物を肩にかけると振り向きもせずにエッシェンドルフの館を後にした。あの女を捜したように、自分の事も捜すのだろうかと考えた。そんな事はないだろう。
「おい。お前、また園城真耶に書いてんのかよ」
チボリの噴水の前で、どんどん溶けていくジェラートと格闘しつつ、稔は呆れた声を出した。
フィレンツェを後にしてから三人が目指したのはローマだった。
「全ての道はローマに続くっていうからね」
そういうレネのわけのわからない理由付けに特に反対する理由も見当たらなかったのだ。日本ならもう台風シーズンだが、ローマはまだジェラートを食べたくなる程度には暑かった。
テーブルには一枚の葉書。ベルニーニのトリトンの噴水のものだ。蝶子は髪をかき分けながら、まず園城真耶の住所を書いた。
「これで三枚目じゃないか。中身のない葉書をなんでそんなにたくさんあの女に送りつけるんだ?」
「なんとなく。あ、そうよ。ヤスとブラン・ベックもひと言書いてよ」
そういって蝶子は葉書を二人の前に置いた。
レネは訊いた。
「どんな方ですか?」
「超美人。お蝶並みの氣の強さ。究極のお嬢さま。ヴィオラの天才」
稔の言葉に、蝶子は口の端で笑って同意を示した。
レネは勇んでフランス語で書いた。
「日本の宝石へ、愛を込めて、レネ」
知らない人によく愛なんか込められるな。稔は思った。
稔は日本語で書いた。
「よう、元氣か。ひょんなことからお蝶と楽しく旅をしているぜ。安田稔」
蝶子は微笑んで受け取ると、その下に書き添えた。
「日本に行ったら一度連絡するわね。いつになるか約束はできないけれど。蝶子」
日本に行く事なんか、実際にあるのだろうか。真耶に自分の事を知らせたくて書いているのではない。蝶子は思った。これを書いていると、まだ自分は生きているのだと感じる事が出来る。葉書が日本に届く。どうでもいい存在の人間からのどうでもいい内容の葉書。それでも、消印が証明している。私とヤスとブラン・ベックは、この時間にこの地で生きていた。流れ流れながら、生命を謳歌していた。たとえ、この葉書がやがて真耶の屋敷のシャレたくずかごに落ちていくとしても。
さぞかし真耶は面食らって首を傾げるでしょうね。ヨーロッパ各地からの変な葉書。クラスメイトだった三味線奏者や謎のフランス人と一緒にいる事くらいしかわからない。
真耶と仲がよかった事はない。学生時代はほとんど口を利かなかった。別に嫌いだったわけではないが、あまりにも接点がなかった。それでも蝶子がクラスメイトの中で唯一認めていたのが真耶だった。音楽に対する姿勢、技術を追求する態度、それに公正なものの見方。真耶にとって蝶子がどんな存在であったか、蝶子にはわからなかった。
ザルツブルグで偶然会ったときに声をかけてきたのは真耶の方だった。つまり真耶は私を憶えていたのだ。蝶子は考えた。真耶は高名な指揮者である父親と来ていた。偶然の再会が縁となり、音楽祭の合間にエッシェンドルフ教授と四人で昼食をした。あの時、私はまだ教授の手のうちにあったのだ。真耶は私の未来に対して温かい祝福の言葉をくれた。私にはふさわしくなかった未来。実現しなかった慶事。真耶は知る由もない。
ああ、また教授の事を思い出しちゃったじゃない。今夜は『外泊』しよう。
「パピヨン。やめてください」
ついにレネが我慢できなくなった。お互いの事に口ははさまない、そのルールを破るのは勇氣が要った。しかし、数日に一度の蝶子の『外泊』はたまらなかった。蝶子が好きだからだけではなく、あまりにも危険だったからだ。
「声をかけてきた人に、どうしてそんなに簡単についていくんです?」
「誰にでも付いていっているわけじゃないわ。それに、何をそんなに怖れているの?」
「パピヨン。この世の中には変な人やよくない人もたくさんいるんですよ。何かあったらどうするんですか?」
蝶子は口の先で微笑んだ。何があろうとどうでもいいという表情だった。
「だいたい、お前、何しているんだ?『外泊』で」
「何って、おいしいご飯食べて、暖かいお風呂に浸かって、それから眠るんじゃない」
「眠るだけかよ」
「馬鹿ね。もちろん、やる事やってから就寝するのよ」
「金のためか?」
「あんたとは違うのよ。『外泊』では一銭もいただいていません。売春じゃないの」
「じゃあ、何か。メシと風呂がまともなら、もう『外泊』しなくていいのか?俺たち、週に一度ならまともな所に泊まってもいいんだぜ」
蝶子は黙って首を振った。それから不意に言った。
「なんか違う話をしない?」
「パピヨン!僕たちはあなたを心配しているんですよ」
いきり立つレネを稔は止めた。
「まあ、いい。それじゃ他の話をしようぜ、お蝶。例えば?」
意味ありげに稔が見ると、蝶子も少し意味ありげに間を置いて言った。
「たとえば、コンピュータの話とか」
「コンピュータ?」
「知ってる?ハードディスクから抹消したデータってね。ゴミ箱に入れて、ゴミ箱を空にしただけだと、本当は消えていないんだって。しようと思うと再生できちゃうんだって」
「ふ~ん、それで?」
「一番確実にデータを抹消するためにいいのは、その記憶領域にあたらしいデータをどんどん上書きしていく事なんだって」
「ははあ。それを実践してるヤツもいるってことか?」
「そういうこと」
稔はわかっているようだが、レネはよくわかっていなかった。稔はもう一歩突っ込んでみた。
「だけどさ。上書きするのに、よく知らない外部データを次々と持ってくるヤツもいるよな?ウィルスの心配とかもあるだろう?俺としてはどうしてそういう奴らは内部の安全なデータを使わないんだろうって思うわけさ」
「内部のデータって?」
「例えば、ブラン・ベック.txtとかさ。そういう書類の事だよ」
蝶子は高らかに笑った。
「わかっているようで、まったくわかっていないのね。抹消したいのは残して置くと心配になるような重要データ。重要データを重要データで上書きするような馬鹿はいないのよ」
「あ、そっか」
「じゃ、そういうわけで、私行ってくるから。また明日ね」
蝶子はそういって出かけていってしまった。
「パピヨンとあなたが何の話をしていたのか、全然付いていっていないんですけれど」
レネは悲しそうに言った。稔はレネの肩をポンと叩いて笑って言った。
「喜べ。お前は、お蝶にとってもう一介のフランス人でも、ただの青二才でもないってことだ。大事な友だちなんだ」
「?」
「お蝶は、ドイツで何か辛い事があったんだ。たぶん男関係で。あいつはその記憶を抹消するために『外泊』をくりかえしている。どうでもいい相手とな。ただ、それでも危険な事には変わりないんだがなあ。なんとかならないものか」
奇しくもその日に、レネと稔の不安は的中してしまった。知り合った男は最初に名乗ったのと違う名前で店を予約していた。リストランテはあまり清潔ではなかったが地元の客でにぎわい、とてもおいしかった。男の会話はつまらなくてうんざりしたが、どうせ再び会う事はないのだからと割り切った。だが、蝶子が洗面所に行くために席を立った時に、男は後から付いてきて襲いかかってきた。
「ちょっと、何をするのよ!こんなところで」
「いいだろう。どうせお前はそのつもりで付いてきたんだろうから。事が終わったら金はここで払うよ」
「ふざけないで。私は売春婦じゃないのよ。離しなさいよ」
抵抗する蝶子の口を手で塞ぎ、噛み付かれると怒りに任せて殴りつけてきた。
だが、男の勝手もそれまでだった。突然後ろから襟首をつかまれると、激しく殴られて、トイレの床に崩れ落ちた。蝶子が見ると、もうひとりの男は隣のテーブルに一人で座っていた男だった。蝶子の連れの行動に疑問を感じて付いてきてくれたのだろう。騒ぎを聞きつけて店員たちも集まってきた。蝶子の連れは形勢不利を悟ったのか、立ち上がると勘定も払わずにさっさと逃げ出した。
ショックで茫然とする蝶子を、隣のテーブルの男は手を差し伸べて立たせ、
「大丈夫ですか」
と英語で聞いた。
「ええ、どうもありがとうございました」
蝶子はそういってから鏡を見た。頬が赤く腫れている。なんてみっともない。ヤスとブラン・ベックにこっぴどく罵られるわね。
「地元の方ではないですよね。差し支えなければ、宿までお送りしますよ」
その男は親切に言った。リストランテの親切な店員たちも大きく頷いている。
蝶子は改めて男をよく見た。食事をしていた時の第一印象もそうだったが、やけに目が大きい。黒々とした眉がやたらと太く、その下に巨大な目が二つ。その目は東大寺の南大門の金剛力士像にそっくりだ。黒い豊かな髪、上質な仕立てのシャレたデザインの濃茶の背広、白地に紫のストライプの入ったワイシャツにどうしてあわせたくなるのか理解できないが、しかし、その組み合わせなのにとてもよくマッチしていた。歳の頃は四十~五十前後だろうか。巨大な目の輝きと、優しくて親しみのある口元が蝶子をまず安心させた。先ほどの男に較べたら、誰でもマシだった。
蝶子はハンカチを濡らして絞り、打撲痕にあてた。
「いいえ、ご親切はありがたいけれど、この顔で今すぐは帰れないわ。友人にどれだけ罵倒されるか。ものすごく反対されたのに、私がいう事を聞かなかったんですもの」
「いいご友人をお持ちのようだ。では、よろしかったら、どこかのバーでしばらく飲みませんか」
蝶子は少し考えてから頷いた。店員たちもほっとしたようで仕事に戻っていった。男は、当然のごとく自分と蝶子のテーブルの両方の勘定を済ませた。
「それはいけませんわ。私、こちらのテーブルの分は払います。あんな男でも私の連れでしたし」
蝶子の抗議をやんわりと押さえて、リストランテの店主が言った。
「ご心配なく、あの男の分は勘定に入っていません。だから安心して払ってもらいなさい。この方は私どもの古くからの大切なお客様でしてね。信頼できる方ですよ。シニョリーナはひどい目に遭われましたが、この方とお知り合いになれてラッキーでした」
男は逃げた男の分にも相当するほどのチップも渡して、蝶子を連れて店を出た。そしてリストランテのはす向かいにある古いが格式のあるホテルのバーに連れて行った。
「ローマに来るときはいつもここに泊まるんですよ。で、夕食は決まってあそこでとるんです」
そのバーは、黒を基調にした落ち着いたインテリアで、アールヌーボーのランプが柔らかい間接照明で照らす以外はとても暗かったので、蝶子は顔のことを氣にせずに済んだ。
「助けていただいて、本当にありがとうございました」
「お友だちが心配するのも無理ないと思いますよ」
「私が馬鹿だったんです。これまで何ともなかったので、思い上がっていたんでしょうね」
「これまでも?あなたのような人がなぜ?」
男の目は更に大きくなった。
なぜだかわからないが、蝶子はこの男に事情を話していた。コンピュータのたとえ話などではなく、あからさまに。ドイツにフルートの留学をした事、念願かなって最高の教授に師事できることになったこと。その教授と師弟以上の関係になった事。結婚を申し込まれていたのに逃げ出してきた事。現在は大道芸をする二人の友人と一緒にあてのない旅をしている事。心と体に刻まれた記憶を抹消するために時おり『外泊』をしていること…。
「記憶の抹消は進んでいるんですか?」
「ええ。かなりの部分は。少なくとも体がエッシェンドルフ教授を恋しいと思う事は、ほとんどなくなりましたわ。あれは、ただの生体反応に過ぎなかったのだと、そう納得できるようになってきました。でも、まだ情緒の部分は厳しいですね」
「教授のもとに戻りたいとは、その可能性は考えないのですか」
「絶対に戻りません。戻るわけにはいきません」
「なぜですか。あなたは教授を愛していらっしゃるのに?」
「愛していないからです」
蝶子は死刑宣告のように言い放った。
一度も教授に言えなかった言葉。囚われていく恐怖。恐ろしいまでの支配。キャリアも名声も、そして肉体ですら彼の手のうちにあった。フルートを続けていくためには教授のものになるしかなかった。拒む事は出来なかった。これが運命なのだと自分を納得させようとした。教授にも誤算があったのだろう。彼は軽い氣持ちで手を出した若い東洋からの生徒に溺れたのだ。周囲の反対を押し切って、教授は蝶子と結婚しようとした。法でも彼女を縛り付けようとしたのだ。
だが、そのことによってそれまで蝶子の知らなかった教授の過去が明らかになった。教授には三十年以上前に同じようにはじまった関係があり、その女性は教授の妻になる日をひたすら待ちながら生きてきたのだ。二人の間には正式に認知された息子がいて、共に暮らしてはいないが息子の母親は妻としていずれは息子とともにミュンヘンのエッシェンドルフの館に迎えられる事を願っていたのだ。教授はその女性の心を無視して、息子だけを蝶子に会わせようとした。未来の義理の母親として。女性が亡くなったのは蝶子と教授がザルツブルグ音楽祭に行っていた時だった。大量のアルコールと過剰に摂取した薬物。事故と片付けられたが蝶子は自殺だと思った。きっと教授とその息子もそう感じただろう。
蝶子はその女性の死を聞いた翌日に、ミュンヘンから逃げ出した。その女性のためではなく、その息子のためでもなく、教授のためですらなく、ただ、自分の自由のために。蝶子は閉じ込められピンで刺されたくなかった。
「では、あなたは、いまの暮らしに満足しておられるんですね」
「ええ。こんな事が可能とは思っても見ませんでしたが、私、今ほど自分らしく幸せに生きた事がないように思います。大道芸人になるなんて」
「Artistas callejeros」
男は微笑んだ。蝶子は首を傾げた。
「私の国の言葉で大道芸人たちという意味ですよ」
「素敵な響きですね。どちらの国ですか?」
「スペインです。自己紹介がまだでしたね。私はカルロス・マリア・ガブリエル・コルタドといいます。バルセロナの近くで生まれました」
「私は日本人です。四条蝶子といいます。助けていただいて、こちらこそ自己紹介が遅れてすみません」
「セニョリータ・チョウコとお呼びしていいのかな?」
「お好きに。フランス人の友人はパピヨンと呼びますわ。蝶という意味なので」
教授は「シュメッタリング」と呼んだ。蝶子の心に再び痛みが走った。
「では、私はセニョリータ・マリポーサとお呼びしましょう」
「セニョリータをやめていただけますか?」
「もしあなたが私をカルロスと呼んでくださるなら」
蝶子は微笑んだ。今夜限りでもう会わないかもしれない人間の呼び方にこんなにこだわってどうするのだろう。しかし、蝶子はその事を口に出したりはしなかった。カルロスは本当にいい人だった。このまま誘われたら、喜んで付いていっちゃう。ほらね、ヤス。私は面食いじゃないでしょう?
やがて二人は、どちらがいいだしたともなく、当然のように彼の部屋に移り、その晩を一緒に過ごした。
トレヴィの泉の前で一稼ぎして、休憩していると、聞き覚えのある声がした。
「マリポーサ!ローマ中を探しましたよ」
「あら、カルロスじゃない。先日はどうもありがとう。どうして私を探したの?」
蝶子は嬉しそうに言った。
「あんまりですよ。黙って消えるなんて」
カルロスは恨めしそうに言って、稔とレネに軽く会釈した。あの翌朝、カルロスが眠っている間に蝶子は黙って彼の部屋を後にした。後で極上のアマローネ・ワインのラベルに蝶の絵を描き、彼の部屋に届けてもらった。蝶子にとって、この話はこれで終わりのつもりだった。けれどカルロスにはそのつもりはないらしい。
「紹介するわ。私の仲間たち。稔とレネよ。こちらはセニョール・カルロス・コルタド。私の恩人よ。危ない所を助けてくださったの」
「危ない所って何だよ」
稔が突っ込んだ。蝶子は天を仰いだ。しまった、せっかくバレていなかったのに。
「え~と。『外泊』で…」
レネは蒼白になり、稔は激怒した。
「ほら見ろ!俺たちが言った通りだったろ。いい加減にしろ」
「マリポーサ。いいご友人と一緒でよかった」
カルロスは笑った。
「よかったらお三方とも今晩、あのリストランテでご一緒しませんか。私は明日国に帰るんですよ。だからその前に何としてでももう一度会いたくてね」
三人は顔を見合わせた。
「私は喜んで伺うわ。とってもおいしいリストランテよ」
「僕も行きます!」
蝶子と二人きりにさせてなるものかとレネが叫んだ。稔もおいしいレストランには異存がなかったので行く事にした。
カルロスはにやりと笑って、コインを後ろ向きに泉に投げ込んだ。
「すっぽかされるとは思っていませんが、念のため」
蝶子もにやりと笑うとやはりコインを投げ込んだ。
【小説】大道芸人たち (5)ミラノ、鳩の集まる広場
大道芸人たち Artistas callejeros
(5)ミラノ、鳩の集まる広場
「Artistas callejerosって、いい響きの言葉じゃない?」
蝶子が言った。三人はミラノに向かう列車の中にいた。
蝶子は昨夜リストランテでカルロスにもらった名刺をながめていた。カルロスはスペインに来たら必ず連絡しろと、この名刺をくれたのだ。バルセロナの自宅の住所と携帯の番号まで手書きで加えた。
「私が悪い女で、これを利用したらどうするの?」
そう訊く蝶子にカルロスは首を振っていった。
「これだけ長く事業を続けていると、信用していい人間といけない人間くらいはわかります。それに悪い女に利用されるなら、それも一興です。私も多くのスペイン人同様に悪い女に目がないんでね。マリポーサ。私は教授に負けないくらいあなたに夢中ですよ」
「教授って何だよ」
あとで稔がぼそっとつぶやいた。自分たちにはいわないことを、蝶子があのスペイン人には打ち明けたらしいのが多少腹立たしかった。
蝶子はにやりと笑って稔の言葉を無視し、カルロスの名刺をいじり始めたのだ。
「アルティスタス…?」
レネが面食らって続けた。
「…カリェヘーロス。スペイン語で大道芸人たちっていう意味なんですって」
「Artistas callejerosね。たしかにStreet Artistsより味があるよな」
稔も頷いた。
そして突然言った。
「よし。俺たちのチーム名はそれにしようぜ」
「悪くないですね」
レネも同意した。蝶子はもとよりそのつもりだった。
ドゥオモの近くの安宿にとりあえず入る。ドミトリーの同室には既にひとりのドイツ人がいるということだったが、もう出かけた後らしく姿は見えなかった。
荷物を置くと三人は、簡単な食事をしに外に出かけた。昨夜、カルロスのおごりで心ゆくまで美味しいものを食べたので、しばらくは立ち食いピザでも何でもよかった。
「ねえ、市場があるわよ。あそこで何か新鮮なものを買わない?」
安く済めばなんでもいい稔はもちろん賛成した。レネも市場の賑わいは好きだった。
「値段の交渉はパピヨンがするといいでしょうね」
「どうして?」
「第一にイタリア語ができる。イタリア人は言葉で外国人を階級づけるんですよ。第二にパピヨンの笑顔を前に高い値段で売りつける男はいませんよ」
「なるほどねぇ」
生野菜、チーズ、ハム、パンなど、三人はレネの戦法で上手な買い物を繰り返した。最後は果物屋の屋台だった。先客がオレンジを買っていた。
蝶子は屋台の親父に最高の笑顔をみせて頼んだ。
「私のために一番おいしいオレンジを一キロ選んでくださらないかしら?」
「もちろんです、シニョリーナ。甘くて大きいのをね」
そのオレンジはどう考えても一キロ半以上はあったが、親父はイタリア人用の一キロの値段で売ってくれた。
「まあ、なんてご親切に」
蝶子は親父の頬にキスをしてやった。やり過ぎだよ。稔は思ったが、氣をよくした親父はさらに五つのオレンジとバナナや杏まで袋に押し込んでくれた。
隣の先客がムッとして「Scheiße(くそっ)」と言った。あら、ドイツ人だわ。蝶子は横目でちらっと見た。若い金髪の男だ。彼がオレンジを買ったときの値段を見ていたレネが首を傾げていると、親父はイタリア語でレネにそっと耳打ちした。
「いいんだよ。あれはテデスコだから」
レネはぷっと吹き出した。
あとで、稔がなんで笑ったのか訊いた。
「テデスコってのはイタリア語でドイツ人ってことです。イタリア人は基本的にドイツ人が嫌いなんですよ。親父はあの男はドイツ人だからぼったくってもいいって言ったんですよ」
稔と蝶子は同時に吹き出した。
ドゥオモの近くで食事を済ませた後、蝶子の希望で三人はミラノスカラ座を観に行った。もう縁がなくなったとはいえ、一度来てみたかった所だ。ここで吹く事もなければ、ここに聴きにくる事もないだろう。だが、囚われの身ではなくて自分自身の意志と足でここに来る事が出来た。それがとても重要だった。一緒にいるのは、蝶子を支配する絶対権力者ではなく、自由意志で集まるArtistas callejerosの仲間たち。蝶子はカルロスの言葉を思い出していた。
「記憶の抹消は進んでいるんですか?」
ええ、とても。教授の存在は、少しずつ痛みではなくなってきた。それは遠くなる。稔やレネといるのは、教授を忘れるためではなくなってきている。Artistas callejerosそのものが、蝶子の人生と変わりつつあった。
二階のスカラ座博物館に行くと、先客が一人だけいた。先ほどのドイツ人だった。へえ、意外。スカラ座の歴史なんかに興味があるんだ。実際、稔はともかくレネの方は早くも退屈そうだった。プリマドンナの胸像や舞台衣装などには興味が持てなくてもしかたないかと思う。でも1920年代の「トスカ」のポスターなら興味持てるんじゃないかしら。古楽器のコーナーで蝶子はベーム式のフルートを発見した。そして、小さく笑った。
それから三人は少し働いた。鳩の集まるドゥオモ前の広場にはたくさん観光客がいた。同業者もそれなりにいたが、Artistas callejerosはいつも通りたくさん客を集めた。近くでは全身金色の衣装を着て顔も金色に塗った男が彫像のパントマイムで稼いでいたが、Artistas callejerosのおこぼれでずいぶん得をしていたようだった。三人は面白がってこのパントマイマーにもちょっかいを出した。レネが近寄っていって、派手な身振りでカードを差し出した。
パントマイマーは大げさな身振りで一枚引いた。レネはそのカードを観客たちに見せて、それから華麗にカードを操ってから観客に近づいていき、少女のポケットから同じカードを取り出してみせた。蝶子はフルートを吹きながら、パントマイマーを見た。カードは「恋人」だった。かわいいカードを引くじゃない。私やヤスのと較べて。あら?蝶子は金ぴかに塗られたその顔をよく見た。さっきのテデスコじゃない。同業者だったのね。
日が暮れて観客たちがいなくなったので、稔は撤収を宣言した。ドイツ人も同時に仕事を終えて三人に英語で礼をいった。
「こんなに実入りがよかったことはない。助かったよ」
「事前に申し合わせている場合は、折半するんだけどさ。今日は、俺たちがちょっかい出しただけだから」
「ねぇ、ブラン・ベック。あなた、わざとあのカードを引かせたの?」
「いや、そのテデスコが自分で引いたんですよ」
「あれって、どういう意味なの?」
「たいていはそのまんまです。愛の始まりとか、恋愛とか。でも、直感による選択をすべしって解釈もありますけどね」
「ただのカードじゃないか」
ドイツ人は無表情に言った。蝶子はドイツ語で訊いた。
「その手の事は絶対信じないってタイプ?」
「信じる必要がどこにある」
絵に描いたような理詰めドイツ人だわ、と蝶子は思った。くわばらくわばら。
「あんた、以前バイエルンにいたのか?」
ドイツ人は訊いた。蝶子はびっくりした。
「私の言葉、バイエルンなまりがあるのかしら?」
「ああ。東洋人がイタリアで俺の地元みたいな言葉を遣うのは妙だな」
「どこから来たの?」
「俺はアウグスブルグの出身なんだ」
「これからどうするの?」
「宿に帰るよ。すぐそこの安宿だ」
「あら、私たちと一緒じゃない。もしかして、同室のドイツ人って…」
その通りだった。それで、部屋に戻って四人は改めて自己紹介をした。
「俺は稔だけれど、ヤスって呼ばれている」
「僕はレネだ」
「よろしく。俺はヴィルフリード。長いからヴィルでいい」
「私は蝶子」
ヴィルは不思議そうに蝶子を見た。稔が付け加えた。
「マダム・バタフライだよ」
「日本には多い名前なのか?」
「まさか。あんたが一ヶ月以内にもうひとりの蝶子をみつけられたら、一年分のビールをおごってやるよ」
蝶子は笑った。金の亡者が大きく出たわね。
「そうか」
稔は、水を買い忘れたといって再び外に行った。蝶子は、シャワーに行ってくると言って立ち上がった。ヴィルは少し迷ってから部屋から出て行こうとする蝶子に言った。
「あんた、左手、怪我しているのか?」
蝶子は驚いた。レネはヴィルが何を言っているのかまったくわからなかった。
「よくわかったわね。いいえ、怪我はしていないわ。でも、先日からフルートの調子がいまいちなの。ほんのちょっとだから、ヤス以外にわかるとは思わなかったわ」
「何か挟まっているのかもしれないな」
ヴィルが乏しい表情で言った。レネは親切心を喚起されていった。
「シャワーに行っている間に、僕が見ておいてあげましょうか?」
蝶子は、少し考えてから、フルートをレネに渡して、こういいながら出て行った。
「ありがとう。わからなかったら、あとで自分で見るから、そのままでいいわよ」
フルートというのは、ずいぶんたくさんボタンがある楽器だな。レネはひっくり返してあちこち覗いた。上のベッドの上に転がって、しばらく黙って見ていたヴィルは、身を乗り出してきてたった一つのキーを指差した。
「ここ?」
レネはヴィルを見て不思議そうな顔をした。ヴィルは黙って頷いた。レネがそのキーの下を丁寧に見ると、確かにうっすらと白くなっている。ああ、塩だ。レネは納得が入った。コルシカフェリーの上で吹いた時に付いた海水が乾いて結晶化したに違いない。レネが丁寧に柔らかい布でその部分を拭いているところに、蝶子が戻って来た。
「パピヨン。ここに塩の結晶が挟まっていたよ」
蝶子は少し驚いた。自分でも左手の薬指のところだと思っていたが、まさかレネがこんなに早く場所を特定できるとは夢にも思っていなかったのだ。
「ブラン・ベックなんて呼ぶのは失礼な有能ぶりじゃないか」
ヴィルがそういったので蝶子は素直に頷いた。フルートを構え、少し吹いてみる。本当に直っていた。
「本当にそうね。見直したわ。ありがとう」
そう誉められてしまい、レネはそれはヴィルに教えてもらったのだとは言えなくなってしまった。もし、その場で言っていたら、蝶子にはすぐにわかったはずだった。ヴィルがフルートに精通しているという事が。しかし、レネはフルートにまったく精通していなかったので、ヴィルのしたことが特別だとわからなかったのだ。
「パピヨンか」
ヴィルが小さな声で言った。レネは笑って言った。
「コルタドさんはスペイン語でマリポーサって呼んでいましたよね。ドイツ語では蝶はなんていうんでしたっけ」
「シュメッタリング」
ヴィルは蝶子を青い目で見据えてそういった。蝶子は戦慄した。教授はいつも蝶子をそう呼んだ。息苦しくなるほどの痛みが走る。ヴィルは蝶子の反応を見て取った。
「あんたが嫌なら、俺はそんな風には呼ばない」
蝶子は、目を閉じて、少し冷静になるまで間を置き、それから言った。
「いいえ、是非そう呼んでちょうだい。私が慣れるまで何度も。それもハードディスクの上書きになるでしょうから」
【小説】大道芸人たち (6)ヴェローナ、ロミオとジュリエットの街 -1-
ヴェローナは小さいながらも趣のある街です。街の中心にあるアレーナでは野外オペラなども開催されるそうです。ミラノからわりと近いので、旅行の際には足を伸ばされるといいかもしれませんね。
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(6)ヴェローナ、ロミオとジュリエットの街 (前編)
「行き先は、いつも多数決で決めるんです」
と、レネが説明した。ミラノに滞在中、ずっとヴィルと同室でしかも一緒に稼いでいたので、それが何となく自然になってしまっていた。
ヴィルは演劇青年で、パントマイムのいろいろな芸を持っていたが、レネの手品と相性が良かった。普段は多くを語らないが、話す時には簡潔ながらも鋭い言葉を遣った。しかし、氣の弱いレネを攻撃するような言葉遣いは絶対しなかった。大道芸生活が長く仕事のまとめ役をきっちりとこなし、よけいな事は言わない稔にもケンカを売ったりはしなかった。つまり、基本的に強烈な言葉の応酬が交わされるのは蝶子との間だった。そうなるとレネはおろおろし、稔は面白がった。
だから、そろそろ次の目的地に移動しようという時期になって、このまま一緒にいるのか、もしくはまた別になるのかは蝶子次第だと二人は思っていた。
定休日の月曜日に、ドゥオモ前の広場のカフェで四人で座っている時に、蝶子が「最後の晩餐」の絵はがきを取り出した。そして、いつものように園城真耶の住所を書くと、稔に渡した。稔はいつも通り短く日本語で、ピッツァの事を書きレネに葉書を回した。レネは勇んでシャンソンから引用した美辞麗句を書き、蝶子の顔を見た。蝶子は黙ってコーヒースプーンでヴィルを指した。
「俺も書くのか?」
「そうよ。いつもみんなで書いているんだもの。ブラン・ベックも真耶とは面識がないの」
その蝶子の言葉を聞いて、稔とレネの氣持ちは決まった。次の行き先にテデスコを誘おう。
ヴィルは黙って葉書を見た。宛先はMs. Maya Enjyouだった。そっと左胸を触った。内ポケットにはパスポートと一緒に葉書が入っている。Maya EnjyouからChouko Shijyouへの。ここにいるのは、父親の捜していた、あの女だ。もともとほとんど疑う余地はなかった。フルートが吹けるバイエルンなまりの日本女だ。名前も一致している。だが、もしかしたら何かの間違いではないかと、最後まで疑っていた。ドイツでは一度も会ったことがないのに、どうしてよりにもよってこんなところで会うんだ。しかし、ヴィルは何も言わずに葉書にひとこと書き添えた。蝶子は鼻歌を歌いながら、真耶にスカラ座博物館でベーム式のフルートを見つけた事を書き添えた。
その後、三人は次の行き先について、話しだした。ミラノはもう飽きた、それは四人とも感じていた。
「もしよかったら、一緒に移動しないか?」
稔がヴィルに訊いた。
「悪くない考えだと思うが、女王様が怒るんじゃないか?」
「失礼ね。私はそんなに心狭くありませんから」
蝶子は鼻で笑った。実を言うとヴィルの心はもう決まっていた。付いてくるなと言われても、離れるつもりはなかった。どうしても知りたい事があった。これはチャンスだ。
「で、どこに行くんだ?」
「行き先は、いつも多数決で決めるんです」
と、レネが説明した。Artistas callejerosには他にもルールができていた。稼ぎの分け方、定休日のこと、会話のルール。
「たとえば、言葉のわからないメンバーのいる前では、日本語だけとかドイツ語だけで話をしないこと」
蝶子が説明した。稔が続けた。
「訊かれた事には絶対に嘘を言わない。でも、言いたくない事は答えなくていい。だから答えない事で言いたくない回答がわかってしまうような限定した質問は出来るだけしない。特に過去の事だな」
「大いに結構。異議はない」
「OK。じゃ、行き先だ。俺の候補はヴェローナ、コモ、ヴェネチアかな」
「ヴェローナに一票」
蝶子が言った。ヴィルも黙って人差し指をあげて賛成の意を示した。レネは笑った。
「OK。僕もロミオとジュリエットの街には行ってみたかったし」
ヴェローナでは、ドミトリーが見つからなかったが、家族用の四人部屋が見つかったので、そこを一週間借りる事にした。ローマ時代アレーナの近くで街の中心のブラ広場が仕事場になるだろう。
「けっこう涼しくなってきたわよね」
蝶子が言った。稔は頷いた。
「そうだな。冬はヨーロッパの日は短いし、稼ぐのも厳しくなるぞ。去年の冬は大半を大都市の地下鉄で稼いで過ごした」
「僕たちの最初の冬が来るんですね」
レネが感慨深げに言った。
「お前、数ヶ月したらパリに戻るとか言っていなかったか?」
稔が思い出したように言った。
「最初はそのつもりだったんですけれどね。帰って何すればいいんですか?仕事ならここですればいいし、せっかくArtistas callejerosを結成したのに」
「ブラン・ベックがパリに帰るなら、私たちも一緒行って、エッフェル塔の下で稼げばいいんじゃない?」
蝶子が笑った。その笑顔を見て、レネは絶対にこのメンバーから離れるものかと心に誓った。
「ヴィルは期限付きの放浪ですか?」
レネは訊いた。
「いや。実を言うと、つい最近、旅を始めたばかりだ。期限の事なんか考えた事がなかった」
「ドイツ人が一人でいるのって珍しいわよね。たいてい群れているじゃない?」
蝶子が訊いた。
「そうだな。日本人と違ってツアーじゃないが、集団が好きなのは確かだな」
「でもあんたは群れるの苦手そうだよな」
稔がぽつりと言うと、ヴィルはあっさり認めた。
「ティーンエイジャーが群れてばか騒ぎをする頃に、そういう自由がなかったんだ。それでドイツ式の群れ方を学び損ねたってわけさ」
Artistas callejerosは居心地がよかった。仕事と宿泊はいつも一緒だが、それ以外ではだれも拘束をしない。観光をするのもカフェに座るのも、一緒の事もあれば勝手にバラバラの事もあった。仕事は楽しかった。四人は次々と新しい試みに挑戦した。手品と音楽とパントマイムを組み合わせも、ヴィルの演技指導の甲斐あって、いままでの個人的な技の寄せ集めから総合エンターテーメントへと変わりつつあった。
「俺、ちょっと郵便局に行ってくる」
稔が言った。蝶子は切手を頼んだ。
蝶子は稔が送金用紙を記入する姿を脳裡に描いた。エンドウヨウコ。蝶子が知っているだけでもこれで三回めだ。ヨーロッパの各地から届くお金を、その女性はどんな思いで受け取っているのだろう。ヤスは日本には帰らないといった。ということはその女性は送金を受け取るだけなのだろうか。ヤスに逢いたくないのかしら。まあ、恋人とか妙齢の女性に決まったわけじゃないんだけれど。
ヴェローナ滞在三日目に空模様が怪しくなった。
「これはあしたは定休日かしらね」
撤収の時に蝶子は言った。稔は頷いた。
「じゃ、私、久しぶりに『外泊』するから」
レネと稔が目を剥いた。
「おい、お蝶!お前まだ懲りていないのか?」
「パピヨン。お願いだからやめてください」
蝶子は肩をすくめた。
「懲りたから、身元のちゃんとした年配の人をみつけたのよ。ロマンスグレーのイタリア人。リストランテの後に、ヴェローナで一番感じのいいバーに連れて行ってくれるんですって。じゃあね」
ヴィルは何がなんだかわからないという顔をしていた。
「パピヨンは時々ああやって見知らぬ男の人と『外泊』するんです。ローマで危ない目にあったらしいのに」
「欲求不満か?」
「さあな。ハードディスクの記憶消去だとよ」
「名前の呼び方でも、そんな事を言っていたな。なんだ、それは」
「たとえ話だよ。コンピュータの中に消したい重要データがある時に、ゴミ箱に入れてゴミ箱を空にしただけじゃ完全には消えないんだってさ。一番いいのは、どうでもいいデータで上書きしていく事なんだそうだ」
「そういうことか」
少し考えていたが、それからおもむろに言った。
「俺も『外泊』するかな」
「ええっ?」
レネがびびった。ヴィルは平然と言った。
「街にはいくらでも女がいるだろう?なんなら、一緒に行くか?」
「俺は、女を買うような金の余裕はないよ」
稔は却下した。
「別に売春婦じゃなくても、旅のアバンチュールを楽しみたい女はごろごろしているぞ」
「あんた、意外と不真面目だな」
「俺はカトリックの司祭じゃないんだ」
それもそうだった。レネと稔は肩をすくめて同行する事にした。何もお蝶だけ楽しんで自分たちが禁欲する事もないな、全然考えつかなかったけれど。
地元の娘たち三人組と知り合って、地元のリストランテで軽い食事をした後、一番最初に消えたのはレネだった。というよりは、一番きれいでしたたかそうな女に連れられて行ってしまったのだ。
ヴィルは快活でおしゃべりな娘を上手にリードして話を弾ませていた。しゃべれるんじゃないかと稔は思った。確かにしゃべっているのは娘が九割でヴィルは一割だったが。
稔は一番好みのタイプのカーラという娘と話していた。別にベッドに連れ込もうと意氣込んでいるわけではない。大人しくてはにかみがちなイタリア人というのは珍しい。英語も片言なので余計に大人しい。しかし、日本の文化が好きで、稔が伝統芸能保持者だと知るととても嬉しそうに話を聞いてくれた。やっぱり女はこうでなくちゃな。お蝶みたいなトカゲ女とばかりいると、あれが普通に思えてきて困る。
やがてヴィルは勘定を済ませると、パウリーナと一緒に席を立ち、稔にウィンクをした。
しばらく一緒にいて、さてこれからどうしようと思っているところ、カーラの携帯電話が鳴った。イタリア語で会話をしている。心配するような様子になった。それから電話を切ると困ったように言った。
「今の、兄からなの。仕事場から。急に具合が悪くなったんだって。どうしよう」
稔は、なんだ逃げられるのか、と思った。
「せっかく知り合えたのに残念だな。でも、お兄さんが病氣ならしかたないよな」
「あら。あなたを追い返したいんじゃないわ。ねぇ、もしよかったら一緒に兄の勤め先に寄ってくれない?」
「もちろん、いいよ。何か助けられる事があるかも知れないし」
「問題はね。兄の仕事に誰か代わりを見つけなくちゃいけないのよね。でも、そんなすぐにピアニストなんかみつからないわ」
「お兄さん、ピアニストなんだ?」
「そう。バーでピアノを弾いているの。ねえ。あなたピアノ弾けない?」
「む、無理だよ。そりゃ、少しは弾けるけれど、ギターならこんな急でもなんとかなるけど」
「そう、そうよね。でも、あそこにはギターは常備されていないわ。でも、今持っているの、楽器よね?もしかしたら弾いてもらってもいい?」
「バー向きの音じゃないような…。ま、とにかく行ってみよう」
それは感じのいいシックなバーだった。とても津軽三味線でお茶を濁すような場所ではない。
「フェデリコ!」
娘は兄に走りよった。顔が真っ青だ。大変な腹痛の様子だ。
「カーラ」
二人はイタリア語で話していたが、やがてカーラが申し訳なさそうにやってきた。
「ねえ、本当になんとかならない?兄さんはこの仕事をやっと見つけたばかりなの。こういう仕事はみんな欲しいの。本職の代打に頼んだら、仕事とられちゃう…」
そのいたいけな様子に稔は弱かった。困ったなと思いつつ、何を弾けばいいんだろうと思った。ピアノなんか音大の受験の時以来まともに弾いていない。
とりあえず目の前に『ロミオとジュリエットの愛のテーマ』の楽譜があったので、それを弾いてみた。そんなに難しくはないが、いくらなんでもぶっつけ本番なので自分でも情けない演奏になる。まだそんなに遅くないので誰もひどくは酔っぱらっていないだろう、困ったな。
一曲が終わる前に、ヴィルがピアノの前に来ていた。あれ、こいつもここにいたんだ。
「あんた、何やってるんだ?」
「カーラに無理矢理頼まれたんだよ」
カーラが、手早く事情をヴィルに説明した。
「ふ~ん。あんたは弦楽器を弾いている方がいいな」
「そんなことはわかっているよ。俺だってこんな下手なピアノを弾きたくなんかないんだ」
青い目でじっと見ていたが、ヴィルは『ロミオとジュリエットの愛のテーマ』が終わるといった。
「俺の方がまだマシだ。代われ」
「なんだよ。テデスコ、弾けんのか!早く言えよ」
稔は飛び上がって、場所を譲った。ヴィルは椅子に座ると、『私を月に連れて行って』を弾き出した。げ。上手すぎる。なんだよ、こいつ。カーラも目を輝かせた。さっきヴィルと消えたばかりのパオリーナも目を丸くして見ている。
「あなた達、ここで一体何をしているのよ」
聞き慣れた声がしたので稔が振り向くと、蝶子が仁王立ちになっていた。
「げ。お蝶、お前までここにいたのか?」
よく見ると確かにその隣には、ロマンスグレーの裕福そうな男が立っている。稔は小声の日本語で簡単に事情を説明した。
「なるほどねぇ」
ヴェルモットのグラスを傾ける蝶子の目は鮮やかにピアノを操るヴィルに釘付けになっている。
「上手いよな…」
稔は言った。蝶子は黙って頷いた。ラウンジ演奏用の曲目だが、慣れているのがよくわかった。
「シュメッタリング、あんたもここにいたんだ」
その一曲を弾き終えるとヴィルが言った。
「どうせフルートも持ち歩いているんだろう?ついでに吹けよ」
蝶子は黙っていたが、やがてグラスを稔に預けるとフルートを持って戻って来た。ヴィルはディズニー映画『美女と野獣』の前奏を弾いた。蝶子は静かにフルートを吹き出した。人びとの目は完全に二人に集まった。バーの雰囲氣にマッチした軽い感じでありながら、二人の演奏は切々と美しく忘れがたい音色を紡いでいく。稔は感心した。これがいつも半ばけんか腰で話をしているトカゲ女とテデスコだろうか。まるで音楽で恋を語っているみたいだ。こりゃいいや。
盛大な拍手が起こった。成り行きから蝶子はそのままヴィルと一緒に演奏を続ける事になってしまった。二人とも、そもそものここに来た目的、ロマンスグレー男と、イタリア人女パウリーナの存在をしばらく忘れて演奏に没頭していた事は間違いなかった。もともと音楽のために生きてきた蝶子には、このように氣持ちのいい競演に勝る物などなかった。蝶子とヴィル、そして稔が我に返ると、ロマンスグレーとパウリーナがどこにもいなかった。
「えっ。わたしのおじさま!」
蝶子はヴィルにつっかかった。
「あんたの連れてきた女にかっさらわれちゃったじゃない。どうしてくれるのよ」
「あんたは今までさんざんおごってもらったんだろう。こっちは資本投資をしたあげく逃げられたんだ。ったく」
そう言いつつも、ヴィルはそれほど残念そうには見えなかった。
「こうなったら、このまま続けろよ。オーナーが大喜びして見ているしな」
稔の言葉に蝶子は肩をすくめて続けた。
結局、三人は閉店の二時までこのバーにいた。つまり、稔もカーラとのデートが出来なかった。どちらにしても安心したカーラはフェデリコと一緒に帰ってしまったのだ。もちろんその後は眠くてナンパどころではなく、三人は大人しく宿に帰った。宿にはおごるだけおごらされて、やはりお預けを食らったレネが寂しく寝ていた。
【小説】大道芸人たち (6)ヴェローナ、ロミオとジュリエットの街 -2-
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(6)ヴェローナ、ロミオとジュリエットの街 (後編)
稔の予想はあたった。オーナーのトネッリ氏はこの夜の二人のギャラをしっかりと払ってくれただけでなく、盲腸炎のフェデリコが復帰するまでの十日間、代打を頼んできたのだ。稔はギターの演奏とレネの手品もあわせたショーを提案して、しっかり四人分のギャラを引き出した。
「夜働く事になるけど、大道芸よりずっと効率がいいし、室内だから暖かい。軽食と酒が込みだ。悪くないだろう?」
ヴィルと蝶子は顔を見合わせた。レネは何がなんだかわからなかったのでキョロキョロとしていた。しかし、三人とも別に異存はなかった。
「あれがジュリエッタのバルコニーだそうです」
レネは案内板を読んでから、ジュリエッタの家の小さなバルコニーを示した。蝶子とレネは二人でジュリエッタの家を見に来ていた。
「あそこで、ロメオさま、ロメオさまって、大声でつぶやいたわけ?ご近所にまるわかりじゃない」
蝶子は笑った。
後生に語り継がれる一大悲劇も、もともとはどこにでもあるつまらない恋物語だったのかもしれない。反対に本人にとって堪えられないような苦悩も、世界から見ればどこにでもあるつまらない事かもしれない。例えば、私のように。
好色な有力者に遊ばれた、愚かな女のよくある話。逃げ出してきてよかったと思う。私が捨ててきたのは愛ではない。野心とプライド、それだけだ。日本の両親に胸を張って言える成功、それに私はこだわっていた。フルートを続ける事を反対した両親に差し出せるのはそれだけだと信じていたから。
今の私が幸せだという事を両親にわかってもらうのは難しい、蝶子は思った。ミュンヘンでエッシェンドルフ教授の館にいても、Artistas callejerosの仲間とヨーロッパ中を周っていても、両親には何の違いもないだろう。両親を困らせなかった「普通」の妹とその子供たちが、幸せと心配ごとを紡ぎだして、彼らは「普通」の日常を過ごしているに違いない。はじめから蝶子はいなかったかのごとく。蝶子は天涯孤独なのだと思う方が楽だと思った。
「パピヨン、大丈夫ですか」
レネが蝶子を氣遣った。蝶子は我に返った。
「帰らなくちゃね。二人が待っている。そろそろ仕事の時間だし」
仕事の時にはエンターテーメントに徹する四人は、時にはロマンティックで時にはコミカルな曲目や演目で、オーナーを喜ばせた。けれど、客が入ってくる前、もしくは店じまいの後に、彼らがガラリと異なった表情を見せる事にオーナーのトネッリ氏は驚いた。
トネッリ氏には普段との違いがまったくわからなかったが、今日はレネが蝶子の沈んだ心を慮り、稔とヴィルもそれを簡単に感じ取った。それで、彼らはいつものような馬鹿騒ぎをしなかった。レネが静かにランボーの詩を暗唱し、稔が静かにギターでレスピーギの『シチリアーナ』を伴奏に加えた。蝶子は肘をついてマティーニ・ビアンコを飲みながら、それに聴き入っていた。トネッリ氏はそっとヴィルに近寄って訊いた。
「何かあったんですか?」
ヴィルはビールの小瓶をラッパ飲みをしていたが、大して興味もなさそうに短く「さあな」とだけ答えた。トネッリ氏にはわけがわからなかった。開店すると、全員が何もなかったかのようにエンターテーメントに徹していたのでなおさらだった。
稔は時々様子を見に来るカーラを熱心に口説いていた。蝶子はそれを見て微笑みながらレネに話しかけた。
「長期戦に持ち込んだのはヤスだけみたいね」
「そうですね。でも、カーラは本当にいい子ですから。稔、うまくいくといいですね」
蝶子は肩をすくめた。ブラン・ベック、あなたこそ、そんないい人でどうするのよ。蝶子は『外泊』の相手との人間としての相性などどうでもよかった。この街を出たらもう二度と会わない予定の人間に思い入れなどない方がいい、そう思っていた。カーラが稔の好みのタイプなのは間違いないけれど、この十日間が過ぎて、フェデリコが仕事に復帰したらそれでおしまいだと、稔が覚悟していないとは思えなかった。
それとも、ヤスはカーラのためにここに残りたいなんて言い出すかしら?蝶子は突然意識した。偶然出会い、行動を共にしたのは私たちも同じ事だ。四つの別の人生がたまたま交わったその道は、ある時突然またバラバラになってしまうのかもしれない。
蝶子は今までの人生でいつまでも一緒にいたいと思う人間は一人もいなかった。だから、何に対してもクールでいられた。言いたい事をいい、好戦的・攻撃的とすら評される言動をしてきた。そうでなければ、人には譲れない音楽への情熱を維持できなかった。でも、今、Artistas callejerosが突然なくなってしまったら自分はどうなるのだろうと慄然とした。ヤスが、ブラン・ベックが、それどころか、ついこの間会ったばかりで皮肉の応酬ばかりをしているテデスコが、人生から消えてしまったら、その後には何が残るのだろう。かけがえのない仲間たち。ハインリヒに対して、この半分でもの執着を持てたなら、きっと私はあの人の良き妻になった事だろうに。
蝶子には、エッシェンドルフ教授に対する執着はみじんもなかった。彼が蝶子に与えたものの大きさを考えると、蝶子の教授に対する冷たさは非情と言っても構わなかった。
先祖伝来の豪奢な館での贅沢な暮らし、大粒の本真珠の首飾りをはじめとする数々の贈り物、蝶子を最高に美しく見せるエレガントな洋服の数々。蝶子はこれらの全てを置き去ったが、蝶子が置いて来れなかったものもたくさんあった。蝶子のフルートの技術を芸術と言えるまでに変えたのは教授の丁寧な指導だった。日本の中流以下の家庭に育った蝶子を、ヨーロッパのどの社交界に出しても恥ずかしくないように躾けたのも教授だった。
蝶子が男性に及ぼす魅力も教授の影響の一つだった。ほとんど男性経験がなかった蝶子を教授は高級娼婦と張り合えるほどに変えた。もともとの強い性格と天性のコケットで蝶子は視線一つ、振る舞い一つで男性を自由に操る方法を身につけた。そして、自分が育てた魔性の女に教授は自ら溺れてしまった。けれど蝶子は心を教授に与えなかった。
蝶子は自分に人を愛することができるのだろうかと考えた。恋心を感じた事がないわけではない。たとえば高校生の時、不良っぽいクラスメートにときめいた。けれど、蝶子にはその男とつきあう事や手をつなぐような事よりもはるかに切実な問題があった。
フルートを練習する場がほしかった。音大を受験する事を親に許してもらいたかった。高いレッスン代を捻出するためにアルバイトに明け暮れなくてはならなかった。つまり、不良青年はフルートよりもずっと優先順位が低かったのだ。大学では園城真耶のはとこの結城拓人に言い寄られたが、レッスンとバイトで忙しく答えを引き延ばしているうちに、拓人はさっさと次の女に言い寄るようになってしまった。その時にもほんの僅かの痛みしか感じなかった。
教授と師弟以上の関係になり、肉体の悦びを教えられた後、教授との行為には執着を持った。蝶子はそれが愛なのかと思った。しかし、自分の中にいつまでも頑固に残る冷たさ、怒りや憎しみとすら表現できる拒否の感情が何なのか、蝶子には理解できなかった。どれほど心を尽くされても、どれほど贈り物が積まれても、どれほど教授と過ごす夜を待ち望もうとも、何かが蝶子の心の中に居座り続けた。それは自分を支配するものへの反発だった。
フルートを奏でる時、教授の教えた通りに吹かなければならなかった。教授は蝶子にたとえ一秒でも教えた通りの音以外を出す事を許さなかった。洋服とアクセサリーの組み合わせ、手紙の書き出しの文、ダンスのステップ、読む雑誌、すべてを教授が決定した。手紙を郵便受けから持ってきて、朝食の時に教授が読めるように、食堂のテーブルの上にきっちりと並べなくてはならなかった。単なる広告と重要な書簡と思われるものをあらかじめ分けて、平行に、角を揃えて。
その強制は蝶子をエレガントで優雅な女に変えたが、蝶子の心の中に自由への憧れを植え付けた。そして、蝶子は教授に対する尊敬や渇望と共存して深い憎しみを抱える事になった。それが愛であるはずはなかった。
稔、レネ、ヴィルの三人に対する感情は、ずっと蝶子の考える愛に近いものだった。とはいえ、それは男女の愛とは違う。稔がカーラを口説こうが、ヴィルがどこかの誰かと『外泊』しようが、レネが客の女性に手を握られて真っ赤になっていようが、蝶子にはなんともなかった。ただ、この四人での旅が、出来るだけ長く続く事、蝶子が望んでいるのはそれだけだった。
最後の客が帰った後に、稔がカーラと一緒に出て行くのを、レネは自分の事のように嬉しそうに見ていた。蝶子はヴィルのいるピアノの側に行って頼んだ。
「なんか弾いてよ」
「どんな曲を」
「不健康な曲。タンゴ、かしら」
ヴィルは口の端をわずかにゆがめると『ジェラシー』を弾いた。蝶子はにやりと笑いながら再びドライ・マティーニを傾けた。レネは蝶子に深々とお辞儀をしてフロアに誘った。蝶子は大仰に立ち上がって、レネとコンチネンタル・タンゴを踊った。やっぱり変な奴らだ、トネッリ氏は首を傾げて三人を見ていた。
【小説】大道芸人たち (7)コモ、 湖畔の晩秋 -1-
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大道芸人たち Artistas callejeros
(7)コモ、湖畔の晩秋 (前編)
「残りたかったんじゃないの?」
蝶子が訊くと稔はわからないという顔をした。
「なんのことだ?」
「カーラが泣いたんじゃないの?」
「泣くかよ。ああ見えても、あの手の女はしたたかだって、お前が言ったんじゃないか。フェデリコが復帰するのに俺たちがいたら邪魔だと思っているさ、たぶんね。これが潮時さ」
稔は淡々としていた。
寒くなってきたので、今年はもうヴェネチアはやめて、南スペインに向かおうと決定したのは昨夜だった。イタリアを去る前に、レネはコモに寄りたいと言った。反対意見はなかった。
蝶子は、最後まで稔がヴェローナに残りたいと言い出すのではないかと怖れていた。しかし、稔にはまったくそのつもりはなかった。
十日分の給料を渡す時に、バーのオーナーのトネッリ氏は「コモに行くなら」と、一つの住所を渡してくれた。同じ組合に属していて親友といってもいいレストランのオーナーのロッコ氏だった。
「つい三日ほど前に、君たちの事が話題になって、そういう連中がうちにも来てくれればいいのにと言っていたからね。連絡しておくよ」
四人は顔を見合わせた。渡りに舟とはこの事だ。
ロッコ氏は太って頭のはげ上がった、人好きのする親父だった。大げさに蝶子を賞賛し、その手に口づけをした。そして、よかったらクリスマスシーズンに雇った出演者が来るまでの一ヶ月間、四人に彼の所有するヴィラを改造したレストランで働いてくれないかと訊いた。ギャラも悪くないし、しかも宿泊場所としてただでその湖畔のヴィラの使用人用の部屋を提供してくれるという。
イタリアで外国人がこういう高待遇を得ることはほとんどない。ヴェローナでは地元のフェデリコとカーラが連れてきた事でトネッリ氏は彼らを信用した。もちろん、ヴィルと蝶子の演奏が、そこらの音楽家とは較べものにならないほど卓越していた事は間違いない。しかし、そうであっても、普通はイタリア人は外国人に冷たいのだ。しかし、ロッコ氏は四人をイタリア人と同じように扱った。それは親友のトネッリ氏から紹介されたからである。
トネッリ氏はロッコ氏にこういった。
「まず仕事がいい。あの四人の噂でこの十日でうちの売り上げが倍に上がった。だが、それだけじゃない。あの四人は信用できる。何回か店の中に四人だけになった事もあるが、売上金の一セントも減っていなかった。時間に氣味が悪いくらいに正確で、しかもプロ根性が半端じゃない。直前にケンカしていても何の影響もない。飲んでもいいと言った酒は十分に減るが、それでもロシア人の集団じゃないからね」
稔はトネッリ氏にプレゼントされたクラッシック・ギターを持ってきていた。
「前、三味線で器用に『カヴァティーナ』を弾いていたから、ギターを弾けるのは予想していたけれど、ここまで上手だとは思わなかったわ」
蝶子は言った。ギターをつま弾きながら稔は答えた。
「俺さ、高校の頃、三味線じゃなくてギターで身を立てたいとマジで思っていたんだ。だけど、将来を考えると三味線の方がまだチャンスがあるかなと思って、あきらめたんだ。両方をメシの種にする日が来るとはね」
ロッコ氏は四人に衣装も提供した。蝶子はもともとシンプルでエレガントな服に目がなく、しかも、立ち居振る舞いが洗練されているのでまったく違和感がなかった。
ほぼ同じ黒いスーツを渡された稔とレネとヴィルには三者三様の違いがあった。
まったく違和感がなかったのはヴィルだった。普段のカジュアルな服でもどこか身構えているようなヴィルには、むしろこうしたきちっとした服がぴったり来る。蝶子はもしかしたらこの人はどこかの上流階級の出なのかもしれないと思った。
パリでは仕事でいつもこういう服を着ていたという割には、レネは悲しいくらいにスーツが似合わなかった。同じ服でヴィルが芸術家のごとく、もしくはこの館を訪れる上流階級の客たちの一人のように見えるのに対して、レネはなぜかウェイターか使用人にしか見えなかった。そのひょろ長い手足と、自信のない表情が、いっそう落ち着きない印象を強める。
稔は黙って立っている分にはそれほど悪くなかったが、動いた途端にサルが無理矢理服を着せられたようになってしまうのだった。
ロッコ氏はイタリア人らしく美しく装い完璧に立ち居振る舞う蝶子を熱心に賞賛した。Artistas callejerosから全権委任された蝶子のもっとも大切な役目は、オーナーからバーの酒を自由に飲んでいいという許可を得る事だった。そして、それは早くも二日めに成功した。
Artistas callejerosは全員よく飲んだ。レネはワイン一辺倒だった。もちろんパスティスがあればそれも飲むのだが、イタリアではめったに手に入らなかった。
ヴィルは何でも飲むが、一番手が伸びるのはビールだった。ドイツのビールはめったに手に入らず、たいていはハイネケンだった。私服のときはラッパ飲みだったが、スーツの時はきちんとグラスについで優雅に飲んでいた。
稔もよくヴィルと一緒にビールを飲んでいた。ジン・トニックも好きだが、以前食べ過ぎて困った時に奨められたフェルネ・ブランカの薬っぽい妙な味に病み付きになり、いきなりそれを頼む事もあった。
蝶子は仕事の前にはベルモット酒のマティーニ・ビアンコかカンパリ、仕事の後にはもっと強いドライ・マティーニを頼む事が多かった。いずれにしても四人ともワインはよく飲んだ。
ヴィラがレストランとして使用している大広間には、コモ湖をのぞむ大きなバルコニーがあった。夏にはこのバルコニーの桟にはゼニラウムの赤い花が咲き乱れ、痛いほどの強い陽光が湖面を青く輝かせる。しかし、晩秋の今はバルコニーのテーブルは小さな青銅製の二つを除いて全て片付けられ、大きなガラス戸が閉じられていた。
三時から六時の間、レストランは閉まり、四人は自由時間を与えられるので、暖かい晴れた日にはここに座って白ワインを飲みながらおしゃべりやカードゲームに興じた。
大貧民をしたいと言い出したのは稔だった。もちろんルールを知っていたのは稔の他には蝶子だけだったが、ヴィルもレネもすぐに覚えた。
「革命だ!」
稔の勝ち誇った様子に、レネが地団駄踏んだ。しばらく大富豪でたくさんのAや2を集めていたのだ。これで有利なカードが全てひっくり返ってしまった。
「ちょっと、テデスコ!私が出す前にどうしてそんな数を出すのよ」
「こっちの順番が先なんだ。何を出そうが勝手だろう」
「おい!革命を出したのは俺だぞ。感謝もしないで、あっさり上がるなよ」
どう転んでもシックなスーツを着た三人の男と、カクテルドレスを着た美女の会話ではない。
「あら、またワインが空になっちゃった。誰がそんなに飲んでいるのよ」
「パピヨン、あなたとテデスコですよ」
「なあ、俺、赤の方がいいんだけど」
稔が言ったので、今度は赤ワインを頼みにレネが立ち上がった。ヴィルが後ろから声をかけた。
「今度はメルローにしてくれないか。昨日のキャンティはちょっといただけない」
蝶子はちらりとヴィルを見た。なんでよりにもよってこの男とワインの好みが一緒なのかしら。まったく腹が立つ。次は絶対に富豪にのし上がってみせるわ。
コモ湖に早くも日が暮れていく。湖の周りの樹々は揃って黄金に輝き、夏には見られない静かで豪奢な景色が最高の贅沢だった。風が冷たくなってきたので、蝶子はドレスの上に着たカーディガンのボタンを留めた。大きく広がったクリスタルグラスにトクトクと音を立てて注がれるメルロー。乾杯の時の上質な響き。北イタリア有数のリゾート地でこんな優雅な日々を過ごせるなんて、予想もしていなかったわね。蝶子は満足そうに微笑んだ。
カードを集め揃えてポケットにしまうレネに蝶子は訊いた。
「フィレンツェのタロットはここにある?」
「ありますよ。また引いてみますか?」
「ええ。そうさせて」
蝶子は知りたかった。今度は何が出るのか。
「月の逆位置。不安の解消、混沌の終わり。今の道は間違っていない」
蝶子はにっこり笑った。
「ブラン・ベック、大好き」
レネは真っ赤になった。
稔が身を乗り出した。
「俺ももう一度引く!」
レネはカードを切り直した。
「あれ。あなたたちは本当にいつも逆位置ばかりですね。女帝。過剰になっている。何の過剰だろう?」
「訳わからないな。過剰なものなんか何もないぞ」
「愛情?」
「それが過剰なのは、お蝶、お前だろ」
「酒」
「テデスコ、あんたにだけは言われたくない」
「お金ですかね」
「手元には残ってないよっ」
蝶子がはっと氣がついた。
「送りすぎているんじゃないの?」
「何をですか?」
レネが訊いて、蝶子はあやうく、エンドウヨウコにと言いそうになったが、寸でのところで留まった。だが、稔には蝶子の言う意味がわかったらしい。黙って頭の中で何かを計算していたが「失礼」といって部屋に戻ってしまった。
レネがぽかんとしているので話題を変えるべく蝶子は言った。
「ほら、今度はテデスコよ」
「何で俺まで引かなきゃいけないんだ」
「つべこべ言わないで一枚引きなさい。あなたは信じないんだからどうでもいいでしょう。私が見てみたいの」
ヴィルはムッとした顔で、しかし、意外と素直にレネの差し出すカードの中から一枚引いた。
「今度も逆位置か。運命の輪。誤算、運命に偶然はない。心当たりはありますか」
「あたっている?」
「特に誤算はない。この酒浸りの日々が偶然でなくて運命なら結構だと思うが」
蝶子は以前のカードの記憶を辿った。蝶子のカードは塔の逆位置だった。今度が月の逆位置。必要とされる破壊、今の道は間違っていない。稔のカードは愚者の逆位置から女帝の逆位置。軽率な事への心残り、それから何かが過剰になった。ヴィルのカードは恋人の正位置から運命の輪の逆位置。恋、または直感による選択をせよという意味、今度は誤算または運命に偶然はない。蝶子には無表情のヴィルから過去の恋愛沙汰も運命の誤算も読み取る事が出来なかった。
だが、ヴィル本人は無表情の奥で、このカードの「偶然」に困惑していた。直感による選択、あの時、なぜミラノのあの場所で稼ごうとしたのだろう。そして、その場でとても「偶然」では片付けられない出会いをした。父親が愛した女。その上、運命に偶然はないなどと言われれば居心地が悪い。
