【小説】いつかは寄ってね
「十二ヶ月の歌」の九月分です。
「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。九月は石川さゆりの「ウイスキーがお好きでしょ」を基にした作品です。えっと、私と同世代以上の日本人なら絶対に知っているはずですが、若い方は知らないのかな? いや、ずいぶん後までコマーシャルやっていましたよね。
とはいえ、サビの部分しかご存じない方も多いかと思います。ま、さほど意味のある歌でもなく、コマーシャルの世界にインスパイアされて書いたので、歌詞を追わなくてもいいかと(笑)
お酒のお店がこれで私の小説世界では五件目になってしまいました。(他の四つは『dangerous liaison』、『Bacchus』、『お食事処 たかはし』、マリア=ニエヴェスのタブラオ『el sonido』)本人はそんなに飲ん兵衛じゃないのになあ……。
涼子のイメージは、ずばり石川さゆり。「夜のサーカス」が完結したら、「バッカスからの招待状」をStella連載用にしようと目論んでいるので、その布石のキャラ配置でございます(笑)

いつかは寄ってね
Inspired from “ウイスキーがお好きでしょ” by 石川さゆり
「いらっしゃい」
涼子は引き戸の方に明るい声をかけた。
「おっ。ハッシー」
カウンターの西城がろれつのまわらぬ口調で叫ぶ。入ってきたばかりの橋本はほんの少し失望したような顔をした。
「こんばんは。涼子ママ。なんだよ、もう西城さんが出来上がっているんじゃないか」
「へへっ。今日は直帰だったんでね。一番乗り」
西城は涼子にでれでれと笑いかけた。
『でおにゅそす』は、東京は神田の目立たない路地にひっそりと立つ飲み屋で、ママと呼ばれている涼子一人で切り盛りをしている。店の広さときたら二坪程度でカウンター席しかない。五年ほど前に開店した時には、誰もが長く続かないだろうと思ったが、意外にも固定客がついている。この世知辛いご時世だから安泰とは言えないが、この業界の中では悪くはない経営状況だった。
西城や橋本をはじめとする足繁く通う常連は、みな誰よりも涼子と親しくなろうと競い合っていた。そのほぼ八割方は既婚者だし、涼子もにっこり笑って相手をしているが特に誰とも深い仲になることもなかった。
「涼ちゃんだけだよ。どんな話でもニコニコと聴いてくれるのはさ。うちの嫁なんか、そういうグチグチしたことは聴きたくない、あんたは給料だけしっかり運んで来ればいいんだって……」
「うふふ。お子さんのお世話でイライラしていたんでしょうね。奥さま、本当は西城さんのことを大切に思っているわ。でも、吐き出してしまいたいことがあったら、いつでもここに来て言ってくれていいのよ」
涼子が微笑んでそういうと、西城はにやけて熱燗をもう一本注文した。負けてはならぬと、橋本も急いで飲みだす。
「単衣の季節かあ。まだ暑いだろう?」
橋本はおしぼりで汗を拭きながら、涼子の白地に赤やオレンジの楓を散らした小紋にちらりと目をやる。
「そうねぇ。でも、単衣を着られる時期って少ないから、着ないと損したみたいだし」
涼子は小紋の袖をそっと引いて、つきだしを橋本の前に出した。その動きは柔らかくて控えめだ。和服の似合う静かな美人だし、小さいとはいえ店を経営するんだから、誰かの後ろ盾があるに違いないと人は噂したが、この五年間にそれらしき男の影はどこにも見られなかった。
「なあ、ハッシー、知っているか。板前の源さん、入院したんだってさ」
西城が、赤い顔で話しかけた。源さんというのは、やはり『でおにゅそす』でよく会うメンバーの一人で、橋本とも旧知の仲だった。もともとはただの客なのだが、付けを払う代わりにカウンターの中に入り、つまみを用意することが多いので『でおにゅそす』の半従業員のようになっていた。
「え。どこが悪いのかい?」
「胆石ですって。先ほど、勤め先のお店の方がわざわざお見えになってね。しばらく来れないけれど、そういう事情だからって」
「へえ~。そうか。じゃあ、そんなに深刻な病状ではないんだね」
「ええ、不幸中の幸いね」
「でも、ってことは、涼子ママは困っているんじゃないの?」
「くすっ。そうね。源さんが作るほど美味しくないけれど、しばらくは私が作るので我慢してね」
そっと出てきたあさりの酒蒸しは優しいだしの香りがした。
「美味しいよ。でも、ママが困っているなら、何でも言ってくれよな。力になるからさ」
そういう橋本に西城も負けずと叫ぶ。
「俺っちだって、何でもするよ」
涼子はにっこりと微笑んだ。
自分で店をはじめていなければわからなかった人情というものがある。かつて一部上場の商社でOLをしていた頃、同僚が病欠をしたりすると「ち。この忙しいのに」という声が聞こえた。休んだ方はどちらにしても使いきれはしない有給休暇を使われてしまうことに納得のいかない顔をしたものだ。実際には涼子たちの仕事は他の誰かが代わりにできることで、それにどうしてもその日のうちに終わらせなくてはならないことでもなかった。仕事を休んでも月末には同じように給料が入ってきた。
けれど、この店をはじめてから涼子には有休など寝言も同然の言葉になった。一日休めばそれだけ収入が減る。たまたまその日に来てくれたお客さんが二度と来なくなってしまう心配すらあった。自分一人では解決できないことを、義務ではなくて親切心から手を差し出してくれる人たちのことを知った。顔や身長や肩書きや年収ではなくて、氣っ風とハートと実用性こそが涼子を本当に助けてくれるのだった。
思えば、考えてもいなかった世界に流れてきたと思う。あの商社に勤めていた頃は、この歳まで一人でいる可能性など露ほども考えていなかった。当時つき合っていたのは大手銀行に勤めるエリートで、他の多くの同僚たちのように結婚と同時に退職して家庭に入り、時々主婦同士で昼食会に行ったり買い物をしたりの浮ついた未来が用意されていると信じていた。実際に、彼はそんな未来を涼子に用意しようと考えていたのだ。
「ねえ。涼子ママはこんなにきれいなのに、どうして一人なの?」
橋本がほんのり赤くなりながら訊いてくる。
「おい、ハッシー、野暮なことを訊くなよ。誰かいい人が居るに決まってんじゃん」
西城が口を尖らせる。
涼子はそっと笑った。
「あのね。昔ね、運命の人に出会ってしまったの。どうしても結ばれることのできない人で、だからあきらめるしかなかったの」
涼子がそういうと、二人とも肩をすくめた。全く信じていないのがわかった。涼子がそんな風にはぐらかしたのははじめてではなくて、パトロンの存在を匂わせると固定客が減るからだろうと勝手に解釈していた。
本当のことなのにね。
姉の紀代子が連れてきた男の職業に、父親は激怒した。母親も眉をひそめて涼子に囁いた。
「何も水商売の男性を選ばなくてもねぇ」
「カタギじゃないの?」
涼子が仕事から帰って来た時には、挨拶に来たその青年はもう帰っていて、どんな職業か興味津々だった。
「バーテンですって」
「へえ」
「挨拶だけして、これから開店だからってさっさと帰っちゃったのよ」
「お姉ちゃんは?」
「彼を手伝うって大手町に行っちゃった」
涼子は優等生だった姉が、両親の許しが得られないまま彼と暮らしはじめたことに驚いた。そして、「関わるな」と言われたにも拘らず好奇心でいっぱいになって、会社帰りに大手町にあるというそのバーに足を運んだ。
『Bacchus』は小さいながらも味のあるしゃれたバーで、姉の選んだ男性はそのバーを一人で切り盛りしていた。繁華街から離れたオフィスビルの地下にあり隠れ家のような静かな店で、センスのいいジャズががかかっていた。涼子がぎこちなく店を見回していると微かに笑って「何が飲みたい?」と訊いた。
子供だと思っているんだ、そう思った涼子はちょっとムッとした。
「ウィスキーください」
飲めもしないのに、どうしようかなあと思っていると、すっとロングドリンクが出てきた。時間と秘密を溶かし込んだような深いウィスキーの味わいはそのままに、夢みがちな少女時代の憧れにも似た軽い炭酸水をそっと加えたウィスキーソーダだった。添えられたミントの葉が妙にピンと立って見えた。背伸びをしている未来の義理の妹への最初の挨拶だった。
紀代子は後からやってきた。涼子は邪魔をしないようにそっとカウンターの端に座って眺めた。時おりそっと二人で微笑みあっていた。とてもお似合いだった。その晩に涼子は田中佑二のことをすっかり氣にいってしまったのだ。
両親に認めてもらえなかった分、涼子が味方をしてくれたのが嬉しかったのだろう、二人は涼子をよく『Bacchus』に呼び、三人でいろいろな話をすることが多くなった。カウンターの端からゆっくりと眺めていると、佑二はそっと客たちに話しかけていた。社交辞令や上っ面の挨拶ではなく、一人一人に違った言葉で話しかけていた。哀しく酔っている客もいたし、楽しそうに報告をする客もいた。答えを探し自分の心の奥を探っている男。仕事の失敗を嘆く青年。逢えなくなった孫たちのことを想う老婦人。恋人に去られた娘。それぞれの人生に短い言葉や優しい相槌で答えながら、キラキラと氷が光を反射するグラスをそっと差し出す姿。涼子は姉の男性を見る目に感心した。
そして、涼子のつき合っていた「大手銀行くん」がクリスマスイヴにシティホテルを予約して、薔薇の花束とカルチェの指輪でプロポーズをしてきた。つい先日発売された雑誌の「クリスマスデート特集」の表紙から数えて3ページ目「ケース1」と、ホテルの選択からプレゼントまで全て一致していた。彼は涼子が知らないと思っていたのかもしれないが。急に醒めていくのがわかった。彼は仕事でどれだけの金額の取引に関わったか、ハネムーンはハワイに行ってできれば最新のロレックスを買いたいというような話題を、涼子の反応もまったく意に介せずに話し続けていた。
