scriviamo! 2015のお報せ
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「scriviamo!」というのはイタリア語で「一緒に書きましょう」という意味です。
私、八少女 夕もしくはこのブログに親近感を持ってくださるみなさま、ずっと飽きずにここを訪れてくださったたくさんの皆様と、作品または記事を通して交流しようという企画です。あ、創作関係ではないブログの方、コメントがはじめての普段は読み専門の方の参加も大歓迎です。2013年も、2014年も、この「scriviamo!」がきっかけで親しくなってくださった方が何人もいらっしゃいます。特別にこの企画のために新しく何かを用意しなくても構いません、とにかくご参加くださいませ。
では、参加要項でございます。
ご自身のブログ又はサイトに下記のいずれかを記事にしてください。(もしくは既存の記事または作品のURLをご用意ください)
- - 短編まはた掌編小説(当ブログの既発表作品のキャラとのコラボも歓迎)
- - 定型詩(英語・ドイツ語・または日本語 / 短歌・俳句をふくむ)
- - 自由詩(英語・ドイツ語または日本語)
- - イラスト
- - 写真
- - エッセイ
- - Youtubeによる音楽と記事
- - 普通のテキストによる記事
このブログや、私八少女 夕、またはその作品に関係のある内容である必要はありません。テーマにばらつきがある方が好都合なので、それぞれのお得意なフィールドでどうぞ。そちらのブログ又はサイトの記事の方には、この企画への参加だと特に書く必要はありません。普段の記事と同じで結構です。書きたい方は書いてくださってもいいです。ここで使っているタグをお使いになっても構いません。
記事がアップされましたら、この記事へのコメント欄にURLと一緒に参加を表明してください。鍵コメでも構いません。「鍵コメ+詩」の組み合わせに限り、コメント欄に直接作品を書いていただいても結構です。その場合は作品だけ、こちらのブログで公開することになりますのでご了承ください。(私に著作権は発生しません。そのことは明記します)
参加者の方の作品または記事に対して、私が「返歌」「返掌編」「返イラスト(絵は描けないので、フォトレタッチの画像です。念のため)」「返事」などを書き、当ブログで順次発表させていただきます。Youtubeの記事につきましては、イメージされる短編小説という形で返させていただきます。(参考:「十二ヶ月の歌シリーズ」)鍵コメで参加なさった方のお名前は出しませんが、作品は引用させていただくことがあります。
過去に発表済みの記事又は作品でも大丈夫です。(過去の「scriviamo!」参加作品は除きます)
期間:作品のアップ(コメント欄への報告)は本日以降2015年2月28日までにお願いします。こちらで記事にする最終日は3月10日頃を予定しています。
皆様のご参加を心よりお待ちしています。
【注意事項】
小説には可能なかぎり掌編小説でお返ししますので、お寄せいただいてから一週間ほどお時間をいただきます。
小説以外のものをお寄せいただく場合で、返事の形態にご希望がある場合は、ご連絡いただければ幸いです。(小説を書いてほしい、エッセイで返してくれ、定型詩がいい、写真と文章がいい、イメージ画像がいいなど)。
ホメロスのような長大な詩、もしくは長編小説などを書いていただいた場合でも、こちらからは詩ではソネット(十四行定型詩)、小説の場合は5000字以内で返させていただきますのでご了承ください。
当ブログには未成年の方も多くいらっしゃっています。こちらから返します作品に関しましては、過度の性的描写や暴力は控えさせていただきます。
同時にStella参加作品にしていただいても構いません。その場合は、Stellaの規定と締切をお守りいただくようにお願いいたします。もちろん、私の参加していない他の企画に提出するのもOKです。(もちろん、過去に何かの企画に提出した既存作品でも問題ありません)
なお、可能なかぎり、ご連絡をいただいた順に返させていただいていますが、準備の都合で若干の前後することがありますので、ご了承くださいませ。
嫌がらせまたは広告収入目当の書き込みはご遠慮ください。
この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。
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【小説】再会
今年最初の小説、そして「scriviamo! 2015」の第一弾です。山西 左紀さんは、ご自身のブログの15000HITの記念掌編で私の無茶なリクエスト「ミクとパスティス・デ・ナタ(エッグタルト)で書いて」に素敵な作品で答えてくださいました。
山西 左紀さんの書いてくださった『絵夢の素敵な日常(初めての音)Porto Expresso2』
山西 左紀さん関連する小説
絵夢の素敵な日常(10)Promenade
絵夢の素敵な日常(12)Porto Expresso
宝石のようにキラキラと輝く描写が素晴らしい作品を書かれる左紀さんは、ブログでのおつきあいが最も長いお友だちの一人で、もう何度もコラボをさせていただいています。この『Porto Expresso』も、いろいろと縁のある作品です。神戸の宝塚と私の狂っているポルトガルのポルトを舞台に、某有名ボカロイド二人と同じ名前を持つキャラたちが登場して、たまに私のキャラたちとも遊んでくださっているのです。今回は、うちの子であるジョゼを登場させて書いてくださいました。
で、お返しの掌編小説は、やっぱりポルト。左紀さんのところのお二人のキャラにはお名前だけ登場していただいています。すみません、サキさん、また更に勝手に設定作りました。そんなにサキさんの想像から離れていないといいのですが。
で、メインキャラはジョゼと、それから同じくポルトを舞台にしている「Infante 323 黄金の枷」からあの人です。途中で、謎めいた設定が出てきますが、これは「Infante 323 黄金の枷」本編のずっと先にでてくる話です。本編は現在五月の終わりで、この話は九月頃。ジョゼたちは22歳です。あ、参考までに本編のリンクもつけていますが、読まないとわからないような話ではありません。
【参考】
追跡 — 『絵夢の素敵な日常』二次創作
![]() | Infante 323 黄金の枷 |
「scriviamo! 2015」について
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再会
——Special thanks to Yamanishi Saki san
最高の秋晴れだ。幸先がいい。あれ、また同じ事を言ってるよ。でも、今日も空が高くて大理石でできた建物の白さが眩しい。久しぶりの休みだし、また観光客に混じってポートワインの試飲にでも行くかな。それともメイコの所に顔を出そうかな。
アヴィス通りからアリアドスに抜ける道を歩いた。ああ、ここにアイスクリーム屋があったんだよな。マイアが勤めていた。
あれは今から4年くらい前の事だ。今と同じ道を歩いていて、ガラス窓越しにアイスクリーム屋を覗いたジョゼは対面越しにアイスクリームを売っている女性の顔に驚いて中に入っていった。
「マイアじゃないか!」
「あ。ジョゼ!」
それは幼なじみのマイア・フェレイラだった。父親の出稼ぎ先スイスで生まれたジョゼが家族でこの街に戻って最初に出来た友達の一人だった。小学校で同じクラスだったのだ。ジョゼ自身がまだこの国のやり方と人びとに慣れていなかったけれど、大人しくて人付き合いの下手なマイアの不器用さをほっておけなくて、ジョゼはマイアを友達の輪の中に引きずるようにして連れて行き、それで自分もまた同じ世代の子供たちに慣れたのだ。
彼女はある日突然引越して、彼の前から姿を消した。それからほとんど存在すら忘れていたマイアが元氣に働いているのを見てジョゼは嬉しくなった。
「あんまり変わっていないな。今どこにいるんだ?」
「あ、またレプーブリカ通りに戻ってきたの。父と妹たちと、前いた建物の斜め前のアパートメントにいるよ」
「そうか。再来週の、サン・ジョアンの前夜祭、仲間で集まるけれど、一緒に行くか?」
「私も行ってもいいの?」
「もちろん。エジーニョやカミラも来るよ。あ、あの二人つき合っているんだ」
「え。あの二人が?」
「うん。もう二年になるかな。知ったときは僕もびっくりした。お前も彼がいたら連れて来てもいいんだぞ」
マイアは目を伏せて首を振った。
「つき合っている人なんていないよ」
ジョゼは、なんだか少しホッとした。そういう相手がいないのは自分だけじゃないのかと思って。
今年のはじめにそのアイスクリーム屋は潰れてしまった。彼女、失業してどうなったんだろう。それからずっと見ていない。今夏のサン・ジョアンの前夜祭も、ジョゼ自身が仕事で行けなかったのでマイアが皆と楽しんだか確認していなかった。
あいつ、自分から打ち解けようとしないから、他のやつらにすぐに忘れられちゃうんだよな。だから「マイアは呼んだ?」と確認して、彼女の自宅に連絡するのは、この4年間いつもジョゼの役割だった。
彼女の事を考えるのは、彼がマイアに異性としての関心があるからではない、それどころか2ヶ月前までは忙しさにかまけて、彼女の事を完膚なきまでに忘れていたのだ。彼女が奇妙で秘密めいた連絡をしてくるまでは。
それは7月のことだった。彼の勤務先にある女性が何回か続けて来た。ものすごい美人だったので、すぐにウェイターたちの間で話題になった。最初は奥の席に座った。そこはマリオの担当だったので、ジョゼは側にも行かなかった。それから数日して、またやってきた彼女は反対側の中程に座った。コーヒーを頼んで、しばらく雑誌を読んでから帰っていく。また数日したら、今度はジョゼの担当の席だった。
彼女は、帰り際にチップを手渡したが、それは小さな封筒に入っていた。そして、その封筒の中にチップの他にマイアの特徴のある筆跡の手紙が入っていたのだ。ジョゼの名札を見てわざわざ確認してから渡したらしい。もとからジョゼにマイアの手紙を届けるためだけに、来ていたのだろう。その推理を裏付けるかのように、その女性はそれからぴたりと来なくなった。
ジョゼはマイアの指示書に従って、封筒に同封されていたもう一枚のメモを目立たない封筒に入れてマリア・モタという女性あてに発送した。それだけだった。だが、その後もマイアから連絡もなければ、説明の手紙も来なかった。
それから、ここを通る度に、いつかあいつを捕まえて問いたださなくちゃと思っている。でも、どこにいるのか誰も知らないのだ。
カフェ・グアラニの角を曲がった途端、そのテラスに正にマイアが一人で座っているのを見て仰天した。
「ええっ、まさか!」
「ジョゼ!」
彼は、マイアの前に置かれたレア・チーズケーキとポートワインを見て目を丸くした。こんな高いカフェで、何を頼んでいるんだ?
「今日は、何かのお祝い?」

マイアは黙って首を振った。
「ううん。ただ、休暇を楽しんでいるだけ。ジョゼも、今日はお休みなの? 時間ある?」
「ああ、休みだし、特に予定もないよ。で、久しぶりだから、ガイアでポートワインでも飲もうかと……」
マイアはジョゼが時おり観光客のフリをして試飲をしている事を知っていたので笑った。ジョゼはどのカーブでも有名になっていて、もうそんなに簡単には飲ませてもらえないはずだ。
「ねえ、私がここでポートワインをごちそうするから、しばらくつき合ってよ」
マイアが言うとジョゼは目を丸くした。明日は雪か? 素早く座って言った。
「喜んで。氣が変わらないうちに、注文させてもらうよ」
このカフェは、ジョゼの勤務先と同じオーナーが経営している。どちらもこの街で一二を争う有名店だ。ジョゼは普段はウェイターとして働くのみで、ここに座って注文をした事はない。ちょっと何かを食べたら、日給が吹っ飛んでしまう。
「マイア、どうしたんだよ。宝くじでも当たったのか」
「違うの。いつもこんな贅沢をしているわけじゃないの。でも、散財したい氣分なんだ。今日は一日暇で何もやる事ないし」
「アイスクリーム屋がつぶれてから、お前、音信不通になっちゃったじゃないか。休暇ってことは新しい仕事見つけたのか? 今何しているんだ?」
「あるお屋敷に住み込みで働いているの」
「え?」
ウェイターがやってきてジョゼの顔を見て驚いた。
「ジョゼじゃないか、何しているんだ?」
「ははは、この子がおごってくれるっていうから。この、ポートワイン三種類飲み較べってヤツ、頼むわ」
ウェイターは納得して向こうへ行った。それを待ってからジョゼは、マイアの顔をじっと覗き込んだ。
「そういえば、お前さ、7月に……」
そういいかけた時、マイアが遮るように「これ、とても美味しいわ」と言った。ジョゼは、驚いて彼女を見た。マイアは目だけで「その話をするな」と訴えていた。
「ずいぶん前の事だけれど、ジョゼにしてもらった事、本当に助かったの。だから、今日は、何でも好きなものを頼んでね」
ここで話すのはまずいのだなと納得した。いったい何を警戒しているのだろう。
マイアは、ウェイターの運んできた三つのグラスのうち、タウニーに手を伸ばしたジョゼに自分のグラスを重ねた。ま、いいか。ジョゼは肩をすくめて乾杯をした。そしてタウニーをごくっと飲み込んだ。うわっ、なんだこりゃ、すごく美味い。生きていてよかった。

マイアは小さく笑ってグラスを傾けた。その様子を見て彼は首を傾げた。前の彼女はもっと自信がなさそうで、自分から行動を起こしたりする事がほとんどなかった。
ピカピカに磨かれた華奢なグラス。ルビー色のポートワインはマイアの小さい唇にゆっくりと流れていく。彼女が置いたグラスには、透明なアーチが教会の窓のように流れている。グラスの足に添えられた彼女の指先は柔らかい曲線を描き、かつて彼が知っていた幼なじみの粗雑なそれとは違って見えた。
「お前、なんか、変わったな」
「えっ?」
「前は、もっとおどおどしていたし、こんなところで優雅にグラスを傾けたりしなかったじゃないか」
ジョゼが言うと、マイアは少し考えた。
「そうかもね。少なくとも、ポートワインの美味しさ、前は知らなかったかも」
「お前も試飲に行くようになったのか?」
そういうとマイアは笑って首を振った。
それからため息をついた。それから、グラスの中の紅い酒の中に溶かし込むかのごとく小さく囁いた。
「ある人が、教えてくれたんだ……」
ジョゼは身を乗り出した。
「なんだよ、その深いため息は」
マイアは困ったように笑った。
「なんでもないよ。詳しくは話しちゃいけないの、ごめん」
瞳がわずかに潤んでいた。彼女は目の前にいるジョゼを見ていなかった。その場にある別のものを見ているわけでもなかった。そのマイアの憂いに満ちた表情で、大方の事は想像できた。こりゃ、恋にでも落っこちたらしい。しかも、見込みがなさそうなヤツ。
「大丈夫か? 失恋?」
「うん。これまでも一人だったし、きっとこれからもなんとかなると思う。心配しないで」
そう言ってから、彼の方を見た。
「ジョゼも失恋した事ある?」
彼は想像もしていなかったその切り返しに赤くなった。
「えっ。いや、その、失恋というか……まだ、告白していないというか……」
「へえ。ジョゼが、そんな奥手だったなんて意外。最近の事なの?」
「い、いや、知り合ったのはずーっと前で、それに、意識しだしたのはもう、6年も前で」
「ええっ。6年もそのままなの?」
「まあ、そうだな。その人、ここに住んでいないんだよ。たまに来るんだ。逢うといつも元氣な弟みたいに接しちゃって、つい……」
マイアが楽しそうに笑った。
「どんな人?」
ジョゼの顔は赤くなってきた。大した量には見えないのに、三杯のポートワインは確実に効いている。
「長い髪をさ、いつもツインテールにしている。胸はぺっちゃんこ、声が高くて、痩せて手足も長い。へんなポルトガル語を話す日本人で六つも年上。こっちはいつも怒られてばっかり」
「ふ~ん。ジョゼにそんな人がいるなんて知らなかったな。次はいつ逢えるの?」
「たぶん来週。ミクのばあちゃんが、昨日連絡をくれたんだ。しばらくこっちにいられるらしいって。今度こそ、少しは進展させたいと思っているんだけどさ」
「そうか。上手くいくといいね」
「おう。お前もあんまり落ち込むなよ。何なら、他の男でも紹介してやろうか」
ジョゼがそういうと、マイアは首を振った。
「ありがとう。でも、遠慮しておく。私、自分でも思っていなかったけど、かなりしつこいみたい。このままでいいんだ」
ジョゼは「ふ~ん」と言った。そうだよな、振られたからって、はいそうですかと、次に行く氣にはならないよな、僕だって。オリーブをぱくついた。
「わかった。じゃあ、今日はつきあってやるから、このあと一緒にガイアへ行こうぜ」
ジョゼが言うと、マイアは目をみはった。
「ええ? そんなに飲んで、まだ試飲に行くつもりなの?」
「違うよ。メイコの所へ連れて行ってやる。ほら、その日本人のばあちゃん。行くとやたらとうまいご飯を出してくれるんだ。それにアロース・ドース(注)は絶品だよ」
「でも、知らない私がいきなり押し掛けたら迷惑だよ」
「たぶん、へっちゃらさ。ミクがいなくて寂しいみたいだから、押し掛けると喜ぶんだ」
「そう。じゃあ、連れて行ってもらおうかな。美味しいアロース・ドースの作り方、教えてもらいたいな」
ジョゼは笑って頷いた。
「メイコは酸いも甘いも極めた人生の達人だからな。元氣になる魔法もきっと教えてくれるさ」
(初出:2015年1月 書き下ろし)
(注)アロース・ドースはポルトガル風ミルクライス。デザートの一種です。
【小説・定型詩】蒼い騎士のラメント
「scriviamo! 2015」の第二弾です。Sha-Laさんは、以前に書かれた詩に物語を付けた作品で参加してくださいました。
Sha-Laさんの詩と小説『単発! 吟遊詩人アルス (1話完結)』
Sha-Laさんはファンタジーを中心に現代物、架空世界物などを書かれるブロガーさんです。
今回参加してくださった作品は、もともとどなたかにリクエストなさったイラストと組み合わせてあって、吟遊詩人と王妃さまに関する小さなお話でした。
お返しのご希望が「定型詩+それに合わせた物語」ということでしたので、どうしようかなとしばらく考えました。で、結局、吟遊詩人という存在だけそのまま使わせていただき、いま連載中の「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」の舞台の中に組み込む事にしました。というわけで、舞台は中世ヨーロッパ風異世界です。出てくるキャラは読んでくださっている方にはおなじみの傍観主人公で、今回も例に漏れずオブザーバー。Sha-Laさんご自身はこの作品はお読みになっていらっしゃらないと思いますが、特に読む必要もないと思います。
![]() | 「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む あらすじと登場人物 |
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蒼い騎士のラメント
——Special thanks to Sha-La san
ああ、降り出した。マックスは白い息を吐きながら空を見上げた。重く暗い灰色の空から、白い雪の欠片がひらりはらりと降りてくる。幸い森には切れ目が見えて、間もなく聞いていた街へと辿りつくようだ。早く暖炉の火で暖まりたい。
急に羽ばたきがして、彼のすぐ側の大きな樅から鳥が飛び立った。鷹がこんな所に? マックスはその樅の奥に目を凝らした。すると、そこに大きな灰色の塔があるのがわかった。道を見失わないようにそっと歩み寄ると、その塔には苔やツタが絡み、上部は崩れ落ちて天井がなくなっており、長い間忘れ去られていたものだということがわかった。
また、その位置からは森の出口までにあまりに距離があって、高い針葉樹に阻まれてとても物見の塔の役割は果たせなかったであろうと思われた。では、何のために。彼は不審に思ってその塔の周りを一周したが、何も見つけられなかった。興味を失って街へと向かう道へと戻ろうとした時に、先ほどの鷹が再び塔に戻り、上部の四角い窓から塔の中へと入って行った。鷹にとってはちょうどいい住まいなのかもしれぬ。彼は納得してその場を去った。
雪で白くなりかけている下草を踏み分けながら、森の出口にさしかかった。既に白く埋まった野原の向こうに見えてきた街は、そこそこの大きさで旅籠も少なくとも数軒はありそうだった。行商たちの声、鍛冶屋の鉄を叩く音、雪がひどくなる前に家路を急ぐ人びと、マックスはスープの香りを頼りに旅籠を探した。
《銅の秤》という旅籠を覗くと、中は料理と酒を待つ人びとで一杯だった。それでマックスはおいしい料理を期待して中に入って行った。
「今夜、泊めてもらえないか」
そう訊くと頑固そうな親爺が早口で宿賃を口にした。
「朝食は込みだが、夕食は別だ。ここ以外で夕食を食べる客は滅多にいないが」
マックスは「夕食も頼む」と言って、少ない荷物を椅子の上に置いた。
その席の前には彼よりもほんの少しだけ年上に見える銀髪の男が座っていて、マックスの座る場所を作るために彼の荷物をどけた。すると竪琴が目につき、彼が吟遊詩人である事がわかった。それに氣がついたのはマックスだけではなかったらしく、少し酔いの入った髭の男が大声を出した。
「吟遊詩人がいるぞ! 景氣のいい歌を歌ってもらおう」
竪琴を布で覆って、詩人は答えた。
「申し訳ないが、私は悲しい唄しか歌えないんだ」
酔った男たちは「そんな吟遊詩人があるか」と一様に不満の声を上げたが、詩人が頑に歌うのを拒んだので、やがて白けて酒と猥雑な冗談へと戻っていった。
詩人は傷ついた瞳を落とし、冷たくなったスープにとりかかった。
マックスは、この詩人に興味をおぼえた。
「どうして楽しい唄は歌わないんだ? 何か事情があるのかい?」
そう訊くと詩人は、目を上げた。それからとても短くひと言で答えた。
「罰」
「罰? 誰からの? どんな罪に対しての?」
詩人は答えずにスープを食べ終えた。旅籠の主人がマックスの温かいスープと一緒に詩人に煮込み肉を持ってきた。それでマックスはスープに取りかかり、口をきこうとしない詩人の事を忘れる事にした。詩人は時おり考え込むようにしてひどく時間をかけて食べていたので、果物の甘煮は二人同時に出る事になった。
低い声で詩人は言った。
「旅人よ、悲しい唄は聴きたくないかい」
「いや、君が嫌でないならば、僕はぜひ聴いてみたい」
他の男たちは安い酒を飲みすぎて、疲れて眠りはじめている。うるさかった食堂は竪琴の音が聴こえるほどには静かになっていた。詩人は酒を飲み干すと、竪琴を取り出して弾き語り始めた。
かの
女は深夜に 白金 の髪を梳き
空眺めため息をつく籠の鳥
その塔は乙女を護る灰の檻
蒼ざめた肌を照らす暗き月
騎士の琴 甘き調べに心浮き
白き絹裂けて躯 踊りし深き森
哭き鳥が夜を切り裂き叫ぶ時
亡骸をつれなく覆う夜の雪
義なき騎士 罪は永劫赦されまい
こと切れし女主人を運ぶ黒い馬
都へと報せを運ぶは白き鷹
その女の 紅唇 は二度と開かない
消ゆるは蒼く冷たき水の砂氷華 哀しく咲くは冬の墓
続けて詩人はいくつもの哀切のラメントを歌いだした。どの唄にも蒼い甲冑を身に着けた騎士が、国王の隠し子である姫に甘い言葉を囁き、そのせいで彼女が塔から身を躍らせて亡くなってしまった悲劇を歌っていた。塔から降りるために使おうとした白い絹が裂ける絶望的な音、誠実ではない騎士に対する姫の嘆き。雪の上に沁みていった姫の赤い血潮。
「それはもしかして、あの森にある塔で起った事なのか?」
マックスは好奇心に耐えかねて、詩人の唄を遮った。
竪琴の弦が切れて、びいいいいいんと谺した。人びとは語るのをやめて押し黙り、重い静寂が部屋を覆った。だが、それも一瞬の事で、やがて他の客たちはマックスと詩人を忘れて酒と雑談に戻っていった。
マックスは、動かなくなった詩人を見つめて押し黙っていた。彼らの周りだけには、あの森の冷たく凍える灰色の塔と、雪の重さにしなった針葉樹が存在したままだった。
詩人の閉じられた目から、赫い涙が流れた。詩人を覆っていた白いケープが解け、その下からかなり昔のものと思われる蒼鈍色の騎士の甲冑が見えた。
「罰というのは……」
マックスの問いかけに答えず、蒼い騎士でもある詩人は竪琴を使わずに悲しい唄を繰り返した。歌われた白い雪が、森の灰色の塔に降り積もる。音もせず訪れる者もいない忘れ去られた墓標を静かに覆い尽くしていく。
女が待ち続けた永劫を、罰を受けた騎士が歩み続ける。この地に縛られ、誰も耳を傾けぬ悲しい唄を彼は一人歌い続ける。
その街を離れる時に、マックスは後方の塔を抱く森を見た。それは白い雪に覆われて、忌まわしい因縁すらも、幻の彼方へと消してしまっていた。
(初出:2015年1月 書き下ろし)
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【小説】歌うようにスピンしよう
「scriviamo! 2015」の第三弾です。ウゾさんは、昨年のscriviamo! で書いてくださった『其のシチューは 殊更に甘かった 』の「隅の老人」を再登場させて、味わい深い作品を書いてくださいました。
ウゾさんの書いてくださった『其のシチューを 再び味わおうか』
ウゾさんの関連する小説: 『其のシチューは 殊更に甘かった 』
ウゾさんは、みなさまご存知「いくら考えても高校生には思えん」という深いものを書かれるブロガーさんで、やはりおつきあいが一番長い方たちのお一人です。短い作品の中に選び抜かれた言葉を散りばめた独特の作風には、たくさんのファンがいらっしゃいますよね。
この「scriviamo! 2015」は一応当ブログの三周年企画なんですが、ウゾさんのブログは一足早く三周年を迎えられました。おめでとうございます! いつまでも素敵な作品と記事で私たちを楽しませてくださいね!
