ファインダーの向こうに あらすじと登場人物
【あらすじ】
コンプレックスと折り合えないまま、ニューヨークで仕事に生きる一人の女性が、偶然撮った写真をきっかけに少しずつ変わっていく。
【登場人物】
◆ジョルジア・カペッリ
ニューヨーク在住の写真家で《アルファ・フォト・プレス》の専属。子供の笑顔をモチーフにした写真は、近年かなりの好評価を得ている。絶世の美女と世間では認識されている妹と瓜二つだが、ブルネットのショートヘア、ノーメイクにジーンズとTシャツという構わないいでたちでいるので、著名なダンジェロ兄妹の家族である事実はほとんど知られていない。大きな身体的コンプレックスがあるために屈折している。
◆ベンジャミン(ベン)・ハドソン
《アルファ・フォト・プレス》の敏腕編集者。新人の頃にはじめて担当になって以来付き合いが長いので、人付き合いの苦手なジョルジアの代わりに折衝関係を一手に引き受けている。
◆ジョセフ・クロンカイト
CNNの解説委員でもある有名ジャーナリスト。ジャーナリズム・スクールの講師でもある。TOM-Fさんの『天文部シリーズ』のキャラクター。
◆アレッサンドラ・ダンジェロ
本名 アレッサンドラ・カペッリ。ジョルジアの妹。欠点のない美貌と長い手足が武器のトップモデル。艶やかでゴージャス、豊かな金髪が印象的なため「今もっとも美しいブロンドの女神」と言われているが本当はブルネット。二度の離婚の後、現在はヨーロッパのとある貴公子とつき合っている。
◆マッテオ・ダンジェロ
本名 マッテオ・カペッリ。ジョルジアとアレッサンドラの兄。健康食品の販売で成功した実業家。アレッサンドラの兄であることから、芸能・セレブ関係のゴシップ誌の常連。甘いマスクとセクシーな声をビジネスにも恋愛にもフル活用する。
◆キャシー
もと《Cherry & Cherry》のウェイトレス。有色系。結婚・出産後、ロングビーチの《Sunrise Diner》で働いている。娘の名前はアリシア=ミホ。
◆春日綾乃
ジョセフ・クロンカイトの教え子である日本人の美少女。TOM-Fさんの『天文部シリーズ』のヒロイン
【用語解説】
◆《アルファ・フォト・プレス》
ニューヨーク、ロングアイランドにある規模の小さい出版社
◆《Sunrise Diner》
ニューヨーク、ロングビーチにある大衆食堂。
この作品はフィクションです。実在の人物、建物、団体などとは関係ありません。
【関連作品】
「マンハッタンの日本人」シリーズ
パリでお前と
【予告動画】
【小説】ファインダーの向こうに(1)ロングビーチの写真家
そう、これは例の「マンハッタンの日本人」シリーズと同じニューヨークが舞台の話です。でも、「マンハッタンの日本人」のストーリーとは、全く関係ありません。あちらを読んだ事のない方、読む必要はありません。読んだ事のある方は、別の楽しみ方ができるかも。今回、あっちでおなじみのあの人が登場します。
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ファインダーの向こうに
(1)ロングビーチの写真家
ジョルジア・カペッリは《アルファ・フォト・プレス》に使わせてもらっている暗室で、作業をしていた。自宅に完全暗室を用意するとなると、スペースでも設備面でも限界がある。会社の専属フォトグラファーとして、ここを自由に使わせるにあたって社長がジョルジアに出した条件はたったひとつだった。ここを使う時には、できる限り会社にも顔を出すこと。
彼女は、人付き合いが苦手で、黙っていると二ヶ月も会社に来ない。この暗室を使いはじめてからは、渋々だが三回に一度は編集室にやってきて、担当編集者であるベンジャミン・ハドソンとわずかに言葉を交わしてから帰っていく。彼女は、打ち合わせよりも、写真を撮り、納得がいくまで時間をかけて現像することを好んだ。
以前は、彼女を特別扱いしていると批判的な編集者や他の専属写真家もいたが、決められた撮影には期待以上の成果を出す上、四ヶ月ほど前に出版した最新の写真集『太陽の子供たち』の売り上げが伸びているので、彼女は雑音に悩まされることがなくなっている。
現像液のバットに慣れた手つきで落とした印画紙を、トングで持ち上げ表を上に向けた。バットの縁を揺らして穏やかに波だたせ、液が緩やかに循環するのを見つめる。次第に赤ん坊の笑顔が浮かび上がる。ほっとした。あの輝きを撮れていたんだ。
ロングアイランドのナッソー郡にあるとはいえ、クイーンズとの境界のすぐ側の海岸を臨む好立地に、大衆食堂《Sunrise Diner》はある。新鮮なシーフードが美味しいので、ジョルジアが好んで行く店だ。二ヶ月ほど前に撮影旅行から戻ったら、しばらく改装のため休業していたのが新装開店していた。
驚いたことに、以前よりも掃除が行き届き、明るくて居心地のいい店になっていた。そして、新しいスタッフがいた。
「キャシーっていいます。ここの新しいオーナーが持っていた別の店で働いていたことがあるんです。それで、ここの新装オープンから勤めることになりました」
彼女はハキハキとして氣が利いたので、ジョルジアはこの店にもっと足繁く通うことになった。最近、朝食はほとんどこの店でとっている。それから、もう一区画先にある《アルファ・フォト・プレス》に顔を出す。
この日、《Sunrise Diner》に、いつものように朝食に行くと、キャシーが赤ん坊をあやしていた。
「あなたの赤ちゃんなの?」
「ええ。普段は仕事の間は義父母が看ていてくれるんですが、旅行に行っちゃったんです」
「女の子? 6ヶ月くらいかしら」
「ええ。よくわかりますね。アリシア=ミホっていうんです」
「ミホ?」
聞いたことのない名前だったので訊き返した。二人の肌の色から、アフリカかどこかの名前なのかと思った。
「友達の名前なんです。日本人なんですよ」
赤ん坊は、ジョルジアを見てキャッキャと笑った。可愛くて、夢中でシャッターを切った。彼女がメインで使っているNIKONだ。
キャシーは、我が子に対する愛情には溢れているものの、忙しい仕事の合間にあやすことがたびたびになると、時おり苛ついた様相も見せた。ジョルジアは、キャシーのいつもとは違う顔を観察した。
そして、思いついたように、もう一つのカメラも向けた。ILFORD PAN Fのモノクロフィルムが入っている。そう、彼女の心をとらえているある写真を撮って以来、必ず携帯するようになったライカだ。
会社には顔を出さずにすぐに暗室に向かった。カラーのフィルムよりも、モノクロームの出来が氣になった。ジョルジアが仕事で使うのはいつもカラーフィルムだった。写真集でもできるだけ明るく華やかな色で子供の笑顔の明るさを表現し続けてきた。だが、モノクロームの明暗の中に現れる世界は全く違う。光と影のコントラストが、そしてその中間の微妙な陰影が、これまで彼女が表現してこなかったものを映し出している。それは、客観的な子供の明るさではなく、それを観ているジョルジア自身の視線だ。
顔を上げて光のささない壁を見た。普段からほとんど電灯をつけず、彼女以外が入ることもほとんどないこの部屋の一番奥に、一枚のモノクローム写真が貼ってある。秋の柔らかい光の中に佇む男性の横顔。
ジョルジアは、意識を手元の作業に戻すと、後片付けを始めた。アリシア=ミホの写真のできばえには満足だった。ふと、何か大切な事を忘れていたように感じた。そして、11時30分を過ぎていることを知り慌てた。マンハッタンへ行かなくてはならないのだ。
ニューヨークへ出てきているアレッサンドラとの昼食。近代美術館MoMAのエントランスの横にある「ザ・モダン」の「バー・ルーム」で12時に待ち合わせをした。完全に遅刻だ。
【小説】ファインダーの向こうに(2)昼食 -1-
このアレッサンドラの芸名のダンジェロは、カペッリ同様ごく普通のイタリア系の苗字ですが、じつは駄洒落で付けました。「capelli d'angelo カペッリ・ダンジェロ(天使の髪の毛)」というのは、直径1ミリ以下の極細パスタの事なんです。
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ファインダーの向こうに
(2)昼食 -1-
アレッサンドラ・ダンジェロはどこにいてもすぐにわかる。人びとが頷きあいながら、「ねぇ、本物よね」と囁きあっている。オレンジのカトレアのプリントされた白いワンピースは大きく胸元が開いている。目立つとわかっているのに、休みの日でもゴージャスな服装でしか表に出ない彼女は、かなり挑発的な性格だと言っていい。よく雑誌で書かれている「世界一の美女」というキャッチフレーズは眉唾だし、本当はブルネットなので「今もっとも美しいブロンドの女神」の称号は虚偽ですらあるが、「世界でもっとも稼ぐスーパーモデル五人のうちの一人」は事実だ。豊かな金髪とほんのりよく焼けた肌、すらりとした長い手足。目立たないわけはない。
ジョルジアが大股で入ってきて、彼女の前に座った。
「ハイ、アレッサンドラ」
「遅かったじゃない。かなり飲んじゃったわよ」
テーブルの上に、シャンパングラスが二つとワインクーラーのボトルが見えた。グラン・キュヴェ……。ハーフでも私の普段のランチの四倍はするはず。昼間っから、とんでもないものを頼むんだから。
他の客たちは首を傾げていることだろう。アレッサンドラ・ダンジェロの連れにしては、目立たない女でいったい何者なのだろうと。ジョルジアのノーメイクで構わない出立ちは、五番街の高級店向きではない。だが、「ダイニング・ルーム」ではなくてカジュアルな「バー・ルーム」にしてもらったのでかろうじて場違いのそしりは逃れていた。
もし、周りの観客たちが第一印象による先入観を取り除いて二人をよく見たら、実はこの二人がとてもよく似ていることに氣づくだろう。実際、アレッサンドラがメイクを落として、眉を生まれた時の形に書き直し、髪を本当の色に戻して並べたら、二人は双子のようによく似ていた。実際には双子ではなくて、ジョルジアの方が二歳年上だが、姉妹であることには違いはなかった。
ジョルジアの方が背が八センチほど低い上、ハイヒールを履かないのでもっと低く見える。手足もアレッサンドラの方が長く、日々のトレーニングとケアで完璧な状態に保っているし、動きももちろん優雅で美しい。だが、この完璧な妹と較べすらしなければ、ジョルジアは本来、さほど悪い資質を持っているわけではない。だが、街でジョルジアとすれ違って振り向く人はほとんどいなかった。おそらく、それはジョルジア自身の望みに適っていた。
「アンジェリカはどうしたの?」
ジョルジアは訊いた。八歳になる姪とは、一年近く逢っていなかった。
「ペントハウスにいるわ。マッテオと使用人たちにちやほやされるのが嬉しくてしかたないみたい」
ロサンゼルスに住むアレッサンドラが、ニューヨークへ来る時は、必ず兄のマッテオのペントハウスに滞在する。成功者である二人の生活レベルは近くて、同じように有名人なので、ダンジェロ兄妹のことを知らない人は少ない。だが、彼らの本当の苗字がカペッリで、その間にもう一人写真家である家族がいることは、ほとんど知られていない。