当時はバブルがはじけて間もない頃だった。彼の勤めていた銀行が統合されてなくなってしまうなんて事は誰も考えていなかった。とても浮わついていた時代でもあったのだ。涼子はよく考えてからプレゼントを返し、進もうとしていた道から引き返した。
でも、涼子にとって悲劇だったのは、「大手銀行くん」以外のプロポーズしてくれる男と出会えなかったことではない。涼子にはわかっていたのだ。一緒に人生を過ごしたい男性は、姉と人生をともにしようとしていることを。
あれからいろいろなことがあった。紀代子と佑二の間に何があったか涼子は知らされていなかった。両親に祝福されない関係、昼と夜の逆転した生活に疲れていたのは知っていた。でも、少なくとも最後にあった時に、姉は恋人のもとを去ろうとしているような氣配は全く見せなかった。ましてや、失踪したまま仲の良かった妹にも居所を知らせないままになるなんてことを予想することはできなかった。佑二が紀代子を心配して必死で探していたことは間違いない。もちろん両親や涼子も。一度だけカリフォルニアからハガキが来た。消印は姉が居なくなってから二週間ほど後で、姉の筆跡でわがままを許してほしい、探さないでほしいということが書かれていた。両親にも佑二にも謝罪の言葉はなかった。
それから二十年近くが経った。佑二はいまだに大手町の『Bacchus』で同じように働いている。彼の受けた傷と、涼子の両親との間に起った不愉快ないざこざのあと、涼子は『Bacchus』に以前のように行くことができなくなってしまった。
『でおにゅそす』を開店する時に、涼子は知人一同に挨拶状を送った。よりにもよって水商売をはじめたと激怒した両親はもちろん、商社時代の知人たちからもことごとく無視されたが、開店の日に佑二は見事なフラワーアレンジメントを贈ってくれた。深いワインカラーの薔薇をメインにした秋の饗宴だった。
『Bacchus』にちなんで『でおにゅそす』と名付けたことも、姉のことがあってもまだ好意を持ち続けていることも、きっと伝わったのだと思った。それでいいわよね、今は。
「涼子ママの好きな人さ。この店に来るのかな」
橋本は、誰が恋人もしくはパトロンなんだろうと、頭を働かせているようだった。
そりゃあ、来ないでしょうね。私が店を開けている時には、あの人も開店中。でも、いつかはこのカウンターに座ってくれないかな。そうしたら、私が作れるようになったことを教えてあげるから。佑二さんが私のために出してくれたあの絶妙のウィスキーソーダを。
(初出:2013年9月 書き下ろし)
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【小説】君の話をきかせてほしい
月に一度発表する読み切り短編集「十二ヶ月の野菜」の十二月分です。このシリーズは、野菜(食卓に上る植物)をモチーフに、いろいろな人生を切り取る読み切り短編集です。最終月に選んだテーマは「大根」です。冬の大事な食材。シンプルだけれど存在感のある野菜を最後に持ってきました。その分小説としての料理が大変でした。
去年初登場した『でおにゅそす』の涼子が登場しました。そして、客としてやってきた青年。読んでいくうちにデジャヴを感じるかもしれません。
とくに読む必要はありませんが、『Bacchus』の田中佑二と『でおにゅそす』の涼子を知らない方でお読みになりたい方のためにリンクを貼っておきます。
「バッカスからの招待状」シリーズ
「いつかは寄ってね」

君の話をきかせてほしい
吐く息が白くなるこの時期は、年の瀬を感じて誰もが早足になる。華やかな街の喧噪にどこが浮き足立った人たちが忘年会やクリスマス会食をはしごする。カウンター席しかない二坪ほどの小さな『でおにゅそす』もこの時期はかきいれ時だ。会食で飲み足りない男たちが、ほろ酔い加減で立ち寄り、涼子の笑顔と数杯の日本酒に満足して家路につく。
だが、その青年はそうしたほろ酔い加減はみじんも感じさせなかった。引き戸をためらいがちに開けて、小さな看板と手元のメモを見較べながら入ってきたので、誰かからの紹介なのだなと思った。実際、涼子の一度も見たことのない客だった。歳の頃は三十代半ばというところだろうか。
「いらっしゃいませ」
ちょうど多くの客が帰りほとんどの席が空いていたが、その青年の佇まいから彼女は騒ぐ常連たちから離れた入口に近い席を勧めた。青年は軽く会釈をしてトレンチコートを脱いだ。焦げ茶色のアラン編みのセーター。勤めの帰りではないらしい。
「何になさいますか」
おしぼりを手渡しながら涼子は訊いた。青年は戸惑いながら、カウンターに立っている小さなメニューを覗いた。
「では、日本酒を……どれがいいんだろう。詳しくないのでお任せします」
常連の西城が赤い顔をしてよろめきながら近づいてきた。
「兄ちゃん、見慣れない顔だね。この店を見つけたのはらぁっきぃってやつさ。せっかくだから『仁多米』にしなさい。ありゃ、美味いよ」
それから涼子に満面の笑顔を見せた。
「じゃあね、涼ちゃん。今日はかかあの誕生日だからさ、帰んなくっちゃいけないけど、また明日来るからさ」
その後に青年に酒臭い息を吹きかけて言った。
「楽しんでいきなよ。でも、涼ちゃんを誘惑しちゃダメだよ。俺らみんなのアイドルなんだから……」
青年は滅相もないと言いたげに首を振った。
「もう、西城さんったら、失礼だわ。若い方がこんなおばさんに興味持つわけないでしょう」
「涼ちゃんは、歳なんか関係なく綺麗だからさ。今日のクリスマス小紋もイカすよ」
黒地に南天模様の小紋に柊をあしらった名古屋帯を合わせた涼子のセンスをを褒めてから西城は出て行き、店の中には西城の近くに座っていた半従業員のような板前の源蔵と、青年だけになった。
涼子は少し困ったように笑った。
「ごめんなさいね。西城さん、いい方なんだけれど、ちょっと酔い過ぎているみたい」
「いいえ。とんでもない。あの方のおすすめのお酒をお願いします」
礼儀正しく青年は答えた。
涼子は小さいワイングラスに常温の日本酒を注いだ。
「このお酒ね。奥出雲にいる知り合いの方が送ってくださったの。こうして飲んでみてって」
青年は黙って頭を下げると、ワイングラスを持ち上げてそっと香りをかいだ。服装や佇まいには都会の匂いがないが、ワイングラスを傾ける姿は洗練されている。どの畑の人なのだろうといぶかった。そもそも誰がこの店に送り込んだのだろう。
青年の携帯電話がなった。礼儀正しく「失礼」と言うと青年は電話を受けた。
「あ、うん。そうか。まだ当分かかるんだね。いや、氣にしないでくれ。今、神田にいるんだ。……ああ、終わりそうになったら、電話してくれれば、またさっきの『Bacchus』へ行くから……」
涼子は目を丸くした。電話を切った青年をまじまじと見た。
「佑二さん、いえ、大手町『Bacchus』の田中さんが、ここを?」
青年は黙って頷いた。それからコートの内ポケットから、名刺を取り出してしばらく迷いつつ手元で遊ばせていた。それから、ゆっくりと顔を上げると、決心したようにその名刺を涼子に手渡した。
忘れもしない、佑二の筆跡が目に入った。
「涼ちゃん。身につまされる悩みを抱えたお客さんなんだ。よかったら女性の観点から君の意見を話してあげてくれないか。田中佑二」
瞬きをしながら言葉を探している涼子に、青年はもう一度頭を下げてから急いで言った。
「すみません。実は先ほど、『Bacchus』でつき合っている女性と飲んでいたんですが、彼女が急遽仕事で呼び出されて。それで一人で田中さんと話しているうちに、人生相談みたいなことをしてしまって。心配した田中さんが、ここへ行って女性の考えを訊いてみろって。本当に相談するつもりで来たわけではないんですが、待ち時間がかなりあってずっとあそこにいたら、忙しい田中さんにも迷惑だろうし、東京には滅多に来ないので、店もほとんど知らなくて……」
涼子は、ふっと笑った。
「ご飯は食べていらしたんですか?」
青年ははっとしたように顔を上げた。
「あ、いや、まだ……」
源蔵がすっと立って、涼子に話を聞いてやれと目配せをした。そして、カウンターに入って、簡単なつまみを用意しだした。涼子は小皿と割り箸を用意し、突き出しの蒟蒻と小松菜のごま油炒めを青年の前に置いてやった。青年は再び頭を下げた。
「それで。どちらからいらしたの?」
「静岡です。新幹線に乗るのも何年ぶりだろう。自分の街からほとんどでたことがなくて。東京がこんなに広くて華やかなのをすっかり忘れていました」
「いらしたのはその女性に逢うため?」
「はい。ずっと昔に東京に引越した女性で、数ヶ月前に再会してから、ほぼ毎週末に来てくれるんですが、たまには自分が逢いに来るべきだと思って」
「平日に?」
「僕も飲食店をやっていて、明日が定休日なんです。クリスマスはかきいれ時なんで、今日明日を逃したら当分は来られません。彼女は僕が来ると知って明日の有休を取ってくれたんですが、どうしても対処しなくてはいけないことができて、明日休むためにまた仕事に戻ることになって……」
涼子にも、青年の暗い顔の原因がこの女性に関することなのだろうと推測できた。でも、佑二さんの「身につまされる悩み」っていうのは何かしら。
青年はサーモンと白菜の和風ミルフィーユ仕立てをゆっくりと食べると、「仁多米」を味わうように飲み、目を閉じた。それからほうっと息をついた。
「美味しいですね。こういう味、本当に久しぶりだ。ほっとします」
この青年は疲れているのだと思った。
「お店は、洋食関係なの?」
涼子が訊くと青年は頷いた。
「カフェなんです。うちのあたりには、料理もケーキも、それからコーヒーの淹れ方までもこだわった本格的な店はなくて、かなり自負を持っているんですが、東京だと珍しくもなんともないですね」
「おつき合いなさっている方がそうおっしゃったの?」
