マンハッタンの日本人 あらすじと登場人物
【あらすじ】
ニューヨークに夢いっぱいでやってきた美穂。現実の壁に打ち当たりながらマンハッタンでしぶとく生きる日本人女性の物語。
【登場人物】
◆谷口美穂
ビジネスウーマンになるという夢を持ってニューヨークにやってきた日本人。しばらくは銀行に勤めていたが失業の後、《Star's Diner》という大衆食堂のウェイトレスになる。後に《Cherry & Cherry》に異動となる。
◆キャシー
《Cherry & Cherry》に勤めるウェイトレス。美穂の苦境を察してルームシェアをしている。アイススケートが大好き。
◆ポール
何度かの失業後、《Star's Diner》に勤めることになった青年。店長代理、実質的な店長にもなった。ポール・ブリッツさんが育ててくださったキャラクター。
◆ジョセフ・クロンカイト
CNNの解説委員でもある有名ジャーナリスト。綾乃のジャーナリズム・スクールの講師として登場した。TOM-Fさんのキャラクター。
◆鳥打ち帽のおじいさん
美穂が《Cherry & Cherry》で出会った老人。ウゾさんの『其のシチューは 殊更に甘かった 』のキャラクター
◆春日綾乃
《Star's Diner》に訪れた日本人の少女。TOM-Fさんの『天文部シリーズ』のヒロイン
◆オーナー
《Star's Diner》と《Cherry & Cherry》の経営者だが、ほとんど登場しない。ケチと言われている。
◆マイク
美穂が一時つき合っていた(と本人は信じていた)青年。かなりろくでもないヤツ。
◆イヴォ
ヒスパニック系の軽量級ボクサー。ポール・ブリッツさんの「食べる男」などのキャラクター
◆自称詩人
小柄な黒人。HIVを患っていた。ポール・ブリッツさんの「食べる男」などのキャラクター
◆トレイシー
美穂の銀行時代の同僚。
◆ジョニー
《Star's Diner》のシェフだが、料理の腕はいまいち。
◆ダイアナ
《Star's Diner》のウェイトレス。イヴォの彼女。
【用語解説】
◆《Star's Diner》
マンハッタンのダウンタウン、ユニオン・スクエアの近くにある大衆食堂。茶色いソファと古びたランプの店。
◆《Cherry & Cherry》
マンハッタンのメトロポリタン美術館の近くにある食堂。《Star's Diner》よりは少し洒落ている。フーシャ・ピンクの派手なインテリア。
【参考】
この作品の特殊性について(記事:先の見えない作品?)
この作品はフィクションです。ニューヨーク、実在の人物や歴史などとは関係ありません。
【小説】マンハッタンの日本人
今年最初にアップするのは、読み切り小説です。三が日にアップするにしては、あまり明るくないのですが。昨年から自分に課している義務として、「毎月最低一本は短編を書く」というものがあります。実際には、これに「Stella」に提出する「夜のサーカス」や「貴婦人の十字架」または「大道芸人たち 第二部」の執筆などが加わるので、最低一本どころではないのですが、それでも義務は義務として、十二ヶ月で一つのまとまった作品になるような12本の短編集を設定しています。去年は「十二ヶ月の組曲」でしたが今年は「十二ヶ月の歌」です。
「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いていきます。最初はこれ、一月分としてNe-Yoの“One In A Million”を基にした作品です。追記にYoutubeでPVを貼付けてあります。
マンハッタンの日本人
Inspired from “One In A Million” by Ne-Yo
ブーツのかかとががアスファルトを叩くときの冷たい響きが好きだ。こうして歩くと、いかにも闊歩という表現がふさわしく思える。なんと言っても、ここは故郷の吉田町なんかではない、東京でもない、そう、ニューヨークの五番街なのだ。
自分を追い越した、背の高いビジネスマンはいかにも格好が良かった。黒いスーツにトレンチコートを着て、大股で歩いていく。すれ違ったのは赤いスーツとハイヒールに白いボアのついたショートコートを着た女性で、鞄からはニューヨークタイムズがのぞいていた。
白人、黒人、ヒスパニックにアジア人。誰もが忙しそうに歩いているけれど、それぞれが生き生きとして見える。昨夜、深夜までネオンに輝く街でグラスを傾けていた人も、こうして朝には忙しくオフィスに向かう。眠らないエキサイティングな街、ニューヨーク。私もこのビッグアップルの一員なのだ。美穂は背筋を伸ばして歩いた。
アパートを出て、地下鉄に乗る前に新しく開店した評判のデリに立ち寄ってきたので、ショルダーバッグの他に小粋なショッピングバックが肘にかかっている。17階のオフィスに着いたら、摩天楼を眺めながら朝食にするのだ。
美穂は歩いたまま、分厚い封筒をバッグから取り出すと中を覗き込んだ。今朝日本から届いたばかりだった。中には十枚ほどの年賀状と、数枚の写真、そして青いしゃれた便箋に書き綴られたメッセージが入っていた。また新しい便箋を買ったのね、お母さん。
「明けましておめでとう。我が家に届いたあなた宛の年賀状を同封します。それと、正美のところで新年会をしたときの写真も。彩ちゃんと友喜くん、大きくなったでしょう。あなたに会いたがっていたわよ」
美穂は立ち止まって、写真の方に目を移した。頬が弛んだ。確かに成長している。ふふん、サイズもぴったりだったわね。ブルーミングデールズで買ったカーディガンとトレーナー。姪と甥には甘いと自分でも思う。そうでなければ、この年齢の子供たちの写真なんか本当はどうでもいい。そう、この後に待っている年賀状の写真はそんなのばかりだろう。
「美穂、どうしてる? 日本に帰ってきたら、連絡してね」
そう手書きで綴られた葉書には友人の面影がほとんど見られない子供がピースをして写っている。しかもピンぼけだ。本職のモデルではないのだから、文句を言うこともないだろう。でも、私はこの子よりもあなたの今の写真が見たいんだけれどな。次。
「結婚式には美穂っちを招待したかったな。ようやく結婚生活にも慣れてきたところ。でも、すぐに母になります」
ウェディングドレス姿の友人がケーキカットをしながら微笑んでいる。ご主人の顔に光がちゃんと当たっていないので、どんな人だかわからない。これ、ご主人の会社にも送っているのかしら。余計な心配をしてしまう。ま、いっか。次。
「美穂ちゃん、また一年経ったね。世界を舞台に活躍する美穂ちゃんって、本当にすごいと思う。私は、何も出来ないから、専業主婦で、ママ友とのパーティに頭を悩ませるぐらいしかできないんだよね。日本に戻ってきたら、いろんな話を聞かせてね」
美穂はため息をついた。母がこの年賀状の束を送りつけてきたのを裏読みすべきではないのかもしれない。でも、揃いも揃ってこうだと、いつもの小言を思い浮かべてしまう。いったい、いつになったら安心させてくれるの——。
五年勤めた銀行をやめて留学すると言った時に母親はひどく反対した。そんな事をして何になるのかというのだ。留学をいい成績で終え、こちらで就職を決めたと言った時にはもっとずけずけと言った。
「いい加減にしなさい。あなたはもう28歳なのよ。ニューヨークで一人暮らしをしているなんて、生意氣で浮ついた女だと思われて良縁が遠のくわよ」
お母さんの考えは古臭い。家庭を守って、三つ指ついて待っている女なんて、今どき流行んないわよ。友達はみな羨ましいって言ってくれたわ。
職場の休憩ゾーンは、全面ガラスで、ニューヨークの摩天楼が一望の元だ。この景色が全部私のもの。アメリカで自立して生きているんだから、大したものだっていって欲しい。そう、そりゃあ、私はディーラーではない。世界を動かしているわけではない。……ただの事務員だけれど。家族や友達に嘘をついているわけではない。本当に、ニューヨークの銀行で働いているんだもの。
デリで買った南瓜のサラダをつつきながら美穂は遠くの海を見つめた。あのあたりに自由の女神が立っているはずだけれど、よく見えた試しはない。ワールドトレードセンターは、私が来た時にはもうグラウンドゼロに変わっていたし、そういえばまだエンパイア・ステートビルディングにも昇ったことはない。
クリスマスに、あのビルに昇りたいのと言ったら、マイクは鼻で笑った。
「クリスマスの夜は、僕はオハイオだよ」
「ええ〜。一緒に過ごしてくれないの? ひとりぼっちのクリスマスなんて寂しいなあ」
そう甘えた声を出したら、彼は軽蔑するように答えた。
「何か勘違いしていないか? 僕たち別につき合っている訳でもないだろう」
何度も一緒の夜を過ごしているのって、つきあっているうちに入らないの? 美穂が下を向いて言葉を探していると、マイクはさっさと服を着て、いそいそと出て行った。
「面倒がない子だと思っていたんだけどな」
面倒がないって、何? イエロー・キャブ。マイクははっきりとは口にしなかったけれど、美穂はニューヨークに来てから何度もその言葉を耳にしていた。日本人って簡単なんだぜ。こっちが白人だと、簡単にOKしてくれるんだ。そういう女の子が多いのは知っている。でも、私は白人なら誰でもよかった訳じゃない。でも、マイクにとって私はそういう存在だったんだね。
マイクから連絡が来なくなってもう三週間だ。思い出すと仕事中でも悲しくて目の前がかすんでくる。それから頭を振って、書類を揃え、面倒な計算を続ける。たぶん教えてもらえば誰にでもできる仕事だ。給料だってそんなにいいわけではない。決まりきったルーティンワークに、きっちり五時で終わる仕事。美穂はハイヒールに履き替えると、再び五番街に出て歩いていく。
歩いていると、どこからかラジオの音楽が流れてくる。Ne-Yoの“One In A Million”だ。
それを耳にして、目の前のカップルの男が口パクで歌いながら彼女の周りを歩きだした。彼女の方は嬉しそうに笑いながらその様子を見ている。
周りを見回すと、五番街にはカップルがたくさんいた。冷たい冬を身を寄せあって共に歩く人たち。ベビーカーを押して歩いていく恰幅のいい男性と早口でまくしたてるその妻。たぶん旅行者だろう、ガイドブックを見ながらキョロキョロとしている若い日本人たち。
ラジオからの歌は、サビを繰り返す。たくさんの女の子たちとつき合ったあとで、運命の女性にあったと熱烈に歌いかけてくる。
美穂はため息をついた。
「ベイビー、君は百万人の中でたったひとり、か……」
美穂は日本での生活を思い出した。熱烈だったとは言えないけれど、関心を示してくれた男性がいなかったわけではない。ごく普通の、何もできない女性にはもったいないような好青年だったのに、「こんな風に小さくまとまるのは嫌」と思っていた。「これは本当の私じゃない。私はもっとすごいはずだもの、相手だって、吉田町の信用金庫に勤める人じゃね」
——世界を舞台に活躍する美穂ちゃんって、本当にすごい。友達がなんといってくれても、私はひとりで、中途半端だ。ニューヨークにいたって、吉田町にいたって同じだ。誰も世界でたった一人の大切な存在だとは言ってくれない。できることだって、全然大したことはない。ニューヨークの五番街を闊歩。馬鹿みたい。
お金なんかいらない。有名になりたいのでもない。でも、特別になりたかった。世界中の人に愛されたいなんて願っていない。だけど、だけどせめて一人くらいは言ってほしい。
「ベイビー、僕には君しかいない」
美穂は鞄の中から、再び母親からの封筒を取り出した。どの手紙にも、どこにも書いていない「いったい何をしているの」という問いかけ。でも、美穂は自分の中の卑屈さがどんどん育つのを感じていた。どうしてこんなところに来てしまったんだろう。このハガキを書いてきた人たちの誰よりも努力したとは言わない。でも、私はいつも自分なりに頑張ってきたのに。
美穂は五番街の真ん中で突然悟った。吉田町にいても、ニューヨークにいても、私は結局私なのだ。英語が話せて、物理的に遠いアメリカに住んでいる。違いはそれだけだ。「もっとすごい本当の私」なんてどこにもいなかった。ニューヨークにいけばスーパービジネスマンのすてきな王子様がみつかるわけでもなかった。
仕方ないよね。友達の幸せそうな写真に焦る必要なんてない。これからのことはまだわからない。だから、諦めずに、毎日また頑張っていくしかないよね。今いるここで。そう、たまたまマンハッタンで。
封筒を鞄に戻すと今度は携帯電話を取り出した。しばらく連絡帳をいじっていたが、やっとマイクの連絡先を消した。未練はおしまい。さあ、未来に向けて歩かなくちゃ。この週末は、ひとりでエンパイア・ステートビルディングに行こう。
(初出:2013年1月 書き下ろし)
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【小説】それでもまだここで
「scriviamo! 2014」の第一弾です。ポール・ブリッツさんは、拙作『マンハッタンの日本人』 に想を得た掌編をとても短い時間で完成させてくださいました。ありがとうございます!
ポール・ブリッツさんの書いてくださった小説『歩く男』
ポール・ブリッツさんは、オリジナル掌編小説をほぼ毎日アップするという驚異的な創作系ブロガーさんです。その創作パワーにはいつも圧倒されています。そして、目の付け所がちょっとシニカルでいつもあっというような小説を書いていらっしゃいます。創作系としてはとても氣になる存在のお方です。
お返しの掌編小説は、「マンハッタンの日本人」の世界を再び。そして、自分で書いておきながら存在すらも忘れていたのにポール・ブリッツさんに掘り起こしてもらったあの人も登場……。
「scriviamo! 2014」について
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
それでもまだここで — 『続・マンハッタンの日本人』
——Special thanks to Paul Blitz-san
今年のニューヨークは雪が多い。店の外は灰色に汚れた雪が通行の邪魔をしている。その上を新しい雪が降り、少なくとも新年らしい色に変えている。一月二日。美穂はため息をついた。日本だったらあと二日はこたつでのんびりと出来るのにな。その大衆食堂ダイナーにも多くの客は来なかった。昼時を過ぎて調理師も客も去り、誰もいなくなった店内で美穂は暇を持て余していた。茶色い古びたソファと安っぽいランプがこの店の格を表している。洗濯はしたもののどこか黄ばんだエプロンをしている自分も、同じ格なのだろうなと思った。
去年のお正月には、少なくともニューヨークの銀行で働くキャリアウーマンであるというのは嘘ではなかった。たとえ仕事の内容が単なる事務でも。五番街のオフィスで摩天楼を眺めながら朝食を食べて優越感に浸っていたものだ。
「人員整理が必要になってね。君は今週いっぱい働いて、それで終わりにしてくれ」
美穂は突然ニューヨークのもう一つの名物、失業者になってしまった。
生活の問題があると訴えた美穂に上司は冷たく言った。
「子供がいて、どこにも行けない人だって失業しているよ。君は独り者だし、国に帰ればけっこういい暮らしが出来るだろう?」
それは正論だ。それに日本みたいに、正社員をクビにするのが難しい国でないこともわかっていた。アメリカにいなくてはならない理由は特にない。でも、留学をいい成績で終えて、H-1Bビザ(特殊技能ビザ)を申請してもらって働けることになった時に、自分はアメリカでずっと暮らせるのだと思い込んだ。
けれど、美穂は移民ではなかった。会社が不要と言えば、その存在意義も吹き飛ぶ短期滞在者だった。日本に帰ればよいのかもしれない。絶対的に無条件で自分を受け入れてくれる国に。でも、帰ったらみんなが訊いてくるだろう。どうして帰ってきたの。向こうでは何をしていたの。自分が築いていたものが砂上の楼閣だったと言われたくなかった。口うるさい母親に、それみたことか、自分の間違いを認めて大人しく結婚相手でも探せと説教されるのがたまらなかった。
その結果が、このしがないダイナーでのウエイトレスへの転職だった。ビザはH-2A(季節労働者)に変わった。べつにどうでもいいけれど。
エプロンのポケットには、今年も母が送って来た近況が入っている。一年分大きくなった姪と甥が身につけているのは、ウォルマートで買ったセーター。去年のブルーミングデールズの服とは雲泥の差だ。せめてメイシーズで買えばよかったけれど、送料も考えるとそれは無理だった。彼らは同じように微笑んでいる。安物でも派手な色合いは彼らの氣にいったのだろう。卑屈に思うことなんかないのに。
ドアが開いて客が入ってきた。安物のジャケットを身につけた黒髪で特徴のない白人だった。
「ハロー」
美穂は反射的に口を開いた。日本語だと「いらっしゃいませ」と言う所だが、この国にはそれに当たる言葉がない。同僚のリサは何も言わないが、美穂はせめて何かを言いたくていつも「ハロー」と言う。
男は訝しげに美穂を眺めた。
「まさか」
「お食事ですか、それともお茶ですか」
美穂が訊くと、男ははっとして、少し下を向いていたが、やがて顔を上げた。
「スペシャルを。コーラで」
飲み物と料理を格安の値段で提供するメニューだった。このダイナーでは、「残飯整理」と陰で呼んでいるものだ。
美穂は、男が自分をチラチラと見るのに氣がついた。男には全く見覚えがなかった。いったいなんなのかしら。美穂が温めたポテトガレットと肉の大して入っていないシチューの皿、多少硬くなったパンとコーラを運ぶと、男は小さく「ありがとう」と言った。
それから、わずかの間を空けてから男は訊いた。
「君、去年の今ごろ、五番街にいなかったかい?」
美穂はびっくりしてステンレスの水差しを抱えたまま立ちすくんだ。
「どうしてご存知なんですか」
「憶えていなくても無理はないけれどね。去年、僕は君を道で追い越したんだ。失業中でね。外国人が国に帰ってくれればこっちに職が回ってくるのにって、思ったのさ。それから、しばらくしてなんとか仕事を見つけたんだけれど、今また元の木阿弥で求職中。去年のことを思い出しながら、労働省に行ったその帰りにここで君にまた会うなんて、いったいどんなめぐり合わせなんだろう」
美穂は戸惑ったまま、言葉を探した。ええと、これって「なんてすてきな偶然でしょう」ってシチュエーションなのかな、それとも「日本に帰っていなくってごめんなさい」ってことなのかな。少なくとも、今回も私には職があって、この人が失業者なのだとしたら……。
その想いを見透かしたように、男は頬杖をついて言った。
「訊いてもいい? なぜここで働いてまでアメリカに居続けたい?」
ダイナーには他には客もいなくて、忙しいのでまた別の機会に、と逃げることも出来ない。美穂は少し考えてから口を開いた。
「帰れないの」
「なぜ? 旅費がないってこと? それとも一度海外に出ると帰れない社会なのかい?」
美穂は首を振った。確かに大して金銭的余裕はないが、片道運賃くらいはなんとかなる。出戻ったら両親とくに母親にはいろいろ言われるだろうが、結局は受け入れてくれるだろう。仕事だって、現在の時給2.8ドルと較べたら、田舎でももっとましな給料がもらえるだろう。帰れないのではない、帰りたくないのだ。
「ニューヨークで一人で生きているってことだけが、私のプライドを支えているみたい。それがダメだったとわかったら、もう立ち直れなくなりそうなの」
「でも、ウェイトレスの仕事なら東京にでもあるだろう?」
「うん。本当は、銀行の事務の仕事だって、日本でしていたの。でも、ここに来れば、私はもっとすごい人間になれると思っていたの。もっと素敵な人とも出会えるって信じていたし」
「で?」
「私は私だったし、あまり知り合いもいない。恋も上手くいかなかったし、今は生活だけで手一杯でニューヨークを楽しむ余裕なんかないわね」
「僕はニューヨークで生まれ育ったんだ。成功者にはエキサイティングな街だけれど、そんな思いをしてまで居続けたいというのはわからないな。日本は生存が脅かされるような国じゃないだろう? むしろこの成功するのものたれ死にも自由にどうぞって国より、生きやすいんじゃないか?」
「そうね。言う通りかもしれない。戦争のある国から逃げてきたわけじゃない私が、こんなことを言ってしがみついているのは、滑稽かもしれない。でも、そうさせてしまうのがアメリカって国じゃない?」
男は黙って肩をすくめた。美穂は話題を変えてみることにした。
「どんな仕事を探しているの?」
男はパンと音を立てて、持っていた求人紙を叩いた。
「なんでもいいよ。最初は証券会社やアナリストなんてのも探したけれど、今はドラックストアの店員でもいいんだ。ホームレスじゃなければ」
美穂はそっとレジの脇の紙を指差してみた。
「キッチンスタッフ募集。詳細は店主まで」
いつのものだかわからない丸まった油汚れの着いた紙に汚い字で書かれている。男は目を丸くした。
「ここ、入れ替わりが早いの。だから、募集していない時にもこのままなんだって。でも、今は本当に探しているの。給料はロクでもないけれど、最後の手段にはいいかも」
男はもう一度肩をすくめた。
「考えてみるよ。他に何も見つからなかったらね……」
コインをかき集めてようやく代金を払うと、男は入ってきた時よりも少しだけ柔らかい表情で美穂に笑いかけた。
美穂は男が出て行った雪景色の街をしばらく見つめて、それから彼のきれいに食べきった皿と氷だけが残ったコーラのグラスを片付けた。あ、名前も訊かなかった。でも、またいつか会うかもしれないわよね。二度ある事は三度あるって言うし。
ニューヨークで迎える五度目の正月。美穂は今年がいい一年になるといいなと思った。
(初出:2014年1月 書き下ろし)
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【小説】花見をしたら
「scriviamo! 2014」の第八弾です。ウゾさんが、もともとこの企画のために書いてくださったという掌編にお返しを書いてみました。ウゾさん、ありがとうございます!
