【小説】その色鮮やかなひと口を
「scriviamo!」の第十四弾です。
ココうささんは、素晴らしい揮毫とともに、優しくも暖かい詩を書いてくださいました。ありがとうございます! 見事な筆跡は、どうぞ、ココうささんのサイトでご覧ください。
ココうささんの書いてくださった詩と揮毫『あなたいろ』
『あなたいろ』
ツンとした空気が
ふんわりした風に変わる頃
つぼみが膨らんで
誰かを待っているように
足踏みしていた気持ちが目をさます
ゆっくりとあなた色に染まる季節
春
ココうささんは女性らしさに溢れた優しい詩をお書きになっています。青春の眩しい輝きをぎゅっと閉じ込め、その周りをパステルカラーのシンプルなリボンで包んだような、そんな響きです。でも実は、酸いも甘いも経験して、人生の辛苦にもきちんと向き合ってきた方で、だからこそ、その優しい言葉がただの甘いメルヘンにはなっていないのです。
お返しは掌編小説にさせていただきました。どんな「あなた色」にしようかなと頭をしぼりました。絵画を題材にしたのはもう書いた事があるし、生け花などは私の知識があやしすぎる。ウウム困った。で、こうなりました。
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その色鮮やかなひと口を Inspired from 『あなたいろ』
——Special thanks to KOKOUSA-SAN
ルドヴィコは妙なガイジンだった。肩幅が広く、服の上からでも筋肉が盛り上がっているのがわかる。小柄な怜子には雲をつく巨人のようにも見えるが、実際には180センチメートルを少し越えたぐらいだろう。けれど、昔ながらの日本家屋の戸口は低く、油断すると頭をぶつけていた。
彼は流暢な日本語を話す。怜子が「らぬき言葉」などを遣うと、ちっちっと人差し指を立てて不満を表明した。その指がまた特徴的だった。頑丈そうなガタイに似合わず、長くて細い、いかにも繊細そうな手先なのだ。そして、性格もまた、かなり変わっている。日本が大好きなのはいいとしよう。もともとはアニメのポケモンから入ったらしいが、どういうわけかその熱が高じて日本に移住し、和菓子職人として修行をする事になったのだ。
多少寂れたこの街の自慢は、一にお城の跡地で、二に湖で採れるしじみ、そして三つ目に来るのが和菓子だった。そして、この街には人口に比例して、どう考えても多すぎる和菓子屋が乱立していて、怜子が半年前からアルバイトをしている「石倉六角堂」はその一つだった。しかも、全国に名が知られるような有名老舗でもなければ、斬新な試みで名を馳せる先鋭店でもなかった。どういうなりゆきで、わざわざヨーロッパから移住してきて、こんな店で修行する事になったのか、怜子はいつも疑問に思っていた。
「怜ちゃん、来てすぐで悪いんだけど、急ぎの注文、包装してほしいの」
店に入るなり、社長の妻である石倉夫人が頼んだ。
「は~い。品はどこですか?」
「いま、ルドちゃんが作ってる」
怜子は眼を丸くした。そんなに急ぎなんだ。奥に箱やプラスチックの容器を持って入っていくと、ルドヴィコが真剣な顔をして整形していた。
「うわ。綺麗」
怜子は思わず口にした。それを聞いて、ルドヴィコは怜子の方を見てにやりと笑った。
「こんにちは。怜子さん。綺麗ですか」
怜子は力強く頷いた。若草色のきんとんにピンクや紫や黄色い花が咲いている。透明にふるふると光っている錦玉は青空のようなブルーだが、食欲を失わない微妙な淡い色合いに押さえられていて、わずかに白い雲のように見えるのは中に隠れている求肥だろう。金粉が輝いているつやつやの栗かのこ。誰がイタリア人が作ったなんて信じるだろうか。でも、イタリア人と言われれば納得の部分もある。どこが違うのかと訊かれても困るのだが、微妙に怜子の馴染んだ和の色合いではないのだ。
怜子は小さな宝石を扱うように、一つひとつをプラスチックのケースに収めていく。そして、四つずつ箱に入れようとした時、ルドヴィコがまた人差し指を立てて抗議した。
「違います。これが左上。となりはこれ。それから、こう並べてください」
ルドヴィコが収めた箱を見て、怜子は感心した。一つひとつも綺麗だと思っていたけれど、四つ並んだその形と色合いは、本当に一服の絵を見るようだった。なんて不思議な色のマジックだろう。並べてどうなるかまで計算して作っているなんて。
「急ぎの仕事なのに、ここまで考えて作ったの?」
びっくりする怜子に、ルドヴィコは片目を閉じた。
「もちろんです。どんな時でも全力投球ですから」
怜子は次々と菓子を箱に収めていった。引き出物かしら。それにしてはどうしてこんなにギリギリに大量注文するんだろう。ルドヴィコがいなかったらどうするつもりだったのかしら。佐藤さんは今日は休みで、義家さんは午前中に仕込みを済ませて、社長と一緒に京都の研修会に行ったはずよね。
「あ、怜子さんの分も作りました。あとで食べて感想をお願いします」
「えっ。だから私はダイエット中だってば」
ルドヴィコは青い瞳に悲しみに満ちた光をたたえて怜子を見た。
「う。わかったわよ。でも、四分の一サイズしか食べないから」
「そう言うと思って、小さく作りました」
そういって、作業台の片隅を示した。確かに一口サイズになっている。けれど、それが八種類もあるのだ。
ルドヴィコになつかれるのは悪くない。和菓子も好きな方だ。でも、毎回どうして私にだけこんなに食べさせるのよ。これだから、ダイエットが全然進まないのよね。
彼は、昔ながらの古い民家に住んでいる。小さな庭では鹿威しがカーンと音を立てている。家に戻ると、和服に着替えて、文机に向かい、ジャパニーズ・ライフについて墨書きでつらつらとしたためているらしい。墨書きでイタリア語って、難しそう。怜子は思った。その家にはプラスチック製のものが何もない。そんなものは美しくないというのがその理由だった。
ルドヴィコは美しさというものに異様に執着していた。100円のボールペンなど絶対に使わない。家では墨書きで、外出先では金の蒔絵のついた万年筆を愛用するのだ。美意識にかなう炊飯器が見つからなかったという理由で、鍋でご飯を炊いていた。そして、時代物の蓄音機でざらざら雑音の入る復古版のレコードを聴きながら、庭の四季を眺めるのだ。怜子は、ごく普通の日本人なので、こんなに時代遅れの生活をする人間がいるなんてと、ひどく驚いたものだ。もう慣れたが。
店では怜子はルドヴィコの彼女だとみなされていた。よく散歩や街歩きに誘われるし、彼の明治時代のような自宅にも招待されて何度も食事をご馳走になっていたので、そう思われるのは無理もないが、実際にはそのような特別な関係は何もないのだった。私、そんなに魅力ないかな。怜子は思ったが、さほど残念でもなかったので、完全にただの友人としての付き合いを続けている。それに、彼の作った和菓子の試食係である。
「怜ちゃん、どうもありがとう。おかげで納品に間に合ったわ」
ルドヴィコが先方に注文品を届けに行ったのを見送ってから、夫人が奥に入ってきた。怜子は、ルドヴィコの作った試食用の練りきりを頬張っているところだったので、あわてて飲み込み、それが喉につかえて咳き込んだ。
「まあ。そんな所で立って。お茶を淹れてあげるから、ちゃんと座って試食しなさい」
石倉夫人は言った。
「す、すみません。勤務中ですし……」
「いいのよ。試食も仕事のうち。それに怜ちゃんの意見がモチベーションになってルドちゃんがどんどんいいものを作ってくれるんですもの」
怜子はこのあたりで誤解を解いておいた方がいいと思った。
「あの、私とルドヴィコはそういう関係ではなくて、彼も友だち以上には思っていないと……」
石倉夫人は眼を丸くした。
「あら嫌だ。怜ちゃんったら、この間のルドちゃんの告白をきいていなかったの?」
「は?」
「ほら、うちの人が、『ガイジンにとっての日本の一番の魅力って何だ』って、訊いたじゃない」
怜子は首を傾げた。その話題は憶えている。新年会の席で酔っぱらった社長の石倉がルドヴィコに質問したのだ。彼はまったく酔った様子もなく、盃をきちんと置いて答えていたっけ。
「それは人によって違いますよ。伝統の文化や自然とのかかわり方に惚れ込む人もいますし、武道などの形式美に夢中になる人もいます。若い世代にはアニメやマンガやビジュアル系バンドも大人氣ですよ」
石倉は、そのルドヴィコの肩をぽんぽんと叩いて言った。
「で、ルド、お前はどうなんだ。日本に来て、和の暮らしをして八年。現在はどう思う?」
その時、みんなが注目している中、ルドヴィコは澄まして答えたのだ。どういうわけか怜子の方を見て。
「日本の美については、僕は小泉八雲のと同意見です」
そして、その時、周りは「おお~」と笑いながら盛り上がったが、怜子には全く訳がわからなかった。
「確か、小泉八雲がどうのこうのと……」
そういう怜子を見て、石倉夫人は呆れた顔をした。
「まあ、知らなかったのね。訊けばいいのに」
そういって、小泉八雲、すなわち、ラフカディオ・ハーンの著作について説明してくれた。
日本の最上の美的産物は、象牙細工でもなく、青銅製品でもなく、陶器でもなく、日本刀でもなく、驚くべき金属製品や漆器でもなくて、日本の婦人である。現世界にこのような型の女性は、今後何十万年経るといえども再び現れないであろう
小泉八雲著 「封建制の完成」
怜子はのけぞった。
「そんな回りくどいことを言われても、わかりませんよ。それに、それは告白っていうか、ただの一般論では。本当にルドヴィコが私の事を好きなら、イタリア人っぽく『Ti amo(愛してる)』とか言って、ガンガン押すだろうし……」
石倉夫人は、ちらりと怜子を見て言った。
「ほんとうに、鈍い人ねぇ。ま、いいわ。ルドちゃんがそういうあなたを好むんだから」
そういって、お客さんが来たので、お店に行ってしまった。
あ~あ、どうしよう。ルドヴィコが帰って来たら、意識して顔が赤くなっちゃうよ。怜子は二杯目のお茶を飲みながら、宝石のように美しい錦玉を手に取った。ううん。さっきまで青空の色だったのに、ルドヴィコの瞳の色になっちゃっているよ。困るなあ。甘すぎないふるふるで優しい寒天、中の求肥に包まれた淡い黄色のこし餡のわずかなゆずの香りが絶妙だ。ああ、美味しいなあ。こんな事を続けていたら、どうやってもダイエットには成功しないだろうなあ。
(初出:2013年3月 書き下ろし)
【小説】その色鮮やかな、ひと口を -2 - ~ Featuring「海に落ちる雨」
彩洋さんの作品(の一部) 【幻の猫】(6) 世界で一番美しい広場
さて、そういうわけで、ご紹介だけで記事を終わらせてもよかったのですが、せっかくの雨の土曜日、前から書きたかったこの作品を書いちゃう事にしました。彩洋さんの小説「海に落ちる雨」から、小道具として使われていた雑誌を一つお借りしています。そう、雑誌の表紙に映っている魅惑的な男性こそ彩洋さんの小説の主人公のお一人です。そして、私の方は「scriviamo!」の時に登場させたあの二人が頼まれもしないのに再登板です。前の話は読まなくても通じると思いますが、一応リンク貼っておきます。
【小説】その色鮮やかなひと口を
その色鮮やかな、ひと口を -2-
~ Featuring「海に落ちる雨」
六月の風は爽やかだった。梅雨入りしたばかりだが晴れたその朝は、樹々の若葉がことさら瑞々しく煌めき、昨夜の雨で水打ちしたかのように湿るアスファルトが涼しげだった。怜子は「石倉六角堂」に向かう道すがら、ソフトクリームを買うか少し悩んでやめた。今朝はルドヴィコが仕込みをしているはずだから、何かを試食させられる可能性が高かったからだ。
怜子は大学生だ。学費の足し、というよりは仕送りだと少し足りないお小遣いを稼ぐために和菓子屋「石倉六角堂」で週に三度ほどアルバイトをしている。土曜日に朝から入る事は少なかったが、今日は石倉夫人に所用があって販売員が足りないので入る事にしたのだった。
石橋のかかった堀の先で、いつもの書店の角を曲がる時、ふと店頭に山積みにされた雑誌が目に入った。「PREDENTIAL」というタイトルが踊っていた。経済誌に関する怜子の興味は皆無と言ってよかった。でも、その雑誌には惹き付けられた。思わず首を傾げながらひとり言をいった。映画雑誌かと思った。その雑誌には金髪碧眼の麗しい外国人が微笑んでこちらを向いていたのだ。同じ外国人でも、ずいぶん違うなあ……。
