【小説】夜のサーカスと淡黄色のパスタ
今日の小説は『12か月の店』の8月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。
今回の舞台は少しイレギュラーで、定番の店ではありません。北イタリアの実際に私が行ったトラットリアをモデルに書いた話です。案内人は「夜のサーカス」のステラ&ヨナタンのコンビです。

【参考】
![]() | 「夜のサーカス」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
夜のサーカス 外伝
夜のサーカスと淡黄色のパスタ
その村は、アペニン山あいのよくある佇まいで、特徴的な建造物もないため観光客も来ない。村はずれに小さなトラットリアがぽつりと建っているのだが、夕方ともなるとかなり遠くの村やあたりで一番大きい街の住民も含めてたくさんの客で賑わっている。
ゴー&ミヨの星があるわけでもなければ、格別しゃれた料理がでてくるわけでもない。外観はどちらかというとくたびれており、テラスのテーブルや椅子は味氣ない樹脂製だ。客たちの服装も仕事着のまま出かけてきた風情、多くが知りあいらしくテーブルを跨いで挨拶が飛び交っていた。
夕方の一刻、奥から腰の曲がった女性が出てきて、戸口の小さな丸椅子に座ることがある。実は、この女性の存在こそがこのトラットリアにこれほど客を集めているのだ。彼女は、店主の母親で今年で93歳になる。そしてかつてはこの地域の多くの女性が作っていた手打ちパスタを昔ながらの製法で作ることのできる唯一の存在なのだ。
「こんばんは、ノンナ・チェチーリア。私を覚えている?」
ポニーテールに結った金髪を揺らして語る少女をじっと見つめて、彼女は首を傾げた。
「あんたのことは覚えていないけれど、マリ・モンタネッリにそっくりだね。もしかして、あの小さかった娘かい?」
少女は金色の瞳を輝かせて答えた。
「はい! 娘のステラです。前にここに来たの10年以上前でしたよね。お久しぶりです」
「そうかい。ずいぶんと大きくなったね。そんなに経ったのかねぇ。マリはどうしている? いまでもバルディにいるのかい?」
「はい。ずっとバルを続けています。今週からボッビオで興行だって言ったら、絶対にここに行けって。私、ノンナ・チェチーリアのトラットリアがこんなにボッビオに近いって知りませんでした。ママがノンナにぜひよろしくって」
老女は「そうかい」と皺の深い顔をほころばせて、少女の横に立っている青年をチラッと見た。ステラは、急いで紹介した。
「あ、彼は一緒に興業で回っている仲間で、ヨナタンです」
「そうかい。どうぞよろしく」
チェチーリアは、礼儀正しく頭を下げた青年に会釈を返した。
「ところで、ステラ。興業って、何をしているんだい?」
「サーカスです。私、ブランコに乗っています」
「ああ。チルクス・ノッテとやらが来ていたね。お前さんがブランコ乗りになったとは驚いたね。こちらのお兄さんもブランコ乗りかい?」
「いいえ。僕は、道化師兼ジャグラーです。小さなボールを投げる芸をします」
「そうかい。あんた、イタリア人じゃないね。パスタは好きかい?」
「はい。イタリア料理はとてもおいしいと思います」
「ヨナタン。ここのパスタは、他で食べるパスタよりも何倍も美味しいの。びっくりすると思う」
そうステラが告げると、チェチーリアは楽しそうに笑った。
「おやおや。買いかぶってくれてありがとう。昔はこのあたりでも、家庭ですらどこでもあたしみたいにパスタを作っていたものだが、作るよりも買ってきた方が早いと、1人また1人と作る人は減り、ついにあたし1人になってしまってね」
そう言っている横を、ウエーターや店主が次々とパスタの皿を持って厨房から出てきた。先客たちは湯氣を立てる淡黄色のパスタに早速取りかかっている。
ステラとヨナタンも案内された席に座り、小さなメニューカードを見た。手打ちパスタのプリモ・ピアットはこの日は3種類だけで、平たいタリアテッレ、両方の端が細くなっているショートパスタのトロフィエ、そして小さな貝のようなオレキエッテだ。
悩んだあげく、タリアテッレを魚介のトマトソースで、トロフィエをハーブのソースで頼み、前菜にはコッパやプロシュット、パンチェッタなどをチーズと共に盛り合わせてもらうことにした。こうした地方特産の薄切り燻製肉は、やはり食べずには帰れない。
セコンド・ピアットも同時に頼むか悩んだが、おそらくパスタでお腹がいっぱいになってしまうと思うので、まずはそれだけにした。ワインはアルダの白、それにストッパの赤があったので、瓶では頼まず、それぞれグラスで頼んだ。ステラが公式にワインを飲めるようになってからまだ1年経っていないのだ。
「みんながさっさと外出してしまったのは残念だったな。美味しいトラットリアはないかとマルコたちは昨夜馬の世話もそこそこに街の探索をしていたよ」
ヨナタンは、静かに辺りを見回した。
次から次へと車がやって来て、駐車場になっている空き地に入っていく。テーブルの違う客同士の親しい会話から、地元の常連客でいっぱいなのがわかる。それは、格別に美味しい店のサインだ。
ステラはヨナタンの言葉に大きく頷くと、グリッシーニの袋を開いて、ポキッと折りながら口に運んだ。
「そうよね。ボッビオの興業で、ダリオがお休みでまかないのない日って、今夜と千秋楽だけだものね。でも、舞台の点検をしているヨナタンを待たないみんなが悪いのよ。私がママにこのお店の場所を訊いている間にいなくなっちゃったんだもの」
でも、もしかしたら……。ステラは、ロウソクの灯にオレンジに照らされたヨナタンの端正な顔を見ながら思った。みんなは氣を利かせてくれたのかもしれない。だって、ヨナタンと2人っきりで食事をすることなんてほとんどないもの。みんなとの楽しい食事も好きだけれど、こんな風に2人でいるのって、ロマンティックだし、ドキドキする。
「おまたせ。魚介のタリアテッレと、ハーブのトロフィエだよ」
店主自らが湯氣を立てている大きなパスタの皿を2つ持ってテーブルに近づいてきた。パスタはテーブルの中央に置かれて、取り皿をトンとそれぞれの前に置く。
「お嬢ちゃん、どっちを頼むか悩んでいただろう? こうすれば両方楽しめるしな」
店主は、ステラにウインクした。
あーあ。また子供扱いされてしまった。私、そんなに子供っぽいかなあ。ヨナタンの隣に立つにふさわしい、大人の女性を目指しているつもりなんだけれど。
「ステラ、取り皿を」
ヨナタンが微笑んだ。ステラが取り皿を持ち上げると、彼はタリアテッレをフォークに上手に巻き付けて彼女の取り皿に置いてくれた。大好きな海老がいくつもさせに載っていく。
「そんなに、いいよ。ヨナタンの海老がなくなっちゃう」
「大丈夫。まだあるから」
白ワインはあたりが軽くフルーティーな味わいだ。のどを過ぎたあたりにほんの少し甘みを感じる。冷たくて爽やかな飲み口が、一瞬だけ甘く情熱的な香りを放つ。水やジュースを飲むときのような安定した味に慣れているステラは、ある種のワインが持つこうした蜃気楼のような揺らぎを驚きと共に堪能した。
グラスの向こうには、ロウソクの灯に照らされてヨナタンだけが見えた。すっかり暮れた夏の宵にグラスを傾けて座っている彼は、いつもよりわずかに謎めいて見えた。
かつての大きな謎に包まれた道化師、何かから逃れ隠れ、いつか目の前から消えてしまうんじゃないかと心配されたパスポートを持たない青年のことをステラは思い出した。ここにいるのは、いまは正式に彼の名前の一部となったけれど、かつては一時的にそう呼ばせていた「ヨナタン」という仮面を被ったかの異国人と同じ人だ。
ロウソクの灯と涼しい夏の宵の風は、こんな風にステラを不安にする。彼女はグラスを置くと、俯いてパスタに取りかかった。
「あ」
10年以上食べていなかったノンナ・チェチーリアの手打ちパスタの味わいが、彼女の余計な思考をいとも簡単に押しやった。滑らかな表面からは想像もつかないほどの弾力。抵抗を押し切って噛むと、閉じ込められていた水分と小麦の香りがじゅわっと解き放たれる。
「すごいな」
ヨナタンも一口食べてから驚いたように手元のパスタを眺めた。
「やっぱり、普通のパスタと全然違うって記憶は間違いじゃなかった! よかった。ヨナタンに氣に入ってもらえて」
ステラは満面の笑顔で言った。
「これまで美味しいパスタかどうかを判断したのは、ソースの味を基準にしていたんだな。でも、これは、もしかするとソースがなくても美味しいのかもしれない」
ヨナタンは、考え深く答えた。
「こういうパスタをこねたり打ったりするのはずいぶん力がいるんじゃないか?」
ヨナタンは、先ほどまでチェチーリアが座っていた小さな椅子を見やった。ステラは、頷く。
「うん。とても大変な作業だと思う」
「そうなんですよ。マンマも歳で疲れやすくなっていてね。提供できる量も減ってきているんですよ」
ワインを注いだり、空いた皿を下げたりしながら客席を回っている店主が、2人の会話を聞きつけて相づちを打った。
「じゃあ、食べられるうちに急いでまた来なくちゃ」
ステラがそう言うと、店主は笑った。
「みなそう思うらしくてね。提供量を少なくした途端、ますます繁盛するようになってしまったよ。マンマのやり方を継承させろってせっつく客も多いんだけれどねぇ……」
機械化と効率の時代に、報酬も大したことのない重労働を習いたがる者は少ない。ステラやヨナタンも、サーカス芸人の生活をしているからよくわかる。努力と報酬が釣り合わない仕事は、後継者を見つけることが難しい。マンマ・チェチーリアは、報酬や社会的地位の代わりに客たちの笑顔を支えにこれまでパスタを打ってきたのだろう。おそらく70年以上も。
その70年間に、イタリアはずいぶんと変わった。戦争は終わり、経済も成長した。スーパーマーケットに行き、わずかな金額を出せば、いくらでも大量生産のパスタが入手できるようになり、妻たちは専業主婦であることよりも外に出て働くことを選ぶようになった。子供たちはスマートフォーンやコンピュータを自在に操り、大人になったらミラノの中心で事務職に就き、わずかなリース価格で憧れの車を乗り回す未来を夢見ている。
そして、見回せば、手打ちパスタで粉まみれになることを望む人びとはほとんどいなくなり、マンマ・チェチーリアの伝える、地域の女たちの継承してきた素朴で絶妙な味わいは消え去ろうとしている。
「私、チルクス・ノッテに入っていなかったら、パスタの修行をしたかも。そして、ママのバルで美味しいパスタを作る看板娘になっていたかも」
ステラはぽつりと言った。
ヨナタンは、わずかに笑った。
「バレリーナや体操選手になる夢も持っていたんだろう?」
確かに。それに、学校では高等学校に進学して、法学を学んだらどうかと先生に奨められた。ヨナタンに逢っていなかったら、何も考えずにその道を選んでいたかもしれない。
思えば、ノンナ・チェチーリアのパスタを初めて食べて夢中になったのも、ヨナタンに出会って赤い花をもらうブランコ乗りになろうと思いついたのも、ほぼ同じ6歳ぐらいだった。1つの夢は10年のたゆまぬ努力の果てに実を結んだが、ノンナ・チェチーリアのパスタは、つい最近まで記憶の彼方にしまい込まれていた。
きっと「パスタの達人をめざすもう1人のステラ」は、全く存在しなかったのだ。ステラは「その通りね」と項垂れた。
「大丈夫。僕がきっと」
隣からの声に振り向くと、そこにはオレキエッテをフォークに突き刺して掲げている中学生くらいの少年がウィンクしていた。
「その子は、うちの遠縁の子でね。学校帰りによく厨房でマンマの手伝いをしてくれているんですよ」
店主が相好を崩した。
「僕、このパスタ以外食べたくないもん。絶対に味を受け継いでみせるよ」
少年は目を閉じて、オレキエッテを幸せそうに食べた。
ステラは、ヨナタンと顔を見合わせて笑った。大丈夫。きっとこの味は続いていく。
「この地域で興業するときは、必ず来なくちゃね」
「そうだな。僕たちの方も、店じまいされないように頑張らないと」
ヨナタンは赤ワインを飲みながら、真剣な眼差しを向けた。
ステラは、頷いた。巡業サーカスもまた、昔ほどエンターテーメントの花形ではない。テレビやゲームなど、たくさんの楽しみのある人たちに、「またチルクス・ノッテに行ってみたい」と思ってもらえるクオリティーを保つのは容易ではない。でも、だからこそ大きなやり甲斐もあるのだ。
自分の選んだ道をまっすぐ進もう。その横には、ヨナタンがいてくれるのだ。消えたり、いなくなったりしないで、一緒にこの道を行ってくれる。彼の言葉は、ステラを強くする。
そして、舞台がはねたら、またヨナタンと一緒にここを訪れよう。
「まずは、このシーズンを成功させようね。千秋楽までうまくいったら、みんなで食べに来たいな」
(初出:2021年8月 書き下ろし)
【小説】夜のサーカスと重苦しい日々
「scriviamo! 2021」の第8弾です。山西 左紀さんは、今年2回目、「物書きエスの気まぐれプロット」シリーズの掌編でご参加いただきました。ありがとうございます!
左紀さんの書いてくださった「エスの夜遊び」
ご存じの方も多いかと思いますが、サキさんの「物書きエスの気まぐれプロット」にときどき登場させていただいている「マリア」というハンドルネームの友人は、当方の作品『夜のサーカス』の登場人物です。本名アントネッラというドイツ&イタリア・ハーフの中年女性で、コモ湖畔のヴィラで一風変わった暮らし方をしている人物という設定です。
サキさんが、エス関連で「scriviamo!」にご参加くださるときは、アントネッラ系でお返しするのが半ばお約束になっていますので、今回もそのパターンでお送りします。また、メカメカのお得意なサキさんがボカロの曲をモチーフに書いてくださいましたので、こちらも1つ音楽をモチーフにして書くことにしました。イタリア語の歌ですので、追記に動画と意訳ですがだいたいの意味を載せておきました。この曲、コロナに合わせて作られた曲ではありません。が、妙に符合しているので使ってみました。
……で。例によって、オチもないんですけれど、すみません!
