【小説】好きなだけ泣くといいわ
かなり有名な曲ですし、著作権的にわからないので訳は書きません。検索するといっぱいでてきますし。歌詞は、不実だった元恋人がやってきて泣いていると言うのに対して「私だって散々泣いたんだから、川のように泣くといいわ」と返すものです。
出てくる登場人物は、「ニューヨークの異邦人たち」シリーズのサブキャラたちです。今回登場しているのは、「ファインダーの向こうに」と「郷愁の丘」のヒロイン・ジョルジアの妹であるアレッサンドラと、その周辺の人物。元夫のレアンドロも別の外伝で既に登場済みですね。

【参考】
![]() | 「ニューヨークの異邦人たち」 |
好きなだけ泣くといいわ
Inspired from “Cry Me A River” by Julie London
丁寧に雪かきをしてあっても、石畳の間に残った雪が凍り付いていた。安全にドタドタと歩ける無粋なブーツを履いていなかったので、いつもよりもスピードを落として慎重に歩いた。アレッサンドラ・ダンジェロが、雪道で滑って転ぶなどという無様な姿を晒すことは、何があっても避けなくてはならない。
スーパーモデルとしてだけではない。
娘のアンジェリカは、暖かい部屋でもうぐっすりと眠っているはずだ。父親のもとでの二週間の滞在を終えて、明後日またアレッサンドラと共にアメリカに帰るのだ。
九歳になるアンジェリカは、アレッサンドラの最初の結婚で生まれた娘だ。その父親であるレアンドロ・ダ・シウバは、ブラジル出身のサッカー選手で、現在はイギリスのプレミアムリーグに属するチームで活躍している。娘を溺愛しているにもかかわらず、毎週のように会いに来ることが出来ないのは、そうした事情があるからだ。
だから、学校の長期休暇には、アンジェリカが長い時間を父親と過ごすことに反対したりはしなかった。時おりイギリスまで娘を送り迎えする必要があってもだ。
今回はレアンドロが、アレッサンドラと今の夫がヨーロッパでの多くの時間を過ごすスイス、サン・モリッツへと足を運んだ。そして、愛する娘との長く大げさな別れの儀式を繰り返した後に、滞在しているクルムホテルに戻った。
そのまま、彼の鼻先でドアを閉めて、暖かい室内に戻ってもよかったのだ。なのに、どうした氣まぐれをおこしたのだろう。彼女は、前夫に誘われてクルムホテルへと行ったのだ。重厚なインテリアのエントランスの奥に、目立たないバーがある。別れてから五年経っている。アンジェリカの受け渡し以外の会話をしたのは本当に久しぶりだった。
スイスという国に、有名人の多くが居を構える理由の一つに、この国の住民の有名人に対する態度がある。たとえ、いくら山の中とはいえ少し大きな街に出れば化粧品や香水の巨大な広告は目に入る。金色の絹のドレスを纏い挑戦的に微笑むアレッサンドラの顔はすぐに憶えるだろう。街を歩いていて「あ」という反応を見せる人はいくらでもいる。けれど、彼らはそのまま視線をそらし、何事もなかったかのように歩いて行く。カメラを取り出したり、通り過ぎてから戻ってきてサインをねだったりしない。
ホテルの従業員たちも、バーにやってきたのがプレミアム・リーグで活躍する超有名選手と、離婚した超有名スーパーモデルだということを即座に見て取っただろうが、それとわかるような素振りは全く見せなかった。
クルムホテルのバーで、たった一杯カクテルを飲み、一時間後に颯爽と立ち去った。タクシーを呼んでもらうこともなく、迎えをよこすように連絡することもせずに、彼女は一人歩いた。頭を冷やすために。
別れた夫との会話が、彼女の頭に渦巻き、彼女を戸惑わせている。
彼は、二人の共通の興味対象について話しだした。
「それで、お前がこちらで過ごす時間が増えているなら、いっそのことアンジェリカの学校もロサンジェルスにこだわる必要はないんじゃないか」
「そうね。でも、この辺りには英語で通える学校はないのよ。ルイス=ヴィルヘルムはフランス語圏には、今のところ行きたくないみたいだし。もう少し大きくなったら寄宿学校という案も考えないでもないけれど」
「そうか。マンチェスターの学校ってわけには……」
「いきません」
ぴしゃりと言われて、レアンドロは仕方ないなという顔をした。
「あなたは父親だし、意地悪で会わせないっていっているんじゃないわ。でも、離婚原因を作ったのも、毎週会えないほど遠くに行ったのも、あなたの選択でしょう。私を困らせないで」
「それは、わかっているさ。だから、あの子にもっと会いたくても我慢しているんだ。それに、その、俺の方もずっとイギリスに居続けるって決めたわけじゃないし。でも、アンジェリカとの時間はとても貴重だし、あの子に家庭のことで悲しい思いはさせたくないんだ」
それを聞くと、アレッサンドラは片眉を上げた。キールの入ったグラスに光が反射している。その姿勢はお酒の宣伝の写真のように完璧で、レアンドロは改めて元妻がスーパーモデルであることを認識した。だが、彼女の口からは、コマーシャルのような心地よい台詞は出てこなかった。
「よくもそんなことを言うわね。で? ベビーシッターと結婚すれば、家でじっとあなたを待っていてくれる人と、アンジェリカと三人で幸せな家庭になるとでも思ったってわけ?」
「……それとこれとは……」
レアンドロは三本目のブラーマ・ビールを頼んだ。よく冷えたグラスが置かれ、バーテンダーが注ごうとするのを手で制し、瓶を受け取るとそのままラッパ飲みをした。
「始めから結婚するつもりでソニアに手を出したわけじゃないさ」
「手を出してから、乗り換えようと決心したってわけね」
「そう具体的に思ったわけじゃない」
「でも、そうなのよね。私が、一日中テレビ・ショッピングでも見ながら、家の中であなたを待っていなかったから」
「つっかかんなよ。そりゃ、あの頃は確かにお前に腹を立てていたけど」
「けど、何よ。お望み通り、若くて家庭を守る妻を持ったんだから、私に因縁をつけるのはやめてよ。言っておくけれど、アンジェリカの親権は絶対に渡しませんから。あの女の元になんてぞっとするわ」
「わかっているよ。それにソニアは、その、口には出さないけれど、さほどアンジェリカを歓迎していないし……でも、お前だって、再婚したんだし、おあいこだろう」
「ふふん。あいにくだけど、ルイス=ヴィルヘルムは、アンジェリカを大切にしてくれているわよ」
「その前のヤツは」
「あの男のことを思い出させないで。あの結婚はそれこそ完全な間違いだったわ」
アレッサンドラは、眉をしかめた。彼女の二度目の夫は、テレビなどで活躍するモデレーターだったが、表向きの人当たりの良さに反して、家庭では支配的で嫉妬深かった。また子供が嫌いで、アレッサンドラがいない時にアンジェリカに対して意地の悪い言動を繰り返していた。
アンジェリカの様子がおかしいのに氣がついたアレッサンドラが、使用人の協力を得て現場を押さえた。結婚してから半年経っていなかった。一刻も早く離婚したかったため、離婚原因については他言しないという申し合わせをすることになっていた。いずれにしてもレアンドロにその件を詳しく話すわけにはいかない。あの男の愛娘への仕打ちを知ったら、後先を全く考えずに暴力を振るいに行きかねないからだ。
「そうか。二人目と簡単に別れたから、三人目ともすぐかもしれないと思ったけれどな」
「あなたには関係ないでしょう」
「別れるのか?」
「そんなこと言っていないわ。あなたには関係ないって言っているのよ。こぼれたミルクは元に戻らないって、ことわざ、知らないの?」
「お前は、いつもそうだよな。前を見て、闊歩していく。振り返って後悔したりなんかしない。それがお前らしさなんだけれどな」
苛ついた様子を見せて、アレッサンドラは向き直った。
「ねえ、あなたは確かに私の娘の父親だけれど、私の再婚にあなたが口を出す権利があると思っているの? あの女と再婚したのはそっちが先でしょう?」
「わかっている。だけど、俺はお前と結婚した時ほど、ソニアと結婚する時に舞い上がっていたわけじゃない」
「なんですって?」
「その、半分は離婚したやけっぱちで、それに半分はソニアがかわいそうで……」
「かわいそう?」
「だって、そうだろう。お前は、離婚しようとしまいと、アレッサンドラ・ダンジェロだ。だが、ソニアは、俺に捨てられたらそのまま人生の敗者になってしまう。家庭を壊した性悪のベビーシッターってことでな。だから、俺は……」
「どうかしら」
アレッサンドラは、多くは語らなかったが、元ベビーシッターが世間の評判を氣に病むような弱いタイプだと思っていないことは明白だった。レアンドロも、今は自分でも元妻と似たり寄ったりの意見を持っていた。
「でも、俺は今でも時々思うんだ。なぜあの時、あんな簡単にお前と離婚してしまったんだろうって」
「あなたは、自分が言ったことも憶えられないの? 私とは完全に終わりで、仕事を持つ女となんか二度と関係を持ちたくないとまで言ったのよ。不貞を働いたのは自分のくせに」
レアンドロは、じっとアレッサンドラを見つめて、泣きそうな顔をした。
「俺は、拗ねていたんだ。子供みたいに。お前も歩み寄ってくれて、やり直せるんだって、心のどこかで期待していたんだ。アンジェリカのためだけに俺といるんじゃない、俺とずっと一緒にいたいと思ってくれているってね。その甘さのツケを今払っているんだ。申し訳なかったと思っているんだぜ。時折、俺たちの新婚時代を思い出して、こうなった情けなさに泣いたりしてさ」
「そんなあざとい口説きは、他の女にするのね。ごちそうさま、私帰るわ」
アレッサンドラは、石畳を踏みしめながら、わめき散らしたい思いを必死で堪えた。泣きたいなら好きなだけ泣くといいわ。何よ、今さら。
私がどれほど傷ついて苦しんで、泣いたと思うのよ。私は強くて振り返りもせずに前へと歩いていくですって。そうじゃない姿を世間には見せないだけよ。
彼女は駅の近くまで降りてきた。タクシーに乗り込むと、今の家族の待つ家へと戻った。静かな一角にあるその邸宅からは、サン・モリッツの街明かりが星のようにきらめいて見える。外側はコンクリートの直線的な佇まいだが、中に入ると古い木材を多用した柔らかいインテリアがスイスらしい住まいだ。
暖炉には暖かい火が燃えていて、ソファに座っていたルイス=ヴィルヘルムは、さっと立ち上がってアレッサンドラを迎えた。
「お帰り、寒くなかったかい。言ってくれれば迎えに行ったのに」
1918年に多くの貴族が王位、大公位、侯爵位などを失った、その一人の末裔として、先祖伝来の宝石や城などと一緒にプライドも受け継いだはずなのに、ルイス=ヴィルヘルムにはどこか山間に走る子鹿のような臆病さがあった。優しく礼儀正しい彼は、アレッサンドラを熱烈に崇拝し、大切に扱う。彼女の仕事も、愛する娘もすべて受け入れ、尊重した。だから、アレッサンドラも、新しい夫を困らせないように、彼の家名に傷のつくような仕事は一切断り、品位を保ち、彼の信頼に応える妻であるように、新しい努力を重ねている。
まだ二十一歳だったアレッサンドラが、若きレアンドロと出会い恋に落ちた時、品位などということは考えなかったし、努力もしなかった。そこにあったのは、火花のように燃え上がる熱い想いだけだった。世界が二人を祝福していると信じていたあの頃、豪華でクレイジーな結婚披露宴に酔いしれたこと、全てが単純で素晴らしかった。
あれから十年以上の時が流れ、事情はずっと複雑になり、今夜の二人は同じ場所にいても、もう元の恋人同士には戻れない。アレッサンドラは、優しく抱きしめる夫をやはり優しく抱きしめ返しながら、窓の外を見た。レアンドロの滞在するホテルの辺り、サン・モリッツの街明かりが、泣いているように煌めくのを見て、そっと瞳を閉じた。
(初出:2019年1月 書き下ろし)
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【小説】鈴に導かれて
「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。二月はユーミンの“ BLIZZARD”にインスパイアされて書いた作品です。これは歌詞も動画も省略しました。ご存じない方は、検索すればいくらでも出てきますので……。
原曲はみなさんご存じのように、冬の定番ラブソングで、かなり胸キュンなユーミンワールドです。この曲が効果的に使われた映画もありましたし。なのですが、私の作品では全く別の使い方をしてあります。昔からちょっと思っていたんですよね。「これって、胸キュンっていうか、かなり怖い状況じゃないかな」って。一つ間違えば遭難じゃないですか。

鈴に導かれて
Inspired from “BLIZZARD” by 松任谷由実
思った通り、天候は変わってくれた。朝は晴れていたから、彼女は疑いもしなかっただろう。全て計算通りだとは。
和馬はストックにつけた鈴を響くように鳴らした。かなり遠くから、答えるように鈴の音が聞こえてきた。辺りは、もうほとんど視界が消え去っている。横殴りの吹雪、もちろん誰もいない。あの時とそっくり同じだ。だが、恐怖と不安に震えていた、あの時の俺とは違う。さあ、来い、恭子。お前の人生の終着点へ。
間もなく起こる妻の事故死が、彼に多額の生命保険金を約束してくれるはずだった。彼は、泣きながら説明するだろう。「天候が変わったので急いで下山しようとしたのですが、吹雪いていてコースを外れたことに氣がつきませんでした。視界がほとんどなかったので、彼女はあの岩が見えなかったのだと思います」
その岩には、いま彼がもたれかかっている。千恵子が命を落としたのも、この岩に激突したからだった。もちろん、あの時は俺は何もしていない。吹雪になったのも偶然だった。
あの事故があったのは、十年以上前だ。千恵子は、和馬の同窓生だった。二人が付き合っていることは、ほとんど誰も知らなかった。卒業後は東京で暮らすつもりだったし、田舎娘と小さくまとまるつもりは全くなかった。妊娠しているかもしれないと言われた時にはぞっとしたが、今は刺激をせずにまだ早すぎるからなどと言いくるめて中絶させようと思っていた。
山は寒いし、スポーツをすることで、もしかしたら流産するかもしれないと考えたのは事実だ。だが、彼女をスキーに誘ったことにそれ以上の意図はなかった。今日とは全く違う。
コースを外れたのもいつものことだった。和馬と千恵子は、子供の頃からこの山に通い詰めていたので、スキー客の来ない急斜面をいくつも知っていた。天候が変わりそうだったので、早く降りた方がいいからと、近道をしようといいだしたのは千恵子の方だった。
「降ってきちゃったね。やばいかな」
「急いだ方がいいよな」
「そうだよね。ねえ、ユーミンの歌みたいに鈴つけてよ。せっかくだもん。ほら、上の売店で買ったお守りの鈴」
姿は見えなくても、ストックにつけた鈴の音を頼りに後を追う、そんな歌詞だったように思う。和馬は「追いかけられる」ことにうんざりしたが、そんな様子は見せずに鈴をストックにつけて滑り出した。
彼女を、待つつもりはなかった。とにかく早く麓へ着きたかった。後ろから響く鈴の音がだんだんと小さくなり、彼は少しほっとした。何があろうとも、あいつから逃れなくては。結婚なんてことになるのは死んでもごめんだからな。俺の輝かしい人生は始まったばかりだというのに。
自分のつけている鈴の音が、うるさかった。千恵子につけられたことも腹立たしかった。それをつけている限り、彼女から逃れられないとすら感じられたので、投げ捨てようと思い立ち止まった。
そして、ぎょっとした。白い吹雪の煙幕に隠されてほとんど見えていなかったが、すぐ近くに大きな岩があった。こんなのにうっかり激突していたら死んでいたな。
そう思いながらグローブを外して鈴を取り除こうとした。手がかじかんで、うまく外せない。鈴は大きく鳴った。呼応するように、鈴の音が近づいてきた。
「えっ?」
突然、視界に現れた千恵子が、そのまま岩に激突した。
動かなくなった千恵子をそのままにして、和馬はその場を後にした。その時は逃げることしか考えていなかった。いろいろな責任から、失うものから、恐怖から。吹雪は、和馬がその場にいた痕跡を全て消してくれた。
千恵子の遺体が見つかり、彼は同窓生として何食わぬ顔で葬儀に出かけた。彼女がなぜ一人であの雪山にいたのか、誰もしらなかったこと、妊娠もしていなければ、事件性も疑われていなかったことに安堵した。そして、あの日のことは、ずっと胸の内に秘めたまま、故郷を離れ東京で生きてきた。
それが、この岩だ。
和馬は、ことさら手を振り鈴を鳴らした。恭子、お前には悪いが、あの保険金がないと俺はもうにっちもさっちも行かないんだよ。そのために、大人しくて頭の回らない、お前みたいな退屈な女と結婚したんだからな。千恵子の事故は忘れたことがない。あれに俺が関係していたことは誰も知らない。だから、あれにヒントをもらったなんて誰にも証明できないだろう。完全犯罪。させてもらうぜ。
彼は、結婚したばかりの妻を言いくるめ、保険をかけた。初めての年末年始を夫の生家で過ごすのもごく自然だ。そして、子供の頃から行き慣れたスキー場へ案内する。
呼応する鈴の音が大きくなった。こだまして、二つも三つもあるように聞こえる。おかしいな。あの時は聞こえてすぐに千恵子がぶつかったのに。
鈴の音だけが響いていたかと思うと、不意にあの時の千恵子の来ていたのと同じ黄色いスキーウェアが見えた。まさか! 恭子はピンクのスキーウェアなのに。
「いったでしょう? ユーミンの歌みたいにしようって。ブリザードは世界を包み、時間と距離も消してくれるのよ。二人を閉ざしてくれるの……」
