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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012

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Posted by 八少女 夕

【小説】パリでお前と

66666Hit記念小説の第二弾です。現在連載中の中編小説「ファインダーの向こうに」の外伝になっていますが、はっきり言って本編とは何の関係もありません。出てくる二人も、本編には全く出てこなかった人たちです。時期でいうと本編が終わった数か月後です。12月23日くらいのパリ、という設定ですね。そして、この話も特にオチはありません。起承転結を期待して読まれると、肩すかしを食らうかもしれません。

この66666Hit企画は、六名の方から出していただいた名詞をそれぞれ一つ以上使うというルールがあります。今回、使った名詞は順不同で「テディーベア」「天才」「中国」「古書」「蚤の市」「モンブラン」「アルファロメオ」「野良犬」「遊園地」「モンサンミッシェル」の十個です。


参考:「ファインダーの向こうに」
「ファインダーの向こうに」を読む



ファインダーの向こうに・外伝 — パリでお前と

 アンジェリカは、彼の手のひらに手を滑り込ませた。フォーシーズンズ・ジョルジュ・サンクからギャラリー・ラファイエットまでのさほど長くない道のりを、渋滞に巻き込まれて退屈な時間を過ごすことになっても文句一ついわなかったし、むしろ彼をリラックスさせようと明るく話し続ける彼女を、レアンドロ・ダ・シウバは愛おしいと思った。

 二時間もあれば飛んでこられるのに、わざわざドーバーを越えるフェリーを使ってフランスまで来たのは、愛車スパイダー・ヴェローチェに乗せてやるという一年前からの約束を果たすためでもあったが、実際のところ幼い彼女には、1993年に生産終了となったスポーツタイプ車の価値などはあまりわかっていなかった。だが、少なくとも、デパートメントストアの駐車係は、その車の価値をわかったようで、しかも運転してきたのが、かなり有名なサッカー選手であることに氣がついて、慇懃に挨拶をしたので、彼の自尊心は大いに満足した。

 アンジェリカの白いコートを持ってやり、二人は輝かしいシャンデリアを見上げた。クリスマス前の最後の買い物をしようとする人びとが忙しく動き回っていた。アンジェリカは、少し怯えたようにごった返す店内を見回した。彼は、そんな八歳の少女の手のひらを優しく握りしめた。

 前に逢ったのは半年も前で、その間にずいぶんと背が伸びて、より美しくなったように感じた。離婚して毎日は逢えなくなった我が娘に対して感じる、大抵の父親と同じ感想なのかもしれないが、少なくとも絶世の美女と世間の認めるスーパーモデル、アレッサンドラ・ダンジェロにますます似てくる娘を美しいと感じるのは、親の欲目だけとは言えないであろうと思った。

「それで。本当に明日には、スイスに行ってしまうのか。雪があるだけで、つまらない山の中だろう。結婚式が終わるまで、パパと一緒にマンチェスターへ来てもいいんだぞ」

 ブラジル出身のプロサッカー選手であるレアンドロは、二年ほど前にプレミアムリーグに属する有名チームに移籍した。

 アンジェリカは、首を振った。
「だめよ、パパ。ママの結婚式では、私、フラワーガールをすることになっているんだもの。それが終わったら、私はまたロサンジェルスに戻って、学校に行かなくちゃいけないのよ。マンチェスターで、パパの試合を応援する時間なんてないんだわ。それに、パパがトレーニングしている間、ソニアとお茶を飲んでいるだけなんて退屈だもの」

 それで彼は、二度目の妻がアレッサンドラ・ダンジェロとその娘に対して、あまり好意的でないことを思い出して、娘をイングランドに連れて行くという計画を諦めた。そういえば、だからこそ、彼がわざわざパリまで出てきたのだった。

「じゃあ、少なくとも今日一日まるまるは、パパとデートしてくれるだろう。アレッサンドラは今日は、忙しいんだろうし」
「そうね。ウェディング・ドレスの仕上げなんですって。ねえ、パパ、どうしてママは結婚する度に新しいドレスを作るの? 二年前のだって、一度しか着ていないのに」

 レアンドロは、もう少しでむせ返るところだった。
「さ、さあな。そもそも、パパは、なぜあいつが、また結婚するつもりになったのか、それだってわからないよ」
「どうして? パパは、シングルに戻ったママともう一度結婚したかったの?」
「う~ん。そう簡単にはいかないんだよ」
「ああ、そうか、パパはソニアと結婚しているものね」

 アンジェリカは、したり顔で頷いて、それから大きなデパートメントストアの、子供服売場の方に意識を戻した。

 レアンドロは、娘の着ているスモモ色のビジューギャザーのワンピースをちらっと見た。確かイ・ピンコ・パリーノとかいうイタリアのブランドだ。マッテオ伯父さんに買ってもらったと言っていたな。

 アレッサンドラの兄、ニューヨーク在住のマッテオ・ダンジェロに対して、レアンドロは強い対抗意識を持っていた。あいつにバカにされないものを買ってやらなくちゃいけない。俺は子供服のことはさっぱりだが、ふん、少なくとも値段が高いか安いかくらいは、わかるさ。このデパートメントに売っているものが、どれもバカ高いことだってな。

「欲しいのは、洋服だけか。ほら、あそこの熊のぬいぐるみは?」
レアンドロが指差した先には、茶色い大きなテディーベアがサンタクロースの衣装を着せられてかなり雑な様子で椅子に座らされていた。

「もう、パパったら。私ね、何ヶ月か前だけれど、ジョルジアとメイシーズに行って、ジュリアンの誕生日にこういう熊を選んであげたの」

 ジョルジアは、アレッサンドラの姉だ。なんともぱっとしない女で、確か写真家だったな。レアンドロは素早く考えたが、ジュリアンというのがわからない。まさか、アンジェリカのボーイフレンドじゃないだろうな。いくらなんでも早すぎる。
「ジュリアンというのは、誰だったかな?」

「ジョルジアが名付け親になっている子よ。六歳なんだけれど、子供っぽいの。親はスキーウェアがいいって言ったらしいけれど、あの子はそんなのより、ぬいぐるみの方を喜ぶわよってジョルジアにアドバイスしてあげたの。それで、ああいう巨大なテディーベアが、スキーウェアを着ているような形にしてプレゼントしたら大喜びだったんだって。でも、私はもう、ぬいぐるみを抱えて寝るような子供じゃないのよ」

 彼女は、そう澄まして言いながらも、傾いて座っているテディーベアの位置を直してやってから、優しくポンポンとその頭を叩いた。

 一人前のような口をきいて、同年齢の子供よりも大人びて見えるが、時折見せる子供らしさをレアンドロは見逃さなかった。彼女は、両親にたくさん時間を割いてもらえないことを批難したりはしない。彼らの離婚と再婚によって複雑怪奇になる一方の家庭事情も黙って受け入れている。大人のような口をきくのも、寂しさと折り合うための彼女なりの努力なのかと思うと、彼の心は締め付けられた。

 子供服売場をひとしきり歩いたけれど、アンジェリカの目が輝くことはなかった。どれもカジュアルすぎるし、思ったよりもペラペラしている。マッテオ伯父さんに甘やかされて、最高級のイタリアブランドを着慣れている彼女は、子供なのに目が肥えてしまっているらしい。

「もっと大人っぽいのがいいんだけれどな」
「どんなブランドがいいのかい?」
「う~ん。マリー・シャンタルか、ジャカルディみたいなの。でも、なければいいのよ、パパ。レストランに入っておしゃべりしましょうよ」

 マリーなんとかに、ジャカルタか。はじめて聞いた。子供服のブランドなんだろうか。デパートには入っていないのかもしれないな。サッカー選手はあれこれと悩んでいたが、娘は彼の手を引いてさっさと飲茶専門店に入っていった。

「中国のお料理、パパも好きでしょう? 私、綺麗な点心を少しずつ食べるの大好きなの」
「そうか。じゃあ、美味しいものをたくさん食べよう」

 そこからが一苦労だった。フランス語と中国語のアルファベット表記と漢字で書かれたメニューは、ブラジル人のレアンドロには、呪文の書かれた魔法書やギリシャ語で綴られた古書と変わらなかった。西欧の料理ならば、それでも前菜なのかメインなのかくらいはわかるが、中華料理ではそれすらもわからない。だが、メニューも読めないほど学がないと思われるのも悔しい。彼はウェイターを呼んだ。
「悪いが、英語のメニューを持ってきてくれ」
本当はポルトガル語がいいけれど、あるわけないからな。

 結局、英語のメニューでも彼にはどんな料理かよくわからず、アンジェリカが美味しいだろうと提案してくれたものを頼むことにした。ちくしょう、二度とパリなんかで逢ったりしないぞ、父親の威厳が台無しじゃないか。彼は心の中で呟いた。

 彼は、しばらく箸を使えるようなフリをしようとした。が、いつまで経っても水餃子をつかめない。今は、娘に逢いにアメリカへ行く度に飛行機のファーストクラスを使ったり、ル・プラザ・アテネに宿泊料金を確認せずに泊ったり出来る年棒をもらっているが、アンジェリカくらいの年齢の時には、サンパウロの貧民街で野良犬と一緒にゴミをあさっていたのだ。箸の使い方なんか、習ったことはなかった。彼は、諦めて箸を持ちかえると、水餃子をぐさっと突き刺した。

「で、アレッサンドラと、なんとかっていうお貴族様は、スイスのどこで結婚するんだ? モンブランのあたり?」

 アンジェリカは、饅頭を上品に食べながら、しょうがないなという顔をした。
「パパったら。モンブランは、フランスの山でしょ。結婚式と披露宴があるのは、サン・モリッツよ。ヨーロッパ中の貴族が招待されるから、高級リゾートで、しかも警備が万全にできるところがいいんですって。パパは、スキーってしたことある? あれって、簡単に滑れるようになるのかしら? 赤ちゃんみたいな、ジュリアンだって出来るんだから、そんなに難しくないはずよね」

「さあな。パパはまだやったことはないよ。でも、お前、フラワーガールをやるなら、怪我をしたりしないようにしないと。よく骨折しているヤツがいるじゃないか」
「そうか。そうよね。じゃあ、結婚式の前はスキーは習わない方がいいのかな。でも、だとしたら、明日から結婚式までの五日間、何をしたらいいのかしら。とても退屈そう」

 それを聞くと、レアンドロは急いでスマートフォンを取り出して、ここ数日の予定を確かめた。クリスマス休暇中でトレーニングはないし、変更しても問題はなさそうだ。

「じゃあ、パパとあと二、三日一緒にいよう。サン・モリッツにはパパのアルファロメオで送っていってやるよ」
「本当に? パパ、まだ数日、こっちにいられるの?」
「そうさ。パリをもう少し観光して、なんだっけ、ジャカルタとかいう洋服屋にもいこう」
「ジャカルタじゃないわよ。ジャカルディ。本店にいってくれるの? 嬉しいけれど、そんなに長くパリ観光をしたら、パパラッチにつかまっちゃうんじゃないの?」

「ふん。あいつらは今、お前のママの写真を撮るのに必死で俺たちを撮っているヒマなんてないのさ。その店の他にはどこに行きたい?」
「うふふ。凱旋門とエッフェル塔に登りたいな。クリニャンクールの蚤の市も行ってみたいし。アンティーク調のアクセサリーが欲しいの。クラスの子が誰も持っていないようなのをね」

「なんて言ったっけ、あの遊園地、そうだ、ユーロ・ディズニーランドにも行くか」
「パパったら。今、私はロサンジェルスに住んでいるのよ」
アンジェリカは、緩くカールしている濃い栗毛を手の甲ではらってから、大きくため息をついた。
「そうだったな。でも、ムーラン・ルージュ観光ってわけにはいかないだろう」

「だったら、パリの観光は、今日この後に全部やっちゃって、明日一緒にモンサンミッシェルか、ベルサイユに行かない? 電車だと時間がかかりそうだけれど、車で行ったら、すぐでしょう?」
アンジェリカは、ニッコリと笑った。

 パリから昨日側を通ったばかりのモンサンミッシェルまで車で往復し、さらにその翌日に、スイスの東の端まで凍結しているに違いない道を走って行くのは、運転の好きなレアンドロでも、決して容易くはないのだが、娘の微笑みにはそれを言い出せなくするような不思議な力があった。

 どこかで、こうやって女に振り回されたことがあったなと、数秒考えた。どこかじゃない。目の前に座っている娘とそっくりの微笑みだ。世界中の男たちの羨望を浴びていた十年くらい前の話だ。アレッサンドラ・ダンジェロは八歳の少女ではなかった。彼女は無邪氣なのではなくて、確信犯だった。ひとかどの人物と自負している男を、自分の自由に動かす術を知り尽くしている天才だった。そして、それがわかっても腹立たしくはならない不思議な女だった。

 どうして、あの女と別れることになってしまったのかな。彼は訝った。そして、いまアレッサンドラに振り回されているのは、いつだったかの神聖ドイツ皇帝の末裔たる貴族だ。

 悔しいような、ホッとするような、不思議な想いだった。今日、アンジェリカを送り返す時に、あの女に逢ったら、どんなことを思うのだろうと考えながら、レアンドロは最後の饅頭に手を出した。彼の小さい娘は、澄ましてジャスミン茶を飲みながら、満足そうに微笑んだ。

 (初出:2015年11月 書き下ろし)
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Category : 小説・NYの異邦人たち 外伝
Tag : 66666Hit 小説 読み切り小説 リクエスト キリ番リクエスト

Posted by 八少女 夕

【小説】ニューヨークの英国人

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。
scriviamo!


「scriviamo! 2016」の第三弾です。ウゾさんは、たくさんの小説群の中でも大人氣を誇る「探偵もどき」のお話で参加してくださいました。

ウゾさんの書いてくださった『星の夢』


ウゾさんは、とても深いものを書かれる高校生ブロガーさんで、おつきあいが一番長い方たちのお一人です。短い作品の中に選び抜かれた言葉を散りばめる独特の作風で、たくさんのファンがいらっしゃいます。

さて、書いていただいた作品は、強烈な個性を持つキャラクターの揃う「探偵もどき」シリーズの最新作、で、ウゾさんらしいなぞなぞがあったんですけれど……。

ごめんなさい。謝っておきます。どう考えてもこの謎は全く解けませんでした。私の解釈は、たぶん間違っていると思います。でも、ウゾさんのお話からイメージした話を書きました。私が発表したいまなら、ウゾさんが正解を発表してくださるかも。これからウゾさんの作品をお読みになるみなさん。誰か、ウゾさんに正解を訊いてください!

で、この話は、ついこの間さようならしたばかりの、あの世界に戻ってきてしまいました(笑)それどころか、キャラクターが二人増えてる。「鳥打ち帽のおじいさん」同様、この二人の生みの親はウゾさんです。


【参考】
読まなくても話は通じるはずですが、関連する小説へのリンクを置いておきます。
「マンハッタンの日本人」シリーズ
「ファインダーの向こうに」
「ファインダーの向こうに」を読む

「scriviamo! 2016」について
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



ニューヨークの英国人
——Special thanks to Uzo san


 ドアが開いて、いつものように「ハロー」と言ってから、キャシーは、あれ? と思った。彼女の勤める《Sunrise Diner》は、ニューヨークのロングアイランドの海の近くにある。大衆食堂だから、わりとラフな服装で来る人が多い。

 なのに、その客はちょっと変わっていた。グレーの長めのコート。ぴしっとアイロンの効いたチェックのスラックス。グレーの帽子に、黒い雨傘。今日は降りっこないし、降ったとしても雪じゃない、なんで傘がいるのよ。

 彼は帽子を持ち上げて「ごきげんよう」と挨拶すると、窓際の席に腰掛けた。

「こんにちは。ご注文をどうぞ」
「紅茶をお願いするよ。煮立ったお湯を注ぐ前に、冷たいミルクを先にポットに入れてほしい」

 キャシーは、この客大丈夫かなと少し不安になった。ここは、ケンジントン宮殿じゃないんだけど、わかっているのかしら。
「冷たいミルクを……って、ポーションのコーヒーフレッシュしかないんだけれど。ちなみにこのカップしかないし、リプトンのティーバックですけれど」

 男性は、わずかに失望の表情を見せたが、礼儀正しく頷いた。
「トーストは、あるかな」

「ありますよ。ベーグルや、パンケーキもね」

 彼は、キャシーが見せたメニューの写真を見て、少し悲しそうな顔をした。
「三角に切る必要はないけれど、片面だけ焼いてくれるなんてことは、ないだろうね、お嬢さんマイ・ディアー

「残念ながら、ないわね。トースターが一度に両面焼いちゃうもの」
「じゃあ、しかたない。トースト二枚に、スクランブルエッグとベーコンも頼む」

 キャシーは、自慢のブラウン・ポテトを薦めようと一瞬考えてからやめた。それから、てきぱきと働きながら、カウンターに座っている常連客にコーヒーのお替わりを入れてやった。

 それはミズリー州出身の、特に面白くない話で笑いを取ろうとするのが玉に瑕の男だが、チップを弾むのでキャシーは辛辣なことは言わないようにしていた。彼は、もったいぶって始めた。
「新年のなぞなぞだ、キャシー。クリスマスはいつ終わると思う?」

「今日でしょ。1月6日、公現祭エピファニー
キャシーが、即答すると彼は笑った。
「そう思うだろう? でも、国によって違うんだぜ」

「どう違うのよ」
「例えば、グレゴリウス暦と13日ズレてしまっているユリウス歴を採用しているギリシアやロシアの正教会では明日1月7日がクリスマスで、神現祭エピファニー は1月19日。だから、それまでがクリスマス。そして、日本では、そもそものクリスマスの始まる前の24日に終わっちまうんだ」

「なんで?」
「日本人の大多数はキリスト誕生にはあまり興味がなくて、24日に恋人たちがデートするのがクリスマス。そして25日以降は正月の準備で忙しいんだ」
本当かしら。その件は、ミホに確認しなくちゃ。キャシーは心の中で決意した。

「そしてだ。英国の金持ちのクリスマスはいつ終わると思う?」
彼は、窓際の英国人をからかうように見ながら言った。キャシーは答えた。
「そのくらい知っているわよ。私たちと同じでしょ。今日」

「違うね。12月26日のボクシングデーに、あいつらは使用人に休みをやらなくちゃならないんだ。だから、クリスマスの翌日には普段やりもしない、家事やら掃除を自分たちでやらなくてはならない。そんなわけで、クリスマスは一日でおしまいさ」

 同国人が小馬鹿にされて笑われることに雄々しく堪えつつ、礼儀正しい英国人は背筋を伸ばして、コーヒーフレッシュ入りの薄い紅茶を飲んだ。キャシーはやれやれと思った。

 その時に、ドアがばたんと開いて、一人の女性が飛び込んできた。キャシーが「ハロー」という暇もなく、彼女は謎の紳士を見つけて、彼のテーブルに大股で歩み寄った。

「やっと見つけた! マクミランさん、アイリーンはどこ?」
見る方向によっては美人といえないこともない、生き生きとして表情豊かな女性だった。

 紳士は、礼儀正しく立って彼女の手を握ろうとしたが、そんなまどろっこしいことはしていられないという風情の女性の表情を読んで、わずかにお辞儀をした。
「ごきげんよう、ダルトンさん。残念ながら、あなたのお姉さんがどこにいるか、私も知らないのですよ」
「なんですって。駆け落ちをしてアメリカに来てまだ三日も経っていないじゃないですか! どうやったらそんな薄情になれるの? アイリーンは、この国では右も左も分からないのよ」

 マクミラン氏は、ため息を一つついた。
「そうおっしゃっても、私はあなたのお姉さんを盗み出したのでも、強引にさらってきたのでもないのです。アメリカにどうしても行きたいとおっしゃって、ついていらしただけで。現に、ニューヨークに着いた翌日に理想の男性に出会ったとかで、嬉々として去って行かれましたよ」

「理想の男?」
「ええ。南欧風のスタイリッシュな男性でした。なんといったかな、ああ、ダンジェロ氏。ミスター・マッテオ・ダンジェロとかいっていたな。羽振りのいい実業家みたいでしたよ」

「やだわ。マッテオ・ダンジェロって、大金持ちのセレブで、有名なプレイボーイよ。ほら、この雑誌にもでている」
キャシーが口を挟んで、カウンターから『クオリティ』という写真誌を取り出した。インタビューとともに、海岸にいる青年実業家のモノクロームの写真が特集になっていた。それを見て英国人は、確かにこの人だと頷いた。

「まあ、大変。アイリーンったら、またいつもの『有名人に一目惚れされてしまったみたい』病がでちゃったのね。それじゃ、そのダンジェロ氏の周辺を探さなくちゃ。でも、そんな有名人にどうやったらコンタクトできるのかしら」
それから、彼女はキャシーの方を見て、懇願した。

「お願い。知恵を貸してくださいな。この人は、全く頼りにならないし、私は昨日この国についたばかりなの」

 それから、キャシーのあっけにとられた顔を認識してから、少し恥じたように頭を下げた。

「ごめんなさい。自己紹介もしていなかったわね。私はクレア・ダルトン、英国人です。姉のアイリーンを探しているの。協力してくれませんか。マッテオ・ダンジェロって人はどこにいるの」

 キャシーは、面白そうな顔になってきた。
「マンハッタンのものすごく高いアパートメントのはずよ。どこだったかな。あ、この写真を撮ったの、私のお客さんの一人なの。だから、もしかしたら居場所も知っているかもね。あ、私は、キャシー。よろしくね。で、こっちの人は?」

 それを聞くと、おかしな男はあわてて立ち上がった。
「大変失礼しました。クライヴ・マクミランといいます。私も英国人です」

 キャシーは笑った。
「英国人なのは、はじめからわかっているわよ」

 クレアも、おかしそうに笑った。それから、クライヴの前に座った。
「せっかくだから、私も朝食をいただこうかしら」

「トーストを両面焼いちゃうけれどいいの?」
「もちろん問題ないわ。それにここで特におすすめなのは何? ニューヨークらしいものを食べさせて」

 それを聞いてキャシーは、満足そうに微笑み、ちらっとクライヴを見た。

「このモーニング・セットはどう? ニューヨークで最高のブラウン・ポテトを食べさせてあげるわ。それに、アメリカン・コーヒーをヨーロッパの人たちが嫌がるけれど、あなたはコーヒーにはそんなにうるさくないでしょう? お替わり自由よ」
「じゃあ、それをお願い。それから、そこのドーナツも。お腹がペコペコなの」
クレアは、あっという間にキャシーと仲良くなってしまった。

 キャシーは、クレアに朝食を用意してから、携帯電話を取り出して、客であり友人である写真家ジョルジア・カペッリにかけた。
「ハロー、ジョルジア。今朝は、食べにくる? え。ああ、もうじき着くのね。それならいいわ。ちょっと頼み事があるの。うん、着いたらその時にね。うん。紹介したい人たちがいるの。うん。じゃ、すぐ後で」

 電話を切ると、クレアに笑いかけた。
「彼女、あと五分で着くって。よかったわね」

「ありがとう。ところで、このポテト、とっても美味しいわ。マクミランさん、なぜあなたもこれを頼まないの?」
「そうだな。とてもいい匂いだ。紅茶に合うかな」

 キャシーはカウンターに頬杖をついた。
「なぜあなたたち、お互いにそんなに他人行儀なの?」

「なぜって……」
「私たちは、そんなに親しくないんですよ。実をいうと、アイリーン・ダルトンさんともファーストネームで呼び合う仲じゃなかったんです」

「ええっ」
キャシーとクレアが声を揃えて驚いた。

「駆け落ちしたのに?」
キャシーが訊くと、クライヴは首を振った。

「私としては、きちんと順番を踏みたかったんです。でも、手の甲にキスをしている段階で、彼女に何か違うと思われてしまったんでしょうね。あの人は、きっと男性に言い寄られるのに慣れていて、行儀のいい付き合いには魅力を感じないのかもしれません」

 別に、言い寄られ慣れていなくても、今どきそんなまどろっこしいことしているヤツはいないわよ。キャシーは思った。一緒に海を越えようと言っているのに、手を握るだけなんて脈はなし、さっさと次いこうと思うに決まってるでしょ。

「で、あなたは、ここニューヨークで何をしているの?」 
キャシーは、クライヴに訊いた。

「私ですか。ロンドンにある大きな骨董店のニューヨーク支店を任されたんですよ。ここから歩いて五分くらいのところです。たぶん、折々にここに来ることになるでしょうね。そういえば、ダルトンさん、よく私を探し当てましたね」

「あなたのお店で教えてもらったのよ。朝食を食べに行った、おそらくあの辺りだろうって。雨傘と帽子姿の英国人を知らないかと訊いたら、あたりの人たちみんな見かけていたわ。あなた、どれほど目立っているかわかっている?」

「なるほど。私のモットーは『誰に何を言われようと自分らしく』なんですよ」

「自分らしくはいいけれど、そろそろファーストネームで呼びあってくれない? 聴いていてイライラするから」
キャシーが言うと、クレアとクライヴは顔を見合わせた。それから、クレアがさっと手を出した。

「私、クレアよ」
「クライヴです。光栄です」

「ねえ。クレアもこれからニューヨークに住むの?」
「いいえ。姉を見つけたら英国に帰るつもり。もっとも、せっかく来たんだから、少しアメリカ見物するのもいいかもしれないわね。国に帰っても失業保険手続きの列に並ぶだけだから」

「だったら、私の店で働きませんか。こちらで雇ったスタッフはみな、紅茶とショートブレッドで休憩時間を過ごそうとしてくれないんですよ」
クライヴがすかさず言った。

「なんですって? あなた私たち一家に関わるのは、ごめんだと思わないの?」
クレアが心底驚いて訊いた。

「店をあなたのご両親のお家みたいに、けばけばしく電飾で飾り立てないでくれれば、何の文句もありませんよ」

 クレアは肩をすくめた。
「あの電飾は、ママの趣味だから。絶対にクリスマスの終わるエピファニーまで飾り立てたいママと、電氣代を心配してボクシングテーには消したいパパが、毎年大騒ぎしていたのだけれど、ようやく二人とも満足する解決策を見つけたの」

「ほう、それは?」
「水力発電所のあるウェールズの村に引越したの。電氣代が割安になるって。だから私は住む場所と仕事といっぺんに失ってしまったの。田舎には住みたくなかったし」

「そうですか。では、『ニューヨークの英国人』となるのは、あなたにも悪い選択ではないようですね」
「悪くないけれど、アイリーンを探すのが先決よ」

 キャシーは、こんなへんなナンパ初めて見たと、心の中で呟いた。『誰に何を言われようと自分らしく』ねえ。流儀は人それぞれ。クレアがそれでいいなら、問題ないわよね。

(初出:2016年1月 書き下ろし)

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鋭い方はすぐにおわかりになったかと思いますが、このストーリーのインスピレーションになったのはスティングのこの曲です。


Sting - Englishman In New York
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Category : 小説・NYの異邦人たち 外伝

Posted by 八少女 夕

【小説】夏、花火の宵

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。



今日発表するのは、読み切り短編集「四季のまつり」の第二回、夏の話で「花火」を題材にした掌編です。

というところまでは、ずっと前に決まっていたんですが、最初に出来た作品はあまりにも地味なのでボツりました。ですが、この作品で、canariaさんの主催するwebアンソロジー季刊誌「carat!(カラット)」に参加するつもりなので、書かないで放置は出来ません。

二つ目挑戦しました。最初のよりはいいかなと思ったんですが、「黄金の枷」の外伝にしてしまったので、本編を読んでいない人は、あの特殊設定の山には全くついていけないという現実を思い出しました。「四季のまつり」だけならいいけれど、「carat!」でそれはないわ、とこれもボツ。考えてから書けばいいものを。

三度目の正直。今度も外伝ですが、まあ、「ファインダーの向こうに」は読んでいなくても特に問題のある設定はないので、これで押し通すことにしました。canariaさん、ごめんなさい。でも、もう締切間近ですし、これで許してくださいまし。




夏、花火の宵

 7月4日、独立記念日。この日を心待ちにしていたのは、ハドソン川沿いに集まって花火が上がるのを今かと待っている観客だけではない。

 マンハッタンのパークアベニュー、32階建ビルの最上階で開催されるパーティに招待された人たちも同じだ。華やかで朗らかな魅力ある成功者、マッテオ・ダンジェロのペントハウスで独立記念日を祝うのは、ある種の人びとにとっては自慢すべきステイタスであり、また、彼の妻の座を狙う女性軍にとっては輝かしい未来への前進であった。

 パーティールームに用意された巨大なスクリーンには、ハドソン川で打ち上げられる花火の中継が映し出されることになっている。子供を肩車した一般人に視界を遮られつつ屋外で花火を鑑賞するより、ルイ・ロデレールのシャンパンを傾けながら女優や銀行家たちと上品な歓声を上げる方が自分にふさわしい。参加者たちの多くはそう考えていた。

 楽しく談笑しながら、客の間をまわっているマッテオ・ダンジェロ自身は、しかしながら、今年はこの日が彼主催のパーティでなければどんなに良かったかと思っていた。もし、この日に予定が何もなかったならば、彼はイタリア産の軽いスプマンテを持って、ロングビーチに住む妹を訪ねたことだろう。

 彼の大切な妹、取り巻きの女性たちの言葉を引用するならば「その価値もないくせにミスター・ダンジェロに溺愛されている」ジョルジアは、毎年一番最初に独立記念日の招待状を手にするにも関わらず、一度も姿を現さなかった。
「だって、兄さん。私はあなたのビジネスやロマンスの邪魔はしたくないの。それに、ああいうパーティは私には場違いだわ」

 例年ならば、この日ジョルジアと逢えなくとも、また別の日に食事に誘えばいいと思っていた。だが、今年は、出来ることなら彼女と一緒に花火を見てやりたい。彼は、客たちににこやかな笑顔を向けたままで、半年前の光景に想いを馳せた。

 それは、スイスのサン・モリッツでのことだった。もう一人の妹、アレッサンドラの結婚披露宴の直後で、引き続き滞在している招待客たちと一緒に大晦日を迎えていた。クルム・ホテルの豪華なダンスホールには、新郎の親戚である貴族たち、某国の元首や総理大臣、ハリウッドスター、そうした人びとに混じって参列を許された富豪たちとその妻たちが華やかに年の瀬を楽しんでいた。

 マッテオは、世界中のVIPが集まる厳戒態勢の結婚式の総監督的役割をこなしていたので、この日でようやく重責から解放されることを喜んでいた。

 三度目の結婚とはいえ、永遠の愛を誓ったばかりの妹の幸せに溢れた様子は、疲れと緊張を忘れさせてくれた。美しく立派なカップルの幸福に満ちた様相は、招待客たちに伝染して、ダンスホールは華やいだ幸福感で満ちていた。そして、夜は更けていよいよ新年へのカウントダウンが始まると、人びとはシャンパンのグラスを片手にそれぞれのパートナーとその瞬間を待った。

「ハッピー・ニュー・イヤー!」
グラスの重なる音、新しいシャンパンの開く音、人びとのキス。そして、大きな花火が開放的な窓ガラスの向こうに広がり、感嘆の声があちこちからあがった。楽団はウィンナ・ワルツを演奏し、人びとは新年を祝った。

 マッテオは、多くの人と乾杯しながら、まだ新年を祝っていないジョルジアの姿を探した。

 彼女は、ダンスホールではなく、その外側のバルコニーになった回廊に一人で立っていた。ガラスで覆われているので寒くはないが、熱氣のこもるダンスホールに較べると涼しい。

 ドアが閉まり、楽団の音と楽しくはしゃぐ人びとの声が聞こえなくなると、まるで別の世界に来たかのように、寂しくなった。マッテオは、華やかな世界に背を向けて夜に佇む妹の背中に、ブルー・ノート・ジャズを感じた。

 幸せに酔っているアレッサンドラの前では決して見せない遣る瀬なさ。華やかな世界に馴染めない居たたまれなさ。そして、手にすることが出来ないものを想う苦しみ。どうしてやることも出来ない妹の寂しい姿に彼の心は締め付けられた。

「ジョルジア、ハッピー・ニュー・イヤー」
五分以上経ってようやく声を掛けると、彼女は振り向いた。彼女は泣いてはいなかった。苦しんでいる表情もしていなかった。微かに笑うと「ハッピー・ニュー・イヤー、マッテオ兄さん」と返した。彼は、妹を抱きしめた。

* * *


「あら、ジョルジア。いらっしゃい」
キャシーは入って来たジョルジアを歓迎した。

《Sunrise Diner》は独立記念日だからといって休みではないので、キャシーはテレビをつけて花火を楽しもうと待っている。もっとも、常連客で店はそこそこ埋まっているので、のんびりと花火を眺めている時間はなさそうだ。

 サンフランシスコから遊びに来ている元同僚の美穂、この春からほぼ毎日やってきては居座っている英国人クライヴとその従業員クレアが同じテーブルに座っていた。彼らは、椅子を動かして彼女の場所を作った。

 ジョルジアは感謝してその席に収まった。

「いいタイミングで来たわね。ちょうど花火が始まるところよ。何を飲む?」
キャシーが訊き、ジョルジアはグラスワインの赤を頼んだ。

「今、話をしていたんですよ。花火の時にはどんな音楽が似合うのかってね」
クライヴが自分の店から持ち込んだボーンチャイナで紅茶を飲みながら口火を切った。

「ほら、ハドソン川の花火だと、ミリタリーバンドによる吹奏楽と合唱じゃない? でも、国によって違うらしいのよね、いろいろと」
キャシーが説明する。

 隣の席にいた常連でオーストリア人のフェレーナが口をだした。
「私は、『美しき青きドナウ』だって思うわ。とくに、新年の花火はやっぱりウィンナ・ワルツじゃないと」

 ジョルジアは、そういえばサン・モリッツの新年の花火でもウィンナ・ワルツを演奏していたなと思い出し頷いた。

「僕の意見は誰にも賛同してもらえないと思うけれど」
そう言って話しだしたのは、フェレーナの連れのスイス人ステファン。
「8月1日のスイスの建国記念日は、花火を見ながら野外クラッシックコンサートってことが多くて、スイスの建国記念日のコンサートだとロッシーニの『ウィリアム・テル』が定番なんだよね。だから花火というとどうもあれが……」

「いや、やはりベルリンではなんといっても『第九』だよ。東西統一の記念祭を思い出すから」
マルクスがドイツ人らしい断乎とした口調で主張する。

 クライヴも負けていなかった。
「いや、花火と言ったらなんといってもエルガーの『威風堂々』ですよ。毎年『プロムス』の最終夜で演奏されますし」

「それに、『ルール・ブリタニア』と『ジェルサレム』でしょ」
と、クレアが彼の愛国主義を茶化した。 

「日本はどうなの?」
キャシーに訊かれて美穂は首を傾げた。
「う~ん、どうかな。花火大会で曲はかかるけれど、あまり特徴のない映画音楽みたいなものかしら。そもそも、花火の方がすごくてどんな曲がかかっているかなんてほとんど考えたこともなかったし、まさかこんなに国によって違うものだとは思わなかったわ」

