黄金の枷・外伝 あらすじと登場人物
【あらすじ】
黄金の腕輪をはめた一族ドラガォン。当主の娘インファンタとして生まれたアントニアは、別宅に共に住む叔父との平穏な暮らしに波風が立ちはじめていることを感じる。
【登場人物】
◆ドン・アルフォンソ = Infante 323 [23][トレース]
第1作『Infante 323 黄金の枷 』の主人公。『ドラガォンの館』で格子の中に閉じこめられていたが、兄のアルフォンソの死に伴い、彼に代わって『ドラガォンの館』の当主となった。靴職人でもある。黒髪の巻き毛と濃茶の瞳を持つ。幼少期の脊椎港湾症により背が丸い。
◆マイア・フェレイラ
第1作『Infante 323 黄金の枷 』のヒロイン。ドン・アルフォンソ(もと23)の婚約者。茶色くカールした長い髪。
◆Infante 322 [22][ドイス]
第3作『Filigrana 金細工の心』の主人公。『ドラガォンの館』の先代当主ドン・カルルシュの弟(実は従弟)でアントニアの叔父。『ボアヴィスタ通りの館』に軟禁状態となっている。雄鶏の形をした民芸品に彩色をする職人でもある。明るい茶色の髪に白髪が交じりだしている。海のような青い瞳。ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロを弾くことができる。
◆ドンナ・アントニア
第3作『Filigrana 金細工の心』のヒロイン。『ボアヴィスタ通りの館』に住む美貌の貴婦人。漆黒のまっすぐな長髪で印象的な水色の瞳を持つ。
◆ライサ・モタ
『ドラガォンの館』に少なくとも2年ほど前まで召使いとして勤めていたが、現在は腕輪を外されて実家に戻されている。長い金髪と緑の瞳。優しく氣が弱い。かなり目立つ美人。若いころのドンナ・マヌエラと酷似している。
◆ドンナ・マヌエラ
第2作『Usurpador 簒奪者』のヒロイン。『ドラガォンの館』の女主人。前当主ドン・カルルシュの妻で、ドン・アルフォンソやアントニアたちの母親。ブルネットに近い金髪にグレーの瞳が美しい貴婦人。
◆コンスタンサ・ヴィエイラ (本名クリスティーナ・アルヴェス)
亡くなった前ドン・アルフォンソの恋人だった女性。1度腕輪を外されたが、事情があり腕輪をとりもどし、コンスタンサの名前で生活する。現在は中枢部として『ドラガォンの館』内外で働いている。
◆マヌエル・ロドリゲス
《監視人たち》出身の修道士見習い。ヴァチカンでエルカーノ枢機卿の秘書を務めたこともある。現在はGの街の小さな教会に勤めつつ、ドラガォンの中枢部の仕事にも関わっている。クリスティーナを崇拝しているお調子者。
◆ジョゼ
マイアの幼なじみの青年。
◆エレクトラ・フェレイラ
マイアの妹のひとり。もうひとりの妹の名前はセレーノ。
◆ヴィーコ・トニオーラ
3世代前のストーリーに登場するスイス人。ヴァチカン市国でスイス衛兵として働く伍長。
◆フランシスコ・ピニェイロ[チコ]
豪華客船で働くクラリネット奏者。縮れた短い黒髪と黒い瞳。
◆ドン・アルフォンソ(享年29歳)
重い心臓病で亡くなった『ドラガォンの館』のもと当主。アントニアたちの兄。
◆Infante 324 [24][クワトロ]
金髪碧眼で背が高い美青年。『ドラガォンの館』で「ご主人様(meu senhor)」という呼びかけも含め、当主ドン・アルフォンソと全てにおいて同じ扱いを受けているが、常時鉄格子の向こうに閉じこめられている。口数が多くキザで芝居がかった言動をする。非常な洒落者。
◆アントニオ・メネゼス
『ドラガォンの館』の執事で、使用人を管理する。厳しく『ドラガォンの館』の掟に忠実。
◆ジョアナ・ダ・シルヴァ
『ドラガォンの館』の召使いの中で最年長であり、召使いの長でもある女性。厳しいが暖かい目で若い召使いたちをまとめる。
◆ペドロ・ソアレス
《監視人たち》の中枢組織に属する青年。メネゼスの従兄弟。
◆マリア・モタ
ライサの血のつながらない妹。ブルネットが所々混じる金髪。茶色い瞳。
【用語解説】
◆Infante
スペイン語やポルトガル語で国王の長子(Príncipe)以外の男子をさす言葉。日本語では「王子」または「親王」と訳される。この作品では『ドラガォンの館』に幽閉状態になっている(または、幽閉状態になっていた)男性のこと。命名されることなく通番で呼ばれる。
◆黄金の腕輪
この作品に出てくる登場人物の多くが左手首に嵌めている腕輪。本人には外すことができない。男性の付けている腕輪には青い石が、女性のものには赤い石がついている。その石の数は持ち主によって違う。ドン・アルフォンソは五つ、22と24及びアントニアは4つ、マイアは1つ。腕輪を付けている人間は《星のある子供たち》(Os Portadores da Estrela)と総称される。
◆《監視人たち》(Os Observadores)
Pの街で普通に暮らしているが、《星のある子供たち》を監視して報告いる人たち。中枢組織があり、《星のある子供たち》が起こした問題があれば解決し修正している。
◆モデルとなった場所について
作品のモデルはポルトガルのポルトとその対岸のガイア、ドウロ河である。それぞれ作品上ではPの街、Gの街、D河というように表記されている。また「ドラガォン(Dragãon)」はポルトガル語で竜の意味だが、ポルト市の象徴である。この作品は私によるフィクションで、現実のポルト市には『ドラガォンの館』も黄金の腕輪を付けられた一族も存在しないため、あえて頭文字で表記することにした。
この作品はフィクションです。実在の街、人物などとは関係ありません。
【関連作品】 | |
![]() | 『Infante 323 黄金の枷 』をはじめから読む あらすじと登場人物 |
![]() | 『Usurpador 簒奪者』をはじめから読む あらすじと登場人物 |
![]() | 「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
【小説】追跡 — 『絵夢の素敵な日常』二次創作
「scriviamo! 2014」の第九弾です。山西左紀さんの今年二つ目のご参加は、大好きな『空気の読めない(読まないかな?)お嬢様』絵夢の活躍する「絵夢の素敵な日常」シリーズの最新作です。私の大好きな街ポルトを題材にした作品、私の写真も共演させていただいています。ありがとうございます。
山西左紀さんの書いてくださった掌編 絵夢の素敵な日常(12)Porto Expresso
山西左紀さんは、ブログでの小説交流をはじめたもっとも古いお友だちの一人で、私の作品にコメントをくださるだけではなくて、実にいろいろな形で共演してくださっています。先日発表した「夜のサーカス」のアントネッラと「もの書きエスの気まぐれプロット」のエスの交流や、「254」シリーズのコトリたちとうちの「リナ姉ちゃん」シリーズだけでなく、そしてこの「絵夢」シリーズでもArtistas callejerosと共演してもらったり、リクエストをして脇キャラストーリーをたくさん作っていただいたり、毎回無茶をお願いしてもちっとも嫌がらずに、ほとんどオーダーメードのように作品を書いてくださるのです。
今回の話は私の休暇の話からイメージをふくらませて書いてくださった、ポルトが舞台のお話。とてもよく調べてあって「本当に行ったことがないの?」とびっくりするくらい細かい所をご存知でした。で、せっかくなのでポルトの話を続けます。個人的にツボだったサキさんの作品の最後の一文からふくらませたしょうもないトーリーです。短いんですが、これ以上引き延ばすほどの内容でもないので(笑)左紀さん、キャラ四人まとめて貸していただきました。ありがとうございました。
「scriviamo! 2014」について
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
追跡 〜 『絵夢の素敵な日常』二次創作
——Special thanks to Yamanishi Saki-san
最高の秋晴れだ。幸先がいい。
アパートを出て、最初に寄ったのはセウタ通りの菓子屋。何種類もの菓子パンやミニタルト。ばあちゃんに頼まれたものだけれど、アリアドスにつくまでに二つ胃袋に消えた。ここの坂は勾配がきつくて転げ落ちるみたいに小走りになる。たくさんの車が市役所前広場を通って、サン・ベント駅の方へと曲がっていく。僕も同じ方向へと行く。徒歩だから橋まではちょっとあるけれど、それでも渋滞中の車よりも早く着くだろう。
リベルダーデ広場にはいくつものカフェの椅子とテーブルがでていて、観光客たちが眩しい陽光を楽しんでいる。通りの向こうには、赤や黄色の観光客用の二階建てバスが出発時間になるのを待っていた。真っ青な空、白い市庁舎、ドン・ペドロ四世の銅像。僕が生まれ育ったこの美しい街の誇りだ。
経済の悪化とともにリスボンの治安はとても悪くなったが、ポルトガル第二の都市ポルトは危険なこともほとんどなく観光客の受けもすこぶるいい。だから、いつもたくさんの外国人が来て、旅を楽しんでいる。真夏はさすがにとても暑いけれど、さすがに過ごしやすくなってきた。

今日は休みなので、僕は橋を渡ってワイン会社が軒を重ねる対岸へ行く。観光客のためにポートワインの試飲をやっているので、適当に混じるのだ。たぶん、もう僕が観光客じゃないのはバレていると思うけれど。でも、僕はちょっとだけ東洋人みたいな顔をしているので、彼らについていく。最近は中国人観光客の方が多いのだけれど、彼らは独特の騒ぎ方をして、僕は上手く溶け込めないので、日本人をさがす。あ、いた! あの三人は日本人っぽいぞ。
一人は年配の女性、それから髪をツインテールにしたティーンエイジャー、そして髪が長くて綺麗な女性だ。妙なことに三人は英語で話している。年配の女性が二人をワイナリーに案内するらしい。しめしめ。上手く警戒されないくらいに近くに行って、試飲のご相伴に……。
そこで僕は妙なことに氣がついた。僕よりも三人に近い位置に、妙な黒服の男がいる。やはり東洋人だ。三人の連れではないようなのだが、男はじっと例の若い女性の方を見ている。年配の女性が何かを説明するために立ち止まったら、そいつもぴたりと止まった。なんだあいつ、あの三人、いや、あの女性を付けているのか?
三人の誰もあいつには話しかけないから、知り合いじゃないだろう。大体、コソコソ付けているなんて普通じゃない。あの服装は、いかにもマフィアらしい! 東洋人なのは変だけれど、日本にもマフィアはきっといるんだろう。僕はどうしたらいいんだろう。このままにしておいたら、近いうちにあの女性は誘拐されるかもしれない。そうだ、ワインでほろ酔いになるのを待っているんでは。このままにしておいたら彼女が危ない!
僕は男が女性に意識を集中しているのをいいことにそっと近づいた。そして一氣に足にタックルして男を突き倒した。そして反撃されないよう、全力でふくらはぎに抱きついた。
「うわっ!」
男は情けない声を出した。それを聞いて、周りの観光客と一緒に例の三人組もこちらを振り向いた。すぐに行動を起こして駆け出したのは例の女性だった。
「山本!」
「何、何が起こったの?」
年配の女性が叫んだ。あれ、ポルトガル語だ。この人、もしかして日本人じゃないの?
日本語で何かわめく男と、びっくりして助けに来る女性、それに年配の女性の言葉で、僕はわけがわからなくなってきた。
「あんた、いったい、何やっているのよ」
腰に手を当てて、両足を肩の広さに広げてツインテールの女の子が言ったので、僕はしぶしぶ彼のふくらはぎから手を離した。
「こいつが、その人を尾行していたみたいだったから」
「尾行じゃないわよ、警護でしょ! だいたい、あんた、どこの子なのよ」
「え……」
どうやらこの男はこの人たちの知り合いみたい。じゃ、マフィアが誘拐しようとしているってのは、僕の勘違い?
「その人の誘拐を企むマフィアだと思ったんだ」
僕の説明を年配の女性が訳してくれて、一同はどっと笑った。きれいな女性は僕の頭を撫でて
「助けてくれようとしたのね、ありがとう」
と言った。
「私は絵夢。はじめまして。こちらは、メイコにミクに山本。あなたは?」
女性が順番に紹介してから、僕に手を差し出した。僕は助けてもらって立った。そしたら彼女の胸までにも届かない背しかなかった。
「僕、ジョゼです。この近くの小学校に通っています」
「地元の小学生が、こんな所で何してんの?」
ミクが痛い所を突っ込んでくる。ポートワインの試飲の話をしたら、四人は目を丸くした。
「一緒について来てもいいと言いたい所だけれど、ワインはダメよ」
それでも、四人は僕を川岸の眺めのいいレストランに連れて行ってくれた。大人三人はポートワインで、そしてミクと僕は絞りたての葡萄ジュースで乾杯した。こうして僕には、新しい友だちができたんだ。
(初出:2014年2月 書き下ろし)
【小説】追憶のフーガ — ローマにて
彩洋さんが書いてくださった作品:
『【いきなり最終章】ローマのセレンディピティ(前篇) 』
『【いきなり最終章】ローマのセレンディピティ(中篇) 』
『【いきなり最終章】ローマのセレンディピティ(後篇) 』
彩洋さんの作品は、なんとご自身のライフワークと言ってもいい、一番大切な「真シリーズ」の最終章になっています。一世紀に及ぶ大河ドラマの集大成。す、すごい。そんな大事な作品をわざわざ書き下ろしてくださいました。あ、いや、もちろん私のためにではないでしょうけれど、でも、企画に合わせていま書いてくださったというのは、とても嬉しいです。
で、「ローマ」です。どうしようか悩んだのですよ。「大道芸人たち」は使い過ぎて新鮮みがいまいち。「夜のサーカス」でマッダレーナを主役にして「セレンディピティ」を書こうかなと思ったけれど、団長ロマーノが悪ふざけしちゃってふさわしくない。それとも若干ご縁がないとも言い切れない「ルドヴィコ+ロメオ」のイタリア人コンビも考えたのですが、彩洋さんがここまで大事な作品で書いてくださっているからには、あの二人じゃ役不足過ぎる。
で、こうなりました。人物は二人とも小者ですが、舞台だけは立派。サン・ピエトロ大聖堂です。彩洋さん家のヴォルテラ家に敬意をはらって。(あ、ニアミスはしているかもしれませんが、どなたともお逢いしていません)彩洋さんと同じ「まだ完結していないシリーズ物の全部終わった後の話」ただし、バリバリの主人公のお話であるあちらと違って、でてくるのは本編には入れられなかった枝葉エピソード+補足。シリーズは現在連載中の「Infante 323 黄金の枷」とその続編三部作で、出てくる女性は脇役の一人です。この作品を読んでいらっしゃらない方には「?」な部分がたくさんあると思います。読んでいらっしゃる方でもわからない部分があると思いますが、読み切りストーリーとしてはほとんど意味がないのであえてほとんどの説明を省きました。「そういうことらしい」と割り切ってお読みください。
50000Hit記念リクエストのご案内
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「Infante 323 黄金の枷」をご存じない方のために
この作品は現在「月刊・Stella」用に連載している長編小説です。読みたい方はこちらからどうぞ
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追憶のフーガ — ローマにて
タラップを降りて周りを見回した。そこはイタリア、ローマだった。生まれ育った街、出て行くことを生涯禁じられていたはずの街を飛び立ち、何の問題もなくこうして異国に降り立ったことが信じられなかった。ここでも同じように呼吸ができて、黒服の男たちに止められることもなかった。後ろの乗客が控えめに咳をした。それで通行の邪魔をしていたことに氣がついた彼女は小声で謝ると、抱えて持つには多少重いが、海外旅行にしては少なすぎる荷物を持ち直した。
強い陽射しを遮るために左手を額にかざした。そこには、あるはずだったものがなくなっていた。本来だったら生涯外されることのなかったはずの黄金の腕輪の代わりに、彼女は日焼けに取り残された白い痕を見た。違和感が消えない。あれは、氣がついていなかったけれど、とても重かったのだ。当然だろう、黄金だったのだから。どこへ行くのも何をするのも完全な自由を手にした今、彼女を苛んでいるのは心細さだった。
ローマ市内に行くために交通機関を検討しようと、案内板を見上げた。タクシーは即座に却下した。エクスプレスも、彼女の金銭感覚には合わないように思った。彼女は財布の中に入っている黒いクレジットカードのことを思いだした。ローマ市内どころか、シチリアまでタクシーで行っても一向に困らないはずだった。けれど、彼女は微笑んでそのアイデアを打ち消した。
ふと視線を感じて横を見ると、先ほど彼女がタラップを降りる時にちょうど後ろにいた、若い青年がいた。どちらかと言えば貧相なタイプで、茶色い髪は少し伸び過ぎで、黒いシャツに灰色のジャケットはフランス資本のスーパーマーケットで揃えたような安物だった。
彼女と目が合ったので、青年は照れ隠しに笑った。少しの躊躇の後、彼は口を開いた。
「星、一つだったんですね」
彼女は反射的に青年の左手首を見た。この発言で、彼女には彼が「知っている人間」だということがわかった。黄金の腕輪はしておらず海外にいるということは、《監視人たち》の一人なのだろう。しかし、禁じられてはいないとは言え、《監視人たち》も街の外に出ることはほとんどないはずだ。この人はなぜローマにいるのだろう。
「すみません、唐突でしたね。僕は、マヌエル・ロドリゲス。神学生です」
差し出された手を握りながら、彼女はなるほどと思った。それならば、街を離れてローマに学びに行くこともあるだろう。彼らの家業でもある監視、それさえしていれば汗水たらして働かなくても生活できる結構な仕事を、あえてしたくない人間もいるのかもしれない。それとも、彼らは教会の中でも《星のある子供たち》を監視するのだろうか。
「クリスティーナ・アルヴェスです。名前もご存知かもしれないわね。あなたのこと、全く記憶にないから、《監視人たち》としてとてもいい仕事をしていたのね」
そういうと、マヌエルは鼻の所で黒ぶちの眼鏡を押し上げながら、参ったなというように笑った。
「僕、神学校の休みの時に数回だけ兄の代わりをしただけですから」
それから首を傾げて訊いた。
「ローマははじめてのようですね。よかったら市内までご一緒しましょうか」
クリスティーナは、少し考えてから頷いた。
「ええ、お願いするわ。アウレーリア通りってご存知かしら」
「なんですって。バチカンの真ん前じゃないですか。もちろん知っています。目的地までお届けしますよ」
クリスティーナはテルミニ駅からもたくさん歩くことになるのかなと思った。それともバスで。結局、タクシーとは縁がなさそうだ。
黄金の腕輪についていた赤い宝石の数が、一つではなくて二つだったと言ったら、どうなるのだろうかと思った。星一つでない限りは生涯外されることのない《星のある子供たち》の黄金の枷。《星のある子供たち》を生んだからではなく、一年経っても子供ができなかったからでもなく、特別な事情で腕輪を外されたことは、職務に忠実なごく普通の《監視人たち》には知られない方がいいに違いない。そう、私を自由にしてくれた彼のために。
「私をどこで監視したの?」
彼女は訊いてみた。答えないかもしれないと思いながら。
「二度はアリアドスの側で、それから先月、あの婚礼で……」
クリスティーナははっとした。それはドラガォンの館のすぐ側にあるサン・ジョゼ・ダス・タイパス教会で行われた結婚式に違いなかった。花嫁の家族は、ドラガォンの館の中に入ることが許されていないので、例外的にあそこで挙げたのだ。この青年がいたかどうかクリスティーナが氣に留めていなかったのも当然だった。彼女は婚礼も出席者も司祭や助祭も見ていなかった。彼女は、座った席の正に横の位置の床に、新しく設置された四角い石を見ていた。《Et in Arcadia ego》石にはただそれだけ刻まれていた。
その位置にその石が設置されたのは、おそらくクリスティーナのことを慮ってだったろう。もし、ドラガォンの館の敷地内にあれば、腕輪を外されたクリスティーナは二度と訪れることはできないだろうから。
名前はない。墓標だと氣づく者もない。始めから存在しなかった者が再び幻影に戻った、その記念。
「何かつらいことを思いださせてしまいましたか?」
声にはっとして、マヌエルの存在を思いだした。バスは高速道路に入った所だった。高速道路そのものは彼女の故郷にあるものとあまり変わらないのだなと思った。と言っても彼女が高速道路というものを通ったのは、今日が初めてだったのだが。
「ごめんなさい。初めて飛行機に乗って、少し疲れたみたい」
「そうですか。一時間近くかかりますので、少しお休みになっても構いませんよ。近くなったら起こしますから」
そう言ったマヌエルの方が、先にウトウトとしだした。頼りない人ね、笑ってクリスティーナは窓の外を眺めた。彼に逢ったのは偶然なのだろうか。それとも《監視人たち》は今でも私を監視しようとしているのだろうか。それから肩をすくめた。もし、そうだとしても、こんな抜けた人を選ぶわけはないわよね。
それから彼女は、幾年も前のことを思いだした。あの館でゆっくりと刻んだ時間、いつでも彼がいた。それは海辺の波のようだった。ゆっくりと押し寄せて、それから静かに帰っていく。フーガのように、追いかけては追い越していく。仕事のことを話すだけだった長い期間、それから、その外見と堂々とした態度からは想像もできない傷つきやすい魂を知ったこと。ゆっくりとその手が伸ばされて、戸惑い、諦め、潤んだ瞳だけが語る長い時が過ぎていった。
熱にうなされ、一人で消えていく恐怖に怯えていた彼を、この世につなぎ止めたくて必死でその手を握った。弱々しい力が、わずかな歓びにうち震えた。彼女にとって深く哀しくも歓びに満ちた日々の始まりだった。尊敬と親しみが、愛に変わった瞬間だった。
「愛されるというのは、幸せなものだな……」
彼の大きい手のひらを自分の頬に引き寄せて、頷いた。それもまたゆっくりと記憶の彼方に帰っていった。
「あれ。いつの間に……」
目の覚めたマヌエルを見て、クリスティーナは笑った。
「そろそろ着くんじゃないかしら」
マヌエルは眼鏡をかけ直して車窓を眺めた。
「ええ。もうすぐです。ホテルの近くまで行くバスにご案内しますね」
クリスティーナは、ふと思いついて訊いた。
「ねえ、サン・ピエトロ大聖堂を案内してくれない? 見所や歴史についてあなたはとても詳しいのでしょう」
マヌエルはすぐに首を縦に振った。
「喜んでご案内しますよ。実のところとても詳しいとは言えませんけれど、行き慣れていますし、母国語で説明を聞くのはあなたにとっても楽でしょうから」
クリスティーナのチェックインしたホテルを見て、マヌエルは目を丸くした。僕の記憶が確かならば、この女性はドラガォンの館の使用人だったはずだ。ここはかなり格の高い四つ星ホテルだ。クリスティーナは彼の考えを見透かしたように言った。
「ドラガォンからのボーナスみたいなものよ。でも、これからずっとこんな暮らしをしていくわけじゃないのよ」
あのクレジットカードをくれたということは、たぶん彼らは私にそうしてもいいと言っているのだろう。おあいにくさま。私がそんなに怠惰だと思ってくれては困るわ。クリスティーナは心の中でつぶやいた。
荷物を置きに部屋に入ると、花瓶にピンクと黄色のグラデーションになった薔薇の花束が生けてあるのが目に入った。私がこの色の薔薇が好きだと、彼はわざわざセニョールに伝えておいてくれたんだろうか。強い香りを吸い込み一本手にとろうとした。「いたっ」棘が指に刺さった。ドラガォンでは、使用人たちが丁寧に棘を取り除いて生けていた。そう、もう、ここはドラガォンではない。イタリアのローマにいるのだ。
血が流れる。痛みとその真紅が、クリスティーナに「まだ生きているのだ」と告げる。
ロビーに降りて行くと、マヌエルが所在なげに座っていた。クリスティーナが手を振ると、嬉しそうに立ち上がった。
「お待ちどうさま。部屋からサン・ピエトロ大聖堂のドームが見えたわ。本当にローマにいるのね」
彼女が言うと、マヌエルは微笑んだ。彼の荷物をフロントに預けて、二人はサン・ピエトロ大聖堂に向かった。
テレビで遠景をみたことがあったが、カトリックの総本山だけあってその壮大さはただ事ではなかった。彼女の街の「セ」という呼び名で親しまれている大聖堂や黄金の装飾で有名なサン・フランシスコ教会も壮大だと思っていたが、スケールが違った。そもそも四柱のドリス式列柱に囲まれた楕円形の広場からしてずっと広い。
「この列柱廊は、信者を優しく抱擁するように広げた腕のようになっているんです。あ、ここに立って見てください。四列の柱がぴったり重なって一柱のように見えるでしょう?」
マヌエルはゆっくりと歩きながら説明していった。13の聖人像の見えるファサード、教皇が祝福を与えるバルコニー、玄関廊の五つの扉、観光客たちが押し寄せていく中を、ゆっくりと大聖堂の中に向かって歩んでいく。
身廊に入ってすぐ右側に人だかりがしていた。クリスティーナはすぐにそれがなんだかわかった。ミケランジェロの「ピエタ像」だ。亡くなったキリストを腕に抱く聖母マリア像。若々しく穏やかで美しい嘆きの母は、クリスティーナを再び記憶の海に引き戻した。
彼が眠りについたあの夜、報せを訊いて駆けつけると、枕元で泣いていた彼の母親は立ち上がって彼女を抱きしめた。
「かわいそうな、クリスティーナ」
かわいそうなのは、あなたでしょう。息子を失っても、嫁でもない女の心を慮らなくてはならない。自由になることは許されず、願った人生を生きることも叶わない。それでも、優しく、強く、思いやりを失わない人。あなたが私の前を歩いてくれたから、私は不幸に溺れることがありませんでした。私のことを心配なさらないでください。私も泣くだけの人生を送ったりしません。彼の思い出を掘り返すだけに、残りの人生を費やすこともしないでしょう。
身廊を進みながら、マヌエルがいくつもの絵画やモザイク画を説明してくれた。参拝者が接吻していくために右足のすり減ってしまっているブロンズのペテロ像、そして、大きな天蓋に覆われた教皇の祭壇。
祭壇の真上のクーポラからは光が溢れていた。ルネサンスの最高傑作とはよく聞くものの、実際に立ってみるまではその意味がはっきりとはわからなかった。なんて美しいのだろう。人は、どれほどの時間をかけ、技量と知恵を振り絞って、天上の美というものを表現しようと試みたのだろう。そして、今、私はここに立ってそれを見ているのだ。
「すごいわね」
彼女のため息に、マヌエルは頷いた。
「とてつもない時間と労力。この豪華絢爛な建造物を作る費用を貧しい人に向ける方がずっと神の意に適うという人もいます。確かにそれにも一理あるんですが、それだけで片付けられない何かがあるんです。僕はこの驚異をこの目で見ることができてよかったと思うんですよ」
クリスティーナは黙って頷き、光を見ていた。マヌエルは横で続けた。
「ここは、僕には特別な所なんです。ずっとドラガォンと《監視人たち》のシステムについて悩み続けてきました」
彼女ははっとして、青年の横顔を見つめた。彼はペテロ像の方を見た。
「ローマ教皇は主イエス・キリストの精神的後継者として代々受け継がれてきた。そして、あなたたちが受け継いでいるのは同じ主の血だと聞いたことがあります」
「それはただの噂でしょう」
「ええ、その通り噂です。信憑性を確かめることもできないものを守るために、時代遅れで人権無視のシステムが動き続けている。僕は、システムの一部である《監視人たち》の家系に生まれて、不都合を押し付けられたあなたたちに苦痛を強いることの意味をずっと考えていました。そして結論はシステムから逃げだすことだったのです」
彼が「
「参ったな。バッハの『パッサカリアとフーガ ハ短調』ですね」
フーガ。イタリア語でもポルトガル語でも音楽用語の遁走曲以外に、逃走や脱出、脱落やこぼれ落ちることを意味する。クリスティーナは左手を見た。ここにいる二人はドラガォンのシステムから抜けだしている。特例によって、もしくは、意志によって。システムを離れたものは部外者だ。血脈が本当は何を意味するかわかったとしても、もはやその保存に対して何かをすることはできない。クリスティーナの左手首はとても軽くなった。その彼女を自由にしてくれた人は、自分自身は自由になることができないまま、システムに身を任せ、あの四角い石の下に眠っている。豪華な墓標もなく、功績を知られることもなく、存在を打ち消された。
石の上に書かれた銘文のアナグラムを思いだす。《I tego arcana dei》。『神の秘密を埋めた』
華やかなフーガの流れる、世界が驚嘆の目を向ける大聖堂。主イエス・キリストの後継者たちの偉大なる聖座。それはどれほど彼女の愛した男やその先祖または後に続く者たちの人生と異なっていることだろう。
《星のある子供たち》の存在に意味があるかはわからない。それは栄誉であるとも悲運であるとも言いきれない。世間の目から隠し通し、複雑怪奇で厳格なシステムを使ってまで残そうとした人たちの強い意志は今も働いている。そして、その厳格な網の間を通って、システムを動かす人たちの精一杯の優しさが、このクーポラから射し込む光のように暖かく人を包み込む。
「自由になって、幸せになってほしい。これは、彼の願いだった」
昨日、ドラガォンの当主が、書斎でそう言った。黒檀の机の上に、クリスティーナのパスポートと黒いクレジットカード、それから頼んであったローマへの航空券とホテルのバウチャーを静かに置いた。
「ありがとうございます。メウ・セニョール。そうするよう努力します。お世話になりました」
クリスティーナは、最後に微笑むことすらできた。
たくさんの思い出の詰まった館を、親しんだ仲間たちのもとを、振り返りもせずに出てきた。もう二度と足を踏み入れることはできない。けれど、それがなんだというのだろう。もう、彼はいないのだ。この世のどこにも存在しない。記憶は波のように寄せては帰っていく。そうして私は生き続けていく。この地球に住む他の全ての人びとと同じように。
ホテルに戻り、彼の荷物を受け取って、ロビーで別れを告げる時に彼女はもう一度右手を差し出した。
「一緒に来てもらってよかったわ。詳しくないなんて謙遜しすぎよ。トラベル・ガイドになればいいのに」
クリスティーナが言うと、マヌエルはあっさりと頷いた。
「ええ、実をいうと、それも考えているんです」
彼女はびっくりした。
「司祭になるんじゃないの?」
彼は首を振った。
「とんでもない。神学校に入ったのは《監視人たち》の仕事から離れるための単なる方便ですよ。それに……」
それから声を顰めた。
「妻帯も許されないような集団に興味はないんです」
クリスティーナは呆れた。かわいそうなご家族ね。
「あなたは、この旅の後、どうなさるのですか?」
マヌエルはためらいがちに訊いた。クリスティーナは微笑んだ。
「国に帰るわ。そして、仕事を探さなきゃ。血脈のためなんかじゃなくて、私自身の人生を探していくんだわ。あなたもそうでしょう?」
彼も微笑んだ。
「そうですね。でも、ドラガォンと全く関係のない、ここ、イタリアで暮らしていくのも悪くないと思っているんです。初日じゃわからないと思いますけれど、数日いてみたら、きっと僕のいう意味がわかるかもしれませんよ。もし、そうしたいと思ったら連絡をください。僕、力になれると思いますよ」
クリスティーナは明るく笑った。とんだ神学生ね。イタリアに馴染みすぎよ。強い陽射しが輝いていた。彼女の新しい人生は始まったばかりだった。
(初出:2014年11月 書き下ろし)
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【小説】再会
今年最初の小説、そして「scriviamo! 2015」の第一弾です。山西 左紀さんは、ご自身のブログの15000HITの記念掌編で私の無茶なリクエスト「ミクとパスティス・デ・ナタ(エッグタルト)で書いて」に素敵な作品で答えてくださいました。
山西 左紀さんの書いてくださった『絵夢の素敵な日常(初めての音)Porto Expresso2』
山西 左紀さん関連する小説
絵夢の素敵な日常(10)Promenade
絵夢の素敵な日常(12)Porto Expresso
宝石のようにキラキラと輝く描写が素晴らしい作品を書かれる左紀さんは、ブログでのおつきあいが最も長いお友だちの一人で、もう何度もコラボをさせていただいています。この『Porto Expresso』も、いろいろと縁のある作品です。神戸の宝塚と私の狂っているポルトガルのポルトを舞台に、某有名ボカロイド二人と同じ名前を持つキャラたちが登場して、たまに私のキャラたちとも遊んでくださっているのです。今回は、うちの子であるジョゼを登場させて書いてくださいました。
で、お返しの掌編小説は、やっぱりポルト。左紀さんのところのお二人のキャラにはお名前だけ登場していただいています。すみません、サキさん、また更に勝手に設定作りました。そんなにサキさんの想像から離れていないといいのですが。
で、メインキャラはジョゼと、それから同じくポルトを舞台にしている「Infante 323 黄金の枷」からあの人です。途中で、謎めいた設定が出てきますが、これは「Infante 323 黄金の枷」本編のずっと先にでてくる話です。本編は現在五月の終わりで、この話は九月頃。ジョゼたちは22歳です。あ、参考までに本編のリンクもつけていますが、読まないとわからないような話ではありません。
【参考】
追跡 — 『絵夢の素敵な日常』二次創作
![]() | Infante 323 黄金の枷 |
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再会
——Special thanks to Yamanishi Saki san
最高の秋晴れだ。幸先がいい。あれ、また同じ事を言ってるよ。でも、今日も空が高くて大理石でできた建物の白さが眩しい。久しぶりの休みだし、また観光客に混じってポートワインの試飲にでも行くかな。それともメイコの所に顔を出そうかな。
アヴィス通りからアリアドスに抜ける道を歩いた。ああ、ここにアイスクリーム屋があったんだよな。マイアが勤めていた。
あれは今から4年くらい前の事だ。今と同じ道を歩いていて、ガラス窓越しにアイスクリーム屋を覗いたジョゼは対面越しにアイスクリームを売っている女性の顔に驚いて中に入っていった。
「マイアじゃないか!」
「あ。ジョゼ!」
それは幼なじみのマイア・フェレイラだった。父親の出稼ぎ先スイスで生まれたジョゼが家族でこの街に戻って最初に出来た友達の一人だった。小学校で同じクラスだったのだ。ジョゼ自身がまだこの国のやり方と人びとに慣れていなかったけれど、大人しくて人付き合いの下手なマイアの不器用さをほっておけなくて、ジョゼはマイアを友達の輪の中に引きずるようにして連れて行き、それで自分もまた同じ世代の子供たちに慣れたのだ。
彼女はある日突然引越して、彼の前から姿を消した。それからほとんど存在すら忘れていたマイアが元氣に働いているのを見てジョゼは嬉しくなった。
「あんまり変わっていないな。今どこにいるんだ?」
「あ、またレプーブリカ通りに戻ってきたの。父と妹たちと、前いた建物の斜め前のアパートメントにいるよ」
「そうか。再来週の、サン・ジョアンの前夜祭、仲間で集まるけれど、一緒に行くか?」
「私も行ってもいいの?」
「もちろん。エジーニョやカミラも来るよ。あ、あの二人つき合っているんだ」
「え。あの二人が?」
「うん。もう二年になるかな。知ったときは僕もびっくりした。お前も彼がいたら連れて来てもいいんだぞ」
マイアは目を伏せて首を振った。
「つき合っている人なんていないよ」
ジョゼは、なんだか少しホッとした。そういう相手がいないのは自分だけじゃないのかと思って。
今年のはじめにそのアイスクリーム屋は潰れてしまった。彼女、失業してどうなったんだろう。それからずっと見ていない。今夏のサン・ジョアンの前夜祭も、ジョゼ自身が仕事で行けなかったのでマイアが皆と楽しんだか確認していなかった。
あいつ、自分から打ち解けようとしないから、他のやつらにすぐに忘れられちゃうんだよな。だから「マイアは呼んだ?」と確認して、彼女の自宅に連絡するのは、この4年間いつもジョゼの役割だった。
彼女の事を考えるのは、彼がマイアに異性としての関心があるからではない、それどころか2ヶ月前までは忙しさにかまけて、彼女の事を完膚なきまでに忘れていたのだ。彼女が奇妙で秘密めいた連絡をしてくるまでは。
それは7月のことだった。彼の勤務先にある女性が何回か続けて来た。ものすごい美人だったので、すぐにウェイターたちの間で話題になった。最初は奥の席に座った。そこはマリオの担当だったので、ジョゼは側にも行かなかった。それから数日して、またやってきた彼女は反対側の中程に座った。コーヒーを頼んで、しばらく雑誌を読んでから帰っていく。また数日したら、今度はジョゼの担当の席だった。
彼女は、帰り際にチップを手渡したが、それは小さな封筒に入っていた。そして、その封筒の中にチップの他にマイアの特徴のある筆跡の手紙が入っていたのだ。ジョゼの名札を見てわざわざ確認してから渡したらしい。もとからジョゼにマイアの手紙を届けるためだけに、来ていたのだろう。その推理を裏付けるかのように、その女性はそれからぴたりと来なくなった。
ジョゼはマイアの指示書に従って、封筒に同封されていたもう一枚のメモを目立たない封筒に入れてマリア・モタという女性あてに発送した。それだけだった。だが、その後もマイアから連絡もなければ、説明の手紙も来なかった。
それから、ここを通る度に、いつかあいつを捕まえて問いたださなくちゃと思っている。でも、どこにいるのか誰も知らないのだ。
カフェ・グアラニの角を曲がった途端、そのテラスに正にマイアが一人で座っているのを見て仰天した。
「ええっ、まさか!」
「ジョゼ!」
彼は、マイアの前に置かれたレア・チーズケーキとポートワインを見て目を丸くした。こんな高いカフェで、何を頼んでいるんだ?
