Usurpador 簒奪者 あらすじと登場人物
【あらすじ】
黄金の腕輪をはめた娘、後の当主夫人マヌエラは召使いとして「ドラガォンの館(Palácio do dragão)」で働き、2人の対照的な青年と関わることになった。
【登場人物】(年齢は第一話時点でのもの)
◆マヌエラ・サントス(22歳)
「ドラガォンの館」の召使い。ブルネットに近い金髪にグレーの瞳が美しい娘。
◆ドン・カルルシュ(21歳)
「ドラガォンの館」の世継(プリンシぺ)。黒髪と濃い焦げ茶の瞳を持つ背の低い青年。
◆Infante 322 [22] (21歳)
同じ年に生まれたドン・カルルシュの弟。「ドラガォンの館」で「ご主人様(meu senhor)」という呼びかけも含め、ドン・カルルシュと全てにおいて同じ扱いを受けているが、常時鉄格子の向こうに閉じこめられている。雄鶏の形をしたコルク飾りに彩色をする職人でもある。明るい茶色の髪。海のような青い瞳。ピアノ、ヴァイオリンを弾くことができる。
◆アントニオ・メネゼス(26歳)
「ドラガォンの館」の執事補佐で、《監視人たち》の一族出身。
◆ジョアナ・ダ・シルヴァ(21歳)
「ドラガォンの館」の召使いである女性。同僚であるマヌエラの親友。
◆ドン・ペドロ
「ドラガォンの館」の当主で22の実父。非常に厳格で、特に次期当主となるべきカルルシュには厳しくあたる。
◆Infante 321[21]
ドン・ペドロの弟であるインファンテ。カルルシュの実父。22が閉じ込められると同時に別邸へと遷された。
◆バジリオ・ソアレス
「ドラガォンの館」の執事で、《監視人たち》の一族出身。厳しく「ドラガォンの館」の掟に忠実。
◆「ドラガォンの館」の使用人
フェルナンド・ゴンザーガ(故人 享年23歳)
バジリオ・ヌエス(36歳) - 運転手 《監視人たち》の一族出身。
【用語解説】
◆ Usurpador(ウーズルパドール)
簒奪者。本来君主の地位の継承資格が無い者が、君主の地位を奪取すること。あるいは継承資格の優先順位の低い者が、より高い者から君主の地位を奪取する事。ないしそれを批判的に表現した語。
◆ Príncipe
スペイン語やポルトガル語で国王の長子(Príncipe)である男子をさす言葉。日本語では「王子」または「王太子」と訳される。この作品では「ドラガォンの館」の時期当主となる予定の男性のこと。貴族を意味する称号「ドン」が名前の前につく。
◆Infante
スペイン語やポルトガル語で国王の長子(Príncipe)以外の男子をさす言葉。日本語では「王子」または「親王」と訳される。この作品では「ドラガォンの館」に幽閉状態になっている(または、幽閉状態になっていた)男性のこと。命名されることなく通番で呼ばれる。
◆黄金の腕輪
この作品に出てくる登場人物の多くが左手首に嵌めている腕輪。本人には外すことができない。男性の付けている腕輪には青い石が、女性のものには赤い石がついている。その石の数は持ち主によって違う。ドン・ペドロとドン・カルルシュは5つ、21および22は4つ、マヌエラは2つ。腕輪を付けている人間は《星のある子供たち》(Os Portadores da Estrela)と総称される。
◆《監視人たち》(Os Observadores)
Pの街で普通に暮らしているが、《星のある子供たち》を監視して報告いる人たち。中枢組織があり、《星のある子供たち》が起こした問題があれば解決し修正している。
◆モデルとなった場所について
作品のモデルはポルトガルのポルトとその対岸のガイア、ドウロ河である。それぞれ作品上ではPの街、Gの街、D河というように表記されている。また「ドラガォン(Dragãon)」はポルトガル語で竜の意味だが、ポルト市の象徴である。この作品は私によるフィクションで、現実のポルト市には「ドラガォンの館」も黄金の腕輪を付けられた一族も存在しないため、あえて頭文字で表記することにした。
この作品はフィクションです。実在の街、人物などとは関係ありません。
【小説】Usurpador 簒奪者(1)誰もいない海
前作『Infante 323 黄金の枷 』を読んでくださった方は混乱するかもしれませんが、この話はおよそ30年くらい前の話がメインです。時々時間軸が動いたりします。一応、連載として連番が打ってありますが、実際はそれぞれが別の外伝に近い書き方をしてあります。
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Usurpador 簒奪者(1)誰もいない海
大統領の秘書は最敬礼して帰って行った。ポサーダであるフレイショ宮殿ホテルの貸し切られた一室で、静かにコーヒーを飲み終えたマヌエラは、同席していたジョアン・ソアレスに頷いた。彼は立ち上がると携帯電話で運転手のヌエスに表に車を回すように告げた。
「お疲れさまでした。その……失礼ながら、感服いたしました」
ソアレスは、口ごもった。
「何がですか」
マヌエラは、黒服の男を見やった。彼は、つい数ヶ月前まで彼女の上司であったドラガォンの執事バジリオ・ソアレスの長男で、《監視人たち》中枢組織の中でも最高幹部にあたる存在だった。大統領の筆頭秘書と会見して、ドラガォンの当主ドン・ペドロの手紙を手渡す大役を初めて務めたマヌエラにとって、彼は補佐であると同時に目付役、文字通りの監視人でもあった。
「このような場でも、実に堂々となされて、まるで何年も前からドラガォンのスポークスマンとしてご活躍なさっておられるようです」
「ありがとう。一人だったら不安でしたけれど、あなたがそこに控えていてくださったから、安心していられました」
ドラガォンの当主は、伝統的に外の人間に会うことはない。相手が大統領本人でも、ローマ教皇でも同じだ。代わりに応対するのは、通常はその妻またはインファンタと呼ばれる当主の娘だ。だが、当主ドン・ペドロの妻ドンナ・ルシアが館から退けられてから8年が経っており、ドン・ペドロには女子がなかったので、これまではジョアン・ソアレスなど《監視人たち》中枢組織幹部がドン・ペドロの名代となってきた。
当主の跡継ぎドン・カルルシュと結婚しドンナ・マヌエラとなった彼女は、ドン・ペドロの名代としての役目を果たすことになった。まだ22歳と若いことや、妊娠していることは、その役割を退ける言い訳とはならなかった。彼女は、全てがこれまでの人生とは変わってしまったことを日々噛み締めていた。自分で選んだことではなかったが、動かすことは出来なかった。ドン・カルルシュと結婚し、未来の当主夫人として生きていくことを受け入れたのは彼女自身だった。
強くならなくてはならない。これが、現実に進んでいく人生なのだと、理解しなくてはならない。「そうだったかもしれないもう一つの人生」について考えるのはもうよそう。彼女は、窓からD河の煌めく波を眺めた。彼を、カルルシュを支えて一緒に運命に立ち向かおうと決めたのだから。
「そろそろ行きましょう、ミニャ・セニョーラ」
ソアレスの言葉に我に返り、頷くと、マヌエラは開けてもらった扉の向こうへと歩き出した。
正面玄関の前で待っていたヌエスは、後部座席の扉を開けてマヌエラを座らせた。それから助手席に座ったソアレスとマヌエラ両方に言った。
「事故がございまして渋滞しているようですので、河向こうを通り、アラビダ橋経由で戻らせていただきます」
マヌエラは頷いた。どこから帰ろうと同じだった。ドラガォンの館に向かうしかないのだから。その同じ館に閉じこめられている男のことを考えた。彼女が車窓から眺める光景を、きっと彼は生涯目にすることはないだろう。そして、本当だったらマヌエラも、今見ている光景を見ることなどなく、格子のはまった窓からかつてみた街の記憶を辿るはずだった。当主の名代になるとこなどなく、ただ一人の男の人生に寄り添っているはずだった。
「裏切り者」
彼の憎しみに満ちた瞳が、マヌエラの心を刺し続けている。選んだのは自分ではない、逃げることも出来ない、そうであっても、マヌエラは彼の言葉が正しいのだと思った。カルルシュを憎み拒むことだけが、彼の想いに寄り添うたった一つの意思表示なのだから。カルルシュを受け入れ、結婚し、生まれてくる命を待っている自分は、たしかに彼の愛を裏切ったのだ。
マヌエラは、彼女を得た代わりに世界で一番大切な人間の愛を失ってしまった簒奪者の苦悩に想いを馳せた。アラビダ橋から見えた大西洋は輝いていた。船もなく、観光客や漁師たちの姿も見えなかった。世界は空虚で冷たかった。
【小説】Usurpador 簒奪者(2)囚われ人の忠告
後半は、前回のシーンよりもさらに過去に遡ります。普段なら二回に分ける長さなのですけれど、この「Usurpador 簒奪者」に関しては長々と連載するつもりはないので、まとめて発表してしまいます。
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Usurpador 簒奪者(2)囚われ人の忠告
館の執事であるアントニオ・メネゼスは、珍しく厳しい表情を見せていた。それでも、共に少年を扉の向こうに押し込めたクラウディオのように乱れた服装のまま息をついていたりはしなかった。