【参考】
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夜のサーカス 外伝
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夜のサーカスと重苦しい日々
——Special thanks to Yamanishi Saki-san
アントネッラは、受話器を置くと深いため息をついた。コモ湖を臨むアプリコット色のヴィラ。彼女は、その本来は屋根裏にあたるかつての物見塔を居室兼仕事場として使っている。
古めかしいダイヤル式の黒電話が彼女の仕事道具だ。数年前に、アナログの電話はこれからは通じなくなるので、デジタルの電話を導入しろと電話会社に言われたのだが、この電話機でないとどうもうまく仕事ができないので、結局パルス信号をトーン信号にする変換器を取り付けてもらい、無理に使い続けている。
アントネッラは電話相談員だ。かつては大きな電話相談協会で仕事をしていたが、どうしても彼女だけに相談したいという限られた顧客がいて、このヴィラに遷る時に独立したのだ。そう、回線費用は高い。つまり相談料は安くない。けれど、なによりも「誰にも知られない」ということに重きをおくVIPたちには費用はどうでもいいことだった。
彼女の顧客の多くは、実のところ相談をしているのではなかった。アドバイスを必要としているわけでもなかった。彼らはとにかく抱えている秘密を口に出したいだけで、アントネッラは高い相談料と引き換えにひたすら耳を傾けるのだ。
しかし、ここしばらくの相談は、滅入るものが多い。それまでは、人の悩みも秘密も千差万別だったのだが、今はそうではない。ドイツからの相談も、イタリア国内からの相談も、基本的には同じ内容だ。家から出られない。旅行に行けない。レストランにすら行けない。閉じ込められた家庭内で不協和音が響く。隠しておきたい秘密の趣味をパートナーに知られないように、もう何か月も密かなる趣味に時間を使うことができない。
受話器を置いて、アントネッラはため息をつく。少なくとも彼女は、閉じ込められた家庭でパートナーとの不協和音に苦しむことはない。家族などいないのだから。
彼女の趣味である小説書きも、ロックダウンで遮られることはない。彼女に必要なのは、狭い机の上にドンと置かれた古いブラウン管ディスプレイとキーボードを備えた、古いコンピュータのテキストエディタだけだ。イタリア有数の保養地の湖畔にあるだけあって、燦々と降り注ぐ陽光もきもちよく、彼女の状況はさほど悪くない。
だが、それでも顧客たちの不平と、先行きの不安とが、彼女を滅入らせる。そして、もともと出かけることをさほど必要としていなかったにもかかわらず、禁じられた外出が彼女にも小さな苛立ちとして降り積もっていた。
日々の感染者数や死者を確認することもやめた。医療行政としてはその数字は大切なことだろう。だが、アントネッラにとっては、数値がどうでも同じなのだ。人口十万人あたり何人が感染して亡くなるかは確率と統計という形で提示される。だが、アントネッラ本人にとっては、病にかかるか、かからないか、もしくは、外に出られるか、できないか、それぞれ二者択一の問題だ。そして、いま以上に氣の滅入る情報を得ても、人生はよくならない。
人びとのバラエティーに飛んだ生き様を、アレンジして小説のプロットにすることを、彼女はずっと楽しんでいたが、ここ数ヶ月はそれもちっとも楽しくなかった。自分がうんざりするものを、読まされる方はもっとつらいだろう。この世界の多くの人々が同じことにうんざりしているなんて、アントネッラの始まったばかりとはとてもいえない人生でも、初めてのことだった。
アントネッラは、窓を開けた。まだ春というには肌寒すぎるが、コモ湖に反射する陽光は少しずつ明るさを増している。マキネットがコポコポと音を立て、エスプレッソの深い香りがあたりを満たしてくるのを、アントネッラは大人しく待った。
いま流行のプラスチックカプセルに収まったコーヒーを放り込んでボタンを押すマシンを購入すれば、あっという間に1杯分のエスプレッソを飲めることはわかっている。そういえばあのマシンを宣伝しているハリウッドスターは、やはりコモ湖に大邸宅を持っている。はじめは鼻で嗤っていた隣人たちの多くも、粉だらけのエスプレッソメーカーが不調をきたして、何度目かの修理をすることになったあげくに、結局あのタイプのマシンを使うようになったらしい。
アントネッラは、揺るがなかった。赤と黒に光る合成樹脂のボディーを見るだけで虫唾が走るのだ。たとえ実際に口にするエスプレッソの味に毎回揺らぎがあろうとも、ふきこぼして本来する必要のない掃除をすることになっても、頑なに銀のマキネットを愛用していた。
同様に、ずいぶんと昔から使っているラジオも、つまみを回してチューニングをするタイプのものだ。どちらにしろ送信側がデジタルになってしまっているのだから、受信側もボタンひとつで他局に変えられるデジタル式のラジオにする方がいいと、ここを訪れる多くの人が忠告する。だが、アントネッラは、まだそうするつもりになれなかった。
ラジオのスイッチを入れると、やはりつまみが少しずれていた。わずかに調整をしていつもの放送局を選ぶ。早口で情報を伝えるDJが語り終えぬ間に、イントロが流れてきた。これは、誰の曲だったかしらと、ぼんやりと考えていた。だが、男性の声が聞こえてきて、すぐにわかった。ティツィアーノ・フェッロ。聞き間違えようのない声だ。
とくに低音は、不思議なざらざらとしたノイズが入る。正確な音程と伸びやかなヴォーカルに纏わり付くざらつき。好きか嫌いかを超えて、決して忘れられない声は、幾億もの遺伝子の組み合わせから偶然誕生した彼だけが持つ声帯の恩寵だ。
ああ、そうか。アントネッラは、ひとり頷いた。彼女の友人であるエスに聴かせてもらった、ボーカロイドの歌のことを思い出したのだ。日本語だったので、歌詞はわからなかった。エスは意訳してくれたが、その真意までははっきり伝えられないだろう。アップテンポのビートのきいた曲で、失恋しつつもいまだに2人の未来を紡ごうと語りかけているらしいのだが、その様な感情は歌詞なしには伝わってこなかった。「これは宇宙ステーションで昼食のメニューを読み上げている内容」と言われたとしても、言葉のわからないアントネッラには「そうなのか」としか思えない。
どんな音楽を好むかは、人それぞれだ。アントネッラ本人は、あまり夢中にならなかったが、父親の故郷であるドイツでは、かつて電子音楽グループのKRAFTWERKが一世を風靡した。1960年代にシンセサイザーを用いた前衛的なロックは、現在とは比べものにならぬ大きな衝撃を音楽界に与えた。彼らの斬新さと主張を理解できないほどアントネッラは旧弊した人物でもなかった。
エスが人間の声よりも、ボーカロイドを好む理由は知らない。アントネッラの若かった頃に友人のひとりがそうだったように「シンセサイザーの音が近未来的でときめく」というような理由ではないだろう。若い世代にとってコンピューターやボーカロイドは未来ではなく、既に現実なのだから。ボイストレーニングや息継ぎなどの肉体的な制限もなければ、スタジオやギャラなどの制約もない、自由と平等さが好きなのかもしれない。それとも彼女にとって歌は楽器の一種で人間の個性は邪魔なのかもしれない。
アントネッラが聴きたい声は、機械や機械を模して感情を押し殺した発声ではなく、その反対のところにあるものだった。
彼女が関心を持ち書き続けている小説は、空想世界で繰り広げられる超人的な展開や斬新なアイデアよりも、むしろありきたりの自分の生活ベースに近いものを題材にしている。
音楽や詩も、やはり生活に近いものを好む。宇宙や深海よりも地上にあるものに関心が強い。悪魔的な破壊を叫ぶヘビーメタルや、環境問題を訴えるクラウトロックよりも、カップルの間に生じる感情を歌うイタリアンポップスに心地よさを感じるのだ。
いま耳にしているティツィアーノ・フェッロの歌は、そうしたアントネッラが馴染んでいるジャンルの音楽だった。
人類最高ではないが、機械はもちろん、他の誰かでも決して真似のできない特別な声。感情の理解できる抑揚は、時に揺らぎ歪む。それは決して高低や大小だけではなく、2度と再現できない毎回異なる波形の中で作り出すものだ。年齢によって深くなることもあれば、やがては衰えて再現できなくなる、一瞬の発露。
ボタンひとつで、まったく同じ正しい味が再現されるエスプレッソマシンに失敗はないが、何年も使い込んだマキネッタから注がれる粉のざらつくエスプレッソのような、複雑な苦みや旨味もない。それは待たされる時間や、数々の試行錯誤や失敗がスパイスとなって作り出す味だから。
それにしても、いま聞こえてきている曲の内容は、先ほどの電話相談の続きのようだ。閉じ込められた鬱屈が、本来ならば支え合うはずの2人を疲弊させている。この曲は、確か数年前に発表されたものだから、現状を意識して書かれたわけではない。人々の悩みは、結局、似たようなものだということだろうか。
世界の未来を憂えるのでもなく、社会正義を歌うのでも、手に入らない儚い愛を夢見るのでもなく、うまく処理できない重苦しい現実を見つめている。病に苦しんでいるわけでもなく、大きな破局がきているわけでもないが、世界中の多くの家庭の中で立ちこめている暗雲そのもののようだ。
彼女の見慣れていた世界は、いつ、もう少し朗らかになるのだろうか。あとどのくらい、仲間たちと笑い合ってワインを傾ける程度の楽しみすらも許されない日々が続くのだろうか。
冬の真ん中で、「明日春になってほしい」と望んでもどうにもならぬように、人々も苛立ちや重苦しさをなだめつつ、状況が変わっていくのを待つしかないのかもしれない。ボタンひとつで新しい世界に入り込むことができない代わりに、忍耐強く苦難を乗り越えた先には、なんでもない安物のワインや、あくびが出そうな電話相談ですら最高に素晴らしく思える日々が来るのかもしれない。
(初出:2021年2月 書き下ろし)
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【小説】夜のサーカスと天空の大聖殿
今年最初の小説は、「scriviamo! 2017」の第一弾です。山西 左紀さんは、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。下記のようなリクエストをいただいています。
夕さんが気になる、或いは気に入ったサキのキャラとコラボしていただけたら 嬉しいです。
山西左紀さんは、色鮮やかな描写と緻密な設定のSFをはじめとした素晴らしい作品を書かれる方です。お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人で、このscriviamo!も皆勤してくださっています。
既に多くの作品でコラボさせていただいていますが、もっとも多いのが、「夜のサーカス」のキャラクターの一人であるアントネッラと、そのブログ友達になっていただいたサキさんの「物書きエスの気まぐれプロット」のエスというキャラクターとの競演です。
記念すべき初のプランBですから、やはりこの組み合わせで書きたいなと思いました。アントネッラとエスの交流の話、もしくは劇中劇形式になっているストーリーの話、どちらで遊んでいただけるのかも興味津々です。どんな形でお返事いただけるのか、いまからワクワクです。
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「scriviamo! 2017」について
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夜のサーカスと天空の大聖殿 - Featuring「物書きエスの気まぐれプロット」
——Special thanks to Yamanisi Saki-san
風を切って雲の間を抜けていく時、《勇敢なる女戦士》ロジェスティラは、イポリトの首筋の茶色い羽毛に顔を埋めた。彼女の忠実な乗り物となったこの巨大なヒッポグリフは、そっと顔を向けて「大丈夫か」と伺うかのごとく黄金色の大きな瞳を動かした。
「怖くなんかないわ。これは武者震いよ。あの天空の大聖殿に近づくのは、お前のような神獣の助けを借りなくちゃ不可能だし、わが軍で《翼あるもの》の使い手は、いまや私一人ですもの。オルヴィエート様をお救いすることが出来るのは、お前と私しかいないんだわ」
初めて目にした天空の大聖殿は、何と美しいことだろう! いくつもの尖塔がぎっしりとひしめき、針の山のように見えた。灰色と赤茶けた岩しか存在しない、人里離れた地の果てのごときヘロス山に、遠く離れたグラル山塊でしか産出しない青白い大理石をこれだけ運ぶ労力はどれだけのものだったのだろう。
このように壮大な聖殿を建てても、祭司に集まる貴族たちも、祈りを捧げる民らも到達することは出来ない。五百年前の大噴火によってヘロサ新山が生まれた後、馬はもちろん、徒歩ですら近づくことが出来なくなったのだ。厳しい渓谷に阻まれたこの壮麗なヘロス大聖殿は秘密に守られて、何世紀にも渡り伝説で語られるだけの存在であった。
ロジェスティラは、モルガントとの対決を思って下唇を噛んだ。将軍である皇孫オルヴィエートを欺き誘拐してこの大聖殿に立てこもっているのが、自分と子供時代を共に過ごした乳兄弟であることを知った時、彼女は「何かの間違いよ!」と叫んだ。けれども、それは間違いではなく、彼が邪悪な《闇の子たち》のために働いていることも疑う余地はなかった。
いま彼女が躊躇すれば、高貴なるオルヴィエートの命やこの国の命運が失われるだけでなく、《光の子たち》の築き上げてきた世界そのものが崩壊してしまう。
「イポリト。氣をつけて。そろそろモルガントがお前の飛来を感じ取るはずよ。どんな攻撃を仕掛けてくるかわからないわ」
ロジェスティラのささやきに、イポリトは「わかっている」と言いたげに振り向いた。「あなたこそ、振り落とされないように、お氣をつけなさい」そう言っているかのように瞬きをした。
そして、イポリトは、ますます速度を上げて、稲光の中に浮かび上がる青白い要塞に向かって降りて行った。
「う~ん。どうも陳腐だわね」
アントネッラは、ため息をつくと、エスプレッソ用品の置いてある窓辺のテーブルに向かった。
もちろん、そこまでのほぼ全ての地面には、本と書類の山や、二ヶ月ほど前に買ってきてまだショッピングバッグに入れたままになっているトイレットペーパーや洗剤やパスタ、彼女としてはきちんと積み上げてあると認識している衣類の入った木箱などが道を塞いでいるので、彼女はその間のわずかな空間を身体を横にしたり少し飛んだりしながら通らなくてはならない。これもまたいいエクササイズだわ、というのが彼女のいつものひとり言だった。
「さてさて。ファンタジーもののセオリーには、乗っ取っているんだけれど。謀略。主人公と敵対者の闘争。主人公によるヒロインの救出……これは立場が逆ね。敵対者の仮面が剥がれ、主人公の欠如が解消される。でもねぇ。なんだかどこかで聞いたような話になっちゃっているのよねぇ。どこかに、こう、パンチのあるひねりが欲しいわ」
窓辺に辿りつくと、彼女は少し大きめのアイボリーの缶の蓋をがたがた言わせて開けた。中からは深煎りしたコーヒー豆が現れる。彼女はフランス製の四角い木箱のついたアンティークコーヒーミルに、その豆を入れて、ハンドルをひたすら回した。美味しいエスプレッソを淹れるためには極細挽きにしなくてはならないのだ。挽きたての魅惑的な香りが、彼女の部屋に満ちた。
「ロジェスティラのイメージは、やはりあのライオン使いのマッダレーナかしらね。愛する貴公子を救うために勇敢にも敵地に一人で乗り込む美しきヒロインですもの。容姿のところを書き足さなくちゃ。オルヴィエートは、よく電話してくるあの金髪の俳優にしておこうかな。でも、敵役モルガントの容姿はどうしようかしら。暗い感じで、でも、一見は悪者に見えないような容姿がいいのよね。あ、ヨナタンの容貌は悪くないわね」
マキネッタの最下部に水を、その上にセットしたバスケットにきっちりと粉を詰めると、ポット部分をセットして直火にかけた。フリーズドライのインスタントコーヒーを使えば、こんな手間はいらないのだが、第一に、彼女はまっとうなエスプレッソを飲む時間を持てないほど人生に絶望してはいないし、第二に、こうした単純作業は創作に行き詰まった時の氣分転換に最高だと知っていたからだ。
「なんでファンタジーを書く企画に参加しちゃったのかしら。まったく書いたことのないジャンルなのに」
彼女は、マキネッタがコトコトと音を立てはじめたのを感じながら、窓の外に広がる真冬のコモ湖を眺めた。
「そもそも私、ファンタジーをまともに読んだこともないし、この系統の映画もほとんど観ていないし。でも、参加すると手を挙げちゃったからには、何かは完成させないと。ああ、困った」
夏場は観光客を乗せて軽やかに横断する遊覧船が、手持ち無沙汰な様相で船着き場で揺れている。谷間の陽の光は弱く、どんよりと垂れ込めた灰色の雲の間から、わずかに光が射し込んで湖畔の家々を照らしている。
少なくともエスプレッソが完成するまでは、窓辺でこの光景を眺めていられたのだが、無情にも完成してしまったので、彼女は素晴らしい香りとともにそのコーヒーを愛用のカップに注いで、またコンピュータの前に戻らざるを得なかった。
「そうだ。エスに彼女の進捗状況を訊いてみよう。彼女は、SFは得意だけれど、ファンタジーはあまり書いたことがないって言っていたから、同じように苦労しているかもしれないし」
エスというのは、日本に住んでいるネット上の創作仲間だ。アントネッラがインターネット上で小説を公開しだしてから数年になるが、ごく初期の頃から交流をもち、お互いの小説について忌憚なく意見を交わしている。あまり情報処理のことに詳しくないアントネッラのかわりに、エスは調べ物をしてくれたりもする。とても頼りになる友人なのだ。
今回の企画には、エスも同じように参加している。彼女のファンタジーについての意見を聞いたら、自分の作品に足りない「何か」の正体がわかるかもしれないと思ったのだ。
アントネッラは、創作に使っているエディタを閉じると、チャットアプリを立ち上げて、ログイン画面が現れるのを待った。
一瞬「保存しますか?」と訊く画面がでたように思ったが、普段ならキーを押したあとに続く「どのフォルダに保存しますか」と言う問いかけが出てこないことに氣がついた。チャットアプリに保存は関係ないから、保存すべきだったのは何だったのかしらと考えてから青ざめた。
慌ててエディタの方をアクティヴにしようと試みたが、大人しく終了してしまったらしく、うんともすんとも言わない。
チャットアプリのログイン画面がポップに輝くのを絶望的に眺めてから、アントネッラは乱雑に机の上に積み上げられた書類の山の中に突っ伏した。
(初出:2017年1月 書き下ろし)
【11.01.2017 追記】
サキさんが、あっという間に素晴らしい返掌編を書いてくださいました! さすがです。みなさまどうぞご一読を!