 ジョルジアの前に赤ワインのグラスを置いて、キャシーは訊いた。
「あなたにとっては? ジョルジア」

 そうね、と微笑んでから彼女は《Sunrise Diner》の店内を見回した。
「ここでかけている曲、かな」

 キャシーは、「え」といった。有線放送をかけているが、夜は少し賑やかなボサノヴァ風ジャズが多い。花火って感じじゃないなあ。
「どうして?」

「私、これまでわざわざ花火を観る習慣がなかったの。だから、特にかかる曲のイメージはもっていないの。でも、ここの曲、いま、映っている花火とけっこう合っているわよ」
そう言って、テレビの花火に目を細めるとワインを飲んだ。

 彼女は去年の秋から冬にかけて、キャシーとその家族が写真のモデルになって撮影していた頃と較べてリラックスしている。ここでかかっているボサノヴァ風ジャズみたいに。それと同時に、少しずつではあるが、ウルトラ個性的な常連たちに馴染んで来た。

 いつも一人カウンターに座ってテレビのニュース番組を観ているか音楽に耳を傾けているだけだったのが、呼ばれると彼らのテーブルに移ってきて一緒に時間を過ごすようになっていた。

 時間をかけて重い鎧を脱いで、剣を身から離すことが出来るようになって来たのかな。それとも、この間のアフリカ旅行で何か特別な経験でもしたのかな。

 客たちは、次々上がる花火の映像に歓声を上げて、それぞれの日々の苦労や腹立ちを忘れて楽しんでいる。一年に一度の浮かれた祭りの宵。

 どこで観るのも自由。どんなこだわりがあっても構わない。大切なことはみんなでワイワイ楽しく観ることだものね。

 店の有線放送の『ワン・ノート・サンバ』に合わせて打ち上げられる花火か。うん、本当に悪くない。キャシーもまた、サンバのような軽快な足取りで、次々入る新しい注文を華麗にさばいていった。


(初出:2016年6月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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「carat!」は読み切りを前提としているので、敢えて読む必要はないのですが、一応、今回の話も既存のシリーズの外伝になっています。興味のある方はどうぞ。

「ファインダーの向こうに」
「ファインダーの向こうに」

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」

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Posted by 八少女 夕

【小説】最後の晩餐

今日の作品は、80000Hit記念。77777Hit記念作品がいっぱいたまっていたこともあり特に何も企画していなかったのですが、ちょうどぴったりお踏みになったと大海彩洋さんが申告してくださったので、急遽リクエストをお受けすることにしました。といってもずいぶん経ってしまってますね。彩洋さん、大変お待たせしました。

いただいたリクエストはこちらでした。

舞台は、アフリカのどこか(夕さんのお気に入りの場所、もしくは書いてみたいけれど、まだ書いていない場所)。キーワードは最後の晩餐。


で、全く違う話を書いてもよかったんですが、ちょうどアフリカの話を書いている途中だったので、他の登場人物は頭の中にでてきませんでした(笑)というわけで、こんなお話になりました。

この作品の主人公を知らないと思われても、ご心配なく。(ほとんど)初登場ですから。それにしても、本当に何もかもネタバレになっているな。ま、いっか。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物



郷愁の丘・外伝
最後の晩餐


 そっとドアを押して、台所を覗き込んだ。埃っぽく、あいかわらずきちんと掃除のされていない室内は、どこか饐えた匂いがした。転がっている空の酒瓶の多くには埃がたまりだしていて、それが彼の母親が迎えにくる時も決してこの家の中に足を踏み入れたがらない理由のひとつだった。

 それでもこれが見納めになるのかと思うと、この酒瓶ですら彼をセンチメンタルな心地にした。
「おじいちゃん?」
彼は、小さな声で祖父を呼んだ。答えはなく、彼は壁に新しくかかっている絵の人物と目が合ったような氣がして、思わず近寄った。

 それは額にすら納まっていなかった。どこかの雑誌から鋏で乱雑に切り取ったペラリとした一枚の絵画の写真で、画鋲で直接壁に刺さっていた。ブルーグレーや褪色したオレンジ色の服を着た人物が何人もいて、食卓を囲んでいる。暗いグレーの天井や、元は白かったのだろうが薄汚れて見える壁、全体に色褪せてしまった色合いが、埃にまみれて疲れていくこのだらしない台所のうら寂しさと妙にマッチしていた。

 食事中のようなのに、ある者は立ち上がり、大きな身振りで語り合い、もしくは恐慌をきたしていた。真ん中の人物と、その左側にいる人物だけは穏やかな顔をしているが、それが何を意味するかは彼にはわからなかった。

「それに氣がついたか、グレッグ」
声がしたので振り返ると、祖父が立っていた。あいかわらず汚れたシャツを着て、残り少ない髪はもじゃもじゃに乱れていた。

「おじいちゃん」
「それは『最後の晩餐』っていう絵なんだ。今日にふさわしいと思ってかけておいたのさ」

「これが? 誰の絵?」
「イタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチっていう有名な画家さ。キリストが磔にされる前の晩餐会の様子を示しているんだとさ」

 そういいながら、祖父は戸棚からコンビーフ缶を取り出して開けた。洗ってある食器と、洗っていないと思われる調理器具がごちゃごちゃに置いてある山のようなところから、器用にフライパンを取り出すと、いくらか角度を変えながら眺めて、納得したように頷くとそのままコンロのところに持っていった。

 グレッグ少年には、祖父が「洗わないでもそのまま使えそうだ」と判断したことがわかった。実際に同じように準備された焼きコンビーフを彼は既に何度も口にしていたが、とくにお腹が痛くなったこともなかったので、意見はいわないことにした。

 最後の晩餐と言っても、祖父が彼に作る食事はいつもと一緒だった。スライスして焼いたコンビーフ、カットされたパンにマーマイトを塗る。運がよければ、生のトマトがカットされてついてくることもあった。それだけだ。

 この祖父の息子とはとても思えない几帳面な父親は、滅多に料理はしなかったが、する時はきちんとしたステーキに、シャトー型に切った人参とジャガイモ、完璧な固さに茹でられているが鮮やかな色を失っていないインゲン豆などをきちんと用意した。英国風のミンスミートやキドニーパイが得意な母親も、料理以前に混沌の極みにある義父の台所を料理をするところだとは認めなかった。非常に仲が悪くどんな小さなことにも反発し合う夫婦だったが、グレゴリー・スコットの家で食事をすることだけは決してしないことで意見が一致していた。

 だから、両親の離婚にともない、イギリスへと移住することになったグレッグ少年が、最後に祖父のところにお別れに行きたいと言った時には、二人とも馬鹿にしたような顔をした。

 グレッグは、コンビーフを焼いている祖父の横に行き、片付けていない洗った食器の山から、そっと皿を二枚取ると、テーブルのところに持っていった。まずは、テーブルに載っている沢山のいらないもの、請求書や古いクリスマスカード、それに空になったグラスなどを片付けて、皿を二つ置くスペースを作らねばならなかった。それからカトラリーをなんとか二組見つけ出して、皿の脇に置いた。

 固くなったパンと、きれいなグラスもみつけてテーブルに置いてから椅子に座り、壁の『最後の晩餐』を眺めた。

「この人たちもコンビーフを食べていたのかな」
そう訊くと祖父はゲラゲラ笑った。
「この時代にはまだ缶詰はなかっただろうよ。それはそれそうと、つい最近終わった修復で面白いことがわかったんだぞ」

 祖父は、絵の近くにやってきて目で示した。
「ここにパンがあるだろう? 聖書では、キリストはユダヤ教の伝統的な過ぎ越しの祭を祝ったことになっているんだ。イーストの入っていないぺっちゃんこのパンと、子羊の丸焼きを食べる伝統なんだ。それなのに見てみろよ、このパンは膨らんでいるし、それに料理は子羊じゃなくて魚料理なんだとさ。この画家、自分の好きな料理を描いたのかもしれないぞ。伝統なんてクソ食らえってさ」

 食事は、いつも通りに進んだ。祖父は安物のワインをたくさん傾けて、同じような話をろれつの回らない口調で繰り返した。
「それで。いつイギリスへ発つんだ」
「来週の月曜日。来月から、あっちの学校に通うんだって」

「そうか。ロンドンってのは面白いモノのある大都会だって言うからな」
「おじいちゃん。僕が行くのはバースってところだよ」
「そうか。そうだったな。ともかく、そこに行ったら、ケニアやじいちゃんのことなんてすぐに忘れてしまうさ」

 少年が「そんなことはない」と言おうとした時に、電話が鳴った。話している様子から、それは祖父が最近懇意にしているアリトン家の後家だということがわかった。
「今、孫が来ているけれど、すぐに帰るから、後でそちらに寄るよ」

 もうそろそろ帰ってほしいということなのかもしれないと思った。すぐに忘れてしまうのは僕じゃなくて……。グレッグは、バラバラになったコンビーフの塊が喉につかえそうになるのを、無理に水で流し込んだ。

 母親の車がやってくるのを待ちながら、グレッグ少年と祖父は、夕陽が真っ赤に染める丘を眺めていた。アカシアの樹のシルエットを彼は瞳に焼き付けようとした。バースになんて行きたくない。いられるものならば、ずっとここにいたい。

 でも、父親は彼を手元においておきたいとはまったく思っていないらしかった。母親も、話すのは「少しは愛想よくして、新しくお父さんになる人に嫌われないようにしてちょうだい」というようなことばかりだった。唯一彼を可愛がってくれたと感じられる祖父ですら、酒瓶やアリトン家の後家ほどの関心は持ってくれていない。ここには、僕のいられる場所なんてないんだ。

 遠くから、母親の運転するシトローエンが砂埃を巻き上げて近づいてくる。
「来たな」
祖父は、少し感傷的な声を漏らすと、グレッグをぎゅっと抱きしめた。

「元氣で頑張れよ、小さいグレッグ」
「うん。おじいちゃん。さようなら」

* * *


こんばんは、グレッグ。

この間の手紙を送ったあと、ニューヨークはひどい悪天候に見舞われたのよ。ハリケーンがやってくるような季節じゃなかったので、とても驚いたわ。クライヴは、こんな恐ろしい嵐は初めてだって、彼のお店にも行かないで、ずっと《Sunrise Diner》でお茶ばかり飲んでいたから、クレアがとても怒ってしまって、彼のトレードマークの傘を取り上げてしまったの。おかしかったわ。あなたもアフリカに帰るまではずっとイギリスにいたのよね。ハリケーンみたいなひどい嵐は、想像もつかないかしら?

ケニアは今、少雨期だったわね。《郷愁の丘》にシマウマたちが戻ってくるのを想像して、また行きたくなってしまったわ。だから、次の休暇で、イタリアに行くのはやめて、またケニアに行く案も考えたのよ。

でも、あなたからの問い合わせに少しびっくりしているの。

レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』は、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラーチェ教会にあるのよ。そして、私の家族の故郷は、北イタリアなのでどちらにしてもミラノが基点になるの。もし、あなたも北イタリア旅行に興味があるのならば、私の休暇の時期をあなたの旅行に合わせてもいいのよ。

私のルーツ探しにはあまり興味がないかもしれないけれど、『最後の晩餐』の本物を見るチャンスだし、それ以外にもイタリアはアメリカともケニアともまったく違う文化と景色で、あなたを深く魅了すると思うわ。ウンブリア平原やフィレンツェにも、ダ・ヴィンチに縁の場所がたくさんあるの。きっとあなたにとっても有意義な旅になるはずよ。それに、あなたはイタリア料理をとても好きだったじゃない?

大して上手じゃないけれど、簡単なイタリア語通訳ぐらいはできると思うわ。いい返事を聴かせてね。

あなたの友達、ジョルジア



 彼は、放心したように手紙を見つめていた。

 ジョルジアへの手紙に『最後の晩餐』のことを書いたのは、イタリアヘ行くという彼女の言葉にセンチメンタルな想いを呼び起こされたからだ。今は亡き祖父が、壁に貼付けていた『最後の晩餐』の印刷された紙は、彼がケニアに戻ってきて祖父の遺産を相続した時にはとっくになくなっていた。

 あの絵のことをずっと考えていたわけではない。だが、ここしばらくあれも何かの符号だったのかもしれないと考えていた。まったく何の因果もなかったイタリアという国にいつか行ってみたいと思いつづけていたのは、祖父との最後の思い出に端を発しているのかと。そして、偶然出会い、心に住み着いてしまった女性がただのアメリカ人ではなくて、イタリア文化を色濃く受け継いでいたことにも、ただの偶然では片付けられない何かを感じていた。

 だから、彼女が次の旅行先に、祖父母の故郷をめぐることを考えていると書いて来た時に、「行けるものなら、僕もいつかイタリアに行ってみたい。でも、きっと夢で終わるんだろうから、代わりに、あの絵の小さなポスターか大きめの絵はがきを送ってくれないだろうか」と頼んでみたのだ。彼女の返事は彼の予想を大きく超えていた。
 
 一緒に旅行を? そんな多くを望んだつもりはなかった。いつかイタリアを旅してみたいと書いた時には、共に行くことを夢見ながら彼女が訪れた場所を一人で辿ることを想像していただけだ。もちろん一緒に行きたい、彼女もそれを望んでくれるならば。

 彼は、スケジュールを確認した。この秋には抜けることのできない大事な学会や会議などはない。調査の方はいない分だけ抜けてしまうが、毎年のことではないし諦めることができる。問題は費用だ。彼はどうしたら旅費が捻出できるか計算した。

 それからアメリカ人ダンジェロ氏からの援助のことを思い出した。ジョルジアが、ダンジェロ氏の妹であると知った時は驚いたが、結局彼女の口添えがあったからこそ、地味な研究をする自分に助成金を出してもらえることになったのだ。

 これまで、切り詰めて食べていくのが精一杯だったが、研究さえ続けられればいいと思っていたので、それ以外のことをする経済的余裕がないことを残念と思ったこともなかった。学会と関係のない純粋な休暇旅行など一度も行こうと考えたことがなかった。

 けれど、もうその心配はしなくていいのだ。ダンジェロ氏から定期的に振り込まれる助成金で、生活費を削ることなく、不在時のシマウマ調査を他の人間に頼むこともできるし、二週間程度の休暇ヘ行く費用もある。

 あの絵の実物を見に行くのだと、それも、心から大切に想う女性と一緒にイタリアに行くのだと知ったら、墓の下で眠る祖父はなんというだろうかと考えた。『最後の晩餐』にも描かれたイタリアのパンと、魚料理を食べて、その味を報告したら、彼は笑ってくれるだろうか。

 彼は、ジョルジアに快諾の返事を書くために、自室のデスクに向かった。


(初出:2016年11月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 リクエスト キリ番リクエスト 80000Hit

Posted by 八少女 夕

【小説】絶滅危惧種

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第十一弾です。

大海彩洋さんは、『ピアニスト慎一』シリーズの番外編で参加してくださいました。ありがとうございます!


彩洋さんの書いてくださった短編 『サバンナのバラード』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。年代が近い、物語を書いてきた長さが近い、ブランクがあったことも似ているなどなど「またシンクロしている!」と驚かされることの多い一方で、えらい違いもあり「ううむ、ちゃんと精進するとこれほどすごいものが書けるようになるのか」と唸らされてしまうことがとても多いのです。

今回書いていただいた作品とその本編に当たる「死と乙女」でも、私のよく書く「好きなクラッシック音楽をモチーフに」に挑戦されていらっしゃるのですが、「なんちゃってクラッシック好き」の私とまさに「えらい違い」な「これぞクラッシック音楽をモチーフにした小説!」が展開されています。

で、今回書いてくださったのは、またまた「偶然」同じモチーフ「女流写真家アフリカヘ行く」が重なった記念(?)に、彩洋さんのところの女流写真家ご一行と、うちの「郷愁の丘」チームとのコラボです。というわけで、こちらはその続きを……。

しかし! 大人の事情で「ジョルジア in アフリカ with グレッグ」は出せませんでした。出すとしたら「郷愁の丘」が終わったタイミングしかなくて、それはあまりにもネタバレなので却下。そして、せっかくゲストに来ていただいているというのに、某おっさんは、これまた大人の事情で取りつく島もない態度……orz。彩洋さん、ごめんなさい。ここで簡単にネイサンたちと仲良しになれるようなキャラに変更すると、本編のプロット大崩壊なんです。

ということで、おそらく彩洋さんの予想と大きく違い、別のもっとフレンドリーなホストで歓待させていただきました。こっちは、たぶん五分で意氣投合すると思います。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む(第1回のみ公開済み)
あらすじと登場人物


「scriviamo! 2017」について
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
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「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



郷愁の丘・外伝
絶滅危惧種 
——Special thanks to Oomi Sayo san


 普段はあまり意見を言わない看護師がぼそっと言った。
「どうしてわざわざシマウマを観に行くの」

 運転席で、それは当然な問いかけだなと彼は思った。アフリカのゲーム・サファリをする時に、シマウマを観るためだけに車を走らせたりする者はない。ライオンやチーターを探すついでに見たくなくても見えてしまうのが普通だからだ。

「見せてもらうのはただのシマウマじゃないんだよ。ね、スコット博士」
フランスから来た医師が彼に話しかけた。

「はい。これからお目にかけるのは、グレービー・シマウマです」
彼は後を振り返って答えた。彼の運転するランドクルーザーには、三人の客と一匹の犬が同乗している。助手席にはソマリア出身の看護師が座り、フランス人の医師と日本人の女性カメラマンは後部座席に座っている。そして、その後に踞るのは彼の愛犬であるローデシアン・リッジバック、ルーシーだ。

 ネイサン・マレ医師は、撮影をしたがるに違いない奈海が助手席に座った方がいいと主張したのだが、ルーシーがソマリア人を執拗に威嚇するので、距離を開けるためにしかたなくその配置にしたのだ。

「よくあることなんだよ」
スコット博士がソマリア人に謝っているとき、ネイサンは奈海に耳打ちした。

「なにが?」
「アフリカの番犬は、黒人にひどく吠えることが多いんだ。別にそういう教育をしているわけじゃなくても。そして、多くの黒人は番犬が苦手になる。そうすると、それを感じとる犬はもっと吠えるんだ」
「でも、ルーシー、最初は私やあなたにもずいぶん吠えていたわよ」
「まあね。番犬として優秀ってことかな」

 その説明を聞きながら彼は申しわけなさそうに言った。
「彼女は、ほぼ全ての初対面の人間にひどく吠えるんです」

「ってことは、例外的に吠えなかった人もいるってことかい?」
ネイサンが訊くと、彼は短く「ええ」とだけ答えた。

 彼自身の父親であるジェームス・スコット博士でも、その恋人であるレイチェル・ムーア博士でもなく、そして二人の娘のマディでもない。初対面の人間にひどく吠え立てるルーシーがはじめからひどく尻尾を振って懐いたのは、半年ほど前に滞在したアメリカ人女性だった。

 それは、やはり今日のようにマリンディの父親の別荘に滞在した時だった。彼の意思とは関係なく別荘に行くことになったのは今回と同じだったが、その女性は自分で招待したのだ。彼が誰かを招待したのはここ十年では彼女一人だけだった。そもそも、断られると思いながら誘ったのだが、彼女が意外にも簡単に招待に応じてくれたのだ。

 その時たまたまその場にいた旅行エージェントを営む友人リチャード・アシュレイは、彼のことを誤解したようだった。しばらく逢わないうちにすっかり社交的になったのだと。実際には、あいかわらず人間との交流を可能な限り避けている。リチャードは、半年前に彼の人生の沙漠に突然訪れた夢のような二週間のことは知らないだろう。それとも、不器用なために何の成果も手にしなかった話がすでに面白おかしく伝わっているのかもしれない。

 そもそもリチャードは、今回この三人の客を彼に紹介したわけではなかった。ホスピタリティにあふれ、時おりビジネスの範囲を大きく超えて客を歓待するリチャードは、彼に三人の客を見事に接待する能力があると思うほど楽天的ではなかった。

 そうではなくて、この別荘を実質的にいつも使っている人懐こい夫婦に、三人のもてなしを依頼したのだった。つまり、マディとその夫であるイタリア人アウレリオ・ブラスだ。

 アウレリオはオックスフォード時代から付き合いのあるリチャード・アシュレイの親友だ。彼が、リチャードを通じて性格の全く違う無口で人付き合いの下手なケニア出身の学生スコットに近づいたのは、大いなる下心があってのことだった。すなわち、一目惚れした彼の腹違いの妹と親しくなるための布石だ。

 その甲斐あって、マデリン・ムーアと首尾よく結婚したアウレリオは、今では彼の義理の弟となってケニアに移住している。そして、イタリア系住民のコミュニティのあるマリンディの別荘でバカンスを楽しむことも多かったし、親友リチャードの依頼を愛想良く受けてその友人を歓待することも好んだ。だが、愛すべきアウレリオには、大きな欠点があった。肝心な時に決してその場にいないのだ。

 今回もリチャードから紹介され、三人の客の受け入れを快諾したものの、ミラノでの商談の時間がずれ込み約束の日にケニアに戻って来ることが出来なかった。だが、別荘の本来の持ち主である義父ジェームス・スコット博士に代わりに接待をしろとは言えない。妻のマディは二人の子供を抱えていて簡単に250キロも移動できない。そこで急遽、鍵を持っているジェームスの息子であるヘンリーが呼びつけられたのだ。

「グレービー・シマウマって、普通のシマウマとどう違うの?」
日本人カメラマン奈海の声で彼は我に返った。シマウマの研究者である彼は、説明を始めた。

「グレービー・シマウマは、アフリカ全土でよく見られるサバンナシマウマ種よりも大型です。縞模様がよりはっきりしていますが、腹面には模様がありません。ケニア北部とエチオピア南部のみに生息しています」

「ずいぶん減っているんだろう?」
「はい。ワシントン条約のレッドデータでEN絶滅危惧種に指定されています。1970年代には15000頭ほどいたのですが、現在およそ2300頭ほどしか残っていません」

 奈海は驚いた声を出した。
「そんなに減ってしまったの? どうして?」
「縞模様が格別にきれいで、毛皮のために乱獲されたんです。そして、家畜と水飲み場が重なったためにたくさん殺されました」

「今は保護されているんだろう?」
「ええ、捕獲や殺戮は禁止されていますしワシントン条約で保護されたためにここ数年の生息数は安定しています。でも、エチオピアが建設を予定している大型ダムが完成するとトゥルカナ湖の水位が大きく下がると予想されています。それで再び危機的な状況になると今から危惧されています」

 ランドクルーザーは、アラワレ国立自然保護区に入ってから、ゆっくりと進んでいた。マリンディから130キロしか離れていないと聞いていたので、すぐに到着して簡単にシマウマが見られると思っていたが、すでに三時間が経っていて、いまだにヌーやトムソン・ガゼルなどしか目にしていなかった。

「ほら、いました」
彼は、言った。
「あ、本当ね」
ソマリア人が答えた。

「え? どこに?」
奈海は後部座席から目を凝らした。彼女にはシマウマの姿は見えていない。ネイサンが笑った。
「都会の人間には、まだ見えないよ」
「え?」
「サバンナに暮らす人間は視力が6.0なんてこともあるらしいよ。遠くを見慣れているからだろうな。十分くらいしたら君や僕にも見えてくるさ」

 本当に十分以上してから、奈海にもシマウマが見えてきた。彼は生態や特徴などについて丁寧に説明してくれるが、奈海が満足する写真を撮れるほどには近づいてくれない。窓を開けてカメラを構えるがこの距離では満足のいくアングルにならない。

「もう少し車を近づけていただけませんか」
「これが限界です。これ以上近づくことは許可されていません。向こうから近づいてくればいいのですが」

「でも、周りには誰もいないし、僕たちはシマウマにとって危険じゃないから、いいだろう」
ネイサンは、奈海のために頼んだ。
「車で近づくのがダメなら、私、降りて歩いてもいいわ」

「近づくのも降りるのも不可です。彼らをストレスに晒すことになりますから。この規則は、あなたたちに問題が降り掛かるのを避けるためでもありますが、それ以上に生態系を守るためにあるんです」

 警戒心の強いシマウマたちは、どれだけ待っていても近づいてこなかった。やがて彼は時計を見て言った。
「申しわけありませんが、時間切れです。もう帰らないと」

「まだ陽も高いし、少しスピードあげて戻ればいいんだし、あと一時間くらいはいいだろう? まだ彼女が撮りたいような写真は撮れていないんだ」
ネイサンがまた奈海のために頼んだが、彼は首を振った。

「この保護区内では時速40キロ以上を出すことは禁じられているんです。そして、夕方六時までに保護区の外に出ないと」

 これまでのサファリで、こんなに融通の利かない事を言われたことはなかったので、ネイサンと奈海は顔を見合わせた。頼んでも無理だということは彼の口調からわかったので、大人しく引き下がった。

 出かける前にパリに電話をかけていて出発が遅くなったことが悔やまれた。そう言ってくれれば、電話は帰ってからにしたのに。奈海は名残惜しい想いで遠ざかるグレービー・シマウマの群れを振り返った。

* * *


「ヘンリー!」
マリンディに戻ると、アウレリオと二人の子供たちと一緒に到着したマディが待ち構えていた。夫が三人の客たちに無礼を詫びつつ、リビングで賑やかに歓待している間、彼女は彼を台所に連れて行った。

「私たちの到着が遅くなって、三人の世話をあなたにさせたのは悪かったわ。でも、ヘンリー、あなた、まさかお客様にあれを食べさせたわけ?!」
彼女は、流しの側に置いてあるコンビーフの空き缶を指差した。

 彼は肩をすくめた。
「僕にフルコースが作れると思っていたのかい」
「思っていないけれど、いくらなんでも!」

 彼は首を振った。
「心配しなくても、焼きコンビーフを食べさせたわけじゃないよ。そうしようかと思っていたら、見かねたマレ先生があれとジャガイモでちゃんとした料理を作ってくれた」
「あきれた。マレ先生に料理させちゃったのね」

「だから、今夜は、まともに歓待してやってくれ。僕は、帰るから」
「食べていかないの?」
「今から帰れば、明日の朝の調査が出来る。それに、僕がここにいても場は盛り上がらないから」

 マディは、居間にいる四人と子供たちがすっかり打ち解けて楽しい笑い声を上げているのを耳にした。そして、打ち解けにくい腹違いの兄との時間で三人が居たたまれない思いをしたのではないかと考えた。ヘンリーは決して悪い人ではない。ないんだけど……。

「そんなことないわ。それにあの日本女性、写真家だし、弾む話もあるんじゃないの?」
マディは、含みのあるいい方をしたが、彼は乗ってこなかった。

 彼女は続けた。
「彼女と連絡取り続けているんでしょう? 行くって聞いたわよ、来月ニューヨークに」
「どういう意味だ」
「ママがあなたも行くって。あなたが海外の学会に行くなんて、珍しいことだもの。ミズ・カペッリに会うんでしょう?」

 彼は首を振った。
「ニューヨーク学会に行くのは、レイチェルがスポンサーに紹介してくれるからだ。もしかしたら援助してもらえるかもしれないから。ミズ・カペッリは忙しいだろうし、押し掛けたら迷惑だから連絡していない」

「どうして?! せっかく再会できるチャンスなのに、この間、ずいぶん仲良くなったじゃないの」
マディは、よけいなおせっかいとわかっていながら言い募った。

 彼は、答えずに彼女の瞳を見つめ返した。暗い後ろ向きな光だった。彼女は、よけいな事を言ったことを後悔した。上手くいっていたと思っていたのに……。

 彼は、「じゃあ、これで」と言うと表で待つルーシーを連れて車に乗り込み去っていった。

 人付き合いが下手な上、父親ともほとんど没交渉の彼のことを、マディと母親のレイチェルはいつも氣にかけていた。クリスマスや復活祭の食卓に招んだり、別荘での休暇に呼び出したり、学会でも声を掛けたり、彼が《郷愁の丘》に引きこもり続けないように心を砕いてきた。彼は、それを感謝し嫌がらずに出かけてくるが、自ら打ち解けることはまだ出来ない。

 逢ってまだ三十分も立っていないのに、もう昔からの親友のように楽しそうに語り合うアウレリオとマレ医師たちの声を聴きながら、彼女はこの世と上手くやっていけない腹違いの兄と比較してため息をついた。

 夫は彼女に近づくのに躊躇したり、迷惑だろうからと遠慮したりはしなかった。そして、それが彼女自身の幸せにつながった。だが、それをヘンリーに言っても助けにはならないだろう。彼はそういう人間ではないのだから。

 彼女は両親や兄のように動物学者ではないから、学術的なことはわからない。でも、進化論で「絶滅した種は環境に適応できなかったから」と言われているのくらいは知っている。他の生物と同じく環境に適応できないために種を保存できない人間もいるのかもしれない。

 彼女は頭を振ると、去っていった兄の愛するアメリカ人ではなく、パリから来た女流写真家と会話を楽しむべく居間へと向かった。

(初出:2017年2月 書き下ろし)

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Category : 小説・NYの異邦人たち 外伝

Posted by 八少女 夕

【小説】それもまた奇跡

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

今週は「十二ヶ月のアクセサリー」六月分を発表します。六月のテーマは「メダイ」です。「なんだそれ」と思われる方もあるかと思います。カトリックで使われるお守りのようなメダルのことです。

宗教的なもの、とくに「奇跡を起こすメダル」の話をするとアレルギー反応を示される方もあります。特に私がカトリックを公言しているので警戒なさる方もあるかもしれませんが、今回の話はとくに信仰心や奇跡とは関係のない話ですのでご安心ください。むしろどちらかというと「塞翁が馬」的なストーリーですね。

全く必要のない情報ですが、出てくる男性が勤めている「健康食品の会社」の社長は「郷愁の丘」のヒロインの兄、マッテオ・ダンジェロだという設定です。でも、この作品には出てきませんし、これはただの読み切りです(笑)


短編小説集「十二ヶ月のアクセサリー」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月のアクセサリー」をまとめて読む



それもまた奇跡

 ケイトは、行ったばかりのデパート、ボン・マルシェの方に戻った。その近くにある『奇跡のメダイのノートルダム教会』に寄ってくるように、トレイシーに懇願されていたことを思い出したのだ。

 彼女自身はカトリックではなく真面目なキリスト教徒とはお世辞にも言えなかったし、聖母出現だの、奇跡を起こすメダルなどというものはナンセンスだと思っていたが、それを信じて待っている人間のために、デパートの帰り道に寄るくらいのことを断るほど偏狭ではなかった。でも、くだらないと思っていたせいか、もう少しで忘れるところだった。

「何それ?」
パリに行くと話した時に、トレイシーがおずおずと口にした願いを耳にしたケイトは、何を買ってくればいいのか全く理解できなかったので問い直した。

「奇跡を起こすメダルよ。楕円形でね。表に聖母マリア像と『原罪無くして宿り給いし聖マリア、御身に寄り頼み奉るわれらのために祈り給え』って意味のフランス語が、裏には十字架とM、それにジーザスと聖母マリアの心臓が打出されているの。パリの教会で買う事ができるの」

「一つの教会でしか買えないの?」
「他のカトリックの教会で置いているところもあるかもしれないけれど、似ていて違うものとあなたは見分けがつかないでしょう? 道端で売っているものや、通販などだと偽物がほとんどよ。そもそも転売は禁止されているの。だから、本家の教会で買って来てほしいの」

 トレイシーは、現在入院中でパリに自ら行くことはできない。奇跡が必要なほどの重病でもないので、わざわざ家族が行くこともない。要するに親友が行くついでに欲しいと言ってみたのだろう。ケイトは、「わかったわ」と頷いた。

「ところで、その教会にそのメダイとやらは一種類しかないの?」
「いいえ。銀色だったり、ブルーだったり、いろいろとあるみたいだけれど、その教会で売っていればどれも本物だわ。このお金で買えるものを買ってきて。おつりはあなたにあげるから、好きなものを買ってね」

 彼女の手渡してくれたドル紙幣は、とっくにユーロに両替した。これで買って行かなかったら詐欺になってしまう。六月の日差しは刺すように強い。今日はとても暑い。何も考えずにタンクトップできてしまったけれど、その教会にこの格好で入れるかなあ。ケイトは先ほど暑くてしまったスカーフをカバンから取り出して、申しわけ程度に肩から羽織った。

 白い教会の門は、先ほど通り過ぎたところだった。中に入り、きょろきょろと見回した。熱心な信者なら教会で祈ってからメダイを買いに行くのだろうが、ケイトはそれを省略して売店に直行した。ボン・マルシェでの買い物にはあれほど時間をかけたのに、しかも、この後にスケジュールが詰まっているわけでもないのに、ひどい態度だ。敬虔なカトリックだった亡き祖母が知ったら、さぞ憤慨したことだろう。

 メダイはどこにありますかと訊く必要もなかった。壁際にたくさんぶら下がっていて、人びとが次々と買い求めていた。ケイトは近づいて見て驚いだ。一つ一つを結構な値段で売っているのかと思ったのだが、多いものは50個ほどがビニール袋にどさっと入っている。それでいて15ユーロほどの値段だから、ほぼ材料費だろう。最もいいものも一つ六ユーロなので、商売として売っているのではないようだ。

 ふーん。よくわからないけれど、とにかく買って帰ろう。

 トレイシーが身につけるように、一番高い一つ入りのものを一つ、それから彼女が他の人にプレゼントできるように大入袋を一つ買った。それに、信じていないのにどうかと思うが、試しに十個入りのものを自分用に買った。これはトレイシーから預かった金額ではなく、自分のお財布から出したつもりで。

 
* * *

 
 こんな踏んだり蹴ったりの旅は生まれて初めて。ケイトは心底腹を立ててシャルルドゴール空港のベンチにうずくまった。ケチがつき始めたのは、ボン・マルシェに行った水曜日からだ。

 ホテルに戻るとフロントの感じの悪い男に「さっさとチェックアウトしろ」と言われた。金曜日まで六泊する予約だから今日チェックアウトするはずはないと答えると、予約は三泊だけで昨夜までだという。

 そんなはずがあるかと予約確認書を見たら、どういうわけか本当に三泊分だけだった。慌ててインターネットで探してなんとか残りの三泊分の宿を確保したが、少し郊外で足の便が悪かった。そのせいで帰りの空港行きバスに乗り遅れた。

 次のバスで空港に向かうと、飛行機には乗れないという。まだチェックインは締め切っていないのになぜと問いただすと、ダブルブッキングでもう席がないという。次の便に代わりの席を用意してくれるというが、それでは乗り継ぎ便に間に合わなくなり、最終的には八時間も遅れることになった。

「はあ。本当に腹がたつ。こっちで八時間遅れるなら、まだパリ観光ができるのに」
ケイトは、使い切ろうと買い物をしてしまったために残り少ないユーロで、バゲットサンドイッチとオレンジジュースを買い、ゲート前のベンチで食べた。

 財布の中は、わずかなコインと、水曜日に買って財布に突っ込んだ『奇跡を起こすメダイ』だけが虚しい音を立てていた。
「そういえば、これを買いに行ったっけ。奇跡が起こるって言われたけれど、反対じゃない。礼拝堂に行かずにこれだけ買いに行ったのがいけなかったのかしら」
サンドイッチをかじりながら、ケイトはメダイをながめて首をかしげた。

「失礼。この席は空いていますか」
その声に振り向くと、スーツを着た小柄な男が立っていた。周りを見回すと、確かにもう空いているベンチはほとんどなく、ケイトは隣の席に置いていた彼女の手荷物を足ものとに置き直して「どうぞ」と言った。

 男は「ありがとう」と言って腰かけた。それからケイトの手元のメダイを見て話しかけた。
「カトリックですか」

「え。いいえ。母方の祖母はカトリックでしたが、私はプロテスタントで洗礼を受けています。もっとも、大人になってからは冠婚葬祭以外では一度も教会に行っていないかも。これは、友人に頼まれて買いに行ったついでに、つい自分用に買ってしまっただけ」
「どこで?」
「『奇跡のメダイのノートルダム教会』よ。他にもあるの?」

 男は身を乗り出してきた。
「ええ。同じデザインのものはあちこちの教会で売っています。けれど、いわゆる『奇跡を起こすメダイ』は、その教会で買ったものだけなんです。通信販売などはなく、しかもプレゼントは構わないが転売は禁止されていて、インターネットなどで売っているものでは奇跡は期待できないんです。では、あなたは本物を買われたんですね。羨ましい」

「あなたはカトリック? これを買いそびれたの?」
そうケイトが訊くと、男は頷いた。
「ええ。こちらにはビジネスで来て、昨日、やっと時間が空いたので買いに行ったんですが、教会が見つからなくて探している間に売店が閉まってしまったんですよ。闘病している母に頼まれたんですが、買えなくて残念です」

 ケイトは、それを聞くとカバンからビニール袋を取り出した。十個もいらないと思っていたところだったから。中から五個とりだすと、男に渡した。「どうぞ」

「え。そんなつもりではなかったんですが、本当にいいんですか? お支払いしますが、おいくらでしょうか」
「転売すると効果がなくなるんでしょう? 大した値段じゃなかったし、プレゼントするわ。お母さん、早く治るといいわね」

 男は、「ありがとう」と言って頭を下げた。
「お礼にご馳走させていただけませんか。目的地はニューヨークですか? それともどこかへ乗り継ぎですか?」

「ロサンゼルスまで行かなくちゃいけないの。実は、前の便にオーバーブッキングで乗れなくて、ニューヨークで四時間も待たなくちゃいけないの」

「でしたら、空港の近くのおいしいレストランにご案内しましょう。空港内よりもおいしいものが食べられますし」
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて遠慮なく」

「僕は、ブライアン・スミスと言います」
「私は、ケイト・アンダーソンよ。よろしく」

 搭乗の案内が始まった。ファーストクラスとビジネスクラスから先にと言われ、ケイトはブライアンが立ち上がったのを座ったまま見送った。
「エコノミーなんですか?」
「ええ」

「ちょっと待ってください」
ブライアンは、カウンターに行くと何かを係員と話してからケイトに来るように合図した。なんだろう?