半月ほど前に、ドン・カルルシュとドンナ・マヌエラの三男であるインファンテ324に第二次性徴が認められた。ドラガォンの掟に従い、これまで館の三階、両親の部屋の向かいに自室を持っていた少年は、館の北西翼に位置する特殊居住区に移されることとなった。その居住区は一階から三階までの空間を持ち立派な調度を備えた贅沢な空間だが、二階にある出入り口には鉄製の頑丈な格子が備えられ、一日一度の午餐の時間以外はそこから出ることも許されない幽閉空間だった。
全ての準備が整い、今日の午餐が終わった時、彼は自室へ戻ることは許されず居住区へと案内された。兄であるインファンテ323は、慣れた様子で自らの居住区へと戻ったが、24はおなじ事を自分も求められていることを理解できなかった。即座に拒否し、丁寧ながらもメネゼスが引かないのを見て取ると、いつもの愛らしい様子で母親に助けを求めた。母親にはどうすることも出来ないことを知ると、当主である父親に涙を流して懇願した。最後は半ば引きずられるように格子の向こうへと連れて行かれた。
それから、数時間にわたり懇願と、それから怒りの罵声を続けたが、誰も助けに現れることはなかった。500年以上にわたるドラガォンの掟。少なくとも323人の少年たちの懇願が受け入れられたことがないのに、彼だけ例外となることなど、不可能だった。彼は、夕食の用意に入ってこようとした召使いに体当たりをしてその隙に居住区から出ようと試み、アントニオとクラウディオがかなりの力を使って留めなくてはならなかった。
これまで両親の愛情を受け、どんな我が儘にも耳を傾けてもらえた少年が、突然檻の中に押し込められる立場となったのだ。二年ほど前に既におなじ立場になっていた兄23のことを馬鹿にしてはやし立てていた彼は、時期が来れば自らもおなじ立場になることを知らされていなかった。長兄ドン・アルフォンソが、檻の中に入ることがなかったように、自分もまた常に屋敷の中で王子のごとく扱われて生きるものだと信じ切っていた。
アントニオは、もう一度格子の出入り口を確かめ、しっかりと鍵がかかっていることを確認した。就寝準備のために三階へと向かうジョアナが静かに通った。彼女と目が合うと、アントニオは呼び止めるように手を挙げた。
「セニョール324の居住区へ明朝の掃除に入るのは?」
「アマリアが当番です」
ジョアナは、答えた。彼は頷いた。若いが落ち着いた娘だ。セニョール324の罵声を聞きながらでも掃除は出来るだろう。
「セニョール324は、納得しておられない。一人で入れば危険を伴うかもしれない。当分クラウディオを連れ、二人で行くように」
ジョアナは黙って頷いた。
頭を下げてその場を去る時、ジョアナは階段の端に当主ドン・カルルシュが立っているのに氣がついた。彼の顔には苦しみがにじみ出ていた。嫌がる愛しい我が子を、無理に檻の向こうに押し込めなくてはならない自らの立場、何も出来ぬ無力さに苦しんでいることは間違いなかった。
ジョアナとその後ろに立つアントニオを見るその目は、絶対権力者としての当主のそれではなく、助けを懇願する弱々しいものだ。ここ数年、ようやく当主らしい立ち居振る舞いをするようになった彼が封印したはずの迷いがその視線に見える。ジョアナは、振り返ってアントニオを見た。彼はいつものようにほとんど表情を変えずに佇んでいた。彼女はもう一度頷くと、軽く頭を下げながら当主の横を通り過ぎた。
「セニョール324の居住区への引越は完了しました。現在は、三階でお休みです。お氣持ちを鑑み、セニョール323の時と同様にしばらくは二十四時間体制をとります」
アントニオ・メネゼスは、感情を排した声色でドン・カルルシュに報告した。ルイスに報告に行かせたのだから、ここでおなじ事を繰り返す必要はなかった。だが、メネゼスの言葉は、当主に決して覆らぬドラガォンの掟を思い起こさせた。彼は恥じたように瞳を落し、低く「ご苦労だった。引き続き頼む」とつぶやき、踵を返した。
取り乱してはならない。カルルシュは、自室へと戻りながら考えた。二年前と同じだ。24にも、23と同様に諦めてもらう以外の選択はないのだ。二人を救ってやりたい、あの居住区から出してやりたいという願いを口にすることは、彼には許されていなかった。当主ですらドラガォンの掟からは自由になれないのだ。
動揺を見せてはいけない。無力な姿を晒し監視人たちと問題を起こせば、黙って全てに耐えているマヌエラをいま以上に苦しめることになる。我が子が苦しみ、歪み、怒りと恨みを募らせていく姿を、見なくてはならない立場に彼女を追い込んだのは自分だ。誰よりも彼女の幸せを願っていたはずなのに。すべての恩讐を越え味方になってくれたたった一人のひとなのに。
当主の座など欲しくなかった。愛する妻や我が子を苦しめる立場になどなりたくなかった。……それに、ドイスを苦しめたい、出し抜きたいなどと願ったことも一度もなかった。
彼の心は、四半世紀前に戻っていた。ドイスが、今日閉じ込められた我が子と奇妙なほどよく似た少年が閉じ込められたあの忘れられない年に。
前の週におこった騒ぎは、カルルシュをひどく不安にした。親しみを込めてドイスと呼ばれていたインファンテ322に第二次性徴が訪れ、母親である当主夫人ドンナ・ルシアが取り乱して館に緊張が走っていた。何が起こっているのか理解できずに戸惑うカルルシュを、これまでほとんど口をきいたことのなかった男が呼び止めた。その男は、居住区に隔離されていたインファンテだった。
「おい。何をメソメソしてんだ」
インファンテ321、自分の本当の父親だと言われたことがあるが、とてもそんな風には思えなかった。その日も彼は昼間だというのに酔っていた。
「いえ。なんでも……」
彼は足早に通り過ぎようとしたが、21はそれを許さなかった。
「待て。こっちに来い」
「なんでしょうか」
「どうせあのヒステリー女に恨み言でも言われたんだろう。メソメソするな。嘲笑ってやればいいんだ」
「でも、いったい……」
21は、弱々しくみじめで覇氣のない我が子を、淀んだ目で見下ろすと、ろれつの回らない口調で言った。
「いいか。おそらくお前と話すのはこれが最後になるだろう。俺は直にここから移されるんだからな」
「移される?」
「そうだ。インファンテは代替わりし、俺はもう用なしってことさ。だが、俺にはもう一つ大事な役目が残っている。……お前に忠告をすることだ」
「忠告?」
「そうだ。俺は、ペドロとあの女を出し抜いて、俺の種であるお前をプリンシペにした。だが、これで勝負がついた訳じゃないんだ。お前みたいなメソメソしてのっそりした奴なんぞ、あいつらの子は簡単に出し抜ける。いいか。氣を抜くな」
「氣を抜くなって、何に対して?」
「閉じこめられたインファンテは、存在意義を求めてあがくものだ。そして、いずれは俺と同じ結論に辿りつく。自分の遺伝子をドラガォンの五つ星にするのが一番だってな。お前は、プリンシペだが王冠が約束されたわけではない。いいか、油断するな。あいつに王冠を渡してはならない」
「ドイスと僕は何かを奪いあったりしない。彼はいつも親切だ」
「どうかな。これからは違う。違いはどんどん出てくる。そうなったら、お前は俺の言葉を思いだすだろう。お前は愚鈍で体も弱い。だが、お前がすべきことは本来たった一つだ。お前の血脈を繋げ。一刻も早く始めるのだ。あいつが女に興味を持ち出す前に。あの坊やがスマートに求愛をしている間に。女に命令し、寝室に引きずり込め。システムがお前の行動を後押ししてくれる。迷うな。そして、躊躇するな」
カルルシュは、実父の言葉に嫌悪感を持った。血脈をつなぐと言うことが、具体的に何を意味するのかはよくわかっていないけれど、どんなことであれ誰かに乱暴をしたり、プリンシペの立場を利用して何かを強要したりするようなことをするものかと心の中で呟いた。
それなのに、僕は本当に彼のいう通りにしてしまったのだ。ドイスの希望と歓びを横取りし、明るくまっすぐだった彼の瞳の輝きを奪ってしまった。
カルルシュは、重い足を引きずるように階段を昇る。
22は閉じ込められることがわかった日に、今日の24のように抵抗したりはしなかった。賢い彼は自分に名前がないことと同じ連番の呼称を持つ21との境遇から既に覚悟していたのだろう。その現実に向き合えなかったのは、むしろ22の実母であるドンナ・ルシアの方だった。
22に第二次性徴が認められた日から、居住区の準備が整い移されるまでの間にやはり二週間ほどあったが、彼女はヒステリーを起こしたかと思うと、それまではあからさまにしなかったひどい憎しみをカルルシュに向けてきた。カルルシュ自身は、急に口撃されることの意味がわからず戸惑っていたが、22の方は、それで自分の運命がこれまで双子のように過ごしてきたカルルシュと分かたれることを悟ったのだろう。
ドンナ・ルシアは、ついに踏み越えてはならない線を越えてしまった。誰もが望む結末をもたらすのだという確信に基づき、彼女は彼女にとっての正義を実行しようとした。それを望まないのはインファンテ321とその愚鈍な息子の二人だけのはずだった。けれど、すでに二十四時間の監視が実行されていた館の中で、彼女は計画を成し遂げることができなかった。
ドンナ・ルシアは、愛する我が子に別れを告げることすら許されなかった。そのまま「ドラガォンの館」から姿を消した。
母親が急にいなくなってしまった理由を知っていたにもかかわらず、22は決してカルルシュに恨みじみたことを言わなかったし、当主の実子であるにも関わらず檻の中に押し込められることへの不満をカルルシュにぶつけることもなかった。彼は、ただ運命を受け入れ、自分の足で居住区に入り、召使いたちが施錠するのを見つめた。