ウゾさんの書いてくださった掌編『其のシチューは 殊更に甘かった 』
ウゾさんはその年齢とは思えないものを書くことで定評のある中学生ブロガーさんです。書いてくださった作品も隅の老人視点ですよ。そして書いてくださったのは何故か今年やたらと注目を浴びている「マンハッタンの日本人」の美穂の話。はい、続きを書きました。あまり進んでいませんが。
特に読まなくても話は通じるかとは思いますが、このシリーズへのリンクです。(そろそろ新カテゴリーにしようかな)
マンハッタンの日本人
それでもまだここで - 続・マンハッタンの日本人
ええと、今年の参加一度目の方が全部終わってからにしようと思ったのですが、二度目参加の方がお二人になりましたので、来た順でガンガン発表しちゃうことにしました。はい、そうです。scriviamo! 2014は何度も参加してもかまいません。あ、締切は変わりませんので、二度目にトライしたい方はお急ぎくださいませ。
「scriviamo! 2014」について
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
花見をしたら
〜 続々・マンハッタンの日本人
——Special thanks to Uzo-san
最悪。美穂は口を尖らせながら歩いた。五番街を通ったら、トレイシーとすれ違っちゃった。正真正銘のキャリアウーマンで、八ヶ月前まで同じオフィスで仕事をしていた。美穂は彼女に憧れて、いつもにこやかに挨拶をしていたのだが、ある時彼女が仏頂面で言ったのだ。
「用もないのにヘラヘラしないで」
ムシの居所が悪かったのかもしれないし、失恋でもしていたのかもしれない。でも、そのいい方に美穂はひどく傷ついたし、それからしばらくして銀行をクビになり、五番街のオフィスから追い出されてしまってからはより一層逢いたくない女になった。トレイシーはそんな美穂の想いを全く無視して「ハロー!」と笑いかけてきた。
「久しぶりね。今、どこでどうしているの?」
「仕事を見つけて働いています。小さなダイナーですが」
「この辺りなの? 私の知っているお店かしら」
「いいえ、普段勤めているのはユニオン・スクエアのあたりです。それに、あなたが行くような洒落たお店じゃないんです」
トレイシーは、あら、と氣まずそうな顔をしたが、すぐに何ともないように言った。
「今日はオフなの? 買い物かしら」
安食堂に勤めている私が五番街でショッピングをするわけないじゃない、そう思ったが怒ってもしかたない。そうだった、トレイシーってこういう無神経なことをいう人だったわね。
「いえ、今日も仕事です。ときどき、オーナーが経営しているもう一つの店にヘルプで行かされるんです。メトロポリタン美術館の近くにあります。こっちのほうが少しはマシだけれど、それでもあなたの行くような洒落たお店じゃないですね。《Cherry & Cherry》っていいます」
あまり来たくもなさそうなのに愛想笑いをするトレイシーとハグをかわして、美穂は先を急いだ。好きでもないのにハグしたり、キスしたり、愛想笑いよりずっと偽善的じゃない。数年前はこんなことは考えなかった。アメリカは全てにおいて日本より優れていると思っていたし、日本にいるのは井の中の蛙で偏狭な人たちだと思っていた。
でも今はそんな風には考えていない。日本の方がいいとは思っていないけれど、アメリカの方が優れている、マンハッタンにいる自分が素晴らしいとも、全く思えない。どちらの国にもいろいろな人がいる。いろいろなことがある。その中で、精一杯生きていく、それだけだ。
ダウンタウンにある《Star's Diner》に勤めるようになったのは、もとはといえばアパートから遠くなかったからだが、もとの勤務先のある五番街や華やかな地域から離れられてほっとしていた。クビを言い渡した上司や、未だに肩で風を切って通勤している同僚たちに遭うのはつらかったし、今まで親しかった街に拒否されているようで悲しく思っただろうから。だから、二ヶ月ほど前にオーナーから《Cherry & Cherry》のヘルプに行ってくれと言われた時にはどきっとした。
《Cherry & Cherry》と目と鼻の先にあるメトロポリタン美術館は、五番街に勤めている時の美穂のお氣にいりスポットだった。100ドルの年間パスを購入して、何度も訪れたものだ。今はとても払えないので、年間パスは買わないし、行くとしても美術館側の一回入場の希望額25ドルも高すぎる。でも、たとえば5ドルで入ることにも抵抗がある。だから、行かない。五番街を通って、メトロポリタン美術館を目にするようなところで働くのが不安だった。古傷をえぐられるみたいで。
でも、ズキッとしたのは最初の日だけで、後はごく普通の日常になった。五番街は違って見えた。最初に海外旅行で来た時の憧れ、働くようになって「これが私の住む街なの」と誇りに思っていたこと、そのどちらの五番街とも違って見えた。それはアスファルトと石畳に覆われた道だった。憧れや誇りではなくて、通過する場所だった。トレイシーだって、他のもと同僚たちだって、きっと何ともなくなっていくに違いない。
迷いもせずに《Cherry & Cherry》に辿りつき、ドアをあけようとした時、風に飛ばされてきた白い花びらが手の甲に載った。あ、桜! そうか、もう四月も終わりだものね。故郷の吉田町では一ヶ月も前に終わったであろう桜。ふいに子供の頃の春の光景が浮かんできて、美穂はぐっと涙を飲み込んだ。泣いている場合じゃないし。仕事、仕事。
ドアを開けた。品の悪いフューシャ・ピンクのソファーが目に入る。ウェイトレスのキャシーが露骨に嬉しそうな顔をした。遅番である美穂が来たら帰ってもいいことになっているのだ。相変わらずぽつりぽつりとしか客がいない。後から他のウェイトレスたちも来るだろうし、18時にもなれば息をつく間もなくなるのだろうが、しばらくはのんびりできるだろう。エプロンをしてカウンターに立った。
カウンターの一番奥に、茶色い鳥打ち帽を被った老人が座っていた。美穂は帰ろうとするキャシーをつかまえて訊いた。
「あの人の注文は?」
「ああ、まだよ。さっき入ってきたとき、息があがっていたので、あとでまた注文に来ますって言ったんだ」
手をヒラヒラさせながら、キャシーは出て行った。
「こんにちは。ご注文を伺います」
美穂は老人の前に立った。
老人は、ゆっくりと視線を上げた。
「見ない子だね。新入りかい?」
「ええ、まあ。普段はユニオン・スクエアの店にいるんです」
「外国人だね」
「はい。日本人ですよ」
なるほどとつぶやいたようだった。なにがなるほどなのだかわからないけれど。
「桜は見たかね。今日は満開だったよ」
「いいえ、今年はまだ。さっき花びら一枚だけ見ました。普段は思いだしもしないのに、軽いホームシックにかかりましたよ」
「ああ、日本の桜は有名だからね。華やかで綺麗な花だな」
「華やか……ですか。まあ、そうですね。私たちはそんな風に表現しないかな」
「では、なんと」
美穂は言葉に詰まった。言われてみれば満開の桜は間違いなく華やかだった。だが、桜にはそれとは別のファクターが常に付いて回っている。儚い、幽玄な、それとも潔い……う~ん、なんだろう。ぴったりくる言葉がみつからない。というよりも、それを言葉で説明しようとしたことがなかった。
「ごめんなさい。ぴったりくる表現がみつからないわ」
「英語にはない概念かい?」
「そうじゃないの。私が感じているものを理論的に言葉にして考えたことがないのを、今ようやくわかったの」
老人はびっくりしたようだった。
「感じているのに考えたことがないって?」
美穂は肩をすくめた。不意に自分は完膚なきまでに日本人なのだと思った。
老人はそれ以上追求してこなかった。メニューを見もせずにスペシャル、つまり格安の定食を頼んだ。昨日残った肉や野菜を詰め込んで煮たシチュー。少し固くなったパン。アメリカらしく半リットルもある飲み物だけは太っ腹だが、それ以外はケチなメニューだ。だが、老人はスペシャル以外は頼まないと心に決めているようだった。
「アメリカに来てどのくらいだね」
他に客もいなくて、手持ち無沙汰の美穂は素直に老人の話し相手になることにした。どうせよく聞かれる質問だ。
「五年ちょっとです」
「ニューヨークにずっと?」
「ええ。最初は留学、それから五番街の銀行で一年半。失業三ヶ月、それから今の仕事です」
「日本に帰りたくないのかね?」
「ふるさとは遠きにありておもふもの」
美穂は思わずつぶやいた。
「なんだって?」
日本語を知らない老人には呪文のように聞こえたことだろう。美穂は英語に切り替えて言った。
「室生犀星という日本の詩人による詩の一節です。故郷というものは遠く離れた所で懐かしがっているのが一番いい。帰ったから天国ってわけじゃないんです」
「この世に天国はないからね」
やはり天国には住んでいない老人はそうつぶやくと具の少ないシチューを口に運んだ。
「桜を見に行ってきなさい。日本のと同じかどうかは知らないが、あんな綺麗なものを見過ごすのはよくないよ。あれは金持ちも貧乏人も関係なく平等に得られる幸福の一つだ」
「そうね、そして時が過ぎると、金持ちも貧乏人も関係なく見られなくなってしまうものだものね」
ふさぎ込んでいても、傷ついていても、人生は前には進んでいかない。どこにも天国がないのはわかっている。だったら、それなりに楽しくやっていかなくちゃ。
そう考えたら銀行をクビになって以来感じなかったほどにすっきりとした心持ちになってきた。そうだ、花見に行こう。日本とかニューヨークとか、こだわるのではなくて、ただ花を楽しもう。美穂は笑って老人の皿にお替わりのシチューを入れてやった。
(初出:2014年2月 書き下ろし)
【小説】歩道橋に佇んで — Featuring 『この星空の向こうに』
scriviamo!の第十三弾です。(ついでに、TOM-Fさんの分と一緒にStellaにも出しちゃいます)
TOM-Fさんは、 Stellaで大好評のうちに完結した「あの日、星空の下で」とのコラボの掌編を書いてくださいました。本当にありがとうございます。
TOM-Fさんの書いてくださった掌編 『この星空の向こうに』-Featuring『マンハッタンの日本人』
TOM-Fさんは、小説書きのブロガーさんです。代表作の『フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス』、天平時代と平安時代の四つの物語を見事に融合させた『妹背の桜』など、守備範囲が広いのがとても羨ましい方です。こだわった詳細の書き込みと、テンポのあるアクションと、緩急のつけ方は勉強になるなと思いつつ、真似できないので眺めているだけの私です。
「あの日、星空の下で」は、TOM-Fさんの「天文オタク」(褒め言葉ですよ!)の一面が遺憾なく発揮された作品で、さらに主人公のあまりにも羨ましい境遇に、読者からよくツッコミが入っていた名作です。お相手に選んでいただいたのが、何故か今年引っ張りだこの「マンハッタンの日本人」谷口美穂。TOM-Fさんの所の綾乃ちゃんと較べると、もう比較するのも悲しい境遇ですが書いていただいたからには、無理矢理形にいたしました。今年も同時発表になりますが、できれば先にTOM-Fさんの方からお読みくださいませ。
とくに読む必要はありませんが、「マンハッタンの日本人」を知らない方でお読みになりたい方のためにリンクを貼っておきます。
「マンハッタンの日本人」
「それでもまだここで 続・マンハッタンの日本人」
「花見をしたら 続々・マンハッタンの日本人」
「scriviamo! 2014」について
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
歩道橋に佇んで 〜 続々々・マンハッタンの日本人
— Featuring 『この星空の向こうに』
——Special thanks to Tom-F-SAN
風が通る。ビルの間を突風となって通り過ぎる。美穂はクリーム色の歩道橋の上で忙しく行き来する車や人のざわめきをぼんやりと聞いていた。
「あ……」
髪を縛っていた青いリボンが、一瞬だけ美穂の前を漂ってから飛ばされていった。手を伸ばしたが届かなかった。艶やかなサテンは光を反射しながらゆっくりと街路樹の陰に消えていった。
「お氣にいりだったんだけれどな……」
留学時代や銀行に勤めていた頃に手に入れたものは、少しずつ美穂の前から姿を消していた。仕事や銀行預金だけではなくて、もう着ることのなくなったスーツ、高級さが売り物の文房具、デパートでしか買えない食材は今の美穂とは縁のないものだった。
美穂の勤めている《Star's Diner》に、突然現れたあの少女のことが頭によぎった。春日綾乃。かちっとした紺のブレザー、ハキハキとした態度。希望と野心に満ちた美少女。コロンビア大学の天体物理学に在学中で、ジャーナリズム・スクールにも所属しているとは、とんでもなく優秀な子だ。はち切れんばかりのエネルギーが伝わってきた。私も、かつてはあんなだったんだろうか。ううん、そんなことはない。私はいつでも中途半端だった。学年一の成績なんてとった事がない。そこそこの短大に進み、地元のそこそこの信用金庫に就職して、これではダメだと自分を奮い立ててようやくした留学だって、ただの語学留学だった。そして、ニューヨーク五番街にオフィスを構える銀行の事務職に紛れ込めただけで、天下を取ったつもりになっていた。それだって、もはや過去の栄光だ。
昨日も彼女は、自転車に乗って颯爽とやってきた。レポートを完成するために取材をするんだそうだ。何度書いても突き返されると彼女はふくれていた。課題は「マンハッタンの外国人」で、ありとあらゆるデータを集めて、貧困と失業と犯罪に満ちた社会を形成する外国人像を描き出したらしい。
「でも、受け取ってくれないの。間違いを指摘してくださいと言っても、首を横に振って。私は答えが欲しいのに、あの講師ったらわけのわからないことを言ってはぐらかすだけなんですよ。せっかく早々と入学が認められて、留学の最短期間で効率よくジャーナリストのノウハウを学べると思ったのに、外れクジを引いちゃったのかな」
「効率よく、か……」
「ええ。私にはぐずぐずしている時間なんてないんです。一日でも早くジャーナリストになるためにわざわざニューヨークまで来たんだから、必要な事だけを学んだら、どんどん次のステップに進まなくちゃ」
美穂は自分の人生について考えてみた。効率よく物事を進めた事など一度もなかったように思う。綾乃のように明確な目標と期限を設定して、自分の人生をスケジュール化した事もなかった。
綾乃にレポートのやり直しを求める講師が何を求めているのか、美穂にはわからない。けれど、綾乃のレポートの内容には悲しみを覚える。それは完膚なきまでに正論だった。正しいからこそ、美穂の心を鋭くえぐるのだ。美穂自身も貧困と失業と犯罪に満ちた社会を形成するこの街のロクでもない外国人の一人だ。もっと過激な人間の言葉を借りれば排除すべき社会のウジ虫ってとこだろう。なぜそれでもここにいるのかと問われれば、返すべきまっとうな答えなどない。けれど、自分がこの世界に存在する意義を声高に主張できる存在なんて、どれほどいるのだろうか。
最低限のことだけをして効率よく泥沼から抜け出す事ができれば、だれも悩まないだろう。それはマンハッタンに限った事ではない。
《Star's Diner》で要求される事はさほど多くはなかった。正確に注文をとり、すみやかに出す事。会計を済まさずに出て行く客がいないか目を配る事。汚れたテーブルを拭き取り、紙ナフキンや塩胡椒、ケチャップとマスタードが切れていたらきちんと補充する事。可能なら追加注文をしてもらえるように提案をする事。美穂にとって難しい事はなかった。かなり寂れて客も少ない安食堂で、固定客が増えてチップをたくさんもらえる事が、生活と将来の給料に直接影響するので、美穂は愛想よく人びとの喜ぶサービスを工夫するようになった。
おしぼりサービスもその一つだ。大量のミニタオルを買ってきて、用意した。一日の終わりにはふきん類を塩素消毒するのだから一緒に漂白消毒して、アパートに持ち帰ってまとめて洗う。自分の洗濯をするのと手間はほとんど変わらない。勤務中のヒマな時間にはダイナーの隅々まで掃除をする。害虫が出たり、汚れがついて客がイヤな思いをしないように。
そうした契約にない美穂の働きに、同僚はイヤな顔はしなかったがあまり協力的ではなかった。それに賛同してくれたのは、新しく入ったポール一人だった。先日、失業していると言っていたのでこのダイナーがスタッフを募集している事を教えてあげたあの客だ。彼はもともとウォール街で働いていたぐらいだから、向上心が強い。言われた事を嫌々やるタイプではないので、美穂が何かを改善していこうとする姿勢については肯定的だった。ただ、彼自身はこのダイナーの経営にはもっと根本的な解決策が必要だと思っているようだった。美穂にはそこまで大きなビジョンはない。小人物なんだなと自分で思った。
