【小説】大道芸人たち 第二部 あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
【あらすじ】
偶然の出会いからヨーロッパを旅して周ることになった蝶子、稔、レネ、そしてヴィル。チーム名「Artistas callejeros」はまた四人揃い、一緒に大道芸をしながら旅をすることになった。
【登場人物】
◆四条蝶子(お蝶、パピヨン、マリポーサ、シュメッタリング)
日本人、フルート奏者。ミュンヘンに留学していたが、エッシェンドルフ教授から逃げ出してきた。
◆安田稔 (ヤス)
日本人、三味線およびギター奏者。数年前より失踪したままヨーロッパで大道芸人をしている。
◆レネ・ロウレンヴィル(ブラン・ベック)
フランス人、手品師。パリで失業と失恋をし、傷心の旅に出た。聖歌隊にいたことがあり、テノールのいい声をしている。南仏のワイン農家の一人息子。
◆アーデルベルト・W・フォン・エッシェンドルフ(ヴィル、テデスコ)
ドイツ人、演劇青年で、もとフルート奏者。父親の支配を嫌って失踪した。偶然逢った蝶子に1年以上自分の正体を知らせずに同行していた。紆余曲折を経て蝶子と結ばれる。
◆カルロス・マリア・ガブリエル・コルタド(カルちゃん、ギョロ目、イダルゴ)
裕福なスペイン人の実業家。蝶子に惚れ込んで四人を援助している。
◆ハインリヒ・R・フォン・エッシェンドルフ男爵(エッシェンドルフ教授、カイザー髭)
ドイツ人、蝶子の恩師で元婚約者。アーデルベルトの父親。
◆ヤスミン・レーマン
ドイツ人。ヴィルがかつて所属していた劇団『カーター・マレーシュ』で広報をつとめている。
◆マリサ・リモンテ
スペイン人。コルタドの館で家政を取り仕切るイネスの一人娘。
◆ヨーゼフ・マイヤーホフ
エッシェンドルフ教授の秘書。
◆エスメラルダ
カルロスの前妻であるスペイン人。絶世の美女。
◆安田陽子(旧姓・遠藤)
かつての稔の婚約者。現在は稔の弟である優の妻。
◆ヘイノ・ビョルクスタム
ノルウェー人のコントラバス奏者。
◆パオラ
チンクェ・テッレ、リオマッジョーレに住む少女。母親に育児放棄されている。
参考:イラストを描いてくださる方用 オリジナル小説のキャラ設定 「大道芸人たち」編
この小説のイラストを描いてくださる奇特な方が参考にするためのキャラクター設定をまとめたものです。第一部本編を読まなくても描けるように若干のネタバレが含まれています。
【予告動画】
【小説】大道芸人たち 2 (1)バルセロナ、祝い酒 -1-
長い話は、適当に切って公開していきます。今回も二つに分けました。
大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(1)バルセロナ、祝い酒 -1-
食堂での四時のコーヒーはコルタドの館のいつもの習慣だが、この日はイネスにとって特に感慨深かった。ずっと空だった席に当然のようにヴィルが座っている。蝶子を氣遣ってヴィルの話を避けていた稔やレネの腫れ物に触るような態度もすっかり消えていた。それどころか、帰って来たばかりのヴィルを三人はぞんざいに扱っていた。が、本人が氣に病んでいる様子もなかった。イネスはミュンヘンでのヴィルの大芝居の話を聞いていなかったので、全く訳がわからなかった。
四人は、今後の予定の話をしていた。稔は既に予約の入っている仕事のことを筋立てて説明し、まじめに聴くレネと、ちゃかして冗談ばかり言って話を進ませない蝶子の舵取りに苦労していた。
例のごとくほとんど口をきいていないヴィルが、突然言った。
「ところで、日本人が国際結婚する時の書類手続きは、みんなバルセロナでできるんだろうか」
稔とレネはびっくりして蝶子を見た。
蝶子はにこりともせずに言い返した。
「できるんじゃないの? いくつかの書類は日本から送ってもらう必要があるだろうけれど、ヨーロッパ式の婚姻が成立してからは、領事館への届けで済むんじゃないかしら。詳しくは知らないけれど。なんで?」
「手続きが済むまでは、小さい都市に移動するのを待ってもらいたいからだ」
稔とレネは半ば立ち上がって笑いながら二人の顔を見比べた。しかし、蝶子の顔はむしろ険しくなった。
「誰と、誰が、婚姻の手続きをするのよ」
ヴィルはむすっとしたまま答えた。
「ここに日本人は二人しかいないし、俺がヤスの婚姻手続きのことに首を突っ込むわけがないだろう」
「ってことは、あなたはもう一人の日本人である私の結婚の手続きのことを言っているわけ? でも、私、まだここにいる誰からもプロポーズされていないわよ」
「だから、今、その話をしているんだろう」
稔とレネは椅子に座った。稔はこりゃ面白くなって来たぞと傍観を決め込んだ。
レネはおずおずと口を挟んだ。
「テデスコ、パピヨンが言っているのは、役所の手続きのことじゃなくて、その、結婚の申し込みのことじゃ……」
蝶子は大きく頷いた。
ヴィルは馬鹿にしたような顔でレネを一瞥すると蝶子の目をじっと見据えて言った。
「あんたは、俺がバラの花束を抱えながら跪いて訊かないと返事ができないのか。つべこべ言わずに答えろ。
蝶子は怒りに震えながら、何か言おうとしたが、ヴィルの青いまっすぐな目を見て考えを変えたらしく、口に出すのはやめてむすっと横を向いた。それから小さな声で、さもイヤそうに答えた。
「
「ひゃっほうっ!」
「ブラボーっ!」
稔とレネが同時に飛び上がり、一緒に腕を組みながらドタドタと踊りだした。
その騒ぎを聞きつけて奥からイネスが飛び出て来た。
「どうしたんですか」
「乾杯だ! たった今、テデスコがプロポーズに成功したんだ」
稔の言葉を聞くなり、イネスはやはり大声で叫びながら蝶子とヴィルの二人にキスをした。それからカルロスを呼んでくると言って出て行こうとした。
「カルちゃんはサンチェスさんと会議中でしょう」
蝶子があわてて止めるとイネスは断固として言った。
「これより大切なことなんてありませんよ。だいたいあの二人がコーヒーに遅れているのが悪いんです」
「よっしゃ、俺は酒を買いにいく!」
稔が立ち上がるとヴィルはそれを止めた。
「俺の話はまだ終わっていないんだが」
「そうよ。こっちの話も終わっていないわ。あなた、まさか書類の提出だけで終わらせようってんじゃないでしょうね」
蝶子が自分のペースを取り戻して詰め寄った。
「それが一番簡単じゃないか」
「簡単かどうかなんて、この際関係ないの。あなたが何を言おうと、結婚式は私のいいようにさせてもらいますから」
ヴィルはむっとして、腕を組んだ。
「希望を言ってみろ」
蝶子は勝利を確信してにんまりと笑った。
「証人はヤスとブラン・ベックよ」
「当然だな」
ヴィルもまだ余裕だった。
稔とレネは嬉しそうに顔を見合わせて、再び椅子に座った。
「ちゃんと教会で結婚式をして、ウェディングドレスを着るわ」
ヴィルはうんざりして頭を振ったが、援護射撃は期待できなかったので、反論しなかった。
蝶子はさらに続けた。
「父親役は、カルちゃんにしてもらうから」
ヴィルが賛成とも反対とも言わないうちにドタドタと入って来たカルロスが叫んだ。
「もちろんですとも! 大聖堂の予約をしなくては。可能なら大司教に来てもらいましょう」
今度は四人が慌てる番だった。
「待ってくれ。大聖堂が埋まるようなゲストは全く期待できないんだ。とくに、俺の親族に出席を期待されては困る」
ヴィルが迷惑そうに言うと、蝶子もうろたえて言った。
「私の方も誰も来ないわ」
「大丈夫ですよ。野外パーティ目当てに領民が山ほど来ますから入りきれなくなるはずです」
蝶子は大聖堂でなくてもいっこうに構わなかったが、教会での結婚式が現実のものとなりつつあるのが嬉しかった。
「私、真耶を招待したいわ」
蝶子が夢見るように言った。
ヴィルはいいとも悪いとも言わなかったが、しばらくしてこう続けた。
「じゃあ、俺は拓人を招待する」
それを聞いて蝶子は勢いづいた。
「レネのご両親も招びましょうよ」
「アウグスブルグの連中にも声かけようぜ」
稔が笑いながら言うと、カルロスも続けた。
「私はカデラス氏やモンテス氏にも招待状を送りましょう」
「じゃあ、トネッリ氏やロッコ氏には僕から連絡を入れますね」
レネも笑った。
「とにかく一番に真耶と結城さんのスケジュールを訊かなくちゃ。あの超多忙な二人が、一緒に少なくとも四日も休むなんて可能かしら?」
大騒ぎになって眉をひそめていたヴィルは蝶子の腕をとって座らせ、冷静に言った。
「いいか。こっちのばか騒ぎはいつでもいいが、書類の方は即刻始めるんだ。できれば今週中に手続きに入りたい」
水をかけられたように、全員が騒ぐのをやめてヴィルの顔を見た。
【小説】大道芸人たち 2 (1)バルセロナ、祝い酒 -2-
さて、今回は二つに切った「バルセロナ、祝い酒」の二回目です。ロマンティックのカケラもないプロポーズにもかかわらず、結婚式のことで盛り上がっていた仲間たちにヴィルは水を差します。「ばか騒ぎはどうでもいいが、手続きはすぐに始めたい」と。
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(1)バルセロナ、祝い酒 -2-
「なぜそんなに急ぐのよ」
蝶子には訳が分からなかった。
「親父はまだあんたに未練があるんだ。あれだけの人前で釘を刺されたから、そんなに簡単には行動を起こさないはずだが、いつ氣が変わって訴訟準備を再開するとも限らない。その前にこっちの法的手続きを成立させてしまうんだ」
「訴訟って何の?」
「婚約不履行のだよ。幸いあんたは金目のものは何も持ち出してこなかったらしいから、金品では争えないだろうが、五年間の滞在費やレッスン代で争われる可能性もある。あれだけ法曹界に知り合いがいて財界にも影響力がある親父だ。訴訟に持ち込まれたらあんたに勝ち目はない。あいつはたぶん和解と婚約履行を狙っているんだろうから、出鼻をくじく方がいい。息子と結婚した女とはどうやっても結婚できないし、その女相手に訴訟を起こすのは世間の笑い者だからな」
「それで、結婚するっていいだしたの?」
蝶子は少しだけがっかりしたようだった。確かに重要な理由ではあったし、急ぐのも無理はないが、あまりロマンティックではない。
その蝶子の反応を見て、ヴィルはやむを得ず、言いたくなかったことを口にした。
「それだけじゃない。もし、また何かあった時に、結婚していれば離れずに済むだろう」
それを聞いて蝶子は嬉しそうにヴィルに抱きついた。照れているヴィルを見るのはかなり稀だった。稔とレネ、カルロスとイネスもまた笑って祝いの準備を始めた。
酒を買いにいくと言って席を立った稔とレネに、蝶子は言った。
「ねえ。結婚式の後のパーティって、みんなダンス踊るのよ。だから、二人とも意中の女性にパートナーになってくださいってお願いを早めにしておいてよ」
レネと稔は顔を見合わせた。
「ヤスミン、頼んだら、パートナーになってくれるかなあ」
レネはもじもじと下を見た。
稔は笑った。
「大丈夫だろ。イヤだといっても、あっちから押し掛けてくるって」
「ヤスもよ。もうパートナーは心に決めているんでしょう」
蝶子が畳み掛けた。
それで蝶子の策略にようやく氣がついた稔は、腹を立ててふくれっ面をした。
「おい、ギョロ目。イネスさんに特別ボーナス出してくれよ。マリサのパーティ用のドレス新調しなくちゃいけないだろうから」
イネスは大喜びで稔にキスをして、カルロスも嬉しそうに頷きながら稔の頭を小突いた。
「蝶子なの? 久しぶりね。どうしたの。電話なんて珍しい」
懐かしい真耶の声がする。
「ごめんね。真耶。急いで訊きたいことがあるのよ。あなたと結城さんが少なくとも四日間まとめて休める一番早いスケジュールを教えてほしいの」
「どうして?」
「バルセロナまで呼びつけるからよ」
「何のために?」
「私の結婚式」
「ええ~っ? 本当に? おめでとう。で、お相手は?」
「それがね。私、結局、フォン・エッシェンドルフって人と結婚することになっちゃった」
「え……」
「大丈夫。真耶が心配するような相手じゃないから。いま、代わるわ」
頭の中が疑問符でいっぱいになっている真耶の耳に、聞き慣れた声が飛び込んで来た。
「ハロー、真耶。元氣か」
「ヴィルさん? あなたなの? まあ、よかったわ。おめでとう。でも、どういうこと? フォン・エッシェンドルフって……」
「そのことについては、拓人に訊いてくれ。それより、スケジュールのことだが、できるだけ早く確認してほしい。外野が話をどんどん大きくするんでね。さっさと済ませないととてつもない大事になってしまう」
そう言うと、ヴィルは受話器を蝶子に戻した。
「そういうわけで、真耶、わかり次第報せてね。挙式の日取りはそれに合わせるから。それと、申し訳ないんだけれど、また私の戸籍謄本をはじめとする書類がいるみたいなの。明日にはエクスプレスで委任状を送るから、そっちもお願いしていいかしら」
「もちろんよ。まあ、蝶子ったら、本当に心臓に悪いことばかりする人ね。でも、おめでとう。楽しみにしているわね」
電話を切ってから、蝶子はヴィルに詰め寄った。
「どういうこと? 結城さんに訊いてくれってのは」
「あいつ、俺のことを知っていたんだ。でも、本当に真耶にまで黙っていてくれたみたいだな」
「なんですって?」
「いつまでも隠しておくなと忠告された。俺はあいつに恩を感じているんだ。そうでなかったら未だに黙ったままでいたかもしれない」
「呆れた。結城さんたら、どうして私に言ってくれなかったのかしら」
【小説】大道芸人たち 2 (2)フュッセン、白鳥の城の下で -1-
ところが、こちらでは「教会で神の前で愛を誓う」のとは別に、役所でサインするときにも式があるのですよ。役人が神父の立ち位置で、「夫婦とは」などとあれこれ話したあと、二人の証人の前で「結婚しますか」「はい」というのをそれぞれ言わないと結婚が成立しないのです。つまり、日本のような本人たちが揃わない状態で役所に行き籍を入れるなんて事はありえないのですね。今回は、その「役所での婚式」です。フュッセンの話は、次回。また2つに切りました。
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(2)フュッセン、白鳥の城の下で -1-
「ヤスミンからメールが届いていますよ」
レネが図書室から呼んだ。三人は、図書室のコンピュータの前に集まった。
ヴィルはメールを読んでいたが、蝶子の方に振り向いて言った。
「来週の金曜日に、フュッセンの戸籍役場で婚式を執り行ってくれるそうだ。思ったよりも早く決着がつきそうだ」
「来週? 真耶に頼んだ書類、昨日届いたばかりでまだここにあるじゃない。どうやったらそんなに早く出来るの?」
蝶子はびっくりした。
書類はバルセロナのドイツ大使館に提出すると聞いていた。それがミュンヘンに送られて審査が行われるので、婚式は早くても一ヶ月後だと思っていたのだ。
「昨日、ヤスミンにFAXしたんだ。劇団の同僚のベルンの叔父がフュッセンの戸籍役場に勤めていて、審査をすべて飛ばしてくれたんだ。バロセロナでやると、問い合わせがミュンヘンに行くから、親父の息のかかった連中に捕まる可能性もある。ドイツに行かなくてはいけないが、フュッセンの方が安全だと思う」
「フュッセンは、ノイシュヴァンシュタイン城のあるところね」
蝶子はにっこりと笑った。
「俺、そこには一度行ってみたかった」
「僕もまだ行ったことがないんです」
稔とレネもすっかり乗り氣になった。
「ハロー、ヴィル。久しぶりね」
ヤスミンがヴィルに抱きついて、頬にキスをした。
「ブラン・ベックのメイクは見事だったよ。手品が始まるまで、まったく氣がつかなかった」
ヴィルは言った。
ヤスミンは意地の悪い目をして言った。
「そっちも負けない大芝居をしたみたいじゃない。全員騙されたのよ」
「あんたは俺の演技を知っているだろう」
ヴィルはむすっと言った。あの大芝居以来、三人に散々な扱いを受けてうんざりしているのだ。
「私はその場にいなかったけれど、居たってどうせ見破れなかったでしょうよ。あなたの悪役ぶりは本当に板についているから」
それからヤスミンは蝶子にも抱きついてキスをした。
「おめでとう、シュメッタリング。私、あなたたちの結婚式に立ち会えて本当に嬉しいの」
「どうもありがとう。ごめんなさいね。急にこんなことをお願いしてしまって」
「カイザー髭の目をくらますために急いでいるんでしょう。私、手伝うなと言われても勝手に協力しちゃうくらいよ」
それからヤスミンは稔とレネにウィンクをした。
「急ぎましょう。あと三十分後に婚式が始まるのよ。戸籍役場は、ここから歩いて十五分ぐらいだから。ベルンもあそこで待っているはずよ」
戸籍役場と聞いたので、つまらない四角い役所を予想していたのに、それは小さいながらもヨーロッパらしい美しい装飾のされた部屋だった。十八世紀くらいの建物だろうか。細やかな彫刻の施された木製の天井、細かな浮き彫りのある白い漆喰で囲まれたワインカラーの壁、時間の熟成を思わせる木の床。稔は「ほう」といって見回した。
熊のように大きい青年ベルンはヴィルとしっかりと抱き合い、それから蝶子の手に恭しくキスをしてから、ヤスミンに頼まれて用意してあった花嫁用の花束を渡した。
ベルンの叔父のスッター氏は、書類を抱えて嬉しそうに待っていた。
「さてと、始めましょうか。ええと、結婚指輪の交換しますか?」
そんなことは、何も考えていなかった二人だったが、笑ってそれぞれずっとしていた銀の指輪を外して、スッター氏に渡した。
婚式が始まった。スッター氏は二人に対するはなむけの言葉と、結婚生活のこつについて話した。それは二十分近く続き、稔やヤスミンがあくびを噛み締めるようになってから、ようやく一番メインの儀式に入った。
「アーデルベルト・ヴィルフリード・フォン・エッシェンドルフさん、あなたは四条蝶子さんの夫になりますか」
ヴィルは「はい」とはっきり答えた。あまりにも迷いがなかったので、蝶子は意外に思ったほどだった。あのパーティでのヴィルの言葉は今でも蝶子の心にくすぶっていて、もしかしたら最後の最後に否定されるのではないかと思っていたのだ。
蝶子は、ヴィルが自分を見ているのを感じた。同じ返事をしてくれるのを祈るように願っている青い瞳を。
「四条蝶子さん、あなたはアーデルベルト・ヴィルフリード・フォン・エッシェンドルフさんの妻になりますか」
蝶子は「はい」と答えてからヴィルを見て微笑んだ。
スッター氏は二人が夫婦になったことを宣言し、蝶子とヴィルに結婚証書にサインするように促した。続いて稔とレネも証人として同じ書類にサインした。蝶子とヴィルはお互いの左の薬指に銀の指輪をはめ、それから短いキスをした。
後ろでベルンとヤスミンが用意してきたシャンペンを抜いて、グラスに注いだ。それからその場の全員で乾杯をした。
【小説】大道芸人たち 2 (2)フュッセン、白鳥の城の下で -2-
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(2)フュッセン、白鳥の城の下で -2-
「で、これが最初のハネムーンってわけか」
稔が笑いながら、ノイシュヴァンシュタイン城を見上げて言った。
「私たちいつも動き回っているんだもの。ハネムーンに行きたいって思い入れはゼロだわ」
蝶子が笑って言った。
「こう、どこかまったく行ったことのないところに旅したいって希望はないんですか?」
レネが訊いた。蝶子とヴィルは顔を見合わせた。
「南米はどうだ?」
「南太平洋の島もいいわよね?」
それから蝶子はレネと稔の腕を取って言った。
「でも、私たちのハネムーンは特殊なのよ。証人がどこまでもついてこなくちゃいけないから」
「そういうのお邪魔虫って言うんじゃないのか?」
稔が後ろのヴィルを振り返ると、大して迷惑そうにも思っていない顔でヴィルは首を振った。
「特殊といえば、この場合のハネムーナーと証人は、現地で稼がなくちゃいけないんだ。邪魔する時間もされている時間もないよ」
四人は一斉に笑った。
ノイシュヴァンシュタイン城に入るためには、やはり予約した時間を待たなくてはならなかった。城前の広場には多くの人々が暇を持て余してたむろしていた。
「ちくしょう。三味線を持ってくればよかったぜ」
稔が言うと、レネはにやりと笑って、ポケットからカードを取り出した。そして、入場時間まで出来た人だかりの前で楽しく稼いだ。
「なんか氣前のいい客が多かったな」
入場がはじまって、城の中に入ると稔がレネにうらやましそうに言った。レネは笑った。
「そうですね。あとでこの儲けで祝い酒を飲みましょう」
「こういうの、どこかで見たような氣がするわ」
蝶子が城の中を見回して訝しげにつぶやいた。
「シェーンブルン宮殿やベルサイユ宮殿ですか?」
レネが訊いた。もちろんどちらもレネは行ったことがなかった。
「違うの。そういう本物のお城じゃなくて…」
「ああ、わかったぞ。東京ディズニーランドだろう」
稔が叫んだ。蝶子も突然納得がいった。
「そうそう。ちょうどそんな感じ。変ね。正真正銘、本物のお城なのに」
「外がディズニーランドのシンデレラ城のモデルになったって言うけれど……」
ディズニーランドになぞもちろん行ったことのないレネはピンとこずに首を傾げた。
「この金ぴかの装飾がかえって作り物っぽく見えるんだろう」
ヴィルが言った。
豪華な王座の間の派手な黄金の装飾、ワーグナーの楽劇を再現したという城の中にある洞窟など、通常の城にはなかなかない空間が稔と蝶子にはどうしてもテーマパークの作り物の城に見えてしまうのだった。
「カイザー髭の屋敷の方が、もっと格式あるように見えるよな」
パーティ客でごったがえす広間を見ただけだったが、エッシェンドルフの館の豪華さにはコルタドの館で豪奢になれていたはずなのに度肝を抜かれた。それを思い出して、もっと桁違いのお金がかかっているはずのこの城と比較して稔は首を傾げた。
「ああ、あそこはお金のかかっているものを、効果的に見せるように置いてあるしね」
蝶子も同意した。
「お前、あんなところで生まれ育ったくせに、よく大道芸人になれたな」
稔は感心してヴィルを見た。ヴィルは肩をすくめた。
「俺があそこで暮らした期間は蝶子よりずっと短いんだ」
「ええっ。そうなんですか?」
レネが驚いて訊き返した。
「ずっとアウグスブルグだったって家政婦のマリアンが言っていたわ」
蝶子が言った。
「レッスンの度に電車に乗ってミュンヘンまで行かされた。電車は好きだったな」
「ミュンヘンにそのまま住みたいと思わなかったのか? お前の親父だって知っていたんだろ?」
稔が、それまで訊かなかった分を取り戻すかのように踏み込んだ。ヴィルは特に迷惑している風でもなく答えた。
「いくら父親だと言われても、俺には厳しい教師にしか思えなかったんだ。周りの子供たちの父親というのはもっと別の存在だったからな。たとえばピエールみたいな」
レネがいくらか氣の毒そうに頷いた。稔はどんなに大金持ちでも、あのカイザー髭と暮らすよりは浅草の家族の方がずっといいと思った。