以前のようにともに学び、余暇時間を過ごすことはなくなり、午餐や礼拝の時に顔を合わせるだけになったが、22は彼に対する態度を変えなかった。それは、周りの期待に応えられずドン・ペドロの叱責に項垂れる他はないカルルシュにとって、ずっとほぼ唯一の慰めだった。当主にも、《監視人たち》にも、召使いたちにも、助けと慰めと優しさを求められなかったカルルシュにとって、22は唯一の家族であり、友であり、助け手だった。……ずっと後にやってきたマヌエラが22以外にはじめて手を差し伸べてくれるまで。
けれど、22にとって彼はその様な存在ではなかったのだ。彼は簒奪者で、裏切り者だった。絶望の中でようやく見つけたたった一つの小さな蕾を無残に踏みにじった。誰からも愛され、才能あふれ、高潔な魂を持った一人の男の人生をめちゃくちゃにしてしまった悪魔でしかなかった。
十三歳だったあの夜に姿を消したドンナ・ルシアの行方をカルルシュが知ったのは、彼女の夫であるドン・ペドロが亡くなり、正式にドラガォンの当主となってからだ。22に既に二十年近く会っていなかった母親と面会させてやりたいというのは、カルルシュらしい甘く感傷的なアイデアだったが、ソアレスはひと言で済ました。
「ドン・ペドロは、あの方の腕輪を外されました」
カルルシュは項垂れた。彼女は生涯インファンテと会う機会を失っていたのだ。
【小説】Usurpador 簒奪者(3)ため息
この『黄金の枷』シリーズの設定、とくに「ドラガォンの館」や《星のある子供たち》または《監視人たち》の説明はあまりにも長くなるので、前作『Infante 323 黄金の枷 』をお読みになっているという前提で書き進めています。この作品から読み始めた方には非常識と感じられることがたくさんあるかと思いますが、そういう設定だということでご了承ください。
今回もいつもなら二回に分ける長さなのですけれど、この「Usurpador 簒奪者」に関しては長々と連載するつもりはないので、まとめて発表しています。
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Usurpador 簒奪者(3)ため息
マヌエラがドラガォンの館に勤めるようになって一年が経った。サントス家に生まれた娘として、それは義務に近かった。この地には、一般には知られていない特別な一族が住んでいる。その左手に自ら外すことのできぬ黄金の腕輪をはめた《星のある子供たち》。己の名声や偉業を押し殺し、ひたすら過去の誰かの血脈を守るためだけの存在。
サントス家は、ドラガォンの館に当主として君臨する《青い星を五つ持つ者》の血を色濃く受け継いだいくつかの名家の一つだ。絶対的に守らねばならぬ秘密を抱えた館に関わる多くの職務をになっている家に生まれた宿命は、彼女の意思の入り込む余地を与えなかった。マヌエラは法学を学ぶことを願っていたが、その夢を諦めてドラガォンの館で召使いの職に就くように説得された。
反抗することはできた。けれど、彼女は知りすぎていた。いくら学問を究めても、彼女はその知識を真に社会のために役立てることは許されないのだ。名のある法律家になり、この街を出て行くことは不可能だ。そして、外部の人間になぜ他の街や海外に行ってはならないかを説明することすら許されていない。その様な存在がこの世に存在することを、知らせてはならないのだ。
この街に生まれ、黄金の腕輪をはめ、《監視人たち》に見守れながら生きる存在であることを、そして、直接的にも間接的にも《星のある子供たち》と《監視人たち》の双方を統べる立場として、血脈を守る役割を果たしてきた先祖たちの努力を子守歌のように聴かされて育ったのだ。
彼女は、サントス家の娘としての本分を果たすことを承諾した。召使いとして勤めるといっても、文字通りの役割だけが期待されるわけではない。それはドラガォンのシステムを維持する人材グループの一人となる事を意味した。《星のある子供たち》と《監視人たち》双方を統べる中枢システムに属する人々は、次代を担う人材を慎重に選び、教育し、そして、お互いに知り合わせる。選ばれた《星のある子供たち》と《監視人たち》は、共に働き、時に婚姻を通して絆を深めながら、システムを維持し続ける。
この館から出ることのほとんどない当主の直系子孫たちは、館の中にいる存在の中から配偶者を選ぶ。マヌエラの曾祖母や大伯母は、当主の娘であるインファンタだったし、前々当主夫人ドンナ・カミラはサントス家の出だった。
彼女は、しかし、結婚相手を見つけるためにこの館で働こうと思ったことはない。むしろ法学を諦めたのに値する責任ある職務を担う可能性に期待してこの館に足を踏み入れた。召使いの仕事が不満だったわけではないが、それだけで終わることは、彼女の自尊心を傷つける。
同僚に彼女と同じような志を持って勤めている者は多くなかった。おそらく執事バジリオ・ソアレスが信頼するアントニオ・メネゼス、そしてその他の数人だけだろう。だから、インファンテ22の聡明さと自己克己が余計にマヌエラの目を引いた。
22は「当主後継者のスペア」としての人生を送るには、無駄な優秀さを備えていた。冷静沈着で、物覚えが早い。立ち居振る舞いも洗練され、使用人や《監視人たち》中枢部からの人望も篤かった。
同い年の兄であるカルルシュは、身体が弱く動きも鈍重だった。二人が並んで比較されるような場面は少ないが、一日に一度ある午餐か晩餐では、当主であるドン・ペドロを挟み二人が向かい合うので、使用人達にもその二人の差がよくわかる。
ルネサンスの彫刻家達が好んだような端正な顔立ちと綺麗になびいた明るい茶色の髪をもつ22は、質のいいスーツを品良く着こなし、背筋を伸ばして完璧なマナーで食事をする。
一方のカルルシュは、黒くもつれた髪と眉が濃く厳つい風貌を持ち、俯きがちで姿勢がよくないので、あまり背が高くないのにもっと小さく見える。落ち着きがなく、水をこぼしたり肉をうまく切れずにソースを皿の外にこぼしてしまったりするのは、いつも彼の方だった。
ドン・ペドロは、その席で様々な話題を口にした。この国や世界の時事問題のこともあるし、先の大戦やその前後にこの国を襲ったファシズムに関する話題のこともあった。ローマ時代のカタコンベに関する話題のこともあったし、先史時代のブリテン島の遺跡で見つかった装飾品について話すこともあった。
どんな話題になっても22は、当意即妙に話題をつないだ。父親の興味のあることについてよく知っているだけでなく、本人も興味を持ってあらかじめ多くの本を読んでいることがわかる。建築についても、医療についても、法律についても、彼は多くに興味を示し、知らないことがあるとすぐに文献を取り寄せて読み、次の午餐では父親を驚かせるような視点で話題を広げることもあった。
一方のカルルシュは、ドン・ペドロに話題を振られても長く話題を続けることはできなかった。彼もまた真面目に話題についていこうとしているのだが、ドン・ペドロと22が熱心に討論をはじめると、もはやその流れについていくことができずに黙ってナイフとフォークを動かしていることが多かった。
跡継ぎとして、ドン・ペドロや《監視人たち》中枢組織のメンバーから期待をかけられていることを自覚している彼は、次回は話題についていこうと22に薦められた本を読み始めるのだが、そもそも家庭教師から言い渡された課題すらもなかなか終えることができない要領の悪さで、それ以外に本を読了する時間などはほとんど残っていない。マヌエラ達が掃除に入ると、前回と置く場所が変わっていない本の山にハタキがけをしなくてはならないことが多かった。
22の方は、課題も読書も難なく終えて、さらに彼自身の一番好きな行為に多くの時間を割くことすらできた。彼の居住区の一階には、黒く艶やかに光るグランド・ピアノが置かれ、彼はそこに腰掛けて好きな曲を心ゆくまで練習するのだった。
マヌエラはその朝一階のはたきをかけ終えて、隅から拭き掃除を始めた。階段を降りて22が現れ、マヌエラに氣付くことなくグランドピアノの屋根を開けて譜面台を起こした。しかし、彼は譜面を置くことをせずにそのまま何か曲を弾き出した。短くて優しい曲だった。邪魔になるかと思い、マヌエラが二階の掃除に移動しようとすると、氣付いた彼は演奏を止めた。
「いたのか。すまない、もう終わって出て行ったのだと……」
「いえ、私こそ。先に上からやります」
マヌエラが言うと、彼は首を振った。
「そのまま続けていいよ。掃除機をかけるときは言ってくれ。退散するから」
そう言うと、棚から楽譜を持ってきて、練習を始めた。右手の練習、左手の練習、同時にゆっくりとしたテンポで、それからより自然なテンポで。ピアノなど全く弾けないマヌエラにも、その曲が決して簡単ではないことだけはわかった。
彼の元には、週に一度教師がやってくる。厳めしい顔つきをした老人で、左の手首の腕輪を持ち上げるのも大儀な様子だ。自分が弾いてみせることはほとんどなく、歌うように指示しながらレッスンをつけていた。22が格別優秀な生徒であることは、召使い同士の噂で知っていた。もし、彼が、いや、《星のある子供たち》として生まれていなければ、ピアニストとして名を成すこともできたであろうと。
