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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012

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Posted by 八少女 夕

【小説】ウィーンの森 — 金と銀のワルツ

50000Hit記念リクエスト掌編の第一弾です。TOM-Fさんからいただいたお題は「ウィーンの森」でした。ありがとうございます。

うわぁ、どうしよう。大好きな街です。合計で三回行っています。この街を舞台に使っている作品群もあります。でも、なんかふさわしくないし、掌編にするのに面白くない。というわけで、新たな物語を作りました。あたり前ですが、ほぼフィクションです。でも、飛行機に置いていかれてウィーン半日観光が出来たのは、私の実体験をもとに書いています。そして、TOM-Fさんも好きだといいな、レハールの『金と銀』を使わせていただきました。


(追記)TOM-Fさんが作品を発表してくださいました。それも、この作品に対するアンサー小説になっています。

 TOM-Fさんの作品 「ウィーンの森」

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ウィーンの森 — 金と銀のワルツ

 森というよりは、山なんだ。半日で観ようっていうのは無謀だったわね。ベートーヴェンが住んで『田園交響曲』の着想を得たというハイリゲンシュタット、ルドルフ皇太子の心中したマイヤーリンク、温泉保養地バーデン。『ウィーンの森』という名のテーマパークのような観光名所があるわけではないので、どこに行っていいのかわからないし、たぶん時間もそんなにない。

 クロアチア出張の帰りだった。ドブロブニクの空港でエンジントラブルがあって二時間の遅延があった。ウィーンについた時には乗り継ぎ便はもう東京に向かって飛び立ってしまった後だった。いますぐインドのボンベイ経由で帰るのと、一泊して明日直行便で帰るのとどちらがいいかと訊かれて、真美は迷うことなく一泊二食付きのウィーン滞在を選んだ。

 ウィーンは乗り継ぎだけのつもりだったから、観光地などは全く調べてこなかった。半日の自由時間を効率よく過ごすための情報は限られていた。でも、そんなことは構わない。真美はタブレットをバッグにしまうと、バスの窓から外を眺めた。

 バスはちょうど街の中心へとさしかかっていた。18世紀を思わせる重厚な建築群が連なっていた。街路の栃の樹から枯葉が車道に降り注ぐ。そして、その上を黒い馬車がゆっくりと通り過ぎていった。その向こうに音楽の教科書の表紙になっていたモーツァルトの像が見えた。嘘みたい。私、本当のウィーンにいるんだ。

 真美に一番近いウィーンはずっと日本の田舎町にあった。そこには十年以上行っていない。真美が十七歳の時に父親が東京に栄転したから。でも、まだ喫茶店『ウィーンの森』は変わらずに存在していて、人びとの憩いの場所になっていると風の便りに聞いている。

 真美は近所の青年、吉崎護になついていた。彼は母親の親友の息子で、学生時代に『ウィーンの森』でバイトをしていたのだが、学校を卒業後オーナーに店を任された。真美は、高校の帰りによく店に行き、ミルクのたっぷり入ったコーヒーを飲みながら、他愛もない話をした。

 それは、ウィーンのカフェハウスを模して、メニューにもウインナ・コーヒーではなくてアイシュペンナーと載せるようなこだわりの店だった。県内で唯一のドイツ系コンディトライからケーキを取り寄せていて、クーゲルホフやアプフェルシュトゥルーデル、そしてショコラーデ・トルテが真美にとっての馴染み深い菓子だった。

 銀のお盆に載ったコーヒーには必ずグラスに入った水が添えられていて、それだけで特別な飲み物になった。ウィンナ・ワルツのかかっている店内は、ただの喫茶店とは格の違う空間だった。真美には護もまた特別な存在だった。白いシャツと黒いパンツに、ワインカラーのエプロンをして、客たちににこやかに話しかける彼のことが大好きだった。

 道に面したドアと反対側には大きい窓と勝手口があり、その向こうには白樺の林があった。晩秋にはその葉は鮮やかな黄色に染まり、陽射しを受けて輝きながら舞い落ちていった。それはちょうどワルツに合わせて踊っているように見えた。

「ほら、あんまり見とれていると、コーヒーが冷めるぞ」
護が真美の側にやってきて、一緒に白樺の落葉を楽しんだ。
「うん。きれいねえ。秋っていいわね」
「ああ、俺も、この時期のこの光景が一番好きだな」
真美はカップを両手で包み込むようにして、香り高いコーヒーの湯氣を吸い込んだ。幸福が押し寄せてきた。

「落ち葉も踊っているね。ねえ。これ、なんて曲?」
「フランツ・レハールの『金と銀』だよ。ウィンナ・ワルツの代表的作品だな」

 秋の柔らかい光。黄葉の煌めき。『金と銀』……。

「いい曲ねぇ。これでダンスをするのね。ねえねえ、あれだよね。白いドレス着て、ティアラつけて宮殿で踊るの、デビュタントだっけ?」

 護はちらりと真美を見て答えた。 
「ああ、正月のオーペルンバルでやっているな」
「ねえねえ。私もデビュタントしたいな。護兄さん、一緒に行こうよ」

 真美がそういうと彼は笑った。
「そういうのは彼氏と行くもんだろう」

 彼女はふくれ面で答えた。
「私はもうじき16歳だよ。あと数年で大人の仲間入りだもん。そしたら、護兄さんの彼女にしてくれる?」

 彼はそれを笑い飛ばした。ジョークだということにされてしまった。

 それから一年もしないうちに護が結婚すると聞いて、真美は号泣した。その事実を認めまいと頑になり、披露パーティへの出席どころか『ウィーンの森』にすら行かなくなった。結婚式から帰って来た母親は「きれいなお嫁さんで、素晴らしいお式だったわ」と、報告した。心の整理がつく前に、父親の転勤で東京に越してきてしまい、それ以来護とは会っていない。

 あの当時の彼の歳になった今なら真美にもわかる。仕事の責任があり、日々の生活を全て自らコントロールしている今だって、ちゃんとした大人とは言えない。何もできないのにロマンスだけは一人前にできるつもりでいたあの頃の自分を思うと確かに笑い飛ばしたくなる。それと同時に、あれは彼なりの優しさだったのだと思う。子供の憧れを利用したりせずに、その未来を大切にしてくれた、責任感のある大人、護兄さんはそういう人だった。真美はウィーンの街並を眺めながら思った。

 空港の目の前にあるビジネスホテルに泊めてもらったのは正解だった。飛行機のチェックインまでの間、荷物を預けておき、身軽にウィーンの観光をすることができる。といっても時間がないので、たぶん二カ所ぐらいしか行けないだろう。森を諦めるとしたら……。決めた。カフェでショコラーデ・トルテを頼み、それから、よく映画でダンスシーンを撮影するシェーンブルン宮殿へ行こう。

 アール・デコの美しいカフェに入り、真美は案内された席に座った。金髪のウェイトレスが明らかに日本人観光客である真美の顔を見て、英語で「英語のメニューですか?」と訊いてきた。真美は黙って頷いた。コーヒーにミルクの入ったものがブラウナーで、泡立てたホットミルクの入ったエスプレッソがメランジェ。ウィーンのカフェの専門用語は今でもスラスラ出てくる。それで注文には「メランジェ……ショコラーデ・トルテ」と中途半端にドイツ語で頼んでしまった。ウェイトレスは、「お願いします」もまともに言えないのに一人でカフェに入ってくる日本人観光客に慣れているらしく、頷くとさっとメニューを持って奥へ行ってしまった。