サキさんの作品 「物書きエスの気まぐれプロット(26)クリステラと暗黒の石 」
【小説】夜のサーカスとガーゴイルのついた橋
ご希望の選択はこちらでした。
*現代・日本以外
*薬用植物
*一般的な酒類/もしくは嗜好飲料
*橋
*ひどい悪天候(嵐など)
*「夜のサーカス」関係
今回のリクエストは、先週発表したものに引き続き「夜のサーカス関係」でした。もともとこの「夜のサーカス」はスカイさんにいただいたリクエスト掌編が発展してできたお話。とてもご縁が深い作品なのです。今回の舞台は「現代・日本以外」ですので、いつものようにイタリアでメインキャラたちと遊んでもよかったのですが、せっかく団長とジュリアがいなくなっているのですから、たまにはサーカスの連中も海外に行かせるか、ということでドイツにきています。
何しにきたかは、読んでのお楽しみ。題名にもなっているガーゴイルとは、よくヨーロッパの建築についている化け物の形をした石像のことです。私はガーゴイルが結構好き。変なヤツです。
なお、この作品は外伝という位置づけですが「夜のサーカス」本編のネタバレ満載です。本編の謎解きをしたい方はお氣をつけ下さい。
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夜のサーカス Circus Notte 外伝
夜のサーカスとガーゴイルのついた橋
そのキャンプ場は、みすぼらしい外観からの予想を裏切って、立派な設備が整っていた。例えば、カフェテリアにはかなり大画面のテレビがあって、いま話題のニュースも確認できた。
とはいえ、カフェテリアには大きなトラックの貨物室に乗ってやってきたイタリア人の集団がいるだけで、なぜ彼らがドイツ語放送のニュースを観て騒いでいるのか、カフェテリアの店番のハインツにはわからなかった。
一人だけドイツ語の達者な女がいて、ニュースをイタリア語に訳して伝えていた。この女だけがログハウスを借りていて、残りの集団はみなそれぞれ持ってきたテントに寝泊まりしていた。この辺りは自然が豊かで、湖で泳いだりサイクリングをしたり、一週間くらい滞在する客は他にもいるが、この連中ときたら朝も晩もカフェテリアでニュースばかりを観ている。だったらイタリアにいた方が面白いだろうにと彼は首を傾げた。だが、彼はイタリア語が全くわからなかったので、興味を失いクロスワードパズルを解くために新聞に意識を戻した。
アントネッラは、鋭い目つきでテレビを睨みながら、センセーショナルに報道されるいわゆる「アデレールブルグ・スキャンダル」の経過を説明していた。ミュラー夫妻殺人事件の公判に弁護士側の証人として登場したイェルク・ミュラー青年は、有名政治家ミハエル・ツィンマーマンこそがミュラー夫妻殺害の首謀者であると証言した。さらにアデレールブルグ財団設立をめぐるペテンの全容が公判で語られてしまったので、一大センセーションを巻き起こした。
ツィンマーマンの配下による攻撃から証人ミュラー青年を守るために、警察は24時間態勢の警護をつけ、さらにその滞在先は極秘とされていた。
「なんで僕たちにまで秘密なんだよ」
キャンプ場の閑散としたカフェテリアを見回しながら、マッテオは口を尖らせた。
「知らせれば、こうやってゾロゾロみんながついていき、最終的にヨナタンがチルクス・ノッテにいることがバレちゃうからでしょう」
アントネッラは非難の目を向けた。
「都合良く《イル・ロスポ》がデンマークへ行くって言うからさ」
マルコが笑った。馴染みの大型トラック運転手《イル・ロスポ》ことバッシ氏が、彼らをこの南ドイツの街まで連れてきてくれたのだ。そして、一週間後に再びイタリアへと連れ帰ってくれる約束になっている。
その場にいたのはマッテオだけでなく、ステラ、マルコ、エミーリオ、ルイージ、それに料理人ダリオまでいた。団長とジュリアが日本へ旅行に行き、チルクス・ノッテは珍しく一斉休暇になっていた。それで彼らは公判のために、シュタインマイヤー氏とともにドイツへと向かったヨナタンことイェルク・ミュラーを追ってドイツへやってきたのだ。ブルーノとマッダレーナも来たがったが、一週間ライオンたちを放置できないため、馬の世話も兼ねて二人は残っていた。
「それにしても、すごい天候になっちゃったわね」
ステラが、暗い外を眺めた。先ほどまでよく晴れていたのに、あっという間にかき曇り、大粒の雹が降り出したのだ。彼らは慌ててまずアントネッラのログハウスに向かったがすぐに6人もの人間が雨宿りするのは無理だとわかった。彼女の自宅同様、あらゆる物が床の上に散乱していたからである。
それで、ダリオが腕を振るった特製ごった煮スープの鍋を持って、このカフェテリアに飛び込んだというわけだった。カフェテリアの中は、とてつもなくいい香りで満ちていた。普段は持ち込みの飲食は禁止なのだが、店番のハインツにもこの絶品スープを振るまい、さらにビールを多目に注文することで目をつぶってもらうことに成功した。ハインツは、上機嫌でパンを提供してくれた。
食事が済むと、彼らはハインツに頼んでまたしてもテレビを付けてもらった。
「あっ、あれがツィンマーマンか!」
エミーリオが叫んだ。一同はテレビに意識を戻した。レイバンのサングラスをした背の高い男が、取材陣のフラッシュを避けながら裁判所の入口で待っていた黒塗りの車に乗る所だった。
あれがヨナタンを利用したあげくに殺そうとした悪い男! ステラは、その有名政治家を睨んだ。
報道規制が敷かれているのか、事件当時未成年だった証人のイェルク・ミュラー、現在ステラたちがヨナタンと呼んでいる青年は一切の報道で顔が明らかにされていない。一度だけ「法廷から滞在先向かう証人の車」を三流紙がスクープしようと追ったが、車の後部座席の窓にはカーテンがかかっていた。
ステラはそのスクープとは言えない新聞も買った。ステラが興味を惹かれたのは、その車が通っているのはとある石橋で、氣味の悪い生き物を模したガーゴイルがその柱についていた。そして、それは今朝彼女が散歩した、このキャンプ場から3キロほど離れた所にあった橋のものに酷似していたのだ。
もしかしてヨナタンもこの辺りに滞在しているのかしら。だったら、散歩の途中にばったりと出会ったりしないかな。
そのアイデアを告げると、アントネッラは少し厳しい顔をしてステラに言った。
「ねえ。そういう思いつきで、ヨナタンの居場所を突き止めようとなんてしていないわよね」
「逢えたらいいなって思っただけよ」
「でも、なぜ彼が誰にも居場所を知らせないか、わかっているでしょう? ツィンマーマンの配下は血眼になって、ヨナタンを亡き者にするか、ヨナタンに証言させないための策略を練っているの。万が一、あなたたちとヨナタンのつながりを悟られたりしたら、わざわざ危険を冒して証言をしようとしている彼の迷惑になるのよ」
そういわれると、ステラは自分がいかに思慮が浅かったか思い知らされて項垂れた。早く裁判が終わらないかな。こんなに長くヨナタンと離れているのは久しぶりなんだもの。
青空が戻ってくると、みな自分のテントに戻った。雹の被害を受けていなかったのは、木の下に張ったステラのテントだけだった。
他のみなが、テントを張り直して忙しそうだったので、ステラは水着の上にデニムのショートパンツとデニムシャツを着て、小さなリュックを背負うと川の方へと歩いていった。
例の化け物のようなガーゴイルが沢山ついている橋の方をちらりと眺めた。ちょうど橋の向こうに黒塗りの車が2台停まって、黒いサングラスをして、黒い革ブルゾンや黒い背広を着た男たちが降りてきた。ステラはそっと身を隠すと、男たちの様子を伺った。
「この辺だ。よく探せ!」
一人の男が横柄な口調で命令していた。きっとあの悪者の手下たちだわ。ヨナタンを探して危害を加えようとしているのね。ステラは下唇を噛んだ。
ステラは、そっと橋の下に移動すると、その裏側を腕の力だけでぶら下がりながら音を立てずに渡り始めた。川までは2mくらいあるが、ふだんサーカスのテントの上を飛び回っているステラには何でもなかった。無事に渡りきると、男たちに見つからないように身を屈めて車に近寄った。
2台の車を停めてあった所は、セイヨウオトギリソウの自生地だった。背が高いものは1m近くにもなるので、身を隠すのにも丁度よかった。レモンのような香りのする可憐な黄色い花を咲かせる草で、怪我をした時に外用したり、お腹の調子を整えるハーブティーに入れたりもする有用な植物だ。
この黄色い花は、ステラにはヨナタンとの思い出のある大事な花だった。それを無造作に車で踏みにじるなんて! ステラは「みていらっしゃい」と言うと、リュックからアーミーナイフを取り出すと、それぞれのタイヤをパンクさせた。
「なに、屋敷のようなものがあるって。本当か。あっちなんだな。よし、車で行くぞ」
その声が聞こえた時には、ステラはまた橋の下を伝わって向こう岸に戻っている途中だった。無事に渡りきると、いかにも今、泳ぎにきましたという風情で川の方へ降りて行った。2台ともパンクさせてあった黒い車は、男たちを乗せて発進した途端、変な方向に曲がり、そのままお互いに追突してしまった。
「変な話もあるものね」
シュタインマイヤー氏からの電話を切ったアントネッラが首を傾げていた。
「なにが変なのさ?」
マッテオが訊いた。
雹の降った日の二日後、思い思いに休暇を楽しんでいたチルクス・ノッテの面々は、再びキャンプ場のカフェテリアに集い、ダリオが即席で作ったラズベリーの絶品ジェラートに舌鼓を打っていた。もちろんハインツにも振る舞ったので、コーヒーが勝手に出てきた。
「ミハエル・ツィンマーマンの手下がね。あちこちでヨナタンのことを探していたんだけれど、二日前からこの辺りだけを重点的に探すようになったんですって。嗅ぎ付けられないように氣を付けろって言われたわ。でも、どうしてなのかしら。撒き餌はあちこちにしたのに」
「撒き餌ってなんのこと?」
エミーリオが、その場にいた全員の疑問を代弁した。アントネッラは肩をすくめた。
「ヨナタンの乗っている車のフリをした囮の車、バラバラの方向に走らせているのよ。ほら。この近くの特徴のある橋の写真もその一つ」
「え。あれって、囮の車だったの? ヨナタン、この辺にはいないの?」
ステラは驚いて訊いた。
「いないわよ。私もどこにいるかは知らないけれど、少なくともこの辺りじゃないことは知っているわ。でも、どうして、あいつらは、この辺りばかりを重点的に探すようになったのかしら?」
アントネッラの言葉にステラは申しわけなさそうに首を縮めた。
「もしかして、私のせいかも」
「ステラ? 何かやったの?」
「ええ。ちょっとね。見られていないはずだけれど、車をパンクさせちゃった」
アントネッラがため息をついた。
「本当に困った子ね。でも、おかげであいつらがヨナタンを襲う確率は限りなく小さくなったからいいかしら。悪いけれど、もう二度とそんなことしないでよ。私たちとヨナタンの関係を知られるわけにはいかないんだから」
「ええ。ごめんなさい。もうやらないわ」
ステラは内心すこしだけ嬉しかった。ヨナタンの身を守るのに貢献できたのだから。あとは足を引っ張らないように大人しくしていよう。
イェルク・ミュラーの証言で裁判は、シュタインマイヤー氏の目論んだ通りに進み、ミュラー少年の命を助けた被告のヨナタン・ボッシュは実刑を免れた。一方で、ミュラー夫妻の殺害容疑ならびにアデレールブルグ財団設立に関する詐欺への捜査が始まり、主犯としてミハエル・ツィンマーマンの逮捕状が取られた。
ステラたちの休暇も終わりが近づいていた。みなテントを畳んで撤収を済ませ、間もなく迎えにくる《イル・ロスポ》の貨物トラックを待った。ハインツは、ダリオと堅く握手をして、相伴に預かったおいしい料理の数々に対しての感謝を述べた。そして、「帰り道で飲んでくれ」とビールを2ダースも渡してくれた。
通販会社Tutto Tuttoのロゴの入った大きなトラックが、キャンプ場に停まった。車窓から《イル・ロスポ》がそのあだ名の通りひきがえるにそっくりの顔を見せて「乗りなさい」と告げた。
ヨナタンはいつ帰ってくるのかな。悪者たちにみつからないように、シュタインマイヤーさんがそのうちに届けてくれるんだろうか。早く逢いたいな。こっちではテレビでも、新聞でも、顔は見えなかったけれど、同じ国にいるだけで嬉しかったんだけれどな。ステラは後髪引かれる想いでしぶしぶトラックに乗った。
「早く帰らないと、マッダレーナとブルーノが怒るよな」
マルコが言った。そうよね。あの二人は、来ることもできなかったんだし、文句を言っちゃダメかな。ステラはしょんぼりして、トラックの荷台の扉を閉めた。トラックはすぐに発車した。
アントネッラが、ステラに言った。
「ほら、この大きな包みを開けてごらんなさい」
彼女の指差した先にはタンスの絵の描かれた大きな箱があった。「商品じゃないの?」と首を傾げたがよく見ると宛先は「チルクス・ノッテ」だった。ステラはドキドキしながらガムテープを剥がし始めた。マルコとエミーリオ、それにマッテオも続けて手伝いだした。開いた箱の中から、いつもの目立たないシャツとジーンズを身に着けた青年が出てきた。
「ヨナタン!」
みなが一斉に叫ぶと、チルクス・ノッテの道化師はニッコリと笑った。
「ただいま」
ステラは大喜びで彼に抱きついた。《イル・ロスポ》の運転するトラックは、サーカスの一団を乗せて、一路イタリアへと帰っていった。
(初出:2016年8月 書き下ろし)
【小説】夜のサーカスとマリンブルーの輝き
ご希望の選択はこちらでした。
*現代日本
*野菜
*地元の代表的な酒/もしくは嗜好飲料
*公共交通機関
*夏
*「夜のサーカス」関係
*コラボ(太陽風シンドロームシリーズ『妖狐』の陽子)
今回のリクエスト、サキさんが指定なさったコラボ用のオリキャラは、もともとlimeさんのお題絵「狐画」にサキさんがつけられたお話なのですが、サキさんらしい特別の設定があって、これをご存じないと意味がないキャラクターです。というわけで、今回はご存じない方は始めにこちらをお読みになることをお薦めします。
山西左紀さんの 狐画(前編)
山西左紀さんの 狐画(後編)
そのかわり、私の方のウルトラ怪しい(っていうか、胡散臭い?)キャラクターは、「知らねえぞ」でも大丈夫です。
「夜のサーカス」はイタリアの話なんですけれど、現代日本とのことですので舞台に選んだのは、一応明石市と神戸市。でも、サキさんのお話がどことはっきり書かない仕様になっていますので、一応こちらもアルファベットにしています。前半の舞台に選んだのは、こちらのTOM-Fさんのグルメ記事のパクリ、もといトリビュートでございます。
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夜のサーカス Circus Notte 外伝
夜のサーカスとマリンブルーの輝き
蒸し暑い夏の午後だった。その日は、僕の個展が終わったので、久しぶりの休みを取りA市方面へ行った。長いほったらかしだった時間の埋め合わせをするように、出来る限り彼女の喜ぶデートがしたかった。
ようやく僕が出会えた理想の女性。思いもしなかったことで怒らせたり泣かせてしまったりもしたけれど、誤解は解けて、僕たちはとても上手くいっている。少なくとも僕はそう思っている。
