リゼロッテと村の四季 あらすじと登場人物
ドイツ人の少女リゼロッテは、健康になるためにスイスの小さいカンポ・ルドゥンツ村にやってきた。彼女が、スイスの田舎で大人や仲間たちとの交流を通して、世界を理解していく様子を描く。
【登場人物】
(年齢は第一話時点のもの)
◆リゼロッテ(リロ)・ハイトマン(Liselotte Heitmann)11歳
紫がかった灰色の瞳。透き通るような白い肌にローズの唇。焦げ茶の長くて細い髪。ドイツで生まれたが病弱で医者に空氣のいいところで療養するように言われて、この村の館に住むことになった。
◆ジオン・カドゥフ(Gion Caduff)9歳
焦げ茶の瞳に、黒くて硬い髪。比較的短いが、ボサボサ。ずんぐりした体型で太い眉。農家の三男で薄汚れた服を着ている。勉強は苦手。
◆テオドール・ハイトマン(Theodor Heitmann)45歳
リゼロッテの父親。裕福な商人。医者の妻が、別の医者とアメリカに駆け落ちしたが、本人も忙しいのでリゼロッテの教育は使用人に任せっきりである。二ヶ月に一度くらい村に訪れ、リゼロッテと過ごす。女優のドロレス・ラングとつき合っている。スイスを田舎と馬鹿にしてTeodorと綴られるのを毛嫌いしている。
◆ハンス=ユルク・スピーザー(Hans-Jürg Spieser)13歳
村の子供たちのリーダー的存在。もの静かで優秀。ギムナジウムへの進学を勧められている。ブルネットで黒い瞳。背が高い。
◆ドーラ・カドゥフ(Dora Caduff)12歳
ジオンの姉。ちゃきちゃきしている。リゼロッテの面倒をよく見る。
◆マルク・モーザー(Marc Moser)12歳
小さい子供たちにつらくあたったり、ハンス=ユルクにつっかかる村の問題児。
[ハイトマン家の使用人たち]
◆ヨハンナ・ヘーファーマイアー(Johanna Höfermeyer)36歳
リゼロッテの家庭教師。
◆カロリーネ・エグリ(Caroline Egli)41歳
カンポ・ルドゥンツ村出身の家政婦。
◆ロルフ・エグリ(Rolf Egli)47歳
カロリーネの夫で、力仕事を請け負っている。
[カンポ・ルドゥンツ村の大人たち]
◆ヨーゼフ・チャルナー(Josef Tscharner)38歳
カンポ・ルドゥンツ村の牧師。
◆アナリース・チャルナー=スピーザー(Annalise Tscharner-Spieser)32歳
牧師夫人。ハンス=ユルクの叔母。
◆タニア・ギーシュ(Tania Gies)
美容師で豪快な姉さん。
◆パウル・モーザー(Paul Moser)
マルクの父親。イェーニッシュで村の鼻つまみ的存在。
◆マティアス&ベアトリス・カドゥフ
ジオンたちの両親。酪農家。ハイトマンのことを「金持ちのSchwab(シュヴァブ)」と言い放つ。
◆パウル・カドゥフ(Paul Caduff)18歳 & クルディン・カドゥフ(Curdin Caduff)17歳
ジオンたちの兄。
[カンポ・ルドゥンツ村の子供たち]
◆アネット・スピーザー(Anet Spieser)10歳
ハンス=ユルクの妹。おしゃま。
◆アドリアン・ブッフリ(Adrian Buchli)11歳
◆ルカ・ムッティ(Luca Mutti)8歳
【小説】リゼロッテと村の四季(1)紫陽花いろの雨
(イラスト)雨の精はきっとロマンチスト★
本当は、limeさんのイラストにつけるとっても小さい話のはずだったんですが。なぜかどんどん設定が進んでいってしまい、現在登場人物リストに20人以上いる、長い話になってしまいそうな予感。もちろん、いますぐ連載をはじめたりはしません。本当のさわりだけです。「リナ姉ちゃんのいた頃」と同じように、不定期に時々書いていこうかなと思っています。どっちもスイスのカンポ・ルドゥンツ村の話ですが、あちらは現代の話、こちらは20世紀初頭、第一次世界大戦くらいまでの時期をイメージして書いています。
それに、これ子供の話なんですが。来月のアルファポリスの大賞に出す予定はありません。たぶん、最終的には全く児童文学とは関係のない話になりそうなんで。
リゼロッテと村の四季
(1)紫陽花いろの雨
涙雨のようだった。リゼロッテは、項垂れて庭の片隅へと向かった。彼女の細くて長い焦げ茶色の髪も、それを飾っている明るい茶色のサテンリボンも、しっとりと雨に濡れていた。ヘーファーマイアー嬢がオルタンスやグラッシィの話を好きでないのは知っていた。でも……。
「ええ。ハイトマンさん。こんなことを言うのは氣が引けるんですけれど、お嬢さんの体だけではなくて、一度、脳の方もお医者さんに診ていただいた方が……」
「なぜそんな事を言うのかね。あの子は、引っ込み思案ではあるが、至極まともに話をするではないか」
「ええ。でも、ご存知ではないでしょう。お嬢さんは、ガラス玉の妖精や、花の上の小さい娘さんと話ができるなんていうんですよ。もう二十世紀になったというのに!」
書斎で話をする父と、リゼロッテの教育を任されている家庭教師の会話を耳に挟んでしまったのは偶然だった。
「なに、あの子はふざけているだけだろう。でも、くだらないことは言わないように、言っておかねばならないな。人に信用されなくなるような言動は慎まないと。そういえば、あの子の母親も虚言癖があった」
父親は忌々しげに呟いた。
「そうでなくても、この辺りは無知蒙昧な野生の山羊と変わらない人たちが住んでいるんですもの。ほっておいたら、どんな迷信を吹き込まれるかわかりませんわ。つい先日まで、魔女狩りをしていたって話、聞きましたか? お嬢さんのお体が十分によくなられたら、一日も早くデュッセルドルフに戻るべきですわ」
「そうかもしれないな」
虚言……。花の上に妖精が住んでいると絵本を読みながら語ってくれたのは、リゼロッテの母親だった。国でまだ数人目の女医として、とても忙しく働いていたけれど、一日の終わりには、リゼロッテのベッドに来て抱きしめてくれた。
「あいつは、お前を捨てて、男とともにアメリカに行ってしまったのだ。もうお母さんのことは忘れなさい」
ある日、父親に突然言われた。それからリゼロッテには、絵本を読んでくれる人はいなくなった。
ある時、突然このスイスのカンポ・ルドゥンツ村に連れてこられた。リゼロッテの虚弱体質を改善するためだと言って。デュッセルドルフの屋敷よりも部屋数は少ないけれど、庭が広くて太陽の燦々と降り注ぐ、美しい家だ。
庭の一番奥に、紫陽花が植えてあって、夏のはじめになると、リゼロッテの顔ほどもある青い花を咲かせる。彼女は、その花に、美しい花の妖精がいるのではないかと思った。母親が読み聞かせてくれた絵本の中に沢山飛んでいたように。
そんなリゼロッテに、そっと話しかけてくれたのが、オルタンスだった。
艶やかな青い髪を持った、優しい妖精。リゼロッテは、いつだったか確かに彼女の声を聴いたと思った。姿もわずかな時間だけは見かけたように思う。
「なんて心地いい雨なんでしょう。リゼロッテ、あなたも一緒に水浴びしましょうよ」
でも、お母さんは、私に嘘を言っていたの? そして、私が、オルタンスと友達なのは、嘘つきの子供だからなの? オルタンス、あなたは本当にいるの? 答えてよ。
「オルタンスって誰だよ?」
突然生け垣から声がしたので、リゼロッテは飛び上がった。
声のした方を見ると、生け垣から、薄汚れた服を着た少年が顔を出していた。ごわごわの短い髪が乱れている。太い眉と、大きめの目が印象的な子だ。
「あなた、誰?」
「俺? ジオンって言うんだ。あっちの先の酪農場に住んでいる。あんたは?」
「私は、リゼロッテ。リゼロッテ・ハイトマンよ」
「ああ、《金持ちのシュヴァブ》のお嬢様ってのは、あんたか。確かにいい服着てるよな」
リゼロッテは、そんな不躾な事を言われたのははじめてだったので、面食らった。そもそも、彼女は子供と話をしたことがほとんどなかった。兄妹がいない上に、体が弱くて学校に行ったことがないので、子供と知り合う機会がほとんどなかったのだ。
とくに、この村に来てからは、子供と知り合う機会がなかった。ヨハンナ・ヘーファーマイアーは、この地方の方言を毛嫌いしており、お嬢様にそんなクセがついたら大変だと思っていたからだ。リゼロッテが館の外に出るのは、日曜日の礼拝のときだけで、しかもわざと、村の人びとのほとんどやってこない早朝にだった。