 ケイトがカウンターに行くと、係員が彼女の搭乗券の提示を求めた。
「こちらのスミスさまのマイレージで、ビジネスクラスにアップグレードをいたしますね」
「え? そんな、悪いです」
「いいんですよ。どっちにしても、マイレージは使い切れないんですから」

 係員の計らいで、ブライアンの隣の席にしてもらい、ニューヨークまでのフライトで彼とずっと話すことになった。話は面白いし、感じのいい人だ。

 話しているうちに、彼は健康食品の販売で有名な会社の重役であることがわかった。ふ~ん。道理でマイレージを捨てちゃってもなんでもないわけだ。ケイトはちらりと彼の上質なスーツを眺めた。若いのにすごいなあ。エリートってやつかあ。パリに遊びに行くのに五年も旅費を貯めなくてはならないケイトとは、随分と違う世界に住んでいる。

「ロサンゼルス市内にお住まいなんですか? 実は、今度の土曜日にロスの母の家に行く予定なんですよ。もしお時間があったら一緒にいかがですか。メダイを譲ってくれたご本人に母は会いたがるはずですから」
ブライアンはニコニコと笑いかけた。

 ええっ。これっきり二度と会わないはずだと思っていたけれど、この人そうじゃないの? いやいや、失礼な想像をしちゃダメよね。こんなにお金持ちで有能そうで性格も良さげな人は、放っておいても女性が群がるだろうし。まあ、ものすごくかっこいいってわけじゃないけれど……。

「ええと。その日は、私もトレイシーに会ってメダイを渡す予定なんです。彼女は今月いっぱいUCLAのリハビリ科にいて、そこなら我が家からそんなに遠くないし、それに彼女はこれを待っていると思うので……」

 その後でもいいなら、という前にブライアンは身を乗り出してきた。
「UCLAメディカル・センター? トレイシーさんはそこに入院しているんですね。なんて奇遇なんだろう」

 あ。トレイシーのお見舞いにも行くのね。ま、そうだろうなぁ。それじゃ、きっと彼女に夢中になるな。男性は、みんなトレイシーみたいな美人が好きだし、ましてや入院中の儚い感じは破壊力抜群だもん。よけいな期待しないでよかった。うんうん。

 ケイトは、変に安心して、自分の幸運の取り分を大いに楽しむことにした。すなわち、このビジネスクラスのフライトと、ニューヨークのレストランでの豪勢なランチだ。五個全て足しても五ユーロに満たないメダルと引き換えのラッキーとしては、奇跡とまではいかないけれど十分お釣りがくるだろう。ホテルを追い出されたことやフライトの遅れを差し引いても。

 ブライアンが連れて行ってくれたのは、予想に反して高価そうに見えないイタリア・レストランだったが、何もかも信じられないくらいおいしかった。食事がまずいことで有名な空港界隈にこんなにおいしいレストランがあるなんて。さほど値もはりそうになかったので、ケイトは安心して食べたいものをオーダーした。おいしいワインに、もちろん終わりのドルチェまで。もっともその食事で一番よかったのは、ブライアンとの楽しくて興味深い会話だった。

* * *


「ケイト! 奇跡をありがとう」
土曜日に、約束通りにメディカル・センターへ行くと、トレイシーが待ち構えていた。

「トレイシー。私があれをちゃんと買えたって、どうしてわかるのよ」
ケイトは笑いながら、『奇跡を起こすメダイ』を鞄から取り出してトレイシーの透き通るように白い手のひらに置いた。

「だって、スミスさんが全部話してくれたもの。そしてね。私たち、おかげで婚約したの!」
トレイシーの発言に、ケイトはずっこけた。いくらなんでも展開が早すぎる。

「え? も、もう?」
「ふふ。私たち、ずっとお互いにいいなって思っていたのよ。でも、ケイトの冒険のおかげで、月曜日からずっと個人的に話をすることになって……」

 えっ、月曜日? ケイトは首を傾げた。
「ミスター・スミスったら、そんなにすぐにここに来たの?」

 トレイシーは、きょとんとしてから、笑い出した。
「ごめんなさい。説明不足だったわね。私の言っているのは、あなたが出会ったブライアン・スミスさんの弟のダニーのことよ。ここで療法士をしているの。そもそも、あの『奇跡を起こすメダイ』のことを教えてくれたのもダニーなの。あなたとお兄さんがバリで知り合って、しかもメダイを譲ってもらったと聞いて、翌日に興奮して話に来たのよ。それがきっかけで、私たち、お互いにいいなと思っていたことがわかって」

 ケイトは、なるほど、と思った。婚約したのは弟さんか。ケイトはうっとりするトレイシーのますます綺麗な横顔を眺めた。
「今週に入ってから、私の回復のめざましさに、先生たちも驚いているわよ。やはり『奇跡を起こすメダイ』なのね。ケイト、本当にありがとう」
いや、それはメダイのおかげというか、愛の力なんじゃ……。そういう無粋なことは、この際言わないほうがいいのかな。

「で。ミスター・ブライアン・スミスは、お見舞いに来たの?」
「いいえ。でも、昨日ダニーがあなたの来る時間を訊いてきたの。きっとブライアンはもうじき来るでしょうね。あなたにしては、妙に首尾よく彼を夢中にさせちゃったのね、ケイト」

 ええっ? なんの冗談?
「それはないと思うわよ。もう二度と会わないと思って、ガサツに食べて飲んじゃったし」

 トレイシーはウィンクをした。
「ダニーによると、彼はあなたのことを周りに全然いなかったナチュラルなタイプで、とても氣になるって言っていたんですって。そもそもあなた、新しい出会いなんて全然ないってこぼしていたじゃない。これもメダイの奇跡かもしれないわよ」

 あんなに真面目に祈っている人たちの信じているメダルで起こる奇跡が、こんなどうでもいいことのわけないじゃない! まあ、でもラッキーというのはどんな形でもうれしいけれど。

 病室の外でコツコツと靴音が近づいてきた。ノックの音が聞こえて、ケイトは、真っ赤になった。


(初出:2017年6月 書き下ろし)

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この小説で扱っている『奇跡を起こすメダイ』はこういうメダルです。(画像はWikimedia Commonsより)

Miraculous medal
By Xhienne (Own work) [GFDL, CC-BY-SA-3.0 or CC BY-SA 2.5-2.0-1.0], via Wikimedia Commons
Medal of the Immaculate Conception (aka Miraculous Medal), a medal created by Saint Catherine Labouré in response to a request from the Blessed Virgin Mary who allegedly appeared rue du Bac, Paris, in 1830. The message on the recto reads: "O Mary, conceived without sin, pray for us who have recourse to thee — 1830".
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Category : 小説・NYの異邦人たち 外伝

Posted by 八少女 夕

【小説】いつもの腕時計

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

今週は「十二ヶ月のアクセサリー」九月分を発表します。九月のテーマは「時計」です。

「郷愁の丘」がぶつぶつ切れるなあとお思いの方、すみません。でも、今回はあの世界の外伝になっています。主人公は初登場の人物なのですが、雇い主のほうがお馴染みの人物です。「郷愁の丘」のヒロインの兄ですね。もっとも、「郷愁の丘」をはじめとする「ニューヨークの異邦人たち」シリーズを全く知らない方も、問題なく読めるはずです。

ちなみに、同じ「十二ヶ月のアクセサリー」の六月分「それもまた奇跡」に出てきたブライアン・スミスも同じ会社の重役なので、名前だけ出してみました。


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いつもの腕時計

 彼は、入ってきた彼女の服装に対する賛辞を口にしたが、言おうとしたことの三分の一も言えないうちにもう遮られた。
「マッテオ、褒めてくださるのは大変嬉しいのですが、今朝は本当に時間がないんです」

 セレスティン・ウェーリーは、ヘルサンジェル社の社長秘書だ。それも、非常に有能な秘書だった。しかも、社長夫人に収まろうという野望を持たずに仕事に全力を傾けてくれるという意味で稀有な存在だ。

 会社の創立者であり最高経営責任者であるマッテオ・ダンジェロは有能かつ魅力的で氣さくな人物ではあるが、若き独身の億万長者であるため女性関係が派手で、その副作用として女性秘書が長く居着かないという悩みを抱えていた。

 が、セレスティンがこの職を得てから九年、へサンジェル社の最高総務責任者であるブライアン・スミスは、やたらと入れ替わりの激しい社長秘書の面接をせずに済むようになった。

 「天上の青」を意味するそのファーストネームは、極上のサファイアを思わせる濃いブルーの瞳から名付けられたと思われる。ダークブロンドの髪は垂らせばこれ以上ないほどに男性を魅了すると思われるが、いつもシニヨンにまとめていて、その隙のない様相と、シャープな服装、怜悧な視線でもって近づき難い印象を与えていた。

 今日は、月曜日。マッテオは自由の女神が見える開放的な社長室の革張りの椅子にリラックスした姿勢で座り、ここ二日の予定を淀みなく説明しているセレスティンをニコニコと笑いながら眺めていた。今日の彼女は、シャープな襟の白いシャツに瞳によく合うセルリアンブルーのタイトスカート、それに少し感じ悪く見えるくらい鋭利な伊達眼鏡をかけている。

「マッテオ。大変申し訳ないのですが、少し真剣に聴いていただけませんか。私には二度説明する時間はありませんから」
「わかっているよ。でも、大丈夫。今、聴いた件はちゃんと用意ができているし、あとは直前まで忘れても五分前に君が促してくれるだろう」

「そういう訳にはいきませんの。なにしろ……」
そういって彼女は自分の左手首をちらっと見た。

「おや、今日はあの腕時計を忘れたのかい、セレ」
マッテオは、さも珍しいという顔つきで訊いた。当然だった。シンプルとはいえ、常に流行を意識した服や靴やアクセサリーを組み合わせて、日々目の保養をさせてくれるセレスティンが、何があろうと決して変えずに身につけているのがその金の腕時計だった。

 彼女の持ち物にしては、少し安物に見える金メッキの外装、しかも今時ネジを毎日巻かなくてはならないアナログな時計だった。彼女は、この時計に大きな思い入れがあるらしかった。秘書となって一年経った時に、ふさわしい時計をプレゼントしようとマッテオが提案しても「これをつけていたいんです」とハッキリ断った。

 セレスティンはため息をついた。
「どこに置き忘れたのか、見つからないんです」

「おや。金曜日には付けていただろう」
「ええ。少なくともディナーに向かう時には付けていたはずなのに」
「そうか。あれは確かお祖母さんからのプレゼントだったよね」

 セレスティンはちらりと雇い主を見た。相変わらず細かいことを憶えているわね。
「ええ。小学校に上がった時にもらったんです。安物ですけれど、毎日ねじを巻いて時間を合わせればほとんど狂わずにこれまで動いてくれたのに。今日はスマートフォンで時間を管理していますが、慣れないのでいつものように細かくコントロールできないんです」

 マッテオは頷いた。少し、他のことを考えていたが、会議が迫っていたのでいつまでも腕時計の話をしているわけにはいかなかった。

 だが、彼はその時計を思わぬところで見ていたのだ。見覚えのある時計だと思っていたが、まさかセレスティン本人のものだとは思わなかったので素通りしてしまったが。

「思い出したぞ」
マッテオが呟いたのは、その日の夜、高級クラブ《赤い月》で席に着いたときだった。とある女優とディナーを楽しんだ後に立ち寄ったのだ。

「何を?」
女優は、綺麗にセットした赤毛の頭を、完璧な角度で傾げながら微笑んだ。

「何でもないんだ、マイ・スイートハート。おととい、ここで見たもののことを急に思い出したのさ。でも、大したことじゃない。それよりも、君の最新作での役作りについて聴かせてくれないか」

 マッテオは、にっこりと微笑んだ。女優は、仕方ない人ねという顔をしてから、彼にとってはどうでもいい話を延々と語り始めた。それで、彼は思考を自由に使うことができた。

 彼女が化粧室に消えたとき、彼は立ち上がり、バーのカウンターに向かった。

 一昨日、スーツを着た男がそこに座り、金色の女ものの時計を目の前にぶら下げるようにして眺めていた。それから「ちっ。安物か」といいながらすぐ横にあった大きな陶製の鉢の中に投げ込んだのだ。妙な行動だったので記憶に残っていた。

 そして、今から思うとあれはセレスティンの腕時計にそっくりだったような氣がしてならない。彼は、カウンターに立っている馴染みのバーテンダーに一言二言話しかけると、鉢の中を見てもらうことにした。

* * *


 翌朝、マッテオはセレスティンが入ってくるなり予定を話し出したのを手で制して、口を開いた。
「その前に、少し個人的なことを訊いてもいいかな」

 彼女は伊達メガネを冷たく光らせて答えた。
「いま必要なことでしょうか」
「忘れると困るから」
「では、どうぞ」

 マッテオは、セレスティンの積み上げた書類の山を無造作に横に退けて、マホガニーのデスクの上で両手を組み、彼女を正面から見据えた。

「君は、例のテイラー君と、もう付き合っていないんだろう」
「ええ。たしかに、ジェフとは別れました。でも、それは三ヶ月前のことで、その後に《赤い月》でお会いした時に、ミスター・フェリックス・パークにお引き合わせしたと思いますけれど」

「ああ、そうだったね。で、そのパーク氏とも別れたのかな」
「……。ええ、金曜日のディナーで、別れましたけれど、それが何か」

 マッテオは、極上の笑顔を見せながら言った。
「そうだと思ったよ」
「笑い話にしないでください。そもそも振られたのはあなたにも責任が有るんですから」

「ほう。それは驚いたね。なぜだい」
「あなたがお給料を上げてくださったので、彼の年収を超えてしまったんです。我慢がならないんですって。もちろん、それだけが理由ではないんでしょうけれど」
「そんなことを理由にするような男と付き合うのは時間の無駄だ。別れてよかったじゃないか」
「その通りだと思いますわ。でも、なぜそんなことをお訊きになるんですか」

「なに、いまフリーなら、僕と付き合わないか訊いて見ようと思ったのさ」
「セクシャルハラスメントで訴えられるのと、パワーハラスメントで訴えられるのだと、どちらがお好みですか」
「どうせなら両方だね。でも、君は、そんなことはしないさ、そうだろう?」

「あなたが、いつもの冗談の延長でおっしゃっているなら訴えたりしませんけれど。ともかく真平御免ですわ、マッテオ。あなたをめぐるあの華やかな女性陣との熾烈な争いに私が参戦するとでもお思いですか。そういうどうでもいいことをおっしゃる時間があったら、法務省への手紙に目を通していただきたいのですが」

「わかった、わかった。ちゃんと目を通すから、その前にもう一つだけ訊かせてくれ」
「どうぞ」
「君がなくしたという、あの腕時計だけれど、デザインが氣に入っていたのかい、それとも機能? 他の時計を買いに行く予定があるのかい?」

 セレスティンは、意外そうに彼を見た後、首を振った。
「いいえ。センチメンタル・バリューですわ。思い出がつまっているし、人生のほとんどをあの時計と過ごしてきたので、ほかの時計がしたいとは思えなくて。安物で、周りの金メッキが剥げてきただけでなく、留め金が外れかけていたのでとっくに買い換えるべきだったのでしょうけれど……。仕事に支障をきたしますから、諦めて何かを買おうとはしているんです」

 マッテオは頷くと言った。
「買う必要はないよ。仕事に必要なんだから、僕が用意してあげよう。それまでは、スマートフォンでやりくりしてくれ」

 セレスティンは、じっと彼を見つめた。また何かを企んでいるみたい。でも、用意してくれるというなら頼んでしまおう。自分では、あの時計でないものを買うつもりになれないから。マッテオのプレゼントなら、納得することができるかもしれない。

 マッテオが、誰かに何かをプレゼントする時は、必ず相手の好みを考え、ふさわしいものを贈っていた。成金と陰口を叩く人がいるのも知っていたが、単純に高価なもので人が喜ぶという傲慢な考え方をする人ではないのは、誰よりもセレスティンが知っていた。

「わかりました。お言葉に甘えさせていただきますわ。ところで、手紙に目を通していただけますでしょうか」

 マッテオは悪戯っ子のような魅惑的な笑みを見せてから、最上級の敬意に溢れ、法務省の担当官が必死に粗探しをしても何一つ見つけられないように書かれた、セレスティンの最高傑作である手紙に目を走らせた。

* * *


 それから五日後に、マッテオはいつもより少し遅れてオフィスに入った。ことさら丁寧に朝の挨拶をするセレスティンの様子を見て、内外からのたくさんの電話攻撃を雄々しく交わしてくれたのだろうと思った。嫌味の攻撃が始まる前に、これを渡してしまおう。

 ジャケットのポケットから、無造作に突っ込んであった濃紺の天鵞絨張りの箱を取り出して彼女に渡した。

「え?」
「約束の腕時計だよ。メッキ職人のところに受け取りに行ったんだけれど、十時まで開かなかったんだ」

 メッキ職人? セレスティンは、意味がわからずに戸惑いながら、箱をおそるおそる開けた。そして、自分の目を疑った。愛用していた祖母のプレゼントの時計と全く同じデザインの時計だった。けれど、五番街の高級店で売っているものと遜色がないほど上質のコーティングがされていた。

「どうして……全く同じデザインの時計が? どうやってこのデザインを?」
 マッテオは笑った。
「僕がそれを憶えていたと? まさか。種明かしをすると、これは例の君の時計さ。たまたま僕が見つけたというだけだ」

「見つけた? このオフィスにあったのですか?」
「いや、《赤い月》だよ。偶然、例のパーク氏がこれを捨てようとしたのを目にしてね。君が時計をなくしたと聞いてそれを思い出したんだ」

 セレスティンははっとした。そういえば、別れ話をする前には確かにその時計をしていた。留め金が壊れかけていて、修理しないと落とすかもしれないと思ったのだ。そのあとのデートの惨めな展開に心を乱されたので、時計のことはその晩はもう思い出さなかったのだが。フェリックスが私の去った後にあの時計が落ちていたのを見つけたというわけね。

 それでも、この時計の幸運なこと! 捨てられる現場に居合わせたのが、この時計の彼女にとっての価値を知っている数少ない人物だったというのだから。

「なんてお礼を言っていいのか、わかりませんわ、マッテオ。見つけた時計をそのまま渡していただけるだけでも飛び上がるほど喜んだでしょうに、なんだかものすごく素晴らしく変身していますわね」
「せっかくだから、ちょっと化粧直ししたんだ」

 コーティングし直すときに、純金を使う事も出来たけれど、耐久性を考えて18金のホワイトゴールドにした。怜悧なセレスティンの美しさにふさわしい。金属アレルギーなどが出ないようにもっとも高価なパラジウム系コーティングにしてもらったのだが、メッキが剥がれやすくなるので、通常より多く丁寧に塗り重ねてもらった。

「ちょっとどころではないことぐらいは、わかりますわ。それにネジの部分も変わっていますけれど?」

 前の時計と違っているのは外見だけではない。個人的に交流のある老いた時計師に頼み込み、重さを感じないマイクロローターを組み込んだ自動巻きに変えてもらったのだ。
「ああ、これからは毎朝自分で巻く必要はないよ。これは自動巻きだから」

 一週間近くかかった理由がわかった。それに、おそらくスイス製の高級時計を購入するよりもずっと多くの費用がかかっている。セレスティンは、戸惑いながら訊いた。
「どうしてこんなに良くしてくださったんですか?」

 マッテオは自信に満ちた太陽のような笑顔を見せた。
「君の大切にしている物を、二度と安物か、なんて言わせたくなかったんだ。さあ、セレ。これがあれば、またこれまでのように僕の時間管理を完璧にしてくれるんだろう?」

 セレスティンは、腕時計を左手首につけた。うまく回っていなかった世界の歯車が、カチッと音を立ててあるべきところに収まった。彼女の才能を遺憾無く発揮することのできる世界だ。  

 セレスティン・ウェーリーは、ヘルサンジェル社経営最高責任者マッテオ・ダンジェロの最も有能な秘書として、その日の遅れていてる予定をうまく調整するために、その冷静で切れる頭脳を有効に使いだした。

(初出:2017年9月 書き下ろし)

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Category : 小説・NYの異邦人たち 外伝

Posted by 八少女 夕

【小説】クリスマスの贈り物 (前編)

「郷愁の丘」本編の連載を一時中止しましたが、今日と来週は、その外伝をお送りします。本編と時系列があっている上、今クリスマスシーズンなのでちょうどいいかなと思ったのです。

本編では例外を除きほとんどの視点がジョルジアなのですが、この外伝は徹頭徹尾グレッグ視点です。

ストーリーはまず、四半世紀以上前、彼が寄宿学校の生徒だった十二歳の頃に戻っています。そして、本編で読者の皆さんを嘆息させた後ろ向き姿勢を持つに至った事情が少し明らかになります。前後編に分けたので、今回は相変わらずの様子のままなのですが、来週にご期待ください。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




クリスマスの贈り物 (前編)

 彼は部屋の扉を閉めると茶色い紙袋を机の上に置いた。中にはターキーとトマトの三角サンドイッチが一つと、テイクアウト用のカップに入った紅茶が入っている。とても急いで歩いたけれど、十分近く経ってしまったので、もはや熱いとは言えなくなっていた。

 部屋の中は冷えていた。ラジエーターに触れると、ぬるいぐらいの温度だった。管理事務所には連絡が行かなかったのだろうか。クリスマスの時期に寮に残っている生徒がいるとは誰も考えなかったのだろう。氷点下になっても破裂しないように完全には止めなかったが、暖房としての役割は果たさなくなっていた。

 彼は、以前この部屋に居た生徒の置き土産である古いラジオのスイッチを入れた。クリスマス・ソングが流れた。ご馳走と家族の待つ故郷への家路を急ぐ甘い歌。彼は紙袋に手を伸ばした。三角サンドを取り出してプラスチックのホイルを剥がした。もそもそとして反っているパンに乾いてほとんど味のないターキー。温かくもなければ十分な量もない。冷めた紅茶で流し込んだ。

「無理に来なくてもいいのよ」
母親のホッとした声を聴いて、彼はここに残ることを決めた。

 昨年のクリスマスの事を考えた。温かいご馳走はあったが、暖かい家族はいなかった。マッケンジー家の一員になったのは、新しい妻となった彼の母親だけで、連れ子である彼もが家族の一員として受け入れられたわけではなかった。

 兄弟姉妹どころか身近に友達すらいなかった彼は、ようやく歳の近い兄妹ができるのかと心弾ませて行ったのだ。けれど、彼を迎えたのはジョンとナンシー兄妹の馬鹿にして嗤う視線だった。

 母親は、彼を隅に引っ張って行き、なじった。
「なぜそんな服を着てきたのよ」

 上着の袖もズボンの丈も短すぎた。彼女は息子がそんな服装で電車に乗ってきた事が信じられないようだった。

「でも、半年前に電話で言ったじゃないか。背が伸びて合わなくなったって」
彼はやっとの思いで、母親に反論した。まだ十二歳の彼には新しい服を買うような金はなかった。

「それならケニアのお父さんに背広代を送ってもらうように手紙を書きなさいって言ったでしょう。何もしなかった、お前が悪いのよ」
母親はめったに物を買ってほしいと頼まない息子の願いを無視した後ろめたさに苛つき、彼の事を厳しくなじると、乱暴にその手を引き、急いで洋服屋へと連れて行った。そして、しばらく着られるように彼の寸法よりも大きすぎる服を買い与えた。

 ジョンとナンシーは、新しいが、やはり身体に合っていない服を着させられた彼をあからさまに嗤った。彼は、悲しい想いを堪えて、クリスマス祝いの席に座った。

 マッケンジー家に滞在した一週間は、彼にはとても辛かった。彼は母親にとって自慢の息子ではなく、恥ずべき過去の汚点、もしくはなかった事にしたい間違いの申し子であるように感じた。

 彼女が選んだ新しく正しい伴侶であるマッケンジー氏は、打ち解けない彼にあまり関心を示さなかった。彼の二人の子どもたちは、彼を馬鹿にして一緒に遊んでくれようともしなかったし、話の輪に加えてくれようともしなかった。

 だから、今年のクリスマス休暇が近づいてきて、母親からいつ帰省する予定かと訊かれた時に、彼は口ごもった。
「その……帰らないといけないのかな」

 母親が「もちろんよ。私はお前を待っているのよ」そう言ってくれるのを期待していたように思う。もしくは、彼女がどこか他の場所で彼と二人でクリスマスを過ごしてくれるのを。けれど、母親の答えは「無理に来なくてもいい」だった。

 彼は、クリスマス・ソングを聴きながら、乾いたサンドイッチを冷めた紅茶で流し込んだ。寒くて、やりきれなかった。

 窓の向こうの生徒の部屋には、たくさんのクリスマスカードが吊るされている。彼の手元には一枚のカードもなかった。父親は、彼が書いてもカードを送ってくれた事はない。アルコール中毒の祖父はクリスマスカードの事はいつも忘れていて、二月ぐらいに返事を書いてきた。

 それでもその祖父だけは、血の通った文章で手紙を書いてくれる。彼の手紙に返事をくれる。生まれ育ったケニアとは全く違うイギリスの景観、風物、文化、人びと、寄宿学校の生活、感じる事、内氣な性格と友達のいない環境で育ったために未だに周りの生徒たちに馴染めない寂しさや悲しみ、ケニアへの強い望郷。それを受け止めてくれるのは、祖父だけだった。アルコール漬けになっていたせいで、返事は遅く、筆蹟は震え、あまり意味をなさない事も書いてあったが、彼はそれでも祖父の手紙を心待ちにしていた。

 その祖父に電話をする事すらできない。彼には、冷たいサンドイッチと紅茶を買うだけの小遣いしかなかった。今日の彼は本当に一人だった。ケニアは遠く、どれほど寂しくて悲しくても、突発的に戻る事はできない。

 早く大人になりたい。彼は手の甲で涙をぬぐった。空港ヘ行き飛行機に乗りたい。逢いたい時に自由に祖父の所に行けるようになりたい。洋服も自分で買えて、暖房のある家に住んで、それにできる事なら一緒に暮らす家族のいる、そんな大人になりたい。毎年のクリスマスにこんな惨めな想いをしなくて済むように。

* * *


 彼は赤いカードをチェストの上に立てた。一度は開いたが、その必要はない。差出人も文面も毎年同じだ。そのことに傷つく事もない。彼はもうティーンエイジャーではなく、寄宿舎で震えている生徒でもなかった。

「親愛なるヘンリー。
クリスマスおめでとう。あなたの健康と幸福を、ここバースより祈ります。母より」

 彼は、今年送られてきたカードの絵柄が、去年と同じである事に氣がついていた。廉価なセットを購入して余ったのだろう。

 彼自身が、母親に対してクリスマスカード以外の通信をやめてから、どのくらいになるだろう。それまでは、時おり手紙を送っていたが、何回かに一度送られてくる返事には、形式的な文章か感情的になる事をやめるようにという諌言しか書かれていなかった。日常の喜びや悲しみを書く事をやめ、学業の成果と天候のことなどを書くようになった。それから、もしかしたら封すら切らずに屑籠に捨てられているのではないかと虚しくなり、通信においてだけでも関係を保とうとする努力を諦めてしまった。

 父親からはクリスマスカードをもらった事はない。父は少なくとも正直なのだろう。必要以上の関わりを持ちたくない人間に、クリスマスだからといって祝福を与えるのを偽善と感じるのかもしれない。

 祖父が亡くなり、彼にわずかな遺産を残してくれたので、彼は十三年前にケニアに戻ってきた。この地で研究をして博士号をとった。小さい私立大学の講師をしながら、《郷愁の丘》と呼ばれる地の果てに住んでいる。それは夢にまで見たサバンナでの暮らしだった。ここは少なくとも彼の家で、決して贅沢はできないが彼自身の収入をやりくりして、生活が出来ている。

 寄宿学校時代の惨めな日々に比べれば、今はずっとましだ。暖炉にくべる薪もあるし、サンドイッチよりはマシなものを食べる事もできる。ただし、一番実現したかった願いは未だに叶っていない。あいかわらず共に祝う者はいない待降節だ。

 父の家族、つまり父とレイチェルと、マディとその夫のアウレリオと子どもたちは、綺麗に飾り付けられた家で、ご馳走とプレゼントと笑いに満ちた幸福の象徴のようなクリスマスを過ごす。レイチェルの好意で、彼は二十五日の昼食に招待されるので出かけていく。

 もちろん今年も、あまり話は弾まないだろう。いや、彼以外の家族は和やかで笑いに満ちた楽しいクリスマスの午餐を楽しむが、彼だけが言葉を挟むタイミングを掴めないのだ。レイチェルやマディに相槌を求められた時には、わずかに何かを言うが、それ以外はまたいつものように黙っている事になるのだろう。

 彼でも、たくさん話をする事もあるのだ。春にここ《郷愁の丘》にジョルジアが滞在した時は、朝から晩までずっと会話をしていた。この秋にニューヨークの学会に行ったときも、ほぼ毎晩彼女と待ち合わせて、彼女のフラットでじっくりと話し込み、大衆食堂《Sunrise Diner》で彼女の友達に囲まれて楽しく過ごした。

 ケニアの《郷愁の丘》に戻り、都会の喧噪と長旅の疲れから解放されて、心からリラックスするはずだった。けれど彼は、いるはずのない人の欠如に苦しむ事になった。イギリスで夢にまで見た懐かしいサバンナは、彼にとって絶対的な約束の地であることに変わりはなかったし、愛犬ルーシーとの静かで穏やかな日常には満足していたが、誰にも必要とされない存在であることを思い知らされる待降節は、彼の表情を暗くした。

 去年の待降節はこれほど憂いを感じなかった。裕福ではなくても少なくとも凍えない我が家があり、サバンナにいて、一緒に祝う家族の代わりに愛犬がいる事に満足していた。夢想する彼の女神は、二度と逢う事もない遠い存在で、彼女との未来に何も期待していなかった。

 同じ家、同じ一人の待降節が寂しいのは、彼女とたくさんの思い出を作ったからだ。この家に彼女は二週間滞在し、味わい深い家庭料理を向かい合って食べた。今、目の前の椅子に彼女は座っていない。彼女の笑い声や静かで落ち着いた語り口はまったく聞こえない。その静寂は、彼に現実を思い知らせる。彼女は例外的に、氣まぐれで彼と時間を過ごしてくれただけで、人生を共に歩んでくれる家族ではないのだと。彼は、これまでと同じように独りなのだと。

 彼女は、きっとこんな想いはしていないだろうと思った。

 ニューヨークで知った彼女の環境。彼女を心から愛する家族がいて、きちんと支えてくれるハドソン氏のような同僚がいる。そして、いつも笑いの絶えない楽しい仲間が《Sunrise Diner》に集っている。華やかなニューヨークのネオンに加えて、クリスマスの飾り付けと、それらしい音楽が氣分を盛り上げているだろう。クリスマスカードやプレゼントが次々と送られてくるのだろう。

 彼が心をこめて書いたカードと、木彫りシマウマのロウソク立ては、おそらくたくさんの贈り物の中に埋もれて、貧相な様子で佇むのだろう。

 クリスマスは苦手だ。彼はひとり言をつぶやき、母親が義務にかられて書いた味氣ないカードだけの置かれたチェストから目を逸らした。
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Category : 小説・NYの異邦人たち 外伝
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】クリスマスの贈り物 (後編)

「郷愁の丘」の外伝「クリスマスの贈り物」の後編をお送りします。

前編で彼の寄宿学校時代の悲しい思い出と、現在のうら寂しい待降節の過ごし方を描写しました。後半は、彼が大学の講義の帰りに街に立ち寄るところから始まります。都会だとインフラも郵便も買い物ですらも自宅にいるまま楽に受け取ることができますが、彼の住んでいるところは水道もガスも通っていませんし、郵便すらも配達してくれません。だから自分で週に一度調達に行くのです。

なお、待降節というのはクリスマスの前の四週間のことです。四週間かけてクリスマスの準備をして行く時期で、クリスマスカードを送ったり大掃除をしたり、もしくは仕事納めに向けてラストスパートをかけたりするのですね。このストーリーも今年はここまでです。来年の再開を待っていただけると嬉しいです。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




クリスマスの贈り物 (後編)