さて、書いていただいた作品、この「隅の老人」が現われるのは、ニューヨークの谷口美穂も出現する世界。そう、まだ続いています。去年からの「マンハッタンの日本人」シリーズ。といっても、このご老人の出没エリアは、美穂の普段勤務している《Star's Diner》よりも北、セントラル・パークの近く。だから、今年も舞台は姉妹店《Cherry & Cherry》。去年、美穂がご老人と桜に関する問答をした店ですね。今回は、ウゾさんの作品にあったモチーフを使わせていただくために、メインキャラが別の人物になっています。
なお、ウゾさんより前に、ポール・ブリッツさんからも「マンハッタンの日本人」関連で参加作品をいただいていますが、敢えて発表順を逆にさせていただきました。あっちは、ちょっと大きく動く予定なんで。いや、ほら、昨年みたいに同日中にお返しの作品書かれちゃったりすると、こっちと設定がずれた時に修正する時間がなくて困るじゃないですか……。というウルトラ自己都合です、すみません。
【参考】
読まなくても話は通じるはずですが、だんだん話が大きくなってきたので新カテゴリにしてまとめ読み出来るようにしました。
「マンハッタンの日本人」あらすじと登場人物
「マンハッタンの日本人」シリーズ
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
「マンハッタンの日本人」シリーズ 6
歌うようにスピンしよう
——Special thanks to Uzo san
お祖母ちゃんは、いつも朗らかに歌っていた。
「So, darling darling
Stand by me
Oh stand by me」
ベン・E・キングの「スタンド・バイ・ミー」。あたしのお祖父ちゃんにあたる彼がその言葉を無視していなくなっちゃったことなんか、何でもないみたいに飄々と。その歌の意味を全然考えないで、あたしは育った。
お祖母ちゃんのつき合っていた人の頭の中は、夢でいっぱいで、お祖母ちゃんのお腹が少しずつ膨らんでいる事にも氣がつかなかった。でも「夢を諦める」と言った彼に、わかってほしくて、一緒にいるって答えてほしくて、冗談みたいに歌で訴えてみたんだって。
「本当にジョークだと思われたのか、するっと躱されちゃったよ」
何でもないように笑ったのは、お祖母ちゃんの偉大なところ。あたしは彼女の事を誇りに思っている。
だから、無意識のうちに機嫌良く働く時には、この歌が口を衝いて出る。セントラル・パークにほど近いダイナー《Cherry & Cherry》で働くようになってから、もう二年だ。ここでは既に一番の古株。でも、時給は一番下っ端と同じ。それを言ったらオーナーは鼻で笑った。
「お前も給料を上げてもらいたいのか、キャシー。だったら《Star’s Diner》のポールやミホみたいに、まず売り上げをめざましく上げる努力をしてみろ」
そんなの無理。だってあたしにとって、この仕事は生活費を稼ぐためだけ、どうしても避けられない最低の時間しか割きたくないもの。あたしの全ての情熱と夢は、ウォールマン・リンクにあるんだもの。
あたしみたいな掃き溜めに生まれた者には、イェール大学に進むような育ちが良くて出来のいい子と違って、たくさんの選択肢があるわけではない。母さんはお腹の中にいたあたしに「リチャードの遺伝子を受け継いできますように」って話しかけたらしい。
お祖父ちゃんが、母さんの存在を知らなかったように、あたしの遺伝子上の父親も、それから同時に母さんがつき合っていた他の二人も、あたしの存在を知らない。そりゃ、この狭い界隈で、噂は聞くだろうから、三人ともヒヤヒヤしただろう事は確かだ。
生まれてきたあたしが、母さんやリチャードのように真っ白い肌だったら、母さんはリチャードに結婚を迫った事だろう。でも、リチャードとチャンにはラッキーだったことに、あたしは褐色の肌と縮れた髪をして生まれてきた。母さんはあたしの父親が、お金もなければ甲斐性もない上、DVとアル中の氣配がぷんぷんするベンだったらしいとわかって、お祖母ちゃんと同じ道を行く事を決めた。すなわち、ベンには何も言わないで、シングル・マザーになる事。
あたしには、華やかなことなんて何もなかった。すぐ近くにあるメトロポリタン美術館や、五番街にある金ぴかのトランプタワー、ブルーミングデールズ百貨店みたいな世界には足を踏み入れた事がない。でも、セントラル・パークは別。お金持ちも、それから子供っぽく写真ばっかり撮っている日本人も、それに月に何度か「残飯整理」スペシャルだけを食べにくるあたしの目の前の常連お爺さんも、まったく気兼ねせずに行くことができる。
そして、あたしを何よりも魅了したのが冬の間、老いも若いも楽しくアイススケートを楽しめるウォールマン・リンクだった。普段は背を丸めてとぼとぼとニューヨークの寒空を恨めしそうに見上げる人たちも、あそこでは軽やかに舞う。笑顔と自由が花ひらく。子供の頃あそこに行っては人びとを眺めながら思っていた。いつかあたしも滑るんだって。そして、世界的コーチに見出されて有名スケート選手になるんだって。
スケートリンクの入場料が惜しくて、子供の頃のあたしはリンクではないただの池が凍るとそこで一人で練習した。時には割れて危険な目にも遭った。
あたしが自分の稼ぎから入場料を捻出できるようになったのは中学を出たあとだったから、その頃には有名スケート選手になる道は閉ざされていた。今でも、誰もあたしをスカウトしてくれない。それでもあたしは一人で滑る。
ダブル・トゥーループ、ダブル・サルコウ、キャメル・スピン、レイバック・スピン。あたしに出来るのは、ここまで。それでもあたしは滑り続ける。この店でシケた客相手にウェイトレスをしているのは、本当のあたしじゃない。あの氷の上でこそ、あたしは自由にのびのびと体を動かせる。
でも、この勤務時間だって楽しくやらなきゃ。生粋のニューヨーカーだもの。あたしは機嫌良く歌いながら仕事をする。
「So, darling darling
Stand by me
Oh stand by me」
あら、お爺さんのシチュー、全然減っていないじゃない。まずいのかしら。さっき間違ってフレンチフライの残りが落下しちゃったからかな。
「お客さん、お替わりはいらない? 熱々のを足したら少しは温かくなるかもよ」
「おお、そうだな。よかったら少し入れてくれるかな」
「考え事していた?」
「そう。思いだしていたのだよ。その歌の歌詞をつぶやいていた人の事を」
「へえ。あたしのお祖母ちゃんの世代には、この歌の好きな人が多いのかもね」
「大ヒットしたからね」
ドアが開いて、待っていた人が入ってきた。4時55分。計ったみたいにピツタリ。
「ハロー、ミホ!」
ミホは毎週水曜日の夕方に《Star's Diner》からヘルプとして派遣されてくる。彼女は笑いながら手を振った。聞いたところによると、彼女は朝の六時から四時まで《Star's Diner》で働いて、その後ここで夜番のジェフが来るまで三時間働いているらしい。時給を上げてくれる時にあのケチオーナーがそんなひどい条件を付けたんだそう。でも、嫌な顔一つせずに毎週こうやって五分前にやってくる。信じられない。日本人って、どうかしている。
あたしは、さっさとエプロンを取り外すとお爺さんにウィンクした。
「じゃあね。支払いは、あの子にしてね」
お爺さんは片眉をちょっと上げると言った。
「スタンド・バイ・ミー(いかないでくれ)。もうちょっとで食べ終わるから」
あたしは天を仰いだ。支払いを待っていても、お爺さん、あなたにはチップをくれるようなお金、ないじゃない。あたしは早くウォールマン・リンクに行きたいんだけれど。
でも、そう言われてしまうと、無視して出て行けないのがあたし。しかたないから「スタンド・バイ・ミー」を歌いながら、お爺さんが食べ終わり、のろのろとヨレヨレの上着のポケットから小銭をかき集めるのを待った。あら、5セント足りないみたい。
「いいわよ、それで」
あたしは自分のポケットから5セントを出して帳尻を合わせる。だから、いつまで経っても金持ちになれないのかなあ、あたし。ミホがそのあたしに優しく笑いかけた。彼女は先月にあたしが無銭飲食野郎にあたって全額一人で負担しなくちゃいけなかった時に、黙って半額出してくれた。だから、あたしは彼女の時給が上がったと知ってもそんなに腹が立たなかった。
あたしが出て行こうとすると、ミホとお爺さんが同時に「またね」「またな」と言った。あたしは笑って親指を上げた。
あたしはこのお爺さんみたいに、いつまでも夢を見ているような、しょうもない人たちが好き。この店にくる人生の負け組たちを見るのが好き。馬鹿げた夢を見続けるあたしと同じだから。
何度失業してもしつこく仕事を探してたポールや、まずい料理しか作れないシェフのジョニーや、エリートを捕まえるんだとか言っていたくせにボクサーなんかと恋に落ちたダイアナや、わざわざ日本からやってきて下町のダイナーのケチオーナーにこき使われているミホも好き。みんな愛すべきマンハッタンの落ち零れだ。
あたしはスケートを滑るように軽やかに働く。そして、ウォールマン・リンクで歌うように朗らかにスピンする。冬のマンハッタンはあたしのパラダイス。
(初出:2015年1月 書き下ろし)
"WollmanRink" by NYC JD - Own work. Licensed under CC BY-SA 3.0 via Wikimedia Commons.
【小説】新しい年、何かが始まる
「scriviamo! 2015」の第四弾です。ポール・ブリッツさんは、昨年のscriviamo! で書いてくださった『歩く男』の「わたし」を再登場させて、作品を書いてくださいました。
ポール・ブリッツさんの書いてくださった『夢を買う男』
ポール・ブリッツさんの関連する小説:
『歩く男』
『食べる男』
オリジナル掌編小説と俳句、それに鋭い書評や愛に溢れた映画評論などを書かれていらっしゃる創作系ブロガーさんです。ちょっとシニカルで、あっというような目の付け所の小説を書いていらっしゃる上、よく恐ろしい(笑)挑戦状を叩き付けてくるブログのお友だちです。
で、この「マンハッタンの日本人」シリーズを最初に取り上げてくださったのがポールさんでした。私自身としては一回書いてそのまま忘れていたのですが、その後、皆さんが次々と取り上げてくださるおかげで、うちの山のようにいるキャラたちの中でも、落ちこぼれヒロイン美穂は突如として有名人になりました。
もともとはただの通行人だった名無しキャラが、どうやらヒーローに昇格しかけているのは、ええ、ポールさんの設定に合わせてのことです。あ、勘違いでしたら、いつものごとく、ガンガンとフラグ折ってやってください(>>ポールさん)。ポールさんの作品と一人称が一致していないのですが、キャラクター・ポールはアメリカ人ですので正式な一人称は「I」です。氣になる方は全セリフを脳内英訳してくださいませ(笑)あ、ポールさんが嫌がっているのに、もう一人のキャラにも勝手に名前を付けちゃったのは、決して報復ではありませんよ。ありませんったら。
【参考】
読まなくても話は通じるはずですが、だんだん話が大きくなってきたので新カテゴリにしてまとめ読み出来るようにしました。
「マンハッタンの日本人」あらすじと登場人物
「マンハッタンの日本人」シリーズ
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
「マンハッタンの日本人」シリーズ 7
新しい年、何かが始まる
——Special thanks to Paul Blitz-san
仕事中にかかってきたその電話番号には、憶えがあった。でも番号で表示されるという事は電話帳に登録されていない人だ。誰だろう。美穂はつい受けてしまった。声を聴いて失敗したと思った。
「やあ、ミホ。久しぶりだね」
電話帳に登録されていないのは、美穂が想いを断ち切るために自分で消したからだった。かつて彼女を弄んで逃げるように去ったマイクだった。
「こんにちは。何の用?」
「何の用って、冷たいなあ。久しぶりにニューヨークに出てきたから、思いだして連絡したんだけど」
「あなたがまだ私の電話番号を手元に持っていたなんて意外だわ」
「どうして? 君は僕とつき合っているつもりだっただろう? 今日、泊ってもいいかな? ほら、知らない仲ってわけでなし」
「冗談じゃないわ。絶対に来ないで!」
美穂はカッとして電話を切った。すぐにまたかかってきたけれど電源を切ってエプロンに突っ込んだ。
横で配膳をしていたポールが不思議そうな顔をした。美穂は、今の会話聞かれちゃったかな、と思ったが、黙って皿を二つもって、五番テーブルへと運んだ。
不思議だった。二年前はあんなに連絡が欲しいと思っていたのに、マイクの声は今の美穂にはちっとも嬉しくなかった。大体何のつもりよ。私は無料宿泊所じゃないわ。
「なあ、ミホ。今日、本当に大丈夫か?」
ポールが訊いてきた。今日って? 美穂は一瞬考えてから思いだした。ああ、そうだった、今日、ポールとその同居人が家に来るんだった。
一週間くらい前に、ポールに訊かれたのだ。
「なあ、お前のアパートメント、ネットに繋がっているか?」
「え? あ、インターネット。繋がっていはいるよ、一応」
「だったらさ、悪いけれど回線ちょっと貸してくれないかな。アップロードしたいモノがあってさ」
ポールに言われて美穂は少し困った。
「あ、あの、それはメールかなにか?」
「いや、動画」
「えっ。それは……」
「なんか困る事でも?」
「うん、今どき、なんだけれど必要な時に繋げる契約でね。普段はメールのやり取りと必要な事だけネットサーフィンするぐらいだから」
「えっ」
ポールはこりゃダメだという顔をした。美穂は慌てて言った。
「あ、でもね。ほら、先月から時給が上がったでしょ。だから、来週から常時接続の一番安いプランに切り替えてもらう事になっているの。あまり速くないけれど、それでよければ来週にでも」
そして約束したのが今夜だった。
「あ、もちろん大丈夫。ルームメイトの方とはどこで待ち合わせなの?」
「ユニオン・スクエアに来ているはずだ。早く行かないと、怒られる。寒いからな」
ポールの同居人は、ボクサーだと聞いていた。実は先々週まではもう一人の同居人がいたらしいのだが、亡くなられたのだそうだ。その日、美穂は休みだったのだが、オーナーからの電話で突然呼び出された。ポールのルームメイトが急逝して、医者だの警察だのが来て出勤できなくなったので、代わりに急遽でてきてほしいと頼まれたのだった。
今日の用事もどうやらその亡くなった方の遺言に関する事らしい。美穂はどこまで訊いていいのかわからなくて、それだけしか知らなかった。
ユニオン・スクエアで待っていたヒスパニック系の男は、案の定あまり上機嫌とは言えなかった。このスクエアは風が強い。今日のように寒い日は格別に居心地が悪いだろう。
「はじめまして。美穂です」
彼女が挨拶すると、愛想もなく「イヴォ。よろしく」と言った。ポールが取り繕うように解説した。
「こいつ、本当はハビエルっていうんだけれど、どういうわけかリングでも普段もイヴォで通っているんだ。プロのボクサー」
イヴォはリュックサックを背負っていて、それは重そうに彼の肩に食い込んでいた。ポールが訊いた。
「例のラップトップとビデオカメラ。持ってきたか」
「あたりまえだろ。そのために行くんだから。それより、腹減ったな、君のうちの近く、ピッツァ屋なんかある?」
突然訊かれたので美穂はどきっとした。
「近くにはないですけれど、もしよかったら作業なさっている間に、私、パスタでも作りましょうか?」
それを聞いて、イヴォの機嫌は即座に治ったようだった。
「そりゃ、悪いね。頼むよ。おい、ポール、ラッキーだったな」
「本当にいいのか?」
目を丸くするポールに美穂は笑って答えた。
「パスタなんて、一人分作っても三人分作っても手間は変わらないもの。どっちにしても私もお腹空いているし」
そんな事を話しているうちに、アパートメントについた。階段を上がって、三階の廊下を歩き、角を曲がった時に、美穂はぎょっとした。部屋の前にマイクが立っていたのだ。
マイクは美穂が二人も男を連れて上がってきたのでさすがに驚いたようだった。が、すぐにその表情を引っ込めると馬鹿にしたように笑った。
「道理で尻尾を振ってこなかったわけだ」
美穂は怒りに震えた。
「修道院に行くことになったって、あなたに尻尾なんか振るもんですか。警察を呼ばれたくなかったらさっさとオハイオに帰りなさいよ」
「ふふん。二人いっぺんに連れ込んでいっぱしにモテているつもりかよ。どうせまたヤリ捨てされるだけだろう」
それを聴いてポールが黙っていなかった。
「これ以上、ミホに対して失礼な事を言ったら、殴るぞ」
「おい、ポール、殴るのは俺に任せろ」
「バカ。素人をプロのお前が殴ったらヤバいだろ」
プロという言葉を聞いてギョッとしたマイクはモゴモゴと何かを言うと、慌てて三人の間をすり抜けて去っていった。
「なんだよ、口程にももないヤツめ」
イヴォが大声で言うのを聞いて、美穂は情けなくなった。私、何であんな男の事を好きだったりしたんだろう。恥ずかしい。
「おおっ。女の子の部屋だ!」
イヴォが妙な喜び方をしている。美穂は、そこそこ片付いているのを確認して少しだけホッとした。二人のコートを受け取って、デスクの所に案内した。
「あ、このLANケーブルで接続して。今、ログインするわね」
二人がすぐに作業に入って、ああだこうだとやりはじめたので、彼女はその場を離れてキッチンに向かった。
すぐに湯を沸かす。沸騰を待つ間に、玉ねぎとニンニク、それに人参をみじん切りにする。オリーブオイルでニンニクとタマネギを炒め、いい匂いがしてきてからひき肉を炒める。人参を加え、白ワインと乾燥キノコを投入して、瓶詰めトマトを入れる。沸騰したらブイヨン、塩こしょう、醤油で味を整えて弱火にする。
沸騰したお湯にパスタを入れようとしている時に、視線を感じて後ろを向くと、男二人がキッチンを覗き込んでいた。
「え。まだ15分くらいかかるよ。もう、アップロードは終わったの?」
二人は同時に首を振った。
「腹が減っている時に、そんないい匂いをさせられたら、たまらないぜ」
イヴォが言った。ポールも黙って同意した。美穂は肩をすくめてパスタを茹ではじめると、狭いテーブルを片付けて、三人分の皿とカトラリーを並べた。客なんかほとんど来ないから、器はバラバラだ。それから急いでレタスとトマトを洗うと小さいサラダを作った。二人は既に勝手にテーブルの前に陣取っていた。
パスタが茹で上がると同時に、三人は食べはじめた。
「珍しいものじゃないけれど、どうぞ」
「美味い!」
イヴォはそれ以上何も言わずにひたすら食べた。ポールも味わうように食べていたが、やがて言った。
「お前、ジョニーと担当変わった方がいいな」
美穂はぎょっとして首を振った。
「冗談でしょう。私は調理師学校に行った事なんかないもの。できないよ」
「でも、これだけでもあいつの作るのよりずっと美味いぜ」
「ありがとう。隠し味に乾燥キノコと醤油が入っているんだ。それで旨味が出るのかも。本当は明日まで待った方が美味しくなるんだけれど」
ポールは頷いた。美穂は氣になっていた事を訊いてみる事にした。
「動画をアップロードすると言っていたけれど、どんなもの?」
「うん? 死んじまった詩人の詩の朗読。今日アップロードしたのは、本人が朗読した部分なんだ。でも、まだ続きがあるんで、それを誰かが朗読するところを撮影して動画を作成しなくちゃいけないんだよな」
「そうだ、ミホに読んでもらえばいいじゃないか」
突然イヴォが顔を上げた。パスタに夢中になっているのかと思ったが話は聴いていたらしい。
「そうだな、お前、読んでくれないか?」
美穂は激しく首を振った。
「え。ダメ。私の英語の発音おかしいし、詩の朗読なんて絶対に無理。どうして自分たちで読まないの?」
「やってみたんだけれど、なんか小学生の学芸会みたいになっちまうんだ」
イヴォが言う。美穂はポールを見て言った。
「だったらダイアナに朗読してもらえば。彼女の英語は綺麗だし、あなたとつき合っているんでしょ?」
そう言った途端イヴォが「なんだって!」と叫んだ。ポールはぎょっとして大きく首を振った。
「おい、ミホ! なんて事を言うんだ。僕がこのボクサーに殺されたらどうする!」
「え?」
「ダイアナとつき合っているのは、こいつだよ! 僕は潔白だ」
美穂はあわてて謝った。
「ごめんなさい。知らなかったの。一緒に歩いている所を見たから、そうだと思っちゃったの」
イヴォは、まだポールを睨んでいる。
「本当だな」
「あたり前だ! お前の女に手を出すような無謀をするか。大体、彼女はお前にベタ惚れだろう」
「ふふん。それもそうだな」
美穂は、ため息をついた。なんか今日は散々だなあ。いろいろあって、ポールにはイヤな人だと思われちゃったかな……。
彼女は少々落ち込んだまま皿を洗った。二人はコンピュータの前であれこれ論議していたが、やがて美穂の所にやってきた。ポールが言った。
「悪いけれど、残りの分については、また日を改めてもいいかな。最初の分の反応を見てから、ちゃんと朗読者を選んで撮影した方がいいだろうって話になったんだ」
「もちろん。いつでもどうぞ」
「へへ。次回はどんなものが食えるかな」
イヴォが言うと、ポールは「こらっ」と小突いた。
二人が帰るのを玄関で見送った。イヴォは初対面時の不機嫌が嘘のように、片手を上げて朗らかに「ごちそうさま」と言った。
ポールは「ありがとう」といって、美穂をハグした。《Star's Diner》では、彼がそんな事をしたことは一度もなかったので、美穂は狼狽えた。
二人が去った後に、彼女は静かになったキッチンで、崩れるように椅子に座った。誤解しちゃダメ。アメリカ人にとってはハグなんてただの握手と変わらないんだから。ドキドキが止まらない。今日は、色々ありすぎた。疲れちゃったな。
穏やかな新年の始まりとはいかないようだ。前途多難だな。美穂はしばらくそうしてあれこれと考えていた。明日も仕事だ。早く寝なきゃ。上手く寝付けない事は、今からわかっていた。
(初出:2015年1月 書き下ろし)
【小説】願い
「scriviamo! 2015」の第五弾です。limeさんは、「Infante 323 黄金の枷」のヒロイン、マイアを描いてくださいました。
limeさんの書いてくださった『(イラスト)黄昏の窓辺…黄金の枷のマイア』
limeさんは、登場人物たちの心の機微を繊細かつ鮮やかに描くミステリーで人氣のブロガーさん。昨年はアルファポリスで大賞も受賞されたすごいもの書きさんです。穏やかで優しいお人柄も魅力ですが、さらになぜこんなに絵も上手い、という天も二物も三物も与えちゃうんだな〜、というお方です。
昨年の蝶子に続き、今年描いてくださったのは、初マイア! いやあ、嬉しいですね。この世界はじめてのイラストですから。で、もともとこの企画用に描いてくださったこのイラスト、トリミングして本編でも使わせていただきました。マイアが夕陽を見ているシーンだったので。limeさん、本当にありがとうございました。
そして、お返しは、このイラストのシーンを丸々使わせていただいて、外伝を書きました。イラストのマイアが夕陽を見ているというのが、私には何よりもツボでして、こうなったら隠れ設定をあれこれ出して、この話を書くしかない! と、思ってしまいました。つい先日発表した外伝「再会」の数日後という設定なので、やはり現在発表している本編の時系列では四ヶ月後くらい先の話です。マイアはまだ休暇中で館の外にいます。
なお、この作品に関しては、本編を読まないと意味の分からないことが多いかもしれません。下のリンクはカテゴリー表示ですが、一番上は「あらすじと登場人物」ならびに用語の紹介になっていますので、手っ取り早く知りたい方はそちらへどうぞ。
【参考】
![]() | Infante 323 黄金の枷 |
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
願い
——Special thanks to lime san
その部屋は柔らかい光に包まれていた。ボルサ宮殿からほど遠くない、街の中心と言ってもいい立地にあるのに、居間に通されて扉が閉められると、今通ってきた喧噪が嘘のように静かになった。
「今、奥様がお見えになります。少々お待ちください」
マイアよりももっと若く見える使用人の女性が言った。
ドン・アルフォンソの主治医であるジョアキン・サントス医師の自宅にはこれまでなんどか来たことがあった。マイアが子供の頃からの家庭医で、マイアの母親の病にあたっても彼が力を尽くしてくれた。
母親が亡くなって以来、身内に《星のある子供たち》が一人もいなくなったマイアには、サントス医師は問題が起こった時に頼ることの出来る唯一の存在だった。
二度目の休暇が終わりに近づいた九月。マイアはサントス夫人から自宅に来ないかと誘いを受けた。ドラガォンの館に勤めるにあたって、マイアの推薦状を書いてくれたのは他ならぬサントス医師だったし、ドラガォンの館に出入りしているサントス夫妻の前では、沈黙の誓約に縛られて何も言えないということはなかったので、マイアは夕食の誘いを受けることにした。
マイアは心地のいいソファに緊張して座っていた。丁寧に使い込まれた、品のいい木製のテーブル、明るく夕方の光に溢れた室内。ドラガォンの館の重厚な家具は、時に重苦しさを感じることがあるが、この部屋の家具は優しく女性的だった。サントス夫人の穏やかで優しい笑顔を思いだして、マイアは微笑んだ。
部屋の奥に、黒い大理石の大きな板がかかっていた。同じようなものをどこかで見たと思った。ああ、ドラガォンの館の食堂に掲げられている系図と同じ色だ。代々の当主の名前が刻まれ、金色に彩色されたその大理石板にはマイアはあまり興味を持てなかったが、この部屋にかかっている大理石には、文字ではなくレトロな世界地図が彫られていた。この国、この街が中心となっていた。大航海時代、この国にとって世界が征服すべき驚異で満ちていた頃。マイアは、同じように船に乗って海の向こうへと行ってみたいと思っていた子供の頃を思いだした。
今のマイアにとっては、その世界地図よりもずっと心惹かれるものがあった。ソファに立てかけられたギターラ。彼の奏でる音色が、彼女の中に響いた。明後日にはまた逢える。一日でも早く休暇が終わればいいと思っていた。今、何をしているのだろう。私がこんなに逢いたがっているなんて、きっとあなたは思いもしないんだろうな。
彼女は、立ち上がってギターラのそばへ行くと、そっと弦に触れた。澄んだ音がした。震える弦は空氣を研ぎすましていく。ギターラはどこにでもあった。子供の頃からたくさんこの音を聞いてきた。けれど一度だってこれほど特別な楽器ではなかった。あなたがこれを特別にしちゃったんだね。マイアは心の中で23に話しかけた。
手首の腕輪に光が反射して、マイアは窓を見た。太陽が西に傾き、D河にゆっくりと降りて行こうとしていた。彼女は、窓辺に立った。いつも惹き付けられた夕陽。彼との出会いの記憶。きっと私は生きている限り、こんな風に夕陽を見続けるんだろうな。
静かにドアが開いて、イザベル・サントス夫人が入ってきた。彼女は窓辺ですっかり夕陽に魅せられているマイアの姿を認めて、立ちすくんだ。マイアの髪は赤銅色に輝いていた。瞳は輝き、わずかに微笑んでいた。イザベルは感慨にひたって、しばらくマイアと夕陽に染まっていくギターラを見つめていた。
マイアがそれに氣がついて、振り向き頭を下げた。
「すみません、つい見とれてしまって」
イザベルは笑った。
「いいのよ。私の方こそ、つい想いに浸ってしまって」
マイアはわからないというように首を傾げた。イザベルはメガネの奥の目を細めて微笑んだ。
「ドン・カルルシュが、今のあなたを見たら、どんなに喜んだことでしょう」
「ドン・カルルシュ……?」
マイアもその名前は知っていた。23の亡くなった父親、ドラガォンの前当主のことに違いない。だが、マイアは当然のことながら、全く面識がなかった。
「今日は、よく来てくださったわね。どうぞ座って。以前、ドンナ・マヌエラのお手紙を届けてくださったときは、すぐに帰ってしまったから、いつかはゆっくり話をしたいと思っていたのよ」
ドンナ・マヌエラの使いで久しぶりに逢った時、夫人の髪が銀色に変わっていることや、ずいぶんふくよかになったことで時間の流れを感じたが、その穏やかで優しい人柄には前と同じようにほっとさせられた。
「本日は、お招きいただきましてありがとうございます」
マイアははにかみながら言った。
「ジョアキンはいま診療所を出た所ですって。もうしばらくしたら戻るでしょう。今日はゆっくりしていってね。今、軽い飲み物を持たせるわ。ジンジャは好きかしら?」
スパイスの利いたさくらんぼリキュールのジンジャはアルコール度数が高いので、マイアがあまり強くないことを知っているイザベルは氷を入れて出してくれた。
「あの……」
イザベルは、マイアの戸惑いを感じ取ったようだった。
「ジョアキンが帰ってくる前に言った方がいいかしらね。今日はね、実はあなたのお父様に頼まれたの」
「父が……?」
「ええ。フェレイラさんは、あなたのことを心配していらっしゃるの。何か悩みがあるみたいだけれど、誓約があるから聞いてやることが出来ない、代わりに力になってくれないかって」
マイアは、うつむいた。
「父が、そんなことを。ダメですね、いくつになっても心配ばかりかけて……」
「ドラガォンの館はどう? 困っていることはない?」
マイアは顔を上げてはっきりと言った。
「とてもよくしていただいています。ご主人様たちはみな親切で、メネゼスさんや、ジョアナには、失敗をたくさん許してもらっているし、それから他の人たちにも、親切にしてもらっています」
「そう。フェレイラさんの思い過ごしかしら」
「いいえ。でも、それは個人的なことなんです。誰にもどうすることもできない……私が、見ちゃいけない夢を見ているだけなんです」
マイアがそう言うと、何か思い当たることがあるのか、イザベルは控えめに微笑んだ。
「そう。あなたが想うのを、禁じることが出来る人はどこにもいないわね。あなたの夢と願いを大切にしなさい。きっとそれがあなたの人生を実りあるものにしてくれるでしょうから」
「……はい」
イザベルは、手を伸ばしてマイアの視線の先にあるギターラを手にとり、そっと弦に触れた。明るく澄んだ音がした。マイアは、また心が23に向かうのを感じた。
「先ほど、ドン・カルルシュの話をしたでしょう」
その言葉に、マイアははっとして想いを夫人に戻した。
「セニョール323が、十四歳くらいの時だったかしら。ドン・カルルシュがここでこのギターラをご覧になってね。だれかギターラのレッスンをつけられる《監視人たち》か《星のある子供たち》を知らないかっておっしゃったの。それで、私の長くついている先生をご紹介して……。もともと才能がおありになったのでしょうね。あっという間に私を追い越して……。もう長く拝聴していないけれど、とてもお上手でしょう?」
「はい。上手い下手という枠組みをはるかに超えて、素晴らしい音楽です。聴く度に心が締め付けられるようになります」
イザベルは、マイアの想いに沈んだ様子を、優しく眺めて続けた。
「たった二つ、それしか望んでくれなかった……。ドン・カルルシュはそうおっしゃったわ」
「?」
「ずいぶん昔の話よ。まだ、セニョール323が子供の頃、ドン・カルルシュは意図せずに取り返しがつかないほど深くその心を傷つけてしまったんですって。彼が閉じこめられてすぐにそのことがわかって、心から後悔して、許しを請いにいかれたそうなの。その時のことを、氣づくのが遅かった、遅すぎたと泣きながらジョアキンに打ち明けられたの」
「23は、いえ、セニョール323は、お父上を許さなかったのですか?」
マイアが意外そうに訊くと、イザベルは首を振った。
「怒った様子も、批難する様子もお見せにならなかった。でも、それと心を開くということは違うわよね。あの方がほとんど誰とも関わろうとしなくなってしまったのは、ご自分のせいだとドン・カルルシュは生涯悔やまれていらしたわ」
「それで……?」
「ドン・カルルシュは、ご自分に可能なことなら、どんな願いでも叶える、わがままを言ってほしいとセニョール323におっしゃったそうよ。もし、彼が望むなら《監視人たち》の中枢と戦ってでも、格子から出してもいいとまで思っていらした」
「彼は、それを望まなかったんですか」
「望んでいらしたでしょうね。でも、おっしゃらなかったそうよ。館の外に出てみたいとも、学校に行ってみたいとも、その他のありとあらゆる望みがあったでしょうに、ドラガォンにとって難しいことは何一つおっしゃらなかったそうよ。たった二つの小さい望みを叶えてもらうために、我慢したのだと思うわ」
マイアは、ジンジャの中の氷が全て溶けてしまっていることに氣がついた。グラスが汗をかいている。
「彼の望みって……」
「一つは、ギターラを習いたいということ。そんな時に言うまでもない望みよね。そんな小さなことまで、自分からは言えないでいたなんてと、ドン・カルルシュはショックだったみたい。そして、もう一つが、あなたのことだったのよ」
「私のこと?」
「セニョール323は、自分が話しかけたために、あなたとあなたの家族がナウ・ヴィトーリア通りに強制的に引っ越しさせられてしまったことをずっと氣になさっていらしてね。あの子が前のように河で夕焼けを見られるように、どうかあの一家を元通りにしてほしいと、そうおっしゃったんですって」
マイアは大きく目を見開いて、イザベルの言葉を聞いていた。
「すぐに元に戻してあげたくても、フェレイラさんはもう新しい職場で働いていた。あなたたちはもう新しい学校に通っていた。フェレイラさんのもとの職場には新しい人が働いていて、その人にも家族がいて生活があった。だから、ドン・カルルシュにもすぐに彼の望みを叶えてあげることは出来なかったの。セニョール323は二度と、その願いを口になさらなかったし、あれからどうなったかとお訊きにもならなかった。だからこそ、ドン・カルルシュはなんとしてでもあなたたちを元に戻して、セニョール323の願いを叶えてさしあげたかったのでしょうね。それから、何年間も働きかけ続けたのよ」
「知りませんでした……」
「大きな書店を買い取って、その店長の職をさりげなくオファーしたり、元の店の同僚をもっといいポジションに引き抜いて場所を作ったり……。でも、フェレイラさんは、長いことチャンスをことごとく断り続けたの」
「父が?」
「ええ。フェレイラさんは、何度もドラガォンに抵抗して、大切なものを失い続けてきたから、これ以上大切なものを失いたくなかったんだと思うの」
「抵抗?」
「あなたのお母様と結婚したくて、映画みたいな逃避行を繰り返して。その度に《監視人たち》に止められて。仕事を失ったり、財産を失ったり、家族に縁を切られたりと散々な目に遭ったのよ。最終的にあなたのお母様はこれ以上フェレイラさんを苦しめたくないからと、人工授精であなたを産むことで、《監視人たち》とフェレイラさんの闘いに終止符を打ったの」
「まさか」
「そうなの。だから、あなたのお母様が亡くなられた時に、《監視人たち》の中枢部は、虐待される可能性があると、あなたを引き取ろうとしたの。そうしたらフェレイラさんは、もう一度大騒ぎを起こしたのよ。世界中を敵に回しても、絶対にマイアは渡さないって」
イザベルは、面白おかしい話のように語ったが、マイアには全てはじめて聞くことだった。
「そう言う事情があったので、どんなにうまい話が来ても、不安だったんじゃないかしら。うかつに戻ったりしたら、今度こそあなたを取り上げられるんじゃないかって。ドン・カルルシュの意向だと始めから言えばよかったのかもしれないけれど、それを言ったらドラガォン嫌いのフェレイラさんに断られるかもしれないので、中枢部はあくまで偶然を装ったの。だからいつまで経ってもフェレイラさんは不安を拭えなかったのよ。あなたが十分に大きくなるまで」
「知りませんでした。父は、何も言ってくれなかったから……」
「そう、言ったらあなたが《星のある子供たち》としての存在に苦しむと思ったんでしょうね。血は繋がっていなくても、フェレイラさんはあなたのことを娘として深く愛しているから。お母様とのなれ初めも、それに伴うドラガォンとの確執も、それから、お母様との短かったけれど幸福だった結婚生活についても口に出来ないのよ」
マイアの瞳に涙が溢れ出した。一人だけ腕輪を嵌められて、つらいことばかりだと思い続けてきた自分はなんて勝手だったのだろう。
「フェレイラさんが、ようやくセウタ通りの書店に勤められることが決まって、レプーブリカ通りにまた住むことが決まったのは、四年前だったわよね。ドン・カルルシュが亡くなる少し前のことで、もう大層お悪かったんだけれど、ジョアキンがそのことをお知らせしたら泣いて喜んでいらっしゃったんですって。セニョール323とその話をなさったかまではわからないけれど」
窓辺はすっかり暗くなっていた。河に沈む夕陽を眺めれば、悲しいことを忘れられる。それは自分しか知らない小さな楽しみのつもりだった。マイアはずっと知らなかった。23は自分の自由を犠牲にしてマイアの小さな幸せを願い、ドン・カルルシュが生涯にわたって氣にかけ、サントス医師夫妻や、多くの《監視人たち》がその願いを実現しようと骨を折り続けていた。そして、父親は血のつながっていない自分のために苦労して心を砕きつづけてきた。
いまマイアは、ドラガォンの館の夕陽のもっとも美しく見える部屋から、河と、それから鉄格子の向こうの優しい人の影を見ることができる。私は不幸でもなければ、一人ぼっちでもなかったんだ。ずっと、十二年も、いえ、生まれたときから。関わった全ての人たちの、優しさと、願いと、想いの助けを得て、大人になり、一番いたい場所にきて、いつまでも存在を感じ続けていたい人の近くで、夕陽をみていられる。
サントス医師が帰って来た。イザベルは食堂へ行くようにと誘った。マイアは、涙を拭いて頷いた。話を聴けてよかったと思った。休暇が終わる前にお父さんとワインを飲んで話をしよう、それに、明後日、館に戻ったら、23に今日の話をしてみよう。お互いの父親の子供を思う愛について、彼はなんて言うんだろう。
(初出:2015年1月 書き下ろし)
この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。
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【小説】黄色いスイートピー
「scriviamo! 2015」の第六弾です。ウゾさんは、先日書いてくださった『其のシチューを 再び味わおうか』のさらに続きを書いてくださいました。ありがとうございます!