【小説】大道芸人たち 2 (3)バルセロナ、前夜祭
ちなみに、結婚パーティで新郎新婦がダンスをするのは、わりと普通です。もっとも証人や参列者までもが踊るのは少し珍しいかも。上流社会では多いようですが。いまの若者は、ボールルームダンスよりもっと今どきのダンスが好きなようです。
今回は三千字弱だったので、全部まとめて発表することにしました。来週はお休みして、外伝(記念掌編)を発表することになると思います。
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(3)バルセロナ、前夜祭
「いたっ、また踏んだわね!」
蝶子が呆れた声を出した。稔も叫んだ。
「悪いっ」
「どうしてこんな簡単なステップが覚えられないのよ」
「パピヨン。最初は無理ですよ」
レネが、稔に加勢した。ヴィルは黙ってワルツを弾き続けていた。
「もう一度、最初から。ねえ、そんなに腰が引けてちゃ、パートナーにステップがわかんないでしょ。ちゃんと足を踏み込んでよ」
「けど、そんなことしたら……」
稔は、蝶子の腰や足に密着してしまうのでうろたえていた。
「何照れてんのよ。ボールルームダンスってのは、そうやって踊るものなの。へなへなしている方がずっとイヤらしいのよ。ちゃんと踏み込まないと、マリサが困るでしょ!」
トカゲ女ならまだしも、マリサにそんなことをするなんて。そう思っただけで稔は真っ赤になった。
「もうっ。ちょっと横で見ながらステップを覚えなさい。ブラン・ベック、お手本!」
レネが上手にリードしながら蝶子と踊りだすと、稔は感心して頷いた。そうか。こうやって堂々としていると、傍目にはイヤらしくないんだな。でも、俺にあと三日でここまで踊れるようになれって? 絶対無理だよ。
「明日からは、マリサに来てもらうから。とにかく彼女の足を踏まないようにステップだけでも完璧に覚えなさい!」
蝶子は難題をふっかけた。稔は頭を抱えた。
「おい、テデスコ。なんでヨーロッパ人は結婚パーティでダンスなんか踊るんだよ」
「マリサと手もつないだことないんだろう? 一氣にステップアップできるじゃないか」
ちくしょう。テデスコとお蝶がワルツを踊っているのを見たことはないが、上手いに決まっている。なんせ、あのアルゼンチン・タンゴを踊れる二人だもんな。ブラン・ベックも余裕の上手さだし、俺だけジャンル違いじゃないか。
「ところで、ヤスミンはいつ到着するの?」
蝶子は、レネに問いかけた。
「今晩、来るって言っていました。イダルゴ、怒っていないかなあ。すっかり無料宿泊所にしちゃって」
「だったら、ブラン・ベックの部屋に泊めれば?」
「とんでもないっ。だったら、僕が廊下で寝ます」
「ふ~ん? 前、私が使わせてもらっていた部屋が空いているもの、あそこに入れさせてもらえばいいわよ。私の洋服とか動かしておこうかな」
「真耶と拓人が着いたら、もう二つ部屋が必要ですよね。そろそろイダルゴに交渉しておきましょうか?」
「あら、それはもう確保済みよ。二階にねえ、アラベスク模様の壁紙の素敵な一対の客室があるのよ。あそこを使わせてくれるんですって。そのかわり、二人はカルちゃんのために二重奏を演奏しなくちゃいけなくなったけどね」
ヴィルはレネと蝶子が楽しそうに踊っていても、平然とピアノを弾き続けていた。
「なんか、前とえらい違いだよな」
稔がじろりと見た。
「何がだ?」
「ギョロ目とトカゲ女がタンゴを踊っていた時と較べてだよっ」
「そうだな」
ヴィルは余裕だった。
「ヤス! 何さぼっているのよ。さっさとステップを覚えなさい!」
蝶子に叱り飛ばされて、稔はあわててフロアに戻った。
「ハロー、みなさん。ここ素敵ねぇ、いつもこんなところに居候しているんだ。うらやましいわ」
到着したヤスミンは、物珍しそうにコルタドの館を見回した。レネは嬉しそうに、案内して回った。
「以前、パピヨンが使っていた部屋を空けてもらったんです。案内しますね」
レネがそういうと、ヤスミンはびっくりしたように言った。
「なんで今さら? もちろん私、レネと同じ部屋に泊まるわよ」
「……」
真っ赤になっているレネを見て蝶子と稔はくっくと笑った。
「ねえ。これ見て。シュメッタリングに初めて会った時に見て以来、一度この色着てみたかったの」
そういってヤスミンが取り出したのは、朱色の炎が白地の裾に向かってゆくドレスだった。前の方が短くて足が見えるようになっている。
「まあ、すてきねぇ」
蝶子が嬉しそうに近寄った。
「もちろん、シュメッタリングは、今度はこの色じゃないんでしょう? もしそうなら他のドレスを用意しなくちゃいけなくなっちゃう」
「大丈夫よ。私のは別の色だから」
「パーティのドレスは俺とブラン・ベックがプレゼントしたんだぜ」
稔がウィンクした。
「そうなの。カルちゃんがプレゼントしてくれたウェディングドレスも、パーティのドレスもまだヴィルには見せていないのよ」
蝶子は嬉しそうに、ヤスミンとドレス談義に入った。ヴィルは頭を振って稔やレネとワインを飲みに行ってしまった。
次の日の午後のダンス練習会には、ヤスミンとマリサも参加した。稔は緊張でカチコチになっていた。救いを求めるように蝶子の方を見た。また、怖い顔をしているのかと思いきや、蝶子は微笑んで親指を上に向けた。それから、フルートをもってピアノの前に座るヴィルの横に立った。
「なんだよ、お蝶。指導しないのかよ」
「もう十分したでしょ。あとは音楽に乗って、マリサを幸せなダンスの世界に連れて行ってあげなさい」
そういうと、ヴィルに頷いた。ヴィルは蝶子のリクエストに応えて、伴奏を弾きだした。
あ、『美女と野獣』だ。稔は忘れていなかった。ヴェローナのトネッリ氏のバーで、はじめて二人が共演した曲だ。あの時、いつもケンカばかりしている二人が、まるで恋でもしているみたいに演奏したんでびっくりしたんだったよな。稔は嬉しくなって、緊張を忘れてしまった。マリサに手を伸ばすと、はにかんで嬉しそうに手を伸ばしてきた。特訓のように、精一杯背筋を伸ばしてマリサと正しいポジションを組み、おそるおそる足を踏み出した。
ぎこちないながらも、稔は少なくともステップを覚えていた。隣でレネがヤスミンと嬉しそうに踊っている。ダンスは、義務ではなくて、パートナーと楽しむためのものだと稔はようやく実感できた。ちょうど蝶子とヴィルが競演を楽しんでいるように。
「蝶子!」
真耶が抱きついた。挙式前日の午後だった。蝶子はヴィルと一緒に空港に迎えに行った。真耶はヴィオラ以外の荷物を取り落として走ってきた。
「真耶、遠いところをありがとう、疲れたでしょう?」
「全然。興奮して、疲れるどころじゃないわ。招んでくれて本当に嬉しいわ」
「結城さんも、ほんとうにありがとう」
真耶が取り落とした荷物を拾って後ろから来た拓人に蝶子が微笑みかけた。ヴィルは、拓人に握手すると真耶の荷物を受け取って持った。
「おめでとう。こうなるとは予想していなかったな」
拓人が言うとヴィルは珍しく笑った。
「あんたのおかげだ」
「そのわりにはずいぶんかかったじゃないか。あれから一年以上経っているぞ」
「あれから、いろいろあったんだ」
拓人はヴィルからそのいろいろを聞き出すのは困難だと知っていたので、あとで稔に洗いざらい話させようと思った。
【小説】大道芸人たち 2 (4)バルセロナ、宴 -1-
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(4)バルセロナ、宴 -1-
カルロスの言葉は嘘ではなかった。稔はコルタドの大聖堂が本当に満杯になっているのをみてのけぞった。前から四列だけはカルロスがリボンを引いて座れないようにしてあったので、招待客がやっと座れるという状態だった。
領民たちはみな、日曜日用の背広やワンピースを着て、がやがやと座っていた。外には大きなテントがいくつも張られていて、結婚式の後の大宴会用の準備が忙しく行われていた。
稔とレネは一張羅を堅苦しく着て、通路を一番前に向かった。真耶と拓人がもう座っていて、ここだと手招きした。証人の二人は通路に一番近い最前列に座るのだ。真耶たちの向こう側にはピエールとシュザンヌが晴れ晴れしい笑顔で座っていた。後ろはアウグスブルグの連中で、もうほろ酔い加減なのかと思うほど大声で騒いでいて、時折スペイン人に「しっ」と怒られていた。
通路を隔てて反対側には、イネスやサンチェスをはじめとする主だったカルロスの使用人たち、それにスペインとイタリアの雇用主たちがすまして座っている。稔とレネは軽く頭を下げて挨拶した。その他の招待客は、クリスマスパーティでなじみになった、カルロスの友人たちだった。
ヤスミンとマリサの姿は見えない。二人はブライズメイドをつとめるので蝶子と一緒に入ってくるのだ。カルロスの分も含めて三人分の席が、レネたちの反対側に確保してある。
稔とレネに少し遅れて入ってきたのは、今日の花婿である。モーニングを着ていてもまったく衣装負けしていないのはいいが、フュッセンの時と違って、あまりの大騒ぎに勘弁してくれという顔をしている。もちろん、それを読み取れるのは証人の二人だけである。
稔とレネは立ち上がって、ヴィルに「がんばれ」と目でサインを送った。ヴィルは淡々と、招待客たちに礼を言ってまわった。アウグスブルグの連中は嬉しそうに固い握手をし、女性陣はその頬にキスをして祝福した。真耶もその一人だった。拓人はがっしりと握手をしてからウィンクした。
やがて、荘厳なオルガンの音がして、人々の目は一番後ろの大聖堂の入り口に集中した。ここにいる人間の九割がたの領主様であるカルロスが誇らしげに花嫁に腕を貸して入ってくる。美しい花嫁の父親役が出来る役得を大いに楽しんでいた。
すっきりとしたマーメイドラインは蝶子の完璧なスタイルを強調している。ラインはシンプルだが、表面をぎっしりと覆い、腰から後ろにも広がっている長くて美しいレースが清楚でありながらスペインらしい豪華さだ。顔を隠している長いヴェールにも同じ贅沢な手刺繍がふんだんに使われている。真耶は思わずため息をもらした。
稔とレネはヴィルの表情が変わったのをみて顔を見合わせて笑った。ほらみろ、テデスコ。教会での結婚式も悪いもんじゃないだろ。さすが、トカゲ女だ。こんな完璧な花嫁はなかなか観られるもんじゃないぜ。それからレネと稔は、マリサとヤスミンに笑顔を向けた。
一ヶ月前のフュッセンでの婚式でもう正式な夫婦として認められていたので、ヴィルはこの教会の挙式を単なる義務か罰ゲーム程度にしか考えていなかったのだが、それは自分の考え違いだったと認めざるを得なかった。カルロスから蝶子の手を渡された時に、ようやく本当に蝶子と一緒になれたのだと感じた。
それは美しい花嫁だった。ヴェールの下から見つめる瞳が、強い光を灯している。赤い唇の微笑みはついにヴィルの無表情に打ち勝った。ヴィルは稔とレネが驚くぐらいにはっきりと微笑んだ。
フュッセンで行った婚式と違うのは、カトリックの結婚式でオルガン演奏と大コーラス付きの聖歌や祈りや、司教による説教などが入っているところだったが、基本的には同じ誓いを繰り返して、二人は宗教上も認められる夫婦となった。
ヴィルは蝶子のヴェールを引き上げて優しくキスをした。大聖堂は歓声に満ち、二人が大聖堂から出てくると盛大なライスシャワー攻めにあった。そしてテントでは、さっそく領民たちが大騒ぎして飲み始めた。飲めれば何でもいいのは僕たちと同じだな、レネは密かに思った。
真耶は蝶子に抱きついて祝福をした。
「おめでとう、蝶子!あなたは今までに私の見た一番きれいな花嫁よ」
「ありがとう、真耶。あなたにだけはどうしても来てほしかったの。はい」
そういって、蝶子は白い蘭のブーケを真耶に渡してしまった。
「おい、そのブーケを狙っているヤツはまだこっちにもたくさんいるんだぞ」
稔がヤスミンやその他の女性軍を目で示した。実は、マリサも密かにブーケを狙っていた。
「だめよ。もうもらっちゃったもの。私もここで結婚したいわ」
真耶は微笑んで大聖堂を見上げた。
拓人が肩をすくめた。
「お前の結婚式がここなら、僕はまたお前と共通した四日連続の休みを見つけなくちゃいけないじゃないか」
「それって、親戚として? それとも音楽のパートナーとして? どういう立場で参列したいわけ?」
真耶は冷たく言い放った。
「もちろん花婿としてですよね」
レネが優しく突っ込んだ。拓人は大聖堂を見上げてうそぶいた。
「ここで挙式するのは、確かに悪くない。カルロスに予約しておこうかな。相手が誰かは別として」
大聖堂前でいつまでものんびりしているわけにはいかなかった。この後、コルタドの館ではパーティがある。女性陣は着替えなくてはならないし、カルロスや使用人チーム、それに稔やレネ、花婿のヴィルですらやる事がたくさんあった。領民やアウグスブルグチームのように酔っぱらっている場合ではなかった。
「あまりここで飲み過ぎるな。パーティの始まる前に泥酔されると困る」
ヴィルが言ったが、ドイツ人たちはグラスを高く掲げてセルベッサを一息で流し込んでいるだけだった。
「ヤスミン! お前もここに来て飲めよ」
ベルンが誘ったが、ヤスミンは首を振った。
「冗談! ビール臭い息でダンスを踊れっていうの? ドレスだってせっかく新調したのよ」
「だから、女ってヤツは……」
団長がまわらぬ舌で文句を言ったが、ヤスミンはもうその場を去っていた。
【小説】大道芸人たち 2 (4)バルセロナ、宴 -2-
館の中でコース料理の晩餐に招待された人たち、表のテントで振る舞われているビールやタパスで大騒ぎしている人たち、それぞれが楽しんでいます。もちろんごく普通の結婚式ではここまで大掛かりではないですけれど、一応カルロスはこの地域の大領主なので、大判振舞いをしているのですね。領民たちは大喜びで飲みまくっているというわけです。
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(4)バルセロナ、宴 -2-
「シュメッタリング! どうしてあなたっていつもそんなにきれいなのよ」
ヤスミンは頭を振った。
「どう、このドレス? ブラン・ベックとヤスの見立てなの。あの二人のセンスって見事じゃない?」
蝶子は白いリラの花の模様があしらわれた濃い紫のシルクサテンのドレスの裾を広げて見せた。完全に肩を出したデザインは、豪華な中にも清楚だったウェディングドレスと対照的に、蝶子の妖艶な一面を強調している。そこに、アレキサンドライトのきらめくネックレス、イヤリングが星のような高雅さを添えていた。耳の近くにはたくさんの小さい白い蘭が飾られていて、漆黒の髪がより美しく見えた。
「う~ん、これじゃヴィルはイチコロね。さすがシュメッタリングだわ」
「ありがとう。ヤスミンも素敵よ。真夏の太陽みたい。レネはさぞ得意になるでしょうね。こんな素敵なパートナーと踊れるんですもの」
ヤスミンは嬉しそうに鏡を見た。蝶子の姿をはじめて見た二年前以来、脳裏を離れなかった朱色のワンピース。それをイメージして作ったドレスだ。朱色の炎の形をしたラメ入りの布が腰までたくさん重なっている。広がる白いスカートは後ろは足首まで覆っているが、前は膝の辺りから段階的にフリルで伸びていて、ヤスミンのきれいな足首と朱色のハイヒールがのぞいている。
「自分でも、悪くないと思っていたけれど、ねえ。本当にレネも喜ぶと思う?」
「もちろんよ。きっと見とれてぼーっとしていると思うから、足を踏まれないように氣をつけてね」
蝶子は笑った。
ドアの外からノックが聞こえた。
「皆さん、揃っています。そろそろお願いします」
サンチェスの声だった。
「ヤスミン。遅いから心配していたよ。ああ、なんてきれいなんだ。本当に僕と踊ってくれるの?」
ヤスミンはレネの頬にキスをして言った。
「いまからもっと驚くわよ。シュメッタリングったら、本当に最高の花嫁だわ」
「そうかなあ。僕、ずっとヤスミンばかり見ているような氣がするよ」
レネは、みながざわめき、拍手をして主役の入場を迎えている時も、ずっとヤスミンを見ていた。それでヤスミンはすっかり嬉しくなってレネの腕にもたれかかった。
稔の方は、腕を組んでしっかりと二人の入場を見ていた。うむ。ちと高かったが、その甲斐はあったな。思った通り、この色はトカゲ女にはぴったりだ。見ろよ、テデスコのヤツ。無表情は返上かよ。淡いピンクの清楚なドレスを着たマリサも夢見るように花嫁と花婿の入場を見ていた。カルロスはニコニコ笑って二人を迎え、蝶子の頬にキスをした。
「いつでもあなたの美しさを賞賛してきましたが、マリポーサ。今日のあなたには讃えるためのたとえすらも浮かびません。本当におめでとう」
「カルちゃん。私こそ、お礼の言葉が浮かばないわ。こんなすばらしい結婚式を本当にありがとう」
カルロスとヴィルはしっかりと握手を交わした。それから二人は稔とマリサ、レネとヤスミンの四人と抱き合い、キスを交わした。
「本当にありがとう。これからもよろしくね」
「おう。今日は主役を楽しめよ」
「パピヨン。あなたには笑顔が一番です。本当におめでとう」
それから真耶と拓人だった。
「真耶。あなたをここに招待できるほど親しくなれて、本当に嬉しいの。大学の時には、想像もできなかった事だもの」
「私にとっては、あなたはいつでも特別な存在だったわ、蝶子。あなたが幸せになって、どれほど嬉しいかわかる?」
拓人はヴィルに言った。
「大変だぞ、これから。なんせ蝶子だからな。頑張れ」
「わかっている」
ヴィルはおどけて言った。
二人は招待客に次々と挨拶をして、乾杯のグラスを重ねていった。会場は招待客でいっぱいだった。主役の二人はもちろん、稔やレネ、カルロスやサンチェスも忙しくて氣がつかなかったが、アウグスブルグ軍団はその場にいなかった。ヤスミンは首を傾げた。
「団長たち、どうしちゃったのかしら? もしかしてまだテントで飲んだくれているのかな?」
けれど、カルロスがワインや前菜を勧めるので、劇団の仲間の事はしばらく忘れてしまった。
「あれ。イネスさん!」
レネは大きな声を出した。イネスは緑色のラメのたくさん入ったくるぶしまであるワンピースを着て、きれいに化粧をしてワインを飲んでいたのだ。
「ふふふ。今日は私はお休みなんですよ。ドン・カルロスがダンスに誘ってくださったんです。料理の総指揮はどうするんだって訊いたら、カデラスさんやモンテスさんのところのシェフが来てくださって、私は何もしなくっていいんですって」
「そうか。イダルゴが父親代わりなら、イネスさんはパピヨンの母親代わりですよね」
レネはカルロスがイネスをダンスに誘った事を嬉しく思った。やはりイネスさんはただの使用人以上だよなあ。
「ヤスミン、ヤスミン」
戸口の側で、呼ぶ声がしたのでふとそちらを見ると、真っ赤になってふらふらしているベルンだった。
「ちょっと何してたのよ。団長やみんなはどこ? もう乾杯、終わっちゃったわよ」
「いいんだ。俺たちはテントのおっさんたちと意氣投合したから。ところで、新郎新婦の部屋を教えてくれよ」
「待ってよ。なんか企んでいるんでしょ」
「もちろん。初夜を忘れられないものにする演出の手伝いだよ。いつだってやるだろ?」
「いいけど、高価なものを壊さないようにしてよ。あなたたち、やけに酔っぱらっているみたいだから」
そういってヤスミンは二人の使っている寝室を教えた。そのすぐあとに晩餐のために食堂に移動するからとレネに呼ばれた。本当は連中が何をやるか見届けるべきだったのだが、その夜のヤスミンにはやることがたっぷりあって、劇団仲間の企みのことはすっかり忘れてしまったのだ。
『カーター・マレーシュ』のメンバーたちはおびただしい量の風船を持ってきていた。外のテントで領民の男たちの前で、つぎつぎとそれを膨らましていたら、何をするつもりだと訊かれた。
訊かれたのだと思う。領民たちはカタロニア方言でしか話さなかったし、アウグスブルグチームはバイエルン方言で応答した。しかし、彼らはプロの俳優の集団だった。言葉なんか通じなくとも、パントマイムと紙に絵を描く事で、これから何をしようとしているか、簡単にオヤジたちに理解させた。そして、オヤジたちは、そのアイデアが非常に氣にいったらしく、協力すると言ってきかなかった。
大量のセルベッサですっかり酔っぱらったバイエルン人とカタロニア人は、氣が大きくなって、当初のもくろみを大きく超えて新郎新婦を驚かせようとしていた。彼らはセルベッサを飲んでは、風船を膨らませ、かわりばんこに館に入り込み、招待客たちが粛々と晩餐を堪能している間にどんどん準備を進めた。
田舎のカタロニア人は、こういう場合のやっていい事の限界というものを知らなかったし、酔っぱらった若きバイエルン人はやっていい事といけない事の限界が曖昧になるのが世の常だった。
食堂では、晩餐がたけなわだった。普段は大きな部屋の中央に置かれた巨大なテーブルの端でこじんまりと食事をしているのだが、大きなテーブルをさらに三つ入れて、そこに八十人近くの人間がぎっしりと座っているさまは壮観だった。カタロニアの素朴な香りも取り入れながらも、洗練された料理は、モンテス氏の自慢のシェフ、ホセ・ハビエルが指揮していた。カルロスの選んだ極上のシェリー、ワインも招待客たちを感心させた。
「ヤスミン。団長たちを見なかったか?」
ヴィルが一度心配して訊いた。ヤスミンは言った。
「それが、テントでおじさんたちと意氣投合して泥酔しちゃったみたいで、こっちには来れないみたい……」
「そうか。やっぱり」
ヴィルがため息をつくと、稔やレネはクックと笑った。
【小説】大道芸人たち 2 (4)バルセロナ、宴 -3-
このストーリーには、「現在この異国に住んでいるからこそ書ける小さな知識を散りばめよう」という仕組みがあるんですけれど、この結婚式にも日本の結婚とは少し違う面が所々顔を見せています。「新郎新婦の友人が、二人を驚かせる」というのもその一つなんですが、これも国によって違いがあるようです。ドイツ語圏ではわりとやるみたい。必ずと言うわけではないですけれど。もちろんここに書いたのは小説ですから「やりすぎ」です。よい子は真似をしないように。
ウィーン旅行のあと、来週から、Stella用作品や、77777Hit記念掌編を少しはさむのでこの作品の続きは少しお預けです。
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(4)バルセロナ、宴 -3-
晩餐が終わると、再び広間に移り、舞踏会が始まった。最初はもちろん新婚カップルによるダンスである。
茶色の絹に金色のオーガンジーで覆われたシンプルで優雅なドレスをまとった真耶が、拓人に付き添われて、バンド・オーケストラの前に立った。グランドピアノに座った拓人の合図で、二人は静かにタレガの『グラン・ヴァルス』を奏でだした。
その音に合わせて、人々の前に進み出た蝶子とヴィルはゆっくりとワルツを踊りだした。リラックスして踊っているようでいて、プロ顔負けのステップが続く。
稔は腕を組んでうなった。う~む。お前ら、かっこ良すぎるぞ。まずいな。このあとはブラン・ベックたちと俺たちが加わんなくちゃいけないんだけどなあ。