彼女が比較して思い浮かべたルドヴィコは日本に憧れて移住し、どういうわけかこの地方都市で和菓子職人になった。彼と怜子の関係は友達以上恋人以下だった。つまり、二人で展覧会に行ったり、彼の家で食事をご馳走になったりするけれど、特に「彼女になってほしい」と告白された事もなければ、そうなりたいと切望しているわけでもない、そんな関係だ。社内旅行での彼の発言が怜子への愛の告白だったというのが「石倉六角堂」での共通見解だったし、それを知って以来、怜子がちょっと意識しているのは間違いないが、あいかわらず進展もなく、そのまま「仲のいい試食係」のポジションに甘んじている。そこはかなり心地がよかった。彼女は雑誌の事は頭から追い出すと、そのまま角を曲がった。
「おはようございます」
怜子は店に入るとすぐに自分のエプロンと三角巾を身につけて、対面ケースの方に向かった。ケースの前にはすでに小夜子と千絵が立っていてキャーキャー言っていた。ふと目にすると、彼女たちが見ているのは先ほどの雑誌の外国人だった。経済誌「プレデンシャル」とこの二人は、怜子以上に意外な組み合わせだったから、彼女たちがこの雑誌を購入した目的は、あきらかにその外国人だろう。横からちらりと見ただけだが、並んでいる写真はどれもプロの映画俳優かモデルのように決まっていた。なぜ経済誌にこの人がと怜子が首を傾げていると千絵が笑った。
「この人ね、イタリア人なのに、日本名も持っているんだって。ねえ、本当にかっこいいでしょ? でも、芸能人じゃなくて経済人なのよ~。大金持ちみたいよ。しかもレストランとギャラリーの経営しているだけじゃなくて、美術の修復師なんだって! 天は二物を与えずっていうけれど三だの四だの五物ならありなのね~」
そういって怜子の顔の前に表紙を持ってきた。表紙には目立つフォントで書いてあった。
——銀座の有名ギャラリーおよびレストランのオーナー、稀代の修復師『大和竹流(36) 』
その時、奥の作業場からひょいと巨大な男が顔を出した。
「あ、怜子さん、おはようございます。試食用の練りきり、怜子さんの意見を取り入れて作り直しました」
流暢な日本語を使うこの大男もまたイタリアからやってきた。雑誌で魅力的な笑みを魅せるイタリア人と違って、このルドヴィコを映画に使うとしたらかなりの脇役になるだろう。表紙に載せても雑誌の売り上げを飛躍的に伸ばしたりはすまい。やけに大柄で、金髪に水色のきれいな瞳をしている。確かに目は日本人よりも奥にくぼんでいるし、鼻も高いが、だからといって美男かと訊かれると微妙な線だ。もちろん醜くはないけれど、眉のバランスか、もしくは顔のパーツのついている位置というのか、とくに黄金比率ではないようだ。個性的な顔立ちと言っておくのが一番無難かもしれない。でも、怜子はそれを惜しいと思った事はなかった。所詮彼はアイドルではないのだから。
怜子は、ちょっとだけ顔をルドヴィコに向けて「おはよう」と言った。ルドヴィコが手にした練りきりを見てほんの少し眉をひそめた。だから、白あんじゃなくて、黒ごま餡の方が美味しいってアドバイスしたのに。そしたら、色がどうのこうのと言って反論してきた。で、結局白あんでつくったわけね。色が同じだもの。むかつく。
「後で食べるわ」
そして、それから再び雑誌のインタビュー記事に戻った。
千絵と小夜子はクスクス笑って言った。
「今はダメよ。怜ちゃん、ちょうど記事を読みはじめたところだもの」
ルドヴィコが少し失望した様子で奥に引っ込むのを片目でちらりと追ったが、白あんに腹が立っていたのでそのままにした。こっちの外国人の話を読んじゃうもんね。
二人の言ったことは大げさではなかった。ちゃんと書いてある。へえ~。この人も日本語ペラペラなんだ。和食もプロなみに上手くて、しかも恋人があちこちにいっぱいいるとはねぇ。こんな人がこの世の中にいるのねぇ。その雑誌の記事を読み終える前に、客が続けてやってきたので怜子はあわてて接客に集中した。
その日はとても忙しくて、客が途切れる事はなかった。大きなお茶会がお城で開催され、小夜子は途中からルドヴィコも含めた職人らが作る製品を包装するように言われて奥に引っ込む事となった。それで怜子と千絵は表での販売にてんてこ舞いになった。
ろくにお昼ごはんを食べる時間も得られずに立ちっぱなしで働いたので、夕方にはぐったりしてさっさと帰宅の路についた。怜子がルドヴィコに頼まれていた試食をすっかり忘れた事を思い出したのは翌日の午後に出勤したときだった。
「怜ちゃん、ちょっと」
出勤するなり石倉夫人が小さく手招きした。
「はい、なんでしょう」
怜子は奥の作業場に入って、石倉夫人が示す台の上を見てはっとした。その台の上には、昨日の忙しさの中ですっかり忘れていたあの雑誌と、横にきっちりと並べられた小さな練りきりが四種類載っていた。怜子がダイエットに差し支えるので四分の一サイズでないと食べないというので、わざわざ小さくした怜子限定試食品だった。その一つに昨日彼女は眉をひそめたのだった。そうだ、その後は例の雑誌を読んでいた時にお客さんが来て忙しくなってしまって……。
「ルドヴィコは?」
少し後ろめたくなって訊いた。石倉夫人はため息をついた。
「今日は休んでいるわ。昨日ね、私が帰ってきたらここで一人で餡を練っていたのよ。なんか様子がおかしいと思ったら、熱でフラフラしていたわ。誰も氣もつかないで帰ってしまったのね。他の職人は帰ってしまって、仕込みをする人がいないからと無理して残っていたらしいけれど。だから、すぐに帰って寝ろって言ったの」
具合が悪かったなんて、ひと言もいわなかった。でも、言うチャンスもなかったのかも。私は一度も奥に入らなかったし。ああ、もし私があの時に試食していたら……。
「これ、食べてあげなさいね。もう、固くなっていると思うけれど、治って出てきた時にこのままだったら、ちょっとかわいそうでしょう?」
石倉夫人は言った。怜子は、真っ赤になって下を向いた。
夫人は雑誌の表紙を軽く叩いた。
「あななたち若い女の子の氣持ちもわかるわよ。こういう素敵な人に憧れ、キャーキャー騒ぐのもまったく他意のない事でしょう。ルドちゃんもそんなことに目くじらを立てるほど子供じゃないと思うけれど。でもねぇ」
夫人は少し遠い目をした。
「ルドちゃんだって、異国で頑張って生きているのよ。具合が悪くても歯を食いしばって働いている時に、誰にも氣づいてもらえないのはねぇ」
怜子はそれ以上聴いていられなかった。
「ええと、あの……今日、すごく忙しいんでしょうか」
石倉夫人はにっこりと笑った。
「店の事ならいいわよ。行ってきなさい」
三角巾とエプロンをもどかしげに畳むと、急いで出ていこうとしてから怜子は慌てて引き返し、台の上に起きっぱなしになっている四つの練りきりをバックにつっこんで走って出て行った。
ルドヴィコが借りている家は、「石倉六角堂」から見るとお城の裏手にあり、堀沿いに歩いて15分ほどのところにある。怜子がルドヴィコに夕食をご馳走になる時には二人でゆっくりライトアップされた城郭やお堀の水に映る月を眺めながら歩いた。その道を怜子は小走りで急いだ。
明治時代に建てられた民家なので、玄関は引き戸だ。鍵が閉まっているかと思ってちょっと引いたら簡単に開いた。寝ているはずなのに、不用心だなあ。
「ルドヴィコ? 入るね」
「ああ、怜子さん、どうしたんですか?」
奥から弱々しい声が聞こえたので、怜子は靴を脱ぎ捨てるようにして上がった。
「どうしたって、熱があるって聞いたから。大丈夫?」
奥の畳の部屋、いつも怜子がご飯を食べさせてもらう、庭の見える部屋でルドヴィコは横になっていた。汗をかいて赤い顔をしているが、例によってちゃんと浴衣を着ていた。Tシャツやパジャマで寝たりしないんだ。こだわるなあ。
「すみません、お店は大丈夫でしたか」
彼は少し起き上がって心配そうに訊いた。
「うん。ちゃんと義家さんが来てくれていた。奥さまが店の事は氣にしないでゆっくり休んでいいって」
それをきくと、ルドヴィコはほうっと息をついてまた枕に頭をもどし、それから瞼を閉じた。
「ダメですね。皆さんに迷惑をかけて」
怜子は言った。
「具合の悪いときくらい、甘えていいんだよ。ルドヴィコはいつも頑張っているじゃない」
「……」
ルドヴィコは何も言わなかった。怜子の言葉に納得した様子も全くなかった。
「あ。ルドヴィコ、何か食べたの? あたし、おかゆでも作ろうか?」
「……怜子さん、料理できるんですか?」
ルドヴィコの疑問はもっともだった。以前、ご馳走になった時に手伝おうと思って申し出て、キャベツの千切りを頼まれた事があった。そのできばえと時間のかかりように呆れたルドヴィコが残りをやってくれて、あまりの違いに落ち込んだ事を思い出した。
「おかゆくらいなら……。あ、冷ご飯から作るのでよければ……」
ずっと苦しそうだった彼も、その時は少し笑顔になった。そして冷蔵庫の中にご飯があると言った。
慣れない台所でなんとか鍋や必要なものを見つけると、いんちきお粥を作った。待っている間にふと思い出して、鞄を開けると練りきりが見えた。すこし固くなっていたけれど、怜子はそっとそれを口に入れた。
「あ」
彼女は、台所から顔を出して、寝ているルドヴィコを眺めた。汗をかいてふうふう言っているけれど、来たときよりも不安の色が減っているように見えた。そうだよね、弱っている時に一人って不安だよね。ここは家族も一人もいない異国なんだよね。でもルドヴィコはこんなに頑張っている。その存在が当たり前すぎて、その事を忘れていたんだ、私。
こみ上げる何かをこらえて、彼の好きな一人用の土鍋にお粥を移すと、こぼさないようにゆっくりと彼の布団の側に持っていった。
「ルドヴィコ。起きられる?」
赤い顔をして起き上がった彼に羽織をかけてやると、感謝してレンゲでお粥をすくっている姿を眺めながら、怜子は小さい声で言った。
「ごめんね」
「何がですか?」
「練りきり。昨日すぐに食べないで」
「いいんですよ。昨日はみんな、とても忙しかったし」
「そうじゃないの。昨日、私勝手にまた白あんだと思っていやな顔したでしょ。ルドヴィコ、変えてくれていたのに」
「固くなった、あれを食べたんですか?」
ルドヴィコは言った。怜子は下を向いて涙を拭った。
それは胡麻餡だった。でも、色彩が醜くならないように、白ごまを色がでないようにそっと炒って作った白い胡麻餡だった。黒ごまよりも上品で優しい味がした。怜子が胡麻味が好きだと騒いだから、工夫を重ねて作ってくれたのだ。
「怜子さん、泣かないでください」
「だって……」
「いいんですよ。あんなに素敵で何でも出来る、しかもヴォルテラ家の御曹司の記事があったら、誰だって夢中になりますよ」
「ヴォル……?」
ぽかんとしている怜子を見て、ルドヴィコはいいんです、と言って首を振った。
怜子は大きな声で言った。
「ねえ、ルドヴィコはそのヴォルなんとかの、なんとかオーナーとは違うよ。全然違うよ」
「わかってます」
空色の瞳が哀しそうに畳に落ちた。
「そういう意味で違うって言っているんじゃないの。ルドヴィコは雑誌の中にはいない。東京や京都みたいな遠いところにいるわけでもない。そのなんとかって人は、同居人のためにすごい和食を作っているらしいけれど、私のために胡麻餡入り練りきりを作ってくれるのはルドヴィコ一人だけだもの。本当だよ」
ルドヴィコが怜子を見た。青い瞳は熱のために潤んでいた。怜子はドキッとした。昨日、あんなに素敵な男性のグラビアを見ても、こんなにときめいたりはしなかったなと思った。今度こそ、この人といい雰囲氣になれるといいなと思いつつ、怜子は優しく訊いてみた。
「大丈夫? ルドヴィコ、何かしてほしいことある?」
すると彼は少しほっとしたように答えた。
「ええ、お粥にちょっと塩を入れてくれませんか」
怜子は、味を付けるのをすっかり忘れていた事を思い出して、慌てて台所に塩をとりに走っていった。
(初出:2013年6月 書き下ろし)
【小説】その色鮮やかなひと口を -3 -
scriviamo!の第十四弾です。
ココうささんは、二句の春らしい俳句で参加してくださいました。ありがとうございます!