 彼が大学に講義にいくと、帰り道にイクサの街に立ち寄る。スーパーマーケットで買い物をし、預金を下ろしたり、支払いをしたり、ガスボンベを交換したり、給油をするなど何かと用事があった。

 彼はATMに向かった。この時期はいつもよりも出費が多い。父やレイチェル、それにマディたちに何かプレゼントを買わなくてはいけない。それに、絶対に遅れてはならない支払いも多い。家事の手伝いをしてくれているアマンダや、調査を依頼しているレンジャーたち、それに頼み事をしたマサイの長老たちにも遅滞なく払わなくてはならない。税金や家や車の維持のためにもまとまった現金が必要になる。現在の残高で足りるだろうか。

 彼はニューヨーク行きで思った以上の出費があった事を考えて、不安になった。現金を引き出す前に、残高照会のボタンを押した。

 表示された金額に、彼は眉をひそめた。何かの間違いだと思った。別の人の口座なのかと。そんなはずがない事を冷静に思い返し、もう一度金額を見た。思っていたよりもゼロが二つ多い。こんな残高を目にしたのは何年ぶりだろう。

 彼は、入出金明細をプリントアウトした。そして、理解した。ニューヨークから戻ってから一度も口座を確認していなかったので氣がついていなかったのだが、既に三回もニューヨークのダンジェロ氏からの援助金が振り込まれていたのだ。二回分は、契約通りの毎月振り込まれるべき金額だったが、最初に振り込まれていた金額の意味がわからない。早急にお礼と確認の手紙を書かなくては、彼は思った。

 家に戻る前に、郵便局に向かった。その小さい郵便局に、彼の私書箱がある。《郷愁の丘》はあまりにも人里離れているので、郵便配達など望むべくもない。彼は大学からの手紙や広告などを取り出した。

「窓口に寄ってください」
手紙の下には、メモが入っていた。彼は訝りながら窓口に向かった。

「こんなメモが入っていました」
そう伝えると、局員は奥に入っていき、やがて少し大きめの箱を二つ持って戻ってきた。
「こちらが届いていました」

 彼は差出人を見た。重い一つはダンジェロ氏からで、それから、かなり大きいもう一つを見て笑顔になった。ジョルジアからだ。

 彼女からの手紙を受け取ると、彼はいつも待てずに車に戻るとすぐに開けて読むのだが、今日は小包なので、《郷愁の丘》に戻るまで我慢した。一緒にいるルーシーもジョルジアからだとわかるのだろうか、小包に前足を掛けてやたらと尻尾を振っていた。

 入金の事があったので、先にダンジェロ氏の小包を開けた。二本のボトルが目に入った。一本はプロセッコだった。アダミのヴィンテージだ。数年前のクリスマスに、父親の家で飲んだイタリアのスパークリングワインは、ダンジェロ氏が送ってきたものだったのかと思った。シャンパンはもとよりスパークリングワインの価値や値段などわからない。でも、レイチェルとマディが「いつも滅多に手に入らない最高級のスプマンテを贈ってくれる大富豪」と言っていたのを思い出した。

 もう一本は赤ワインのようだった。ボルゲリ・サッシカイア テヌータ・サン・グイドー。イタリア産ワインという事しかわからないが、これもいいワインなんだろう。

 カードが目に入ったので開いた。

親愛なるスコット博士。クリスマスおめでとう。

あなたがパーティで飲み損ねたスーペル・トスカーナは、本当に素晴らしい出来でした。全く同じではないですが、このサッシカイアを飲んでみてください。僕やジョルジアが祖先の土地であるイタリアに感じている誇りに納得していただけるはずです。

契約通りに援助金の振込を開始しました。それに、失礼かとは思いましたが、前回の学会の旅費ならびに滞在費についても、少しお手伝いさせてください。妹は、そちらで二週間もお世話になったとのこと、よほど楽しく、幸福で、身になる滞在だったとみえて、その事を訊くと珍しく熱弁を振るってくれます。これほど生き生きとした妹を見るのはここ十年でなかったことです。神が彼女をあなたと逢わせてくださった事に心から感謝しています。

来る年のあなたの健康と、研究の更なる発展をお祈りします。来年、契約通りニューヨークに報告にいらしてくださる時にお逢いするのを楽しみにしています。次回は、ジョルジアとあなたをニューヨークで最高のレストランにご案内しますよ。よい年をお迎えください。

マッテオ・ダンジェロ



 彼は呆然として、そのカードを眺めた。ジョルジアが「兄さん、あなたのことをとても氣にいっているみたいよ」と言ってくれた時に、彼はその言葉をまったく信じなかった。彼女が、援助を懇願してくれ、彼は嫌々ながら同意したのだと思っていた。ダンジェロ氏からの好意にあふれる文面は、彼を戸惑わせた。

 幸運の女神の寵児のようなその大富豪は、内向的で人付き合いの苦手なジョルジアとは全く違うタイプだったが、どういうわけか彼女の手紙から感じられるものと非常に似通った空氣が漂っていた。明快であるが、押し付けがましさは感じず、まるでイギリスの初夏の太陽のようにとても心地よくて、彼を緊張させなかった。

 どんな風にお礼の手紙を書くべきか、途方にくれた。添えるプレゼントを買いに行った方がいいのだろうか。先にジョルジアの小包を開けて、それから考えよう。

 箱の中で最初に目についたのはビーフジャーキーだった。「ルーシー用よ」と付箋がついているのを見て彼は微笑んだ。何か小さいものが、薄紙に包まれてたくさん入っている。その間にいくつものカードが顔を出していた。手にとると、全くタイプの違うデザインのカードだった。

 コミックのキャラクターがサンタクロースの扮装をしておどけているカードは、キャシーからだった。十七世紀のシノワーズのティーポットがデザインされたカードはクライヴから。クレアのカードはロックフェラーセンターのクリスマスツリーの写真。そして、彼がもらえたら嬉しいと待っていたジョルジアからのクリスマスカードは、彼女がここで撮ったシマウマを使ったものだった。

クリスマスおめでとう、グレッグ。

赤道直下では、どんな風に祝うのかわからないけれど、あなたが、ルーシーやシマウマたちと平和で幸せな時間を過ごしていることを祈るわ。

ちょっとしたプレゼントを贈るわね。

先日、姪とデパートメントストアに行って、とても素敵なオーナメントを見つけたの。色鮮やかな鳥のオーナメントはこれまでも見たことがあるけれど、今年のテーマは「アフリカン・サファリ!」なんですって。ライオンやゾウだけだったらどうしようかと思ったけれど、ちゃんとシマウマもあったからホッとしたの。在庫を全部買い占めてきたのよ。よく考えたら、アフリカにクリスマスツリーがあるわけはないんだけれど、買ったときは夢中になってその事には氣がつかなかったの。よかったらあのガーデニアの樹にでも吊るしてね。

私の所にも少し残したの。我が家ではこれまでクリスマスツリーを飾ったりした事はなかったのだけれど、小さいプラスチック製のクリスマスツリーを買ってきて、動物たちのオーナメントを吊るすことにしたの。これからのクリスマスシーズン、これを見る度に《郷愁の丘》のあなたのところにも同じオーナメントがあるって思うだけで嬉しくなるでしょう。

箱の底を見るのも忘れないでね。来年の一月に発売になる写真集『陰影』よ。あなたの写真が五枚入っているわ。あなたが撮らせてくれたから完成した作品集なの。これまでで一番私らしい写真集だと思っている。あなたにも氣にいってもらえるといいんだけれど。

新しい年のあなたの健康と幸福を心から祈っているわ。そして、来年もあなたとの実り豊かな文通が続く事を願っている。よいお年を!

あなたの友達、ジョルジア



 薄紙の中から現れた発泡スチロール製のシマウマは口角をあげて笑っていた。キリン、ライオン、ゾウ、ワニ。次々現れるオーナメントは虹色のラメできらきらと輝いていた。

 そのオーナメントの上に、涙が落ちた。

 ジョルジア。ちょっとした贈り物じゃないよ。君はなんて大きな贈り物をしてくれたことだろう。僕がずっと欲しかった、でも、どうしても手に入らなかったものを、君はくれたんだ。誰からも省みられない、ひとりで寒いクリスマス。僕はずっと一緒に祝う人が欲しかったんだ。義務ではなくて、ただ同じ空間にいるというだけでもなく。

 彼は、ダンジェロ氏からもらったボトルとさまざまな絵柄のクリスマスカードをチェストの上に並べた。それから、オーナメントの動物たちも、箱から出して一つずつその間に置いた。外のガーデニアの樹に吊るすというのは悪いアイデアではなかったが、時おりやってくるバブーンたちに持って行かれてしまうのではないかと心配だから。チェストの上は華やかで楽しげになった。

 箱の底に入っていたモノクロームの写真集を手にとると、ゆっくりと手のひらで表紙をなぞった。表紙には、多くの人びとの写真がモザイク上にレイアウトしてあった。真ん中は少し大きめのダンジェロ氏。そして、その右下に彼の写真があった。彼のよく知っている彼女の友達の姿も見えた。

 ダンジェロ氏の好意も、キャシーたちが友情を示してくれるのも、そして、こんなに幸せな氣持ちで待降節を過ごすことができるのも、全て君のおかげなんだ。

 彼は、明日ヴォイの街へ行って、プラスチックのクリスマスツリーを買ってこようと思った。


(初出:2017年12月 書き下ろし)
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Category : 小説・NYの異邦人たち 外伝
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】それは、たぶん……

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scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第四弾です。ポール・ブリッツさんは、プランBでもご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

ついでにプランBでもお願いします。最近自分でもエネルギーが抜け気味で、ショック療法のためにもきついの一発頼む(笑)


さて、他の方はあまり難しくならないように、いろいろと余地を残してご用意するのですが、ポールさんのご希望がこうなので困りました(笑)

何を用意しても「こんな簡単なの、やってられねえ」と思われると思うし、私ごときの頭脳では博識なポールさんを唸らせるお題なんか出せそうも無いので、単純にものすごく限定して自由のないお題を出させていただくことにしました。まず、私が時々やる小説の書き方をポールさんに強制します。

ここに貼り付けた動画は、スティングの「It's Probably Me」です。某映画のサントラにもなったようですが、この際映画のことは忘れてください。純粋に歌詞に沿った作品を書いてください。しかも、下に発表する作品を受ける形でお願いします。可能なら、対象読者は男性ではなく女性が「萌え〜」となる作品に仕上げてくださることを望みます。

なお、歌詞は、ここには書きません。ポールさんなら聴けばわかるでしょう。っていうか、著作権的に載せていいのかわからなかったので。まあ、ネットにいっぱい転がっていますからいいですよね。



Sting - It's Probably Me (Official Music Video)
Music video by Sting Feat. Eric Clapton performing It's Probably Me . © A&M Records. From Lethal Weapon III Soundtrack.

下にご用意した作品のアイリーンというキャラクターは、2016年の「scriviamo!」で発表した「ニューヨークの英国人」で名前だけ登場した女性です。この人は、今後もストーリー上では使う予定はありませんので、ご自由に料理してくださって結構です。申し訳ありませんが、それ以外のこのシリーズで名前のあるキャラたちは、発表していない設定がありますので重要な設定変更(くっつけたり、殺したりという意味です)をしないでいただけると有り難いです。あ、ポールの嫁に差し上げた美穂は、例外です。もうそちらのキャラですので、修羅場なり出戻りなり葬式なりどうぞご自由に。(もちろんポールと美穂は無理して使わなくていいですよ)

【1月17日 追記】
ポール・ブリッツさんが早くもお返しを書いてくださいました。

 ポールさんの作品 「パイプ椅子とビデオモニターと」

すごいですよ。あれだけむちゃを言ったのに、易々と書いていらっしゃいます。アイリーン、そうとうな波乱万丈になっていますが、これだけいい男に当たれば、文句はないでしょう。ポールさん、どうもありがとうございました!

【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」




「scriviamo! 2018」について
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



それは、たぶん……
——Special thanks to Paul Blitz-san


 さっき転んだ時に笑った全ての男の頭に、シャンペンボトルを叩きつけたい氣分だった。いや、それよりも裸足の時を狙ってこの10センチの尖ったヒールで容赦なく踏みつけてやりたい。そうすれば、こんな拷問具みたいなものを身につけながら優雅に歩く女の努力と克己心にもう少し敬意が芽生えるだろうから。

 絶対に泣くものかと思った。マスカラが流れちゃうもの。アイリーン・ダルトンはショー・ウィンドウに映った自分の姿をちらっと眺めた。きちんとセットした髪が更に魅力的に見える様に完璧な角度に被った鐔の広い帽子、コチニール色のスーツは実際の彼女のサイズよりも一回り小さく、彼女の豊かな胸が下品にならない程度に強調される様になっている。この難しい色のスーツに同系統のハイヒールを合わせる勇氣はないので安全な黒、しかも磨き抜かれたエナメル。

 10センチのヒールに少し窮屈なスーツの組み合わせだと、体のあちこちが悲鳴をあげるので、自然と小さなことにも苛立つことになる。なぜ体のあちこちが痛むのかすぐに理解できないと言う人は、おそらくこの手の服装をしたことがないのだろう。従って大抵の男は、セクシーな服装をした女性とその氣まぐれとも言える振る舞いの相関関係には無頓着で、それが彼女を更に激怒させることになる。

 こういう場合に、絶対に言ってはならない最悪のセリフはこうだ。
「だからいっただろう。人間、大切なのは中身だ、外見なんかじゃないよ」

 アイリーンがニューヨークに渡ってきてから一年が経つ。彼女は、ロンドンでそれなりの仕事と社交を満喫していた……と言うわけでもないけれど、冒険がしたくてアメリカに渡ってきた。ロンドン郊外に一緒に住んでいた両親がウェールズの田舎に引っ越してしまったのを風の便りに聞き、もう帰るところはないと覚悟を決めてこの街に残った。

 アイリーンの容姿は、本人が自負しているほど突出しているとは言いがたい。10人の男たちにアンケートをとったらおそらく「美人だ」と判断するのは6人がいいところだろう。いつも流行のメイクアップとヘアセットを怠らず、決して安くはない服飾費に給料の大半をつぎ込んでいるにもかかわらずだ。服装を農家の娘と取り替えたら、その内の3人は意見を変えるかもしれない。一方で「美人ではない」と判断した4人のうち2人は「少なくとも足は綺麗だ」という意見には同意するだろう。

 彼女は、少し扱いにくい性格をしていた。そこが、服と化粧を取り除くとほぼ同じ外見の双子の妹と、大きく違うところだった。つまり、妹のクレア・ダルトンはとても現実的で、たとえば「偶然すれ違ったレオナルド・ディカプリオやジョージ・クルーニーが自分に一目惚れしたようだ」というような確信は一度も持たなかった。実際にそうしたスターたちは、間違いなく一度もクレア・ダルトンに夢中になったことはなかったし、そのことでクレアが不幸だと感じたこともなかった。

 でも、アイリーンにとっては、それはどうでもいいことではなかった。彼女の魅力に一度は屈したはずの男たちが「ところで、あなたはどちらさまですか」などと言い出すことが繰り返されたら誰だって弄ばれたのではないかと悲しい心持になるだろう。しかも、セレブの横に立つのにふさわしくなるために、快適とは言えない窮屈な服装で出かけていったあとにそう言うことを言われるのは嬉しくない。

 ところで、今日「ところで、僕たちどこかでお会いしたことがありましたっけ?」というセリフを口にしたのは、有名なハリウッドスターではなかった。先日知り合ったどっかの男が「君は有名人なら誰でもいいんだろう」と言ったけれど、それは全く失礼なもの言いでしかなかった。アイリーンの(あくまで自ら認識している)美にノックアウトされるのは、有名人も一般人も関係あるはずないではないか。

 アイリーンは、うずくまりそうになる前の最後の力を振り絞って、角を曲がり、妹の勤めている骨董店《ウェリントン商会》のガラスドアを押し開けて中に入っていった。

「アイリーン! 久しぶりね、どうしたの」
クレアはヴィクトリア調の椅子から立ち上がって、双子の姉を迎えた。非常にコンサバティヴな服装を好む妹は、このままデボン州かなにかのの小さい骨董品店にテレポートした方がいいんじゃないかと思うような服装をしている。灰色の長いスカートに黒い細いリボンをあしらった白いブラウス。ニューヨークとはいえ、ここも骨董店なのだからそれでもいいのかもしれない。

 クレアは、そもそもアイリーンを探しにニューヨークにやってきたのだが、そのままこの骨董店で働くことになりアメリカに残っている。この店の三階に、広くて心地のいい部屋を借り、近くのダイナーに行きつけてはたくさんの仲間を作り、アイリーンよりもずっとここに順応していた。それに、そもそもアイリーンに夢中だったはずの、ここの店長であるクライヴ・マクミランはどういうわけか今ではクレアを崇拝しているらしい。自分以外は、誰も彼も世界とうまく折り合いをつけているようで、アイリーンはほんの少し居たたまれなく思うのだった。

「足が痛くなってしまったの。今日は、わざわざミートパッキング・ディストリクトまで出かけていったのよ。とあるDJと会う予定があったから。それなのに、彼ったら私なんて見たこともなければ話したこともないなんて見え透いた言い方で私を厄介払いしたのよ。ひどいわ」

「ミートパッキング・ディストリクトって、マンハッタンの、クラブがたくさん集中しているところね。まあ、アイリーン。あなたったらまたよく知らない人と恋に落ちてしまったの?」
「よく知っている人と、突然恋に落ちるわけないでしょう」

「そうね。あなたの言う通りだわ。でも、そろそろわかってもいい頃よ、10センチヒールを履かないと実りそうにもない恋に時間をかけるのはやめた方がいいってことに。マンハッタンからの帰りにここによらずには帰れないほどあなたの足を痛めつけちゃダメだと思うの」
クレアは言った。

 アイリーンはため息をついた。
「そうはいっても、3センチヒールは、あなたみたいなコンサバティヴな服装ならいいけれど、私の服には合わないもの。それはともかくお茶を頂戴。あなたとマクミランさんのところには、少なくともまともなティーセットとショートブレッドがあるもの。少しだけお茶の時間をとって、私の悲しくも辛い話に耳を傾けてちょうだい」

 クレアは、仕事中だからダメというつもりで厳しい顔をして見せたが、奥から店長のクライヴが「もちろんいいですよ。ちょうど僕も、クレアと一緒に一息いれたかったところなんです」と声をかけたので「まったく」といいたげに天井を見上げた。

 お茶を飲み終わる頃には、ハイヒールによる足の痛みは少し薄らいでいるに違いない。でも、それは根本的な解決ではないのに。でも、彼女に必要なのは、私のような平穏で波風の少ない人生じゃないんだわ、きっと。静かにボーンチャイナのティーセットを用意しながら、クレアはため息をついた。

(初出:2018年1月 書き下ろし)


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Posted by 八少女 夕

【小説】彼女の望んでいることは

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scriviamo!


scriviamo!の第五弾です。canariaさんは、楽しいマンガで参加してくださいました。ありがとうございます!

canariaさんの『scriviamo! 2018 参加作品 』

可愛いクレーマーさん by canariaさん
この漫画の著作権はcanariaさんにあります。無断転用は固くお断りします。

canariaさんは、Nympheさんというもう一つのお名前で独特の世界観と研ぎすまされた美意識の結晶を小説・イラスト・動画などで総合芸術を創作なさるブロガーさんです。現在ブログでは、「千年相姦」を絶賛連載中で、同時に「侵蝕恋愛」も続々刊行していらっしゃいます。創作に対する妥協のない姿勢は、いつも見習いたいと思うんですが……思うだけで真似はできませんね。

さて、今回のマンガは、私の「ファインダーの向こうに」という作品の中の、一通の投書から膨らませてくださった楽しい作品です。現在連載中の「郷愁の丘」にも登場して、一人だけぶっ飛んだ濃いキャラクターで読者の皆さまを呆れさせている、ヒロインの兄マッテオ・ダンジェロのファンのお嬢さんが登場です。

事の起こりは、ヒロインの写真家ジョルジアが、自分の殻を打ち破るためにモノクロームの人物画に挑戦し、セレブである兄マッテオをいつもとまったく違う服装と雰囲氣で撮ったことです。セレブっぽくないマッテオの姿にお嬢さんは激怒、雑誌の発行元に乗り込んでくるそうで(笑)

というわけで、外伝として乗り込んできたお嬢さんを書かせていただきました。ちなみに、この作品は時系列でいうと「ファインダーの向こうに」の最終章と重なる時期です。「郷愁の丘」の始まる三ヶ月くらい前ですね。ジョルジアは二年前にグレッグと出会っていますが、すっかり忘れていたようです。まだTOM-Fさんのところの某キャラに秘めた恋心を抱えている時点ですね。


【参考】
ファインダーの向こうに「ファインダーの向こうに」を読む

郷愁の丘「郷愁の丘」を読む

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」


「scriviamo! 2018」について
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
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「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



彼女の望んでいることは
——Special thanks to canaria-san


 ジェシーは「勘弁してくれ」と言いたいところをこらえた。普段ならこの受付に座っているのはリディアであって、売店が持ち場の彼ではないのだ。

 それなのに、娘が学校で問題を起こしたとかでリディアが早退してしまったので、今日はジェシーが売店と受付といっぺんに面倒を見ることになっていた。歳が代わったばかりで今週は大きな催しもないせいか、これまでは特に問題もなくのんびりとしていられた。

 今、目の前でヒステリックに騒いでいる女が入ってくるまでは。

 《アルファ・フォト・プレス》は、ニューヨーク、ロングアイランドにある出版社だ。現在の社長がクイーンズ州で始めた小さな写真印刷事務所が前身で、おもに芸術的な写真をメインとした出版物や定期刊行物を扱っている。固定社員も三十人前後で、契約社員や専属写真家などを含めても数がしれていて、お互いに顔と名前が一致するアットホームな社風だ。弱小出版社といってもいい。

 その分、マスコミに注目されるようなことはあまりない。昨年末に、写真集『太陽の子供たち』と専属写真家のジョルジア・カペッリが『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』の一般投票部門で六位を取ったのは例外中の例外で、その直後は『太陽の子供たち』の注文が殺到し、ジェシーもしばし誇らしい繁忙期を過ごしたものだ。

 それと前後して『クォリティ』誌で発表したマンハッタンのセレブを特集シリーズも評判になった。専属・フリーを問わず新進のフォトグラファーに印象的な写真を依頼するコンセプトが受けて部数を伸ばしている。だが、一方で、これまでジェシーがほとんど経験したことのないクレームも持ち込まれることになった。

 たとえば、オスカーをとった日本人俳優トダ・ユキヒコを特集した号が発表された時には、二日目には在庫が綺麗になくなったのだが、その後にテキサスからやってきたとかいう女がもう手に入らないなどといって暴れた。

 そして、今度はこの女だ。十二月号で発表されたのは、健康食品会社のCEOマッテオ・ダンジェロの特集だった。この男は、ヘルサンジェル社を一代で大企業にしたアメリカン・ドリームの具現者で、妹でトップモデルのアレッサンドラ・ダンジェロと共にゴシップ誌の誌面を賑わせる事の多いセレブ。独身の大金持ちなので派手な女性関係でも有名で、芸能人でもないのに熱狂的ファンがいる。ちょうどジェシーの目の前で騒いでいるこの女のように。

 特集のインタビューには満足しているようだったが、写真に激怒していた。それもそのはず、大きな反響を呼んだその写真は、いつもとはまったく違うラフな服装の彼を、色を廃しモノクロームで撮ったものだったからだ。

 でも。ジェシーは頭を振った。世間ではほとんど知られていないけれど、この写真を撮った例のジョルジア・カペッリは、マッテオ・ダンジェロの実妹なのだ。妹が兄の姿を撮ったものに「こんなの本当のダンジェロ様じゃない」と言われてもねぇ。

「とにかく、責任者を出してください! ダンジェロ様のイメージを回復するために、謝罪文の掲載を約束してくださるまで、ここを動きませんから!」

 面倒臭いなあ。まさか、こんなくだらないことで社長に取り継ぐ訳に行かないしな。編集長はいないし、編集長代理のミスター・ハドソンは、今日はいたよな。呼びだしたら怒るかな。……あ、まずい。ミズ・カペッリと打ち合わせ中だ。撮った本人がいたら、話がこじれるかも。

「そうですね。申し訳ないんですが、みな出払っていまして……」
そう言いながら、彼女の肩越しにガラス張りのドアの向こうを見た。そして、横付けされたマセラッティから出てきて社内に入ってこようとする人物を見てギョッとした。

 マッテオ・ダンジェロ! なんだ、なんだ? なぜこのタイミングで入ってくる?

「やあ、ジェシー。今日の受付は、君かい? リディアは休みかな?」
彼はこの会社を訪れることはあまりないが、毎回受付のリディアにゾワゾワするような甘い褒め言葉を浴びせる。相変わらず、ウルトラ高そうな黒いコート。被っているフェドーラ帽も黒いがリボンがコートからわずかに見えているマフラーと同じ真紅。伊達者だ。

「ええ。早退しました。ところで、今日は……?」
そう訊くと、彼はジェシーの前に立っている女性の方を見た。彼女は、夢にまで見た憧れの人物の登場で、先程までの激怒はどこへ行ったのか、ぽかんと口を開けて突っ立っていた。

 マッテオは、雑誌などでおなじみの魅力的な笑顔を彼女に向けてからジェシーに答えた。
「いや、君はこちらのかわいいお嬢さんのお相手をしているんだろう? 僕は、ちゃんと順番を待つとも」

 女は「かっ、かわ……」と戦慄き呟いた。顔は真っ赤だ。今にも卒倒しそうだぞ。ジェシーはちらっと眺めた。

「こちらは、例のあなたを特集した『クォリティ』誌の件で、わざわざ社までいらしたんですよ」
ジェシーは、言ってみた。この流れでいけば、謝罪文がどうのこうのというクレームは、取り下げてくれるかもしれないし。マッテオは、ほうという顔になって、それから更に嬉しそうに笑いかけた。

「あなたも氣に入ってくださったんですね、素敵なお嬢さん。あなたのそのサファイアのように澄んだ瞳の前には、どんなまがい物も存在を許されないでしょうが、あの写真の価値だけは認めてくださりますよね。僕は、あの素晴らしい写真のおかげで、随分と名誉挽回をしたのですよ」

 ジェシーは、彼女をちらっとみた。サファイアのように澄んだ瞳ねぇ。確かに青いけどさ。口をパクパクさせて、先程までの勢いは何処へやら、あの写真に対する不満をぶち上げるつもりはなくなったみたいだ。持ち込んだ『クォリティ』誌を握りしめている手がわなわなと震えている。

「ここに掲載された写真が、とても大きな評判を呼んで、僕はとても嬉しいんです。何よりもモノクロームによる表現が素晴らしいと思いませんか? 色を排除する事で、こんなに眩しい光を表現できるなんて、我が妹ながら、彼女の才能には眼を見張るばかりです」
「い、妹?!」
女性は、赤くなったり青くなったり忙しい。マッテオは、誇らしげに笑いかけた。
「そうです。ジョルジア・カペッリは、僕の実妹なんです」

「ええ。素晴らしいと思います! あっ、あのっ、もしお嫌でなかったら、さ、サインを……」
彼女はそう言いながら、ダンジェロ氏の映っている特集ページをなんとか広げようとしていた。

 マッテオは、ニコニコ笑いながら続けた。
「ああ、大丈夫ですとも。もうじきフォトグラファーは降りて来ますから。そうだ、写真集『太陽の子供たち』は持っていますか? 受賞作品だから、あれにサインしてもらうのがベストですよ。持っていないんだったら、僕がプレゼントしましょう。ジェシー、増刷したんだから在庫はあるんだろう?」

 ジェシーは、笑いをこらえながら頷いた。急いで売店から『太陽の子供たち』を持って来て手渡しながら付け加えた。
「ええ。でも、そのお客さんは、あなたのサインも欲しいんだと思いますよ」

 女性は、ものすごい勢いで頷いている。マッテオは太陽のように笑うと、彼女から雑誌を受け取った。
「それは嬉しいね。僕のサインは『クォリティ』にしましょう。このページがいいかな。この服装もいいと思いませんか。実をいうとね、僕がジョルジアに提案したんですよ。ここは、僕たち兄妹が育った懐かしい海岸なんです。せっかくあの海で撮るなら、ぜひラフな格好にさせてくれってね。一度、こういうスタイルの服を着てみたかったんだけれど、思ったよりも知人の受けがよくて喜んでいるところなんです。あなたも似合うと言ってくださいますか、ハニー」

 女性は、無言で大きく頷く。うそつけ。ジェシーはそっと天井を見上げた。あんな庶民臭いコーデがどうのこうのと言っていたくせに。

 マッテオは、ジェシーから受け取ったサインペンで大きくサインをすると、「青い瞳のお嬢さんへ 心からのキスを」と書き添えた。彼女が声にならない悲鳴をあげた。おいおい、こんなところで氣絶しないでくれよ。ジェシーは笑いをこらえながら考えた。

 その時、奥のリフトが到着して開き、中から噂のジョルジア・カペッリが出て来た。
「あ、ミズ・カペッリ」
ジェシーが、声をかけると同時に、マッテオはもう妹の方に大股に歩み寄っていた。

「ジョルジア! 僕の大切なジャンドゥーヤ! 逢いたくてたまらなかったよ」
「兄さん! こんな所でいったい何をしているの? 六時にアパートメントに来るって言わなかった?」
「早く着いたので迎えに来たのさ。何ヶ月ぶりかに妹の作った絶品カネロニを食べられるのだからね。仕事なんかいつまでもしていられるものか」

「まあ。そんなに早く逃げ出したりして、セレスティンが怒ったんじゃないの?」
「まあね。有能な秘書どのには、別に埋め合わせするからいいんだ。ところで、こちらのお嬢さんは、君のファンらしいよ。わざわざこここまで来てくれたんだ。サインをしてあげておくれよ」

 ジョルジアは、女性に軽く会釈をした。それからマッテオに渡された『太陽の子供たち』とサインペンを持ったまま、戸惑ったように立ちすくんだ。
「私、サイン、ほとんどしたことないの」

「ああ、僕の大事なスプモーネちゃん。なんて初々くて可愛らしいんだろう。でも、これからお前はサインをねだられて身動きできなくなるようになるんだ。慣れていかなくちゃ。なに、簡単さ。心を込めて名前を書けばいいんだ。どこがいいかな? やはり見返しかな。青い目のかわい子ちゃん、どこがいいですか?」

 本来クレームを言うためにこの会社にやって来た女性は、ポーとなったまま「どこか、写真のページに」と呟いた。

「写真のページか。じゃあ、あの一番評判になった女の子のページがいいんじゃないかい」
マッテオがページを繰る。やがて、雑誌などで何度か取り上げられた、マサイ族の少女の笑顔のページが開かれた。

 ジョルジアは、言われるままにそのページの余白部分にサインペンで名前を書き込んだ。それから、ほんのわずかの間、微笑みながら写真の少女を見つめた。

「かわいい子だよね」
マッテオが言うと、彼女ははっとして、とってつけたように「そうね」と言った。

 それから、不思議そうな顔をするマッテオを見て仕方なく呟いた。
「ちょっと、この写真を撮るときにお世話になった人のことを思い出したの」
「マサイ族かい?」
「いいえ。アテンドしてくださったイギリス系の方。とても知的な男性で話していて楽しかったなと思ったの。不思議ね、ずっと忘れていたんだけれど」
「へえ。人付き合いの苦手なお前がそんなことを言うなんて、珍しいね。恋でもしたのかな」
「なんてことをいうの。あちらに失礼でしょ。大学の先生よ」

 それから、関係のない話をしている場合では無いと思ったのか、女性に向けてはにかんだ笑顔を見せて写真集を手渡した。
「これでいいでしょうか。わざわざ来てくださってありがとう」

 女性は先程までの怒りはどこへやったのか、妙な笑顔を見せながら何度も頷いた。持ってきたときにはかなり雑に扱っていた『クォリティ』誌と一緒に、愛しのマッテオが彼女のために購入してくれてその手に持った写真集(撮影者のサインはこの際どうでもよかったが)を大切に抱きしめた。

 それから、スマートフォンを取り出すとマッテオに向かってこう頼んだ。
「あの、あの、一緒に写真を撮っていただいてもいいでしょうか」

 マッテオは大きく頷くと、ジェシーのほうを向いた。
「じゃ、ジェシー、撮ってくれよ。僕たち三人の記念写真をね」

 心得たジェシーは、スマートフォンを構え、まるで恋人と記念撮影するように女性の肩に手を回しているマッテオと、困ったように少し離れているジョルジアをフレームに収めた。

「あ、もう一枚撮りますから」
そういうと、そっとズームをしてジョルジアをフレームから外し、女性とマッテオのツーショットも撮った。彼女が望んでいるのはこれに決まっているんだしさ。

 これさえやっておけば、きっとこの女はクレームを二度としなくなるだろう。こういうのをめでたしめでたしっていうんだ。

(初出:2018年1月 書き下ろし)

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Category : 小説・NYの異邦人たち 外伝
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】小さな家族

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第七弾です。けいさんは、毎年恒例の目撃シリーズで書いてくださいました。ありがとうございます!