「それで、なんで泣いているんだ? オルタンスって誰?」
ジオンは、大きな瞳を見開いて訊いた。聴き取りにくい方言だけれど、その様子には、馬鹿にしたり、意地悪を言っている様子はなかったし、ヘーファーマイアー嬢のように眉をしかめてもいなかったので、リゼロッテは躊躇しながら答えた。
「……友達。紫陽花に住んでいる水色の女の子。でも、本当はそんな子、いないのかもしれないって思ったら悲しくなってしまって……」
ジオンは、首を傾げた。
「今は、いないだけかもしれないだろ? そういうヤツらは、いろいろと忙しいんだぜ」
「そうなの?」
「そうさ。クリスマスに、赤ちゃんキリストが来る(注1)って言うじゃないか。でも、全部の家に行くんだから忙しくて、だから、一度だって出くわしたことないだろう?」
「あ」
そういえば、「赤ちゃんのキリストがクリスマスに来る」というのは、母親だけでなく、父親もヘーファーマイアー嬢も口にしていた。だったら、オルタンスだって、やっぱりいるのかもしれない。
リゼロッテは泣くのをやめた。けれど、やはりどこか寂しそうな微笑みを見せた。紫陽花いろの雨がしっとりと二人に降り注ぐ。ジオンは、少し考えてからポケットに手をやった。
「そのオルタンスがいないと、寂しくて泣いちゃうなら、代わりにすごくいいものを置いていってやるよ。さっき見つけたんだ。雨じゃないと出てこないんだ。俺だって滅多に見たことのない、宝石みたいに綺麗な上物だぜ」
宝石みたい? リゼロッテは、薄汚れた少年から、そんな言葉が出てくるとは思わなかったので、目をみはった。彼は、ポケットから小さなブリキの缶を出した。そして、そっと蓋に手をやると言った。
「よし、手を出せ。氣をつけろよ。すぐ行っちまうから」
なにが? そう訝りながらも素直に出したリゼロッテの手のひらの上に、彼はそっと缶を逆さにした。冷たい感触がぴくっと触れた。鮮やかな、つややかな緑色。
それから、リゼロッテはびっくりして叫んだ。
「きゃーーーっ!」
その声に驚愕して、逃げ去ったのは、手のひらの上に置かれた小さなあまがえるだけではなくて、繁みから顔を出していたジオンもだった。
大騒ぎが起こって、すぐに探しにきたヘーファーマイアー嬢に館に連れて行かれたリゼロッテは、雨に濡れて風邪を引いたらどうするんだとか、粗野な村のこどもと話したりするからだとか、散々注意された。
父親は、あまりきつくは叱らなかったが、「妖精がいるというようなくだらないことを言ってはいけないよ」と諭した。
リゼロッテは、先ほどよりも、ずっと悲しい心持ちになっていた。
とても驚いて、叫んでしまったけれど、あのあまがえるは、そんなにきもちが悪かったわけではなかった。あのジオンという少年も、意地悪で蛙をくれたのではなくて、きっと本当にリゼロッテを慰めてくれるために自分の宝物を渡してくれたのだろう。それなのに、自分はすべてをめちゃくちゃにしてしまった。あの子には、嫌われてしまっただろう。
彼女は、部屋に戻ると、自分の宝箱の中を覗き込んだ。一度はいたと思った、もう一人の友達、ガラス玉おはじきの中に住む小さな女の子グラッシィもやはり姿を見せなかった。リゼロッテは、肩をふるわせて机に突っ伏した。
翌朝は、晴れ渡っていた。書き取りと、かけ算の課題が終わった後に、リゼロッテは庭にでることを許された。一番奥の紫陽花は、とても綺麗な青色で咲いていた。ジオンが首を突っ込んだために、その横の生け垣の下部がスカスカになっている。もう、来ないよね、きっと。リゼロッテは、悲しくその穴を眺めた。
ふと、濃いピンクの何かが目に留まった。屈んでみると、小さく束ねてあるアルペンローゼ(注2)だった。小さな紙がついていて、汚い字で「ごめん」とだけ書かれていた。しかも、綴りが間違っている。
リゼロッテは、ジオンからの贈り物を抱きしめた。紫陽花の青い花が風に揺れて話しかけた。
「よかったね! リゼロッテ!」
彼女は、今日は見えていない優しいオルタンスに微笑んで、アルペンローゼを抱きしめたまま、館へと戻っていった。
(初出:2015年7月 書き下ろし)
(注1)ドイツ語圏ヨーロッパでは、クリスマスにサンタクロース(サン・ニクラウス、来るのは12月6日)は来ない。25日の朝にやって来るのは生まれたばかりのキリスト。ただし、20世紀初頭のグラウビュンデン州では現在のようにクリスマスの朝、樅の木の下にプレゼントが用意されているという習慣は浸透していなかった。
(注2)アルペンローゼ(アルプスの薔薇という意味)はツツジ科の灌木でアルプスの高地に咲く。エーデルワイス、エンツィアンとともに「アルプス三大名花」と呼ばれている。
【小説】リゼロッテと村の四季(2)山羊を連れた少年
今回もlimeさんの素敵なイラストを使わせていただいています。
(イラスト)妄想らくがき・雨なら飴の方が・・・
limeさん、どうもありがとうございます。
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リゼロッテと村の四季
(2)山羊を連れた少年
メエエ、メエエと鳴き声がした。リゼロッテは、窓に駆け寄って大きく開け放った。庭の向こうの小径を二十頭くらいの山羊が歩いているのが見えた。
ヘーファーマイアー嬢は、この村を歩き回る山羊が大嫌いだ。
「山羊のチーズほど臭いものはないと思っていましたが、もっと臭いものがあったのね。雄山羊が通ると、ずっと先でもわかる。おお、いやだ」
リゼロッテも、山羊のチーズは苦手だ。一度出てきて、ひと口食べて、残りには手を付けなかった。
「チーズを食べないと、健康にはなれませんよ、嬢ちゃま」
家事の一切を引き受けているカロリーネ・エグリは言ったが、ヘーファーマイアー嬢が「食べる必要はない」と言って皿を下げさせた。
それから山羊のチーズが出てくる事はなくなったのだが、そのチーズの源である山羊の行列にリゼロッテが興味を持つのには理由があった。
行列の一番前には、長ズボンを履いた若い青年が行く。カロリーネによると、この館に一番近い酪農家カドゥフ家の17歳になる次男でクルディンというらしい。行列の前になったり、後になったりして動き回る、落ち着きのない白い犬がチーロ、そして一番後からついていく半ズボンの少年がジオンだ。
先月、館の生け垣に頭をつっこんで、リゼロッテと話した、あの硬い髪の少年だ。紫陽花の精オルタンスやガラス玉おはじきの中に住む小さなグラッシィのような、本当にいるのかもはっきりしない友達しかいなかったリゼロッテの、たぶん最初の友達になってくれそうな少年だ。彼女は、通りを行くジオンに大きく手を振った。少年もそれに手を振って応える。
それが終わると、リゼロッテは、階下に降りて行った。応接間に置かれた大きないかめしい机の前に座って、ヘーファーマイアー嬢のいう通りに書き取りをしたり、計算をしたり、それから本を朗読したりしなくてはならない。
ジオンは、山羊とどこかへ行く。本も持っていないから、学校に行くようにも見えない。私も外に行きたいな、こんなにきもちよく晴れているのだもの。でも、ヘーファーマイアー嬢に言うと叱られる事がわかっているので、リゼロッテは大人しく勉強した。
昼食後、一時間ほどの自由時間がある。リゼロッテは、そっと台所に向かった。カロリーネが、せっせと床を磨いていた。
「あれ、どうしましたかね、嬢ちゃま。何かお探し物でも」
カロリーネのはとても聴き取りにくい発音で話す。はじめは、ヘーファーマイアー嬢の言いつけを破って、方言でリゼロッテに話しかけているのかと思っていたが、夫であるロルフ・エグリが樋の修理にやってきた時に二人で話していた言葉を聴いたら、まったく何を言っているのかわからなかった。それで、リゼロッテは、これまでのカロリーネが遣っていた言葉は、訛は強いけれど正規ドイツ語だったのだとようやくわかった。
「いいえ。探し物ではないの。訊きたい事があって」
「なんでしょう。訊いてくださいな」
「あのね。どうしてジオンは学校に行かないの? 私みたいに家庭教師に習っているの?」
リゼロッテの質問の意味を理解しようと、しばらく口をあんぐりと開けていたカロリーネは、それからあははと笑った。
「ジオンに家庭教師ですって? それは傑作な冗談だこと。いえいえ、嬢ちゃま、ジオンは学校に行きますよ。でも、それは冬の間だけですよ」