ココうささんの書いてくださった俳句
その先の波は平らか梅の花 あさこ
春秋も恋もいとほし紅枝垂 あさこ
この二句の著作権はココうささん(あさこさん)にあります。無断転載ならびに転用は固くお断りします。
ココうささんは、ブログをはじめた初期のころから仲良くしてくださった方で、素晴らしい詩や俳句、揮毫を発表なさっておられ、大変お世話になった方です。現在はブログをお持ちではありません。優しくて、温かいお人柄、さらに、日本酒もお好きという私が「お友だちになりたい!」ポイントをたくさんお持ちの方で、ブログ閉鎖なさった時にはとても残念でした。
どうなさっていらっしゃるかなと思っていた所、お祝いのお言葉と一緒に素敵な俳句で参加してくださいました。お元氣で活躍なさっていらしたこと、俳句を続けられていて日々精進なさっていらっしゃることなどを伺い懐かしさと同時に「私も頑張ろう!」とパワーをいただきました。懐かしい方とこういう形で再会できるのはとても嬉しいものです。
さて、どういう形でお返ししようかなと考えました。最終的に、一回目の「scriviamo!」で、詩で参加してくださった時に創り出したキャラクターたちを使って、この俳句からイメージされた世界を掌編にするのが一番かなと思いました。そういうわけで、和菓子職人ルドヴィコとアルバイトの怜子が再登場です。ココうささん、素敵な世界が台無しになってしまったらごめんなさい。でも、精一杯の敬意を込めて。
そして、この二人の住む「和菓子屋がとても多くお城のある街」とだけ開示されている名前のない街、帰国する度に何故か通っている松江がモデルです。というわけで、出てくる湖とは宍道湖ですね。しだれ桜のある尊照山千手院も松江に実在しています。私も見たいなあ。
特に読まなくても通じると思いますが、同シリーズへのリンクをつけておきます。
その色鮮やかなひと口を
その色鮮やかなひと口を -2 - ~ Featuring「海に落ちる雨」
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
【小説】その色鮮やかなひと口を -3 -
Inspired from 2 Haikus by Asako-San
——Special thanks to Kokousa san
曇りや雪の合間に、暖かい晴天の日が少しずつ増えてくると、怜子は間もなく春が来るのだなと感じる。堀の周りをゆっくりと歩いて見上げると、天守閣の雪が消えかけている。お茶会に使う急ぎの商品を届けた帰り、こんなに心地のいい土曜日に、バイトに入るのはもったいなかったなと思った。
でも、明日は休み。晴れそうだから、久しぶりに街を散策してみたいと思った。ルドヴィコは、つき合ってくれるだろうか。「石倉六角堂」の自動ドアと暖簾をくぐり「ただいま」と元氣よく口にすると、石倉夫人が微笑んで「お帰りなさい」と言ってくれた。
怜子が、この店でアルバイトをはじめてそろそろ三年になる。こんなに長く働くことになるとは思わなかったけれど、それだけ居心地がいいということなのだろう。少しだけ氣になる人もいる。仲のいい友達と、恋人のちょうど真ん中くらいの関係。背が高くて青空のような瞳をした、少し変わったイタリア人だ。ルドヴィコは、この店の和菓子職人で、こし餡を練らせたら右に出るものはいない。日本人には考えつかない不思議なセンスで創りだされる、色鮮やかな和菓子は評判がよく、お茶会用に指名で注文が入ることも増えてきた。届けた時に中を見せて、そのイタリア人らしい鮮やかなデザインの練りきりに、客が喜びの声を上げるのを聴いて、怜子は自分のことのように嬉しく思った。
エプロンと三角巾をして、対面ケースに立った。求肥の生菓子「若草」が出来上がったというので裏に入ると、ルドヴィコが盆を渡してくれた。
「あ、お客さんね、練りきりに感心していたよ。次もまたお願いしますって、おっしゃっていたよ」
怜子が言うと、とても誇らしそうに笑った。怜子はふと思い出して
「あ、あのね、ルドヴィコ、明日、何か用事ある?」
と訊いた。ルドヴィコが答えようとすると、暖簾の向こうから石倉夫人が声を掛けてきた。
「ルドちゃん、あなたにお客様よ」
ルドヴィコは、誰だろうという顔をして、表に出た。続いて怜子も対面ケースを開けて、若草の盆を納めた。店の入口には、水色とヴァイオレットと白のストライプのシャツブラウスを綺麗に着こなした髪の長い女性が立っていた。そして、よどみないイタリア語でルドヴィコに話しかけた。
ルドヴィコも、驚いたようにイタリア語で答えた。この時になって初めて氣がついたのだが、あまりに彼の日本語が達者だったので、怜子は彼がイタリア語を母国語として話すということをすっかり忘れていた。彼は、対面ケースの向こう側に行って、親しげに話しかけたかと思うと、その女性の両方の頬にキスをした。怜子は、それを見て固まってしまった。
二人は、自動ドアから外へ出てしまい、怜子が唇を噛んで下を向き、石倉夫人がどうしようかしらと目を宙に泳がせた。けれども、ルドヴィコは数秒でまた中に入ってきた。その時は、女性だけでなく、一人の男性、外国人の青年をも連れてきた。そして、嬉しそうに抱きあった。
「ロメオ!」
それから石倉夫人と怜子の方を向くと、日本語に戻って、二人を紹介した。
「紹介します。ミラノから来た僕の親友、ロメオです。そして、こちらはその恋人で照明デザイナーのジュリエッタ……、それ、本名なんですか?」
と、女性に訊いた。ジュリエッタと紹介された日本人女性は笑って頭を振った。
「もちろん違います。神谷珠理と申します」
「でも、イタリアの友人の間では、ロメオとジュリエッタで通っている二人です。日本に来ているなんて、僕も知らなかったんですよ。ジュリエッタ、こちらはお世話になっている石倉の奥さん、そして、怜子さんです」
それから、ルドヴィコはイタリア語でロメオに、石倉夫人と怜子のことを紹介した。怜子のことを説明する時にはどうやら名前だけを紹介したのではなさそうだったが、怜子にはどういう意味だったかはわからなかった。ただ、ロメオも珠理も、満面の笑顔で怜子を見た。
それから、十分ほど三人はイタリア語で話していた。主にルドヴィコと珠理が話し、ロメオはほとんど口を挟まなかった。それから、ロメオが手を振り、珠理が丁寧に頭を下げて店を出て行った。
「もう帰っちゃうの?」
怜子が訊くと、ルドヴィコは片目をつぶった。
「仕事が終わったら、待ち合わせて旧交を温めるんですよ。今日は、パスタとトマトを買って帰らないと」
明治時代に建てられた民家に住み、日本人よりもずっと和式の暮らしをしているルドヴィコの口からパスタなんて言葉が出るとは夢にも思わなかった。イタリア語で話すルドヴィコは、突然知らない外国人になってしまったように感じた。二人のイタリア人とよどみなくイタリア語を話す珠理は、同じ日本人と言っても、まるで違う存在のように見えた。ミラノ在住の照明デザイナー、流暢なイタリア語、スタイリッシュで颯爽とした佇まいは素敵だった。
怜子は何も言わずに、下を向いて、ショーウィンドーの曇りを磨いた。イタリア語どころか英語すらもまともに喋れない、役立たずのアルバイトなのだと感じた。
「怜子さん?」
横を見ると、まだルドヴィコがそこに立っていた。
「何?」
「さっき、明日のことを訊きませんでしたか?」
怜子は、困ったように言った。
「ううん、暖かくなってきたし、用事がなかったら千手院にでも行かないって訊こうかと思ったけれど、お友だちが来たもの、用事あるよね。氣にしないで」
ルドヴィコは水色の瞳を輝かせて微笑んだ。
「もし怜子さんが嫌でなかったら、あの二人もつれて一緒に行きませんか。少しこの街を案内したいんです、つき合ってくれませんか」
「行ってもいいの?」
「僕は、怜子さんにも来てほしいんです」
怜子はすこし浮上して頷いた。
真言宗の尊照山千手院は、お城の北東にある。広い境内に本堂、護摩堂、僧房、鐘楼などが揃い、広い庭は緑豊かな憩いの地として親しまれている。怜子は、この寺の四季の移り変わりを眺めるのが好きだ。特に、天然記念物に指定されているしだれ桜、枝華桜の咲く時期には毎年必ず訪れていた。アルバイトを始めてルドヴィコと知り合ってからは、二人で夜桜を鑑賞するのが恒例となっている。
「咲いたら綺麗でしょうね。早く来すぎちゃったのね」
珠理がため息をつく。ミラノから、東京へ行くのも大変だが、さらにここまで来るのも遠い。花は氣まぐれで、予定通りに咲いてくれることはない。「いつかは」が叶わぬことも多い。「今宵、観に行きましょうか」とくり出せる場所に住んでいることは、どれほど幸運なことなのかと怜子は思う。
境内にある休憩所、誠心亭からは街が一望のもとで、お城がとても美しく見える。
「本当によくみえるのね!」
珠理が歓声を上げた。東京育ちの珠理は、この街にははじめて来たのだと語ってくれた。お茶を飲みながら、ルドヴィコとロメオが早口のイタリア語で語り合っているのを横目で見た。ルドヴィコが20くらい話すと、ロメオがひと言答えるような会話に聴こえた。ルドヴィコが、こんなに話すとは思っていなかった怜子は、少し驚いていた。そんな風に思ったことはないけれど、彼もホームシックにかかることもあるのかなと思った。
珠理は、二人の会話には加わらず、街を眺めながら怜子と話をした。イタリア語の話せない怜子のことを慮ってくれたのだろうと感じた。
「ミラノで、照明デザイナーをしているなんて、すごいですね。憧れます」
怜子がそういうと、珠理は首を振った。
「聞えはいいけれど、私はそんなにすごい人間じゃないの。イタリア語もまだまだだし、仕事でも、人生でも、これまで挫折ばっかりだったのよ」
「それでも、頑張ってイタリアに居続けているんですよね」
珠理は、しばらく黙っていたが、それから怜子の方を見て言った。
「ロメオがいてくれたから。異国でも、成功していなくても、今日も明日も一緒に頑張ろうと思わせてくれたから」
「そういうものなのかな」
「ルドヴィコも、同じように思うから、ここにいるんじゃないかしら」
そういって怜子に微笑みかけた。
また中心部へと戻り、城の見学をした後、二人は、ルドヴィコと怜子をレストランへと招待してくれた。全面ガラス張りの窓から陽光を反射する穏やかな湖が見える。植えられた梅の木に花が咲きだしている。
「いつかミラノへ遊びに来てね」
珠理はいい、ルドヴィコの通訳を聴いたロメオも大きく頷いて、何か言った。
「二人で一緒に、って」
珠理が通訳して、微笑んだ。ルドヴィコが間髪をいれずに頷いたので、怜子は赤くなった。
珠理が、ロメオについて口にした言葉を、怜子は考えていた。こんな風に、はっきりと迷いなく「この人がいてくれるから」とお互いを想うのって素敵だろうな。私とルドヴィコも、いつかそんな風になれるのかな。
梅の花が、風に揺れている。その向こうに湖の波紋が、揺れて煌めいている。甘酸っぱい想いが胸に広がる。四つの人生の交わったわずかな時間。この二日だけ共にいてまた遠くに離れてしまう親しい友、人生のことを少しだけ垣間見せてくれた素敵な女性、それから、移り変わる四季の一日一日を一緒に見つめている怜子とルドヴィコ。
ロメオと珠理は、再会を固く約束して去っていった。過ぎ去った電車を二人で見送った後に、ホームに残った二人には、どこか寂しい風が吹いている。
「ルドヴィコ」
「何ですか、怜子さん」
「イタリアが、恋しいんじゃない?」
ルドヴィコは首を振った。
「ここで、この街で、和菓子を作って生きると決めたのは僕自身ですから」
そうなのかな。珠理さんも日本を離れてミラノで生きるのは、あまりつらくないみたい。やり甲斐のある仕事があって、ロメオもいて……。ふと横を見ると、ルドヴィコが青空のような瞳の輝く目を細めて、怜子を見て微笑んでいた。怜子は、少し赤くなって下を向いた。
「怜子さん」
「なあに、ルドヴィコ?」
「今年も、千手院の枝華桜が咲いたら、一緒に観に行きましょう」
怜子は、頷いた。イタリア語も、照明デザインもできなくても、一つだけ自分にできることがある。移り行く春秋を、この街でルドヴィコと共に生きること。満開のしだれ桜が咲く、いくつもの春の朝と宵を、二人で歩き続けることを、怜子は願った。
(初出:2015年2月 書き下ろし)
【小説】その色鮮やかなひと口を -4 -
scriviamo!の第四弾です。
ココうささんは、二句の夏の俳句で参加してくださいました。ありがとうございます!