「ねえ。あんな小さな会社の専属でいるよりも、フリーになったら? 写真集だって、あれだけ売れているんだから、もっと派手なプロモーションをしてくれる大手ならすぐに有名になれるわよ。そうしたら、住む所もロングアイランドのイタリア移民街なんかじゃなくて、またマンハッタンに戻って来れるし。なんなら、あたしが……」
「そんなことしなくていいわ。会社にはとても世話になっているし」
「会社っていうより、ベンジャミン・ハドソンにでしょう? あの人も敏腕編集者のくせに野心がないのかしら。彼ごとヘッドハンティングさせるならいい?」
ジョルジアは、首を振った。
「ベンを引き抜くのは不可能よ。両親を亡くして苦労している所を、社長が親代わりになって育ててくれたって、恩義を感じているんだもの。社長には、会社経営に興味のないお嬢さんしかいないし、いつかは彼があの会社を引き継ぐんじゃないかしら」
そして、彼女自身も今でこそ写真集が会社の利益に大きく貢献するようになってきているが、好きなものを撮っているだけでは食べられなかった駆け出しの頃は、《アルファ・フォト・プレス》で撮影の仕事をもらったからこそ生活することができたのだ。
ベンジャミン・ハドソンには、公私ともに助けてもらった。十年前にプライヴェートでの破局を体験してから、ジョルジアはしばらく人物撮影ができなくなってしまったのだが、その時に社内での批判に立ち向かって風景撮影や商品撮影を優先して回してくれた。
「あなたがそれでいいと言うなら、私がとやかく言うべきことじゃないとは思うけれど。でも、仕事って、少しでも効率的にこなして、人生を楽しめる時間をもっと捻出すべきじゃないかしら。私、一刻も早く引退して、リラックスした生活をすべきだと、つくづく思うわ。アンジェリカとの時間ももっと作りたいし、それに、人生のパートナーともね」
「あら。あなたは、もう男にはこりごりなんだと思っていたわ」
ジョルジアはスパークリングのミネラルウォーターを飲みながら、あまり関心がないように言った。
「そりゃね。二度も失敗したんですもの。でも、今度の相手はちょっと違うの。ほら、私、今までは自分の力で私よりも優位に立とうと思っている男性とつき合っていたでしょう? それが敗因だったのよ。だって、そういう男の人は私の方が有名でお金持ちなことに我慢できなくなってしまうんだもの。でも、ルイス=ヴィルヘルムは、生まれ育ちそのものが私よりずっと上でそれは逆転しようがないの。男女が上手くいくためには、結局そういう確固たる差が必要なのよ。それにね。スイスって騒音が少ないのよ。物理的にだけじゃなくて、余計なことを言う隣人が少ないって意味よ」
ということは、その貴公子はスイス人なわけね。ジョルジアはポークのテンダーロインを味わいながら考えた。
「スイスにも貴族がいたの? 知らなかったわ」
「やだ、何を言っているのよ。スイスには税金対策で住んでいるだけ。ドイツの貴族だって言ったの、聴いていなかったのね。系図を辿るといつだっかの神聖ローマ皇帝にまで行き着くんですって」
「それで? あなたも貴族になろうっていうの?」
「さあ。どうかしら。悪くないアイデアだと思わない? 三回目だから、慎重に決めたいとは思っているんだけれどね」
そこまで言ってから、アレッサンドラはジューシーなローストチキンの最後の一切れを口に運んで、それからナフキンで口元を拭いてワインを飲み干した。それから、目を大きく見開いて、姉を見据えた。
「私のことはいいけれど、あなたはどうなの、ジョルジア」
【小説】ファインダーの向こうに(2)昼食 -2-
ところで、ニューヨークのことをご存じない方のために少しだけ解説しますと、ジョルジアの住まいや職場は、ニューヨークの中でも少し郊外に在る「ロングアイランド」です。そして、ジョルジアは華やかなところが苦手で、今回、アレッサンドラとお昼ご飯を食べた五番街をはじめとするマンハッタンには可能な限り足を踏み入れていないという設定です。
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ファインダーの向こうに
(2)昼食 -2-
「どうって、いつも通りよ。仕事一直線」
「そう? どこかいつもと違うように思うんだけれど」
ジョルジアは、女の勘の鋭さにぞっとしたが、根掘り葉掘り聞かれるのがたまらなかったので、認めるような真似はしなかった。
「わかっているでしょう、アレッサンドラ。私は、この生活に満足しているの。あなたの成功とは較べ物にはならないけれど、ようやく努力も実を結びはじめているし」
アレッサンドラは、そんな言葉で話をそらされたりはしなかった。
「仕事が充実しているからって、恋は必要ないなんて、ナンセンスよ。ねえ、前から言いたかったんだけれど……」
「何?」
「マッテオとも話したんだけれど。もう一度、手術してみない?」
ジョルジアは、妹の顔をじっと見つめた。もう一度というからには、表皮母斑の件に違いない。彼女の左の脇から臍にかけての広範囲に生まれながらにしてある、赤褐色の痣。
それが醜いものだと意識したのは、アレッサンドラがはじめてビキニの水着を買った時だったと思う。興味を示したジョルジアに、母親がとても困った顔をした。それでジョルジアは、その痣が異常に醜いもので、人に見られてはいけないものなのだと、生まれてはじめて認識したのだ。
それから、続発性腫瘤の発生の可能性は低いと言われていたにもかかわらず、両親は経済的に無理をして「かわいそうなジョルジア」の皮膚移植の治療をしてもらった。もともと広範囲すぎて難しかったのかもしれない、単に腕の悪い医者に当たってしまったのかもしれない。その手術の結果、以前よりもずっとおぞましい状態になってしまった。一度は消えたはずの母斑はもっと色濃くなって再発し、削った跡が瘢痕となり、あちこちがゴツゴツと縒れたつぎはぎの肌になっている。
だが、それは顔ではなかった。服を着ている限り誰からも悟られないし、日常生活にも何の支障もなかった。だから、ジョルジアはあらためて治療を受けたいと思ったこともなかった。そのことが人生の躓きになるとは、十年前まで考えてみたこともなかった。
十年前、愛し合っていると信じていた男性にそれが原因で捨てられてから、ジョルジアは人間不信に陥った。もともと苦手だった人付き合いを極端に嫌がるようになった。今でも一握りの親しい人びととしかつき合うことができない。パーティにも一切顔を出さないし、男性の誘いにも乗らない。それどころか誘われないようにノーメイクで、安っぽい服装しかしないようになった。
そんな姉のことを、アレッサンドラはこれまでもなんとか「まともに」しようと試みていた。そして、結局はあの脇腹をなんとかするのが先決だと思ったのだろう。
「今の私には、あなたを世界で最高の外科医に紹介してもらうこともできるし、どんな治療費だって払える。マッテオだって、そのつもりよ。あなただけじゃなくて、パパやママを心の重荷から解放してあげることができるし、そのためなら何だってするわ。でも、あなたがそれを願わなくちゃ、私もマッテオも、何もできないの。あなたを変えるのは、いつだってあなた自身よ」
アレッサンドラは熱心に語り、最後は口癖である彼女のポリシーで締めくくった。
ジョルジアは首を振った。
「氣持ちは嬉しいけれど、その必要はないわ。肌は治療できるかもしれないけれど、それと私が素敵な王子様を見つけてお伽噺の国に行けるかどうかは別の話でしょう? それには、33歳という年齢はもう遅いと思うし、そもそも私があなたみたいなお姫様になれないのは、外見の問題じゃないの。それはあなたも知っているでしょう?」
アレッサンドラは、じっと姉を見つめて答えた。
「ええ。そう思っている限り、あなたはお姫様にはなれないわ。でも、それは年齢のせいではないし、肌のせいでもないわよ。望まないことは、絶対に叶わないんだから」
ジョルジアは、妹の忠告に素直に頷いた。他の誰かが同じ事を言ったとしたら、反論できたかもしれない。だが、アレッサンドラは別だ。世界有数のトップモデルでいられるのは、決して天から与えられた容姿のせいだけではない。彼女の生涯にわたる努力と強い意志があってのことだ。身体コンプレックスがあることを言い訳にしている彼女自身のことを引き合いに出す必要すらない。
「それはそうと」
アレッサンドラは、会計を済ませた後、店の外に出て、ジョルジアの頬ににキスをしながら言った。
「同じ街に住んでいるのに、全く逢えないって、マッテオがこぼしていたわよ。たまには妹を溺愛している兄を喜ばせてあげなさいよ」
週に一度は電話があるのに。ジョルジアは、微笑んで「わかっている」と答えた。それから、手を振って、妹と反対の方向へと歩いていった。
マンハッタンは、馴染まない。成功者が闊歩する摩天楼の谷間『ザ・シティ』は、ジョルジアには居心地が悪かった。子供の頃に住んでいたサフォークのノースフォークで、両親は漁業に従事していた。息子と末娘の社会的成功の恩恵に浴して、現在はガーデンシティの豪邸の立ち並ぶ地域に住んでいるが、そのためにジョルジアは両親とも疎遠になった。彼女は、海の近く、素朴な場所に住みたくて、会社にも歩いていけるロングビーチに小さな部屋を借りた。
幸せになりたくないわけではない。今の生活は、ほとんど幸福と言えるものだと感じている。好きな仕事をしている。それが認められだしている。親切な同僚とボスがいて、リラックスできる場所に住んでいる。心配事と言えば、時おりやってくるハリケーン、それに新しい写真集が発売されてしばらく売り上げが悪くないとわかるまでの胃の痛みくらいのものだ。
ずっと一人でも構わない。そう思っていたはずだ。今でもそう思っている。ただ、おかしな熱病にかかってしまっただけだ。ファインダーの向こうに、入り込んでしまった人影を、追い出すことができないでいる。彼は、この『ザ・シティ』の住人だ。マッテオや、アレッサンドラに近い世界、眠らない街の、華やかな日常に生きている人だ。
叶わぬ恋など、フィルムを抜き取るように取り除いてしまえればいいのに。彼女は、またため息をついて、彼女の属している街へと戻っていった。
【小説】ファインダーの向こうに(3)新企画 -1-
今回出てくる超ゴージャスペントハウス、実在する部屋をモデルに書きました。執筆中に、ちょうど住人募集中だったのですね。毎月、こんな家賃払って、ああいうところに住む人って、本当に存在するんだなあと、感心しながら書きました。
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ファインダーの向こうに
(3)新企画 -1-
ドアマンは、ジョルジアを認めると、はっとして頭を下げた。彼は、彼女を見るといつも後ろめたい顔をするのだ。彼が勤めはじめて二ヶ月目に彼女がこの高級アパートメントに来たとき、彼は「ミズ・カペッリ」が誰だか知らなかった。そして、彼女を足止めして、最上階ペントハウスに住むダンジェロ氏に大袈裟に文句を言われた。