はじめは無駄のように思われた美穂の小さな努力だったが、少しずつ実を結び、必ずチップを置いていってくれる馴染みの客が何人もできた。ウォール街で誰かが動かしているようなものすごい金額の話でもなければ、成功と言えるような変化でもない。けれど、そうやって努力が実を結んでいく事は、美穂の生活にわずかな歓びとやり甲斐をもたらした。
でも、綾乃のレポートの中では、美穂もポールも地下鉄の浮浪者も「低賃金」「貧困」を示すグラフの中に押し込められている。マンハッタンの煌めく夜景の中では、存在するに値しない負の部分でしかない。「いらないわ」綾乃の言葉が耳に残る。もちろん、彼女は「マンハッタンに外国人なんかいらない」と言ったわけではない。「アンダンテ・マエストーソ、あの部分はいらない」そう言ったのだ。綾乃との昨日の会話だった。
「ジョセフにヘリに乗せてもらって、マンハッタンの夜景を見せてもらった時に、ホルストの『木星』のメロディを思い浮かべたんですよ。知っています、あの曲?」
「ええ。『惑星』はクラッシックの中ではかなり好きだから。綾乃ちゃんは天文学を学ぶだけあって、あの曲はやっぱりはずせないってところかしら」
「ええ、そうなんです。でも、『木星』はちょっといただけないな」
「そう? どうして?」
「ほら、あのいきなり民族音楽みたいなメロディになっちゃうあそこ、それまでとてもダイナミックだった雰囲氣がぶち壊しだと思うんですよ。ロックコンサート中に無理矢理聴かされた演歌みたい。アンダンテ・マエストーソ、あの部分はいらないわ」
美穂は小さく笑った。確かにSF映画に出てくる惑星ジュピターをイメージしていたら、違和感があるかもしれない。合わないからいらない、その言葉はちくりと心を刺した。
「演歌ね、言い得て妙だわ。ホルストもそう意図して作ったんじゃないかな」
「えっ?」
「あの曲、『惑星』という標題があるために『ジュピター』は木星の事だと思うじゃない? でもホルストが作曲したのはローマ神話のジュピターの方みたいよ」
綾乃のコーラを飲む手が止まった。
「天体の音楽じゃないんですか?」
「そう。もともとは『七つの管弦楽曲』だったんですって。第一次世界大戦の時代の空氣をあらわした一曲目がローマの戦争の神になり、他の曲もそれぞれローマの神々と結びつけられて、それからその当時発見されていた惑星と結びつけられて『惑星』となったってことよ。本当かどうかは知らないけれど、私はそう聞いたわ」
美穂は、忙しくなる前に各テーブルにあるケチャップとマスタードを満タンに詰め直しながら続けた。
「あの『the Bringer of Jollity』って副題、快楽をもたらすものと日本語に訳される事が多いけれど、実際には陽氣で愉快な心持ちを運ぶものってことじゃない? 人びとの楽しみや歓びって、祭典なんかで昂揚するでしょう。とてもイギリス的なあのメロディは、それを表しているんだと思うの。それってつまり、日本でいうと民謡や演歌みたいなものでしょう?」
「そうなんですか……」
美穂は日本にいた頃は『木星』を好んで聴いていた。冒頭部分はファンファーレのように心を躍らせた。その想いは輝かしい前途が待ち受けているように思われた人生への期待と重なっていた。でも、あれから、たくさんのことが起こった。自分を覆っていたたくさんの金メッキが剥がれ落ちた。人生や幸福に対する期待や価値観も変わっていった。テレビドラマのような人生ではなくて、みじめで辛くとも自分の人生を歩まなくてはいけない事を知った。綾乃とは何もかも正反対だ。最短距離でも効率的でもなく、迷い、失敗して、無駄に思える事を繰り返しつつ、行く先すらも見えない。
今の美穂の耳に響いているのは同じホルストの『惑星』の中でも『木星』ではなくて『土星』だった。『Saturn, the Bringer of Old Age』。コントラバスとバス・フルートが暗い和音をひとり言のように繰り返す。長い、長い繰り返し。やがて途中から金管とオルガンが新たなテーマを加えていく。それは、次第に激しく歌うようになり、怒りとも叫びともつかぬ強い感情を引き起こす。けれど最後には鐘の音とともに想いの全てが昇華されるように虚空へと去っていく。
美穂は老年というような年齢ではない。それでも、今の彼女には希望に満ちて昂揚する前向きなサウンドよりも、葛藤を繰り返しつつ諦念の中にも光を求める響きの方が必要だった。
綾乃の明確な言葉、若く美しくそして鋼のように強い精神はとても眩しかった。そして、それはとても残酷だった。この世の底辺に蠢く惨めな存在、這い上がる氣力すら持たぬ敗者たちには、反論すらも許されないその正しさが残酷だった。階段を一つひとつ着実に駆け上がっていくのではなく、青いリボンが風に消えていくのを虚しく眺めているだけの弱い存在である自分が悲しかった。
自分もまた、あんな風に残酷だった事があるかもしれない。美穂は思った。挫折と痛みを経験したことで、私は変わった。失業を繰り返していたポール、桜を観る事を薦めてくれた鳥打ち帽のお爺さん、よけいな事をやりたがらない同僚たち、地下鉄で横たわる浮浪者たち。このマンハッタンにいくらでもいるダメ人間たちの痛みとアメリカンドリームを目指せない弱さがわかるようになった。
綾乃に話しても、きっとわからないだろうと思った。頭のいい子だから、文脈の理解はすぐにできるだろう。レポートを上手に書きかえる事もできるだろう。でも、本当に彼女が感じられるようになるためには、彼女が彼女の人生を生きなくてはならないのだと思った。美穂は綾乃には何も言わない事にした。そのかわりに五番街で買った青いリボンの代りに、今の自分にふさわしいリボンを買おうと思った。簡単にほどけないもっと頑丈なものを。
(初出:2014年2月 書き下ろし)
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【小説】ブラウン・ポテトの秋
月に一度発表する読み切り短編集「十二ヶ月の野菜」の十一月分です。このシリーズは、野菜(食卓に上る植物)をモチーフに、いろいろな人生を切り取る読み切り短編集です。十一月のテーマは「ジャガイモ」です。ジャガイモは年間を通してありますけれど、冬にも地産地消できる数少ない食材の一つなので。
登場するのは「今年脚光を浴びた人」谷口美穂。去年書いた作品の一回きり登場のキャラのはずでしたが、scriviamo! 2014でポール・ブリッツさんに取り上げていただいてからどういうわけか起用が相次ぎました。で、まだ早いけれど、今年の総決算モードということで再登場。で、準レギュラーキャラの名前はポール・ブリッツさんからいただきました。
とくに読む必要はありませんが、「マンハッタンの日本人」を知らない方でお読みになりたい方のためにリンクを貼っておきます。
「マンハッタンの日本人」
「それでもまだここで 続・マンハッタンの日本人」
「花見をしたら 続々・マンハッタンの日本人」
「歩道橋に佇んで 続々々・マンハッタンの日本人」

ブラウン・ポテトの秋 続々々々・マンハッタンの日本人
3キロのジャガイモがふかし上がった。美穂はキッチンスタッフではないが、モーニングセットの準備でブラウン・ポテトを作るのは彼女の仕事になってしまっている。熱々のジャガイモの皮は自然と割れて剥がれているので取り除く。7ミリくらいの厚さに切っていく。
大きな鉄板にサラダ油とベーコンの細切れを入れてじっくりと油がでるまで炒めたら、薄切りの玉ねぎを入れてしんなりするまで炒める。それからジャガイモを加える。
バターを時々足して、鉄板にジャガイモを押し付けながらきれいな茶色に焦げるように炒めていく。この頃になるとキッチンはいい香りで満ちる。それを見計らったかのようにポールが入ってくる。
「おはよう、いい匂いだな」
「おはよう、ポール」
これが、毎朝のお決まりの挨拶になっている。
ダウンタウンにある《Star's Diner》のモーニングセットの目玉が、このブラウン・ポテトだ。ポールがこの店に勤めだして、一週間もしないうちにオーナーに訴えたのが、それまで出していたブラウン・ポテトのまずさだった。
「こんなまずいブラウン・ポテトに我慢できるニューヨーカーなんかいるものか。ブラウン・ポテトはニューヨーカーの心なんだ」
日本人である美穂には、ポールのその理屈は全くわからなかったが、確かに《Star's Diner》のブラウン・ポテトは大したことのない味だった。オーナーはその批判にぶち切れたのか、それとも納得したのかよくわからないが、突然ポールを「ブラウン・ポテト改善プロジェクト」の責任者に任命した。
ポールには一つの問題があった。ブラウン・ポテトに対する強い思い入れに匹敵するほどの料理の知識に欠けていたのだ。そして、プロジェクトをサポートするのは朝番のウェイトレスたちの仕事になったのだが、普段より早く来ることを好まないほかの女の子に上手く逃げられた結果、結局美穂にお鉢が回ってきたのだ。
「こればかりは、時間短縮ができないの。とにかくじっくりと焼き色をつけないと」
なぜ日本人の自分が生粋のニューヨーカーにブラウン・ポテトの作り方を教えなくてはいけないのかわからない。
美穂は作り方をポールに教えて、朝番を交代にしてもらおうとした事が何度かある。けれど、どうしても美穂が作るようにはならない。玉ねぎが黒焦げになるか、ジャガイモが黄色いままか、塩味がきつすぎるか、とにかく上手くいかなかった。
「証券を売るのは得意だったんだけれどね」
彼はごにょごにょと何かを言った。
結局、美穂が毎朝ブラウン・ポテトを作る代わりに、一時間早く上がっていいという許可を得て、「ブラウン・ポテト改善プロジェクト」の責任者代行に就任することで話は決着した。
少なくともポールの主張は間違っていなかった。ブラウン・ポテトが改善されてから《Star's Diner》でモーニングセットを食べていく客が明らかに増えたのだ。
「でも、これっぽっちの改善じゃダメなんだよな。もっとドラスティックな改革をしないと」
ポールは証券アナリストの目つきになって腕を組んだ。美穂は肩をすくめた。
美穂にとって、仕事とは上司に命じられたことをきちんとこなすことで、その経営方針に沿った小さな改革はしても、路線の変更など大きな改革とは無縁だと思っていたからだ。数ヶ月前に一人で始めたおしぼりサービスや、掃除の徹底、ブラウン・ポテトの変更に関わることはできても、改装プランやメニューの変更のような大きな変革はオーナーが考えるべきことだと思っていた。
でも、ポールはそう思わなかったのでオーナーに直訴した結果、突然彼は店長代理になった。実のところ店長が他店に引き抜かれていなくなってしまったばかりなので、ポールは実質的な店長になったのだ。代理と本物の店長との違いは給料だけだったが、それでも美穂たちとは大きな差がついた。
美穂も軽い嫉妬をおぼえたが、もっと前からいるスタッフたちはあからさまに不満を表明した。中でもキッチンを仕切っていたジョニーは、メニューを批判されたこともあって大きく反発した。確かにジョニーは本当に調理師免許を持っているのか疑問を持ちたくなるような腕なのだが、新参者であるポールがズケズケとそれを指摘するのは「和をもって尊しとする」美穂の日本的感覚には合わなかった。
「そんな事を言っていると、職場自体がなくなるぞ。お前は日本人だし料理のプロでもないけれど、ジョニーよりはよっぽどマシなんだから少し協力しろ」
ポールはかなり強く要請してきたが、実際の所、スタッフの中で反発しておらず改革に協力してくれそうなのは美穂一人だった。というよりは、言われるとノーと言えないだけなのだが。
ブラウン・ポテトの調理は佳境に入っていた。塩こしょうで味を整え、たっぷりのパセリを加える。ポールが清掃と設備の点検を済ませたころにようやくダイアナが出勤してきて、それとほぼ同時に最初の客たちが入ってくる。この瞬間から九時頃まで美穂たちの忙しい朝が始まる。
風が強い。クリスマス商戦は始まっている。五番街のOLでなくなって二度目のクリスマスが来る。最近は日本の家族にもほとんど連絡しなくなった。そろそろ甥と姪のクリスマスプレゼントを買いにいく時期だ。そのつもりになれない。そう言えば、買い物をしたり、美術館に行ったり、彼を探したりといったポジティヴな行動をここの所全然していない。美穂は枯葉がカサカサと音を立てて舞い踊る歩道橋の上でじっと立ち止まった。
故郷の吉田町で決まったばかりの語学留学に心をときめかせていた数年前のことを思いだした。肩パッドの入ったシャープなコートと革ブーツでニューヨークを颯爽と歩くのだと夢みていた。フリースのマフラーをダッフルコートに押し込んで、スニーカーにジーンズ姿で、ダウンタウンに住み着くなんて考えもしなかった。
「おい。せっかく早く上がったのに、こんなとこで何をしているんだ?」
その声に振り向くと、ポールが立っていた。ダイアナと一緒だ。二人は住んでいる所は全く違うので一緒に帰る理由はない。そうか、この二人、つき合っているのか。
「何って、ちょっと考え事」
「考えんなら、もっと暖かい所でしろよ。なんなら、僕らと一緒に飲みにいくか?」
ポールがそう言うと、ダイアナの表情が若干険しくなった。美穂はあわてて首を振った。
「今日は、いいわ。また今度……」
「そうか。じゃあな、また明日」
二人が行ってしまうと、美穂はため息をついて街の向こうを見た。なんだかなあ。私何をやっているのかな。鞄の中には、塩素で消毒したふきんとハンドタオルが入っている。もともとは当番制だっけれど、他の誰もがやらないのでこれを持ち帰って洗濯するのは美穂だけだ。
スーパーマーケットで安い食材を買って、一人で料理して一人で食べる。ウェイトレスの給料でできる贅沢は限られている。その食費を削って、日本の家族にプレゼントを贈る。送料も馬鹿にならない。
ポールのようにきちんと自己主張をして、リスクも怖れずに進んでいってこそ、サクセス・ストーリーも可能なのかもしれない。事務職でいい、ウェイトレスでいいと守りに入っている自分は、きっと大きな昇進などありえないのだろうし、ずっと時給2.8ドルのままなのかもしれないと思った。ポールが店長になった時に、「私も頑張っているんだから、時給を上げて」くらいの主張をすればよかったけれど、言えなかった。夕食の玉ねぎを刻みながら美穂はため息をついた。それからキッチンペーパーで涙を拭った。
鉄板のベーコンがジューと踊りだしたので、美穂は玉ねぎを投入してしんなりするまで炒めた。そして薄切りポテトを入れた。ブラウンになるまで根氣づよく、じっくりと炒める。いつもの朝の光景。彼女はモチベーションを上げようと鼻歌を歌う。Jポップのレパートリーが切れたので、フランク・シナトラまで持ち出した。
「おはよう、『マイ・ウェイ』か。いい声だな」
「おはよう、ポール」
美穂は、自分を鼓舞するために元氣に挨拶した。
「お。少し浮上したか」
その言葉で、落ち込みを悟られていたのかと、意外な思いがした。
「まあね」
ポールはブラウン・ポテトを一つつまみ上げて「あちっ」と言いながら口に放り込んだ。
「う~ん。これこれ。これこそニューヨーカーのブラウン・ポテトだ」
「ニューヨーカーのじゃないでしょ。ジャパニーズのだよ」
美穂が抗議すると、ポールはちらっとこっちを見て笑った。
「あん? はいはい、ニューヨークのジャパニーズ」
そのおどけた様子に美穂は笑ってしまった。ま、いっか。職場の居心地が悪くないだけでも。
ポールは美穂の方をまともに見て言った。
「心配すんなよ。お前が一人で頑張っているの、ちゃんとオーナーに伝えているし、時給を倍にしろって交渉中だからさ」
美穂はびっくりしてポールを見た。ポールはウィンクすると、『マイ・ウェイ』を歌いながら、モップを取りにバックヤードに入っていった。
(初出:2014年11月 書き下ろし)
【小説】歌うようにスピンしよう
「scriviamo! 2015」の第三弾です。ウゾさんは、昨年のscriviamo! で書いてくださった『其のシチューは 殊更に甘かった 』の「隅の老人」を再登場させて、味わい深い作品を書いてくださいました。
ウゾさんの書いてくださった『其のシチューを 再び味わおうか』
ウゾさんの関連する小説: 『其のシチューは 殊更に甘かった 』
ウゾさんは、みなさまご存知「いくら考えても高校生には思えん」という深いものを書かれるブロガーさんで、やはりおつきあいが一番長い方たちのお一人です。短い作品の中に選び抜かれた言葉を散りばめた独特の作風には、たくさんのファンがいらっしゃいますよね。
この「scriviamo! 2015」は一応当ブログの三周年企画なんですが、ウゾさんのブログは一足早く三周年を迎えられました。おめでとうございます! いつまでも素敵な作品と記事で私たちを楽しませてくださいね!
