【断片小説】樋水の媛巫女
今週は、小説爆弾の連続投下になってしまっています。「scriviamo!」が終わりに近づいてきているのと、新連載の準備と、Stellaの投稿週間が重なっているためです。まあ、全部お読みになっている方もいらっしゃらないかとは思いますが、いらっしゃったらさぞ大変だと思います。すみません。
本日発表するのは、官能的な表現が一部含まれているためにこのブログでは公開していない「樋水龍神縁起 第一部 夏、朱雀」の中から、「樋水の媛巫女」の章です。先日のエントリーでも書いたように、このシリーズの舞台は基本的に現代なのですが、この章だけが千年前の平安時代の話です。「樋水龍神縁起」本編、それから三月からこのブログで公開予定の「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」のストーリー上、かなり重要なエピソードです。そして、実は本編を読んでくださったブログのお友だちTOM-Fさんが、この章の登場人物を使って「scriviamo!」参加の作品を書いてくださる事になりましたので、その前にこちらでこの章を公開する事にしました。(この章はR18ではありませんので、ご安心ください)
この章は、「千年前に何かがあった」というだけのストーリーです。私の他の短編小説のように、何かを伝えようというようなテーマなどはありません。ただ「樋水龍神縁起」本編や「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」の中で重要なモチーフである樋水龍王神社の、それどころか「大道芸人たち Artistas callejeros」にすら出てくる伝説の話ですので、当ブログの常連の皆様には、ぜひご紹介したい部分なのです。
fc2小説「樋水龍神縁起 -第一部 夏、朱雀」
fc2小説「樋水龍神縁起 -第二部 冬、玄武」
fc2小説「樋水龍神縁起 -第三部 秋、白虎」
fc2小説「樋水龍神縁起 - 第四部 春、青龍」

関連記事はこちらとこちら
「樋水龍神縁起 第一部 夏、朱雀」より「樋水の媛巫女」
「九条様について来られた陰陽師とはあなた様でございますね」
振り向くといつの間にか、女がそこに立っていた。緋袴に白い単衣姿、今羽化したばかりの蝉の羽のように白とも薄緑ともつかない紗の被衣から見えるのは紅色の口元だけであった。
奥出雲は考えた以上に原初の森の姿を留め、緑滴り蝉が激しく鳴く。樋水龍王神社という特別の神域を囲み、この森は不思議な清らかさに満ちていた。その神々しい氣に圧倒されていたとはいえ、安達春昌は今まで氣配なく背後に人に立たれたことなどなかったので、ひと時氣色ばんだ。
だが氣を沈め冷静に観察してみることにした。その女の身につけている衣は全て上等の絹だった。身分は低くないらしい。しかし、どこかしっくりこないところがあった。理由はすぐにわかった。それは口元だった。深紅の形のいい唇から見えている歯が童女の如く白かったのだ。それから、身丈の倍ほどにも広がる清冽な薄桃色の氣を感じて、それではこれが噂の媛巫女かと納得した。安達春昌は、下男を通して媛巫女に力を貸してほしいと願い出たところだった。
「樋水の媛巫女様とお見受けいたします。安達春昌と申します。ご挨拶が遅れまして申し訳ございません」
「九条様はこの奥出雲に何をお持ち込みになられたのか。ただいま『やすみ』のはずの龍王様が穏やかならず解せませぬ」
「山越えの際、北の方にキツネが憑きました。旅路故、私一人の
「キツネごときに龍王様の眠りが妨げられるとは思えませぬ。誠にキツネなのでございましょうか」
女の声音は凊やかで心地よかったが、その言葉は力に満ち明快であった。女は被衣をわずかにあげて、訝しそうに春昌をみた。その時に、媛巫女の顔が見え春昌は思わず息を飲んだ。
黒耀石ほどに黒く艶のある双眸がこちらを見ていた。白い肌に黒い瞳と描いていないのに均整のとれた眉と紅の形のよい唇が映えている。春昌は美しいと評判の幾人かの姫君のもとに忍んだこともあったが、未だかつて手を入れていない生まれたままの顔でこれほど美しい女に遭ったことはなかった。
媛巫女は龍王に捧げられた特別な女で、それゆえ人間の男のための化粧は必要ではなかった。眉を剃ることも、お歯黒をすることもなかった。だが、それ故にその生まれながらの浄らかさが極限までに高められ、本来の美しさを神々しさにまで高めていた。京で位が低い高い、呪に長けているいないと、人の世の迷いごとに日々を費やしている春昌には、この媛巫女が手の届かぬ神の域に属する特別な女であることがすぐにわかった。
媛巫女は、その間安達春昌を見つめていたが、やがて言った。
「陽の氣に長けておられる。神の域のこともお見えになるとお見受けします。蟇目神事も形だけではなく誠におできになられるのですね」
「媛巫女様のお力には遥かに及びませぬが、多少の心得がございます」
「私に蟇目神事はできませぬ」
媛巫女ははっきりと言った。安達春昌は、意外な心持ちで媛巫女の次の言葉を待った。
「私は浄め、鎮め、そして龍王様にお任せするのみでございます。キツネを鎮めることはできますが、消すことはできませぬ」
「私はいたしますが、困っているのは北の方様に蟇目の矢を放つことはできないことでございます。もとより私には御簾の中に入ることも叶いませぬ。媛巫女様のお力でキツネのみを御簾の外に連れ出すことはできませんでしょうか」
「出来ます。が、その祓いは為さねばなりませぬのか。いま、この樋水にて」
「九条様は近く二の姫が東宮妃としてご入内される大切なとき、方違えでこの出雲に参られましたが、キツネをつれて帰ったとあっては主上さまもお怒りになられましょう。なんとしてでもこの一両日中に祓わねばなりませぬ」
媛巫女は、主上と聞き、ふと胸元の勾玉に手を当てた。ああ、それではこれが下賜されたという奴奈川比売の勾玉か、春昌は聡く考えた。
「そうとあれば致し方ありませぬ。しかし、ただいま龍王様の『やすみ』ゆえに神域での祓いは禁じられております。従って北の方が神社にお越しになるのはお断りいたします。私の方から戌の刻に九条様のもとに伺いましょう。蟇目神事のご用意をなさりお待ちくださいませ」
そういうと媛は来たときと同じように氣配なく森に姿を消した。安達春昌は蟇目神事の前だというのに、媛に心奪われてしばらくその場に放心して立ちすくんでいた。
九条実頼は、媛巫女の来訪にことのほか満足の意を表した。氣に入っているとはいえ、位の低く家柄もとるに足りぬ安達春昌は陰陽師として完全には信用しきれなかった。特に入内前のこの大切な時期に北の方が狐憑きで京には戻れない。だが、龍王の媛巫女が来てくれたたとあれば、もう祓いは済んだも同然だった。この媛巫女は昨年、親王の病を癒やすように主上の命を受け、奥出雲から身を離れて内裏に現れ親王を浄め、その礼に神宝である奴奈川比売の勾玉を下賜されたのである。
「樋水龍王神社の瑠璃と申します。右大臣さまには、ご挨拶が遅れまして、まことに申し訳ございません。ただいま龍王様の『やすみ』の時ゆえ、神域では通常の神事が禁じられております。それゆえ、ご挨拶は控えさせていただいておりました。『やすみ』はあと二ヶ月続くはずでございましたが、昨日、龍王様がお出ましになり、本来神域にあるべきでないよどみの存在が明らかになりました。それ故、安達様のお導きで、こうして私が蟇目神事のお手伝いにまかり越しました」
「それは、それは。どうかなにとぞお力添えを」
瑠璃媛は供の次郎とやらを一人を連れて、神域の外にある九条の滞在先にやってきたのであった。春昌は遥か後方に控えていたが、瑠璃媛が側を通るときの衣擦れの音、わずかな沈香の漂い、そして灯台の炎に浮かび上がる媛の白い横顔に心をときめかせていた。長く黒い髪が媛の目と同じ黒耀石の輝きを放っていた。
毎夜亥の刻に現れるキツネを祓うために、媛は北の方の寝室にて待ち、春昌は次郎とともに御簾の外で待つ。右大臣は自分の寝室に下がり、朝に報告をすることとなった。
静かな夜であった。蝉が合唱をやめて風が樹々をならすだけになると、奥出雲の清冽さがさらにひしひしと感じられた。北の方の寝息と灯台の炎の音だけが暗闇に響くが、媛巫女の氣配はどこにも感じられなかった。春昌は長い待ちの時間にわずかでもいいから美しい媛巫女を感じたいと思ったが、それは叶わぬ願いであった。
やがて剣呑な目つきで春昌を見ていたはずの次郎が突然意識を失った。それでキツネの到来がわかった春昌は急いで自らの氣配を消した。そうせねば自分もキツネに眠らされてしまうであろう。北の方が不氣味なうなり声をあげだすと紗の衣擦れがして、瑠璃媛が動いたのがわかった。
御簾の向こうだったにもかかわらず、目ではない目で観察を始めた春昌には瑠璃媛とキツネの対決がはっきりと見えた。キツネは恐るべき
北の方が布団の上に崩れ落ちる音がしたと同時に、御簾の中から瑠璃媛がでて来た。水晶を春昌の先の庭の方に向けて差し出し、頷いた。鏑矢を引き絞り水晶の方向、瑠璃媛を傷つけないように慎重に狙った。そして納得がいくと「いまぞ!」と合図を出した。水晶からキツネが躍り出てきたが、その時には鏑矢に刺し抜かれて、庭の老木にあたり、キツネの霊は霧散した。
その衝撃で、瑠璃媛は倒れた。目を覚ました次郎が駆け寄るよりも速く、春昌はすでに瑠璃媛を抱き起こしていた。その時、三人ともまったく予想していなかったことが起こった。
春昌と瑠璃媛が触れた部分が乳白色に輝き、二人ともそれまで感じたことのない不思議な感覚が走ったのだ。瑠璃媛は驚いて身を引くのも忘れ、春昌に抱きかかえられたままになっていた。春昌の方は、完全に瑠璃媛に魅せられてしまい、しばらくはやはり離すこともできないでいた。次郎が最初に我に返った。
「この無礼者め! 媛巫女様から離れぬか!」
その声に、瑠璃媛が我に返り、身を引いた。
「およし、次郎。私は大丈夫です。春昌様に失礼なことをしてはなりませぬ」
それから、おびえた目つきで春昌を見た。春昌は、混乱したまま無礼を詫びた。瑠璃媛も動揺を隠せないまま、北の方のご様子を見なくてはならないと、御簾の中へと入っていた。
春昌は熱にうなされた目で、瑠璃媛の後ろ姿を追いかけ、御簾の中の媛をもう一つの目で見た。媛の氣が大きく広がり、やはり広がった自分の氣と触れ合っているのを見ることができた。その二つの氣はねじれあい一つになった。