「今日は、何かのお祝い?」

マイアは黙って首を振った。
「ううん。ただ、休暇を楽しんでいるだけ。ジョゼも、今日はお休みなの? 時間ある?」
「ああ、休みだし、特に予定もないよ。で、久しぶりだから、ガイアでポートワインでも飲もうかと……」
マイアはジョゼが時おり観光客のフリをして試飲をしている事を知っていたので笑った。ジョゼはどのカーブでも有名になっていて、もうそんなに簡単には飲ませてもらえないはずだ。
「ねえ、私がここでポートワインをごちそうするから、しばらくつき合ってよ」
マイアが言うとジョゼは目を丸くした。明日は雪か? 素早く座って言った。
「喜んで。氣が変わらないうちに、注文させてもらうよ」
このカフェは、ジョゼの勤務先と同じオーナーが経営している。どちらもこの街で一二を争う有名店だ。ジョゼは普段はウェイターとして働くのみで、ここに座って注文をした事はない。ちょっと何かを食べたら、日給が吹っ飛んでしまう。
「マイア、どうしたんだよ。宝くじでも当たったのか」
「違うの。いつもこんな贅沢をしているわけじゃないの。でも、散財したい氣分なんだ。今日は一日暇で何もやる事ないし」
「アイスクリーム屋がつぶれてから、お前、音信不通になっちゃったじゃないか。休暇ってことは新しい仕事見つけたのか? 今何しているんだ?」
「あるお屋敷に住み込みで働いているの」
「え?」
ウェイターがやってきてジョゼの顔を見て驚いた。
「ジョゼじゃないか、何しているんだ?」
「ははは、この子がおごってくれるっていうから。この、ポートワイン三種類飲み較べってヤツ、頼むわ」
ウェイターは納得して向こうへ行った。それを待ってからジョゼは、マイアの顔をじっと覗き込んだ。
「そういえば、お前さ、7月に……」
そういいかけた時、マイアが遮るように「これ、とても美味しいわ」と言った。ジョゼは、驚いて彼女を見た。マイアは目だけで「その話をするな」と訴えていた。
「ずいぶん前の事だけれど、ジョゼにしてもらった事、本当に助かったの。だから、今日は、何でも好きなものを頼んでね」
ここで話すのはまずいのだなと納得した。いったい何を警戒しているのだろう。
マイアは、ウェイターの運んできた三つのグラスのうち、タウニーに手を伸ばしたジョゼに自分のグラスを重ねた。ま、いいか。ジョゼは肩をすくめて乾杯をした。そしてタウニーをごくっと飲み込んだ。うわっ、なんだこりゃ、すごく美味い。生きていてよかった。

マイアは小さく笑ってグラスを傾けた。その様子を見て彼は首を傾げた。前の彼女はもっと自信がなさそうで、自分から行動を起こしたりする事がほとんどなかった。
ピカピカに磨かれた華奢なグラス。ルビー色のポートワインはマイアの小さい唇にゆっくりと流れていく。彼女が置いたグラスには、透明なアーチが教会の窓のように流れている。グラスの足に添えられた彼女の指先は柔らかい曲線を描き、かつて彼が知っていた幼なじみの粗雑なそれとは違って見えた。
「お前、なんか、変わったな」
「えっ?」
「前は、もっとおどおどしていたし、こんなところで優雅にグラスを傾けたりしなかったじゃないか」
ジョゼが言うと、マイアは少し考えた。
「そうかもね。少なくとも、ポートワインの美味しさ、前は知らなかったかも」
「お前も試飲に行くようになったのか?」
そういうとマイアは笑って首を振った。
それからため息をついた。それから、グラスの中の紅い酒の中に溶かし込むかのごとく小さく囁いた。
「ある人が、教えてくれたんだ……」
ジョゼは身を乗り出した。
「なんだよ、その深いため息は」
マイアは困ったように笑った。
「なんでもないよ。詳しくは話しちゃいけないの、ごめん」
瞳がわずかに潤んでいた。彼女は目の前にいるジョゼを見ていなかった。その場にある別のものを見ているわけでもなかった。そのマイアの憂いに満ちた表情で、大方の事は想像できた。こりゃ、恋にでも落っこちたらしい。しかも、見込みがなさそうなヤツ。
「大丈夫か? 失恋?」
「うん。これまでも一人だったし、きっとこれからもなんとかなると思う。心配しないで」
そう言ってから、彼の方を見た。
「ジョゼも失恋した事ある?」
彼は想像もしていなかったその切り返しに赤くなった。
「えっ。いや、その、失恋というか……まだ、告白していないというか……」
「へえ。ジョゼが、そんな奥手だったなんて意外。最近の事なの?」
「い、いや、知り合ったのはずーっと前で、それに、意識しだしたのはもう、6年も前で」
「ええっ。6年もそのままなの?」
「まあ、そうだな。その人、ここに住んでいないんだよ。たまに来るんだ。逢うといつも元氣な弟みたいに接しちゃって、つい……」
マイアが楽しそうに笑った。
「どんな人?」
ジョゼの顔は赤くなってきた。大した量には見えないのに、三杯のポートワインは確実に効いている。
「長い髪をさ、いつもツインテールにしている。胸はぺっちゃんこ、声が高くて、痩せて手足も長い。へんなポルトガル語を話す日本人で六つも年上。こっちはいつも怒られてばっかり」
「ふ~ん。ジョゼにそんな人がいるなんて知らなかったな。次はいつ逢えるの?」
「たぶん来週。ミクのばあちゃんが、昨日連絡をくれたんだ。しばらくこっちにいられるらしいって。今度こそ、少しは進展させたいと思っているんだけどさ」
「そうか。上手くいくといいね」
「おう。お前もあんまり落ち込むなよ。何なら、他の男でも紹介してやろうか」
ジョゼがそういうと、マイアは首を振った。
「ありがとう。でも、遠慮しておく。私、自分でも思っていなかったけど、かなりしつこいみたい。このままでいいんだ」
ジョゼは「ふ~ん」と言った。そうだよな、振られたからって、はいそうですかと、次に行く氣にはならないよな、僕だって。オリーブをぱくついた。
「わかった。じゃあ、今日はつきあってやるから、このあと一緒にガイアへ行こうぜ」
ジョゼが言うと、マイアは目をみはった。
「ええ? そんなに飲んで、まだ試飲に行くつもりなの?」
「違うよ。メイコの所へ連れて行ってやる。ほら、その日本人のばあちゃん。行くとやたらとうまいご飯を出してくれるんだ。それにアロース・ドース(注)は絶品だよ」
「でも、知らない私がいきなり押し掛けたら迷惑だよ」
「たぶん、へっちゃらさ。ミクがいなくて寂しいみたいだから、押し掛けると喜ぶんだ」
「そう。じゃあ、連れて行ってもらおうかな。美味しいアロース・ドースの作り方、教えてもらいたいな」
ジョゼは笑って頷いた。
「メイコは酸いも甘いも極めた人生の達人だからな。元氣になる魔法もきっと教えてくれるさ」
(初出:2015年1月 書き下ろし)
(注)アロース・ドースはポルトガル風ミルクライス。デザートの一種です。
【小説】願い
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「scriviamo! 2015」の第五弾です。limeさんは、「Infante 323 黄金の枷」のヒロイン、マイアを描いてくださいました。
limeさんの書いてくださった『(イラスト)黄昏の窓辺…黄金の枷のマイア』
limeさんは、登場人物たちの心の機微を繊細かつ鮮やかに描くミステリーで人氣のブロガーさん。昨年はアルファポリスで大賞も受賞されたすごいもの書きさんです。穏やかで優しいお人柄も魅力ですが、さらになぜこんなに絵も上手い、という天も二物も三物も与えちゃうんだな〜、というお方です。
昨年の蝶子に続き、今年描いてくださったのは、初マイア! いやあ、嬉しいですね。この世界はじめてのイラストですから。で、もともとこの企画用に描いてくださったこのイラスト、トリミングして本編でも使わせていただきました。マイアが夕陽を見ているシーンだったので。limeさん、本当にありがとうございました。
そして、お返しは、このイラストのシーンを丸々使わせていただいて、外伝を書きました。イラストのマイアが夕陽を見ているというのが、私には何よりもツボでして、こうなったら隠れ設定をあれこれ出して、この話を書くしかない! と、思ってしまいました。つい先日発表した外伝「再会」の数日後という設定なので、やはり現在発表している本編の時系列では四ヶ月後くらい先の話です。マイアはまだ休暇中で館の外にいます。
なお、この作品に関しては、本編を読まないと意味の分からないことが多いかもしれません。下のリンクはカテゴリー表示ですが、一番上は「あらすじと登場人物」ならびに用語の紹介になっていますので、手っ取り早く知りたい方はそちらへどうぞ。
【参考】
![]() | Infante 323 黄金の枷 |
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願い
——Special thanks to lime san
その部屋は柔らかい光に包まれていた。ボルサ宮殿からほど遠くない、街の中心と言ってもいい立地にあるのに、居間に通されて扉が閉められると、今通ってきた喧噪が嘘のように静かになった。
「今、奥様がお見えになります。少々お待ちください」
マイアよりももっと若く見える使用人の女性が言った。
ドン・アルフォンソの主治医であるジョアキン・サントス医師の自宅にはこれまでなんどか来たことがあった。マイアが子供の頃からの家庭医で、マイアの母親の病にあたっても彼が力を尽くしてくれた。
母親が亡くなって以来、身内に《星のある子供たち》が一人もいなくなったマイアには、サントス医師は問題が起こった時に頼ることの出来る唯一の存在だった。
二度目の休暇が終わりに近づいた九月。マイアはサントス夫人から自宅に来ないかと誘いを受けた。ドラガォンの館に勤めるにあたって、マイアの推薦状を書いてくれたのは他ならぬサントス医師だったし、ドラガォンの館に出入りしているサントス夫妻の前では、沈黙の誓約に縛られて何も言えないということはなかったので、マイアは夕食の誘いを受けることにした。
マイアは心地のいいソファに緊張して座っていた。丁寧に使い込まれた、品のいい木製のテーブル、明るく夕方の光に溢れた室内。ドラガォンの館の重厚な家具は、時に重苦しさを感じることがあるが、この部屋の家具は優しく女性的だった。サントス夫人の穏やかで優しい笑顔を思いだして、マイアは微笑んだ。
部屋の奥に、黒い大理石の大きな板がかかっていた。同じようなものをどこかで見たと思った。ああ、ドラガォンの館の食堂に掲げられている系図と同じ色だ。代々の当主の名前が刻まれ、金色に彩色されたその大理石板にはマイアはあまり興味を持てなかったが、この部屋にかかっている大理石には、文字ではなくレトロな世界地図が彫られていた。この国、この街が中心となっていた。大航海時代、この国にとって世界が征服すべき驚異で満ちていた頃。マイアは、同じように船に乗って海の向こうへと行ってみたいと思っていた子供の頃を思いだした。
今のマイアにとっては、その世界地図よりもずっと心惹かれるものがあった。ソファに立てかけられたギターラ。彼の奏でる音色が、彼女の中に響いた。明後日にはまた逢える。一日でも早く休暇が終わればいいと思っていた。今、何をしているのだろう。私がこんなに逢いたがっているなんて、きっとあなたは思いもしないんだろうな。
彼女は、立ち上がってギターラのそばへ行くと、そっと弦に触れた。澄んだ音がした。震える弦は空氣を研ぎすましていく。ギターラはどこにでもあった。子供の頃からたくさんこの音を聞いてきた。けれど一度だってこれほど特別な楽器ではなかった。あなたがこれを特別にしちゃったんだね。マイアは心の中で23に話しかけた。
手首の腕輪に光が反射して、マイアは窓を見た。太陽が西に傾き、D河にゆっくりと降りて行こうとしていた。彼女は、窓辺に立った。いつも惹き付けられた夕陽。彼との出会いの記憶。きっと私は生きている限り、こんな風に夕陽を見続けるんだろうな。
静かにドアが開いて、イザベル・サントス夫人が入ってきた。彼女は窓辺ですっかり夕陽に魅せられているマイアの姿を認めて、立ちすくんだ。マイアの髪は赤銅色に輝いていた。瞳は輝き、わずかに微笑んでいた。イザベルは感慨にひたって、しばらくマイアと夕陽に染まっていくギターラを見つめていた。
マイアがそれに氣がついて、振り向き頭を下げた。
「すみません、つい見とれてしまって」
イザベルは笑った。
「いいのよ。私の方こそ、つい想いに浸ってしまって」
マイアはわからないというように首を傾げた。イザベルはメガネの奥の目を細めて微笑んだ。
「ドン・カルルシュが、今のあなたを見たら、どんなに喜んだことでしょう」
「ドン・カルルシュ……?」
マイアもその名前は知っていた。23の亡くなった父親、ドラガォンの前当主のことに違いない。だが、マイアは当然のことながら、全く面識がなかった。
「今日は、よく来てくださったわね。どうぞ座って。以前、ドンナ・マヌエラのお手紙を届けてくださったときは、すぐに帰ってしまったから、いつかはゆっくり話をしたいと思っていたのよ」
ドンナ・マヌエラの使いで久しぶりに逢った時、夫人の髪が銀色に変わっていることや、ずいぶんふくよかになったことで時間の流れを感じたが、その穏やかで優しい人柄には前と同じようにほっとさせられた。
「本日は、お招きいただきましてありがとうございます」
マイアははにかみながら言った。
「ジョアキンはいま診療所を出た所ですって。もうしばらくしたら戻るでしょう。今日はゆっくりしていってね。今、軽い飲み物を持たせるわ。ジンジャは好きかしら?」
スパイスの利いたさくらんぼリキュールのジンジャはアルコール度数が高いので、マイアがあまり強くないことを知っているイザベルは氷を入れて出してくれた。
「あの……」
イザベルは、マイアの戸惑いを感じ取ったようだった。
「ジョアキンが帰ってくる前に言った方がいいかしらね。今日はね、実はあなたのお父様に頼まれたの」
「父が……?」
「ええ。フェレイラさんは、あなたのことを心配していらっしゃるの。何か悩みがあるみたいだけれど、誓約があるから聞いてやることが出来ない、代わりに力になってくれないかって」
マイアは、うつむいた。
「父が、そんなことを。ダメですね、いくつになっても心配ばかりかけて……」
「ドラガォンの館はどう? 困っていることはない?」
マイアは顔を上げてはっきりと言った。
「とてもよくしていただいています。ご主人様たちはみな親切で、メネゼスさんや、ジョアナには、失敗をたくさん許してもらっているし、それから他の人たちにも、親切にしてもらっています」
「そう。フェレイラさんの思い過ごしかしら」
「いいえ。でも、それは個人的なことなんです。誰にもどうすることもできない……私が、見ちゃいけない夢を見ているだけなんです」
マイアがそう言うと、何か思い当たることがあるのか、イザベルは控えめに微笑んだ。
「そう。あなたが想うのを、禁じることが出来る人はどこにもいないわね。あなたの夢と願いを大切にしなさい。きっとそれがあなたの人生を実りあるものにしてくれるでしょうから」
「……はい」
イザベルは、手を伸ばしてマイアの視線の先にあるギターラを手にとり、そっと弦に触れた。明るく澄んだ音がした。マイアは、また心が23に向かうのを感じた。
「先ほど、ドン・カルルシュの話をしたでしょう」
その言葉に、マイアははっとして想いを夫人に戻した。
「セニョール323が、十四歳くらいの時だったかしら。ドン・カルルシュがここでこのギターラをご覧になってね。だれかギターラのレッスンをつけられる《監視人たち》か《星のある子供たち》を知らないかっておっしゃったの。それで、私の長くついている先生をご紹介して……。もともと才能がおありになったのでしょうね。あっという間に私を追い越して……。もう長く拝聴していないけれど、とてもお上手でしょう?」
「はい。上手い下手という枠組みをはるかに超えて、素晴らしい音楽です。聴く度に心が締め付けられるようになります」
イザベルは、マイアの想いに沈んだ様子を、優しく眺めて続けた。
「たった二つ、それしか望んでくれなかった……。ドン・カルルシュはそうおっしゃったわ」
「?」
「ずいぶん昔の話よ。まだ、セニョール323が子供の頃、ドン・カルルシュは意図せずに取り返しがつかないほど深くその心を傷つけてしまったんですって。彼が閉じこめられてすぐにそのことがわかって、心から後悔して、許しを請いにいかれたそうなの。その時のことを、氣づくのが遅かった、遅すぎたと泣きながらジョアキンに打ち明けられたの」
「23は、いえ、セニョール323は、お父上を許さなかったのですか?」
マイアが意外そうに訊くと、イザベルは首を振った。
「怒った様子も、批難する様子もお見せにならなかった。でも、それと心を開くということは違うわよね。あの方がほとんど誰とも関わろうとしなくなってしまったのは、ご自分のせいだとドン・カルルシュは生涯悔やまれていらしたわ」
「それで……?」
「ドン・カルルシュは、ご自分に可能なことなら、どんな願いでも叶える、わがままを言ってほしいとセニョール323におっしゃったそうよ。もし、彼が望むなら《監視人たち》の中枢と戦ってでも、格子から出してもいいとまで思っていらした」
「彼は、それを望まなかったんですか」
「望んでいらしたでしょうね。でも、おっしゃらなかったそうよ。館の外に出てみたいとも、学校に行ってみたいとも、その他のありとあらゆる望みがあったでしょうに、ドラガォンにとって難しいことは何一つおっしゃらなかったそうよ。たった二つの小さい望みを叶えてもらうために、我慢したのだと思うわ」
マイアは、ジンジャの中の氷が全て溶けてしまっていることに氣がついた。グラスが汗をかいている。
「彼の望みって……」
「一つは、ギターラを習いたいということ。そんな時に言うまでもない望みよね。そんな小さなことまで、自分からは言えないでいたなんてと、ドン・カルルシュはショックだったみたい。そして、もう一つが、あなたのことだったのよ」
「私のこと?」
「セニョール323は、自分が話しかけたために、あなたとあなたの家族がナウ・ヴィトーリア通りに強制的に引っ越しさせられてしまったことをずっと氣になさっていらしてね。あの子が前のように河で夕焼けを見られるように、どうかあの一家を元通りにしてほしいと、そうおっしゃったんですって」
マイアは大きく目を見開いて、イザベルの言葉を聞いていた。
「すぐに元に戻してあげたくても、フェレイラさんはもう新しい職場で働いていた。あなたたちはもう新しい学校に通っていた。フェレイラさんのもとの職場には新しい人が働いていて、その人にも家族がいて生活があった。だから、ドン・カルルシュにもすぐに彼の望みを叶えてあげることは出来なかったの。セニョール323は二度と、その願いを口になさらなかったし、あれからどうなったかとお訊きにもならなかった。だからこそ、ドン・カルルシュはなんとしてでもあなたたちを元に戻して、セニョール323の願いを叶えてさしあげたかったのでしょうね。それから、何年間も働きかけ続けたのよ」
「知りませんでした……」
「大きな書店を買い取って、その店長の職をさりげなくオファーしたり、元の店の同僚をもっといいポジションに引き抜いて場所を作ったり……。でも、フェレイラさんは、長いことチャンスをことごとく断り続けたの」
「父が?」
「ええ。フェレイラさんは、何度もドラガォンに抵抗して、大切なものを失い続けてきたから、これ以上大切なものを失いたくなかったんだと思うの」
「抵抗?」
「あなたのお母様と結婚したくて、映画みたいな逃避行を繰り返して。その度に《監視人たち》に止められて。仕事を失ったり、財産を失ったり、家族に縁を切られたりと散々な目に遭ったのよ。最終的にあなたのお母様はこれ以上フェレイラさんを苦しめたくないからと、人工授精であなたを産むことで、《監視人たち》とフェレイラさんの闘いに終止符を打ったの」
「まさか」
「そうなの。だから、あなたのお母様が亡くなられた時に、《監視人たち》の中枢部は、虐待される可能性があると、あなたを引き取ろうとしたの。そうしたらフェレイラさんは、もう一度大騒ぎを起こしたのよ。世界中を敵に回しても、絶対にマイアは渡さないって」
イザベルは、面白おかしい話のように語ったが、マイアには全てはじめて聞くことだった。
「そう言う事情があったので、どんなにうまい話が来ても、不安だったんじゃないかしら。うかつに戻ったりしたら、今度こそあなたを取り上げられるんじゃないかって。ドン・カルルシュの意向だと始めから言えばよかったのかもしれないけれど、それを言ったらドラガォン嫌いのフェレイラさんに断られるかもしれないので、中枢部はあくまで偶然を装ったの。だからいつまで経ってもフェレイラさんは不安を拭えなかったのよ。あなたが十分に大きくなるまで」
「知りませんでした。父は、何も言ってくれなかったから……」
「そう、言ったらあなたが《星のある子供たち》としての存在に苦しむと思ったんでしょうね。血は繋がっていなくても、フェレイラさんはあなたのことを娘として深く愛しているから。お母様とのなれ初めも、それに伴うドラガォンとの確執も、それから、お母様との短かったけれど幸福だった結婚生活についても口に出来ないのよ」
マイアの瞳に涙が溢れ出した。一人だけ腕輪を嵌められて、つらいことばかりだと思い続けてきた自分はなんて勝手だったのだろう。
「フェレイラさんが、ようやくセウタ通りの書店に勤められることが決まって、レプーブリカ通りにまた住むことが決まったのは、四年前だったわよね。ドン・カルルシュが亡くなる少し前のことで、もう大層お悪かったんだけれど、ジョアキンがそのことをお知らせしたら泣いて喜んでいらっしゃったんですって。セニョール323とその話をなさったかまではわからないけれど」
窓辺はすっかり暗くなっていた。河に沈む夕陽を眺めれば、悲しいことを忘れられる。それは自分しか知らない小さな楽しみのつもりだった。マイアはずっと知らなかった。23は自分の自由を犠牲にしてマイアの小さな幸せを願い、ドン・カルルシュが生涯にわたって氣にかけ、サントス医師夫妻や、多くの《監視人たち》がその願いを実現しようと骨を折り続けていた。そして、父親は血のつながっていない自分のために苦労して心を砕きつづけてきた。
いまマイアは、ドラガォンの館の夕陽のもっとも美しく見える部屋から、河と、それから鉄格子の向こうの優しい人の影を見ることができる。私は不幸でもなければ、一人ぼっちでもなかったんだ。ずっと、十二年も、いえ、生まれたときから。関わった全ての人たちの、優しさと、願いと、想いの助けを得て、大人になり、一番いたい場所にきて、いつまでも存在を感じ続けていたい人の近くで、夕陽をみていられる。
サントス医師が帰って来た。イザベルは食堂へ行くようにと誘った。マイアは、涙を拭いて頷いた。話を聴けてよかったと思った。休暇が終わる前にお父さんとワインを飲んで話をしよう、それに、明後日、館に戻ったら、23に今日の話をしてみよう。お互いの父親の子供を思う愛について、彼はなんて言うんだろう。
(初出:2015年1月 書き下ろし)
この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。
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【小説】格子の向こうの響き
現在連載している「Infante 323 黄金の枷」は三部作の一作目。三作を通して登場人物は「ドラガォンの館」を中心にした二世代なのですが、今回はじめて出てくる人物が最後の大物です。これでようやく全部揃ったという感じ。(あ、まだライサ・モタが出てきていないか)
今回の話は、前回発表したばかりの「願い」のエピソードと互いに関連しています。父親が23の心を傷つけてしまった件ですね。
出てきた曲は、いつものように追記でご紹介しています。
![]() | 「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
格子の向こうの響き
激しい弓使いが暗い館の重い空氣を切り裂いた。23はその音に心惹かれて格子に近寄った。その奥に閉じこめられているのが、彼自身と同じ番号の名前を持つ人だという事は知っていた。十一歳になったばかりの23には、その人が動物のように檻に閉じこめられている理由も、そして、食事の度にその扉が開かれて召使いが呼びかけるのに、絶対に出てこない理由もわからなかった。
それはいつもの儀式だった。召使いたちもそれから23の両親も、Infante322が食事に出てくるとはもう考えていなかった。しばらく待つと、やがて当主であるドン・カルルシュ、23の父親が目で指示をしてメネゼスは召使いたちに給仕を始めるように合図する。22の居住区には、もう一人の召使いが直ちに向かい、彼の三階の部屋のテーブルにクロスやカトラリーをセットする。そして彼の食事はそこへと運ばれるのだった。
「牢屋に閉じこめられるなんて、どんな悪いことをしたの?」
とても幼い頃に24が訊いて、両親にきつく窘められて以来、兄弟の誰も彼のことを詳しく訊くことが出来なかった。けれど、23はもう理解していた。Infante322は、ドン・カルルシュの弟、彼の叔父だった。そして、彼の父母と22の間には、とても大きな蟠りがあり、格子の向こうの男は兄夫婦のことを激しく憎んでいるらしいことを。
23の祖父、前当主が生きていた頃から、22は館の中で一人浮いた存在だった。召使いともほとんど口をきかず、家族には冷たい拒否を示し、ただ一人で格子の向こうに居続けた。誰も彼に近づこうとしなかった。それは子供たちにとって無言の禁忌となり、彼らもまたその居住区の前を通るときは早足になり、冷たい青い眼に見られることがないようにした。
けれど、23は今その格子に惹き寄せられていた。それははじめてではなかった。22がヴァイオリンを奏でる時、または一階に置かれたグランドピアノの鍵盤を叩いている時、23は居住区の側までやってきて、階段に腰掛けて聴き入ることがよくあった。
23はそうでなくても、いつも一人だった。居間で他の兄弟たちが遊んでいるときも、24が使用人に甘えて一緒にゲームをしてもらっているときも、アントニアが母親と花を手折りながら庭をまわっている時も、彼は黙って部屋の隅にいた。甘えて、仲間に入れてほしいと言えばよかったのに、それが出来なかった。あの晩以来。
それは23が八歳の時だった。その数日前に、アルフォンソが心臓発作で入院した。付き添いとして病院へ行った母親に会えなかったので、六歳になったばかりの24は泣いて騒ぎ、容態が安定したと戻ってきたマヌエラにしがみついて離れようとしなかった。23も寂しかったので、母親のもとへ行こうとしたが、カルルシュに厳しい声で止められた。
「トレース、お前までマヌエラを患わせるな。少しは我慢しろ」
夜になって、彼は夢にうなされて目を覚ました。静かな部屋の中で、汗を拭き、ひと目だけでも母親に逢いたくて、23はそっと廊下にでた。カルルシュとマヌエラの部屋の前まで歩いていくと、扉がわずかに開いていて光が漏れていた。そして両親が密やかに話しているのが聞こえた。マヌエラが泣いているのがわかった。
「大丈夫だ。前回の発作よりも軽く済んだじゃないか。前よりもよく食べて、体もきちんと育っている。希望を捨てないでくれ」
「ええ。あなた、わかっています。でも、アルフォンソが不憫で……。苦しいでしょうね」
「あれは俺の弱い体を受け継いでしまったのだろう。許してくれ、マヌエラ」
「あなたのせいではありません」
「幸いクワトロは健康で、美しく、天使のようで、本当にドイスの子供の頃にそっくりだ。あの子がお前に親としての最高の幸せを与えてくれるだろう」
「カルルシュ、なにを言うの。あなたが与えてくださったどの子供だって……」
「それはそうだ。だが、俺は時々苦しくなる。クワトロを誰よりも幸せにしてやりたくなる。あの笑顔を消したくないんだ」
「カルルシュ、お願いですから、そんな事を言わないでください」
「すまない。子供たちには、こんな感情は悟られないようにしないと……」
23は、踵を返して走り去った。誰かがいたことに氣のついた両親が、扉を開ける前に彼は部屋に飛び込んでベッドに潜り込んだ。それから朝までもっとひどい悪夢にうなされた。
目を覚まして、顔を洗うために洗面所の鏡の前に立った。黒い縮れた髪、黒い眉の下に焦げ茶色の瞳、自分の顔を醜いと思ったことは一度もなかった。鏡に映っている少年は、醜くはなかった。だがどう眺めてみても天使には見えない。いつも感じていた漠然とした想いが、言葉になって心に渦巻いていた。どうして誰もが24に笑いかけて、俺には無関心なんだろう。父親が自分に対して冷たいと感じたことは一度だけではなかった。母親が一番最初に24を抱き上げるのもなぜだろうと思っていた。それでも、それは自分の思い過ごしだと信じ込もうとしていた。そうじゃなかった。
そのことは誰にも打ち明けられなかった。アルフォンソは、次期当主としての英才教育に加えて、体が弱いためにいつも誰か大人と一緒にいて、二人だけでゆっくり話せるようなことはなかった。アントニアは23にほとんど興味がなかった。一度その夜のことを自分の奥底に沈めてしまったために、この三年間、彼は家族ときちんと話せなくなってしまった。
珍しく使用人たちが話しかけてきても、父親や母親に笑顔を向けられても、彼は戸惑いほとんど口もきかずに必要最低限の返事をするだけになってしまった。以前のように母親に抱きつくことも、無邪氣に24と遊ぶことも出来なくなった。その態度がますます館の全ての人間の態度をよそよそしくした。
いつの間にか、彼が一番近いと思える人間は、格子の向こうの叔父になった。彼に暖かいからではなく、誰に対しても冷たく、一人でいることに怖れも持たず、自分の世界だけに生きている姿が心の支えになった。
その叔父が息をしてこの世に存在している証が、聴こえてくる音色だった。激しい切り裂くような弓使い。力強く想いのこもった響きだった。その日は彼は珍しく三階や階段を下りた一階ではなく、格子の向こうである二階の居室に立っていた。広い部屋の一番奥にいたので、階段からはどこにいるのかわからなかったが、音色はいつもより空間に広がり、23を魅了した。
彼は思わず立ち上がり、格子に向かって歩いた。格子をつかみ、音色に耳を傾けた。何もかも悟ったような冷たい瞳をしていても、彼の奏でる音はこれほどに狂おしい。誰をも必要としていないように振る舞っても、彼の音はこれほどまでに惹き付ける。それが自分の中にある風を巻き起こしたようで、23は居ても立ってもいられなくなった。
突然、音が途切れた。23ははっとして瞼をあげて格子の向こうを見た。すぐ近くにヴァイオリンを構えたまま22が立ち、厳しい顔で23を見下ろしていた。このように正面から彼の顔を見上げたのは初めてだった。彼は猛禽に見つかった鼠のように固まったまま動くことが出来なくなった。勝手に親しみと憧れを持っていたその男は、優しさも同情も全く見せない様相で、格子をつかんでいる少年を見下ろしていた。
「何をしている」
23は、瞬時に見て取った。この人も俺のことを嫌っている。しかも、他の人のように何となくではなく、強く意志を持って憎んでいる。でも、どうして。俺は、この人に憎まれるようなことをしたことは、一度だってないのに。
「その……近づいてもっとよく聴きたかったんです」
22はわずかに表情を緩めた。
「お前は、23だったな……」
「はい。そうです」
彼は、少年の顔をまじまじと眺めつつ言った。
「本当によく似ている」
「誰に?」
23が訊くと叔父は口の端を歪めた。
「子供の頃のお前の父親に。見るだけで腹立たしいと思ったが、そうか、お前はインファンテだったな。私と同じ運命を歩む予定の……」
「同じ運命?」
その言葉に23は戦慄した。後から思えば、22は単純にインファンテとしての人生について口にしたのだとわかったが、その時の23は、彼が叔父に対して持つ近さを22の方も感じてくれたのかと思った。青い瞳を閉じると彼は続けた。
「この曲が好きか」
「はい。心が引き絞られるようです」
「そうか。クライスラーという作曲家の『プニャーニの様式による前奏曲とアレグロ』という曲だ。本当はピアノの伴奏がつくんだが、残念ながら私一人ではどうにもならない。もう一度はじめから弾いてやろう」
そう言うと、彼は再び弓を構えて、少年の心を震わせるあの響きを繰り返した。
この人は、世界を憎んでいるわけではない。言葉としてではなく、概念で23は理解した。情熱の響き、強い想い、何かを求め、それを未だに探している。乾き、求め続けている。それは言葉でも、冷たい一瞥でも、そっけなく興味のない様子でも隠すことの出来ないこの人の本質なのだと。
23は自分自身もまた、誰にも話しかけず、誰からも求められず、一人で部屋の隅でうずくまっているが、それは本質ではないのだと感じた。この人がこの響きを生み出しているように、自分もまた何かを表さなくてはならない。それを、彼はやはり言葉ではなく概念で感じた。そして、それは涙となって表れた。
終わりの和音を弾き終わり、余韻を味わうように弓を引いた22は、格子の向こうの少年が涙を流しているのを見て、わずかに笑った。
「拍手よりも嬉しい喝采だな」
「感情がコントロールできなくなるんです。また、弾いてくれますか」
22は首を振った。
「それはダメだ。私と親しくなろうとするな。私に音楽を求めるな。お前にそれが必要なら、自分の中に求めるのだ」
「なぜ?」
「私は、お前とは一緒にいられないからだ。それが私たちインファンテの宿命だ。音楽が必要ならば、なにか楽器を習いたいとお前の両親に頼みなさい。もし反対されたら『インファンテにはそれが必要なのだ』と私が言ったと伝えなさい。その言葉があれば、お前の両親はどんなことでも叶えてくれるに違いない」
22のいう事を、少年はよくわからなかった。彼は、この日以外に叔父と直接話をしなかった。彼は二度と二階でヴァイオリンを奏でなかったし、23は、この日のように近くへ寄ろうとしなかった。23は、叔父の怒りを買わないように、遠くからその音を聴き続けた。それは、それから三年後に23自身の体が変化して、新しい世代のインファンテとして格子の向こうに閉じこめられる日まで続いた。それと同時に叔父は館を離れて暮らすことになった。
「私はお前とは一緒にいられないからだ」
叔父の言葉は現実となった。彼は、また一人になった。彼の慰めであり、支えであった音楽は消え去った。格子の向こうへ追いやられ、彼の心は絶望と怒りに苛まれた。熱がでて、体中が痛み、背骨は歪んだ。暴れ、抵抗し、友が出来るかもしれないというわずかな希望をも打ち砕かれてから、ようやく彼は自分の運命を受け入れた。
彼は、ギターラを手にした。叔父が言おうとしていたことを、彼は少しずつ理解した。必要な響きは、己の中にある。願う通りの響きを表に出すためには、彼自身が弾き手でなければならなかった。また、その聴き手も、彼自身以外にはいなかった。
(初出:2015年1月 書き下ろし)
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【小説】午餐の後で
「scriviamo! 2015」の第八弾です。大海彩洋さんは、「Infante 323 黄金の枷」とご自身の小説のコラボで参加してくださいました。ありがとうございます!