 銀のお盆に、メランジェとグラスに入った水が載って出てきた。チョコレートケーキも、使われている食器も、『ウィーンの森』で護が出してくれたものとよく似ていた。ウェイトレスがそっけなく伝票をテーブルに置かれた銀の筒に丸めて突っ込み、去っていったのだけが違った。

「お待たせ」
そう言って護兄さんはいつも笑顔でお盆を置いてくれたよね。

 トラムに乗ってシェーンブルン宮殿まで行った。駅から門まで、そして門から宮殿までもそれなりの距離があり、大きい宮殿、さらにその後ろの広大な庭園を眺めただけで、これはゆっくり見ている時間などないとわかった。

 次の見学ツアーの出発は一時間後だった。それからのんびり見学などしていたら、また飛行機に乗り損ねてしまう。真美は宮殿内の見学を諦めて、庭園を歩くことにした。

 宮殿正面のフランス式庭園は、写真で何度も見たことがあった。たくさんの観光客が記念写真を撮っていた。真美は先ほどから感じ続けている違和感について想いをめぐらせた。ウィーンに、そう本物のウィーンにいて、何もかも想像していた通りなのに何かが違う。その何かの正体がつかめない。

 私はウィーンに何を期待していたのだろう。ここに何があると思っていたんだろう。ここは普通の都会。オーストリアの首都で、私のトランジット先。それだけ。それ以上を期待するのが間違っている。ここはこんなに美しいじゃない。

 庭園の中程まで歩いて、ふと横を見ると、広葉樹の木立が黄色に染まっていた。真美は思わず走り寄って、声をあげた。
「わあ」
宮殿の壁の色よりもひと回り鮮やかで深い色。なんてきれいなんだろう。真美は魅せられてその木立でできたアーチの中へと吸い込まれていった。

 黄色い枯葉が陽の光を受けながら舞い落ちていく。葉の裏に秋の陽射しがオレンジに透けている。葉と葉の間を抜けて差してくる木漏れ陽の中で、細かい土ぼこりが銀色に反射しながら舞っている。それは寂しい秋の風景ではなくて、華やかで美しい色彩の舞踏会だった。

 突然、真美の心の中に、レハールの『金と銀』が響いてきた。金管、弦楽、流れるハープ、それから輝きながらゆっくりと旋回していく木の葉たち。穏やかに語り合いながら歩いていくカップル。犬を連れて散歩をする老婦人、どこまでも続く黄色い木立のトンネル。

 そうか。私が見たかったのは、聴きたかったのは、そして行きたかったのは、あそこだったんだ。『ウィーンの森』の光景。金と銀のワルツ。「いつかは行きたい憧れの街」と言いながら、一度も本当のウィーンを訪れようとしなかったのは、だからだったのね。

 真美は彼がどれほどしつこく自分の心の奥に居座っていたのかに初めて氣がついた。初めての失恋から立ち直って、忘れて、全く違う人生を謳歌してきたはずだった。他の恋も普通にして、別れてを何度か繰り返した。護と彼らを比較したこともないと思っていた。友達の結婚式に招待されるたびに親からちくりと言われる「あなたもね」に「まだまだ仕事が楽しいし」と笑い飛ばしていても、彼のことは関係ないと自分に言い聞かせてきた。

 護が離婚したと耳にした時、反応しないようにしたのも、その後にも故郷に行こうとしなかったのも、全て自分の信じていたことと正反対だったのだ。私は意固地になっていただけだ。認めたくなかったから。まだ同じ夢を追っていることを。

 護兄さんにふさわしいパートナーになりたかった。一緒にこのウィーンでダンスを踊りたかった。もう、デビュタントにはとても加われない歳になってしまったし、それ自体が意味を持たなくなってしまったけれど。『ウィーンの森』で、そして、ここ本当のウィーンのカフェで注文したかったのはメランジェでもトルテでもなくて、彼の笑顔だったんだね。

 真美は不意にあの時にどうやっても立てなかったスタートラインに立っていることに氣がついた。相手にしてもらえなかった子供ではなくなっている。ちゃんと自立して仕事もしている。ウィーンにも一人で来られて、世界と自分の過去を分析もできるようになっている。今なら、護兄さんにもちゃんと一人の人間として向き合えるかもしれない。

 今度の休みには、久しぶりにあの街を訪れて『ウィーンの森』に行ってみよう。ウィーンに行ってきたことを彼に話してみよう。何かが始まるのか、それとも何かが終わるのかわからない。けれど、とにかく行ってみよう。私にとってのウィーンへ。真美はもう一度木の葉のダンスを見上げると、踵を返して空港へと戻っていった。
 
 
(初出:2014年10月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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超有名曲である『金と銀』は色々な演奏の動画があるのですが、ウィンナ・ワルツが映っているので、ちょっとポップスですがアンドレ・リュウのもので。


Andre Rieu - Gold und Silber 2011
Waltz op. 79 Gold and Silver, a composition by Franz Lehar
live from Vienna
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Category : 小説・ウィーンの森
Tag : 50000Hit 小説 読み切り小説 リクエスト キリ番リクエスト 地名系お題

Posted by 八少女 夕

【小説】君の話をきかせてほしい

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

月に一度発表する読み切り短編集「十二ヶ月の野菜」の十二月分です。このシリーズは、野菜(食卓に上る植物)をモチーフに、いろいろな人生を切り取る読み切り短編集です。最終月に選んだテーマは「大根」です。冬の大事な食材。シンプルだけれど存在感のある野菜を最後に持ってきました。その分小説としての料理が大変でした。

去年初登場した『でおにゅそす』の涼子が登場しました。そして、客としてやってきた青年。読んでいくうちにデジャヴを感じるかもしれません。


とくに読む必要はありませんが、『Bacchus』の田中佑二と『でおにゅそす』の涼子を知らない方でお読みになりたい方のためにリンクを貼っておきます。
 「バッカスからの招待状」シリーズ
 「いつかは寄ってね」



短編小説集「十二ヶ月の野菜」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の野菜」をまとめて読む



君の話をきかせてほしい

 吐く息が白くなるこの時期は、年の瀬を感じて誰もが早足になる。華やかな街の喧噪にどこが浮き足立った人たちが忘年会やクリスマス会食をはしごする。カウンター席しかない二坪ほどの小さな『でおにゅそす』もこの時期はかきいれ時だ。会食で飲み足りない男たちが、ほろ酔い加減で立ち寄り、涼子の笑顔と数杯の日本酒に満足して家路につく。

 だが、その青年はそうしたほろ酔い加減はみじんも感じさせなかった。引き戸をためらいがちに開けて、小さな看板と手元のメモを見較べながら入ってきたので、誰かからの紹介なのだなと思った。実際、涼子の一度も見たことのない客だった。歳の頃は三十代半ばというところだろうか。

「いらっしゃいませ」
ちょうど多くの客が帰りほとんどの席が空いていたが、その青年の佇まいから彼女は騒ぐ常連たちから離れた入口に近い席を勧めた。青年は軽く会釈をしてトレンチコートを脱いだ。焦げ茶色のアラン編みのセーター。勤めの帰りではないらしい。