もし、ただの《星のある子供たち》であったなら、彼は有り余る才能をどう使ったのだろうか。この街を離れることも、著名な楽団と共演することもできないピアニスト。いや、それどころか、彼は裁判官にも、大学教授にも、優秀な経営者にもなれる頭脳と要領の良さを兼ね備えている。けれども、マヌエラが法学の道を諦めたように、彼もまた『市井の目立たぬ誰か』以上の存在になることは許されないであろう。ここドラガォンで何らかの役割を果たす以外には。
けれど、彼はドラガォンで中心的な役割を果たすことも許されていなかった。存在しない者として、その頭脳と才能を、単なる趣味に費やすことしか許されていなかった。
にもかかわらず、彼の奏でる音は、なんと美しいことだろう! トリルの一つ一つは朗らかで優しく、静かに響かせる和音からは世界の深淵が顔を覗かせる。
手を動かさずに、聴いているマヌエラを見て、彼は微笑んだ。彼女は恥じて、慌てて仕事を続けた。
「ピアノ曲は、好きかい?」
彼は訊いた。
「ええ。クラッシック音楽には、あまり詳しくないのですが、聴くのは好きです。光景が目に浮かぶようですね」
彼は、意外そうに彼女を見ると「そうか」と言った。先ほどの笑顔よりもずっと柔らかい、嬉しそうな表情だった。
「じゃあ、次に君が来るときは、通しで何かを弾けるように準備しておこう。今日は、そろそろ掃除機をかけたいだろうから、僕は退散するよ」
そう言って彼は二階に上がっていった。
約束通り、次に彼の居住区を掃除するときに、彼ははじめから一階で待っていて、マヌエラに美しいメロディを聴かせてくれた。それどころか、マヌエラが掃除に来るときには、次第にそのミニコンサートが決まりのようになっていった。彼は、曲が終わると曲名を教えてくれた。ショパンだったり、ベートーヴェンだったりした。優しく可憐な曲もあれば、おどけた楽しい曲の時もあった。半年もするうちに、マヌエラは彼の演奏を聴いただけで、誰の作曲か推測ができるほどにピアノ曲に詳しくなってきた。
ある春の日に、22が弾いて聴かせた曲をマヌエラはことのほか氣に入った。彼女は、はじめの頃のように仕事をしながらかしこまって聴くことはなくなっていた。
「リストだよ。『三つの演奏会用エチュード』という作品の中の一曲さ」
「エチュードって?」
「練習曲のことだ」
「これが? こんなにロマンティックで素敵な曲が練習曲なの?」
「リストは皮肉っぽい人だったんじゃないかな。一般には『ため息』と呼ばれている曲なんだ」
それは、ほんとうにため息をつきたくなる美しい曲だった。仕事中である事も忘れて、ピアノの脇に進み、鍵盤に触れられるほど近くに立って彼の演奏に聴き入った。流れるような左手から生み出される細やかな音が、心の中を優しく撫でていく。右手の落ち着いた動きが、何か確かなものを語っている。それから、右と左の手は、役割を交代しながら優しく、戯れながらマヌエラの周りを踊った。その中に微かにとても真剣な想いが紛れ込む。
この人は、本物なのだと思った。繊細な黄金の糸で出来た輝かしいハートを、この暗い石造りの牢獄にいながら、決して曇らせる事なく燃やし続けている希有な人なのだと。たとえシステムが彼の存在を否定しようとも、誰にもそんなことはできない。生まれた順番や運命も、彼の心を砕くことも錆びさせることもできない。
格子の嵌まった窓から漏れてくる陽の光が、端正な横顔を浮かび上がらせる。明るい茶色の艶やかな髪の上で、メロディに合わせて踊りを踊る。この美しい時間を止める事が出来たらどんなにいいだろうと思った。
余韻とともに曲が終わっても、二人ともしばらく動かなかった。マヌエラがため息とともに彼を見ると、彼もその青い瞳を向けてきた。それが、二人の秘めやかな関係の始まりだった。
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【小説】Usurpador 簒奪者(4)《鍵を持つ者》
前作『Infante 323 黄金の枷 』で、脇役として出てきた二人の人物に関する話です。この二人の話が、メインとして語られるのは、おそらくこれが最初で最後だと思います。読者に知らせなくてもいいかなとは思ったのですけれど、システムに閉じ込められて重たいことをやっているのは、当主一家だけではないという例としてお読みいただければと思います。
少し長いですが、前回同様この「Usurpador 簒奪者」に関しては長々と連載するつもりはないので、まとめて発表しています。
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Usurpador 簒奪者(4)《鍵を持つ者》
若葉が次々と芽吹きだした四月。大西洋からの風が道往く人々の上着やスカーフを無為に揺らした。それは、まるでギターラを戯れにかき鳴らすようだった。
フェルナンド・ゴンザーガは、サントス医師の診療所に行くためにアリアドス大通りを渡った。思い詰めた暗い顔をし、手のひらをぎゅっと握りしめていた。
彼が愛した娘は、彼の求婚を拒絶した。その理由を彼はよく知っていた。ジョアナ・ダ・シルヴァには愛する男がいた。そして、その男アントニオ・メネゼスもまたジョアナを愛していた。だが、彼らはすぐに一緒になる事はできなかった。《星のある子供たち》であるジョアナは同じ《星のある子供たち》である男との子供を産まない限りは《監視人たち》一族の男とは結婚できないのだ。
「だったら、まず俺と一緒になって子供を作れよ」
彼は、言い募った。一年間共に暮らし、子供も出来れば、あるいはジョアナの心が自分に向く事もあるかもしれないと思ったのだ。
――女なんて、寝てしまえば簡単になびく。お前の母さんもそうだった。
彼にそう言ったのは、フェルナンドの父親だ。もともとは子供を作るまでとの約束で一緒になった彼の両親は、結局現在に至るまで結婚生活を続けている。
しかし、ジョアナは首を振った。
「それは無理だわ。あなたの事を私もアントニオも知っている。たとえ私が子供を産んでからあなたの元を去ったとしても、同じ職場で働く彼とあなたと私の間にはわだかまりが残ってしまう。そうでしょう? 私は、《監視人たち》中枢組織に頼んで、人工授精を望む《星のある子供たち》の男性を紹介してもらうわ」
それは、フェルナンドにはもっとつらい言葉だった。もし彼女の人工授精の相手が決まってしまえば、彼のチャンスは永久に潰える。《星のある子供たち》である女は、たった一人の《星のある子供たち》の男としかペアになれないから。どんな事があってもジョアナを諦める事の出来ないフェルナンドにはたった一つしか道がなかった。
彼自身が人工授精の精子提供者となり、ジョアナの相手であるたった一人の《星のある子供たち》の座を確保する事。彼は、それをジョアナに申し出た。拒否反応を示す彼女に、もし断るなら宣告をすると脅迫じみた言葉まで使って、ようやく賛同を取り付けた。だが、彼女が子供を身籠り出産するまでの時間を確保しただけで、フェルナンドにとっての苦悩は終わらなかった。
《星のある子供たち》である男は《星のある子供たち》である女に子供を産ませる事を強制できる。けれども、女はその男の元を去る権利を持つ。ジョアナは子供を産みさえすれば自由になり、アントニオと家庭を作るだろう。アントニオ・メネゼスは、いずれバジリオ・ソアレスの跡をついで、ドラガォンの執事になり、《監視人たち》中枢組織の最重要ポストにつく。前途洋々の未来があり、彼の愛するジョアナと彼自身の子供をも奪っていく。フェルナンドの絶望は深かった。
現在は彼のパートナーであるジョアナをアントニオに渡さないようにする方法は、一つしかなかった。人工授精を始まらせない事。もちろん《監視人たち》組織は、いくら彼がぐずぐずしても彼に精子採取を急がせるだろう。あの組織は《星のある子供たち》を作り出す事にしか興味はないのだから。
フェルナンドの足は、サントス医師の診療所に向かわず、大聖堂の方へと進んだ。そして、その先には大きく美しいドン・ルイス一世橋が堂々たる姿を横たえていた。空は青く、カモメが悠々と飛び回り、河にはボートがゆっくりと進んでいた。人びとが街の美しさを楽しみ、幸せを謳歌していた。
アントニオ・メネゼスは、警察での諸手続きを終わらせると、哭き叫ぶフェルナンドの母親とじっと悲しみを堪えている父親の待つ病院へと向かった。検死が終わり次第、フェルナンド・ゴンザーガの遺体は自宅に帰ることになっていた。なぜと問う両親に、執事であるバジリオ・ソアレスはどのような説明をしたのだろうと思った。
警察では、事故と自殺どちらの可能性も捨てきれないと言われた。遺書はなく、目撃者もいなかった。人工授精の第一回目の精子採取のためにサントス医師の診療所に向かう代わりに、どのような理由で彼がドン・ルイス一世橋から河に転落したのか知る手段はなかった。
アントニオにも、何が起こったのかはわかっていなかった。わかっているのは、少なくともフェルナンドが望んでいた事が一つだけは叶ったことだ。ジョアナ・ダ・シルヴァは、もう誰かと一緒になる事は出来ない。彼女がフェルナンドとの人工授精を一年間にわたり試行することは、永久に不可能になってしまったからだ。手続き上すでにフェルナンドに「選ばれて」しまったジョアナは、もう他の《星のある子供たち》の男に「選ばれる」ことも出来ない。
フェルナンドが、ジョアナを彼に渡さないためだけに命を断ったとは思いたくなかった。彼とジョアナが彼を追いつめたのだと考えるのは苦しかった。だが、いずれにしても何もかも遅すぎた。