「いいえ。彼女は、僕のやっていることを尊重してくれています。だから、仕事が忙しくて疲れていても来てくれるし、僕の方でたくさん時間が取れなくても文句も言わずに手伝ってくれます」
「羨ましいくらいに、お幸せに聞こえるけれど……違うの?」
青年はため息をもらした。
「ええ、そうですね」
涼子は源蔵と顔を見合わせた。青年はしばらく黙っていたが、グラスの透明な日本酒を揺らすのを止めて顔を上げた。
「東京は華やかですね。この時期に来るのは初めてなんですが、どこもイルミネーションが……」
「ああ、ここ数年、派手なイルミネーションが増えたねぇ。節電のなんとかっていう技術が発達してから、やけに増えたんじゃないか?」
「まあ源さんったら、LEDでしょう。そうね。そう言えば昔はこんなになかったわよね」
「華やかなライトに照らされたショーウィンドウに、高価で洒落た商品がたくさん並んでいて、彼女の着ているスーツも洗練されていて、なんだか自分だけ場違いな田舎者みたいだし、用意してきたプレゼントもつまらない子供騙しに思えてしまって……」
涼子ははっとした。源蔵もなるほどね、という顔をした。
「わかるな。俺もはじめて東京に来た時、氣後れしたしさ。だけどさ、悩むほどのことでもないと思うぜ?」
源蔵の言葉に青年は首を振った。
「そのことで悩んでいるわけじゃないんです」
「じゃあ、何を?」
涼子が訊くと青年は、困った顔をした。
「すみません、こんな湿っぽい話をして」
「氣にするなよ。王様の耳はロバの耳って言うじゃないか。田舎と違って、ここで話したことはどこにも伝わらないし、話せばすっきりするぞ」
源蔵の言葉に涼子も微笑んで頷いた。青年は観念したように口を開いた。
「ここに、東京に来るまでは、たぶん単純に浮かれていたんでしょうね。新しい関係やぬくもりに。彼女は僕よりずっと若くて、きれいで、それなのに僕を慕ってくれて。夢みたいだと思ったんです。いつもの世界が華やかで明るくなり、心も身体も満足して。このまま関係を進めていけばお互いに幸福になれると」
「違うの?」
涼子は、そっと手を伸ばして空になった小鉢を引っ込めた。源蔵は黙ってゆずの皮を削った。
「僕は一度結婚に失敗しているんです。前の時のことを思いだしました。はじめは朗らかだった妻が、しだいに笑わなくなって……。一緒にいても苛立ちと不満のぶつけあいになっていきました。あの時、僕は彼女の変化の原因が分からなかった。ここにいたくない、大阪に戻りたいという妻の言葉をわがままとしかとらえられなかった。大して儲からない店に固執するのは馬鹿げているとも言われました。確かに楽な暮らしはできないのですが、店に対する熱意は僕の存在意義そのもので、それを否定されてまで一緒にいられなかった」
涼子はじっと青年を見つめた。涼子の姉である紀代子が、田中佑二のもとを去って姿を消してしまった時、彼女も佑二も理解ができなかった。涼子はできることならば姉の立場になって『Bacchus』に全てを捧げる佑二を支えたかったから。佑二さんの「身につまされる悩み」っていうのはこれね……。
「今つき合っている女性は僕と店のことをよくわかっていて、きっとうまくやって行けるんじゃないかと思っていたんです。でも、この東京で颯爽と働く彼女の姿を見ていたら、これがこの女性の人生と生活なんだと、僕とはまるで違う世界に属している人なんだと感じました。僕が彼女に側にいてほしいと願い、あの小さなつまらない街に閉じこめたら、あの生き生きとした笑顔を奪うことになるのかもしれない。次第に不満だけがたまって、やがて別れた妻と同じように僕のことを嫌いになっていくのかもしれないと」
「私はそのお嬢さんと逢ったことがないからわからないけれど、仕事と東京での暮らしが人生を左右するほど大切だったら、週末ごとにあなたの所に通ったりしないと思うわ」
「でも……」
涼子はにっこり笑って青年の言葉を制した。
「確かに女ってね、仕事は仕事、愛は愛って分けられないの。全て一緒くたになってしまうのよね。もちろん全ての女性がそうだというつもりはないけれど」
「だとしたら……」
「あなたは男性だから、お仕事に関することは妥協できないんでしょう。お店を閉めてまで、彼女のために東京で暮らそうとは思わない。だから彼女に仕事を諦めてあなたの側に来てほしいと願うことは信じがたい苦痛を強いるように感じるんじゃないかしら。でも、私、きっと彼女はもっと簡単に幸福への道を見つけると思うわ」
涼子は大根の煮物を黙っている青年の前に置いた。
「ねえ、これを召し上がってご覧なさい。私ね、女って大根の煮物みたいなものだと思うの」
彼は訝しげに涼子を見たが、箸を取りすっと切れる柔らかい大根を口に入れた。出汁と醤油の沁みたジューシーな大根が舌の上で溶けていった。
「色は完全に染まってしまっているし、細胞の隅々まで出汁に浸かっている。それでも、出汁でもないしお醤油でもない、お大根そのものの味でしょう?」
青年は目を見開いた。それから、再び箸を動かして大根を口に入れた。涼子は続けた。
「お大根は淡白で、主張が少ないからどんな食材の邪魔もしないけれど、でも、あってもなくてもいいわけじゃないわ。たとえばおでんに入ってないなんて考えられないでしょう。ステーキやピッツァのような強い主張もないし、熱になるカロリーは少ない。その目的には向いていないわね。でも、食物繊維や消化酵素の働きで、消化を助けて胃もたれや胸焼けも解消してくれるとても優秀な野菜よ。どちらがいいというのではなくて役割が違うのね」
涼子は微笑んで続けた。
「女は本来とても柔軟なの。愛する人間に寄り添えるように、どんな形にでも姿を変えて、道を見つけることができる。でもね、それがあまりに自然なので、時おり男性はそれをその女性の本来の姿だと思ってしまうのね。あたり前なのだと思って意識しなくなってしまうの。そうやって認められなくなると、女のエネルギーは枯渇してしまって、もう合わせられなくなってしまう。男は女が変わったと思い、女はわかってもらえないと悩む。その心のずれを修復できないと、二人はどんどん離れていってしまうんだと思うわ」
青年はじっと涼子の顔を見た。彼女は安心させるように笑った。
「あなたはそのお嬢さんのことをちゃんと思いやっている。でも、言葉にするのをためらっていると、伝わらないわ。一生懸命やっていればわかるだろうなんて思わずに、あなたの想いを彼女に伝えてご覧なさい。どれだけ大切に思っているか、仕事のことも尊重したいと思っていること、側にいてくれたらいいと願っていることもね。彼女がどうしたいのかもちゃんと言葉にして訊いて、その上で、お互いに譲り合える所、妥協はできない点をすり合わせていけばいいのよ」
青年は頷きながら大根を噛みしめていた。
「今は二十一世紀だもの、いろいろな関係があっていいと思うの。男性に単身赴任があるように、女性にあってもいいでしょう。毎日出勤しなくてもいい働き方もあるし、別の仕事を見つけることもあるかもしれない。でも、全ての工夫は何があっても関係を保ちたいとお互いが意志を持つことから始まるんじゃないかしら。私はそう思うわ」
源蔵が笑った。
「涼ちゃん、いいこというねぇ。この人にここへ来いって言った、その『Bacchus』の田中さんとやら、よくわかっているんだねぇ」
涼子は口を尖らせた。
「とんでもないわ。佑二さんはもう少し女心を研究すべきよ。あの唐変木……」
そう言いながら、用事だけしか書かれていない田中の名刺を大切に懐にしまった。
源蔵は吹き出し、青年もようやく笑顔を見せた。折しも再び携帯電話が鳴り、彼は急いで「仁多米」を飲み干すと、アドバイスに心からの礼をいい、少し多めの代金を置いて立ち上がった。涼子は彼の迷いが晴れたことにほっとしながら訊いた。
「ところであなたのお店はどこにあるの。静岡に行くことがあったらぜひ寄りたいわ」
青年は嬉しそうに懐からコートから名刺を二枚取り出した。
「名乗るのが遅れてすみません。僕は吉崎護といいます。店は『ウィーンの森』といって、この駅のすぐ側です」
引き戸から立ち去る護の後ろ姿に、雪が舞いはじめた。少し早いクリスマス氣分。天も恋人たちのロマンスに加勢しているらしい。涼子と源蔵は嬉しそうに笑って、「仁多米」でもう一度乾杯をした。
(初出:2014年11月 書き下ろし)
【小説】頑張っている人へ
「scriviamo! 2017」の第五弾です。けいさんも、まずはプランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。
プランBで、拍手絡みの物語を、うちの「シェアハウス物語」とコラボでお願いしても良いですかね。それを受けて、私も掌編を描く。それのお返事掌編をまたいただく…B→B(A)→A混合サンドイッチ、みたいなの。
この二つ書けとおっしゃるうち、ひとつはちょうどブログトップのFC2拍手を1000カウント目にしてくださった記念掌編です。
けいさんは、私と同じく海外在住ですが、お住まいは地球の反対側、スイスから一番遠いオーストラリアです。だから、お逢いするのは生涯無理だと思っていたのですが、なんとブログのお友だちの中で一番最初にお逢いした方になったんです。オーストラリアは、見知らぬ人にもフレンドリーな人が多い国ですが、その社会に馴染んでいらっしゃるけいさんも例外でなくとてもフレンドリーで暖かいハートをお持ちの方。それだけでなく生涯に何度もないウルトラ長期休暇に長編小説を毎日書いたという、とてつもない努力家でいらっしゃいます。爪の垢を煎じて送っていただきたい~。
今回コラボご希望になった「シェアハウス物語」は昨年発表なさった作品で、大学生
拍手がらみの話ということですのでどうしようかなと悩みましたが、「応援の拍手」で書くことにして、まず今回は折り紙アーティストのワンちゃんをメインにお借りしました。けいさん、ありがとうございます!