真耶と拓人の演奏に、オーケストラが重なりだした。稔は覚悟を決めて、マリサの手を取ってフロアに進み出た。レネとヤスミンはすでに二人の世界に入っている。まだ、人々の目が蝶子とヴィルに釘付けになっているのをいい事に、稔は思ったよりもずっとリラックスしてマリサと踊る事が出来た。
そして、カルロスとイネス、サンチェス夫妻、ピエールとシュザンヌも次々と踊りの輪に加わり、招待客がみな踊りだしたので、フロアはあっという間にいっぱいになった。次の曲からは拓人と真耶も踊る方に参加した。
オーケストラは、ワルツだけでなく、スローフォックストロット、タンゴ、クイックステップ、マンボ、チャチャチャを演奏した。レネは疲れない程度に、まんべんなく踊っていた。稔はワルツとタンゴしか踊れないので、それ以外では休んでいた。そのうちにマンボやチャチャチャの時はギターでオーケストラに参加しだした。
真耶や拓人もおもしろがってそれに加わり、ヴィオラの響くタンゴや、ピアノの率いるクイックステップなどが華やかに場を彩った。いつの間にかフルートの音まで聞こえだした。
「何やってんだよ、お前」
稔がヴィルに訊くと、ヴィルはフルートでカルロスと踊る蝶子を示した。
「なんだよ、花嫁とられたのかよ」
稔は呆れたがヴィルは氣にも留めていないようだった。
そのしばらく後では、蝶子と拓人が演奏していて、ヴィルは真耶と踊っていたし、しばらくするとヴィルはイネスと踊っていた。稔はヤスミンにダンスの稚拙さについてさんざん言われながらも一緒に一曲踊ったし、マリサはヴィルやレネやカルロスとも楽しく踊っていた。
舞踏会は二時まで続いた。ようやく客たちが帰り始め、氣がつくと外のテントの方も静かになっていた。稔はマリサを送っていくという口実を使ってとっくに消え、レネはお開きになった途端にヤスミンにとっとと部屋に連行された。
他の泊まっていく客たちも広間を去り、カルロスが最後の客を玄関へ送っていったあと、使用人たちやサンチェスやイネスをねぎらった。三時を過ぎていた。
自分もそろそろ寝室にと思って新婚カップルの姿を探すと、バルコニーの方からフルートの二重奏が聞こえてきた。ドップラーの『アンダンテとロンド』を吹く二人の姿は幸せそのものだった。それで、カルロスは何も言わずに二人をそのままにしておいた。
幸福に酔いながら、部屋についた二人は、寝室のドアを開けた途端に笑顔を凍り付かせた。
一番最初に目についたのは自転車だった。
その奥にはなぜか巨大なハモン・セラーノ、つまりまだ切り出してもいない生ハム。部屋から溢れ出してくるほどうずたかく積まれたカラフルな風船、館の外に置いてあったはずの大きな竜舌蘭の鉢が部屋のあちこちで風船の間から顔を出していた。それにハンググライダー、バケツ、トウモロコシ、切り株、セルベッサの樽、生のタコの泳ぐ水槽、闘牛の頭の剥製、その他、寝室にあってしかるべきでないありとあらゆるものが詰め込まれていた。ベッドに辿り着くどころか、入り口から五歩ですら入れそうになかった。
「『カーター・マレーシュ』の連中だ…」
ヴィルは呆然としていった。蝶子は爆笑したが、すぐに途方に暮れた。この状態では、ベッドにたどり着くためには相当の時間をかけて片付けなくてはならない。助けを呼びたくても、三時半では良い返事は期待できない。
ヴィルは黙って蝶子の手を取って、広間に戻りだした。
「あそこに大きなソファがあったものね」
蝶子はけらけら笑った。眠るのにベッドは必要なかった。立ってでも寝られるほど蝶子はくたくただった。
「すごい一日だったわね」
そういって、蝶子はヴィルの腕にしがみついたままソファに倒れ込んだ。
「そうだな」
ヴィルが答えた時には、蝶子はすでに寝息を立てていた。
ヴィルは蝶子の露出している肌を見た。このままでは風邪を引く。どこかから毛布でも調達してこなくては。そう思ってソファから立ち上がろうとした時に、蝶子が寝ぼけてドイツ語で言った。
「いっちゃダメ」
ヴィルは、自分の胸に顔を埋めて幸せそうに眠る蝶子をしばらく見つめていたが、あきらめてゆっくり上着を脱ぐと蝶子の上に掛けた。それから、漆黒の闇がわずかに紫色に変化していく東雲どきの空を朧げに感じながら、蝶子の平和な寝息に耳を傾けていた。
朝になって、昨夜のベルンの言葉を思い出したヤスミンは、あわててレネと一緒に二人の寝室を見に行き、開け放されたドアからその惨状を見た。くらくらしながら見つからない二人を探しに階下に降りていくと、広間の入り口にいた稔が人差し指を口に当てた。そっとのぞくと、ソファの上でヴィルと蝶子が寄り添いながらこれ以上ないほど幸せな様子でぐっすりと眠っていた。
この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。
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【小説】大道芸人たち 2 (5)ミュンヘン、弔いの鐘 -1-
今回も、長いので、3つに分けています。
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(5)ミュンヘン、弔いの鐘 -1-
サンチェスの持ってきた電報をじっと見ていたヴィルに、蝶子が心配そうに声をかけた。
「どうしたの?」
ヴィルは黙って、電報を蝶子に渡した。差出人はエッシェンドルフ教授の秘書のマイヤーホフだった。蝶子の電報を持つ手が震えた。
「チチウエ シス シキュウ レンラクサレタシ」
ヴィルはカルロスに電話の使用許可を求めた。そして、マイヤーホフにではなく、ミュンヘンのシュタウディンガー博士という医者の診療所に電話をかけた。またしても父親の策略ではないかと思ったからだ。
「アーデルベルト・フォン・エッシェンドルフです。シュタウディンガー先生とお話ができませんか」
博士は不在だったが、診療所の指示で博士の携帯電話にかけ直した。
「アーデルベルト君か。よく電話してくれた。いま、私はちょうど君のお父さんの館にいるんだ。そうだ。本当にお父さんは亡くなった。心臓発作だ。マイヤーホフ君がどうしても君と連絡を取りたがっている。ここにいるから話してくれないか」
「替わってください」
ヴィルはしばらくマイヤーホフと話していたが、電話を切ってから蝶子に言った。
「ミュンヘンに行かなくてはならない」
「わかったわ」
「向こうに着いたら、すぐ連絡する。あんたはここにいるんだ」
「連絡がこなかったらまた迎えに行くから」
ヴィルは蝶子の頬に手をやって頷いた。
「で、行っちゃったのかよ?」
マリサとのデートから帰ってきた稔は驚いて言った。
「そうなんです。ミュンヘン行きの飛行機をサンチェスさんがすぐ手配してくれたんで」
レネがイネスの作ったチュロスを食べながら言った。
「大丈夫なのか? またしてもカイザー髭がなんか企んでいるんじゃないのか?」
稔はとことんエッシェンドルフ教授を信用していない。蝶子はそれももっともだと思った。
「信頼できるお医者さんが、本当に亡くなったっておっしゃったみたいなの。でも、連絡がこなかったら、迎えにいかなくちゃいけないでしょうね」
「おいおい。二ヶ月に三回もバイエルンとバルセロナ往復かよ」
「ごめんなさいね。私たちのことで振り回して」
「いいけどさ。だけど、テデスコは複雑な心境だろうな。いくら逃げ出したとは言え父親だからな」
「パピヨンも、大丈夫ですか?」
レネが蝶子を心配した。
「ショックなのは確かだけれど、でも、ヴィルの方が心配だわ」
「まあ、アーデルベルト様」
家政婦のマリアンが半ば泣いているように迎えでた。
「マイヤーホフはここにいるのか」
「はい。先ほどから応接室で顧問弁護士のロッティガー先生と一緒にお待ちです」
「そうか」
ヴィルは応接室に向かった。
「お待たせしました」
「ああ、アーデルベルト様、お待ちしていました」
マイヤーホフは心底ほっとしたようだった。
「二度と戻ってくるつもりはなかったんだが」
ロッティガー弁護士とマイヤーホフのお悔やみの言葉を、ヴィルは軽くいなして、先を続けさせた。
「先日、フロイライン・四条あてに招待状を送ったときの指示メモが残っていたのが幸いでした。アーデルベルト様がみつからなかったら、葬儀も今後の使用人の身の振り方もお手上げなんですよ。他に取り仕切る権限のある方がまったくいませんからね」
「あんたがすればいいじゃないか」
「私は単なる使用人です。法的にも全く何の権限もないんです。たとえば、もう銀行預金が凍結されているので葬儀の準備も私どもでは手配できません。かといって先生ほどの方の葬儀をしないわけにもいきません。また、月末までこういう状態だと、全使用人が給料をもらえませんしね」
マイヤーホフの言葉に頷いてロッティガー弁護士は続けた。
「アーデルベルト君。君は、お父様の死で自動的にこのエッシェンドルフの領主になったんですよ。わかりますか」
「俺は、親父が遺言状をとっくに書き換えたと思っていましたよ」
弁護士は首を振った。
「エッシェンドルフ教授があなたが十四歳の時に作成した遺言状は一度も変更されていません。つまり、あなたを跡継ぎとしたその遺言が有効なのです。もちろん、あなたには相続を辞退する権利もありますが、少なくとも葬儀並びにすべての手続きが終わり、彼ら使用人の身の振り方が決まるまでは、煩雑な義務の山からは逃れられないんですよ、残念ながら」
「もちろん、このまま我々が新しい職場を探さずに済むなら、それに超したことはないのですが……」
マイヤーホフが小さく付け加えた。ヴィルはため息をついた。
「わかりました。とにかくすべきことをしましょう」
「なぜこんな急に親父は死んだんだ? 心臓が悪かったのか」
弁護士が帰ると、ヴィルはマイヤーホフに訊いた。
「いいえ。時々不整脈がある程度でしたが、もともと大きな発作があったわけではないのです。それが……」
マイヤーホフは言いにくそうにしていたが、意を決したように顔を上げた。
「申し上げておいた方がいいでしょうね。どうぞこちらへ」
そういって教授の書斎にヴィルを案内した。そして、デスクの上にあった一枚の書類を見せていった。
「実は、遺言状のことをもう一度きちんと検討したいとおっしゃって、私にいくつかの書類を用意するようにお申し付けになったのです。それで、言われたように準備してお渡ししたところ、これをご覧になって非常にショックを受けられ、それで発作を……」
それはヴィルの、つまりアーデルベルトの家族証明書だった。結婚したばかりの妻、蝶子の名前が記載されていた。ヴィルは黙ってそれを見ていた。つまり、これが原因で命を落としてしまったというわけか。
「じゃあ、親父は遺言状を変えるつもりだったんだな」
「検討したいとおっしゃっただけです。どうなさるおつもりだったかはロッティガー先生も私も伺っていません」
「だが、あんたたちは、俺が相続するのは腹立たしいだろう。そんな事情では」
「どういたしまして。代わりに私を相続人に指定すると言われていたなら悔しいでしょうが、そんなことはあり得ませんからね。私としては、見知らぬ方に放り出されるよりは、これまでのことを知っているあなたに公正な処遇をしていただくのを期待したいわけでして」
「とにかく、葬儀を進めよう。相続については、いますぐは決められない。もちろん、あんたたちの給料が出ないままなんかにはしておかないから安心してくれ」
「それを聞いて安心しました」
【小説】大道芸人たち 2 (5)ミュンヘン、弔いの鐘 -2-
多数決で即決していくのに慣れていて、今回も大切なことをあっさりと決めています。人生には、時おりこういうことがあります。本当はもっとじっくり考えて決めたいけれど、そういう大問題ほど急いで決めなくてはならないのですよね。そして、後で「あの時がターニングポイントだったんだな」と思ったりするのかもしれません。
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(5)ミュンヘン、弔いの鐘 -2-
「ヴィル? ああ、よかった。連絡がこないので心配していたのよ」
「蝶子。あんたと早急に話をしなくてはならない。だが電話で話せるようなことじゃない。葬儀まではやることがありすぎて、俺はスペインには戻れない。たぶん、あんたはここには来たくないだろうが、ミュンヘンか、それとも少なくともゲルテンドルフあたりにでも来てくれないか」
「いいわよ。明日、そっちに行くわ。平氣よ。迎えなんかいらないわ。道はわかっているもの」
そう答える蝶子を横目で見て、稔とレネは顔を見合わせた。
「行くのかよ」
電話を切った蝶子に稔が問いかけた。
「なにかとても大切な話があるんですって」
「なんだよ、それ。大丈夫なのか?」
「危険があるようには聞こえなかったけれど」
蝶子の答えに、レネは心配そうに眉をひそめた。稔はじっと考えていたが、やがて言った。
「俺たちも行こう。もしかしたら助けが必要かもしれないし。もし、俺たちに用がなければ、俺たちはミュンヘンで稼げばいいじゃないか」
レネも力強く頷いた。蝶子はほっとして笑った。
「またサンチェスさんに予約をお願いしてくるわね。すぐ出られるようにしてね」
「今度は、三味線持っていくぞ」
「ミュンヘンに行くって、ヤスミンに電話してこようっと」
三人はばたばたと行動に移った。
翌日の午前の便が取れたので、二時にはもう三人はエッシェンドルフの館の前にいた。
館に行くこと自体は怖くなかった。教授がもういないなら恐れるものはなかった。けれど、使用人たちの前にどんな顔をして入っていっていいのか、蝶子にはわからなかった。
「いいか。俺たちは外で待機している。三十分経ってもお前が戻ってこなかったら、突入するから」
蝶子の緊張の面持ちを見て、稔は言った。蝶子は笑った。
「心強いわ。行ってくるわね」
以前と同じように手入れの行き届いた石畳の小道を通って、蝶子は玄関に向かった。意を決して呼び鈴を鳴らす。出てきたのは喪服を着たマリアンだった。
「まあ、蝶子様。ようこそ。アーデルベルト様がお待ちですわ」
「ありがとう、マリアン」
「あの、こんなときですけれど……」
「え?」
「ご結婚、おめでとうございます」
蝶子は困ったように笑った。マリアンは皮肉ではなくて本心から言っているようであった。
「ありがとう」
そうやって話している時に、階段の上からヴィルが降りてきた。やはり喪服を着ていた。
「蝶子。悪かったな。呼び出したりして」
蝶子はヴィルに耳打ちした。
「あのね。ヤスとブラン・ベックも来ているの。私が三十分以内に安全に姿を現さない場合、強行突入するって手はずになっているの」
ヴィルは少しおかしそうに顔を歪めて、そのまま玄関に向かい、外の二人を呼び寄せた。
「大丈夫だ。何の危険もない。今回は丁重に扱ってもらえるぞ。俺たちの待遇は改善されたんだ」
二人は肩をすくめて、中に入ってきた。
「俺たち、心配だったから一応ついてきたけれど、なんでもないなら英国庭園あたりで稼いでいるぜ」
稔の言葉にレネも頷いた。だがヴィルは頭を振った。
「いや、あんたたちにも一緒に聞いてもらいたい話なんだ。とにかく俺たちの今後のことに大きく関わってくる話だから」
そういうと、ヴィルは三人を連れて応接室に向かった。途中で、マリアンに声をかけた。
「この二人のために、寝室を二つ用意しておいてくれないか」
「わかりました。二階の東の二部屋の準備をしておきます」
「ありがとう」
応接室は広く、優雅な調度が置かれていた。がっしりとした座り心地のいいルイ十六世様式の椅子や重厚な飾り棚が、いかにもドイツという感じで、同じ裕福な館でも華やかで異国的な要素の強いバルセロナのコルタドの館とは好対照だった。
ヴィルは重い扉を閉じると、棚からアクアヴィットの瓶と小さいグラスを四つ取り出してきた。
「一ダースも注文したのに、あの晩俺が一口飲んだだけで誰も手をつけていないんだ」
レネがにっこりと笑った。
「まだ、飲んだことないんですよ」
「販売しているのにか?」
「あれが最初で最後の販売だったんで」
四人はグラスを合わせて、その透明の酒を飲んだ。
「うげ。強い」
稔は目を白黒させた。レネは咳き込んだ。
「これ、12本もあるわけ?」
蝶子も氣が遠くなる思いがした。ヴィルだけが平然と飲んでいたが、一杯でやめて、代わりに白ワインを持ってきた。
「それで?」
蝶子がヴィルの顔を見た。
「俺は今、選択を迫られている。つまり、相続するか放棄するか」
「お蝶はともかく、俺とブラン・ベックに相談する必要はないだろう?」
稔はあっさりと言った。
「そういうわけにはいかない。Artistas callejerosの今後にも関係がある」
ヴィルは答えた。
「それはつまり、相続したら、お蝶とテデスコが抜けるってことか?」
稔の言葉に蝶子はびっくりしてヴィルの顔を見た。
ヴィルは即座に首を振った。
「抜けるわけはないだろう。だが、活動には影響が出る。もらうのは単なる銀行預金ではないので、受け取るだけ受け取って、年中ほっつき歩いているわけにはいかなくなる」
「というと?」
「コモやバロセロナ、それにマラガの仕事をするぐらいは問題ない。また、秋にピエールを手伝うのも問題なくできる。だが、それ以外は半分くらいになるだろうな。月に一度、数日間はここに戻らなくてはならないだろうし、お偉方とつきあわなくてはならないことも増えると思う」
蝶子はほっとした。思ったほど悪くないじゃない。
「相続したほうがいいと思う理由もあるんでしょう?」
蝶子の言葉にヴィルは頷いた。
「以前、大道芸人は若くて健康でなければできないという話をしただろう。今は自由で氣ままな旅さえできればそれでいいが、そのうちに体が利かなくなる。その時に四人とも安心していられる」
「カルちゃんにたかってばかりいる状況も改善できるわね」
「そうだ、それが二つ目だ。彼の事業に協力することも可能になる」
蝶子はそんなことは考えたこともなかったが、確かにそうかもしれないと思った。
「それから、三つ目だ。俺はあんたたちの才能を街角の小銭集めだけで終わらせるのは残念だと常々思っていた。俺が相続すれば、俺たちの活動の可能性がもっと広がる」
ヴィルは稔、レネ、それから蝶子の顔を順番に見た。
「だったら、どうして相談する必要があるんだ?」
稔が訊いた。
「これは俺の考えで、あんた達がどう考えるかはわからないからだ。もしこの相続で、Artistas callejerosが壊れるなら、俺は相続を辞退するつもりだ。それほどの価値はないからね」
「いまのところ、壊れるようなことは考えられないよな。先のことはわかんないけれど、俺たちの氣持ち次第で続きもするし、壊れもするんじゃないかな。とくにマイナス要因はないよ。相続すればいいんじゃないか?」
稔が言った。レネも手を挙げて賛成の意を表した。
ヴィルは蝶子の方を見た。
「あんたには、反対する他の理由があるだろう。ここに関わるのはイヤなんじゃないか?」
蝶子は少し間を置いてから首を振った。
「日本の諺に『毒を食わらば皿まで』っていうのがあるのよ。こうなったらどんな恥を上塗りしても同じだわ。利点の方が大きいもの、私は意義なしよ」
【小説】大道芸人たち 2 (5)ミュンヘン、弔いの鐘 -3-
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(5)ミュンヘン、弔いの鐘 -3-
ヴィルは大きく頷いた。
「俺の住所はここに移さなくてはならなくなる。必然的に蝶子もそうなるだろう。よかったら、あんた達二人も、一緒にしておかないか」
「僕に異議はありません。ドイツでもスペインでも」
「あんたがヴィザを用意してくれるなら、俺にも異存はないぜ」
「すぐにスペイン人と結婚するんじゃないの?」
蝶子がちゃかした。
「ヴィザやパスポートのために色仕掛けはしないって言っただろう」
稔が混ぜっ返した。
「パスポートといえば、俺とあんたのは書き換えになる」
ヴィルが蝶子に言った。
「なんで、またパスポートを書き換えるの? 先々週、書き換えたばっかりじゃない」
蝶子は訊いた。
「名前に称号が加わるんだ」
「は?」
「相続するとなると、領土やこの館だけでなくて、爵位もまとめてなんだ」
「え? ただのお金持ちじゃなくて、本当に貴族だったの?」
蝶子は驚いて言った。
「大した称号じゃない。イダルゴのと変わりない。ただ、パスポートにはそう書かれるんだ」
「なんて?」
「あんたは蝶子・フライフラウ・フォン・エッシェンドルフになる」
「あら。教授についてたフライヘルってのは三つ目の名前じゃなかったのね」
「フライヘルってなんだ?」
稔が訊いた。
「英語でいうとバロン、男爵だ」
「へえ、男爵に男爵夫人かよ。すげえ」
「だから、フランス警察が慌てたんですね」
レネも感心していった。
「そういう称号を持った人間が大道芸人なんてしていいわけ?」
蝶子が疑わしそうに訊いた。
「ダメだという法律はないと思うが、ミュンヘンではおおっぴらに公道には立たない方がいいだろうな」
「やっぱり」
「そうだよな。俺たちはこれからでもいつでも英国庭園で稼げるけれど、お前はもう絶対に無理だよな」
「そうね。ちょっと残念。そうと知っていたら例のパーティの前にでもやっておいたのに」
「そんなにあそこで稼ぎたければ、そのうちに『銀の時計仕掛け人形』をやればいい」
ヴィルはすましてワインを飲んだ。
三人はにやりと笑った。広大な領地を相続しようが、男爵様になろうがヴィルは変わる氣はまったくなさそうだった。
「さてと。今朝の新聞に死亡広告が出たからそろそろ弔問客がぞろぞろやってくる。あんたと俺は、好奇の目にさらされるだろう。覚悟しておいてくれ」
「わかっているわ。こうなったら隠れているわけにいかないもの。私も喪服に着替えてこなくちゃ。まだあるといいけれど」
蝶子は、逃げる時に置いて行った喪服のことを考えた。
「あんたのものはみんな残っている。例の真珠は金庫の中だ。今すぐいるか?」
「まさか。あんなすごい真珠は、葬儀の日だけで十分よ」
結局、教授にもらったプレゼントを再び使うことになっちゃうわね、蝶子は複雑な心境だった。
「俺たちは、どうしている方がいい? さっさとスペインに帰った方がいいか、葬儀までここにいてなんか手伝いをするか」
「ここにいるといい。あんたたちがいるほうが、蝶子も氣が楽だろうから」
ヴィルはそういって出て行った。マイヤーホフが指示を待っているので、のんびりとはしていられなかった。
「大変だなあ。ただの葬式だって、てんてこまいなのに、男爵様の葬式だもんな」
「しかも、失踪していたのに突然呼び出されてですからねぇ。こんな複雑な事情のお葬式、滅多にないかもしれませんね」
稔とレネはひそひそと話した。
あのヴィルがワインを空にしないで行ってしまった。もったいないから、飲んでしまおう。稔とレネは勝手に解釈して、応接室に残って飲んでいた。
ヴィルはすぐにミュラーに頼んで仕立て屋を呼んでもらった。仕立て屋は、目を丸くしている稔とレネの寸法をさっさと測り、翌日には二人分の喪服が届けられた。
