霧の彼方から あらすじと登場人物
【あらすじ】
グレッグと婚約しケニアに戻ってきたジョルジアは、結婚する前に彼が青春を過ごしたイギリスを訪れる。前作でお互いが必要な存在であることを確信した二人が、婚約中に更にお互いに対する理解を深めていく。
【登場人物】
◆ジョルジア・カペッリ(Giorgia Capelli)
ニューヨーク生まれの写真家。イタリア系移民の子。人付き合いは苦手だが、最近作風を変えて人物写真に挑戦している。
◆ヘンリー・グレゴリー(グレッグ)・スコット(Dr. Henry Gregory Scott)
ケニア在住の動物学者。専門はシマウマの研究。撮影でケニアに来たジョルジアと出会った。ジョルジアと婚約中。
◆レベッカ・マッケンジー(Rebecca Mackenzie)
グレッグの実母。ケニアの動物学者ジェームス・スコット博士と離婚後、グレッグを連れてイギリスに戻りマッケンジー氏と再婚した。バース在住。
◆マデリン・アトキンス(Madelyn Atkins)
オックスフォードに住む女性。
◆レイチェル・ムーア(Dr. Rachell Moore)
ツァボ国立公園内のマニャニに住む動物学者で象の権威。
◆マデリン(マディ)・ブラス(Madelyn Brass-Moore)
レイチェルとジェームスの娘。夫はイタリア人のアウレリオ・ブラスで娘メグと息子エンリコの二児がいる。
◆アンジェリカ・ダ・シウバ
ジョルジアの妹アレッサンドラと、サッカー選手レアンドロ・ダ・シウバの娘。
◆マッテオ・ダンジェロ
本名 マッテオ・カペッリ。ジョルジアの兄。健康食品の販売で成功した実業家。
◆リチャード・アシュレイ
ナイロビの旅行エージェント。アウレリオ・ブラスの親友。グレッグとはオックスフォード大学時代からの知り合い。
◆ウォレス・サザートン(Dr. Prof. Wallace Zachary Sotherton)
グレッグの大学時代の
【用語解説】
◆《郷愁の丘》
ケニア、ツァボ国立公園の近く、グレッグの住んでいる地域の名称。
この作品はフィクションです。アメリカ合衆国、グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国、ケニアの実在の人物、大学、飲食店ほかいかなる団体や歴史などとも関係ありません。
【プロモーション動画】
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【関連作品】
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![]() | 「ファインダーの向こうに」を読む あらすじと登場人物 |
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【小説】霧の彼方から(1)プロローグ
この小説は、「ファインダーの向こうに」「郷愁の丘」に続く作品という位置づけになっています。「ファインダーの向こうに」を読まなくても「郷愁の丘」は問題なく読めるように書いたつもりですが、この作品に関しては先に「郷愁の丘」をお読みになることをおすすめします。少なくとも「郷愁の丘」のネタバレ対策は一切していませんのでご了承ください。
![]() | 「霧の彼方から」を読む あらすじと登場人物 |
霧の彼方から(1)プロローグ
Are you going to Scarborough Fair?
Parsley, sage, rosemary and thyme,
Remember me to one who lives there,
For she once was a true love of mine.
スカーバラの市場へ行くのかい
パセリ、セージ、ローズマリー、そしてタイム
あそこに住んでいるとある人によろしく言って欲しい
彼女はかつて僕の恋人だったから
Scarborough Fairより
わずかに色を変えていく雲の裏側を見ながら、ジョルジアは落ち着かない心持になった。写真家としてあちこちを旅し、世界各地の夜明けの風景を目にした回数は一般的なアメリカ女性よりずっと多い。いま目にしている朝焼けは、おそらく平凡な方だ。《郷愁の丘》で見た人生を変えるほどの光景はもとより、おそらく先日ニューヨークのフラットのそばで見た夜明けよりも印象に残らない色合いだった。
けれど、どこかたまらなく感じるのは、彼女の心が騒いでいるからだ。マリッジ・ブルーとは違う。違うと思う。彼女はこれまで婚約をしたことはなかったので、マリッジ・ブルーに対する経験が豊富というわけではない。だが、少なくとも隣に黙って座っているグレッグと人生をともにする事に対して疑問を持ったり不安に思ったりしているのではないことだけは確かだ。
彼は、黙って広がる雲を眺めている。その下には彼が多感な時期を過ごしたイングランドの平原が広がっているはずだ。彼の心にはどんな想いがよぎっているのだろう。学会などのためではなく、本当に久しぶりに、彼は「帰る」ためにこの国を訪れるのだ。
当初の予定では、二週間後に控えた結婚式のために、《郷愁の丘》からニューヨークへと直行するはずだった。その予定を変更して一週間ほど彼の育ったイギリスへ行く事を直前に決めた。彼が、それを必要だと思ったから。そして、ジョルジアもそれは正しいと思ったから。
そして、それだけではなかった。彼女の心の奥に沈んでいる想いがあった。
目の前のスクリーンでは、イギリスの観光地を案内するショートムービーがかかっていた。感情を抑えた男性の声で歌う「スカボロ・フェア」に合わせてイングランドやスコットランドの観光名所が次々と映し出される。
『パセリ、セージ、ローズマリー、タイム……』
愁いを帯びた有名なメロディが響く。
『とある人によろしく言って欲しい……彼女はかつて僕の恋人だったから』
ジョルジアは、その歌詞に心乱された。自分の想いがくっきりと浮かび上がってきたから。
彼の過去に対するわずかな好奇心。不安。この国にいた時に、彼がずっと若かった頃、その繊細な心を震わせた出来事。重石で蓋をしてしまわねばならなかったほどに苦しみ迷った若い青年の心の軌跡。知らないままでいた方がいいのだろうか、それとも、知りたくてたまらないのだろうか。
昨夜ナイロビを発った機体は、地上よりも少し早く朝を迎えようとしていた。ジョルジアは刻一刻と色を変えていく窓の外の光景を眺めながら、飛行機がゆっくりと降下を始めた事を感じた。
雲の中に入った途端、輝かしい朝の光は消え去り、灰色の暗く憂鬱な霧が窓の外に広がった。窓は斜めに軌跡を描く雨に覆われていく。機内は揺れ、ジョルジアは不安な面持ちで窓の外を見た。
やがて揺れは収まり、新緑の絨毯がどこまでも広がるイングランドの平原が眼に入った。それは濃い霧に包まれてひどく秘密めいていた。
彼女は、この旅の始まりについて想いを馳せた。
【小説】霧の彼方から(2)はじめての夜と朝 - 1 -
私の小説ではかなり珍しいのですけれど、この「はじめての夜と朝」には明確に性的描写があります。近年の中学生が読んでいるマンガに比べても大したことのない描写ですが、それでも、苦手な方はいらっしゃると思うので、氣を付けてください。なお、この回を飛ばしても読めないことはないのですが、どうでしょうね。先を読む意味はないかもしれませんね。
三回にわけます。今日の部分は前作で一番盛り上がった部分のおさらいですね。
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霧の彼方から(2)はじめての夜と朝 - 1 -
それは、二人の関係が変わった、あの夜に始まった想いだ。二人のつながりが決定的になり、人生をともに生きる事も現実的になった夜。抽象的な感情が、肉体的なつながりと統合された特別な夜と朝。彼女のコンプレックスが、霧や塵のように彼によって拭われて消えていった。
ジョルジアは、旅先のイタリアから彼の住むケニア《郷愁の丘》へと向かった。そして、その行動によって二人のあいだの楔は取り除かれ、新しい扉が開かれた。もうとっくに不自然になっていた「ただの友達」という覆いを取り去って、お互いの中にある強い思慕を表明することになった。
キスをして、抱き合い、笑い合うところまでは、あっけないほどに簡単に進んだ。ジョルジアが来るとは知らずに午睡をしていたグレッグは、目の前に突然現れた彼女を夢と間違えて、ずっと隠していた情熱を形にしてしまったから。
そんな形で、関係が急激に進んでしまい、恋の歓びにただ浮かれていたので、夜が来てジョルジアは現実的な問題を認識して青ざめた。そもそも、彼に愛されている事を知りながらずっとはぐらかしていたのは、彼女の肉体問題に触れずに済むからだった。その問題はあまりにも深く彼女を傷つけていたので、口にすることすらできなかった。
彼女の左の脇から臍にかけての広範囲に生まれながらにしてある、赤褐色の痣。十代の終わりに施した手術の後、それはゴツゴツと立体的になり、それまでよりももっとグロテスクな様相を示していた。十年以上前に、恋愛関係になりかけていた男にひどく傷つけられて捨てられて以来、彼女は肌を誰かに見せることも、恋愛関係を持つこともできないでいた。
夜の帳が降りて、満天の星空が《郷愁の丘》を包んでいた。以前のように二人はテラスでワインを飲んだ。以前ジョルジアが滞在した時と違ったのは、二人の座る位置だった。テーブルを間に挟むことなく並んで座り、彼はそれまでの遠慮を取り払い彼女の手に彼の掌を重ねた。彼女は、時折、彼の肩に頭をもたせかけ、サバンナが月の光に照らされて秘密めいて輝くのをともに眺めた。
ワインが空になり、二人の会話はわずかの間、途切れた。彼は、微かに躊躇いながら言った。
「すっかり遅くなったね。疲れているだろう」
二人共、どこで眠るのか、その話題をその時点まで延ばして触れないようにしていた。ジョルジアは、うつむいた。突然、ジョンに素肌を見せることになった、あの苦しい思い出が脳内に蘇った。浴びせられた罵倒と、心底嫌がっている歪んだ表情の残像が十年以上の時を飛び越えて襲ってきた。彼女は震えた。
それでいながら、すぐ横にいる傷つきやすい繊細で善良な恋人の願いのことも考えた。彼女のために三年間も想いを抑えつけ続けてきた彼に、いま再び拒絶することの残酷さをも考えた。彼女が拒否してはならないと、魂が訴えていた。拒絶するのは彼の方でなければフェアではないのだと。
「明日も早いのよね。もうベッドに行かなくちゃ……」
彼は、彼女の言葉にぴくっと震えた。
彼女は、グレッグを見あげて硬く無理に微笑んだ。
「シャワー、使っていい?」
「もちろん。タオルやバスローブを用意するよ」
まだどちらも、どの部屋で、一人で、または二人で一緒に眠るのかという話題には触れなかった。
彼女は、シャワーを浴びながら、考えた。恥ずかしいと言って、電灯を全部消してもらえば、少なくとも今夜はあれを見せずに済むかもしれない。
それから、自分の掌が脇腹に触れて、そのゴツゴツとした肌触りを感じて絶望した。ダメだわ、隠せるはずなんかない。こんなものに触れたら、ぎょっとして何ごとかと思うはずだもの。
ジョンに見られた時のあのカタストロフィを避けられないことがわかり、彼女は全身から力が抜けて、ひどく震えてくるのを感じた。それから、突然、もう何年も起きなかった、眩暈と悪寒が起き、世界がぐにゃりと歪んでいった。
シャワーの水滴が針のように彼女を襲った。タイルの壁は冷たく非情な監獄になり、彼女は息ができなくなった。彼女は、何かにつかまろうとして、反対にあらゆるものを倒しながら床に崩れ落ちていった。大きな音をさせて落ちたシャワーヘッドは蛇のようにうごめいた。
【小説】霧の彼方から(2)はじめての夜と朝 - 2 -
R指定と書いたものの、そうでない部分に記述が集中しているので、結局今回も出てこない……。出てきても大したことはないので、来週にあまり期待されると困るのですが。きっかり三等分できず、今回は少し長いです。
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霧の彼方から(2)はじめての夜と朝 - 2 -
息ができない。苦しい。助けて。
シャワールームのドアノブをつかもうとしている時に、扉の向こうに走ってくる音が聞こえた。グレッグだ。
「ジョルジア、ジョルジア。どうしたんだ。大丈夫なのか。問題があるなら、ここを開けてくれ」
彼女はなんとか半分立ち上がると、ドアノブを必死で回し、自分でドアを開けた。彼は、助けを求めて倒れかかってきた彼女を受け止めた。
彼女の呼吸困難で硬直した様相と同時に、脇腹の広範囲な痣に彼はショックを受けた。
「どうした。火傷をしたのか」
シャワーが熱すぎたと思ったらしい。もちろん温度は特に熱すぎはしなかった。
その痣の色は強烈で、その大半にボコボコとした丘のような部分があるためにグロテスクではあるが、出血したり爛れて炎症を起こしているような類いのものではない。
彼女の明らかにおかしい様相がその肌のせいでないことを彼はすぐに理解した。それはもっと内的な苦痛のようで、息苦しさに怯え、筋肉を硬直させて、彼にしがみついていた。
彼は直に、彼女が過呼吸の状態に陥っていることを見て取った。息ができなくて苦しいので死ぬかもしれないと恐怖からパニックに陥りとにかく吸おうとしている。そのために浅く引きつけるように呼吸することになり余計に吸えなくなる。
「落ち着いて。ゆっくり息をすれば大丈夫だから」
彼は、座り込んだ彼女をしっかりと抱えて、彼女が不安を消せるように力強く言った。
彼女は、頷いた。過呼吸になったのは初めてではないので、どうすべきかは頭ではわかっているのだ。
彼は、手を伸ばしてシャワーを止めると、彼女の背中をさすりながら一緒にゆっくり息を吐くリズムをとった。彼女は、それに合わせようとした。初めは難しかったが、やがて同じリズムになってきた。
数分後には彼女の発作は治まった。彼女はまだひどく震え、グレッグのびしょ濡れになったシャツにしがみついている。
彼は彼女を助け起こし、浴室から出る時にバスタオルで彼女を包んで、まずリビングのソファに座らせた。それからバスローブを持ってくるとそれを着せて、バスタオルで濡れた髪や顔を優しく拭いてから、抱き上げて客間のベッドに連れて行き、寝かせてシーツをかけた。
彼女はぐったりとして、瞳を閉じた。
彼が連れてきたのは、一年半前に初めて《郷愁の丘》に来た時にずっと滞在した、見慣れた部屋だった。あの時、この部屋のドアは、彼の想いを知っていたジョルジアにとって、彼の存在を遮断し身の安全を保障したが、今度はその反対だと感じた。
きっとこれでおしまいだ。彼は、私を今迄と同じようにただの友人として滞在させ、何もなかったことにするのだろう。泣いてはいけないと自分に言いきかせた。彼に罪悪感を植え付けることになり、フェアではないから。
彼に痣の事を黙ったまま愛してもらおうと企んだ報いだ。あんな形で、電灯の下で肌を彼に見せることになるなんて。あの発作は十年以上起こさなかったのに。
「落ち着いたかい」
「ええ」
瞼を開けると彼は、濡れたシャツの上から、タオルで上半身を拭いていた。心配そうに覗き込む瞳が見えた。
「パニック障害の呼吸困難なの。もう治ったと思っていたのに」
ジョルジアは告げた。
「苦しかっただろう。寄宿学校時代の同級生が同じ発作を何回か起こした。それですぐに過呼吸の症状だとわかった。彼の件がなかったら対処方法がわからずにオロオロしただけだったろうな」
「自分でも、ゆっくり呼吸しなくてはいけないと知っているんだけれど、パニックに陥っているとできなくなるの。助けてくれて、本当にありがとう」
彼の優しいいたわりは、苦しみと絶望でささくれ立った彼女の神経を落ち着かせていった。かつて彼女を罵倒して追い出した男と同じものを目にしたのに、グレッグの表情や声色には恐怖や怒りは全く感じられなかった。
「もし君が一人で眠るのが怖いならば、今晩はずっとここに控えていてもいい」
「無理しないで。大丈夫だと思うから。うんざりさせてしまって、ごめんなさい」
「何の事を言っている?」
また不安と悲しみが押し寄せてきた。シーツに顔を埋めてようやく答えた。
「何度も話そうと思ったんだけれど、勇氣がなかったの。ごめんなさい。初めからちゃんと醜い化け物だと言っていたら、あなたは私なんか好きにならなかったでしょうし、こんなに長く苦しむこともなかったのよね」
グレッグは、心底驚いた様子ですぐ近くに座ると、とても真剣な顔で訊いた。
「あの肌のことか? まさか。誰がそんな事を?」
ジョルジアは、顔を上げることができた。これまでと変わらない優しい瞳が見つめていた。彼女は小さい声で答えた。
「十年以上前に、初めて付き合った人と夜を過ごすことになって……。その人は悲鳴をあげたわ。そして、こんな化け物を愛せる男なんかいないって」
「そんなひどい事を」
「私は、自分では子供の頃から見慣れていたから、そこまでおぞましく見えるとは思わなかったの」
彼は首を振った。
「痛々しいとは思ったけれど、醜いとは思わなかったよ。本当だ」
「でも、そう言われて嫌われて、どうしていいかわからなくなってしまったの。その事を思い出す度にさっきみたいに息が出来なくなって、しばらくクリニックに入院したわ。退院してからもずっと人前に出られなかった。ずいぶんよくなって、今は仕事もできているし、普通の生活はできるようになったの。でも、もう誰かにこれを見せることは二度とないと思っていた。恋もしないはずだったのに」
彼は、ようやく理解した。パニック症候群の引き金となったのは受けた心の傷で、素肌を見せる不安から今夜再びフラッシュバックを起こしたのだと。彼は、そっとジョルジアの頬に手を添えた。
「今でもその男が恋しい? その男に愛してもらえないと君は救われないのかい」
彼女は、首を振った。涙が頬を伝わった。
「いいえ。ジョンのことは、もう何も。嫌われていたって、構わないの。ただ、好きな人に、あなたに、こんな体でも愛してもらえたらいいのにと願っていた。でも、生理的に受け付けないものはどうしようもないって、わかっているの。冷めてしまっても当然だと思うわ」
「そうじゃない。僕は、体調の悪い君に無理をさせたくないだけだ。君が望むなら、もちろんすぐにでも……」
そういうと、顔を近づけてきて先程よりも情熱的に口づけした。ジョルジアは、恐る恐る彼の髪と顎髭に指を絡ませてそれに応えた。彼はベッドに上がってこようとして、動きを止めた。服から水が滴っていた。
ジョルジアが不安な様子で見つめると、それを打ち消すように口角を上げて言った。
「僕もシャワーを浴びてくる。待っていてくれ」
彼女は、ホッとしたまま瞳を閉じると、彼が部屋から出て行く音を聴いた。
【小説】霧の彼方から(2)はじめての夜と朝 - 3 -
しつこく予告してきましたが、今回は一応R指定です。性的描写が苦手な方はお氣を付けください。といっても、大した描写ではありませんが。
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霧の彼方から(2)はじめての夜と朝 - 3 -
それからしばらく時間が経ったらしい。安堵してリラックスしたのか、ウトウトしたようだった。再びドアの開く音がして意識が戻った。ジョルジアは瞼を開けて、彼が入ってくるのを見た。電灯はいつのまにか消えていて、ロウソクの光がサイドテーブルのあたりだけを浮かび上がらせていた。
彼はそこにそっと水の入ったグラスを置いた。彼女の不安で強張った表情を見ると、ベッドの端に腰掛けて微笑んだ。
「ただ眠りたい?」
彼女は、首を振ると彼に向かって手を伸ばした。彼は頷いてバスローブを脱いで椅子にかけると、サイドテーブルに置いたロウソクを吹き消した。その時に、ジョルジアには彼の何も身につけていない肉体が見えた。初めて見る彼の下半身も。同情でも憐憫でもなく、彼の肉体が彼女を欲しがっている証を見て、ようやく彼女は愛されなかった記憶の呪縛から解放された。
蝋の香りが満ちて消えた。その灯りが消えても暗黒にはならなかった。窓から月の光が差し込み、寝室は青く照らされた。シーツに彼が滑り込んできて、熱を持った腕と胸に抱きしめられた。彼はもう一度貪るように口を吸うと、彼女がまだ纏っていたバスローブを脱がせて、抱きしめた。肌と肌が触れ合った時は、電流が流れたようだった。静かな部屋に自分のものとは思えぬため息が響いた。
彼の温かい大きな掌が、彼女の肩を通り、滑るように左の乳房を包んだ。僅かに乳首の近くに指が触れただけで、反応するのがわかり彼女は頬を赤らめた。その指はそこに止まらずに、乳房の下に向かい、普通の女性のそれとは違いザラザラとした痣の始まりの部分に触れた。
「痛みや不快感はないかい?」
彼の囁きに、彼女は首を振った。
「いいえ。触覚は普通の肌と変わらないの」
青白い光の中に浮かび上がる優しい瞳が輝いた。
「そうか」
それから、彼は、彼女を苦しめ続けてきたその肌に口づけをした。甘美な悦びを、そこから教えられるとは夢にも思わなかったジョルジアは、愛されるということがどれほど幸せなのかを知り、もう一度、涙を流した。
目が覚めた時、最初に躰の間に疼く痛みを感じた。それから、昨夜に初めて知った肉体の悦びの事を思い出して微笑みながら横を見た。そして、グレッグと目があった。
「おはよう」
彼は穏やかで優しい。
ジョルジアは、はっとした。もうずいぶんと陽が高い。いつも朝焼けの中をルーシーと散歩している彼には遅すぎる時間だ。
「ごめんなさい。もうこんな時間! ルーシーが怒っているかも」
彼は笑った。
