【小説】彼岸の月影
「scriviamo!」の第十五弾です。tomtom.iさんは、ご覧になった夢をもとにした幻想的な詩で参加してくださいました。ありがとうございます!
tomtom.iさんの書いてくださった詩『慟哭』
『慟哭』
白濁色の夢を見た
二つの月と曼珠沙華
僕等夢中で貪った
ぶつかり合うのは肉と骨
朧気な記憶は滴り落ちて
背徳の白昼夢ハイライト
白けた指で弄くり合った
影に隠れた通り雨
僕の焦燥を呑み込んで
疼く傷を舐め回して
月の隙間を這う蛇の名は
只の欲望と知っていたのか
お返しは掌編小説にさせていただきました。ご覧のように成人向けの内容です。小説にするのにあたって、R18を書くわけにはいかなかったのですが、この雰囲氣は壊したくありませんでした。そこで曼珠沙華に助けてもらい、ホンのちょっぴりオカルトテイストを混ぜる事にしました。あ、テイストだけで、全くオカルトではありません。
tomtom.iさんは、音楽のこと、サッカーや日常のことなどを丁寧に書き綴っていらっしゃる、大分のブロガーさんです。特筆すべきは、この方、作詩作曲をなさるのです。この幻想曲な詩がいずれは音楽になるのかと思うと、ドキドキしますね。
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彼岸の月影 Inspired from 『慟哭』
——Special thanks to tomtom.i-SAN
晃太郎の故郷の村は、名産もなければ有名人の一人も出ない、小さな寒村であった。人口は数百人。閉鎖的で現代社会から取り残されていた。東京に住む晃太郎は、一年ぶりにこの寂れた村に戻ってきた。
「知っておるか、晃太郎よ。地獄沼のいわれを」
彼が祖父の酒の相手をしていると、徳利を持つ手を止めて、芳蔵じいさんは突然言った。
村はずれには、何の変哲もない沼がある。しかし、このつまらない水たまりは、地獄沼と呼ばれている。秋になるとどういうわけかこの沼の北側にびっしりと、この辺りでは地獄花と呼ばれている彼岸花が開くからだった。
「あそこで地獄花が一斉に咲くからだろう?」
「そうだが、何ゆえにあそこにあんなに咲くかって言い伝えをじゃよ」
晃太郎は知らなかったので首を振った。
ほろ酔いになった芳蔵じいさんは、声を顰めて語り出した。
「昔な、とあるお侍様が国への旅路の途中で、この村に一晩泊まったのよ。ここは今と変わらずシケていたらしく、美味いものもなければ、芸者もいない。つまらなく思ったお侍様は、酔狂な心を起こして、暗くなってから例の沼の方へ一人で遊びにいった。どういうわけか、そこにいたのが、村一番の器量よしで、隣村への輿入れが決まっていたお壱。お侍様は沼の裏手の阿弥陀堂にてこの娘を自由にし、翌朝に村を発って二度と戻らなかったそうじゃ」
晃太郎は、わずかに顔を青ざめさせたが、じいさんはそれに氣を止めた様子もなかった。
「輿入れの前に孕んだお壱の縁談は流れ、父なし児を生んだ後、半ば狂乱してこの世を去ったそうじゃ。ある者は葬式を出せずに困った親が屍を沼に投げ込んだといい、またある者はお壱自身が沼に身を投げたともいう。いずれにしても、それ以来、あの阿弥陀堂の前には毎年紅蓮のごとき地獄花が開くようになったという事じゃ」
盃を持つ手が震えた。地獄沼。廃堂となった阿弥陀堂。紅蓮の花。月の光が畳の上を走る。漆黒の髪がその淡い光に浮かび上がる。
「どうした」
「いや、なんでもない。少し酔ったようだ。風にあたってくる」
晃太郎は一年前の帰郷の記憶にとらわれている。今日まで思い出しもしなかった、しかし、常に脳の遥か奥で燃え続けていた赤い焔が、恐るべき不安となって胸をかきむしる。
