樋水龍神縁起 東国放浪記 あらすじと登場人物
【あらすじ】
時は平安時代。陰陽師安達春昌は、その地位を捨てて従者である次郎とともにあてのない放浪の旅をしている。彼らは、半ば物乞い、半ば呪医として、滞在先となる地位の低い人たちの生活を覆う影と向き合うのだった。
【登場人物】
◆安達春昌
本作の主人公。賤しい生まれながらも類い稀な才を認められて若くして陰陽寮で頭角を現した陰陽師であった。だが、傲慢さと思い上がりから、恋に落ちた聖なる媛巫女を盗み出して死なせてしまった。その贖罪のために、全てを捨てて放浪の旅をしている。鬼神の類をはっきりと見る能力に加え、天文学、薬草学の知識が豊富。滞在先では一夜の宿と食事の礼に、病人の治療をすることも多い。「樋水龍神縁起」本編の主人公の前世。
◆次郎
もとは樋水龍王神社の媛巫女つきの郎党だったが、媛巫女を盗み出した逆賊として春昌を討伐するために追っている時に誤って媛巫女を射殺してしまった。瀕死の瑠璃媛の遺言に従い、春昌を守るため従者として旅に付き従っている。生まれながらにして普通の人の目には見えないものをぼんやりと見る能力を授かっている。
◆媛巫女瑠璃
樋水龍王神の御巫であった。その類まれな神通力は都にも知られており、親王の病を癒した礼として神宝「青龍の勾玉」を下賜されたほどであった。安達春昌と恋に落ちて、自らを盗み出した彼の命を救うために身代わりとなって死ぬ。忠実な郎党の次郎に背の君である春昌を守るように遺言した。
◆萱
若狭国小浜にて献上品である濱醤醢を醸造する『室菱』の若き元締め。在りし日の瑠璃媛と面識があり、その縁で春昌と次郎を支える。
◆夏
丹後国の大領渡辺氏と湯女との間にできた娘。美しさを見込まれて屋敷に引き取られる。萱の従妹。
◆三根
『室菱』で働く娘。萱に大恩を感じている。
◆弥栄丸
大領渡辺氏に仕える下人。西の対にて夏姫の世話係をしている。
【特殊な用語】
◆樋水村(ひすいむら)
島根県奥出雲にある架空の村
◆樋水の龍王
樋水龍王神社の主神。樋水川(モデルは斐伊川)の神格化。樋水龍王神社にある龍王の池の深い瀧壺の底にとぐろを巻いているといわれている。また時おり姿を現すのを村の住人にはよく目撃されている。
◆青龍の勾玉
奴奈川比売が大国主命に輿入れをした時に糸魚川より出雲に贈られたと伝えられている神宝のうちの一つ。上代にその貴重さから一度朝廷に献上されたが、瑠璃媛が親王の命救った功で下賜された。今際の際の瑠璃媛に託されて春昌が肌身離さず持ち歩いている。
この作品はフィクションです。実在する地名、団体とは関係ありません。
【参考となる作品群】
樋水龍神縁起・外伝
(官能的表現はありません)
「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
官能的表現が一部含まれるため、成人の方に限られますが……「樋水龍神縁起」四部作(本編)は別館にPDFでご用意しています。

【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 - 秘め蓮
月に一度発表する読み切り短編集「十二ヶ月の野菜」の八月分です。このシリーズは、野菜(食卓に上る植物)をモチーフに、いろいろな人生を切り取る読み切り短編集です。八月のテーマは「蓮根」です。というのは、ちょっとこじつけ。じつは「ユズキさんのイラストにストーリーつけてみよう」企画の方がメインです。今回お借りしたのは、美しい蓮の花。
ユズキさんの記事 「蓮の花絵フリー配布 」
六月に拝見したときから、ぜひ使わせていただきたいと思っていたんですが、蓮は難しいですね。「桜」と「三色すみれ」のときのように氣軽には使えず、悩みに悩んでこの話を創り出しました。この作品は、「樋水龍神縁起」のスピンオフです。平安時代編。男の二人旅の話。行き詰まっていた時に、助け舟を出してくださったのは、ウゾさん。「大和高田市奥田の蓮取り」という素晴らしいヒントをくださいました。本当にありがとうございました。
【関連する断片小説】樋水の媛巫女
【関連する小説】「樋水龍神縁起」 外伝 — 桜の方違え — 競艶「妹背の桜」
【関連する小説】樋水龍神縁起 外伝 — 麒麟珠奇譚 — 競艶「奇跡を売る店」

樋水龍神縁起 東国放浪記
秘め蓮
蓮の葉が広がる池だった。風が細かい水紋を起こした。次郎は故郷を思い出した。遠く離れ、戻るあてもない。深い森の奥に俗世界から守られるようにして記憶の中の池はあった。正面に瀧があり、常に清浄な氣に溢れていた。彼はそこに住む神聖なるものを見ることができた。それは、常にそこにいた。彼が生まれる前から。
神社付きの郎党であった次郎は生まれてからずっと出雲国から出たことがなかった。今、彼が仕えている主人が彼の住んでいた神域にやってくるまで。次郎は馬の手綱を握り直して、馬上の主人を見上げた。主人は何も言わずに目の前の池に目をやっていた。彼もまた思い出しているに違いない。樋水の龍王の池と、その池のほとりに住んでいた御覡を。彼のせいで命を落とした媛巫女を。
「春昌様。あちらに小さい庵がございます。そろそろ今宵の宿を探した方がようございます」
次郎が話しかけると、安達春昌は黙って頷いた。
池のほとりにある庵は村から離れて寂しく建っていた。よそ者を快く泊めてくれるかどうかはわからぬが、そろそろ陽は傾きだしている。次郎は庵の戸を叩いた。
「もうし」
誰かが出てくる氣配はなかった。中から苦しそうな咳が聞こえる。次郎はどうしようかと迷い、馬上の春昌を見上げた。主人が次郎に何かを言おうとしたとき、馬の後ろから声がした。
「何かご用でございますか」
二人が振り向くと、泥だらけの誰かがそこに立っていた。声から推測すれば娘のようだが、そのなりからは容貌もほとんどわからなかった。
「旅の者でございます。一夜の宿をお借りできないかとお願いに参りました」
次郎が丁寧に申し出ると、娘はそっと馬上の春昌を見上げた。
安達春昌の服装は、大して立派とは言えなかった。かつて次郎がはじめて春昌に逢った時は、右大臣の伴をして奥出雲にやってきただけあり、濃紺の立派な狩衣を身につけた堂々たる都人であった。が、道を踏み外し流浪の民となってから数ヶ月、狩衣の色は褪せ、袴もくたびれていた。もっとも、都を遠く離れたこのような村では狩衣を身に着け郎党を従えた男というだけで、十分に尊い貴人であった。そして、娘が驚いたのはまだ年若いと思われるその男の何もかも見透かすような鋭い目つきであった。
娘は慌てて春昌から眼を逸らすと、頭を下げて「ばば様に訊いてまいります」と中に入っていった。娘の抱えている緑色の束から、微かに爽やかな香りがした。
ほんのわずかの刻を立ち尽くしただけで、二人は再び娘が玄関に戻ってくる音を聞いた。娘は狭い土間にうずくまり頭を下げた。
「病に臥せっている者がおり、狭く、おもてなしが十分にできませぬが、それでよろしければどうぞお上がりくださいませ」
「お心遣い、感謝いたします」
春昌が言うと、次郎も深々と頭を下げた。
次郎が馬をつなぎ、荷を下ろしてから家の中に入ると、春昌は案内された小部屋ではなく、隣の媼が伏せている部屋にいた。
「春昌様」
次郎が声を掛けると春昌は振り返った。
「次郎、頼まれてくれぬか」
「なんでございましょう」
「林の出口付近に翁草が生えていた。あれを三株ほど採ってきてほしい。汁でかぶれるので直接手を触れぬようにいたせ」
「はい。しばしお待ちくださいませ」
娘は、目鼻がわかる申しわけ程度に顔と手を洗って媼の横たわる部屋にやってきたが、先ほどまで苦しそうにしていた老女のひどい咳が治まっているのに驚いた。客は媼の手を取り瞳を閉じて何かの念を送っているように見えた。
半時ほどすると、馬の蹄が聞こえて、次郎が戻ってきたのがわかった。郎党は足早に上がってきて、部屋の入口に座り懐から紙に包まれた翁草を取り出して主人に手渡した。春昌は立ち上がって娘に言った。
「これを煎じたい」
「でも、それは……」
娘は困ったように春昌を見つめた。
「わかっている。この草には毒がある。毒を薬にする特別な煎じ方があるのだ」
娘は頭を下げると春昌を竃の側に案内した。娘は春昌が慣れた手つきで翁草をさばき、花や根を切り捨てるのを見た。それから何かをつぶやきながら、今まで見たこともない方法で葉と茎を煎じるのを不思議そうに見た。彼はそれから煎じ液の大半を捨て、水を加えて再び煮立てた。それを何度か繰り返し、見た目には白湯と変わらぬ煎じ薬を茶碗に入れると、再び媼のもとに戻った。
「さあ、これをお飲みなさい。今宵は咳に悩まされずに眠れるでしょう」
媼は黙って薬を飲んだ。娘は再び驚いた。翁草には毒があるので触ったり食べたりしてはいけないと教えたのは他ならぬ老女自身だったから。普段一切よそ者を信用しないのに、今日に限り従順になったのはなぜだろうと訝った。老女は春昌に耳を近づけてようやく聴き取れるほどの声で礼を述べると横になり、次の瞬間にはもう眠りについていた。春昌は何もなかったかのように立ち上がり、自分たちにあてがわれた小さな部屋に戻った。
娘は若い蓮の実とできはじめたばかりの蓮根を洗って調理を始めた。そしてわずかに残っていた粟とともに粥にした。それから二人のもとに運んで言った。
「こんなものしかございませんが、どうぞ」
春昌は手を付けずにその粥をじっと見ていた。
「いかがなさいましたか」
「この蓮は目の前の池のものですか」
「はい」
「春昌様?」
次郎が不思議そうに見た。主人は不安がる郎党を見て少し笑った。
「素晴らしい蓮だ。次郎、心して食しなさい」
それから娘を見て言った。
「明朝、この蓮を穫った場所へご案内いただけますか」
娘は「はい」と答えて粥をかき込んだ。春昌が椀に手を付けたので、次郎もほっとして箸に手を伸ばした。娘は客人を待たずに食べだしたことにようやく氣がつき赤くなった。次郎は貧しく泥まみれの娘を半ば氣の毒そうに、しかし半ば軽んじて見やった。
明け方に次郎は隣の間から聞こえてくるバタバタした音で目を覚ました。身を起こすと、春昌はすでに起きて身支度をし夜が明け白んでくる蓮池を見やっていた。
「もうしわけございません」
慌てて次郎が起き上がると春昌は振り返った。
「よい。あの蓮が効き、よく休めたのであろう」
急いで身支度をしながら次郎は主人に訊いた。
「あの蓮は何か特別なのでしょうか」
陰陽師である主人はわずかに微笑みながら答えた。
「そなたもあの波動は感じたであろう。五色の氣は見えなかったか」
「五色? いいえ。普通の蓮よりも強い氣を発しているのは感じましたが。穫れたて故、あれほど美味なのかと思っておりました」
次郎が袴の紐を絞ると同時に、部屋の外から娘の声がした。
「お目覚めでしょうか」
次郎が破れかかった障子をそっと開けると、昨日の汚れが乾いたままの様相をして、娘は頭を下げた。
「お早うございます。よくお休みになれたでしょうか」
「ああ。礼を申す」
そういって春昌は娘が横に置いた籠に目をやった。
「池にいくのか」
「はい。もし、よろしければどうぞご一緒に」
「ぜひ見せていただこう」
立ち上がった春昌の後を、次郎は慌てて追った。
ようやく昇りかけている朝日を浴びて、蓮池は霧を少しずつ晴らしている所であった。樋水の龍王の池にも劣らぬ清浄な氣を感じて、次郎は身震いをした。昨夕は全く感じなかったのに一体どうしたことであろう。
娘が庵と反対側にある非常に多くの蓮の葉が集中している所に来て、そっと薄鴇色の花を指差した。

このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない使用は固くお断りします。
それは明らかにただの蓮の花ではなかった。二輪の花が並んで咲いている。その花の周りに次郎にもはっきりとわかる強い氣の光輪が広がっていた。赤、青、黄、紫、そして白。よく見るとその二輪の花は一つの茎からわかれ出ていた。次郎は思わず息を飲んだ。春昌は何かを小さくつぶやいていた。
「奥田の香華……」
「春昌様?」
「わが師は賀茂氏であった。大和国葛城に戻られる時にはよくお伴をしたものだ。一度、奥田の捨篠池に私を伴われたことがあった。その時に、かの役行者と縁深き一茎二花の蓮花は、失われたのではなくいずこかに今でもあるはずだとお話しくださったことがあったのだよ」
「役行者の蓮でございますか?」
「かつて尊き五色の霧をともなった神の蓮がかの池を覆っていたというのだ。言い伝えでは役行者の母君が金の蛙に篠萱を投げつけて、その目を一つ射抜いてしまい、それ以来、一茎二花の蓮も普通の蓮になってしまったということになっている。わが師は、珍しくて尊い花ゆえ人びとが競って朝廷へ献じたために、失われてしまったのであろうとおっしゃっていた」
「いま見ているこの蓮が、その尊き花なのですね」
「そうだ。最後の花の種はどこか、都人の口の端に上らぬ所に隠されたとおっしゃっていた。あれはここのことだったのだ。見よ、何と美しいことか」
「朝廷に奏上した方がいいのでしょうか」
次郎がいうと、娘は怯えたように二人を見た。
春昌は首を振った。
「同じ間違いを犯してはならぬ。私は師の期待を裏切り、慢心し、決して失われるべきではない尊い神の宝を死なせてしまった。神がここに咲かせた花は、ここで咲かせるべきだ。そうではないか」
娘は泥池の中に入り、蓮根と、花の終わった青い花托をいくらか収穫してきた。泥に汚れ、またしても男だか女だかわからなくなってしまった娘を、次郎は少し呆れた様子で眺めていた。だが、特別な蓮の花托を抱えているせいなのか、次郎にもわずかに見えている娘の氣は、朝の光の中でやはり五色にうっすらと輝いて見えた。次郎は思わず目をこすった。春昌は口先でわずかに笑った。
庵に戻り、出立の支度をしていると、再び娘がやってきた。
「ばば様が目を覚まし、旦那様にお礼を申し上げたいそうです。お邪魔してもよろしいでしょうか」
「まだ起きるのはつらいであろう。私がそちらへ行こう」
隣の間で布団の上に起き上がっていた媼が、春昌の姿を見てひれ伏した。
「何とお礼をもうしていいやら。息をするのも苦しく、幾晩も眠ることもできませんでしたのに、嘘のように咳も苦しさも治まりました」
「呪禁存思にてそなたの体内に流れていた風を遮った。翁草は滅多にしない荒療治であったが効いたようで何よりだ。そなたたちが同じことをすると危険ゆえ、代わりに大葉子を煎じて一日に三回飲むようにするとよいだろう」
「あなた様は、いったい……」
「道を踏み外し、名を捨てた者だ。だが、心配はいらぬ。わが呪法は京の陰陽寮で用いられているものと同じ。暖かきもてなしと、神の蓮に逢わせていただいた礼だ」
それを聞いて媼はびくっとした。春昌は媼をまっすぐに見据えて続けた。
「尊き蓮を守られるご使命をお持ちですね」
「はい。私は、かの蓮をさるやんごとなきお方よりお預かりし、時が来るまでここで泥の中に隠すように申しつかっております」
「賀茂氏のご縁のお方か」
「はい」
「では、蓮を受け取りにこられる時に、安達春昌より心からの恭敬と陳謝の意を伝えていただきたい」
「承知いたしました。必ず」
媼と娘に別れを告げて、二人は森を通りさらに東に向かった。
「春昌様。お伺いしてもいいでしょうか」
次郎は馬上の主人を見上げた。
「なんだ」
「いずれはあの蓮の花を、陰陽寮の方がお引き取りにお見えになるということなのですか?」
次郎は、媼と春昌の会話の意味が半分も分かっていなかった。
「蓮の花ではない」
「え?」
春昌は次郎を見て笑った。
「そなたも氣がついたと思ったのだが」
「え? 何をでございますか」
春昌は前を向いた。
「あの娘だ。あれは特別な女。おそらく三輪の神にお仕えする斎の媛にするつもりなのであろう。師も苦労の絶えぬことだ。蓮のように泥の中に隠さねばならぬとは」
「泥の中に隠す?」
「あの娘を湯浴みさせ、髪を梳き、それなりの館にて育てたら、その美しさにたちまち噂が広がり、やれ我が妻に、やれ皇子様の后にと大騒ぎになるはずだ。あれは
「ぱどみに? それは何でございますか」
「天竺では女を四つに格付けしているのだ。下から
次郎は目をしばたたかせた。なぜそれを昨夜教えてくれなかったかと、つい言いそうになったが寸での所で留まった。
次郎も、もう一人の至高の女を知っていた。やはり神に捧げられた尊い媛だった。ひと言も口にせずとも、主人が何を想っているかがわかる。春昌にとって生きることと旅をすることは、償いであり神罰でもあった。彼はいくあてもなく彷徨うしかない存在だった。
「ゆくぞ」
木漏れ日の中を馬上にて背筋を伸ばし進んでいく主人の色褪せた狩衣を追い、次郎は再び歩き出した。
(2014年8月書き下ろし)
【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 葩ちる道
scriviamo!の第十一弾です。
TOM-Fさんは、大好評連載中の『花心一会』の最新作で参加してくださいました。ありがとうございます!