そして、うちからは、あの店が再登場しています。
![]() | いつかは寄ってね |
「scriviamo! 2017」について
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
頑張っている人へ - Featuring「シェアハウス物語」
——Special thanks to Kei-san
山から下りてくる道は、双方向とも一車線しかない細い道で、切り立った崖のおかげで実際の日暮れよりも早く暗くなる。
千沙は、ゆっくりと中央線にあわせてハンドルを切り、ブレーキを踏まずにきれいにカーブした。それからすぐにトンネルが来た。コンクリートの壁、独特のオレンジの電灯、千沙は不意に思い出して少しだけ悲しくなった。
時夫君。私はトンネルを普通に通れるようになったよ。あなたも頑張れるよね。
時夫は、千沙の父方の従兄だ。同じ街で育ち、それから大学に入った時に埼玉に引越した。千沙が二年遅れてやはり東京の大学に進んでから四年間、下宿が比較的近かったので時おり逢った。とくに千沙が運転免許を取りたての頃、彼に頼んで高速や山道の運転の特訓をしてもらった。
「おい。そんなにブレーキを踏むなよ」
「だって、怖いんだもん」
「そんなことやると、後から衝突されるよ。もっとスムースに走らせなくちゃダメだ」
「わかっているよ」
そして、トンネルに入ると千沙は速く走れなかった。
「なんでだよ」
「だって、壁にぶつかりそうなんだもん」
トンネルの壁が車の左側を擦りそうな感じがしたのだ。そして、中央線の反対側には強い光を放つ対向車が向かってくる。上手くすれ違えるか不安になる。
「ぶつかるかよ。これまで走っていた道と同じ幅じゃないか。まっすぐ道の真ん中を見て、同じスピードで走れ」
「う、うん」
時夫は、口は悪くても千沙にとっていい教師だった。根氣よく、粘り強く指導してくれた。だから、大学を卒業して就職する頃には、千沙は、上手とまではいかなくとも、少なくとも他人に迷惑をかけない程度には運転できるようになっていた。
ようやく帰り着いたが、千沙は、車を駐車したあとにまっすぐにマンションには入らなかった。トンネルを過ぎた一時間ほど前からの、もの悲しい想いを誰もいない自宅には持ちかえりたくなかったのだ。
東京は神田の目立たない路地に『でおにゅそす』はひっそりと立っている。ママと呼ばれる涼子が一人で切り盛りをするこの飲み屋は、二坪程度でカウンター席しかないが、開店してから五年ほどの間にそこそこの固定客が付き、暖かい家庭的な雰囲氣で満ちている。
「いらっしゃいませ。あら、小林さん。今日は少し遅かったかしら」
涼子は千沙に笑いかけた。
「秩父に出張だったの。この時間は、いっぱいね」
そう言って、カウンターを見回した。いつもの常連である西城や橋本の他に、始めて見る国際色豊かな客たちが四人ほど座っていて、その間の一席だけがかろうじて空いていた。
その席の隣にいた黒髪の女性がにっこり笑って自分の椅子を動かした。どうぞ座ってくださいという意味だと思ったので、千沙は会釈してその席に向かった。
「ワンちゃん、もっとこっちに来ても大丈夫だよ」
肌の色が浅黒く、目の大きなアジア系の男が、意外に流暢な日本語で言った。ワンちゃんってことはこの人も日本人じゃないのかな、そう思いながら千沙は座った。
「今日はどうしますか?」
涼子が暖かいおしぼりを手渡してくれた。今日の装いは黒地に赤や黄土色の縦縞の入った縮緬の小紋だ。袖に手を添えて出す所作がきれいで、千沙はいつも感心する。こういう大人になるのが理想だけれど、いつになることやら。
「今日は、少し酔いたい氣分だから、最初っから熱燗にしてもいいですか」
千沙が言うと、涼子は目を丸くした。
「そうなの? 銘柄はどうしましょうか」
「う~ん、わからないけれど、飲みやすいのはどれかしら」
「そうねぇ。出羽桜の枯山水はどうかしら。三年醸造でわりとふっくらとした味わいだけれど」
千沙はこくりと頷いて、それを頼んだ。
それまで賑やかに飲んでいた国際的なチームは、千沙に遠慮したのか、少し小声にして飲んでいた。
一方、既に出来上がっている西城と橋本は、涼子が熱燗を用意しながら、カウンター越しに千沙への突き出しや小皿を置いている間に話しかけてきた。
「どうしたんだい、千沙ちゃん。酔いたい、だなんてさ」
「俺っちが、はっなしを聴いてあげよっか?」
「ちょっと、お二人とも、酔っぱらって小林さんに絡まないでくださいな」
涼子が嗜めると、二人とも赤い顔をして、滅相もないと慌てて手を振った。
千沙は、笑って二人の方を見てから涼子に答えた。
「大丈夫ですよ。実はね、運転中に車の特訓をしてくれた従兄のことを思い出して、悲しくなっちゃったんです。その従兄ね、いまガンで闘病中なんです」
「まあ、そうなの? それは心配ね」
「仕事熱心のあまり、おかしいと氣づいてからもしばらく検査に行かなかったらしくて、ちょっと進んじゃっているみたいなんです。ほら、若いと早いって言うじゃないですか」
「そりゃあ、悲しくもなるよなあ」
「でもっ。希望っを、失っちゃ、ダメだよなっ。俺っちも、よくなるように、祈るからっさ」
あらあら、ろれつが回っていない。この酔い方では、おそらく明日になったら何の話題をしていたかも憶えていないだろうなと思いつつも、千沙は微笑んだ。
「その従兄、私と違って優秀だったんです。子供の頃から努力家で、頑張りやで、私が何か出来ないと助けてくれたんですよ。車の運転もそうで、国から出てきた身内が他にいなかったこともあるんですけれど、下手な私にずいぶんとつきあってくれて。それを思い出したら、私は彼のために何も出来なあと、悲しくなっちゃって」
千沙は、暖かい土色の猪口に浮かんだ枯山水の波紋を眺めながら言った。湯氣の暖かさ、涼子や常連たちの思いやりのある言葉にホッとする。
「そうね。きっとよくなるって信じて陰ながら応援することも、彼の力になるんじゃないかしら」
涼子がそういうと、西城と橋本も大きく頷いた。
「そうだよな。よしっ。俺っち、この箸袋で鶴を折るぞ。そうしたら、千羽鶴にしてさ……」
西城はそういいながら鶴を折りだしたが、手元が危うくて上手く折れていなかった。
「ええ。西城さん、それじゃ、やっこさんになっちゃいますよ」
「うるさいな、ハッシーは、黙って、一緒に折るんだよ。そのイトコを応援するんだってば」
左側の二人の酔っぱらいに、千沙の意識はしばらく捉えられていたのだが、涼子の驚きの声で我に返った。
「まあ。なんて素敵なの!」
千沙が、右側を向くと、隣に座ったワンちゃんと呼ばれた女性がどこからか取り出した小さい折り紙で、あっという間にいくつもの折り鶴を完成させていた。しかもそれだけでなく、赤、オレンジ、黄色などできれいな紅葉を折っていた。
「え。この短時間に?」
千沙は、その女性が取り組んでいる別の折り紙作品に目を奪われた。
それは、追えないほどの速さで、しかも正確に織り込まれて、あっという間に人間のような形になっていった。その小さい人物は、腕を前に差し出して重ねている。
「拍手をしているみたい」
千沙は思わず呟いた。
ワンちゃんはにっこりと頷いた。
「そうなの。これは拍手をしている人。応援の拍手。頑張っている人への」
その人物像の周りで、紅葉もまるで小さな手のひらのよう。一緒に拍手をしているようだ。小さな折り鶴も羽ばたいて見える。
「さすがワンちゃん。すごいな。それ、今度のテツオリで、僕たちに教えて」
一番向こうにいた、日本人の若い青年が言った。
「テツオリ?」
千沙が訊くと、青年の隣に座っている青い目の女性がにっこり笑って答えた。
「私たちのシェアハウスで時々やる徹夜の折り紙教室のことなんです。こちらのワンちゃんにいろいろな折り紙を教えてもらうんです」
ワンちゃんは、千沙に作品の数々を渡した。
「そちらの方の分と一緒に、これもその従兄さんに差し上げてください。ここにいるみんなで応援していますからって」
千沙は、目頭が熱くなるのを感じながら頷いた。
「はい。彼はきっと喜ぶと思います。不屈の精神を持つ人だもの、きっと頑張ってくれると思います。私もめげずに応援します」
どんなトンネルにも出口がある。どんな下手な運転も、練習すればそれなりになる。諦めて何もしない人が好くなることはないと教えてくれたのは、他ならぬ時夫だ。
体調や病状は、努力とやる氣だけではどうにもならない部分もあるけれど、諦めたらお終いというのは同じ。好くなることを信じよう。応援することしか出来ないけれど、せめてそれだけは続けよう。
週末は、ここにある全ての折り紙を持って彼を元氣づけるためにお見舞いにいこう。千沙は、熱燗を飲み干すと、自分も下手ながらも折り鶴を折るために、箸袋を広げた。
(初出:2017年1月 書き下ろし)
【小説】ありがとうのかわりに
「scriviamo! 2017」の第十四弾です。けいさんは、毎年恒例の目撃シリーズで書いてくださいました。この作品は、当scriviamo! 2017の下のようにプランB(まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法)への返掌編にもなっています。ありがとうございました。
プランBで、拍手絡みの物語を、うちの「シェアハウス物語」とコラボでお願いしても良いですかね。それを受けて、私も掌編を描く。それのお返事掌編をまたいただく…B→B(A)→A混合サンドイッチ、みたいなの。
この二つ書けとおっしゃるうち、ひとつはちょうどブログトップのFC2拍手を1000カウント目にしてくださった記念掌編です。
けいさんの書いてくださった『とある飲み屋での一コマ(scriviamo! 2017)』
けいさん、実はどうも今、公私ともにscriviamo!どころではない状況みたいで、いま発表するのはどうかなと思ったんですが、こちらの事情(後が詰まっていて)で、空氣を全く読まない発表になってしまいました。ごめんなさい!