右大臣と北の方は大喜びで京に帰っていった。本来は安達春昌も一緒に帰る予定だったが、穢れを落としてから帰ると口実を作り、数日の猶予を願い出てひとり奥出雲に残った。穢れなどどこにもついていなかった。あの夜、瑠璃媛を送り届けて、神域の外で別れた後、瑠璃媛の幻影に心うなされながら森を通っている時、不意に今でかつてないほどに完璧に浄められていることに氣がついた。全ての穢れが消え失せていた。龍王の御覡に触れて、あの不思議な白い光を浴びたからだ、春昌はそう思った。京にこのまま戻るわけにはいかない。このまま、あの媛と離れるなどできぬ相談だった。
安達春昌は、右大臣が貧しい貴族の娘に生ませた四の君を狙っていた。上手く右大臣に取り入れば、陰陽寮で賀茂家に劣らぬ地位に就けてもらえるやも知れぬ、そう考えていた。そして自分はそうあってしかるべき力を持っていると自負していた。
陰陽寮には自分より上位にもかかわらず、下等な霊すらも見ることのできない者たちがたくさんいた。これだけの力をもち努力をしている自分の家柄が低いというだけで取り立ててもらえないのは不公平だと感じていた。この奥出雲の方違えで右大臣に取り入れば、四の君との結婚が許されるかもしれない、危険を冒してものキツネ祓いももちろん打算があってのことだった。だが、もはや四の君のことは考えなくなっていた。春昌は生まれて初めて計算なしに女に惚れた。もちろん計算が完全になくなったわけではなかった。自分の価値を高めるのには落ちぶれた四の君なんかよりも、主上の覚えのめでたい特別な媛の方がいい。春昌は、森の奥の神社の神域を目指してうろうろと歩き出した。
その頃、瑠璃媛は、混乱の極みに陥っていた。次郎と神社に戻ってから、瑠璃媛の心には一瞬たりとも平穏な時がなかった。龍王の『やすみ』の時にはしないことではあったが、龍王が起きていることを知っていたので、瀧壺のある池に入り龍王を探した。龍王は眠っておらず、瑠璃媛が水の中に入るときはいつもそうするように、近くへと寄ってきたが、いつものように共に泳いだりはせずそのまま瀧壺へと姿を消した。
瑠璃媛は、水から上がり、拝殿で意識を神域に同調させようとした。普段なら媛と森は直に一体となり、そこに龍王が喚び憑るはずだった。だが瑠璃媛は森に同調できなかった。瑠璃媛の心には別の存在が住んでいた。瑠璃媛は『やすみ』の龍王が即座に起きたほどの神域における異物とはあのキツネではなかったことを知った。それは安達春昌その人だった。あの晩の、あのときを境に、龍王はその御覡を失った。瑠璃媛は恐ろしさにおののいた。恋は、龍王の巫女として生まれた瑠璃媛にとっては破滅でしかなかった。
神域には入れなかった安達春昌は、奥出雲を離れる前にせめて一目でもと想い詰めて、旅支度をしたままはじめて瑠璃媛と出会った森の外れに向かった。逢いたくて、逢いたくて、意識を集中して瑠璃媛を呼んだが、森はその入り口を深く閉ざし春昌を拒むように立ちふさがった。どうしても出なくてはならない時間を半時も過ぎてから、ようやく春昌は京へ向かうべく道を折り返した。
森を振り返り振り返り、丘まで来るとそこに見覚えのある紗の被衣の女がひとりでひっそりと立っていた。
「瑠璃媛……」
「お別れに参りました」
わずかに見えている口元の横を涙が伝わったのを見た春昌は、我を忘れて媛を抱き寄せた。
「なりませぬ」
泣きながら抗議する瑠璃媛は、しかし、自ら離れようとはしなかった。媛はやがてはっきりとした声で言った。
「私を殺めてくださいませ。あのキツネにしたように、私を消してくださいませ」
「なぜ、私がそなたを殺めねばならぬのか」
「私は、人をお慕いしてはならぬ身でございます。春昌様にもご迷惑がかかりましょう」
「迷惑などかからぬ。二人で京へ登ろう。陰陽師の妻として京で暮らせばよいではないか」
「私は、ここを離れては十日と生きられませぬ。春昌様。せめて一目お会いしてお別れを申し上げたくて参りましたのに」
「愚かなことを言うな。そなたは私とともに来るのだ。嫌だと言っても盗んで連れていく。それでたとえ主上の怒りを買ったとしても構わない」
春昌は瑠璃媛を馬に乗せて、自分も跨がるとそのまま奥出雲を離れ、京を目指す道へとひた走った。樋水龍王神社の御覡を盗みだしてしまったことの重大さに氣づいたのはずっと後だった。そのときは他のことは何も考えていなかった。瑠璃媛は自分のしていることをはっきりと自覚していた。人からならば運がよければ逃げおおせることができる。だが、運命からは何人も逃げられはしない。瑠璃媛は自分に課せられた運命を受け入れていた。そして、その残りの時間のすべてを春昌と共にいることを選んだのだった。
空は燃えていた。丘の上に立ち、初めてみるこの広大な朝焼けに立ちすくむ。樋水の東にはいつも山が控えていた。瑠璃媛は朝焼けを見た事がなかった。これほど広い地平線も見た事がなかった。向こうに遠く村が見える。今まで一度も行ったことのない村。一度も会ったことのない人たち。そしてもっと遠くには春昌の帰りたがる京がある。
瑠璃媛にとって京とは極楽や涅槃と同じくらいに遠いところだった。そこに誰かが住んでいることは聞いた事があっても自分とは縁のないところであった。瑠璃媛にとって世界とは樋水の神域の内と外、奥出雲の森林の中だけであった。そこは瑠璃媛にとって安全で幸福に満ちた場所だった。
安達春昌に遭い、瑠璃媛はまず心の神域を失った。龍王とのつながりを失った。場としての神域と奥出雲を出ることで、氣の神域を失った。そして、安達春昌にすべてを与えたことで肉体の神域も失った。
瑠璃媛は今、あらゆる意味での神域から無力にさまよい出た一人の女に過ぎなかった。その類い稀なる能力をすべて持ったまま、それをまったく使うことのできない裸の女に変貌していた。
その心もちで、朱、茜、蘇芳、ゆるし色、深緋、ざくろ色、紫紺、浅縹、鈍色と色を変えて広がる鮮やかな空と雲を眺めて立ち尽くした。
春昌には媛の心もとなさがわかっていなかった。媛は京と素晴らしい未来に思いを馳せているのだと思っていた。春昌の人生は常に戦いだった。どんな小さなものも、全て勝ち取ってきた。貧しくつまらない家柄に生まれた、大きな能力と野心のある若者は、そうすることで人生を切り開いてきた。欲しいものは全て勝ち取れると信じていたし、今、較べようもなく尊いものを手にしたと誇りに思っていた。
春昌は自分のしていることを正しく理解していなかった。勝利に酔いしれ、昨夜の媛との情熱的な夜に満足の笑顔を浮かべて馬の手入れをしていた。
突然、森からひづめの音が聞こえた。
「神を畏れぬ盗人め、覚悟しろ!」
次郎が矢を引きつがえて春昌に向かっていった。春昌は無防備な状態だった。考えもしなかった攻撃にあわてて身を翻そうとした途端、放たれた矢と春昌の間に何かが割って入ったのを感じた。白い単衣と黒い髪が見えた。鈍い音がしてそれに矢が刺さったのがわかった。何があったのか理解できなかった。
必死で媛を抱きかかえた。安達春昌は矢を用いたりする武士ではなかった。だが、瑠璃媛がどのような状態にあるのかはすぐにわかった。蘇芳色の染みが白絹の亀甲紋を浮き上がらせていく。媛が息をするたびに、その染みは広がっていく。瞳孔が開かれ、額に汗がにじみ出る。白い顔は更に白くなり、唇はみるみる色を失っていく。
「媛、瑠璃媛……」
「ひ、媛巫女様……」
よりにもよって命よりも大切な媛巫女を射てしまった忠実な次郎も、媛に劣らぬ青い顔になって、泣きながら寄ってくる。
「次郎……」
聴き取れぬほどのかすかな声で瑠璃媛は次郎を呼んだ。泣きながら次郎は駆け寄った。
「媛巫女様……、私はなんということを……」
「龍王様が、お定めになったこと……。お前のせいでは、ありません……」
「媛巫女様…」
「……私の最後の命を……きいておくれ」
「媛巫女様」
「お前の……命が終わるまで……春昌様を……わが背の君を……お守りして……」
「何を! もうよい、媛、口をきくな!」
春昌は泣きながら媛を抱きしめた。
瑠璃媛は最後の力を振り絞って、勾玉を握りしめ、春昌を見た。
「幸せで……ございました……。許されて……再び……お目にかかる日まで、これを……」
それが最後だった。瑠璃媛は動かなくなり、苦しそうな息づかいも果てた。二人の触れた時に起こる、既に当然となっていたあの白い乳白色の光と、不思議な感覚が、少しずつ消えていった。完全に何も感じなくなっても、まだ春昌は呆然と瑠璃媛を抱いていた。次郎の号泣も、馬の嘶きも耳に入らなかった。
昼前までに、次郎の涙は枯れ、春昌も起こったことを理解するまでになっていた。
「どうか、私めをお手打ちにしてくださいませ。私めが、媛巫女様を……この手で……」
次郎は春昌の前にひれ伏して涙声で言った。
春昌は、言葉もなく次郎を見ていたが、やがてぽつりと言った。
「媛巫女を、樋水までお届けしてくれぬか」
「………」
「こうなったのは、私のせいだ。瑠璃媛を龍王様のもとで弔わねばならぬが、穢れた私は神域に入りお届けすることができぬ。つらい役目だが果たしてくれぬか」
「春昌様は、そのまま行ってしまわれるのですか。私は春昌様のお側に居ねばなりませぬ。媛巫女様とのお約束を果たさねばなりませぬ」
「では、媛巫女の弔いが終わり、そなたが樋水に暇乞いをしてくるまでここで待とう。戻ってこずとも、他の刺客とともに戻ってきても構わぬ。瑠璃媛なくして一人で生きのびたいとは思わぬ」
次郎は、馬に媛巫女の亡がらを乗せ、樋水へと戻っていった。安達春昌は翡翠の勾玉を抱きしめたまま、七日七晩その場で次郎を待った。眠りもせず、食事もとらなかった。意識を失っていたが、次郎に世話をされ息を吹き返した。
それから二人は京には登らず東を目指した。村と村の間を歩き、半ば物乞いのごとく、半ば呪医のごとく過ごした。安達春昌は、その後二十年ほど生き、伊勢の近くの小さな村で、はやり病により死んだ。
最後まで手厚く看病をした次郎は、言われた通り亡くなった廃堂の裏手に主人と翡翠の勾玉を目立たぬように埋め、そのあと樋水龍王神社に戻りそこで生涯を全うした。
瑠璃媛が亡くなった後、樋水では安達春昌を逆賊として呪詛する動きがあったが、夜な夜な神として祀った媛の霊が現れ泣くので、次郎が戻った後、安達春昌を媛巫女神の背の神として合祀することとなった。それ以来、樋水龍王神社の主神は、樋水そのものである龍王神と媛巫女神瑠璃比売命、背神安達春昌命の三柱となった。
【小説】「樋水龍神縁起」 外伝 — 桜の方違え — 競艶「妹背の桜」
「scriviamo!」の第十三弾です。TOM-Fさんの小説と一緒にStellaにもだしちゃいます。
TOM-Fさんは、「樋水龍神縁起」の媛巫女瑠璃を登場させて「妹背の桜」の外伝を書いてくださいました。ありがとうございます!