「僕が、人生で一番幸せな朝を過ごしている間くらい我慢して待ってくれると思う。今までの夢と違って、朝目が覚めても君は消えないんだ」
ジョルジアは、彼の胸に顔を埋めて呟いた。
「あなたはとても優しいのね」
「どうして」
彼の質問にどう答えていいのかわからなかった。以前、彼と愛しあった女性はどんな人なのだろう。年甲斐もなく初めての痛みに呻いて興ざめさせたりしなかっただろうし、リードしてもらうだけではなく彼を悦ばせることもできただろう。彼はその人と満ち足りた夜と幸福な朝を経験したはずだ。
「またチャンスをちょうだい。あなたが満足できるように、努力するから」
ジョルジアは自信なさげにつぶやいた。彼は、意味がわからないという顔をしていたが、はっとして、顔を赤らめた。
「僕こそ……。あまり幸せで、その……いろいろと見失ってしまって、すまない」
ジョルジアは、彼の顔をじっと見つめて微笑みながら首を振った。昨夜の彼は、まるで別人のようだった。いつものように思いやりがあり優しかったが、映画の中のヒーローのように、能動的で、躊躇することなく彼女をリードした。
今朝の彼は、少し自信がないような、いつもの彼に近い振る舞いだ。ジョルジアは、どちらの彼のことも、それぞれに心地よく愛しいと思った。
「私もよ」
彼女は、しがみついた。彼は笑顔になり、彼女を抱きしめてキスをした。そのまま二人でまたシーツの中に潜り込もうとしたところ、ドアの外でルーシーが吠えた。二人は笑った。
「さすがに、これ以上待つのは嫌らしい」
【小説】霧の彼方から(3)新しい生活と不安 - 1 -
半分に切るか、三回に分けるか迷った末、やはり三回にしました。で、今回は少し短いです。
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霧の彼方から(3)新しい生活と不安 - 1 -
それからまた半年近くが経った。一ヶ月の休暇が終わるとジョルジアは、ひとまず帰らなくてはならなかった。婚約はしたが、その時点ではまだ具体的なことは何も決まっていなかった。ニューヨークに戻ってから、以前のように手紙と電子メール、それから時々は電話で交流を持ちながら、実際の手続きについて相談した。
結婚後の二人の住まいは《郷愁の丘》になったが、ジョルジアの会社との契約や取り組んでいる撮影スケジュールを考えると、実際にケニアに住むのは年に半分ほどになりそうだった。ジョルジアはニューヨークでは少し小さめのフラットに遷り、家財を整理した。《郷愁の丘》に置くもの、ニューヨークに残すもの、それに処分するものがあった。
新しい勤務態勢を整えるために《アルファ・フォト・プレス》での打ち合わせもこれまでよりもずっと多かった。半年はあっという間だった。
それに、家族の問題があった。ジョルジアの新しい門出を家族はみな心から喜んだが、ケニアがメインの住居になるとわかると、特に兄のマッテオが盛大な結婚式で送り出したいときかなかった。派手なことが苦手だと難色を示すジョルジアとの押し問答の末に、ニューヨークでの結婚式と、家族や同僚、それに親しい友人たちを集めて行きつけの《Sunrise Diner》でパーティをすること、日を改めてスイスのサンモリッツでヨーロッパの親族を集めた食事会を開催することになった。
ケニアでは結婚式はしないが、どちらにも招待することのできないケニアの同僚や知人もいるので、グレッグの家族といっていいレイチェルやマディを中心に、ケニアでもパーティをすることになった。マディの夫のアウレリオとその親友であるリチャード・アシュレイは、ニューヨークでマッテオがそうしたように、いつの間にか話をどんどん大きくしている。グレッグもジョルジアもパーティが苦手なのだが、こればっかりは仕方ないと諦めた。
彼らには《郷愁の丘》があった。リチャードに言わせると「地の果て」、よほどの意思と必要性がなければたどり着けない不便な立地に、孤高に立つ家。目の前に広がる広大なサバンナと、音も立てずに輝きのオーケストラで一斉に語りかける満天の星空を備えた隠れ家。
そこは文字通り、隠れ家だった。他の人間社会から、切り離されているのだ。ここにいる時は、誰一人として「ちょっと飲んでいるから出ておいでよ」と電話をかけてきたりはしない。「遠いので」と告げるだけで、パーティにも行かずに済む。誰とも上手く話せずに人々の間に一人で立ちすくむ、居たたまれない想いから解き放たれるのだ。
《郷愁の丘》には、ジョルジアの求める全てがあった。グレッグの人となりを知り、輝かしい朝焼けに共に言葉を失い、星空の下で自分でも信じられないほど沢山のことを語り合う、その歓びの舞台になった場所だ。彼女はある時、彼との結婚によってそこが我が家となることを改めて認識し、震えが起こるほど喜びを感じた。
ジョルジアは、二月の終わりに《郷愁の丘》へ戻ってきた。アメリカでの結婚式のために三月末にまたニューヨークへ行かなくてはならないが、仕事のスケジュールを鑑みると新生活を始めるのはこのタイミングが一番よかった。
【小説】霧の彼方から(3)新しい生活と不安 - 2 -
もしかすると、幻の風来坊男であるアウレリオ、初登場? ま、勿体ぶって出さなかったわけではなく、本当にいつもいないんだ、この人。
さて、これまで細かくは説明していないのですが、グレッグと腹違いの妹マディは十歳離れています。「郷愁の丘」本編と「最後の晩餐」という外伝で、十歳だった彼が両親の離婚に伴いイギリスに引っ越したという事情を書きました。(そんな詳細はどなたも憶えていらっしゃらないと思いますが)つまり、レイチェルの存在と妊娠が契機となって、別居中だったグレッグの両親は正式に離婚したのですね。もっとも、ジェームスはその後もマディのことを正式に認知しなかったようです。
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霧の彼方から(3)新しい生活と不安 - 2 -
買い物のためにヴォイへ出てくることを知ったマディは、ランチに招待してくれた。グレッグとマディの父親、故ジェームス・スコット博士の臨終と葬儀の時にしばらく一つ屋根の下で過ごして以来、ジョルジアはマディやその家族とすっかり仲良くなった。
グレッグと父親は実の親子にもかかわらず、奇妙なほど他人行儀な関係しか築いてこなかったのだが、それを補うようにマディとその母親のレイチェルが、グレッグとジョルジアを新しい家族として受け入れてくれたのだ。
「やあ。ジョルジア、久しぶりだけれど、去年逢った時と変わらないね。ニューヨークからの長旅、お疲れ様。あのサバンナのど真ん中で、こいつと二人っきりだなんて、退屈していないかい」
立て続けにしゃべりながら、迎え出たマディの夫アウレリオが抱擁してきた。
「チャオ、アウレリオ。なかなか面白い冗談ね」
ジョルジアは、兄が持たせてくれた最高の出來のスーペル・トスカーナ・ワインを渡しながら苦笑した。
グレッグとは学生時代からの付き合いであるアウレリオは、イタリア人らしい罪のないジョークをよく飛ばす。当の本人がそれを冗談とは受け止められず、軽口の返答も返ってこないことには無頓着だ。
そうはいっても、ジョルジアも氣の利いた返しや、大げさな惚氣まじりの反論を口にすることが出来ない。
「アウレリオったら。この二人はこう見えても新婚ほやほやなんだから、くだらないことを言わないの」
キッチンから出てきたマディが、助け船を出してくれたので、彼女はほっとした。
「新婚ねえ。僕たちの蜜月はずっと濃いし、まだずっと続いているよね。愛しのマレーナ」
アウレリオは、マディを後ろからぎゅっと抱きしめて、豊かな栗色の髪に口づけをした。
「オックスフォードで始めて出会った時のことは生涯忘れないな。あの日、僕の人生は光り輝くようになったんだ」
マディは夫の言葉に苦笑いした。
「ありがとう。アウレリオ。残念ながら、私はその日にあなたと会ったこと、全く憶えていないんだけれど」
ジョルジアは、おもわず「え?」とつぶやいた。マディはウィンクをした。
「ママに初めてヘンリーと引き合わせてもらった日らしいんだけれど。一度も会ったことのない腹違いの兄にやっと会えるって緊張していたんだもの、他の人なんて目に入っていなかったわ」
ジョルジアが確認するように見ると、グレッグはわずかに笑って頷いた。
「レイチェルが特別講義でオックスフォード滞在している時に、マディが訪ねてきたんだ」
「そうなの。夏休みに入ってすぐだったわ。どうしても行きたいって、ママに頼んだのよ。私だってヘンリーと知り合いたいってね。ヘンリーに会うのもドキドキだったけれど、あのベリオール・カレッジのディナーっていうのも嬉しくて、途中で逢って挨拶した人のことまで憶えていなかったの」
「ひどいな。運命の出会いよりもお皿の中のことを憶えているって訳かい?」
アウレリオは、妻のことしか見えないという風情で微笑みかけた。
「だって、観光客でも入場できるホールじゃなくて、オールド・コモンルームでのディナーだったんですもの。1200年代からの格式あるダイニング・ルームにケニアから来た十五歳の小娘が行けるなんて夢みたいでしょう」
「十五歳?」
ジョルジアが問うと、グレッグは頷いた。
「そうだったね。あれは、イギリスにいた最後の年だった。僕と母がケニアを離れて直に生まれたって話を祖父から聞いていたけれど、実際に逢ったらティーンエイジャーになっていたのでびっくりしたよ」
「僕が、あの綺麗なお嬢さんに紹介してくれって頼んだのに、渋ったことは忘れないぞ」
アウレリオが笑って言った。グレッグは苦笑いした。
「もちろん。マディの見かけは大人びていたけれど、まだ子供だと思ったし、軽く恋愛ゲームをする対象にされたら困ると思ったんだ。それに妹といっても、会ったばかりで、それほど親しいって訳じゃなかったし」
「でも、橋渡ししたの?」
ジョルジアが訊くと、マディが笑って答えた。
「ヘンリーは紹介するつもりがないのに、私と会うどこにでも勝手についてきたのよね」
「そうさ。紹介せざるを得なくしたんだよ。でも、お陰で僕たちはこうしてここにいるんだからね」
アウレリオは胸を張った。笑いながら、ジョルジアはいかにもアウレリオらしいと思った。全く躊躇せずに、自分の道を切り拓いていける。それはこの人の才能の一つだ。
「もちろんアウレリオは特別だと思うけれど。でも、あなたたちを見ていると、婚約中ってなかなか信じられないわよ」
マディの言葉にジョルジアは笑った。
【小説】霧の彼方から(3)新しい生活と不安 - 3 -
ジョルジアが主人公である小説は「ファインダーの向こうに」「郷愁の丘」に続く三作目なのですが、少しずつ彼女の外側の鎧のような部分が外れてきたと同時に、その恋愛初心者ぶりが表面化してきています。コンプレックスのために本来ならばティーンエイジャーの頃に解決すべき問題をそのまま放置し、今ごろ直面せざるを得なくなってきているのです。この章では、イギリスへ行く前のジョルジアの問題が浮き彫りになり、次章ではグレッグの方の問題に焦点が移ります。
今回もR18的表現が入っていますが、例によって「だからどうした」程度の描写です。
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霧の彼方から(3)新しい生活と不安 - 3 -
確かにこれまで見た多くの婚約中のカップルは、街中であれ、仲間と一緒に楽しく飲んでいる時であれ、しょっちゅう見つめあったり、キスを交わしたりしていた。ジョルジアが彼の首に腕をかけてもたれかかれば、彼は嫌がりはしないだろうが、彼女はそういう姿を周りに見せたいと思うような性格ではなかった。グレッグも、かつてジョルジアに対する想いを隠していたときと変わらずに、人前でジョルジアに触れることはまずなかった。
久しぶりの再会でも、彼の態度は控えめだった。ムティト・アンディの駅でホームに降り立ったジョルジアに飛びついてきたのは、愛犬ルーシーの方だった。ちぎれんばかりに尻尾を振った犬がようやく落ちついて離れた時には、グレッグはもう脇に置いた彼女の荷物を手に持って、穏やかに彼女に微笑みかけた。
「よく来たね。長旅で疲れただろう。車で少し休むといい」
ジョルジアは、なんて彼らしいんだろうと思った。そして、その彼の態度がとても心地よかった。彼の喜びは、瞳から読み取ることができた。そして、その情熱は、いつも誰も知らない二人だけの夜に示してくれるのだ。
控えめな、確かめるようなキスから始まって、長くより官能的な口づけに移行する。ジョルジアの反応、彼の無言の問いかけに対する確かな答えを感じ取り、彼の行動は大胆に変わっていく。彼女は、彼の腕の中で、肌の暖かさの中で、同じように解放されて違う世界へと導かれていく。精神的な愛と本能に支配された原始的欲望が、違和感なく溶け合っていく不思議な時間を堪能する。躰の歓びは、手紙や会話を交わして築いた共感や魂の共鳴と相まって、二人の絆を更に強くした。
それは恋人同士であるとか、婚約中であるとか、もしくは夫婦であるといった社会的なレッテルとはかけ離れた、もしくは、そのようなものとは関係ないつながりだった。服を着て、仕事をしたり生活をしたりする人間社会とは異なる浮遊した空間での出来事だった。たとえ世界中の全ての他のカップルが、同じように遺伝子に組み込まれたプログラムに従って同じ快楽を味わっているとしても、それはジョルジアには関わりのないことだった。彼女にとっては、グレッグとの関係だけが神聖で特別だったのだ。
その一方で、彼女を捉えている、僅かな苦い想いも、やはりこの時間にくりかえし明滅してくるのだ。
どうにかなりそうな激しい快楽に溺れて、ほとんどの思考力が停止している中で、どこかで冷たい声をした自分が彼女に疑問を投げかけていた。彼の過去について。彼と愛し合った他の女性の存在について。
こんな歳になるまでまったく経験がなかった自分が特殊であることはよくわかっていた。ひっかかっているのは、彼に誰か恋人がいたことではなく、彼が「いままで誰もいなかった」と彼女に言ったことだ。
彼の愛を疑っているわけではない。彼がどれほど優しく愛してくれているか、彼女はよくわかっている。その愛は、言葉だけの空虚なものではなく、彼女に関するあらゆる彼の行動から感じ取ることが出来た。
今回、彼の家に着いて三日目の夜だった。シャワーを浴びてからベッドに向かう前に彼女は持ってきた荷物の中を探っていた。後から入ってきた彼は、訊いた。
「どうした?」
「ハンドクリーム、入れたと思ったんだけれど。ニューヨークに置いてきたみたい」
「ハンドクリーム?」
「ええ。台所洗剤が合わないみたい。手肌がザラザラなの」
一人ならザラザラでもまったく構わないんだけれど。ジョルジアは心の中でつぶやいた。自分に触れられる相手がどう感じるかは、グレッグと愛し合うようになって初めて氣にするようになったことだ。荒れていない唇も、繊細な指先も、柔らかい頬も、肘や踵にいたるまで全身に滑らかな肌を持つことも、それまでの彼女は必要すら感じなかったことだった。しかし、今の彼女はそれがとても氣になる。その肌に彼が触れるのだから。
グレッグは、彼女の横に座り、その手を取った。そして、彼の温かい大きな手で包み込むと、申し訳なさそうに言った。
「本当だ。かわいそうに。あの洗剤はきっと強すぎるんだな。考えたこともなかった。それに、日用品を売っている店まで一時間も車で走らなくてはいけなくて、そこまで行ったとしてもいろいろな種類のハンドクリームがあるわけじゃないんだ」
その暖かい手のひらに包まれて、彼女の心は蕩けた。
「ブランドもののハンドクリームをあれこれ並べる必要なんてないわ。オリーブオイルを塗り込んでもいいんだし」
そう言いながらも、もう台所までオリーブオイルをとりに行って肌のケアをする氣は失せていた。二人はそのまますぐにベッドに潜り込んだ。
彼の行動の一つ一つが、愛されていることを実感させてくれた。不器用ながらも彼の言葉はいつも真摯で誠実だと感じさせた。飾りは少なくとも選ばれた表現は、彼が正直であることの証だった。
それなのに、彼が過去の恋人との経緯に関してだけを「なかった」ことにするのは、どうしてなんだろう。彼女の中のもう一人の彼女が厳かに答えを告げる。「お前が劣っていることを思い知らせたりするのは可哀想だと思っているからに違いない」と。
【小説】霧の彼方から(4)彼の問題 - 1 -
今回もあいかわらず大したことはないR18的表現が入っています。苦手な方には申し訳ないですが、ここはストーリー上どうしても書かざるを得なかったシーンですのでお許しください。その代わり、この小説でのR18シーンはこれでおしまいです。
二つに切るか、三つに切るかまたしても迷ったのですが、二つだと後半が長すぎるので、やはり三回に分けます。
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霧の彼方から(4)彼の問題 - 1 -
それはいつもの優しい舌使いとは違い、しごいて絞るような吸い付き方だった。ジョルジアは出産経験がないのでわからないが、まるで赤ん坊が母乳を飲むために母親の乳房に吸い付いているかのようだった。
はじめはふざけているのかと思ったが、彼はその行為に耽り、まるで他のことを完全に忘れているかのようだった。彼の体重がのしかかり、腹部から下は圧迫されていたし、吸い付く力も強すぎて、快感よりも痛みが強かった。彼女は眉をしかめて呻いたけれど、彼はまったく意に留めなかった。
「グレッグ……。ねぇ、あの……」
彼女は、躊躇いがちに声をかけた。彼がそれでも反応しなかったので、彼女は不安になった。
彼女は、手を彼の頬に当てて、少しだけ力を込めて押し返した。彼がびくっと震えて、動きが止まった。そして、彼は吸い付いていた口の力を抜き、彼女の乳首を解放してから起き上がった。
暗闇の中で、数秒、何も動かなかった。彼女は、少し体を浮かせて、月の光で彼の表情を読もうとした。彼は少し震えていた。
「ごめんなさい。あの、ちょっと痛かったの……」
彼は、はっと我にかえって、慌てて彼女の顔を覗き込んだ。
「すまない。僕は、その……」
いつもの彼だ。ジョルジアは安心した。
「どうかしたの?」
彼は、身を動かして半身分ほど離れた。ジョルジアは、彼が傷ついて自分の中にこもってしまいそうなのを感じた。それで、手を伸ばして彼の腕をとった。
「いいの。大丈夫よ。あなたのしたいようにしていいの。慣れていないやり方だったから、びっくりしてしまっただけなの」
彼は、彼女の近くに戻ってきて、しばらく何も言わなかったが、やがて黙って抱きついてきて、しばらくそのままでいた。彼が声を殺して泣いているのがわかり、彼女は彼の背中をさすって落ち着くのを待った。
その夜は、お互いにそれ以上のことをする氣は削がれてしまい、彼が落ちついてからそのまま眠った。
夜明けに目がさめてから、二人はいつものようにルーシーと一緒に朝の散歩をした。ジョルジアは、昨夜のことには何も触れなかった。とても繊細な状態にある彼を急いで刺激しないほうがいいと思ったのだ。
ジョルジアは、ジョンに傷つけられてしばらくクリニックに入院しなくてはならなかった時の、精神状態を忘れていなかった。今となってはありえないような奇妙な動作をくりかえし、側にいてくれた兄のマッテオは、狂わんばかりに心配した。それがおかしな行動だとは、あの時の自分は認識していなかった。彼女の心は違うところを彷徨っていたのだ。
昨夜のグレッグは、おそらくどこか別の世界にいたのだ。もしかしたら、かつて愛していた人の幻影を求めていたのかもしれないし、そうでない何かに取り憑かれていたのかもしれない。それを無理に問いただしたりしてはいけないと思った。
「ジョルジア」
赤く染まったサバンナを眺めながら、彼が話しかけた。
「なあに?」
「昨夜は、すまなかった……。その……」
「いいの。氣にしないで。いま説明しなくてもいいの。もし、話したくなったら、その時に聴くから」
ジョルジアが言うと、彼は、こちらを見つめた。潤んだ瞳と、泣き出しそうな表情に、ジョルジアの心は締め付けられた。
「実をいうと、あの時、ほとんど意識がなかったんだ。自分でも、少しショックだった。その……もしかしたら、なんというか、医者にかかったほうがいいのかもしれない」
「お医者様って、なんの?」
「わからない。精神的なものかな」
ジョルジアは、答えに詰まった。彼の落ち込んだ姿を見るのは辛かった。
「私は、専門的なことはわからないけれど、それほど病的だとは思わないわ。無意識に何かをするのは、時々あることじゃないかしら。疲れていただけかもしれないし」
「怖がらせたんじゃないか?」
心配そうに訊く彼をジョルジアは愛しいと思った。彼女は、そっと彼の掌を握った。
「心配しないで。大丈夫よ。だから、私が寝ぼけても、追い出したりしないでね」
彼は、ほっとしてようやく小さな笑顔を見せた。
ルーシーは、どんどん先へと歩いていく。二人は、いつものように会話をしながら、愛犬を追った。崖の下には、目覚めたばかりのキリンの群れがゆっくりと行進していた。いつもと変わらぬ、素晴らしい朝だった。
【小説】霧の彼方から(4)彼の問題 - 2 -
単に疲れていたのか、ボーッとしていたのか、アレの最中に妙な行動をしてしまい自分でショックを受けていたグレッグ。「なんとかしなくては」と思った模様です。