千恵子! まさか、幽霊が? 俺は、お前を殺そうとしたわけじゃないんだ。お前が勝手に死んだんだろう。やめろ、俺にとり憑くのはお門違いだ。
和馬は、慌てて立ち上がり必死に逃げた。滅茶苦茶にストックを動かしとにかく麓へ急いだ。手元のストックについた鈴が大きく鳴る。焦りながら、そちらを見た一瞬、前方から注意がそれた。前をもう一度見た時には、迫り来る大きな岩は、もう目と鼻の先だった。
夫の事故死から半年が経ち、恭子は久しぶりに友人との食事に出かけた。若くして未亡人になってしまった彼女の肩を抱いて、力づけようとした。
「スキー場で吹雪に遭うなんて本当に大変だったよね。でも、恭子が無事に下山できて本当によかったよ」
「前方は、ぜんぜん見えなかったんだけれどね。でも、ずっと彼のストックにつけていた鈴の音を頼りに進んでいたの。氣が付いたら麓のリフト乗り場にいたのよ」
「え。でも、ご主人が亡くなったところって……」
「そうなの。麓じゃなかったし、コースも外れたところだったの。でも、私はずっと鈴の音を頼りに下山したのよ。きっと私のために、亡くなった後も案内をしてくれたんじゃないかって、今でも思っているの」
彼女は、そっと白いハンカチで目頭を押さえた。
「彼が、こんな風に亡くなるなんて、想像もしていなかったけれど、でも、まるでわかっていたみたいに、彼は私のためにいろいろしてくれていたの」
「たとえば?」
「例えば、生命保険。結婚したばかりだし、まだ若いからいらないんじゃないのって私は言ったんだけれど、彼がどうしてもって言って、お互いを受取人にした保険金に加入したの。おかげで、私は路頭に迷わずにすんだのよね」
「そうか。そのご主人を悲しませないためにも、恭子、早く立ち直ってね。あなたは若いんだし、人生はまだまだ続いていくんだから」
「うん。ありがとう、力づけてくれて。いつまでもメソメソはしていたら、彼も成仏できないものね。私、頑張るね」
恭子は、あれからお守り代わりに常に身につけているキーホルダーの鈴を振って微笑んだ。
(初出:2019年2月 書き下ろし)
【小説】郵便配達花嫁の子守歌
「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。三月はロシア歌手ポリーナ・ガガリーナの“Колыбельная (Lullaby)”にインスパイアされて書いた作品です。
実は、この作品の元になるアイデアは、かなり前「マンハッタンの日本人」シリーズを書いていた頃に浮かんだのです。当時は、ブログのお友だちTOM−Fさんから、某ジャーナリスト様をお借りして好き勝手書いていたのですけれど、その延長で小説には関係ないけれどそのお方がどんな風にアメリカに来たのかなあなんて妄想もしていました。で、イメージは彼なのですけれど、さすがにTOM−Fさんも大困惑でしょうから、この作品では誰とは言わずに、似たような境遇の誰かとだけで書いてみました。

郵便配達花嫁の子守歌
Inspired from “Lullaby” by Polina Gagarina
舳先に行くには、少しだけ勇氣が要った。重く垂れ込めた雲を抉るように、荒い波が執拗にその剣先で襲いかかっている。雨が降りそうで、いつまでも降らない午後。ヴェラはストールが風に飛ばされないように、ぎゅっと掴まねばならなかった。
こんな悪天候に船外に出ようとする物好きはほとんどいなくて、たった一人、まだ少年と言ってもいいような若い男だけがカーキ色のコートの襟に首を埋め、ドアの側の壁にもたれかかっているだけだった。
波の飛沫が、彼のしている安っぽい眼鏡にかかっていた。海の彼方を睨むように見つめている姿は、希望に満ちているとは言いがたい。でも、それは、自分が感じていることの投影でしかないのかもしれない。ヴェラはこの船に乗ったことが賢い判断だったのか、確信が持てなかった。この暗く荒れた海が、彼女の未来を予言していなければいい、そんな風に思っていた。
「あまり先には行かない方がいい。波にさらわれて落ちた人もいるそうだ」
その男はヴェラを見て英語で言った。
「この船で?」
「いや、この航海の話ではないよ。乗る前に聞いた」
「そう」
この人は、どこの国から来たのだろう。少なくともヴェラと同じウクライナの出身ではなさそうだ。顔から判断すると、どこかバルカン半島の出身かもしれない。
誰もがこの船に乗って、ここではない所へ向かおうとしているように感じてしまう。ある者は戦火から、ある者は貧困から、そしてある者は閉塞した社会やイデオロギーから、どこかにある光に満ちた国へと向かおうとしているのだ。
「あなたも、トリエステまでよね。イタリア旅行?」
ヴェラが訊くと、彼は「まさか」という顔をした。ヴェラも自身も、そう思っていたわけではない。彼は「服装なんかに構っている余裕はない」と誰でもわかる出で立ちだった。すり切れ色のあせたシャツ、くたびれたカーキ色のパンツ、底が抜けていないだけでもありがたいとでも言いたげな靴。
「
ということはやはり……。
「あの紛争の? 逃げてきたの?」
「ああ」
「じゃあ、ご家族も、この船に?」
彼は、首を振った。
「国境まで生きていられたのは、僕だけだった」
ヴェラは、お悔やみの言葉を述べたが、彼は「いいよ」というように手を振った。
「これからは、イタリアに住むの?」
ヴェラが訊くと、彼は微かに笑った。
「いや、ローマから飛行機でUSへ行くよ。難民として受け入れてもらったんだ。君は?」
「偶然ね。私もアメリカへ行くの。もしかしたら、飛行機まで一緒かもしれないわね」
「君も難民?」
「違うわ。私『郵便配達の花嫁』なの」
彼は首を傾げた。
「それは何?」
「国際結婚専用のお見合いシステムがあってね。テキサスの人と知り合ったの。それで、彼と結婚することを決めたの」
ヴェラは、今日五本目の煙草に火をつけた。
目の前のラム酒の空き瓶をうつろに眺める。新しい瓶を買いに行くと、月末まで食べるのに困る事実を思い出し顔をゆがめた。飲むことか、煙草か、もしくはその両方をやめれば、新しい靴下を買えるのにと、ぼんやりと考えた。
そろそろ出かけなければ。教会の炊き出しに並べば、三日ぶりに温かい食事にありつける。彼女は、すり切れたコートを引っかけると、アパートメントから出た。
隣の部屋からは、テレビの音が漏れている。ニュースを読む男のよく通る声が、地球温暖化の脅威について訴えかけている。正義と自信に満ちた温かい声。ヴェラは、煙草の火や煙も地球を蝕む害悪なのだろうかとぼんやりと考える。それとも、車も持たず、電氣も止められている貧しい暮らしは、表彰されるべき善行なのだろうか。どちらでもいい、こちらには世界の心配をする余裕などないのだ。
空は暗く、今にも雨が降りそうなのに、いつまでも降らない。こんな天候の日はあの船旅のことを思い出してしまう。
船の上で、下手な英語でお互いのことを話した。ヴェラは幸せな花嫁になることを、彼は自由で幸せな前途が待っていると願いながら、それまでのつらかった人生と、それでもあった、幸せな思い出を語り合った。ヴェラが民謡を歌うと、彼は今はなくなってしまった国に伝わるお伽噺を語ってくれた。
船旅と、ローマまでの二等車での旅の間に、ヴェラにとってその若い男は、全く別の存在になっていた。はじめの安っぽい服装の何でもない男という印象から、優秀な頭脳と温かい心、それに悲劇や苦境に負けないユーモアすら失わずにいる、理想的な青年に代わっていた。
しかし、彼とはローマで別れて以来、どこにいるかも知らない。同じ飛行機ではなかったし、こんなに何年も経ってから「今ごろどうしているだろうか」と考えるような相手になるとは、夢にも思っていなかった。
テキサスに着いて、迎えに来た未来の夫には二十分で失望した。彼は、ヴェラを妻ではなく奴隷のように扱った。「高い費用がかかったんだから」それが夫の口癖で、昼は農場の仕事に追い立て、夜も疲れていようが意に介せず奉仕を要求した。
ヴェラが自由になるまでには、八年もの間、夫の暴力と支配に耐えなくてはならなかった。隣人たちは、みな夫の味方だったし、一人での外出を許されなかったヴェラは、助けを求めることも出来なかったのだ。たまたま、夫がバーボンの飲み過ぎで前後不覚になった時に、彼女は家を逃げ出した。二百キロメートル離れた街で無銭飲食をして捕まり、ソーシャルワーカーの助けで保護されて離婚することが出来た。
けれど、その後に幸せな人生が待っているわけではなかった。ずっと夫に閉じ込められたままだったので、英語も下手なままだったし、自立して生きるための手に職を身につけているわけでもなかった。彼女は、そのままどこにでもいる貧民の一人として、祖国にいた時と同じか、それ以下の立場に甘んじることになった。
あの船に乗り、国を出た時に持っていたものの多くを彼女は失ってしまった。若さと、美貌と、祖国の家族や友人たち。戻る氣力も経済力もない。希望と、笑いもあの海に置いてきてしまったのだろうか。静かに、ゆっくりと無慈悲に諦めと老いに蝕まれていく彼女は、襤褸布のようなコートを纏い、地を這いながら生き続ける。
船で出会った青年と、いつかどこかで再会できることを、どこかで願い続けている。彼が成功していて、自分をすくい上げてくれることを夢見ることもあれば、同じように地を這っている彼と再会し、傷をなめ合うことを期待することもある。
それは、暗い情熱、生涯に一度もしたことのない恋に似た感情だった。重く垂れ込めた雲間から注がれた天使の梯子のわずかな光。荒い波のように繰り返す不運に高ぶる神経を尖らせたヴェラを、落ち着かせ優しく眠らせてくれる、たった一つの
(初出:2019年3月 書き下ろし)
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【小説】今日は最高
「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。四月はQueen の”It’s A Beautiful Day”にインスパイアされて書いた作品です。
歌詞は特に書きませんが、下に公式の動画を貼り付けてみました。この曲の詳しい成り立ちは知りませんが、どこか「ボヘミアン・ラプソディ」を彷彿とさせる歌詞だなと思いました。「ボヘミアン・ラプソディ」」では誰かを殺してしまって、逃げていくストーリーのようですけれど、この曲ではそういった具体的な物語は語られていません。でも、「もう誰も僕を止められない」と繰り返し言っているところに、何か自由になりたい強い要望があるのかなと想像しながら書いていました。
私が書いたのは、皮肉を少し混ぜた作品です。

今日は最高
Inspired from “It’s A Beautiful Day” by Queen
茂みをかき分けて、ずんぐりとした緑の生き物が進んでいた。半時ほど前に、彼が常にぐるぐると回っていた場所のはずれ、垣根にわずかな隙間が空いているのを見つけたのだ。彼は頭をぐいぐいと押し込み、二十分ほどかけてようやく外に出ることに成功した。
島の地形に詳しいわけではない。どこに行くべきなのかを理解しているわけでもない。両翼を羽ばたかせるが、他の鳥たちのように空を飛び島を俯瞰することは出来ない。長い進化の過程で、空の飛び方を忘れてしまった鳥類はいくつかあるが、彼とこの囲いに同居している仲間はその一つに属する。その代わり足が長くなったわけでもなく、泳ぎが上手になったわけでもない。彼は短い足を交互に動かし、とにかく出てきた穴から遠く離れる方へと向かった。
その鳥が、鬱蒼と茂った森へ溶け込むように姿を消した頃、やはり同じ家から逃げ出した少年が、小さな足漕ぎボートに乗って、島から遠ざかっていた。
鳥と違って、少年の脱走は計画的だった。大陸に渡って街に行くのだ。街には美味しいものがたくさんあって、綺麗な女の子がそこら辺にたむろしているのだそうだ。この島に居続ける理由は全くない。彼の母親は「ここにいれば安全だから」と口癖のようにいっていたが、その根拠は訊きそびれた。そもそも、彼にとって安全かどうかはさほど重要ではなかった。クレイヴン博士のことを母親はどういうわけか信頼していたようだが、彼はあれは胡散臭い女だと思っていた。
彼の母親がいなくなったのは二ヶ月前だ。病を治すために大陸へ行った、元氣になるまで我慢しろと言われた。寂しさに折り合いをつけることは出来た。いつまでかはわからないけれど、また帰ってくるのだとぼんやりと思っていたから。それを突然亡くなった、もう二度と会えないのだと言われても、実感がない。また会えるはずだと、心が感じて納得しないのだ。単に、母親はここに帰ってこないだけだ、置いて行かれたのだと感じるだけだ。
母親がいなければクレイヴン博士しかここにはいない。つまり、これからはあの女のヒステリーにうんざりしながら、愚鈍な緑色の鳥を監視して暮らせって言うのか。まっぴらだ。
見ていなくても、あの鳥はどうせ飛べないんだから、放っておけばいいんだ。餌は数日分山盛りにしておいた。それにそんなに大事なら、俺に任せっきりにしてどっかに行ったりしなきゃいいんだ。自分の宝物は、自分で面倒を見ろ。
彼は、囲いの中をぐるぐると回る鳥を思い出した。ずんぐりとして頭が悪そうだ。「落ち着けよ」と話しかけてもまったく意に介することがなかった。同じように自由になりたいのなら、連れて行ってやってもいいかなと思ったけれど、あの女が追ってくるかもしれないのでやめた。俺なんかいなくてもどうってことないだろうけれど、あの鳥がいなくなったら騒ぐんだろうな。
今日は、最高だ。見ろよ、太陽は燦々と輝き、雲は真っ白だ。この広い海にこぎ出していく、俺は自由だ。誰も俺に勉強しろとか、鳥の糞を片付けろとか、飯の前にチョコレートを食べるなとか、言わない。ずっと前に取材とかいって来た男たちが言っていたみたいに、テレビって箱から流れる面白い絵を見たり、あいつらの持っていたスマートフォンとやらを持ったり、それに、クラブって所に行って朝まで綺麗な女の子たちと踊ったりするんだ。
少年の乗った足漕ぎボートは島の反対側へ行くために使うもので、エンジンはもちろん計器もついていない。少年は海図も持たなければ、どこへ向かっているのか、そもそもどこを出発したのかもよくわかっていなかった。
キンイロトサカハシリカカドゥ研究者であり保護活動の一人者でもあるエイダ・クレイヴン博士は微笑みながら、集まった報道陣や学者たちと握手した。出来ることなら、一分でも早く島に戻りたい。だが、寄付金を集めのためには少しでも好印象を残さなければならない。
「三十年ぶりにオスの個体の保護に成功されたというニュースは、保護活動にとっては大きな一歩だとおっしゃられていましたが、繁殖の見通しについてお話しください」
エイダは少し深刻な表情を見せた。
「そこはまだなんとも言えません。キンイロトサカハシリカカドゥは毎年同じパートナーと繁殖をする習性があるのですが、今回のオスを保護した時にはメスと一緒にはいなかったのです。パートナーをまだ見つけていなかったのか、それともパートナーが隠れてしまっていたのか、はっきりしていません。願わくば、前者であることを祈っているわけです。現在島の保護センターには四羽のメスがいてどれも求愛可能な状態になっているはずなのですが、オスはまだ求愛行動を始めていないのです」
「島に、他のメスなりオスなりが野生で潜んでいる可能性はいかがですか」
「それもはっきりしたことは言えません。今回保護できたということは、もちろんまだ野生の個体が生き残っている可能性はありますが、例のリゾート計画で持ち込まれた猫を完全駆除するまでに八年もかかったので、その間に他の個体が絶滅してしまった可能性もあるわけです」
「リゾート計画の差し止め裁判の判決後、島はほぼ無人化し、一般人の渡航も禁止されたわけですが、今後、キンイロトサカハシリカカドゥを一般に公開する計画などはありますでしょうか」
「それは今のところありません。観光客を受け入れると意識的もしくは無意識に拘わらず何を持ち込まれるかわかりませんし、わずかな環境の変化はキンイロトサカハシリカカドゥの絶滅を加速させるだけです。もちろん繁殖プロジェクトの成功で個体数が三桁にでもなれば話は別ですけれど」
そんな日は、私が生きているうちには来ないだろうと、エイダは心の中でつぶやいた。せめて二桁までにはしたい。そのためにはどんなことでもする予定だった。
大きな誤算は、マロアが病死したことだった。彼女には、現在センターに保護している五羽の直接的な世話を担当してもらっていた。肺炎が疑われたので知り合いの医師のクリニックに移送したが、もちろん精密検査などはさせなかった。万が一にでも、オウム病クラミジアによる肺炎だったなどということになれば、研究も保護活動もおしまいだ。マロアには申し訳ないと思っているが、少なくとも彼女は絶滅に瀕している種ではなく、むしろ増えすぎが危惧されているホモ・サピエンスの一人なのだ。
もちろんマロアの一人息子が成人するまでは、エイダも親代わりとしてできる限りのことをしてやるつもりだ。かわいげのない子だけれど、そのうちに、この私に頼らなければ生きていくことも難しいことを理解するだろう。
あの子一人にキンイロトサカハシリカカドゥの世話を任せてきたことが少し不安だった。ちゃんと世話をしているだろうか。マロアにだったら、何日も任せて安心していられたのに。
マロアに代わる誰かを見つけるのがどれほど困難かはエイダもよくわかっている。キンイロトサカハシリカカドゥの世話は単調で、しかも外界から切り離されている。
もっとも、キンイロトサカハシリカカドゥの存在の重要性を完全に理解しているような者をあの島に連れて行くのも危険だ。もし、研究データなどを持ち出されでもしたらエイダの死活問題になる。