「何になさいますか」
おしぼりを手渡しながら涼子は訊いた。青年は戸惑いながら、カウンターに立っている小さなメニューを覗いた。
「では、日本酒を……どれがいいんだろう。詳しくないのでお任せします」

 常連の西城が赤い顔をしてよろめきながら近づいてきた。
「兄ちゃん、見慣れない顔だね。この店を見つけたのはらぁっきぃってやつさ。せっかくだから『仁多米』にしなさい。ありゃ、美味いよ」

 それから涼子に満面の笑顔を見せた。
「じゃあね、涼ちゃん。今日はかかあの誕生日だからさ、帰んなくっちゃいけないけど、また明日来るからさ」

 その後に青年に酒臭い息を吹きかけて言った。
「楽しんでいきなよ。でも、涼ちゃんを誘惑しちゃダメだよ。俺らみんなのアイドルなんだから……」
青年は滅相もないと言いたげに首を振った。

「もう、西城さんったら、失礼だわ。若い方がこんなおばさんに興味持つわけないでしょう」
「涼ちゃんは、歳なんか関係なく綺麗だからさ。今日のクリスマス小紋もイカすよ」
黒地に南天模様の小紋に柊をあしらった名古屋帯を合わせた涼子のセンスをを褒めてから西城は出て行き、店の中には西城の近くに座っていた半従業員のような板前の源蔵と、青年だけになった。

 涼子は少し困ったように笑った。
「ごめんなさいね。西城さん、いい方なんだけれど、ちょっと酔い過ぎているみたい」
「いいえ。とんでもない。あの方のおすすめのお酒をお願いします」
礼儀正しく青年は答えた。

 涼子は小さいワイングラスに常温の日本酒を注いだ。
「このお酒ね。奥出雲にいる知り合いの方が送ってくださったの。こうして飲んでみてって」

 青年は黙って頭を下げると、ワイングラスを持ち上げてそっと香りをかいだ。服装や佇まいには都会の匂いがないが、ワイングラスを傾ける姿は洗練されている。どの畑の人なのだろうといぶかった。そもそも誰がこの店に送り込んだのだろう。

 青年の携帯電話がなった。礼儀正しく「失礼」と言うと青年は電話を受けた。
「あ、うん。そうか。まだ当分かかるんだね。いや、氣にしないでくれ。今、神田にいるんだ。……ああ、終わりそうになったら、電話してくれれば、またさっきの『Bacchus』へ行くから……」

 涼子は目を丸くした。電話を切った青年をまじまじと見た。
「佑二さん、いえ、大手町『Bacchus』の田中さんが、ここを?」

 青年は黙って頷いた。それからコートの内ポケットから、名刺を取り出してしばらく迷いつつ手元で遊ばせていた。それから、ゆっくりと顔を上げると、決心したようにその名刺を涼子に手渡した。

 忘れもしない、佑二の筆跡が目に入った。
「涼ちゃん。身につまされる悩みを抱えたお客さんなんだ。よかったら女性の観点から君の意見を話してあげてくれないか。田中佑二」

 瞬きをしながら言葉を探している涼子に、青年はもう一度頭を下げてから急いで言った。
「すみません。実は先ほど、『Bacchus』でつき合っている女性と飲んでいたんですが、彼女が急遽仕事で呼び出されて。それで一人で田中さんと話しているうちに、人生相談みたいなことをしてしまって。心配した田中さんが、ここへ行って女性の考えを訊いてみろって。本当に相談するつもりで来たわけではないんですが、待ち時間がかなりあってずっとあそこにいたら、忙しい田中さんにも迷惑だろうし、東京には滅多に来ないので、店もほとんど知らなくて……」

 涼子は、ふっと笑った。
「ご飯は食べていらしたんですか?」

 青年ははっとしたように顔を上げた。
「あ、いや、まだ……」

 源蔵がすっと立って、涼子に話を聞いてやれと目配せをした。そして、カウンターに入って、簡単なつまみを用意しだした。涼子は小皿と割り箸を用意し、突き出しの蒟蒻と小松菜のごま油炒めを青年の前に置いてやった。青年は再び頭を下げた。

「それで。どちらからいらしたの?」
「静岡です。新幹線に乗るのも何年ぶりだろう。自分の街からほとんどでたことがなくて。東京がこんなに広くて華やかなのをすっかり忘れていました」
「いらしたのはその女性に逢うため?」

「はい。ずっと昔に東京に引越した女性で、数ヶ月前に再会してから、ほぼ毎週末に来てくれるんですが、たまには自分が逢いに来るべきだと思って」
「平日に?」

「僕も飲食店をやっていて、明日が定休日なんです。クリスマスはかきいれ時なんで、今日明日を逃したら当分は来られません。彼女は僕が来ると知って明日の有休を取ってくれたんですが、どうしても対処しなくてはいけないことができて、明日休むためにまた仕事に戻ることになって……」
涼子にも、青年の暗い顔の原因がこの女性に関することなのだろうと推測できた。でも、佑二さんの「身につまされる悩み」っていうのは何かしら。

 青年はサーモンと白菜の和風ミルフィーユ仕立てをゆっくりと食べると、「仁多米」を味わうように飲み、目を閉じた。それからほうっと息をついた。
「美味しいですね。こういう味、本当に久しぶりだ。ほっとします」

 この青年は疲れているのだと思った。
「お店は、洋食関係なの?」
涼子が訊くと青年は頷いた。
「カフェなんです。うちのあたりには、料理もケーキも、それからコーヒーの淹れ方までもこだわった本格的な店はなくて、かなり自負を持っているんですが、東京だと珍しくもなんともないですね」

「おつき合いなさっている方がそうおっしゃったの?」
「いいえ。彼女は、僕のやっていることを尊重してくれています。だから、仕事が忙しくて疲れていても来てくれるし、僕の方でたくさん時間が取れなくても文句も言わずに手伝ってくれます」

「羨ましいくらいに、お幸せに聞こえるけれど……違うの?」
青年はため息をもらした。
「ええ、そうですね」

 涼子は源蔵と顔を見合わせた。青年はしばらく黙っていたが、グラスの透明な日本酒を揺らすのを止めて顔を上げた。
「東京は華やかですね。この時期に来るのは初めてなんですが、どこもイルミネーションが……」

「ああ、ここ数年、派手なイルミネーションが増えたねぇ。節電のなんとかっていう技術が発達してから、やけに増えたんじゃないか?」
「まあ源さんったら、LEDでしょう。そうね。そう言えば昔はこんなになかったわよね」

「華やかなライトに照らされたショーウィンドウに、高価で洒落た商品がたくさん並んでいて、彼女の着ているスーツも洗練されていて、なんだか自分だけ場違いな田舎者みたいだし、用意してきたプレゼントもつまらない子供騙しに思えてしまって……」
涼子ははっとした。源蔵もなるほどね、という顔をした。

「わかるな。俺もはじめて東京に来た時、氣後れしたしさ。だけどさ、悩むほどのことでもないと思うぜ?」
源蔵の言葉に青年は首を振った。
「そのことで悩んでいるわけじゃないんです」