さて、書いていただいた作品、この「隅の老人」が現われるのは、ニューヨークの谷口美穂も出現する世界。そう、まだ続いています。去年からの「マンハッタンの日本人」シリーズ。といっても、このご老人の出没エリアは、美穂の普段勤務している《Star's Diner》よりも北、セントラル・パークの近く。だから、今年も舞台は姉妹店《Cherry & Cherry》。去年、美穂がご老人と桜に関する問答をした店ですね。今回は、ウゾさんの作品にあったモチーフを使わせていただくために、メインキャラが別の人物になっています。
なお、ウゾさんより前に、ポール・ブリッツさんからも「マンハッタンの日本人」関連で参加作品をいただいていますが、敢えて発表順を逆にさせていただきました。いや、ほら、昨年みたいに同日中にお返しの作品書かれちゃったりすると、こっちを発表する時に困るじゃないですか……。という自己都合です、すみません。
【参考】
読まなくても話は通じるはずですが、だんだん話が大きくなってきたので新カテゴリにしてまとめ読み出来るようにしました。
「マンハッタンの日本人」シリーズ
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
「マンハッタンの日本人」シリーズ 6
歌うようにスピンしよう
——Special thanks to Uzo san
お祖母ちゃんは、いつも朗らかに歌っていた。
「So, darling darling
Stand by me
Oh stand by me」
ベン・E・キングの「スタンド・バイ・ミー」。あたしのお祖父ちゃんにあたる彼がその言葉を無視していなくなっちゃったことなんか、何でもないみたいに飄々と。その歌の意味を全然考えないで、あたしは育った。
お祖母ちゃんのつき合っていた人の頭の中は、夢でいっぱいで、お祖母ちゃんのお腹が少しずつ膨らんでいる事にも氣がつかなかった。でも「夢を諦める」と言った彼に、わかってほしくて、一緒にいるって答えてほしくて、冗談みたいに歌で訴えてみたんだって。
「本当にジョークだと思われたのか、するっと躱されちゃったよ」
何でもないように笑ったのは、お祖母ちゃんの偉大なところ。あたしは彼女の事を誇りに思っている。
だから、無意識のうちに機嫌良く働く時には、この歌が口を衝いて出る。セントラル・パークにほど近いダイナー《Cherry & Cherry》で働くようになってから、もう二年だ。ここでは既に一番の古株。でも、時給は一番下っ端と同じ。それを言ったらオーナーは鼻で笑った。
「お前も給料を上げてもらいたいのか、キャシー。だったら《Star’s Diner》のポールやミホみたいに、まず売り上げをめざましく上げる努力をしてみろ」
そんなの無理。だってあたしにとって、この仕事は生活費を稼ぐためだけ、どうしても避けられない最低の時間しか割きたくないもの。あたしの全ての情熱と夢は、ウォールマン・リンクにあるんだもの。
あたしみたいな掃き溜めに生まれた者には、イェール大学に進むような育ちが良くて出来のいい子と違って、たくさんの選択肢があるわけではない。母さんはお腹の中にいたあたしに「リチャードの遺伝子を受け継いできますように」って話しかけたらしい。
お祖父ちゃんが、母さんの存在を知らなかったように、あたしの遺伝子上の父親も、それから同時に母さんがつき合っていた他の二人も、あたしの存在を知らない。そりゃ、この狭い界隈で、噂は聞くだろうから、三人ともヒヤヒヤしただろう事は確かだ。
生まれてきたあたしが、母さんやリチャードのように真っ白い肌だったら、母さんはリチャードに結婚を迫った事だろう。でも、リチャードとチャンにはラッキーだったことに、あたしは褐色の肌と縮れた髪をして生まれてきた。母さんはあたしの父親が、お金もなければ甲斐性もない上、DVとアル中の氣配がぷんぷんするベンだったらしいとわかって、お祖母ちゃんと同じ道を行く事を決めた。すなわち、ベンには何も言わないで、シングル・マザーになる事。
あたしには、華やかなことなんて何もなかった。すぐ近くにあるメトロポリタン美術館や、五番街にある金ぴかのトランプタワー、ブルーミングデールズ百貨店みたいな世界には足を踏み入れた事がない。でも、セントラル・パークは別。お金持ちも、それから子供っぽく写真ばっかり撮っている日本人も、それに月に何度か「残飯整理」スペシャルだけを食べにくるあたしの目の前の常連お爺さんも、まったく気兼ねせずに行くことができる。
そして、あたしを何よりも魅了したのが冬の間、老いも若いも楽しくアイススケートを楽しめるウォールマン・リンクだった。普段は背を丸めてとぼとぼとニューヨークの寒空を恨めしそうに見上げる人たちも、あそこでは軽やかに舞う。笑顔と自由が花ひらく。子供の頃あそこに行っては人びとを眺めながら思っていた。いつかあたしも滑るんだって。そして、世界的コーチに見出されて有名スケート選手になるんだって。
スケートリンクの入場料が惜しくて、子供の頃のあたしはリンクではないただの池が凍るとそこで一人で練習した。時には割れて危険な目にも遭った。
あたしが自分の稼ぎから入場料を捻出できるようになったのは中学を出たあとだったから、その頃には有名スケート選手になる道は閉ざされていた。今でも、誰もあたしをスカウトしてくれない。それでもあたしは一人で滑る。
ダブル・トゥーループ、ダブル・サルコウ、キャメル・スピン、レイバック・スピン。あたしに出来るのは、ここまで。それでもあたしは滑り続ける。この店でシケた客相手にウェイトレスをしているのは、本当のあたしじゃない。あの氷の上でこそ、あたしは自由にのびのびと体を動かせる。
でも、この勤務時間だって楽しくやらなきゃ。生粋のニューヨーカーだもの。あたしは機嫌良く歌いながら仕事をする。
「So, darling darling
Stand by me
Oh stand by me」
あら、お爺さんのシチュー、全然減っていないじゃない。まずいのかしら。さっき間違ってフレンチフライの残りが落下しちゃったからかな。
「お客さん、お替わりはいらない? 熱々のを足したら少しは温かくなるかもよ」
「おお、そうだな。よかったら少し入れてくれるかな」
「考え事していた?」
「そう。思いだしていたのだよ。その歌の歌詞をつぶやいていた人の事を」
「へえ。あたしのお祖母ちゃんの世代には、この歌の好きな人が多いのかもね」
「大ヒットしたからね」
ドアが開いて、待っていた人が入ってきた。4時55分。計ったみたいにピツタリ。
「ハロー、ミホ!」
ミホは毎週水曜日の夕方に《Star's Diner》からヘルプとして派遣されてくる。彼女は笑いながら手を振った。聞いたところによると、彼女は朝の六時から四時まで《Star's Diner》で働いて、その後ここで夜番のジェフが来るまで三時間働いているらしい。時給を上げてくれる時にあのケチオーナーがそんなひどい条件を付けたんだそう。でも、嫌な顔一つせずに毎週こうやって五分前にやってくる。信じられない。日本人って、どうかしている。
あたしは、さっさとエプロンを取り外すとお爺さんにウィンクした。
「じゃあね。支払いは、あの子にしてね」
お爺さんは片眉をちょっと上げると言った。
「スタンド・バイ・ミー(いかないでくれ)。もうちょっとで食べ終わるから」
あたしは天を仰いだ。支払いを待っていても、お爺さん、あなたにはチップをくれるようなお金、ないじゃない。あたしは早くウォールマン・リンクに行きたいんだけれど。
でも、そう言われてしまうと、無視して出て行けないのがあたし。しかたないから「スタンド・バイ・ミー」を歌いながら、お爺さんが食べ終わり、のろのろとヨレヨレの上着のポケットから小銭をかき集めるのを待った。あら、5セント足りないみたい。
「いいわよ、それで」
あたしは自分のポケットから5セントを出して帳尻を合わせる。だから、いつまで経っても金持ちになれないのかなあ、あたし。ミホがそのあたしに優しく笑いかけた。彼女は先月にあたしが無銭飲食野郎にあたって全額一人で負担しなくちゃいけなかった時に、黙って半額出してくれた。だから、あたしは彼女の時給が上がったと知ってもそんなに腹が立たなかった。
あたしが出て行こうとすると、ミホとお爺さんが同時に「またね」「またな」と言った。あたしは笑って親指を上げた。
あたしはこのお爺さんみたいに、いつまでも夢を見ているような、しょうもない人たちが好き。この店にくる人生の負け組たちを見るのが好き。馬鹿げた夢を見続けるあたしと同じだから。
何度失業してもしつこく仕事を探してたポールや、まずい料理しか作れないシェフのジョニーや、エリートを捕まえるんだとか言っていたくせにボクサーなんかと恋に落ちたダイアナや、わざわざ日本からやってきて下町のダイナーのケチオーナーにこき使われているミホも好き。みんな愛すべきマンハッタンの落ち零れだ。
あたしはスケートを滑るように軽やかに働く。そして、ウォールマン・リンクで歌うように朗らかにスピンする。冬のマンハッタンはあたしのパラダイス。
(初出:2015年1月 書き下ろし)
"WollmanRink" by NYC JD - Own work. Licensed under CC BY-SA 3.0 via Wikimedia Commons.
【小説】新しい年、何かが始まる
「scriviamo! 2015」の第四弾です。ポール・ブリッツさんは、昨年のscriviamo! で書いてくださった『歩く男』の「わたし」を再登場させて、作品を書いてくださいました。
ポール・ブリッツさんの書いてくださった『夢を買う男』
ポール・ブリッツさんの関連する小説:
『歩く男』
『食べる男』
オリジナル掌編小説と俳句、それに鋭い書評や愛に溢れた映画評論などを書かれていらっしゃる創作系ブロガーさんです。ちょっとシニカルで、あっというような目の付け所の小説を書いていらっしゃる上、よく恐ろしい(笑)挑戦状を叩き付けてくるブログのお友だちです。
で、この「マンハッタンの日本人」シリーズを最初に取り上げてくださったのがポールさんでした。私自身としては一回書いてそのまま忘れていたのですが、その後、皆さんが次々と取り上げてくださるおかげで、うちの山のようにいるキャラたちの中でも、落ちこぼれヒロイン美穂は突如として有名人になりました。
もともとはただの通行人だった名無しキャラが、どうやらヒーローに昇格しかけているのは、ええ、ポールさんの設定に合わせてのことです。あ、勘違いでしたら、いつものごとく、ガンガンとフラグ折ってやってください(>>ポールさん)。ポールさんの作品と一人称が一致していないのですが、キャラクター・ポールはアメリカ人ですので正式な一人称は「I」です。氣になる方は全セリフを脳内英訳してくださいませ(笑)あ、ポールさんが嫌がっているのに、もう一人のキャラにも勝手に名前を付けちゃったのは、決して報復ではありませんよ。ありませんったら。
【参考】
読まなくても話は通じるはずですが、だんだん話が大きくなってきたので新カテゴリにしてまとめ読み出来るようにしました。
「マンハッタンの日本人」あらすじと登場人物
「マンハッタンの日本人」シリーズ
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
「マンハッタンの日本人」シリーズ 7
新しい年、何かが始まる
——Special thanks to Paul Blitz-san
仕事中にかかってきたその電話番号には、憶えがあった。でも番号で表示されるという事は電話帳に登録されていない人だ。誰だろう。美穂はつい受けてしまった。声を聴いて失敗したと思った。
「やあ、ミホ。久しぶりだね」
電話帳に登録されていないのは、美穂が想いを断ち切るために自分で消したからだった。かつて彼女を弄んで逃げるように去ったマイクだった。
「こんにちは。何の用?」
「何の用って、冷たいなあ。久しぶりにニューヨークに出てきたから、思いだして連絡したんだけど」
「あなたがまだ私の電話番号を手元に持っていたなんて意外だわ」
「どうして? 君は僕とつき合っているつもりだっただろう? 今日、泊ってもいいかな? ほら、知らない仲ってわけでなし」
「冗談じゃないわ。絶対に来ないで!」
美穂はカッとして電話を切った。すぐにまたかかってきたけれど電源を切ってエプロンに突っ込んだ。
横で配膳をしていたポールが不思議そうな顔をした。美穂は、今の会話聞かれちゃったかな、と思ったが、黙って皿を二つもって、五番テーブルへと運んだ。
不思議だった。二年前はあんなに連絡が欲しいと思っていたのに、マイクの声は今の美穂にはちっとも嬉しくなかった。大体何のつもりよ。私は無料宿泊所じゃないわ。
「なあ、ミホ。今日、本当に大丈夫か?」
ポールが訊いてきた。今日って? 美穂は一瞬考えてから思いだした。ああ、そうだった、今日、ポールとその同居人が家に来るんだった。
一週間くらい前に、ポールに訊かれたのだ。
「なあ、お前のアパートメント、ネットに繋がっているか?」
「え? あ、インターネット。繋がっていはいるよ、一応」
「だったらさ、悪いけれど回線ちょっと貸してくれないかな。アップロードしたいモノがあってさ」
ポールに言われて美穂は少し困った。
「あ、あの、それはメールかなにか?」
「いや、動画」
「えっ。それは……」
「なんか困る事でも?」
「うん、今どき、なんだけれど必要な時に繋げる契約でね。普段はメールのやり取りと必要な事だけネットサーフィンするぐらいだから」
「えっ」
ポールはこりゃダメだという顔をした。美穂は慌てて言った。
「あ、でもね。ほら、先月から時給が上がったでしょ。だから、来週から常時接続の一番安いプランに切り替えてもらう事になっているの。あまり速くないけれど、それでよければ来週にでも」
そして約束したのが今夜だった。
「あ、もちろん大丈夫。ルームメイトの方とはどこで待ち合わせなの?」
「ユニオン・スクエアに来ているはずだ。早く行かないと、怒られる。寒いからな」
ポールの同居人は、ボクサーだと聞いていた。実は先々週まではもう一人の同居人がいたらしいのだが、亡くなられたのだそうだ。その日、美穂は休みだったのだが、オーナーからの電話で突然呼び出された。ポールのルームメイトが急逝して、医者だの警察だのが来て出勤できなくなったので、代わりに急遽でてきてほしいと頼まれたのだった。
今日の用事もどうやらその亡くなった方の遺言に関する事らしい。美穂はどこまで訊いていいのかわからなくて、それだけしか知らなかった。
ユニオン・スクエアで待っていたヒスパニック系の男は、案の定あまり上機嫌とは言えなかった。このスクエアは風が強い。今日のように寒い日は格別に居心地が悪いだろう。
「はじめまして。美穂です」
彼女が挨拶すると、愛想もなく「イヴォ。よろしく」と言った。ポールが取り繕うように解説した。
「こいつ、本当はハビエルっていうんだけれど、どういうわけかリングでも普段もイヴォで通っているんだ。プロのボクサー」
イヴォはリュックサックを背負っていて、それは重そうに彼の肩に食い込んでいた。ポールが訊いた。
「例のラップトップとビデオカメラ。持ってきたか」
「あたりまえだろ。そのために行くんだから。それより、腹減ったな、君のうちの近く、ピッツァ屋なんかある?」
突然訊かれたので美穂はどきっとした。
「近くにはないですけれど、もしよかったら作業なさっている間に、私、パスタでも作りましょうか?」
それを聞いて、イヴォの機嫌は即座に治ったようだった。
「そりゃ、悪いね。頼むよ。おい、ポール、ラッキーだったな」
「本当にいいのか?」
目を丸くするポールに美穂は笑って答えた。
「パスタなんて、一人分作っても三人分作っても手間は変わらないもの。どっちにしても私もお腹空いているし」
そんな事を話しているうちに、アパートメントについた。階段を上がって、三階の廊下を歩き、角を曲がった時に、美穂はぎょっとした。部屋の前にマイクが立っていたのだ。
マイクは美穂が二人も男を連れて上がってきたのでさすがに驚いたようだった。が、すぐにその表情を引っ込めると馬鹿にしたように笑った。
「道理で尻尾を振ってこなかったわけだ」
美穂は怒りに震えた。
「修道院に行くことになったって、あなたに尻尾なんか振るもんですか。警察を呼ばれたくなかったらさっさとオハイオに帰りなさいよ」
「ふふん。二人いっぺんに連れ込んでいっぱしにモテているつもりかよ。どうせまたヤリ捨てされるだけだろう」
それを聴いてポールが黙っていなかった。
「これ以上、ミホに対して失礼な事を言ったら、殴るぞ」
「おい、ポール、殴るのは俺に任せろ」
「バカ。素人をプロのお前が殴ったらヤバいだろ」
プロという言葉を聞いてギョッとしたマイクはモゴモゴと何かを言うと、慌てて三人の間をすり抜けて去っていった。
「なんだよ、口程にももないヤツめ」
イヴォが大声で言うのを聞いて、美穂は情けなくなった。私、何であんな男の事を好きだったりしたんだろう。恥ずかしい。
「おおっ。女の子の部屋だ!」
イヴォが妙な喜び方をしている。美穂は、そこそこ片付いているのを確認して少しだけホッとした。二人のコートを受け取って、デスクの所に案内した。
「あ、このLANケーブルで接続して。今、ログインするわね」
二人がすぐに作業に入って、ああだこうだとやりはじめたので、彼女はその場を離れてキッチンに向かった。
すぐに湯を沸かす。沸騰を待つ間に、玉ねぎとニンニク、それに人参をみじん切りにする。オリーブオイルでニンニクとタマネギを炒め、いい匂いがしてきてからひき肉を炒める。人参を加え、白ワインと乾燥キノコを投入して、瓶詰めトマトを入れる。沸騰したらブイヨン、塩こしょう、醤油で味を整えて弱火にする。
沸騰したお湯にパスタを入れようとしている時に、視線を感じて後ろを向くと、男二人がキッチンを覗き込んでいた。
「え。まだ15分くらいかかるよ。もう、アップロードは終わったの?」
二人は同時に首を振った。
「腹が減っている時に、そんないい匂いをさせられたら、たまらないぜ」
イヴォが言った。ポールも黙って同意した。美穂は肩をすくめてパスタを茹ではじめると、狭いテーブルを片付けて、三人分の皿とカトラリーを並べた。客なんかほとんど来ないから、器はバラバラだ。それから急いでレタスとトマトを洗うと小さいサラダを作った。二人は既に勝手にテーブルの前に陣取っていた。
パスタが茹で上がると同時に、三人は食べはじめた。
「珍しいものじゃないけれど、どうぞ」
「美味い!」
イヴォはそれ以上何も言わずにひたすら食べた。ポールも味わうように食べていたが、やがて言った。
「お前、ジョニーと担当変わった方がいいな」
美穂はぎょっとして首を振った。
「冗談でしょう。私は調理師学校に行った事なんかないもの。できないよ」
「でも、これだけでもあいつの作るのよりずっと美味いぜ」
「ありがとう。隠し味に乾燥キノコと醤油が入っているんだ。それで旨味が出るのかも。本当は明日まで待った方が美味しくなるんだけれど」
ポールは頷いた。美穂は氣になっていた事を訊いてみる事にした。
「動画をアップロードすると言っていたけれど、どんなもの?」
「うん? 死んじまった詩人の詩の朗読。今日アップロードしたのは、本人が朗読した部分なんだ。でも、まだ続きがあるんで、それを誰かが朗読するところを撮影して動画を作成しなくちゃいけないんだよな」
「そうだ、ミホに読んでもらえばいいじゃないか」
突然イヴォが顔を上げた。パスタに夢中になっているのかと思ったが話は聴いていたらしい。
「そうだな、お前、読んでくれないか?」
美穂は激しく首を振った。
「え。ダメ。私の英語の発音おかしいし、詩の朗読なんて絶対に無理。どうして自分たちで読まないの?」
「やってみたんだけれど、なんか小学生の学芸会みたいになっちまうんだ」
イヴォが言う。美穂はポールを見て言った。
「だったらダイアナに朗読してもらえば。彼女の英語は綺麗だし、あなたとつき合っているんでしょ?」
そう言った途端イヴォが「なんだって!」と叫んだ。ポールはぎょっとして大きく首を振った。
「おい、ミホ! なんて事を言うんだ。僕がこのボクサーに殺されたらどうする!」
「え?」
「ダイアナとつき合っているのは、こいつだよ! 僕は潔白だ」
美穂はあわてて謝った。
「ごめんなさい。知らなかったの。一緒に歩いている所を見たから、そうだと思っちゃったの」
イヴォは、まだポールを睨んでいる。
「本当だな」
「あたり前だ! お前の女に手を出すような無謀をするか。大体、彼女はお前にベタ惚れだろう」
「ふふん。それもそうだな」
美穂は、ため息をついた。なんか今日は散々だなあ。いろいろあって、ポールにはイヤな人だと思われちゃったかな……。
彼女は少々落ち込んだまま皿を洗った。二人はコンピュータの前であれこれ論議していたが、やがて美穂の所にやってきた。ポールが言った。
「悪いけれど、残りの分については、また日を改めてもいいかな。最初の分の反応を見てから、ちゃんと朗読者を選んで撮影した方がいいだろうって話になったんだ」
「もちろん。いつでもどうぞ」
「へへ。次回はどんなものが食えるかな」
イヴォが言うと、ポールは「こらっ」と小突いた。
二人が帰るのを玄関で見送った。イヴォは初対面時の不機嫌が嘘のように、片手を上げて朗らかに「ごちそうさま」と言った。
ポールは「ありがとう」といって、美穂をハグした。《Star's Diner》では、彼がそんな事をしたことは一度もなかったので、美穂は狼狽えた。
二人が去った後に、彼女は静かになったキッチンで、崩れるように椅子に座った。誤解しちゃダメ。アメリカ人にとってはハグなんてただの握手と変わらないんだから。ドキドキが止まらない。今日は、色々ありすぎた。疲れちゃったな。
穏やかな新年の始まりとはいかないようだ。前途多難だな。美穂はしばらくそうしてあれこれと考えていた。明日も仕事だ。早く寝なきゃ。上手く寝付けない事は、今からわかっていた。
(初出:2015年1月 書き下ろし)
【小説】黄色いスイートピー
「scriviamo! 2015」の第六弾です。ウゾさんは、先日書いてくださった『其のシチューを 再び味わおうか』のさらに続きを書いてくださいました。ありがとうございます!