TOM-Fさんの書いてくださった小説『花心一会 第十三会 「その、花の香りに包まれて」』
TOM-Fさんは、時代物からローファンタジーまで様々なジャンルの小説を自在に書き分けられる創作ブロガーさんです。素人にもわかりやすく書いてくださいる天文の専門用語、専門家なのではないかと思うほど詳細なマシンの記述や、女の私が恥ずかしくなって逃げだすほどのファッション知識などにもいつも唸らせていただいていますが、何よりも敵わないなと思うのは完璧な女の子の描写でしょうか。あんな風に書いてもらったら、キャラの女の子たちは本望でしょう(ごめんよ、うちの子たち!)
さて、今回書いていただいたお話も、そういう素敵なヒロインのひとり、華道花心流の若き家元である彩花里が活躍するシリーズの最新作。いつもは他の相手の人生を静かに手助けしているヒロインもオブザーバーにならないでいる珍しい回ですが、うん、TOM-Fさんの書くストーリーのうち、「静の美しさ」が色濃く出ている素敵なストーリーでした。
って、のんきに感心している場合でなく、これに何を返せと……。今回のscriviamo! みなさん本当に容赦がないんですが、こちらも難問中の難問でした。
で、こうしました。TOM-Fさんが「梅」と「紀友則の和歌」書かれましたので、私は「桜」と「詠み人しらず」で。同時にTOM-Fさんのお話の中で使われていた花びら餅が「葩餅」と書かれるのに掛けて、さらに人間関係の設定を踏襲させていただきました。
そして、舞台は平安時代。この「安達春昌と桜」という組み合わせは、実は最初のscriviamo!でTOM-Fさんと競作させていただいた作品を意識して書いています。
しかし。同じモチーフでもTOM-Fさんの作品は、あんなにハートフルで暖かいのに、私が書くとオカルトみたいになってしまうのはなぜ?
【参考】
【断片小説】樋水の媛巫女
【掌編小説】樋水龍神縁起 外伝 — 桜の方違え — 競艶「妹背の桜」
【掌編小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 - 秘め蓮
「scriviamo! 2016」について
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
樋水龍神縁起 東国放浪記
——Special thanks to TOM-F san
春は近いとは言えまだ肌寒く、風が通り過ぎる度に、次郎は身を震わせた。振り返り馬上の主人を見やると、風に心を乱された様子もなく前方を見つめていた。
「春昌様、いいがなされましたか」
次郎は、主人の眉がわずかに顰められたのを見て訊いた。
「この時期に花が?」
春昌は、ようやく見えてきた里の方を見ているようだった。もう少し進むと歩いている次郎にも、その里の様子が見えてきた。確かにその里は、白い花が満開に咲いているように見えた。だが、今朝後にした里ではようやく梅がほころびはじめた寒さなのだ。
「山間の谷にありますから、霜の華でございましょうか。それにしては華やかに見えますが」
次郎は、時期外れに花が咲いていようと、実のところ構わなかった。かつて住んでいた出雲の国では、仕えていた御覡である瑠璃媛の類いまれな霊力により、禍々しいものなどは近くに寄ることもできなかったし、故あって現在仕えている安達春昌もかつては右大臣の覚えもめでたかった陰陽師で、旅の間に現れた奇妙な邪神はことごとく跳ね返していた。
侍者としての次郎の心配の種は、もっと他のところにあった。今夜の宿は確保できるのか、食べるものを得ることはできるのか。心細い旅だった。
安達春昌は、慢心から樋水の媛巫女を盗み出して死なせた。その贖罪のために、陰陽頭の後継者とも囁かれた未来を捨てて、東国を彷徨っていた。媛巫女の遺言により、次郎はその春昌に付き添い、一度も出たことのない出雲の国を離れて、寂れた山道を共に歩いているのだった。
里へ降りて近づいてみたところ、二人とも見えていた満開の花が、
だが、その枝の至る所から、満開に咲き誇る桜の氣が満ちあふれ、存在していない白い
次郎には生まれながらにして巷の人びとには見えないものを見る力があった。とはいえ、主ほどはっきりと見る能力がある訳ではない。さらに、その見えているものが何であるかを知るための知識も欠いていた。
「春昌様。これはどういうことなのでございましょう」
「わからぬ。だが、おそらくは……」
馬上の主が答えかけたその時、後からやってきた馬の足踏みと、男の声が聞こえて二人は振り返った。
「なんということだ。黒や、なぜ進まぬ」
立派な狩衣を身に着けたその男を乗せた馬は、桜の並木の異様な様子に怯えてか、どうしてもその道を進もうとはしない。それどころか暴れるので、男は馬から落ちないように必至につかまらなくてはならなかった。
「あ、危のうございます」
次郎が脇にどいている間に、春昌は手印を組み、ほとんど聞こえないほどの小ささで何かを呟いた。貴人の馬は、耳をぴくりと振るわせると暴れるのをやめて、春昌の馬の近くに寄って来た。
春昌は、馬から下りて頭を下げた。頭上の男は、訝しげに二人を見て、それから口を開いた。
「もしや、お助けくださったのでしょうか。ここは何事もない普通の道に思えますが、何か禍々しきものがいるのでしょうか」
春昌は頭を上げて、しっかりと男を見据えると口を開いた。
「禍々しいという訳ではございませぬ。けれども、馬の目にはまっすぐ歩けるようには見えぬのでございましょう。この道をお通りにならねばならぬ訳がおありでしょうか」
男は、しばし口をつぐんだが、やがて頷いた。
「古き約束を果たしに参ったのです。危険があるとお考えですか。見れば、陰陽の心得があるようにお見受けいたす。それに賎しからぬご身分のようですが……」
春昌の色褪せてくたびれた狩衣に、首を傾げた。それから顔を見て何かを考えていたがはっとした。
「あなた様は、たしか陰陽寮にいらした……」
その言葉に、次郎は驚いて春昌の顔を見た。主人は特に慌てた様子でもなければ、懐かしそうな様子も見せなかった。
「ご明察の通り、陰陽寮におりました安達春昌でございます。二年前は兵衛少志でいらっしゃったお方ですね」
「やはりそうであられたか。私は土岐頼義と申し、今は兵衛尉従七位となりました。しばらくお見かけしないと思っておりましたが、いかがなさいましたか」
「二年前にお役目を辞し、このように彷徨の身と相成りました。訳はお尋ねくださいますな」
頼義は仔細が氣になってしかたないようだったが、春昌は口を閉ざすとしきりにもと来た道を振り返る貴人の黒駒に手をやって落ち着かせた。
「春昌殿。あなたもこの馬と同じように、この先に進まぬ方がいいとお考えですか。ここは、父が郡司を務めている村、特に鬼神が出るとの話も聞きませぬし、かつて来た時には何の問題もなかったのですが」
春昌は、じっと頼義の足元を見ていた。次郎ははっとした。桜の並木道から溢れ出てきている幻の
春昌は、頼義に言った。
「然り。この桜の怪異は、あなた様とご縁のあることのようですな。私がお守りしつつ、この道をご同行いたしましょう。もしお差し支えなければ、あなた様のおっしゃったお約束についてお話しいただけませんか」
「それはありがたい。ぜひお願いいたします。仔細は、喜んでお話ししましょう」
頼義が頷くと、春昌は道に向けて手印を組んだ。次郎には道にうずたかく積んでいた幻の
並木道が終わって里に入る時に、次郎は後ろを振り返ったが、道は再び
里の中は、特に変わったこともなく、幾人かの人びとが貴人である一行に軽く挨拶をした。頼義は、二人が今夜の宿を探していると聞き、「では、私がこれから行こうとしている家ヘ行きましょう」と誘った。それは里の一番奥にあり、他の民家からは少し離れていた。
「私がまだ元服したての頃でございます。この辺りに鷹狩りに参りまして、突然の嵐に襲われ里長の家で雨宿りをしたことがあるのです。年頃の娘が食事を運んできてくれたのですが、髪は長く色は白い、賎しい者の娘とはとうてい思えぬ美しさで、私はひと目で氣にいってしまったのですよ。衣を乾かしているうちに夜も更けたので泊る事になり、どうしてもその娘が思い出されてしかたないので呼び、秋の夜長に契りを結び交わしたのです」
春昌は、ちらりと頼義を見た。都ですでに兵衛尉従七位となった前途ある若者が、若き頃に契った里の娘を今さら訪ねるのは少し珍しかった。
「見目麗しいだけではなく、優しき心映えの娘で、それから足繁く通うこととなりました。後のちまでもと誓い、いずれは屋敷に迎えようと思っていたのです。私は嫡子ですし、小さな里長の家に婿に入るという訳にはいきませんからね」
そういうと、頼義は少しだけ言葉を切った。春昌は黙って頷き、先を促した。
「けれど、まだその話がきちんとする前に、私は二十一歳になって、兵衛として京に上ることになったのです。今から六年ほど前のことです。いずれは父の後をついで大領になる身としては、断ることのできない大切なお役目でした。それを娘に告げたところ、一度も何かを願ったことのなかった娘が行かないでくれと泣いたのです。そこで私は、戻ってきたら必ず迎えにくるからと固く約束をしたのです。賎しい身分の娘とのことを反対していた父は、引き離せば忘れると思っていたようですが、京でも、思い出すのはあの娘のことばかり、想いの消えることはありませんでした。そして、私は都で思わぬ出世をしました。おそらく郡司の大領は弟が継ぐことになり、私は宮仕えを続けることになる。ですから、京の屋敷に愛しい娘を迎えようと思ってこうして訪ねてきたという訳です」
目の前に少し大きい館が見えてきた。里長の家とはこれのことであろう。だが、次郎は眉をひそめた。屋根は破れ、草木が茂り、狐狸の住処のように荒れ果てた風情だったからだ。
「はて、どうしたことだろう」
そう言って奥に進もうとする頼義を、春昌は止めた。
「お待ちください」
次郎は主人の視線の先を見た。そこには完全に立ち枯れた桜の老木があった。だが、その枝からは白く透き通った存在しない
その葩の嵐は、一行を目指しものすごい勢いで舞い襲ってきた。春昌が次郎に「馬を!」と叫んだ。次郎は必死に手綱を握り、馬が怖がって逃げだしたり頼義を振り落とそうとするのを防いだ。
春昌は、手印を組むと梵文で何かを呟いた。途端に、花吹雪は勢いを止め、それから緩やかに一行の上に降り注いだ。次郎は、女のすすり泣きが聞こえたように思った。
春昌は一人で人けのない家の中に入っていった。次郎は不安に思いながら、何も見えていないらしい頼義に、彼らの見ている事情を説明しながら待っていた。しばらくすると、狂ったように降っていた花吹雪が止んだ。ほとんど同時に出てきた春昌が二人の元に来た時には、次郎にもあれほどあった白い
春昌は家の中から扇を持ち出してきた。それを渡された頼義が訝りながら広げると、中にはきれいな筆蹟で和歌がしたためてあった。
「しひて行く人をとどめむ桜花……」
その先を声に出して読むことができずに頼義は泣き出した。
一行は里に戻り、一番大きい家で里長の消息を訊いた。新しい里長であるその家の持ち主が語った事によると、五年前に里長一家は遠くへ行き、その行方は彼らにはわからないということだった。
「娘は、若様が京に行かれてから一年もせずにあの家で亡くなりました。産後の肥立ちが悪かったそうでございます」
「産後? 子どもが生まれたのか?」
「はい。珠のような女の子でございました。今どちらにいらっしゃるかは、手前どもはぞんじあげません」
頼義は、思いもよらぬ成り行きにさめざめと泣いた。娘の形見であろう扇は、先ほどの
「あの家の中で、あなた様の想われるお方の残思とお話をいたしました。あなた様が忘れずに戻って来てくれたことを知り、ことのほかお喜びでした。その扇は肌身離さずお持ちくださいませ。忘れ形見の姫君へと導いてくださることでしょう」
頼義は、泣きながら何度も頷いた。
次郎は、ほとんど表情を見せずに語る主が右手を胸元に置いているのを見た。色褪せてくたびれた狩衣の内側に、濃い瑠璃色の勾玉がかかっていることを次郎は知っていた。許されることもなく、希望もなく、彷徨い歩く己の運命を思っているに違いなかった。
頼義は、これから向かう父親の屋敷に逗留するように奨めたが、春昌は断った。頼義は里長に二人の数日の宿と世話を頼んだ。久方ぶりの心づくしのもてなしと、頼義から届けられた新しい狩衣や馬などに心から感謝して、二人は、かつて春昌も夢みた出世の道を進む頼義と反対の東へと旅立った。
かつての里長の家に立っていた、枯れた桜の大木は、それからほどなくして倒れてしまったと言うことだ。
しひて行く人をとどめむ桜花いづれを道とまどふまで散れ
(古今403 詠み人しらず)
意訳:無理をおして出発する人を留めましょう。桜の花よ、どこが道かと迷うほど激しく散っておくれ
(2016年2月書き下ろし)
【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 鬼の栖
「scriviamo! 2017」の第十六弾、最後の作品です。もぐらさんは、オリジナル作品の朗読で参加してくださいました。ありがとうございます!