前作に続き今作でも、マサイ族の長老がでてきて重要な役割を果たしています。このキャラクターは、私がアフリカに行くきっかけとなった本、ライアル・ワトソンの「アフリカの白い呪術師」に出てくる長老へのオマージュです。私の小説には、いわゆるファンタジー要素はなく、物事を魔法で都合よく説明・解決する存在や設定は皆無です。でも、現実の世界にあるように「これ、単なる偶然? それとも、何かものすごい未知なる力が働いている?」的な、ギリギリどっちともとれる話はよく出てきます。長老はいわゆるウィッチドクターですが、前作での発言にしろ、今回にしろ、本当に何もかも見えて導いてくれているのか、適当に言っていることが偶然グレッグの人生に大きな導きの光になっているのか、その辺は読者の判断にお任せします。
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霧の彼方から(4)彼の問題 - 2 -
それから一週間ほど経った。二人は夕食の後、いつものようにテラスで星を眺めながらワインを飲んでいた。ニューヨークへ出発する便の予約のことを話していた時に、不意に彼が言葉を切った。ジョルジアは、どうしたのだろうと彼の顔を見つめた。
「今日、長老に会ったんだ」
彼は、戸惑いながら話しだした。ジョルジアは、首を傾げた。
「あの、マサイの?」
彼は頷いた。彼女が初めて《郷愁の丘》に滞在した時に、連れていったマサイの集落。今日は、大学での講義の帰りに一人で寄ってきたのだ。
「外国人の依頼でライオンの密猟をしているレンジャーがいるという噂があって、情報をもらいにいったんだ」
「密猟? 本当にそうだったの?」
「ああ、本当だった。ちょっと有名な雄ライオンが狙われていたんだ。でも、そのキクユ族のレンジャーは、失敗しただけでなく、反対に夜中に狙ったライオンに襲われて命からがら逃げ出したそうだ。怖がって都会へ引っ越したので、もう過去の話になったと教えてくれた」
「そう。よかった」
「うん……」
彼の話は、まだ終わっていないらしい。彼の少し沈んだ表情が氣になった。
「どうしたの、グレッグ」
「長老が、僕の顔を見て、心に重石があるだろうと」
「まあ」
「長老は、部族の精神的指導者でもあるんだ。悩みを見抜かれたのはこれが初めてじゃない」
「相談してみたの?」
「具体的にじゃないけれどね。どうしようか思いあぐねていることがあるって言ったよ」
「それで?」
グレッグは、小さく笑った。
「重々しく言われてしまった。……答えは、お前とともにあるってね」
ジョルジアは、首を傾げた。
「どういうこと?」
「どうすべきか、自分でわかっているだろうって意味だと思うよ。帰り道に、僕はどうしたいんだろうか考えていたんだ」
彼女は、何も言わずに彼の顔を見つめた。彼が心を決めたのは、その表情からわかった。彼は、ワイングラスをテーブルに置いて、彼女の方に向き直った。
「ジョルジア。予定を変えても構わないだろうか」
「変えるって?」
ジョルジアは、まさか結婚を取りやめたいと言い出すのではないかと不安になって訊いた。
「二週間ニューヨークに滞在する予定を、例えば一週間にして、イギリスに寄っても構わないか」
グレッグは、とても済まなそうに訊いた。
ジョルジアは、はっとした。
「ええ、もちろんよ。いいアイデアだと思うわ。どちらにしてもヨーロッパでトランジットしなくちゃいけないんですもの。一週間滞在するのはまったく問題無いわ。十日でもいいのよ。なんといっても、イギリスにはお母様がいらっしゃるんですものね」
彼は頷いた。
「僕の例の異常行動は、おそらく母との歪んだ関係が原因じゃないかと思うんだ。子供の頃と違って、そのことは氣にしていないつもりだった。でも、父の時もそうだったけれど、僕はその問題に直面するのを避けていただけなんだ。だから、今になって鬱屈していた想いが表面化してきてしまったのかもしれない」
ジョルジアは、二ヶ月ほど前に、結婚式の話をした時のことを思い出していた。「お母様を招待しなくていいの」と訊いたが、彼の返事は「必要ない」だった。彼自身がクリスマスカード以外の連絡をしていないと言っていたので、彼が会いたくないのだろうと思った。だから、その件には敢えてそれ以上は触れないようにしてきた。
ニューヨークにケニアの知り合いを全て招ぶことは難しいため、リチャードとアウレリオがヴォイでのパーティも計画してくれている。そちらは、主賓がレイチェルなので、彼女を毛嫌いしているというグレッグの母親を招待するというようなことは考えられなかった。
それでも、グレッグにとっては実の母親だ。やはり何も言わずに結婚したくないのだろうと思った。ジョルジアも、義理の娘になる以上、できることなら会ってみたいと思っている。
【小説】霧の彼方から(4)彼の問題 - 3 -
前回、予定を変更しアメリカへ行く前にイギリスを訪ねたいと提案したグレッグ。この小説では、彼が今まであまり語りたがらなかった子供時代や青年時代の話などを、口にしているのですが、今回はその最初です。既に前作を含めていろいろな方から、ご感想をいただいているのですけれど、実の親子にしては距離のありすぎる奇妙な関係です。ただ、親に虐待されていたというような形ではなく、あくまでかみ合っていない関係だったというのがスタンスです。
上手くいっている親子関係はもとより、親に虐待されている子供も、現実にこの世界にはありますが、そうした親子関係ではなく、この特殊な親子関係を選んだのは、関係そのものよりも結果としての彼の存在のあり方が私の小説テーマに上手くはまったからなのですね。
次章はようやくプロローグで着いたイギリスに話が戻ります。あ。もっとも来週は、別の小説を発表します。
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霧の彼方から(4)彼の問題 - 3 -
彼は、すまなそうな顔をして彼女を見た。
「母は、正直言って僕のことにはほとんど関心がないから、そんなトピックに触れられるほど長く話ができるかわからない。だから、行く甲斐があるかも疑問なんだ。それに、アフリカだけでなくアメリカに対しても偏見があるので、もしかしたら君に失礼な態度をとるかもしれない」
ジョルジアは首を振った。
「構わないわ。どうってことないわ。それに、お母様と話す時に、私が行かないほうがいいなら、一人で観光していてもいいし。あなたの育った街を見るのも楽しみだもの」
彼は、チェストに置かれた写真立てを眺めた。以前《郷愁の丘》に滞在した時にはなかったもの。それは亡くなった父親スコット博士の生前の姿だ。
「本当は、母と話すのが必要なことか、よくわからないんだ。でも、父との関係を何とかしようとしたこと、あの行動を起こしたことは、僕の人生を大きく変えたんだと思っている。その、想いだけが空回りしていて、結局一人では彼と上手く話せなかったけれど。でもあの時、君が側に来てくれて、レイチェルも骨を折ってくれて、最後には彼に嫌われていたわけではないことを知ることができた。あの数日間に、『僕は誰からも嫌われる存在』ではないのだと始めて思えたんだ」
ジョルジアは、思いやりを込めた瞳で頷いた。
「あなたもお父様のことを慕っていたんでしょう」
「わからない。ケニアに戻ってくるまで、僕にとって父は肉親というよりも養育費を払ってくれる他人みたいな存在だったんだ。どんな感情を持っていいのか、わからなかった。手紙もなかったし電話もしなかったから、銀行の振込金額でしか存在が確認できなかった。ずいぶん前にレイチェルが、僕と父の顔は似ているって言って、ドキッとしたよ。その時にようやく肉親として意識した感じなんだ。君は父に実際に会って僕と似てると思った?」
ジョルジアは病床のスコット博士を思い出そうとした。
「ご病氣でとても痩せて、それに瞼を閉じていらしたから、確かじゃないけれど、マディとあなたの目元の辺りはとてもよく似ているから、それはお父様から受け継いだんじゃない?」
「いわれてみるとそうかもしれないな。母からは、父は僕には自分に似た所が全くないと、我が子かどうか疑っていたって言われてたから、レイチェルの言葉を聴いて、嬉しかったんだ。本当のところは、わからないけれどね。もっとも、母は僕によく言ったよ。『お前は本当に父親とそっくりだ』ってね」
「大きくなって似ているところが際だってきたのかしら」
「多分違うな。外見よりも、振る舞いが彼女の氣に入らないと、そう言ったんだ。こんな振る舞いをするのはあの男の血のせいだって言いたかったんだろうね」
「……」
「僕は、父の記憶がなかったから、そうなのかと思っていたけれど、成人してから再会した父は、僕みたいにぐずぐず考えてばかりではなくて、有言実行の人だったよ。だから、僕は少しがっかりしたんだ。本当に父から受け継いだところがあって欲しかったって」
「あるわ。あなたもお父様と同じように立派な動物学者じゃない」
「父は確かに一流の学者だったけれど、僕は違う。でも、怒り任せだった母の言葉は、僕に根拠のない自信を抱かせたのかもしれない。父に似ているのならば僕も立派な動物学者になれるだろうと、大学を卒業するまでなんとなく思っていた。そうじゃなかったら、もっと早くに諦めてしまったただろうね」
「お父様は、あなたが自分と同じ動物学者になってくれて、嬉しかったんじゃないかしら」
「どうだろうね。でも、彼が祖父のトマス・スコットを心から尊敬し誇りを持って同じ職業についたいたことは知っている。だから、僕が同じ道に進むのを嫌がらないでくれてありがたかったよ」
「あなたはお母様にも似ている?」
ジョルジアが訊くと、彼はわずかに間を空けてから口を開いた。
「似ている所はいくつかある。髪の色が同じだし、あまり背が高くないのも母の方からもらったかな」
だが、彼は氣質の相似点については、全く口にしなかった。
【小説】霧の彼方から(5)花咲く家 - 1 -
バースに初めて行ったのは、大学生時代でした。その時は「ストーンヘンジとバース、ウィンザー城観光」というありがち一日観光の一つとして訪れ、時間もなかったのでローマン・バスしか観なかったという記憶があるのですけれど、今年の三月は取材という目的意識を持って行ったので、ずいぶんと違った印象になりました。
もっとも、その町並みの話が出てくるのは次の章。今回は,グレッグの母親レベッカとの対面がメインとなります。この章も三回に切ります。
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霧の彼方から(5)花咲く家 - 1 -
その家に着いた時、ジョルジアは思わず歓声を上げた。かつて素材写真集の撮影で『イギリス的邸宅』を扱ったことがある。そして、編集部がアメリカ中を探し回って探してきた『イギリスマニア』の家を撮影しながら、イギリスにもこんな家はもうないに違いないと思っていた。だが、グレッグが連れてきた彼の母親の住む家は、それを軽く上回る完成度だったのだ。
それは城のように大きいものではなかったが、バースストーンと言われる蜂蜜色の石を用い、優美な柱やアーチで飾り付けをした大きな窓が印象的な典型的なジョージ王朝様式の邸宅だった。
おそらく何世紀もの時が作り出した壁の石材の色褪せ方は、グレッグの母親やその夫のマッケンジー氏の意思とは関係ないのであろうが、その前に広がる英国風庭園のきめ細やかな手入れを見れば、この夫婦がこの館の維持にどれほどの情熱を傾けているかを瞬時に見て取ることができる。
三月末はまだ肌寒い日もあり、どこの家でも時折冬の名残である枯れた草や、新緑が隠すのを待っている木々の隙間などを見ることがあったが、この庭の飛び石は綺麗に掃き清められ、枯れ草などは取り払われていた。しかし、フランスでよく見るような無理に形を整えられた木々はなく、あくまで自然な形であるように配置されていた。
だがよく見ると、黄色い水仙の花には、色褪せたものや枯れ始めたものは一つもなく、スノードロップやデイジーも行儀よく並んでいた。チューリップは、無造作に違う色の球根が植えられたかのように見えて、その配置をよく見るとパレットに置かれた絵の具のように計算され、しかもバッキンガム宮殿の衛兵のごとく完膚なき振る舞いで立ちすくんでいた。森の自由な妖精を思わせるブルーベルですら傷みのない個体だけが、春の陽光の中でその透き通るように薄い花びらを慎ましく開いていた。
「なんて素晴らしい庭なのかしら。精魂込めてお世話なさっているのね」
思わず彼女がつぶやくと、グレッグは振り向いて口角を上げた。
「そうだね」
ジョルジアは、その反応を少し意外に思った。彼の態度には母親の自慢の庭について誇らしく思う喜びが欠けていた。普段、自然を愛し、その美しさを素直に賞賛する彼の態度を見慣れていた。だが、今日の彼は、子供の頃から多感な時期を過ごした家に対する愛着が全く感じられず、それどころかなんとも言えない哀しさすら漂わせていたのだ。
玄関の脇には、料理用のハーブが植えられていた。ローズマリーの鉢は冬を室内で越したものだろう。北の氣候には合わないにもかかわらず、凍えた様子もなくピンと細い針のような葉のついた枝を広げていた。地植えで越冬させたセージの葉は、ようやく芽が出てきたところで、若い緑が瑞々しい。側を通る時に服に触れて香りが立った。
ジョルジアは、再び「スカボロ・フェア」の歌詞のことを考えた。『パセリ、セージ、ローズマリー、タイム……』
桜の花びらがはらりと舞い落ちる。その根元は今朝丁寧に掃いた跡があり、その上にわずかな花びらがゆっくりと着地していった。グレッグはその横を通り過ぎると、ジョルジアに手を差し伸べて一緒にステップを上がり、玄関のベルを鳴らした。
しばらくすると、ガチャリと厳かな音がして、内側に扉が開かれた。黒っぽい服を着た中年の女性が立って重々しく言った。
「ようこそ、スコット様。奥様が応接室でお待ちです。ご案内いたします」
ジョルジアは、そっと彼の顔を眺めた。この格式張った応対は、彼女にはあまり馴染みがないものだった。
ニューヨーク随一の好立地にあるペントハウスに住む兄マッテオの所を訪ねる時も執事がまず出てくる。けれど、ジョルジアが来たとわかると兄は走って飛んできてキスの雨を降らせる。両親は、兄と妹アレッサンドラの成功に伴い、早めに引退してロングアイランドの高級住宅街に住んでいるのだが、貧しい漁師だった頃と生活を変えるのが嫌で、常時の使用人を置いたりしない。だから、訪ねていく時はもちろん自らが出てきて喜んで歓待してくれる。
グレッグは、ほとんど何も言わずに女性に従って応接室に向かった。暗い廊下から応接室に入った時、その明るさにジョルジアは眼を細めた。窓辺にはサテンを織り込んだカーテンが揺れていて、壁紙もクリーム系のダマスク柄、リネンフォールド多用した重厚なアンティーク家具が置かれ、壁の一面がほとんど暖炉となっていた。
その暖炉の近くに座っていた女性が重々しい様子で立ち上がった。とても小柄な女性で、くるぶし近くまであるモスグリーンのワンピースを身に纏い、古風なシニヨンに髪を結っていた。銀縁の眼鏡が鈍く光った。
【小説】霧の彼方から(5)花咲く家 - 2 -
実母レベッカとの邂逅は、ある意味では「郷愁の丘」で描いた実父ジェイムス・スコット博士との邂逅の繰り返しでしかないのですけれど、グレッグが幼少期を乗り越えて前に進むためには必要なステップでした。と、同時に、この後の流れにつなげるための「あり得る唯一のきっかけ」でもあります。
「レベッカは実母なのに我が子にこんなに冷たいはずがない」とお思いの方もあるかもしれません。でも、実はこの外から見るとものすごく変わった親子関係、ちゃんとモデルがあります。しかも、私自身の●親等の世界です。
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霧の彼方から(5)花咲く家 - 2 -
「ようこそ、カペッリさん。私がレベッカ・マッケンジーです」
彼女は、ジョルジアに手を差し出したが、ハグをしようとする様子は全く見せなかった。そして、ジョルジアが会釈をしてその手を握ったが、乾いた手のひらは全く力を込めてこなかった。それは、握手よりも、扉を開けるためにドアのノブに触れている時のように無機質な感触だった。
それから、レベッカは、ようやくグレッグの方を見て言った。
「久しぶりね、ヘンリー。よく来てくれました」
握手もなければ、ハグもキスもなかった。久しぶりに会った母と息子は、全く触れ合うことすらなかったのだ。
レベッカはソファに座るよう勧めた。ゴールドベルベッドのチェスターフィールドソファで、座り心地は抜群だ。
用意された銀のティーポットは磨き抜かれ、触ると壊れるのではないかと思われるほど薄い花柄のティーカップがその隣に行儀よく置かれていた。
ジョルジアは少し硬くなり、ソファに浅く腰掛けた。目を向けると、グレッグも寛がない様子で座っていた。
「イギリスやケニアの方ではないようね」
レベッカは、紅茶を勧めながら言った。
「アメリカ人です。祖父母は北イタリアの出身ですが、両親の代からニューヨークに住んでいます」
「まあ。ニューヨークの方が、サバンナで世捨て人のように暮らすヘンリーとどうやって知り合ったの」
ジョルジアは、鞄から二冊の写真集を取り出した。グレッグと知り合うきっかけとなった『太陽の子供たち』と、彼も被写体として入っている『陰影』だ。
「私は写真家なのですが、この作品の撮影の時にお世話になったのがきっかけです」
二冊を受け取りながら、レベッカは驚いた表情を見せた。
「写真家ですって? まあ、驚いた。そのような仕事をする女性がいるのは知っていましたが、実際に逢うのははじめてです」
グレッグは言った。
「母さん。彼女はとても才能のある人で、その帯にあるように、『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』という権威ある賞で入賞したんだ」
「あなたのお陰でね」
ジョルジアは、付け加えて微笑んだが、レベッカはその話題には、さほど興味がないようだった。
モノクロームで人物を撮った『陰影』は、心の中で最も重要な位置を占める存在として、グレッグの写真がラストページに入っている。表紙には彼の横顔も写っているのだが、レベッカはどちらの写真集も開こうとせず、少し離れたサイドテーブルに置いた。
その時、玄関から大きな音がして、誰かが邸内に入ってきたのがわかった。男女が大きな声で話しながら廊下を進んできた。
「ああ、わかっているよ。客間にいるんだろう」
「あのヘンリーが、結婚相手を連れて来たって、本当かしら」
ノックと同時に、応接室の扉が開かれ、明らかに兄妹だとわかるよく似た二人が入ってきた。
「やあ。本当にヘンリーだ。何十年ぶりだろう。僕たちのことを憶えているだろうか」
「そりゃあ、憶えているでしょうよ。ねえ、ヘンリー。結婚するって本当?」
グレッグが立ち上がったので、ジョルジアもそれに倣った。
「ごきげんよう。ジョン、ナンシー。こちらは婚約者のジョルジア・カペッリだ。ジョルジア、ジョン・マッケンジーとナンシー・エイムズ兄妹だ」
「はじめまして」
ジョルジアが手を差し伸べると、二人は感じよく笑いながら手を握った。
「ヘンリーが、結婚するって聞いて驚いたのよ」
「全くびっくりさせるよな。独身主義者じゃなかったのか」
グレッグは、困ったように言った。
「主義じゃない。これまで相手が居なかっただけだ」
ナンシーが意味ありげに笑った。
「ジェーンが結婚したので世をはかなんで、サバンナに籠もったって聞いたわよ」
ジョルジアは、心の中でジェーンとつぶやいた。その人なのかしら、彼が心の奥にしまっている特別な女性は……。グレッグを見ると、わずかに眉をひそめていた。
【小説】霧の彼方から(5)花咲く家 - 3 -
今回のストーリーは日本の話ではないので、嫁と姑との関わり方を日本のそれとは違う前提で書いています。すなわち「●●家の嫁になるのだから」的な発想はないのです。けれど、「嫁と姑の関係は時に面倒くさい」は世界共通です。
レベッカには、「国際結婚などしたのが間違いだった。だから、息子は出来ることなら英国で、英国人と結婚し、まともな人生を送るのが幸せなのに」という思いが根底にあるようです。で、連れてきた嫁は、よりにもよってイタリア系アメリカ人だった……。むしろ、《Sunrise Diner》の常連であるクレアを連れてきたら大喜びしたでしょうね。継子のマッケンジー兄妹の方は、もちろん有名人の家族の方が嬉しそう。ミーハーです。
実母レベッカの登場、実はこれでおしまいです。話はまだ続きますけれど。
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霧の彼方から(5)花咲く家 - 3 -
ジョンも、妹とそっくりの笑い方をした。
「おい、やめろよ。誰だって昔の失恋の話なんか触れて欲しくないさ。とりわけ婚約者の前ではね。しかし、意外だな。君がこんな洗練された人と……」
レベッカは、先ほど受け取った二冊の写真集を義理の息子と娘に見せた。
「カペッリさんは、写真家でこのような写真集を出版しているそうです」
二人は、珍しそうに写真集を見たが、『陰影』の表紙を見て叫んだ。
「やあ、これはマッテオ・ダンジェロじゃないか。あのアレッサンドラ・ダンジェロの兄の」
「まあ、そうよ。なんてこと、マッテオ・ダンジェロのすぐ側に、ヘンリーがレイアウトしてあるわ。こんなことって信じられる?」
「すごいな。あんな有名人を撮るって大変じゃないですか」
そう言われて、ジョルジアとグレッグは困ったように顔を見合わせた。が、隠しても仕方ないと思いジョルジアは口を開いた。
「実は、マッテオは私の兄でもあるんです」
「ええ! ってことは、ヘンリーがあのアレッサンドラ・ダンジェロの義兄になるってこと!」
ナンシーが大きな声を上げたので、レベッカは露骨に嫌な顔をした。
「僕は、スーパーモデルの姉である誰かと結婚するんじゃない。この人と結婚するんだ」