「じゃあ、何を?」
涼子が訊くと青年は、困った顔をした。
「すみません、こんな湿っぽい話をして」
「氣にするなよ。王様の耳はロバの耳って言うじゃないか。田舎と違って、ここで話したことはどこにも伝わらないし、話せばすっきりするぞ」

 源蔵の言葉に涼子も微笑んで頷いた。青年は観念したように口を開いた。
「ここに、東京に来るまでは、たぶん単純に浮かれていたんでしょうね。新しい関係やぬくもりに。彼女は僕よりずっと若くて、きれいで、それなのに僕を慕ってくれて。夢みたいだと思ったんです。いつもの世界が華やかで明るくなり、心も身体も満足して。このまま関係を進めていけばお互いに幸福になれると」
「違うの?」
涼子は、そっと手を伸ばして空になった小鉢を引っ込めた。源蔵は黙ってゆずの皮を削った。

「僕は一度結婚に失敗しているんです。前の時のことを思いだしました。はじめは朗らかだった妻が、しだいに笑わなくなって……。一緒にいても苛立ちと不満のぶつけあいになっていきました。あの時、僕は彼女の変化の原因が分からなかった。ここにいたくない、大阪に戻りたいという妻の言葉をわがままとしかとらえられなかった。大して儲からない店に固執するのは馬鹿げているとも言われました。確かに楽な暮らしはできないのですが、店に対する熱意は僕の存在意義そのもので、それを否定されてまで一緒にいられなかった」

 涼子はじっと青年を見つめた。涼子の姉である紀代子が、田中佑二のもとを去って姿を消してしまった時、彼女も佑二も理解ができなかった。涼子はできることならば姉の立場になって『Bacchus』に全てを捧げる佑二を支えたかったから。佑二さんの「身につまされる悩み」っていうのはこれね……。

「今つき合っている女性は僕と店のことをよくわかっていて、きっとうまくやって行けるんじゃないかと思っていたんです。でも、この東京で颯爽と働く彼女の姿を見ていたら、これがこの女性の人生と生活なんだと、僕とはまるで違う世界に属している人なんだと感じました。僕が彼女に側にいてほしいと願い、あの小さなつまらない街に閉じこめたら、あの生き生きとした笑顔を奪うことになるのかもしれない。次第に不満だけがたまって、やがて別れた妻と同じように僕のことを嫌いになっていくのかもしれないと」

「私はそのお嬢さんと逢ったことがないからわからないけれど、仕事と東京での暮らしが人生を左右するほど大切だったら、週末ごとにあなたの所に通ったりしないと思うわ」
「でも……」

 涼子はにっこり笑って青年の言葉を制した。
「確かに女ってね、仕事は仕事、愛は愛って分けられないの。全て一緒くたになってしまうのよね。もちろん全ての女性がそうだというつもりはないけれど」
「だとしたら……」

「あなたは男性だから、お仕事に関することは妥協できないんでしょう。お店を閉めてまで、彼女のために東京で暮らそうとは思わない。だから彼女に仕事を諦めてあなたの側に来てほしいと願うことは信じがたい苦痛を強いるように感じるんじゃないかしら。でも、私、きっと彼女はもっと簡単に幸福への道を見つけると思うわ」

 涼子は大根の煮物を黙っている青年の前に置いた。
「ねえ、これを召し上がってご覧なさい。私ね、女って大根の煮物みたいなものだと思うの」

 彼は訝しげに涼子を見たが、箸を取りすっと切れる柔らかい大根を口に入れた。出汁と醤油の沁みたジューシーな大根が舌の上で溶けていった。
「色は完全に染まってしまっているし、細胞の隅々まで出汁に浸かっている。それでも、出汁でもないしお醤油でもない、お大根そのものの味でしょう?」

 青年は目を見開いた。それから、再び箸を動かして大根を口に入れた。涼子は続けた。
「お大根は淡白で、主張が少ないからどんな食材の邪魔もしないけれど、でも、あってもなくてもいいわけじゃないわ。たとえばおでんに入ってないなんて考えられないでしょう。ステーキやピッツァのような強い主張もないし、熱になるカロリーは少ない。その目的には向いていないわね。でも、食物繊維や消化酵素の働きで、消化を助けて胃もたれや胸焼けも解消してくれるとても優秀な野菜よ。どちらがいいというのではなくて役割が違うのね」

 涼子は微笑んで続けた。
「女は本来とても柔軟なの。愛する人間に寄り添えるように、どんな形にでも姿を変えて、道を見つけることができる。でもね、それがあまりに自然なので、時おり男性はそれをその女性の本来の姿だと思ってしまうのね。あたり前なのだと思って意識しなくなってしまうの。そうやって認められなくなると、女のエネルギーは枯渇してしまって、もう合わせられなくなってしまう。男は女が変わったと思い、女はわかってもらえないと悩む。その心のずれを修復できないと、二人はどんどん離れていってしまうんだと思うわ」

 青年はじっと涼子の顔を見た。彼女は安心させるように笑った。
「あなたはそのお嬢さんのことをちゃんと思いやっている。でも、言葉にするのをためらっていると、伝わらないわ。一生懸命やっていればわかるだろうなんて思わずに、あなたの想いを彼女に伝えてご覧なさい。どれだけ大切に思っているか、仕事のことも尊重したいと思っていること、側にいてくれたらいいと願っていることもね。彼女がどうしたいのかもちゃんと言葉にして訊いて、その上で、お互いに譲り合える所、妥協はできない点をすり合わせていけばいいのよ」

 青年は頷きながら大根を噛みしめていた。
「今は二十一世紀だもの、いろいろな関係があっていいと思うの。男性に単身赴任があるように、女性にあってもいいでしょう。毎日出勤しなくてもいい働き方もあるし、別の仕事を見つけることもあるかもしれない。でも、全ての工夫は何があっても関係を保ちたいとお互いが意志を持つことから始まるんじゃないかしら。私はそう思うわ」

 源蔵が笑った。
「涼ちゃん、いいこというねぇ。この人にここへ来いって言った、その『Bacchus』の田中さんとやら、よくわかっているんだねぇ」

 涼子は口を尖らせた。
「とんでもないわ。佑二さんはもう少し女心を研究すべきよ。あの唐変木……」
そう言いながら、用事だけしか書かれていない田中の名刺を大切に懐にしまった。
 
 源蔵は吹き出し、青年もようやく笑顔を見せた。折しも再び携帯電話が鳴り、彼は急いで「仁多米」を飲み干すと、アドバイスに心からの礼をいい、少し多めの代金を置いて立ち上がった。涼子は彼の迷いが晴れたことにほっとしながら訊いた。
「ところであなたのお店はどこにあるの。静岡に行くことがあったらぜひ寄りたいわ」

 青年は嬉しそうに懐からコートから名刺を二枚取り出した。
「名乗るのが遅れてすみません。僕は吉崎護といいます。店は『ウィーンの森』といって、この駅のすぐ側です」

 引き戸から立ち去る護の後ろ姿に、雪が舞いはじめた。少し早いクリスマス氣分。天も恋人たちのロマンスに加勢しているらしい。涼子と源蔵は嬉しそうに笑って、「仁多米」でもう一度乾杯をした。

(初出:2014年11月 書き下ろし)

