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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012

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Posted by 八少女 夕

【小説】春、いのち芽吹くとき

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。



今日発表するのは、読み切り短編集「四季のまつり」の第一回、春の話です。一昨年まで「十二ヶ月の○○」というシリーズで月に一回掌編を発表してました。今年それを復活するつもりだったのですが、いろいろと事情が重なって1月と2月を発表できそうになかったので、年4回シリーズにしてみました。今年のテーマは「まつり」にしました。オムニバスでそれぞれの季節の祭やイベントに絡めたストーリーを書いていく予定です。第一回目は「復活祭」です。春は眠っていた大地が目覚め、死んでいた世界が復活するとき。そのイメージにひっかけて、十九世紀の終わりのカンポ・ルドゥンツ村での小さなストーリーを書いてみました。そして、この作品で、canariaさんの主催するwebアンソロジー季刊誌「carat!(カラット)」に参加することにします。



春、いのち芽吹くとき

 どこからか硬い規則的な音が響いてくる。ああ、もうキツツキが。彼女は、立ち止まって見上げたが、どこにいるのかは確認できなかった。結局、厳しい冬は来ないまま春がくるんだろうか。

 数日前からフェーンが吹き荒れ、雪はすっかりなくなってしまった。家の近くの池に張っていた氷もなくなり、鴨たちが再び戻ってきていた。ベアトリスは、ぬかるんだ小径を急いで歩いていた。大地は雪解け水を全て受け入れられるほどには目覚めておらず、表面にたまった水分が不快なぬかるみを作る。彼女の古ぼけた靴には冷たい泥がしみ込みだしていた。

 彼女は、丘の向こうの牧場ヘ行く途中だった。カドゥフ家は、この村では一番大きな牧畜農家だ。30頭近くの牛、それよりも多い山羊、それにたくさんの鶏を飼っていて、放牧やチーズづくりの傍ら、三圃式農業で小麦や燕麦、トウモロコシ、それにジャガイモなども作っている。

 来客でバターが必要になったから行ってきてくれと母親に言いつけられたとき、彼女の顔は曇った。

「どうしたのさ。秋には、別に用事もないのにあそこに入り浸っていたじゃないか」
母親は、仔細ありげな物言いをした。

 夏から晩秋にかけて、夕方にカドゥフ家の長男マティアスと小径のベンチで逢い、焼き菓子を二人で食べた。散歩が長すぎると母親に嫌味を言われても、どこからか湧いてくる笑顔を隠すことはできなかった。それが今、もしかしたらマティアスに逢ってしまうかと思うと、それだけでこの道を登っていくのが嫌になるのだ。

 学校は、復活祭の前に終わる。そうしたら彼女は、サリスブリュッケのホテルに奉公に行くことになっている。

「行儀作法を身につけて、料理がうまくなれば、村の若い衆の誰かがもらってくれるだろう」
去年の夏に父親にそう言われて、ベアトリスは嬉しそうに頷いたものだ。その時は、もらってくれる若い衆を頭の中に思い浮かべていたから。でも、今のベアトリスにはそんな未来予想図は何もない。

 あれはクリスマスの少し前のことだった。サリスブリュッケに住むディーノ・ファジオーリが大きいパネトーネを持ってベアトリスの家にやってきた。ディーノの母親とベアトリスの母親は、子どもの頃に隣に住んでいたので仲が良かった。

 パネトーネはイタリア語圏のクリスマスに欠かせないお菓子だが、アルプス北側のドイツ語圏ではまだ珍しい。イタリア出身のファジオーリ家は、毎年クリスマスの前にはパネトーネを焼く。そして、ベアトリスの家庭へと届けてくれるのだ。

 ディーノは、綺麗な包み紙で覆ったもうひとつ小さいパネトーネを持っていて、それを村一番の器量よしのミリアム・スッターにプレゼントするつもりだった。そり祭りの時に見かけて以来、彼はベアトリスに逢う度に、ミリアムはどんな物が好きか、偶然出会うにはどの辺りに行ったらいいのかなどのアドバイスを乞うのだった。

「それをさっさと持っていけばいいじゃない」
ベアトリスが言うと、ディーノは項垂れた。
「もう行ったよ。でも、受け取ってもらえなかったんだ。村の青年会に怒られるからって」

