scriviamo! 2018のお報せ
scriviamo! 2013の作品はこちら
scriviamo! 2014の作品はこちら
scriviamo! 2015の作品はこちら
scriviamo! 2016の作品はこちら
scriviamo! 2017の作品はこちら
scriviamo! 2018の作品はこちら
「scriviamo!」というのはイタリア語で「一緒に書きましょう」という意味です。
私、八少女 夕もしくはこのブログに親近感を持ってくださるみなさま、ずっと飽きずにここを訪れてくださったたくさんの皆様と、作品または記事を通して交流しようという企画です。創作関係ではないブログの方、コメントがはじめての普段は読み専門の方の参加も大歓迎です。過去5回の「scriviamo!」でも参加いただいたことがきっかけで親しくなってくださった方が何人もいらっしゃいます。特別にこの企画のために新しく何かを用意しなくても構いませんので、軽いお氣持ちでどうぞ。
では、参加要項でございます。(例年とほぼ一緒です)
ご自身のブログ又はサイトに下記のいずれかを記事にしてください。(もしくは既存の記事または作品のURLをご用意ください)
- - 短編まはた掌編小説(当ブログの既発表作品のキャラとのコラボも歓迎)
- - 定型詩(英語・ドイツ語・または日本語 / 短歌・俳句をふくむ)
- - 自由詩(英語・ドイツ語または日本語)
- - イラスト
- - 写真
- - エッセイ
- - Youtubeによる音楽と記事
- - 普通のテキストによる記事
このブログや、私八少女 夕、またはその作品に関係のある内容である必要はありません。テーマにばらつきがある方が好都合なので、それぞれのお得意なフィールドでどうぞ。そちらのブログ又はサイトの記事の方には、この企画への参加だと特に書く必要はありません。普段の記事と同じで結構です。書きたい方は書いてくださってもいいです。ここで使っているタグをお使いになっても構いません。
記事がアップされましたら、この記事へのコメント欄にURLと一緒に参加を表明してください。鍵コメでも構いません。「鍵コメ+詩(短歌・俳句)」の組み合わせに限り、コメント欄に直接作品を書いていただいても結構です。その場合は作品だけ、こちらのブログで公開することになりますのでご了承ください。(私に著作権は発生しません。そのことは明記します)
参加者の方の作品または記事に対して、私が「返歌」「返掌編」「返画像(絵は描けないので、フォトレタッチの画像です。念のため)」「返事」などを書き、当ブログで順次発表させていただきます。Youtubeの記事につきましては、イメージされる短編小説という形で返させていただきます。(参考:「十二ヶ月の歌シリーズ」)鍵コメで参加なさった方のお名前は出しませんが、作品は引用させていただくことがあります。
過去に発表済みの記事又は作品でも大丈夫です。(過去の「scriviamo!」参加作品は除きます)
また、「プランB」を選ぶこともできます。
「scriviamo! プランB」は、私が先に書いて、参加者の方がお返事(の作品。または記事など)を書く方式のことです。
「プランB」で参加したい方は、この記事のコメント欄に「プランBで参加希望」という旨と、お題やキャラクターやコラボなどご希望があればリクエストも明記してお申し込みください。
「プランB」でも、参加者の方の締め切り日は変わりませんので、お氣をつけ下さい。(つまり遅くなってから申し込むと、ご自分が書くことになる作品や記事の締切までの期間が短くなります)
期間:作品のアップ(コメント欄への報告)は本日以降2018年2月28日までにお願いします。こちらで記事にする最終日は3月10日頃を予定しています。また、「プランB」でのご参加希望の方は、遅くとも2月4日(日)までに、その旨をこの記事のコメント欄にお知らせください。
皆様のご参加を心よりお待ちしています。
【注意事項】
小説には可能なかぎり掌編小説でお返ししますので、お寄せいただいてから一週間ほどお時間をいただきます。
小説以外のものをお寄せいただく場合で、返事の形態にご希望がある場合は、ご連絡いただければ幸いです。(小説を書いてほしい、エッセイで返してくれ、定型詩がいい、写真と文章がいい、イメージ画像がいいなど)。
ホメロスのような長大な詩、もしくは長編小説などを書いていただいた場合でも、こちらからは詩ではソネット(十四行定型詩)、小説の場合はおよそ3,000字〜10,000字で返させていただきますのでご了承ください。
当ブログには未成年の方も多くいらっしゃっています。こちらから返します作品に関しましては、過度の性的描写や暴力は控えさせていただきます。
他の企画との同時参加も可能です。例えば、Stella参加作品にしていただいても構いません。その場合は、それぞれの規定と締切をお守りいただくようにお願いいたします。私の締め切っていない別の企画(神話系お題シリーズなど)に同時参加するのも可能です。もちろん、私の参加していない他の企画に提出するのもOKです。(もちろん、過去に何かの企画に提出した既存作品でも問題ありません)
なお、可能なかぎり、ご連絡をいただいた順に返させていただいていますが、準備の都合で若干の前後することがありますので、ご了承くださいませ。
嫌がらせまたは広告収入目当の書き込みはご遠慮ください。
この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。
read more
【小説】大事なのは
「scriviamo! 2018」の第一弾です。ポール・ブリッツさんは、私の小説群に出てくる架空の村、カンポ・ルドゥンツ近辺で起こった事件の小説で参加してくださいました。
ポール・ブリッツさんの書いてくださった『命綱』
ポールさんは、オリジナル小説と俳句、それに鋭い書評や愛に溢れた映画評論などを書いていらっしゃる創作系ブロガーさんです。毎年待ち構えたように難しい暴球を投げていらっしゃるので、私は「はははは」と力無く笑うしかないんですが。
参加します。今年はいつものような暴球すれすれの変化球ではなくど真ん中のストレートを投げたと自分では思っているw
さて、いつもはどういう観点で暴球で、今回はどうストレートなのかよくわからない私ですが、とにかく、私の世界で話を書いてくださっているのに、関係ない話を返すわけには行きませんから、結局続き(?)を書くことに。
読んでくださる方のために解説しておきますと、私の小説に出てくるカンポ・ルドゥンツ村は、私が実際に住んでいる村がモデルの架空の村で、ライン河をはさんだ向かい側には少し大きくて外国人が地図を頼りに向かうようなサリスブリュッケという村があります。鉄道駅、スーパーマーケット、それに病院などのある比較的大きい村です。対してカンポ・ルドゥンツにはそんなものはありませんし、外国人が「あそこまで行ってみよう」と思うようなところでもありません。というわけで、ポールさんのところのキャラはサリスブリュッケの病院にいて、我らが村人はカンポ・ルドゥンツのバー『dangerous liaison』で好き勝手なことを喋っているという設定です。
あ、ポールさん、もう一つのは第四弾までお待ちください。すみません。
【参考】
「リナ姉ちゃんのいた頃」シリーズ
「scriviamo! 2018」について
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
大事なのは
——Special thanks to Paul Blitz-san
ドアを開けて入ってきたアンリを見て、『dangerous liaison』の常連たちは独特の表情を見せた。水浴びしているところにたまたま現れた鮭を見かけた熊たちか、裏口からこっそり出てきたスーパースターを先回りして捕まえた熱狂的ファンか、追い越し禁止の道で時速200キロで追い越して角を曲がると待っていたパトカー内の警官、その手のニヤッとした笑いだ。
アンリがこのように迎えられることはあまりない。つまり、彼は珍しくこの村の話題の中心にいるのだ。常連たちは、彼を待ち構えて話を聞き出そうとしている。
「よう、アンリ。通訳の仕事は首尾良く終わったのか」
アンリは牧場で働く青年だ。数年前に生まれ育ったフランス語圏のスイスから引っ越してきた上に、この地域出身の両親に育てられたおかげでスイス方言ドイツ語とのバイリンガルなのだ。もちろん警察や役所では立派なディプロマを持った通訳が使われる。けれども、そうした通訳というのは時給が非常に高い。ついうっかり一日ぐらい側にいられると、バイアスロンで使うトレーニング用のバイクが買えるほどの金額の請求書が送られてくるので心臓に悪い。スイスというのはそういう国だ。
アンリがもっと心臓に悪くない金額で一種のボランティアとして通訳をしたフランス人は、どうやらレマン湖畔に城みたいな家を持っているタイプとは違ったようで、アスリートとはいえ大して膨らんでいない財布しか持っていなかった。
「まあね。通訳そのものは大して難しくなかったんだけれどさ」
アンリは頭を掻きながら、
そもそもゲイのカップル、トミーとステッフィの経営する『dangerous liaison』は、伝統的なムラ社会の閉鎖性に溶け込めないはみ出し者が集ってくるバーで、
だが、習慣というものは恐ろしいもので、村の常連たちはいつの間にかいつもの同じ席に陣取ってしまう。要するにこの村に滅多にこない人が入ってきてもこの席が空いている確率はせいぜい2%くらいだった。だから、この席は常連からみての
バーの持ち主のトミーは、ひらひらとしたオーガンジーのブラウスを揺らしながら、彼の席にパナシェを置いた。あまりアルコールに強くないアンリは、運転する時にはこれしか飲まない。ビールとレモンソーダが半々のドリンクだ。
「何が難しかったのよ」
「相変わらず人生の目標がとか、生き甲斐がとか、その手のことで絶望しているみたいで、今そんなことを言っている場合じゃないということをわからせなくっちゃいけなかったんだ」
常連の一人、マルコは身を乗り出した。
「つまり、今日の通訳はなんだったんだ?」
一昨日は、外国人にはなかなか理解しがたい事情をしつこく説明しなくてはならなかった。被疑者が麻薬中毒からのリハビリテーション中に起こった事件のため、その担当弁護士が法的責任の追求を一時停止しリハビリテーションに専念させることを要求し、それが裁判所に認められた事。つまり、被害者が誰の責任により怪我をすることになったのかの判断は少なくとも数年後まで認められず、とりあえず事故として処理するしかないと警察と病院の事務室と弁護士から冷たく言われた事を被害者に説明しなくてはならなかったのだ。
本人を刺激するといけないので言わなかったが、被疑者は再び快適なリハビリ施設に戻り、三食昼寝プラス最新鋭のテレビ付き個室で彼女も呼び放題という、非常に恵まれた環境を楽しみつつ、次の脱走という冒険に向けて着々と計画を立て始めたことも耳にしていた。
もっともそれを口にしても、大して反応はなかったかもしれない。フランス人はあいもかわらず「勝つ事しかなかったわたしには、なにが残されているのだ」などとぶつぶついうばかりで、アンリは適当に相槌を打ちつつ、ようやく旅行障害保険の申請をしないといけないことを納得させたのだった。
その経緯は、もちろんこの『dangerous liaison』で再現されて、おおいに常連たちを沸かせたものだ。だからこそ、エンターテーメントに飢えている常連たちは今日もアンリを待っていたのだ。
アンリは肩をすくめた。
「保険会社からの返事だよ。まあ、いつものあの文面さ」
『残念ながら、ご申請の件は約款で定める免責事由に該当するためお支払いすることはできません。ご理解のほどよろしくお願いします』
全員が声を揃えて復唱した。保険会社というものは勧誘するときはどんなケースでもカバーされて安心のように思わせるのだが、いざ支払う段階となると全力を尽くして「払わずに済む」理由をどこからか見つけてくるものだ。
「どこにケチをつけてきたんだ?」
「今回はいいがかりじゃないのか? なんせあの男は肩を撃たれたんだぞ。どう考えても責任は無いだろう?」
アンリはため息をついた。
「それがさ。それを確実にするために警察の調書のコピーをわざわざ入手して添付したのがまずかったみたいなんだ」
「なんで」
「犯人は、自転車か車を奪おうと人里離れたサリス渓谷のキャンプ場の近くにひそんでいたらしい。で、あのフランス人が通りかかって立ち小便をしたので、これはいいチャンスだと思ったんだけれど、僅かの差で襲うところまでいかなかったそうなんだ。ライフルを持って追いかけていたら警官と話していて、これはもう一刻の猶予もならないと思い、警官が去ってすぐに襲ったそうだ」
トミーと常連たちは首をかしげた。
「それのどこがまずかったんだ?」
アンリは肩をすくめた。
「立ちションだよ」
「はあ?」
皆は一様に声をあげた。確かにスイスではトイレ以外の公共の場で排泄することは禁じられている。だが、それと保険となんの関係があるというのだろうか。
「保険会社の理屈によると、これは『自らの犯罪行為がその損害との因果関係を持つ場合は損害補填はしない』と決めた免責条項にあたるんだそうで」
「ははあ。なるほど」
それがこじつけだろうとなんだろうと関係ない。とにかく保険会社はびた一文払わないと固く決めているということだ。
「で、フランス人はどうするって?」
マルコは訊いた。
アンリは日本人のような曖昧な笑顔を見せた。
「この後に及んで『勝つことができなくなった今、わたしはこれからどうすればいいんだ』とか寝ぼけたことを言っていて……」
それを聞いて常連たちは思わず吹き出した。
「笑い事じゃないでしょ」
トミーが釘を刺した。
マルコは言った。
「その御託を言っている時間ですら、どんどんメーターが上がっていることは指摘してやったのかい」
「もちろん。この手紙をもらったってことは、とにかく一刻も早く退院しないと破産するんだよって小学生でも理解できるフランス語で説明してやったよ」
「で?」
「ようやくどのくらいかかるのかということに興味が湧いたみたいだ」
「なんていってやったんだ」
「フランスの田舎なら家が買えるくらいの手術代は別にして、こうしているだけで日々パリのちょっとしたホテルのスイートに泊り続けるくらい高くつくって言った」
一同はまたゲラゲラ笑ってトミーに睨まれた。
「で?」
「一刻も早く退院する方法を教えて欲しいって」
「ほう。さすがに少しは現実的になったんだろうな。で、このあと、もしかして退院のための送迎か?」
アンリは、それからため息をついて、トミーに言った。
「トミー。もう一杯くれる? 今日はもう行かなくていいんだ」
「ええ? 退院しないことになったのか」
一同は驚きの声をあげた。
アンリは大きなため息をついた。
「看護婦が入ってきてさ。手を握って『そんなに急いで出て行かなくても』みたいなことを言ったら……簡単に意見を変えちゃって」
一同は、頭を抱えた。
「だめだ、こりゃ。フランス人っていうのは、これだから」
(初出:2018年1月 書き下ろし)
【小説】夜のサーカスと漆黒の地底宮殿
「scriviamo! 2018」の第二弾です。山西 左紀さんは、今年もプランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。
山西左紀さんは、SFを得意としていらっしゃる創作ブロガーさんで、こだわった描写にはいつも唸らされています。お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人で、このscriviamo!も皆勤してくださっています。
既に多くの作品でコラボさせていただいていますが、もっとも多いのが、「夜のサーカス」のキャラクターの一人であるアントネッラと、そのブログ友達になっていただいたサキさんの「物書きエスの気まぐれプロット」のエスというキャラクターとの競演です。
で、お任せということですので、去年の「ファンタジー企画で七転八倒しているアントネッラの話」の続きを書かせていただきました。まあ、相変わらずアントネッラの作中作はやけっぱちですが、お許しください(笑)
【追記】
サキさんがお返し作品を書いてくださいました! エスと友人コハクの話も、苦手とおっしゃりつつとても面白いファンタジーも二重に楽しめる作品になっています。
夜のサーカスと漆黒の地底宮殿
![]() | 「夜のサーカス」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
「夜のサーカス」外伝
「scriviamo! 2018」について
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
夜のサーカスと漆黒の地底宮殿
——Special thanks to Yamanishi Saki-san
磨かれた黒い大理石は、よく目を凝らすと細かい銀の粒で満ちていた。それはまるで永遠へと続く星空のようで、見つめ続ければ吸い込まれ二度とは戻れないのではないかと思わせる。
ロジェスティラは、可能な限り音を立てないようにゆっくりと歩いたが、それはほとんど不可能だった。彼女の鋼の甲冑は無粋な音を立てた。これではモルガントに見つかるのは時間の問題だ。
「そのような物々しい為りで現れるとはな。お前が《天翔けるロジェスティラ》か」
ギョッとして振り向くと、いつの間にかそこには小柄な少女が立っていた。流れるような長い金髪、輝く黄金の瞳、白い襞の多いローブ、穢れなく無邪氣な様子をしているが、この口調からすると万物への愛に満ちているとは考え難かった。
「そうよ。あなたは何者なの」
「妾か。何とでも呼ぶがよい。かつてこの地で妾を崇めていた人の子は《冬に暖める母》とも《焼き尽くす者》とも呼んだがな」
それではここにいるのは火を吹く山の女神、ヘロサなのか! ロジェスティラは身震いした。かの天空のヘロス大聖殿で起こった突然の炎柱が皇孫オルヴィエートのローブに火を点けた時、彼女は皇孫将軍が信じていたほどの高潔な精神の持ち主でない事を知った。彼女が《光の子たち》の騎士としての役割に初めて疑問を持ったのはあの時だった。
「あなたは、モルガントに協力しているのですね、《炎の女神》よ」
わずかに膝をついて敬意を示すロジェスティラを見つめて、少女は甲高く笑った。
「協力だと、妾が? 《天翔けるロジェスティラ》よ。お前は、稀有の戦士で運にも恵まれている。だが、救いようもないほど愚かだ。まずはあの愚鈍な白いサルに忠誠を誓い、我が聖なる神殿を血で穢したかと思えば、今度はあの田舎者に懸想してこの地底宮殿まで追ってくる。お前は一体何がしたいのだ」
ロジェスティラは、びくっと肩を震わせた。それは、彼女自身が知りたい事だった。
「なんだかどんどん混沌の極みに陥っているような氣がするわ」
アントネッラはため息をつくと、エスプレッソをこくんと飲み干した。もういい加減にコーヒーの休憩はやめなくてはならない。いくら話が行き詰まっているからと言って。
「まさかあのエセファンタジーの続きを書かなくちゃいけないことになるなんてねぇ」
小説を書くブログを運営している仲間たちでファンタジー作品を書き、その中で二作品を選んで仲間の意見を取り入れた上で完成させる企画だった。アントネッラはやけっぱちでメチャクチャな作品の書き出しを提出した。ファンタジーは書いたことがないどころか、まともに読んだこともなかったのだ。
そもそも一度作品が消えてしまった時点でギブアップしようと思っていたぐらいなのだ。ところが、その作品の一つ前のバージョンを読んで意見をもらっていたエスが保存しておいてくれたおかげで、少なくともギブアップだけは免れた。つまり体裁だけ整えて提出すればすぐにこの話から逃れられると思っていた。
器用になんでも書くエスの『クリステラと暗黒の石』が満場一致で選ばれたのは当然だと思ったが、驚いたことに自分の『天空の大聖殿』までが選ばれてしまった。どうやら仲間たちは、エスの作品のように独創的できちんと考えられている作品を二つ選ぶと、どちらにも口を出しづらいが、こんな稚拙なファンタジーになら何を言っても大丈夫だと思ったらしい。
実際に、仲間たちがワイワイと意見を言ってきて大幅な改稿を繰り返すうちに、当初のコンセプトはもはやどこかに吹っ飛んでしまった。
正統派ヒーローのはずだった皇孫オルヴィエートは、仲間の人氣が著しく低く二章目であっけなく醜態を晒して退場した。エスの強い勧めで新たなヒーローの座に着いたのはヒロインの幼馴染、悪の象徴からレジスタンス組織に変わってしまった《闇の子たち》の首領モルガントだ。
アントネッラは、かつてとある地方巡業サーカスの団員たちと知り合いになり、彼らの物語を小説にしようとしていたが、警察も巻き込む大きな事件と上流階級のスキャンダルに関わってしまい、その小説を闇に葬らなくなってしまったことがある。せっかくの個性的なメンバーのことを世に出せなくなったのが残念で、今回の小説では既に二人の容姿を借りてロジェスティラとモルガントを設定している。
「エスは、どうせマッダレーナやヨナタンをモデルにしたキャラクターを主役にするならステラがモデルの可憐な妖精みたいなのも出せって言うんだけれど、あの容姿で妖精にしてもそのまますぎておもしろくないし。もっとも、この活火山の擬人化みたいなキャラにしてみたけれど、これはこれでどうなのかしらね。ま、いいか。あとは光と闇の調停をする大神官としてブルーノ、最高神の化身としてあの胡散臭い団長でも配置しておこう。そこまでセオリーから外したら、きっとみんなも呆れてこれ以上この話に興味を持たなくなるだろうし」
書けば書くほど、どんどんおかしな設定になって行くが、奇妙なことにアントネッラはこの話が以前ほど嫌いではなくなっていた。ファンタジー専門で書いていこうとは思わないけれど、きっと完結したらこの話のことが誇らしくなるだろうと感じていた。おそらくファンタジーとしてはメチャクチャになるだろうけれど。
「そういえば『クリステラと暗黒の石』の方は、どうなったんだろう」
コーヒーを飲む以外に、行き詰まった小説から逃れる理由を思い出したアントネッラは、ニコニコして古風なブラウン管式ディスプレイ画面に向かった。
「現在改訂版の執筆中……か。『ドラゴンの結石が大量に必要なら、イラつくキャラでも派遣してドラゴンにストレスをかけてやれ』って冗談で書き込んだのは、まずかったかなあ。怒ってブロックされているんじゃないといいけれど」
エスの改訂版を読むことができなかったので、本当に自分の作品に向かうしかやることがなかった。それに時間もそれほど残っていない。
アントネッラはブラウザを閉じると、ロジェスティラとヘロサの緊迫した対決の場面の書かれたテキストを開いて大人しくキーボードを叩き始めた。暗黒宮殿のシーンにはまったくふさわしくない、ダフネの甘い香りが漂っていた。北イタリアが少しずつ春めいてきたことを彼女は知った。
(初出:2018年1月 書き下ろし)
【小説】僕の少し贅沢な悩み
「scriviamo! 2018」の第三弾です。たらこさんも、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。
たらこさんは、四コママンガでひまわりシティーという架空の世界で起きる壮大な事件をいろいろと表現なさっていらっしゃる創作ブロガーさんで、「ひまわりシティーへようこそ!」を絶賛連載中です。
「scriviamo!」へのご参加は二回目、今年もBプランをご希望です。前回のお返しのイメージが強いのか、なんとなくこんな作品になりました。実は、私もけっこう競馬は好き。スイスでも競馬に行ってちょっとだけ当てたこともあるのですよ。
お返しは、これに絡めてもいいし、ぜんぜん関係のない作品でも構いませんよ。
【追記】
たらこさんがお返しの漫画を描いてくださいました。去年の作品にもつながるカ作ですよ!