「え?」
「学校は、十月に始まって、復活祭でおしまいになるんですよ。そうじゃなかったら、夏の間、働けませんからね」
「働く?」
「もちろんですよ。ここでは、夏の間、みんな働くんですよ」
カロリーネは、ジオンは9歳だと言った。リゼロッテよりも二つ歳下だ。でも、リゼロッテは働いた事などない。そう言ったらカロリーネは大きく笑った。
「嬢ちゃまは生涯働く必要なんかないですよ。どこかのお金持ちの奥様になるんでしょうから」
でも、リゼロッテの母親は、医者だった。ドイツで医者の資格を取った女性はまだ五人くらいしかいない。母親は、その事を誇りに思うと言っていた。
「女でも、努力すればやりたい事を職業にできるのよ。医者だって、飛行機のパイロットだって」
でも、私はどんな職業に就きたいのかわからない。お父さんもヘーファーマイアーさんも、それにカロリーネも、私はお嫁さんになればいいって言うけれど、それでいいのかな。ジオンだって働いているのに。
リゼロッテは、考えながら自分の部屋に戻った。早く夕方にならないかな。ジオンがまたあの道を帰ってくるだろうから、また手を振ってみよう。
それから、不意に、先日もらったアルペンローゼのお礼をしようと思い立った。何かないかしら、ジオンにあげられるもの。リボン、お人形、だめだめ、そんなのいるはずはないわ……。
リゼロッテは、自分の宝箱をそっと開けた。中には色とりどりの丸いガラス玉が入っている。いつだったかお母さんがヴェネチアに行って買ってきてくれたムラノ島の手作りおはじきだ。
「こんにちは。リゼロッテ。今日は、もう遊べるの?」
明るい声がしたように思った。あ、グラッシィ! リゼロッテは、箱の中を覗き込んだ。
リゼロッテにしか見えない、それも、いつも見えるわけではない小さい友達。リゼロッテは、彼女をグラッシィと呼んでいる。おしゃまで、ケラケラと笑う、楽しい少女だ。

この画像の著作権はlimeさんにあります。二次使用についてはlimeさんの許可を取ってください。
「ううん、グラッシィ。まだ遊べないわ。すぐに、午後の授業が始まっちゃうもの。ねぇ、それより、あなたのガラス玉、少しもらってもいい?」
リゼロッテは、小さい友達に話しかけた。グラッシィは、首を傾げた。
「どうするつもり?」
「友達にわけてあげようと思うの」
「女の子?」
「ううん、男の子よ」
グラッシィは、つんとして首を振った。
「だめよ。男の子は、おはじき遊びなんかしないわよ。カエルやヘビにしか興味がないのよ。あたし、そんなところにはいかない」
リゼロッテは、項垂れた。ダメなの……。じゃあ、何をあげたらいいんだろう。わたしにはカエルやヘビは用意できないもの。
午後の授業は、なくなった。カールスルーエのカイルベルト氏とその夫人が、イタリア旅行の途上で訪ねてくることになったのだ。リゼロッテの父親はしばらくここに来ないのだから、わざわざ訪ねてこなくても良さそうなものだが、「そういうものではない」らしい。
リゼロッテは、父親の名代として応接室に座っていなくてはならないが、もちろん11歳で大人の応対などできるわけはないので、実際の会話はヘーファーマイアー嬢がする。かといって、あくびをしているわけにもいかない。
「いずれは立派な奥様になるために、こういう応対に慣れておくのはいいことです」
ヘーファーマイアー嬢は断言した。
カイルベルト氏は、リゼロッテの父親の遠縁に当たる裕福な商人で、柔らかい視線をした丁寧な紳士だが、華やかで美しいカイルベルト夫人は、とても口数が多い上、身振り手振りも口調も大袈裟だった。
「まあ、リゼロッテも本当に大きくなって。すっかり健康そうになりましたね。三年前に会った時は本当に痩せていて、顔色も悪かったから、とても心配したんですよ。でも、お医者様のお母さんがついているのに、いろいろと言うのもねぇ……あっ」
どうやら、ヘーファーマイアー嬢の表情から、リゼロッテに母親の話をするのはタブーだと氣がついたのだろう、それからよけいに内容のない言葉をたくさん使って騒いだが、リゼロッテは黙って下を向いていた。
「お前、リゼロッテにお土産を持ってきたのだろう」
カイルベルト氏が、助け舟を出した。それで夫人は、再びはしゃいで、荷物からとても綺麗な花柄の箱に入ったプラリネを取り出した。
「チューリヒのシュプリュングリィのものなんですのよ。私たちが帰る時にももう一度行って買って帰るつもりなんです。やはりプラリネはここでなくっちゃ」
箱の中に24個の一つひとつ形の違うプラリネが綺麗に並んでいる。カロリーネの持ってきたコーヒーを飲みながら、カイルベルト夫人は物欲しそうな目をした。ヘーファーマイアー嬢はリゼロッテに、箱をテーブルに置くように言い、それはお客様にも召し上がっていただけと言う意味だったので、リゼロッテはヘーファーマイアー嬢に箱を渡した。
「今は二つだけですよ」
ヘーファーマイアー嬢に言われたリゼロッテは、ピスタチオが載ったものと、クルミの載ったものを一つずつお皿にとり、残りのプラリネが自分から遠ざけられて、カイルベルト夫妻にどんどん食べられてしまうのを残念に思いながら見つめた。
プラリネを食べようと思ったその時に、不意にこれをジオンにあげようと思い立った。それで、大人たちに見られないように、そっとポケットにしまい、大人しく自分用に用意されたミルクを飲んで、それからしばらく退屈な会話に耳を傾けた。
夏の日暮れは遅く、八時半頃だ。「メエエ、メエエ」という鳴き声がしたので、リゼロッテは、また窓の方へと行ってみた。歩いてきたジオンが、何か合図をしている。リゼロッテは頷くと、そっと庭の生け垣の方へと向かった。
以前、彼が頭をつっこんだオルタンスの紫陽花の影になった繁みから、ジオンは再び顔を現わした。
「よう。いいもの見つけたから、持ってきたんだぜ」
リゼロッテは、またカエルなのかと身構えた。
「違うよ。カエルやヘビは嫌なんだろ。こっちさ」
そう言って彼が取り出したのは、エンツィアン(注1)だった。
「まあ、なんて綺麗な青なの!」
とても深い宝石のように濃いブルー。
「山の上じゃないと咲いていないんだぜ。すぐにしおれちゃうから、いますぐ水に漬けろよ、リロ」
少年は、大きな目を片方つむった。
「リロ?」
リゼロッテは、自分を指した。
「うん。だってリゼロッテって長いだろ。嫌か?」
「ううん、嫌じゃないけれど、変な感じ」
「すぐに慣れるさ」
ジオンは、もう勝手にそう呼ぶと決めているようだった。
「じゃ、またな」
そう言って、躙り出ようとする少年を、リゼロッテはあわてて止めた。
「待って。これ、渡そうと思ってたの。この間のアルペンローゼのお礼よ」
そういって先ほどのプラリネを出そうとポケットを探る。取り出してみると、それは少し溶け変形していて、あまり美味しそうには見えなかった。
「潰れちゃった……。ごめんね。また今度もっとちゃんとした形のを……」
再びポケットにしまおうとするリゼロッテの手から、ジオンは素早く一つ奪った。
「形なんて、どうでもいいよ! これ、食べていい?」
「ええ。もちろん。こんな潰れていてもいいなら、こっちも……」
言い終わる前に、一つのプラリネは、もうジオンの口の中に消えていた。目をキョロキョロさせた後、しばらく瞑って、溶けていくチョコレートのハーモニーを楽しんだ。
「ああ、うめぇ。プラリネを食べたのは、まだこれで二度目なんだぜ」
「もう一つは、食べないの?」
リゼロッテが残りのプラリネを差し出しながら訊くと、彼はしばらく至福をもたらすに違いない誘惑と戦っていたが、やがてそれをとってポケットにしまった。
「ドーラにやる」
「ドーラ?」
「俺の姉ちゃん。あいつも、プラリネ大好きだもの。俺だけ食べるのは不公平だ。じゃあな、ありがとう、リロ!」
リゼロッテは、にじりながら生け垣から消えていくジオンの姿をじっと見ていた。両親や、兄弟姉妹と楽しく食卓を囲む少年の姿を思い浮かべた。それからプラリネをとても喜ぶであろう、まだ見ぬドーラという女の子の姿を思い浮かべた。もしかしたら、彼女の秘密の友達、おしゃまなグラッシィと似ているのかなと思った。
(初出:2015年8月 書き下ろし)
(注1)エンツィアンは濃い青色をしたリンドウ科の草花でアルプスの高地に咲く。エーデルワイス、アルペンローゼとともに「アルプス三大名花」と呼ばれている。