 サリスブリュッケはカンポ・ルドゥンツ村の河を挟んで向かい側にあるが、18世紀まで灰色同盟と神家同盟という別の国に属していた。そのため、百年経って同じ国の同じ州になった今でも住人同士の交際や結婚を好まない風潮がある。河を超えて結婚する場合には、それぞれの青年会の賛同を必要とするのだ。

 村一番の美女をよそ者に渡してなるものかと、村の若者たちはディーノがミリアムの周りをうろちょろするのを躍起になって阻止した。

「それに、それにカドゥフの奴に誤解されるのは嫌だって言うんだ。それって俺は失恋したってことだろ?」
ベアトリスはどきっとした。ミリアムが、そんな事を言うなんて。

 マティアスは、二年前に学校を卒業して以来、カドゥフ家で一番の働き手となった。今は両親たちが経営している牧場は、いずれは彼が引き継ぐことになる。子どもの頃から親を手伝って働いていたから、日に焼け、がっちりとした体格で力も強い。重い干し草の包みを荷車に載せる時などには、力強い筋肉の盛り上がりがシャツに隠れていてもわかる。ベアトリスはそんな彼の姿を見るとドキドキしてしまう。

 牧畜農家というのは、一年中、朝から晩までやることがあって、彼は村の同じ歳の青年たちのように夕方にレストランに集まって面白おかしい時間を過ごしたり、高等学校に進んだ学生たちのように韻を踏んだ詩を添えて花束を贈るようなことをする暇が全くなかった。

 夕方のわずかな時間に、牧場の近くの坂道で絞りたての牛乳を飲みながら休憩するのが彼の余暇で、それを知っているベアトリスがクッキーやマドレーヌを焼いて持っていく。広がる牧草地を見下ろし、河を越えた向こうに見える連峰がオレンジに染まるのを見ながら、なんという事のない話をした。

 彼との会話には、ロマンティックなところはまるでなくて、主に日々の仕事と生活のことだけだった。ベアトリスはカドゥフ家の牛や山羊のうち目立つ特徴があるものは言われなくてもわかるくらい詳しくなってしまっていた。そんな無骨な男のことを、自分以外の女性が、しかも常に村の青年たちに言いよられている綺麗なミリアムが好きになるなんて、考えたこともなかった。でも、もしそうなら、自分には全く勝ち目がないと思った。これだけ長く一緒にいても、彼の方からまた逢いたいとか、逢えて嬉しいという言葉をもらったこともなかったから。

 その残念な情報をもたらしたディーノは、ベアトリスのがっかりした様子には全く氣づくこともなくパネトーネの包みを持て余していたが、やがて彼女にポンと押し付けた。

「持って帰るのも馬鹿みたいだから、お前にやるよ。じゃあな」
失礼ね。ついでみたいに。でも、美味しいからいいか。

 帰っていくディーノに手を振っているところに、マティアスがやってきた。というよりも、いつも彼がここに来るから、この時間になるとベアトリスがこの場所で待つのが日課になっているのだ。彼は、彼女の持っているきれいな包みを見て、何か言いたそうにしたが、言わなかった。ベアトリスは、その奇妙な沈黙に堪えられなかった。

「ほら、見て。クリスマスプレゼントにパネトーネをもらったの。私にだってくれる人がいるのよ」
「そうか。よかったな」
「あなたは、ミリアムに何かプレゼントするの?」

 すると、マティアスは露骨に不機嫌な顔をした。
「なんだよ、それは」
「噂を聞いたのよ。氣分いいでしょ。あのミリアムに好かれているなんて。大晦日のダンスパーティのパートナーになってもらったら。みんなが羨ましがるわ」

 マティアスは、いらついた様子で言った。
「くだらないことを言うな」

 そうじゃない、君にパートナーになってほしいんだ。ベアトリスが期待したその言葉をマティアスは言わなかった。そのまま踵を返して帰ってしまった。彼女は、どうしたらいいのかわからなかった。

 数日経っても、いつもの散歩道に彼が来ることはなく、不安になったベアトリスは、マティアスの妹モニカに相談した。彼女はそれを聞いて頭を抱えた。
「馬鹿ね。マティアスは、そういう風に試されるのが大嫌いなのよ。あ~あ、彼を怒らせちゃったのね」