彩洋さんの書いてくださった『【scriviamo!参加作品】青の海、桜色の風 』
彩洋さんの関連する作品:
【いきなり最終章】ローマのセレンディピティ(前篇)
【いきなり最終章】ローマのセレンディピティ(中篇)
【いきなり最終章】ローマのセレンディピティ(後篇)
彩洋さんは、たくさんの小説を書いていらっしゃるブロガーさん。書いている年数では、もしかしたら私と同じくらいかなあと思うのですが、その密度や完成度には天地の違いがあって、アマチュアでも魂を込めて精進すると、これほどのものが書けるんだといつも感心しながら読ませていただいています。中でも、ライフワークともいえる大河小説「真シリーズ」は圧巻です。
今回参加していただいた作品の主役は、この大河シリーズの最終章に登場する幸せなカップル。この二人のプレ新婚旅行に、私の書いている小説の舞台P(ポルトガルのポルト)を選んでくださいました。
そして、お返しは、書いていただいた設定を引き継いで、登場する「Infante 323 黄金の枷」の世界の小さな逃走劇の顛末を書くことにしました。できるだけ自分のキャラを中心に書きたかったのですが、それでは読者と同じ「?」の視点で書ける人物がいなかったので、そのまま彩洋さんの所のお二人からの視点で書かせていただきました。彩洋さん、すみません。キャラがぶれていないことを祈るばかり……。
なお、この作品に関しては、本編を読まないと意味の分からないことが多いかもしれません。下のリンクはカテゴリー表示ですが、一番上は「あらすじと登場人物」ならびに用語の紹介になっていますので、手っ取り早く知りたい方はそちらへどうぞ。
【参考】
![]() | Infante 323 黄金の枷 |
関連する作品:
追憶のフーガ — ローマにて
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
午餐の後で
——Special thanks to Oomi Sayo-san
その街にはレトロな路面電車が走っていて、詩織は少しだけうらやましげに眺めた。ボアヴィスタ通りに向かうバスは、何の変哲もないどこにでもあるような車体だった。けれど、詩織はホテルで「タクシーをお呼びしましょうか」と言われたのを断ったロレンツォのことを誇りにすら思っていたので、そのバスに乗ること自体に文句はなかった。
「明日にでもあれに乗ってみるか」
彼は詩織の想いを見透かしたかのように訊いたので、彼女は嬉しくなって頷いた。
詩織はバスの中で、既に観光して回ったこの街のことをロレンツォに語った。その話はやがて、詩織に街を見せてくれた天使のような優しい少女のことに移っていった。
「逢ったばかりなのに、もうずっと前からの友達みたいに感じていたの。それに、あの書店で見てしまった二人の姿、とても他人事に思えなくて……」
ロレンツォは、黙って頷いただけだったが、詩織の瞳をじっと見つめる優しさに、彼女は理解してもらっていることを感じた。
バスを降りた二人は、道沿いに五分ほど歩いた。春の光が柔らかい。通りに車が絶えることはなかったが、その騒音の合間に空を飛ぶカモメの鳴き声が聞こえてきて、それがここはローマではない、二人で異国にいるのだと浮き浮きした氣持ちにさせてくれた。
ホテルや豪邸の建ち並ぶボアヴィスタ通りはPの街でもっとも長い通りだ。その半ばほどに、ほかの屋敷よりもひときわ大きい建物があった。水色の壁、白い窓やバルコニー、そして広い庭、きれいに手入れされた庭、そしてどこからかヴァイオリンの旋律が聴こえてくる。
ロレンツォは開け放たれたひとつの窓を見上げて、その旋律に耳を傾けた。
「知っている曲?」
詩織が訊くと彼は頷いた。
「ベートーヴェンの『スプリング・ソナタ』だな」
春にぴったりな曲なのね。詩織は嬉しくなった。そのまま通り過ぎるのかと思ったが、彼は門に向かい呼び鈴を押した。それで彼女はこここそが目的地なのだとわかった。謎のドンナ・アントニアの住むお屋敷。
「ドンナ・アントニアってどんな方?」
詩織がロレンツォに訊くと、彼はちらっと彼女を見て何かを言いかけた。けれど氣が変わったのか、少し間をとってから答えた。
「すぐに逢うから自分で確かめるといい」
詩織は、大金持ちの貴婦人、銀髪の老婦人かなと思った。このような豪邸に住み、たくさんの使用人を自由に使い、ヴォルテラ家とも対等に付き合っているのだから、かなりの大物に違いないと思ったのだ。
インターフォンに答える声がして、ロレンツォが来訪を告げると「お待ちしておりました」という声がした。すぐに出てきた黒服の男が門を開け、二人を中に迎え入れた。
「ご連絡をいただけましたら、ホテルまでお迎えに伺いましたものを」
そういう男にロレンツォは首を振った。
「いえ、観光もしたかったので」
広い応接室は、光に満ちていた。白い絹で覆われたソファは柔らかかったが沈み込むほどではなく、座り心地は抜群だった。「少々お待ちくださいませ」と言って男は出て行った。物珍しそうに室内を見回す詩織をロレンツォは優しく見つめていた。ヴァイオリンの響きはまだ続いている。ずいぶん熱心に練習する人だなと詩織は思った。同じ小節を何度も何度も繰り返している。彼女にはとても上手にしか聴こえないのに、どこかが氣になるのか、その繰り返しをやめなかった。
ドアが開き、女性が入ってきた。詩織は目をみはった。長い絹のような黒髪、水色の瞳、細い三日月型の眉、そして赤く形のいい唇、女優かモデルみたいな人だと思った。歳の頃は二十代後半か、三十代のはじめ、ヴァイオレットの絹に黒い唐草の刺繍のしてある大胆なボレロとタイトスカートを優美に着こなしていて、ひと目で貴婦人だとわかった。背が高い。ロレンツォが立ち上がったので、詩織もあわてて立った。
その麗人はロレンツォと詩織に親しげに微笑みかけ、流暢なイタリア語で挨拶をした。
「ようこそ、スィニョーレ・ヴォルテラ、スィニョーラ・アイカワ。お呼び立ていたしました」
ロレンツォはさすがはヴォルテラ家の跡継ぎだった人だと感心するような完璧なマナーで女性に挨拶をした。
「お招きいただきまして光栄です、ドンナ・アントニア。ついに私の婚約者を紹介できて嬉しく思います」
では、この方がドンナ・アントニア! 詩織は驚きの色を隠せないまま、アントニアに頭を下げた。
「ヴォルテラ家の方にわざわざ足をお運びいただいたのですから、本来でしたら、当主のアルフォンソこそが今日の午餐でおもてなしすべきなのですが、あなたの弟様がご依頼された件の後処理がまだございまして、間に合いませんでしたの。失礼を心からお詫びするようにと伝言を申しつかっています」
「とんでもない。弟がお願いした件で、ご迷惑をおかけしたのではないでしょうか」
「いいえ。もともとは私どもの問題ですから。ただ、スィニョーレ、あなたにはおわかりいただけるかと思いますが、システムを統べるものが、ルールを曲げることはとても難しいのです。あの娘にはルールに則り、自身の義務を果たさせるために抑制力が動いていました。けれど、他のことならともかく、ヴォルテラ家が関わったので、私どもは例外を作らねばなりませんでした。スィニョーレ・ヴォルテラ、どうか弟様にお伝えくださいませ。システムの例外を作るために、誰かがその義務を引き受けねばならなかったと。ご自身の身を以てご存知のはずの、同じことがここでも起きたのだと」
詩織は不安になって、アントニアとロレンツォの顔を見た。ロレンツォも眉をひそめ訊き返した。
「それは、誰か他の方が望まぬことを押し付けられて、不幸になったのだということですか」
アントニアは、微笑んだ。
「ご心配なく。午餐に同席しますので、そうではないことをご自身で確認なさるといいですわ。私が申し上げたかったのは、こういうことです。あなた方がお持ちの権力は多くのことを可能にするでしょう。けれども、システムは思っておられる以上に複雑なのです。安易に発生させた例外が、時に重篤な問題の引き金となることを、知っていただきたいのです」
そういうと、アントニアは二人を食堂へと案内した。大きいシャンデリアの輝く部屋だった。琥珀色と白の入り交じった大理石の床の上に、どっしりとしたマホガニーの大きなテーブルがあり、そこに一組の男女が座っていたが、三人の姿を見ると立ち上がった。詩織にとっては一度も見たことのない人たちだったが、ロレンツォは驚いた様子で声を上げた。
「マヌエル、マヌエル・ロドリゲス、君か! それに、あなたは、確か、クリスティーナ・アルヴェスさん……」
ロレンツォに親しげに握手をするその青年は、キリスト教司祭の黒地に白い四角のついたカラーの服装をしていた。そして、詩織はクリスティーナと呼ばれた女性の左手首に、コンスタンサと同じ金の腕輪があるのを見て取った。館の美しき女主人の手首にも同じ腕輪があるのを彼女は既に発見していた。
アントニアははっきりとした声で言った。
「マヌエル・ロドリゲスは既にご存知のようですね。ご紹介しますわ。こちらにいる女性は、コンスタンサ・ヴィエイラです。スィニョーラ・アイカワはもうよくご存知ですよね。何度かご案内をさせていただきましたから……」
詩織には、先ほどからアントニアが口にしてきた内容が、ようやく形をとって見えてきたような氣がした。この女性は、詩織が知っている、彼女がPの街に到着してからずっと案内してくれて、かけがえのない友達になっていたコンスタンサとは似ても似つかない別人だった。あのヘーゼルナッツのような色合いの髪の、天使のように儚い美少女はいっても17、8歳だったはずだ。けれど、その場にいるのは、アントニアと変わらぬほどのしっかりとした成人で、黒髪に濃い焦げ茶の瞳を持った意志の強そうな女性だった。
「はじめまして、スィニョーレ・ヴォルテラ。こんにちは、シオリ」
女性は平然と口にした。ローマでロレンツォにクリスティーナ・アルヴェスを紹介したマヌエル・ロドリゲスも、それについて何の訂正もしなかった。ロレンツォと詩織は、さきほどアントニアが口にしていた「開いた穴」とはコンスタンサという存在で、それを「塞いだ」のが、ここにいるもとクリスティーナと呼ばれていた女性なのだと理解した。
二人が、席につくと、午餐がはじまった。詩織は、給仕をする召使いたちも、黄金の腕輪をしていることに目を留めた。継ぎ目のない黄金の腕輪。手首の内側に、男性には青い、女性には紅い透き通る石がついている。詩織はどちらもコランダムではないかと思った。色と輝きからすると24金に見えるし、ルビーやサファイアを使っているとすると、召使いとして生計を立てる人間が簡単に買えるような値段のはずはない。しかも、それぞれの違う太さの手首にぴったりと嵌まっている。それは一つひとつがオーダーメードだということを示している。詩織が腕輪に職業的興味を示しているのを見て、ロレンツォは微かに笑った。
料理は、格別手が込んでいるように見えないのに、味わい深かった。白いジャガイモのヴィシソワーズに渦巻き型に流し込まれた緑色のピュレ。コンスタンサと一緒に街の食堂で食べたカルド・ヴェルデという青菜のスープだろうと思った。それはずっと滑らかで青臭さはまるでないのに、しっかりとした味を感じた。
サラダには薄くスライスしたゆでだこがカルパッチオのようにのっていたが、ひと口食べてみてその柔らかさに驚いた。ソースは実にシンプルで、たこの味が浮き上がるように計算されていた。
マデイラワインを贅沢に使ったローストポークも、とても柔らかくてジューシーだった。それに、日本人の詩織にとってはどこかなつかしい、舌に馴染む味だった。海外旅行から日本に戻って、母親のみそ汁を口にした時に旅の疲れがほどけていくような、安心する懐かしさがある。
ロレンツォは、ワインにも驚嘆しつつ、マヌエルに話しかけていた。
「枢機卿は、アルゼンチンへ行かれたのだろう。君も同行するものだとばかり思っていたが」
「いいえ。私は役目を辞して、ここへ戻ることになったのです」
「なんだって? それはまた急じゃないか」
「ええ。わかっています。家業に従事することにしたのです。猊下にもお許しをいただきました」
ロレンツォは、この青年が特別の家系に生まれ、親と同じ仕事をして生きるのを嫌がって、この街から離れるために神学生になったことを知っていた。この急な帰国がコンスタンサの件と無関係とは考えられなかった。だが、マヌエルは迷いのない表情をしていた。
別れの時間が来た。玄関でロレンツォの頬に軽く親愛の口づけをし、それから詩織を優しく抱きしめると、アントニアは首に掛けていたハート形の黄金の針金細工を外し、詩織の首に掛けた。
「これは……?」
「この国の伝統工芸でフィリグラーナといいます。女の子が生まれると、両親はその子の幸せを祈り、これを少しずつ買い集めて、婚礼に備えるのです。これは、私の父と母から贈られたもの。幸せな花嫁になるあなたへの私からの小さな贈り物です」
「そのように大切なものを……」
「どうぞ受け取ってください。花嫁になることのない私には宝の持ち腐れなのですから」
車で送らせるというアントニアの言葉を断り、先程と同じバスに乗って、さらにボアヴィスタ通りが終わる所、大西洋に面したフォスまで行った。カステロ・ド・ケージョというクリーム色の要塞が建っている。
「ほら、さっき食べたチーズみたいな形だろう。だから、チーズのお城って言うんだ」
ロレンツォは、その説明をしながらも、どこか心は遠くにあるようだった。
「美味しい食事だったわね」
詩織はわざと関係のなさそうなことを言ってみた。彼は詩織の方を見て、頷いた。
「ねえ。訊いてもいい?」
「何を?」
「食事の最中に、ヴァイオリンの弾き手のことで、奇妙な会話をしていなかった?」
デザートが運ばれてくる前に、ロレンツォがずっと聴こえているヴァイオリンの演奏について口にしたのだ。
「先日お伺いした時にも申し上げたかったのですが、見事な演奏ですね。もし可能でしたらお近づきになって、素晴らしい演奏に対してのお礼を申し上げたいのですが」
するとアントニアは、にっこりと微笑みながら答えたのだ。
「そのお言葉を伝えたら、大層喜ぶと思いますわ。あれは、前当主のカルルシュが弾いているのです」
ロレンツォは、押し黙って、アントニアの顔を見つめた。彼女は少し間をとってから続けた。
「ですから、ご紹介はできないんですの。ご理解いただけますでしょうか」
「それは、もちろん、わかります」
詩織は、大西洋の優しい潮風を感じながら、ロレンツォの顔を見た。
「前の当主が引退してあそこに住んでいるってことでしょう? でも、どうして紹介できないの?」
「ドン・カルルシュが五年近く前に亡くなったからだ。父はその葬儀に出たんだ」
「え?」
「そう。あのヴァイオリンを弾いていたのは、幽霊ということになる。それに……」
ロレンツォは、詩織と自分の履いている靴を眺めた。詩織が履いている靴を見て、アントニアは微笑みこう言ったのだ。
「その靴、お氣に召しました?」
「はい。こんなに履き心地のいい靴ははじめてです。大切にします」
「そうアルフォンソに伝えましょう。彼からの伝言です。もし合わない所があったら遠慮なく言ってほしいと、納得がいくまで作り直すからと。この靴は、彼が作ったのです」
二人は目を丸くした。謎の靴職人が当主その人だなんて、誰が信じるだろうか。
「あれも、同じ意味だったのかもしれない。ドラガォンには、たくさんの幽霊がいると聞いたことがある」
「ドラガォン?」
首を傾げる詩織をロレンツォはおかしそうに見た。
「まさか、あの人たちを靴制作の集団だとは思っていないだろう」
「そりゃ、思っていないけれど……でも、ドンナ・アントニアとあなたが話していた内容、ほとんど何もわからなかったわ。そういうことに首を突っ込んだりしちゃ、いけないのかと思っていたし」
「私が知っていることを全て話すわけにはいかない。でも……」
「でも……?」
「お前の友達と、あの女性が入れ替わったことはわかっただろう?」
「ええ、なんとなく」
「トトが、どうやってヴィエイラ嬢と書店員の青年のことを知り、首を突っ込んだのかはわからない。彼らしい優しさに満ちた手助けだったんだろうな。だが、それはヴォルテラ次期当主のとった行動としては大失態だった」
「失態?」
アントニアが、食堂へ移動する前に口にした言葉を思いだした。
「スィニョーレ、弟様にくれぐれもお伝えください。これは我々からの意趣返しでも報復でもないのです。私たちには他に使えるカードがなかったのです」
「報復がどうとか、おっしゃっていたこと?」
詩織が訊くと、ロレンツォは頷いた。
「報復ではなくとも、警告なのかもしれないな。火傷をしたくなければ二度とこんなことはするなと」
「どういうこと?」
「ヴォルテラ家の当主、大きな組織の長として、大きな問題を把握し事態を打開していく時に頼りになるものは何だと思う?」
詩織は考えた。
「財力……いいえ、違うでしょうね。判断力や頭の良さ、それとも人間関係?」
「そうだ。一番大切なのは人脈だ。億単位の金を何も訊かずにすぐに動かしてくれる人物、何かあった時に必要な情報をすぐに集めてくれる人間、自分の危険すらも省みずにこちらのために働いてくれる人びと。そうした人びとは、親の代からのつながりでも知り合うが、結局は本人が心から信頼できる人間をどれだけ増やせるかにかかっている。トトにはドラガォンとのつながりも不可欠だ。ドン・アルフォンソの統べているドラガォンは、秘密結社的な巨大システムだ。とくにヴァチカンを快く思わない特定のキリスト教徒たちに対して、ある種の絶対的な影響力を持っているんだ。偶然知り合ったクリスティーナ・アルヴェスという存在は、トトにとって神からの恩寵も同然だった。ドン・アルフォンソやドンナ・アントニアが家族も同然に思っている特別な女性だ。ヴォルテラがドラガォンの協力を必要とする時にパイプ役としてこれ以上の人物はまずいない。しかも、ローマにいたんだ」
「あの女性が……?」
「そう。それなのに、あいつは意図せずに、そのクリスティーナ・アルヴェスと、お前の友達、ヴォルテラにとっては何の意味もない恋する少女を交換してしまったんだ。父がこのことを知ったら、なんて言うか。今から頭が痛いよ」
詩織には、あまりにも大きな話でピンと来なかった。金の腕輪をしている奇妙な人たち。何人もいるらしい幽霊。聞いた事もない組織。現実のものとは思えない。ロレンツォは、首を傾げている詩織に笑いかけた。
「もっともお前にとっては、朗報だな。あの二人は、新しいクリスティーナ・アルヴェスとその恋人として、ローマに住むことになる。新しい友だちといつでも逢えるぞ」
それは確かに朗報だった。乗りたかったレトロな路面電車は、二人を迎えにきたかのようにそこにきて停まった。海からの心地よい風が吹いている。ロレンツォと二人でここにいる。素敵なことばかり。詩織は胸元のフィリグラーナをぎゅっと握りしめた。
(初出:2015年2月 書き下ろし)
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【小説】サン・ヴァレンティムの贈り物
「scriviamo! 2015」の第十弾です。山西 左紀さんは二つ目の参加として、前回の『絵夢の素敵な日常(初めての音)Porto Expresso2』の更に続きを書いてくださいました。ありがとうございます!
山西 左紀さんの書いてくださった『Promenade 2』
山西 左紀さん関連する小説
絵夢の素敵な日常(10)Promenade
絵夢の素敵な日常(12)Porto Expresso
絵夢の素敵な日常(初めての音)Porto Expresso2
すてきなお嬢様、絵夢が繰り広げる一連の作品は、左紀さんの作品群の中ではほんの少し異色です。どの作品も素敵なのですが、このシリーズは他の作品群と較べて、楽しく彩られているように思うのです。明るくて凛としていて、そしてどこかユーモラスな絵夢が、周りを優しく力強く変えていくのですが、そこにはどこも押し付けがましさがなくて魅力に溢れています。このシリーズは、リクエストして掘り下げていただいたり、Artistas callejerosとコラボしていただいたり、何かと縁が深くてものすごく親しみを持っている世界なのですが、さらに私が三年前から狂っているポルトの街にもメイコとミクを住まわせていてくださって、「マンハッタンの日本人」の舞台ニューヨークに負けないコラボ場所になっていたりします。「ローマ&ポルトチーム」も、scriviamo!の定番舞台になってきたみたいで、ニマニマが止まらない私です。
さて、左紀さんの作品では、悩みがあり絵夢に力づけてもらっているミク。ポルトで彼女の帰りを心待ちにしている歳下の男の子ジョゼは、ヴァレンタインデー(Dia de São Valentim)に想いを馳せています。
で、ブログのお友だちにわりと人氣のある誰かさんの靴、サキさんはいらなかったかもしれないけれど、無理矢理押し付けちゃうことにしました。受け取ってくれると嬉しいです。
【参考】
追跡 — 『絵夢の素敵な日常』二次創作
再会
![]() | Infante 323 黄金の枷 |
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
サン・ヴァレンティムの贈り物
——Special thanks to Yamanishi Saki san
ボンジャルディン通りは地下鉄トリンダーデ駅からさほど遠くない。だが、ジョゼの勤め先のあるサンタ・カタリナ通りのような華やかさはなく、この街に住んでいてもどこにあるのかわかる人間は少ないだろう。間口の狭い家が身を寄せあうように建っている。一階は店になっている所が多いが、店子が見つからないまま何年間も放置されているような家も多い。
ジョゼは家番号を確認しながら歩き、通り過ぎていたことがわかってまた戻った。ここか? 本当に? 目を凝らすと、確かにショウウィンドウと言えなくもないガラスの窓があって、そこには三足の靴が並んでいた。よく見ると赤字で「売約済み」と書いた札がついている。
ジョゼはきしむ古いドアを押して中に入った。中には少し長めの白髪の小男が座って、靴を修理していた。灰色の荒いチェックのシャツに緑色のエプロンを掛けている。
「あ~、ビエラさんって、ここでいいんですか」
「わしがビエラだが」
老人は鼻にかかった丸いフレームの眼鏡の上側からジョゼを見定めて無愛想に答えた。
こんな流行ってなさそうな小さな店だとは思わなかった。ジョゼは手元の黒いカードをもう一度ひっくり返した。裏の白い部分にここの住所と、靴が必要になったらここを訪ねるといい、手間に対するお礼だと書いてあった。このカードをジョゼにくれたのは、この世のものとも思えぬ美しい貴婦人だった。幼なじみのマイア・フェレイラに秘密の用事を頼まれた時のことだ。ウェイターとして働くジョゼの勤め先にやってきた黒髪の美女が、チップを渡すフリをしてマイアの手紙をこっそりと手渡して帰っていったのだが、その封筒の中にこのカードが入っていたのだ。
あれから何ヶ月も経った。ジョゼはこのカードのことをすっかり忘れていた。思い出したきっかけは、愛用の安物の靴に穴があいてしまい新調しようとしたことだった。はじめは、デパート「エル・コルテ・イングレス」に行き、それからサー・ダ・バンデイラ通りの靴屋を何件かぶらついたが、ピンと来る靴が見つからなかった。一ついいのはあったのだがサイズが合わなかった。その時に突然このカードのことが頭に浮かんだのだ。
「靴が欲しいんですが……」
と周りを見回したが、新品の靴はウィンドウに置かれている三足しかなさそうだった。その靴は、見るからに柔らかい本革で出来ているようで、オーソドックスながらも品のいいフォームだった。こういうのが欲しかったんだけれどな、売約済みじゃしょうがないよな。
「ないみたいですね。失礼しました」
そういって出て行こうとするジョゼをビエラ老人は引き止めた。
「そのカード、見せてもらおう」
ジョゼは、素直にカードを渡した。それは黒地に竜が二匹エンボス加工で浮き上がっており、右上に赤い星が四つついていた。裏の字は印刷で、署名もなかったが、老人は頷いた。
「ドンナ・アントニアの依頼じゃな。ここに座って、靴と靴下を脱ぎなされ」
「は?」
「あんたの足型をとるので、足を出すのだ」
「い、いや……オーダーメードの靴を作るほどの予算は……」
そういうとビエラはじろりと見て、立ち上がると、粘土の用意を始めた。
「そこにある靴はオーダーメードではないが、それでもあんたの予算にはおさまらんよ。このカードがあるということは、あんたが払う必要はない。足を出しなされ」
タダで作ってくれんのか? そこにあるみたいなかっこいい靴を? 嘘だろう?
「あの……ちなみに、そこにあるような靴は、いくらくらいで買えるんですか」
老人は粘土を練りながら答えた。
「それは、この店で買うから350ユーロだ。イタリアに持っていった分は同じものが1100ユーロで取引されている」
「ええっ! じゃあ、オーダーメードだともっと高いんじゃ……」
「材質や仕事の量によって違うが、600ユーロはもらっておるよ」
ジョゼは目をぱちくりさせた。なんだよ、手紙を誰かに送っただけで、なんでこんなお礼を貰えるんだ……。ビエラは、あれこれと考えているジョゼにはかまわずに、まず右足の型を取り、粘土で汚れた足をバケツの水で簡単に濯がせるとタオルをよこして拭けと手で示した。
左足の型を取っている時に、ジョゼは突然叫んだ。
「ストップ。ストップ! やめだ、やめ! そのカード、返してくれ」
ビエラは眉をひそめて訊き返した。
「なんだと?」
ジョゼは足をバケツに突っ込んで、粘土を洗った。
「ごめん。このカードがあれば、僕じゃなくてもタダでそのすごい靴を作ってもらえるんだろう?」
「ああ、そうだが?」
「僕のじゃなくって、ある女の子の靴を作ってほしいんだ」
「誰の」
「今、この街にいない。もうすぐ、戻ってくるんだ。その子にプレゼントしたい」
ミクがこの街に帰ってくる。もうすぐサン・ヴァレンティムの記念日だ。ジョゼは、ミクに特別のプレゼントをして、氣もちを伝えるつもりだった。まだ、プレゼントは見つかっていなくて、焦っていた。真っ赤な薔薇、それとも長い髪に似合う、高価なレースでできたリボンはどうか。特別じゃなくっちゃ。僕が冗談を言っているんじゃない、本氣なんだってわかってもらえるものを。指輪を贈ろうかとも思ったけれど、それではありきたりすぎる。もっと特別なものでなくちゃ。
600ユーロもするオーダーメードの靴ならきっと喜んでくれる。舞台でも映えるに違いないし!