「ふ~ん?ま、いいわ。ブラン・ベック、あなた自分では引けないの?」
「引けますとも。やったことないけれど。よし、え~と、あれ、吊るされた男の正位置か。これは自己犠牲と忍耐って意味なんですよね」
「まあ、かわいそうな、ブラン・ベック。心当たりあるの?」
「ありますとも、パピヨン。あなたですよ」
三人は同時に吹き出した。そこに稔が走って戻って来た。
「ブラン・ベック、お前は大したもんだ。占い師になれ」
「やっぱりそうだったの?」
蝶子が訊いた。
「ああ。本当は前々回で終わっていたんだ。俺、まだずっと送り続けるつもりでいた」
稔は興奮して、テーブルの上に送金伝票の切れ端を綴ったノートとみっともない字で書かれた計算表を放り出した。それから計算機を蝶子に渡すと片っ端から伝票の日本円の金額を読み上げていった。
蝶子は、その金額を加算してゆき、念のために同じ計算を二度繰り返してから宣言した。
「三百三十二万円」
「ほら。三十二万円、多いんだよ」
伝票にはエンドウヨウコの名前が書かれていて、四人の前にあからさまになっているので、もはや秘密でもなんでもないと判断して蝶子は言った。
「エンドウヨウコさんに連絡すれば?」
稔は首を振った。
「俺は二度とあいつに連絡する事はない。あいつもそんなことは望んでいないと思う」
「あの…」
よくわかっていないレネが困って稔を見た。稔の心に、四年前のことが甦る。コバルト色の空、白い白い紙吹雪。遠藤陽子の真剣なまなざし。彼は首を振った。
「だめだ、もうじき客が入ってくる。この話は、もっと後で、舌が軽くなるくらいしこたまワインを飲んでからじゃないと話せないよ」
蝶子は微笑んだ。ということは飲ませれば吐くってことね。それは結構。
【小説】大道芸人たち (7)コモ、 湖畔の晩秋 -2-
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(7)コモ、 湖畔の晩秋 -2-
ロッコ氏のレストランは月曜日が定休日なので、四人の休みも強制的に月曜日になった。その日はいい天氣だったのでロッコ氏に借りた車でドライブに出かけた。鮮やかな黄に色づいた白樺の林を抜け、モンテ・ビスビーノを通ってスイスのルガーノへ。車の好きな稔は運転するヴィルを羨ましそうに見た。
「ちくしょう。俺も免許証を持っていればなあ」
蝶子はヨーロッパの免許証を持っているのだ。
「ドイツで取得したの。IDカード代わりになるから、日本のにも書き換えられるといいんだけど、きっと無理よね」
助手席から後ろを振り向いて蝶子が言った。
「どうだろう。俺の日本の免許は、もう失効しちまっているだろうな。次に帰った時に、再申請すれば救えるかな」
稔は言った。
「海外でちゃんとしたヴィザがあればね」
「げ、そうか。俺たち、もしかして不法滞在?」
「そうよ。もしかしなくても不法滞在だわ」
蝶子の在留届はまだミュンヘンになっているはずだ。何か大使館から連絡が来る時には、エッシェンドルフの館に行ってしまうのだが、それを変更しようにもヴィザと新しい住所がない以上どうにもできない。稔にいたっては在留届すら提出していなかった。ヴィルとレネはヨーロッパにいる以上は何の問題もなかった。免許証もパスポートもヨーロッパ中でフリーパスだからだ。
「ヴィザの問題はなんとかしなくちゃいけないだろうなあ」
「そうね。私も来年にはヴィザが切れちゃうのよね」
レネは感心していった。
「やっぱり日本人ってまじめなんですねぇ」
「なんで?」
「ヨーロッパに何万人の不法滞在者がいると思います?だれもヴィザの問題なんか氣にしていませんよ」
「だってこれまでの人生、常に遵法でやってきたんだもの。そう簡単に変えられないわよねぇ」
「そうだな。お蝶は、日本に帰りたいと思わないのか」
「帰る所なんてないもの」
蝶子はぽつりと言った。
「留学前に、ドイツに送るもの以外、持ち物も全部処分したのよ。親には縁を切られちゃったし。それに、帰って仕事を探して新たに人生をはじめるには、ここで自由を謳歌しすぎちゃったわ」
「同じく。ま、もうちょっとしてから、考えようぜ。以前、一人でいた時には浮浪者同然だったけれど、Artistas callejerosを結成してから、いろいろ変わってきたしさ。そのうちにいい解決案が出るかもしれないぜ」
「そうね。あら、テデスコ、ルガーノはあっちって標識が出ていたわよ。どこに行くの?」
「モルコテ。小さな村だ」
「前にここに来た事があるんですか?」
レネが訊いた。
「六年くらい前に一度来た。湖畔の落ち着いたカフェもあるし、感じのいい小さなリストランテもある。ルガーノは後で行けばいいだろう?」
「もちろん。私ティツィーノは初めてなの。イタリアとずいぶん感じが違うわね」
「商業的な看板が急になくなったな」
「道も全然違う。舗装がちゃんとしている」
「ティツィネーゼはイタリア人と一緒にされるのを嫌がるそうですよ」
「国境一つ超えるだけで、ずいぶん違うのねぇ」
モルコテは小さなかわいい村だった。ルガーノ湖に張り出した半島の先端にあり、風光明媚で温暖なためヴィラやレストランが並び、アーケードにはかわいい土産物屋もある。四人は湖畔に張り出したカフェでアペリティフとして白ワインを頼んだ。晩秋でアルプスの連峰はすでに真っ白な雪で覆われているのに、この日は燦々と降り注ぐ太陽で思ったよりも寒くなかった。
「この白ワイン、美味しいわね。どこのかしら」
「エペス。ロザンヌの近くだ」
ヴィルが銘柄を見ながら言った。
「そこもいつか行こうぜ」
稔が言った。蝶子は嬉しそうに頷いた。ヴィルが続けた。
「秋に行くと、ワイナリーでたくさん試飲をさせてくれるらしい」
「それを言ったら、プロヴァンスだって行かないと」
レネがいうと、稔が言った。
「ドイツだってモーゼルがあるだろう?」
「行く所がたくさんあって忙しいわね」
蝶子は、レネと稔のグラスにワインを注いだ。
「俺には?」
ヴィルが訊くと、蝶子は車のキーを指差した。
「それとも帰りは私が運転する?」
「あんた運転上手いのか?」
「山道はまだ運転した事ないの」
レネと稔が青くなって懇願するような顔をヴィルに向けた。ヴィルはため息をついて、残りのワインを蝶子のグラスに注いだ。
「今は、いつも鉄道で移動しているけれど、四人だったら本当は車で移動した方が経済的だよなあ」
稔が言った。
「そうですよね。鉄道では行きにくい街にも行けるし、夏にはキャンプ場にも泊まれますしね」
レネも言った。蝶子も身を乗り出した。
「みんなでお金を貯めて、中古車を買うってのはどう?」
「賛成。どうせなら、キャンピングカーにするか?」
稔の提案に、ヴィルは首を振った。
「キャンピングカーは、ガソリンをやたらと食うし、速く走れないからいつも渋滞の先頭になる」
「げ。それはやだ」
「でも、ただの乗用車だと、いざという時に中で四人も眠れないわよね」
「だったらバンにしたらどうですか」
「それは悪くない。普通免許でも運転できるしな」
ヴィルも賛成した。
「じゃ、それまでに俺も免許証問題をなんとかしないとなあ。パスポートも近いうちに更新しないといけないし、頭が痛いなあ」
稔の言葉に蝶子もハンドバッグからパスポートを取り出して有効期限を確認した。
「私もあと一年ちょっとだわ」
「パスポートの更新は大使館ではできないんですか?」
レネが不思議そうに訊いた。
「またしてもヴィザ問題さ。ヴィザがない場合は戸籍謄本がいるんだよなあ」
「戸籍謄本って何ですか」
「ヨーロッパで言うと洗礼証明書みたいなものかしら?日本から送ってもらうわけにいかないの?」
「俺は失踪中なんだよ」
「あら。じゃあ、家族には頼めないわね。私もそうだわ。困ったわね。でも、委任状があれば家族でなくてもいいはずよ、確か。なんとかなるわよ」
蝶子は湖を見ながらワインを飲み干した。
リストランテでナッツソースのペンネを食べた。食後にはレネは栗のケーキを、蝶子はカシスのシャーベットを食べた。コーヒーを飲んだあと、ヴィルは車をルガーノに向かわせた。四人は腹ごなしに湖畔のプラタナスの並木道と石畳の街を散策した。
「やっぱりスイスだな…。駐車のマナーが違う」
稔がつぶやいた。レネも頷いた。
「ゴミや空き缶が落ちていませんね」
ショーウィンドウに吸い寄せられた蝶子がつぶやいた。
「ショッピングにもいいわね。このネックレス、すてきねぇ」
「値段をよく見ろ」
ヴィルに指摘されて、蝶子はゼロが予想より二つ多い事を認識して肩をすくめ、先を行った三人を追いかけた。パルマス広場でヴィルは地元民でにぎわうバーに入っていった。三人も続く。
蝶子はカンパリソーダを、レネはカーディナルを注文した。ジン・トニックを頼んで、稔が突然言った。
「ここは俺が払う」
「いったい、どうしたの?」
「もう、必死に金を貯める必要はなくなったんだ。たまにはお前らにご馳走したっていいだろう」
「何で俺が飲めない時にそれをやるんだ」
パナシェを注文したヴィルが言った。蝶子とレネは吹き出した。
「あ、そうか。テデスコにはまた別の時におごってやるからさ」
蝶子は時が来たと思った。にっこり笑いながら言った。
「そういえば、一般論だけど」
稔は、ほらきた、という顔をした。
「前から知りたかったの。多くの海外移民が故国に送金するのって、どうしてなのかしら」
レネは目を忙しなく動かして言葉を探し、ヴィルは俺は知らないぞという顔でパナシェを飲んだ。
「いろんな理由があるんじゃないか。ひと言ではまとめられないよ。大抵は単なる出稼ぎだろ。まあ、ちょっと特殊な例を挙げるならば…」
「挙げるのならば?」
「どっかでこんな話を聞いた事がある。ある男が故国でどうしても金が必要になったんだとさ」
「どのくらい?」
「三百万円」
「まあ、結構な額ね」
「そうだ。本人はそんな金は持っていなかった」
「それで?」
「ある女がその金を用意してくれたんだ。それはその女が結婚資金に長年こつこつと貯めた金だった」
「あら、大変なお金じゃない」
「そうさ。で、男はその女の望み通り、結婚する事を約束して、独身最後の貧乏旅行に出かけたんだとさ」
「それで?」
「男は帰らなかった」
蝶子はもう笑っていなかった。レネは泣きそうな顔をした。
「少なくともその男は送金して全額返したってことだろう」
ヴィルが言った。稔は黙って頷いた。
蝶子は稔の顔を覗き込んだ。
「その男は、その女に会いたくないの?」
「会いたくないんだ。悪い女じゃない。反対にものすごくいい女だ。真っ直ぐで、親切で、積極的で。でも、男はその女や家族や、社会的状況に囲い込まれていくのが、どうしても我慢できなかった。逃げ出したくてたまらなかった」
帰国の日に、シャルル・ド・ゴール空港で航空券を持って一時間も立ちすくんでいた。早くチェックインしなくてはならない。けれど、どうしても窓口に並ぶ氣にならなかった。建物を出て、空を見上げた。雲ひとつないコバルト色の空だった。こんな事をしてはいけない、帰らなくては、彼の良心は最後にそう思った。けれど彼の別の思いが良心に打ち勝った。彼は両手で航空券をつかみ、粉々に引き裂いた。原形をとどめなくなるまで何度も何度も。その紙吹雪が空に舞った。桜吹雪のようだった。ごめん、陽子。俺はお前の所には戻れない。どうしても嫌なんだ。
「その男は、私のよく知っている女に似ているのね」
蝶子は微笑んで言った。稔は訝しそうに訊いた。
「どんな女だよ」
「どこかの東洋人よ。あるドイツ人と結婚の約束をしていたの。そのドイツ人はその女のためにありとあらゆる事をしてくれたの。仕事の教育もしてくれたし、上流社会でのマナーも教えてくれたの。山のようにプレゼントも積んでくれたのよ。でも、女は自由になりたかったから、逃げ出しちゃったんだって」
稔は意味ありげに訊いた。
「もしかして、そのドイツ人はどっかの教授?」
「そうよ。ところで、おごってくれるって話だけど、もう一杯頼んでもいい?」
稔は笑って言った。
「好きなだけ頼め。お前らも遠慮しなくていいぞ」
ヴィルとレネも遠慮なく二杯目を注文した。
【小説】大道芸人たち (8)バルセロナ、 エンパナディーリャの思い出
あらすじと登場人物
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(8)バルセロナ、 エンパナディーリャの思い出
「やっと再会できましたね」
蝶子の頬に熱いキスをしてカルロスは言った。
稔は久しぶりにカルロスを見て、やっぱりギョロ目だと思った。記憶の中でこの巨大な目と濃い眉がデフォルメされてしまったのかと思っていたが、実物は記憶以上だった。
コモから、直に南スペインに向かうのでバルセロナにも立ち寄りたいと電話すると、カルロスは大喜びで、滞在中は彼の自宅に泊まれ、出来ればクリスマスと新年もここで迎えろと言った。
蝶子は耳を疑った。
「でも、それじゃ一ヶ月もいる事になっちゃうわ」
「一ヶ月どころか、ずっといていただいて構わないんですけれどね。まあ、あなたたちは自由が好きなんでしょうから、思うがままに出入りしていただいて構わないんですよ」
いったい何の因果でこんなに親切なのかよくわからないが、とにかく「四人で」向かうと伝えておいた。カルロスはバルセロナの駅に迎えをよこすと言っていたが、来てみたら本人が運転手と一緒に待っていた。
「ああ、では、こちらが新しいメンバーなんですね」
稔とレネに握手をした後、カルロスはヴィルに笑いかけた。稔が紹介した。
「そうだ、初対面だったね。ヴィルだ。俺たちはテデスコと呼んでいる。ドイツ人だから」
「よろしく」
ヴィルはいつも通りの無表情で握手をした。
カルロスは小さなバンに四人を案内した。運転手がドアを開けると、カルロスは蝶子の手を取ってバンに乗るのを助けた。稔は感心した。ラテン民族の女の扱いには敵わない。しかし、それに堂々と応える蝶子の女としてのスマートさは、そこらの日本人にはマネが出来ない。こいつ、いつからこんな風になったんだろう。
大学時代の蝶子は少なくともこんな風ではなかった。容貌や服装は大きく変わっていない。きつい性格も前とそんなに違いはない。だが、立ち居振る舞いが全く違う。
たとえば園城真耶は生まれたときからのお嬢様生活で、他のクラスメイトとは全く違う立ち居振る舞いをしていた。立ち方、歩き方、ものを取るときの手つき、驚いたときの振り向き方、全てが優雅で流れるようだった。
蝶子はそんな動きはしなかった。それで当時の蝶子の美しさが損なわれていると感じた事はなかったが、今の蝶子はあの当時の彼女とは較べものにならないほど洗練されている。その違いは歴然としている。蝶子は存在だけで当時よりずっと美しかった。それは動きなのだ。
稔が三味線を弾く時には、すっと姿勢がよくなる。それ以外の動きで三味線を弾く事は出来ない。その姿勢は稔の体に染み付いている。だから、蝶子がフルートを吹く時に洗練されて美しいのは当然だった。
けれど、稔は歩いているときや、食事をしているとき、または車に乗り込むときの動きなどまったく意に介さない。だが、蝶子にはその全てに洗練された怜悧な優雅さが備わっている。カルロスが大道芸人の女を姫君のように扱うのは、この蝶子の美しさにあるのだと稔は解釈した。
そこまで考えて、ふと、どこかでもこんなことを考えたぞ、と思った。それから目をドイツ人に動かした。
そうだ、こいつの動きだ。着古したジーンズを履いて、普通の町中のカフェで足を組んでいても、どこか稔やレネとは違う。
かつてそれに氣づいた時に、稔はよく観察した事がある。稔やレネの腰は、だらりと椅子の前方にあり、背中が椅子から離れて丸まっていたが、ヴィルはきっちりと椅子の背に深く腰掛けていた。稔の足は投げ出されていたが、ヴィルの組んだ足にはどこかまだ緊張があった。
違いはそれだけだった。だが、そのわずかの姿勢の違いが、明白にあか抜けた洗練を生む。普段は誰も目に留めないが、それがコモでのようにきちんとした服装を身に纏う時に大きな違いとして表れるのだ。
稔はふいに、確信を持った。こいつはただの庶民じゃないな。真耶や蝶子がどこかで身につけたような上流階級の躾をどこかで受けているに違いない。
四人もの風来坊に一ヶ月も泊まれと言うくらいだから、小さな家だとは思っていなかった。だが、それは家ではなかった。少なくとも稔や蝶子のような日本のごく普通の家庭に生まれたものにとってはそれは家と呼ぶようなものではなかった。城と呼びたい所だ。もちろんフランスやドイツの城のようには大きくない。しかし、単に館と呼ぶのは奥ゆかしすぎる。
門から直接建物が見えないというのも驚いたが、三階建ての建物に一目で二十室以上部屋があるのがわかったのにも目を白黒した。重厚な木のドアを開けて中に入ると、外見のシンプルな白っぽい石の造りと相反して、スペインらしい色使いのインテリアだ。エントランスの床は白い大理石、柱や階段の桟は濃い茶色の木だった。赤いアラベスク模様の絨毯が敷かれ、極楽鳥草や薄いオレンジの薔薇などが生けられた大きな花瓶が置かれている。
「あなた、何者なの?」
呆れて蝶子は訊いた。
「ただの実業家ですよ。ただ、この家と土地は先祖から受け継いだものです」
「イダルゴか」
ヴィルがつぶやいた。
「その通り」
カルロスは答えた。
稔は蝶子をつついて日本語で解説を求めた。
「イダルゴってなんだよ」
「郷士っていうんじゃなかったかしら、日本語では。土地を持っている下級貴族よ」
「ふ~ん。ある所にはあるんだな。ま、じゃ、ちょっと贅沢のおこぼれをいただくか」
稔はつぶやいた。
四人はそれぞれ客間をあてがわれた。蝶子は使っていいと言われた大きなバスルームに案内されてにっこりと笑った。なんて豪華なバスタブかしら。アラベスク模様の寄せ木造のついたてなど、無駄に装飾のある空間がとても氣に入った。
こんなに贅沢な建物にゲストとして滞在するのはミュンヘン以来だった。
エッシェンドルフ教授の館は、このカルロスの館に匹敵する大きさと贅沢な空間だった。彼もまた先祖伝来の広大な領地を持ち、本来、働く必要などない特権階級の一人だった。
彼の完璧主義のために館の調度は常に完全な状態に保たれていた。ドイツ式の緻密で優美な内装。使用人が必死に磨く真鍮の桟や取手。または塵ひとつなく掃除された室内。
蝶子は五年以上の時間をその館で過ごした。留学当初に借りた小さな学生用フラットは質実剛健そのもので不必要なものなど何もない空間だったので、教授のレッスンを受けるために最初にその館に行った時にはあまりの豪奢に落ち着きを失ったものだ。
しかし、直に蝶子はその館に慣れてしまった。学生用フラットには共用のシャワーしかなかったので、エッシェンドルフの館でバスタブに浸かったときの幸福感は何にも代え難いものに思われた。その記憶が、蝶子をバスルーム好きにした。今の蝶子は、バスルームよりも自由の方がはるかに大切である事を十分に自覚している。それでも、このように機会があれば最高の贅沢の一つとしてバスタイムを愉しむこともやぶさかではなかった。
「紹介するよ。普段、料理をしてくれるイネスだ」
カルロスが居間でくつろぐ四人の所に連れてきたのは丸まると太った優しそうな年配の女性だった。
代わる代わる握手をする四人に暖かく笑いかけてイネスは言った。
「何か食べられないものはありますか?」
四人は顔を見合わせた。
「何でも食べるよな?俺たち」
「そうよね。サルの脳みそとかじゃない限り」
「魚は食べられますか?」
日本人二人はにんまりと笑った。
「俺たち日本人だから。もちろん魚は喜んで食べるよ。イカもタコも海老も」
「そちらのお二人は?」
「自分では注文しないが、出てきたら食べる」
ヴィルがいうと、蝶子が意地の悪い顔をした。
「やっぱり北ヨーロッパ人はダメよねぇ。魚の美味しさを知らないなんて」
「出てきたら食べるって言っているだろう」
ムッとするヴィルの横で、いいにくそうにレネが打ち明けた。
「僕、魚は平氣だけれど、生のタマネギが苦手です。努力はしますけれど…」
「あら、それは私も苦手だわ」
蝶子がそういうと、ヴィルがほんの少し勝ち誇ったように眉を持ち上げた。
「でも、料理には入れてくださって構いませんわ。この人に食べてもらうから」
蝶子がヴィルを指した。
イネスは笑って、台所に姿を消した。
「彼女の料理は天下一品ですからね。きっと、苦手なものも克服できるようになるでしょう」
カルロスは言った。蝶子はカルロスを振り向いた。
「ねえ、でも、本当に迷惑だったら言ってね。あらかじめ言っておくけれど、私たちお酒飲んで大騒ぎするの」
「わかってますよ。酒蔵にすぐに案内しますか?」
「やだな。酒ぐらいは稼いで買ってくるよ」
稔が言った。他の三人も頷いた。カルロスは肩をすくめた。
「わたしも宴会に混ぜてもらうつもりですから」
蝶子は微笑んだ。
「さ、お茶にしましょう。スペインは夕食が遅いので、四時頃におやつを食べるんですよ」
イネスが声をかけた。
四人はカルロスと食堂に移った。黒檀のテーブルにコーヒーと揚げ物が用意されている。イネスがそれぞれの前の皿に一つずつ巨大な揚げ餃子にみえる菓子を置いて言った。
「エンパナディーリャって言うんですよ。たいていは塩味のものを入れておかずのようにするんですけれど、今日はアプリコットジャムを入れて揚げたんです」
最初に手をつけたのはレネだった。一口食べて、それを皿に置いて、それから眼鏡を取って泣き出した。全員がびっくりしてレネを見た。
「どうしたんだよ、ブラン・ベック」
向かいに座っていた稔が訊いた。
「こ、この味です。子供の頃、母さんが作ってくれたお菓子…」
「なんだよ。泣く事かよ」
レネは涙を拭って、語りだした。
「僕には、二つ年下の妹がいたんです。体が弱くて、外に遊びにいったりできなくて、遊び相手は僕だけでした。母さんはよく、これとそっくりのお菓子を作ってくれました。妹の大好物だったからです。僕もこのお菓子が大好きだったけれど、妹が欲しがるので我慢していつもあげてしまいました。父さんから妹はもう長く生きられないと言われていたからです」
レネの言葉に、コーヒーを飲んでいた他の三人は、手を止めた。レネは続けた。
「妹は、本当に長く生きられませんでした。かわいそうに、あんなに小さかったのに、苦しんで病院でチューブだらけになって…。母さんに、揚げ物のお菓子が食べたいと言って、でも、最後は力がなくって食べられなくって。妹が死んでから、母さんはずっと泣いてばかりいました。やっと少し元氣になってきた時に、その話をしたら、また母さんが泣いてしまって。僕はそれで母さんに食べたいからこのお菓子を作ってほしいと言えなくなってしまったんです。あれから二十年以上も、どこかでこれを食べたいと思っていたけれど…」
ヴィルが自分の皿に置かれていたエンパナディーリャをレネの皿に置いた。続いて稔と蝶子もほぼ同時にレネの皿めがけて自分の菓子を投げ込んだ。皿に並んだ四つのエンパナディーリャを見て、レネは再び泣き出した。今度は号泣だった。
イネスは呆れていった。
「まだ、ここにはこんなにあるんですよ。何もあなたたちがあげなくても」
けれど、その四つは他のエンパナディーリャとは違っていたのだ。三人が他の人間とは違うように。レネは泣きながら四つの菓子を平らげた。後でまたイネスにもらって食べた稔は、どうやったらこんなに大きくて甘くて脂っこいものを四つも食べられるんだと首を傾げた。
「来週、この館でクリスマスのパーティがあるんですよ。よかったら参加してください。あなた方のショーも披露してもらえると嬉しいですね」
カルロスの申し出に四人は喜んで同意した。
パーティに使う広間にはスタンウェイのグランド・ピアノがあった。それで、昼はバルセロナの街で稼ぎ、大量に酒を買ってきて、夜は広間で打ち合わせと称して音楽を奏で、手品を楽しみ、そして宴会をすることになってしまった。
もちろん、その他に三食イネスのスペイン料理にも舌鼓を打つ。
カルロスの言葉は嘘ではなかった。イネスの料理は絶品だった。地中海の幸、肥沃なスペインの山の幸が贅沢に、しかし、飽きのこない家庭的な味付けでこれでもかと出てくる。魚介類が苦手だったはずのヴィルでさえ、自分からお替わりをするほどだった。もちろん酒類は必須で、ペネデスの白ワイン、リオハのティント(赤ワイン)やシェリーを傾けながら食事を楽しんだ。蝶子のお氣に入りは赤ワインと炭酸飲料を半々にして作ったティント・デ・ベラーノというカクテルだった。
カルロスが仕事で館を留守にする時は、イネスがテーブルに座って四人と話をした。
「カルロス様は、皆さんがいつ見えるかと、本当に楽しみにしていらしたんですよ。私もどんな方々かと興味津々でした」
「カルちゃんは、こういう風来坊をしょっちゅうお館に引き入れているの?」
蝶子が訊く。
「めったにありませんね。でも、仕事やプライヴェートのお友だちが泊まりにくる事はよくあります。このお屋敷にはそもそも部屋がありすぎるんですよ。お一人だとお寂しいんじゃないですか」
「ギョロ目はずっと一人もんなんだ?」
稔はついにギョロ目と呼ぶ事にしてしまったが、誰も何も言わなかった。当のカルロスさえも。
「ご結婚を解消なさってから、五年ほどになられますが、あれから長く続いた方はまだいませんね。お忙しすぎるってこともあるんでしょうけれど、ご結婚には懲りていらっしゃるみたいで」
イネスはくっくと笑った。どんな奥さんだったのだろうと四人は想像をそれぞれめぐらせた。
バルセロナの街は活氣に溢れていた。もう相当寒かったので仕事をするのは十時から四時間ほどだったが、宿泊代を考えなくていいので相当の金額が酒類に費やされ、バンを買うための貯蓄を引いても、まだ十分な金額が手元に残った。コモのロッコ氏のレストランでも相当の余剰金ができた。これからの厳しい冬を乗り切るには運のいい状態と言ってよかった。
ロッコ氏は来年も同じ時期にまた働いてほしいと言った。そう言ってくれるのは有難かった。
四人は来年の事に思いを馳せた。それぞれが大道芸を始めた時には考えられないことだった。蝶子はコルシカフェリーの上で不安と寄る辺なさに心を悩ませていた。行くところも待っている人間もなかった。稔はいつ終わるとも知れない大金の返済と罪の意識に疲れていた。レネは仕事と恋人を同時に失い人生が嫌になっていた。ヴィルは父親から自由になりたかった。一度も見た事のない父親の婚約者が実行したように。
お互いに一人ではできなかったことが、Artistas callejerosとしてチームを組む事で可能になった。大道芸としても、また、トネッリ氏のバーやロッコ氏のレストランで展開したショーもその完成度の高さとお互いのプロ意識、そして友情のもたらす信頼関係で高い評価と報酬をもたらした。偶然の出会いがもたらしたカルロスのような親切な人間の助けで、このように贅沢で楽しい日々を送る事すら出来るようになった。
稔は去年の冬の事を考えていた。何回か安宿に泊まる金も稼ぎだせず、大都市の地下鉄で夜を過ごした。自分は何をしているのだろうと思った。日本に帰ろうにも航空券を買うなど不可能だった。夏の間に稼いだ余剰金はすべて遠藤陽子に送った。送っても送っても完済にはほど遠かった。なぜこんな事を続けているのか、わかってくれる人間はこの世の中にはいないと思った。生涯浮浪者のように生きるしかないと思っていた。それがどうしたことか。お城のような館で、美味いものを食べながら、仲間と酒宴の日々だ。バンを買って、みんなでヨーロッパ中をめぐろうと夢を語っている。高校生の時に夢を見ていたようにギターで生活費を稼いだりもしている。人生、先の事は本当にわからないものだ。諦めないで本当によかったと思う。
【小説】大道芸人たち (9)アヴィニヨン、 レネの家族 - 1 -
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(9)アヴィニヨン、 レネの家族 前編
新年まで、ずっとバルセロナで稼ぐのも退屈だという話になった。どうせなら近場に移動して、クリスマスまでにここに戻って来ようかと話がまとまったのだ。問題は、どこに行くかということだった。
「行き先が多数決なのはよくわかっているんですけれど」
レネがおずおずと言い出した。
「どこか、どうしても行きたいところがあるの?ブラン・ベック」
蝶子が優しく訊いた。
「これからもっと南へ行くんだし…、アヴィニヨンにはもう戻れませんよね。」
「フランス、プロヴァンスか。ここからなら半日で戻れる。年内に行きたいのか?」
ヴィルが言った。
「橋のある所だよな?特別な思い入れがあるのか?」
稔が訊いた。レネはもじもじと、とても言いにくそうに答えた。
「僕の生まれた家があるんです…」
三人は一瞬黙ったが、一斉に笑い出した。
「わかったよ。そりゃ行きたいだろう。行こうぜ」
稔が言った。
蝶子はヴィルに言った。
「アウグスブルグには行かなくていいの?」
ヴィルは首を振った。
「俺の家族はいないんだ」
三人にはアウグスブルグにヴィルの家族がいないのか、ヴィルに全く家族がいないのかわからなかったが、ヴィルが何も付け加えなかったので、それ以上訊かなかった。少なくともレネのように帰りたがってないことは確かだった。
「じゃ、カルちゃんに頼まれたクリスマスパーティまでに戻ってくればいいじゃない。明日にでもアヴィニヨンに行きましょうよ。おうちは市内なの?」
「いいえ、十キロメートルくらい郊外です。でも、泊まるところの心配はしないでください」
バスを降りて、丘の上を目指してゆっくりと登っていると甲高い声が聞こえた。
「レネ、レネじゃない!まあ、まあ、まあ!」
足を止めて見上げると、丘の上にふくよかな女性の姿が見えた。
「母さん!」
レネが荷物を取り落として、そのまま丘の上までダッシュした。そして、母親と固く抱き合った。ヴィルがレネの荷物を拾って、ゆっくりと丘の上に向かった。三人が親子のもとに着いた時に、二人の興奮はようやく治まった。
「この人たちは…?」
母親の問いに、レネは眼鏡をとって涙を拭き、それから、嬉しそうに言った。
「僕の仲間なんだ。一緒に稼ぎながら旅をしているんだ」
三人はレネの母親を見て微笑んだ。レネにそっくりだった。ただし、ひょろ長いレネと対称的にまんまるだった。優しい笑顔で、突然連絡もなくやってきた一行を迷惑がりもしないで歓迎した。三人は自己紹介したが、レネの母親のシュザンヌは英語が話せなかった。ドイツ語も、もちろん日本語も。だが、そんなことはどうでもいいようだった。
レネの生家は、ベージュの壁が優しいイメージの、典型的なプロヴァンスの農家だった。広い庭があり、その先には眠りについた葡萄畑が広がっていた。家の中から、父親もでてきた。こちらは雰囲氣がレネにそっくりのひょろ長い手足の親父さんで、やはり暖かい人柄なのが一目で分かった。満面の笑みで突然帰ってきた息子の頭を小突き、仲間を歓迎した。父親のピエールはプロークンながら英語が話せた。
「もちろん、家に泊まっていってくださいよ。レネ、どのくらいいられるんだ?」
「クリスマスパーティまでにバルセロナに戻んなくちゃ行けないんだ。準備もあるから、そんなに長くはいられないよ。一週間くらいかな」
「そうか。じゃあ、また改めてゆっくり来るんだな。春から夏の方がいいだろうな」
「僕たち、居間かなんかで雑魚寝するから」
そういうレネに母親は厳しい顔で首を振った。
「こんなきれいなお嬢さんを雑魚寝させるなんて、なんてことをいうの?もちろん客間に泊まってもらうわよ」
「そっちの二人は、マリが使っていた部屋と元のお前の部屋がいいだろう。お前は居間か屋根裏部屋か好きな方を選べ」
「屋根裏は夏はいいけど今は寒いからな。居間にするよ」
「おい、ブラン・ベック。俺は別に個室でなくてもいいんだし、お前の元いた部屋で眠れよ」
「それもいいですね」
「なんだ、レネ。お前、ブラン・ベックなのか」
父親は大笑いした。
シュザンヌは、大はりきりで大きなパイを焼いた。蝶子はレネが突然家に帰りたくなった理由がとてもよくわかった。イネスの手料理とエンパナディーリャは、レネの胃袋を直撃して、暖かい両親のいるこの家への思慕を呼び起こしたのだ。レネの生家はワイン醸造を生業としていたので、四人の酒飲みの襲撃にもびくともしなかった。
「ブラン・ベックったら、失恋の痛手を癒すのになんでコルシカ島なんかに行ったのよ。ここの方がよっぽど効果的じゃない」
蝶子はにやにやして指摘した。
「そうだけど、ここに来ていたら、僕はArtistas callejerosに加われなかったじゃないですか」
レネが言うと稔がレネの頭を小突いた。
「よくやったよ。ブラン・ベック」
ピエールは、皆のグラスにワインを注ぎながら言った。
「旅にでるって話を聞いてから、時折届くハガキ以外、詳細がわからなかったから、心配していたんだぞ。電話ぐらいできるだろう」
「家に電話なんか、誰もしないんだよ。父さん」
レネは少しむくれた。
「いや、したけりゃすればいいじゃないか。俺が連絡しないのは、相手がいないからだよ」
稔が言った。
「ミノルさんとチョウコさんはヨーロッパにお長いんですか?」
ピエールが訊いた。
「俺は四年半です」
「私は七年」
「ああ、日本から一緒にいらしたんじゃないんですね」
「私たち、三人とも偶然同じ時期にコルシカ島にいて、そこでArtistas callejerosを結成したんです」
蝶子がにっこりと笑った。
「父さん。わるいけれど、そんなに質問しないでくれよ。僕たち、あれこれ過去のことを詮索しないって決まりがあるんだ」
レネがあわててフランス語で言った。ピエールは、肩をすくめた。
「まだ、過去のことなんて質問していないよ」
ピエールとシュザンヌには、これまで日本人の知り合いがいなかった。アヴィニヨンですれ違う観光客を見たことがあるだけだった。突然息子が二人も日本人を連れてきたのは事件と言ってもよかった。しかも、ドイツ人も一緒だ。レネと氣の合うドイツ人がこの世に存在するというのは信じられなかった。
一般的にドイツ人というのは、みな一様に強引で理詰めで意見を押し付けるので、観光地のフランス人は嫌っていた。レネは、ドイツ人の好きなことが苦手だった。つまり理路整然と意見を戦わせたり、ロボットの如く時間に正確に動いたり、集団で騒いだりするようなことができなかった。だから、子供の頃にはたった一人のドイツ人の友達もできなかった。しかし、このドイツ人とはうまくいっているようだった。ドイツ人と日本人はうまく行くだろう。第二次世界大戦も息がぴったりだったし。でも、レネとは、あり得ない組み合わせだ。一時的な仲間ではなく、ずっと一緒にいるようなことまで言っている。レネは一体、どうしたんだ?
けれど、二日ほど経つと、夫婦はレネがこの三人と一緒にいる理由がわかってきた。ブラン・ベックなどと呼ばれながらも嬉しそうにしているのも不思議ではなくなってきた。
レネは子供の頃から周りとうまくコミュニケーションできなかった。ありていに言えば、人が良すぎて簡単に利用されてしまうのだった。誰のことも好きになり、皆からコケにされる。傷つくが、それでも新たに誰かを好きになり、再び使われてしまう。親孝行で優しいが、ふがいないので叱ると、さらに傷ついて見る影もなくしおれてしまう。
この三人は、三人とも全く違う個性を持っていた。稔は公正に誠実にレネに接する。けれど上からではなく対等に、楽しく信頼を持って接する。蝶子は本当の蝶のように軽やかにレネをからかって回る。レネの人の良さや隙の多さをちくちくと刺して、それが結果として外部からレネが害を受けるのを防ぐことになっている。そして、無表情で無口なヴィルが、何故かレネを蝶子や外敵から守っているのだ。三人ともレネの知性と優しさを心から尊重しているのがわかる。
この三人といると、どれだけレネが心地いいか両親にはよくわかった。パリで、何人もの女や男にコケにされて、クリスマスやイースターの帰郷の度に涙を流していたことを思うと、大道芸人の旅だろうが、レネが離れたがらないのも当然に思えた。
「クリスマスにいられないなら、クリスマスのごちそうを早めに出すか。一週間あれば準備できるだろう?」
ピエールはシュザンヌに言った。彼女は大きく頷いた。明日から準備に入らなくてはならない、と固い決意を見せた。レネは顔を輝かせ、三人は何が始まるのかと顔を見合わせた。
【小説】大道芸人たち (9)アヴィニヨン、 レネの家族 - 2 -
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(9)アヴィニヨン、 レネの家族 後編
翌日、四人はレネの案内で、アヴィニヨンの街に行った。街の中心には、マルシェ・ド・ノエル(クリスマス市)が立っていた。六十ほどの小さな屋台がところ狭しと並んでいる。レネは母親に頼まれた乾燥果物や砂糖漬けなどを買った。
「プロヴァンスってクリスマスには何を食べるの?」
蝶子が訊いた。クリスマスと言えばイチゴケーキのイメージしかない稔も興味津々だった。
「村によって違うんですよね。海のそばでは魚、マグロとかタラなんかを食べます。でも、うちは内陸部なので魚は食べません。我が家ではシャポンという去勢雄鶏にクルイズというパスタ、それに大蒜とカルドンのベシャメルソースグラタンを食べます。それにブッシュ・ド・ノエルに、十三種類のデザート」
「ケーキの他に、十三種類のデザート?」
稔は耳を疑った。
「キリストと十二使徒を表しているんですよ。この地方の伝統なんです」
どうやら冗談を言っているのではないらしい。
市の真ん中にある噴水は寒さで凍っていた。バルセロナで買ったダウン入りコートが絶対的に必要になっていた。外でフルートを吹くのも三味線を弾くのも厳しい季節になっていた。稔が言っていたように、真冬に外で稼ぐのは事実上不可能だった。大都会の地下鉄ぐらいしか道はないだろう。カルロスやレネの両親の暖かい歓待があり、暖炉の火にあたりながらワインを飲んで大騒ぎのできる環境がなければ、暖かい家庭に帰る人を見ながら長い冬をしのぐのはとてもつらいことだったに違いない。
「テーブルには、3枚のテーブルクロスをかけます。その上に、三位一体を表す3本のロウソク、ヒイラギの葉と聖バルブの麦を飾ります。カレンドル・パンは中央に置きます。13種のデザートもテーブルに最初からセットします。テーブルに余白を残しちゃダメなんですよ。豊穣を意味しているんでね」
自家製のワイン、グラスに、お皿が隠れて見えなくなるほどにたくさんのせられる13種のデザートは、ポンプ・ア・ユイルというオリーブオイルとオレンジの花で風味付けしたパン、白いヌガーと黒いヌガー、4つの托鉢修道会を象徴するくるみ、アーモンド、イチジク、干しブドウ、その他にはヘーゼルナッツ、乾燥なつめ 、りんご、オレンジ、メロン、 チョコレート。
準備が整った頃に、シュザンヌが大きな雄鶏と、熱々の野菜グラタンをテーブルに持ってきて食卓が整った。ピエールがワインをそれぞれのグラスに注ぎ、二週間ほど早いクリスマス祝いが始まった。
「お前の誕生日も直だからな、一緒に祝ってしまえ」
ピエールはレネにウィンクした。
「え。ブラン・ベック、誕生日十二月なの?いつ?」
「二十日です」
「そりゃいいや。おめでとう」
稔がグラスを差し出した。全員が口々におめでとうと言いながらグラスを合わせていった。
レネは照れていた。
「まだ一週間あるじゃないですか。でも、ありがとう」
「いくつになるの?」
蝶子が訊いた。
「えっと、三十歳です」
「やっぱり年下だったわね。読みが当たったわ」
蝶子は稔にウィンクした。
「ええっ。チョウコさん、二十代の前半じゃないんですか?」
ピエールが驚愕した。
「日本人は若く見えるんだ。お蝶は現役だったろ?ってことは、いま三十二歳だな」
女性に歳を訊かない西洋の遠慮を無視して稔が平然とバラした。蝶子はちっとも氣にしていなかった。
「なったばかりよ」
「誕生日、過ぎちゃったんですか?」
レネが訊いた。
「ええ、十一月十八日」
「わあ、じゃあ、お祝いしなきゃ。おめでとう、パピヨン」
レネの音頭に合わせて、再び乾杯が始まった。
「ヤスは、現役じゃなかったの?」
「俺は一年目は共通一次で落ちたんだ。九月の末に三十三歳になったよ」
「ヴィルさんは?」
ピエールの問いに蝶子と稔は興味津々になった。ヴィルはまったく年齢不詳だったからだ。
「五月生まれで、ブラン・ベックと同じ歳だ」
「ええっ。年下かよ!一番落ち着いているのに」
稔が言った。
「アジアでは、年下のものは年上のものに服従するのよ。これからはお姉様といって従いなさい」
蝶子が言うと、ヴィルが即座に首を振った。
「俺たちはアジア人じゃないし、ヤスならまだしも、あんたに従うなんてまっぴらだ」
その場の全員が笑った。
鶏は柔らかくてジューシーだった。熱々の野菜グラタンに、焼きたてのカレンドル・パン。ピエール自慢のワインで何度も乾杯し、暖かいクリスマスの雰囲氣が広がった。
四人はいつも楽しく酒を飲んで騒いでいるが、今夜は特別に楽しかった。特にレネは本当に幸せそうだった。暖かい家庭というものが、どんな贅沢な暮らしにも勝ることを蝶子は実感した。エッシェンドルフの館のクリスマスパーティの食事は、最高の素材を使い、シェフが腕によりをかけたものだった。しかし、蝶子はクリスマスを待ったことなど一度もなかった。
夕食の後、ムスカの白ワインと一緒にケーキと十三種類のデザートを食べることになった。
「もう入らないよ」
稔が言ったが、ピエールは首を振った。
「ほんの一口でもいいから、全種類を食べなくちゃ。それが伝統なんですよ。これを食べない人には、とっておきのリキュールは出しませんよ」
全てを締めくくるのが、自家製のラタフィア(果実、植物の花や茎の浸出液から作るリキュール)だった。
アヴィニヨンを去る前に蝶子はどうしても橋の上に行きたいと言った。
「なんてことのない橋ですよ」
レネは言ったが、心なしか誇らしげに率先して案内した。
川の半ばで途切れている灰色の石橋を四人は歩いた。それから稔が思いついたように三味線を取り出して『アヴィニヨンの橋の上で』を弾いた。ほかの観光客が目を丸くしているのを尻目に、蝶子はレネやヴィルと交互に踊った。川の水分で霜が降りている石畳。足下がつるつるして転びそうになる。それをお互いに抱きとめ合いながら、ぐるぐると踊った。笑い声が満ちた。暖かかったのはダウンコートを着ているせいだけではなかった。
【小説】大道芸人たち (10)バルセロナ、 フェリス ナビダー
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(10)バルセロナ、 フェリス ナビダー
パーティの準備のために、四人は広間をクリスマス風に飾り付けていた。巨大な樅の木に、ありとあらゆる飾りをつけていく。
「いいわねぇ。こういうのって」
四人の中で、クリスマスのいい思い出がたくさんあるのはレネ一人だった。
蝶子は実家でぎくしゃくしていたし、クリスマスデートもした事がなかったので、こんなに楽しいクリスマスの雰囲氣は初めてだった。エッシェンドルフ教授の館では毎年盛大なクリスマスのパーティがあったが、堅苦しくて好きになれなかった。
稔の生家では伝統を重んじるちゃきちゃきの江戸っ子の父親が馬鹿にするのでクリスマスなぞ祝った事がなかったし、ヨーロッパに来てからはずっと浮浪者同然でそれどころではなかった。
ヴィルも両親の揃った暖かくて静かなドイツ伝統のクリスマスを祝った事がなかった。子供の頃は母親と簡単に祝い、ティーンエイジャーの頃は父親のパーティに無理矢理参加させられたが、端に立っているばかりでいい思い出はなかった。
今年は四人にとって特別だった。Artistas callejerosを結成して初めてのクリスマスだ。それも、こんな豪華な館で、暖かい暖炉の側で迎える最高の。
蝶子が上機嫌で『樅の木』を鼻歌を歌っている所に、稔は日本語で加わった。その訳は納得がいかないとレネがドイツ語の歌詞で参戦した。それを聴いて、三人は一斉に手を止めてレネを見た。
「な、なんですか。歌詞間違えましたか?」
「ちょっと、ブラン・ベック!そんないい声しているの、何で隠していたのよ!」
レネは透明で明るい見事なテノールだったのだ。
「え。歌えって言われなかったから…」
「すごいぞ。どこかでトレーニングしていたのか?」
ヴィルも梯子から降りてきた。
「いや、教会の合唱団にはずっと参加していたけれど、でもトレーニングなんてものは…」
ヴィルはピアノの前に座り、『ホワイト・クリスマス』の伴奏を弾き出した。蝶子と稔に顎で促されて、レネはもじもじと歌いだした。惚れ惚れするいい声だった。
「ったく、爪を隠し過ぎだ」
稔がつぶやいた。ヴィルは、蝶子に加わるように言った。蝶子はセクシーなアルトで、自在に下のパートを引き受けた。蝶子に助けてもらってレネは嬉しそうに、もう少し自信を持って歌いだした。
「こりゃ、いいぞ!」
稔も、ギターの腹をドラムがわりに叩いて加わったので、ヴィルは即座に楽しげに転調した。やがて、アンサンブルは愉快なクリスマス・メドレーに変わった。
パーティの当日、午前中は蝶子が台所でイネスを手伝い、男三人は薪や酒の瓶などを広間に運んだりセッティングをしたりして忙しく働いた。もちろん普段からの使用人の他に、この日は多くのヘルプが来ていたが、四人はお客様然として座っているつもりはなかった。夕方になると、ロッコ氏にもらった衣装に着替えた三人と、新調したあでやかな曙色のドレスに身を包んだ蝶子は広間でカルロスと早い乾杯をした。
「おお、なんという美しさだろう。マリポーサ。あなたは夜明けの荒野に立ちのぼる金星です」
蝶子の手にキスをするカルロスを見て、稔はどっちらけという顔をした。毎晩、酒を飲んで大騒ぎしている居候への言葉かよ。
カルロスはさらに大仰に続けた。
「どうか、この私と一曲ダンスを踊ってくださいませんか?」
「喜んで」
「おい、お蝶、お前ダンスなんか踊れんのかよ」
驚く稔に、蝶子は勝ち誇ったように微笑んだ。
「一通りはね」
それで、稔はギターで『真珠取りのタンゴ』を弾いてやった。二人は、コンチネンタル・タンゴを華麗に踊った。踊れるというのは嘘じゃないらしい。きちんと習ったようだ。
カルロスは少し驚いて言った。
「見事ですね。もしかしてアルゼンチン・タンゴも踊れるんじゃないんですか?」
「多少は」
蝶子が自信満々のときの婉然とした微笑みを見せた。
それで今度はヴィルがピアノの前に座ってピアソラの『ブエノスアイレスの冬』を弾きだした。
カルロスのリードは見事だった。だが、蝶子も尋常でない上手さだった。おい!普通の日本人がどうやってアルゼンチン・タンゴなんか習得するんだよ!稔は目を剥いた。
ヴィルにはちっとも不思議ではなかった。父親のエッシェンドルフ教授はアルゼンチン・タンゴの名手として有名だった。コンチネンタル・タンゴと違い、アルゼンチン・タンゴは男のリードだけでは上手く踊れない。蝶子のステップはそんなに難しいものではなかったが、完全に自分のものにしていた。
ステップを踏むたびに、青白い炎が燃え上がる。その妖艶な表情が挑みかけ、切れのある動きの後に完璧なスタイルの脚がねっとりと振りもどる度に、危うさが漂う。いつもの崇拝者とわがままな日本人から、ゆっくりと運命の恋人に変容していく。
スペイン語には空氣や雰囲氣をあらわす「アイレ」という言葉がある。それは色氣や粋という意味や、人生の喜びや悲しみを意味することもある。生きている人間の周りにまとわりつく目に見えないがそこにあるもの、蝶子とカルロスを包んでいるのはまぎれもなく情念のアイレだった。稔とレネは息を飲んでその踊りに釘付けになっていた。ヴィルのピアノもまた大きく影響され、音が変わっていく。
「あ、あの~、ドン・カルロス…」
間延びした声が入り口からして、五人は我に返った。カルロスの秘書のサンチェスが困った表情で立っていた。
「最初の、お客様がいらしたんですが…」
踊っている場合ではなかった。
「乾杯!」
「メリー、クリスマス、には早いかな?」
稔は日付を数えた。まだ三日くらいあるよな。
蝶子はキリスト教でない日本人らしく答えた。
「別にいいんじゃないの?クリスマスパーティだし」
「スペイン語ではなんていうんでしょうね?」
レネの問いに、カルロスが答えた。
「フェリス・ナビダー、ですよ」
「じゃあ、フェリス・ナビダー!」
「フェリス・ナビダー!」
次々とグラスが重ねられた。
「カルちゃん、本当にありがとう。私こんなすてきなクリスマス経験したことないの」
「それは光栄ですね。私もあなたたちと祝うことのできる幸せをかみしめていますよ。実を言うと、もう長いことまじめに祈ったことがないんですが、あなたたちと毎年祝うことができるように神に祈ることにしましょう」
カルロスは蝶子の頬にキスをした。蝶子は微笑んでキスを返し、それから、レネ、ヴィルの頬にも順番にキスをした。そういう習慣のない日本人の稔は目を丸くしていたが、蝶子はとても自然に稔の頬にもキスをした。稔はそれがちっとも嫌ではなかった。お蝶も俺もずいぶんガイジン化してきたもんだ。
四人のショーはここでも喝采を浴びた。ショーの後には、カルロスの友人たちがひっきりなしにやってきてはカルロスに紹介を請うた。ミステリアスで美しい蝶子に言い寄りたがる男たちもいたが、カルロスが皆はねつけた。稔はその様子がおかしくてへらへらと笑った。
だが、寄ってきたものの中には悪くない話もいくつかあった。その一つが、ロッコ氏のレストランのスペインバージョンで、マラガ市内に最高級のクラブの開店準備を進めているというカデラス氏の申し出だった。来年の四月のオープニングから一ヶ月ほど、働いてくれないかというのだった。
稔は手慣れた様子でギャラの交渉に乗り出し、あっさりと宿泊と食事と酒込みの好条件を手に入れた。年明けにやはりひと月ほど頼みたいと言ってきたのはバルセロナのカタルニャ料理のレストランを持つモンテス氏だった。彼の雇っているピアニストがその時期はメキシコに休暇にいくのだ。稔が泊まるところの交渉をしたらカルロスが割って入り、バルセロナにいる間は宿泊と食事と酒はここ持ちだと言い張った。
稔はこれまでの経験から十二月と一月がもっとも厳しい季節だと知っていたので、この二ヶ月をこの快適な館で過ごせ、年明けからは仕事も暖かい室内でできる、飛び上がって踊りだしたいほどだった。何よりもうれしいクリスマスプレゼントだった。
【小説】大道芸人たち (11)グラナダ、 ザクロの樹
あらすじと登場人物
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(11)グラナダ、 ザクロの樹
「日本の方ですよね」
アルハンブラ宮殿の前で稼いで、休憩にペットボトルで水を飲んでいると、後ろから声がかかった。蝶子は何かと思って振り向いた。ずっとキャーキャーいって見ていた日本人観光客二人組だった。
「そうだけど?」
「やっぱり。もう一人の男性が三味線だったから、そうじゃないかと思ったんです。あの、お願いがあるんですけど」
「何?」
「あの、金髪の人と一緒の写真を撮りたいんです」
稔は吹きだした。蝶子は眉一つ動かさずにドイツ語でヴィルに声をかけた。
「テデスコ。あなたと一緒に写真を撮りたいんですって」
ヴィルは、これまた眉一つ動かさずに答えた。
「やだね」
蝶子はにっこりと微笑んで日本人観光客に言った。
「ごめんなさいね。彼は写真に撮られるのが嫌いなんですって。勘弁してあげてくれる?」
拒否されて悲しそうに未練たっぷりに立ち去る日本人二人を、レネは氣の毒そうに、稔はニヤニヤして、そして蝶子とヴィルは無表情に見送った。
「写真撮られるのが嫌いなのかよ、演劇をやってるくせに」
稔は面白がっていった。
「写真が嫌なんじゃない。パンダみたいに扱われるのは氣に入らん」
稔は大笑いした。レネはそれでも日本の女の子たちが氣の毒そうだった。
「心配しないでいいのよ。いい薬になるわ。そうじゃないと、あの子たち、同じような事をあちこちでやるでしょうから」
蝶子は容赦なかった。
稔はあらためてヴィルの顔を見た。
「見慣れすぎてあたりまえになっていたけれど、確かに整っているよな。金髪碧眼だし、欠点がなさ過ぎる」
「ヒトラーが大喜びしそうな容姿じゃない? SS(親衛隊)の制服とか着せたら似合いそうよね」
レネはおろおろした。誉めていないどころかケンカを売っているとしか思えない言い草だ。
ヴィルはぼそっと言った。
「あんただって、典型的なゲイシャ顔じゃないか」
蝶子と稔は顔を見合わせた。
「そりゃ、誤解だよ。欧米人にはこれがオリエンタルな日本美人の典型かもしれないけれど、お蝶は俺たちにとってはどっちかっていうと渡来系だぜ」
「渡来系ってなんですか?」
「大陸から遷ってきた外国人の子孫みたいな顔ってことよ。目が細くて吊り上がっているからでしょ」
「じゃあ、典型的な日本の女の子ってどんな顔なんですか?」
レネが訊いた。稔はあっさりと答えた。
「さっきいた女の子たちみたいな顔だよ」
レネは少しがっかりしたようだった。日本に行ったらパピヨンみたいに神秘的できれいな女性がたくさんいると思ったのに。
「あんたは純粋な日本人じゃないのか?」
ヴィルが訊いた。蝶子は切れ長の目を更に細めて言った。
「あなたがドイツ人であるのとおなじ程度には純粋よ。この顔は隔世遺伝の悪戯なの。両親も妹もこんな顔じゃないもの」
「お前、妹がいるんだ」
稔が訊いた。
「ええ、二つ年下でね。まともなの」
「まともって、どういう意味ですか?」
レネが不思議そうに訊いた。
「フルートなんかやりたがらないで、普通に結婚して、孫の顔を両親に見せたって事よ」
「ついでに大道芸人にもならなかったってことか?」
稔の言葉に蝶子は自虐的な高笑いをした。
「あんたがまともでなくてよかったよ」
ヴィルが無表情に言った。三人はそのらしくない感想に耳を疑ったが、蝶子はさらにらしくない最上級の笑顔を見せた。
「ありがとう」
「こんなにたくさん日本人をみたの久しぶりよね」
蝶子は稔に話しかけた。
「そうだな。バルセロナにもいたけれど、こんなに集中していなかったものな。パリは多かったぞ」
「ヤスもパリにいたことがあるんですか?」
レネが訊いた。
「ああ、四年半くらい前さ。シャンゼリゼとかエッフェル塔の下で稼いだな。でも、大道芸を始めたばっかりだったから、まだおどおどしていた」
「僕の職場と近かったわけですね。あの頃、僕は、シャンゼリゼから徒歩五分のクラブで働いていたんですよ」
「ニアミスだったのね。あの当時にもうArtistas callejerosを結成していたかもしれないってことよね」
蝶子が楽しそうに言った。
「それをいうなら、俺たちはもっと早くに会っているじゃないか」
稔は言った。
「どこで?」
レネは不思議そうに訊いた。
「あれ? 言っていなかったっけ? 俺たち大学で同じソルフェージュのクラスにいたんだ。コルシカ・フェリーの上でこいつを見つけた時にすぐにわかったよ。こいつは俺のこと覚えていなかったみたいだけど」
その不名誉な発言は軽く無視して、蝶子はヴィルに話しかけた。
「テデスコと私もどこかでニアミスしているかもしれないわね。だってアウグスブルグに住んでいたらミュンヘンに来ることもあったでしょう?」
「そうだな」
ヴィルは短く答えたが、本当はニアミスどころではなかった。蝶子はヴィルの父親の家にいて、逃げ出していなければ近いうちに未来の母親として紹介される予定だったのだから。
アルハンブラ宮殿だけはどうしても観光したいと言い出したのは蝶子だった。予約制で、時間が来たら集まってツアーとして中に入ることが出来るシステムなので、予約時間の少し前まで稼いでいた。
その日は終日曇っていたのだが、四人が宮殿内に入ったのと前後して、雲間から光が射しはじめた。アルハンブラ宮殿にはもちろんステンドグラスのようなものはない。しかし、太陽の光の作り出す陰影がなければ、この類い稀な建物の印象はがらりと変わってしまう。真夏のうだるような暑さの中に来るのも悪くないが、その時期にはタンクトップと短パンの旅行者が新宿の繁華街のごとく溢れ、グラナダが観光客ずれしたつまらない街にみえてしまう。オレンジがたわわに実る冬の終わりのこの時期は、そう考えると世界に誇るこの観光地を観るにはベストシーズンと言ってよかった。第一、四十度を超す真夏と較べて過ごしやすい氣候は、大道芸人たちに優しかった。
王宮の数々のアーチや石柱に施された幾何学模様の漆喰細工は、ため息が出るほど美しかった。周りの観光客たちは必死でシャッターを押していたが、四人はカメラを持っていなかったので、自分の脳裏に焼き付けた。
色々なところに行く。その思い出は、写真やTシャツにして残しておくことは出来ない。だから無駄な観光などしない、忘れたくないものはその瞬間を記憶に留める。それだけだ。けれど、四人がいつも共にいれば、それは共通の思い出となって残る。何年も経ってから、一緒にここに来たことを語り合える、そういう存在であることが今の四人にはとても大切だった。
王宮の中で最も大きな『大使の間』と呼ばれる広間は、様々な国の使節の謁見や、儀式が行われた場所だという。天井から壁、下部のタイル、床に至るまでびっしりと細かなアラベスク模様の装飾とコーランの言葉が刻まれていた。そしてその先に行くと、稔ですら日本で写真をみたことのある有名な『ライオンの中庭』を囲んでハーレムが広がる。
「いいなあ。こんなところで、毎日美女に囲まれて過ごしていたんだ」
稔がぽつりと言った。レネは同じ感想を持ったが蝶子の前で言う勇氣がなかったので、黙って小さく頷いた。
蝶子が笑い出した。
「馬鹿ね。女の数が増えるほど、問題が倍増するのに」
蝶子が二人になったときの状況を想像して、二人は首をすくめた。確かにそれは勘弁してほしいと稔は思った。
蝶子は噴水の水音に耳を澄ませた。わずかなトレモロ。水に反射する光が遊ぶ。風が緩やかに渡っていく。かつてのハーレムの女たちが見たもの、感じたことに思いを馳せる。彼女たちは平和で幸せな時を過ごしたのだろうか。それとも、主の寵愛をめぐって落ち着かない日々を送っていたのだろうか。私のように逃げ出したものもいるのだろうか。
「ヤス。あとで、『アルハンブラの思い出』を弾いてよ」
稔はまかせとけという顔で頷いた。
宿に戻る前に、近くの市場に買い出しにいき、ザクロを見つけた。蝶子が嬉しそうに手に取った。
「あら、まだあるのね。秋の果物だからもうないかと思ってたわ」
「これが、おしまいの時期なんでしょうね。せっかくだから買いましょうか」
レネが、オレンジと一緒にしてもらった。ついでに異国情緒たっぷりのアラブ人街の間を楽しみながら歩いていく。
「アンダルシアの中でも特にイスラムの名残を感じることが出来るんですね。イスラム世界に来たみたいです」
レネが言った。
稔が同意した。
「けっこう近いんだよな、ヨーロッパと近東って。そのうちにそっちにも足を伸ばすか?」
「ここからアフリカも近いぞ」
ヴィルが言った。
「簡単に行けるの?」
蝶子が興味を示した。
「ジブラルタルやアルヘシラスからは、海の向こうにアフリカ大陸が見えるんだ。渡る先はスペイン領のセウタだから船に乗るのに面倒な手続きもない。行くか?」
「行ってみたいわ。あなたたちは、どう思う?」
蝶子はレネと稔にも訊いた。
「賛成!」
稔が即座に言って、多数決の必要票を投じた。もちろんレネも賛成だった。
「セウタからモロッコに入るなら、フランス語ですからね。僕が役に立ちますよ」
その夜、稔は約束通り、『アルハンブラの思い出』を演奏した。
【小説】大道芸人たち (12)セウタ、 アフリカ大陸 -1-
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(12)セウタ、 アフリカ大陸 前編
「あ、見える」
本当に海の彼方にうっすらと大陸の片鱗が見えた。あそこはもうアフリカなのだ。レネははしゃいだ。はじめてのアフリカなのだ。
「本当に近いのねぇ」
蝶子も感慨深げに頷いた。アルヘシラスでバスを降りた。大きな看板に従えば、アフリカ行きの船の乗り場はすぐにたどり着けた。チケットを買って、係員に案内されるともう船に乗れた。あっけないほどだった。
「ほら。そこに見えているのがジブラルタルだ」
船が出港してすぐにヴィルが隣に見えている半島を指差した。
「へえ。あそこからは船は出ていないのか?あっちの方が近かったじゃないか」
稔が訊く。
「あそこはイギリスですからねぇ。スペインからスペインに行く方が何にせよ簡単なんじゃないですか?」
レネが答えた。
「そうか。ジブラルタルって未だにイギリスなんだ」
「周り中スペインで、あそこだけイギリスなんて変な感じね」
蝶子も言った。日本人の二人には、地理上の国と国家としての国というものは一致しているという感覚があった。しかし、世界には、地理的に明らかにある国の一部でも歴史と政治の事情からぽつんと存在する外国があるのだ。いま目にしているのは、そういう『事情のある外国』だった。
「テデスコもブラン・ベックも、ヨーロッパ全般の地理や歴史に詳しいわよねぇ。私、学校で眠っていたのかしら」
蝶子はため息をついた。
「学校で習ったんじゃない。ヨーロッパのことは自然に覚えるさ。俺は極東のことはほとんど知らない」
ヴィルは静かに言った。レネも首を縦に振って同意した。
「スイスのモルコテのことも知っていたし、もしかして、テデスコはこれまでもたくさん旅行していたの?」
蝶子は訊いた。ヴィルは頷いた。
ヴィルはフルートをやめてから、堰を切ったように旅行をしまくった。週末にスイスやオーストリアに行ったり、休暇でマルタや東欧、ギリシャやトルコにも行った。遠くへ行くことのできるどんな乗り物も好きだった。新しい土地を訪れるのも刺激的だった。レッスンを休んだことをなじられることもなく、窮屈な家庭に戻る必要がないのも嬉しかった。