 大晦日のダンスパーティには行けなかった。誰からも誘ってもらえなかったし、マティアスとミリアムが一緒にいたりしたら、つらくて死んでしまうと思ったから。年が明けてから、ミリアムはトマス・エグリと一緒に来ていたと耳にした。マティアスはパーティには来なくて、年末からしばらく留守にしていると聞いたきりだ。

 他の牧場もそうだが、カドゥフ家も、夏の間に一日も休まずにせっせと働くだけでは経営が多少苦しいので、冬の間子どもたちはチャンスがあれば金持ちの殺到するリゾートで現金を稼ぐ。モニカも直にエンガディンに行ってしまったので、マティアスが出稼ぎから帰って来たかどうかもわからなかった。

 一ヶ月以上、彼がいつもの散歩道に来ず、連絡もなかったので、ようやくベアトリスは自分がマティアスとの上手くいきかけていた仲をめちゃくちゃにしてしまったのだと認めた。試すだなんて、そんなつもりじゃなかった。でも、そうだったのかもしれない。時間が経ちすぎて謝るチャンスすら逃してしまった。

 バターを買いに、ぬかるんだ道を歩くベアトリスの足取りは重かった。このまま、嫌われたのだと、はっきり思い知らされることもなく、痛みを忘れたいと思っていた。でも、もし今彼が家にいて顔を合わせたら……。

 門を通り過ぎて、鶏小屋の脇を通り、母屋で声を掛けた。ジャガイモの皮を剥いていたマティアスの母親が笑顔で「いらっしゃい、ベアトリス」と言った。それから、奥のチーズを作る小屋を指して言った。
「バターのことは聞いているわ。さっきマティアスに言っておいたから、もう用意してあると思うわ」

 彼女は、困ったなと思ったけれど、悟られたくないと思ったので「わかりました」と言って、重い足取りで作業小屋へ向かった。

 扉をノックして開けると、彼は大きな鉄鍋の下に薪をくべているところだった。ベアトリスを見ると「きたか」という顔をして立ち上がった。

「こんにちは」
上目遣いで見上げる彼女に構わずに、彼は冷えた石造りの別室から包みを持ってきた。口をきくのも嫌なのかしら。包みを受け取ってポケットから出した料金を渡そうとした時に、彼は「あ。これも」と言ってまた離れた。

 彼が持ってきたのは、茶色い紙に包まれたもう少し大きな包みだった。
「これは?」

「ルガーノで買ってきた。コロンバだ」
コロンバはイタリア語圏で復活祭に食べる鳩の形をした菓子だ。ベアトリスは一度だけ食べたことがあって、とても好きだった。
「私に?」

 マティアスは目を逸らして口を尖らせた。
「パネトーネをもらって喜ぶなら、これも好きだろうと思ったんだ」

 ベアトリスは、胸が詰まってしまった。彼は、彼女の紅潮した頬と、笑顔と、それから半ば潤んだような瞳を見て、口角をあげた。
「あんまりがっつくと復活祭がくる前に食べ終わっちまうぞ。あれ、その小さな袋じゃ両方は入らないな。待ってろ、いま何か袋を……」

 彼女は、そのマティアスを引き止めた。
「ううん。このお菓子、今日は持って帰らないわ」

「なぜ?」
「今日はこのバターが溶けないうちに帰らなくちゃいけないもの。コロンバは、あの散歩道であなたと一緒に食べたいの。だから、その時に」

 彼は、それを聞くと目を細めて頷いた。
「あの散歩道のベンチ、さっき行って残りの雪を取り除いておいたんだ。きっと明日には乾いているだろうから、また座れるな。夕方じゃなくて、まだ陽の高い三時頃はどうだ?」

 ベアトリスは、頷いた。
「ええ。ありがとう。それに……ごめんね」
「何に対して?」
「氣に障る事を言って」

 彼は、また眼を逸らした。
「俺、あの時は無性に腹が立った。お前まで、酒を飲んで深夜まで騒ぐような連中に混じりたいのかって。これまでダンスパーティに行きたいなんて思ったことはないし、毎朝早く起きなくちゃいけないから、これからも行くことはないだろう。でも……」