もぐらさんの朗読してくださった作品『だまされた貧乏神』
もぐらさんは、オリジナル作品、青空文庫に入っている作品、そして創作ブロガーさんたちの作品を朗読して発表する活動をなさっているブロガーさんです。朗読というジャンルは、あちこちにあるようで、自作の詩を朗読なさっていらっしゃるブロガーさんの存在はずっと前より知っていたのですが、小説なども朗読なさるジャンルがあることを、私は去年の今ごろ、もぐらさんによって教えていただきました。
去年は他の方の作品をご朗読くださったのですが、今年はもぐらさんのオリジナル作品でのご参加でした。日本の民話を題材にした作品で、もぐらさんらしい、声の使い分けが素晴らしい、ニヤニヤして、最後はほうっとなる素敵な作品です。
さて、お返しですけれど、どうしようかなと悩みました。もぐらさんの作品に近い、ほっこり民話系の話が書けないかなと弄くり回してみたり、それとももぐらさんがお好きな「バッカスからの招待状」の系統はどうかなと思ったり。
でも、最後は、もともとのもぐらさんのお話をアレンジした、私らしい作品を書こうと決めました。これをやっちゃうと、どうやってもまたもぐらさんに朗読していただけなくなるんですが(長いし、朗読向けではなくなってしまうので)、今回は参加作品が朗読だったから、これでいいことにしようと思います。
それと。実は、このシリーズの話、今年書いてなかったから、どうしても書きたくなっちゃったんです。あ、シリーズへのリンクはつけておきますが、作品中に事情は全部書いてありますので、もぐらさんをはじめ、この作品群をご存じない方もあえて読む必要はありません。自らの慢心が引き起こしたカタストロフィのために都を離れ放浪している平安時代の陰陽師の話で毎回の読み切りになっています。
まったくの蛇足ですが、「貧乏神」は平安時代の言葉で「窮鬼」といいます。そして「福の神」のことはこの作品では「恵比寿神」と言い換えてあります。
【参考】
樋水龍神縁起 東国放浪記
樋水の媛巫女
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樋水龍神縁起 東国放浪記
鬼の栖
——Special thanks to Mogura-san
ぽつりぽつりと雨が漏り、建て付けの悪い戸から隙間風が常に入り込む部屋で、次郎は三回目の朝を迎えた。その家は、里からわずかに離れており、馬がようやく濡れずに済むかどうかの廂があるだけの小屋で、次郎はこの家に宿を取らせてほしいと願うか、それとも更に五里ほど歩いてもう少しまともな家を探した方がいいか悩んだ。
野分(台風)が近づいてきており、一刻も早く主人を屋根の下に案内したかったので、彼はこの里で唯一、見ず知らずの旅人を泊めてもいいと言ったこの家に決めたのだが、その判断を幾度も後悔していた。野分のせいで翌朝すぐに出立することが叶わなかったからだ。
次郎は、出雲國、深い森に守られた神域である樋水龍王神社の膝元で生まれ育った。神社に仕える両親と同じように若くしてその郎党となった。そして、宮司から数えで五つにしかならぬ幼女である瑠璃媛に仕えるように命じられた。
瑠璃媛はただの女童ではなく、千年に一度とも言える恐るべき霊力に長けた
けれども、媛巫女瑠璃は、ある日京都からやってきた若き陰陽師と恋に落ちた。そして、その安達春昌は媛巫女を神社より盗み出して逃走した。神社の命を受けて盗人を討伐し、媛巫女を取り戻さんとした次郎は、春昌を守らんとした媛巫女を矢で射抜くことになってしまった。
そして、媛巫女の最後の命令に従い、贖罪のために放浪する安達春昌に付き従い、帰るあてのない旅をしている。主人はいく先々で一夜の宿を乞い、求めに応じて人びとを苦しめる怪異を鎮めたり、その呪法と知識を用いて薬師を呼べぬ貧しき人びとを癒した。物乞いとさして変わらぬ心細い旅に終わりはなかった。
時には、今回のごとく心沈む滞在をも忍ばなくてはならない。
次郎は訝しく思った。この家は確かに貧しいが、これまで一夜の宿を乞うた家でもっとも悲惨な状態にあるわけではなかった。ほとんど水に近い粥しか食べられなかった家もあれば、火がおこせない家や、ひどい皮膚の病で直視できない者たちのところに滞在したこともあった。だが、この家にいた三日ほど一刻も早く出立したいと思ったことはなかった。
この家には年老いて痩せ細った父親と、年頃のぎすぎすとした娘が二人で住んでいた。父親は、近くの庄屋の家の下男として朝から晩まで懸命に働いていたが、生活は苦しく疲れて悲しげであった。
娘は、口をへの字にむすび、眉間に皺を寄せて、その庄屋がいかに強欲で情けがない者であるかと罵り、貧しいためにろくなものも食べられないとことあるごとに不満を口にしていた。
「私だって、もっといい食事をお出ししたいんですよ。でも、そんなことどうやってもできません。魚を穫りに行きたくても、こんなひどい野分では到底無理です。それに、ずっとまともなものも食べていないから、こんなに痩せて力もありません。こんな姿では婿に来てくださる方だってありはしません。世には大きいお屋敷に住み、美味しいものを食べて、綺麗に着飾る姫君もいるというのに、本当に不公平だわ」
そういいながら、すばやく春昌と次郎の持ち物を見回し、この滞在のあとに何を置いていってもらえるか値踏みした。ろくなものを持っていないとわかると、たちまちぞんざいな態度になったが、春昌に陰陽の心得があるとわかると再び猫なで声を出し、また少し丁寧な態度になって下がった。
そんな娘の態度に次郎は落ち着かなかったが、春昌は特に何も言わずに野分が去るのを待っていた。
三日目の朝に、ようやく嵐は過ぎ去り、外は再び紺碧の空の広がる美しい秋の景色が広がった。空氣はひんやりとし、野分の残した水滴が、樹々に反射してきらきらと輝いていた。いつの間にか、あちこちの葉が黄色くなりかけている。何と美しい朝であることか。くすんで暗く落ち着かないこの家にやっと暇を乞えると思うと、次郎の心も晴れ晴れとした。
馬の世話を済ませ、男に暇乞いを願い出ると、旦那様に願いたいことがあると言った。それで次郎は主人にそれを取り次いだ。滞在した部屋で支度を済ませていた春昌のもとにやってきた男はひれ伏して、娘から聞いたことがあり、お力を添えていただけないかと恐る恐る頼んだ。
「飢え死にしそうな貧しさなのに、三日間もお泊めしたんですから、私どものために一肌脱いでいただきたいわ」
おそらく娘はそう言ったのであろう。次郎はその様相を想像しながら控えていた。
「旦那様は陰陽師であられると伺いました。私どものような貧しいものが、都の陰陽師の方とお近づきになっていただくことは本来ならありえませぬし、このように貧しいのでお支払いも出来ませぬが、どうやったら私どもがこの貧しさから抜け出して幸せになれるのか、わずかでもお知恵を拝借できませぬでしょうか」
「そなたの娘は、この貧しさを何のせいだと思っているのか?」
春昌は静かに訊いた。
「はい。娘は、この家には、富の袋に穴を空け、どれほど働いても人を幸せにしないようにする鬼が棲んでいると申すのです。私は誰かそのような者が部屋にいたのを見たことはございませぬが、娘は、鬼とはあたり前の人間のように目に見えるのではなく、陰陽師のような特別な人にしか見えないのだと申します。ですから、私は是非お伺いしてみたかったのでございます」
春昌は、ため息をつくと言った。
「それは、窮鬼と呼ばれる存在のことです。古文書には、すだれ眉毛に金壷眼を持った痩せて青ざめた姿で、破れた渋団扇を手にしている老いた男の姿で現れたとあります」
「さようでございますか。娘が申すようにそのような鬼が私どもの暮らしに穴をあけるのでございましょうか」
男の問いに、春昌はすぐに答えなかった。次郎は主人の瞳に、わずかの間、憐れみとも悲しみともつかぬ色が浮かぶのを見た。彼はだが再び口を開いた。
「ここに、窮鬼がいるのはまことです。窮鬼を完全に駆逐するのは容易いことではありません。私がお手伝いすれば家から出すことは出来ますが、二度と戻らぬようにすることはことはできませぬ」
次郎は驚いた。傲慢と慢心を罰せられてこのような心もとない旅に出る宿命を背負ったとしても、春昌の陰陽師としての力が並ならぬことは、疑う余地もなかった。初めて樋水龍王神社にやってきた時は、右大臣に伴われ「いずれは陰陽頭になるかもしれぬお人だ」と聞かされていたし、神に選ばれた希有な力を持つ媛巫女も彼の才識に感服していた。それだけでなく、この旅の間に遭遇したあまたの怪異を、次郎の目の前で春昌は常にいとも容易く鎮めてきた。それなのにこの度のこの歯切れの悪さはいったいどうしたことであろうか。
瑠璃媛や春昌のように、邪鬼を祓ったり穢れを清めたりすることはできなかったが、次郎もまたこの世ならぬものをぼんやりと見る事の出来る力を授かって生まれてきた。この家は風が吹きすさび、いかにも貧しく心沈むが、禍々しき物の怪が潜んでいる時のあの底知れぬ恐ろしさを感じることはなかった。類いまれなき陰陽師である主人が、どうしてそのような弱き鬼を退治することが出来ぬのであろうか。
「わずかでもお力をお借りすることが出来ましたら、私めは幸せなのです。娘も旦那様の呪術をその眼で見れば、これこれのことをしていただいたと、納得すると思います」
男はひれ伏した。
次郎にもこの男の事情が飲み込めた。このまま二人を何もせずにこの家から出せば、あの娘は不甲斐ない父親をいつまでも責め立てるに違いない。
春昌は「やってみましょう」と言い、娘の待つ竃のところへ行き、味噌があれば用意するように言った。
「味噌でございますか? ありますけれど、大切にしているのでございますが。でも、どうしても必要と言うのでしたら……」
娘は眉間の皺を更に深くして味噌の壷を渋々取り出した。それは大きな壺だった。貧しくて何もないからと味もついていない粥を出したくせに、こんなに味噌を隠していたのかと次郎は呆れた。
春昌はわずかに味噌を紙にとり包むと、父親と娘についてくるように言った。そして、竃のある土間、父親と娘が寝ていた部屋、春昌たちが滞在した部屋を順に回ると、何かを梵語で呟きながら不思議な手つきで味噌を挟んだ紙を動かしつつ、天井、壁、床の近くを動かした。それから、その味噌を挟んだ紙を持ったまま、次郎に竃から松明に火をともして持つように命じ、全員で家の外に出て、近くの川まで歩いていった。
野分が去った後のひんやりとした風がここちよく、あちこちの樹々に残った水滴が艶やかに煌めいていた。狂ったように打ちつけた雨風で家や馬が吹き飛ぶのではないかと一晩中惧れた後に、この世が持ちこたえていて、いま何事もなく外を歩けることに次郎の心は躍ったが、足元が悪くなっていることに不服をいう娘の横で、その喜びは半減した。
歩きながら春昌は、父と娘にこんな話をした。
「聞くところによると、かつて摂津のとある峠で老夫婦が茶屋を営んでおりました。が、どれほど懸命に働いても店は繁盛しませんでした。調べてみると窮鬼がいることわかったそうです」
「ほらご覧なさい。やはり窮鬼がいると、貧乏になるんだわ。追い出したらきっと幸せになってお金もたまるようになるわよ」
娘は勝ち誇ったように言った。
「その夫婦は、窮鬼に聞こえるようにわざと『店が流行らないので時間があって心が豊かになりますね』と言って笑い合ったそうです。それを聞いて、心を豊かにされてたまるかと、窮鬼は店にたくさんの客を送り込みました。二人はこれ幸いと懸命に働き、ますます楽しそうにしていたため、窮鬼は更に勘違いして、もっと店を忙しくしました。そのために窮鬼はいつの間にか恵比寿神となってしまい、その店を豊かにし、幸せになった夫婦は、恵比寿神を大切に祀ったそうです」
男は驚いて言った。
「窮鬼が恵比寿神に変わることもあるのですか。それに、窮鬼が家にいるままでも裕福になれるのですか」
春昌は、川のほとりに立つと次郎から松明を受け取り、先ほどの味噌の挟まった紙に火をつけた。味噌の焦げる香ばしい匂いが立ちこめた。彼はそれを川に流してから三人を振り返り言った。
「窮鬼は古来、焼き味噌を好むと言われています。ですから、このように味噌の香りと呪禁にて連れ出し送り火とともに川に流すのです。けれど、連れ出すことの出来るものは、また入ってくることも出来ます。おそらく焼き味噌の匂いに釣られて、近いうちに」
あれほど大きな壺に味噌を仕込むこの娘の普段の台所は窮鬼がさぞや好むに違いないと次郎は考えた。
「窮鬼を追い出すのではなく、ともに生きることも容易いことではありませんが、天に感謝し、他人を責めずに、常に朗らかでいることで、件の茶屋のように恵比寿神に変わっていただくこともできるでしょう」
深く思うことがある様相の父親は、それを聞くと何度もお辞儀をして礼を言い、出立する二人を見送った。娘の方は、少し納得のいかない顔をしていたが、何も言わなかった。
里が遠ざかり、見えなくなると、次郎は馬上の主人に話しかけた。
「春昌様、お伺いしてもいいでしょうか」
「なんだ、次郎」
春昌は、次郎が質問してくるのをわかっていたという顔つきで答えた。
「なぜあの大きな壺ごと味噌を家から出さなかったのでございますか? あれでは窮鬼を呼んでいるようなものではありませぬか」
それを聞くと春昌は笑った。
「味噌が家にあろうとなかろうと、大した違いはない」
「え?」
合点のいかない次郎に春昌は問うた。
「そなた、あの家の窮鬼を見なかったのか?」
「すだれ眉毛に金壷眼の鬼でございますか。ただの一度も……私めには物の怪の姿はいつもぼんやりとしか見えませぬので不思議はありませんが」
「次郎。それは古書に載っている窮鬼の姿だ。窮鬼はそのような成りではないし、そもそも家に棲むものでもない」
「では、どこに?」
春昌は、指で胸を指した。
「ここだ。あの手の鬼は人の心に棲む。そして、あの家では、あの娘の中に棲んでいるのだ。父親がどれほど懸命に働こうとも、つねに不平を言い、庄屋や他の人を責め、何かをする時には見返りを求め、持てるものに決して満足しない。あのような性根の者と共にいると、疲れ苦しくなり、生きる喜びは消え失せ、貧しさから抜け出せなくなる」
次郎は「あ」と言って主人の顔を見た。春昌は頷いた。
「味噌を川に流すことは容易く出来よう。だが、父親が我が子を切って捨てることは出来ぬ。だから、窮鬼を退治するのは容易ではないと申したのだ。あの娘が、少しでも変わってくれればあの善良な男も少しは楽になるであろう。だが……」
彼は、少し間を置いた。次郎は不安になって、主人の顔を見上げた。春昌は、野分で多くの葉が落ちてしまった秋の山道を進みながら、紺碧の空を見つめていた。彼の瞳は、その空ではなくどこか遠くを眺めていた。
「人の心に棲む鬼は、容易く追い出すことは出来ぬ。たとえ、わかっていても、切り落としてしまいたくとも、墓場まで抱えていかねばならぬこともあるのだ」
次郎は、主人の憂いがあの娘ではなく、彼自身に向いているのだと思った。野分の過ぎた秋の美しい日にも、彼の心は晴れ渡ることを許されなかった。
(2017年3月書き下ろし)