道連れはいなくて、いつも一人だった。誰かと行くのが嫌だったというわけではないが、そういう関係の友情を築いたことがなかった。いつも一人だったので、誰かと行くことなど考えたこともなかった。
Artistas callejerosの仲間たちと訪れた土地の多くは、既に一度は来たことがあった。だが、それは全く別の経験だった。最初は、大道芸に有利だから一緒にいた三人だった。蝶子が誰だかわかったので、自分の正体を隠してメンバーに加わったArtistas callejerosだったが、もはや当初の目的はどうでもよくなってしまっていた。一緒に仕事をし、寝食を共にし、それから日常を楽しむ。その関係はヴィルが予想もしていない近さだった。旅で目にするもの、口にするものは、一人の時と全く違っていた。体験もまた、仲間とは切り離せないものになっていた。
「アルヘシラスにも来たことがある。ただ、同じものを見て、同じ空氣を吸っているはずなのに全く違うな。道連れがいるっていうのは、悪くない」
「特に食事の時はそうよね」
蝶子がとても嬉しそうに微笑むと、稔が混ぜっ返した。
「お前がいうのは、酒を飲む時って意味だろ」
「リボルノで誘ってもらえた時は、本当に嬉しかったですねぇ」
レネが感慨深げに言った。
「俺たち、全員がもともとは一人旅していたんだもんな」
稔も頷いた。
「あまり協調性なさそうなメンバーばかりなのにねぇ」
もっとも協調性のない蝶子がそういったので、みな笑った。
船は、ぐんぐん進み、あっという間にヨーロッパよりもアフリカ大陸が近くなった。そして、やがてセウタの港が見えて来た。
「ここがアフリカだとは信じられないな」
港を見回して稔が言った。
「そうね。なぜかしら?」
蝶子は少し考えて、やがて思い当たった。
「白人ばっかりじゃない」
「モロッコやその他の国から、移民が簡単に入ってこないように厳重に国境管理をしているんだ」
ヴィルが事情を説明した。
それはスペインよりも、もっとヨーロッパ的な町だった。表示がスペイン語で町のあちこちにバルがあるので、やはりスペインなのだと思う。けれど清潔で静かだ。ほかのアンダルシアの町のように、大きなヤシの木が南国らしい軽やかさを醸し出している。しかし、道ばたにプラスティックの買い物袋や缶が打ち捨てられているようなことがなかった。
坂を上って市街に入ると、植民地時代の建物が建っている。パラドールになっているホテルがあり、その真ん前は大聖堂だった。もう少し町中に入っていくと、細い道が少しだけ迷路のように奥へ導き、そこにはいくつかの安宿が存在した。
「あら、見て。あんなところに中華料理店があるわよ」
「本当だ。中国人って、こんなところまでやってきてたくましく商売するんだなあ」
蝶子と稔が感心して見ていた。
「たまにはアジアの食事がいいんじゃないですか?」
レネが訊いた。蝶子と稔は顔を見合わせた。
「米か。もうどのくらい食っていないかなあ」
「そういわれると、長いこと食べていないわよねぇ」
それを聞いて、ヴィルとレネはさっさとそのレストランに足を向けた。日本人二人は苦笑しながら彼らに続いた。
「ねえ。事情は別として、日本そのものには全くホームシックはないの?」
チャーハンをよそいながら、蝶子が稔に訊いた。
「あるさ。家族に対するホームシックもあるけれど、それとは全く関係なく日本的なものに突然たまらなくなることがある。発作みたいなもんかな。心臓がきゅっとつかまれるっていうか。でも、発作だから、しばらくすると治まっちゃうけどな。お蝶、お前は?」
稔は青島ビールを注ぎながら訊き返した。
「そうね。そういうことってあるわよね。例えば、蝉の声とか、入道雲なんかに弱いわ」
「いつかは日本に帰りたいと思っているんですか?」
レネがとても心配そうに訊いた。
蝶子は黙り込み、稔はしばらく考えてから答えた。
「難しい質問だな。今は帰りたいなんてことは全く思わないけれど、老人になった時にヨーロッパに俺の居場所があるのかなと思うこともある」
「そうね。でも、そうなったら日本にも居場所がなくなっているのかもしれないわね」
蝶子は遠い目をした。
「でも、そんな先の話はともかくさ。俺、早いうちに日本に連絡を取らなくちゃいけないんだよな」
「どうしてですか?」
「ほら、前にも言ったけど、俺そろそろパスポートを更新しなくちゃいけないんだ」
「あら、じゃあ、私も一緒にやってしまうわ。バルセロナには日本領事館があるもの、マラガの仕事が終わったらバルセロナに行って手続きしましょうよ」
「問題は戸籍謄本なんだよ。どうやって取得して、どこで受け取るかだよな」
「受け取るのは、やっぱりカルちゃんに頼んでコルタドの館に送らせてもらうのが現実的じゃない?」
「OK。だけど日本では誰に頼めばいいんだ?」
蝶子は考えこんでいた。稔が失踪中で家族に連絡をしたくない上、蝶子も親や妹とは連絡したくなかった。
「マドモワゼル・マヤはどうですか?」
レネが訊いた。Artistas callejerosが訪れたすべての町から葉書を受け取っている真耶のことを、レネは蝶子の大親友だと思っているのだ。そうでないことを知っている稔と蝶子は、真耶に頼むことなど全く考えてもおらず、そのアイデアに驚いて顔を見合わせた。
「そのくらいなら、頼んでもいいか?電話してみるか」
「そうね。でも、その前にある程度の事情を説明した手紙を書くことにするわ。彼女はすべてを分かっているわけじゃないんだもの」
そういって、蝶子はチリソースのかかった最後の車エビを稔の目前でかっさらった。
「おいっ。トカゲ女。それは俺が狙っていたエビだぞ」
「うかうかしている方が悪いのよ」
「箸を使っていると、僕たち不利ですよ」
レネがふくれっ面をした。
「でも、テデスコはけっこう箸使い上手いじゃないか」
稔が指摘した。
「いまや、ヨーロッパ中にアジアの店はあるからな。箸を使う機会も多くなった。だが、あんたたちとエビを奪い合うようなレベルにはとても達しないだろうな」
ヴィルはどちらかというと食べるよりもビールを飲む方に興味があるようだった。
「ねぇ。ここから、モロッコにも行けるんでしょう?滞在中に一度行ってみない?」
蝶子は焼きそばを注文してから言った。
「一番簡単なのはツアーに申し込むことだ。ヴィザやら、向こうでの交通やら、面倒なことをみんな省けるからな。長く滞在するつもりなら個人で行く方がいいが」
ヴィルがいうと、稔がもう一本ビールを頼んでから訊いた。
「一日で帰ってくるようなツアーもあるのかな」
「ある。ツアーの数が多いのは、日帰り、二泊、一週間ってところじゃないか」
「明日にでも、旅行会社で申し込んできませんか」
レネも嬉しそうに言った。
【小説】大道芸人たち (12)セウタ、 アフリカ大陸 -2-
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(12)セウタ、 アフリカ大陸 後編
モロッコで稼げるとは思えなかったので、四人は定休日にテトゥアンとタンジェをまわる一日ツアーでモロッコに入ることにした。昼食もついているし、パスポートコントロールもガイドまかせなので何の苦労もいらない。両替の必要すらない。
ものものしい国境でのコントロール、モロッコ側にたむろしている大量の人たち、道の脇に積み上げられたゴミの山などが、全くセウタとは違う世界だった。
「アフリカ大陸に来たって、ようやく納得できたわ」
「セウタは完全にヨーロッパだもんな」
「国境一つでこんなに違うんですね」
バスの窓の向こうに青い空と乾いた大地が広がっている。道行く人たちの服装が、歩き方が、たたずまいが異国的だ。
やがて、バスはテトゥアンの市内に入り、バザールの入り口で止まった。バザールの中は迷路のように入り組んでいた。白い壁には強い日光が照りつけているが、内部は暗く涼しい。カラフルな衣類や雑多な生活用品を売る店が続く。鍋類が鈴なりに飾られている店、平たいパンを窯で焼く店、それらを楽しそうにのぞきながら、ツアーガイドに連れられて先へと進んでいく。
もの憂げな顔の売り娘、偽ロレックスを買わないかともちかけるうろんな男達。ヨーロッパの市場と違うのは、一分でも人々が放っておいてくれないことだ。
やがてガイドは一行を絨毯屋に連れていった。絨毯を買う氣が全くない四人のにべもない断り方に、ついに販売をあきらめた売り子がほかの客に張り付いてくれたので、その間に四人は他の場所を見て回ることが出てきた。
蝶子はレネに通訳してもらって金の縁取りのあるティーグラスを四つ買った。
「そんなもん、どうするんだ?」
稔が訊いた。
「移動する時に、いつもワインをプラスチックで飲んでいるでしょう?ちゃんとしたワイングラスは難しいけれど、せめてガラスで飲みたくって」
「悪くないな。白ワインをこういうグラスで飲むこともあるからな」
ヴィルが言った。
「だから、四つ買ったの。いつ割れちゃうかわからないけれどね」
蝶子はウィンクした。
昼食は大きなタジン鍋に入ったクスクスと鶏と野菜のシチューで、すばらしい装飾のある大きなホールの真ん中では、ベリーダンスを踊る女性達がいる。レネはぼうっと嬉しそうにダンスを眺め、稔はクスクスにがっつき、ヴィルは観光客用のビールを遠慮なく飲んでいた。蝶子は遠慮してミントティーを頼んだものの、その甘さにうんざりしてすぐにヴィルと同じくビールに逃げた。
「モロッコで稼ぐことにしなくてよかったわね」
ビールの味に眉をひそめて蝶子が言った。イスラム国ではワインなんて絶対に飲めないし、ビールがあるのも観光客向けのレストランだけだ。
「そうだな」
ヴィルもスペインのセルベッサ(ビール)の味が恋しそうだった。
香辛料屋に連れて行かれ、それからバスに乗ってタンジェに行った。白い植民地時代の建物の残る港から海をのぞむ。
「なぜか、物悲しいわね。昨日見たのとおなじ海なのに」
蝶子が言った。
その通りだった。同じスペインに面した海を見ているのに、なぜかセウタで見た海とタンジェで見る海は全く違って見える。周りの人々、ほこりっぽい土地、空氣の匂い、それらがなんともいえない哀調を呼び起こしている。
帰りのバスから観る海に沈む橙色の太陽は、そのメランコリーをさらに強めた。四人は黙って海に消えてゆく夕日を眺めていた。
セウタに戻ると、沈んだ心を高揚させるべく、バルに入ってティントを頼んだ。先程モロッコにいたのが嘘のように、セウタは完膚なきまでのヨーロッパだった。蝶子は買ったティーグラスを取り出して眺めた。やはり、モロッコに行ったのは夢ではなかったのだ。
【小説】大道芸人たち (13)セビリヤ、 蛇 - 1 -
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(13)セビリヤ、 蛇 前編
カルロスの別荘はセビリヤの繁華街から近いものの、静かな一角にあった。四人は、言われた通りに、それぞれの部屋を決め、そこに一週間ほど滞在することにした。ドミトリーに泊まる時にはなかなかできない、昼間は稼ぎ、夜は騒ぐバルセロナ式生活パターンをここでも続けることができるのは有り難かった。
ドアが開いた。最初に目を向けたのはヴィルだった。それから他の三人も騒ぐのをやめてドアの方を見た。女が立っていた。ただの女ではない。ものすごい美女だった。緩やかにウェーブする豊かな黒髪を派手なスカーフで留めている。小さい顔の中で、すぐに目がいくのは、緑色のギラギラした瞳だった。それに真っ赤に縁取られた薄く形のいい唇に、完璧な弓形の眉。女優も真っ青の美人だ。スカーフと同じ絹の多彩なドレスをまとい、真っ赤なハイヒールは九センチだろう。
「¿Quiénes son ustedes?」
スペイン語で言われても、答えられる人間はいない。それを察して、女は英語に切り替えた。
「あなたたち、いったい誰?」
「コルタドさんの許可をもらって滞在しているものですが」
稔が答えた。
「ああ、そうなの。カルロス、私が時々使うって言っていなかった?」
女は言った。
「いいえ。何も聞いていませんが」
一番ドアの近くにいた蝶子が立ち上がって言った。急に空氣が変わった。二人の女が一瞬にしてお互いに反感を持ったのを、男三人は感じ取った。
「げ。ハブとマングース……」
稔はつい日本語でつぶやいて、振り向いた蝶子に睨まれた。
女は蝶子を無視して、その横を通り抜け、ぽーっとしているレネの前まで来るとにっこりと笑って手を差し出した。
「私は、エスメラルダ。私のことはカルロスに訊いて。今夜はここに泊まるから」
レネは反射的にその手に口づけをしてしまい、蝶子の視線を避けてうつむいた。エスメラルダは同じことをヴィルにもさせようとしたが、ドイツ人は女の美しさに全く感銘を受けた様子を見せずに無表情のまま頷いただけだった。当ての外れた女は、さらに勝手の違いそうな稔には、自分の神通力を試そうとはしなかった。
エスメラルダは、カップボードから、バカラのグラスを取ってくると、レネに微笑みかけた。蝶子の冷たい視線に戸惑いながらも、レネはおとなしくリオハのティントをそのグラスに注いだ。
「ありがとう」
一息に飲み干すとグラスをその場に置いて、冷やかすように蝶子を見ながら、香水の匂いをまき散らしてエスメラルダは居間を出て行った。そして、階段を上がると慣れた様子で奥の部屋に入っていった。
稔はにやにやと笑った。蝶子はきっとなって言った。
「何が面白いのよ」
「お前とあの女の戦い。実に興味深い」
「なによ。ブラン・ベックったら鼻の下伸ばしちゃって」
レネは赤くなって頭をかいた。
「このまま騒ぎ続けていいのか?」
ヴィルが言った。稔は、電話を取った。
「何かあったら、電話しろってギョロ目が言ったんだ。してみるか」
「えっ。エスメラルダが、そこに……」
電話の向こうでカルロスが絶句した。
「鍵を開けて普通に入ってきて、慣れた様子で部屋に行ったし、あんたとも親しげだったから特に断らなかったけど、まずかったのか?」
稔は困惑した。
「いや、本来はそんな簡単に出入りされちゃ困るんですが、まあ、今夜追い出すというのも剣呑なんで……。どちらにしても私は明日そちらに向かう予定ですから、朝に会ったらそう伝えてください。それを聞いたら逃げ出すかもしれないな」
カルロスは言った。
「なあ、ギョロ目、あれ、誰なんだ? あんたの親戚?」
稔が畳み掛けた。
「離婚した妻ですよ」
カルロスが答えた。
電話を切った稔にそれを聞かされた三人も絶句した。あれが、イネスさんの言っていた「結婚にはもうこりごり」か……。
「氣を遣う必要はないそうだ。好きなだけ騒ぎ続けろってさ」
稔はそういったが、なんとなくその夜の四人は静かになった。とはいえ、いつも通り真夜中まで飲んでいたが。
四人が朝食を食べていると、水色の透け透けのナイトガウンを着たまま、さも眠そうにエスメラルダが降りてきた。
「あんな遅くまで起きていたのに、もう起きたわけ?」
ちょうど胸の谷間が見えるようなポーズをして、赤くなるレネの隣に座ると、妖艶に笑いかけて
「私にもコーヒーをいれてくれる?」
ニヤニヤ笑う稔と冷たい蝶子の視線を避けるようにしながら、レネは美女の言うままにコーヒーをカップに注ぎ、さらに言われていないのに皿やカトラリーまで用意してやった。
「それで。あなたの名前を教えてくれないの?」
エスメラルダはレネが自分の魔力の支配から逃れないようにその瞳を捉えて言った。
「レネです」
「それから、お友達の名前は?」
「俺は稔だ。こっちが蝶子で、そっちはヴィル」
これ以上、かわいそうなレネが蝶子に睨まれないように、稔が助け舟を出した。
「あんた、ギョロ目の別れた奥さんなんだって?あいつに会いにきたのか?」
エスメラルダはけたけた笑った。
「ギョロ目ですって。あなたいい度胸しているわね。いいえ。私は彼に会いにきたわけじゃないわ。彼はバルセロナでしょ。私はセビリヤに来る時にはいつもここに泊まるっていうだけ。でも、彼が私に会いたいなら、別に会ってあげてもいいのよ。結局のところ、彼はまだ私に夢中みたいだから」
それから、ヴィルの方に向き直り、まさにエメラルドのように瞳を輝かせて言った。
「それで、あなたたちは何者なの?どうして、カルロスの別荘に泊まっているわけ?」
ヴィルは稔とレネが感心するほどの完全な無表情のまま短く返答した。
「俺たちは大道芸人のグループで、よくセニョール・コルタドの世話になっているんだ」
いつもと様子が違う。エスメラルダはイライラした。普段ならエスメラルダが登場するだけで、場にいる男のほぼ全員が彼女を求めて競争を始めるのだ。そして、エスメラルダはその場を自分の自由に操れるはずだった。いつも通りにいくのは、このひょろ長いフランス人だけじゃない。何を言ってもにやにやしているだけの日本人男と、この私と田舎のおばさんの違いもわからないみたいなこのドイツ人、それにだんだん得意げな顔に変わってきた腹の立つ日本女。なんでカルロスがこんな奴らの世話なんかしているのかしら。
「そろそろ時間よ」
蝶子が計ったらマイナス五十度ぐらいじゃないかと思われる冷たさで言って、皿をシンクに運び出した。
ヴィルは黙って自分とレネの使った皿をシンクに運び、蝶子の洗っていく皿を隣で拭き、稔はそれを棚にしまった。それから三人は出かける準備を済ませた。レネは自分も席を立とうとするのだが、その度にエスメラルダに話しかけられて、機を逸していた。
世話のかかるヤツだな。稔がテーブルに行って、レネを羽交い締めにして立たせながら言った。
「悪いな。俺たちこれから仕事なんだ。お楽しみは、前のダンナとやってくれ。直にここに来るらしいから」
「なんですって?」
稔はレネを押し出すように玄関に向かわせるとにやりと笑いながら食堂の扉を閉めた。
「ブラン・ベック、あなたったら本当に美女に弱いんだから」
蝶子はすでに怒っているというよりは呆れていた。レネは少々恥じて、不可抗力だということを立証するために稔とヴィルを見た。
ヴィルはエスメラルダに目や鼻が付いていたかも覚えていないといわんばかりだったので、稔の方に助けを求めるように言った。
「ヤスは、なんともないんですか? あの目に見つめられても」
稔は首を振って言った。
「ありゃあ、女としては、俺の一番苦手なタイプだ。お蝶どころじゃないよ」
「トカゲよりひどいのか」
ヴィルが珍しく楽しそうに訊いた。といっても、三人以外にはいつもの無表情にしか見えない程度の違いだったが。
「ありゃ、コブラだ」
稔の返事を聞いて蝶子は吹き出した。それから不思議そうにヴィルに訊いた。
「テデスコはどうなの?」
「何が」
「あの女よ」
「美人だし、セクシーだな。ベッドで楽しむにはやぶさかではないな」
「えっ。そう思っているようには見えなかったぞ」
稔がいうと、他の二人も頷いた。
ヴィルは肩をすくめた。
「あの女は、俺たちを支配しようとしていた。俺はそういうことをされるのが嫌いなんだ」
「なるほどね。あの女はゲルマン人へのアプローチ方法を変えるべきだな」
稔が笑った。
蝶子はヴィルに敬意を持った。支配に屈しない、それは蝶子ができなかったことだった。五年もの間、自分を支配し続けたエッシェンドルフ教授に対するたった一つの反抗は、彼のもとから失踪することだった。はじめから、きっぱりと教授を拒否できていれば、もっと早くに自由でいられたかもしれないのに。もちろん蝶子は知らなかった。ヴィル自身が人生の大半を教授に支配され、やはり蝶子と同じ方法で自由になったことなど。結局のところ蝶子のエスメラルダに対する激しい反感と、ヴィルの彼女に対する冷たい拒否は同じ根からきているのだった。
【小説】大道芸人たち (13)セビリヤ、 蛇 - 2 -
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(13)セビリヤ、 蛇 中編
氣温もかなり上がってきて、二月の終わりだというのに二十度近くあった。青い空とヒラルダの塔をバックにたわわに実るオレンジの木が南国であることを実感させてくれる。アンダルシアはもう春なのだ。大聖堂の近くはにぎわっていて、なかなか稼ぎがいがあった。
「マリポーサ!」
一休みしていると、カルロスの声がした。
「カルちゃん! 早かったじゃない。まだ午前中よ」
「一本、飛行機を早めたんですよ。会議は午後からですが、その前にあなたたちを捕まえたくてね」
「あんた、嫁に会ったのか?」
稔が訊いた。
「前妻です」
カルロスが訂正した。それから、首を振った。
「まだですよ。別に会いたくもないんですが。あなたたちは、午後もここで稼ぐんですか?」
「そうするつもりよ。カルちゃんの会議が終わったら、どこかで合流する?」
「そうですね。ここか、この辺りの店にいてください。私のよく行くタブラオを予約しておきます」
去っていくカルロスの後ろ姿を見ながら、稔はつぶやいた。
「コブラはまだ未練があるっていってなかったか?」
「会うと、ぼうっとなっちゃうんじゃないんですか」
レネが言った。
「ブラン・ベックが言うと説得力あるわね」
蝶子が笑った。コブラとトカゲを並べたら、ギョロ目はどっちを崇拝するんだろう。稔はそのシーンを思い浮かべてニヤついた。
そのタブラオには、もちろん観光客がいた。しかし、バスで大挙して押し寄せるような観光客ずれはしていなかった。それで、カルロスは外国からの客をセビリヤで接待する時にはよくここを使うのだった。ダンサーの元締めのマリア=ニエヴェスは六十五歳になるダンサーとしては盛りの過ぎたヒターナ(ジプシー女)だが、眼力と腕の動きだけは、若いダンサーが束になっても敵わない。実生活では、ジプシーたちの大いなる母として機能し、女としてはもちろん未だに現役だった。若かりし頃のカルロスに女の愉しみ方を教えたのもこの女だった。
カルロスがエスメラルダと婚約してこのタブラオにつれてきた時に、マリア=ニエヴェスは頭を振って言ったものだ。
「カルロス。あんたには女のことを、もう少しちゃんと教えたものだと思っていたよ」
カルロスは、ヒターナが美しいエスメラルダに妬いているのだと取り合わなかった。
「ああいう女とは、いくらでも寝るがいい。しかし、結婚なんかしちゃダメだ。やめられないなら、これだけは覚えておきなさい。あんたは骨の髄まで絞りとられて、ダメにされるよ。憎んで離婚できたら大したものだ。ドン・ホセにならないように、それだけは心しなさい」
カルロスとエスメラルダの結婚生活はそれでも八年ほど続いた。怒号と嫉妬と愛欲のループを永遠のごとく繰り返し、カルロスの身代が傾きかけ、それ以上に精神の崖っぷちまで追いつめられ、カルロスは一人でこのタブラオを訪れ、ようやくヒターナの忠告が正しかったことを認めた。そこで彼はようやく自己を取り戻し、なんとか妻から免れることができたのだ。マリア=ニエヴェスが単なる精神的な支えだけではなく、なんらかのジプシーの魔術を使って離婚にこぎ着けさせたと噂するものもあったが、真偽のほどは確かではない。しかし、カルロスがこのジプシー女にただの接待先の女主人以上の恩義を感じているのは確からしい。
カルロスがArtistas callejerosの四人を連れて行くと、マリア=ニエヴェスの娘婿であるミゲルは五人をすぐに上席に連れて行った。その席は、踊り手たちが出入りする入り口に近いけれど、舞台がどこよりもよく見え、そして、ただの観光客とは違う上等のタパスや酒が優先的に出てくるのだった。そして、ミゲルが中に引っ込むと直に、女主人が自ら出てきた。
「おや。毛色の違う連中を連れてきたんだね」
ヒターナはさも面白そうに四人を見つめた。カルロスが連れてくる海外からの経済人たちは、ジプシー女には大して興味をそそられないことが多かった。最初に興味を持ったのは、ギターを手にした稔だった。
「何か弾いてみておくれ」
ぶしつけに命じたのでカルロスは驚いたが、稔はフラメンコギターに興味があったので、喜んで短く『ベサメ・ムーチョ』を弾いた。もちろんフラメンコギター風ではなく、自分の慣れているようにではあったが。ジプシー女はじっと聴いていたが、満足したようだった。
「フラメンコギターの技法に興味があるかい」
「もちろん」
稔が言うと、女はミゲルを呼んだ。娘婿は自分のギターを持ってきた。
「同じ曲を弾いてやりな」
ミゲルは『ベサメ・ムーチョ』をフラメンコギターの技法で弾いた。稔は真剣にそれを聴いていた。やがて、同じように加わりだした。ミゲルは、稔に次々と新しい曲を教えた。稔は、熱心にその技法を追い、新しい技術をどんどんと吸収していった。
その間に、ジプシー女の興味は蝶子に移った。
「中国人かい」
女はカルロスに訊いた。
「いや、日本人です。あのギター弾きと同じで」
「おや。日本人には珍しいタイプだね。あんたが新しく夢中になっている女ってわけだね」
「まあ、そうですね。残念ながら、今のところパトロン化しているだけなんですが」
カルロスはあっさりと言った。
「あんたの趣味はわかっているよ。だが、この女にも氣をつけなさい。あの女のような邪悪さはないが、特別な女だ。巻き込まれると火傷をするよ」
首を傾げるカルロスにマリア=ニエヴェスは続けた。
「光だけの人間はいない。だが、光のあたらない部分が多いと、ドウェンデの炎が暗闇の中から勝手に燃えだす。この女は己の中にも、男の中にもそうした予期せぬ運命の火を生むタイプだよ。私の娘がこの女の半分もこの性質を持っていれば、さぞいい踊り手になるだろうに」
ジプシー女はため息をついた。カルロスはミゲルの妻であるマヌエラが朗らかでかわいらしい善良タイプであったのを思い出して笑った。ヒターナは蝶子を氣に入っているのだ。
「マリポーサはやはり芸術家です。フルートを吹くんですよ」
「そっちの金髪男は?」
「パントマイマーですが、やはり卓越したピアニストです」
「ゲルマン人には珍しく、ドゥエンデのあるタイプだね。いい音を出すのは聴かなくてもわかるよ。こっちの毛色の違う男は音楽家じゃないだろう?」
今度はレネの方を見て品定めをした。
「違います。手品師です。趣味のカード占いの腕は大したものときいています」
「おや、そうかい。それでも、自分のことは見えないだろうから、女に氣をつけるようにいってやりなさい」
スペイン語のわからない三人にも、品定めされているのはよくわかった。しかし、カルロスが特に目立った反応もしていなかったので、通訳してもらわないままで構わなかった。
いずれにしても、ジプシー女は四人がたいそう氣に入ったらしかった。
やがて、少しずつ客が入りだし、フラメンコショーが始まった。稔は、ショーの間中、空氣でできたギターを抱えてミゲルの奏でる音とリズムを体得しようとしていた。蝶子はマヌエラや他のダンサーたちの踊りを楽しんでいた。だが、一番感心したのは、マリア=ニエヴェスと卓越した中年のダンサーによる踊りだった。激しい動きなどは何もないのに、ギターと歌と手拍子に合わせて、二人はゆっくりと絡み合い激しい恋に落ちていく様を演じてみせる。肉感的な美しいマヌエラにぽうっとなっていたレネも、ワインを楽しみ踊りには大して興味がなさそうだったヴィルも、次第にその踊りに引き込まれていった。
ヴィルがその二人に重ねていたのは、クリスマスパーティの日の蝶子とカルロスのアルゼンチン・タンゴだった。同じ種類のアイレがそこにはある。今、踊っている二人に実生活でどのような関係があるかはわからない。ただの舞踊上のパートナーに過ぎないのかもしれない。しかし、踊るその瞬間には、実生活のパートナーや恋愛関係をすべて排除して、二人の間だけに火が熾る。時には、その火が実世界に飛び火することもあるだろう。多くのドラマがそうして生まれたはずだ。手拍子と、ギターと歌も、次第に踊り手の火に巻き込まれていく。ちょうど、あの日のヴィルのピアノが二人の踊りに強く影響されたように。
真夜中近くに、カルロスの別荘に戻ると、居間にはエスメラルダと若い男がいた。
「ここで何をしているのか、説明してもらえませんかね」
カルロスは、招かれざる客である前妻と、さらに招かれざる客である見知らぬ男に言った。
「退屈していたのよ。私、待たされるのは嫌いなの。知っているでしょう、カルロス」
「あなたとここで再会する約束をした覚えはありませんね。だいたい、何故ここの鍵をあなたが持っているんですか」
「私はどの別荘の鍵もまだ持っているわよ。私の荷物もまだ残っているし。私は私が好きな時にここを使うわ」
「あなたにその権利がもうないことは、認識していないんですか」
エスメラルダは、若い男を完全に無視して、カルロスに近づいてきた。オレンジ色と黒の鮮やかなワンピースが、優美なネコ科の動物のような動きに華やかさを添えている。緑色の目がギラギラと輝いている。うげ。コブラが鎌首をもたげているぞ。稔はぞくぞくとした。カルロスの近く、顔に息がかかるほどまでに寄り、赤いマニュキアのつややかな爪をカルロスのネクタイに這わせて下から上目遣いに覗き、低い声で言った。
「私に何かを禁じるなんてことは、あなたにはできない。そうでしょう?」
カルロスは息を飲んだ。エスメラルダは勝利を確信して微笑んだ。
しかし、その時、その空氣が壊れた。くすくす笑いが響いたのだ。笑っているのは稔と蝶子だった。あまりにも絵に描いたような悪女ぶりに我慢できなくなったのだ。エスメラルダに魅せられていたレネは怪訝な顔をし、ヴィルには何がおかしいのか理解できなかった。けれど、日本人二人には、この絵柄はギャグだった。
笑い声が響いたことで、カルロスは呪縛から解かれた。彼はあえて英語でエスメラルダに話しかけた。
「その若いお友達と一緒に、出て行ってくれませんか。はっきりさせておきましょう。あなたと私は完全に終わったんです。それはあなたも望んだことでしょう」
「私は自分の好きなようにするわ。カルロス、まさかあなた、この私よりもその日本人女の方がいいなんていうんじゃないでしょうね」
「あなたと比較するなんてマリポーサへの冒涜です」
そうか? トカゲとヘビの比較は俺もするけど。稔は小声の日本語でちゃかして、蝶子につねられた。
エスメラルダは、スペイン語で若い男に何か短く言うと、一行をきっと睨みつけながら、ものすごい勢いで出て行った。やがて表に停めてあったフェラーリが爆音を響かせて去っていった。
「マフラー壊れているんじゃないのか、あの車?」
稔がのんびりと言った。カルロスは大きく息をついて、稔に笑いかけた。
「助かりましたよ。あの女がどうにも出来ないのはヤス君がはじめてじゃないのかな」
稔は肩をすくめた。
「俺は、どっちかというと、今日の婆さんの娘みたいな女が好みでね」
「マヌエリータですか。確かにいい女ですが、やめておいた方がいいでしょうね」
「なぜ?」
「ミゲルはたいそう嫉妬深くてね。もう何人も怪我をしているんですよ」
蝶子が吹き出した。
【小説】大道芸人たち (13)セビリヤ、 蛇 - 3 -
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(13)セビリヤ、 蛇 後編
カルロスは、マリア=ニエヴェスの忠告を伝えるのをすっかり忘れていた。いつも四人が一緒にいるので油断していたのかもしれない。また、あれだけ恥をかかされたのに、再び前妻が別荘にやってくるとは思ってもいなかったこともある。
エスメラルダの面の皮は厚かった。意地になっていたのかもしれない。翌日四人が戻ってくると、またしても居間に陣取っていた。
「カルロスはどこ?」
「バロセロナに帰ったよ。あんた、昨日ギョロ目に言われたことを聞いていなかったのか?」
稔が呆れて言った。
「なんのこと?」
「ギョロ目はあんたがここを自宅のように使うことに同意していないじゃないか」
「そう? でも、私は、ここが好きなの。どっちにしてもあなたに命令される筋合いはないのよ」
「そんなにカルちゃんが好きなら、どうして離婚したわけ?」
蝶子が意地悪く訊いた。エスメラルダの目が吊り上がった。よりにもよってこの女にそんなことを言われるなんて。
「誰が、誰を好きですって?」
二人の間だけ空間が歪んでいるようだった。稔は首をすくめた。くわばわくわばら。なぜこの手の女たちってのはこうなんだよ。
稔の観察によれば、少なくともこれはカルロスの愛をめぐる戦いではなかった。蝶子はカルロスになついていたが、それは明らかに恋愛関係とは無縁だった。その判断は妙といってもいいかもしれない。バルセロナの館では、蝶子は何度もカルロスと二人で部屋にこもっていた。つまり二人には少なくとも『外泊』に相当する程度の男女関係があると稔は見ていた。それでいながら、蝶子はカルロスに対して恋愛感情を持ち合わせているようには見えなかった。むしろArtistas callejerosのメンバーに対するような感情に近いと判断していた。その二つは本来相容れないものだった。蝶子の人間関係には、例のハードディスクのたとえでいうところの『重要書類』と『どうでもいい書類』しかなかったはずだった。そして『重要書類』とは一切ややこしい関係にならないと決めているようだった。しかし、カルロスだけはその中間にいるようだ。そんな複雑なことが可能なんだろうか?恋愛感情なしに体だけの関係を持ちつつ、固い信頼関係を築くなんて。
この前妻だって、カルロスに未練があるようには見えなかった。カルロスの持つ物質的な贅沢に対する未練は大いにあるようだったが。もしかすると、これはカルロスの物質的な寵愛をめぐる、女同士の戦いなのかもしれない。そうだとしたら、ギョロ目はかわいそうな男だな。稔は考えた。
エスメラルダは短い沈黙を破った。
「はっきりさせておくわ。私が彼に我慢ならなくなったの。私のような女は束縛されるのがたまらないの。それに程度の低い女に侮辱されるのもね」
「そう? あなたの行動は、そんなふうには見えないわ」
蝶子は興味を失ったように言った。
エスメラルダは本氣になった。つまり、この日本女の鼻っ柱を折ってやると、固く決意したのだった。エスメラルダのような女にとって一番の屈辱とは取り巻きの男たちを取られることであった。それで、コブラ女はなんとしてでも蝶子の周りの三人の男を自分に膝まづかせてやろうと決意したのだ。
エスメラルダが彼女の部屋と決めている豪華な寝室に消えたので、四人はこの変な対決は終わったものだと思っていた。いつものように夜更けまで飲んでいたが、やがて就寝した。
「おはよう」
蝶子が食堂に入ってきた時、ヴィルと稔が妙な顔で迎えた。
「おはよう、どうしたの?」
蝶子は二人の顔を見比べながら訊いた。稔が首を傾げながら答えた。
「ブラン・ベックがいないんだ」
「いないってどういうこと? まだ寝ているんじゃなくて?」
「朝起きたら、あいつの寝ていた部屋のドアが開いていて、ベッドは空だった」
稔の言葉に蝶子は目を白黒した。
「あんな遅くに、もしくは早朝に出かけたってこと?」
「外出用の靴は残っている」
ヴィルが短く補足した。
蝶子は食堂を出て、階段の上のエスメラルダの使っている部屋の方を見た。ドアは閉じられたままだ。いずれにしてもあの女はそんなに早くは起きてこない。
「そういうことだと思う」
稔が後ろから付いてきて腕を組んだ。
「やるわね、あの女」
蝶子は笑った。
「笑い事じゃない」
ヴィルが言った。
「心配しているの? ブラン・ベックはティーンエイジャーじゃないわ」
「だが、あんたみたいに恋愛慣れしているわけじゃないだろう」
蝶子は肩をすくめて食堂に戻った。
「朝食、食べましょう。で、ブラン・ベックが来たら、次の行き先についてみんなで話をすればいいんじゃない?」
三人が一致すれば、多数決は成立する。つまりすぐにでもブラン・ベックをセビリヤから引き離すことが可能だった。
「さあな。俺はまずはあいつがどうしたいか、訊いてみたいよ」
稔が食堂の入り口を見ながら言った。
いつもの出かける時間を三十分過ぎても、階段の上の部屋のドアは閉じられたままだった。それで、三人は諦めて三人で大聖堂前に行った。仕事をしていれば、そのうちにレネが来るだろうと思ったのだ。
レネは、実際に昼近くにやってきた。皮肉を言うのもためらわれるほどうなだれていているので、稔は何も言わずに手品を始めるようにと合図をした。それから一時間ほど稼いでから、全員で広場前のバルに食事に入った。
レネは食欲がないらしく、飲み物しか注文しなかった。
ヴィルがレネの好きなオリーブを差し出してやると、楊枝に刺したまましばらく手にしていたが、やがて眼鏡を取って腕で目を拭った。
パン・タパスをかじっていた稔も、ティント・デ・ベラーノを飲んでいた蝶子も、手を止めた。ヴィルがセルベッサのグラスを押しやって、珍しく最初の口を切った。
「どうした」
「僕、馬鹿だなって……」
蝶子は賢明にも発言を控えた。ただし、彼女にしては優しい表情でレネを見ていた。稔が静かに言った。
「お前、すぐにでもセビリヤから離れたいか?それとももう少しここにいたいのか?」
レネはしばらく下を向いて黙っていたが、やがて再び目を拭うと、顔を上げた。心配する蝶子と目が合った。彼女が全く怒っているように見えなかったので、まずはほっとした。
「僕、どうしたらいいか、わからないんです。この前から、ずっとそうなんです。あの人が来ると、他には何も考えられなくなってしまって、でも、あの人はいとも簡単にいなくなってしまう。そうなるとほっとするのに、どこかでずっと待っているんです」
蝶子は、そういう支配に覚えがあった。エッシェンドルフ教授のレッスン内容がお世辞にも純粋なフルートのレッスンとはいえなくなった時に、蝶子ははっきりと断ることができなかった。それどころか蝶子は次のレッスンを待ち望んでいた。やがて教授は蝶子に下宿を引き払って館に遷ってくるように命じた。蝶子はそれに逆らわなかった。週に一度のレッスン時間はあまりにも短かった。蝶子は、フルートのレッスンを邪魔されたくなかった。しかし、その時間に代わりに行われている教授の別レッスンはもっと頻繁にしてほしかった。
「あの人が僕に興味がないのなんかわかり切っています。ヤスとテデスコが簡単にはいかないので、僕にとっかかりを求めているんだってことも」
けれど、レネはエスメラルダに恋をしてしまっているのだった。蝶子への憧れや、今までぽうっとなった多くの女性たちとはわけが違った。パリでつきあっていたアシスタントのジョセフィーヌとも全く違った。彼女たちは意思の力でレネを狂わそうとしたりなどしなかった。それが可能なわけでもなかった。
「行き先の候補はある?」
蝶子が静かに言った。レネが自ら決められないならば、仲間が決定してもいいだろう。時に人は誰かに行動を決定してもらいたいものなのだ。特に、こういう状況の時には。
ヴィルも蝶子と同じ考えだったので具体的に答えた。
「三十キロくらい先に、カルモナという小さい城下町がある。一度行ってみたいと思っていた」
レネがセビリヤに舞い戻ろうとすればできなくはない距離だが、近すぎもしない絶妙な立地だった。
「なら、私もそこに行ってみたいわ」
「OK。三票目だ。これで決まりだな。夕方のバスに間に合うように荷造りだ」
稔が言った。レネはだまって頷いた。
「何をしているの」
居間で荷づくりしているヴィルの後ろからきつい香水の香りが漂ってきた。女の腕が蔦のようにヴィルの周りに絡み付いた。ヴィルは嫌悪感を覚えたので自分で驚いた。
「抱きつく相手を間違っているぞ」
「いいえ。私は今、あなたに問いかけているのよ」
女は豊かな胸をヴィルの背に押し付けた。
「あんたはそんなことまでしなくちゃいけないほど、シュメッタリングにプライドを傷つけられたってわけか」
折しも居間に自分の荷物を運んできた蝶子が、その光景を見て立ち止まった。まあ、テデスコったら、この状況でも冷静だこと。さすがSS(ナチス親衛隊)のお仲間ね。
エスメラルダはまだ自信たっぷりだった。
「そうでもないわ。でも、あなたまでが私に夢中と知ったら、そこの女性はさぞショックでしょうね」
ヴィルは振り向いて蝶子がそこにいるのを見た。その振り向いた顔にエスメラルダが顔を近づけてまともにキスをした。蝶子は興味津々でそのまま見ていた。エスメラルダの行為ではなく、蝶子の物見高い冷静な態度がヴィルをいらつかせた。珍しく手荒に女を振りほどくと、口紅の付いた唇を拭いながら、荷物を持って、入ってきた稔とすれ違い様に玄関の方へ出て行った。
蝶子は笑った。
「馬鹿ね。あれはテデスコに対する最悪のアプローチよ。他のドイツ人でもっと練習した方がいいんじゃないの?」
逆上したエスメラルダが近づいてきて、男たちへの誘惑よりも、もっとしたかったことを実行に移した。つまり蝶子に平手打ちを食わせようとした。稔がそのエスメラルダの手を捉えてねじり、簡単に地面に突き倒した。稔はヴィルと違って、女性に対する礼儀などという概念は全く持ち合わせていなかったのだ。倒れた女を軽蔑したさまで見下ろすと、階段の方に向かって怒鳴った。
「さあ、行くぞ。ブラン・ベック。早くしろ」
それから蝶子の肩を抱いてにやりと笑うと、やはり玄関の方に向かった。玄関に、レネが直接やってきた。レネがコブラ女に会わないようにできるだけ急いで、三人はレネをガードするかのようにカルロスの別荘を後にした。女のヒステリックな泣き声にレネは何度も振り向いたが、三人が阻んでいて、戻ることは叶わなかった。
カルモナ行きのバスは夕方の五時に出発した。稔はレネの荷物を頭上の棚に載せてやった。
「ヤスは恋したことってないんですか」
レネは訊いた。
「あるさ。たくさん。失恋もお前並にしているよ。単にああいうタイプじゃないだけだ」
「そうですか。だから優しいんですね」
「失恋経験と優しさはあまり関係ないさ。俺は、いや、俺たちはみんなお前が心配なんだ。大事な友達だからな」
レネは夕闇の中に遠ざかるセビリヤの街を振り返った。レネにとっても疑う余地はなかった。あの女をどれだけ好きであるとしても、この仲間達と離ればなれになることは考えられなかった。
【小説】大道芸人たち (14)カルモナ、白い午後 -1-
この章も長く二回に分けての更新です。単なる酒飲みの仲間の旅行から、少しずつ関係が動き出しています。
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(14)カルモナ、白い午後 前編
春先であっても、白い壁に反射する光は強かった。迷宮のように入り組む白い壁。開けられたいくつかの家の玄関からは、アラベスク模様のタイルが敷き詰められた涼しげな中庭が見えた。アンダルシアに残るイスラム世界の名残りは、訪れる人に異国情緒を与える。
バルの表に出た椅子に腰掛けて、ヴィルは通りかかったドイツ人たちの会話を意識もせずに聞いていた。
「今夜はどのチームだ?」
「バイエル・レヴァークーゼンとSCフライブルグだよ」
「やめてよ。アンダルシアに来てまでなぜサッカーを見なきゃいけないわけ?」
大方のドイツ男のサッカー好きは異常だと、大抵のドイツ女は思っている。そうであっても、サッカーのルールさえも知らないドイツ女はやはり珍しいに違いない。アウグスブルグの小さな劇団に所属して、一番最初にヴィルが戸惑ったのは、演技でも演出でもなく、このサッカーの話題についていけないことだった。ゴールにボールを入れる事ぐらいしか知らなかったからだ。
ヴィルは他の子供たちと一緒に遊ぶ機会がないまま成人した。幼稚園の頃に始めさせられた音楽教育で多忙を極めたからだ。エッシェンドルフ教授の心はとうに離れていたが、母親のマルガレーテ・シュトルツはそれを認められなかった。息子を認知はしたものの、共に住む事も教育する事にも興味のない教授の目に留まるようにと、彼女は躍起になった。やがて、フルートとピアノの両方で天賦の才能を発揮しだしたヴィルに教授は興味を持ち、急に父親顔をしだしたので、マルガレーテは我が意を得たりと、さらに夢中になってヴィルを追い立てた。
学校で同級生たちが母親の手作りのパイの話をしたり、家族でイタリアにキャンプに行ったという話をした時に、ヴィルは自分の家庭は他と違う事を認識した。両親にとって愛情とは音楽を教え込む事だった。優しく抱きしめられた記憶もなければ、サッカーの練習や釣りなどで笑い合いながら語ったこともなかった。クリスマスのガチョウを家族で囲んだ事もなかった。学校の成績が悪いと「エッシェンドルフの跡継ぎにふさわしくない」と怒られ、夏休みの子供キャンプに行きたいと言えば、「フルートのレッスンに差し支える」と却下された。
父親は、そのうちにフルートのレッスンだけではなく、生活の全ての事に口を出すようになった。いずれは自分の跡継ぎとして社交界デビューをするために、上流社会のしきたりや振舞が完璧でなくてはならない。テーブルマナー、手紙の書き方、立ち居振る舞い、社交ダンス。教え込まなくてはならない事は山のようにある。あの低俗な母親には任せておけない。それが父親の考えだった。ヴィルにはほとんど自分の時間がなかった。母親と住むアウグスブルグと、父親のミュンヘンの館を移動する電車の中だけが、ヴィルに許された学校以外で音楽と父親の支配から離れられる時間だった。
父親の厳しい指導の成果が上がり、フルートの技術は急激に向上した。父親がいい教師に変えさせてから、ピアノの技術もピアニスト志望の生徒を軽々と超えてしまった。
だが、ヴィルは大きな問題を抱えていた。抑え続けられたために日常生活で感情を表現できなくなってしまったのだ。思春期の性の目覚めの時期にも、両親や音楽の教師たちは無頓着だった。彼の感情表現は奏でる音楽の中だけに集中した。それがますます音楽の才能を伸ばしたので、誰も彼の問題に真剣に取り組まなかった。
十九歳の時、ヴィルはフルートのコンクールで優勝した。父親は、息子のデビューのために着々と準備を進めていた。大学に入学して以来、ヴィルは母親のフラットを出てWG(共同生活)で暮らし始めていたのだが、父親は契約を解除してミュンヘンのエッシェンドルフの館に遷れと命じた。
ヴィルは、突然我慢が出来なくなった。遅い反抗期だったのかもしれない。フルートをやめると宣言した。父親も母親も許さなかった。自分はもう児童ではない、強制はできないはずだと言い切った。そして、前から興味のあった演劇の道に入った。
劇団の雑用係を兼ねて演技指導をしてもらう所から始めた。人と上手く接する事が出来ないのは感情表現の問題だと思っていたので、その指導はフルート以上に役に立つはずだった。そして、確かにある意味では役に立った。ヴィルはあっという間に演技の技術も習得していった。子供の頃から厳しい指導に慣れていたので自己克己が並大抵ではなかった。加えて自己流の感情表現がほとんどなかったために、技術としてそれを表現する事に全く抵抗がなかった。しかし、職業としての演技は身に付いても、単に仮面が増えただけのことだった。自分の真の感情を適切に表現するのはかえって難しくなってしまった。
恋も上手く出来なかった。本能としての性欲の対象として女性とつきあう事は出来ても、相手に対する恋情も愛情も生まれてこなかった。
それでも劇団の仲間たちは次第にヴィルを受け入れてくれた。「変なヤツ」であることを前提に、一緒にビールを飲み、オクトーバーフェストに出かけ、サッカーのルールを丁寧に解説し、演劇の未来について自説を熱く語ってくれた。演技力を買って、準主役級の役をつけてくれる事もたびたびになってきた。だが、もちろん演劇だけでは食べられなかったので、ナイトクラブでピアノを弾いた。こちらの腕は言うまでもなく確かだったので、生活に困る事もなかった。
その八年間に、父親は新しい生徒を見つけたようだった。たまに呼び出されて帰ると、母親の酒量が増えていた。父親が女の生徒に手を出すのはいつもの事じゃないかと言っても、母親はお前のせいだと責め立てた。お前がフルートを続けて、館に遷っていれば、あの女の出る幕はなかったはずだと言って。どうやら父親はその女を館に住まわせているらしかった。フルートの教えだけでなく、パートナーとしてありとあらゆる場所に連れていくらしい。
やがて、婚約したので、未来の母親に会えと父親から連絡が来た。
「結婚するのはそっちの勝手だ。俺には関係ないだろう」
「馬鹿なことを言うな。フルートはやめても、お前がエッシェンドルフの跡継ぎである事は変わらない。家族の一員として、会うんだ」
その有無を言わせぬ言い方に腹が立った。
マルガレーテは大きなショックを受けたらしかった。たとえ、教授が何人の女に手を出そうとも、最後に選ばれて妻になるのは彼女のはずであった。それを奪った女への憎しみが爆発した。
「絶対に許さない。姑息な牝犬め」
シュナップスを飲み暴れる母親から、ヴィルはその瓶を取り上げてから帰った。みっともない姿に心からうんざりしていた。それが生きていた母親を見た最後だった。
翌日、母親が死んだという報せを受けて、仕事を休んで飛んでいった。睡眠剤と酒の相乗効果だと医者に説明された。父親にそのことを報せようとミュンヘンの館に電話したら、ザルツブルグ音楽祭に行っていると言われた。連絡がとれ報せた時にも、大して興味はなさそうだった。
ヴィル自身は混乱していた。亡くなった母親との関係は良好とは言えなかった。自分はずっと父親の氣を引くための道具のように感じていた。だが、だからといってまったく思い出がないわけではない。厳しい音楽の教育ばかりが押さえつけて来た記憶の隅々に、やはり息子を愛していたごく普通の母親としての顔があった。もっと優しくしてあげるべきだったかもしれない。もっと話をすべきだったかもしれない。あんな男にこだわるのはやめて、自分の人生を生きろと。だがすべてもう遅すぎた。一方で、少しだけほっとしている自分もいた。全く望みのない夢にこだわる愚かな女の妄執を、もう蔑まずに済むことをありがたく思っていた。そう感じる自分の冷たさにショックを感じてもいた。
母親の葬儀を済ませて、事後処理をしていると、父親の秘書からすぐに来てほしいと連絡が入った。
「お父様が大変なショックを受けておられて、あなたを必要としています」
そう言われたのだ。行ってみると、婚約者が失踪して、完全に取り乱した父親がそこにいた。
「ドイツ人の同胞に惹かれるの?」
蝶子が皮肉っぽく笑っていた。まぶしい光の中に、ヴィルは戻って来た。そこに座っているのは華奢な日本人。冷淡で奔放なのに、たぶん世界で一番近く感じる女だ。この女が誰なのかを知る前に、鋭く腹の立つ物言いと守る氣にまったくさせない強さを知る前に、ヴィルは彼女の奏でるフルートの音色を聴いていた。それが蝶子の印象を決めた。自分にとって感情の発露がフルートとピアノだったので、彼は他人の音色にも敏感だった。ヴィルは透明で美しい音色の奥底に痛みを感じた。理解してもらえなかった過去と折り合いをつけて生きているのがわかった。そして冷静な表面の奥には、隠せない情熱の炎が燃え盛っていた。
稔の印象も三味線の音が決めた。明るく力強く愉快だが、その音は単純ではなく、深みの度に違う音色の層が重なっていた。そしてずっと底の方に危うさがある。リーダーとしての思いやりがあり、きちんとした周到さがあるかと思えば、無頓着でちゃらんぽらんな所もある。そのバランスが絶妙だった。実際、稔はグループのバランスを上手にとっていた。蝶子、レネ、ヴィルとあまりにも個性の違う三人だけだったなら、一週間と持たなかったかもしれない。稔はArtistas callejerosの要石だった。
レネは、ヴィルにとってはじめて身近なフランス人だった。フランスは国境を接した隣国であるのに、ドイツ人にとってのフランス人は極東の日本人よりも遠い事がある。レネは典型的なフランス人だった。実際的ではなく、ロマンチストで、惚れっぽい。言う事が理論に則っておらず、さらに時間に正確ではない。けれど、ヴィルは最初の日にもう、この情けないフランス人が大好きになってしまった。ヴィルはこれほど柔らかく、感情を大切にする人間に会ったことがなかった。人に優しくて、人懐っこい。蝶子にいいようにあしらわれても、子犬のように尻尾を振っている。そして、その優しさと柔らかさの下に、静かな知性が光っている。図書館がそのひょろ長い肢体のどこかに詰まっているようだった。移動の度に新しい本を読んでいた。もちろん、荷物の量が限られているので、読み終わった本はどこかに行くのだが、一度読んだ本の内容は全て彼の内なる図書館に収められるらしかった。とくに詩の知識は豊富で、フランス語だけでなく、英語もドイツ語もイタリア語もすべて原語で暗記しているらしかった。けれど、その膨大な知識には全く嫌味がなかった。
ドイツ人の同胞に惹かれるなんてとんでもない。そこにいるやつらはサッカーの話しかしない。
「サッカーには興味はない」
蝶子は片眉を上げた。ヴィルがArtistas callejerosにいて心地のいい事の一つに、仲間たちの反応があった。ヴィルが必要最小限の事しか言わなくても、極わずかな表情しか見せなくても、彼らはそれを簡単に理解した。そして、それ以上を要求しなかった。
レネが本屋に行き、稔が散髪に行っているのを待つ間、蝶子は、ティント・デ・ベラーノを傾けて園城真耶あての手紙を書いていた。稔と蝶子のパスポート更新のためには戸籍謄本が必要だった。二人とも家族には頼めないので、委任状を書いて代わりに取得してもらわなくてはならなかった。それを頼めるのは今の二人には真耶しかいなかった。
ヴィルには蝶子を観察する時間がたっぷりあった。父親が会うようにと命じた婚約者。日本人だとは聞いていたので、見かけが予想と大きく離れていたわけではない。しかし、こんな生意氣な女にあの父親が夢中になったとはとても信じられない、ミラノではそう思った。威圧的で周りを支配しないではいられないハインリヒ・ラインハルト・フライヘル・フォン・エッシェンドルフが、この女に振り回されたのだ。
だが一緒にいる間に、ヴィルは少しずつ理解するようになった。蝶子には魔性があった。怜悧な近寄りがたい横顔から一転して溢れる笑顔になる時がある。こちらの心を突き通すような魅惑的な目つきでかすかに微笑む事がある。そして厳しく挑むような表情で考え込んでいるときもある。レネのような初心な若者はもちろん、カルロスのような人生経験の豊かな男も、ロッコ氏のような広く浅くどのような女でも好む男も、蝶子の魅力に簡単に振り回される。そして、それはヴィルも例外ではなかった。
ヴィルはどちらかというと女を見下してきたので、以前は女に振り回される男を軽蔑していた。蝶子を念入りに観察してきたのは、父親がなぜこの女に夢中になったのか知りたいためだったが、そんな事はすべきではなかった。自覚したのはバルセロナだった。自分の中に今まで一度も感じた事のない感情が芽生えていた。蝶子とアルゼンチン・タンゴを踊るカルロスに対するいわれのない嫌悪感、それは嫉妬だった。
【小説】大道芸人たち (14)カルモナ、白い午後 -2-
さて、二回に分けたカルモナの章の後編です。
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(14)カルモナ、白い午後 後編
「二人は遅いわね。もう一杯頼もうかな。テデスコ、あなたは?」
空になったティント・デ・ベラーノのグラスを振りながら蝶子が訊いた。
ヴィルは黙って自分の空になったセルベッサのグラスを示した。蝶子は肩をすくめるとウェイトレスを呼び、二人分のお替わりを注文した。
「さ。私は書き終えたから、ひと言書いてちょうだい」
蝶子は、便せんをヴィルに渡した。
「一足早い春を楽しんでいる」
そう書き添えた。蝶子が覗き込んでいった。
「テデスコって、まさにドイツ人っていう字を書くのよね。きっちりとして、読みやすい、カリグラフィのお手本みたい」
「あんたの字の方がきれいだ」
「ドイツで仕込まれたのよ。汚い字は人生の面汚しだって」
蝶子はせせら笑うように言った。親父のいいそうな事だ。ヴィルは思った。
ヴィルの字も父親に強制された結果だった。ロッコ氏が感心した蝶子とヴィルの身のこなしも、偏執狂的と言ってもいいほどの完璧主義のエッシェンドルフ教授の厳しい教育の成果だった。もちろん二人の奏でる音楽も。蝶子とヴィルはどちらも教授の自慢の作品だった。ヴィルは幼少の頃から父親の美意識を叩き込まれて育った。どれほど反発し、憎むようになっても、同じ音楽を愛するように、女に対しても同じ理想をどこかに持っていたのかもしれない。よりにもよってなぜこの女なんだ。世界中にはこんなに女がいるのに。
ヴィルには三つものハンデがあった。一つははじめての経験でどう感情表現していいか、まったくわからないことだった。舞台の演技とは全く違う。セックスだけが目的で行きずりの女を誘うのともわけが違う。二つ目のハンデは蝶子がArtistas callejerosの仲間は恋愛除外に指定している事だった。こんなに近くにいるのに。そして三つ目は、自分が誰だか明らかに出来ない事情だった。さっさとこんな馬鹿げた感情は摘み取ってしまわなくては、ヴィルはそう思っていた。しかし、それと反対に心は動いた。
「おい、ブラン・ベック。いい本が買えたのか」
「ええ。なんとロルカのフランス語対訳本があったんですよ。セビリヤにはなかったから期待していなかったんですけれど」
稔はレネがコブラ女の呪縛から放たれたことを感じてほっとしていた。基本的にこの手の呪縛からの解放には物理的な距離が大きな助けとなるのだ。ひとまず安心だな。だが、稔はArtistas callejerosの潜在的なリーダーとして、もう一つの呪縛には同じ解決策を適用できないことを感じていた。
稔は、かなり先に見えているバルに座っている蝶子とヴィルを見て腕を組んだ。蝶子が何か紙を覗き込んでいるのだが、ヴィルはその蝶子を見つめていた。
「おい。どう思う」
稔は顎で二人を指して言った。
「どうって、あの二人のことですか」
レネは答えに困った。
「テデスコだよ。やばいよな」
「やばいって、何がですか」
「トカゲ女にはまったらしい」
レネは多少ふくれっ面で抗議した。
「僕だって、パビヨンをずっと好きだったのに、ヤスはなんでテデスコだけ心配するんですか」
稔は笑った。
「そうだっけな。でも、お前はいいんだよ。だって、トカゲ女だけじゃなくて、あっちにもこっちにも惚れて、黙って思い詰めているわけじゃないじゃないか」
そういわれてみれば、その通りだった。
「でも、テデスコだって『外泊』とかしていたじゃないですか」
「それだよ」
稔は再び考え込むような顔になった。
「あいつ、『外泊』しなくなっちゃったじゃないか。相当マジになりかけているってことだろ」
「そんなに心配することなんですか? パピヨンが素敵なのは事実だし、別にいいと思うんですけれど」
稔は少し黙った。
あれはアルヘシラスに向かうバスの中だった。グラナダで遅くまで飲んでいて、朝が早かったので、蝶子はバスの中で眠っていた。誰が誰の隣に座るなどということは誰も氣にしていない。その日は稔が蝶子の隣だった。深く眠りに落ちて、蝶子は稔にもたれかかった。
口をきかなければ、こいつかわいいじゃん。稔はそう思った。けれど、次第に重くなってきた。特に肩甲骨の上に重みをかけられると痛い。
「ちょいと、ごめんよ」
そういいながら、稔は蝶子の頭を少し動かした。それが日本語だったので、深い眠りから戻ってこなかった蝶子は自然に日本語で寝ぼけた。
「やめてよ。眠いの」
そういって、こんどは稔の腕に顔を埋めてしまった。おい。トカゲ女。誰がそんなことしていいって言った。そのときに蝶子の日本語の声でこちらを振り向いたヴィルと目が合った。
ヴィルはいつもの無表情だった。けれど、その乏しい表情から正確な喜怒哀楽を読み取る能力のある稔は、ヴィルの心の痛みを即座に感じ取った。いや、こいつが寝ぼけているだけで、俺とトカゲ女は全くなんでもないから。稔は目で必死に訴えたが、ヴィルは何も言わずに目をそらした。げ。こいつマジかよ。稔はそのときにヴィルが蝶子に魅かれていることを知ったのだ。こんなやつ、やめた方がいいって。稔は思った。けれど、人の心が止められないことぐらい、稔にはよくわかっていた。
「テデスコはお前と違って、想いを外に出せないだろう。クールに見えるけれど、そうとうの情熱家なのは音を聴けばわかる。ああやって黙っていると、どんどんはまると思うんだけどなあ」
「テデスコは口や表情には出さなくても、ちゃんと想いを外に出していますよ」
レネが言った。
「ん?」
「ピアノ、すごくロマンティックに弾くじゃないですか」
「それだよ。この間のピアソラ。あんなに苦しい音を出されたんじゃ、こっちが持たないじゃないか」
【小説】大道芸人たち (15)ロンダ、崖の上より
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(15)ロンダ、崖の上より
「ヤスは、遅いわねぇ。今からみんなで出るとすれ違っちゃうかもしれないし、どうしようかしら」
蝶子は買い出しにはもうあまり時間がないと、心配して時計を見た。
稔は園城真耶に電話をしにいっていた。蝶子がそろそろ手紙が着いた頃なので電話をしにいくというと、大学以来面識のない自分の分まで戸籍謄本をとってもらうのに、挨拶の一言もないというのは礼儀にかなわないと主張した。それももっともだと蝶子も思ったので、電話の方は稔に頼むことにしたのだ。しかし、思ったよりも時間がかかっているようだった。
「二人で行ってきてください。ヤスが帰ってきたら、そういいますから」
レネが言った。
「なんだか熱っぽいんです。今晩は食事抜きで寝ていますよ」
怪訝な顔で蝶子はぐったりするレネの額に手を置いた。レネは赤い顔をもっと赤くした。
「いやだ。すごい熱じゃない! 今すぐベッドに入って」
蝶子は命令した。ヴィルはすぐに上着を取り、出て行く準備を始めた。閉店前に薬を買ってこなくてはならない。蝶子は「すぐにもどるから」と言ってヴィルと一緒に外に出た。