今ひとつ僕の言葉に自信がないのは、陽子にどこかミステリアスな部分があることだ。もちろん、僕が一度経験した、夢のような体験に較べれば受け入れられる程度に謎めいているだけだけれど。
朝食をとるにはとても遅くなってしまったので、僕たちはブランチをとることにした。彼女の希望で、A市に近い地元で採れた五十種類以上の野菜を使ったビュッフェが食べられるレストランを目指した。
そこは広大な敷地、緑豊かな果樹園に囲まれている農作業体験施設の一部で、その自然の恵みを体で感じることが出来る。都会派でスタイリッシュな陽子が、農業や食育といったテーマに関心があることを初めて知った僕は、戸惑いを感じると同時に彼女の新しい魅力を感じて嬉しくなった。
ビュッフェに行くと、僕はどうしても必要以上に食べたくなってしまうのだが、薄味の野菜料理なのでたとえ食べ過ぎてもそんなに腹にはこたえない。もっとも大量に食べているのは僕だけで、陽子はほんのわずかずつを楽しみながら食べていた。そして、早くもコーヒーを飲みながら静かに笑った。
「はじめての体験って、心躍るものね」
「初めて? ビュッフェが?」
彼女は、一瞬表情を強張らせた後でにっこり微笑むと「ここでの食事が、ってことよ」と言った。それは当然のことだ。馬鹿げた質問をしてしまったなと、僕は反省した。
そのまま農作業体験をしたいのかと思ったら、彼女は首を振って「海に行って船に乗りたいわ」と唐突に言った。
海はここから車で三十分も走れば見られるが、船に乗りたいとなると話は別だ。遊覧船のあるK港まで一時間以上かけていかなくてはならない。だが、今日、僕は彼女の願いを何でも叶えてあげたかった。
「よし。じゃあ、せっかくだから、特別におしゃれな遊覧船に乗ろう」
「おしゃれな遊覧船?」
「ああ、クルージング・カフェといって、美しいK市の街並を海から眺めながら、洒落た家具の揃ったフローリングフロアの船室で喫茶を楽しむことが出来る遊覧船があるんだ。あれなら君にも満足してもらえると思う」
K市の象徴とも言える港は150年の歴史を持つ。20年ほど前に起こった大きな地震で被害を受けた場所も多かった。港では液状化した所もあったが、今では綺麗に復旧している。災害の爪痕は震災メモリアルパークに保存され、その凄まじさを体感できるようになっているが、そこからさほど遠くないクルーズ船乗り場の近くにはショッピングセンターや観覧車などがある観光名所になっている。
僕は陽子をエスコートしてチケットを購入すると「ファンタジー号」ヘと急いだ。船は出航寸前だったからだ。この炎天下の中、長いこと待たされるのはごめんだ。
なんとか甲板に辿りつくと、この暑さのせいでほとんど全ての乗客は船内にいた。ところが、見るからに暑苦しい見かけの男が一人、海を眺めながら立っていた。
その男は外国人だった。赤と青の縞の長袖の上着を身に着けていて、大きな帽子もかぶっていた。くるんとカールした画家ダリのような髭を生やしていて、僕と陽子を見ると丁寧に帽子を取って大袈裟に挨拶をした。
「これは、なんと美しいカップルに出会えた事でしょう、そう言っているわ」
陽子が耳打ちした。僕は、陽子がこの英語ではない言語を理解できるとは知らなかったので驚いて彼女を見つめた。陽子は「イタリア人ですって」と付け加えた。
怪しいことこの上ない男は、それで僕にはイタリア語がわからず、陽子にだけ通じていることを知ったようだった。全く信用のならない張り付いた笑顔で、たどたどしい日本語を使って話しだした。
「コノコトバ ナラ ワカリマスカ」
僕は、どきりとした。かつて僕が体験した不思議なことを思い出したのだ。人間とは考えられない異形の姿をしたある女性(異形であっても女性というのだと思う)を、僕は一時期匿ったことがあるのだが、その獣そっくりの耳を持った女性が初めて僕に話しかけてきた時、「コノコエデツウジテイル?」と言われたのだ。
僕は、この人は日本語も話せるのか感心しながら「日本語がお上手ですね」と答えてみた。すると、男は曖昧な微笑を見せてすまなそうに英語で言った。
「やはり、日本語でずっと話すのは無理でしょうな。英語でいいでしょうか」
僕は、英語ならそこそこわかる上、たどたどしい日本語よりは結局わかりやすいので、英語で話すことにした。
「日本にいらしたのは観光ですか?」
「ええ。私はイタリアで小さいサーカスを率いているのですが、こともあろうに団員の半分が同じ時期に休みを取りたいと言い出しましてね。それで、まとめて全員休みにしたのですよ。演目が限られた小さな興行で続けるよりは、全員の休みを消化させてしまった方がいいですからね。それで生まれて初めて日本に来たというわけです」
サーカスの団長か。だからこんな派手な服装をしているのか。
「それにしても暑くないのですか? そんな長袖で」
「私はいつ誰から見られてもすぐにわかるように、常に同じでありたいと思っているのですよ。だからトレードマークであるこの外見を決して変えないというわけなのです」
変わった人だ。僕は思った。
「外見を変えない……。変えたら、同じではなくなるなんてナンセンスだわ」
陽子が不愉快そうに言った。すると、サーカスの団長といった男は、くるりとしたひげを引っ張りながらにやりと笑い、陽子の周りをぐるりと歩いた。
「そう、もちろん服装を変えても、中身は同じでしょう。ごく一般的な場合はね」
「なんですって?」
男は、陽子には答えずに、僕の方に向き直ると怪しい笑顔を見せた。
「だまされてはいけません。美しい女性というものは、化けるのですよ、あなた」
「それは、どういう意味ですの」
陽子が鋭く言った。
「文字通りの意味ですよ。欲しいものを手に入れるために、全く違う姿になり、それまでしたことのない経験を進んでしたがる。時には宝石のような涙を浮かべてみせる。我々男にはとうていマネの出来ない技ですな」
「聞き捨てならないわ。私のどこが……」
言い募る陽子の剣幕に驚きつつも、僕はあわてて止めに入った。
「この人は一般論を言っているだけだよ。僕は、少なくとも君がそんな女性じゃないことを知っている」
そういうと、陽子は一瞬だけ黙った後に、力なく笑った。
「そう……ね。一般論に激昂するなんて、馬鹿馬鹿しいことだわ。ねぇ、キャビンに入って、アイスクリームでも食べましょう」
その場を離れて涼しい船内へと入ろうとする二人に、飄々とした声で怪しい男は言った。
「では、私もご一緒しましょう」
陽子は眉をひそめて不快の意を示したが、そんなことで怯むような男ではなかった。それに、実のところ空いているテーブルはたった一つで、どうしてもこの男と相席になってしまうのだった。僕は黙って肩をすくめた。
ユニフォームとして水兵服を着ているウェイトレスがにこやかにやってきて、メニューを示した。
「いらっしゃいませ。何にいたしましょうか」
「何か冷たいものがいいな。陽子、君はアイスクリームがいいと言っていたよね。飲み物は何がいい?」
「ホットのモカ・ラテにするわ」
僕は吹き出した汗をハンカチで拭いながら、驚いて陽子を見た。ふと同席の二人を見ると、どちらも全く汗をかいた様子がない。いったいどういう事なんだろう。
「私は、このビールにしようかな。こちらの特別メニューにあるのはなんですかな」
サーカス団長の英語にウェイトレスはあわてて、僕の方を見た。それで僕はウェイトレスの代わりに説明をしてやることにした。
「ああ、期間限定で地ビールフェアを開催しているんですよ。このH県で生産しているビールですよ。城崎ビール、メリケンビール、あわぢびーる、六甲ビール、有馬麦酒、山田錦ビール、幕末のビール復刻版、幸民麦酒か。ううむ、これは迷うな。どれも職人たちが手作りしている美味いビールですよ」
「あなたがいいと思うのを選んでください」
そういわれて、僕は悩んだが、一番好きな「あわぢびーる」を選んで 二本注文した。酵母の生きたフレッシュな味は、大量生産のビールにはない美味しさなのだ。
「なるほど、これは美味いですな」
成り行き上、乾杯して二人で飲んでいる僕に陽子が若干冷たい視線を浴びているような氣がして僕は慌てた。
「陽子、君も飲んでみるか?」
「いいえ、私は赤ワインをいただくわ」
陽子は硬い笑顔を僕に向けた。結局、クルーズの運行中、謎の男はずっと僕たちと一緒にいて、陽子の態度はますます冷えていくようだった。
下船の際に、さっさと降りて行こうとする陽子を追う僕に、サーカスの団長はそっと耳元で囁いた。
「言ったでしょう。女性というのは厄介な存在なのですよ」
誰のせいだ、そう思う僕に構わずに彼は続けた。
「彼女のことは、放っておいて、どうですか、私と今晩つき合いませんか?」
僕は、心底ぎょっとして、英語がよくわからなかったフリをしてから彼に別れを告げ、急いで陽子を追った。
彼女は僕の青ざめた顔を見て「どうしたの」と訊いた。
「どうしたもこうしたも、あの男、どうやら男色趣味があるみたいで誘ってきた。女性を貶めるようなことばかり言っていたのは、それでなんだな」
それを聞くと、陽子は心底驚いた顔をした。
「まあ……そういうことだったのね、わたしはてっきり……」
「てっきり?」
彼女は、その僕の質問には答えずに、先ほどよりもずっとやわらかくニッコリと笑った。
「なんでもないわ。ところでせっかくだから、そこにあるホテルのラウンジに行かない? もっと強いお酒をごちそうしてよ」
「いいけれど、僕は車だよ」
「船内でもうビールを飲んでしまったでしょう。あきらめなさい」
僕は予定していなかった支出のことを考えた。海を眺める高層ホテルの宿泊代ってどれだけするんだろう。それでも、誰よりも大切な陽子が喜ぶことなら……。
Kの港は波もない穏やかな海のマリンブルーの輝きに満ちていた。
(初出:2016年8月 書き下ろし)
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【小説】夜のサーカスと黄色い羽 - Featuring「物書きエスの気まぐれプロット」
山西左紀さんの『物書きエスの気まぐれプロット(22)午後のパレード』
サキさんの所のエスは、私の小説の登場人物アントネッラ(ハンドルネームはマリア)のブロともになってくださっていて、情弱ぎみのアントネッラのために情報検索の手伝いをしてくれたり、公開前の小説を読んで意見をくれたりする貴重な存在、という事にしていただいています。そして、今回そのエスが友人コハクとともにこっそりコモ湖に来ているのですが、アントネッラはそれを知りません。
というわけで「夜のサーカス」の主人公二人を登場させて、なんともビミョーなアンサー掌編を書いてみました。途中出てくる奇妙な存在は、サキさんの掌編にインスパイアされたものですが、サキさんの小説にでてくるパレードの正体と言いたいわけではありません。じゃあ、なんだよと言われそうですが、ええと、なんとなく。
「夜のサーカス」本編は読まなくても話は通じるはずですが、一応リンクも貼っておきますね。
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「夜のサーカス」番外編
夜のサーカスと黄色い羽 Featuring「物書きエスの気まぐれプロット」
コモ湖は春の光に覆われて、これでもかというくらいに輝いていた。普段はサングラスをしないヨナタンすらも、ヴィラに辿りつくまで着用していた。ステラはそのヨナタンの姿にうっとりとしていた。
「なぜ見ているんだい」
困惑したように言う口調はヨナタンそのままなのに、急に映画スターにでもなったように感じたステラは、それをそのまま口にして、彼にため息をつかれた。
「えっと、そろそろだったわよね。まだ通り過ぎたりしていないわよね……」
ステラは慌てて言った。ヨナタンの口元が笑った。これまで通ってきた所にあったのはどれも立派なヴィラばかりで、至極残念な状態であるアントネッラのヴィラを見過ごすことなど不可能だからだ。
それはかつては壮麗だったはずの大きなヴィラで、40年くらい前に塗ったと思われる外壁はアプリコット色だ。はげ落ちていない所は、という意味である。一階部分の大半は伸び放題になったひどい状態の庭(かつては庭だったと言った方がいいかもしれない)の枯れ枝に隠されてよく見えていなかった。玄関ドアはかろうじて閉めたり開けたりができる状態だったが、たとえ開けっ放しでも泥棒に入られることはなかっただろう。
門の所に大きい松かさの形をした石のオーナメントが載っていたこともあるようだが、現在そのうちの1つは地面に横たわり、雑草の中に埋もれていた。
そんな状態だったので、ようやくその前に辿りついたステラもすぐにここがアントネッラのヴィラだとわかった。ヨナタンは、錆び付いた門をギイと押して開けてやると、ステラを通した。
二人は枯れた草の間を進んだ。もしこれが夏だったら雑草の間を泳ぐようにして進まなくてはならなかったことだろう。玄関ドアの所に進むと開けて「アントネッラ、こんにちは!」と叫んだ。すぐに上の方から「入っていらっしゃい!」と返答があった。
埃にまみれて廃屋同然の一階と二階を通り過ぎ、さらに螺旋階段を昇っていくとたどりつくのが展望台として作られた小さな物見塔だ。アントネッラは茶菓子とコーヒーを用意して待っていた。
アントネッラは小さな彼女のアパートから運び込んできた全ての家財をここに押し込んでいた。木製のどっしりとしたデスクには年代物のコンピュータと今どき滅多に見ない奥行きのあるディスプレイ、ダイヤル式の電話などが置いてあった。小さな冷蔵庫や本棚、携帯コンロと湯沸かしを上に置いた小さい食器棚、それからビニール製の衣装収納などが場所を塞ぐので、ベッドは省略してハンモックを吊るし、デスクの上空で眠るのだった。
ステラはこの場所が好きだった。そこだけは足元が塞がれていないソファの前に立って、開け放たれた窓を眺めると、その向こうに青く輝くコモ湖が見える。マグノリアと花水木があちこちで咲き乱れていた。
「よく訪ねてくれたわね。何ヶ月ぶりかしら。どうしたのかと思っていたのよ」
アントネッラの頬にキスをしながら、ステラは元氣よく答えた。
「だって、南の方に行っていたのよ。私、ローマやナポリって初めてだったの。でも、やっぱり北イタリアに帰ってくるとホッとするわ」
アントネッラは嬉しそうに笑った。ステラとヨナタンは、「チルクス・ノッテ」というサーカスに所属していて、街から街へとテントで移動して暮らしている。アントネッラとは、普段はヨナタンと呼ばれているこの青年にまつわる事件を通して友達になり、それ以来、興行でコモに来る時には必ず訪問することにしているのだ。
アントネッラは、私設の電話相談員として生計を立てている。もちろんそんな仕事では、コモ湖畔のヴィラをまともに状態に保つだけの収入は望めないので、この崩れかけた祖母の形見のヴィラはまるで半世紀前から打ち捨てられているかのごとくなっていたが、彼女は全く氣にしていなかった。この窓から眺めるコモ湖の景色さえあればそれで満足だったからである。
「思ったよりも到着が遅かったから心配していたのよ。久しぶりで道に迷ったの?」
アントネッラが訊くとステラは首を振った。