たらこさんの作品の記事 『scriviamo! 2018』

「scriviamo! 2018」について
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
僕の少し贅沢な悩み
——Special thanks to Tarako-san
町は、少しだけ忙しさを取り戻したように見えた。松飾りは取り外され、電車は通勤する人たちで再び満杯になった。ごく普通の日常が町には戻って来た。
でも、僕には、どうかな。これから向かおうとしているところは、いや、人生の向かう先は、どう考えてもこれまでの日常からはかけ離れて思える。
僕の身に起こった非日常を説明する前に、まずは僕の日常を説明しなくてはならない。
僕は、東京生まれの東京育ち。あ、残念ながら二十三区じゃないけれど、それはさほど重要じゃない。始発駅から座って一時間半の通勤時間を使って、読書をする。本当は日経新聞を読むべきなんだろうけれど、あれを読むとどういうわけだかすぐに寝てしまうので、最近はそれ以外の新聞や軽めの小説を読んでいる。あ、皐月賞や有馬記念などの前になると、ちょっと別の種類の新聞を読む。
ほぼ終点に近い都心の駅で乗り換えて数駅、満員電車でボロボロになりつつ人の波に紛れて出勤。昼休みの時間は平均二十分で働く。おもに電話に向かってペコペコしながらアポを取り、出かけて行ってからもひたすら頭を下げるのが仕事だ。
パートのおばちゃんたちに仕事を頼もうとすると押しが弱くて反対に別の仕事を押し付けられる。彼女たちがさっさと帰ってから自分の仕事をようやく形にして、また一時間半かけて帰る。少しだけ残業をすれば朝ほどの殺人的混雑にはならないが、遅くなりすぎると酔っ払いたちに挟まれて帰ることになる。まさに「なんだかなあ」という日常だ。給料は大したことはないが、簡単にやめるのはリスクが大きすぎるのでとりあえず我慢しているところだった。
先週のことだった。母ちゃんが見合い写真を持って、僕の1Kアパートに乗り込んできた。
「お前、彼女いないと言っていたのは、ホントだよね。この話、どう?」
僕には、確かに彼女は数年来いないし、絶賛募集中なのも間違いないが、いきなり見合いはないだろう。しかも母ちゃん経由ってどうかと思う。
「つべこべいわないで、見てごらんなさいよ。お前にこんな可愛い女の子の話が来るのは、どう考えても最初で最後よ。ほらほら」
そういわれて、僕は好奇心を起こして母ちゃんが振り回している写真をちらりと見た。そして眉を顰めた。可愛いっていうのが間違っているわけではない。まあ、世間的に言ったらかなり可愛い部類に入るだろう。大きな瞳はキラキラしているし、ふっくらとした唇はツヤツヤだし、鼻筋も通っていて、まあ、そこらへんの何十人ひとまとめで売っているアイドルグループだったら速攻センターを張れる容姿だ。全体写真を見たら、おやおや、出るところはちゃんと出ているし、でも足は綺麗。うむ。すごいな。
釣り書きをみると、まだ二十代の半ば、学歴も家柄も問題ないようだし、見合い市場ではどう考えても売り手市場っていうか、高嶺の花。っていうか、見合いする必要なんかなくモテモテなんじゃないの? 怪しい。なぜこの手の子を母ちゃんが僕に薦めるんだ?
「なんで僕にこの話がきたの?」
「なんでって、誰かいい人探してくれと頼まれたんだけれど、そもそもお前にいいんじゃないかと思って」
「おい。その人が僕レベルを期待しているわけないだろう」
「なによ、俊平、お前ノリ氣じゃないの?」
「う~ん」
僕には、非常に大きい問題があった。女のコの好みが世間一般とかけ離れているのだ。
「僕は、どっちかっていうと、もう少し平安時代の美女みたいなのが……。体型もすこし寸胴タイプが……」
平安の絶世の美女みたいな下膨れで糸目をした母ちゃんは「おやおや」という顔をした。
「お前ね。女は子供を産んで、生活の維持に髪を振り乱して、それからしばらく歳をとれば、だいたいお前好みの方向に近づくのよ。問題は容姿じゃなくて度胸とユーモアよ。とにかく他に回す前に一度あってみなさいよ」
僕は、まったくノリ氣ではなかった。この子が見合いだなんて、なんかの詐欺か新たな美人局かもしれないし。母ちゃんは、人を疑うってことのない人だが、僕はもう少し世間ってものを知っているからな。
「なんでこの子が見合いすんのか、訊いたのか」
「知っているわよ。なんかね、数年前にご両親を亡くされて、後を継いだ牧場の経営で困っているんですって。で、一緒にやってくれる結婚相手を探しているんですって。お前、馬は好きでしょ」
え。馬? 僕は、改めて釣書書をもう一度眺めた。確かに真風野牧場と書いてある。聞いたことねぇ。しかもG県か。ちと田舎だな。
「マカゼノさんっていうの? 変わった名前だね」
母ちゃんは冷たい目をして言った。
「マカゼノじゃないわよ。
マジノ? どっかで聞いたような……。って、それより!
「当日ってなんだよ!」
「今度の日曜日に、駅前の『サクレ・クール』を予約しておいてあげたから。私が行ったりするとお前も言いにくいこともあるだろうから、若いもの同士でフルコース食べながら馬の話で盛り上がっておいで」
ちょっ。なんでそんなことに氣を遣うんだよ。普段は繊細さのカケラもないくせに。
ともかく、そういうわけで僕はこうしてキラキラお目目とぷっくり唇の真風野さんとフルコースを食すためにうちの近くで一番洒落ていて高いフランス料理店に向かっているのだった。
母ちゃんからの忠告通り、五分前に店に入り案内された窓際の明るい席から入口の方を眺めていると、測ったみたいに十二時きっかりに彼女は入ってきた。あまり飾り氣のない品のいいキャメルのコートを係員に渡す仕草を見ていたが、いかにもお嬢様という感じでどう考えても僕なんかと結婚したがるはずはなさそう。まあ、いいや、飯食って馬の話だけして帰ろう。
コートの下から現れたのは少し華やかな柔らかいワンピースだが、どこがどうというのかわからないけれど、野暮ったい、いや、違う、古風と言わなくちゃいけないのかな。これ、本人のワンピースなのか? それともお下がりかな。
ウエイターが案内してきたので、僕は急いで立った。
「お待たせしました」
鈴のような声が響く。
「いえ。僕も来たばかりです。はじめまして木南俊平です」
「はじめまして。真風野里穂です」
目の前に座った里穂を見て、僕はぶったまげた。あの写真、修正してあったんじゃないんだ。顔だけじゃなくて目視によるスリーサイズは95・58・89ってとこ。なんでこんな子が見合いなんかするの。牧場の経営状況が悪くても、命かけてくれる男はいくらでも見つかるだろうに。
僕はまず頭を下げた。
「はじめに謝っておきます。そちらはおそらく僕みたいなのではなく、もっとずっといい方を探していらっしゃると思うんですが、たまたま里穂さんのお話を聞きつけた母がダメ元で逢っていただきたいと勝手に……」
すると里穂はあわてて手を振った。
「え。そんなことありません。私の方こそ、こんな条件の悪い話に無理してお時間を作っていただきましてすみません。その……仲介をしてくださった中田さんが、俊平さんなら馬のことにも興味を持ってくださるかもしれないっておっしゃってくださったので……」
僕は、あの中田のおばちゃんめ! と、思った。僕が好きなのは、牧場経営じゃなくて、競馬だっつーの!
「す、すみません。確かに僕は馬は好きですけれど、その、時々競馬に行くっていうだけでして」
「そうなんですか?」
「本当に申し訳ありません」
これで見合いは打切りかな。しまった、まだ食っていない。でも、もともと僕は牛丼タイプの男だしなあ。牛丼屋には、もしかしたら好みの平安美女みたいなお多福姉ちゃんがいるかもしれないしさ。
ところが、里穂は怒り出すどころか、ますますキラキラのお目目を輝かせて、すがるように僕の方を見つめて言った。
「なんて偶然なんでしょう。実は、私が守らなくちゃいけないのは、種牡馬なんです。お恥ずかしいことに一頭しかいないんですけれど、この馬が私の命綱なんです」
は?
里穂は、ゆっくりと説明を始めた。
「うちはちゃんとした厩舎ではなくて、基本的には養豚の方をメインにやっているんです。だから、私はその馬だけでなく、豚の世話をしなくちゃいけないんですけれど、その、両親が亡くなってから手が回らなくて、困ったことに……」
「つまり?」
「マジノリニエが三回も脱走しそうになったんです」
マジノリニエだって?! 僕はたまげた。競馬場に通っていると言える程度にウマが好きな奴ならその名前はどこかでみたことがあるはずだ。
スポーツ新聞の競馬欄には、いや、最近ではネットでもあるけれど、馬柱というのがあって、該当するレースの出場馬についてたくさんの情報が載っている。性別や年齢、それに過去のどのレースで誰が騎手で、どんな成績を残したか、それに両親の名前など。
そして、最近やたらと目に付く謎の名前が「マジノリニエ」なのだ。例えばそれまで一度もレースで見たことがなかったのに宝塚記念で突然三位に躍り出たホープダイヤ。母親は桜花賞で連続優勝したアマゾンツウハンだとはいえ、聞いたこともない父親に僕は本氣で首をかしげた。それに、天皇賞で二位につくあの大番狂わせを演じたブラックキギョウ。あれも父親は「マジノリニエ」。
もちろん、あまり賭ける氣にならない競走馬も生まれている。出るたびに後ろから数えるほうが早い成績しか残さないシャケチャヅケや、レースになるとロバのように動かなくなるユアアイズオンリーの父親も「マジノリニエ」だ。
「マジノリニエって、本当にあの、ホープダイヤやブラックキギョウの父親の?」
僕がそう訊くと、里穂の顔はぱっと明るくなった。
「ご存知なんですか? そうなんです。実は競走馬時代は一勝もできなかったのですが、両親と兄弟の成績が良かったせいで種牡馬として登録してもらえたんです。うちはもともと競走馬とはまったく関係なかったのですけれど、大叔父の持っていたマジノリニエとその弟のマジノアンドレと引き換えに資金繰りに協力したことがあって、その後マジノアンドレは大叔父の元に戻ったんですが、マジノリニエは父に懐いてしまった上さほど価値もないので我が家に残ることになりました。とても安いとはいえ、種付け料も手に入りますし。でも……」
「一人じゃ手が回らないと。それで急いで結婚相手を探すことに。でも、もしかして、きみに必要なのは牧場で一緒に働いてくれる人? だったら無理して結婚しなくてもいいんじゃ?」
すると里穂は困ったように顔を上げた。
「そうなんですけれど、うちにはちゃんとしたお給料を払えるほどの余裕はないんです。バイトを雇うと、どの方も仕事はそこそこにセクハラみたいな事を始めたりするので、お断りしなくちゃいけないし、だったらちゃんと結婚してその方と牧場経営をしたほうがいいかなと」
里穂はキラキラお目目で僕をじっと見つめた。普通のかわい子ちゃん好きな男なら即ノックダウンするだろう。僕もぐらついている。いや、もちろんこの子の容姿にではない。マジノリニエの馬主になるっていう誘惑だ。かのマジノアンドレの兄弟馬だったとは。
この子と結婚したら、全然関係ないけれど研究とか言って競馬場に通っても許してくれそうだし。
でも、G県の養豚場か。僕の体力でつとまるかな。それに、結婚しようと決めた途端、理想の糸目下膨れのおねえちゃんと出会ったりしたら辛いな。どうしようかな。結婚すべきか、しないべきか、それが問題だ。ま、いいか。とにかくこのフルコースを全部食べてから考えよう。
僕は、適当に相槌を打ちつつ、リーズナブルな値段の割に美味くて食べ応えのあるフランス料理をガツガツ食べた。里穂も牧場の娘らしく、豪快な食べっぷりだ。食べながらの会話も弾み、興味対象もそんなに違わないことがわかった。おかげでますますどうすべきかわからなくなってしまった。
僕の脳裏にはどこからともなく『人間万事塞翁が馬』という格言がぐるぐる回り始めた。そうかね。用法かなり違うかもしれないけれど。この子がOKしたら、そういう人生に踏み出すのもありかなあ。
(初出:2018年1月 書き下ろし)
【小説】それは、たぶん……
「scriviamo! 2018」の第四弾です。ポール・ブリッツさんは、プランBでもご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。
ついでにプランBでもお願いします。最近自分でもエネルギーが抜け気味で、ショック療法のためにもきついの一発頼む(笑)
さて、他の方はあまり難しくならないように、いろいろと余地を残してご用意するのですが、ポールさんのご希望がこうなので困りました(笑)
何を用意しても「こんな簡単なの、やってられねえ」と思われると思うし、私ごときの頭脳では博識なポールさんを唸らせるお題なんか出せそうも無いので、単純にものすごく限定して自由のないお題を出させていただくことにしました。まず、私が時々やる小説の書き方をポールさんに強制します。
ここに貼り付けた動画は、スティングの「It's Probably Me」です。某映画のサントラにもなったようですが、この際映画のことは忘れてください。純粋に歌詞に沿った作品を書いてください。しかも、下に発表する作品を受ける形でお願いします。可能なら、対象読者は男性ではなく女性が「萌え〜」となる作品に仕上げてくださることを望みます。
なお、歌詞は、ここには書きません。ポールさんなら聴けばわかるでしょう。っていうか、著作権的に載せていいのかわからなかったので。まあ、ネットにいっぱい転がっていますからいいですよね。
Sting - It's Probably Me (Official Music Video)
Music video by Sting Feat. Eric Clapton performing It's Probably Me . © A&M Records. From Lethal Weapon III Soundtrack.
下にご用意した作品のアイリーンというキャラクターは、2016年の「scriviamo!」で発表した「ニューヨークの英国人」で名前だけ登場した女性です。この人は、今後もストーリー上では使う予定はありませんので、ご自由に料理してくださって結構です。申し訳ありませんが、それ以外のこのシリーズで名前のあるキャラたちは、発表していない設定がありますので重要な設定変更(くっつけたり、殺したりという意味です)をしないでいただけると有り難いです。あ、ポールの嫁に差し上げた美穂は、例外です。もうそちらのキャラですので、修羅場なり出戻りなり葬式なりどうぞご自由に。(もちろんポールと美穂は無理して使わなくていいですよ)
【1月17日 追記】
ポール・ブリッツさんが早くもお返しを書いてくださいました。
ポールさんの作品 「パイプ椅子とビデオモニターと」
すごいですよ。あれだけむちゃを言ったのに、易々と書いていらっしゃいます。アイリーン、そうとうな波乱万丈になっていますが、これだけいい男に当たれば、文句はないでしょう。ポールさん、どうもありがとうございました!
【参考】
![]() | 「郷愁の丘」を読む あらすじと登場人物 |
![]() | 「ニューヨークの異邦人たち」 |
「scriviamo! 2018」について
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
それは、たぶん……
——Special thanks to Paul Blitz-san
さっき転んだ時に笑った全ての男の頭に、シャンペンボトルを叩きつけたい氣分だった。いや、それよりも裸足の時を狙ってこの10センチの尖ったヒールで容赦なく踏みつけてやりたい。そうすれば、こんな拷問具みたいなものを身につけながら優雅に歩く女の努力と克己心にもう少し敬意が芽生えるだろうから。
絶対に泣くものかと思った。マスカラが流れちゃうもの。アイリーン・ダルトンはショー・ウィンドウに映った自分の姿をちらっと眺めた。きちんとセットした髪が更に魅力的に見える様に完璧な角度に被った鐔の広い帽子、コチニール色のスーツは実際の彼女のサイズよりも一回り小さく、彼女の豊かな胸が下品にならない程度に強調される様になっている。この難しい色のスーツに同系統のハイヒールを合わせる勇氣はないので安全な黒、しかも磨き抜かれたエナメル。
10センチのヒールに少し窮屈なスーツの組み合わせだと、体のあちこちが悲鳴をあげるので、自然と小さなことにも苛立つことになる。なぜ体のあちこちが痛むのかすぐに理解できないと言う人は、おそらくこの手の服装をしたことがないのだろう。従って大抵の男は、セクシーな服装をした女性とその氣まぐれとも言える振る舞いの相関関係には無頓着で、それが彼女を更に激怒させることになる。
こういう場合に、絶対に言ってはならない最悪のセリフはこうだ。
「だからいっただろう。人間、大切なのは中身だ、外見なんかじゃないよ」
アイリーンがニューヨークに渡ってきてから一年が経つ。彼女は、ロンドンでそれなりの仕事と社交を満喫していた……と言うわけでもないけれど、冒険がしたくてアメリカに渡ってきた。ロンドン郊外に一緒に住んでいた両親がウェールズの田舎に引っ越してしまったのを風の便りに聞き、もう帰るところはないと覚悟を決めてこの街に残った。
アイリーンの容姿は、本人が自負しているほど突出しているとは言いがたい。10人の男たちにアンケートをとったらおそらく「美人だ」と判断するのは6人がいいところだろう。いつも流行のメイクアップとヘアセットを怠らず、決して安くはない服飾費に給料の大半をつぎ込んでいるにもかかわらずだ。服装を農家の娘と取り替えたら、その内の3人は意見を変えるかもしれない。一方で「美人ではない」と判断した4人のうち2人は「少なくとも足は綺麗だ」という意見には同意するだろう。
彼女は、少し扱いにくい性格をしていた。そこが、服と化粧を取り除くとほぼ同じ外見の双子の妹と、大きく違うところだった。つまり、妹のクレア・ダルトンはとても現実的で、たとえば「偶然すれ違ったレオナルド・ディカプリオやジョージ・クルーニーが自分に一目惚れしたようだ」というような確信は一度も持たなかった。実際にそうしたスターたちは、間違いなく一度もクレア・ダルトンに夢中になったことはなかったし、そのことでクレアが不幸だと感じたこともなかった。
でも、アイリーンにとっては、それはどうでもいいことではなかった。彼女の魅力に一度は屈したはずの男たちが「ところで、あなたはどちらさまですか」などと言い出すことが繰り返されたら誰だって弄ばれたのではないかと悲しい心持になるだろう。しかも、セレブの横に立つのにふさわしくなるために、快適とは言えない窮屈な服装で出かけていったあとにそう言うことを言われるのは嬉しくない。
ところで、今日「ところで、僕たちどこかでお会いしたことがありましたっけ?」というセリフを口にしたのは、有名なハリウッドスターではなかった。先日知り合ったどっかの男が「君は有名人なら誰でもいいんだろう」と言ったけれど、それは全く失礼なもの言いでしかなかった。アイリーンの(あくまで自ら認識している)美にノックアウトされるのは、有名人も一般人も関係あるはずないではないか。
アイリーンは、うずくまりそうになる前の最後の力を振り絞って、角を曲がり、妹の勤めている骨董店《ウェリントン商会》のガラスドアを押し開けて中に入っていった。
「アイリーン! 久しぶりね、どうしたの」
クレアはヴィクトリア調の椅子から立ち上がって、双子の姉を迎えた。非常にコンサバティヴな服装を好む妹は、このままデボン州かなにかのの小さい骨董品店にテレポートした方がいいんじゃないかと思うような服装をしている。灰色の長いスカートに黒い細いリボンをあしらった白いブラウス。ニューヨークとはいえ、ここも骨董店なのだからそれでもいいのかもしれない。
クレアは、そもそもアイリーンを探しにニューヨークにやってきたのだが、そのままこの骨董店で働くことになりアメリカに残っている。この店の三階に、広くて心地のいい部屋を借り、近くのダイナーに行きつけてはたくさんの仲間を作り、アイリーンよりもずっとここに順応していた。それに、そもそもアイリーンに夢中だったはずの、ここの店長であるクライヴ・マクミランはどういうわけか今ではクレアを崇拝しているらしい。自分以外は、誰も彼も世界とうまく折り合いをつけているようで、アイリーンはほんの少し居たたまれなく思うのだった。
「足が痛くなってしまったの。今日は、わざわざミートパッキング・ディストリクトまで出かけていったのよ。とあるDJと会う予定があったから。それなのに、彼ったら私なんて見たこともなければ話したこともないなんて見え透いた言い方で私を厄介払いしたのよ。ひどいわ」
「ミートパッキング・ディストリクトって、マンハッタンの、クラブがたくさん集中しているところね。まあ、アイリーン。あなたったらまたよく知らない人と恋に落ちてしまったの?」
「よく知っている人と、突然恋に落ちるわけないでしょう」
「そうね。あなたの言う通りだわ。でも、そろそろわかってもいい頃よ、10センチヒールを履かないと実りそうにもない恋に時間をかけるのはやめた方がいいってことに。マンハッタンからの帰りにここによらずには帰れないほどあなたの足を痛めつけちゃダメだと思うの」
クレアは言った。
アイリーンはため息をついた。
「そうはいっても、3センチヒールは、あなたみたいなコンサバティヴな服装ならいいけれど、私の服には合わないもの。それはともかくお茶を頂戴。あなたとマクミランさんのところには、少なくともまともなティーセットとショートブレッドがあるもの。少しだけお茶の時間をとって、私の悲しくも辛い話に耳を傾けてちょうだい」
クレアは、仕事中だからダメというつもりで厳しい顔をして見せたが、奥から店長のクライヴが「もちろんいいですよ。ちょうど僕も、クレアと一緒に一息いれたかったところなんです」と声をかけたので「まったく」といいたげに天井を見上げた。
お茶を飲み終わる頃には、ハイヒールによる足の痛みは少し薄らいでいるに違いない。でも、それは根本的な解決ではないのに。でも、彼女に必要なのは、私のような平穏で波風の少ない人生じゃないんだわ、きっと。静かにボーンチャイナのティーセットを用意しながら、クレアはため息をついた。
(初出:2018年1月 書き下ろし)
【小説】彼女の望んでいることは
scriviamo!の第五弾です。canariaさんは、楽しいマンガで参加してくださいました。ありがとうございます!