TOM-Fさんの書いてくださった小説『花守-平野妹背桜縁起-』「妹背の桜」外伝 競艶 「樋水龍神縁起」
現在TOM-Fさんが執筆連載中の「フェアリ ーテイルズ・オブ・エーデルワイス」は舞台がロンドンで、「大道芸人たち」のキャラが押し掛けて、当ブログ最初のコラボ作品を実現する事が出来ました。TOM-Fさんはとても氣さくで、「コラボしたい〜」という無茶なお願いを快く引き受けてくださったのです。ですから今回のコラボは二度目です。TOM-Fさんの「妹背の桜」は、私と交流をはじめる前に完結なさっていた小説です。もともとは天平時代の衣通姫伝説を下敷きにしているミステリー風味のある時代小説ですが、設定上は平安時代のお話になっています。そこで確かに「樋水龍神縁起」の二人と時代が重なるわけです。
お返しは、最初はストレートに瑠璃媛を出そうかと思ったのですが、この女性、この時点では出雲から一歩も出たことのない田舎者ですし、キャラ同士の話の接点が作れません。そこで思いついたのが、もう一人の主役、安達春昌。こっちはフットワークも軽いですしね。TOM-Fさんの「妹背の桜」からは橘花王女と桜を二本お借りしました。ありがとうございました! 『花守-平野妹背桜縁起-』を受けての桜の移植がメインの話になっています。
もっとも、「瑠璃媛」だの「安達春昌」だのいわれても、「誰それ?」な方が大半だと思います。「樋水龍神縁起」本編は、FC2小説と別館の方でだけ公開しているからです。だからといって、「scriviamo!」のためだけにこの四部作を今すぐ読めというのは酷なので(もし、これで興味を持ってくださいましたら、そのうちにお読みいただければ幸いです)、一部を先日断片小説として公開いたしました。この二人は基本的に本編にもここにしか登場しないので、手っ取り早くどんなキャラなのかがわかると思います。ご参考までに。
この小説に関連する断片小説「樋水龍神縁起 第一部 夏、朱雀」より「樋水の媛巫女」」
「scriviamo!」について
「scriviano!」の作品を全部読む
官能的表現が一部含まれるため、成人の方に限られますが……「樋水龍神縁起」四部作(本編)は別館にPDFでご用意しています。

「樋水龍神縁起」 外伝 — 桜の方違え — 競艶「妹背の桜」
——Special thanks to TOM-F-SAN
退出する時に、左近の桜をちらりと見た。花はとうに散り、若々しい緑が燃え立つが、特別な氣も何も感じない、若い桜だ。ただ、南殿にあるということだけが、この木に意味を持たせている。殿上人たちと変わりはない。今これから動かしにいく大津宮の桜も同じであろう。かつての帝が植えさせたというだけ。斎王を辞したばかりの内親王に下賜され、平野神社に遷されるのだそうだ。木の方違えとはいえ、師がご自分で行かないということは、やはり大した仕事ではないのであろう。
安達春昌は二年ほど前に陰陽寮に召し抱えられたばかりの年若き少属である。彼は安倍氏の流れもくまず賀茂氏とも姻戚関係はなく、安達の家から御所への立ち入りを許された最初の者であった。従って、本来ならば殿上人にお目見えする機会などもないはずであったが、あらゆる方面にすぐれた知識を持つだけでなく、陰陽頭である賀茂保嵩がここぞという祓いにかならず同行するので、すでに右大臣にも顔と名を知られていた。とはいえ、彼はいまだに従七位上である陰陽師よりも遥かに下位の大初位上の身、昇殿などは望むべくもなかった。
春昌は野心に満ちて驕慢な男であったが、陰陽頭に対しては従順であった。摂津にいた彼を見出し、その力を買って陰陽寮に属する見習い、得業生にしてくれたのは他でもない陰陽頭であった。それは彼の力が見えているということだった。実をいうと、陰陽寮には「見えるもの」は数名のみであった。見えていない者が判官となり助となっていることは春昌を驚かせたが、彼の力と野心をしても、いまだに陰陽師どころか大属への道も開けなかった。生まれ持った身分で人生が決定するこの世の常は、彼を苦しめた。はやく手柄を、明確な力を示す実績を。春昌は焦っていた。
それだというのに、桜の方違えだ。御所の庭にも《妹背の桜》と言われる桜が植わっている。大津の同じ名で呼ばれる桜とともに平野神社へ遷されるという木で、もともとは二本揃って吉野に立っていたものだと聞かされた。春には滴るごとく花を咲かせ見事な木ではあるが、それだけのことで陰陽寮の者による方違えが必要とも思えぬ。同じような木であるならば、何ゆえ師は、この私に大津へ行けなどと申し付けられたのか。
「よいか。今、私と安倍博士は御所を離れられぬ。ここしばらく皇子様の瘧、甚だしく、しかも祓っても祓っても、よからぬものが戻ってくる。だが、あの桜の方違いに『見えぬ』陰陽師を遣わすわけにはいかぬ」
陰陽頭みずからにそういわれては、「私めも皇子様の祓いに加わらせてくださいませ」とは言えなかった。
「その桜には、何かが取り憑いているのですか。平野神社に遷す前にそれを祓えばいいのでしょうか」
春昌が、手をついて伺うと、陰陽頭は小さく首を振った。
「確かに特別な桜だが、何も祓う必要はない。祓うなどという事も不可能であろう。平野神社に着くまでに、怪異が起らぬように、そなたが監視すればそれでよい」
なんだ、やはり大したことのない仕事か。その思いが顔に出たのであろう、陰陽頭はじっと春昌を見て、それから、つと膝を進めた。
「春昌、そなたに言っておくことがある」
そして、安倍天文博士に目配せをした。頷いた博士はその場にいたすべての者を連れて部屋を出て行った。
「春昌。そなた、ここに来て何年になる」
陰陽頭は、厳しい表情の中にも、暖かい声色をひそませて、この鋭敏な若者を見つめた。
「故郷でお声をかけていただいてから、八年に相成ります」
「その間、そなたは実に精励した。文字を読むのもおぼつかなかったのに、寝る間も惜しみ、五経を驚くべき速さで習い、天文の複雑な計算を覚え、医学や暦、宿曜道に通じた。他のものには見えぬ力も、強いだけで制御もままならなかったのに、たゆみなく訓練を続け、符呪をも自由に扱えるようにもなってきた」
思いもよらなかった褒め言葉に、春昌は儀礼的に頭をもっと下げた。
「だが、陰陽師になるには、それだけではだめなのだ」
春昌はその言葉を聞いて、弾かれたように師の顔を見た。陰陽頭の顔は曇り、目には哀れみの光がこもっていた。
「忘れてはならぬ。そなたの未来を阻んでいるのは、特定の人や、生まれついた身分などではない。その驕り高ぶった、そなたの不遜な態度なのだ」
「師。私は決して……」
「言わずともよい。そなたはまだ若く、私の言う事を腹の底から理解する事が出来ぬのはわかっている。だが、大津に行って、あの桜に対峙しなさい。あの痛みを感じるのだ。今のそなたに必要なのは、一度や二度の皇子様の祓いに参加する事などではない。よいか。大津に行かせるのは、そなたのためなのだ」
近江は忘れられた京だった。造営の途中で戦乱となり、打ち捨てられたために、にぎわいを見せたこともなく、ただ大津宮が近淡海を見下ろすように立っている。摂津より京に上がった春昌は、近江には二度ほどしか来たことがなかった。一人でここまで来るのははじめてだった。
伴としてついてきた下男に馬を任せ、春昌は大津宮にほど近い丘の上から近淡海を見渡した。なんという開放感。いつもの京の雑踏、光の足らぬ陰陽寮での息を殺した測量と卜占・術数が、どれほど氣をめいらせていたかがわかる。心を割って話せる友もなく、取るに足らぬ家に生まれたくせに生意氣な奴と蔑まれる日々に疲れていた事にもはじめて思い至った。
師が言わんとした事は、わかったようで、はっきりしなかった。
得業生となったのは私よりも後なのに、左大臣様の姻戚というだけで、あっという間に出世した判官どのや助どの。彼らに対して隠そうとも燃え立ってしまう妬みの氣を、師は見ていたのかもしれぬ。春昌はため息をついた。
視線を背後の大津宮に移そうとして、ふと氣配を感じた。
「だれ……。あなた? あなたなの? ようやく、来てくださったの……」
なんだ、この氣は? それは突然、風のように増幅して、丘の上を満たした。この季節に咲いているはずのない満開の桜の氣だった。これが師のおっしゃっていた桜なのか?