「違うの。街で人助けをすることになったので、遠回りになっちゃった。コモから直接じゃなくて、一度東岸に行って、ヴァレンナから船に乗ってきたの」
「まあ、人助け?」
そうアントネッラが訊くとヨナタンが頷いた。
「二人の日本人が、変なところをウロウロしていたんです。どうやら病院に行った帰りに、レッコ行きのバスの出るポポロ広場へと向かう近道を行こうとしたらしく、表通りをそれてしまったようですね」
「日本人がレッコやヴァレンナに何の用事があるのかしら」
「どうやら一人の女性のお祖母さんがこの地方の出身だそうで、先祖の墓も探したかったみたいですよ。それで、コモの街で道を一本間違えてしまった所、迷路のようになった急な上り坂で、体の弱そうな女性の方が少しダウンしてしまったようで」
「そっちの女の子はイタリア語も話せるのよ。でも、具合が悪くてたくさんは話せなかったの」
イタリア語の話せる日本人。それを聞いて、アントネッラはある友達の事を連想した。それは日本に住んでいるエスという名前以外はほとんど知らない女性だ。アントネッラと同様、趣味で小説を書いていて知り合ったのだ。
「それで。その二人は、無事に墓地に行けたの?」
アントネッラは、カップにコーヒーを注ぎながら訊いた。ステラは、ビスコッティとアマレットのどちらから食べようか迷っていたが、結局両方一度に手にとってから答えた。
「ええ。少し休んでから、私たちが連れて行ってあげたから。そして、とても面白いものも見たのよ」
「面白いもの?」
それは、日本人女性たちと別れて船着き場へ向かうために墓地を横切り、出口付近にあった中世の納骨堂の前を通った時の事だった。その納骨堂は黒い艶やかな金属製の壁と柵で覆われているのだが、中には所狭しと頭蓋骨が並んでいるのだった。そして、黒い壁にはダンス・マカーブルよろしく、骸骨たちが楽しそうに人びとを連れて行列している絵が描かれていた。
納骨堂の柵から、蟻が行列を作って出てきていた。それは二人がこれまで見た事もないような大きな蟻で、黒と赤茶色をしていた。そして、その多くが黄色っぽい三角の何かを運んでいるのだった。ステラが屈んでよく見ると、それは小さな蝶の羽だった。
そうやってゾロゾロと練り歩く蟻の群れは、終わる事もなく次々と納骨堂から溢れ出てくるのだった。
「まるでカーニバルの行列のようだったのよ。アントネッラに見せてあげたくて、ひとつだけその蝶の羽を持ってきたの」
そういうと、ステラはポケットからハンカチーフを取り出して手のひらの上でそっと広げて見せた。
「あれ?」
そこに挟まっていたのは、黄色い蝶の羽などではなく、三角の金色の紙だった。
アントネッラは、ステラとヨナタンの両方が「そんなはずはない」という顔をしているのを見て、二人が嘘をついているのではないなと思った。ハンカチごと受け取ると、金色の紙をしげしげと眺めた。
「不思議な事もあるものね」
アントネッラは、この不思議な話を短い作品にまとめたらどうだろうかと考えた。サーカスのブランコ乗りと道化師が、カタコンブからゾロゾロと現れる骸骨のパレードに翻弄される話だ。
僧侶、裕福な商人、徴税人などの豪奢な中世風の衣装をまとった骸骨たちは、金色の三角の紙をまき散らしながら、コモ湖の方へと向かう二人を追う。
カタカタと歯を噛み合わせて嗤う白い髑髏は、面白おかしい歌を歌えとブランコ乗りに要求するが、道化師が「歌わない方がいい」と止める。ブランコ乗りを地の果てに連れて行こうとする骸骨たちを道化師は黄色いジャグラーボールを使って撃退する。だが、コモ湖の前で二人は追いつめられる。
その時、教会の厳かな鐘の音が鳴り響き、骸骨たちは全て蟻の群れに戻って二人の視界から消えていく。二人の手のひらには、黄色い蝶の羽だけが残される。
このストーリーについてどう思うか、エスの意見を聞いてみよう。アントネッラは考えた。
でも。どういうわけか、ここ数日、エスはチャットにログインしていないのよね。「サルベージ」とやらでしばらくチャットできないと予め言われていた時以外に、エスがこんなに長くログインしなかった事はなかった。アントネッラは、今夜こそエスが再ログインするといいなと、ぼんやりと考えつつ、またしても空になったステラのコーヒー茶碗に新しくコーヒーを注いだ。
(初出:2016年4月 書き下ろし)
【小説】夜のサーカスと黒緑の訪問者 Featuring「チュプとカロルとサーカスと」
scriviamo!の第十七弾です。(ついでにStellaにも出しちゃいます)
スカイさんは、受験でお忙しい中、北海道の自然を舞台にした透明な掌編を描いてくださいました。本当にありがとうございます。
スカイさんの書いてくださった掌編 チュプとカロルとサーカスと
スカイさんは、現在高校生で小説とイラストを発表なさっているブロガーさんです。代表作の「星恋詩」をはじめとして、透明で詩的な世界は一度読んだら忘れられません。また、篠原藍樹さんと一緒に主宰なさっている「月間・Stella」でも大変お世話になっています。
「Stella」で一年半ちかく連載し、間もなく完結する「夜のサーカス」はもともと10,000Hitを踏まれたスカイさんのリクエストから誕生しました。それまでどこにもいなかったサーカスの仲間たちは、スカイさんのおかげでうちのブログの人氣シリーズになったのです。
今回スカイさんが書いてくださったお話は、北海道を舞台にゴマフアザラシと本来ならその天敵であるはずのワタリガラスの微笑ましい友情を描いたお話ですが、「チルクス・ノッテ」が少し登場します。そこで、とても印象的なワタリガラスのライアンをお借りして、「夜のサーカス」の番外編を書いてみる事にしました。
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「夜のサーカス」番外編
夜のサーカスと黒緑の訪問者 Featuring「チュプとカロルとサーカスと」
——Special thanks to Sky-SAN

風が吹いてきて、バタバタとテントを鳴らした。バタバタ、バタバタと。エミリオが大テントの入口の布を押さえようと顔を出して、山の向こうからゆっくりとこちらに向かってくる真っ黒な雲を眼にした。
「あれ、ひと雨来るかな……」
それ以上バタバタ言わないように、入口の布をくるくるっと巻いて、しっかりと紐で縛っている時に氣配を感じた。真横にいつの間にか一人の男性が立っていた。
黒い三つ揃いのスーツは、不思議な光沢だった。光の加減で緑色に見えるのだ。しかも、その男は黒いエナメルの靴、黒いシルクのワイシャツ、そして黒いネクタイに、黒いシルクハットを被っていた。真っ黒い前髪が目の辺りまであって、その奥から黒い小さい瞳がじっとこちらを眺めている。
エミリオはとっさにどこかの王族かなにかだと思った。こんなに堂々とした様子で立っている、しかもひと言も発しない相手ははじめてだった。男はエミリオの顔を注意深く観察すると、納得したように頷いてから堂々とした足取りで大テントの中に入ろうとした。
「あっ。いや、まだ入れないんですよ。開場時間は午後七時なんです」
男は何も言わずにエミリオをじっと見つめた。何も悪い事をしていなくても「ごめんなさい」と謝ってしまいたくなるような鋭い一瞥だった。だが少なくとも彼はエミリオの制止を振り切るつもりでないらしく、黙って立っていた。
「え。あ、いや、だから、あと二時間経ってから、暗くなってから来てくださいよ」
しどろもどろでエミリオが言った。それでも入ってきてしまったら、僕には止められないな、そう思いながら。だが、男は納得したようで、黙って頷くと踵を返して歩いていった。あのひと足が悪いのかなあ、変な歩き方だ。エミリオは首を傾げた。
まったく今日は変な闖入者の多い日だ。午後一番には、テントでリハーサルをしていたマッテオがエミリオにあたりちらしたのだ。
「お前! 何テントにカラスを入れてんだよっ!」
「えっ?」
そう言われて客席を見ると、こともあろうにVIP席の背もたれに、ワタリガラスが停まっていた。
「うわぁ」
背もたれに粗相でもされたら、団長とジュリアにこっぴどく怒られる。エミリオは棒を振り回しながら、その巨大な鳥をテントから追い出そうとした。一体どうやって入ってきたんだろう。だがカラスはポールの上の方へと飛んでしまって、なかなか降りて来ない。どうしたもんだろうかと考えあぐねていたが、たまたまマッダレーナがリハーサルのためにヴァロローゾを連れて入ってきたので問題は解決した。雄ライオンがエミリオも逃げだしたくなるようなものすごい咆哮を轟かせた途端、ワタリガラスは入口へと一目散に向かい、そのまま出て行ってしまったのだ。
無事に開演準備の仕上げを終えると、共同キャラバンへと走った。わぁ、みんな食べ終わっちゃったな。すっかり遅くなってしまった。キャラバンに駆け込むと、案の定、そこにはもう今日の当番のステラしかいなかった。
「ごめん。遅くなった」
「大丈夫。まだ時間あるから。みんなは本番前に集中したいからって、もう行っちゃったけれど。でも、何か問題があったの?」
「いや。風が強かったから、全ての入口の布を丸めていたんだ。そしたら、変なヤツが来てさ」
「変なヤツ?」
「うん。全身真っ黒のスーツを着た男。まだ開演時間でもないのに中に入ろうとしてさ。ダメですって断ったら帰ってくれたんだけれど、ひと言も喋らなくてさ……」
「そう……」
その真っ黒な男は、その日から興行に毎晩やってきた。マルコはその晩のチケット担当だったのだが、エミリオから話を聞いていたのですぐにわかった。立派な服装なのに、チケットは誰かが落として踏みにじられたようなしわくちゃ紙だった。その次の日はマッテオが本番前に見かけたと言うし、次の日にはマッダレーナも「私も見た」と報告してきた。
「毎日チケットを買っていらしてくださるとは、大事なお得意様じゃないか。喜べ」
団長が団員の不安を笑い飛ばしたので、彼らもそれもそうかとそのままにしておく事にした。
「それよりも、ステラ。ジュリアが言っていたが、三回転半ひねりが上手くできなくて、二回転半で誤摩化していると言うじゃないか。チラシにわざわざ載せたんだし、しっかりしてくれないと困るな」
「すみません」
実際には三回転半のジャンプそのものは成功していて、ちゃんと毎晩披露していた。問題は、二回転と三回転半の連続技で、タイミングがまだはっきりとつかめていない。落ちるのが怖くて上手くできないのだ。いや、以前のシングル・ブランコのときだったら落ちても下にいるのはヨナタンで、きっとネットを拡げて受け止めてくれると信じていたので安心して飛ぶ事ができた。でも、この興行で下にいるのはマルコだ。マルコもちゃんと受け止めてくれるとは思うのだが、ヨナタンほど信用できない自分が情けなかった。
ステラはレッスンを終えてから自分のキャラバンに戻りながら、自分の腕を目の前で泳がせてタイミングを反復してみた。
「ここで、一、二、んで、ジャンプ! 一回転、二回転……」
その時、「カポン」という声がした。
「ん?」
ステラが見上げると、目の前の楡の木にワタリガラスが停まっていた。大きな翼を一、二度拡げたり閉じたりしてから再び「カポン」と叫ぶと、不意に黒い鳥は飛び上がった。そして、二回転半してから隣の枝に一瞬脚を掛けると、停まらずにすぐに飛び立って三回転半をしてみせた。
ステラはぽかんと口を開けた。その間にワタリガラスはもっと上の枝に着地するとまた「カポン」と鳴いた。
「ねえ! もう一度、やって、お願い!」
そうステラが頼むと、まるで人間の言葉がわかっているかのように、黒い鳥は同じ連続ジャンプをすると、今度は停まらずに飛んでいってしまった。ステラは呆然として、もう一度練習するために大テントに向かって歩き出した。
「あのタイミングなんだわ……」
風がバタバタいう宵だった。色とりどりのランプが、ひゅんひゅんと何度もテントに打ち付けられた。チルクス・ノッテは満員だった。この街で最期の興行なので、一度観にきた観客たちももう一度駆けつけてきた。あのセクシーなライオン使いをもう一度観たいな……。俺は、あの馬の芸を観ておきたいよ。チラシで宣伝していたブランコ乗りのデュエットも、悪くないよな。
ステラは、舞台の袖でマッテオと一緒に立っていた。衣装の左胸の裏側にはいつものお守り、黄色い花で作った押し花も入っている。大丈夫……。ヨナタンが応援してくれると、もっと心強いんだけれどな。もう何日もヨナタンと話をしていなかった。こんなことは入団以来はじめてだった。でも、いつかは、また……。涙をこらえるようにして、左胸に手を当てた。あふれそうになった涙を抑える。いけない。今は演技に集中しないと。
マッテオに泣いているのを見られないように、急いで後ろを向いた。すると誰かが更に奥の袖にさっと隠れた。ステラはその衣装を目の端でとらえていた。コメディア・デラルテのアルレッキーノの衣装。ヨナタンだ。団長に怒られていたから、心配して見に来てくれたのかな……。ステラは嬉しくなって、下を向いた。頑張るね。
舞台の眩しい光。観客の割れるような拍手。熱氣。マッテオがみごとな大回転でブランコに膝の裏でつかまり、ゆっくりと揺れはじめる。ステラは、タイミングを数えはじめる、あのワタリガラスを思い出しながら。いち、に……。
華麗な二回転半の後、マッテオの手にしっかりと掴まったステラは、そのまま再び飛び立った。一回転、二回転、三回転半! 手はしっかりともう一つのブランコをつかんでいた。できた! 今日も二回転半だと思っていたジュリアとロマーノが袖であっけにとられて立ちすくんだ。エミリオの「やった!」という声は観客の大拍手でかき消された。派手な衣装と仮面を身につけた青年も袖から眩しそうに少女を見上げていた。
観客席には、真っ黒い衣装を身に着けた例の男がじっと座っていた。その隣には、やはり緑の光沢のある黒いドレスを身に着けた黒髪で黒いトーク帽に黒いヴェールをかけた女が座っていて、そっと体を傾けて黒服の紳士に顔を近づけた。紳士は大きく頷いてから他の観客には聞こえない小さな声で「カポン」と言った。
(初出:2013年4月 書き下ろし)
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【小説】夜のサーカスと赤いリボン - Featuring 「物書きエスの気まぐれプロット」
本日発表する小説は、40,000Hit記念の第二弾で、山西左紀さんさからいただいたリクエストにお答えしています。いただいたお題は「ダンゴ(という左紀さんのオリキャラ)を使って何か」でした。サキさん、リクエストありがとうございました。
左紀さんの「ダンゴ」の出てくる小説 物書きエスの気まぐれプロット8(H1)
さて、こう来たからには、やっぱり「夜のサーカス」とのコラボでしょう。(どこがやっぱりなのか?)ご希望に添えたかどうかはちょっと疑問なのですが、少なくとも発表日にだけはこだわってみました。今日はサキさんのお誕生日です。だから、うちの看板キャラたちをかなりたくさん出演させて、作品を書いてみる事にしました。
サキさん、Happy Birthday! 健康で楽しい事のたくさんある一年となりますように。(追記:そして、オリキャラのエスも今日がお誕生日だそうです。おめでとうございます!)