けいさんの書いてくださった『サファリの一コマ (scriviamo! 2018) (「郷愁の丘」より)』

けいさんは、私と同じく海外移住者なのですが、お住まいはスイスから見て地球の反対側のオーストラリア。とてもパワフルで暖かくて前向きなけいさんには、ぴったり国だなとつくづく思います。そして、けいさんはとても努力家で、お仕事のことだけでなく小説に対してもエンジン全開で勉強に取り組まれます。スタミナが弱いというのか、それともただの怠け者なのか、ぬるま湯にどっぷりと浸かっている私とは対照的……。いつもすごいなあと思って拝見しています。

さて、この「scriviamo!」で恒例となった「目撃シリーズ」、今年は現在連載中の「郷愁の丘」のあの子とあっちの皆さんがガン見してくださいましたね。こうきたか……。で、お返しはどうしようかと悩みましたが、あの子が「家族だもん」と胸を張っていましたので、その経緯を書いてみることにしました。というわけで、外伝をお送りします。本編の開始する二年前、主人公たちにとって少し特別な日に話は始まります。


【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物



「scriviamo! 2018」について
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



郷愁の丘・外伝
小さな家族
——Special thanks to Kei-san


 撮影を終えたアメリカ人フォトグラファーと一緒にナイロビへ帰るリチャード・アシュレイと別れて、動物学者ヘンリー・グレゴリー・スコットはマサイマラを後にした。まっすぐ《郷愁の丘》にある自宅へ帰りたかったが、寄らなくてはならないところがあった。

 彼がマサイマラへ行くことは、リチャードがアウレリオに告げたのだろう。大学はイースターのために休みで、断る口実を見出せなかったので、彼は渋々出かけてきた。世界中の子供の写真を撮っているというそのアメリカ人は、女性だった。

 人付き合いの下手な彼は、特に初対面の女性が苦手だった。何を話していいのかわからなくて間が持たないし、大抵の女性はそんな彼のことを退屈でつまらない人間だと思っていることをあからさまに態度で示す。それでいつもいたたまれなくなるのだ。だから、女性が来ると知っていたらあらゆる口実を作って断っただろう。リチャードも心得ているので、到着するまで詳細を言わなかった。

 アメリカ人写真家が撮りたかったのはマサイ族の子供の写真で、どうしても長老の許可が必要だった。その交渉をスムースにするために日頃からシマウマの調査のために通い信頼関係を築いている彼の協力が必要だったのだ。そのために女性のアテンドだということを隠し通したらしい。

 幸い、今日のアメリカ人女性は、例外的に感じがよかった。ショートヘアにデニム姿とまるで少年のように飾りけのない出で立ちで、押し付けがましさのない静かな人だった。彼との会話もスムースで、興味深い話題について穏やかに話し、お互いに退屈しなかった。リチャードに引っ張り出されて、うんざりしなかったことは本当に珍しかった。こんな遠くまで日帰り往復するはめになったにもかかわらず。

 彼が帰りに寄り道をしなくてはならないことになったのは、リチャードの親友であるアウレリオ・ブラスが昨夜遅く電話してきたからだ。
「マサイマラに行くんだって。頼むよ、僕の代わりに行って欲しいところがあるんだ。帰り道だからさ」

 アウレリオは、リチャードとともにオックスフォード時代から交流のある数少ない知人の一人だ。腹違いの妹ハーフシスターであるマディの夫なので、姻戚と言えないこともない。生まれ故郷であるイタリアと家庭のあるケニアをしょっちゅう往復する実業家だ。

 予定どおりにきちんと行動するという事のできない人で、肝心な時にはいつもいなくなってしまう。そうなると周りの人間がその尻拭いのために走り回ることになる。独り者で特に予定のない彼が、妹やその母親であるレイチェルに懇願されて車を走らせることも多かった。もっとも本当の家族のように頼りにされるのは悪いことではない。父親とほとんど交流がない彼の事に心を砕き、家族の集いに招んでくれるのは、いつもレイチェルとマディだった。

 アウレリオが今日向うはずで、彼が代わりに行くことになったのは、あるバンガローだった。ローデシアン・リッジバックの仔犬が四匹いて、引き取り手を探している。マディとアウレリオは、ここ二ヶ月ほど新しい仔犬を迎えようとあちこち探していた。番犬として優秀なローデシアン・リッジバックは、欲しい人も多いので、オファーがあればすぐに引き取りに行く必要があった。

 彼自身は、ここ数年は犬を飼っていなかった。祖父が亡くなりケニアへ戻ってきた時、受け取ったわずかな遺産の中に一頭の犬が含まれていた。正確にいうと引き取り手がいなかったので、彼が移住して来るまでは父とレイチェルのところにいたが、彼が《郷愁の丘》を買い引っ越して来るとそのままトビアスの面倒を見る事になった。

 亡くなった祖父が恋しいのか、なかなか懐かず、面倒を見るのも大変だったので、トビアスが老衰で亡くなると、それきりになり、もう犬を飼いたいとは思わなかった。そもそも《郷愁の丘》は人里離れ過ぎている上に盗むに値するようなものもないので、番犬の必要もなかったのだ。

「どうぞ、お入りください」
そう言われてバンガローに入ると、やはり犬を見にきている夫婦がいて、どの仔犬がいいか真剣に話し合っていた。みると既に一匹はもらわれて行った後らしく、三匹が残っていた。

「こちらか、こっちよね。どちらも愛想が良くて賢そうだから」
夫婦は、母犬の側でじゃれあっている二匹のどちらがいいかでああだこうだと言っていた。

 家の主人は、彼にこの二人が選び終わるのを待つか、それとも残りの一匹にするかと訊いた。

 見ると残っているのは、一番体の小さいメスで、母犬からも離れて後ろを向いてうずくまっていた。彼は、夫婦に選択の対象にもしてもらえない仔犬を氣の毒に思った。それにいつまでもこの夫婦の優柔不断に付き合って帰る時間が遅くなるのも嫌だった。
「差し支えなかったら、そのメスにしたいと思います。ミスター・ブラスから一任されていますし」

 誰も欲しがらなかった犬の引き取り手が決まって、バンガローの持ち主は大いに満足したようだった。彼は小さなリードとそれまで仔犬がねぐらに使っていた小さなカゴをプレゼントしてくれた。彼は、小さな茶色い塊をそっと抱き上げた。

「近くに仔犬用の餌を簡単に買える店はありますか」
「ミスター・ブラスの住むヴォイにはある程度大きいスーパーマーケットもあるので、買えると思いますが、確証はないです」
「じゃあ、この一袋をお譲りしましょう」

 彼は頷いた。他に氣にかかることがあった。母犬は二匹の兄弟犬の方にかかりっきりで、娘との別れを惜む様子を見せなかった。雌の仔犬は、その母犬をちらりと見たけれど、特に甘えることもしなかった。こんなに小さいのに、独りでいる事に慣れているのだろうか。

 黒い瞳がじっと彼を見上げた。そして、その鼻を彼の襟元にこすりつけた。
「おや。こんなに大人しく抱かれているのは珍しい。この仔犬は少し難しくて、初対面の人をひどく警戒するのに」
バンガローの主人は驚いて言った。

 彼は、肩をすくめた。これまで特に犬に好かれた記憶はなかった。このままマディのところでも大人しくしていてくれるといいのにと思った。

 アウレリオに言われて立て替えた金額を払うと、カゴを助手席の足許に置き、そこに仔犬を寝かせた。小さく丸まると、あっという間に寝息をたて出した。警戒心が強いようには思えないな。でも、届ける間中吠えられているよりずっといい。早く届けてしまおう。一路、ヴォイまでの長い道を運転した。

 あと三十分ほどでヴォイに着くというところまで来たところで、携帯電話が鳴った。彼は、車を道の脇に停めて電話に出た。マディだった。

「ヘンリー? 今、どこなの?」
「もうすぐ着くところだ。ちゃんと引き取ってきたよ」

 マディの声が戸惑ったように小さくなった。
「まあ。そうなの。困ったわ」
「困ったって?」

「あのね。あなたに代わりに行ってもらったって、今アウレリオから聞いたのよ。実は、朝からずっと彼に電話していたんだけれど、例の通り全然捕まらなくて。あなたに頼んだって知っていたなら、もっと早く電話できたのに」
「何が問題なんだ?」

「実はね。昨日の晩に近所の方が、うちにダックスフントの仔犬を持ってきてくださったの。メグがとても氣に入ってしまって、返したくないっていうの。さすがに新しい犬を二匹は無理だから、ローデシアン・リッジバックはもう引き取りにいかなくていいと言うために、アウレリオを探していたんだけれど……アウレリオにようやく電話が通じたと思ったら、あなたに頼んだなんていうんだもの!」

「つまり、この犬はいらないってことかい?」
「そういうこと。心配しないで。私から事情を話して、アウレリオが帰ってきたら連れ帰ってもらうから。でもね……」

「でも?」
「うん。もし、その犬をメグが見ちゃって、両方欲しいと言い出されたら困っちゃうのよ。どうしようかしら。今、ヴォイなら、申し訳ないけれどマニャニまで行ってもらってママのところに届けてもらっても構わない? それとも、アウレリオが戻って来るまで、あなたのところに預けていい?」

 彼は、しばらく考えた。眼を醒ました仔犬がキョロキョロと辺りを見回してから、彼を見上げるとまた安心したように丸まった。彼は、犬と自分と両方にとって疲れる長いドライブであったことを思って、これからマニャニまで行くことにうんざりした。

「それなら《郷愁の丘》に連れて行くよ。トビアスの使っていた食器や毛布もまだあるし、数日分の餌も譲ってもらったから」
「本当に? そうしてもらえたら助かるわ。明日にはあの風来坊がケニアに戻っているはずだから、午前中には連絡できると思うわ。ごめんなさいね、ヘンリー」
「わかった。じゃあ、今日はこれで」

 彼は、そのまま《郷愁の丘》まで走った。門の中に入り助手席側のドアを開けると、仔犬はつぶらな瞳を向けて尻尾を振った。
「ここは、僕の家なんだ。今晩は僕と二人だけれど我慢してくれるね」

 小さな体を持ち上げた。柔らかくて暖かい。くすぐったそうに後ろ足をパタパタ動かす様がユーモラスで、彼は思わず微笑んだ。どういう訳か、出会ったばかりの彼を信頼して鼻先や目の当たりを擦り付けて来る。

 彼は、玄関の脇の戸棚の中をゴソゴソと探って、もう二度と使うことがないと思っていた祖父の愛犬の使った毛布やステンレスの椀などを取り出した。仔犬はクンクンと匂いを嗅いで何かを考えていたが、彼がその毛布を整えてポンと叩くと、ゆっくりとその上に載って寝心地を確かめるようにうずくまった。

 それから、また立ち上がって、台所へ行こうとする彼に着いてきた。彼は、椀に水を入れて置いてやった。喉が乾いていたのかゴクゴクと飲む。
「そうか。ごめんな。餌も四回だったな。今、用意してやるから少し待っててくれ」

 歯の発達に必要なので、固いものをちゃんと食べさせるようにと言われた。マディに渡してそれっきりだと思っていたので、あまり細かく訊いてこなかったけれど、アウレリオが引き取りに来るのはいつなんだろう。餌を食べさせてから、彼は自分用に少しのパンと冷蔵庫にあったチーズを切って皿に盛ると、サバンナを見渡す月に照らされたテラスに行った。仔犬は嬉しそうについて来た。

「今日は、お前にとって大変な日だったよな。初めてお母さんのもとを離れて、こんなところに来て。それも、また戻されるなんて……」
彼の心に、子供時代の居たたまれない思いが蘇った。仲の悪かった父親と母親が離婚して、サバンナから遠いイギリスへ引っ越したこと。けれど母親とは長く暮らすことはなく寄宿学校に入れられたこと。すぐに再婚した母親のもとには行きづらくて、居場所がないと感じた事。

 足元に蹲った仔犬は、彼の靴に頭を載せてきた。まるで彼が主人であるかのように信頼して眠っていた。

 明日か明後日には、アウレリオがやってきて、この犬を連れて行くのだろう。そして、「必要無くなったのです」と、あのバンガローの持ち主に返すのだ。「やっぱりいらないって言われたんだな」そうため息をつかれるのだろうか。

 いらない存在なんかじゃない。お前は、こんなにも柔らかい。僕をこんなに暖かいきもちにしてくれる。

 彼は、満天の星空を見上げた。今日出会ったアメリカ人フォトグラファーのことを考えた。まったく緊張せずにいられる人だったなと思った。ああいう人とだったら、友人になれるのかもしれない。もちろん、彼女とはもう二度と会うことはないだろう。でも、世界のどこかにああいう人がいるのだったら、いつかは僕の日常にも本当の意味で友人と言えるような人が現れるのかもしれない。

 足下で寝息を立てている小さな犬を見た。お前にも、その価値をわかって大切にしてくれる家族がどこかにいるはずだ。僕が、そう思うように。

 
 翌朝、夜明けの散歩をするためにテラスに出ると、小さな茶色い塊がものすごい勢いで寄ってきた。
「やあ。そうだったな。お前がいたんだった。おはよう。よく眠れたか」

 仔犬は全身で喜びを表していた。朝焼けを浴びて、艶やかな毛並が輝いている。
「素晴らしい光景だろう? 僕は、ここが世界で一番素晴らしいところだと思うけれど、お前はどうだい? みてごらん、ほら、あそこをシマウマの群れが通って行くよ」

 彼は、仔犬と一緒に散歩をし、朝食を食べた。彼が論文を書いている時間、仔犬は彼の書斎でおとなしく丸まった。彼が立ち上がると、さっと寄ってきて嬉しそうに尻尾を振った。犬に好かれていることは、心地よかった。トビアスの面倒を見ていたときは、仕方ないから一緒にいてやるという風情だったので、こんな喜びを感じたことはなかった。

 携帯電話が鳴った。マディからだった。
「ハロー、ヘンリー。犬があなたを悩ませていないか心配で。問題ない?」
「まったく問題ないよ。アウレリオは帰ってきたのかい」
彼は仔犬があちこちを駆け回るのを眺めて微笑んだ。

「ええ、今マリンディですって。夕方には戻って来るみたい。多分明日にはその犬を引き取りに行ってもらえると思うの。もう一日、頼んでも大丈夫?」

「構わないけれど……。マディ、その、先方はなんて言っていた?」
「ちょっと失望していたみたいだけれど、仕方ないから引き取るって言ってくれたわ。その犬、難しい性格なんですって?」

 彼は少しムキになった。
「そんなことないよ。聞きわけもいいし、可愛いよ」
「まあ。ヘンリー、あなたがそんなこというなんて珍しいわね」

 彼は、このまま戻したら、この犬は誰にも大切に扱ってもらえないのではないかと思った。そんなのは嫌だ。

「マディ。考えたんだけれど、この犬、このまま僕が引き取ったら、アウレリオは返しに行かなくてもいいんじゃないかい?」

「なんですって。ヘンリー、あなた、犬はもういらないって言っていなかった?」
「そのつもりだったけれど……でも、この犬、とても嬉しそうに尻尾を振っているし、あちこち探検して満足しているんだ。ここをうちだと思っているみたいに。僕のことも嫌がっていないし、ここには十分なスペースもあるから……」

「まあ。愛着が湧いてしまったのね。もちろんいいと思うわ。先方もきっと喜ぶわ。すぐに連絡しなくちゃ。ヘンリー、本当にありがとう」

 電話を切ってから、小さな犬を抱き上げた。
「さて、聴いていたかい? ここがお前の新しい家だよ」

 仔犬はとても嬉しそうに尻尾を振った。彼は、自分といるのを喜んでくれるその犬をようやく手にした家族のように感じた。
 
「まず、名前を決めなくちゃいけないな。僕は、ヘンリー……」
そう言いかけてから、口ごもった。

 誰もが彼をファーストネームのヘンリーで呼んでいるけれど、彼にはあまり親しみがなかった。子供の頃、祖父からは『小さいグレッグ』と呼ばれていた。当時、愛情を感じたのは、祖父と一緒にいる時だけだった。何と名乗ろうと、犬は僕の名前なんか呼ばないだろうけれど、それでも……。

「僕の名前は、グレッグだ。お前の名前は……そうだ、アフリカの女の子らしくルーシーはどうかな」

(初出:2018年1月 書き下ろし)

ローデシアン・リッジバックの仔犬

註・ルーシー (Lucy) は、1974年にエチオピア北東部で発見された318万年前のアウストラロピテクス・アファレンシスの通称

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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】あの時とおなじ美しい海

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scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第十二弾です。TOM-Fさんは、『天文部シリーズ』とうちの「ニューヨークの異邦人たち」シリーズのコラボ作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

TOM-Fさんの書いてくださった 『この星空の向こうに Sign05.ライラ・ハープスター』 

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。現在メインで連載なさっているのは、フィジックス・エンターテイメント『エヴェレットの世界』。ロー・ファンタジー大作『フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス』と、ハートフルな『この星空の向こうに』の両方の登場人物が集合し、物理学の世界でただならぬ何か(?)が起こるお話。スタートしたばかりですが、既に目の離せない展開で続きが待ち遠しいです。

今回コラボで書いていただいたのは、その『エヴェレットの世界』の主役の一人でもある綾乃が案内役となって『天文部シリーズ』のもう一人のヒロインである詩織とある絵のオリジンを探してニューヨークのロングアイランドを訪れるという美しくて哀しいお話。で、最後に絵を置いていってくださったのが、うちの「郷愁の丘」でヒロインジョルジアが入り浸っている《Sunrise Diner》という大衆食堂です。

さて、お返しですが、その絵と絵を描いたケン・リィアン氏をお借りしました。TOM-Fさんに設定を教えていただいたのですが、この方は日本人でTOM-Fさんの作品に既にでてきている辛い過去を持つ男性です。従って、絵に描かれている女性は、そのお話に出てくる亡くなった女性ではないかと思いつつ、この話を書かせていただきました。

こちらで登場するのは「郷愁の丘」の前作「ファインダーの向こうに」で初登場した、ヒロイン・ジョルジアの身内です。彼女の家族は、あの強烈な兄ちゃんだけではないのですよ(笑)


【参考】
「ファインダーの向こうに」を読む「ファインダーの向こうに」を読む
あらすじと登場人物

郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」


「scriviamo! 2018」について
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あの時とおなじ美しい海 - Featuring「この星空の向こうに」
——Special thanks to TOM-F-san


 キャデラックの運転手バートンがドアを開けてくれた。彼女は礼を言って降りてから、迎えにきてほしい時間を告げた。晴れ渡った空の明るい日差しが心地いい午後だった。大きな濃いサングラスを外して、彼女は《Sunrise Diner》という看板のかかったダイナーを仰いだ。

「まあ、ここだったんだわ」

 ロングビーチに来たのは本当に久しぶりだった。彼女自身がニューヨークに住んでいたのはもう十年以上前のことだったし、姉のジョルジアと会うのはいつもマンハッタンの洒落た店にしていた。

 姉の借りているアパートメントを訪れたのは、おそらく彼女がここに引っ越してからの数カ月だけだ。アレッサンドラは今とは別の意味で多忙を極めていたけれど、それでも足繁く様子を見に行かなくてはならないほど、姉のことが心配だった。当時ジョルジアは精神的に参っていて、世界からも背を向けようとしていた。それでも再び生きて行くために必死でもがいていて、アレッサンドラはそんな姉を助けたかった。

 その姉も十年以上の時を経て、ようやくトラウマとその後遺症であった世捨て人のような生活から抜け出しかけているらしい。兄からの報告ではボーイフレンドと言ってもいい人と出会ったようだ。アレッサンドラは、氣掛かりが少ないだけで、同じこのロングビーチの光景もここまで明るく見えるのかと驚いた。

 彼女は、一般にはアレッサンドラ・ダンジェロの名前で知られている。一年ほど前までは、「世界でもっとも稼ぐスーパーモデル五人のうちの一人」であったが、今年からはその称号は返上するだろう。彼女の人氣に陰りがでたからというわけではない。昨年末に三度目の結婚をした相手がドイツの名のある貴族であるためモデルとしての仕事の多くをセーブすることになったのだ。

 今の彼女は、ロサンゼルスの自宅と、ドイツにある夫の城、それにスイスのサンモリッツにある別荘の三箇所を往復する生活をしていた。その合間に慌ただしくマンハッタンに来る時はいつも兄マッテオのペントハウスに滞在する。可能な限り両親や姉のジョルジアと会う時間も作る。いつも遠く離れている彼女が、大切な家族との絆を保つために絶対に惜しまない手間だ。

 そして、愛する家族のためにはどんな小さな事でも迅速に行動に移す。それは尊敬してやまない兄から学んだことで、彼女の信念にもなっていた。そのために彼女は、見ず知らずの大衆食堂の存続の危機を回避するべくこうして出向いたのだ。

 ロングアイランドは、時々ひどいハリケーンに襲われる。そのため、州の条例でこの場所にある建物は建て替え時に、同時に地盤を高くする工事をしなくてはならない。そうすることにより最終的に、この地域全体を高台にあるような状況にするためだ。もちろん州からの助成金は出る。が、その支払いまでには長くて官僚的なやりとりと、役所との強力なコネクションが絶対的に必要だった。ハリケーンの被害者でも、復興プロジェクトでの申請のやりとりに嫌氣がさして、この地に住むのを諦めてしまった人がたくさんいた。

《Sunrise Diner》は、前回のハリケーン被害を受けたわけではなかったので、復興プロジェクトの方には申請できない。つまり緊急性の低い助成金申請だ。だが、オーナーが比較的リーズナブルな値段で購入したこのダイナーは、既にかなり老朽化が進み、手を入れないわけにはいかなくなっていた。

 地盤の工事まで含めると、彼が許容できる費用を32万ドルほど上回っているため、オーナーはむしろ店を閉めることを選びたいといいだしていた。その話を聞いて、従業員や常連たちは途方に暮れた。特に、ジョルジアが一番仲良くしているウェイトレスのキャシーは義父母の協力を得て子育てをしつつ勤めているので、マンハッタンの別の店に通うのは難しい。常連たちも仲のいいキャシーや溜まり場を失うのは嫌だった。

 アレッサンドラは、貧しい漁師の娘として生まれたので、多くの人にとって32万ドルという金額が意味するものが何かはよくわかっていた。今の彼女にとって、32万ドルは大した金額ではなかった。ずっと1000万ドルもの年収を稼ぎ続けてきたし、税金やその他の理由で簡単に出て行ってしまう金もあまりにも多かった。しかも、手許に残ったものもほとんど使い切れないほどなので、何か必要なことが身近にあれば喜んで使いたかった。

 彼女には去年まで三人の別の会社に所属する会計士が付いていた。そうしないと会計士自身による横領を防ぐことができないのだ。今回の結婚でまた一人会計士が増えることになった。ヨーロッパの財産の管理をしてもらう必要ができたからだ。彼女自身は、自分がどれだけの財産を持っているのか、一体何に投資しているのか、正確に把握することをすでに諦めていた。先日サインした新しい仕事の契約だけで、彼女と娘が贅沢しても十年くらいはなんともないくらいの金額が入ってくる。彼女の目下の悩みは、どんなに金があってもそれを使う時間がないことなのだ。

 人付き合いが苦手な姉が心地いいと感じられる数少ない場所の存続は、アレッサンドラにとっても重大な関心ごとで、解決に是非とも協力したかった。だから、さっそくオーナーに連絡を取り、面会の約束を取り付けたのだ。

 さて、そういうわけで住所を頼りにやってきた《Sunrise Diner》であるが、実際にたどり着いて彼女は驚いた。その店を知っていたからだ。正確にいうと、別の外装と他の名前だった頃このダイナーに入ったことがあった。寂れて大して魅力も特徴もない店だったが、テラス席の前に広がる光景が素晴らしくそれは今と同じだった。

 彼女の想いは十一年前に向かった。

* * *


 《Sunrise impression》って、ダイナーの名前っぽくないわね。そう思いながら、アレッサンドラは疲れて落ち込んでいることを悟られないように、ことさら背筋をのばし優雅な動作でその店の中に入った。

 海を臨む外のテラスには何組かのカップルが座っていたが、店の中には一人のアジア人の男がいるだけだった。何か食べようかと思ったけれど、この店はハズレだったのかしら。

 アレッサンドラは、この店から五分くらいのところに住む姉のジョルジアを訪ねた帰りだった。ジョルジアがロングビーチに引っ越すと聞いて、アレッサンドラはなぜそれを許したのかと兄マッテオに詰め寄った。人間不信と精神的なトラウマを引きずっている姉を一人暮らしさせるのは早すぎると思ったのだ。

 彼女は身体的特徴を原因に好きな男に拒否されてから、ショックで精神的安定を失った。対人不安と人間不信、そして、過呼吸の発作が何度か起きたため、兄マッテオが彼のペントハウスに連れて行き療養をさせていた。

「ジョルジアが自分でまた一人で暮らしたいと言ったんだ。尊重してやらないと」
「でも、また発作が起きたらどうするの」

「過呼吸の発作は、もう三ヶ月起きていないし、あのアパートメントの大家は僕の知り合いだから、何かあったらすぐに連絡してくれることになっている。彼女が心配でそばで見守りたいのは僕だって同じだけれど、例のベンジャミン・ハドソンの言うことにも一理あると思うぜ」

「ハドソンって、彼女の会社の編集者だったかしら」
「ああ、そうだ」

「あの人がなんて言ったの?」
「ジョルジアは、社会との繋がりを断つべきではないって。少しずつでもいいから、日常に戻って、世界がそれほどひどいところではないと、肌で感じない限り本当の意味では立ち直れないって」

 それはそうかもしれない。実際に、彼女は少しずつ日常に戻り、生活はできるようになっている。アレッサンドラが訪ねて行くと、得意のイタリア料理でもてなしてくれるし、ごく普通の話題にものってくる。《アルファ・フォト・プレス》に通って、素材辞典に使う静物の写真を撮っている。

 でも、彼女が元のようになることは、そんなに簡単ではないようだ。彼女は、マンハッタンの知り合いとの連絡を一切絶っていた。表情には精氣がなく、人生の楽しみや希望なども一切捨て去ってしまったようだった。泣いたり不平を言ったりしてくれれば、対処のし方もあるのだが、それすらもなかった。姉は、もう二度と傷つかなくて済むように、分厚い鎧を何重にも着込んで、世界からの刺激を遮断しているようだった。

 ジョルジアを訪ねた帰りは、とても疲弊した。彼女を救うことのできない自分が情けなかった。姉をここまで傷つけた男を憎いと思ったけれど、その男に報復をしても、たぶん何も変わらないのだ。

 それだけではない。姉を傷つけた原因は、アレッサンドラ自身にもあることを、自分で分かっていた。アレッサンドラにとってジョルジアは大好きな姉で大切な存在なのに、周りの人びとは常に二人を比較して、ジョルジアのことを「あのアレッサンドラ・ダンジェロに似ているけれど、同じではない存在」と扱った。あの男もそうだった。

 それでも、アレッサンドラもまた他の存在にはなれないのだ。彼女は、疲れていても悲しくても背筋をのばし、完璧な女神「アレッサンドラ・ダンジェロ」として前を向いて行くしかない。そう、たとえハズレのダイナーの片隅に座ることになっても。

「いらっしゃいませ。ご注文をどうぞ」
生活に疲れたような抑揚のない声でウェイトレスが言った。
「そうね。せっかくロングアイランドに来たんだし……ロングアイランド・アイスティーをいただけるかしら」

 手持ち無沙汰になった彼女は店を見回して、アジア人の男と目が合った。どちらかというと小柄なタイプで、 白のバンドカラーシャツとデニムを着崩していた。非常に痩せて肌色もあまり良くないが、元々そういう体質なのか、それとも健康を崩しているのかはよくわからなかった。柔和な顔つきではあるが、どこかジョルジアに似た雰囲氣を纏っていた。人生を、もしくは世界を諦めてしまったような目をしている。

 男の手許に目がいった。それは小さめのスケッチブックで、彼女が入ってくるまでそこに何かを描いていたようだった。

「絵を描くのね。見ても構わないかしら?」
アレッサンドラが訊くと、男は「どうぞ」と言った。だが、立ち上がって彼女に見せに来ようとはしなかった。それで彼女は立ち上がった。極彩色のフレアスカートが広がりハイヒールの立てる音が少し大きく響く。この寂れたダイナーでは、彼女の全てが場違いに思えた。

「ああ、ここの海を描いているのね」
アレッサンドラは、その絵に感嘆した。光り輝く海面、対岸を表した優しい緑の色使い。それになんともいえない懐かしい想い。彼は頷いた。

「とても素敵だけれど、このテーブルと椅子には誰も座っていないのね。あそこにはカップルが座っているのに」
彼女は、思ったままを口にしてからしまったと思った。男は、先程よりもずっと暗い顔をして俯いていた。ジョルジアが見せる表情と同じだ。彼女もまた人物を撮ることができないままだ。それはつまり、人と向き合うことがつらいということなのだろう。

「ごめんなさい。余計なことを言ったわ」
そういうと、そのアジア人は不思議そうに彼女を見た。それから表情を和らげて首を振った。
「いや、君は正しいし、とても鋭いね。俺は……人物を描く事ができないんだ」

 アレッサンドラはウェイトレスに目で合図をして、席をアジア人の男のななめ前に移ることを報せた。そのウェイトレスは、紅茶に見えるけれど本当はラムやジンやテキーラなどでできた非常に強いカクテルを彼女の前に置いた。

 男は驚いたように彼女を見た。
「強いんだね」

 アレッサンドラは笑った。
「そうよ。私はお酒に強いの。それだけでなく『図太いボールド』の。あなたは、姉と一緒ね。芸術家はみな『繊細フラジール』だわ」
「『勇敢なボールド』の対義語は『意氣地なしのミーク』だろう。そして、その形容は俺にはぴったりだ」

「私はそうは思わないわ。本当に『おとなしいミーク』な人は、そのことを氣に病んだりしないものよ。自嘲は、何かを変えたいと思う自分の中の抵抗だわ。私もよくするからわかるの」
「君が? どういう人か知らないけれど、自信に満ちていてなんでも持っているように見えるよ」

 アレッサンドラは面食らった。彼女はまだ二十一歳だったが、既に超有名人だった。自分のことを知らない若い男に会ったのは久しぶりだった。それにしても男の評価は確かだった。彼女は自信に満ちているし、結婚と子供を除けば、必要だと思うもののほぼ全てを手にしていた。

「そうね。でも、自嘲するだけでなく、実際に何かを変える努力をして来たのよ。これからもそうするつもりだわ」

 男はふっと笑った。
「そう言い切れる君がうらやましいな。だが、どんなに努力しても、決して変えることのできない事もあるんだ」

 アレッサンドラは、じっと男を見つめた。ジョルジアのことを考えた。彼女も努力を惜しんだわけではない。彼女にはどうする事もできない理由で、心に傷を受ける事になったのだ。

「わかるわ。でも、だからこそ、誰もが自分にできることで前に進んで行くしかないんじゃないかしら。そして、周りの人間は、本人がそうやって進んで行くのを見守るしかないんだわ」
 
* * *


 アレッサンドラは、十一年前と同じように背筋をのばし、ドアをあけて《Sunrise Diner》へと入って行った。

「いらっしゃいませ……。あ! あなたは、ミズ・ダンジェロ! はじめまして。ジョルジアとお待ち合わせですか」
「あなたがキャシー・ウィリアムズさんね。はじめまして、アレッサンドラと呼んでね。ジョルジアじゃなくて、この店のオーナーに連絡したの。少し早くついたみたいね。せっかくだからロングアイランド・アイスティーを再びいただこうかしら」

 キャシーは不思議そうに首を傾げた。
「私のいない時に、もうここにいらっしゃいました?」
「ええ。でも、ずっと昔のことよ。前のお店の時ね」

 キャシーは笑った。彼女がカクテルを用意している間に、アレッサンドラは店を見回した。ただ援助をすると言っても、オーナーも簡単に32万ドルは受け取れないだろう。だとしたら、ここにある何かを買い取る形にしたほうがいい。でも、大衆食堂って、そんなに価値のありそうなもの、何もないのよね。

 ふと、カウンターの奥にピンで一枚の絵が刺さっているのが目に留まった。
「あの絵……」

 キャシーは不思議そうに見た。
「この絵のこと?」

 それは、あの時にあのアジア人が描いていた絵に見えた。
「ええ。まあ、あの人完成させたのね。いいえ、違うわ、きっと描き直したのね。女の人が描いてあるから」
「この絵を描いた人、知っているんですか?!」
キャシーは、絵を外してカウンターに持ってきた。

「ええ。間違いないと思うわ。あの時に見た鮮烈な印象そのまま……いいえ、でも、全てのタッチが少し優しくなっているわね。この人のこと、とても大切に想いながら描いたのね」

「これ、あなたを描いたわけじゃないんですか?」
キャシーが訊くと、アレッサンドラは笑った。

「まさか。でも、このロングアイランド・アイスティーだけは、あの時私が飲んでいたもののことを思い出しながら描いたんじゃないかしら。この女の人は、きっとあの時に言っていた描くことのできなかった人よ。彼もまた、ジョルジアと同じように、ゆっくりと前に歩いたのね」

 アレッサンドラは、微笑みながら心に決めた。この絵を買うことにしよう。そして、こんなピンなんかじゃなくて、ちゃんとした額縁に収めて、このダイナーのもっと目立つところに飾ってもらおう。

 彼女は、自分の思いつきに満足して、オーナーの到着を待ちながらロングアイランド・アイスティーを飲んだ。


(初出:2018年2月 書き下ろし)

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Category : 小説・NYの異邦人たち 外伝

Posted by 八少女 夕

【小説】キノコの問題

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

今日は「十二ヶ月の情景」五月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。先月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。

月刊・Stella ステルラ 6、7月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今日の小説は、canariaさんのリクエストにお応えして書きました。

テーマはずばり「マッテオ&セレスティンin千年森」です!

情景は森(千年森)で、ギリギリクリアかな?