弔問客の中には、市長夫妻をはじめ、あのパーティに招待されていた人々がいた。再び失踪したという噂のアーデルベルトが館に帰っている事には驚かなかった。上流社会ではそういう話は珍しくない。しかし、そのアーデルベルトが、「あの女」と結婚していたという事実には驚愕した。それだけでなく、あの時にアーデルベルトに殴り掛かりそうになっていた、「あの女」の連れの日本人が、喪服を着て葬儀の手伝いをしている。市長夫人は、しばらく瞬きも忘れ、用意してきたお悔やみの美辞麗句を思い出す事も出来なかった。
「わざわざお越しいただきましてありがとうございます、市長夫人。こちらは妻の蝶子です」
アーデルベルト・フォン・エッシェンドルフは、まったくの無表情で妻を紹介した。蝶子は悪びれた様子もなく「はじめまして」と手を出した。それで、市長夫人は、我に返って態度を取り繕った。
「それから、こちらは私どもの親しい友人で、安田氏とロウレンヴィル氏です」
「はじめまして」
稔とレネも英語で澄まして挨拶した。パーティにいた客たちの呆け面が、判を押したようだったので、彼らが帰る度に稔は別の部屋に隠れて身をよじって笑った。
ヴィルは、葬儀の厳粛で沈痛な雰囲氣のうちに、蝶子を出来るだけ多くの人間に紹介してしまうつもりだった。ただの社交の中では意地悪い扱いをしようとする人たちも、弔問中には攻撃の手を緩めざるを得ない。この場で優しく「よろしく」と言わせてしまえば、あとはこっちのものだ。
ヴィルは社交界に積極的に進出するつもりはなかったが、まったく関わらないままでいる事も出来ないのをよくわかっていた。稔とレネも、この際に社交デビューさせてしまえば、あとで彼らが常に側にいる事を、使用人たちを含め、誰にも文句を言わせずに済む。それがヴィルの狙いだった。
市長夫人はゴシップ女だったらしく、翌日からどう考えても教授と親交があったとは思えないご婦人方が興味津々の心持ちを喪服に包んで、弔問に押し掛けた。教授の音楽の知り合い、弟子たちも次々とやってきた。中には教授に婚約者として蝶子を紹介された事のある人たちもいた。蝶子もヴィルも平然と好奇の目に耐えた。
「僕にはとても我慢できないでしょうね」
レネはヤスミンに打ち明けた。
「そうね。きっとある事ない事言われるんでしょうね。頑張っているわ、二人とも」
ヤスミンは喪服を持参して手伝いにきていた。
「でも、これをやっちゃった方がいいっていうテデスコの判断は間違っていないよな」
稔はようやく慣れてきたアクアヴィットをちびちびとなめながら言った。
受け取るのは銀行預金だけじゃない。あのときのヴィルの言葉は、こういう事も含んでいたのだ。稔やレネにとってはなんのデメリットもないヴィルの相続だった。だが、こうなってみてはじめて、稔は蝶子とヴィルが戦わざるを得ない事を知った。二人ともそれに耐えうる強靭な神経を持ち、自分たちの人生を切り開けることも。
「フロイライン・四条」
マイヤーホフが、つい以前呼んでいたままの呼び名で蝶子を呼んだとき、ヴィルははっきりと訂正した。
「フラウ・フォン・エッシェンドルフだ」
その調子が珍しく厳しく、それを感じたマイヤーホフは、平謝りして氣の毒なほどだったので、蝶子は言った。
「蝶子と呼んでくださっていいのよ」
マイヤーホフはヴィルに対してはファーストネームで呼んでいるのを知っていたからだ。けれど、マイヤーホフは蝶子に親しみを示そうとしなかった。蝶子はそれでマイヤーホフにわだかまりがあるのを知った。ミュラーもそうだった。
マリアンは蝶子に同情を示していた。いずれにしてもマリアンはエッシェンドルフ教授よりもヴィルの方がずっと蝶子にお似合いだと昔から思っていたのだ。二人が出会うずっと前から。
いつの間にか、マイヤーホフとミュラーは蝶子を「フラウ・シュメッタリング」と呼ぶようになった。ヴィルは二人の前ではいつも蝶子と呼んでいたので、彼らにしてみれば教授の呼び方を踏襲した嫌みな呼び方のつもりだったのかもしれないが、かつてはヴィルが、今はヤスミンが「シュメッタリング」の呼び方を使っていたので、蝶子にはなんともなかった。
葬儀には、たくさんの弔問客が来た。二人を力づけようと、ヤスミンはアウグスブルグ軍団に連絡を取り、劇団員が山のようにやってきた。カルロスとサンチェス、それにイネスとマリサ、カデラス氏やモンテス氏もやってきた。稔とレネももちろん二人の近くにいた。
マイヤーホフや教授と親しかった人たちは、エッシェンドルフが変わり、これまでとは違っていることをはっきりと知った。アーデルベルト様は亡くなられた旦那様のコピーでいるつもりはまったくないのだ。
【小説】大道芸人たち 2 (6)ミュンヘン、鍵盤 -1-
今回も二つに分けました。今回はヴィルの子供時代のことですね。
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(6)ミュンヘン、鍵盤 -1-
グランド・ピアノのふたを開けて、ヴィルは軽く鍵盤に触れた。いまやそれは彼のピアノだった。はじめてこのピアノに触れた時の事をヴィルは憶えていた。まだ十歳になっていなかった。
母親の小さなアパートメントにまったく不似合いないかめしい髭の男がやってきたのは、その一週間前の事だった。
男がやってきた時に、母親はヴィルにフルートを吹かせ、それから居間の小さなアップライト・ピアノで数曲弾かせた。それまですぐにでも立ち去りそうにしていた男は、演奏を聴くと態度を改めた。
「フルートを吹くのは好きか」
男は、威厳ある様子で訊いた。ヴィルは小さく頷いた。
「はい」
「毎日どのくらい練習しているのか」
「二時間ずつ、レッスンさせていますが、それ以外にも暇さえあれば、自分で勝手に練習していますわ」
母親が横から口を出した。髭の男は母親を冷たく一瞥したが、特に何も言わずに、再びヴィルに話しかけた。
「ピアノを弾くのも好きか」
「はい。ピアノでいろいろな音が出せるのが面白いです」
ヴィルは素直に言った。
髭の男はじろりと見たが口元の厳しさはなくなっていた。子供っぽい甘えた様子をまったく見せないヴィルを教授は好ましく思ったようだった。
「来週から、土曜日には私の館でレッスンをさせよう。朝の九時にトーマスに車で迎えに来させる」
母親は勝ち誇ったような顔になり、頬を紅潮させた。
「私も一緒に……」
髭の男はじろりと母親を見て冷たく答えた。
「トーマスは信頼できる運転手だ。お前がついてくる必要はない」
その夜、母親はシュナップスで酔いながら言った。
「あれが、お前のお父さんよ。十年も会っていないのよ。少しは私を見てくれてもいいのに」
ヴィルはあれが父親だと言われてもぴんとこなかった。マルクスのお父さんはいつも楽しそうに笑っている。グイドーはお父さんと毎週山歩きに出かける。あんな立派な洋服は着ていないけれど、ずっと親しみがある。
お母さんは音楽のことと、どれだけお父さんが立派ですごい人だったかしか話さない。学校の皆のいくサッカークラブにも参加させてくれないし、だから友達もなかなか出来ない。暇さえあれば勝手にフルートを練習しているというけれど、他に何をすればいいんだ。学校の勉強?
土曜日に立派な黒塗りの車が貧相なアパートメントの入り口に横付けされた。マルクスやグイドーが遠巻きに見ている中、ヴィルはスーツを着た運転手のトーマスに連れられて、車でミュンヘンに向かった。連れて行かれたのはおとぎ話のお城かと思うような大きな家で、貧しいアパートメントでは見た事もない豪華な調度と広い空間に半ば怯えながら、迎えでた召使いのミュラーに連れられてサロンへと向かった。そこでヴィルは新しいピカピカのフルートをもらい、それから大きなベーゼンドルファーのグランド・ピアノにはじめて触れたのだ。
普段弾いている家のピアノはもちろん、母親に連れて行かれるピアノ教室のグランド・ピアノともまったく違う音がした。深くて複雑な響きだった。父親と言われた髭の男にはまったく会いたくなかったが、このピアノを毎週弾けるのは嬉しかった。
もらったフルートも、それまでのフルートとはまったく違った。髭の男の指導は厳しかったが、言う通りに吹くように努力すると、楽器はいままでヴィルの出せた音とはまったく違う音を約束してくれた。
父親が二時間のレッスンし、それから大きな食堂でヴィルがいままでほとんど食べた事のないおいしい食事を食べた。父親は眉をしかめてヴィルのテーブルマナーをたしなめた。ヴィルの喜びは半減した。
午後は、フロリナ先生がサロンにやってきてピアノを二時間指導した。いままでの先生よりも厳しかったが、明らかに上手で指導もわかりやすかった。一週間分のフルートとピアノの課題をもらうと、ひとりで二時間ほどサロンで練習し、それからトーマスに連れられてアウグスブルグに戻った。
トーマスの送迎はそれから三年ほど続いた。その後は、自分で電車に乗ってミュンヘンに通った。黒塗りの車の運転手や、取り澄ましたテーブルマナー、父親の用意したまともな洋服などが、ヴィルの無口な様子と相まってお高くとまっている嫌な子供とやっかまれ、大人たちがヴィルを避けるようになった。
それに影響されて、マルクスやグイドーもほとんど口もきかなくなった。学校でも行事を欠席させられる事が多かったため、孤立していった。大人とも子供とも話す事がなくなり、家でも音楽のことしか話せなくなり、さらにミュンヘンから渡される膨大な課題に取り組むために、ヴィルはひたすら音楽に没頭するしかなくなっていった。
フルートを奏でるとき、ミュンヘンのベーゼンドルファーの音色を生み出すとき、ヴィルは数少ない歓びを感じた。それは孤独の中の慰めだった。それが孤独である事にもその時のヴィルは氣づいていなかった。
はじめてピアノに触れる時に、ヴィルはいつも息をのむ。期待と恐れの混じった感情。それは、大人になってからも同じだった。大学のレッスン室で、生活のために働きだしたアウグスブルグの小さなバーで、稔の聴くに堪えない演奏に代わって弾くことになったヴェローナのバーで、コモのロッコ氏のレストランで、コルタドの館で、真耶の家で、奥出雲の神社の中で、ヴィルははじめて女の子の手を握るティーンエイジャーのように、ためらいながらはじめての音を出した。レネの両親の調律のよく出来ていないアップライト・ピアノに触れた時もそうだった。
初めの音が出ると、ようやく口をきいた女のように、そのピアノの性格がわかる。強引に弾くべきピアノか、繊細に歌わせるべきピアノか、どう扱っても大差ない粗野なピアノかがわかる。
それでも、このエッシェンドルフの館のベーゼンドルファーは、初恋の女のようにヴィルを惹き付けた。このピアノは、いま彼のものだった。ヴィルは椅子に腰掛けると、ゆっくりとツェルニーの練習曲を弾きだした。
「懐かしいものを弾くのね」
いつの間にか入ってきていた蝶子が静かに言った。
「あんたもこれで練習したのか」
弾きながらヴィルは蝶子に話しかけた。
「こんなすごいピアノじゃなかったけれどね」
「俺も最初はしょうもないアップライトだった」
「ピエールの所みたいな?」
「あれよりはマシだったな。出雲くらいのだった」
「ああ、瑠水さんのピアノね。私のもあのぐらいだったわ。もっともピアノの違いなんか、あの頃は知らなかった。あの時は親も反対していなかったし、ただ弾けるのが嬉しくてしかたなかったわ」
「これで弾くか?」
「私は、フルートを合わせるわ。そのまま弾いていて」
蝶子は即興で優しいメロディをつけた。
稔とレネもサロンに入ってきた。
「へえ。ツェルニーでこんな変奏曲ができるとはね」
邦楽の稔にとっては、ツェルニーの練習曲は音大受験のためのつらい義務のはじまりだった。ヴィルと蝶子が自由に奏でている変奏曲はそんな思い出を吹き飛ばすような楽しげな演奏だった。
ヴィルにとっても、この部屋はもはや窮屈で冷たい父親のレッスン室ではなく、四人で楽しげに話しながら音楽を奏でられる場になっていたのだった。
【小説】大道芸人たち 2 (6)ミュンヘン、鍵盤 -2-
さて、チャプター1のラストシーンです。プロモーション動画で使った言葉の一つがここで使われています。
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(6)ミュンヘン、鍵盤 -2-
ミラノで会った時、蝶子たちはすでにArtistas callejerosとして一つの集団になっていた。にも関わらず、ヴィルはいつもの疎外感を感じなかった。
学校で、エッシェンドルフの館で、劇団『カーター・マレーシュ』で、はじめて何かの集団に入っていく時、ヴィルはいつも複数の人間による関係性の出来上がった集団とそれに対峙する一人の自分という立ち位置を意識させられた。
だが、Artistas callejerosはまだ出来上がっていなかった。しかも性格のまったく違う日本人二人とフランス人という妙な構成員で、やっていることもバラバラだった。彼らはヴィルに対して集団としてではなく、ただの個人として対峙した。そして、集団として語る時には、はじめからヴィルも含めていた。
一枚の絵はがきが回ってきて、それぞれが何かを書いていた。自分がそれに加わるとは夢にも思っていなかったのに、蝶子は当然のようにそれをヴィルにも書かせた。
「いつもみんなで書いているんだもの」
コーヒースプーンを振り回しながらそう言った蝶子の姿をヴィルは今でもはっきりと思い出す事が出来る。
自分が誰かを隠したまま、蝶子に冷たくつっかかっていた自分を、彼女はすでに仲間だと認めていてくれた。稔やレネもそうだった。これほど居心地のいい場所はなかった。すきま風の吹くドミトリーに泊まろうと、真夏の蒸し暑い日にドウランや化繊の衣装がどれだけ不快であろうと、ミュンヘンやアウグスブルグに戻りたいと考えた事はなかった。
お互いの事が少しずつわかるにつれ、ヴィルはなぜ三人がこれほど心地いい仲間でいるのか理解できた。彼らは誰もが属していた社会から逃げ出してきたアウトローだった。心の痛みをよく知っていた。人の痛みに敏感だった。
父親の死によって自分の境遇が大きく変わった時に、人々の態度は大きく変わった。とるに足らない私生児と見下してきた上流社会の人々も、父親への忠誠から距離を持っていた使用人たちも、口もきいてくれようとしなかった学校の同級生たちも、ヴィルに対して好意的な態度に変わった。劇団の仲間たちは、少しだけ距離を置いた物言いになった。
けれど、三人だけはまったく変わらなかった。エッシェンドルフ教授の息子だとわかった時にも、三人はまったく態度を変えなかった。だから、これからも変わらないだろう。ヴィルは三人と一緒に幸せになりたかった。降ってわいた幸運を等しく分かち合いたかった。
稔とレネは時間があると英国庭園に行って稼いでいた。そして帰りに大量のビールやワインを買ってきた。
エッシェンドルフの領主として、ヴィルは三人に二度と大道芸をしなくてもいいと言う事も出来た。だが、稔やレネだけでなく蝶子もまた、エッシェンドルフの居候として怠惰な生活を送りたいという氣持ちはなかった。ヴィルは彼らの意思を尊重したかった。
それに、ゆっくりはしていられない。そろそろアヴィニヨンに手伝いにいかなくてはならない。それが終わればコモの仕事もある。ヴィルはロッティガー弁護士と秘書のマイヤーホフと連日のように打ち合わせをし、領地の管理や相続の手続きを進め、自分が不在になる間の準備を進めた。蝶子は、葬儀の片付けや残った礼状の発送をし、ミュラーやマリアンとも話し合って家内の今後の事について取り決めをした。
長い事離れていたとはいえヴィルはコンクールで優勝するほどのフルートの腕前であり、さらに男爵家を相続した名士でもある。相続の話を聞きつけた教授の年若い弟子からは、教授の代わりにレッスンを見てくれないかという話が次々と持ち込まれた。ヴィルは丁寧に断ったが、マイヤーホフは不満だった。
「アーデルベルト様、大道芸の方はおやめになって、ここで落ち着かれるおつもりはありませんか」
マイヤーホフはためらいがちに訊いた。あの変な日本人やフランス人と手を切ればいいのに、という期待も混じった質問であった。
「あんたは職を失わなければ、それでよかったんじゃないのか?」
「私のためではなくて、あなたの事を言っているのです。ふさわしい暮らしに戻られる頃ではありませんか」
「俺はもともとあんたよりずっと下の出自なんだ。ヤスやブラン・ベックと一緒に大道芸をしている方がずっとふさわしく感じるよ」
「あなたは、彼らとは一緒ではありません。ご自分が一番よくご存知のはずです」
ヴィルは首を振った。
「あんたが言っているのは、社交マナーや立ち居振る舞いの事だろう。俺が親父にいろいろ叩き込まれたから。俺が言っているのは外側の事じゃないんだ」
マイヤーホフはそれ以上の事を言わなかった。
アーデルベルトに関しては、今は亡きエッシェンドルフ教授とマイヤーホフの意見は完全に一致していた。あの怪我の後、アーデルベルトが大人しく館に戻ったことは誠に好ましかった。教授の跡継ぎとして腹を決め、上流階級の娘と結婚してこのエッシェンドルフを引き継いでいく事こそ、完璧な外見と立ち居振る舞い、そして豊かな芸術性を持つこの青年にふさわしい事と思っていた。
しかし、彼は父親と使用人たちを見事に欺き、再び逃げ出しただけでなく、マイヤーホフがどうしても教授の執心を快く思えなかったあの東洋の魔性の女と結婚してしまった。
今、アーデルベルトが新しい領主としてこの館に君臨する事は大歓迎だったが、彼の妻も、残りの変な大道芸人もできればいなくなってほしいというのがマイヤーホフの密かな願いだった。
「ヴィル」
蝶子が呼んだ。その呼び名は、長いこと彼のものではなく、子供の頃にもそう呼ばれた記憶もなかった。にもかかわらず、現在の彼には最も自分に近かった。
彼が生まれた時、父親はその存在を無視した。それで彼はヴィルフリード・シュトルツとして洗礼を受けた。しかし、マルガレーテ・シュトルツは諦めなかった。DNA鑑定の末、真の息子だという事実を突きつけられたハインリヒ・フォン・エッシェンドルフ男爵は、彼の名前を訂正させ、もう少しまともなファーストネームを登録させた。それ以来、誰もが彼をアーデルベルト・フォン・エッシェンドルフと呼んできた。名前を与えた母親までもがセカンドネームに成り下がったヴィルフリードの名を忘却の彼方に押しやった。
彼がはじめてヴィルフリード・シュトルツと名乗ったのは、劇団『カーター・マレーシュ』に入団する時だった。本名があまりにも大仰すぎて、出自がすぐにわかってしまうからだった。劇団員たちがいつの間にか使いだしたヴィルという愛称は、当時の彼にはずっと馴染みがなかったが、アーデルベルトではないという事実だけが彼には好ましかった。
ミラノで蝶子たちに会った時に、迷わずこの仮の名前を使ったのは、もちろん蝶子に自分がアーデルベルトである事を悟らせないためであった。だが、旅の間に各地で名乗る度に、蝶子が親しみを込めて呼ぶ度に、この名前はより自分に近くなった。アーデルベルトはほとんど消えかけていた。
ミュンヘンに戻った事で、アーデルベルトとしての社会性が再び現実のものになった。けれど、この二つはもはや相反するものでもなければ、どちらかだけが現実であるわけでもなかった。アーデルベルトという立派な背広を身に着けた、裸の魂がヴィルだった。
「マリアンとの打ち合わせは、終わったか」
ヴィルは蝶子に話しかけた。
「ええ、いつでも出かけられるわ」
アヴィニヨンに旅立つために今夜は荷造りが必要だったが、旅慣れた四人には大した時間は必要なかった。蝶子は、窓辺に立つヴィルのもとに歩み寄り、一緒に窓からミュンヘンの街並を眺めた。
「この風景を、あなたと眺めるなんてね」
蝶子の髪が風で踊っている。
ヴィルは不意にロンダの橋の上で、蝶子の横顔を見つめたときの事を思い出した。彼女が父親とミュンヘンの事を思い出しているのではないかと心を痛めたときの事を。
「不思議だな。運命ってやつは」
蝶子は、ヴィルの肩に頭を載せた。言葉による答えは必要なかった。孤独の中で同じ光景を眺めた二人は、いま家族としてここに立っている。ここは恐れるべき場所でもなく、戻ってくるべき家になった。旅立つ目的は逃走ではなくなった。
明日からのしばらくの不在の前に、もう一度あのピアノを弾いていこう。ヴィルは蝶子と一緒にサロンへと向かった。
【小説】大道芸人たち 2 (7)ミュンヘン、事務局 -1-
さて、このチャプター2では、これまであまり表立っていなかったメンバーが表舞台に登場するようになります。この話をご存じない方、もしくは間が空いて忘れてしまった方のための情報ですが、アーデルベルト・エッシェンドルフ男爵というのは、このストーリーの主役の一人、通常ヴィルと呼ばれている青年のことです。今回は、故エッシェンドルフ教授の、そして今は、その息子であるヴィルの秘書を勤めているヨーゼフ・マイヤーホフの視点から始まります。
長いので大体2000字になるように切りながら公開していきます。
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(7)ミュンヘン、事務局 -1-
ヨーゼフ・マイヤーホフは腹立ちを感じていた。またしても新しい外国人が居候するらしい。そもそも、エッシェンドルフの館は彼のものではないし、彼の雇い主であるアーデルベルト・エッシェンドルフ男爵が招待するのだから腹を立てるのは筋違いなのはよくわかっていた。それでも、今は亡き教授の時代の規律に満ちた館の厳粛な雰囲氣が、毎晩酒を飲んで大騒ぎする居候たちに台無しにされるのはいかにも残念だった。
今度やってくるのはスペイン人だそうだ。居候コンビの一人、例の得体の知れない日本人の恋人らしい。もう一人の居候のフランス人の恋人は、アウグスブルグ時代のアーデルベルトの友達だとかで、四人がこの館にいる時は当然入り浸っているが、少なくともこの女はドイツ人なのでいろいろと勝手がわかっている。自立したはきはきした娘で、マイヤーホフはヤスミンのことはかなり好意的に見ていた。
居候コンビのことだって、別に嫌っているという訳ではない。フランス人、レネはどちらかといえば愛すべきタイプで、論理的でなく時計に合わせた生活が出来ないという欠点はあるものの、いくら居候していても邪魔にならなかった。稔も、特筆すべき欠点がある訳ではなかった。
正直言って、マイヤーホフは稔に対する反感が自分でもよく理解できなかった。安田稔は朗らかで礼儀正しい立派な日本人で、運転手のトーマスとは歳が親子ほど離れているにもかかわらず友情で結ばれていた。アーデルベルトや妻の蝶子も稔のことを厚く信頼しており、一目置いているのがはっきりとわかった。
それが氣に入らないのかもしれない。
アーデルベルトの心はArtistas callejerosに向いている。エッシェンドルフのことよりも、四人での大道芸の生活を優先している。