何も知ろうとせずに、ただ忠実に、世話を任せられるような存在をすぐに見つけなくてはならないのは、頭の痛い問題だ。ましてやマロアの死因に疑いが持たれれば、なり手はいないだろう。
とにかく、今は、そんなことを考えるのはやめよう。プレゼンテーションが大成功だったことを喜ばなくては。今日は私にとって最高の一日になるはずなんだから。
エイダは、キンイロトサカハシリカカドゥと自分の輝かしい未来を脳内に描きつつ、報道陣に向かって心にもない微笑みを見せた。
(初出:2019年4月 書き下ろし)
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【小説】君は僕にとって
「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。五月はJoe Cocker の”You are so beautiful”にインスパイアされて書いた作品です。
この曲も歌詞は特に書きません。というか、おそらく聴けば大体わかりますよね。
この曲は、というか、下に貼り付けたベビーフェイスによるカバーバージョンは、「ファインダーの向こうに」の頃からずっと、主人公ジョルジアを見守る兄マッテオ(および一部の男性キャラ)の想いのテーマソングでした。
今回は、現在連載中の(「ファインダーの向こうに」「郷愁の丘」の続編)「霧の彼方から」でもカバーしなかったジョルジアの結婚式のことを後日譚として紹介する試みです。そんな外伝ばかりいらんというお叱りもあるかと思いますが、今月はこれでお許しください。

【参考】
![]() | 「ニューヨークの異邦人たち」 |
![]() | 「霧の彼方から」を読む あらすじと登場人物 |
君は僕にとって
Inspired from “You are so beautiful” by Joe Cocker
つい先日までは、いつ雪が降ってもおかしくないほど寒い日もあったのに、五月に入った途端これほど暑くなるなんて。マッテオは、セントラルパークの樹木の青々とした若葉を眩しそうに見上げた。
満開だった木蓮は、役目を終えたと判断したのか、はらはらとその花びらを散らしている。ここ数ヶ月は忙しくて、いつもは誰かとデートついでに必ず見る、日本から寄贈されたという格別華やかな桜の花も見そびれてしまったらしい。
「それでね、マッテオ。グレッグが説明してくれたんだけれど、英国で雨が降ったり止んだり忙しいのは、ブリテン島の位置と暖流のせいなんだって」
横を歩くアンジェリカが、一生懸命に覚えたての知識を披露してくれる。彼は、にっこりと笑って答えた。
「なるほど。まったく知らなかったよ。さすが彼は博士だね。それに、世界一きれいな知りたがり屋さん、教えてもらったことをちゃんと憶えて僕にも教えてくれるお前は、なんて賢いんだ。こんなにパーフェクトな姪を持って、僕は誰よりも幸せな男だな」
アンジェリカは、少し考えてから言った。
「でも、マッテオ。この間からずいぶんと寂しそうよ。ジョルジアが、お嫁に行っちゃったのがショックなんでしょう?」
マッテオは、かがみ込むと姪を強く抱きしめて答えた。
「それは寂しいよ。それに、今日、お前がアレッサンドラとロサンジェルスに帰ってしまうのも、泣きたくなるくらい寂しいさ。でも、ショックなんてことはないよ。どんな遠くに行ってしまっても、お前や、アレッサンドラや、ジョルジアが、それぞれに幸せであることが、僕の心からの願いなんだ」
まだ九歳の姪が生まれるよりも前、妹のジョルジアが絶望の底にいた時のことを、マッテオは思った。子供の頃から見守り愛してきた大切な妹は、はじめて付き合った男に言葉の暴力で傷つけられ、しばらくクリニックに入院しなくてはならないほどのトラウマを負った。
彼女を傷つけた男は、彼女の生まれつきの痣を目にして、こう言ったという。
「こんな醜い化け物を愛せる男などいるものか」
その痣は、そして、それを目立たなくしようとして失敗した手術の痕は、一般的に言えば「美しい」と形容するようなものではない。それはマッテオも知っている。
だが、彼女にトラウマを与えたその酷い言葉の全ては完全な間違いだ。世界中のメディアや一般のファンたち、それに評論家たちも「美の女神」と認めるスーパーモデル、もう一人の妹アレッサンドラに劣らず、マッテオにとってジョルジアは、例えようもなく美しく、彼女に対する愛は尽きることがない。
母親に紹介された生まれたばかりのジョルジアを目にした六歳のあの日から、マッテオの想いは一度たりとも変わったことがない。……なんて可愛くて、美しくて、愛しい子なんだろう。
生まれつきの痣や、その他の要因が重なり、次第にひどく内向的になったジョルジアを、マッテオは常に心にかけ、愛情を注いだ。少なくとも家族の前では、幸せに楽しくしていた妹の日常と人生の歓びを、一人の男の心ない振る舞いが滅茶苦茶にした。
若くして成功し経済界に絶大な影響力を持つマッテオが、私怨で誰かの事業に口出しをしたのは、人生でたった一度だけだ。彼は、妹を捨て苦しめておきながら、平然としてマッテオと同じクラブに他の女を連れて出入りしていたその男の経済基盤と社会的信用を奪い、ニューヨークにいられなくした。おそらくジョルジアはそのことを、絶望の底にいた当時はもちろん今でも知らないだろう。
それから十年近く、ごく普通に暮らしているかのように傍目には見えても、他人と関わることを怖れ、心を半分閉ざしたままの妹を見守り続けるのはたやすくはなかった。
退院してしばらくは精神不安定な状態が続き、一年近く彼のペントハウスで暮らさせた。話しかけても反応しなかったり、突然泣き出したり、もしくは無意識に同じところを歩き回るなど奇妙な行動をすることもあった。
異常行動がなくなり、パニック障害の発作もなくなってから、専属で働いている《アルファ・フォト・プレス》のスタジオで静物撮影の仕事から復帰した。少しずつ笑顔も見せるようになり、本人の希望するように一人暮らしをさせても大丈夫と思えるようになった。
そして、マッテオが懇意にしている知り合いが大家であるフラットに住むことになったものの、どうしているか心配で毎週のように訪ねていったものだ。
二度と傷つきたくないと怖れる想いと、それでも愛されたいとにじみ出る願い。何も言わなくても手に取るようにわかるが、兄としてのあふれる愛をどれほど注いでも、彼自身にはどうしてやることもできなかった。
そのジョルジアが見つけたのは、彼にとっては地球の果てであるケニアでの幸せだった。
努力家で真面目とはいえ、決して成功しているとは言えない動物学者。マッテオからの援助がなければ、経済的にも食べていくのがやっとらしい。ジョルジアのこれまで築いてきたキャリアを考えてもサバンナの真ん中へ行くことはプラスになるとは思えない。
そんな相手との結婚ではあり、マッテオにとっては大切な妹がそんな地の果てに行ってしまうことは寂しくてならないことだが、それでも、彼は心からの祝福を添えて妹を送り出した。
誰かを躊躇せずに愛する歓び、人生の片翼が存在することへの安堵、締め付けられていた孤独の枷からの解放、その全てを言葉では語らない妹の瞳の光や振る舞いから感じることができた。それ故マッテオは、彼女の決断が正しいものだと納得し、心から祝福することができたのだ。
長い冬だった。樹木の枝に見える蕾は固く閉ざされ、まるで死んでしまって二度と開かれないのではないかとすら疑われた。それが、どうだろう。眩しいほどの新緑、わずか数日で、いや、数時間で、刻一刻と姿を変えながら晴れ渡った紺碧の空へとその瑞々しい若葉を伸ばしていく。
「そうかなあ。私ね。お嫁に行くとどうして旦那さんの国に引っ越さなくちゃ行けないのか納得いかないって、ジョルジアに言ったの」
アンジェリカが、真面目な顔つきで言った。マッテオは、面白く思った。
「ジョルジアは、なんて答えたんだい?」
「必ずしも旦那さんに合わせる必要はないって、言ったわ。でも、ジョルジアは旦那さんに合わせたんでしょ、って言ったの」
「それで?」
「グレッグは、ジョルジアがニューヨークで暮らしたいんじゃないかって、言ってくれたんだって。だから必要なら彼も引っ越しても構わないって。でも、それは無理だって、彼女が説得したんだって」
アンジェリカは、ジョルジアそっくりの口ぶりで説明した。
「グレッグ。写真はどこでも撮れるけれど、私の知る限り、ニューヨークには野生のシマウマはいないわよ」
ジョルジアらしいユーモアと愛情のこもった台詞を聞いて、マッテオは笑った。
新居はケニア中部の《郷愁の丘》になったものの、《アルファ・フォト・プレス》との契約があるので、しばらくジョルジアは年に数ヶ月ニューヨークで過ごす。また、助成金の契約でグレッグが年に一度は必ずニューヨークに来ることになっているので、その時にはジョルジアの分の航空券も送るつもりだ。永久に会えなくなるわけではない。
もう一人の妹、アンジェリカの母親であるアレッサンドラが、ロサンジェルスに家を買いニューヨークを離れた時も、また、三度目の結婚に伴い、年の半分以上をヨーロッパで暮らすことにした時も、寂しさはあったがその幸福な旅立ちを喜んで送りだしてきた。今度それができないはずはなかった。
「結婚パーティ素敵だったわよね。どうしてジョルジアはママみたいなウェデングドレスを着なかったの?」
アンジェリカは、マッテオの手に掌を滑り込ませて訊いた。マッテオは、微笑んで小さな掌を壊さないように優しく力を込めた。
先月、ニューヨークのロングアイランドにある教会で行われた結婚式で、ジョルジアはアイボリーのシンプルなタイトワンピースを着た。
「派手なウェディングドレスを着るのは嫌だって言われたんだ。アレッサンドラに頼んで彼女の希望に合うようなワンピースを用意してもらったんだよ。その代わりに、彼女のリクエストにはなかった最高級の絹とレースを使ったけどね。きれいだっただろう? でも、パーティでは、どういうわけか直前に一度着たドレスに変更すると押し切られてしまったよ」
結婚式の後に、彼女のフラットや職場に近い馴染みの大衆食堂《Sunrise Diner》で、家族の他に同僚や親しい友人たちを集めて披露パーティが行われた。その時に彼女は緑のシンプルなドレスを着た。
「ああ、その理由は知っているわ。ニューヨークに来る飛行機、私あの二人と一緒だったでしょ? あの中で、グレッグがあのドレスの話をしたの」
「ほう? どんな話?」
「あのね。グレッグは、ジョルジアがあれを着るんだと思い込んでいたんだって。どうしてあのドレスがいいのかって彼女が訊いたの。そしたら、こう答えたの。前にあのドレスを着た時に、本当は一緒にダンスをしたかったのにチャンスを逃したんだって。どうしてその時に言わなかったのかしらね。言えば、ジョルジアが断るはずはないのに。あの二人、あんなに仲がいいんだもの」
マッテオは、なるほどと思った。それは、助成金の推薦をしてくれたレイチェル・ムーア博士がグレッグをマッテオに紹介するため連れてきたWWFのパーティだった。口添えするためにジョルジアもその緑のドレスを着てやってきたのだ。
どういうわけだか、グレッグはパーティの序盤で退席してしまい、それを追ってジョルジアも帰ってしまった。だから、もちろんダンスをすることなどなかっただろう。あの時、レイチェルは言っていた。
「彼はジョルジアに夢中なの。残念ながら友達の枠は超えられていないみたいだけれど」
つまり、彼はジョルジアに遠慮して肩や髪などに触れることもなかったのだろう。あの夜にあの美しい彼女の姿を見て、皆がダンスをする機会を生かして彼女をその腕に抱きたかったんだろうな。
「私なら、ドレスを着たら申し込まれなくても一人で踊っちゃうな。毎日着られるものじゃないし」
アンジェリカは、マッテオの思惑などお構いなしにおしゃまな発言をした。
マッテオは、再び姪の目の高さにかがんで、その瞳をのぞき込んだ。
「心配しなくても、お前が大きくなったら、たくさんの男たちがダンスを申し込もうと行列を作るよ。その時には、僕にも一度くらい一緒に踊るチャンスをくれるだろう? 僕の大事な踊り子さん」
アンジェリカは、とても嬉しそうに抱きついて答えた。
「もちろんよ。マッテオとは他の人の倍以上の曲を一緒に踊るわね」
マッテオは、愛する姪を抱きしめた。もちろんその口約束が守られることはないだろうことは知っている。彼女が大きくなり、恋をしたら、一晩中でも好きな男と踊り続けたいと願うだろう。その時には、彼はただの「親しいマッテオ伯父さん」に変わってしまうのだと。そして、そう思わせる相手の存在を疎ましく思う権利は、彼にはないのだと。
派手なことの嫌いなジョルジアと、同じように内氣なグレッグは、自身の結婚披露パーティだというのに、ほとんどの時間を店の片隅で過ごした。皆が楽しげ踊っている時もそうだった。だが花婿は、幾度も深い愛情を込めて花嫁を見つめていた。
ずっとマッテオが思い続けていた言葉を、彼が心に思い浮かべていることを疑う余地はなかった。
「君は、誰よりも美しい。君は、僕にとって他の誰よりも素晴らしい」
今日の新緑は、風に舞いながら萌え立っている。まるで歓びに震えているように。同じ色のドレスを纏った愛しい妹が、ようやく安心して身を委ねられる相手を見つけ、その腕の中で祝いのダンスを踊っていたほんのわずかの時間を思い出しながら、マッテオは姪と一緒にゆっくりと歩いて行った。
(初出:2019年5月 書き下ろし)

こちらはマレーナさんによるイラストACからのイラストで著作権はマレーナさんにあります。無断使用はお断りします。
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【小説】燃える雨
「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。六月はAdeleの”Set Fire to the Rain”にインスパイアされて書いた作品です。
この曲も歌詞は特に書きません。ものすごく有名な曲ですし、ネットには日本語和訳が山のように転がっていますので。Adeleといったら、やはり失恋ソング……なので、オマージュして、そのまんまの失恋ストーリーを作ってみました。オチはないので、悪しからず。
六月といったら梅雨、といったら雨、という単純な思考で選んだ曲ですが、日本ではなく三月に遊びに行ったロンドンを舞台にしてみました。一年中、雨の降っている印象のある国ですね。

燃える雨
Inspired from “Set Fire to the Rain” by Adele
しばらく待って、やはり出て行くことを決めた。座っていたティールームの入り口には、濡れる前にと駆け込んできた客たちが、早く出て行って欲しいという視線を投げつけてくる。こんな時に、「それがどうした」と跳ね返して、粘れるような強い精神力をリサは持っていなかった。
次々と入ってくる客たちの対応に追われている店員はなかなか勘定を済ませてくれなかった。ようやく戸口から出た時には、雨は更にひどくなっていて、冷たい風が吹き付けてくる。
「ちゃんと閉めてよ。隙間風が寒いじゃない!」
出てきたばかりの店から、不機嫌な注意を浴びせられ、リサはこの店には二度と来たくないと思った。かつては、あんなに好きだったのに。
彼と大英博物館で数時間を過ごすと、いつも足が棒になった。世界中から訪れた観光客でごった返す博物館内のカフェではなく、少し歩いてこの店で休んだ。手作りのタルトやスコーン、丁寧に淹れた上質の紅茶、それらを楽しみながら見てきたばかりの博物館の展示に関する話題で盛り上がった。
ある日は、古代アッシリアやエジプトの展示を中心に観て当時の王権の強大さや発掘品がイギリスに運ばれた経緯について語ったし、また別の日にはジャパニズム・ブームで集められた浮世絵や鎧などについて、リサの方が熱弁を振るった。
違う日に別の展示の前で、この前と同じ人と偶然であった、そんなきっかけで始まった付き合いは、やがてティールームからパブへ、それから送ってもらったリサの部屋へと移動した。はじめから誘われたわけでもなければ、彼女がを狙って近づいたわけでもなかった。ごく普通に恋に落ちただけだ。彼は、自分のことを多く語らず、友人にもまだ紹介してもらっていなかったけれど、そうなるのにはまだ時間が掛かるのだと思っていた。
一日で全てを経験できると教えられた天候の変わりやすさは同じでも、希望に満ちてこの街に遷ってきた十年前には、濡れるほどの雨が降ることは珍しいと言われていた。けれどここ数年は、傘を持っていないと憂鬱になるような降り方をすることが多い。
彼女は、軒下から軒下へと小走りに伝いながら、ニュー・オックスフォード・ストリートを目指した。屋根つきのバス停に駆け込んで一息ついていると、目の前を一台のメルセデスが派手に水をかけていった。
助手席に座っていたのは、あの令嬢だ。財閥の跡取りを父親に持ち、高級デパートのはしごをして時間を潰していると評判だった。料金を全く考えずに毎晩携帯電話で国際電話をかけまくっているという噂を伝えたら、彼は「金があるだけが取り柄の人間もいるさ。いちいちやっかむ必要はないよ」と笑った。
でも、今は、やっかむ正当な理由ができたじゃない。彼女は、俯いて唇を噛んだ。メルセデスのボルドーがかったブラウンは、発売当時に人氣がなかったために非常に台数が少ない稀少カラーだ。彼が自慢にするだけあって、同じ車を見たことはまだ一度もない。だから、車を見ただけで運転席に彼が乗っていることをすぐに予想できた。通り過ぎる瞬間に彼の姿を目に留めて、リサは水たまりに注意して身を引くのを忘れた。