ココうささんの書いてくださった俳句
独り占めしたき眼や椎若葉 あさこ
砂山を崩しこつそり手をつなぐ あさこ
この二句の著作権はココうささん(あさこさん)にあります。無断転載ならびに転用は固くお断りします。
ココうささんは、以前素晴らしい詩や俳句、揮毫を発表なさっていらっしゃいましたが、現在はブログをお持ちではありません。でも、今でもこのブログを訪ねてくださり、さらに今年もscriviamo!に参加してくださいました。実生活と違って、ブログ上でのお付き合いは連絡先を知らない限り簡単に途切れてしまいますが、こうして絆を持ち続けて行こうと思っていただけること、本当に嬉しいです。
今年のために選んでくださったのは、ココうささんの先生も推す素晴らしい作品で大切になさっている二句です。今回も、もともとココうささんの作品から生まれてきたコンビ、怜子とルドヴィコでお応えします。
今回、はじめて舞台が島根県であることが本文中に明記されています。それに二人の苗字も初のお目見え。二人の関係も少しずつ進んでいます。
特に読まなくても通じると思いますが、同シリーズへのリンクをつけておきます。そろそろカテゴリーにしょうかなあ。
その色鮮やかなひと口を
その色鮮やかなひと口を -2 - ~ Featuring「海に落ちる雨」
その色鮮やかなひと口を -3 -
「scriviamo! 2016」について
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
その色鮮やかなひと口を -4 -
Inspired from 2 Haikus by Asako-San
——Special thanks to Kokousa san
海の向こうに、白い雲が一つだけぽっかりと浮かんでいた。透き通るように深く青い海水。神在祭の前夜には八百万の神々が渡ってくる神秘的な海原も、夏の今はまるで別の世界のようだ。底抜けに明るいビーチ。そして、ほとんど誰もいなかった。
ルドヴィコは、北イタリアの出身だ。夏になると、家族とアドリア海の方へ海水浴に出かけていた。海は夏にしか見た事がなかったので、冬の日本海を初めて見た時には、その厳しい様相に驚いたらしい。けれど、彼の美意識からすると、騒がしい夏の海水浴場よりも、冷たくて厳しく拒否されたようにも感じる冬の砂浜の方が好ましいらしい。
怜子は、海水浴場として登録されていないために地元民だけが楽しめるこのビーチを知っていたが、今までルドヴィコにそれを言ったことがなかった。それは、別に後ろめたいことでもないのだけれど、ある思い出が影響しているからだった。
鳥取との県境に近いこの街に怜子は二年ほど暮らしたことがある。引越魔の異名をとった父親は、島根県内のほぼ全ての市と郡を制覇して、今は山口県との県境に住んでいる。ここに住んだのは怜子が小学校六年生の時だった。
友達とは早晩お別れをするものだと思っていたので、あまり親しい関係を作ろうとしなかった。だから、この近辺に親しい友達はいない。年賀状のやりとりすらない。憶えている子はひとりだけ。それも断片的な記憶のみ。博くん、今どうしているんだろう。
「怜子さん?」
ルドヴィコの声で我に返った。バスを降りてからひと言も話さなかったから、不思議に思ったのかもしれない。
「何だか久しぶりで変な感じなの。十年くらい来ていなかったから」
赤茶けた屋根の民家は、子供の頃と全く変わらない。ここは、時間の流れがゆったりとしている。降りたバス停は、学校に行く時にいつも使った。隣のバス停から乗ってくる少年はこの地区で唯一の同級生だった。
その山根博という少年と、学校でどんな話をしたか、バスの中でどんな態度だったのかも、怜子は憶えていなかった。憶えているのは、この砂浜での夏休みの午後。
怜子は、一人で砂の城を作っていた。城と言っても、台形に煙突に酷似した塔がついた程度の情けない形で、「これはなんだと思う」と問えば、禅問答になるような酷い代物だった。
もう崩して帰ろうかと思っていた時に、博がやってきたのだ。
「あれ。渡辺、何やっているんだ?」
怜子は、出来の悪い砂の城を見られて赤くなったが、博は面白がってその改築を申し出てくれたのだ。彼には怜子よりずっと才能があり、しばらくするとシンデレラ城とまではいかないが、誰が見ても城とはっきりわかるようになった。
上手くできると、楽しくなり、時間の経つのも忘れて二人は城を大きくしていった。途中でトンネルを掘っている時に、砂山の中で二人の手が触れた。怜子は手を引っ込めようとしたけれど、博はさっとその手を握った。夕陽が砂の城を染めはじめていた。
怜子は、びっくりしてその手を振りほどくと、そのまま逃げていった。
「渡辺!」
博の声は、しばらく耳に残っていた。怜子は二度とこの海辺にいかなかった。そして、その夏休みが終わる前に父親がまた引越すと宣言して、妙にホッとした。
そのことは、誰にも言わなかった。今にしてみれば、大したことではない。それに、ものすごく嫌だったわけでもないのだ。友達以上、初恋未満、そんな感じ。「ごめんね」も「さようなら」も言えなかった。
「あれ……。もしかして、渡辺じゃないか?」
声に現実に戻って振り向くと、紺のポロシャツを着た半ズボンの青年が、両手にいくつもの魚の干物を持って立っていた。
えええ。本物に逢ってしまった……。怜子は、紛れもない山根博の登場に動揺した。一方、博の方は、特に氣まずそうな様子は皆無で、明るい笑顔だった。隣のルドヴィコにも「は、ハロー」と明らかに慣れていなさそうな英語を使おうとした。
ルドヴィコは「こんにちは」と目をつぶっていたら外国人とはわからないようなNHK標準語の発音で返して、怜子に「おともだち?」と訊いた。
「うん。昔の同級生、山根博くん」
そう怜子が紹介すると、ルドヴィコは、さっと右手をだした。
「はじめまして、ルドヴィコ・マセットです。イタリアで生まれましたが、日本に移住して和菓子職人をしています」
「はじめまして。すげーな。日本語、ペラッペラだ」
博は右手を麻の半ズボンできれいにしてから手を差し出した。
「博くん、今もここに住んでいるの?」
「ああ。そこの山根屋って民宿やっている。よかったら寄っていくか。スイカと麦茶、あるぞ」
山根屋は海辺に面していて、縁側に座ると白い砂浜と海に反射する陽の光が目に眩しかった。蝉の声が波の音にかき消されている。潮風が優しく吹いて心地よかった。
怜子は、ずっと心に引っかかっていた少年との氣まずい別れが、なんでもなかったことに安心して少し浮かれていた。懐かしそうに中学生の時の話をする二人を、ルドヴィコはほとんど口を挟まずに聴いていた。麦茶のグラスについた水滴が流れ落ちていく。
「あ。前にここでやったスイカの種を飛ばす競争しようか」
「ええ? あれから一度もやっていないもの、もうできないかも」
「そんなわけないだろ、あんなに上手かったんだしさ。あ、ルドヴィコさんも、一緒にどうですか?」
ルドヴィコ、スイカの種、飛ばせるのかな。だって、いつも飲み込んじゃうし。怜子は、ヨーロッパの人間はスイカの種を出さずに食べてしまうことを、ルドヴィコと知り合ってから知ったのだ。
案の定、ルドヴィコはスイカの種を飛ばすことはなかった。会話は完璧にわかっているはずなのに、ほとんど話さなくていつもと違ったので、怜子は少し不安になった。
「ルドヴィコ、ここ暑すぎる? 大丈夫?」
博が「あ」と言って、扇風機を用意しようとしてくれたが、「そうじゃありません。大丈夫です」と言うと、縁側から立ち上がって目の前の広がる海と同じ色の瞳を細めた。
「怜子さん、すみません」
帰りのバスの中で、ルドヴィコがいきなり謝ったので、怜子は驚いた。
「何のこと?」
「せっかく久しぶりに友達とあったのに。本当はもっとゆっくり話をしたかったんじゃありませんか」
「ううん。そんな心配しないで。それに、私の方こそ、なにかルドヴィコが不快に思うことをしちゃった?」
彼は首を振った。それから、しばらく黙っていたが、青い瞳をむけてから口を開いた。
「怜子さんじゃ、ありません。僕の方です。僕は、志多備神社に行った時のことを考えていたんです」
怜子は、首を傾げた。志多備神社に行ったのは、五月の終わりだった。日本一と言われるスダジイがあることで有名な神社だ。
九本の枝を周囲に張り、幹周り11.4m、樹高18mにもなる巨樹は、樹齢300年以上と言われている。45mにもなる稲藁で作った大蛇が巻き付けてあり、その堂々たる姿は神の一柱がここにもいると納得させる存在感だ。
本当にたった300年なのか、本当は千年以上の長い時を見つめてきたのではないかと錯覚してしまうような佇まいで、苔むしてねじれた太い枝の一つひとつに、力強い重みと苦悶にも思える表情を深く刻んでいた。
二人は滴る緑の中で、椎の独特の香りに雨の季節を感じつつ、神聖な存在と黙って対峙していた。
そこに一人の外国人女性がやってきた。ルドヴィコが漢字も読めるようだとわかると、そばかすの多い顔をほころばせて早口で話しかけた。それからしばらく二人は巨樹について話していた。ついでにその話が別のことにも至ったようだというのは、怜子でもわかったが、そもそも二人が何語で話しているのかすら彼女にはよくわからなかった。
「スペインの女性ですよ。僕はイタリア語で、彼女はスペイン語で話したのですが、それで何となく通じてしまいます。正確に伝えなくてはならないところは、お互いに英語を使いますけれど」
「何を訊かれたの?」
「いろいろですが、最終的には日本人にとっての『神』という存在についてです。彼女をはじめとするたいていの欧米人には巨樹が『神』として崇められるということが、わからないのです。複数の神を同時に崇めるということもね。おそらく、僕も完全に『わかっている』わけではない、たんに文化の違いとして理解しているだけなのかもしれませんね」
怜子は、胸の奥が痛くなるのを感じた。
ルドヴィコは、平均的日本人よりもずっと日本の伝統や文化に詳しく、かつそれを尊重している。だから、彼は日本に、ひいては自分にとても近いと思っていたのだ。けれど、彼が「完全にはわからない」と告げた言葉で、怜子は彼が急にあの見ず知らずの金髪女性の方に行ってしまったように感じた。
自分の努力や意志では決して越えられない壁があると氣づくとき、人はその無力さに傷つく。スダジイの脇から顔を見せた蜻蛉の薄羽色の若葉が風に揺られているのを見ながら、怜子は「その人と話すのをやめて。ここで二人で一緒に樹を見ようよ」と心の中で呟いた。でも、その感情、怜子がつまらない嫉妬だと自嘲した感情は、ルドヴィコには悟られていなかったはずだった。
「あの時の、あの女の人との会話のこと? でも、どうしてルドヴィコが私に謝るの?」
「あの時、怜子さんは悲しそうでした。僕は、なぜ悲しく感じたりするのだろう、怜子さんは僕をよく知っているのにと思ったんです」
怜子は、また驚いた。私の心の中、ルドヴィコに、全部バレていたんだ。彼は続けた。
「でも、それは、傲った考え方だと、ようやく今日わかったんです。博さんと怜子さんはたった二年一緒にいただけで、その後十年も会っていなかった。それなのに、彼の方がずっと怜子さんのことをよく知っているように感じて、僕はガラスの敷居で区切られたように感じてしまったのです」