彼だって、アレッサンドラ・ダンジェロがダンジェロ氏の妹だということは知っていた。そして堂々とした態度で「ようこそ、ダンジェロ様」と言う事ができたのだ。だが、彼らの本名がカペッリということも、兄妹の間にもう一人カペッリ家の娘がいることも知らなかった。ニューヨークの高級アパートメントのドアマンとして、プロフェッショナルであることを自負している彼にはそれは大きな汚点になったらしい。
ジョルジアは、会釈してペントハウス専用のエレベータへと向かった。最上階でドアが開くと、パーティは既に始まっているらしくとても騒々しかった。
パークアベニューにある32階建ビルの最上階、570平方メートルの住居。ドアマンがいて10万ドルの家賃のペントハウスにジョルジアの兄、マッテオは住んでいる。健康食品を販売する事業で財を成し、アメリカンドリームを具現したプレイボーイにふさわしい住まいだ。5つあるベッドルームのうちの一つは、よく泊まりにくるロサンゼルス在住のアレッサンドラとその娘のアンジェリカのために空けてある。
使用人のハリスが中へと案内しようとすると、ジョルジアは断った。
「遠慮するわ」
自分がパーティにふさわしいとは思えない。もちろん普段の服装よりはずっとましだ。今日はナラ・カミーチェの白と銀のシャツに黒いパンツスーツを着ている。シーズンごとに100枚近いお下がりをくれようとするアレッサンドラに本当に貰った10着程度の服の一つだ。たぶん、サン=ローランのものだろう。
「ジョルジア! 僕の愛しいサバイオーネ! どうしてこんなに長く逢いにきてくれなかったんだい」
大袈裟な挨拶とともに抱きしめられて、両方の頬にキスの雨が降った。後ろにいるはじめて見る美女が剣呑な目つきで眺めているので慌てて言った。
「本当に久しぶりね、マッテオ兄さん。今日は、お招きありがとう。でも、すぐに行かなくちゃいけないの」
「なんだって、まだ来て一分も経っていないだろう」
「ええ。今晩からしばらくいなくなるから顔を見たくて来たんだけれど、時間がないの」
「どこに行くんだ? まさか、またアフリカか?」
「いいえ。ニューオーリンズよ。ところで、パーティの時に悪いんだけれど、ビジネスの話していい?」
「なんだって?」
「直にうちの会社から依頼が来ると思うんだけれど、セレブを写真とインタビューで紹介する特集があるの。で、兄さんを私が撮ってもいい?」
「お前が、僕を? どうした風の吹き回しだろう。もちろんいいよ。ずっと、何ヶ月もここで撮り続けるといい。その間、僕はお前を独占できるんだろう?」
ジョルジアは、後ろの女性たちの冷たい視線を避けるようにして、彼の頬にキスをした。
「兄さんったら。そんなことをしたら二日目くらいには、あなたのお友だちに殺されちゃうわ」
その日の午後、担当編集者のベンジャミン・ハドソンが仕事を持ってきた。
「『クォリティ』誌の新企画が決まったんだ。マンハッタンのセレブを特集する続き物でね。専属・フリーを問わず新進のフォトグラファーに印象的な写真を撮ってもらうことにしているんだ。編集長は、もっとも印象を変えるのが難しいセレブを君に担当してもらいたいと言っている」
「誰を」
「マッテオ・ダンジェロ」
「絶対に嫌」
「そういうと思ったよ。で、僕から編集長には、もっと大物を提案しておいた」
「誰?」
「ジョセフ・クロンカイト」
ジョルジアは、黙ってベンジャミンの顔を見た。
「暗室の写真を見たんだ」
彼はたたみかけた。
彼女は、まだ黙って彼を見ていたが、三分ほど経ってから「嫌よ」と言った。
「なぜ。仕事として写真を撮らせてもらう。それだけだろ。天の邪鬼にも程があるぞ」
「天の邪鬼って、なんのことよ」
「違うっていうのか。じゃあ、訊くが、マッテオ・ダンジェロの時は即答したのに、クロンカイトの時は嫌だというのになぜそんなに時間をかけたんだよ。本当は知り合いたいんだろう? チャンスじゃないか」
ジョルジアはまたベンジャミンを見て、しばらく何も言わなかった。が、ゆっくりと視線を落とすとカメラケースに触れた。
「私がマッテオを撮っても、意外に素敵なセレブになんてなりっこないわ。いつもと同じか、よくて私の兄が写るだけよ」
「クロンカイトは君の家族じゃないだろう。君が憧れているセレブが写るなら、うちの社の方針としても願ったり……」
「嫌だって言っているでしょう!」
「何がそんなに嫌なんだよ! あっちは有名ジャーナリスト、知り合えば、今後の仕事に何かとプラスに……」
「知り合いたくない! 知り合わなければ、傷つくこともないもの」
そう言ってしまってから、彼女はしまったという顔で黙り込んだ。
ベンジャミンは、信じられないという顔をして、ジョルジアをまじまじと見た。
「憧れじゃなくて……本氣なのか?」
【小説】ファインダーの向こうに(3)新企画 -2-
実は、墓地のくだりは、TOM-Fさんの小説の一シーンから思いつきました。正にその時だったのか、他の墓参のときだったのかまではわかりませんけれど。ジョセフも、まさか激写されていたとは知らなかったであろう、ということにしてあります。これも一種のパパラッチ行為かしら?
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(3)新企画 -2-
ジョルジアは、眉をしかめてソファに座り込んだ。それからぽつりと言った。
「笑いたければ、笑うといいわ。でも、言いふらさないでよね」
「そんなことするわけないだろう。でも、知り合ってもいないのに、どうやって?」
「最初は、ただの会心の出来の写真だったの。光の具合も、佇まいも完璧だった。誰だかも氣がついていなくて、夢中でシャッターを切ったわ。望遠で追っているうちに、彼が匿名の誰かではなくて、よく見知っている人だとわかったの。誰だかわかるまで時間がかかったけれど」
それはウッドローン墓地だった。とある追悼詩に使う墓石の写真を撮る仕事だった。できるだけ色彩を排除して撮りたかったので、普段は一切使わないILFORD PAN Fのモノクロフィルムが入っているカメラを構えていた。
そうやって、離れたところから墓地を撮っていたジョルジアは、偶然に墓参りをしている男の写真を撮ることになった。人物が映り込んでいたら仕事には使えないとわかっていながら、ファインダーの向こうの絵の魅力に捕らえられて、立て続けにシャッターを切った。
秋の柔らかい陽射しが、彼の前方から射し込んでいた。トレンチコートに落ちた木立の影も完璧だった。彼は背筋を伸ばして墓の前で佇んでいた。誰だかはっきりわかったのは、しばらくしてCNNのニュースでその顔を見てからだ。
それから再びウッドローン墓地へ行き、彼が見つめていた墓標を探した。ほとんど興味のなかったジャーナリストの経歴を調べて、彼がユーゴスラヴィアの内戦で家族を失っていることを知った。調べ、知ってしまったことで、特別な存在になった。
彼が担当の日にCNNニュースを観るのが習慣になった。レポートを読むために雑誌も買った。冷静ながら弱者に対しての暖かい視線に共感した。
ただのファンという意識に留まれなかったのは、あの写真のせいだった。馬鹿げたことだとわかっていながら、想いを持て余すことになった。
仕事には使えなかったそのモノクロームのポートレートは、ずっと暗室に貼られたままだった。揺れる現像液の中から、ぼんやりと、やがてはっきりと浮かび上がってきた、横顔の明暗。誰にも知られずに、その佇まいを見ているだけ。それでよかったのに。
「だったら、なおさら、この仕事を受けろよ」
「無理よ! 冷静に撮れるわけないでしょう」
「冷静である必要なんかあるものか。君の人生の転機だろう」
「転機って何のことよ」
「僕は君にジョンを紹介したことを、後悔しているんだ」
突然ベンジャミンは話題を変えた。ジョルジアは、口を一文字に結んで彼を見た。
「あれから、もう十年だ。君は、このままでいいのか?」
ジョルジアは、一度足元を見てから、顔を上げて仕事の大切なパートナーであると同時に、長い間支えてくれている大切な友でもある男に向かってはっきりと言った。
「私がこうなったのは、ジョンのせいじゃないわ。もちろん、あなたのせいでもない。世の中には、一人でいた方がいい人間もいるのよ。それだけのことだわ」
ベンジャミンは、黙って彼女の顔を見つめた。青ざめた肌に黒い髪が影を落としている。人付き合いが悪くても、心を許した人間の前では、笑顔も見せるし冗談も言うようになった。意見もはっきりと言ってのける。だから、誰も彼女のことを前のようには心配していない。
だが、彼は「これでいい」とはとても思えなかった。
彼女は、すぐに心のブラインドを閉めてしまう。その先には誰も踏み込ませようとはしない。助けはいらないと頑張るのだ。彼には、それが虚勢だとわかっていても、それ以上踏み込むことはできない。それに、彼女の瞳にじっと見つめられると、その頼みを断ることもできないのだ。
ジョルジアは、ジョセフ・クロンカイトの写真を撮るのは他の写真家に頼んでくれと懇願し、代わりにマッテオ・ダンジェロの写真を撮ることに渋々同意した。
「どんな写真になっても、文句は言わないでね」
【小説】ファインダーの向こうに(4)陰影
ヒロインの仕事仲間であり、最も親しい友人でもあるベンジャミン・ハドソンがメインの回です。おそらくある読み手の方にとっては「やっぱり」で、他の方にとっては「それはないよ」な事情かもしれません。
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(4)陰影
ベンジャミン・ハドソンは、彼の家の門についた。ライトが自動的につく。眩しくて眉をしかめる。金属製のフェンスを白く塗らせたのは妻のスーザンの趣味だ。汚れやすくなるからしばらくしたらまた塗り直さなくてはならないと言ったが、彼女は聞かなかった。窓辺にペチュニアを飾ることや、安っぽい黄色い滑り台を設置することも。仕事で飛び回る彼の代わりに、家の用事と息子の面倒を一手に引き受ける妻と小さな諍いを積み上げることを彼は好まなかった。
「ただいま」と言って、玄関を開ける。以前のようにスーザンが駆け寄ってきて、キスをすることはない。だが、彼はそれに不満を持っているわけではない。焔はいつまでも激しく燃え上がらない。それよりもじっくりと炭が熾り続ける時間の方が長いのだ。結婚や人生とはそういうものだ。
居間には、スーザンとジュリアンがいた。彼女は息子をパジャマに着替えさせている所だった。
「おかえりなさい。早かったのね」
「ただいま。今夜は間に合ったな」
そう言うと、彼は六歳になる息子を抱き上げた。嬉しそうな笑い声が居間に響いた。
「お願いしていい?」
スーザンの言葉に頷くと、彼はそのまま息子をベッドへと連れていった。
息子の部屋は、青に白い水玉の壁紙が貼ってある。ベッドに息子を降ろしてキスをすると、横に巨大な熊のぬいぐるみがあった。昨日まで抱えていた虎のぬいぐるみは、寵愛を失ったらしく床に横たわっていた。