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Category : 小説・ウィーンの森

Posted by 八少女 夕

【小説】とりあえず末代

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第八弾です。limeさんは、今年も素敵なイラストで参加してくださいました。

limeさんの描いてくださった(scriviamo!2018参加イラスト)『リュックにゃんこ』
『リュックにゃんこ』 by limeさん『リュックにゃんこ』 by limeさん
『リュックにゃんこ』 by limeさん
このイラストの著作権はlimeさんにあります。無断使用は固くお断りいたします。

limeさんは、このブログを定期的に訪問してくださっている方にはおなじみだと思いますが、繊細で哀しくも美しい描写の作品を発表なさっていて、各種大賞での常連受賞者でもある方です。そして、イラストもとても上手で本当に羨ましい限り。

毎年、「scriviamo!」には、イラストでご参加くださり、それも毎回、難しいんだ(笑)困っては、毎回、反則すれすれの作品でお返ししています。今年も、例に漏れず、ぱっと見には簡単そうに見えますけれど、いざ書くとなると結構難しいです。

今年は、背景を二パターンをご用意くださって、どちらも素敵で捨てがたかったので、両方使うことにしました。ちなみに、脇役は既出の人達を使っております。もちろん、知らなくてもまったく問題ありません。


【参考】
『ウィーンの森』シリーズ

「scriviamo! 2018」について
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



とりあえず末代
——Special thanks to lime-san


 着替えとしてTシャツに下着、さらに洗面用具にフェイスタオルを詰めた。中学受験の季節で、僕ら在校生は金曜日が休みになったので、はじめての一人の遠出をする事にしたんだ。せっかくお小遣いも貯めたし、静岡に嫁いだ従姉妹に泊めてもらう約束もしたし、いざ二泊三日の冒険だ。問題は……。

「で。妾はどこに収めるつもりかい」
やっぱりついてくる氣、満々だったか。そうだよなあ。僕は、じっと見上げる緑の瞳を見つめた。

 一見、普通の白猫に見えるけれど、《雪のお方》は正真正銘の猫又だ。もちろん、簡単に信じてくれないのはわかる。でも、こいつは僕が生まれるどころか、とっくに死んじゃったひいじいさんが生まれる前からずっと我が家にいるし、そもそも、人間にわかる言葉でペラペラ喋る飼い猫なんていないことは、同意してくれるだろう?

 なぜこいつが我が家にいて、さらにいうと、僕にひっ付いてくるのか。証明しようがないけれど、これはどうも僕のご先祖様のせいらしい。

 幼稚園の頃、僕は同級生の家にいる普通の猫は喋れないということを知らなくて、「うちの《雪のお方》は喋れるよ」と自慢したために、しばらくありがたくない嘘つきの称号をもらった。友達の前ではただの猫のフリをしたのだ。そもそもなんで猫又が我が家にいるのか、僕は何度か質問をして、大体のことがわかるようになった。

「妾は、元禄のはじめに、この地にあった伊勢屋の伊藤源兵衛の飼い猫であったのじゃ。そして、もらわれて来たのとほぼ同じ頃に生まれた跡取りの長吉と共に育ったのじゃ。長吉は童の頃は妾をたいそう氣に入っておってな、大人になったら妾を嫁にすると申しておったのじゃ。そうこうするうちに二十年経ち、妾の尾は裂けて無事に猫又となったので、許嫁の長吉と祝言をあげるつもりでいたら、約束を反故にして松坂の商家から嫁をとるというではないか。それで妾は怒りに任せて、末代まで取り憑いてやると誓ってしまったのじゃ」
「で?」
「伊藤家はちっとも断絶しないので、妾もまだここにいるしかないのじゃ。お前の父親にも、くれぐれも嫁を取ってくれるなとあれほど頼んだのに……」

 父さんは、母さんと出会って思ったらしい。これだけ我慢したんだから、あと一代か二代くらい、我慢してもらってもいいかって。というわけで、今のところ僕は伊藤家の末代なので、《雪のお方》に取り憑かれているというわけ。

「修学旅行の時は、家で留守番していたじゃないか。どうして今回はついてくるんだよ」
「修学旅行にペットを連れて行くのは禁止であろう。わざわざ規則に違反をさせてまでついて行くほど面白そうな旅程ではなかったしな。今回はお前の初めての一人旅で面白そうではないか。お前とて困ったことがあった時に相談する相手がいる方が良いであろう」

 僕はため息をついた。まあ、いいや、話相手には事欠かないしさ。《雪のお方》は、猫ではなくて猫又なのでキャトフード等は食べない。肉や魚も本当は必要じゃない。猫又としての矜恃があるという理由で、一日に一回は油を舐める。パッキン付きで漏れないタッパーの中にプチプチで巻いた藍の染付の小皿を入れた。これは《雪のお方》の愛用品で、なんでもない醤油皿に見えるけれど一応元禄から伝わる我が家の家宝。割ったら父さんに怒られる。っていうか、《雪のお方》に祟られるんじゃないか。

 それに、小瓶にイタリア産の最高級エクストラ・ヴァージン・オリーブオイルを詰める。もし万が一、いい油がみつからなかったらうるさくいうに決まっているし。なぜこんな洋ものを舐めるのかって思うだろう? ヴァージンってのが氣に入ったんだって。ま、行灯の油と言われても困るけどさ。

 リュックサックの後ろのポケットを大きく開いて、《雪のお方》はそこに入ってもらうことにした。父さんと母さんは、少し心配そうに僕たちを見送った。
「本当に一人で大丈夫なの? 途中までお父さんに送ってもらう?」
「《雪のお方》、悠斗をよろしくお願いします」
「任せておけ。妾がしかと監視する故」

 猫又に監視されての一人旅かあ。まあ、いいや。僕は、初めての冒険に心踊った。
「駅まで歩くからね。なんか言いたいことがあったら、一応、猫っぽく呼んでよね」
「わかっておるわ。案じるな」

 って、日本語で言うんだもんなあ。郊外っていうのか、どちらかというとド田舎っていうべきなのか、とにかく我が家から駅までの半分以上は、道路沿いに空き地が広がっている。バスも来るけれど、一、二時間に一本だから歩いてしまった方が早い。二十分くらいだし。誰かとすれ違うこともあまりない。猫と会話している変な奴と思われる心配は少ないはず。もっとも、いつ誰が聴いているかわからないから氣をつけないと。

『リュックにゃんこ』 by limeさん

「さてと。そろそろ駅だ。ここからは、黙っててくれよ。それから落っこちないように、もう少しジッパー閉めるよ」
「挟んだら、化けて出るぞ」
「わかってるよ。しーっ!」

 僕は、電車を乗り継いで横浜まで行った。そこからは東海道線。リュックから覗いている子猫(本当は猫又だけど)は珍しいのか、隣に座ったおばさんがニコニコ笑って構おうとする。
「まあ、可愛い猫ちゃんねぇ。これだけ小さいということはまだ一歳になっていないかしらねぇ」

 いや、およそ三百四十歳だけど。そう答える訳にはいかないから、僕は、にっこりと笑ってごまかした。《雪のお方》は見事に子猫っぽく化けている。いつものドスの効いた物言いが信じられないくらいか弱い声で、みゃーみゃー言っている。