怜子は、ただ彼の言葉を黙って聴いていた。
「怜子さんが、トイレに行った時、博さんが僕に言いました。怜子さんはとても素敵な人で、初恋の人だったって。その怜子さんが僕と幸せそうでとても嬉しいと言っていました」
「……」
「その時に、僕は、博さんという存在に嫉妬していたのではなくて、もっと大きい文化の違いにつまづいていたんだとはっきり認識したのです。そして怜子さんもあのスペイン女性に嫉妬したんじゃなくて、同じことで傷ついていたのだと、そこでようやく思い至ったのです」
怜子は、彼にそう言われて初めて自分の中にあった悲しい感情の正体が分かった。そうか、そうだったんだ。
「僕は、同じ文化で育ってこなかったことに起因するいつも存在している不安を見落としていました。それをしっかりと見据えることなしに、お互いを尊重する努力をできるはずなんかありませんよね。だから、怜子さんに謝らなくてはいけないと思ったのです」
「謝ることなんかないよ、ルドヴィコ。あなたの言いたいこと、とてもよくわかるし、正しいと思う。でも、私のことを一番わかっているのは、ルドヴィコだよ。たとえ、生まれた場所がどれほど離れていて、お互いにまだ理解できない文化の違いがどれほどたくさんあってもだよ」
ルドヴィコは、青い瞳の輝く目を細めて微笑んだ。怜子は、小さく続けた。
「だからね、ルドヴィコ……あの、こうしても、いい?」
そういって彼女は、ルドヴィコの大きな手にそっと触れた。彼は、その手をしっかりと握り返してきた。
怜子には、はっきりとわかった。友達以上、恋未満だったのは同じでも、博とルドヴィコにはもうはっきりとした違いがあった。怜子は、ルドヴィコと手をつなぎたかったし、離したくないと思った。そして、彼もそう思っていてくれることを心から嬉しく思った。
バスを降りるまで、二人はずっとそうやって手を握っていた。運転手や数少ない他の乗客からは見えないようにこっそりと、でも、大きな安堵と幸せに包まれた時間だった。
(初出:2016年1月 書き下ろし)
【小説】その色鮮やかなひと口を -5 -
「scriviamo! 2017」の第十弾です。
嬉しいことに今年もココうささんが、俳句で参加してくださいました。冬と春の二句です。ありがとうございます!
ココうささんの書いてくださった俳句
冬木立手より重なる影ありぬ あさこ
春の水分かれてもまた出会ひけり あさこ
この二句の著作権はココうささん(あさこさん)にあります。無断転載ならびに転用は固くお断りします。
ココうささんは、以前素晴らしい詩や俳句、揮毫を発表なさっていらっしゃいましたが、現在はブログをお持ちではありません。でも、今でもこのブログを訪ねてくださり、時々、お話ししてくださるんです。実生活と違って、ブログ上でのお付き合いは連絡先を知らない限り簡単に途切れてしまいますが、こうして交流が続くこと、本当に嬉しく思います。
そして、毎年のお約束になっていますが、一年間放置した二人をココうささんの俳句で動かさせていただきました。島根県松江市で和菓子職人になったイタリア人ルドヴィコと店でバイトをしている大学生怜子のストーリーです。年に一度という寡作の割になぜか展開が早いのですが、もう五年もこのままですからね。
【参考】この話をご存じない方のために同シリーズへのリンクをつけておきます。
その色鮮やかなひと口を
「scriviamo! 2017」について
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
その色鮮やかなひと口を -5 -
Inspired from 2 Haikus by Asako-San
——Special thanks to Kokousa san
二月だというのに、道には雪はほとんどなかった。まだ肌寒いが、枝の蕾のふくらみや、穏やかな陽の光に歌う小鳥のさえずりが、春はそう遠くないことを報せてくれる。
怜子は、運転席に座るルドヴィコに視線を移した。さほど空間の広くないレンタカーの中で、彼の頭と天井との空間はたくさんは残っていなかった。怜子は背の高い穏やかな青年の横顔に微笑みかけた。
「どうしましたか。怜子さん」
彼は、いつも通り流暢な日本語で語りかけた。怜子は「なんでもない」と言って窓の外に視線を戻した。
注文品を届けることがあるので、彼は仕事で運転することはあるが、プライヴェートでは一畑電鉄のバスや電車にのんびりと乗るのを好んでいた。でも、今日は、山口県との県境まで行かなくてはならず、交通の便が今ひとつなので車を借りたのだ。怜子は、彼とドライブしたことは一度くらいしかないので、妙にワクワクしていた。もっとも、怜子の両親のところに行く用事の方にもっとドキドキすべきなのだが、そちらの方はいまいちピンと来ていなかった。
そもそもの事の起こりは、二週間ほど前だった。怜子が将来のことでルドヴィコに相談を持ちかけたのだ。
「ゼミの指導をしてくれている助教授がね。恩師が教鞭をとっている京都の大学院を受けてみないかっておっしゃるの。どうしようかなあ」
「怜子さんは文学の研究を続けたいんですか?」
「う~ん。もっと研究したら面白いとは思うけれど、将来のこともあって考えちゃう。研究職に就きたいってことではないのよね。京都に行けば京阪神の大都会で仕事をする可能性が開けるとゼミ仲間は言うけれど、大学院卒ってよほど優秀じゃないと就職先ないし」
「怜子さん、都会で仕事したいんですか」
「私、島根県から出たことないもの。このままここで就職活動したら、井の中の蛙のままになるんじゃないかなあ。それでもいいれど、先生がせっかく奨めてくれるのは自分を試すチャンスかもしれないと思って。ルドヴィコはどう思う?」
「もし、こちらで就職活動をするとしたら、どんな所に勤めたいんですか?」
「とくに決めていないよ。私は特殊技能もないし、事務職かなあ。そもそも求人があるかしら」
「『石倉六角堂』にこのまま勤めるのは嫌なんですか?」
「いや、嫌じゃないけれど、私はバイトだもの。ルドヴィコみたいに和菓子職人としての技能があれば社長も正社員として採用してくれるけれど、バイトの正社員登用なんてないと思う」
彼は腕を組んで納得のいかない顔をしていたが、どうやら社長に打診してくれたらしい、翌日怜子は石倉夫人と社長に呼ばれた。
「怜ちゃん、ルドちゃんから聞いたんだけれど、卒業後にここで働くつもりはないの?」
石倉夫人に訊かれて怜子は驚いた。
「え。考えたことなかったです。去年、千絵さんも就職活動の時期に辞められたのを見ていたから、はじめから無理だと思っていて……」
「うちはそんなにたくさん正社員を雇えないし、一度雇ったら誰かが辞めるまでは新しく募集できないさ」
社長がいった。怜子は、ほら、そうだよね、と思いながら頷いた。
「だからね。怜ちゃんが卒業するまでは、少しキツいけれどバイトのシフトだけでなんとか凌ごうって去年、アルバイトを増員したのよ」
石倉夫人は夫の言葉を継いだ。
「え?」
怜子は、目を瞬かせて二人の顔を見た。その反応に二人は顔を見合わせた。
「ルド公は、何にも言っていないのか?」
「なにをですか?」
「困ったヤツだな」
社長はため息をもらした。それから、ばっと事務所の扉を開けると、奥の厨房にいるルドヴィコに向かって叫んだ。
「おい。ルド公! 俺から言ってしまうからな!」
奥から「どうぞ」という彼の声が聞こえると、社長は再びドアを閉めて、また怜子の前に座った。
「実はな。一年ぐらい前から具体的に話しているんだが、数年後にもう一軒支店を増やすつもりなんだ。新しい店は義家と真弓さんに任せるつもりでいる。そうなると、こっちでメインに作ってもらうのは佐藤とルド公になるだろ。で、真弓さんの代わりに昼夜関係なく働ける正社員がもう一人いるって話になったんだよ。そうしたらルド公が、自分の嫁じゃだめなのかといったんだよ」
「え?」
「その、ルドちゃんは、怜ちゃん、あなたが卒業したらお嫁さんになってもらって一緒にここでやっていくつもりだったの。もちろん私たちは大歓迎だけれど、彼ったら何も言っていなかったのね。まさか、こんな形で私たちから告げることになるとは夢にも思わなかったわ」
あまりに驚いて何も言えない怜子に、社長は言った。
「あいつの嫁になるかどうかは別として、もしここを辞めて県外に行くなり、他の職種に就職したいって場合は、三月までに返事をくれないか? その頃には、正社員の募集をかけなくてはならないし」
それで、その日の仕事から上がるとすぐにルドヴィコに詰め寄った。
「ルドヴィコ、わたし何も聞いていないよ!」
彼は、肩をすくめて言った。
「だから、近いうちに怜子さんのご両親の住む街に行こうって言ったじゃないですか。怜子さんが試験が終わってからがいいと言ったんですよ」
「うちの両親なんて、これと関係ないでしょう。……って、あれ? まさか……」
「そうですよ。『お嬢さんをください』って、ご挨拶をしないと」
「ええっ? でも、ルドヴィコ、まだ私にプロポーズしていないよ?」
「しましたよ。怜子さんOKしたでしょう」
「いつ?」
「先週、城山稲荷神社で」
「え? あ……あれ?!」
松江城の敷地内にある城山稲荷神社は千体もの石の狐がある不思議空間だ。店からもルドヴィコの住まいからもとても近いにも関わらず、この神社に一緒に行ったのはまだ三回目だった。石段を上るのが一苦労だからだ。
でも、その日は二人で久しぶりにお稲荷さんにお詣りして、かつて小泉八雲が愛したと言う耳の欠けた狐や幸福を運ぶ珠を持った狐を二人で探した。
「小泉八雲は通勤中にここをよく訪れたそうですよ。日本らしい幽玄な光景、当時二千体もあったお稲荷さんを見て、そして、それが全て神として信仰されているのを知り、ここは故郷とどれほど違った国なのだろうと驚いたでしょうね」
「そうだよね。私たち日本人でも、これだけ揃っているとすごいなあって思うもの。八雲、よく日本に帰化する決心がついたよね」
ルドヴィコは、怜子を見つめてにっこりと笑った。彼の後にある大きな樹から木漏れ日が射していた。
「彼は、日本とその文化を深く愛していたから、この国に居たいと思ったのでしょうね。でも、二度と故郷に戻らなくてもいい、ここにずっと居ようと決心させたのはセツの存在だと僕は信じます。この人が自分にとってのたった一人の人なのだと確信して、一緒に生涯を共にしようと思った。この松江で、僕もそういう人に逢えたことを神に感謝しています」
そう言って、彼は怜子の手を取った。
「怜子さん。僕たちも、これからこの街の四季を眺めながら、ずっと長い人生を歩いていきましょう」
葉を落とした大きな神樹の枝の影、背の高いルドヴィコの優しい影、そして繋がれた手のひらから伝わるぬくもりで、怜子の心は大きな安心感に満たされた。きっと小泉セツも、同じような確信を持って、異国の人と生涯を添い遂げようと思ったんだろうなと理解した。
「うん。ルドヴィコ。そうなるといいね」
そのとき、怜子は、「いずれ彼と結婚することとなるに違いない」と確信したのだ。でも、まさかあれがプロポーズそのものだったなんて!