アントニオ・メネゼスは、渡された鍵の束をじっと見つめた。
「重いだろう」
執事バジリオ・ソアレスは、口元を歪めるだけのいつもの笑い方をした。
それは鍵の数から考えると実に重かった。十に満たない鍵が、丸い輪でまとめられている簡素な鍵束だ。見かけは古めかしいレバータンブラー錠用の鉄鋳物風棒鍵だが、実際にはスイスのメーカーに特別に作らせたディンプル錠が組み合わされており、さらに紛失や盗難に備えて内部発信機や自動溶解システムが組み込まれている最先端の鍵だ。だが、その鍵を常時持つという事実に比べれば、実際の重量など大したことではなかった。
この鍵束と同じものを常時携帯することが許されているのは、他にはドラガォンの当主と執事だけだった。この鍵束を持つということは、緊急時にはドラガォンの運営に関する全てを独断で決定できるということであり、その権能の規模は、おそらく世界で数人のみが可能な非常に強大なものだった。
だが、世界の他の権能者とドラガォンの支配者たちには決定的な差があった。他のものは、その力を誇示し、財力を用い、己の名声を高め、世界に広く知られる外向きの発展があるが、ドラガォンの使命は、誰からも存在を注目されぬよう、その存在を隠しながら存続を図ることにあった。
アントニオは《監視人たち》の家系の中でも、ソアレス家同様に、多くの《鍵を持つ者》を生み出してきたメネゼス家の直系男子として、生まれた時から特殊教育を受けてきた。《監視人たち》の家系に生まれた者の中で、黒服を身に纏い特別な任務に当たる者たちは百人ほどだ。その中でもドラガォンの当主と話をしたことがある者は三十人に満たない。
《監視人たち》が黒服を纏うようになると、ドラガォンの中枢的存在として一目置かれるようになる一方、もはや他の生き方は一切許されなくなる。黄金の腕輪をした《星のある子供たち》は、この世から隠されている存在だったが、黒服を着た《監視人たち》は、自らを滅し《星のある子供たち》を命に代えて守る役割を担っていた。
アントニオは、黒服を着て働くべく育てられた。彼の個性は、その任務と人生に適していた。彼を知る多くの人間は「あの男が何を考えているのかわからない」と感じるだろう。彼は私的感情を滅多に表に出さない子供だった。そして、成人した今もそれは変わらない。「冷たい男」ともよく評された。そのことを、彼の家族や上司は喜んだ。《鍵を持つ者》の後継者として、これほど好ましい資質はないのだから。
彼は、鍵束の重みを噛み締めた。
「まだ早すぎませんか」
黒服を着た《監視人たち》の中枢組織の最上位に就く証を、わずか二十五歳の若者が手にした前例は聞いたことがなかった。
ソアレスは、いつもの口元を歪める微笑を見せた。
「検査の結果が出たのだよ」
ソアレスが言及しているのは、先日彼が病院で受けた精密検査のことだろう。
「どれほど意志が固くても、病には勝てぬ。私はまもなくこの重要な努めを果たすことができなくなるだろう。それまでに、お前に全てを託さねばならない。今はまだいい。ドン・ペドロが適切な判断を下し、この巨大なシステムの舵取りを続けてくださる。だが……」
ソアレスが眉を顰める原因は、己れの病にあるのではないことは確かだった。そうではなくて、次のドラガォンの当主の世代になったときのことを考えているのだ。そして、その時に自分はもはやどんな支えにもなれないことを歯噛みしたい想いで考えているのだ。
「よいか、アントニオ。私はお前に、決して外せない枷をかけた。《星のある子供たち》ですらも固辞したくなる辛い役目だ。時にお前は、安らかに眠れぬかもしれぬ。その手が白いまま墓に入ることも叶わぬかもしれぬ。だが、それでもお前はこのシステムに忠実であらねばならぬ。それがお前の
アントニオは、バシリオ・ソアレスがその宿命を受け入れてきたことを知っていた。当主に代わりその手を穢したであろうことも知っていた。穢したとまでは行かずとも、「心のない冷たい男」と謗られたことが幾度もあることも知っていた。たとえば、ドンナ・ルシアが、プリンシペに手をかけようとした罪でこの館から追われた時も、我が子から引き離されることを恐れて許しを乞う女主人の懇願に、彼は眉ひとつ動かさなかった。ソアレスは揺るがなかった。彼は掟に忠実に振る舞い、その役目を果たした。
掟の前には、どの《星のある子供たち》も《監視人たち》も平等だった。たとえ、その一人に対して個人的な好意を持っていても、あるいは不快感を持っていても、それを理由に掟を曲げることは許されない。《鍵を持つ者》であるならばなおさらだ。我が子が閉じ込められるのを指示し、罪を犯した妻を遠ざけ、その怒りと悲しみと憎しみを受け止めながら、何事もなかったかのように当主としての日々の仕事を続けたドン・ペドロも、やはり《鍵を持つ者》だった。彼の前の当主たちも、ソアレスの前の執事たちも全て同じ厳格さで、このシステムを守り続けてきた。
「ところで、アントニオ。少し個人的なことに立ち入っても構わないか」
「なんでしょうか」
「先日、ドン・ペドロと話をしている時に、お前の話題になったのだ。お前は《鍵を持つ者》としては非常に若いが、メネゼス家の男子として若すぎるということはない。つまり、その……」
アントニオは「またか」と心の中で思ったが、顔色一つ変えなかった。
「つまり結婚して跡取りをつくらないのか、ということでしょうか」
「そうだ」
ソアレスはあっさりと認めた。
「ソアレスさん。私の系統でなくとも、ジョアンとペドロの中にメネゼス家の血は流れています」
アントニオは、必要もないことをあえて口にした。バシリオ・ソアレスの妻ローザ・マリアは、アントニオの父の妹だった。バシリオの長男ジョアンはすでに《監視人たち》中枢部で幹部として働いており、歳の離れた次男のペドロも特別教育を受けいずれは兄に続くであろう。
「それは、わかっている。《星のある子供たち》と違って、我々《監視人たち》の家名が途絶えることは、さほど大きい問題ではないし、子孫を残す努力を強制されるわけではない。だが、アントニオ。ドン・ペドロは心配しておられるのだ。お前が、あの娘の件の責任を取ろうとしているのではないかと」
アントニオは、わずかに眉をひそめた。
「責任。どうやって」
「そうだ。フェルナンド・ゴンザーガの死に、誰にも責任を取ることはできない。そして、ジョアナ・ダ・シルヴァが掟の迷宮から抜け出せなくなったことも。だから、お前がその宿命に付き合う必要はないのだ」
アントニオは、普段決して見せない反抗心の籠もった鋭い目つきでソアレスを見た。
彼には、世界中の他の全ての女と結婚する権利が残されていた。彼の人生がそれで終わったわけでもなかった。だが、彼は決して出る事の出来ない黄金の枷に囚われた愛する女を見捨てて、自分だけ忘れる道を選ぶことはできなかった。フェルナンドは、彼にも決して外せない枷を掛けてこの世を去ったのだ。
「《星のある子供たち》に対して、掟に従うように強制する役目を私は果たします。ジョアナが生涯一人でいなくてはならない掟も。私が彼女に別の幸福を見せつけることが、ドラガォンのためになるとは思えません」
「では、やはり彼女のためにお前は生涯独身を通すつもりなのか」
彼は答えなかった。ただ、重い鍵束を受け取り、《鍵を持つ者》としての使命を生き始めた。
【小説】Usurpador 簒奪者(5)弱き者
前作『Infante 323 黄金の枷 』で、母親のいないマイアのことを氣にかけて何かと世話をしてくれていたドラガォンの主治医、若かりし日サントス医師がちらりと登場しています。この方、実はマヌエラの又従兄弟でした。今回のエピソードとは全然関係ないのですが。
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Usurpador 簒奪者(5)弱き者
掃除のためにカルルシュの部屋を一人訪れる時、マヌエラはどこか暗い心持ちになることが多かった。22の居住区を訪れる心地よさとは反対だった。
朝食の席で、彼は当主に叱責されることが多かった。理由は、他愛もないことばかりだ。コーヒーをこぼしたり、服にジャムを飛ばしたりのこともあったし、家庭教師の報告に書かれた情けない試験結果のこともあった。厳格なドン・ペドロが、おそらくカルルシュのために義としている厳しい教育なのかもしれないが、萎縮したプリンシペはさらなる失敗を重ねるばかりだった。
一週間前に叱咤されたことが、改善されないことにドン・ペドロは苛立ちを見せる。それを自覚しているのか、彼は当主の叱責に項垂れるばかりだ。加えて、身体の弱いカルルシュは無理がきかず、教師の訪問が中断されることも度々あった。
とくに氣管支が弱く、わずかな急な天候の移りかわりや夜更かしなどが続くと、風邪を引いたり熱を出すことも多かった。ドン・ペドロは「またか」といいたげな様相で、カルルシュの喘息のような発作にも心配を見せなかった。
彼が体調を崩すと、よほど重い症状でない限りジョアキン・サントス医師が呼ばれてきた。彼は、ドン・ペドロの主治医である老サントス医師の長男でありマヌエラの又従兄弟にあたる。ジョアキンは、手慣れた様子で吸入剤を用意し、丁寧に彼を診察していた。カルルシュは、申し訳なさそうに体を縮こめ、涙を浮かべて身を任せていた。