【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 母の櫛
今週は「十二ヶ月のアクセサリー」七月分を発表します。七月のテーマは「櫛」です。
櫛はジャパニーズなものを書きたいと思っていたので、また例の放浪者に登場してもらうことにしました。「樋水龍神縁起 東国放浪記」の続きです。江戸時代の話にすれば完璧にアクセサリーになったんですが、平安時代ですからまたしても「これ、アクセサリーじゃないじゃん」になってしまいました。ま、いいや。「十二ヶ月の野菜」の時もかなり苦しい題材を使いまくりましたから、いまさら……。
今回の話、実は義理の妹姫も出そうと練っていたんですが、意味もなく長くなるので断念しました。本当は五千字で収めたかったのですが、止むを得ず少し長めです。すみません。


樋水龍神縁起 東国放浪記
母の櫛
それは、屋敷の庭では滅多に見ない大木であった。大人が抱えるほどの幹周りがあり、奥出雲の山深き神域で育った次郎ですらも見たことがないほど背の高い柘植は、おそらく樹齢何百年にもなろうかと思われた。屋敷を建てる遥か昔からここに立っていたのであろう。根元から複数の枝が絡み合うように育ち、一部は苔むしている。
安達春昌と付き従う次郎は、丹後国を通り過ぎようとしていたところだった。一夜の宿を願ったのは村の外れの小さな家で、人好きのする若き主は弥栄丸といった。
「すると、あなた様は陰陽師でいらっしゃるんで?」
彼は昨夜、春昌に陰陽の心得があることに大きな関心を示した。
「かつては陰陽寮におりましたが、現在はお役目を辞し、この通りあてもなく旅をする身でございます」
春昌は、この旅で幾度となく繰り返した答えを口にした。弥栄丸は春昌が役目を辞した事情よりも氣にかかっていることがあったので、詳しい詮索をしなかった。
「実は、私めがお仕えしているお屋敷で、なんとも不思議なことが起きまして、困っているのでございます。先日、この辺りでは名の通った法師さまに見ていただいたのですが、どうも怪異は収まらず、殿様は、もっと神通力のあるお方に見ていただきたいと思っていらっしゃるのです。と申しましても、このような田舎ではなかなかそのような折もございませんで。ですから、都の陰陽師の方がここにおいでになったとわかったら、殿様は何をおいてでもお越しいただきたいと願うはずです」
「あなたがお仕えしていらっしゃるのは」
「はい。この郡の大領を務める渡辺様でございます。私めは従人として、お屋敷の中で姫君がお住いの西の対のお世話を申しつかっているのです。その寝殿の庭の柘植の古木に人型のようなものが浮かび上がってまいりまして、女房どもがひどく怖がっております。そして、お元氣だった姫君が病に臥すようになられたのです。もしや何者かが調伏でもしているのではと、お殿様は心配なされていらっしゃいます」
「姫君? お一人別棟にお住まいなのですか」
「はい。実は、この姫様は、北の方のお生みになった方ではなく、殿様のもとで湯女をしていた方がお生みになったのです。殿様は、北の方に隠れて長いことこの女を大切にしていたのですが、何年か前に流行り病で亡くなってしまわれました。姫君はそれから観音寺に預けられておりました。ところが、位の低い女の娘とは思えぬほど美しくお育ちになり、殿様がこの娘をこちらを狩場となさっておられる丹後守藤原様のご子息に差し上げたいとお思いになり、一年ほど前にお引取りになったのです」
「姫君のお身体に差し障りが起きたのは、それ以来なのですか」
「いいえ。床に臥すようになられたのは、ここ半年ほどです。殿様も北の方もご心配になられてお見舞いにいらしたり、心づくしのものをお届けになったり、なさっていらっしゃるのですが」
「そうですか」
春昌は頷いた。
「姫様をお助けいただければ、私めもありがたく思います。ほんにお優しい姫君でして。私のことも心安く弥栄丸と呼んで頼みにしてくださっているのです」
そして、二人は翌日の昼過ぎにこの弥栄丸に連れられて、渡辺のお屋敷へと向かったのだった。
「お殿様から、ぜひお力添えをいただきたいとのことでございます。御礼はできる限りのことをさせていただきたいと仰せでした」
「何かお手伝いができるかわかりませぬが、まずはその柘植の木を拝見させていただきましょう」
弥栄丸は春昌と次郎を屋敷へと案内した。西門から入ると件の大木はすぐに目に付いた。その根が庭の半分以上を占めていて、しかもよく見る柘植の木のように行儀良く育たず、太い幹が伏してから斜めに育っていた。大きく枝を広げておりそのためにその木の下は森の始まりのような暗さだった。西の対の寝殿に面した側面に、言われてみると確かに人型に見える文様が浮き出ていた。
「弥栄丸。都の陰陽師さまとは、そちらのお方か」
寝殿の縁側からの明るい声に振り向くと、菜種色の表地に萌黄の裏が美しい菖蒲襲を身につけた女性が御簾から出てきたところだった。
「これ。姫様! なりませぬ」
慌てて、侍女と思われる歳上の女が追いすがるが、姫君は草履を履くとさっさと春昌のところまで進んできた。さほど位の高くない大領の娘とはいえ、とんでもない行為だ。次郎はあっけにとられた。
「安達春昌にございます」
春昌は深く礼をし、次郎もそれにならった。こんなはしたない姫君に国司のご子息を婿に迎えようというのは、無謀にもほどがあると次郎は心の内で思ったが、確かになかなかに美しい姫君で、しとやかに振る舞えば評判にもなろうと思った。
「あたくしは夏といいます。安達様。これは誠に禍々しいものですの? あたくしには、ちっとも恐いものには思えませんの。それにあたくしの病、いつもひどいわけではないのよ。例えば、今日はとてもいいの。あたくしなんかを呪詛しても、誰も得をしませんし、とてもそんな風には思えないのだけれど」
夏姫は人懐こい笑顔を見せた。次郎は、確かにこのように朗らかで、誰にも分け隔てなく接する姫は、皆に好かれるであろうと思った。
「今から、調べてみようと存じます」
春昌も、珍しく柔らかい表情をして姫君に答えた。
姫はにこにこと笑った。
「あたくしも見ていていいでしょう。ああ、今日はとても暑いわね。
それを聞いて次郎は真っ赤になった。生絹は袴の上に肌が透けて見える着物だけを身につける装束だ。彼がかつてお仕えしていた奥出雲樋水の媛巫女はもちろんそのようなだらしない姿をすることは決してなかったが、やんごとない女性は御簾のうちでそのような形をしていると、郎党仲間に教えてもらったことがあった。
「でも、これくらいはいいわよね」
そういうと、姫は懐から美しく彩色された櫛を取り出して長い髪をまとめ出した。そして、櫛を口に咥えるとまとめた髪をあっという間に紐で縛った。
「姫様!」
サトと呼ばれた侍女が姫君らしくない振る舞いをたしなめるが、夏姫は肩をすくめただけだった。
その様を横目で捉えた春昌は、柘植の木を見るのをやめて、寝殿の縁側に控えているサトに訊いた。
「姫君の御患いはいかなるものなのですか」
サトは、突然話しかけられて少し驚いたが、丁寧に答えた。
「
「左様でございますか。姫、大変失礼ですが、そちらを拝見してもよろしいでしょうか」
姫は、何を言われたのか一瞬分からなかったようだったが、春昌が自分の櫛を見ているのがわかると笑った。
「これですか? きれいでしょう。 このお屋敷に来て、北の対の母上様と初お目見えした時に頂戴したあたくしの宝物なのです。悪しきものから身を守る尊い香木で作った珍しい櫛なのですって。確かに観音寺で焚いていたお香と同じ香りですわ。とても高価だとわかっているのですが、毎日使ってしまうのです」
姫はその櫛を愛おしげに撫でてから春昌に渡した。彼は、その美しき櫛の背の部分の色が褪せているのを見た。
「恐れながら、あなた様はいつも先ほどのように髪をお結いになっておられるのではないですか」
「ええ、そうよ。わかっているわ。やんごとない姫君は自分で髪を結ったりしないって。でも、とても暑いのですもの。どなたもお見えにならない時には、つい昔のように装ってしまうの。たくさんの美しい装束をご用意くださった父上さまや母上さまに申し訳ないとは思っているのよ。でも、どうしてわかるの」
春昌はやさしく微笑んだ。片時もじっとしていられそうもない、この愛すべき姫君を、はしたないと思いつつも周りが甘やかしてしまう様子が手に取るようにわかった。弥栄丸は傍で笑いをこらえている。
「髪を結うのは侍女の方にお任せいただけないのですね」
「それは無理よ。そんなことをしているのがわかったら、サトが叱られてしまうもの。私がいつの間にか勝手にこんな形をしているってことにしなくちゃいけないの」
「左様でございますか」
「安達様?」
弥栄丸は、春昌が姫と禍々しきものとは全く関係のない話をいつまでもしているように思われたので、不思議に思って口を挟んだ。春昌は、微笑んで櫛を姫君に返すと、弥栄丸と姫君に庭の柘植の木を示した。
「こちらに現れていますのは、姫君の御生母様の御魂でございます。お屋敷に上がられ、これまでとは全く違うお暮らしをなさっている姫様のことを心配なされているのでしょう。私に、姫様に形見の御品を身近にお使いいただきたいと訴えかけておられます。たとえば、お母様のお形見に柘植の櫛はございませんでしたか」
姫は「あ」と言って、奥で控えている下女のサトを見た。
「この櫛をいただくまで使っていた、母上の櫛はどこにあったかしら」
「こちらの小箱にございます。ほら、このように」
サトは、道具箱から飾りの全くない柘植の櫛を取り出すと、一行のもとに持ってきた。春昌はそれを受け取ると、柘植の古木に近寄り、件の人型にあてて小さな声で呪禁を呟いてから、それを姫君に渡した。
「こちらの櫛を肌身離さずお使いくだいませ。そして、その美しき櫛は、特別の祭祀の折にサト殿に梳いていただくときだけお使いくださいませ。亡くなられたお母様の願いが叶い、その憂いが収まれば、姫様の病も治ることでしょう」
それから、春昌は柘植の古木に近寄り、人型に両手を当てて呪禁を呟いた。次郎には、主人が木に何らかの氣を送り込んでいるのがわかった。春昌がその手を離すと、明らかに人型のようなものがあった木の幹には、よく見なければわからないような瘤があるだけになっていた。
「なんと! 法師様がどうすることもできなかった、あの人型が……」
「母上様のお心は、この屋敷を動けぬこの木を離れ、新たにそちらの櫛の方に宿っておられます。どうか、私の申し上げたことをお忘れになりませぬよう」
夏姫は深く頷き、弥栄丸とサトは春昌の神通力に感銘を受けてひれ伏した。
夏姫の父である渡辺の殿様から、新しく拝領した馬は痩せていたこれまでの痩せ馬よりもしっかりと歩んだ。いただいた礼金の重みは久しくなかったほどで、次郎を憂いから解き放った。しばらくの間は宿を取るにも物乞いのような惨めな思いをせずに済む。
その領地を出てしばらく森を歩き、ひどく歪んだ古木を見て、次郎はあの古い柘植の木のことを思い出した。
「春昌様。お伺いしてもよろしいでしょうか」
「なんだ、次郎」
「どうして柘植の櫛のことがおわかりになったのですか。あの老木に、私は何も見えなかったのでございますが」
春昌は口元をわずかに歪めた。
「次郎。あれはただの木瘤だ。幹に流れる氣の流れを変えて、乾いた樹皮を落としたのだ。あそこに母君の御魂が現れたり消えたりしたわけではない」
「なんと。では、母君の御魂が柘植の櫛を使うようにとおっしゃられたというのは……」
「あれが柘植の木だったので、思いついたまでのこと。弥栄丸殿の話では、御生母は湯女だったとのこと。あまり位の高くない女ならば高価な香木などではなく柘植の櫛を使うのが常であろう。その読みがあたったまでだ。私はあの姫があの香木の櫛以外の物を使ってくれればなんでもよかったのだ」
「なぜでございますか?」
「あの姫君が件の櫛を日々咥えているのを知ったからだ」
「え」
まったく合点がいっていない次郎を、春昌は優しく見下ろした。次郎は、他の者には見えぬものを朧げに見る能力はあったが、陰陽道はもちろん本草の知識にも欠けており、春昌がどちらの知識を用いて人々の苦しみを取り除いているのか分からないことを知っていたからだ。
「あの櫛は、
「なんですって。では、まさか北の方が、継子である姫君を亡き者にしようとしてあの櫛を贈ったということなのですか」
「それはわからぬ。北の方が、草木の知識に長けているとは思わぬ。そもそも姫君が口に櫛を咥えるとは、北の方のように位の高いお方は夢にも思わぬであろう。それを知っていた誰かの入れ知恵かもしれぬが、長く逗留せねばそれはわからぬ。余計なことを申せば、あの家に大きな諍いの種を蒔くことになる。私にわかっているのは、ひとつだ。樒の櫛を口に咥えるようなことは、すべきでない。あの姫が再び丈夫になれば、それでよいのだ。身寄りのなかった娘が、ようやく手にしたと喜んでいる家族との仲を不用意に裂く必要はあるまい」
次郎は、主人の顔を改めて見上げた。聡く天賦の才に恵まれた方だと畏怖の心は持っていたが、どちらかというと冷たい心を持つ人なのだと思っていた。彼が神にも等しくあがめ敬愛してやまなかった亡き媛巫女が、なぜこの陰陽師を愛し背の君として付き従ったか長いこと理解できないでいた。
媛巫女さまは、私めなどよりもずっと多くのことを瞬く間にご覧になったのだ。彼は心の中で呟いた。
もっと効果的に毒の櫛のことを大領に話せば、ずっと多くの謝礼を手にすることもできたのに、春昌はそれを望まなかった。それよりも、一つの家族の和を壊さずに、問題のみを解決して姿を消すことを選んだ。
彼は、この旅がどれほど辛く心細くとも、この主人に付き従っていくことを誇らしく思った。
(初出:2017年8月 書き下ろし)
【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 望粥の鍋
「scriviamo! 2018」の第六弾です。もぐらさんは、オリジナル作品の朗読で参加してくださいました。ありがとうございます!
もぐらさんの朗読してくださった作品『割れた土鍋』
もぐらさんは、オリジナル作品、青空文庫に入っている作品、そして創作ブロガーさんたちの作品を朗読して発表する活動をなさっているブロガーさんです。お一人、もしくはお二人で作品を朗読なさるのですが、会話文や地の文を見事に読み分けていらっしゃるのには、いつも感心しています。
今年もオリジナルの「貧乏神」シリーズでご参加くださいました。日本の民話をアレンジなさった素敵な作品です。聴き終わるとほっこりするとてもいいお話です。
で、お返しですけれど、去年と同じく「樋水龍神縁起 東国放浪記」の話で行くことにしました。他のものにしても良かったのですが、せっかくの土鍋と小豆粥の話を使いたくて。ただし、貧乏神の話を続けるのは無理があったので、今回は窮鬼(貧乏神)の話題は出して居ません。そのかわりに、前回の窮鬼の件を受けて、春昌が少し特別な神様のことについて語るシーンを挟みました。で、ちょっと暗いです。すみません。
それに、こんどこそ短くしようと思ったんですけれど……。千字くらいは減っていますが、もぐらさん、本当にごめんなさい!