春昌は、京で何度か陰陽頭とともに百鬼夜行をやりすごしたことがあり、禍々しいものを祓ったことも数多くあったので、怖れはしなかった。だが、それは悪意の漂う怨霊の氣配とはまったく異なるものだった。かといって、聖山に満ちる清浄な氣とも違っていた。
ねっとりとまとわりつく、真夏の宵のような氣、カミに近い清らかさはあるものの、どこかで感じた、もっと身近なものに似通う重さもある。
ああ、五条の芦原の女房だ。春昌は、愛想を尽かしてしまった品のない女のことを思い出す。
「お恨み申し上げます。私のことは、遊びだったのですね。これほどお慕い申し上げても、お返事もくださいませんのね」
涙で白粉がはがれ、それでもこちらの氣持ちが変わるのを期待するように、袖の間から覗く、どこかずる賢い女の視線。こびりつく妄執。離すまいと縋り付く、重い、重い、想い。
「おのれ。出たか」
春昌は、身構えた。だが、氣はそれ以上近寄ってこようとはしなかった、それどころか、急激に規模を小さくしている。
「なぜ……。私は、あなたを待っていただけなのに……」
春昌は、ひと息つくと、身を正して大津宮の門へと歩を進めた。そして、怖々と、しかし、氣を引かんとするように、こちらの身に度々触れる例の氣を感じながら、礼を尽くして訪問の意を伝えた。
「お待ち申し上げておりました」
中からは、年を経た郎党が深々と頭を下げて迎え入れる。何人かの老女と、桜の移植のためにすでに控えている人足たちが土に手をついて都からの陰陽寮職員を迎えた。
「実は、平野神社には前斎王様がお忍びでお見えになっており、この桜の到着を待っているとの報せがございました。長旅でお疲れの所、誠に申しわけございませんが、すぐにはじめていただきたいのです」
春昌は眉をひそめた。
「吉日である明日に事をはじめるよう、準備をして参りました。今すぐはじめるのであれば、再び方位を計算しなおさねばなりませぬ」
「それでも、是非」
「明日から始めたのでは、前斎王様の物忌みにさしつかえてしまうのです」
春昌は大きくため息をついた。わがままな内親王め。こっちの迷惑も考えろ。だが顔に出すわけにはいかない。まじめに計算しなおしていたら、明日になってしまう。彼は、腹を決めて、桜の木の助けを求める事にした。こちらにはありとあらゆる星神の位置を鑑みて計算しなければわからない事でも、この桜にははっきりわかっているはずだ。本人にとって大切な事なのだから、文句は言わずに教えてくれてもいいだろう。
彼は黙って、桜の前に座った。新緑の燃え立つ、葉桜だ。しかし、いまだに満開の花氣を発している。奇妙な木だ。師のおっしゃっていた意味が分からない。この木の痛みを感じる事がどうして私のためになるのか。
「私に何をしてほしいの?」
春昌は、声に出さずに、木に語りかける。
「今すぐに、あなたを平野神社に遷さねばなりませぬ。予定してきた明日の方位は使えませぬ。あなたにとって一番の移動の方位をお示しください」
「なぜ、ここにいてはいけないの? 私は、待っているのです。ここにいないと、あの方は私に帰り着かないでしょう」
「平野神社にお連れするのは、主上さまの御意志です。あなたをもう一本の桜と一緒にするためだそうです」
「どの桜?」
「あなたと同じく《妹背の桜》と呼ばれる御所にある桜です。確か、吉野ではあなたと一緒に立っていて、みまかりし先の帝がここと御所とに……」
「ああ、ああ、ああ」
春昌が語り終えるのを待たずに、桜の氣は再び大きくなった。激しい歓びの氣だ。
「今すぐに平野神社に行けば、また私たちは一緒になれるのですね」
急にハッキリとした意志を持ったかのように、桜は氣を尖らせてまっすぐに近淡海の南端を示した。その先には、石山寺がある。一夜を明かすのにふさわしい。そして、そこから再び折れてまっすぐに平野神社の方位を示した。春昌はかしこまり、その方位を懐紙にしたためた。
平野神社に着いたのは二日後の夕暮れだった。ねっとりとした女の氣に辟易しながらも、それにも慣れてきた頃だった。何ゆえにこの桜は、いつまでも満開の氣をしているのだろう。なぜ、これまで誰も祓おうとしなかったのだろう。明らかに、ただの桜ではないのに。旅の途上で春昌が思う度に、桜は責めるように、けれど、どこか誘うように生温い氣を這わせてくるのだった。それで、春昌は一刻も早く、物好きな前斎王にこの木を引き渡したいと願った。
平野神社には、驚いた事に、御所にあったもう一本の桜が既に届いていた。そちらは、当然のごとく花の氣ではなく、季節に応じた氣を漂わせていたが、御所で見た時のような凡庸なものではなく、内側から震えるように輝き、大津の《妹背の桜》を心待ちにしていた事がわかった。
「ようやく、ようやく、願いが叶った」
「ああ、やっと、ほんとうにお逢いできたのですね。あなた……」
すべての儀式を終え、退出の準備をしている所に、位の高そうな女房が近づいてきた。
「もうし……」
春昌が、かしこまると、前斎王様が直々にお逢いしたいと仰せだと春昌を本殿へと連れていった。春昌は言われた通りに、本殿の前に用意された桟敷の上に座り、頭を下げた。
御簾の向こうから衣擦れの音がした。
「どうぞ、頭を上げてください」
暖かく、深い声が聞こえてきた。名に聞こえた伝説の斎王がその場にいる。春昌は武者震いを一つした。
「無理を言った事をお許しくださいね。どうしても、一刻も早く桜を見たかったのです。主上さまや陰陽頭には私から重ねて礼を伝えさせていただくわ」
やれやれ。そうこなくては。春昌はかえって都合が良くなってきたと腹の内で喜んだ。
「あなたは、とても早く新しい方位を割り出してくださったと、みなが驚いていました。どうやったのですか?」
長く斎王をつとめ、賀茂大御神に愛された偉大な巫女ともあろう方が、このような質問をするとは。
「《妹背の桜》ご自身にお伺いしたのです。急な変更で、計算する時間がございませんでしたので」
前斎王は、はっと息を飲むと、衣擦れの音をさせた。御簾にもっと近づいたらしい。
「話をしたのですね。あなたは、桜と話せるのですね」
なんと、このお方は「見えぬ者」なのか。わずかに呆れながらも春昌はかしこまった。
「教えてください。桜はなんと言っていましたか。私の決定は間違っていないと言っていましたか」
春昌は、面を上げて、御簾の、前斎王がいると思われる場所をしっかりと見据えて答えた。
「ご安心くださいませ。かの桜の喜びようは、またとないほどでございました」
「桜が……喜んでいるのね」
「はい」
御簾の向こうから嗚咽が聞こえた。どれほど長い事、こらえていたのだろうか。引き絞るような深い想いだった。春昌は、御簾の向こうの前斎王の強い氣を感じた。それは、一瞬にして甦った過ぎ去りし時の記憶だった。春昌のまったく知らない人びとの幻影が通り過ぎる。衣冠をつけた若く凛々しい青年、華やかで匂いたつような美しい女、帝の装束を身に着けた壮年の男、高貴で快活な青年……。二本の桜から立ち昇る歓びの氣と、前斎王の記憶に混じる楽しさの底に、同じ哀しみが流れている。春昌が、これまで愚か者の妄執と片付けていた、ひとの情念。生きていく事そのものの哀しみと痛み。
ああ、師のおっしゃっていた、感じてくるべき痛みとはこの事なのだろうか。悼むというのは、この感情を持つ事なのだろうか。
前斎王がこの桜にどのような縁があるのかはわからなかった。だが泣いているということは、相当深い縁なのであろう。三人の帝に、斎王として仕えた長い人生。我々が知る事も出来ないほどの過去に、何かがあったのであろう。春昌は退出すると、狂喜乱舞しながら哭く二つの桜の氣を背中に感じて、京への帰途に着いた。
別れ際の前斎王の言葉が耳に残る。
「あなたのように、本当に能力のある人が、主上さまにお仕えしているのは、頼もしい事です」
「もったいなきお言葉です」
「つい先日、あなたのように素晴らしい能力を持った方にお会いしたわ。奥出雲で」
「樋水の媛巫女さまでございますか」
「ご存知なの?」
「滅相もございません。お名前を噂で漏れ聞くばかりでございます」
「そう。お美しい方でした。神に愛されるというのは、ああいう方の事をいうのね」
この私とは正反対だな。春昌は心の中で笑った。
「陰陽寮と奥出雲、場所も立場も違いますが、あなた方のような若い人たちに未来を託せるというのは嬉しい事です」
前斎王の声には、疲れが響いていた。長い人生。見てきた事、見続けるだけで果たせなかった事。未来を夢みる事のなくなった響き。
「私は、ようやくこれで、安心して眼をつぶれます。大切な二本の桜が私を弔ってくれる事でしょう」
帝の内親王として何不自由なく育った女の低いつぶやくようなささやきは、春昌の心にしみた。生まれの高いものを羨み、妬みや悔しさに身を焼く自分の苦しみは、この女にはなかったであろう。だが、そうではない痛みに長く貫かれてきたのだろうことは、彼にも想像できた。やんごとなき血に生まれようとも、何十年ものあいだ神聖なる社で過ごそうとも、人はやはり人なのだった。春昌もまた、陰陽寮にて市井では得られぬ知識を学び、他の者には見えぬものを見て祓うことができようとも、ひとの心の中にうごめく情念と哀しみは如何ともしがたかった。
人はみな、苦しみや哀しみと無縁ではいられぬのであろうか。呪を操る世界に生きるという事は、このような哀しみと痛みを感じ続けるという事なのだろうか。師のおっしゃっていたのは、こういうことなのだろうか。
彼は初夏の風を受けながら、魍魎のうごめく京へと戻っていった。大津の自由な風、歓びに震える桜の木の叫び、そして、哀しく終焉を待つ女の静かな祈りは春昌の中に残り、静かに沈んでいった。彼が陰陽頭である賀茂保嵩の推薦を受けてようやく陰陽師となったのは、それから二年後の事であった。
(初出:2013年2月 書き下ろし)
【小説】樋水龍神縁起 外伝 — 麒麟珠奇譚 — 競艶「奇跡を売る店」
「scriviamo! 2014」の第七弾です。大海彩洋さんは、人氣作品「奇跡を売る店」にうちの作品「樋水龍神縁起」のモチーフを埋め込んだ作品を書いてくださいました。ありがとうございます!