「夜のサーカス」番外編
夜のサーカスと赤いリボン
- Featuring 「物書きエスの気まぐれプロット」

今日のアントネッラは挙動不審だった。もともと彼女は世間が期待するような挙動はあまりしていないのだが、いつもと違って今日はコモの町中にいたので、人眼を惹いた。彼女はあまがえる色の日本製バイクの前に立って、あっちから覗き込んだり、こっちから眺めたり、かれこれ十分もそのバイクの前にいた。
バイクの持ち主は、ちかくのバルでのんびりとコーヒーを楽しんでいたのだが、明らかにモーターサイクルファンとは違う様相の女が自分のバイクの前でウロウロしているので、不安になり、ずっとアントネッラの動きに注目していた。
さらに十分ほど眺めた後、アントネッラは自分に宣言した。
「これを書くのは、私には無理だわ」
アントネッラはブログで小説を書く友達エスからのリクエストを受けていた。お題は「ダンゴを使って、何か物語を書いてほしい」だった。ダンゴというのは、エスの小説に出てくる女の子だ。一体何の因果でそんなニックネームを頂戴する事になったのか、エスの小説ではまだ詳らかにはなっていない。そもそも「ダンゴ」とはどういうものなのか、イタリア人のアントネッラには今ひとつ理解できていない。辞書で調べるとコメの粉を原料とした球形のケーキのようなものという事なのだが、場合によってはジャガイモなど他の原材料でも作るし、鼻の形容にも使われるとあり、ますます何を指しているのかわからなくなった。しかし、エスの小説によると髪をポニーテールにした可愛い女の子のようなので、たぶん球形の食べ物と外形上の因果関係はないのであろう。
この他に、小説ではダンゴのボーイフレンドと予想される青年が出てきた。ケッチンというニックネームで、こちらはどの辞書にも出てこない単語だった。もっともアントネッラの検索能力は非常に低いので、日本語で「ケッチン」が意外と知られた単語である可能性もないわけではなかった。そのケッチンはかわいいダンゴの姿を褒める事もせずにバイクの事を話すのだが、この関連でアントネッラはコモの街にまでできてバイクを観察する事になったのだ。
バイクに関する小説を書く事を放棄したアントネッラは、そのまま湖畔沿いにゆっくりと歩き、書くはずだった自作小説「夜のサーカス」のことを考えた。「チルクス・ノッテ」というサーカス面白い題材を発見して、その人間模様を書いた長編小説をずっと温めてきたのだ。でも、その小説はお蔵入りになりそうだった。なぜならその主人公のモデルにあたる青年のことを好奇心から調べているうちに、意外な事実が明らかになりドイツ警察も巻き込んだ大事になってしまったからだ。アントネッラがこの小説を発表すれば、モデルとなった青年の事を書いていると多くの人にわかってしまう。それで泣く泣く原稿をくずかごに放り込んだばかりだったのだ。
「そうだ! だったら、せめてこの短編にはあの二人を出そう。それがいいわ」
アントネッラは急いで自分の部屋に戻ると、古いコンピュータの電源を入れて、あまり上手く入力できないキーボードを叩くようにして、作品を書き出した。
ステラはヨナタンと湖畔の道を歩いていた。この春のように穏やかな暖かい心持ちでの散歩だった。たくさんの言葉は必要ではなかった。キラキラと輝く湖水が世界を祝福しているようだった。ステラは高く結ったポニーテールを二つに分けてぎゅっと左右に引っ張った。キラキラ光る金髪をまとめたゴムが締まって、きもちまでも引き締まったように思えた。ステラはお氣に入りの赤いリボンをしていた。サーカス「チルクス・ノッテ」に入団して、最初のお給料で買った思い出の品だ。大好きなヨナタンが道化師の扮装をして掲げる紅い薔薇を思わせる色だった。
少し先の方に、小さな人だかりがてきていた。
「なんだろう。ヨナタン、行ってみない?」
青年は黙って微笑んだので、ステラはとても嬉しくなって駆け出した。
近づいてみると、そこには四人組の大道芸人がいて二人はフルートを、一人はギターを奏で、その真ん中で青年が見事なテノールで歌っていた。
「あ、この曲、知ってる……何だっけ……」
「ドリーゴのセレナーデ」
ステラの問いかけに、ヨナタンは小さな声で答えた。
「『百万長者の道化師』とも言うんですよね」
突然、横から東洋人風の女の子が口を挟んだ。ステラは「まあ!」という顔をしてヨナタンを見たが、その「まあ」に含みを感じたヨナタンは露骨にイヤな顔をした。
ステラは慌てたように、東洋人の女の子の方を向いて話しかけた。
「こんにちは。あなたは旅行中なの?」
女の子はにっこりと笑った。深緑と茶色のジャケットのポケットに両手を突っ込み、飾り氣のない少年のようないでたちで、セミロングの髪も無造作に後ろで束ねてあるだけだ。でも、笑うと形のいい唇の口角が上がって女の子らしくなる。微かに色のさしたふっくらとした頬が柔らかそうだ。
「日本から来たんです。ダンゴって、みんなに呼ばれています」
ステラは大きく握手をしてダンゴに笑いかけた。
「私はステラよ。こちらはヨナタン。私たち、サーカスで働いているのよ」
「わたし、あなたを知っています。昨夜、サーカスを観に行ったんです。あなたのあの演技、とても素敵だったわ。なんていうのかしら、あの演目……。布を体に巻き付けてそれを飛ぶみたいな……」
「エアリアル・ティシューって言うのよ。見てくれてありがとう。このヨナタンは、ジャグリングをしていた道化師なの」
ダンゴの差し出した手をヨナタンも握って微笑んだ。「道化師の曲にぴったりね」ダンゴがそういうとヨナタンは肩をすくめた。
「ダンゴは一人で旅をしているの?」
「そうなんです。でも、短い旅で、すぐに帰るんです」
「どうして?」
「とても大切な人の誕生日がすぐなの」
「まあ、おめでとう!」
「伝えます」
ダンゴはうつむいて小さく笑った。それからステラとヨナタンを眩しそうに見て、それから何度かとまどってから、ようやく口を開いた。
「お二人、とても仲がいいんですね」
ステラとヨナタンはびっくりしたように顔を見合わせたが、何でもないようにヨナタンが微笑むとステラはにっこりと笑って言った。
「そうなの。あのね、私がヨナタンの事を大好きでアタックしまくっているの。それをわかって、ヨナタンは優しいから一緒にいてくれるのよ」
それからダンゴの耳に口を近づけた。
「もしかして、ダンゴは誰かと仲良くしたいの?」
ダンゴはじっと下を向いた。そんなことは、自分では思っていなかったし、そう意図して訊いたわけでもなかった。でも、そういわれてみると、もしかしてステラに訊きたかったのはその事だったのかもしれないと思った。
ステラはとても嬉しそうに笑った。
「答えなくていいの。あのね。おまじないを教えてあげる。もしかして、ずっと後の事だけれど、だれかと仲良くしたくても勇氣が出ないようなことがあったら、つかうといいわ」
それからポニーテールに手を当てると、するっとサテンでできた赤いリボンをぬいた。
「ほら、綺麗でしょう。ミラノで買ったの。これをしているとね、とても可愛い女の子になれるの。大好きな人の前に立って、ほら見て、可愛いでしょうって言いたくなるのよ。赤はハートの色なの」
そういうと、さっとダンゴの髪の周りに赤いリボンをかけて、カチューシャのようにし、右の上の方に蝶結びをした。ダンゴの顔が、花が咲いたように明るくなった。ほらかわいい。ステラはにっこりと笑った。
「普段は男の子みたいでもいいの。でもね、この世にはセクシーできれいな女の人や、優しくてかわいい子がいっぱいいるでしょう? だから、いつも男の子みたいにしていると、男の子にとって透明になっちゃうの。だから、ここぞって時には可愛い女の子だよって、アピールしないと忘れられちゃう。ダンゴは足も綺麗だから、ミニスカートも似合うのよ」
ダンゴはびっくりして手を振った。ミニスカートなんて履こうと思った事もなかった。
ステラはダンゴの反応におかまいなしにどんどんと続けた。
「一度で氣がついてくれなくてもがっかりしないでね。なんどもなんどもしつこくアピールしたら、きっと氣づいてくれるから」
それを聞いて、ヨナタンはやれやれという風に天を仰いだ。ダンゴは本当なんだと思っておかしくなった。
「さあ、ダンゴの大事な人のお誕生日の前祝いをしてもらいましょう!」
ステラはダンゴの腕をとって、大道芸人たちの前に連れて行った。ヨナタンがギターケースの中に五ユーロ札をそっと置いた。ステラが四人の大道芸人たちに耳打ちすると、四人は大きく頷いて、演奏を始めた。
Tanti Auguri a te,
Tanti Auguri cara S,
Tanti Auguri a te!
Happy birthday to you.
Happy birthday to you.
Happy birthday dear サキさん.
Happy birthday to you!