彼は毎月一週間ほどこの館に戻ってきては、領地の管理や館の維持のための事務、使用人への心遣いなどをこなした。冷静で判断力があり、口数は少ないが目下のものに対する暖かさがあるアーデルベルトは上司としては理想的だった。上流階級のものにありがちな傲慢さがほとんどないのは、もともと彼がこうした贅沢な特権階級の暮らしをほとんどした事がないからだったが、子供の頃からの教授の教育のおかげで下層階級のみっともない振る舞いは一切しなかった。
彼の妻もそうだった。けれど、マイヤーホフには蝶子に関して、稔と異なりはっきりと嫌う理由があった。親子二代を色仕掛けで落とすとは! 先生が亡くなったのは、この日本の魔女のせいだ。それなのに、今、いけしゃあしゃあと女主人としてこの館に戻って来た。そして、また、アーデルベルト様を大道芸の旅に連れ回して。アーデルベルトが自分の意思で旅に出ている事は百も承知していながらマイヤーホフは、蝶子と、さらに国籍が同じというだけで稔をも逆恨みしていた。
ベルが鳴り、マリアンが玄関に出た。英語で応対している所をみると、例のスペイン女が来たのだろう。ちょうど書類を市役所に提出するために出る所だったので、マイヤーホフは階段を下りてゆき、マリアンが案内する女性とすれ違った。
金髪だった。スペイン女というので、カルメンといった風情のきつい感じの黒髪の女と想像していただけに、その若い娘の柔らかで優しい様子に意外さを持った。
マリアンが紹介をした。
「こちらはアーデルベルト様の秘書のマイヤーホフさんです。ヨーゼフ、こちらはマリサ・リモンテさん」
「はじめまして」
鈴のような声に、思わず微笑んでマイヤーホフは手を差し伸べた。
「はじめまして、お会いできて光栄です」
マリアンは、これまでマイヤーホフがアーデルベルトの仲間に対してちっとも親しみを持った初対面の挨拶をしてこなかった事を知っているので、片眉を上げて、何かを言いたそうにした。が、とりあえず沈黙を守る事にした。
階上の廊下で扉が開く音がした。四人が居間として使っているサロンだ。
「マリサ! 早かったな」
稔の声を聞いて、マリサの顔はぱっと明るくなった。
マリアンとマイヤーホフを残して、彼女は階段を駆け上がり稔のもとに行った。稔はマリサを抱きしめることもなく、キスもしなかった。久しぶりに会った恋人同士だというのに。マイヤーホフは少し驚いた。だが、マリサは満足だった。稔のこれ以上ない笑顔は多くを語っていた。義務の冷たいキスよりも、この笑顔の方がよほど多くの愛を語っている、日本人のやり方に慣れてきたマリサは既にそれを理解していたのだ。
「迷わなかった?」
蝶子が訊くとマリサは静かに首を振った。
「遠くからでもすぐにわかりました。こんなに大きなお屋敷ですもの」
蝶子は自分がはじめてこの屋敷を訪れた日の驚きを思い出して微笑んだ。マリサは鞄を探って封筒を取り出して蝶子に渡した。
「ドン・カルロスから預かってきました」
【小説】大道芸人たち 2 (7)ミュンヘン、事務局 -2-
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(7)ミュンヘン、事務局 -2-
蝶子が中から書類を取り出すと、稔も覗き込んだ。
「許可が取れたんだな」
「ええ、本当に六月に開催できそうよ」
二人の話を聞きつけて、奥でコーヒーを飲んでいたヤスミンが興味を示した。
「何を?」
リングの練習の手を止めてレネが答えた。
「『La fiesta de los artistas callejeros』。僕たちが計画している大道芸人の祭典なんです。第一回はバルセロナで開催する事にしたんですよ」
「バルセロナで?」
「ギョロ目が全面的にバックアップしてくれているんだ。スペイン芸術振興会バルセロナ支部の理事だしな」
稔がウィンクした。そうだった、とヤスミンは頷いた。劇団『カーター・マレーシュ』も彼に協賛金をもらっていたのだ。
「協賛してもらっているドイツの劇団は参加しなくていいの?」
「あんたたちは大道芸人じゃないだろう?」
ヴィルがコーヒーをマリサに渡しながら言った。
ヤスミンは口を尖らせた。
「あなたたちの結婚式の時に、団長たち、パントマイムで小遣い稼ぎしていたわよ。大道芸人みたいなもんじゃない」
「加わるか? 団長に訊けよ」
稔がヴィルにグラスを差し出して、ワインを注いでもらいながら言った。
「バルセロナねぇ。みんなでは行けないかもしれないわね。どうしてドイツでやらないのよ」
「男爵様が大道芸人やっているからね。マスコミがどう報道するかわからないだろ。第一回目は、ちと遠くで様子を見るんだ」
稔がウィンクすると、ヤスミンは納得してコーヒーを飲み干し、立ち上がった。
「わかったわ。明日、会議があるから、話題にしてみる。今度の六月ね」
「来週は来れる?」
レネがおずおずと訊いた。
「どうかな。公演が始まるから。あなた達は再来週には、また旅に出ちゃうのよね」
ヤスミンはちょっと残念そうに言った。
「じゃあ、来週、なんとか時間つくって、アウグスブルグに行きます」
レネはきっぱりと言った。
館にいる時間が短いので、ここに来るとヴィルは忙しい。蝶子も同様だった。フィエスタの許可が下りたとなると、事務局長を務める稔にはやる事が山のように出来た。こうやってのんびりと酒を飲んだり、英国庭園に稼ぎにいったりする時間は減るはずだ。レネもまたフィエスタの事務局として仕事を持っていたが、彼の担当の財務はそんなに忙しくなかった。まだ大した出納は行われていないからだ。ということは定休日の他にもう二日くらいレネがいなくなっても構わないはずだった。
「フィエスタの参加者たちはどうやって集めるんですか?」
マリサが稔に訊いた。
たいていの大道芸人たちは四人のようにホームベースとなる住所がある訳ではないし、連絡網がある訳でもない。前例のない第一回でどのくらいの人間が集まるのか想像もつかなかった。
「俺たちがこれから行く先々で会う同業者たちを誘うのさ。上手く行けば彼らが行く先々でさらに広めてくれる。集まりやすいのはスペインを中心に活動しているやつらだろうけど、国籍が偏るのもなんだから、フランスやイタリア、それにオーストリアでも集めたいんだよな」
「もっと北の国は?」
「ロンドンやブリュッセルにも足を伸ばしたいとは思っているのよ。時間との戦いみたいになってきたけれど……」
そういうと蝶子がワイングラスに残念そうな一瞥をして、ドアに向かった。これからマリアンと新しい使用人候補の面接があるのだ。
稔は予定表を開けた。これから忙しくなる。ヴィルたちの予定と事務局の予定、そして既に決まっている仕事の予定がバッティングしない様に心を配らなくてはならない。ずっとのんびりとやってきたけれど、これからはそうはいかない。その緊張感が心地よかった。
Artistas callejerosを結成するまでは、ただ生きていくだけで精一杯だった。それから四人で旅をするようになってからは、新しい経験で時はあっという間に過ぎ、時には問題がおこった。しかし、それらは全て解決し、ここのところ稔には少々退屈に思える事もあったのだ。
フィエスタを組織しようという話が出た時に、誰が総まとめをするかが問題になった。資金を自由に動かせ、館をホームベースとして使えるヴィルを、他の三人はまず黙って見た。
「適役はヤスだろう」
ヴィルはあっさり言った。
稔は戸惑ったが、蝶子とレネは簡単に納得した。四人での旅でも、対外的な交渉はいつも自然に稔にまわってきた。稔はそういう交渉が得意だった。
「俺はバックアップにまわる。お偉方と話さなくてはいけないことや、男爵の名前がはったりとして必要な時にはいつでも出て行くが、フィエスタそのものを牛耳るには、あんたみたいなリーダーの資質がどうしても必要なんだ」
ヴィルはそう付け加えた。
稔は自分がリーダーの素質に恵まれていると思った事はなかったが、この四人に限定して考えるなら、確かにリーダー向きだと思えるのは自分だった。それはつまり、他の三人がリーダーにまったく不向きだというだけなのだが。
【小説】大道芸人たち 2 (7)ミュンヘン、事務局 -3-
ただ、この程度の内容で8000字ぐらい一度に読ませて、それから一ヶ月放置「また内容忘れちゃった」にするよりはいいのかなあ。もっと手に汗握る、さらに言うと忘れにくい強烈な内容の小説だと、また違うんでしょうけれど。
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(7)ミュンヘン、事務局 -3-
「話にもならないわ!」
蝶子がため息をつきながら戻ってきたのは二時間ほど後だった。
「なんの面接だったんでしたっけ?」
レネが蝶子に再びワインを注いでやりながら訊いた。
「家政婦よ。マリアン一人じゃまわらない仕事を分担する人が二人は必要なんだけど、よくわかっている方が結婚してやめる事になったの。もう一人が彼女のやっていた分を引き継ぐには荷が重いので、少ししっかりした人を雇いたいんだけど、今日来たのは普通以下よ」
「どんなことをしてもらいたいんですか? 掃除とか、洗濯とか、料理とか?」
「料理そのものは、料理人がいるからしなくていいの。下準備はしてもらうけれど。掃除や洗濯、それに買い物。掃除と一口に言っても、真鍮はどう磨くとか、この木材はどの溶剤で手入れするとか、ものすごく覚える事があるの。洗濯もしみ取りの方法や特殊な手入れを知らなくちゃいけないし。ある程度ちゃんとしたお屋敷で働いてきた人か、そうでなければものすごく頭の回る人がいいんだけれど、そんな人は、全然こなかったわ」
「ものすごく頭の回る人って、ヤスミンは?」
レネの言葉に、蝶子は目を瞠って答えた。
「そりゃ、理想的だけれど、ヤスミンが家政婦の仕事をしたがったりすると思う?」
「昨日、劇団の仕事と美容師の仕事の両立がきついって言っていたんです。でも、生活のためにはしょうがないってね。アウグスブルグのアパートを払うのが大変なら、ここの僕が使わせてもらっている部屋に越してくればって言ったら、それは理想的だけれど、ただの居候は嫌だし、時間のやりくりのつく仕事をミュンヘンで見つけるのは難しいって。ヤスミン、マリアンとは仲もいいし、時折率先して手伝っていたから、経験なくてもいいなら、やりたがるかもしれませんよ」
蝶子はヴィルの方を見た。ヴィルは、好きにしろという様に頷いただけだった。
「じゃあ、今晩でも電話して訊いてみるわ。そりゃ、ヤスミンが引き受けてくれたら、これ以上の事はないわね。私たち、安心していろんな事を任せられるし」
「やりたい!」
ヤスミンは即座にそう答えた。
「でも、ヤスミン、家政婦よ? いいの?」
蝶子は戸惑いながら訊いた。
「もちろんよ。花嫁修業になるじゃない。前ね、マリアンと話していて、家事のことをまったくわかっていないってわかったの。暇があったらこちらから頼んででも、マリアンにあれこれ教えてもらいたいと思っていたのよ。それが、お給料をもらえて、アウグスブルグのアパートを引き払えて、美容院の仕事も辞められて、レネが来る時には確実に会えるんでしょ? お願い、シュメッタリング、私を雇って」
「わかったわ。ヴィルにそう伝えるわね。私たち、再来週からしばらくいなくなるけど、都合のいい時に、こっちに移ってきて。引っ越しの請求書はマイヤーホフさん宛にしてもらってね」
「ありがとう、シュメッタリング」
蝶子は電話を切ってから、電話の前でしばらく黙って佇んでいた。
「どうしたんだよ、お蝶?」
通りかかった稔が声を掛けた。
「なんでもないわ。ヤスミンは柔軟ね」
「何の事だ?」
「わたしね、どこかで仕事を二つに分けていたの。『職業に貴賤なし』って言うけれど、まさにその貴と賤に。私がマリアンの雇い主なのは偶然にすぎないし、大道芸人は本来なら家政婦って職業よりも下かもしれないのにね。その無意識の差別に氣がついちゃって、自分でちょっぴりショックを受けているのよ」
「お前、だんだんトカゲらしくなくなってきたな」
褒めているのか貶しているのかわからない感想を稔がもらしたので、蝶子はにらんだ。
「ヤスミンは、わたしとは全然違う意識を持っていたんだわ。マリアンを家事のエキスパートとして尊敬していたの。私だってマリアンはすごいとは思っていたけれど、自分が習いたいだなんてまるっきり思わないのよね」
「お前はドミトリーの炊事場や洗濯場で、トカゲにしては率先してやってくれるじゃないか。それ以上の家事は必要ないだろ?」
稔はのんびりと言った。
蝶子はここエッシェンドルフでは家事などをしてはならない。あくまで男爵夫人でいなくてはならない。それは世間的な建前の話だけでなかった。稔がこのことを理解したのは、例の葬儀の後の相続ならびにヴィザの再取得などで四人が一ヶ月近く滞在したときの事だった。
【小説】大道芸人たち 2 (7)ミュンヘン、事務局 -4-
無理矢理読ませて置いて、こんなことを書くのは申し訳ないのですが、長編小説を連載していると、どうしてもあまり面白くないパートというのが出てきてしまいます。この章もそんな部分の一つです。内容的には、後ほど重要な展開に必要なファクターが結構入っているし、もともとの「こんな設定あり得ないでしょ」を少し「現実でもあるかな」と錯覚していただくための記述がたくさん入っているのですが、どうしても「だからなんなの?」と思ってしまうような内容になります。すみません。
さて、今回は前回の続き、「蝶子はここエッシェンドルフでは家事などをしてはならない。あくまで男爵夫人でいなくてはならない。それは世間的な建前の話だけでなかった。稔がこのことを理解したのは、例の葬儀の後の相続ならびにヴィザの再取得などで四人が一ヶ月近く滞在したときの事だった」という記述の説明からです。
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(7)ミュンヘン、事務局 -4-
冬で外ではあまり稼げなかった事もあり、ブラブラしているのに飽きた稔はヴィルに車の練習をしたいと頼んだ。日本ではよく運転していたが、ミュンヘンでドイツの免許を取得すればヨーロッパ中のどこに行っても運転できる。
ヴィルは運転手のトーマスに指導を頼んだ。仮免許運転者には横で指導する同乗者が必要なのだ。稔は言葉の壁も乗り越えて、かなりすばやくヨーロッパでの運転ルールを覚え、免許を手にした。
蝶子が車のいる買い物が必要になったときなどに、一緒に運転していくと申し出たが、ヴィルは首を振った。
「ここではだめだ。運転はトーマスの仕事だ」
「なんでだよ。トーマスを顎で使うのはお蝶だって氣が引けるだろ」
「そうであってもだ。いいか、トーマスは運転手として雇われているんだ。仕事にプライドを持ってね。俺だって、そこまで行くなら自分で運転した方がいい。だが、そんなことをしたらトーマスが暇を持て余す事になる。給料さえ払っていればそれでいいって問題じゃないんだ」
稔は納得した。ただでさえ、ヴィルがいないときはトーマスには本来の仕事がなく、マイヤーホフやマリアンたちを必要な所に送迎するか、他の事をして過ごしていた。
館には多くの使用人たちが、それぞれの仕事を持っていた。稔や蝶子が何もかも自分で出来るとしても、それに手を出す事で他の使用人たちの領分を侵す事になる。だから蝶子もここでは炊事や洗濯などをしてはいけないのだった。
蝶子は、「家事は必要ない」という稔の示唆を理解していたが、敢えてその事には触れなかった。その代わりにちゃかして笑った。
「メンバーを叱咤して皿洗いをさせる能力もあるわよね」
その一方で、稔はマリサの事を考えていた。
マリサはマリアンと同じような立場のイネスの娘でありながら、この話を聞いても自分がマリアンに家事を習いたいなどとは決して言わないであろう。
イネスは父親のいないマリサに不自由な思いはさせたくないと、カルロスのもとで身を粉にして働きながらマリサを簿記の学校に通わせたのだ。
マリサは同級生の様に子守りのバイトもした事がなければ、家事手伝いもした事がなかった。
彼女は怠惰な娘ではなかった。言われた事には素直に従うまじめさもあった。けれども、どこか受け身だった。蝶子のように豪奢な館での暮らしから一足飛びに大道芸人になるような度胸と強さもなければ、ヤスミンの自分に必要な事を吸収しようとする貪欲な機敏もなかった。
稔はマリサのはかなげで素直な所が好きだったが、弱く他力本願な性格を物足りなくも思っていた。
今までつき合った、多くの女の子がそういうタイプだった。それに対峙していたのは、永らく遠藤陽子だった。陽子は何もかも自分の腕でつかみ取った。三味線の腕前も、クラスで一番だった成績も、書道での一等賞も、近所のおじさんおばさんの評判も。
ずっと男だけが独占していた、高校の生徒会長の座も、陽子はほれぼれする選挙演説と周到な根回しで勝ち取った。そんな多忙な年のバレンタインデーに陽子が焼いてきたチョコレートケーキは、稔が当時つき合っていた沢口美代の持ってきた特徴のないチョコレートクッキーの数倍美味しかった。
陽子は本質的には稔のつき合ったどの女よりも尊敬を持てる、好ましい存在だった。けれど、稔はそれを認める訳にいかなかったので、苦々しく思っていた。
陽子のとげとげしい口調と、強い光を宿す負けず嫌いな瞳を思い出す。蝶子のカラッとした冷たさと違い、陽子には粘着質の冷たさがあった。いや、むしろ、陽子の心は熱く燃えていたのかもしれない。なぜ自分と恋仲になりたがったのだろうと、稔は思った。お蝶と築き上げてきたような色恋抜きの堅い友情、それをあいつと結べたなら俺は生涯あいつといい関係でいられたのに。
「今度は、そっちが考え込んじゃっているわけね」
蝶子の声で稔は我に返った。
頭を振ると、話題を変えた。
「再来週は、バルセロナだよな。俺、少し三味線を練習して来る。『銀の時計仕掛け人形』やるんだろ?」
蝶子はうんざりした顔をした。
「また、あれをやるの? グエル公園の常連たちに見つかると、一時も休めなくなるんだもの、嫌になっちゃうわ」
「いいじゃないか。男爵夫人生活でなまった体もしゃきっとするぞ」
【小説】大道芸人たち 2 (8)リオマッジョーレ、少女 -1-
今回の登場する少女のエピソードは、実は2014年の「scriviamo!」で発表した外伝として生まれました。そして、第二部が書き終わっていなかったので、彼女が本編にも組み込まれることになったのです。この外伝が生まれたきっかけは、limeさんにいただいた一枚のイラストでした。
交流からストーリーが大きく変わることは本当に珍しいのですが、こんな風にたまに起こります。もしこの外伝をご存じなかったら、ぜひこちらからどうぞ。

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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(8)リオマッジョーレ、少女 -1-
ジェノヴァ滞在中に海の見える店で食事をしようと言い出したのは蝶子だった。
「この間みたいな、ぼったくりはごめんだぜ」
稔は疑わしげに言った。
「わかっているわよ。でも、せっかく海の街にいるんだから、今日くらいいいでしょう?」
蝶子は言った。だが、ジェノヴァのような大きい街で、海岸沿いのリストランテなどに行くと割高になるのは必至で、さらに外国人だと見るとメニューを隠して通常よりも高い値段を吹っかけてくるのは、その手の観光エリアに多い。
「少し観光エリアから離れていて汚いエリアですけれど、地元民が通う店を一つ知っていますよ」
レネが言った。
「マジか? そこ行こうぜ」
稔が身を乗り出し、蝶子やヴィルももちろん反対などするはずがなかった。レネが随分昔に行ったトラットリアは、海が見えるといっても、いくつもの家の壁の間からわずかに覗いている程度で、外装はもとより内装も全く観光客を惹き付けようとする意欲は感じられなかったが、本当に地元民で溢れかえっていた。看板の代わりに漂ってくる魚を焼く匂いに四人の足は速まった。
白ワインはいくつか選択肢があったが、メニューは二種類くらいしか選べなかった。
「今日は、シーフードリゾットか、カジキマグロだね」
太った親父が言い、蝶子とレネはカジキマグロを、残りの二人はリゾットを選んだ。
脂の載ったカジキマグロと、完璧なアルデンテのリゾットは、四人をしばし沈黙させた。もちろんすぐにワインをお替わりして、いつものごとく楽しく騒いでいたが、不意に蝶子がカジキマグロを見ながら黙った。
「あの女の子、どうしたでしょうね」
蝶子の代わりに、レネが言った。何の話をしているのか他の二人もすぐにわかった。
もう半年以上前になる。四人がはじめてチンクェ・テッレに行った時のことだ。リオマッジョーレという街に一日だけ滞在した。そして、四人はパオラに遭ったのだ。
少女は八歳だったが、それよりもずっと小さく見えた。栄養が足りていないのだろう。海辺の街で母親と暮らしているといえば聞こえはいいが、母親は家事を放棄してまともに帰っていなかった。食べるものがなくなると母親の勤めるバーへ顔を出しては菓子パンなどをもらうのが常だったが、そんな食生活でも栄養失調になっていなかったのはバーの隣でリストランテを経営するジュゼッペおじさんが見かねて残りものを包んでやっていたからだ。
そんな生活の中でも生き抜いている少女は、大きくなったら自分の力でこの街を出て行きたいと言っていた。蝶子はそんな少女に自分の子供の頃を重ねていた。彼らにとってあっという間の半年も、子供にとっては氣が遠くなるほど長いこともよく憶えていた。あの子は半年前にカジキマグロをおごってくれた彼らのことを思い出しつつ、大人になるまでの長い辛抱の日々を堪えているんだろうか。
「そんなに遠くないし、行くか、リオマッジョーレ?」
稔がワインを注ぎながら言うと、レネは即座に指を立てて賛成の意を示した。
「ジュゼッペおじさんの所は間違いなく飯も酒もうまいしな」
ヴィルが続ける。
「いいの? そろそろミュンヘンに行かないと」
蝶子が訊くと、ヴィルは首を振った。
「マイヤーホフが連絡して来たよ。明後日のアポイントメントは延期になったそうだ。二日くらい予定を延ばしても問題ない」
チンクェ・テッレはユネスコ世界遺産にも登録されている。色鮮やかな家々が可愛らしい五つの漁村。車の乗り入れは禁止されているので、ラ・スペツィアから電車に乗って訪れる。リオマッジョーレは、もっとも五つの中では大きい村だが、それでも見るべき所と言ったら広場が一つあるぐらいだ。
その広場にジュゼッペおじさんのリストランテはある。小さいアパートメントホテルも経営していることを前回訊いたので、電話をしてみると幸い一部屋空いていた。駅から直行すると、ジュゼッペは太った体を揺するように笑って言った。
「ああ、あなたたちでしたか。よく憶えていますよ。ようこそ。今夜はいいカジキマグロが入ったんですよ」
蝶子は、苦笑いすると訊いた。
「パオラはどうしていますか?」
「相変わらずですよ。先月、あの子の母親が男と失踪騒ぎを起こしましてね。振られて帰ってきてから二週間くらいはあの子と一緒にいたようですが、ここ数日はまた放置しているようですね」
「ここに来るんですか?」