「彼女にプレゼントしたいのはわかったが、あんたは靴が必要だからここに来たんじゃないのか」
それを聞いて、ジョゼはちらっと窓辺の靴を見た。
「それ、ちょっとだけ履いてみてもいいかい?」
「いつも履いているサイズは?」
「42」
「その真ん中のヤツだ」
ジョゼは、売約済みの茶色い靴を履いた。柔らかい皮にぴったりと包み込まれた。歩いてみると、雲の上に浮かんでいるようだった。締め付け感がまるでなく、しかし、ブカブカではなかった。ジョゼはすぐに決心した。
「これと同じのを注文したいな。数ヶ月、必死で働いてお金を貯めなきゃいけないけどさ」
ビエラは靴に魅せられているジョゼと、手元の型を取ったばかりの粘土をじっと見ていたが、やがて「わかった」と言って黒いカードをジョゼに返した。ジョゼは幸せな氣持ちになってビエラの店を後にした。
ジョゼは、ミクと一緒にビエラの店の扉を開けた。ショートカットになったミクは耳元にキラキラ輝くトパーズの並んだヘアピンをつけている。颯爽と歩く姿は前と同じだけれど、女性らしくなったように思う。そういえば、ジョゼの前ではなくて隣を歩くようになった。
二週間前、この街に帰ってきてすぐにこの店に連れてきた時には、やはりあまりに閑散とした棚に驚いていたが、ビエラ老人とどんな靴がいいか話している間にすっかり信頼するようになり、出来上がりを楽しみにしてくれていた。
明日、ミクはローマへと旅立つ。ポリープのために歌手としての生命を絶たれるかもしれないと打ちのめされていたが、絵夢に紹介してもらい、世界的権威である名医の診察を受けられることになったのだ。新しい希望が、彼女をさらに生き生きとさせている。その直前に来た靴の出来上がりの連絡は、彼女が幸運の女神に愛されていると告げているようだ。
「いらっしゃい。待っていたよ」
ビエラは、後ろの棚から白い箱を取り出した。蓋があくと、ミクは息を飲んだ。
緑がかった水色でできた絹のハイヒールだった。ヒールは太めで、飾りの白いリボンが可愛らしい。
「こりゃ、かわいいな」
ジョゼも驚いた。ミク本人を知っている人が作ったみたいだ。
「履いてごらん」
ビエラは靴べらを渡した。ミクは宝石を持ち上げるように靴を取り出すと、新しいので多少当たって痛いことを予想しながらつま先を靴の中に滑らせた。
「え?」
全く痛くなかった。どこも当たらない。歩く時に普通のハイヒールだと強く感じる前足部の痛みもなかったし、外れそうになることもなかった。オーダーメードの靴って、こんなに楽なんだ! しかも低い靴を履いている時と同じように安定して、まっすぐに歩ける。
ジョゼは嬉しそうなミクを眩しそうに見ていた。本当によく似合っている。子供っぽい所のある姉貴だと思っていた。それに、この靴は大人っぽいというよりも可愛い方だと思った。でも、こうやってハイヒールを履いて歩くと、ミクの長い足がとても綺麗に見えてセクシーでもある。喜んでくれてよかった。これなら、自分の靴のために何ヶ月もパンと水だけで暮らすのもなんでもないや。
二人が礼を言って帰ろうとすると、ビエラが呼び止めた。
「こっちはあんたの靴だ」
そう言って、もう一つの箱を取り出してジョゼに渡した。ジョゼは黙って中身を見つめた。最初にこの店で見た、あの茶色い靴ではなくて、もう少しフォーマルに見える黒い靴だった。明らかにあの靴より高いだろう。
「これは……」
「茶色い靴がほしければ、ゆっくりと金を貯めるがいい。これはあんたが女の子のために自分の靴を諦めたことを聞いた靴職人からのプレゼントだ」
「よかったね! ジョゼ!」
ミクが抱きついてきた。彼は真っ赤になった。
プレゼントは渡した。期は熟した。今日はサン・ヴァレンティムの日。絶対に今日こそ告白するぞ。……告白できるといいんだけれど。いや、今は診察前で、それどころじゃないだろうから、姉貴がイタリアから戻ってきてからの方がいいかな。
「姉貴。頑張れよ。その靴を履いて、また舞台に立てるようにさ」
ジョゼは、今日の所は、これだけしか言わないことにした。
(初出:2015年2月 書き下ろし)
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【小説】午後の訪問者
「scriviamo! 2015」の第十二弾です。山西 左紀さんは三つ目の参加として、『サン・ヴァレンティムの贈り物』の間に挟まれている時間のお話を書いてくださいました。ありがとうございます!
山西 左紀さんの書いてくださった『初めての音 Porto Expresso3』
山西 左紀さんの関連する小説
絵夢の素敵な日常(10)Promenade
絵夢の素敵な日常(12)Porto Expresso
絵夢の素敵な日常(初めての音)Porto Expresso2
Promenade 2
「ローマ&ポルト&神戸陣営」も、頑張っています。左紀さんのところのヴィンデミアトリックス家、彩洋さんの所のヴォルテラ家、ともに大金持ちでその世界に多大な影響のある名士たち。で、うちのドラガォンのシステムも絡んで、謎の三つ巴になりつつある(笑)そんなすごい人たちが絡んでいるのに、やっているのは「お友だちの紹介」という平和なお話。
ミクのポリープの診察と手術は、ローマの名医のもとで行われることになっています。で、ヴィンデミアトリックス家がヴォルテラ家にお願いしているかもしれないし、全くの蛇足だとは思うのですが、ドサクサに紛れて首を突っ込んでいる人が約一名います。サキさんが「あの人は戻ってくることをどう思っていたの」と質問なさったのにも、ついでにお答えすることにしました。
【参考】
追跡 — 『絵夢の素敵な日常』二次創作
小説・黄金の枷 外伝
![]() | Infante 323 黄金の枷 |
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
午後の訪問者
——Special thanks to Yamanishi Saki san
海風が心地よく吹いた。白っぽい土ぼこりが灰色の石畳を覆っていく。マヌエル・ロドリゲスは、陽射しを遮るように手を眉の上にかざした。まだ肌寒い季節だが、春はそこまで来ている。ゆっくりと坂を登ると、目指す家が見えてきた。ポーチにはプランターが二つ並んでいて赤や黄色、そして紫の桜草が植えられている。丁寧に掃き掃除をしたらしい玄関前には土ぼこりの欠片もない。
この家の女主人が、この辺りの平均的住民よりも少しだけ勤勉なのは明らかだった。それは遺伝によるものなのかもしれない。住んでいる女性は、極東のとても勤勉な人びとの血を受け継いでいた。
修道士見習いという低い地位にも関わらず、ヴァチカンでエルカーノ枢機卿の秘書をしていたマヌエルは、その役目を辞して故郷に戻ってきた。もともとはこの国を離れて自由に生きたいがために、神学にも教会にも興味もないのに神学生になった。だが、その頭の回転の速さが枢機卿の目にとまりいつのまにかヴァチカンで働くことになった。もちろん、彼がある特殊な家系の生まれであることを枢機卿は知っていた。マヌエルは、半ば諜報部のようなエキサイティングな仕事には興味を持っていたが、もともと禁欲だの貞節だのにはあまり興味がなかったので、このまま叙階を受けることにひどく抵抗があった。
彼が故郷を離れたかったのは、家業に対しての疑問があったからだった。街に留まり、ある特定の人たちを監視報告する仕事。時にはその人たちの自由意志を束縛して苦しめることもある。それがどうしても必要なこととは思えなかった。
けれど、彼はローマで同じ故郷出身の一人の女性に出会った。彼女は監視される立場にあったが、特殊な事情があり自由になっていた。そして、そのクリスティーナ・アルヴェスは、マヌエルの家系が関わる巨大システムの中枢部と深く関わる人物の一人だった。彼は、ローマで彼女と親交を深めるうちに、考え方が根本から変わってしまった。故郷から逃げだすのではなく、その中心部に入り込み役目を果たしたいと思うようになったのだ。《星のある子供たち》を監視するのではなく守るために。《星のある子供たち》の中でも特に一人の女性、クリスティーナを。
とはいえ、マヌエルの表向きの帰国の理由は、異動だった。彼は、サン・ジョゼ・ダス・タイパス教会付きの修道士見習いとなったのだ。戻ったからにはあっさりと教会を出てもよかったのだが、異動直後からボルゲス司教の計らいではじめた仕事にやり甲斐を感じて、まだしばらくは教会に奉仕をするのも悪くないかなと思っている。それが、地域の独居老人を定期的に訪問する仕事だった。
半月ほど前から彼はGの街の小さな教会に移り、この地域の担当になった。こうした仕事に若手が不足しているのはこの国でも一緒だ。ましてやカトリック教会で奉仕をしたがる若者はかなり稀だ。神に仕えるよりは女の子と遊ぶ方が好きな若者の方がずっと多いのだから。マヌエルはこれを乗りかかった船だと思っている。クリスティーナが、自分を恋人にしてくれそうな氣配は今のところ皆無だが、幸い彼女は他の男性にも大して興味を持っていないようだった。それで、少なくとも数年の間は、彼は、若い男性の助けを必要としているお年寄りの力になろうと思っているのだ。
例えば、今日訪れる家では、屋根裏にたくさん積まれた本を紐で縛って古紙回収のために準備することになっていた。
「たくさんのポルトガル語と、それから、いつかは読みたかった日本語の本があるんだけれどね。もう細かい字が読めなくなってきたから、少し整理しないと」
「お孫さんがお読みになるんじゃないですか?」
「ええ、彼女に残してあげる本もたくさんあるの。でも、あまりにもたくさんあって、彼女には大事な本がどうでもいい本に紛れてしまうから」
「わかりました。明後日の午後に伺いますね」
そして、今日がその約束の午後なのだ。
マヌエルは、呼び鈴を押した。すぐに黒い服を来た女性が出てきた。ショートにしたグレーの髪、ニコニコと笑っている。
「こんにちは、メイコ。お約束通り来ました」
「ありがとう。マヌエル。あら、今日は修道服じゃないのね」
マヌエルは笑った。白いシャツにスラックス。私服でメイコの家にきたのははじめてだった。
「修道服だと作業がしにくいんで。本のことだけでなく、なんでもやりますから遠慮しないでくださいね」
「ありがとう」
メイコは微笑んだ。女性の一人暮らしでは、どうしてもできない作業がある。ジョゼが遊びにくる時に頼むこともあるが、それでもこうして教会が定期的に助けてくれるのはありがたい。
「今日は、ミクがいるんじゃないんですか?」
「いいえ。友達とでかけているの。靴がどうとか言っていたけれど。サン・ヴァレンティムの日だし、ゆっくりとしてくるんじゃないかしら」
「そうですか、それは素敵ですね。お邪魔しますね」
マヌエルは綺麗に片付いていて、心地のいい家に上がった。
「じゃあ、行きますか。屋根裏はこちらでしたね」
そういうと、メイコはあわてて首を振った。
「あら。そんな事を言わないで、まずはお茶でもどうぞ。パン・デ・ローがちょうど焼けたところなの」
道理でたまらなくいい匂いがするわけだ。居間にはボーンチャイナのコーヒーセットが用意されていて、マヌエルは、まだ何の仕事もしていないのに、もう誘惑に負けてしまった。実は、この家に来るのが楽しみだったのは、毎回出してくれるお菓子がこの上なく美味しいからだった。
「日本だと、このお菓子、カステラっていうのよ」
「何故ですか?」
城には見えないのに。
「大航海時代に、宣教師が伝えたんだけれど、何故かそう呼ばれるようになってしまったんですって。言葉がきちんと通じなくて誤解があったのかもしれないわね。そういえば、日本だと円形ではなくて四角いの」
「ああ、日本に行かれた時に召し上がったのですね」
「ええ。神戸で知り合った大切な友人とね。彼女には、それからたくさんお世話になって……今回も……」
メイコの穏やかな表情が、突然悲しげに変わったので、彼は驚いた。
「どうなさったんです、メイコ」
「実は、ミクがね……」
それから彼女はマヌエルに孫娘の直面している苦しみについて語った。歌手としてようやく才能が認められつつある大事な時に、突然ポリープができたこと。診察のために日本に帰ったのだが、専門医からポリープの位置が悪く、手術で歌手生命に影響が出るかもしれないと宣言されてしまったと。
「でも、そのヴィンデミアトリックス家のお嬢さんが、ローマのいい先生を紹介してくださってね。明日、診察のためにイタリアへ発つことになったの」
「ローマですか?」
「ええ。ああ、そういえばあなたはずっとローマにいたのよね。ローマは、この街や日本みたいに夜中でも歩ける安全な街ではないと聞くし、それにあの子、日本語とポルトガル語は達者だけれど、イタリア語はそれほどでもないでしょう。なんだか心配で。もちろん、ヴィンデミアトリックス家のお嬢さんがきっと安全な手配をしてくださっているから、これは年寄りの杞憂なんでしょうけれど」
マヌエルは、微笑んで言った。
「では、僕からも、ある方に頼んでみましょう。何かあった時には、きっと力になってくれます。彼はポルトガル語もできるし、それにその人の家族に日本人のお嬢さんと婚約なさっている方がいるのですよ」
メイコの目が輝いた。マヌエルは、メイコに便箋とペンを用意してもらって、短い手紙をしたためた。
大好きなトト。
君は、あんな形でローマを去ってしまった僕のことを怒っているだろうか。僕が、君への友情よりも、僕の女神に付き添ってこの国に戻ることを選んだって。でも、君も理解してくれるだろう? 枢機卿に叙階しろってうるさく言われ続ける僕の苦悩を。生涯独身なんて、まったく僕の柄じゃない。
君に、不義理をしたままで、こんな頼み事をするのは心苦しいけれど、僕のとてもお世話になっている老婦人のために力になってくれないか。(彼女の作ってくれるお菓子を君に食べさせたいよ! それをひと口食べたら、君だって彼女の味方にならずにいられるものか)
僕の大切なメイコには孫娘がいる。ミクって言うんだ。(とっても綺麗な子で才能にあふれているんだぜ!)その子が明日、ポリープの診察でローマへ行く。どうやらあのヴィンデミアトリックス家が絡んでいるみたいだから、僕が心配する必要はないだろうが、ローマは大都会だから何があるかわからないってメイコが思うのも不思議はないだろう? 僕はただ彼女を安心させたいんだ。もし、ミクが助けを求めてきたら、力になってあげてほしいんだ。彼女は日本人でポルトガル語も堪能。でも、イタリア語はあまり話せない。声楽家だからオペラに出てくる歌詞ならわかるはずだけれど。でも、そっちには、シオリもいるし、コンスタンサ、いや、”クリスティーナ”もいるだろう?
僕は、こちらでのんびりやっているよ。しばらくは修道士見習いとして、柄にもなく人のためになることをしようと思っている。君のことをときどき思い出す。こんな何でもない外国人のことを友達だと言ってくれた君のことを。いつかまた、どこかで君とワインを飲み交わしたいと思っている。それまで、あまり無茶なことをするなよ。君の友、マヌエル・ロドリゲス
「さあ、これでいい」
マヌエルはメイコにFAXを借りると、イタリアのある番号を打ち込んで送信した。
「ものすごく面倒見のいい男なんですよ。たぶん、明日ミクが空港についたら、もう迎えが待っているんじゃないかな。ローマで、これ以上安全なことなんてありませんからね」
メイコのホッとした笑顔が嬉しかった。彼女は、コーヒーをもう一杯すすめた。マヌエルは、作業に入る前に、大好きなパン・デ・ローをもう一切れ食べることにした。
(初出:2015年2月 書き下ろし)
【小説】世界の上に広がる翼
scriviamo!の第十弾です。
けいさんは、当ブログの70000Hitのお祝いも兼ねて「Infante 323 黄金の枷」のあるシーンを別視点で目撃した作品を書いてくださいました。目撃シリーズ、私の作品では二度目ですね。ありがとうございます!
けいさんの書いてくださった小説『夕景色の出逢いの一コマ (scriviamo! 2016)』
オーストラリア在住のけいさんは、素敵なキャラクターが優しい青春小説をお得意となさっていらっしゃいます。読後感の爽やかさとハートフル度は、群を抜いていらっしゃいます。去年はお仕事が忙しくなっただけでなく、目の不調なども抱えられて、しばらく小説をお休みなさっていたのですが、年末から復帰なさり、ただいま新作を絶賛連載中。けいさん、ご無理はなさらず、お互いに、ゆっくりのんびり、長く続けていきましょうね。
さて、今年目撃されてしまったのは、「Infante 323 黄金の枷の」主人公たちです。これですね。今年は去年と違って、けいさんのところのキャラクターを目撃者に仕立て上げることができなかったので、純粋にこれまで書いていない外伝を書くことにしました。
目撃されたシーンは、本編の中では12年前の回想なのですが、これはその本編から見ると8年前、目撃シーンからすると4年後にあたります。出てくる人は、全員本編にも出てくる人ですが、その辺は知らなくても問題ありません。ただ、この話は設定が少し特殊なので、全く読んだ事のない方は「あらすじと登場人物」か、下にも貼っておいた動画で「こんな話か」とあたりをつけていただいたほうがいいかもしれません。
で、今年の目撃者の正体は……。あ〜、けいさん、ごめんなさい。なんか暗くなっちゃいました……。
【参考】
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小説・黄金の枷 外伝
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黄金の枷 外伝
世界の上に広がる翼
——Special thanks to Kei san
そのカモメは、建物のてっぺんの使われていない煙突の上で寛いだ。傾斜の多いこの街、時にGの街から、時には大西洋から、白い鳥はPの街を眺める。観光客のまき散らしたパン屑を食べることもあれば、きちんと漁をすることもある。ここ数ヶ月は暖かったので、越冬も楽だった。
翼を広げ、ほんの少し斜めに滑空すると、カモメは普段はあまりいかない街の東側へと向かった。春めいてきた街には、マグノリアやアーモンドのといった街路樹が花を艶やかに咲かせていた。
「あ、カモメ!」
マイアは、指差した。
「いいなあ。海の方から来たんだよね。私も行きたいなあ」
彼女は、公園に座っていた。彼女がナウ・ヴィトーリア通りに引越してから4年が経っていた。2年に一度、彼女には一人ぼっちの日がある。二人の妹を含む同じ学校に通う生徒たちが遠足に行く日、パスポートの申請が上手くいかなかったという理由で連れて行ってもらえない。もう4度目だし、14歳になっていたマイアには申請する前から今度も上手くいかないことがよくわかっていた。
だから、今回ははじめから一人の休日に何をするかと色々と想いをめぐらせていた。本当は、D河岸へと行くつもりだった。4年前に初めて自分と同じく金の腕輪をしている少年と知り合ったのも、この遠足の前日だったし、遠足の日も会う約束だった。その少年は、「ドラガォンの館」と呼ばれている屋敷の敷地内の小さい小屋に閉じこめられているようだった。ずっと体を洗っていないようだったし、浮浪者の子どもではないかとマイアは思っていた。
残念ながら、翌日に会いに行ってもその少年には逢えなかった。その代わりに黒い服の男の人に見つかってつまみ出されてしまった。不法侵入をしていたマイアが悪かったのだ。あの少年もまた、つまみ出されてしまったのかもしれない。Pの街に居るのなら、D河に沈む夕陽が美しいところに行けば逢えるように感じていた。同じ黄金の腕輪をしているだけでない。彼もまたあの夕陽の美しさをよく知っていた。きっとあの子とはいい友達になれる、マイアは思った。
あの少年は今のマイアくらいの年齢に見えた。ということは、もう働かなくてはいけない年齢だろう。ふらふらと河岸にいたりはしないかな。でも、夕方なら……。
マイアは、父親に「明日D河まで行きたい」と言った。けれど父親は反対した。
「どうして? 街の外には行かないよ。前に住んでいたところだし、行っちゃいけないなんてことはないでしょう?」
「マイア。あと4年経ったらお前は18歳になる。そうしたら大人として自分でしたいことをいくらでも試すがいい。でも、それまでは父さんのいう事をきいてくれ。正直言って、その腕輪のことも、パスポート申請が上手くいかない理由も、父さんにもよくわかっていない。でも、お前ももうわかるだろう? 闇雲に抵抗をすると、もっと望まないことを強制されるって。父さんは、お前のことが心配なんだ。明日父さんが働いている間に、一人で遠くまで行って冒険したりしないでくれ。お願いだ」
そこまで言われたら行くつもりにはなれなかった。無理に行ってもあの少年と確実に会えるのでもなければ、腕輪をした他の子と友達になれるわけでもない。それに、マイアは再びあの少年に会うのも少し怖かった。腕輪をしている大切な友達。そんな風に思っているのは自分だけで、むこうはとっくに忘れているかもしれない。
公園の隅で何かをついばんでいたカモメが、ゆっくりと羽ばたいて飛び上がった。マイアはその姿を目で追った。また、降りてきたのを見ると、四角い石のようなものが埋められているところだった。
「あんなところに石があったっけ」
マイアは立ち上がって、カモメの足元にある四角い石を見た。それはずいぶん古い大理石の板で、半分土に埋まっていた。
「なんだろ。《Et in Arcad..》あとは読めないや。こういうの、どこかで見たわよね……」
マイアは、土を手で退けた。ああ、あそこだ。「ドラガォンの館」の裏の、あの小屋の前にあった。マイアが忍び込んで夕陽を見つめる時に特等席だと決めていた石のすぐ側にあった。あそこのは、もうすこし読みやすかったように思う。でも、あの時のマイアは10歳の子どもで、ラテン語の碑文を読んで意味を考えようなんて思わなかった。
もしあの子があの翌日もあそこにいたのなら、腕輪のことだけじゃなくて、あの石のことも訊けたかも。もっとたくさん話をしたかったな。
カモメは、マイアに追い回されたと思ったのか、大きく羽ばたくと去っていってしまった。大きく旋回して、空高く昇っていく。
私も、あんな風に飛びたいな。マイアは、ため息をついた。
お父さんはああ言ったけれど、18歳になっても変わりっこない。お母さんは死ぬまで腕輪をしていた。きっと私は大きくなっても妹たちのように自由にはなれないんだろうな。それに、ずっとこんな風に一人ぼっちなんだろう。マイアは、項垂れて、家へと戻っていった。
「本当に、申しわけございませんでした」
そう言って、アマリアは頭を下げてから出て行った。
通りかかったジョアナが「いったい何をしたの」と問いただしていた。彼女は、しどろもどろになって答えた。
「石鹸を捨てようとしてしまって……」
アマリアはこの館に勤めて2年経つが、ご主人様の一人である18歳の青年が、大きな声を出したり取り乱したりしたのをこれまで見た事がなかった。同じように格子の中に閉じこめられている彼の二つ違いの弟は、冗談を言って話しかけてきたり、ありとあらゆるわがままを言いながらも魅力たっぷりの笑顔で怒る氣をなくさせてしまったりするのだが、彼はまったく手間をかけない代わりに挨拶以上に口をきいたことすらなかった。
そのインファンテ323と呼ばれている青年が、三階から転がり落ちるように駆け下りてきて、掃除道具とゴミ袋を持って居住区から出て行こうとしている彼女を止めた。
「洗面台にあった紫の石鹸をしらないか?」
「あ、はい。ずいぶん小さくなっていたので、新しいものとお取り返しましたが」
「捨ててしまったのか? そこか?」
彼は、返事も待たずにアマリアの持っているゴミ袋を手にとって開けると、ものすごい勢いで中を探った。その剣幕に驚いて、彼女は謝った。石鹸は直に見つかった。他のゴミに混じって、汚くなっていたが、彼は気に留める様子もなかった。
「申しわけありません」
その言葉を聞いて、彼はアマリアの様子にようやく目を留めた。それから、とてもばつの悪そうな顔をした。自分が騒いでしまったことを恥じて。
「すまない。お前が悪いんじゃないんだ。掃除に来るのをわかっていたのに、外に出しておいた俺のせいだ。氣にしないでくれ」
彼は、石鹸を持って3階へと行ってしまった。アマリアは、もう1度謝って頭を下げてから外へと出たのだ。
彼は、バスルームに入ると、汚れた石鹸をきれいに洗った。ただでさえ小さくなっていた石鹸が溶け出していく。彼はそれを痛みのように感じた。
アマリアがこれを捨てようとしたのも当然だ。もう香りもないし使うには小さすぎる。4年前にもらってからしばらくは毎日使った。スミレの華やかな香りのするとても大きな石鹸で、いつまででも使いつづけられるように思っていた。
「石鹸持ってきてあげるね」
あの屈託のない少女も、もう大きくなっただろう。もう忘れてしまっただろうか。それとも、D河に落ちる夕陽を見られなくした張本人として、俺のことを恨んでいるのだろうか。
彼は石鹸をアラバスターの箱に収めると、また捨てられたりしないように洗面台の中の戸棚にしまった。扉を閉めると鏡に自分の姿が映った。縮れた髪に黒い瞳。眼を逸らすとバスルームから出て、また階段を降りていった。隣の居住区で弟の24が、ここのところ執心している娘とふざけ合っている声が聞こえた。彼は、だまって1階へと降りて行った。
工房には、赤いハイヒールが置いてあった。アントニアにはじめて頼まれて意氣込んで完成させた。この午後にフィッティングに来ると聞いていたが、来る様子はなかった。仕事がたくさんあるのだろう。急いでいるとは言わなかったが、できるだけ急いで、でも、いつものように丁寧に作り上げた。石鹸のこともそうだが、自分は人が重要と思わないことを、大仰に考えてしまうようだとがっかりした。
短い鳴き声が聞こえたので、窓を見た。鉄格子の嵌まった窓の向こうに、1羽のカモメがいた。少し羽を休めているようだ。
彼は、工房の隅にもたせかけてあるギターラを取り上げた。カモメに聞かせてやるつもりで、ようやく弾けるようになった「Asas sobre o mundo(世界の上に広がる翼)」を爪弾きはじめた。
世界を自由に飛び回れるならば、いつもカモメを見上げたりしないだろう。それに、来てくれるかわからない人間を、あてもなく待ったりもしない。小さくなり使い物にならなくなった希望を箱に閉じこめて、捨てなければならない時を引き延ばしたりもしないだろう。
彼は、自分が存在しなかった者としてラテン語の碑文の彫られた四角い石の下に眠る日まで、ずっとこんな風に独りで生きていくのだと思った。
カモメは、大きく羽ばたくと再び大西洋の方へ、ギターラの響きよりも興味深い、漁師からかすめ取る魚のことを思い描きながら飛んでいった。
(初出:2016年2月 書き下ろし)
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【小説】カフェの午後 - 彼は耳を傾ける
scriviamo!の第十四弾です。山西 左紀さんは今年二つ目の参加として、ローマ&ポルト&神戸陣営シリーズ(いつの間にか競作で話が進むことになったシリーズの1つ)の続きにあたるお話を書いてくださいました。ありがとうございます!