ウゾさんの書いてくださった『其のシチューを 再び味わおうか 珈琲を追加で 』
ウゾさんの関連する小説:
『其のシチューは 殊更に甘かった 』
『其のシチューを 再び味わおうか』
ウゾさんとのお付き合いは、ブログ運営年数 − 数ヶ月。それ以前に知り合った方で、今もブログを通して交流している方はほとんどないくなってしまったので、たぶんもっとも古いブログのお友だちの一人ということになります。最初に作品を通して交流したのが『短編小説を書いてみよう会』でしたよね。思えば、あれが私のブログ交流の原点になっています。そして、ウゾさんをはじめ、あの時知り合った何人かのお友だちが、今でもこうやってかまってくださる。ありがたいことです。
さて、書いていただいた作品、つい先日発表したお返しの作品「歌うようにスピンしよう」への、この「隅の老人」視点でのアンサー小説。前回は、脇キャラであったキャシーを《Cherry & Cherry》でのメインキャラに据えてみましたが、それをとても上手に引き継いでくださいながら、やはりウゾさんらしく独特の世界観で書いてくださいました。
で、「マンハッタンの日本人」シリーズは、scriviamo!の時期しか進まないし、来年はやらないかもしれないので、今のうちにサーブにはレシーブしちゃうことにしました。またしてもキャシーを登場させています。
「マンハッタンの日本人」シリーズは、昨年以来、交流で作っていく特殊小説になっています。こうなったら何でもありですので、乱入なさりたい方はどなたでもご自由にどうぞ。
【参考】
読まなくても話は通じるはずですが、だんだん話が大きくなってきたので新カテゴリにしてまとめ読み出来るようにしました。
「マンハッタンの日本人」あらすじと登場人物
「マンハッタンの日本人」シリーズ
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
「マンハッタンの日本人」シリーズ 8
黄色いスイートピー
——Special thanks to Uzo san
美穂が病室にやってきたのは、面会時間も終わりかけの午後六時半だった。朝から働き詰めで疲れているんだろうから、わざわざ見舞いになんか来てくれなくてもいいのに。
キャシーは、ギプスをはめられた足を見ながら、今日の夕食のチキンは意外と美味しかったなとのんきに考えている所だった。
三日ほど前のことだった。キャシーがいつものように、ウォールマン・リンクでダブル・サルコウを飛ぼうとした時に、一人の男がスピード・スケートのまねごとをして突っ込んできたのだ。なんとか衝突を避けようとして、変に体をねじったので着地に失敗して、足の骨を折ってしまった。本来ならば、入院代はどうしようかとか、このままじゃ仕事を失う、なんとかしなくてはと、不安にさいなまれているはずだったが、今回は天がキャシーに味方したのだ。
「保険?」
キャシーの辞書にはない言葉だった。雷が落ちるか、クビを宣言されるかどちらかだと思っていたキャシーの前に現れたケチオーナーは高笑いをした。
「総合事業者保険を契約し直したばかりなのだ。わはははは」
それによると、これまでの保険がぼったくりに近いものだったのを、《Star's Diner》の店長代理であるポールに指摘されて今年から契約を見なおしたらしい。見なおしたと言っても、細かい字を読むのは苦手なので、ポールに一任して新しい保険会社と契約を決めさせたそう。
各種の損害補償と従業員の疾病障害時に於ける代替労働力雇用に関する費用などがバランス良くカバーされている保険に、従業員の労働災害以外の事故の入院費用までカバーする特約がついていたらしい。もともとの保険とあまり変わらない額になったが、全従業員の時給を上げるか、これを契約するかどっちかを選べとポールに言われて、オーナーは総合的に安いこちらを選んだ。
つまり、入院費用だけでなく働けない間の生活費の補償までもらえて、キャシーがこうやってのんびりと静養していられるのは、ひとえにポールのおかげなのだが、ケチオーナーは自分の手柄だといいふらしていた。呆れて真実を教えてくれたのは美穂だ。
その美穂は、キャシーの代わりに週の半分《Cherry & Cherry》に来ている。基本ひとり体制の《Cherry & Cherry》なので、保険で雇えた代わりの新人には勤まらない。オーナーは、キャシーが復帰するまで《Star's Diner》に新人を配して、美穂一人にキャシーの代わりをしてもらうつもりだったが、ポールが断乎として反対したので、結局、美穂とダイアナが交互で《Cherry & Cherry》に入ることになった。
美穂はどうやら《Cherry & Cherry》に来る日も、二時間早く《Star's Diner》に寄ってブラウン・ポテトを用意しているらしい。キャシーは「日本人って、どうかしている」といつもの感想を述べた。それから六時まで働き、夜番のジェフが来るのを待ってから帰宅する。相当疲れているはずなのに、不機嫌な様子は全く見せなかった。
「ハロー、キャシー。具合はどう?」
美穂は、コートを脱ぐとベッドの脇にある椅子の背にかけた。そして、周りを見回して、何かを探した。
「うん。こうしている限り、なんともない。でも退屈。あと一週間もこんなことしているの、やになっちゃう。ミホ、何を探しているの?」
美穂は手元の小さい三角の紙包みを見せた。
「お花。花瓶になるものないかと思って」
それから小さいコップを見つけると、それに水を入れてから包みを開けた。黄色い鮮やかな色がキャシーの目に入った。
「スイートピー! 可愛い。どうしたの?」
美穂は思い出し笑いをした。
「ほら、時々来るあのおじいさん、あの方があなたを訪ねてきたのよ」
「ヘ? あの人?」
「ええ。この間足りなかった5セントのことを氣にしていらしたみたい。お礼にって、この可愛い花を持って。あなたの事故の事を言ったら、びっくりしてとても心配していたわ」
美穂はスイートピーの花が一輪の入ったコップをベッド脇のキャビネット上に置くと、ポケットから袋に入った小銭を出して、コップの隣に置いた。
「これは?」
「これもあのお客さんから。借りていた5セントと、それから今日はコーヒーも頼むつもりで来たけれど、あなたがいないから、チップとして置いていくって」
「へえ~。たった5セントのことなのに、律儀なおじいさんねぇ。それにミホも、わざわざ持ってきてくれてありがとう」
「どういたしまして。それから、あのお客さんもお見舞いに来たいみたいなんだけれど、ここに入院しているって教えてあげてもいい? 一応確認してから……」
「もちろん。来てくれたら嬉しいよ。でも、あと一週間で退院だからなぁ」
「明日、また立ち寄るっておっしゃっていたから、そう伝えておくわね」
美穂が帰ったあと、キャシーは枕元の黄色いスイートピーを眺めた。同じ病室にいるほかの三人の所には、恋人や友人たちが花を持ってきていた。キャシーの母親は仕事の合間にちょくちょく来てくれるが、花を持ってきたりはしない。だから、自分の所にも花が来たことが嬉しかった。
春を思わせてくれる明るく優しい花。このさりげなさが、あのおじいさんらしい選択だなと嬉しくなった。
明日、美穂が伝えたら、すぐにお見舞いにきてくれるのかな。あ、明日はお祖母ちゃんも、見舞いにくるって言っていたかも。そうしたら、あのおじいさんを紹介してあげようっと。この人も「スタンド・バイ・ミー」の曲が好きなんだよ、きっと氣が合うんじゃないかなって。
キャシーは、先ほどまでの退屈はどこへやら、明日が楽しみでしかたなくなった。
(初出:2015年1月 書き下ろし)
【小説】One In A Million
「scriviamo! 2015」の第七弾です。ポール・ブリッツさんは、「マンハッタンの日本人」を更に進めた作品を書いてくださいました。ありがとうございます。
ポール・ブリッツさんの書いてくださった『待つ男』
ポール・ブリッツさんの関連する小説:
『歩く男』
『食べる男』
『夢を買う男』
ものすごい挑戦状をいただきました(笑)なんて暴球を投げてくるんだか。すでにポールさんの分をお読みになった方は、興味津々だと思います。
「マンハッタンの日本人」シリーズ、ポールさんのストーリーにあわせると、もしかすると今日が最終回になっちゃうんですが、そうなってもそうならなくてもいいようになっています。ポールさん、「ぬらりひょん」な返答でごめんなさい。
なお、この作品でもポールさんの書かれた内容をざっとおさらいはしてありますが、できれば先にポールさんの作品をお読みください。ポールのメール、この小説ではほんの一部を引用しただけです。とても哲学的でかつ甘い告白の全文は、ぜひあちらで。
【参考】
読まなくても話は通じるはずですが、まとめ読み出来るようにしてあります。
「マンハッタンの日本人」あらすじと登場人物
「マンハッタンの日本人」シリーズ
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
「マンハッタンの日本人」シリーズ 9
One In A Million
——Special thanks to Paul Blitz-san
今度こそ。キャシーは背中に力を込めた。このタイミング! でも、しっかりと踏ん張るはずの足が少しぐらついた。あ、高さが足りない。着地はなんとかなったものの、満足はいかなかった。
もうそろそろウォールマン・リンクのスケート場シーズンはおしまい。日に日に春めいてきている。キャシーは、リハビリも兼ねてさっさとスケートを始めた。ジャンプが出来るようになっただけでも大した進歩だと思う。次のシーズンには、またダブル・サルコウが飛べるようになるといいな。
しゃっと音をさせて、キャシーはベンチの方へ向かった。
「ね。ミホ、どうだった? 二回転にはならなかったけど、マシになった?」
美穂は、その声でようやくキャシーが近くに戻ってきたことに氣がついたようだった。
「あ~あ、まったく。またあいつのことを考えていたの?」
キャシーが言うと、美穂はあわてて首を振ったが、誤摩化しても無駄だと思ったのか、そのまま無言で下を向いた。
キャシーはベンチにどかっと座ると、優しく美穂の顔を覗き込んだ。
「とんでもない騒ぎに巻き込まれちゃったよね。あの詩人が生きていたら、ミホになんてことをしてくれたんだって殴ってやりたいよ」
そういうと、美穂は顔を上げて、わずかに口角をあげた。
「キャシーだって、泣いていたじゃない」
そうよ。不覚にもあの詩には、号泣しちゃったのよ。あんないい詩を書くもんだから、だから、あんなことになっちゃったんだわ。キャシーは腕を組んで口を尖らせた。
ポールとその同居人がアップロードした、反戦詩の動画は、とんでもないセンセーションを引き起こした。亡くなった詩人が自分で読んだ分だけじゃなく、ポールに頼まれて美穂が朗読した分のせいで、彼女は一時的に有名人になってしまった。
《Star’s Diner》にはマスコミや野次馬が押し掛けた。オーナーは大いに喜んで、従業員を増やした。しかしそれだけでは済まず、たいして時間もかからぬうちに美穂のアパートメントも見つかってしまった。ただの一般人だった美穂は、そうやって追いかけられることに本当に弱ってしまった。もちろん当事者のポールもそのまま《Star’s Diner》で働けるような状況ではなく、マスコミやの大金のなる木を狙うハイエナのような連中が追いかけてこないホテルに逃げ込んだ。
それから、ポールとその同居人のイヴォは、秘かに詩の著作権を売却して、そのほとんどを反戦運動基金管理団体へと寄付し、残りの一部を持ってそれぞれニューヨークから去った。美穂は、ポールからメールをもらった。
……そしてわたしだが、あの店長のいとこがサンフランシスコで店を開こうとしているとかで、優秀な経営パートナーを欲しがっているそうだ。
きみも来ないか。
……三日後、グレイハウンドの最終バスでサンフランシスコに向かおうと思う。
そこで、きみと思い切り話し合いたいんだ。
今までのことと、これからのことを。
バス停で待っている
プリントアウトしたメールは、今でも鞄に入っている。何度も、何度も読んだので、ボロボロになっている。一緒に働いた数ヶ月のこと、理不尽さや不公平に落ち込んでいた時に明るく救い上げてくれたこと、ブラウン・ポテトをつまみ食いする時の楽しそうな様子、動画を録画する時に真剣な目で見つめていたこと、今でも鮮やかに思いだす。
前のように失敗することが嫌で、拒否されることが怖くて、好きだとついに言えなかった。でも、「一緒に行こう」と言ってくれた。返事は決まっていた。美穂はサンフランシスコに、ポールについて行くつもりだった。
でも、夜逃げの経験なんかなかったから、三日できちんと退職と引越の全てを準備することがどんなに難しいかわからなかった。それに、アパートメントの外には例によって、怪しい人やマスコミがいっぱいだった。美穂は、ポールと話をするためだけにバス停に行こうとした。でも、出るのが遅すぎたのだ。いなくなったと思っていたおかしな人たちは、まだ何人も外にいた。美穂よりもポールやイヴォを探しているのがわかっていたから、連れて行くわけにはいかなかった。彼らを巻こうとして時間がかかりすぎた。
バス停には、もう誰もいなかった。バスも一台もいなくて、人っ子一人いなかった。
メロドラマだと、こういう時には、物陰から「バスには乗らなかったんだ」と恋人が出てくるのが定石なんだけれどな……。でも、ポールは行ってしまったのだ。美穂に拒否されたと思って、一人でニューヨークから、美穂の前から去ってしまったのだ。それでも彼女はまだその時には楽天的だった。連絡をすればいいと思っていたから。
ポールのメールアカウントはあのメールを最後に削除されていた。追いかけてくる人間から痕跡を消したかったんだろう。携帯の電話番号もなくなっていた。ポールをサンフランシスコに誘った前店長の連絡先すら誰も知らなかった。連絡をする手段が何もないとわかった時、はじめて美穂は泣いた。
それから、美穂の生活は少しだけ変わった。辞めたポールの代わりに《Star's Diner》の店長代理に立候補したのはジョニーだった。彼の料理に問題があることは、周知の事実になっていたので、オーナーはそれをあっさりと認めて、《Cherry & Cherry》の料理担当だったジョンを《Star's Diner》へと異動させた。その代わりに美穂を《Cherry & Cherry》へ異動させ、客から見えないの軽食調理担当にしてくれた。キャシーはそれをとても喜んだ。美穂とキャシーは二人で工夫を重ね、《Cherry & Cherry》を少しずつ居心地のいい店にしていった。
それに、アパートメントを出ることになっていて行くあてのなかった美穂にキャシーはこう言ったのだ。
「私とルームシェアしよう! 私も足が元通りになるまで、誰かが一緒に暮らしてくれた方がいいし、ミホとなら問題なく暮らせると思うもの」
新しい職場、新しい住まい、日常が始まった。それにあの詩が、超大物シンガーによって歌われて空前のヒットとなると、美穂を患わせていたしつこい人びとは波が引くように消えて行った。彼女は再び何でもないどこにでもいる日本人となり、平和な日常が戻ってきた。
キャシーはスケート靴を脱ぎながら、ここ数ヶ月いつもかけてくれた明るい励ましを続ける。
「氣持ちはわかるけど、そんな悲しそうなミホを見ていたくないな」
美穂は黙って頷いた。キャシーの優しさが心にしみ込んでくる。涙が止まらない。
もうどうにもならないのだということはわかっている。今まで連絡がないのに、これからあるはずはないだろう。ポールの瞳と、それにメールではじめて教えてくれた彼の想いは、いつまでも美穂の心から出て行ってくれなかった。
美穂はいつだったか五番街の真ん中で泣きたくなったことを思いだした。ラジオから流れてきたNe-Yoの“One In A Million”。世界中の人に愛されたいなんて願っていない。だけど、だけどせめて一人くらいは言ってほしい。君は百万人の中でたった一人の大切な人だと。そして、美穂はそういってくれる人に出会って、彼を愛したのだ。とても短かったけれど。自分の想いすら告げなかったけれど。
……きみはいつまでも、マンハッタンの日本人でいたいのか。この、非人間的なマンハッタンの、孤独な日本人でいることに満足していたいのか。
思っていないよ。マンハッタンにこだわっているわけじゃない。でも、私はどこにも行けない。サンフランシスコ中を歩いても、あなたを見つけられるわけじゃないでしょう。もう、待っても無駄だってわかっている。忘れて生きていかなくちゃ。仕事と住むところがあるここで。たまたまマンハッタンで。
「ねえ、ミホ。あいつの代わりにはならないと思うけれど」
キャシーが、美穂の肩を優しく抱いて言葉を続けた。
「いつか美穂と私で、小さいお店をやろうよ。いつまでもあのケチオーナーに搾取されるんじゃなくってさ」
「キャシーったら。そういう夢は彼氏と語るものでしょ」
「見損なわないでよ。私、彼氏を作ってミホの側でいちゃいちゃしたりしないよ。……少なくともあいつが戻ってくるか、それともミホに新しい彼が出来るまで」
「やだ、じゃあ、私、猛スピードで新しい彼を作らないといけないじゃない」
「そうだよ。その調子」
美穂は鞄からハンカチを取り出した。鞄が膝の上にずっと置かれていたせいか、彼のメールを印刷した紙は温かくなっていた。逢いたいよ。日本語で呟いた。
鞄を閉めると、涙を拭ってウォールマン・リンクを眺めた。楽しそうな家族が一緒に滑っている。恋人に滑り方を習っている女性もいる。キャシーの褐色の肌は、綺麗に輝いている。陽射しは柔らかくて暖かい。冬は終わりに近づいて、もうじき春が来る。美穂は、明日も頑張って働こうと思った。
(初出:2015年1月 書き下ろし)
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【小説】そよ風が吹く春の日に
「scriviamo! 2015」の第九弾です。TOM-Fさんは、「マンハッタンの日本人」を新たに大きく展開させた作品を書いてくださいました。ありがとうございます。
TOM-Fさんの書いてくださった『この星空の向こうに』第2話サザンクロス・ジュエルボックス -Featuring『マンハッタンの日本人』
TOM-Fさんの関連する小説:
「天文部」シリーズ
『この星空の向こうに』-Featuring『マンハッタンの日本人』
TOM-Fさんは、時代物から、ファンタジー入りアクション小説まで広い守備範囲を自在に書きこなす小説ブロガーさんです。どの題材を使われる時も、その道のプロなのではないかと思うほどの愛を感じる詳細な書き込みがなされているのが特徴。その詳細の上に、面白いストーリーがのっかているので、ぐいぐい引き込まれてしまいます。お付き合いも長く、それに、私にとっては一番コラボ歴の長い、どんな無茶なコラボでもこなしてくださるブログのお友だちです。
今年は、去年に続き『天文部』シリーズと『マンハッタンの日本人』を絡めて参加してくださいました。それも、ものすごい変化球で……。
もう前回で最終回かと危ぶまれていた『マンハッタンの日本人』シリーズですが、終わりませんでした(笑)しかも、なんかいいなあ、美穂。私も予想もしていなかった展開なんですけれど。今年はいったいどうしたんだろう。