「あんな抽象的ないい方じゃ、プロポーズされているんだかどうだかわからないよ!」
「なんですって。じゃあ、僕がどんなプロポーズをすると思っていたんですか?」
「え。花もって、膝まづいて、結婚してくださいってヤツ?」
ルドヴィコは「そんなベタなプロポーズは今どきイタリアでもしませんよ」と、大きなため息をついた。
そして、ようやく怜子の試験が終わったので、レンタカーで両親のもとへ行くことにしたのだ。
ナビゲーターに誘導されて、レンタカーは小さな谷間を走っていた。人通りの少ないのどかな田園風景がどこまでも続く。ルドヴィコは、車を停めて休憩をした。
「わあ。こんなところに、かわいい小川がある」
怜子は、道の脇から覗き込んだ。まだ残っている雪が溶けて、透明な滴をぽとり、ぽとりと川に注いでいた。
休みの日に、こうやってルドヴィコと二人でのんびりと過ごせるのは、とても自然で嬉しいことだった。そして、それはこれからの人生ずっと続くことなのだ。あたり前のようでいて、とても不思議。怜子は考えた。
「あ。来週、先生に京都の件、断らなくちゃ」
怜子が言うと、ルドヴィコは「断っていいんですか」と訊いた。
「だって、大学院で研究しても、将来には結びつかないよ。京都や大阪で就職する必要もなくなったし」
「井の中の蛙は嫌なんじゃないんですか」
そう言われると、いいんだろうかと考えてしまう。
「ルドヴィコも、イタリアから外の世界に出てみたかったの?」
怜子が訊くと、彼は彼女の方を見て笑った。
「イタリアの外じゃなくて、日本に行きたかったんですよ。夢の国でしたから。今ほど簡単に情報が手に入らなかったので、混乱しましたけれど、その分、早く行ってみたいと想いを募らせていました」
「何があると思っていたの?」
「子供の頃は、ポケモンとニンジャですよ。少し大きくなってからは伊藤若冲とドナルド・キーン」
怜子はすこしずっこけた。子供の頃と少し大きくなってからが、全然つながっていない。
「日本に到着してからは、もっとたくさんの情報に振り回されましたが、松江にたどり着いてようやく落ち着きました。日本には本当に何でもありますが、自分にとって大切なものは、自ら削ぎ取らないと見失ってしまう。日本古来の美学は、それを知るいい指針となりました」
怜子は、そうなのかなあと思いながら、田園風景を眺めた。確かにルドヴィコと私が両方とも大阪や東京にいたら絶対に出会えていなかっただろうし、お互いのよさに氣づく時間もなかっただろう。
「お茶室を初めて見たとき、ものすごく感動しました。家具と言えるものがほとんどなくて、畳の上に亭主と自分がいる。そして、お菓子とお茶がシンプルに出てきます。円形の窓から外の世界が見える。風の音、樹々のざわめき、鹿威しの音。わずかな音が静寂を際立たせる。僕に必要だったのはこの世界なんだと思いました。たくさん詰め込むのではなくて、不要なものを極限まで削ぎ取ったところに現れる世界。実際にはわずかな空間なのに無限の広がりを感じました。僕が日本に住もうと思った瞬間でした」
「だから、和菓子職人になろうと思ったの?」
「はい。小さな一つのお菓子の中に、季節ともてなしの心が詰まっている。伝統的であるのに、独創的で新しい。これこそ僕の探していたものだと思いました」
探していたものかあ。私はなにか探したのかな。探す前に、いつも向こうからやってきているみたいだからなあ。怜子はまた考え込んだ。
「怜子さん。京都で研究したいなら、行ってください。結婚は大学卒業後すぐでなくても構いませんし、お店で働かなくてもいいのですから」
怜子は、はっとして彼を見た。
ルドヴィコは、深い湖のような澄んだ瞳で見ていた。
「見てください。あそこで川の水は二手に分かれています。そして、少し離れてあそこでまた一つになっている。そしてどこを通ってもいつかは同じ海に流れていくんです。怜子さんがどちらに向かおうとも進む道に間違いはありません。したいと思うことを諦めずにしてください。僕はちゃんと待てますから」
怜子は、その時にはっきりとわかった。自分がどうしたいのか。川の水もキラキラと光りながら迷わずに海へと向かっている。彼女はしっかりとルドヴィコを見つめ返していった。
「私、卒業したらすぐに『石倉六角堂』で働く。井の中の蛙でもいい。都会には行かないし、他のことも探さない。だって、私にとって大事なことは、ここにあるんだもの」
彼はその言葉を聞くと笑顔になった。青いきれいな瞳が優しく煌めいていた。
怜子は、続けた。
「その代わりに、私ね、イタリア語を始めようと思うの」
「え?」
「だって、ルドヴィコの家族とも親戚になるんでしょう? 挨拶も出来ないんじゃ、困るもの」
彼は、目を見開いてから、嬉しそうに口を大きく開けて笑った。
「では、明日から特訓してあげましょう。鉄は熱いうちに打てって言いますからね。そして、遠からず行って僕の家族に引き合わせましょう」
(初出:2017年2月 書き下ろし)
【小説】その色鮮やかなひと口を -6 -
「scriviamo! 2018」の第九弾です。今年もあさこさんが俳句で参加してくださいました。夏の二句です。ありがとうございます!
あさこさんの書いてくださった俳句
ストローは人待つ道具遠花火 あさこ
短夜の夢点々と置いて来し あさこ
この二句の著作権はあさこさん(ココうささん)にあります。無断転載ならびに転用は固くお断りします。
あさこさんは、ココうささんというハンドルネームで、以前素晴らしい詩や俳句、揮毫を発表なさっていらっしゃいましたが、現在はブログをお持ちではありません。六年の間に交流のなくなってしまった方も多いネット上のお付き合いですが、この「scriviamo!」を通してこうしてあさこさんとおつきあいが続いていることは本当に嬉しいです。
今年寄せていただいた俳句は、夏の情景がぱあっと目の前に浮かぶ素敵な二句。私は夏生まれなので、夏にたいするノスタルジーがとても強いのです。こんなに言葉を尽くしてもうまく書き表せない私ですが、ああ、俳句って偉大だなあ……。
というわけで、一年間放置した例の二人をココうささんの俳句で動かさせていただきました。島根県松江市で和菓子職人になったイタリア人ルドヴィコと店でバイトをしている大学生怜子のストーリーです。去年の話で、婚約して怜子の卒業後も引き続き「石倉六角堂」で働くことまで決まりましたが、今回は舞台がいつもと全く違っています。
【参考】この話をご存じない方のために同シリーズへのリンクをつけておきます。
その色鮮やかなひと口を
「scriviamo! 2018」について
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その色鮮やかなひと口を -6 -
Inspired from 2 Haikus by Asako-San
——Special thanks to Kokousa san
随分陽が高いなあと、怜子は見上げた。もう九時なのにまだ明るい。日本ではまだ梅雨が明けていないのに、一足早く夏を楽しんでいる。
初めての海外旅行が、まさか婚約者の両親への挨拶になるとは思わなかった。イタリア語を完璧にしてから行こうと思っていたけれど、そんな事を言っていたら、永久に行けないということに氣がついた。
こちらについてからも、ルドヴィコがネイティヴらしくなんでもやってくれるので、怜子は「ボンジョルノ(こんにちは)」と「グラツィエ(ありがとう)」くらいしか口にしていなかった。まだちゃんと答えられないけれど、でも、どんな話をしているかぐらいはなんとなくわかるようになったのだ。私ってすごい……じゃなくて、ルドヴィコの特訓がよかったってことかな。
ここは北イタリア、トリノに近い小さな町だ。教会と、その前の広場を中心に、なんて事のないお店がいくつかあるだけ。今日は、六月二十四日、トリノ市の守護聖人サン・ジョバンニのお祭りで、日中にルドヴィコと一緒に屋台巡りなどをしたのだけれど、あまりの人手に二人とも疲れてしまったので、早々に退散して宿をとったこの町に戻ってきたのだ。
見るもの全てが珍しかった。教会があって、石畳と石づくりの家があって、道行く人がみな外国人で、看板もメニューもみなアルファベット。お茶も、ご飯も、お蕎麦もない世界に自分がいるのが不思議だった。もっと不思議なのは、ルドヴィコがもともとこの世界に属していたということだった。
明日は、いよいよルドヴィコの両親の住む村へ行く。氣に入ってもらえるかなあ。まともに会話もできない嫁ってありなのかな。飛行機の中でまだくよくよしている怜子にルドヴィコは言った。
「心配ありませんよ。僕は三人兄弟の末っ子ですが、二人の兄もイタリア語を話せない外国人と結婚していますから、彼らは慣れています」
ええっ。一つの家族に三組も国際結婚があるの? 怜子は仰天した。そういえば、お兄さんたちの話はあまり訊いたことなかったな。
「お兄さん達にも会える?」
「残念ながら、今回は無理ですね。一人はシチリア、もう一人はカナダに住んでいますから」
「へえ。お母さん達、寂しがっているんじゃない? 息子が三人とも遠くで」
「そうですね。でも、もう諦めたんじゃないでしょうか。全然帰ってこないのに慣れていたので、婚約者を連れて会いに行くと言ったら驚いてとても喜んでいましたよ」
よし、頑張ってイタリア語で話しかけるぞ! その時はそう思ったけれど、実際に着いて周りのイタリア人達の流れるようなイタリア語を聞いていたら、ちゃんと会話できる自信はまったくなくなった。まあ、いいか、努力だけ認めてもらえれば。
それでも、馴染みの深い言葉もあった。エスプレッソ、ピッツァ、パスタ、ジェラート。あ、食べ物ばっかり。手許にある黒い缶に黄色と白い字で「レモンソーダ」と書いてある。わかりやすくて、なんだか安心する。これなら注文するときにも間違えっこないし。
ルドヴィコが、レンタカーを受け取りに行く間、怜子は宿に備え付けのバルのテラスに座って待っていた。
宿の太ったおばさんが「大丈夫?」という感じでこちらを氣にしてくれるので、大丈夫とジェスチャーで答えた。初めての海外だって、三十分くらい、一人でいられるよ。大ぶりのグラスに、自分で缶からレモンソーダを注ぐと、シャワシャワと音がする。缶はキンキンに冷えて汗をかいている。缶とお揃いなのか黒いストロー。日本のものより短くて太いんだね。