グレッグは、はっきりと言った。
ジョルジアは、意外に思った。あまりにも長くアレッサンドラ・ダンジェロの姉というレッテルを貼られ続けてきたので、反抗心を持つことも忘れていた。ましてや、誰かがそれを強く打ち消すための言葉を言ってくれるなど期待したこともなかったのだ。
だが、当の兄妹は、その抗議に大して反応せずに、あいかわらずマッテオの写真を見ながらあれこれ言っていた。ついにはスーパーモデルや浮ついた億万長者などには批判的な継母に軽薄だとぴしゃりと言われて、応接間から体よく追い出されてしまった。
「本当に嘆かわしい反応だこと。真っ当な生き方よりも札束を好む人たちを羨むような口ぶりで」
ダンジェロ兄妹など、ろくでもない社会の膿だとでも言い出しかねない口調で、そもそもその二人がジョルジアの愛する家族なのだと言うことは、全く意に介さない様子だった。
それどころか、それで未来の義理の娘が嘆かわしい風情である理由が腑に落ちたと言わんばかりにため息をついた。
「アメリカという国では、スカートは流行遅れなのでしょうね。イギリスのある程度の階級で育った娘さんならば、婚約者の母親に会いに行くためのワンピースを買いに行く手間を惜しんだりすることは考えられないでしょうけれど、なんせ全然違う文化の国から来た人ですもの。マナーをあれこれいうのは無意味なことでしょう」
ジョルジアはとまどった。普段デニムとTシャツばかり着ているのでスカートという選択肢をまったく考えなかったのだが、どうやら未来の義母にとってこの服装は常識外れだったらしい。少なくとも今日は滅多に着ないエレガントなパンツスーツを着てきた。グレーの柔らかめのドレープ生地のパンツとそれに近いストールが、パンツスーツの尖った感じを和らげている。
「母さん。失礼な上に非論理的なことをいうのはやめてくれ」
自分から非礼を詫びる前に、グレッグがそう言ったので、ジョルジアは驚いた。
「なんですって」
「女性はスカートを穿くべきだなんて、一世紀前の価値観だ。アメリカもイギリスもケニアも関係ない」
「ケニア。私はあそこに住みましたからね。どれだけ野蛮な土地なのか、身を以て知っていますとも。あそこならば、マナーなんかどうでもいいという価値観になるでしょうよ。私は少なくとも祖国に戻ってきて生き返りましたとも。それに、お前がまともな教育を受けてよりよい生活ができるように連れ帰ったのに、わざわざあんな国に戻るなんて」
ジョルジアは思わず言った。
「彼が住んでいるのは素晴らしいところですわ」
レベッカは優雅な動作で、ティーカップをテーブルに置いた。
「まあ。それでは、あなたは本当にヘンリーにお似合いね。それだけは安心しました。結婚したはいいものの、あの国が嫌で数日で取りやめたなんて話は聞きたくありませんもの」
ジョルジアは、ここに来る前にもう《郷愁の丘》での同居を始めていたことは、口にしないほうがいいのかもしれないと思った。結婚前に何年も同居することは彼女にはごく普通のことだったが、レベッカ・マッケンジーにとっては恥ずべき非道徳行為なのかもしれないから。
彼女のとげのある言い方が不快でないと言ったら嘘になる。でも、彼女は黙ってやり過ごそうと思った。口論をしたらグレッグが困るだろう。親子の団らんに水を差すようなことはしたくない。
そう思っていたところ、グレッグは突然立ち上がった。
「そろそろ失礼するよ。母さん、もてなしをありがとう」
ジョルジアは驚いた。十五年以上会わなかった母親との再会を、こんなにあっさりと打ち切るとは思っていなかったからだ。もしかして、自分のせいなのかと不安に思った。
ところが、レベッカの方はさほど驚いた様子は見せなかった。
「どういたしまして。プレゼントをありがとう。私としては、お前が健康で、そして、立派にやってくれればそれでいいのよ。普通よりも遅いけれど、少なくとも家庭を持つつもりになったことは、いいことだと思いますよ。どうぞお幸せに。次はもっと繁く母親を訪れるつもりになってくれるといいわね」
【小説】霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 1 -
母親との関係改善のためにわざわざ予定を変更して来たはずなのに、グレッグは母親レベッカのジョルジアへの態度に我慢できずにさっさと退散してしまいました。その続きであるこの章も9000字以上あるので、四回に分けてお送りします。
さて、章のタイトル「蜂蜜色の街」、実はものすごく悩んだのです。「蜂蜜色」はイングランド中央部、数州にまたがって広がるコッツウォルズ地方で採れる「コッツウォルズ・ストーン」に対しての形容で、バースの街を彩っている「バースストーン」は、もう少し淡いクリーム色なのですよね。ただし、現地の人によると「同じものだよ」ということですし、題名として「クリーム色の街」より「蜂蜜色の街」の方がしっくりきたので、結局ここはそのままにしました。
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霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 1 -
「不快な思いをさせてしまった。本当に申し訳ない」
家を出てすぐに彼は謝った。
「いいえ。私こそ、配慮が足りなかったと思うわ。ごめんなさい。せっかく、お母様に会いに来たのに。もっと話したかったでしょう」
ジョルジアが言うと、彼は首を振った。
「話すことなんて、何もないんだ。昔からそうだった。来なくてもよかったんだ」
彼は、吐き出すように言った。いつもの穏やかな物言いとは違う、少し激しい口調だった。
「大丈夫?」
ジョルジアの不安な表情を見て、彼は黙った。それからゆっくりと道を進みながら言葉を探していた。
二人は、ホテルに近いバース中心部に戻った。母親に会いに行くのに、どうしてホテルを予約するのだろうとジョルジアは思っていたが、今になってみればあの家に泊まらずに済んでどこかほっとしていた。
街の中心にはたくさんの観光客がいて、蜂蜜色のジョージア調の建物を感嘆の眼差しで見つめている。中心には大聖堂と、ローマ時代の温泉施設があり、その周りに高級な商店やカフェなどが並んでいた。
観光地特有の浮ついた雰囲氣を横目で見ながら、それらがほとんど眼に入らない様子で俯きながら歩くグレッグをどう慰めたらいいか、ジョルジアは途方に暮れた。
イギリスに来た目的、母親との関係改善は完全な失敗に終わった。
ジョルジアは、レベッカと実際に逢うまで、グレッグとその母親との関係を理解できなかった。喧嘩しているわけではないのというのに、彼の生活の中に実母の影がほとんど見られない。唯一の交流だというクリスマスカードには、整った美しい筆蹟ではあるが、まるで企業の印刷物のように紋切り型の短い挨拶だけが綴られていた。文字数が愛情のバロメーターとは思わないが、そのクリスマスカードからは、ほとんど何も感じ取れなかったのだ。
そして、そのカードを書いた人物と対面して、ジョルジアは納得した。あのカードは、怒りや猜疑心などの何か表に出せない意図に基づいてわざわざ紋切り型に書かれたのではなく、レベッカ・マッケンジーという女性の嘘偽りのない感情が、あの文章に表れているのだと。彼女は、正しさにひどくこだわり、ユーモアを全く必要としない、ジョルジアの周りにはほとんどいなかったタイプの人間なのだと。
レベッカがアフリカでの結婚生活を、ただの失敗と切り捨ててしまったことを、ジョルジアは感じた。その激しい否定は、サバンナへの強い想いを持て余していた幼かったグレッグをひどく孤独にしたに違いない。母親との溝はそんな風にして生まれていったのだろう。彼は、その修復をするためにここまで来たのだ。だが、それはおそらく無理なのだろうと、彼女は感じた。
彼女は、黙ってグレッグの手を握った。彼は、はっとして彼女を見た。彼女の瞳を見つめ、同情と、それから、一人ではないのだと優しく肯定する光を見つけた。彼は、空を見上げ、ため息を漏らした。
握る彼の掌に力が込められた。二人はそのまましばらく黙って歩いた。大聖堂の脇を通り過ぎ、陽の射さない細い路地を曲がる。灰色の石畳がコツコツと音を立てる。
「何か食べようか」
彼がぽつりと言った。それで、ジョルジアは遅い朝食の後、まだ何も食べてなかったことを思い出した。マッケンジー家のお茶ではいつもたくさんの茶菓子やサンドイッチが用意されるというので、あえてランチをとらなかったのだ。
「そうね。そんなにお腹はすいていないから、ティールームか何かでいいんじゃないかしら」
ジョルジアが言うと、彼も頷いた。
辺りを見回すと、すぐ側に小さな店があった。黒板が出ていて「デリ / カフェ / 自然農法のワイン」とシンプルに書かれている。中に入ってみると、カントリー調のインテリアで古い木製の床がみしりと音を立てた。
バーには年配の男が立っていて「いらっしゃい」と言った。カウンターの端には手作りクッキーやケーキが置かれていた。
「簡単なものを食べることができるだろうか」
グレッグが訊くと、男は頷き奥のテーブル席へ案内してくれた。
ジョルジアはチェダーチーズとハムのサンドイッチを、グレッグは
「農夫風って、どんなサンドイッチ?」
ジョルジアは訊いた。
パンとチーズやピクルス、ハム、サラダ、林檎、チャツネなどの冷たいものを盛り合わせた一皿をプラウマンズランチと呼び、イギリスではパブの定番料理であることは知っていた。農夫がお弁当として外で食べた伝統食らしい。ニューヨークでも、たまにプラウマンズランチを出すカフェはあるものの、サンドイッチになっているものは見たことがなかった。
彼は前に置かれたサンドイッチの全粒粉のパンを開いて見せた。
「チーズにサラダ菜とチャツネだね。チャツネが入っていて酸っぱいと農夫風って言うのかな」
首を傾げながらかぶりつく彼の姿に、ジョルジアは微笑んだ。
【小説】霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 2 -
一つ前の記事でも書きましたけれど、この章は三月にイギリスに行き、バースを歩いてから書き足したところです。そんなわけで、ロケハンの成果がいろいろと顔を出すのですけれど、今回切ったところにはあまりないか。
「郷愁の丘」を書いていたときに私の脳内にすら存在しなかったこの世界の重要キャラクターが一人だけいて、それが今回名前の出てくる人です。そもそも私の小説はそんなキャラクターばかりですけどね。
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霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 2 -
「プラウマンズランチをいつも食べていたわけではないの?」
訊くと、彼は首を振った。
「パブなどで外食することはほとんどなかったから」
「主に自炊していたってこと?」
「いや、君も知っているように、僕の料理の腕は初心者以下だ。寄宿学校時代は学食以外で温かいものは食べなかった。オックスフォードでは二回ほど引っ越したけれど、住んでいたところのどこにも、ちゃんとした自炊の設備はなかったし。共有スペースのオーブントースターくらいは使ったけれど。リチャードたちやサザートン先生が残り物をくれたこともあったので、それを温めたりしてね」
「サザートン先生?」
「ああ、そうか、言っていなかったね。オックスフォードでの
「今は、交流はないの?」
「アフリカに戻る前に、挨拶に行ったのが最後だった。形式的なことが嫌いな人で、別れの挨拶になんか来るなって怒られたよ」
「今回、会いに行くつもりはないの?」
「お忙しいだろうし、それに、僕のことをよく憶えていないかもしれないし……」
しばらく黙ってサンドイッチを食べていた彼は、紙ナフキンで口を拭うと言った。
「いや、憶えてはいるだろうな。どんなことにも抜群の記憶力を持つ人なんだ。でも、僕は彼の貴重な時間を奪っても歓迎されるような存在じゃないから」
それから、ためらいがちに続けた。
「それは、母にとっても同じだったのかもしれないな。わざわざ来る必要なんてなかったのに、君にまで無駄足をさせてしまった」
彼は、彼の心を沈ませいてるトピックに戻り、先ほどと同じ言葉を繰り返した。
「私のことは氣にしないで。お母様と知り合って、ご挨拶はしたかったから、来てよかったと思うわ」
ジョルジアは、言葉を選びながら、ようやくそれだけ言った。「母親にとって息子が特別じゃないなんてことはありえない」と明確に否定したくても、先ほどレベッカとグレッグ親子が決裂に近い形で別れたのは事実なのだ。
「不愉快にさせたのは本当に申し訳なかった。ただ、君に母と僕との関係を見てもらえたことは、今後のためにはよかったかもしれないな」
「どうして?」
「僕はこれまで通りに、母とは最低限の関わりしか持たないだろうが、そのことを理解してもらえるだろうから。僕と母は、無理して付き合ってもお互いに愉快なことにはならないんだ」
グレッグは、サンドイッチを食べ終えると紙ナフキンで口を拭い、皿の上にきちんと並べたフォークとナイフの下に置いた。テーブルに散らばったパンの粉を集めて、それも皿に置いた。ジョルジアはすっかり見慣れた、とても自然な動きだった。
「子供の頃の僕は、母に振る舞いや考えを否定される度に、どんな悪いことをしてしまったのだろうと悩んだ。反省して、できることなら自分を彼女の希望に合わせようとした」
ジョルジアは慣れていたが、グレッグの几帳面で紳士的な振る舞いは、もしかするとレベッカ・マッケンジーの厳しい躾の結果なのかもしれないと思った。彼は、茶色い瞳をあげて少し強く言った。
「でも、途中から、僕はどうしても彼女の願うとおりには生きられないことを悟ったんだ」
「あなたにも、譲れないことがあったのね」
「ああ。動物行動学研究の道に進むことを決めたときも、アフリカへ戻ると決めたときも、彼女には愚かでくだらない決断だと言われた。思いとどまるように説得された」
「そんな……野生動物の研究やアフリカは、お母様には嫌な思い出でしかないみたいだけれど……」
「ああ。そして、それは理解できるし、僕は彼女にアフリカや僕の研究を好きになってもらおうとは思ったことはない」
彼は、ため息をついた。
「学位を取った時に知らせに行った。博士号を取った時も手紙で知らせた。母は、『おめでとう』と言ってくれた。でも僕は、母が心から喜んでいないことを感じる。もし法科や経済学を修めて、イギリスの大学にでも職を得たら、ひどく喜んだだろう。もしくは、首席で卒業したら……。だから、辛辣なことを言われなかっただけでもマシと考えるべきかもしれない。いずれにしても、僕の心は沈んでしまう。それを避けようとして、僕は母に話すことがなくなってしまったんだ」
ジョルジアは、学校に通っていた頃のことを思い出した。妹のアレッサンドラは、モデル養成学校でもトレーニングを積みながら、学校の試験でも優秀な成績を取った。出席日数がギリギリだと嫌みを言う教師たちを、試験の度に黙らせてきた。ジョルジアは、中の上程度の成績を取った時、家に帰るのが嫌だった。ずっと時間のある自分の努力不足を指摘されると思ったから。
でも、兄のマッテオは、アレッサンドラを心から賞賛すると同時に、ジョルジアが美術で満点を取ったことを、言葉を尽くして褒め称えた。優秀で有能な兄妹二人に挟まれて、居たたまれない思いで生きてきたと思い込んでいたが、彼女は認められ、肯定され、愛されてきたのだ。
【小説】霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 3 -
先週アップした分と同じく、二人は昼食代わりに入ったティールームで話をしています。
どこかで読んだようなエピソードが、と思われる方もあるかもしれません。前作「郷愁の丘」の連載中、クリスマスに合わせて発表した外伝「クリスマスの贈り物」という作品です。あの作品も今回と同じ、グレッグと実母レベッカの、実の親子なのに上手くいかない様子を描写していました。
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霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 3 -
「もっと応援してもらいたかったと思うのは、当然だと思うわ。あなたは自分の道を行くことを選び、それでお母様との関係を壊してしまったと苦しんだのね」
「たぶんね。それに、僕は今日まで母のことを冷静に分析するのを避けていたんだと思う」
「分析?」
「母親は子供ために存在するわけではなくて、一人の別個の人間だ。でも、僕は自分のことで頭がいっぱいで、その視点で考えていなかった」
「お母様の視点……」
「離婚して、イギリスに戻ってきた母は、今の僕よりずっと若かった。一度結婚に失敗して、今度こそ自分に合う相手と巡りあい、新しい人生の舵取りをするのに精一杯だったのだと思う。なのに、我慢して面倒を見続けている息子が氣にいらない進路を選んだりするものだから、嫌みの一つも言いたくなったのかもしれない」
「でも、子供が母親は女や人間であると認識するのって難しいことじゃない?」
「小さい子供ならね。でも、僕はもう四十歳を超えているんだし」
ジョルジアは、ふと初めて会ったときと今では、彼の印象がずいぶんと変わっていることを思った。彼の穏やかで感情を露わにしない態度は、口髭を生やしている彼の外見の影響もあり、初対面の人には実際の年齢よりも年上の印象を与える。少なくとも両親との関係で悩んでいるようには見えない。おそらく今から十年前でも、いや、二十年前でも同じ印象を与え続けてきただろう。
けれども、今のジョルジアには、時折彼が小さな子供のように感じられるときがある。叱られて泣きながら、理由もわからずに両親の許しを請う幼い少年が彼の中に住んでいるのを感じる。まだ甘えたかった年頃に、寄宿学校の小さな部屋で孤独に耐えていた彼の話は、ジョルジアの心を締め付けた。
漁師として働いていたジョルジアの両親も滅多に家に居なかったが、寂しいときには歳の離れた兄マッテオがいつもあふれんばかりの愛情で抱きしめてくれた。そして、しばらくぶりに会う両親も、ジョルジアと妹のアレッサンドラに十分すぎる愛を注いでくれた。その愛は、やがて確認しなくても信じられるようになり、今こうして離れていても家族の絆を感じることができる。
けれど、グレッグは愛に飢えたまま独りで立ち続けてきたのだ。
やがて、彼は少しやわらかい調子で話した。
「今日の彼女は、僕の記憶にある母そのものだった。それなのに、僕は違う母と会えるつもりでここに来たんだ」
「違うお母様?」
彼は自分を嘲るような笑い方をした。
「僕が憶えている母の姿は、歪んだ記憶なんじゃないかと、会ってみたらもっとずっと快い歓待をしてもらえるんじゃないかと、期待していたのだろうね。でも、それは彼女に対しても失礼なことだった」
「どういうこと?」
「母を正しく理解するためにならともかく、僕はただ自分の心の安定のために、それにこだわっていたんだ。誰一人として僕のことを愛してくれる人がいないと認めたくなかったからだろう。自分が両親にすら愛されることのない存在であるということに、向き合うのが辛すぎたから。でも、やっとわかった」
「何が?」
「彼女は、彼女なりに母親として僕を愛しているのかもしれない。それが僕の望む形ではないことを彼女は知らないし、今後も知ろうとはしないだろう。そして、僕も、彼女が望むような息子には永久になれないだろうし、なりたいとも思わない。それは、彼女が悪いわけではなく、そして、僕がずっと思っていたように、僕が悪いからでもない。ただ、どうしようもないことなんだ」
「あなたは、それでいいの? つらくはないの?」
「ああ。それでいいと感じたし、今、少し驚いているんだが……母と上手くいかないことに、以前ほど傷ついてもいないんだ。不思議なくらいに」
それから、彼はジョルジアの方をじっと見つめて言った。
「こんなに平常心でいられて、母との関係を冷静に分析できるのは、君と出会ったからだと思う」
「それは少し大袈裟じゃない?」
「いや、全く大袈裟じゃないよ。今から思うと、クリスマスにも、これまでと違うのを感じたんだ」
「クリスマス?」
突然話題が飛んだので、ジョルジアは戸惑った。
「ああ。君と親しくなって初めてのクリスマスに、プレゼントとカードを送ってくれただろう?」
「ええ。憶えているわ、あれが?」
ジョルジアがニューヨークのデパートメントストアで見つけた、サバンナの動物たちを象ったクリスマスツリーのオーナメント。
「ずっと苦手だったクリスマスシーズンだが、あれから、待降節を他の人と同じように少し浮かれて過ごすようになったんだ。あのオーナメントと、君たちからのカードを眺めながらね」
彼は、思い出しながら微笑みを漏らした。
ジョルジアは、その温かい想いに覚えがあった。彼女自身、それまでクリスマスシーズンは嫌いではなかったが、どこか場違いさを感じていた。兄のペントハウスの三メートルもあるクリスマスツリーの豪華な飾りや、妹の豪邸で姪を喜ばせるために飾られたオーナメントの数々には圧倒されたが、それは自分とはほど遠い祭りに感じていたのだ。
けれど、彼へのプレゼントとしてサバンナの動物たちのオーナメントを買い込んだ後、わざわざ小さなニューヨークの小さな住まいでも同じオーナメントを飾るようになった。七千マイル離れた《郷愁の丘》で、同じオーナメントを飾ったツリーを眺める彼と、一緒にクリスマスを待つことが出来るように感じたから。