「確か、パラドール前の広場に薬局があったはずよ」
その通りだった。ヴィルは熱冷ましの薬と体温計を買った。
蝶子は外に出ると言った。
「ビタミンCも摂った方がいいわよね。オレンジかしら。ついでに買いに行きましょう」
「交渉は、あんたがするんだな」
ヴィルはぼそっと言った。蝶子は吹き出した。はじめて会った時、この人イタリアの果物屋の親父にぼったくられていたわよね。
果物屋を求めて、橋の向こう側へと渡る。橋の上にきた時に、蝶子は思わず停まった。
「まあ」
ロンダの街は本当に崖の上にあるのだ。橋は地上百メートルの高さに浮かんでいるようだ。その先にはアンダルシアの大地が広がっている。
鷹が風に支えられて遥かに続く赤茶けた大地の上を遠くへ遠くへと飛んでいく。その力強い飛翔をみつめる蝶子の横顔に夕日があたっていた。
「ああやって、飛べたらいいっていつも思っていたわ」
ヴィルは黙っていたが、聴いているという印に蝶子の方に向き直った。蝶子は鷹を目で追っていた。父親のことを考えているのだろうかと、ヴィルは考えた。腹の底に痛みが走る。ミラノで会った時には、こんなことになるとは夢にも思わなかった。
半ば強制的に引かされた二枚のタロットカード。愛の始まりと誤算。ブラン・ベック、あんたは本当に大した占い師だ。これが運命だとしたら何の因果なのだろう。父親が愛し、母親が憎んだ女。
父親は絶対に認めないだろうし、母親が今でも生きていたとしたら、間違いなく更に逆上した事だろう。
「ああいう風に自由になりたかった。本当の自由になんか、誰もなれないのにね」
蝶子は続けた。
「あんたは今でも過去から自由になれないのか」
蝶子は、振り向いた。
「逃れたかったものからは自由になったわ。でも、失いたくないものが出来てしまったの。前はそんなもの何もなかったのに」
「あんたがいま持っているものは、何も失わない」
蝶子は意外そうにヴィルを見た。ヴィルは青い目で蝶子の目を覗き込みながら続けた。
「あんたは最低限のものしか持っていない。そしてそれは誰にも奪えない。あんた自身が手離そうとしない限り」
でも、それはヤスやブラン・ベックやそれからあなたの事なのよ、テデスコ。蝶子は思った。私が絶対にあなたたちを失わないなんて、どうして知っているの。
だが、ヴィルは蝶子の言う意味を正確にわかっていた。稔やレネはArtistas callejerosから離れる事はない。つまり蝶子の側を離れない。ヴィルの心も同じだった。だが、いつかは俺が誰なのか、あんたにわかる日が来る。その時にはあんたは俺から離れていくだろう。
「急がなくちゃね」
蝶子は足を速めた。ひどい後ろめたさを感じて。かわいそうなブラン・ベックのことを完全に忘れてしまったじゃない。青い目に吸い込まれそうだった。
レネや稔だけでなく、蝶子もヴィルの変化を感じ取っていた。出会った頃は殻にこもり、いつもひどく身構えていた。そしてもっと冷たかった。とくに蝶子に容赦がなかった。あの頃、蝶子はヴィルとの舌戦を楽しんでいた。すぐに傷ついてしまうレネや、日本人同士の稔とは出来ないゲームだった。世界を斜めに見ているヴィルの冷たさは、自分も同じく世界に熱くなれない蝶子には心地が良かった。それでいて、多くを語らなくてもわかり合える何かがあった。蝶子がヴィルの無表情から、彼の喜怒哀楽を正確に読み取れるようになるのにさほど時間はかからなかった。稔やレネも同じくその技術を身につけた。
ヴィルはレネに優しく、稔に敬意を表し、蝶子に厳しかった。そのバランスが三人ともとても心地よかった。それが動き始めている。蝶子に対しての鋭さが薄れてきているのだ。時には優しいとすら言えるような態度を示す。それが蝶子を不安にさせた。
変わらないでほしい。それが蝶子の願いだった。この果てしない旅をいつまでも四人で続けたい。本来は無理な願いを蝶子は持っていた。いつ、レネがパリに戻りたいと言い出すか、いつ稔が日本に戻ると宣言するか、それは誰にもわからないし止められなかった。過去の事を一切語ろうとしないヴィルも、まともな暮らしをもとめていつ去ってしまうかわからなかった。けれど蝶子には帰るところがなかった。
かつては誰にも求められない存在である事に傷ついたりはしなかった。フルートを吹きたい、それだけが蝶子の生きている意味だった。家族や友だちなど必要なかった。自分に愛を打ち明けた何人もの男性を拒否することにも何の感傷もなかった。彼らがその後、簡単に自分の人生から姿を消してしまったことにも苦痛はなかった。
けれど、蝶子はArtistas callejerosのメンバーは失いたくなかった。最初からレネが女としての自分に興味を示していても、頑として無視したのはそのためだった。レネは蝶子のコンピュータの重要データのたとえを理解し、蝶子には真剣になっていない。いつものブラン・ベックとして蝶子の側にいる事を選んでくれている。この距離感があれば、蝶子はレネと百歳になるまで仲間として一緒にいられる事を肌で感じていた。
稔が蝶子をトカゲ扱いして、最初から恋愛対象から完全除外してくれているのもとても有難かった。兄妹のような近さで、同じ国から来た同胞としてやはり変わらない友情と尊敬を保ち続けられる、その予感が蝶子を安心させていた。
けれど、ヴィルの事は何もわからなかった。何も知らなかった。知りたいと思うのは、興味本位ではなく、信頼の問題だった。はじめの頃は一切話さなかった両親との確執や、エッシェンドルフ教授との問題を、蝶子はぼかした形とはいえ、三人にさらけ出していた。他の二人も、そうだった。ヴィルだけが違った。レネが泣きながら妹の思い出を語ったような、もしくは稔が遠藤陽子にあてた送金の話を打ち明けたような、痛みの共有が何もなかった。両親の思い出も、バイエルンでの体験も何も話そうとしなかった。なぜピアノがあれほど上手いのか、それでいてなぜ演劇をやっていたとしかいわないのか、それも蝶子を不安にさせた。
最初は蝶子のようなタイプの女が嫌いなのだと思っていた。こういう性格だと女としては好かれるよりも嫌われる事が多いので、不思議はなかった。稔がそうであるように、人間として仲間として認めてくれていれば、それで十分だったし、かえって有難かった。蝶子も安心して男としての除外範囲に押し込められるからだ。ハードディスクの重要データとして、それはとても大切な事だった。そうでなくともレネのようにうかつに尻尾を振ってくれれば、軽くいなす事もできた。
けれど、先ほどのように青い目でじっとみつめられると、蝶子の居心地はひどく悪くなる。めったに口を開かないくせに、全く不似合いな優しい言葉を遣われると、どうしていいのかわからなくなる。何を考えているのかわからない。彼も、自分も。蝶子にできるのは、はぐらかす事だけだった。
「う~ん。ひどい熱だな」
稔が体温計を透かしながら言った。レネはヴィルから薬と水を入れたグラスを受け取り、難儀そうに飲み込んだ。蝶子はオレンジを絞っていた。
「いつから具合悪かったんだ?」
「今朝寒いなと思ったんですけれど……」
赤い顔でつぶやくレネはまるで稔に怒られてしょげているように見えた。
稔はオレンジジュースを持ってきた蝶子に場所を譲った。
「この部屋は風が通るんだよな。少しましな宿に移そうか」
「そうね。その方がいいかもね。ホテル探してこようかしら」
するとレネは大きく首を振った。
「探さなくていいです。みんなが側にいる方が安心だから……」
三人は顔を見合わせた。ヴィルが毛布をもう一枚かけてやった。やがて薬が効いてきたのかレネは寝息を立てだした。
三人はレネが目を醒まさないように、小声で話をした。
「どうする。ブラン・ベックが治るまで、仕事には出ない方がいいよな」
「そうね。ずいぶん心細くなっているみたいだし」
「医者に診せなくていいのか」
「明日の朝まだ同じ状態だったら、診せた方がいいと思うわ」
蝶子は不安そうにレネを見た。今まで仲間の誰も医者が必要になるような病氣や怪我をしたことがなかった。だから、そういうものとは無縁だと思っていた。けれど、生きている以上、こうしたことはいつでも起こりうる。明日蝶子自身もそうなるかもしれないのだ。蝶子は健康保険に加入していないことを思い出した。
「ブラン・ベック、保険に入っているのかなあ」
稔も同じことを考えていたらしかった。
「フランスの保険はスペインでは効かないぞ」
ヴィルが言った。
「だよなあ。テデスコ、お前は?」
「かつては、海外でも効く保険に入っていたよ。だが、ドイツを出て以来、掛け金を払っていないから申請をしても支払いを拒否されるだろうな。あんたたちは保険かけて大道芸人しているのか?」
「そんなわけないでしょう。私たち全員アウトだわ」
蝶子はため息をついた。
「大道芸人生活って、若くて健康だからこそできるのよね」
「そうだな。ヴィザすらない俺たちは保険だってかけられないぞ」
稔も真剣な顔でいった。
「ねぇ。なんとかしましょう」
蝶子はきりりとした目で稔を見つめた。稔はたじたじとなった。
「なんだよ、なんとかって」
「ヴィザよ。とにかく少しでも合法的にこの生活が続けられるように、取得しましょう」
「そんなこと言ったって、どうすんだよ」
「だって、私たちには何人か雇い主がいるじゃない。コモのロッコ氏とかマラガのカデラス氏とか。誰か一人でもヴィザの申請をしてくれるように頼んでみるのよ。なんなら、色仕掛けでも……」
「やめろよ、そんなこと」
稔が即座に否定した。
「なぜよ」
「そりゃ、お前なら、結婚でもしてすぐにヴィザ用意してくれそうなヤツだってすぐに見つかるだろうけど、そんなことをしたらせっかく逃げ出してきた意味がないじゃないか。それに男の純情をヴィザのためなんかに利用するんじゃねぇ」
稔が蝶子にこんこんと説教するのを、ヴィルは少しほっとして聴いていた。稔が言っているのはカルロスのことだと思った。だが、稔は実はヴィルのために蝶子を説得していたのだ。自分の分も含むヴィザのためにヴィルが苦しむようなことをさせるのは絶対に嫌だった。
「わかったわ。色仕掛けはやめるわよ。でも、助けてくれるか頼むぐらいはいいでしょう? それとも、私たち二人、日本に帰るべき?」
「ち。なんだよ。俺の泣き所をついてくるじゃねぇか。まあ、いいよ。とりあえず例によってギョロ目にでも相談するんだな。だけど、色仕掛けは厳禁だぞ」
「カルちゃんに色仕掛けの必要はないわよ」
蝶子は澄まして答えた。ヴィルが苦しそうな表情をしたのを、稔は目の端で捉えた。
幸いレネの熱は朝には下がっていた。
「すみません。お騒がせしました」
「まだ寝ていなきゃ。あらやだ、すごい汗をかいたんじゃない。すぐに着替えて。ついでだから今日は洗濯日にしてしまいましょう」
蝶子はてきぱきと面倒を見た。レネは幸せだった。弱っている時に頼れる仲間がいるってなんて素敵なんだろう。
【小説】大道芸人たち (16)マラガ、ハイビスカスの咲く丘
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(16)マラガ、ハイビスカスの咲く丘
「ようこそ、マラガへ」
カルロスのクリスマスパーティで会った、カデラス氏はたいそう愛想よく言った。
マラガ市内海岸沿いの公園に面したコルティーナ・デ・ムエレ通りに新しく開店した最高級クラブ『Estrella del Mar』は、十九世紀のいかめしいビルディングの中にあるとは思えないほどモダンだった。黒く光る大理石の床や壁とワイン色の革のソファが落ち着いたアイレを醸し出している。店の一番奥にスタンウェイが置かれていて、暗い店内の中でそこには柔らかいスポットライトがあたるようになっていた。好奇心から、バーのメニューを開けてみた稔は、ワイン一本が最低でも八十ユーロしているのにあわててそっと閉じた。
ここでの仕事は、面白いことは一切やらなくていいということだった。とにかく高級そうに、そしてお高く止まって仕事をしてほしいというのだった。
実際に、その店には、面白いことを求めているような客はほとんどいなかった。どちらかというと上品に社交をしているか、堅苦しくビジネスについて語っているか、それともにらみ合うような真剣さで愛を語っているような客ばかりだった。
レネはアンビシャスカードを演じる時に、普通のトランプではなくタロットカードを使った。その流れるような美しいカードさばきと、フィレンツェで買った高級なカードが手品の内容をさらに上品に見せて、年配の女性客に人氣だった。どういうわけだかわからないが、いつの間にか、レネはカードマジックを演じるよりも常連のドンナたちにタロット占いをする時間の方が多くなってしまった。しかし、それがカデラス氏を大いに喜ばせたので、他の三人は放っておいた。
稔が出るときは、できるだけクラッシックな音楽を弾いた。最初はタレーガを弾いていたのだが、なぜかバッハによるリュート曲の方が受けがいいので、ひたすらバロック専門で弾くようになってしまった。
カデラス氏が大いに期待するのはいつもヴィルと蝶子のアンサンブルだった。二人が何を演奏してもカデラス氏はベタ褒めした。もっとも他の雇用主と違って、カデラス氏は蝶子ではなくてヴィルをやたらと絶賛した。
「ありゃ、そっちのケがあるんだな」
稔が言うと、蝶子はにやりと笑った。ヴィルは無表情だったが、ありがたがっていないのは確かだった。
カデラス氏はヒブラルファロの丘に別荘を所有しているので、そこで寝泊まりしてほしいと言った。パラドールが隣接しているヒブラルファロ城のすぐ側にあり、テラスからは夜景に輝くマラガ市と美しくライトアップされた闘牛場、そしてどこまでも続く海が見えた。仕事が終わった後の夜二時半頃、丘を歩いて登りながらさすがに静かになりかけているマラガの町を見渡すのが四人の日課となった。もちろんその後に酒宴を催すようなことはなく、たいてい全員九時頃まで起きだしてこなかった。
いつも一番先に起きるのはヴィルだった。庭に出て、劇団時代からの習慣となった筋肉トレーニングをする。それからキッチンでコーヒーを淹れる。たとえ、寝床に向かうのが一番遅くても同じだった。次に起きてくるのは蝶子か稔で、レネはいつも最後だった。
稔は眠りが浅い方で、たとえば夜行列車の中やドミトリーの部屋で、レネがいびきをかいたり、蝶子が寝言をいいながら寝返りを打ったりすると、真夜中でもすぐ目を醒ましてしまうのだが、その時に何度もヴィルがベッドに起き上がって窓の外を眺めているのを目にしていた。その後、稔はまたすぐに眠りに落ちるのだが、たぶんヴィルは長いことそうしているのだろうと想像していた。
考えてみると、イタリアにいた頃は、そんなヴィルの姿を見た記憶はほとんどなかった。つまり、ヴィルが不眠ともいえる状態になったのは、スペインに来てからなのだろう。符合する。トカゲ女にはまったのと同時期だ。
ヴィルについて稔は蝶子と同じように困惑していた。どうしても抜けられない壁の向こうにいるドイツ人を稔は理解すると同時にもどかしく思っていた。過去について口にすることができない。あふれる情熱を音楽以外で表現することもできない。細やかな優しさとひどい冷たさが共存している。どこかで受けた傷を癒せないのかもしれない。それともはじめから誰かを信用することを教えられないまま大人になってしまったのかもしれない。誰にも愛された記憶がないのかもしれない。だから愛を表現することもできないのかもしれないと。江戸っ子の稔にはヴィルのやっているようなまどろっこしいことはとてもできそうにもなかった。
「ここって、本当に南国なんだわ」
コーヒーを飲みながら蝶子が言った。
「海ですか?」
レネが問いかけた。
「庭から海が見えるんだけれどね、そこにハイビスカスが咲いているのよ。しかも温室でなくって地植えなの」
蝶子は嬉しそうに言った。
「へえ。あれってハワイみたいな常夏の国に咲いている花かと思った。四月のヨーロッパにも咲くんだな」
稔にも意外だった。
「コスタ・デル・ソル、太陽海岸っていうぐらいだ。アルプス以北のヨーロッパ人にとっては楽園みたいなものだな」
ヴィルは遠く濃紺に輝く海を見渡した。
「あとで、海岸に行ってみない?」
蝶子ははしゃいだ。海は大好きだった。
「OK。でも、先にギョロ目に電話してからだ。一ヶ月したら再びたかりに行くってな」
稔が言った。
園城真耶に頼んだ書類は、そろそろコルタドの館に着いているはずだった。二人がバルセロナの領事館で更新手続きをするには、少なくとも二週間以上かかるはずだ。加えて、蝶子がカルロスにヴィザのことを上手く切り出して協力してもらうとしたら一ヶ月近く滞在する必要がある。稔はレネとヴィルの様子を横目で見た。
レネは複雑な心境だった。既に恋愛感情はないとはいえ、大好きな蝶子とカルロスがやたらと親しくするのは面白くない。だが、イネスの作る料理と四時のおやつが恋しくてたまらないのも事実だった。アヴィニヨンの生家は別にして、あれほど居心地のいい空間はない。レネにとってイネスは第二の母親だった。
ヴィルの方は、完全な無表情に潜り込んでいた。ということは、かなり深刻なわけだ。おととい稔が多数決にかけた長期バルセロナ滞在の案件にヴィルは賛成票を投じなかった。蝶子が健康保険の重要性を示唆してヴィザが欲しいのでカルロスの助けを求めたいのだと説得したので、レネが賛成に転じた。それで多数決が成立したが、最後までヴィルは黙っていた。ヴィルにしては正直な反応だと稔は思った。頼むから、滞在中あんまりギョロ目にべたべたしないでくれよ、トカゲ女。稔は願った。
絵に描いたような海水浴場の風景だった。青い海、白い砂浜、縞模様のパラソル。しかし、人影はない。蝶子とレネははしゃいで素足になり、海に入った。
「コルシカでも、こうやって海に入ったのよ。でも、あのときは一人だったものねぇ」
「コルシカのどの海ですか?」
「ボニファチオの近く。誰も行かない隠れ家みたいなビーチがあったの。誰にも会いたくなかったし泣いてばかりいたのよ。でも、海に入って、足下を波に洗わせていたら、もういいかなって思えてきて、それでイタリアに移ることにしたの」
「僕は南には行かなかったから、あそこでは会えませんでしたね。でも、パピヨンが決めてくれてよかった。僕やヤスと同じフェリーに乗ることを」
「そうね。あれが始まりだったものねぇ」
蝶子は感慨深げに言った。足下は同じように波に洗われている。でも、あの時とは全然違う。レネの両足もまた、すぐ近くで波に洗われている。
「おい、お前ら、何で足なんか見てんだよ」
しびれを切らした稔が遠くから叫んだ。二人は笑って海から上がると、裸足のまま靴を両手に持って稔とヴィルの元に戻った。
「夏になったら、どこかで海水浴しましょう」
「へ? いいよ。地中海沿いにはいくらでも海があるからな。それはそうと、そろそろ飯を食いに行こうぜ」
稔は言った。
四人は近くのバルに入った。スペインではレストランに入るよりもバルで食事をすることの方が多かった。少しずつ好きなタパスを頼んでは一緒につつき、酒を飲む。稔はイベリコの生ハムに煩悩していた。こんな美味いものはない、そう思った。レネはいつもオリーブに飛びついた。ヴィルはイネスの料理のおかげで苦手だった魚介類を克服し、自らイカリングフライを注文することが多くなった。しかし、あっという間に蝶子と稔に奪われてしまうので、二皿目をすぐに注文せざるをえなくなった。
「こういう下世話な味って、時々無性に食べたくならない?」
蝶子は稔に言った。
「ああ、お祭りのイカ焼き、食いてえな」
稔は遠い目をした。
「なんですか、それは?」
もちろんレネとヴィルには通じなかった。
「日本のお祭りでね、屋台で売る定番の食べ物があるのよ。イカだけじゃなくて、焼きそばってヌードルとか、綿飴っていうザラメをつかった雲みたいな形のデザートとか。ものすごく美味しいかといわれると疑問なんだけれど、記憶とともにノスタルジアが喚起されるのよねぇ」
「俺さ、いつも三社祭で神輿を担いでいたんだよな。五月が近づくとなんか血が踊ってきたものさ。だけど、こっち来てから、踊らなくなったな」
「ヨーロッパにもそういうお祭りってあるでしょう?」
蝶子がレネとヴィルを見た。
「カーニバルですかね」
「そうだな。それから精霊降臨祭のパレード。ミュンヘンではオクトーバーフェスト……」
「私は結局一度も行かなかったのよ」
蝶子が言った。
「ミュンヘンに七年もいたのに?」
稔は驚いた顔をした。
「だって、あそこには一リットルのジョッキしかないんだもの。そんなに飲めないわ。一緒に行って騒ぐ友達もいなかったし」
「そういうものなんですか?」
レネが訊くと、ヴィルはだまって頷いた。
「テデスコは飲みまくったんだろうな」
稔はヴィルの手元のセルベッサを見て言った。
「一度離れると座る場所がなくなる。だから、座れたが最後、交代で用を足しに行く以外は一日中ずっと同じ場所で飲みまくることになるんだ」
他の三人は顔を見合わせた。いくら酒が好きな三人でもそんなのは拷問に思える。
「それで、毎年行きたいって思うわけ?」
「毎年終わる頃には、もう二度と来るものかと思うんだ。だが、次の年になるとまたミュンヘンに向かっているな。そういうものだ」
「じゃあ、今年も行きたいと思う?」
蝶子が訊いた。ヴィルは首を振った。
「あの時期のドイツにいると行きたくなるが、今ここで考えるとなぜ行きたいと思うのか理解できない。わざわざ夜行に乗ってまで行く氣はしないな」
「まあ、そうだな。俺も飛行機に乗ってまで神輿を担ぎに行きたくないもんな」
稔が頷いた。
「でも、イカ焼きは食べたいんでしょ?」
「その話、すんなよ! マジで食いたくなるじゃないか」
稔は、がばっとすべてのイカリングを食べてしまった。仕方なくヴィルは三たび同じ注文をすることになった。
そんな下世話なものがまだ腹でこなれていないのに、四人は再び『Estrella del Mar』で、スーツとドレスに着替え、開店を待つことになった。
「俺、イカ臭くないか?」
そういう稔に蝶子はクックと笑った。カデラス氏がコホンと咳をして、四人のアイレを変えようとした。それで、蝶子はカデラス氏のお氣に入りのヴィルに何かを弾かせてご機嫌を取ろうと画策した。
「ねえ、開店まで何か弾いてよ」
「何を」
「そうね、せっかくだからレクオーナの『アンダルシア』は」
ヴィルは軽い感じで『アンダルシア』を弾き始めた。どちらかというと『そよ風と私』と言った方が近い演奏だった。海に入って波と戯れ、ハイビスカスに目を細め、それからイカリングを争っていた四人の軽く楽しい雰囲氣がまだ残っている演奏だった。開店までだから、それでもいいと他の三人もカデラス氏すらも思って聴いていた。ピアノを弾いているヴィル自身もそういう心持ちのまま弾き始めたのだ。
だが、ピアノにもたれてティント・デ・ベラーノを傾けつつ聴いている蝶子の微笑みを見ているうちにヴィルの心境が変化した。
彼は『アンダルシア』を弾き終えると、続けて同じ組曲の中の『マラゲーニャ』を弾きだした。
蝶子は最初マラガにちなんで弾きだしたのだと思っていた。が、暗闇の中からくすぶる炎のようにうごめきだしたメロディを聴いているうちにその音色の違いに氣がついた。微笑みが消えた。離れて聴いていた稔とレネもその違いに氣がついてピアノの方を見た。蝶子が完全に引き込まれているのが見えた。
静かな中間部に、ヴィルは平静心を取り戻したかのように弾いていたが、後半部になると再び激しく華麗な指の動きの中に、隠せない強い情念を込めて弾いた。あまりに情熱的な演奏に稔とレネは、なかば怯えるように顔を見合わせたが、蝶子は目をそらさずにずっと真正面からヴィルを見つめていた。
カデラス氏は四人の雰囲氣が、彼の望む真剣なものに変わったことを喜ばしく思ったが、このたった一曲の演奏で彼らに何が起こったのかを理解することは全くできなかった。その晩、四人はお互いにほとんど口をきかなかった。
【小説】大道芸人たち (17)バルセロナ、 色彩の迷宮
今回でスペイン編が終わります。次の行き先は……(笑)ほんの少しインターバルに別の小説をアップした後、チャプター3が続きます。
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(17)バルセロナ、 色彩の迷宮
「なんてことだ」
園城真耶が発送しカルロスの館に届いていた戸籍謄本を見ながら稔が呆然とつぶやいた。
「どうしたの?」
蝶子は訊いた。
「親父が死んでいる」
戸籍謄本から抹消された日付は三ヶ月ほど前だった。稔は五年近く一度も家に連絡を入れていなかった。その間に日本に対して行ったコンタクトは、遠藤陽子への無言の送金だけだった。父親は婚約者の金を使い込んで失踪した息子のことをどれほど憤り怒りながら生涯を終えた事だろう。稔は初めて自分のしてしまった事の大きさについて認識した。
蝶子と稔のパスポート更新申請は何の問題もなく受理された。蝶子の方はともかく、稔については捜索願が出ている可能性もあったので、更新時につかまる事も予測していたが、それは杞憂だった。遠藤陽子と家族が連絡を取っていれば、稔が元氣にヨーロッパ各地を動いているのはわかる。すでに失踪から五年が経っている。家族は必死に探してはいないのだろう。
「ねえ。氣になるんでしょう。帰りたいんじゃないの?」
蝶子が言った。稔は二日経ってもしょっちゅう戸籍謄本を取り出してはしまっていた。いつもの稔らしくない逡巡ぶりは、自分たちへの遠慮だと感じた蝶子は、余計なお世話だと知りつつもちょっかいを出したのだ。
稔は激しく首を振った。
「馬鹿なことを言うなよ。帰りたくなんかないし、だいたい帰れねぇよ」
「せめてお母さんに電話してみれば?」
「親父が死んだのは三ヶ月も前だ。俺が今ごろ電話をかけたところで何も変わんねぇよ」
意固地になっている稔に、蝶子はそれ以上何も言わなかったが、このままにしておくわけにはいかないと思っていた。もう少し様子を見なくちゃ。
ヨーロッパ連合の外から来て不法滞在を続けている蝶子と稔のヴィザを取得するためにカルロスは己の政治力をフル活用していた。残りの二人にヴィザは不要だが、まとめて健康保険に加入させるために、住所登録をこの館にした。
書類作成のために全員のパスポートから名前を移していて、ドイツ人の番にカルロスの太い眉はふと顰まった。アーデルベルト・ヴィルフリード・フォン・エッシェンドルフ? 貴族か? しかもこの名前には聞き覚えがある。ローマで蝶子の打ち明け話を聞いた時に何度も出てきた、忘れられない名前。エッシェンドルフ教授。アーデルベルトの生誕地はミュンヘン。
カルロスは蝶子と稔がパスポートを受け取りに行き、レネがイネスにエンパナディーリャの作り方を習っている隙に、静かにヴィルを書斎に呼び寄せた。ヴィルは黙って従った。
「あなたは、マリポーサの事が好きなんでしょう」
ヴィルは憮然として答えなかった。カルロスは笑って言った。
「心配いりませんよ。私だってもちろん彼女を深く愛していますが、あなたのようにではない。あなたが苦しむような事は私と彼女の間には何もないんですから」
「余計なお世話だ」
取りつく島もなくヴィルは答えた。
「その通りです。しかしね。住所登録の手配をした時に、あなたとレネさんの正式な名前が必要になりましてね。あなたの名字が氣になったんです。同じ姓をマリポーサから聞いていたので。マリポーサはあなたの正式な名前を知らないんでしょう」
ヴィルはじたばたしなかった。してもしかたないという風情だった。いずれはわかってしまうのだ。
「知っていて黙っているはずはないと思う。言っておくが、あいつは一度だって本名を言えともパスポートを見せろとも言わなかった。だが、俺自身が出来る事なら知られたくないと思っていたのは事実だ。あんたが俺を追い払いたいならあれを見せれば十分だ」
「そんなことはしませんよ」
「なぜ?」
「マリポーサを愛しているからですよ。それからArtistas callejerosをね。あなたたちに亀裂を入れてしまったら、マリポーサは私を決して許さないでしょう」
グエル公園で、四人は新しい試みに挑戦していた。名付けて『銀の時計仕掛け人形』。ヴィルがパントマイムでよくやるように、全身を銀色の衣装で包み、顔も銀色にメイクする。蝶子は銀の長髪のカツラを被った。そして、止まったままで通行人を待つ。目の前の箱にコインが入れられると、金額に応じた長さでそれぞれが持ち芸を披露する。一ユーロだと数小節だが紙幣なら一曲弾く。もし、二人の前に同時にコインが入れられると、組み合わせ芸を披露する。二十ユーロ紙幣などを入れられた場合には、四人が音楽劇を披露することになる。
初めは勝手のわからなかった通行人も、このルールがわかると、それぞれがちゃりんちゃりんとコインを入れ始める。そうなると四人は目も止まらぬ速さで、ありとあらゆる組み合わせの芸を披露しなくてはならなくなる。蝶子とレネ、ヴィルと稔、稔とレネ、蝶子とヴィル、三人ずつ、もしくは四人全員。人通りの多い時間は止まっているパントマイムをする暇などほとんどなくなる。
四人はこの方法だと通常の三倍を軽く稼げることを知った。
「でも、こんなの毎日はやってられないわ」
コルタドの館に戻ると、蝶子はぐったりして言った。今日はどうしても熱いお風呂に浸からなきゃ。
「それに、この銀のドウラン、落ちやしない。本当にお肌に悪そう」
ぶつぶつと文句を言う。それでいてやけに充実感がある。
カルロスは、『銀の時計仕掛け人形』をやった日は、四人が遅くまで酒盛りをせずにさっさと寝てしまうのでおかしくて笑った。
稔は、仕事をしていないときは、ずっとふさぎ込んでいた。日本に帰って、家族とのことをきちんとしたいという思いは、ここ数日どんどん大きくなっていた。
これまでは、家族のことを思い悩んだりはしなかった。自分が帰国せずに失踪したことで、遠藤陽子に悪いことをしたという思いはずっとあった。安田流中の笑い者にしてしまったのだ。いくらヘビ女でも、そうとう傷ついたことだろう。だが、安田流に対してや、家族に対しての罪悪感はそれほどなかった。稔が家元を継ぐと言う話は公のものではなかった。単に皆がそうだろうと思っていただけのことだ。
蝶子と違って、稔は三味線で名を成したいと思ったことは一度もなかった。それは、稔が常に認められていたからだった。ジュニアの頃からいつも稔は発表会のトリを務めていた。家元の長男として、三味線を弾くことは禁じられるどころか多いに推奨されていた。稔は三味線が好きだった。純粋に好きだった。それは有名になるための手段でもなければ、次期家元として持つべき技量でもなかった。それが檜舞台であろうと、ヨーロッパの街角であろうと全く違いを感じることはなかった。
だが、家族にとっては、そうではなかったのだ。
稔は、氣っぷがよく一緒に酒を飲むのが楽しい父親が好きだった。優しく暖かい母親が懐かしかった。頼りないが優しい弟とも上手くいっていた。ただの家族でいられたらどんなによかったのだろうと思う。だが、安田流創立者の長男と、その一番弟子で家元を継いだ妻の間に生まれた以上、暖かい核家族の部分だけを求めることはかなわなかった。
安田流と遠藤陽子から逃げ出したということは、すなわち、大切な家族を失うことでもあった。あの時、粉々に引き裂いて空に投げた航空券の紙吹雪は、家族との絆をも引き裂いてしまったのだ。そんなことをすべきだったのだろうか。どうして自分はこんなところで、一人楽しく生きているんだろう。それでいいんだろうか、稔は迷って考え込んでいた。
だが、稔はいま一人で日本に行くと、自分のいないうちに仲間たちが解散してしまうのではないかという不安を持っていた。イタリアにいた頃のArtistas callejerosだったら、「きっと待っていてくれる」とのんきに思えたかもしれない。だが、今のArtistas callejerosがどれほど危ういバランスの上に立っているか、稔は承知していた。
稔は自分がチームをつなぎ止めているとは思っていなかったが、残りの三人だけでいつまでも保っていられるような状態でないこともよくわかっていた。ヴィルと蝶子の間にある不穏なアイレを中和するのは、レネ一人には荷が重すぎる。レネはそういうキャラクターではない。今、自分が離れたら、一週間もしないうちにチームは空中分解して、何もなかったかのように消えてしまうかもしれない。それは自分の片腕をもがれるような感覚だった。
蝶子は、もうこれ以上放っておくわけにはいかないと思っていた。稔はArtistas callejerosにはいなくてはならない存在だったが、心だけ日本に飛ばしておくわけにはいかなかった。放っておけば稔の心と体は完全に分離してしまう。それはArtistas callejerosの危機だった。稔は日本に行かなくてはいけない。なんとしても。でも、そうしたら私たち三人で待っていなくちゃならない。帰ってくるかどうかの保障もないのに。困ったわね。
「ねえ。次の行き先の事だけれど」
蝶子が意味ありげに言った。稔は上の空だった。だが、他の二人は蝶子の言い方に反応した。
「私、久しぶりに日本に帰りたいんだけれど」
稔ははっと振り向いた。何か稔がいう前に、急いでレネが言った。
「僕、一度日本に行ってみたかったんです。大賛成」
「俺も二人も通訳がつくなら悪いアイデアじゃないと思う」
ヴィルも間を置かずに言った。
「お前ら、何考えているんだよ。航空券だけでいくらすると思っているんだ」
「バンを買うのが少し遅くなるだけよ。どうせ私たちずっと一緒に稼ぐんじゃない」
「ダメだよ。日本なんかじゃまともに稼げないし、宿泊もどれだけかかると思っているんだ」
「だって、多数決ですもの。もう決まっちゃったのよ。なんとかなるわよ。私、日本にまだ銀行預金残っているし」
稔は地団駄踏んだ。俺はなんて馬鹿なんだ。俺があんな状態でいたら、こいつらがそう言い出すのは予想できたのに。畜生。テデスコに無表情の演技の指導でもしてもらうんだった。
だが、結局は稔も三人の好意を受け取る事にした。四人で日本に行く。考えてもいなかった解決策だった。自分がいない間に、彼らが消滅してしまうことを恐れる必要はないのだ。
「ありがとう。恩に着る」
四人がその話をしているのをじっと聞いていたカルロスはおもむろに電話をとり、スペイン語で秘書のサンチェスに何かを指示した。
夕食前に、サロンでヘレスを楽しんでいる頃、サンチェスがやって来てカルロスに書類ばさみを手渡した。
カルロスは、それを一番近くにいたヴィルに渡した。四人分の東京までのイベリア航空のチケットだった。ヴィルは片眉をあげて驚きを示し、自分の分をとって残りを隣の稔に渡した。稔は目を瞠りそれらを各自に渡した。蝶子もレネも自分の目が信じられなかった。
「カルちゃん……。どうして」
「バルセロナからの往復です。マリポーサ。あなた方が必ず帰ってきてくれるように、私の保険みたいなものですよ。バンのために貯めたお金は、宿泊代などで入り用でしょうからとっておきなさい。あなたたちも時にはただの休暇の旅行が必要なんですよ」
「ありがとう。この恩は決して忘れないわ」
そういって蝶子はカルロスに抱きついて頬にキスをした。レネは目を剥いた。ヴィルは目をそらした。稔は天井を見上げた。
「私も一緒に美しい通訳つきで日本旅行をしたいのは山々なんですが、ここのところ珍しく仕事が詰まっていましてね。でも、次回はぜひご一緒させてください」
「もちろんよ」
蝶子は最高の微笑みを魅せた。この女。稔は腹の中でつぶやいた。しかし、カルロスの助けは有難かった。
四人は初夏のグエル公園で再び『銀の時計仕掛け人形』にトライした。日本に行くとなるとそうとう物入りになる。そう思っただけで蝶子の闘志に火がついた。ドウランがお肌に悪いとか言っている場合じゃないわ。蝶子が俄然やる氣になったので、他の三人は容赦なく、このやたらと氣力と体力の必要な仕事を毎日決行した。そのうちに一時的にグエル公園の名物のようになってしまい、週末になると彼らを目当てに集まってくる人まで現われた。
四人は毎日働く場所を変えた。時には竜舌蘭の回廊で、時には破砕タイルのベンチの前で、傾いだ回廊にて。常連客達は喜んで彼らを捜した。ガウディの常識はずれな建築物の数々が、日常生活を忘れさせてくれる。銀色の妙な大道芸人達、えも言われぬ珍妙で楽しい音楽・手品劇。日差しが強くなり、夏の訪れが心を躍らせる。バルセロナの街は人生の喜びを謳歌している。人々の心に魔法をかけつつ、四人もまた、色彩の迷宮を楽しんでいた。
【小説】大道芸人たち (18)東京、到着 - 1 -
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(18)東京、到着 - 1 -
「え。パゴダとか見えないんだ」
レネの成田空港への感想に稔は白い目を向けた。
「見えるわけないだろ」
蝶子は相手にすらしなかった。
「いいから、ガイジンはあっちに並んで。私たちはこっちだから」
「ガイジンってなんだ?」
ヴィルが訊いた。
「外国人ってことだよ。ほんの少し侮った感じだけど、よく言われると思うから覚悟しとけ」
稔が言った。二人は肩をすくめて大人しく外国人の入国審査の列に並んだ。
あっという間に入国審査の終わった稔と蝶子は荷物が来るのを待っていた。後からやってきたヴィルとレネは少し憤慨していた。
「指紋を採られて、目の写真も撮られた」
「そんな審査があるなんて聞いていなかったですよ」
蝶子と稔は外国人審査にそんなものがある事を知らなかったし、だいたいそれが憤慨する事とは思えなかったので、顔を見合わせた。
「イヤなの?」
「まるで犯罪者扱いじゃないですか」
「何もしなければ、問題ないわよ」
蝶子はあっさりと流した。二人ともまだぶつぶつ言っていたが、日本人二人は聞いていなかった。
「とりあえず真耶に連絡してみましょう。いつなら会いにいってもいいか」
「そうだな。そっちはまかせる」
「ヤスはすぐにお家に戻るの? 連絡先を真耶の所にしておけばいいわよね」
「まず、園城の都合を聞いて、それから決めるよ。正直いってどの面さげて帰っていのか、先に電話すべきか、まだ決心ついていないんだ。お蝶、お前は実家には帰らないのか?」
「帰らないわ」
荷物の引き取りを頼んで、蝶子は公衆電話に歩み寄った。
「蝶子なの? どこからかけているの?」
「今、成田空港に着いたの。一ヶ月滞在するんだけれど、いつなら会える?それにあわせて予定立てるから」
「何言っているのよ。今夜はどこに泊まる予定なの? 決まっていないなら、今すぐここに来なさいよ。東京にいる時はずっとうちに泊まって」
「だって、私一人じゃないし……」
「だから四人まとめてくればいいでしょ。そのくらいの空間はうちにあるわよ」
蝶子は、手招きをして荷物を持った三人を呼んだ。
「真耶が泊めてくれるって言っているんだけど、反対はいる?」
もちろんいなかった。
「じゃ、お言葉に甘える事にするわ。リムジンバスで行くとしたらどこが一番近い?」
「赤坂のニューオータニにしてそこから電話をちょうだい。車で迎えに行くから」
「赤坂のニューオータニの近く……」
稔の目が宙を泳いだ。レネが訊いた。
「何か問題でも?」
「とんでもない高級住宅地ってことだよ。めったに泊まれるような所じゃないぜ」
「おい。新東京空港って言わなかったか?」
ヴィルが訊いた。バスに乗ってから一時間以上が経っていた。
「成田か? そうだけど」
稔は、絶対文句言うと思っていた、と腹の内でぼやきながら答えた。
「まだ着かないのか?」
「成田は、実は東京じゃないのよ。まだしばらくは着かないわよ。だから寝ればよかったのに、ブラン・ベックみたいに。ジェットラグは大丈夫なの?」
「飛行機で寝れたのか?」
蝶子と稔の二人に心配されて、ヴィルは首を傾げた。
「少しはな。何が問題なんだ?」
「八時間の時差を克服するには初日が一番大切なの。今から、夜になるまでもう寝ちゃダメよ。午後あたりにすごく眠くなると思うけど」
「そうしないと?」
「時差ぼけが悪化するんだ。昼間に眠くて、夜は眠れない日々が続くんだよ」
蝶子も稔も日本に帰るのは久しぶりだった。周りの光景に興奮しているのがわかる。
ヴィルはどこまでも途切れなく続くビルと家とを眺めていた。まったくわからない言葉の並んだ看板。ふと、未だに持っている葉書の事を考えた。今から会いに行こうとしている園城真耶から蝶子にあてた葉書。Artistas callejerosに加わる事にしたのは、あの葉書で蝶子の名前を知ったからだった。家を出る奇しくもその日に届いた葉書。この文字のように不可解な運命。夜は眠れない日々が続く。それはヨーロッパにいても同じだ。ヴィルは自嘲した。
「起きろ、ブラン・ベック。着いたぞ」
稔に叩き起こされて、寝ぼけたレネは間違ってメガネの上から目をこすった。
「やだ。もう真耶がいるじゃない!」
蝶子の言葉にレネは仰天して飛び上がった。噂のマドモワゼル・マヤにみっともない顔は見せられない。
真耶はあまりに想像通りな四人組に微笑んだ。蝶子は腰まであった髪がセミロングになった以外は、ザルツブルグで会った時からほとんど変わっていなかった。稔は大学時代からは髪型も服装もかなり変わっていたが、朗らかで楽天的な様子は昔のままだった。その横に、蝶子曰くブラン・ベックのそわそわした手足のひょろ長いフランス人と、無表情で必要もなく身構えて見える金髪のドイツ人。
四人は大道芸人のようには見えなかった。唯一それらしいといえば、荷物がやけに少ない事だった。これは彼らの旅支度ではなく、全財産なのだ。人間はこれだけの物があれば生きていけるのだ。一年間も。そう思うと自分がどれだけたくさんの物を所有しているのかと、真耶は思う。
「ごめんね、真耶。突然こんなに大勢で押し掛ける事になっちゃって。お父様たち怒っていない?」
「今、アメリカだから。二週間したら帰ってくるからそのときに引き合わせるわよ。ねぇ。あなたたちはね。この一年間、私を疑問の固まりにしたのよ。話を聞きたくて手ぐすね引いて待っていたの。一日程度のおざなりな訪問で済まされてなるものですか」
運転席の真耶と助手席の蝶子が話しているのを、稔は小さな声で二人に通訳してやった。
「あら、ごめんなさい。英語で話せば全員に通じるのね?」
「そうなんだ。俺たちの公用語は一応英語になっている」
「じゃあ、私も英語で話すわね。今日は来れないけれど、拓人にも言っておく」
「真耶、あなた今でも結城さんにべったりなの?」
「なによ、その言い方。私たちは親戚だし、いい音楽のパートナーなの。彼、いい音を出すようになったの。びっくりするわよ」
「楽しみだわ」
蝶子は窓の外のビル街を見ながら言った。赤坂の風景を見ながら、真耶と結城拓人の話をするなんて、夢にも思わなかったわね。自分の国にいるのに夢の中にいるみたいだわ。
蝶子と真耶、そして稔は同じ音大のソルフェージュのクラスメイトだった。ヴィオラ専攻だった真耶は卒業後日本でデビューし、海外でも様々な賞を受賞して華々しい活躍をしていた。
真耶のはとこにあたる結城拓人は同じ音大の一年上級生で、最年少でショパンコンクールで優勝したかつての天才少年として有名なピアニストだった。音大ではプレイボーイとしても有名だったが、真耶にだけは頭が上がらなかったのを稔も蝶子もよく憶えていた。二人とも著名な音楽家一族の出で、裕福な上、デビューの機会にも恵まれていた。
音大に進むことも許されず、苦学をした蝶子は高い授業料とレッスン代を捻出するためにアルバイトに明け暮れていたので、真耶や拓人と親交を深めるような機会はなかった。それにも関わらず、真耶と蝶子はお互いを認め合っていたし、ザルツブルグで再会した後に奇妙な成り行きで蝶子が真耶に返信不可能な葉書を送りつけるようになり、不思議な友情が育ったのだった。
「ねえ、真耶。あなたヤスを憶えていた?」
蝶子はずっと抱えていた疑問をぶつけてみた。
「安田くん? もちろんよ。ウルトラ優秀だったじゃない。最初の試験で、邦楽科なのにトップをとられたんで、ものすごく悔しかったの。次の時に一位を奪回するのに必死になったのよ」
「園城が必死になるなんてこともあるんだな。なにもかも余裕でやっているのかと思っていた」
稔は笑った。
「それで? どういうことなのか、説明して頂戴。なぜ蝶子と安田くんが一緒に旅をしているわけ? エッシェンドルフ教授との結婚はどうなったのよ」
「ストップ。そんな話、車でなんか出来ないわ。その話が聞きたいならまず酒屋に行かなくちゃ」
「なぜ?」
「酔っぱらわないと話せないもの。で、このメンバーが酔っぱらうとなると……。真耶のお父様の高級ワイン、みんな空にするわけにいかないでしょ?」
だが夕食が終わると、稔とレネは音を上げて速攻で寝室に行ってしまった。居間で赤ワインを傾けているのは蝶子と真耶とヴィルだけだった。
「ねえ、蝶子。今度こそはぐらかさないで話してよ」
「ちょっと待って。テデスコ、あなたまだ寝ないの」
「ここの美味い白ワインを飲み過ぎたから眠れない。俺に聴かれたくないなら日本語で話せ」
「そんな事はしないわ。ねえ、真耶。私たちにはルールがあるの。お互いのわからない言葉では話をしない。訊かれた事には絶対に嘘を言わない。話したくない事には答えないけれどそのことを突っ込んだりしない。わかる?」
蝶子のドイツ語に、真耶もドイツ語で答えた。
「わかったわ。ヴィルさんの前で話せる範囲でいいから説明して頂戴」
蝶子は少し黙っていたが、やがてヴィルにピアノを示して言った。
「聴いていていいから、そのかわり何か自己憐憫に浸れるようなロマンチックな曲を弾いてよ」
真耶は、ヴィルがピアノを弾けるとは聞いていなかったので少し驚いた。ヴィルは黙ってピアノの前に座ると、邪魔にならないような音量でフォーレの『ノクターン 第四番』を弾き出した。真耶は目を丸くした。何よ、私や蝶子よりずっと上手じゃない。全然聞いていなかったわ。
蝶子は真耶の表情を見て口の端で笑った。それからワイングラスに映った自分を睨みつけて、吐き出すように言った。
「私ね、ずっと教授から自由になりたかったの。本当は婚約なんかしたくなかった。それどころか、師弟の壁を越えた関係にもなりたくなかった。でも、それがずっと言えなかったの。言ったら、もうフルートが続けられなくなる、そう思っていたから。ものすごい支配だったわ。フルートの教えも、生活の全ても、それに体も。息が出来ないほどに、反発など考えられないほどに」
真耶は口を挟む事も出来ないで蝶子を見つめていた。エッシェンドルフ教授のことは、拓人から聞いた事がある。めったに女の弟子はとらないが、目に叶った女の弟子には、必ずといっていいほど手を出す。そして、いつもの遊びのつもりだった教授が、蝶子には本氣になってしまった。名声、実力を持つ絶対権力者に絡めとられていく蝶子の恐怖が伝わってきた。
「ねえ、真耶。私はずっとしかたのない事だと思っていたの。フルートを吹き続けるためには、自分の納得のいく音楽を続けていくためには、他に道はないんだって。それでも構わないはずだって。私には帰る所も待ってくれる人もないから。あなたにザルツブルグで会った時にも、そう思って諦めていたの」
「でも、逃げる事にしたのね」
「ええ。ミュンヘンに戻ったらね、ある女性が亡くなっていた。三十年以上、教授のことを待っていらした方が。それで、私は我に返ったの。ここにはいられないって。はっきりわかったんだもの。私は一度だって教授を愛した事がなかった。それどころかいつも憎んでいたんだって。それでどうして結婚できる? どこに行こうとか、これから何をしようとか何も考えなかった。ただ、教授から逃れたかった」
ヴィルは黙って弾き続けた。蝶子の横顔が東京の独特の青白い街頭に浮かび上がっている。蝶子は真耶に話しているようで、ヴィルに語っているのだった。バイエルンなまりのドイツ語で。ヴィルは蝶子が語っている恐るべき支配を誰よりもよく知っている。二人は同じ男から同じ理由で逃げ出してきたのだ。
「コルシカ島で二週間くらいぼうっとしていたの。あそこから逃げ出した時点で、私のキャリアは終わってしまった。どこにも行くところがなかった。これからどうすればいいのかもわからなかった。フルートを吹く以外の人生なんか考えた事もなかった。でも、実家には帰れなかった。私にはまだ馬鹿げたプライドが残っていたから。リボルノに向かうフェリーの中で、氣がついたら泣きながらフルートを吹いていた。そうしたら、たまたまそこにいたヤスが私を見つけたのよ。彼は当時からもう立派な大道芸人だった。それで仲間にしてって頼んだの」
蝶子は箱を開けてフルートを取り出した。それからヴィルに伴奏を頼んで、フォーレの『シシリエンヌ』を吹いた。コルシカフェリーで吹いた曲だ。あの時は苦しくてしかたなかったのに、今はこれほどに穏やかな心で吹く事が出来る。これから行くところはわからない。どうなっていくのかもわからない。でも、私には帰る場所と思える仲間がいる。何があろうと、観客や喝采などなくとも、フルートを吹き続ける。
真耶には蝶子の決断を完全に理解する事は出来なかった。真耶にとって音楽は町中の路上で小銭を稼ぐためのものではなかった。もっと神聖な存在だった。けれど、同じ至高の存在を目指したはずなのに、恩師に望まぬ未来を強制された蝶子の苦しみはわかった。
真耶は自分が恵まれた環境にいる事をよくわかっていた。現在の自分のキャリアはその環境なしには実現し得なかった事も知っていた。蝶子は両親に受験も留学も許してもらえなかった。必死で音楽のために闘うしかなかった。その血のにじむ努力と不屈の意志が実を結び、今の蝶子は音楽の神の恩寵を身につけている。この演奏を聴けばわかる。それでも、彼女は、そしてこの謎のドイツ人は、彼らにふさわしい立派なコンサートホールではなく、街から街へと流れながら自由を謳歌して生きる事の方を望んでいる。
音楽の神に仕える方法はたった一つではないのだ。真耶がこの二人の演奏からおぼろげに理解できるのはそれだけだった。
【小説】大道芸人たち (18)東京、到着 - 2 -
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(18)東京、到着 - 2 -
翌朝、稔は台東区にある生家に行くといって、早くに真耶の屋敷を出た。残りの三人が起き出してくるまでヴィオラを弾いていた真耶は、この日はオフだったので、東京観光につきあうと申し出た。四人は、皇居の散策をして、それから帝国ホテルでお茶をすることにした。
「真耶さんは本当に大輪の薔薇のようだ」
四人で歩いている時に、レネは真剣に言った。蝶子は頷いた。色は暖かいオレンジ色。華やかでいて心が和む。
これほど全てに恵まれた女性があるだろうか。蝶子は大学時代に感じた深いコンプレックスを思い出して自嘲した。あの時は真耶に誇れるものなんか何も持っていなかった。たった一つだけ、音楽を学びたいという情熱だけは真耶に匹敵すると自負していた。けれどそれだけだった。アルバイトに明け暮れ、友だちもなかった。いつになったらフルートだけの事を考えて生きられるようになるのだろうと焦りながら、真耶を妬ましくすら思っていた。
蝶子は今でも真耶に匹敵する音楽家にはなっていなかった。だが、それを卑下する心ももうどこにもなかった。蝶子は自分のしたい事をして生きられるようになり、真耶はうらやむべき相手ではなく蝶子の親しい友人になっていた。
「過分な評価をありがとう。でも、ここにもきれいな女性がいるのよ。蝶子は何の花?」
真耶が微笑んで訊くとレネは少し考えた。
「アヤメかな? それとも百合?」
真耶はヴィルを見た。ヴィルは真耶と蝶子に答えを期待されて困った顔をした。やがて言った。
「ライラック」
三人は意外だという顔をした。
「あの薄紫のかわいい花?」
「いや、あの色ではなくて、濃い紫の」
レネは頷いた。春から初夏に向かう一番心浮き立つ時期の、香り高い花。青空に向かって誇り高く咲くその濃紫は高潔で美しい。さすがテデスコはよく見ているなと思った。
帝国ホテルのカフェではデザートの食べ放題をやっていた。甘いものに目のないレネが素通り出来るはずがない。蝶子も久しぶりだったのではしゃいだ。
「日本のデザートは小さいからいろいろ楽しめるのよね。味もしつこくないし」
そうやって皿にかなりの量のケーキを載せて戻ってくると、真耶はたった二つ、ヴィルにいたってはテーブルを離れる事すらせず、コーヒーだけを飲んでいた。
二人が話していて、ヴィルが笑っているのを見た。蝶子が今までほとんど見た事のない、明るくてさわやかな笑顔だった。
皮肉を言い合う時以外はほとんど感情の変化を見せないヴィルに蝶子は慣れていた。傍から見ると同じように見える表情でも、わずかな動きで機嫌がいいのか、むっとしているのか読み取る事が出来た。でも、その笑顔は反則だわ。出来るんなら、ちゃんと表情を見せなさいよ。それとも私たちには出し惜しみってわけ? 蝶子は思った。
停まっている蝶子を見て、ヴィルが不思議そうな顔をしたので、蝶子は我に返ってテーブルに歩み寄った。
「真耶、それだけしか食べないの?」
「いま太ったり、吹き出物作ったりするわけにいかないのよ。来週、また撮影があるの」
「撮影って、何の?」
「化粧品のCMよ。数年前から出ているの」
「それはそれは。でも、これを前にして食べられないなんて拷問じゃない?」
「ちょっとね。でも、あなたたちは日本のデザートはそんなにしょっちゅう食べられないんだから悔いのないように食べておきなさいよ」
真耶は優しく笑った。
「このコーヒー、薄いな」
ヴィルが言った。ヨーロッパのコーヒーはエスプレッソ式のものが主流なのでドリップ式の日本のコーヒーはお湯で薄めたように感じる。確かに蝶子も久しぶりに日本のコーヒーを飲んで薄く感じた。日本にいた時は一度もそんな事を感じた記憶がない。
「エスプレッソ、頼みましょうか?」
真耶が親切に言うのを蝶子が止めた。
「そんなに面倒見なくてもいいのよ。日本人と違って遠慮って習慣がないので、欲しければ勝手に頼むだろうし」
「よくわかっているな」
ヴィルは文句を言いつつ、その薄いコーヒーを飲み干し、ウェイターがお替わりを注ぎにきても断らなかった。恭しくコーヒーを注ぐそのサービスが面白いらしい。
少し遅れてレネが嬉しそうに席に戻って来た。何種類ものケーキ、トルテ、ババロア、ゼリー、その他、隠れて見えないけれどとんでもない量の、蝶子の三倍は盛ったデザートの山を見て真耶は言葉を失った。
「そんなに食べきれるわけ?」
蝶子も疑わしげに訊いた。
「だって、こんなにきれいで美味しそうなのが並んでいるんですよ。素通りできなくて。食べきれなかったらテデスコに助けてもらいますから」
それを聞いて真耶はヴィルを見た。
「助けられるの? 甘いものは食べない人なのかと思ったわ」
「まったく食べないわけじゃない。わざわざ取りに行くほどじゃないが、おこぼれくらいなら食べるよ」
「ふ~ん。じゃあ、これあげる」
蝶子は小さなエクレアの一つ残った皿をヴィルに差し出した。久しぶりだったのでたくさん取ってしまったが、蝶子はもう甘いものに飽きたのだ。
ヴィルは軽く非難している印に片眉を上げると、皿を引き寄せた。そして蝶子の手からフォークを取り上げると黙ってエクレアを片付けた。
真耶はその様子を見ていた。ものすごく自然だったという事は、この人たち、普段からこういう事をしているんだわ。真耶にはフォークを共有するほど近い関係の男性はいなかった。はとこの結城拓人とは、子供の頃から双子のように育ちいつも一緒だった。また真耶には何人もつきあった男性がいた。しかし、拓人にも恋人たちにも黙ってフォークを取り上げられたら抗議するだろう。
レネの方は、ヴィルに助けてもらう必要はなかった。全部食べたのは見事だったが、レネ本人だけでなく見ていた他の三人も甘いものは当分けっこうと思った。
帰りも堀の近くを歩いた。舞い上がったレネが真耶に張り付いて必死で話しかけているので、蝶子とヴィルは少し遅れて歩いていた。蝶子には懐かしい東京のアスファルトの道、ヴィルにはまったく異国の不思議な光景だった。二人とも昨夜の事はまったく話さなかった。蝶子は今エッシェンドルフ教授の事は話したくなかったし、ヴィルも同じだった。
「少しは眠れたの?」
蝶子は静かにドイツ語で訊いた。ヴィルもドイツ語で答えた。
「ああ、あんなに深く眠った事は、ここ数年なかったかもしれない。朝、ブラン・ベックに起こされたときもしばらく日本にいる事を思い出せなかった」
昨夜遅くまで起きていたおかげでヴィルはもっとも大きい苦しみから解放された。父親に嫉妬する必要はもうなくなったのだ。
「日本は氣に入った?」
「日本そのものはまだほとんど見ていないからなんともいえないが、あんたの友人は氣に入ったよ」
「わかっているわ。さっき、とっても楽しそうだったもの。期待しないように言っておくけれど、あんなにきれいで才能のある人は、日本中のどこに行っても、他には見つからないわよ」
「心配するな。日本に女を探しにきたわけじゃない」
蝶子はいつものような減らず口を叩かなかった。ヴィルは蝶子が誤解していると思った。けれど、それを口にすれば抑え続けている心が表に出てしまう。それを蝶子が好まないのをヴィルはよくわかっていた。彼はあきらめて別の感想を口にした。
「不思議だな。あんたにはどんなに残酷で冷徹でも、どこかしなやかで細やかな機微があると思っていた。それはあんたの友だちにもある。それが日本人女の特徴なのかもしれないな」
「それ、誉めているんだか貶しているんだかわからない言い草ね」
「誉めているんだよ」
【小説】大道芸人たち (19)千葉、墓参り - 1 -
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(19)千葉、墓参り - 1 -
浅草に行ったのに、どうしても家には行けなかった。ようやくみつけた公衆電話ボックスにも入ったが、電話ができなかった。稔は己の不甲斐なさに毒づきながら、ボックスを出た。
それから電車に乗って千葉に向かった。『新堂のじいちゃん』に会うためだった。
浄土真宗のその寺は、人里から少し離れた緑豊かな所にあった。新堂沢永和尚は九十を超したようには見えない矍鑠たる老人で、健康のために酒と女は欠かせないと豪語する愉快な男だった。実際には稔との血縁関係はなかった。和尚の亡くなった妻が、稔の祖母の姉だったのだ。その縁で、安田家の法事はこの千葉の寺で行われた。三ヶ月前になくなった父親の墓も、この寺にあるはずだった。
稔は『新堂のじいちゃん』が大好きだった。和尚も「どうしようもない悪ガキ」だった稔をかわいがった。稔が毛虫を従姉妹の背中に入れた事を怒られてた時には
「毛虫は腫れる事があるからいかん。やるならカエルにしろ」
と、こっそり焚き付けた。稔の弟の優が大人しくて親戚中に「さすがねえ」と誉められ、むくれているとせせら笑った。
「なんだ。誉めてもらいたいか。悪ガキは誰にでも出来る事じゃない。やるなら徹底してやれ。誉めてもらいたいなら、やめちまえ」
それで、稔は腹を括って悪ガキ道を極めて、親に呆れられた。
「稔じゃないか」
和尚は、まるで稔が数日ぶりに訪ねてきたようなあっさりした迎え方をした。ずいぶん歳を取ったな。稔は思った。
「お前、帰ってきたのか」
稔は黙って首を振った。
「じゃあ、なんだ。幽霊か」
「まあ、そんなもんだ。じいちゃん、達者か」
「見ての通りだ。どこも悪い所はない。飯はうまいし、よく眠れる。お前、どこにいた」
「ヨーロッパ。一ヶ月したらまた行く」
「なぜ」
「もう戻らないつもりだった。戸籍謄本が必要になって取り寄せたら、親父が除籍されていたから……」
「癌だ。三年くらいだったな。最初の手術は上手くいったんだが、二度目に見つかってからは転移が早くてな。あと半年早く帰ってくれば会えたんだがな」
稔は答えずにうなだれた。
「墓に行くか」
「ああ」
墓石に戒名と名前が刻まれている。五年前には豪快に笑ったり、烈火のごとく怒っていたりした父親が今はこの石の下に骨だけになって置かれている。稔は墓石を両腕で支えるように立ち、そのまましばらくうなだれていた。和尚には稔の肩が震えているのが見えた。
「ごめんよ、親父……。ごめんよ……」
稔の心には白い紙吹雪が満ちている。あの朝、俺は、こうなる事を選んだんだ。
あの時、あんたにはどうしてもあの三百万円が必要だったよな。俺は、自分だけであの金を用意することができなかった。俺は陽子に自分を売ったつもりだった。あれはそういう金だった。だが、俺がしでかしたことで、あんたは三百万どころじゃない重荷を背負ったんだろうな。自分の事しか考えていなかった。本当にごめんよ、親父。
和尚は稔が落ち着くのを黙って待っていた。それから稔を本堂に連れていき、野菜と日本酒を出した。
「まだ昼前じゃないか、じいちゃん」
「お前が昼前は飲まないなんてクチか」
確かにArtistas callejerosの仲間とは、朝とか夜とかつべこべ言わずに勝手に飲んでいる。とはいえ、今はそういう状況かとも思う。
「こういう状況だから飲むんだ。ほれ」
稔は肩をすくめて杯を受け取った。
「美味い……」
「そうだろう、ヨーロッパじゃ飲めない酒だぞ」
「うん。じいちゃん。ごめんよ」
「わしに謝る事はなにもないだろう。それより家には帰ったのか?」
「昨日、日本に着いたんだ。今朝、浅草まで行った。でも、行けなかった。電話も出来なかった。だから、ここに来たんだ」
「そうか。じゃあ、家の状況は知らないんだな」
「うん。何か、変わったのか」
「優くんが嫁をもらうことになった」
「へえ。五年も経ったからな、彼女が出来て、結婚しても不思議はないよな」
「相手は陽子さんだ」
稔は目をしばたいた。え~と。今、なんて言った? どのヨウコさん?