今年も同時発表になっていますが、時系列の関係で、TOM-Fさんの方からお読みいただくことをお薦めします。
【参考】
読まなくても話は通じるはずですが、まとめ読み出来るようにしてあります。
「マンハッタンの日本人」あらすじと登場人物
「マンハッタンの日本人」シリーズ
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
「マンハッタンの日本人」シリーズ 10
そよ風が吹く春の日に
——Special thanks to TOM-F-san
桜かあ。春になっちゃったねぇ。キャシーはダイナー《Cherry & Cherry》のカウンターに肘をついて、ぼんやりと考えた。毎年、セントラル・パークに桜が咲く頃になると、人びとの頭の中からウィンタースポーツのことは消える。キャシーの頭の中からは消えないけれど、実際に滑ることは不可能になるので、陸の上でできるトレーニングを黙々とこなすようになる。次の冬のステップアップに向けての大切な時期ではあるけれど、滑ることそのものが好きなキャシーには残念な季節だ。
それで仕事でのやる氣も若干そがれる季節なのだが、今年は同居人がプライヴェート上の悩みを振り払おうと、やけに頑張って働くのでダラダラするのに罪悪感が伴い、キャシーにしては真面目に仕事に励んでいた。美穂は早く出勤して、モーニング・セットのためにブラウン・ポテトを作っている。後から出勤してもいいのだが、それを作りながら、もともとその仕事をするきっかけになった男のことを思いだして、彼女がまためそめそしているんじゃないかと思うと、どうも二度寝を楽しむ氣になれない。それでキャシーは美穂と一緒に出勤して、掃除やその他の開店準備をすることになった。
そうやって早くから用意していると、時間に余裕ができるのか、今まで見えていなかった粗が目につくようになる。ずっと動かしたことのない棚の中の食器の位置を変えて、出し入れがスムーズになった。そうすると配膳が楽になり、ナフキン入れやケチャップ・マスタード立ての曇りに目がいった。いつの間にか客たちの文句が減り、会話が増えたように思う。美穂が《Star’s Diner》ではじめた「オシボリ」とかいう、小さいタオルを手ふきとして出すサービスも、最初は仕事が増えるだけとしか思わなかったが、反対に客がテーブルや床を汚すことが圧倒的に減り、毎日ふきんやミニタオルを洗濯する手間はほとんど変わらないのに仕事が楽になっていくように思う。
その変化は《Cherry & Cherry》の常連たちにも好評だった。緩やかに変化を見てきた人たちはそうでもなかったが、しばらく足が遠のいていて久しぶりにやってきた客たちは一様に驚いて何があったのかと訊きたがった。美穂は通常はキッチンにいて人びとと接する機会はあまりなかったのだが、説明を面倒に思うキャシーはその度に、キッチンから美穂を引きずり出して「この子が、変えてくれたの」と説明しては済ませていた。
入口のドアが開いて、今日最初の客が入ってきた。あらぁ、久しぶりだこと。ジョセフ・クロンカイト。キャシーがフルネームを知っている数少ない客だ。と言っても、自己紹介をされて知っているわけではなく、CNNの解説委員としてテレビに出ている有名ジャーナリストだからなのだけれど。
「おはよう、ミスター・クロンカイト」
キャシーがいうと、その男は、驚いたような顔をしてから、言った。
「君か、キャシー」
「あ、今、がっかりしたでしょう」
「い、いや、していないとも。おはよう。ところで怪我をしたんだって。大丈夫か?」
「ありがとうございます。つまり、昨日の、財布を落としたお客さんってあなただったんですね、ミスター・クロンカイト。とてもおいしい食事をご馳走になったってミホが言っていたけれど」
美穂はどうやらこの男が何者なのかわかっていないらしい。それもそうだ。ひと口にジャーナリストと言われても、コミュニティ紙編集部から従軍記者までさまざまだ。ジョセフ・クロンカイトは有名人と言っても俳優ではないので、ニュースを観ない人間にまでは知られていない。それに美穂は外国人だ。前に住んでいたアパートメントにはテレビはなかったし、キャシーと暮らしはじめてからも二人でCNNのニュースを観ることなどほとんどない。知らなくても不思議はない。
「君は、いいジャーナリストになれるね。もう何もかも聞き出したのか?」
「ふふん。日本人から何もかも聞き出せるほどの腕があったら、こんな所で働いていると思います? ところで、珍しいですね。二日続けてくることなんてなかったじゃないですか。ここの所全然来なかったし」
「取材でアメリカにはいなかったんだ。来ない間に、ずいぶんとこの店が変わっていたんで驚いたよ。これならもっと足繁く通ってもいいね。モーニングセットを頼むよ。ところで、今日はミホは……」
カウンターに腰掛けたジョセフが全て言い終わる前に、キャシーは「ふ~ん」という顔をした。目の前に素早く、カトラリーと「オシボリ」を置くと、キッチンに向かいながらウィンクした。
「残念ながら、ミホはオーナーに呼び出されて《Star's Diner》へ向かっているんです。一時間は帰って来ませんよ。今日は私だけで我慢して、また明日にでも来るんですね」
ソイミルクを通常よりも多く入れたコーヒーと、ブラウン・ポテトの少なめのモーニングセットを彼の前に置いた。
「悪いが、昨日以来、ブラウン・ポテトはたっぷり入れてもらうことにしたんだ」
「なるほど。わかります」
ジョセフはことさら無表情を装っていたが、キャシーはその様子をみて心の中で笑った。ブラウン・ポテトって、こんなに効能のある食べ物だって、この歳まで知らなかったな。この人までがミホに興味を持つとはねぇ。これはひょっとすると……。
「あ!」
その声に我に返ると、ジョセフはスラックスのポケットに手をやっていた。
「どうしたんですか。まさか昨日の今日で、また財布をなくしたとか?」
「そのまさかだよ。家に忘れたのかな? なんて失態だ。すまない、後で支払いにくる」
キャシーはため息をついた。この人の硬派で完璧主義のイメージ、見事に崩れちゃったわ。しょうがないなあ。
「後でって、遅くなるんでしょう。私たち、五時までの勤務だし、それ以後だと困るんですけれど」
どうしようかと考えはじめているジョセフが何かを言い出す前にキャシーは続けた。
「ミホに《Star's Diner》からの帰りに集金に行かせます。わざわざ出向くんですから、コーヒーくらいはおごってやってくださいね」
ジョセフは言葉を見つけられずに、眼鏡を掛け直していた。キャシーは続けた。
「ただし。あの子はあなたの周りにいくらでもいるような、要領がよくて恋愛ゲームにも慣れている華やかな女性とは違いますから」
他の客たちが次々と入ってきたので、キャシーは忙しくなり、ジョセフも彼女に対して美穂をナンパしようとしているわけではないという趣旨のことを言い出しかねた。
美穂はタイムワーナーセンターの入口で守衛に話しかけるために勇氣をかき集めた。昨日はここに辿りつく前に、あの人が見つけてくれたんだけれどな。
「CNNのジョセフ・クロンカイトさんを呼んでいただきたいんですが」
守衛はせせら笑った。
「君、彼のファンか? 受付で呼べば本物のジョセフ・クロンカイトがのこのこ出てくるとでも?」
「え……」
美穂は、ジョセフが有名人らしいとようやく氣がついた。モーニングセットの代金をもらいにきたなんて言ったらますます狂信的ファンの嘘だと思われるだろう。携帯電話の番号はあるから、連絡をして下まで降りてきてもらうことはできる。でも、仕事中で忙しいのかもしれないし、これっぽっちのお金のことで、本氣でここまで押し掛けたと呆れられるのが関の山だろう。自分のポケットから払って、終わりにした方がずっと早い。
「わかりました。帰ります」
美穂は踵を返して、エスカレーターを降りた。この新しい大きなビルには、五番街の銀行に勤めていた頃に何度か来た。セントラル・パークに近い新しい話題のスポット。ニューヨークの今を生きる自分にふさわしいと来るのが楽しみでしかたなかった。仕事を失って以来、その晴れ晴れしさがつらくて避けていた。
昨日、ジョセフに連れられて、久しぶりにこの建物の中に入って、別の惑星にいるように感じた。マンハッタンにいるのはずっと同じなのに、摩天楼にはずっと足を踏み入れていなかった。アパートと、職場と、地下鉄と、スーパーマーケットと、いつもの場所を往復するだけの生活に慣れてしまっていた。
《Star's Diner》や《Cherry & Cherry》の仲間たち、常連たち、オーナー、キャシー、そして……。いなくなってしまった人の面影がよぎる。美穂の世界は、とても小さい所で完結していた。《Cherry & Cherry》から歩いて30分もかからない所にあるこの建物はその世界の外にあった。そして、もう二度と関わることのない、関係のない場所になっていた。
昨夜のジョセフの言葉が甦る。
「……そうやってこの街の底辺をさ迷いながらも、少しずつ自分の居心地のいい場所を見つけられたからね。もっとそういう場所を増やしたくて、前だけを見て、上だけを向いて、無我夢中で頑張ってきた。気がついたら、ニューヨークに好きな場所がたくさんできていたんだ」
美穂の好きな場所は減っていくばかりだ。上を見て、上を目指して頑張ったこともない。ジョセフも、ポールも、人生を大きく変えるために、必死で頑張っていた。ジョセフは戦火を逃れてこの国に逃げてきたと言っていた。地獄から歯を食いしばって這い上がってきたのだろう。穏やかで冷静な言動の底に、壮絶な時間の積み重ねがあるのだ。
美穂は、そんな苦労はしたことがない。地元でも知られていない何でもない学校を卒業し、なんとなくアメリカに憧れて留学し、そこそこ頑張って得た銀行の事務職で天下を取ったようなつもりになり、失業や失恋したぐらいで世界に否定されたと嘆いていた。《Star's Diner》や《Cherry & Cherry》、それにキャシーと暮らすアパートメントは居心地が悪いわけではないけれど、ずっとここにいるべき場所、もしくはどこにも行きたくない大切な場所とは思っていない。むしろ、いつまでも甘えて迷惑をかけているのではないかと時々不安になる。不安定。それが今の自分に一番ぴったりくる言葉なのかもしれない。
だからこそ、大きいものは何もつかめないのだろう。この街の中に好きでたまらない場所が増えていかない。居場所がいつまでも見つからない。
昨夜ジョセフは、食事をしながらたくさんの興味深い話をしてくれた。世界を見つめている視点が違う。視野が広い。時間が経つのを忘れた。風が冷たかったエンパイア・ステート・ビルディングの展望台では、上着を脱いで美穂に掛けてくれた。彼女の日常にはほど遠い夢のような時間だった。職場の客と店員という立場を超えて、もっと親しくなれたらいいと思った。友人などという大それた立場ではなくて、尊敬する人として時々話すことができたら世界が違って見えるだろうと思ったのだ。だが、その想いは、彼がこの街で成功した有名人だとわかった途端にしぼんでしまった。
ショッピングモールの入口では、音楽が流れていた。あ、またセリーヌ・ディオンだ……。『All By Myself』か。マイクに振られてしばらくは、この曲を耳にすると泣いていたっけ。「もう一人ではいたくない」と。
All by myself
Don't wanna be
All by myself
Anymore
今の美穂は、この曲を聴いて泣きたくなることはない。特別な誰かにめぐりあいたいとも思っていない。もうめぐりあって、それで手を離してしまったのか、それともそれすらも幻想だったのか、わからなくなっている。
わからない。一人ではいたくないのかな。それとも、このまま、波風が立たないでいられる一人の方がいいのかな。わからないのは、それだけじゃない。ただ生きていくだけの人生って問題があるのかな。成功を、上を目指せない私は、この国、この街には向かないのかな。
とぼとぼと歩いていると、携帯電話が鳴った。誰だっけ、このナンバー。受けた途端、わかった。
「いま、どこにいるんだ?」
ハキハキとした声は、昨日と同じ。ジョセフ・クロンカイトは少し怒っているようだった。
「あ、その……」
「もしかしてと思って、守衛に電話してみたら、帰ったと言われたんだが。電話番号がわからなくなった?」
「え、いいえ、その……」
面倒になったので自分で払って終わりにしようと思ったとは、言えない。そういう解決策は、この国では全く理解してもらえないことだけはよくわかっていた。ましてや、こういう理路整然としたタイプに言えば、確実に厄介な会話が後に続く。これはアメリカで美穂が覚えた有用な知識の一つだった。
「どこにいる?」
もう一度訊かれて、美穂は、ようやく自分が立っている位置を口にした。「そこを動かないように」と釘を刺された。人びとが忙しく行き交う明るいエントランスに美穂は立ち尽くした。
世界は、ままならない。一人でいたくないと思うと一人にされるし、迷惑がかからないようにしようと思うと連絡をしなかったと怒られる。わかるのは一つだ。美穂は世界を動かしていない。世界が彼女を動かしているのだ。
エスカレーターからジョセフが降りてくるのが見えた。周りの女性たちが彼に氣づいてチラチラと見ながらお互いに囁いているのがわかった。隙のない品のいいグレーのスーツ、セルリアンブルーと紺の中間のようなシルクのネクタイ、きつちりと撫で付けられた金髪。時に冷徹に見える縁なしの眼鏡。言われてみれば、有名人と言われても納得するオーラを漂わせている。そんな近付き難い人だが、昨夜見せてくれたような細やかな優しさもある。
「待たせたね。早めのランチをする時間はあるか」
美穂は大きく頭を横に振った。もうじき11時になる。
「できるだけ早く店に戻らないと。ランチタイムはとても忙しいんです。今、キャシー一人ですし」
「そうか。じゃあ、夕方に改めてお礼をさせてもらおう」
「そんな。いいです。昨夜も十分過ぎるほどでしたし、お忙しいのはわかっていますから……」
ジョセフは有無を言わさぬ口調で美穂の固辞をさえぎった。
「そうはいかない。君に訊きたい日本語の単語もあるしね。キャシーは君たちは五時で上がりだと言っていたな。五時十五分に迎えにいくのでいいかな」
何かがおかしい。美穂は思った。たかだかこれっぽっちの集金のことで、大袈裟だ。でも、抵抗しても無駄みたい。そういえば昨日、知り合いに日本人の女の子がいるって言っていたわよね。その女の子と恋愛でもしていて、相談したいことでもあるのかしら。
雲の上の人と二度も食事に行けるのが、その女性のおかげなら感謝しなくちゃね。美穂はほんの少しだけ浮き浮きした足取りで、キャシーの待つ《Cherry & Cherry》へと戻っていった。桜の花びらの舞うそよ風に、マンハッタンの季節も動いていくようだった。
(初出:2015年2月 書き下ろし)
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【小説】楔
「scriviamo! 2015」の第十一弾です。ポール・ブリッツさんは、「マンハッタンの日本人」を更に進めた作品を書いてくださいました。ありがとうございます。
ポール・ブリッツさんの書いてくださった『働く男』
ポール・ブリッツさんの関連する小説:
『歩く男』
『食べる男』
『夢を買う男』
『待つ男』
ポール・ブリッツさんはどちらかというとフェードアウトをご希望かと思いきや、とんでもなく。予想外にこじれています。「マンハッタンの日本人」シリーズ(笑)
はまりつつある泥沼をご存知ない方のために軽く説明しますと、ニューヨークの大衆食堂で働くウルトラ地味なヒロイン谷口美穂は、どういうわけか元上司で今はサンフランシスコに行ってしまったポールと、客で有名ジャーナリストであるジョセフの二人に想いを寄せられる異例の事態になっています。ポールと美穂は相思相愛だったのですが、どちらもダメになったと思い込んでいて、連絡も途絶えています。そこに表れたジョセフからのアタックなのか違うのかよくわからないアプローチに、美穂は戸惑っているのが前回までのストーリーでした。
ポール・ブリッツさんの作品でのポールは、こちらが手の出しようもないみごとなグルグルっぷり、「これをどうしろというのよ」と悩んだ結果、私なりのウルトラCで無理に事態を動かすことにしました。ただし、ポール・ブリッツさんへの返掌編ではありますが、両方に公平にチャンスを与えることにしました。
事態打開のために、TOM-Fさんのご協力をいただきました。大切なキャラ二人を快く貸してくださったことに心から御礼申し上げます。
この後のことを、宣言させていただきます。より女心をぐらりとさせるアタックをして、私と読者の方々に「こっちだ!」と納得させた方に美穂をあげます。「女心と秋の空」っていうぐらいですから、結末はどうとでもなります。って、二人共から見事にフラれる「やっぱりね」の結末もありますけれど。
なお、この泥沼に、更に殴り込み参戦なさりたい方は、どうぞお氣兼ねなく。はい、私、やけっぱちになっております。
【参考】
読まなくても話は通じるはずですが、まとめ読み出来るようにしてあります。
「マンハッタンの日本人」あらすじと登場人物
「マンハッタンの日本人」シリーズ
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
「マンハッタンの日本人」シリーズ 11
楔
——Special thanks to Paul Blitz-san
不思議な時代だ。ただの日本人が、ジュネーヴからの電話をニューヨークで受けている。美穂は、ぼんやりと考えた。
「美穂さん、聴こえています?」
ハキハキとした明るい声。春日綾乃はいつでもポジティヴなエネルギーに溢れている。昨年《Star’s Diner》で知り合ったジャーナリストの卵が、ジョセフ・クロンカイトの教え子だったと知った時にはとても驚いた。しかも、彼女は今ジュネーヴでジョセフの依頼で事件を追っているらしい。そんな大変な時に、しかも国際電話で、大衆食堂のウェイトレスの近況などを知らなくてもいいのではないかと思うが、それを言ったら綾乃は一笑に付した。
「大丈夫です。これIP電話ですから、国内通話と変わらないんですよ。それに、先生と美穂さんのこと、あたしには大事なんですから」
美穂は返答に詰まる。
「お似合いだと思うんだけれどな。先生、変なところが抜けているから、美穂さんみたいに落ち着いてしっかりした人、ぴったりですよ」
「綾乃ちゃん。それは、クロンカイトさんに失礼だわ。あの方にとって私はどうでもいい人間の一人に決まっているでしょう」
「美穂さんったら。どうでもいい人をそんなに熱心に誘う人がいると思います? 先生がどんなに忙しいか知っているでしょう?」
綾乃のいう事はもっともだと認めざるを得なかった。ジョセフ・クロンカイトとは、すでに七、八回食事を一緒にしている。最初の二回は「お礼」だったが、次からは特に理由はなかった。週に一度か、十日に一度くらいの頻度で連絡が来る。「今日は予定があるか」だったり、「明日は時間があるか」だったりする。美穂に先約があった試しは一度もない。たぶん365日いつでもヒマだ。