今回の掌編は、けいさんの掌編を受けて、前回私が書いた作品(『頑張っている人へ』)の続きということになっています。そっちをお読みになっていらっしゃらない方は、え〜と、たぶん話があまり通じないかもしれません。
今回は「シェアハウス物語」のオーナーにご登場いただいていますが、それと同時にけいさんの代表作とも言えるあの作品にもちょっと関連させていただきました。
で、けいさん……。大変みたいだけれど、頑張ってくださいね。応援しています。
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ありがとうのかわりに - Featuring「シェアハウス物語」
——Special thanks to Kei-san
東京は神田の目立たない路地に『でおにゅそす』はひっそりと立っている。ママと呼ばれる涼子が一人で切り盛りをするこの飲み屋は、二坪程度でカウンター席しかないが、そのアットホームさを好む常連客で毎夜そこそこ賑わっていた。
「いらっしゃいませ。あら、
涼子は現に微笑んだ。
「残念ながらね。でも、みんなここがとても氣にいったようで、近いうちにまた来たいらしいよ。その時には、またよろしく頼むよ」
シェアハウスのオーナーである現は、先日シェアハウスに住む国際色豊かな四人をこの店に連れてきたのだ。
今日は、会社が終わると一目散にやってきて現が来る頃には大抵でき上がっている西城と、少しは紳士的なのに西城にはハッシーと呼ばれてしまっている橋本が仲良く並んで座っていた。そして、カウンターの中には、涼子ママと、常連だがツケを払う代わりに料理を手伝う板前の源蔵がいた。
「よっ。現さん、この間は驚いたよ。あのガイジンさんたち、すごかったよねぇ」
西城は、あいかわらずろれつが回っていない。
「何がすごかったんですかい?」
あの時、一人だけ店にいなかった源蔵が訊いた。橋本が答えた。
「現さんのつれていらした人たち四人のうち三人が外国の人たちだったんですが、みなさん、日本語ぺらっぺらで、しかも鶴まで折っちゃって。日本人の僕たちよりも上手いのなんの……」
「それに、あのアジアのおねーちゃん! あの人形の折り紙はすごかったよなあ。アレを折り紙で折るなんて、目の前で見ていなければ信じられなかったよ」
涼子はもう少し説明を加えた。
「源さんも知っているでしょう、時々やってくる、小林千沙さん、あの方の従兄の方が闘病しているって話になって、だったらみんなで応援しようってことになって、あの夜、ここでみんなで鶴を折ったのよ」
現はその間にメニューをざっと検討して、まずヱビスビールを頼み、肴は適当に見つくろってほしいと頼んだ。源蔵がいる時は、料亭でしか食べられないような美しくも味わい深い、しかもメニューには載っていない一皿にめぐりあえることがあるからだ。
源蔵はそれを聞くと嬉しそうに、準備に取りかかった。現は、突き出しとして出された枝豆の小鉢に手を伸ばしながら訊いた。
「その後、どうなったんでしょうね」
涼子は微笑むと、カウンターから白い紙袋を取り出した。
「
現は「へえ」と言いながら紙袋の中を覗き込んだ。中には、赤と青のリボンで二重に蝶結びにして止めた、白い袋が五つ入っていた。そして、それぞれに付箋がついていた。
「ゲンさんへ、か。これが僕のだ」
彼は、一つを取り出した。残りの四つには「ワンさんへ」「ニコールさんへ」「ムーカイさんへ」「ソラさんへ」と書いてある。あの時、耳にしただけで漢字がわからなかったので全てカタカナなのだろう。ワンちゃんだけ「ちゃん」付けするのはまずいと悩んだんだろうな。うんうん。彼は笑った。
「西城さんたちももらったんですか?」
現が訊くと、二人は大きく頷いた。
「もちろんさ。俺っちたちは、千沙ちゃんが来た時にここにいたからさ、直接いただいちゃったって訳。開けてごらんよ」
中には透明のビニール袋に入ったカラフルなアイシングクッキーと、CDが入っていた。彼は取り出して眺めた。
ピンクや黄色や緑のきれいなアイシングのかかったクッキーは、全て紅葉の形をしていた。それはちょうどあの日ワンちゃんが折った拍手に見立てたたくさんの紅葉に因んだものなのだろう。
「小林さんの手作りですって。いただいたけれど、とっても美味しかったわ」
涼子が微笑んだ。
「それは嬉しいね。少し早いホワイトデーみたいなものかな。で、こちらは?」
彼はCDをひっくり返した。それはデータのディスクか何かを録音したもののようだった。
「それさ。例の闘病中の従兄が演奏したんだってよ」
西城が言った。
現は驚いて顔を上げた。橋本が頷いた。
「そうなんだってさ。先日、無事に放射線療法がひと息ついて、退院して自宅療養になったんだって」
涼子がその後を継いだ。
「あの皆さんからの折り紙がとても嬉しかったんですって。絶対に諦めない、頑張るって改めて思われたそうよ。それで退院してから小林さんと相談して、みなさんに何かお礼の氣持ちを伝えたいって思われたみたい。それで、ギターで大ファンであるスクランプシャスっていうバンドの曲を演奏して録音したんですって」
「歌は入っていなくてインストだけれど、すごいんだよ。俺たちもらったCD全部違う曲が入っていたんだ。だから現さんたちのとこのもたぶん全部違う曲だと思うぜ」
橋本は興奮気味だ。
「そうですか。僕のはなんだろう。あ、裏に書いてあるぞ『悠久の時』と『Eternity Blue』か。デビュー・アルバムからだね」
「あら、
「もちろんだよ。僕は自慢じゃないけれど、スクランプシャスのアルバムは全部持ってんだから」
現が言うと、皆は「へえ~」と顔を見合わせて頷いた。
「だれが『夢叶』をもらったのかな」
現が皆の顔を見回して訊くと、涼子は笑った。
「私たちじゃないわ。たぶんワンさんじゃないかしら。あの時、いつか折り紙作家になりたいっておっしゃっていたから」
「俺っちもそれに賭ける」
西城が真っ赤になりながら猪口を持ち上げた。
「宇宙かもしれないぞ。あいつもこれから叶える夢があるからな」
その現の言葉に、皆も笑って頷いた。
涼子が現のグラスにヱビスビールを注ぎ、源蔵が鯛の刺身を梅干しと紫蘇で和えた小鉢を置いた。
現はプレゼントを紙袋に戻すと、嬉しそうに泡が盛り上がったグラスを持ち上げた。
(初出:2017年2月 書き下ろし)
【小説】休まない相撲取り
「scriviamo! 2020」の第五弾です。もぐらさんは、オリジナル作品の朗読で参加してくださいました。ありがとうございます!
もぐらさんの朗読してくださった作品「相撲取りと貧乏神」
もぐらさんは、オリジナル作品、青空文庫に入っている作品、そして創作ブロガーさんたちの作品を朗読して発表する活動をなさっているブロガーさんです。お一人、もしくはお二人で作品を朗読なさり、当ブログの作品もいくつも読んでくださっています。いつもとても長くて本当にご迷惑をおかけしています。
今年もオリジナルの「貧乏神」シリーズでご参加くださいました。日本の民話をアレンジなさった素敵な作品です。貧乏神のシリーズとはいえ、毎年、とてもハートフルなエンディングでお正月にふさわしい素敵な作品ばかりです。どうぞあちらで聴いてみてくださいね。
お返しですが、去年までは平安時代の「樋水龍神縁起 東国放浪記」の話を書いてきましたが、今年は趣向を変えて現代の話にしてみました。もぐらさんとも縁の深い『Bacchus』……ではなくて姉妹店(違う!)の『でおにゅそす』を舞台にしたストーリーです。
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休まない相撲取り
——Special thanks to Mogura-san
引き戸が開いて客が入ってくるとき、いつもの二月なら寒い風のことでヤキモキするのだが、今年はあまり氣にならない。暖冬。涼子は思った。
「いらっしゃいませ」
恰幅のいい若い青年が、いそいで扉を閉めてから、カウンターを見回した。
東京は神田の目立たない路地に『でおにゅそす』はひっそりと立っている。ママと呼ばれる涼子が切り盛りをするこの飲み屋は、二坪程度でカウンター席しかないが、そのアットホームさを好む常連客で毎夜そこそこ賑わっていた。
涼子や常連たちに見つめられて、青年は戸惑ったように言った。
「坂本源蔵……は、来ていませんか」
「源さん?」
奥の席で出来上がっている西城が裏返った声で叫んだので、隣の橋本がどっと笑った。困った人ね、と言いたげに見つめてから、涼子が引き取った。
「ああ、甥御さんね。どうぞお座りになって。源さん、魚を受け取りに行ってくださったんだけれど、道が混んでいて少し遅れるんですって」
源さんというのは、近所に住む元板前だ。『でおにゅそす』開店以来の常連の一人で、西城や橋本とも旧知の仲だ。もともとはただの客として通っていたのだが、付けを払う代わりにカウンターの中に入り、つまみを用意することが多いので『でおにゅそす』の半従業員のようになっていた。
青年は、頭を下げて入り口に近い空いている席に座った。
「そうですか。はじめまして。小島津与志です」
西城が大きな声を出した。
「源さんの甥っ子って、たしか関取だよなっ? 四股名で名乗れよう」
すると、青年は下を向いて唇を噛みしめた。それから、顔を上げて小さい声で告げた。
「
店内は、察して微妙な空氣が流れたが、すっかり酔っている西城には通じなかった。
「なんだい、もっと大きな声で言ってくれ。ひがーいしー、橋本やまぁ。にしぃ、西城がわぁ。はっけよい、のこった、のこったぁ!」
涼子は、おしぼりを渡しながら言った。
「どうぞ。氣になさらないでね。西城さんは、もうずいぶん飲んでいらして」
「いえ。僕こそ」
ガラッと引き戸が開き、待ち人が現れた。
「おう、津与志、来てたか。遅くなってすまん」
「源さん、ごめんなさいね。どうもありがとう」
涼子が言うと、源蔵は首を振りながら、上着を脱ぎ、前掛けをすると、クールボックスを抱えてそのままカウンターに入った。
「買ってきました。とくにサワラと平目、いいのが手に入りましたよ」
涼子に嬉しそうに言った後で、甥の方を向いた。
「津与志。今日は、少しゆっくりしていけ。親方には話してあるからな」
大きな身体を縮めるようにして、小島青年は頷いた。源蔵は、涼子に説明した。
「こいつは、二年前は前頭四枚目まで番付を上げたんですが、膝の怪我でしばらく成績が低迷していましてね。悩んでいるようなので、ここに来いと。涼子ママに話を聞いてもらえと、しつこく言って、ようやく来たんですよ」
「甥御さん、源さんにとてもよく似ているわね」
涼子が言うと、源蔵は笑った。
「顔は、似てますがね。この子は、わしとは似ても似つかぬ真面目なタチでね。部屋の掃除も、ちゃんこ鍋の用意も、もちろん稽古も手を抜かずにやりまくって、コツコツと番付をあげてきた努力家なんですよ」