「お前が失踪して以来、いろいろあってな。陽子さんは頻繁に出入りする事になり、そのうちに優くんと仲良くなったってことだ。隆の看護も未来の嫁として献身的にしてくれたし、周子さんとも上手くやっているよ」
そりゃあ、おふくろは陽子に頭が上がらないだろう。長男が結婚資金をだまし取って失踪したんだから。結局の所、陽子はやっぱり安田家の嫁になるってわけか。優にあのヘビ女の相手が務まるのか疑問だが、本人がそれを望んでいるなら俺がどうこう言う事はないよな。
「そうか。じゃあ、俺が今更、のこのこ顔を出したりしない方がいいのかもしれないな」
「周子さんはお前に会いたいだろう。自由意志で帰ってこなかったのわかっているし、ヨーロッパ各地を移動しているらしいと陽子さんが言っていたから、みな大きな心配はしていないけれどな」
稔は黙って酒を飲んでいた。和尚は、にやりと笑って言った。
「こうしよう。明後日、ここにもう一度来い。お前の家族が皆で法事にくる事になっている。お前は、みんなに見えない所にいて、もし会いたければ、出てくればいいだろう」
「じいちゃん」
「お前が、日本にきちんと帰ってきてやり直すつもりなら、こんなことは言わん。だが、お前は一ヶ月でまたいなくなると言う。それならば、却って大騒ぎにしない方がいいかもしれない。そうだろう」
「うん。ありがとう、じいちゃん。恩に着る」
真耶の家に戻ると、居間では蝶子が真耶のヴィオラの伴奏をしていた。フォーレの『夢のあとに』か。テデスコほどではないけれど、お蝶のピアノも大したものだ。この曲、初見なんだろうに、ちゃんと形になっているじゃないか。レネは真耶の父親のカルバドスを、ヴィルはヱビスビールを飲んでいた。
「このビール、美味いな」
ヴィルは日本のビールに合格点を与えた。
あれ、変だな。稔は首を傾げた。なんか今日はやけに嬉しそうじゃないか? ガイジン軍団は。
「今日は、何をしたんだ?」
稔が訊くとレネは嬉しそうに答えた。
「インペリアルホテルで食べ放題のデザートを食べたんですよ。それに真耶さんと皇居の散歩」
なんだよ、それ。ブラン・ベックはともかく、なんでテデスコがそれでこんなにリラックスするんだ?
「ヤスの方はどうだったんです?」
レネが直球を投げてきた。
「うん。明後日出直しだ。お前ら、旅行に出るなら、先にいってもいいぞ。追いかけるから」
「いや、明後日ならすぐじゃないですか。明日から、パピヨンが東京や横浜を案内してくれるって言っていましたから。旅行の事は明後日以降に考えましょう」
「テデスコもそれでいいか?」
ヴィルは黙って頷いた。それからまたグラスを傾けながら、二人の演奏に意識を戻していた。ふ~ん。稔はわかったような顔をした。トカゲ女と何かあったんだな。何にせよ、嬉しいなら何よりだ。
【小説】大道芸人たち (19)千葉、墓参り - 2 -
あらすじと登場人物
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(19)千葉、墓参り - 2 -
稔は新堂和尚に言われたように、朝一番の電車でやってきた。
和尚は、稔を食事の用意がしてある畳の部屋の奥に連れて行った。
「ここで座禅でもしていろ」
それは部屋というよりは納戸といったほうがいい小さな空間だった。窓もない。和尚は一ダースほどのロウソクとマッチを置いて行った。
子供の頃、いたずらが過ぎてよく浅草の家の納戸に閉じ込められた。その時はロウソクなどという贅沢なものは支給してもらえなかった。けれど、稔にとってその罰が過酷だったのは最初の二、三回だけだった。直に稔は馬鹿げたいたずらを反省する代わりに、空想世界に遊んだり、次のいたずらを計画したり、もしくは自分の内なる音楽を成熟させるのにその時間を使うようになった。
目をつぶり、背筋を伸ばす。両の手に空氣で出来た三味線が載る。それから、稔は自分だけに聴こえる音で三味線を奏でだす。子供の頃の自分には出来なかった高度なテクニックも、納戸の中ではなんなくできた。
もういいだろうと、納戸を開けにきた父親は、稔がそうやって空氣の三味線を弾いているシーンに出くわして仰天したものだ。こいつはどえらい奏者になるかもしれない。父親が稔に過度な期待を始めたのはそれからだった。
稔が弾いていたのは三味線だけではなかった。ギターも稔の大切な内なる音楽だった。稔は自分の中の東洋と西洋を自由に行き来することができた。どちらも稔にはなくてはならない世界だった。どちらかを選ぶなどとてもできそうになかった。
父親の安田隆にとっては、明白な選択だった。安田流創始者、安田勇一の長男として生まれた自分になかった才能を、その長男である稔が持っている。安田流の家元は父親の一番弟子であった妻の周子が継いだが、やがて長男の稔が継ぐことができる。
祖父の勇一は、稔が五歳の時に他界した。周子は類い稀な三味線奏者であったが、勇一のような強いカリスマ性はなかった。また、後継者を育てるための厳しさも欠けていた。熱心に教えはしたが、嫌われるほどの厳しさが持てなかったのだ。それで、二番弟子だった遠藤恒彦をはじめとする安田流のほかの奏者たちが力を持ち、家元の求心力がなくなりだしていた。
遠藤恒彦は、自分の息子や娘にも熱心な教育を施し、中でも長女の陽子の才能は著しかった。陽子は名前の通り快活で向上心の強い娘だった。男勝りで、女だからといって軽んじられることを何よりも嫌った。発表会ではトリを望んでいたが、家元の長男である稔が務めることが多く、よく地団駄を踏んでいた。
稔は流派の中でのポジションなどにはほとんど興味がなかった。どの曲を弾かせてもらえるのか、それをどのように弾くのか、大切なのはそれだけだった。自分の内なる音楽を表現する新たなページがめくれればそれでよかったのだ。
「あなたは、初めから家元の座が約束されているんだもの。余裕よね」
陽子は、闘争心のない稔に不満をぶちまけた。どちらにしても陽子と張り合うライバルと言えるジュニアは稔ひとりだった。稔の弟の優など三味線奏者と認める氣にすらならなかった。
陽子は、稔がギターを弾いているのも氣に入らなかった。そんなヒマがあるなら、もっと三味線に精進して自分と戦ってほしいと思っていた。けれど、稔の奏でるギターが、三味線では出せない心象を表現することを陽子も認めていた。
才能に恵まれなかった父親の卑屈も、家元としての統率力に欠ける母親の苦悩も、我こそが真の家元と暗躍する遠藤恒彦の思いも、トップ奏者を目指して肩意地を張る陽子のライバル心も、稔には苦痛だった。
高校を卒業する頃には腹を括って進路を決めなくてはならなかった。稔はギターを選びたかった。だが、それは許されなかった。父親も母親も、稔に家元を継がせるつもりだった。稔の実力は遠藤恒彦ですら認めざるを得なかった。
陽子がテクニックで稔に劣るわけではなかった。もしかしたら陽子の方が、テクニックでは稔を凌駕していたかもしれない。しかし、稔の音には心地の良い個性があった。聴くものを惹き付ける華やかな魅力があった。そして、その人柄も多くの信奉者を作った。弟子たちの中には、性格のきつい陽子を毛嫌いするものも少なくなかった。こんにゃくのように頼りない優には尊敬が集まらなかった。稔の明るさとバランス感覚は、安田流を一つにまとめていくためには必須だと思われていた。
いずれは家元になり安田流を束ねていくというプレッシャーは常に稔の重圧となっていた。花嫁候補として、いつも陽子の名前が挙がるのにも辟易していた。だれが、あんなヘビ女と結婚するかよ。稔はいつも心の中で毒づいた。
陽子が年頃になり、以前のように稔を不倶戴天のライバルとして競争心をむき出しにしなくなってきたことも、稔には居心地が悪かった。陽子は稔を恋愛対象としていた。稔としてはまっぴらだった。バレンタインのチョコレートを持ってこられるのも、強引にデートに誘われるのも迷惑だった。だが、稔がかなりはっきりと断っても陽子はへこたれなかった。稔の相手としても、未来の家元夫人としても自分ほどふさわしい人間はいないと強い自信を持っていた。
そして、あの事件があった。安田流の会計を預かっていた父親が投資に失敗して、多くの負債を抱えたのだ。返済が焦げ付き、銀行に頭を下げ、あちこちの親戚からかき集めても、どうしても月末までに三百万円足りなかった。それをポンと出してくれたのが陽子だった。
「これね。OLの乏しい稼ぎの中から、結婚資金のために五年かけて貯めたお金。だから、これがなくなるとお嫁に行けなくなっちゃうの。でも、稔は責任とってくれるわよね」
稔に用意できる金額は五十万円が限度だった。稔は、諦めて安田流に骨を埋めること、そして三味線と人生の配偶者として陽子を選ぶことを決めざるを得なかった。
最後のわがままと言って、ヨーロッパに出かけた稔が、最後の最後に約束を反故にして逃げ出した時に、安田流でどんな騒ぎになったのか、稔は知る由もなかった。
稔はロウソクの明かりを見つめながら、無意識に三味線を弾いていた。
逃げ出したことをもう悔やんではいない。安田流にも安田家にも帰りたいという想いはどこにもなかった。安田流と安田家にできた空白は、もう埋まっていた。この五年間で稔の不在を乗り越え、稔なしの日常を紡ぐようになっていた。そのことは稔にとってショックなことでも悲しいことでもなかった。
愛情深く優しい母親、稔を認めて励ましてくれた父親、頼りないが愛すべき弟が恋しくないかと言えば嘘になる。だが、それは『新堂のじいちゃん』を恋しいと思う氣持ちとほとんど変わりなかった。
いまの稔にとって、帰る場所であり、自分の居場所を失いたくないと思うのはArtistas callejerosだった。絶対に離れたくないと、能動的に強く願うのはあの三人だった。そして、稔の内なる音楽を表現できる場も、Artistas callejerosにしかなかった。選ぶ必要すらなかった。日本に来るまでの迷いがすべて消えた。俺は、やはりお蝶たちと一緒にヨーロッパに戻るんだ。それ以外ないんだ。
やがて、隣の部屋にどかどかと音がして、和尚を先頭に人々が入ってきた。
「さ、お清めじゃな、遠慮せずにどんどんやって。ああ、優君、悪いが冷蔵庫のビールを持ってきてくれるかな」
話し声で、その場に母親と優がいるのがわかった。叔父や叔母、それに従兄弟もいる。遠藤陽子もいる。全部で十人ほどだろう。一時間ほど、みながほろ酔い加減になって食事をしているのを稔は、空想のギターを弾きながら聴いていた。
なんとなく、がやがやしていたのが静まると、和尚が不意に言った。
「そうそう、その閉め切った部屋には、一人瞑想をしている檀徒がいましてな。そこは開けないでほしいんじゃ」
「どうしてはじめにおっしゃってくださらなかったんですか。こんなに騒いで迷惑になったんじゃありませんか?」
怪訝な声は母親の周子だ。
「いいんだ。ちゃんと了解済だから」
和尚はひと呼吸置いて、再び言った。
「もう一つ、みなさんに知らせたいことがありましてな」
静まり返った。和尚は静かに続けた。
「つい先日、ここに稔が来たんじゃ」
蜂の巣をつついたような騒ぎになった。どこにいたんだとか、どうして報せてくれなかったんですかとか、元氣でいるのかというような声がなんとか聞き取れた。
陽子と周子はほぼ同時に、閉め切られた戸に目をやった。こんなにうるさい宴会場の横で瞑想をするなんていう物好きな輩がいるはずはない。それは稔に違いないと。
その二人が何かを言い出す前に和尚は続けた。
「稔と話をして、あいつはもう戻らないということを確かめた。あいつは隆の死を知って、とにかく戻ってきた。墓の前で泣いて隆に詫びていた。けれど、あいつにはあいつの新しい人生がある。そして、あなたたち一家それぞれの新しい人生のことも知って祝福している。もう時計は元に戻らない。とんでもない親不孝なのは本人も十分承知だが、幸せに生きている稔のことを許して、諦めてやってくれないか、周子さん」
沈黙の後、周子がすすり泣く声が聞こえた。不意に、陽子が言った。
「ねえ、皆さん。いまから隆先生のお墓参りに行きましょう。ね」
「なんで、いきなり……」
わかりの悪い優をつねると、陽子はその場にいるほぼ全員、つまり周子と和尚以外を寺の裏手の墓地へと連れて行った。
静まり返った和室に和尚の笑い声が響く。
「いいお嫁さんじゃないですか、周子さん」
「はい。感謝しています」
「もし、わしに稔のやつが再び連絡してきたら、伝えたいことがありますか」
周子は再び泣き出した。
「もうしわけ……ないと……。どうか許してほしいと……」
「それは稔の台詞ですぞ」
「いいえ、違います。稔はずっと我慢していたんです。子供の頃から。それがわかっていて、私にはどうすることもできなかった。あのお金だって、稔のせいじゃないのに……。今だって、優と陽子さんが結婚する安田家には、稔が帰ってくる場所がない……。ほんとうにかわいそうに……」
稔は、我慢できなくなって涙をこぼした。ごめんよ、おふくろ……。
そのわずかなすすり泣きの漏れてくる戸を見つめて、周子は頭を下げた。
「和尚さま、どうか、稔に伝えてください。もう十分だって。墓参りに帰ってきてくれただけで、それで十分だって。でも、もし、本当に帰ってくる氣があるなら、私がどこかに遷ってでも、お前の居場所を作るから心配するなって……」
やがて、安田家が去り、奥の部屋の扉を和尚が開けようとした時に、息を切らして陽子が入ってきた。
「待って、和尚さま」
陽子は、バッグから封筒を出すと、それを和尚に渡した。
「本当は、これ、今日お母様に渡すつもりで持ってきたんだけれど。次に稔が連絡してきた時に渡してほしいの」
それだけ言ってウィンクするとまた走って出て行った。
扉を開けて自分ででてきた稔に和尚はその封筒を渡した。稔が中をのぞくと、一万円の束だった。数えなくてもわかった。過剰に送った三十二万円だ。律儀なヤツだな。利子として受け取っておけばいいのに。稔は、封筒をポケットに無造作に突っ込んだ。
真耶の家に着いたのは九時近かった。真耶とArtistas callejerosの三人が、居間でワインを飲みながら話していた。
「ごめん。遅くなった」
稔は、新堂和尚にもらった大吟醸生酒『不動』の一升瓶をどんとテーブルに置いた。
「あら。千葉の名酒じゃない。いいものを手に入れたわね」
蝶子がにんまりと笑った。稔は呆れた。
「なんでお前が千葉の酒の銘柄に精通しているんだよ」
「偶然よ。これ、飲んだことあるの。もう二度と飲むことはないと思っていたけれど。帰ってきてよかったわ」
真耶は笑って、席を立ち、江戸切子の水色の猪口を五つ持ってきた。しばらくするとお手伝いの佐和さんが、鶏肉とキュウリの梅和えや、冷や奴、もろみ味噌を添えた生野菜スティックなどを持って入ってきた。稔と蝶子は大喜びし、ガイジン軍団ははじめての日本酒と肴の登場に顔を見合わせた。
ヴィルはすでにドイツで日本酒を飲んだことがあったが、美味しいと思ったことはなかった。それで、大して期待もせずに猪口に口を付けた。
「どうだ。飲めるか?」
日本人三人は興味深く見ていた。
ヴィルは怪訝な顔をして切子の猪口の中を覗き込んだ。
「……美味い。これ、本当にサケか?」
蝶子が声を立てて笑った。
「ワンカップ大関みたいな日本酒しか飲んだ事ないんでしょう?」
レネも、おそるおそる飲んでやはりフルーティな味わいが氣に入ったようだった。
「フルーツの蒸留酒ですか?」
「ちがうよ。米だ。混じりっけなしの手作りだぞ」
「この肴もいいわねぇ。やっぱり、私は日本人なのねぇ」
蝶子は嬉しそうに言った。ガイジン軍団もそれらが問題なく氣に入ったので、これからの旅行でも和食を食べさせて大丈夫だと稔と蝶子はにやりとした。
「パリでけっこう美味しいと言われる日本料理店にも行ったんですけれどねぇ。全然美味しいと思わなかったんですよ。どうしてだったんだろう」
レネが首を傾げる。
稔にはレネのいう意味がよくわかった。ヨーロッパのそこそこの値段の日本料理店では、大した日本の味は楽しめない。刺身は赤黒いし、照り焼きチキン定食のようなものでも単に甘辛いだけの単純な味付けのものしか出てこない。
米の飯は最低だ。しかし、これは日本料理店が悪いのではない。ヨーロッパの硬水ではいずれにしろふっくらとした白米など炊けはしないのだ。
あの値段を出して、あの程度の味しか楽しめなければ、ヨーロッパで日本料理が中華料理ほどには受け入れられないのも無理はないと思う。だから、稔も蝶子ももう何年も和食を食べに日本料理店に行ったりはしていなかった。
「お家は大丈夫だったの?」
蝶子が訊いた。稔は頷いた。
「俺、公式にはまだ失踪したままなんだ。だけど、もう、家族は失踪した俺のことを心配しないと思う。俺は未だに家族だけれど、もう完全に安田流からはいない人間になった。帰ってきてよかったよ」
三人は黙って頷いた。真耶は、三人がそれ以上の詳細を訊きたがらないことに驚いたが、敢えて口を挟まなかった。
稔は申し訳なさそうに真耶に言った。
「園城、わるいけれど、お前のことを何かあったときの連絡先にしちまった。家族や安田流から直接あんたに連絡が来ることはないが、もしかすると新堂沢永という坊さんから俺に連絡を取ってほしいと言われるかもしれない。そうしたら、例のバルセロナのコルタドの館に連絡を入れてほしいんだ」
「わかったわ。お易い御用よ。蝶子もそうしていいのよ」
真耶は言った。
蝶子は肩をすくめた。
「うちの家族はヤスみたいに帰ってくるのを心待ちにしているわけじゃないから」
「まったく氣にもしない親なんているかしら」
真耶が眉を顰めた。
蝶子はあっさりと答えた。
「事情があるのよ」
「どんな?」
蝶子はため息をついた。他の三人が一年以上遠慮していることを、真耶ったらガンガン突っ込むんだから。
「この顔のせいなの」
蝶子は切子の『不動』を一息に飲み干した。稔がすかさず杯を満たす。今夜はしゃべるぞ。
蝶子はその稔をひと睨みすると、ゆっくりと言葉を選んだ。
「前にも話したことあると思うけれど、私の顔は両親どちらにも似ていないの。で、何故か、母親の元の恋人にとてもよく似ているのよ」
ありゃりゃ。稔は地雷を踏んだ氣持ちだった。真耶は、居心地が悪くなった。
蝶子は続けた。
「別にDNA鑑定して明白になったわけじゃないのよ。単なる隔世遺伝のいたずらなのかもしれないんだけれど、父親と母親は私の顔のせいで無言の確執があったらしいの。それなのに私がとんでもなくお金のかかる西洋音楽をやりたいと言い出したものだから、父親も母親もすごく反対したの。父親は自分にそっくりな妹の華代が短大の英文科でいいといっているのに、よりにもよって私が音大にこだわるのが腹立たしかったし、母親は私のことでまた父親と確執ができるのがイヤで猛反対したわ。それで、私は両親から家族をとるかフルートをとるかどっちにするんだと迫られちゃったわけなの」
「で、フルートを選んじゃったんですね」
レネがとても悲しそうに言った。
「悲しむことなんてないのよ、ブラン・ベック。私が恋しがっているなら悲劇だけれど、そうじゃないんですもの」
真耶と稔、そしてレネにはそういう蝶子がやせ我慢を言っているように聞こえた。しかし、ヴィルはそう感じなかった。ヴィルも両親に対してうんざりしていた。大人になり、その庇護から離れて生きられるようになったことがとても嬉しかった。暖かい家庭、例えばレネの家族のもとに行った時などに、寂しさを感じることはある。だが、それは自分には帰る家庭がないという寂しさであって、実の両親に対する思慕ではなかった。蝶子が語っているのはそういうことなのだ。
「あんたは正しい選択をしたんだと思うよ」
ヴィルは言った。
他の三人はその冷淡な物言いに驚いたが、蝶子はわかってくれたことを喜んだ。艶やかに笑ってヴィルの猪口にさらに『不動』を注いだ。
「そう思うでしょ? ブラン・ベックのカードもそういったわ。今の道は間違っていないって」
【小説】大道芸人たち (20)東京、 園城家にて
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(20)東京、 園城家にて
拓人は、真耶の家の居間で、リストの「コンサート用エチュード三番」を弾いていた。真耶が好きでよく弾かされる曲だ。弾きながら、目はさりげなくヴィルを観察していた。先ほどここについて紹介された時に、もう少しで声を出すところだった。ピアノの上手い謎のドイツ人だって? 蝶子も真耶も何を言っているんだ? 拓人は二人がふざけているのかと思った。
ミュンヘンに留学していた時に、拓人がしばらくつきあっていたのはイギリスからのフルートの留学生だった。彼女がコンクールで六位入賞した時に、会場で有名なエッシェンドルフ教授を見た。
「ほら、あれがエッシェンドルフ教授よ。フルートで身を立てるなら師事したい先生ナンバーワンでしょうね」
「なぜ、君は頼まないの、エヴェリン?」
「そう簡単に見てもらえないわ。お眼鏡にかなった本当に上手い人しか見ないんだって。それにね。たとえ教授が見てくださるとおっしゃっても、私の親が許してくれないと思うの」
「何を?」
「女があの教授に教えてもらっているってことはね。お手つきになる可能性が高いってことなの。私はフルートで食べていきたいとは思っているけれど、親は私に立派な人と結婚してもらいたいと思っているから、そういう噂の起こりそうな先生はね」
拓人は、そりゃ羨ましい教授だ、と心の中で思った。
「だけど、さっき優勝した教授の弟子は男だったぜ?」
「やだわ。名前を見なかったの? あれは教授のひとり息子よ」
「へえ。家庭があるのに、好き勝手しているんだ。さすがヨーロッパの上流社会は……」
「あら。教授は独身よ。昔、名家のお嬢さんと結婚していたけれどすぐ離婚したんですって。今日優勝したアーデルベルトのお母さんとは結婚していないの。お母さんも昔の教え子みたいね。でも、教授は息子の才能に惚れ込んでいるみたいよ。教授の後ろ盾があって、さらに両方からの遺伝であの腕ですもの、きっとすぐに有名になるわね」
優勝に笑顔を見せるでもなく、真っ直ぐ背を伸ばして教授と並んで立っていた金髪の男を拓人は十年以上経った今も忘れていなかった。髪型と服装は違うけれど、まちがいなくそこにいるドイツ人だ。
だが、本当に蝶子と真耶は、ドイツ人をただの演劇青年だと信じているようだった。
「ねえ、いいでしょう。ヴィルさんも何か弾いてよ」
「たった今、その達者な男が弾いたその後に?」
嫌がらせにもほどがある、という顔だった。
だが真耶は満面の笑みで強制した。稔は、ここにもひどい女がいるぜ、と思った。ヴィルが渋るので蝶子もカルロスに夕食をねだる時のような笑顔を追加した。ヴィルは諦めたように、拓人の空けたピアノの椅子に座った。
「短いので勘弁してくれ」
そういうとエルガーの『愛の挨拶』を弾いた。真耶は拓人にほらね、という顔をしてみせた。
優しく明るい音色だった。カルロスの館で、それともマラガで聴かせたような、重く苦しい響きを想像していた蝶子は少し驚いた。彼はどこか変わった。蝶子は思った。真耶に会ったからなのかしら。
でも、あの晩、私の告白のあとに真耶が突っ込んでも、彼は自分の事を何も話さなかった。蝶子はそれを残念に思っていた。どうして何一つ話してくれないんだろう。
お茶が済むと、真耶が庭の薔薇を見せるといった。レネは飛び上がらんばかりに大げさに喜んで同意し、蝶子も、座っているのに飽きた稔も席を立った。
拓人は言った。
「僕は、遠慮するよ。ヴィル君、君も薔薇の間の散歩が好きか?」
「いや、俺は薔薇にはそれほど興味がないんだ」
それは蝶子に向けていった台詞だった。
「だったら、ちょっとピアノの技術的な事について君と意見を交わしたいな」
ヴィルは特に何も言わずに残った。
「結城さん、素敵になったわねぇ」
外に出ると、蝶子は言った。真耶は微笑んだ。
「ね。いい音を出すようになったでしょう?」
「そうね。昔から上手だったけれど、深みが違うわね。それに、いい男になったわ。今だったら二つ返事で付いていくのに」
「なによそれ」
「大学生の時、他の子たちと同じように一度は迫られたのよ。でも、返事を渋っているうちに、さっさと次のターゲットに行かれちゃった。今から名誉挽回させてくれないかしら」
蝶子はぺろりと舌を出した。
真耶は厳しい顔で言った。
「ダメよ、絶対に」
「なんでよ。あの人あいかわらずプレイボーイなんでしょ? 真耶は氣にもしていないんじゃないの?」
「他の女の人はいいの。遊びでも本氣でも。でも蝶子だけはイヤ」
「どうして?」
「彼と奏でる音楽は私の聖域なの。蝶子はそこまで入って来れるから」
蝶子は真耶をちらりと見た。何を心配しているのよ。そんな深くに私が食い込めるわけないじゃない。
稔は、こいつらなんて会話をしているんだ、と呆れた。テデスコがここにいなくてよかったよ。また思い詰めるからな。
蝶子がまだ学生だった頃、ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』をフルートで吹いたのを拓人は憶えていた。美しい響きだったが、今、ヴィルがピアノで弾いているような、強い情感はなかった。あの頃は拓人も真耶も蝶子もまだ若かった。技術を切磋琢磨していたが、心はまだ音楽にふさわしくなかった。十年経ち、人生経験を繰り返して僕たちは音楽家になりつつある、そう拓人は思った。それはここにいるこの男も同じなのだ。
四人が庭にいるのを窓越しに確認して、拓人はピアノの上に身を乗り出し、ヴィルの顔を見据えて言った。
「君が誰だか蝶子がまったく知らないとは驚きだな、エッシェンドルフ君」
拓人の言葉にヴィルは大して驚いた様子をみせなかった。演奏の手を止めると立って窓辺に行き、真耶と連れ立って薔薇を見ている蝶子を見ながらぽつりと言った。
「まさか、東京で名前を知っている人間に会うとは予想もしていなかったな。どこでそれを知った」
「僕もドイツに留学していたんだ。蝶子より三年くらい前に。君がフルートのコンクールで優勝した折に、お父様のエッシェンドルフ教授と一緒にいたのを憶えているよ」
「で、どうする氣だ? なぜわざわざ誰もいない所でそれを俺にいうんだ」
「何か事情があると思うからさ。蝶子が教授のもとから去った理由を僕は知らない。君が父上の広大な領地を継いで結構な暮らしをする代わりに、大道芸人をしている理由も。だが君は蝶子のことを知っていたんだろう?」
「ミラノで会うまで面識はなかった。名前は知っていた。シュメッタリングは過去の事を何も話さなかったが、バイエルンなまりのドイツ語を話すフルートの達者な四条蝶子がそんなにたくさんいるはずはないからね」
「君はもうフルートは吹かないのか」
「だいぶ前にやめた」
「残念だな。あんな卓越したフルートはなかなか聴けないのに。蝶子のフルートを聴いて吹きたくはならないのか」
ヴィルはしばらく答えなかったが、やがて言った。
「吹いたら最後、正体がばれるだろう。俺はまだもう少しあいつといる時間がほしいんだ」
拓人は納得したように頷いた。
「僕は部外者として君の事を蝶子や真耶に黙っていてもいいが、条件がある」
「なんだ」
「蝶子に危害を加えるな」
ヴィルは眉をしかめて目を閉じた。それから吐き出すように言った。
「危害を加えられているのはこっちだ」
拓人はちらりとヴィルを見て頷くと、黙って『亡き王女のためのパヴァーヌ』を弾き出した。この男は、何か事情があって本名を隠して蝶子と同行する事になった。けれど、その目的を達成する前によりにもよって当の蝶子を好きになってしまった。もはや目的を実行する事も出来なければ、正体を口にする事も出来ない。そんなところだろう。
蝶子はこの事を知ったらどうするのだろう。Artistas callejerosのメンバーに対する強い信頼は、拓人には蝶子の信仰のようにすら見えた。もしそれが崩れたら、彼女はもう二度と人間を信用できなくなるかもしれない。
「忠告しておくよ。あまり長く待たない方がいい」
拓人はヴィルに言った。ヴィルは黙って窓の外の蝶子たちを見下ろした。
「君は多くを語らない人だ。想いは君の中でどんどん育っていってしまう。君はそのうちに黙っていられなくなる。蝶子のフルートを聴き続ければフルートも奏でずにはいられなくなる。だが信頼も日々育っている。大きくなればなるほど、壊れたときの衝撃に君も蝶子も堪えられなくなるだろう」
「あんたの言う通りだろうな」
もう既に遅すぎるのかもしれなかった。ロンダで蝶子の言った言葉が甦る。
「失いたくないものが出来てしまったの」
その通りだった。Artistas callejerosに加わるまで、ヴィルにも失いたくないものなど何もなかった。音楽は常に自分の中にあった。けれど今、彼が必要としているのは内なる響きだけではなかった。もう一人には戻りたくなかった。
「テデスコは日本の旅行なんか行きたくないんじゃないかしら」
蝶子は拓人とヴィルの姿のよぎる窓を見上げて言った。
「なぜ?」
「日本の薔薇を愛でるために、ここに居たいんじゃないかと思って。ずっと日本に残りたいなんて言い出したりしてね」
蝶子の意味ありげな微笑を見て、真耶は蝶子の顔を真剣に覗き込んだ。
「蝶子。それ、嫉妬なの? それとも、あり得ないと思うけれど、まさか、氣がついていないなんてことはないわよね」
「何に?」
「だから、ヴィルさんが、誰のことをいつも見つめているのかって話」
蝶子はしばらく答えなかった。やがて真耶を見ずに小さくつぶやいた。
「そうかな、と思った事はある。でも、きっと勘違いだったのよ。真耶にはとっても素敵に笑いかけていたもの。私はそれで構わないのよ」
真耶はため息をついた。
「あきれた。本当にわかっていないのね」
五分でも側にいれば誰でもわかるほどなのに。彼は苦労するわね。それにしても、なんでさっさと行動に移さないのかしら。小学生じゃあるまいし。
【小説】大道芸人たち (21)東京、 ワインを飲みながら
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(21)東京、 ワインを飲みながら
「間に合わなかったらどうしようかと思ったじゃない」
新幹線になんとか間に合ったので、安堵して蝶子は席に沈み込んだ。国内旅行に出る前の日に、稔は拓人と飲みに行ったまま帰ってこなかった。それで、蝶子はヴィルとレネを連れて、東京駅の新幹線の改札でぎりぎりまで待ち、発車直前に駆け込む事になったのだ。
「悪い。つい寝過ごした。結城は今日はオフだったんだ」
稔は荷物を上の棚に載せて謝った。
「結城さんが泊めてくれた上に、ここまで送ってくれたの?」
「うん。すごかったぜ、結城の億ション」
拓人と稔は学生時代から仲が良かったわけではなかった。だが、真耶の家では稔は同い年の日本人である拓人と話す機会が多く、一緒に飲みにいかないかと誘われた時にも特に違和感がなかった。
拓人はヴィルの言葉を信用していなかったわけではないが、念のために稔に少し話を聞き、必要とあれば様子を見るように話すつもりだった。
「真耶は、君たちが偶然旅先で会ったらしいと言っていたが、そうなのか?」
拓人の行きつけという静かなバーで、かなり高そうなワインを飲みながら、東京の夜景を眺めつつ稔は答えた。
「そうなんだ。コルシカ島からイタリアに戻るフェリーの上でさ、フルートを吹いている女がいたんだ。よく見たらフルート科の四条蝶子だったから驚いたよ。お蝶は俺の事は憶えていなかったけどな」
「君は蝶子がそんな所にいた理由を知っているのか?」
「だいたいのところはな。ドイツで恩師と恋愛関係になったけれど、結婚したくなくて逃げ出してきたって言っていた。でも、園城の方が詳しいよ。俺はその教授とやらを知らないんだ」
「僕は、一度見かけた事がある。有名な教授だ。ドイツのフルート界では一番の権威だ」
「へえ。そういえば、あんたもドイツに留学していたんだっけ。でも、そんな権威ってことは、相当な歳じゃないのか?」
「ああ。恋人っていうよりは父親の世代だよ。もっとも女の弟子には、必ずと言っていいくらい手を出すんで、別な意味でも有名な人でね」
「え……。そうだったんだ。じゃあ、お蝶は助平教授の不実さに愛想を尽かしたのかな」
「いや、ザルツブルグで二人に会った真耶によると、教授の方が蝶子に舞い上がってたそうだ。教授は図らずも本氣になってしまったんじゃないか。婚約していたらしいしな」
「プレイボーイにもそういう事ってあるのかなあ。プレイボーイって意味じゃ、お前、その教授なみだろ。どうなんだよ」
「あるさ。普段、真剣じゃない分、いったん恋に落ちると深いのさ」
稔は拓人をまじまじと見た。ホントかよ。拓人は、何かを思い出すように少し考え込んでいた。ふ~ん。こいつも軽い恋愛を楽しんでいるだけじゃないんだな。
「君はどうなんだ」
拓人は稔に訊いた。
「俺? 恋愛の話か? それとも大道芸人している理由の話?」
「失踪しているって聞いたぞ。それも恋愛がらみか?」
「俺の恋愛じゃないけどね」
「誰のだ」
「俺が恋愛対象に出来なかった女だよ」
ほう。拓人は意外に思って稔を見た。
「きっかけはその女だった。でも、俺はたぶんずっと逃げ出したかったんだと思う。家元制度とか、いろいろなものから、自由を求めて。で、本当にやっちまった。やっちまったらもう後戻りは出来なくなった。したくなかった。俺にとっては正解だったと今でも思う。でも、その分いろいろな人を傷つけ、迷惑もかけた」
「その女性に今回会ったのか?」
「いや。たぶん一生会う事はないと思う。弟と結婚するらしい」
拓人は黙って稔を見た。
「ほんの少しだけ、楽になったよ。あいつはヘビ女だったけれど、あんな風に恥をかかせて、苦しめていいってことはないからな。幸せになると聞けば嬉しいよ」
稔は拓人に笑いかけた。拓人も笑った。
「君はまじめだな」
「まじめな人間が失踪なんかするかよ」
「女一人を振るのに、失踪しなくちゃいられないほどまじめってことだろ。安心した」
「何が」
「蝶子のこと、氣になっていたんだ。でも、君が側にいれば安心だからな」
「トカゲ女は、俺なんかいなくても強く生きていくぜ。そんなにお蝶を氣にいっていたんだ?」
「落ちなかった女の方が思い入れは強くなるものだからな」
拓人は、こともなげに言った。
「今から名誉挽回させてくれないかしらって言っていたぜ。試すか?」
拓人はちらっと稔を見て言った。
「本氣で勧めているのか?」
稔は激しく首を振った。
「テデスコのいない所でやってくれ」
拓人は笑った。
「そういうと思った。無理だよ。あのドイツ人の前で蝶子に手を出す氣にはなれない。それに、真耶と蝶子があそこまで仲が良くては」
「お前にとって園城ってなんなんだ? 親戚? 音楽だけのパートナー? それとも?」
稔は一度聞いてみたかった事を突っ込んだ。稔の観察が正しければ、真耶の方は拓人に対してそれ以上の特別な感情を持っているようだった。
「そんなちっぽけな存在ではないな。双子の片割れか、それとも自分自身の一部くらいの近さがある。たとえ誰かと結婚して、離婚してなどという事を繰り返したとしても、真耶は常に側にいるだろうな。だからこそ、僕も真耶も独身のままでいるのかもしれない。結婚する相手よりも近い人間がいるなんて面倒な事じゃないか」
「園城と結婚する氣はないのか? 親戚といったって、出来ないほど近いわけじゃないだろう?」
「真耶と結婚? あいつは僕を恋愛対象にした事はないんだぜ?」
「そうか? 俺にはそうは見えないけどな。似合うぞ。お前ら」
「ふん。そうか。お互いに誰からも相手にされなくなったら、そうするかな」
だめだこりゃ。
「君はどうなんだ、蝶子のこと」
拓人は稔に訊いた。
「勘弁してくれ。こっちにもあっちにもその氣はゼロだ」
「いや、恋愛感情は別にしての話だよ。どんな存在なんだ?」
稔は、腕を組んで考え込んだ。そして、ワインをゆっくりと飲んだ。拓人は答えを急がせなかった。それで稔はぽつりと言った。
「たぶん、お前にとっての園城に近いのかもな」
拓人はバーテンダーにもう一本ワインを開けるように言った。
「俺にとって、そういう女はずっと陽子だった。生まれてからずっと側にいて、三味線の腕を競い合ってきた。小学校でも、夏休みもいつも一緒だった。子供だった頃から、思春期も一緒で、俺が他の好みの女と恋愛している時も、いつも三味線と陽子が大きな存在を占めていた。かわいい子と付き合って、別れて、その存在が消え去っても、常に陽子だけは変わらない存在だった。でも、俺が航空券をバラバラに引き裂いて捨ててしまった時に、俺はあいつの存在を捨ててしまったんだと思う。その空間は、一人で放浪している間中、いつもぽっかりとあいていた。そこに、お蝶と、プラン・ベックとテデスコが入り込んできたんだ。酒を飲んで、馬鹿な事をいいあって、音楽や理想や思い出や行き先について語り合ったり、意見を本氣で戦わせたり、弱っている時には手を差し伸べたりさ。そういうことをごく自然にできる相手って、そんなにいるもんじゃないだろう?」
「そうだな」
拓人は、ゆっくりとグラスを傾けた。本当にうらやましいほどの友情だった。
「その中でも、お蝶はもちろん特別だ。あいつは無茶苦茶だし、ウルトラ勝手だ。かわいげのまるでないトカゲだ。だけど、自分の痛みや苦しみを武器にしたりしない。強靭でしなやかな生命力のお化けだ。言う事はきついが誰よりも信頼できる。俺の事も戦友みたいに信頼してくれている。一年ちょっと前まで、ほとんどしゃべった事もなかったなんて、信じられないくらいだ。俺はたぶんあいつのためになら何でもする。たぶん自分の好みのカワイ子ちゃんとのデートを放り出してでも、あいつのために走るだろうな。すごく変だけど、お前にはわかるだろう?」
拓人は頷いた。これなら安心だ。たとえ、蝶子があのドイツ人の正体を知って、人間不信に陥るほどのショックを受けるとしても、稔が蝶子を支えるだろう。恋愛感情の有る無しは関係ない。そんなものはどうでもいいことだ。
拓人自身も蝶子を女として愛しているわけではなかった。だがやはり特別な存在だった。ちょうど稔をただのかつての同窓生として以上に信頼しているように。そして、拓人は同じ感情をヴィルに対してすら持っていた。それは音楽が結びつけた感情だった。稔の奏でる三味線が、ヴィルの弾くピアノが、蝶子が吹くフルートが、拓人には真耶の響かせるヴィオラの音と同じ尊敬を呼び起こした。
ヴィルのやっている事は褒められた事ではない。けれど、拓人はヴィルがそのフェアではない自分の行為に対して、既に十分すぎるほどの罰を受けている事を知っていた。
「よく泊めてもらえたわね。結城さんって、世界中を飛び回っていて忙しいだけじゃなくて、デートしたい女性が行列して待っているのよ」
蝶子は、買ってきた缶ビールをガイジン軍団に渡しながら言った。
「たまにはオフにしたいんじゃないか? 女の相手って、いろいろと面倒くさいし」
稔は、蝶子が大好物のシュウマイを取り出したのを見て、氣もそぞろになって言った。
「ヤスとは違って結城さんはそういうことが苦にならないのよ」
お前の事を心配して、わざわざ時間をとったみたいだぞ。稔はそう言いたかったが、ヴィルがいたので黙っていた。その代わりに機関銃のごとき箸使いでシュウマイをぱくぱく食べた。
「ちょっと! 一人で食べちゃうつもり?」
「直に車内販売が来るからまた買えばいいよ」
「これ、日本料理ですか?」
レネがおずおずと手を伸ばした。
「シュウマイは本来は中華料理だよ。こっちはさきいか。お、柿ピーもあるぞ。よくわかってんじゃん、お蝶。日本のものだけど、料理って言うよりつまみだな。俺たちみたいに飲んで騒ぐやつらの食いもんだ」
ヴィルはヱビスビールに満悦して、窓の外を眺めていた。
【小説】大道芸人たち (22)厳島、 海つ路
ようやく四人は観光らしい観光を始めました。富士山に次いで「日本と言えば」な風景。厳島です。
あらすじと登場人物
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(22)厳島、 海つ路
「あの島に渡るんじゃないのか?」
ヴィルが訊いた。四人は厳島を臨む宮島口に来ていた。ガイジン二人も知っている海の中の大鳥居が見えている。
「その通り。でも、ちょっと寄り道しようぜ。お蝶がこの店に煩悩しているんだとさ」
稔が、船着き場の近くにある穴子料理の有名店を指した。
「人が並んでいる」
レネは目を白黒させたが蝶子はひるまなかった。
「こんなに行列が少ないのは、お昼時じゃないからよ。ねえ、いいでしょう」
運がよかったのか、五分も待たずに四人は座れた。ガイジン軍団が何かを言い出す前に、蝶子は素早く白焼きと一緒に日本酒を頼んだ。酒さえあればともかく二人は黙るのだ。
「穴子ってなんですか?」
「うなぎの仲間だよ」
「えっ」
レネは青くなった。レネにとって鰻とは、まずくてしかたない魚料理の代名詞だった。
「大丈夫よ。イギリス人と日本人は調理方法が違うの。そんなにまずくないから、たぶん……」
蝶子がウィンクした。
他には何もないレストランなので、レネは覚悟を決めた。そして出てきた白焼きにおそるおそる手を出した。
「あ、美味しい」
レネは目を丸くした。
香ばしい上に、わさびと塩というシンプルな味付けが素材を引き立てていた。ヴィルもついに完全に魚嫌いを克服したようだった。日本酒との組み合わせを堪能している。周りの客たちが、その四人を遠巻きに興味津々で見ていた。
やがてあなご飯が運ばれてきた。稔は大喜びでかき込んだ。
「本当に美味いよな、これ。噂には聞いていたけれど」
「そうでしょう? ここに来るんなら食べないなんて考えられないわよね」
蝶子も大喜びだった。
一方、ヴィルは首を傾げていた。レネも不思議そうな顔をして食べていた。
「美味しくない?」
蝶子が訊くとヴィルは答えた。
「美味いけれど、なぜ甘いんだ?」
稔と蝶子は顔を見合わせてから吹き出した。
「そうか。ガイジンには新鮮だよな。日本料理にはこういう甘辛味のものがあるんだよ」
「そういえば、西洋料理にはこういうのなかったかしらね」
「あれは、どうして海の中に立っているんですか?」
船は厳島にぐんぐんと近づいていた。レネは大鳥居を指差して訊いた。
「あれはねぇ。神道のシュラインに入るための門なのよ。で、普通、シュラインは建物なんだけれど、ここは島そのものが信仰対象なの。だから島の手前に門があるってわけ」
「島そのもの? シントーは自然崇拝なんですか?」
「日本人の考え方では、何にでも神が宿るんだ。古木の生命力を信仰する事もあれば、コメ一粒の中にも神が宿るってね。だけど自然そのものでなくて名前のある人間みたいな神様もいっぱいいる。ギリシャ神話みたいにエピソードのいっぱいある神様もいるんだぜ」
稔が説明したが、レネはますます混乱するようだった。
「馬鹿みたいに思える?」
蝶子はヴィルに訊いた。理詰めのドイツ人にはついていけない感覚ではないかと思ったのだ。
「あんたたちは、その神様のエピソードが実際にあったと信じているのか?」
「まさか」
蝶子はびっくりして言った。ギリシャにだってゼウスだのアフロディテだのを信じている人なんかいないだろう。
「信じていないのに、祈るのか?」
「エピソードに祈るわけじゃないわ。でも、何百年も生きてきた大木や、千年以上前に名工が掘り出した仏像や、自分たちがどうにも出来ない運命を司るぼんやりとした存在に、尊敬の気持ちと願いを込めて手を合わせるの。その他にも、今日も無事に生きられてご飯が食べられます、おいしいお酒が飲めますって感謝したりね」
「なるほど」
ヴィルはわかるとも下らないとも言わなかった。ヨーロッパで信じられている馬鹿馬鹿しい事、例えばイタリアの街に聖母マリアの家が空を飛んでやってきた、などという伝説には理路整然と反論する事が出来る。だが、今日、うまい酒が飲める事に感謝するのに反対する必要があるだろうか。
蝶子は、海をわたる潮風を受けていた。コルシカフェリーの上でフルートを吹いていたとき、海は冷たかった。どこに行くのかわからず、何をしていいのかもわからなかった。広い世界にひとりぼっちだった。次に海を渡ったのは、アフリカ大陸への小旅行だった。あの時のメンバーが、いまここにいる。地中海が瀬戸内海に変わっても、いつも一緒にArtistas callejerosの仲間たちがいる。これほど感謝したくなる事があるだろうか。蝶子はフルートの入った鞄をぎゅっと抱きしめた。
稔がインターネットカフェで予約したのは、本来ならばとても四人が泊まれるような旅館ではなかった。だが、インターネット限定プランが直前価格で激安になっていたために、一人頭で割ると朝食付きなのに素泊まりの安宿よりも安くなったので、迷いなくそこにしたのだ。それは、厳島の中にある評判のいい旅館で、頼んだのはベッドが二つと、布団を敷ける和室が一体になった広い部屋だった。
「旅館を体験できるいいチャンスだろ」
「ついでにお部屋での食事も頼んじゃえば? 滅多にできない体験づくしで」
「そうするか。部屋で飲みまくるのもいいよな。よし、ヘビ女に返してもらった金はここで遣おう」
「あら、私たちもちゃんと出すわよ。この旅行、思ったよりも全然お金遣っていないし」
「いいんだ。部屋代は割り勘にするけど、ここの酒と飯は俺におごらせてくれ。お前たちが来るって決めてくれなかったら、今でも俺はヨーロッパで家族の事を悩んでいただろうし」
そして、稔はその旅館に二泊する予約をしたのだ。
船着き場から、島の中心の方に歩いていくと、鹿の集団が餌を求めてまとわりついてきた。ようやく梅雨が明けて、夏らしくなってきていた。したたる緑の彼方から蝉がうるさいほどに鳴いている。
「この暑さと湿氣! 忘れていたわ。これが日本の夏だったわね」
蝶子はうんざりして言った。
「この湿氣は雨が降っていたからじゃなかったんですね」
レネが汗を拭きながら言った。
「海のせいなのか?」
ヴィルの疑問には稔ははっきりとは答えられなかった。
「海辺じゃなくても湿氣はあるよな。冬は乾燥するし。わかんねえや」
「やっぱりヨーロッパの夏の方がずっと快適よね。それでも、ここは都会じゃない分、少しは涼しいはずなのよね」
蝶子がいうとレネが訊いた。
「どうしてですか?」
「都会だと、どの建物も冷房するから、そのぶん外が暑くなるんだ」
稔がそう答えた時に、蝶子が旅館の看板を見つけて歓声を上げた。
一歩旅館の中に入ると、冷房が効いていた。入り口では従業員が深々とお辞儀をしたので、レネがびっくりして後ずさりをし、稔と蝶子はその様子を見て笑った。チェックインが済むと仲居に案内されて四人は部屋に向かった。荷物を持とうとした仲居に、レネとヴィルはびっくりして断った。従業員とはいえ若い女性に荷物を持たせるなどという事は、彼らにはあり得ない事だった。稔も笑って断ったが、仲居が本当に困っているので蝶子は自分の荷物を渡した。
旅館の滞在は、ガイジン二人にはカルチャーショックの連続だった。お茶を淹れてくれ、館内の案内と浴衣や手ぬぐいなどの説明をにこやかにしてくれた仲居が、夕食の時も部屋にサービスに来ると聞いて耳を疑った。
食事の前にひと風呂浴びようと、稔と蝶子は二人を連れて大浴場に向かった。
「女性とは、別れているものなんですか」
レネは入り口を見て、がっかりしたように言った。
「当たり前だろ。全裸で入るんだから、一緒に出来るか」
「ええっ。全裸? でも、知らない人もいるのに?」
「慣れれば何ともなくなるわよ、じゃあ、あとでね」
蝶子は嬉々として隣ののれんをくぐって消えた。
露天風呂に入るのは十年ぶりぐらいだった。蝶子は蝉時雨に耳を傾けながら、思う存分手足をのばして、久しぶりの温泉を心ゆくまで堪能した。
竹垣の向こうからは、英語で騒ぐ声が聞こえてくる。
「え。だって、外ですよ」
「そうだよ。さっさと入れよ。おっと、その手ぬぐいはお湯に入れちゃダメなんだ」
「はあ。えっ、熱いじゃないですか」
蝶子は声を立てて笑った。さぞかし周りの日本人たちは奇異な目で見ている事だろう。
「おい、お蝶。何笑ってんだよ」
稔が竹垣越しに声をかけた。
「大変だろうなと思って。何もかもはじめてでしょう、その二人」
「ブラン・ベックがまだ入ろうとしなんないんだよ」
「テデスコは?」
「平然と入っているぜ」
「本当に熱いな、このお湯」
案の定、文句を言っている。蝶子は爆笑した。稔たちの周りの男性客だけでなく、いまや蝶子の周りの女性客も遠巻きに見ていた。
「真冬に、露天で雪見酒飲んだら美味しいでしょうね」
蝶子がいうと稔は叫び返した。
「よし、次回は冬に来ようぜ。それで、露天の部屋風呂のある宿にしよう。感じでないけど海水パンツ着てさ」
蝶子は笑った。日本に再び来るかどうかわからないけれど、その時はまたこの四人だといい、そう願って。
蝶子が部屋に戻ると、間を置かずに稔たちも帰ってきた。
「浴衣を着せるのもまた一苦労だったんだぜ」
蝶子は感心して三人を見た。
「悪くないじゃない。似合っているわよ、二人とも」
レネとヴィルは黙って顔を見合わせた。まんざらではない。
「でも、ヤスは本当に板についているわねぇ」
蝶子はため息をついた。単に日本人として浴衣が似合うというだけではなく、その着崩し方までが自然でいなせだった。蝶子は改めて稔が邦楽家であることとを思い出した。
「当たり前だ。俺はこういうのを着て育ったんだ。でも、お蝶も粋だぜ」
「そう? ありがとう。浴衣って、このくらい衣紋を抜いていいんだったかしら」
「ああ、だが、髪はアップにしろよ。そのほうが色っぽくなるからさ」
稔はウィンクした。あまり色っぽすぎても困るけどな、そう心の中でつぶやいた。
仲居がどんどん食事を運んできた。
「お料理の説明をさせていただきます。季節の先付はサーモンとすり身の寄せものでございます。お造りは鮪とイカとカンパチになります。こちらは茶碗蒸しでございます。焼物は生帆立貝柱バター焼、揚物は鱧とお野菜の天麩羅でございます。こちらのお一人様用の鍋は和牛のミニステーキの野菜添えでございます。固形燃料の火が消えるまで、蓋を開けないようにお願いいたします。白飯と香の物、最後に水菓子となります」
一氣に言われた説明を、蝶子と稔は放心して聞いていた。ヴィルとレネは通訳を待ったが、稔は簡単に言った。
「あ~、魚と野菜と肉だ。食う時に訊いてくれ。憶えている限り説明するから。とにかく乾杯するか」
飲み放題コースを頼んでおいたので、四人はスペインでのペースで飲みだした。
「なんてきれいなんだろう。これ、食べるの、もったいないじゃないですか」
レネがいちいち感心していった。
「作るのは大変だけれど、食べるのは一口よねえ」
蝶子が先付けをつるりと食べていった。
「魚ばっかりだけど、大丈夫か?」
稔はヴィルに訊いた。
「生なのに、まったく生臭くないな。この変な草以外」
そういって海藻をよけた。
「これは確かにハードル高いわよねぇ」
蝶子は熱燗をヴィルの盃に満たして笑った。
「このキモノコスチュームを着ると二人とも急に変わるんですね」
レネが言った。
「どう変わった?」
自覚のない稔は蝶子と顔を見合わせた。
「動きが、柔らかくなっている。力も抜けているな」
ヴィルが言った。
稔はどっしりと安定してリラックスし、蝶子は柔らかく色っぽくなっている。酒を注ぐときも片方の手が袖を押さえる。それがとても美しい。ヨーロッパではほとんど男性に酒を注がない蝶子は、ここ日本では率先してその役目をし、反対にヨーロッパではマメな稔はほとんど何もしなくなる。彼らは今、日本人の男女に戻っているのだ。
朝、目を醒ますと蝶子と稔がいなくなっていたので、レネはキョロキョロと見回した。部屋の窓辺に座っていたヴィルが言った。
「温泉に行っているよ」
「またですか?」
「朝に入るのは格別なんだそうだ。俺はシャワーで十分だから遠慮したがな」
ぼーっとしていると、昨日の仲居が入ってきた。
「おはようございます。お食事の用意ができています。食堂へどうぞ」
もちろん二人は何を言っているのかわからない。片言の英語で意思の疎通をしようとする仲居の相手をしている所に、稔と蝶子が相次いで帰ってきた。仲居は心からほっとしたようだった。
朝食の内容にガイジン軍団はまたしても目を白黒させた。
「魚? 朝から?」
稔と蝶子はほらきたという顔をして笑った。
「今日と明日だけだから、日本の朝ご飯を堪能してよね」
「あとの宿は素泊まりにするから、喫茶店とかで洋風のものが食べられるしな」
朝一番で、四人が行ったのは厳島神社だった。朱色の柱の鮮やかな回廊、海の上に張り出す舞台。そのエキゾチックさに感動していた上、歴史についての説明を聞くと、ますますレネは興奮した。ヴィルは台風で何度も壊れた神社がその度に再建されてきた事に興味を持ったようだった。
それから四人は大層心惹かれるものを目にした。奉納された酒樽の山だった。
「昨日の酒は美味かったな。今夜もあれを頼めるのか?」
ヴィルの問いに稔は大きく頷いた。
「飲み放題にしおいて大正解だったな。旅館の方は迷惑かもしれないけれど、二晩だから、いいだろう」
「午後はどうするんですか?」
レネの問いに蝶子は地図を見ながら答えた。
「裏の方の山をハイキングできるみたいよ。暑いからイヤというなら、旅館にいてもいいけれど」
「冷房の中だけにいるのも体に悪そうだよな」
稔が言うとヴィルも頷いた。
「汗をかいたら、また例の風呂に入ればいいんだろう」
「温泉、好きになってきたの?」
蝶子はおもしろがって訊いた。
「あの熱い湯から出ると、暑さが氣にならなくなる」
稔と蝶子はゲラゲラ笑った。
【小説】大道芸人たち (23)京都、 翠嵐
あらすじと登場人物
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(23)京都、 翠嵐
「ヤス! 三味線!」
蝶子がそう叫ぶと、稔の肩から三味線の入った袋が奪い取られていた。そして何が起こったのか把握する前に上から水が降ってきた。
「うるせえ。この毛唐ども!」
上から、怒号が聞こえて、ぴしゃりと窓が閉められた。
四人は京都の西陣の近くを歩いていた。『鰻の寝床』というにふさわしい京町家がたくさんあったので、物珍しさも手伝って冗談を交えながら楽しそうに話していた。ただ、そこは本来は観光客の見て回るようなところではなかったらしい。しかも、その家では夫婦喧嘩の真っ最中で、亭主の機嫌の悪さは並大抵でなかった。だいたい亭主は京都人ではなかった。氣の短い江戸っ子だろう。
蝶子はかなり離れたところからひらりと戻ってきて、稔にまったく濡れていない三味線の袋を返した。それから突然の襲撃に呆然としている三人を見てけたけたと笑った。
「なによ、あなた達、水をかけられた事ないの?」
みごとに蝶子はどこも濡れていなかった。水がかかる前に素早く安全な場所に逃げたのだ。
「お前はあるのかよ」
濡れた背中を氣にしながら、稔は言った。