怜子は、ストローをグラスの上の淵まで持ってきて、ソーダを伝わせる。透明で綺麗だな。ルドヴィコの見せてくれた光景は、彼女の想像していたイタリアとは少し違っていた。確かに人々は陽氣だけれど、別に常にハイテンションでいるわけではない。街並も赤や黄色や緑の壁がないわけではないけれど、どちらかというと落ち着いた肌色や煉瓦色で占められている。
街の中心に教会と広場があって、人々が普通に生活している。ここはエンターテーメントの舞台ではなくて、人々が普通に生活する場なんだなと思った。
ちょっといいなと思うのは、小脇に花を抱えて歩く帽子を被った男性や、女性と買い物をしながら当然のように重いものを持ったりドアをさっと開けてあげる男性の姿。どれもまったく嫌味なく、ごく普通の行為のようだった。
ルドヴィコも前からそうだった。怜子に対してだけでなく、勤め先である「石倉六角堂」で石倉夫人をはじめとして女性従業員に対してとても自然にレディーファーストの振る舞いをする。見るからに外国人なので、皆そういうものだと思っているけれど、日本人男性だったら「キザな人だなあ」と感じるかもしれないと怜子は思っていた。こういうことを女の私でも思うから、日本では男性が女性に全部の荷物をもたせたまま手ぶらで歩いたりもするのかもしれないなと思った。別に男性に全部もたせたいとは思わないけれど、半分くらい持ってもらいたいこともあるものね。
日本との違いは他にもある。例えば、日本でルドヴィコと二人で歩いていると、初めて会う人は皆少し慌てて英語で話さなくてはいけないのかとドキドキしたり、「どうして日本に来たんですか」と訊いたりする。でも、こちらでは明らかに外国人の怜子の存在に驚いたり、慌てたりする人はいない。まず発する言葉はイタリア語。つい先ほども、座っていると道を訊いてきた人がいた。どうやっても地元民には見えないはずなのに。
見ていると、色の黒い人や、アジア人もたくさん歩いている。ここはトリノと違って観光客はそんなに来ない何もない町だから、歩いている人達はきっとここに住んでいるか仕事をしているのだろう。
ルドヴィコとの旅は、怜子が考えていた海外旅行のあり方とも違っていた。昨日着いたばかりだけれど、ミラノにいたのに凱旋門もドゥオモも見ていないし、ショッピングもしなかった。名所の説明を聴きながらカメラのシャッターを切るような行動は何もしていなかった。
そうではなくて、人と会って、話して、笑って、別れる。そんな旅なのだ。
ミラノの空港には、ルドヴィコの親友ロメオとその恋人の珠理が迎えにきてくれた。この二人は、去年の梅の時期に松江にルドヴィコを訪ねてきて、その時に怜子も知り合ったのだ。
「いつか二人でミラノに遊びにきてね」
そう言われた時に、そんなことが実現するとは想像もしていなかった。それなのに、十六ヶ月経った今、怜子はルドヴィコの婚約者として再会したのだ。
昨夜は、ロメオと珠理の住んでいるアパートメントに泊めてもらったのだが、昔ながらの建物を利用した天井の高い素敵な部屋だった。怜子が日本で馴染んでいるものよりも少し高いテーブル。どっしりとした木枠の大きな窓、年代もののオーブンや暖炉があることにも驚いた。照明デザイナーである珠理にふさわしく間接照明で構成された柔らかい明かりの部屋。まるでインテリア雑誌で見るような光景だなと思った。
そういえば、蛍光灯は一つもなかった。ボタンひとつで水の出るトイレ、ワイヤレスの自動掃除機、電子レンジといった文明の利器もまったく見当たらなかった。トイレと簡単なシャワーのある洗面所にはボタン一つでお風呂が沸くシステムなんてない。そもそもバスタブがなかった。
むしろ、そういうボタン一つで何かが整うシステムは無粋で必要としていないようだった。
二人は、昼間のように明るい室内よりも、ろうそくの光で楽しむ夕べを大切にしていた。キッチンを箒で掃き一緒に掃除をしていた。三分で食事をしたいときはトマトやモツァレラとパンだけで食事をし、そうでないときはオーブンに入れた料理がじっくりと調理されるのを待つ間に色々な話をするのだと言った。
それは、いま見ているこの町の佇まいに似ていた。特別なエンターテーメントは何もなく、観光客が押し寄せるような名所もなく、ただ、人々がゆったりと心地よく暮らしているように見える。知り合い同士が立ち寄っては、グラスワインと小さなおつまみだけを前に、おしゃべりと笑いで夏の長い一日の残りを楽しんでいる。特別なものが何もないことが、いや、敢えて持たないことが、このなんでもない町を詩的にしているようだ。
ルドヴィコが、松江の古い民家を借りて住んでいることも、それと同じなのかもしれない。プラスチック製のものを使いたがらないこと、家では和服に着替えて墨書きをしたためたりすること、美しい日本語にこだわって話したがること、四季の移り変わりや日本の伝統を大切にして、不便さよりも筋の通った美しい暮らしを優先させること。それらが、この数日で怜子が印象づけられた物事と繋がっているように感じた。
遠くで花火の音が聞こえ出した。トリノのお祭りで打ち上げているのだろう。まだ空が明るくて、花火大会を楽しむ感じではない。
花火もトリノの街の観光も、怜子にとってもいつのまにか重要ではなくなっていた。だれでも知っている光景を、観光案内書と同じアングルで撮ることに時間を費やしても、ずっと拙い写真を持ち帰ることしかできない。昨日からルドヴィコと一緒にしたことは、観光案内の後追いではできない特別な経験だった。一つ一つをその場でじっくり楽しみたい。ミラノで、この町で、彼の両親の住む村で。
「怜子さん、お待たせしました」
声のした右側を見ると、ルドヴィコが歩いて来た。
「あれ。いつ来たの? 見ていたのに、全然わからなかった」
「裏側からパーキングに入りましたから」
彼は、すっと彼女の横の席に座った。怜子が楽しそうに眺めている視界を遮らないように。とても心遣いの行き届いた人なのだと、彼女はいつも感心する。
「おや。花火がはじまりましたね」
彼が、顔をトリノの方向に向けて行った。
「うん。まだ明るいのにね。でも、ようやく暮れてきたね」
「サン・ジョバンニのお祭りは夏至祭のようなものですから。そろそろ九時半ですよ」
もっとも日が長い季節であることに加えて、ヨーロッパではサマータイムを採用していて本来の時間から一時間ずれているので、日没がこんなに遅くなるのだ。日が暮れると急に寒くなるから、風邪を引かないようにしなくちゃ。怜子はカーディガンを着た。
「怜子さん、花火を見たかったんじゃありませんか? 車がありますから、今から行ってもいいのですよ」
ルドヴィコは、訊いた。人混みが苦手な彼のために、怜子が遠慮したのかと心配しているのだ。
「ううん。いいの。あのね。観光やお祭りみたいな特別なものじゃなくて、こうやって、なんでもない宵をのんびりと過ごすのがいいなあって、いま思っていたところだったの」
怜子がそういうと、彼はにっこりと笑った。彼女は、この笑顔を生涯見続けるのだと嬉しくなった。これから向かう両親の住む村で、その次に見せてもらう北イタリアのどこかで、そして、日本に戻って二人の暮らす街で、一つ一つの思い出を作っていくのだと思った。
(初出:2012年2月 書き下ろし)
【小説】その色鮮やかなひと口を -7 -
今日は「十二ヶ月の情景」十一月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。今日は、まだ十月ですが、来週にすると、Stellaの締め切りに間に合わなくなるので、今日の発表です。
今日の小説は、大海彩洋さんのリクエストにお応えして書きました。
11月17日、真の誕生日なんですよね~。テーマは「蠍座の女」、コラボ希望はバッカスの田中氏と思ったけれど、すでにlimeさんちの水色ちゃんとコラボ予定のようなので、出雲の石倉六角堂で。出雲なので、別の誰かさんたちが出没してもいいなぁ~(はじめちゃんとか。まりこさまとか。)
「真」とはご存じ彩洋さんの大河小説「相川真シリーズ」の主人公です。翌日11月18日は、実は今連載中の「大道芸人たち Artistas callejeros」のヒロイン蝶子の誕生日ですが、今回は絡めませんでした。「さそり座の女」ですけれど、あいつはヨーロッパにいるんですよ。「石倉六角堂」は松江ですし、蝶子はそんなにしょっちゅう日本には来ないので、無理がありすぎました。
で、はじめに謝っておきます。たくさんご要望があるんですけれど、全部はとてもカバーできませんでした。五千字ですよ! 出すだけなら出せますけれど、まとまった話にならなくなるし。というわけで、「石倉六角堂」までをカバーしました。そして、かなり無理矢理ですが彩洋さんの大事な真のお誕生日を絡ませました。でも、ご本人は出てきません。その代わり、以前この話で少しかすらせていただいた、あの方が登場です。

【参考】
「その色鮮やかなひと口を」
その色鮮やかなひと口を -7 -
うわ、可愛い。怜子は思わずつぶやいた。ルドヴィコの作る和菓子は、いつも色鮮やかで、かつ、日本情緒にあふれるトーン、動物を象った練り切りなどは愛らしいのだが、今回はいつもにましてキュートだと思った。
それは金魚を象っていた。単なる金魚ではなく、島根県の天然記念物にも指定されている『出雲なんきん』だ。土佐錦、地金とともに三大地金のうちの一つに数えられている、島根ゆかりの金魚だ。小さな頭部と背びれがないこと、それに四つ尾の特徴がある。
既に江戸時代には、出雲地方で大切に飼育され、大名諸侯が愛でていた、歴史ある品種なのだ。不昧公の呼び名でおなじみの松江藩七代藩主松平治郷は、江戸時代の代表的な茶人でもあり、彼の作法流儀は不昧流として、現在に伝わっている風流人だが、彼もまた『出雲なんきん』をこよなく愛し「部屋の天井にガラスを張って泳がせて、月光で眺めた」という伝説すら残っている。
今年はその不昧公の没後二百年であるため、島根県の多くで不昧公二百年祭として縁の催しが行われている。ルドヴィコの勤める『石倉六角堂』でも、不昧公ゆかりの伝統的な和菓子に加えて、二百年祭にふさわしい創作菓子を毎月発表していた。
十二月の分を任されたルドヴィコは、怜子にアイデアがないか相談した。彼女が勧めたのが『出雲なんきん』を象ったお菓子だった。
求肥は、上品な白で、所々朱色で美しく彩色してある。透けている餡は橙色の黄味餡。狭い目幅の特徴をよく捉えた丸い目がこちらを見ている。凝り性のルドヴィコは、試食用の『出雲なんきん』の柄を全て変えていた。
「おお、これは綺麗だ」
「ルドさんらしいわねぇ」
集まってきた職人たちや、販売員たちが口々に褒めて、手に取った。
「あ、奥様。お一つどうぞ」