「お腹がすいてしかたない時はあそこの低い塀の上に座ってこちらを見てますんでね。何かを見つくろって持っていってやります。いっその事引き取った方がいいのかとも思いますが、母親が隣の店にいますからねえ」
蝶子は、鞄を開けて財布を取り出そうとした。ヴィルが手を置いてそれを止めた。訝しげに見つめる彼女を短く見つめてから彼はジュゼッペに言った。
「差し出がましいとは思うが、毎月、代金を送るので彼女に毎日一回は暖かい食事を食べさせてやってくれないだろうか」
「旦那がですかい?」
「ああ、口座でも小切手でも都合のいい方法を指定してほしい。それに、他にも援助が必要そうだったら報せてほしいんだ」
「でも、それだったら母親に……」
蝶子は首を振った。
「そんなことをしたら、あの母親はそのお金を男に貢いでしまうわ」
「あんたの言う通りだね、スィニョーラ。わかりました。引き受けましょう。おや、ちょうど来たぞ」
【小説】大道芸人たち 2 (8)リオマッジョーレ、少女 -2-
全くの余談ですが、私はチンクェ・テッレには二度行っています。一度は春、それから日本の友人に同行を頼まれて真夏にも行っています。本来のチンクエ・テッレらしさ(美しいけれど素朴な漁村)に近かったのは、春でした。観光シーズンでないので、土産物屋などの多くが閉まっていましたが、その分素朴で静かな趣がありました。夏は、えーと、修学旅行シーズンの京都三年坂みたいな……。特にユネスコ世界遺産になってしまってからは、ますますその傾向が強まったでしょうね。
自分自身が旅好きで、世界の素敵なところに行ってみたいと思うタイプなので、文句は言えないのですけれど、ひなびた春のチンクェ・テッレに行けただけラッキーだったと思うべき……ですかね。

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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(8)リオマッジョーレ、少女 -2-
ジュゼッペの視線を追うと、道をとぼとぼと歩いてくるパオラが見えた。半年前より少し背が伸びたようだ。体に合わない窮屈なワンピースを着ている。母親のいるバーへ行こうか迷っているようだった。そして、思い詰めたようにジュゼッペのリストランテの方をみやって、四人に氣がついた。
「蝶子お姉さん! レネお兄さんたちも!」
半年前に出会い、この店に招待してくれた蝶子たちのことを忘れていなかったのだ。
「元氣だった?」
蝶子が訊くと、彼女は大きく頷いた。
「またここを通ったのね」
「パオラに逢いに来たんだぞ」
稔が言うと「本当?」と顔を輝かせた。
「もし君に他の予定がなかったら、今夜また僕たちとご飯を食べてくれませんか」
レネが言うと、彼女はとても嬉しそうに笑った。
パオラはアジを丸々一匹食べた。いつも一人で食事をするために上手くフォークとナイフを使えない彼女に、稔が魚の食べ方を丁寧に教えてやる。
「そうだ。まず真ん中からまっすぐナイフを入れる。そうすると、ほら、身と骨が楽に離れるだろ。うん、そして、上の身を綺麗に食べ終わったら骨をこうやってすーっと取る。ほら、残りの下の身がでてきた!」
「こんなに子供の扱いが上手いなんて知らなかったわ」
子供の扱いは全く得意でない蝶子が感心して眺めた。
「まあな。うちには三味線の弟子がわんさか出入りしていてさ。稽古の間だけわざわざベビーシッターとか頼めないだろ。だから連れて来ることもある。そうやって音に馴染んだのが次の世代の弾き手になることもあるしさ。で、若手やジュニア組が幼年組の面倒を看るんだ。弟子が稽古を見てもらっている時に、俺もよくその子供の相手をしたよ」
「へえ。何が役に立つかわからないものね」
食事が終わると、一行はパオラと一緒にリオマッジョーレの街を歩いた。といってもとても小さいのでいくつかの観光客向けの土産物屋の他にはほとんど見るものもない。ある店のウィンドウ前で蝶子は足を止めた。子供のマネキン人形が、少し色褪せた祝日用のワンピースを着ていた。パオラは、ウィンドウから眼をそらした。望んでも手に入らないものは見ないようにしているようだった。
蝶子は快活に言った。
「ここ、入りましょう」
戸惑うパオラの後ろからレネが「ほら、行こう」と背中を押した。
色とりどりのかわいらしい子供服に、パオラの瞳は輝いた。女物の服に全く興味のないヴィルと稔は、所在なさげに入り口付近で待っていたが、蝶子とレネは、あれこれと話しかけながらパオラに似合う服を選んだ。
一つは、祝日用の白いワンピースで、沢山のフリルと桃色サテンの太いリボンベルトがついている。それから明るい色合いで着心地のいいTシャツを数点。それに、デニムのキュロットスカート。パオラの母親は家事を放棄してほとんど片付けないので、娘の衣装が増えたことに氣がつくか疑問だが、それでもワンピース以外はできるだけ今着ているものと変わらないデザインのものを選んだ。
「すぐに大きくなるから、長くは着られないかもしれないけれど、次にここに来る時にまた新しいのを買ってあげるからね」
蝶子が言うと、パオラは首を傾げた。
「どうして、そんなによくしてくれるの?」
「どうしてかしらね。多分、私もおしゃれが好きだから、かしら」
そう答える蝶子にレネは嬉しそうに微笑んだ。
「行ってよかったですよね」
ミュンヘンに向かう電車の中で、レネは蝶子に話しかけた。
「そうね。どうしているのか想像だけして、何もできないのって落ち着かないもの」
「これからは堂々とあのリストランテの店主に様子を訊けるしな」
ヴィルは、ジュゼッペおじさんのリストランテの連絡先を携帯電話に登録した。エッシェンドルフを継いですぐに、ヴィルは携帯電話を持つようになった。数日に一度カルロスの所に連絡を入れるだけでは済まない用件も多くなったからだ。
『La fiesta de los artistas callejeros』の事務局長として、稔もようやく携帯電話を契約したばかりだ。蝶子とレネは、今のところ必要を感じないので、持たずに行動しているが、こうした小さな変化は、四人の暮らしのあちこちに見られた。
見ず知らずの少女の人生に関わることなど、かつては考えられなかった。それまでの生活の全てから逃げ出してきた四人は、ここ数年、自分のことだけをする大道芸人のその日暮らしを心から楽しんだ。それは、それぞれの人生をリセットするためには必要な過程だった。どこにも所属することのない自由な日々だ。
やがて、行く先々に馴染みの場所ができて、ルーティンとなる仕事を持つようになった。そして、新しくベースとなる場所が生まれ、新しい責任も生まれた。自由は減ったが安心と、それから自由になる財産が増えた。そのことにより、自分以外のものに目を向ける必要と余裕が生まれた。エッシェンドルフの使用人たちの生活と業務を顧み、新しい仕事と責任をやり甲斐を持ってこなすようになった。
加えて通りすがりだった弱い存在に目を向ける余裕も生まれてきたということだろう。
親から冷たい仕打ちを受けるあの少女には、心の支えとなる存在が必要なのだ。強く生きて、やがて子供の頃の境遇を笑い飛ばせるようになるまで、永遠とも思える時間を過ごすためには「誰かが自分のことを考えてくれる」と感じる瞬間を噛みしめられるべきだ。
変わっていくのも、悪くない。窓の外を上機嫌で見つめる蝶子に、レネは嬉しそうに微笑んだ。
【小説】大道芸人たち 2 (9)ミュンヘン、『Éxtasís』
でも、その本番の前に、このシーンを挟んだ方がいいと判断し、急遽、章の順番を入れ替えました。独立したシーンなので、どこへ入れても良かったんですけれど……。
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(9)ミュンヘン、『Éxtasís』
「お。これ、一度弾いてみたいと思っていた曲があるぞ。かけてもいいか?」
エッシェンドルフの館のサロンでCDの並ぶ棚をあさっていた稔が、言った。
月に一度、数日間ではあるがミュンヘンに戻る生活に四人は慣れてきた。
この館にいる間、ヴィルはほとんどの時間を秘書のマイヤーホフの打ち合わせで過ごし、蝶子は執事のミュラーや家政婦のマリアンと館の家政について話すことになった。その間、稔とレネは、『La fiesta de los artistas callejeros』の事務手続きのことに集中した。
夕食後には、サロンに集まり、曲を合わせたり、今後のことを相談したり、もしくは今晩のようにただワインを傾けながら百科事典を広げたり好きな曲をかけて寛ぐのだった。
人の蔵書やCDの棚というのは面白い。自分ではなかなか手の出ないジャンルや作者または演奏家の作品を発見し、新たな興味の対象になることがある。レネはと稔は最近、エッシェンドルフ教授の様々なコレクションにちょくちょくと手を出していた。
「今さら訊くまでもないでしょ。どうぞ」
そちらを見もしないで蝶子が言うと、早速、稔はCDを取り出してプレーヤーに収めた。
「何の曲ですか?」
レネが覗き込む。稔は「これ」と、ケースをぽんと渡した。
「ああ、ピアソラ。タンゴですね。ああ、思い出しますねぇ、バレンシア」
レネは嬉しそうに言った。初めて一緒にバレンシアに滞在した時に、稔がレネのリクエストでピアソラをリクエストした。ヴィルが蝶子とタンゴを踊り、それまで隠していた素性を明かすきっかけになったのだ。
稔は、プレーヤーを操作しながら曲を探していた。
「『Éxtasís』は、ああ、これか。これをアレンジしたデュオの曲があってさ。ギターとフルートで演奏したいなと思っているんだけれど、その前に原曲をちゃんと聴いてみたいと思ってさ」
「バンドネオンと……ヴァイオリンですね。ギターとフルート? どんなアレンジになっているんだろう」
レネはケースの曲目リストを見ながら言った。それからほかの二人が静かなことに氣がついて目を移した。
ヴィルは、蝶子の方を見ていた。曲が始まると体を強張らせて俯いていた彼女の表情は険しくなっていった。まるで拷問を受けているかのようだった。
「蝶子? どうした」
稔もその様子に目を留めて言った。
「やめようか」
彼女は鋭く答えた。いつもよりさらにきつい調子で。
「そのままにしておいて!」
蝶子は立ち上がると、ヴィルの所ヘ行き、その手を引っ張った。強引とも言えるほどの激しさで。
「踊って」
「え?」
「いますぐ私と踊って。上書きしなくちゃいけないの」
上書き。その蝶子の言い回しを三人は久しく耳にしていなかった。思い出したくない記憶を、別の記憶で上書きする。かつて彼女が上書きしていたのは、エッシェンドルフ教授に刻まれた愛憎に満ちた日々のことだ。
蝶子にアルゼンチン・タンゴを教えたのも、エッシェンドルフ教授だった。長い時間をかけてただのダンスではなく、人生の悦びや愛の苦悩が表現できるほどに、教え込んだ。この館の、このフロアで。
そして、この曲は他の曲とは違っていた。
あの頃の蝶子は教授の誘う肉体的快楽の世界に溺れていたが、まだそれでも心の中は醒めていた。彼は、蝶子に必要な存在、彼女が何よりも望んだフルートを続けさせてくれる、それも彼女が必要としていた高みへと連れて行ってくれる最高の教師だった。婚約した後だったが、彼が多くの女性と浮名を流してきた存在であることも、蝶子にはどうでも良かった。彼の真心も期待していなかった。
けれども、この曲を教え、踊りながら彼が見せた情熱は、それまでとは違っていた。
それまでほとんど言わなかった愛の言葉を、彼は耳元で繰り返した。それは蝶子には突き刺すような痛い言葉だった。契約でも、躯の欲望の解消でもなく、一人の男が全情熱をかけて彼女の魂を欲している。それは、冷たい結婚を決意した愛のない蝶子にはつらく重すぎる想いだった。
もしかしたら、彼女がこの館から逃げ出したのは、亡くなったヴィルの母親マルガレーテのためでもなく、自由でいたいからだけでもなく、ハインリヒのあの想いから逃れたかったかもしれない。
『Éxtasís』が流れる度に、彼の言葉が甦る。もうこの世にいなくなってしまったハインリヒの、彼女が利用して、逃げだし、多くの人の前で拒絶した男に対する罪悪感が彼女を締め付ける。
彼は、父親の愛を知らなかった蝶子に、父親として、教師として、そして男としてありとあらゆる愛を注いでくれた。それは確かに心地よかったのだ。愛することは出来ず、憎みすらした男だったが、死んでほしいと願っていたわけではなかった。
蝶子の「記憶の上書き」は上手くいかなかった。ヴィルはそんな蝶子の心の内が全てわかったわけではない。だが大方の予想はついた。彼女はいつものように虚勢を張っていた。
「蝶子、我慢するな。俺に遠慮せずに泣いていいんだ」
その言葉を聞いて、彼女は踊るのをやめた。それからヴィルの胸に顔を埋めて、震えだした。彼は黙って彼女を抱きしめた。
稔とレネは、黙って二人を見つめていた。
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【小説】大道芸人たち 2 (10)バルセロナ、フィエスタ -1-
大して長くはないんですけれど、一応二つに切りました。キリもよかったので。
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(10)バルセロナ、フィエスタ -1-
大道芸人の祭典に参加する大道芸人なのに、なんでこんな格好をしているんだろう。稔は首を傾げた。これはレストランで働くときの一張羅だ。レネや蝶子がいつもの大道芸人モードの服装なのでよけい腹立たしかった。しかし、開会宣言とテープカットをカルロスと一緒にやるためには、多少はったりのいった服装が必要だった。ちくしょう、この後すぐに脱いでやる。
ふと横を見ると、やはりスーツに身を包んだヴィルが視界に入った。芸術振興会の理事たちのスノビズムを満足させるドイツの男爵様の役目を果たしているのだ。
目をさらに遠くに飛ばすと、手を振っている園城真耶がいた。大道芸人の祭典に出演するにふさわしいとはいえないが、押し売りの飛び入り参加だ。その真耶の横には日本のテレビ局のクルーがいて、真耶の姿と、舞台の上の稔を録画している。
蝶子に真耶からの電話が入ったのは一週間前だった。
「ねえ、蝶子。あなた来週スペインにいる?」
「いるわよ。どうして?」
「私、月曜日にマドリッドで演奏会なの、よかったら会いにこない?」
「死ぬほど残念だけど、その週はバルセロナを一歩も動けないのよ」
「どうして?」
「火曜日から、『La fiesta de los artistas callejeros』って大道芸人の祭典が開かれるの」
「まあ、そういう祭典があるの? 知らなかったわ。いつもバルセロナで開催されるの?」
「いいえ、第一回の今回はたまたまよ。メインの協賛者がバルセロナにいるから」
それを聞いて、真耶の声のトーンが変わった。
「ねえ、その祭典って、誰が中心になって組織しているの?」
「『La fiesta de los artistas callejeros』事務局よ。国際色豊かな集団なの」
「たとえば、ドイツの男爵とか?」
「そうね。でも事務局長は日本人なの」
「三味線を弾く、大道芸人?」
「よく知っているわね」
真耶の声は激昂した。
「蝶子! どうしてそういう大切な事をいつも私に黙っているのよ」
「別に隠していた訳じゃないわ。でも、真耶の活動とは被らない事だし、それに今回は第一回だから結構小規模なのよ。あらかじめ知らせるほどの事でもないじゃない? 無事に終わったら葉書にでも書こうかと思っていたのよ」
「つべこべ言うのはよして。とにかく、演奏会が終わったら、私も駆けつけるから」
駆けつけてきたのはいい。飛び入りでヴィオラを弾いてくれるのも悪くない。稔は思った。
「だけど、なんでテレビ局が一緒にくるんだよ」
「だって、密着取材の最中なんですもの。一緒にバルセロナで取材させてくれるなら、マドリッドからの往復も局が持ってくれるんですって。フィエスタの宣伝にもなるし悪くないでしょ?」
そりゃ、フィエスタのためには願ってもない宣伝だよ。だけど、園城よ、俺とお蝶が日本の家族に居場所がわからないようにしている身だって事、忘れていないか?
稔は半ばやけっぱちで、テレビカメラの前でフィエスタに対する意氣込みを語った。テレビ局は真耶に紹介されたヴィルと蝶子がドイツの男爵夫妻だという事を知って、大喜びでインタビューをした。
「なんだか、思ってもいない事になっちゃったけれど、ま、いいわね。うちの家族や安田流の方々が真耶の密着取材の番組なんか観る訳ないでしょうし」
蝶子は肩をすくめた。
「日本の大道芸人もそういう番組は観ないかもしれないぞ」
ヴィルが冷静に言ったが、稔は首を振った。
「いや、俺はどっちかというと、協賛金集めに役に立つかなと思ってさ」
「あら、じゃ、私が帰ったら、局のお偉方に吹き込んでおくわよ。そのうちに日本でやれば?」
真耶はニコニコと笑いながら言った。
四人は顔を見合わせた。考えた事もなかったが、いつかは『La fiesta de los artistas callejeros』を日本でも開催できるかもしれない。
「じゃ、またあのお餅を食べられるかもしれませんね」
レネの心は既に日本の甘味処に飛んでいた。
【小説】大道芸人たち 2 (10)バルセロナ、フィエスタ -2-
さて、今回の『La fiesta de los artistas callejeros』で四人が披露した音楽は、第一部の執筆当時に私が聴きまくっていたクロード・ボリング(ボーラン)の『ピクニック組曲』でした。この人の音楽にはよくフルートが使われるのですけれど、アルバムで演奏しているのはジャン=ピエール・ランパル、日本の童謡のアルバムを出す親日家です。もちろんそのアルバムも買ってしまった私です。脳内では、勝手に蝶子やヴィルのヴィジュアルで演奏を聴いてしまうあたりが、またイタいんだな、これが。
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(10)バルセロナ、フィエスタ -2-
五日間続くフィエスタは、最高の天氣に恵まれた。会場にはたくさんのテントが張られ、メインステージでは各国からの芸人たちによるショーが次々と繰り広げられている。
Artistas callejerosはグエル公園の常連たちの歓声のもと『銀の時計仕掛け人形』を披露し、また別の日には彼らのもう一つの顔であるレストランでの演奏をメインにしたショーも披露した。メインステージにはピアノやドラムが用意されて、真耶をはじめとする音楽家たちの演奏も喝采を浴びた。ジャズやマリアッチやブラスバンドの楽団が楽しげにバラエティ豊かな音楽を響かせ、馬乗りの少年たち、火吹き男、コントーションの少女たちに人々は驚愕の叫びをあげた。
ほかのテントでは、タパスや軽食、セルベッサなどを人々が楽しみ、その周りではステージにすぐに立つ必要のない芸人たちが勝手に芸を披露しては人だかりを作っていた。
四人がこの半年に出会って声を掛けてきた多くの芸人たちが参加してくれていた。また、たくさんの参加者から「あいつらにきいたんだ」といわれ、大道芸人たちの口コミの力を思い知らされた。
「次はいつやるんだ? ヨーロッパでやるなら、どこへでも行って絶対に参加するからさ」
稔は、次回が出来る確信を得て嬉しそうに頷いた。
「半年以内には決定する。インターネットのサイトはここだ。ここで告知するから。事務局はミュンヘンで、俺の携帯にかけてくれてもいいけれど、このメールアドレスの方がいいかな」
定住者ではなく、しょっちゅう国境を越えているもの同士で連絡を取り合うのはかなり難しい。
「あの、ちょっと、いいですか?」
おずおずと声を掛けてきたのは、雲をつくような大男だった。蝶子はふりむいてぎょっとした。
「はい、なんでしょう」
「さっき、ボリングを三重奏していましたよね」
見かけと英語の発音から察するにスカンジナビア人のようだ。背中を丸くして、居心地悪そうな様子で話しかけるので、どんな文句がでるのかと蝶子は身構えた。
「ええ。『ピクニック組曲』から……」
「その、僕は、ダブル・ベースを弾くんです。でも、なかなか合奏する機会がなくって。ボリングはピアノ・トリオのための音楽をたくさん書いているから、もしかしたらダブル・ベースが必要になる事ないかな、って……」
蝶子は目を丸くした。男は、慌てていった。
「いいんです。言ってみただけですから。こういう祭典に行けば、もしかしたらそういうメンバーを探している人もいるかもしれないなと、思っただけなんです」
そういって踵を返し、丸い背中をさらに丸めて立ち去ろうとした。
「お、おい、待てよ!」
横にいた稔があわてて声を掛けた。
蝶子も我に返って笑った。
「まだ、あなた、自分の名前も言っていないわよ」
びっくりして振り向いた男は、その弾みに自分の右足に左足が絡み付いて、転びそうになった。そして、ばつが悪そうに笑いながら言った。
「すみません。ヘイノ・ビョルクスタムって言います。ノルウェー人です」
「で、普段はどこにいるの?」
「夏はノルウェーで仕事をします。冬になると、南ヨーロッパをまわっているんです。太陽が全然あたらないと、精神的に不安定になるんで」
「へえ。それで、本職は?」
「コントラバス弾きですよ。オケで弾いたり、室内楽に誘ってもらったり、ジャズ・バーで働いたり、いろいろやってます」
「ボリングは弾いた事あるの?」
「ええ。といっても、『室内楽のための組曲』しか、舞台では弾いた事ないんです。でも、それで好きになったんで、個人的に楽譜を取り寄せたりしました。楽譜があれば、すぐに弾けると思いますよ。お氣に召すかは保証できませんけど……」
稔は笑って言った。じゃあ、今晩、もう一回『ピクニック』やるから、その時に加わってみろよ、いいだろ? テデスコ」
ヴィルは黙って頷いた。ヘイノの顔はぱっと明るくなった。
「ところで、ドラマーもそうやって寄ってくるともっといいんだけどな」
稔が周りを見回した。今のところ、ドラマーは申し出てこないようだった。
【小説】大道芸人たち 2 (11)セビリア、弦の響き -1-
私自身はセビリアには三度ほど行っています。大きな街で、数日ではとても見て回れないのですが、実はあまり長く滞在したことがありません。ここから三十キロほど離れたカルモナには合計で数週間滞在しているのですけれど。
いずれにしてもアンダルシアは異国情緒にあふれる所です。Artistas callejerosの四人にとっても重要な場所になっているようです。皆さんお忘れになっていると思うので付け加えておきますが、今回出てくるマリア=ニエヴェスという女性は、第一部で出てきたヒターナ(ジプシー)です。四人のパトロンであるカルロスの精神的よりどころでもある魔女みたいなお婆さんですね。
この章は少し長いので三回に分けています。
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(11)セビリア、弦の響き -1-