「でも?」
「ルガーノのホテルで浮かれて騒ぐ客たちを見ていたら、確かに楽しそうだなと思ったよ。みんなが行きたがるわけだ。お前だって、年に一度くらい楽しみたくて当然だ。俺のとやかくいうことじゃない」

 ベアトリスは、そんなんじゃないのにと思いながら彼を見た。彼は、彼女の目を見た。
「俺はお前に詩を贈ったりダンスに誘ったりはできない。それどころかいつも家畜の匂いがとれない作業服を着ている。……こんな俺はお前にとって失格か」

 マティアスの瞳には、わずかに臆病な光が灯っていた。私の中にあるのと同じだ、ベアトリスは思った。
「ううん。私はダンスや花やロマンティックなセリフなんていらない。背広じゃなくて作業服でも全く構わない。あなたに逢って話をするだけでとても幸せなんだもの。本当よ」

 彼は、ようやくいつもの屈託のない笑いをみせた。
「シャンパンじゃなくて、牛乳でも」
「絞りたての牛乳の美味しさを知ったら、シャンパンを飲みたがる人なんかいなくなると思うわ」

 彼は、コロンバの包みを高く持ち上げると、言った。
「明日、三時だ。一分でも遅れたら、俺がひとりで食っちまうからな」

 バターの包みを抱えての帰り道、両脇の木に淡い翠の芽が顔を出しているのを見つけた。たくさんの鳥たちが合唱をはじめた。春の光が大地の新たな息吹を呼び起こす。世界は、復活の準備に余念がなかった。命の甦り。歓びの祭典。すぐそこまで来ている。ぬかるみも、靴に沁みる冷たい水もなんでもなかった。

 ベアトリスは、幸福に満ちて坂道を下っていった。
 
(初出:2016年3月 書き下ろし)
 

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全くの蛇足ですし、あえて読む必要も全くないのですが、この二人「リゼロッテと村の四季」のジオンの両親です。まだ彼らが若いころの話です。

【不定期連載】リゼロッテと村の四季
「リゼロッテと村の四季」
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Category : 小説・リゼロッテと村の四季 外伝

Posted by 八少女 夕

【小説】赤スグリの実るころ

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scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第九弾です。GTさんは、オリジナル小説で参加してくださいました。ありがとうございます!

GTさんの書いてくださった『クロスグリのパイ』

GTさんは、わりと最近知り合って、交流してくださるようになったブロガーさんです。熱烈な世界名作劇場のファンで、ファンサイトとしてレビューなどを書かれる傍ら、名作劇場作品の二次創作、それから同じテイストの一次創作も発表なさっています。

私のブログにいらしてくださったのは、おそらく「スイス」に反応してだと思われますが、正直言って「アルプスの少女ハイジ」ともかく、スイスを舞台にした他の名作劇場作品を全く知らなかった私ではお話にならなくて、おそらくこのブログから得る知識は0かと思いますが、にもかかわらず熱心に作品を読んでくださり感謝しています。

今回、はじめてのscriviamo!参加のために書きおろしてくださったのは、オリジナル作品で私の生半可な知識ではどこの国のお話か、どの時代なのかまではちょっとわからなかったのですが、名前などから類推するとアメリカかカナダなどの英語圏のような感じがします。おそらく架空の土地のお話ですね。

GTさんのおすきな世界名作劇場でよく題材にされるのは18から20世紀初頭のストーリー、主に児童文学を原作にしたものが多いと思うのですが、たまたま私が不定期に連載している「リゼロッテと村の四季」シリーズが、その頃の話ですので、この世界の話でお返しを書くことにしました。

ところがですね。これがまたかなり苦戦しました。その経緯は、長くなりますので別記事にしますが、時代背景ならびにいくつかのモチーフを重ならせて書いています。GTさんの作品と合わせてお読みになると、同じ時代背景、同じモチーフを使って書いても、私の作品が全く「かわいく」なくて、さらにいうと児童文学には全く不向きだということがよくわかります。でも、私らしい作品を全力で書くことがGTさんに対して敬意を表する一番の方法だと信じてアップさせていただきます。


「リゼロッテと村の四季」
「リゼロッテと村の四季」・外伝

「scriviamo! 2017」について
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赤スグリの実るころ
——Special thanks to GT-san