一緒に食事をしていると、いつも数回は「緊急の電話」が入る。
「わかった。明日の朝までに目を通しておくから、自宅にFaxを送ってくれ」
「今夜アヤノから連絡があるまで待ってくれ。わかっている、二時までにはメールする」
「明日は三時までは予定がいっぱいで無理だ。三時半にCNNの会議室に来れるか」
そんな短いやり取りをしてから、携帯電話を内ポケットに入れ、無礼を詫びる。でも、美穂はそれほど忙しいのに自分と食事をする時間を割いてもらっていることを申し訳なく思う。
「でも、美穂さんは、先生と逢う事自体は嫌じゃないんでしょう?」
綾乃が訊き、美穂は即答した。
「もちろんよ。クロンカイトさんとお話ししていると、いつも時間を忘れるの。世界ってこんなにエキサイティングに動いているんだなって、改めて思ったわ。毎回、新しいことを教えていただくし」
「美穂さん……。クロンカイトさんって、まだそんな距離感なんですか? ジョセフって呼んであげてくださいよ」
「そんなの無理だわ。全然そんな立場じゃないもの。それにいつもご馳走になってばかりで、本当は私も払いたいんだけれど、じゃあ払ってくれと言われても払えないようなお店ばかりなのよね……。心苦しくて」
綾乃がため息をついた。
「もう、先生ったら……。とにかく、あたしは断然応援していますから。美穂さん、先生は変なところ奥手なんだから、そんな他人行儀にしないであげてくださいよ」
「でも……」
美穂は口ごもった。綾乃のいう通り、ジョセフ・クロンカイトは酔狂で自分に連絡をしてきているわけではないだろう。彼は食事をして一緒に話をするだけで、それ以上のことを特に求めてくるわけではなかった。だからこそ、美穂もまた誘いを断らなかった。美穂はジョセフに対してのはっきりとした恋心を持っていない。だが、それは一目惚れのような燃え上がる恋情はないというだけで、彼に対しての興味がないということではない。むしろ逢う度に、こんなに興味深くて素敵な人はいないという想いが強くなる。全く釣り合わないと思うし、これからも釣り合うような女性にはなれないと思いつつも、いつかはそのことに悩むことになるのだろうかとも思っている。
でも、純粋にこの状況に身を任せられない理由はわかっている。もう終わったことだと言い聞かせても、まだ心に打ち込まれた大きな楔を取り除けていないからだ。鞄の中には、まだポールから貰ったメールのプリントアウトが四つ折りになったまま入っている。開ける必要もない。暗記してしまっているから。連絡のないことが答え。何度自分に言い聞かせたことだろう。泣くことはなくなった。痛みは確実に薄れている。でもなくなっていないのだ。
ジョセフから愛を告白されたなら、美穂はその事を言わなくてはならないと思っていた。そのことで、彼との時間を失うのは残念でならない。もう二度とジョセフのような人と知り合うチャンスはないだろう。それどころか、誰かに興味を持ってもらえることもないかもしれない。終わってしまったことのために、他の大切なものも失ってしまうのだろうか。この楔を取り除けたら、問題は一つ減るんだろうか。
「美穂さん?」
黙ってしまった美穂が、まだ受話器の向こうにいるのか、綾乃は不安になったらしい。美穂ははっとして、会話に戻ってきた。
「ねえ、綾乃ちゃん。話題が突然変わって申し訳ないんだけれど、教えて。一般人が、去年サンフランシスコで開店したレストランのリストって、入手できると思う?」
「え? 本当に唐突ですね。サンフランシスコ市内だけですか? そうですね。市役所にはリストが公開されているでしょうね。今、ここからだとちょっとわからないですけれど、急ぐなら先生に訊いてみましょうか?」
「いいえ、それはいいわ。時間はたっぷりあるから自分でやってみる。ありがとう」
向こうで綾乃が首を傾げているのが目に浮かぶ。礼を言って電話を切った後、美穂はぼんやりと電話を見つめていた。このままじゃいけない。綾乃の電話は、天からのメッセージのようだと思った。クロンカイトさんに対しても失礼だし、自分のためにも。
翌朝、ジョセフから連絡があった。例によって何の予定もない美穂は、その夜に彼と待ち合わせた。いつものようにマンハッタンにある夜景の見える店ではなく、ブルックリンの西部にあるダンボ地区に連れて行かれた。コンクリートの打ちっぱなしの床や壁に、暖かめの間接照明を多用して、ギャラリーのようなたくさんのアートがかかった店には、ネクタイをしている客はほとんどいなかった。
「ハイ、ジョセフ。久しぶりだね」
スタッフや、常連とおぼしき客たちと親しげに挨拶を交わしているので、よく知っている店なのだろうと思った。テーブルマナーなど、だれも氣にしないような雰囲氣で、美穂は少しホッとしていた。
小さな丸テーブルに案内されて、珍しそうに店を見回す美穂に彼は訊いた。
「この店が氣にいった?」
「ええ。落ち着く店ですね」
「アヤノに怒られたよ」
「え?」
「申し訳なく思うような高い店にばかり連れて行ってどうする氣だって。女の子の扱いが下手すぎると口癖のように言われているんだ。すまなかった。居心地の悪い時には、はっきり言ってほしい」
「そんな……。私こそ、すみません」
美穂が続けようとするのを遮って、彼は続けた。
「それに、サンフランシスコ市役所に調べものに行く必要はない」
彼女が、言葉を見つけられずにいると、ジョセフは内ポケットから愛用の革手帳を取り出すと、中から一枚のメモを抜いてテーブルに置いた。
「アヤノは、ジャーナリストとしてあらゆる素質を持っているんだが、一つだけ不得意なことがあってね」
「それは?」
「ポーカーフェイス。君とは全く関係ないことを装って、昨年のサンフランシスコの登記簿について聞き出そうとしたんだが、残念ながら私にはすぐに君からの依頼だとわかってしまった。これをもう持っていたからね」
『ピンタおばさんの店』。店の所在地、ポールの氏名、現住所、携帯電話番号が並んでいた。美穂は、じっとその紙を見つめていた。
「どうやって……」
「アヤノには言っておいた。誰かが情報を求めている時は、言われたままに探すのではなく、なぜその情報が必要なのかを確認することが一番大切だ。それによってメソッドが変わってくるからね。このケースでは、昨年開店した何千もの店から探すのは徒労だ。この青年を捜す方がずっと早い。例の反戦詩の版権のことで行方をくらました青年だと聞いてからは簡単だった。彼を追い回していたジャーナリストの中で貸しのあるヤツらに数本電話をかけるだけで十分だった」
「でも、どうして……」
「春の終わりにキャシーに頼まれた」
「キャシーが?」
「正確に言うと、私が必要とした情報に対して彼女が求めた対価もある情報だった。それを知るために、この青年の所在が必要になった」
美穂は、手を伸ばしてメモを手にとった。
「キャシー……。どうして……」
「なぜ、君に何も言わなかったのか。私の伝えた客観的事実を、報せたくなかったからだろう。この連絡先を、彼女に渡そうとしたら、それはいらないと言った。そして、もし君がそれを必要とした時には、渡してやってほしいとも言っていた」
「彼女が知りたかったのは?」
「その青年の現在の家族構成と、その店の経営状況。もし君が聞きたいならば、今ここで正確にいう事ができるが」
美穂は、何も言わずにその連絡先を見つめていた。ウェイターが二人の前にワインを置いている間も身動きもせずに、文字を見ていた。それから、しばらくしてから頭を振った。
「キャシーが、私に報せたくないと思った内容なら、おっしゃってくださらなくて結構です」
そう言うと、鞄から四つ折りになったプリントアウトを取り出した。連絡先とそのプリントアウトを重ねると、二つに切り裂いた。
ジョセフは、その間、何も言わなかった。美穂は、下を向いた。涙を見せたりしてはいけない。そんな失礼なことをしてはいけない。楔を取り除きたいと望んだのは自分だ。破いた未練をゴミ箱に捨てようかと思ったが、個人情報だと思い直し、そのままバッグに入れてジッパーを締めた。
「ありがとうございました。お手数をおかけしました。調べていただいたお礼は、どうしたらいいんでしょうか」
ジョセフはワインを飲んで、それから首を振った。
「君に依頼されて調べたものではない」
「でも……」
「どうしても氣が済まないと言うならば、来週末、我が家で親しい人たちを招いてホームパーティをすることになっているんだ。手伝ってくれればありがたい」
美穂は、彼のあまり変わらない表情をしばらく見つめていたが、やがて「はい」と言って頭を下げた。
それから、二時間ほど、いつものようにいろいろなことを話しながら、アラカルトを食べ、ワインを飲んだ。美穂は、頷いたり質問したりしながら、今週世界で起こったことに耳を傾けていた。だがそれと同時に、体の中を冷たい風が吹き抜けていくように感じていた。
楔が抜けるということは、それで塞がっていた傷が開くということだった。彼女の心から哀しみという名の血が溢れ出していた。いつものように笑えなくなっていることを感じた。
店を出て、アパートメントまで送ってくれるジョセフと歩いている時も、いつもの石畳が別の世界のように冷たく感じられた。言葉少なく考え込んでいる美穂に、彼は言った。
「ミホ。忠告をしておく。情報というものは、人の手を通った回数が多ければ多いほど、フィルターがかかるものだ。君がキャシーを信じるのは悪いことではない。キャシーが君のことを大切に想って行動したのは間違いない。だが情報は、私の知人、私、そして、キャシーの三人のフィルターを通してもたらされている。ジャーナリストである私は、アヤノにいつもこう教えている。できるだけソースに近づき裏を取るようにと。君はジャーナリストではないが、悔いを残さないために、苦しくとも真実に近づくことを怖れない勇氣を持った方がいい」
「ミスター・クロンカイト……」
ジョセフは、ため息をついた。
「頼むから、次回はファーストネームで呼んでくれないか」
アパートメントの前についていた。美穂は頷いた。ジョゼフは、優しく美穂にハグをすると、「おやすみ」と言って、もと来た道を戻っていった。
キャシーは、まだ戻っていなかった。美穂は、部屋の灯をつけて、靴を脱ぎ、上着をハンガーにかけると、鞄を開けた。引き裂かれたメモとメールのプリントアウトが見えた。机に並べた。悔いを残さないためにか……。
美穂は、携帯電話を取り出して、ゆっくりと一つずつ番号を打ち込んだ。メールの内容が頭に浮かんだ。「サンフランシスコで店を……きみも来ないか」ジョセフの言葉も浮かんだ。「家族構成と……」
ポールのメールには、美穂を愛しているとはひと言も書いていなかった。好きだったから希望的観測で求愛と読みとってしまったけれど、あれは従業員として店で働いてくれないかという意味だったのかもしれない。呼び出し音が一回聴こえた。連絡のないことが答え。冬の間、つぶやいた言葉。今さら私からかかってきても、ポールは困るだけだろう。美穂は、電話を切って電源を落とした。それから、破れた紙を粉々にして、ゴミ箱に捨てた。
(初出:2015年2月 書き下ろし)
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【小説】Stand By Me
「scriviamo! 2015」の第十六弾です。ポール・ブリッツさんは、「マンハッタンの日本人」を更に進めた作品を書いてくださいました。ありがとうございます。
ポール・ブリッツさんの書いてくださった『作る男』
ポール・ブリッツさんの関連する小説:
『歩く男』
『食べる男』
『夢を買う男』
『待つ男』
『働く男』
「マンハッタンの日本人」シリーズ、こじれまくっていますが、そろそろ終息に向かっています。前回の「楔」の前書きで「より女心をぐらりとさせるアタックをして、私と読者の方々に『こっちだ!』と納得させた方に美穂をあげます」と宣言してしまいましたところ、ポール・ブリッツさん、TOM-Fさんお二人とも果敢に挑戦してくださることになりました。今回ポール・ブリッツさんが書いてくださったのが、ポールの求愛作戦。ついにポールが本氣をだして動いてくださいました。
今回書いたこの掌編は、ポールのアタックに対するアンサーではありません。単なるインターバルです。アンサーは、TOM-Fさんの掌編が発表されたあとに一つの短編の形をとらせていただきたいと思います。それまで少々お待ちください。なお、今回のストーリーは、キャシーの話です。この作品は、書いてくださった方のそれぞれの小説に合わせる形をとって書く特殊な執筆形態をとっていますが、そうであってもカテゴリーを通読して一つの作品となるようにしています。アンサーとしてではなく、私の小説としての「いいたいこと」を組み込むために、このパートが必要だと判断して書きました。今回に限って、R18スレスレ(っていうか、そのもの?)の記述があります。苦手な方はお氣をつけ下さい。
なお、この後は、TOM-Fさんの書かれるジョセフのアタックが発表される予定です。その後に、私が最終回を書いて、「マンハッタンの日本人」を完全に終わらせる予定です。というわけで、これ以後に、TOM-Fさん以外の方がこのストーリーに関して書かれるものは完全スルーさせていただきますので、ご理解のほどよろしくお願いいたします。
【参考】
読まなくても話は通じるはずですが、まとめ読み出来るようにしてあります。
「マンハッタンの日本人」あらすじと登場人物
「マンハッタンの日本人」シリーズ
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
「マンハッタンの日本人」シリーズ 12
Stand By Me
帰ったら、美穂の様子がおかしかった。狭いキッチンのテーブルの前に座って、電源の入っていない携帯電話を見ながらじっと考え込んでいた。キャシーは、「早かったのね」と言いながら上着をハンガーに投げかけた。その時にくずかごの中に粉々になった紙を見つけた。何があったか予想はついたが、何も言わなかった。
ジョセフ・クロンカイトのくそったれ。
キャシーは、心の中で悪態をつくと、シャワーを浴びにいった。それから、ふたたびキッチンに顔を出すと「今夜は戻らないから」と声を掛けた。美穂がはっとして、彼女の方を見た。キャシーは、その視線を避けるように玄関を出た。
美穂は、こんな時間に一人でアパートメントの外に出ることはない。それは、彼女には危険すぎる冒険だ。街角の至る所に、目つきが悪く、違法なものを売買している有色人種がたむろしている。古いレンガには、スプレーで落書きがされ、小便臭く、ゴミ箱の間をドブネズミが走るような地区だ。
ジョセフ・クロンカイトが、紳士らしく彼女をこのアパートメントに送る度に、この世界に属する自分や、ここに甘んじなくてはならない美穂が、彼のクラスとは違うと認識するだろうと感じた。それでも、あの子がここから出て行けることを願っていた。
さほど遠くない、似たようなレンガの建物に入っていく。薄い木の扉を激しくノックすると。「誰だ」という野太い声がした。
「あたしよ」
キャシーがいうと、すぐに扉が開けられた。中は煙草の煙で真っ白だった。キャシーよりもはるかに黒い肌をした、タンクトップを着た男が、にやりと笑っている。
「あたしよ、ボブ」
「わかっているよ、キャシー」
ボブは、キャシーを引き寄せると、タバコ臭い口を押し付けてきた。
「同居人と、なんかあったのか」
「ないわよ。全然ないわ。あの子は何も言わない。誰も責めない。一人で全部抱え込んでいるのよ。バカみたいに」
男は、「シャワーを浴びて来たんだな」というと、有無をいわせずキャシーの服を脱がせて、押し倒した。
彼女は、わずかな嫌悪感を押し殺して、体が熱くなるのを待った。これほど苛つく理由はわかっている。望んだことがうまく運ばないからだ。
春の終わりに、ジョセフが美穂に関して質問してきた時に、キャシーは交換条件として、ポールのことを調べさせた。ポールが美穂のことを忘れて、新しい環境に馴染み、前向きに生きている証拠がほしかった。そうすればキャシーは美穂にはっきりという事ができた。「ほら、あんな男のことはすっぱり忘れて、前を向かなきゃ」と。
ジョセフの持ってきた情報は、全く都合の悪いものだった。勝手にカリフォルニアなんか行っておきながら、しかも、あれから何ヶ月も連絡一つよこさないでおきながら、ポールには、妻どころか恋人の影すらなかった。しかも、狂ったように仕事をしているらしいが、一向に成果も出ていなかった。美穂がこれを知ったら、すぐにでもサンフランシスコに行くと言い出しかねない。そして、またしても、地を這う生活の続きだ。ニューヨークがサンフランシスコに変わるだけ。
ジョセフ・クロンカイトが連れて行く摩天楼の高級レストランや、洗練されたマナーの人びとの間で、美穂が本当に心地よいかどうかはわからない。だが、美穂は少なくとも自分とは違うクラスにいるとキャシーは感じていた。一緒に住み、共に働き、過ごす時間が長ければ長いほど、その違いを感じる。こんな所にいるべき人間ではないのだ。
彼女と働いていて、はじめて仕事が好きだと思えた。「いつか一緒に店を持とうね」そんな話もしたけれど、それが現実になるなんて思っていない。そんな風に、彼女を縛ることなんかできないと思っている。もうこの歳で、怪我もしたし、プロのスケート選手になれることもないだろう。あたしの人生には、どんでん返しがあるはずもない。だからこそ、美穂だけでも、こんな地の底から抜け出してほしいと願ったのだ。
「お前は、おかしな女だな。そんなにその同居人が好きなら、なぜ他の男とくっつけようとしたりするんだ」
ボブは笑いながら、キャシーの体を弄ぶ。彼女は、「くだらないことを言わないで」と、男の体に抱きついた。
「なぜ認めない? バイセクシュアルの女が嫌いだとは言っていないぜ」
「そういうんじゃないのよ。それだけだわ」
こんな粗野な男には、わかりっこない。それに、あんたにも、ジョセフ・クロンカイト。女に必要なのは、公正なる真実なんかじゃない。そんなものは、あんたのジャーナリズム・スクールの教則本の中にでも大事にしまっておくべきだったのよ。
あたしは夢が見たい。終わることのない夢。そして、腕が欲しい。強い腕。決して出て行くことのできない、下町の薄汚れた区画。どうやっても這い上がることのできない、食べていくのがやっとの貧しさ。このやりきれなさから、救い上げてくれるか、そうでなければ、願いを忘れさせてくれる強い腕が欲しい。
生まれた時から、羽布団の中でぬくぬくと育ったやつらにはわからなくても、あたしたちと同じ最下層から這い上がったあんたにはわかると思っていた、ミスター・クロンカイト。美穂を救い出してという、あたしのメッセージが。
ボブが、あたしを愛しているなんてお伽噺は信じていない。でも、この男は、少なくとも忘れさせる術を知っている。あたしがそれを必要とする時に、くだらない駆け引きもしない。首尾一貫して、同じ強さであたしをねじ伏せる。手に入らないものから、あたしの心を引き剥がす強い腕を持っている。だから、あたしは、いつもここに駆け込むのだ。
キャシーは、ボブが本能に支配された動物に変わっていくのを感じながら、自分も全ての思考を追い出して動物に変わってしまおうとした。
ことが終わった後も、抱きついたまま離れようとしないキャシーの頭を撫でながら、ボブは傍らの煙草の箱に手を伸ばし、一本咥えて火をつけ煙を吹き出した。狭くて暗い部屋に、通りの向こうのけばけばしいネオンの光が入ってくる。うっとうしい、湿った夜だ。