canariaさんの『scriviamo! 2018 参加作品 』

この漫画の著作権はcanariaさんにあります。無断転用は固くお断りします。
canariaさんは、Nympheさんというもう一つのお名前で独特の世界観と研ぎすまされた美意識の結晶を小説・イラスト・動画などで総合芸術を創作なさるブロガーさんです。現在ブログでは、「千年相姦」を絶賛連載中で、同時に「侵蝕恋愛」も続々刊行していらっしゃいます。創作に対する妥協のない姿勢は、いつも見習いたいと思うんですが……思うだけで真似はできませんね。
さて、今回のマンガは、私の「ファインダーの向こうに」という作品の中の、一通の投書から膨らませてくださった楽しい作品です。現在連載中の「郷愁の丘」にも登場して、一人だけぶっ飛んだ濃いキャラクターで読者の皆さまを呆れさせている、ヒロインの兄マッテオ・ダンジェロのファンのお嬢さんが登場です。
事の起こりは、ヒロインの写真家ジョルジアが、自分の殻を打ち破るためにモノクロームの人物画に挑戦し、セレブである兄マッテオをいつもとまったく違う服装と雰囲氣で撮ったことです。セレブっぽくないマッテオの姿にお嬢さんは激怒、雑誌の発行元に乗り込んでくるそうで(笑)
というわけで、外伝として乗り込んできたお嬢さんを書かせていただきました。ちなみに、この作品は時系列でいうと「ファインダーの向こうに」の最終章と重なる時期です。「郷愁の丘」の始まる三ヶ月くらい前ですね。ジョルジアは二年前にグレッグと出会っていますが、すっかり忘れていたようです。まだTOM-Fさんのところの某キャラに秘めた恋心を抱えている時点ですね。
【参考】
![]() | 「ファインダーの向こうに」を読む |
![]() | 「郷愁の丘」を読む |
![]() | 「ニューヨークの異邦人たち」 |
「scriviamo! 2018」について
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
彼女の望んでいることは
——Special thanks to canaria-san
ジェシーは「勘弁してくれ」と言いたいところをこらえた。普段ならこの受付に座っているのはリディアであって、売店が持ち場の彼ではないのだ。
それなのに、娘が学校で問題を起こしたとかでリディアが早退してしまったので、今日はジェシーが売店と受付といっぺんに面倒を見ることになっていた。歳が代わったばかりで今週は大きな催しもないせいか、これまでは特に問題もなくのんびりとしていられた。
今、目の前でヒステリックに騒いでいる女が入ってくるまでは。
《アルファ・フォト・プレス》は、ニューヨーク、ロングアイランドにある出版社だ。現在の社長がクイーンズ州で始めた小さな写真印刷事務所が前身で、おもに芸術的な写真をメインとした出版物や定期刊行物を扱っている。固定社員も三十人前後で、契約社員や専属写真家などを含めても数がしれていて、お互いに顔と名前が一致するアットホームな社風だ。弱小出版社といってもいい。
その分、マスコミに注目されるようなことはあまりない。昨年末に、写真集『太陽の子供たち』と専属写真家のジョルジア・カペッリが『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』の一般投票部門で六位を取ったのは例外中の例外で、その直後は『太陽の子供たち』の注文が殺到し、ジェシーもしばし誇らしい繁忙期を過ごしたものだ。
それと前後して『クォリティ』誌で発表したマンハッタンのセレブを特集シリーズも評判になった。専属・フリーを問わず新進のフォトグラファーに印象的な写真を依頼するコンセプトが受けて部数を伸ばしている。だが、一方で、これまでジェシーがほとんど経験したことのないクレームも持ち込まれることになった。
たとえば、オスカーをとった日本人俳優トダ・ユキヒコを特集した号が発表された時には、二日目には在庫が綺麗になくなったのだが、その後にテキサスからやってきたとかいう女がもう手に入らないなどといって暴れた。
そして、今度はこの女だ。十二月号で発表されたのは、健康食品会社のCEOマッテオ・ダンジェロの特集だった。この男は、ヘルサンジェル社を一代で大企業にしたアメリカン・ドリームの具現者で、妹でトップモデルのアレッサンドラ・ダンジェロと共にゴシップ誌の誌面を賑わせる事の多いセレブ。独身の大金持ちなので派手な女性関係でも有名で、芸能人でもないのに熱狂的ファンがいる。ちょうどジェシーの目の前で騒いでいるこの女のように。
特集のインタビューには満足しているようだったが、写真に激怒していた。それもそのはず、大きな反響を呼んだその写真は、いつもとはまったく違うラフな服装の彼を、色を廃しモノクロームで撮ったものだったからだ。
でも。ジェシーは頭を振った。世間ではほとんど知られていないけれど、この写真を撮った例のジョルジア・カペッリは、マッテオ・ダンジェロの実妹なのだ。妹が兄の姿を撮ったものに「こんなの本当のダンジェロ様じゃない」と言われてもねぇ。
「とにかく、責任者を出してください! ダンジェロ様のイメージを回復するために、謝罪文の掲載を約束してくださるまで、ここを動きませんから!」
面倒臭いなあ。まさか、こんなくだらないことで社長に取り継ぐ訳に行かないしな。編集長はいないし、編集長代理のミスター・ハドソンは、今日はいたよな。呼びだしたら怒るかな。……あ、まずい。ミズ・カペッリと打ち合わせ中だ。撮った本人がいたら、話がこじれるかも。
「そうですね。申し訳ないんですが、みな出払っていまして……」
そう言いながら、彼女の肩越しにガラス張りのドアの向こうを見た。そして、横付けされたマセラッティから出てきて社内に入ってこようとする人物を見てギョッとした。
マッテオ・ダンジェロ! なんだ、なんだ? なぜこのタイミングで入ってくる?
「やあ、ジェシー。今日の受付は、君かい? リディアは休みかな?」
彼はこの会社を訪れることはあまりないが、毎回受付のリディアにゾワゾワするような甘い褒め言葉を浴びせる。相変わらず、ウルトラ高そうな黒いコート。被っているフェドーラ帽も黒いがリボンがコートからわずかに見えているマフラーと同じ真紅。伊達者だ。
「ええ。早退しました。ところで、今日は……?」
そう訊くと、彼はジェシーの前に立っている女性の方を見た。彼女は、夢にまで見た憧れの人物の登場で、先程までの激怒はどこへ行ったのか、ぽかんと口を開けて突っ立っていた。
マッテオは、雑誌などでおなじみの魅力的な笑顔を彼女に向けてからジェシーに答えた。
「いや、君はこちらのかわいいお嬢さんのお相手をしているんだろう? 僕は、ちゃんと順番を待つとも」
女は「かっ、かわ……」と戦慄き呟いた。顔は真っ赤だ。今にも卒倒しそうだぞ。ジェシーはちらっと眺めた。
「こちらは、例のあなたを特集した『クォリティ』誌の件で、わざわざ社までいらしたんですよ」
ジェシーは、言ってみた。この流れでいけば、謝罪文がどうのこうのというクレームは、取り下げてくれるかもしれないし。マッテオは、ほうという顔になって、それから更に嬉しそうに笑いかけた。
「あなたも氣に入ってくださったんですね、素敵なお嬢さん。あなたのそのサファイアのように澄んだ瞳の前には、どんなまがい物も存在を許されないでしょうが、あの写真の価値だけは認めてくださりますよね。僕は、あの素晴らしい写真のおかげで、随分と名誉挽回をしたのですよ」
ジェシーは、彼女をちらっとみた。サファイアのように澄んだ瞳ねぇ。確かに青いけどさ。口をパクパクさせて、先程までの勢いは何処へやら、あの写真に対する不満をぶち上げるつもりはなくなったみたいだ。持ち込んだ『クォリティ』誌を握りしめている手がわなわなと震えている。
「ここに掲載された写真が、とても大きな評判を呼んで、僕はとても嬉しいんです。何よりもモノクロームによる表現が素晴らしいと思いませんか? 色を排除する事で、こんなに眩しい光を表現できるなんて、我が妹ながら、彼女の才能には眼を見張るばかりです」
「い、妹?!」
女性は、赤くなったり青くなったり忙しい。マッテオは、誇らしげに笑いかけた。
「そうです。ジョルジア・カペッリは、僕の実妹なんです」
「ええ。素晴らしいと思います! あっ、あのっ、もしお嫌でなかったら、さ、サインを……」
彼女はそう言いながら、ダンジェロ氏の映っている特集ページをなんとか広げようとしていた。
マッテオは、ニコニコ笑いながら続けた。
「ああ、大丈夫ですとも。もうじきフォトグラファーは降りて来ますから。そうだ、写真集『太陽の子供たち』は持っていますか? 受賞作品だから、あれにサインしてもらうのがベストですよ。持っていないんだったら、僕がプレゼントしましょう。ジェシー、増刷したんだから在庫はあるんだろう?」
ジェシーは、笑いをこらえながら頷いた。急いで売店から『太陽の子供たち』を持って来て手渡しながら付け加えた。
「ええ。でも、そのお客さんは、あなたのサインも欲しいんだと思いますよ」
女性は、ものすごい勢いで頷いている。マッテオは太陽のように笑うと、彼女から雑誌を受け取った。
「それは嬉しいね。僕のサインは『クォリティ』にしましょう。このページがいいかな。この服装もいいと思いませんか。実をいうとね、僕がジョルジアに提案したんですよ。ここは、僕たち兄妹が育った懐かしい海岸なんです。せっかくあの海で撮るなら、ぜひラフな格好にさせてくれってね。一度、こういうスタイルの服を着てみたかったんだけれど、思ったよりも知人の受けがよくて喜んでいるところなんです。あなたも似合うと言ってくださいますか、ハニー」
女性は、無言で大きく頷く。うそつけ。ジェシーはそっと天井を見上げた。あんな庶民臭いコーデがどうのこうのと言っていたくせに。
マッテオは、ジェシーから受け取ったサインペンで大きくサインをすると、「青い瞳のお嬢さんへ 心からのキスを」と書き添えた。彼女が声にならない悲鳴をあげた。おいおい、こんなところで氣絶しないでくれよ。ジェシーは笑いをこらえながら考えた。
その時、奥のリフトが到着して開き、中から噂のジョルジア・カペッリが出て来た。
「あ、ミズ・カペッリ」
ジェシーが、声をかけると同時に、マッテオはもう妹の方に大股に歩み寄っていた。
「ジョルジア! 僕の大切なジャンドゥーヤ! 逢いたくてたまらなかったよ」
「兄さん! こんな所でいったい何をしているの? 六時にアパートメントに来るって言わなかった?」
「早く着いたので迎えに来たのさ。何ヶ月ぶりかに妹の作った絶品カネロニを食べられるのだからね。仕事なんかいつまでもしていられるものか」
「まあ。そんなに早く逃げ出したりして、セレスティンが怒ったんじゃないの?」
「まあね。有能な秘書どのには、別に埋め合わせするからいいんだ。ところで、こちらのお嬢さんは、君のファンらしいよ。わざわざこここまで来てくれたんだ。サインをしてあげておくれよ」
ジョルジアは、女性に軽く会釈をした。それからマッテオに渡された『太陽の子供たち』とサインペンを持ったまま、戸惑ったように立ちすくんだ。
「私、サイン、ほとんどしたことないの」
「ああ、僕の大事なスプモーネちゃん。なんて初々くて可愛らしいんだろう。でも、これからお前はサインをねだられて身動きできなくなるようになるんだ。慣れていかなくちゃ。なに、簡単さ。心を込めて名前を書けばいいんだ。どこがいいかな? やはり見返しかな。青い目のかわい子ちゃん、どこがいいですか?」
本来クレームを言うためにこの会社にやって来た女性は、ポーとなったまま「どこか、写真のページに」と呟いた。
「写真のページか。じゃあ、あの一番評判になった女の子のページがいいんじゃないかい」
マッテオがページを繰る。やがて、雑誌などで何度か取り上げられた、マサイ族の少女の笑顔のページが開かれた。
ジョルジアは、言われるままにそのページの余白部分にサインペンで名前を書き込んだ。それから、ほんのわずかの間、微笑みながら写真の少女を見つめた。
「かわいい子だよね」
マッテオが言うと、彼女ははっとして、とってつけたように「そうね」と言った。
それから、不思議そうな顔をするマッテオを見て仕方なく呟いた。
「ちょっと、この写真を撮るときにお世話になった人のことを思い出したの」
「マサイ族かい?」
「いいえ。アテンドしてくださったイギリス系の方。とても知的な男性で話していて楽しかったなと思ったの。不思議ね、ずっと忘れていたんだけれど」
「へえ。人付き合いの苦手なお前がそんなことを言うなんて、珍しいね。恋でもしたのかな」
「なんてことをいうの。あちらに失礼でしょ。大学の先生よ」
それから、関係のない話をしている場合では無いと思ったのか、女性に向けてはにかんだ笑顔を見せて写真集を手渡した。
「これでいいでしょうか。わざわざ来てくださってありがとう」
女性は先程までの怒りはどこへやったのか、妙な笑顔を見せながら何度も頷いた。持ってきたときにはかなり雑に扱っていた『クォリティ』誌と一緒に、愛しのマッテオが彼女のために購入してくれてその手に持った写真集(撮影者のサインはこの際どうでもよかったが)を大切に抱きしめた。
それから、スマートフォンを取り出すとマッテオに向かってこう頼んだ。
「あの、あの、一緒に写真を撮っていただいてもいいでしょうか」
マッテオは大きく頷くと、ジェシーのほうを向いた。
「じゃ、ジェシー、撮ってくれよ。僕たち三人の記念写真をね」
心得たジェシーは、スマートフォンを構え、まるで恋人と記念撮影するように女性の肩に手を回しているマッテオと、困ったように少し離れているジョルジアをフレームに収めた。
「あ、もう一枚撮りますから」
そういうと、そっとズームをしてジョルジアをフレームから外し、女性とマッテオのツーショットも撮った。彼女が望んでいるのはこれに決まっているんだしさ。
これさえやっておけば、きっとこの女はクレームを二度としなくなるだろう。こういうのをめでたしめでたしっていうんだ。
(初出:2018年1月 書き下ろし)
【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 望粥の鍋
「scriviamo! 2018」の第六弾です。もぐらさんは、オリジナル作品の朗読で参加してくださいました。ありがとうございます!
もぐらさんの朗読してくださった作品『割れた土鍋』
もぐらさんは、オリジナル作品、青空文庫に入っている作品、そして創作ブロガーさんたちの作品を朗読して発表する活動をなさっているブロガーさんです。お一人、もしくはお二人で作品を朗読なさるのですが、会話文や地の文を見事に読み分けていらっしゃるのには、いつも感心しています。
今年もオリジナルの「貧乏神」シリーズでご参加くださいました。日本の民話をアレンジなさった素敵な作品です。聴き終わるとほっこりするとてもいいお話です。
で、お返しですけれど、去年と同じく「樋水龍神縁起 東国放浪記」の話で行くことにしました。他のものにしても良かったのですが、せっかくの土鍋と小豆粥の話を使いたくて。ただし、貧乏神の話を続けるのは無理があったので、今回は窮鬼(貧乏神)の話題は出して居ません。そのかわりに、前回の窮鬼の件を受けて、春昌が少し特別な神様のことについて語るシーンを挟みました。で、ちょっと暗いです。すみません。
それに、こんどこそ短くしようと思ったんですけれど……。千字くらいは減っていますが、もぐらさん、本当にごめんなさい!
【参考】

樋水の媛巫女
「scriviamo! 2018」について
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
樋水龍神縁起 東国放浪記 望粥の鍋
——Special thanks to Mogura-san
歳が明けた。
この旅には行く末がなかった。主人は出雲国と
谷は雪が深く出立がかなわぬので、数日逗留している百姓の家に今宵も引き続き泊めてもらう他はないようだった。今日は十五日「
「春昌様」
「どうした、次郎」
「村の衆が困っているようでございます。望粥を炊くのに使っている大きな土鍋が水漏れするとか、このまま炊いたら割れてしまうのではないかと……小正月に鍋が割れるようなことがあってはならないと」
春昌は、次郎と共に井戸の側へ行った。村の衆がガヤガヤと騒いでいたが、百姓の家に都の陰陽師が逗留していることは伝わっていたので、だれもが敬意を表して道を開けた。
彼は村長の息子に言った。
「こちらに見せてごらんなさい」
男は素直にその非常に大きな土鍋を持って来た。見れば底にわずかにひびが入っているが、さほど大きくはなかった。
春昌は薄紙に不思議な文様の霊符を一筆で書き鍋底に置くと、小さな声で
「これでよい。次にここではなく誰ぞかの家の竃で、少しずつでよいので二度ほど米を炊きなさい。火にかける前に外側の底が濡れていないかだけをよく確かめるように」
二人が逗留している家の娘が言われたままに二回ほど米を炊くと、誠に鍋の水漏れはしなくなった。次郎はたいそう驚いた。
そうしている間に、夕刻が迫って大鍋は再び祠のところへ運ばれ、村の若衆たちが大量の粥を炊き出した。
この村には僧もいなければ修験者もいない。例年は祠に粥を供えて新年の祈念を行う村長が、今年は安達様にしていただきたいと伏して願ったので、
こうして清められ神に供えられた後に、望粥は村人たちに配られた。赤く色づいた小豆粥を春昌と次郎も受け取った。
次郎は、小豆と米だけであることに驚いた。正月の望の日には小豆だけではなく粟、黍、胡麻など七種の穀物を入れて炊くものだと思っていたから。彼が郎等として仕えていたのは奥出雲の由緒ある神社であったので、仕える者たちも当然のごとく延喜式に則った望粥を口にしていたのだ。七種の入っていない望粥は食べたことがなかったので、彼は少し不安になった。
「小豆と米だけでよろしいのでしょうか」
次郎が小声で訊くと、春昌はやはり小声で答えた。
「この村人たちを見るがよい。おそらく何十年も小豆と米だけで無病息災を祈ってきたのだ。それでも神はその願いを叶えているではないか。大切なのは祈る心だ。形式ではない」
次郎は、その言葉に安堵して、粥を口にした。彼は樋水龍王神社で彼が日々食していたものが贅沢だと思ったことはなかった。だが、春昌との旅で、多くの民の生活を目の当たりにし、それまでの生活が恵まれていたのだと知った。延喜式に則った生活など、多くの民はできない。それでも、民は風雪や飢饉や疫病に耐え、安寧と福を願い、生き続けている。それは多くの人々に踏まれつつも道に育つ野の花のような強さだった。
やがて、村の若い男衆たちの一人が、土鍋のところに置いてあった粥かき棒を手に取った。そして、固まって粥を食べつつ話している娘たちのうちの一人の後に回り、パンと粥かき棒で腰を打った。
「きゃあ!」
娘は飛び上がり、それを見て若いものたちは笑った。それから、粥かき棒は他の若い衆の手に渡り、また別の娘の腰が狙われた。娘たちは痛いので打たれないように、後ろを氣にしているが、その隙をついて娘の腰を打つことに若い衆たちは夢中になっていた。
「あれは何をしているのでございますか」
次郎が百姓に問うと、老いた男は楽しそうに答えた。
「望粥を炊いた粥かき棒で、娘の後を打つとよい子が生まれるのですよ」
次郎はそのような話は今迄聞いたこともなかった。地方によっておのおの信じられていることは違うものだ。なるほどと見ていると、その内に娘の腰だけではなく若い衆同士でも打ち合っている。正月の終わりの楽しい遊びでもあるのだろう。
その夜、次郎は春昌に祠で行った神事について訊いた。春昌が旅の途上で民に請われて行う神事や祓いは、樋水龍王神社の
「今日のは、媛の行ったものと変わりなかったであろう」
「さようでございますね。大祓詞を久しぶりに耳にいたしました」
それから、少し言葉を切った。訊いていいのか戸惑った。
「春昌様」
「なんだ、次郎」
「大祓詞のあとに宣われたのは、なんでございますか」
春昌は、次郎を頼もしそうに眺めた。
「氣がついたのか。さすが媛巫女に長らくお仕えしていた郎等だな」
「ありがとう存じます」
「媛巫女が宣われたのを聞いたことはないか」
「一度だけございます。重く患われた皇子様をお癒しになられた時に」
春昌は頷いた。
「あれは
「そのような特別な秘儀を、このような村で」
次郎は腰を抜かさんばかりに驚いた。
「彼らには普通の祝詞との違いはわかるまい。そなたもそうであろうが、一度や二度耳にしただけでは憶えられぬのだ」
「さほどにこの村には穢れがあったのでこざいますか」
春昌は僅かの間、答えずに瞼を閉じた。
「禊を必要としているのは、この地や村人ではない」
次郎は、はっとした。
春昌は瞼を開けた。その瞳は優しい光を宿していた。
「次郎。
「黄泉から戻られた伊邪那岐尊が禊を行って穢れを祓ったときに、その穢れから生まれた神様だと伺いました。また、この神がもたらす禍を直すために生まれたのが
春昌は頷いた。
「それでは、なぜそのように災いをもたらす存在が神として崇められているのか」
次郎は首を傾げた。そのような疑問を持ったことがなかった。
「禍津日神そのものが悪や穢れをもたらすではない。我々が日々の暮らしの中で、災いや穢れに接すると、怒り、憎しみ、それに対して荒ぶる心が起きる。この心の動きこそ禍津日神の分霊によるものなのだ。そして、心の安寧のために、荒ぶった心を鎮めるのに直毘神の助けが必要なのだ。禊や祓いは、その直毘神の役割を助ける。民は直毘神を必要としつづけているから、祓えや禊が必要になる。媛のように穢れなく、鎮め清める力をお持ちのお方も」
「春昌様」
「己の
次郎は、遠くを眺める主人の横顔をじっと見つめた。自分は、稀代の御巫にお仕えしていたが多くを学ばなかった。そして、旅の途上で同じものを見ても、この主人の半分もこの世やかの世の理りを感じてはいないのだと。だが、だからこそ、彼の心は主人のそれほど痛まずにいるのだ。同様に神の国の深淵など何も知らずに、娘の腰を打って笑ったり、鍋のひび割れを心配している民の一人である方が、生きやすいのかもしれない。
不意に思い出した。
「ところで、あの土鍋の水漏れを塞いだのは、なんという呪法なのでございますか」
春昌は笑った。
「あれは呪法ではない。ただの繕いだ。土鍋のわずかなひびは、米を炊くことで塞がるのだ」
(初出:2018年1月 書き下ろし)
【小説】小さな家族
「scriviamo! 2018」の第七弾です。けいさんは、毎年恒例の目撃シリーズで書いてくださいました。ありがとうございます!