地獄沼には月が映っていた。十六夜の晩だった。そのお侍と変わらぬ酔狂で村はずれを散歩していた彼は廃堂の前に佇む女を見たのだ。一度も見たことのない若い女だった。黒字に赤い極細の縦縞が入った小紋。無造作にアップにした髪。多めに抜かれた衣紋から白いうなじが月光に浮かび上がっている。そう、村で女給をするような田舎娘とは違う。深川辺りの玄人筋のような幽玄な佇まいであった。月の光に惑わされたか、それともむせ返る曼珠沙華の薫りにやられたか、その後の記憶は所々途切れている。
名前も知らなかった。人となりをも知ろうとしなかった。ただ、むさぼるような時間を過ごした。途切れた記憶に浮かび上がるのは、廃堂の縁側に射し込んでいた月の光が、次の記憶では女の乱れた黒髪と肌を浮かび上がらせた事。そして、次はもう朝だった。側には誰もいなかった。夢かと思ったが、手に絡まった数本の長い黒髪と背中の爪痕の痛みが、幾ばくかの事実を示唆していた。
僕は、お壱の霊に化かされたのだろうか。晃太郎は、祖父の語った伝説に身震いをした。今宵も月が明るい。一年前のあの夜のようだ。地獄花は、また燃え盛るように咲いているのだろうか。そして、女は……。
「晃太郎」
家の奥から母親が呼んでいる。
「あ、ここだけど、何?」
「今、村長さんから電話があってね。お祖父ちゃんったら、これから行くって言うの。けっこう酔っているみたいだし、暗いから、悪いけれどあんたも一緒に行ってくれない?」
村長の北村は芳蔵の竹馬の友で、しょっちゅう行き来しているようだったが、晃太郎はいつも彼岸の墓参りだけでとんぼ返りだったので、もう十年以上会っていなかった。
「わかった。あそこは美味い肴がでてくるんだよな」
「肴はいいけれど、お祖父ちゃんのお目付役なんだから、あんたは酔いつぶれないでね」
「わかっているって」
村長の家に着いたのはもう八時で、北村も晩酌で十分にでき上がっていた。
「晃太郎か。久しぶりじゃないか」
「ご無沙汰しまして」
「硬いことを言わないで、さあ、上がれや」
通された座敷には、お膳が三つ用意されていて、芳蔵はさっさと座って北村と飲みはじめた。昔から変わらぬお手伝いのお佳さんが、肴を運んできて、つぎつぎとお膳に置いていく。軽く頭を下げて、盃を差し出し、酒を注いでもらっている時に、上の階からか赤子の泣き声が聞こえた。この家に赤ん坊が?
「お孫さんですか?」
晃太郎がそういうと、老人二人は顔を見合わせて、それからどっと笑い出した。何がおかしいのかわからず戸惑う晃太郎を見て芳蔵が言った。
「お前は知らなかったんだったな。こいつが孫ほどの歳の嫁をもらった時の、去年の村の大騒動を。しかも、ひ孫が出来てもおかしくないのに息子が生まれたんだから、またひと騒動だったんじゃよ」
北村は苦笑いをして、それからお佳さんに言った。
「翔が寝付いたら、お客様にご挨拶をするように燁子に言っておくれ」
お佳さんは頷くと黙って出て行った。
晃太郎は、予感に身を震わせて、その若い後添いが現われるのを待った。やがて、シャッという衣擦れの音がして、襖がすっと開いた。そこにいたのは、紛れもないあの女だった。白い大島紬に芥子色の名古屋帯を低い位置で締めている。帯に描かれているのは和服の図案としては珍しいアガパンサスの白花だ。
「お客様とは、佐竹さまでしたか。ご挨拶が遅くなりまして申しわけございませんでした」
曼珠沙華と月の光が妖しげに浮かび上がらせていたあの黒い小紋姿と違い、清楚で明るい若妻には見えるが、晃太郎の周りにいくらでもいる同年代の女にはどうやっても太刀打ちできない色氣がある。初対面だと信じて紹介をする北村の言葉に儀礼的に硬い返答をする。
「佐竹晃太郎です。はじめまして」
「燁子です。どうぞお見知りおきを」
酒をつぐ白い手に憶えがある。大島紬の擦れるシャッという音、老人たちの冗談に笑う紅い口元。結い上げた黒髪とうなじの白さ。まるで何もなかったのように振る舞う女の態度に晃太郎はわずかに傷つき静かに盃の酒を飲み干した。燁子の手は銚子に伸びる。