ウゾさんの書いてくださった『其のシチューを 再び味わおうか 珈琲を追加で 』
ウゾさんの関連する小説:
『其のシチューは 殊更に甘かった 』
『其のシチューを 再び味わおうか』
ウゾさんとのお付き合いは、ブログ運営年数 − 数ヶ月。それ以前に知り合った方で、今もブログを通して交流している方はほとんどないくなってしまったので、たぶんもっとも古いブログのお友だちの一人ということになります。最初に作品を通して交流したのが『短編小説を書いてみよう会』でしたよね。思えば、あれが私のブログ交流の原点になっています。そして、ウゾさんをはじめ、あの時知り合った何人かのお友だちが、今でもこうやってかまってくださる。ありがたいことです。
さて、書いていただいた作品、つい先日発表したお返しの作品「歌うようにスピンしよう」への、この「隅の老人」視点でのアンサー小説。前回は、脇キャラであったキャシーを《Cherry & Cherry》でのメインキャラに据えてみましたが、それをとても上手に引き継いでくださいながら、やはりウゾさんらしく独特の世界観で書いてくださいました。
で、「マンハッタンの日本人」シリーズは、scriviamo!の時期しか進まないし、来年はやらないかもしれないので、今のうちにサーブにはレシーブしちゃうことにしました。またしてもキャシーを登場させています。
「マンハッタンの日本人」シリーズは、昨年以来、交流で作っていく特殊小説になっています。こうなったら何でもありですので、乱入なさりたい方はどなたでもご自由にどうぞ。
【参考】
読まなくても話は通じるはずですが、だんだん話が大きくなってきたので新カテゴリにしてまとめ読み出来るようにしました。
「マンハッタンの日本人」あらすじと登場人物
「マンハッタンの日本人」シリーズ
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
「マンハッタンの日本人」シリーズ 8
黄色いスイートピー
——Special thanks to Uzo san
美穂が病室にやってきたのは、面会時間も終わりかけの午後六時半だった。朝から働き詰めで疲れているんだろうから、わざわざ見舞いになんか来てくれなくてもいいのに。
キャシーは、ギプスをはめられた足を見ながら、今日の夕食のチキンは意外と美味しかったなとのんきに考えている所だった。
三日ほど前のことだった。キャシーがいつものように、ウォールマン・リンクでダブル・サルコウを飛ぼうとした時に、一人の男がスピード・スケートのまねごとをして突っ込んできたのだ。なんとか衝突を避けようとして、変に体をねじったので着地に失敗して、足の骨を折ってしまった。本来ならば、入院代はどうしようかとか、このままじゃ仕事を失う、なんとかしなくてはと、不安にさいなまれているはずだったが、今回は天がキャシーに味方したのだ。
「保険?」
キャシーの辞書にはない言葉だった。雷が落ちるか、クビを宣言されるかどちらかだと思っていたキャシーの前に現れたケチオーナーは高笑いをした。
「総合事業者保険を契約し直したばかりなのだ。わはははは」
それによると、これまでの保険がぼったくりに近いものだったのを、《Star's Diner》の店長代理であるポールに指摘されて今年から契約を見なおしたらしい。見なおしたと言っても、細かい字を読むのは苦手なので、ポールに一任して新しい保険会社と契約を決めさせたそう。
各種の損害補償と従業員の疾病障害時に於ける代替労働力雇用に関する費用などがバランス良くカバーされている保険に、従業員の労働災害以外の事故の入院費用までカバーする特約がついていたらしい。もともとの保険とあまり変わらない額になったが、全従業員の時給を上げるか、これを契約するかどっちかを選べとポールに言われて、オーナーは総合的に安いこちらを選んだ。
つまり、入院費用だけでなく働けない間の生活費の補償までもらえて、キャシーがこうやってのんびりと静養していられるのは、ひとえにポールのおかげなのだが、ケチオーナーは自分の手柄だといいふらしていた。呆れて真実を教えてくれたのは美穂だ。
その美穂は、キャシーの代わりに週の半分《Cherry & Cherry》に来ている。基本ひとり体制の《Cherry & Cherry》なので、保険で雇えた代わりの新人には勤まらない。オーナーは、キャシーが復帰するまで《Star's Diner》に新人を配して、美穂一人にキャシーの代わりをしてもらうつもりだったが、ポールが断乎として反対したので、結局、美穂とダイアナが交互で《Cherry & Cherry》に入ることになった。
美穂はどうやら《Cherry & Cherry》に来る日も、二時間早く《Star's Diner》に寄ってブラウン・ポテトを用意しているらしい。キャシーは「日本人って、どうかしている」といつもの感想を述べた。それから六時まで働き、夜番のジェフが来るのを待ってから帰宅する。相当疲れているはずなのに、不機嫌な様子は全く見せなかった。
「ハロー、キャシー。具合はどう?」
美穂は、コートを脱ぐとベッドの脇にある椅子の背にかけた。そして、周りを見回して、何かを探した。
「うん。こうしている限り、なんともない。でも退屈。あと一週間もこんなことしているの、やになっちゃう。ミホ、何を探しているの?」
美穂は手元の小さい三角の紙包みを見せた。
「お花。花瓶になるものないかと思って」
それから小さいコップを見つけると、それに水を入れてから包みを開けた。黄色い鮮やかな色がキャシーの目に入った。
「スイートピー! 可愛い。どうしたの?」
美穂は思い出し笑いをした。
「ほら、時々来るあのおじいさん、あの方があなたを訪ねてきたのよ」
「ヘ? あの人?」
「ええ。この間足りなかった5セントのことを氣にしていらしたみたい。お礼にって、この可愛い花を持って。あなたの事故の事を言ったら、びっくりしてとても心配していたわ」
美穂はスイートピーの花が一輪の入ったコップをベッド脇のキャビネット上に置くと、ポケットから袋に入った小銭を出して、コップの隣に置いた。
「これは?」
「これもあのお客さんから。借りていた5セントと、それから今日はコーヒーも頼むつもりで来たけれど、あなたがいないから、チップとして置いていくって」
「へえ~。たった5セントのことなのに、律儀なおじいさんねぇ。それにミホも、わざわざ持ってきてくれてありがとう」
「どういたしまして。それから、あのお客さんもお見舞いに来たいみたいなんだけれど、ここに入院しているって教えてあげてもいい? 一応確認してから……」
「もちろん。来てくれたら嬉しいよ。でも、あと一週間で退院だからなぁ」
「明日、また立ち寄るっておっしゃっていたから、そう伝えておくわね」
美穂が帰ったあと、キャシーは枕元の黄色いスイートピーを眺めた。同じ病室にいるほかの三人の所には、恋人や友人たちが花を持ってきていた。キャシーの母親は仕事の合間にちょくちょく来てくれるが、花を持ってきたりはしない。だから、自分の所にも花が来たことが嬉しかった。
春を思わせてくれる明るく優しい花。このさりげなさが、あのおじいさんらしい選択だなと嬉しくなった。
明日、美穂が伝えたら、すぐにお見舞いにきてくれるのかな。あ、明日はお祖母ちゃんも、見舞いにくるって言っていたかも。そうしたら、あのおじいさんを紹介してあげようっと。この人も「スタンド・バイ・ミー」の曲が好きなんだよ、きっと氣が合うんじゃないかなって。
キャシーは、先ほどまでの退屈はどこへやら、明日が楽しみでしかたなくなった。
(初出:2015年1月 書き下ろし)
【小説】One In A Million
「scriviamo! 2015」の第七弾です。ポール・ブリッツさんは、「マンハッタンの日本人」を更に進めた作品を書いてくださいました。ありがとうございます。
ポール・ブリッツさんの書いてくださった『待つ男』
ポール・ブリッツさんの関連する小説:
『歩く男』
『食べる男』
『夢を買う男』
ものすごい挑戦状をいただきました(笑)なんて暴球を投げてくるんだか。すでにポールさんの分をお読みになった方は、興味津々だと思います。
「マンハッタンの日本人」シリーズ、ポールさんのストーリーにあわせると、もしかすると今日が最終回になっちゃうんですが、そうなってもそうならなくてもいいようになっています。ポールさん、「ぬらりひょん」な返答でごめんなさい。
なお、この作品でもポールさんの書かれた内容をざっとおさらいはしてありますが、できれば先にポールさんの作品をお読みください。ポールのメール、この小説ではほんの一部を引用しただけです。とても哲学的でかつ甘い告白の全文は、ぜひあちらで。
【参考】
読まなくても話は通じるはずですが、まとめ読み出来るようにしてあります。
「マンハッタンの日本人」あらすじと登場人物
「マンハッタンの日本人」シリーズ
「scriviamo! 2015」について
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「マンハッタンの日本人」シリーズ 9
One In A Million
——Special thanks to Paul Blitz-san
今度こそ。キャシーは背中に力を込めた。このタイミング! でも、しっかりと踏ん張るはずの足が少しぐらついた。あ、高さが足りない。着地はなんとかなったものの、満足はいかなかった。
もうそろそろウォールマン・リンクのスケート場シーズンはおしまい。日に日に春めいてきている。キャシーは、リハビリも兼ねてさっさとスケートを始めた。ジャンプが出来るようになっただけでも大した進歩だと思う。次のシーズンには、またダブル・サルコウが飛べるようになるといいな。
しゃっと音をさせて、キャシーはベンチの方へ向かった。
「ね。ミホ、どうだった? 二回転にはならなかったけど、マシになった?」
美穂は、その声でようやくキャシーが近くに戻ってきたことに氣がついたようだった。
「あ~あ、まったく。またあいつのことを考えていたの?」
キャシーが言うと、美穂はあわてて首を振ったが、誤摩化しても無駄だと思ったのか、そのまま無言で下を向いた。
キャシーはベンチにどかっと座ると、優しく美穂の顔を覗き込んだ。
「とんでもない騒ぎに巻き込まれちゃったよね。あの詩人が生きていたら、ミホになんてことをしてくれたんだって殴ってやりたいよ」
そういうと、美穂は顔を上げて、わずかに口角をあげた。
「キャシーだって、泣いていたじゃない」
そうよ。不覚にもあの詩には、号泣しちゃったのよ。あんないい詩を書くもんだから、だから、あんなことになっちゃったんだわ。キャシーは腕を組んで口を尖らせた。
ポールとその同居人がアップロードした、反戦詩の動画は、とんでもないセンセーションを引き起こした。亡くなった詩人が自分で読んだ分だけじゃなく、ポールに頼まれて美穂が朗読した分のせいで、彼女は一時的に有名人になってしまった。
《Star’s Diner》にはマスコミや野次馬が押し掛けた。オーナーは大いに喜んで、従業員を増やした。しかしそれだけでは済まず、たいして時間もかからぬうちに美穂のアパートメントも見つかってしまった。ただの一般人だった美穂は、そうやって追いかけられることに本当に弱ってしまった。もちろん当事者のポールもそのまま《Star’s Diner》で働けるような状況ではなく、マスコミやの大金のなる木を狙うハイエナのような連中が追いかけてこないホテルに逃げ込んだ。
それから、ポールとその同居人のイヴォは、秘かに詩の著作権を売却して、そのほとんどを反戦運動基金管理団体へと寄付し、残りの一部を持ってそれぞれニューヨークから去った。美穂は、ポールからメールをもらった。
……そしてわたしだが、あの店長のいとこがサンフランシスコで店を開こうとしているとかで、優秀な経営パートナーを欲しがっているそうだ。
きみも来ないか。
……三日後、グレイハウンドの最終バスでサンフランシスコに向かおうと思う。
そこで、きみと思い切り話し合いたいんだ。
今までのことと、これからのことを。
バス停で待っている
プリントアウトしたメールは、今でも鞄に入っている。何度も、何度も読んだので、ボロボロになっている。一緒に働いた数ヶ月のこと、理不尽さや不公平に落ち込んでいた時に明るく救い上げてくれたこと、ブラウン・ポテトをつまみ食いする時の楽しそうな様子、動画を録画する時に真剣な目で見つめていたこと、今でも鮮やかに思いだす。
前のように失敗することが嫌で、拒否されることが怖くて、好きだとついに言えなかった。でも、「一緒に行こう」と言ってくれた。返事は決まっていた。美穂はサンフランシスコに、ポールについて行くつもりだった。
でも、夜逃げの経験なんかなかったから、三日できちんと退職と引越の全てを準備することがどんなに難しいかわからなかった。それに、アパートメントの外には例によって、怪しい人やマスコミがいっぱいだった。美穂は、ポールと話をするためだけにバス停に行こうとした。でも、出るのが遅すぎたのだ。いなくなったと思っていたおかしな人たちは、まだ何人も外にいた。美穂よりもポールやイヴォを探しているのがわかっていたから、連れて行くわけにはいかなかった。彼らを巻こうとして時間がかかりすぎた。
バス停には、もう誰もいなかった。バスも一台もいなくて、人っ子一人いなかった。
メロドラマだと、こういう時には、物陰から「バスには乗らなかったんだ」と恋人が出てくるのが定石なんだけれどな……。でも、ポールは行ってしまったのだ。美穂に拒否されたと思って、一人でニューヨークから、美穂の前から去ってしまったのだ。それでも彼女はまだその時には楽天的だった。連絡をすればいいと思っていたから。
ポールのメールアカウントはあのメールを最後に削除されていた。追いかけてくる人間から痕跡を消したかったんだろう。携帯の電話番号もなくなっていた。ポールをサンフランシスコに誘った前店長の連絡先すら誰も知らなかった。連絡をする手段が何もないとわかった時、はじめて美穂は泣いた。
それから、美穂の生活は少しだけ変わった。辞めたポールの代わりに《Star's Diner》の店長代理に立候補したのはジョニーだった。彼の料理に問題があることは、周知の事実になっていたので、オーナーはそれをあっさりと認めて、《Cherry & Cherry》の料理担当だったジョンを《Star's Diner》へと異動させた。その代わりに美穂を《Cherry & Cherry》へ異動させ、客から見えないの軽食調理担当にしてくれた。キャシーはそれをとても喜んだ。美穂とキャシーは二人で工夫を重ね、《Cherry & Cherry》を少しずつ居心地のいい店にしていった。
それに、アパートメントを出ることになっていて行くあてのなかった美穂にキャシーはこう言ったのだ。
「私とルームシェアしよう! 私も足が元通りになるまで、誰かが一緒に暮らしてくれた方がいいし、ミホとなら問題なく暮らせると思うもの」
新しい職場、新しい住まい、日常が始まった。それにあの詩が、超大物シンガーによって歌われて空前のヒットとなると、美穂を患わせていたしつこい人びとは波が引くように消えて行った。彼女は再び何でもないどこにでもいる日本人となり、平和な日常が戻ってきた。
キャシーはスケート靴を脱ぎながら、ここ数ヶ月いつもかけてくれた明るい励ましを続ける。
「氣持ちはわかるけど、そんな悲しそうなミホを見ていたくないな」
美穂は黙って頷いた。キャシーの優しさが心にしみ込んでくる。涙が止まらない。
もうどうにもならないのだということはわかっている。今まで連絡がないのに、これからあるはずはないだろう。ポールの瞳と、それにメールではじめて教えてくれた彼の想いは、いつまでも美穂の心から出て行ってくれなかった。
美穂はいつだったか五番街の真ん中で泣きたくなったことを思いだした。ラジオから流れてきたNe-Yoの“One In A Million”。世界中の人に愛されたいなんて願っていない。だけど、だけどせめて一人くらいは言ってほしい。君は百万人の中でたった一人の大切な人だと。そして、美穂はそういってくれる人に出会って、彼を愛したのだ。とても短かったけれど。自分の想いすら告げなかったけれど。
……きみはいつまでも、マンハッタンの日本人でいたいのか。この、非人間的なマンハッタンの、孤独な日本人でいることに満足していたいのか。
思っていないよ。マンハッタンにこだわっているわけじゃない。でも、私はどこにも行けない。サンフランシスコ中を歩いても、あなたを見つけられるわけじゃないでしょう。もう、待っても無駄だってわかっている。忘れて生きていかなくちゃ。仕事と住むところがあるここで。たまたまマンハッタンで。
「ねえ、ミホ。あいつの代わりにはならないと思うけれど」
キャシーが、美穂の肩を優しく抱いて言葉を続けた。
「いつか美穂と私で、小さいお店をやろうよ。いつまでもあのケチオーナーに搾取されるんじゃなくってさ」
「キャシーったら。そういう夢は彼氏と語るものでしょ」
「見損なわないでよ。私、彼氏を作ってミホの側でいちゃいちゃしたりしないよ。……少なくともあいつが戻ってくるか、それともミホに新しい彼が出来るまで」
「やだ、じゃあ、私、猛スピードで新しい彼を作らないといけないじゃない」
「そうだよ。その調子」
美穂は鞄からハンカチを取り出した。鞄が膝の上にずっと置かれていたせいか、彼のメールを印刷した紙は温かくなっていた。逢いたいよ。日本語で呟いた。
鞄を閉めると、涙を拭ってウォールマン・リンクを眺めた。楽しそうな家族が一緒に滑っている。恋人に滑り方を習っている女性もいる。キャシーの褐色の肌は、綺麗に輝いている。陽射しは柔らかくて暖かい。冬は終わりに近づいて、もうじき春が来る。美穂は、明日も頑張って働こうと思った。
(初出:2015年1月 書き下ろし)
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【小説】午餐の後で
「scriviamo! 2015」の第八弾です。大海彩洋さんは、「Infante 323 黄金の枷」とご自身の小説のコラボで参加してくださいました。ありがとうございます!