けいさんの書いてくださった『サファリの一コマ (scriviamo! 2018) (「郷愁の丘」より)』
けいさんは、私と同じく海外移住者なのですが、お住まいはスイスから見て地球の反対側のオーストラリア。とてもパワフルで暖かくて前向きなけいさんには、ぴったり国だなとつくづく思います。そして、けいさんはとても努力家で、お仕事のことだけでなく小説に対してもエンジン全開で勉強に取り組まれます。スタミナが弱いというのか、それともただの怠け者なのか、ぬるま湯にどっぷりと浸かっている私とは対照的……。いつもすごいなあと思って拝見しています。
さて、この「scriviamo!」で恒例となった「目撃シリーズ」、今年は現在連載中の「郷愁の丘」のあの子とあっちの皆さんがガン見してくださいましたね。こうきたか……。で、お返しはどうしようかと悩みましたが、あの子が「家族だもん」と胸を張っていましたので、その経緯を書いてみることにしました。というわけで、外伝をお送りします。本編の開始する二年前、主人公たちにとって少し特別な日に話は始まります。
【参考】
![]() | 「郷愁の丘」を読む あらすじと登場人物 |
「scriviamo! 2018」について
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
郷愁の丘・外伝
小さな家族
——Special thanks to Kei-san
撮影を終えたアメリカ人フォトグラファーと一緒にナイロビへ帰るリチャード・アシュレイと別れて、動物学者ヘンリー・グレゴリー・スコットはマサイマラを後にした。まっすぐ《郷愁の丘》にある自宅へ帰りたかったが、寄らなくてはならないところがあった。
彼がマサイマラへ行くことは、リチャードがアウレリオに告げたのだろう。大学はイースターのために休みで、断る口実を見出せなかったので、彼は渋々出かけてきた。世界中の子供の写真を撮っているというそのアメリカ人は、女性だった。
人付き合いの下手な彼は、特に初対面の女性が苦手だった。何を話していいのかわからなくて間が持たないし、大抵の女性はそんな彼のことを退屈でつまらない人間だと思っていることをあからさまに態度で示す。それでいつもいたたまれなくなるのだ。だから、女性が来ると知っていたらあらゆる口実を作って断っただろう。リチャードも心得ているので、到着するまで詳細を言わなかった。
アメリカ人写真家が撮りたかったのはマサイ族の子供の写真で、どうしても長老の許可が必要だった。その交渉をスムースにするために日頃からシマウマの調査のために通い信頼関係を築いている彼の協力が必要だったのだ。そのために女性のアテンドだということを隠し通したらしい。
幸い、今日のアメリカ人女性は、例外的に感じがよかった。ショートヘアにデニム姿とまるで少年のように飾りけのない出で立ちで、押し付けがましさのない静かな人だった。彼との会話もスムースで、興味深い話題について穏やかに話し、お互いに退屈しなかった。リチャードに引っ張り出されて、うんざりしなかったことは本当に珍しかった。こんな遠くまで日帰り往復するはめになったにもかかわらず。
彼が帰りに寄り道をしなくてはならないことになったのは、リチャードの親友であるアウレリオ・ブラスが昨夜遅く電話してきたからだ。
「マサイマラに行くんだって。頼むよ、僕の代わりに行って欲しいところがあるんだ。帰り道だからさ」
アウレリオは、リチャードとともにオックスフォード時代から交流のある数少ない知人の一人だ。
予定どおりにきちんと行動するという事のできない人で、肝心な時にはいつもいなくなってしまう。そうなると周りの人間がその尻拭いのために走り回ることになる。独り者で特に予定のない彼が、妹やその母親であるレイチェルに懇願されて車を走らせることも多かった。もっとも本当の家族のように頼りにされるのは悪いことではない。父親とほとんど交流がない彼の事に心を砕き、家族の集いに招んでくれるのは、いつもレイチェルとマディだった。
アウレリオが今日向うはずで、彼が代わりに行くことになったのは、あるバンガローだった。ローデシアン・リッジバックの仔犬が四匹いて、引き取り手を探している。マディとアウレリオは、ここ二ヶ月ほど新しい仔犬を迎えようとあちこち探していた。番犬として優秀なローデシアン・リッジバックは、欲しい人も多いので、オファーがあればすぐに引き取りに行く必要があった。
彼自身は、ここ数年は犬を飼っていなかった。祖父が亡くなりケニアへ戻ってきた時、受け取ったわずかな遺産の中に一頭の犬が含まれていた。正確にいうと引き取り手がいなかったので、彼が移住して来るまでは父とレイチェルのところにいたが、彼が《郷愁の丘》を買い引っ越して来るとそのままトビアスの面倒を見る事になった。
亡くなった祖父が恋しいのか、なかなか懐かず、面倒を見るのも大変だったので、トビアスが老衰で亡くなると、それきりになり、もう犬を飼いたいとは思わなかった。そもそも《郷愁の丘》は人里離れ過ぎている上に盗むに値するようなものもないので、番犬の必要もなかったのだ。
「どうぞ、お入りください」
そう言われてバンガローに入ると、やはり犬を見にきている夫婦がいて、どの仔犬がいいか真剣に話し合っていた。みると既に一匹はもらわれて行った後らしく、三匹が残っていた。
「こちらか、こっちよね。どちらも愛想が良くて賢そうだから」
夫婦は、母犬の側でじゃれあっている二匹のどちらがいいかでああだこうだと言っていた。
家の主人は、彼にこの二人が選び終わるのを待つか、それとも残りの一匹にするかと訊いた。
見ると残っているのは、一番体の小さいメスで、母犬からも離れて後ろを向いてうずくまっていた。彼は、夫婦に選択の対象にもしてもらえない仔犬を氣の毒に思った。それにいつまでもこの夫婦の優柔不断に付き合って帰る時間が遅くなるのも嫌だった。
「差し支えなかったら、そのメスにしたいと思います。ミスター・ブラスから一任されていますし」
誰も欲しがらなかった犬の引き取り手が決まって、バンガローの持ち主は大いに満足したようだった。彼は小さなリードとそれまで仔犬がねぐらに使っていた小さなカゴをプレゼントしてくれた。彼は、小さな茶色い塊をそっと抱き上げた。
「近くに仔犬用の餌を簡単に買える店はありますか」
「ミスター・ブラスの住むヴォイにはある程度大きいスーパーマーケットもあるので、買えると思いますが、確証はないです」
「じゃあ、この一袋をお譲りしましょう」
彼は頷いた。他に氣にかかることがあった。母犬は二匹の兄弟犬の方にかかりっきりで、娘との別れを惜む様子を見せなかった。雌の仔犬は、その母犬をちらりと見たけれど、特に甘えることもしなかった。こんなに小さいのに、独りでいる事に慣れているのだろうか。
黒い瞳がじっと彼を見上げた。そして、その鼻を彼の襟元にこすりつけた。
「おや。こんなに大人しく抱かれているのは珍しい。この仔犬は少し難しくて、初対面の人をひどく警戒するのに」
バンガローの主人は驚いて言った。
彼は、肩をすくめた。これまで特に犬に好かれた記憶はなかった。このままマディのところでも大人しくしていてくれるといいのにと思った。
アウレリオに言われて立て替えた金額を払うと、カゴを助手席の足許に置き、そこに仔犬を寝かせた。小さく丸まると、あっという間に寝息をたて出した。警戒心が強いようには思えないな。でも、届ける間中吠えられているよりずっといい。早く届けてしまおう。一路、ヴォイまでの長い道を運転した。
あと三十分ほどでヴォイに着くというところまで来たところで、携帯電話が鳴った。彼は、車を道の脇に停めて電話に出た。マディだった。
「ヘンリー? 今、どこなの?」
「もうすぐ着くところだ。ちゃんと引き取ってきたよ」
マディの声が戸惑ったように小さくなった。
「まあ。そうなの。困ったわ」
「困ったって?」
「あのね。あなたに代わりに行ってもらったって、今アウレリオから聞いたのよ。実は、朝からずっと彼に電話していたんだけれど、例の通り全然捕まらなくて。あなたに頼んだって知っていたなら、もっと早く電話できたのに」
「何が問題なんだ?」
「実はね。昨日の晩に近所の方が、うちにダックスフントの仔犬を持ってきてくださったの。メグがとても氣に入ってしまって、返したくないっていうの。さすがに新しい犬を二匹は無理だから、ローデシアン・リッジバックはもう引き取りにいかなくていいと言うために、アウレリオを探していたんだけれど……アウレリオにようやく電話が通じたと思ったら、あなたに頼んだなんていうんだもの!」
「つまり、この犬はいらないってことかい?」
「そういうこと。心配しないで。私から事情を話して、アウレリオが帰ってきたら連れ帰ってもらうから。でもね……」
「でも?」
「うん。もし、その犬をメグが見ちゃって、両方欲しいと言い出されたら困っちゃうのよ。どうしようかしら。今、ヴォイなら、申し訳ないけれどマニャニまで行ってもらってママのところに届けてもらっても構わない? それとも、アウレリオが戻って来るまで、あなたのところに預けていい?」
彼は、しばらく考えた。眼を醒ました仔犬がキョロキョロと辺りを見回してから、彼を見上げるとまた安心したように丸まった。彼は、犬と自分と両方にとって疲れる長いドライブであったことを思って、これからマニャニまで行くことにうんざりした。
「それなら《郷愁の丘》に連れて行くよ。トビアスの使っていた食器や毛布もまだあるし、数日分の餌も譲ってもらったから」
「本当に? そうしてもらえたら助かるわ。明日にはあの風来坊がケニアに戻っているはずだから、午前中には連絡できると思うわ。ごめんなさいね、ヘンリー」
「わかった。じゃあ、今日はこれで」
彼は、そのまま《郷愁の丘》まで走った。門の中に入り助手席側のドアを開けると、仔犬はつぶらな瞳を向けて尻尾を振った。
「ここは、僕の家なんだ。今晩は僕と二人だけれど我慢してくれるね」
小さな体を持ち上げた。柔らかくて暖かい。くすぐったそうに後ろ足をパタパタ動かす様がユーモラスで、彼は思わず微笑んだ。どういう訳か、出会ったばかりの彼を信頼して鼻先や目の当たりを擦り付けて来る。
彼は、玄関の脇の戸棚の中をゴソゴソと探って、もう二度と使うことがないと思っていた祖父の愛犬の使った毛布やステンレスの椀などを取り出した。仔犬はクンクンと匂いを嗅いで何かを考えていたが、彼がその毛布を整えてポンと叩くと、ゆっくりとその上に載って寝心地を確かめるようにうずくまった。
それから、また立ち上がって、台所へ行こうとする彼に着いてきた。彼は、椀に水を入れて置いてやった。喉が乾いていたのかゴクゴクと飲む。
「そうか。ごめんな。餌も四回だったな。今、用意してやるから少し待っててくれ」
歯の発達に必要なので、固いものをちゃんと食べさせるようにと言われた。マディに渡してそれっきりだと思っていたので、あまり細かく訊いてこなかったけれど、アウレリオが引き取りに来るのはいつなんだろう。餌を食べさせてから、彼は自分用に少しのパンと冷蔵庫にあったチーズを切って皿に盛ると、サバンナを見渡す月に照らされたテラスに行った。仔犬は嬉しそうについて来た。
「今日は、お前にとって大変な日だったよな。初めてお母さんのもとを離れて、こんなところに来て。それも、また戻されるなんて……」
彼の心に、子供時代の居たたまれない思いが蘇った。仲の悪かった父親と母親が離婚して、サバンナから遠いイギリスへ引っ越したこと。けれど母親とは長く暮らすことはなく寄宿学校に入れられたこと。すぐに再婚した母親のもとには行きづらくて、居場所がないと感じた事。
足元に蹲った仔犬は、彼の靴に頭を載せてきた。まるで彼が主人であるかのように信頼して眠っていた。
明日か明後日には、アウレリオがやってきて、この犬を連れて行くのだろう。そして、「必要無くなったのです」と、あのバンガローの持ち主に返すのだ。「やっぱりいらないって言われたんだな」そうため息をつかれるのだろうか。
いらない存在なんかじゃない。お前は、こんなにも柔らかい。僕をこんなに暖かいきもちにしてくれる。
彼は、満天の星空を見上げた。今日出会ったアメリカ人フォトグラファーのことを考えた。まったく緊張せずにいられる人だったなと思った。ああいう人とだったら、友人になれるのかもしれない。もちろん、彼女とはもう二度と会うことはないだろう。でも、世界のどこかにああいう人がいるのだったら、いつかは僕の日常にも本当の意味で友人と言えるような人が現れるのかもしれない。
足下で寝息を立てている小さな犬を見た。お前にも、その価値をわかって大切にしてくれる家族がどこかにいるはずだ。僕が、そう思うように。
翌朝、夜明けの散歩をするためにテラスに出ると、小さな茶色い塊がものすごい勢いで寄ってきた。
「やあ。そうだったな。お前がいたんだった。おはよう。よく眠れたか」
仔犬は全身で喜びを表していた。朝焼けを浴びて、艶やかな毛並が輝いている。
「素晴らしい光景だろう? 僕は、ここが世界で一番素晴らしいところだと思うけれど、お前はどうだい? みてごらん、ほら、あそこをシマウマの群れが通って行くよ」
彼は、仔犬と一緒に散歩をし、朝食を食べた。彼が論文を書いている時間、仔犬は彼の書斎でおとなしく丸まった。彼が立ち上がると、さっと寄ってきて嬉しそうに尻尾を振った。犬に好かれていることは、心地よかった。トビアスの面倒を見ていたときは、仕方ないから一緒にいてやるという風情だったので、こんな喜びを感じたことはなかった。
携帯電話が鳴った。マディからだった。
「ハロー、ヘンリー。犬があなたを悩ませていないか心配で。問題ない?」
「まったく問題ないよ。アウレリオは帰ってきたのかい」
彼は仔犬があちこちを駆け回るのを眺めて微笑んだ。
「ええ、今マリンディですって。夕方には戻って来るみたい。多分明日にはその犬を引き取りに行ってもらえると思うの。もう一日、頼んでも大丈夫?」
「構わないけれど……。マディ、その、先方はなんて言っていた?」
「ちょっと失望していたみたいだけれど、仕方ないから引き取るって言ってくれたわ。その犬、難しい性格なんですって?」
彼は少しムキになった。
「そんなことないよ。聞きわけもいいし、可愛いよ」
「まあ。ヘンリー、あなたがそんなこというなんて珍しいわね」
彼は、このまま戻したら、この犬は誰にも大切に扱ってもらえないのではないかと思った。そんなのは嫌だ。
「マディ。考えたんだけれど、この犬、このまま僕が引き取ったら、アウレリオは返しに行かなくてもいいんじゃないかい?」
「なんですって。ヘンリー、あなた、犬はもういらないって言っていなかった?」
「そのつもりだったけれど……でも、この犬、とても嬉しそうに尻尾を振っているし、あちこち探検して満足しているんだ。ここをうちだと思っているみたいに。僕のことも嫌がっていないし、ここには十分なスペースもあるから……」
「まあ。愛着が湧いてしまったのね。もちろんいいと思うわ。先方もきっと喜ぶわ。すぐに連絡しなくちゃ。ヘンリー、本当にありがとう」
電話を切ってから、小さな犬を抱き上げた。
「さて、聴いていたかい? ここがお前の新しい家だよ」
仔犬はとても嬉しそうに尻尾を振った。彼は、自分といるのを喜んでくれるその犬をようやく手にした家族のように感じた。
「まず、名前を決めなくちゃいけないな。僕は、ヘンリー……」
そう言いかけてから、口ごもった。
誰もが彼をファーストネームのヘンリーで呼んでいるけれど、彼にはあまり親しみがなかった。子供の頃、祖父からは『小さいグレッグ』と呼ばれていた。当時、愛情を感じたのは、祖父と一緒にいる時だけだった。何と名乗ろうと、犬は僕の名前なんか呼ばないだろうけれど、それでも……。
「僕の名前は、グレッグだ。お前の名前は……そうだ、アフリカの女の子らしくルーシーはどうかな」
(初出:2018年1月 書き下ろし)

註・ルーシー (Lucy) は、1974年にエチオピア北東部で発見された318万年前のアウストラロピテクス・アファレンシスの通称
【小説】とりあえず末代
「scriviamo! 2018」の第八弾です。limeさんは、今年も素敵なイラストで参加してくださいました。
limeさんの描いてくださった(scriviamo!2018参加イラスト)『リュックにゃんこ』
limeさんは、このブログを定期的に訪問してくださっている方にはおなじみだと思いますが、繊細で哀しくも美しい描写の作品を発表なさっていて、各種大賞での常連受賞者でもある方です。そして、イラストもとても上手で本当に羨ましい限り。
毎年、「scriviamo!」には、イラストでご参加くださり、それも毎回、難しいんだ(笑)困っては、毎回、反則すれすれの作品でお返ししています。今年も、例に漏れず、ぱっと見には簡単そうに見えますけれど、いざ書くとなると結構難しいです。
今年は、背景を二パターンをご用意くださって、どちらも素敵で捨てがたかったので、両方使うことにしました。ちなみに、脇役は既出の人達を使っております。もちろん、知らなくてもまったく問題ありません。
【参考】
『ウィーンの森』シリーズ
「scriviamo! 2018」について
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
とりあえず末代
——Special thanks to lime-san
着替えとしてTシャツに下着、さらに洗面用具にフェイスタオルを詰めた。中学受験の季節で、僕ら在校生は金曜日が休みになったので、はじめての一人の遠出をする事にしたんだ。せっかくお小遣いも貯めたし、静岡に嫁いだ従姉妹に泊めてもらう約束もしたし、いざ二泊三日の冒険だ。問題は……。
「で。妾はどこに収めるつもりかい」
やっぱりついてくる氣、満々だったか。そうだよなあ。僕は、じっと見上げる緑の瞳を見つめた。
一見、普通の白猫に見えるけれど、《雪のお方》は正真正銘の猫又だ。もちろん、簡単に信じてくれないのはわかる。でも、こいつは僕が生まれるどころか、とっくに死んじゃったひいじいさんが生まれる前からずっと我が家にいるし、そもそも、人間にわかる言葉でペラペラ喋る飼い猫なんていないことは、同意してくれるだろう?
なぜこいつが我が家にいて、さらにいうと、僕にひっ付いてくるのか。証明しようがないけれど、これはどうも僕のご先祖様のせいらしい。
幼稚園の頃、僕は同級生の家にいる普通の猫は喋れないということを知らなくて、「うちの《雪のお方》は喋れるよ」と自慢したために、しばらくありがたくない嘘つきの称号をもらった。友達の前ではただの猫のフリをしたのだ。そもそもなんで猫又が我が家にいるのか、僕は何度か質問をして、大体のことがわかるようになった。
「妾は、元禄のはじめに、この地にあった伊勢屋の伊藤源兵衛の飼い猫であったのじゃ。そして、もらわれて来たのとほぼ同じ頃に生まれた跡取りの長吉と共に育ったのじゃ。長吉は童の頃は妾をたいそう氣に入っておってな、大人になったら妾を嫁にすると申しておったのじゃ。そうこうするうちに二十年経ち、妾の尾は裂けて無事に猫又となったので、許嫁の長吉と祝言をあげるつもりでいたら、約束を反故にして松坂の商家から嫁をとるというではないか。それで妾は怒りに任せて、末代まで取り憑いてやると誓ってしまったのじゃ」
「で?」
「伊藤家はちっとも断絶しないので、妾もまだここにいるしかないのじゃ。お前の父親にも、くれぐれも嫁を取ってくれるなとあれほど頼んだのに……」
父さんは、母さんと出会って思ったらしい。これだけ我慢したんだから、あと一代か二代くらい、我慢してもらってもいいかって。というわけで、今のところ僕は伊藤家の末代なので、《雪のお方》に取り憑かれているというわけ。
「修学旅行の時は、家で留守番していたじゃないか。どうして今回はついてくるんだよ」
「修学旅行にペットを連れて行くのは禁止であろう。わざわざ規則に違反をさせてまでついて行くほど面白そうな旅程ではなかったしな。今回はお前の初めての一人旅で面白そうではないか。お前とて困ったことがあった時に相談する相手がいる方が良いであろう」
僕はため息をついた。まあ、いいや、話相手には事欠かないしさ。《雪のお方》は、猫ではなくて猫又なのでキャトフード等は食べない。肉や魚も本当は必要じゃない。猫又としての矜恃があるという理由で、一日に一回は油を舐める。パッキン付きで漏れないタッパーの中にプチプチで巻いた藍の染付の小皿を入れた。これは《雪のお方》の愛用品で、なんでもない醤油皿に見えるけれど一応元禄から伝わる我が家の家宝。割ったら父さんに怒られる。っていうか、《雪のお方》に祟られるんじゃないか。
それに、小瓶にイタリア産の最高級エクストラ・ヴァージン・オリーブオイルを詰める。もし万が一、いい油がみつからなかったらうるさくいうに決まっているし。なぜこんな洋ものを舐めるのかって思うだろう? ヴァージンってのが氣に入ったんだって。ま、行灯の油と言われても困るけどさ。
リュックサックの後ろのポケットを大きく開いて、《雪のお方》はそこに入ってもらうことにした。父さんと母さんは、少し心配そうに僕たちを見送った。
「本当に一人で大丈夫なの? 途中までお父さんに送ってもらう?」
「《雪のお方》、悠斗をよろしくお願いします」
「任せておけ。妾がしかと監視する故」
猫又に監視されての一人旅かあ。まあ、いいや。僕は、初めての冒険に心踊った。
「駅まで歩くからね。なんか言いたいことがあったら、一応、猫っぽく呼んでよね」
「わかっておるわ。案じるな」
って、日本語で言うんだもんなあ。郊外っていうのか、どちらかというとド田舎っていうべきなのか、とにかく我が家から駅までの半分以上は、道路沿いに空き地が広がっている。バスも来るけれど、一、二時間に一本だから歩いてしまった方が早い。二十分くらいだし。誰かとすれ違うこともあまりない。猫と会話している変な奴と思われる心配は少ないはず。もっとも、いつ誰が聴いているかわからないから氣をつけないと。

「さてと。そろそろ駅だ。ここからは、黙っててくれよ。それから落っこちないように、もう少しジッパー閉めるよ」
「挟んだら、化けて出るぞ」
「わかってるよ。しーっ!」
僕は、電車を乗り継いで横浜まで行った。そこからは東海道線。リュックから覗いている子猫(本当は猫又だけど)は珍しいのか、隣に座ったおばさんがニコニコ笑って構おうとする。
「まあ、可愛い猫ちゃんねぇ。これだけ小さいということはまだ一歳になっていないかしらねぇ」
いや、およそ三百四十歳だけど。そう答える訳にはいかないから、僕は、にっこりと笑ってごまかした。《雪のお方》は見事に子猫っぽく化けている。いつものドスの効いた物言いが信じられないくらいか弱い声で、みゃーみゃー言っている。
「本当に可愛いわね。ちょっと待って、いいものを持っているの。息子の家にもネコがいてね、行く時にはいつも玩具やおやつを持って行くのよ」
そう言いながら、ハンドバックを探って何かを取り出した。カリカリだったら激怒するんじゃないかと心配だったけれど、なんと本物タイプのおやつだった。おお、焼カツオ! すげぇ。これって猫のおやつなんだ。僕でも食べられそう。《雪のお方》は神妙な顔をしてハムハムと食べた。
「本当に可愛い猫ちゃんね。お名前は?」
「あ、えっと雪です」
《雪のお方》とは言えない。っていうか、きっと元禄時代にはただの雪だったんだと思うし。
「そう。坊やは、雪ちゃんとどこへ行くの」
「あ。静岡です。従姉妹のところに泊めてもらうことになっているんです」
「そう。この歳で一人旅ができるなんて偉いわね。氣をつけて行きなさいよ」
おばさんは、熱海で降りて行った。僕は乗り換えて静岡へ。各駅で静岡へ行こうというひとは少ないのか、ホームはガランとしていた。《雪のお方》は小さな声で言った。
「あの鰹はなかなかであった。お前は何も食べなくていいのか。駅弁やお茶なぞも売っているではないか」
「あ、そうだね。おにぎりとお茶でも買っておこうかな」
しゃけ入りおにぎりを一つと、お茶を買った。電車の中で食べていると、《雪のお方》が前足で催促したので、しゃけを少しだけ食べさせてあげた。
そうこうしているうちに、僕たちは目的の小さな駅に着いた。駅からあまり離れていないところにカフェがあって、従姉妹は結婚相手とそのカフェを経営しているのだ。
「えっと。『ウィーンの森』。あれかな。こんな辺鄙な駅だとは思わなかったな」
「お前の住んでいるところと、大して変わらぬではないか」
《雪のお方》がぼそっと突っ込んだ。まあ、そうだけどさ。
従姉妹は、僕と違って都心からここに引っ越したので、馴染めているんだとびっくりした。

「うん、間違いない。ここだ。入るからね、頼むよ」
《雪のお方》にまた猫のフリを頼んで、僕はカフェの入り口のドアを押した。
「いらっしゃいませ」
こげ茶のぱりっとしたエプロンをしている男性がいた。あ、この人が従姉妹の旦那さんかな。
「こんにちは。僕、伊藤悠斗です」
「ああ、君が悠斗くんか。よく来たね。はじめまして、僕が吉崎護だ。真美はご馳走を作るって張り切っているよ、ちょっと待ってて」
感じのいい人でよかった。それに、かっこいい人だ、マミ姉、やったじゃん。僕は、護さんが二階にいる従姉妹を呼びに行く間にリックサックを下ろして、《雪のお方》を抱き上げた。
「いらっしゃい、悠ちゃん、迷ったりしなかった? あ、おユキ様も連れてきたのね」
マミ姉が、降りてきてまっすぐに《雪のお方》を抱き上げた。
実は、マミ姉は《雪のお方》が猫じゃないことを知っている。そりゃそうだ。全然歳とらないいまま二十年以上この姿のままなのを、ウチに来る度に見ていたし、僕は子供の頃わかっていなかったから本当のことをペラペラ喋ってしまったんだもん。僕よりもずっと歳上で、これは喋ったらヤバいということをわかったマミ姉は、外には漏らさなかったけれど。
「おユキ様?」
護さんは、少し驚いた顔をした。まあ、子猫の名前っぽくはないよね。《雪のお方》はマミ姉の腕の中でゴロゴロと喉を鳴らして見せた。さすが、元猫。たいした演技力だ。
「可愛いでしょう? まあ、静岡で会えるなんて思わなかったわ。悠ちゃんもゆっくりしていってね。今晩は、シチューにしたの。でも、その前におやつ食べたくない? 護さんご自慢のクーゲルホフとホットチョコレートのセット、食べない? 私がご馳走するわよ」
「真美、代金はいいよ。悠斗くん、荷物を上に置いておいで。おユキ様……には、ミルクでいいのかな?」
護さんは、猫としては変わっている呼び名にまだ慣れていないようだった。《雪のお方》は、子猫っぽく愛らしい仕草でミルクを飲んだ。あとでオリーブオイルをあげなくちゃ。
再び降りてきた僕に、護さんは訊いた。
「今日はこれからまたどこかへ行くのかい? それとも冒険は明日からにして今日はこのままゆっくりする?」
僕は、少し考えた。ここに来るだけで冒険は十分したし、この街はほとんど何もなさそうだから、ここで護さんのお店を見学するほうが面白そうだ。《雪のお方》も、ここが氣に入ったみたいだし。
「もし邪魔でなかったら、ここにいてもいいですか。皿洗いくらいします」
「それは嬉しいね。でも、先におやつをどうぞ」
他のお客さんが入ってきて、護さんは忙しくなった。僕は、お手伝いをするために急いでおやつを食べ出した。うわ。美味しいよ、このケーキ。こんな洒落たカフェがなんでこんな田舎にあるんだろう。
マミ姉が、バターやジャムを入れる小さいガラスのシャーレに、黒い油を入れて持ってきた。そして小さい声で言った。
「オーストリアの最高級パンプキンシードオイルよ。アンチエイジングにいいっていうから、私も取り入れているんだけれど、おユキ様の口に合うかしら」
《雪のお方》は嬉しそうに舐めていた。ミルクの時と目の色が違う。やっぱり猫又なんだな。こうして見ていると、パンプキンシードオイルって、ちょっと行灯の油っぽくない?