「君からの、それに君のお兄さんや、キャシーたちからのカードは、僕にとって初めてもらった義務ではなくて心のこもったクリスマスカードだったんだ。僕は、あれからクリスマスの期間を悲しく辛い想いで過ごすことがなくなった。たとえ独りでいても。世界中の人間に嫌われているから独りでいなくてはいけないわけじゃないんだと、思えるようになったんだね」
彼女は、彼を見つめ返した。彼のいう意味が、彼の感じ方が、よくわかった。
「あなたは誰にも愛されない人なんかじゃないことを知ったのよね」
【小説】霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 4 -
バースの「観光案内」的描写、ローマンバスでもなく、バルトニー橋やロイヤルクレセントでもなく、ましてや「サリー・ラン」でもなく、一番さりげないここを選びました。このくらいなら「いかにも観光名所を入れてみました」的な記述にはならないかなと思って……。
さして、こんな形で二人はバースを去ることになります。
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霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 4 -
表に出ると石畳が濡れていたが、柔らかい陽の光が射していた。
「あら、いつの間にか雨が降っていたみたいね」
ジョルジアは、空を見上げた。噂に聞く英国の天候、一日の間に全ての天氣を体験できるというのは、冗談でも大袈裟でもなく、普段傘を持ち歩かないジョルジアでも今回は毎日折りたたみ傘をバッグに入れることを覚えた。
「傘を広げずに済んでラッキーだったわね。ホテルに帰る前に、また少し散策しない?」
そういうと、グレッグは頷いた。
彼は、しばらく歩いて向かいの道を指さした。
「あそこに女性の人形があるだろう?」
オブジェが眼に入った。昔のファッションをしたマネキン人形のように見えるが、全身チョコレート色で艶やかな仕上がりと相まってまるで巨大なチョコレートのように見える。
「ええ。あれ、チョコレート屋かしら?」
「そうだ。バースでは一番有名なチョコレート専門店だろうな。十八世紀にシャ―ロッテ・ブランズウィックという女性が始めた伝統のある店なんだ」
彼は、店に歩み寄ると、窓から色とりどりのパッケージの並ぶ店内をのぞき込んだ。
「思い出があるの?」
彼は頷いた。
「ケニアからここにつき、母とマッケンジー氏が正式に結婚するまでの間、僕たちは市内の小さなアパートメントに住んだんだ。僕は、こんな風にショーウィンドウにいろいろな物が並べられている街に住むのは初めてだったし、驚きと憧れでいつもキョロキョロしていた。母は、いつも叱りながら僕を引っ張っていたよ。でも、一度だけ、ここでチョコレートを買ってくれたことがあったんだ」
それは、彼の誕生日の一ヶ月ほど前だった。二週間後に寄宿学校に入る彼のために、必要な買い物をしながら、二人はバースの街を歩いていた。当日やその直後の週末に、自宅に戻り彼の誕生日を祝うという計画はなかった。母親はマッケンジー氏と結婚し、マッケンジー氏の二人の子供や使用人たちの面倒を見る主婦としての新しい仕事に全力を傾けるつもりだった。
彼自身は、誕生日を祝ってもらった記憶もなかったので、特別に悲しいとは思っていなかった。歩きながらチョコレート店のウィンドウをのぞき込んだのも、買ってもらえるという期待があったわけではない。彼は、アフリカにいた時から、生存に必要な物か、もしくは教育に役立つ物以外は頼んでも絶対に買ってもらえないことに慣れていたので、物欲しそうな顔すらしなかった。ただ、ひたすらに眩しかったのだ。華やかで楽しそうな箱に詰められた、宝石のようなチョコレートの数々が。
また歩みが遅れている息子を振り返り、いつものように小言を言おうとしたレベッカは、留まり息子を見た。母親に叱られると悟ったのだろう、少年は黙ってウィンドウから離れて、彼女の元にやってきた。レベッカは、「欲しいの?」と訊いた。
「きれいだと思ったんだ。前におじいちゃんがくれた、キスチョコみたいに美味しいのかな」
そう言うと、母親は呆れた顔をした。
「アメリカの大量生産チョコレートとは全く違うのよ。ずっと美味しいに決まっています。いらっしゃい、入りましょう」
彼女の息子は、目を丸くした。
中にいた感じのいい店員は、少年に試食用のチョコレートの欠片を二つ三つくれた。高級チョコレートを始めて口にした少年にはどう表現していいのかわからなかったが、その滑らかで香り高い口溶けは彼を天にも昇る心地にした。彼は、その経験だけでも十分に幸せだったが、母親はプラリネが四つ入った小さな箱を買い求めた。
誰かへのプレゼントにするのだろうと彼は思っていたが、料金を払って受け取ったそれを、彼女は息子に手渡した。
「少し早いけれど、誕生日祝いです。しばらく帰って来られないけれど、しっかり勉強しなさい」
彼は衝撃を受けた。まさか自分がそのリボンのかかった美しい箱の持ち主になるなんて。嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
「そうだったの。それはお母様との美しい思い出ね」
ジョルジアは、窓の向こうのプラリネの山を見ながら語るグレッグに微笑みかけた。
「この話にはまだ続きがあるんだ。僕はそのチョコレートを大切にしすぎて、クリスマスの前まで開けなかったんだ。愚かなことに、暖房ラジエーターの近くに飾っておいたせいで、溶けてしまってね。食べられなくはないけれど、大して美味しくなってしまっていた。それを母に手紙で書いて叱られた。今にして思えば、母にしてみたらせっかくのプレゼントを粗末にされて悲しかったのかもしれないな」
ジョルジアは、初めてもらった美しいチョコレートをいつまでも取っておこうとした寂しいグレッグ少年を抱きしめたかった。もし彼が喜ぶのならば、この店中のチョコレートを買い占めて、彼の寄宿舎の部屋に飛んでいきたかった。けれど、彼が待っていたのはチョコレートではなく、きっと暖かな楽しい家庭だったのだ。
レベッカが、息子に普段は買い与えないチョコレートを贈ったのは、もしかしたら厄介払いをするように寄宿学校に送ることへの後ろめたさだったのかもしれない。でも、そのことを口にしたら、彼にとって数少ない母親との美しい思い出にケチをつけることになる。同様にここで彼にこの店のチョコレートを贈ることも、やはり彼の母親に対するノスタルジーを傷つけることになる。
テレビでのドキュメンタリーのように、母と子が愛を確かめ合う感動の再会にならなかったことは、しかたがない。けれど、そうであっても、グレッグにとってレベッカは母親で、彼女に対する子供としての想いはこれからも続いていくのだろう。そして、レベッカにとってもそれは同じなのだろう。
振り返ると、彼はもうチョコレート店を覗いてはいなかった。ジョルジアは、彼に近づいた。彼は、スマートフォンを見ながら何かを思案していた。
「何かあったの?」
ジョルジアが訊くと、彼はメールの画面を見せた。
「いま例の恩師、サザートン教授からメールが来た。教授は、レイチェルとも親しいんだ。僕がイギリスにいるって彼女から聞いたんだろうね、会いに来いと言っている」
ジョルジアは言った。
「まあ、素敵じゃない。あなたは逢いたくないの?」
「いや、久しぶりだし、可能なら逢いたい。母のところの用事は終わったから、バースに長居をする必要はなくなったんだし。その……また予定を変更してオックスフォードへ行ってもいいだろうか」
「もちろんよ。あなたが学んだ街を見てみたいわ」
【小説】霧の彼方から(7)恩師 - 1 -
母親レベッカ・マッケンジーと短く言葉を交わしたのみで、グレッグは母親との関係改善をすることもなく、バースを後にしました。大学時代の恩師から「イギリスにいるのならぜひ会いたい」との連絡を受け、ジョルジアを連れて学生時代を過ごしたオックスフォードへと向かいます。
この作品を書き出した時点で、私はオックスフォードに足を踏み入れたことがなかったので、かなり「これでいいのか」と首を傾げながら書いていました。三月に縁あって無事ロケハンにいけたので、その頃よりは「まあ、こんな感じかな」と思いながらの発表です。でも、とんでもないこと書いているかも……。
この章も三回に分けます。恩師、出てきていないじゃん orz
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霧の彼方から(7)恩師 - 1 -
バースから乗り換えを含めて一時間半ほど電車に揺られ、オックスフォードについたのは昼に近い時間だった。駅を出たところは、ごく普通のビルが建ち並んでいたが、橋を渡った辺りからは赤茶色と白の煉瓦で覆われた、歴史ある町並みが現れた。マグノリアが咲き乱れ、街をさらに華やかにしている。
まずは、ホテルに向かい荷物を預けることにした。ホテルの名前を告げたところ、グレッグは困惑した表情を見せた。かなり有名な五つ星ホテルだったからだ。
「その……部屋の料金は確認したのかい?」
ジョルジアは肩をすくめた。
「昨日、私が予約したホテルはもっとリーズナブルだったんだけれど、それじゃダメだって、アレッサンドラが、このホテルを指定してきたの」
ニューヨーク到着を遅らせて、イギリスに滞在することを兄マッテオから聞いた妹アレッサンドラから懇願の電話がかかって来たのは、ケニアを発つ二日前だった。
イースター休暇を利用して、マンチェスターの父親の元に滞在する娘アンジェリカを当初はアレッサンドラが迎えにくる予定だったが、夫の生家で不幸があり彼女はドイツで伝統に基づく葬儀に参列しなくてはいけなくなったのだ。レアンドロは、試合があってアメリカまで娘に付き添うことは不可能だった。そんな時に、ジョルジアが偶然イギリスに行くというのは神からの救いの手に思えたのだろう。
予定では二日後に、バースにレアンドロが連れてくることになっていたが、もしかしたらマッケンジー家に滞在することになるかもしれないと考えていたジョルジアは、滞在先を着いてから連絡する取り決めをしていた。オックスフォードに移動することになったので、同時に予約したホテルを知らせたところ、アレッサンドラがあっという間に予約変更をして連絡してきたのだ。
「だったらアンジェリカの来る前の二日間だけ、安いホテルに泊まるって言ったんだけれど、有無を言わさずにホテルを変えられちゃったわ。前のホテルのキャンセルも終わっているって。また全額払われてしまったわ、困っちゃうわね」
「そうか、姪御さんの安全問題かな……。そのくらい自分で払うと言えないのは歯がゆいけれど、そういうことなら贅沢させてもらうか」
金モールのついた外套を着用したドアマンに丁重に迎えられるような経験は、二人とも滅多にしたことがなかった。そのホテルは灰緑のどっしりとした石造りの外観で、中心地に位置するにもかかわらず、中に入ると静かで落ち着いていた。
早い時間だったにもかかわらず、すぐに部屋に案内された。天蓋のついたベッドのある広い部屋で、二人は思わず顔を見合わせた。
「こちらのドアで、続いているお隣の部屋へと直接入ることができます」
どうやらアンジェリカが泊まる予定の部屋は、二日も到着しないにもかかわらずすでに押さえられているらしかった。
サザートン教授にはお茶の時間に招かれていた。ジョルジアは、グレッグの母親を訪問したときと同じスーツに着替えた。ホテルのレストランで食べるほどはお腹がすいていなかったので、二人は街を歩いて、書店に入り、その二階のティールームで軽食を食べた。
それから、サザートン教授に花かチョコレートを買うために少し街を歩いた。
「ワインか何かの方がいいのかしら?」
ジョルジアが訊くと、グレッグは首を傾げた。
「ワインを飲んでいる姿は見たことがないな。もっとも、僕がカレッジのバーにも寄りつかなかったからでもあるけれど」
「カレッジにもバーがあるの?」
ジョルジアは驚いた。
オックスフォード大学では、学生は街に散らばる38のカレッジのどれかに所属し、大学の学部とカレッジの両方で指導を受けるというシステムを取っている。
カレッジが、それぞれの講堂や教室、図書館などの他に、礼拝堂や食堂などを持っていることはグレッグの説明でジョルジアも知っていたが、酒を出すところまで揃っているとは思ってもみなかった。
「ああ、C.S.キャロルとJ.R.R.トールキンが一緒に通っていたことで有名な『The Eagle and Child』みたいに、普通のパブを大学が経営している場合もあるんだけれど、それとは別に大学の学生食堂のような感じで校内にバーがあることもあるんだ。普通は、外のパブよりも安く酒を飲めるので、通う学生は多いよ」
結局、二人はチョコレートとポートワインを買った。彼の母校であるベリオール・カレッジのある街の中心部に戻ろうとしている時、不意に彼が「ここは……」と言って立ち止まった。
【小説】霧の彼方から(7)恩師 - 2 -
前回、サザートン教授へのプレゼントを探して街を歩いているうちに、グレッグはどうやら思い出のある場所にたどり着いたようです。考え事をすると他のことに思いがいかなくなってしまう、若干ツメの甘い彼らしい行動がここでも見られます。
一方、ようやくタイトルの恩師登場。ケニアのレイチェルとほぼ年がおなじで仲良くしている模様。有能かつ社交的で順調に出世している教授が、グレッグによくしてくれる理由は……あ、次週更新分ですね。
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霧の彼方から(7)恩師 - 2 -
彼は、一度過ぎたところを、少し戻って奥の道を眺めた。ジョルジアも戻ってきた。
「確か、この角を……」
「何を探しているの?」
すると彼ははっとして、ジョルジアを見た。
「あ、いや、その……知り合いがこの通りに住んでいたので、まだいるかなと思っただけなんだ」
その通りの建物は、どれも古い時代の石造りだった。表通りのような華やかな煉瓦色ではなく、手入れが行き届いていない暗い佇まいだ。
「建物は憶えているの?」
「ああ、そうだ、その角を曲がった奥の……」
「じゃあ、行ってみましょうよ」
細い路地だった。暗い色をした煉瓦には落書きが至る所にあり、足下にはスナックの残骸や濡れて丸まったプラスチック製の袋などが散逸している。ジョルジアは、ニューヨークのスラム街を思い出したが、そこにはスラム街のような危険な匂いはなかった。単純に貧しく手入れの行き届かない地域のようだ。
彼は、ある家の階段の前に立った。郵便受けが八つ並んでいるのを見ていた。その表情に変化が表れ、ジョルジアは彼の知り合いがまだここにいることを知った。郵便受けには五軒分しか名前がついておらず、その中で明らかに古いものは一つだけだった。
マデリン・アトキンス。女性だ。ジョルジアの胸が騒いだ。同時に、彼の母親の家で聞いた名前と違う女性であることに少しほっとしていた。彼がかつて愛した女性のファーストネームはジェーンというはずだった。そして、まさか、昔の恋人の家にジョルジアを連れて行ったりするはずはないだろうと、彼女は考えた。
「探しているのは、この方のお家?」
ジョルジアが訊くと、彼は頷いた。
「突然だけれど、訪問してみる? それとも、ホテルからアポイントメントを入れる?」
そういうと、彼はギョッとしたようにジョルジアを見て、それから慌てて首を振った。
「あ、別に訪問しなくても、いいんだ。きっと僕のことなど憶えてはいないだろうから。行こう、教授は時間にうるさいから、遅れないようにしないと」
あらかじめ伝えられていたように、二人はサザートン教授の部屋に案内された。歴史を感じる部屋はまるで図書館の書庫の一角のようだった。作り付けの棚が全て本で埋まり、重厚なデスクの上にもたくさんの書類と本が載っていた。
サザートン教授は、一見グレッグより歳下に見える。髭をしっかりと剃り、茶色い巻き毛はきれいに撫でつけてあるが、後ろに一つだけ寝癖のように立っている部分があった。べっ甲眼鏡の奥から悪戯っ子のような瞳が笑っている。実際にはグレッグよりも十歳以上年長で、現在は動物行動学を教える教授の中では重鎮だった。
教員と学生たちが正装で晩餐に臨む有名なホールのすぐ脇に、喫茶とバーが一緒となった『バッテリー』があり、二人はそこで教授とお茶を飲むのだと思っていたが、彼は「とんでもない」と言って、格式高いシニア・コモン・ルームへ案内してくれると言った。普段は在籍生でも入ることを許されない部屋だ。
「でも、その前に少しここでおしゃべりをしよう。君ももう立派な学者になったことだし、今度こそファーストネームで呼び合っていいよね、ヘンリー。私はウォレスだ」
彼と握手をしながら、グレッグは「はい」とはにかんだ。
「そして、こちらが君の噂の婚約者だね。レイチェルから聞いているよ。本当におめでとう、ええと、ジョルジア・カペッリさんだったね」
名乗る前に知られていたので、ジョルジアは仰天した。
「初めまして。ジョルジア・カペッリです。サザートン教授。お目にかかれて光栄です」
「いや、ヘンリーの奥さんになるんだから、もう少しラフに付き合ってくれないかな。君だけ敬語だと、ヘンリーが元の敬語に戻っちゃうだろう?」
そう言って彼はウィンクをした。
ジョルジアは笑って言った。
「わかりました。どうぞジョルジアと呼んでください」
チョコレートとポートワインの瓶を渡しながら、写真集はレベッカ・マッケンジーではなくこの人に渡したら喜んでもらえたかもしれないと考えた。そう思った途端、視界の端に見慣れたグレーの本が見えて、思わず凝視した。
教授のデスクの上に、彼女の写真集『陰影』が載っていたのだ。見間違えようがない。真ん中に兄であるマッテオ、そのすぐ下にグレッグの横顔が見えている表紙だ。
「まさか!」
「ああ、これかい? 驚くには値しないよ。私は必要な本はインターネットですぐに注文するんだ。だから、どこもかしこも、この部屋みたいになっちゃうんだけれどね。とにかく、レイチェルに訊いてすぐに、調べてこれを見つけたよ」
そう言ってウォレスは、グレッグの姿を映した作品のある最後の数ページを開いた。
「本当にいい写真だね。彼らしさが、この数枚に詰まっているし、それを見つめる君の愛情を感じるよ。これを見て、これはいいパートナーを見つけたなと確信したんだ」
真剣な面持ちで文献に向かうグレッグの姿、ルーシーにブラッシングをしている時に反対に顔をなめられて破顔しているシーン、あえて彼よりも手前のワイングラスを持つ手にピントを合わせた一枚、そして、最終ページに置いた食べられたシマウマを前に悲しみながらその死を受け入れているサバンナでのショット。
ジョルジアにとっては、当たり前に目の前で繰り広げられた彼の自然な日常光景だったし、グレッグも自分自身もこの写真を撮った時には後に結婚することになるとは夢にも思っていなかったのだが、言われてみればあの時と今と、彼に対する根本的な感情、言葉にならない深い絆に対する実感は、全く変わっていないのだと思う。撮るとしたらやはり同じシーンを切り取ろうとするに違いない。
【小説】霧の彼方から(7)恩師 - 3 -
前回、サザートン教授に遭い、心地よい歓迎を受けた二人。結局、ジョルジアにはちんぷんかんぷんの話で盛り上がっています。
私自身がこうした世界に疎いので、極力ぼろが出ないように最低限の記述しかしないのですけれど、あまりにも何も書かないと、まるでグレッグがニートみたいな感覚に陥ってしまう。悩ましいところです。それで、今回は少しは努力したんですよ。結局はジョルジア視点にして逃げましたけれど(笑)
オックスフォード大学の多くのカレッジにある「シニア・コモン・ルーム」(在籍する学生の入れる「ジュニア・コモン・ルーム」とはまた別の部屋)というのは、お茶を飲んだり、ディナーを取ったりすることの出来る部屋ですが、教授や名誉教授など、カレッジで教える資格のある人のみが入室許可証を持ち、一般人は入れません。ここに入る資格を持つことが、一つのステータスなのですね。招待されて入室すること自体、大変な栄誉……みたいです。ま、私には無縁の世界だな。
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霧の彼方から(7)恩師 - 3 -
ウォレスは親しげに笑いかけ、思い出話を始めた。
「ジョルジア、ヘンリーから聞いているかもしれないけれど、もともと私は、あまり面倒見のいい方じゃなくてね。チュートリアルでは、最低限の指導しかしないのが常だったんだ。とくに口が立って調子がいい割に、言ったことをやってこないような学生たちにうんざりしていて、チューターをやめたくて仕方なかったんだ。で、このヘンリーたちを受け持った時期には、必要以上に課題を多くして、嫌われて評判を落とそうと画策していたんだけれどね。彼だけがどんなに大量の課題を出しても全部真面目にやってくるんだ。なのに討論させると、周りの勢いに負けて黙ってしまう。それが歯がゆくてね、とにかく言いたいことだけは言えるようにと、妙に熱心に指導してしまったんだ。そういう意味で、忘れられない学生だったんだよ」
ジョルジアは、納得した。グレッグは穏やかな性格にもかかわらず、ここぞという時にははっきりと意見を口にする。それは、オックスフォード時代にこのウォレスが熱心に指導した成果なのだ。
「こっちは、写真集ほど簡単には手に入らなかったけれどね。でも、手を尽くせばなんとかなるものさ」
そう言って、ウォレスが手にしたのは一冊の革表紙の本だった。
「あ、それは……」