学業のさらなる遅れに焦るのか、まだ完全に熱が下がっていないのに起き上がって課題に取り組んでいることもあった。
「メウ・セニョール。氣管支喘息はアレルギーやウィルス感染だけでなく、ストレスからも引き起こされると考えられているのですよ。お体をいたわることも大切ですが、ストレスをため込まないようにすることもお忘れにならないでください。お一人で抱え込まずに、親しい方とお茶でも飲んでゆったりと話される時間をお持ちください」
ジョアキンは、彼に諭した。必要なタオルなどを持参してその場にいたマヌエラは、医師のアドバイスを聞きながら心の中で(誰と)と呟いた。カルルシュには、自由時間に楽しく語り合う友人などいない。ドン・ペドロの厳しい教育に着いていくことの難しい彼にとって、ストレスを減らすことも難しいだろう。そして、彼は脱落することも、逃げ出すことも許されない立場にいる。
そして、起き上がり歩けるようになれば、朝食や午餐の席でドン・ペドロに厳しく叱責を受ける日々が待っている。マヌエラは、給仕をしながら、彼の苦難の再開を感じて氣を揉んだ。
三日ぶりに床を離れた彼は、覇氣のない疲れた表情で朝食の席に座った。ソアレスとその朝の朝食当番のマヌエラは、ドン・ペドロとカルルシュ二人の給仕に当たった。
22の居住区からは、新しいソナタを練習する音が響いていた。彼が朝食を居住区で簡単に済ませるようになった理由がそれだ。執事と召使いに給仕され、当主たちとのんびりと朝食を取れば簡単に一時間ほど経ってしまう。彼はむしろその時間をピアノの練習に充てたがった。その成果は、マヌエラが掃除にやってくる日のメロディとなるのだから。
ドン・ペドロは、22が習慣を変えたことに、何も言わなかった。彼は、屋敷のどのような小さなこともソアレスやその他の腹心から報告を受け、若い世代の様子にも十分に目を留めていたが、22の生活態度に対して意見を言うことはほとんどなかった。22は、午餐や晩餐、または礼拝などにはきちんとした服装で、落ち着いた態度で臨席し、家庭教師や音楽教師からは絶賛されていたし、使用人たちとの関係も良好で問題を一切起こさなかったからだ。
当主が、カルルシュに厳しくあたる様を目にするのは、あまり心地よいものではない。だが、マヌエラは認めなければならなかった。ドン・ペドロは、理に適わぬことでカルルシュを叱責したことはただの一度もなかった。語氣に苛立ちを込める前に、彼は少なくとも二度はカルルシュに同じことを冷静に指摘している。既に「ああ、次に同じ間違いをすれば、ドン・カルルシュは叱られる」とマヌエラにも予想ができるようになっていた。
法務関係の課題に関しては、法学を学びたかったマヌエラにもわかるトピックが多かった。今朝、彼が叱られているのは、先週の初めやり直しを命じられた法務に関する課題だ。
「カルルシュ、いいか。お前が弁護士や裁判官として人前に立つことはない。だが、ドラガォンが関わる多くの重要決定事項にはお前が決裁を下さねばならないことばかりだ。契約書を作成するのもお前ではないが、裁決をするのはお前だ。法の強行規定と任意規定の差がわからぬような者に、その役割が果たせると思うのか?」
朝食の皿を下げながら、マヌエラはカルルシュと目が合わないようにした。当主は、家庭教師から預かった彼の課題である書類をたたき付けるようにして返した。
「午餐の前に、まともな契約書らしい体裁に書き直せ。もちろん、数学の課題も遅れずに出すように。22の課題は、どちらもとっくに終わっているんだぞ」
朝食の給仕が終わるとすぐに、彼女はカルルシュの部屋の掃除に向かった。ノックに答えはなかったので、中に入ると人影はなかった。
あらかたの拭き掃除を終えてマヌエラが彼の書斎に続くドアを念のためにノックをして開けると、彼は中にいて先ほどの書類を見ながら真剣な面持ちで考えている所だった。
「失礼しました。また、後で伺います」
カルルシュは赤い顔をしてパッと立ち上がり、彼の足元に書類は散らばった。
「あっ」
二人はあわてて、書類を拾うためにかがんだ。
彼のすぐ近くで、目が合うと、彼はさらに赤くなり、その後に項垂れてだまって書類を集めた。
「すまない。一生懸命に考えていて……いや、違う、さっき叱られたのを見られたのが恥ずかしくて、君が掃除に来たのに返事もしなかったんだ」
「メウ・セニョール……」
マヌエラは、彼をそっとしておくために去ろうかと思ったが、何か言いたそうな彼が助けを求めているように感じたので、思い切って言ってみた。
「あの……、先ほどのドン・ペドロのお話ですけれど……。強行規定とは、たとえば独占禁止法による規制や売買契約における消費者側のクーリング・オフ権など、契約がどうであろうと法律上動かせない規定のことで、任意規定は、たとえば商品引き渡しと支払いの順番のように、両者の合意や契約内容で変更してもいい規定です。だから、どの部分が強行規定に抵触しているのかだけ見つけられれば、修正すべき所もおわかりになるのでは?」
彼は非常に驚いた様子で、彼女の顔を見た。
「申し訳ありません。出過ぎたことを……」
彼は慌てて言った。
「いや、違うんだ。ありがとう。本当にどこをどうしていいのかわからなくて、でも、誰に訊いていいのかもわからなかったんだ」
彼女は、頭を下げてから、ハタキかけを始めた。彼は、そのマヌエラについてきて話しかけた。
「昔は、困っていると22がこっそり教えてくれた。だから、こんな僕でもなんとかやっていけたんだ。でも、22が居住区に移ってからは、そんな風に教えてくれる人がいなくなってしまって」
「お役に立てて光栄です。でも、たまたま知っていたことですので……」
「君みたいな優秀な人は、召使いとして働いているのはもったいないな。きっと、すぐに中枢システムにいくんだろうな」
マヌエラは、思わず足を止めた。すぐにここを離れて……?
そうであって欲しいと、彼女はずっと願っていたはずだった。それなのに、その言葉を聴いたときに「ここから離れるのは嫌だ」という想いが頭をもたげた。心のどこかに流れているピアノの旋律と共に。
「その……。もし、またこういうことがあったら、また君に助言をお願いしてもいいだろうか」
カルルシュは、消え入りそうな声で訊いた。
「もちろんです。お手伝いできることがありましたら、いつでも」
彼が書き直した課題は、完璧なものとはいえなかったようだが、それでも午餐の後にそれを読んだドン・ペドロは彼の努力と改善を認めてさらなる改善点を静かに口にした。向かいに座る22も微笑んで頷くのを見て、カルルシュは頬を紅潮させた。
ちょうどマヌエラが「どうぞ」と目の前に運んできたコーヒーを置くと、彼は顔を上げて万感の思いを込めて「ありがとう」と言った。
それから、カルルシュは、マヌエラの顔を見ると緊張を解くようになった。
(読者からのご指摘に基づき強行規定の例を訂正しました)
【小説】Usurpador 簒奪者(6)希望
前作『Infante 323 黄金の枷 』や外伝で登場したときの22が、とても感じが悪かったのと、今回のストーリー(30年前)の彼ができすぎキャラなので、前作からの読者のみなさまがかなり警戒しておられるご様子。このストーリーは、どうして彼があんな感じの悪い人になってしまったのか、そんな人を主人公に据えて第3作『Filigrana 金細工の心』はどうすんだ、ということを説明するための作品といっていいでしょう。
というわけで、今回からの3回は、少し冗長ですが、書かねばならない章でした。ええ、筆が進まず結局一番最後になったこの3つです。
今回の22の考え方ですが、前作の23とかなり似ています。もっとも、はっきりと誤解のないように口にしている22とくらべて、23の方は何も言わないので話が長くなった、という説もありますね。コミュニケーションは大事。
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Usurpador 簒奪者(6)希望
4月も終わりになると一斉に芽吹いた新緑が、街を鮮やかにする。この館から決して出て行くことのできない青年が、背筋を伸ばして立ちすくむ窓辺からも、日々変わっていく世界の様子が見てとれる。
冬に窓から眺めた街は、陰鬱な憂いを見せた。赤茶けた瓦は僅かに黒ずみ、時おり格子の外側に停まるカモメも、膨らませた羽毛に顔を埋めて暖かい室内に入れない不条理にムスッとした顔つきで耐えていた。だが、太陽の馬車はひたすら空をめぐり、日の長さをどんどんと伸ばした。屋根瓦の合間から深緑が萌え立つようになると、世界は心地よく緩み、朗らかな笑顔を振りまくようになった。
そんな風に、2人でいるときの22もまた、冬とは明らかに違う朗らかな笑顔を見せるようになっていた。
視線が交わった僅かな瞬間の戸惑いが、微かな笑みに変わり、それから確信が瞳に表れた。優しいメロディと礼儀正しく親しみある言葉が、もっと情熱的な音と健康的で爽やかな語らいになった。マヌエラは、その彼に恋をしているのだと、はっきりと感じるようになっていた。それも一方的ではなく、慕う相手に想われていることを確信して有頂天になった。
そして、それに伴い、ある種の非生産的な人生を意識するようになっていた。マヌエラの母親は家庭に入ったときに、それまでしていた歯科助手の仕事を辞めたのだという。もともと辞めたかったから悔いはなかったと聞かされたが、私なら仕事を辞めなくてはならないなら、結婚なんかしたくないなと子供心に考えた。それからも、誰かのために自分の築き上げてきたものを全て引き換えにすることなど、考えることがなかった。