「パパ、見て! ジョルジアから貰ったんだよ」
ジュリアンは熊のぬいぐるみを嬉しそうに抱きしめた。
「あのぬいぐるみ、どうしたんだ?」
居間に戻って訊くと、妻のスーザンは嬉しそうに笑った。
「さっき、届いたのよ。スキーウェアが欲しいと言ったこと、忘れないでくれたのね。それを着ているみたいな格好で、あの大きなぬいぐるみも一緒に入っていたの。二人で歓声を上げたんだから。次に逢ったらお礼を言っておいてね」
「さっき逢ってきたばっかりだけれど、これから彼女は撮影旅行だから、次に逢うのはおそらく来週の火曜日だよ。メールでも入れておくか」
「そうしてね。ねぇ、あたしの名付け親ってあんなに親切じゃなかったわ。写真もそうだけれど、彼女、本当に子供が好きなのね」
ベンジャミンは、ちらりと妻を見たが、肯定も否定もしなかった。確かにジョルジアは、子供をモチーフにした写真で有名になった。《アルファ・フォト・プレス》がプロモーションを展開しているのもその路線だ。
十年前、彼女の主なモチーフは花や水辺などの自然だった。透明で、光を感じる作風は、四ヶ月前に出版した写真集『太陽の子供たち』にも通じるものがあった。だが、あの頃の彼女の写真から、彼が今ほどの影を感じることはなかった。
ジョルジアがここ数年撮り続け、彼女の名前を有名にしたのは、子供たちの笑顔の写真だった。鮮やかな色づかいの天然色、溢れる光の中で幸せに溢れる子供たち。草原の中で、アフリカの赤茶けた土の上で、一面の雪の前で、小さい子供たちが笑い転げる。
優しい愛情に満ちた数々の写真は人氣を呼んで、『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』の一般投票部門で入賞が狙えるほどの売り上げを記録した。もちろん弱小出版社である《アルファ・フォト・プレス》では、はじめての快挙だ。
誰もが、ジョルジアのことを子供好きな幸せな女性だと思っている。子供は嫌いではないだろう。ジュリアンと話している時の微笑みや、敏感な息子が彼女にくっついて離れない様子、それにカメラを構える時の情熱を見ても、それを疑うような兆候はどこにもない。
けれど、彼女の瞳には、いつもどこか諦めに似た哀しい光が宿っている。被写体の子供には微笑みかけても、両親には距離を持って立っている。幸せそうな恋人たちを見かける度に、判で押したように現れる固い微笑み。それは、自分には手に入れられないものに対する讃辞のように見える。
一緒に仕事をしはじめた頃には、彼女のその憂いの意味が分からなかった。あの頃のジョルジアは、今よりももう少し髪が長く、有名になりはじめたアレッサンドラとの類似に氣がつく人も多かった。彼自身もそうだったが、彼女を通して美しい妹と知り合いになりたがる人は多かった。
彼は、世界中の他の多くの男と同じく、手の届かない所にいるアレッサンドラに漠然と憧れていただけだったし、そのことでジョルジアを傷つけるつもりなど毛頭なかった。
彼女は、ずっと静かに傷ついていた。子供から娘へと変わる過程で、妹との外見と内面の違いについて意識し、比較され、劣ると判断されることが繰り返された。そして服を着ている時には誰にも氣づかれない肉体のコンプレックスも彼女を僅かずつ蝕んだ。
ベンジャミンが、友人だったジョンをジョルジアに紹介したのは、純粋に彼らが上手くいくと信じていたからだ。だが、彼は彼女を深く傷つけて去った。
「あんなおぞましいモノを見てまともにヤレる男なんていないさ」
ジョンの言葉は、未だにベンジャミンの耳に残っている。彼自身は、ジョルジアの脇腹にひろがる生まれつきの痣、そして、治療の失敗でもっとひどくなってしまった醜い肌を見たことはない。だから、愛が褪めてしまうほどひどいものなのか判断することはできない。
ジョンはジョルジアにアレッサンドラを重ねあわせていただけだろう。そして、姉と妹が同一人物ではないことを確認しただけのつもりだったのかもしれない。だが、それで愛する男に捨てられたことは、彼女のトラウマになってしまった。
それから彼女は、人づきあいが極端に悪くなった。仕事以外では外に出ない。パーティにも行かない。新しい友だちを作ろうともしない。有名な妹や、成功者である兄の棲む華やかな社交界から一切身を引き、マンハッタンを離れ、ロングビーチに引越した。
二年ほど彼女は人物写真が撮れなかった。その後は決められた仕事では、割り切って人物を撮ることもできるようになった。が、写真集など彼女の作品としての被写体に大人を選ぶことはなく、動物や子供、もしくは自然や無機質なものにしかカメラを向けない。それも不必要に明るい色彩の晴れやかな写真ばかり。それがかえって彼の目には痛々しく映る。幸せに笑う、苦しみをまだ知らない子供たちとファインダーを隔てて対峙するジョルジア自身の心に落ちた影を感じる。光が強ければ強いほど、影も濃くなる。
だから、あの写真を見たときは、本当に驚いた。
暗室に貼られた、男の横顔。モノクロの柔らかい光の中に佇むその姿。他の人間が見たら、まったくジョルジアらしくないと思うだろう。だが、そうではないことを彼は感じた。それは、ベンジャミンが入っていくことのできない世界だった。音もなく、ただ陰影だけが存在していた。カメラを構えた者と、被写体との静かな時間。ジョルジアに何が起こったのかを、彼はその時にはもうわかっていたのだ。
彼はネクタイを緩め、水を飲むためにキッチンへと向かった。いつものあたり前の夜だったが、我が家の光景はどこかが違って見えた。違っているのはキッチンではなくて、彼自身の心なのだと氣づく余裕はなかった。
寝室へ行くと、スーザンはもうベッドにいた。アプリコット色のシルクのナイトドレスを身につけている。彼は、妻の月経周期のことを考えた。そうでなければ彼女が誘ってくることは全くなかったからだ。お互いに強い情熱がなくなった後も、求められた時には拒否をしないのが暗黙の了解のようになっていた。
「ねえ。どうかしら。私、ジュリアンを一人っ子にしたくないの」
彼は、義務を果たすために、その氣になる努力をした。頭の中に、もう何年も前の男性写真誌の特集ページを飾った、アレッサンドラ・ダンジェロのなめらかな肌を思い浮かべた。シーツでわずかに前方を隠したその艶かしいポーズは、ベンジャミンだけでなくたくさんの男たちの想像をかき立てたことだろう。長い足、豊かな黄金の髪、形のいい唇を思い描いた。
彼は、暗闇の中で、スーザンの声をしたアレッサンドラを堪能した。やがて、彼の女神は次第にメイクを落とし、小悪魔から憂いのある女へと変貌を遂げる。長く豊かな金髪は、ブルネットのショートヘアに変わっている。それが誰だか彼にはよくわかっている。彼は「彼のアレッサンドラ」と彼自身を絶頂に導いた。
満足して、寝息を立てるスーザンの横で、彼は今日のジョルジアのことを考えていた。あの告白が、相当ショックだったんだな……。彼は、心の中でつぶやいた。会社のジョルジア専用となってしまっている暗室で、あの写真を発見した時に感じた落ち着かなさの意味が、今の彼にはよくわかっている。彼女の心を占めている他の誰かに対する、抑えられない怒りと妬み。
君は、一度だって僕を撮りたいと言ってくれたことはないよな。僕は、いつだって君のファイダーの中には入れないんだ。
ジョルジアは壁の前に立っていた。それは暗室を後にして帰る前の儀式となっていた。モノクロの写真が壁に貼ってある。佇む男の横顔。その瞳は、眼鏡を通してまっすぐに墓を見ている。振り向いて彼女を見てくれることはない。それでも、彼女は彼を見つめている。ゆっくりと視線で彼を覆う光と影をなぞっていく。その陰影は、彼女の心そのままだった。
【小説】ファインダーの向こうに(5)撮影 -1-
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ファインダーの向こうに
(5)撮影 -1-
「さあ、準備はできた。どんな風にでも撮ってくれ」
白いバスローブを着たマッテオは、おどけてジョルジアの前に立ちふさがった。胸元に黄金の鎖が光っている。白く光の溢れたキッチン。まるで安っぽい映画の一シーンだ。
彼の後ろには、新しいおもちゃだと思われるマシンがあった。カリフォルニアオレンジがコロコロと転がって、カットされ、ジューサーを通って、香り高いジュースとなって注がれた。彼はできたてのジュースをジョルジアに手渡し、もう一杯作るとウィンクして飲み干した。
彼のペントハウスの玄関より奥に入るのは何ヶ月ぶりだろう。ここに来るといつも氣後れする。イギリス人の貴族に仕えていたことがあるのかと思うくらい、顔の表情を変えない使用人のハリスに「ようこそ」と言われるのも苦手だったし、次々と変わるガールフレンドたちの名前を憶えられなくて睨まれるのも好きではなかった。
彼女たちは、ニューヨークで最も成功した独身の一人であるマッテオ・ダンジェロに年貢を納めさせようと必死だったし、未来の義妹と険悪にはなるまいとは思っているのだろうが、もう一人の妹アレッサンドラ・ダンジェロと較べるといかにも見劣りのするジョルジアのことを「取るに足らない女」と思っているのが顔に出てしまっていた。
幸い、今朝は女は一人もいなかった。兄のところには寄りつかず、しょっちゅうかかってくる電話も可能な限り短く切ってしまうジョルジアは、最近の彼のプライヴェート事情をゴシップ誌並にも知らない。余計なコメントは避けようと思い、黙ってジュースを飲んだ。
「ジョルジア。少し痩せたんじゃないか」
マッテオは、彼女の頬から顎にかけてそっとなぞった。こうやって女の子たちを簡単にポケットに入れちゃうのかしら。考えながらジョルジアは兄の瞳を見つめ返した。彼は子供の頃から全く変わらない。これは女をたらし込む詐欺師的演技ではなくて、彼の素の振舞いなのだ。
彼は、優しくて、明るくて、そしてセクシーだ。その笑顔に夢中になったのは女たちだけではない。小さな健康食品会社を若くして買い取った彼が、多くのビジネスパートナーを得て、ベストセラーのダイエット商品を立て続けに発売し、アメリカ全土に店舗をチェーン展開するほどに成功をした。それは、彼が多くの幸運と、機を読む賢さと、積極的なビジネスマインドを備えていたからだけでなく、この魅力的な性格で多くの味方を作ったからだ。
「心配いらないわ、兄さん。ここの所、少し忙しかっただけ。『太陽の子供たち』のプロモーションもあったし、あの写真集の撮影の間できなかった会社の仕事を、集中的にこなしたから」
「そうなのか。大事な妹をあんまりこき使わないでくれと、社長に電話しておかなくちゃな」
「そんなことをしたら絶交よ」
彼は切なそうに笑うと、「おいで」と彼女を自分の寝室に連れて行った。そこはスイートになっていて、更に奥にはウォークインクローゼットがあった。
「何を着てほしい? スーツ? それとも、スポーツウェア? もちろん、このガウンのままでもいいけれど。その場合は、ベッドの上に寝そべってとか?」