僕はその日の閉店まで、護さんのお店でウェイターのまねごとをして過ごした。ホイップクリームのたっぷり載ったコーヒーのように、運ぶのが大変なものもあったけれど、大きな失敗はしないで、ついでに女性のお客さんたちに「きゃー、かわいい」などと言われて悦に入っていた。
もっとも、一番「かわいいー」と言ってもらっていたのは、文字通り猫をかぶっていた《雪のお方》だけれど。
店じまいまでちゃんと手伝って、マミ姉の美味しいシチューで晩御飯にして、それから僕の寝室にしてくれた小部屋で布団にくるまった。小さなカゴにマミ姉がタオルを敷いてくれた簡易ベッドで《雪のお方》が寛いでいる。
「一人旅、ここまでバッチリ上手く行ったよね」
「さよう。ちゃんと手伝いもしていたし、見直したぞ。カツオをくれたご婦人への礼はもっとちゃんと言って欲しかったが、それ以外は概ね合格点をやってもいいだろう」
「あ。そうだね。言い忘れちゃった。あ、マミ姉の出してくれた油はどうだった?」
「あれは、なかなか美味であったぞ。香ばしいのじゃ。明日もまた出してくれるといいのだが」
「あ、ちゃんと頼んでおく」
それから僕はほうっと息をついた。
「でも、マミ姉、いい人と結婚したね。ものすごく幸せそうだったね。ずっと仕事一筋だったから、まさか結婚して静岡に行くなんて思いもしなかったけれど、護さんみたいな人とずっと一緒にいられるなら思い切ってもいいよね。僕も、いつかさ……」
それを聞いて、《雪のお方》はヒゲをピクリと震わせた。
「お前、もう結婚を夢見ているのか。まったく、伊藤家の奴等ときたら、どうして揃いも揃って……。妾は、跡取りが生まれるたびに、今度こそ末代と思っているのだが……」
そう言いながら、《雪のお方》はあまり迷惑そうな顔はしていなかった。あまりにも長く伊藤家に取り憑きすぎて、もう半分うちの守護神みたいになってしまっているのかもしれない。
僕は、明日も《雪のお方》をリュックに背負って、一緒にあちこちを見るのが楽しみだ。猫又に取り憑かれていない人生なんて、ちょっと考えられない。伊勢屋長吉、よくやってくれた! そんなことを考えながら、眠りについた。
(初出:2018年2月 書き下ろし)
【小説】その色鮮やかなひと口を -6 -
「scriviamo! 2018」の第九弾です。今年もあさこさんが俳句で参加してくださいました。夏の二句です。ありがとうございます!
あさこさんの書いてくださった俳句
ストローは人待つ道具遠花火 あさこ
短夜の夢点々と置いて来し あさこ
この二句の著作権はあさこさん(ココうささん)にあります。無断転載ならびに転用は固くお断りします。
あさこさんは、ココうささんというハンドルネームで、以前素晴らしい詩や俳句、揮毫を発表なさっていらっしゃいましたが、現在はブログをお持ちではありません。六年の間に交流のなくなってしまった方も多いネット上のお付き合いですが、この「scriviamo!」を通してこうしてあさこさんとおつきあいが続いていることは本当に嬉しいです。
今年寄せていただいた俳句は、夏の情景がぱあっと目の前に浮かぶ素敵な二句。私は夏生まれなので、夏にたいするノスタルジーがとても強いのです。こんなに言葉を尽くしてもうまく書き表せない私ですが、ああ、俳句って偉大だなあ……。
というわけで、一年間放置した例の二人をココうささんの俳句で動かさせていただきました。島根県松江市で和菓子職人になったイタリア人ルドヴィコと店でバイトをしている大学生怜子のストーリーです。去年の話で、婚約して怜子の卒業後も引き続き「石倉六角堂」で働くことまで決まりましたが、今回は舞台がいつもと全く違っています。
【参考】この話をご存じない方のために同シリーズへのリンクをつけておきます。
その色鮮やかなひと口を
「scriviamo! 2018」について
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
その色鮮やかなひと口を -6 -
Inspired from 2 Haikus by Asako-San
——Special thanks to Kokousa san
随分陽が高いなあと、怜子は見上げた。もう九時なのにまだ明るい。日本ではまだ梅雨が明けていないのに、一足早く夏を楽しんでいる。
初めての海外旅行が、まさか婚約者の両親への挨拶になるとは思わなかった。イタリア語を完璧にしてから行こうと思っていたけれど、そんな事を言っていたら、永久に行けないということに氣がついた。
こちらについてからも、ルドヴィコがネイティヴらしくなんでもやってくれるので、怜子は「ボンジョルノ(こんにちは)」と「グラツィエ(ありがとう)」くらいしか口にしていなかった。まだちゃんと答えられないけれど、でも、どんな話をしているかぐらいはなんとなくわかるようになったのだ。私ってすごい……じゃなくて、ルドヴィコの特訓がよかったってことかな。
ここは北イタリア、トリノに近い小さな町だ。教会と、その前の広場を中心に、なんて事のないお店がいくつかあるだけ。今日は、六月二十四日、トリノ市の守護聖人サン・ジョバンニのお祭りで、日中にルドヴィコと一緒に屋台巡りなどをしたのだけれど、あまりの人手に二人とも疲れてしまったので、早々に退散して宿をとったこの町に戻ってきたのだ。
見るもの全てが珍しかった。教会があって、石畳と石づくりの家があって、道行く人がみな外国人で、看板もメニューもみなアルファベット。お茶も、ご飯も、お蕎麦もない世界に自分がいるのが不思議だった。もっと不思議なのは、ルドヴィコがもともとこの世界に属していたということだった。
明日は、いよいよルドヴィコの両親の住む村へ行く。氣に入ってもらえるかなあ。まともに会話もできない嫁ってありなのかな。飛行機の中でまだくよくよしている怜子にルドヴィコは言った。
「心配ありませんよ。僕は三人兄弟の末っ子ですが、二人の兄もイタリア語を話せない外国人と結婚していますから、彼らは慣れています」
ええっ。一つの家族に三組も国際結婚があるの? 怜子は仰天した。そういえば、お兄さんたちの話はあまり訊いたことなかったな。
「お兄さん達にも会える?」
「残念ながら、今回は無理ですね。一人はシチリア、もう一人はカナダに住んでいますから」
「へえ。お母さん達、寂しがっているんじゃない? 息子が三人とも遠くで」
「そうですね。でも、もう諦めたんじゃないでしょうか。全然帰ってこないのに慣れていたので、婚約者を連れて会いに行くと言ったら驚いてとても喜んでいましたよ」
よし、頑張ってイタリア語で話しかけるぞ! その時はそう思ったけれど、実際に着いて周りのイタリア人達の流れるようなイタリア語を聞いていたら、ちゃんと会話できる自信はまったくなくなった。まあ、いいか、努力だけ認めてもらえれば。
それでも、馴染みの深い言葉もあった。エスプレッソ、ピッツァ、パスタ、ジェラート。あ、食べ物ばっかり。手許にある黒い缶に黄色と白い字で「レモンソーダ」と書いてある。わかりやすくて、なんだか安心する。これなら注文するときにも間違えっこないし。
ルドヴィコが、レンタカーを受け取りに行く間、怜子は宿に備え付けのバルのテラスに座って待っていた。
宿の太ったおばさんが「大丈夫?」という感じでこちらを氣にしてくれるので、大丈夫とジェスチャーで答えた。初めての海外だって、三十分くらい、一人でいられるよ。大ぶりのグラスに、自分で缶からレモンソーダを注ぐと、シャワシャワと音がする。缶はキンキンに冷えて汗をかいている。缶とお揃いなのか黒いストロー。日本のものより短くて太いんだね。
怜子は、ストローをグラスの上の淵まで持ってきて、ソーダを伝わせる。透明で綺麗だな。ルドヴィコの見せてくれた光景は、彼女の想像していたイタリアとは少し違っていた。確かに人々は陽氣だけれど、別に常にハイテンションでいるわけではない。街並も赤や黄色や緑の壁がないわけではないけれど、どちらかというと落ち着いた肌色や煉瓦色で占められている。
街の中心に教会と広場があって、人々が普通に生活している。ここはエンターテーメントの舞台ではなくて、人々が普通に生活する場なんだなと思った。
ちょっといいなと思うのは、小脇に花を抱えて歩く帽子を被った男性や、女性と買い物をしながら当然のように重いものを持ったりドアをさっと開けてあげる男性の姿。どれもまったく嫌味なく、ごく普通の行為のようだった。
ルドヴィコも前からそうだった。怜子に対してだけでなく、勤め先である「石倉六角堂」で石倉夫人をはじめとして女性従業員に対してとても自然にレディーファーストの振る舞いをする。見るからに外国人なので、皆そういうものだと思っているけれど、日本人男性だったら「キザな人だなあ」と感じるかもしれないと怜子は思っていた。こういうことを女の私でも思うから、日本では男性が女性に全部の荷物をもたせたまま手ぶらで歩いたりもするのかもしれないなと思った。別に男性に全部もたせたいとは思わないけれど、半分くらい持ってもらいたいこともあるものね。
日本との違いは他にもある。例えば、日本でルドヴィコと二人で歩いていると、初めて会う人は皆少し慌てて英語で話さなくてはいけないのかとドキドキしたり、「どうして日本に来たんですか」と訊いたりする。でも、こちらでは明らかに外国人の怜子の存在に驚いたり、慌てたりする人はいない。まず発する言葉はイタリア語。つい先ほども、座っていると道を訊いてきた人がいた。どうやっても地元民には見えないはずなのに。
見ていると、色の黒い人や、アジア人もたくさん歩いている。ここはトリノと違って観光客はそんなに来ない何もない町だから、歩いている人達はきっとここに住んでいるか仕事をしているのだろう。
ルドヴィコとの旅は、怜子が考えていた海外旅行のあり方とも違っていた。昨日着いたばかりだけれど、ミラノにいたのに凱旋門もドゥオモも見ていないし、ショッピングもしなかった。名所の説明を聴きながらカメラのシャッターを切るような行動は何もしていなかった。
そうではなくて、人と会って、話して、笑って、別れる。そんな旅なのだ。
ミラノの空港には、ルドヴィコの親友ロメオとその恋人の珠理が迎えにきてくれた。この二人は、去年の梅の時期に松江にルドヴィコを訪ねてきて、その時に怜子も知り合ったのだ。
「いつか二人でミラノに遊びにきてね」
そう言われた時に、そんなことが実現するとは想像もしていなかった。それなのに、十六ヶ月経った今、怜子はルドヴィコの婚約者として再会したのだ。
昨夜は、ロメオと珠理の住んでいるアパートメントに泊めてもらったのだが、昔ながらの建物を利用した天井の高い素敵な部屋だった。怜子が日本で馴染んでいるものよりも少し高いテーブル。どっしりとした木枠の大きな窓、年代もののオーブンや暖炉があることにも驚いた。照明デザイナーである珠理にふさわしく間接照明で構成された柔らかい明かりの部屋。まるでインテリア雑誌で見るような光景だなと思った。
そういえば、蛍光灯は一つもなかった。ボタンひとつで水の出るトイレ、ワイヤレスの自動掃除機、電子レンジといった文明の利器もまったく見当たらなかった。トイレと簡単なシャワーのある洗面所にはボタン一つでお風呂が沸くシステムなんてない。そもそもバスタブがなかった。
むしろ、そういうボタン一つで何かが整うシステムは無粋で必要としていないようだった。
二人は、昼間のように明るい室内よりも、ろうそくの光で楽しむ夕べを大切にしていた。キッチンを箒で掃き一緒に掃除をしていた。三分で食事をしたいときはトマトやモツァレラとパンだけで食事をし、そうでないときはオーブンに入れた料理がじっくりと調理されるのを待つ間に色々な話をするのだと言った。
それは、いま見ているこの町の佇まいに似ていた。特別なエンターテーメントは何もなく、観光客が押し寄せるような名所もなく、ただ、人々がゆったりと心地よく暮らしているように見える。知り合い同士が立ち寄っては、グラスワインと小さなおつまみだけを前に、おしゃべりと笑いで夏の長い一日の残りを楽しんでいる。特別なものが何もないことが、いや、敢えて持たないことが、このなんでもない町を詩的にしているようだ。
ルドヴィコが、松江の古い民家を借りて住んでいることも、それと同じなのかもしれない。プラスチック製のものを使いたがらないこと、家では和服に着替えて墨書きをしたためたりすること、美しい日本語にこだわって話したがること、四季の移り変わりや日本の伝統を大切にして、不便さよりも筋の通った美しい暮らしを優先させること。それらが、この数日で怜子が印象づけられた物事と繋がっているように感じた。
遠くで花火の音が聞こえ出した。トリノのお祭りで打ち上げているのだろう。まだ空が明るくて、花火大会を楽しむ感じではない。
花火もトリノの街の観光も、怜子にとってもいつのまにか重要ではなくなっていた。だれでも知っている光景を、観光案内書と同じアングルで撮ることに時間を費やしても、ずっと拙い写真を持ち帰ることしかできない。昨日からルドヴィコと一緒にしたことは、観光案内の後追いではできない特別な経験だった。一つ一つをその場でじっくり楽しみたい。ミラノで、この町で、彼の両親の住む村で。
「怜子さん、お待たせしました」
声のした右側を見ると、ルドヴィコが歩いて来た。
「あれ。いつ来たの? 見ていたのに、全然わからなかった」
「裏側からパーキングに入りましたから」
彼は、すっと彼女の横の席に座った。怜子が楽しそうに眺めている視界を遮らないように。とても心遣いの行き届いた人なのだと、彼女はいつも感心する。
「おや。花火がはじまりましたね」
彼が、顔をトリノの方向に向けて行った。
「うん。まだ明るいのにね。でも、ようやく暮れてきたね」
「サン・ジョバンニのお祭りは夏至祭のようなものですから。そろそろ九時半ですよ」
もっとも日が長い季節であることに加えて、ヨーロッパではサマータイムを採用していて本来の時間から一時間ずれているので、日没がこんなに遅くなるのだ。日が暮れると急に寒くなるから、風邪を引かないようにしなくちゃ。怜子はカーディガンを着た。
「怜子さん、花火を見たかったんじゃありませんか? 車がありますから、今から行ってもいいのですよ」
ルドヴィコは、訊いた。人混みが苦手な彼のために、怜子が遠慮したのかと心配しているのだ。
「ううん。いいの。あのね。観光やお祭りみたいな特別なものじゃなくて、こうやって、なんでもない宵をのんびりと過ごすのがいいなあって、いま思っていたところだったの」
怜子がそういうと、彼はにっこりと笑った。彼女は、この笑顔を生涯見続けるのだと嬉しくなった。これから向かう両親の住む村で、その次に見せてもらう北イタリアのどこかで、そして、日本に戻って二人の暮らす街で、一つ一つの思い出を作っていくのだと思った。
(初出:2012年2月 書き下ろし)
【小説】赤い糸
「scriviamo! 2018」の第十弾です。夢月亭清修さんは、手紙をモチーフにした作品で参加してくださいました。ありがとうございます!
夢月亭清修さんの掌編小説 『次の私へ』
清修さんは、小説とバス釣りのことを綴られているブロガーさんです。サラリーマン家業の傍ら小説家としてブログの他に幻創文庫と幻創文芸文庫でも作品を発表なさっていて、とても広いジャンルを書いていらっしゃいます。現在連載中の「移動城塞都市と涙の運河」も、とても面白い冒険譚ですよ!