「本当に可愛いわね。ちょっと待って、いいものを持っているの。息子の家にもネコがいてね、行く時にはいつも玩具やおやつを持って行くのよ」
そう言いながら、ハンドバックを探って何かを取り出した。カリカリだったら激怒するんじゃないかと心配だったけれど、なんと本物タイプのおやつだった。おお、焼カツオ! すげぇ。これって猫のおやつなんだ。僕でも食べられそう。《雪のお方》は神妙な顔をしてハムハムと食べた。

「本当に可愛い猫ちゃんね。お名前は?」
「あ、えっと雪です」
《雪のお方》とは言えない。っていうか、きっと元禄時代にはただの雪だったんだと思うし。

「そう。坊やは、雪ちゃんとどこへ行くの」
「あ。静岡です。従姉妹のところに泊めてもらうことになっているんです」
「そう。この歳で一人旅ができるなんて偉いわね。氣をつけて行きなさいよ」

 おばさんは、熱海で降りて行った。僕は乗り換えて静岡へ。各駅で静岡へ行こうというひとは少ないのか、ホームはガランとしていた。《雪のお方》は小さな声で言った。
「あの鰹はなかなかであった。お前は何も食べなくていいのか。駅弁やお茶なぞも売っているではないか」
「あ、そうだね。おにぎりとお茶でも買っておこうかな」

 しゃけ入りおにぎりを一つと、お茶を買った。電車の中で食べていると、《雪のお方》が前足で催促したので、しゃけを少しだけ食べさせてあげた。

 そうこうしているうちに、僕たちは目的の小さな駅に着いた。駅からあまり離れていないところにカフェがあって、従姉妹は結婚相手とそのカフェを経営しているのだ。
「えっと。『ウィーンの森』。あれかな。こんな辺鄙な駅だとは思わなかったな」
「お前の住んでいるところと、大して変わらぬではないか」
《雪のお方》がぼそっと突っ込んだ。まあ、そうだけどさ。

 従姉妹は、僕と違って都心からここに引っ越したので、馴染めているんだとびっくりした。

『リュックにゃんこ』 by limeさん

「うん、間違いない。ここだ。入るからね、頼むよ」
《雪のお方》にまた猫のフリを頼んで、僕はカフェの入り口のドアを押した。

「いらっしゃいませ」
こげ茶のぱりっとしたエプロンをしている男性がいた。あ、この人が従姉妹の旦那さんかな。

「こんにちは。僕、伊藤悠斗です」
「ああ、君が悠斗くんか。よく来たね。はじめまして、僕が吉崎護だ。真美はご馳走を作るって張り切っているよ、ちょっと待ってて」

 感じのいい人でよかった。それに、かっこいい人だ、マミ姉、やったじゃん。僕は、護さんが二階にいる従姉妹を呼びに行く間にリックサックを下ろして、《雪のお方》を抱き上げた。

「いらっしゃい、悠ちゃん、迷ったりしなかった? あ、おユキ様も連れてきたのね」
マミ姉が、降りてきてまっすぐに《雪のお方》を抱き上げた。

 実は、マミ姉は《雪のお方》が猫じゃないことを知っている。そりゃそうだ。全然歳とらないいまま二十年以上この姿のままなのを、ウチに来る度に見ていたし、僕は子供の頃わかっていなかったから本当のことをペラペラ喋ってしまったんだもん。僕よりもずっと歳上で、これは喋ったらヤバいということをわかったマミ姉は、外には漏らさなかったけれど。

「おユキ様?」
護さんは、少し驚いた顔をした。まあ、子猫の名前っぽくはないよね。《雪のお方》はマミ姉の腕の中でゴロゴロと喉を鳴らして見せた。さすが、元猫。たいした演技力だ。

「可愛いでしょう? まあ、静岡で会えるなんて思わなかったわ。悠ちゃんもゆっくりしていってね。今晩は、シチューにしたの。でも、その前におやつ食べたくない? 護さんご自慢のクーゲルホフとホットチョコレートのセット、食べない? 私がご馳走するわよ」

「真美、代金はいいよ。悠斗くん、荷物を上に置いておいで。おユキ様……には、ミルクでいいのかな?」
護さんは、猫としては変わっている呼び名にまだ慣れていないようだった。《雪のお方》は、子猫っぽく愛らしい仕草でミルクを飲んだ。あとでオリーブオイルをあげなくちゃ。

 再び降りてきた僕に、護さんは訊いた。
「今日はこれからまたどこかへ行くのかい? それとも冒険は明日からにして今日はこのままゆっくりする?」

 僕は、少し考えた。ここに来るだけで冒険は十分したし、この街はほとんど何もなさそうだから、ここで護さんのお店を見学するほうが面白そうだ。《雪のお方》も、ここが氣に入ったみたいだし。
「もし邪魔でなかったら、ここにいてもいいですか。皿洗いくらいします」
「それは嬉しいね。でも、先におやつをどうぞ」

 他のお客さんが入ってきて、護さんは忙しくなった。僕は、お手伝いをするために急いでおやつを食べ出した。うわ。美味しいよ、このケーキ。こんな洒落たカフェがなんでこんな田舎にあるんだろう。

 マミ姉が、バターやジャムを入れる小さいガラスのシャーレに、黒い油を入れて持ってきた。そして小さい声で言った。
「オーストリアの最高級パンプキンシードオイルよ。アンチエイジングにいいっていうから、私も取り入れているんだけれど、おユキ様の口に合うかしら」

 《雪のお方》は嬉しそうに舐めていた。ミルクの時と目の色が違う。やっぱり猫又なんだな。こうして見ていると、パンプキンシードオイルって、ちょっと行灯の油っぽくない?
 
 僕はその日の閉店まで、護さんのお店でウェイターのまねごとをして過ごした。ホイップクリームのたっぷり載ったコーヒーのように、運ぶのが大変なものもあったけれど、大きな失敗はしないで、ついでに女性のお客さんたちに「きゃー、かわいい」などと言われて悦に入っていた。

 もっとも、一番「かわいいー」と言ってもらっていたのは、文字通り猫をかぶっていた《雪のお方》だけれど。

 店じまいまでちゃんと手伝って、マミ姉の美味しいシチューで晩御飯にして、それから僕の寝室にしてくれた小部屋で布団にくるまった。小さなカゴにマミ姉がタオルを敷いてくれた簡易ベッドで《雪のお方》が寛いでいる。

「一人旅、ここまでバッチリ上手く行ったよね」
「さよう。ちゃんと手伝いもしていたし、見直したぞ。カツオをくれたご婦人への礼はもっとちゃんと言って欲しかったが、それ以外は概ね合格点をやってもいいだろう」
「あ。そうだね。言い忘れちゃった。あ、マミ姉の出してくれた油はどうだった?」
「あれは、なかなか美味であったぞ。香ばしいのじゃ。明日もまた出してくれるといいのだが」
「あ、ちゃんと頼んでおく」

 それから僕はほうっと息をついた。
「でも、マミ姉、いい人と結婚したね。ものすごく幸せそうだったね。ずっと仕事一筋だったから、まさか結婚して静岡に行くなんて思いもしなかったけれど、護さんみたいな人とずっと一緒にいられるなら思い切ってもいいよね。僕も、いつかさ……」