「へえ、じゃあ、やっぱり似ているんじゃないか。源さん、そう言うけど真面目を絵に描いたような板前だもんな」
橋本が言うと、涼子も他の常連たちも頷いた。
「その真面目さが、助けにならない時もある。石頭なのも、似ているのかな。壁にぶつかって、でも、横に避けたり、戻ったりするのが難しいみたいでね。わしが言っても、アレなんで、助言してやっていただけませんかね」
源蔵は、グラスにも全く手をつけずに下を向いている甥を眺めた。
「涼子ママに相談するの、いいんだよなあ。俺っちも、かかあのことも、娘の反抗期のことも、いっぱい助言もらったよなあ」
西城は、熱燗を空けながら大きな声を出した。
橋本も続ける。
「そういえば、僕も、偏頭痛を治してもらいましたよね」
「あら、メガネの度が合っていないのかもって言っただけでしょう。治してくださったのは眼鏡屋さんよ」
「まあ、ママはわしや皆さんにとっての福の神みたいな存在だって事ですよ。津与志、だからお前もここでいい運をもらっていきなさい」
源蔵が言うと、青年は小さく頷いた。
「お怪我は、もういいの?」
涼子が訊くと、小島青年はいっそう暗い顔をした。
「完治する前に、すぐに稽古を始めるから治らないって、親方に言われただろう」
源蔵が言うと、青年は顔を上げた。
「でも、休場したらどんどん番付が下がるだけだ」
「あれ? コーショー制度は?」
西城が言った。酔っていても、話にはちゃんとついて行っているらしい。
「なんですか、それ?」
橋本が首を訊いた。
「ハッシー、わかってないなー。怪我で休場しても、復活したときには同じ地位から始められるんだよ。なっ!」
青年は首を振った。
「いえ。確かにその制度はあったんですが、2003年に廃止されたんです。公傷が乱発されて休場する力士があまりにも多くなってしまったので。ですから、僕は怪我をした場所で途中休場しただけで休まずに出ているのですが、負けが込んでしまって。期待してくださった親方や先輩方にも申し訳なく、もう引退した方がいいのかと……」
「怪我をしているのに土俵に上がって、大丈夫なのかい?」
相撲に詳しくない橋本は、純粋な質問を投げる。西城が解説した。
「ぶちかましとか、突っ張りとか攻める手は、膝をかばいながらでも、わりといけちゃうんだよね。問題は、向こうが積極的に攻めてきたときに、踏ん張ったり上手に凌ぐのが難しいわけ」
「西城さん、詳しいのね」
涼子が言うと、嬉しそうに答えた。
「惚れ直した、涼子ママ? 熱燗、もう一本頼むよ」
小島青年は、ビールをゴクンと飲み干した。源蔵が捌いたヒラメの昆布締めをキュウリの薄切りと一緒に小鉢に入れて、涼子は彼の前にそっと置いた。柚醤油の香りがほのかに漂う。
「どうして引退した方がいいとお思いになるの?」
涼子が訊いた。青年は、少し言葉に詰まった後で、答えた。
「幕下だと給料も出ませんし、ただの穀潰しです。周りの士氣にも影響するし、まるで貧乏神だなと……」
涼子は、小さく笑った。
「幕下の方はたくさんいるでしょう。貧乏神は、そんなにいるかしら」
「……」
「相撲の世界は、勝負がとてもシビアでしょうけれど、それ以外のお仕事でも、必ずしも結果や利益を生み出している人たちだけではないと思うわ。でも、結果だけで、その方たちの価値が決まるわけではないと思うの」
すると、西城や橋本も頭をぶんぶんと振って頷いた。
「俺っちもさぁ。どっちかっていうと日当たりのいい席に座らされているけどさあ。くさくさしたって仕方ないもんな。いる場所で、やれることをコツコツやるっきゃないだろ、なっ、ハッシー!」
橋本は、いきなり背中を叩かれて吹き出しそうになった。
涼子はテキパキと皆の前の空いた皿を片付けて、新しい小皿を置いていく。小島青年は、伯父も含めて和氣あいあいとした『でおにゅそす』の一同を眩しそうに眺めた。
「焦る氣持ちは、よくわかるわ。私たちのような仕事と違って、スポーツは何十年もかけてのんびり結果を出せばいいというものではないでしょうから。でも、がむしゃらに頑張るか、そうでなければ辞めるか、その二つしか道がないのかしら。怪我が治れば、結果はむしろ出やすくなるのではなくて?」
源蔵は、椎茸の肉詰めを皆の前に置いていきながら言った。
「行き詰まっているときには、自分のやり方を続けても道は見つからないぞ。急がば回れっていうだろう」
「俺っちたちも考えようぜ」
西城が赤い顔で大きな声を出した。涼子は取りなすように小島青年に言った。
「あなたもずっと考えていらっしゃるでしょうし、親方のご指導も受けていらっしゃるでしょうけれど、素人たちの突拍子もない意見ももしかしたら参考になるかもしれないわ」
「俺っちは思うんだよ。何よりも優先すべきは怪我の治療だろ。だから、稽古にしたって膝に負担のかかることはやめる」
「膝に負担のかからない稽古ってあるのか?」
「あるんじゃないかい? 柔軟体操みたいな稽古あったよな? 詳しくはわかんないけど、今までの稽古では沢山時間をかけられなかったことを、目一杯やっておくとかさ」
小島青年は、はっとしたように頷いた。
「確かに、早く復帰することや部屋に貢献したい一心で、ぶつかり稽古や三番稽古を少しでも多くしようとしていたかもしれません」
「すみません。それなんですか?」
橋本が小さな声で訊く。西城が解説する。
「三番稽古ってのは、力士同士で何度も取り組むやつで、ぶつかり稽古というのは、片方が目一杯攻めて、もう一方はそれを受け止めるヤツだ。どっちも膝には悪そうだよな」
「そういうのはしばらく休んだら、ダメなんですか」
「なんか一人でやるトレーニングあったよな。
「あ。四股ってのは聞いたことあります。なんだっけ」
「ほら、取り組みの前にやってんじゃん、足を片っぽずつどーんと上げるヤツ」
「ああ、あれか」
「鉄砲ってのは、柱に向かって張り手みたいなのを繰り返すヤツだろ?」
小島青年は頷いた。
「その通りですが、腰を落としてすり足で片方ずつ足を寄せながらやりますので、全身運動にもなっています。どちらにしても全身の筋肉を鍛える大切な基礎で、本当はもっと沢山やった方がいいと思っていましたが、取り組み稽古ほどは熱心にしていなかったかもしれません。膝をかばいながらでも、できるんだから、本当はもっとやるべきだったんだ……」
「休場して、怪我の治療に専念すると言って、そういうのだけをやらせてもらえばいいんじゃないか?」
「そんで、部屋の役に立つのは、もっと他のことにするとかさ」
「他の事って?」
「うーん、ちゃんこ作り?」
「関取さんになったら、お料理当番はしないのでは?」
涼子が訊くと、小島青年は首を振った。
「いえ、負け越してしまったのでもう関取ではなくて幕下です。ちゃんこ番もあります」
「お。だったら、めちゃくちゃ美味い鍋を極めるとかさ。それこそ、源さんにコツを訊いてさ」
「ですよね。美味しいものを食べられれば、みんなハッピーだし」
いつの間にか店中の客たちが、怪我で苦しむ若き力士の復帰プランと当面の部屋での身の振り方をああだこうだと論じていた。実際の大相撲の制度やトレーニング、生活のことなどのわかっていない人々の考えでなので、実際に機能するかどうかはわからない。皆アルコールが入っているので、氣が大きくなっていることも確かだ。それでも、引退することや、世話人・マネージャーなどへの転身などをせずに、もう一度関取に返り咲くことができそうだと、前向きな予想ばかりだ。
作っていた吸い物を一通り客たちに出して、一息ついた源蔵がみると、甥は大きな身体を縮めるようにして下を見ていた。白木のカウンターに、ぽたりと一粒、何かが落ちた。涼子がすかさず差し出したおしぼりで、顔を拭いてから彼は顔を上げた。目は赤いが、悲しそうな様子ではなかった。
「僕は、自分では精一杯頑張っている、なのに報われていないと思っていました。でも、どうやら自分のやり方に固執して、引くに引けなくなっていただけのようです。皆さんに応援していただいて、空回りの努力は止めて、もう一度頑張ってみようと思いました。本当にありがとうございます」
その言葉が聞きたかったんだ、と誰かが叫んだ。店内は青年の関取返り咲きを祈念して、盃が重ねられた。
涼子と源蔵は瞳を合わせた。青年に憑いていたかもしれない貧乏神は、きっとどこかに去り、代わりに福の神と一緒に部屋に戻れそうだと微笑み合った。
(初出:2020年2月 書き下ろし)
【小説】わたしの設定
今日の小説は『12か月の店』の10月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。
今回の舞台は、東京神田の路地裏にひっそり佇む小さな飲み屋『でおにゅそす』です。語り手以外は、いつものメンバー、涼子と、半分従業員化している源蔵、そしていつも飲んだくれている西城と橋本。
私が生まれて初めて1人で入ったバーは一人旅をした金沢のホテルでした。涼子のモデルになったような綺麗な和服マダムが美味しい料理を出してくれました。今では海外のバーでも普通には入れるようになりましたが、あの初めてのドキドキ、思い出すなあ。

【参考】
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わたしの設定
あの店から神田駅までは、徒歩で8分……のはずだった。帰宅前に、趣味の古本屋巡りをしたことは間違っていないけれど、自分の地理的な勘を信じたのは大きな誤りだ。
真知子は、方向音痴だ。それを自覚しているのに、今日はいつもと逆の順序で古本屋を巡ってしまった。それが敗因だ。いつもは最後に入る『流泉堂』の向かいにゲームやファンタジーの好きな読者をターゲットにした店があったと思ったからだ。
真知子は、中学の養護教諭だ。今日の午後、2年生の佐藤裕太が、麦粒腫、脂腺の急性化膿性炎症でまぶたの一部が腫れる、俗に言うものもらいの相談に来た。応急処置として涙の成分に近い点眼液を差そうとして、首をかしげた。
「その右目……よね?」
少年の右目に上まぶたが腫れている。
「はい。これです」
「じゃあ、どうして左目に眼帯をしているの? そちらも、ものもらい?」
左目をあまり見ない黒い眼帯が覆っている。
「いや、こっちは何でもないっす」
少年は視線をそらした。
「じゃあ、点眼するから、そっちの眼帯は取って」
「あ。はあ。……でも、その……」
口ごもってから、彼は渋々と眼帯を外した。日焼けのあとが見える。外したがらなかった理由は、これか。真知子は納得した。黙々と点眼して、それから白い新しい眼帯を持ってきて右目につけようとした。
「あ。それ、しないとだめっすか?」
「触ったりすると、治らなくなるよ。明日になってまだ痛かったら、眼科に行った方がいいと思う」
佐藤少年は困ったように、黒い眼帯を見ていた。