「忙しくてしばらく会えない」
その言葉と共に連絡が途絶えたのを、信じようとしていた。飽きられて捨てられたなんて、認めるのが苦しかった。
電話をかけても出てもらえないことも、メールに返事がないことも、疑惑を大きくしたけれど、それでも決定的な言葉を投げつけられたわけではないと、自分を納得させ続けてきた。
彼の言葉が、真実ではなかったと知るのも嫌だった。知らなければ、まだ夢を見て彼の誠実さを大人しく待ち続けることができたのだから。
彼は知的だったし態度も優しかった。氣後れするほどの一流レストランに連れて行ってくれたわけではないけれど、食事をする時には決して吝嗇ではなかった。将来に関する約束などをしたわけではないから、欺されたということもできないだろう。
どうしようもなく惹かれ、期待して、夢を見たのは彼女の方だった。令嬢などではないだけでなく、誇れる学歴も、輝かしいキャリアも、何一つ手にしたことがない。日々の生活に追われるだけの生活。
彼を愛するようになり、何かを期待していなかったかといえば嘘になる。磨き抜かれた、一目で高価だとわかる内装のメルセデス。言葉遣いや服装からも、彼女よりもずっと上の社会に属している人だと感じていた。愛と未来の両方を彼が授けてくれることを願っていた。
その虚しい期待は裏切られ、すげなく水たまりの飛沫を跳ねかけられた。助手席には、美しく彼のビジネスや人生にもっと有用な助けもできるあの令嬢が座り、リサは一人でここで濡れている。
雨は、どんどん激しくなった。ドラムを叩くようにアスファルトを打つ。濡れている表面は、雨と風で凍るように冷たくなっている。けれど、彼女の内部は、ひどく熱くなっていった。もはや呼ぶことを許されない彼の名前を叫び、惨めな嘆きが届くように願っている。
美しくない自分、富豪の娘ではない自分、愛されていない自分、顧みられずにびしょ濡れになった自分。そんな自分を戯れに弄び心を奪っていった男に向けていいはずの、怒りや憎しみはそこにはなかった。未だに抱擁を求めて、リサの心は美貌の令嬢を乗せた彼の車を追っている。
雨と涙でにじむニュー・オックスフォード・ストリートの街灯を、もう見えなくなった車を探しながらリサは立ちすくんでいた。赤い二階建てバスが、静かに停まり、ドアが開いた。待っていた他の客を乗せると、動かない彼女に運転手が声をかけることなく、ドアは再び閉まった。
バスが行ってしまうと彼女は、深いため息を一つだけついた。冷たく燃える雨に濡れたまま、トッテナムコートロード駅までの道のりを歩き出した。
(初出:2019年6月 書き下ろし)
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【小説】ひなげしの姫君
「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。七月はホセ・ラカジェの”アマポーラ”にインスパイアされて書いた作品です。夏になると、通勤路に野生のひなげしがたくさん咲くので、この曲を選んでみました。
そして、このストーリーは「アマポーラ」だけでなく、もう一つのひなげしに関するお伽噺も下敷きにしてあります。もともとはインドの民話のようです。「小さな子ネズミが魔法で美しい姫君に姿を変えてもらい王子様に見初められるのですが、正体がばれるのを怖れて慌て池に落ちて亡くなってしまう、その後美しいひなげしが池の周りに咲いた」というものです。
しかしながら、いつも通り私の話は、そこまでドラマティックには着地しません。

ひなげしの姫君
Inspired from “Amapola” by Joseph Lacalle
彼女は、桃色の頬と、ふっくらとした紅い唇を持った、魅力的な少女だった。同じ教室で机を並べていたときから、僕はいつだって彼女のことが大好きだった。ひなげしに喩えて謳ったあの曲のように、いつも心の中で「僕を愛しておくれよ」と語りかけていた。だから、クラスメートに知られないように、机の上にナイフで刻んだ名前、日記帳の中に綴った彼女の名前は、アマポーラだった。
僕の求愛を、まるで相手にしてくれなかったアマポーラとは、卒業後に逢うチャンスもなくなってしまったけれど、僕の心の中には、いつも彼女がいたのだと思う。そりゃ、忘れていたことがなかったとは言えない。でも、たとえば、夏が来て赤いひなげしを目にすると、僕はいつも可憐なアマポーラのことを思い出して、そっと微笑んだのだ。
彼女を、都で見かけたのは、本当に偶然だった。変わらずに綺麗だっただけでなく、びっくりするくらい垢抜けていて、その場で声をかけるのをためらってしまった。
乗っていた黒塗りの馬車は、立派な紋章がついていて、横に乗っていた男は仰々しい山高帽を被っていた。そんなことってあるだろうか。あのアマポーラが、貴族と連れだって馬車に乗るなんて。どんなに綺麗だって、僕たちの階級の人間が、お高くとまった奴らとつきあうことなんてできないはずだ。でも、この僕が、アマポーラを見間違えたりなんかするものか。
彼女とその立派な紳士が馬車を待たせ入った店に、僕も入った。それは、有名なコンディトライで、大理石の床、樫材の壁、シャンデリアや金飾りの鏡に囲まれたティールームで、濃厚なチョコレートを飲む奥方や葉巻をくゆらす紳士たちで賑わっていた。
僕には、日給の半分もするようなコーヒーやケーキを楽しむ余裕はなかったが、売店で小さなチョコレートを注文しながら、世間話をした。
「それはそうと。表の馬車の紋章、つい最近見たはずなのにどこだか思い出せないんだ」
店員は、にっこりと笑って答えた。
「エンセナーダ侯爵さまですよ。婚約なさったばかりで、よくこの店にいらしてくださるんです。ここで出会われたんですよ。誉れです」
「婚約者って、あの娘……?」
「お美しい方でしょう? 東方の王家の血を引くお嬢様で、ポストマニ様とおっしゃるんですよ」
まさか! アマポーラに王家の血なんか一滴も入っていないどころか、東方の出身なんかじゃないことも、僕が誰よりも知っている。アマポーラの父方の爺さんは村のくず拾いだったし、母さんは皮剥ぎ職人の妹だった。
僕は、礼を言ってチョコレートを受け取ると、氣取った包みを開けて、一つ口に含んだ。ゆっくりと滑らかに溶けるプラリネは、僕らが普段食べ慣れている混ぜ物入りのざらざらした板チョコとは別の食べ物のようだった。
この店にしょっちゅう通っている、金持ちの奴らは僕とは関係のない雲の上の存在だ、いつもなんとなくそんなことを考えていた。アマポーラは、上手く混じっている。すごい玉の輿だな。僕はただの機械工だけれど、じきに侯爵夫人となるあの別嬪の幼なじみなんだって思うと、妙に誇らしかった。昔話をして、可憐なひなげしを捧げた話を憶えているだろうと笑い合いたかった。
エンセナーダ侯爵ときたら、まるで世界に他の女がいないみたいに、じっとアマポーラのことばかり見つめて、その手を握りしめたりキスしたりばかりしているんだ。
でも、彼女自身は、そこまで婚約者に夢中という風情ではなかった。店内を見回したり、ハンドバッグから取り出した小さな手鏡で自分の顔を確認したりしていた。カウンターで、見つめている僕には氣付いたんだろうか。笑いかけてくれることも、手を振ってくれることもなかったから、よくわからない。
僕は、彼女が化粧室に向かうのを確認して、急いで後を追った。
幸い、周りには誰もいなくて、僕は化粧室から出てきた彼女を小声で呼んだ。
「アマポーラ! 僕を憶えているかい?」
彼女は、ひどくびっくりして周りを見回した。僕の姿を見て、ものすごく嫌な顔をした。それから、まるで聞こえなかったかのように反応もしないで去って行こうとしたので、僕は後を追いもう一度呼ぼうとした。
「しっ。やめてよ。どういうつもり?!」
彼女は、動きを止めると小さな声で言った。
僕はつられてもっと小さな声になった。
「どうって、久しぶりだから。綺麗になったねって、言おうと思ったんだ」
「あんたなんかと知り合いだとわかったら大変なのよ、ペッピーノ、少しは遠慮しなさいよ。それとも私を強請ろうってわけ?」
「まさか!」
「だったら、あっちへ行ってちょうだい。私につきまとわないで。私は、ポストマニ姫ってことになっているんだから」
僕が名付けたのと同じ、可憐でひなげしを思わせる真っ赤なワンピースを着た彼女は、僕を邪魔者みたいに追いやろうとした。それどころか、小さなビーズのハンドバッグから、僕の週給にもあたるような紙幣を三枚も取りだして、さも嫌そうに僕に押しつけたのだ。
「何のつもりだよ。僕は、金なんか……」
そう言いつのろうとしたとき、角から店の支配人が歩いてきた。
「どうなさいましたか、お嬢様。何か問題でも……」
「いいえ、何でもありません。馬車まで送ってくださいます?」
アマポーラは、外国人が話すみたいに、変な発音で支配人に言った。支配人は、僕の汚れた服装をじろりと見回すと、彼女につきまとうなと言いたげに僕をにらみつけると、彼女をガードするように侯爵の待つ馬車まで送っていった。
彼女たちが去ると、支配人は戻ってきて、僕に慇懃無礼な様子で言った。
「申し訳ございませんが、お引き取りいただけませんか。チョコレートを購入なさりたいのなら、街のはずれに露店もございますし……」
僕は、すっかり腹を立ててコンディトライを後にした。お前なんかに何がわかるんだって言うんだ。追い出したこの僕と姫君みたいに扱ったアマポーラは、同じ村の同じ学校で机を並べていたんだぞ。
乞食に恵むみたいに、こんな金を渡すなんて、ひどいや。僕は、アマポーラにも腹を立た。このまま、この金を受け取ったら、僕は強請り野郎になってしまう。このまま黙って引き下がれるものか。
僕は、駅前のバーのカウンターでエスプレッソを頼み、会計のついでにエンセナーダ侯爵とやらがどこに住んでいるのかを訊きだした。
「あんた都にはしばらく来なかったのかい? あの小高い丘の上、都のどこからでも見える『雲上城』を、侯爵が買って引っ越してきたときの騒ぎを知らないなんて」
「へえ? もともとは都にいなかったお貴族様なんだ」
「ああ、この国の方じゃないからね。海の向こうの大陸に、この国の三倍くらいある領地を持っていて、何でも持っている人なんだそうだ。引越の時には、たくさんのお宝や綺麗な調度を積んだ船が港にずらっと並び、それをお城に運び込むために二週間くらい毎日パレードみたいな行列が街道を進んだ。足りないのは、相応しい奥方様だけだと、みなが噂していたのだけれど、ついにお姫様と知り合ったらしいね」
外国人なら、アマポーラがこの国の生まれか、東方の国の育ちか見破れなくても不思議はない。でも、街の奴らはわからないのだろうか。
ふうふう言いながら、『雲上城』を目指して、急勾配の道を進んだ。丘と言うよりは小さな山みたいだ。都のど真ん中にあるのに緑豊かで、街の喧騒からは切り離されている。ほぼ毎日、馬車に揺られてあのコンディトライに通って、ホットチョコレートを飲むなんて、優雅な身分だなと思った。実家に戻れば、酒癖の悪い親父に怒鳴られながら鶏や豚の世話をしなくちゃならないだろうに。
ようやく見えてきた門は、背丈の倍以上ある立派なものだった。真ん中に大きな黒い金属板で紋章が打ち出されている。先ほど見た馬車についていたのと同じだ。内側に守衛所があって黒い服を着た門番がやたらと胸を張って立っていた。
僕は、そっと門に近づいた。門番は怪訝な顔で「何か用かね」と言った。
「友達がここにいるって聞いたんだ」
僕が言うと、門番は話にならないという顔つきをした。
こいつも、あの支配人と同じだ。僕を見下して追い払おうとしている。
「僕が機械工だからって、馬鹿にするんだな。僕は、話があってきたんだ。悪いこともしていないし、嘘も言っていない。なのに、服装だけで僕のことを誰も真面目に受け取ってくれないなんてフェアじゃないよ!」
「だったら、ちゃんとした紹介状か、お屋敷のその人にここに来てあんたが友達だ言ってもらうんだな。こっちだって仕事なんだ、誰だかわからないヤツを入れるわけにはいかんよ」
門番の主張はもっともだった。僕は途方に暮れた。
「私の知人よ、入れてあげて」
声がしたので、門番も僕も驚いて顔を向けた。ひなげしの花そっくりの、ドレープのある朱色のスカートを着たアマポーラが立っていた。門番は、すぐに頭を下げて門を開けて僕を招き入れた。
僕は、急いで中に入り、彼女に挨拶しようとした。けれど彼女は急いでその場を離れた。門番に会話を聞かれたくないんだろうと思って、僕は黙ってついていった。
門からは全く見えなかったが、森林の小径を抜けると城の前に広がる大きな庭園に出た。丸い池にからくりの噴水が涼しげな水煙をほとばしっている。その池の周りにたくさんの大きなひなげしが植えられていて、優しく風に花びらをそよがせていた。
「あれじゃ、足りないって言うわけ?」
アマポーラは、低い声で言った。僕は、カッとなった。
「僕は、強請りに来たわけじゃない! それにこんなもの!」
コンディトライで渡された紙幣を取り出すと、彼女めがけて投げつけた。
「何するのよ」
「嘘で塗り固められたお姫様からの、汚い金なんて受け取れない」
アマポーラは、下唇を噛みしめてから言った。
「やっと巡ってきたチャンスなのよ。洗濯女なんて死ぬまで働いても指輪一つ買うことが出来ないんだわ。あんな生活に戻りたくないの。邪魔をしないで」
僕は言った。
「邪魔なんてしないさ。僕はそんなつもりで声をかけたんじゃない。久しぶりだったから、話をしたかっただけなんだ。物乞いか強請みたいに扱われて、そのまま立ち去れなかっただけだ。それで幸せになれるっていうなら、するがいいさ。僕には関係のないことだ」
そう言って、僕は彼女の返事も待たずにまた門の方へ向かった。門番は、慇懃に頭を下げて僕を出してくれた。
支配人に疎まれてコンディトライに行けなくなってしまったので、エンセナーダ侯爵に関するニュースを耳にしたのは半年以上後だった。あれから三ヶ月も経たないうちに、海の向こうの領地で大きな飢饉があり、不満を抱いた領民たちが革命騒ぎを起こしたのだそうだ。
侯爵は、財産の大半を失い、『雲上城』を二束三文で売り払って海の向こうへ帰って行ったそうだ。最愛のポストマニ姫と華燭の宴をあげたのか、そして彼女が不運の侯爵に付き添ってかの国に向かったのか、誰も知らない。僕は、彼女はついていったりしなかったのではないかと思う。
魔法の解けてしまった偽物の姫は、今どこにいるのだろう。少なくとも洗濯女に戻ったりはしていないだろう。馬鹿馬鹿しく高いホットチョコレートを優雅に飲むけっこうな生活を知ってしまったんだから。
彼女は、またどこかの姫君のフリをして別の貴族や富豪の奥様におさまろうと、性懲りもなく計画を練っているだろう。可愛いアマポーラ。ちっぽけな少年に見向きもしなかったように、きっと君は貧乏な機械工を愛してくれたりなんかしない。でも、僕は、それでも君とまた再会することを願っているんだ。
(初出:2019年7月 書き下ろし)
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【小説】《ザンジバル》
「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。八月はフランスのシンガーソングライター、ディディエ・シュストラックの”ザンジバル”という歌にインスパイアされて書いた作品です。
私がこの曲を知った経緯はそのままこの小説に書いてあります。そして、1996年のアフリカ一人旅でも、本当にザンジバル島を訪れています。そして、ここを訪れたことが、現在、アフリカとは全く関係のないこの国に移住することになった小さなきっかけの一つになっているのです。だから、私の中でこの島は今でもものすごく特別な場所です。
観念的でこれといったオチのない話です。よかったら、先に(または同時に)曲を聴いてお読みください。なお、小説を飛ばして動画だけご覧になるのもいいかと思います。素晴らしい光景ですけれど、これ、いいところだけを上手に切り取った系の風景ではなく、本当にこういう島です。

《ザンジバル》
Inspired from "Zanzibar" by Didier Sustrac
明るいエメラルドグリーンの海がどこまでも広がっていた。白い砂浜には陽光が反射している。こんなに完璧なビーチだというのに、観光客の姿が少ない。いないわけではない。だが、八月と言えば世界中から夏の休暇で観光客が押し寄せるハイシーズンのはずだ。例えば、カナリア諸島やギリシャの島ではパラソルやビーチタオルが隙なく広げられて、砂浜も見えないほどだ。それなのにここでは、背景に自分たち以外は映っていない、まるで無人島のような写真を撮ることも簡単なほどわずかな観光客しかいないのだ。
ようやくここにやって来た。初めてこの島のことを知ってから八年が経っていた。渋谷のCDショップで何げなく試聴したフランス語のアルバム。ディディエ・シュストラック。聞いたこともないアーティストだったけれど、心地よい声とリズムに心惹かれて、歌詞の意味もわからずに買い求めた。その最後に入っていた曲がアルバムのタイトルにもなっていた「Zanzibar」だった。
日本語対訳を読みながら、この歌が実在のザンジバル島のことを歌いながら、同時に遠い憧れを語っていることを知った。でも、よく理解できない言葉がいくつかあった。「貿易風はささやく、”ランボー”と……」「わずかなアビシニアの魅力と、”アルチュール”の言葉」。何のことだろう? フランスの詩人ランボーのこと?