山西 左紀さんの書いてくださった『絵夢の素敵な日常(初めての音) Augsburgその後』
山西 左紀さんの関連する小説
絵夢の素敵な日常(10)Promenade
絵夢の素敵な日常(12)Porto Expresso
絵夢の素敵な日常(初めての音)Porto Expresso2
Promenade 2
初めての音 Porto Expresso3
絵夢の素敵な日常(初めての音)Augsburg
「ローマ&ポルト&神戸陣営」は今年はほとんど進まなかったのですが、サキさんは66666Hit作品に、この作品と頑張って二つも進めてくださっています。
全くこのシリーズをご存じない方のために少し解説すると、この「ローマ&ポルト&神戸陣営」にはうちの「黄金の枷」、サキさんの「絵夢の素敵な日常」、大海彩洋さんの「真シリーズ(いきなり最終章)」のメンバーたちがヨーロッパのあちこちに出没してコラボしています。「黄金の枷」の設定は複雑怪奇ですが無理して本編を読む必要はなく、氣になる方は「あらすじと登場人物」をご覧下さい。このコラボで重要になっているのは、本編ではほとんどチョイ役のジョゼという青年です。もともとサキさんのとコラボのために作ったキャラです。他に、マヌエル・ロドリゲスというお氣楽キャラが「ローマ&ポルト&神戸陣営」ではよく出てきますが、今回は「神父見習い」というひと言以外は全く出てきません。「ローマ&ポルト&神戸陣営」の掌編は「黄金の枷・外伝」カテゴリーで読む事が出来ます。ただ、今回の作品にはジョゼ関係の必要な情報が全部入っていますので、読まなくても大丈夫です。
さて、今回サキさんが書いてくださったのは、「大道芸人たち Artistas callejeros」のサブキャラ、ヤスミンで、彼女はアウグスブルグで絵夢に逢い、さらにはミクと演出家ハンス・ガイステルの会話にちゃっかり聞き耳を立てています。というわけでこちらは、ポルト(本編ではPの街と言っていますが、この「ローマ&ポルト&神戸陣営」ではポルトと言いきってしまっています)に舞台を移し、こちらでも誰かさんが聴き耳を立てています。話しているのは、「黄金の枷」重要キャラと、やはり「大道芸人たち Artistas callejeros」のサブキャラ。以前サキさんがヤスミンを出してくださったお話で、お返しはやっぱりこの人の登場にした事があるのですが、それを踏襲しています。
サキさんは、とっとと話を進めてほしかったようですが、まだまだ引っ張ります。っていうか、この続きは今月末にロケハンに行ってからの方がいいかな~と。ちなみに本編(続編)の誰かさんに関わる情報もちょいと書いています。
【参考】
小説・黄金の枷 外伝
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黄金の枷・外伝
カフェの午後 - 彼は耳を傾ける
——Special thanks to Yamanishi Saki san
白いぱりっとした上着をきちんとひっぱってから、ぴかぴかに磨かれたガラスケースを開けて、中からチョコレートケーキを取り出した。ジョゼはそれをタウニー・ポートワインの30年ものを飲んでいる紳士の座っている一番奥のテーブルに運んだ。
「大変お待たせいたしました」
「おお、これは美味しそうだ。どうもありがとう」
発音からスペイン人だとわかるその紳士は、丁寧に礼を言った。ジョゼは、ずいぶん目の大きい人だなと思ったが、もちろんそんな様子は見せなかった。
ジョゼは、Pの街で一番有名なカフェと言っていい「マジェスティック・カフェ」のウェイターとして働いている。1921年創業のこのカフェは、アール・ヌーボーの豪華絢爛な装飾で有名で、その美しさから世界中の観光客が押し寄せるので、母国語だけでなく外国語が出来なくては勤まらない。ジョゼは英語はもちろん、スペイン語も問題なく話せるだけでなく、子供の頃にスイスに住んでいたことがありドイツ語も自由に話せるので職場で重宝されていた。

「こちらでございます」
振り向くと、黒いスーツを着た彼の上司が女性客を案内してきた。このカフェの壁の色に近い落ち着いたすもも色ワンピースと揃いのボレロを着こなしていた。ペイズリー模様が織り込まれたそのスーツは、春らしい鮮やかさながらも決して軽すぎず、彼女の高貴な美しさによく似合っていた。ジョゼは、はっとした。彼女に見憶えがあったからだ。
彼のテーブルに座っていた、目の大きいスペイン人はさっと立ち上がり、その女性の差し出した手の甲に口づけをした。
「ドンナ・アントニア。またあなたにお逢いできてこれほどうれしいことはありません」
黒髪の麗人は、艶やかに微笑んで奥の席に座った。革のソファの落ち着いた黒に近い焦げ茶色が、彼女の背筋を伸ばした優美な佇まいを引き立てる。
「遠いところ、足をお運びいただいてありがとうございます、コルタドさん」
上司に「頼むぞ」と目配せをされて、この二人がVIPであることのわかったジョゼは、完璧なサービスをしてみせると心に誓って身震いをしてから恭しく言った。
「いらっしゃいませ。ただ今、メニューをお持ちいたします」
二人の客は、頷いてから、会話を始めた。
「二年ぶりでしょうか。いつお逢いしても月下美人の花のごとく香わしくお美しい。仕事の旅がこれほど嬉しいことは稀なことです」
「まあ、相変わらずお上手ですこと。お元氣そうで何よりです。お噂は耳にしていますわ。事業の方も、芸術振興会の方も絶好調だそうですね」
「おかげさまで。いつまでも活躍していてほしかった偉大なる星が沈むこともありますが、新しく宵の明星のごとく輝く才能もあります。それを見出し支援することが出来るのは私の何よりの歓びです。そして、同じ志お持ちになられているあなたのように素晴らしい方と会い、若き芸術家たちとの橋渡しができることも」
麗人は無言で微笑んだ。どう考えても、目の大きい紳士の方がはるかに歳上だと思われるのに全く物怖じしない態度で、ジョゼは感心しながら見とれていた。ドンナ・アントニアか。相当に金持ちのようだとは考えていたけれど、そうか、貴族かなにかなんだな。彼は心の中で呟いた。
彼女は、チョコレートケーキを嬉々として食べているコルタド氏に微笑んだが、自身はコーヒーしか頼まなかった。それもエスプレッソをブラックで。
彼女は、ずいぶん前に立て続けにこのカフェに来たことがあった。その理由は、なんとジョゼにある伝言をするためだった。彼女からチップとともにそっと手渡された封筒に、幼なじみマイア・フェレイラからの秘密の依頼が入っていたのだ。彼は、何が何だか全くわからぬままに頼まれたことをやり、そのお礼としてこれまで一度も履いたことがないほど素晴らしい靴を作ってもらった。いま履いている黒い靴だ。
「それで、お願いした件は……」
アントニアは、つややかな髪を結い上げた形のいい頭を少し傾げて訊いた。コルタド氏は、大きく頷くと鞄からCDを取り出した。
「こちらがバルセロナ管弦楽団のチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番で、こちらがスイスロマンド管弦楽団によるメンデルスゾーンのバイオリン・コンチェルトです」
「まあ、もう二つもご用意くださったのですね。素晴らしいわ。ありがとうございます。録音していただくの、大変だったでしょう?」
「そうですね。世界に名だたるオーケストラと指揮者にソリストなしのカラオケを録音していただくのですからね。なんに使うのか、皆知りたがります。でも、ご安心ください。あなたのお名前を悟られるようなヘマはいたしておりません」
「心から感謝いたします。かかった費用はすぐにお支払いします。それに、あなたが理事を務めていらっしゃる芸術振興会にいつもの倍の寄付をさせていただきたいと思います」
アントニアは、真剣な面持ちで礼を言うと、CDを大切にハンドバッグにしまった。
「私が全く興味を持たなかったかと言えば嘘になります」
コルタド氏は誰もが引き込まれてしまうような、人懐っこい笑顔を見せた。アントニアはわずかに笑った。
「もし可能ならば、生のオーケストラをバックに演奏したいと願い続けている人のため。それ以上は、私が言わずとももうご存知でしょう?」
コルタド氏は、意味有りげな顔をした。
「表向きは何の情報もありませんが、私の懇意にしているセビーリャのジプシーたちはこの街に住む特別な一族のことを話してくれますので」
アントニアは、全く何も言わなかった。肯定も否定もしなかった。それから突然話題を変えた。
「それで。新たに見つけた才能のことを話してください。場合によっては、寄付をまた増やしてもいいのですから」
「そうですね。例えば、私が大変懇意にしている四人組の大道芸人たちがいます。でも、彼らのことは、私が個人的に支援しているだけですがね。ああ、そうだ。この街出身の素晴らしい才能が国際デビューしたことはご存知ですか」
「どこで?」
「ドイツです。ミュンヘンの、例の演出家ハンス・ガイステルが見いだしたようで。彼女の名前が少し特殊だったので、もしかしたらあなたのご一族なのかと思ったのですが」
「なんと言う名前ですか」
「ミク・エストレーラ」
ジョゼはぎょっとして、思わず二人をしっかりと見てしまった。幼なじみで且つ想い人であるミクの名前をここで聞くとは! ミクは、正確にはこの街の出身者ではない。日本で生まれ育った日本人だ。ティーンエイジャーだった頃、母親を失いこの街に住んでいた祖母のメイコ・エストレーラに引き取られて引越してきたのだ。ジョゼは、その頃からの友達だった。
ミクはその透明な歌声を見出されて、ソプラノ歌手としてのキャリアを歩み始めていた。ドイツのアウグスブルグで『ヴォツェック』のヒロインであるマリー役で素晴らしい成功をおさめたことは聞いていた。もちろん彼がアウグスブルグに行ったわけではないけれど、彼女の歌声が素晴らしいのは子供の頃からずっと聴いているから知っている。
大学に進み、この街を離れるまでは単純に歌うのが好きな綺麗な姉貴だった。(ミクは6歳も歳上なのだ!)大学在学中に、テクニックとか曲の解釈とか、ジョゼにはよくわからない内容に心を悩ませ、迷い、それに打ち勝って単純に美しいだけではない深みのある歌い方をするようになった。
夢を追っているミクは輝いていたし、ジョゼも心から応援していたが、彼女の夢が1つずつ叶う度にこの街に帰ってくる間隔が長くなり、さらには手の届かない空の星のような存在に変わっていってしまうように感じられて心穏やかではなくなった。
そうだ、
アントニアは、クスッと笑った。それから首を振った。
「私たちの一族でエストレーラ という苗字を持つものはおりません」
コルタド氏はアントニアが左の手首にしている金の指輪を眺めて「そうですか」と納得していない様子で呟いた。彼女は、婉然と微笑んだ。
「
それから何かを考え込むように遠くを見てから、コルタド氏に視線を戻して優しく微笑んだ。
「才能があり功名心を持つ人は、星など持たぬ方がいいのです。世界へ飛び立ち、自由に名をなすことができるのですから。
「あなたも……?」
コルタド氏は、これまでに見たことのあるどの女優にも負けぬほど美しく、どの王族にも引けを取らず品をもつ麗人を見つめた。彼女は顔色一つ変えずに「私も」と答えた。
そして、二人を凝視しているジョゼに視線を移すと、謎めいた笑みを見せた。彼は客の会話に聞き耳を立てるどころか、完全に注目して聴いてしまっていたことに思い至り、真っ赤になって頭を下げた。
「それで、あなたはそのエストレーラ嬢の後ろ盾になるおつもりなのですか」
アントニアは、コルタド氏に視線を戻した。
「いいえ。そうしたいのは山々ですが、彼女にはもう立派な後ろ盾がいるのですよ。ヴィンデミアトリックス家をご存知ですか」
「ええ。もちろん」
「かのドンナ・エム・ヴィンデミアトリックスが、彼女を応援しているのですよ。それに、どうやらイタリアのヴォルテラ家も絡んでいるようです。あなたが絡んでいないとしたら、どうやってそんな大物とばかり知り合いになれるのか、私にはさっぱりわかりませんね」
絵夢ヴィンデミアトリックス! またしても知っている名前が飛び出してきたので、ジョゼの心臓はドキドキと高鳴った。絵夢は日本の高名な財閥令嬢で、ミクと同じ日にジョゼが知り合った、長い付き合いの友達だ。
ミクがポリープで歌手生命の存続を疑われた時に、イタリアの名医を紹介してくれたのも絵夢だった。ついでに、メイコのところに来ている神父見習いの紹介でヴァチカンとつながりのあるすごい家も助けてくれたって、言っていたよな。ともかく、彼らのバックアップの甲斐あって、手術は大成功、彼女はまた歌えることになったんだ。ジョゼはわずかに微笑んだ。
僕はその事情を全部知っています。言いたくてしかたないのを必死で堪えつつ、ジョゼは綺麗に食べ終えたチョコレートケーキの皿をコルタド氏の前から下げた。
その時に、アントニアの視線が彼の靴を追っていることに氣がついた。彼は、そっと足を前に踏み出し、彼の宝物である靴を彼女に見せてからもう一度頭を下げた。この靴のことも、それから彼女がマイアの件で彼に伝言を依頼したことも、彼女は知られたくないことを知っていたので、ジョゼはあくまで何も知らない振りをした。アントニアは満足したように頷いた。
コルタド氏は二人の様子にはまったく目を留めずに、話を続けた。
「来月、またこの街に参ります。その時は、もうひとつのご依頼である『ます五重奏』の方も持ってこれるはずです」
「何とお礼を申し上げていいのかわかりませんわ」
「あなたにまたお逢いできるのですから、毎週でも来たいものです」
コルタド氏が言うと、アントニアは微笑んだ。
「私がいつまで、こうした役目を果たせるかわかりませんわ」
「なんですって。ドンナ・マヌエラからお役目を引き継がれてから、まださほど経っていないではないですか」
「ええ。でも、ようやく本来私のしている役目を果たすべき者が決まりましたの。まだこの仕事には慣れていませんので、しばらくは私が代わりを務めますが」
「それは、ご一族に大きな慶事があったということでしょうか」
「ええ。その通りです」
「なんと。心からお祝い申し上げます。ドン・アルフォンソにどうぞよろしくお伝えください」
「必ず。ご健康と、そしてあなたのご事業のますますのご発展を祈っていると、彼からの伝言を受けていますわ」
「これはもったいないお言葉です。私の方からも心からの尊敬をお伝えください」
コルタド氏は立ち上がって、アントニアに手を差し出した。その手に美しい手のひらを預けて優雅に立ち上がると、彼女は水色の瞳を輝かせながら微笑んだ。
「バルセロナへお帰りですか?」
「いえ、せっかくここまで来ましたのでひとつ商談をするためコインブラへと参ります。そのためにレンタカーを借りました。そして可能でしたら、少し足を伸ばしてアヴェイロにも行くつもりです。《ポルトガルのヴェニス》と呼ばれているそうですね」
「そうですか。よいご滞在を。またお逢いするのを楽しみにしています」
二人が去った後に、テーブルを片付けると、コルタド氏の座っていた席に、多過ぎるチップとともに料金が置いてあった。ジョゼは、ミクが帰って来たら「姉貴のことを噂していた人がいたよ」と話そうと思った。
ミクがまた歌えるようになるまで三ヶ月かかるとメイコは言っていた。その静養期間に彼女はしばらくこの街に戻ってくるとも。
彼は、つい先日格安で中古のTOYOTA AYGOを手に入れた。小さい車だが小回りがきき丈夫でよく走る。アヴェイロか。そんなに遠くないよな。
彼女が帰って来たら、ドライブに誘おう。ここしばらく話せなかったいろいろな事を話そう。そして、出来たらもう小さな弟代わりではなくて、友達でもなくて、それよりもずっと大切に思っていると、今度こそ伝えたいと思った。
街には春のそよ風が心地よく吹いていた。
(初出:2016年3月 書き下ろし)
【小説】 アヴェイロ、海の街
本日発表するのは、「黄金の枷・外伝」扱いにしてありますが、ブログのお友だちの間では「ポルト&ローマ陣営」で知られているコラボ作品の最新作です。山西左紀さんのところの「ポルトのミク&メイコ」と大海彩洋さんのところの「詩織&ロレンツォ&トト」と、うちの「黄金の枷」シリーズのキャラたちが交流しているのです。
そのうちの流れの一つが、左紀さんの所のミクとうちのジョゼの話なんですけれど、何だかよくわからないうちに、「ミクとジョゼをカップルに」的な流れになっていまして、人様のキャラ相手にこんなこと書いていいのかと首を傾げつつ、本日の展開になっている、とお考えください。急いで発表すべき大人の事情(笑)がありまして、急遽書き下ろしました。
うちのブログでは「黄金の枷・外伝カテゴリー」で追うと、「ポルト&ローマ陣営」の大体のことがわかるかと思います。ま、一つ前の「カフェの午後 - 彼は耳を傾ける」を読めばそれにほぼ情報は入っているかな。
サキさんの所ではこうやって追えば、わかるでしょうか。
ちなみに彩洋さんの所はこのカテゴリーかな? 今回の話にはからんでいないパートですが。
【参考】
小説・黄金の枷 外伝
![]() | Infante 323 黄金の枷 |
黄金の枷・外伝
アヴェイロ、海の街
ずっと寒かったから心配していたけれど、その日は晴れ渡っていて正にドライブ日和だった。ジョゼが車を家の前に駐車して、呼び鈴を鳴らすと、ミクだけでなく祖母のメイコまで出てきた。
メイコは口にこそ出さないが「子供が車に乗っていいのか」という顔をしていた。もちろんジョゼはもうれっきとした成人だし、自動車免許証をちゃんと取得している。もっとも、左側のバンパーがへこんでいるのを目ざとく見つけたメイコが十字を切るのを見て「安全運転するから大丈夫だって」と言い訳がましくつぶやいた。
ミクは新しいブラウスを着ていた。それは若草色や水色、それに白などが鮮やかにプリントされたオーガンジーで、内側に着ている黄色いキャミソールと、日本人らしい彼女のわずかに黄味のある肌を引き立てていた。この前逢った時よりも少し髪の毛が伸びたみたいだ、ジョゼはちらりと横目で見て、あれ、今日はあのピンはしていないんだ、そう思った。
長かった髪を切って以来、ミクはいつもあのトパーズのついた髪ピンをつけていた。キラキラして似合っていた。一度、落ちそうになっていたので指摘したら「ありがとう。これ、幸運のお守りなんだって」と言った。安いものには見えないから、誰かのプレゼントじゃないかと思ったけれど、どういうわけだか訊けなかった。訊かない方がいいと、どこかで思っていた。
ミクの幸運を願う氣持ちは大いにあるけれど、ジョゼはそのピンを彼女がつけなくなったことにどこかホッとしていた。もっとも、今日はたまたま付けていないだけかもしれない。
「どこに連れて行ってくれるの?」
ミクは、車の窓を開けて風を入れた。
「うん。特にリクエストがなければ、アヴェイロはどうかな」
「どこ、それ?」
ミクは、ティーンエイジャーの時にこの国にやってくるまではずっと日本にいた上、その後も留学やなんかで忙しかったから、この国の地理にそんなには詳しくない。そりゃ、リスボンやコインブラがどこにあるくらいは知っているだろうけれど。
「南に一時間弱走ったところだよ。運河の街だからポルトガルのヴェニスって呼ばれているんだ」
「へえ。面白そう。じゃあ、そこに行きましょう」
ミクは、鼻歌を歌いながら運転するジョゼに顔を向けた。免許を取ったのはもう一年くらい前だと言っていたけれど、まだ一度も彼の運転している姿を見た事がなかった。彼女の滞在がいつも短くて、その度に逢っているものの車で遠出をする時間などあった試しがなかった。ポリープの手術の後の三ヶ月の療養期間は、歌手を目指し始めてから初めての長い休みだ。
彼のハンドルさばきは鮮やかで安定していた。若者らしく少しスピードは超過しているが、無理な追い越しなどはしないし、ブレーキ操作もスムースだった。彼は、いつの間にこんな大人になったんだろう。ついこの間まで絵夢に甘えていた小学生だったくせに。
「なんだよ。あんまりカッコ良くて見とれている?」
ミクの視線を感じて顔を向け、おどけてジョゼは言った。
「よく言うわ。ちゃんと前見て運転してよ」
彼女は、一時間弱のドライブじゃ、短すぎるなと思ったけれど、死んでもそんなことは言ってあげないと心の中で呟いた。
ポルトガル中部、アヴェイロ県の都でもあるアヴェイロは潟と運河で発展してきた海の町だ。現在は大西洋に面する重要な港湾都市として工業も盛んだが、街の中心部はかつての優美な姿を今に留めている。運河の前には美しいファサードの建物が並び、水の上には色とりどりに塗られたモリセイロと呼ばれる舟が浮かんでいる。かつては海藻や塩の運搬に使われていたこの舟も、今はヴェニスと同様に観光客用のアトラクションになっている。
「でも、乗るだろ? せっかくここまで来たんだし」
ジョゼは、船着き場に向かう。二人で舟に乗るなんてロマンティックと思っていたら、なんのことはない十人以上の観光客が一緒に乗る舟だった。舟にはエンジンが取り付けてあって二人の船頭の役割は、方向転換とマイクによる観光ガイドだった。しかも英語だ。
水の上は少し肌寒かったので、ジョゼは備え付けてあった毛布を広げてミクの膝にかけた。
「ありがとう。こんなに温度が変わるのね」
「そうだね。まだ春だから。いくらポリープは取れたといえ、風邪なんか引かない方がいいだろう?」
アール・ヌーボーの美しい家々、塩づくりや漁業で財を成した人たちの豪邸、荒れる海との戦いを彷彿とさせるいくつもの海門、それに英国の王室にも納品しているという有名な塩田などを見学して舟は元の広場に戻ってきた。
「冷えちゃったから、コーヒーでも飲んでいこうぜ」
ジョゼは、船着き場からさほど遠くない一軒のカフェに入って行った。そのカフェは思ったよりも広いが、中は客がぎっしりと座っていた。ポルトガルに多い、対面のガラスケースにお菓子を所狭しと並べて販売している。
二人が座ると、ウェイトレスが注文を取りに来た。
「大きなカップでコーヒーを二つと、それからオヴォシュ・モーレシュも二つ頼むよ」
ジョゼが注文した。
「オヴォシュ・モーレシュ?」
「ここの名産なんだ。ほら、きた」
白い貝の形をした薄くてぱりっとした皮に黄身の甘いクリームが詰めてある菓子だった。
「あ、最中!」
ミクは懐かしそうに言った。
「モナカ?」
「そう、この皮にそっくりな日本のお菓子があるのよ。小豆で出来た餡を入れたり、アイスクリームを挟んだり。この黄色いクリームも日本で食べる黄身餡に似ているし、嬉しくなっちゃう。日本には大航海時代にポルトガルから伝わったお菓子や言葉が今でも残っているの」
「へえ。たとえば?」
「鶏卵素麺っていうお菓子はフィオス・デ・オヴォスのことだし、パン・デ・ローはカステラって名前になって、大人も子供もみんな食べるポピュラーなお菓子よ。それにコンフェイト(菓子)を語源にした金平糖という砂糖菓子もあるのよ。だからこちらで食べるお菓子は、あたしには懐かしいものが多いの。たとえ初めて食べるものでもね」
ジョゼは、ミクをじっと見つめながら訊いた。
「日本が懐かしい?」
ミクは答えるのに少し躊躇して言葉を選んでいた。ジョゼは、日本に帰りたいと言わないでくれたらいいなと思った。彼女はようやく口を開いた。
「懐かしくないと言ったら嘘になるけれど……」
それから、笑顔を見せた。
「あたしね、故郷から遠く離れているんじゃなくて、あたしには二つの故郷があるって思うようにしているの。それに、今は日本よりこの国に大切な人がいるから」
「それって……」
メイコのことかな、それとも……。ジョゼが続きを訊こうとするのを無視して彼女は立ち上がり、対面ケースのところで、オヴォシュ・モーレシュの詰め合わせの箱を二つ買った。
彼は肩をすくめてコーヒーを飲み干すと、会計をした。
帰りに華やかな家々の並ぶ海岸沿いを通ってから、帰途についた。楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。この三ヶ月間どのくらい彼女と会えるのかなあ。ジョゼは、今日もまた言えなかったじゃないかと思いながら、車を走らせていた。
「オヴォシュ・モーレシュ、メイコにお土産か?」
「ええ、一箱はね」
「じゃあ、もう一箱は?」
ミクはいたずらっ子のように笑いながら、箱を開けて「こうして食べる用」と一つ取り出してかじった。
「え。一人で?」
ジョゼが不満顔で言うと、彼女は自分のかじった残りを冗談めかして彼の口元に持っていった。
彼は、それをそのままひと口で食べてしまった。
「あ!」
ミクは目をみはった。間接キスしちゃった。
ジョゼは、ミクが嫌がっていないのに氣をよくした。彼女の持っている箱から、もう一つ取り出すとひと口かじってから、ミクの口元に持っていった。そして、彼女がいつもよりずっと魅力的に微笑んでから、大きな口を開けてぱくっと食べてしまったのを確認した。彼は飛び上がりたい氣もちを抑えて真面目に運転した。
(初出:2016年6月 書き下ろし)
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【小説】薔薇の下に
ご希望の選択はこちらでした。
*現代・日本以外
*毒草
*肉
*城
*ひどい悪天候
*「黄金の枷」関係
*コラボ・真シリーズからチェザーレ・ヴォルテラ(敬称略)
『真シリーズ』は、彩洋さんのライフワークともいっていい大河小説。何世代にもわたり膨大な数のキャラクターが活躍する壮大な物語ですが、中でも相川真に続くもっとも大切な主人公の1人が大和竹流ことジョルジョ・ヴォルテラです。今回リクエストいただいたチェザーレ・ヴォルテラはその竹流のパパ。ヴァチカンに関わるものすごい家系のご当主です。
うちでは「黄金の枷」関係、しかも毒草だなんて「午餐の後に」のような「狐と狸の化かしあい・その二を書け~」といわれたような。彩洋さん、おっしゃってますよね? どうしようかなと悩んだ結果、こんな話になりました。実は「ヴォルテラ×ドラガォン」のコラボはもう何度かやっていまして、いま私が書いているドラガォンの面々は、竹流と真の子孫と逢っていますので、チェザーレとコラボすることは無理です。で、23やアントニア、それにアントニオ・メネゼスの先祖にあたる人物を無理矢理作って登場させています。
彩洋さん、竹流パパのイメージ壊しちゃったら、ごめんなさい。モデルのお方のイメージで書いてしまいました……。
【参考】
小説・黄金の枷 外伝
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黄金の枷・外伝
薔薇の下に Featuring『海に落ちる雨』
レオナルド・ダ・ヴィンチ空港の到着口で、ヴァチカンのスイス衛兵伍長であるヴィーコ・トニオーラは待っていた。
「出迎え、ですか?」
彼はステファン・タウグヴァルダー大尉に訊き直した。直接の上司であるアンドレアス・ウルリッヒ軍曹ではなく大尉から命令を受けるのも異例だったし、しかもその内容が空港に到着する男を迎えに行けというものだったので驚いたのだ。
「そうだ。ディアゴ・メネゼス氏が到着する。お待たせすることのないように早めに行け」
「これは任務なのですか」
「もちろんだ。《ヴァチカンの警護ならびに名誉ある諸任務》にあたる。くれぐれも失礼のないように」
「そのメネゼス氏は何者なのですか。……その、伺っても構わないのでしたら」
「竜の一族の使者だ」
「それはどういう意味ですか?」
彼は答えなかった。
「その……空港でお迎えして、その後こちらにお連れすればいいのでしょうか」
「いや、ヴォルテラ氏の元にお連れしてくれ。その後、すぐに任務に戻るか、それとも引き続き運転をしてどちらかにお連れするのかは、ヴォルテラ氏の指示に従うように」
「ヴォルテラ氏というと、リオナルド・ヴォルテラ氏のことですよね。ローマに戻っていたんですか」
ヴォルテラ家はヴァチカンでは特別な存在だった。華麗なルネサンスの衣装を身に着け表立って教皇を守るスイス衛兵と対照的に、完全に裏から教皇を守る世には知られていない家系だ。ようやく部下を持つことになった程度の若きスイス衛兵ヴィーコは、当然ながらヴォルテラ家と共に働くような内密の任務には当たっていない。だが、当主の子息ではあるが氣さくなリオナルド・ヴォルテラとは面識があるだけでなく一緒にバルでワインを飲んだこともあった。彼は英国在住で、時折ローマに訪れるのみだ。
「まさか。寝ぼけたことを言うな。当主のチェザーレ・ヴォルテラ氏に決まっているだろう」
タウグヴァルダー大尉は、渋い顔をして言った。仰天するヴィーコに大尉は畳み掛けた。
「これはただの使い走りではない。君の将来にとって、転機となる任務だ。心して務めるように」
ヴィーコは落ち着かなかった。彼は、スーツに着替えると空港に向かった。激しい雨が降っていた。稲妻が扇のように広がり前方を明るくする。それはまるで空港に落ちているかのように見えた。こんなひどい雨の中運転するのは久しぶりだ。故郷のウーリは天候が変わりやすかったので、彼は雷雨を怖れはしなかった。
本来であったら今日はウルリッヒ軍曹とポンティフィチオ宮殿の警護に当たるはずだった。軍曹と二人組で仕事をするのが氣まずくて、この任務に抜擢され二人にならずに済んだことは有難いと思った。だが、これは偶然なのだろうか。
ヴァチカン児童福祉省で実務の中心的役割を果たしているコンラート・スワロスキ司教がローマ教区での児童性的虐待に関わっている証拠写真を偶然見つけてしまった時、軍曹は「歯と歯を噛み合わせておけ」つまり黙認しろと命令した。
「俺たちの仕事は猊下とヴァチカン市国を守ることだ。探偵の真似事ではない」
彼には納得がいかなかった。スワロスキ司教と個人的な親交を持つウルリッヒ軍曹が、彼をかばっているのだと思ったのだ。カトリック教会内における児童性的虐待は新しい問題ではなかったが、それを口にすることを嫌う体質のせいで永らく蓋をされてきた。プロテスタントの勢力が強いスイスでも問題視し告発する者がようやく現れた段階で、ヴァチカンの教皇庁内部の人間を告発したりしたらどれほど大きいスキャンダルになるかわからない。だが、このままにしておくことは、ヴィーコの良心が許さなかった。
彼は親友であるマルクス・タウグヴァルダーにこのことを相談していた。マルクスはタウグヴァルダー大尉の甥だ。マルクスから大尉に伝わったのだろうか。彼は大尉に呼び出された時に、その件だと思った。だが、ポルトガル人を出迎えてヴォルテラ氏の所に行けというからには、自分にとって悪いことが起こる前触れではないだろうと、少し安心した。とにかくこの任務をきちんと果たそう。
予定していた飛行機はこの雷雨にもかかわらず定刻に到着していた。ヴィーコは「メネゼスさま」という紙を掲げて税関を通って出てくる人びとを眺めた。
「出迎え、ご苦労様です」
低い声にぎょっとして見ると、いつの間にか目の前に黒い服を来た男が立っていた。きっちりと撫で付けたオールバックの髪、痩せているが背筋をぴんと伸ばしているので、威圧するような雰囲氣があった。丁寧な英語だが、抑揚が少なく感情をほとんど感じられなかった。
「失礼いたしました。スイス衛兵のヴィーコ・トニオーラ伍長です。ヴァチカンのヴォルテラ氏の所へご案内します。お荷物は?」
小さめのアタッシュケース1つのメネゼスに彼が訊くと、黙って首を振った。
彼はまっすぐにヴァチカン市国に向かった。雨はまだ激しく降っていて、時おり稲光が走った。ヴィーコは不安げに助手席に座った男を見たが、彼は眉一つ動かさずに前方を見ていた。
サンタンナ門からスイス衛兵詰所の脇を通って中央郵便局の近くに車を停めると、メネゼス氏を案内してその近くの目立たぬ建物に入った。扉が閉まると、激しい雷雨は全く聞こえなくなり、ヴィーコはその静けさに余計に不安になった。そこは、何でもない小屋に見えるが、地下通路でヴォルテラ氏の事務所に繋がっていた。
緩やかな上り坂の通路の突き当たりにいかめしい樫で出来た扉があり、ヴィーコがセキュリティカードを脇の機械に投入すると数秒の処理の後、自動でロックが解除され扉が開いた。さらに先に進むと、紺のスーツを着た男が扉を開き頭を下げて待っていた。
「ようこそ、メネゼスさま。主人が待っております、どうぞこちらへ」
メネゼスが応接室へと入ると、ヴィーコはその場に立って「もう戻っていい」と言われるのを待っていたが、紺の服の男は、ヴィーコにも目で応接室に入るようにと促した。戸惑いながら応接室に入ると明るい陽射しが目を射た。瞬きをして目が明るさに慣れるのを待つと、がっしりとしたマホガニーのデスクと、暗い色の革の椅子、そして同じ色の応接セットが目に入った。
窓の所にいた男がこちらに歩み寄り、メネゼス氏に丁寧に挨拶をしているのが見えた。格別背は高くないが、灰色の緩やかにウェーヴのかかった髪と青灰色の意志の強そうな瞳が印象的で、一度見たら忘れられない存在感のある男だった。チェザーレ・ヴォルテラ。彼の事務所に足を踏み入れる日が来るなんて。ヴィーコは入口の近くに直立不動で立っていた。