彩洋さんの書いてくださった『【scriviamo!参加作品】青の海、桜色の風 』
彩洋さんの関連する作品:
【いきなり最終章】ローマのセレンディピティ(前篇)
【いきなり最終章】ローマのセレンディピティ(中篇)
【いきなり最終章】ローマのセレンディピティ(後篇)
彩洋さんは、たくさんの小説を書いていらっしゃるブロガーさん。書いている年数では、もしかしたら私と同じくらいかなあと思うのですが、その密度や完成度には天地の違いがあって、アマチュアでも魂を込めて精進すると、これほどのものが書けるんだといつも感心しながら読ませていただいています。中でも、ライフワークともいえる大河小説「真シリーズ」は圧巻です。
今回参加していただいた作品の主役は、この大河シリーズの最終章に登場する幸せなカップル。この二人のプレ新婚旅行に、私の書いている小説の舞台P(ポルトガルのポルト)を選んでくださいました。
そして、お返しは、書いていただいた設定を引き継いで、登場する「Infante 323 黄金の枷」の世界の小さな逃走劇の顛末を書くことにしました。できるだけ自分のキャラを中心に書きたかったのですが、それでは読者と同じ「?」の視点で書ける人物がいなかったので、そのまま彩洋さんの所のお二人からの視点で書かせていただきました。彩洋さん、すみません。キャラがぶれていないことを祈るばかり……。
なお、この作品に関しては、本編を読まないと意味の分からないことが多いかもしれません。下のリンクはカテゴリー表示ですが、一番上は「あらすじと登場人物」ならびに用語の紹介になっていますので、手っ取り早く知りたい方はそちらへどうぞ。
【参考】
![]() | Infante 323 黄金の枷 |
関連する作品:
追憶のフーガ — ローマにて
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
午餐の後で
——Special thanks to Oomi Sayo-san
その街にはレトロな路面電車が走っていて、詩織は少しだけうらやましげに眺めた。ボアヴィスタ通りに向かうバスは、何の変哲もないどこにでもあるような車体だった。けれど、詩織はホテルで「タクシーをお呼びしましょうか」と言われたのを断ったロレンツォのことを誇りにすら思っていたので、そのバスに乗ること自体に文句はなかった。
「明日にでもあれに乗ってみるか」
彼は詩織の想いを見透かしたかのように訊いたので、彼女は嬉しくなって頷いた。
詩織はバスの中で、既に観光して回ったこの街のことをロレンツォに語った。その話はやがて、詩織に街を見せてくれた天使のような優しい少女のことに移っていった。
「逢ったばかりなのに、もうずっと前からの友達みたいに感じていたの。それに、あの書店で見てしまった二人の姿、とても他人事に思えなくて……」
ロレンツォは、黙って頷いただけだったが、詩織の瞳をじっと見つめる優しさに、彼女は理解してもらっていることを感じた。
バスを降りた二人は、道沿いに五分ほど歩いた。春の光が柔らかい。通りに車が絶えることはなかったが、その騒音の合間に空を飛ぶカモメの鳴き声が聞こえてきて、それがここはローマではない、二人で異国にいるのだと浮き浮きした氣持ちにさせてくれた。
ホテルや豪邸の建ち並ぶボアヴィスタ通りはPの街でもっとも長い通りだ。その半ばほどに、ほかの屋敷よりもひときわ大きい建物があった。水色の壁、白い窓やバルコニー、そして広い庭、きれいに手入れされた庭、そしてどこからかヴァイオリンの旋律が聴こえてくる。
ロレンツォは開け放たれたひとつの窓を見上げて、その旋律に耳を傾けた。
「知っている曲?」
詩織が訊くと彼は頷いた。
「ベートーヴェンの『スプリング・ソナタ』だな」
春にぴったりな曲なのね。詩織は嬉しくなった。そのまま通り過ぎるのかと思ったが、彼は門に向かい呼び鈴を押した。それで彼女はこここそが目的地なのだとわかった。謎のドンナ・アントニアの住むお屋敷。
「ドンナ・アントニアってどんな方?」
詩織がロレンツォに訊くと、彼はちらっと彼女を見て何かを言いかけた。けれど氣が変わったのか、少し間をとってから答えた。
「すぐに逢うから自分で確かめるといい」
詩織は、大金持ちの貴婦人、銀髪の老婦人かなと思った。このような豪邸に住み、たくさんの使用人を自由に使い、ヴォルテラ家とも対等に付き合っているのだから、かなりの大物に違いないと思ったのだ。
インターフォンに答える声がして、ロレンツォが来訪を告げると「お待ちしておりました」という声がした。すぐに出てきた黒服の男が門を開け、二人を中に迎え入れた。
「ご連絡をいただけましたら、ホテルまでお迎えに伺いましたものを」
そういう男にロレンツォは首を振った。
「いえ、観光もしたかったので」
広い応接室は、光に満ちていた。白い絹で覆われたソファは柔らかかったが沈み込むほどではなく、座り心地は抜群だった。「少々お待ちくださいませ」と言って男は出て行った。物珍しそうに室内を見回す詩織をロレンツォは優しく見つめていた。ヴァイオリンの響きはまだ続いている。ずいぶん熱心に練習する人だなと詩織は思った。同じ小節を何度も何度も繰り返している。彼女にはとても上手にしか聴こえないのに、どこかが氣になるのか、その繰り返しをやめなかった。
ドアが開き、女性が入ってきた。詩織は目をみはった。長い絹のような黒髪、水色の瞳、細い三日月型の眉、そして赤く形のいい唇、女優かモデルみたいな人だと思った。歳の頃は二十代後半か、三十代のはじめ、ヴァイオレットの絹に黒い唐草の刺繍のしてある大胆なボレロとタイトスカートを優美に着こなしていて、ひと目で貴婦人だとわかった。背が高い。ロレンツォが立ち上がったので、詩織もあわてて立った。
その麗人はロレンツォと詩織に親しげに微笑みかけ、流暢なイタリア語で挨拶をした。
「ようこそ、スィニョーレ・ヴォルテラ、スィニョーラ・アイカワ。お呼び立ていたしました」
ロレンツォはさすがはヴォルテラ家の跡継ぎだった人だと感心するような完璧なマナーで女性に挨拶をした。
「お招きいただきまして光栄です、ドンナ・アントニア。ついに私の婚約者を紹介できて嬉しく思います」
では、この方がドンナ・アントニア! 詩織は驚きの色を隠せないまま、アントニアに頭を下げた。
「ヴォルテラ家の方にわざわざ足をお運びいただいたのですから、本来でしたら、当主のアルフォンソこそが今日の午餐でおもてなしすべきなのですが、あなたの弟様がご依頼された件の後処理がまだございまして、間に合いませんでしたの。失礼を心からお詫びするようにと伝言を申しつかっています」
「とんでもない。弟がお願いした件で、ご迷惑をおかけしたのではないでしょうか」
「いいえ。もともとは私どもの問題ですから。ただ、スィニョーレ、あなたにはおわかりいただけるかと思いますが、システムを統べるものが、ルールを曲げることはとても難しいのです。あの娘にはルールに則り、自身の義務を果たさせるために抑制力が動いていました。けれど、他のことならともかく、ヴォルテラ家が関わったので、私どもは例外を作らねばなりませんでした。スィニョーレ・ヴォルテラ、どうか弟様にお伝えくださいませ。システムの例外を作るために、誰かがその義務を引き受けねばならなかったと。ご自身の身を以てご存知のはずの、同じことがここでも起きたのだと」
詩織は不安になって、アントニアとロレンツォの顔を見た。ロレンツォも眉をひそめ訊き返した。
「それは、誰か他の方が望まぬことを押し付けられて、不幸になったのだということですか」
アントニアは、微笑んだ。
「ご心配なく。午餐に同席しますので、そうではないことをご自身で確認なさるといいですわ。私が申し上げたかったのは、こういうことです。あなた方がお持ちの権力は多くのことを可能にするでしょう。けれども、システムは思っておられる以上に複雑なのです。安易に発生させた例外が、時に重篤な問題の引き金となることを、知っていただきたいのです」
そういうと、アントニアは二人を食堂へと案内した。大きいシャンデリアの輝く部屋だった。琥珀色と白の入り交じった大理石の床の上に、どっしりとしたマホガニーの大きなテーブルがあり、そこに一組の男女が座っていたが、三人の姿を見ると立ち上がった。詩織にとっては一度も見たことのない人たちだったが、ロレンツォは驚いた様子で声を上げた。
「マヌエル、マヌエル・ロドリゲス、君か! それに、あなたは、確か、クリスティーナ・アルヴェスさん……」
ロレンツォに親しげに握手をするその青年は、キリスト教司祭の黒地に白い四角のついたカラーの服装をしていた。そして、詩織はクリスティーナと呼ばれた女性の左手首に、コンスタンサと同じ金の腕輪があるのを見て取った。館の美しき女主人の手首にも同じ腕輪があるのを彼女は既に発見していた。
アントニアははっきりとした声で言った。
「マヌエル・ロドリゲスは既にご存知のようですね。ご紹介しますわ。こちらにいる女性は、コンスタンサ・ヴィエイラです。スィニョーラ・アイカワはもうよくご存知ですよね。何度かご案内をさせていただきましたから……」
詩織には、先ほどからアントニアが口にしてきた内容が、ようやく形をとって見えてきたような氣がした。この女性は、詩織が知っている、彼女がPの街に到着してからずっと案内してくれて、かけがえのない友達になっていたコンスタンサとは似ても似つかない別人だった。あのヘーゼルナッツのような色合いの髪の、天使のように儚い美少女はいっても17、8歳だったはずだ。けれど、その場にいるのは、アントニアと変わらぬほどのしっかりとした成人で、黒髪に濃い焦げ茶の瞳を持った意志の強そうな女性だった。
「はじめまして、スィニョーレ・ヴォルテラ。こんにちは、シオリ」
女性は平然と口にした。ローマでロレンツォにクリスティーナ・アルヴェスを紹介したマヌエル・ロドリゲスも、それについて何の訂正もしなかった。ロレンツォと詩織は、さきほどアントニアが口にしていた「開いた穴」とはコンスタンサという存在で、それを「塞いだ」のが、ここにいるもとクリスティーナと呼ばれていた女性なのだと理解した。
二人が、席につくと、午餐がはじまった。詩織は、給仕をする召使いたちも、黄金の腕輪をしていることに目を留めた。継ぎ目のない黄金の腕輪。手首の内側に、男性には青い、女性には紅い透き通る石がついている。詩織はどちらもコランダムではないかと思った。色と輝きからすると24金に見えるし、ルビーやサファイアを使っているとすると、召使いとして生計を立てる人間が簡単に買えるような値段のはずはない。しかも、それぞれの違う太さの手首にぴったりと嵌まっている。それは一つひとつがオーダーメードだということを示している。詩織が腕輪に職業的興味を示しているのを見て、ロレンツォは微かに笑った。
料理は、格別手が込んでいるように見えないのに、味わい深かった。白いジャガイモのヴィシソワーズに渦巻き型に流し込まれた緑色のピュレ。コンスタンサと一緒に街の食堂で食べたカルド・ヴェルデという青菜のスープだろうと思った。それはずっと滑らかで青臭さはまるでないのに、しっかりとした味を感じた。
サラダには薄くスライスしたゆでだこがカルパッチオのようにのっていたが、ひと口食べてみてその柔らかさに驚いた。ソースは実にシンプルで、たこの味が浮き上がるように計算されていた。
マデイラワインを贅沢に使ったローストポークも、とても柔らかくてジューシーだった。それに、日本人の詩織にとってはどこかなつかしい、舌に馴染む味だった。海外旅行から日本に戻って、母親のみそ汁を口にした時に旅の疲れがほどけていくような、安心する懐かしさがある。
ロレンツォは、ワインにも驚嘆しつつ、マヌエルに話しかけていた。
「枢機卿は、アルゼンチンへ行かれたのだろう。君も同行するものだとばかり思っていたが」
「いいえ。私は役目を辞して、ここへ戻ることになったのです」
「なんだって? それはまた急じゃないか」
「ええ。わかっています。家業に従事することにしたのです。猊下にもお許しをいただきました」
ロレンツォは、この青年が特別の家系に生まれ、親と同じ仕事をして生きるのを嫌がって、この街から離れるために神学生になったことを知っていた。この急な帰国がコンスタンサの件と無関係とは考えられなかった。だが、マヌエルは迷いのない表情をしていた。
別れの時間が来た。玄関でロレンツォの頬に軽く親愛の口づけをし、それから詩織を優しく抱きしめると、アントニアは首に掛けていたハート形の黄金の針金細工を外し、詩織の首に掛けた。
「これは……?」
「この国の伝統工芸でフィリグラーナといいます。女の子が生まれると、両親はその子の幸せを祈り、これを少しずつ買い集めて、婚礼に備えるのです。これは、私の父と母から贈られたもの。幸せな花嫁になるあなたへの私からの小さな贈り物です」
「そのように大切なものを……」
「どうぞ受け取ってください。花嫁になることのない私には宝の持ち腐れなのですから」
車で送らせるというアントニアの言葉を断り、先程と同じバスに乗って、さらにボアヴィスタ通りが終わる所、大西洋に面したフォスまで行った。カステロ・ド・ケージョというクリーム色の要塞が建っている。
「ほら、さっき食べたチーズみたいな形だろう。だから、チーズのお城って言うんだ」
ロレンツォは、その説明をしながらも、どこか心は遠くにあるようだった。
「美味しい食事だったわね」
詩織はわざと関係のなさそうなことを言ってみた。彼は詩織の方を見て、頷いた。
「ねえ。訊いてもいい?」
「何を?」
「食事の最中に、ヴァイオリンの弾き手のことで、奇妙な会話をしていなかった?」
デザートが運ばれてくる前に、ロレンツォがずっと聴こえているヴァイオリンの演奏について口にしたのだ。
「先日お伺いした時にも申し上げたかったのですが、見事な演奏ですね。もし可能でしたらお近づきになって、素晴らしい演奏に対してのお礼を申し上げたいのですが」
するとアントニアは、にっこりと微笑みながら答えたのだ。
「そのお言葉を伝えたら、大層喜ぶと思いますわ。あれは、前当主のカルルシュが弾いているのです」
ロレンツォは、押し黙って、アントニアの顔を見つめた。彼女は少し間をとってから続けた。
「ですから、ご紹介はできないんですの。ご理解いただけますでしょうか」
「それは、もちろん、わかります」
詩織は、大西洋の優しい潮風を感じながら、ロレンツォの顔を見た。
「前の当主が引退してあそこに住んでいるってことでしょう? でも、どうして紹介できないの?」
「ドン・カルルシュが五年近く前に亡くなったからだ。父はその葬儀に出たんだ」
「え?」
「そう。あのヴァイオリンを弾いていたのは、幽霊ということになる。それに……」
ロレンツォは、詩織と自分の履いている靴を眺めた。詩織が履いている靴を見て、アントニアは微笑みこう言ったのだ。
「その靴、お氣に召しました?」
「はい。こんなに履き心地のいい靴ははじめてです。大切にします」
「そうアルフォンソに伝えましょう。彼からの伝言です。もし合わない所があったら遠慮なく言ってほしいと、納得がいくまで作り直すからと。この靴は、彼が作ったのです」
二人は目を丸くした。謎の靴職人が当主その人だなんて、誰が信じるだろうか。
「あれも、同じ意味だったのかもしれない。ドラガォンには、たくさんの幽霊がいると聞いたことがある」
「ドラガォン?」
首を傾げる詩織をロレンツォはおかしそうに見た。
「まさか、あの人たちを靴制作の集団だとは思っていないだろう」
「そりゃ、思っていないけれど……でも、ドンナ・アントニアとあなたが話していた内容、ほとんど何もわからなかったわ。そういうことに首を突っ込んだりしちゃ、いけないのかと思っていたし」
「私が知っていることを全て話すわけにはいかない。でも……」
「でも……?」
「お前の友達と、あの女性が入れ替わったことはわかっただろう?」
「ええ、なんとなく」
「トトが、どうやってヴィエイラ嬢と書店員の青年のことを知り、首を突っ込んだのかはわからない。彼らしい優しさに満ちた手助けだったんだろうな。だが、それはヴォルテラ次期当主のとった行動としては大失態だった」
「失態?」
アントニアが、食堂へ移動する前に口にした言葉を思いだした。
「スィニョーレ、弟様にくれぐれもお伝えください。これは我々からの意趣返しでも報復でもないのです。私たちには他に使えるカードがなかったのです」
「報復がどうとか、おっしゃっていたこと?」
詩織が訊くと、ロレンツォは頷いた。
「報復ではなくとも、警告なのかもしれないな。火傷をしたくなければ二度とこんなことはするなと」
「どういうこと?」
「ヴォルテラ家の当主、大きな組織の長として、大きな問題を把握し事態を打開していく時に頼りになるものは何だと思う?」
詩織は考えた。
「財力……いいえ、違うでしょうね。判断力や頭の良さ、それとも人間関係?」
「そうだ。一番大切なのは人脈だ。億単位の金を何も訊かずにすぐに動かしてくれる人物、何かあった時に必要な情報をすぐに集めてくれる人間、自分の危険すらも省みずにこちらのために働いてくれる人びと。そうした人びとは、親の代からのつながりでも知り合うが、結局は本人が心から信頼できる人間をどれだけ増やせるかにかかっている。トトにはドラガォンとのつながりも不可欠だ。ドン・アルフォンソの統べているドラガォンは、秘密結社的な巨大システムだ。とくにヴァチカンを快く思わない特定のキリスト教徒たちに対して、ある種の絶対的な影響力を持っているんだ。偶然知り合ったクリスティーナ・アルヴェスという存在は、トトにとって神からの恩寵も同然だった。ドン・アルフォンソやドンナ・アントニアが家族も同然に思っている特別な女性だ。ヴォルテラがドラガォンの協力を必要とする時にパイプ役としてこれ以上の人物はまずいない。しかも、ローマにいたんだ」
「あの女性が……?」
「そう。それなのに、あいつは意図せずに、そのクリスティーナ・アルヴェスと、お前の友達、ヴォルテラにとっては何の意味もない恋する少女を交換してしまったんだ。父がこのことを知ったら、なんて言うか。今から頭が痛いよ」
詩織には、あまりにも大きな話でピンと来なかった。金の腕輪をしている奇妙な人たち。何人もいるらしい幽霊。聞いた事もない組織。現実のものとは思えない。ロレンツォは、首を傾げている詩織に笑いかけた。
「もっともお前にとっては、朗報だな。あの二人は、新しいクリスティーナ・アルヴェスとその恋人として、ローマに住むことになる。新しい友だちといつでも逢えるぞ」
それは確かに朗報だった。乗りたかったレトロな路面電車は、二人を迎えにきたかのようにそこにきて停まった。海からの心地よい風が吹いている。ロレンツォと二人でここにいる。素敵なことばかり。詩織は胸元のフィリグラーナをぎゅっと握りしめた。
(初出:2015年2月 書き下ろし)
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【小説】そよ風が吹く春の日に
「scriviamo! 2015」の第九弾です。TOM-Fさんは、「マンハッタンの日本人」を新たに大きく展開させた作品を書いてくださいました。ありがとうございます。
TOM-Fさんの書いてくださった『この星空の向こうに』第2話サザンクロス・ジュエルボックス -Featuring『マンハッタンの日本人』
TOM-Fさんの関連する小説:
「天文部」シリーズ
『この星空の向こうに』-Featuring『マンハッタンの日本人』
TOM-Fさんは、時代物から、ファンタジー入りアクション小説まで広い守備範囲を自在に書きこなす小説ブロガーさんです。どの題材を使われる時も、その道のプロなのではないかと思うほどの愛を感じる詳細な書き込みがなされているのが特徴。その詳細の上に、面白いストーリーがのっかっているので、ぐいぐい引き込まれてしまいます。お付き合いも長く、それに、私にとっては一番コラボ歴の長い、どんな無茶なコラボでもこなしてくださるブログのお友だちです。
今年は、去年に続き『天文部』シリーズと『マンハッタンの日本人』を絡めて参加してくださいました。それも、ものすごい変化球で……。
もう前回で最終回かと危ぶまれていた『マンハッタンの日本人』シリーズですが、終わりませんでした(笑)しかも、なんかいいなあ、美穂。私も予想もしていなかった展開なんですけれど。今年はいったいどうしたんだろう。
今年も同時発表になっていますが、時系列の関係で、TOM-Fさんの方からお読みいただくことをお薦めします。
【参考】
読まなくても話は通じるはずですが、まとめ読み出来るようにしてあります。
「マンハッタンの日本人」あらすじと登場人物
「マンハッタンの日本人」シリーズ
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
「マンハッタンの日本人」シリーズ 10
そよ風が吹く春の日に
——Special thanks to TOM-F-san
桜かあ。春になっちゃったねぇ。キャシーはダイナー《Cherry & Cherry》のカウンターに肘をついて、ぼんやりと考えた。毎年、セントラル・パークに桜が咲く頃になると、人びとの頭の中からウィンタースポーツのことは消える。キャシーの頭の中からは消えないけれど、実際に滑ることは不可能になるので、陸の上でできるトレーニングを黙々とこなすようになる。次の冬のステップアップに向けての大切な時期ではあるけれど、滑ることそのものが好きなキャシーには残念な季節だ。
それで仕事でのやる氣も若干そがれる季節なのだが、今年は同居人がプライヴェート上の悩みを振り払おうと、やけに頑張って働くのでダラダラするのに罪悪感が伴い、キャシーにしては真面目に仕事に励んでいた。美穂は早く出勤して、モーニング・セットのためにブラウン・ポテトを作っている。後から出勤してもいいのだが、それを作りながら、もともとその仕事をするきっかけになった男のことを思いだして、彼女がまためそめそしているんじゃないかと思うと、どうも二度寝を楽しむ氣になれない。それでキャシーは美穂と一緒に出勤して、掃除やその他の開店準備をすることになった。
そうやって早くから用意していると、時間に余裕ができるのか、今まで見えていなかった粗が目につくようになる。ずっと動かしたことのない棚の中の食器の位置を変えて、出し入れがスムーズになった。そうすると配膳が楽になり、ナフキン入れやケチャップ・マスタード立ての曇りに目がいった。いつの間にか客たちの文句が減り、会話が増えたように思う。美穂が《Star’s Diner》ではじめた「オシボリ」とかいう、小さいタオルを手ふきとして出すサービスも、最初は仕事が増えるだけとしか思わなかったが、反対に客がテーブルや床を汚すことが圧倒的に減り、毎日ふきんやミニタオルを洗濯する手間はほとんど変わらないのに仕事が楽になっていくように思う。
その変化は《Cherry & Cherry》の常連たちにも好評だった。緩やかに変化を見てきた人たちはそうでもなかったが、しばらく足が遠のいていて久しぶりにやってきた客たちは一様に驚いて何があったのかと訊きたがった。美穂は通常はキッチンにいて人びとと接する機会はあまりなかったのだが、説明を面倒に思うキャシーはその度に、キッチンから美穂を引きずり出して「この子が、変えてくれたの」と説明しては済ませていた。
入口のドアが開いて、今日最初の客が入ってきた。あらぁ、久しぶりだこと。ジョセフ・クロンカイト。キャシーがフルネームを知っている数少ない客だ。と言っても、自己紹介をされて知っているわけではなく、CNNの解説委員としてテレビに出ている有名ジャーナリストだからなのだけれど。
「おはよう、ミスター・クロンカイト」
キャシーがいうと、その男は、驚いたような顔をしてから、言った。
「君か、キャシー」
「あ、今、がっかりしたでしょう」
「い、いや、していないとも。おはよう。ところで怪我をしたんだって。大丈夫か?」
「ありがとうございます。つまり、昨日の、財布を落としたお客さんってあなただったんですね、ミスター・クロンカイト。とてもおいしい食事をご馳走になったってミホが言っていたけれど」
美穂はどうやらこの男が何者なのかわかっていないらしい。それもそうだ。ひと口にジャーナリストと言われても、コミュニティ紙編集部から従軍記者までさまざまだ。ジョセフ・クロンカイトは有名人と言っても俳優ではないので、ニュースを観ない人間にまでは知られていない。それに美穂は外国人だ。前に住んでいたアパートメントにはテレビはなかったし、キャシーと暮らしはじめてからも二人でCNNのニュースを観ることなどほとんどない。知らなくても不思議はない。
「君は、いいジャーナリストになれるね。もう何もかも聞き出したのか?」
「ふふん。日本人から何もかも聞き出せるほどの腕があったら、こんな所で働いていると思います? ところで、珍しいですね。二日続けてくることなんてなかったじゃないですか。ここの所全然来なかったし」
「取材でアメリカにはいなかったんだ。来ない間に、ずいぶんとこの店が変わっていたんで驚いたよ。これならもっと足繁く通ってもいいね。モーニングセットを頼むよ。ところで、今日はミホは……」
カウンターに腰掛けたジョセフが全て言い終わる前に、キャシーは「ふ~ん」という顔をした。目の前に素早く、カトラリーと「オシボリ」を置くと、キッチンに向かいながらウィンクした。
「残念ながら、ミホはオーナーに呼び出されて《Star's Diner》へ向かっているんです。一時間は帰って来ませんよ。今日は私だけで我慢して、また明日にでも来るんですね」
ソイミルクを通常よりも多く入れたコーヒーと、ブラウン・ポテトの少なめのモーニングセットを彼の前に置いた。
「悪いが、昨日以来、ブラウン・ポテトはたっぷり入れてもらうことにしたんだ」
「なるほど。わかります」
ジョセフはことさら無表情を装っていたが、キャシーはその様子をみて心の中で笑った。ブラウン・ポテトって、こんなに効能のある食べ物だって、この歳まで知らなかったな。この人までがミホに興味を持つとはねぇ。これはひょっとすると……。
「あ!」
その声に我に返ると、ジョセフはスラックスのポケットに手をやっていた。
「どうしたんですか。まさか昨日の今日で、また財布をなくしたとか?」
「そのまさかだよ。家に忘れたのかな? なんて失態だ。すまない、後で支払いにくる」
キャシーはため息をついた。この人の硬派で完璧主義のイメージ、見事に崩れちゃったわ。しょうがないなあ。
「後でって、遅くなるんでしょう。私たち、五時までの勤務だし、それ以後だと困るんですけれど」
どうしようかと考えはじめているジョセフが何かを言い出す前にキャシーは続けた。
「ミホに《Star's Diner》からの帰りに集金に行かせます。わざわざ出向くんですから、コーヒーくらいはおごってやってくださいね」
ジョセフは言葉を見つけられずに、眼鏡を掛け直していた。キャシーは続けた。
「ただし。あの子はあなたの周りにいくらでもいるような、要領がよくて恋愛ゲームにも慣れている華やかな女性とは違いますから」
他の客たちが次々と入ってきたので、キャシーは忙しくなり、ジョセフも彼女に対して美穂をナンパしようとしているわけではないという趣旨のことを言い出しかねた。
美穂はタイムワーナーセンターの入口で守衛に話しかけるために勇氣をかき集めた。昨日はここに辿りつく前に、あの人が見つけてくれたんだけれどな。
「CNNのジョセフ・クロンカイトさんを呼んでいただきたいんですが」
守衛はせせら笑った。
「君、彼のファンか? 受付で呼べば本物のジョセフ・クロンカイトがのこのこ出てくるとでも?」
「え……」
美穂は、ジョセフが有名人らしいとようやく氣がついた。モーニングセットの代金をもらいにきたなんて言ったらますます狂信的ファンの嘘だと思われるだろう。携帯電話の番号はあるから、連絡をして下まで降りてきてもらうことはできる。でも、仕事中で忙しいのかもしれないし、これっぽっちのお金のことで、本氣でここまで押し掛けたと呆れられるのが関の山だろう。自分のポケットから払って、終わりにした方がずっと早い。
「わかりました。帰ります」
美穂は踵を返して、エスカレーターを降りた。この新しい大きなビルには、五番街の銀行に勤めていた頃に何度か来た。セントラル・パークに近い新しい話題のスポット。ニューヨークの今を生きる自分にふさわしいと来るのが楽しみでしかたなかった。仕事を失って以来、その晴れ晴れしさがつらくて避けていた。
昨日、ジョセフに連れられて、久しぶりにこの建物の中に入って、別の惑星にいるように感じた。マンハッタンにいるのはずっと同じなのに、摩天楼にはずっと足を踏み入れていなかった。アパートと、職場と、地下鉄と、スーパーマーケットと、いつもの場所を往復するだけの生活に慣れてしまっていた。
《Star's Diner》や《Cherry & Cherry》の仲間たち、常連たち、オーナー、キャシー、そして……。いなくなってしまった人の面影がよぎる。美穂の世界は、とても小さい所で完結していた。《Cherry & Cherry》から歩いて30分もかからない所にあるこの建物はその世界の外にあった。そして、もう二度と関わることのない、関係のない場所になっていた。
昨夜のジョセフの言葉が甦る。
「……そうやってこの街の底辺をさ迷いながらも、少しずつ自分の居心地のいい場所を見つけられたからね。もっとそういう場所を増やしたくて、前だけを見て、上だけを向いて、無我夢中で頑張ってきた。気がついたら、ニューヨークに好きな場所がたくさんできていたんだ」
美穂の好きな場所は減っていくばかりだ。上を見て、上を目指して頑張ったこともない。ジョセフも、ポールも、人生を大きく変えるために、必死で頑張っていた。ジョセフは戦火を逃れてこの国に来たと言っていた。地獄から歯を食いしばって這い上がってきたのだろう。穏やかで冷静な言動の底に、壮絶な時間の積み重ねがあるのだ。
美穂は、そんな苦労はしたことがない。地元でも知られていない何でもない学校を卒業し、なんとなくアメリカに憧れて留学し、そこそこ頑張って得た銀行の事務職で天下を取ったようなつもりになり、失業や失恋したぐらいで世界に否定されたと嘆いていた。《Star's Diner》や《Cherry & Cherry》、それにキャシーと暮らすアパートメントは居心地が悪いわけではないけれど、ずっとここにいるべき場所、もしくはどこにも行きたくない大切な場所とは思っていない。むしろ、いつまでも甘えて迷惑をかけているのではないかと時々不安になる。不安定。それが今の自分に一番ぴったりくる言葉なのかもしれない。
だからこそ、大きいものは何もつかめないのだろう。この街の中に好きでたまらない場所が増えていかない。居場所がいつまでも見つからない。
昨夜ジョセフは、食事をしながらたくさんの興味深い話をしてくれた。世界を見つめている視点が違う。視野が広い。時間が経つのを忘れた。風が冷たかったエンパイア・ステート・ビルディングの展望台では、上着を脱いで美穂に掛けてくれた。彼女の日常にはほど遠い夢のような時間だった。職場の客と店員という立場を超えて、もっと親しくなれたらいいと思った。友人などという大それた立場ではなくて、尊敬する人として時々話すことができたら世界が違って見えるだろうと思ったのだ。だが、その想いは、彼がこの街で成功した有名人だとわかった途端にしぼんでしまった。
ショッピングモールの入口では、音楽が流れていた。あ、またセリーヌ・ディオンだ……。『All By Myself』か。マイクに振られてしばらくは、この曲を耳にすると泣いていたっけ。「もう一人ではいたくない」と。
All by myself
Don't wanna be
All by myself
Anymore
今の美穂は、この曲を聴いて泣きたくなることはない。特別な誰かにめぐりあいたいとも思っていない。もうめぐりあって、それで手を離してしまったのか、それともそれすらも幻想だったのか、わからなくなっている。
わからない。一人ではいたくないのかな。それとも、このまま、波風が立たないでいられる一人の方がいいのかな。わからないのは、それだけじゃない。ただ生きていくだけの人生って問題があるのかな。成功を、上を目指せない私は、この国、この街には向かないのかな。
とぼとぼと歩いていると、携帯電話が鳴った。誰だっけ、このナンバー。受けた途端、わかった。
「いま、どこにいるんだ?」
ハキハキとした声は、昨日と同じ。ジョセフ・クロンカイトは少し怒っているようだった。
「あ、その……」
「もしかしてと思って、守衛に電話してみたら、帰ったと言われたんだが。電話番号がわからなくなった?」
「え、いいえ、その……」
面倒になったので自分で払って終わりにしようと思ったとは、言えない。そういう解決策は、この国では全く理解してもらえないことだけはよくわかっていた。ましてや、こういう理路整然としたタイプに言えば、確実に厄介な会話が後に続く。これはアメリカで美穂が覚えた有用な知識の一つだった。
「どこにいる?」
もう一度訊かれて、美穂は、ようやく自分が立っている位置を口にした。「そこを動かないように」と釘を刺された。人びとが忙しく行き交う明るいエントランスに美穂は立ち尽くした。
世界は、ままならない。一人でいたくないと思うと一人にされるし、迷惑がかからないようにしようと思うと連絡をしなかったと怒られる。わかるのは一つだ。美穂は世界を動かしていない。世界が彼女を動かしているのだ。
エスカレーターからジョセフが降りてくるのが見えた。周りの女性たちが彼に氣づいてチラチラと見ながらお互いに囁いているのがわかった。隙のない品のいいグレーのスーツ、セルリアンブルーと紺の中間のようなシルクのネクタイ、きつちりと撫で付けられた金髪。時に冷徹に見える縁なしの眼鏡。言われてみれば、有名人と言われても納得するオーラを漂わせている。そんな近付き難い人だが、昨夜見せてくれたような細やかな優しさもある。
「待たせたね。早めのランチをする時間はあるか」
美穂は大きく頭を横に振った。もうじき11時になる。
「できるだけ早く店に戻らないと。ランチタイムはとても忙しいんです。今、キャシー一人ですし」
「そうか。じゃあ、夕方に改めてお礼をさせてもらおう」
「そんな。いいです。昨夜も十分過ぎるほどでしたし、お忙しいのはわかっていますから……」
ジョセフは有無を言わさぬ口調で美穂の固辞をさえぎった。
「そうはいかない。君に訊きたい日本語の単語もあるしね。キャシーは君たちは五時で上がりだと言っていたな。五時十五分に迎えにいくのでいいかな」
何かがおかしい。美穂は思った。たかだかこれっぽっちの集金のことで、大袈裟だ。でも、抵抗しても無駄みたい。そういえば昨日、知り合いに日本人の女の子がいるって言っていたわよね。その女の子と恋愛でもしていて、相談したいことでもあるのかしら。
雲の上の人と二度も食事に行けるのが、その女性のおかげなら感謝しなくちゃね。美穂はほんの少しだけ浮き浮きした足取りで、キャシーの待つ《Cherry & Cherry》へと戻っていった。桜の花びらの舞うそよ風に、マンハッタンの季節も動いていくようだった。
(初出:2015年2月 書き下ろし)
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【小説】サン・ヴァレンティムの贈り物
「scriviamo! 2015」の第十弾です。山西 左紀さんは二つ目の参加として、前回の『絵夢の素敵な日常(初めての音)Porto Expresso2』の更に続きを書いてくださいました。ありがとうございます!