「ありますとも。何度も。真冬にもね」
「なんですって。どうしてそんなことに?」
レネは自分が濡れて惨めな氣持ちでいる事もすっかり忘れて訊いた。
「私ね。家で練習するの、禁じられていたのよ。日本の家屋事情を考えたら、しかたないわよね。でも、練習しないとどうしようもないじゃない? だから、近くの原っぱに行ってそこで吹いていたのよ。その前にある家にしてみたら迷惑だったでしょうね。それで、よくうるさいって言って、こういうバケツの水が降ってきたものよ。一度なんか、バケツごと落ちてきたから、危うく怪我するところだったわ」
蝶子は笑ってその話をしていたが、稔は、その時の蝶子の惨めさを思ってやるせなくなった。大学時代、蝶子は練習をしてこないクラスメイトにひどく辛辣だった。稔は邦楽科だったが、ギター好きが高じてアンサンブルの授業を受講し、そこで蝶子と一緒になった。一人や二人の練習不足のために授業が進まないと、みんなは迷惑そうに眉をひそめたが、本人に激しく抗議したのは蝶子一人だった。
「おお、怖い」
そういって、舌を出していたクラスメイトは、夏の間はハワイの別荘でサーフィンをして過ごすと自慢していた裕福な家の一人娘で、親にすべての授業料を出してもらい、卒業後は親の関係する学校で教職に就いた。
いつもどこか構内でフルートを吹いていた蝶子に「あてつけみたいで、嫌みよね」と言ったあの女は、きっと知らなかったのだろう。稔も知らなかった。蝶子には心置きなくフルートを練習する場所が他のどこにもなかったのだ。練習できる場所があるから、どうしても大学に入りたかったのだ。
「さ。日光にあたって乾かしなさいよ。どこに行く? 京都御所? それとも北野天満宮?」
「そういう目的で行くところか?」
ヴィルが言った。
「なんで、お前、ほとんど濡れていないんだよ」
稔はヴィルに抗議した。
「一番、手前にいたからだ。運が良かったみたいだな」
一番運がなかったのはレネだったらしい。ほとんどびしょぬれだった。
「カードは大丈夫?」
蝶子は訊いた。確認したところ、全部プラスチックの箱の中に入っていたので、ほとんど被害はなかった。ただし、ハンカチ類や布でできた花などは全部濡れていた。
「これ、みんな干さなきゃダメですね」
稔は蝶子が三味線を守ってくれたその判断に感謝した。
「金閣寺まで歩いていこうぜ。この暑さなら服は直に乾くだろ」
稔がそういうと、レネのハンカチを数枚荷物に掛けて干しながら歩き出した。ヴィルも黙ってやはりレネの手からハンカチ類を取ると、同じようにして歩き出した。蝶子は花を受け取って荷物に刺した。レネは嬉しくなってニコニコして後を追った。
「金ぴかだ……」
今まで見てきた日本の寺社とはひと味違う派手な建物に、レネは呆然とした。
「あれって削り取ったら、本物の金なんでしょうか」
「さあな。本物だったら、もうなくなっているんじゃないのか?」
稔が答えると蝶子が説明書きを読んで訂正した。
「本物だって。二十四金。ただし金箔だそうよ。つまり表面だけ」
「世界遺産だからな。削り取ったりしていると、フランスのニュースになるぞ」
稔がウィンクした。
「一度燃えたんだろう?」
ヴィルが訊いた。
「そうなの。放火よ」
蝶子は言った。
学僧の放火の動機について、蝶子はどこかで読んだ事があった。自分へのコンプレックスと拝金主義に陥った寺への嫌悪感、母親の過大な期待に対するストレスに結核への恐怖と統合失調症……。犯行後わりと直に亡くなってしまったので、未だに確かな事はわからない。世界的に有名な寺が焼け落ちるのを見ながら、彼はどんな事を考えたのだろう。逮捕後ショックを受けた母親が事情聴取の帰りに投身自殺をしたと聞いた時、彼は何を思ったのだろう。
「池に映っているのを逆さ金閣って言うんじゃなかったっけ」
稔が覗き込んだ。
「そうそう。修学旅行で絵はがきと同じ写真を撮ろうとしたわ。人がいっぱいいるから、同じになんか撮れっこないんだけど」
蝶子は、葉書を買った。後で真耶に送るのだ、いつものように。
大徳寺の高桐院に行きたいと言い出したのは稔だった。
「何があるの?」
「庭の眺めがすばらしいんだ。離れていれば行かなくてもいいけれど、この距離なら行きたいよ」
「行くのは意義なしだけど、この暑さの中また歩くのは勘弁。バスを使いましょう」
蝶子はさっさとバス停に向かった。
稔はレネにウィンクした。
「大徳寺の裏手に今宮神社ってのがあって、美味いあぶり餅が食べられるんだぜ」
「甘いんですか?」
「甘いよ。白みそのたれだ」
高桐院に一歩足を踏み入れると、それは別世界だった。
「誰もいない」
レネがキョロキョロした。
金閣寺にはあれほどいた観光客たち、キャーキャー騒ぐ女学生たち、ちらほら見た外国人たち、すべてが姿を消していた。大徳寺前のバスで降りた人はいたし、高桐院は有名なので誰もいないなどという事は想像もしていなかった蝶子と稔も訝しげに周りを見回した。
緑色の静謐なる世界だった。先程と変わりないほど蒸して暑いはずなのに、風が竹林を吹き抜けてさらさらと音を立てると、蝉の声までもが遠くなり、まるで別の世界に来たようだった。石畳の参道の左右に広がる鮮やかな苔、竹で出来た欄干、人の手で作られたものなのに、この庭はどこか自然の支配する神聖な趣があった。
拝観料を払う窓口に来ると、中には一人の老人がいた。目があるのかどうかわからないほど細い目をさらに細めているので、寝ているのではないか、もしかしたら石像なのではないかと錯覚するほどだったが、しっかりと四人分の拝観料を請求してチケットを切ったのでやはり人間だったのだと納得した。
暗い院内から庭を眺めると風景を額縁に切り取ったようだ。蝉の声、風の音、畳の上で動く誰か、それ以外は何も存在しなかった。
中庭に出て、歩いている時にレネが言った。
「モネや他の芸術家が日本に惹かれたのがようやくわかりましたよ。でも、彼らの作り出したものからは、この世界はとても想像できませんでしたね」
茶室を見た後、もとの参道を通って高桐院を後にした。翠のうねりが風に揺らされて四人を異界へと誘い続けている。ここは、本当に現代の日本なのかと訝しく思う。出口で笑い転げる女学生たちとすれ違った。四人は顔を見合わせた。ようやくどこか幽玄な世界から戻ってきたのかと疑いながら。
「ほらこれがあぶり餅屋だ」
稔は、今宮神社の参道にある二軒の店を示した。
「どっちが?」
「あれ? こっちは元祖で、こっちは本家?」
わからないので、二人ずつそれぞれの店で買ったが、本数も値段もまったく一緒だった。味も、四人に違いはわからなかった。一人分が小さな餅十五本なのだが、レネは大喜びで食べ、さらにヴィルと稔から十本ずつもらっていた。
「そういえば石で出来た波紋の庭のある寺は、この近くにあるのか?」
ヴィルが訊いた。以前に雑誌で見た事があり、日本にいるなら一度見てみたいと思っていたのだ。
蝶子が大徳寺の観光マップを見て頷いた。
「さっきいた大徳寺の、まだ見ていない塔頭のうち、興臨院や瑞峯院には枯山水があるみたいね。私も見てみたいわ」
四人は大徳寺の境内を通って歩いていった。瑞峯院の枯山水を眺めているうちに、稔が言った。
「ああ、三味線が弾きてえ」
「弾くのはだめなのか」
「一応、お寺だからな。許可なく弾くわけにはいかないよ。外ならいいかもしれないけれど」
「出雲で弾くんでしょ」
「そうだな。俺、やっぱり日本人なんだな。こういう光景を見ているとたまんなくなる」
「そうね。私たち、ようやく祖国に帰ってきたのかもしれないわね。もともと京都にはまったく縁がないとしても」
縁側に腰掛けてぽつりと語り合う二人をヴィルとレネは黙って見ていた。
【小説】大道芸人たち (24)出雲、 エレジー - 1 -
例によって長いので二日にわたっての更新です。
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(24)出雲、 エレジー - 1 -
「ここ?」
バスを降りて蝶子はあたりを見回した。蝉時雨の音が激しい。これほど蒸し暑い氣候なのに不思議な清浄さを感じさせる。しかし、その第一印象とは対照的に、何もない退屈な村に見える。
「みたいだな」
稔は答えた。
「なんというか、その、ひなびた所ね」
蝶子は言葉を選びつつ言った。
稔もべつにこの村に思い入れがあった訳ではない。ガイジン軍団に日本を見せるなら、京都、安芸の宮島、日光東照宮、それに出雲ぐらいは基本かと思ったのだ。
新堂沢永和尚と名酒『不動』を酌み交わしている時にそんな話をしたら
「出雲に行くのか」
と、身を乗り出してきたのだ。
「出雲市からバスに乗って一時間もかからない、樋水村というところがある。樋水龍王神社という由緒ある神社があってな、そこに立ち寄ってくれんか」
「そこで誰かに逢えばいいのか?」
「いや、ご神体の瀧のある池で、三味線を弾いてほしいんだ」
「何のために?」
「その神社には千年前の悲恋の伝説があってな、その二人のためにってことにしておこうかな」
「じいちゃん。そんなこと本氣でいってんのか?」
「まあ、いいじゃないか。こっちは老い先短いんだ。多少のわがままはきいてくれないと」
「そりゃ、いいけどさ。本当にその千年前の恋人たちのためになんか弾けばそれでいいのか?」
「そうだ。向こうには連絡しておくから」
「なんだよ。じいちゃん、そこの人たち知っているのか?」
「行けばわかる。過疎の小さな村だ。外国人を二人も連れていれば、向こうがすぐに見つけてくれる。お前らは、そのくらいの寄り道をする時間の余裕はあるんだろう?」
「もちろんだよ。でも、その村に泊まるところとかあるのかな?」
「その心配はせんでいい。わしが頼んでおくから」
バスが行ってしまったので、四人はバス降車場を離れて、参道を正面に見えている、村の規模に比べてやけに大きくて立派な神社に向けて歩いていった。
『大衆酒場 三ちゃんの店』というのがあった。なんだこりゃ。ド田舎の酒場だよ。食事をするにもこんなところしかないんじゃないか? ガイジンつれて騒いだら、そうとう浮くな。村人が買い物をするのであろう小さな用品店、流行のかけらも感じられない衣料店、それに観光客目当てと思われる土産物屋などが続く。ヴィルとレネは面白そうに見ていたが、蝶子と稔は困って目を見合わせた。
「あら? ここはちょっとまともそう……」
蝶子が足を止めたのは『お食事処 たかはし』という看板の出ている店だった。黒と木目を基調としたシックなインテリアにも好感が持てたし、表に出ている本日のメニューにも心惹かれた。
「車海老と帆立貝のマリネ、アーティチョークのサラダ? こんなところで?」
稔も首を傾げた。
それを中から目を留めた女性が出てきた。
「いらっしゃい。あら? ガイジンさん二人……。ってことは、もしかしてあなたが新堂の和尚さまのご親戚の稔君?」
稔はびっくりした。じいちゃんが連絡しておくって言ったのは、この人か?
「そうです。はじめまして」
「お待ちしていました。私は高橋摩利子。どうぞ、中に入って」
都会的できれいな女性だった。蝶子や稔の両親くらいの年齢なのだろうが、日本人には珍しいくらい現役感を醸し出している女性だった。この村にはまったくそぐわない。関東の人だろう、言葉のイントネーションでわかる。
「田舎でびっくりしたでしょう? 私も初めてきた時には絶句したわ」
摩利子はにっこりと笑った。
「紹介します。俺の大道芸人の仲間で、こちらは蝶子、ドイツ人のヴィル、フランス人のレネ。お世話になります」
「よろしくね。今、買い物に行っているけれど、すぐに主人も帰ってくるから。二階に娘たちが以前使っていた部屋があるの。そこに泊まって。男三人だとちょっと狭いけれど……」
「私たちいつもドミトリーに泊まっているので、べつに二人ずつでもいいんですけれど」
蝶子が言った。摩利子は目を丸くしたが、高らかに笑った。
「好きにするといいわ」
それで、稔と蝶子には摩利子が常識にとらわれない豪快な性格であることがわかった。
「ここ、旅館じゃないですよね。お礼はどうしたらいいでしょうか」
蝶子は単刀直入に切り出した。
「あら、水臭いこと言わなくていいのよ。和尚さまの御用でここにきたんでしょ? どんなことでも協力するわ。主人は連絡がきてから大興奮していたのよ、まだかまだかってうるさいぐらいにね」
ということは、この人たちは『新堂のじいちゃん』とかなり親しいんだな。少し事情を訊いておこう、稔は思った。
「あの……。じいちゃんは行けばわかるとしか言わなかったんですが、この村とじいちゃんって何の関係があるんですか?」
「やだ、稔君知らないの?」
「何をですか? 神社の池で千年前の恋人たちのために三味線を弾けって、わけのわからないことをいわれただけで、さっぱり……」
摩利子は呆れた顔をした。
「和尚さまの息子の朗さんが、この神社の禰宜だったのよ。私と主人の一は、新堂さんと奥さんのゆりさんの親しい友達なの。二人とも四半世紀以上行方が知れないんだけれど。だから、和尚さまは二人のために三味線を弾いてほしいんだと思うわ」
『新堂のじいちゃん』に昔行方不明になった息子がいるという話は、子供の頃に聞いたことがあった。だけど、なんではっきり言ってくれないんだよ。
「ここで行方不明になったんですか?」
稔の言葉に摩利子は頷いた。
「龍王の池ってのは?」
「お社のご神体は樋水川そのものなのよ。で、瀧壺の底にはその化身である龍がもう一匹の蛟といっしょにとぐろを巻いているんですって。池のほとりの家に、私の娘夫婦が住んでいてね。その家には、かつて新堂さんたちも住んでいたの。だから、そこで三味線を弾いてあげて」
「わかりました」
千年前の恋人とか、何でまどろっこしいことを言ったのかなあ? 失踪ってキーワードが俺にはNGだと思ったのかな?
「私もフルートを吹いていい?」
四人で、神社に向かっている途中で、蝶子が言った。
「もちろん。失踪者ってキーワードに共感したのか?」
「ううん。息子のためにってキーワード。私はアーデルベルトのためにフルートを吹きたいの」
「アーデルベルト? 誰だよそれ」
稔とレネは疑問符でいっぱいになった。ヴィルは不意打ちに衝撃を受けたが、幸い三人はそのとき彼の顔を見ていなかった。
蝶子は地面を見ながら続けた。
「ヤスのおじいさんは、息子さん夫婦への想いをヤスに託した訳でしょう? たぶん、もう生きていない大切な人たちへの想いを。私は、不意に親を失ってしまった一人の息子のやりきれない想いのために、弔いの音を奏でたいの」
「その息子がアーデルベルトって名前なのか?」
「そうよ」
「ドイツでの友達か?」
「会ったことない人なの。向こうは私には会いたくないでしょうね。お母様が亡くなったのは私のせいだから」
稔とレネは固まった。蝶子はそれ以上を話そうとはしなかった。
「こんにちは。母から連絡を受けています。私は娘の瑠水です」
神社の境内に入ると、松葉色の袴を身に着けた小柄な女性が笑顔で挨拶した。うわ、かわいい。稔はどきどきした。への字型の眉毛のせいで、笑っているのに泣き出しそうな顔に見える女性で、それがとてもはかなげに見えたのだ。人妻かあ、惜しい。
「ヤス、手水の取り方知ってる?」
「う……。ちょっとあやしい、お前は? お蝶」
「だめよ、全然。その手の常識に欠けてて……」
その会話を聞いて、瑠水は微笑むと、一緒に行って手水の取り方を実践してくれた。稔と蝶子が手水をとっているのを見て、ヴィルとレネは困ったように顔を見合わせた。
「ああ、ガイジンはやらなくてもいいんじゃないか?だめですか?瑠水さん」
稔は瑠水に問いかけた。
「宗教上の理由でなさらない方もいれば、単にご存じなくてなさらない方もいますわ。私は尊敬の氣持ちさえ持っていただければ、かまわないと思うんです。宮司には内緒ですけれど…」
瑠水の笑顔に稔は顔がにやけるのが止まらなかった。
「これが伝統なのか?」
ヴィルが訊いた。
「神聖な場所で何かをする前に、自分を清めるの。それが日本の考え方の根本でもあるのよ」
そういうことならと、ヴィルもレネも見よう見まねで手水をとった。
「拝殿でお参りした方がいいのかしら?」
蝶子が勝手が分からずに訊いた。瑠水は優しく言った。
「普通の神社や、一般の方の参詣はそうなんですけれど、これから皆さんはもっとご神体に近いところに行かれるわけですから。この神社は少し特殊なんですよ。普通の神社ではご神体は本殿の中にあるんですが、ここのご神体は建物に入りきらないので……」
「瑠水さんはいつ神主になられたの?」
蝶子の問いかけに瑠水はまた笑った。
「まだです。私と主人はまだ見習いの出仕という身分で神職ではないんです」
「それなのに、ご神体のそばにお住まいになっているの?」
「ええ。この神社だけに存在する、ちょっと特殊な役職があって、それで私たち夫婦はここに住むことになっているんです。でも、私たちはまだその役職になりたてで、資格も取っていないので、二人とも前の仕事も兼任しているんです」
「前の仕事って?」
稔が訊いた。
「私は地質の調査、主人は彫刻師です」
「神主さんって、兼業したりするの?」
蝶子は知らない世界のことに興味津々だった。
「事情はあちこちで違いますね。神社の台所事情から兼業せざるを得ない神職の方もいらっしゃいますし。私たちは、まだ神職の世界になれていないんで……」
「お寺の息子が、神主になるなんてこともあるんだね」
稔は訊いた。
「新堂先生とゆりさんは、特別な事情でこの神社にいらしたと伺っています。でも、私が生まれる前のことで、詳しくは存じ上げていないんです」
蝶子と稔は交互にヴィルとレネに会話の内容を通訳した。瑠水は感心した様子でそれを見ていた。
「お二人とも、英語に堪能なんですね」
「まあ、毎日こいつらと一緒にいるから、それなりに上達するんだよ。俺は、学校で習っただけで、本来は英語なんてからきしだったんだけどさ。お蝶はもっと出来がいいぞ。ドイツ語もぺらぺらだし、イタリア語もできるんだ」
「まあすごい」
「八年も外国にいると、簡単に上達するのよ。日本のことは、手水の取り方もしらないんだけどね」
蝶子は自嘲的に言った。
瑠水は海外に行ったことがなかったし、こんな近くで外国人を見たこともなかった。こういう組み合わせのグループがしょっちゅう訪ねてくるわけではないので、興味津々だった。
「蝶子さんがお持ちになっているのも、楽器ですよね」
「ええ、フルートよ。私もお許しがいただけたら吹かせていただこうと思って」
「まあ。主人が早く帰ってくればいいのに。私たち二人ともクラッシック音楽の大ファンなんです」
「そうなの? だったら、どこかにピアノがないかしら。この人はとてもピアノが上手なのよ」
そういってヴィルを示した。
「ピアノ、うちの居間にあります。たいしたことのないアップライトピアノですけれど、本当に弾いていただけますか?」
「弾いてくれるわよね? もっとも、ご神体の側でそんなにいろいろ演奏して宮司さんに怒られるかしら」
蝶子は周りを見回した。
「大丈夫です。習いたての私のひどい練習ですらも、奉納ですからのひとことで済ませていますもの。上手な方の演奏なら、龍王様もお喜びになるわ。たまにはまともな音楽が聴けるって」
蝶子も瑠水が大好きになった。
瑠水は四人を家に案内した。居間から続く大きな広縁があり、そこから荘厳な池が見えた。緑豊かなすばらしい景色で、一番奥の正面に瀧が涼しやかな音を立てていた。その美しい光景に四人はため息をついた。
「真耶のところもいいけれど、こういうところに住むのも、本当に贅沢よねぇ」
「俺、結城拓人の億ションより、こっちの方が好みだあ」
蝶子と稔の会話に、瑠水はびっくりして訊いた。
「え? 結城さんと真耶さんをご存知なんですか?」
「知っているも何も、私たち東京に来てからずっと真耶のところに居候していたのよ」
「瑠水さんこそ、あの二人を知っているのか?」
稔も驚いて訊き返した。
「ええ、東京にいた時に……。二人ともお元氣ですか」
「ああ、達者に大活躍しているよ。それにしても君があの二人を知っているなんて、偶然とはいえ、すごい縁だな。世間は狭い」
稔は三味線を取り出しながら言った。
それを機に、Artistas callejerosの四人の表情ががらりと変わった。誰も何も言わずに、広縁から池の方をみつめた。瑠水も静粛な心持ちで、四人の後ろの畳に黙って座った。
蝶子は広縁の上に正座し、外国人二人は腰掛けた。三人に囲まれる形で背筋を伸ばして正座した稔はしばらく全く音をさせずに座っていた。蝉の声と木々をわたる風の音、そして途切れなく響く瀧の水音だけがあたりを支配した。
【小説】大道芸人たち (24)出雲、 エレジー - 2 -
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(24)出雲、 エレジー - 2 -
やがて稔は静かにバチをとると力強く弾き始めた。誰も何という曲か知らなかったが、強く哀切のこもる曲で、ヨーロッパでは一度も聴いたことのない音色だった。それは陰調の『あいや節』だった。空氣が震えた。木々が稔のバチに合わせて身をしならせた。龍王の池の水面が狂おしいうねりを見せた。
蝶子は身震いした。稔が三味線の名手であることはもちろん知っていた。しかし、彼はそれ以上だったのだ。天才という言葉がしっくりとくる。大道芸人をしているような人材ではないのだ。稔以外の三味線の音を聴いたことのないレネやヴィルにもそれはわかった。
稔は『新堂のじいちゃん』とその息子夫婦のために弾いていた。そして、亡くなった父親と、それを悲しむ母親、弟、そして自分自身のために弾いていた。千年前の恋人たちと日本の心を象徴するようなこの神聖な社の龍のために弾いていた。神秘的な龍の心と三味線の音色が響き合い、出雲の、それから大和の魂となって山の中にこだまする。
ここ日本は俺のルーツだ。この響きは俺の魂だ。そして、今ここにいる三人が俺にとっての現実だ。俺はこいつらと一緒にヨーロッパで生きていく。俺の魂の音を奏で続ける。それが俺の生きていく意味だ。
瑠水は涙を流していた。東京のコンサート会場で拓人の演奏に涙して以来、人の演奏に涙を流したことはなかった。この人は、結城さんと真耶さんと同じ、音楽で奉職する人なのね。この場にいられるなんて、私はなんて幸せなのかしら。
その曲が終わると、稔はやはりしばらく身じろぎもせずにいた。再び風と水と蝉の音だけが空間を支配した。誰も何も言わずにそれを聴いていた。
やがて、稔は蝶子の方を見て微笑んだ。蝶子は頷いて、ゆっくりとフルートを組み立てて立った。透明な細い音が、空に響き渡った。ドボルザークの『我が母の教えたまいし歌』だった。稔の音と対照的な静かで平和な音だった。深い哀切が心に染み渡ってくる。心が痛くなる。失われてもう戻らない人を想う世界に共通した悼みを、切々とした音色が心の奥深くから揺り起こしていく。
蝶子が自分と母親に対してどういう想いを持っていたのか、ヴィルは初めて知った。ヨーロッパの女なら、こんな風に自分を責めることはないだろう。ヴィルにしてみれば、母親が死んだのは父親のせいではあっても蝶子のせいではなかった。父親は四半世紀以上、母親に興味がなかったのだ。しかし、ヴィルはアーデルベルトとしてそれを蝶子に伝えることができなかった。
レネはコルシカフェリーを思い出していた。あのとき自分は彼女を口説くことしか考えていなかった。でも、パピヨンはこんなに重い十字架を背負い、迷い苦しんで泣いていたのだ。あのとき自分が思ったような単純な失恋などではなかった。家族に理解されず、恩師との恋愛沙汰に巻き込まれ、誰かに死なれ、どれほど苦しかったことだろう。それでも蝶子はしなやかで強かった。フルートを吹き続け、人生という旅を休まずに続けている。
蝶子がその曲を吹き終えると、とても短かったので、稔は手振りでもう一曲やれと指示した。肩をすくめると蝶子はヴィルに言った。
「プーランクの『フルートソナタ第二番』の二楽章、一緒に演奏してくれる?」
ヴィルは黙って頷いて、瑠水のピアノの前に座った。前にコモで蝶子と演奏したことがあり、父親に頼まれて何度も伴奏したことがあるので暗譜で弾くのは難しくなかった。だが、穏やかならぬ心をコントロールするのは困難だった。ヴィルの心を乱しているのは亡くなった母親ではなく、いま、その母親のために繊細で類いまれな音色を生み出している蝶子だった。知れば知るほど愛は深まっていく。想えば想うほど、自分の始めてしまった愚かなゲームのために身動きが取れなくなっていく。そうだ、拓人。こんなことを続けるべきではない。早いうちになんとかしなくては。
蝶子は無心に吹いた。アーデルベルトのために、マルガレーテ・シュトルツのために、それから稔とその父親とのために。失ってしまった祖国への哀歌でもあった。深い信頼と親愛の絆を感じつつも、いつまで一緒にいられるかわからない大切な三人との愛おしい日々に対するオマージュでもあった。
蝶子が終わると、瑠水は次はヴィルだと期待を持った目で見つめた。それで、瑠水には無表情にしか見えないがかなり困っているヴィルに稔は頷いた。仕事で「お前の番だ」という時の頷き方だった。それでヴィルは肩をすくめてショパンのピアノソナタ第一番の第一楽章を弾いた。
ヴィルは自分の母親のために弾いているわけではなかった。ヴィルは稔のために弾いていた。彼の父親のために。彼の親戚の老僧とその息子夫婦のために。レネとその亡くなった妹と暖かい両親のために。蝶子の痛み続ける心のために。Artistas callejerosに加わるようにしむけ、ここに自分を連れてきた不可解な運命のために。そして、成就することのないであろう愛のために。
家の入り口には、仕事から帰ってきた瑠水の夫の真樹が黙って立っていた。三味線の音に驚いてやってきた宮司をはじめとする神職たちも、聴いたこともない見事な奉納演奏の連続に場を離れられずに立ちすくんでいた。
ヴィルの演奏が終わると、三人は必然的にレネの顔を見た。
「な、なんですか。僕は音楽家じゃないんですよ!」
「でも、あんなにいい声なんだもの。何か歌ってよ。教会で歌っていたなら、ちょうどいい曲があるんじゃない?」
レネはしばらく抵抗していたが、蝶子が一緒に歌うことを約束させてようやくヴィルにフランクの『Panis angelicus』の伴奏を頼んだ。蝶子は喜んで歌詞抜きでコーラスを歌った。
『たかはし』で、四人と瑠水と真樹、そして摩利子と一が山崎の十八年で乾杯していた。宿泊は好意に甘えるとしても、底なしに飲むから飲食代だけはちゃんととってほしいと頼み、新堂朗の好きだったというウィスキーで乾杯することにしたのだ。
「残念だわ。ものすごい演奏だったんですって。店を閉めて聴きにいけばよかった」
摩利子がため息をついた。
「プロの演奏と瑠水のが全く違うのはあのピアノのせいだとずっと思っていたんですが、ピアノに罪はなかったようですね」
ふくれっ面をする瑠水の頭をなでながら真樹が言った。
「私は始めたばかりだもの。この人たち、真耶さんや結城さんとお友達なんですって。そういうレベルなのよ。比較すること自体間違っているわ」
「宮司もうなっていましたよ。お社で奉納された演奏としてはこの半世紀で最高じゃないかって」
真樹が言うと一は嬉しそうに頷いた。
「和尚さまにさっそく連絡しなくちゃね」
摩利子は車エビと帆立のマリネを出しながら言った。出た皿はどれも三十秒以内に空になった。
「ああ、美味しい。この村でこういうものが食べられるとは全く思っていなかったわ」
蝶子はにっこりと笑った。
ヴィルは翌日に瑠水に頼まれてシューベルトの『即興曲』作品九十の第三曲を弾いた。瑠水はこの曲に特別な思い入れがあるようだった。
「いいよなあ。俺もピアノが弾ければ、瑠水さんにあんな風に尊敬してもらえるのに」
稔は悔しそうだった。
「でもそこまでじゃない?ピアノがどうとかいう問題よりも、瑠水さんと真樹さん、あんなに仲がいいんですもの。ああいうのを見ると結婚ってのもいいなあって思うわ」
「トカゲらしくないこと、いうなよ。不氣味だ」
瑠水はヴィルの音色に、かつての拓人の音色と同じものを感じ取った。CDやコンサート会場で聴く知らないピアニストの演奏では感じたことのない、願いとも痛みともつかない感情がこもっていた。外国人は瑠水にとって異星人と変わらない存在だったが、そうではなかった。昨日はじめて会ったにもかかわらず、瑠水にとって四人はすでに拓人や真耶と変わらぬほどの大きな存在になっていた。音楽は絆として深い心の結びつきをつくることができる。ここが奥出雲で、四人が一ヶ月後には再びヨーロッパに去ってしまうとしても、それは変わらない。お互いに自分にできることを続け、この世界に自らの立ち位置を作り、ひたすら生き続けるのだ。
出発の前に蝶子は龍王の池のほとりに立ってメンデルスゾーンの『歌の翼に』を吹いた。
「なぜかここに立つと、たまらなく吹きたくなるのよね。心の中に幸福な風が吹いてくるみたいなの」
稔にそういう蝶子を摩利子は嬉しそうに見つめた。
「そう、ここはそういう所なの。あなたたちに会えて嬉しかったわ。次に帰国する時も、またぜひ来てね」
瑠水と高橋夫妻に別れを告げると、四人は真樹の運転する車で出雲まで行った。真樹が出雲大社に案内してくれた。真樹は二人の外国人が平然と手水を取っているのに驚いた。
「昨日、瑠水さんに習ったのよ。私たち四人とも」
蝶子がウィンクした。
「これが出雲大社かあ。俺、はじめてなんだよな」
稔が感激の面持ちで言った。
「私もよ。島根県も山陰もはじめて」
「俺は東京にも行ったことありませんよ」
真樹が笑った。
「あら。じゃあ東京に行っていたのは瑠水さんだけ?」
「ええ。だから俺は結城拓人さんのピアノも園城真耶さんのヴィオラもまだ生で聴いたことがないんです。誰かと指定さえしなければ生演奏のコンサートは松江や大阪まで出れば聴けますが、正直言って、CDで聴く演奏よりずっといいって思ったことはなかったんですよ。でも、昨日、ようやくわかりました。皆さんの演奏を間近で聴いて、すばらしい演奏を聴くならやはり生の方がずっと迫力があるんだって」
「お二人とも、本当に音楽がお好きなのね」
「ええ、俺たち、音楽を絆に結ばれたようなもんですから」
「ちくしょう、うらやましすぎる」
稔がぶつぶつ言った。蝶子が小声で通訳してレネと二人でくすくす笑った。
出雲大社は圧巻だった。有名な神楽殿や拝殿の注連縄、深い緑に囲まれた、落ち着いた色彩の社の数々。スケールの大きさに息をのむ。四人の軽すぎる服装では正式参拝は不可能だったので、真樹はごく普通の略式参拝のために拝殿へ連れて行った。レネは大感激していた。なんて壮大でエキゾチックなんだ。
一方、参拝する日本人三人を眺めながら、ヴィルは一つ疑問を持った。
「あんたたち、京都の寺でも参拝していなかったか?」
「うん。俺、仏教徒だ」
「ここはシントーのシュラインじゃないのか?」
「そうよ。私たち、どっちもありなの。つまりどっちも信じているってこと」
ヴィルもレネもさっぱりわからなかった。
「日本には八百万の神様がいるって考え方があるんだ。だから、出雲の神様もゴータマシッタールダもそれから祈りたければバチカンでも普通に祈るんだよ。どれもありだし、どれも尊重して、どれも信じているんだ。それでいて信じている宗教はないっていうんだよな、みんな」
「そう。神社でお宮参りして、毎年お墓参りして、結婚式はキリスト教式にして、無神論を主張して、困ったら神様助けてって祈って、死んだら仏教でお葬式するのよ」
「なんですって?」
レネが絶句した。キリスト教徒にはあり得ない感覚だった。信仰心がなくて教会から出てしまったヴィルにも全く理解できなかった。シントーの聖職者である真樹までが平然と頷いている。変なやつらだ。
【小説】大道芸人たち (25)東京、積乱雲
あらすじと登場人物
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(25)東京、積乱雲
帰る前に浅草が見たいと言い出したのはレネだった。
「ほら、あの、よく見る大きな提灯のかかったところ、あれって東京のどこかですよね」
蝶子はぎくりとした。わざわざ浅草を避けていたのは、稔の生家があるからだ。もちろんレネはそんな地雷を踏んだなんてまったくわかっていない。ところが、当の稔があっさりと言った。
「OK。案内して進ぜよう」
「いいの?」
蝶子が訊くと稔は大きく頷いた。
「今日は三味線をもってくぞ。お蝶、お前はフルートを持って行け。出雲で神社に奉納したんだから、お寺の代表で浅草寺にも奉納しておこうぜ」
「いいわよ。千葉のおじいさんのお寺では弾かなかったの?」
「弾いたさ。空氣でできた三味線だったけどな」
蝶子は笑って頷くと、フルートの入るバッグに取り替えた。
「こ、これです。本当に大きい!」
雷門で提灯を見上げてレネが感激した。稔はそうだろうと、満足して頷いた。浅草寺は浅草っ子の稔の誇りだった。
「いつ見に来たかしらねぇ。一度くらいしか来たことないのよ」
蝶子も感慨深げに見上げた。
「よし、お蝶。日本メドレーだ」
日本メドレーは、二人がピサで演奏し始めたレパートリーだった。『ソーラン節』『早春賦』『花の街』『朧月夜』『赤とんぼ』そして『故郷』と続く。二人は、宝蔵門の脇で本堂に向かって演奏を始めた。道行く人たちは、怪訝な顔をした。しかし、二人の卓越した演奏はすぐに人々の強い関心を買い、あっという間に周りに人だかりができた。
日本で、このメドレーを演奏するとは二人とも思っていなかった。コルシカフェリー以来の一年間が紡ぎだした二人の信頼関係、祖国にいるという思い、そしてヴィルとレネに日本を見せているんだという誇りが二人の氣持ちを盛り上げていた。
演奏が終わると、二人は本堂に向かって深々とお辞儀をしたが、見物客達は喝采を送り、アンコールを要求した。そんなことは全く予想していなかったのだが、せっかくアンコールがかかっているのだからと、二人は『村祭り』を演奏した。
それから、更なるアンコールを求める人々を置いて、四人で本堂に向かった。蝶子と稔はお水舎で手を洗い口を濯いだ。ヴィルとレネは、これなら知っていると多少得意げに続いた。それから稔と蝶子が本堂で鐘をつき合掌するのを見ていた。
日本人二人は、階段を下りてきてガイジンたちに仏像の説明や、建物の特徴などを話していた。
視線に最初に氣づいたのはヴィルだった。参道を隔てて反対側、ひっきりなしに通る参詣者たちと対照的に、全く動かないまま四人の方をみて、口元に手をあてて震えている女性がいたのだ。ヴィルの視線を追って、蝶子も女性を見た。急に二人が静かになったので、レネと稔もそちらを見た。稔が驚きの表情を見せた。その途端、女性はあわてて、身を翻して去ろうとした。稔が叫んだ。
「おふくろ!」
稔は人並みをかき分けて、必死に母親を追った。そして、母親を捕まえて固く抱きしめた。
周子は、一日に何度も浅草寺に稔の無事と幸せを祈りに来ていた。ここにいれば稔と会えると思っていたわけではない。もう、日本にはいないのかもしれないと思っていた。しかし、どこにいようと稔のことを守ってほしい、そう願って仏の前に手を合わせ続けてきた。今日もそのつもりだった。本堂の前に来た時に聴き慣れた三味線の音がした。稔の音だった。そんなはずはないと疑いながら、人波をかき分けて見ると、本当に稔だった。美しい女性が隣でフルートを奏でている。信じられなかった。
やがて稔と女性、そして二人の外国人は敬虔な面持ちで仏の前に出た。息子が自分と同じように手を合わせている。今日、稔の姿を目にすることができたのはみ仏のご加護だ。そう思うとありがたさに周子は涙を抑えられなかった。一秒でも長く元氣で幸せそうな稔を見ていたい、周子は隠れることも忘れて稔を見つめていた。そして金髪の外国人に氣づかれてしまったのである。
稔が、母親に追いつき、しっかりと抱きしめた時に、レネは既に号泣していた。眼鏡を外して涙を拭った。
ヴィルはそれほど親子の対面に心を打たれなかったので、蝶子の方を見た。そして、蝶子の顔に浮かんでいる痛みに氣がついた。
蝶子は無理して微笑もうとしているようだった。大切な稔のために。けれど、それよりも強い感情、自分には誰も待っていてくれる人がいないという悲しさ、同じ祖国にいても自分には居場所がどこにもないという寂しさが勝ってしまっていた。
ヴィルは黙って蝶子の手を握った。蝶子の手は一瞬震えた。そして、ヴィルと反対側をぷいっと向いた。自分がどんな顔をしていたのか悟り、それをすぐにヴィルに読まれてしまったことを恥じていた。不意打ちの優しさにむかっ腹を立てた。ヴィルは蝶子が望まなかったのだと思って手を離そうとした。けれど、蝶子はヴィルの手を離さなかった。少し力を込めて握り返した。弱さを知られたのは腹立たしかったが、今はどうしてもこの優しさが必要だった。
人ごみの中、誰も二人がそうしていることに氣づかなかった。蝶子は反対側を向いたままだった。やがて、稔が母親を連れて三人の元に戻ってくるのが見え、レネが眼鏡をとって目をこすりながら振り向いたので、二人は手を離した。
「紹介するよ。俺のおふくろだ」
稔は、三人に周子を紹介すると、号泣しているレネの頭をはたいた。
「おふくろ、これが俺の仲間だ。この泣いてんのがレネ、フランス人。その金髪のドイツ人がヴィル、そしてフルートを吹いていたのが蝶子だ。俺たち四人、最高のチームなんだ」
「稔が、お世話になっています」
周子は深々と頭を下げた。
それから周子と四人はゆっくりと参道を歩いて、浅草寺を出た。それから、小さな甘味屋に入ってしばらく話をした。帰り際に稔はもう一度周子を固く抱きしめて言った。
「ごめんよ。おふくろ。俺、わがままを通して」
「安心したよ。稔。元氣でね。また戻ってくる時には必ず顔を見せてちょうだいね」
「見ろよ、あの入道雲。日本の夏ってこうでなくちゃな」
稔は晴れ晴れとした顔で遠くに立ち上る積乱雲を眺めた。三日後には再びバルセロナだ。だが、日本への名残惜しさはなくなっていた。
「そうね。夕立がくるわよ。急いで帰った方がいいわね」
蝶子は、稔の感慨には全くつきあう氣がないらしく、いつも以上に現実的な提案をした。
真耶の家に戻る頃になって、稔とレネは蝶子とヴィルの様子がいつもと違うのに氣がついた。蝶子はヴィルに対して半端でなくきつい言葉を遣っていた。ここ半年ほど聞いたことがない激しさだった。ヴィルの方は傷つくどころか全く平然として、やはりきつい調子で応戦していた。イタリア時代に戻ったようだった。
そんな二人を見たのは初めての真耶は怯えたように稔に訊いた。
「あの二人、何かあったの?」
「さあな。ずっと一緒にいたけど、氣づかなかったぞ。でも、あいつらって、もともとあんな感じだったんだぜ。半年くらい前までは」
「なんですって?」
役割が反対になっちまったけどな。稔は腹の中でつぶやいた。前はテデスコが不要につっかかって、トカゲ女が平然と応戦していたんだ。
出発が近づいているので、真耶とその家族に頼まれて、四人は園城家の居間で再び演奏をしてみせた。真耶は、蝶子とヴィルの二重奏があまりにもロマンティックで感情にあふれているので再び目を丸くした。先程までけんか腰で会話をしていた二人とは別人のようだった。な、わかるだろ、心配はいらないんだよ、と稔が目配せをした。
【小説】大道芸人たち (26)バルセロナ、 チェス
チャプター3の日本編では、皆さんの反応がとてもよくっていい意味で驚きました。ヨーロッパに四人が戻ってからも、関心を持っていただけると嬉しいなあと思ったりしています。チャプター4は「序破急」でいうと「破」にあたります。いまごろかよ、と思われそうですが、「急」にあたるチャプター5まで、変わらずにおつき合いいただければ幸いです。
あらすじと登場人物
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(26)バルセロナ、 チェス
思い思いに過ごす定休日に、ヴィルはボーランの『フルートとジャズ・ピアノ・トリオのための組曲』を練習していた。レパートリーにボーランのジャズを取り入れたいと言い出したのは稔だった。『ギターとジャズ・ピアノ・トリオのための協奏曲』を演奏してみたかったのだ。『ヒスパニックダンス』『ボルサリーノのテーマ』などボーランつながりで弾ける曲はいろいろあるし、レストランやバーにも合う。フルートのための曲も多く、『ピクニック組曲』はピアノとギターとフルートの三重奏ができる。手品にもテンポが合う。それで、三人は順次レパートリーを増やしていた。
稔がバロセロナの街から戻ると、食堂でレネが頭を抱えてイネスとひそひそと話していた。
「何があったんだ?」
稔が訊くと、レネは上の部屋を目で示した。
「またかよ」
稔はため息をついた。蝶子がカルロスの部屋に消えたのだ。二人はしばらく出てこない。そうするとヴィルはたいていピアノを弾く。耳聡い稔だけでなくレネまでが怯えるような音を出す。ショパンやリストやスクリャービンを弾いている時もある。今日はボーランだった。
日本で二人の関係が少し改善されたかと思っていたのに、バルセロナに戻ってきたら元の木阿弥だった。というよりは、ひどくなっていた。蝶子はカルロスにべったりだった。ヴィルはそれを仕方ないことと流すこともできなければ、以前のように無表情に逃げ込むこともできなくなっていた。確かに顔には大して表れていないのだが、広間に置かれたピアノにその矛先が向いてしまっていた。
二階から蝶子が降りてきた。手にはフルートを持っている。何もなかったかのように平然と歩く蝶子が広間に行く前に、稔はその手首を強引に引っ張って、食堂に連れ込んだ。
「何よ」
「お前さ。少しは考えろよ」
蝶子は切れ長の目をさらに細めて、じろりと稔を見た。
「何を」
「重要書類でデータの上書きはしないのがお前の主義だったんじゃないのか?」
蝶子は馬鹿にしたように言った。
「データの上書きなんか、とっくの昔に終わっているのよ」
「じゃ、お前が今やっているのはなんなんだよ」
蝶子は鼻で笑った。
「今やっていること? ビショップにとられないように、クイーンはキングの側に駒を戻したのよ」
また新しいたとえ話かよ。稔はむすっとして乗らなかった。稔がかなり腹を立てているようなので、蝶子ははぐらかすのをやめた。
「私、ティーンエイジャーじゃないの。自分のやっていることぐらいちゃんとわかっているわよ」
稔は腰に手を当てて仁王立ちになって言った。
「わかっているって? あの音が聴こえないのか?」
蝶子は勝ち誇ったように言い放った。
「聴こえてるわよ。私、耳は悪くないの」
そういって、稔を押しのけて広間へと入って行くと、頼まれもしないのに勝手に『Veloce』にフルートを合わせだした。ヴィルはテンポをあげた。蝶子はついていった。凄みのある演奏だった。文句のつけようがなかった。二人は止まっては意見を交わし合いながら曲を仕上げていった。稔もレネも、後から降りてきたカルロスも全く入り込む余地がなかった。
私の耳は悪くない。蝶子は心の中で繰り返した。わかっている。こんな音を出されたら誰だって氣づく。もしかしたら真耶のことを好きになったんじゃないかって思っていたけれど、そうじゃない。
蝶子は、想いを寄せられることには慣れていた。学生時代から、そんなことはいくらでもあった。中学生の頃、上級生につきあってほしいと懇願され、三ヶ月近く毎日帰宅路で待ち伏せをされたことがある。大学時代にも結城拓人だけでなく多くの男に言い寄られた。ミュンヘンでもエッシェンドルフ教授と一緒に住んでいるにもかかわらず、熱烈に言い寄ってくる男達が何人もいた。蝶子にとってその男達は、迷惑であったり、誇らしい勲章であったりはしたが、それ以上の存在ではなかった。
コルシカフェリー以来、数週間にわたってレネに熱っぽい目で見られた時にも、蝶子はおもしろがる以上の感情を持てなかった。そのかわり、レネがその後、他の女性にぼうっとなっていても、残念だとは思わなかった。大切な仲間、親友としてのレネは蝶子からは失われなかったからだ。それはカルロスに対しても同じだった。
けれど、ヴィルだけは別だった。シベリアの吹雪のような冷たくシニカルな言葉を遣う無表情な青年が、ヴェローナのバーで突然奏でだした音色が既に大きな奇襲だった。稔と一緒に奏でる音楽は愉快で楽しかった。けれど、ヴィルとの競演はそれ以上だった。それは響き合う魂の調べだった。蝶子が一度も出会ったことのない芸術の恍惚そのものだった。真耶にとっての結城拓人のような存在を蝶子はそれまで持たなかった。フルートと音楽への愛は常に孤独の中にあった。
「彼とともに奏でる音楽は私の聖域なの」
真耶が拓人についていった言葉は、そのまま蝶子にとってのヴィルの存在そのものだった。たった一人で音楽のために戦ってきた蝶子の底なしの孤独から、自分を憎んでいるような言葉遣いをする冷たい男が軽々と救い出した。その音色が、いつの間にか変わっていった。誰でも氣づくほどの強い想いがその音色にあふれるようになり、それは当の蝶子を誰よりも強く揺らした。
けれど、ヴィルはそれ以上の領域侵犯を長いことしなかった。親しい仲間として以上の関係を求めてくることはなかった。蝶子が示唆するまでもなく、ルールをストイックに守り続けた。
それが浅草で破れた。蝶子の最大のウィークポイントをヴィルは理解していた。たぶん、稔やレネには生涯理解してもらえないであろう孤独を、ヴィルはたぶん本能でもしくは経験で知っている。何でも話し相談するカルロスに、何万の言葉を遣ってでもわかってもらえない暗闇を、ヴィルだけは何一つ語る必要なく包み込むことができる。そして蝶子はそれを必要としていた自分自身に驚いていた。それは由々しき事態だった。
蝶子はヴィルが稔やレネ以上の存在になってしまっていることを認めつつも、必死で抵抗していた。Artistas callejerosは、蝶子にとって最初にして唯一の居場所だった。そして、Artistas callejerosは蝶子だけではなくて、稔やレネやヴィル本人にとっても大切な場所だった。壊すわけにはいかない。彼が領域侵犯を試みるなら、自分が領域を変えなくてはならない。それがいつまで可能なのか、蝶子にはわからなかった。
【小説】大道芸人たち (27)バレンシア、 太陽熱
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(27)バレンシア、 太陽熱
ゲルマン人でもこんな風にダンスが踊れんだな。稔は感心した。ドイツ人と日本人ってのは同じような朴念仁民族だと思っていたが、やはりヨーロッパの人種ってのはちょっとは違うらしい。こんなトカゲ女のどこがいいのかさっぱりわからないが、テデスコの本氣度は日に日に強まっている。
さっきまで、ティントとチョリソーとでばか騒ぎをしていたはずなのに、どうしてこうなったんだろう。俺がギターを持ったのが間違いの元だったのかもしれない。いや、ブラン・ベックなんかにリクエストをきくんじゃなかった。ピアソラの『ブエノスアイレスの夏』などといわれたので、稔は頭を抱えた。ここにはギョロ目もいないし、どうすんだ、こんなラテンの世界を展開して。
だが、ヴィルは稔とまったく逆の反応を見せた。これ以上ないというくらい真面目な顔のまま、黙って蝶子の手を取ると、居間の中央に連れて行った。百戦錬磨のトカゲ女はこの程度ではビビりはしない。タンゴの腕前もカルロスの館で証明済みだ。だが、レネも稔もまさかヴィルがアルゼンチン・タンゴを踊れるとは思ってもみなかった。金髪のドイツ人と生粋の日本人のダンスにしてはやたらと決まっている。これほど官能的な踊りをこの二人がするとはね。苦しい恋ってのは偉大ってわけだ。
考えてみると、タンゴほど蝶子に合っているダンスは考えつかなかった。それにヴィルの恐ろしいばかりの情念も今回ばかりはぴったりだ。この家には「らしさ」がある。舞台としては申し分ない。ギターじゃなくてバンドネオンだったら完璧だ。もっとも、これだけみんな酔っぱらっていれば、完璧さなんかどうでもいいんだが。曲が終わると、稔はかってに手酌をして、目を二人から離さずにティントを飲んだ。お蝶もテデスコをおちょくるのはそろそろ考えた方がいい。このままだと早かれ遅かれArtistas callejerosには亀裂が入る。
バレンシアの海岸から10分ほどのところにあるこの家を貸してくれたのは、バルセロナのモンテス氏だった。レストランで四人が仕事をする時には、カルロスが住居と食事代を負担してくれると言ったので、それならバレンシアに行く時は自分の別荘を提供しようと申し出てくれたのだ。
ヴィルは日本から戻って以来、蝶子と話す機会を待っていたが、それは簡単なことではなかった。日本ではあれほど近く感じられたのに、戻ってきてからの蝶子は全く別人のようだった。側に寄ることすらも難しかった。必要以上にカルロスと親密にし、ヴィルを避けているようにも思えた。たぶんその通りなのだろう、そうヴィルは思った。だが、自分は愛の告白をしようとしているのではない、ただ、自分が誰なのかを言おうとしているだけだ。まずそこから始めなければならなかった。そうでなければ蝶子に対してフェアではなかった。
ようやくバルセロナとカルロスから離れて、四人だけになったので、ヴィルはもうこれ以上待つつもりはなかった。レネのリクエストを、稔が奏で始めた時に、ヴィルは自然に蝶子を踊りに誘っていた。たぶん氣がついたに違いない。アルゼンチン・タンゴの名手である父親に仕込まれたあのステップには、彼女なら覚えがあるだろう。
アーチ状になった支柱を通して、月の光がレンガ色のテラスに差し込んでいる。先ほどまでの騒ぎが嘘のように、静まり返った居間には誰もいない。ピアノの上まで月の光が差し込むと、そこに蝶子のフルートが置かれているのがわかる。蝶子はティントを飲み過ぎたのかもしれない。普段はそんな所に大切な楽器を置きっぱなしにしたりしないのに。
冷たいレンガの音を響かせて、ヴィルがピアノに近寄ってきた。ピアノに手をかけてしばらく佇んでいた。それからフルートの箱に手を伸ばし、中から楽器を取り出す。慣れた手つきでフルートを組み立てると、しばし躊躇していたがやがて、口づけをするようにフルートに唇を当てると、静かに月に向かって奏でだした。
寝ぼけながら、レネは蝶子がフルートを吹いているのだと思った。稔も、目を覚まして、お蝶め、何時だと思っているんだ、ついに乱心したか、とつぶやいたがすぐに氣がついた。その『亡き王女のためのパヴァーヌ』は蝶子のいつもの音色とは違っていた。まったく違っていた。
蝶子は、フルートの音色を聴いて、すぐに起き上がり、ナイトドレスの上にカーディガンを羽織り、居間に入っていった。そして黙って月明りの中で無心にフルートを吹くヴィルの背中を冷淡にじっと見つめていた。
アウグスブルグ。年齢。ピアノの腕前。タンゴのステップ。そしてWの頭文字。だいぶ前にわかっているべきだったわ。そうだったとしても、認めなかったでしょうね。騙されていたなんて思いたくなかった。だけど、この音を聴いてわからないと思うほど馬鹿だとは思っていないでしょうね。
やがてヴィルは最後の繰り返しを演奏せずに、フルートから口を離した。居間の入り口に蝶子が立っているのはわかっていたが、黙って振り向かずに月を見ていた。しびれを切らしたのは蝶子だった。
「なるほどね。アーデルベルト・ヴィルフリード・フォン・エッシェンドルフ。ハインリヒのご自慢の跡継ぎ息子。こんなに長い間、よくも騙し通したものね」
「騙したりしていない。本当は隠したくもなかった」
振り向いたヴィルの目はいつもの通り青く真っ直ぐだった。
階段の上で隠れてこそこそと様子を伺うレネと稔は、二人のドイツ語のやり取りに全くついていっていなかったが、蝶子が謎に満ちたテデスコの正体を突き止めたことだけはなんとなくわかった。
「フルートが吹けるとはひと言も言わなかった。私の名前を聞いても何も言わなかった。出雲で自分の名前が出ても。よくそんな台詞が吐けるわね。そんなに私が憎い?」
「憎んでなんかいない」
「私の存在とお母様の自殺は無関係じゃないわ」
「あんたがおふくろを手にかけたわけじゃない。おふくろは勝手に夢見ていた立場が手に入らない事実を受け入れられなかっただけだ。それに親父が生徒に手を出したのは、あんたが初めてじゃない。いちいち憎んでいたら、こっちの体が持たない」
「だったら、どうして今まで黙っていたの」
「最初は、単純に知りたかったんだ。親父にとってあんたは遊びじゃなかった。あの親父があんたのどこにそれほど夢中になったのか。それに、なぜあんたが姿を消したのかもね」
ヴィルは、いまや蝶子を父親以上によく理解していたし、ミュンヘンを去った理由も蝶子の口から直接聞いていた。
「最初はってことは、今では違うわけね。答えて。今まで黙っていたのにどうして急に正体を明かす氣になったわけ」
氷のように冷たい蝶子の視線をヴィルは真っ直ぐに見返した。少し間があり、会話がわかっていないレネと稔までが手に汗を握って答えを待った。ヴィルは蝶子の方に大股で歩み寄り、すれ違い様にフルートを蝶子に渡した。そしてささやくように言った。
「あんたはとっくにその答えを知っているはずだ」
階段を上がり、こそこそと隠れようとするレネと稔を一瞥しただけで口もきかずにヴィルは自分の寝床にもぐりこんだ。
蝶子は、そのまま眉一つあげずにいたが、やがて、フルートを取り上げると、静かにヴィルの止めた所から『亡き王女のためのパヴァーヌ』を最後まで吹いた。先ほどまで、ドイツ人の唇のあたっていた場所に唇を当てて。
朝食の前に、稔はひとりでドキドキしていた。なにも俺が狼狽えることはないだろう。ブラン・ベックの野郎は狸寝入りを決め込んで、後から出てくるつもりらしい。ずるいやつめ。稔がダイニングに行くと、ヴィルは既にお湯を沸かして、インスタント・コーヒーを淹れていた。
「おはよう」
「おはよう」
代わり映えのしないいつもの朝だった。稔はパンを割ると、軽くトーストをして、オリーブオイルと塩と完熟生トマトをつぶしたものを載せた。ヴィルの方に、つぶしトマトの入ったポットを差し出すと黙って受け取り、同じようにトーストパンに載せて食べた。
「美味いな」
「ああ、美味い」
蝶子が入ってきた。
「おはよう」
「おはよう」
「おはよう」
蝶子は黙ってコーヒーを淹れると、自分もトーストを作り、それから平然とヴィルの隣に座って言った。
「私も、それ食べる」
ヴィルも何事もなかったようにトマトのポットと塩を蝶子に渡した。稔はオリーブオイルを渡してやった。なんだ、心配した俺がバカみたいじゃないか。稔は腹の中で毒づいた。
「マリポーサ! ようやく追いついた」
カテドラルの前で一稼ぎをしていると、聞き覚えのある声がした。
「ギョロ目か。また来たのかよ」
稔は呆れて叫んだ。神出鬼没にもほどがある。もっと仕事しろよ!