【小説】リゼロッテと村の四季(3)教会学校へ
今回は新しいキャラクターがわんさか出てきます。でも、びっくりしないでください。重要なキャラはそんなにいませんので。視点は初登場のドーラです。ジオンの姉ですね。牧師夫人であるアナリース・チャルナーとその甥でもあるハンス=ユルク・スピーザーも初のお目見え。
リゼロッテの村の生活はこの辺りから少しずつ変わっていきます。
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リゼロッテと村の四季
(3)教会学校へ
ドーラ・カドゥフは、丁寧に髪を編んでから、日曜日用の晴れ着を戸棚から取り出して、注意深く袖を通した。彼女の持つ唯一のスカーフを形よく胸元で結ぶと、窓から顔を出した。そして、まだ泥だらけの服装のままの弟を見つけるとため息をついた。
「ジオン! 今すぐ用意をしないと、間に合わないわよ」
鶏の卵を抱えた少年は、彼女に目を向けるといつもと同じように「わかっているよ。すぐに」と言った。
彼らの家は、母屋の他に牛小屋と山羊小屋、そして鶏小屋がある。鶏に餌をやり卵を集めるのはかつてはドーラの仕事だったが、現在は弟のジオンが担当している。ドーラには、窯の火を絶やさないようにする役目と、泉から水を汲んでくる役目があった。それに彼女はジャガイモの皮を剥いて蒸かしたり、パンをこねるのも得意だ。もう12歳になるのだから、台所仕事の多くは母親の代わりに出来るようになっていた。
ドーラは頭の回転がよくハキハキした子どもで、どんなことでも親の手をかけずに上手にやってのける。一年中休みなく働く両親の代わりに、3歳年下の弟の面倒を看ることも忘れない。親たちは10時のミサに行けばいいのだが、ドーラとジオンは8時半からの教会学校に行かなくてはならない。
日曜日に仕事をすることは基本的に禁じられているので、牧畜農家を生業にしていない家の子どもたちはゆっくり起きだしてきてすぐに晴れ着を着て教会に向かうだけだ。一方、日曜日であっても動物の面倒を看ることと、牧草をひっくり返すことは例外的に許されているので、農家の子供たちには日曜日の朝もやることがあった。だが、子供のいる農家で教会から離れている所に住んでいるのはカドゥフ家だけなので、結局ドーラたちだけがいつも遅刻しそうになるのだった。私はいつもきちんと準備をしているのに、ジオンったらもう。
あわてて入ってきたジオンは、かろうじて汚れていない日曜日用の半ズボンとシャツを着用していたが、髪は乱れていて、頬には泥がついていた。ドーラはたらいの側に彼を連れて行き、白い布をそっと水でぬらしてから彼の顔を拭いてやり、それから靴の汚れも取ってやると、その手を引いて急ぎ足で家を出た。
カドゥフ家は、村の中心から少し離れたところにあった。小走りに牧草地を抜け、小径を途中まで歩いていると、横を馬車が通った。御しているのはロルフ・エグリだった。
「なんだ。お前たち、教会に行くところか?」
「ええ。もうどうやっても遅刻なの」
ドーラがいうと、ロルフは御者席を少し横にずれて「乗れ」という顔をした。
ジオンは首を伸ばして、馬車の中にリゼロッテが居るのをみつけると、「やあ」と言った。
「なんだ。お嬢さんを知っているのか」
ロルフが言うとジオンは大きく頷いた。
リゼロッテは、ジオンと、それから初めて逢うドーラに嬉しそうに微笑んで会釈をした。ドーラも笑って「こんにちは」と言うと、二人の子どもは御者席に飛び乗った。
リゼロッテが住んでいるのは、ジオンの家からさらに丘を登ったところにあるお屋敷だ。彼女は、これまで教会学校に来たことがなく、家庭教師のヘーファーマイアー嬢と一緒に朝早いミサに行くだけだった。家政を手伝っているカロリーネ・エグリと時々忍び込んで話をしているジオンから噂を聞くだけの村の子どもたちは、ドイツ人の令嬢がどんな子なのか興味津々だった。
長い茶色の髪の毛を形よく結んで、白いレースの襟のついた品のよい焦げ茶の天鵞絨のワンピースを身に着けた少女の優しげな笑顔は、ドーラにはとても好ましく思えた。今日はどういうわけでヘーファーマイアー嬢抜きで教会に向かっているのかわからないが、ドーラにはいい風向きに思えた。
ジオンの話では、お高くとまったところのないいい子で、村の子どもたちとも仲良くなりたがっているというのに、ヘーファーマイアー嬢が「まともなドイツ語も話せない野猿のような子どもたちと交際をするのは好ましくありません」と言っていたのだ。ドーラは、あの女のいない時に、さっさと自己紹介をしてあの子と仲良くなろうと思った。
8月のカンポ・ルドゥンツ村は、穏やかで美しい。盛夏は過ぎて、わずかに秋の訪れが感じられる。背が高くなったトウモロコシの濃い緑の葉の先は乾き枯れてきており、小麦の穂がいつの間にか黄金に輝くようになっていた。
それは、家族とともに牧草をひっくり返す作業をするときにいつも身に付けている赤い綿のスカーフが、いつの間にか色褪せていることに氣づいたことと似ていた。風は穏やかになり、日の長さも少しずつ短くなっていた。10月になれば学校が始まる。ドーラはまた一つ上の学年になることにときめいた。
ロルフは馬車を教会の前にぴったりと着けた。ジオンがまず飛び降りて、ドーラも降りている間に、後に回ってドアを開けた。その手助けを受けてリゼロッテが降りたのを確認したロルフは、帽子を持ちあげて言った。
「では、お嬢さん、ミサの時にはまたあっしも参りますんで」
「ありがとう、エグリさん」
リゼロッテの声を、ドーラは鈴のようだと思った。
馬車が言ってしまうと、リゼロッテはジオンとドーラの方を振り向いて、はにかんで笑った。ドーラはさっと手を出した。
「はじめまして。私、ドーラ・カドゥフよ」
「はじめまして。リゼロッテ・ハイトマンよ。お逢いできて嬉しいわ、ドーラ。ジオンのお姉さん、どんな女の子かいろいろと想像していたの」
「想像の女の子に、似ていた?」
「ええ、ほとんどそっくり。ジオンと似ているもの」
「あら。私は、この子みたいに、いつも泥だらけじゃないわよ」
ドーラが言うと、リゼロッテはクスッと笑った。
「ええ。そこだけ、想像と全く違ったわ」
それで、三人とも楽しく笑った。
「何をしているの、早くお入りなさい」
声に振り向くと、牧師夫人アナリース・チャルナーが牧師館の扉のところで呼んでいる。ドーラはリゼロッテに道を譲って言った。
「行かなきゃ。あ、それはそうと、プラリネのお礼を言っていなかったわね。どうもありがとう」
リゼロッテは、ニッコリと笑った。数週間前に、彼女はジオンに初めてのプレゼントとして二粒のプラリネを手渡したのだ。彼は二つとも食べてしまわないで、一つをドーラにあげたいと言った。それで、リゼロッテは彼女の存在を知ったのだ。
「どういたしまして。少し溶けてしまっていたけれど、食べられた?」
「もちろんよ。あまり嬉しくて夢見心地だったわ」
牧師館には既に村の子どもたちが揃っていた。一番前には8歳の泣き虫ルカ・ムッティを筆頭に6人の幼年組がいた。その次の列にはおしゃまなアネット・スピーザーやマルティン・ヘグナーなど10歳の子供たち、次の列にはアドリアン・ブッフリをはじめとする4人の11歳と12歳の子たちがいた。次の列はそれ以上の少し大きい子たちで最年長の14歳のマルグリット・カマティアスが奥に座っていた。一番後にアネットの兄であるハンス=ユルク・スピーザーが一人で座っていた。村の学齢に達した子どもたちは20人程度、決して教会に来ないモーザー家のマルクを除いて日曜日にはここに集まるのだった。
1年前に、ドーラとジオンの兄クルディンと、アドリアンの姉コリーナが堅信式を迎えて、大人の仲間入りをした。それから、コリーナは長いスカートで装い、クルディンは長ズボンを履くようになった。そして、子どもの集まる場所には一切顔を出すことはなくなった。学校の先生からの伝達をする役目や、教会での行事の中心になるのは当時12歳のハンス=ユルクになった。
他の同い年の子供もいたし、マルグリットは年長でもあったのだが、誰もそのことに異議を唱えるものはいなかった。