 それを聞いて、《雪のお方》はヒゲをピクリと震わせた。
「お前、もう結婚を夢見ているのか。まったく、伊藤家の奴等ときたら、どうして揃いも揃って……。妾は、跡取りが生まれるたびに、今度こそ末代と思っているのだが……」

 そう言いながら、《雪のお方》はあまり迷惑そうな顔はしていなかった。あまりにも長く伊藤家に取り憑きすぎて、もう半分うちの守護神みたいになってしまっているのかもしれない。

 僕は、明日も《雪のお方》をリュックに背負って、一緒にあちこちを見るのが楽しみだ。猫又に取り憑かれていない人生なんて、ちょっと考えられない。伊勢屋長吉、よくやってくれた! そんなことを考えながら、眠りについた。

(初出:2018年2月 書き下ろし)


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Category : 小説・ウィーンの森
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】皇帝のガラクタと姫

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

今日の小説は『12か月の店』の3月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

今回の舞台は『ウィーンの森』です。静岡県の小さな街にあるウィーン風のこだわりカフェ、ということになっている店です。この話、もともとはシリーズ化する予定は皆無だったのですけれど、猫又がやって来たあたりからなんとなく使い勝手がよくなって時おり登場していますね。


短編小説集『12か月の店』をまとめて読む 短編小説集『12か月の店』をまとめて読む

【参考】
「ウィーンの森」シリーズ



皇帝のガラクタと姫

 ひらひらと白い花片が舞っていくのを、真美は目で追った。あれはなんだろう。桜にしては早いから、桃かしら。

 子供の時に住んでいたこの地域は温暖で光に満ちている。以前から抱いていた真美の印象は、久しぶりにこの街で暮らしてさらに強くなった。東京も思っているほど寒くなかったのかもしれない。こまかく氣温を記録していたわけではない。けれど、真美が通っていたオフィスはビル風が強いと有名なところで冬の厳しさは格別だったし、春の訪れも花見の頃まではあまり感じなかった。

 結婚し住むことになった駅前のカフェの周りには高いビルはない。周りに柑橘類を植えている邸宅が多く、柔らかい陽光と実の暖色が近所一帯を視覚的に温めてくれている。カフェの裏手には白樺の林があり、その四季折々の表情も見飽きない。

 土曜日。いつもより少し寝坊をしてしまったので、わずかに後ろめたく思いつつ、布団を干した。護は、もちろんとっくに起きて、開店準備をしているはずだ。真美が昨夜遅くまで月曜日のプレゼン資料を作成していたのを知っているので、起こさずにそっと店にいったのだろう。

 つきあうことになってから、お互いに結婚の意思があることまではわりと早く明確になったのだが、それから具体的な話を決めるときに若干もたついた。護はこの店『ウィーンの森』の店長としての仕事をほぼ生きがいのように感じていたが、真美が東京の商社で任されていた仕事にやり甲斐を感じていることもよく理解していてくれた。

 実際に、真美は長距離通勤や単身赴任なども考えたが、最終的には退職して近くで再就職をする道を選んだ。『ウィーンの森』のスタッフとして働くという考えもあったのだが、護は反対した。それはいつでもできることだし、365日24時間ずっと一緒に居るよりも、お互いに自分の空間と時間、そして知りあいを持つほうがいいと。

 真美はなるほどと思った。この土地と店をずっと続けている護はともかく、17歳で東京に移住した真美にこの街の人々との付き合いはほとんどない。自分の世界を持ち、見聞を広めるのは大切なことだ。

 そんなわけで、真美は県内の少し大きな街の不動産会社に勤めている。土日は護の店を手伝うことも多いが、「休みの日はゆっくりしろ」と言ってくれるので、こちらは重役出勤になってしまうことが多い。

 洗濯や部屋の掃除をひと通り済ませてから階下に降りていった。コーヒーだけでなく、甘いケーキを焼くような香りがしている。店内を見回すと、いつも入り浸る近所のご老人たちの他、買い物帰りのようなご婦人方が楽しく話していた。

 そして、窓際に1人、非常に目立つ服装の女性が座っている。薄紫色のワンピースを白いレースとリボンが覆いつくしている。髪はきれいにセットされた縦ロールでヘアーバンドのように濃淡さまざまの紫の造花と白いレースが彩っている。あれは確か「姫ロリィタ」というジャンルの服装じゃないかしら。真美は思った。

 東京の原宿あたりにいれば、さほど珍しい服装ではないが、このあたりで電車に乗ればかなり注目の的になるだろう。だが、ウィーンのカフェをコンセプトにしたこの店ではそれなりに絵になる。

 白樺の木立に面した広い窓から入ってくる柔らかい陽光が彼女のワンピースや艶やかな髪に注がれ、おそらく化繊であろう衣服の人工的な輝きをもっと柔らかな印象に変えている。カフェのインテリア、柱や床も家具も濃い茶色だ。護は、エスプレッソメーカーからから食器に至るまで本場で使われているのと遜色のないこだわりの店作りをしていた。おそらくそれが彼女がここにやって来た理由でもあるのだろう。

 でも、1人なんだろうか。こういう人たちって、集まってお茶会をしたりするんだと思っていた。真美は、護がその女性のところに何かを運んでいくのを眺めた。

「お待たせいたしました。メランジェとカイザーシュマーレンです」
女性は、目の前に置かれた皿を見て硬直した。それから震える手で置かれたフォークとナイフに手を伸ばし掛けたので、護は軽く頭を下げて「どうぞごゆっくり」と言った。

 カウンターに戻って来ようとする護は、真美に氣がついて軽く笑った。真美も小さく「遅くなってごめん」と言った。ところがその言葉を遮るように、窓際の女性が「待ってください」と声をかけた。

 護は、戻って「いかがなさいましたか」と訊いた。

「あの、これ、どうしてこんなに崩れているんですか」
女性は、わずかに批難するようなトーンで言った。真美は遠くからだがその皿を見て、彼女の苦情ももっともだと思った。皿の上には、パンケーキをぐちゃぐちゃに潰したような欠片がたくさん置かれ、それに粉砂糖がかけられている。その横にガラスの器に入った赤い実のソースが添えられていた。

 護は、慌てた様子もなく答えた。
「カイザーシュマーレンをご注文なさるのは初めてですか?」
「はい」
「そうですか。シュマーレンというのは、ガラクタ、めちゃくちゃなものといった意味で、焼いたパンケーキを、あえてスプーンで崩して作るお菓子なのです」

 それを聞くと、女性ははっとして、恥じるように下を向いた。
「そうだったんですか。ごめんなさい、失礼なことを言って……」

 護は首を振った。
「見た目が特殊で、お客様のようなお申し出が多いので、あえてメニューには載せず、口頭でご注文いただいたお客様だけにお出ししているのです。どちらでこのメニューのことを耳になさいましたか」

 女性は、しばらく下を向いていたが、やがて顔を上げてから少し悲しそうに答えた。
「友だち……いいえ、知りあいに言われたんです。私にふさわしいお菓子があるからって」

 店内はシーンとしていた。おしゃべりに明け暮れていたご婦人方も、興味津々で成り行きを伺っている。

「私、ずっと友だちがいなくて。同級生たちと話も合わなくて。こういう服が好きって言ったら、みんな遠巻きにするようになってしまって。だから、普段は、この趣味のことは言わずに、ネットで同じ趣味の仲間を探したんです。でも、みんな都会にいて。行けない私はお茶会の話題にもついていけないんです。今日は、みんなウィーン風のカフェでお茶会をするっていうので、せめてここで同じように過ごそうと思って、どんなお菓子がいいかって訊いたら、これをすすめられて……」