「カルちゃん! ちょうどそろそろおいしいシェリーが飲みたいと思っていた所なのよ。バレンシアで一番のバルってどこかしら?」
稔は白い目で蝶子を見た。昨日の今日、テデスコの真ん前でお前はギョロ目に媚を売るのか。デリカシーってもんはないのか、デリカシーってもんは。
「何よ。ヤスだって最高のイベリコを食べたいでしょ。来週はもうスペインにはいないんだし」
「そんな! マリポーサ。バルセロナの私の館には来てくれないんですか?」
「多数決で、Artistas callejerosは来週からフランスで稼ぐことになったのよ。でも、カルちゃんも仕事が一段落したら来れるんでしょう?」
あいかわらず、メシをねだる時の笑顔だけは最高なんだから。稔は呆れて天を見上げた。レネはいつも通り悔しそうにしていたし、ヴィルもいつも通り眉一つ動かさずにいた。だが、その目の光は以前よりも強くなっていた。ゲルマン人って、本当に損な人種だな。ギョロ目の半分でも積極的に誘えば、ブラン・ベックよりはるかに脈ありそうなのに。
稔はだまってベベベンとバチを当てた。バレンシアってのはいい街だ。太陽が溢れると人は開放的になる。財布の紐も緩むらしい。ギョロ目がおごってくれるなら、思いっきり美味いものが食えて飲みまくれるってわけだ。結構。
【小説】大道芸人たち (28)サン・マリ・ド・ラ・メール、 異変
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(28)サン・マリ・ド・ラ・メール、 異変
海岸には、痛くなるほどの陽光が溢れていた。そろそろ夏も終わりだった。それでも最後の輝きで夏とは楽しむためのものだと教えてくれる。遅めのヴァカンスを楽しむ人たちで、サン・マリ・ド・ラ・メールの海岸はいっぱいだった。四人は一稼ぎを終えて、いつもより実入りが良かったので、海の見えるレストランで食事をした。
ブイヤ・ベースの皿が片付けられて、極上のアリオリ・ソースに未練たっぷりの一瞥をした後、稔は不意に日本語で言った。
「おい、一般論だけどさ」
蝶子は片眉を上げた。またかという表情だった。詮索好きな男ね。
「何よ」
「ある男が、とある女に本氣で惚れているとしてさ」
その話ね、と蝶子はうんざりした顔をした。どうりでブラン・ベックもテデスコもいるのに、ルールを破って日本語で『一般論』をはじめたわけね。
「その男にはけっこうな勝算があると、外野からは見えるのに、まったく手を出さない場合、それって国民性なのかな? それとも女が絶対に断るという確信があるからかな?」
「そんなの、人それぞれでしょ。一般論でくくれると思っているの?」
「だから、お前は、どう思う?」
蝶子はため息をついた。けれど、結局はいつかは説明してやらねばならないことだった。なんといってもArtistas callejerosは運命共同体なのだ。このまま、二人に黙っているわけにはいかない。ブラン・ベックには折を見てヤスが上手に説明するだろう。この複雑な状況を。
「あくまで一般論だけど」
蝶子はわざとらしく付け加えた。稔にとってはこの辺の枕詞はどうでもよかったが、トカゲ女にしゃべらせるにはこれが一番手っ取り早い。
「民族性とか、相手の反応ってこともあるわ。けれど、たいていはもっと個人的な事情が絡んでいるんじゃないかしら」
「例えば?」
「例えば、その女が父親の元愛人だったとか、それが原因で母親が自殺したとか」
稔は呆然と蝶子を見た。蝶子は平然としていた。たぶん、ブラン・ベックにはこの話の要旨はまったく想像できないであろう。だが、テデスコは? 稔にはヴィルが理解しているとしか思えなかった。
蝶子は英語で他の二人に言った。
「あたし、デザート食べたくなっちゃった。頼んでもいい?」
まるで、いままで稔とデザートについて日本語で会話をしていたかのように。
蝶子はムース・オ・ショコラを、レネはクレーム・ブリュレを頼んだ。稔とヴィルはコーヒーだけを注文した。
稔はまだ先ほどの衝撃から立ち直っていなかった。お蝶、お前はすごい女だぜ。そこにいるのが例の教授の息子だとわかってて、あのバレンシアの晩以来、どうやっていつも通り普通に接する事が出来たんだ? どうやってムース・オ・ショコラなんて頼めるんだ。
嬉々としてスプーンを口に運ぶレネとは対照的に、蝶子は「そんなに嫌ならなぜ頼んだ」といいたくなるような食べ方をしていた。氣が遠くなるほど甘い上に、量もハンパではなかったからだ。レネの食べ方は稔には異常に見えた。
黙ってムースと格闘していた蝶子は、ふと視線に氣づいて目を上げた。ドイツ人はいつものように強い光を宿らせて真っ直ぐに蝶子を見ていた。蝶子は婉然と微笑んで、スプーンとデザートグラスをヴィルに渡した。黙って受け取ると、ヴィルは殺人的な甘みの固まりを口に運んだ。女がその手に持ち、いままで口を付けていたスプーンを使って。なんてひどい女だ。稔は心の中で叫んだ。
やがて、稔とレネの目の前で、この手の間接キスが何度も行われるようになった。蝶子は同じことを稔やレネにはしなかった。自分の使ったスプーンを黙ってヴィルに渡す。もしくはヴィルの使ったフォークを黙って取り上げる。フルートを吹いていたかと思うと、それをドイツ人に渡し切ない響きを強制する。サディストも大概にしろと稔は憤慨したが、レネは別意見だった。
「パピヨンもテデスコが好きなんですよ」
「どこをどう分析すると、トカゲ女がテデスコに惚れていることになるんだよ」
「テデスコは見つめる以外何もしていないのに、パピヨンは挑発しまくりじゃないですか。あれはテデスコが行動を起こすのを待っているってメッセージですよ」
「あの女がそんなまどろっこしいことするかよ。やりたくなりゃ、襟首つかんでベッドに連れていくだけだろ」
「馬鹿だなあ。それだけパピヨンが本氣ってことじゃないですか。ああ、本当にせつない。なんでよりにもよってテデスコなんだろう」
「さあな。そう簡単には片付かないぞ、この話は」
「なぜ? テデスコが行動さえ起こせば、今日にも片付くじゃないですか」
「お前さ。父親のもと愛人で、母親の自殺の原因になった女に惚れたらどうする?」
レネは蒼白になった。
「ほら、お前だって簡単に片付かないって思うだろ?」
稔はそういうと口をつぐんだ。
蝶子の前には二人のドイツ人がいた。一人は誰よりも大切な仲間。信頼できる無口な男で、誰よりも蝶子のことを理解している。音楽をともに奏でれば、すべてを忘れることができるほどの芸術の恍惚を味合わせてくれる。そして、もう一人が因縁のアーデルベルトだった。その二人が同一人物だということに、蝶子は二週間経ってもまだ慣れることができなかった。
アーデルベルトの存在を知ったのは、エッシェンドルフの館の楽器置き場で掃除をしていたマリアンと雑談をしたときだった。自分のフルートを箱にしまって置きながら、蝶子はふと、いつもそこに置いてある黒革の箱に手を伸ばした。「A.W.v.E」と小さく金色で刻印されている。ハインリヒのものではないが、フォン・エッシェンドルフ家のだれかのフルートなのだろう。
「ああ、それはアーデルベルト様のものですよ」
マリアンは掃除を続けながら言った。首を傾げる蝶子をその初老の家政婦は興味深そうに見つめていたが、やがておせっかい心をだし、教授には聴かれないように小声で言った。
「旦那様の息子です。こちらの跡継ぎですよ」
「息子さんがいるの? 知らなかったわ」
「それは当然ですよ。ここ七、八年、一度たりともこちらには足を踏み入れていませんもの」
「まあ」
「フルートがとてもお上手で、大学在学中にコンクールでも優勝なさったんですよ。卒業後に旦那様がデビューの準備を大喜びで進めていらっしゃったんです。でも、どういうわけだか急に、どうしてもフルートをやめるとおっしゃって。旦那様は本当にがっかりなさったようでした」
「今は、どこにいるの?」
「生まれたときから、ずっとアウグスブルグですよ」
「跡継ぎ息子なのに、ここでは暮らしていなかったの?」
「正式の婚姻で生まれた方ではないんですよ。旦那様も、もともとは跡継ぎになさるつもりはなかったようです。でも、あまりにも音楽の才能に秀でていらっしゃるので、途中から教育に夢中になられてね」
蝶子は教授の求婚にイエスと答えたばかりだった。その青年は、私のことをどう思うのだろう。アーデルベルト・W・フォン・エッシェンドルフ。Wはヴァルター、ヴィルヘルム、それとも……?
「どんな人なの?」
「悪い方ではありません。でも、少し変わっていらっしゃいますね」
「どんなふうに?」
「笑ってくださらないんですよ」
ヴィルは確かにほとんど笑わなかった。音楽の才能にも恵まれていた。けれど蝶子はヴィルとアーデルベルトが同じ人間だと考えようとしたこともなかった。
会ったはじめの頃から、ヴィルは私のことを知っていたのだろう。だから、あんな風にいつもつっかかってきたのだ。ヤスやブラン・ベックへの態度とは大きくかけ離れて、私にだけとても冷たくて身構えていた。私はその理由を考えたことすらなかった。お母様が私のせいで命を絶ったのだ。
蝶子が教授のもとから逃げる決心をした時に、心の中にあって行動を急がせたのはアーデルベルトだった。教授はマルガレーテ・シュトルツの葬式にすら行かなかった。アーデルベルトはたった一人で、お母様を弔ったのだ。どれほど私を恨んでいることだろう。それなのにハインリヒは来週にでもアーデルベルトに会えと言った。食事でもしながらお互いに知り合い、結婚式のことや今後のことを話そうと何事もなかったかのように言った。そんな立場に立たされるアーデルベルトの心の痛みを慮って、蝶子は居ても立ってもいられなかった。同情と慰めの想いを伝えたくても、自分が悲劇の原因では話にならない。
夕暮れに輝く小麦畑のような髪をした男の湖のように青い目がいつもじっとこちらを見つめている。恋をしている優しいテデスコに見える時もあるが、痛みを消化できないでいる冷たいアーデルベルトに見える時もある。そのどちらもを、蝶子は抱き寄せたかった。強い想いで引き寄せられていた。けれど、どちらもルール違反だった。ひとりはArtistas callejerosのメンバーで、もう一人は他ならぬ自分が償うことのできない傷を負わせた相手だった。離れることなど考えられなかった。けれどこれ以上近づくこともできなかった。
【小説】大道芸人たち (29)ディーニュ・レ・バン、 別れ
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(29)ディーニュ・レ・バン、 別れ
おもちゃのように小さな電車だった。ヴィルが子供の頃に憧れた、どこか知らない彼方へと連れて行ってくれる魔法の乗り物にしては、あまりに頼りなかった。父親と母親の呪縛を振り切ってから、いくらでもした電車の旅。ここではないどこかに行く事だけが心躍る歓びだった。あの頃は自由である事だけがヴィルの望むすべてだった。この街でヴィルがしようとしている事は、しかし、心躍る事でも望んでいる事でもなかった。
小さな頼りない車体を眺めて、ヴィルは自分をあざ笑った。ここでないどこか。そんな所はどこにもない。チケットを買えば電車には乗れる。ただ、それだけのことだ。
ニースから三時間以上、のんびりと走るローカル列車プロヴァンス鉄道の終点が、ローマ時代から続く温泉の街、ディーニュ・レ・バンだった。旧市街の中心にあるサン・ジェローム大聖堂は街と同じ赤みかがった石材で出来ている。鐘楼がプロヴァンスに特有の繊細な鉄細工で、遠くから見てもひときわ目立つ。曲がりくねった小さな道が商店街に続く、この大聖堂の前で四人はいつものように稼いだ。
秋がはじまりまだ暖かくても日差しが弱くなっている。オリーブの葉は灰色がかった深緑に変わり、黄色く乾いた枯れ葉も時折強く吹く風に乗ってあたりに乾いた音を響かせた。
食事の度におかれる透明なパスティス入りのグラス、カラフェから水を注ぐと途端に白く変わる魔法も、既に日常と化していた。アニスの香りも、夏のプロヴァンスのなくてはならない残り香だった。季節はゆっくりと変わっていく。
稔が一人でバーに入ってゆき、パスティスを頼むと、カウンターの親父は小さいグラスをすっと差し出した。その後、レネが入ってきて、プロヴァンス方言で早口にパスティスを頼むと、もう少し大きいグラスに倍くらいの量が入って出てきた。
「なんで、こんなに違うんだよ」
納得のいかない稔がレネに訊くと、はじめてバーの親父は稔とレネが仲間だと氣づき、あわててレネに早口で弁解をした。
レネは大笑いした。
「それ、外国人旅行者バージョンなんだそうです、今、僕と同じなのを用意してくれるそうです。今飲んでる分は、お詫びにサービスにしてくれますって、よかったですね」
蝶子とヴィルが続いて後ろから入ってきて、その話を聞きつけた。蝶子が高笑いした。
「これで、ヤスもテデスコのお仲間じゃない」
ミラノで出会った日に市場でヴィルがぼったくられていた時の話をしているのだ。稔はふくれた。レネも楽しそうに笑った。けれどヴィルは何も言わなかった。楽しそうにもしなかったし、腹を立てているようでもなかった。稔は「おや」と思った。ドイツ人の心はどこかここでない所を泳いでいるようだった。
それから二日ほどして、再び稔はヴィルの様子に目を留めた。今度は仕事中だった。稔と蝶子が『日本メドレー』を演奏し終え、続いて蝶子がレネのリング演技の伴奏をはじめた時だった。水を飲みながらふと横目で見ると、ヴィルが目を閉じていた。蝶子のフルートに意識を集中しているようだった。それだけなら何とも思わなかっただろう。だが、その後ヴィルは目を開けて空を見上げた。そして、ずっと何かを考え込んでいた。仕事中にヴィルがそんなに長く上の空になった事はなかったので、いったいどうしたのだろうと稔は訝った。
ヴィルは実行しようと考えていた。愛する女がおそらく望んでいる事を。それ以外、解釈のしようがなかった。浅草で心が通じたという確信を頼みに、彼女の行動を自分に都合良く解釈してみても、すぐに現実的な考えが彼の期待を打ち消した。あの時と違う。彼女はもうすべて知っているのだ。自分が誰であるかも、一年以上も信頼を裏切っていた事実も。バレンシアの月夜に、声を荒げる事すらせずに問いただした蝶子の冷たい表情。持て余している想いをどうする事も出来ない自分を責めるように繰り返される奇妙な挑発。彼女はもはや元の信頼のおける仲間に戻れない自分を、曖昧なまま側に置いておきたくないのだ。けれど、彼女はArtistas callejerosを尊重するが故に、こちらの自発的な決断を待っている。
ヴィルは空を見上げて思った。どこに行くのでも構わない。ただ、Artistas callejerosの仲間たちと、ずっと旅を続けたかった。蝶子のフルートの音色と絡み合う音の世界を泳ぎ続けたかった。食べるのも、飲むのも、歩くのも、一人では味氣ない事だろう。
一週間ほどのディーニュ滞在の後、ニースに戻る事になった。チケットを買おうとしていると、不意にヴィルが言った。
「俺はもう少しここにいる」
三人は黙って、ドイツ人を見た。ヴィルはいつも通り無表情だった。だが稔はすぐに理解した。ヴィルにはもう限界だったのだ。正体を曝し、心も知れ渡っている。だが、彼には何も変えられない。日に日にひどくなる蝶子の挑発に堪え、このままArtistas callejerosに加わっているのは彼には残酷すぎる選択だった。
「でも、後から来るわよね」
蝶子は声を震わせた。
「俺の事は待たなくていい」
それは蝶子に対する決別の宣言だった。さすがナチスとSSを生んだ民族だ。こんな切ない話なのに、眉一つ動かしやしねえ。稔は感心した。ほらみろ、お蝶。お前はいじめすぎて猫を殺してしまったんだ。愚かな女め。
翌日、三人はニース行きの電車に乗り込んでいた。重苦しい空氣が漂い、ほとんど誰も口を利かなかった。蝶子はことさら無表情だった。お、トカゲ女がテデスコ化してきたぞ。稔は腹の中でつぶやいた。
車窓から何度もプラットフォームを覗いていたレネが叫んだ。
「あ、テデスコ!」
稔と蝶子も窓から身を乗り出した。
「おい、乗れ!」
稔が叫んだ。だがヴィルは首を振った。見送りにきた、それだけのようだった。最後に一目だけ蝶子を見たかったに違いない。
蝶子はそわそわとしていたが、ついに言った。
「私、降りる」
「えっ」
稔とレネが同時に絶句した。蝶子はハンドバックだけをつかむと、乗り込んでくる乗客をかきわけて必死で出口に向かった。
「おいっ。もう時間がないぞ!」
稔が叫んだが蝶子は降りる事しか考えていなかった。
蝶子がプラットフォームに降りると同時に、ドアが閉まり施錠の音がした。ヴィルはさすがに驚いてこちらに走ってくる。
稔は窓から蝶子に叫んだ。
「おい、お蝶、ニースで待っているからな!」
「ええ、待っていて。きっと二人で行くから!」
電車は動き出した。ヴィルは蝶子の傍らに立った。そのヴィルを鬼のごとく睨みつけると騒音に負けないように蝶子は叫んだ。
「本氣の恋なんてまっぴらよ。それなのに、なんでよりにもよってあんたなのよ!」
ヴィルは起こった奇跡を信じられないまま、列車が完全に過ぎ去るまで蝶子の泣きそうな美しい顔を見つめていた。それから、風に踊る蝶子の髪と頬の間にそっと手のひらを滑り込ませ、感無量の声にはまったくそぐわない、いつもの無表情で答えた。
「それはこっちの台詞だ」
遠く車窓から覗く稔とレネには、二人が抱き合っている姿が小さく見えた。稔は顔をゆがめて窓の外を見ているレネの肩をポンと叩いて言った。
「泣くな、ブラン・ベック。今夜は俺がとことんつきあってやるからさ」
【小説】大道芸人たち (30)ニース、 再会
今週は事情により、二度目の「大道芸人たち」の更新をしています。
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(30)ニース、 再会
二人は二日後にやってきた。あまりいい立地とは言えなかったが、見つけやすいという理由で選んだ駅前の広場で稔とレネがのんびりと稼いでいると、列車から降りた観光客に混じって、二人は普通に歩いてきた。
「ハロー」
蝶子はこともなげに言った。まるで、ちょっと水を買いにいって戻ってきたかのような簡単さで。ヴィルも特に何も言わなかったし、稔もレネも大げさには喜ばなかった。もちろん稔の演奏は突如として元氣いっぱいになったし、レネは眼鏡をとって目をこすっていたのだが。
蝶子とヴィルは、以前とほとんど変わらないように見えた。少なくともようやく想いの通じた恋人たちのようには全く見えなかった。
いつも一緒にいる稔とレネにだけは感じられるわずかな変化もあった。たとえば、お互いにあだ名では呼ばなくなった。イタリアや日本にいた頃のような激しい舌戦も帰ってきた。蝶子は『外泊』を再開した。しかし、この『外泊』には稔もレネも反対しなかった。何も言わないが、もちろんヴィルもその晩はいなくなるのだ。
二人が戻ってきて三日ほどは氣がつかなかったが、二人の薬指にはシンプルな銀の指輪が光っていた。ニースではいつも稔とレネの側にいるのだから、もちろんディーニュで買ったのだろう。
蝶子はヴィルに対して不要な挑発をしなくなり、ヴィルが蝶子を苦しげに見つめることもなくなった。稔とレネは、憑き物が落ちたかのように心が軽くなった。どれほど二人の間の緊張が強まっていたのか、稔もレネも氣がついていなかったのだ。
数日して、仕事だと言ってまたやってきたカルロスにもそれは簡単にわかったらしい。
「あれ。あの二人、うまくいったんですか?」
こっそりとカルロスが稔に訊いた。
「げ、ギョロ目、なんでわかるんだよ」
「そりゃ、わかりますよ。前回、バレンシアで会った時は、いやあ、息苦しかった。マタドールと雄牛の死闘みたいでしたからね」
稔はそのたとえに大笑いした。それから、そういえばという風に付け加えた。
「あんたには氣の毒だけどな」
「私はそんなに心狭くありませんよ。いいレストラン、知っているんです。一緒に乾杯しましょう」
サレヤ広場には毎日市場が立つ。月曜日は骨董市で、それ以外の曜日には花や野菜のマーケットだ。もともと観光客であふれかえっているニースの中でも、格別に人通りが多い。秋の柔らかい陽光の下、四人は楽しく稼いだ。
蝶子は幸福をかみしめていた。何も失われなかった。Artistas callejerosは、前と同じに存在し続けた。稔もレネもヴィルも、前と同じように側にいた。それだけではない、これからは優しい青い目をした恋人がいつも側にいてくれるのだ。
ニースに戻るまでの三時間半、ディーゼルで走る小さなプロヴァンス鉄道の車体が、右に左にと揺れる中、蝶子はヴィルにもたれかかって窓の外を眺めていた。往きは四人で不必要にしゃべりながら来た風景を、逆方向に二人で戻りながらほとんど口も利かずに人生の不思議について考えていた。赤や紫のえも言われぬ色の地層、飛び交う猛禽、蜂蜜色の壁の小さな家、川にかかる石橋、空に広がる天使の羽のような雲。蝶子はその雲を指差して、ヴィルに話しかけようとした。ヴィルは目を閉じて眠っていた。蝶子はヴィルが眠れた事を嬉しく思って微笑み、伸ばした自分の手に光る指輪に目を留めた。
ディーニュの街を二人で歩いている時に、蝶子は宝石店のウィンドウの前で立ち止まった。目を惹いたのは大きなサファイアがついたネックレスだった。それは、エッシェンドルフ教授がかつて婚約のしるしとしてプレゼントするつもりだったネックレスに酷似していた。けれど、それを受け取る前に蝶子は逃げ出したのだ。ヴィルがその事を知っているはずはなかった。ヴィルは宝石にはほとんど興味がなかった。
「欲しいのか?」
ヴィルは困ったように蝶子に言った。贈りたくても、そのサファイアは大道芸人が買えるような値段ではなかった。
蝶子は微笑んだ。
「いいえ。欲しいものはこれじゃないわ」
そういうと、ヴィルの手を取って、一緒に宝石店に入っていき、一緒に嵌める事のできるこの銀のペアリングをお互いにプレゼントしたのだ。約束の徴に。
その朝、蝶子が目を醒ますと、隣には誰もいなかった。蝶子はすっかりうろたえて叫び声をあげた。その声を聞きつけて、洗面所のドアが開き、シェービングクリームが半分残ったままでヴィルが顔を出した。蝶子は勘違いで動揺したことを恥じて窓の方を向いて黙り込んだ。タオルでクリームを拭きながら、ヴィルがベッドに戻ってきた。顔を見られないように蝶子はシーツを被った。
「蝶子」
「何よ。髭、剃り終えていないんでしょ。続けなさいよ」
ヴィルはシーツを剥いだ。
「やめてよ」
蝶子は半泣きだった。ヴィルはその頬に優しく触れながら謝った。
「悪かった。俺はまたあんたの信頼を失う事をしたんだな。俺は、あんたが側にいてほしいと思っているなんて夢にも思っていなかった」
「平氣よ。ずっと独りだったもの。フルートさえ吹ければ、それでよかったのよ」
「俺もそうだった。自由にさえなれれば、それだけでよかった。自分が孤独である事すら知らなかった」
「行きたければ、行ってもいいのよ。私たちには、あなたを縛り付けることはできないもの」
蝶子は顔を見られないようにシーツを被って身をよじった。ヴィルはシーツの上から素直でない蝶子を抱きしめて言った。
「ニースだろうが、どこだろうが、あんたの行く所に一緒に行く。これから、ずっと一緒にいて、あんたの信頼を取り戻すよう努力する。約束する」
蝶子は、それで泣き出したのだ。二人で買った指輪は、その約束の徴だった。
【小説】大道芸人たち (31)アヴィニヨン、 乾杯 -1-
あらすじと登場人物
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(31)アヴィニヨン、乾杯 -1-
レネがおずおずとする時は、何か頼み事があることだとよくわかっているので、稔は発言を促した。
「それで? なんか話があるんだろ?」
レネは言いにくそうに下を向いた。
「母さんの声が聞きたくて、電話しちゃったんです」
蝶子が笑った。
「別にいいじゃない。どんどん電話すれば」
「はあ。それが、電話に出たのは父さんで」
「ピエールは元氣だったか?」
ヴィルが優しく訊いた。
「それが、腰を痛めたんだそうです。今は家中すごく忙しいので、休んでいる場合じゃないっていうんです。それで、僕、つい、帰って手伝うって言っちゃったんです」
ひどく後悔している様子だった。
「なんで、それがダメなんだよ。もちろん行って手伝うべきじゃないか」
稔が力強く言った。
「でも、みんなにどこかで待っていてもらわなくちゃいけないし……」
「なんで、どこかで待っていなきゃいけないのよ」
蝶子がウィンクした。ヴィルも続けた。
「全員で行って手伝えばいいだろう」
「決定だな。今夜、これから行くって、もう一度電話してこい」
稔が笑いながらレネに言った。レネは泣き笑いの変な表情のまま、電話に走った。三人は素早く荷物をまとめ始めた。
「すみませんねぇ。みなさんに手伝いに来させちゃって」
ピエールは難儀そうに椅子から立ち上がろうとしたので、蝶子があわてて止めた。
「また、お邪魔しますね。私たち、どんなことでもしますから、どんどん言いつけてくださいね」
「ブドウ畑、誰もいなかったみたいだけど……」
稔が首を傾げた。それを聞いてレネとピエールが二人で吹き出した。
「ブドウの収穫はとっくに終わったよ。今やっているのは醸造だ」
「もうじき二次発酵が終わるので、瓶詰めとかラベル張りなどの手作業が待っているんですよ」
それを聞いて三人は若干嬉しそうな顔になった。瓶に詰めるってことは、ワインは出来上がったってことじゃないか。去年の十二月に飲んで以来、ここのワインをたっぷり飲める日をどれほど待っていたことか……。
「飲むのは構いませんが、作業中のワインを全部飲まないように注意してくださいよ。うちのブドウのだけでなく、他の農家に頼まれたものもありますんでね」
ピエールが笑った。
「どの農家も自分のところで醸造しているんじゃないの?」
「いえ、ブドウだけを栽培している農家の方が多いんですよ。で、うちで預かるのは、近所でも有機農法のブドウを栽培しているところのだけなんです。そうしないといくらうちが有機農法で作っていても樽に化学肥料の残りが混ざってしまったりしますからね」
そういって、ピエールは妻のシュザンヌに合図をした。わかっていますよ、というようにシュザンヌはグラスとデキャンタに入ったワインを持ってきた。
「どうして、いつもデキャンタに移し替えるの? 私たちがすぐ飲んじゃうのに」
蝶子は前から疑問に思っていたことをぶつけてみた。空氣に触れさせるという意味ならしばらく前からコルクをあけるだけじゃダメなのかしら。
「うちのワインには酸化防止剤を加えないので、酸化防止のために瓶詰めの時に少し炭酸ガスを入れるんです。だから飲む前には空氣に広く触れさせてガスを抜くんですよ」
レネが説明した。
「それもほとんど必要ないようになってきたけれどね」
ピエールが説明した。
以前は多くの農家が収穫量の増加ばかりに苦心してきたため、ブドウ自体が健康でなくブドウが元から含む自然の二酸化硫黄だけでは酸化や腐敗を止められなかった。けれど農薬の使用をやめ、収穫量が減るのを覚悟で健康なブドウ作りをし、土地に伝わる天然酵母だけで作るようにしてきたおかげで、土地のテロワールを持つ健康なワインが出来るようになってきたのである。
「周りの農家たちに賛同してもらうのにもずいぶん時間がかかったが、最近のうちのワインを飲むとじいさんが作っていたワインを思い出すなんていってくれる人たちも増えてね」
「昔はみんなこうやって作っていたんですものねぇ」
シュザンヌは笑って言ったが、きっとそういう選択をした夫の信念に協力していくのは簡単なことではなかったに違いない。収穫・生産量が落ち、味が以前とは違うとクレームをもらい、それでも信念に従ってワインを作ってきた両親のことをレネは誇りに思ってた。
「泊まる部屋は、この間と同じ準備をすればいいわよね」
そうシュザンヌが言った。レネは首を振ってフランス語で母親に言った。
「ヤスはマリのいた部屋で、僕はもとの部屋にする。で、そっちの二人を客間に泊めればいいから」
それを聞いてピエールがにやりと笑った。
「ほう。そうなんですか」
それで三人にもレネたちの会話の主旨がわかった。稔はつられてニヤニヤと笑い、蝶子はただにっこりと笑った。ヴィルは何の表情もみせなかった。シュザンヌは頷いて、部屋の準備をしに階段を上がっていった。
「それで、日本はどうだったんだ?」
ピエールはレネに訊いた。
「最高だったよ。自然がすばらしくて、風景がエキゾチックだったのはもちろんだけれど、人々がみんな親切で魅力的でね。いつかまた行きたいなあ」
「久しぶりの故郷だったんでしょう、満喫できましたか」
稔はピエールの言葉に力強く頷いた。
「おかげさまで。本当は、俺のために無理して三人がついてきてくれたんですが、テデスコやブラン・ベックも氣に入ってくれたみたいなんで、ほっとしましたよ」
「チョウコさんも」
「そうですね。普段は帰らなくてもいいと思っていても、帰るとそれなりに感慨がありますわ。やっぱり祖国ですもの。それに、私の知らなかった日本もずいぶん発見したんですよ。彼らと一緒にいなかったらきっと生涯経験しなかったでしょうね」
「そうそう。前に話をしたマドモワゼル・真耶にもついに会ったんだよ。本当にきれいな人だったな」
「なんだ、レネ。お前、日本に行ってまで女性にぽーっとなっていたのか」
「僕だけじゃないよ、父さん。ヤスだって……」
「ほう。それでうまくいったんですか?」
ピエールが突っ込むと稔は笑って否定した。
「論外ですよ。すごくかわいい女性だったんですが、人妻でしたから」
「僕も望みなしだったよ、父さん。真耶にはすごくかっこいい音楽のパートナーがいてさ。他の男なんかには目もくれないって感じだったもの」
ピエールは大笑いした。
「まあ、この場合だけは、うまくいかないほうがいいよ。お前に日本人と結婚して日本に移住すると言い出されてもこまるしな」
翌日から四人は作業に参加した。やる事は単純だったので、慣れるとおしゃべりしながらの作業も可能だった。レネが樽から瓶にワインを注ぐ。稔がそれを受け取って炭酸ガスを注入する。コルクをしっかりと閉めるのはヴィルで、それを受け取った蝶子がラベルを貼って行く。出来上がった瓶がある程度たまると、男三人で運び出し、蝶子は備品をきちんと揃えたり、掃除をした。
「収穫の時は、村中総出でやるし、手伝いも結構くるんだが、この時期は毎年厳しいんだよなあ。」
ピエールはぼそっと言った。
「毎年手伝いにきていた、ニコラはどうしたの?」
レネが訊いた。
「あいつは、結婚してリヨンに引っ越したんだ。来年からどうしようかなあ」
「どうせ、十一月には毎年コモにいくんだ。その前にアヴィニヨンに立ち寄るってのも悪くないよな?」
稔が言った。レネは、嬉しそうに稔をみた。
「そうよね。私たちでよかったら、手伝いにきますわ」
蝶子の言葉に、ピエールは嬉しそうに頷いた。
【小説】大道芸人たち (31)アヴィニヨン、 乾杯 -2-
今日でチャプター4はおしまい。しばらくインターバルを挟みますが、その前に。来週の水曜日に、「大道芸人たち」の番外編をアップします。ちょいと特殊な趣向がありますので、お楽しみに!