「いえ、これ以上は……。祖父を無事に家に届けるためについてきたのですから」
それから、いつまでも昔語りをしたがるのを切り上げさせて、ようやく家まで送り届けた祖父が寝付いたのは日付の変わる頃であった。家人が寝静まった生家の小さな客間には、月の光が射し込み冴え渡る。
晃太郎はいつまでも寝付けず、再び外套をまとい、ひとり地獄沼へと向かう。凝り固まった想い。あの女が、いや、北村燁子が地獄花のもとに立っているのではないかと。
たった一晩の、酔狂のはずではなかったか。お互いに何かを望んだわけでもなかったはずだ。あの女はお壱ではない。違うのだ。だが……。
廃堂の前には、例年のごとく燃え盛るように曼珠沙華が満ちていた。冷たい月の光が沼の中にもう一つの月を揺らめかせていた。風がわずかに吹き冷たいが、そこには誰もいなかった。晃太郎以外には。
廃堂の屋根は一部が崩れ、中に入るのはためらわれた。一年前に二人が過ごした時間も、もはやお壱の伝説と同じように過去の残照に属していた。月と沼と花だけが、変わらずに妖しげに、彼を惑わし揺らめいていた。
路の辺の 壱師の花の 灼然く 人皆知りぬ 我が恋妻を 柿本人麻呂
(意訳:道のあたりの壱師[彼岸花が有力と言われているが不明]の花のようにはっきりと、人びとは私の愛する女のことを知ってしまった)
(初出:2013年3月 書き下ろし)
【小説】彼岸の月影 — 赫き逡巡
この66666Hit企画は、六名の方から出していただいた名詞をそれぞれ一つ以上使うというルールがあります。使った名詞は順不同で「ピラミッド」「赤い月」「マロングラッセ」「マフラー」「いろはうた」「楓」「鏡」「金魚鉢」の八つです。かなり無理矢理感がありますが、お許しください。
参考: 「彼岸の月影」
彼岸の月影 — 赫き逡巡
晃太郎は、赤に囚われている。
彼は怖れている。かつては、盆と正月のどちらかだけに訪れるだけだった故郷の村に、ことあるごとに戻ってくるようになったことを、家族に訝られはしないかと。だが、彼の母親は、一人息子の帰郷を純粋に喜び、老いてめっきり弱った祖父を心配していると、都合よく解釈していた。
彼が帰郷すると、祖父の芳蔵の酒の相手は晃太郎の役目だった。それは、取りも直さず、芳蔵が竹馬の友である村長の北村の家に飲みに行くときの付き添いとなることをも意味していた。北村は、子供のころからよく知っている晃太郎をやはり実の孫のように可愛がってくれるが、晃太郎の方はもっと複雑な想いを持っていた。
「佐竹様、ようこそおいで下さいました。まあ、今日は、晃太郎さんもおいでですのね」
北村の年若い後添い燁子が、艶やかに挨拶をする。蒸栗色の小紋に黒い帯を締めているが、帯締めが鮮やかな緋色だ。それは唇の濡れたような紅と対を成している。村はずれの地獄沼の北側に一斉に生える曼珠沙華の色だ。
三年ほど前、地獄沼のほとりに立つ阿弥陀堂で、晃太郎は名も知らなかったこの若い女と秘密の逢瀬を持った。祖父の友人の妻だとは夢にも思わず。誰も訪れぬ崩れかけた阿弥陀堂。鏡のごとく静まり返った水面に映った十六夜の月。噎せ返るような曼珠沙華の赫さ。それ以来、彼はこの村の赤に囚われている。
今宵も美味い肴を食べながら、芳蔵と北村は吟醸酒を酌み交わした。晃太郎は、二人の昔語りに相づちを打ちながら、三人に酌をする美しい女を凝視しないように苦労していた。
「晃太郎よ、今宵が月見の宴というのを知って帰って来たのか」
北村は、縁側にしつらえられた薄と月見団子を目で示した。
「いえ。でも、十五夜は、だいぶ前ではありませんでしたか」
自信なく彼が訊くと、一同は笑った。
「旧暦八月十五日が中秋の名月。今宵は、旧暦九月十三日、十三夜じゃよ。十五夜だけ月見をするのは片見月といって縁起が悪いので、十三夜も祝うのだ。お前の家でもそうだっただろう?」