グレッグが驚いた声を出す。「東アフリカにおけるサバンナシマウマの遺伝子的多様性の解析」という題名が見えた。渡されたジョルジアは、開いて著者の名前を見て納得した。共著になっているが、二番目の著者は「ヘンリー・G・スコット博士」だった。
「レイチェルと三回もEメールを交換して、ようやくこの本が出ているという情報をもらえたんだ。次にこういうのを出版したら、ちゃんと知らせてくれよ」
「すみません。興味があるとは思わなかったので。次回はお送りします」
ウォレスは、破顔して言った。
「もちろん興味はあるさ。ここで君が書いているマサイマラのサバンナシマウマと、ツァボ周辺集団の遺伝子配列の分析だけれど、離れた地域での行動の類似と結びつけるあたり、面白いアプローチじゃないか。特に、この個体間の遺伝子配列差が少ないグレービーシマウマとの混血個体から、キーとなるアンドロゲン受容体の配列を仮定したやり方に感化されてね。同じ方法をウェールズやスコットランドの馬との比較考察に使ってみようと、関係省庁に申請を出した所なんだ。もしよかったら、改めて意見を交換できないかい?」
「はい、ぜひ」
それからしばらくの会話は、ジョルジアにはほとんど意味がわからなかったが、ウォレスと生き生きと話すグレッグの様子が嬉しくて、微笑んで見ていた。
「いや、これはまずいな。君の婚約者を退屈させているぞ。ジョルジア、もうしわけない。喉も渇いただろう? そろそろお茶の用意ができているはずだから、シニア・コモン・ルームに行こう」
樫のパネルに覆われ、深い臙脂の絨毯が重厚な雰囲氣を醸し出すシニア・コモン・ルームは、単なる休憩所ではなく、フェローと呼ばれる教員たちが自由にコーヒーなどを飲みながら意見を交換する大切な社交の場だ。ウォレスが二人を連れて行った時にも、中にいた何人かの教授たちが真剣に何かを語り合っていて、入ってきたウォレスとも親しく挨拶を交わした。
「ここのコーヒーは、アメリカから来た君には濃すぎるだろうか。むしろ紅茶の方がいいかい?」
ウォレスが訊いた。ジョルジアは首を振った。
「いえ、私はイタリア系の家庭だったので、コーヒーは濃い方がいいんです」
「もちろんだな! 君の苗字だけからわかって然るべきだったのに」
その日ウォレスには会議の予定があったので、面会は決して長い時間ではなかった。だが、グレッグもジョルジアも楽しく「ここに来てよかった」と心から思える時間を過ごすことができた。
退出してから、二人はホテルの前にあるアシュモレアン美術・考古学博物館を見学した。世界最古の大学博物館には考古学資料、イスラムや日本など各国からの美術コレクション、ラファエル前派の絵画コレクション、ミケランジェロやダ・ヴィンチの線画、ターナーやピカソの油彩画、ヴァイオリンの名器メサイア・ストラディバリウス、英国の歴史に興味を持つものは見逃せないアルフレッド大王の宝石やガイ・フォークスが所持していたランタンなどが所狭しと陳列されている。
「公開はしていないけれど、貴重な動物標本なども所蔵しているんだよ。たとえば、ヨーロッパで見世物にされていた最後のドードーの剥製もあったんだ」
「どうして過去形なの?」
「傷みがひどくって、残念ながら十八世紀に頭部と爪を残して焼却されてしまったんだ」
野生も含めて永遠に失われてしまった生物への悼みの籠もった言葉だった。
博物館の中をゆっくりと見て回り、イタリア・ルネッサンス絵画のコーナーへ行った。目を引いたのはピエロ・ディ・コジモの「森の火事」で、中心に配置された森の火災から逃げ惑う動物や人々の姿が描かれている。
「不思議な作品ね。とても写実的な動物の姿もあれば、ファンタジーのような動物もあるわ」
左の中心部にいる豚と鹿には人間の顔がついている。燃え盛る焰は、まるで本物のような印象を与える。グレッグがスケッチで見せるような写真に近い写実性ではないが、不思議なことにそれでも人の眼にはそれが火に見える。
二人は、動物たちの特徴や、絵画から受ける印象などについてあれこれ語り合っていた。そこへ、グレッグの携帯電話が鳴った。
「失礼」
彼が電話を受けるために部屋から出ていったので、ジョルジアはしばらく一人でその部屋の絵を眺めていた。戻ってきてから彼は言った。
「ウォレスからだった。もし明日時間があるなら、また少し研究のことについて話がしたいんだそうだ」
「今日、話をしたりなかったみたいだものね。行くんでしょう?」
「そうだね。君は、どうしたい? その、ウォレスは歓迎すると思うけれど、退屈なんじゃないかい?」
ジョルジアは、少し考えた。
「そうね。動物行動学の話にはついていけないのははっきりしているし、どちらでもいいなら私は失礼していいかしら。せっかくだから、オックスフォードの街を観光しようと思うの」
グレッグは頷いた。
「そうだね。きっとその方がいい。じゃあ、夕方にでも待ち合わせしよう」
【小説】霧の彼方から(8)もう一人のマデリン - 1 -
かなり短い話だからと、ちんたら連載してきましたが、氣が付いたら今年もあと三ヶ月じゃないですか。早く終わらせないと「scriviamo!」で中断になってしまう。というわけで、『オリキャラのオフ会』と同時に公開していきます。小説続きでうんざりの読者様、そういう大人の事情がありますのでご了承くださいませ。
とはいえ、12000字以上あるこの『もう一人のマデリン』、六回に分けます。もっとまとめて発表も出来るのですが、この十月が珍しく忙しく『十二ヶ月の歌』シリーズが用意できないのです。すみません。
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霧の彼方から(8)もう一人のマデリン - 1 -
ジョルジアは、カメラを持って出かけた。バースにいた時は、グレッグの様子が心配で写真を撮るような心持ちにはならなかったのだが、サザートン教授との再会で彼が笑顔に戻ったので、彼女の心も浮上したのだ。
彼女は、まずセント・メアリー・チャーチに行った。十三世紀後半に建てられたオックスフォードを代表する教会だ。六十メートルを超す塔は展望台になっている。すぐ目の前にあるオックスフォードの象徴的建物ラドクリフ・カメラをはじめとしてオックスフォードの街が一望の下だ。
彼女は、様々な方向を見て「あれがホテルね」「ベリオール・カレッジはあれかしら」「あの通りはかなり広い大通りなのね」と街の地理を確認した。
若かりし日に、グレッグがウォレスに連れられて行ったであろう図書館や、おそらくリチャードやアウレリオが大騒ぎしていたであろうパブなどを想像して、微笑ましく思った。
それから、昨日プレゼントを買うために通った一角にも目を向けた。石造りの建物、郵便受けを脳裏に描いた。マデリン。名前をつぶやく。マディと同じなのですぐに憶えてしまった。明るくて積極的な未来の義妹は、とても魅力的だ。もう一人のマデリンはどんな人だったのだろう。
後ろから控えめな咳が聞こえて、ジョルジアは他の観光客の邪魔をしていたことに氣が付いた。想いにふけるにはこの展望台は狭すぎる。彼女は塔から降りて、彼女を沈思に至らせたあの通りと反対の方向へと歩いた。
ハイストリートから、タールストリートへ抜けてしばらく歩き、カバード・マーケットに入った。屋根に覆われ天候に左右されずに買い物のできる市場だ。オレンジと白の明るい天井の下に、色とりどりの野菜や花、ソーセージなどの加工肉などを売る店が並ぶ。観光客向けの土産を売る店もあるし、金物屋もあった。額縁と芸術的な写真を扱っていると思われる店には学位を受けた学生が正装のマントを着ている写真が飾ってある。
ジョルジアは、一度も写真を撮っていないことに氣が付いた。次は何を見ようと思っているわけでもない。心は、あの暗い路地にあるのだ。
彼女は、立ち止まり、それから踵を返した。
「何か用かい」
ジョルジアは、ドキッとして振り向いた。黒と紫のくたびれた服を身につけた老女が立っていた。深く刻まれた皺と曲がった腰、そして立っているのも難儀な様子だったが、目の光は強く、頭はしっかりとしているようだと思った。
ジョルジアは、昨日グレッグと通った一角にわけなくたどり着いた。そこで何をするのか何も考えていなかったことに思い至り、郵便受けの古い表札をもう一度見てから立ち去ろうとしたところだった。声をかけられて初めて、マデリン・アトキンスという女性のことを訊いてみようかと思った。
「このフラットにお住まいの方でしょうか」
「そうだよ」
「ここに少なくとも二十年くらい前からアトキンスさんという方が、お住まいだと思うんですが……」
老女は、じっと見つめてから言った。
「あたしがそうだけれど、あたしはあんたを知らないね」
ジョルジアは驚いた。グレッグが探していた女性がこんなに高齢だとは思わなかったのだ。そうであってもおかしくないのに、どういう訳か、もっと若い女性だと思っていた。言葉の濁し方が、彼らしくなく曖昧だったからかもしれない。
「私はここにははじめて来たんです。かつて学生として住んでいた人が、あなたがまだここにいらっしゃるのか氣になっていたみたいだったので……。大変失礼しました」
マデリン・アトキンスは、記憶をたどっているようだった。
「あんたの言葉から推測すると、アメリカ人だね。二十年前のアメリカ人の学生かい……」
「あ、私は確かにアメリカ人ですが、彼はケニア出身で……」
そう言った途端、マデリンははっとした。
「アシュレイかい?」
ジョルジアは、思いがけない名前に驚いた。
「リチャードをご存知なんですか?」
「知っているとも。あれは忘れられない学生だったからねぇ。顔が広くて、面倒見が良くて、あたしにも随分たくさんの客を紹介してくれたものさ。ガールフレンドに困っていたことはなさそうなのにね」
客の紹介と、ガールフレンドになんの関係があるのか、ジョルジアにはわからなかった。が、マデリンは、ずっと親しみやすい表情になって、手招きした。
「こんなところで立ち話もなんだから、入りなさい。お茶でもどうだい」
ジョルジアは、頷いた。リチャードと親しいなら、グレッグも学生時代に彼女の店かなにかを訪れたのかもしれない。どんな商売だかわからないけれど。
それに、この女性にはどこか惹かれるところがあった。
人々の人生の陰影を撮ることをテーマにして過ごしてきたこの二年半で、彼女は人生の喜びや悲しみを重ねてきたストーリーを表情に刻んでいる人を見出す職業的勘をいつの間にか磨いた。
彼女の脳のどこかで「マデリン・アトキンスは、決定的瞬間を撮らせてくれる被写体である」と言うシグナルが、点滅していた。
【小説】霧の彼方から(8)もう一人のマデリン - 2 -
この小説で、実はグレッグの実母レベッカよりも私が書きたかった女性マデリン・アトキンスは、実はずっと昔に書きボツにした別の小説のキャラクターでした。こういう使い回しを私はよくやりますね。実は、「郷愁の丘」を書いたときには、この役割の女性を登場させる予定がまるでなかったので、ついマデリンという名前をレイチェルの娘にあげてしまったのですが、後から失敗したな、と思っていました。今回の女性を別の名前にすればいいだけの話でしたが、マデリンという名前で私の中にいること、すでに三十年近いキャラクターで、もう他の名前が馴染みません。
さて、マデリンと若かりし日のグレッグの関係を、鈍いジョルジアもようやくわかったようです。そりゃグレッグは細かく説明しませんよね。
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霧の彼方から(8)もう一人のマデリン - 2 -
彼女の部屋は少し暗かったが、きちんと片付いていて心地よかった。古い調度は、彼女の刻んできた歴史を強調しているようだった。小さいテーブル、二つの腰掛け、七十年代風テキスタイルのカーテンは、おそらく懐古主義で選んだ柄ではなく、その時代から掛け替えていないのだろうと想像できた。
その佇まいは、モノクロームで映し出せば完璧だと思われた。それはつまり、カラーで表現するにはあまりにも色褪せていて大衆に訴えかける魅力に乏しい部屋だった。だが、結局のところ誰であっても大衆の好みに合わせて生活を変える必要などないのだ。
「アメリカ人のあんたは、コーヒーを好むかもしれないが、あいにくと長いことコーヒーを飲む客を迎えていないのでね。紅茶が苦手だとしたらハーブティーくらいしかない。何がいいかい?」
「紅茶をいただきます。アメリカに紅茶の美味しさを触れ回るロンドン出身の友人がいるんですが、こちらでミルクティーを飲んでようやく納得しました。本当に美味しいですもの」
マデリンは「そうかい」と言うと、少し嬉しそうにティーセットを用意した。件の友人、骨董店《ウェリントン商会》のクライヴ・マクミランは、いつでも店の銀器や瀬戸物をピカピカに磨いているのだが、彼が見たら何か言わずにはいられない状態のポットだった。取っ手の一部は欠けているし、底の近くはひび割れていた。注ぎ口の近くにこびりついた茶渋が、彼女の決して裕福ではないだろう日常の積み重ねを暗示していた。
「アシュレイは、すぐにケニアに帰ってしまったと聞いたよ。いくつになったかね」
「四十を少し超えたくらいでしょうか」
以前、グレッグが、オックスフォード時代にリチャードやアウレリオと一緒に何年も過ごしたと話してくれた。つまり、リチャードはグレッグとあまり年が変わらないはずだ。
「なんていったかね、イタリア人の友達、ああ、ブラスだったか、あの青年といつも大騒ぎしていてね。二人とももう家庭でももって落ち着いただろうね」
「アウレリオは二人の子供の父親になりました。リチャードは、私の知る限り結婚の意思はないみたいです」
「そうかい。一人に絞るのは難しいかもしれないね」
マデリンはくすくす笑った。
この人は、本当にあの時代のリチャードとアウレリオをよく知っていたのだ。アウレリオが、マディと知り合うきっかけが欲しくて話したこともなかったグレッグに仲介を頼んだという話をアフリカで耳にしたばかりだ。それは正にいまジョルジアの立つこの街だったのだ。その時代にグレッグもこの街で暮らしていたのだ。
「あの頃は、まるで昨日のようだ。だが、もはやすっかり様変わりしてしまった。あたしは老いぼれになり、学生たちはずっと大人しくなってしまった。この一画もあたしたちの同業者はほとんどいなくなり、観光客に部屋を貸す業者ばかりになってしまった。警察は喜んだみたいだが、外国人が部屋を買っては値段をつり上げたり、もっと物騒な犯罪に使ったりと、あまり芳しくない傾向に陥っている。懐古主義に陥っている警察官もいるよ」
「警察?」
ジョルジアは戸惑った。
「心配しなさんな。あたしはご覧の通り、この歳でもう仕事はしていないからね。五年前に六十五になったので、他の人と同じように年金暮らしになったのさ」
ジョルジアは、驚いた。八十過ぎかと思っていたのに、この人はまだ七十歳だったのだ。
しかし、マデリン・アトキンスはジョルジアには構わずに続けた。
「ここにいるからって警察が踏み込んで逮捕するようなことはないよ。あたしは仕事に誇りをもっていたわけじゃないが、少なくとも恥じてはいなかった。ただ食っていかなくちゃいけなかった、それだけさ」
「リチャードやアウレリオもあなたのお客だったんですか?」
ジョルジアは、警察という言葉に不安を持って訊いた。そして、グレッグも……。本当に訊きたかったことはそれだ。そして、どんな犯罪に関係しているのだろう。
「いや、ブラスは若い子が好きだったからね。でも、アシュレイは時々ね。素人でない女を抱きたい時もあるとかなんとか妙な理屈を言ってきたものさ」
マデリンの言葉を聞いて、ジョルジアはようやく理解した。
この女性は娼婦だったのだ。そして、おそらくグレッグもまた客の一人だったのだろう。ジョルジアはどこかほっとしていた。婚約者が娼婦のところに通っていたと聞いたら、普通は怒るかショックを受けるものだと思うが、警察という彼女の言葉で、グレッグが何か犯罪に巻き込まれたのではないかと想像した彼女には、娼婦に通うくらい全くの許容範囲に思われた。
「長く仕事をしていると、いろいろな客がいたものさ。アシュレイは一度ガールフレンドと手も握れない晩熟な学生を連れてきたよ。セックスのイロハを教えてやって欲しいってね」
それは、グレッグのことかもしれないとジョルジアは考えた。
「教えてあげたんですね」
「一通りのことはね。動物行動学を学んでいて、器官のことは専門用語であれこれ言っていたが、実際の男と女のことはまるっきりわかっていなかったね」
ジョルジアはクスッと笑った。
【小説】霧の彼方から(8)もう一人のマデリン - 3 -
もと娼婦マデリン・アトキンスの家に招かれたジョルジア、本来の好奇心はどこへやら、フォトグラファー・モードに入ってしまいました。人生のパートナーと「関係」のあった女性を前にして、個人的な感慨をどこかへ置き去り瞬時に客観視してしまう姿勢は、本人がそうと意識していないだけで、重度の職業病なのかもしれません。それに、後先考えずに夢中になってしまうところ、もしかしたらかなり似た者夫婦なのかもしれませんね。
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霧の彼方から(8)もう一人のマデリン - 3 -
マデリンは、ジョルジアのカップに紅茶を入れた。
「あんたは、ケニアで何をしているんだい? 旅行関係?」
「私は写真家なんです。マサイ族の写真を撮る時にリチャードにアテンドしてもらいました」
「ああ、それでか」
「それでって?」
マデリンは笑った。
「あんたは、自分では氣付いていないだろうが、いろいろな物をじっと見るんだよ。あたしの顔や、服装や、この部屋の様相、それにこの紅茶もね。最初は警官なのかと思ったくらいさ。それで、何かこの部屋に撮りたい被写体があるのかい? 娼婦の部屋らしい様子はもうないと思うけれどね」
ジョルジアはチャンスだと思って頼んだ。
「私は、人生の陰影を感じるポートレートを撮りたいんです。あなたのお話を聴いていて、先ほどからずっと思っていました。沢山の人生を受け止めていらした深さや重みを感じるんです。フィルムに収めても構わないでしょうか」
「あたしをかい?」
「はい。あなたをです。もし、お嫌でなかったらですけれど」
「構わないさ。こんな婆さんを撮りたいっていうのはわからないけれど」
ジョルジアは、当初の目的も忘れてマデリンを撮った。マデリンは面白がりながら、撮られている間もいろいろな昔話を続けた。
とある著名な教授が部屋を出る時に、その学生と鉢合わせしてしまった話。三年も通ってくれた青年に恋をしてしまった話。ある客と事に及んでいる時に、スコットランドから出てきたという妻が乗り込んできたこと。いつも空腹でお腹を鳴らしながらも、貯めたわずかなお金で通おうとした貧しい青年を追い返した話。
「どうして追い返したんですか?」
「娼婦に通うなんて事は、精神的にも経済的にも余裕のない時にするべきではないんだよ。さもないと、取り返しのつかないところに堕落してしまうからね。学業がおろそかになり落伍しても、本人に別の道を見いだせる器用さがあったり、親が面倒を見てくれるような坊やならあたしも氣にしないさ。でも、その学生は学者にでもなるしか将来の可能性はなさそうだったしね」
ジョルジアは、微笑んだ。この人は、暖かい心を持った素敵な人だ。はじめから娼婦だと聞かされていたら偏見を持ったかもしれない。そうでなかったことを、嬉しく思った。グレッグに写真を見せたらなんて言うだろうと考えた。
マデリンのフラットを出ると、また雨が降っていた。ジョルジアは、折りたたみの傘を広げて路地を出た。石畳がしっとりと濡れている。雨は直に小降りになってきたが、先が霞んで昨日や先ほどとは全く違った光景に見えた。
ジョルジアは、iPhoneを取りだして時間を確認した。約束の時間まであと十五分ほどだ。
観光客たちが行き過ぎるバス乗り場を越えて、ホテルの近くまで来た時に、霧の向こうから見慣れたコートの後ろ姿が見えてきた。ゆったりとした歩きが停まり、彼は振り向いた。ジョルジアの足音に氣が付いたのだろう。
彼女はいつもと変わりない彼に笑いかけた。
「ウォレスとは、心ゆくまで話せた?」
「ああ。学生時代から思っていたけれど、彼の頭の回転は、信じられないくらい早いんだ。昨日から今日の間に、もう三つも新しいアイデアをシミュレートしていて、それがまた僕の研究を新しい次元に導いてくれたんだ。ホテルに戻ったらレイチェルにメールをして、彼女の意見も聞こうと思うんだ」
夕食までの時間、彼は真剣な面持ちでメールを打っていた。ジョルジアは、生き生きとしている彼の様子が嬉しくて、邪魔をしないようにカメラの手入れをしていた。
夕食中やその後も、彼は普通に話をしながらも、時おり思い出したように内ポケットに入れた手帳に思いついたことを書き込んだり、ウォレスに電話をしたりしていた。その様な状態では、バーやティールームにいても仕方ないので、二人はすぐに部屋に戻った。彼は、研究の話に夢中になりすぎたことを謝り、ジョルジアは笑った。
明日からニューヨークに着くまでは、姪のアンジェリカが隣の部屋にいるので、あまり甘い夜は過ごせないだろう。だから、今夜は彼に甘えてみようと、ジョルジアはシャワーを浴びるとさっさとベッドに向かって彼を待った。
彼は、そのジョルジアの意図を理解したのかしないのか、背広を箪笥にしまい部屋のあちこちを適度に片付けてから、シャワーを浴びてバスローブ姿でベッドの近くまでやってきて、ベッドの端に腰掛けた。
「そういえば、僕のことばかり話して訊きそびれてしまったけれど、君はどんな一日だった?」
そう訊かれて、ジョルジアは微笑んだ。
「そうね。まず、セント・メアリー・チャーチの塔に登ったの。地理を理解する時に、いつも一番高いところに登るの。それから、カバード・マーケットに行ったの」