 つるつるの赤い果実を房から外す作業に、アナリースはかなりの時間をかけた。赤スグリのルビーのような赤がとても好きだ。両親の家の垣根のそばにある数本の木は、夏になるとこの艶やかな実がたわわに実り、優しい緑の葉と相まって目を楽しませてくれる。

 そして、ヨーゼフ・チャルナーが、アナリースと新生活を始めるために買ったこの家にも、三本の赤スグリの木があって、彼女はやっと自由に出入りすることが出来るようになったので、熟れた実を集めていた。

 たくさん摘んで大きめのボールにたっぷり入れた果実は、まるで無人島の洞窟に隠された海賊の財宝箱の中身のごとく秘密めいた輝きを放った。ひとつ二つと口に含むことはあるが、酸っぱくてもっと食べたくなることはない。赤スグリはジェリーにすることでその価値をはるかに増す。

 日曜日の三つ編みパンに添えて、バターと一緒につけるのも美味しいが、ちょっとしたデザートに添えるのも色味ともにアクセントになっていい。それに、秋の狩猟シーズンには、洋梨のコンポートに赤スグリのジェリーを載せたものを付け合せに加える。

 だから、彼女は庭の赤スグリを一粒も無駄にしたくなかった。彼もきっと喜んでくれるはずだわ。

「ちょっと。アナリース! あなた、何をやっているのよ」
入ってきたのは幼なじみで今は兄嫁であるマリアだ。

「何って、赤スグリのジェリーを作っているのよ」
「それは見たらわかるけれど、私が聞きたいのは、どうしてよりにもよって今そんなことをするのってこと。ヨーゼフは今日帰ってくるんでしょう? おめかししなくちゃいけないんじゃないの?」

 アナリースは笑った。掛けてある黒いスタンドカラーの飾りの少ないブラウスに、縦縞のくるぶしまである広がりの少ないスカートを目で示すと、マリアはその質素で面白みのない服装にため息をもらした。

「なによこれ。ほとんど普段着と変わらないじゃない。ヨーゼフに会うのは何年ぶりだと思っているの? もっと美しく装わないと」
「どうして?」

「バーゼルは都会だからきれいな服を着た女性が多いに違いないわよ。そういう女性を見慣れているんだから、田舎娘は野暮ったいなって思われちゃうわ。流行っている膨らんだ袖のドレスは一枚もないの?」

 アナリースは首を振った。
「きれいなドレスに興味がないと言ったら嘘になるけれど、ああいう服装をするためには布地が二倍も必要になるもの。私はそれだったら図書館の入場料にして、一冊でもたくさん本を読みたいの。先週ついにコンラート・フェルディナント・マイヤーの『女裁判官』が入ったのよ」

「なんですって。あなた、そんな本を読むの? あれって、確かスキャンダルになったんじゃない」
「そうよ。いけない? あれはカール大帝時代を題材にした歴史小説じゃない」
「でも、ほら、兄と妹の恋の話と、実のお母さんへの愛憎がモデルになっているって……」

「だから?」
「ヨーゼフは牧師になるひとだし、あなたは……」
「代理教師だから、牧師の婚約者だから、女だから、コンラート・フェルディナント・マイヤーを読んじゃいけないなんてナンセンスだわ」
アナリースはわずかに強い語調で言った。

 マリアは、友の苛立ちを感じた。話題を変えた方がいいかもしれないと素早く考えた。
「それで、どうしてあなたは着替えもせずになぜジェリーなんて作っているのよ」

 アナリースは、マリアの戸惑いを感じたので、少し恥じて俯いた。彼女は薪オーブンの上に置いてあったやかんをどかすと、赤スグリと砂糖を入れた鍋を置いて焦げないようにかき混ぜた。スグリからは紅いジュースがしみ出してきてやがてそれは固形物から液体に変わる。

「彼と約束したんだもの」
「これを?」
返事をする代わりに、アナリースは微笑んだ。

* * *


 ヨーゼフと同じ教室で学んでいた頃、アナリースの成績はクラスで一番だった。彼女は知識欲と向学心に燃えて、大学に進み立派な教師になることを夢見ていた。彼女の成績がずば抜けてよかったにもかかわらず、彼女は大学に進むことも出来なかったし、中学校教師の資格をとるのがやっとだった。