彩洋さんの描いてくださったイラストと小説『【scriviamo!参加作品】 【奇跡を売る店】 龍王の翡翠』

このイラストの著作権は大海彩洋さんにあります。彩洋さんの許可のない二次利用は固くお断りします。
彩洋さんは、主に小説を書かれるブロガーさんです。主にと申し上げたのは、発表しているのが主に小説だからで、今回いただいたイラストもそうですが美術にも造詣が深く、さらに三味線もなさる多才なお方。どうもお仕事もとてもお忙しいようなのですが、その間にとても重厚かつ深いお話を綴られています。「奇跡を売る店」は「巨石紀行」シリーズの記事にも見られる天然石への造詣の深さを上手に使われたシリーズ。彩洋さんの代表作である「真と竹流」大河小説(こういうまとめかたはまずいのかしら。詳しくは彩洋さんのブログで!)の並行世界のような別の世界です。
今回彩洋さんが取り上げてくださった「樋水龍神縁起」は、「大道芸人たち」と並ぶ代表作的位置づけの長編なのですがブログではなく別館での発表となっているために、ご存じない方も多いかと思います。昨年連載していた長編「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」とも共通の世界観となっています。この掌編だけ読んでも話は通じるかと思いますが、若干特殊な世界ですのでもう少し知りたいと思われる方もおられると思います。さすがにこの企画のために全部を読めというわけにも行きませんので、この下に「これだけ読んでおけばだいたいわかる」リンクを並べました。(ただし、『龍の媾合』については、本編と切り離した単純な説明はできませんので、興味のある方は本編をお読みくださいませ)
この小説に関連する断片小説「樋水龍神縁起 第一部 夏、朱雀」より「樋水の媛巫女」」
この小説に関連する記事「愛の話」
「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」 あらすじと登場人物
お返しをどうしようか、ちょっと悩みましたが、ごくストレートに「(『奇跡を売る店』の)お二人がここのものだと思われる石を持ってきた」で進めることにしました。もっともその前に登場するエピソードは平安時代のものです。はい、今回のためにまた創りました。彩洋さんが拾ってくださった「龍の媾合」の話は、ここでは思いっきりスルーしています。五千字前後でコラボ入れて、あの話まで突っ込み、かつ読んでいない方にまで納得させる話は無理。そのかわりに「龍の媾合」現象も含めた「樋水龍神縁起」でメインとなっている世界観について詰め込みました。
お時間があって読みたいと思ってくださった方はこちらへ
官能的表現が一部含まれるため、成人の方に限られますが……「樋水龍神縁起」四部作(本編)は別館にPDFでご用意しています。続編「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」のPDFもあります。

【長編】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero は、このブログでも読めます。
「scriviamo! 2014」について
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樋水龍神縁起 外伝 — 麒麟珠奇譚 — 競艶「奇跡を売る店」
——Special thanks to Oomi Sayo-san
深い森だった。男は鬱蒼とした下草を掻き分けるようにして進んでいた。逃げるあてはない。ここ数日、ほとんど眠っていない。検非違使からも追捕からも逃げ果せる自信があった。世話になった宮司からも。だが、彼女からは逃れられないのだ。逃亡の旅で疲れ果てた身体を横たえて目を瞑り眠りに落ちようとすると、すぐに現れる。
「牛丸。麒麟の勾玉を戻しなさい。そなたは自分が何をしたのかわかっていないのです。あれは単なる社宝ではありませぬ。神宝なのです」
「お許しくださいませ、媛巫女さま!」
牛丸は身を起こすとさめざめと泣いた。誠にあれはただの勾玉ではなかった。あの方もただの巫女ではなかった。次郎は正しかったのだ。
「よう次郎。俺もついに郎党になった。しかも、そなたのなりたがっていた宮司さま付きだ。これでようくわかったであろう。俺はそなたに劣る者ではない」
「牛丸。俺はそなたを劣っているなどと言ったことはないぞ」
「口に出さずとも、そなたも、母者も、いつも俺を見下している。本来仕えるべき神社の方々に逆らっている」
「逆らってなどいない。俺を媛巫女さま付き郎党にしたのも、そなたの母上を媛巫女さまのお世話をするように決めたのも、宮司さまだ。我々は、仕えるべき方にお仕えする本分をわきまえているだけだ」
「媛巫女さま、媛巫女さまって、まだ十二になったばかりの小娘ではないか。神のようにあがめおって」
「媛巫女さまはただの娘とは違う。言葉を慎め」
母も、次郎も同じ事を言った。彼は神に選ばれた巫女なんて信じなかった。幼なじみの次郎が多くの雑役を免除されて媛巫女の用事しかしないのも、母がめったに帰って来ないのもあの女がまやかしをするせいだと、忌々しく思うだけだった。宮司つきの郎党になっても、自らの扱いはさほど変わらず、美味い物も食えなければ、面白おかしいこともなかった。このままこの神社に縛られてこき使われるだけかと思うとぞっとした。
俺らの生まれた身分では神職にはなれぬ。いずれは村の娘と結婚し、父者や母者のようにお社にこき使われ、さらに同じ定めの子孫をつくるだけだ。心を尽くして勤めても未来永劫報われることなどない。だから、彼奴らの言った通りにお宝を持っていった。先日の祭礼で宝物殿を開ける所に立ち会った俺は、奴らにとっては願ってもいない内通者だった。あの勾玉一つで一生遊んで暮らせる金をくれると約束してくれた。
勾玉はあいつらに渡してしまった。受け取った金で楽しく遊んで暮らせたのは半月ほどだった。賭場で多くを失った。金を狙う奴らに襲われ、お社に捕まるのを怖れて村にも戻れず、いつ追っ手が来るかもわからず怯え、そして夜は媛巫女が悲しそうにじっと見つめて話しかけてくる。次郎は正しかった。宮司さまは俺が逃げだそうが盗もうが何もできない。だが、媛巫女さま、あの方は何もかもご存知なのだ。勾玉が宝物殿からなくなっていることも、他ならぬこの俺が盗ったことも。
牛丸はよろめきながら、暗い森の中を彷徨い歩いた。ガサガサっという音にぎょっとして振り返ると、暗闇に二つの目が浮かび上がった。狼だ! 怯えて逃げようと思ったが、下草に足を取られて倒れた。
几帳の向こうで微かな叫び声がした。次郎は瑠璃媛が起き上がるのを感じた。
「いかがなさいましたか、媛巫女さま」
瑠璃媛は声を震わせて答えた。
「次郎……。もうどうすることもできません」
「いったい何が……」
「牛丸はもうこの世におりません」
「なっ……!」
「媛巫女さま。こうなったら宮司さまにお知らせした方が……」
「それはなりませぬ。もし牛丸が単に失踪しただけでなく、あれを持ち去ったことがわかったらツタに類が及びます。それどころか、息子があんなことをしでかしたとわかったらツタは命を持って償おうとするでしょう」
「しかし、いつまでも麒麟の勾玉がなくなっていることを隠してははおけませぬ」
「次にあの勾玉が祭司に必要になるのは四十六年後。それまでは誰もあの桐箱を開けないでしょう。それまで隠し通せば、あれが牛丸の仕業とは知れないでしょう」
「しかし、勾玉が盗まれたままでいいのですか」
瑠璃媛は立ち上がると几帳の陰より出てきて、龍王の池に面して座った。爪のような有明の月が東の空に上りはじめていた。空はゆっくりと白みはじめている。
「龍王様におまかせしましょう」
「媛巫女さま! 龍王様がお怒りになるのではありませぬか」
瑠璃は宝物殿の奥に納めてある桐の箱の中に想いを馳せた。奴奈川比売が出雲に持ってきたとされる神宝、本来ならば五つの翡翠勾玉が絹に包まれて収まっているはずだった。だが、今は玄武、朱雀、白虎の三つしか入っていない。青龍の勾玉は遥か上代に朝廷に献上された。そして、麒麟の勾玉は牛丸に盗み出されて失われてしまった。
「ツタを守るための隠匿を龍王様がお怒りならば、その責めは私が受けましょう。よいか。宮司さまをはじめ、誰にも口外してはならぬ」
「お待ち申し上げておりました。私は当神社の宮司、武内信二と申します。この者は禰宜の関大樹、当社の社宝や故事に詳しいので連れて参りました。同席をお許しくださいませ」
二人の訪問者は軽く頭を下げた。ひとりは外国人で、もう一人は日本人青年だった。彼らは今朝、新幹線で京都を発ち、岡山発の特急やくも号に乗ってやってきた。松江からさらにバスで一時間ほど、ここが樋水村だった。過疎の寒村なのに、妙に立派な神社があった。それが彼らの目的、樋水龍王神社だった。本殿の奥に見事な瀧のある大きな池があり、その脇に小さな庵があった。
金髪に青灰色の瞳をした背の高い男は大和凌雲という名で、その見かけによらず流暢な日本語を話し、しかも黒い法衣に黄土の折五条を着けていた。京都の大原に庵を結ぶ仏師で仏像の修復師だと言う。同行者は友人の釈迦堂蓮だと紹介した。
「突拍子もない話にお時間を割いていただき、感謝しています。これが、お電話でお話しした石なのですが……」
凌雲は桐の小さい箱をそっと開けた。中から黄の強いひわ色をした透明な勾玉が姿を現した。武内宮司と関禰宜は思わず息を飲んだ。他の者に見えぬものを見る事の出来る二人は、その勾玉が並ならぬ氣を纏って輝いているのを見ることができた。
「次郎。宝物殿に行って、あの箱を持ってきなさい」
関禰宜は黙って頷き、静かに退出した。
「あの方は……」
蓮が首を傾げた。宮司は笑った。
「氣がつかれましたか。そうです。我々は彼を本名ではなくて、別の名前で呼んでおります。彼のたっての希望なのです」
蓮は落ち着かなかった。ここはどこか恐ろしい。空氣は澄み、池の水面は鏡のようなのに、心が騒ぐ。鳥居でも感じたが、奥に行けば行くほど落ち着かなくなる。この宮司もどこか妙だ。こちらを見透かすような目つきをしている。そして、変な名前で呼ばれたがる禰宜の様子はもっと変だ。勾玉を見た時の動揺はただ事ではなかった。