 ウィーンのカフェっぽいお菓子といえば有名なザッハートルテやシフォンケーキ、若干マニアックだけれどピンクのプチケーキ・プンシュクラプフェンなどを思い浮かべるけれど、カイザーシュマーレンなどというデザートは初耳だった。真美は、そのネット上の「姫ロリィタ」仲間たちの意図がわからず戸惑った。

「遠くても、ようやく趣味の合う友だちができたと思っていました。年齢も離れているみたいだけれど、それでも受け入れてもらっているのかと。でも、私、歓迎されていなかったみたい」
それだけ言うと、彼女は悲しそうにカイザーシュマーレンを見つめた。

 護は、小さく首を振って答えた。
「そういうおつもりで薦めてくださったのではないかもしれませんよ」

 女性は不思議そうに護を見た。彼は、続けた。
「カイザーシュマーレンのカイザーとは、皇帝という意味なんです。このデザートの由来にはいくつか説があるのですが、一番有名なのは皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が氣に入ったからというものなんです。あの、シシィの愛称で知られるエリーザベトを皇后にした皇帝です。オーストリアでは、同様にしてつくられるシュマーレンの中でももっとも洗練されたデザートとして愛されています」

 彼女は、皿の中をじっと見つめた。明るいパステルイエローが粉砂糖の中から顔を見せ、甘い香りが漂ってきている。遠くで眺めながら真美はあれを食べてみたいと思った。

「ひと口だけでも召し上がってみてください。ウィーンでは何軒ものカフェでそれぞれのカイザーシュマーレンを食べましたが、こちらはそのどこにも負けない味だと自負している自信作です。日本の方の舌に合うように生地の甘さを控えめにして、ソースの方で甘さを調節できるようにしてあります」

 護の言葉に小さく頷くと、彼女はそっとフォークとナイフを手に取った。
「あ……」
小さい欠片はナイフを使うまでもなかった。それぞれは切るほど大きくないし、見た目は脆そうでもカラメリゼがきいているのでフォークからこぼれ落ちることもない。

 ひと口食べてみた彼女は少し顔を赤らめた。
「おいしい……」

 それから護を見て頭を下げた。
「食べもしないで、文句を言ってごめんなさい。とても美味しいし、それに、他のお菓子のように、食べるときに服を汚さないか、きれいに食べられるか心配しなくていいデザートなんですね」

 護は頷いた。
「お氣に召して嬉しいです。どうぞごゆっくり」

 カウンターに戻ってくる護を、ご婦人方が止めた。
「ねえ。私たちもあれを食べてみたいんだけれど」

 カウンターに戻ってきた護は真美に卵を出してくれと頼んだ。真美は、テキパキと冷蔵庫から卵を取りだした。

「そういえば、ザッハートルテ、大好きだけれど、フォークだけで切るのはけっこう難儀よね、かなり固いし」
真美が言うと、護は頷いた。
「君は、苦労していたよな、たしか」

 そういえば初めて食べたのはここ、高校生の時のことだ。ナイフを使わない横着をしてケーキの小片を飛ばしてしまった。そして、ジーンズにアプリコットジャムがベッタリとついた。真美は当時も今も、この店ではラフな格好しかしないので特に問題はなかったが、あんな素敵な格好をしていたら、そんな失敗は怖いだろうと思った。

 女性の着ている紫のワンピースもそうだが、「姫ロリィタ」のワンピースにはボリュームパニエが必須で、座るとスカートが机の真下まで広がることになる。加えてたくさんのレースやリボンがついているので、その分普通の服装よりもスカートを汚すことも多いのだろう。その点、カイザーシュマーレンならずっと食べやすいだろう。

「真美、これを頼む」
護は、できあがったカイザーシュマーレンを2つカウンターに置いた。それから自分も2皿持ち、ご婦人方のところに持って行く。真美はその皿を一緒に運びながら厨房奥に小さな皿が残っているのを見た。ひと言も口にしなかったのに味見用を用意してくれたのだろう。そんなに物欲しげな顔をしていたかしら。 

 はじめて食べたカイザーシュマーレン。中はふんわり外はカリッとして美味しい。真美はフレンチトーストなどを茶色く色づかせるのが好きだがいつも焦がして苦くしてしまう。こんな風にカリッとするまで焼くのは、単にレシピを見て作るだけでなく、かなり研究を重ねて作り込んだはずだと思った。

「真美。そんなに喜んでくれるのは嬉しいけれど、顔が緩みすぎだぞ」
厨房で堪能していると、そういいながら護は、コーヒーを淹れてくれた。

 食べ終わってから店内を見ると、ご婦人方が窓際の女性に話しかけていた。
「あなたのその服、とても綺麗ね。手作りなの?」
「えっと……。買ったものに少し自分で手を加えています。レースやリボンなどを……」
「まあ、そうなの。とても素敵よ」
「へえ。自分でなんて偉いわね。うちの娘は家庭科の宿題すら全部わたし任せなのよ。材料は、手芸用品のお店で買うのかしら」

 女性は、困ったように言った。
「私、この前引っ越してきたばかりで、この辺りのお店は知らないんです。前いたところは、大きい手芸屋さんも知っていたんですけれど……」
「あら。隣の駅だけれど、とても充実していて安いお店を知っているわよ。ちょっとまって、地図を書いてあげる」

 ほんの30分前までは完全に浮いていた「姫ロリィタ」ルックの女性は、すっかりご婦人方に可愛がられている。そして、彼女自身も打ち解けて自然な笑顔を見せるようになった。ご婦人方だけでなく、別の席のご老人グループも、見てはいけないものを怖々みるような態度はなくなり、遠くから見守っていた。

「このお店、そういうお衣装にはぴったりよね」
「はい。こういう素敵なカフェ、東京みたいな大都会じゃないとないんだと思っていました」
「うふふ。インテリアも、メニューも、店長がこだわっているからねぇ。本場ウィーンにいるみたいでしょう?」
「せっかくだから、写真を撮ってあげるわよ。同じ趣味のお友達に自慢するといいわ」

 真美はカウンターの後ろで護と顔を見合わせて笑った。この店は、彼の思い入れと研究の成果であると同時に、こうしてお客さんたちが支えてくれるので続けられているのだと思う。都会にあればもっとたくさんの人が足を運んでくれるかもしれないが、こんな風に客同士が楽しく触れ合うこともそうそうないだろう。

 ご老人方やご婦人方に続き、きっとこの「姫ロリィタ」ルックの女性も常連になってくれるだろう。もしかしたら、彼女が同じ趣味の人たちを連れてくるかもしれない。真美は、カイザーシュマーレンを正式にメニューに入れることを、護に提案しようと思った。

(初出:2021年3月 書き下ろし)

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カイザーシュマーレン、もっとぐちゃぐちゃのも散見しますが、だいたいこんな感じのお菓子です。
Kaiserschmarrn groß
Kobako, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons
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