山西 左紀さんの書いてくださった『Promenade 2』
山西 左紀さん関連する小説
絵夢の素敵な日常(10)Promenade
絵夢の素敵な日常(12)Porto Expresso
絵夢の素敵な日常(初めての音)Porto Expresso2
すてきなお嬢様、絵夢が繰り広げる一連の作品は、左紀さんの作品群の中ではほんの少し異色です。どの作品も素敵なのですが、このシリーズは他の作品群と較べて、楽しく彩られているように思うのです。明るくて凛としていて、そしてどこかユーモラスな絵夢が、周りを優しく力強く変えていくのですが、そこにはどこも押し付けがましさがなくて魅力に溢れています。このシリーズは、リクエストして掘り下げていただいたり、Artistas callejerosとコラボしていただいたり、何かと縁が深くてものすごく親しみを持っている世界なのですが、さらに私が三年前から狂っているポルトの街にもメイコとミクを住まわせていてくださって、「マンハッタンの日本人」の舞台ニューヨークに負けないコラボ場所になっていたりします。「ローマ&ポルトチーム」も、scriviamo!の定番舞台になってきたみたいで、ニマニマが止まらない私です。
さて、左紀さんの作品では、悩みがあり絵夢に力づけてもらっているミク。ポルトで彼女の帰りを心待ちにしている歳下の男の子ジョゼは、ヴァレンタインデー(Dia de São Valentim)に想いを馳せています。
で、ブログのお友だちにわりと人氣のある誰かさんの靴、サキさんはいらなかったかもしれないけれど、無理矢理押し付けちゃうことにしました。受け取ってくれると嬉しいです。
【参考】
追跡 — 『絵夢の素敵な日常』二次創作
再会
![]() | Infante 323 黄金の枷 |
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
サン・ヴァレンティムの贈り物
——Special thanks to Yamanishi Saki san
ボンジャルディン通りは地下鉄トリンダーデ駅からさほど遠くない。だが、ジョゼの勤め先のあるサンタ・カタリナ通りのような華やかさはなく、この街に住んでいてもどこにあるのかわかる人間は少ないだろう。間口の狭い家が身を寄せあうように建っている。一階は店になっている所が多いが、店子が見つからないまま何年間も放置されているような家も多い。
ジョゼは家番号を確認しながら歩き、通り過ぎていたことがわかってまた戻った。ここか? 本当に? 目を凝らすと、確かにショウウィンドウと言えなくもないガラスの窓があって、そこには三足の靴が並んでいた。よく見ると赤字で「売約済み」と書いた札がついている。
ジョゼはきしむ古いドアを押して中に入った。中には少し長めの白髪の小男が座って、靴を修理していた。灰色の荒いチェックのシャツに緑色のエプロンを掛けている。
「あ~、ビエラさんって、ここでいいんですか」
「わしがビエラだが」
老人は鼻にかかった丸いフレームの眼鏡の上側からジョゼを見定めて無愛想に答えた。
こんな流行ってなさそうな小さな店だとは思わなかった。ジョゼは手元の黒いカードをもう一度ひっくり返した。裏の白い部分にここの住所と、靴が必要になったらここを訪ねるといい、手間に対するお礼だと書いてあった。このカードをジョゼにくれたのは、この世のものとも思えぬ美しい貴婦人だった。幼なじみのマイア・フェレイラに秘密の用事を頼まれた時のことだ。ウェイターとして働くジョゼの勤め先にやってきた黒髪の美女が、チップを渡すフリをしてマイアの手紙をこっそりと手渡して帰っていったのだが、その封筒の中にこのカードが入っていたのだ。
あれから何ヶ月も経った。ジョゼはこのカードのことをすっかり忘れていた。思い出したきっかけは、愛用の安物の靴に穴があいてしまい新調しようとしたことだった。はじめは、デパート「エル・コルテ・イングレス」に行き、それからサー・ダ・バンデイラ通りの靴屋を何件かぶらついたが、ピンと来る靴が見つからなかった。一ついいのはあったのだがサイズが合わなかった。その時に突然このカードのことが頭に浮かんだのだ。
「靴が欲しいんですが……」
と周りを見回したが、新品の靴はウィンドウに置かれている三足しかなさそうだった。その靴は、見るからに柔らかい本革で出来ているようで、オーソドックスながらも品のいいフォームだった。こういうのが欲しかったんだけれどな、売約済みじゃしょうがないよな。
「ないみたいですね。失礼しました」
そういって出て行こうとするジョゼをビエラ老人は引き止めた。
「そのカード、見せてもらおう」
ジョゼは、素直にカードを渡した。それは黒地に竜が二匹エンボス加工で浮き上がっており、右上に赤い星が四つついていた。裏の字は印刷で、署名もなかったが、老人は頷いた。
「ドンナ・アントニアの依頼じゃな。ここに座って、靴と靴下を脱ぎなされ」
「は?」
「あんたの足型をとるので、足を出すのだ」
「い、いや……オーダーメードの靴を作るほどの予算は……」
そういうとビエラはじろりと見て、立ち上がると、粘土の用意を始めた。
「そこにある靴はオーダーメードではないが、それでもあんたの予算にはおさまらんよ。このカードがあるということは、あんたが払う必要はない。足を出しなされ」
タダで作ってくれんのか? そこにあるみたいなかっこいい靴を? 嘘だろう?
「あの……ちなみに、そこにあるような靴は、いくらくらいで買えるんですか」
老人は粘土を練りながら答えた。
「それは、この店で買うから350ユーロだ。イタリアに持っていった分は同じものが1100ユーロで取引されている」
「ええっ! じゃあ、オーダーメードだともっと高いんじゃ……」
「材質や仕事の量によって違うが、600ユーロはもらっておるよ」
ジョゼは目をぱちくりさせた。なんだよ、手紙を誰かに送っただけで、なんでこんなお礼を貰えるんだ……。ビエラは、あれこれと考えているジョゼにはかまわずに、まず右足の型を取り、粘土で汚れた足をバケツの水で簡単に濯がせるとタオルをよこして拭けと手で示した。
左足の型を取っている時に、ジョゼは突然叫んだ。
「ストップ。ストップ! やめだ、やめ! そのカード、返してくれ」
ビエラは眉をひそめて訊き返した。
「なんだと?」
ジョゼは足をバケツに突っ込んで、粘土を洗った。
「ごめん。このカードがあれば、僕じゃなくてもタダでそのすごい靴を作ってもらえるんだろう?」
「ああ、そうだが?」
「僕のじゃなくって、ある女の子の靴を作ってほしいんだ」
「誰の」
「今、この街にいない。もうすぐ、戻ってくるんだ。その子にプレゼントしたい」
ミクがこの街に帰ってくる。もうすぐサン・ヴァレンティムの記念日だ。ジョゼは、ミクに特別のプレゼントをして、氣もちを伝えるつもりだった。まだ、プレゼントは見つかっていなくて、焦っていた。真っ赤な薔薇、それとも長い髪に似合う、高価なレースでできたリボンはどうか。特別じゃなくっちゃ。僕が冗談を言っているんじゃない、本氣なんだってわかってもらえるものを。指輪を贈ろうかとも思ったけれど、それではありきたりすぎる。もっと特別なものでなくちゃ。
600ユーロもするオーダーメードの靴ならきっと喜んでくれる。舞台でも映えるに違いないし!
「彼女にプレゼントしたいのはわかったが、あんたは靴が必要だからここに来たんじゃないのか」
それを聞いて、ジョゼはちらっと窓辺の靴を見た。
「それ、ちょっとだけ履いてみてもいいかい?」
「いつも履いているサイズは?」
「42」
「その真ん中のヤツだ」
ジョゼは、売約済みの茶色い靴を履いた。柔らかい皮にぴったりと包み込まれた。歩いてみると、雲の上に浮かんでいるようだった。締め付け感がまるでなく、しかし、ブカブカではなかった。ジョゼはすぐに決心した。
「これと同じのを注文したいな。数ヶ月、必死で働いてお金を貯めなきゃいけないけどさ」
ビエラは靴に魅せられているジョゼと、手元の型を取ったばかりの粘土をじっと見ていたが、やがて「わかった」と言って黒いカードをジョゼに返した。ジョゼは幸せな氣持ちになってビエラの店を後にした。
ジョゼは、ミクと一緒にビエラの店の扉を開けた。ショートカットになったミクは耳元にキラキラ輝くトパーズの並んだヘアピンをつけている。颯爽と歩く姿は前と同じだけれど、女性らしくなったように思う。そういえば、ジョゼの前ではなくて隣を歩くようになった。
二週間前、この街に帰ってきてすぐにこの店に連れてきた時には、やはりあまりに閑散とした棚に驚いていたが、ビエラ老人とどんな靴がいいか話している間にすっかり信頼するようになり、出来上がりを楽しみにしてくれていた。
明日、ミクはローマへと旅立つ。ポリープのために歌手としての生命を絶たれるかもしれないと打ちのめされていたが、絵夢に紹介してもらい、世界的権威である名医の診察を受けられることになったのだ。新しい希望が、彼女をさらに生き生きとさせている。その直前に来た靴の出来上がりの連絡は、彼女が幸運の女神に愛されていると告げているようだ。
「いらっしゃい。待っていたよ」
ビエラは、後ろの棚から白い箱を取り出した。蓋があくと、ミクは息を飲んだ。
緑がかった水色でできた絹のハイヒールだった。ヒールは太めで、飾りの白いリボンが可愛らしい。
「こりゃ、かわいいな」
ジョゼも驚いた。ミク本人を知っている人が作ったみたいだ。
「履いてごらん」
ビエラは靴べらを渡した。ミクは宝石を持ち上げるように靴を取り出すと、新しいので多少当たって痛いことを予想しながらつま先を靴の中に滑らせた。
「え?」
全く痛くなかった。どこも当たらない。歩く時に普通のハイヒールだと強く感じる前足部の痛みもなかったし、外れそうになることもなかった。オーダーメードの靴って、こんなに楽なんだ! しかも低い靴を履いている時と同じように安定して、まっすぐに歩ける。
ジョゼは嬉しそうなミクを眩しそうに見ていた。本当によく似合っている。子供っぽい所のある姉貴だと思っていた。それに、この靴は大人っぽいというよりも可愛い方だと思った。でも、こうやってハイヒールを履いて歩くと、ミクの長い足がとても綺麗に見えてセクシーでもある。喜んでくれてよかった。これなら、自分の靴のために何ヶ月もパンと水だけで暮らすのもなんでもないや。
二人が礼を言って帰ろうとすると、ビエラが呼び止めた。
「こっちはあんたの靴だ」
そう言って、もう一つの箱を取り出してジョゼに渡した。ジョゼは黙って中身を見つめた。最初にこの店で見た、あの茶色い靴ではなくて、もう少しフォーマルに見える黒い靴だった。明らかにあの靴より高いだろう。
「これは……」
「茶色い靴がほしければ、ゆっくりと金を貯めるがいい。これはあんたが女の子のために自分の靴を諦めたことを聞いた靴職人からのプレゼントだ」
「よかったね! ジョゼ!」
ミクが抱きついてきた。彼は真っ赤になった。
プレゼントは渡した。期は熟した。今日はサン・ヴァレンティムの日。絶対に今日こそ告白するぞ。……告白できるといいんだけれど。いや、今は診察前で、それどころじゃないだろうから、姉貴がイタリアから戻ってきてからの方がいいかな。
「姉貴。頑張れよ。その靴を履いて、また舞台に立てるようにさ」
ジョゼは、今日の所は、これだけしか言わないことにした。
(初出:2015年2月 書き下ろし)
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【小説】楔
「scriviamo! 2015」の第十一弾です。ポール・ブリッツさんは、「マンハッタンの日本人」を更に進めた作品を書いてくださいました。ありがとうございます。
ポール・ブリッツさんの書いてくださった『働く男』
ポール・ブリッツさんの関連する小説:
『歩く男』
『食べる男』
『夢を買う男』
『待つ男』
ポール・ブリッツさんはどちらかというとフェードアウトをご希望かと思いきや、とんでもなく。予想外にこじれています。「マンハッタンの日本人」シリーズ(笑)
はまりつつある泥沼をご存知ない方のために軽く説明しますと、ニューヨークの大衆食堂で働くウルトラ地味なヒロイン谷口美穂は、どういうわけか元上司で今はサンフランシスコに行ってしまったポールと、客で有名ジャーナリストであるジョセフの二人に想いを寄せられる異例の事態になっています。ポールと美穂は相思相愛だったのですが、どちらもダメになったと思い込んでいて、連絡も途絶えています。そこに表れたジョセフからのアタックなのか違うのかよくわからないアプローチに、美穂は戸惑っているのが前回までのストーリーでした。
ポール・ブリッツさんの作品でのポールは、こちらが手の出しようもないみごとなグルグルっぷり、「これをどうしろというのよ」と悩んだ結果、私なりのウルトラCで無理に事態を動かすことにしました。ただし、ポール・ブリッツさんへの返掌編ではありますが、両方に公平にチャンスを与えることにしました。
事態打開のために、TOM-Fさんのご協力をいただきました。大切なキャラ二人を快く貸してくださったことに心から御礼申し上げます。
この後のことを、宣言させていただきます。より女心をぐらりとさせるアタックをして、私と読者の方々に「こっちだ!」と納得させた方に美穂をあげます。「女心と秋の空」っていうぐらいですから、結末はどうとでもなります。って、二人共から見事にフラれる「やっぱりね」の結末もありますけれど。
なお、この泥沼に、更に殴り込み参戦なさりたい方は、どうぞお氣兼ねなく。はい、私、やけっぱちになっております。
【参考】
読まなくても話は通じるはずですが、まとめ読み出来るようにしてあります。
「マンハッタンの日本人」あらすじと登場人物
「マンハッタンの日本人」シリーズ
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
「マンハッタンの日本人」シリーズ 11
楔
——Special thanks to Paul Blitz-san
不思議な時代だ。ただの日本人が、ジュネーヴからの電話をニューヨークで受けている。美穂は、ぼんやりと考えた。
「美穂さん、聴こえています?」
ハキハキとした明るい声。春日綾乃はいつでもポジティヴなエネルギーに溢れている。昨年《Star’s Diner》で知り合ったジャーナリストの卵が、ジョセフ・クロンカイトの教え子だったと知った時にはとても驚いた。しかも、彼女は今ジュネーヴでジョセフの依頼で事件を追っているらしい。そんな大変な時に、しかも国際電話で、大衆食堂のウェイトレスの近況などを知らなくてもいいのではないかと思うが、それを言ったら綾乃は一笑に付した。
「大丈夫です。これIP電話ですから、国内通話と変わらないんですよ。それに、先生と美穂さんのこと、あたしには大事なんですから」
美穂は返答に詰まる。
「お似合いだと思うんだけれどな。先生、変なところが抜けているから、美穂さんみたいに落ち着いてしっかりした人、ぴったりですよ」
「綾乃ちゃん。それは、クロンカイトさんに失礼だわ。あの方にとって私はどうでもいい人間の一人に決まっているでしょう」
「美穂さんったら。どうでもいい人をそんなに熱心に誘う人がいると思います? 先生がどんなに忙しいか知っているでしょう?」
綾乃のいう事はもっともだと認めざるを得なかった。ジョセフ・クロンカイトとは、すでに七、八回食事を一緒にしている。最初の二回は「お礼」だったが、次からは特に理由はなかった。週に一度か、十日に一度くらいの頻度で連絡が来る。「今日は予定があるか」だったり、「明日は時間があるか」だったりする。美穂に先約があった試しは一度もない。たぶん365日いつでもヒマだ。
一緒に食事をしていると、いつも数回は「緊急の電話」が入る。
「わかった。明日の朝までに目を通しておくから、自宅にFaxを送ってくれ」
「今夜アヤノから連絡があるまで待ってくれ。わかっている、二時までにはメールする」
「明日は三時までは予定がいっぱいで無理だ。三時半にCNNの会議室に来れるか」
そんな短いやり取りをしてから、携帯電話を内ポケットに入れ、無礼を詫びる。でも、美穂はそれほど忙しいのに自分と食事をする時間を割いてもらっていることを申し訳なく思う。
「でも、美穂さんは、先生と逢う事自体は嫌じゃないんでしょう?」
綾乃が訊き、美穂は即答した。
「もちろんよ。クロンカイトさんとお話ししていると、いつも時間を忘れるの。世界ってこんなにエキサイティングに動いているんだなって、改めて思ったわ。毎回、新しいことを教えていただくし」
「美穂さん……。クロンカイトさんって、まだそんな距離感なんですか? ジョセフって呼んであげてくださいよ」
「そんなの無理だわ。全然そんな立場じゃないもの。それにいつもご馳走になってばかりで、本当は私も払いたいんだけれど、じゃあ払ってくれと言われても払えないようなお店ばかりなのよね……。心苦しくて」
綾乃がため息をついた。
「もう、先生ったら……。とにかく、あたしは断然応援していますから。美穂さん、先生は変なところ奥手なんだから、そんな他人行儀にしないであげてくださいよ」
「でも……」
美穂は口ごもった。綾乃のいう通り、ジョセフ・クロンカイトは酔狂で自分に連絡をしてきているわけではないだろう。彼は食事をして一緒に話をするだけで、それ以上のことを特に求めてくるわけではなかった。だからこそ、美穂もまた誘いを断らなかった。美穂はジョセフに対してのはっきりとした恋心を持っていない。だが、それは一目惚れのような燃え上がる恋情はないというだけで、彼に対しての興味がないということではない。むしろ逢う度に、こんなに興味深くて素敵な人はいないという想いが強くなる。全く釣り合わないと思うし、これからも釣り合うような女性にはなれないと思いつつも、いつかはそのことに悩むことになるのだろうかとも思っている。
でも、純粋にこの状況に身を任せられない理由はわかっている。もう終わったことだと言い聞かせても、まだ心に打ち込まれた大きな楔を取り除けていないからだ。鞄の中には、まだポールから貰ったメールのプリントアウトが四つ折りになったまま入っている。開ける必要もない。暗記してしまっているから。連絡のないことが答え。何度自分に言い聞かせたことだろう。泣くことはなくなった。痛みは確実に薄れている。でもなくなっていないのだ。
ジョセフから愛を告白されたなら、美穂はその事を言わなくてはならないと思っていた。そのことで、彼との時間を失うのは残念でならない。もう二度とジョセフのような人と知り合うチャンスはないだろう。それどころか、誰かに興味を持ってもらえることもないかもしれない。終わってしまったことのために、他の大切なものも失ってしまうのだろうか。この楔を取り除けたら、問題は一つ減るんだろうか。
「美穂さん?」
黙ってしまった美穂が、まだ受話器の向こうにいるのか、綾乃は不安になったらしい。美穂ははっとして、会話に戻ってきた。
「ねえ、綾乃ちゃん。話題が突然変わって申し訳ないんだけれど、教えて。一般人が、去年サンフランシスコで開店したレストランのリストって、入手できると思う?」
「え? 本当に唐突ですね。サンフランシスコ市内だけですか? そうですね。市役所にはリストが公開されているでしょうね。今、ここからだとちょっとわからないですけれど、急ぐなら先生に訊いてみましょうか?」
「いいえ、それはいいわ。時間はたっぷりあるから自分でやってみる。ありがとう」
向こうで綾乃が首を傾げているのが目に浮かぶ。礼を言って電話を切った後、美穂はぼんやりと電話を見つめていた。このままじゃいけない。綾乃の電話は、天からのメッセージのようだと思った。クロンカイトさんに対しても失礼だし、自分のためにも。
翌朝、ジョセフから連絡があった。例によって何の予定もない美穂は、その夜に彼と待ち合わせた。いつものようにマンハッタンにある夜景の見える店ではなく、ブルックリンの西部にあるダンボ地区に連れて行かれた。コンクリートの打ちっぱなしの床や壁に、暖かめの間接照明を多用して、ギャラリーのようなたくさんのアートがかかった店には、ネクタイをしている客はほとんどいなかった。
「ハイ、ジョセフ。久しぶりだね」
スタッフや、常連とおぼしき客たちと親しげに挨拶を交わしているので、よく知っている店なのだろうと思った。テーブルマナーなど、だれも氣にしないような雰囲氣で、美穂は少しホッとしていた。
小さな丸テーブルに案内されて、珍しそうに店を見回す美穂に彼は訊いた。
「この店が氣にいった?」
「ええ。落ち着く店ですね」
「アヤノに怒られたよ」
「え?」
「申し訳なく思うような高い店にばかり連れて行ってどうする氣だって。女の子の扱いが下手すぎると口癖のように言われているんだ。すまなかった。居心地の悪い時には、はっきり言ってほしい」
「そんな……。私こそ、すみません」
美穂が続けようとするのを遮って、彼は続けた。
「それに、サンフランシスコ市役所に調べものに行く必要はない」
彼女が、言葉を見つけられずにいると、ジョセフは内ポケットから愛用の革手帳を取り出すと、中から一枚のメモを抜いてテーブルに置いた。
「アヤノは、ジャーナリストとしてあらゆる素質を持っているんだが、一つだけ不得意なことがあってね」
「それは?」
「ポーカーフェイス。君とは全く関係ないことを装って、昨年のサンフランシスコの登記簿について聞き出そうとしたんだが、残念ながら私にはすぐに君からの依頼だとわかってしまった。これをもう持っていたからね」
『ピンタおばさんの店』。店の所在地、ポールの氏名、現住所、携帯電話番号が並んでいた。美穂は、じっとその紙を見つめていた。
「どうやって……」
「アヤノには言っておいた。誰かが情報を求めている時は、言われたままに探すのではなく、なぜその情報が必要なのかを確認することが一番大切だ。それによってメソッドが変わってくるからね。このケースでは、昨年開店した何千もの店から探すのは徒労だ。この青年を捜す方がずっと早い。例の反戦詩の版権のことで行方をくらました青年だと聞いてからは簡単だった。彼を追い回していたジャーナリストの中で貸しのあるヤツらに数本電話をかけるだけで十分だった」
「でも、どうして……」
「春の終わりにキャシーに頼まれた」
「キャシーが?」
「正確に言うと、私が必要とした情報に対して彼女が求めた対価もある情報だった。それを知るために、この青年の所在が必要になった」
美穂は、手を伸ばしてメモを手にとった。
「キャシー……。どうして……」
「なぜ、君に何も言わなかったのか。私の伝えた客観的事実を、報せたくなかったからだろう。この連絡先を、彼女に渡そうとしたら、それはいらないと言った。そして、もし君がそれを必要とした時には、渡してやってほしいとも言っていた」
「彼女が知りたかったのは?」
「その青年の現在の家族構成と、その店の経営状況。もし君が聞きたいならば、今ここで正確にいう事ができるが」
美穂は、何も言わずにその連絡先を見つめていた。ウェイターが二人の前にワインを置いている間も身動きもせずに、文字を見ていた。それから、しばらくしてから頭を振った。
「キャシーが、私に報せたくないと思った内容なら、おっしゃってくださらなくて結構です」
そう言うと、鞄から四つ折りになったプリントアウトを取り出した。連絡先とそのプリントアウトを重ねると、二つに切り裂いた。
ジョセフは、その間、何も言わなかった。美穂は、下を向いた。涙を見せたりしてはいけない。そんな失礼なことをしてはいけない。楔を取り除きたいと望んだのは自分だ。破いた未練をゴミ箱に捨てようかと思ったが、個人情報だと思い直し、そのままバッグに入れてジッパーを締めた。
「ありがとうございました。お手数をおかけしました。調べていただいたお礼は、どうしたらいいんでしょうか」
ジョセフはワインを飲んで、それから首を振った。
「君に依頼されて調べたものではない」
「でも……」
「どうしても氣が済まないと言うならば、来週末、我が家で親しい人たちを招いてホームパーティをすることになっているんだ。手伝ってくれればありがたい」
美穂は、彼のあまり変わらない表情をしばらく見つめていたが、やがて「はい」と言って頭を下げた。
それから、二時間ほど、いつものようにいろいろなことを話しながら、アラカルトを食べ、ワインを飲んだ。美穂は、頷いたり質問したりしながら、今週世界で起こったことに耳を傾けていた。だがそれと同時に、体の中を冷たい風が吹き抜けていくように感じていた。
楔が抜けるということは、それで塞がっていた傷が開くということだった。彼女の心から哀しみという名の血が溢れ出していた。いつものように笑えなくなっていることを感じた。
店を出て、アパートメントまで送ってくれるジョセフと歩いている時も、いつもの石畳が別の世界のように冷たく感じられた。言葉少なく考え込んでいる美穂に、彼は言った。
「ミホ。忠告をしておく。情報というものは、人の手を通った回数が多ければ多いほど、フィルターがかかるものだ。君がキャシーを信じるのは悪いことではない。キャシーが君のことを大切に想って行動したのは間違いない。だが情報は、私の知人、私、そして、キャシーの三人のフィルターを通してもたらされている。ジャーナリストである私は、アヤノにいつもこう教えている。できるだけソースに近づき裏を取るようにと。君はジャーナリストではないが、悔いを残さないために、苦しくとも真実に近づくことを怖れない勇氣を持った方がいい」
「ミスター・クロンカイト……」
ジョセフは、ため息をついた。
「頼むから、次回はファーストネームで呼んでくれないか」
アパートメントの前についていた。美穂は頷いた。ジョゼフは、優しく美穂にハグをすると、「おやすみ」と言って、もと来た道を戻っていった。
キャシーは、まだ戻っていなかった。美穂は、部屋の灯をつけて、靴を脱ぎ、上着をハンガーにかけると、鞄を開けた。引き裂かれたメモとメールのプリントアウトが見えた。机に並べた。悔いを残さないためにか……。
美穂は、携帯電話を取り出して、ゆっくりと一つずつ番号を打ち込んだ。メールの内容が頭に浮かんだ。「サンフランシスコで店を……きみも来ないか」ジョセフの言葉も浮かんだ。「家族構成と……」
ポールのメールには、美穂を愛しているとはひと言も書いていなかった。好きだったから希望的観測で求愛と読みとってしまったけれど、あれは従業員として店で働いてくれないかという意味だったのかもしれない。呼び出し音が一回聴こえた。連絡のないことが答え。冬の間、つぶやいた言葉。今さら私からかかってきても、ポールは困るだけだろう。美穂は、電話を切って電源を落とした。それから、破れた紙を粉々にして、ゴミ箱に捨てた。
(初出:2015年2月 書き下ろし)
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【小説】午後の訪問者
「scriviamo! 2015」の第十二弾です。山西 左紀さんは三つ目の参加として、『サン・ヴァレンティムの贈り物』の間に挟まれている時間のお話を書いてくださいました。ありがとうございます!