マリア=ニエヴェスのタブラオ『el sonido』で、ミゲルと一緒に弾きまくったので、稔はすっかりフラメンコの光と影に染まっていた。あまりに強く叩いたので、表板が壊れるかと思った。そろそろフラメンコ用に別のギターを用意すべきかもしれない。
「顔つきが変わっていますよ」
レネが、こわごわと覗き込み、その様子を見て蝶子が笑った。
「放っておきなさいよ。そのうちにセビリアでなくてもフラメンコ・モードに瞬時に入れるようになれば、戻ってくるのも簡単になるわよ」
そういって、バッグを探ると家の鍵を取り出してドアを開けた。カルロスのセビリアの別荘に来るのも久しぶりだった。
セビリアに再び行きたいと言い出したのはレネだった。カルロスの前妻、あのエスメラルダとの事を氣にして、他の三人はあれからセビリアで稼ごうと言うのを控えていた。
稔がフィエスタの待ち時間に思い出したかのように『ベサメ・ムーチョ』をミゲルに習ったように弾いていると、ヴィルが手拍子を取り出した。蝶子はやはり、あの時のマリア=ニエヴェスの踊りをまぶたの裏に描きつつ、ゆっくりと腕を伸ばしていった。蝶子の優雅な動きは、周りの人々の関心を買い、ヴィルに合わせて手拍子を叩きだすスペイン人たちが現われた。稔の『ベサメ・ムーチョ』は『セビリジャーナス』に変わった。観客の中から何人もの男や女たちが輪の中に入ってきて、みんなで踊りだした。レネはその様子をヤスミンの手を握りながらじっと見ていた。
フィエスタが終わり、次の行き先をどうしようかという話になった時に、一番に口を切ったのがレネだった。
「セビリアに行きたくありませんか」
「行きたいのか?」
稔がぎょっとしたように訊いた。
「僕、もう大丈夫だと思います。もし、みんなが行きたいなら、僕もまた行ってみたいです」
そういって『ベサメ・ムーチョ』を呑氣に歌いだしたのだ。
他の三人はほぼ同時に人差し指を挙げ、賛成の意志を示し、あまりにもそれが同時だったのでおかしくて笑い出した。それが決定だった。四人はセビリアを目指したのだ。
稔はずっとセビリアに来たかった。というよりは、再びマリア=ニエヴェスのタブラオに来たかった。
スペインにいる事が多くなるほどに、フラメンコの響きが稔の中に居座り始めた。不思議な事に、スペインを一歩出るとその存在はカーテンが揚がるように消えてしまう。けれど、再び国境を越えて周りがスペイン語を話すようになり、バルに通い詰めると、妙に落ち着かなくなる。
それは八月の最後の週になっているのにまだ宿題に手を付けていない小学生のような、後ろめたい感覚だった。あの音を自分のものにしなくてはならない、ミゲルが弾いて聴かせた、あの晩、わずかにつかみ取れそうで、翌日には掻き消えてしまっていた、あの音を。
「セビリアにいる間、俺は毎晩あそこに通うから」
バンの中で、ハンドルを切りながら稔は宣言した。
「あそこの酒は美味かったからな」
後部座席からヴィルが短く答えた。一緒について来るという意味だ。
「だけど、ギョロ目の別荘で飲むより高くつくぜ」
「だから、朝寝坊は禁止よ。昼間にたくさん稼がなくっちゃ」
蝶子が助手席であでやかに笑った。
「イダルゴの恩人のお店の経営に貢献するんだから、ちょっとは恩返しになりますよね」
レネも言った。
実際に恩返しになっているかは、はなはだ心もとなかった。というのは、マリア=ニエヴェスは明らかに普通の客の四分の一程度の代金しか請求しなかったからだ。
もっとも稔は二日目になるともうずっと舞台でミゲルと一緒に弾き続ける事を要求された。また、人手が足りなくなると、他の三人はウェイター、ウェイトレスとして使われた。
そのうちにレネは奥に引っ込んで、タパス作りを手伝いだした。イネスにつきまとって台所に入り浸っていたのが役に立ったらしい。
蝶子は魅力的に微笑んで男性客たちに追加注文を促した。ヴィルは普段の無表情が嘘のように甘い言葉を遣うジゴロ風の男を演じ、年配の女性客たちから予定よりも高い酒やつまみを上手に注文させた。
マリア=ニエヴェスは満足そうに頷いた。なかなか役に立つ連中だこと。
【小説】大道芸人たち 2 (11)セビリア、弦の響き -2-
今回登場するキャラクターのことは、第一部を読んでいないとわからないかもしれません。安田(旧姓遠藤)陽子は、稔の幼なじみです。そして、稔失踪の直接の原因となった女性といっても構いません。稔は、彼女と結婚したくなくて逃げ出してしまったのです。その後、彼女は稔の弟、優と結婚して三味線安田流を支えていくことになります。
しかし、陽子の稔への執着はあっさりと消えたわけではなかったようです。
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(11)セビリア、弦の響き -2-
カルロスの別荘に帰り着いたのは午前二時だった。
「じゃあ、明日は少しゆっくりめに、九時にここを出られるようにしましょう」
蝶子があくびをしながら言うと、レネも頷いて階段を上がりだした。
ドアに鍵を掛けて、ヴィルも蝶子の入っていった部屋に向かおうとした時に、電話が鳴った。カルロスだった。
「マリア=ニエヴェスが十五分前に出たと言ったから、今ならまだ寝ていないと思ってね」
「何かあったのか? こんな時間に」
「ドンナ・真耶がヤスくんに早急に連絡を取りたいそうです。時差の問題があるから、明日の晩まで待たない方がいいかと思ってね。電話をするように伝えてください」
「わかった。礼を言うよ」
ヴィルは電話を切ると、まだ上の空の稔を呼び止めた。
「真耶があんたに早急に連絡を取りたいそうだ。これが携帯電話の番号だと」
「俺に? なんだろう」
稔はメモの電話番号を見つめて首を傾げた。
「義理の妹さんが、私の不在中に、ものすごい剣幕で電話をかけてきたらしいの。佐和さんが出て、どうしても安田くんに連絡したいからと伝言を受けたらしいんだけど、なんて言っていいのかわからないでしょ。それでドン・カルロスのところにかけたら、みんなはセビリアに行っちゃったっていうから、本当にどうしようかと思ったわ」
「陽子のやつ、お前の密着取材番組、観たのか……。ごめん、迷惑かけて。明日にでも、安田の家にかけるよ。もし、またかけてきたら、俺から連絡するって言ってくれ」
「わかったわ、こちらこそ、ごめんね。あの番組のせいで見つかっちゃったのね」
「いいんだ。そろそろ、潮時だったんだろ」
電話を切ると、複雑な心境で稔は部屋に戻った。連絡して何を話せばいいんだろう。今さら、なんで大騒ぎするんだよ。義理の妹。つまり、優と首尾よく結婚したんだな。
翌朝、稔が他のメンバーが朝食を用意している間に電話をかけると、他の三人は目を見合わせて黙った。蝶子の真ん前でかけるということは、秘密にしたい訳ではないらしい。
「あ、俺だ、稔」
そういうとしばらく稔は沈黙した。電話の向こうで誰かが騒いでいるらしい。
「そうだ。ヨーロッパからかけている。陽子と話したいんだ」
稔の言葉に、蝶子は仰天した。遠藤陽子! 噂の元婚約者じゃないの。
しばらく待たされた後に、稔の耳に陽子の声が飛び込んできた。
「稔? 本当に稔なの?」
「そうだよ。俺と連絡を取りたいと園城真耶にかみついたのはお前だろ」
「……。かみついたって、ひどい言いようじゃない。あなた何やっているのよ。いつの間にかスペインの大道芸人のお祭の事務局長なんかになっちゃって」
「それが言いたくて、園城に電話したのかよ」
「違うわ。全然違うわ」
陽子は激しく言った。
稔は不思議な氣持ちでいた。遠藤陽子の声だった。かつては自分の家族ほどに近かった幼なじみの、何でも話し合い、ケンカをし、三味線を合わせては競い合った陽子の声だった。二つの受話器は一万キロメートルも離れている。それは今の二人の境遇の遠さをも意味していた。
「園城真耶の番組で稔を見たと家元に、いえ、お義母様に言ったらちっとも驚かなかったのよ。理由を訊いたら、園城真耶を通して弦を稔に送った事があるって、平氣な顔でおっしゃるじゃない。あんまりだわ。なぜ、私に隠すの」
「隠していた訳じゃないだろう。単に言うほどの事じゃなかっただけだ。それより、今さらだけど、おめでとう。優と結婚したんだってな」
聞き耳を立てていた蝶子は目を丸くした。
稔は陽子が息を飲む音をはっきりと耳にした。
「そうよ。ありがとう。私、もう遠藤陽子じゃないの。安田陽子よ。稔の義理の妹なの。だから、稔が逃げている理由はもうないのよ。なぜいつまでもそっちにいるのよ、しかも……」
含みのある陽子の震えた声に、稔は心穏やかでなく答えた。
「しかも、なんだよ」
「何故なの? フルート科の四条蝶子とつき合っていたなんて! 私は少なくともいつも稔に対して正直だったわ。稔が誰と恋愛しようと邪魔した事なんて一度もなかったじゃない! それなのに、私を十年以上も騙していたなんて、信じられない!」
稔は陽子の論理展開に呆れて、しばらく返事も出来なかった。
「俺がいつお蝶とつき合ったんだよ! わけのわかんない事言うなよ」
蝶子は、椅子の上でずっこけた。会話のまったくわかっていないレネとヴィルは困ったように顔を見合わせた。
「いいか、俺はお前に隠れてこそこそ誰かとつき合った事なんかない。大学時代にはお蝶とはほとんど話した事もないよっ。その証拠にあのトカゲ女、コルシカであった時に俺の顔を覚えていなかったんだぜ!」
ずいぶん根に持つじゃない。蝶子はどっちらけという顔をした。
陽子は、稔の剣幕を聴いて、どうやら自分の怒りが誤解だったと悟ったらしかった。
「……。ごめんなさい。だって、ショックだったんだもの。私と婚約していたのに、四条蝶子と逃避行したんだと思ったから」
「ったく、お前なあ、あの番組観たんなら、わかってんだろ。お蝶は仲間の別の男と結婚してんだよっ。俺がその前にお蝶と恋仲だったら、そんな複雑なメンバーの中にいつまでもいる訳ないだろう。第一、お蝶は俺のタイプの女じゃない。俺の事、もう少しわかってると思っていたよ」
「わかっていると思っていたのよ。だけど、全部違ったんだと思ったら、黙っていられなくって。それで氣がついたら園城真耶の家に電話していたの」
陽子は悲しそうに言った。
「なら、もういいだろう。切るぞ。優やお袋によろしくな。お前も、元氣で頑張れよ。安田流をしょって立つんだからな」
「稔! 何言っているのよ。安田流の家元になるのはあなたでしょう。いつ帰ってくるのよ」
「俺は帰らない。俺はもう安田流の人間じゃないんだ」
【小説】大道芸人たち 2 (11)セビリア、弦の響き -3-
テレビ番組に映ったことがきっかけで、幼なじみで元婚約者である陽子と電話で話をすることになった稔。以前のように居所がわからないように隠れる必要はなくなっていますが、逃げてきた手前、帰ることは考えられないようです。
陽子と稔の結びつきについては、これまでほとんど記述してきませんでした。「好みじゃないのに追われていて迷惑」というような単純な存在ではなく、彼にとっては、たくさん付き合ったカワイ子ちゃんよりもずっと大切な人であったと言ってもよかったのです。それでいながら、彼は主に陽子から逃げるために失踪してしまったのですね。この辺りにも彼の分裂した自我の問題が表れているのかもしれません。
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(11)セビリア、弦の響き -3-
蝶子はそろそろいいだろうと思って、小声でヴィルとレネに状況を説明した。二人は黙って目を見合わせた。稔は別れの言葉を言うと受話器を置いた。
振り向くと、蝶子が妙な笑顔で手を振ったので、むっとした顔のまま椅子につき、コーヒーカップを差し出した。ヴィルはコーヒーを注いでやった。
「で、彼女は納得したのか?」
「まあな。誤解は解けたらしい。また園城にガンガン電話したりしないでほしいんだよな」
蝶子は訝しげに首を傾げた。
「なぜ真耶の電話番号を知っていたのかしら? ヤスのお母様は簡単に教えたりなさらないでしょう?」
それを聞いた稔は呆れたように蝶子を見て、それからため息をついた。
「大学時代の名簿があるからだよ。まったく記憶にないらしいが、陽子も俺たちの大学の同窓生なんだぜ? あっちはお前をしっかり憶えていて、それでテレビで見て激怒してんじゃないか。俺たちが当時からこっそりつき合っていて、一緒にヨーロッパに逃げたと思い込んでさ」
蝶子は天井を見上げた。あらあら。遠藤陽子? 邦楽の学生の事なんかまったく記憶にないのよねぇ。
「それは、すみませんねぇ。でも、結婚したんなら、もうヤスにつきまとう事はないんじゃないの?」
「それは間違いないけれど、どうも安田流に俺を戻したいらしい。断った」
稔は、パン・コン・トマテにかぶりついた。レネが塩を稔の前にそっと置いた。塩をふり忘れているのにようやく氣がついた稔は、ムッとしながら塩をかけた。そうとう動揺しているらしい。
何か言いたげだが、あえて何も言わない蝶子の顔を見て、しばらく黙っていた稔は、やがて言った。
「陽子は、俺の弟の優と結婚したんだ。優はいいヤツだが、どう考えても家元の器じゃない。たぶん陽子が安田流の家元になるだろう。あいつは、それが可能な才能を持っている。俺がそれを示唆したら、あいつは俺が帰って来るべきだと言ったんだ。俺は帰らない、わかるだろう?」
三人は目を丸くして、黙って頷いた。
「そうじゃない、その音じゃない」
ミゲルが繰り返す。
el sonidoとは音、響きを意味するスペイン語だ。弦の響きの違いを聴き分ける耳を稔は持っていた。
それを全ての音楽を目指すものが持っている訳ではない事を知ったのは、小学生の時だった。
三味線の稽古の後で、氣になって爪弾いてみた音。音色が変わる。では、こう弾くと? わずかな音色の違いを確かめるように、ゆっくりと弾く。同じような箇所を馬鹿みたいに繰り返してみる。やはり違って聴こえる。では、これは? そんな風に長い時間をかけていると、同じ小学生の生徒たちは、馬鹿にしたような顔をして、さっさと帰り支度をした。
稔は、住まいと稽古場が同じだったので、帰り支度の必要はなかったが、同じ立場の弟の優は、稽古が終わると同時にアニメを観るために二階に駆け上がっていった。稔だけがその場に残り、我を忘れて弦を爪弾いていた。
不意に、違う響きが重なった。はっと振り返ると、稽古場の反対側の角に座った陽子が、稔の音に合わせて弦を響かせていた。陽子にはわかったのだ、稔が何を試しているのか。そして彼女も彼女なりの響きを返しているのだ。稔は、もう一つ別の響きを返した。陽子がついてきた。掛け合った音は、稽古場に響いた。
「うるさいなあ。何をやっているんだよ」
戸口で、優の声がするまで、二人は単純な音の掛合を続けていた。どうやらそれは半時間ほど続いていたらしい。アニメの放送が終わったので優が降りてきたのだ。その声で、二人は我に返った。
「なにやってんだよ。さっきから同じ音ばっかり出してさ」
「全然同じじゃないでしょ」
「同じじゃんか」
稔は陽子と優の噛み合ない会話を聞いて、響きの違いを聴き分けられる人間とそうでない人間がいる事を知ったのだ。たぶん、陽子も同じだった。その日から、陽子と稔は、単なる幼なじみや同じ稽古場の生徒という関係を越えた、心の絆を持ったのだ。
el sonido。違う、その音ではない。
ジプシーの心を表すには、スペインでギターを泣かせるには、日本人でいてはならない。フラメンコギターを弾くには、ジプシーの心を持たなくてはならない。ヒターノの音を響かせなくてはならないのだ。
稔が目を上げると、マリア=ニエヴェスの老獪にして妖艶な顔つきが目に入った。どこかで見たような目だった。とてもよく知っている目だ。冷たくて、残酷なのに、青白く燃え立つヒターナの目。それはフラメンコの魂そのものだった。
el sonido。俺は戻れない、陽子。お前の属している場所は、もう、俺の居場所ではないんだ。俺は安田流の三味線弾きではなくなってしまったんだ。俺は、このタブラオにいる事を、バンを運転してヨーロッパをまわる事を、そして、三人の仲間と生きる事を選んだんだ。
「そうだ。ハポネス。その響きだ」
ミゲルがついに言った。それを耳にした蝶子がそっと微笑んだ。妖艶で残酷な目に強い光を宿して。
【小説】大道芸人たち 2 (12)東京、羊は安らかに -1-
今回でてきている結城拓人というのは、園城真耶のはとこで、私の小説群ではよく登場するピアニストです。学生時代の蝶子とのエピソードは、もしかして初公開かもしれません。誰かさんが偉そうとか、学生の分際で上から目線だとか、その辺の文句は受け付けません(笑)自分でもそう思いますけれど。
今回も二回に分けています。使った曲は、下に動画を貼り付けておきますね。
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(12)東京、羊は安らかに -1-
ゆっくりとバチをあてる。力強い音が稽古場に響く。子供の頃に通い、今は自宅になった安田家の一番大きい稽古場だ。
陽子は、子供のクラスの稽古を終えて、みなが去った後の稽古場に一人座っていた。ここで子供たちを教えるのは、稔だったはずだ。
彼女は昨日の午後の稔からの電話を思い出していた。ずっと稔に逢いたかった。せめて声だけでも聞きたかった。彼の失踪以来、それは不可能だと、呪文のごとく自分に言い聞かせてきたのだ。こんなにあっさりと会話が実現してしまうなんて考えもしなかった。
それなのに、どうしてあんなつまらない会話にしてしまったのだろう。自己嫌悪でいっぱいになった。フルート科の四条蝶子に嫉妬の炎を燃やしたなんて、馬鹿馬鹿しい。
陽子はため息をつくと、稽古場を離れ自室に戻った。窓辺に置かれたレトロなラジオに目を留めてゆっくりと手を触れた。
これはもともと稔のものだったラジオだ。稔がよく聴いていたFM局に周波数が合ったままになっている。陽子はそれを変えたくなかった。稔が帰ってきた時に、そのままであったら喜ぶだろうと思うからだ。
しばらく撫でていたが、やがてスイッチを入れた。室内楽の演奏でバロック音楽が流れる。なんてこと、よりにもよってこの曲! バッハのカンタータ第二百八番。心は大学一年の秋に戻っていた。
「ねえ。稔。これってなんて曲か知ってる?」
陽子は、大学で耳にしたメロディを口ずさんだ。
「バッハだよ。カンタータ二百八。『羊は安らかに草を食み』ってやつだ。お前がバロックに興味を持つなんて珍しいな」
稔は、三味線を手に取ると器用に弾き始めた。
「放課後に、誰かがフルートで練習していたの。どこかで聴いたメロディだなって思って」
陽子は、稔の音色を心地良さそうに聴きながら答えた。稔は手を休めずに言った。
「ああ、それはきっと四条蝶子だな。いつも一人で練習しているらしいから」
「誰それ?」
「フルート科の子だよ」
陽子はきっとなって正座し直した。
「なぜ知っているの? 稔と親しいの?」
「親しくないよ。ソルフェージュのクラスが同じだから知っているだけだ。いつも熱心に学校で練習しているんで有名なんだよ。親に反対されているから家では練習できないって噂だ」
「ふ~ん」
陽子は教室の戸口からかいま見た彼女の怜悧な美貌の事を考えた。稔のソルフェージュのクラスには美人ばかりいるのね。かの有名なヴィオラの園城真耶と同じクラスになったっていうだけだって心穏やかじゃなかったのに。
その次の火曜日に、陽子は再びあのメロディを耳にした。四条蝶子が吹いているんだ。そう思って、陽子は必要もないのに階段を上がり、フルートの聴こえる教室の方に向かった。
すると、向こうから会いたくない人間がやってくるのが見えた。先日からこっちの顔を見ると口説いて来るピアノ科の上級生、結城拓人だ。
「おや、陽子ちゃん。こんな所で会うとは奇遇だね。運命を感じるな」
陽子は冷たく拓人を一瞥した。
「私は何も感じませんが」
「相変わらず冷たいねぇ。今日の授業は終わったんだろ? どう、これから一緒にお茶でも?」
「あなたとお茶をするつもりなんか、まったくありませんから。いつもの取り巻き連中と、お茶でも何でも勝手に飲めばいいでしょう」
「そうやって無碍にされると、燃えちゃうんだよね。ま、いいよ。そのうちに君の考えを変えてみせるからさ」
陽子はすっかり腹を立てて踵を返した。
「待てよ。こっちに用があったんじゃないの?」
「いいんです。フルートが聴こえたから来てみただけ。あなたに会うなんて、本当にゲンが悪い」
振り向きもせずに陽子は足早に立ち去った。もう。なんでクラスメート達はあんなナンパ男に夢中なのかしら。ちょっとばかり顔がよくて有名だからって、ただの女たらしじゃない。
結城拓人は振られて、わずかに肩をすくめたが、陽子の言っていたフルートの音色に耳を傾け、教室の方に行った。いい音色だった。教室の窓から中を見ると、四条蝶子だった。へえ。一年生がこんな音を出すとは、大したものだな。
蝶子は、ドアが開いた音を耳にして、吹くのをやめた。
「いいから、続けて。僕の事は氣にせずに」
拓人は笑って言った。
蝶子は軽く会釈をすると、改めてカンタータをはじめから吹き出した。拓人は戸口にもたれかかったままそのメロディを聴いていた。女たちを口説く時のニヤついた顔ではなく、真剣な面持ちだった。
しばらくすると蝶子は音を止めて、困ったように拓人を見た。
「なぜ止める?」
拓人は目を閉じたまま言った。
蝶子はフルートを握りしめて答えた。
「この教室をお使いになるんじゃないかと思って。私、今日は特別許可を取っていないんです」
「その心配はない。いい音だと思ったから、好奇心で聴いているだけだよ」
「でも……」
拓人は目を開けて蝶子を見た。
「きれいな音だ。メロディやテンポは申し分ない。ただ……」
「ただ……?」
「平和に草を食みっていうよりは、狼がどこかで狙っているのを氣にしている、そんな緊張感があるな」
蝶子は眉をひそめた。
「最悪じゃないですか」
「ふん。ただの学生には違いはわからないさ。教員でもわからないヤツがいる可能性は多い」
「でも、あなたにはわかるんですね」
「それは君の心の問題だろう」
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【小説】大道芸人たち 2 (12)東京、羊は安らかに -2-
蝶子は、きつい性格のため在学中はかなり孤立していたようです。稔はもちろん、今では親友となっている真耶とも、ほとんど口をきいたことがなかった状態で、一人でレッスンに明け暮れていました。
陽子から見た稔の話から、いつの間にか拓人や真耶から見た蝶子のことに飛んでいますが、あとから陽子の回想に戻ってきます。こういう書き方、セオリー破りなんだろうなあ……。すみません。
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(12)東京、羊は安らかに -2-
蝶子はしばらく黙った。それから頷いた。
「ええ。具体的な問題があって平和に草を食むって心持ちじゃないんです」
「その問題、これからお茶でもしながら、打ち明けてみない?」
女たらしの顔に早変わりした拓人を見て、蝶子は失望したようにため息をついた。