「そっちは、なんでもないんだから必要ないでしょう? なぜ、眼帯しているの?」
「えっと。魔眼が……」
真知子は、理解した。厨二病か! そういう子が居るという話は、教諭仲間や、同業者のコミュニティーで聞いたことはあるけれど、本当にいるんだ。この子は、左目が魔眼だという設定で眼帯をしているのだろう。
真知子は、声を潜めてささやいた。
「もしかして、隠さなくちゃ危険なわけ?」
「うん。普通の色の時は無害だけれど、魔眼がうずくと赤くなって、それで世界を焼き尽くすんだ」
「ああ、魔眼のバロールみたいな……」
真知子はつぶやいた。
「先生、知ってるの? それって、ええと……」
「学生時代に読んだケルト神話に出てきたのよ。佐藤君、もしかして、入学してからずっとその黒い眼帯していたの?」
「ううん。2年になってから。うちの親も、担任の石川っちも、もう取れって言わなくなったよ。今さら取るのはなあ」
真知子は、全く危険のなさそうなごく普通の左目を見ながら、こんなことをしていると視力が落ちるぞと思った。かといって頭ごなしに叱り、登校拒否になったりするのも問題だ。
「とりあえず、魔眼は右側に移ったという設定にして、ものもらいが治るまでは右目を保護してちょうだい。触っちゃダメ」
案外おとなしく右側に眼帯をされているので、もうひと押しと、ささやいた。
「佐々木先生がおっしゃっていたけれど、去年卒業した山口君の悪魔の力の宿った左手も、推薦入試の面接の時だけはやめた方がいいって話になって、その日だけは左手首に包帯巻くのはやめて左膝って設定にして行ったみたいよ」
「ほ、本当に?」
同じ厨二病の先輩も、フレキシブルに設定を変えたという情報で、若干柔軟な対応を受け入れるつもりになったなら結構。
「手首の包帯くらいなら、とくに問題はないと思うけれど、私は魔眼じゃない方が視力のためにはいいと思うけれどなあ。一度、設定を見直してみてね」
生徒の心に寄り添い、困ったときの逃げ場になるのも、養護教師、いわゆる『保健室の先生』の大切な仕事の1つだ。何かあったときに、相談しやすい役割であり続ける必要がある。「それは厨二病だから、さっさと現実を見なさい」と断定する役割は、他の指導教員が十分やってくれているはずだ。
佐藤少年が、またやってきたときに、うまく話ができるように、昔読んだっきりのケルト系の知識を更新しておきたい、それが件の店から回ろうとしたきっかけだった。でも、慣れない道から帰宅しようとしたせいで案の定迷ってしまった。さらにいうと、そういう時に裏道を通ったりしてはいけないと知っているにもかかわらず、つい近道になるかもしれないと横道にそれてしまった。
さて、ここはどこなんだろう。
先ほどまでは、古本屋が建ち並んでいる界隈だったが、このあたりはどちらかというと飲食店が多い。といっても、たくさん立ち並んでいるわけではなく、細い小道を曲がる度にぽつぽつと見かける程度だ。
路地の角を曲がると、白木の引き戸が目についた。のれんと同じ京紫に近い色をした小さめの看板に『でおにゅそす』と書いてある。奥から少人数の話し声と、出汁のいい香りが漏れてきて、真知子は足を止めた。
赤提灯の店や騒がしい居酒屋には興味はなかった。でも、静かな小料理屋などには以前から入ってみたいと思っている。
真知子は、20代の終わりかけだが、学生時代の友人たちとの飲み会以外でお酒を飲みに行ったことはない。興味はあるのだけれど、1人で入って歓迎されるのか、どうやって注文したらいいのか、今ひとつわからなくて入りにくいのだ。
1度は通り過ぎたけれど、もう一度立ち止まった。佐藤君だって、『魔眼のバロール』として日々中学校に通っているっていうのに、いい歳した大人の私が興味のある飲食店にも入れないのってどんなものかしら。恥をかいたって、もう2度と来なければいいだけなんだし、入ってみよう。小さな店みたいだし、満席の可能性だってあるんだし。
引き戸を開けてすぐに目についたのは、活けてあるコスモス。それから白木のカウンターの中に立つ芥子色の小紋の女性。2坪ほどの小さな店で、奥に2人の男性が座っていたが一斉にこちらを見た。
「いらっしゃいませ」
着物の女性が、心地よい笑顔で言った。客のうち、赤い顔をした男性が大きく手を振った。
「お。お姉さん、おいでおいで」
真知子は、これは踵を返して出て行けないなと覚悟を決めた。こうなったら、私も、小料理屋なんて週に1度は入っていますという顔をした方がいいかなと、心の中で考えた。
「あの、1人ですけれど……」
「どうぞ、どこでもお好きな席で」
狭い店なので、空いている席はあと3つほどしかない。真知子は扉を閉めて入り口に近い席に座った。女性は、真知子が落ち着くのを待ってからおしぼりを手渡してくれた。
「お姉さん、ここは初めてかい? ここいい店だよ」
先ほども声をかけた、かなりできあがっている方の客が親しげに声をかけてきた。
「西城さん、びびらせちゃ、ダメだよ」
もう1人の男性がたしなめている。
「あ、いいえ」
真知子は、居酒屋に入って酔客に話しかけられるのは慣れているという設定で、何かしゃれたことを言おうとしたが、結局何も出てこなかった。
「何になさいますか」
女性は、小さめのメニューを手渡した。A5サイズの表紙は看板と同じ京紫で、『でおにゅそす』にあわせてワインカラーなのかなと、思った。日本酒やビールなどと並んでワインもあったが、真知子は好きな酒を見つけて微笑んだ。
「梅酒をお願いします。ロックにしていただいていいですか」
「ええ。お待ちくださいね」
「あと……」
真知子は、料理のページも見た。よかった、思ったほど高くない。これなら、晩ご飯として食べていけそう。とてもいい匂いでお腹すいちゃったし。
梅酒ロックと、ごぼうのごま和えが出てきた。あ、お通しだ。真知子は心の中で頷いた。そうか、これは自動で出てくるのね。
「何か、お魚を……」
迷いながら真知子が言うと、女性は答えた。
「召し上がれないものはありますか?」
「特にないですけれど、でも、青魚より白身の魚が好きかなあ」
「そうですか。季節のお魚ですとさよりと、サンマと戻り鰹ですけれど、どれも青魚ね……」
「あれは? 源さんの穴子の煮おろし!」
もう1人の客がいうと、西城も頷いた。
「ああ、ハッシー、あれ大好きだよねぇ。あれは他にはちょっとない美味さだから当然かあ」
真知子は穴子が好きなので、目を輝かせた。
「そうなんですか。じゃあ、ぜひ。それと、お豆腐のサラダに、最近お野菜が足りていないから、この季節野菜の盛り合わせを」
「かしこまりました。源さん、穴子の煮おろし、お願いしていい?」
女性が、少し奥を見ると、向こうから入ってきた高齢の男性がカウンターに入ってきた。
ごぼうを口に入れたとき、ああ、このお店は当たりだと思った。素朴だけれど、絶妙な味付けのごま和えで、もうひと口食べたいと思わせる絶妙な量だ。豆腐のサラダも水菜とじゃこにほどよい柚の香の醤油がかかっていて上品だ。
「おいしい……」
「まあ、嬉しいわ」
女性は微笑んだ。受け答えが自然で素敵な人だなと真知子は思った。着物がよく似合う。子供の頃は、歳さえとれば大人になれると思っていたけれど、この人の年齢になっても自分はこんな大人の女性にはなれなっこない。「小料理屋にしょっちゅう入っている設定」なんぞをしている時点で論外だろう。
「な。いい店だろう? 何よりも素敵な涼子ママの店だしさ」
赤ら顔の客が話しかけてきた。持ち上げたグラスが揺れて、ビールが飛び出した。
「西城さん、ほら、また粗相して、涼子ママを困らせるなよ」
「おっと、これは、失礼」
2人はおしぼりでカウンターに飛び散ったビールを拭おうとする。
「いいのよ、私がするから。西城さんも、橋本さんも、そのままで」
涼子は大して慌てずに、西城の前の皿やグラスを片付けてから濡れたカウンターを拭った。小紋の袖を手で押さえながら、決して大きな音は立てずに動かす手の動きは優雅だ。おそらくこの西城という客が酔って粗相をするのは初めてではないのだろう。とはいえ、慌てることも、いらだちを見せることもなく、あっという間に場を綺麗に納めてしまうのは、なかなかできることではない。
涼子に見とれていると、無口に調理をしていた男性がそっと真知子の前に五寸ほどの鉢を置いた。穴子がみぞれ煮のように大根おろしとともに出汁に浮かんでいる。三つ葉が目に鮮やかだ。
「あ。いただきます」
ひと口含むと、ふわりとしたみぞれ大根に包まれていた穴子がなんとも言えないしっかりとした味わいで主張してきた。
「美味しい……。穴子の煮物って淡泊にしかならないんだと思っていました」
涼子が微笑んだ。
「源さんのこだわりでね。先にしっかりと味をつけてから大根を入れるの。こういう味は、私には作れないのよね」
「僕ねぇ、実は穴子の煮おろしって、ここで初めて食べたんだよ。穴子はお寿司でしか食べたことなくて、煮物だって聞いて最初は要らないって言っちゃってさ。この西城さんが横で美味しそうに食べるのを見て、失敗したと思ったんだよねぇ」
橋本が、幸せそうに食べる真知子に話しかけてきた。
「そんなことあったっけ? すっかり忘れちゃったなあ」
西城は相変わらず上機嫌でビールを飲んでいる。
カウンターの中の2人も、客の2人も、みな自然体でいる。真知子は、小料理屋に慣れている設定で振る舞うなどということが馬鹿らしく思えてきた。
「私、こういうお店に入るの初めてで、とても迷ったんですが、勇気出して入ってきてよかったです」
「おう。そうか! 初めてがここだなんて、ラッキーだよなあ」
西城が赤い顔をほころばせると橋本も頷きながら訊いた。
「本屋さんの帰りかい?」
真知子の置いた荷物から本が何冊か覗いている。
「ええ。古本屋を巡るのが趣味で。でも、方向音痴で駅がどこかわからなくなってしまって」
「おや。じゃあ、涼子ママ、この店の場所を書いたカードをあげておかないと」
「そうね。是非またきていただきたいもの」
看板と同じ京紫のカードに店名、住所とともに「伊藤涼子」と書いてあった。それをもらえたことがとても嬉しい。もちろん、また来るつもり。設定じゃなくて、本当にこの店に来慣れている客になろう。真知子は、カードを大切に財布にしまった。
(初出:2021年10月 書き下ろし)
【小説】熾し葡萄酒
東京神田の路地裏にひっそり佇む小さな飲み屋『でおにゅそす』を営む涼子の若かりし頃の思い出の話。ミュンヘンのクリスマス市は、1度行ったことがあります。ミュンヘンに限らず、この時期のドイツ語圏では、スイスも含めて夜の戸外でグリューワインを飲む機会がたくさんあります。こちらも人たちにとって、冷えわたる雪景色の中でグリューワインを飲むのは、特別なノスタルジーを呼び起こす行為のようです。
そして、涼子にとっても、別の意味でグリューワインは特別な飲み物のようです。皆さん、メリークリスマス!