 海外にでる覚悟があればもっと高等教育を受けることも可能だったかもしれない。そうであっても女性が大学に通うことは、まだ眉をひそめられることだった。ましてやこの国のこの州では、大学進学は不可能だった。女性は代理教員としてしか雇ってもらえないし、そういう将来しか望めない人間の学費を負担するのを村は拒否した。「学費の補助は、女性の趣味のためではなく、家計を支え国の将来を担う男性のために使われるべきだ」と。

 彼女が女に生まれた理不尽さに涙していても、村の少女たちは「アナリースったら、本氣でそんな事を言っているの? 困った人ね」と頭を振るだけで氣持ちをくんではくれなかった。彼女たちにしてみれば、学校は出来れば行きたくないおぞましいところだったし、そもそも教育が人生の役に立つのかピンと来ないぐらいで、アナリースのことも校長先生になりたがっている権威欲の強い娘だと感じていたからだ。

 唯一、彼女の悔しさを理解してくれたのが、ヨーゼフ・チャルナーだった。彼はもう幼いクラスメートではなく青年になりかけていたが、正直で真面目なところは子供の頃から変わらなかった。それに、彼は温かい心の持ち主で、アナリースも相応の敬意を持っていた。

「アナリース。君は、僕のことを怒っているんだろう?」

 それは、日が高くて、青々とした牧草地からたくさんの色とりどりの野の花が風に揺れる初夏の夕方だった。丘を越えて自宅へと戻ろうとせっせと歩く彼女を後から追いかけてきたヨーゼフは、しばらく口をきかずにいたが、丘のてっぺんまで来ると話しだした。彼は秋からラテン語学校への進学が決まっていた。

「私が? あなたに怒ってどうなるっていうのよ」
そういいつつも、自分の声音に刺々しいものがあると彼女は感じた。ヨーゼフのせいで彼女が進学できないわけではない。でも、自分が通いたかった大学への道を歩みだした彼が、これまで一度だって試験で自分を負かしたことがないのを思わずにはいられなかった。

 彼は、ラテン語とギリシャ語を習う。そして、ヘブライ語も。バーゼルヘ行き、神学科に籍を置くことになる。そして、やがて立派な牧師として尊敬を集めるようになるだろう。それにひきかえ、自分は、高等学校からチューリヒの教師養成セミナーに進むだろう。そして、病欠をしたり、兵役に行く教師の代わりに一日または数週間だけあちこちの教室に派遣されて、「女なら大人しく家で料理でもしていればいいものを」と陰口を叩かれる存在になるのだ。

「じゃあ、ちゃんと僕の目を見てくれよ」
ヨーゼフは真剣に言った。アナリースはため息をついた。
「ごめんなさい。あなたにむかっ腹を立てることじゃないのに。ねえ、イヴがアダムの脇腹の骨から作られた取るに足らない存在だってことは、どうやっても変えられないのかしら?」

 ヨーゼフは首を振った。
「聖書を振りかざしてそういう事を言う人がいるのはわかっているよ。僕はそんなことは思わない。アダムとイヴはしらないけれど、少なくともアナリースがヨーゼフより優秀なのくらいはちゃんとわかっている」

「私は、そんな事を言いたいわけじゃ……」
「でも、それが事実だよ。だけど、アナリース。女性がとるに足りないなんて僕は思わないけれど、男性と女性が全く同じだとも言えないとも思っているんだ」

「つまり?」
「子供を産むのは女性にしか出来ない。女が子供を産んで育てている間に、男が森や野原で獲物を捕まえてくると役割分担ができて、それが今の社会につながったんじゃないかと思うんだ。もちろん、獲物を捕まえるのが得意な女性や、むしろ家で料理を作る方が得意な男性の存在は無視されてしまっているけれど。僕たちは世界を一日で変える事はできない。無視されるわずかな例外はつらいけれど、どうにかして世界と折り合って行くしかないんじゃないか」

 彼女は瞳を閉じて、丘の上を渡る風を感じた。後にシニヨンにまとめた髪からこぼれた後れ毛が風にそよいだ。彼は、そんな彼女を黙って見つめていた。

「大丈夫よ。どんな形でも、理想的な教師になるように努力するもの。それに、学問や読書は、ずっと続けるつもりよ。大学に行って、校長先生の資格を取るだけが、教育に関わる唯一の道じゃないはずよね」
アナリースがそういうと、ヨーゼフは一歩前にでて大きく頷いた。