それで、調べてみた。ザンジバルと関係のあるランボーのことを。それは本当に詩人アルチュール・ランボーの事だった。彼は、なくなる前年までの十年間を、アラビアのアデンと、アビシニア(現在のエチオピア)のハラルを往復して過ごした。そこからフランスの家族にあてた手紙で「ザンジバルへ行くつもりだ」と告げていたのだ。けれど、彼は実際には一度もザンジバル島に足を踏み入れなかった。
彼は、アデンでフランス商人に雇われ、やがてハラールで武器商人となって暮らした。骨肉腫で右足を切断することになり、フランスに戻り亡くなった。
「あなたは、中国人?」
私は、驚いて手に持っていたカメラを取り落とすところだった。
振り向くと、褐色肌のすらりとした女性が立っていた。アーモンド形の綺麗な瞳、化粧ではなくて自然のままに見えるのにまるで二日目の月のごとく完璧な形の眉。すらりとした鼻筋と口角の上がった厚めの唇。低めにまとめたストレートの黒髪は、とても長いのだろう大きなシニヨンとして艶やかに首の後ろを飾っている。鮮やかなセルリアンブルーの布を巻き付けたように見えるワンピースドレスが褐色の肌の美しさを引き立てていた。
ここまで彫りが深くて目鼻立ちの整った女性は、『アフリカの角』の出身だろう。かの『シバの女王』やランボーの愛した《アビシニアの女》と同じく。
ランボーは、アデンに住んでいた一時、アビシニア出身の恋人と住んでいた。手紙で金を無心していたフランスの母親にはひた隠しにしていたその女の存在は、雇い主の家政婦であったフランス人女性によってある程度詳しく証言されている。美しいキリスト教徒の娘と彼は睦まじく過ごしていたと。
「あなたは、中国人なの? それとも?」
現実の方の女性は、英語の質問を繰り返した。
「いいえ、私は日本人です」
私は、答えた。
「まあ、そうなの。日本にはいずれ行ってみたいと思っているのよ、素敵な国だって聞いているわ」
彼女は、微笑んだ。真っ白い歯ののぞく肉感的な唇には、女である私すらもドキドキする。
私は自分の服装を見下ろして、情けなくなった。近所のコンビニに行くのすらもはばかられる格好だ。大学生時代からの習慣で、バックパックで安宿を泊まり歩くスタイル。捨てて帰る予定のヨレヨレのTシャツと、色のあせたジーンズ、それに履き古したスニーカーと折りたためるのが利点のベージュの帽子。タンザニアの空港では、さほど場違いだとは思わなかったし、スリや置き引きなどに狙われないためには、貧乏に見えた方がいいと思っていたが、この美しい海浜には全くそぐわない。
彼女の装いは対照的だ。波のきらめきのように様々なトーンの青が混じり合う薄物のドレスは、ファッション誌の巻頭グラビアか、それともリゾートのパンフレットを飾るモデルのように、ビーチを完璧に変えている。もともとの美貌を選び抜いた服装で神々しいまでに昇華しているのだ。美を保つとは、どれほどの努力を必要とするのだろう。そして、それを厭わなかったわずかな人が、こうして「美こそが究極の善である」印象を世界に誇示することが出来るのだ。
「ザンジバルは、初めて?」
「はい。こんなに綺麗な海なのに、ほぼ独り占めってすごいことだなって感心していたところなんです」
「そうね。確かに観光客が押し寄せることは少ないわね。イエローカードが必要だからかしら」
ザンジバル島は、タンザニアの一部だ。そしてタンザニアに入国するためには黄熱病の予防接種が必須だ。一週間程度のバカンスを頼むのに、わざわざ保健所を訪れて予防接種をしたがる観光客はあまりいないかもしれない。
「あの注射、死ぬほど痛かった。私も予約する前に知っていたら、来るのを考え直したかも。……あなたも予防接種をしてきたんですか?」
私が訊くと彼女は笑った。
「ここに来るためにする必要はないわ、もともとしているもの。私はエチオピアから来たのよ」
ああ、この女性は、本当に『アビシニアからきた麗人』だったのだ。
「あなたは、ここに来たのは初めてなのね。どうして来ようと思ったの?」
その質問に、私ははっとした。言われてみれば、それは少し珍しい選択だったのかもしれない。
会社を辞めて、次の就職活動をするまでの一ヶ月に旅をしようと思ったのは、それほど珍しくはないだろう。学生時代にはユーレイルパスを利用して、ヨーロッパ横断の旅をしたし、オーストラリアにワーキングホリデーに行った友人もいる。サラリーマンの短い有休では決して行けない旅先でよく聞くのは、マチュピチュなどインカの遺跡を巡る旅、イースター島やナスカの地上絵やウユニ湖など少し遠いけれど有名なところだ。もしくは中国やアジアの多くの国を巡ったり、アメリカ横断、さらには資金問題はあるとはいえ世界一周も悪くない。
ザンジバルに行くと言って、親や友人たちに口を揃えたように言われたのは「それはどこにある国?」だった。熱帯の島と答えれば、どうしてハワイやグアムではないのか、もしくは新婚旅行で有名なセイシェルやニューカレドニアならツアーがあると逆に提案もされた。
この島に行きたいという思いを、日本の家族や友人に理解してもらえなかったのは、知名度から言って当然だと受け止めていたけれど、アフリカ出身のこの女性から見ても、極東からここを訪れるのは不思議なことらしい。
私にとっては、いつの日かこの島を訪れるのは、当たり前のことだった。あの曲が、私の人生に囁きかけてからずっと。《ザンジバル》という名は、私にとって《シャングリラ》《ガンダーラ》《エルドラド》などと同じどこかにある理想郷になっていた。
「ある歌で、ここへの憧れを歌っていたんです。それに、詩人のアルチュール・ランボーも憧れていたと聞いて、一度来てみたいと思っていました」
ランボーの名前を口にしたときに、彼女の表情にわずかな変化があった。あのエピソードを知っているのだろうと感じた。彼女から、かの《アビシニアの女》の子孫だと告白されるとしても、私は驚かないだろう。もちろん、彼女はそんなことを言い出したりはしなかった。
その代わりに私の心が、アルチュール・ランボーがマルセイユで短い一生を終えた十九世紀末、まだ私自身が影も形もなかった頃に飛んでいた。ちょうどこの美しい女性のように、かの《アビシニアの女》が、この場に佇んでいたという幻覚、勝手な想像に心を遊ばせた。こんな風に。
「ザンジバル島に行きたいんだ。それから、船に乗って、もっと東へね。とにかく、何よりも大切なのは行くって意思だよ」
でも、ザンジバルにこうして立っているのは、彼ではなくて私。
「どこでも、好きなところへ行ってしまえ。もう、僕はお前とは関係ないからな」
そう言われて、旅の半ばで放り出された、この私。
彼は、「はみ出しもの」だとよく自嘲していた。若き日に、恩師との恋愛沙汰と発砲事件がスキャンダルになり、国での出世の見込みは絶たれたと言っていた。母親が心から望んだ、国内のきちんとした職場でコツコツと働くことが出来ず、ギリシャやカイロへ出稼ぎに行ってしまうのだと。
アデンで一緒に暮らしていた頃、彼は時おりこんなことを口にした。
「フランスにお前を連れ帰ることはできないよ。結婚許可証をもらえる見込みはないしね」
「うちの母親や彼女の住んでいる村は、びっくりするほど旧弊で、お前を連れ帰ったりしたら大変なスキャンダルになるだろうよ」
なぜそんなことを口にするのだろうと、私はいつも不思議に思った。遠く帰る必要もない国の許可証なんて、何の意味があるのだろう。ましてや、私は彼の国に行くつもりなんてこれっぽっちもなかったのに。
今ならば、少しだけわかる。
彼自身が、まっぴらだと言っていた彼の国と、その「常識的な生き方」から自由になっていなかったのだと。彼は、どこかで「まともな女と」「ちゃんとした家庭をもち」「いずれは国に帰る」と思っていたのだろう。
ザンジバルへ行き、それから、どこだかよくわからない東の国へと向かうことなど、本当は「できない」と思っていたのだろう。
「お前は女だから」
「お前は教育も受けていないから」
「お前は海の風土に耐えられないだろうから」
彼が、私をザンジバルにも、彼の故郷にも連れて行けない言い訳のように使った全てのフレーズは、彼自身が海の果ての未知の国へと行けないと思い込んだ理由だったのだ。彼は、十分に勇猛でなく、知識や経験が足りず、湿度や高温に耐えられない貧弱な身体であると、恥じていたのかもしれない。
私は肌の色や、話す言葉の違いなどにはこだわらない。行きたいところにどんな風土病があるかや、そこの人々が自分を受け入れてくれるだろうかなどを怖れたりなどはしない。どこにいても病にかかることはあるし、生まれ故郷でいつも歓迎されていたわけではない。
小さな舟を乗りついで、私はこの島へやって来た。鮮やかな花と、珍しい果物の溢れる島。遠浅の美しい海が守る島。ほんの少し前まで、かのムスリム商人たちが、大陸から欺して連れてきた人々を、遠い国に奴隷として売り払っていた港。
私は「ヒッパロスの風」に乗り、アラビアへ、そしてもっと東へと進むだろう。私は風のように自由だ。何よりも彼と違うのは……私は生きているのだ。
「あなたは、アルチュールの夢見たユートピアを探しにここへ来たのね」
青いドレスの麗人が優しく囁いた。私は、現実に引き戻され、はっとしながら彼女を見た。謎めいた瞳には、どこか哀れみに似た光が灯っていた。
突然、私は悟った。たどり着いたこの地について、はっきりと認識したのだ。
遠浅の白い砂浜。エメラルドグリーンの海。バニラ、カルダモン、胡椒、グローブ、コーヒー、カカオ、オクラ。島の中程に南国のスパイスを宝物のごとく栽培する島。イランイランやブーゲンビリアの花が咲き乱れ、イスラム世界を思わせる装飾の扉で迎えるエキゾティックな家並み。夕日に映える椰子の林や、枝を天に広げるバオバブの大木。想像していた以上に美しく、観光客ずれもしていない、奇跡のような美しい島。
けれど、ここは私の《ザンジバル》ではなかった。アルチュール・ランボーが生涯足を踏み入れなかった憧憬の島でもなかったし、ディディエ・シュストラックが誘い願った「物語の終わり」の地でもなかった。
それは、この島が期待はずれであったからではなく、単純に、私がこんなに簡単にたどり着いてしまったからだ。飛行機を予約し、わずかな金額を振り込み、たった二度の乗り換えで二十四時間もかけずにこの地に降り立ってしまった。悩みも、苦しみも、別離も、挫折も経ずに、なんとなく心惹かれるという理由で、ここに来てしまったから。ユートピア、憧憬の島は、そんな形ではたどり着くことはできないのだ。
「確かにこの島に一度は来たかったし、それにとても素晴らしい島ですけれど……。でも、ユートピアではないですよね」
彼女は、私の答えに共感したようだった。
「ユートピアは、辿りつくところではなくて、夢見て旅を続けるために存在する場所なのかもしれないわね」
それから、私の後ろの方を見て、続けた。
「夫が来たわ。私たち、午後の便で帰るの。そろそろ空港に行かなくては。島を楽しんでね」
会釈をして別れた彼女が向かう先には、レンタカーで待つ白人男性の姿があった。たぶん、移動の手段も、人種の違う二人の結婚も、アルチュール・ランボーの時代とは何もかも違うのだろう。愛の意味も、夢のあり方も。
この美しい島は、もしかしたら私の想像したように《アビシニアの女》を目撃したかもしれない。そして、私を目撃し、何世紀も後に同じように夢の島を探して彷徨う誰かを目撃するだろう。
私の《ザンジバル》を求める旅も続く。物語に終わりはないのだ。
(初出:2019年8月 書き下ろし)
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【小説】あなたを海に沈めたい
「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。九月は加藤登紀子の”難破船”にインスパイアされて書いた作品です。中森明菜が歌ってヒットしましたよね。私にとってもそのイメーシが強いのです。こちらは日本ではとても有名な曲ですので、聴いてみたい方、歌詞を知りたい方はWEBで検索してくださいね。
さて、もちろん原曲は、純粋な失恋の歌なのですけれど、私の中でこんなイメージがいつもつきまとっていました。

あなたを海に沈めたい
Inspired from "難破船" by 加藤登紀子
おかしな降り方の雨だった。
「今日降るなんて聞いていないよ!」「傘、もってこなかった」
人々は口々に文句を言いながら通り過ぎた。ぽつりほつりと降っていたのはほんのわずかの間だけで、すぐに熱帯雨林のスコールのような土砂降りになり、庇や地下鉄へと駆け込もうとする人々で街は急に騒がしくなった。
唯依だけが、恨めしげに天を仰いだだけで、そのまま重い足取りで進んだ。何もかもが上手くいかなくなり、全てが裏目に出た。雨にひどく濡れるくらい、大して違いはない。むしろ、惨めなのは自分だけではないと思えて有難かった。
マストはゆっくりと揺れていた。ほとんど無風だ。眩しい光と、たくさんの白が、勝の眼を射た。白い帆、白い船体、白いリクライニングチェア、そして、その上で背中を焼く茉莉奈の白いビキニ。彼は、船内に入り冷えたヴーヴ・クリコの瓶を冷蔵庫から取りだした。ポンと心地のいい音をさせて、コルクは青い大西洋に吸い込まれていった。
セントジョージを目指すプライヴェート・セーリング。真の勝者だけがエンジョイできる娯楽だ。残業禁止だ、営業成績不振だと締め付けられながら、代わり映えのしない日々をあくせくと働く奴らが、生涯手にすることのできない時間をこうして楽しんでいる。彼は、ジャンペンを冷えたグラスに注ぎ、この幸福を彼にもたらした新妻に渡した。
「ああ、美味しい。ヴーヴ・クリコの味が一番好き。屋内のパーティで飲むのも悪くないけれど、こうして太陽の下で飲むのが一番よね」
茉莉奈は、にっこりと笑った。
「社の飲み会では、乾杯以外ほとんど口をつけなかったから、君はアルコールに弱いんだと思っていたよ」
「私、あの手の安っぽいビール、嫌いなの。そもそも、会社の飲み会なんて全く行きたくなかったわ」
「勤めも社長と会長に言われて、仕方なくだったのかい?」
「まあね」
茉莉奈が社長の娘であることは、ずっと秘密にされていた。もちろん、どこかのお嬢様に違いないとは、入社してすぐから噂になったけれど。勝は、次期社長の座を狙って茉莉奈に近づいたわけではない。彼を振り向かせようと躍起になったのは彼女の方だった。華のある美人で、スタイルも抜群、しかも将来の出世が約束されているとわかっているのに袖にするほど勝も天邪鬼ではない。
同期の佐藤が結婚したときにもらった休暇は二週間だった。ハネムーンはハワイで、芋洗いのような混雑したビーチでのスナップ写真を見せられた。勝と茉莉奈は、一ヶ月のハネムーン旅行を大いに楽しむことが出来る。大型セーリングヨットを貸し切り太陽を自分たちだけのものにするのだ。もちろん、帆を張ったり、航路を決めて安全に走行するのは二人のクルーの役目だが。
「経理課や総務課なんて、死んでもごめんよ。あんな地味な制服を着て週の大半を過ごすなんて。あんなつまらない仕事は、地味に働くほかない人がするものよ。……鈴木唯依さんとか」
勝は眉を寄せた。
「……彼女と知り合いなのか?」
茉莉奈は意味ありげに笑った。
「知り合いってほどじゃないわ。でも、狙った相手にアタックする前に恋人がいるかリサーチぐらい、誰だってするわよ。もしかして、知られていないと思ってた?」
勝は、少し慌てた。
「君と二股をかけていたわけじゃない。その……フェードアウトしていた時に、君と知り合ったんだ」
茉莉奈は、シャンパングラスを傾けて、答えた。