インファンテである22は、当主のスペアとしての人生を送る。ドン・ペドロとカルルシュがこの世からいなくならなければ、ドラガォンで主たる役割を果たすことはない。彼は木彫りの雄鶏を彩色する仕事をしているが、それだけだ。それ以外に求められるのは、いや、そもそも真に求められているのは、子孫を作ることだけだ。
彼に選ばれるということは、結婚ですらない。彼は法的には存在していないのだ。彼女自身が、彼といる間、やはり存在しないも同然になる。もし子を産めば、我が子だけはドラガォンの血脈の中で意味を持つが、それは存在しない者たちの手柄とはならない。22の愛を受け入れること、それは、文字通り愛のために人生を捧げること、つまり、それ以外の全てを諦めることなのだ。
彼と合意した赤い星を持つ娘は、最低1年間を居住区で共に暮らし、彼の子供を産むことを期待される。もしその娘が、何らかの志を持ち成し遂げたいと望むならば、たとえば、この館にやって来た時のマヌエラ自身のように、中枢システムに属して知識や能力を存分に生かした役割を果たしたいと望むのならば、自らインファンテの元を去らなくてはならない。
少なくとも1人の子供を産むか、もしくは1年経っても妊娠しなければ、赤い星を持つ娘は青い星を持つ男の元を自由意志で出て行くことが許される。それが、関係を強制されることもある女たちへのシステム上の救済措置になっていた。
けれど、彼女にそれができるだろうか。ありとあらゆる才能を持ちながら、生涯を黄金の枷の中に閉じ込められて過ごす孤高の青年、彼女が惹かれてやまない男を捨て、自分だけが外へと歩み去ることが。彼の、1年以上かかってようやく見せるようになった輝くばかりの笑顔と、幸福に舞い踊る音楽の翼をまとめてゴミ箱に放り込むようなことが。
22は、事を急ごうとしなかった。彼は、自分の立場を誰よりもよくわかっていた。父親である当主の許可を得てマヌエラの手を正式に求めること、彼女のたった1人の青い星を持つ相手となることを切望していたが、彼と共にいる限り彼女もまた檻の中にいなくてはならないことを知っていた。彼女の才能と、この館に来た理由を理解しているからこそ、それを諦めさせることの残酷さを知っていた。
彼は、それまでにいた他のインファンテ、たとえばカルルシュの父親321のように、1年ごとに新しい女と寝たいと考えるような人ではなかった。彼はマヌエラと生涯を共にしたいと口にした。それが彼女のそれまでの望みを絶つからこそ、彼は慎重にマヌエラの意思が固まるのを待つつもりだと言った。それゆえ彼は、人前でマヌエラを愛している素振りを見せなかった。たとえ、館の多くの者がそれに氣付いていても。
彼は、居住区の掃除のために彼女がやってくる僅かな時間にだけ、その想いを伝えた。優しい語らいと情熱のメロディ、楽しい会話と、わずかな触れ合い。
しばらく経った別の午後、彼は、乾かすために机に並べられていた木彫りの雄鶏を、1つ1つ仕切りで区切られた段ボールの箱に収めていた。伝統的にインファンテは、目立たない手仕事を持っている。いつの頃からそうなったかを誰も知らない。おそらくは、有り余る時間を過ごすために誰かが始めたことなのだろう。彼の仕事は几帳面で、ムラがなく、それでいてよく見ると遊び心のある絶妙の色使いと模様を用いていた。
それらが詰められた箱は、夕方までに居住区の入り口近くの小さなテーブルに置かれる。あまり時を置かずして、召使いがそれをバックヤードへと持って行き、配送の準備を整える。街のいくつかの土産物屋で観光客たちがそれらを手にして購入していく。その木製の雄鶏たちが、どんな運命を辿るのか知るものはない。リビングルームの片隅で他の土産物に混じり埃を被るのかもしれない。もしくは、大して注意を払われることもなくフリーマーケットに出品されるのかもしれない。
22は、黙々と彼の小さな作品たちをしまい込んでいく。
「氣に入って、大切にとっておく人だって、きっといると思うわ」
マヌエラの言葉に彼は「中にはね」と、肩をすくめた。
「この仕事をするよりも、読書や音楽にもっと時間を割きたいの?」
その問いを耳にすると、彼は意外そうにマヌエラを見て、それから首を振った。
「いや。この仕事を週に何時間しなくてはならないといった決まりはないんだ。実際のところ、全くやらなくても何も言われないだろうな。だが、少なくともこれは、本当に僕がやるべき数少ない義務の一つなんだ。学問や、音楽はそうじゃない」
「そんな……」
「これを彩色するとき、思うんだ。これが現実だと。僕は、誰も知らない存在すら氣に留めない彩色職人、父やカルルシュとは違うと」
「そんなことないわ。あなたは、システム上は名前を持たないけれど、私たちにとって間違いなく必要なひとよ。あなたは有能なだけでなく、人柄もよくて、皆に慕われている。私たち使用人だけじゃないわ。ドン・ペドロも、そしてドン・カルルシュも、あなたのことを誰よりも頼りにしているみたい」
その言葉を聴くと、彼は黙ってマヌエラを見た。それから立ち上がり、格子の嵌まった大きい窓の前まで歩いた。しばらく背を向けて窓の外を眺めていた。彼女が、この話を始めるべきではなかったのかと思いだした頃、彼は背を向けたまま言った。
「僕が13歳になるまで、この隣の居住区には21が住んでいた。彼は、コルクで小物を作る職人だったらしいけれど、僕は彼が作品を作ったのを見たことは1度もない。いつもひどく酔っていて、誰かれ構わず罵倒していた。それを非難されると、笑いながら周りに迷惑をかけるのを楽しんでいると豪語するような人だった」
「楽しむ?」
彼は、振り向いた。彼の後ろから差し込む日差しがつよく、その表情がよく見えなかったので、マヌエラは不安になった。
「そう、よくそう言っていた。でも、僕自身が居住区に住むようになってから、彼のことを少し理解できたような氣がする。本当に楽しんでいたんじゃない、彼はひどく不幸だったのだと」
「ドイス……」
「僕は、彼のようになりたくないし、なるつもりもない。でも、僕は皆に頼られるような立派な存在でもない。父も、カルルシュも、僕に好意を寄せてくれるのは知っている。僕も期待に応えたいと思う。だが、ここに入る前に周りの世界に抱いていたのと同じ感情を持ち続けることは、とても難しいんだ。どこかで、もう1人の自分が冷たく言っている。僕の何がわかるんだ、彼らは、ここで暮らしたことなんてないんだ、何を学ぼうとその知識を用いる場のない、将来に夢や希望を抱くこともできない虚しさは、彼らにはわからないってね」
マヌエラは、彼の言葉に何かを答えようとしなかった。彼の言うとおりだ。ずっと多くのものを手にしている彼女が言えることはない。彼女がこの居住区から出ることを許されなくなるまでは。
「僕らインファンテは、その成り立ちから、どうしたって孤独に苛まされるようにできている。だが、システムを変えることができない以上、折り合いをつけて生きていくしかない。結局、どの男たちも似たような解決策を求めたみたいだ……残念ながら叔父の21に選ばれた赤い星を持つ10人以上の女性たちは、全員が彼のもとを去ることを選んだけれど、その前にいた320に選ばれた女性は彼が亡くなるまでずっと一緒に居たと聞いている。その話は、僕にとって希望の光なんだ」
彼女は、真剣に頷いた。軽々しく、自分がそうなると言ってはいけない。でも、きっと私はそうするだろう。彼女は、心の中で呟いた。彼は、笑顔に戻って言った。
「許してくれ。君を困らせるためにこんなことを言ったんじゃない。むしろ反対だ。僕は、君と幸せになりたいと願っている。その一方で、君にもずっと幸せでいて欲しいし、後悔して欲しくないんだ。だから、この格子のこちら側が何を意味するのか、隠したくなかった。結論を急がないで、よく考えてくれ」
【小説】Usurpador 簒奪者(7)選択
この『黄金の枷』世界観でドラガォンに関する一連の掟は、かなり厳しく決まっています。前作や外伝の発表時、何度か読者から「そうはいっても、お目こぼししてくれるんじゃない?」的な質問をいただいたことがあります。基本的には、「お目こぼし」させないための役職が《監視人たち》なのですけれど、何回か出てきている「システムの例外」は矛盾ではないかと疑問に思われている方があるかもなあ、と思っていました。(第一作で出てきたライサ・モタや、外伝で語られたクリスティーナ・アルヴェスなどです)
じつは許される「例外」にも厳格な決まりがあり、今回はその内容について語られます。ちなみに、『ドラガォンの館』に出入りできるのは、誓約に縛られた《星のある子供たち》と《監視人たち》中枢システムの人だけという決まりがあるので、腕輪を外された人は、街から自由に出て行ける代わりに館には入れなくなります。
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Usurpador 簒奪者(7)選択
簡単に決められることではなかった。彼女の前の道は2つに分かれていて、大きく離れていく。けれども、道を選べるのは彼女1人だ。彼は違う道を選ぶことはできない。
もし、法学に進む道があったのならば、あるいは彼を忘れようと努めたかもしれない。だが、その道は既に絶たれている。そして、ドラガォンで主たる役目を果たせるかもしれないという曖昧な願いには、法学ほどの強い引力はなかった。