「僕もずっとそう思っていたんだ。ねえ、アナリース。君のその志、僕と一緒に完成させないかい?」
「あなたと? どうやって?」

 彼は、真剣なまなざしで彼女を見つめた。
「僕は、いつかこの村に戻ってくる。この村の牧師として、村人たち、次の世代を担う子供たちの精神的な支えになる、とても重い責任を背負うことになる。一度だって君よりもいい成績を取れなかった、この頼りない僕が。だから、僕には支えが必要なんだ。思慮ぶかくて、氣高い精神にあふれた君みたいな女性が。そして、君も、牧師の妻としてならただの代理教師としてよりもずっと尊敬を集めて、さらに幅広く子供たちの教育に中心的な役割を果たすことが出来る。違うかい?」

 彼女は、ぽかんとヨーゼフの顔を眺めていたが、氣を取り直すと言った。
「で、でも、牧師の妻って……その……結婚は好きな人とするものじゃないの?」

 彼は肩をすくめた。
「僕は、君のことをかなり好きだけれど、ダメかな?」

 アナリースは、真っ赤になって「そんなのはダメ」と言おうとしたけれど、どういうわけだか全くその言葉が出てこなかった。それで、ヨーゼフは勝手に納得して「そのつもりで大学に行くけれど、待っていてくれるね」と言った。

「そんなに待った後で、あなたに他に好きな人がいるから、結婚できないって言われたら、私もう結婚できなくなってしまうわ」
「わかっているよ。でも、僕は約束はちゃんと守る」

 ヨーゼフは彼女の手をとった。
「僕は必死で勉強する。そして、学問だけでなく、村の牧師として必要になりそうなあらゆることを身につける。だから、君も僕を待っている間に、村の大人たちや女性たちに受け入れてもらえる牧師夫人目指して苦手なことにも挑戦してほしい。そうしたら、後は、ずっと一緒に理想を目指して歩いていこう」

 彼の示唆していることは、なんとなくわかった。アナリースは、勉強は得意でも裁縫や料理はあまり得意ではなかったし、おしゃべりをする時間がもったいなくて村の娘たちとの付き合いに顔を出さないので浮いた存在になっていた。

「そうね。……何から始めようかしら」
彼は、優しく笑った。
「そうだな。たとえば、ほら、あそこにある赤スグリ。僕、あのジェリーがとても好きなんだ。子供の頃、三つ編みパンとあのジェリーを毎日食べられるように毎日日曜日にしてくださいってお祈りして父さんにこっぴどく怒られたことがあるんだよ」
「……。作り方、お母さんに習っておくわ」

* * *


 あれから何度も夏と冬が過ぎた。赤スグリも何度も実った。アナリースは、もうジェリーを何も見なくても作れるようになっていた。

 パン焼き日には、村のパン焼き釜にでかけ、娘たちと話をしながらパンの焼けるまでの時間を過ごした。村の泉で洗濯をする時も、年末に豚の腸詰めや燻製を作るときも村人たちと一緒に作業するようになった。

 くだらない噂話だと思っていた会話が、時に人生の悲哀がこもり、時に哲学的な示唆に満ちた時間だということも知った。本や大学の教授からだけではなく、けたたましく笑ったり泣き言を言う村人からも学ぶことがたくさんあるのだと知った。

 そして、アナリースは、家事が上手で人付き合いの上手い立派な娘だとの評判を勝ち得た。牧師となるチャルナーと婚約していることも、村人たちからの敬意を得る大きな要素になった。

 それは静かな宵に、誰にも邪魔されずに本を読むことを許され、教師としての勉強を続けても誰にも非難されることのない心地よい立場だった。

 赤スグリと砂糖を溶かした真っ赤な液体を、消毒したガラス瓶に詰めながら、首を傾げるマリアを前に、アナリースは微笑んだ。
「いいの。私がどんな装いをするよりも、あの人はこの瓶が並んでいるのを喜ぶのよ」

(初出:2017年2月 書き下ろし)


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