ハンス=ユルクは、ドーラとひとつしか違わないが、ずっと落ち着いている。聡明で誰に対しても分け隔てなく対峙するので、カンポ・ルドゥンツ村だけでなく、同じ学校に通うラシェンナ村の子どもたちからも信頼されてている。
チャルナー夫人に連れられて、ドーラたちと一緒にリゼロッテが入ってきたのを見て、子どもたちは騒ぎかけたが、ハンス=ユルクが「静かに」と言うと、すぐに大人しくなった。チャルナー夫人は満足げに頷いて、ドーラたちにハンス=ユルクの隣に座るように目で合図すると、リゼロッテを前に連れて行った。
「皆さんに紹介しましょうね。丘の上のハイトマンさんのお嬢さん、リゼロッテです。普段は家庭教師のヘーファーマイアーさんと早朝ミサにいらしていたのですが、彼女のお母さんが病に倒れたとの知らせで急遽ドイツにお帰りになったので、その間、皆さんと一緒にミサを受けることになりました。仲良くしてあげてくださいね」
拍手と歓声が聞こえた。
「すげえ服着てんな」
ルイジは天鵞絨を見たのは初めてで、やわらかく艶やかな襞に感嘆して大きな声を出した。リゼロッテは、そんな事を言われたのは初めてだったので、少し赤くなった。チャルナー夫人が少し睨んでから、リゼロッテをドーラの隣に連れて行った。
「わからないことがあったら、このドーラとハンス=ユルクに訊いてね。二人ともお願いね」
チャルナー夫人にいわれて二人は頷いた。リゼロッテは、ハンス=ユルクに小さく会釈した。彼も礼儀正しく頭を下げた。
チャルナー夫人は、一番前に戻っていき、「始めますよ」と言った。彼女は綺麗な正規ドイツ語を話した。単語によっては小さい子供たちも理解できるように方言による単語を交えて話したので、リゼロッテにとっては方言の単語を知るいい機会にもなった。
マルグリットは、チャルナー夫人に名指しされて新約聖書のルカの第10章、「善きサマリア人のたとえ」の箇所を朗読した。
するとその人は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った。「わたしの隣り人とは誰の事ですか」
イエスが答えて言われた。「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗たちが襲い、彼の衣をはぎ、殴りつけ、半殺しにして去って行った。
たまたまある祭司がその道を下って来た。彼を見ると,反対側を通って行ってしまった。
同じように一人のレビ人もその場所に来て、彼を見ると反対側を通って行ってしまった。
ところが、旅の途中のサマリア人が彼のところにやって来た。彼を見て氣の毒に思い、彼に近づいてその傷に油とぶどう酒を注いで包帯をしてやった。彼を自分の家畜に乗せて、宿屋に連れて行き介抱した。
次の日出発するとき、2デナリを取り出してそこの主人に渡して言った。『この人を見てやってください。費用が余計にかかったら、わたしが戻って来たときに払いますから』
さて、あなたは、この3人のうちのだれが、強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」
彼は言った。「その人にあわれみを示した者です」
するとイエスは彼に言った。「行って、同じようにしなさい」
マルグリットがどうにか朗読を終えると、チャルナー夫人は子供たちの顔を見回した。多くの子供たちは、「よくわからない」という顔をしていた。かなり滞った朗読のせいでもあったのだが、その他に知らない単語もたくさんあったからだろう。「レビ人」「サマリア人」と言われても、幼い子供たちには何の事だかわからない。
「サマリア人というのは、主の時代のユダヤでは、異端の信仰を持ち、つき合ってはならない人たちとされていたのです。レビ人というのは、ユダヤ人の中で祭司に関わる特別な部族として敬われていた人たちで、祭司はもちろんユダヤの聖職者ですから、強盗に襲われた人にとっては同国人、サマリア人は付き合いのなかった外国人だったのです」
チャルナー夫人が「外国人」と口にすると、多くの子供たちが振り返ってリゼロッテを見た。彼女は恥ずかしくなって下を向いた。
ドーラはそのリゼロッテを横目で見た。「善きサマリア人のたとえ」はもう習った事があったから知っていた。でも、以前は外国人と言われても具体的によくわからなかった。ドーラの父親、マティアスが時々「《金持ちのシュヴァブ》はいい氣なもんだ。働きもしないで美味いもんばかり食いやがって」と言っていたので、「ガイコクジン」とは、なんだか自分勝手で傲慢な人たちだと思っていたのだ。けれど、こうして横に並んでみると親切そうでいい友達になれそうな普通の女の子だ。
この子が強盗に襲われている図は、想像できないけれど、もしそうなっても私はもちろん助けて看病してあげる。ドーラは秘かに思った。私が強盗にあったら、この子は立ち止まって看病してくれるかな?
そう思って見つめていると、視線を感じたリゼロッテが振り向いた。それから、ドーラの方を見てニッコリと笑った。うん、きっと看病してくれる。ドーラは、嬉しくなった。
(初出:2016年4月 書き下ろし)
【小説】リゼロッテと村の四季(4)嵐の翌日
今回で、主要キャラクターは全部揃ったかな。今回はジオンやドーラが出ていません。その代わりに前回初登場したハンス=ユルクが再登場しています。
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リゼロッテと村の四季
(4)嵐の翌日
目が醒めて最初にすることは、窓辺に行き外を見ることだ。カンポ・ルドゥンツ村は、驚くほど晴天が多い。たとえ夜中に激しい雨が降っていても、目が醒めるとたいてい晴れ渡っているのだ。
リゼロッテは、この村の激しい雷雨に慣れてしまった。もちろんデュッセルドルフでも雷雨は経験した。今よりも小さい子供だった彼女は、びっくりして母親に抱きついて助けを求めた。
「リゼロッテ。何も怖いことはないのよ。あれはただの電氣なの。もし雷が直撃してもこの家には避雷針があるから、それを通って地面に電流は逃げていくのよ。それに光った時と音がした時が一緒ではないでしょう。それは雷が落ちた所が遠い証明なのよ。光の方が音より早く進むから」
医者であった母親は、とても論理的な話し方をした。
「どのくらい遠いの?」
「音がしてから何秒かかったによるのよ。10秒かかったなら3.5キロ以上離れていることになるわ」
この村に来てから、雷雨に怯えても飛び込んでいくことのできる母親も父親もリゼロッテの側にはいなかった。夜に同じ館で眠っていたのは、ずっとヘーファーマイアー嬢と番犬のディーノだけだった。ヘーファーマイアー嬢のベッドに駆け込むくらいなら、布団をかぶって耳を塞いでいる方がずっといい。三週間前に彼女が急遽デュッセルドルフに帰ってからは、家政を手伝っているエグリ夫妻が泊まり込んでいたが、彼らの部屋に飛んでいくこともなかった。
本当はもっと怖がってもおかしくなかった。雷はずっと近くに落ちるから。母親との記憶に従って計算すれば、この村で経験した一番近い雷は700メートルくらいの所に落ちたことになる。それになんてすごい雨なんだろう。屋根を激しく打つ大粒の雨。窓の外を滝のように流れていく。青白く光る稲妻と、すぐに聞こえてくる「バリバリッ」というものすごい音。リゼロッテは、山の天候が変わりやすいということを、身を以て体験した。
それなのに、泣いても怖がっても、お母さんはもういないんだと、冷静に思っている自分に驚いた。
「あいつは、お前を捨てて、男とともにアメリカに行ってしまったのだ。もうお母さんのことは忘れなさい」
父親に言われた言葉は、彼女の心にまだ突き刺さっている。そして、父親も一緒にここには住んでくれず、デュッセルドルフにいる。仕事があるから。
「嬢ちゃま」
ドアの外でノックに続いて、カロリーネ・エグリの声が聞こえた。
「なあに?」
「いや、雷が怖くありませんかね」
「大丈夫よ。あれはただの電氣なんでしょう」
カロリーネは、十一歳にしてはませた返事をする少女に驚いたらしいが、ドイツ人というのはこういうものなのだろうとひとり言を呟いてから、ホッとしたように言った。
「そうですか。安心しました。お休みなさいまし」
リゼロッテは、村の子供たちは泣いているのかもしれないと思った。ジオンは「雷なんてへっちゃらさ」と言いそう。でも、教会学校でめそめそしていたルカ・ムッティあたりは、お母さんのベッドへ駆け込んでいるのかもしれない。そんなことを考えているうちにうとうとして、目が醒めたらもう朝だった。