【参考】

樋水の媛巫女
「scriviamo! 2018」について
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
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樋水龍神縁起 東国放浪記 望粥の鍋
——Special thanks to Mogura-san
歳が明けた。
この旅には行く末がなかった。主人は出雲国と
谷は雪が深く出立がかなわぬので、数日逗留している百姓の家に今宵も引き続き泊めてもらう他はないようだった。今日は十五日「
「春昌様」
「どうした、次郎」
「村の衆が困っているようでございます。望粥を炊くのに使っている大きな土鍋が水漏れするとか、このまま炊いたら割れてしまうのではないかと……小正月に鍋が割れるようなことがあってはならないと」
春昌は、次郎と共に井戸の側へ行った。村の衆がガヤガヤと騒いでいたが、百姓の家に都の陰陽師が逗留していることは伝わっていたので、だれもが敬意を表して道を開けた。
彼は村長の息子に言った。
「こちらに見せてごらんなさい」
男は素直にその非常に大きな土鍋を持って来た。見れば底にわずかにひびが入っているが、さほど大きくはなかった。
春昌は薄紙に不思議な文様の霊符を一筆で書き鍋底に置くと、小さな声で
「これでよい。次にここではなく誰ぞかの家の竃で、少しずつでよいので二度ほど米を炊きなさい。火にかける前に外側の底が濡れていないかだけをよく確かめるように」
二人が逗留している家の娘が言われたままに二回ほど米を炊くと、誠に鍋の水漏れはしなくなった。次郎はたいそう驚いた。
そうしている間に、夕刻が迫って大鍋は再び祠のところへ運ばれ、村の若衆たちが大量の粥を炊き出した。
この村には僧もいなければ修験者もいない。例年は祠に粥を供えて新年の祈念を行う村長が、今年は安達様にしていただきたいと伏して願ったので、
こうして清められ神に供えられた後に、望粥は村人たちに配られた。赤く色づいた小豆粥を春昌と次郎も受け取った。
次郎は、小豆と米だけであることに驚いた。正月の望の日には小豆だけではなく粟、黍、胡麻など七種の穀物を入れて炊くものだと思っていたから。彼が郎等として仕えていたのは奥出雲の由緒ある神社であったので、仕える者たちも当然のごとく延喜式に則った望粥を口にしていたのだ。七種の入っていない望粥は食べたことがなかったので、彼は少し不安になった。
「小豆と米だけでよろしいのでしょうか」
次郎が小声で訊くと、春昌はやはり小声で答えた。
「この村人たちを見るがよい。おそらく何十年も小豆と米だけで無病息災を祈ってきたのだ。それでも神はその願いを叶えているではないか。大切なのは祈る心だ。形式ではない」
次郎は、その言葉に安堵して、粥を口にした。彼は樋水龍王神社で彼が日々食していたものが贅沢だと思ったことはなかった。だが、春昌との旅で、多くの民の生活を目の当たりにし、それまでの生活が恵まれていたのだと知った。延喜式に則った生活など、多くの民はできない。それでも、民は風雪や飢饉や疫病に耐え、安寧と福を願い、生き続けている。それは多くの人々に踏まれつつも道に育つ野の花のような強さだった。
やがて、村の若い男衆たちの一人が、土鍋のところに置いてあった粥かき棒を手に取った。そして、固まって粥を食べつつ話している娘たちのうちの一人の後に回り、パンと粥かき棒で腰を打った。
「きゃあ!」
娘は飛び上がり、それを見て若いものたちは笑った。それから、粥かき棒は他の若い衆の手に渡り、また別の娘の腰が狙われた。娘たちは痛いので打たれないように、後ろを氣にしているが、その隙をついて娘の腰を打つことに若い衆たちは夢中になっていた。
「あれは何をしているのでございますか」
次郎が百姓に問うと、老いた男は楽しそうに答えた。
「望粥を炊いた粥かき棒で、娘の後を打つとよい子が生まれるのですよ」
次郎はそのような話は今迄聞いたこともなかった。地方によっておのおの信じられていることは違うものだ。なるほどと見ていると、その内に娘の腰だけではなく若い衆同士でも打ち合っている。正月の終わりの楽しい遊びでもあるのだろう。
その夜、次郎は春昌に祠で行った神事について訊いた。春昌が旅の途上で民に請われて行う神事や祓いは、樋水龍王神社の
「今日のは、媛の行ったものと変わりなかったであろう」
「さようでございますね。大祓詞を久しぶりに耳にいたしました」
それから、少し言葉を切った。訊いていいのか戸惑った。
「春昌様」
「なんだ、次郎」
「大祓詞のあとに宣われたのは、なんでございますか」
春昌は、次郎を頼もしそうに眺めた。
「氣がついたのか。さすが媛巫女に長らくお仕えしていた郎等だな」
「ありがとう存じます」
「媛巫女が宣われたのを聞いたことはないか」
「一度だけございます。重く患われた皇子様をお癒しになられた時に」
春昌は頷いた。
「あれは
「そのような特別な秘儀を、このような村で」
次郎は腰を抜かさんばかりに驚いた。
「彼らには普通の祝詞との違いはわかるまい。そなたもそうであろうが、一度や二度耳にしただけでは憶えられぬのだ」
「さほどにこの村には穢れがあったのでこざいますか」
春昌は僅かの間、答えずに瞼を閉じた。
「禊を必要としているのは、この地や村人ではない」
次郎は、はっとした。
春昌は瞼を開けた。その瞳は優しい光を宿していた。
「次郎。
「黄泉から戻られた伊邪那岐尊が禊を行って穢れを祓ったときに、その穢れから生まれた神様だと伺いました。また、この神がもたらす禍を直すために生まれたのが
春昌は頷いた。
「それでは、なぜそのように災いをもたらす存在が神として崇められているのか」
次郎は首を傾げた。そのような疑問を持ったことがなかった。
「禍津日神そのものが悪や穢れをもたらすではない。我々が日々の暮らしの中で、災いや穢れに接すると、怒り、憎しみ、それに対して荒ぶる心が起きる。この心の動きこそ禍津日神の分霊によるものなのだ。そして、心の安寧のために、荒ぶった心を鎮めるのに直毘神の助けが必要なのだ。禊や祓いは、その直毘神の役割を助ける。民は直毘神を必要としつづけているから、祓えや禊が必要になる。媛のように穢れなく、鎮め清める力をお持ちのお方も」
「春昌様」
「己の
次郎は、遠くを眺める主人の横顔をじっと見つめた。自分は、稀代の御巫にお仕えしていたが多くを学ばなかった。そして、旅の途上で同じものを見ても、この主人の半分もこの世やかの世の理りを感じてはいないのだと。だが、だからこそ、彼の心は主人のそれほど痛まずにいるのだ。同様に神の国の深淵など何も知らずに、娘の腰を打って笑ったり、鍋のひび割れを心配している民の一人である方が、生きやすいのかもしれない。
不意に思い出した。
「ところで、あの土鍋の水漏れを塞いだのは、なんという呪法なのでございますか」
春昌は笑った。
「あれは呪法ではない。ただの繕いだ。土鍋のわずかなひびは、米を炊くことで塞がるのだ」
(初出:2018年1月 書き下ろし)
【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 世吉と鵺
「scriviamo! 2018」の第七弾です。もぐらさんは、オリジナル作品の朗読で参加してくださいました。ありがとうございます!
もぐらさんの朗読してくださった作品『主人思いの小僧と貧乏神』
もぐらさんは、オリジナル作品、青空文庫に入っている作品、そして創作ブロガーさんたちの作品を朗読して発表する活動をなさっているブロガーさんです。お一人、もしくはお二人で作品を朗読なさり、当ブログの作品もいくつも読んでくださっています。いつもとても長くて本当にご迷惑をおかけしています。
今年もオリジナルの「貧乏神」シリーズでご参加くださいました。日本の民話をアレンジなさった素敵な作品です。貧乏神のシリーズとはいえ、毎年、とてもハートフルなエンディングでお正月にふさわしい素敵な作品ばかりです。どうぞあちらで聴いてみてくださいね。
で、お返しですけれど、恒例の「樋水龍神縁起 東国放浪記」の話です。今回も窮鬼(貧乏神)の話題はほんのとっかかりだけですが、もぐらさんのお話のエッセンスを取り入れた話にしてみました。
平安時代の話なので、馴染みの少ない言葉がいくつか出てきますのでちょっとだけ解説しますと、出てくる「家狸」というのはいわゆる猫のことです。この当時、猫は民衆の間では狸の仲間だと思われていたようです。日本の在来の野生の猫をネズミを捕ることからペット化し始めた頃のようです。それとは別に遣唐使などと共に輸入されてきた猫もいました。それから、題名に出てくる「
【参考】

「scriviamo! 2019」について
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
樋水龍神縁起 東国放浪記
世吉と鵺
——Special thanks to Mogura-san
その村についたのは、もう暮れかかる頃だったので、次郎は何をおいてでもすぐに今夜の宿を探さねばならなかった。村はずれの小さな家でどこか泊めてくれる家がないかと訊くと、親切そうな女は困った顔をした。
「この家は狭く、とてもお二人をお泊めできるような部屋はございません」
確かにここは難しいだろうと思った。貧しい家はどこもそうだが、土を掘り床と壁と屋根を設置した竪穴式の家で、家族が身を寄せ合って眠るのが精一杯の広さしかないことが見て取れた。
女は辺りを見回して言った。
「この先にもいくつか家はありますが、皆ほぼ同じような有り体でございます。例に漏れますのは、一番村の奥に住んでおります
次郎は首を傾げた。
「何か不都合があるのでしょうか」
「いえ。実は、この者の家には、化け物が棲んでいるのでございます。確か
「そうですか。では次に泊まれるような家があるような村は」
「さようでございますね。隣村は難しいので、おそらく山道を十里ほど先に行く他はないかもしれません。ただ、もう暮れてまいりましたね。さて、どうすべきでしょうか」
次郎は言った。
「我が主人は陰陽道に秀でられたお方ですので、多少の化け物など怖れることはないかと存じます」
「さようでございましたか! それならば、世吉も喜ぶことでしょう。誠にあの化け物さえいなければ、どんなにいいかと、村の皆で申しておったのでございます」
次郎は、急いで主人である安達春昌の元に戻ると、女の話を伝えた。
「鵺?」
春昌は怪訝な顔をしたが、特に反対はせずに、その世吉の家へと馬を進めた。
その家は、確かに村の他の家とは違い、決して大きくはないが茅葺き屋根の木造家屋だった。簡素な佇まいながらもきちんと掃き清められ、化け物が棲み憑いているような禍々しい氣は一切感じられなかった。
もちろん次郎には、そういった普通の人には見えぬものはぼんやりと見えるだけで、主人のようにはっきりと見たり、判断をする知識があるわけではない。だが、主人が「心せよ」とも言わないところを見ると、いきなり化け物に襲われるようなことはないだろうと判断し、戸を叩いた。
「もうし、旅の者でございます。一晩の宿をお願いにまいりました」
その次郎の声に反応して、中から誰かが戸口へとやってきた。
顔を出したのは、質素な身なりだが人好きのする顔をした小柄な青年であった。
「これは、珍しい。立派なお殿様のおなりですな。もちろん喜んでお泊めしたいのですが……その……村では何も申しておりませんでしたか」
次郎は頷いた。
「伺っております。鵺という化け物が棲み憑いていると。まことでございますか」
世吉は、困ったように言った。
「名前はわかりませぬが、異形のものがいるのはまことでございます。お氣になさらないのであれば、どうぞお上がりくださいませ」
「わが主は陰陽道に秀でておりますので、もしお望みでしたらお泊めいただくお礼に、その鵺の退治なども……」
次郎が小さい声で囁くと、世吉はぎょっとして春昌の顔を見た。
それから困ったように言った。
「いえ、あれが窮鬼のようなものだとしても、仕方ないことと受け入れたのは私でございます。皆に追われて行く当てがなく氣の毒だったのです。私には生きるに足らぬ物はなく、これで構わぬと思っておりますので、どうぞあれをそのままにしておいていただければと思います」
そう言うと、世吉は春昌と次郎を奥の部屋へと案内した。調度も整い、掃き清められた心地いい部屋で、嫁はなくとも世吉が家の中をきちんとしていることがわかった。化け物が突然遅いかかって来ることなどもなく、次郎は少し拍子抜けした。
夕膳の支度をしてくると世吉が部屋から出て行ったので、次郎は家の脇につないだ馬の世話をするために再び戸口に向かった。すると、奥の部屋からヒューヒューという薄氣味悪い声が微かに響き、何かが拭き清められた廊下を静かに歩いてくる。
次郎は肝を冷やして、急いで春昌のいる部屋に駆け戻ると大きな声で叫んだ。
「春昌様! 鵺が!」
春昌は、落ち着いて次郎の飛び込んできた部屋の入り口を見た。それから、廊下から世吉が慌てて走ってくる音が聞こえた。
「どうか、そのものをお助けくださいませ!」
世吉は、戸口で何か黒い生き物を抱えてひれ伏していた。怖れ伏していた次郎は、その世吉の言い方に驚いて顔を上げた。
「心配せずとも何もせぬ」
春昌は少しおかしさを堪えているような顔を見せた。
「春昌様?」
次郎は、春昌と鵺らしき生き物を抱える世吉の顔を代わる代わる眺めた。
「世吉どの。教えていただけないか。あなたがその生き物と暮らすようになつたいきさつを」
春昌の静かな声に、世吉は安堵し、生き物を放した。それは「ヒューヒュー」とわずかに喉から漏れるような音を出しながら、悠々と春昌の側に歩いてきた。
次郎はその生き物を見て、少し拍子抜けした。確かに一度も見たことのない生き物だった。漆黒で、長い毛に覆われている。尾の長さは頭から尻までと同じくらい長く蛇のように蠢いていたが、蛇というよりは狐の尾に近いものだった。顔と体つきは屏風で見た虎に似ているが、全体の見かけは少し大きな町の裕福な家にて飼われる
「はい。このものは、私めがまだ少領である佐竹様の下人として、辺りを回っていたときに出会いました。とある裕福な家で、むち打たれていたのでございます。訊けば、どこからともなく来て棲み憑いたものの、それ以来、家運が傾き下人などが夜逃げをするようになったとのこと、法師さまに見ていただいたところ、このような生き物は見たことはないがおそらくは文献に見られる鵺であろうと。窮鬼のごとく、家運を悪くすると申します。されど、小さい体で息も絶え絶えに助けを求めている様を放っておくことはできず、お館ではなく、我が家でしたら殿様のご迷惑にはならぬであろうと、お許しをいただき連れ帰りました。それ以来三年ほど共にこうしておりますが、すっかりと慣れておりますし、たまに鼠なども狩ってくれます。たとえ運がよくなろうと、退治されてしまうのはあまりにも辛うございます」
春昌は、ゴロゴロと喉を鳴らすその黒い生き物を撫でて言った。
「これは鵺ではない。
次郎は仰天してその大きな生き物を見た。唐猫と呼ばれる生き物ことは、以前に仕えていた媛巫女に聞いたことがあった。天竺の様々な法典を鼠より守るために遠く唐の国から船に乗せられてきた貴重な生き物だと。
「非常によく似た唐猫を御所で見たことがある。天子様がことのほかご寵愛で、絹の座布団で眠り、日々新しい鶏肉と乳粥で大切に養われていると聞いた」
春昌の言葉を耳にして、世吉は腰が抜けるかと思うほど驚いた。
「鼠を狩るのは当然だ。
唐猫は、悠々と世吉の元に戻ると膝に載りヒューヒューと息を漏らした。その愛猫を抱きしめながら世吉はつぶやいた。