今回書いてくださった小説は、「郷愁の丘」で多用している書簡形式にインスパイアされて手紙になっています。この手紙を料理しろと仰せなんですけれど、あのですね……。いったいどうしろと。
「こんなの簡単じゃん」と思われる方は、ぜひトライしていただきたいと思います。色々とわからないだけではなく、制約も多いし、どうやって続けていいのか、のたうちまわりましたよ。
お返しは、悩んだ末、まじめに「中二病テイスト」で書くことにしました。いや、ふざけて返そうと思ったんですけれど、そこはかとなく清修さんから「ちゃんとそれっぽく書け」というオーラが発せられているように思ったんです。ですから、こうなりました。ちょっと拾えていない部分もあるかもしれませんが、これが限界でした。これでも三度書き直したんですから。しくしく。
注意・まず先に清修さんのところでお題となっている作品を読んでください。読まないと、下の作品は意味不明です。
行けなかった方はこちら(クリックで開閉)
「scriviamo! 2018」について
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
赤い糸
——Special thanks to Mugetutei Seishu-san
西の空には、霞んだ月が浮かんでいる。満月でもなければ半月ですらない。惨めに力を失っていく下弦の月は、骨まで染みる冷たい霧の向こうに寂しく沈んでいく。
彼は、無事に逃げだせたのだろうか。リンは時計に目をやった。大変なことをしたのだと、胃が痛くなりそうだった。彼をそのままにしておけば、むしろ幸せなまま人生を終わらせてやれたかもしれない。逃げ出したことがわかれば、《モラレス》だけでなく連邦政府も必死で彼を追い、見つけ次第抹殺しようとするだろう。それは精子採取の終わった他の《優性種個体》たちに対する手続きとは違い、大きな苦痛を伴うはずだ。
《優性種個体》の青年たちは二十回の採取が終わると別の施設に移される。勤めはじめの数カ月は、それが安楽死のための手続きだとは知らなかった。それを知ってからも、かわいそうだとは思っても、何かをしようとは思わなかった。連邦政府に戻るために良心など悪魔にでもくれてやるつもりだった。それなのに、なぜ彼のために私は人生を棒に振ったのだろう。彼女は訝った。
C9861が、彼女を見る時、他の少年や青年たちとはまったく違う表情をしていた。彼らの外見は互いにとてもよく似ていた。当然だ。そうなるように純粋培養された品種なのだから。採取された精子は厳重に管理され人工受精に使われる。リンたち《
《モラレス》は民間企業だが、連邦政府の後ろ盾によって純血種の再生産を請け負っている。優生保護法に基づくあらゆる農産物の種の管理を委託されているのは一般にも知られているが、《
この人間ブロイラーの存在を知る事になったのは、皮肉にもリンが優性ではないにもかかわらず優秀なだったからだ。
彼女は、連邦政府で働くためにあらゆる努力をしてきた。高校まではクラスでもずば抜けて優秀で、大学での特別コースに入るための選抜試験でも、全問正解を書いた自信があった。にもかかわらず、彼女が進むことができたのは特進コースではなかった。その後も連邦政府の国法府に進むはずが、数カ月で民間企業である《モラレス》へと送られた。
リンの認識番号はGではじまっていた。両親の結婚によって生まれた彼女は他の《中位人種》と同じように雑種なのだ。だが、少なくとも雑種にはそれなりの自由があった。もちろん特権階級にはなれないが、それでも卵子と精子を採取するためだけに存在し、品質劣化と流出を防ぐために早々に処分される存在よりはずっといい。
彼女が配属されたセクションには、金髪碧眼のCタイプと赤毛で緑の瞳をしたDタイプの少年と青年たちがいた。C9861はその一人にすぎなかった。なのに、彼だけにリンはいつも注意を引かれた。彼も、リンが通る時にいつも振り向いた。目があって、一秒か二秒、時間が止まった。
あの謎の手紙がどこからきたのかリンにはわからなかった。彼女のブースのデスクの中にあったのだ。どこからきたのかもわからず、具体的な事も書いていなかった。そのまま捨ててしまえばよかったのだ。それとも上司に見せて忠誠心を見せる選択もあったはずだ。
リンがそうしなかったのは、彼の安楽死の期限が迫っていたからだ。C9861は十八回目の採取を終えていた。再来月には彼は「移される」はずだった。リン自身の手で、その手続きをしなくてはならなくなる。他の成長した《優性種個体》と同じように。
「彼もまた、私達と同じ存在なのです」
リンは、手紙のこの一文を何度も読み返した。
手紙を彼女のブースに隠すことができたのは行方不明になったという前任者であるとしか考えられなかった。彼女の残した私物を上司の命で届ける手続きをした時、その家族の住所を控えてあった。実際に行ってみて、その地域には反政府組織のアジトがあることがわかった。そして、それから二週間がたった今、リンは落ち着かない心地でこの怪しげな部屋の中に座る事になった。
「心配のようだね」
地獄からの使者という表現がぴったりくる、皺くちゃで禍々しい顔をした老婆がヒッヒと笑った。忌々しい。この女の口車に乗せられて、私もC9861も《モラレス》と連邦政府から追われる立場になったのだ。
「本当に彼を無事に逃してくれるんでしょうね」
リンは老婆に詰め寄った。
「さあね。あんた次第だよ」
「私? 私が何かできると思っているんですか? メインシステムに侵入して彼のセクションの管理プログラムに手を加えたことは、すぐにわかってしまいます。私はもうあそこには戻れません。家族に迷惑がかかるから、実家に助けを求めることもできません。私自身が追われる立場なのに、どうやって一人で彼を助けられるというの」
老婆はカラカラと笑った。
「一人でなんてことは言っていないさ。もちろん我々がバックアップする。だが、あのC型を本当の意味で解放することができるのは、組織の助けじゃないのさ。お前さん、あの手紙に書いてあった『鍵』の意味はわかったのかい」
リンは首を振った。それどころか、手紙の最初から最後まで、意味がさっぱりわからなかったのだ。
「やれやれ。あそこに書いてあったのは、お前さんのご先祖が属していた民族の伝承の話じゃないか」
「なんですって?」
リンは身を乗り出した。
老婆はやれやれと首を振った。
「その昔、いつか結ばれる男と女の足首は普通のものには見えぬ赤い糸で結ばれていて、その運命を変えることができないのだという伝説だよ。韋固というのは、そのことを信じまいとして運命の許嫁を殺そうとした男だ。最終的にはその娘と結婚することになったらしいがね」
リンはため息をついた。
「そんな昔話がなんの役に立つのですか。まさかあなたも赤い糸の運命を信じているなんて言いだすんじゃないでしょうね」
老婆はその狡猾そうな皺を更に深くして笑った。
「やれやれ。どうしてそうでないと言えるね。では、お前さんがわかるような言い方をしてやろう。私たちは誰でもヒト白血球抗原(HLA)複合体をもって生まれてくる。自分の細胞と不要なウィルスやバクテリアとを識別するのに必要なシステムだが、本来人間は自分とはまったく異なるHLA複合体を持つ相手を求めることがわかっているのさ」
「全く違う相手?」
「そうさ。免疫システムの多様性が増すと環境の変化に強い子孫を残すことができるんだ。連邦政府の純血種政策はその自然の摂理に楯突いているのさ」
「ということは、政府が独占しているC型の遺伝子を手に入れることがあなたたちの目的?」
「ある意味ではそうだね。だが、我らはただ『月下老人』の役割を勤めようとしているだけさ。『赤い糸』はもう勝手に動き出しているらしいからね」
「意味がまったくわからないわ」
リンは挑むように老婆を見つめた。
老婆はカラカラと笑った。
「お前さんの細胞全てにHLA複合体が組み込まれている。お前の赤い血がもっとも遠いパターンのHLA複合体を感知するんだよ。同じような見かけをしている者の中で一人だけどういう訳か目が行く。他の人間にはわからないようないい香りがする。その相手に対して性的関心が高まる」
リンは、ひどい居心地の悪さを感じた。そんなつもりではないのに。
「あなたは、まさか、私と彼をくっつけようとしているの?」
「くっつけようとしているのは私じゃないよ。わかっているはずだ。頭を冷やして考えてごらん。お前さんのこれまでの行動の意味を」
C9861は、走った。外の世界は暗くて寒く、救いがあるようには全く思えなかった。それでも、もはや元の世界に戻る事はできなかった。彼に残された時間は少なく、暖かく心地良い繭の中で幸せな夢にまどろんでいる時間はなかった。
あの女を信用していいという証拠はなかった。彼にわかっているのは、次は彼の番だということだけだった。
彼のいた場所には、彼と似た境遇の少年たちが集まっていた。少しずつ年齢の違う少年たちは、だが、決して老いることはなかった。青年となり、周りの「大人たち」と変わらなくなると、順番にいなくなるのだ。彼よりも歳上の最後の男は一年前に去った。そのC9823は、いなくなる一ヶ月ほど前に「大人たち」の目のない時を選んで彼に話をした。その前の少年たちがやはり口頭で伝えてきたであろう情報だった。
「用が済んだら、僕たちは始末されるらしい。それが嫌ならば、ここを逃げ出すしかないが、外の世界はここほど楽ではないそうだ。それに、どうすればここから出られ、どこへ行けば助かるのかも僕は知らない。どうすればいいのかも。でも、C9798が僕に伝えたことだけは、君に言っておかなくてはならない。君も必ずそうするんだ。次の少年たちのためにね」
C9823が去ってから、彼はずっと落ち着かなかった。前いた少年たちがどこへ行ったのか、本当に「始末」されたのかも知らなかった。だが、彼は、義務として年下の少年に彼自身も受け取った情報を伝えた。彼が、こうして逃げ出したことを知らない彼は、おそらく「C9861は始末されたのだ」と思うだろう。もしかしたらそれは事実となるかもしれない。逃走したことがわかれば、「大人たち」は彼を間違いなく「始末」するだろう。
彼の「用が済む」という意味はなんとなくわかる。彼の体格が変わり、それまで見ることのなかった生々しい夢を見るようになってから、彼は定期的にラボトラリーへ連れて行かれ、体液を採取された。それは非常に快感を伴う作業で、決して嫌いな体験ではなかった。
彼は、いつもあの女のことを頭に描いた。彼と見かけの違う背の低い女。漆黒の艶やかな髪と切れ長の瞳。初めて見たときから、眼が離せなかった。他の女とは違う見かけだから。そう思ったが、それだけでは説明がつかなかった。あの女の前任者も彼とはまったく違う見かけだったように思う。彼は、そちらの女には、あまり注目したことがなかった。
あの女だけはどういうわけかすぐに顔を憶えてしまった。ラボトラリーへ彼を誘導するときに、前を歩く後ろ姿が妙に氣になった。いい香りがするように思った。だがそのことを他の少年たちに話すと、みな首を傾げた。「あの黒髪の女? 特に他と違う匂いなんかしないぞ」
あの女が、メッセージをこっそり渡した時、彼は別の期待をした。だが、それは彼と甘い秘密を持とうという誘いではなかった。もっと切羽詰まった内容だった。処分される前に彼を逃すと。
他の人間からのメッセージだったら、信用しなかっただろう。「大人たち」にそれを告げて、話を終わりにしたに違いない。だが、それをしたらあの女が「処分」されると思った。だから、彼は「逃げる」方を選択した。
少なくともこれまではあの女の言った通りにことが運んだ。彼は、生まれてから一度も離れたことのない建物を抜け出し、明け方の誰も彼もが眠った街を一人走っていた。
どこへ行くのかはわからない。だが、新しい扉が開かれて、その戸口にあの女が立っているように思った。
(初出:2018年2月 書き下ろし)
この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。
read more
【小説】恋のゆくえは大混戦
「scriviamo! 2018」の第十一弾です。ダメ子さんは、昨年の「scriviamo!」で展開させていただい「後輩ちゃん」の話の続き作品で参加してくださいました。ありがとうございます!
ダメ子さんのマンガ 『バレンタイン翌日』
ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。
昨年、キャラの一人チャラくんに片想いを続けているのに相変わらず想いの伝わらない「後輩ちゃん」の話を、名前をつけたりして勝手に膨らませていただいたところ、その話を掘り下げてくださいました。そして、今年はその翌日の話でを描いてくださいました。
今年はついに「後輩ちゃん」(アーちゃん)の顔が明らかになり、可愛いことも判明しました。なのにチャラくんは誤解したまま別の女の子(つーちゃん)にちょっかい出したりしています。
というわけでさらにその続き。今年メインでお借りしたのは、チャラくんではありません。見かけによらず(失礼!)情報通だしリア充なあの方ですよ。
【参考】
昨年私が書いた「今年こそは〜バレンタイン大作戦」
昨年ダメ子さんの描いてくださった「チョコレート」
「scriviamo! 2018」について
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
恋のゆくえは大混戦 - Featuring「ダメ子の鬱」
——Special thanks to Dameko-san
まったく、どういうこと?! あんなにけなげなアーちゃんの前で、よりにもよって付き添いの私に迫るなんて。だからチャラチャラした男の人って!
何年も思いつめてようやくチョコを手渡せたバレンタインデーの翌日、アーちゃんは恥ずかしいからと部活に行くのを嫌がった。仕方ないので再び付き添って体育館の近くまで一緒に行ったところ、チャラ先輩がやってきた。ちゃんとお礼を言ってくれたから「めでたしめでたし」かと思いきや、モテ先輩にもっと積極的に迫れなどと言い出した。それだけでなく、この私に「モテのやつに興味が無いなら、俺なんてどうよ」なんて囁いたのだ。
「はあ。モテ先輩との仲を取り持とうとするなんて、遠回しの断わりだよね。彼女にしてもらえるなんて、そんな大それた事は思っていなかったけれど、ショックだなあ。つーちゃん、私、帰るね」
アーちゃんは、ポイントのずれたことを言いながら帰ってしまった。
ってことは、モテ先輩の話が出た時点で泣きながら自分の世界に入ってしまって、あの問題発言は耳にしなかったってことかな。だったら、よかった。だって、こんな事で友情にヒビが入ったら嫌だもの。
どうもチャラ先輩とアーちゃんは、お互いに話が噛み合っていないような氣がする。もちろん私の知った事じゃないけれど、またアーちゃんの前でチャラ先輩が変なことを言い出さないように、ここでちゃんと釘を刺しておくべきかもしれない。
私は、一度離れた体育館の方へまた戻ることにした。バスケ部の練習時間にはまだ早いのか、練習している人影はない。あれ、どこに行っちゃったんだろう。
「あれ。君は、昨日の」
その声に振り向くと、別の先輩が立っていた。モテ先輩やチャラ先輩と同じクラスで、わりと仲のいい人だ。昨日も、アーちゃんがチョコをチャラ先輩に渡した時に一緒にいた。
「あ。こんにちは。さっき、チャラ先輩がここにいたんですけれど、えーと……」
「チャラのやつは、今すれ違ったけれど、今日の練習はなくなったからって帰っちゃったよ。急用なら連絡しようか」
いや、そこまでしてもらうほどの用じゃないし、呼び出したりしたらさらに変な誤解されそう。困ったな。
「そういうわけじゃないんですけれど……。あの、昨日のアーちゃんのチョコレートの件、チャラ先輩、なんか誤解していませんでした?」
先輩は、無言で少し考えてから言った。
「モテにあげるつもりのチョコだと思っていたようだね。あいつ、あの子がしょっちゅう見ていたのに氣がついていないみたいだし」
知ってんなら、ちゃんと指摘してよ! 私は心の中で叫んだが、まあ、仕方ないだろう。アーちゃんのグダグダした告白方法がまずいんだし。
「あの子、カードにチャラ先輩へって書かなかったんですね」
「書いていなかったね。やっぱりチャラへのチョコだったんだ」
「先輩は、アーちゃんがチャラ先輩に憧れている事をご存知だったんですね」
「俺? まあね、なんとなく。確証はなかったけど」
「まったく、中学も同じだというのにチャラ先輩ったらどうして氣づいてあげないのかしら」
「あー、なんでかね」
暖簾に腕押しな人だな。この人づてに、チャラ先輩に余計なちょっかいを出して私たちの友情に水をささないで的なお願いしたらと思ったけど……う~ん、なんかもっとやっかいなことになるかも?
「君は、バスケ部じゃないよね。あの子のためにまた来たの?」
先輩は訊いた。いや、一人で来たわけじゃないんですけれど!
「さっき、アーちゃんと来たんですけれど、チャラ先輩が思い切り誤解した発言をして、彼女泣いて帰っちゃいました」
先輩は、「へえ」と言ってから、じゃあ何の用でお前はここにいるんだと訊きたそうな目をした。
「俺ももう帰るんだけど、よかったらその辺まで一緒に行く?」
私は、このまま黙って帰ると更に誤解の連鎖が広がるような嫌な感じがしたので、もうこの先輩にちゃんと話をしちゃえと思った。
「じゃあ、そこまで」
それから、私はその先輩としばらく歩きながら、お互いに名乗った。その人はムツリ先輩ということがわかった。
駅までの道は商店街になっていて、ワゴンではチョコレートが半額になって売られていた。あ、あれは美味しいんだよなー。
「すみません、ちょっと待っていただけますか。あれ、ちょっと見過ごせないです」
「あ、あれはうまいよね。半額かあ。俺も買おっかな」
ムツリ先輩もあのチョコが好きだったらしい。チョコなら昨日たくさんもらったんじゃないですかって訊くべきなのかもしれないけれど、地雷だったらまずいからその話題はやめておこう。
「バレンタインデーは、私には関係ないんですけれど、この祭りが終わった後の特典は見逃せないんですよね。でも、こういうのって傍から見たらイタいのかしら」
そういいながらレジに向かおうとすると、まったく同じものを買おうとしていたムツリ先輩が言った。
「だったら、俺がこれを君にプレゼントするから、君がそっちを俺にくれるってのはどう?」
私は、思わず笑った。確かに虚しくはないけれど、自分で買っているのと同じじゃない。
「じゃあ、これをどうぞ。一日遅れでしかも半額セールですけれど」
「で、これが一ヶ月早いホワイトデー? おなじもので、しかも半額だけど」
バレンタインデーも、この程度のノリなら楽なのに。私は、アーちゃんの毎年の大騒ぎのことを思ってため息が出た。あ、チャラ先輩の話もしておかなくちゃ。
私がチャラ先輩にはまったく興味が無いだけでなく、アーちゃんとの友情が大事なので変な方向に話が行くと困るということもそれとなく話した。ムツリ先輩は「あはは」と笑った。あはは、じゃなくて!
「まあ、じゃ、チャラにはあのチョコの事は、それとなく言っておく。その、君の事も……適当に彼氏がいるとか言っておけばいい?」
ムツリ先輩は、ちらっとこちらを見ながら訊いた。
私は必死に手を振った。
「やめてください。私に彼氏だなんて! 私は
「え? 一般人?」
「あー、わかりませんよね。腐女子って言えばわかりますか? それも、生もの、つまり実在する人物を題材にした作品を愛好しているんです」
「ええっ。じゃ、モテとか?」
「やめてください。そういう身近なところでは萌えません。M・ウォルシュとかA・ベッカーとか知っていますか。ドイツやロシアのモデルなんですけれど。実在するのが信じられないほど美しい人たちなんですよ」
ムツリ先輩は思いっきり首を振った。やっぱり。まあ、知らなくて当然よね。
「というわけで、チャラ先輩にはうまくいっておいてくださいいね。あ、チョコ買ってくださってありがとうございました」
私はそう言って、角を曲がるときにおじぎをしてムツリ先輩を振り返った。
先輩は手を振って去って行った。ちょっと、恥を忍んでカミングアウトしたのに、なんで無反応なの?! ムツリ先輩って、あっさりしすぎていない? っていうか、私、今までそんなこと氣にした事なかったのにな。
私は、ムツリ先輩と交換した半額セールのチョコを、大切に鞄にしまって家路を急いだ。
(初出:2018年2月 書き下ろし)
【小説】あの時とおなじ美しい海
「scriviamo! 2018」の第十二弾です。TOM-Fさんは、『天文部シリーズ』とうちの「ニューヨークの異邦人たち」シリーズのコラボ作品で参加してくださいました。ありがとうございます!