「申し訳ありませんが、その時間はないんです。この後はバイトに行かなくちゃいけないんで」
「そうかい。明日は?」
「明日は授業の後はレッスンで、その後にバイトです。バイトのない時は練習したいし、どちらにしても結城さんの氣まぐれにおつき合いする時間はありませんわ。残念ながら」
「バイトとレッスンだけに明け暮れているって噂は本当なんだな。じゃあ、いまここで君の問題とやらを言ってみろよ。僕に出来る事があれば協力するからさ」
蝶子は拓人の意を測りかね、細い目をさらに細めた。けれど、失うものは何もないと思ったので、素直に口を開いた。
「どなたか、勉強になるからとこの曲の伴奏を引き受けてくださるようなピアノ科の方をご存知ありませんか? 来月の前期発表会の出演者に選ばれたんですが、頼んであった同級生にやめられてしまって」
「伴奏者が投げ出したのか?」
「あんまり練習してこないんで文句を言ったんですが、ちょっと強く言い過ぎてしまったみたいで……」
拓人はカラカラと笑った。蝶子がきつく言い放つ様子が目に見えるようだった。
「他の同級生は誰も空いていないんだ?」
「やめた子と仲がいいんです。もともと、私はあまりよく思われていないようで一年生ではだれも引き受けてくれる人がいません。でも、上級生に伴奏を頼むなんて、氣を悪くされるんじゃないかと思って。お礼を払えればいいんですけれど、そんな余裕はありませんし」
蝶子は悔しさに顔を赤らめながら言った。拓人は笑って言った。
「前期発表会は、僕も出演するんだ。こっちは午前の部だけど、君は一年生だから午後だろう?空いているから、僕が弾くよ」
蝶子は目を瞠って言った。
「結城さんが発表会でフルートの伴奏? 氣は確かですか? 結城さんは既にデビューしているコンサートピアニストじゃないですか!」
「でも、勉強は続けないとね。スケジュールをすり合わせよう。君も忙しいみたいだからね。リハする時間はあまりないぞ。授業の合間にもやったほうがいいだろう」
「本当にいいんですか?」
「もちろん。お茶するよりもお互いの事が早くわかるしさ。僕には一石二鳥だ。そのかわり学芸会レベルの演奏をするなよ」
蝶子ははじめてにっこりと笑った。艶やかで魅力的な笑顔だった。本当に美人だよな、拓人は思った。
「あら。カンタータ二百八番。珍しいものを弾いているのね」
園城の家を訪れて真耶の父親を待っている間に拓人がピアノに向かっていると、帰ってきた真耶がサロンに入ってきた。
「前期発表会で急遽弾く事になってね」
拓人が答えると真耶は面白そうに近寄ってきた。
「もしかして四条さんの伴奏? 彼女、拓人に頼んできたの?」
「どっちかというと、僕の方が押し掛けで引き受けたんだ」
それを聞いて真耶はケラケラと笑った。
「いいことをしたわ。ちょっと氣の毒だったのよね。四条さんが怒るのも無理がないほどひどい伴奏だったのに、あの子たちって本当に感じ悪いんだもの。拓人が伴奏するって聞いたら死ぬほど悔しがるわよ」
拓人はふと顔を上げて真耶を見た。
「お前、四条蝶子と仲がいいのか?」
「仲がいいとか悪いとかいうほど親しくしていないの。でも、うちの学年でまともな音を出すのって彼女の他には数人しかいないのよ。彼女が氣にいったの?」
「ああ、美人だし。だけど、デートする時間はないんだそうだ。レッスンとバイトで手一杯なんだってさ」
「たしかお家に反対されていて、学費もレッスン代も生活費もみな自力でなんとかしなくちゃいけないらしいわ。才能があるだけじゃなくて、その逆境だからよけい頑張るのかもしれないわね。きっといい音楽家になると思うわ。私も負けないように頑張らなくちゃ」
真耶は、リハーサルのために車で上野に向かっていた。カーラジオからは、バッハのカンタータ二百八番が流れていた。もう十五年近く前になる、大学一年の秋の事を懐かしく思い出しながら微笑んだ。あの頃は、蝶子のことはほとんど知らなかった。こんなに後になって、遠く離れていながら自分にとって唯一といえるほど近い存在になるなど、どうして予想できただろう。
あの発表会の日、蝶子は拓人の伴奏でカンタータを見事に吹き、聴衆の喝采を浴びた。それにも関わらず、蝶子のたたずまいは寂しげだった。
心の休まらぬ終わりのない戦いの日々、心を預けられる友人も仲間もなく、恵まれて怠惰な同級生たちに対するいらだちを隠す事も出来ず、孤立していた。真耶はそんな蝶子に対して、氣の毒に思いつつもどうすることもできなかった。
けれど、今ではまったく違っている。ヴィル、レネ、そして安田稔。あの三人が周りで彼女の平和を形作っている。その平和に真耶は心から感謝したい氣持ちだった。
ラジオからのカンタータ二百八番を聴きながら、陽子の心は乱れていた。
あの時、私は四条蝶子を哀れに思った。あの人には友達もなく、音楽を続ける事への応援もなく、未来もないように見えた。
あの時、私の未来はバラ色に見えていた。お父さんは私が三味線に精進する事をとても喜んだ。私の側にはいつも稔がいた。つまらない女の子たちを追い回す事の虚しさに氣づけは、稔は必ず私と生きる事を選んでくれると信じていた。
けれど、十五年経ってみたら、私はここで一人で三味線を弾いている。稔が帰ってきてくれるのをひたすら待ちながら。
稔。私は、あなたが帰って来るのが苦にならないように、ありとあらゆる環境を整えているの。だから、帰ってきて。お願い、帰ってきて。
【小説】大道芸人たち 2 (13)コンスタンツ、夏の湖
今回再登場したキャラクター、お忘れかもしれませんが、カルロスの前妻です。年齢不詳の絶世の美女。私の設定では35歳くらい。カルロスはなんだかんだといって手強い美人に弱いのです。
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(13)コンスタンツ、夏の湖
セビリアからコンスタンツに動くとは、無駄な移動のし過ぎだとは四人とも思った。それでも車を走らせたのは、夏のアンダルシアの暑さを軽視していた事を認めざるを得なかったからだ。セビリアですごした最後の一週間は、外で稼ぐのは事実上不可能だった。電話で熱さを訴えたらカルロスは笑った。
「そこは
つまりスペインで最も暑い場所にいるのだ。
「こんなに暑い所をのろのろ移動しながらちびちび稼いだら、ガソリン代もなくなっちゃうわ」
蝶子が文句を言うとレネがワインの瓶を振りながら応じた。
「車だけじゃなくて僕たちのガソリン代も」
南フランスやイタリアに行くのも暑さを避けるには中途半端だった。それに月末には再びミュンヘンに行かなくてはならない。それならばドイツに行ってしまおうと話がついた。
スイスとの国境となっているボーデン湖に面したコンスタンツは中世の面影を残す明るい都市だ。
湖にほど近い旧市街にはコンスタンツ公会議やヤン・フスの裁判が行われた頃と変わらぬ建物が残っているが、道往く人々はタンクトップ姿でアイスクリームに舌鼓を打っていて、当時の厳しさはまったく感じられない。
四人は街をまわって、立地を確かめた後、大聖堂の前で稼ぐ事にした。夏のヨーロッパは東京などに較べればずっと過ごしやすい。けれど、その過ごしやすさに油断すると、強烈な日差しのダメージを受けてしまう。四人は適度な日陰を必要とした。もちろん観光客が足を止めてコインを置く氣になるほど立っていてくれなくてはならないので、自分たちだけが日陰になるわけにもいかない。しかし、観光客は陽光溢れるテラスなどを好むので、じめじめした裏道などには立てないのだ。
大聖堂の前には、その難しい条件をクリアする素晴らしい空間があった。こういう立地を見つけられた時には、いい仕事ができることを四人は経験で知っていた。
「あら。どこかで見たような四人組じゃない」
スペインなまりの英語が聞こえてそちらをみた稔はぎょっとした。
コブラ女登場! なんでこんなところに。
それは、カルロスの前妻エスメラルダだった。三年近く見ていなかったが、相変わらず年齢不詳で、異様なほどに美しかった。人間の女というよりは、精巧な人形みたいだ。
日本人ならまず試さないような大きな水玉のついた紺地のリボンをたっぷり使った白い麻のスーツ姿で、つば広の帽子を小粋に被り、八センチのヒールで優雅に闊歩している。以前と変わらずに若い男と連れ立っているのだが、この男というのがアルマーニのスーツに着られてしまっている、金はあっても脳みそはカケラもなさそうなボンボンだ。
蝶子は完全に臨戦態勢に入り、満面の笑顔を見せて言った。
「まあ、なんて嬉しい偶然かしら。またあなたに会えるなんて夢にも思わなかったわ」
エスメラルダは前回受けた屈辱などどこかに置き忘れたかのように傲慢に応戦した。
「すてきなヴァカンスを楽しんでいるみたいじゃない」
「おかげさまで」
稔は亀のように首をすくめた。くわばらくわばら。空氣が歪んでいるぜ。
それから、ちらっとレネの方を見た。レネは以前のときとは違って、平静に二人の女の静かな戦いをみつめていた。ってことは、本当にもう大丈夫なんだな。稔は多少意外な氣がした。
エスメラルダはいつまでも蝶子に関わっているつもりはなかった。ヴィルの方を見ると、これまでとはうってかわった華やかで好意に満ちた笑顔を向けた。
「お久しぶりね。あなたには、逢いたかったわ」
ヴィルは返事もしなければ表情も崩さなかった。エスメラルダは勝手に続けた。
「噂を聞いたのよ。大道芸人っぽくないと思っていたけれど、貴族なんですって? やっぱり、違いがでるのねぇ」
稔は笑いをこらえながら言った。
「おい、そういう噂は届くけど、そのお貴族様が結婚したのは知らないのかよ」
エスメラルダはつんとして答えた。
「知っているわよ。でも、そろそろレベルの低い女に飽きる頃じゃない?」
「あなたは、それで、カルちゃんに飽きられちゃった訳?」
蝶子が馬鹿にしたように言うと、エスメラルダは大して怒りもせずに答えた。
「なんとでも言いなさいよ。そのうちにカルロスにも、その人にも追い出されるのはあなたの方なんだから」
それから再びヴィルの方に満面の笑顔を向けると言った。
「じゃあ、また近いうちに逢いましょう。私はインゼルホテルに泊まっているの。よかったら連絡してね」
インゼルホテルの宿泊料を払っているだろうに完全に蚊帳の外に置かれた男の腕をとると、女は颯爽と立ち去った。
「すげえな、あの現金ぶり。あんな女、本当にいるんだな」
稔は心から感心して言った。ヴィルは頭を振った。
「悪い氣はしなかったんじゃないの? 好みのタイプなんでしょ?」
蝶子はヴィルにケンカを売ったがヴィルは全く取り合わなかった。稔とレネはゲラゲラと笑った。
「お前、本当に大丈夫になったんだな。言葉を信用していなかった訳じゃないけどさ、ちょっと驚いた」
稔がそういうと、レネは頷いた。
「僕も、本当にこんなに大丈夫だとは思いませんでしたよ」
なぜあの女にあんなに惹かれたのか、レネは自分でもさっぱりわからないと思った。そして、ひとつの決意を持って、目についた宝飾店に入っていった。
【小説】大道芸人たち 2 (14)ミュンヘン、もうひとつの婚約 -1-
このエスメラルダというキャラクターにはモデルがあります。A.クリスティの作品で一番好きな「●●殺人事件」に出てくる脇役です。どの作品のなんというキャラかすぐにわかった方はいらっしゃるでしょうか……。
この章でまた一段落するので、「大道芸人たち 2」の連載はこの後しばらくお休みになります。といっても、今回もまた二回に分けたので来週まで続きます。
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(14)ミュンヘン、もうひとつの婚約 -1-
「お客様が先におつきです」
エッシェンドルフの館に着くと、ミュラーが厳かに報告した。そういわれても誰だかわからなかったので、ヴィルは誰かと訊いた。
「コルタドの奥様です」
コルタドの旦那様とミュラーが呼ぶのはもちろんカルロスだ。ヴィルがエッシェンドルフを継いで以来、カルロスが商用でミュンヘンに来るときは、四人が居ようといまいとこのエッシェンドルフの館に滞在することになっていた。サンチェスだけが来るときも同様だった。だから、彼らが連絡してやって来れば、エッシェンドルフの使用人たちは、ヴィルや蝶子に一切連絡することもなく館に入れてもてなした。
しかし、コルタドの奥様といわれる人間に心当たりはない。ヴィルが首を傾げていると、当の奥様が平然として階段を下りてきた。
「ブエノス・タルデス、みなさん。一足早く着いちゃったわ」
さすがの蝶子ですら一瞬ぽかんとした顔をした。エスメラルダはすっかりリラックスしていた。格好もリラックスし過ぎで、真昼だというのにレースのガウン姿だった。
「あんた、イダルゴと再婚したのか?」
ヴィルは憮然として訊いた。
「いまのところ、まだだけれど、時間の問題だと思うの。過去と未来のコルタド夫人だもの、そう名乗っても悪くないかと思って」
「俺はまた、ギョロ目はマリア=ニエヴェスと再婚するんだと思ったよ」
稔はとことん馬鹿にした様子で言った。
エスメラルダはきっとなって言った。
「あのジプシー女の名前をここで出さないでよ。腹が立つ!」
「あの……。申し訳ございません」
ミュラーが困った様子でヴィルを見た。招かれざる客を招き入れてもてなしてしまったのだろうかという戸惑いだった。
ヴィルの交友関係をよく理解して、ふさわしい人間だけを招き入れるのはミュラーの責任だった。コルタドの旦那様に現在は奥様がいないことは、いつかアーデルベルト様の口から聞いたことがあるような氣がする。そうだとしたら完全に自分の落ち度だ、そう思ったのだ。
「いや、いいんだ。本人が言うように、そのうちに再びコルタド夫人になる可能性はゼロとは言い切れないし、俺たちもあっちで散々迷惑をかけた身だからね。イダルゴに免じて一日二日逗留させても構わないだろう」
ヴィルはミュラーの肩を叩いていった。
「だけど、俺たちの買ってきた酒は飲むなよ。そっちは別会計なんだから」
稔がせこい事を言うと、エスメラルダはつんと顔をそらし、それからヴィルに甘ったるい笑顔を見せた。相変わらず何の反応ももらえなかったが。
蝶子は、周りを見回してヤスミンの姿を探した。女心に疎いヴィルはまったく考えていないようだが、レネとエスメラルダが同じ屋根の下にいるのは、ヤスミンにとって穏やかならない事態に思われたのだ。
「レネ!」
ヤスミンが駆けてきて、恋人に抱きついた。
ミュラーはこほんと咳をして、ヤスミンに使用人の立場を思い出させようとしたが、ヤスミンは軽くそれを無視した。レネはヤスミンをぎゅっと抱きしめた後、彼女の手を取って、エスメラルダの横を通り過ぎ、二階へと去っていった。
ヴィルはマイヤーホフと話をするためにさっさとその場を立ち去ったので、残った稔と蝶子は顔を見合わせた。
「ブラン・ベック、なんか変わったよな」
「そうね。いいことだと思うけど。イダルゴ夫人には残念なことかもね。礼賛者が減っちゃったから」
そういうと蝶子はあてがはずれて居心地が悪そうにしているエスメラルダに声を掛けた。
「お茶が飲みたいなら、サロンに来なさいよ。でも、その寝間着みたいな格好は困るから着替えてよ」
エスメラルダはヴィルにではなく蝶子に居心地の悪さを救ってもらったことが多少不服そうだったが、他にどうしようもないのであいかわらずつんとしたまま部屋に戻り、意外と素直に着替えてサロンにやってきた。
ヤスミンがコーヒーや菓子類を持ってサロンに入ってきた。蝶子はコーヒーを受け取ると言った。
「もういいから、ここに座って一緒にお茶にしましょうよ、ヤスミン」
「いいえ。まだ勤務中ですから。明日は非番だから、お茶してもいいと思うけれど」
「勤務中でも、休憩はあるんだろ」
稔が言った。
ヤスミンは稔にウインクした。
「休み時間は、たしかにこれからなんだけど、レネと台所で私の作ったケーキを食べるのよ。ちょっと甘めに作ってあるの」
それで、二人は笑ってヤスミンが出て行くのを引き止めなかった。どうりでレネがサロンに来ないはずだった。
エスメラルダは不服そうな顔をしていたが、ヤスミンがいなくなった後で口を開いた。
「ああ、つまらない。男爵は石みたいだし、この日本人はにやにやしているばかりだし、レネまでトルコ人にデレデレしているんだもの」
「ヤスミンはトルコ人じゃないわよ。正確に言うと四分の一だけトルコ人だけど、あとの四分の三はドイツ人よ」
蝶子が訂正した。
「どうでもいいわよ。あなたが中国人やベトナム人だって私には関係ないのと同じよ。悪いけれど、そのお菓子、こっちにまわしてくれない? ドイツってつまんない人ばっかりだけど、お菓子はおいしいのよね」
「ここの菓子は、他のドイツのカフェのものより美味いんだよ。もっとありがたがって食えよ」
稔が銀の高杯皿を差し出した。
「あなた、ドイツで何やってるの? コンスタンツにいた坊ちゃんはどうしたのよ」
蝶子が突っ込んだ。
エスメラルダはつんとして背筋を伸ばしクッキーを口に運んだ。
「ああ、あの人、結婚してくれってうるさいから、逃げ出してきたの。フィア・ヤーレスツァイテンのスィートの滞在を途中で切り上げるのは残念だったけれどね。すぐにスペインに帰ってもよかったんだけれど、せっかく男爵様のお膝元じゃない? カルロスがいい所だっていっていたから、本当か確かめてもいいかなって思ったのよ」
「ギョロ目としょっちゅう逢っているのかよ」
「しょっちゅうって訳じゃないわ。でも、この間、バルセロナに行ったのよ。前は自宅だった館があるのに、わざわざホテルに泊まることもないじゃない?」
蝶子と稔は目を見合わせた。カルロスが門前払いもしなければ、ここの話までしたということは、二人の関係はさほど悪くないらしい。未来のコルタド夫人という自己紹介を眉唾だと思っていたが、この調子では、二人が復縁してもおかしくないと思ったのだ。
【小説】大道芸人たち 2 (14)ミュンヘン、もうひとつの婚約 -2-
さて、何となくめでたい感じになったところで、チャプター2はおしまいです。っていうか、再び放置タイムに突入です。しばらく「大道芸人たち」から離れて、来年の連載は再び「ニューヨークの異邦人たち」シリーズに戻ります。例の某シマウマ研究者たちの話の続編ですね。でも、その前に毎年恒例の「scriviamo!」が入ります。
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(14)ミュンヘン、もうひとつの婚約 -2-
その後に蝶子が電話すると、カルロスは頭を抱えた。
「まさか私が行けと薦めたなんて思っていないでしょうね、マリポーサ」
「ちょっと変かなと思ったけれど、でも、何にも悪いことないのよ、カルちゃん。私たちだって散々あなたのお世話になったんですもの」
「私はね、彼女がミュンヘンに行きたいし、男爵邸にも泊まってみたいと言うので、絶対にやめてくれって言ったんですよ。月末まで四人は館には行かないから立ち寄った所で無駄だってね」
それで、月末に四人が、というよりも、男爵様が館に戻るという情報を得て、狙ってやってきたってわけね。
「くれぐれもあなた達に迷惑をかけてくれるなって念を押したのに」
「そういうことを聴くタイプじゃないことは私たちもわかっているし、カルちゃんのせいじゃないこともわかっているわよ。それに、以前と較べて大人しいのよ。ヴィルを落とそうと頑張っているんだけど、あまり結果が芳しくなくて、ふてくされているみたいよ」
「おお、マリポーサ。私を許してください。あの女のことで、あなたを苦しめるなんて」
「あら、そんな不要な心配しないで。彼がどんなに唐変木か、カルちゃんも知っているでしょう? 私とヤスはブラン・ベックの方を心配していたんだけれど、そっちへの神通力も消滅しちゃったみたいよ」
「そうですか。まあ、レネ君はセニョリータ・ヤスミンに夢中ですからね」
そのカルロスの言葉を裏付けられたのは、その夜のことだった。夕食の時にエスメラルダは面白がってレネの隣に陣取り、給仕をしているヤスミンの前でことさらレネに愛嬌を振りまいてみせた。
蝶子が観た所、レネに対するエスメラルダの影響力は全くなくなっていた。それでもヤスミンには氣分が悪いだろうと思って、自分の所にスープを注いでいる時にこっそりと耳打ちをした。
「氣にしないでね」
ヤスミンはにっこりと笑って言った。
「大丈夫。私、いま、幸せのど真ん中にいるから、細かいことは何も見えないの」
「へ?」
稔が横から聞きつけてヤスミンの顔を見た。
ヤスミンはさっと左手を挙げて薬指を二人に見せた。紅いガーネットの指輪がシャンデリアの光を反射して輝いた。
レネが、エスメラルダを完全に無視して立ち上がり、ヤスミンの所まで歩いてきて、その肩を抱いて言った。
「さっき、僕たち婚約したんです」
蝶子は立ち上がり、ヤスミンの頬にキスをした。稔も飛び上がりレネに抱きついた。ヴィルもテーブルの向こうからやってきてカップルと交互に抱き合った。
「乾杯だ! フランスのワインあったっけ?」
稔がはしゃぐと、蝶子が戸口に向かいながら答えた。
「ロウレンヴィル家の赤がまだ残っていたはずよ。とって来るわね」
ヴィルはミュラーにヴーヴ・クリコを用意するように言った。
エスメラルダは幸せそうな一同を見て多少つまらなそうな顔をしていたが、ただの平日にヴーヴ・クリコのご相伴ができるのも悪くないと思ったので、水を差すのはやめることにした。
二人の結婚式はミュンヘンで行われた。エッシェンドルフの領地にある聖ロレンツ礼拝堂で挙式をした後、パーティはもちろんエッシェンドルフの館で行われた。
レネとヤスミンの両親や親族、カルロスやサンチェス夫妻、イネスとマリサ、例によってイタリアとスペインの雇い主たち、『La fiesta de los artistas callejeros』で知り合ったヘイノをはじめとする大道芸人の知り合いたち、それにもちろん劇団『カーター・マレーシュ』の一団が一同に会し、楽しいパーティが繰り広げられた。
ヤスミンが祖母に直接習ったトルコ料理の数々、ラクーをはじめとするトルコの酒、それに劇団連中が楽しく堅苦しさもなく楽しめるドイツのインビスや山のようなビールが用意された。
笑って、はしゃいでドレスの裾を翻しながらヤスミンがレネと踊り、団長とベルンが滑稽に踊って場を湧かせた後、全員が楽しくダンスに興じた。
ヴィルと蝶子の結婚式で身に付けたつたないステップでマリサと踊りながら稔は苦笑いした。
「この程度ならいいけどさ。あの、最初に二人だけで踊るのは、俺はやりたくないんだよなあ」
マリサは真剣な顔で答えた。
「必ずしもダンスをしなくてもいいんじゃないですか。その、ほら、相手の了解さえあれば……」
それで、マリサの控えめな催促を感じた稔はさらに苦い笑いをして、マリサの額にキスをした。
「その、相手の了解があれば、日本で結婚するってのも、ありだと思うかい?」
マリサは大きく目を見開いて、力強く頷いた。
「じゃあ、来年あたり、一緒に日本に行こう。もう、あまり待たせたくないしね」
マリサが喜びで半泣きになりながら稔に抱きついているのは、大騒ぎのダンスフロアの中にまぎれてほとんど誰も氣がついていなかった。