「知ってるわよ。彼女の担当の仕事が忙しくて、ずっと逢えなかったんでしょう? だって、そうなるように板東のおじさまにお願いしたんだもの」
「経理部長に? まさか」
「柿本英子って知ってる? 私の同期。板東のおじさまとつきあっているの。それをパパに告げ口されたら大変だと思ったんじゃないかしら、ちょっと冗談っぽくお願いしただけで、何も訊かずにあの子を仕事漬けにしてくれたわ。でも、誓ってもいいけれど、それ以上のことは何もしていないわよ。だって、一緒にいる時間さえあれば、あなたが私を選んでくれることはわかっていたもの」
勝は取ってつけたように笑った。
「まったく君には勝てないな。言うとおりさ。僕は君の魅力に抗えなかった」
油断していたと思った。唯依とつきあっていたことを茉莉奈に知られていたなんて。茉莉奈との二度目のデートにこぎ着け、自分の人生に新たなチャンスが巡ってきたことを確信してすぐに、唯依にメールで別れを告げた。彼女が納得せず大騒ぎになることを怖れていたが、物わかりのいいことが一番の美点だと常々思っていた通り、一度会ってできるだけ誠実に見えるように振る舞ったら、なんとかこじれずに別れることが出来た。
熱帯雨林のように不快な湿氣を恨めしく思った。纏わり付き、この身を雁字がらめに捕らえているのは、勝への妄執なのだと思った。忘れることも出来ず、憎むことも出来ず、まだ、どうしようもなく彼を望む心を持て余していた。
だが、今さら何が出来るというのだろう。加藤勝に捨てられてからもう半年以上が経っていたし、彼は会社中の祝福の中で社長令嬢と華燭の宴をあげてしまった。唯依とつきあっていたことすら、会社ではほとんど誰も知らず、興味も持っていない。彼の心も未来も彼女のものなのだ。それを納得できないでいるのは唯依たった一人なのだ。
二人の女を天秤にかけ自分を捨てていった勝への怒りは、どこかへと押し込められていた。それ以上に、ただ、彼の元へ行き、泣きすがり、抱き留めてもらいたいという願いに支配されていた。
二人がセーリングヨットを貸し切りにしてハネムーンを過ごしていると聞いたフロリダの海を心に描いた。自分とのハネムーンだったらどんなに素晴らしいことだろう。空を駈け、彼を探して飛び回った。白い大きな帆船。三角の二つのマスト。シャンペングラスを持った勝の姿を目にしたように思った。
突然立ちくらみがして、唯依はその場にしゃがみ込んだ。
突然、バンっという大きな音が頭上から聞こえた。間髪入れずに「きゃっ!」と茉莉奈が叫んだ。リクライニングチェアのすぐ脇に、落ちてきた何かが大きな音を立てた。
「やだっ。何?」
勝が近寄ると、それは白い鳥だった。わずかにオレンジがかった顔と黒い羽根の先、ピンクのくちばしでびっくりするほど大きい。カモメってこんなに大きかったんだと驚いた。マストにぶつかったのだろうか。片方の翼だけをはためかせて暴れている。茉莉奈が怯えるので、とにかく抑えようと側に寄った。鳥の方は、捕まらないように、もっと大きな音を立てた。
「どうしました」
機関室の裏側で作業をしていたクルー、ラモン・アルバが寄ってきた。
「落ちてきたんだ。マストにぶつかったんじゃないかな」
勝は肩をすくめた。
「あっ。そ、その鳥は……怪我をしているのでは?」
「ああ、片方の翼を動かせないみたいだね。折れちゃったんじゃないかな」
「嫌だわ。早くどけてよ」
茉莉奈は、眉をひそめた。東京でも感染症を引き起こす菌が多いからと鳩の側に行くのを異様に嫌がる彼女が、こんな近くで暴れる野鳥に我慢できるはずはない。
勝は側にあったクッションを手に取ると、叩くようにしてカモメを船首の脇に追いやった。
「おい! 何をするんだ!」
水夫が怒鳴ったので、勝はむしろ驚いて振り向いた。その勢いで暴れていた哀れな鳥は柵を越えて海へと姿を消してしまった。
駆け寄ってきたラモンと共に首を伸ばすと、ロープにかろうじて引っかかっていた鳥は次の瞬間に海へと落ちていった。勝は腹に苦い思いがしたが、あえて平静を保って言った。
「かわいそうだが、どっちにしても長くは生きられないさ」
「かわいそうで済むか! 不吉極まりないことをするな」
「なんだって?」
この男は、やたらと迷信深くて困ると彼は腹の中で呟いた。茉莉奈が船内にバナナを持ち込もうとしたときも「不吉だ」と怒ったし、勝が口笛を吹いたときにもすぐにやめさせた。
「どうしたんですか?!」
機関室から船長デニス・ザルツマンが顔を出した。
「なんでもないよ。カモメが落っこちてきて暴れたから、どけただけさ。海に落っこちてしまったみたいだな。どっちにしても折れた翼じゃ長生きできないだろう」
ラモン・アルバは青ざめて首を振った。
「違います、船長。あれはカモメなんかじゃない。俺はこの目で見たんだ。アルバロトロスだったんだ!」
アルバロトロス? なんだ? どの鳥だって、この際どうでもいいだろうに。勝は首を傾げた。
デニスは、眉をひそめた。
「落ち着くんだ、ラモン。そんなわけないだろう。北大西洋に
「だから、こっちも慌てているんですよ。この俺が、アホウドリがわからないとでも?」
「そうは思わないが……ミスター・カトウ。カモメっておっしゃいましたが、どんな鳥でした?」
「白くて、このくらいの大きさで、顔がオレンジっぽくって、くちばしは淡いピンクだったかな……わざと殺したわけじゃない」
勝が言うと、あきらかに船長の顔色が変わった。
「まさか。……よりにもよって、アホウドリを殺したっていうのか?」
勝と茉莉奈には、何が何だかわからなかった。まるで死んだのがカモメなら問題ないみたいな言い方だ。まあ、この辺りに生息していない鳥が現れたのは奇妙かもしれないが、たまたま飛んできただけかもしれないのに。
ラモン・アルバは、震えて今にも泣き出しそうだ。船長は、そんなスペイン人に「しっかりしろ」と言って船内の用事を言いつけた。
それから小さな声で勝に言った。
「帆船時代、船乗りたちはアホウドリを海で死んだ仲間の生まれ変わりと考え、殺せば呪いがかかると信じていたんですよ。今でももちろんアホウドリを殺すのはタブーです」
勝はため息をついた。
「時代錯誤な迷信だ。今は、二十一世紀だというのに。大体他にもあの男は、バナナがとうとか、口笛がどうとか……」
船長は、厳しい目を向けていった。
「つまり、あなたは船に乗るときのタブーをことごとく破り続けているというわけですね。ご自分の国でもそんなことばかりなさっていらっしゃるんですか?」
勝は、居心地悪そうに視線を落とした。茉莉奈との結婚式は、もちろん大安だったし、スタッフや会社からの参列者にも服装や忌み言葉に氣を付けるよう徹底させた。茉莉奈にとって最高のウェディングになるように心を配ったのだ。
デニスは、苦々しそうに言った。
「ここバミューダ海域が、他の海よりも危険だという噂は事実ではありません。いわゆるバミューダ・トライアングルで忽然と消えたと喧伝されている幽霊船ストーリーの多くはねつ造です。だが、海そのものが100%安全なわけではありません。私たち船の上で働くものは、常に最善を尽くし安全に旅が終わるように心がけています。その姿勢を馬鹿にするような態度は改めていただきたい」
「ねえ、勝。鳥のことなんかよりも、私、きもち悪い。もっと静かに走るように言ってよ」
茉莉奈の不機嫌な声が聞こえた。船酔いしがちなのだ。
心なしか先ほどよりも船が大きく揺れている。勝は手すりにつかまった。船長は厳しい顔をして機関室に向かおうとした。
「何か、おかしいのか?」
勝の問いに、彼は行き先を指さした。
地平線の彼方に、恐ろしい勢いで黒雲が広がっているのが見えた。勝は思わず叫んだ。
「チクショウ! 嵐になりそうじゃないか」
「いい加減にしろ! 海で悪態をつくな! まだわからないのか?!」
「いい加減にするのはどっちだ。こっちは客だぞ。そんなことを言っているヒマがあったら、嵐になる前にセントジョージに到着してみろ」
デニスは、勝をにらみつけ叫んだ。
「お前らみたいなとことん不吉な客だと知っていたら、載せなかったよ。まさか、この上、誰かの恨みでも買っているんじゃないだろうな。つべこべ言わずに、あの金のかかりそうな女と船室で震えていろ。どんなに立派な船だろうと、どれだけ技術があろうと、嵐が直撃したらこの程度の船はひとたまりもないんだ!」
おかしな降り方の雨だった。ぽつりほつりと降っていたのはほんのわずかの間だけで、すぐに熱帯雨林のスコールのような土砂降りになった。波はひどく高くなり、80メートルもある船が、木の葉のように上下に揺れた。
デニスと、船室から出てきて青ざめながら作業をはじめたラモンの様子から、近づいてくる嵐は生命の危険すらある深刻なものだと勝にもわかった。船の揺れはもう立っているのが精一杯になってきた。とにかく茉莉奈を落ち着かせなくては。不安で泣き叫ぶ新妻の腕を取り、這うような形で彼は船室を目指した。
「どうしました? 大丈夫ですか?」
遠くから声が聞こえる。唯依は、それが自分にかけられていることを認識した。瞼を開けると、数人の親切そうな人たちが囲んでいた。心配そうにのぞき込んでいる。
唯依は、目を上げた。いつもの通勤路だ。先ほどの雨が嘘のように、雲が消え去り強い陽光が濡れた服をじりじりと温めた。
「なんでもありません。少し立ちくらみがしたんです」
彼女は立ち上がった。
ここは東京だ。心だけでも大西洋にいる彼を追いかけていけるなんて、そんなことがあるはずはない。彼と一緒に二人でバミューダ海の底へ沈んでしまいたいだなんて、馬鹿げた願いだ。
思い惑い、半年以上も進む道を見つけられない自分は、難破船のようだと思った。
だれにも顧みられない、ひとりぼっちの自分でも、人生はまだ続いていく。経理課の仕事は、自分に向いている。彼と社長令嬢の幸せな話を聞くのはつらいけれど、生活のためには黙って働き続けるしかない。もしかしたら、その平凡な日常こそが、自分をどこかの岸辺に連れて行ってくれるのかもしれないと願った。
(初出:2019年9月 書き下ろし)
【小説】走るその先には
「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。十月はホイットニー・ヒューストンの “Run To You” にインスパイアされて書いた作品です。これまた超有名な曲ですので、歌詞やその和訳はネットにたくさん出回っています。
歌詞を聴いて(読んで)いただくと、何にインスパイアされたのかがわかると思います。この話も実話をモデルにして書いています。

走るその先には
Inspired from “Run To You” by Whitney Houston
最初にヴェルダの存在を意識したのは、いつだっただろうか。レオニーが最初にヘルツェン野犬保護センターでのボランティアに参加したのが二年前だったので、その時にはもう出会っていたのかもしれない。
最初の年、レオニーは実に軽い心構えでそのプログラムに参加した。好きな動物と触れ合いながら、エキゾティックなイスタンブールの街を楽しめる、パッケージ旅行のようなものだと。
でも、その考えが甘ったれたものだと、初日に思い知らされた。センターはレオニーと同郷の獣医フライシュマン女史が自費で立ち上げた。彼女は定年後の人生をトルコの放置されて傷ついた野犬たちの保護活動に捧げている。色艶の悪い顔は表情に乏しく、痩せた筋肉質の肌は日焼けで荒れていた。ギスギスとしているのは外見だけでなく、口のきき方も同じだった。だが、あの地獄を毎日続けていたら誰だって朗らかで自分の容姿に氣を配ることなんてできなくなるだろう。
荷物を奥に置いて一息つく余裕もなく、レオニーはフライシュマン女史が棘を抜こうとしている大きな犬を共に押さえつけるように言われた。それは、後からわかったのだが、アバクシュというトルコの固有種の成犬で、白く豊かな体毛が特徴なのだが、黒っぽい犬だと思い込むほどにひどい汚れにまみれていた。
痩せこけ、疥癬にまみれて、所々の露出した肌にウジ虫がたかり、さらにどこかの有刺鉄線に引っかかったのだろうか、目の近くに鉄の棘が深く刺さり化膿しかかっていた。ひどい目に遭い続けてきたのだろう、人間不信がひどく、センターのメンバーたちが保護したときも、処置を受けているときも吠え続けていた。
それから、少しは人なつこさを残している小さな犬たちの世話でくれた一週間は、レオニーに動物保護の現実を思い知らせた。それは愛情に満ちた崇高な旅などではなく、人間の身勝手さと己の無力さに向き合うだけの日々だった。
同じプログラムに参加した同郷のメンバーで、翌年の休暇もヘルツェン野犬保護センターへ行くことを決めたのはレオニー一人だった。
「思っていたよりも、骨があるようね」
フライシュマン女史は、そう言って初めて笑顔を見せてくれた。
二年目に担当するように言われたのが、身体が大きい犬たちの世話だった。ヴェルダは、そのうちの一頭だった。トルコ固有種カンガールの血を引くと思われる雑種犬で、身体の多くの部分は白い短毛で覆われ、くるんと撒いた尾と鼻の頭が黒い。保護されたときは生後三ヶ月だったというが、すでにそこら辺の成犬より大きかった。唸ったりはしなかったが、檻の奥に張り付くようにうずくまり疑い深くレオニーを眺めていた。
「ヴェルダって、どういう状態で保護されたんですか?」
フライシュマン女史は、顔を曇らせて答えた。
「ひどい状況だったわ。母犬と一緒に放り出されたみたい。母犬は打ち据えられてあの子を含む三匹の子犬を抱きかかえるようにして冷たくなっていた。生きて保護されたのは二匹だけで、生き残ったのはヴェルダだけ」
「そうだったんですか。人なんか信用できないって思うのも無理ないのかな。じゃあ、名前は先生がつけたんですか?」
彼女は、奥で作業している青年エミルを示して答えた。
「これだけたくさんいると、私が考えつく名前にも限りがあるのよ。だから、この子の名前はエミルが考えてくれたの。近所の雌犬と同じなんですって、薔薇って意味らしいわ」
ヴェルダは、食事を入れて檻の扉を閉めると、そろそろと近づいてきて喉につかえるかと思うほど急いで平らげた。
「心配しなくても、だれもあなたのご飯を取ったりしないよ、ヴェルダ」
レオニーは、前回と違い三週間滞在したので、以前よりも犬たちと信頼関係を築くことに成功した。一週間目の終わりには、食事の用意や散歩だけでなく、多くの犬たちのブラッシングやシャンプーもできるようになったし、ヴェルダも匂いを嗅いで身体を撫でさせてくれるまでになった。尻尾を振って黒い鼻先をすり寄せてくる様子が愛しくて、レオニーはたくさんの言葉をかけながら心を込めて撫でた。
次に来るのはまた一年後のつもりだったが、フライシュマン女史が人手不足に悩んでいるとメールをよこしたので、レオニーは半年後のクリスマスにも一週間だけまたセンターへ行った。
夏に馴染んだ大型犬たちのほとんどは姿を消していた。怪我が治りきらなかったアバクシュ犬のように亡くなってしまった犬もいたし、幸い新しい飼い主に引き取られてセンターを去った犬たちもいた。
ヴェルダは、まだいた。レオニーの姿を見ると狂ったように尻尾を振った。
「あなたの後任の子とは合わなかったのよね。スタッフにも時間もなかったから、かわいがってもらうこともなかったし。だからあなたに会えて嬉しいのよ」
フライシュマン女史は頷いた。
センターは深刻な人手と資金の不足に悩んでいた。一週間の滞在中、レオニーは以前の三倍の数の犬たちを担当し、ヴェルダと遊ぶ時間はほとんどなかった。けれど、大きくなった白い犬は、哲学的な面持ちで、食事や散歩のために近づいてくるレオニーをじっと見つめ嬉しそうに尻尾を振って見せた。
「レオニー、お願いがあるの」