リゼロッテは、窓の外を眺めた。周りの樹々が雨の雫でキラキラと輝いている。そっと窓を開けると、風とともに湿った樹々の香りが室内に入り込んできた。世界がとりわけ美しく感じられる瞬間、彼女は昨夜ひとりでいることが寂しかったことも忘れて、この村で過ごす幸せを感じた。
部屋に用意された陶器製の大きい洗面器は、黒い金属製のどっしりとした枠におさまっている。大人ならば屈む必要のある高さだが、小柄なリゼロッテにはちょうど胸の位置に洗面器が来た。下の枠に入っている陶器の水差しから自分で水を注ぐのは重くて難しいので、前夜にカロリーネが入れておいてくれる。
リゼロッテは、顔を洗い、リネンのタオルできちんと拭うと鏡の前で髪を梳いて後にまとめた。リボンを綺麗に結ぶのは出来ないので、それだけはカロリーネにしてもらうのだ。用意されていたさっぱりとした普段着を身につけると、朝食をとるために階下へと降りて行った。
「おはようございます、嬢ちゃま。よく眠れましたか」
「お早う、カロリーネ。ぐっすり眠れたわ。外、とても綺麗ね」
「そうですね。後で一緒に散歩に行きましょうね」
リゼロッテは、嬉しそうに頷いた。ヘーファーマイアー嬢のいた時には、外が綺麗だろうと関係なく、いつも午前中は書斎で課題を解かなくてはならなかった。今は、代わりに週に3回ほど牧師夫人であるアナリース・チャルナーが通ってきてくれるのだが、その分リゼロッテはカロリーネとおしゃべりをしたり今まで行ったことのない村のあちこちに行くことが出来ているのだ。
はじめは2週間だけと言って帰っていったヘーファーマイアー嬢はもう3週間も戻ってきていなかった。リゼロッテは、そのことを全く残念に思っていなかった。
「嬢ちゃま。綺麗に召し上がりましたね。ミューズリーをもう少しいかがですか」
カロリーネは訊いた。この家にきたはじめの頃、リゼロッテは朝食を全て食べ終えることが出来なかった。デュッセルドルフにいた時には、ライ麦などの色の濃いパンと白い丸パン、ソーセージにハムとチーズがあり、さらにマーマレード、そして、卵料理が用意された。女中のウーテが温めた皿の上に載せた目玉焼きやオムレツを運んでくると、リゼロッテはそれが冷めないように他の何を置いても卵料理に取りかからなくてはならなかった。あまりお腹の空かないリゼロッテは、いつもそれでお腹いっぱいになってしまって好きなマーマレードを食べる余裕がなかった。
スイスでは、朝温かい料理を出す習慣がないのだそうだ。だから、リゼロッテの父親が滞在してわざわざ注文しない限り卵料理が出ない。その代わりにジャムのたっぷり入ったヨーグルト、何種類かのジャムや蜂蜜、それに薄く切ったチーズがテーブルに載っていた。どれも冷たい料理なので、リゼロッテは今日はこのジャム、明日は蜂蜜と食べたい味を試せるようになって嬉しかった。
ヘーファーマイアー嬢がドイツに帰ってからは、カロリーネがリゼロッテの食事について責任を持つことになった。彼女はヘーファーマイアー嬢がドイツらしさにこだわりすぎて、リゼロッテの嗜好や健康状態を無視していることを快く思っていなかったので、任されてからは自分の三人の子供たちを育てた経験と勘に従って彼女にスイス式の食事を用意してやった。そして、リゼロッテはついに自分の前に用意された朝食を全て平らげたのだ。
「ありがとう、カロリーネ。でも、もうお腹いっぱいだわ。この後、本当にお散歩に行けるの?」
リゼロッテは期待に満ちて訊いた。カロリーネは笑った。
「おやまあ。それをお待ちでしたか。じゃあ、ここを片付けたらすぐに参りましょうね」
ディーノは散歩に連れて行ってもらえるのが嬉しいようだった。短い尻尾をしきりに振りながら門の前をぐるぐる回った。この犬は、
ヘーファーマイアー嬢と違い、カロリーネもロルフも、犬と触れ合うことが教育によくない、もしくは不潔で危険だという発想を持たなかったので、リゼロッテは心ゆくまでディーノをなでたり、散歩で一緒に駈けたりできるようになった。ジォンが茶色い小さな犬と楽しく触れ合っているのを見て心から羨ましく思っていた彼女は、ようやく夢の一つが叶ったと感じていた。
ディーノの首紐を握ってもいいと初めての許可をもらったリゼロッテは有頂天だった。ディーノも仲良くなったリゼロッテと遊べることが嬉しいらしく、大きく尻尾を振りながら張り切って道に躍り出た。
真っ青な空が眩しい素敵な朝だった。濃い緑の木々が穏やかに葉を鳴らす。昨夜の嵐の名残である水分をたっぷりと含んだ風を送り出す。リゼロッテは、小高い丘の上にある屋敷から転がるように走り下るディーノを追うような形で、森の合間を流れるライン河沿いの道へと向かった。
カロリーネは、いつものようにのんびりと後から歩いてくる。途中で出会った近所の夫人たちと挨拶を始めるのだが、そこからがいつも長くなってしまうのだ。リゼロッテは、待つよりもディーノと少し先まで進み、また時々戻ってくることを好んだ。
ライン河といっても、この辺りはまだ上流に近くたいした川幅ではない。嵐の翌日は水量が多く轟々と音を立てている。水もいつもの青灰色ではなくてヘーゼルナッツペーストのような茶色だ。時おり魚がぴしゃんと音を立てて跳ね上がる。なんて楽しいんだろう。こんな素敵な朝、書斎に籠もって勉強ばかりしているなんてつまらない。
「あ!」
道を横切ったのはふわふわの尻尾を持った茶色いリスだった。ディーノは大喜びでリスを追いだした。
「だめよ、ディーノ!」
あまりの急突進で、思わず革紐から手を離してしまった。リスを追って犬は森の中に入っていく。カロリーネがまだ近くにいないことを見て取ったリゼロッテは、ディーノを追わないと見失うと思い、いつもは行かない森の中に足を踏み入れた。
下草は濡れていた。絹の靴下を通してひやりとする感触が広がる。
「ディーノ! 待って!」
リスはあっという間に木に登って逃げてしまったので、犬はその木の下で吠えていた。リゼロッテは革紐をしっかりとつかむと、ほっとして大きく息をした。
「ディーノ。もう。こんなに濡れちゃったわ。早く戻りましょう」
そう言った途端、ディーノの先、もう少し先を歩けば、いつも通る橋があることに氣がついた。
「まあ。ここは近道だったのね。じゃあ、そっちに行きましょう」
彼女は、橋の前にやってきた。端を渡ろうとすると、向こうにいた何人かの少年たちが「おい!」と叫んできた。
河はとても大きな音を立てて流れていたので、リゼロッテは渡ってはいけないのかと思い、ディーノを引っ張って止めた。
その少年たちは、日曜学校で見かけた少年たちではなくて、一度も見たことがない。見ると、一人の少年が石を拾ってこちらに投げようとしだした。リゼロッテはショックを受けた。まだ何もしていないのに。その時、リゼロッテの後ろから、誰かが走って追い越すと橋を渡りだした。
それは、やはりリゼロッテの知らない少年だった。その少年も石を持っていて、向こうの少年たちに向かって投げつけていた。ディーノは興奮して争う少年たちに吠えかけている。
リゼロッテを追い越した少年は、向こう岸の少年たちよりも背が高く力もありそうだった。少年たちは反撃に必死だった。リゼロッテはディーノを止めるのに必死になりながら、どうしようかと途方に暮れた。
「やめたまえ!」
また後ろから声がして、別の少年がやってきた。
「あ」
今度はリゼロッテの知っている少年だった。教会学校で紹介された時、チャルナー牧師夫人が「わからないことがあったら訊いてね」と言ったあの背の高いハンス=ユルク・スピーザーだ。
彼は落ち着いて橋を渡り、乱闘中の少年たちに近づいた。
「ち。スピーザーだ」
少年たちは喧嘩をやめた。
「何をしている」
ハンス=ユルクが背の高い少年と、向こう側の少年たちの間に立つと冷静に質問した。小さい少年たちは、口々に訴えだした。
「僕たちが始めたんじゃないぞ。こいつが先に石を握って襲ってきたんだ」
「それに、そもそもそいつが、俺たちの村の秘密基地に入り込んで荒らしたんだ。だから文句を言いに来ただけなのに」
背の高い少年は何も言わずに立っていた。ハンス=ユルクは、背の高い少年を振り向いて訊いた。
「本当なのか、マルク」