ジョルジアは、「ゴシップ誌の仕事じゃないんだから」と笑って、カジュアルウェアを着てくれるように頼んだ。掃除の行き届いたリビングで、リラックスしてオレンジジュースでも飲んでいる姿を撮ってみよう。そんな風に考えながら。
NIKONのファインダー越しに覗いたその姿は、見慣れたいつものマッテオ・ダンジェロだった。前にどこかの雑誌で見たのと同じポーズのように思った。会話は、親しい兄と妹の会話なのに、兄は写っていない、そう感じた。疑問を感じながら、ジョルジアはシャッターを切った。
「ジョルジア。アレッサンドラのお前に対する印象は正しいんじゃないかと、僕も思うよ」
ソファの上でポーズをしながら、マッテオは突然言った。
「何のこと?」
「お前は疲れているのか。それとも、何かの壁にぶつかっているのか?」
ジョルジアは、カメラをテーブルに置いて、兄の顔を見た。
「兄さんまで、手術をしろって言うんじゃないでしょうね。そして、どこかのセレブと結婚でもしなくちゃ、ダンジェロ兄妹の顔に泥を塗ると思っている?」
「まさか。僕もアレッサンドラも、お前の幸せにしか関心がないことくらいわかっているだろう」
「ねえ。私は、今のままで十分幸せだわ。仕事も、私生活も」
「ジョルジア。僕がどれだけ長い間、お前を見つめてきたと思っている? お前が心から幸せだと思っているときの顔を知らないとでも?」
ジョルジアは、言葉に詰まった。
「結婚が幸せの最終形だなんて、僕だって思っていないさ。それに、お前の作品が世に認められだしていて、それが一般で言う成功の一歩だっていうのも正しい。でも、今、僕を撮っているお前の姿は、したくてたまらない事をしていようには見えない。お前はひたすら仕事をこなしている、そうなんじゃないか?」
「兄さん……」
「お前の作品は素晴らしい。技術的にも、心を打つモチーフも、全く大したものだ。だが、お前がはじめて、父さんのカメラを持たせてもらった時の、それで僕とアレッサンドラを撮りまくった時の、あの情熱を持ってカメラを構えているようには見えない」
ジョルジアは、兄の指摘に愕然となった。
「あの男のせいで、お前の心が壊れてしまったんじゃないかと、ずっと思っていた。だが、そうだったら、あんな写真は撮れないだろう。お前は心を込めて、選んで写真を撮っている。だが、お前が撮っているのは、お前自身が撮りたいものなのか? それとも、会社や世界がお前に撮るようにと求めているものなのか? なぜ、あんなに明るい色で、楽しそうな子供ばかり撮るんだ。そんなに青ざめて、苦悩を刻んだ顔をして」
「兄さん……。私、あなたがそんなに私のことをよく見ているなんて、知らなかった……」
【小説】ファインダーの向こうに(5)撮影 -2-
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ファインダーの向こうに
(5)撮影 -2-
マッテオは立ち上がって、ジョルジアをそっと抱きしめると、その頬にキスをした。
「わかっている。アレッサンドラも、二度目の離婚についてアドバイスをした時に驚いていたよ。僕は、軽薄な兄を演じすぎたのかな。でも、そうでもしないと、お前たちへの想いを制御できなくなるんだ。本当は夢中すぎて、心が痛くなるくらいなんだ」
「私にも?」
「そうだとも。母さんに抱かれて眠っていたお前を初めて見たあの日から、僕はずっと夢中だ。こんなに愛しい存在があるのかって」
「マッテオ兄さんったら。そんなの大袈裟だわ」
「何を言っているんだ。本当なんだぞ。そりゃ、子供だったから、こういう言葉で思ったわけじゃないけれど」
ジョルジアは、兄をみつめた。子供の頃、ジョルジアが転ぶといつも駆け寄ってきて、立たせてくれ、それから抱きしめてくれたマッテオ。算数ができなくて困っていると、辛抱強く助け舟を出してくれたこと。どれほど彼女が身を引いて疎遠にしても、繰り返し明るくコンタクトを続けてくれた兄。
心の奥を覗き込むと、彼の言っていることの方が正しいことがわかった。彼女が、選ぶフィルムも、カメラも、現像する時のトーンも、自分の感性よりもどう望まれているかを優先してきた。何が望まれているかを判断するのはとても簡単だった。自分にはないもの。自分には許されていないもの。その写真の明るさで、彼女自身の暗闇から人びとの視線を引き離してしまう幸福な写真。もしくは徹底して感情を排した物の写真。そう撮っていれば安心だった。なぜならば、必ず満足してもらえるのだから。
だが、それはジョルジアの心を映した作品ではない。彼女にとって、心を映し出したとはっきり言える写真は、暗室の奥に貼られているたった一枚のみだった。
秋からずっと心惹かれ続けている、けれど、それが後ろめたいように感じて仕事に使えなかったモノクロームの世界。乾いて冷たい風の通り過ぎる空間。影が色濃く落ちる王国。明るく楽しく自分とは無縁の世界とは対極的な、暗く哀しみが蠢く親しみのある空間。
では、幸運の女神の寵児であるマッテオと、その世界で対峙したらどうなるのだろう。
古いライカを取り出した。彼は、不思議そうに彼女を見た。彼女は構図を変えて、何枚も撮った。
ファインダーの向こうに、マッテオは同じように存在した。けれど、彼女は彼の別の姿を見た。軽薄で物質的で馴染めないと思っていた彼の、優しくて思いやりに満ちた瞳が、こちらを見ていた。プラスチックの塊のように感じていた彼の肌には、前よりも多くの皺が刻まれている。それは目尻であったり、頬に多かった。いつも笑顔でいる彼の一番良く動かす筋肉と肌は、そこなのだと感じた。
私は、この人の何を見ていたのだろう。自分には手にすることのできない、光の部分にばかりに拘って、とても大切なものを見失っていたのかもしれない。
アレッサンドラとは違うから愛されない、側にいられないというのは、被害妄想のひがみだったのかもしれない。両親も、兄も、ジョルジアを「黒い羊」扱いしたことは一度だってなかった。彼女は、色を廃して、ファインダー越しに覗くことで、初めてそれを感じたのだ。
「ねえ。兄さん」
「なんだ?」
「場所を変えてもいい?」
「え?」
「ここにいるあなたは、確かにとてもあなたらしいけれど、他の人にも撮れるような氣がするの。私しか撮れない所であなたを撮りたいと思って」
「どこで?」
「海で。それも、豪華客船やプライヴェートのヨットじゃなくて、私たちが育ったあの素朴な海辺で」
マッテオは、頬が紅潮し、瞳の輝きだした妹をじっと見つめていたが、それから笑って彼女を抱きしめた。
いつものスーツではなく、かなり砕けた麻のジャケットにラフなチノパン姿で、ビーチサンダルを履いてパナマ帽を被ったマッテオは、ユーモラスだった。海からの強い煌めきと、影になった彼の半身が、モノクロームの中で印象的に浮かび上がる。
悔しくなるほどの成功をし、誰もが羨む暮らしをする、軽薄な
ベンジャミン・ハドソンは、その写真を見たとき、それがマッテオ・ダンジェロだとは信じられなかった。
「言ったでしょう。あなたが思うようなセレブには撮れないって。撮り直した方がいい?」
失望させたのかと、がっかりしながらジョルジアが言うと、彼は大きく首を振った。
「そうじゃないよ。信じられない。すごくいい。あんなに嫌がっていたから、これほどの写真を撮るなんて、思ってもいなかったんだ。これはどこだ?」
「ノースフォーク。私たちの両親が漁業をしていた頃、よく遊んだ所なの。何もない所なんだけれど、私たちには特別な場所なの。マッテオ・ダンジェロがまだ存在しなかった頃、マッテオ・カペッリが忙しい両親の代わりに妹たちを散歩させた所なの」
「だから、こんなに優しい表情なのか。それに、この濃淡がすごくいい。モノクロームに目覚めたのか?」
「ええ。非公式にだけれど、他の人も撮ってみようかと思っているの。撮らせてほしいと頼める人に限られるけれど……」
ベンジャミンは頷いた。
「ある程度撮れたら、もう一度見せてくれ。社長に掛け合って、次の写真集の企画を提出するから。180度のイメージチェンジだから、上層部は反対するかもしれないけれど、絶対に通してみせる」
ジョルジアは、彼の反応に驚いていた。心配されるのかと思っていた。少なくとも、こんな風に肯定してもらえるとは夢にも思っていなかったからだ。彼女は、笑顔を見せた。
「ありがとう、ベン」
【小説】ファインダーの向こうに(6)受賞の報せ
ジョルジアの最新の写真集『太陽の子供たち』は、弱小出版社である《アルファ・フォト・プレス》で発売されたものとしては、めざましい売上をあげていて、彼女も「明るい子供の写真を撮る女流写真家」として、少しずつ名が知られはじめています。もちろん、「知らない人は全然知らない」程度の知名度ですが。
あ、今回の設定、TOM-Fさんに無断で書いています。「そんな仕事するか!」と怒られるかもしれません。ごめんなさい、今から謝っておきます。
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ファインダーの向こうに
(6)受賞の報せ
「ジョルジア! ジョルジア! 探したんだぞ。なんで電話に出ないんだよ!」
会社につくと、ものすごい勢いでベンジャミン・ハドソンが駆け寄ってきた。
「だって、この間の特集のことで、上とやり合ったって聞いたから。やっぱり撮り直し?」
「何言ってんだよ。それどころじゃないよ。君は、この会社の英雄になったんだよ!」
「何の話?」
「《アルファ・フォト・プレス》創設以来の悲願だ。『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』に入賞だ」
ジョルジアは驚いて、彼を見つめた。写真集『太陽の子供たち』が『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』の一般投票部門で六位になったという報せだった。もしかしたら狙えるかもしれないとは聞いていたが、ジョルジア本人はもちろん、会社の誰も本当だとは思っていなかった。
「授賞式の写真を月刊誌『アルファ』の表紙にするからな!」
そう息巻くベンジャミンに彼女は嫌な顔をした。
「人前には出たくないわ。社長やあなたがかわりに受け取るわけにはいかないの?」
「何ふざけたことを言っているんだ。君が行かなきゃダメに決まっているだろう。いつもとは違って、社運がかかっているんだ、今回だけは何が何でも出席してもらうよ」
それから、斜めに彼女を見ながら意味有りげに告げた。
「それに、今年の『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』の放映権はCNNにあるんだぜ。だから特別審査員にジョセフ・クロンカイトが含まれているんだ。彼も授賞式には来るぞ」
「……だから?」
ジョルジアは視線を逸らす。
「ちゃんとおしゃれしていけ。クロンカイトを一目惚れさせてやれ。やろうと思えばアレッサンドラ・ダンジェロ顔負けに装えるんだからさ」
「ベン。あなたは、私がこのあいだ言ったことを何も聞いていなかったのね」