フライシュマン女史が、クリスマスケーキの一切れを手に彼女の側に座ったのは、レオニーが発つ二日前だった。
「なんでしょうか」
「ヴェルダの引取先がチューリヒの老婦人に決まったことは話したでしょう。その輸出許可関連の書類が、今日届いてね。急だけれど、あなたが帰る時に付き添って欲しいの。こちらから付添人のために航空券を買う余裕がないから。空港に私の知人が引き取りに来て先方に届けるので、多くの手間は取らせないわ」
レオニーは、ヴェルダに家ができることにほっとすると同時に寂しさも感じた。新しい飼い主に愛情を注がれて、幸せになったらきっと私の事なんて忘れちゃうんだろうな、そんな風に思ったから。
イスタンブールで、ヴェルダを連れて車に乗り込んだ。尻尾を振るレオニーに「一緒に行くんだよ。新しいお家に行くんだよ」と語りかけた。ヴェルダは、まるで意味がわかっているかのようにことさら激しく尻尾を振り笑顔を見せた。特別貨物室へ向かうヴェルダは不安そうだったのでやはり声をかけた。
「大丈夫。同じ飛行機に乗るから。チューリヒでまた逢おうね」
チューリヒのクローテン空港で、ヴェルダを受け取ったとき、疲れていたのかぐったりしていたのが、レオニーを見てまたちぎれんばかりに尻尾を振って立ち上がったのが愛しくて、思わず駆け寄った。税関と検疫の長く煩雑な手続きも無事に終えて、綱をつけたヴェルダと一緒に到着ゲートを越えた。
フライシュマン女史の言った通り、そこには迎えが来ていてそこでヴェルダと別れることになった。不審げに幾度も振り返りつつ連れられていくヴェルダをレオニーは涙ぐんで見送った。
三ヶ月後にフライシュマン女史からもらったメールを読んでレオニーは驚いた。ヴェルダを引き取った老婦人が老人ホームに入ることになり、大型犬を飼い続けることができなくなったというのだ。費用や検疫手続きを考えるとトルコに送り返すのは現実的ではないが、このままではチューリヒの動物保護施設に送られ場合によっては安楽死になることもある、できれば新しい引取先を見つける手伝いをして欲しいというのだ。
だったらはじめからトルコから大きな犬を引き取ったりしなければいいのに。あの檻の奥で絶望的に眺めていたヴェルダの表情を思い出して、レオニーの心は痛んだ。虐待で母親や兄妹を失い、ようやく慣れたセンターから遠くスイスまでやって来たというのにまた別のセンターに逆戻りで、さらに生きられる保証もないなんて。レオニーは憤慨した。
レオニーは、急いでチューリヒに向かい、老婦人の話を聞きに行った。もう誰か引き取り手を見つけたのか、どのくらい時間の余裕があるのか知りたかった。
レオニーを見たヴェルダは、狂ったように尻尾を振って近づいてきた。老婦人は、驚いて言った。
「まあ、こんなに喜びを表現することもあるのね。大人しいけれど感情に乏しい犬だと思っていたの。今まで飼った犬みたいに、人なつこいと引き取り手も見つけやすいのだけれど、この子のように相手を選ぶとなかなかね。それにこんなに大きいし」
成犬になったヴェルダは、85センチもの体高になっていた。それにトルコでは牧羊犬として狼や熊にも立ち向かうといわれる勇猛さ故、子供のいる家庭では敬遠されるだろう。でも、それもわかっていて引き取ったはずなのに。
これからヴェルダは、どれだけ長く家族が見つからない不安な状態を過ごすのだろう。新しい飼い主が見つからなければ、邪魔者扱いされてこんな故郷から遠く離れたところで命を落としてしまうのだろうか。
「私が引き取ります」
ほとんど何も考えずにレオニーは口にしていた。老婦人は驚いた。自分でも驚いたが、もう後には引けない。
フライシュマン女史に報告したところ「おすすめじゃないわね」と言われた。関わる犬を全て引き取ることはできない、割り切ることも大切だと言うのだ。それはわかっている。でも、そうやって割り切って、後からまた嫌なニュースを耳にすることには我慢がならない。
それにヴェルダが茶色の瞳を輝かせて見ていたのだ。尻尾を振り、大きく口を開いて。
「おいで、ヴェルダ。はじめから私が飼えばよかったんだよね。私の住む村は、散歩するところもたくさんある。だから一緒に行こう」
白い大きな犬が、体当たりするように駈けてきた。まだ20キロくらいしかなかった頃によくしてきたように。50キロ近くになり、大きくてがっしりとした彼女の身体は、責任感の重さそのもののようだった。でも、きっと上手くいく。こんなに喜んでくれるんだもの。
レオニーは、思いがけず大型犬と過ごすことになる、大きな生活の変化に向けて、あれこれと思いを巡らせた。
(初出:2019年10月 書き下ろし)
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【小説】主よみもとに
「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。十一月はBYU Vocal Pointの “Nearer, My God, to Thee” にインスパイアされて書いた作品です。作品中に出てくる賛美歌は世界中で歌われていますが、この歌もその一つです。一番よく歌われるのはお葬式という特殊な賛美歌です。
歌詞はむしろ喜びに満ちているような歌なのですが、トーンはどちらかというと悲壮です。このギャップに私はいつも引っかかっていました。これが、この話で伝えたかったことと重なりました。これは「悲壮な幸福」の話です。
今回のストーリーは、名前だけを変えてありますが、私小説です。私の話ではないのですけれど。
追記に動画と、歌詞、そして意味がわかるように私のつたない訳を添えました。

主よみもとに
Inspired from “Nearer, My God, to Thee” by BYU Vocal Point ft. BYU Men's Chorus
私が海外に移住した時期と、シスター荻野が帰国したと母から聞いたのは、ほぼ同じ頃だったと思う。私の記憶の中のシスター荻野は、小柄なのにとてもエネルギッシュ、快活な女性だった。カトリックの小学校に通った私の身近には、白いくるぶしまである服を着て黒いベールを被ったシスターと呼ばれる修道女がたくさんいたので、彼女たちがどのような出来事をきっかけに修道の道に入ったのか、深く考えることがなかったように思う。
純潔を保ち、神に仕える。ありとあらゆる私欲を、今の私にとっては決して罪ではない、例えば「欲しいものを好きなだけ所有する」「大笑いするためだけのエンターテーメントを観にいく」「誰かを好きになる」「同僚達と一緒にムカつく上司の噂を肴にして呑む」といったことのどれもができない生活に自ら志願して向かう、覚悟のある人たちの心持ちをほとんど考えていなかった。
子供の頃の私にはわかっていなかった。たとえ善良な努力家であっても、世界に溢れる物質的または精神的な誘惑に抵抗し、世界とそこに生きる誰かのために己の人生を捧げることが、どれほど難しいことなのかを。
シスター荻野は、そうした修道女の中でも格別で、驚くべき熱意と克己心を持ち、その人生を神に捧げる道を邁進し、行動に移した。ブラジルの貧民窟にある修道院に志願し赴任したのだ。
子供の頃に考えていたほど、宗教の世界は徳と善良だけが支配する世界ではない。それは、他の宗教と同様にカトリックも例外とはならない。免罪符の販売に象徴された中世における腐敗とは違うかもしれないが、十三億もの信者を抱える大きな組織には、階級もあり、それに伴い莫大な資金の動きもある。権力争いもあれば、栄華もある。
テレビに映り、みなに跪かれ、ジェット機で飛び回る有名な枢機卿もいれば、教会内での信者や他の聖職者を己の意のままにして満足する司祭もいる。また、オルガンの演奏者として名を成すもの、心ゆくまで学究にいそしむ学者型の聖職者もいる。学校の経営者として子供たちを厳しく導く修道女たちもいる。
どの生き方が正しい、またはキリスト者として間違っていると、私が断じることはできない。真面目な信者とは口が裂けてもいえない俗物である私と違って、信仰と祈りによってその道に邁進している人たちは、それぞれに信念に従って正しいことをしているのだから。
ただ、『選び取った苦難』の一点だけにこだわれば、現代においては、その道を選ぶキリスト者は少ない。
「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る門は広く、その道は広々としており、そこを通って入る者は多いからだ。 命に至る門はなんと狭く、その道はなんと狭められていることか! それを見いだす者は少ない」(マタイによる福音7章13-14節)
マタイの福音書で、有名な『山上の教え』の一つとしてイエス・キリストが語っている言葉を実践することは、非常に難しい。恵まれた世界に生を受けたにもかかわらず、自ら苦難に向かっていくことは非常な思い切りを必要とする。
シスター荻野は、その道を選んだのだ。日本にいて、ごく普通の修道女として信仰に満ちた生活を送る事もできたのに、それでは自分にできる全てを差し出したことにはならないと、敢えて志願したのだ。
彼女のことを思い出すとき、母が段ボールに詰めながら私に見せた古着やタオルのことが脳裏に蘇る。母は、シスターからの手紙を読み、支援物資を集め、教会を通してブラジルに送る担当を買って出た。
「こんなよれたバスタオルやTシャツは失礼かと思っていたんだけれど」
私は目を丸くした。以前手伝った近所の教会バザーでは、新品に近い物以外は持ち寄ることはしない。売れないので結局主催者の邪魔になるからだ。その箱の中には、切って雑巾にでもした方がいいかと思うものもあった。
「色褪せた物どころか、穴の空いたものですら、有難いんですって」
新品はおろか、こぎれいな中古品を買うことすらもできない人々が溢れているという事実は、どこか別の惑星の出来事のように、私の観念からシャットアウトされ続けてきた。けれど、その箱は、わずか一瞬ではあるが、その遠い世界のことを私に想起させた。貧しく誰かの支援なしには生きられない人たちの、出口のない苦しみをほんのわずかだけ想像して、氣の毒に思った。そして、その世界と日々向き合い、異国で神と人々に奉仕し続けるシスターについての尊敬の念を深くした。
私にとっては、ほんのそれだけのことで、すぐに忘れ、いつもの飽食と怠惰な日々を過ごした。人生の全てを擲ち、貧しい異国の人々の救済のために捧げているシスター荻野のことは、それからしばらく忘れてしまっていた。
そのシスター荻野が、帰国したと母から聞いたとき、はじめは休暇の帰国なのかと思った。
「まさか。自分の休暇のために使える飛行機代があったら、貧民街の方のために使ったでしょうね。上層部からほぼ命令に近い形で送り返されたんですって」
「どうして?」
「ずっと帰国していなかったし、健康状態がよくないので精密検査をしなさいってことだったみたい……」
「ご病氣なの?」
「ええ。検査の結果ドクター・ストップで、海外赴任は禁止されてしまったらしいわ。本来ならとっくに定年になってるお歳だし、あんなに尽くされたんだし、ゆっくり養生して楽に余生を送っていただきたいと思うけれど、ご本人はブラジルに戻りたいと本当に悔しそうで」
「それで、今どうしてらっしゃるの?」
私が訊くと母は「U市の祈りの家ですって」と答えた。それは、高齢の修道女だけが住んでいる家で、いわば修道女達の老人ホームのような位置づけの場所だった。
次にシスター荻野の近況を耳にしたのは、週に一度していた母との国際電話でだった。鍼灸院に私の姉が行ったときに偶然出会ったというのだ。腰が曲がって歩くのもやっとだったらしい。
それから、母は祈りの家にシスターを訪ね、歩くのもおぼつかないのに奉仕に加わろうとしていた様子を話してくれた。
「あんなに永いこと働きづめだったのだから、老後くらいはのんびりして欲しいと私たちは思うけれど、ご本人はまだ神様に尽くして働きたいのでしょうね」
「じゃあ、何か簡単な仕事をなさっているの?」
私が訊くと、母のトーンは暗くなった。今でも何かで奉仕したいと願うシスター荻野のことを、世話をしている若い修道女らが迷惑がってきつく当たっているようだと。
「意地悪をしているつもりではないんでしょうけれど、身体が動かないのに余計なことをするから仕事が増えると言わんばかりだったのよね。私たち古い信者や関係者は、シスターの素晴らしい働きのことを知っているけれど、若い人たちは昔のことなど知らないし、ご本人も謙遜して何もおっしゃらないみたいだったし」
なんて悲しい老後なんだろうと私は思った。母もそう思ったらしく、時おり訪問して、話を聞いたり教えを受けていたようだ。次に私が日本に行くときは一緒に訪問しようかと話をしていたのだが、元氣だった母が急逝してしまい、その約束は果たされなかった。
母の葬儀に際しては、急いで一週間だけ日本に帰国したので、シスター荻野の話題を姉としたのは、その次に日本に帰国したときだった。
「そういえば、お母さんと近いうちにシスター荻野の所に訪問したいって話したから、今から一人で行ってこようかしら」
すると、姉は首を振った。
「行ってもわからないと思う。三ヶ月くらい前に、鍼灸院の先生に聞いたんだけれど、認知症が進んでしまって、誰のこともわからなくなってしまわれたんだって。それを聞いて私も訪問を諦めたの」
どうして……。私は、シスター荻野の人生の苦難を思い、やりきれない心持ちになった。
努力が必ず報われるわけではないことくらい知っている。でも、因果応報の法則から考えれば、あれほどまでに人のために尽くし、キリスト者としての理想的な生き方を続けてきた彼女には、笑顔と尊敬に囲まれた穏やかな老後が相応しいと思っていた。こんな人生の最終章は、あまりにも酷だ。
亡くなった母の葬儀で聴いた「主よみもとに」の歌詞が心に響く。
主よ、みもとに 近づかん のぼるみちは 十字架に
ありともなど 悲しむべき 主よ、みもとに 近づかん
さすらうまに 日は暮れ 石のうえの かりねの
夢にもなお天を望み 主よ、みもとに 近づかん
主のつかいは み空に かよう梯 の うえより
招きぬれば いざ登りて 主よ、みもとに 近づかん
目覚めてのち まくらの 石をたてて めぐみを
いよよせつに 称えつつぞ 主よ、みもとに 近づかん
うつし世をば はなれて天がける日 きたらば
いよよちかく みもとにゆき 主のみかおを あおぎみん
(カトリック聖歌 658番 / 讃美歌 320番)
葬儀では、たいてい歌うので、亡くなった人のための曲のように錯覚するが、これは生きている信者達がどのように生きて死を迎えるべきか思い新たにするための歌なのだ。
キリスト教の、そしておそらくシスター荻野が考えていた幸福とは、おそらく私の感じる幸福とは違うのだと思う。現世での因果応報や、人々に認められて尊敬されることも、穏やかで健康な老後も、その他、私がそうだったらいいと願うよりよい人生の終わり方も、真のキリスト者の目指すべきものではないのだろう。
幸福といえば、健康で衣食が満たされ、栄誉を授けられ、氣の合う仲間やお互いを大切に思う家族に恵まれるようなことをすぐに思い浮かべるが、キリスト教の教えではそれは真の幸福ではない。イエス・キリストが人類のために無実の罪で十字架の上で命を失ったように、使徒やそれに続く信者達が迫害に屈せず殉教したように、断固として教えの道に忠実に生きて命を捧げ、最後の審判で認められて天国に受け入れられることこそが幸福なのだ。