関禰宜は無言で再び入ってきた。少し大きい桐箱を捧げ持っている。浅葱色の袴をさっとはらって座ると、ゆっくりと桐箱を開けた。今度は蓮と凌雲が息を飲んだ。
中には白い絹に抱かれて四つの勾玉があった。
「これは……」
宮司は低い声で言った。
「奴奈川比売が大国主命に輿入れをした時に糸魚川より出雲に贈られたと伝えられている神宝でございます。もともとは大社に納められていたのではないかと思われますが、すでに平安時代には当社に納められるようになっておりました。このうち三珠は、記録されているかぎり、少なくとも千百年はこの村の外に出たことはございません。こちらの玄武の勾玉は黒翡翠、白虎の勾玉は白翡翠、朱雀の勾玉はかなり赤みが強いラベンダー翡翠です」
「こちらは青翡翠ですか」
蓮が訊いた。彼は貴石を扱う店と縁が深く、天然石の知識がある。糸魚川で青翡翠が産出するのは知っていたが、これほど透明でひびもシミもないものは見た事がなかった。
「ええ。この青龍の勾玉は、上代にその貴重さから一度朝廷に献上されたのです。今から千年ほど前に、現在当社でお祀り申し上げている御覡の瑠璃媛が親王の命をお救い申し上げた功で下賜されました。瑠璃媛の死後、もう一柱お祀り申し上げている背の君、安達春昌の手に渡り、以来、千年以上この神社を離れていましたが、四年前、千年祭の歳にこの神社に戻って参りました。四神相応の勾玉が揃ったのは実に千年ぶり、私どもの歓びはお察しいただけるでしょう。
「じゃあ、今日持ってきたこっちの翡翠は……」
蓮が凌雲を見た。仏師は宮司の方に向き直った。
「この翡翠はある木彫り像の中から発見された物です。言い伝えや資料によると、こちらの神社と縁があるということだったのですが」
「そう、当社にも、もう一つの翡翠の言い伝えがございます。四神は東西南北に対応いたしますが、その中心に麒麟を配した五神は陰陽五行と繋がります。当社にあったとされているもう一つの翡翠は麒麟の勾玉と申します。千年近く行方がわからず、青龍の勾玉と違ってなくなった経緯も不明でございまして、存在そのものが疑問視されておりました。黄色い翡翠ではないかと先代の宮司は申しておりましたが、なるほど、色・形・透明度どれ一つをとっても、四神相応の勾玉に引けを取りませぬな。失礼して……」
宮司は凌雲の持ってきたひわ色の勾玉を大きな桐箱の中央、四つの勾玉に囲まれた場所にそっと置いた。それと同時に宮司と次郎は、これまでの五つの勾玉から発せられていた氣が激しく増幅されて室内に虹色に輝く光が満ちたのを見た。
「えっ」
蓮は急に熱風のようなものに襲われた氣がして、思わず後ろに下がった。宮司と次郎はその蓮を見て頷いた。
「釈迦堂さんとおっしゃいましたね。あなたは怖れていらっしゃる、そうではありませんか」
濃い紫の袴をつと進めて言った宮司の言葉に蓮ははっと息を飲んだ。それから、凌雲の興味深そうな目を避けるようにしてそっぽを向いたが、やがて小さく頷いた。
「どういうわけかわかりませんが、この神社、そしてその勾玉、この勾玉の入っていた像の側で見た夢、すべてが心を乱し落ち着かなくするのです。厳しいこと、正しいことが待っているようでもありますが、正しくないこと、後ろめたいことが増幅される氣もします。神宝と言われるもの、格式の高い神社に対して失礼だとはわかっていますが」
「蓮……」
凌雲が何かを言おうとするのを押しとどめて宮司は言った。
「いいのです。この方がおっしゃっていることは、この神社の本質を指しています。あなたは正しくないこと、後ろめたいこととおっしゃったが、正しいことと正しくないこととを分けたのは神ではなくて人です。龍王神を奉じる我が社では、全てが同じだと説きます。あなたが怖れるのはそれがよくないものだと断じているからです。けれどそれは良いのでもなく悪いのでもない。生と死も、生命と物質も、男と女も、そして善と悪も、概念によって分けられていますがそれは人が理解するため、社会のために便宜上分けたものです。この神域ではその境目がなくなります。あなたは感受性が鋭く、それを感じ取られて不安に思われるのでしょう」
「是諸法空相不生不滅不垢不淨不増不減……」
凌雲が般若心経に通ずるものを感じて口にした。
「そう。その先には『心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃』とありますな。真に理とは、仏法も神道もなく、どの形をとりましてもひとつでございます。あなたが日本においでになり、不思議なめぐり合わせでこの翡翠をこちらにお運びくださったのも、実に尊いご縁です。次郎。どうだ、この勾玉は本物であると思わぬか」
次郎は両手で顔をおおい震えて頷いた。
「間違いございません……。媛巫女さま……」
千年前、老女ツタがもはやこの世にはいなくなっていた息子に再び会えるのを切望しつつ世を去ったとき、次郎は瑠璃媛に手をついて伺ったのだ。
「媛巫女さま。麒麟の勾玉が失われていること、今こそ宮司さまに打ち明けた方がよろしいのではないですか。時が経てば経つほど取り戻すのが困難になるかと思われますが」
瑠璃媛は忠実な郎党次郎をじっと見て低い声で答えた。
「そなたは私の言葉を忘れたのですか。私は龍王様におまかせすると言ったではありませんか」
「もちろん覚えております。でも、あれから五年も経っております。龍王様がそのおつもりなら翌日にでも戻ってくると思っておりましたが……」
媛巫女はそれを遮った。
「いつ取り戻してくださるかはそなたや私の知ったことではない。明日でも、千年後でも。龍王様におまかせするといったらおまかせするのです。人の時の流れを基にしたこらえ性でものを申してはなりませぬ」
あれから次郎の時もめぐった。彼自身の放った矢が、誰よりも大切だった媛巫女の命を奪い、青龍の勾玉と春昌も彼の前から姿を消した。再びこの世に生まれ、安達春昌と瑠璃媛の再来と同じ時を過ごした。だが、次郎には理解できなかったことに、大切な媛巫女の生まれ変わりも苦しみぬいて姿を消した。次郎は幾度も逡巡した。龍王様はなぜ媛巫女さまを幸せにしてくださらなかった。
だが、いま次郎の前には答えが、麒麟の勾玉があった。悠久の時を経て、何事もなかったかのように五珠の勾玉が虹色の氣を発している。千年前に目にした神宝だ。媛巫女さまはついに一度も五珠揃ったのをご覧にならなかったのに、この私が見届けることになるとは……。
「龍王様におまかせするのです」
「神域には善も悪もありません」
おっしゃる通りです。媛巫女さま。私はいまだに何もわかっていない卑しい郎党でした。お約束したように、私は牛丸のことを、この翡翠が失われた経緯を、誰にも語らずに墓場まで持って参ります。人ごときの短絡的な考えで、あなたを幸せにしてくれなかったことを恨むのではなく、あなたがそうなさったように龍王様に仕えて参ります。媛巫女さま、媛巫女さま、媛巫女さま……。
次郎が勾玉を前に哭き続ける姿を、三人の男たちは無言で眺めていた。
(初出:2014年2月 書き下ろし)
【小説】能登の海
「scriviamo! 2019」の第十三弾です。TOM-Fさんは、『花心一会』の外伝的な作品で参加してくださいました。ありがとうございます!
TOM-Fさんの書いてくださった 『天城越え 《scriviamo! 2019》』
TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。現在メインで連載なさっているのは、フィジックス・エンターテイメント『エヴェレットの世界』。ロー・ファンタジー大作『フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス』と、ハートフルな『この星空の向こうに』の両方の登場人物が集合し、物理学の世界で緊迫物語が展開しています。足りない頭ゆえ物理学の記述には既にすっかりついて行けていない私ですが、勝手に恋愛ものに読み替えて楽しませていただいています。そんなTOM−Fさんは、「scriviamo!」も七回にわたり皆勤、いつも全力で剛速球を投げてくださり、必死で打ち返しております。
さて、『花心一会』のヒロインと今回書いてくださった作品に登場する破戒坊主が邂逅する作品を以前書かせていただいたことがありますが、今回書いてくださったのは、その時に名前を挙げた方がメインになっています。そしてですね。お相手役と『花心一会』のヒロインが邂逅するお話を、TOM−Fさんは2016年の「scriviamo!」で書いてくださっているんですよ。で、その時のお返しに書いた作品と、今回の破戒坊主は、こちらの小説ワールドで繋がっているものですから、つい、輪を完成したくなってしまったというわけです。
しかし、それだけではちょっといかがなものかと思いましたので、せめてTOM−Fさんの作品と対になるようにしました。TOM−Fさんの作品は誰もが知っている石川さゆりの「天城越え」とリンクする作品になっているので、わたしもそういう話にしようと思ったのですね。それで三曲ほど候補をあげて、その中でTOM−Fさんに選んでいただいた曲をモチーフにしました。
同じく石川さゆりによるご当地ソング「能登半島」です。
「樋水龍神縁起 東国放浪記」を読んでくださっている方には、とんでもないネタバレになっています。どうして私は、本編発表まで黙っていられないのか、まったく。ものすごく自己満足な作品になってしまっていますが、「樋水龍神縁起」はいつもこうですね、すみません。ご容赦くださいませ。
【参考】

「scriviamo! 2019」について
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
樋水龍神縁起 外伝
能登の海
——Special thanks to TOM-F san
まだ夜も明けず暗いのに、行商人たちが騒がしく往来する湊の一角を抜けて、
萱は、足を停め振り返った。後ろを歩いていた連れも足を止めた。密やかに問いかける。
「まことに、行くつもり? どうしても留まるつもりはないの?」
水干に被衣、つまり中級貴族の子息を模した装束の女が頷く。
「はい。萱ねえ様。どうしても」
萱は、黙って頷くと、先を急いだ。作蔵の船はすぐにわかった。こんなとんでもないことを頼める船頭は、あの男を置いて他にはなかった。船には何人もの荒くれ者が乗っている。若くて美しく、世間知らずの娘が無防備に乗っていれば、羽咋の港に着く前に無事ではおられまい。