「トニオーラ伍長、ご苦労だった。申し訳ないが、後ほどリストランテまで運転してほしいのだ。もう少しここで待っていてほしい」
ヴィーコは、ヴォルテラ氏に名前で呼ばれて仰天しつつ、頭を下げた。
「ドン・フェリペは、お元氣でいらっしゃいますか」
「はい。猊下とあなたにくれぐれもよろしくと申しつかっています」
紺の服を着た男が、メネゼス氏とヴォルテラ氏の前にコーヒーを用意する間、二人はなんと言うことはない世間話をしていたが、男が部屋を出て扉が閉じられると、しばらくの沈黙の後、声のトーンを低くして厳しい顔で語りだした。
「それで。緊急に処理をしなくてはならないご用事とは」
ヴォルテラ氏が言うと、メネゼス氏はアタッシュケースから一枚の写真を取り出した。
「この方をご存知でしょうな」
ヴォルテラ氏はちらっと眺めてから「ベアト・ヴォルゲス司教ですな。ヴォルゲス枢機卿の甥の」と言った。
メネゼス氏は続けた。
「その通りです。私どもの街にいらして以来、実に精力的に勤めてくださいまして、ずいぶんと多くの信奉者を作られているようです」
「それは好ましいことです」
「ええ。正義感の強いまっすぐな方で、なんの見返りも求めずに人びとの幸福を願う素晴らしい神父でいらっしゃる。ところで私どもが問題としているのは、とある青年がある娘と結婚が出来ないことを悲しみ、ヴォルゲス司教に相談をしたことなのです」
「とおっしゃると、その女性は金の腕輪をしている方ということでしょうか」
「おや、あなたが女性のアクセサリーに興味があるとは存じませんでした。ええ、あなたがその素晴らしい指輪をしていらっしゃるのと同じように確かに彼女は腕輪をしているようです。それはともかく、司教は二人の問題をペレイラ大司教に訴えました。大司教は、私と同じ役割の家系出身で、当然ながらその件からは手を引くように説得したのですが、納得のいかない司教が叔父上である枢機卿とローマに掛け合うと言い出したのです」
ヴィーコは、話の内容についていけなくなった。金の腕輪? 結婚できない二人の話? メネゼス氏と同じ役割の家系? 何の話だろう。
ヴォルテラ氏とメネゼス氏は、ヴィーコに構わずに話を続けていた。
「それで、私どもにどうせよとおっしゃるのですか」
「私どもが、あなた方に何かをお願いしたり、ましてや要求できるような立場にはないことは明白です」
「では?」
「たんなる情報としてお伝えしに参ったのです」
含みのあるいい方だった。まったく別の印象を抱かさせる物言いだ。ヴィーコは、メネゼス氏を送り込んだドン・フェリペとやらがヴォルテラ氏に何かをさせようとしていることを感じた。ヴォルテラ氏は、眉一つ動かさずに言った。
「つまり、これはイヌサフラン案件だとおっしゃりたいのですか」
メネゼス氏は、即座に首を振った。
「まさか。あのように善良な方を『ゆっくりと、苦しみながら死に至らせる』なんてことは、キリスト教精神に反します」
「そうですか」
ヴォルテラ氏の反応を確かめるように、メネゼス氏はゆっくりと続けた。
「そうですとも。ところで、ローマで珍しい樹の苗を扱う業者をご存じないでしょうか。私は最近園芸に興味が出てきまして、いい苗を買いたいと思っているのですよ。例えばミフクラギなどを」
「ミフクラギですか。Cerbera manghas。インドで自生する花ですな。わずかに胃が痛み、静かに昏睡し、三時間ほどで心臓が止まる。よりキリスト教精神に則った効果が期待できると」
メネゼス氏は特に表情を変えずに言った。
「いいえ。私はあの白くて美しい花を我が家にも植えたいだけです」
ヴィーコは、ぞっとして二人の話を聴いていた。恋する二人の信徒を助けたいと願った善良な司教についてなんて話をしているんだろう。
ヴォルテラ氏は小さくため息をつくと言った。
「園芸業者のことは私は存じません。それはそうと、ヴォルゲス司教のことはいい評判を聞いていますので、早急にローマに戻っていただくのがいいと猊下に申し上げましょう。猊下でしたら枢機卿が話を大きくする前に、司教にふさわしい役目を用意してくださるでしょう。ちょうど空いたポストもあることですし」
メネゼス氏は、黙って頭を下げた。ヴォルテラ氏はほとんど表情を変えないポルトガル人を見ていたが、青ざめて立っているヴィーコの方を向いて言った。
「リストランテ・サンタンジェロに予約が取ってある。悪いが一緒に来てもらい、その後メネゼス氏をもう一度空港へと送ってもらうことになる。いいね」
「はい」
ヴィーコは頷いた。
「サンタンジェロですか。というと、あの有名なイル・パセットを歩いていくわけですか?」
とメネゼス氏が言った。彼が言っているのは、ボルゴの通路(Il Passeto di Borgo)のことだ。サンタンジェロ城とヴァチカンを結ぶ中世の避難通路で、他国からの侵略があった時に歴代の教皇が使ってきたものだ。このポルトガル人はニコリともしないのでジョークなのか本氣で訊いているのかわからない。
「せっかくローマまでいらしたのですから、ご案内したいのは山々ですが、あの通路の半分以上には屋根がないのですよ。この悪天候ではリストランテには入れないほどびしょ濡れになってしまうでしょう」
ヴォルテラ氏は穏やかに微笑みながら返し、手元の小さいベルを鳴らした。
ドアが開き、先ほどの紺のスーツの男が入ってきた。
「図書館の前にお車を回してあります。リストランテの予約は、スイス人ベルナスコーニ、3名で入れてあります」
まさか! 3名ってことは、僕も一緒にってことか? 戸惑うヴィーコに、紺の服の男は「入口であなたがベルナスコーニだと名乗ってください」と言った。
つまり、このイタリア人とポルトガル人が逢っていたことが噂にならないように注意しろという意味なのだと思った。だが、それならわざわざ何も知らないヴィーコにさせなくとも、この男か他のヴォルテラ氏の配下がやったほうが抜かりがないはずだ。なぜ? ヴィーコは訊きたかったが、余計なことをしてヴォルテラ氏を怒らせるようなことをしてはならないことだけはわかっていた。
想い悩むヴィーコをよそに、図書館へと至る地下通路を歩きながら二人は和やかに話をしていた。
「ところでメネゼスさん、猪肉はお好きですか」
「ええ。そのリストランテは猪肉を出すんですか?」
「そうです。おそらくあれだけの味わい深いの漁師風赤ワイン煮込みは、あそこでしか食べられないと思います。ぜひご案内したいと思っていました」
「それは楽しみです。食通で有名なあなたが太鼓判を押す味なら、間違いありませんから」
「猪猟はトスカーナの伝統なのですが、本日ご案内する店で出している肉は、とある限られた地域のものなのです」
「ほう。何か特別な地域なのですか?」
「ええ。イタリアでも珍しくなってしまった手つかずの森がある地域でしてね。そこでしか育たない香りの高い樫があるのですよ。その店の肉は、その幻の樫のドングリをたっぷりと食べて育った若い猪のものなのです」
「幻の樫ですか」
「ええ。この国の者でもその存在を知る者はほとんどないでしょう。この世の中は深く考えずに踏み込み、滅茶苦茶に荒らしてしまう無責任で無知な者たちで満ちています。失われてはならぬものを守るためには、その存在を公から隠し、目立たぬようにしなくてはならない。いや、あなたにこのような話は無用でしたな」
メネゼス氏は立ち止まり、しばらく間を置いてから低い声で呟いた。
「ご理解と、ご助力に心から感謝します」
「なんの。これで先日の借りを返せるのならば、お安いことです」
ヴォルテラ氏の張りのある声が地下道に響いた。
「ところで、トニオーラ伍長」
暗い地下通路の真ん中で、不意にヴォルテラ氏が立ち止まり振り返った。ヴィーコはどきっとして立ちすくんだ。
「はい」
「あなたも園芸に興味がありますか?」
唐突な問いかけだった。
「い、いえ。私は無骨者で、その方はさっぱり……」
ヴォルテラ氏は、静かに言った。
「そうですか。児童福祉省のコンラート・スワロスキ司教は、コンゴへと赴任することになりました。あなたの上司のウルリッヒ軍曹がご家庭の事情で今日付けで急遽退官なさることになったのとは、全く関係のないことですが、おそらくあなたには報せておいた方がいいかと思いましてね」
ヴィーコの背中に冷たい汗が流れた。ヴォルテラ氏はこれ以上ないほど穏やかに微笑みながら続けた。
「今日、特別な任務を引き受けてくださったお礼としてあなたに何かをお贈りしようか考えていたのですが、園芸に興味がないということでしたら、苗をお贈りしてもしかたないでしょうね」
「苗ですか。私に……?」
「もちろんミクフラギやイヌサフランではありませんよ。私が考えていたのは薔薇の苗です」
ヴィーコは、即座にヴォルテラ氏の言わんとすることがわかった。彼が必要もないのにメネゼス氏の送迎を任された理由も。
「Sub rosa(薔薇の下に=秘密に) ……」
彼は、ヴォルテラ氏の望んでいる言葉を口にした。
ヴォルテラ氏は満足そうに頷くと「ワインはタウラージの赤7年ものを用意してもらっているのですよ」とメネゼス氏との会話に戻っていった。
すっかり震え上がっているヴィーコは、どんな素晴らしい料理を相伴させてもらうとしても、全く味を感じられないだろうと思いつつ、二人について行った。
(初出:2016年7月 書き下ろし)
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【小説】約束の花火
今回の話は、かつて「carat!」に出そうとしてやめたものです。なんせこの話は本編を知らないと話がほとんど通じないから。でも、お蔵入りにするのはもったいないので、ここで発表させてください。
![]() | 「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
約束の花火
彼はいつもよりも騒がしいボアヴィスタ通りを窓から見下ろした。次第に夕闇が迫って来ていて、人びとはますます陽氣になっていく。
「メウ・セニョール、他に何かご用がございますでしょうか」
黒服を着たディニス・モラエスが恭しく部屋の戸口から訊いた。
「いや。何もない。お前も約束があるのだろう。アントニアがよければ、いつも通り鍵をかけて退出するがいい」
モラエスは、わずかにホッとした顔をして頷いた。ここで本音が出るようでは、まだまだだな。彼は若い《監視人たち》のエリートから眼を逸らした。
今夜は、サン・ジョアン祭の前夜で、この街は狂騒に湧く。鰯のグリルと、バジルの香りが街に溢れ、人びとはプラスティックのハンマーで見知らぬ人たちを叩きながら無礼講を楽しむ。パレード、ダンス、紙風船、そしてD河の花火。
街の老若男女、世界中からの観光客たちが祭を楽しむ。この日ばかりは、普段監視されている《星のある子供たち》や、監視を生業とする《監視人たち》も、全てを忘れて楽しむのだろう。
だが、その日すらも闇夜に紛れて祭を楽しむことを許されていない人びとがいる。街の中心にある『ドラガォンの館』で暮らす家族と、そこに勤める者たちの一部。とくに鉄格子の中から騒がしい外の様子を漏れ聞きながら、外へ行くことに憧れ自由になることを夢見ているインファンテと呼ばれる男たち。
「叔父さま。下でお茶はいかが?」
彼は、その声に振り向いた。アントニアは、今夜は髪を下ろしていた。優しい水色の瞳がものいいたげに輝いている。
「やはり、今晩の花火をご覧になりたいんじゃなくて? 今から誰か、派遣してもらいましょうか?」
彼はその姪の言葉に眉を一つあげた。
彼もまた、インファンテと呼ばれる特別な存在だったが、少なくとも望めば外出することが許されていた。14年前に当主のスペアとしての役割は終えた彼は、長年過ごした『ドラガォンの館』からこのボアヴィスタ通りの館へと移された。格子の中に閉じこめられることはなくなったが、館の内外には常時《監視人たち》が配置されていた。
現在は完全監視体制にはない。もちろん最後の《監視人たち》の一人が館を退出するときには、特別のセキュリティシステムを作動させるので、外から誰かが敷地に入っても、反対に中から外へ出て行くことを試みても、1分以内に特別包囲体制が整って大捕物になる。が、大人しくお茶を飲んでベッドに向かう分には何の問題もなかった。
ここに移されるとき、「この街の中で、外出なさりたい所がございましたら、遠慮なくお申し付けくださいませ」と言われた。生まれてから一度も外に出ることを許されていなかった彼は、突然ずっと多くの自由を手にしたことを知った。だが、彼は自らの意志で外出をしようとしたことは一度もなかった。
あれほど懇願しても願いを聞き入れてもらえなかった。どうしても欲しかったものを「掟」の名のもとに諦めなくてはならなかった。今さら差し出された貢ぎ物を、嬉々として受け取ることなど、彼には出来なかった。
そんな彼が今夜に限ってその手の氣まぐれで《監視人たち》の組織を振り回したら、黒服の奴らは何事かと色めき立つことだろう。彼は、先ほどのモラエスの表情を思い出して笑った。
「そうして、一人の黒服と一人の運転手とが、あわてて約束を反古にしてここに駆けつけるというわけか。花火など、火薬を使ったただの化学反応だ。騒がしいだけで興味はない。お前こそ、なぜ今夜もここに残った。モラエスが施錠して退出したから、明日の朝までは出られないぞ」
「いいのよ。どの道、明日の五時にはドラガォンから迎えが来るの。叔父さまは、今年も早朝ミサにはいらっしゃらないのよね」
「ふふん。ごめんだね。お前たちの信仰深さには呆れるな。私はいつも通りゆっくりするが、お前はお前の好きにしなさい。もっとも、今これからお茶を飲むという提案は悪くない」
『ドラガォンの館』にも、たくさんの使用人は残っていなかった。執事であり《監視人たち》中枢組織の最高幹部であるメネゼスと、召使い頭であるジョアナ・ダ・シルヴァ、それにクリスティーナ、料理人のクラウディオと運転手のカヴァコだけが残り、あとの使用人たちは翌朝までに戻ってくる条件で祭に出かけていた。
女主人であるマヌエラは、当主アルフォンソならびにその妻もそうであるように、望めば《監視人たち》と一緒に外出し、祭を見ることができる。だが、彼らは一度もそれを試さなかった。どれほど望んでも館の外に出ることの出来ないインファンテの氣持ちを考えると、浮き足立って祭に繰り出すことなど到底出来なかった。
彼女は、ひとり居室に隠ると、書棚から一冊のスクラップブックを取り出した。黒い台紙を繰ると、三ページ目に探していた絵があった。今は亡き夫が大切にしていたものだ。子供らしい稚拙なイラストで、右側と左側は別の人物によって描かれていた。
二人の小さい人物が、河辺に立っている。河の向こう側には大きい花火がいくつも上がっていた。この絵を仲良く描いた二人の少年たちの幸せな時間を想って、彼女の胸は熱くなった。
「大きくなったら、一緒にサン・ジョアンの前夜祭の花火を観にいこうね」
「うん。約束だよ」
その約束は、果たされることはなかった。カルルシュはドイスことインファンテ322の憎しみを受け、その死まで決して許してもらうことはなかった。だから、彼もまたついに花火を観にいくことはなかった。ドイスと一緒でなければ絶対にいかないと毎年のように言っていた。
二人の少年の憧れた、大輪の花火は、今宵も館を振るわせるような大きな音をさせている。
「このお菓子、どう? 例のスペインの実業家が持ってきてくださったのよ。あの方と叔父さまとは合うに違いないわ。甘いものを本当に美味しそうに召し上がるのよ」
アントニアは、アールグレイの紅茶に添えて、海辺の街アヴェイロの銘菓オヴォシュ・モーレシュをボウルに盛ってテーブルに置いた。こうした甘いものに目のない彼は、だが、大して興味のないような様子のまま、一つ手にとった。
それをあっという間に食べてしまい、「悪くない」程度の顔をしたまま、黙って紅茶を飲んだ後、さりげなく二つ目に手を出している彼の姿を見て、アントニアは満足して微笑んだ。
花火の音が遠くから聞こえて来た。彼は黙って耳を傾け、何かを考えているようだった。それから「興味がない」という風情で再びティーカップを口に運んだ。
彼は、これからも決してサン・ジョアンの花火を観にいきたいとは言わないだろう。でも、いつか、おそらく来年にでも、私がどうしても観たいからとでも口実を作って、彼に花火を見せてあげよう。アントニアは、彼の素直でない態度に水色の瞳の奥で微笑んだ。
(初出:2016年10月 書き下ろし)
【小説】ジョゼ、日本へ行く
ご希望の選択はこちらでした。
*現代日本
*薬用植物
*地元の代表的な酒/もしくは嗜好飲料
*城
*ひどい悪天候(嵐など)
*「黄金の枷」関係
「黄金の枷」シリーズの主要キャラたち、とくに「Infante 323 黄金の枷」の主人公たちは設定上、今回のリクエストの舞台である日本には来ることが出来ないので、同じシリーズのサイドストーリーになっているジョゼという青年の話の続きを書かせていただきました。できる限り、この作品の中でわかるように書かせていただきましたが、意味不明だったらすみません(orz)
このキャラは、山西左紀さんのところのミクというキャラクターと絡んでいるんですが、全然進展しないですね。新キャラを投入して引っ掻き回していますが、私の方にはまったく続きのイメージがありません(なんていい加減!)この恋路の続きは、サキさんに全権委任します。
【参考】
小説・黄金の枷 外伝
![]() | Infante 323 黄金の枷 |
黄金の枷・外伝
ジョゼ、日本へ行く
すごい雨だった。雨は上から下へと降るものだと思っていたが、この国では真横に降るらしい。それも笞で打つみたいに少し痛い。痛いのはもしかしたら風の方だったかもしれないが、そんな分析を悠長にしている余裕はなかった。目の前を立て看板が電柱から引き剥がされて飛んでいき、とんでもないスピードで別の電柱に激突するのを見たジョゼは、危険を告げる原始的なアラームが大脳辺縁系で明滅するのを感じてとにかく一番近いドアに飛び込んだ。
それは小さいけれど洒落たホテルのロビーで、静かな音楽とグロリオサを中心にした華やかな生花が高級な雰囲氣を醸し出していた。何人かの日本人がソファに座っていて、いつものようにスマートフォンを無言でいじっていた。
風と雨の音が遠くなると、そこには場違いな自分だけがいた。びっしょり濡れて命からがら逃げ込んできた人間など一人もいない。
「ジョゼ! いったいどうしたのよ」
エレクトラが、落ち着いたロビーの一画にあるソファに座って、薄い白磁でサーブされた日本茶と一緒にピンクの和菓子を食べていた。
ジョゼは、とある有名ポートワイン会社の企画した日本グルメ研修に、勤めるカフェから派遣された。彼が職場の中でも勉強熱心で向上心が強いウエイターであるからでもあったが、日本人とよく交流していて仕事中にも片言の日本語で観光客を喜ばせているのも選考上で有利に働いたに違いない。
彼は、日本に行けることを喜んだ。彼の給料と休みでは永久に行けないと思っていた遠くエキゾティックな国に行けるのだ。そしてその国は、なんと表現していいのかわからない複雑な想いを持っているある女性の故郷でもある。ああ、こんな言い方は卑怯だ。素直に好きな人と認めればいいのに。
話をややこしくしている相手が、目の前にいる。日本とは何の関係もないジョゼの同国人だ。幼なじみと言ってもいい。まあ、そこまで親しくもなかったんだけれど。
エレクトラ・フェレイラは、ジョゼとかつて同じクラスに通っていたマイアの妹だ。フェレイラ三姉妹とは学校ではよく会ったが、それはマイアの家族が引っ越すまでのことで、その後はずっと会っていなかった。ひょんなことから彼はマイアの家族が再び街の中心に戻ってきたことを知った。
快活で前向きな三女のエレクトラは、小さいお茶の専門店で働いている。ジョゼの働いているカフェのように有名ではないし、従業員も少ないのでいくら組合の抽選で当たったとはいえ、休みを都合して日本へ来るのは大変だったはずだ。それを言ったら彼女はにっこり笑って言った。
「だってジョゼが行くって知っていたもの。一緒に海外旅行に行くのはもっと親しくなる絶好のチャンスでしょう」
「え?」
「え、じゃあないでしょう。そんなぼんやりしているから、そんな歳にもなって恋人もいないのよ。マイアそっくり。もっともマイアだって、さっさと駒を進めたけれどね」
「あのマイアに恋人が?」
エレクトラは、人差し指を振って遮った。
「恋人じゃないわ、夫よ」
「なんだって?」
「しかも、もうじき子供も生まれるんですって」
「ええええええええ?」
「彼女、例の『ドラガォンの館』の当主と結婚しちゃったの。全く聞いていなかったから、のけぞったわ。私たちが知らされたのは結婚式の前日よ」
「マイアが?」
「あ。なんかの陰謀じゃないかって、今思ったでしょう」
「いや、そんなことは……」
「嘘。私も思ったわよ。でもね。結婚式でのマイアを見ていたら、なんだ、ただの恋愛結婚かって拍子抜けしちゃった。あの当主のどこがそんなにいいのかさっぱりわからないけれど、マイアったらものすごく嬉しそうだったもの」
「僕に知らせてもくれないなんて、ひどいな」
「仕方ないわよ。おかしな式だった上、それまでも、それからも、私たちですらマイアに会えないんだもの。妙な厳戒態勢で、私たちが結婚式に列席できただけで奇跡だってパパが言っていたわ」
意外な情報にびっくりして、ジョゼは目の前の女の子に迫られているという妙な状況も、自分には好きな女性がいると告げることもすっかり意識から飛ばしてしまった。だから、最初にきっぱりと断るチャンスを失ってしまったのだ。それにエレクトラは、ものすごい美人というわけでもないが、表情が生き生きとしていて明るく、会話が楽しくて魅力的なので、好かれていることにジョゼが嬉しくないと言ったら嘘になった。
この旅に出て以来、エレクトラはことあるごとにジョゼと行動を共にしたがった。彼は、曖昧な態度を見せてはならないと思ったが、朝食の席がいつも一緒になってしまい、一緒に観光するときも二人で歩くことが増えて、周りも「あの二人」という扱いを始めているくらいなのだった。
「一体、何をしてきたのよ、そんなに濡れて」
「あの嵐でどうやったら濡れずに済むんだよ」
エレクトラは肩をすくめた。
「この台風の中、地下道を使わないなんて考えられないわ」
彼女が示した方向にはガラスの扉があり、人々が普通に出入りしていた。ホテルは地下道で地下鉄駅と結ばれていたのだ。ジョゼはがっかりした。
彼女はバッグからタオルを取り出すと、立ち上がって近づき、ジョゼの髪や肩のあたりを拭いた。
「日本では、水がポタポタしている男性は、いい男なんですって。文化の違いっておかしいと思っていたけれど、案外いい線ついているのかもしれないわね」
エレクトラの明るい茶色の瞳に間近で見つめられてそんなことを言われ、ジョゼはどきりとした。けれど、彼女はそれ以上思わせぶりなことは言わずにタオルを彼に押し付けるとにっこり笑って離れ、また美味しそうに日本茶を飲んだ。
「明日からは晴れるらしいわよ。金沢の観光のメインはお城とお庭みたいだから、晴れていないとね」
あの嵐はなんだったんだと呆れるような真っ青な晴天。台風一過というのだそうだ。 ジョゼは、まだ少し湿っているスニーカーに違和感を覚えつつ、電車に乗った。ただの電車ではない。スーパー・エクスプレス、シンカンセンだ。
「この北陸新幹線は、わりと最近開通したんですって。だから車両の設備は最新なのね」
エレクトラは、ジョゼの隣に当然のように座り、いつの間にか仕入れた情報を流した。彼は、ホテルや町中のカフェなどと同じように、この特急電車のトイレもまた暖かい便座とシャワーつきであることに氣づいていたので、なるほどそれでかと頷いた。
この国は不思議だ。千年以上前の建物や、禅や武道のような伝統を全く同じ姿で大切に継承しているかと思えば、どこへ行っても最新鋭のテクノロジーがあたり前のように備えてある。それは鉄道のホームに備えられた転落防止の扉であったり、妙にボタンの多いトイレの技術であったり、雨が降るとどこからか現れる傘にビニール袋を被せる機械であったりする。
クレジットカード状のカードにいくらかの金額を予めチャージして、改札にある機械にピタンとそのカードを押し付けるだけで、複数の交通機関間の面倒な乗り換えの精算も不要になるシステム。40階などという考えられない高層にあっという間に、しかも揺れもせずに運んでくれるエレベータ。
ありとあらゆる所に見られる使う側の利便を極限まで想定したテクノロジーと氣遣いは、この国では「あたりまえ」でしかないようだが、ジョゼたちには驚異だった。
それは、とても素晴らしいことだが、それがベースであると、「特別であること」「最高のクラスであること」を目指すものには、並ならぬ努力が必要となる。
ジョゼは、街で一二を争う有名カフェで働いていて、だから街でも最高のサービスを提供している自負があった。ただのウェイターとは違うつもりでいたけれど、この国からやってきた人にとっては、ファーストフードで働く学生の提供するサービスとなんら変わりがないだろう。
彼女は、ミュンヘンで彼のことを好きだと言った。あまりにもあっさりと言ったから、たぶん彼の期待したような意味ではないんだろう。知り合った時の小学生、弟みたいな少年。あれから月日は経って、背丈は追い越したけれど、年齢は追い越せないし、住んでいる世界もまるで違う。もともとはお金持ちのお嬢様だったとまで言われて、なんだか「高望みはやめろ。お前とは別の次元に住んでいる人だ」と天に言われたみたいだ。そして、彼女の故郷に来てみれば、理解が深まるどころか民族の違いがはっきりするばかり。
「なんでため息をついているの?」
エレクトラの問いにはっとして意識を戻した。「なんでもない」という事もできたけれど、彼はそうしなかった。
「この国と、僕たちの国って、大きな格差があるなって思ったんだ」
そういうと、彼女は眉をひとつ上げた。
「格差じゃないわ。違いでしょう。私は日本好きよ。旅行には最高の国じゃない。まあ、同化していくのは難しそうだから、住むにはどうかと思うけれど。結局のところ、物理的にも精神的にも、この国と人びとは私たちからは遠すぎるわよね」
台風は秋を連れてくるものらしい。それまでは夏のようなギラギラとした陽射しだったのに、嵐が過ぎた後は、真っ青な空が広がっているのに、どこか物悲しさのある柔らかい光に変わっていた。
金沢城の天守閣はもう残っていない。もっとも堂々たる門や立派な櫓、それに大きく整然としたたくさんの石垣があるので、エキゾティックなお城を見て回っている満足感はある。
何百年も前の日本人が、政治の中心とは離れた場所で、矜持と美意識を持って独自の文化を花咲かせた。それが「小さい京都」とも言われる金沢だ。同じ頃に、ジョゼの国では世界を自分たちのものにしようと海を渡り独自の文化と宗教を広めようとした。かつての栄誉は潰えて、没落した国の民は安い給料と生活不安をいつもどこかで感じている。
ジョゼたち一行は、金沢城を見学した後、隣接している兼六園を見学した。薔薇や百合や欄のような華やかな花は何ひとつないが、絶妙なバランスで配置された樹々と、自然を模した池、そして橋や灯籠や東屋など日本の建築がこれでもかと目を楽しませる。枯れて落ちていく葉も、柔らかい陽の光のもとで、最後の輝きを見せている。
「この赤い実は、
「こちらの黄色い花はツワブキといいます。茎と葉は火傷や打撲に対する湿布に使います。またお茶にすると解毒や熱冷ましにもなる薬用植物です」
ガイドが一つひとつ説明して回る花は、見過ごしてしまうほどの地味なものだが、どれも薬になる有用な植物ばかりだ。
「野草をただ生えさせておいたみたいに見えるのに、役に立つ花をいっぱい植えているのねぇ」
エレクトラが言った。
地味で何でもないように見えても、とても役に立つ花もある。そう考えると、没落した国の民、しがないウェイターでも、なんらかの役割はあるのかもしれない。それが
なんだかなあ。彼女の国に行ったら、いろいろな事がクリアに見えてくるかと思っていたのに、反対にますますわからなくなっちまった。ジョゼはこの旅に出てから20度目くらいになる深いため息をついた。
(初出:2016年11月 書き下ろし)
【小説】春は出発のとき
今日は「十二ヶ月の情景」三月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。今月以降は、みなさまからのリクエストに基づき作品を書いていきます。まだリクエスト枠が二つ残っていますので、まだの方でご希望があればこちらからぞうぞ。
今日の小説は、山西左紀さんのリクエストにお応えして書きました。
コラボ希望のサキのところのキャラはミクとジョゼ。
テーマは「十二か月の情景」に相応しいものを設定して、
2人の結婚式の様子をストレートに書いてください。
次第はすべてはお任せします。
ジョゼというのは、もともと2014年の「scriviamo!」で書いた『追跡』という小説で初登場し、左紀さんの所の絵夢やミクと出会った小学生でした。後に、『黄金の枷』本編でヒロイン・マイアの幼馴染として使い、同時に左紀さんの所のミクとの共演を繰り返すうちにいつの間にかカップルになってしまいました。で、前回左紀さんはプロポーズの成功まで書いてくださったのです。結婚式を書くようにとの仰せに従って今回の作品を書きました。
ポルトガルの結婚式というのはこんな感じが多いようです。ブライズメイドたちがお米を投げたり、花嫁が教会の出口でスパークリングワインを飲む、というのは実際に目撃しました。その時の花嫁は、グラスを後ろ向きに投げて壊していました。
いちおう『黄金の枷』の外伝という位置づけにしてありますので、そっちを読んでいらっしゃらない方には「?」な記述もあるかもしれませんが、その場合はその記述をスルーして、結婚式をお楽しみください。ついでにいろいろとコラボの間にばら撒いたネタを回収しています。どうしても氣になるという方は、下のリンクやサキさんと大海彩洋さんの関連作品をお読みください(笑)
サキさんのお誕生日には、少し早いのですけれど、これからPやGの街へと旅立たれるということなので、前祝いとして今、発表させていただきます。サキさん、先さん、そしてママさん、良い旅を。

【参考】
小説・黄金の枷 外伝
![]() | Infante 323 黄金の枷 |
黄金の枷・外伝
春は出発のとき
アーモンドの花が風に揺れている。エレクトラ・フェレイラは、Gの町のとある家への道を急いだ。若草色のドレスは新調したもの、七人の
もう一人の姉のマイアは、花婿と子供の時に一緒に学んだ仲で、本来ならばもっとこの結婚式の花嫁介添人にふさわしかったのだろうが、残念ながら式に参列することができない。そもそも幼馴染のジョゼが結婚することを知らない可能性が高い。なんせエレクトラ自身が数カ月以上もマイアと連絡がとれないのだ。
花嫁介添人の多くを花婿の知り合いがつとめるのは珍しいが、花嫁は外国人でこの国での友人や親戚がさほど多くない。一方、花婿の方は「俺を招ばなかったら許さない」と言い張る輩が百人以上いるような交友関係に、先祖代々この土地に根付いていたので親戚縁者がこれまたやたらと多い。
ジョゼを落とそうと頑張っていたことを考えると、この役目を受けるのはどうかと思ったが、もう氣にしていないことを示すにはいい機会だと思う。それに、この二日間、街中からジョゼの友人たちが入れ替わり立ち替わりやってくるのだ。どんないい出会いが待っているかわかったものじゃない。行かないなんてもったいない。
ジョゼの結婚式は、マイアの結婚式とはだいぶ様相が違っていて、この国ではわりと普通の結婚式だ。つまりたくさんの招待客や親戚演者が集まり、二日間にわたってパーティをするのだ。
マイアの結婚式には友人たちを集めてのアペリティフやパーティもなかったし、宴会場でのフルコースもなかった。
今回の結婚式は、そんな妙な式ではなかった。式はPの町にあるサン・ジョゼ・ダス・タイパス教会で行われる。ここは、マイアがあの謎のドラガォンの当主と結婚した教会で、それが偶然なのかどうかはわからなかった。
でも、エレクトラは直接教会にはいかない。介添人は花嫁の自宅に集合するのだ。花嫁であるミク・エストレーラには両親がいなくて、ティーンの頃にGの町に住む祖母に引き取られたのだそうだ。現在、歌手である彼女は主にドイツで活躍しているので、この国に帰ってくるときは祖母の家に滞在している。集まるのはその祖母の家なのだ。
「遅かったわね! どうしたの」
セレーノとジョゼの二人の女友だちはもう着いていて、エレクトラに手を振った。花嫁の三人の女友達ともすっかり仲良くなって一緒にカクテルを飲んでいた。
「美容院で思ったよりも時間がかかっちゃったの。私が最後?」
皆が頷いた。落ち着いた赤紫のツインピースを着たアジアの顔をした婦人が笑顔で出迎えてくれた。この人がお祖母さんなの? お母さんでもおかしくないくらい若く見える!