TOM-Fさんの書いてくださった 『この星空の向こうに Sign05.ライラ・ハープスター』
TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。現在メインで連載なさっているのは、フィジックス・エンターテイメント『エヴェレットの世界』。ロー・ファンタジー大作『フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス』と、ハートフルな『この星空の向こうに』の両方の登場人物が集合し、物理学の世界でただならぬ何か(?)が起こるお話。スタートしたばかりですが、既に目の離せない展開で続きが待ち遠しいです。
今回コラボで書いていただいたのは、その『エヴェレットの世界』の主役の一人でもある綾乃が案内役となって『天文部シリーズ』のもう一人のヒロインである詩織とある絵のオリジンを探してニューヨークのロングアイランドを訪れるという美しくて哀しいお話。で、最後に絵を置いていってくださったのが、うちの「郷愁の丘」でヒロインジョルジアが入り浸っている《Sunrise Diner》という大衆食堂です。
さて、お返しですが、その絵と絵を描いたケン・リィアン氏をお借りしました。TOM-Fさんに設定を教えていただいたのですが、この方は日本人でTOM-Fさんの作品に既にでてきている辛い過去を持つ男性です。従って、絵に描かれている女性は、そのお話に出てくる亡くなった女性ではないかと思いつつ、この話を書かせていただきました。
こちらで登場するのは「郷愁の丘」の前作「ファインダーの向こうに」で初登場した、ヒロイン・ジョルジアの身内です。彼女の家族は、あの強烈な兄ちゃんだけではないのですよ(笑)
【参考】
![]() | 「ファインダーの向こうに」を読む あらすじと登場人物 |
![]() | 「郷愁の丘」を読む あらすじと登場人物 |
![]() | 「ニューヨークの異邦人たち」 |
「scriviamo! 2018」について
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
あの時とおなじ美しい海 - Featuring「この星空の向こうに」
——Special thanks to TOM-F-san
キャデラックの運転手バートンがドアを開けてくれた。彼女は礼を言って降りてから、迎えにきてほしい時間を告げた。晴れ渡った空の明るい日差しが心地いい午後だった。大きな濃いサングラスを外して、彼女は《Sunrise Diner》という看板のかかったダイナーを仰いだ。
「まあ、ここだったんだわ」
ロングビーチに来たのは本当に久しぶりだった。彼女自身がニューヨークに住んでいたのはもう十年以上前のことだったし、姉のジョルジアと会うのはいつもマンハッタンの洒落た店にしていた。
姉の借りているアパートメントを訪れたのは、おそらく彼女がここに引っ越してからの数カ月だけだ。アレッサンドラは今とは別の意味で多忙を極めていたけれど、それでも足繁く様子を見に行かなくてはならないほど、姉のことが心配だった。当時ジョルジアは精神的に参っていて、世界からも背を向けようとしていた。それでも再び生きて行くために必死でもがいていて、アレッサンドラはそんな姉を助けたかった。
その姉も十年以上の時を経て、ようやくトラウマとその後遺症であった世捨て人のような生活から抜け出しかけているらしい。兄からの報告ではボーイフレンドと言ってもいい人と出会ったようだ。アレッサンドラは、氣掛かりが少ないだけで、同じこのロングビーチの光景もここまで明るく見えるのかと驚いた。
彼女は、一般にはアレッサンドラ・ダンジェロの名前で知られている。一年ほど前までは、「世界でもっとも稼ぐスーパーモデル五人のうちの一人」であったが、今年からはその称号は返上するだろう。彼女の人氣に陰りがでたからというわけではない。昨年末に三度目の結婚をした相手がドイツの名のある貴族であるためモデルとしての仕事の多くをセーブすることになったのだ。
今の彼女は、ロサンゼルスの自宅と、ドイツにある夫の城、それにスイスのサンモリッツにある別荘の三箇所を往復する生活をしていた。その合間に慌ただしくマンハッタンに来る時はいつも兄マッテオのペントハウスに滞在する。可能な限り両親や姉のジョルジアと会う時間も作る。いつも遠く離れている彼女が、大切な家族との絆を保つために絶対に惜しまない手間だ。
そして、愛する家族のためにはどんな小さな事でも迅速に行動に移す。それは尊敬してやまない兄から学んだことで、彼女の信念にもなっていた。そのために彼女は、見ず知らずの大衆食堂の存続の危機を回避するべくこうして出向いたのだ。
ロングアイランドは、時々ひどいハリケーンに襲われる。そのため、州の条例でこの場所にある建物は建て替え時に、同時に地盤を高くする工事をしなくてはならない。そうすることにより最終的に、この地域全体を高台にあるような状況にするためだ。もちろん州からの助成金は出る。が、その支払いまでには長くて官僚的なやりとりと、役所との強力なコネクションが絶対的に必要だった。ハリケーンの被害者でも、復興プロジェクトでの申請のやりとりに嫌氣がさして、この地に住むのを諦めてしまった人がたくさんいた。
《Sunrise Diner》は、前回のハリケーン被害を受けたわけではなかったので、復興プロジェクトの方には申請できない。つまり緊急性の低い助成金申請だ。だが、オーナーが比較的リーズナブルな値段で購入したこのダイナーは、既にかなり老朽化が進み、手を入れないわけにはいかなくなっていた。
地盤の工事まで含めると、彼が許容できる費用を32万ドルほど上回っているため、オーナーはむしろ店を閉めることを選びたいといいだしていた。その話を聞いて、従業員や常連たちは途方に暮れた。特に、ジョルジアが一番仲良くしているウェイトレスのキャシーは義父母の協力を得て子育てをしつつ勤めているので、マンハッタンの別の店に通うのは難しい。常連たちも仲のいいキャシーや溜まり場を失うのは嫌だった。
アレッサンドラは、貧しい漁師の娘として生まれたので、多くの人にとって32万ドルという金額が意味するものが何かはよくわかっていた。今の彼女にとって、32万ドルは大した金額ではなかった。ずっと1000万ドルもの年収を稼ぎ続けてきたし、税金やその他の理由で簡単に出て行ってしまう金もあまりにも多かった。しかも、手許に残ったものもほとんど使い切れないほどなので、何か必要なことが身近にあれば喜んで使いたかった。
彼女には去年まで三人の別の会社に所属する会計士が付いていた。そうしないと会計士自身による横領を防ぐことができないのだ。今回の結婚でまた一人会計士が増えることになった。ヨーロッパの財産の管理をしてもらう必要ができたからだ。彼女自身は、自分がどれだけの財産を持っているのか、一体何に投資しているのか、正確に把握することをすでに諦めていた。先日サインした新しい仕事の契約だけで、彼女と娘が贅沢しても十年くらいはなんともないくらいの金額が入ってくる。彼女の目下の悩みは、どんなに金があってもそれを使う時間がないことなのだ。
人付き合いが苦手な姉が心地いいと感じられる数少ない場所の存続は、アレッサンドラにとっても重大な関心ごとで、解決に是非とも協力したかった。だから、さっそくオーナーに連絡を取り、面会の約束を取り付けたのだ。
さて、そういうわけで住所を頼りにやってきた《Sunrise Diner》であるが、実際にたどり着いて彼女は驚いた。その店を知っていたからだ。正確にいうと、別の外装と他の名前だった頃このダイナーに入ったことがあった。寂れて大して魅力も特徴もない店だったが、テラス席の前に広がる光景が素晴らしくそれは今と同じだった。
彼女の想いは十一年前に向かった。
《Sunrise impression》って、ダイナーの名前っぽくないわね。そう思いながら、アレッサンドラは疲れて落ち込んでいることを悟られないように、ことさら背筋をのばし優雅な動作でその店の中に入った。
海を臨む外のテラスには何組かのカップルが座っていたが、店の中には一人のアジア人の男がいるだけだった。何か食べようかと思ったけれど、この店はハズレだったのかしら。
アレッサンドラは、この店から五分くらいのところに住む姉のジョルジアを訪ねた帰りだった。ジョルジアがロングビーチに引っ越すと聞いて、アレッサンドラはなぜそれを許したのかと兄マッテオに詰め寄った。人間不信と精神的なトラウマを引きずっている姉を一人暮らしさせるのは早すぎると思ったのだ。
彼女は身体的特徴を原因に好きな男に拒否されてから、ショックで精神的安定を失った。対人不安と人間不信、そして、過呼吸の発作が何度か起きたため、兄マッテオが彼のペントハウスに連れて行き療養をさせていた。
「ジョルジアが自分でまた一人で暮らしたいと言ったんだ。尊重してやらないと」
「でも、また発作が起きたらどうするの」
「過呼吸の発作は、もう三ヶ月起きていないし、あのアパートメントの大家は僕の知り合いだから、何かあったらすぐに連絡してくれることになっている。彼女が心配でそばで見守りたいのは僕だって同じだけれど、例のベンジャミン・ハドソンの言うことにも一理あると思うぜ」
「ハドソンって、彼女の会社の編集者だったかしら」
「ああ、そうだ」
「あの人がなんて言ったの?」
「ジョルジアは、社会との繋がりを断つべきではないって。少しずつでもいいから、日常に戻って、世界がそれほどひどいところではないと、肌で感じない限り本当の意味では立ち直れないって」
それはそうかもしれない。実際に、彼女は少しずつ日常に戻り、生活はできるようになっている。アレッサンドラが訪ねて行くと、得意のイタリア料理でもてなしてくれるし、ごく普通の話題にものってくる。《アルファ・フォト・プレス》に通って、素材辞典に使う静物の写真を撮っている。
でも、彼女が元のようになることは、そんなに簡単ではないようだ。彼女は、マンハッタンの知り合いとの連絡を一切絶っていた。表情には精氣がなく、人生の楽しみや希望なども一切捨て去ってしまったようだった。泣いたり不平を言ったりしてくれれば、対処のし方もあるのだが、それすらもなかった。姉は、もう二度と傷つかなくて済むように、分厚い鎧を何重にも着込んで、世界からの刺激を遮断しているようだった。
ジョルジアを訪ねた帰りは、とても疲弊した。彼女を救うことのできない自分が情けなかった。姉をここまで傷つけた男を憎いと思ったけれど、その男に報復をしても、たぶん何も変わらないのだ。
それだけではない。姉を傷つけた原因は、アレッサンドラ自身にもあることを、自分で分かっていた。アレッサンドラにとってジョルジアは大好きな姉で大切な存在なのに、周りの人びとは常に二人を比較して、ジョルジアのことを「あのアレッサンドラ・ダンジェロに似ているけれど、同じではない存在」と扱った。あの男もそうだった。
それでも、アレッサンドラもまた他の存在にはなれないのだ。彼女は、疲れていても悲しくても背筋をのばし、完璧な女神「アレッサンドラ・ダンジェロ」として前を向いて行くしかない。そう、たとえハズレのダイナーの片隅に座ることになっても。
「いらっしゃいませ。ご注文をどうぞ」
生活に疲れたような抑揚のない声でウェイトレスが言った。
「そうね。せっかくロングアイランドに来たんだし……ロングアイランド・アイスティーをいただけるかしら」
手持ち無沙汰になった彼女は店を見回して、アジア人の男と目が合った。どちらかというと小柄なタイプで、 白のバンドカラーシャツとデニムを着崩していた。非常に痩せて肌色もあまり良くないが、元々そういう体質なのか、それとも健康を崩しているのかはよくわからなかった。柔和な顔つきではあるが、どこかジョルジアに似た雰囲氣を纏っていた。人生を、もしくは世界を諦めてしまったような目をしている。
男の手許に目がいった。それは小さめのスケッチブックで、彼女が入ってくるまでそこに何かを描いていたようだった。
「絵を描くのね。見ても構わないかしら?」
アレッサンドラが訊くと、男は「どうぞ」と言った。だが、立ち上がって彼女に見せに来ようとはしなかった。それで彼女は立ち上がった。極彩色のフレアスカートが広がりハイヒールの立てる音が少し大きく響く。この寂れたダイナーでは、彼女の全てが場違いに思えた。
「ああ、ここの海を描いているのね」
アレッサンドラは、その絵に感嘆した。光り輝く海面、対岸を表した優しい緑の色使い。それになんともいえない懐かしい想い。彼は頷いた。
「とても素敵だけれど、このテーブルと椅子には誰も座っていないのね。あそこにはカップルが座っているのに」
彼女は、思ったままを口にしてからしまったと思った。男は、先程よりもずっと暗い顔をして俯いていた。ジョルジアが見せる表情と同じだ。彼女もまた人物を撮ることができないままだ。それはつまり、人と向き合うことがつらいということなのだろう。
「ごめんなさい。余計なことを言ったわ」
そういうと、そのアジア人は不思議そうに彼女を見た。それから表情を和らげて首を振った。
「いや、君は正しいし、とても鋭いね。俺は……人物を描く事ができないんだ」
アレッサンドラはウェイトレスに目で合図をして、席をアジア人の男のななめ前に移ることを報せた。そのウェイトレスは、紅茶に見えるけれど本当はラムやジンやテキーラなどでできた非常に強いカクテルを彼女の前に置いた。
男は驚いたように彼女を見た。
「強いんだね」
アレッサンドラは笑った。
「そうよ。私はお酒に強いの。それだけでなく『
「『
「私はそうは思わないわ。本当に『
「君が? どういう人か知らないけれど、自信に満ちていてなんでも持っているように見えるよ」
アレッサンドラは面食らった。彼女はまだ二十一歳だったが、既に超有名人だった。自分のことを知らない若い男に会ったのは久しぶりだった。それにしても男の評価は確かだった。彼女は自信に満ちているし、結婚と子供を除けば、必要だと思うもののほぼ全てを手にしていた。
「そうね。でも、自嘲するだけでなく、実際に何かを変える努力をして来たのよ。これからもそうするつもりだわ」
男はふっと笑った。
「そう言い切れる君がうらやましいな。だが、どんなに努力しても、決して変えることのできない事もあるんだ」
アレッサンドラは、じっと男を見つめた。ジョルジアのことを考えた。彼女も努力を惜しんだわけではない。彼女にはどうする事もできない理由で、心に傷を受ける事になったのだ。
「わかるわ。でも、だからこそ、誰もが自分にできることで前に進んで行くしかないんじゃないかしら。そして、周りの人間は、本人がそうやって進んで行くのを見守るしかないんだわ」
アレッサンドラは、十一年前と同じように背筋をのばし、ドアをあけて《Sunrise Diner》へと入って行った。
「いらっしゃいませ……。あ! あなたは、ミズ・ダンジェロ! はじめまして。ジョルジアとお待ち合わせですか」
「あなたがキャシー・ウィリアムズさんね。はじめまして、アレッサンドラと呼んでね。ジョルジアじゃなくて、この店のオーナーに連絡したの。少し早くついたみたいね。せっかくだからロングアイランド・アイスティーを再びいただこうかしら」
キャシーは不思議そうに首を傾げた。
「私のいない時に、もうここにいらっしゃいました?」
「ええ。でも、ずっと昔のことよ。前のお店の時ね」
キャシーは笑った。彼女がカクテルを用意している間に、アレッサンドラは店を見回した。ただ援助をすると言っても、オーナーも簡単に32万ドルは受け取れないだろう。だとしたら、ここにある何かを買い取る形にしたほうがいい。でも、大衆食堂って、そんなに価値のありそうなもの、何もないのよね。
ふと、カウンターの奥にピンで一枚の絵が刺さっているのが目に留まった。
「あの絵……」
キャシーは不思議そうに見た。
「この絵のこと?」
それは、あの時にあのアジア人が描いていた絵に見えた。
「ええ。まあ、あの人完成させたのね。いいえ、違うわ、きっと描き直したのね。女の人が描いてあるから」
「この絵を描いた人、知っているんですか?!」
キャシーは、絵を外してカウンターに持ってきた。
「ええ。間違いないと思うわ。あの時に見た鮮烈な印象そのまま……いいえ、でも、全てのタッチが少し優しくなっているわね。この人のこと、とても大切に想いながら描いたのね」
「これ、あなたを描いたわけじゃないんですか?」
キャシーが訊くと、アレッサンドラは笑った。
「まさか。でも、このロングアイランド・アイスティーだけは、あの時私が飲んでいたもののことを思い出しながら描いたんじゃないかしら。この女の人は、きっとあの時に言っていた描くことのできなかった人よ。彼もまた、ジョルジアと同じように、ゆっくりと前に歩いたのね」
アレッサンドラは、微笑みながら心に決めた。この絵を買うことにしよう。そして、こんなピンなんかじゃなくて、ちゃんとした額縁に収めて、このダイナーのもっと目立つところに飾ってもらおう。
彼女は、自分の思いつきに満足して、オーナーの到着を待ちながらロングアイランド・アイスティーを飲んだ。
(初出:2018年2月 書き下ろし)
【小説】In Zeit und Ewigkeit!
「scriviamo! 2018」の第十三弾です。ユズキさんは、『大道芸人たち Artistas callejeros』のイラストで参加してくださいました。ありがとうございます!

このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない二次使用は固くお断りします。
ユズキさんのブログの記事『イラスト:scriviamo! 2018参加作 』
ユズキさんは、小説の一次創作や、オリジナルまたは二次創作としてのイラストも描かれるブロガーさんです。現在代表作であるファンタジー長編『ALCHERA-片翼の召喚士-』の、リライト版『片翼の召喚士-ReWork-』を集中連載中です。
そしてご自身の作品、その他の活動、そしてもちろんご自分の生活もあって大変お忙しい中、私の小説にたくさんの素晴らしいイラストを描いてくださっています。中でも、『大道芸人たち Artistas callejeros』は主役四人を全員描いてくださり、さらには動画にもご協力いただいていて、本当に頭が上がりません。
今回描いてくださったのは、蝶子とヴィルの結婚記念のイラストです。ヴィルは、感情表現に大きな問題のあるやつで、プロポーズですら喧嘩ごしというしょーもない男ですが、ユズキさんはこんなに素敵な一シーンを作り出してくださいました。というわけで、今回は、このイラストにインスピレーションを受けた外伝を書かせていただきました。第二部の第一章、結婚祭りのドタバタの途中の一シーンです。
【参考】
![]() | 「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結) あらすじと登場人物 |
![]() | 「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部 あらすじと登場人物 |
「scriviamo! 2018」について
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
大道芸人たち・外伝
In Zeit und Ewigkeit!
——Special thanks to Yuzuki san
いつの間にか、ここも秋らしくなったな。ヴィルは、バルセロナ近郊にあるコルタドの館で、アラベスク風の柵の使われたテラスから外を見やった。ドイツほどではないが、広葉樹の葉の色が変わりだしている。
九月の終わりにエッシェンドルフの館を抜け出してから、慌ただしく時は過ぎた。主に、彼と蝶子の結婚の件で。先週、ドイツのアウグスブルグで役所での結婚式を済ませたので、社会的身分として彼はすでに蝶子の夫だった。が、彼にその実感はなかった。
一年前に想いが通じた時、彼と蝶子との関係は大きく変わり、その絆は離れ離れになった七ヶ月を挟んでも変わらずに続いている。一方で、社会的な名称、ましてや結婚式などという儀式は、彼にとってはどうでもいいことだった。彼が急いで結婚を進めたのは、未だに彼女を諦めていない彼自身の父親の策略への対抗手段でしかなかった。
しかし、当の蝶子と外野は、彼と同じ意見ではなく、終えたばかりの役所での結婚で済ませてはもらえない。今も、花婿が窓の外を眺めてやる氣なく参加しているのは、三週間後に予定されている大聖堂での結婚式とその後のパーティの準備に関するミーティングだった。
「おい、テデスコ。聞いてんのかよ」
見ると、稔とレネが若干非難めいた眼差しでこちらをみていた。招待客からの返事や、当日の席順、それにパーティに準備に関する希望など、ある程度の内容を固めてカルロスや秘書のサンチェスに依頼しなくてはならない。
カルロスは大司教に面会に行ってしまったし、蝶子はドレスの仮縫いに行っている。この地域では滅多にない大掛かりな結婚式になりそうだというのに、まったくやる氣のみられない新郎に、証人の二人は呆れていた。
「すまない。もう一度言ってくれ」
それぞれのワイングラスにリオハのティントを注ぐと、ヴィルは自分のグラスにも注いで飲んだ。
「パーティの話だよ。トカゲ女やギョロ目の話を総合すると、着席の会食のあとに、真夜中までダンスパーティをすることになりそうなんだが……ケーキカットとか、手紙朗読とか、スライド上映とか、そういうのはないんだっけ?」
稔は、海外の結婚式には出席したことがないので、いまひとつ勝手がわからない。
「なんですか、手紙朗読って」
レネは首を傾げた。
「ああ、両親に読み聞かせるんだ。これまで育ててくれてありがとうとか。大抵、どっちかが泣くんだな」
今度は稔が二人の白い眼を受ける事になった。そりゃそうだよな。あのカイザー髭の親父にテデスコがそんな手紙を読むわけないよな。
「日本って、結婚式も特殊そうですよね」
レネが言った。うん、まあ、そうかな。稔は少し悪ノリをした。
「うん、ほら白鳥に乗って登場ってのもあるぞ」
「なんですって?」
「え、新郎と新婦が、でっかい白鳥に乗ってさ、運河みたいな感じに仕立てた舞台の奥から入場するんだ」
「なんだそれは。ローエングリンか」
ヴィルは呆れて呟く。
「それはともかく、少し派手に登場するのは悪くないですよね。一生に一度のことですし。スポットライトを浴びて華やかに……ほら、パピヨンを抱き上げて登場するのはどうですか?」
「おお。そうだよな。金銀の花吹雪でも散らしながらってのはどう?」
「いい加減にしてくれ」
一言の元にヴィルは却下した。
やっぱりダメか。そんな顔をしながら、稔とレネは顔を見合わせると、日本から来てくれる友人拓人と真耶とオーケストラとの練習準備について真面目に語り出した。
その間にも、ヴィルの脳内には日本の結婚式に対する想像が展開されていた。紫色の明るいホールに金銀の紙吹雪が舞っている。輝く青い水が流れているその様は、生まれ育ったアウグスブルグの旧市街に縦横に張り巡らされた運河を思わせた。橋の上には白いスーツを身につけた彼がいて、美しいウェディングドレスを纏った蝶子を抱きかかえている。
……いや、いったい何を考えているんだ、俺は。
「おい。今度こそちゃんと聴いているんだろうな」
稔の声で我に返った。
「ああ、すまない」
ヴィルはワインを飲み干した。
「なんの話?」
戸口を見ると、蝶子が帰ってきていた。両手に何やら沢山の紙包みを抱えている。また何か買ってきたのか。
「今度は洋服や靴じゃないわよ、安心して。ほら、今夜も話し込むと思って、少しボトルを仕入れてきたの」
蝶子はウィンクした。レネはさっと立ち上がって荷物を受け取り、稔とヴィルもグラスや栓抜きを用意するために立った。
「話し合いは進んだ?」
蝶子が訊くと、稔は「まあね」といいながら肩をすくめた。相変わらずのヴィルの様子を想像できた彼女は笑った。
「とにかく、どうしても真耶たちに演奏して欲しい曲だけ、連絡すれば、あとはなんとかなるわよ。考えてみるとものすごく贅沢な演奏会とグルメ堪能会が同時に開催されるようなものじゃない? 結婚するのも悪くないわよね」
稔とレネは大きく頷いた。ヴィルも僅かに口角をあげた。嫌々同意するとき彼はこういう表情をするのだ。蝶子は勝ち誇ったように彼のそばに来るとワイングラスを重ねた。
「ねえ。そういえば、結婚記念のプレゼント、まだもらっていないわよ」
「俺もあんたから、何ももらっていないぞ」
憮然とするヴィルに怯むような蝶子ではない。
「あら。あなたは、生涯この私と一緒にいる権利を獲得したのよ。これ以上何が欲しいっていうの」
ヴィルは、ちらりと蝶子を見た。稔とレネは、ここから舌戦が始まるのかと興味津々で二人を眺めた。ヴィルは、蝶子の言葉に何か言いたそうにしたが、言わなかった。その代わりに立ち上がると「じゃあ、記念に」と言ってピアノに向かった。稔はひどく拍子抜けした。
ヴィルは、ゆっくりと構えるととても短い曲を弾いた。静かで、ちょうど秋がやってきている今のこの季節に合っていた。優しくて静かな曲だった。
稔は、微笑んで満足そうに耳を傾けている蝶子を不思議そうに見た。それまでの挑発的な様相はすっかり引っ込んでしまった。なんだなんだ? そりゃ、いい曲だけれど、なんでこれだけでトカゲ女を大人しくさせることができたんだ?
横を見ると、レネまでが眼を輝かせてうっとりと聴いている。稔は、そっと肘で小突いた。レネは小さくウィンクをして小声で囁いた。
「グリーグが自ら作曲した歌曲をピアノ用に書き直した作品の一つです。もともとの歌曲は童話で有名なアンデルセンの詩に曲をつけたんですよ。僕、歌ったことがあるんです。『四つのデンマーク語の歌 心のメロディ』の三曲目です。あとでネットで検索するといいですよ」
なんだよ、そのもったいぶりは。稔は首を傾げた。氣になったので、夕食の前に言われた作品をネットで探した。すぐに出てきた。三曲目ってことは……これか。デンマーク語で「Jeg elsker dig」、ドイツ語では「Ich liebe dich」、日本語では「君を愛す」。
E.グリーグが妻となったニーナと婚約した時に捧げた曲で、デンマーク語やドイツ語の歌詞もすぐに見つかった。テデスコはドイツ人だから、このドイツ語の歌詞を念頭に置いて弾いているのかな。どれどれ。
Du mein Gedanke, du mein Sein und Werden!
君は僕の心、僕の現在、僕の未来
Du meines Herzens erste Seligkeit!
僕の心のはじめての至福
Ich liebe dich wie nichts auf dieser Erden,
地上の何よりも君を愛す
Ich liebe dich in Zeit und Ewigkeit!
いま、そして永遠に君を愛す
Ich denke dein, kann stets nur deine denken,
君のことだけをひたすら想う
Nur deinem Glück ist dieses Herz geweiht,
君の幸福のみを祈り、心を捧げる
Wie Gott auch mag des Lebens Schicksal lenken,
どのように神が人生に試練を課そうとも
Ich liebe dich in Zeit und Ewigkeit!
いま、そして永遠に君を愛す
……ひえっ。なんだよ、このコテコテな歌詞は。これを知っていたら、そりゃあのトカゲ女も黙るはずだ。
稔は、普段はぶっきらぼうなヴィルもやはりガイジンで、ヤマト民族である自分とは違う表現方法を使うことを理解して茫然とディスプレイを眺めた。
(初出:2018年2月 書き下ろし)
註・引用した歌詞は下記のドイツ語版、意訳は八少女 夕
Ich liebe dich (Jeg elsker dig)
Music by Edvard Grieg
Original Lyrics by Hans Christian Andersen
German lyrics by F. von Holstein
この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。
read more
【小説】晩白柚のマーマレード
「scriviamo! 2018」の第十四弾です。かじぺたさんは、写真と文章を使った記事で参加してくださいました。ありがとうございます!