作蔵は、清廉潔白とは言いかねる男だが、萱は彼に十分すぎる貸しがある。その妹である三根が少領の家で湯女として働いていた時に、うつけ息子に手込めにされそうになり逃げてきたのをかばってやったのだ。平民ではあるが濱醤醢の元締めである萱には、少領の家の者も手は出せず、それ以来、三根は萱の元で働いている。
船の袂には、水夫たちに荷の運び込みを指示している頭一つ分大きな男の姿があった。
「作蔵」
萱の声に、作蔵はゆっくりと振り向くとニヤリと笑い、水夫たちを行かせてからこちらに歩いてきた。
「これは萱さま。まことにおいでになりましたな。三根から聴いております。では、そのお方が……」
「ええ。面倒をかけ申し訳ない。羽咋の港まで連れて行って欲しいのです」
「して、その後は?」
「港で降ろせばよいのです。後は、自らなんとかすると申している由」
「まことに? ここですら、お一人では船にも乗れないお方が?」
その言葉に、萱はため息をつき、世間知らずの従姉妹の姿を眺めた。それから、意を決して作蔵に顔を向けた。
「羽咋に、誰か信頼できる助け手がいますか? この者を、何も言わずに数日寝泊まりさせてくれるような」
作蔵は、ちらりと水干姿の娘を見て言った。
「わしの、わしと三根の伯父に頼んでみましょう。伯父は、わしとおなじく無骨な船頭だが、伯母は面倒見がよくて優しい。理由はわからぬが、その姫さんが誰とやらを待つ間くらい泊めてくれるでしょうよ。その……萱さま、わしにも少し頼み甲斐というものがあるならね」
その多少ずる賢い笑いを見越したように、萱は懐から壺をとりだして作蔵の手に押しつけた。
「そなたが戻ってきて、この者がどうなったかを知らせてくれれば、後にまた三根にこれを渡そう」
この貴重な醤醢は、闇で売りさばけば大きな利をこの男にもたらすはずだ。
「これはこれは。合点いたしました。では、お姫様、どうぞこちらへ。申し訳ないが、水夫たちに女子であることがわからぬよう、ひと言も口をきかぬようにお願いしますよ」
深く頭を下げ、船に乗り屋形の中に姿を消した従姉妹を見送り、萱は立ちすくんだ。萱の被衣と黒髪は潮風にそよぎ、荒れる波に同調したようだった。水夫たちのかけ声が、波音に勝ると、船はギギギと重い音を立てて、夜明け前の北の海に漕ぎ出でた。
なぜあのような便りを書いてしまったのだろう。萱は、不安に怯えながらつぶやいた。
ふた月ほど前のことだった。萱のもとにとある貴人とその連れがしばらく留まったのだ。途中で明らかになったのだが、その主人の方はかつては都で陰陽師をしていたのだが、語れぬ理由があり今は放浪の旅をしていた。
それを、丹後国に住む従姉妹への手紙に書いたのは、とくに理由があったわけではない。面白がるだろうと、ただ、それだけを考えてのことだった。だが、彼女はこともあろうに屋敷を逃げ出してはるばる若狭小浜まで歩き、昨夜、萱の元に忍んできたのだ。
「なんということを。夏。そなたはもう大領渡辺様の姫君ではないですか。お屋敷のみなが必死で探しているはずです。すぐに誰かを走らせてお知らせしなくては」
「やめて、萱ねえ様。あたくしは、もうお父様の所には戻りません。お願いだから、渡辺屋敷には知らせないでください。安達様の元に参りたいのです」
萱は、その陰陽師と夏姫が知り合っていたことを、昨夜初めて知ったのだ。
夏の母親は、三根と同じように湯女として大領の屋敷で働いていたが、やがて密かに殿様の子を身ごもった。生まれた夏は長らく隠され、母親の死後は観音寺に預けられて育ったが、その美しさを見込まれ二年ほど前にお屋敷に移されたのだ。殿様は丹後守藤原様のご子息に差し上げるつもりで引き取ったと聞いている。
「そのお話は、もうなくなったの。お父様は、もうあたくしなんて要らないのです」
「なんですって?」
「藤原様は、この春にお屋敷に忍んでいらっしゃったの。でもね、手引きしたのは、妹の絢子の乳母の身内だったの。それで、わざわざ間違えたフリをして絢子の所にお連れしたの。
夏は、さほどがっかりしていなかった。
「あたくしは、玉の輿に乗れなくて、かえって嬉しいのです。だって、お父様のお屋敷にいるだけで窮屈なのよ、どうしてもっと上のお殿様との暮らしに慣れると思うの? こうして萱ねえ様のお家にいると本当にほっとするわ。だから、ねえ様のお便りを読んですぐに決断したの」
「私が、いつ逃げ出して来いなんて書いたのですか」
「書いていないわ。でも、安達様が、ねえ様の所にいらっしゃるとわかったら、一刻も待っていられなかったの」
「あの陰陽師といつ知り合ったの?」
「昨年の夏、庭の柘植の大木に奇妙な物が浮かび上がって、あたくしが瘧のような病に悩まされるようになった時に、弥栄丸が連れてきてくれたの。本当にあっという間に、治してくださったのよ」
「まさか、そなたがあの二人を知っているなんて……。しかも、あの陰陽師に懸想してこんなとんでもないことをするなんて、夢にも思っていなかったわ」
萱は、頭を振った。
夏は、両手をついて真剣に言った。
「わかっているわ、萱ねえ様。どんな愚かなことをやっているか。安達様は、あたくしのことなんか憶えていないかもしれない。憶えていても、相手にはしてくださらないでしょう。それでも、あたくしは、あの方にもう一度お目にかかりたいの。あの屋敷で、みなに疎まれつつ、誰か適当な婿をあてがわれるのがどうしてもいやだったの。それなら、あの方を追う旅の途上で朽ち果ててしまう方がいいの。お願いよ、屋敷には帰さないで。安達様を追わせてください」
若狭国を抜け、北陸道をゆくと行っていた陰陽師と郎党を送り出して、ひと月以上が経っていた。今から陸路で追っても、そう簡単には追いつけないであろう。萱は、無謀な従姉妹を助け、追っ手の目をくらまし、彼女の望む道を行かせるために、海路を勧めた。
「夏。ねえ、約束しておくれ。もし、安達様を見つけられなかったら、もしくは、そなたの願いが叶わなかったら、必ずここに戻ってくると」
夏は、萱の言葉に頷いた。
どのような想いで、この海を渡るのだろう。何もかもを捨て去り、ただひたすらに愛しい男を追うのは、どれほど心細いことだろう。そして、それと同時に、それはどれほど羨ましいことか。亡き父に代わり秘伝の醤醢づくりを背負う萱には、愛のために全てを捨て去り、男を追うような生き方は到底出来ない。
日が昇り、水平線の彼方に夏を乗せた作蔵の船が消えても、萱はまだ波の高い海を見つめていた。夏は終わり、秋へと向かう。北の海は、行商人や漁師たちの日ごとの営みを包み込み、いくつもの波を打ち寄せていた。
語り終えた老僧を軽く睨みながら、
「素敵なお話ですけれど、和尚様。それは、私の名前から思いついたでまかせのストーリーですの?」
福浦港の小さな喫茶店で遊覧船を待っている茅乃の前で、奇妙な平安時代の話をした小柄な老人は、新堂沢永という。歳の頃はおそらく八十前後だが、矍鑠として千葉の寺から石川県まで一人でやってくるのも全く苦にならないらしい。
茅乃は、福浦に住んで二十八年になる後家で、婚家の親戚筋に頼まれて独身時代に近所にあった浄土真宗の寺に連絡をした。その親戚筋の家では、なんとも奇妙な現象が続き途方に暮れていたのだが、沢永和尚は加持祈祷で大変有名だったのだ。
無事祈祷を終え、奇妙な言動を繰り返していた青年が、嘘のように大人しくなりぐっすりと眠りについたので、家の者は頭を畳にこすりつけんばかりに礼を言い、和尚を金沢のホテルまで送ると言った。だが、和尚は、それを断り茅乃に案内を頼み福浦港に向かったのだ。
「遊覧船に乗りたいのですよ。有名な能登金剛を見たいのでね」
そして、遊覧船を待つ間、風を避けるために入った喫茶店で、和尚は先ほどの話を語り終えたのだ。
「でまかせではありませんが、本当のことかどうかは、わしにも分かりませんな。人に聞いたのです」
「それは誰ですか?」
和尚は、ゆっくりと微笑んだ。
「茅乃さん、あなたは輪廻転生を信じますか?」
答えの代わりに問いが、しかも唐突な問いがなされたことに、茅乃は戸惑った。
「さあ、なんとも。そういうことを信じている人がいるというのは、知っていますけれど」
「わしのごく身近に、転生した記憶を失わなかったという者がおりましてね。その者が、千年前に経験したことを話してくれたことがあるのですよ。先ほどの話は、その中の一つでしてね」
和尚は、ニコニコとしていたが、それが冗談なのかどうか茅乃には判断できなかった。
「それで、その方はその萱さんか夏さんの生まれ変わりだとおっしゃったのですか?」
「いいえ。その陰陽師の方だそうです。後に、安達春昌と従者である次郎は、再び若狭に戻ってきて萱どのと話をしているのですな。わしは、彼の話してくれたことの多くを非常に興味を持って聴いておりました。そして、今日、ここ能登半島に来たので、どうしても夏姫の渡った羽咋の海をこの目で見てみたかったのですよ」
茅乃は、和尚の穏やかな笑顔を見ながら、不意に強い悲しみに襲われた。和尚の言及している不思議な話をした男が誰であるか、思い当たったのだ。和尚は早くに妻を亡くし、男手一つで息子を育てた。その息子、新堂朗を茅乃は知っていた。彼女が高校生だった時に朗は小学生だったが、子供らしいところのない、物の分かった様子の、不思議な少年だった。
茅乃は、結婚して千葉を離れ、成人した朗には一度も逢っていなかった。その朗が二年ほど前に島根県で行方不明になったという話を、千葉の母親から聞かされていた。茅乃には、和尚が辿ろうとしているのは、平安時代の若い姫君の軌跡でも、魚醤造りの元締めの想いでもなく、行方知れずになった息子の運命を理解したいという、悲しい想いなのではないかと思った。
「和尚様は、その方が羽咋にいるとお思いなのですか?」
茅乃は、訊いた。
和尚は、穏やかに笑いながら答えた。
「どうでしょうな。いるとは言いませんが、いないとも言いませんな」
「そんな禅問答のようなことをおっしゃらないでください」
「これは申し訳ない。わしにも分からぬのですよ。どこにもいないのかも知れないし、どこにでもいるのかも知れない。そういうことです。例えば、このコーヒーの中にいるのかも知れません。だが、その様なことは、この際いいのです。ほら、ご覧なさい、遊覧船が来たようです。せっかくですから名勝能登金剛を楽しみましょう」
老人は、カラカラと笑いながら立ち上がり、伝票を持って会計へと歩いて行った。