「はじめまして、フェレイラさんね。今日はどうぞよろしく。軽くビュッフェを用意しているからぜひ召し上がってね」
中に入ると真っ白な花嫁衣装に身を包んだ今日の主役が座っていた。長く裾の広がったプリンセスラインのドレスは、わりと小さめの家の中で動き回るとあちこちの物とぶつかる危険がある。それで、彼女は動かない様に厳命されていた。
それでも、はにかみながら笑顔を見せて立ち上がると、自分のために来てくれたことへの礼を述べた。
「エレクトラ・フェレイラさんよね。初めまして。今日はどうぞよろしくお願いします」
エレクトラは、にっこり笑って挨拶した。
「はじめまして。介添人に選んでくれて、どうもありがとう。まあ、なんて綺麗なのかしら。ジョゼはきっと惚れ直すと思うわ」
ミクはぽっと頬を染めた。初々しいなあ。たしかジョゼよりもけっこう年上だって聞いていたけれど、そんな風に見えないし、お似合いだなあ。エレクトラは感心した。っていうか、こんなところで感心しているから、負けちゃうんだよね。
遅くなったので、あまりたくさん食べている暇もなく教会に向かうことになったが、ミクの祖母の作ったタパスはどれもとても美味しかった。あとでたくさん食べることになるから、ここでお腹いっぱいになっちゃマズいし、遅れてきて正解だったかな。エレクトラは舌を出した。
教会には、参列者がたくさん待っていた。それに白いスーツを着せられて所在なく待っているジョゼも。
代わる代わるジョゼと
つまり、エレクトラのよく知らない顔は、花嫁の招待した人たちなのだろう。ドイツ語で話している数名の男女がいた。おそらくミクが出演しているオペラ関係の人たちだろう。それに、ミクの祖母が急いで挨拶に向かった先にいる日本人女性。綺麗な人だけれどだれかな。
「あ、あの人、知っている?」
セレーノが話しかけてきた。
「ううん。お姉ちゃん、あの人知っているの?」
「ええ。偶然ね。日本のヴィンデミアトリックスって大財閥のお嬢さんだよ。ジョゼとミクが知り合うきっかけになった人なんだって」
「へえ。すごい人と知り合いなんだね。あっちのドイツ人は、オペラの人でしょ」
「そうだよ。ミュンヘンの劇団の演出家だって、ガイテルさんって言ったっけ。憮然としているでしょ?」
「え。そうだね。なんかあまり嬉しそうでもないよね」
「そうだよ。あなたと同じ、失恋組だからね」
「セレーノ。私はもう……」
「まあまあ。強がらなくてもいいってば」
ミクを乗せた車がやってきた。あれ。ジョゼが迎えに行っちゃった。教会の中で、お父さんが花嫁を連れてくるのを待つわけじゃないんだ。エレクトラの疑問を見透かしたようにセレーノが囁いた。
「ミクのお父さんは亡くなっているの。身内に父親役を頼めるような人は叔父さんしかいないらしいけれど、なんか事情があって頼みたくないみたいだよ。だから、二人で入口から一緒に祭壇まで歩いて行くんだって。あなた、遅刻したからそういう事情を聞きそびれたのよ」
ジョゼは、ミクの花嫁姿に見とれているようだった。確かに綺麗な花嫁だよね。ドレスはとろんとしたシルクサテン、華やかな上に高級感もある。ジョゼと研修で訪れた日本で見たけれど、日本のシルクって長い伝統があるんだよね。大きく広がった裾、後ろが少し長くなっていて楕円形に広がるようになっている。
ヴェールはそれほど長くなくて、あっさりしているから、ミクの笑顔がはっきりと見える。そして、百人以上集まっている参列者たちを見て目を丸くした。これからは、これだけのジョゼの友達たちと付き合っていくことになることを、実感しているってところかしら。
さあ、私たちは
そして、これからのひたすら食べる宴会の戦略も立てなくちゃ。宴会場でアペリティフがあり、揚げ物やフルーツ、それにチーズやハムなどがでるけれど、そこでたくさん食べすぎるとフルコースが入らなくなってしまう。二時からの着席宴会は五時ぐらいまでだけれど、一度帰ってからまた集まって、ビュッフェ。ダンスをして真夜中にケーキカットをするまでずっと飲んで食べてが続くのだ。
大人たちはそれで帰るけれど、私たち若者は朝まで騒ぐのが通例。
しかも、明日もある。普通は二日目は親戚だけだけれど、ミクのところに親戚が少ないので私たちも招待されている。つまり明日もフルコース。たぶん、明後日からダイエットしないと大変なことになっちゃう。明日はGの町にある日本料理店でやるっていうから、とても楽しみ。
サン・ジョゼ・ダス・タイパス教会の向かいは緑滴る憩いの公園になっている。その前に一台の黒塗りの車が入ってきたが、道往く人々や参列者たちは、ちょうど花嫁と花婿が現れた教会のファサードに注目していて、その車がゆっくりと停車したことに氣付くものは少なかった。
挙式で司祭の手伝いをしていた、神学生マヌエル・ロドリゲスは、目立たぬように通りを横切り、黒塗りの車のところへやってきた。待っていた運転手が扉を開けた。6ドアのグランド・リムジンには向かい合った四つの席があり、彼は素早く中に入り既に座っている二人の女性の向かいに座った。
「ご足労でした、マヌエル。式は無事に終わったようね」
向かって右側に座っていた黒髪の貴婦人がにっこりと微笑んだ。
「はい、ドンナ・アントニア、そして、ドンナ・マイア」
ドンナ・アントニアと呼ばれた黒髪の貴婦人の右隣に、少し背の低い女性が座っていた。そして、嬉しそうに窓から幸せそうなカップルの姿を眺めた。
「あの人が、ジョゼの言っていた人ね。うまくいって、本当によかった。ああ、セレーノとエレクトラもいるわ」
マイアは、妹たちが
「ドンナ・アントニア、本当にありがとうございます。あなたが言ってくださらなかったら、こうして二人の結婚式を見ることはできなかったでしょうから」
マイアが言うと、アントニアは首を振った。
「アントニアでいいって、言ったでしょう。あなたはもう私の義妹なのよ。あなたの友達が結婚するたびに出てくるわけにはいかないけれど、今回はたまたまこんな近くで結婚したし、マヌエルが教えてくれたんですもの。あの青年にはライサの件で助けてもらったし、私もトレースももう一度お礼がしたかったの」
マヌエルは、アントニアの視線の先に眼を移した。彼の座っている隣の席に大きな包みが二つ置いてある。
「では、こちらが……」
その言葉に、二人の女性は頷いた。アントニアが続ける。
「これがマイアとトレースからのプレゼントで、こちらが私から。あの花嫁さんにトレースが作ったのは、とても上品な桜色のパンプスよ。妬ましくなるくらい素敵だったわよね、マイア」
「うふふ。あなたがそういえば、23は作ってくれると思いますけれど……」
「そんな時間は、全然ないじゃない。あの忙しい合間にあの青年の靴も作ったのよね」
「ジョゼは、23の靴の大ファンだから、きっと大事にすると思うわ」
マヌエルは、なるほどと思った。この大きい箱には、靴が二足入っているのだ。知る人ぞ知る幻の靴職人の作った、究極のオーダーメード。まさか、ドラガォンの当主その人が作ったとは二人共思いもしないだろう。
「もう一つの箱にはボトルが入っているので、扱いに注意するように言って渡してくださいね」
アントニアは言った。
マヌエルは「かしこまりました」と言った。運転手が再びドアを開けた。彼はプレゼントを大切に抱えてベントレーから降りた。
「なんのボトルにしたのですか」
「1960年のクラッシック・ヴィンテージのポートワインよ」
そう聞こえた時に、ドアが閉まり二人の会話は聞こえなくなった。
何と幸運な二人だ、今日華燭の宴を迎えたカップルは。マヌエルは密かに笑った。
百人以上の友人たちの暖かい祝福、家族の愛情、仕事仲間も駆けつけ、イタリアのとある名家からも特別な祝いが届いている。それだけでなく、ドラガォンの当主たちからもこの祝福だ。こんな婚礼は、滅多にないな。
二人は教会の入口で参列者たちの拍手と歓声の中、笑顔でスパークリングワインを飲み干していた。そして、これから続く幸せな日々、ひとまずは、これから二日間続く食べて飲んで踊ってのハードな披露宴に手を携えて立ち向かいはじめた。
(初出:2018年3月 書き下ろし)
【小説】魔女の微笑み
「scriviamo! 2018」の第一弾、最初の作品です。大海彩洋さんは、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。
大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。この「真シリーズ」は数代にわたる壮大な大河小説で、まだ私たちが目にしたのはほんの一部でしかないのですけれど、それだけでも引き込まれてしまう濃厚な世界。昨年、私はその舞台の聖地巡礼もしましたし、更に馴染み深く続きを読ませていただいているのです。
さて、お知り合いになってからは皆勤してくださっている「scriviamo!」ですが、今回はいつもと趣向を変えて、完全なお任せでということでした。悩んだのですが、今回の一本目ですし、こんな感じでサーブを投げてみることにしました。
以前、当ブログの77777Hitの時にリクエストを受けてこんな作品を書いたことがあります。
「薔薇の下に」
今回の短編には、上記の小説で書いた二人の人間が登場します。どちらも彩洋さんのオリキャラではないのですが、「真シリーズ」のとんでもない大物に絡めて書いた作品ですので、まあ、ほらね、絡んできてくれたら嬉しいなあ(ちらっ)という思惑が大ありで書いてあります。サーブ(しかもめちゃくちゃな)ですから、はっきり言ってオチはありません。ここに書いてあることでおしまいです。特に登場する三人のうち、視点のあるヴィーコ以外は、なんの裏設定もないので、「名前はこうだった」「実は●●だった」「実は全部知っていたのに知らないフリをしていた」など、ご自由に設定していただいてOKです。もちろん、全て無視して全く別のお話でも構いませんよ。お任せです。
【参考】
小説・黄金の枷 外伝
![]() | Infante 323 黄金の枷 |
「scriviamo! 2019」について
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魔女の微笑み
——Special thanks to Oomi Sayo san
垂れ込めた雲から、わずかの間だけ光が差し込んだ。それはまるで、子供の頃に見た祭壇画の背景のようだった。
彼の生まれ育った村は、ウーリ州の山奥にあり非常に聞き取りにくいドイツ語を話し、難しい顔をした大人たちがよそ者を監視しながら暮らしているようなところだった。イタリア語圏にルーツを持つ彼の家族がその村で生活するのはあまり快適とは言えなかった。彼は日曜日のミサで祭壇に描かれた聖母マリアとその背景の差し込む光に慰めと憧れを抱いていた。それが今の職業と暮らしに繋がる第一歩だったのかもしれない。
ヴィーコ・トニオーラはヴァチカンのスイス衛兵伍長だ。四年前に二十歳でスイス衛兵に採用された。その前にスイスの兵役を全て終えている。つまり、彼は成人してからほとんど兵役に当たっている。今時のスイス人はもっと給料が多くて自由のある職業に就きたがるだろう。彼のように健康で体力があり、更に言えば村の中で唯一進学が可能と言われる頭脳も持っているのだから。だが、どういうわけか彼は、小学校の高学年の時から、将来はヴァチカンでスイス衛兵になりたいと思っていた。
いつだったか見た、真っ白で広大なサン・ピエトロ大寺院、真っ青な空、その前に佇むカラフルな衣装を身に纏ったスイス衛兵。それが、辺境で鬱屈した村の日々とどれほど違った人生に思えたことだろう。
規律に満ちた衛兵としての日々は、決して子供の頃に夢見ていた自由で輝かしい毎日と同じではなかったが、彼は現在の日々に一応は満足していた。時折、妙な任務を命じられること以外は。
それは半年ほど前に始まった。ポルトガルからやってくるメネゼス氏という一見どうということもない人物を、目立たないように警護しながら、ヴァチカンのとある重要人物のもとに届けた。
スイス衛兵はローマ教皇の警護だけでなく、世界各国からヴァチチカンを訪れる要人、国王夫妻や大統領などの警護にもあたるので、本来の任務から完全に離れているとは言えない。だが、そのポルトガル人は政府の要人でもなければ、さらにいうと本当の要人その人ではなくただの使者だった。上司は「竜の一族の使者」という言い方をした。そして、送り届けた先もヴァチカン宮殿ではなく、チェザーレ・ヴォルテラ氏の事務所だ。それから、時折大して重要とは思えない人物を目立たぬようにヴォルテラ氏の元に届けたり、偽名で予約されたレストランに向かい一人で食事をするなどという意味のわからない命令が下された。
今朝もタウグヴァルダー大尉はヴィーコにすぐに空港へと向かうように命じた。例のポルトガル人が到着するというのだ。本来ならば、彼は夜勤明けでその朝から非番だったにも関わらず。他のことならば規則を口にして抵抗することも辞さないヴィーコだったが、この件に関してだけは反論が許されないであろう事がわかっていたので、疲れを隠して空港に出向いた。
ディアゴ・メネゼス氏は、前回のように音もなく出迎えのヴィーコの近くまで現れ「ご苦労様です」とだけ言った。会話はほとんどなく、知り合いの誰にも氣付かれることがないほど密やかに、ヴォルテラ氏の事務所に送り届けた。ヴォルテラ氏の事務所にいつもいる紺の背広をきちんと着た男は、メネゼス氏を鄭重に迎え入れるとヴィーコに言った。
「ご苦労様でした。非番だそうですね。後ほど氏を空港までお送りするのは私がしますので、今日はどうぞお引き取りください」
だったら、どうして始めからあなたが迎えに行かないんですか。その言葉をヴィーコは飲み込んだ。これまで引き受けた奇妙な任務に危険はなかったし、関わる全ての人は礼儀正しかった。それなのに、ヴィーコはいつも「逆らってはならない」という強迫観念を持ち続けてきた。それほど、この事務所の主の影響力は大きかった。その存在を世界中の誰もが知らないにも拘わらず。
タウグヴァルダー大尉の物言いも、影響しているのだろう。アメリカ大統領が来ようが、常にテロの標的となっている王族の訪問を受けようが、夕食前の武具の手入れを命じるかのような調子で淡々と命令を下す大尉が、ヴォルテラ氏に関してだけは緊張しやけに神経質になる。何一つヴィーコにはわからなかった。説明するつもりなどないのだ。ヴィーコがその義務を果たすことを知っているから。
わかるのは一つだ。本来の仕事、派手なユニフォームに身を包み、教皇と聖ペテロの座であるヴァチカンを守る任務は、儀礼的なものでしかない。彼が訓練しその手に持つ
実際に教皇とこの小さな国を守っているのは、ヴォルテラ氏の配下、懐に銃を隠し持った黒服のボディガードたち、世界中に張り巡らされた情報ネットワーク、銀行や政治の取引のごとく一般人の目には見えない交渉だ。教皇と全世界十三億のカトリック信者が敬虔に祈りを捧げている間も、目を光らせながら場合によっては冷酷になすべき事を行動に移しているのだろう。
部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。ひどく疲れていたのだ。実際に、目が覚めると日は傾きだしていた。普段ならば、六日働いた後は、三日連続の休みが与えられるが、明日1月6日は
ヴィーコは起き上がると私服に着替えて、テヴェレ川に沿って南へと歩いて行った。トラステヴェレにある馴染みのピッツェリアに行こうと思ったのだ。
クリスマス市場の開催されているナヴォーナ広場の賑わいには比べる事も出来ないが、川沿いの地区にも屋台が出ていて、魔女ベファーナの人形や子供たちの枕元に置く菓子を売っていた。
ベファーナの菓子の伝統は、おそらくサンタクロースのプレゼントの原型だ。
ヴィーコの生まれ育ったドイツ系スイスでは12月6日に聖ニコラウスと従者シュムッツリイがやってくる。子供たちの一年の所業を裁定して、いい子にはナッツやミカンや菓子を渡し、悪い子はシュムッツリイが鞭で叩くことになっている。
一方、イタリアではその一ヶ月後
そのドイツ語圏とイタリア語圏の二つの伝統が混じり合い、現在では世界中の子供たちがクリスマスの朝におもちゃなどのプレゼントをもらう習慣に変わってしまったのだろう。
ヴィーコは、醜いけれど優しい目をしたベファーナの人形がたくさんぶら下がった屋台を眺めながら歩いて行った。すると、突然目の前で、屋台にあったたくさんの飾りと菓子の袋が崩れ落ちて散らばった。
「きゃっ」
その場にいた、若い女が短く叫んだ。コートの上から引っかけていたストールが、屋台の飾りに引っかかったらしい。
ヴィーコは、散らばってもう少しで川に落ちそうになっている魔女の人形を二つ三つ拾って屋台に戻した。女は、それを見ると微笑んで「ありがとう」と言った。
彼は初めてまともに女の顔を見た。顔が小さく、綺麗に整った眉と、長いまつげ、それにその下で煌めく淡い色の瞳が印象的な女だった。薄めの唇にしっかりと引かれた紅と強くカールした睫毛がひどく化粧の濃い女という印象を与える。彼女は、自分の失態に対して力を貸してくれたヴィーコに対して礼を言いつつも、助けられて当然という空氣を纏っていた。
「やれやれ。なんて散らかし方だ。ラウドミア。困った人だね、君は」
声のした方を振り向くと、そこには意外な人物がいた。ヴィーコは思わず「あ」と言って、男の顔をまじまじと見つめた。女性に話しかけていたのは、今朝、チェザーレ・ヴォルテラ氏の事務所の事務所にいたあの紺の背広を着た男だったのだ。男の方も、すぐにヴィーコに氣がついたようだった。
ラウドミアと呼ばれた女性は、悪びれぬ様子で最後のベファーナ人形を雑に屋台に載せ「失礼」とおざなりに売り子に言うと、紺の服の男性に向かって肩をすくめた。
「もう片付けたわ。こういうのも
ヴィーコは、それでは、この女性はこの人の連れだったのかと思った。彼は、軽く頭を下げて言った。
「先ほどはどうも」
「あら、あなたたち、お互いに知っているの?」
女性は、二人の顔を交互に見つめた。今は茶色のコートに身を包んでいる男性は、表情を全く変えずに言った。
「ヴァチカン市国に入るものなら、嫌でもスイス衛兵とは顔なじみになるさ。どこへ行くのか毎回聞かれるしな」
「ああ、スイス衛兵なのね」
ラウドミアは、艶やかに笑った。ヴィーコは、今朝遭ったのは門ではないのにと思ったが、もしかしたらこの女性の前で「ヴォルテラ氏の事務所で」などという会話をしてはいけないのかと思った。
「スイス衛兵って、ヴァチカン市国の中だけにずっといるわけじゃないのね。どこへ行くの?」
「……。その先のピッツェリアに」
「あら、トラステヴェレの? 美味しい所を知っているならば、教えてくれない? この人が連れて行ってくれる店、いつも全然美味しくないんですもの」
ヴィーコは戸惑って男性の顔を見た。デートの邪魔をするつもりはなかったし、さらにいうと一緒にいたら男性との会話に苦労するだろうと思ったのだ。彼の方から、一緒にいかなくていい口実を言ってくれることを期待していた。
ところが男性はあっさり言った。
「お願いします」
ヴィーコは、肩をすくめて二人を連れていつもの店へと行った。
「テヴェレ川の向こう岸」を意味するトラステヴェレは、中世からの町並みが残る地区だ。ローマの下町といっていい。石畳の道が迷路のように入り組んでいて、その所々に観光客がなかなか見つけられないような小さなトラットリアやピッツェリアがある。
ヴィーコがよくいくピッツェリアもその一つで、狭い店内は飾りけはないが、古い窯から出てくるパリッとしたピッツァが絶品で、少しでも遅く行くとなかなか座れない。
「まあ。こんな所に。行き方、忘れそうね」
ラウドミアは、小さな店内を珍しそうに見回した。ふんわりとした毛織りのコートを脱ぐと、金ラメを織り込んだ臙脂のワンピースが現れた。胸元が広く開いていて、白鉄鉱の細やかな細工で装飾された赤褐色に濁ったキャッツアイがかかっていた。ヴィーコはこの女性は、その道のプロフェッショナルなのかそうでないのかは判断できないけれど、いずれにしても「非常に高くつく」のだろうと思った。
「いずれにしても、君は店への行き方なんて記憶に留めたことはないだろう?」
「そうね。だから、あなたが、しっかり憶えておいてね」
おざなりに微笑みながら彼女は、その笑顔に対して感銘を受けた様子もない男に言った。
見ると、男の方は先ほどのカチッとした背広ではなくグレーの開襟シャツ姿で、まるでどこにでもいる事務員のように見えた。少なくとも十三億人もの信者を抱える宗教の中枢部、秘密の通路を通って行かなければたどり着けないオフィスにいる人間には見えなかった。
「ねえ。時代がかった傭兵さん。教えてちょうだい。門を通る人を呼び止めたり、ミサの時に突っ立ってパパさまを警護する以外に、あなたたちは何をしているの?」
ラウドミアは、頬杖をついてヴィーコに語りかけた。
ヴィーコは、ちらっと男を見たが、とくに反応を見せなかった。僕のことよりも、そっちを問い詰めた方がいいのに、そう思いつつ、職務に忠実で口の固いスイス衛兵は口を開いた。
「それだけですよ」
もちろんそんなわけはないとわかっただろうが、ヴィーコが面白おかしく軍務について詳細を話してくれるタイプではないとわかったのだろう。彼女は、それ以上追求しなかった。
「実際に、鉾槍を捧げ持った僕たちは儀式用の装飾品みたいな存在だ。クレメンス七世の時代とはもう違うんですよ」
1527年に神聖ローマ帝国のカール五世によって引き起こされたローマ略奪で、教皇クレメンス七世を守るため果敢に戦い189人中147人が戦死した故事はスイス衛兵の誇りで、五月六日は今でも隊の祝日になっている。新しい衛兵の入隊式もこの日に行われる。
「そうは言えない」
男は、ヴィーコの眼をじっと見つめながら言った。
「確かに君たちの鉾槍は、大陸弾道ミサイルに対しては無力かもしれない。だが、十六世紀には既に大砲もあったんだからね。それでもスイス衛兵たちが、サンタンジェロ城へと向かう
「それは、そうですが……」
注文していたピッツァが出てきたので、ヴィーコは口ごもった。スイスで食べていたのと比べると、少し小ぶりで直径20センチほどだ。非常に薄く焼き上げた土台にトマトと水牛モツァレラ、アーティチョークと生ハム、それにルッコラが載っている。熱々に溶けたチーズとトマトは、ぱりっと膨らんだ
美味しいピッツァとは、シンプルだ。パリッとした台。
「まあ」
ラウドミアは、辛いサラミを使ったディアヴォラを注文していた。上手にナイフとフォークで切り分けて口に運ぶと、長い睫毛を閉じた。赤く染まったオリーヴオイルが真っ赤な唇で光っている。「
連れの男が選んだ水牛モツァレラとゴルゴンゾーラのピッツァ・ビアンカ、白とルッコラの緑だけが載ったピッツァはそれと対照的だった。また、彼はピッツァの味の魔力に全く感化された様子はなく、黙々と口にしながら話を続けた。
「時代は変わり、教会の存在意義も、信者のあり方も変わったし、これからも留まることはないだろう。だが、君がヴァチカンの門前で、教皇の傍らで、もしくはそれ以外の職務でしていることは、間違いなく君の志した『教皇と教会への奉仕』だ。違うか」
その通りだと思った。上司がよく説くように、彼の職務に必要なのは忠誠心とひたすらな謙虚さだ。讃えられることや注目されることがなくても、静かに自分たちの任務を遂行する、誇りを持って。そうだ、引っかかっていたのはそこだ。
「僕は、単純に、誇りの拠り所を失いかけていたのかもしれません。本当に、僕たちの存在意義があるのかって」
「それは誰でも持つ疑問さ」
「あなたも?」
男は黙ってわずかに微笑んだ。ラウドミアは、面白そうに頬杖をついて口を挟んだ。
「郵便局の仕分け係なんて、すぐにロボットに取って代わられるに違いない仕事だっていうのが、口癖だものね」
ヴィーコは、それではこの女性に対しては郵便局勤務ということにしてあるのかと思い、かといって初めて知ったようなふりをするのも白々しいと思い黙っていた。女は妙な微笑みを浮かべてから、また幸せそうにピッツァを食べた。
それに見覚えがあると思いしばし考えたヴィーコは、先ほどの魔女ベファーナの人形だと思い当たった。明日は
(初出:2019年1月 書き下ろし)
【小説】プレリュード
【参考】 小説・黄金の枷 外伝 | |
![]() | 『Infante 323 黄金の枷 』 |
![]() | 『Usurpador 簒奪者』 |
![]() | 『Filigrana 金細工の心』 |
黄金の枷・外伝
プレリュード
マイアは、いつものように白いブラウスに黒い絹のサーキュラースカートを身につけた。どんな服でも自由に注文していいと言われ、通信販売のカタログをいくつも渡してもらったのだが、以前買っていたようなTシャツやチノパンなどを買うのはためらわれた。そんな服を午餐や晩餐に着ていくことはできなかったし、23と話をするためにいつドンナ・マヌエラやメネゼスたちが入ってくるかわからなかったので、居住区内用の服も体には楽だけれども見た目はカジュアルすぎないものを選んで買ってもらった。
いま着ている服は、宣告を受けた翌朝に23がその日の晩餐に間に合うようにメネゼスに用意させた2着のうちの1つだった。白いフリルの多いブラウスと、似ているけれど僅かに違うふくらはぎ丈の全円スカートで、どんな状況でも、たとえマイアが上流社会の振舞に慣れていなくても、違和感なく馴染めるスタイルだった。
その初めての晩餐で、マイアは23がいつも座る席の隣に案内された。前日までは給仕する立場だったのが、してもらう立場に変わっていた。メネゼスが椅子を引き「どうぞ」と言った。23の顔を見ると、黙って頷いたのでマイアは小さく会釈して座った。
あの食事では、誰も特別なことを言わなかったが、みながマイアの様子に注目していた。突然の宣告で23の居住区に閉じこめられた彼女がどんな反応をするのか誰も予想がつかなかった。ショックを受け、泣き叫び助けを懇願しても不思議はないとみな思っていた。それはこの館では既に何度か繰り返された光景だった。
マイアが何をするのにも23の顔を伺い、それに対して彼がそっと小さくアドバイスすると、彼女が黙って頷く。時おり嬉しそうに23の方を見て笑いかけたりしているのを見て、心配していた家族や使用人は一様に安堵した様子を見せた。特に、ドンナ・マヌエラは食事が終わると、わざわざマイアの側にやってきて、両手で彼女の手を包み優しく「ありがとう」と言った。マイアは何に対してそう言われているのか全くわからなかった。
唯一違う反応を見せたのが24だった。23のことを全く嫌がっていない、むしろ一緒にいられるのが嬉しくてたまらない様子のマイアを見て「なぜ」と言った。24が一緒に一夜を過ごした娘たちは、そんな反応は絶対に見せなかった。必ず一晩にして24への愛は消え去り、怯えながら逃げ惑うようになったからだ。
その日から、ドラガォンの家族が集まる時には、必ずマイアも同席することとなった。毎日の晩餐、日曜日の午餐、それにその前に行われる礼拝にも、マイアはこれまでの召使いたちの場所ではなく、ご主人様の1人である23の隣に座ることになった。そして、そうした機会に身につけるべき服で悩みたくなかったので、マイアは23がそうするように、新たに用意してもらう服も全て白いブラウスと黒いスカートにしてもらった。そうすれば23のいつも着ている服と釣り合うし、難しいことを考えずに済むからだ。
日曜日の礼拝と午餐に、ボアヴィスタ通りに住んでいるドンナ・アントニアがやってくるときは、午餐の後に家族がサロンに集まり団らんをする習慣があった。召使いだった頃のマイアは、このサロンでの団らんの場に居合わせたことはなかった。
母屋3階にあるサロンは、マイアにとってなじみが薄く畏怖すら感じる空間だった。もちろん、本来ならばインファンテの居住区であっても親しみやすさを感じる要素はないのだが、23がラフに接してくれたお陰で屋敷の中でもっとも寛げる一角になっていた。しかし、ドンナ・マヌエラやドン・アルフォンソの部屋の掃除をすることもなかったマイアにとって、母屋3階はよほどのことがない限り足を踏み入れない場所になっていた。
宣告後、居住区の中で暮らすことになったマイアは、鍵を開けられて呼ばれたときだけ居住区からでることができた。23と一緒に居られるだけで幸福なマイアにとっては、特に差し障りがなかったが、23はマイア1人を居住区に残すことを嫌がった。一家団らんの場に行って何をすればいいのかはわからなかったが、ただ座っていればいいのだと言われて、黙ってついていった。
おそらくそれは、館の中の多くの人間を安堵させたことだろう。少なくともこちらの居住区では、人知れず娘が長期にわたる虐待を受けたりはしていないことが、誰の目にも明らかだったのだから。
サロンは広く明るい部屋で、寄せ木張りの床の上に非常に大きな絨毯の敷かれている。年代物に違いない大きなシノワーズの壺や、金箔飾りの施された黒檀の調度が置かれている。この集まりには、メネゼスの他、ジョアナとクリスティーナが同席するのが常だった。
瑠璃色と金の装飾を施したコーヒーセットが置かれ、マイアは割ったりしたくないなと思いながら邪魔をしないように座るのだった。
23とマイアが部屋に入ってきたとき、既にドンナ・マヌエラとドンナ・アントニア、そして、2人に挟まれて24がゆったりと座っていた。彼は、午餐の時とは違う服を着ていた。午餐の時は、クリーム色の光沢のあるシャツにグレーのベストを合わせたスタイルだったが、今は昔の人が着ていたようなスイカ色のフロックコート姿だ。時代めいているとはいえ、豪奢なひじ掛け椅子に座っている彼は、場違いという印象を全く与えなかった。落ち着いた菖蒲色のロングドレスを身に纏っているドンナ・マヌエラや、赤紫に黒で縁取りされたスペンサージャケットと対のタイトスカートを見事に着こなしているドンナ・アントニアに挟まれているからかもしれない。
この部屋に置かれているアームチェアはヴィクトリアン・スタイルで、重厚なマホガニーに装飾華美にならないギリギリの装飾が施されている。おそらく何百年単位で使われているものだろうが、定期的にメンテナンスを施されているのだろう、どの家具もつい先日納品されたものと変わらない状態を保っている。
マイアは、高そうな椅子に座ることにもまだ慣れていない。そっとサーキュラースカートを広げ、メネゼスに案内された席に怖々と座った。
23とマイアが入ってきたのを全く意に介さずに、得意の詩作について蕩々と述べていた24だったが、最後にドン・アルフォンソがゆっくりと入ってきて座ると、嬉しそうに立ち上がって言った。
「やあ、兄さん。やっと来ましたね。僕が、生み出した最高傑作、すぐにでも聴いてもらわなくちゃ。ビリヤードのピンク球と釣りブレード針のさる環に関する形而上学的考察に基づく詩なんです」
ドン・アルフォンソは、全員にコーヒーや茶菓が行き渡っているのを見て取ると、メネゼスに合図をして立っているジョアナやクリスティーナが背後で座れるように配慮をしてから、待ちわびている24に聴いている者には意味がさっぱりわからない詩の暗唱を許可した。
24の詩を聴くのはこれが初めてではなかったけれど、今回の詩は格別に意味不明だった。そもそもマイアはビリヤードもしたことがないし、釣りの方はさらに興味がなかった。だが、たとえその両方に詳しい者が聴いても、この詩の内容に共感することは難しいだろう。少なくとも韻の踏み方が完璧なのは、マイアでもわかった。新参者の分際であくびをするわけにはいかないので、マイアは23と一緒に街に出かけた日のことを考えて時間をやり過ごした。
ようやく暗唱が終わったらしい。母親であるドンナ・マヌエラがにこやかに微笑みながら言った。
「お前の詩作に対する情熱は、非凡な才能を開花させたのね。釣り具が美しく思える描写を初めて知りましたよ、メウ・クワトロ」
氣をよくした24が、ではもう1つと言い出すのを察知したドン・アルフォンソは、急いでドンナ・アントニアに話しかけた。
「アントニア。今日は、お前も何か聴かせてくれるのだろう?」
マイアは思わずほっとした表情をしたが、横にいた23に氣付かれてそっと肘でつつかれた。ドンナ・アントニアは、微笑みながら立った。
「むしろ私は、トレースに聴かせてもらうことを期待してきたんだけれど」
「ギターラは持ってきていない」
23は短く答えた。23が何かを弾き、それをドンナ・マヌエラが褒めたりしたら、また24が対抗意識で新しい詩を吟じ出したりするかもしれない。だったら、ここでは弾かないでほしいと、マイアは密かに願った。
ドンナ・アントニアは、それ以上特に23のギターラには触れずに、グランド・ピアノに向かった。
「じゃあ。ここしばらくずっと練習していた曲を……バッハの平均律を元に書かれたシロティの『前奏曲』よ」
彼女は、ゆっくりと弾き始めた。マイアは、ドンナ・アントニアはピアノを弾けるんだと感心した。思えば、この女性のことを私は何も知らないんだなと思った。ずっと23の恋人だと思い込んでいて、姉だということも知らなかった。ようやく知ったことといえば、成人してから『ボアヴィスタ通りの館』に移り住んでいるが、近年はドンナ・マヌエラに代わって、ドラガォンの対外的な仕事をこなしていることぐらいだった。
ドン・アルフォンソや23と同じ黒髪は、亡くなったドン・カルルシュ譲りだという。とても美しいが、柔らかい印象の強いドンナ・マヌエラにはほとんど似たところがなかった。
「顔もドン・カルルシュに似ているの?」
マイアが訊くと、23は笑った。
「まさか。俺が父上そっくりなんだ」
マイアは、ピアノを弾くドンナ・アントニアの横顔を眺めた。いつも快活で華やかな彼女が、どことなく違って見える。静かな旋律が囁きかけるように始まったが、少しずつクレッシェンドをして近づいてきたように感じた。その旋律は再びディクレッシェンドして、遠ざかった。
右手の旋律は同じように繰り返したが、左手が先ほどとは違いずっと強く分散和音を奏でた。それは、まるでずっとそこにいたけれど視界に入っていなかった誰かが、急にいることに氣付いたときのようだった。
娘の演奏を聴いているドンナ・マヌエラは、先ほど息子の詩を褒めたときのような柔らかな微笑みを浮かべていなかった。瞳は、娘を通してもっと遠くの別のものを見つめていた。そして娘の紡ぎ出す音色から、憂いと痛みを聴き取っているようだった。マイアの知らない誰かが、ドンナ・アントニアの陰でピアノを弾いている。誰も口にしようとしない重い存在が、サロンに満ちていた。
短い曲はすぐに終わった。最後の和音が空中に解け、ドンナ・アントニアが静かに手を鍵盤から離して静寂に沈んだ。
サロンの空氣は先ほどとは全く変わっていた。24だけが派手な拍手をし、ドンナ・アントニアはいつもの快活な笑顔を見せて椅子に戻ってきた。ドンナ・マヌエラも柔らかい微笑を取り戻していたが、マイアはみなの瞳の中に憂いが残っているように感じた。平和な午後の語らいはいつも通り2時間ほど続いた。そして、暇乞いをしてドンナ・アントニアが館を去ると同時に、マイアたちも居住区に戻った。
あれは何だったんだろう。マイアは、先を歩く23の背中を見ながら考えた。訊いたら教えてくれると思うけれど、軽々しく訊かない方がいいのかも。
23は、いつもと違って静かなマイアの様子を変に思ったのか、振り向いた。
「どうした?」
マイアは、笑って首を振った。
「なんでもない。ねぇ、23。さっきリクエストできなかったから、今からギターラ、弾いて」
(初出:2020年8月 書き下ろし)
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【小説】酒場のピアニスト
「scriviamo! 2021」の第2弾です。大海彩洋さんは、当ブログの『黄金の枷』シリーズとのコラボ作品で参加してくださいました。ありがとうございます!