グレッグは笑った。
「意外だな。君でも、いかにも観光客って周り方をするんだね」
それを聞いて、ジョルジアはおどけて言った。
「その後は、さほど観光客って感じじゃなかったわ。あのね、昨日あなたと行ったあの小路に行ったのよ」
「あの小路って?」
彼の動きが止まった。不安そうな顔つきで彼女を見ている。その顔を見て、ジョルジアは不意に自分は何をしたんだろうと思った。
【小説】霧の彼方から(8)もう一人のマデリン - 4 -
もと娼婦マデリン・アトキンスの家に行ったことをグレッグに話したジョルジア、彼の固まった様子に「マズいことをしたかしら」とようやく思い至った様子です。そりゃ、そんなことしちゃ波風立ちますとも。まあ、相手はヘタレなグレッグだからよかったものの、もっと強氣な人なら口論になるかもしれませんね。
ようやくグレッグの口から、ジョルジアが興味を持っていた若かりし日の一連の出来事が語られます。
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霧の彼方から(8)もう一人のマデリン - 4 -
「あの……。プレゼントを探している時に寄った……」
「あそこに、行った?」
彼の許可も得ずに、マデリン・アトキンスを探して話を聞き出したことが大きなプライバシーの侵害だと、この時点になってようやくジョルジアは思い当たった。
「ええ。あの……たまたま、アトキンスさんに逢ったの。それで、お茶をご馳走してくださったの。いろいろな話をして、写真を撮らせていただいて……」
彼の表情は強ばり、息を呑んだ。
「彼女と話をした? 君が?」
「ええ。あの……私……」
彼は立ち上がって、後ずさった。まるで、四年前に戻ってしまったかのようなぎこちない動きだ。
「僕は、もう一つの部屋で寝た方がいいだろうか。それとも、そのソファで……」
「グレッグ」
彼女は震えを抑えられなかった。
「ごめんなさい。私のやったことを許せないかもしれないけれど、申し訳なかったと思っていることは知って欲しいの」
ジョルジアが絞り出すようにそう告げると、彼は驚いて首を振った。
「僕は、君の方が不快に思っているのだと……」
「どうして? そのつもりはなかったけれど、結果的にあなたの過去のことを嗅ぎ回ったのは、私でしょう?」
彼は、ほうっと息をついた。
「また、同じことになると思ったんだ」
「同じこと?」
彼は、戻ってくると、またベッドの横に腰掛けてうなだれた。
「ジェーンは、言った。『穢らわしい。近づかないで』って。言い訳もさせてもらえなかった」
「ジェーンっていうのは、お母さまのところで話題になっていた人?」
「そうだ。彼女はマッケンジー氏の遠縁の女性で、オックスフォードで学ぶことになったので面倒を見て欲しいと頼まれた。僕は、女性と親しく話をしたこともなかったし、しばらく一緒に時間を過ごすうちに好きになって、うまく行くことを夢見るようになったんだ」
ほとんどバースに帰っていなかったグレッグの恋愛事情があの感じの悪いマッケンジー兄妹にも知れ渡ってしまったのは、ジェーンがそもそもマッケンジー家の親戚だったからだ。彼らは、グレッグが手酷い失恋をしたと面白おかしく口にした。
その失恋の事情はどうやらマデリン・アトキンスと関係しているらしい。マデリンが「ガールフレンドと手も握れない晩熟な学生」と言っていたのがグレッグのことだとしたら、いや、文脈からおそらく間違いなくグレッグのことだと思うが、彼はジェーンとの関係を慎重に真摯に進めようとしていたに違いない。彼が自分との関係を四年もかけて紳士的に育んだように。
「マデリンのもとに行くことにしたのも、彼女の件があったからだ。僕は、生物学や動物行動学の知識はあっても、いわゆるガールフレンドがいたことがなくて、女性と付き合うのはどうしたらいいのかもわからなかった。だから、恥を忍んでリチャードに相談したんだ。そうしたら、口で説明するよりも実習をしろと言われたんだ」
「実習っていうのは、言い得て妙ね。それがアトキンスさんのところへ行くことだったのね」
彼は頷いた。
「ああ、彼は僕がどうしようか悩む間もなくすぐに話をつけてきてくれて、僕は彼の言葉にも理があると思ってマデリンの所に行ったんだ。それがとんでもない間違いだったとわかったのは、噂でそれがジェーンの耳に届いてしまったことを知った後だった」
十代の終わりの若い娘がそれをおぞましく思ったことをジョルジアも当然だと思った。彼女は、彼の瞳を見つめた。
「おせっかいな人が告げ口をしてしまったのね」
「男が娼婦のところにいくということを、女性はそう感じるものだと、あの時僕は初めて学んだ」
ジョルジアは、彼のうなだれた表情を優しく見つめた。いたずらを見つかって縮こまっている子供のような瞳だ。
「彼女も若かったのよ、きっと」
「そうなのかな。おそらく彼女なら僕を理解して受け入れてくれると、僕は勝手な期待していたんだと思う。だから、あんな形で関係が終わって、全世界にまた拒否されたと感じた。それから、やはり僕が誰かに愛されることはないんだと思うようになった。でも、それだけじゃなかったんだ」
「というのは?」
ジョルジアは、言うかどうかをためらっている彼の硬い表情を見つめた。彼は、口に出すことを怖れるように時間をかけていたが、やがて諦めたように口を開いた。
「僕は、それからまたマデリンのところに行った。軽蔑するかもしれないけれど、たとえ仕事だとしても、彼女の肌は温かかったし、僕は性的高揚を知ったばかりだった。彼女はのろのろとした客を嗤ったり冷たくあしらったりしなかったから、僕は甘えたかったんだと思う。失恋の苦しみを薄れさせるために、彼女の優しさに逃げ込めると期待したんだ。少なくとも一度は彼女は優しくしてくれた。でも、彼女にとっても僕は迷惑な存在でしかなかったんだ」
「迷惑?」
「リチャードが取り決めてくれた金額は、一回限りの特別料金だったんだろうね。なのに、世間知らずの僕はその値段で彼女のところに通おうとしていたんだ。それっぽっちしか払えないならもう来ないでほしいとはっきり言われてしまった。でも、僕には急いで差額を払えるだけの余裕もなくて、謝って退散するしかなかったんだ」
彼は、自虐的な笑みを漏らした。
「今回、マデリンがまだ居るか知ろうとしたのは、彼女とまた関係を持ちたかったからじゃない。今更だけれど、差額を払ったほうがいいのかと思ったんだ。でも……」
「でも?」
「君に知られたらおしまいだと思った。ジェーンに拒絶された時みたいになるって」
彼は、肩を落とした。
【小説】霧の彼方から(8)もう一人のマデリン - 5 -
グレッグから二十年前の出来事を聞いたジョルジア。ようやく全てのことが腑に落ちたようです。グレッグは、嘘を言っていたわけではないと。そして、彼の青春時代が、彼女が想像していたものよりもずっと暗かったことを理解するのでした。
この「もう一人のマデリン」の章が長くなってしまったのは、この作品でこの章が要だったからなのです。しかし、それにしても全体的に地味なトーンになりましたね。ま、私の作品はいつもそうか。
さて、私自身は、グレッグがジョルジアとの旅をドタキャンしてしまったイタリアでルネッサンス絵画を満喫している予定。今回も予約投稿でお送りしています。
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霧の彼方から(8)もう一人のマデリン - 5 -
ジョルジアは、首を振った。
「私はティーンエイジャーじゃないもの。そういうこともあったのねって、思えるわ。もちろん、今からそういうところに通うと言われたら納得できないけれど」
「まさか! 誓ってもいい、僕は……」
「わかっているわ。私ね、婚約者としては変かもしれないけれど、あなたがアトキンスさんの客になったことは全然氣にしていないの。むしろ安心したの。そうじゃないことを心配してずっと不安だったから」
「何に?」
「あなたが愛してくれた女性はいなかったって言ったこと。その言葉は、私を傷つけないための優しい嘘だと思っていたの」
「嘘?」
「だって、あの私にとって初めての夜、あなたはとても上手にリードしてくれたもの。あれが初めてのはずはないって思ったの」
「あ……」
「どんな人だったんだろう。あなたはその人とどんな幸せな時間を過ごしたんだろうって考えていたの。見えないあなたの昔の恋人の影に怯えていたのね。きっとあなたはその人と私を比較して、がっかりしている。でも、言わないでいてくれるんだと。でも、今夜あなたが話してくれて、救われたわ」
グレッグは、彼女を引き寄せて抱きしめた。
「参ったな」
「何が?」
「君を、その、例の行為のことで不安にさせたなんて。それも下手じゃなかったからだなんて……」
「あの人は、とてもいい先生だったのね」
ジョルジアは彼に抱きついたまま言った。少し冗談めかして言えば、彼のいたたまれなさが和らぐと思ったのだ。
だが、彼はそれすらも真面目に受け取って答えた。
「彼女は、一般的な手順を手ほどきしてくれたけれど、たぶん、それ以上に大切なことを教えてくれたよ」
「それは?」
「何をどうすべきかの正解はないんだと。どこをどうしてもらうと感じるのかをすべての女性に当てはめて語ることはできないと。だから、手順や情報や過去の成功例にこだわらずに、相手の反応を感じ、しっかりと意思伝達をし、お互いにとって一番心地いい愛し方を築いていくべきなんだと。僕は、君が来てくれたあの夜からいつだって、幸福と快感で溺れてしまいそうな一方で、どうやって君を悦ばせてあげられるだろうかと考えている。そう言う意味では、おそらく、マデリンの指導が功を奏しているんだろうね」
彼の瞳には、哀しみが漂っていた。ジョルジアは、彼がマデリン・アトキンスに対して持つ想いがわかるような氣がした。ジョルジアが一度も失ったことのない温かい肉親の抱擁を、彼は探して彷徨ったのだ。どんな自分であっても、力強く肯定してくれる家族の存在があったから、彼女は苦しみや哀しみを乗り越えることができた。それを初恋の相手や、性の指南をしてくれた娼婦にまで求めて、結局誰からも否定されたことは、彼を深く傷つけただろう。
『パセリ、セージ、ローズマリー、タイム……とある人によろしく言って欲しい……』
「スカボロ・フェア」の憂いがジョルジアの胸の奥にくぐもっている。逢いたい想いと、直接は逢えない哀しみ。
ジョルジアは、彼の人生に影を落としていた女性は、一人ではなく三人なのだと理解した。《郷愁の丘》で想像していたのは、上手くいかない親子関係をこじらせた実母レベッカの影だけだった。
母親からは得られなかった優しさとぬくもりを探して惑った彼は、ジェーンと、マデリン・アトキンスにそれを求め、失望し、苦い思い出だけが降り積もっていったのだろう。勝手に想像していたような幸せな関係を築いた恋人の存在はなく、彼は今でも見つからなかった何かを探し続けているのかもしれない。
彼は、呟くように続けた。
「僕は、彼女に感謝している。僕に人生のことを教えてくれた数少ない人だ。どうやら恩を仇で返してしまったようだけれど。愚かな貧乏学生と思っただろうな」
その時、ジョルジアは、不意にマデリンの話を思い出して愕然とした。
「グレッグ。違うわ」
「え?」
「違うの。アトキンスさんは、払ってくれる金額が不満であなたを追い返したんじゃないわ」
「ジョルジア?」
「グレッグ、あなた、食べるものも食べずに、なけなしのお金で彼女のところに行ったんでしょう?」
「どうして、それを?」
「アトキンスさんが話してくれたのは、あなたのことだったのよ。来るたびにお腹が鳴っている貧しい学生。そんなにしてまで来なくてはならない状態を憂慮してくれたんだわ。このままでは、学業も手につかなくなり、きっと卒業できなくなる。未来は潰れ、光の見えない暗闇の中に留まることになってしまう。アトキンスさんは、あなたをご自分のような、どこに行くこともできない貧しさの沼に引き込みたくなかったのよ。あなたの学者としての未来を考えて、心を鬼にしてくれたんだわ」
「まさか」
ジョルジアは、早くあの写真を現像したいと思った。彼女の表情、瞳の光を見れば、彼にもわかるはずだ。あの女性の、おそらく当時の彼女にとっては、氣まぐれとかわりない程度のわずかな思いやり。それでも確かに彼女が抱いた、弱くて苦しむ青年に対する同情心は、きっとフィルムに映っているはずだ。
「きっとアトキンスさんは、私の知り合いはあなただって氣がついていたんだわ。でも、わかっていないフリをして、他のいろいろなエピソードに混ぜてその話をしてくれたんだと思うわ」
【小説】霧の彼方から(8)もう一人のマデリン - 6 -
この連載の開始前に公開したPR動画での台詞、氣になさっていらした方もあるようですが、たぶんこの回のアレじゃないかしら。予想通りの意味合いでの台詞か、それとも全然違う意味合いを想像なさっていらしたのか、ちょっと興味があったりします。
さて、少しだけ別小説を挟んだ後、この小説もついに最終章に入ります。今年ももうすぐ終わり。妙に早いなあ。
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霧の彼方から(8)もう一人のマデリン - 6 -
グレッグは、瞳を閉じてうなだれた。
「僕のために……僕はなにも知らずに、誰にも受け入れてもらえないといじけていたのか」
ジョルジアは、彼の髪を梳き、そのまま顎髭に指を絡めて優しく撫でた。
「でも、あなたは、彼女の期待に応えたわ。ちゃんと卒業して、立派な学者になった。そして《郷愁の丘》で、望む仕事ができるようになった。アトキンスさんは、それを知ったらとても喜ぶと思うわ」
「そして、ケニアでシマウマの研究をすることができたから、君と出会うこともできたんだ」
瞳を上げて、彼はジョルジアを見つめた。
「僕は、こんな歳だけれど、今までこんな密接な関係を誰かと持ったことがない。愛想を尽かされて去られることを怖れて、ちゃんとした関係を築く努力をしてこなかったんだ。君と上手くやっていきたいし、不快な思いはさせたくないけれど、おそらく僕はまた失敗をたくさんすると思う。嫌だと思ったことは言って欲しい。そして、僕に自分を変えるチャンスをくれないか」
「グレッグ。それはそのまま、私の言葉よ。私たち、お互いにそうやって一緒に歩いて行ける、そう思わない?」
「ありがとう。ジョルジア」
「それに……」
「それに?」
彼女は、彼を愛おしいと思うと同時に、心からの憐憫を感じた。この旅で知ったのは、彼女が想像していたようなノスタルジックで甘い過去ではなく、彼のあまりにも寂しい半生だった。
「あなたはもう一人じゃないわ。私では代わりにはならないのはわかっているけれど、でも、これからは、私があなたを抱きしめて暖めるから。お祖父さまやご両親の代わりに。ジェーンの代わりに。アトキンスさんの代わりに……」
彼は雷に打たれたように、ビクッと震えた。そして、彼女の言葉を遮った。
「君は誰かの代わりなんかじゃない」
彼の少し強い調子に、ジョルジアは驚いた。彼は、じっと彼女を見つめて言った。
「そうじゃない。君を、誰かの代わりに仕方なく抱きしめるなんてことはない。絶対に」
「グレッグ」
「そうじゃないよ。反対なんだ。僕はこれまでの人生、ずっと君を探し続けていたんだ。まだ君を知らなかったから、その代わりにあちこちで、違う人に間違った期待をかけて、断られて、困惑していたんだ」
ジョルジアは、再びそっと彼の頬に触れた。彼はその手を暖かい手のひらで包んだ。
「長老の言葉を、僕は間違って解釈していたみたいだ」
彼女は首を傾げた。彼は笑って続けた。
「『答えはお前とともにある』と言われたのを、僕は答えを自分で知っていると言われたと思っていた。でも、そうじゃなかった」
「そうじゃなくて……?」
「僕が人生をかけてずっと探していた問いの答えが君なんだ。そして、君は本当に今、僕の側にいてくれる。ここまで来る必要なんかなかったんだ。僕の求めていた愛情も、探していた温もりも、見続けていた夢も、理想の女神の形をとってここにいるんだから。愛されなかった過去に苦しむ必要なんかもうないんだ。君が愛してくれたから」
ジョルジアは、彼の胸に顔を埋めて呟いた。
「私は、ここに来て良かったと思っているわ。あなたのことを知りたかったの。知り合うまでのあなたの人生を理解したかったの」
「僕は、知られることに不安を持っていた。いつも、何か上手く行きかけると、後からやはりダメだったと落胆することばかりで、今度もそうなるんじゃないかと怖れていた」
ジョルジアは、彼の瞳を見上げた。
「私も怖れていたわ。あなたが、私が理想の女神じゃないと知ったら、きっと離れていってしまうって。でも、あなたは、私の肉体や精神の欠点を知っても変わらずに愛してくれた」
グレッグは、ジョルジアの頬に優しく触れて答えた。
「それは君の欠点なんかじゃないよ。確かに君は他の人とは違う外見を持ち、別の行動をするだろうけれど、それは単なる違いなんだ。僕は模様のないロバの毛皮もいいと思うけれど、シマウマの縞模様のことをとても美しいと思う。君の服の下に隠れている肌も、僕にできないことを瞬時にやってみせる好奇心も、君が君である全てを僕は愛しく思う。そして、君が情けない僕のことも、こんな風に愛してくれるのも同じ理由なんじゃないかと思うんだ」
ジョルジアは、彼の言葉をその通りだと感じた。
【小説】霧の彼方から(9)新しい家族 - 1 -
今年どういうわけか妙にたくさん出してしまったキャラクターであるアンジェリカが登場します。別にラスボスではないです(笑)
前作を読んでいない方のために簡単に説明すると、アンジェリカは元スーパーモデルであるジョルジアの妹アレッサンドラ・ダンジェロと、ブラジル人サッカー選手レアンドロ・ダ・シウバの間の娘です。両親が離婚しているので、二人の間を行ったり来たりしています。
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霧の彼方から(9)新しい家族 - 1 -
レアンドロ・ダ・シウバは、愛娘に何度もキスをして、抱きしめた。
「じゃあな、アンジェリカ。五月には会いにいくから、それまでのさよならだ。ああ、明日の試合がなかったら、あと三日は一緒にいられたのに。なあ、もう少し、こっちに居たくないか。パパと、またマンチェスターに戻ってもいいんだぞ」
「パパったら。そんな訳にはいかないのはわかっているでしょう。どっちにしても、来週には学校が始まるのよ。大丈夫よ、パパ。一ヶ月半なんてあっという間ですもの。ロサンゼルスで待っているわ」
イースター休暇を利用して、マンチェスターの父親の元に滞在していたアンジェリカは、ジョルジアたちと共にアメリカへ帰ることになっていた。アレッサンドラからの連絡を受けたレアンドロは、愛娘を愛車に乗せてオックスフォードまで届けに来た。
永遠に思われる「さようなら」の儀式を、ジョルジアとグレッグは顔を見合わせてから、何も言わずに辛抱強く待っていた。レアンドロの車は目立つし、そのオーナーはサッカーに興味がない人ですら記憶に残るほどの有名人だ。彼の娘がそこら辺にいるとわからないように、わざわざ五つ星ホテルのロビーで待ち合わせたのだ。
それなのに、車寄せに見送りに行き、ドアマンだけでなくその場を通る一般人にも丸見えのところで二人は別れを惜しんでいる。
やがて、レアンドロは、ジョルジアたちに簡単に別れを告げると、名残惜しそうに去って行った。
「三時間も乗っていたんですもの。車はもうたくさん」
車が見えなくなると、アンジェリカはぽつりと言った。レアンドロ自慢のスパイダー・ベローチェも彼女にとってはただの車にすぎない。娘が自分のようにドライブ好きだと疑わずに思っているレアンドロには氣の毒だが、マンチェスターからオックスフォードまでのドライブは、アンジェリカには退屈だったようだ。
彼女は、くるりと振り向くと、父親と別れる寂しさで、真っ赤になった目元を伏せた。手元のビーズつきのハンドバッグからレースに縁取りされた薄桃色のハンカチを取り出して、目をぬぐい鼻をかみ、またバッグに投げ込んでパチンと閉じた。それから、にっこりと笑うと、グレッグに手を差し出した。
「初めまして。私、アンジェリカ・ダ・シウバよ」
「初めまして。僕は、ヘンリー・グレゴリー・スコットだよ。ああ、君はたしかにジョルジアの家族だね。とてもよく似ているよ」
それを聞いて、ジョルジアは目を丸くした。アンジェリカも一瞬驚いたが、すぐに嬉しそうに笑った。
「そう言ったのは、あなたが初めてよ。みんなアレッサンドラ・ダンジェロそっくりっていうのに」
「ってことは……」
グレッグが自信無さそうに二人の顔を代わる代わる見た。ジョルジアが答える前に、アンジェリカは言った。
「もちろん知っていると思うけれど、私のママよ」
「僕は、君のママにはまだ会ったことがないんだ」
グレッグの言葉はアンジェリカには新鮮な驚きだった。
「ママを見たことないの? 雑誌でも?」
「アンジェリカ。グレッグは、ケニアの動物学者なの。アメリカの芸能雑誌は読まないし、スーパーモデルにはそんなに興味ないと思うわよ」
ジョルジアは少し慌てて言った。グレッグは、困ったように笑った。
アンジェリカは、可笑しそうに笑った。ママの顔を知らないなんて人、はじめて。
「うふふ。そういう人もいるのね。最高。姻戚になる人の中で、絶対に仲良くなれそうと初日に思ったのはあなたが初めてよ。ねえ、私もグレッグって呼んでもいい?」
それを聞いて、グレッグはほっとしたように笑った。
「もちろん」
「アンジェリカ、お腹は空いている?」