(初出:2019年3月 書き下ろし)
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【小説】辛の崎
今日の小説は、ダメ子さんのリクエストにお応えして書きました。
リクエスト内容
テーマ: 成長
私のオリキャラ、もしくは作品世界: 高橋瑠水
コラボ希望キャラクター: ダメ子さんのオリキャラ
時代: 現代
使わなくてはならないキーワード、小物など: 大人の女性
ダメ子さんのところからは、定番でダメ家3姉妹をお借りしました。特に、今回はダメ奈お姉さまに女子大生らしい知識を披露していただくことにしました。
さて、リクエスト内容から考えると、たぶんちょっと違ったイメージの作品を期待なさっていらっしゃるんじゃないかと思うんですよね。でも、あえてこんな感じにしてみました。それと、今回は大阪から離れてみました(笑)
【参考】
![]() | このブログではじめからまとめて読む あらすじと登場人物 |
樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero・外伝
辛の崎
澄んだ深い青だった。どこまでも続く日本海は息を呑むほど美しい。
「こんな見晴らしのいいところがあったのね」
瑠水は、真樹を振り返った。
「登った甲斐があっただろう?」
彼は、笑いかけた。
駐車場にYAMAHAを停めて、10分ほど登ったところに石見大崎鼻灯台はあった。坂道や階段が続いたので、瑠水は少し息切れしている。真樹は2人分のヘルメットとバイクスーツの上着を持って来たにもかかわらず、息が上がった様子もないので、瑠水は少しだけ悔しかった。
瑠水は、真樹とタンデムで出かけるようになってから、いろいろなところに連れて行ってもらっている。かつては、住む奥出雲樋水村と、出雲にある高校をバスで往復するだけだった。道草をしているときにたまたま知り合った生馬真樹は、誰もいないところでクラシック音楽鑑賞をする瑠水の周りにはいなかったタイプの友だちだ。バイクに乗せてもらい、クラシック音楽を聴くのが大好きになった瑠水は、よく週末に一緒に出かけるようになった。
「次はどこへ行くの?」
先々週、瑠水はまた連れて行ってもらえると期待して訊いた。すると彼は、少し困ったように答えた。
「少し遠くへ行こうと思っているんだ。お前も来たいなら、ご両親の許可がいるな」
「泊まり?」
彼はギョッとした顔をしてから言った。
「まさか! 100キロちょっとだから、日帰りだよ。でも、朝はいつもより早く迎えに来るよ」
暗くなる前に帰ってくる約束をして、瑠水は今日のドライブについてくることができた。江津市に足を踏み入れるのは初めてだった。
「すみませ〜ん」
後ろからの声に振り向くと、3人の女性たちが登ってきていた。
「灯台、今日登れますか?」
「いや。灯台の中は、灯台記念日にしか公開しないから」
真樹が答えると、どうやら都会からわざわざやって来た3人はがっかりしたようだった。
「もう、リサーチ不足だよ。ここまで来たのに」
3人は姉妹のようだ。顔がとてもよく似ている。一番年上に見える女性が言った。
「でも、灯台に登らなくても、ここからの眺めもなかなかだよ」
灯台の足下のテラスからは、絶景が広がっている。真樹と瑠水は、3人が景色を堪能できるように少し脇にのいた。3人は礼を言って景色を見ながら写真を撮った。
「ここ、バイカーには有名なの?」
瑠水は、真樹に訊いた。
「どうだろうな。ものすごく有名ってわけではないかもしれないな」
「こんなに絶景なのに? じゃあ、どうやって知ったの?」
彼は笑った。
「去年の12月に、その先の
「こんな遠くにお詣りにきたの?」
「そうだね。歳によって違うけれど、ときどき高津柿本神社にも行くよ」
全国に存在する柿本人麿命を祀る柿本神社の本社とされる高津柿本神社は、ここよりさらに100キロほど西に行った益田市にある。
「わざわざ柿本神社にお詣りするのね」
「うん。人丸さんには火防の御利益もあるから、ときどき仲間でお詣りするんだ」
真樹は消防士だ。
「防火の神様なの?」
「うん。『
「柿本人麻呂って、益田市にいたの? それともここ?」
瑠水は、そもそもいつの人だったかしら、などと考えながら訊いた。
「さあ。俺はあまり古典には詳しくないからな」
すると、先ほどから2人の会話が氣になっていた風情の、3人姉妹の次女と思われる女性が、ためらいがちにこちらを見た。
「えっと……石見の国府があったのは浜田市だそうです。7世紀のことだから、はっきりとわかっているわけではないんですが」
「お姉ちゃん! 知っているの!」
瑠水と同い年くらいのおかっぱの女性が小さな声で言った。
「ええ。大学の古典の授業で、わりと最近、柿本人麻呂についてやったんだもの。それで、ここに来てみたくなって……」
「そうなんですか」
「さっきお話に出ていた都野津柿本神社は、人麻呂と奥さんの
「辛の崎?」
首を傾げる瑠水に、真樹は笑った。島根県人なのに、都会の女子大生に何もかも教えてもらっているのがおかしかった。
高官としてその名が史書に残っていない柿本人麻呂は、政治犯として死罪になったのではないかという説もある謎の人物である。しかし、史書に名前はなくとも、その歌が後世に与えた影響は無視できず、歌聖と呼ばれ『万葉集』には、80首も採用されている。後には、正一位が贈位され「歌の神」となった。
その人麻呂が残した多くの万葉歌の中で、ひときわ叙情的で格調高い石見相聞歌は、石見の地で最後の妻になったといわれる
「駐車場に歌碑があっただろう? あれは、ここがその辛の崎だという説を発表した万葉学者の
角障經 石見之海乃 言佐敝久 辛乃埼有 伊久里尓曽
つのさはふ 石見の海の 言さへく 辛の崎なる 海石にぞ
深海松生流 荒礒尓曽 玉藻者生流
深海松生ふる 荒磯にぞ 玉藻は生ふる
(石見の海の辛の崎にある海の岩には、海草が生い茂り、荒磯にも藻が生い茂っている)
「そうなの。ってことは、柿本人麻呂とその奥さんも、この光景を見たかもしれないわね」
3人の女性たちが、礼儀正しくあいさつをして去って行った後、瑠水は、もう1度テラスの先に進み、柿本人麻呂が見たと思われる光景を堪能した。
「屋上山こと宝神山。高角山こと鳥の星山。そして、角の浦に、角の里」
柵にかけられた案内板と実際の光景を見比べていブツブツ言っている様子を、真樹は楽しそうに見守った。
「ああ、本当にきれいね。あんな遠くまで真っ青な海が続いているのね」
「そうだな。あの時代には、旅をするのは大変だったろうし、その度に今生の別れかもしれないって思ったんだろうね」
「え。そういう歌なの?」
「そうだよ。上京するときに、奥さんとの別れを惜しんだ歌、それに、逢えずに亡くなった人麻呂を思う彼女の歌も『万葉集』にはおさめられているんだってさ」
「そうなの。昔は、大変だったのね。100キロくらい、バイクで簡単に日帰りできる時代に生まれてよかったわね」
そう言って無邪氣に笑う瑠水に、真樹は本当にその通りだと思って頷いた。
また灯台までの坂道を登るのは、思いのほか骨が折れた。あの日はなんともなかった10分程度の登り坂を、真樹は30分ほどかけた。事故で上手く動かなくなった左足を引きずりながら歩いたせいでもあるが、おそらくそれだけではなかった。あの日の眩しい思い出を噛みしめていたからだろう。
いい陽氣で、空は高い。海は凪ぎ、優しい風が吹いている。
あの日、俺は瑠水といつまでも側に居ると、心のどこかで思っていた。成長するのは瑠水で、自分はそれを待っているだけだと思っていた。たとえ日常生活で、いくらかの物理的な距離が間に置かれても、愛車 XT500で飛ばせば、簡単にその距離を縮めることができると思っていた。
彼は、もう消防士ではなく、「火止まる」御利益を求めて柿本神社にお詣りすることはなくなった。そして、瑠水は遠い東京にいる。遠出をするのに親の許可が必要だった高校生ではなく、自立した大人の女性としてひとり立ち、自身の人生を進めていることだろう。
事故が起きたとき、彼の人生は終わったと思った。瑠水が彼を拒否して東京に去ったショックが、事故を引き起こした不注意の要因だったことは否めない。だが、それで彼女の人生を縛り付けることはしたくなかった。だから、彼は瑠水にはなにも知らせなかった。
そして、本当にそれっきりになってしまった。彼女にとっては、もう終わったことなのだろう。たぶん、俺にとっても……。なのに、まだ忘れられないとは不甲斐なさ過ぎる。あの3年間に捕らえられ、失ったものを思い続ける、成長しないのは自分の方だったらしい。そう思いつつも、ここに来て思い出すのは、やはりあの日のことだ。
直 の逢ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ(万2-225)
(直接お逢いすることはかなわないでしょう。せめて石川のあたりに雲が立ち渡っておくれ。それを見ながらあの人を偲びましょう)
都に着いていくことのできなかった依羅娘子が人麻呂を想い嘆く歌を読んだとき、人麻呂とは違い自分には逢いに行ってやる手段も氣概もあると思っていた。まさか、自分の方が、遠く東京にいる瑠水を想い、その山が退けば彼女のいる地を望めるのではないかと願うとは考えもしなかった。しかも、相聞歌にもなりはしない、ただの未練だ。
時代や科学技術だけでは、越えられないものがある。それは、万葉の時代も今も同じなのだ。そして、人の心もまた、千年ほどでは簡単には変わらない。
柿本人麻呂の詠んだ石見の海を眺めながら、彼は間もなくやってくるまたしても1人の冬を思い立ち尽くした。
この道の
八十隈 ごとに 万 たび かへり見すれど いや 遠 に 里は 離 りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひ 萎 えて 偲ふらむ 妹が 門 見む なびけこの山(「万葉集」巻2 131 より)
この道の曲がり角、曲がり角ごとに幾度も振り返って見るけれど、いよいよ遠く、妻のいる里は離れてしまった。 いよいよ高く、山も越えて来てしまった。 妻は今頃は夏草が日差しを受けて萎(しお)れるように思い嘆いて、私を慕っているだろう。 その妻のいる家の門を遥かに見たい、なびき去れ、この山よ。
(初出:2020年10月 書き下ろし)