「俺は、悪口を言った生意氣なガキどもをちょっと懲らしめただけだ。お前には関係ないだろう。裁判官みたいな顔すんなよ」
マルクと呼ばれた少年は、憎々しげにハンス=ユルクを睨むと、また橋を渡ってこちら側へ走り、リゼロッテの脇を通って森へと入っていってしまった。
「畜生! 逃げられた!」
少年たちが口々に叫ぶと、ハンス=ユルクは「やめなさい」と言った。
「でも……」
「挑発には乗るな。石を投げるような喧嘩はだめだ」
冷静に諭されて、小さい少年たちは少しだけ反省したようだった。
「なんでイェーニッシュの味方をするんだよ。あいつがカンポ・ルドゥンツに住んでいるからか」
一番血氣盛んな少年がハンス=ユルクに食いかかったが、彼は首を振った。
「どこの村に住んでいるかは関係ない。そんな喧嘩の仕方は、時にとんでもない事故に繋がる。見過ごすことはできないよ。基地を荒らされた件は氣の毒だけれど、もし盗難があったなら、ちゃんと親を通して問題をはっきりさせるべきだ。それにこんな河の増水している時に、橋で喧嘩するのもやめた方がいい。三年前に、この橋が流されたのを忘れたのか」
ハンス=ユルクの意見をもっともだと思ったのか、小さい少年たちはブツブツ言いながらも、向こうへと去って行った。ハンス=ユルクは、橋を渡って戻ってくると、リゼロッテに手を上げて挨拶した。「やあ」
「おはよう。どうなるかと思って心配していたわ。喧嘩の仲裁に来たの?」
リゼロッテは、訊いた。
「いや。僕は、その先でカロリーネに逢ったんだ。君と犬の姿が見えないからって心配していたんで、二手に別れて探しに来たんだよ」
リゼロッテは驚いて顔を赤らめた。
「まあ。ありがとう。ディーノがリスを追いかけて違う道に来てしまったの。すぐに帰ればよかったわ」
「大丈夫さ。ほら、あちらからカロリーネがやってくる。でも、喧嘩に巻き込まれないでよかったよ」
リゼロッテはハンス=ユルクに促されて、一緒にカロリーネの方へと歩き出した。
「さっきの人たちは?」
「あの少年たちはサリスブリュッケの子供たちだよ。喧嘩していたのは、カンポ・ルドゥンツに住んでいるマルク・モーザーだ」
「まあ。嬢ちゃま、心配しましたよ。どこにいらしたんですか」
「ごめんなさい。ディーノが、そこの森を突っ切ってしまったの。急いで戻るべきだったのに、喧嘩があって……」
「ああ、すれ違いましたよ。モーザーがまた……。本当に困った子だこと」
カロリーネは眉をひそめて、マルクが去った方向を眺めた。またってことはしょっちゅうなのかな……。リゼロッテは考えた。カンポ・ルドゥンツ村の子供だというのに、教会学校にも来ていなかったなと思った。
(初出:2018年7月 書き下ろし)
【小説】リゼロッテと村の四季(5)ハイトマン氏、決断を迫られる
今回は、前回の話のすぐ後になります。リゼロッテは、面倒を見てくれているカロリーネと愛犬とともに、散歩に行っていました。
![]() | 「リゼロッテと村の四季」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
リゼロッテと村の四季
(5)ハイトマン氏、決断を迫られる
リゼロッテとカロリーネが散歩から戻ると、ロルフが、玄関先でじれったそうに待っていた。
「あら、あんた。どうしたの?」
カロリーネは、夫に問いかけた。
「ああ、ようやく帰ってきたか。何、お前たちが出かけてすぐに、ハイトマンの旦那様から電報がきたんだよ。今日の昼前にお見えになるって。正確な時間はわからんが、もうそろそろつくんじゃないかな。それに、牧師夫人にもお越しいただきたいそうで、そちらは連絡をしてきた。お嬢さん、今のうちにお召し替えをしてくだせえ。カロリーネ、悪いけれど、急いで用意をしてくれ。あっしは納屋につけてある馬車をうちの方に動かしてくる。旦那様の馬車を停める場所を作らねば」
リゼロッテは、喜んで階段を駆け上がった。洋服の着替えは、カロリーネの手伝いなしに自分でほとんど出来る。家庭教師のヘーファーマイアー嬢がいないので、多少の服装の乱れを厳しく指摘する人はいない。
彼女がスイスに静養に来てから、父親は二ヶ月に一度は会いに来てくれていたが、先月は急に来られなくなったと連絡があり、三ヶ月ほど会っていなかった。
アナリース・チャルナー牧師夫人は、毎週日曜日の教会学校で聖書の話をしてくれる。リゼロッテのために方言の混じらないはっきりしたドイツ語で話してくれる優しい女性だ。ヘーファーマイアー嬢が、スイスの汚い方言がうつると困ると言って、可能な限りリゼロッテにスイス人と話をしないように制限していたため、彼女は未だに村の人たちの会話が上手く聞き取れなかった。
毎週日曜日もヘーファーマイアー嬢と早朝ミサに出かけるだけで、同じような歳の子供たちと知り合うきっかけもなかったのをリゼロッテはとても残念に思っていたが、身内の病の報せでヘーファーマイアー嬢がドイツに戻って以来、彼女が戻るまでの期間限定で教会学校に連れいてってもらうことになった。
教会学校では、既に友人だったジオンやその姉のドーラをはじめ、村のほとんど全ての子供たちと知り合うことが出来た。まだ馴染んだとは言いがたいが、少なくとも大人だけに囲まれてこの館で寂しくしていた頃より、日曜日がずっと待ち遠しくなっていた。
チャルナー夫人は、それだけでなく週に三日ほど午前中にやってきて、ヘーファーマイアー嬢の代わりにリゼロッテの勉強を見てくれていた。
いつもなら昼食が出る頃になっても、ドイツ人は到着しなかったので、カロリーネは昼食を始めようか、それともハイトマン氏を待つべきか、そわそわしながら考えていた。とにかく食器をきちんとテーブルに用意して、リゼロッテにテーブルにつくように話している所、表に馬の蹄と車輪の音が聞こえてきた。
リゼロッテは、ぱっと席を立って玄関に向かって駆けだした。ロルフが、荷物を持って誰かを案内している。甲高い女性の声が聞こえた。
「氣を付けて持ってくださいな! まあ、考えられないわ。玄関まで車で着くと思ったのに、あんなほこりっぽい道で降ろされるなんて!」
ドアが開くと、いつもの旅行着姿の父親が目に飛び込んできた。
「お父様!」
リゼロッテは、駆け寄った。
「おお、僕の可愛いお嬢さん! また背が伸びたかな」
父親は、リゼロッテを抱き上げて優しくキスをした。
降ろされてから、リゼロッテは入ってきた女性を不思議そうに見た。今まで一度も見たことのなかった人だ。
「ふーん。じゃあ、この子があなたの娘なのね」
大きく膨らんだ袖と、腰のところがぐっとくびれた鮮やかな黄色のドレスを着ている。大きく傾げて被っている帽子にはリゼロッテの頭ほどある駝鳥の羽がついていて、半分しか顔が見えなかったが、ものすごく綺麗な人だということはすぐにわかった。
「ああ、そうだよ。リゼロッテだ。リゼロッテ、こちらは私の友人のドロレス・ラングさんだ。挨拶をしなさい」
ハイトマン氏は、リゼロッテを女性の前に移動させた。
「はじめまして、ラングさん。お目にかかれて嬉しいです」
リゼロッテは、はにかみながら言った。
「あら、本当に会えて嬉しいのかしら。私、お世辞はたくさんだわ」
「君は、讃辞を耳にしすぎているからね。でも、娘を困らせないでくれ。ほんの子供なんだから」
その言葉を聞くと、ドロレスは艶やかな笑顔をハイトマン氏に向けた。
それから、リゼロッテをほとんど無視して、さっさと奥へと入っていった。
「ああ、本当に疲れたわ。今時、馬車なんて考えもしなかった。さあ、部屋に案内してちょうだい」
「そうだね。この州は一般の自動車の乗り入れが禁止されているんだ。でも、田舎の自然を満喫できただろう?」
ハイトマン氏は、ラング嬢の後にぴったりとついて、階段を上がっていった。
重い荷物を持たされているロルフと、食事が冷えるのを心配していたカロリーネは、思わず顔を見合わせた。リゼロッテは、取り残されたような心持ちになって、少し俯いた。
いつもよりも一時間近く遅れて始まった昼食で、リゼロッテはほとんど黙っていた。父親は、彼女を無視しているわけではないのだが、ドロレス・ラング嬢がドラマティックな様子であれこれ語るのに相づちを打つのが忙しく、三ヶ月分の娘の近況を訊きだす時間はほとんどなかったのだ。