「聴いていたさ。君が言いたかったのは、要するに拒否されるのが怖いってことだろう。そんなの、恋をしたら誰だって同じだ。ティーンエイジャーみたいなことばかり言っていないで、チャンスをつかめよ。君は、本来絶世の美女の仲間なんだぜ。世界中のどれだけの女が、アレッサンドラ・ダンジェロと同じ顔、同じスタイルを持てたらいいだろうと思っているのか知らないのか?」
「どんなに似ていても私は妹じゃないわ。好きな男すら逃げだした化け物よ」
「ジョルジア」
「ごめんなさい。もう言わないわ。でも、お願いだからそっとしておいて。私が仕事中心に生きているのは、あなたにとって、そんなに悪いことじゃないでしょう?」
ずっと知らない人が怖かった。特に、アレッサンドラに似ているからと近づいてくる男たちが怖かった。完璧な女神を、朗らかで挑発的なファム・ファタールを求めてきた彼らはいつだって、そうではない自分を見つけて、嘲笑い軽蔑して去っていくのだと感じていた。
「君みたいな化け物をどうやって愛せるっていうんだ」
ジョンの捨て台詞が、耳から離れない。
ベンジャミンが、いつも守ってくれていることはわかっている。十年前も、友達のジョンではなく、彼女の側に立って、壊れそうだった彼女を、仕事と、それからこの世界につなぎ止めてくれた。もう撮れない、人が怖いと怯えて、会社にも行けなくなった彼女を辛抱強く訪れて、彼女にも撮れる無機質なものの仕事を用意し続けてくれた。そのことで、彼の立場が悪くなったことも一度や二度ではなかったが、文句も言わず、ひたすら支えてくれた。
マッテオやアレッサンドラが、何もしなくていい、自分たちの所でゆっくりするといいと言った時に、頑強に反対して仕事を続けさせてくれたのもベンジャミンと社長だった。仕事を続けることで、ジョルジアは家族だけでなく、社会とのつながりをゆっくりと取り戻し、人付き合いが下手とはいえ、自分の撮りたい物を追い、一人で取材旅行にも行けるまでに回復したのだ。
このまま一人で生きていくのならば、彼と社長の好意にいつまでも甘えて、彼らの重荷で居続けるべきではなかった。授賞式に出席して、《アルファ・フォト・プレス》の名前を広めることを求められているならば、引っ込んでいるわけにはいかない。たとえ「彼」がその場に来てしまうとしても。
愛した男に去られて十年経ち、はじめて新しい恋に落ちたが、彼女は一歩も動けなかった。そもそも知り合ってもいない人だ。望まれてもいないのに近づいて嫌われるだけなら、遠くから見ているだけの方がいい。ブラウン管の向こう、プリントの向こう。決して傷つけられることのない隔たりに安心しながら。
【小説】ファインダーの向こうに(7)授賞式 -1-
あ〜、ジョセフをお待ちの皆さん、すみません。「出す出す詐欺」になっているかも。
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ファインダーの向こうに
(7)授賞式 -1-
ジョルジアが、妹アレッサンドラの専属スタイリスト、マイケル・ロシュフールのスタジオへ出向くと「待っていたわ」と笑顔で迎えられた。ミッキーの愛称を持つロシュフールは、少し長めの黒髪を後ろで縛った男だが、動きも話し方もジョルジアの五倍は女らしい。
ドレスのことを相談した時に、アレッサンドラが絶対に彼にヘアスタイリングとメイクアップをしてもらうべきだと言って、その場で予約を入れられたのだ。彼は客の希望をきちんと聞き入れて、それ以上の効果を出す天才スタイリストだというのがアレッサンドラの意見だった。氣がついたら、ドレスもスタイリングも全てアレッサンドラが払ってくれていたので、ジョルジアは抗議したが「お祝いだもの」とひと言でいなされてしまった。
ミッキーが「どんなスタイルがお好み?」と訊いた時にジョルジアはひと言だけ答えた。
「アレッサンドラ・ダンジェロにだけは絶対に見えないスタイルにしてください」
彼は、したり顔で頷いたかと思うと、まず彼女のヘアスタイルを上手に整えていった。それから一度髪をケープで覆うと、彼女のメイクアップに取りかかった。
「ねえ。化粧をしたからといって、そのままアレッサンドラに近づくってわけじゃないのよ。それを証明してあげるわ」
ミッキーは、綺麗に手入れされた指先でジョルジアの顔の輪郭をなぞり、鏡越しに彼女の瞳を見つめた。
彼は、大きな化粧箱から、いくつかの小瓶を取り出して、鏡の前に並べた。わずかに色合いの違う肌色の瓶が、綺麗なグラデーションとなって並んだ。彼は実際に、いくつかを彼女の肌に合わせて、一番近い色を選ぶと、パフにそのクリームをのせて彼女の顔を覆っていった。
「よく伸びるでしょう? これね。日焼け止め効果もあるの。乳液とファンデーションと日焼け止めが一つになったもので、化粧下地としてあたしは使うけれど、ナチュラルメイクならこれだけつけていればいいの。日焼け止めの代わりに使ってみたら?」
ジョルジアは、何と答えていいかわからなかった。化粧をしないで、日焼け止めだけで外に出るのは、女として存在したくなかったからだ。けれど、敢えてそれを主張すべきことのようにも思えなかった。
「でも、今日は、フルにメイクアップしなくちゃね。スポットライトの下では、全然違って見えるものだから」
彼女は、抵抗しても無駄だと思って、黙って彼に任せていた。
「さあ、できた。どう? 化粧しましたって顔じゃないでしょう?」
鏡の中の自分を見て、ジョルジアも驚いた。あんなにいろいろと塗られたのに、パッと見は特に何かを塗ったようには見えなかった。ただ、肌がきめ細やかになり、眉がきりっとした印象になっていた。唇は色の違う二色のローズでグラデーションとなっていたが、それが瑞々しい立体感を作り出していた。構わない少年のようだったジョルジアは、透明で中性的な姿に変化していた。
「ほら。さっきの下地クリーム、新品があるからあげるわ。あたしからのお祝い」
そう言ってミッキーはウインクした。ジョルジアは素直に受け取り、お礼を言った。ドレスに着替えて再びミッキーにチェックしてもらうと、頬に幸運を願うキスをしてもらい、会場へ向かうタクシーへと乗った。
会場の前には、ベンジャミン・ハドソンが落ち着かない様子で立っていた。タクシーの窓ごしに彼が氣づいて笑いかけたのを見たので、彼女はホッとした。タクシーを降りたジョルジアを見て、彼は一瞬息を飲んで何も言わなかった。
「派手すぎかしら」
ジョルジアは、彼の瞳に映った戸惑いを見て、ドレスに目を落とした。
「そんなことはないよ。ただ、びっくりしたんだ。とても綺麗だし、よく似合っている」
彼女の身につけているドレスは、濃紺のサテンで胴の部分にはエンドウの花をヴィクトリア朝風に豪華にデザインした同色の贅沢なレースが覆っていた。タイトなスカートの脇に入ったスリットからいつもはジーンズの中に隠れている長く引き締まった足がちらついた。大きく開いた襟ぐりには、大粒本真珠の三連ネックレスが品のいい虹を映していた。そして、少し固めてラメがついた艶やかなショートカットの下から、ティアドロップ型の同じ色の真珠のイヤリングが見えた。
「すごい真珠だね」
「マッテオが、贈ってくれたの。日本産の天然物なんですって。今日つけていなかったら、殺されちゃう」
「間違いなく、君が今日一番の主役になるよ」
ベンジャミンは、目を細めた。
「主役じゃないわ。ただの六位ですもの。そりゃ、他の受賞者は男性だからドレスを着ているのは一人だけれど……」
ジョルジアは、自信なさそうに下を向いた。
「もっと堂々としろよ。ステージ上に行かなくちゃいけないんだぜ」
「ベン。あなたは一緒に行ってくれないの?」
彼女がそう言うと、彼は残念そうに笑った。
「エスコートしたいのは山々だけれど、それは社長がやるってさ」
授賞式は、程なくして始まった。ジョルジアは、他の受賞者たちと並んで椅子に座っていた。彼女は、司会者の芝居がかった大袈裟な進行にも、バンドが奏でるうるさいくらいの効果音にも、ほとんど関心なく時間が経つのを待った。スポンサーに対する長い讃辞、『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』の歴史、権威に対する自讃、それに一般投票への市民の関心の高さなどが統計を使って語られた。
審査委員長が講評を話した時に、自分の写真のことに対する賞賛が、他の五人に対する評価の合間にわずかに語られた時にも、他人事のように感じていた。が、彼が特別審査員を紹介し、その場にいる十二人に順にスポットライトが当たったその瞬間だけ、ジョルジアは平静さを失っていることを感じながら、ただひとりの関心のある男を見た。
そして、授賞へと式次第が進むと、一番低い六位だった彼女は最初に呼ばれた。派手なスポットライトと、浴びたこともないフラッシュに身がすくんだが、《アルファ・フォト・プレス》を代表して社長が彼女をステージまでエスコートしてくれたので、彼女はなんとか小さいトロフィーを受け取り、わずかに微笑みながら歩いて戻ってくることができた。
その後のことは、ほとんど特筆すべきこともなかった。あるとすれば、全員へのトロフィー授与が終わった後で、ステージで集合写真を撮ったのだが、『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』の大賞を受賞したマリアーノ・ゴンザレスが、彼女の隣を選んで馴れ馴れしく肩を組み、もう一枚写真を撮らせた上、「後で連絡先を教えて」と囁いてきたことぐらいだった。それで、彼女の助けを求める視線に氣がついたベンジャミン・ハドソンがさりげなく彼女をその場から移動させた。
授賞式の後は、続けて会場を使ってパーティが行われる予定だった。会場をバンケットへと設営し直す間、隣の部屋で軽い飲み物を飲みながら人びとは待っていた。別の用事があって先に帰る社長を送ってベンジャミンが席を外している間、ジョルジアは、ゴンザレスの視界に入らないように入口の近くに立って、白ワインを飲んでいた。
「あれ。ジョセフ! どこへ行くんだ? パーティにも出るんだよな」
その声を聴いて、ジョルジアは思わず振り返った。
【小説】ファインダーの向こうに(7)授賞式 -2-
今回、ジョセフだけでなく、もう一人TOM-Fさんのところからあの方にゲストにいらしていただいてます。セリフないんですけれど……。
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ファインダーの向こうに
(7)授賞式 -2-
驚いたことに、手を伸ばせば届くほどの距離にジョセフ・クロンカイトがいて、戸口の方に向かって歩いていこうとしている所だった。そして、彼が、ジョルジアのすぐ後ろにいた司会者、彼に話しかけた男に答えるために振り向いたので、彼女は彼の顔をまともに見ることになってしまった。心臓が高鳴っている。
「ああ。ミス・カスガも一緒にね。もう来ているはずだから、正面玄関に行って拾ってくる所だ」
「OK。乾杯までに戻ってくれれば、それでいい。ひと言話すつもりでいてくれよ」