怜子は、石倉夫人に朱色の部分の多い一つを手渡した。
夫人は、一瞬その和菓子を眺めてから、わずかに不機嫌に思える口調で言った。
「いいえ、そちらのもっと白い方を頂戴」
「え。あ。はい」
怜子は素直に渡した。どうしたんだろう、そんなことをこれまで言ったことないのに。
「ルドちゃん。味は満点だけれど、つくる時はできるだけ白い部分を多くしなさいね。『出雲なんきん』は、他の金魚と違って白い部分が多い白勝ち更紗の体色が好まれるので、わざわざ梅酢を使ってより白くなるようにして育てるのよ」
穏やかに語る様子は、いつもの夫人だった。
彼女が事務室に戻って言った後、義家が言った。
「あちゃー。サソリ女を思い出したんだな。桑原くわばら」
怜子は、はっとした。
それは、先週のある晩のことで、時間は遅く閉店間際だった。お店に、かなり酔っている女性が入ってきたのだ。大きめのサングラスと、真っ赤な口紅が少し蓮っ葉な印象を強めていた。
「ふふーん、ここなのね。来ちゃったわ」
販売員は、和菓子に用はなさそうだと思っても一応「いらっしゃいませ」と言った。女性はハスキーな声で言い放った。
「あんたには用はないわ。せっちゃんを出してよ」
「……石倉のことでしょうか」
せっちゃんという名前で思い当たるのは、社長の石倉節夫以外にはいなかった。
「そうよ。あの人を出して。あたしの大事な人なの」
それを聞いていた店の人間は固まった。石倉夫人が厨房から出てきたからだ。
「申し訳ありませんが、主人は不在ですが、何のご用でしょうか」
石倉夫人が訊くと、女はゆっくりとサングラスを外して、そちらを見た。厚化粧だが、目の下の隈や目尻の皺は隠せていなかった。
「主人……ね。なんとなくわかっていたわ。やっぱり、そうだったのね。昨夜は、あたしの誕生日だったのよ。一緒に過ごす約束だったのに、いつまで経っても来ない。電話にも出ない。約束したのに、ひどいわ」
その年齢には鮮やかすぎる朱色のワンピースの開いた襟元に見える鎖骨が少し痛々しかった。
「奥さんがいる人ってわかったからって、はいそうですかって、忘れられるようなものじゃないわ。あたし、大人しく引き下がったりしないから。地獄までついていくつもりだって、せっちゃんに伝えてちょうだい。……あたし、こう見えても一途なの。ほら、歌にもさそりは一途な星座っていうじゃない、ははははは」
その翌日、出てきた石倉社長は、いつもの朗らかな様子はどこへ行ったのか、すっかり消沈していた。数日ほどは夫人に口もきいてもらえなかったらしいが、ようやく元の朗らかな様子に戻った所を見ると、今回は許してもらえたらしいというのが、職人たちの一致した意見だった。
その女性が来店した時は、怜子はその場にいなかったので、『出雲なんきん』の菓子から連想するとはまったく想像できなかった。でも、奥さま氣の毒だもの……。私だって、ルドヴィコが他の人にフリーだといって言い寄ったりしたら嫌。
「怜子さん。どうしたんですか? 怖い顔していますよ」
ルドヴィコにいわれてはっとした。
「ごめんなさい。あれ? それ、どうするの?」
彼は、店内試食用とは別にしてあった『出雲なんきん』を箱に詰めていた。それは販売を想定していたものよりも躍動感あるデザインで大きめに作ってあった。
「特注です。驚かないでください。怜子さんも知っているイタリア人が今から取りに来ます」
怜子は首を傾げた。ルドヴィコを除けば、怜子の知っているイタリア人は、ルドヴィコの家族と、ミラノ在住の親友ロメオくらいだ。誰が日本に来たんだろう?
自動ドアが開き、のれんの向こうから背の高い金髪の男性が入ってきた。女性店員たちがどよめいた。
あ。雑誌の人だ! ヴォルなんとか家の御曹司で、同居人にすごい和食を作っているって人。かつて、この人の特集の載っている雑誌に、店のみんなでキャーキャー騒ぎ、男性陣の白い目を浴びたことを思い出した。なーんだ。そういう意味の知っている人か。
「こんにちは、いらっしゃいませ」
怜子は、使える数少ないイタリア語で言ってみた。他のアルバイトたちが羨ましそうにこちらを見ている。
男性は、魅力的に微笑んだ。
「松江でイタリア語の歓待を受けるとは思いませんでした。嬉しいですね。お電話した大和です。マセットさんは、いらっしゃいますか」
「はい。厨房にいるので、呼んできますね」
怜子が声をかけると、ルドヴィコは先ほどの箱を持って出てきた。
「こんにちは、大和さま」
イタリア人同士なのに、何も日本語で会話しなくてもいいのに。どちらも、日本人と遜色のない完璧な発音だ。怜子は、つたないイタリア語で話したことを少しだけ後悔した。
「特注品で、四つでしたよね。こちらでよろしいでしょうか」
ルドヴィコは『出雲なんきん』が四匹、頭を突き合わせているように箱に詰めたものを大和氏に見せた。
「おお、これは綺麗だ。大使館でお目にかかったファルネーゼ特使が、松江に行くなら是非マセットさんの和菓子を食べてくださいと勧められた理由がわかりましたよ。これは、金魚ですよね……蠍ではなくて」
その一言に、場の空氣は凍り付いた。幸いそこには、石倉夫人はいなかったが、石倉節夫社長が来ていた。先ほどの会話があったので、誰もがあの酔った女性のことを思い浮かべて彼の方を見ないように不自然な動きをした。もちろん、大和氏は何も氣付いていないであろう。
「ええ、これは『出雲なんきん』という島根特産の金魚を象りました。もしかして蠍に見えましたか?」
ルドヴィコが訊くと、大和氏は首を振った。
「いえ、もちろん蠍には見えません。ただ、たまたま今日、これを食べさせようとしている相手が、さそり座の生まれなのですよ。蠍にちなむものを探した関係で、朱いものを見ると何もかも蠍かもしれないと考えてしまって」
「そうでしたか。さそり座ということは、もしかして今日がお誕生日ですか?」
「ええ。そうです。彼とは、この後に出雲で待ち合わせ、誕生日を祝うつもりなのです。本人には内緒ですが、ちょっとした懐石料理の準備をしてありまして、その締めにこちらを出そうと思っています」
例の雑誌のインタビューでも、同居人に凄い和食を作っているって話していたけれど、この人、懐石料理まで作っちゃうんだ。怜子は目を白黒させた。
「そうでしたか。蠍モチーフを探しておられたのですね。では、少々お待ちください」
そう言うと、ルドヴィコは箱から『出雲なんきん』を一つだけ取り出して厨房へ入っていった。そして、十分ほど経って出てきた時には、別の和菓子を手にしていた。
「あ、蠍……」
怜子は、思わずつぶやいた。『出雲なんきん』は透明度の高い求肥で包んでいたが、蠍の方はマットでどっしりとした練り切りだ。鋏と尾が躍り、今にも動き出しそうだ。
「一般には、あまり売れるモチーフではないですが、せっかく特注でいらしたのですから」
そうルドヴィコがいうと、大和氏は楽しそうに笑った。
「ああ、これは素晴らしい。松江中を探した蠍をこんな形で手に入れられるなんて。ありがとうございます。彼がどう反応するか楽しみです」
「どうぞ素敵なお誕生日を、とお伝えください」
大和氏は、礼を言って代金を払うと、大事に『出雲なんきん』と『蠍』の入った箱を抱えて帰って行った。
「ルド公。ありがとうな。お前さん、機転が利くな」
「ありがとうございます、社長。蠍は朱一色ですし、形もさほど難しくなかったので」
「イタリア人っていうのは、大人になっても誕生日を盛大に祝うものなのか」
ルドヴィコは、節夫ににっこりと笑いかけた。
「誕生日は、習慣になっているから祝うものではありませんよ」
節夫は、わからない、という顔をした。ルドヴィコは、ニコニコしていた。
「義務や形式じゃないんです。その人のことを氣にかけている、誕生日も忘れていない、これからも仲良くしていきたい、その想いの表れなんです」
「そうか。どうも、そういうのは慣れなくてな。いつも一緒にいる相手だと、余計やりにくいんだよな」
「ストレートな表現は、一般的な日本人男性よりも一般的なイタリア人男性の方が得意かもしれません。そういう形がよりよいとは言いませんが、行動に出すと想いは伝わりやすいと思います」
節夫は「そうか」と言って、何か考えていたが、閉店時間になると早々に帰って行った。普段のように店の若い連中を飲みに誘うこともなく。
「ただいま、帰った」
玄関の扉を開けると、節夫は少し大きな声で言った。奥の台所から妻の柚子が出てきた。
「お帰りなさい、どうしたの、こんなに早いなんて珍しい」
「まあな」
そう言うと、下げていたショッパーを持ち上げて渡した。
「あら、なあに?」
「そ、その、夕方、今日が誕生日で祝うっていうお客さんが来たんだ。それでちょっと思い出して」
柚子がのぞき込むと、小さめのホールケーキが入っていた。和菓子屋の社長夫人として、ほとんど口には出さないが、柚子はチョコレートケーキが好きなのだ。節夫が買ってきたのは、チョコレートスポンジに、ガナッシュクリームを挟み、更にダークチョコレートでコーティングしたチョコレート尽くしのケーキだった。
「まあ。よく憶えていてくださったわね」
「誕生日だってことか」
「ええ。それに、ここのチョコレートケーキが好きなことも」
「まあな。お前は、あれが好きとか、これが欲しいとか滅多に言わないから、憶えやすいさ」
「他の女性と違って」
きつい一刺しも忘れない。節夫は、思ったが口には出さなかった。さそり座の女は一人ではないのだ。
柚子は、チョコレートケーキを冷蔵庫にしまい、手早く節夫の晩酌の用意をすると一緒に座った。彼女の態度は、まだ若干冷ややかだが、絶対に許さないと思っているならば、こんな風に一緒に座ってくれることはないだろう。
四十年近い結婚生活、節夫は浮氣が発覚する度に謝り、関係を修復してきた。彼女は、どんなに怒り狂っていても「石倉六角堂」の営業に支障が出るような騒ぎを起こしたことはない。妻としてだけでなく、共同経営者として節夫にとって柚子以上の存在がいないことは、二人ともよくわかっているのだ。
柚子は、しばらくするとチョコレートケーキをテーブルに運び、紅茶を淹れた。
「せっかくですもの。いただきましょう」
「おう」
節夫は、ティーカップに口をつけた。ふと、柚子の視線を感じて「ん?」と訊いた。彼女は、楽しそうに笑って、『さそり座の女』の一節を口ずさんだ。
「紅茶がさめるわ さあどうぞ それには毒など入れないわ」
むせそうになったが、節夫はなんとか飲み込んだ。まいったな。ご機嫌を直してもらう方法を、もう少しルド公に習わなくっちゃな。
(初出:2018年11月 書き下ろし)