「そうか。そんなに尊い生き物だとは知らずに、ずっとお前を窮鬼の仲間だと思っていた。申し訳のないことを」
「そうではない。禍々しくないと同様に、尊くもない。ただ、
「私は、このものを追い出すことも死なせることも出来ませんでした。もし窮鬼と共に生きるのであれば、人の数倍、身を粉にして働かねばと思っておりました」
春昌は頷いた。
「その心がけが、そなたをただの下人から、少領どのの片腕と言われるまでの地位に就けたのであろう。言うなれば、そなたの
「はい。安達様、お教えくださいませ。私ごとき、身分の低い者がそのような珍しい生き物と暮らしていて、とがめられることはないのでしょうか。知らなかったとは言え、三年ほども共におりましたし、もし天子様の唐猫の仔などであったとしたら……」
春昌は、怯える世吉に笑って言った。
「誰にも言わねばよい。法師は鵺と言ったのであろう。誰もが鵺を恐れて、その生き物を引き取りには来ない。そなたはその唐猫を鵺と呼び、寿命を迎えるまで大切にしてやるといい」
(初出:2019年1月 書き下ろし)
【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 端午の宴
今日の小説は『12か月の楽器』の5月分です。このシリーズでは、楽器をテーマに小さなストーリーを散りばめています。
今回の選んだ楽器は、琵琶です。『樋水龍神縁起 東国放浪記』のサブキャラ、夏姫が弾いています。琵琶というのはこの当時は、あまり女性らしい楽器とは思われていなかったようです。
今回の話、外伝にした方がいいかなとも思ったのですけれど、あとから探しにくくなるので、東国放浪記本編に組み込んでしまうことにします。


樋水龍神縁起 東国放浪記
端午の宴
弥栄丸は、高い空を見上げた。緑萌え、空高く、心地よい皐月であるが、忙しく氣の抜けない時季でもある。
丹後国の大領である渡辺家にて、弥栄丸は西の対の郎党として働いている。丹後守藤原殿は、まるで殿上人のような年中行事を行うことを好む。端午の節句の競馬も数年前から必ず行われるようになった。都では六衛府の武芸に優れた官人らが草原に馬を駆り、薬草や落ちた鹿の骨など、薬となる品を拾い集める行事だ。丹後守は、領地と音が重なるこの催しが縁起がよいと真似ぶことに決められたらしい。
いつもは西の対の姫君の警護ならびに用事のみを言いつけられている弥栄丸だが、この日だけは森を駆け回り騎馬の若君の代わりに落ちている角や薬草を拾いまくらねばならぬ。
西の対は、大領渡辺家の中で微妙な立ち位置にある。夏という姫君は、二年ほど前にこの屋敷に引き取られてきたお方だ。かつて殿様が見初めた湯女を北の方に隠れて大切にしていたのだが、数年前に流行病で亡くなってしまったのだ。そのまま観音寺に預けられていた姫君は、位の低い女の娘とは到底思えぬほど美しく成長し、殿様はこの美しさなら丹後守藤原様のご子息に差し上げられるのではないかと算盤をはじき、北の方を説得して屋敷に迎え入れたのだ。
そういう事情で、夏姫は後ろ盾もなくひとりで西の対に住んでいる。弥栄丸はその日から西の対で姫の世話をするように命じられたのだ。
この夏姫、まことに美しい姿形であることは違いないのだが、止ん事無い姫方とは異なった振る舞いをすることで、西の対で働く者たちの度肝を抜いてきた。御簾や几帳の後ろでしとやかに座っていることができず、すぐに庭に降りてきてしまう。侍女のサトや童女たちだけでなく、弥栄丸や老庭師にも臆することなく話しかけてきてしまう。
北の方や、義理の妹にあたる絢子姫のことも、身寄りのいない身によくしてくださる親切な方々と慕い、せっせと作った歌などを届けさせるが、あまれにあけすけで趣の感じられない歌風に面食らうのか、返事の熱意はあまり感じられない。サトや弥栄丸は、こうした夏姫の空回りを感じてはいるが、その無邪氣な心持ちを傷つけたくなく、できる限りの後押しをすべく心を砕いていた。
だから、競馬における若君助勢の折は、西の対の代表として力の限り走らねばならぬ。
北の対からは箏の琴の音が聞こえてくる。絢子姫が、端午の競馬の宴で披露する曲を練じているのであろう。夏姫は嬉々として割り当てられた琵琶を練じている。
「あたくしは、楽器などずっと手を抜いてきたから、箏の琴などはずっと弾けはしないでしょうね」
琵琶を奏じることになったのは、皆の思いやりからであると心から感謝している。
「見てごらんなさいよ。絢子からの返し文に、十三弦もある箏を練じるのだから、四弦の琵琶ほど速く上達せずとも怒らないでくださいねとあるわ。本当にそうね、あたくしには到底弾けぬ大変な楽器を練じている絢子は、とても才能があるんでしょうね」
北の方は、決して底意地のお悪い方ではないが……。弥栄丸は考える。だが、丹後守藤原様やご子息も耳にするこんな晴れ舞台で、箏の琴を絢子姫のみが弾かれるということは、殿様のお氣持ちとは異なり、北の方は絢子姫こそを藤原様のご子息に娶せたいとお考えなのではないかと。和琴ですらなく、女子らしさの感じられぬ琵琶を夏姫に勧めるところに、その想いを感じてしまうのだ。
「きっと今ごろは、文殊さまでもお囃子を練じているのでしょうね」
夏姫は、琵琶を弾く手を休めて、ぽつりと言った。弥栄丸ははっとした。
姫の母親は、若狭国小浜の濱醤醢醸造の娘だった。離縁された母親に連れられて丹後国に来たものの、生まれ育った若狭の海を懐かしみ夏姫を産んでから殿様に頼み、与謝の海の見える小さな家に住んでいた。渡辺の殿様にしても、北の方に悟られぬ遠さにあり、籠神社や文殊堂の参詣なる口実が得られるこの小さな家は真に便益にかなっていた。
「あたくし、よくお母様や観音寺の尼さまにお願いして、海に連れて行っていただいたのよ」
姫の声音は、どこか悲しげだ。
夏姫にとって、文殊堂や籠神社の歳時記を感じることのできない渡辺の屋敷での暮らしは、弥栄丸をはじめ誰もが思っているような目出度く有難き果報ではなく、心許なく取る方なき日々なのやもしれぬ。
宴は
この角を拾ったのは、偶然ではあったが弥栄丸だった。渡辺の殿様は、姫君が藤原様ご子息の目に留まることを願っているので、この成り行きに大いに喜んだ。
「でかしたぞ、弥栄丸。屋敷に戻ったら、そなたやサトにも酒を振る舞うからな」
弥栄丸は、頭を下げて、元の仕事に戻った。宴が終わるまで酒どころかご馳走を食べることもなく、夏姫の退出を待つのだ。姫を無事に屋敷の西の対に連れ帰らなくてはならない。
その夏姫もまた、食べるものも食べずに控えているのだろう。注目を浴びる宴の演奏に心騒いでいるに違いない。
「ああ。できることなら、誰も聴いていない宴の始まりに演じて、さっさと帰りたいわ」
昨夜の姫のつぶやきが蘇る。申し訳ないことになったな。だが、藤原様のご子息に娶せることが殿様の悲願なのだから、晴れやかな場で演じることは姫様のためなのだ。弥栄丸は自分に言い聞かせた。
弥栄丸は、懐から小さな護符を取りだした。紙包みの中には梵字で書かれた護符が入っている。昨夏、弥栄丸の家に滞在した子細ありげな陰陽師が、弥栄丸の頼みにこたえて書いてくれたものだ。
西の対の庭にある柘植の木に人型のようなものが浮かび上がり、夏姫が霍乱のような病に苦しんでいたのだが、その陰陽師が人型を見事に消し去り、姫の病もそれを境にすっかりよくなった。主はもちろんのこと、姫もその陰陽師の神通力に驚き感謝した。
その陰陽師は、大きな報酬も望まず、やがてまた旅立った。それに先んじて、滞在させてくれた礼をしたいという陰陽師に弥栄丸は願ったのだ。夏姫を守る護符をいただけないかと。彼は、いくつかの違う文字を書き、呪を掛けた。弥栄丸には意味はわからないが、曼荼羅を表した悉曇文字だ。
弥栄丸は、夏姫の待つ母屋の裏口にまわり、侍女のサトを呼んでもらった。
「弥栄丸。お疲れ様でした。もう、こちらで待機できるようになったのかい」
サトは、ほっとしたような顔をした。藤原様のお屋敷は、サトにも氣が張るのだろう。いつもののんびりした仲間だけでなく、北の方や絢子姫の侍女たちの間で肩身の狭い想いをしているので、弥栄丸が戻ってきてくれたことで少しは心強く思うのかもしれない。
「こちらに控えているので、何かあったらすぐにいってくれ。あと、昨夜渡し忘れたので、これを姫様に……」
「これは?」
「例の安達様にもらった護符の一つだよ。弁財天のお守りだ」
弁財天は、楽の才を授ける女神、もらった時は、この護符を夏姫が必要とするときがあるのかと思ったが、いまほどこれが必要になるときもないであろう。サトも大きく頷き、急いで姫のもとに向かった。
控えているほかの郎等たちが噂をしている。
「麗しいと評判の姫は、箏の琴かな」
「いや。どうも琵琶らしいぞ」
「なんでまた。琵琶なんて、
「じゃあ、箏を弾くのは誰なんだ」
「北の方の姫君のようだ。そちらのほうがもののあはれを解する姫なのやもしれぬな」
「北の方が、どちらかというと、そちらの姫を売り込みたいんだろう」
「いや、噂の姫に楽の才がないのではないか」
「止ん事無き方々は、うるさいことをいうが、俺はどちらかというときれいな姫の方がいいな」
「いずれにしても、俺らはおよびじゃないさ」
弥栄丸は、男たちから離れて庭を見た。野蒜の花が風に揺れている。宴の喧噪が、風に運ばれてきた。
勝手なことを言いたいものには言わせておけばいい。私は、姫様の日々のお幸せために尽くすのみだ。
弁財天が手にしているのも琵琶だ。姫様は、心安らかに立派に演じられるだろう。弥栄丸は、深く頷いた。
(初出:2022年5月 書き下ろし)
【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 護田鳥
実はですね。「scriviamo!」でユズキさんへのプランB作品として書き出したものなんですよ。ユズキさん、鳥がお好きなので、鳥の作品を書きたいなと。ところが、書いているうちに「ダメだ、これ、本編読んでいないと意味もわからない」「っていうか、どう考えても本編じゃん」と。で、もう一度対策を練り直し、「scriviamo!」の方は、日曜日に「お菓子天国をゆく」という「大道芸人たち・外伝」をアップしたというわけです。
でも、せっかく書いたので、もう出しちゃえと思いまして。外伝ではもう登場しているメインキャラが本編でようやく登場です。

樋水龍神縁起 東国放浪記
護田鳥
エボー、ボーという、こもったような低い鳴き声が聞こえて三根は夏だと思った。この鳴き声がするのはほんのわずかの間だけで、それが終わると蒸し暑い日々になる。
三根が護田鳥にことさら心を掛けているのは、彼女がいただいているありがたくない呼び名のせいでもある。
だが、その名と引き換えにしても、あのいまわしいガマガエル男の慰み者にならずに済んだことを三根は嬉しく思っていた。少領の息子として産まれてきたというだけで、飯炊き女から湯女まで悉く自由にできると思ったら大きな間違いだ。
ただし、うつけ息子を張り倒して少領のお屋敷から飛び出した後の行動は、考えが足りなかったかもしれないと、今にして思う。三根は港に向かい、兄の作蔵に助けを求めた。
鬼のように大きく力強い作蔵だが、若狭小浜の船衆に過ぎない。少領なら、難癖をつけて罰することもできる。そのまま三根を匿っていたら船どころか命すらも失ったやもしれぬ。たまたま荷揚げのためにその場にいた『室菱』の元締めが素早く三根を連れ去り自分の元に匿ってくれたので、作蔵は追っ手に知らぬ存ぜぬを通すことができた。
献上品となる尊い
三根は少領の屋敷に戻らずに済んだだけでなく、そのまま萱の元に留まり働くことを許された。「
大きな羽音がした。
見ると田んぼに赤茶けた姿が暴れている。
護田鳥が水辺にいるのは普通のことだ。人を見ても立ち去らないので田を護る鳥だと言われている。だが、普段ならこのように暴れることはない。近づいてみると、羽ばたいているのは一方の翼だけでもう片方はだらんと垂れている。怪我をしているのか、どこかで折れたのかもしれない。
三根が近づくと、警戒しつつも羽ばたきはやめない。キッとこちらを見る様子を見て、思わず三根は笑った。その鋭い目つきと人を怖れない態度が「おずめ」と呼ばれる所以なのだ。
「安心して。害は加えないわ。でも、こんなところに居たら直にトンビにでも襲われてしまうわよ」
腰から
『室菱』にたどり着くと、いかがしたことか中がいつもより騒がしい。献上品は昨日に大領のお屋敷にお届けしたばかりなので、何があったのかわからない。土間で足を洗っていると、奥から萱が出てきた。
「三根か。遅かったがどうしたのか」
「申し訳ございません、萱様。怪我をしていた護田鳥をそのままにできませんでした、この通り」
そう申して褶だつものに包まった鳥の顔を見せると、女主人は笑った。
「お前も病人を連れてきたか」
「と、おっしゃいますと、他にも?」
萱の片側に下げてある長い髪が揺れた。三根や他の平民の娘たちと違い、萱の佇まいと姿はやんごとないお方のようだ。同じような小袖を身につけていても乱れなく、襟元も常に整っている。髪を長くしているが、鴉のように艶やかで美しい。
萱は頷いて、奥を示した。
「客人が二人いる。市の近くで宿を求めていた貴人と従者だ。が、従者の方が倒れてしまったので、岩次にここに運ばせた。三根、申し訳ないが佐代と交代して病人の世話をしてくれぬか」
三根は頷くと、入ってきた岩次に護田鳥を褶だつものごと預け、奥に向かった。佐代は自分の仕事の他に、貴人の世話と病人の世話でてんてこ舞いに違いない。それにしても、萱様はなんとお人好しなのか。見ず知らずの二人組を連れてきて面倒を見る義理もないだろうに。
奥の小さな部屋に、病人は寝かされていた。三根がそっと入ると、佐代は安堵の顔を見せた。手招きされて共に台所へ向かった。佐代からたらいを受け取る。
「どうなさったの?」
「大変な熱なの。主どのを草の庵で寝かせるわけにはいかないと、無理していたみたいだけれど、歩けなくなってしまったみたいで」
「それはお氣の毒だけれど、どうして萱様が面倒を見ることになったわけ?」
佐代は声を潜めて答えた。
「どうやら、萱様がご存じの方のようよ」
「その貴人が?」
「いえ、倒れた従者の方」
貴人達の世話をするために去って行った佐代と別れ、たらいに冷たい水を張って三根は小さい部屋に戻った。切灯台の焰が揺れている。
どうやら熱は高いものの、容態は落ち着いているようだ。三根は、男の額に置かれた手ぬぐいを取り替えた。男は目を覚ましたのか、わずかに目を開き、粗く息をつきながら言った。
「かたじけのうございます……。ここは、いずこに……ございましょうか……。我が主……春昌さまは……」
三根は答えた。
「ご安心くださいませ。ここは濱醤醢を醸造する『室菱』の屋敷。わが主、萱様があなたのご主人様を別のお部屋でおもてなししています。お心安らかにお休みくださいませ」
「なんと……それは、ありがとう存じます……」
安堵したのか、再び寝息を立てだした。三根は静かに部屋を抜け出し、護田鳥を岩次から受け取ってきた。岩次がすでに応急処置を終えており、折れた翼は固定され、もう一つの翼もたたんだ上に布で巻かれ羽ばたけないようにして、魚採りの籠に収めてあった。
イワシを与えると盛んに食べるが、目つきは相変わらず鋭く、「おずめ」の名は伊達ではないと三根は笑った。そのまま籠をもって、病んだ従者の寝ている部屋に戻った。
エボー、ボー。尺八のような籠もった音が響いている。うるさいなあ。どうして森で鳴かないんだろう。三根の意識は朦朧と彷徨っている。
「護田鳥は夏を無駄にしたくはないのでしょう。かわいそうに、この翼では森へ行くことは叶いますまい」
……この声は、萱様?