「それで、プロデューサーにはこう言ったの。次の舞台は、もう少し悲劇を強調したものにして欲しいって。歌ったり踊ったりが嫌ってわけじゃないの。でも、コミカルな役がこれで三回も続いたんですもの、それしか出来ないって聴衆に思われたら困るわ」
リゼロッテは、この派手な女性がどんな職業を持っているのか、ようやく理解した。女優なのだ。そういえば名前も耳にしたことがあった。
それは、デュッセルドルフの屋敷でだった。リゼロッテが静養のためにこのカンポ・ルドゥンツ村へ連れてこられる少し前のこと、屋敷の召使いたちがこそこそと話しているのを聞いたのだ。
「じゃあ、あれは本当なんだね。……その旦那様が、一緒にお出かけになっているのは、あのアポロ座の看板女優だってのは」
「ええ、そうよ。私も始めは信じられなかったけれど、お花を届ける用事で名前を見たんだもの。間違いなくドロレス・ラングだったわ。あんな派手な女性と付き合うなんて、いつもの旦那様らしくないと思ったけれど、インテリな女性は奥様で懲りたのかしらね」
医者であったリゼロッテの母親が、男性医師とアメリカへ駆け落ちしたのは、一年と少し前のことだった。その時は、妻の不貞と責任放棄を激しくなじり、リゼロッテにもう母親だと思うなとまで言っていた父親が、それからすぐに女優と付き合うなんて、全く馬鹿げたことのように響いた。召使いたちは、無責任に真偽のわからぬ噂話をしているのだと自分を納得させていた。
けれども、その噂の女性が目の前に座り、父親と見つめ合っては意味ありげな微笑みを繰り返している。リゼロッテは、自分だけ一人取り残されていると感じた。
食後はサロンに移動させられた。父親とラング嬢は、あいかわらずリゼロッテには何のことかわからない話題に夢中になりながら、コーヒーを飲んでいた。リゼロッテは、黙って座り、窓の外の庭を眺めていた。
彼女の空想の友達、紫陽花の花の中に住む小さなオルタンスの姿が、ここから見えないだろうかと首を伸ばしている時に、カロリーネが入ってきて、声をかけた。
「旦那様。牧師館からチャルナー夫人がお見えになりました」
「ああ、リゼロッテの勉強を見てくれている先生だね。どうぞここにお通しして」
父親は、ラング嬢の側からぱっと立ち上がると、リゼロッテにも立つように目で示した。
チャルナー夫人は、静かに入ってきた。ラング嬢は、入ってきた夫人を見た。後ろで慎ましく結った髪や、飾り全くない焦げ茶の服を上から下まで品定めすると、ほんの少し優越感を顔に見せてから興味なさそうに顔を背けた。
「ごきげんよう、チャルナー夫人。確か、この家を買う時に一度村役場でお目にかかりましたよね」
父親が、心を込めて挨拶をすると、チャルナー夫人はリゼロッテがほっとする優しい笑顔を見せてハキハキと答えた。
「はい、ハイトマンさん。お久しぶりでございます」
「家庭教師のヘーファーマイアー嬢がいない間の娘の教育のことで、お力添えをいただけて大変感謝しています。今日は、これまでの経過と、これからのことについてご相談に参った次第です」
「ヘーファーマイアーさんは、お母様のお見舞いでドイツに戻られたと伺いました。心配していましたが、その後どうなさったのでしょうか」
父親は、眉を少しひそめて答えた。
「それがあまりよくないらしいのです。命に別状はないらしいのですが、どうやら寝たきりに近い状態でいるらしく、年の若い妹や弟の世話をする人が必要なようです。それで、彼女は退職を願い出ました。代わりの家庭教師を探しているのですが、急な上、場所がスイスの山の中というので、簡単には見つからないのです」
「まあ。そうですか」
「それで、今日は、もし可能ならば、あなたに正式に娘の家庭教師になっていただけないか、伺いたいと思ったのです。聞く所によると、あなたはチューリヒの教師セミナーを大変優秀な成績で卒業なさったということですし、ドイツ語の発音も素晴らしい。この州の全てを探してもあなた以上の教師は見つからないと思ったのです」
ハイトマン氏は、たたみかけるように話した。チャルナー夫人は、わずかに目を見開いて、不安そうなリゼロッテに少し微笑みかけてから、ハイトマン氏にはっきりした声で答えた。
「私を教師として採用するかどうかという話の前に、お嬢さんの境遇について、今後どうなさるおつもりかお考えをお聞かせいただけませんか」
「というと?」
「お嬢さんは、ここにいらした始めの頃に比べると、ずっと健康になってきたように見えます。カロリーネとロルフ・エグリ夫妻は、何人も子供を育てた立派な夫婦ですが、家族とは違います。そろそろお嬢さんをデュッセルドルフのお屋敷に戻すことを、お医者さまに相談してみたらいかがでしょうか」
リゼロッテは、息を飲んで父親の顔を見た。彼は、チャルナー夫人とリゼロッテ、それから、不服そうな顔でチャルナー夫人を見ているラング嬢を見てから、戸惑いつつ答えた。
「そうですね。もちろん、そうするのが一番いいように思います。ただ、私自身が商用で家を空けることが多く、側にほとんどいられない上、デュッセルドルフには現在、家政をきちんと取り仕切る歳のいった使用人がいないのです。また、近くに工場があって、その空氣がよくないと医者に言われてここに連れてきたわけでして……」
その答えに、女優は、あからさまにほっとした顔をしていた。それを見てチャルナー夫人は、意を決して口を開いた。
「失礼を承知ではっきり申し上げます。お嬢さんに必要なのは、きれいな空氣だけではありません。それに、学ぶ必要があるのも、正確なドイツ語の発音や、文学や、算数などだけでもないのです。お嬢さんを、家族も友達もいない、社会のつながりのほとんどいない状態に置いておくのは感心しません。ハイトマンさん、私から一つ提案をさせていただいていいでしょうか」
彼は、半ば怒ったような、そして半ば恥じた様子で、チャルナー夫人の方に向き直った。
「なんでしょうか」
「お嬢さんの教育と健康を、この土地と私に託したいというお考えならば、いっそのこと私たちの、このカンポ・ルドゥンツ村のやり方に完全に任せていただけないでしょうか」
「とおっしゃると?」
「この家に籠もって、家庭教師にだけ習い、誰とも付き合わないのでは、この土地にいる意味がありません。私は、お嬢さんをこの村の学校に通わせていただきたいと思います」
ハイトマン氏は、ぎょっとして立ち上がった。
「なんですって。この村の学校? あの農家の子供たちと一緒にですか?」
「そうです。何か不都合がおありですか。粗野で、無学で、みにくい方言を話す子供たちと一緒に、とおっしゃりたいのですか?」
「いや、そこまでは言っていませんが……」
「この私も、この村の学校で勉強を始めました。バーゼル大学を卒業した夫のチャルナー牧師もです」
チャルナー夫人は静かだが凜とした表情で、リゼロッテとその父親の顔を見つめた。
彼は、なおも言った。
「だが、この村の学校は、確か一年のうち半年ほどしか開いていないというではないですか。それでは、家庭教師についている他の子供たちに遅れをとってしまう」
「長い休みの間は、この三週間にしたように、私が見ましょう。上の学校を目指す生徒たちは、休みの期間も週に二回、指導を受けています。お嬢さんも、そちらで勉強を続ければいいのではないでしょうか」
チャルナー夫人は、静かに言った。
リゼロッテは、意外な成り行きに、目を輝かせて話を聞いていた。学校に行く! そうしたら、ジオンやドーラたちと、一緒に登校したり授業をうけたり出来るのだ。
女優のラング嬢が、すっと立ち上がると、ハイトマン氏の近くへ来て耳打ちするように言った。
「悪くない話だと思うわ。どちらにしても、今、家庭教師が見つからないんだから、しばらく学校でに通わせて様子を見たらいいんじゃない。ほら、この子も喜んでいるみたいだし」
父親は、リゼロッテの顔をのぞき込んだ。
「お前、学校に行ってみたいのか?」
「ええ、お父様。私、他の子供たちと一緒に、学校に行きたいわ」
「知らない乱暴な男の子たちがいるかもしれないぞ。ほら、例の蛙を持ってきた子みたいに」
リゼロッテはクスクス笑った。
「ジオンとは仲のいい友達になったのよ。心配しなくても大丈夫よ、お父様。だって、教会学校でもう知り合ったもの。乱暴だったり、意地悪な子なんていないわ」
リゼロッテの心は、早くも学校に通う秋へと向かっていた。
(初出:2018年12月 書き下ろし)