キーワードと小物として
「セレスティンの金の腕時計」
「幻のキノコ」
「健康食品」
「アマゾンの奥地」
「猫パンチ」
希望です。

時代というか時系列は、マッテオ様たちの世界の現代軸でお願いしたいと思っています。
コラボキャラクターはクルルー&レフィナでお願いいたします。


「千年森」というのはcanariaさんの作品「千年相姦」に出てくる異世界の森、クルルーとレフィナはその主人公とヒロインです。

一方、マッテオ&セレスティンは、私の「ニューヨークの異邦人たち」シリーズ(現在連載中の「郷愁の丘」を含む)で出てくるサブキャラたちです。「郷愁の丘」の広いジョルジアの兄であるマッテオは、ウルトラ浮ついた女誑しセレブで、その秘書セレスティンはその上司には目もくれずいい男と付き合おうと頑張るけれど、かなりのダメンズ・ウォーカー。このドタバタコンビをcanariaさんの世界観に遊びに来させよという、かなり難しいご注文でした。

これだけ限定された内容なので、ものすごくひねった話は書けなかったのですけれど、まあ、そういうお遊びだと思ってお読みください。コラボって、楽しいなってことで。canariaさん、なんか、すみません……。



短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む



【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」





「ニューヨークの異邦人たち」・番外編
キノコの問題


 覆い被さり、囲い込み、食べ尽くして吸収してしまうかと思うほど、深く濃い緑が印象的な森だった。鳥の羽ばたきと、虫の鳴き声、そしてどこにあるのかわからないせせらぎの水音が騒がしく感じられる。道のようなものはあるはずもなかった。ありきたりの神経の持ち主ならば、己が『招かれざる客』であることを謙虚に受け止め、回れ右をして命のあるうちに大人しくもと来た道を戻るはずだ。だが、今その『千年森』を進んでいる二人は、ありきたりの神経を持ち合わせていなかった。

「それで、あとどのくらいこの道を進めばいいんでしょうか」
若干機嫌の悪そうな声は女のものだ。都会派を自認する彼女は、おろしたての濃紺スウェード地のハイヒールを履いていて、一歩一歩進むたびに苛ついていると明確に知らせるトーンを交えてきたが、彼女の前を進んでいるその上司は、全くダメージを受けていないようだった。

「なに、もうそんなに遠くないはずだ。こんなに森も深くなったことだし、【幻のキノコ】がじゃんじゃん生えていそうじゃないか」
そう言って彼は振り返り、有名な『マッテオ・ダンジェロの100万ドルの笑顔』を見せたが、『アメリカで最も商才のある十人の実業家』に何度も選出された男としては、かなり無駄な行為だった。エリート男と結婚したがっている何十万人もいるニューヨーク在住の独身女のうちで、セレスティン・ウェーリーほど『マッテオ・ダンジェロの100万ドルの笑顔』に動かされない女はいないからだ。

「それはつまり、あなたは根拠も何もなく、こんな未開の森を進んでいると理解してもいいんでしょうか」
「そうさ、シリウス星のごとく熱く冷たいセレ。まさか誰もまだ知らない【幻のキノコ】の生えている場所が、カラー写真と解説つきの地図として出版されていたり、GPS位置情報として公開されているなんて思っていないだろうね」

 ヘルサンジェル社は、CEOであるマッテオが一代で大きくした。主力商品は健康食品で、広告に起用されたマッテオの妹であるスーパーモデル、アレッサンドラ・ダンジェロの完璧な容姿の宣伝効果でダイエット食品の売り上げはアメリカ一を誇る。社のベストセラー商品はいくらでもあるが、新たな商品開発はこうした企業の宿命だ。とはいえ、あるかどうかもわからないキノコを社長みずからが探すというのは珍しい。

 セレスティンは深いため息をついた。
「もうひとつだけ質問してもいいでしょうか」
「いいとも、知りたがりの綺麗なお嬢さん」

「あなた自らが、その【幻のキノコ】を探索なさるのは勝手ですけれど、どうして社長秘書に過ぎない私までが同行しないといけないのでしょうか。この靴、おろしたてのセルジオ・ロッシなんですよ!」

「まあまあ。世界一有能な秘書殿のためなら、五番街のセルジオ・ロッシをまるごと買い占めるからさ。ところで、今日の取引先とのランチで君が自分で言った台詞を憶えているかい?」
「もちろんですわ。とても美味しい松坂和牛でしたけれど、あんなに食べたら二キロは太ってしまいます。週末はジムで運動しなくちゃいけない、そう申し上げました」

「ここを歩くとジムなんかで退屈な運動をするよりもずっとカロリーを消費するよ。湿度が高いってことはサウナ効果も期待できるしね。それに、【幻のキノコ】は、カロリーを消費中の女性のオーラに反応して色を変えるそうだ。つまりこの緑一色の中で見つけやすくなるってことだ。ウインウインだろう?」

 セレスティンは、カロリーを消費する運動やサウナでのウェルネスに、テーラードジャケットとタイトスカートが向いていないことを上司に思い出させようと骨を折った。が、マッテオはそうした細部については意に介さなかった。
『とにかく今日この森に来られたことだけでもとてつもなく幸運なんだ。そうじゃなかったらアマゾンの奥地まで行かなきゃいけないところだったんだぜ」

「なぜですの?」
「『千年森』に至るルートは、いくつか伝説があってね。一番確実なのがブラジルとボリビアの国境近くにある原生林らしいんだが、あそこには七メートルくらいある古代ナマケモノの仲間が生存しているという噂があってさ。追われたらハイヒールで逃げるのは大変だろう?」

「それはその通りですわ。でも、カナダとの国境近くの町外れの廃墟がボリビアと繋がっている森への入り口になるなんてあり得ませんわ」
「あり得ないもへったくれも、僕たちは今まさにそこにいるんだ。まあ、堅いことを言わずに、ちょっとしたデートのつもりで行こうよ、大海原色の瞳を持つお嬢さん」

「いつも申し上げている通り、まっぴらごめんです。そもそも、今日はちゃんとしたデートの予定があったのに……ハーバード大卒で銀行頭取の息子なんですよ。ああ、連絡したいのにここ圏外じゃないですか」
「まあ、なんと言っても『千年森』だからね。安心したまえ。今日のが不発に終わっても、今後ハーバード大卒で頭取の息子である独身者と知り合う確率は……チャートにして説明した方がいいかい?」
「けっこうです!」

 ブリオーニのビスポークスーツにゴールドがかった絹茶のネクタイを締めた男とマーガレット・ハウエルのテーラードジャケットを来た女が森の奥深く【幻のキノコ】を探しているだけでも妙だが、話題もどう考えてもその場にふさわしいとは思えなかった。

 その侵入者の会話に耳を傾けつつ、物陰から辛抱強く観察している影があった。それは黒髪を持った美貌の少年で、二人のうちのどちらが彼の存在に氣付いてくれて、悲鳴を上げた瞬間に颯爽と飛びかかろうとひたすら待っていた。

 だが、都会生活が長く野生の勘のすっかり退化してしまったニンゲンどもは、いつまで経っても彼に氣付かなかった。それどころか、めちゃくちゃに歩き回っているにもかかわらず、どうやら最短距離で彼の大切な養い親のいるエリアに到達してしまいそうだった。

「お。見てみろよ。あの木陰、なんだか激しく蠢いているぞ」
マッテオが示した先を、セレスティンは真面目に見ていなかった。大切なハイヒールのかかとが何かぬるっとしたものを踏んだようなのだ。

「マッテオ。この森はどこを見ても木陰だらけで、蠢いているなんて珍しくもなんともありませんわ、それよりも……」
「でも、ほら。女神フレイヤの金髪を持つお嬢さん、木陰は珍しくなくても、木々と一緒に女性が蠢いているのはちょっと珍しいよ」

「なんだって!」
背後から叫びながら突然黒い影が飛び出してきたので、今度こそセレスティンとマッテオは驚いた。

「本当だ! レフィーったら! 僕がちょっと目を離すとすぐこれだ。発情の相手なら、この僕がいるって言うのに!」

 マッテオは、セレスティンに向かって訊いた。
「あれは、誰かな。男の子のようにも見えたけれど、猫耳みたいなものと、尻尾が見えたような……」

 セレスティンは、目をぱちくりさせて言った。
「猫耳に尻尾ですって。マッテオ、あなた頭がどうかなさったんじゃないですか。それよりも、いつから私たちの後ろにいたのかしら。やはり危険いっぱいじゃないですか、この森。これ以上、こんなところに居て、私のおろしたてのハイヒールに何かあったら困るわ。何か変なものを踏んじゃったみたいだし……」

 ところが、そのハイヒールの惨状に98パーセント以上の責任があるはずの彼女の上司は、その訴えをまるで聴いていなかった。
「ひゅー。こいつは、滅多に見ない別嬪さんだ」

 返事が期待したものと全く違ったので、真意を確認したくて顔を上げると、マッテオが意味したことがわかった。先ほど森と一緒に蠢いているとマッテオが指摘した誰かが、黒髪の少年に木陰から引きずり出されていた。深い緑の襤褸がはだけていて、白い肌や白銀に輝く髪が露わになっていた。あら、確かに、珍しいほどの美女だわ。いつも綺麗どころ囲まれているマッテオでも驚くでしょうね。

 マッテオは、美女を見たら口説くのが義務だとでもいうように、ずんずんと二人の元に歩いて行って、アメリカ合衆国ではかなり価値があると一般に思われている『マッテオ・ダンジェロの100万ドルの笑顔』をフルスロットルで繰り出した。

「こんにちは、麗しい森の精霊さん。この深くて神秘的な森には、人知れず永劫の時間を紡ぐ至宝が隠されているはずだと私の魂は訴えていたのですよ。美こそが神の叡智であり、すべてに勝る善なのですから、私があなたを崇拝し、その美しさを褒め称えることを許してくださいますよね」

 何やら揉めていたようだった森色の襤褸を着た美女と黒髪の少年は、この場の空氣を全く読まない男の登場にあっけにとられて黙った。相手に困惑されたくらいで、大人しく引き下がるような精神構造を持たないマッテオは、構わずに続けた。

「怪しいものではありません。僕は、マッテオ・ダンジェロといいます。アメリカ人です。この森で国籍というものが何らかの意味を持つなら、ですけれど。少なくとも佳人に恋い焦がれる心に国境はありません。あなたも、この森のように幾重にも巡らされた天鵞絨の天幕の後ろに引きこもっていてはなりません。どのような深林も恋の情熱の前では無力なのですから。あなたの名前を教えてくださいませんか。私が心から捧げる詩を口ずさめるように」

「てめぇ、何を馴れ馴れしく!」
黒髪の少年が我に返って敵意を剥き出しにした。襤褸を着た美女は、その少年をたしなめた。

「クルルー。客人にそのような口をきいてはならぬ」
「でも、レフィー。聖域であるこの森で神聖なあなたを口説くのがどんなに罰当たりか思い知らせないと」

「さっき、発情の相手がどうのこうのって自分でも言っていたのに」
セレスティンが、小さくツッコんだ。
「なんだとぉ」

 少年は、セレスティンの元に飛んできた。おや、こちらも美形だったわ。セレスティンは驚いた。緑色の宝石のような切れ長の瞳に、漆黒ではなくて所々トラのような模様の入った不思議な髪。綺麗だけれど、危険な匂いがプンプンするタイプの美少年だ。ツンとしていれば、いくらでも女が寄ってきそうだが、どういうわけか今の少年は取り乱して怒っていた。

 手元を素早く前後に動かして、こちらを小突いてくる。この動作は、ええと、ほら、あれ……猫パンチ。うわー、ありえない。美少年がやっちゃダメな動作でしょう。
「ちょっと、やめてよ。何取り乱しているの」
「レフィーの前で余計なこと、言うなよ」
「あのね。そうやって取り乱すと、知られたくないことがバレバレになるのよ。わかってるの?」

 二人がこそこそと会話を交わしている間、マッテオはさらに美女に愛の言葉の攻勢をかけていた。
「あんた、あいつを止めなくていいのか。目の前で他の女を口説くなんて、とんでもない恋人だな」
少年が怒っている。

「おあいにく様。あの人は、私の上司で、恋人じゃないの。それよりも、目下の問題は、私のハイヒール……。何を踏んじゃったのかしら」

 セレスティンが、足下を見ると、どういうわけかそこには真っ赤なキノコがうじゃうじゃと生えていた。しかも、怪しい蛍光色の水玉が沢山ついていて、それが点滅しているのだ。
「やだっ、何これ!」

 美女にクルルーと呼ばれた美少年は肩をすくめた。
「ああ、そのキノコね。ニンゲンの女に先の尖った靴で踏まれると増殖を始めるんだよね。ああ、こんなに増えちゃって面倒なことに……。レフィー、ちょっと! お取り込み中のところ悪いけれど、緊急事態みたいだよ」

 マッテオの口説き文句を半ば呆れて、半ば楽しむように聴いていた美女はこちらを振り向いた。そして、セレスティンとクルルーの周りにどんどん増殖している赤いキノコを見て、慌ててこちらに走ってきた。
「なんだ。おい! 何をやっているんだ」

 マッテオは、そのキノコを見て大喜びだった。
「なんてことだ。これこそ僕たちの求めていた【幻のキノコ】だよ! セレ、でかした!」

 だが、襤褸を着た美女の方は厳しい顔をした。
「何が【幻のキノコ】だ。これを増やすことも、持ち出すことも許さんぞ。やっかいなことになるからな。クルルー、その二人を森の外へ連れて行け。私はそのキノコの増殖を止めねばならぬ」

 クルルーが、ものすごい力を発揮してキノコで真っ赤になったエリアからマッテオとセレスティンを引き離すと、美女はそこへ立ち、続けて森の緑が同調するようにその場所に覆い被さった。そこで、美女が何をやっているのかはわからなかった。クルルー少年に引きずられて二人は森の端まで連れて行かれたからだ。

「これだからニンゲンをこの森に入れるのは反対なんだ。カナダ側にも巨大ナマケモノを配置しないとダメなんだろうか」
そういうと、少年は二人をドンと突き飛ばした。

 一瞬、世界がぐらりと歪んだかと思うと、二人の目の前から美少年クルルーと『千年森』は消えていた。それどころか、彼らが通ってきたはずのカナダとの国境近くの町から400マイル近く離れているマンハッタンのカフェに座っていた。

「え?」
騒がしかった鳥のざわめきの代わりに、忙しく注文をとるウェイターと客たちのやり取りが聞こえ、心を洗うようなせせらぎの代わりに、趣味の悪い電飾で飾られた噴水の調子の悪い水音が響いた。

「なんてことだ。ここまで飛ばされてしまったか。やるな。さすがは『千年森の主』だ」
マッテオは、残念そうに辺りを見回した。セレスティンは、まず手始めに自分の服装がまともな状態に戻っているかを確認したが、残念ながら汗だくでボロボロの様相は、『千年森』にいたときと変わっていなかった。

 でも、ニューヨークに戻ってくるまでの時間を短縮できたんだから、急いで家にもどれはデートまでに着替える時間があるかも! 彼女はお氣に入りの金の腕時計を眺めた。ギリギリ! でも、今すぐ行けば間に合うはず。

「セレ。君のハイヒールに、例のキノコ、ついていないかい?」
諦めきれないマッテオが訊いた。彼女は、大事なハイヒールにキノコがついていたら大変と見たが、『千年森の主』が何らかの魔法で取り除いたのか、あの赤いキノコは綺麗さっぱり消え失せていた。

 それに、あのクルルー少年の言葉によると、ハイヒールに近づけると、あのキノコはとんでもなく増殖してしまうはず。ついていなくて本当によかったってところかしら。

「残念ながら、ついていないみたいですわ、マッテオ。申し訳ないんですけれど、もうアフターファイブですし、私、失礼します。今から急げば、デートに間に合いますので」
そう言いながら、颯爽と立ち上がった。

「OK。楽しんでおいで。今日の残業分、明日はゆっくり出社するといい。やれやれ、僕は氣分直しにジョルジアを訪ねてご飯を作ってもらおうかな」

 セレスティンは、にっこりと微笑みながら立ち去った。途中でもう一度時間を確認するために金時計を見た。

 あら。この時計の文字盤、ルビーなんてついていたのかしら。

 この時計は、なくして困り果てていたところ、マッテオが見つけてくれて、さらに素晴らしい高級時計に変身させてくれたものだ。だから、見慣れていた前の安っぽい時計だった時についていなかったものがあっても不思議ではない。でも、確か、今朝はついていなかったと思うんだけれど。

 立ち止まってもう一度サファイアガラスの中の文字盤をよく見た。ルビーがキラリと光った。蛍光色みたいな色で。しかも動いているような。

 これ、ルビーじゃないわ。さっきのキノコ。この中に入り込んでしまったのかしら。

 セレスティンは先ほどの趣味の悪い噴水前のカフェに戻ろうとした。マッテオに見せないと。だが、どうもカフェが見つからないし、マッテオもいない。ううん、今から電話して戻ってきてもらってこれを見せるとなると、時間を食っちゃう。せっかくの頭取の息子とのデートが……。

 彼女は、そのやっかいなキノコは金時計に閉じ込めたまま、明日まで何も言わないことにした。どう考えても、今夜この時計がハイヒールで踏まれるような事態は起こらないはずだし、明日の朝に氣がついたことにしても問題ないと思う。

 彼女は、キノコの問題はとりあえず忘れることにして、今夜ハーバード大卒の男を逃さないために、彼の前でいかに頭の足りない金髪女の演技をすべきか、綿密にプランを練りだした。

(初出:2018年5月 書き下ろし)

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Category : 小説・NYの異邦人たち 外伝

Posted by 八少女 夕

【小説】庭園のある美術館で

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

今日は「十二ヶ月の情景」十月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。

月刊・Stella ステルラ 10、11月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今日の小説は、TOM−Fさんのリクエストにお応えして書きました。今月も、難しいリクエストでした。

テーマは、『秋の東京』でお願いします。月の希望は、10月か11月で。
ウチの詩織(都立高校生)を使ってやってください。八少女夕さんの作品世界とキャラは、お任せします。


観月詩織ちゃんは、TOM−Fさんの「天文部シリーズ」のダブルヒロインの一人です。最初の登場では高校生でしたが、とある事情があって、都立高校卒業後の話になっています。事情って、つい最近彼女がうちの小説の舞台を訪問してくださった後の話を書いてしまったからです。この時の話は、以下の二つの作品でTOM−Fさんとコラボさせていただきました。

TOM−Fさんの書かれた 『この星空の向こうに Sign05.ライラ・ハープスター』 
私のお返し掌編 『あの時とおなじ美しい海』

読まなくても通じるようには書きましたけれど、まあ、そういうことが背景にあると言うことで。

そして、共演させていただいたのは、最近よく出てくるあのシリーズの、いつも作者に散々な扱いを受けているナイロビ在住のあの人です。今回も特にオチのない情景だけで、すみません。


短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む

【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」





庭園のある美術館で

 東京都庭園美術館のカフェは、ほぼ満席だった。

 その日、『マンハッタンの日本人展』が開催されて、氣鋭の作家たちによる現代絵画や彫刻などが展示されていた。そして、アレッサンドラ・ダンジェロ所蔵のケン・リィアン作『impression sunrise , long island iced tea』も、目玉作品の一つとして来日していた。

 リチャード・アシュレイは、美術に造詣が深いわけではない。実のところケン・リィアンがどのような画家なのかも全く知らなかった。単純に、スーパーモデルが大衆食堂にかかっていた色鉛筆画を32万ドルという高額で買い取ったという話を聞いて興味を持ったのだ。

 彼は、ケニアのナイロビ在住で、たとえニューヨークに行く機会があってもその大衆食堂に行くことはないであろう。たまたまやってきた東京でその絵を観るチャンスがあるなら、観ておくのも悪くないと思って出かけてきたのだ。それに、直接ではないが、彼はアレッサンドラ・ダンジェロやその大衆食堂と縁がないわけではなかった。

 間もなく結婚する友人の婚約者はアレッサンドラ・ダンジェロの実姉で、ニューヨークでの結婚パーティはその大衆食堂で行うことになっているらしい。リチャードはそのパーティに行くことはないが、ケニアでの披露パーティは、彼と、彼の親友であるアウレリオ・ブラスが仕切ることになっているのだ。

 仕事を兼ねて日本へ行くというアウレリオに同行して、プライヴェートな休暇として秋の日本にやってきたリチャードは、この展覧会の話を聞き一緒に行くことにした。商談を終えて合流するはずだったアウレリオがやってこないので、彼は十五分ほど待ってから中に入り、一人で展覧会を見て回った。

 アウレリオのことは心配していなかった。彼が時間通りにやってきたら、その方がよほど不安に思ったことだろう。アウレリオは、知り合ってから二十年近く経つが、予定通りに現れたことは二度ほどしかなかった。

 この美術館は、かつては日本のプリンスの一人である朝香宮鳩彦王が1933年に、当時フランスで全盛を迎えていたアール・デコ様式を大胆に取り入れて建てた邸宅をそのまま伝えている。建物そのものが芸術作品といってもよく、日本国の重要文化財に指定されている。

 アール・デコ風の額縁に収められ、赤外線センサーと警報器に守られている『impression sunrise , long island iced tea』は、確かに繊細で美しい作品だった。しかし、リチャードは美術への造詣が浅く、何をもって他の作品よりいい、悪いと判断すべきなのかわからなかった。そして、32万ドルの価値がどこにあるのかは、全く理解できなかった。

 それは他の作品も同様で、納得したのかしないのか、自分でもわからないまま、とにかくお茶にしようと思ってカフェにやってきたのだ。少なくとも食べるものが美味しいか、まずいかだけは彼でもわかるのだ。

 彼は、颯爽と庭園に面したカフェ『TEIEN』に入り、ケーキとコーヒーを食べたいのだと言った。

 店員は彼を見上げて困った顔をした。リチャードはケニア生まれのオランダ人で、187センチと長身だ。自由な方向になびいてしまう赤毛と、そばかすの多い白い肌を持って生まれてきたが、長らく赤道直下の太陽に焼かれたせいで、外から見える部分の大半はかなり浅黒くなっていた。

「申し訳ございません。ただいま満席でございまして。少々お待ちくださいませ」
何を言っているのか、全くわからない。日本語だから。彼は、満席だといっているのではないかと推測した。相席でもいいかと訊いているんだろうか。

 ぐるっと見回すと、窓辺に一人で腰掛けてアイスティーを飲んでいる若い女性が目に入った。柔らかなウェーヴのかかった髪の綺麗な日本人女性だ。先ほどの絵『impression sunrise , long island iced tea』で、白い服を着た女性の前にあった飲み物に似ている。もっとも『ロングランド・アイスティー』は、強いアルコールの入ったカクテルだから、この女性の飲んでいる罪のないソフトドリンクと同じではないだろう。

 窓から入ってくる柔らかな陽射しに、グラスの明るい茶色と、彼女の艶やかな髪が輝いて見えた。

 目の前の係員は、しどろもどろの英語で「満席です」「お待ちください」というようなことを伝えようとしていたが、彼はわからなかったフリをして、窓辺の女性の近くへと進みながら言った。

「ここに相席してもらうんですね。彼女が嫌でなければ、僕は構いませんとも」と女性にも聞こえるように係員に宣言した。女性は、それでこちらを見て、まともに目が合った。

「ありがとう、お嬢さん。助かりましたよ」
彼は人なつこく笑いながら、女性の前に座った。店員は、諦めてメニューを取りに行ってしまった。リチャードの目の前に座っている彼女は、少し困った様子で、ただ頷いた。

「英語はわかりますか? ああ、大丈夫そうですね。日本は面白いですね。多くの方が英語はわかるのに、ほとんど返事をしないんですから。でも、こうしてトライすると、ちゃんと意思が通じる。そうですよね」
返事を待たずにどんどん会話を進める。

「ちゃんと話せる人もいます。例えば、私の友人はニューヨークに留学中ですが、地元の人と同じように流暢に話せます」
その女性が、ゆっくりとではあるがきちんとした英語で話すと、彼は前よりももっと嬉しそうに身を乗り出した。

「やあ、そういうあなたもちゃんと返事をしてくれた! 素晴らしい。僕は東京に来たのは三回目で、プライヴェートで動き回るのは初めてなんですが、あなたが初めての友達になりそうだ。リチャード・アシュレイといいます。どこから来たと思いますか?」

 女性は、首を傾げた。
「どこか南の島ですか?」
日焼けから推測したのかな。リチャードは笑った。

「はずれ。アフリカ大陸です。ケニアです。ナイロビに住んでいるんですよ。今週は、親友と一緒に東京に来ていましてね。この展覧会でアレッサンドラ・ダンジェロ所蔵の絵が展示されるって聞いたんで、予定を変更して見に来たって訳です。驚いちゃいけませんよ、実は僕たちの友人がまもなくそのアレッサンドラ・ダンジェロの義兄になるんですよ。まあ、僕たちはまだ彼女とは面識がないんですけれどね。きっと時間の問題でしょう。だから、先に絵の方とお近づきになるのも悪くないと思いませんか」

 彼はここまでの間に、まったく息継ぎをした様子がなかった。女性はあっけに取られ黙って頷いていた。

「ああ、親友はどこかって疑問に思うでしょうね。それは僕も同じなんですよ。どこにいるんでしょうね。あいつは昔から、どういうわけか予定の通りに行動するってことが全く出来ないんです。本当なら二時にこの美術館の入り口で合流していたはずなんですが、もう三時半ですからね。それはそうと、僕はケーキでも頼もうと思うんですが、お嬢さんも一ついかがですか。ご馳走しますよ。やあ、まだ名前を訊いていなかったな、教えていただけませんか?」

「観月詩織です」
彼女がそう答えると、彼はそばかすの多い顔をさらにほころばせた。そして、詩織をケーキのショーケースに連れて行った。

「そうですか。もう僕たちは友達ですからね、シオリって呼んでもいいですよね。僕のこともリチャードって呼んでください。おや、これは困ったな、なんて美味しそうなケーキばかり並んでいるんだ。シオリは何を頼みますか。二つでも三つでも遠慮しないでくださいね」

 詩織は遠慮していたが、リチャードが何度も勧めるので諦めて一番さっぱりしていそうなレアチーズケーキを選んだ。彼の方は、フルーツタルトとチョコレートケーキを頼んだ。

「この時期の東京に来たのは初めてなんですよ。アウレリオは、あ、これが待ち合わせに来ない友人の名前なんですけれどね、彼が言うには、日本に行くなら春かこの時期がベストだって言うんです。一度夏に来た時にはモンバサに来たかと思うくらい蒸し暑くて閉口しましたが、今は嘘のように過ごしやすいですね。あとでその庭園を散策するつもりなんですけれど、シオリ、あなたも付き合ってくださいますよね」

 カフェの目の前は、日本庭園になっていた。池を中心に築山や茶室が、豊かな自然に囲まれた静かな四季折々の佇まいを表現している。職人たちの技の粋を集めたアール・デコ様式の邸宅も素晴らしいが、宮家の人々は完全な洋風の世界のみに住み生きるのではなく、やはり和の心で日本庭園に向き合うことも好んだのであろう。

 ヒヨドリ、ツグミ、セキレイ。たくさんの小鳥のさえずりが響いていた。そして、虫の声も聞こえる。都心にあることを忘れてしまいそうになる。リチャードは日本庭園内の茶室を指さした。
「あの建物はなんですか」

「あれはお茶室です。ティーセレモニーをご存じですか。そのセレモニーのために建てられる専用の小屋です。間取りや設備が決められている上、環境もそれにふさわしい静けさと自然を兼ね備えている必要があるんです」
「なんですって! お茶を飲むために、静かな庭や小屋を用意する必要があるんですか?」
リチャードは、信じられないと大げさに騒いだ。

「ティーセレモニーのお茶は、ただのお茶とは違うのでしょうね」
詩織は微笑んだ。

「ロングアイランド・アイスティーが紅茶ではないように?」
リチャードの問いに、詩織ははっとして立ち止まった。

 彼女は、長らくそこに立ちすくみ、何かの想いを追っているようだった。それでリチャードは当惑した。
「あの絵に何か特別な思い出があるんですか、シオリ?」

 そう訊かれて彼女は、ようやくそこにリチャードがいたことを思いだしたように顔を向けた。
「ええ。とても深い思い出があります。いえ、それはきっと絵を描いた本人にあるのでしょうね」

「あの作者、ケン・リィアンをご存じなんですか!」
詩織は、ただ小さく微笑んだ。リチャードのように自分が当事者と知り合っていることを自慢したりはしなかった。

 その色鉛筆画は、実は詩織がかつてケン・リィアン自身から受け取り、吉祥寺の自室の引き出しに収めていたのだ。あの絵を持ってニューヨークの友人を訪ね、今は亡き画家の足跡を共に辿った。そして、彼が大切な女性を想いながらこの絵を描いたと確信した場所を探し当てて、飾ってもらうように頼んだのだ。

 絵は、その後、同じ場所に飾られたままで著名なスーパーモデルの手に渡り、一時的にこの東京に里帰りしている。この展覧会での収益は、薬物依存症治療の支援団体に寄付されるそうだ。

 秋の爽やかな風に、詩織のわずかに赤みかがかった髪が踊る。楓のまだ緑の葉が優しくそよぐ。湖面をつがいの鴨がゆっくりと泳ぎ去って行った。

「さあ、あちらへ行ってみましょう」
詩織は、想いを振り切るようにそう言うと、落ち着いた佇まいの西洋庭園を通り、美術館の本館に近い明るい芝庭へとリチャードを案内した。

 芝庭は明るく開放的で、人々がのんびりと寛いでいた。見るといくつかの野外彫刻が置かれている。
 
「やあ。こんな所にキリンがいるぞ」
リチャードが笑い出した。ブロンズ製のキリン像が首を弓なりに反らして近くの木の葉を食べようとしているように見える。

「ケニアには野生のキリンもいるのですよね」
詩織が訊くと、リチャードは頷いた。
「ええ。それも、首都のナイロビの近くにも住んでいるんですよ」

「え? でも、ナイロビは首都ですよね」
「そうです。ビルが建ち並ぶ都会です。でも、郊外にでるとサバンナが広がっているのですよ。すぐ側にも国立公園がありましてね。ライオンやヒョウはそんなに簡単には出会えませんが、インパラやシマウマ、それにキリンなどはそれほど珍しくないのです。それに仕事柄、野生動物の保護区に行く機会がとても多いので、月に数回は目にしていますよ」

「よく見慣れているものを、入館料を払いわざわざ見るのは不思議な感覚がするんじゃありませんか?」
詩織が訊くと、リチャードは笑いながら頷いた。
「ええ。あなたもそうでしょう、シオリ。あの絵をわざわざ展覧会で観るのは不思議に感じるのではないですか」

 詩織は、そうですねと小さく頷いて、アール・デコ建築の堂々たる姿で佇む本館を眺めた。

 かつて彼女のものであった絵は、彼女の手を離れ違う世界に旅立った。晩秋、この庭の銀杏や楓が美しい錦絵を見せる頃には、ひっきりなしにしゃべり続けるこのケニアからの男だけでなく、あの絵の中の白い服を着た女性もまたこの国から立ち去るだろう。そして、あの輝かしい海を眺めながら「ロングアイランド・アイスティー」を楽しむのかもしれない。

 そして、彼は? 彼の魂は、ここにいるだろうか。それとも、あの海へ行くのだろうか。自由に、全てから解放されて。詩織は、そんなことに思いを馳せて、リチャードと共に出口へと歩いて行った。

(初出:2018年10月 書き下ろし)

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東京都庭園美術館の公式サイト 東京都庭園美術館|TOKYO METROPOLITAN TEIEN ART MUSEUM
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Category : 小説・NYの異邦人たち 外伝

Posted by 八少女 夕

【小説】好きなだけ泣くといいわ

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

今年最初の小説は、毎年書いている「十二ヶ月●●」シリーズです。今年は2013年にやったものと同じ「十二ヶ月の歌」にしました。それぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いていきます。一月はジュリー・ロンドンの「Cry Me A River」を基にした作品です。

かなり有名な曲ですし、著作権的にわからないので訳は書きません。検索するといっぱいでてきますし。歌詞は、不実だった元恋人がやってきて泣いていると言うのに対して「私だって散々泣いたんだから、川のように泣くといいわ」と返すものです。

出てくる登場人物は、「ニューヨークの異邦人たち」シリーズのサブキャラたちです。今回登場しているのは、「ファインダーの向こうに」と「郷愁の丘」のヒロイン・ジョルジアの妹であるアレッサンドラと、その周辺の人物。元夫のレアンドロも別の外伝で既に登場済みですね。


短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む

【参考】
「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」




好きなだけ泣くといいわ
Inspired from “Cry Me A River” by Julie London

 丁寧に雪かきをしてあっても、石畳の間に残った雪が凍り付いていた。安全にドタドタと歩ける無粋なブーツを履いていなかったので、いつもよりもスピードを落として慎重に歩いた。アレッサンドラ・ダンジェロが、雪道で滑って転ぶなどという無様な姿を晒すことは、何があっても避けなくてはならない。

 スーパーモデルとしてだけではない。ヴァルテンアドラー候家当主プリンツ・ツア・ヴァルテンアドラー の称号を持つ男と結婚したため、現在の彼女にはそれにふさわしい品格が求められているのだ。
 
 娘のアンジェリカは、暖かい部屋でもうぐっすりと眠っているはずだ。父親のもとでの二週間の滞在を終えて、明後日またアレッサンドラと共にアメリカに帰るのだ。

 九歳になるアンジェリカは、アレッサンドラの最初の結婚で生まれた娘だ。その父親であるレアンドロ・ダ・シウバは、ブラジル出身のサッカー選手で、現在はイギリスのプレミアムリーグに属するチームで活躍している。娘を溺愛しているにもかかわらず、毎週のように会いに来ることが出来ないのは、そうした事情があるからだ。

 だから、学校の長期休暇には、アンジェリカが長い時間を父親と過ごすことに反対したりはしなかった。時おりイギリスまで娘を送り迎えする必要があってもだ。

 今回はレアンドロが、アレッサンドラと今の夫がヨーロッパでの多くの時間を過ごすスイス、サン・モリッツへと足を運んだ。そして、愛する娘との長く大げさな別れの儀式を繰り返した後に、滞在しているクルムホテルに戻った。

 そのまま、彼の鼻先でドアを閉めて、暖かい室内に戻ってもよかったのだ。なのに、どうした氣まぐれをおこしたのだろう。彼女は、前夫に誘われてクルムホテルへと行ったのだ。重厚なインテリアのエントランスの奥に、目立たないバーがある。別れてから五年経っている。アンジェリカの受け渡し以外の会話をしたのは本当に久しぶりだった。

 スイスという国に、有名人の多くが居を構える理由の一つに、この国の住民の有名人に対する態度がある。たとえ、いくら山の中とはいえ少し大きな街に出れば化粧品や香水の巨大な広告は目に入る。金色の絹のドレスを纏い挑戦的に微笑むアレッサンドラの顔はすぐに憶えるだろう。街を歩いていて「あ」という反応を見せる人はいくらでもいる。けれど、彼らはそのまま視線をそらし、何事もなかったかのように歩いて行く。カメラを取り出したり、通り過ぎてから戻ってきてサインをねだったりしない。

 ホテルの従業員たちも、バーにやってきたのがプレミアム・リーグで活躍する超有名選手と、離婚した超有名スーパーモデルだということを即座に見て取っただろうが、それとわかるような素振りは全く見せなかった。

 クルムホテルのバーで、たった一杯カクテルを飲み、一時間後に颯爽と立ち去った。タクシーを呼んでもらうこともなく、迎えをよこすように連絡することもせずに、彼女は一人歩いた。頭を冷やすために。

 別れた夫との会話が、彼女の頭に渦巻き、彼女を戸惑わせている。

 彼は、二人の共通の興味対象について話しだした。
「それで、お前がこちらで過ごす時間が増えているなら、いっそのことアンジェリカの学校もロサンジェルスにこだわる必要はないんじゃないか」
「そうね。でも、この辺りには英語で通える学校はないのよ。ルイス=ヴィルヘルムはフランス語圏には、今のところ行きたくないみたいだし。もう少し大きくなったら寄宿学校という案も考えないでもないけれど」

「そうか。マンチェスターの学校ってわけには……」
「いきません」
ぴしゃりと言われて、レアンドロは仕方ないなという顔をした。

「あなたは父親だし、意地悪で会わせないっていっているんじゃないわ。でも、離婚原因を作ったのも、毎週会えないほど遠くに行ったのも、あなたの選択でしょう。私を困らせないで」

「それは、わかっているさ。だから、あの子にもっと会いたくても我慢しているんだ。それに、その、俺の方もずっとイギリスに居続けるって決めたわけじゃないし。でも、アンジェリカとの時間はとても貴重だし、あの子に家庭のことで悲しい思いはさせたくないんだ」

 それを聞くと、アレッサンドラは片眉を上げた。キールの入ったグラスに光が反射している。その姿勢はお酒の宣伝の写真のように完璧で、レアンドロは改めて元妻がスーパーモデルであることを認識した。だが、彼女の口からは、コマーシャルのような心地よい台詞は出てこなかった。

「よくもそんなことを言うわね。で? ベビーシッターと結婚すれば、家でじっとあなたを待っていてくれる人と、アンジェリカと三人で幸せな家庭になるとでも思ったってわけ?」
「……それとこれとは……」

 レアンドロは三本目のブラーマ・ビールを頼んだ。よく冷えたグラスが置かれ、バーテンダーが注ごうとするのを手で制し、瓶を受け取るとそのままラッパ飲みをした。

「始めから結婚するつもりでソニアに手を出したわけじゃないさ」
「手を出してから、乗り換えようと決心したってわけね」
「そう具体的に思ったわけじゃない」

「でも、そうなのよね。私が、一日中テレビ・ショッピングでも見ながら、家の中であなたを待っていなかったから」
「つっかかんなよ。そりゃ、あの頃は確かにお前に腹を立てていたけど」