「鳴くほどの力が戻ってきたのだから、あるいは、命をつなぐことができるやもしれぬ」
聞き慣れぬ男の声にぎよっとして、三根は飛び起きた。いつの間に眠ってしまったのか、朝の光が天窓から差し込んでいる。病人は変わらずに寝息を立てているが、その向こうに萱と見知らぬ男が座っている。狩衣を身につけているので、これが病人の主人なのだろう。
三根は頭を畳に擦り付けた。
「も、もうしわけございません!」
萱はわずかに口角を上げた。
「よい、三根。夜通しの看病で疲れたのであろう。ご苦労でした」
貴人が頭を下げた。
「次郎の熱はすっかり下がった。そなたの献身的な看病のお陰だ。心からの礼を申し上げる」
「め、滅相もございません!」
ちらりと見ると、確かに病人は静かに寝息を立てている。明け方にはまだかなり熱があり肩で息をしていたので、朝になったら萱様に報告せねばと思っていたのだ。
三根は貴人の姿を見て首を傾げた。紺の狩衣を身につけているが、色は褪せ、袴にも汚れが見えている。堂々とした佇まいとこの服装、そして従者を連れて歩いているところを見ると、やんごとなき方なのだろうが、その日の宿にも困るような理がわからない。佐代は萱様が従者の次郎さんとやらをご存じだって言っていたけれど。
「それにしても縁とは不思議なものだ。萱どの。そなたが次郎を知っていたとは」
貴人が、三根のまさに訊きたかった件を切り出してくれた。水を替えに行こうとした三根は、せっかくなので次郎の手ぬぐいをもう一度濡らして、もうしばらくその場にいることにした。
「はい。五年ほど前になりますでしょうか。まだ父が生きておりました頃、名代として奥出雲の樋水龍王神社に参りました」
萱は、静かに語り出した。
「樋水に?」
「はい。樋水龍王神社では、奴奈川比売さまの例祭に姫川の御神酒をお使いになるのです。あの年は、越国で大変な飢饉がございました。糸魚姫川流域ではほとんど米が獲れなかったのでございます。奉納予定だった御神酒を乗せた船が沈み、多くの樽が失われた後、代わりのお酒を探しても、姫川から獲れたものはもう残っていなかったそうです」
「それで?」
「私どもの所に八樽ほどございました。私どもの濱醤醢も、姫川のお酒を使うのです。もちろん神事ではございませんので、どうしてもそのお酒でなくてはならないということもございませんので、樋水にお譲りすることになりました。お届けしてそのまま帰途につく心づもりでおりましたが……」
貴人は、萱をじっと見つめて言った。
「媛巫女様が、お目にかかりたいとおっしゃられたのでしょう」
「どうしてそれを?」
萱は心底驚いたさまで頷いた。
「そなたが龍王さまの神域に現れたなら、いやでも氣付く。それほどそなたの発する氣は大きく強い。そうおっしゃったのでは」
「はい。誠に。あの……安達様はなぜそれを」
貴人は、わずかに笑みを見せた。
「媛巫女にも劣らぬそなたの氣が見えているからだ。おそらく、そなたにも見えているのではないか」
萱は、首を振った。
「いいえ。亡き父は、私が童の頃にこの世ならぬものをよく見ていたと申しておりましたが……」
「……そうか。童の頃にはぼんやりと見えていたが、やがてなにも見えなくなってしまう者も多い。が、そなたの氣を見る限り、そのような微かな力とは思えぬ。見えぬようになったのではなく、自ら封印し見ぬようにしただけやもしれぬ。いずれにせよ、媛巫女がそなたに逢いたがった理由は、よくわかる。そして、その折りに次郎とも見知ったのだな」
三根は、不思議に思い二人の顔を見た。この病人は、樋水龍王神社の関係者なのだろうか。
萱は頷いた。
「媛巫女様の郎党であられた次郎様と、このような形で再びお目にかかるとは、ほんに縁とは不思議でございます。安達様も、媛巫女様をご存じでいらしたのですね」
途端に、切灯台に残っていた焰が揺れて消えた。護田鳥が鳴くのをピタリと止めた。
安達春昌は、ほとんど表情を変えずにいたが、萱がぴくっと動き、客人の顔をまともに見た。三根には全くわからない何かを、女主人は明らかに感じたらしかった。
「安達様……」
「すまぬ。そなたを驚かせたようだ。そのつもりはなかった。さよう、私は媛巫女を知っている。樋水へ行き、媛巫女も、そして次郎も知ったが、そうするべきではなかった。私が樋水に行かなければ、この者はこのようなところで病に倒れることもなく、そなたにもこのように迷惑を掛けずに済んだのだ」
春昌は、ほとんど表情を変えずにこれだけ言うと、口を閉ざした。萱は、しばらく考えるように間をおいてから、護田鳥の入った魚籠を手に取って、客人に見せた。
「ご覧くださいませ。護田鳥は、命を救われてもこのように私どもを睨みつけます。この濱に立ち寄らなければ、そなたたちに迷惑を掛けずに済んだなどとは申しません。それが自然の理でございます」
安達春昌は、わずかに表情をゆるめて萱を見た。それから、眠る次郎を見つめた。
「次郎様がお倒れになったのも、安達様がこちらにおいでになったのも、全ては縁でございます。そして、おそらくは媛巫女様がお引き合わせくださいましたのでしょう。どうぞ、ゆるりとおくつろぎくださいませ。私も、そして、こちらの三根も、心を込めてお世話させていただきます」
三根は力づよく頷いた。萱様がこのお二人をお助けしたいと思うなら、私も。
彼女自身も萱に助けられ、その人となりに心酔しよく仕え、懸命に働きたいと常日頃考えている。
萱に特別な氣とやらがあるかどうか、三根にはさっぱりわからない。だが護田鳥ですら、三根が世話をしていたときのように挑戦的な動きをしない。いつもそうなのだ。どのような獣も、萱の前では大人しくなる。
同じく
難しいことはわからないけれど、それが縁というものなのだろう。一番の恩人である三根に、相変わらず反抗的な目つきをしてみせる護田鳥に、小鯛のエラや背びれを与えながら、三根はそんなことを考えていた。
(初出:2020年1月 書き下ろし)
【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 夕餉
今日の小説は『12か月の店』の9月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。
今回の舞台は、さらにイレギュラーで、そもそもレストランではありません。若狭小浜にて従者次郎が病に倒れてしまい、たまたま面識のあった萱に救われ長期滞在することになりましたが、今回の舞台はその濱醤醢醸造元『室菱』です。平安時代の食生活をいろいろと調べて盛り込んでエピソードにしてみました。だからなんだというわけではないのですけれど。
というわけで、『樋水龍神縁起 東国放浪記』とはいえ、今回、主人公の春昌は出てきません。次郎回です。

【参考】

樋水龍神縁起 東国放浪記
夕餉
庇の向こうに桜の赤く染まった葉が風に舞っていった。まだ早すぎると思ってから、そうでもないと思い直した。暦の上ではとうに秋だが、陽の高いうちはわずかに動き回っても汗ばむ日が続いている。三根は盆に夕餉を載せて、次郎の小部屋に向かった。
夏の始まりにこの地に足を向けた貴人とその従者は、これほど長く逗留するつもりではなかったらしい。だが、従者である次郎が
奥出雲で生まれ育った次郎は、瘧疾に罹るのは初めてだという。数日おきに高熱が出るこの病は、若狭国ではありふれたもので、子供の頃から幾度も罹っている三根はひと月半も寝込むようなことはもうない。次郎の主である安達春昌も、摂津国で生まれ育ったといい、瘧疾にはやはり子供の頃に幾度か罹っていたそうだ。なかなか治らぬ己の病で主を足止めしているだけでなく、見ず知らずの主従を客としてもてなすことになった『室菱』の若き女主人萱の迷惑を思い、次郎は事あるごとに床に頭を擦りつけて詫びた。
「そんなに、平伏しなくてもいいのよ、次郎さん」
三根は、次郎の看病役を務めてきたので、すっかり次郎と心やすくなっている。はじめは「次郎様」と呼んでいたのが、最近はふたりの時には敬語も忘れがちだ。
「萱様、樋水で媛巫女様にお目通りしたときに、なんだかすごい物をいただいたんですって。だから、媛巫女様のご縁の方の面倒を看るのは当たり前だっておっしゃっていたわよ」
「あれは、こちらが例祭で必要な姫川の御神酒をお譲りくださったお礼で……」
そういいながら、次郎はかつての主人であった媛巫女瑠璃と萱の不可思議な邂逅について思いを巡らせ口ごもった。
都からの使者や大社の神職とも滅多に会おうとしない媛巫女が、若狭からの平民である娘の来訪に心騒がせ、打診もされなかったのに神域の奥深く龍王神の住まう池前まで呼び寄せたのだ。そして、しばらく几帳の向こうで語らい、その時に神酒献上への返礼とは別に内々に玻璃珠を下賜をしたことを知っていた。
媛巫女付の従者となってよりそのようなことはただの一度もなかったので、次郎は若狭『室菱』の女のことは忘れていなかった。
次郎は、亡き媛巫女の最期の命に従い、安達春昌に命の終わるときまで付き従うこととなった。まさか自らが病に倒れるとは思いもしなかったが、その時に手を差し伸べてくれたのが他ならぬ萱だったことは亡き媛巫女の導きだろう。この間に萱は父の後を継ぎ元締めとなっていた。
彷徨の間、貧しい家に露しのぎを請うことも多く、主人と同じ部屋の片隅にうずくまるを常としてきたので、小さいとはいえ自分だけに与えられた部屋でゆっくりと休むことが、許されざる贅沢に感じられる。一方で、客として遇される主人が彷徨の疲れを癒やす刻を持てたことを、次郎は媛巫女の采配と感じ、ありがたく受け止めてもいた。
三根は、日に三度膳を運んでくれる。熱の出ない日には、次郎は起き上がり、春昌や馬の世話をしようとしたが、弱った体が言うことをきかない上、諸々の用事は『室菱』の家人たちが万事済ませてくれたので、諦めて熱はなくとも褥に横たわり、何かと世話を受けるままでいた。
旅の間はまともな食事にありつけぬ事も多く、腹一杯食べられることは多くなかった。だが、三根の運んでくる膳の上には、病のために食が細っているのが無念なほど、十分な量が載っていた。ようやく起き上がり、余すことなく食べられるようになった。粥ではなく歯ごたえのある姫飯、根菜汁、小魚が二尾ほど、山菜などが並ぶ。それどころか、三根が酒の酌までしてくれるのだ。
「この姫飯には、
次郎は、氣になっていたことを口にした。故郷の樋水龍王神社では、宮司とそのほか数人の上位神官のみが丁寧に杵つきした白米を食することができ、郎党だった次郎はヒエと粟、または固い玄米以外は口にしたことがなかった。献上品となる
「特別よ。なんてね、私たち使用人も病に伏せるときやお正月に食べさせてもらうの。萱様ご自身も、お正月以外は召し上がらないのに。萱様って、そういうお方なの」
次郎は頷いた。萱は仕事には厳しいが、三根たちにとって優しい心根のいい主人であることをすでに感じていた。
小皿に載った塩と醤醢を山菜に混ぜて姫飯に載せた。小さな茸がコリッと音を立て、そのあとに口の中になんとも言えぬ華やかな味わいが残る。なぜこのように美味なのだろう。無心に味わう次郎を見て、三根は誇らしげに笑いかけた。
「美味しいでしょう」
「ああ。これって何という名の山菜なのか? 格別な味がするんだが」
「蕨と
次郎は腰を抜かすかと思った。同じ大きさの壺に入った砂金ほどの価値があると言われている献上品だ。
「なんだって? それ程貴重な醢を私なんかに?!」
「心配しないで。献上品ではなくて、樽の底に残った滓をためて作ったものだから。でも、捨てるなんてもったいない味でしょう? 山菜や茸と組み合わせるとさらに美味しくなると見いだしたのは岩次爺さんなんですって」
「ワケ茸も、蟒蛇草もいくらでも食べたことがあるが、醤醢と組み合わせると上手くなるなんて不思議だな。こんなに美味くなるのならば、殿上人が欲しがるのも無理はないな」
三根は不思議そうに次郎を見つめた。
「樋水の媛巫女様は、天子様の覚えめでたいお方だったんでしょ? 殿上人みたいなものを召し上がっていたんだと思ってたわ」
次郎は首を振った。
「宮司様たちは、都の貴族と同じような立派な御膳を召し上がっていたけれどね。媛巫女様は、それをお断りになったんだ」
「まあ。わざと?」
次郎は、好奇心丸出しな三根の問いに少し笑いつつ答えた。
「ああ。下賤のお生まれで舌が受け付けぬのでは、などと口さがなきことを言う者もあったけれど、媛巫女様は召し上がるものに、私どもとは違う何かを感じていらしたようだ。強飯に使われる
「氣?」
「やんごとなきお方たちの召し上がる
三根は、目を見開いた。
「それって、もしかして、私たちの食べているものの方が、尊いかもしれないって事?」
より尊いと言えるだろうか。宮司たちのために用意された御膳を見て、垂涎の思いをしたことは幾度もあった。貴重な濱醤醢を日々惜しげなく使っているだろうやんごとなきお方たちの食はさらに豊かで尊いだろう。
「まあ、そう一概には言えないけれどね。でも、例えば、媛巫女様は冬に
三根は、考え深そうに頷いた。次郎は、面白い娘だと思った。
かなり膨よかだ。食べることが好きなのであろう。だが、こまめに立ち回り仕事に骨を惜しまぬので、たくさん食べる必要もあるだろう。少領の屋敷から逃げ出してきたところを匿ってくれた萱に深い恩義を感じているとはいえ、普段の仕事にも加えて見ず知らずの病人の世話をするのは、骨の折れることに違いない。それでも迷惑さなどみじんも見せぬのは、決して当たり前のことではない。
「ねえ、次郎さん。あなたのご主人の安達様って何者なの?」
三根は、そろそろ訊いてもいいでしょう、という風情を醸し出した。
「萱様からの問いかい?」
次郎は用心深く問い返した。普段なら、旅先では常に春昌が宿主と話すときに同席するが、今滞在では、ほぼ常にここでひとり寝ているため、春昌が萱に何を話しているかを知らなかったのだ。
「いいえ。萱様は安達様の夕餉のお相手をしていらっしゃるから、知りたければご自分でお伺いすると思うわ。でも、そういうことを私たち使用人に話したりなさらない方だもの。でも、私だって知りたいのよ。あの方、絶対にやんごとない方でしょう、なぜ次郎さんと彷徨っていらっしゃるのかしら」
次郎は、あけすけな好奇心に半ば呆れ、半ばその正直さに感心して三根を見つめた。
「やんごとないとも。殿上も許されたお方なんだ。でも、ここで言うことはできないけれど、ある事情で全てを捨てられたんだ」
「それって、樋水の媛巫女様と関係のあること?」
三根の核心に迫った問いに、主はもしや自分が病に伏している間にほぼ全てを語ってしまわれたのかと、次郎は訝った。これまでどのような旅先でも、主はそのような話はしなかったというのに。
「君は知りたがりだなあ。いつもそうなのかい?」
次郎が用心深くいうので、三根は口をとがらせた。
「そういうわけじゃないけれど……。ほら、安達様って素敵な方だし、萱様ととてもお似合いだと思うのよね。でも、ほら、どんな方かわからないを婿殿としてどうですかって、お薦めできないし」
「春昌様は……!」
媛巫女様の背の君だから、そんな不遜なことを言うな。そう言いかけて次郎は口をつぐんだ。
その定めを選ばれたお二人を、宮司様の命令に従い引き裂こうとし、結果として命よりも大切に思っていた媛巫女様を殺めてしまった身の上だ。春昌様は、その己れの罪科を代わりに背負いながら彷徨い生きておられる。改めてそれを思い至り、大きくも苦しき悔の念が身を締め付ける。
「ちょいと、次郎さん、どうしたの? 大丈夫? ねえ、そんなにつらいこと訊いてしまったの? もう訊かないから、しっかりしてよ」
氣がつくと、頭を抱えてうずくまる次郎の背を、三根が当惑してさすっていた。
「す、すまない。つい動転してしまって……」
「何か、つらい事情があるのね。ごめんなさいね。私、すぐに思ったことを口にしてしまうの。それで、萱様にもよく叱られるの。でも、悪氣はまったくないのよ」
「ああ、わかっている。君はとても親切だし、主人の萱様のことをとても大切に思っているのもわかっているよ」
「次郎さん、ほら、もう少し食べて飲みなさいよ。早く元気になって、安達様に元通りお仕えするんでしょ」
濱醤醢が醸し出す旨味は、全ての幸いを捨てたはずの次郎にも、舌から悦びを思い出させ、小さい杯に注がれる酒は五臓六腑に染みていくようだった。そして、目の前に座り酒を勧める三根は、朗らかだった。生まれ育った奥出雲の神域を出て初めて、次郎は居心地がいいと感じた。
(初出:2021年10月 書き下ろし)
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【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 約定
「scriviamo! 2021」の第9弾、ラストの作品です。TOM-Fさんは、「天文部シリーズ」シリーズの掌編でご参加いただきました。ありがとうございます!