「なんだって」
「長くなくていいんだ。そういうのは得意だろ、頼むよ」
彼は、眼鏡の奥から司会者を短く睨むと、肩をすくめて出て行った。
「やれやれ。乾杯の音頭はなんとか押し付けられたぞ」
そういう司会者に、その場にいた他の男が口を挟んだ。
「ミス・カスガってのは、いつもくっついている、あの助手みたいな日本人か?」
「そうだ。若くて可愛い顔をしているが、なかなかの切れ者でクロンカイトの手足になって走り回っているらしい」
ジョルジアは、聴くべきではないと思いながらも、好奇心に負けて、背を向けたまま彼らの会話に耳を傾けていた。もう一人の男が会話に加わった。
「日本人の女の子? もしかして、僕は逢った事があるかもしれない。あいつの家で開催されたホームパーティでね。なんて名前だったかまでは忘れたけれど、かなり親しい関係みたいだったぞ。直に婚約でも発表されるのかと、みんなで言っていたんだから」
「そうなのか? その件は知らなかった」
ジョルジアは、その場を離れ、ワイングラスをボーイに返した。溜息が漏れる。
――当然のことじゃない。あの人だって生きているのだから。毎日魅力的な人たちに逢って、幸せになる努力をしているのだから。
何も期待していない。そう思っていた。でも、それは自分に対する嘘だった。ここに来たのも、ドレスも、真珠も、どこかに期待が隠っていた。知り合い何かが始まることを、心の奥で望んでいたのだ。だから、これほど惨めに感じるのだと。彼女は、ドレスの裾を握りしめていた拳の力を緩めた。
――私にとって、あの人は世界中でたった一人の特別な人だけれど、彼にとっての私はただの知らない人間でしかない。そして、私は彼に、見ず知らずの人間の人生を受け止めることを期待していたのだ。そんなことが可能なはずはないのに。
ジョルジアは、クロークへ行き上着と鞄を受け取った。それからベンジャミン・ハドソン宛に具合が悪いので帰るという旨のメモを急いで書くと、ホールマネジャーにチップとともに渡した。
玄関ホールへのエスカレータを降りる時に、ジョセフ・クロンカイトが日本人女性と会話を交わしながら昇っていくのとすれ違った。彼がこちらを向いたようにも感じたが、振り向かず、黙って玄関口へと向かった。
タクシーの中で、彼女は運転手に感づかれないように、そっと涙を拭った。
――苦しくて悲しいのは、存在を認めて、肯定してほしかったからだ。それが「何も期待していない」という言葉の裏に隠された本当の願いだったのだ。馬鹿げて高望みの。
ジョルジアは、ジョセフ・クロンカイトと一緒にいた女性の美しい笑顔を思い浮かべた。世間に恥じぬ努力を重ねている人間の内側から溢れる自信。マッテオやアレッサンドラの放つ恒星のようなエネルギーと同じものを感じた。彼が尊敬し、愛するのは、あの太陽のような女性なのだ。暗闇の中でいじけている女には、関心を持つことすらないだろう。
誰からも愛してもらえなかったのは、痣のせいではない。ただ、自分自身が輝いていなかったからだ。ジョルジアは初めてそう感じた。トラウマや体の傷のことを努力をしない言い訳に使ってきた。人に拒否されるのが怖いから、「これなら愛されなくても当然」と思える鎧で身を固めてきたのだった。
写真もそうだ。かつての情熱を失い、受け入れられるものにすり寄って、虚栄心のために自分らしくない作品を撮り続けてきた。
『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』一般投票部門での受賞。それが標程内にあると知らされたのは、数年前だった。子供の写真を撮ると評判がよく、社内でもその路線を狙えと言われた。その頃から、彼女は、意図的に望まれる作品を撮ってきた。ポピュラーになればなるほど、実生活では誰にも顧みられぬ心の痛みを抑えることができた。それは麻薬のように彼女を甘く支配し、受け入れられる写真ばかりを撮らせてきた。
――この受賞は偽りの功績だし、まがい物の成功だ。そして、ドレスや真珠も、化け物と呼ばれた私を変えたりはしない。
――あの人は、真実を追い求める人。偽りのない、虚飾のない世界を。嘘の功績で飾り立て、醜い肉体を美しい布で覆うことで関心を持ってもらえても、知り合えばすぐに見抜かれてしまう。それを心の奥では知っていたから、知り合うことが怖かったんだ。
そんなあたりまえのことを、こんな惨めな想いをするまでわからなかったのは、問題が自分にあることを認めたくなかったから。彼女はため息をついた。現実は甘い夢想を駆逐した。真実が綺麗ごとに覆われていた心の嘘を暴いた。彼女は、愛する人の前に立てるだけの誇らしい自分らしさを何も持っていなかった。
窓の外に流れるマンハッタンの煌めく夜景を眺めた。認めてくれる誰か、愛してくれる誰かを期待して待つだけなんて無意味なことはもうやめよう。踞っているだけで無駄にしてしまった十年間の代わりに、虚栄心のために失ってしまった自分らしさを取り戻すために、言い訳はやめて道を探そう。一人で、弱く、誰からも顧みられない惨めな自分と折り合いながら。
「あなたを変えるのは、いつだってあなた自身よ」
アレッサンドラの口癖が、脳裏によぎる。たぶん初めて、本当にその通りだと認めることができる強さで。
【小説】ファインダーの向こうに(8)ポートレート -1-
今回は、兄マッテオを撮ったモノクロームの写真の載った雑誌が発売されてからはじめて会社に向かった日の事です。
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ファインダーの向こうに
(8)ポートレート -1-
「見ろよ」
顔を見た途端に、ベンジャミン・ハドソンは箱を抱えてきてデスクの上にドサッと置いた。ジョルジアは、その中に入っている封書やハガキを見て、びくっと震えた。それから上目遣いになって、探るように彼の次の言葉を待った。
「これ、全部、『クォリティ』誌のセレブ特集に関する読者からの意見だ。約三割がマリアーノ・ゴンザレスの撮ったイザーク・ベルンシュタインの写真について。それから一割が例の日本人俳優トダ・ユキヒコ特集、一割がその他のセレブの写真について。残りは、先週発表したマッテオ・ダンジェロ特集、君の写真についてだ。全体のほぼ半分だぞ。こんなに反響が来たことってないだろう?」
彼女は、怖々と箱の中を覗き込んだ。几帳面なベンジャミンらしく、分類した通りにゴムバンドで留めてあった。手を伸ばして一通でも読むつもりにはなれなかった。いずれにしてもベンジャミンがもう全て目を通したのだ。
「それで」
「中身は知りたくないのか?」
「非難囂々? もう役員たちにお小言もらった?」
ベンジャミンは、不服の表情を浮かべ、人差し指を振った。
「そんなわけがあるか。この僕が、素晴らしいと言った写真だぞ。そりゃ、100%肯定する投書だけじゃなかったさ。そんなのは何をしても同じだ。だが、この投書の山を見せりゃ、新しい写真集の企画書は簡単に通るさ。ほら、読んでみろよ」
ジョルジアは、恐る恐る一番上に乗っている束に手を出した。
「最初に、この素敵な男性と写真の美しさに惹かれました。それから、それがあのマッテオ・ダンジェロだとわかって驚きました」
「なんて印象的な光の使い方なんでしょう。夜かと思うほど深いグレーの効果で、海に反射する太陽がとても強く感じられます。彼ってこんな風に優しく笑う人だったんですね」
「この印象的なポートレートを撮った写真家は誰だろうと思って、この雑誌を購読して始めてクレジットを探しました。なぜこんなに小さく入れるんだろうと文句をいいながら。ジョルジア・カペッリって、あの子供専用写真家? こんな写真も撮るんですね。驚きました」
「ジョルジア・カペッリらしくない、暗い色調の写真ですね。本当に彼女が撮ったものなんですか。そうだとしたらガッカリです」
「ダンジェロ様らしくなくて嫌です。カラーにする印刷代をケチったんですか」
「いつもは、この特集のセレブと、インタビューの方に意識がいくのですが、今回は写真の方がずっと印象的でした。そういえば、『クォリティ』は写真誌でしたね。あの軽薄なお調子者マッテオ・ダンジェロらしくないですが、インタビューの方ではあまり浮かび上がってこない、彼の意外な一面が見えて興味深かったです」
最初の束が終わると、ジョルジアはそれをまた丁寧にしまい、それから次の束を読んだ。ベンジャミンが言っていたことは嘘ではなかった。手厳しい批判もあったが、それ以上に思いもしなかった賞賛の言葉が並んでいた。とりわけ、「深くて印象ぶかい」「マッテオ・ダンジェロに始めて興味と好意を持った」といった意見は、想像もしていなかった。それに、ジョルジア・カペッリにも写真集『太陽の子供たち』にも全く興味がなかった読者から「この写真家は何者か」「彼女の作品は他にないのか」という問い合わせもあった。
「ダンジェロ氏自身からも電話があったよ。この特集を組んでくれてありがとうってね。でも、君だって彼とコンタクトしているんだろう?」
「ええ。怒られるのが嫌で逃げ回っていたけれど、ついに昨日つかまっちゃったの。兄さんがやけに上機嫌だったから、彼の知り合いからは好意的な感想を貰えたんだとホッとしていた所。でも、会社の方は、大変なことになっているんじゃないかと……」
「だから、全然つかまらなかったのか」
ベンジャミンは、手をピストルの形にし戯けて彼女を撃つ真似をした。
ジョルジアは、投書の束を箱の中に戻した。
「全部読まないのか?」
ベンジャミンの言葉に、彼女は首を振った。
「あなたがもう報告書をまとめたんでしょう? 来週の会議でその資料を読むわ。それに……」
「それに?」
「写真を、ずっと撮っていなかった本当の私の写真を、一枚でも多く撮りたいの。でも、その前に、やらなくちゃいけない会社の仕事もあるでしょう? 今週のスケジュールを教えてちょうだい」
ベンジャミンは、肩をすくめると、向こうのデスクに戻りプリントアウトされた撮影スケジュール表と打ち合わせ資料を持ってきた。
【小説】ファインダーの向こうに(8)ポートレート -2-
ジョルジアは、マッテオを撮った『クオリティ』誌の反響に驚きました。そして、ストーリーの最初に出てきたあの人にまた逢います。勇氣を出して、十年間してこなかった彼女の新しい一歩を踏み出します。
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ファインダーの向こうに
(8)ポートレート -2-
会社を出たジョルジアは、空を見上げた。太陽が高い。眩しい光に目を細めた。
これで方向転換が正しいと立証されたなんて思っていない。彼女の作品が前よりも認められたわけでもない。雑誌の中の数ページと、写真集では全く意味が違う。
今までの見開きごとにアピールした原色の色彩がすべてモノトーンに変わる時、それを買うことを人びとに決意させる力は明らかに弱まる。『太陽の子供たち』の売上を超えることは、今から不可能だとわかっている。そして、売上が低迷した時にその原因が路線の変更にあると叩かれることも。