北村が訊くと、祖父の芳蔵は肩を揺すって笑った。
「もちろんじゃ。だが、こいつは子供の頃、団子を食べることしか興味がなかったらしく、それも憶えていないらしい」
燁子は、備えてある漆の盆の一つを取って、晃太郎の前に持ってきて薦めた。金色の紙に包まれたマロングラッセがきれいなピラミッドとなって積まれていた。
「今宵は、別名栗名月とも言われております。お嫌いでなかったら、どうぞ」
女は白い指先で優雅に金の小粒を取り、もう片方の手を添えながら晃太郎に手渡そうとする。彼が手のひらを差し出すと、菓子を置く時にその指がわずかに触れた。あの夜と同じように、ひんやりと冷たかった。そのまま、その手を取って引き寄せたいのを、必死で思いとどまる。
視線が合うと、女の紅い唇がわずかに微笑んだ。秘密めいた視線はすぐに逸らされて、女は優雅に立ち上がると、二人の老人のもとに盆を運んで行った。彼は、その女の後姿を目で追った。
彼は、酔った祖父を助けて家に戻り寝かせてから、いつものように一人で地獄沼に向かった。廃堂となった阿弥陀堂の縁側に腰掛けて、女を待つ。決してやってこない燁子を。
なぜだ。ならば、なぜあの時に誘った。いつもの問いを繰り返す。故郷に戻っては、この半ば崩れかけた阿弥陀堂にやってきて、縁側に腰掛ける。すぐ側の畳の上で確かに起こったことに想いを馳せる。
東京で出会う女たちとも、この三年間まともな関係を築こうとしていなかった。あの夜のせいだけではないが、この村を訪れる機会を失うことへの抵抗があることはまちがいなかった。
それに、翔のことがある。二歳になったばかりの燁子の息子だ。そろそろ八十に手の届く北村に子供を作る能力があったことも驚きだったが、かつて北村と祖父が冗談まじりに語っていた言葉が、心の隅に引っかかっている。
「翔は、奇妙なことに、お前の小さい頃にそっくりだ。お前、わしの知らない間に、燁子に手を出したか」
「くっくっく。わしまでお前のように、この歳でそんなことができると? もう三十年も前に引退したわい」
晃太郎が、燁子を正式に紹介された時には、もう翔は産まれていたので、晃太郎を疑う者はいない。だが、彼の胸には憶えがある。たった一度とは言え、計算も合う。だが、北村の前でしか燁子と会えない晃太郎には、疑惑について彼女に問いただす機会がない。少なくとも女は、そのことについて晃太郎に何かを示唆しようとするつもりも全くないようだった。
彼は、前回の帰郷の時、北村の家の近くを通った。いろはうたを歌う燁子の声が聞こえて、思わず垣根の隙間から覗き込んだ。
縁側に、大島紬に珊瑚色の帯をした燁子の側で、黄色いダッフルコートを着て橙色のマフラーをした幼子は、金魚鉢を覗き込んでいた。楓のような小さな手のひらが、金魚鉢をつかんでいる。秋の陽射しが水に反射して、赤い金魚は舞っているようだった。母親に合わせて、歌を口ずさもうとしている子のことを、晃太郎は確かに北村よりは自分に似ていると思った。
子供は、金魚と歌に夢中になっていたが、その母親はそうではなかった。生け垣の向こう側に黙って立っている晃太郎に目を留めると、紅い唇を動かしてわずかに微笑んだ。だが、話しかけることはせずに、すぐに我が子に視線を戻し、まるで誰も見なかったかのように振るまった。
晃太郎に出来るのは、真夜中に地獄沼のほとりの阿弥陀堂に行くことだけだった。彼は、この沼の畔に咲く曼珠沙華に囚われている。真実が知りたいのか、それとも、ただ女に逢いたいだけなのか、自分でもわからない。一晩中、それについて想いを巡らし続ける。冷え込む栗名月の夜を。
明け方の赤い月は、西に沈んで行く。晃太郎は、女がやってはこないことに失望して、阿弥陀堂を後にするほかはなかった。
(初出:2015年10月 書き下ろし)