TOM−Fさんの書いてくださった「この星空の向こうに Sign04.ライラ・アークライト オブ ザ スカイ」
TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。フィジックス・エンターテイメント『エヴェレットの世界』は、無事完結、現在は次の長編に向けて、準備中とのこと楽しみですね。
「scriviamo!」には皆勤してくださり、毎回趣向を凝らした名作でご参加くださっています。そして、毎回めちゃくちゃ難しいのですけれど、今年の難しさは例年と違うところにありまして……。最愛のキャラの渾身のエピソードでご参加なのですよ。いや、他にも大切なキャラでご参加くださったことは多々あるのですけれど、今回の作品は最愛のキャラをここまで痛めつけるかという、TOM−FさんのドSぶりを遺憾なく発揮されていて、いや、これに適当なキャラでお茶を濁すお返しはナシでしょう……みたいな。
それで、こちらも最愛キャラ(の前世だけど)を持ってくることにしました。しかも、同じくらい虐めている……ええと、いや、そうでもないか。しかし、TOM−Fさんがご自分の作品について「イタい」とおっしゃっている以上に、めっちゃイタい仕上がりになっています。あと、男が病で死んじゃうのと、男が死んだ女に囚われているのもあちらの作品と同じ。
いや、合わせてそう書いたのではなく、もともとそういう構想でして。今回のこれ、バリバリの本編で、しかも終わりから2番目くらいのところにあるべき話をいきなり書いてしまいました。ええ、TOM−Fさんのお話を読んでから「いきなり(ほぼ)最終回」を書くことにしたんです。
最終回の手前ですから、主要キャラたちの行く末が全バレです。ここまでとんでもないネタバレはさすがに普段はしませんが、この話に限ってははじめから主人公が野垂れ死にすることを公表しているので、これでいいかなと。この話、いずれ途中を書いたら、記事の順番を調整してこれがちゃんとおしまいの方に来るようにしたいと思っています。でも、ほら、もう書かないかも知れませんしね〜。(根の国のシーンが大変そうで筆が進まないという説も)

「scriviamo! 2021」について
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樋水龍神縁起 東国放浪記
約定
——Special thanks to TOM−F-san
開け放たれた鳥居障子の向こうに垂れ込めた雲が見えた。萱は、平伏する次郎から眼をそらし、その雲間より逃れた一条の光が、若狭の海に差して煌めくのを眺めた。
安達春昌の忠実な従者である次郎が、ひとりでこの若狭を訪れるということが意味することは一つだった。久しぶりに次郎の顔を見て喜んだ三根もまた、その意を解して泣きながら萱に伝えに来た。
訊けば、春昌はここ数年東国を彷徨い、伊勢の近くで流行り病で亡くなったという。廃寺の境内に主人を埋め、次郎は生まれ故郷の奥出雲へ戻る途上であった。
かつて春昌は、いま次郎が座る位置のすぐ後ろの廂板間に座っていた。あれは何年前のことだろう。昨日のことのように鮮やかに脳裏をよぎるが、昔語りになってしまった。
「わざわざ報せにきてくれたこと、礼を申します。春昌様は、何かおっしゃられたのか」
萱は、頭を上げるように言ってから問うた。次郎は、わざわざ人払いを願い出た。何か伝えることがあるのだろう。
「お隠れになる二日ほど前のことでございました。こちらでお世話になったことを語られたとき、こうおっしゃいました。『誓いは果たしたと、萱どのに伝えてほしい』と」
萱は、こみ上げるものを押さえつけた。神罰に全てを捨てて彷徨うかつての陰陽師を、それまで以上に苦しめることになった約定を、萱もまた忘れたことはなかった。これからも生き続ける限り忘れないだろう。
それは、あの月夜のことだった。春昌は廂の板間に座り、若狭の海に揺れる月影を眺めていた。次郎は三根のもとに行き、佐代や岩次も下がり、萱はひとり春昌の杯を満たしていた。
献上品となる濱醤醢を造る『室菱』の元締めとして、女だてらに重責を担う萱は、長らくふさわしき婿取りを期待され続けてきた。父に婿になることを所望された若衆が海難に遭い、間もなく父も急死したため、図らずも若くして元締めになった萱には、これまで婿探しをしている時間などなかった。
何年か前より子細ありげな貧しい貴人、安達春昌とその従者次郎が滞在するようになって以来、古くからの使用人たちはこの貴人と萱との縁組みを期待するようになった。特に、萱の従妹である夏姫を巻き込んだ怪異を、春昌がみごとに祓い、かつて殿上すら許されていた陰陽師であったことが知れると、彼らの期待はさらに強くなった。それどころか若狭小浜の商い人たちも、もはやそれが決まったことのように噂するようになっていた。
ところが、当人同士が話を進める兆しを全く見せないので、業を煮やした使用人たちがあえて場を離れ、次郎を主人から引き離して、春昌と萱がふたりきりになるよう骨を折っていたのである。
萱は、彼らの願いは十分に承知していたものの、そのようなことは到底あるまいと心を定めていた。他の者らは、春昌と樋水龍王神社の御巫瑠璃媛の死にまつわる因果を知らなかったし、萱と播州屋惣太との深い因縁を春昌が承知していることも氣づいていなかったのである。
萱と春昌はもはや、釣り合う似合いの男女、もしくは惚れた腫れたの始まりを探り合うがごとき浅い仲ではなかった。影患いの果てに生成りとなった惣太の妻に萱代わりに祟られた夏を救うため、萱は春昌と共に、根の国を訪れることとなった。ふたりはそこでこの世ならぬものと対峙した。そして、そこで不本意ながら、もっとも知られたくない心の一番奥にある悼みを晒すことになってしまった。
十六夜の月は穏やかに輝き、若狭の海はいつになく凪いでいた。微かな風が、春昌の鬢からこぼれた髪をそよがせている。根の国で亡者に囲まれ二度と現し世に戻れぬことを覚悟したとき、彼は萱を守らんと全霊を尽くし半ば鬼と化した。その彼の姿は夢のように遠く想われた。
彼は、萱が生涯をかけて愛し求めた男ではない。そして、彼にとってたったひとりの宿命の女は萱などではない。彼が奥出雲の地で禁忌を犯し、そのために名聞はなれ彷徨い生きていることも知っている。けれども、そうした全ての情状は現し世にのみ存り、根の国の在り様とは何ひとつ関わりなきことであった。萱は、神意も天罰も愛欲も恩讐も全て手放し、ただ彼と共に、かの黄金に輝く七色の光の中に溶け込んで消えていきたかった。
こうして現し世に舞い戻り、またそれぞれの情状を抱えた者に分かれて座っていることに、違和感が拭えない。夢の続きのごとく、合うさきるよそ事に思える。春昌様も、同じように感じておられるのであろうか。萱は、穏やかな彼の横顔を見ながら考えた。それとも、この方にとって、あのような神事象の見聞は、明暮のことなのやもしれぬ。
誰よりも近く、誰よりも頼りになると感じられた男が、現し世ではこれほどに遠く感じられる。身分と立場が、そして、お互いの持つ深い業と過去が、ふたりの間に大きな楔を打ち込んでいる。『室菱』の者らにも、おそらく春昌を知り尽くした次郎にも見えてはいない、まがう事なき隔たりを萱は感じている。この男とひとつになれるのは、あの七色の光の中でだけなのだと。
ふたりとも、言葉にしてその様な語りは何もしない。ただ、周りの期待には応えられないことを、お互いが誰よりもわかっていた。怖ろしいほどに穏やかな月夜だった。
「そういえば、弥栄丸から便りがございました。来月、夏と共にこちらに参るそうでございます。ふたりとも一日も早く春昌様にお目にかかって御礼を申し上げたいと、心はやっている様子でした」
萱は、丹後の屋敷に戻っている夏の様子を知らせた。あのふたりが夫婦になることを夏の父親もついに許したらしい。
春昌は、夏の話をするときにいつも見せる幼子を愛おしむような微笑みを見せて答えた。
「夏どのがこちらに戻られる頃には、私はもう居りませぬ。よろしくお伝えください」
「どうしてですか」
「月が明ける前に、出立する心づもりでおります」
これから冬になるというのに、なぜいま苦しい旅に出ようとするのだろう。
「春昌様。春をお待ちください。これからの山越えはおつらいでしょう」
彼は、顔を向けて萱に冷たい一瞥を与えた。ひどい冷氣が下りたかと思うほど空氣が変わった。春昌の全身が例の青紫の氣焰に覆われていた。
「だから行くのだ。ここで心地よい冬を過ごしたりせぬように」
はじめてその氣焰を感じたとき、萱は何か禍々しきものに触れたのかと、ひどく怖れたものだ。だが、彼女はもうそれに恐れを感じることはなかった。それは、癒やされることのない痛みと己れすらを許さぬ怒りが生み出す彼の業そのものだからだ。彼女は、彼の心の痛みに耐えかねて、思わずその掌を彼に向けた。
すると、不思議なことが起こった。あの根の国で見たのと同じ、彼女自身の黄色い氣焰が掌で暖かい色に輝きぶつかった彼の氣焰の色を変えたのだ。
萱は長いこと、自らの氣焰も含めて、この世ではないものを見ることをやめていた。自分にはその様なことはできないのだと思っていた。かつて媛巫女瑠璃に、樋水龍王神の御前に連れて行かれたときも、偉大なる巫女の権能が彼女に特別なものを見せたのだと思い込んでいた。
だが、それは、萱自身の『見える者』としての力だった。春昌と共に訪れた根の国で、彼女は再び樋水龍王神の御姿を拝し、禍つ神を浄める媛巫女に比肩する伎倆を手にしたのだ。
全ては収まるべきところに収まった。萱は現し世に戻り、商いには不要なその特別な力はもう使うこともないと思っていた。
それなのに、なんということであろう。かつて己をあれほど怖れおののかせたあの氣焰を、自ら触れるだけで消している。
掌はまだ服の上にも達していないが、萱の掌から溢れる暖黄色の光は、春昌の外側に纏いつく青紫の氣焰を、触れたところから次々と春の若萌え草のような明るく心地よい氣に変えていった。
だが春昌は、萱がしようとしていることを見て取ると、身を引き、苦しそうに顔をゆがめて言った。
「やめてくれ、浄めるな。頼む」
萱は、動きを止め、わずかに後方へ下がった。青紫の氣の焰はまだ春昌の周りに燃えていた。若緑に変わりだしていた氣も、やがて再びその青紫に打ち消されて消えていった。
「すまぬ」
春昌は、絞り出すように言った。
「無駄なのだ。一刻、すべてを浄めても、またこの業が勝る。奥田の秘め蓮の池も、権現の瀧も、若狭姫大神の神水も、どうすることもできなかった。私が生き続ける限り、これは消えはせぬ」
「春昌様」
「夏どのを救うためには、そなたの力を借りる他はなかった。だが、そなたの眠れる力をあのような形で目覚めさせたのは、忌むべき咎だ。ましてや、そなたをこの呪われた業に巻き込むわけにはいかぬ。呪われ黄泉へ引きずり込まれるべきはこの身だったのだ。媛巫女ではない。憐れな次郎でもない。そして、そなたでもないのだ」
「想ってはならぬ方を想うことが呪われた業ならば、この身はとうに奈落に落ちております」
萱は、わずかに震えながらも、はっきりと口にした。
惣太の妻を恨みの鬼にし、影患いに追い込んでしまったのは、他でもない自らの業だ。たとえ全てが終わった今となっても、神罰を受けることはなくとも、その事実を変えることはできない。
春昌は、わずかに顔の険しさを緩めた。否定しないことが、彼が萱の言い分を認めていることを示している。
「春昌様。苦しまれるあなた様を、同じ浄めの力を持つ私の元へと導かれたのは、媛巫女様だとお思いになりませぬか」
夏のように、三根のように、すべてを投げ打ち想いのままに慕う相手の胸に飛び込むことは、萱にはできない。自らが媛巫女に立ち替わる存在だとうぬぼれているわけでもない。だが、せめて一刻でもかまわない。私にできることをさせてくださいませ。萱は祈るように春昌を見つめた。
「媛巫女の真似事はそなたの本分ではない。その様なことを度々すれば、すぐに周りにこの世ならぬものが集い、身動きが取れなくなる。心を煩わさずに、そなたの定めを生きよ」
「そして、あなた様おひとりで、全ての苦しみを背負われるおつもりですか。せめて、ここにおられる間だけでも、重荷を下ろして楽におなりくださいませ」
春昌は、月から視線を移し萱を見た。
「楽になどならなくていいのだ。ここで安らぎを得るのも過ちだ。私は赦しの道を探しているわけではないのだから」
揺るぎのない強い光を放つ瞳を見て、彼女はこの男が彷徨いながら探しているものが何かを理解してしまった。嘆きせめぐその魂は、もはやなんの希望をも持っていなかった。
萱は彼を救うことができない。彼の願いはひとつだけなのだ。呪われた身を横たえ二度と目覚めぬこと。罪に穢れた屍を受け入れてくれる土地神を探すこと。
「そのようなことを、おっしゃらないでくださいませ」
絶望に打ちひしがれて、萱は伏した。
彼は女の涙には揺るがなかった。一刻も早くここを去ろうとするのは、大きくなりすぎた萱との縁を断ち切るためなのだ。
「萱どの。そなたは、私と次郎に善く尽くしてくれた。その恩に報いることのできるものを私は何ひとつ持たぬ。だが、もし、私の力でそなたの恩に報いることができるのならば、どんなことでも願い出てほしい」
萱はたったひとつの願い事をした。それが、春昌が果たしたという約定だった。
萱は、紙に包まれた一房の髪を手に取った。別れ際に見た彼の髪にこれほど白いものは目立っていなかった。伊勢にたどり着くまでに、どれほどの新たな苦しみを抱いたのであろう。目の前の次郎もまた、少し歳をとった。だが、故郷へ戻る彼の氣焔には、以前よりも朗らかで暖かいものがにじみ出ている。
「次郎どの。春昌様のお言葉をお伝えくださり、誠にありがとう存じます。また、大切なご遺髪をお譲りいただき、謝するにふさわしき言葉もございません」
次郎は、声を詰まらせながら、萱の心を慮った言葉を綴った。この春昌と媛巫女に忠実な侍者が、わざわざ伝えに来たのだから、春昌が我が身を忘れなかったのもまことであろうと思った。次郎や、他の者が思っているのとは違うとはいえ、確かに彼と萱は特別な縁で結ばれていた。
そして、次郎もまた、この若狭で、長く苦しい旅に値する縁を見いだしたのだろう。
「次郎どの。あなた様と三根のこと、私に一切遠慮をなさらぬように。三根の恩義はもう十分に返してもらいました。どこへ行こうとあの者の心のままです」
次郎は、萱に許しを願い出る時機を迷っていたのであろう。顔を真っ赤にして、また畳に何度も頭をこすりつけた。
遠からず、次郎は新しい旅の道連れと、奥出雲への旅路に出るであろう。たち止まり根を張ることも、赦され安らかに生きることもない、終わりの見えなかった旅は終わろうとしている。誤って大切な媛巫女を死なせた苦しみは、彼の主人が全て背負い、伊勢の弔うものもない廃寺で朽ちていこうとしている。
次郎が下がった後、萱はかの板間に座り、春昌の遺髪を今ひとたび見つめた。それはすでに魂なき物であった。青紫の氣焔も、若緑のそれも、もはや感じることはなかった。彼の願い、せめぎ苦しんでいた魂の渇望は、ようやく成就したのだ。萱が言霊で縛り付けた、長い苦しみの果てに。
萱が彼に願ったのはたった一つだった。
「生き続けてくださいませ。決して自尽はなさらないでくださいませ」
彼は、萱の残酷な願いを了承した。流行り病で命を落とすまで、彷徨い生き続けた。そして、いま萱は、彼のいない現し世に虚しくひとり立っている。
忙しく働く使用人たちの声が耳に入る。萱は、遺髪の包まれた紙をそっと胸元にしまうと、立ち上がり表へと向かう。もう一度若狭の海を振り仰いでから襖戸を閉めた。
(初出:2021年3月 書き下ろし)
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