![]() | いつかは寄ってね |
熾し葡萄酒
涼子は、昼のように明るい広場を眺めた。スタンドがぎっしりと並び、白熱灯のランプで他よりも少し暖かそうに見える。星形の大きなクリスマス飾りや、煌めくクリスマスツリー用のオーナメントがところ狭しと並んでいる。しっかりと防寒した人びとがマフラーの間から吐く息は、白く濁り、白熱灯に照らされて霧のようにゆらりと立ち上って見えた。
商社に勤めて3年、涼子はずっと憧れていたドイツのクリスマス市を観るためにミュンヘンに来た。初めてのひとり旅は少し心細かったけれど、それを口にすれば誰も彼もやめろと言うので無理してなんでもないフリをして出発した。
去年の冬に、田中佑二にグリューワインの話を聞いてから、いつかここに来たいという願いを温めていた。佑二は、姉である紀代子のパートナーだ。まだ結婚していないけれど、一緒に住んでいる。大手町にある『Bacchus』という小さなバーを経営している青年だ。
両親がこの縁組みに大反対だったので、紀代子は駆け落ち同然で家を出た。涼子は、時おりこっそり『Bacchus』に通って、2人と連絡を取り合っていた。姉はアルバイトで家計を支えながら、佑二の夢である『Bacchus』の経営にも協力している。だから、ひとり旅が寂しいといっても同行を頼めるような状態にはなかった。
大手銀行に勤めている涼子の彼は、年末年始にしか休めない。でも、それではクリスマスマーケットには遅い。来年は、もしかしたら涼子自身の結婚の話が出たりして、クリスマス前に休暇を取ることはできないかもしれない。だったら、1人でもいいから行ってみよう。
それに……。涼子は、なんとなく彼と一緒にここには来たくなかった。
グリューワインの話は田中佑二に結びついている。静かな語り口、紀代子と見つめ合う優しい時間、それに騒がしい流行に踊らされない『Bacchus』店主としての姿。
バブルに踊る世間一般とは違う『Bacchus』という小さな世界は、涼子にとって神域のようなもので、浮かれた雑誌から引用したようなことばかりを言う交際相手を踏み入れさせたいとは1度も思わなかった。それと同じように、この旅もどちらかというとひとりで来たかったのだ。
チェックインを済ませたら、外はもう真っ暗だった。ミュンヘンの夜の訪れは東京よりも早いようだ。涼子は、空腹を感じなかった。だから、レストランにも行かず、クリスマス市を求めてホテルを出た。
ミュンヘンにはこの時期、市内にいくつものマーケットが建つ。ホテルのロビーで教えてもらった小さめの市までは徒歩で5分もかからなかった。歩いたのは短い時間だったのに、切るような寒さが頬を刺した。涼子はマフラーを立てて首をすくめた。
人びとが立ち止まり、白く息を吐きながら大声で話しているスタンドがある。人びとの手元を見ると、陶製のマグカップを包み込んでいる。あれがグリューワインに違いない。
涼子はスタンドに向かい、自分の注文していい順番を待った。ワインの香りが漂っている。
売り子が威勢よく「こんばんは」と言った。涼子はたどたどしく「こんばんは」とカタカナのドイツ語で答えて、グリューワインを注文した。
「普通のでいいのかい?」
ドイツ語ではらちがあかないと思ったのだろう、英語で質問が飛んできた。
普通以外のがあるとは知らなかったけれど、あれこれやり取りする自信が無かったので、頷いた。
赤いマグカップに、夜なので黒く見える濃いワインが湯氣を立てている。手袋を通して温かさが伝わってきた。ワインの香りに加えて、香辛料とわずかな甘い香りがする。ひと口、含むと柑橘類の香りが同時に喉を通っていった。
「グリューっていうのはドイツ語で、赤々と燃えるっていう意味らしいよ。たとえば、炭が真っ赤に燃えている時にもグリューって言葉を使うんだ」
出発前に『Bacchus』に行ったとき、佑二はカウンターにグリューワインを置いてそう言った。
グリューワインは、赤ワインにシナモンや八角、グローブなどのスパイスを加えて熱したものを漉し、はちみつやオレンジを加えて作る。『Bacchus』ではガラスのティーグラスに入って出してくれるので、ワインの深く濃い紅や輪切りのオレンジが綺麗に見えた。
「でも、本当に熱々に、つまり沸騰させるような加温をしてはいけないんだ。アルコールが飛んでしまうからね」
佑二の言葉が蘇る。手の中に収まった赤い陶器の中身は、佑二が作ってくれたグリューワインよりもスパイスが強くアルコール分もきつい尖った味だった。
でも、心地よく温められた『Bacchus』と違い、この寒さの中では微妙な味わいよりも、強いアルコール分で身体を温めることが優先されるような氣がした。
人びとは、他では見ないほど大きな声で話し合っている。ドイツ人でも酔ってくるとこうなるのかと、不思議な思いで眺めた。そういえば、甘くて美味しくてもグリューワインをたくさん飲むのは危険だと、ホテルの従業員に言われた。
涼子は、黙ってマグカップを手で包み、グリューワインを飲んだ。『Bacchus』で飲んだものとは違う味なのに、思い出すのはあのティーグラスの中身と、それを作ってくれた人だ。
お酒のことに興味を持って調べるようになったのも、料理が好きになってあれこれ試すようになったのも、見知らぬ人との会話をただ楽しめるようになったのも、『Bacchus』に通ってからの変化だ。
旅立ってから、1度もつきあっている彼のことを考えていなかった。悪い人ではないのに、何かかみ合わないことをいつも感じていた。それが何かを涼子はきちんと考えたことがなかった。告白されてつきあうことにしたけれど、彼が涼子のことを愛しているとは思えなかった。見かけや、勤め先、服装などが彼の脳内マニュアルに合致しているだけのような印象が強かった。
そして、そのことに涼子は傷ついたことすらなかった。彼といる時はいつも「完璧なデートマニュアル」をプログラムされたロボットと行動しているような感覚に襲われた。マニュアル通りの間隔でデートの誘いが来るので一緒に出かける。会話はそつはないけれど、特に面白くもない。彼の興味対象をもっと深く知りたいと思ったことはない。
子供じゃないし、熱烈な恋愛をして結婚しなくちゃいけないなんて思っていないけれど、でも、きっとこれは何か間違ったことをしている。涼子は、グリューワインを飲みながら思った。
比較する相手が姉のパートナーだというのも大いに間違っている。そう……。つまり私は、佑二さんのことを好きみたい。認めないように抵抗していただけで、本当はもうずっと前から。紀代ちゃんの彼で、義兄になる人だってわかっていたのに……。
ため息は白く凍り、温かいワインの中に溶けていく。オレンジとシナモンのエキゾチックな香りが、涼子の想いに混じって凍てつくドイツの師走に消えていった。
「涼子ママ、何を飲んでいるの?」
常連の橋本が、不思議そうにのぞき込んだ。
神田の目立たない路地に『でおにゅそす』はひっそりと立っている。2坪程度でカウンター席しかないこの小さな店を、涼子が持ってからまもなく7年になる。和風の飲み屋で、涼子はいつも和服で店に立っているし、普段はワインもメニューにはない。
「これ? グリューワインよ。スパイスをドイツに行かれた方からいただいたので、懐かしくて作ってみたの」
涼子は、微笑んだ。
「へえ。珍しいね。アルコールはワインよりも弱いのかな?」
橋本は興味を持ったようだ。
「これは、ワインはほんの少し、代わりに葡萄ジュースを混ぜて作ったから弱いわよ。私が酔っ払うわけにいかないもの。でも、本来はワインよりも弱くはならないの。人によっては強いお酒も入れたりするので、ワインよりもアルコールは多いこともあるんですって」
「さすが涼子ママ、詳しいねぇ。僕も飲んでみたいな。メニューにはないけど注文できるのかい?」
「ええ。もちろん。ちゃんとワインだけで作りましょうか?」
涼子は、20年以上前のミュンヘンの夜のことを思い出していた。あの時と、今はどれほど違っていることだろう。
両親が姉である紀代子と田中佑二との結婚に反対したのは、「普通の勤め人の方がいい」という固定観念からだったが、涼子自身も自分は一部上場企業に勤め続けやがて誰かと結婚すべきだという価値観にまだ囚われていた。
そのこだわりを、あれから1つ1つ脱ぎ捨ててきた。今は、ひとりでこの小さな店だけを頼りに暮らすようになった。慎ましくも自分らしく生きられるようになった。
クリスマスを意識して着ているとはいえ、黒地の小紋は実はヒイラギではなくて南天だ。合わせた名古屋帯は深緑に雪片のモチーフ。こうした遊び心も、あの頃は生み出す余裕がなかった。
会社勤めのわずかな休みに無理してガイドブックを頼りに行ったクリスマス市。形だけつきあっていたような人に、別れを告げてこれまで続く独身としての道を歩き出したのもあの年末だった。
田中佑二を好きなことは変わらない。想いが伝わっていないこともあの頃と同じだ。
紀代子が理由も告げずに日本から立ち去ってしまった後、残された佑二や涼子の家族の心には大きな空白が空いた。でも、その空白と時間が、涼子の愁いをも取り去ってしまった。紀代子に対する後ろめたさも氷砂糖が熱い飲み物に溶けるように消えていった。
誰の恋人、誰の結婚相手、共通の未来といった概念は、もう涼子の中では意味をなしていなかった。ただ、じっくりと樽の中で寝かせた良質のワインのように、そして、焰がおさまり静かに紅く熾る炭火のように、ずっと静かに存在し続ける確かな想いになったのだ。
ミュンヘンで手渡されたマグカップの代わりに、釉薬のかかった素焼きの湯飲みに、涼子はグリューワインを注いだ。
温もりが両手にも伝わる。味は佑二の作ってくれたグリューワインに近づけただろうか。
冬は嫌いじゃない。涼子は、カウンターにグリューワインを置き、静かに微笑んだ。
(初出:2022年12月 書き下ろし)