あらすじと登場人物
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(31)アヴィニヨン、乾杯 -2-
定休日にヴィルと蝶子はボーランの『フルートとジャズ・ピアノ・トリオのための組曲』の『Sentimentale』を合わせていた。
稔とレネは、出来たばかりの赤ワインを飲みながら聴いていた。
「マリがコルシカに引っ越すまでは、よく僕の歌の伴奏をこのピアノでしてくれたんだけど。それ以来、だれもこのピアノを弾いていなかったんですよね。調律、ずっとしていないみたいだけど……」
「あんまりしていないみたいだな。我慢できる限界ってとこかな」
おや。珍しくお蝶が赤い顔をしているぞ。稔は思った。蝶子は苦しそうにフルートを吹いた事はほとんどなかったのだ。間奏のところまで来ると、蝶子はフルートを離して文句を言った。
「ちょっと。なんでそんなにゆっくり弾くのよ」
ヴィルは黙って楽譜のテンポを示した。
「だけど、メロディのところを前奏よりも、そこまでテンポを落とす事ないでしょう」
「苦しそうだな。決められたテンポじゃ吹けないのか」
そのヴィルの言葉に、怒りでさらに赤くなった蝶子はフルートをぐっと差し出した。
「じゃあ、あなたが吹いてみなさいよっ」
ヴィルは、きょとんとして、フルートを受け取った。蝶子はさっさとピアノの椅子に陣取って、伴奏をヴィルと同じようなテンポで弾きだした。稔とレネは、へえ、という顔をして成り行きを見守った。
ヴィルはゆったりとフルートを構えて、同じメロディを吹き出した。蝶子は容赦せずに伴奏したが、ヴィルはそのゆっくりとした伴奏でも途切れずに、切々とメロディを奏でていった。蝶子のはキレのある華やかな音色だったが、ヴィルのは穏やかで暖かかった。優しくて心地よいテンポだった。
その音色を聴いているうちに、また蝶子の顔が紅潮してきた。ヴィルはちっとも苦しそうには見えなかった。蝶子は先程と同じところで伴奏を止めた。稔が宣言した。
「テデスコの勝ち」
フルートを黙って見ているヴィルから楽器を奪い取って蝶子が叫んだ。
「わかっているわよ!」
「どこに行くんですか?」
レネが出て行こうとする蝶子に声をかけた。
「あっちで一人で練習してくるの!」
負けず嫌いなヤツだな。稔はニヤニヤと笑った。だがヴィルはぼそっと言った。
「その必要はない。俺が悪かった」
「同情してくれなくても結構よ」
「同情して言っているんじゃない。このテンポは本当にきつい」
「楽々と吹いていたじゃないか」
稔が言った。ヴィルは首を振った。
「長さは吹けても、蝶子みたいに繊細な表現は出来ていない。このテンポでは、吹くだけで精一杯だ。俺が悪かった。少しテンポを速くするよ」
レネと稔は顔を見合わせた。蝶子は戻ってきて言った。
「あなたのテンポの方がいいのよ。私、練習して同じテンポで出来るようにする。最初は無理だと思うけれど、助けてよ」
「わかった。じゃあ、少しずつ長くしていこう」
夕方に、ある程度形にした二人の演奏を聴いたピエールとシュザンヌは、なんてロマンティックで美しい調べなんだろうと、感動した。
「さすが愛し合っている二人の演奏は違うわね」
母親にそういわれたレネは、昼間のやり取りを思い出して、なんと返事をしていいのかわからなかった。
「げっ。弦が切れちまった!」
稔が叫んだ。蝶子が振り向くと三味線を抱えて珍しくうろたえている稔がいた。
「あら。替えの弦、ないの?」
「使い切っちまったんだ。前もこの弦だけ切れちまったから。くそっ。なんで日本に行った時に買っておかなかったんだろう。すっかり忘れていた」
「インターネットで注文できないの?」
「ギターの弦なら間違いなくできるけど、三味線はなあ。それに、この弦は特殊なんだ」
「前はどこで注文していたの?」
「……。お袋のところにいくらでもストックがあったから、自分で注文した事、ないや」
蝶子は頭を抱えた。
「お母さんに、連絡して届けてもらいなさいよ。どうせこの間、涙の再会したんだし、いまさら隠れていなくてもいいんでしょ」
蝶子が言うと、稔は肩をすくめた。
「そういや、そうだな。でも、届くまで三味線弾けないぞ。それに、弦はどこに届けてもらえばいいんだよ」
レネとヴィルが荷物をまとめて居間に入ってきたので、蝶子は英語に切り替えた。
「ここに、届けてもらいなさいよ。どうせ、これから行くコモではギターしか弾かないんだし、コモの後は、バロセロナのクリスマスパーティの前に、またここに戻ってきてブラン・ベックの誕生日を祝えばいいじゃない。それまで弾けないなら三味線も置いていけば」
レネが歓びの叫びをあげながら、母親に誕生日にまた去勢鶏をはじめとするご馳走を用意しておくようにと頼みにいった。
「そうだな。そうするか」
稔は、三味線を袋にしまうと名残惜しそうに居間のピアノの陰に立てかけた。シャルル・ド・ゴール空港で逃げ出す事を決めたあの日から、これだけは絶対に手放さなかった楽器だった。手放すのは心もとなかった。でも、ここなら安心だから、稔は自分に言い聞かせた。
四人の何かと増えた持ち物はコルタドの館に、またはこのレネの両親の家にと少しずつ増えている。それはヨーロッパという場所に少しずつおろし始めている彼らの根のようなものだった。
「じゃあ、一ヶ月後に」
四人は交互にピエールとシュザンヌとキスを交わし、幾度も振り向き、手を振りながら丘を降りていった。コモではロッコ氏がまた大げさに出迎えてくれる事だろう。
「あのテラスで、また大貧民しましょう」
レネが嬉しそうに言った。
「おう。今度は、お前ばかり大富豪にさせないからな」
稔も笑った。
蝶子は電車に乗り込むと、さっそくモロッコで買ったティーグラスを四つ取り出した。ヴィルがピエールに餞別としてもらったヌーボーワインを鞄から出して栓を抜き、それぞれのグラスに注いだ。電車はゆっくりと動き出した。
【小説】大道芸人たち (32)ニース、 追想 -1-
今回の展開は、本人も「……」ですが、ようやく例のあの方が登場します。お待たせしました。(誰も待っていないか)ちょっと長いので、明日と二回に分けての更新です。
あらすじと登場人物
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(32)ニース、 追想 -1-
赤い「手術中」のサインが消えた瞬間のことを思い出すと、七ヶ月経った今でも血の氣が引いていく。灰色の廊下、濃紺の低い腰掛け。二時間にわたる手術の間、三人ともほとんど口をきかなかった。いや、レネだけは低い声でぶつぶつとロザリオの祈りを唱えていた。時折、稔は立ち上がって廊下の端の給水場から紙コップに水を汲み、蝶子のもとに持ってきて飲むように差し出した。
三度目か四度目の時に蝶子はそれを取り落とし、稔のジーンズと靴が濡れた。
「ごめん!」
「謝らなくていい。大丈夫だ、ただの水だ」
稔は冷静に、蝶子の肩を叩くと、紙コップを拾ってゴミ箱に捨てた。それから、自分も水を飲むと、また戻ってきて蝶子の隣に座った。レネはロザリオが一区切りつくと、自分で水を飲みにいった。
蝶子は青ざめて、ずっと手術室のドアを見つめていた。悪いことを考えないように、動いたり、祈ったりしなかった。廊下の反対側にかかる時計の秒針の音だけを、機械的に耳にしていた。
ふっと、赤い電灯サインが消えた。激しい鼓動で心臓が壊れるのではないかと思った。ふらつきながら立ち上がると、ドアが開いた。一番最初に執刀医が、それから看護婦や医師たちに付き添われたベッドが見えた。蝶子の腕を稔がしっかりと支えた。執刀医が三人に向かってきて、マスクを外すと安心させるように笑っていった。
「こんな運のいい人はなかなかいませんよ。大丈夫です」
レネが即座に訳した言葉を聞いた途端に、蝶子の緊張の糸は切れてその場にうずくまった。
あれが起こったのは二月の終わり、ニースの裏町だった。
なぜああいうことになったのか、蝶子にははっきりと思い出せなかった。確か、あの男が蝶子に口笛を吹き、酒臭い息を吹き付けてきたので、いつも通りにきつい言葉を返したのだ。攻撃的な男はさらに蝶子にまとわりついたので、ヴィルが蝶子との間に入った。ヴィルは蝶子と違っていっさいケンカを売るような言葉遣いはしなかった。黙って蝶子の腕をつかんでいた男の手を外し、蝶子の肩を抱いて、暗い街角から表通りに向かって歩き出した。むかっ腹を立てた男が奇声をあげて追いかけてきた。あっという間のできごとだった。
変な音ともに、振り向いたヴィルの動きが止まった。震えていたのは刺した男の方だった。蝶子の目には暗闇の中で、ヴィルの胸元に刺さっているナイフの銀色がわずかに反射して見えた。周りの誰かがすごい悲鳴を上げた。前を歩いていた稔とレネも異変に氣づいて駆け寄ってくる。騒ぎが大きくなり、逃げだそうとした男は足下がふらつき倒れた。蝶子がその男を見たのはそこまでだった。蝶子はヴィルしか見ていなかった。
「誰か、誰か、救急車を呼んで!」
救急車が来るまでの時間は永遠に感じられた。だが、その後のこと、手術室のドアが閉まるまでのことはほとんど覚えていない。
「心臓はもちろん、大静脈も大動脈も上手にそれていましてね。普通こんな上手には刺せないものなんですが。傷は肺に達していますが、現在のところ出血は止められています。麻酔が切れれば呼吸をするたびに大変な痛みを感じるかと思いますが、それでも一年ほどで元通りになると思います」
執刀医は三人にわかるように英語で説明をすると、警察に呼ばれて去っていった。
三人は病室にいていいといわれたので、麻酔で眠るヴィルの脇の椅子に蝶子が座り、稔とレネは壁際のソファに腰掛けてその夜を過ごした。朝になると、稔とレネは交代で顔を洗いにいき、それから蝶子にも行くように促した。蝶子は黙って頷くと顔を洗いにいき、水を顔に浴びながらはじめて泣いた。
それから稔はレネを残して、外に出てリンゴや水などを買いにいった。その間に警察が訪ねてきたのでレネがフランス語で応対した。
警察の調書を三人ともとる必要があるので、警察に出頭してほしいといわれたが、いつヴィルが目を醒ますかわからないので、病院内でとることはできないかと、レネにしては果敢に交渉した。フランス人の警官は蝶子の様子に同情したのか、レネの願いをあっさりと聞き入れ、調書は階下の会議室で二時間後にとることになった。
最初に行ったのはレネ、それから稔の調書が取られた。前日に目撃者の調書は取られていたので容疑者の特定はほぼ済んでいた。
稔が持ってきたヴィルのパスポートを見てから、警官の態度が変わった。浮浪者同然の大道芸人が刺されて死にそうになった事件だったはずだが、被害者はドイツの貴族の可能性が出てきた。警官はすぐに上司に連絡し、その連絡がさらなる上司に伝わると捜査に関わる人間の数が四倍に増えた。
「お蝶、お前の番だ」
蝶子は黙って頷くと立った。警官に付き添われて部屋を出る時に、もう一度ヴィルの寝顔を見たが、変わりはなかった。そもそもヴィルは起きていても健康な時でも基本的に無表情なので、いま自分たちのやっている大騒ぎの方が異常に思えた。
警察官が蝶子のパスポートを見ながら英語で氏名と国籍、生年月日を形式的に訊いた。傍らでは書記官が二人の会話をカタカタとノートブック型コンピュータに記録している。蝶子は警官をまっすぐに見つめて冷静に返答した。
「被害者との関係をお願いします」
関係。なんと言えばいいのだろう。警察の調書にふさわしい、公的な関係はなんだろう。
「大道芸人の仲間です」
「何があったかを描写してください」
蝶子は思い出せる限りのことをできるだけ正確に話した。警察官は頷いた。レネと稔もそうだったが、的確でよけいな感情がいっさい入っていなかった。そして三人の供述は一致していた。
「被害者はドイツ人ですが、どのような背景で大道芸人をしていたかの経緯はご存知ですか」
蝶子はわずかに反感の混じった目で警官を見つめた。
「多くは知りません。この事件と関係があるとも思えません」
「そうですか。これは調書とは関係のないことなので、記録しませんが、ドイツの警察からつい今しがた連絡が来ましてね。被害者に捜索願が出されていたことはご存知ですか」
「存じません」
「息子さんが見つかったこと、事件に巻き込まれ重傷を負ったことを知ったお父様が、すぐにこちらにおいでになることになっています。また、ヘリコプターの手配をなさって、容態をみて被害者をすぐにミュンヘンに搬送するということになっています。私どもとしては、あなた方が、一緒にミュンヘンに行かれるかどうか、つまり今後、ふたたびお話を伺いたくなった時にですね、連絡を取れるように、居場所をはっきりとさせていただきたいのです」
蝶子は両手で顔を覆った。そんなことは考えてもいなかった。やがて蝶子は顔を上げて言った。
「彼は、ミュンヘンに行かなくてはいけないんですか」
「被害者本人が意思決定し、行動できる状態ではないので家族の意思が最優先になりますね。また、海外にいる場合は、保険の有無や病院への支払い能力なども問題になって来るんじゃないでしょうか」
よくわかっているわね。教授には払えても浮浪者同然の私たちには払えないってことを。
「彼がミュンヘンに搬送されるとしても、少なくとも私はミュンヘンには参りません」
「では、連絡先は」
「私が現住所としてお報せしたバルセロナのコルタドの館にお願いします。週に一度程度は必ず連絡するようにいたしますので」
「わかりました」
「フォン・エッシェンドルフ教授は、いつここにお見えになるんですか? もし、伺うことが許されるなら」
「もちろんかまいませんとも。お父様は午後にはお着きになるそうです。お着きになったらすぐに病室にご案内いたします」
【小説】大道芸人たち (32)ニース、 追想 -2-
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(32)ニース、 追想 -2-
蝶子が打ちのめされて重い足取りで病室に戻り、ドアに手をかけるとレネの弾んだ声がした。
「ほら、テデスコ。パピヨンが戻ってきたよ!」
蝶子は小走りにヴィルに近寄った。稔が頷いて言った。
「今しがた、目を醒ましたんだ。痛いに違いないから口をきくなと言ってある」
蝶子はヴィルが見えるように近くに座ると、彼の手を両手で包むように握った。それからゆっくりと低い声で話しかけた。
「痛いでしょう。かわいそうに」
ヴィルは青い目を輝かせて、わずかに首を振った。これだけでなんと安心することだろう。彼は生きている。
「ヴィル、聞いて。あなたにいいニュースと、悪いニュースがあるの」
稔とレネは驚いて蝶子の顔を見た。
「いいニュースはね。あなたはまた健康になれる。いまは息をするだけで死にそうに痛いと思うけれど、それは怪我が肺に達しているからなの。それが完全に塞がるには一年くらいかかるらしいけれど、あきらめないで。きっとよくなるってお医者さまも保障してくれているの。傷さえ完全に塞がったら、何もかも元通りになるから」
蝶子は少し言葉を切った。ヴィルは弱い力ながらも蝶子の手を握り返した。大丈夫だ、続けろ。青い目はそう言っていた。蝶子は目に涙を溜めて言葉を続けた。
「悪いニュースはね。いま、ここにあなたのお父様が向かっているの」
「お蝶!」
稔が仰天して立ち上がった。レネはすでにおびえて逃げ道を求めてキョロキョロした。
「そうなの。フランス警察がドイツ警察に報せたの。あなたの捜索願が出ていたから、それでお父様に連絡が行ってしまったの。ヘリコプターの手配までされていて、あなたの容態をみてできるだけ早くミュンヘンに搬送するんですって。私たち、あなたの家族じゃないから、それを止められないの。私は、あなたについていって看病してあげることもできない、わかるでしょう?」
ヴィルは落ち着いて瞬きをした。蝶子を慰めるかのようにその手に再びわずかに力を込めた。蝶子は涙を拭いもしないで、しっかりと言葉を続けた。
「一年経ったら、迎えにいくから。だから、絶対にあきらめないで。また、一緒に旅をするの。いいでしょう?」
ヴィルの表情が動いた。無表情に慣れている三人には、それがヴィルの微笑みだとよくわかっていた。
「約束よ」
蝶子も微笑んだ。
「だけど、お蝶。今ここに例の教授がくるんだろう? お前、逃げろよ」
蝶子は顔を上げた。
「だめよ。私たちは二人とも逃げてきたの。でも、ヴィルはいま動くことができないの。私だけ逃げ出すなんてことできないわ」
「でも、二人一緒にいない方がいいんじゃないですか……」
レネも稔の意見を後押しした。
「隠れても無駄なのよ。だって、私の名前はしっかり調書に載ってしまっているんだもの。逃げたりしたら、どんなことを勘ぐられるかわかったもんじゃないわ。私はここにいる。いつまでも逃げているわけにはいかないもの」
蝶子はもちろん二度と教授に会いたくなかった。けれど、ヴィルとつまりアーデルベルトと生きる以上、この事件があろうとなかろうと、いずれはこの問題には向き合わなければならなかったのだ。教授は蝶子はあきらめても跡継ぎ息子はあきらめないだろう。
それから小一時間、蝶子はずっとヴィルの側で微笑みながら話しかけていた。稔とレネもリラックスして、ごく普通の会話をしていた。すぐに別れなくてはいけないことなど、これ以上話す必要はなかった。
そして、その平和な時間は、足早に近づいてくる何人もの靴の音と蝶子が忘れたくて仕方なかった声に妨げられた。
「どこだ、アーデルベルトは!」
ハインリヒ。もう二度と会いたくなかったのに。稔とレネは息をのんだ。蝶子はゆっくりとヴィルの手をもう一度握りしめると、硬い表情で後ろのドアが開けられるのを意識した。
「アーデルベルト!」
よく響く声。取り乱していても、威厳のある声。
「なんてことだ。よく無事で。死ぬところだったなんて」
父親をまっすぐに見据えてヴィルは蝶子の手を離した。
こいつが、例の教授かよ。お蝶よ、お前の趣味は渋すぎる。こういうの、カイザー髭っていうんだっけな。仕立て屋で作ったに違いない高そうなスーツに、ウルトラ高飛車な態度。氣にいらねぇ。稔は教授が三人を無視しているのをいいことに念入りに観察していた。レネはただ、おろおろしていた。蝶子はもう迷いのないしっかりとした表情をしていた。
エッシェンドルフ教授は、思い出したかのようにその場に付き添っている人間に目を留めた。
「ああ、息子と同行していたという方たちですね」
言葉は丁寧だが、大道芸人風情めがと思っているのが表情から読み取れた。一人は女か、と思ったようだった。蝶子がゆっくりと立ち上がって振り向いた。
その顔を見て、教授の動きは止まった。
「お久しぶりです。先生」
蝶子はしっかりと言った。
「シュメッタリング……」
稔とレネが驚愕したことには、突然高慢な男の態度が百八十度変わった。震え、泣き出さんばかりに顔を歪め、それから蝶子に近寄った。息子の一大事すら忘れたのではないかと思えるほどだった。
蝶子は、後ろに退いたが、やがて壁に追いつめられてしまった。教授は蝶子の両頬を大きくしわのあるがっしりとした手で包むと、もう一度つぶやいた。
「シュメッタリング……」
教授に抱きしめられている蝶子の上半分の顔が、稔とレネに見えた。伏し目がちだが、冷たすぎる光を宿していた。
「どれだけ心配して探したことか、私の宝もの」
蝶子は低い声で冷静に答えた。
「先生、申し訳ございません。直接、お目にかかってお別れを申し上げなかったことをお許しください」
レネと稔には二人のドイツ語の会話はわからなかったが、二人の会話に温度差があることはいやでもわかった。そして、教授は蝶子の他人行儀な言葉に傷ついて、その顔を見た。
「なぜ、そんなことを言うのだ」
「置き手紙に書いた通りです。私はあなたの妻になることはできませんでした。ご恩を仇で返すようなことをしたことを申し訳なく思っています。どうかお許しください」
「私があんな手紙一枚で納得できると思っているのか。私たちは年は離れていても五年間も幸せだったではないか。お前は芸術家としても女としても私に心酔していたのに」
蝶子は何も答えなかった。蝶子はエッシェンドルフ教授の芸術に間違いなく心酔していた。尊敬していた。そして、蝶子の肉体も教授の虜になっていた。ハインリヒの言っていることは嘘ではなかった。けれど、蝶子は一度もハインリヒを愛したことはなかった。人を愛するという事がどういう事かも知らなかった。それを教えてくれたのは、今この場でこのような会話を聞かれている彼の息子だった。だが、それを今この場で言うわけにはいかない。
「お前は、マルガレーテの死にショックを受けて逃げ出した、そうだろう。あれはもうとっくに終わったことなのだ。戻ってきなさい、シュメッタリング。私は何も責めない。やりなおせばいいだけのことだ」
それから、後ろを振り向き、その場に立っていた秘書のマイヤーホフに威厳のある声で言った。
「ヘリコプターにもう一人乗ることを連絡しなさい」
蝶子はそれを遮った。
「先生。私は参りません」
「シュメッタリング」
「もう戻りませんし、やり直すこともありません。先生に申し訳ないことをしたとは思っていますが、私はあの決断を後悔したことは一度もありません」
教授は蝶子の顔をじっと見つめた。それから、蝶子の予想していた質問をした。
「なぜ、お前が、アーデルベルトと一緒にいるのだ」
蝶子は静かに教授を見つめ返した。
「旅の途上で、偶然知り合ったのです」
教授が信じていないことは顔に書いてあった。だが、彼はそれ以上その話題に触れずに、冷たい態度で三人に英語で言った。
「これからアーデルベルトをミュンヘンに搬送します。あなた方は、どうぞどこへなりとお引き取りください。息子が大道芸人としてこのようなところに来ることは二度とないだろうし、あなた方と交際することもありえないから、これっきりになるでしょうな」
蝶子は頭を下げたが、稔とレネはむっとして、教授をにらみつけた。
「行きましょう」
蝶子が壁際に置いてある四つの荷物のうち、自分の分を取った。それからヴィルの枕元に寄ると、顔を近づけて、低い声でささやいた。
「じゃあね。きっと元氣になってね。約束よ」
ヴィルは瞬きをして応えた。
続いて、レネが近づいた。
「アデュー、テデスコ。お大事に」
最後は稔だった。自分の分を肩に掛け、壁に一つのこった荷物を悔しげに一瞥して、ヴィルの枕元に寄った。
「じゃあな、テデスコ。あんたは最高の仲間だったぜ。親父さんは、もう会えないとか言っているが、俺はいつかどこかで会えると信じているぜ」
一年後に、絶対に迎えに行くからな。言葉に出さない稔の目の輝きに、ヴィルはやはり瞬きだけで応えた。
病室を出て行こうとする蝶子の背中に、教授が声をかけた。
「私に許しを請い、戻ってくる氣になったら、いつでもミュンヘンに来なさい。私はお前が思っているよりもずっと寛大だ」
蝶子は返事もしなかった。口をぽかんと開けている秘書のマイヤーホフと、医者たちの横を姿勢よく歩いて立ち去った。レネがそれに続き、稔が多少乱暴に病室の扉を閉めた。
【小説】大道芸人たち (33)ミュンヘン、 秋
追記にですね。canariaさんからのリクエストにお応えして、一枚画像を……。しかしですね。ええと、やっぱり絵師様に描いていただいた方が。すみません。イメージ壊したかも。
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(33)ミュンヘン、 秋
「息子さんの回復ぶりには驚くばかりですな」
主治医のシュタウディンガー博士は、診察の後、エッシェンドルフ教授の書斎を訪れて経過を報告していた。
「私の予想では肺の傷が完全に塞がるのに一年かかるはずでしたが、まだ七ヶ月なのに既にほぼ正常化しています。何か特別のスポーツでもしていらしたのでしょうか」
「さあな、そんなはずはないと思うが。もっともここ四ヶ月ほど、毎日フルートを吹いている」
「なんですって?あの肺でフルートを? とんでもなく痛いはずですぞ」
「そうだろうな。最初はとても聴けたものじゃない音だった。ここ一ヶ月ほど、まともな音が出るようになってきた。いいことじゃないか? リハビリテーションになる」
「もちろんです。回復が早いはずだ。さすが教授の息子さんですね。不屈の意志の為せる技ですか」
「理由はともあれ、あれほど言っても再開しなかったフルートをようやくやる氣になったんだ。しかも、以前よりいい音を出している。私に異存はないよ。フルートも領地の方でも私の後継者にするために、急がなくてはならない。いつまでも病人のつもりでいてもらっては困る」
「しかし、教授。お言葉ですが、もう一つ申し上げたい事が」
「なんだ」
「息子さんが奇跡的に回復しているのは肉体的な部分だけです。私は精神的なケアをお勧めします」
「何が言いたい」
「息子さんには喜怒哀楽がほとんど見られない。事件のトラウマを考慮しなくてはなりません。一度専門医にご相談なさる方がよろしいかと」
「心配するな。事件のトラウマなどではない。あれは子供の頃からそうだった。もともと喜怒哀楽などほとんどないのだ」
「なんですって」
「フルートのコンクールで優勝したときも笑顔すら見せなかった。母親が死んだときも悲しそうな顔一つしなかった。だが、私は心配した事などない。音楽の表現力は十分に備わっているし、領地の支配にも喜怒哀楽は必須条件じゃない。感傷はむしろ邪魔だ」
医者が去っていくのが窓から見えた。ほぼ傷は塞がったとシュタウディンガー博士は言った。ということはまだ完全ではないという事だ。ヴィルは胸に手を当てた。できれば半年でなんとかしたかった。だが、無理なものは無理だ。立って歩けるようになってすぐに逃げ出したかったが、自分を必死で抑えた。もし、途中でおかしくなったら、三人の足を引っ張る。再び父親につかまる。そうなったら次のチャンスはないだろう。逃げ出すのは一度だけだ。完全に健康になってから。
「時間がかかると思うけれど、あきらめないで。約束よ」
ささやきが甦る。諦めるものか。フルートを吹くときの肺の痛みは、日に日に減ってきている。けれどもう一つの痛みはそう簡単に消えはしない。
そろそろ秋になる。季節は容赦なく移り変わっていく。三人は冬支度を始めるだろう。今どこにいるのだろうか。スペインか、フランスか、それともイタリアに移っているのか。バルセロナのコルタドの館でタンゴを踊っているかもしれない。コモ湖を見渡すバルコニーでまたカードゲームに興じているのかもしれない。
「やっと私にも笑顔を見せてくれたのね」
シーツにくるまりながら嬉しそうに微笑む蝶子の記憶。
「真耶にはこの素敵な笑顔を簡単に見せていたから。彼女に敵わないのはわかっているけれど、あれを見たときは死ぬほど悔しかったの」
「彼女は無害だから笑えたんだ。あんたには二十四時間振り回されているのに笑顔になんかなるか」
「もっと振り回したい」
蝶子は微笑んでヴィルの胸に顔を埋めた。二人だけの時にしか見せないはにかんだ素直な横顔。
ヴィルはフルートを手に取った。息を吸い込むときの痛み。吐き出すときの痛み。思い出すときの痛み。
「アーデルベルト。一つだけ正直に答えてほしい」
ハインリヒは息子に静かに、しかし、いつもの有無を言わせぬ調子で問いかけた。ヴィルは黙って父親の顔を見据えた。
「私は、お前がなんと答えようとも、お前を責めるつもりはない。だが、知りたいのだ。お前とシュメッタリングは二人で示し合わせて私の前から姿を消す事にしたのか」
ヴィルは首を振った。
「一度も会った事のない人間と、どうやって示し合わせられるんだ。俺はミラノで偶然会うまであいつを知らなかったんだ」
「私がそれを信じると思って言っているのか」
「信じられないなら、なぜ質問するんだ」
「お前たちが、なぜ出て行ったのか、それなら説明がつくからだ」
「俺はドイツであいつに会ったことはなかった。これは事実だ。あんたを納得させるために、真実でない事を告白するつもりはない」
「では、なぜ出て行ったのだ」
あんたにはわからないだろう。俺があんたから受けた全ての恩恵に感謝しつつ、それでも出て行こうとする心は。あんたが愛し全てを与えた蝶子もまた同じ結論に至った理由も。俺は一度はあんたの言うように生きようとした。蝶子もそうだった。だが、あんたは俺たちをペットのように従わせる事はできない。そうしようとすればするほど、俺たちの心は自由に憧れ、あんたを憎むようになる。
答えない息子を責めるようにハインリヒは続けた。
「お前は出て行く前にはその指輪をしていなかった。それには意味があるのか」
ヴィルは何も答えなかった。細くねじれた銀の指輪。病院で見た蝶子の薬指に光っていた指輪と同じデザイン。それ以上質問する必要はなかった。答えを待つまでもなかった。この世で、誰よりも愛した二人が私を裏切った。ハインリヒは怒りを隠しきれずに息子の部屋を出た。
ヴィルは父親が出て行ったドアを冷たく見つめていた。
「運命は偶然ではない」フランス人が、俺に無理矢理引かせたカードだ。運命や馬鹿馬鹿しい占いを信じるようになったわけじゃない。だが、俺にまともな説明はできない。少なくとも俺は、理性に従ってあいつに惹かれないように抵抗した。だが、そんな努力は全て無駄だった。愛は強制でも懇願でも理性ですらも得られない。しかし、それはそれらの努力を軽々と飛び越え、向こうから襲いかかってくる。あんたがあいつに与えた芸術も、宝石も、俺にはあいつに与えることはできなかった。あいつに愛を要求することもできなかった。それでも、あいつは俺のためにニース行きの電車から飛び降りて、無償の愛を注いでくれた。この指輪はその証だ。どう説明できるっていうんだ? あんたには理解できないとわかっているのに。
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【小説】大道芸人たち (34)バルセロナ、計画
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(34)バルセロナ、計画
「ああ、イライラする!」
稔は、バルセロナのカルロスの館の裏手の豚小屋で叫んでいた。
昨夜、我慢できなくなって『外泊』に出かけた。好みの大人しめでかわいい金髪と一晩を過ごしたが、イライラはまったく解消されなかった。秋が迫ってくる。その切ない光に、蝶子もレネも影響されている。
「なんでブラン・ベックの野郎ばかり、めそめそ泣いてんだよ」
レネはリルケをフランスなまりのドイツ語で暗唱しながら、蝶子の心を慮って泣いていた。
蝶子はまったく泣かなかった。寂しいとも辛いとも言わなかった。ヴィルの事を口にすらしなかった。そして、いつものように冷静に仕事に励んだ。この七ヶ月間ずっとだった。冗談をいい、酒を飲み、新しい服を買った。突然、脚を強調するような挑発的な服をまとい、それでいて男たちが近づいてくると強烈な拒否をした。ロンダに行った時には、プエルタ・ヌオボの上でしばらく立ち止まっていたのだが、口笛を吹いたマッチョな男にケンカを売ったので、稔とレネは慌てた。
やがて、稔とレネは蝶子が精神不安定になるのは、ヴィルとの思い出のある場所に行ったときだと氣がついたので、夏の始まりに多数決を利用して強引にバルセロナに連行した。バルセロナではカルロスやイネスをはじめとする館の連中がなにかと面倒を見るので、旅先のような危険な真似はしなくなった。だが、時おり心がこの場を離れている。スペインの乾燥した大地では、広がる秋の訪れを身に纏った猛禽が、飽きずに飛んでいる事があった。そんな夕暮れには蝶子は一人でいつまでもフルートを吹いていた。
「泣けない女って、だから嫌だ!」
稔は、自分の中の苦しさを言葉にまとめて豚に投げつけた。
「テデスコに逢いたいと素直に言えよ。寂しいと俺たちの前で泣けよ。頑固なトカゲ女!」
稔は、カルロスが一人で書斎にいるときを見計らって、二人に見つからないように入っていった。カルロスは稔の様子を察して、書斎の鍵を掛けた。稔は、カルロスの前で土下座した。
「頼む、ギョロ目。無力な俺に力を貸してくれ」
カルロスは、サムライ式の土下座などされた事がなかったので、仰天した。
「どうしたんですか、ヤス君」
「あんたが俺のためにしてくれた事の恩返しも済んでいないうちに言うような事じゃないのはわかっている。それに、お蝶の事を好きなあんたに頼むのは筋違いだともちゃんとわかっている。でも、俺にはどうにもできないんだ。お蝶をもう一度テデスコに逢わせるために力を貸してほしい」
「お願いだから、立ってくださいよ、ヤス君」
カルロスは困惑して言った。
「あなたもヴィル君と同じ誤解をしているんだな。私は確かにマリポーサをとても深く愛していますが、ヴィル君のような愛し方ではないんですよ」
「へ?」
「違うんです。私とマリポーサはそういう関係じゃないんです。そうじゃなかったら、マリポーサがヴィル君という人がいながら、ここに来るわけはないでしょう」
「いや、あいつはトカゲ女だから……」
カルロスは同意の印に笑った。そして片目をつぶって告白した。
「出会った最初の晩に間違ったんですよ。すぐにベッドに直行せずにチェスを始めてしまったんです。もちろんこっちはチェスだけのつもりじゃなかったんですが、仕事で疲れていたのでつい寝てしまったんです。朝にマリポーサはそのまま消えてしまい、それで何もしないまま、打ち明け話を聞きながらチェスをするだけの仲になってしまいましてね。まあ、父親のポジションというのもそんなに悪くないんで」
「え? じゃあ、前にこの館に来た時、あんたの部屋にこもってたのも……」
クイーンとビショップがどうのこうのってのはたとえ話じゃなかったんだな。早く言えよ。
「ええ。チェスをしていたんです。でも、あれもヴィル君に対する挑発でしょう?」
稔は脱力した。かわいそうなテデスコ。あの狂ったようなピアノを聴いてトカゲ女はほくそえんでいたのかよ。
カルロスは真面目な顔にもどって現実の問題を話しだした。
「私が、あの状態のマリポーサを見て手をこまねいていると思われたら困ります。ちゃんと手は打っているんです。ただ、そんなに簡単にはいかないんで、もう少し時間がほしいんですよ」
「って言うと?」
「ヴィル君は、ミュンヘンのお父さんの館にいます。怪我の経過も思ったより悪くないようです。だが、あの館にはスペインには多い、簡単に買収できるような使用人が一人もいない。難攻不落の城みたいなものです。アウグスブルク時代の彼の友人たちも、まったく近づけないみたいですね。お父さんは彼が演劇に戻るのも許しがたいらしく、一切のコンタクトを遮断しています。そんなわけで、どうやってヴィル君にコンタクトをとるか、策を練っているところです。失敗は許されませんからね」
「ギョロ目……。おれ、あんたを見直したよ。恩に着る」
「そうだ。君たちに手伝ってもらわなくてはいけないことがある。君とレネ君と、もちろんマリポーサにも」
「俺たちが何を出来る?」
「君たちだけが共有している記憶が欲しいんです。お父様にはわからない、ヴィル君だけに、これは君たちからのメッセージだとはっきりわかるモチーフがね」
その日の昼食の時に、稔はイネスの態度が硬いことに氣がついた。それも、稔だけに。
「イネスさん、何か」
イネスはじっと稔をみつめていたが
「何でもないんですよ。なんでも」
それでいて、稔の皿にスープをつぐ時など、やけに乱暴だった。
「マリサにいたずらでもしたの?」
蝶子が意地悪く訊いた。
マリサは金髪の美しい二十三歳になるイネスの娘で、優しく控えめで稔の好みにど真ん中、というタイプだった。最初に紹介されたのはこの館に入り浸るようになってから三回目くらいの時で、その時から稔はもちろん不必要にマリサに親切だったので、ほとんど言葉が通じないにもかかわらず、マリサも稔に好意を持っていた。その証拠に、Artistas callejerosがこの館に来る度に、マリサの英語はやたらと上達していたのである。
しかし、稔はマリサに手を出すような無謀はしなかった。マリサは本人も合意の上でのアバンチュールを楽しむには若すぎる娘だった。そして、例の蝶子のコンピューターのたとえで言うと、イネスは最重要書類だった。稔が合法にヨーロッパに滞在できるのはカルロスの好意だけによるものだったし、毎年のクリスマスを暖かく豪華なこの館で、うまいものをたらふく食べて過ごせる四人の幸福を自分の行動一つで台無しにするわけにはいかなかった。だから、『外泊』だって、わざわざ村の実害も後腐れもなさそうな娘を選んでいるのに。
「するわけないだろ。イネスさんを怒らせたら俺たち何も食べられなくなるじゃないか。この間だって……」
と、つい口を滑らせた稔は、あわてて黙った。が、イネスはその言葉尻をとらえて稔に詰め寄った。
「それですよ。せっかく若い娘が勇氣を振り絞って迫ったのに、袖にしたって言うんですからね。それでいて村のほかの女といちゃいちゃしていたって、マリサは昨日から泣き通しですよ」
「あらら……」
蝶子はにやにやと傍観を決め込むことにした。レネは目を丸くした。
「マリサはかわいいし、ヤスのタイプじゃないですか」
「マリサにバレるように『外泊』しちゃあねぇ」
「ここにいたら、どうやったってバレちゃうじゃないか。イネスさんが逐一報告しちゃうんだから」
「私はそんなことはしません。マリサがあんなに思い詰めているのに」
稔はマリサが泣いていると聞いて、心穏やかではなかった。蝶子の前だったので口には出さなかったが、以前のヴィルの心境がよくわかった。恋愛のデッドロックである。以前はもっと簡単だった。二週間ぐらいで動き回り、もう二度と顔を合わさないとわかっているので、簡単に口説き、一晩だけ一緒に過ごし、後腐れもなかった。必要以上に好きになることもなかったから、相手のことを心配することもなかった。
だが、Artistas callejerosは動き回るよりも、決まった場所で稼ぐことが多くなってきている。十一月のコモ、一月のバルセロナは確定だ。コモに行く前にはレネの両親の家業を手伝うことになっている。ヴェローナのトネッリ氏もフェデリコの休暇の時期に来てくれとラブコールを送って来てくれているし、マラガのカデラス氏のクラブでも再び予約が入っている。カデラス氏が来てほしいのはヴィルなのだが、話は半年後なので間に合うはずだと稔は楽観していた。
そして、このバルセロナのコルタド館だ。最初はそうとう遠慮していたはずなのに、この頃はすっかり自宅代わりだ。カルロスの客のためにエンターテーメントを担当し、雑用をこなし、適度に酒は買ってくるが、お世辞にもギブアンドテイクとはいえないたかりぶりである。違法滞在だった稔と蝶子のヴィザを用意し、日本行きのチケットを提供し、さらに、各地に現れてはしょっちゅう美味しいものをおごってくれるカルロスの常軌を逸した親切は、蝶子との恋愛関係がないとわかった今となっては全く理解に苦しむ。しかも、今はヴィルの逃走の手助けまでさせようとしているのだ。ここで、カルロスにとっては一番大切な使用人であるイネスと問題を起こすわけにはいかない。
稔にとってマリサがどうでもいい存在であったなら、話はもっと簡単だった。だが、稔はマリサが好きだった。もちろんヴィルが蝶子のことを思い詰めていたほどではないし、レネがエスメラルダスの魅力に自分を失ってしまったほどではない。とはいえ、コルタドの館にいる時間が増え続けている今、マリサとのことは稔にとって次第に避けられない重荷になりつつあった。
【小説】大道芸人たち (35)アウグスブルグ、 協力者
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(35)アウグスブルグ、 協力者
スペイン人が会いにきたのは、二ヶ月ほど前のことだった。劇団『カーター・マレーシュ』に協賛してくれるなら中国人でもトルコ人でもなんでもいいというのがヤスミンの主義だったので、もちろん喜んで会った。それはサンチェスという名の、面長で巻き毛の男だった。堅苦しいスーツでも、胸ポケットに赤紫のチーフを入れているところなど、この辺りでは見られないラテン男だった。
サンチェスは、スペインの芸術振興会バルセロナ支部の理事をしているコルタド氏の秘書だと名乗った。数年後にヨーロッパの各地のあまり大きくない劇団による芸術祭を予定しているので、地方都市の小劇団の渉外担当に話を聞いて回っているのだそうだ。また、希望があれば協賛金を捻出することもあるということだった。ヤスミンはそっちの話に飛びついた。
サンチェスにはじめて会ったとき、彼の指示でヤスミンはここ七、八年の定期公演のチラシを持ってきていた。サンチェスはゆっくりとそれを検討しながら、ヤスミンのいかに『カーター・マレーシュ』が優秀な俳優陣とスタッフに恵まれた将来性のある劇団で、積極的に新たな試みに挑戦してきたかという、いささか説得力のない説明に、本当に聴いているのかすらも疑問な態度で頷いていた。が、あるチラシに目を留めてから、急にその前後のチラシを比較しだし、日付を確認してからヤスミンに訊いた。
「この年から、急にこのヴィルフリード・シュトルツという俳優が出演しなくなっていますよね。あなたはこの俳優を個人的によくご存知なんですか?」
ヤスミンは面食らった。
「ええ。知っています。彼とは五年ほど一緒に仕事をしました。いい俳優でしたが、事情があって俳優が続けられなくなったのです」
「その事情をお伺いしてもいいですか」
「……。どうしてそれをお知りになりたいか、伺っても構いませんか?」
サンチェスは、深いため息をついて、それから辺りをはばかるように言った。
「私は、事情があって、アーデルベルト・ヴィルフリード・フォン・エッシェンドルフという青年の知り合いを捜しているのです。この俳優は彼でしょう」
ヤスミンは驚いて頷いた。
「でも、サンチェスさん。彼の本名を知っているのは、劇団の仲間でもほんの数人なんです。私はその数少ない一人ですわ」
ヤスミンは、二年前の夏のことを思い出した。あれはヴィルが姿を消す一ヶ月ほど前のことだった。
いつもの通り、協賛金を出してくれる篤志家を求めて、その日ヤスミンはミュンヘンに行った。長いことアタックしていたエッシェンドルフ教授がほんの半時ほどなら会ってもいいと言っていると、秘書のマイヤーホフ氏から訊いたので、飛んでいったのだ。
やたらと広い館だった。ミュンヘンの市街地の側にこんなに大きな館があるなど、夢にも思わなかった。フルートの権威であるエッシェンドルフ教授は、この館と郊外の広大な領地を持つドイツの特権階級の一人だった。用件を取り次いでもらい、教授が現れるのを待つ間、ヤスミンは自分のみっともない服装を後悔しながら唇を噛み締めていた。
教授が現れた。「なんだ、トルコ人か」と思っているのが顔に表れた。正確にはヤスミンにはトルコ人の血は四分の一しか流れていないのだが、エキゾチックで大きい黒い双眸と濃い眉が、ほかの四分の三の血を無視して誰にでもトルコ人に違いないと思わせてしまうのだった。
ヤスミンは理路整然と劇団の将来性ならびに窮乏を訴え、わずかな協賛金がどれほどありがたいかを切々と訴えた。教授はヤスミンの演説には全く心を動かされた様子はなかった。
ヤスミンが渡した今度の公演のチラシを冷たく突き返そうとしたその瞬間、ふいに教授の手が止まった。その目は出演者の名前のところに釘付けになっていた。
「この、ヴィルフリード・シュトルツというのは……」
「はい。とてもいい俳優です。今回は敵役ですが、迫真の演技って、とても評判がいいんです」
教授はその評価については全く興味がなさそうだった。
「この男は、ピアノを弾くんじゃないか?」
「はあ。そうですね」
ヴィルはナイトクラブでピアノを弾いて、劇団からの収入では食べていけない分を補っていた。ピアノだけで十分生きていけるほど上手いのはヤスミンもよく知っていた。
すると、教授は突然氣を変えたらしく、懐から札入れを取り出すと突然二千ユーロをヤスミンに手渡した。ヤスミンは現金でそんなにもらえるとは思っていなかったので、びっくりした。
「とりあえず、これをもって行きなさい。劇団からの正式な領収書をマイヤーホフ宛に送るように」
「ありがとうございます」
ヤスミンは震えてその金を受け取った。
その時、応接間の扉が開いた。教授とヤスミンは同時にそちらを見た。女が立っていた。
「お邪魔をしてごめんなさい。でも、もう出なくてはいけないので……」
その女は燃えるように美しい朱色のワンピースを着ていた。腰まである長いストレートの黒髪で、朱色の縁取で大きなつばのある白い帽子をかぶり、やはり白と朱色のハイヒールを履いていた。年若い見たこともないほどきれいな東洋人だった。
「いいんだ。シュメッタリング。行っておいで。やはり私も一緒に行った方がいいかね」
教授は先ほどの厳格さはどこに行ったのかと疑うほど優しい調子で女に話しかけた。シュメッタリングと呼ばれた女は魅惑的な笑みを見せた。
「美容院に一緒に行っても退屈なだけですわ、ハインリヒ」
「だが、お前がそんなに美しいと、道行く男たちが誘惑しにこないか心配だ」
この人、この若い東洋人にメロメロなんだわ。ヤスミンは興味津々で二人のやりとりを見ていた。女は教授の言葉に微笑みを見せた。なんともいえない謎めいた表情だった。あでやかで美しいのに、どこか痛々しく、それでいて何かを軽蔑しているかのような複雑な笑顔だった。
ヤスミンは、早々に退散した。教授の顔にはさっさと帰れと大きく書いてあった。もらうものはもらったのだ。ヤスミンも長居したいとは思っていなかった。
「ねえ。ヴィル。今日、私、ミュンヘンのエッシェンドルフ教授って人のお館にいったんだけど」
帰ってから、ヤスミンはヴィルを捕まえていった。ヴィルは眉をひそめてじろりとヤスミンを見た。ヴィルはいつもこうなのだ、無表情でとっつきにくい。けれど、意外と優しいことをヤスミンはよく知っていた。
「二千ユーロもくれたのよ。なぜだと思う?」
「さあな」
「チラシにあなたの名前があってね。それを見て、ピアノを弾くんじゃないかって訊かれたの。それで、そうですねって言ったら、突然氣前よくなったのよ」
「あんた、俺の名前の載ったチラシを渡したのか」
「ええ。だって最新作のチラシだもの。悪かった?」
ヴィルは少し考え込んでいたが、頭を振った。
「あんたが、あそこに金をもらいに行くとは思いもしなかったからな。仕方ない」
「ねえ、あの大金持ちと知り合いなの?」
ヴィルはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「あれは、俺の生物学上の父親だ」
ヤスミンはぽかんと口を開けた。
「みんなには言うな。俺はあいつとは縁を切ったんだ」
ヴィルの母親が半ば自殺するような形で急逝したのは、それからすぐだった。代役を立てて舞台は始まったが、ヴィルの休みが明ける前に、団長は団員にヴィルがもう劇団には戻らないと宣言した。あまりに意外だったので、ヤスミンは団長に事情を聞きにいった。
「それが、ヴィルはミュンヘンに戻ることになったんだ。銀行がな。ヴィルをすぐに解雇しろと言ってきた。そうしないと一切の資金を引き上げると。もし解雇したなら、反対にエッシェンドルフ教授から巨額の協賛金が出るってことらしいんだ」
「あの、カイザー髭の親父がそんなことを?」
「なんだ、お前も知っていたのか。そうだ。教授はヴィルを演劇から引き離して自分の跡継ぎにしたいので、銀行に圧力をかけたんだよ。今、銀行に資金を引き上げられたら、俺たちはおしまいだ。不当なのはわかっているが、どうしようもないんだよ」
ヤスミンはそれ以来、ヴィルに一度も会っていない。
「ヴィルはその後、カイザー髭から逃げ出して失踪しちゃったんですよ。カイザー髭は必死になって探して、うちの劇団員が匿っているんじゃないかとずいぶん疑っていたみたいですけれど、私たち誰も彼の行方を知らないんです。だから、残念ですけれど、私は彼の行方については全くお答えできませんわ」
ヤスミンはサンチェスに率直に話した。
「いや、彼の行方はわかっているんです。彼は今、再びミュンヘンのエッシェンドルフの館に戻っています」
「なんですって?」
「彼が、ミュンヘンを逃げ出してから事件で怪我をするまでのことは、私どもはあなた方よりもよく知っていましてね」
「事件? 怪我?」
「彼は五ヶ月前にフランスで刺されて、もう少しで死ぬところだったんです。ドイツ警察に捜索願が出ていたので、報せはすぐにお父様のところに行きました。そういうわけで、彼は再びミュンヘンに戻っているんです。私どもは、お父様に知られないように彼とコンタクトをとる方法を探していましてね。それで、彼のドイツ時代の知り合いを捜しているんです」
それが、このスペイン人の目的だったのだ。ヤスミンは納得した。
「ところで、『カーター・マレーシュ』ってのはどういう意味ですか?」
サンチェスは訊いた。
「ああ、アウグスブルグの有名な人形劇の『
ヤスミンはにっこりと笑った。
サンチェスの話を訊いて、ヤスミンはすぐにミュンヘンに行った。劇団の仲間と言っただけで、門前払いにされた。それで、ヴィルの学校の同級生を探し出して連絡をしてもらおうとしたが一切取り次いでもらえなかった。サンチェスからの連絡には、その旨を伝えた。
「でもね、サンチェスさん。わたしはまだあきらめていませんから。あのカイザー髭のやり口には全く感心ができないんです。ヴィルはあの親父と縁を切りたがっていましたもの、ぜひ手伝いをさせてください。協賛金のためじゃありません。本当よ」
「わかっています。コルタド氏は、既に協賛金を振り込んでいますよ。ところで、近いうちに、彼の一番会いたがっている人たちが、そちらを訪れる予定です。彼らに会ってやってくださいませんか?」
「彼の会いたがっている人たち?」
「そうです。五ヶ月前まで寝食を共にしていた仲間と、彼の一番大切な女性です」
あのヴィルに寝食を共にするほど近い関係の仲間がいたなんて。それに、恋人ですって? 嘘でしょう? いったいどうやって口説いたのかしら。
「嘘っ!」
ヤスミンは自分の目が信じられなかった。赤いドレスの人じゃない。忘れようっても忘れられなかった、あの人が、どうしてここにいるのよ。
連れてきた三人を紹介しようとしているサンチェスが不思議そうにこちらを見ている。
「レーマンさん? どうかなさいましたか?」
ヤスミンは我に返って、ごにょごにょと言葉を濁し、頭を下げた。
「すみません。私はヤスミン・レーマン、ヴィルの劇団時代の同僚です」
「はじめまして。俺は安田稔、ヤスと呼んでください」
「はじめまして。僕はレネ・ロウレンヴィル、ブラン・ベックって呼ばれちゃっています」
「はじめまして。私は四条蝶子……」
それ以上、ヤスミンは言わせなかった。
「シュメッタリングって呼ばれていた人でしょう? 私、あなたを憶えているわ」
蝶子は面食らった。稔は白い目で蝶子を見た。
「お前。また憶えていないのかよ」
「ごめんなさい、どこでお会いしたのかしら」
「いえ、憶えていなくても無理はありません。エッシェンドルフ教授のところに寄付金集めに行った時にちょっと姿を見かけただけだから。でも、あなたみたいにきれいな人、そんなに簡単に忘れられなくて」
ちょっと待って。サンチェスさんは今日会わせるのはヴィルの恋人って言わなかった? でも、この人、カイザー髭が夢中になってたんじゃなかった? ええ?
「なんてきれいな人なんだろう」
レネはヤスミンが帰るとため息をついた。
「お前の好きそうなタイプだよな」
稔はへらへらと笑った。
「感じがいい人よね」
蝶子は言った。
「テデスコと親しそうだったじゃないか。妬けるんじゃないか?」
稔が蝶子を挑発した。蝶子は肩をすくめた。
「過去のことは変えられないもの。いちいち妬んだりなんかしないわよ」
「ほう。ご立派なことで」
蝶子はヤスミンのことを考えた。異国的なくっきりとした顔立ち。豊かな巻き毛はつやつやと光っていたが、ショートヘアにしてあるので少年のように見える。黒くて大きな瞳がきらきらと光っているようだ。長いまつげも魅力を倍増している。明快な言葉遣いをし、ドイツ的な現実主義が前面に出ているけれど、心の優しさがそれを包み込んでいて心地よい。
アウグスブルグ時代のヴィルは、きっと彼女やその他の劇団の仲間たちと幸せな時間を過ごしていたに違いない。自分の知らないヴィルの世界に嫉妬するつもりはなかった。けれど、ほんの少し寂しかった。私とヤスと真耶と結城さんが十年前に同じ大学で、同じ時間を過ごしていたときのことも、ヴィルはこんな風に感じたんだろうか。
ヤスとブラン・ベックとヴィルと私とで、それぞれの過去に負けない幸せな時間を紡ぎだしていけばいいんじゃない。今はこんなことにブルーになっている場合じゃないんだから。蝶子は自分を奮い立たせた。
その晩、三人とサンチェスはヤスミンに誘われて『カーター・マレーシュ』の団長や親しかったメンバーと一緒にビールを飲みにいった。団長をはじめ、ヴィルの境遇に同情した面々は、一様に協力を約束した。
【小説】大道芸人たち (36)ミュンヘン、 接触
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大道芸人たち Artistas callejeros
(36)ミュンヘン、接触
ヴィルは仲間が何度も接触に失敗したことを知っていた。父親がその都度、馬鹿にしたように報告してきたからだ。
「うろんな外国人が、こともあろうにハンスを買収しようとしたそうだ。あの男が五代にわたりこのエッシェンドルフの庭師をつとめた家の出で、驚くべき忠誠心を持っていることをシュメッタリングは忘れたのかね」
「今日は、お前の演劇仲間がやってきたそうだ。お前がここにいると聞いたといってな。誰がそれをいったのか、想像がつくな」
電話は一切取り次いでもらえなかった。手紙はすべてマイヤーホフが先にチェックしていた。特にスペイン、フランス、イタリア、日本からの通信はヴィル宛であろうとなかろうと一切ヴィルの手に渡ることはなかった。
ヴィルが外出を許されるのは病院に検査にいくときだけで、その時には秘書のマイヤーホフと召使い頭のミュラーがぴったりとくっついていた。ヴィルが一人でどこか個室に入るような時には、まずマイヤーホフが徹底的に調べ、その間誰もヴィルに近づかないようミュラーが見張っていた。
ヴィルは氣にしていなかった。コルタドの館は警察調書での四人の住所から完全に父親のマーク下だが、まだ父親の知らない場所がいくらでもある。上手く逃げ出せさえすれば、コモ湖のロッコ氏のレストランやアヴィニヨンのレネの両親のところに行き、三人と連絡を取ることもできる。問題はここを逃げ出すことだけだった。
父親は以前は書斎にあった金庫を寝室に移していた。そして毎日金庫を開けてパスポートがまだあるか確認しているらしかった。つまり、ヴィルは逃げるその当日にしかパスポートを取りにいけない。そのチャンスと網の目のように巡らされた使用人たちの目をすり抜けてこの館を出る、そのタイミングを合わせなくてはならない。
この二ヶ月ほど、何も聞かなかった。ヴィルは父親にたてつくことも、反対にすり寄ったそぶりも一切しなかった。できるだけ自然に見えるように振るまった。父親のフルートの指導を受け、ごく普通に会話をし、領地の管理についての事務に同席した。以前はほとんど話をしたことのなかったマイヤーホフやミュラー、それに家政婦たちを取り仕切っているマリアンともごく普通の関係を築いた。
ハインリヒは、いつまでも息子を軟禁しておくわけにはいかないことを知っていた。息子は完全に絶望してあきらめなくてはならない。大道芸人に戻ることなど。そして、蝶子と一緒になることなど。
「マイヤーホフ。例の書類を持ってきなさい」
ヴィルのフルートのレッスンが終わると、ハインリヒは秘書を呼んだ。普段はどんな仕事でも息子を同席させる父親が、今日だけは同席を求めなかった。それでヴィルはマイヤーホフとすれ違って部屋を出る時に、わざとぶつかった。マイヤーホフに謝りながら取り落とした書類を拾い、さりげなく見た。婚約不履行の訴訟の判例集だった。ヴィルは、父親がまだ蝶子をあきらめていないことを知った。
完璧主義のエッシェンドルフ教授はフルートの音には確固たる自信があり、息子に限らず教えを受ける者は誰でも彼の言う通りの音以外を出すことは許されなかった。ヴィルは父親と争うつもりがなかったので、レッスンでは教師を満足させる生徒であろうとした。しかし、その日、教授は意外なことを言った。
「この間の音を出してみなさい」
ヴィルは首を傾げた。先日、言われた通りに吹いたはずだった。それで、氣をつけて再び同じ音を出そうとした。ハインリヒはイライラして言った。
「この間というのは、お前が一人で吹いていた時の音だ。プーランクを吹いていただろう」
ヴィルは眉をひそめた。出雲を思い出しながら吹いていた『フルートソナタ第二番』、それは蝶子たちと一緒に育てた音だった。蝶子の音はArtistas callejerosとの旅で、ヴィルや稔と一緒に自由に奏でるうちに、ハインリヒの望む音からかなり変容していた。ここでヴィルが一人で奏でる時にも、自分の中から湧き出る感情とテンポ、そして音色を響かせるArtistas callejeros式の演奏をしていた。それをハインリヒが聴いているとは思わなかった。聴いていたら即座に中断させ訂正するはずだった。
躊躇するヴィルに父親は再び言った。
「あの音を出してみなさい。悪くなかった」
ヴィルは腹を決めて、今までとはまったく違う音を出した。父親を満足させるためのレッスンではなく、大道芸でもなく、それは口に出せない想いを抱えている魂の響きだった。
エッシェンドルフ教授はうなった。息子のやってきたことにはまったく感心できなかった。演劇だと。大道芸だと。シュメッタリングへの横恋慕だと。それは若さという名でまかり通る愚かさに過ぎない。すべてが私が導こうとしているお前の正しい道からの遠回りだ。なぜ素直に私の言う通りにしない。しかし、この音はどうしたことだ。
十九歳の時、息子の音は一度完成したはずだった。ハインリヒ・ラインハルト・フライヘル・フォン・エッシェンドルフの完全なコピーとして。だが、いま響かせている音は、コピーなどではなかった。息子は明らかによりよくなって帰ってきた。自分以外に息子の音をこれほどに変えられる者や事があるとは信じられなかった。自分以上の教師がいるはずもなかった。すべてのフルート奏者は自分に従うべきだった。しかし、反逆を繰り返した息子の音色が、自分の教えてきた音楽を遥かに超えている。教授は自分の支配が息子に及ばなくなってきた事を不快に思ったが、ヴィルの音色に対して手を加える事が出来なかった。
「それで、マイヤーホフ。病院での検査の結果は」
「もう、傷は完全に塞がったということでした。午後にシュタウディンガー博士からお電話をくださるそうです」
「聞いたか。アーデルベルト。これからは病人扱いはしないぞ」
「はい」
「今月の終わりに、お前の快癒祝いと後継者披露のパーティをする。市長を始め、ありとあらゆる有力者を招待する。今後お前は、正式に私の後継者として社交の場や公式の場に出ることになる。覚悟を決めなさい」
「二人の監視役をつけたままでか」
「お前が腹を決めさえすれば、監視など必要ではなくなるのだ」
腹はとっくに決まっている。監視がいらなくなる日は来ない。ヴィルは心の中でつぶやいた。パーティ。絶好のチャンスだ。客が多く、召使いたちがてんてこ舞いになれば、監視の目が届かなくなる。パスポートを取りにいくことも可能だ。
「そうそう、アーデルベルト。パーティにはお前が会いたい人間も招待するぞ」
ヴィルは訝しげに父親を見た。
「私は、シュメッタリングを再び手に入れる。お前がここから逃げ出さなくとも、直に毎日会えるようになるぞ。アーデルベルト」
何を企んでいる。蝶子が自分からここに戻るはずはない。どうやって強制するつもりだ。
パーティの準備をしているミュラーと雑談している時に、ミュラーがいくつかのパンフレットを持ってきた。
「パーティ用に酒を注文しなくてはいけませんのでね、なにかご希望がありますか」
ヴィルはわずかに笑みを浮かべてパンフレットを繰った。ドイツのビールとワイン、フランスのワインやシャンペン、スペインのシェリー、ポルトガルのポート、イタリアのワインとグラッパ……。ゆっくりとパンフレットを繰っているうちに、あり得ないものを目にした。それはスウェーデンのアクアヴィットのページだった。だが、ヴィルはミュラーに不審を抱かせないように、そのページを長く眺めたりはしなかった。
やがて、二人でワイン、シャンペン、ビール、グラッパ、その他の膨大な注文リストを作成した。
「あんたには他にもやることがたくさんあるんだろう。なんなら、俺が電子メールで注文するが」
ミュラーはコンピュータの扱いがあまり得意ではなかったので、喜んでこの申し出を受けた。ヴィルがこの館から送る手紙、電子メールはいずれにしてもすべて教授が監視している。
ヴィルはリストとパンフレットを持って、教授の書斎にあるコンピュータの前に座った。それぞれのページには別の業者の連絡先が書いてあるので、何通かのメールを書かなくてはならなかった。どのメールにも事務的な注文の文面を書いた。
アクアヴィットのページに来た。鮮やかな濃い紫のリラの花の下に、アクアヴィットの瓶が置かれている。それは、コモのレストランのバルコニーに置かれていたのとそっくりな青銅製のテーブルで、丁寧にもタロットカードが一緒に置かれている。一番上に見えているのはもちろん恋人の正位置と運命の輪の逆位置。一ダース以上の注文にはサービスとしてリラの苗をプレゼントすると書いてある。
ヴィルは無表情のまま事務的で父親に疑われないような変哲もない注文のメールを書いた。来るな、蝶子。ここであんたを待っているのは罠だ。
【小説】大道芸人たち (37)アウグスブルグ、 希望
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(37)アウグスブルグ、 希望
「それ、シラー?」
ヤスミンはレネが読んでいる『群盗』のフランス語対訳本を見て目を丸くした。ヤスミンは、サンチェスから転送されてきたメールをプリントアウトして届けにきたのだ。だが、稔と蝶子が買い物に行っていたので、宿にいたのはレネ一人だった。レネは大好きなヤスミンが自分一人の時に来たことをとても嬉しく思った。話す時間が三倍になる。
「はあ。せっかくドイツにいるんで」
レネが言って、ヤスミンにその本を渡した。彼女はちらっと中を見てから返した。
「あたし、こんなに長く演劇に関わっているのに『群盗』を読もうなんて考えたこともなかったわ。読み終わったら、貸してよ」
「読み終わったら、あげますよ。どっちにしても読み終わった本は全部処分しなくちゃいけないんです。僕たち、定住者じゃないんで」
ヤスミンは興味を持ったようだった。
「ねえ。あなたたちどうして一緒に大道芸人をしてまわることになったの?」
レネは笑った。少し親しくなると、みなが同じことを訊く。
「僕はパリで失恋と失業を同時にして、コルシカに傷心旅行に出かけたんです。ちょうど同じフェリーに乗っていたパピヨンとヤスがチームを組むことにして、僕も混ぜてもらったんですよ」
「ヴィルは?」
「ああ、テデスコはもっと後で、ミラノで遭ったんです」
「え? ヴィルとシュメッタリングは一緒にカイザー髭のところから逃げ出したんじゃないの?」
「違いますよ。パピヨンはテデスコがカイザー髭の息子だって一年以上も知らなかったんですから」
「ヴィルの方は知っていたの?」
「ええ。知っていたみたいです」
「でも、シュメッタリングとカイザー髭は、その……」
「わかっていますよ。テデスコはそれでもパピヨンのことが好きになってしまって、だからよけい言い出せなくなってしまったんだと思います。でも、パピヨンの方も知った時にはもうテデスコのことを好きになっていたから」
「そうだったんだ……。あの唐変木のヴィルがねぇ」
「アウグスブルグ時代のテデスコはどんなだったんですか?」
「無口で、無骨だけど、頼りになる感じかな。私は彼がもうちゃんと役者になった後で参加したからそういう印象だったけれど、団長曰く、最初はすごく変だったらしいわよ」
「変って?」
「世間のこと何も知らないし、誰とも会話をしなかったんだって。そういう人だって、そりゃいるけど、普通そんな人が役者になんかならないじゃない? 団員はどうしようかと思ったらしいわよ」
「それで?」
「一年くらいで、それなりに社会に順応するようになってきたんだって。もちろん、ほとんど口をきかないし、何か言うとしてもぶっきらぼうだけど、本当は優しいじゃない? それがみんなにもわかって、馴染んだみたいよ」
「じゃあ、テデスコはなんで一人で旅にでたんだろう?」
レネはそういえばその経緯を聞いたことがなかったと思った。
「あら、知らないの? カイザー髭がね、息子を跡取りとして取り返すために、劇団に圧力をかけてクビにさせたの。生活を支えていたナイトクラブの方の職も失ったし。それで、自由に生きるために失踪したんだと思うわ。私はしばらく責任を感じて落ち込んだのよ」
「なぜ?」
「だって、私がカイザー髭のところに寄付を頼みにいったので、ヴィルがうちの劇団にいることがバレちゃったんだもの」
レネは、ヤスミンのしょげた顔を見て哀しくなった。
「ヤスミンは、テデスコのことが好きだったんですか」
ヤスミンはびっくりしたようにレネを見てから、大きく頭を振った。
「やだ。そりゃ、仲間としては好きだったけれど、恋していたわけじゃないわ。だって、全然タイプじゃないんですもの」
レネはなんていっていいのかわからなかった。ヤスミンはウィンクした。
「私ね。お姫様みたいに扱ってくれない人はだめなの。ヴィルって私が髪を切っても、新しい服を買っても氣もつかないタイプでしょ? そんなの論外よ。あなたたち三人の中では、ヤスもダメね。彼は氣づくだろうけど、そんな女々しいことがいえるかってタイプでしょ?」
「よく見ていますねぇ。その通りです。僕はどうですか?」
「レネは合格よ。だって、この間も今日もちゃんと新しい髪型を褒めてくれたし、パンを切ってくれたりサラダをまわしてくれたりもちゃんとレディファーストだし。ねぇ。私みたいなタイプ、どう思う?」
突然そう迫られたので、レネは真っ赤になってもじもじした。ヤスミンは大いに満足した。
「もちろん……。ヤスミンみたいに素敵な女性には、滅多に会えないから……」
「嘘ばっかり。普段シュメッタリングと一緒にいるくせに」
「そ、そりゃパピヨンは素敵ですが、もう、そういう対象じゃないし……」
「じゃ、決めた。レネ、明日わたしとデートして。シラー読むのはバルセロナに帰ってからでもいいでしょう?」
「ええっ。ヤスミンを口説き落としたのかよ!」
稔が仰天して言った。
「口説き落としたというか、落とされたというか……」
レネが赤くなって頭をかいた。
「よかったじゃない。ヤスミンの前にでる度にぼーっとしていたんだし」
蝶子も喜んだ。それでも当のレネは訝しげに天井を見上げていた。
「でも、まだテデスコ奪回も済んでいないのに、デートなんかしている場合かなあ」
「何言ってんだよ。テデスコの件はまだそう簡単には片付かないし、俺たちはその間も生きていくんだ。お前が、憧れの女の子とデートできるチャンスがあるなら、作戦から外れたって構わないくらいだ」
「それはダメよ。ブラン・ベックは作戦の主役だし、ヤスミンの役割だって私たちより大きいじゃない」
蝶子がふくれた。
「作戦、変えてもいいんだぜ」
そういって稔はサンチェスから届いたばかりの郵便の中身を蝶子に渡した。白い仰々しい封筒で、表書きはバルセロナのコルタドの館の住所、蝶子宛だった。
怪訝な顔をして裏を返すと差出人は教授だった。急いで中を確かめるとそれはパーティへの招待状だった。日時は二週間後、パートナー同伴でという印刷された内容の他に、教授の直筆でこう書いてあった。
「我が息子、アーデルベルトの快癒祝いならびにエッシェンドルフの後継者としての披露パーティです。彼ならびに私の親しい友人として、ご参加くださることを心から願っています。あなたのハインリヒ」
蝶子は、招待状を稔とレネに渡し、中身を訳した。
「なんのつもりなんでしょうね」
レネは身を震わせた。稔は腕を組んで憤慨した。
「何が私の親しい友人だよ。ふざけんな」
蝶子は首を傾げていた。
「後継者の披露パーティですって?」
「披露されたって、逃げ出すことはできるだろう?」
「逃げ出すつもりがあればね」
蝶子は眉をひそめて言った。
「どういう意味だよ。テデスコはそのつもりに決まっているだろう?」
「どうして今さら披露パーティをするのかしら。彼はとっくにあそこの後継者なのよ。フルートをやめてからは、それを拒否して館に足を踏み入れなかったけれど。披露をするってことは、ヴィルが承知したってことじゃないかしら」
「テデスコが、もう戻らないって決めたってことか?」
蝶子と稔が話している間に、レネはヴィルからのメールを印刷した紙を取り出し、それから招待状と較べだした。
「あ、やっぱり」
「なんだよ、ブラン・ベック」
「まったく同じ日時なんですよ。アクアヴィットを届けてほしいって要望と」
蝶子と稔もあわててメールを覗き込んだ。
「オファーのあったアクアヴィットを一ダース、夕方の七時ごろ届けてください。当日はたくさん人が出入りしていますが、中に入り私を呼び出してください。料金を直接お支払いします。アーデルベルト・フォン・エッシェンドルフ。追伸:リラの苗木は不要です。酒だけを届けてください」
「ヴィルはパーティが開催されることを知っているのよ。それでわざわざその日を指定しているんだわ」
「後継者披露だってことももちろんわかっているわけだな。でも、その前には俺たちとコンタクトするつもりはないってことか」
「この、追伸は、パピヨンに来るなって意味じゃないんですか?」
蝶子の顔が曇った。もう、私には逢いたくないってことなんだろうか。エッシェンドルフの後継者として生きていくつもりだから、迎えにくるなって意味なんだろうか。
「おい。お蝶、なに暗くなってんだよ。テデスコは俺たちのところに戻ってくるに決まっているだろう。お前がここにいるんだぜ」
「彼は一度、ディーニュでArtistas callejerosから抜けようと決めたのに、私がそれを止めたの。でも、彼は本当はもう帰りたかったのかもしれない」
「あれは、お前とのことが上手くいかなかったからだろ」
「忘れないで。彼はアーデルベルトなのよ。教授の息子で、私のせいで亡くなったマルガレーテさんが母親なの。離れているうちに思ったのかもしれないわ。父親の元愛人で母親の敵の女とつきあうなんて、現実的じゃないって」
蝶子はメールを指でなぞった。アーデルベルト・フォン・エッシェンドルフ。私たちの馴染んでいる名前はどこにも書いていない。
「ふざけんな。テデスコにはそんなことを考える時間はたくさんあったはずだ。お前を巻き込む前にな」
蝶子はメールをじっと見つめていた。事務的な冷たい文面。リラの苗木は不要です。こんな一文で納得なんてできるはずはない。レネが冷たい返事だけを受け取って帰ってきたなら、私はもう二度とヴィルに逢うことができない。
「私、ヴィルに会って、直接訊きたい。私たちのところに戻りたいのか、それとも教授のもとに残りたいのか」
稔とレネは顔を合わせた。それから稔が判断を下した。
「OK。二段構えでいこう。予定通り、連絡はブラン・ベックがやる。もし、失敗した場合のセーフティネットとして、俺とお蝶も行って、直接コンタクトをとろう。大勢の人間の前だし、カイザー髭だって変なまねは出来ないはずだしな」
「どうしてブラン・ベックって呼ばれているの?」
顔ほどもある大きなボウルに入って出されたサラダを頬張りながら、ヤスミンが訊いた。
「フランス語で青二才って意味なんです。僕が頼りないから、パピヨンがつけたあだ名なんです」
ヤスミンは目を丸くした。
「そういわれて何ともないの?」
「あの三人がそう呼ぶ時には、何ともないですね。慣れてしまって、あの三人にはずっとそう呼んでほしいって思っているんですよ」
「ヴィルのテデスコってあだ名も?」
レネの顔には思い出し笑いが浮かんだ。
「ミラノではじめて会った時、彼は果物屋の親父にボラれていたんですよ。パピヨンが横でものすごくいい買い物をしていて、その四倍くらいの値段を取られていたんです。で、果物屋の親父が、あれは
ヤスミンが吹き出した。
「あのヴィルが、そんないわくつきのあだ名を受け入れているなんて意外だわ」
「アウグスブルグでのテデスコは、そんなに近寄りがたい立派な感じだったんですか?」
「そうねぇ。彼の演技ってすごく迫力があるのよ。それで、現実にもそういう人だと思っている団員も結構多かったから」
「どういう役をやっていたんですか」
「何をやらせても上手だったけれど、悪役をやらせて右に出るものはいなかったわねぇ。意地悪なナチスの高官とか。あまりに真に迫っていたからヒロインが怯えて日常でも口を利かなくなっちゃったのよ。悪役が三回くらい続いたのでヴィルはいい加減にしてほしいと団長に談判して、その後に、すごくコミカルな役につけてもらったの。それで、新しい子たちはようやくあれが演技だとわかったってわけ」
「ヤスミンはどんな役をやるんですか?」
ヤスミンは吹き出した。
「私は役者じゃないのよ。私はメイクアップ・アーティストなの。裏方。それと広報担当という名の寄付金集め」
レネは驚いた。
「そんなにきれいなのに、舞台に立たないんですか?」
ヤスミンはにっこりと笑った。
「レネって、本当に女の子を幸せにする言葉を、まったく嫌みなく自然に言えるのね。それってすごい才能よ、自覚している?」
レネは首を傾げた。
「僕は、今まで好きな女性に褒めてもらったことないんです。だから、ヤスミンとデートできたり、褒めてもらえたりすると、世界がどうにかなっちゃったのかと不安になります」
「まあ。レネって、どうしようもない女ばかり好きになってきたんじゃないの? レネは素敵よ。知性的だし、優しいし。私、レネに会えてラッキーだと思うし、シングルでいてよかったと思うわ。ヴィルがこのタイミングでカイザー髭につかまったことを感謝したいぐらいよ」
ヤスミンはサラダボウルを横に退けて、テーブルの上のレネの手を握った。真っ赤になりながら、普通のデートと何もかも役割が反対だとレネは思った。
「それで、作戦のことだけど、決定したの?」
ヤスミンが甘い調子をぱっと取り去って訊いた。レネも真剣な顔に戻っていった。
「はい。予定通り、僕が行きます。一度顔を見られているから、カイザー髭にバレないように変装するんだけれど、それをヤスミンに手伝ってもらえってヤスがいっていました」
「まかせて。カイザー髭どころか、ヴィルにもわからないほど完璧に変身させてあげるから」
ヤスミンはそういうといたずらっぽい笑顔になってさらに付け加えた。
「ところで、特殊メイクの予行演習しない? 私のフラットに行って」