山西 左紀さんの書いてくださった『初めての音 Porto Expresso3』
山西 左紀さんの関連する小説
絵夢の素敵な日常(10)Promenade
絵夢の素敵な日常(12)Porto Expresso
絵夢の素敵な日常(初めての音)Porto Expresso2
Promenade 2
「ローマ&ポルト&神戸陣営」も、頑張っています。左紀さんのところのヴィンデミアトリックス家、彩洋さんの所のヴォルテラ家、ともに大金持ちでその世界に多大な影響のある名士たち。で、うちのドラガォンのシステムも絡んで、謎の三つ巴になりつつある(笑)そんなすごい人たちが絡んでいるのに、やっているのは「お友だちの紹介」という平和なお話。
ミクのポリープの診察と手術は、ローマの名医のもとで行われることになっています。で、ヴィンデミアトリックス家がヴォルテラ家にお願いしているかもしれないし、全くの蛇足だとは思うのですが、ドサクサに紛れて首を突っ込んでいる人が約一名います。サキさんが「あの人は戻ってくることをどう思っていたの」と質問なさったのにも、ついでにお答えすることにしました。
【参考】
追跡 — 『絵夢の素敵な日常』二次創作
小説・黄金の枷 外伝
![]() | Infante 323 黄金の枷 |
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
午後の訪問者
——Special thanks to Yamanishi Saki san
海風が心地よく吹いた。白っぽい土ぼこりが灰色の石畳を覆っていく。マヌエル・ロドリゲスは、陽射しを遮るように手を眉の上にかざした。まだ肌寒い季節だが、春はそこまで来ている。ゆっくりと坂を登ると、目指す家が見えてきた。ポーチにはプランターが二つ並んでいて赤や黄色、そして紫の桜草が植えられている。丁寧に掃き掃除をしたらしい玄関前には土ぼこりの欠片もない。
この家の女主人が、この辺りの平均的住民よりも少しだけ勤勉なのは明らかだった。それは遺伝によるものなのかもしれない。住んでいる女性は、極東のとても勤勉な人びとの血を受け継いでいた。
修道士見習いという低い地位にも関わらず、ヴァチカンでエルカーノ枢機卿の秘書をしていたマヌエルは、その役目を辞して故郷に戻ってきた。もともとはこの国を離れて自由に生きたいがために、神学にも教会にも興味もないのに神学生になった。だが、その頭の回転の速さが枢機卿の目にとまりいつのまにかヴァチカンで働くことになった。もちろん、彼がある特殊な家系の生まれであることを枢機卿は知っていた。マヌエルは、半ば諜報部のようなエキサイティングな仕事には興味を持っていたが、もともと禁欲だの貞節だのにはあまり興味がなかったので、このまま叙階を受けることにひどく抵抗があった。
彼が故郷を離れたかったのは、家業に対しての疑問があったからだった。街に留まり、ある特定の人たちを監視報告する仕事。時にはその人たちの自由意志を束縛して苦しめることもある。それがどうしても必要なこととは思えなかった。
けれど、彼はローマで同じ故郷出身の一人の女性に出会った。彼女は監視される立場にあったが、特殊な事情があり自由になっていた。そして、そのクリスティーナ・アルヴェスは、マヌエルの家系が関わる巨大システムの中枢部と深く関わる人物の一人だった。彼は、ローマで彼女と親交を深めるうちに、考え方が根本から変わってしまった。故郷から逃げだすのではなく、その中心部に入り込み役目を果たしたいと思うようになったのだ。《星のある子供たち》を監視するのではなく守るために。《星のある子供たち》の中でも特に一人の女性、クリスティーナを。
とはいえ、マヌエルの表向きの帰国の理由は、異動だった。彼は、サン・ジョゼ・ダス・タイパス教会付きの修道士見習いとなったのだ。戻ったからにはあっさりと教会を出てもよかったのだが、異動直後からボルゲス司教の計らいではじめた仕事にやり甲斐を感じて、まだしばらくは教会に奉仕をするのも悪くないかなと思っている。それが、地域の独居老人を定期的に訪問する仕事だった。
半月ほど前から彼はGの街の小さな教会に移り、この地域の担当になった。こうした仕事に若手が不足しているのはこの国でも一緒だ。ましてやカトリック教会で奉仕をしたがる若者はかなり稀だ。神に仕えるよりは女の子と遊ぶ方が好きな若者の方がずっと多いのだから。マヌエルはこれを乗りかかった船だと思っている。クリスティーナが、自分を恋人にしてくれそうな氣配は今のところ皆無だが、幸い彼女は他の男性にも大して興味を持っていないようだった。それで、少なくとも数年の間は、彼は、若い男性の助けを必要としているお年寄りの力になろうと思っているのだ。
例えば、今日訪れる家では、屋根裏にたくさん積まれた本を紐で縛って古紙回収のために準備することになっていた。
「たくさんのポルトガル語と、それから、いつかは読みたかった日本語の本があるんだけれどね。もう細かい字が読めなくなってきたから、少し整理しないと」
「お孫さんがお読みになるんじゃないですか?」
「ええ、彼女に残してあげる本もたくさんあるの。でも、あまりにもたくさんあって、彼女には大事な本がどうでもいい本に紛れてしまうから」
「わかりました。明後日の午後に伺いますね」
そして、今日がその約束の午後なのだ。
マヌエルは、呼び鈴を押した。すぐに黒い服を来た女性が出てきた。ショートにしたグレーの髪、ニコニコと笑っている。
「こんにちは、メイコ。お約束通り来ました」
「ありがとう。マヌエル。あら、今日は修道服じゃないのね」
マヌエルは笑った。白いシャツにスラックス。私服でメイコの家にきたのははじめてだった。
「修道服だと作業がしにくいんで。本のことだけでなく、なんでもやりますから遠慮しないでくださいね」
「ありがとう」
メイコは微笑んだ。女性の一人暮らしでは、どうしてもできない作業がある。ジョゼが遊びにくる時に頼むこともあるが、それでもこうして教会が定期的に助けてくれるのはありがたい。
「今日は、ミクがいるんじゃないんですか?」
「いいえ。友達とでかけているの。靴がどうとか言っていたけれど。サン・ヴァレンティムの日だし、ゆっくりとしてくるんじゃないかしら」
「そうですか、それは素敵ですね。お邪魔しますね」
マヌエルは綺麗に片付いていて、心地のいい家に上がった。
「じゃあ、行きますか。屋根裏はこちらでしたね」
そういうと、メイコはあわてて首を振った。
「あら。そんな事を言わないで、まずはお茶でもどうぞ。パン・デ・ローがちょうど焼けたところなの」
道理でたまらなくいい匂いがするわけだ。居間にはボーンチャイナのコーヒーセットが用意されていて、マヌエルは、まだ何の仕事もしていないのに、もう誘惑に負けてしまった。実は、この家に来るのが楽しみだったのは、毎回出してくれるお菓子がこの上なく美味しいからだった。
「日本だと、このお菓子、カステラっていうのよ」
「何故ですか?」
城には見えないのに。
「大航海時代に、宣教師が伝えたんだけれど、何故かそう呼ばれるようになってしまったんですって。言葉がきちんと通じなくて誤解があったのかもしれないわね。そういえば、日本だと円形ではなくて四角いの」
「ああ、日本に行かれた時に召し上がったのですね」
「ええ。神戸で知り合った大切な友人とね。彼女には、それからたくさんお世話になって……今回も……」
メイコの穏やかな表情が、突然悲しげに変わったので、彼は驚いた。
「どうなさったんです、メイコ」
「実は、ミクがね……」
それから彼女はマヌエルに孫娘の直面している苦しみについて語った。歌手としてようやく才能が認められつつある大事な時に、突然ポリープができたこと。診察のために日本に帰ったのだが、専門医からポリープの位置が悪く、手術で歌手生命に影響が出るかもしれないと宣言されてしまったと。
「でも、そのヴィンデミアトリックス家のお嬢さんが、ローマのいい先生を紹介してくださってね。明日、診察のためにイタリアへ発つことになったの」
「ローマですか?」
「ええ。ああ、そういえばあなたはずっとローマにいたのよね。ローマは、この街や日本みたいに夜中でも歩ける安全な街ではないと聞くし、それにあの子、日本語とポルトガル語は達者だけれど、イタリア語はそれほどでもないでしょう。なんだか心配で。もちろん、ヴィンデミアトリックス家のお嬢さんがきっと安全な手配をしてくださっているから、これは年寄りの杞憂なんでしょうけれど」
マヌエルは、微笑んで言った。
「では、僕からも、ある方に頼んでみましょう。何かあった時には、きっと力になってくれます。彼はポルトガル語もできるし、それにその人の家族に日本人のお嬢さんと婚約なさっている方がいるのですよ」
メイコの目が輝いた。マヌエルは、メイコに便箋とペンを用意してもらって、短い手紙をしたためた。
大好きなトト。
君は、あんな形でローマを去ってしまった僕のことを怒っているだろうか。僕が、君への友情よりも、僕の女神に付き添ってこの国に戻ることを選んだって。でも、君も理解してくれるだろう? 枢機卿に叙階しろってうるさく言われ続ける僕の苦悩を。生涯独身なんて、まったく僕の柄じゃない。
君に、不義理をしたままで、こんな頼み事をするのは心苦しいけれど、僕のとてもお世話になっている老婦人のために力になってくれないか。(彼女の作ってくれるお菓子を君に食べさせたいよ! それをひと口食べたら、君だって彼女の味方にならずにいられるものか)
僕の大切なメイコには孫娘がいる。ミクって言うんだ。(とっても綺麗な子で才能にあふれているんだぜ!)その子が明日、ポリープの診察でローマへ行く。どうやらあのヴィンデミアトリックス家が絡んでいるみたいだから、僕が心配する必要はないだろうが、ローマは大都会だから何があるかわからないってメイコが思うのも不思議はないだろう? 僕はただ彼女を安心させたいんだ。もし、ミクが助けを求めてきたら、力になってあげてほしいんだ。彼女は日本人でポルトガル語も堪能。でも、イタリア語はあまり話せない。声楽家だからオペラに出てくる歌詞ならわかるはずだけれど。でも、そっちには、シオリもいるし、コンスタンサ、いや、”クリスティーナ”もいるだろう?
僕は、こちらでのんびりやっているよ。しばらくは修道士見習いとして、柄にもなく人のためになることをしようと思っている。君のことをときどき思い出す。こんな何でもない外国人のことを友達だと言ってくれた君のことを。いつかまた、どこかで君とワインを飲み交わしたいと思っている。それまで、あまり無茶なことをするなよ。君の友、マヌエル・ロドリゲス
「さあ、これでいい」
マヌエルはメイコにFAXを借りると、イタリアのある番号を打ち込んで送信した。
「ものすごく面倒見のいい男なんですよ。たぶん、明日ミクが空港についたら、もう迎えが待っているんじゃないかな。ローマで、これ以上安全なことなんてありませんからね」
メイコのホッとした笑顔が嬉しかった。彼女は、コーヒーをもう一杯すすめた。マヌエルは、作業に入る前に、大好きなパン・デ・ローをもう一切れ食べることにした。
(初出:2015年2月 書き下ろし)
【小説】大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 風の音
scriviamo!の第十三弾です。
けいさんは、当ブログの55555Hitのお祝いも兼ねて「大道芸人たち Artistas callejeros」のあるシーンを別視点で目撃した作品を書いてくださいました。ありがとうございます!
けいさんの書いてくださった小説『旅人たちの一コマ (scriviamo! 2015)』
けいさんは、オーストラリア在住の小説を書くブロガーさん。心に響く素敵なキャラクターが溢れる、青春小説をお得意となさっていらっしゃいます。読後感の爽やかさと、ハートフル度は、ブログのお友だちの中でも群を抜いていらっしゃいます。雑記を読んでいても感じることですが、なんというのか、お人柄がにじみ出ているのです。まさにタイトル通り「憩」の場所なのですよね。2月12日に、40000Hitを迎えられました。おめでとうございます!
海外在住ということで、勝手に親しみを持ってそれを押し付けているのですが、それも嫌がらずにつき合ってくださっています。いつもありがとうございます。
さて、「scriviamo!」初参加のけいさんが書いてくださったのは、このブログで一番知名度が高い「大道芸人たち Artistas callejeros」に関連する作品。「●●が○○に△△した」あのシーンです。ってわかりませんよね。これです。自分でも好きなシーンなので、注目していただけて、さらにけいさんらしい優しい視線でリライトしていただけて感激です。端から見ると、そうなっていたんですね(笑)
というわけで、この目撃者を捕まえちゃうことにしました。折角なので、私もけいさんの作品の中で最初に読破した代表作「夢叶」を使わせていただくだけでなく、勝手にとあるキャラとコラボさせていただくことにしました。作品を読んでいる時から注目していた、あの人です。
なお、この作品には、「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(チャプター4)のネタバレが含まれています。大したネタバレではありませんし、すでに既読の方の間では既成事実となっているので「今さら」ですが、「まだ知りたくない!」という方がいらっしゃいましたら、お氣をつけ下さいませ。あ、あと「夢叶」もちょっとだけネタバレです、すみません!
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
【小説】大道芸人たち Artistas callejeros 番外編
風の音 - Featuring「夢叶」
——Special thanks to Kei san
ゆっくりと階段をひとつひとつ踏みしめて登った。心地よい風が耳元で秋だよと囁く。サン・ベノア自然地学保護区にある遊歩型美術館に行こうと口にしたのは蝶子だった。ここは、南仏プロヴァンス、ディーニュ・レ・バン。今ごろはニースで稼いでいるはずだった。実際に、稔とレネは今ごろどこかの広場で稼ぎながら待っていることだろう。
蝶子は、前を行くヴィルの背中を見上げた。青い空、赤い岩肌、オリーブ色の乾いた樹々。何と暖かく、心地よく美しく見えることだろう。この男の存在する世界。アンモナイトや恐竜の眠る、太古の秘密を抱くこの土地で、彼女は今を生きていることを感じる。迷う必要はなかった。苦しむこともなかった。これでいいのだと魂が告げるのだから。
彼が振り向いた。そして、蝶子が少し遅れているのを見て、手を差し出した。あたり前のごとく。昨日までは、見つめることしか出来なかった。諦め、去っていこうとすらした。彼もまた、迷いを取り去ったことを感じて、蝶子は手を伸ばした。二つの、銀の同じデザインの指輪が、強いプロヴァンスの光に輝いた。二人は、階段の曲がり角に立ち、赤茶色の屋根の並ぶディーニュの街を見下ろした。
風の音に耳を傾けた。
人生とは、何と不思議なものなのだろう。閉ざされていた扉が開かれた時の、思いもしなかった光景に心は踊る。フルートが吹ければそれでいい、ずっと一人でもかまわないと信じていた。世界は散文的で、生き抜くための環境に過ぎなかった。
だが、それは大きな間違いだった。蝶子は大切な仲間と出会い、そして愛する男とも出会った。風は告げる。美しく生きよと。世界は光に満ちている。そして優しく暖かい。
ヴィルが蝶子の向こう側、階段の先を見たので、彼女も振り向いた。そこには一人の青年が立っていて、信じられないという表情をしていた。蝶子はこの青年にはまったく見覚えがなかった。だが、それはいつものこと、彼女は関心のない人間の顔は全く憶えておらず、大学の同級生であった稔の顔すら忘れていたことを未だにいじられるくらいだから、逢ったことのある人だと言われても不思議はないと考えた。
「
「スイス人か」
「ええ。ドイツの方だとは思いませんでした」
二人の会話で、蝶子にも納得がいった。二人はドイツ語で話している。先ほどのはスイス・ジャーマンの挨拶なのだ。
「申し訳ないが、どこで逢ったんだろうか、大道芸をしている時に見ていたのか?」
そうヴィルが訊くと、青年は首を振った。
「いいえ。僕は昨日着いたばかりなんです。駅であなたたちをみかけました。はじめまして、僕はロジャーと言います」
ヴィルは無表情に頷き「ヴィルだ。よろしく」と言った。蝶子は、赤面もののシーンを見られていたことへの恥ずかしさは全く見せずににっこりと微笑むと、ヴィルとつないでいた手を離してロジャーと握手をした。
「蝶子よ。よろしく」
「ここは、素敵ですね」
青年は言った。
「プロヴァンスは、はじめてなのか?」
「ええ。バーゼルに住んでいるのに、休暇で南フランスへ行こうと思ったのは初めてなんですよ。隣町がフランスだというのに。ここは、まるで別世界だ」
「俺もプロヴァンスは好きだ。風通しが良くて、酒もうまい」
「南フランスがはじめてなら、普段はどこへ休暇に行っているの?」
蝶子が訊くと、ロジャーは笑った。
「遠い所ばかり。南アフリカ、カナダ、カンボジア、それに、休暇ではないけれど、学生時代にかなり長いことオーストラリアにもいたな。ここの赤い岩肌は、あの国を思い出させる……」
「エアーズロックかしら?」
蝶子が訊くとロジャーは頷いた。
「あなたは、日本人ですか?」
「ええ。日本人よ。どうして?」
「僕は、あそこで日本人と友達になったんだ。とてもいいヤツで、またいつか逢えたらいいと思っている。今、彼のことを思い出しながら、ここを歩いていたんです」
そういうと、彼は、小さく歌を口ずさみだした。蝶子とヴィルは、顔を見合わせた。それからヴィルが下のパートをハミングでなぞった。ロジャーは目を丸くして二人を見た。
「どうしてこの曲を?」
その曲は、ロジャーの日本の友人がエアーズロックで作曲したばかりだと聴かせてくれたオリジナル曲だった。なぜ南仏で出会った見知らぬ人たちが歌えるんだろう。
蝶子はウィンクした。
「それ、私たちのレパートリーにも入っているのよ。スクランプシャスの『The Sound of Wind』でしょ?」
スクランプシャスは、日本でとても人氣のあるバンドで、最近はアメリカでもじわじわと人氣が広がっている。ヨーロッパでも、ツアーが予定されているので、いずれはこちらでブレイクするだろう。日本に帰国した時に、稔が大喜びでデビューアルバム『Scrumptious』のCDと楽譜を買ってきたのだ。
「じゃあ、ショーゴは、デビューしたんですか? 夢を叶えたんですね?」
「ショーゴって、ボーカルの田島祥吾のことよね。ええ、彼は今や大スターよ」
ロジャーは、微笑んで大きく息をついた。
「ウルルで、彼は僕にこう言ったんですよ。『夢を誰かに話すと、その夢は叶う』って。本当だったんだ」
ロジャーは、ヘーゼルナッツ色の瞳を輝かせた。
「あんたも、彼に夢を話したのか?」
「ええ。『世界を駆けるジャーナリストになる』ってね。あの頃、僕はただの学生でしたが、今は、本当に新聞社に勤めている。まだ『世界の……』にはなっていないけれど、言われてみれば、少しずつ進んでいますね」
「じゃあ、きっと叶うわ。だって、ここで私たちに夢を話しているもの」
蝶子は、フルートを取り出すと、ディーニュの街へと降りてゆくプロヴァンスの風に向かって、『The Sound of Wind』を演奏しはじめた。ロジャーとヴィルがそのメロディを追う。通りかかった人たちも、微笑みながらその演奏に耳を傾けていた。
風は、地球をめぐっていた。アボリジニたちの聖地で生まれた歌が、世界をめぐり、南仏で出会う。秋の優しい光が、旅人たちを見つめている。ひと時の出会いを祝福しながら。
(初出:2015年2月 書き下ろし)
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【小説】その色鮮やかなひと口を -3 -
scriviamo!の第十四弾です。
ココうささんは、二句の春らしい俳句で参加してくださいました。ありがとうございます!
ココうささんの書いてくださった俳句
その先の波は平らか梅の花 あさこ
春秋も恋もいとほし紅枝垂 あさこ
この二句の著作権はココうささん(あさこさん)にあります。無断転載ならびに転用は固くお断りします。
ココうささんは、ブログをはじめた初期のころから仲良くしてくださった方で、素晴らしい詩や俳句、揮毫を発表なさっておられ、大変お世話になった方です。現在はブログをお持ちではありません。優しくて、温かいお人柄、さらに、日本酒もお好きという私が「お友だちになりたい!」ポイントをたくさんお持ちの方で、ブログ閉鎖なさった時にはとても残念でした。
どうなさっていらっしゃるかなと思っていた所、お祝いのお言葉と一緒に素敵な俳句で参加してくださいました。お元氣で活躍なさっていらしたこと、俳句を続けられていて日々精進なさっていらっしゃることなどを伺い懐かしさと同時に「私も頑張ろう!」とパワーをいただきました。懐かしい方とこういう形で再会できるのはとても嬉しいものです。
さて、どういう形でお返ししようかなと考えました。最終的に、一回目の「scriviamo!」で、詩で参加してくださった時に創り出したキャラクターたちを使って、この俳句からイメージされた世界を掌編にするのが一番かなと思いました。そういうわけで、和菓子職人ルドヴィコとアルバイトの怜子が再登場です。ココうささん、素敵な世界が台無しになってしまったらごめんなさい。でも、精一杯の敬意を込めて。
そして、この二人の住む「和菓子屋がとても多くお城のある街」とだけ開示されている名前のない街、帰国する度に何故か通っている松江がモデルです。というわけで、出てくる湖とは宍道湖ですね。しだれ桜のある尊照山千手院も松江に実在しています。私も見たいなあ。
特に読まなくても通じると思いますが、同シリーズへのリンクをつけておきます。
その色鮮やかなひと口を
その色鮮やかなひと口を -2 - ~ Featuring「海に落ちる雨」
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【小説】その色鮮やかなひと口を -3 -
Inspired from 2 Haikus by Asako-San
——Special thanks to Kokousa san
曇りや雪の合間に、暖かい晴天の日が少しずつ増えてくると、怜子は間もなく春が来るのだなと感じる。堀の周りをゆっくりと歩いて見上げると、天守閣の雪が消えかけている。お茶会に使う急ぎの商品を届けた帰り、こんなに心地のいい土曜日に、バイトに入るのはもったいなかったなと思った。
でも、明日は休み。晴れそうだから、久しぶりに街を散策してみたいと思った。ルドヴィコは、つき合ってくれるだろうか。「石倉六角堂」の自動ドアと暖簾をくぐり「ただいま」と元氣よく口にすると、石倉夫人が微笑んで「お帰りなさい」と言ってくれた。
怜子が、この店でアルバイトをはじめてそろそろ三年になる。こんなに長く働くことになるとは思わなかったけれど、それだけ居心地がいいということなのだろう。少しだけ氣になる人もいる。仲のいい友達と、恋人のちょうど真ん中くらいの関係。背が高くて青空のような瞳をした、少し変わったイタリア人だ。ルドヴィコは、この店の和菓子職人で、こし餡を練らせたら右に出るものはいない。日本人には考えつかない不思議なセンスで創りだされる、色鮮やかな和菓子は評判がよく、お茶会用に指名で注文が入ることも増えてきた。届けた時に中を見せて、そのイタリア人らしい鮮やかなデザインの練りきりに、客が喜びの声を上げるのを聴いて、怜子は自分のことのように嬉しく思った。
エプロンと三角巾をして、対面ケースに立った。求肥の生菓子「若草」が出来上がったというので裏に入ると、ルドヴィコが盆を渡してくれた。
「あ、お客さんね、練りきりに感心していたよ。次もまたお願いしますって、おっしゃっていたよ」
怜子が言うと、とても誇らしそうに笑った。怜子はふと思い出して
「あ、あのね、ルドヴィコ、明日、何か用事ある?」
と訊いた。ルドヴィコが答えようとすると、暖簾の向こうから石倉夫人が声を掛けてきた。
「ルドちゃん、あなたにお客様よ」
ルドヴィコは、誰だろうという顔をして、表に出た。続いて怜子も対面ケースを開けて、若草の盆を納めた。店の入口には、水色とヴァイオレットと白のストライプのシャツブラウスを綺麗に着こなした髪の長い女性が立っていた。そして、よどみないイタリア語でルドヴィコに話しかけた。
ルドヴィコも、驚いたようにイタリア語で答えた。この時になって初めて氣がついたのだが、あまりに彼の日本語が達者だったので、怜子は彼がイタリア語を母国語として話すということをすっかり忘れていた。彼は、対面ケースの向こう側に行って、親しげに話しかけたかと思うと、その女性の両方の頬にキスをした。怜子は、それを見て固まってしまった。
二人は、自動ドアから外へ出てしまい、怜子が唇を噛んで下を向き、石倉夫人がどうしようかしらと目を宙に泳がせた。けれども、ルドヴィコは数秒でまた中に入ってきた。その時は、女性だけでなく、一人の男性、外国人の青年をも連れてきた。そして、嬉しそうに抱きあった。
「ロメオ!」
それから石倉夫人と怜子の方を向くと、日本語に戻って、二人を紹介した。
「紹介します。ミラノから来た僕の親友、ロメオです。そして、こちらはその恋人で照明デザイナーのジュリエッタ……、それ、本名なんですか?」
と、女性に訊いた。ジュリエッタと紹介された日本人女性は笑って頭を振った。
「もちろん違います。神谷珠理と申します」
「でも、イタリアの友人の間では、ロメオとジュリエッタで通っている二人です。日本に来ているなんて、僕も知らなかったんですよ。ジュリエッタ、こちらはお世話になっている石倉の奥さん、そして、怜子さんです」
それから、ルドヴィコはイタリア語でロメオに、石倉夫人と怜子のことを紹介した。怜子のことを説明する時にはどうやら名前だけを紹介したのではなさそうだったが、怜子にはどういう意味だったかはわからなかった。ただ、ロメオも珠理も、満面の笑顔で怜子を見た。
それから、十分ほど三人はイタリア語で話していた。主にルドヴィコと珠理が話し、ロメオはほとんど口を挟まなかった。それから、ロメオが手を振り、珠理が丁寧に頭を下げて店を出て行った。
「もう帰っちゃうの?」
怜子が訊くと、ルドヴィコは片目をつぶった。
「仕事が終わったら、待ち合わせて旧交を温めるんですよ。今日は、パスタとトマトを買って帰らないと」
明治時代に建てられた民家に住み、日本人よりもずっと和式の暮らしをしているルドヴィコの口からパスタなんて言葉が出るとは夢にも思わなかった。イタリア語で話すルドヴィコは、突然知らない外国人になってしまったように感じた。二人のイタリア人とよどみなくイタリア語を話す珠理は、同じ日本人と言っても、まるで違う存在のように見えた。ミラノ在住の照明デザイナー、流暢なイタリア語、スタイリッシュで颯爽とした佇まいは素敵だった。
怜子は何も言わずに、下を向いて、ショーウィンドーの曇りを磨いた。イタリア語どころか英語すらもまともに喋れない、役立たずのアルバイトなのだと感じた。
「怜子さん?」
横を見ると、まだルドヴィコがそこに立っていた。
「何?」
「さっき、明日のことを訊きませんでしたか?」
怜子は、困ったように言った。
「ううん、暖かくなってきたし、用事がなかったら千手院にでも行かないって訊こうかと思ったけれど、お友だちが来たもの、用事あるよね。氣にしないで」
ルドヴィコは水色の瞳を輝かせて微笑んだ。
「もし怜子さんが嫌でなかったら、あの二人もつれて一緒に行きませんか。少しこの街を案内したいんです、つき合ってくれませんか」
「行ってもいいの?」
「僕は、怜子さんにも来てほしいんです」
怜子はすこし浮上して頷いた。
真言宗の尊照山千手院は、お城の北東にある。広い境内に本堂、護摩堂、僧房、鐘楼などが揃い、広い庭は緑豊かな憩いの地として親しまれている。怜子は、この寺の四季の移り変わりを眺めるのが好きだ。特に、天然記念物に指定されているしだれ桜、枝華桜の咲く時期には毎年必ず訪れていた。アルバイトを始めてルドヴィコと知り合ってからは、二人で夜桜を鑑賞するのが恒例となっている。
「咲いたら綺麗でしょうね。早く来すぎちゃったのね」
珠理がため息をつく。ミラノから、東京へ行くのも大変だが、さらにここまで来るのも遠い。花は氣まぐれで、予定通りに咲いてくれることはない。「いつかは」が叶わぬことも多い。「今宵、観に行きましょうか」とくり出せる場所に住んでいることは、どれほど幸運なことなのかと怜子は思う。
境内にある休憩所、誠心亭からは街が一望のもとで、お城がとても美しく見える。
「本当によくみえるのね!」
珠理が歓声を上げた。東京育ちの珠理は、この街にははじめて来たのだと語ってくれた。お茶を飲みながら、ルドヴィコとロメオが早口のイタリア語で語り合っているのを横目で見た。ルドヴィコが20くらい話すと、ロメオがひと言答えるような会話に聴こえた。ルドヴィコが、こんなに話すとは思っていなかった怜子は、少し驚いていた。そんな風に思ったことはないけれど、彼もホームシックにかかることもあるのかなと思った。
珠理は、二人の会話には加わらず、街を眺めながら怜子と話をした。イタリア語の話せない怜子のことを慮ってくれたのだろうと感じた。
「ミラノで、照明デザイナーをしているなんて、すごいですね。憧れます」
怜子がそういうと、珠理は首を振った。
「聞えはいいけれど、私はそんなにすごい人間じゃないの。イタリア語もまだまだだし、仕事でも、人生でも、これまで挫折ばっかりだったのよ」
「それでも、頑張ってイタリアに居続けているんですよね」
珠理は、しばらく黙っていたが、それから怜子の方を見て言った。
「ロメオがいてくれたから。異国でも、成功していなくても、今日も明日も一緒に頑張ろうと思わせてくれたから」
「そういうものなのかな」
「ルドヴィコも、同じように思うから、ここにいるんじゃないかしら」
そういって怜子に微笑みかけた。
また中心部へと戻り、城の見学をした後、二人は、ルドヴィコと怜子をレストランへと招待してくれた。全面ガラス張りの窓から陽光を反射する穏やかな湖が見える。植えられた梅の木に花が咲きだしている。
「いつかミラノへ遊びに来てね」
珠理はいい、ルドヴィコの通訳を聴いたロメオも大きく頷いて、何か言った。
「二人で一緒に、って」
珠理が通訳して、微笑んだ。ルドヴィコが間髪をいれずに頷いたので、怜子は赤くなった。
珠理が、ロメオについて口にした言葉を、怜子は考えていた。こんな風に、はっきりと迷いなく「この人がいてくれるから」とお互いを想うのって素敵だろうな。私とルドヴィコも、いつかそんな風になれるのかな。
梅の花が、風に揺れている。その向こうに湖の波紋が、揺れて煌めいている。甘酸っぱい想いが胸に広がる。四つの人生の交わったわずかな時間。この二日だけ共にいてまた遠くに離れてしまう親しい友、人生のことを少しだけ垣間見せてくれた素敵な女性、それから、移り変わる四季の一日一日を一緒に見つめている怜子とルドヴィコ。
ロメオと珠理は、再会を固く約束して去っていった。過ぎ去った電車を二人で見送った後に、ホームに残った二人には、どこか寂しい風が吹いている。
「ルドヴィコ」
「何ですか、怜子さん」
「イタリアが、恋しいんじゃない?」
ルドヴィコは首を振った。
「ここで、この街で、和菓子を作って生きると決めたのは僕自身ですから」
そうなのかな。珠理さんも日本を離れてミラノで生きるのは、あまりつらくないみたい。やり甲斐のある仕事があって、ロメオもいて……。ふと横を見ると、ルドヴィコが青空のような瞳の輝く目を細めて、怜子を見て微笑んでいた。怜子は、少し赤くなって下を向いた。
「怜子さん」
「なあに、ルドヴィコ?」
「今年も、千手院の枝華桜が咲いたら、一緒に観に行きましょう」
怜子は、頷いた。イタリア語も、照明デザインもできなくても、一つだけ自分にできることがある。移り行く春秋を、この街でルドヴィコと共に生きること。満開のしだれ桜が咲く、いくつもの春の朝と宵を、二人で歩き続けることを、怜子は願った。
(初出:2015年2月 書き下ろし)
【小説】マックス、ライオン傭兵団に応募する
「scriviamo! 2015」の第十五弾です。ユズキさんは、「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」の主人公マックスとユズキさんの代表作「ALCHERA-片翼の召喚士」の戦士ガエルのコラボでイラスト付きストーリーを描いてくださいました。ありがとうございます!