もちろん過去から現在に至る多くの信者は、その様な生き方はできない。かなり善良な信者でも、良心に恥じない、つまり「盗まず」「殺さず」「姦淫せず」程度のさほど難しくない戒めを守り、時おり貧しい者を心にとめて慈善行為をしたり、時おり思い出したように祈りを唱えたりして、自らの至らなさに心を留めるのが精一杯だ。ついつい食べきれないほどの豪華な食事を食べてしまったり、恵まれた人たちを妬んでしまったり、嘘をついてしまったりと、小さな罪をも重ねつつ、それでもできることなら死んだら地獄には行きたくないと、都合のいい望みを抱く。
そうした何億人もの「正しい信者になりたくてもなれない人びと」、聖書のいうところの広き門から入り楽に暮らす人々を見つつも、一線を画して真のキリスト者を目指すことは、厳しく孤独な道行きだ。生きているうちに尊敬され報われるのではなく、一人狭き門と険しい道を選び続け、惨めな生の終わりすらも神の国へ至る途上だと喜ぶのはなんと難しいことだろう。
身体がボロボロになるまで働き、邪険に扱われ、お荷物と見なされていることを肌で感じ、働きたくても身体が動かなくなったことを嘆くシスターには、忘却は一つの救いなのかもしれない。一足先に旅立った母は言っていた。あの方こそ、神の国に迎えられるのに相応しいと。
他の誰かが天国に行くのかは知らない。惜しまれて立派な葬儀で送り出された人のことも。けれども、ゆっくりと旅立とうとしているシスター荻野の行く先については、私は亡き母と同じ意見を持っている。
(初出:2019年11月 書き下ろし)
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【小説】新しい年に希望を
「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。十一月はABBAの “Happy New Year” にインスパイアされて書いた作品です。年末年始にはよく流される曲ですけれど、よく歌詞を読むと「ひたすらめでたい」曲ではないのですね。
縁起を担ぐ日本に限らず、どこでもクリスマスやお正月、それに各種のお祝い事にはネガティヴなことを言わないようにする傾向がありますけれど、暦上のどんな日であろうと「ちっともめでたくなんかない」日々を過ごしている人もいて、でも、それが文句を大声で言うほどではない、ということも。
今年最後の小説ですが、そんな中途半端な小市民たちが、暦の一区切りで氣持ちを新たにしたいと願っている姿で終わりにしたいと思いました。

新しい年に希望を
Inspired from Inspired from “Happy New Year” by ABBA
おせちの重箱は二段にした。三段にするとスカスカになってしまうから。一人で迎えるのだから、たくさん買ってもしかたない。一人に戻って以来、あれこれ切り詰めてきたので、デパートやスーパーで予約をしている立派なおせちを買う案は却下した。かといって、いくつものおせち料理を一人用に作るのも大変なので、スーパーで一口サイズのパックをあれこれ買って詰めることにした。お煮しめだけは自分で作る。スモークサーモンやローストビーフ、それに白ワインも買ってきて冷蔵庫にしまった。
普段は買わない高級レトルトカレーや、コタツに籠もる時用にミカンも用意した。一人の年越しをとことん楽しむつもりだ。
もともと本家で繰り広げられる親戚の集まりなどは苦手だったし、だから独り立ちすると同時に東京に出てきたのだ。帰らずにすむのはありがたい。普段なら「帰ってきなさいよ」と口うるさいお母さんをはじめ、今年は誰も帰ってこいとは言わない。それはそうだろう。
従姉妹の絢香はダブルおめでたで、かねてからの願い通り大がかりな華燭の宴を開いた。伯父は代議士なので地域の名士が悉く参列して祝った。今も本家では彼女と初孫を中心にいつものように格式を重んじたお正月迎えに余念がないことだろう。
去年は、私に注目が集まっていた。結婚して初めて夫だった志伸を連れて行ったお正月。かつては目立たなかった私が、東京でエリート官僚と結婚したというので、親戚のおば様方からちやほやされた。絢香は面白くなさそうにしていたが、彼女らしいやり方で注目を自分に向けることに成功した。
とにかく今年の本家では夫婦となった志伸と絢香が、去年のことなど何もなかったかのように「めでたいお正月」を祝うのだから、私の登場など誰一人として期待はしていないだろう。これで二度とあの面倒くさい盆暮れの里帰りをしなくて済むようになったと思えば、そんなに悪いことではない。
お金持ちやエリート官僚と結婚したかったわけじゃない。たまたま東京に出てきて大学で出会い、それ以来ずっと一緒にいて仲良く笑い転げた人が、いつの間にかそういう立場になっていただけ。私にとって志伸はいつも志伸だったから、私がその隣には相応しくなくなっていたことに、氣が付かなかった。
「どう謝ったらいいのかわからない」
彼は下唇を噛みしめた。彼女の方が将来に役に立つから乗り換えたわけではない、ほんの出来心のつもりだったのに、子供ができてしまったと。それが本心かどうかなんて確かめようはない。それにどちらにしてももう全て終わったのだ。志伸にとって私との未来は消えて、絢香と子供との未来ができた、それが現実なのだから。
大学の仲間にとっても、親戚にとっても、私は「めでたさに水を差す存在」になったのが腹立たしくて、私は距離を置くようになった。
チャイムが鳴った。誰だろう?
「リカ! いるぅ?」
声を聴いてすぐにわかった。佑輝だ。すぐに玄関に向かう。ドアを開けると、彼は綺麗なポーズで立っていた。紫のコートにピンクのフェイクファーを巻いた独特な出で立ちにギョッとする。
「どうしたの?」
「どうしたのって、アタシも仕事を納めたし、侘しい独り者同士で年越そうかなって」
佑輝はウィンクした。
大学以来、ずっと仲間として楽しくつきあっていたけれど、私と志伸が結婚して以来、しばらく疎遠になったのは、なんとなく彼も志伸のことを好きだったのではないかと感じたからだ。新婚家庭にも他の仲間のように招べないでいた。だから、会うのは結婚式以来だ。
「入って、入って」
「お邪魔しまーす。あ、これ、冷蔵庫に入れてね」
佑輝は、よく冷えたシャンペンを差し出した。2020と大きく書いてある。カウントダウン用か。白ワインの瓶の位置に入れた。冷えているワインは出してコタツのテーブルに置く。
「へえ。いい部屋じゃない。ここは、もらったの?」
佑輝はマンションの中を見回した。私は、いろいろとつまみを用意しながら答えた。
「もともとは共同名義だったんだけどね。従姉妹の実家がタワーマンション買ったの。だから、ここには私が続けて住んでもいいって。まあ、慰謝料みたいなものかな」
乾杯をしてコタツに入ると、久しぶりに笑い転げながら近況を語った。そうだった。仲間で集まると、いつも腹筋が痙攣するくらい笑うことになるのだ。後から考えると何がそんなにおかしいのかわからないのだが。こんなに笑ったのは本当に久しぶりだ。
「でも、元氣そうでよかった。これでも心配していたのよ」
佑輝がニッと笑った。
私は、頬杖をついて彼を見た。
「意外だったな」
「何が?」
「ほかの仲間、みんな志伸とは連絡取っているんでしょう。あれから飲み会にも私はお声が掛からなくなったし。だから、佑輝が心配してきてくれたの、驚いた」
そういうと、佑輝はふくっと頬を膨らませた。
「アタシを見損なわないでよ」
ワインが回ってきたみたいで、力も抜けてきた。私の存在が迷惑っていうなら、親戚も大学の仲間もいらない。一人のクリスマスも、年末年始も大したことではない。そんな風に肩に妙に力を入れて、離婚騒ぎから今日まで走ってきたのかもしれない。
「佑輝は、私よりも志伸と仲良かったじゃない?」
そういうと、佑輝は笑った。
「大学時代は、確かにそうだったわ。でもね、アタシは、判官贔屓なの。それに、リカの氣持ちがよくわかるのよね。悔しくても悲しくても、つい虚勢を張っちゃって、いいわよ、好きにしなさいよって言っちゃうのよ、アンタもアタシも。志伸みたいな、デキるくせにどこか抜けていて、みんなに愛されて、結局美味しいところを持っていく男に弱いのも一緒でしょう?」
そうよね。一緒だ、確かに。
「本当はね。悔しかったし、凹んでいたのよね。でも、志伸があっちを選んだ以上、泣きわめいて大騒ぎしても、みっともなく見えるのは自分だけだし」
「アンタね。そういう時は、相手の女をビンタぐらいしても罰は当たらないわよ」
絢香にビンタか。やっておけばよかったかな。それも、結婚式の当日に手形のついた顔にしたりして。
「佑輝は、みんなと二次会行ったんでしょう? 絢香のこと、どう思った?」
佑輝は首を振った。
「そっか。志伸から耳に入るわけないわよね。みんな行くのを拒否したのよ。リカがかわいそうだって」
私は、かなり驚いて佑輝の顔を見た。彼は、空になった私のグラスに淡々とワインを注いだ。
「そうだったんだ。親戚筋からは、立派な式だった、幸せそうな二人だったって話しか入ってこなかったから、てっきり……」
「仮にもお祝い事だから、表だって非難したりする人はいないと思うけれど、祝いに来ないってことも、ある種の意見表明でしょう。大学時代の志伸は、本当にいい男だったもの、あんなことしてすぐに幸せいっぱいになれるほど、志伸の感性が鈍ったとは信じたくないわね」
佑輝の顔を見ながら、私は自分が現実を曲解していじけていたのではないかと訝った。自分だけが貧乏くじを引き、志伸は何一つ失わずに幸福を満喫しているのだと、どこかで考えていた。
「もっともみんなもね、志伸に制裁を加えようと示し合わせたわけじゃないのよ。それぞれがね、みんな集まるだろうから、せめて自分だけはリカの代わりに抗議してやりたいって考えたみたい。二次会、花嫁側の出席者ばかりで異様な感じだったって、後から幹事に恨み言いわれちゃったわ。身から出た錆でしょって突っぱねたけれどね」
私ですら、それは氣の毒かもと思った。志伸はみんなとの絆を本当に大切に思っていたから。絢香との新しい人生と引き換えに失いかけているもののことを考えたのかもしれない。
仲間との絆を彼は誇りに思っていた。おそらくそれは志伸にとって、絢香や伯父様、そして親戚たちの評価と違って、エリート官僚やお金のある後ろ盾を持つ存在であることよりも、ずっと価値のあることだったのだと。彼の二度目の結婚披露二次会は、新しい妻との幸福な門出であると同時に、そして築き上げてきた友情のごっそりと抜けた、苦さのある「人生最良の日」だったのだ。そして、それは今でも続いている。
彼が、どんな思いで、私とではない年末年始を迎えているのだろうと想像した。絢香と子供を氣遣いながら、去年は私の親戚だった人たちの複雑な腹の底を想像しながら座っていることを考えた。いい氣味だとは思わなかった。
「ありがとね」
私は、佑輝の顔を見ながら、彼のグラスを満たした。
「何に対して?」
「今夜、来てくれて。それに、私のことを氣遣ってくれて。私、仲間うちではほとんど存在感なかったし、心配してもらっているなんて、全然知らなかった」
彼は長いつけまつげを伏せた。
「アンタは確かに騒いだり、目立つタイプじゃなかったけれど、アタシはリカが仲間にいてくれて本当によかったと、当時から思っていたわよ」
「どうして?」
「アタシがカミングアウトしたときも、男装をやめて好きな服を着るようになった時も、アンタは変わらずに接してくれた。興味本位であれこれ詮索もしなかったし、恋バナにも当たり前みたいにつきあってくれた。他の仲間も、結局は受け入れてくれたけれど、リカが平然としているのを見ていなかったら、ドン引きされたままだったかもしれない」
新宿二丁目の店に勤めている佑輝は、今日も私よりもずっと綺麗にメイクして、洒落たパンツスーツを着こなしている。そんな彼も大学一年の頃は、短髪でTシャツとジーンズという、どこにでもいる青年の格好をしていた。当時から綺麗なモチーフ入りのジーンズや小物を選び、動きや語尾なども独特だったからもしかしたらと皆感じていたが、噂に過ぎなかった。三年生になる頃、何のきっかけだったか忘れたけれど、あっさりとカミングアウトしてからは、服装も話し方もどんどん変わった。
当時の私が、その佑輝の変化に戸惑わなかったといえば嘘になる。でも、大切な仲間の一人が、いいにくいことを打ち明けてくれたのに、嗤ったり無視したりするようなことはしたくなかった。そんな薄っぺらい友情じゃないという自負もあった。私は目立たず、仲間うちで一番どうでもいい存在だったから、そのことを佑輝が憶えていたのがむしろ驚きだった。
「そうか。私ね。みんな失ったと思っていたんだ。親戚は絢香を選ぶだろうし、みんなは今後も志伸とつきあいたいだろうし、私の居場所はどっちにもなくなったなって」
「ふふ。アタシの居場所ですらなくならなかったんだもの、大丈夫よ」
そうか。私の居場所はなくならなかった。それに、たぶん志伸にとっても、離婚は私との関係以外の何かの終わりじゃないんだ。
彼が、新しい友との絆を持つには、もしくはかつての仲間たちと昔のように笑い合えるようになるまでには、おそらく長い月日を必要とするだろう。
でも、きっと彼は惜しまずに時間をかけて、仲間との絆を回復するだろう。そして、今の居たたまれなさは時間と共に薄まっていき、新しい彼の人生は「これでよかったんだ」と思えるものに変わっていくのだろう。私の人生がそうであるべきように。彼と一緒にやっていけなかったのは残念だけれど。
「ねえ、佑輝。来年の抱負をきかせて」
私は、彼のグラスを満たした。
彼は少し勿体ぶって話し出した。
「そうね。アタシ、店を変わる予定なのよ。ちょっと世話になった人に頼まれてね」
「えっと、もしかしてママになるとか?」
「あはは。残念、チーママってところかしら」
「えー、それでもすごいじゃない。私も行ってもいい? それとも女は禁制?」
佑輝は、艶やかに笑った。
「そういうおかしな垣根のない店にしたいって、立ち上げメンバーと話しているの。アンタも、ほかのみんなも、それに志伸も、来たい人はみんなウェルカム。アンタこそ、それじゃ来たくない?」
私は首を振った。
「ううん。私か志伸かどっちかが遠慮しなくちゃいけないのは嫌。でも、私の方が先に常連になりたいなあ。で、やってきた志伸に、ああ、あなたも来たのねって、余裕で言いたい」
佑輝は、ゲラゲラ笑った。
「いいプランじゃない。じゃあ、オープンから通ってもらうわよ」
除夜の鐘が鳴り出した。おしゃべりに夢中になっているうちに紅白を見逃したらしい。私は、佑輝の持ってきてくれたシャンパンを冷蔵庫から取り出してきた。去年から一度も使っていなかったフルートグラスを戸棚から取り出す。これ、志伸が大切にしていたやつだ。「特別な日はこれで乾杯しないと」が口癖だった。今ごろこのグラスを置いてきてしまったことを考えているのかな。それとも伯父さんにお酌するのに忙しくて、そんなことは忘れているかしら。
佑輝は、慣れた手つきでコルクを抜くと、綺麗にグラスを満たしてくれた。人生最低だと思った年は終わった。壊れてしまった関係も、見捨てられて惨めだと思っていた自己憐憫のループも、終わったこととして思い出ボックスに閉じ込めてしまおう。
「明けましておめでとう、佑輝、今年もよろしく!」
「おめでとう、リカ。いい年になりますように」
そうだね。私も、佑輝も、仲間のみんなも、田舎のお父さんお母さんも、そして、私と年末年始を過ごしたくなかった人たちも。それぞれのよりよい未来に向けて、別々に歩いて行くのよね。みんなにとって、いい年になりますように。
(初出:2019年12月 書き下ろし)
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