かじぺたさんの書いてくださった記事 『晩白柚のマーマレード!(scriviamo!2018参加作品)』
かじぺたさんは、旅のこと、日々のご飯のこと、ご家族のことなどを、楽しいエピソードを綴るブロガーさんで、その好奇心のおう盛な上、そして何事にも全力投球で望まれる方です。愛犬のエドくんが虹の橋を渡ってしまったばかりで、今年は「scriviamo!」どころじゃないだろうなあと思っていたのですが、その悲しみや、お孫さんやご主人のお誕生日などのたくさんの大事な行事の間にご参加くださいました。
さて、今年はグルメ系の記事でご参加くださいました。そうなんですよ、scriviamo!は創作でなくてもOKなんです。
晩白柚はザボンの仲間で大きな柑橘類です。九州の方はよくご存知ですが、東京などではご存知ない方もいらっしゃるかもしれませんね。子供の頃に祖父母が好きで食べさせてくれたので、私にとってはとても懐かしい果物です。ああ、もう何十年食べていないかなあ。皮の部分でマーマレードができることは知りませんでした。勉強になりますね。
お返しは、今年も記事に関連した掌編小説にしました。先にかじぺたさんの記事を読まれることを推奨いたします。
「scriviamo! 2018」について
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
晩白柚のマーマレード
——Special thanks to Kajipeta san
そうか。前にもらってから、もう一年経ったんだ。由夏はニコニコと笑う川元佐奈江の抱えている包みを見た。
佐奈江の故郷である熊本県に、由夏は中学卒業まで住んでいた。佐奈江は実家から送られてくる名産品を毎年おすそ分けしてくれるのだ。
「いつもありがとう。重かったでしょう?」
「大丈夫よ。かさばるだけ。楽しんでね」
紙包みの中には直径25センチもある黄色い果物が入っている。世界最大の柑橘類である晩白柚だ。東京では、探せば大きな果物店にはあるだろうが、全ての街角にあるほどありふれた存在ではない。
由夏は、包みを開けてそっと香りを吸い込んだ。ふんわりと漂う爽やかな甘さ。たぶん佐奈江にとってはひたすら懐かしくて嬉しい香りなんだろうなぁ。
由夏にとっても、それは懐かしく嬉しい香りだ。けれど、そこにはいつも苦さが伴う。まっすぐな瞳をしていたスポーツ刈りの少年の、困ったような表情。彼氏というにはあっさりしすぎていた関係だったけれど、少なくとも由夏は当時、西尾亮汰と付き合っていたつもりだった。
どうして、それを作ろうと思ったのか、由夏はもう憶えていない。彼の誕生日は三月の始めで、何かを普通に買って渡すほうが無難だったのに、彼女は晩白柚のマーマレードを手作りして彼に渡そうと思ったのだ。おそらくバレンタインのチョコレートを買ったばかりで、芸がないと考えたのだろう。
晩白柚はとても大きな果物だが、皮の部分もとても多い。果肉はグレープフルーツくらいの大きさに収まり、残りのほとんどは白いワタの部分だ。とてもいい香りがするし、捨てるのは勿体無い。皮をお風呂に浮かべたり、砂糖漬けにしたり、再利用する。おそらく中学生だった由夏は、この再利用を考えていて亮汰にマーマレードをプレゼントしようと思い立ったのだろう。
晩白柚のマーマレードは、普通に果肉も含めて作ることもできるが、由夏はネットで見つけた皮とオレンジジュースで作るレシピを選んだ。つまり、果肉は自分で美味しく食べて、残りで作ることにしたのだ。
「うーん。アク取りに二十四時間もかかるのか。そんなことしていたら誕生日に間に合わなくなっちゃうよ。ずっと台所を占領したらお母さんに怒られるし」
熱湯に晒して、絞ってを繰り返すことでアクが取れるのだが、要するに由夏はその作業が面倒臭かったのだ。一度だけ簡単に晒して絞って終わりにしてしまった。
オレンジジュースと皮を煮て、ペクチンとレモンジュースも加えて綺麗な黄色のマーマレードが出来上がった。消毒した瓶に詰めて急いで蓋をして、出来上がり。可愛いチェック柄の布で蓋を覆ったら、いい感じになった。寝不足で遅刻しそうになったけれど、忘れずに持って行ったし、部活に行く直前の亮汰に急いで渡すこともできた。
亮汰の誕生日は金曜日だったので、月曜日に学校で会った時に由夏は訊いた。
「美味しかった?」
亮汰は、頭を掻きながら「うん。まあ」と言った。由夏は少しムッとした。もっとちゃんと褒めてよ。あんなに時間をかけて、せっかく作ってあげたのに。
「どうやって食べたの?」
「え。普通にトーストにつけて」
「そう。ヨーグルトに入れるのも美味しいらしいわよ」
「君も、そうやって食べたの?」
そう訊かれて、由夏は首を振った。瓶に入る分は熱いうちに密封してしまった。残ったら、それだけ食べようと思っていたのに残らなかったのだ。だから、試しにも食べなかった。蓋を閉めるまではとても熱かったし。
彼の妙な表情の意味がわかったのは、由夏が東京に引っ越してきてからだった。
亮汰には中学卒業の時に「さようなら」と言った。その後のことを約束するようなことがなかった。その時には、二人の関係はかなり微妙になっていて、どちらも引越しという形でフェイドアウトに持ち込めるのをほっとしていたようなところがあった。
東京行きの荷物に、他の缶詰などと一緒に晩白柚のマーマレードの瓶も入れて封をした。引越しのコンテナはそれらすべてのダンボールを積み込んで、ガシャンと音を立てて閉まった。それはもう二度と戻れない世界との境界の扉に鍵をかけた音に聞こえた。
東京での生活が始まり、慌ただしく過ぎて行った。母親は「そろそろ自分の朝食ぐらい自分で用意しなさい」と宣言したので、由夏はトーストとコーヒーを自分で用意して食べるようになった。いくつかのジャムが空になってから、晩白柚のマーマレードもあったことを思い出した。
蓋を開けた時、晩白柚の爽やかな香りが漂った。「おお、おいしいそう!」
でも、一口食べてみて、ぎょっとした。に、苦い。なんだこれ。
ネットで再度調べてみたら、あく抜きを省略してはいけないと書いてあった。由夏が調べたレシピほどかからずにアク抜きする方法はあるらしい。でも、十分程度のアク抜きでなんとかなるようなものはなかった。できた時に食べてみなかったのが悔やまれた。一口でも舐めたならこの苦さがわかったのに。
まだ、同じ学校に通っているなら、謝まって挽回することもできたかもしれない。でも、亮汰とはとっくにそれっきりになってしまっていた。
十五年があっという間に過ぎ去った。
由夏は、佐奈江にもらった晩白柚を切った。中身を取り出すと皮を切って、湯を沸騰させて酢を入れアク抜きを始める。一年に一度しか作らないけれど、毎年作るので何も見ずに作ることができる。丁寧に揉んで絞って、さらに時間をかけてアクを抜く。一夜明けてから、ジュースやペクチンとともに煮込んでマーマレードを完成させる。
熱湯消毒した瓶に詰める。必ずひと匙食べて失敗していないかを確かめることも怠らない。今年も美味しくできた。固すぎるか、それともゆるすぎるかは、冷えないとわからないけれど、少なくとも食べられないということはない。
「あー、密かに期待していたのよ、由夏ちゃんのマーマレード! 今年ももらえて嬉しい。ありがとう」
翌日に会社で渡すと、佐奈江は嬉しそうに受け取った。
「どういたしまして。でも、お家からももらうんじゃない?」
「ううん。砂糖漬けはよく作ってくれるけれど、マーマレードは由夏ちゃんがくれたのを食べたのが初めてだったよ。これ、ヨーグルトによく合うのよね。大ファンになっちゃった」
喜んでもらえるのは嬉しい。あの時の失敗を、やり直したくて毎年作るけれど、それが亮汰の口に入ることはない。彼は、由夏があのマーマレードを悔やんで、毎年作り続けていることを知ることはないだろう。もう由夏からではなくて、きっと他の素敵な人に誕生日を祝ってもらっているに違いない。
彼をいまだに好きだというわけではない。彼にはもはや記憶の底に沈んでしまっているであろう存在であることを悲しく思うこともない。ただ、悔いだけが残っている。毎年作り、丁寧にラッピングする透明な瓶は、行き場がなくて半年もすると由夏自身が開封して食べることになる。
そのマーマレードは苦かった。まずいと言わなかった優しい彼の、微妙な表情とともに、その苦い思い出だけが、いつまでも残っている。
(初出:2018年3月 書き下ろし)
【小説】未来の弾き手のために
「scriviamo! 2018」の第十五弾、最後の作品です。大海彩洋さんは、『ピアニスト慎一』シリーズ作品で参加してくださいました。ありがとうございます!
彩洋さんの書いてくださった短編 『【ピアニスト・慎一シリーズ】 What a Wonderful World』
大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。とてもお忙しくて、特に今年は予期せぬ事態があったにもかかわらず、睡眠時間を削っても、妥協しないすばらしい作品を書いてくださいました。
ピアニスト相川慎一のでてくるお話は、彩洋さんの書いていらっしゃる壮大な大河ドラマの一つなのですけれど、ブログを通してのお付き合いで発表のきっかけというのか、そう言ったご縁が多いせいか、私が特に注目しているシリーズでもあるのです。クラッシック音楽の素人一ファンとして、このシリーズに書かれる音楽の話は本当に興味が尽きませんし、私にはこんなに書けないけれどその分音楽を読む楽しみをいつも与えてくれる物語です。
今回は、その慎一の人生のターニングポイントとも言える一シーンをバルセロナを舞台に書いてくださったのですが、その背景にうちのチャラチャラした面々がちゃっかりと注目を浴びていて、申し訳ないやら、何やってんだあんたたち、という状態でした。ま、みんな仕事しているからいいのか。
お返しは、舞台をウィーンに移して書いてみました。ほら、リアルの私が先週そこから帰って来たばかりだし、それにお借りするあるキャラクターの本拠地ですから。そして、ご指名なので、うちの六人全員を無理やり登場させました。今回は、仕事しているのは一人だけです。最もチャラい奴だけが働いているのって(笑)
今日どうしても発表したかったのは、本日が彩洋さんのお誕生日だから。Happy Birthday, 彩洋さん。創作にも、リアルライフにも実り多くて幸せな一年になりますように!
【参考】
![]() | 「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結) あらすじと登場人物 |
![]() | 「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部 あらすじと登場人物 |
「scriviamo! 2018」について
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
大道芸人たち・外伝
未来の弾き手のために
——Special thanks to Oomi Sayo san
あまり高い席は用意しないでくれと釘を刺されていたので、どんな服装でくるのかと思ったが、杞憂だったな。結城拓人はドイツ人のスーツ姿を見て思った。蝶ネクタイではないが、紺のスーツの生地は一目でわかる上質さで、仕立て具合を見れば明らかにオーダーメードだとわかる。
拓人が招聘されてウィーンのコンツェルトハウスで演奏することになったのは、ヨーゼフ・マルクスの『ロマンティックピアノ協奏曲』だった。ウィーンで何世紀にも渡り内外の名だたる大作曲家たちが活躍したためか、祖国ですら存在をあまり知られなくなったオーストリアの作曲家の作品だ。客を集めにくい作曲家の作品であるだけではなく、ピアニストに驚異的なテクニックを要求するために、この作品が演奏されることは滅多にない。拓人にとっても初めての挑戦だった。
かなり図太い神経を持つと自他共に認める彼ですら、この数カ月は胃が痛くなる様な思いをしたが、その甲斐あってまずまずと言っていい演奏をすることができた。普段、日本で当然のように受ける取り巻きたちからの熱烈な喝采と違い、下手な演奏には容赦ないウィーンっ子たちからアンコールを要求されたのだ。彼にとっては枕を高くして眠ることのできる成功だった。
彼の親しい友人であるドイツ人、エッシェンドルフ男爵が今日この場に来て聴いてくれたのは、彼の精神状態を心配して力付けようとしたわけではない。そうしようとしてくれたのは、彼の
真耶と共にカテゴリー2の席に座り、さらにわざわざ終演後に拓人とともにロビーで待ち合わせたのはヴィルだけだったが、それはどうしても紹介して欲しい人がいたからだ。
「すまないな、拓人。無理を言って」
「別に無理でもないさ。僕にできるのは引き合わせることだけ。引き受けてもらえるかどうかはわからないんだから。でも、噂で聞いたほど難しい男ではないと思うけれどな。まあ、氣軽に頼めるとはいえないけれど。今回の調律をしてくれたのは、僕の音楽をお氣に召したわけではないと思うから」
「というと?」
「忘れられたオーストリアの作曲家の名作に再びスポットを当てる手伝いをしたいという男氣がひとつだろうな。そして、もう一つの幸運は僕が日本人ピアニストだったってことかな。彼はある日本人ピアニストの才能に惚れ込んでいて、その縁でハードルを一つ低くしてもらえたってわけだ。おかげで、こちらは『あのシュナイダー氏に調律してもらえる幸運』をお守りに本番に臨めたってわけだ」
「なんの慰めにもならないな。俺はドイツ人だ。しかもまともなピアニストですらない」
そうヴィルが言うと、拓人は魅力的に笑いながら言った。
「だが、お前には父上の遺言という切り札があるじゃないか。ダメ元で頼んでみろよ」
そう話している間に、への字口をした老人が姿を見せた。かろうじて背広といってもいい上着を身に付けているが、シャンデリアの輝くホールでは多少場違いに見えた。だが、そんなことはおそらく誰も氣にしないだろう。その険しい顔を見ると、すれ違うものは自分が悪いことをしている心持ちになり、目をそらしてしまう。
拓人はヴィルの腕を取り、急いで彼の方に歩いて行った。
「シュナイダーさん! 今日の演奏を素晴らしいものにしてくださった喜びは、言いつくせません。なんとお礼を言っていいのか」
拓人の謝辞を遮るように老人は手を眼の前にあげた。「お世辞なぞたくさん、さっさと用を言え」とでもいいたげに。拓人は肩をすくめて、ヴィルを示した。
「ご紹介します。友人のアーデルベルト・フォン・エッシェンドルフ男爵です。先日亡くなったミュンヘンのエッシェンドルフ教授の子息です」
老人はじっとヴィルを眺めた。ドイツ人は、愛想のいい拓人と違いほとんど無表情だった。まっすぐに老人を見て、敬意のこもった声で「はじめまして」と言った。シュナイダー老人は十分に観察をすると口を開いた。
「父上の若い頃に似ているな。ピアノを弾く息子のことは聴いていたよ。だが、音楽はやめたんだろう。もう俺の調律は必要なくなったと父上は連絡してきたが」
それでは、父親があのベーゼンドルファーの調律をもうこの男には頼まなくなったのは、彼が音楽をやめてあの館に足を踏み入れなくなってからなのか。父親は、彼を抱きしめることもなく、共に夢を語ることもなかった。だが、彼のために可能な全ての手を尽くしてバックアップしようとしていたのだ。
急死した父親に代り、先祖代々の領地と館と爵位を引き継いだヴィルは、かつて彼が知っていた音とは違う音を出すベーゼンドルファーを元の状態にしたかった。父親が秘書であるマイヤーホフに残していた指示の一つが、長らく連絡の取れない状態になっている著名な調律師を探し出すことだった。
ウィーンのコンツェルトハウスで演奏することになった拓人と電話で話していた時に、無理だと諦めていた調律師が仕事を引き受けてくれたという話題になった。それが件のシュナイダー氏だと知ったヴィルはすぐにここにくることを決めていた。
「その通りです。私は父の元を離れて生きるつもりでした。そして実際に何年もあのピアノに触れませんでした。今、私が触れるあのピアノは、もはや私が何よりも愛したエッシェンドルフのピアノとは違う存在になってしまっている。亡くなる直前まで父もずっとあなたを探していた。あなたが今日の調律をすると聞き、飛んで来ました。もう一度あのピアノを蘇らせていただけないだろうか」
老人は首を振った。
「諦めてくれ。こっちはこの歳だ。残された時間はさほどない。その時間の全てを捧げたいと思う弾き手のためにしか調律はしない。ましてや弾かないピアノのためにミュンヘンまで行くような時間はない」
拓人は思わず口を挟んだ。
「シュナイダーさん、彼はピアノをやめてはいません。コンサートピアニストではありませんが……」
ヴィルは、その拓人を制した。
「いや、拓人。シュナイダーさんは正しい。あのベーゼンドルファーは、ふさわしい弾き手を持っていない。かつてこの方に調律してもらっていたこと自体がおこがましかったんだ」
老人は、拓人に訊いた。
「お前さんは、この男の腕をどう思う」
「彼は、僕の音楽の同志です。表現する世界と方法は違いますが、同じものを目指していると断言できる数少ない音楽家の一人だと思っています」
拓人は迷わずに答えた。ヴィルは少し驚いた。拓人がそこまで認めてくれているとは知らなかったから。
老人は「ふん」と言った。それからもう一つの問いを発した。
「この男の耳はどうだ」
拓人は怪訝な顔をした。
「耳ですか? 確かだと思っていますが、なぜですか」
老人は、ヴィルをじっと見つめて口を開いた。
「この世には、最高の腕を持つ弾き手がいる。そして、最高傑作である楽器がある。残念ながらその二つが同時に存在することは稀だ。あのベーゼンドルファーは、金持のサロンの飾りであるべきではない。あんたは父上の跡を継いで、あの楽器と有り余る金を手にした。もし、あんたの手に余っているのなら、俺はあんたに聞いて欲しいことがある」
拓人と真耶が滞在しているホテルから五十メートルほど先に、そのワインケラーはある。どっしりとした表構えの店は十七世紀の創業で、地下へ降りて行く階段の手すりなどにも時代を感じる。暖かい照明とガヤガヤとした混み方は、天井が高くて豪華絢爛なコンツェルトハウスの堅苦しい様式美とは打って変わり、落ち着き楽しい。
「ようやく来たのね。もう結構飲んじゃったわよ」
蝶子が、奥の席から手を振った。隣に座る真耶はあっさりとしたワンピースに着替えていた。そうすることでめずらしくブレザーと開襟のシャツを着ている稔やレネとほぼ同じレベルの服装になっていた。拓人はホテルで急いで着替えて来たので、やはり砕けている。ヴィルは上着を椅子にかけてネクタイを外した。
「まず乾杯しなくちゃ。大成功、おめでとう!」
拓人は、仲間と次々とグラスを重ね、ビールを一口飲むとようやく緊張が解けて笑顔になった。
「海外でのコンチェルト、初めてじゃないんだろう? いつもと違うのか?」
稔が不思議そうに訊いた。
「確かにすごい曲だけど、結城さんは普段リストもラフマニノフも楽々と弾いているから、そんなにピリピリすることがあるなんて意外よね。例の後援会のおばさま方が付いてくるのはいつものことだろうけれど、真耶まで応援に来るのって珍しくない?」
蝶子も続けた。
「だって、こんなに青くなって練習している拓人、もう何年も見たことなかったんだもの。マルクスのコンチェルトは日本ではまずやらないし、どうしても本番を聴きたくなって。どちらにしてもミュンヘンでの休暇は決まっていたし、ちょうどいいじゃない?」
真耶はニッコリと笑った。
「う。確かに余裕はなかったな。準備は十分にしてきたのに、先週の始めに通しで弾いた時に途中で真っ白になって、死ぬかと思った」
拓人は、ビールをぐいっと飲んだ。
「デートも全部断ったって、本当?」
蝶子が面白そうに訊いたので、拓人は真耶を睨んだ。
「本当のことでしょう」
「デートどころじゃなかったからね。あんなに大変な曲なのに、問題はそうは聴こえないってことなんだ」
レネは不思議そうに言った。
「どうしてですか。僕はピアノのことは素人ですけれど、見ているだけでわかりましたよ。ものすごくテクニックを必要とされるんだろうなって。そう思わない人がいるんでしょうか」
稔がハーブ塩のかかったフライドポテトをつつきながら言った。
「あの豪華絢爛なオーケストレーションがわかり易すぎるのかなあ」
「どういうこと?」
「ベートーヴェンやチャイコフスキーだといかにもクラッシックって感じがするけれど、今日のはなんだか映画音楽みたいに軽やかに思えるメロディでさ」
「ああ、そうか。たしかに聴いていて心地いいメロディが多かったですね」
「弾いている方は、難関の連続で、心地いいどころじゃないか」
ヴィルは二杯目のビールを飲んでいる。
拓人は大きく頷いた。
「しかも、作曲家が知られていないとなると、演奏会をしても客が入るか心配だろう。ますます誰も弾きたがらなくなって、ほとんど演奏されることがいない。いい曲なのに残念だよな」
「じゃあ、敢えてそのとんでもない挑戦をした拓人に、もう一度乾杯!」
六人はグラスを合わせて笑いながら立ち上がった。
「『ロマンティックピアノ協奏曲』を世に広める、拓人と未来の弾き手たちのために!」
座って飲みながら蝶子がヴィルに訊いた。
「そういえば、もう一つのトライはどうなったの?」
「断られたよ」
ヴィルは肩をすくめた。
「ダメだったんですか?」
レネが驚きの声を出した。
「完全に断られたわけじゃないだろう」
拓人が言った。
「どういうこと?」
四人は拓人とヴィルを代わる代わる見た。
「一度エッシェンドルフに来てくれるそうだ」
「じゃあ、断られていないんじゃない」
真耶は首をかしげる。
「彼の下で学んだことのある若い調律師を連れてくるそうだ。そして、俺が納得したら、今後彼に頼んで欲しいと言われた」
「本人じゃなくて?」
「一度だけの調律ではなくて、しょっちゅうすることになるだろうから。その調律師はバーゼルに住んでいるので、ウィーンよりは近い。シュナイダー氏のように有名ではないから定期的に来てもらうことができる」
「シュナイダーさんと正反対で、若くてチャラチャラした性格らしいけれど、腕は彼が保証するというくらいだから確かなんだろうと思うよ」
「でも、どうして定期的に調律が必要だなんていうの? そりゃ、一度っきりというわけにはいかないけれど……」
蝶子は首を傾げた。
ヴィルと拓人は顔を見合わせて頷いた。それからヴィルが口を開いた。
「あのサロンとベーゼンドルファーを、才能があるけれど機会の少ない音楽家たちに解放していこうと思うんだ」
「へえ……」
四人は、グラスを置いて二人の顔を見た。拓人が肩をすくめた。
「シュナイダーさんは、ヴィルに弾き手としてだけでなく、後援者としての役割を期待していると言っていた。今は、以前ほどクラッシック音楽に理解のある後援者がたくさんいるわけではないし、各種奨学金制度もサロン的な役割まではしてくれないからな」
拓人の言葉にヴィルは頷いた。
「俺が、エッシェンドルフを継ごうと思った理由の一つが、あんたたちの音楽を道端の小遣い稼ぎだけで終わらせたくないことだと言っただろう。あの館を中心にこれまでとは違う活動をするなら、少し範囲を広げていろいろな音楽家たちをバックアップすることも悪くないんじゃないかと思ったんだ。あんたたちはどう思う?」
「賛成よ。あのサロンなら、室内楽の演奏会も問題なくできるわ」
蝶子が言った。
「そういうのの手伝いをするっていうことなら、穀潰しの俺らも、あそこにいる間になんかの役に立つかもしれないよな」
稔の言葉にレネも大きく頷いた。
真耶がすかさず続けた。
「機会があったら、私たちも混ぜてもらいましょうよ、拓人」
「そうだな。悪くない。休暇がてらに滞在して、何か一緒に弾いたりしてさ」
「休暇といえば、今回、結城さんもエッシェンドルフに来ればいいのに」
蝶子が言うと、拓人は残念そうに答えた。
「そうしたいのは山々だけれど、来週の頭から大阪公演なんだ。ちくしょう、いいなあ、真耶。マネージメントに文句いってやる。なんで僕だけこんなに働かされるんだ」
一同は楽しく笑った。ウィーンの古いワインケラーで旧交を温める若い仲間たちは、自らとまだ見ぬ未来の若い音楽家のために、熱い夢を語りつつ何度もグラスを重ねた。
(初出:2018年3月 書き下ろし)
この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。
read more