(初出:2013年3月 書き下ろし)
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【小説】夜のサーカスと赤錆色のアーチ - Featuring「物書きエスの気まぐれプロット」
scriviamo!の第六弾です。(ついでに、左紀さんの分と一緒にStellaにも出しちゃいます)
山西左紀さんは、人氣シリーズ「物書きエスの気まぐれプロット」と、当方の「夜のサーカス」ならびに「大道芸人たち Artistas callejeros」のコラボの掌編を書いてくださいました。本当にありがとうございます。
山西左紀さんの書いてくださった掌編 物書きエスの気まぐれプロット6
山西左紀さんは、小説書きのブロガーさんです。代表作の「シスカ」をはじめとして並行世界や宇宙を舞台にした独自の世界で展開する透明で悲しいほどに美しくけれど緻密な小説のイメージが強いですが、「絵夢」シリーズや今回の「エス」シリーズのようにふわっと軽やかで楽しい関西風味を入れてある作品も素敵です。普通は女性のもの書きがとても苦手とする機械関係の描写も得意で羨ましいです。
左紀さんのところのエスとうちのオリキャラのアントネッラのコラボははじめてではなくて、もう何度目かわからないほどになっています。この話を読んだことのない方のためにちょっと説明しますと、この二人はもともと独立したキャラです。でも、二人ともブログ上で小説を書いているという設定なので無理矢理にブロともになっていただき、交流していることになっています。今回の左紀さんの作品では、アントネッラが「scriviamo!」を企画し、エスがアントネッラの小説「Artistas callejeros」のキャラとコラボした、ということになっています。つまり実際の私と左紀さんの交流と同じようなものとお考えください。
そういうわけで、「物書きエスの気まぐれプロット」のメインキャラのエスと、劇中劇の登場人物コハクをお借りして、「夜のサーカス」の番外編を書いてみました。舞台は、アントネッラのいるイタリアのコモと劇中劇の方ではスペインのコルドバ、使ったキャラはカルちゃんです。(カルちゃんって誰? という方はお氣になさらずに。ただのおじさんということで)
番外編とはいえ「夜のサーカス」シリーズなので、表紙付きです。
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「scriviamo! 2014」について
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「夜のサーカス」番外編
夜のサーカスと赤錆色のアーチ - Featuring「物書きエスの気まぐれプロット」
——Special thanks to Yamanishi Saki-SAN

「あらあら。なんて面白い試みをしてくれるのかしら。さすがはエスね」
アントネッラはくすくす笑った。
一月のコモは、とても静かだ。クリスマスシーズンに別荘やホテルを訪ねていた人たちはみな家に帰り、スノップな隣人たちは暖かい南の島や、スイスやオーストリアのスキーリゾートへと出かけ、町のレストランも長期休暇に入る。
アントネッラにはサン・モリッツで一ヶ月過ごすような真似はもちろん、数日間マヨルカ島に留まるような金銭的余裕もなかったので、大人しく灰色にくたびれた湖を臨む彼女のヴィラの屋上で一月を過ごすことにしていた。今年、彼女がこの時期にここを離れない理由は他に二つあった。一つは、先日から関わっている「アデレールブルグ事件」がどうやら進展しそうな予感がすること。つまり、チルクス・ノッテのマッテオが新情報を持っていつ訪ねてくるかわからないことや、ドイツのシュタインマイヤー氏から連絡が入るかもしれないという事情があった。そして、もう一つは、趣味の小説ブログで自分で立ち上げた企画だった。「scriviamo!」と題し、ブログの友人たちに書いてもらった小説に返掌編を書いて交流するのだ。企画を始めてひと月、友人たちから数日ごとに新しい作品を提出してもらっているので、ネットの繋がらない所にはいけないのだ。
そして、今日受け取ったのは、ブログ上の親友エスの作品だった。エスは日本語で小説を書く日本人女性らしいが(詳しいプロフィールはお互いに知らない)、どういうわけかイタリア語も堪能で、小説を二カ国語で発表している。そして、アントネッラの小説もよく読んでくれている上、情報検索が上手くできないアントネッラを何度も助けてくれるなど、既にブログの交流の範囲を超えた付き合いになっていた。
エスが書いてきた小説は、先日発表された「コハクの街」の前日譚で、主人公のコハクがアントネッラの代表作「Artistas callejeros」のキャラクター、ヤスミンと邂逅する内容だった。アントネッラがコラボレーションで遊ぶのが好きだとわかっていて、わざわざ登場させてくれたのだろう。
「まあ、コハクは設計士候補生なの。そして、スペインのイスラム建築を見て、建築のスタイルに対して心境の変化が起こったのね」
アントネッラは、ベッドの代わりにデスクの上に吊る下げているハンモックによじ上り、しばらく静かに眠っているようなコモ湖を眺めながら考えていた。彼女が、数年前に訪れたアンダルシアのこと。掘り起こしていたのは「Artistas callejeros」を書くに至った、心の動き。美しいけれど古いものをどんどん壊していく現代消費世界に対する疑問なども。
それから、ハンモックから飛び降りて、乱雑なものに占領されてほんのわずかしかない足の踏み場に上手に着地すると、デスクの前に腰掛けてカタカタとキーボードを叩きはじめた。
また悪いクセだ。カルロスはひとり言をつぶやいた。先ほどからそこにいる女性が氣になってしかたがない。女性が彼の好みだと言うのではなかった。それは少女と表現する方がぴったり来る、いや、少し少年にも似通う中性的な部分もあり、カルロスがいつも惹かれるようなセクシーで若干悪いタイプとは正反対だった。カルロスが氣になっているのは、それが日本人のように見えたからだった。
見た所、その女性は困っているようには見えなかった。だが、問題がないわけでもなさそうだった。メスキータ、正確にはスペインアンダルシア州コルドバにある聖マリア大聖堂の中で、十五分も動かずに聖壇の方を見ているのだ。声を掛けようかどうか迷いながら横に立っていると、向こうがカルロスの視線に氣付いたようで、不思議そうに見てから小さく頭を下げた。
「不躾に失礼。でも、あまりに長く聖壇を見つめていらっしゃるのでどうなさったのかと思いまして」
カルロスは率直に英語で言ってから付け加えた。
「何かお手伝いできることがあったらいいのですが」
女性は知らない人に少々警戒していたようだが、それでも好奇心が勝ったらしくためらいがちに言った。
「その、勉強不足でよく知らないんですが、これはキリスト教の教会なんですよね? でも、当時敵だったイスラム教のモスクの装飾をそのまま使っているのはなぜなんですか?」
カルロスは小さく笑った。それが十五分も考え込むほどの内容ではないことはすぐにわかったので、この女性の心はもっと他にあるのだと思ったが、まずは彼女が話しかけることを許してくれたことが大事だった。
「いくら偏狭なカトリック教徒でも、これを壊すのは惜しいと思ったのでしょう。美しいと思いませんか?」
「ええ、とても」
「もともとここには教会が立っていたのです。八世紀にこの地を征服した後ウマイヤ朝はここを首都として、モスクを建設しました。十三世紀にカスティリャ王国がこの地を征服して以来、ここはモスクとしてではなく教会として使われるようになり、モスクの中心部にゴシックとルネサンスの折衷様式の礼拝堂を作ったのですよ」
「壊して新しいものを作るのではなく……」
「そうですね。壊してなくしてしまうと、二度と同じものはできない。その価値をわかる人がいたことをありがたく思います。当時のキリスト教というのは、現在よりもずっと偏狭で容赦のないものだったのですが」
二人はゆっくりと広い建物の中を歩いた。「円柱の森」と言われるアーチ群には赤錆色とベージュの縞模様のほかには目立った装飾はなかった。だがその繰り返しは幻想的だった。天窓から射し込む光によって少しずつ陰影が起こり、近くと遠くのアーチが美しい模様のように目に焼き付いた。
聖壇の近くのアーチには白い聖母子像と聖人たちの彫像が配置されている。本来のモスクには絶対に存在しないものだが、光に浮かび上がる白い像は教義に縛られてお互いを攻撃しあってきた二つの宗教を超越していた。どちらかを否定するのではなく、また、どちらかの優位性を強調するのでもなく。
ステンドグラスから漏れてきた鮮やかな光が、縞模様のアーチにあたって揺らめいていた。ほんのわずかな陰影が呼び起こす強い印象。
メスキータから出ると、外はアンダルシアの強い光が眩しかった。カルロスはさてどうすべきかと思ったが、女性の方から話しかけてきた。
「あの、お差し支えなかったら、もう少しアンダルシアの建築のことを話していただけませんか?」
カルロスはニッコリと笑うと、頷いてメスキータの外壁装飾について説明していった。
「あなたは建築に興味をお持ちなんですか?」
「え、ええ。わたしは建築士の卵なんです。日本人でシバガキ・コハクと言います」
「そうですか。私はバルセロナに住んでいまして、カルロス・マリア・ガブリエル・コルタドと言います。やっぱり日本の方でしたね」
「やっぱりというのは?」
「私には親しくしている日本の友人がいましてね。それで、東洋人を見るとまず日本人かどうかと考えてしまうのですよ」
「それでわたしを見ていらしたのですね」
「ええ。もっとも、氣になったのはずいぶん長く考え込んでおられたので、何か問題がおありなのかなと思ったからなのです」
コハクは小さく息をつくと、わずかに首を傾げて黙っていた。カルロスは特に先を急がせなかったが、やがて彼女は自分で口を開いた。
「関わっていたプロジェクトから外された時に、なぜ受け入れられなかったのかわからなかったのです。所長はわたしの設計が実用的・画一的、面白みに欠けるって言いました。学校で習った時から一番大切にしていたのは、シンプルで実用的、そして請け負って作る人が実現しやすい設計で、さらに予算をクリアすることです。それは所長だって常々言っていたことです。それなのにいきなり面白みなんていわれても……」
カルロスはなるほどと頷いた。
「わたしの信念、間違っているんでしょうか」
コハクが思い詰めた様子で訊くと、カルロスは首を振った。
「そんなことはありません。私は実業家なのですが、実用性や予算を度外視したプランというものは決して上手くいかないものです。あなたの上司も、あなたにアルハンブラ宮殿の装飾やサクラダ・ファミリアのような建築を提案してほしいとおっしゃっているわけではないのだと思いますよ」
「だったら、どうして」
「それは、教えてもらうのではなく、あなたが考えるべきことなのです。ここに来たのは本当にいい選択でした。ご覧なさい」
そう言って、外壁の細かい装飾を指差した。ひとつひとつはシンプルな図形だが、組み合わせによって複雑になるアラブ式文様だった。アーチ型を重ねることでメスキータの内部の「円柱の森」を思わせた。
「壁という目的だけを考えればこれは全く不要です。省いても雨風をしのぐという目的は同じように果たせるでしょう。けれどもこの文様にはこの建物全体に共通の存在意義があるのです」
「それは?」
「祈りです。偉大なる神への畏敬の念です。それは彼らにとってはコストや手間をかけてでも表現しなくてはならないものだったのです。建物を造るよう命じたもの、設計者、工芸家一人一人が心を込めて実現し、そして、人びとはその想いのこもった仕事に驚異と敬意を抱いたことでしょう。その真心に七百年の時を経ても未だに人びとは打たれ、同じようにここに集うのです。もし、ここが何の変哲もない柱と屋根と壁だけの建物であったなら、人びとはさほど関心を示さなかったでしょう。そして、為政者が変わった時にあっさりと取り壊されてしまったのではないでしょうか。カスティリャの人びとは、これを作った一人一人の心を感じたからこそ、イスラム教の人びとの手によるものだとわかっていても、尊重し後世に残そうと、そして同じ場所で祈り続けようと決めたのではないでしょうか」
コハクはじっとカルロスの大きな目を見つめた。
「建物自身から感じられる存在意義……。使う者が感じる、作った者の心……」
それから大きく頷いた。
「そうですね。わたしは事業としての建築や建設の使用目的については真剣に考えていたのですが、空間としての建物の意義を見落としていたのかもしれません。まだもう少し旅を続けますので、よく考えてみようと思います」
カルロスは嬉しそうに頷いた。それから胸ポケットから名刺を取り出した。
「私は普段ここにいます。バルセロナの郊外です。もしバルセロナに寄ることがあったら、連絡をください。今、私の日本人の友人たちもしばらくは滞在していますのでね」
アントネッラは時計を見た。あらやだ。もう夜中の一時だわ。そろそろ寝なくちゃ。この最後の部分はもう少し練らないとダメね。なぜArtistas callejerosの仲間たちがバルセロナにいるのかはまだ内緒だし。ま、でも、いいかしら。お祭りの企画だから。
彼女はコンピュータの電源を落とすと、再び器用にハンモックによじ上って毛布をかけた。今夜はメスキータの夢が見られそうだった。
(初出:2013年1月 書き下ろし)
【小説】夜のサーカスと黒い鳥 Featuring「ワタリガラスの男」
scriviamo!の第三弾です。(ついでに、ウゾさんの分と一緒にStellaにも出しちゃいます)
ウゾさんは、人氣キャラ「ワタリガラスの男」シリーズと、当方の「夜のサーカス」のコラボの掌編を書いてくださいました。本当にありがとうございます。
ウゾさんの書いてくださった掌編 白い鳥 黒い鳥 そして 白い過去
そういうわけで、「ワタリガラスの男」シリーズの二人のメインキャラをお借りして、「夜のサーカス」の番外編を書いてみました。
本当は、読まされる方の苦痛も考えて、小説は週に二本を限度にしているのですが、今週は日曜日にStellaの発表もあります。で、こちらを来週にしようとも思ったのですが、私自身がそんなに待てません! で、イレギュラーで週三本になりますが、発表しちゃうことにしました。番外編とはいえ「夜のサーカス」シリーズなので、表紙付きです。ウゾさん、表紙にもワタリガラスの男さまをお借りしました。ありがとうございます!