ユズキさんの作品 企画参加投稿品:ある日、森の中
ユズキさんの参考にさせていただいた作品と解説ページ
ALCHERA-片翼の召喚士- 特別小咄:人魚姫と王子様(?)
《コッコラ王国の悲劇:キャラクター紹介》
ユズキさんは、異世界ファンタジー「ALCHERA-片翼の召喚士-」をはじめとする小説と、数々の素晴らしいイラストを発表なさっているブロガーさんです。私も「大道芸人たち」の多くのイラストや、強烈な「おいおい」キャラである「森の詩 Cantum Silvae」のジュリアを描いていただきました。そして、フリーイラストの方でも、たくさんお世話になっています。
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」も、最初から読んでくださっていて、旅する傍観者マックスはにも馴染んでいただいています。今回は、ALCHERA-片翼の召喚士-」に出てくる熊の頭をした戦士ガエル、そう、私の大好きなガエルとマックスを謎の森で逢わせてくださいました!
「もりのくまさん」を彷彿とさせる、楽しいお話。折角なのでお返しもこのまま、時空の曲がりまくった異世界コラボでいきたいと思います。ユズキさんのお許しを得て、「ALCHERA-片翼の召喚士-」の「ライオン傭兵団」の皆さんにご登場いただくことにしました。
なお、「ALCHERA-片翼の召喚士-」には、数々の魅力的なキャラクターが登場します。が、今回は、あえてヒロインのキュッリッキ、とってもカッコ良くて優しいメルヴィン、強くてかっこいい中年トリオ、白熊&パンダ正副将軍コンビなどの重鎮にはご登場いただいていません。彼らの活躍は、もちろん本編でどうぞ。
![]() | 「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む あらすじと登場人物 |
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森の詩 Cantum Silvae 外伝 マックス、ライオン傭兵団に応募する
- Featuring「ALCHERA-片翼の召喚士-」
——Special thanks to Yuzuki san
おかしいなあ。先ほど見た、あれは夢だったのだろうか。マックスは首を傾げながら森を進んでいた。
その日、いつものように一人で森を進んでいたら、今まで目にしたことのない異形のものと出会った。サラゼンの人びとのようななりをした大男(と思われる誰か)がそこにいたのだ。だが問題はその男の頭だった。熊だった。マックスは、それまで奇妙なものをたくさん見てきた。頭に殺した熊を剥製にした兜をかぶる、はるか北の国の戦士にも出会ったことがある。だが、先ほどの男の頭部は兜などではなかった。彼が話す度に、その口は開き、見つめる瞳も生氣に溢れていた。何かのまやかしにやられたのか。そういえば、その熊男と一緒に入ったけばけばしい物売り小屋が、忽然と消えてしまった。
だが、魔女や悪魔に惑わされたにしては、経験したことが馬鹿馬鹿しすぎる。熊男は大瓶の蜂蜜をいくつも買って帰ったのだ。そんなシュールなまやかしがあるものか。それに、マックスも、財宝を欲しがったわけではない。蜂蜜の小瓶を一つ買おうとしただけだ。納得がいかない。
マックスが、ブツブツ言いながら森を進んでいると、不意にバサバサと音がした。猛禽でもいるのかと上を見上げると、樹々の合間から空を飛ぶ鳥ではないものが見えた。
「天使……? それに抱えているのは、人魚?」
輝く黄金の髪をした美しい男が、翼を広げて飛んでいた。腕の中には魚の尾鰭を持った少女を抱えている。だが、マックスが戸惑ったことに、彫刻や絵画で目にし慣れている天使の姿と違って、その天使は全く何も身に付けていなかった。人魚の娘を上手に抱えれば都合の悪いものは隠れるだろうが、どうやら娘の楽な姿勢を優先したのだろう、問題のある部分だけが丸見えになっていた。天使ともなると恥ずかしさなどは感じないのであろうか。マックスは視線を森に戻し、何も見なかったことにした。
すると、森の途切れた辺りに、見覚えのある若草色の衣服が見えた。あれは先ほどの熊男ではないか! マックスは、その男を追ってみることにした。
森を出ると、突如として広がった景色は、マックスの見たことのあるどのような街とも違っていた。自然の石を敷き詰めた石畳ではなく、きちんと四角に切り添えられた石で道が造られていた。家のスタイルも、色遣いも違う。もう少し原色に満ちている。ここはどこなんだ。それに、こんなに大きい街がここにあるとは聞いたことがない。これは王都ヴェルドンよりもはるかに大きい都のようだ。
人通りが多くなり、熊男を見失わないようにするのが難しくなった。その時に、この街に対する大きな違和感の理由がわかった。道を行く人びとも、グランドロンやルーヴラン風の衣装とは違うものを着ているのだが、それは大した問題ではなかった。それよりも、彼らの1/3くらいが、人間の頭をしていないのだ。猫、狐、狸、猛禽……。熊男が歩いていても、誰も驚かないはずだ。幸い、マックスと同じように人間の頭をしている者も多かったので、マックス自身も目立っているとは言えなかった。
背の高い熊男の頭を見失わないように急ぐと、熊男が一つの大きな家の前に立って何かをしているのが目に入った。彼は、呼び鈴の隣に掲げられた立て板のような所に、羊皮紙のようなものを張り出していた。彼が貼ろうとしている告知は大きく、前に貼られていたものを上から覆うようにしている。それが終わると、大量の蜂蜜の壺を軽々と抱え直して扉の中に消えた。「今帰ったぞ」という声が聞こえた。
彼の張り出していた告知を見ると、マックスが知らない言葉で読めなかったが、蜂蜜の絵があったので、これは彼が蜂蜜を販売していることなのだろうとあたりをつけた。では、この僕が最初の客になろう。マックスはひとり言を言って、扉を叩いた。
「なんだ」
顔を出したのは、ザン切り頭で無精髭を生やした、屈強な男だった。
「その張り紙を見たんだが」
マックスが告げると、男はああ、という顔をして、奥に向かって叫んだ。
「おい、応募者が来たぞ! カーティス!」
応募者? 言葉は通じていると思うのだが、単語に違う用法があるのかもしれない。マックスは、目の前の男が中へ招き入れるのに素直にしたがった。
「ちょっとこの部屋で待っていてくれ。あ、俺はギャリー。うまくあんたが採用されたら仲間になるってわけ、よろしくな」
そういって去っていった。仲間? 蜂蜜を買う仲間って何だ? マックスは首を傾げた。これはその責任者が来たらきちんと話をしないと……。そう思っていると、ドタドタと音がして大量の人間が階段を下りてくるのが聞こえた。
「嘘だろ、あれっぽっちの報酬で応募してくるバカがいるのかよ」
「おい、俺にも見せろ! どんなスキル〈才能〉があるヤツなんだ」
「ちょっとっ! 賭けは賭けよ。本当だったらアタシの勝ちじゃない」
ドアが開き、華麗なスカーフとマントを身に着け、目が隠れるほど長い前髪を垂らしいてる黒髪の青年が入ってきた。
「ごきげんよう。遠い所、ようこそ。私がライオン傭兵団のリーダーを務めるカーティスです。お名前と出身地をどうぞ」
「マックス・ティオフィロスです。グランドロン王国の王都ヴェルドンの出身です」
蜂蜜を買うのに出身地を言わなくてはならないとは。マックスは首を傾げた。だが、カーティスと名乗った男も眉をひそめた。
「グランドロン王国? そんな国聞いたことねーな」
カーティスが何も言っていないのに、部屋の外にいる外野が騒いでいる。カーティスの立派なマントの影になり、全ての後ろの人びとがマックスに見えているわけではないが、ちらりと狐や狸の顔をした人物は見えた。
「そのような王国があるとは初耳ですね。あなたはヴィプネン族ですよね。惑星はヒイシですか?」
マックスは言葉を失った。ヴィプネン族? 惑星って何の話だ?
「グランドロンでは、人民を種族で区別したりはしないのですが。あの、表の張り紙にあった蜂……」
マックスが全て言い終わる前に、カーティスは畳み掛けた。
「スキル〈才能〉は何をお持ちですか」
「え? 私は、王宮での教師を生業としていますが」
「ということは記憶スキル〈才能〉をお持ちということですか?」
「記憶……ですか。悪くはないとは思います。それに、リュートとダンスなども少々嗜みます」
「それは楽器奏者のスキル〈才能〉もお持ちということで?」
「は? 弾けるということです」
話が噛み合ない。マックスはますます混乱した。
「だ・か・ら~っ。カーティスが訊きたいのは、あんたはどんなスキル〈才能〉を使って敵を倒せるのかってことでしょっ!」
噛み合わないやり取りに苛立って、ずかずかと入ってきた女性がいた。オレンジ色の髪に赤い瞳をした、なかなか魅力的な女性だ。
「マリオン。悪いが、黙っていてくれませんか。私がこれから……」
だが、話がますます聞き捨てならない方向に向かっているので、マックスはカーティスの言葉を遮って言った。
「失礼ですが、私は文人ですので、戦闘などには一切関わらないのです。私がこちらに来たのは、表の張り紙にあったように蜂蜜を買いたかったからなのですが……」
「蜂蜜~?!」
その場にいた全員がすっとんきょうな声を上げた。誰かが表のドアを開けて、掲示板を見に行った。
「おいっ! 本当に傭兵募集の張り紙の上に、ガエルの蜂蜜頒布会のお知らせが貼ってあるぞ!」
その声に、カーティスはがくっと首を垂れた。
「ガエルっ」
呼ばれて、誰かが地下室から上がってきた。
「誰か俺を呼んだか?」
「呼んだか、じゃありません! 表の張り紙はなんですか! 仲間募集の張り紙が隠れてしまったでしょう?」
「あ? あの募集は賭け用のシャレじゃないのか? あんなちっぽけな報酬で傭兵になりたがるヤツなんかいないだろう」
「う……ところで、この方は、どうやらあなたのお客さんのようです」
そう言われて「なんだって」と部屋に入ってきたのは、確かに先ほどの熊男だった。
「あれっ、さっきの……。あんた、俺から蜂蜜を買いたいのか?」
マックスは肩をすくめた。
「先ほどの店がどういうわけかなくなってしまったんでね。ほんの少しでいいんだが」
「じゃあ、わけてやるよ。あんたは特別だ、払わなくていい」
マックスは、ガエルにごく小さい蜂蜜の壺を貰うと、荷物の中に丁寧にしまい、礼を言って立ち上がった。
「ところで、ここはどこなんだい?」
マックスが訊くと、その場にいた人たちはきょとんとした。
「皇都イララクスだが」
ガエルが答える。マックスは、それはどこだと心の中で訴える。ガエルは、そのマックスの心の叫びを理解したようで、ポンと彼の肩を叩いた。
「さっきの森に戻れれば、きっとあんたの世界に帰れるだろう。ちょっと待ってくれ、飛べるヤツを呼んでくるから」
そう言って、部屋から出ると「おい! ヴァルト、ちょっと頼まれてくれ」と叫んだ。
「なんだよ」
声がして、バタバタと誰かが二階から降りてきた。部屋に入ってきた金髪の男を見て、マックスは「あ」と言った。さっきのすっぽんぽん天使だ。いや、今はきちんと服を着ているし、羽も生えていないが。
「悪いが、ちょっとした恩のある男なんだ。森まで連れて行ってくれないか」
「俺様が? どっちかというとカワイ子ちゃんを抱えて飛ぶ方が好みなんだが。ま、いっか」
ヴァルトは、ばさっという音をさせると、大きくて美しい羽を広げた。
「来な。あんた、まさか高所恐怖症じゃないだろうな。忘れ物すんなよ」
ヴァルトに抱えられて空高く舞い上がったマックスに、ライオン傭兵団の面々は手を振った。ガエルが「また逢おう!」と声を掛けた。マックスは手を振りかえした。
鳥の視点で見る都は、とても美しかった。だが、その不思議な色彩の建築物の数々を見れば見るほど、ここはどこか異世界なのだとはっきりとわかった。
「ほら。森が見えてきた。ここでいいだろう」
ヴァルトは、樹々の間を通って下草の間にそっとマックスを降ろした。それからウィンクして言った。
「じゃあな。もう迷子になるなよ。またどこかで逢おうぜ」
それからバサバサと音を立てて飛び立っていった。下から見上げてマックスには、それがヴァルトを最初に見かけた正にその場所だとわかった。
「ありがとう! またどこかで逢おう!」
マックスは、手を振った。
《シルヴァ》は、広大な森は、いつものように神秘的で深かった。下草を掻き分け、小川に沿ってゆっくりと進むと、また明るい光が射し込んできた。
街が見えてくる。マックスの見慣れた、グランドロン式の建物が目に入った。ようやく彼は自分の世界に戻れたのだと確信できた。マックスは荷物をそっと開けて、蜂蜜の小さな壺があるのを確認した。あれは夢ではなかったようだ。だとしたら、またガエルやヴァルトや、その他の傭兵たちともどこかで逢えるのかもしれないな。
マックスは、次の目的地を目指して、道を探した。新しいものを見聞し、世界の広さを知る、人生の旅だった。
(初出:2015年2月 書き下ろし)
【小説】Stand By Me
「scriviamo! 2015」の第十六弾です。ポール・ブリッツさんは、「マンハッタンの日本人」を更に進めた作品を書いてくださいました。ありがとうございます。
ポール・ブリッツさんの書いてくださった『作る男』
ポール・ブリッツさんの関連する小説:
『歩く男』
『食べる男』
『夢を買う男』
『待つ男』
『働く男』
「マンハッタンの日本人」シリーズ、こじれまくっていますが、そろそろ終息に向かっています。前回の「楔」の前書きで「より女心をぐらりとさせるアタックをして、私と読者の方々に『こっちだ!』と納得させた方に美穂をあげます」と宣言してしまいましたところ、ポール・ブリッツさん、TOM-Fさんお二人とも果敢に挑戦してくださることになりました。今回ポール・ブリッツさんが書いてくださったのが、ポールの求愛作戦。ついにポールが本氣をだして動いてくださいました。
今回書いたこの掌編は、ポールのアタックに対するアンサーではありません。単なるインターバルです。アンサーは、TOM-Fさんの掌編が発表されたあとに一つの短編の形をとらせていただきたいと思います。それまで少々お待ちください。なお、今回のストーリーは、キャシーの話です。この作品は、書いてくださった方のそれぞれの小説に合わせる形をとって書く特殊な執筆形態をとっていますが、そうであってもカテゴリーを通読して一つの作品となるようにしています。アンサーとしてではなく、私の小説としての「いいたいこと」を組み込むために、このパートが必要だと判断して書きました。今回に限って、R18スレスレ(っていうか、そのもの?)の記述があります。苦手な方はお氣をつけ下さい。
なお、この後は、TOM-Fさんの書かれるジョセフのアタックが発表される予定です。その後に、私が最終回を書いて、「マンハッタンの日本人」を完全に終わらせる予定です。というわけで、これ以後に、TOM-Fさん以外の方がこのストーリーに関して書かれるものは完全スルーさせていただきますので、ご理解のほどよろしくお願いいたします。
【参考】
読まなくても話は通じるはずですが、まとめ読み出来るようにしてあります。
「マンハッタンの日本人」あらすじと登場人物
「マンハッタンの日本人」シリーズ
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
「マンハッタンの日本人」シリーズ 12
Stand By Me
帰ったら、美穂の様子がおかしかった。狭いキッチンのテーブルの前に座って、電源の入っていない携帯電話を見ながらじっと考え込んでいた。キャシーは、「早かったのね」と言いながら上着をハンガーに投げかけた。その時にくずかごの中に粉々になった紙を見つけた。何があったか予想はついたが、何も言わなかった。
ジョセフ・クロンカイトのくそったれ。
キャシーは、心の中で悪態をつくと、シャワーを浴びにいった。それから、ふたたびキッチンに顔を出すと「今夜は戻らないから」と声を掛けた。美穂がはっとして、彼女の方を見た。キャシーは、その視線を避けるように玄関を出た。
美穂は、こんな時間に一人でアパートメントの外に出ることはない。それは、彼女には危険すぎる冒険だ。街角の至る所に、目つきが悪く、違法なものを売買している有色人種がたむろしている。古いレンガには、スプレーで落書きがされ、小便臭く、ゴミ箱の間をドブネズミが走るような地区だ。
ジョセフ・クロンカイトが、紳士らしく彼女をこのアパートメントに送る度に、この世界に属する自分や、ここに甘んじなくてはならない美穂が、彼のクラスとは違うと認識するだろうと感じた。それでも、あの子がここから出て行けることを願っていた。
さほど遠くない、似たようなレンガの建物に入っていく。薄い木の扉を激しくノックすると。「誰だ」という野太い声がした。
「あたしよ」
キャシーがいうと、すぐに扉が開けられた。中は煙草の煙で真っ白だった。キャシーよりもはるかに黒い肌をした、タンクトップを着た男が、にやりと笑っている。
「あたしよ、ボブ」
「わかっているよ、キャシー」
ボブは、キャシーを引き寄せると、タバコ臭い口を押し付けてきた。
「同居人と、なんかあったのか」
「ないわよ。全然ないわ。あの子は何も言わない。誰も責めない。一人で全部抱え込んでいるのよ。バカみたいに」
男は、「シャワーを浴びて来たんだな」というと、有無をいわせずキャシーの服を脱がせて、押し倒した。
彼女は、わずかな嫌悪感を押し殺して、体が熱くなるのを待った。これほど苛つく理由はわかっている。望んだことがうまく運ばないからだ。
春の終わりに、ジョセフが美穂に関して質問してきた時に、キャシーは交換条件として、ポールのことを調べさせた。ポールが美穂のことを忘れて、新しい環境に馴染み、前向きに生きている証拠がほしかった。そうすればキャシーは美穂にはっきりという事ができた。「ほら、あんな男のことはすっぱり忘れて、前を向かなきゃ」と。
ジョセフの持ってきた情報は、全く都合の悪いものだった。勝手にカリフォルニアなんか行っておきながら、しかも、あれから何ヶ月も連絡一つよこさないでおきながら、ポールには、妻どころか恋人の影すらなかった。しかも、狂ったように仕事をしているらしいが、一向に成果も出ていなかった。美穂がこれを知ったら、すぐにでもサンフランシスコに行くと言い出しかねない。そして、またしても、地を這う生活の続きだ。ニューヨークがサンフランシスコに変わるだけ。
ジョセフ・クロンカイトが連れて行く摩天楼の高級レストランや、洗練されたマナーの人びとの間で、美穂が本当に心地よいかどうかはわからない。だが、美穂は少なくとも自分とは違うクラスにいるとキャシーは感じていた。一緒に住み、共に働き、過ごす時間が長ければ長いほど、その違いを感じる。こんな所にいるべき人間ではないのだ。
彼女と働いていて、はじめて仕事が好きだと思えた。「いつか一緒に店を持とうね」そんな話もしたけれど、それが現実になるなんて思っていない。そんな風に、彼女を縛ることなんかできないと思っている。もうこの歳で、怪我もしたし、プロのスケート選手になれることもないだろう。あたしの人生には、どんでん返しがあるはずもない。だからこそ、美穂だけでも、こんな地の底から抜け出してほしいと願ったのだ。
「お前は、おかしな女だな。そんなにその同居人が好きなら、なぜ他の男とくっつけようとしたりするんだ」
ボブは笑いながら、キャシーの体を弄ぶ。彼女は、「くだらないことを言わないで」と、男の体に抱きついた。
「なぜ認めない? バイセクシュアルの女が嫌いだとは言っていないぜ」
「そういうんじゃないのよ。それだけだわ」
こんな粗野な男には、わかりっこない。それに、あんたにも、ジョセフ・クロンカイト。女に必要なのは、公正なる真実なんかじゃない。そんなものは、あんたのジャーナリズム・スクールの教則本の中にでも大事にしまっておくべきだったのよ。
あたしは夢が見たい。終わることのない夢。そして、腕が欲しい。強い腕。決して出て行くことのできない、下町の薄汚れた区画。どうやっても這い上がることのできない、食べていくのがやっとの貧しさ。このやりきれなさから、救い上げてくれるか、そうでなければ、願いを忘れさせてくれる強い腕が欲しい。
生まれた時から、羽布団の中でぬくぬくと育ったやつらにはわからなくても、あたしたちと同じ最下層から這い上がったあんたにはわかると思っていた、ミスター・クロンカイト。美穂を救い出してという、あたしのメッセージが。
ボブが、あたしを愛しているなんてお伽噺は信じていない。でも、この男は、少なくとも忘れさせる術を知っている。あたしがそれを必要とする時に、くだらない駆け引きもしない。首尾一貫して、同じ強さであたしをねじ伏せる。手に入らないものから、あたしの心を引き剥がす強い腕を持っている。だから、あたしは、いつもここに駆け込むのだ。
キャシーは、ボブが本能に支配された動物に変わっていくのを感じながら、自分も全ての思考を追い出して動物に変わってしまおうとした。
ことが終わった後も、抱きついたまま離れようとしないキャシーの頭を撫でながら、ボブは傍らの煙草の箱に手を伸ばし、一本咥えて火をつけ煙を吹き出した。狭くて暗い部屋に、通りの向こうのけばけばしいネオンの光が入ってくる。うっとうしい、湿った夜だ。
キャシーは、項垂れていた美穂の横顔の夢を見た。
朝早く、再びシャワーを浴びるために、アパートメントに戻った。美穂は、キャシーが戻ってくると、ほっとした顔をした。用意された朝食を食べてから、二人で《Cherry & Cherry》へと向かった。
美穂が、いつものようにもブラウン・ポテトを調理する間、キャシーは店内を掃除して、開店準備をした。郵便受けを覗くと、少し大きい封筒が入っていた。《Star's Diner》から転送されてきたらしい。美穂宛だ。
あたしたちのアパートメントの住所を知らない人って誰だろう。キャシーは、封筒を裏返して差出人を見た。
ポール……。
しばらくその封筒を見つめていたが、美穂には見せずに自分のバッグに入れた。
美穂が、「Stand By Me」を小さな声で歌っているのが聞こえた。
(初出:2015年3月 書き下ろし)
【小説】さようならのかわりに
「scriviamo! 2015」の第十七弾です。TOM-Fさんは、もう一度「マンハッタンの日本人」のための作品を書いてくださいました。ありがとうございます。
TOM-Fさんの書いてくださった『マイ・ディアレスト - サザンクロス・ジュエルボックス アフターストーリー』
TOM-Fさんの関連する小説:
「天文部」シリーズ
『この星空の向こうに』-Featuring『マンハッタンの日本人』
『この星空の向こうに』第2話サザンクロス・ジュエルボックス -Featuring『マンハッタンの日本人』
今年の「scriviamo!」は、全く今までと違った盛り上がり方をしました。なぜモテるのかよくわからないヒロインの取り合いという、書いている本人が首を傾げる状況でした。TOM-Fさんも、たぶん「乗りかかった舟」というのか、半ば私に脅される形で、アタックするジョセフを書いてくださいました。
自分で「ぐらっときたほうに美穂をあげます」と、書いてしまい、死ぬほど後悔しました。実生活だって、こんなに悩んだことないのに、なぜ小説でこんなに悩むことに……。ええ、三角関係を煽るような真似は、もうしません。海より深く反省しました。
今回書いたこの作品が、私の書く「マンハッタンの日本人」シリーズの最終回です。皆さんご注目の「どっちを選んだか」には異論があることも承知です。みなさんの予想とどう違ったかにも興味があります。
それはともかく、この作品を、ここまで盛り上げてくださった、ポール・ブリッツさんとTOM-Fさんのお二人、そして《Cherry & Cherry》とキャシー誕生のきっかけをくださったウゾさん、それから一緒になって騒いでくださった読者のみなさまに心から御礼申し上げます。
【参考】
読まなくても話は通じるはずですが、まとめ読み出来るようにしてあります。
「マンハッタンの日本人」あらすじと登場人物
「マンハッタンの日本人」シリーズ
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
「マンハッタンの日本人」シリーズ 13
さようならのかわりに
——Special thanks to Paul Blitz-san & TOM-F-san
なんて明るいのだろう。美穂はワーナーセンターの入口で、ネオンの灯でまるで昼のように明るいマンハッタンを見回した。何年この街にいたんだろう。これが見納めなのかと思うと、不思議な心持ちがした。もう全部終わったんだよね。船便で送り出した荷物は、あっけないほど少なかった。あとは小さなスーツケースが一つだけ。アパートメントの解約は、キャシーがやってくれることになっている。
《Cherry & Cherry》をオーナーは売ることにした。夜番のジェフとロイが引き抜かれて辞め、キャシーも妊娠して、ロングビーチのボブの両親の家の近くに引越すことになったのだ。以前から《Cherry & Cherry》を売るチャンスを待っていたオーナーは今だと判断したらしい。美穂には、《Star’s Diner》に戻るように言ったが、美穂は首を振った。
ちょうど今そうなったのが、天の采配のように感じた。
一週間前の夜、キャシーは浮かれて帰ってきた。ボブが子供ができたことを喜ぶなんて、夢にも思っていなかった。結婚することになったのも、それ以上の驚きだった。