「けど、何よ。お望み通り、若くて家庭を守る妻を持ったんだから、私に因縁をつけるのはやめてよ。言っておくけれど、アンジェリカの親権は絶対に渡しませんから。あの女の元になんてぞっとするわ」
「わかっているよ。それにソニアは、その、口には出さないけれど、さほどアンジェリカを歓迎していないし……でも、お前だって、再婚したんだし、おあいこだろう」
「ふふん。あいにくだけど、ルイス=ヴィルヘルムは、アンジェリカを大切にしてくれているわよ」

「その前のヤツは」
「あの男のことを思い出させないで。あの結婚はそれこそ完全な間違いだったわ」

 アレッサンドラは、眉をしかめた。彼女の二度目の夫は、テレビなどで活躍するモデレーターだったが、表向きの人当たりの良さに反して、家庭では支配的で嫉妬深かった。また子供が嫌いで、アレッサンドラがいない時にアンジェリカに対して意地の悪い言動を繰り返していた。

 アンジェリカの様子がおかしいのに氣がついたアレッサンドラが、使用人の協力を得て現場を押さえた。結婚してから半年経っていなかった。一刻も早く離婚したかったため、離婚原因については他言しないという申し合わせをすることになっていた。いずれにしてもレアンドロにその件を詳しく話すわけにはいかない。あの男の愛娘への仕打ちを知ったら、後先を全く考えずに暴力を振るいに行きかねないからだ。

「そうか。二人目と簡単に別れたから、三人目ともすぐかもしれないと思ったけれどな」
「あなたには関係ないでしょう」

「別れるのか?」
「そんなこと言っていないわ。あなたには関係ないって言っているのよ。こぼれたミルクは元に戻らないって、ことわざ、知らないの?」
「お前は、いつもそうだよな。前を見て、闊歩していく。振り返って後悔したりなんかしない。それがお前らしさなんだけれどな」

 苛ついた様子を見せて、アレッサンドラは向き直った。
「ねえ、あなたは確かに私の娘の父親だけれど、私の再婚にあなたが口を出す権利があると思っているの? あの女と再婚したのはそっちが先でしょう?」

「わかっている。だけど、俺はお前と結婚した時ほど、ソニアと結婚する時に舞い上がっていたわけじゃない」
「なんですって?」

「その、半分は離婚したやけっぱちで、それに半分はソニアがかわいそうで……」
「かわいそう?」

「だって、そうだろう。お前は、離婚しようとしまいと、アレッサンドラ・ダンジェロだ。だが、ソニアは、俺に捨てられたらそのまま人生の敗者になってしまう。家庭を壊した性悪のベビーシッターってことでな。だから、俺は……」
「どうかしら」

 アレッサンドラは、多くは語らなかったが、元ベビーシッターが世間の評判を氣に病むような弱いタイプだと思っていないことは明白だった。レアンドロも、今は自分でも元妻と似たり寄ったりの意見を持っていた。

「でも、俺は今でも時々思うんだ。なぜあの時、あんな簡単にお前と離婚してしまったんだろうって」
「あなたは、自分が言ったことも憶えられないの? 私とは完全に終わりで、仕事を持つ女となんか二度と関係を持ちたくないとまで言ったのよ。不貞を働いたのは自分のくせに」

 レアンドロは、じっとアレッサンドラを見つめて、泣きそうな顔をした。
「俺は、拗ねていたんだ。子供みたいに。お前も歩み寄ってくれて、やり直せるんだって、心のどこかで期待していたんだ。アンジェリカのためだけに俺といるんじゃない、俺とずっと一緒にいたいと思ってくれているってね。その甘さのツケを今払っているんだ。申し訳なかったと思っているんだぜ。時折、俺たちの新婚時代を思い出して、こうなった情けなさに泣いたりしてさ」

「そんなあざとい口説きは、他の女にするのね。ごちそうさま、私帰るわ」
 
 アレッサンドラは、石畳を踏みしめながら、わめき散らしたい思いを必死で堪えた。泣きたいなら好きなだけ泣くといいわ。何よ、今さら。

 私がどれほど傷ついて苦しんで、泣いたと思うのよ。私は強くて振り返りもせずに前へと歩いていくですって。そうじゃない姿を世間には見せないだけよ。

 彼女は駅の近くまで降りてきた。タクシーに乗り込むと、今の家族の待つ家へと戻った。静かな一角にあるその邸宅からは、サン・モリッツの街明かりが星のようにきらめいて見える。外側はコンクリートの直線的な佇まいだが、中に入ると古い木材を多用した柔らかいインテリアがスイスらしい住まいだ。

 暖炉には暖かい火が燃えていて、ソファに座っていたルイス=ヴィルヘルムは、さっと立ち上がってアレッサンドラを迎えた。
「お帰り、寒くなかったかい。言ってくれれば迎えに行ったのに」

 1918年に多くの貴族が王位、大公位、侯爵位などを失った、その一人の末裔として、先祖伝来の宝石や城などと一緒にプライドも受け継いだはずなのに、ルイス=ヴィルヘルムにはどこか山間に走る子鹿のような臆病さがあった。優しく礼儀正しい彼は、アレッサンドラを熱烈に崇拝し、大切に扱う。彼女の仕事も、愛する娘もすべて受け入れ、尊重した。だから、アレッサンドラも、新しい夫を困らせないように、彼の家名に傷のつくような仕事は一切断り、品位を保ち、彼の信頼に応える妻であるように、新しい努力を重ねている。

 まだ二十一歳だったアレッサンドラが、若きレアンドロと出会い恋に落ちた時、品位などということは考えなかったし、努力もしなかった。そこにあったのは、火花のように燃え上がる熱い想いだけだった。世界が二人を祝福していると信じていたあの頃、豪華でクレイジーな結婚披露宴に酔いしれたこと、全てが単純で素晴らしかった。

 あれから十年以上の時が流れ、事情はずっと複雑になり、今夜の二人は同じ場所にいても、もう元の恋人同士には戻れない。アレッサンドラは、優しく抱きしめる夫をやはり優しく抱きしめ返しながら、窓の外を見た。レアンドロの滞在するホテルの辺り、サン・モリッツの街明かりが、泣いているように煌めくのを見て、そっと瞳を閉じた。

(初出:2019年1月 書き下ろし)

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こちらが原曲であるジュリー・ロンドンの「Cry Me A River」です。


Julie London - Cry Me A River

もっとも、私はこちらの方がこのストーリーにもっと近いと思っています。ハリウッドのショーっぽい歌。大好きなマイケル・ブーブレのバージョンです。


Michael Buble - Cry Me A River 2009
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Category : 小説・NYの異邦人たち 外伝

Posted by 八少女 夕

【小説】野菜を食べたら

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


「scriviamo! 2019」の第四弾です。canariaさんは、楽しい「薄い本(同人誌)」様の短編で参加してくださいました。ありがとうございます!

canariaさんの『scriviamo! 2019 参加作品』


canariaさんは、Nympheさんというもう一つのお名前で独特の世界観と研ぎすまされた美意識の結晶を小説・イラスト・動画などで総合芸術を創作なさるブロガーさんです。現在ブログでは、「千年相姦」を絶賛連載中で、同時に「侵蝕恋愛」も続々刊行、それにイラストのプロジェクトも同時進行と、大変精力的に活動なさっていらっしゃいます。無理にブログの友達になっていただいたのは、前の前のブログの時からですから、お付き合いは結構長いですよね。

さて、今回は昨年に続き、私の「ニューヨークの異邦人」シリーズに絡めた作品、同人誌による二次創作という体裁で遊んでくださいました。

妹Loveで大富豪な上、何をやるのか作者でも謎なマッテオ・ダンジェロが、「郷愁の丘」作品中でグレッグがジョルジアに書いて渡したスケッチをWWFでの商品化するために動いてしまったという笑える設定です。ま、そんなわけないだろうというツッコミはなしで。これ小説の世界ですから(笑)

というわけで、またしても外伝を書かせていただきました。ええと、ヒロインのジョルジアはお留守です。その代わりに、思いっきりネタバレな(というか本編では書く予定のなかった人たち)がゾロゾロ出てきています。どんな先の話だ……。ま、いっか。


【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」


「scriviamo! 2019」について
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



野菜を食べたら
Special thanks to canaria-san


 ドアの前に立って、アンジェリカは大きく息を吸い込んだ。ジョルジアの言いつけたことを忘れたわけではない。でも、他にどうしようもないんだもの。

 思い切ってノックをした。
「グレッグ、ねえ。邪魔して悪いけれど……」

 その先を言う必要はなかった。バタバタと音がして、中からドアがガチャリと開いた。口髭に隠れてはいるけれど、慌てて口をパクパクさせている様子は、おかしい。
「す、すまない!」

「ジョルジアには言われていたの。あなたが論文執筆に集中しているときは、邪魔をしないで先にご飯を食べろって。でも、二人ともあなたを待つって言い張るし、それなのに、ラファエーレはお腹が空いてぐずり出すし。だから、ご飯を食べに来るか、そうじゃなかったら二人に直接もう食べろって言って欲しいの」

「もちろんすぐに行くよ。本当に申し訳ない、アンジェリカ。僕は、また時間をすっかり忘れてしまったんだ」
そう言うと、一度デスクに戻って、広がっていた資料にいくつか紙を挟んでから閉じて重ね、それから走るようにしてさっさと戻りかけているアンジェリカを追った。

 ダイニングテーブルの横で、老いた愛犬ルーシーを撫でながらうつろな瞳をしていた幼い少年が、アンジェリカの後ろから入ってきたグレッグを目に留めて歓声を上げた。
「パパがきた! エンリコ、ごはんだよ!」

 飛び上がり駆け寄ったラファエーレ少年を、抱き上げるとグレッグは「ごめんな」と言った。少年は父親にぎゅっと抱きついて、そのまま椅子まで運んでもらった。グレッグは、もう一人のもう少し年長の少年に目を移した。

 エンリコは、明らかに自分も大好きなグレッグ伯父さんに抱きつきたいという顔をしていた。しかし、彼はもう九歳で抱きつくには少し大きくなりすぎているし、さらにいうと、目の前にいるアンジェリカ・ダ・シウバに笑われるのは嫌だった。

 グレッグは、そのエンリコの側にやってきて、肩の辺りを優しくポンポンと叩くと「遅くなってごめんな」と謝った。彼は首を振って笑顔を見せた。赤ちゃんではないので、食卓に全員が揃うまで待つことは問題なかった。もちろん、自分の父親を待つのは話が別だ。アウレリオ・ブラスは、食事に間に合うように帰ってきたことなどない。それどころか、予定よりも数日遅れることもしょっちゅうだ。朝はマリンデイに行くと話していたのに、夕方になってミラノから電話をしてきたりする男なのだ。

 でも、グレッグは違う。彼は、小走りになって、こうやってテーブルについてくれる。研究に夢中になると時間を忘れてしまうのはいつものことだから、せっかく遊びに来たのにほとんど一緒の時間を過ごせないこともある。それでもエンリコは、大好きなグレッグにわがままを言って困らせたりはしたくなかった。

 グレッグは、エンリコの母親マディの腹違いの兄だ。ツァボ国立公園に近いサバンナの真ん中《郷愁の丘》と呼ばれるところに住んでいるので、エンリコの家からは早くても一時間以上かかる。でも、数年前までは、二週間に一度くらい、エンリコの祖母レイチェル・ムーア博士と研究のことを話しに来ていたので、エンリコは祖母の家でしょっちゅうグレッグ伯父さんと会うことが出来た。

 様子が変わってしまったのは、ラファエーレが生まれてからだ。それからは、仕事と育児に忙しくて、二人ともなかなかレイチェルのところにもマディのところにもやってこない。だから、エンリコは、休みになると自分から率先して《郷愁の丘》に数週間泊まりに行くようになった。

「ねえ、ちゃんと付け合わせの野菜も食べなさいよ。好き嫌いなく何でも食べるから安心してって言われたのになぁ」
お皿の上の肉はなくなったものの、野菜がいっこうに減らないことにヤキモキしたアンジェリカが促した。

 エンリコは口を尖らせた。
「ジョルジアが作る付け合わせは美味しいから、すぐなくなっちゃうんだよ」
「ママのごはん、とってもおいしい!」
小さなラファエーレも調子を合わせたので、グレッグが慌てた。

「君の作る食事も美味しいよ。実を言うと、君に料理が出来るなんて、思ってもいなかったんだ。まだ十八歳だし、それに……」
「甘やかされたお嬢さまだから?」
「いや、その……」

「そんなに真面目に困らないで、グレッグ。それに氣を遣ってくれなくてもいいのよ。だいたいね、エンリコ。私がジョルジアみたいに料理上手だったら、こんなところであなたのベビーシッターなんかしていないで、とっくにスターシェフになって稼いでいるわよ。まったく子供のくせに生意氣だわ、ジョルジア並みに美味しくないと完食しないなんて」

 二年前から、アンジェリカは夏休みには小遣い稼ぎに働こうと自分で決めた。小学校の頃から親しい友達は、ピザ屋やアイスクリーム屋などで働いていたし、いま在籍している寄宿学校の仲間もそれぞれの国に帰って、なんらかの季節の仕事をするかヴァカンスに出かけていた。

 アンジェリカは、ピザ屋でも何でもいいから外で働いてみたいと思ったけれど、皆にひどく反対された。いつ誘拐されるかわからないというのだ。

 アンジェリカのためには、百万ドル以上の身代金を要求をされても、即座に払おうとする人間が周りにやたらといる。スーパーモデルの母親アレッサンドラ・ダンジェロ、有名サッカー選手の父親レアンドロ・ダ・シウバ、城をいくつも持つ母親の再婚相手ヴァルテンアドラー候家当主ルイス=ヴィルヘルム。それに姪を溺愛する伯父でアメリカ有数の富豪マッテオ・ダンジェロ。

 だから、送迎なしではなかなか街には行けない。ピザ屋で働くなんて夢のまた夢だ。

 それで、泊まり込みで身内のところで働いてみたけれど、二年前のマッテオのところでは甘やかされすぎて自分でも給料泥棒だと思った。去年は、ルイス=ヴィルヘルムのドイツにある城の一つで働いてみたけれど、今度は使用人たちが真面目で厳格すぎて息が詰まる。出来ればあそこにはもう行きたくなかった。

 それを相談したら、ジョルジアが《郷愁の丘》に来てみたらどうかというのだ。ちょうど彼女は長期アメリカに行かなくてはならない時期で、マディのところにしばらくラファエーレを預けるか悩んでいるところだった。

「あなたが来てくれたら、私は安心して旅立てるわ。ラファエーレの遊び相手は泊まりに来るエンリコがしてくれるし、グレッグも可能な限り二人の面倒を見るから、さほど手はかからないと思うの。それに、ここには誘拐犯は絶対にやってこないって、あなたの両親も、それにルイス=ヴィルヘルムやマッテオも安心すると思うわ」

 《郷愁の丘》は、陸の孤島だった。誘拐犯は来ない代わりに、ショッピングも出来なければ、観光も出来なかった。ネットのつながりも悪いし、そこまでドライブというわけにもいかない。退屈ではあるが、居心地は抜群だった。叔母のジョルジアは、ほぼ入れ替わりでいなくなってしまったが、真面目で内氣で小言を言わないグレッグや、純朴で比較的従順な二人の少年との暮らしは悪くなかったし、サバンナで見る動物たち、広大な景色など、都会では体験できない刺激的な日々を満喫していた。

 エンリコとラファエーレは、テレビもなければゲーム機もないところで、遊んでいた。ルーシーを撫でながら、おそらく原始時代から大して変わっていないのであろうと思われるカジュアというゲームを何時間もしていることがあった。なぞなぞや積み木やブロック遊びに興じ、たくさんある百科事典を開いてみたり、グレッグが仕事をしていないときは絵を描いてもらっていた。

 今も、食事をしながら、エンリコは夕方に絵を描いてもらいたいとグレッグにねだっている。絵といっても彼が描くのは野生動物のスケッチなのだが、子供たちは彼の手にした鉛筆の先からシマウマや象やキリンが魔法のように現れるのを見るのが大好きだった。

「あ、絵といえばね! 忘れるところだったわ」
アンジェリカは、突然思い出して立ち上がり、自分が滞在している客間に入っていった。

 すぐに戻ってくると、アンジェリカはグレッグと子供たちに手にしたクリアファイルを見せた。
「あ」
グレッグは手を伸ばすと、それを嬉しそうに眺めた。彼にとってそれは思い出深いものだった。

 始めてジョルジアがこの《郷愁の丘》に来て、彼のスケッチを褒めてくれたのはもう十年以上前のことだ。その時に彼女に贈った絵を、彼女は額に入れてニューヨークの寝室に飾ってくれていた。二人が結婚してから、絵はこの《郷愁の丘》に戻ってきて、今も寝室にかかっている。

 今、アンジェリカが持ってきたクリアファイルは、その絵の一部分拡大を用いてある。ジョルジアの兄、マッテオがその絵を「WWFで商品化したい」と言い出したとき、始めは冗談だと思っていた。

 マッテオはWWFに多額の協賛金を寄付している会員だ。十年以上前にニューヨークで開催された野生動物の学会の最終日にWWF主催のパーティのことは忘れられない。レイチェルが彼女たちの研究のスポンサーである大富豪に紹介してくれるというので、嫌々出かけてったのだ。その篤志家マッテオ・ダンジェロこそが他ならぬジョルジアの兄とは夢にも思っていなかったのだが。

 ジョルジアがレイチェルと一緒に彼の地味な研究の意義を兄に力説してくれたお陰で、彼はマッテオに継続的な援助をしてもらうことが出来るようになった。それだけでなく、二人の結婚が決まってしばらくしてから、寝室にかかっている例の絵をWWFでの商品化するよう推薦してくれると言い出したのだ。

 その前後の数年にわたり、WWFでは無名の人物や子供たちの描いた野生動物のイラストや写真で、寄付金付き商品を作り販売していた。ポストカード、レターセット、鉛筆ケース、額入りのコピー絵、メモブロック、ミニタオル、エコロジーバック、それにアンジェリカが持ってきたようなクリアファイル。

 グレッグの絵も他の作者の絵と一緒に商品化され、一年間にわたり世界中で販売された。もっともアフリカで目にしたのは、「僕の親しい友人の絵が商品化されたんですよ」と誇らしげに配るリチャード・アシュレイの事務所でだけだったので、グレッグは実際のところそれがどれほど売れたのかを知らない。

「懐かしいものを……。アレッサンドラ、君のお母さんがくれたのかい?」
グレッグが訊くと、アンジェリカは首を振った。
「違うわ。これはね、ここに来る直前に、私がマドリッドで見つけたものなの」

「マドリッド? 君のお父さんのところでかい?」
レアンドロ・ダ・シウバは、現在はリーガ・エスパニョーラでの連覇を目指すチームに所属しているので、マドリッド在住だ。だから、アンジェリカはマドリッドに立ち寄ってから《郷愁の丘》のあるケニアへやってきた。

「パパの家にあったわけじゃないわ。実はマドリッドで『オタクの祭典』って催しをやっていたので、ちょっと顔を出してきたの」
「『オタクの祭典』ってなんだい?」

 グレッグは地の果てに住んでいる上、サブカルチャーなどにほとんど興味がない。日本発のマンガやアニメを特に愛好する人たちが世界各国で同人誌即売やコスチュームプレイを楽しむイベントを開催していることなど知るよしもない。

「あなたに詳しく説明したら、夜が明けちゃうわ。簡単に言うなら、コミックやアニメーションの愛好家がトリビュート作品を販売する展示会みたいなものかな。いろいろなジャンルのものがあって面白いのよ」

 グレッグだけでなく、並んでご飯を食べているラファエーレも、アンジェリカの座った席の隣で、いやいや野菜をつついていたエンリコも、さっぱりわからないという顔をして彼女を見ている。

 アンジェリカは、こほんと咳をして続けた。
「とにかく。とある作品のグッズがないかなと思って行ったんだけれど、行列で並んでいるときに、たまたまその隣のブースにね『Fleurage』っていう綺麗な名前のサイトがあって、氣になっていってみたの。そうしたらたぶん偶然だと思うけれど『郷愁の丘……』っていう作品を売っていて、日本語で読めなかったんだけどつい買っちゃったの。そしたら、特典だってこのクリアファイルをくれたのよ。例のWWFのファイルが今ごろ私の手元に来るっていうのも驚きだけれど、それが《郷愁の丘》に行くっていうのも、おもしろくない?」

 グレッグは、アンジェリカが差し出したクリアファイルを、感無量な様子でじっと見つめた。
「そうだね。本当に」

「そのシマウマの絵、グレッグが描いてくれる絵とそっくりだよ」
エンリコが不思議そうにのぞき込んだ。

「そうよ、だって、これ、グレッグの絵なんだもの」
アンジェリカが答えると、彼は『ええー!」っと、椅子から飛び降りて、ファイルを持っているグレッグの側に回った。

「いつこんな風になったの? 僕、知らないよ!」
「お前がまだ、ラファエーレよりも小さかった頃の話だからね。そうか、これは見たことなかったか」
「いいなあ。これがあったら、僕、学校に毎日持っていくのに。みんなに自慢して、それに……」

 エンリコは、クリアファイルをそっと撫でた。グレッグは困ったなという顔をして、甥の頭を撫でた。 
「残念ながら、リチャードが全部持って行ってしまって僕やマディのところにも残っていないし、今はもうどこにも売っていないんだ」

 アンジェリカは、肩をすくめた。こうなると思った。とにかくエンリコときたら、グレッグに関することは何もかも素晴らしいと思っているんだもの。私には、ちっとも理解できないけれど。

「いいわよ。そのつもりで取り出してきたし、これはエンリコにあげるわ。私の滞在中、付け合わせの野菜を一口も残さないって、約束できるならね」
エンリコは、駆け足で自分の席に戻り、喉が詰まるのではないかと思われるほどのスピードで野菜を平らげた。

 笑ってそれを見ているグレッグの横から、ラファエーレが小さな声を出した。
「ぼくも、もらえるの? おやさい、たべたよ」

 グレッグはまた困って、息子の頭を撫でた。
「お前は、まだ学校に行っていないし、あれをなんに使うんだ?」
「でも、おやさい、たべたよ」

 アンジェリカは、笑って答えた。
「大丈夫よ。マッテオのところに、あの時に発売されたものがみんなとってあるはずだもの。ラファエーレにはミニタオルがいいんじゃないかしら。すぐに送ってくれるように、連絡するから」

 ラファエーレは、すぐに笑顔になった。おそらくタオルが届く頃には、きっとこの子は何を欲しがったかも忘れているだろう。シマウマの絵など何百枚でも描いてくれる父親と、付け合わせを食べろと言う必要もないほど料理の上手な母親の両方の愛情を受けて楽しく日々を過ごすのだろうから。

 それでも、アンジェリカは早速マッテオにメールを書こうと思った。自分のアイデアで生まれた作品が、今ここでまたホットな話題になっていることを、大好きなマッテオ伯父さんがとても喜ぶだろうと思ったから。カペッリファミリーの結束は固いのだ。たとえアメリカ、ヨーロッパ、アフリカと違う大陸に住むことになっても。

(初出:2019年1月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

【小説】あの日、庭苑で

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scriviamo!


「scriviamo! 2019」の第九弾です。山西 左紀さんは、「絵夢の素敵な日常」シリーズの短編で参加してくださいました。ありがとうございます!

山西 左紀さんの『PX125』

山西左紀さんは、SFを得意としていらっしゃる創作ブロガーさん。お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人で、このscriviamo!も皆勤してくださっています。

ここ何年かは(私が先に書く)プランBでのご参加が続きましたが、今年はサキさんが先行で。そして、この作品は、サキさんのブログ33333ヒット記念作品として私のリクエストにお応えくださった作品でもあるのです。詳しくはサキさんのブログで作品を読んでいただくとして、これに対して何をお返ししようか、少し悩みました。

そして思い出したのが、この作品について、サキさんがちらっと「シンクロしている」と話してくださったことなんです。全くの偶然なんですが、私が「野菜を食べたら」という作品を発表したとき、とあるシチュエーションが、執筆中のサキさんの作品とシンクロしていたのですね。

というわけで、私からのお返しは、その「野菜を食べたら」で出てきたあの娘の話を書くことにしました。サキさんの作品で描かれた「仮面を被ったお嬢様」をテーマにしました。サキさんの方では仮面を取ろうとしていますが、こちらは被ろうとしています。「野菜を食べたら」のちょうど一年前でストーリーが始まります。


【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」


「scriviamo! 2019」について
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
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「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
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あの日、庭苑で
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 鏡に映るのは地味な服装に身を包んだ自分だった。黒にかなり寄ったグレイの生地は野暮ったかったし、小さな丸みを帯びた襟も全く好みではなかった。アンジェリカは、むしろ黒い糊の効いたシャツのシャープな襟を立てて着る方が好きだ。たとえモノトーンのシンプルな装いでも、アクセサリーの付け方ひとつ、選ぶ靴一つで、「さすがあのアレッサンドラ・ダンジェロの娘ね」と言わしめるだけのファッションセンスを彼女は持っていた。けれど、今日の服装は、その反対の印象を与えなくてはならない。アンジェリカ・ダ・シウバという娘が、雇い主の家族であることを、誰にも悟らせないようにしなくては。

 彼女は、持っていこうとしたアクセサリーを全て引き出しに戻すと、パタンと音を立てて閉じた。彼女の持っているアクセサリーは、貧しい十七歳が手にするような品物ではない。持っていることがわかってしまったら、盗んだと疑われるか、さもなければ経歴に疑問を持たれるだろう。

 アメリカで育ったブラジル移民の娘という経歴は、嘘ではない。そのブラジル移民が、誰もがその名前を知るサッカー選手であることは、伏せているが。母親は未だにファッションアイコンである元スーパーモデル。伯父は、健康食品会社の経営者である大富豪。母親の三度目の夫は、いつだったかの神聖ローマ帝国皇帝の血を引く貴族で、いくつかの城を所有している。その中で、もっとも辺鄙なところにあるために所有者ですらほとんど行かない城に、アンジェリカは夏期休暇中の仕事をしに行く。

「なぜ、ファルケナウにしたのかい? エッケンブルグなら勝手も知っているし、私も毎週のように足を運ぶから、安心だろう?」
母親の夫であるヴァルテンアドラー候家当主は心配そうに言った。

「だからよ、ルイス=ヴィルヘルム。あのお城で働く人たちはみな私が誰だか知っているもの。それに、あなたがちょくちょくやってきて私を甘やかしたら、私また給料泥棒になってしまうわ」
アンジェリカは言った。

 昨年は、ニューヨークのヘルサンジェル社で三週間働いたのだが、初日からCEOである伯父と顔なじみの経営陣たちに甘やかされて、まったくまともな仕事ができなかったのだ。

「でも、ファルケナウは本当の田舎で、息抜きのショッピングも出来ないよ。代々の城主が滅多に行かなかったから、使用人たちも代々地元の人たちが彼らなりのやり方を踏襲していてね」
「そういえば、ママも行ったことがないって言っていたわ」

「落ち着かないからなかなか足が向かなくてね。近くに空港もないので、往復に時間がかかるんだ。そうまでして行く理由も考えつかないしね」
ルイス=ヴィルヘルムは、困ったように言う。

「でも、あなたの息子は、あそこに住んでいるんでしょう?」
アンジェリカは、不思議に思って訊いた。

「そうだね。この春に引っ越したんだ。それこそもっと便利なエッケンブルグや他の城を勧めたんだが、仕事でチェコに行くことも多いので、あそこがいいと言うんだ。もっともいつまであそこに耐えられるか、私も様子を見ているよ」

 ルイス=ヴィルヘルムの最初の妻は、やはり彼と同じ階級の出身で、離婚後は息子を連れてベルリンに引っ越した。息子であるヨハン=バプテストはヴァルテンアドラー候家の跡継ぎとして、ルイス=ヴィルヘルムがドイツにいるときは側で時間を過ごすことがあった。

 アメリカの小学校に通い、卒業後はスイスの寄宿学校に入ったアンジェリカは、自身がルイス=ヴィルヘルムの城で時間を過ごすことが少なかったので、ヨハン=バプテストと顔を合わせたのは母と養父の結婚式を含めて二度だけだった。でも、その二度目のことは忘れないだろう。

* * *


 アンジェリカは九歳になったばかりだった。母親が、ドイツの貴族と結婚したのは前の年の年末だ。アンジェリカの学校があるので、ロサンジェルスの家での暮らしがベースになっていたが、アメリカに馴染めないルイス=ヴィルヘルムのために長期休暇の時は、ヨーロッパに戻るのが常だった。

 その夏は、一番大きくて由緒のあるエッケンブルグ城に滞在していた。ここは、ヴァルテンアドラー候家の本拠地で、かの神聖ローマ皇帝もここで生まれ育ったという。ここ十数年は、スイスのサンモリッツを本宅としているルイス=ヴィルヘルムも、ドイツでは大抵この城に滞在するのだ。

 育ったロサンゼルスの家は敷地が千二百平米あり、広くて豪華だ。その家に慣れていたアンジェリカでも、本物の城に滞在するのは初めてだった。城から門までも車でないと行けないし、その途中に鹿や雉などが生息しているというのも驚きだった。また城門から街までもやたらと時間がかかる。街からはどこでも小高い丘の上にあるエッケンブルグ城が見えて、それが南東の方角を知る目印だと言われた。

 城には同年代の子供はいなかった。ルイス=ヴィルヘルムの息子がやはり長期休暇のために滞在していると聞いていたけれど、十四歳のドイツ人の少年にとってアンジェリカは、仲良く遊ぶような存在ではないんだろうなと思った。

 半年前の結婚式の日に引き合わされたヨハン=バプテストは、敵意こそ示さなかったけれどアンジェリカの兄になってくれるつもりは毛頭ないようだった。今回も、アレッサンドラやアンジェリカと親しく付き合いたいという意思の全く感じ取れない形式的な挨拶だけをして城のどこかに引っ込んでしまった。彼は、父親に会えたこともさほど喜んでいるようには見えなかった。

 私なら久しぶりに会うパパには抱きつくのに。アンジェリカは、思った。ヨハン=バプテストとは、食事の時にしか会わなかったし、全く話しかけられることがなかったので、もしかして彼は英語がよくわからないのかしらと思った。

 アンジェリカに常に英語で話しかけてくれる城の使用人たちは数人で、彼女は特別に訴えかけたいことがなければ、意思が通じないくても、そのままにしていた。必要ならば、黒い服を着たシュミットさんやブレーメルおばさんを探すか、ママやルイス=ヴィルヘルムに訴えかければいいんだもの。

 彼女は、九歳にしては考えが大人びていた。パパとママは有名人だし、仕事が忙しいから、いつも一緒にいられなくてもしかたない。ルイス=ヴィルヘルムはママの二番目の夫だったあの意地悪な人と比べたらずっと感じがいい。別につらいこともない。だから問題は起こさないようにしようと。

 言葉が通じない人たちとは親しくなれなかった。友達もいないし、城の滞在も数日も経てば退屈になってきた。テレビゲームはないし、スマホに入っているゲームにも飽きてしまった。

 アンジェリカは、城の中を探検してみようと思った。ヨーロッパのお城に滞在する子供向けドラマで見たように、もしかしたら宝物のある洞窟なんかがあるかもしれないし。そういえば、ママはどこへ行ったんだろう。朝食の後、姿を見ていないな。

 アンジェリカは、絨毯が敷かれ歩幅が広く歩きにくい階段を降り、広間の裏側から庭園へと向かった。フランス式に剪定されたコニファーの間を通り過ぎようとしているときに、向こうからヨハン=バプテストが歩いてきた。

「ハロー、ヨハン=バプテスト」
「やあ、アンジェリカ、どこへ行くんだ?」
彼がドイツ語ではなくて、英語で問いかけたので、アンジェリカは意外に思った。話せるのかな。

「退屈なの。だから、お城を探検してみようと思って。あなたは、もう探検した?」
彼は、苦笑して首を振った。
「探検はしていないよ。別に、魔法使いや竜が隠れているような城じゃないしね」

「洞窟は?」
「グロットのことかい? あちらに見える噴水の裏側が、ちょっとした洞窟みたいな装飾になっているよ」
「宝物、隠してあるのかしら?」
アンジェリカが期待を込めて訊くと、彼は肩をすくめた。
「宝物があるとして、隠すとしてもあそこじゃないだろうね」

 彼は、アンジェリカと探検ごっこをしてくれるつもりは毛頭ない様子だった。とはいえ、すぐに立ち去りたそうな様子でもなかった。

「ママかルイス=ヴィルヘルムを見なかった?」
「さっき二人で、庭園の奥の方へ歩いて行ったよ。案内しようか?」
「ええ。お願い」

 フランス式庭園の終わりは、階段になっていて、降りていくと木陰の小径になっていた。そこには孔雀や雉の仲間が放し飼いになっていた。

「見て。あの鳥、判事さんのカツラみたいな頭よ」
「ああ、あれはキンケイっていうんだ。アジア原産だよ」
「あの尻尾が長いのは?」
「オナガドリ。日本の鶏だ」

「ヨハン=バプテスト、あなたとても詳しいのね」
「この城には何度も滞在しているから、さすがに憶えるよ」

「そうか。あなたもママとパパのところを往復しているのよね」
「今はそうでもない。寄宿学校に入って長期休暇の時にどちらかに帰るだけだ」

「帰るか……どっちも『帰る』だけど、どっちにも『行く』のよね」
アンジェリカの暗いつぶやきに、彼は足を止めて向き直った。妙な言いまわしだが、彼にはその正確な意味がすぐにわかった。
「どこか居心地が悪いのかい? ここの話? それともイギリスにいるお父さんの家?」

 アンジェリカは小さなため息をついた。
「居心地が悪いって程じゃないわ。パパはいつも大騒ぎして迎えてくれる。ママも帰るとぎゅっと抱きしめてくれる。でも、ソニアがね、パパの奥さんなんだけれど、うんざりって顔で私を見ることがあるの。そういう時に、マイクみたいに私のこと邪魔だと思っているんだろうなって、納得するようになってしまったの」

「マイクって、誰?」
「マイク・アッカーマン。前にママと結婚していた人」

 ヨハン=バプテストはなるほどという顔をした。マイク・アッカーマンはアメリカの著名なテレビ・モデレーターで、アレッサンドラ・ダンジェロとはわずか半年で離婚した。

「そのアッカーマンが、君を邪魔だっていったのかい?」
「ええ。お前はママが嫌いになったダメ男の子供だ。ママはリセットして新しい人生を始めたのに、子供だから放り出せないで迷惑している、ママも私のことを邪魔だと思っているって」
「アレッサンドラが、そんなことを言ったわけじゃないんだろう?」

「言わないわ。ママは、『マイクの言ったことは全然デタラメよ。ママとパパは離婚したけれど、どちらもあなたのことは深く愛しているわ。それは感じるでしょう?』って言ったわ。だから、そのことを疑っているわけじゃないけれど……」
「けれど?」

「あのね。マッテオ伯父さんがドールハウスを買い換えてくれた時にね。私、前の時にお氣に入りだった安楽椅子をとっておいたの。でも、新しいドールハウスには新しい家具があって、その椅子を入れるところがないの。それを見て、マイクが言っていたのは、こういうことなのかなって。古い家からきたものは、どんなに好きでも、あたらしい家には、上手く入らないんだなって」

 彼は心にもない否定を口にはしなかった。
「君は、その歳でずいぶんよく考えているんだな。驚いたよ」

 アンジェリカは肩をすくめて言った。
「でも、ママやルイス=ヴィルヘルムには言わないでね。大騒ぎして心配するもの」
「言わないさ」

 やがて、二人は少し開けた庭園に出た。そこには各種の薔薇が放射状に植えられていた。その中心には、つる薔薇で覆われた白い木の東屋があり、探していた二人が座っていた。

 ルイス=ヴィルヘルムは、最愛の妻の手を取り、じっと見つめながら楽しそうに語りかけていた。彼女は笑顔で答えて楽園のような光景を楽しんでいた。それは一幅の絵のように美しかった。夏の始まりの、輝かしい新緑と、深く艶やかな薔薇の花、多忙な美の女神である妻を穏やかで慎み深い夫が讃美している。おそらく誰にも邪魔をされたくないであろう、ほんのひとときの至福。

 アンジェリカは、黙ってしばらくその二人を見ていた。穏やかな風が吹き、薔薇の香りが満ちた。

「私、あっちの方を歩いてくるわね」
そう言って、背を向けたアンジェリカの背中は、小さな子供のようだった。そう思ってから、ヨハン=バプテストは、そうじゃないと思った。彼女はまだ九歳の子供なのだ。懸命に背伸びをして寂しさと戦っているけれど、大人びた台詞ほど、彼女は寂しさと折り合いをつけているわけではない。

 新しいドールハウスに上手く収まらない家具は、アンジェリカだけではなかった。彼には、アンジェリカの居心地の悪さがだれよりもわかった。彼は少女に近づくと、その手を握った。

 驚いて見上げる彼女に、彼は、慣れなくて難しかったけれど、可能な限り優しく笑いかけて言った。
「僕が、案内してあげる。あっちには、小さな滝があるし、昔、僕が海賊ごっこをした小屋がある。一緒に宝探しをしよう」

 アンジェリカは目を輝かせた。
「本当? あなた、海賊役するの? 私、さらわれたお姫様の役、やっていい?」
「いいとも。今日だけ、特別だよ」 

* * *


「アンジェリカ、本当に考え直すつもりはないのかい?」
「もちろんないわ。大丈夫よ、ルイス=ヴィルヘルム。そんなに心配しないで。私、これでもけっこうドイツ語が上手に話せるようになっているのよ。なんとかなると思うわ。どうしても耐えられないようなことがあったら電話だって出来るんだし、それに、ヨハン=バプテストもいるじゃない」

 そういうと、ルイス=ヴィルヘルムは少し困ったような顔をした。
「その、君はあいつと長らく会っていないだろう? その……あいつは、悪氣は全くないけれど、とても無愛想でな。君のような都会的な女の子の扱いも下手で、あまり上手にかばってくれないかもしれないぞ」 

 アンジェリカは、そっと微笑んだ。仏頂面のまま、一生懸命お姫様をさらう海賊の役をしてくれた少年の姿を思いだす。

「彼は、私のお芝居にきっと付き合ってくれるわ」
小さなスーツケースを軽々と持ち上げて、彼女は楽しそうに笑った。

(初出:2019年2月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

【小説】殻の名残

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scriviamo!