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「夜のサーカス」番外編
夜のサーカスと黒い鳥 - Featuring「ワタリガラスの男」
——Special thanks to UZO-SAN

漆黒のマントが風に揺れている。風がいつもとは違う調子で唄う。ヒュルリ、カラン、トロンと。イタリアの平凡で何も起こらぬ小さな町は、その唄に驚き首をすくめる。オレンジの薫りがする。どこからするのかわからぬ香氣。いずこから来たのかわからぬ旅人。彼は、まっすぐに町の中心へと向かおうとする。いくつかのバル、小さな商店、午睡にまどろむ広場。人影はほとんどない。
旅人はわずかなすすり泣きを耳にする。小さな、かすれたしゃくり声は、広場の近くの樹々におおわれた公園から漏れてくる。見過ごしてしまうほど狭い遊び場。滑り台が一つと、背の高い鉄棒と、低いのが一つずつ、それから壊れたブランコに、砂場。鉄棒の下で、学校にもまだ入っていないほどの幼子が泣いている。
男は低い声でそっと問いかける。
「何がそんなに悲しいのだ?」
小さな少女が黄金の頭をゆっくりと持ち上げる。男に黄金の双眸が見える。涙に濡れ、砂が頬に張り付いている。
「どうしても、できないの。白い鳥のように飛んで、きれいに回りたいのに」
その答えが、旅人の興味を惹く。ワタリガラスの代理としてこの世を彷徨う男の。
「お前には空を飛ぶ白い翼が必要だというのか」
少女は首を振った。
「翼はなくても、ジュリアは空を飛んでいたわ。真っ白い、キラキラ光る、とてもきれいなブランコ乗りなの」
旅人は少女に微笑みかける。
「ジュリアに飛べるなら、お前も飛べるだろう。飛ぶ練習を怠らなければね」
「今日は飛べないの?」
「飛べない。たぶん明日も飛べないだろう。」
少女は、落胆して肩を落とした。
「明日には薔薇は枯れてしまうわ」
彼女の心には紅い薔薇を持って白く美しいブランコ乗りを追いかけていく哀しい道化師の少年の姿がよぎる。私の運命の人なのに、どうしても届かない。いつも美しいジュリアを追って、舞台の奥へと走っていってしまう。あなたの側にいさせて。ブランコ乗りになるから。ジュリアのように羽ばたいてみせるから。
旅人は幼い少女の頭を優しく撫でた。
「薔薇は次々と咲くのだ。お前が空を飛ぶ日まで、何輪でも。諦めてはいけないよ。飛ぼうとし続ける者だけが、いつか本当に空に向かえるのだ」
少女は、それを聞いて涙を拭い頷いた。そして両手をまっすぐに伸ばして、もう一度鉄棒に向かった。男は少女を助けて鉄棒の上に体を持ち上げてやりながら囁いた。
「お前がはじめて空を飛ぶ日に、私はそれを見届けに行こう」
リハーサルを何度も重ね、何度もやった演技だったが、初舞台の今日は何もかも違っていた。テントの中の人いきれ。青白い眩しいスポットライト。朗々と響く音楽の中、舞台の上を走る道化師ヨナタンの背中。ステラは、半ば震えながら天井のブランコの上で待っていた。大丈夫だろうか。もし、うまくいかなかったら、どうしよう。先月引退したジュリアのようになんて、できっこない。
その時、ステラはヨナタンが紅い薔薇を差し出すのを目にした。出番の合図だ。ゆっくりと下がっていくブランコの上で、ステラはすっと背中を伸ばした。どこからか、声が聞こえてくる。
「薔薇は次々と咲くのだ。お前が空を飛ぶ日まで、何輪も」
少年だったヨナタンは、立派な青年になった。大車輪ができないと泣いたステラは十六歳になっていた。そして、間違いなく薔薇は何輪も咲いた。ようやく、あなたは私を追ってきてくれる。あの人が予言した、そのままに。
ステラは、その人のもう一つの言葉を思い出した。
「お前がはじめて空を飛ぶ日に、私はそれを見届けに行こう」
まさかね。でも、ありがとう。私は、ちゃんと飛びます。白い鳥になって。
「お疲れさま!」
「よく頑張ったな!」
大喝采を背中にステラが袖に入ると、仲間たちが次々と寄ってきて肩を叩いた。演技はあっという間だった。わずかなミスはあったけれど、観客にはわからないくらいだった。いつもは厳しい教師のジュリアも、笑って褒めてくれた。嬉しくて、ステラは涙を拭った。本当に今日からブランコ乗りなのだ。
観客の爆笑とともに、ヨナタンが袖に飛び込んできた。そして、そこに立っているステラと目が合った。道化師は、もともと笑っているような化粧の下の、口元をほころばせて言った。
「よくやった」
そして、ステラの前髪をくしゃっと乱した。
「さあ、カーテンコールだ」
仲間たちが、次々と舞台に走っていく。ステラも、ヨナタンに手を引かれて光の中に戻っていく。
本日の出演者たち全員に、割れるような拍手が贈られる。仲間は、円形の舞台の端にそれぞれ立つ。一番真ん中に、今日デビューのステラ、その隣はヨナタン。眩しい光の中、出演者たちが何度もお辞儀をする。
ヨナタンは、いつものように、一つの客席に眼をやる。そう、かつてみなに嗤われている道化師を、幼いステラが泣きそうになって観ていた席。その悲しい表情にたまらなくなって、彼が紅い薔薇を差し出した、あの席だ。そこには、奇妙なことに白い大きめの人形が座っている。髪が長く、陶器のようなすべすべの肌で、透明な硝子の瞳をぱっちりと開いている。それは人形なのに、生き生きとしていて、今にも話しかけてきそうだった。
その人形の隣には、全身黒尽くめの男が座っていた。周りの他の観客たちが、滑稽なほどのさまざまな色を身にまとって、がやがと落ち着きなく騒いでいるのに、落ち着き払って座っている白い人形と黒い男の、モノトーンのコントラストがヨナタンの眼を惹いた。
ヨナタンは、その人形の、モノとしてはありえないほど恐ろしく生き生きとした様子に、自分がかつて本当に生きていたときのことを思う。この仮面の下に生命を押し込めて生きることになった忌々しい夜のことを思い出す。生きている人形と、生きていない道化師。奇妙な符号だ。意識が離れたがために、手の中にある薔薇の刺が彼の指を刺し、誰にも氣づかれないほどわずかの血が流れていく。ヨナタンは、人形がその痛みを感じている錯覚に陥った。短い、あいまいな幻想。
やがて人形に何かを囁きながら立ち上がり、男はめちゃくちゃに騒いでいる観客たちの間をすうっとすり抜けて、人形を連れて通路を歩いて行った。男は、出口で振り向くと、まだ己を視線で追っている道化師の方をまともに見た。それから、帽子をかぶり、口角をわずかにあげると再び人形に何かを語りかけた。
そのとき、ヨナタンの指の小さな傷口から、オレンジの香りがした。男が戸口に消えると同時に、テントの中には不思議な風が吹いた。ヒュルリ、カラン、トロンと。「あ」小さな声を出して、男の存在に氣がついたステラが、風とともに去ったマントを目で追う。美しく、生命に満ちた若いブランコ乗りの娘が。今日、予言の通り美しく羽ばたくことのできた白い鳥が。
「あの人……。まさか、ね」
ヨナタンはそっと彼女に語りかけた。
「不思議な人形を連れた、カラスのような男だったね」
ステラは無言で頷いた。鳥たちの神様なのかもしれない、ぼんやりと彼女は思った。
(初出:2013年1月 書き下ろし)
【小説】夜のサーカスと南瓜色の甘い宵
あらすじと登場人物
「夜のサーカス」をはじめから読む

夜のサーカスと南瓜色の甘い宵
オレンジに近い暖かい黄色のナフキンがしっかりと口の周りの汚れを取り去る。たっぷりとしたオリーブオイルのせいで、赤い口紅も一緒にナフキンについてしまった。まあ、いいわ。しみを落とすのは私ではないし。揚げカボチャのニンニク油マリネ。美味しい前菜だった事。ジュリアは空になった皿の上を眺めた。その奥には蝋燭が穏やかな焔をくゆらせている。ナフキンと同じ色のテーブルクロスのかかったテーブルの先には、その男が座っている。ジュリアの夫、ロマーノだ。馬の曲芸師として知られた男、そして、イタリアではそこそこ名を知られるようになってきたサーカス団「チルクス・ノッテ」の団長でもある。
この男と結婚し、団長夫人としての地位を確立したので、彼女はこのような優雅な晩餐を楽しめるようになったのだ。そうでなければ、今ごろは共同キャラバンの中でブルーノやルイージなんかと一緒にまかない飯をかきこんでいた事だろう。サーカスのスターとして永らく「チルクス・ノッテ」に君臨したけれど、ただの団員としての共同生活には特別扱いは許されなかった。そういうものだし、今後もそうあるべきだ。ジュリアは給仕をするマルコをちらりと眺めた。茄子のスパゲッティ。ロマーノは、大して贅沢をしたがらない男だが、食事にだけはこだわりがあった。料理人として雇われているダリオは、安くてボリュームのたっぷりなまかない飯を作る腕前も大したものだが、それと平行して、レストランでも滅多に食べられないようなコースを用意する事が出来るのだった。
「セコンド・ピアットは鹿肉だよ、かわいい人」
ロマーノは、キャンティのグラスを掲げて微笑んだ。ジュリアもグラスを持ち上げて笑み返した。夫を心地よくすること、それは彼女の数少ない義務だった。それでいいのだ。ロマーノが私だけを愛しているかどうかなんて、どうでもいいこと。私には関わりのない事だから。
テーブルの上の蝋燭は小さなカボチャをくりぬいた、ハロウィンのランタンに入っていた。今日は十月三十一日。アメリカから来た浮かれた商業主義がこのイタリアにも広がりつつあるけれど、私には関係ない。明後日の万霊節には、教会に行くでしょう。父親や母親、祖父母のため、教会に行くことを止める夫などいやしない。だから、私はこの日には一つの魂のために心置きなく祈る事が出来る。本当に生涯を共にしたかった、たった一人の男のため。
ジュリアは、ちょうど今のステラぐらいの年齢から、ブランコ乗りとして働いていた。いくつかのサーカス団に勤めたが、芽が出たのはトマとコンビを組んでからだった。ナポリ出身の小柄なブランコ乗りは、怒りっぽくて、腹が立つと誰かれ構わず殴り掛かる困った性格だった。美しいジュリアにすぐに夢中になり、彼女が他の男に微笑みかけたりすると猛烈に嫉妬をした。それを鬱陶しく思った事もあるけれど、彼が突然いなくなってしまってから、どれほど自分が彼の束縛を必要としていたか理解したのだ。トマ。あなたは今どこにいるの?
鹿肉の猟師風を食べ終えると、ジュリアはふうっと息をついた。明日と明後日は聖なる休みだ。つまり、興行は出来ない。だから、ロマーノは明日を移動の日に当てる事にした。興行収入のためだから仕方ないだろう。いずれにしてもジュリアはさほど信仰深い方ではなかった。むしろ明日教会に行けないということは、なおさら明後日教会に行くことが自然に映るだろう。トマの命日には、ジュリアは教会に行ったり、ことさら神妙にしたりはしなかった。ロマーノと食事をし、後援者達と逢う事があれば楽しく騒いだ。誰もが、さっさと次の利用可能な男に乗り換えた、現金な女と思っている。それのどこがいけないというのだろう。たった一人の男の事を胸に秘めているなんて、だれにも氣づかせる必要はない。そんなことは誰の役にも立たないのだ。
「ねえ。このカボチャの蝋燭、今日だけなの?」
ステラは、かわいい細工に目を輝かせた。共同キャラバンの長いテーブルの上にもそれは置かれていたのだ。
「いや、去年は一週間くらい、置きっぱなしだったよな」
エミーリオが問いかけると、ヨナタンが頷いた。マッダレーナはフォークの柄でカボチャ細工を軽く叩いて言った。
「ダリオって、本当にこういうデコレーションが好きよね。氣にいったなら、そう言ってあげなさいよ。これまであたし達、ほぼスルーしていたから」
「こんなにかわいいのに?」
「まかないの食事なんて、お腹にたまればそれでいいのよ」
スパゲッティーを食べ終えると、マッダレーナはワインをくいっと飲み干して、早々に煙草を吸いに出て行った。エミーリオがそれに続く。ヨナタンも喫煙派だが、特に急いで行く氣はないらしかった。
入団して以来の共同生活に、ステラはようやく慣れてきた。ステラは最年少で新米だったが、持ち前の人なつっこさで、ほどなく溶け込む事が出来た。ピエロのヨナタン、逆立ち男のブルーノ、ライオン使いのマッダレーナ。馬の世話と団長の下僕のような事をするマルコとエミーリオは双子だった。寡黙な綱渡り男ルイージや、おいしい食事を作ってくれるダリオなど、年配の仲間もいた。
ヨナタンの側にいたい、それだけで入団テストを受けたステラだった。でも、チルクス・ノッテでの生活は、寝食を共にする仲間と上手くいかなければやっていけないのだと実感した。マッダレーナやブルーノのように、自分のやっている事に自信があって、相手に有無を言わせない強さがあればまだしも、ブランコ乗りとしてはまだ一人前とはいえないステラは、ここで敵を作りたくなかった。
一番怒らせてはいけないのは、団長とジュリアだった。ジュリアは団長夫人というだけでなく、ステラのブランコ乗りの教師だった。実を言うと、ステラがかなりの倍率の応募者の中から新しいブランコ乗りに選ばれたのは、素人だったからだ。彼女はバレエと体操をずっと続けていたし、体操ではオリンピックの選考大会にも出場するほどの技術を持っていたが、ブランコ乗りをやった事はなかった。したがってジュリアが「こうしなさい」と言えば反論をせずに努力した。
ジュリアは「六歳の時に、チルクス・ノッテのブランコを見て以来ずっとブランコ乗りになりたかった」というステラの応募動機を、自分に憧れての事だとよく理解していた。まさか、ピエロに追ってきてもらいたいからなんて、誰が思うだろう。もちろん、入団以来のステラの態度で、彼女がヨナタンにただの同僚以上の好意を寄せているのはすぐにわかったが、それもジュリアにとっては悪い事ではなかった。ロマーノに色目を使われるより、ずっといい。
明日が移動の日なので、サルツァーナでの興行は今日の昼までだった。だから、チルクス・ノッテの仲間達は、いつもよりずっとのんびりとした夕食を楽しむ事が出来ているのだった。
「ねえ。今夜はハロウィンでしょ。あちこちで飾り付けしているんじゃないかなあ。明日は移動で忙しいし、今夜のうちに街の様子を見に行くのはどうかしら」
ステラはおずおずと提案してみた。ブルーノが馬鹿にした様子で鼻を鳴らす。
「アメリカの習慣だろ。何もやっていないさ」
「そうかなあ。この間、移動の時にちらっとみたけれど、ショーウィンドウには……」
ステラはなおも食い下がった。サルツァーナに来るのははじめてだったし、興行中にあった休みではジュリアがたくさんレッスンをつけたので、他の仲間達のように街の散策などにいく時間がなかったのだ。
がっかりするステラを見てヨナタンは言った。
「腹ごなしに、少し散歩でもするか」
ステラは目を輝かせた。ブルーノは意地悪く言った。
「俺も一緒に来ようか?」
ステラは困ってもじもじした。本当はヨナタンと二人だけで行きたいけれど。ブルーノは笑って「け。正直な顔をしてらぁ」と言って、出て行ってしまった。
「言っておくけれど、この時間だから、どこも閉まっていると思うよ」
「そうよね。でも、街の中をちょっと歩ければ、それでいいの」
石畳の道を歩いて行くと、だんだんと街の灯りが見えてきた。街灯に照らされてパステルカラーでとりどりに彩られたサルツァーナの街が幻想的に浮かび上がった。人々が酒を飲んで騒ぐ声が聞こえてくる。中心街に出たようだ。
「あっ。ほら。ハロウィンの飾り」
菓子屋のショウウィンドウは大きなカボチャのランタンと、箒にまたがる魔女のデコレーションがされてオレンジ色に浮かび上がっていた。駆けて行くステラを見て、ヨナタンは笑った。背伸びをしているが、まだ子供なんだな。
もう九時近いというのに、その菓子屋はまだ店番がいて鍵もかかっていなかった。ヨナタンはステラの後を追って入って行くと、いくつかの菓子を手に取って店員の所に行った。
「これください」
普段甘いものを食べないヨナタンがチョコレートやキャンディを買ったので、ステラは首を傾げた。ヨナタンは小さく笑って、菓子の袋をステラの手にポンと置くと、彼女の前髪をくしゃっと乱して言った。
「ほら、お菓子。だから、いたずらするなよ」
完全に子供扱いされていると思ったけれど、ステラはそれでも顔が弛むのを止められなかった。
「今、食べていい?」
「いいけど、あとで歯を磨けよ」
ステラは大きく頷くと、半透明の紙袋をそおっと開けた。あ、チョコレート・キャラメル。それにミント入りのチョコ。色とりどりの果汁入りキャンディもある。こんなにたくさん、大好きなものばかり。どれから食べよう?
「ヨナタンはいらないの?」
ヨナタンは少し考えてから、袋の中からキャラメルを一つとって食べた。
「甘いな。久しぶりだ、これを食べたの」
そうね。とっても甘い。この街、大好き。ハロウィンも大好き。次に行く街でも、こうやって夜の散歩が出来るといいなあ。
テント場に戻ってくると、煙草を吸っていたマッダレーナが声を掛けた。
「ステラ。今日の後片付け当番、あなただったんでしょ。やっていないって、ジュリアがおかんむりだったわよ」
ステラは飛び上がった。まずいっ。浮かれててすっかり忘れていた。あわてて共同キャラバンに戻ると、ジュリアがマルコと一緒にテーブルクロスを畳んでいた。
「す、すみません! 忘れていました」
ジュリアは息を切らすステラをじろっと睨んだ。
「どこに行っていたの」
「ちょっと、街まで……」
手にはまだお菓子の入った袋を握りしめている。それを見てジュリアは拍子抜けした。何をやっているんだか。
「とにかく、ちゃんと片付けなさい。それから、そのお菓子を置きっぱなしにしない事ね。明日にはなくなっちゃうわよ」
そういって、ミント入りチョコレートを一つとって口に入れた。
ステラは力強く頷いて、カボチャ色のテーブルクロスをどんどんと畳んだ。
(初出:2012年10月 書き下ろし)