大海彩洋さんの書いてくださった『【ピアニスト慎一シリーズ】Voltaste~あなたが帰ってきてくれて~ 』
大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。いろいろなことに造詣が深いのは、みなさんご存じだと思いますが、ピアノもその一つで、実際にご自分でも演奏なさるのです。今回は大河小説「真シリーズ」のメインキャラの1人、ピアニストでもある相川慎一がPの街にお越しくださいました。そして、23がちゃっかりそのピアノを聴かせていただいたり、誰かさんに至っては、慎一御大にお遊び用のカラオケを用意させるというような申し訳ない事態になっています。ひえ〜。
お返し、どうしようか悩んだのですけれど、インファンテやインファンタが直接慎一たちに絡むのは、かなり難しいこともあり(とくに慎一、ただの日本人じゃなくてヴォルテラ家絡みですしねえ)、ちらっと名前だけ出てきた方を使わせていただくことにしました。時系列では、ちょうど連載中の『Filigrana 金細工の心』とだいたい同じ頃、つまり彩洋さんの書いてくださった作品の「8年前」から1、2年経ったくらいの頃でしょうか。
そして、それだけでなく、彩洋さんの作品へのオマージュの意味を込めて、ショパンの曲をあえて使ってみました。そのキャラ、彩洋さんの作品にサラッと書いてあった感じではショパン・コンクールを目指したかった……みたいな感じだったので。
さて。もう1人のキャラは、連載中の『Filigrana 金細工の心』の未登場重要キャラです。またやっちゃった。どうして私は、隠しておけないんだろう……。ま、いっか、別にものすごい秘密ってわけじゃないし。
![]() | 「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
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酒場のピアニスト
——Special thanks to Oomi Sayo-san
電話を終えると、チコはゆっくりと歩き出した。Pの街は久しぶりだ。以前来たときよりも観光客向けの洒落た店が多くなっている。そうなると途端に値段がチコ向きではなくなる。彼は、裏通りに入って、見かけは単純だが、そこそこ美味しくて彼の財布に優しい類いの店を探した。
どこからかファドが聞こえてくる。観光客向けのショーらしい。看板が目に入った。ファドとメニューのセットの値段が、派手な黄色で走っている。それを眺めながら通り過ぎようとして、もう少しで誰かとぶつかりそうになった。
「失礼」
チコが謝ると、青年は「いいえ、こちらこそ」とブツブツ言いながら、ファドのレストランに入っていった。扉を押すときに左手首に金の細い腕輪が光った。
金メッキの腕輪など珍しくもなんともないが、チコはとっさに彼の《悲しみの姫君》のことを思い出した。チコは、厳密には彼女が金の腕輪をしているのを見たことはない。彼女が腕輪の話をしたことも、1度もない。腕輪の話をしたのは、彼女の妹、チコたちの仲間から《陽氣な姫君》とあだ名をつけられたマリアだ。
「みて、ライサの左手首」
潮風に髪をなびかせながら、マリアはそっとチコに囁いた。オケの同僚であるオットーやジュリアたちと、姉妹の特別船室に招かれて、小さなパーティーのようなことを繰り返していたある夕暮れのことだった。
一介のクラリネット吹きであるチコが、特別船室に足を踏み入れることなど、本来なら考えられないのだが、華やかな社交に尻込みして部屋から出たがらないライサのために、姉の唯一興味を持った楽団のメンバーたちをオフの晩にマリアが招き入れるようになったのだ。
女性の装身具などには全く詳しくないチコは、言われるまでまったく目に留めたこともなかったのだが、ライサの左手首には何かで線を引いたような細い痕があった。
「あれね。腕輪の痕なの。日焼けせずに残った肌の色」
おかしなことを言うなと思った。腕時計をしなくなった人に、そういう痕が残ることは知っているけれど、しばらくすればそこもまた日に焼けて目立たなくなるものだろう。マリアはそんなチコの考えを見過ごしたかのように微かに笑ってから続けた。
「私の記憶にある限り、常にライサには金の腕輪がつけられていたの。子供の頃からずっと」
「つけられていた? つけていたじゃなくて?」
マリアは、じっとチコを見て、区切るようにはっきりと言った。
「つけられていたの。金具もないし、自分では、絶対に取れない腕輪よ。ねえ、チコ。どうして私たちがこんな豪華客船で旅をできるのか、知りたいって言ったわね。私も知らないけれど、でも、1つだけはっきりしていることがあるの。それは、あの腕輪をつけたり外したりできる人たちが、払ってくれたのよ」
「ライサは、それが誰だか知っているんじゃないかい? 自分の事だろうし」
「もちろん、知っていると思うわ。でも、あの子は絶対に言わない。言わせたところで、あの子が救われるわけでもないの。でもね、チコ」
「うん?」
「外してもらった腕輪は、まだあの子を縛っているんじゃないかなって」
「それは、つまり?」
「あの子は、はじめてパスポートをもらったの。クレジットカードも。こんな豪華客船の特別船室で、世界中の珍しいものを見て回って、美味しいものを食べて、好きなものを買える立場にいるの。でも、彼女の心は、Pの街の、私の知らないどこかに置き去りになっているみたい」
「彼女が、とても淋しそうなのは、わかるよ。僕に、『グラン・パルティータ』を吹いてほしいって頼んだとき、たぶん彼女は何かを思い出して、その場所を懐かしんでいるんだろうなと思ったし」
その場所は、おそらくこのPの街にあるのだろう。3か月の船旅の後、姉妹はこの街に戻った。マリアは元働いていた銀行でバリバリと活躍しているらしい。ライサが今どうしているかは……。チコは、そこまで考えてわずかに微笑んだ。明日、彼女と会える。その時に、いろいろな話をしよう。
豪華客船の楽団メンバーの仕事は、本来旅の好きだったチコには合っている。もちろん、学校を出たばかりの頃は、室内楽や交響曲だけでなく、ビッグバンドの真似事やジャズまでもまとめてやることになるとは思わなかったけれど、最近は、それもさほど嫌だとは思わなくなっている。
長い航海が嫌だと思ったことはこれまではなかったけれど、今回だけは別だった。この国から遠く離れているうちに、ライサが新しい人生をはじめて、彼のことなど記憶の果てに押し流してしまうんじゃないかと思っていたから。でも、マリアのあの口ぶりでは、ライサはいまだに引っ込み思案で、友だちらしい友だちも作らずにいるらしい。僕にももしかしたらチャンスがあるかもしれない。
近くに寄ったついでというのは、口実だときっとマリアにはバレているんだろう。でも、そんなこと構うものか。
彼は、そんなことを考えながら、数軒先に見つけた手頃そうな店で食事をすることにした。テーブルワインと前菜の
「よう。ダリオ。今日は出番の日かい」
奥からオヤジが声をかけた。
「ああ。ファド・ショーが中止になったから、急遽弾いてほしいって。おじさん、僕にもメニュー、おねがいします」
そう答えると、ダリオと呼ばれた青年は、狭い店内のチコの斜め前に座り、軽く会釈をした。
「ああ、同業者でしたか。僕、クラリネットなんです。あなたは、ええと」
チコが、声をかけると青年は「ピアノを弾きます」と小さく答えた。
「あそこ、ちょっと高そうでしたが、飲み物だけで入るのって、無理かな」
そう訊くと、青年は首を振った。
「ファドの日じゃないし、文句は言われないですよ。そもそも、セットメニューは、英語しか読めない観光客用ですし」
それから、肉の煮豆添えが出てくるまでの間、2人は軽く話をした。
「じゃあ、以前はあの交響楽団にいたんですね。子供の頃テレビでチャイコフスキーの協奏曲第一番を見ましたよ。大人になったら、ああいう舞台で弾きたいって、弟に大言壮語していたっけ」
ダリオは、少し遠くを見るように言った。
観光客や酔客相手に演奏する、日銭稼ぎのピアニストであることを恥じているんだろうか。大きな交響楽団をバックにソリストとして活躍するほどのピアニストになるのは、大変な努力の他に大きな才能も必要だ。才能と幸運の女神は、誰にでも微笑むわけではないことを、チコ自身もよく知っている。
「子供の頃は、僕もずいぶん大きな口を叩いていましたよ」
ダリオは、多くを語らずに食事を終えた。チコは、ダリオと一緒に、先ほどの店にいった。暗い店内は、ファドでないせいかさほど観光客がおらず、かなり空いていた。チコは、セルベッサを頼んで、ピアノの近くに座った。
ダリオは、センチメンタルな典型的なバーのジャズピアノ曲を弾いていた。客たちは聴いているのかいないのかわからない態度で、ピアニストの存在は忘れられている。チコは、ダリオが手首を動かす度に、ライトを受けて腕輪が光るのをぼんやりと眺めていた。
彼が夢見ていた音楽と、これは大きな違いがあるのかもしれない。誰もが夢中になって聴くソリストと、存在すらも忘れられる心地よいムード音楽。主役は、食べて飲んでいる客たちの時間。目の前に揺れて暗闇に浮かび上がるロウソクの焰。セルベッサのグラスに走る水滴。
チコの仕事も、あまりそれと変わらないときもある。それでも、船の上のシアターで行う演奏会の時は、熱心に聴いてくれる客がいる。ライサのように、彼らの音色が聴きたくて通ってくれた人がいる。ダリオは、どんなことを思いながらこの仕事を続けているんだろう。
しばらく、ムードジャズを弾いていた彼は、ちらっとチコを見ると、ゆっくりと短調の曲を弾き出した。あ、ショパンだ。なんだっけ、これは。あ、ノクターンの6番か。映画『ディア・ハンター』で演奏されていたから、強引に映画に出てきた音楽ですと言い張ることもできるけれど、きっとこれは僕がいるからクラシック音楽を弾いてくれたんだろうな。
彼の感情を抑えた指使いが、静かに旋律を奏でる。装飾音も少なく、単純な右手の響きが繰り返される。数あるノクターンの中でも演奏される機会が少ないのは、演奏会などで弾くには華やかさが足りないからなのかもしれない。暗闇の中で焰を揺らすのに、これほど似合うことを、チコは初めて知った。
氣がつくと、騒いでいた客たちは黙って、ダリオの演奏に耳を傾けていた。ダリオは、後半でわずかに強い想いを込めて何かを訴えかけたが、転調してからはまるで諦めるかのようにコーラル風の旋律を波のように繰り返しながら引いていった。焰も惑うのをやめた。
曲が終わった後の休止。チコは、手を叩いた。それに他の客たちもわずかに続いたが、ダリオがわずかに頷いてすぐに再びムードジャズに戻ると、また忘れたようにおしゃべりに興じた。
彼が、ピアノの譜面台を倒して立ち上がったときも、それに目を留める客は多くなかった。チコは、再び手を叩くと、ダリオを彼の前に座らせた。
「素晴らしかったよ。とくに、ショパン。君、さっきはずいぶん謙遜していたんじゃないかい?」
ダリオは、はにかんだ笑いを見せると答えた。
「そんなことはないよ。でも、ありがとう。聴いてくれる人がいるっていうのは、嬉しいものだな」
「今からでも遅くないから、就職活動をしたらどうかな? 少なくとも僕の乗っている船でだったら、ソリストとして活躍できると思うよ。他にも……」
チコの言葉を、ダリオは遮った。
「いいんだ。ちょっと事情があって、僕はこの街を離れられないし、ここの仕事も、わりと氣に入っているんだ。次に、この街に来るときには、また聴きに来ておくれよ」
チコは、「そうか」と頷いた。明日逢うことになっているライサの、《悲しみの姫君》の微笑みを思い出した。何かを諦めたかのような瞳。揺れる焰の向こうでダリオはセルベッサを飲み干した。金の腕輪がまた煌めいた。
(初出:2021年1月 書き下ろし)
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【小説】天国のムース
今日の小説は『12か月の店』の7月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。
今回の舞台は『黄金の枷』シリーズの舞台であるPの街にある『マジェスティック・カフェ』です。Pの街というのは、私が大好きなポルトがモデルで、『マジェスティック・カフェ』も実在する有名カフェをモデルにしています。
今回出てくる男性3人(うち1人は名前しか出したことがなかった)は、おもに外伝に出てくる、つまり、本編のストーリーにはほぼ関わらない人たちです。もちろんこの作品の内容も本編とは全く無関係です。

【参考】
小説・黄金の枷 外伝 | |
![]() | 『Infante 323 黄金の枷 』 |
![]() | 『Usurpador 簒奪者』 |
![]() | 『Filigrana 金細工の心』 |
黄金の枷・外伝
天国のムース
マヌエル・ロドリゲスは坂道を登り切ると汗を拭いた。この季節にサンタ・カタリーナ通りへ向かうのは苦手だ。それも、いつもの動きやすい服装ではなくて、修道士見習いらしく茶色い長衣を着てきたものだから暑さは格別だった。
生まれ故郷に戻ってきて以来、彼は実に伸び伸びと働いていた。神学にも教会にも興味もないのに6年ほど前に信仰の道に入ったようなフリをしたのは、家業から逃れ海外に行ってみたかったからだ。だが、その苦肉の策を真に受けた親戚が猛烈な後押しをし、よりにもよってヴァチカンの教皇庁に行くことになってしまった。そして、頭の回転の速さが目にとまりエルカーノ枢機卿の個人秘書の1人にさせられてしまったのだ。もちろん彼がある特殊な家系の生まれであることも、この異常な抜擢と大いに関係があった。
枢機卿には「早く終身誓願をして司教への道を歩め」との再三勧められていたが、「家業から逃れたいがための方便で神学生になっただけで、本当は妻帯も許されないような集団に興味はありません」とは言えず、のらりくらりと交わしていた。頃合いを見てカトリック教会から足を洗い、イタリアで同国人相手の観光業でも始めようかと思案していた頃、彼は生家が関わる組織に所属していた女性クリスティーナ・アルヴェスに出会った。
すっかり彼女に心酔した彼は、彼女が組織の中枢部で働くことになったのを機に共に故郷に戻ることに決めた。それも、あれほどイヤで逃げだそうとしていた組織に深く関わる決意までして。とはいえ、クリスティーナには未だ仲間以上の関係に昇格させてもらえないし、教会にいろいろとしがらみもあるので、修道士見習いの身分のまま故郷の隣町の小さな教会で地域の独居老人の家を回り手助けをする仕事を続けている。
今日、珍しく修道服を着込んでいるのは、よりにもよってエルカーノ枢機卿がPの街を訪問していて、マヌエルに逢いたいと連絡してきたのだ。訪問先の教会にでも行くのかと思ったら、呼び出された先は『マジェスティック・カフェ』だ。Pの街でおそらくもっとも有名で、つまり観光客が殺到するような店だ。なぜそんなところで。マヌエルは首を傾げた。もちろん、サン・ジョゼ・ダス・タイパス教会の奥で面会すれば、終生誓願はまだかとか、現在はどんな祈りを捧げているのかとか、あまり話題にしたくないことを延々と訊かれるのだろうから、カフェで30分ほど適当につきあって終わりに出来るのならばいうことはない。
彼は、予定の時間よりも30分も早くそのカフェに着いた。観光客に好まれる美しい内装が有名なので、席に着くまで外で何十分も経って待つのが普通なのだが、まさかヴァチカンから来た枢機卿を観光客たちと一緒に並ばせるわけにもいかない。とはいえ、お忍びなので特別扱いはイヤだといわれたので、特別ルートで予約することもできない。つまり、彼が先に行って席についておく他はないのだ。面倒くさいなあ、あの赤い帽子を被って立っていてくれれば、みな一斉に席を譲ると思うんだけどなあ。
大人しく並んでいると、テラス席の客にコーヒーを運んできた帰りのウェイターが「おや」とこちらを見た。
「ロドリゲスさんじゃないですか!」
名札に「ジョゼ」とある。顔をよく見ると、知っている青年だった。マヌエルが担当地域でよく訪問している老婦人の孫娘と結婚した青年だ。たしか組織の当主夫人の幼なじみで、結婚祝いを贈ったのだが、それを老婦人と顔なじみのマヌエルが届ける役割をしたのだ。
「ああ、こちらにお勤めでしたか」
「ええ。その節は、どうもありがとうございました。今日は、おひとりでご利用ですか」
マヌエルは首を振った。それから声をひそめて打ち明けた。
「実は、イタリアから枢機卿がお忍びできていましてね。並んで待たせるわけにはいかないので、こうして先に並ぶことになったんですよ」
「おや。そうですか。じゃあ、お2人さまのお席でいいんですね。奥が空いたらご案内しましょう」
ジョゼ青年が店内に入って行く背中を見送っていると、通りから聴き慣れた声がした。
「おや、マヌエル。待ちきれずに早く来てしまったのは私だけではないようだね」
「
つい大声を出して、エルカーノ枢機卿に睨まれた。
「困るよ。今日はそんな呼び方をするなといっただろう」
「はあ、すみません」
前後で並んでいる観光客たちのうち、呼びかけの意味がわかった者も多少はいるらしく、響めいていた。この居たたまれなさを何とかしてほしいと思ってすぐに、先ほどのウェイター、ジョゼが戻ってきて「ロドリゲスさん、どうぞ」と言ってくれた。列の前に並んでいた4人の女性たちは、イタリアから来たカトリック教徒だったらしく、恭しく頭を下げて通してくれた。順番がどうのこうのと絡まれることもなく先を譲ってもらえたのでマヌエルはほっとした。
Pの街に住んでいながら、『マジェスティック・カフェ』に入ったのは3回目くらいだ。コーヒー1杯飲むのに、コインでは足りないような店に入る習慣がないからだが、たとえもっと経済的な値段だったとしても、この店にはなかなか入りにくい。20世紀の初頭に建てられたアールヌーボー様式の装飾が施された店内があまりにも華やかすぎて落ち着かないのだ。
ピーチ色の壁、壁面に飾られた大きな鏡、マホガニーと漆喰の華々しい彫刻、そして古き良き時代を思わせる暖かいランプ。どれもが晴れがましすぎる。エルカーノ枢機卿は、マヌエルとは違う感性の持ち主らしく、当然といった佇まいで座っていた。普段ヴァチカンの宮殿やサン・ピエトロ大聖堂を職場として行き来している人だから、この程度の豪華さではなんとも思わないのだろう。
「久しぶりだね。先ほどファビオと話していたんだが、君は地道な活動を嫌がらずにやってくれて助かると言っていたぞ」
帰国以来、彼の上司であるボルゲス司教には、目をかけてもらっているだけでなく便宜も図ってもらっている。マヌエルはサン・ジョゼ・ダス・タイパス教会付きの修道士見習いという立場だが、ボルゲス司教は彼と同じ役割を持つ家系の出身であり、マヌエルが教会の仕事の他にドラガォンの《監視人たち》中枢部としての仕事を行う後ろ盾にもなってくれているのだ。それゆえ、マヌエルは修道士見習いとしては異例ながら、Gの街の小さな分教会での閑職と、地域の老人たちを訪問する業務だけに従事し、宗教典礼の多くから解放されて通常は伸び伸びと暮らしていた。
エルカーノ枢機卿は、この国の出身ではなくドラガォンとは直接的な関係はないが、役割上この秘密組織のことを知り、時に《監視人たち》中枢部の黒服やドンナという称号を持つ女性たちと面会をすることもあった。どうやら今回の来訪はドンナ・アントニアとの面会のためだったらしい。ヴァチカンにいた頃は、もちろんマヌエルがやって来た黒服ソアレスを人払いされた枢機卿の書斎に案内したものだ。だが、今回の来訪では幸いにも彼は蚊帳の外の存在でいられた。橋渡しをしたのはボルゲス司教だろう。
「それで。君は、いまだにそんな身分なのか。一体いつ終生誓願をするつもりかね」
あららら。この話題を結局出されたか。枢機卿はまだ彼が司祭になんかまったくなりたくないと思っていることを嗅ぎつけてくれないようだ。
「まあ、そのうちに……。それより、何を頼まれますか、ほら、お店の方が待っていますよ」
会話の邪魔をしないように立つジョゼの方を示しながら、彼はメニューを開けてエスプレッソが5ユーロもすることに頭を抱えたい思いだった。いつもの立ち飲みカフェなら10杯飲めるな。
「うむ。このガラオンというのは何かね」
枢機卿は、ジョゼに対して英語を使った。
「そうですね。ラッテ・マッキャートみたいなものです」
「じゃあ、それにしよう。……それからデザートなんだが」
枢機卿はしばらくメニューのデザートのページを眺めていたが、小さく唸りながら首を傾げた。
「おや、ここではなかったのかな」
「何がですか?」
「いや。いつだったか、この街に来たときに食べたムースが食べたかったんだが、それらしいものがないなと思ってね」
「どんなお味でしたか?」
ジョゼが訊いた。
「砕いたビスケットが敷いてあって」
枢機卿は考え考え言った。
「はあ」
「甘くて白いクリームと層になっていて……」
「それは……」
マヌエルはもしやと思う。
「それに、名前が確か天国のなんとかという……」
「「
マヌエルとジョゼが同時に言った。
「おやおや。有名なデザートなのかね」
「そうですね。この国の人間ならたいてい知っていますね」
マヌエルは、枢機卿のニコニコとした顔を見ながら言った。
ナタス・ド・セウは、砕いたビスケットと、コンデンスミルクを入れて泡立てた生クリームを交互に重ねて作るデザートだ。たいていは一番上の層に卵黄で作ったクリームが載る。
「そういえば、以前、メイコのところで美味しいのをいただいたっけ」
マヌエルが言うと、ジョゼは「ああ」という顔で頷いた。
「メイコというのは?」
「私の担当地域にお住まいの女性ですよ。よく訪問しているんです。で、この方の奥さんのお祖母さんです」
「ほう」
「そういえば、明日また訪問する予定になっていたっけ」
それを聞くと、枢機卿は目を輝かし身を乗りだしてきた。
「訪問すると、そのデザートが出てきたりするのかね?」
「いや、そういうリクエストは、したことはないですけれど……」
「してみたらどうかね? なに、私は以前から、こちらでの君の仕事ぶりを見てみたいと思っていたのだよ」
何、わけのわからないことを言い出すんだ。いきなり枢機卿なんかがやって来たらメイコが困惑するに決まっているじゃないか。同意を求めるつもりでジョゼの顔を見ると、彼は肩をすくめて言った。
「差し支えなければ、彼女に連絡しておきますよ。明日、猊下がいらっしゃるってことと、ナタス・ド・セウを作れるかを……」
そんなことは申し訳ないからとマヌエルが止める前に枢機卿は立ち上がってジョゼの手を握りしめていた。
「それは嬉しいね。どうもありがとう、ぜひ頼むよ! 親切な君に神のお恵みがありますように!」
遠くからそのやり取りを眺めていたジョゼの上司がコホンと咳をした。そこで3人は未だにこのカフェでの注文が済んでいなかったことに思い至った。
「あ〜、猊下、何を頼みますか」
「うむ。そうだな。明日のことは明日に任せて、今日もなにかこの国らしいデザートを頼もうか。君、この中でどれがこの国らしいかね?」
ジョゼは、メニューの一部を指して答えた。
「このラバナーダスですね。英語ではフレンチ・トーストと呼ばれる類いのお菓子なんですが、シナモンのきいたシロップに浸してから作るんです」
枢機卿は重々しく頷いた。
「では、それを頼もうか。それも、このタウニー・ポートワインとのセットで」
「かしこまりました。そちらはいかがなさいますか?」
マヌエルは、メニューを閉じて返しながら言った。
「僕は
頭を下げてから奥へと去って行くジョゼの背中を見ながら、マヌエルはため息を1つついた。やれやれ。ここで30分くらいお茶を濁して逃げきろうと思っていたけれど、明日もこの人にひっつかれているのか。メイコの
マヌエルは居心地悪そうに地上の天国のような麗しい内装のカフェを見回した。
(初出:2021年7月 書き下ろし)
【小説】鱒
今日の小説は『12か月の楽器』の3月分です。このシリーズでは、楽器をテーマに小さなストーリーを散りばめています。
今回の主題に選んだのは、ヴァイオリンです。っていうか、ヴァイオリンを弾くあの人の登場っていうだけですけれど。
さて、シューベルトの『ます』こと『ピアノ五重奏曲 イ長調』には、個人的に強い思い入れがあります。父と共演することになったチェコのスメタナ弦楽四重奏団が、我が家に来てリハーサル演奏をしたんですよね。もう○十年前のことですけれど。自宅に飛び交うチェコ語のやり取りと、プロ中のプロの演奏。その時の印象がものすごく強く残っていて、聴く度にあの日のことを思い出すのです。

![]() | 「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
鱒
ドロレス・トラードは、丁寧に鱒をさばいた。彼女は『ボアヴィスタ通りの館』の料理をほぼひとりで引き受けている。17歳の時に『ドラガォンの館』で見習いをはじめたが、すぐにセンスを認められて20歳の時にはもう1人でメニューを決めることを許された。『ボアヴィスタ通りの館』の料理人が退職するにあたり、24歳という若さで異動して以来、ずっと『ボアヴィスタ通りの館』の料理人として働いている。
この館を含むドラガォンが所有する3つの屋敷で
彼ら『インファンテ』と呼ばれる男性は、個人名を持たず番号で呼ばれている。彼らは、法律上は生まれることも亡くなることもない、書類上は幽霊も同然な存在だが、毎日普通に食事をする生身の人間だ。ドロレスをはじめとする使用人たちは、すべてこの男性たちがどのような存在であるかを承知している。インファンテ自身も、ドロレスたち使用人のほとんども《星のある子供たち》と呼ばれる特殊な血筋の出身で特殊事情を理解しており、しかもこの勤めを始める前に沈黙の誓約を交わしている。
料理人として、ドロレスは幸運だった。
彼が、この屋敷に遷されたのは、ドロレスの異動から1年も経たない頃だった。おそらく、彼をここに遷すことを見越してドロレスを異動させたのだ。覚悟はしていたものの、はじめはとても緊張した。というのは22と呼ばれるインファンテ322は『ドラガォンの館』時代に、ドロレスが勤め始めてからただの1度すら正餐に顔を出さぬ頑なな人物として知れ渡っていたからだ。給仕や清掃で顔を合わせる使用人も必要なこと以外で言葉を交わしたことがないと言っていたし、ドラガォンを憎んでいると囁かれていた。
彼が、屋敷そのものには軟禁状態とはいえ、鉄格子の外に出て普通の生活を始めることになり、どんな暴君になるかわからなかった。『ボアヴィスタ通りの館』で使用人たちは戦々恐々として待った。だが、彼は『ガレリア・ド・パリ通りの館』で暮らすもう1人のインファンテと違い、全く手のかからぬ
だが、その問題も3年で解決した。やはりこの館に暮らすことになったインファンタ・アントニアが、彼の感情と好みを読み取ることができるようになり、彼の好みに合わせた食事を提案したり、2人がどの食事を格別氣に入ったかなどを告げてくれるようになったのだ、
今日のメニューを提案してくれたのも、アントニアだった。
「叔父様は、いまシューベルトの『ます』を好んで弾いていらっしゃるでしょう? だから、鱒はどうかしら? 叔父様、バター焼きをお好みだし」
ドロレスは、手を休めて2階から聞こえてくるヴァイオリンの音色に耳を傾けた。そういえば、この曲はずいぶん前にたくさん聴いたなと思う。ピアノのパートや、ヴァイオリンのパート、毎日変えてずいぶん長いこと練習していた記憶があるが、いつの間にか聞かなくなった。ここのところ、メウ・セニョールのご機嫌はかなりいい。機嫌がいいといっても、ドロレス自身に対する態度が変わるわけではない。だが、アントニアがリラックスして嬉しそうな表情を見せることが多いのだ。それは、ドロレスをはじめとする使用人たちには心地のいい状態だった。
彼女は、鼻歌を歌いながら、鱒に小麦粉をはたいた。
彼は、スピーカーから流れる曲に合わせてヴァイオリンを奏でていた。ベルリンフィルのソリストたちが、ピアノ、ヴィオラ、チェロおよびコントラバスのパートを演奏したフランツ・シューベルトの『ピアノ五重奏曲 イ長調』のCDは、数日前にアントニアが持ってきた。
第4楽章に歌曲『ます』の旋律を変奏曲として使っているため、『ます五重奏曲』としても知られているこの曲を、彼が練習し始めたのは、この屋敷に遷されてから2年ほど経った頃だった。その頃の彼は、発売されているCDや楽譜の購入を依頼することはあっても、それ以外の特殊な願いを頼むことはなかった。
彼は、存在しないことになっていた上、ドラガォンの中枢組織に必要以上の頼み事をしたくなかったので、常に1人で演奏をしていた。子供の頃から習ってある程度自由に弾くことのできるピアノとヴァイオリンの独奏曲を中心に弾いていたが、自ら録音することによりピアノ伴奏付きのヴァイオリン曲を練習することもあった。そして、やがて欲が出て、『ます』に挑戦しようとしたのだ。
彼はヴィオラとチェロの練習も始めた。だが、そこまでだった。パートごとに録音して合わせてみても、上手く合わなかった。テンポを合わせるだけでは、生きた曲にはならない。誰かとアイコンタクトをし息を合わせながら共に奏でることでしか、合奏はできない。それに氣がつくと、録音で作ったそれまでの2重奏すらも、まがい物にしか感じられなくなり全て処分してしまった。
今にして思えば、あれほど苛立ったのは、決してパートごとの録音が合わなかったからだけではない。彼が、独りであることを思い知らされることに耐えられなかったのだろう。
いま彼がヴァイオリンを奏でたいと思うとき、ピアノの伴奏者に困ることはない。彼が望むように弾いてくれる存在がいつも側にいる。アントニアは、意固地になった彼が邪険にし、頑なに拒否したにもかかわらず、10年以上の時間をかけて彼を心の牢獄から解放してくれた。共に奏で、食の好みを伝え、皮肉な冗談を口にすることもできるかけがえのない存在として、彼に寄り添い続けてくれている。
彼のかつての『ます』に関する挫折の話を知ったとき、アントニアは同情に満ちて受け答えをするような中途半端な態度は取らなかった。彼女は、伝手を使って彼の望む曲の『カラオケ』を準備するといいだしたのだ。
彼は、冗談なのだろうと思っていたので、忌憚なく希望を口にした。それが、バルセロナ管弦楽団のチャイコフスキーの『ピアノ協奏曲第1番』とスイスロマンド管弦楽団によるメンデルスゾーンの『バイオリン協奏曲』のCDを手にしてかなり驚いた。彼は、世界最高の演奏をバックに、ソリストとして弾く新しい歓びを知った。
そして、数日前にアントニアは『ます』のCDも持ってきた。ピアノパートのない演奏とヴァイオリンパートのない演奏の他に、そして、両方とも入っていないバージョンもがおさめられている。アントニアめ、自分も一緒に演るつもり満々だな。彼は密かに笑った。
だが、彼はいずれその願いを叶えてやろうと思っていることを早々に知らせてやるつもりは皆目無かった。いまは専らピアノパートの入っている演奏を使ってヴァイオリンパートを弾いている。
1819年、22歳だったフランツ・シューベルトは、支援者であり親しい友人でもあった歌手ヨハン・ミヒャエル・フォーグルの故郷であるオーストリア、シュタイアーを旅した。そこで知り合った裕福な鉱山長官パウムガルトナーは、アマチュアながら自らチェロを奏でるたいそうな音楽好きであった。彼は、シューベルトに氣に入っていた歌曲『ます』の旋律を使ったピアノ五重奏の作曲を依頼した。
パウムガルトナーが、自ら主催するコンサートで演奏するつもりだったので、ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスという通常と異なる編成になっており、加えて初演でパウムガルトナーが弾いたであろうチェロの見せ場がしっかりとある作品になっている。
通常のピアノ5重奏のごとくヴァイオリン2台の編成であれば、彼も2つのヴァイオリンパートを練習する必要があっただろうが、この曲では1つで済んでいる。ピアノパートは高音域での両手ユニゾンが多く、難易度が高いが、彼はすでに10年前に自在に弾けるようになっていた。アントニアも十分な時間をとって練習すれば問題なく弾けるようになるだろう、彼は考えた。
内氣で世渡りの上手くなかったシューベルトは、自ら作品を売り込んで歩くようなことが苦手だった。公演などで稼ぐこともあまりなかった彼は貧しく、フォーグルなどの支援者や友人たちが援助や作曲の斡旋をしてくれたことで、彼の名声は高まった。彼は、慕い、仕事を依頼してくれる人びとの願いに発奮して次々と名曲を書き上げた。アマチュア音楽家とはいえ、彼の歌曲を絶賛してくれたパウムガルトナーの依頼にも熱心に応え、素晴らしい作品を書き上げたのに、それで儲けようとは全く考えなかったのか、生前には出版もされなかった。
パウムガルトナーの願い通りに歌曲『ます』の旋律を用いた第4楽章は、この作品の中でもっとも有名だ。4つの変奏が、川を自由に泳ぐ鱒と、それを追い詰める釣り人との駆け引きを躍動的に表現している。歌曲は言葉による表現があるが、五重奏曲ではそれぞれの楽器が掛け合い、逃げては追い越すことで表現する。
彼は、録音されたピアノや他の弦楽器の音色を追いかけた。決して現実に顔を合わせて演奏をすることは叶わない合奏相手たちだが、顔も名前も知らされてはいないがだれかが空白のヴァイオリンパートを奏でることを期待して演奏した。独りで合わない合奏を繰り返していた頃とは、まるで違った演奏になる。
階下の音がして、アントニアが帰ってきたのがわかった。そろそろ昼食の時間か。彼は、先ほどから漂っている香りに意識を移した。
復活祭前の40日間は、肉断ちの習慣があるので、昼食は魚が中心だ。鱈や鮭が多いが、どうやら今日は焼き魚のようだ。バターが焦げる香ばしい薫りがする。
彼は、鱒のバター焼きのことを考えた。はたいた小麦粉がバターでカリッと焼かれ、ジャガイモやほうれん草が添えられる。『ドラガォンの館』でも何度か食べた記憶があるが、いまドロレスが作ってくれるものよりも焦げ目が少なくよくいうと上品な味付けだった。当時から彼は出されたものを残さずに食べていた。だが格別に鱒が好きだと思ったことはなかった。
この館で最初に鱒がでたときも、おそらく同じような焼き方だったと思う。だが、アントニアが共に暮らすようになってから、彼女がどのような焼き方を好むのかを察してドロレスと話し合い、いつの間にか今のような焼き方に変わった。
海辺の人びとが炭火でよく焼いてカリッとさせた鰯を好んで食べるように、ドロレス自身もほんのりとした焼き色の上品な1皿よりも小麦粉とバターでしっかりと焼き色をつけた鱒が好きだったそうだ。それが主人の好物であるとわかり、彼女は俄然やる氣になったらしい。
かつて、彼はたった独りだった。彼が拒否した世界に、彼を喜ばせる曲を奏でるものも、彼の好む料理に心を砕く人もいなかった。彼を取り巻く状況は、決して大きくは変化してはいない。彼はいまだに名前を持たぬインファンテで、どれだけ望もうと弦楽5重奏をすることはできない。
だが、彼は今、そのことに苦しみ絶望することはない。彼は、『ます』の第5楽章フィナーレの掛け合いを楽しんだ。彼は独りではなかった。この録音を用意してくれたアントニアをはじめとする人たちが、彼のためにこの曲を弾いてくれた人たちが、階下で彼の生活を支えてくれる人たちがいる。
最後の和音を勢いよく奏でると、彼は躊躇せずに階下に向かう。温かい食事を提供するタイミングを、ドロレスがやきもきしながら待っているだろうから。階下では、いつものメンバーが穏やかに彼を待ち受けていた。
(初出:2022年3月 書き下ろし)
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