それでも、今やらなくてはいけないのだ。今までと同じ路線で、自分に嘘をつきながら撮ったとしてもやはり売上は落ちるだろう。そうなった時に路線を変更させてほしいと頼んでも会社はいい返事をしないだろうから。
最初で最後になっても構わない。自分らしい写真集を出したい。
ジョルジアは、《Sunrise Diner》に入って行った。もうモーニングセットの時間は過ぎてしまった。神経が昂っているので、食欲もあまりない。コーヒーを飲んでドーナツでも食べよう。
「あら、いらっしゃい」
キャシーが笑いかけた。それから、カウンターの中から『クォリティ』誌を取り出した。
ジョルジアは、肩をすくめて何も言わなかったが、キャシーはさっと例のページを開けて言った。
「これ撮ったの、あなたでしょう、ジョルジア。すごいじゃない。本物のマッテオ・ダンジェロを撮影したなんて一言も言わないんだもの。びっくりして騒いじゃったわ。そしたら、他のお客さんが、あなたはこのあいだすごい賞を受賞したばかりだって話していたわよ。どうして教えてくれなかったの?」
「全然すごくないわ。大賞じゃないのよ。一般投票で六位だったの」
「でも、有名写真家になったから、マッテオ・ダンジェロの撮影もできたんでしょう? ああいうセレブと知り合えるなんていいわねぇ。ねぇ、あの人独身だし、もしかしたらチャンスがあるかもしれないわよ」
興奮して騒ぐキャシーに、ジョルジアは困ったように笑いかけた。
「残念ながら、マッテオのお嫁さんにはどうやってもなれないわ。いずれにしても、私には誰かと結婚するチャンスなんてないの。だから、一人で生きていけるように、仕事を頑張らないとね」
「仕事は、なんにせよ、頑張るものよ。でも、チャンスがあるなら……。もう、いいわ。時々いるのよね、目の前にある幸運の塊をポイ捨てして、苦労の素みたいなモノに走っちゃう人。私には理解できない」
ブツブツ言うキャシーに、ジョルジアは笑った。
不思議だった。前に同じ事を言われていたら、傷ついていたはずだ。自ら出会いからも、人付き合いからも遠ざかっていたはずなのに、自分には相手がいないという事がいつも彼女を苦しめていた。それでいて「誰もいないのは、努力しないからだ」と言われることにも同様に傷ついていた。
でも、今のジョルジアは、そのことでは傷つかなかった。彼女には愛する人がいた。他の何十億もの男性に愛されないことは、今の彼女にはどうでもいいことだった。そして、たった一人の彼にもまた愛する別の女性がいる。そのことは彼女を苦しめはしたが、受け入れることはできた。そして、これからもずっと一人でいることは、紛れもない現実として彼女の中に座っていた。今、彼女はそのことに悩むよりも、新しいもう一つの希望、本当の自分の作品を生み出すことに興味があった。それもまた、同じ一人の男の存在に繋がる想いだった。
「ねえ、キャシー。この写真、見て」
彼女は、鞄からファイルを取り出した。先日撮ったキャシーの娘アリシア=ミホの写真だ。
「え。すごい! こんなに素敵に撮ってくれたの? ええ~?」
「そんなにお氣に召したなら、これは持って帰って。それに、さらにお願いがあるんだけれど」
「何? この写真貰えて、とても嬉しいから、どんなことでも言って」
「こんどはあなたの写真を撮ってみたいの。アリシア=ミホと一緒の写真や、ここで働いているいつもの姿、それにご主人と一緒の時も」
「いいけれど、どうして?」
「私、ずっと大人の写真を撮っていなかったの。でも、わかったのよ。私はずっと、人びとのありのままの人生を映し出したかったの。でも、モデルになる人に撮らせてほしいって言えなかったの。その人たちの人生の重さに対峙する勇氣もなかった。でも、直面することに決めたの。撮らせてくれる?」
「いいわよ。大歓迎。面白そうだし。私、ぐずぐずしていた人が、迷いを振り切って動き出すの、好きなの。応援したくなっちゃう」
「そして、撮った写真、新しい写真集に載せてもいい?」
キャシーは、明るく笑って頷いた。
「セレブの仲間みたいに? やった。その写真集もくれるならね。サイン入りでよ」
【小説】ファインダーの向こうに(8)ポートレート -3-
ようやく自分の本当に撮りたい写真のスタイルで撮影を始めたジョルジア。変わっていっているのは、それだけではありません。ハッピーエンドやバッドエンドというくくりの難しいラストですが、これで本当に終わりです。ご愛読いただきありがとうございました。追記に後書きを置きました。
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ファインダーの向こうに
(8)ポートレート -3-
ジョルジアは、《Sunrise Diner》やキャシーの家に通い、たくさん写真を撮った。笑っている顔、腹を立てている顔、拗ねている顔、皮肉を言う顔、美しい立ち姿、変な姿勢の時、赤ん坊を抱きしめる時、夫のボブと抱き合っている時、口論をしている姿。露出とシャッタースピード、それに焦点を変えて幾枚も撮り続けた。フィルムに美しい瞬間だけでなく、生きている彼らの人生が映し出されていく。
ロサンゼルスに行き、ショーの準備をしているアレッサンドラの姿も撮った。スポットライトを浴びていない彼女の、仕事を離れた時には見せない尖った神経、わずかによぎる不安を映し出すことに成功した。そして、喝采を浴びる彼女の華やかな笑顔、娘といるときの母親としての愛情。
どれだけ多くの事柄を、瞳のシャッターから追い出してきたのかと、ジョルジアは訝った。全てのモデルには、陰影があった。彼女が今まで好んで撮影し、評価を受けてきた「天使である子供たち」のような、明るく完璧な美は影を潜めた。必ずどこかに醜く悲しいものがある。それはジョルジアの中にだけあるのではなかった。そして、その影が被写体の光の部分をより美しくするように、それを撮っているジョルジア自身の影も、自らの光を感じるようになっていた。
彼女は、醜い化け物であると同時に、どこにでもいる女という魅力ある生き物でもあった。哀しみに支配されていながら、歓びに胸を躍らせていた。彼女は撮影を楽しんでいた。毎日の新しい発見が嬉しくてたまらなかった。誰からも顧みられぬから、仕方なしに仕事をしているのではなく、努力を認めてほしいから何かを創り出すのでもなく、だだひたすら自分自身でいることを楽しんでいた。かつて、始めて父親のカメラを手にして、その小さな箱の中に映る無限の世界に惹き付けられた、あの頃と同じ情熱を取り戻し、好きなことを仕事にできた幸運を噛み締めていた。
彼女は、自分が変わりつつあることを自覚していた。一方通行ではなく、喜びだけでもなく、被写体のプラスの感情とマイナスの感情、両方を受け止められるようになっていることを感じていた。作品への批判や否定を予想しても、人ではなく自分の感覚を優先できるようになっていた。それは、自分を信じ、尊重するということだった。
小さいアパートメントの洗面所。彼女は、鏡の前に立ち、自分の顔を見た。青ざめた肌は変わっていなかったが、瞳に光が入っていた。それに、わずかに口角が上がっていた。ファインダー越しに見つけた、マッテオの口元との相似を見つけて、彼女は嬉しくなった。
そこにいるのは、もうアレッサンドラ・ダンジェロの惨めな影ではなかった。アレッサンドラが愛して、幸せを願っている、彼女の大切な姉の姿だった。
「あなたを変えるのは、いつだってあなた自身よ」祝福の言葉が甦る。彼女は、妹のスタイリスト、ミッキーに貰ったクリームに、あの授賞式以来、洗面所に置きっぱなしになっていた小さな瓶に、そっと手を伸ばした。
「へえ。いいな」
久しぶりの打ち合わせで、彼女はずいぶんと厚くなったファイルを取り出して、作品をベンジャミンに見せた。様々な人物像が写っていた。キャシーとその家族、マッテオやアレッサンドラ、それからその撮影の時に撮ることを許してくれた、使用人のハリスやスタイリストのミッキー。姪のアンジェリカとその友達。街の清掃人、《Sunrise Diner》の客たち、公園や海岸で寛ぐ人びと。
ジョルジアが、こんなに光の扱い方が上手いことを、担当編集者である彼も、氣がついていなかった。明るい色彩の中では、その光と影のコントラストは、主役である色相に紛れて強く主張していなかった。それが、モノクロームの写真の中では主役となり、人びとの心の陰影、そしてそれを見つめるジョルジア自身の心のひだをくっきりと映し出す。
彼女自身が上手く撮れたと自負している写真になると、ベンジャミンの反応も大きかった。長く時間をかけて、満足げに眺めていた。その反応が、彼女に大きな自信を与えた。新しい写真集。これは大きな賭けだ。結果がどうなるかはわからない。でも、決して後悔しないだろうと思った。
「ねえ。ベン」
「なんだ?」
「今度時間があったら、あなたを撮らせてくれない?」
「……僕を?」
「あなたと、スーザンと、そしてジュリアンと、一緒にいる日常を撮ってみたいの」
ベンジャミンは、手の間から砂がこぼれていく感覚を味わった。傷つき怯えて、飛ぶことのできなかった、彼が守り、触れずにいつまでも世話をしたいと思っていた鳥は、ゆっくりと翼をはためかせている。
彼女のファインダーに映れないと残念に思っていたのは、昨日のことのようだった。だが、それは当然だったのだ。彼は十年間もカメラよりも手前にいたのだから。一人では立てない彼女を支えて。一番近くに。
「やっと……だな」
「何が?」
「君が僕をファインダーに入れてくれた」
ジョルジアは、少し首を傾げてから笑った。その口元にうっすらとルージュが引かれていることに、ベンジャミンははじめて氣がついた。
ジョルジアは、暗室の壁の前に立ち、手を伸ばした。触れることがためらわれて、いつも視線で追うだけだった写真。狂おしい想いが昇華されて、愛されないことの苦しみよりも、ただ愛することの歓びが胸にひろがっているのを感じた。
この写真が全てのきっかけだった。再び生きることへの。人びとと向き合うための。自分自身を愛する道のりへの。
彼女は、奇妙な形とはいえ、確かに彼女が愛している男に語りかけた。
いつか、もう一度あなたを撮ってみたい。あなたが愛する人と一緒にいる所を。その眼鏡の奥であなたの瞳が愛情に煌めく瞬間を。あなたがあなたの子供と一緒にいる幸せをかみしめている光景を。あなたの曇りのない幸福を映し出すことができたら、きっと私は生涯に一度も得たことのない愛の昂揚を手にするだろう。私自身が愛されることは永久になくても。
写真を壁からそっと外し、愛おしげに眺めてから、少しずつ集まりだしているモノクロームの人物像のファイルの一番上に置いて、ファイルを閉じ、大切に鞄の中にしまった。
それから、暗室の電灯を完全に消し、いつもの通り戸締まりをしてから、我が家に帰るために黄昏の通りをひとり歩いていった。
(初出:2015年12月書き下ろし)
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