その日の午後、取材旅行に向かう前のジョセフ・クロンカイトが美穂にと言伝た薔薇の花束と手紙は、産婦人科に行く直前にアパートメントの机の上に置いて来た。美穂には「早くアパートメントに戻ってきなさいよ。驚くものが置いてあるわよ」とメールを打って。
だから、二人でお互いの幸福を祝うつもりで、笑ってドアを開けたのだ。するとキッチンで美穂が泣いていた。そんなことは、夢にも考えていなかった。美穂の手元には、手紙があった。
「なんで泣いているの?」
キャシーは、ジョセフがプロポーズするのだと思っていた。紅い薔薇の花束の意味だって、それ以外にあるんだろうか。
美穂は、ジョセフがプロポーズしたことを認めた。手紙には、取材旅行から戻ったら一緒に二人の故郷を訪ねる旅をしようと書いてあった。水曜日に用意をして待っていてほしいと。すぐに旅立てるように。それは、ポールがサンフランシスコに行くときに美穂に送ったメールの内容を彷彿とさせた。美穂が、愛の告白だと信じた旅立ちへの誘い。
「だったら、なぜ泣いているの?」
「あの時は、書いてなかった、あの時に言ってほしかった言葉が書いてあるんだもの」
――君を愛している。……これからの人生を、私とともに送ってほしい。
「よかったじゃない」
キャシーが言うと、美穂は、もっと激しく泣き出した。
「……わかってしまったんだもの。私は、ポールにそう言ってもらいたかったんだって」
キャシーは、青ざめて立ちすくんだ。
「でも、ポールは言ってくれなかった。これからも言ってくれない。たぶん最初から、一度だって好きになってくれなかったんだよね。私は、ただの同僚でしかなかった。でも、だからといって、忘れられるわけじゃない。ジョセフは、こんなにいい人なのに、どうして私は……」
「ミスター・クロンカイトとは、結婚できないの?」
美穂は首を振った。
「できない。少なくとも、今はできない。だって、応えられないもの。あの人の優しさや、愛情に。ポールのことを考えながら、どうやっていい奥さんになれるの? そんなの不可能でしょう?」
キャシーは、両掌を組んで、二つの親指を神経質に回していたが、やがて決心したように食器棚の小さな引き出しから封筒を取り出してきた。両手で顔を覆って泣いていた美穂は、机の上、自分の前に置かれた封筒に氣づき、不安げにキャシーを見上げた。
「すごく後悔した。隠したりすべきじゃなかったって。でも、もうやってしまって、これを知られたらミホは私を二度と信用してくれないと思ったから、渡せなかった。ごめんね、ミホ……」
美穂は、裏返して、ポールの名前を見つけ、信じられないようにその封筒を見つめていた。それから、丁寧に封を切って中の航空券と手紙を取り出した。
美穂は黙ってその手紙を読んでいたが、小さくため息をついて再び顔を手で覆った。
「遅すぎた?」
キャシーが訊くと、美穂は頷いた。キャシーは下唇を噛んで、椅子に座り込んだ。
「怒ってよ。殴ってもいいよ、ミホ……」
美穂は、首を振った。それから、そっとポールの手紙をキャシーに見せた。
「同じだもの……。また、書いていないもの……」
ポールの手紙には、二号店のオープンに招待したいということが書いてあった。ジョセフの手紙と違って、それはプロポーズではなくて招待状に過ぎなかった。航空券の日付は、この前の土曜日だった。美穂がジョセフのホームパーティを手伝った日だ。
「私が手紙を隠していたって、連絡してみたら?」
そう言うキャシーに美穂は首を振った。
「それが何になるの? もういいの。そろそろ前を向かなくちゃ」
《Cherry & Cherry》の売却のことを知った美穂は、潮時だと思った。オーナーに「日本に帰ります」と決心を伝えた。それからの一週間で、全てが終わってしまった。ジョセフに断りの連絡をし、航空券を手配し、荷造りをした。そして、今夜がマンハッタンの夜景を見る最後の夜になってしまった。
ゆっくりと五番街をめぐり、それからワーナーセンターの前に来た。足がいつかジョセフと待ち合わせをしたエスカレータの近くへと向かっていた。
ジョセフには、逢って断りをいれることができなかった。彼はマンハッタンにいなかったし、旅行をキャンセルしてもらうためには、どれほど失礼だとわかっていても、電話をするしかなかった。そして、それっきりになってしまっていた。
さようならを言うために時間をとってもらうことなんてできない。そうでなくても、忙しい人なのだ。ましてや、私は彼を傷つけてしまったのだから。でも……。
人波を遮るように立っていたが、やがてため息をついて端の方にどいた。それから、携帯電話を取り出してメールを打った。
――親愛なるジョセフ。私のためにしてくださった全てのことに対して心から感謝します。どこにいても、あなたの健康とさらなるご活躍を祈っています。ありがとうございました。美穂
メールが送信されてから一分も経たないうちに、電話が鳴った。ジョセフ……。
「今、どこにいる」
同じやり取りをここでしたな、そう美穂は思った。
「マンハッタンです」
「それは、想像していたよ。もう少し狭い範囲で、どこにいる?」
「ワーナーセンターの、あのエスカレータの所です」
素直に美穂は言った。「二分で行く」と言われて電話が切れた。
逢うのは心が乱れると思ったが、きちんと挨拶ができると思うと、ほっとした。あんなにひどいことをしたのに、彼は少しも変わらない。美穂はぼんやりと考えた。
エスカレータを降りてくるのだと思っていたが、彼は全く反対の方向からやってきた。
「危うく建物を出てしまう所だった。今夜は運がよかったんだな」
そう言うと、以前と全く変わらずに微笑んだ。美穂は申し訳なくて頭を下げた。
マンダリン・オリエンタル・ホテルのラウンジから、素晴らしい夜景が見えた。星屑が煌めくように、今夜のマンハッタンは潤んで見えた。何を飲みたいかと訊かれてマンハッタンを注文した。これで最後だからというのもあったが、少し強い酒を飲んで、恥ずかしさを誤摩化してしまいたかったから。
「すみません。お時間をとっていただくことになってしまって」
ジョセフは少しだけ辛そうに眉をしかめた。
「そんな風に、他人行儀にしないでくれないか。それでも、連絡してくれてありがとう」
「どうしてもお礼を言いたかったんです。もう、お逢いすることはできないと思いますし」
「どうして。君は、友人としてすらも私には逢いたくないのか?」
美穂は、首を振った。
「いいえ。でも、日本は遠いですから」
「日本に帰るのか? いつ?」
「明日」
「どうして?」
美穂は、答えるまでに長い時間をかけた。彼の目を見て話すことができなくて、オレンジ色のカクテルを見ていた。
「エンパイアステート・ビルディングに連れていってくださった時に、おっしゃいましたよね。『ニューヨークに好きな場所がたくさんできていた』って。私、長く居れば、そうなれるのかもしれないと思っていたんです。でも、今は、居ればいるほど、苦しくなる思い出ばかりが増えていくんです。どこに行っても、かつては好きだった場所が、楽しかったり幸せだった場所が、心を突き刺す悲しい場所に変わっているんです」
「彼との想い出の場所だから?」
「それもあります。でも、それだけではありません。一生懸命働いた場所も、キャシーと一緒に過ごした場所も、それに、あなたと歩いた場所も、全てです……」
彼は、バーボンを飲む手を止めた。
「今、こうしているここも、辛い場所に加わるのか?」
「わかりません。いずれにしてもこの街には、もう二度と来ないでしょうから……」
ジョセフはしばらく考えていたが、美穂の方を見て続けた。
「結局、彼には連絡しなかったのか?」
「これ以上悲しくなる必要もないと思って。それに、二度の誘いに返事もしなかった私のことを、彼は軽蔑していると思います。そんな女がずっと好きだったと言っても信じてくれないでしょう? もう、いいんです。日本で、全く違う文化と社会の中に埋もれれば、きっと忘れられると思います」
ジョセフは、何も言わずにしばらくグラスを傾けていた。美穂は、無神経なことを言って、ジョセフにも軽蔑されたんだろうなと思い、悲しくなった。こうした話をすることができるのは、この人しか居なかったのだと今さらのように氣がついた。キャシーにも、他の誰にも、それどころか、日本の家族や友人にもいなかった。これからは、世界中に一人も居なくなってしまうのだと思った。自業自得だものね。
その美穂の思考を遮るように、突然彼が言った。
「航空券をここに持っているか?」
「え? はい」
美穂は、どうするつもりなのだろうと思いながら、バウチャーをジョセフに見せた。14時45分発ロサンジェルス経由羽田行ユナイテッド航空のチケットだ。ジョセフは、携帯電話を取り出したが、周りに人がいるのを見て、「失礼」と言ってから、席を外した。彼女は、ため息をつきながら、グラスの中のチェリーをぼんやりと眺めていた。
十分ほどして、「待たせて済まなかった」と言いながらジョセフが戻ってきた。そして、バウチャーの上に、一枚のメモを載せて美穂に返した。
「予約を変更した。出発は午後ではなくて朝8時ちょうど。中継地はサンフランシスコで11時21分到着だ」
「え……」
「サンフランシスコ発羽田行きの出発時刻は19時45分。市内に行く時間はたっぷりとある」
「でも……私は、もう……」
ジョセフは、美穂の言葉を遮った。
「私のために、行ってくれ。君がこんな状態では、私は君を諦めて未来を向くことはできない。わかるかい?」
「……」
「彼に逢いに行って、君の想いを正直に告げるんだ。そして、彼が何と返事をしたか、私に報せてほしい。優しさからの嘘ではなく事実をだよ、わかるね」
美穂は、ジョセフの瞳と、真剣で表情の読みにくい端正な顔を見て黙っていたが、やがて瞳を閉じて深く頷いた。
彼は、最後にアパートメントまで美穂を送ってくれた。
「ありがとうございました。本当に申しわけありません」
「謝らないでくれ。君の幸せを願っている」
「……どうぞお元氣で。さようなら」
「さようならは言わない。約束を忘れないでくれ」
そう言うと、彼は美穂を抱きしめた。これまでのように、優しいものではなく、とてもきつく。彼の顔が美穂の額に強く押し付けられていた。美穂は、彼がどれほど長く、感情を押し殺してきたのかを感じて苦しくなった。彼の背中が、角を曲がって見えなくなると、美穂はまた悲しくなって泣いた。
サンフランシスコは、やはり大都会だった。誰もがTシャツで歩いているわけでなければ、町中がビーチなわけでもなかった。アベニューの名前に聞き覚えがない、バスや地下鉄の車体の色が違う、坂が多く、ほんの少し太陽の光が強く感じられる。
ニューヨークで機体故障による遅延があったため、招待状を頼りに美穂が彼の店を見つけられたのは午後二時を数分過ぎていた。その店は、暖かみのあるフォントで店名の書かれた木の看板を掲げたレストランで、イタリア国旗の三色を使った外壁が目立った。入口は閉じられていた。
「ランチ 11:00 - 14:00 ディナー 18:30 - 22:00」
美穂は、口に出してみた。遅すぎたんだ。ディナーまで待っていたら、搭乗時間に間に合わない。美穂は、泣きたくなった。ここまで来たのに。やっぱり、逢わない方がいいってことなのかな。美穂は、そのまま踵を返しかけたが、ジョセフとの約束を思い出した。ポールの返事を、知らせなくてはいけない。
美穂は、携帯電話を取り出した。いつだったかポールに連絡をしようとして、勇氣がなくて切ってしまった番号が送信記録に残っているはず。彼は、あの時も折り返しかけてはくれなかった。だから美穂は、こんどこそはっきりとした答えだと思ったのだ。あの時に電話をしたから、それでも彼は新しいお店の開店にあわせて招待状をくれたのだろう。それにも行かなかったし、断りの連絡すらしなかった。それ以前に、サンフランシスコに誘ってくれた時にも、バス停にも行かなかった。彼はとても怒っているに違いない。それでも、迷っている時間はなかった。
呼び出し音が鳴った。三回……五回、六回……九回、十回。出るのも嫌なのかな。それとも誰からかわからないから、出ないのかな。諦めた方が……。
「ハロー」
電話の向こうから、抑揚のない声がした。ポールの声だ、何ヶ月ぶりなんだろう。
「誰ですか?」
美穂が戸惑っていると、声は続いた。切られてしまう前に慌てて答えた。
「私、谷口美穂です」
長い沈黙のあと、声のトーンが変わった。恐る恐る、確かめるかのように。
「……ミホ?」
美穂は、急いで続けた。
「お休み時間に邪魔してごめんなさい。あなたと話をしたいからお店にきたんだけれど、夕方まで閉まっているというので……」
「どこに来たって?」
「え。あなたの、お店の前……」
途端に、頭上でガタッという音がした。見上げると、窓の緑色の鎧戸が開けられて、そこからポールが顔を出した。「今、行くから」と言われて、電話が切られた。
ものすごいドタドタとした音がして彼が降りてくるのがわかった。目の前のドアが開けられて、そこにポールがいた。彼は、最後に見た時よりも痩せて、少し歳をとったように見えた。けれど、美穂は、どれほど彼に逢いたかったのか、自分が正しく理解していなかったのだと感じた。この瞬間のためだけでも、ここにきてよかったのだと感じた。
彼は震えていたが、やがて、笑顔を見せてぽつりと言った。
「……ようこそ」
「ご案内申し上げます。スイスインターナショナルエアラインLX 2723 便ジュネーヴ行きは、ただいまよりご搭乗の手続きを開始いたします。ファーストクラスならびにビジネスクラスのお客様はどうぞご搭乗カウンターにお越し下さいませ。繰り返します……」
ゲートの近くに座っていた金髪の男性は、手元の手紙をもう一度眺めた。
親愛なるジョセフ。
あなたが、私のためにしてくださった助言と、ご助力には感謝してもしきれません。私は、あなたに取り返しのつかないほどひどいことをしました。許してほしいと、頼むこともできないほどに。でも、あなたはそれを恨むどころか、私にこれ以上ない最高の贈り物をくださいました。
あなたがわざわざ手配し直してくださった日本行きの航空券を、また無駄にすることになってしまいました。私はこれを、サンフランシスコの小さいイタリア料理店の二階で書いています。
マンハッタンは、私にとってもう悲しくて辛い場所ではなくなりました。懐かしくて逢いたい人に溢れ、優しく幸せな想い出のある大切な街になりました。全てあなたのおかげです。
あなたの人生がこれまで以上に輝かしいものとなることを心からお祈りしています。そして、ご活躍を陰ながら応援させてください。さようならのかわりに、心からの尊敬を込めて 谷口美穂
彼は手紙を丁寧にたたんで封筒に収め、胸ポケットにしまった。それから搭乗券とパスポートを右手に、左手にアタッシュケースを持ち、搭乗カウンターへと歩いていった。
(初出:2015年3月 書き下ろし)
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【小説】ホワイトデーのご相伴
「scriviamo! 2015」の最後、第十八弾です。栗栖紗那さんは、ラノベのショートショートで参加してくださいました。ありがとうございます!
栗栖紗那さんの書いてくださった作品 『創作料理店のバレンタイン』
栗栖紗那さんの関連する作品 『創作料理店のとある一日』
栗栖紗那さんはラノベらしいラノベを書かれるブロガーさんです。ブログでの小説交流をはじめたもっとも古いお友だちの一人です。人氣作品「グランベル魔法街へようこそ」や「まおー」、わたしがよく絡ませていただく「Love Flavor」などたくさんの連載作品を安定のクオリティで書かれていらっしゃいます。最近はお忙しいようですが、それにもかかわらず、「scriviamo!」皆勤してくださいました。本当に感謝します。
さて、今回はとある料理店のデキるシェフと思われる青年と、看板娘でどうやら青年が夢中らしい少女が出てくる作品のバレンタインデーバージョンを書いてくださいました。ということで、このお二人をお借りして、このお話の後日譚、ホワイトデーのことをちょっと書いてみたくなりました。うちから登場させたキャラは、年に一度しか出てこない上から目線のあやつです。紗那さん、勝手にお二人をお借りしました。ありがとうございました。
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
ホワイトデーのご相伴
「タンスの上の俺様」 2015 - Featuring『創作料理店の……』
——Special thanks to Kurisu Shana san

俺様は、食にはうるさい。そもそもニンゲンというのは、量や種類で言えば、とんでもないバリエーションを食べているのだが、その大半は屑だ。たとえば俺様のエサ係は、プラスチックのカップに入ったインスタントラーメンや、時間が経って冷えてしまった宅配ピザ、スーパーの特売で半額で手に入れた色の変わりはじめた果物など、見るからにおぞましいものを嬉々として口にしている。全くもって、なげかわしい。
エサ係には、でっぷりと肥えてテレビの前のこたつに横たわっている「嫁」がいる。この女はエサ係よりはいいものを食べている。ただ、そのバランスが最悪だ。二時間並ばないと買えないなんとか屋のケーキをコーラで流し込むというのはいかがなものか。
そんな二人の家庭では、俺様に提供される食事もあまり期待できないのはやむを得まい。添加物にまみれた安っぽく劣悪なものばかり食べているくせに、「キャットフードなんてどれでもいいじゃない、どうせ猫に味なんかわからないわよ」などという、とんでもないセリフが出てくるヤツらなのだ。
俺様は、雨露をしのげ、体調を崩した時に医者に連れて行ってくれるヤツらへの最低限の礼儀だと心得ているので、週に四日ほどは、朝晩ともに大してうまくないキャットフードを食してやっている。だが、たまにはまともなものが食べたくなるので、いくつかの隠れ家を用意し、グルメとしての矜持を保っているのだ。
今日は、さてと、どこにいこうかな。そうだ、あの店がいい。なかなか腕のいいシェフと、見かけは悪くないが、料理店の従業員としては致命的な欠点を持つ変わった娘がいる料理店だ。
あの店にはじめて行ってやったのは、三ヶ月ほど前のことであった。いつもの冒険の帰りに雨が降ってきたので、濡れるのが苦手な俺様はとりあえず一番近くの軒先に入ったのだ。
「あれ。仔猫が来たぞ」
白い調理師の服を着た男が言った。俺様は、追い出されるのかと思ったので、「お前の勝手にはさせないぞ」光線を発しながら睨んでやった。
「なんか怒っているみたいだぞ。野良じゃなさそうだな。どこの家の猫なんだろう」
「ああ、これ、三丁目の莉絵さんちの俺様ネコだよ」
建物の中から出てきた娘が言うと、男は首を傾げた。
「俺様ネコ?」
「うん。本当は、なんだっけな、ええと、あ、そうそう、ニコラとかいう名前がついているんだけれど、あそこのご主人が俺様ネコって呼ぶと振り向くんだって」
俺様は、しっかりと頭をもたげて、じっと見てやった。男は、俺様を追い出すつもりはないらしく、面白そうに腕を組んだ。娘は言った。
「お腹空いているのかもよ。ねこまんまかなんか、作ろうか」
「……お前が作るのか?」
「え? いくら私でも、ねこまんまくらいは完璧に作れるよ。ご飯でしょ、みそ汁でしょ、ソースに、わさびにケチャップ……あとなんだっけ?」
お、おい。それは、エサ係の残りものよりもまずそうじゃないか! 俺様が好きなのは、サーモン・ムースとか、ストラスブルグ・パイとか、鯛のお造りとか、その手の高級食材なんだが。
「へえ。お前のねこまんまがロクでもない味だということは分ったらしいぞ。露骨に嫌な顔をしたからな。おい、俺様ネコさんとやら、氣にいったよ。こっちにおいで」
そういうと、男はレストランの中に俺様を招き入れて、かなり新鮮な白身魚の骨、それもまだかなりたくさんの身がついている状態で出してくれたのだ。
それ以来、この店は俺様のお氣にいりとなったのだ。
「あれ、俺様ネコ、また来たのか? 今日は散歩か?」
散歩ではない。美味いものを適当に見つくろってくれ。ん? なぜ、菓子なんか作っているんだ。お前は製菓は守備外だと言っていなかったか?
「お。いつもの料理と違うのがわかるのか? そう、これはミニケーキだ。今日は、あいつがいないんで、ちょっと練習をしてみようかと思ったんだ。お前、ホワイトデーって知っているか?」
バカにするな。知っているとも。エサ係が、嫁から「欲しいものはここに書いておいたから」とリストを渡されていた、あれだろう。エサ係は、何でも俺様に相談するからな。俺様はその度にきちんとしたアドバイスをしてやるのだが、あいつは頭が弱いらしくそれがわからない。大抵はアドバイスと違うことを実行して嫁に怒られるのだ。
だが、この料理店の男の所では、リストは配られていないらしい。
「あいつがバレンタインデーに作ってくれた『あれ』は、そもそも人間の食えるような代物じゃなかったんだが、そうであっても心がこもっていたのは間違いないと思うんだ。だから、お返しもちゃんとした方がいいと思ってさ。慣れないケーキなんて作っているわけだ」
男は、砂糖を水に溶かして白いアイシングを作った。それをケーキの上にかけていく。それが大半固まると金平糖とマジパンの葉っぱを手早くのせて飾り付けていく。ふむ。確かに綺麗だ。だが、俺様の腹は、それでは膨らまないんだ。
男は俺様の興味のない様子を察したらしい。
「ケーキに興味あるわけないか。待ってくれ、ほら、これ。スモークサーモンがあるんだ。塩分がお前にはよくないかもしれないから、ほんの少しだぞ」
おお、ノルウェー産のスモークサーモン。よくわかっているではないか。俺様は、慌てて全て食べてしまい、多少はしたなかったかなと思いつつも、丁寧に顔を洗った。それを見ていた男は、腕を組んで少し考えていた。
「そうだよな。何も世間に迎合して、甘いもので返さなくたっていいんだ。自分らしい味が一番なんだよな。ここは創作料理店なんだから、もう少しオリジナリティのある……」
それから、思いついたように「ああ、サーモンを使って……そうしよう」と勝手に頷いた。
今日はこれ以上何も出てこないようなので、俺様は興味を失って戸口に向かった。
「なんだ。もう帰るのか。もし憶えていたら明後日、14日もここに来いよ。アイデアをくれたお礼だ。一緒にホワイトデーを祝おう」
俺様の日常には、カレンダーなどというものはない。晴れているか雨が降っているか、それとも暑いか寒いか、それだけだ。だから、14日に来いなどと言いさえすれば、こちらが指折り数えて待つと思っては困る。それに俺様の指は折っても肉球までは届かないのだ。
しかし、俺様が考えるまでもなく、エサ係が今日はホワイトデーだと教えてくれた。嫁に頼まれていた、タレントのなんとかがプロデュースしたバッグが手に入らなかったんだそうだ。どうせリストには十以上の希望が載っているんだ、一つくらい足りないからといって騒ぐこともないと思うが。
俺様は、エサ係の悩みを無視して外に出た。今日は乾いたエサなど食うことはないだろう。あのレストランへ行ったら、なんかまともなものが用意されているはずだから。
角を曲がると、戸口にいた娘が「あ! 本当に来た!」と手を振った。俺様を待っていたのか?
「へえ。本当にわかったんだ。猫に日付がわかるとは思わなかったな」
何を言う。俺様をただの猫だと思っているならそれは全くの見当違いというものだ。俺様は、そんじょそこらの猫とは違うのだ。どこがどう違うのかと訊かれても困るが。
俺様は、当然のごとく店内に入って、中を見回した。俺様のエサはどこだ。
「ほら、見てみて。これ、わたしのために作ってくれたんだって」
テーブルの上に、ケーキのように見える物体が載っていた。しかし、それからはケーキよりもはるかに魅惑的な匂いがしていた。
スモークサーモンが薔薇の花びらのようにデコレーションされている。俺様は、もうすこし良く見るためにテーブルの上に載った。葉のようにカットされているのはキュウリ、これには興味はない。ケーキ台のように見えたのは、わずかに穀粒の混じった円形の食パンを薄くカットしてさらに六等分して作ったサンドイッチを三段に重ねたものだった。それぞれ、サーモン、ターキー、それにチーズが挟まっている。
俺様が毒味をしてやるために、前足を薔薇の形をしたスモークサーモンに伸ばすと、男はあわてて俺様を抱き上げた。
「これはこの娘の分だから。お前さんのはこっち」
そういうと、テーブルの下に俺様を置いた。そこには、ずっと小さいサイズのやはりケーキに見える物体が置いてあった。パンやキュウリなど俺様の興味のないものを取り除いた、ずっと美味そうなバージョンだった。
ううむ。このまろやかなクリーム。最高級のバターに生クリームを混ぜて練ったに違いない。ターキーは、塩竈にしたのかな。ふっくらジューシーに仕上がっている。それにこのチーズは幻の最高級グリュイエール……。そして、もちろんノルウェー産サーモンたっぷり。
「お、おいっ! 何をするんだ」
その声に、ふとテーブルの上を見上げてみると、娘が彼女のサンドイッチにケチャップとソースをたっぷりかけていた。……なんてこった。この繊細な味付けを一瞬にしてめちゃくちゃにしたらしい。
「だって、こうしたほうが、味にメリハリがつくよ。俺様ネコもケチャップとソース、いる?」
いるか! 俺様は、余計なことをされるまえに急いで大事なご飯をかきこんだ。男は、少なくとも俺様までが味音痴ではなくてホッとしたらしい。
だが、男よ。こんな味音痴にべた惚れなお前も、人のことは言えないぞ。そう思ったが、猫らしく余計なことはいわずに、顔を洗った。
(初出:2015年3月 書き下ろし)