「scriviamo! 2019」の第十弾です。limeさんは、素敵な掌編小説で参加してくださいました。ありがとうございます!

 limeさんの書いてくださった『やさしいゲイル』

limeさんは、繊細で哀しくも美しい描写の作品を書かれるブロガーさんです。小説において大賞での常連受賞者であるだけでなく、イラストもとても上手で羨ましい限りです。

これまでの「scriviamo!」には、イラストでご参加くださったのですが、今年は掌編小説でのご参加です。読んでうるっときてしまった、この優しくて悲しいお話は、こんなお約束のもとで書かれたそうです。

この掌編は、以前、
*誰かの誕生日
*必ず、常識的に「汚い」と思えるものを「美しく」描いた表現を入れる
*文字数は2000字以内。
という縛りを仲間内で作って、創作し合った作品です。


limeさんのお話に、余計な茶々を入れるのも嫌だったので、お返しは単純に、私もこの縛りにしたがって何かを書くことに決めました。

またしても、同じ世界観が出てきたのは、私がこだわっているからではなく、私の周りに自然科学に詳しい子供と園芸が趣味の母親というバターンが他にいなかったというだけです。



【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」


「scriviamo! 2019」について
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殻の名残
——Special thanks to lime-san


 少年は庭の一角でしゃがみ込んでいた。雨上がりの午後、優しい光に照らされて、母親が情熱を傾ける庭は、生き生きと美しく輝いていた。薔薇と芍薬は、互いに競いながら庭の女王の座を得るべく開き始めた蕾を戴き枝を伸ばしていた。

 菊のようなアストランティアや、黄色く控えめなハゴモグサは行儀よく並び、ネギの仲間であるアリウムも紫の丸い花を咲かせていた。アイリスの花にも丸い雨の雫が揺れている。彼は、ゆっくりと庭園を歩きながら、ひんやりとした清らかな空氣を吸い込んだ。

 家の奥からは、ティーンエイジャーたち特有の抑えの効かない笑い声が響いている。パーティはたけなわのようだった。再婚相手の娘であるナンシーの誕生会が行われることを母親は教えてくれなかった。パーティがあると知っていたら、理由をつけて一日遅く来たのに。彼は、誰からも話しかけられないでいる居心地の悪さを紛らわすために、一人庭に出た。

 彼は、中等教育を終えて、まもなく大学進学資格を得るAレベル試験の準備のためシックス・フォームの寄宿学校に入る。それまでいた寮にずっといることは出来ず、新しい寮にはまだは入れない。それで、この二週間をバースにある母親の再婚相手の家で過ごすことになった。

 十歳になるまで過ごしたケニアにわずかでも帰りたいと思ったが、その旅費を出して欲しいと父親に頼むことができなかった。寄宿学校の費用も決して安くはない。それを父親が出してくれなければ、彼はこの家に居候するしかない。到着して一日でもう疎外感を感じるこの家に。彼は、何かを期待するのはやめようと決心し、黙って応接間から歩み去った。

 庭の片隅、イチゴが赤くなり始めている一角も、雨の後にしっとりと濡れて瑞々しく輝いていた。彼は、ゆっくりと蠢く珍客を見つけて、観察をするためにしゃがみ込んだ。

 Limax maximus。レオパード・スラッグだ。オーガンジーのような半透明の柔らかい体に、豹のような文様が整然と並んでいる。三インチほどの長さで、緩やかに進んでいた。彼によって出来た影を感じるのか、ゆっくりと身を反らした。

 サバンナの俊敏な狩人である豹とは、似ても似つかぬ動きで、むしろ彼はその角の形状からユーモラスなキリンの姿を思い出して微笑んだ。

「ヘンリー!」
後ろからの声に驚いて彼は立ち上がった。
「母さん」

「あなたここで何をしているの? 皆さん、もうテーブルについているのよ」
彼は、困ったように下を向いた。
「僕が、いなくてもいいんじゃないかと思って。その、招待されたわけではないし」

「何を言っているの。いるのが分かつているのに、一人だけ別の食事をさせるわけにいかないでしょう。早く来なさい。いったいそこで何を見ているのよ」

 近づいてきた母親は、ようやく彼が観察していたものが見えたらしかった。
「まあ! ナメクジじゃない! さっさと殺して!」
 
 彼は、ショックを受けて一瞬ひるんだが、あえて口を開いた。
「庭の片隅で懸命に生きている生命だよ。殺すなんて」

「当たり前でしょう。汚い害虫だもの」
「虫じゃないし、汚い生き物なんてないよ。軟体動物門腹足綱は、陸に生息する巻き貝の一種だよ。サザエやアワビの遠い親戚だし、遠く辿れば真珠を作るアコヤガイや聖ヤコブの象徴ホタテガイとだって同じ祖先をもっているんだ」

「何をバカなことを言っているの。ナメクジは庭を荒らすし、危険な病氣を媒介するのは常識です。もう、役に立たない子ね。くだらない屁理屈ばかり言って実用的でないのは、あなたのお父さんそっくりだわ」

 母親は、近くの園芸小屋から塩の箱を持ってくると、あっという間にマダラコウラナメクジの上に撒いた。体を反らして苦しむ生き物から、彼は眼をそらした。

 母親は、その場に心を残している息子の手首を強引に引いて、彼女の自慢の家へと戻っていった。
「すぐに手を洗うのよ! 早くしなさい」

 塩をかけられたマダラコウラナメクジからは、どんどんと水分がしみ出した。艶やかだった豹斑を持つゼリー状の肌は溶けるように消えていった。そして、人のいなくなった美しい庭を午後の日差しがすっかり乾かす頃には、白い塩の山も水分と共に土に混ざりわからなくなった。

 マダラコウラナメクジのいた場所には、小さな白い楕円形のものが光っていた。真珠のように七色の光を反射するそれは、かの生き物が体の中に隠し持っていた、遠い先祖が巻き貝だった頃の殻の名残だった。

 女主人が長い時間をかけて作り上げた庭園には、醜いものや不都合なものなど何もなかった。彼女が丹精込めて育てた花や整然と美しく並ぶ樹木が、その完全な幸福を象徴するように、穏やかな風の中にそよいでいた。

(初出:2019年2月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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1959字。ギリギリでした……。

Limax maximus shell
参考: Limax maximus shell レオパード・スラッグの体内に埋もれている殻 
出典 wikimedia.org
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Posted by 八少女 夕

【小説】ジャカランダの並木道

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


「scriviamo! 2019」の第十五弾、最後の作品です。けいさんは、英語の詩で参加してくださいました。ありがとうございます!

けいさんの書いてくださった『Solitaly walk 』

けいさんは、スイスから見て地球の反対側のオーストラリアにお住まいのブロガーさんです。同じ海外在住者として、勝手に親しみを持っている私です。私と同じように小説もお書きになるのですが、ここしばらくはお仕事に集中なさるそうです。そういう時期も大切です。でも、詩作の方はお続けになるとのこと、今回の作品もそのお一つですね。

さて、今回の書いてくださった作品の情景は、おそらくオーストラリアのものだと思うのですが、私の頭の中にはやはりアフリカで見た景色が広がったので、また「郷愁の丘」関係の外伝を書かせていただきました。けいさんの詩からインスパイアされたエピソードです。「郷愁の丘」の一番盛り上がっているラストシーンの辺りの時期の話ですが、主人公たちとはほとんど関係ありません。登場する女性は初登場です。この人のことも、ずっと書きたかったんですよね。



【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」


「scriviamo! 2019」について
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ジャカランダの並木道
——Special thanks to Kei-san


 その並木道は、妖精の国に迷い込んだのかと錯覚させるほど美しかった。藤色の鈴なりになった花が雲のように咲き乱れ、落ちた花びらは薄紫の絨毯となった。ほのかにアンバーのような、それとも蜂蜜のような香りが漂い、むせかえる。十月の風物詩、ジャカランダの開花だ。

 リンファは、日本には行ったことがないが、噂に聞く満開の桜に列島が湧く春というのはこんな感じなのではないかと考えた。

 乾期は終わったのだ。季節は動いていく。

 標高1500メートル、赤道直下のナイロビに暮らして十二年になるリンファは、また一年経ったのだなと思った。リンファがこのケニアの地に降り立ったのもやはり十月だった。

 角を曲がり、コロニアル風の建物がなくなって、高層ビルのある地区に入った。リンファは、背筋を伸ばして歩いて行く。東洋人の自分は、この街にはどうしてもそぐわないように感じてしまうから。リチャードのように、どこにいようと常に自分の街にいるという確信を持てたらどんなにいいだろう。

 リンファはナイロビにあるエージェントのスタッフとして働いている。世界各国からやってくる観光客のための個人旅行の手配もするし、ビジネスにおける行政との橋渡しなどもする。要は何でも屋だ。異様に顔の広いボスと、秘書兼会計兼スタッフのリンファの二人だけの小さな事務所だ。

 オフィスは三階にある。リフトはないので歩く。ここまで汗をかかずにやってきたとしても、必ずこの階段で汗をかいてしまうのが難だった。

「ただいま」
粗く息をつきながら言うと、受話器を置いたばかりのリチャードが明るく「お帰り」と言った。
「それで、君の同胞たちは、喜んで帰ったのかい?」

 リンファは、雇い主であり私生活においては恋人でもある、デリカシーのない赤毛の男を軽く睨んだ。リンファが空港まで送っていった相手は、彼女の同国人ではなかったのだ。
「同胞って、アジアってだけじゃない。あなたをドイツ人と一緒にするようなものだわ」

 リチャード・アシュレイは、「それがどうした」というように肩をすくめただけだった。彼には、少なくともオランダ人と、アメリカ人の血が四分の一ずつは混じっている。残りはイギリス系のケニア人と、ジンバブエからの移民の他に、もしかしたら本当にドイツ人の血も混じっているのかも知れない。彼は、自分のルーツに細かくこだわったりはしないのだ。

「とにかく、そこそこ満足して搭乗ゲートに向かってくれたわ。これからタンザニアにも行くらしいけれど、あっちでメチャクチャな目に遭えば、私たちへの感謝も少しは増加するかもしれないわね」
リンファは、冷蔵庫から冷やしておいた紅茶のポットを取り出すと、グラスに注いで一氣に飲んだ。

 それから、思い出したように言った。
「そういえば、空港で意外な人を見かけたわよ」
「誰?」
「ほら、例のアメリカの女流写真家。あなたとアウレリオが、わりと最近、あれこれ噂していたでしょ」

 リチャードは、関心を示してリンファの方に向き直った。
「ミズ・ジョルジア・カペッリかい? 空港で?」
「ええ。ついたばかりみたいだったわ。なんだか急いで鉄道駅に向かっていたわよ」

「そうか。今回は来るって知らせてくれなかったな。どうしてだろう。また撮影かな。とにかく、ヘンリーのやつに知らせてやろう。知っているか、あいつ、もう何年も彼女を追い回しているクセに、晩熟でいっこうに先に進めないんだぜ」

 リンファはリチャードの面白くてしかたないという顔を見て憤慨した。
「忘れたの? 今は、彼のお父様スコット博士がかなり危険な状態だってこと。ドクター・スコット・ジュニアを今からかうなんて最低だわ」

 誰もが、リチャードやその親友のアウレリオのように、器用に立ち回れるわけではない。前回、そのアメリカ人写真家がこの事務所を訪問した時、普段なら可能な限りナイロビに来たがらないヘンリー・スコットは電話でも済む用事なのにわざわざやってきた。リチャードがミズ・カペッリに馴れ馴れしく話しかけている間、辛抱強く話しかける機会を待っていたコミュニケーション下手な男を、リンファは部屋の隅から密かに応援していた。なんとか彼が再会の約束を取り付けたのを耳にした時には心の中でガッツポーズをしたのだが、それから一年半経っている。あまりの不器用さにリンファもため息がでるが、それでもリチャードに面白おかしく笑いの対象にされるのは氣の毒だ。

 リチャードは、彼女の剣幕に肩をすくめて言った。
「からかっているわけじゃないさ。ただの親切心だよ。でも、まあ、そうだな。後でアウレリオに電話して、義父殿の容態を訊いてからにするか」

 それから十日後に、リチャードは事務所の留守番をリンファに任せ、ツァボへと出かけていった。噂のスコット博士が亡くなり、葬儀に参列することになったためだ。アウレリオ・ブラスの義父というだけでなく、動物学の権威であるスコット博士とは、公私ともに様々な関わりがあったのだ。
 
 リンファはその二日間は一人で業務をこなした。珍しくトラブルが少なかったため、なんとか一人でもこなせたのは、天が自分に味方したのかもしれないと思った。もちろん、午前中の停電と、十一時からの水道のストップには辟易したが、少なくともクライアントが苦情の電話をしても通じなかったのだからラッキーの内に入るだろう。

 ようやくPCに電源を入れられる状態になったので、急いでいくつかの用事をこなした。一番大切だったのは今日中に発送しなくてはならない宛名ラベルの印刷だった。リンファの祖国あての小包に貼るためのラベルだ。かの国の郵便配達夫にはアルファベットを読めない者も多いので送り状には漢字のラベルをつけて欲しいと依頼されているのだ。

 次の停電が起こる前に、なんとしてでも印刷を終えてしまわないと。リンファは調子のあまりよくないプリンターをなだめながら、作業を続けた。なんとか予定していた枚数を印刷できそうだと胸をなで下ろした。

 国を離れて、遠い異国でこうして数々のトラブルと闘いながら日々を過ごす意味を考えることがある。何をしているのだろうと。両親は、もうリンファのことは諦めたという態度を見せた。他の娘たちのように結婚して孫の顔を見せてくれるわけでもなく、異国の成功者として故郷に錦を飾ってくれるわけでもない。リンファ自身、自分の中途半端さに、腹立つこともある。

 リチャードとの関係も同じように中途半端だ。共同経営者というほどに中心的な役割を果たしているとは思っていないが、それでも、こうして二日間でもなんとか彼の代理を務めることの出来る存在までになっている。でも、それを思うのは自分一人なのではないか。プライヴェートにおける関係も、八年以上も恋人という立場でいるにも関わらず、それ以上に進む氣配はない。

 それでも、リンファは昨日と変わらぬ日常を歩き続ける。他の道があるわけではない。

 階段を上ってくるよく知るリズムの足音に続き、鍵を回す音がして、リチャードが入ってきた。彼は、どさっと荷物をソファーに投げていつものように明るく「ただいま」と言った。

「お帰りなさい。ちょっと待って。このラベルの印刷、そろそろ終わるから」
プリンターの横に立ってそうリンファが告げると、リチャードは「いいよ」と手振りで示してソファーに座り寛いだ。

「携帯に電話が入って、そのラベルのことを訊かれたよ。グッドタイミングだったな」
「停電さえなければ、もうとっくに出来ていたのに」
「あっちのパッキング作業も停電で遅れているから問題ないだろ」

「バカみたいよね。なぜ水牛の角なんか輸入するのかしら。向こうにいくらだっているのに」
そうリンファが憤慨するとリチャードは笑った。
「ケニアから届いたってことが重要なんだよ。水牛の角ってことになっているけれど、本当はそうじゃないって信じてもらうためにね」

「え? 水牛の角じゃないって、まさか犀角や象牙じゃないでしょうね。見つかったらこっちも逮捕されるわよ」
「されっこないよ。本当に水牛の角だから。箱に書いてある通りさ。それをこの商品表示はカモフラージュのためですと、嘘ついて売るつもりなんだろう。どうするつもりかなんて、こっちは関係ないから、売ってくれと言われたら素直に手配するけれどね」

「そう」
リンファは、少し嫌な氣持になったが、いちいち角を立てたくなかった。リチャードは、まったく意に介さずに朗らかに言った。
「悪いけれど、終わったらそれ発送してきてくれるかい?」

「わかったわ。ところで、お葬式はどうだった? ムーア博士やマディたち、大丈夫だった?」
話題を変えたくて、リンファは訊いた。
「マディはけっこう泣いていたけれど、レイチェルは氣丈にしていたな。まあ、表向きには、ヘンリーが全部仕切っていたしね」

 レイチェル・ムーア博士は、表向きは亡きスコット博士の親しい友人ということになっていたが、実際には内縁の妻と言ってもいい間柄で、マディがスコット博士の愛娘であることは親しい者には周知の事実だった。ジェームス・スコット博士は最初の結婚に失敗してから二度と家庭を持とうとしなかったが、息子のヘンリー・スコット博士との距離のある付き合いは、部外者のリンファにも異常に思えるほどだった。おそらく葬儀に行ってはじめて彼に息子がいることを知った人も多いだろう。

「ドクター・スコット・ジュニアも、お氣の毒ね。こういう時だけ息子として矢面に立たされて。この間、意地悪くからかったりしなくてよかったわね」
リンファがそう言うと、リチャードは意味ありげに笑って首を振った。
「ふん。からかうまでもなかったよ。件のジョルジア・カペッリはヘンリーと一緒にいたんだ」

 郵便局へ行こうと、戸口に向かっていたリンファは、思わず足を止めた。
「え?」
「驚くだろ? こっちも仰天したのなんのって。アウレリオからあの二人は婚約したって聞いて、腰を抜かすかと思ったよ。まったくいつの間に」

 リンファは、階段を降りて表に出た。わずかに乱れた想いを封印するかのように、足早に通りを歩いた。

 何に動揺しているのか、自分でもよくわからなかった。よかったじゃない。ドクター・スコット・ジュニアがようやく幸せをつかんだんだもの。

 今日は、風が強い。後れ毛が舞っている。

 風に心揺らされても、やはり独り歩いて行くほかはない。ドクター・スコット・ジュニアが、彼の道を一歩一歩進めて、彼の幸福な停留所にたどり着いたように。リチャードが、リンファだけでなく氣の遠くなるほど多くの人びとと関わり合い、必要ないほど多くの言葉を用いながら、彼の人生を進めているように。

 この道を、異国の、決して楽ではない道を歩いて行く先に、何が待っているのかは、誰にもわからない。でも、歩いて行かなければ、どこにもたどり着けないのだ。

 強い日差しが、肌を突き刺すようだ。リンファは、額に手をやり、空を見上げた。ジャカランダの並木道は、鮮やかな新緑が育ちだしている。間もなくこの道を歩く時は直射日光のきつさを感じずに済むようになるだろう。

 花の時期は終わり、育った羽毛のような葉が季節が変わったことを宣言するように覆っていた。

(初出:2019年3月 書き下ろし)

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ジャカランダ

ジャカランダJacaranda mimosifoliaはノウゼンカズラ科キリモドキ属の高木。和名は「紫雲木」。中米原産だが、熱帯や亜熱帯の多くの国で栽培される。南アフリカ共和国プレトリアは春の十月に満開になるジャカランダで有名。
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Category : 小説・NYの異邦人たち 外伝

Posted by 八少女 夕

【小説】君は僕にとって

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

「十二ヶ月の歌」の五月分です。もう五月ですものね。日本は、令和だし……。

月刊・Stella ステルラ 4、5月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。五月はJoe Cocker の”You are so beautiful”にインスパイアされて書いた作品です。

この曲も歌詞は特に書きません。というか、おそらく聴けば大体わかりますよね。

この曲は、というか、下に貼り付けたベビーフェイスによるカバーバージョンは、「ファインダーの向こうに」の頃からずっと、主人公ジョルジアを見守る兄マッテオ(および一部の男性キャラ)の想いのテーマソングでした。

今回は、現在連載中の(「ファインダーの向こうに」「郷愁の丘」の続編)「霧の彼方から」でもカバーしなかったジョルジアの結婚式のことを後日譚として紹介する試みです。そんな外伝ばかりいらんというお叱りもあるかと思いますが、今月はこれでお許しください。


短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む

【参考】
「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」

霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




君は僕にとって
Inspired from “You are so beautiful” by Joe Cocker

 つい先日までは、いつ雪が降ってもおかしくないほど寒い日もあったのに、五月に入った途端これほど暑くなるなんて。マッテオは、セントラルパークの樹木の青々とした若葉を眩しそうに見上げた。

 満開だった木蓮は、役目を終えたと判断したのか、はらはらとその花びらを散らしている。ここ数ヶ月は忙しくて、いつもは誰かとデートついでに必ず見る、日本から寄贈されたという格別華やかな桜の花も見そびれてしまったらしい。

「それでね、マッテオ。グレッグが説明してくれたんだけれど、英国で雨が降ったり止んだり忙しいのは、ブリテン島の位置と暖流のせいなんだって」
横を歩くアンジェリカが、一生懸命に覚えたての知識を披露してくれる。彼は、にっこりと笑って答えた。

「なるほど。まったく知らなかったよ。さすが彼は博士だね。それに、世界一きれいな知りたがり屋さん、教えてもらったことをちゃんと憶えて僕にも教えてくれるお前は、なんて賢いんだ。こんなにパーフェクトな姪を持って、僕は誰よりも幸せな男だな」

 アンジェリカは、少し考えてから言った。
「でも、マッテオ。この間からずいぶんと寂しそうよ。ジョルジアが、お嫁に行っちゃったのがショックなんでしょう?」

 マッテオは、かがみ込むと姪を強く抱きしめて答えた。
「それは寂しいよ。それに、今日、お前がアレッサンドラとロサンジェルスに帰ってしまうのも、泣きたくなるくらい寂しいさ。でも、ショックなんてことはないよ。どんな遠くに行ってしまっても、お前や、アレッサンドラや、ジョルジアが、それぞれに幸せであることが、僕の心からの願いなんだ」

 まだ九歳の姪が生まれるよりも前、妹のジョルジアが絶望の底にいた時のことを、マッテオは思った。子供の頃から見守り愛してきた大切な妹は、はじめて付き合った男に言葉の暴力で傷つけられ、しばらくクリニックに入院しなくてはならないほどのトラウマを負った。

 彼女を傷つけた男は、彼女の生まれつきの痣を目にして、こう言ったという。
「こんな醜い化け物を愛せる男などいるものか」

 その痣は、そして、それを目立たなくしようとして失敗した手術の痕は、一般的に言えば「美しい」と形容するようなものではない。それはマッテオも知っている。

 だが、彼女にトラウマを与えたその酷い言葉の全ては完全な間違いだ。世界中のメディアや一般のファンたち、それに評論家たちも「美の女神」と認めるスーパーモデル、もう一人の妹アレッサンドラに劣らず、マッテオにとってジョルジアは、例えようもなく美しく、彼女に対する愛は尽きることがない。

 母親に紹介された生まれたばかりのジョルジアを目にした六歳のあの日から、マッテオの想いは一度たりとも変わったことがない。……なんて可愛くて、美しくて、愛しい子なんだろう。

 生まれつきの痣や、その他の要因が重なり、次第にひどく内向的になったジョルジアを、マッテオは常に心にかけ、愛情を注いだ。少なくとも家族の前では、幸せに楽しくしていた妹の日常と人生の歓びを、一人の男の心ない振る舞いが滅茶苦茶にした。

 若くして成功し経済界に絶大な影響力を持つマッテオが、私怨で誰かの事業に口出しをしたのは、人生でたった一度だけだ。彼は、妹を捨て苦しめておきながら、平然としてマッテオと同じクラブに他の女を連れて出入りしていたその男の経済基盤と社会的信用を奪い、ニューヨークにいられなくした。おそらくジョルジアはそのことを、絶望の底にいた当時はもちろん今でも知らないだろう。

 それから十年近く、ごく普通に暮らしているかのように傍目には見えても、他人と関わることを怖れ、心を半分閉ざしたままの妹を見守り続けるのはたやすくはなかった。

 退院してしばらくは精神不安定な状態が続き、一年近く彼のペントハウスで暮らさせた。話しかけても反応しなかったり、突然泣き出したり、もしくは無意識に同じところを歩き回るなど奇妙な行動をすることもあった。

 異常行動がなくなり、パニック障害の発作もなくなってから、専属で働いている《アルファ・フォト・プレス》のスタジオで静物撮影の仕事から復帰した。少しずつ笑顔も見せるようになり、本人の希望するように一人暮らしをさせても大丈夫と思えるようになった。

 そして、マッテオが懇意にしている知り合いが大家であるフラットに住むことになったものの、どうしているか心配で毎週のように訪ねていったものだ。

 二度と傷つきたくないと怖れる想いと、それでも愛されたいとにじみ出る願い。何も言わなくても手に取るようにわかるが、兄としてのあふれる愛をどれほど注いでも、彼自身にはどうしてやることもできなかった。

 そのジョルジアが見つけたのは、彼にとっては地球の果てであるケニアでの幸せだった。

 努力家で真面目とはいえ、決して成功しているとは言えない動物学者。マッテオからの援助がなければ、経済的にも食べていくのがやっとらしい。ジョルジアのこれまで築いてきたキャリアを考えてもサバンナの真ん中へ行くことはプラスになるとは思えない。

 そんな相手との結婚ではあり、マッテオにとっては大切な妹がそんな地の果てに行ってしまうことは寂しくてならないことだが、それでも、彼は心からの祝福を添えて妹を送り出した。

 誰かを躊躇せずに愛する歓び、人生の片翼が存在することへの安堵、締め付けられていた孤独の枷からの解放、その全てを言葉では語らない妹の瞳の光や振る舞いから感じることができた。それ故マッテオは、彼女の決断が正しいものだと納得し、心から祝福することができたのだ。

 長い冬だった。樹木の枝に見える蕾は固く閉ざされ、まるで死んでしまって二度と開かれないのではないかとすら疑われた。それが、どうだろう。眩しいほどの新緑、わずか数日で、いや、数時間で、刻一刻と姿を変えながら晴れ渡った紺碧の空へとその瑞々しい若葉を伸ばしていく。

「そうかなあ。私ね。お嫁に行くとどうして旦那さんの国に引っ越さなくちゃ行けないのか納得いかないって、ジョルジアに言ったの」
アンジェリカが、真面目な顔つきで言った。マッテオは、面白く思った。

「ジョルジアは、なんて答えたんだい?」
「必ずしも旦那さんに合わせる必要はないって、言ったわ。でも、ジョルジアは旦那さんに合わせたんでしょ、って言ったの」
「それで?」

「グレッグは、ジョルジアがニューヨークで暮らしたいんじゃないかって、言ってくれたんだって。だから必要なら彼も引っ越しても構わないって。でも、それは無理だって、彼女が説得したんだって」
アンジェリカは、ジョルジアそっくりの口ぶりで説明した。

「グレッグ。写真はどこでも撮れるけれど、私の知る限り、ニューヨークには野生のシマウマはいないわよ」
ジョルジアらしいユーモアと愛情のこもった台詞を聞いて、マッテオは笑った。

 新居はケニア中部の《郷愁の丘》になったものの、《アルファ・フォト・プレス》との契約があるので、しばらくジョルジアは年に数ヶ月ニューヨークで過ごす。また、助成金の契約でグレッグが年に一度は必ずニューヨークに来ることになっているので、その時にはジョルジアの分の航空券も送るつもりだ。永久に会えなくなるわけではない。

 もう一人の妹、アンジェリカの母親であるアレッサンドラが、ロサンジェルスに家を買いニューヨークを離れた時も、また、三度目の結婚に伴い、年の半分以上をヨーロッパで暮らすことにした時も、寂しさはあったがその幸福な旅立ちを喜んで送りだしてきた。今度それができないはずはなかった。

「結婚パーティ素敵だったわよね。どうしてジョルジアはママみたいなウェデングドレスを着なかったの?」
アンジェリカは、マッテオの手に掌を滑り込ませて訊いた。マッテオは、微笑んで小さな掌を壊さないように優しく力を込めた。

 先月、ニューヨークのロングアイランドにある教会で行われた結婚式で、ジョルジアはアイボリーのシンプルなタイトワンピースを着た。

「派手なウェディングドレスを着るのは嫌だって言われたんだ。アレッサンドラに頼んで彼女の希望に合うようなワンピースを用意してもらったんだよ。その代わりに、彼女のリクエストにはなかった最高級の絹とレースを使ったけどね。きれいだっただろう? でも、パーティでは、どういうわけか直前に一度着たドレスに変更すると押し切られてしまったよ」

 結婚式の後に、彼女のフラットや職場に近い馴染みの大衆食堂《Sunrise Diner》で、家族の他に同僚や親しい友人たちを集めて披露パーティが行われた。その時に彼女は緑のシンプルなドレスを着た。

「ああ、その理由は知っているわ。ニューヨークに来る飛行機、私あの二人と一緒だったでしょ? あの中で、グレッグがあのドレスの話をしたの」
「ほう? どんな話?」

「あのね。グレッグは、ジョルジアがあれを着るんだと思い込んでいたんだって。どうしてあのドレスがいいのかって彼女が訊いたの。そしたら、こう答えたの。前にあのドレスを着た時に、本当は一緒にダンスをしたかったのにチャンスを逃したんだって。どうしてその時に言わなかったのかしらね。言えば、ジョルジアが断るはずはないのに。あの二人、あんなに仲がいいんだもの」

 マッテオは、なるほどと思った。それは、助成金の推薦をしてくれたレイチェル・ムーア博士がグレッグをマッテオに紹介するため連れてきたWWFのパーティだった。口添えするためにジョルジアもその緑のドレスを着てやってきたのだ。

 どういうわけだか、グレッグはパーティの序盤で退席してしまい、それを追ってジョルジアも帰ってしまった。だから、もちろんダンスをすることなどなかっただろう。あの時、レイチェルは言っていた。
「彼はジョルジアに夢中なの。残念ながら友達の枠は超えられていないみたいだけれど」

 つまり、彼はジョルジアに遠慮して肩や髪などに触れることもなかったのだろう。あの夜にあの美しい彼女の姿を見て、皆がダンスをする機会を生かして彼女をその腕に抱きたかったんだろうな。

「私なら、ドレスを着たら申し込まれなくても一人で踊っちゃうな。毎日着られるものじゃないし」
アンジェリカは、マッテオの思惑などお構いなしにおしゃまな発言をした。

 マッテオは、再び姪の目の高さにかがんで、その瞳をのぞき込んだ。
「心配しなくても、お前が大きくなったら、たくさんの男たちがダンスを申し込もうと行列を作るよ。その時には、僕にも一度くらい一緒に踊るチャンスをくれるだろう? 僕の大事な踊り子さん」

 アンジェリカは、とても嬉しそうに抱きついて答えた。
「もちろんよ。マッテオとは他の人の倍以上の曲を一緒に踊るわね」

 マッテオは、愛する姪を抱きしめた。もちろんその口約束が守られることはないだろうことは知っている。彼女が大きくなり、恋をしたら、一晩中でも好きな男と踊り続けたいと願うだろう。その時には、彼はただの「親しいマッテオ伯父さん」に変わってしまうのだと。そして、そう思わせる相手の存在を疎ましく思う権利は、彼にはないのだと。

 派手なことの嫌いなジョルジアと、同じように内氣なグレッグは、自身の結婚披露パーティだというのに、ほとんどの時間を店の片隅で過ごした。皆が楽しげ踊っている時もそうだった。だが花婿は、幾度も深い愛情を込めて花嫁を見つめていた。

 ずっとマッテオが思い続けていた言葉を、彼が心に思い浮かべていることを疑う余地はなかった。
「君は、誰よりも美しい。君は、僕にとって他の誰よりも素晴らしい」


 今日の新緑は、風に舞いながら萌え立っている。まるで歓びに震えているように。同じ色のドレスを纏った愛しい妹が、ようやく安心して身を委ねられる相手を見つけ、その腕の中で祝いのダンスを踊っていたほんのわずかの時間を思い出しながら、マッテオは姪と一緒にゆっくりと歩いて行った。

(初出:2019年5月 書き下ろし) 

新緑の森林 by マレーナさん
こちらはマレーナさんによるイラストACからのイラストで著作権はマレーナさんにあります。無断使用はお断りします。

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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Babyface You Are so Beautiful
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