キャシーは、項垂れていた美穂の横顔の夢を見た。
朝早く、再びシャワーを浴びるために、アパートメントに戻った。美穂は、キャシーが戻ってくると、ほっとした顔をした。用意された朝食を食べてから、二人で《Cherry & Cherry》へと向かった。
美穂が、いつものようにもブラウン・ポテトを調理する間、キャシーは店内を掃除して、開店準備をした。郵便受けを覗くと、少し大きい封筒が入っていた。《Star's Diner》から転送されてきたらしい。美穂宛だ。
あたしたちのアパートメントの住所を知らない人って誰だろう。キャシーは、封筒を裏返して差出人を見た。
ポール……。
しばらくその封筒を見つめていたが、美穂には見せずに自分のバッグに入れた。
美穂が、「Stand By Me」を小さな声で歌っているのが聞こえた。
(初出:2015年3月 書き下ろし)
【小説】さようならのかわりに
「scriviamo! 2015」の第十七弾です。TOM-Fさんは、もう一度「マンハッタンの日本人」のための作品を書いてくださいました。ありがとうございます。
TOM-Fさんの書いてくださった『マイ・ディアレスト - サザンクロス・ジュエルボックス アフターストーリー』
TOM-Fさんの関連する小説:
「天文部」シリーズ
『この星空の向こうに』-Featuring『マンハッタンの日本人』
『この星空の向こうに』第2話サザンクロス・ジュエルボックス -Featuring『マンハッタンの日本人』
今年の「scriviamo!」は、全く今までと違った盛り上がり方をしました。なぜモテるのかよくわからないヒロインの取り合いという、書いている本人が首を傾げる状況でした。TOM-Fさんも、たぶん「乗りかかった舟」というのか、半ば私に脅される形で、アタックするジョセフを書いてくださいました。
自分で「ぐらっときたほうに美穂をあげます」と、書いてしまい、死ぬほど後悔しました。実生活だって、こんなに悩んだことないのに、なぜ小説でこんなに悩むことに……。ええ、三角関係を煽るような真似は、もうしません。海より深く反省しました。
今回書いたこの作品が、私の書く「マンハッタンの日本人」シリーズの最終回です。皆さんご注目の「どっちを選んだか」には異論があることも承知です。みなさんの予想とどう違ったかにも興味があります。
それはともかく、この作品を、ここまで盛り上げてくださった、ポール・ブリッツさんとTOM-Fさんのお二人、そして《Cherry & Cherry》とキャシー誕生のきっかけをくださったウゾさん、それから一緒になって騒いでくださった読者のみなさまに心から御礼申し上げます。
【参考】
読まなくても話は通じるはずですが、まとめ読み出来るようにしてあります。
「マンハッタンの日本人」あらすじと登場人物
「マンハッタンの日本人」シリーズ
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
「マンハッタンの日本人」シリーズ 13
さようならのかわりに
——Special thanks to Paul Blitz-san & TOM-F-san
なんて明るいのだろう。美穂はワーナーセンターの入口で、ネオンの灯でまるで昼のように明るいマンハッタンを見回した。何年この街にいたんだろう。これが見納めなのかと思うと、不思議な心持ちがした。もう全部終わったんだよね。船便で送り出した荷物は、あっけないほど少なかった。あとは小さなスーツケースが一つだけ。アパートメントの解約は、キャシーがやってくれることになっている。
《Cherry & Cherry》をオーナーは売ることにした。夜番のジェフとロイが引き抜かれて辞め、キャシーも妊娠して、ロングビーチのボブの両親の家の近くに引越すことになったのだ。以前から《Cherry & Cherry》を売るチャンスを待っていたオーナーは今だと判断したらしい。美穂には、《Star’s Diner》に戻るように言ったが、美穂は首を振った。
ちょうど今そうなったのが、天の采配のように感じた。
一週間前の夜、キャシーは浮かれて帰ってきた。ボブが子供ができたことを喜ぶなんて、夢にも思っていなかった。結婚することになったのも、それ以上の驚きだった。
その日の午後、取材旅行に向かう前のジョセフ・クロンカイトが美穂にと言伝た薔薇の花束と手紙は、産婦人科に行く直前にアパートメントの机の上に置いて来た。美穂には「早くアパートメントに戻ってきなさいよ。驚くものが置いてあるわよ」とメールを打って。
だから、二人でお互いの幸福を祝うつもりで、笑ってドアを開けたのだ。するとキッチンで美穂が泣いていた。そんなことは、夢にも考えていなかった。美穂の手元には、手紙があった。
「なんで泣いているの?」
キャシーは、ジョセフがプロポーズするのだと思っていた。紅い薔薇の花束の意味だって、それ以外にあるんだろうか。
美穂は、ジョセフがプロポーズしたことを認めた。手紙には、取材旅行から戻ったら一緒に二人の故郷を訪ねる旅をしようと書いてあった。水曜日に用意をして待っていてほしいと。すぐに旅立てるように。それは、ポールがサンフランシスコに行くときに美穂に送ったメールの内容を彷彿とさせた。美穂が、愛の告白だと信じた旅立ちへの誘い。
「だったら、なぜ泣いているの?」
「あの時は、書いてなかった、あの時に言ってほしかった言葉が書いてあるんだもの」
――君を愛している。……これからの人生を、私とともに送ってほしい。
「よかったじゃない」
キャシーが言うと、美穂は、もっと激しく泣き出した。
「……わかってしまったんだもの。私は、ポールにそう言ってもらいたかったんだって」
キャシーは、青ざめて立ちすくんだ。
「でも、ポールは言ってくれなかった。これからも言ってくれない。たぶん最初から、一度だって好きになってくれなかったんだよね。私は、ただの同僚でしかなかった。でも、だからといって、忘れられるわけじゃない。ジョセフは、こんなにいい人なのに、どうして私は……」
「ミスター・クロンカイトとは、結婚できないの?」
美穂は首を振った。
「できない。少なくとも、今はできない。だって、応えられないもの。あの人の優しさや、愛情に。ポールのことを考えながら、どうやっていい奥さんになれるの? そんなの不可能でしょう?」
キャシーは、両掌を組んで、二つの親指を神経質に回していたが、やがて決心したように食器棚の小さな引き出しから封筒を取り出してきた。両手で顔を覆って泣いていた美穂は、机の上、自分の前に置かれた封筒に氣づき、不安げにキャシーを見上げた。
「すごく後悔した。隠したりすべきじゃなかったって。でも、もうやってしまって、これを知られたらミホは私を二度と信用してくれないと思ったから、渡せなかった。ごめんね、ミホ……」
美穂は、裏返して、ポールの名前を見つけ、信じられないようにその封筒を見つめていた。それから、丁寧に封を切って中の航空券と手紙を取り出した。
美穂は黙ってその手紙を読んでいたが、小さくため息をついて再び顔を手で覆った。
「遅すぎた?」
キャシーが訊くと、美穂は頷いた。キャシーは下唇を噛んで、椅子に座り込んだ。
「怒ってよ。殴ってもいいよ、ミホ……」
美穂は、首を振った。それから、そっとポールの手紙をキャシーに見せた。
「同じだもの……。また、書いていないもの……」
ポールの手紙には、二号店のオープンに招待したいということが書いてあった。ジョセフの手紙と違って、それはプロポーズではなくて招待状に過ぎなかった。航空券の日付は、この前の土曜日だった。美穂がジョセフのホームパーティを手伝った日だ。
「私が手紙を隠していたって、連絡してみたら?」
そう言うキャシーに美穂は首を振った。
「それが何になるの? もういいの。そろそろ前を向かなくちゃ」
《Cherry & Cherry》の売却のことを知った美穂は、潮時だと思った。オーナーに「日本に帰ります」と決心を伝えた。それからの一週間で、全てが終わってしまった。ジョセフに断りの連絡をし、航空券を手配し、荷造りをした。そして、今夜がマンハッタンの夜景を見る最後の夜になってしまった。
ゆっくりと五番街をめぐり、それからワーナーセンターの前に来た。足がいつかジョセフと待ち合わせをしたエスカレータの近くへと向かっていた。
ジョセフには、逢って断りをいれることができなかった。彼はマンハッタンにいなかったし、旅行をキャンセルしてもらうためには、どれほど失礼だとわかっていても、電話をするしかなかった。そして、それっきりになってしまっていた。
さようならを言うために時間をとってもらうことなんてできない。そうでなくても、忙しい人なのだ。ましてや、私は彼を傷つけてしまったのだから。でも……。
人波を遮るように立っていたが、やがてため息をついて端の方にどいた。それから、携帯電話を取り出してメールを打った。
――親愛なるジョセフ。私のためにしてくださった全てのことに対して心から感謝します。どこにいても、あなたの健康とさらなるご活躍を祈っています。ありがとうございました。美穂
メールが送信されてから一分も経たないうちに、電話が鳴った。ジョセフ……。
「今、どこにいる」
同じやり取りをここでしたな、そう美穂は思った。
「マンハッタンです」
「それは、想像していたよ。もう少し狭い範囲で、どこにいる?」
「ワーナーセンターの、あのエスカレータの所です」
素直に美穂は言った。「二分で行く」と言われて電話が切れた。
逢うのは心が乱れると思ったが、きちんと挨拶ができると思うと、ほっとした。あんなにひどいことをしたのに、彼は少しも変わらない。美穂はぼんやりと考えた。
エスカレータを降りてくるのだと思っていたが、彼は全く反対の方向からやってきた。
「危うく建物を出てしまう所だった。今夜は運がよかったんだな」
そう言うと、以前と全く変わらずに微笑んだ。美穂は申し訳なくて頭を下げた。
マンダリン・オリエンタル・ホテルのラウンジから、素晴らしい夜景が見えた。星屑が煌めくように、今夜のマンハッタンは潤んで見えた。何を飲みたいかと訊かれてマンハッタンを注文した。これで最後だからというのもあったが、少し強い酒を飲んで、恥ずかしさを誤摩化してしまいたかったから。
「すみません。お時間をとっていただくことになってしまって」
ジョセフは少しだけ辛そうに眉をしかめた。
「そんな風に、他人行儀にしないでくれないか。それでも、連絡してくれてありがとう」
「どうしてもお礼を言いたかったんです。もう、お逢いすることはできないと思いますし」
「どうして。君は、友人としてすらも私には逢いたくないのか?」
美穂は、首を振った。
「いいえ。でも、日本は遠いですから」
「日本に帰るのか? いつ?」
「明日」
「どうして?」
美穂は、答えるまでに長い時間をかけた。彼の目を見て話すことができなくて、オレンジ色のカクテルを見ていた。
「エンパイアステート・ビルディングに連れていってくださった時に、おっしゃいましたよね。『ニューヨークに好きな場所がたくさんできていた』って。私、長く居れば、そうなれるのかもしれないと思っていたんです。でも、今は、居ればいるほど、苦しくなる思い出ばかりが増えていくんです。どこに行っても、かつては好きだった場所が、楽しかったり幸せだった場所が、心を突き刺す悲しい場所に変わっているんです」
「彼との想い出の場所だから?」
「それもあります。でも、それだけではありません。一生懸命働いた場所も、キャシーと一緒に過ごした場所も、それに、あなたと歩いた場所も、全てです……」
彼は、バーボンを飲む手を止めた。
「今、こうしているここも、辛い場所に加わるのか?」
「わかりません。いずれにしてもこの街には、もう二度と来ないでしょうから……」
ジョセフはしばらく考えていたが、美穂の方を見て続けた。
「結局、彼には連絡しなかったのか?」
「これ以上悲しくなる必要もないと思って。それに、二度の誘いに返事もしなかった私のことを、彼は軽蔑していると思います。そんな女がずっと好きだったと言っても信じてくれないでしょう? もう、いいんです。日本で、全く違う文化と社会の中に埋もれれば、きっと忘れられると思います」
ジョセフは、何も言わずにしばらくグラスを傾けていた。美穂は、無神経なことを言って、ジョセフにも軽蔑されたんだろうなと思い、悲しくなった。こうした話をすることができるのは、この人しか居なかったのだと今さらのように氣がついた。キャシーにも、他の誰にも、それどころか、日本の家族や友人にもいなかった。これからは、世界中に一人も居なくなってしまうのだと思った。自業自得だものね。
その美穂の思考を遮るように、突然彼が言った。
「航空券をここに持っているか?」
「え? はい」
美穂は、どうするつもりなのだろうと思いながら、バウチャーをジョセフに見せた。14時45分発ロサンジェルス経由羽田行ユナイテッド航空のチケットだ。ジョセフは、携帯電話を取り出したが、周りに人がいるのを見て、「失礼」と言ってから、席を外した。彼女は、ため息をつきながら、グラスの中のチェリーをぼんやりと眺めていた。
十分ほどして、「待たせて済まなかった」と言いながらジョセフが戻ってきた。そして、バウチャーの上に、一枚のメモを載せて美穂に返した。
「予約を変更した。出発は午後ではなくて朝8時ちょうど。中継地はサンフランシスコで11時21分到着だ」
「え……」
「サンフランシスコ発羽田行きの出発時刻は19時45分。市内に行く時間はたっぷりとある」
「でも……私は、もう……」
ジョセフは、美穂の言葉を遮った。
「私のために、行ってくれ。君がこんな状態では、私は君を諦めて未来を向くことはできない。わかるかい?」
「……」
「彼に逢いに行って、君の想いを正直に告げるんだ。そして、彼が何と返事をしたか、私に報せてほしい。優しさからの嘘ではなく事実をだよ、わかるね」
美穂は、ジョセフの瞳と、真剣で表情の読みにくい端正な顔を見て黙っていたが、やがて瞳を閉じて深く頷いた。
彼は、最後にアパートメントまで美穂を送ってくれた。
「ありがとうございました。本当に申しわけありません」
「謝らないでくれ。君の幸せを願っている」
「……どうぞお元氣で。さようなら」
「さようならは言わない。約束を忘れないでくれ」
そう言うと、彼は美穂を抱きしめた。これまでのように、優しいものではなく、とてもきつく。彼の顔が美穂の額に強く押し付けられていた。美穂は、彼がどれほど長く、感情を押し殺してきたのかを感じて苦しくなった。彼の背中が、角を曲がって見えなくなると、美穂はまた悲しくなって泣いた。
サンフランシスコは、やはり大都会だった。誰もがTシャツで歩いているわけでなければ、町中がビーチなわけでもなかった。アベニューの名前に聞き覚えがない、バスや地下鉄の車体の色が違う、坂が多く、ほんの少し太陽の光が強く感じられる。
ニューヨークで機体故障による遅延があったため、招待状を頼りに美穂が彼の店を見つけられたのは午後二時を数分過ぎていた。その店は、暖かみのあるフォントで店名の書かれた木の看板を掲げたレストランで、イタリア国旗の三色を使った外壁が目立った。入口は閉じられていた。
「ランチ 11:00 - 14:00 ディナー 18:30 - 22:00」
美穂は、口に出してみた。遅すぎたんだ。ディナーまで待っていたら、搭乗時間に間に合わない。美穂は、泣きたくなった。ここまで来たのに。やっぱり、逢わない方がいいってことなのかな。美穂は、そのまま踵を返しかけたが、ジョセフとの約束を思い出した。ポールの返事を、知らせなくてはいけない。
美穂は、携帯電話を取り出した。いつだったかポールに連絡をしようとして、勇氣がなくて切ってしまった番号が送信記録に残っているはず。彼は、あの時も折り返しかけてはくれなかった。だから美穂は、こんどこそはっきりとした答えだと思ったのだ。あの時に電話をしたから、それでも彼は新しいお店の開店にあわせて招待状をくれたのだろう。それにも行かなかったし、断りの連絡すらしなかった。それ以前に、サンフランシスコに誘ってくれた時にも、バス停にも行かなかった。彼はとても怒っているに違いない。それでも、迷っている時間はなかった。
呼び出し音が鳴った。三回……五回、六回……九回、十回。出るのも嫌なのかな。それとも誰からかわからないから、出ないのかな。諦めた方が……。
「ハロー」
電話の向こうから、抑揚のない声がした。ポールの声だ、何ヶ月ぶりなんだろう。
「誰ですか?」
美穂が戸惑っていると、声は続いた。切られてしまう前に慌てて答えた。
「私、谷口美穂です」
長い沈黙のあと、声のトーンが変わった。恐る恐る、確かめるかのように。
「……ミホ?」
美穂は、急いで続けた。
「お休み時間に邪魔してごめんなさい。あなたと話をしたいからお店にきたんだけれど、夕方まで閉まっているというので……」
「どこに来たって?」
「え。あなたの、お店の前……」
途端に、頭上でガタッという音がした。見上げると、窓の緑色の鎧戸が開けられて、そこからポールが顔を出した。「今、行くから」と言われて、電話が切られた。
ものすごいドタドタとした音がして彼が降りてくるのがわかった。目の前のドアが開けられて、そこにポールがいた。彼は、最後に見た時よりも痩せて、少し歳をとったように見えた。けれど、美穂は、どれほど彼に逢いたかったのか、自分が正しく理解していなかったのだと感じた。この瞬間のためだけでも、ここにきてよかったのだと感じた。
彼は震えていたが、やがて、笑顔を見せてぽつりと言った。
「……ようこそ」
「ご案内申し上げます。スイスインターナショナルエアラインLX 2723 便ジュネーヴ行きは、ただいまよりご搭乗の手続きを開始いたします。ファーストクラスならびにビジネスクラスのお客様はどうぞご搭乗カウンターにお越し下さいませ。繰り返します……」
ゲートの近くに座っていた金髪の男性は、手元の手紙をもう一度眺めた。
親愛なるジョセフ。
あなたが、私のためにしてくださった助言と、ご助力には感謝してもしきれません。私は、あなたに取り返しのつかないほどひどいことをしました。許してほしいと、頼むこともできないほどに。でも、あなたはそれを恨むどころか、私にこれ以上ない最高の贈り物をくださいました。
あなたがわざわざ手配し直してくださった日本行きの航空券を、また無駄にすることになってしまいました。私はこれを、サンフランシスコの小さいイタリア料理店の二階で書いています。
マンハッタンは、私にとってもう悲しくて辛い場所ではなくなりました。懐かしくて逢いたい人に溢れ、優しく幸せな想い出のある大切な街になりました。全てあなたのおかげです。
あなたの人生がこれまで以上に輝かしいものとなることを心からお祈りしています。そして、ご活躍を陰ながら応援させてください。さようならのかわりに、心からの尊敬を込めて 谷口美穂
彼は手紙を丁寧にたたんで封筒に収め、胸ポケットにしまった。それから搭乗券とパスポートを右手に、左手にアタッシュケースを持ち、搭乗カウンターへと歩いていった。
(初出:2015年3月 書き下ろし)
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