「そうね。そんなに空いてはいないけれど、何か美味しいものが食べたいなあ。ソニアの料理って、あまり美味しくないんだもの。パパのウェイトコントロールのためだと思うけれど」
ジョルジアは、小さいアンジェリカが父親の新しい妻にあまり歓迎されていないことを知りながらも、角が立たないように騒がず、氣丈に振る舞ったのを感じてそっとその手を握った。彼女は、伯母の愛情を感じて嬉しそうに笑った。
「だから、今日からジョルジアと一緒だって聞いた時、実をいうと、ほっとしたの。ねえ、グレッグ、あなたはものすごくラッキーだって知っている? ジョルジアみたいに美味しいご飯を作れる奥さんって、そんなにいないわよ」
彼は大きく頷いた。
「知っているよ。ご飯づくりだけじゃなくて、君のジョルジア伯母さんは、何もかも素晴らしい人だ。僕は本当にラッキーな男だよ」
ジョルジアは、彼がそんなことを言うとは思いもしなかったので驚いた。
「でも、今晩は、ジョルジアのご飯は食べられないのよね。どこか美味しいお店、知っている?」
ませた口調でアンジェリカが訊いた。
グレッグは、少し考えてからジョルジアに言った。
「僕は、学生時代にはあまり外食をしなかったから、そんなに詳しくないんだけれど、とても美味しい料理を出すパプがあったんだ。もし君が反対でなければ……」
ジョルジアは肩をすくめた。十歳の子供を連れて行ってもいいのだろうか。アンジェリカは、急いで言った。
「ジョルジア、お願い。私一度でいいからパブに入ってみたいの。でも、ソニアがいつも反対するんだもの。子供がお酒を出す店に行くものじゃないって」
アンジェリカの言葉に、ジョルジアは少し困ってグレッグに訊いた。
「子供が入っちゃだめなの?」
「いや。キッズメニューがあるパブもあるよ。そこにはないかもしれないけれど」
彼が行こうと考えるからには、酔っ払いがひどく騒ぐような店ではないのだろう。
「じゃあ、あなたのお薦めのそのパブに行きましょうよ。アンジェリカ、パパにどんなお店に行ったか訊かれたら、パブじゃなくてレストランに行ったと言っておいてね。教育方針に反しているかもしれないから」
「もちろん、黙っているわ。やった!」
【小説】霧の彼方から(9)新しい家族 - 2 -
登場したパブは、オックスフォードでご飯を食べにいった「Turf Tavern」をモデルにしています。美味しかったなあ。
今回、はじめてアンジェリカの養父となるルイス=ヴィルヘルムの性格の話が登場しています。別に無理して書くことなかったのですけれど、彼女の境遇を理解するには、あった方がいいかなと。本題とはまったく関係ありませんし、フラグでも何でもありません。あしからず。
アンジェリカは「できる子」なので、後半は邪魔せずに大人しく寝てますね(笑)
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霧の彼方から(9)新しい家族 - 2 -
「この店、素敵ね」
ジョルジアは、古いパブを見回した。
ニスの黒変した木のカウンターや傷のついた椅子。ビールマシンのピカピカに磨かれた真鍮の取っ手。それは、ニューヨークで時折みる、古いパプ風にあえて古い木材やアンティークの家具をそろえて作った「それらしい」インテリアではなく、本当に何百年もの間に多くの学生たちが学び巣立っていくのを見つめていた年老いた店なのだ。
若かりしグレッグや、リチャード、それにアウレリオたちも、ここでビールを飲み、将来の夢について語り合ったのかもしれない。
「この店についての思い出を聞かせて」
微笑みながら訊く彼女に、グレッグは小さく笑った。
「大した思い出はないんだ。リチャードが、誘ってくれたのでやってきて座るんだけれど、彼はほとんど全ての客と友達で、挨拶しに別のテーブルへ行き話し込む。僕は、その間、ずっと黙って座っていたな。やることがなかったから、メニューを開いていて、暗記してしまったっけ」
「それと同じメニュー?」
アンジェリカがメニューを開いて訊いた。
「いや、新しくしたみたいだね。もっとも、書いてある内容はほとんど変わらないな。このソーセージ&マッシュは、オックスフォードのパブの定番料理だけれど、ここのは秘伝のグレービーソースを使っていて美味しいよ」
豚肉と牛肉の合い挽きで作った粗挽きソーセージが、クリーム仕立てのマッシュポテトにどっかりと載り、上からグレービーソースがかかっている。グレッグはチキンとマッシュルームのパイ包みも頼み、三人でシェアすることを勧めた。アンジェリカは、嬉しそうに両方の味を楽しんだ。
「明日は屋台のフィッシュ&チップスを食べてもいい?」
アンジェリカは、ジョルジアの反応を見た。伯母は笑って頷いた。
「パパやママに禁止されているものを、ことごとく試そうって思っているでしょう」
「そういうわけじゃないけれど、ママはそんなものは食べないし、今はなおさらよ。貴族って、屋台で買ったものを立ち食いしたりしないんですって。そんなのつまらなくない? グレッグは貴族なんかじゃないわよね」
彼は答えた。
「僕の知っている限り全部遡っても、貴族は一人もいないな。もっともサバンナには屋台はないから、立ち食いしたくても出来ないよ」
「じゃあ、明日はなんとしてでもフィッシュ&チップスを食べなくちゃね」
アンジェリカは嬉しそうだ。
「ルイス=ヴィルヘルムは、とてもいい人だけれど、ハンバーガーが食べたいとか、コークが飲みたいとか、言い出せないところがあるの」
「どうして? たしなめられるの?」
ジョルジアは、意外に思って訊いた。二年前の妹の結婚式を含めてまだ数回しか逢っていないが、ヴァルテンアドラー候家当主ルイス=ヴィルヘルムは、アレッサンドラだけにではなく、連れ子のアンジェリカにもかなり甘く接しているように見えたのだ。
アンジェリカは首を振った。
「そうじゃないの。その反対。何でも叶えようと、大騒ぎしちゃうの。通りすがりのファーストフードに寄ってくれればいいだけなのに、夕食のフルコースのメニューを変えてなんだかすごいハンバーガーを用意させようとしたりして、コックさんを困らせたみたいなの。それで、ママが慌てて、用意してあるご飯でいい、いちいち私の我が儘に耳を傾けるなって」
「まあ」
「私のはまだいい方よ。結婚してわりとすぐの頃だったけれど、ママと一緒に別の貴族のお城に招待されたんですって。それでママがお世辞でそのお城を褒めて、こういうところに住んだら素敵でしょうねって言ったら、そのお城を購入して喜ばせようと、本氣で交渉し始めかけたんだって。ママは、それに懲りて、慎重に発言するようになったって」
続き部屋の扉をそっと閉めて、ジョルジアはもうベッドに入っているグレッグに微笑みかけた。
「アンジェリカは、今夜一人で寝られるのかい? 寂しがっていないかい?」
小さい声でグレッグは訊いた。
「いいえ、大丈夫よ。あの子、両親の間を行き来して、時にこうやってどちらもいないところで寝るのに慣れているのね。あっさりと寝息を立てだしたわ。彼女のませた口調にびっくりした?」
「いや。とてもいい子だね。君とやり取りしている様子、微笑ましいよ。君の家族、とても仲がよくて信頼し合っているのがよくわかる」
彼の言葉にはほんの少し哀しみが混じっている。ジョルジアは言った。
「グレッグ。もうすぐあなたが私の家族になり、私の家族はあなたの家族になるのよ」
彼は、瞳をあげて言った。
「そうだろうか。そうだとしたら……いや、そうなんだ。ずっと望んでいた、暖かい家庭を、君とすぐに僕は持つことができる。夢ではなくて、本当に。そして、君の素晴らしい家族は、もうすぐ僕の姻戚になるんだ。とても嬉しいよ」
窓の外ではずっと風が木の枝をしならせている音がしていたが、いつの間にか雨音に変わっていた。心地のいい寝室で、その雨音を聴きながらどれほどロンドンやバースで聞いた雨音と違っていることだろうと、ジョルジアは思った。
【小説】霧の彼方から(9)新しい家族 - 3 -
お読みになればわかると思いますが、この小説、ロンドン市内の描写が皆無です。書いてもよかったのですけれど、観光名所を安易に描写するとガイドブックから抜き出したみたいな文章になりますし、そうならないように書くには丁寧な描写が必要で2千字程度では難しいのです。無駄に長くするとでテーマがぼけるので、敢えて行きも帰りもロンドン滞在分をごっそりと飛ばしました。
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霧の彼方から(9)新しい家族 - 3 -
部屋の灯を落とし、窓の外の街灯が雨粒に反射してにじむのを、彼の肩に頭をもたせかけながら見つめた。彼は、彼女の肩に腕を回した。
「私があなたを必要としているって、信じられるようになった?」
ジョルジアが訊くと、彼は少し戸惑ってから小さく頷いた。
「たぶん。その……今まで、誰からも必要とされたことがなかったから、それに、追いかけてもらったこともなかったから、まだ勝手がわからないんだ。でも、これまでとは何もかも違っているのは感じている。君のいる世界に僕は居続けていいらしい。君の家族も、友達も、僕の存在を歓迎してくれている。これまで起こらなかったことが、当たり前のように起こり始めている。きっと、本当に君が僕の探し続けていた問いへの答えなんだ」
「そして、あなたが私の問いへの答えなんだわ」
「君の問い?」
グレッグは首を傾げた。ここ数週間のジョルジアの迷走に、本当に氣がついていなかったようだと、彼女はおかしくなった。
「そう、私の問題。あなたがこれまでの人生でずっと答えを探していたように、私もあちこちで躓きながら、答えを探していたように思うの。答えがあなただと思ったら、ようやく問いがなんだかわかったように思うの」
「それは? あ、その、訊いても構わないなら……」
彼といてこんなにほっとするのは、多分彼が高みから話をしないからだと思った。礼儀正しさと臆病さが同居している。その臆病さはジョルジアの持つそれと似ている。だから彼女は安心して自らの弱みを彼にさらけ出すことができる。
「もちろん。あのね。私は、これまでの人生でいつも同じことに怯えていたの。誰か他の人と比較されて、劣った存在だと思われること。主に妹や、それから兄と比較されて、それで私の方が劣っているのは事実だったから、次第に何も言われる前からそうだと決めつけて卑屈になってしまったんだわ」
「そんな……。君は、本当に素晴らしいのに」
彼の茶色の瞳は柔らかい光をともし、誠実に彼女を肯定していた。彼女は笑った。
「あなたにこんなに大事にしてもらっていることを知りながらも、他の誰か、かつて付き合っていた女性と比較されて失望されているんじゃないかと心配していたの。でも、いろいろなことが勘違いだったとわかって、それで自分のコンプレックスがはっきりしたのね。それに、たとえ劣っているとしても、努力してそれを乗り越えていこうと思えるようになったのも、あなたのおかげだわ」
彼は、ほっと息をつき、それから笑った。
「僕も、君のお陰で信じられないほど変わったんだ。それに、どれほど多くのどうしようもないと思っていた部分を君に肯定してもらったことだろう。僕が君を必要としているだけでなく、君もまた僕を必要としていてくれる。そのことが、どれほどの喜びをもたらしてくれているか。こんなに口下手ではなくて、君に効果的に伝えることができたらどんなにいいだろう」
ヒースロー空港の構内を歩きながら、アンジェリカはガラスの向こうをつまらなそうに一瞥した。霞んで何も見えなかったのだ。
出発便が遅れてゲートが表示されないので、グレッグはどこかで軽く食事でもしようかと提案した。すると、アンジェリカがキオスクで買いたいとねだった。
「あそこに、組み合わせ自由のミールセットを売っているの。でも、ママやパパと一緒だといつもファーストクラスのラウンジに行って、ああいうのを食べるのは無理なんだもの」
アンジェリカは目を輝かせて、サンドイッチと小袋入りポテトチップス、それに安物のオレンジジュースを選んだ。ジョルジアとグレッグは、彼らにとっては大して珍しくもない安価なサンドイッチやミネラルウォーターを一緒に買い物籠に放り込み顔を見合わせて苦笑した。
ベンチに座り、三角サンドイッチを頬張るアンジェリカは満足そうだった。この調子では、エコノミークラスに乗ることも新体験として喜ぶかもしれない。
防犯にかかわるホテルはともかく、飛行機まで勝手にクラス替えをされてしまうことに、ジョルジアは猛反対したのだ。
「どっちに乗っても安全性には関係ないし、アンジェリカがどうしてもいやというなら、彼女だけビジネスかファーストクラスに座らせてちょうだい」
アンジェリカは、もちろん二人と一緒のエコノミークラスを熱望し、アレッサンドラも「それならどうぞ」と譲ったのだ。
ポテトチップスをかじりながら、少女は横なぐりの雨が伝い落ちる窓を眺めた。
「サン・モリッツは、晴れている日は毎日真っ青な空だし、雪が降る時はどっさり降るのよ。ずっと寒いけれど。ねえ、グレッグ。どうしてここでは毎日雨が降ったり止んだりするの?」
彼は、一瞬ひるんだが、口を開いた。
「簡単に言うと、ブリテン島の位置のせいなんだ」
「位置?」
「うん。赤道近くのアフリカ沖で暖められた南大西洋の暖流は北上して、ヨーロッパ大陸の西岸を流れ、ブリテン島付近でUターンするんだ。そして偏西風が常に海流上の暖氣を運んでくる。この二つの要素のせいで、例えばロンドン辺りの西岸に近い場所の冬はいつも比較的暖かいのだけれど、同時に天候や氣温が不安定で変わりやすくなってしまうんだ」
「だからスイスよりもずっと北にあっても全然寒くないのね」
アンジェリカがわかったように頷く。
「それにサン・モリッツは標高1500メートルだから寒いんじゃない?」
ジョルジアは付け加えた。
「もちろんそれもあるね。とはいえ、君のお父さんのいるマンチェスターにしろ、ロンドンにしろ、あれだけの緯度にしては温暖なのは確かなんだ。それに雨ばかり降っている印象があるだろうけれど、すぐに止んでしまうので年間降水量はそれほど多くないんだ」
グレッグが付け加えると、アンジェリカは頷いた。
「グレッグの説明は、わかりやすいわね。これから、わからないことがあったらグレッグに訊くわ。パパの説明は『そういうもんなんだよ』だけでちっとも納得できないんだもの」
彼は、少し慌てて言った。
「たまたま君のお父さんの知らないことを僕が知っていただけだよ。別のこと、例えば、スポーツのことや人間工学なんかについては、僕よりも君のお父さんの方がよく知っていると思うよ」
「そうね。私、スポーツの授業で上手くいかなかったことを、次に会う時にパパに話すと、いつも理論からとても丁寧に説明してくれて、トレーニングにも付き合ってくれるの。だから、私、スポーツの成績もすごくいいのよ」
グレッグは、満面の笑顔を見せる少女を眩しそうに見つめた。ジョルジアは、姪に言った。
「そうね。あなたのことはとても誇らしいわ、アンジェリカ。それに、誰に何を質問するのがいいか、わかっているのはとても大切なことね。グレッグは、動物行動学の先生だし、学び方のメソッドもよくわかっているから、あなたの心強い味方になるわよ。私もいつも彼に新しいことを教えてもらっているもの」
グレッグは、はにかんで言った。
「僕も君からいつもたくさんのことを学んでいるよ。きっと君も僕にたくさんのことを教えてくれるだろうね、アンジェリカ」
少女は嬉しそうに頷いた。
【小説】霧の彼方から(9)新しい家族 - 4 -
追記に後書きを記載しました。
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霧の彼方から(9)新しい家族 - 4 -
「あ。このサンドイッチ、パセリが入っている」
アンジェリカは、パセリをつまみ出したが、置き場がなくて困ったように見回した。
グレッグは、黙ってそれを受け取り、ぱくっと食べてしまった。
「アンジェリカ、あなたったら、パセリを食べられないの?」
ジョルジアが訊くと、少女は首を傾げた。
「あれって、食べるものなの? いつもお皿の脇にどけちゃうのよ」
ジョルジアは、ため息をついた。
「嫌いじゃないなら、食べた方がいいわよ。栄養もあるし、それにパセリを作る農家の人、みんなが残して捨てるのをわかっていても、大事に育てているのよ」
「ふーん、そうなんだ。じゃあ、次から食べてみるわね」
無邪氣なアンジェリカの様子を見ながら、ジョルジアはレベッカ・マッケンジーの庭を思い出していた。
今日もまた、彼女はあの美しい庭と、完璧に手入れされた館を保つために、きびきびと動き回っているのだろう。そして、手を休めたときに、ほんのわずかの息子との邂逅を想っているのだろうか。
『パセリ、セージ、ローズマリー、タイム……』
美しいチョコレートを買い求め、息子の学業に対する激励をしたレベッカ。彼が理解し合えると願いはじめての愛情を抱いたジェーン。彼に性の手ほどきをし幾晩か温かい肌で包んだマデリン。三人の彼の心に沈む女性たちは、この霧に覆われた島のどこかにいる。彼に教えと激励を授けたウォレス、そしてその他多くの関わった人々も同じように。
彼女たちは過去の亡霊ではなく、今でもそれぞれの人生を営みながら、存在している。忙しく今日という日を過ごしていることだろう。
ジョルジアは、食事を終えたグレッグが、アンジャリカやジョルジアの出したゴミを小さく一つにまとめてゴミ箱に捨てる様子を目で追った。自然な動き、行動様式は、誰から習い受け取ったかを考える必要がないほどに、彼の一部となっている。そして、それはいずれジョルジアやアンジェリカ、その他の彼と関わる多くの人に影響を与えていくだろう。彼女は、その考え方が氣に入って、一人微笑んだ。
「ねえ、記念写真撮らない? ママやパパと外にいる時って、できるだけ撮られないようにって行動するから、空港で家族と映った写真なんて一枚も持っていないんだもの」
アンジェリカが言うと、グレッグはすぐに申し出た。
「じゃあ、僕が撮るよ」
アンジェリカは、首を振った。
「そしたら、グレッグが映らないじゃない」
彼女にとって、グレッグはもうファミリーの一員なのだ。彼もそれを感じて、はにかみながら笑った。ジョルジアも笑顔になり、近くにいる人に自分のiPhoneを渡して撮影を頼んだ。アンジェリカは、少し斜めを向いて首を傾げた。おそらくこの三人の中で一番撮られ慣れているのだろう。
写真を見て、アンジェリカは満足そうに頷いた。
「これ、ママのところに送っておいてね。それから、パパにも送って」
「すぐに送るわ。それに、結婚式のフラワーガールの写真も送らなくちゃね」
ジョルジアが言うと、アンジェリカは満面の笑顔を見せた。
「向こうでも、みんなでいっぱい写真を撮っていいでしょう?」
ジョルジアは、そんな姪を愛しそうに見て頷いた。それから、ふいに思い出したようにグレッグに言った。
「ねえ。そういえば、結婚式の写真をウォレスにも送る約束をしたじゃない?」
「ああ。まさか彼が、そんなことに興味があるとは思わなかったな」
彼は苦笑した。
「僕たちの正装を見たいわけじゃないだろうから、出席者全員のを送るべきだろうか。もしかして、ケニアのパーティの方がいいかな。レイチェルやマディも映っているだろうから」
ジョルジアは笑った。そこまであれこれ考えているとは思わなかったのだ。
「それもいいアイデアね。両方送ればいいじゃない。それで、思ったんだけれど、どうせならその写真、アトキンスさんにも送ったらどうかしら」
彼は心底驚いた顔をした。
「マデリンに? どうして?」
「私の撮ったアトキンスさんの写真を現像して送る予定だけれど、せっかくだから。あなたがケニアで幸せに生きていることを知らせたら喜ぶんじゃないかと思うの」
「そうだな。きちんとお礼の手紙も書いて、それに、できたら借りも、一緒に……」
彼が、真剣な面持ちで決心を呟くと、二人を見上げていたアンジェリカが訊いた。
「アトキンスさんって誰?」
「グレッグの昔の恩人よ」
ジョルジアは笑って答えた。
「じゃあ、ウォレスって?」
「グレッグの恩師なの」
アンジェリカは、重々しく言った。
「グレッグ、恩のある人いっぱいいるのね」
彼は、考え深く答えた。
「そうだね。たくさんの人に興味を持ってもらい、助けてもらい、生きてきたんだ。それなのに、ずっと誰からも愛されない独りぼっちの人生だと思い込んでいた」
「そんなはずないじゃない。だって、ジョルジアと結婚するんでしょ?」
アンジェリカが、首を傾げた。婚約している二人は笑ってお互いを見た。
青年だった彼の軌跡を巡る旅では、多くの発見があった。彼は心の整理をした。彼にとって、この国は寂しく悲しい思い出だけに心を抉られる異国ではなかった。袖触れ合うわずかな期間だとしても彼を育ててくれた優しい人たちが住む土地だった。そして、過去だけではなく、研究を共に進める新しい友が現在と未来においても彼を待つ国になった。
ジョルジアにとっても、やはり心をみつめる旅だった。彼に対する理解を深め、彼という鏡を通して自分のコンプレックスに向き合い、誰かの影でいることをやめたのだ。
二人は立ち止まり、考え、悩みを脱ぎ去り、そしてまた、他の人たちと同じように、人生を一歩ずつ進めていく。お互いに手を携えて、心の迷路から抜けだし、未来へと。
『答えは、お前とともにある』長老の言葉は、正しかった。いつものように。
ゲートへの案内が流れて歩き出した三人には、いつのまにか霧が晴れて窓から陽の光が注いでいた。新しい家族となる儀式に臨むため、彼らは足を速めて搭乗ゲートへと向かった。
(初出:2019年12月 書き下ろし)
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