一方で、ドラガォンで中心的な役割を果たすことになるとしたら、22がどんな様子であるのかは常に耳に入ってくる。彼が絶望して苦しむことも、反対に誰か他の女性と幸せを掴むことも、マヌエラは聞きたくなかった。それは彼女の決断が引き起こす不愉快な結果だ。
いま想像できる範囲で、後悔しない選択は、1つしかない。22と同じ檻の中に自ら入り、彼を孤独と虚無から救い出すこと。
だが、マヌエラがその覚悟を22に伝える前に、『ドラガォンの館』には緊張が走った。召使いとして働いていたフェルナンド・ゴンサーガが亡くなったのだ。
ドン・ペドロは厳しい顔で幹部と話し合い、執事ソアレスも緊張した面持ちで同僚の死に動揺する使用人たちを励ましつつも仕事に支障が出ないように指図を出した。
フェルナンドの死の衝撃は大きく、館には重い空氣が漂っていた。フェルナンドに選ばれた状態だったジョアナは、館でソアレスからそのいまわしいニュースを知らされた。いつも朗らかだった彼女は、ほとんど笑わなくなったが、氣丈にも仕事を休むようなことはしなかった。もう1人の当事者であるアントニオ・メネゼスも、いつも通り冷静に仕事をこなしている。
事件があってすぐは、マヌエラは居住区で掃除の当番にならなかった。次の機会に、彼女は彼の演奏を聴くことなく立ち去ろうとした。
「もういかなくちゃ。この後、ジョアナと洗濯室でしみ抜きをすることになっているの」
ピアノの前に座っていた22は立ち上がって側に来た。
「いつも長くここにいて、叱られたのか?」
「そうじゃないけれど……ジョアナには、あんなことがあったばかりだし、私が浮かれているのは酷じゃないかと思って」
彼女は、この事件に誰よりもショックを受けているジョアナを励まし支えたかった。
「マヌエラ。待ってくれ」
階段を上がろうとする彼女を22は呼び止めた。振り向いた彼女の近くに彼は来て、いつもよりも距離を縮めて立った。
「聴いてほしい。前回、君を急かすようなことを言ってしまったので、氣になっていたんだ。君が、親友であるジョアナの氣持ちを慮ることはよくわかる。僕とのことを考えるのは、彼女の心の整理ができてからでも全く構わない。それに、君が中枢部で働きたいというなら、思う存分力を発揮させてやりたいとも思う。なんなら、やりたいことを全てやり終えた後でも、10年や20年後になってしまっても、いいんだ。それでも僕は、いつまでも君を待ちたい」
「……ドイス」
マヌエラは、彼を見上げた。言葉が見つからず、胸が熱くなった。見つめ合い、お互いの心を読むと、彼は顔を近づけてきて彼女は瞳を閉じた。初めての口づけは、優しくて柔らかかった。甘く切なかった。
唇が離れた後、恥ずかしくて彼女は下を向いたけれど、自然に笑顔がこぼれた。
「10年だなんて……私自身が、そんなに待てそうもないわ」
彼は、不安そうだった表情を変えて瞳を輝かせた。
「そういってもらえると期待していたわけではないんだが、そうだとしたらありがたいな。それだけで生きる張りがでるよ。希望に満ちていると、奏でるだけでなく、学ぶことにも、力が漲るんだ。それどころか、雄鶏に色を塗るのすら、素晴らしくてしかたないことに思えるよ」
彼の笑顔があまりに眩しかったので、マヌエラはもう1度、そして自分からキスをした。そして、彼の手を取って見上げた。
「フェルナンドのことがあって、言いにくくなってしまったんだけれど、私ね、お許しをもらえたらいつでも、この格子のこちら側に来たいって、あなたに伝えるつもりだったの」
それから、2人は当主であるドン・ペドロに許可を得るタイミングについて具体的に話し合うようになった。
2人は、3ヶ月ほど待った。その間に、もちろんマヌエラは召使いとしての仕事をこなした。ジョアナが再び笑顔を見せるようになり、さらには自分からマヌエラに2人の仲がどうなっているのか質問をしてきたので、彼女は素直に22と自分の意向を知らせた。
ジョアナは、マヌエラに抱きついて言った。
「大変な決意だと思うけれど、きっとあなたなら後悔せずにやっていくと思うわ。私、あなたを応援する。幸せになって」
マヌエラは、涙を浮かべながら頷いた。
「あなたにそう言ってもらえるのは、本当に嬉しいわ」
「だったら、どうしてそんな大切なことを教えてくれないのよ」
ジョアナは、ほんの少し拗ねたように訊いた。
「それは……とても酷な立場に立たされたあなたに、浮かれたことを言うのが心苦しかったの」
仕方なく答えたマヌエラに、ジョアナはわずかに笑って言った。
「予想していたとおりだわ、マヌエラ。私に遠慮しているんじゃないかって、氣になっていたの。そんなことしないでね。私、アントニオにもそう言ったくらいなんだから」
「なんですって?」
ドラガォンには、誰にも動かすことのできない掟がいくつかあった。ジョアナは、その1つにより、《星のある子供たち》だけでなく、他の誰とも永久に一緒にはなれない。ジョアナが《星のある子供たち》を産み出したらすぐに一緒になるはずだつたアントニオにも、その機会はなくなった。けれど、2人が愛し合っていることは、前と変わらないのだ。
ジョアナは、下唇を噛みしめて僅かに黙ったが、しっかりと頭をもたげてマヌエラを見た。それからはっきりとした笑顔を見せて言った。
「彼に言ったの。責任を感じて1人で居続けたりしないでって。あなたの人生の邪魔はしたくない、私が側で見ていると奥さんを探せないなら、私がここを辞めてもいいって」
「まあ、ジョアナったら。それで?」
ジョアナは言葉を探していたが、しばらくするとゆっくりと語り出した。
「そもそもはね、彼にシステムの例外の話をされたの」
「例外って?」
「滅多に起こらないことだけれど、ドラガォンのシステムを維持するために、大きな犠牲を払わされた《星のある子供たち》がでると、例外として扱って救済してくれることがあるって」
「まあ。あなたにはその資格があるんじゃない? だって、あなたは何も悪いことをしていないのに、義務を果たすことができなくなったんですもの」
マヌエラは期待に満ちて訊いた。けれど、ジョアナ自身はさほど嬉しそうではなかった。
「でも、その救済方法は、一つしかないの」
「どんな?」
「腕輪を外してくれるんだって」
マヌエラは押し黙った。けれど、すぐに思い直して微笑みかけた。
「もう、ここにいられなくなるのは残念だけれど、でも、《星のある子供たち》の掟の外におかれれば、腕輪をしていない誰とでも結婚できるでしょう? アントニオとだって」
ジョアナは悲しそうに笑った。
「アントニオが、そんなことすると思う? あの人はもう《鍵を持つ者》なのよ。私の腕輪を外す決定だってできる。けれど、彼がその私と結婚したら、ドラガォンのシステムに私情で介入したことになってしまう。他の人なら、もしかしたらそういうことをするかもしれない。でも、あの人はそんなことは死んでもしない。自らが自由にした娘と結婚することなんて絶対にないわ」
マヌエラは、頷いた。ジョアナは正しい。アントニオ・メネゼスは、絶対に私情を挟んだりはしない人だ。誰よりもシステムに忠実で自分に厳しい。
「だから、私は腕輪を外さないでって頼んだの。私はむしろここで、彼の側で働きたい。そう思った。でも、それから思ったのよ。私がここでずっと物欲しそうに見ていたら、彼にとって迷惑になるのかもしれないって。むしろいなくなってほしいのかなって。だから、あなたにとって私が出ていく方がいいなら、ここから去る、って言ったの」
「それで?」
「彼は、少しでも長く一緒に働きたいって」
マヌエラは、アントニオらしい選択だと思った。そして、ジョアナも。夫婦にはなれなくても、仕事を通してずっと一緒に居ようとしているのだろう。そんな人生もあるのかもしれない。マヌエラもまた、22と共に格子の向こうで多くの人とは違う人生を歩もうとしている。そうなった後も、自分の人生は続き、一歩一歩進んでいくことになるのだと思った。親友ジョアナと同じように。
【小説】Usurpador 簒奪者(8)太陽と影
ようやくタイトルになっている「簒奪者」が、本文に出てきました。カルルシュの大きなコンプレックス、彼を生涯苦しめた言葉です。才能がないのに上に立たざるを得ない者と、才能があるのに何一つすることを許されない者。たった数日の誕生の違いで道が分かれてしまったことが、本来ならばお互いを思いやって仲良く生きられた兄弟の関係を壊してしまうことになります。
マヌエラは、その目撃者であると同時に、二人が和解できなくなってしまった要因そのものになっていきます。
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Usurpador 簒奪者(8)太陽と影
その間に、22との近さほどではないものの、マヌエラはカルルシュとも親しい言葉を交わすようになっていた。始めは、単に法学に関するヒントを話すぐらいだったのが、天候の話や、彼女の家族の話、それに好きな食事の話など他愛もない話題についての雑談もするようになった。
よく叱責を受けて、項垂れている彼が、短い会話の後で僅かでもリラックスして笑顔を見せることを、マヌエラは嬉しく思っていた。
その朝もドン・ペドロは、カルルシュにレポートを突き返した。
「いいか。カーネーション革命が無血に終わり素晴らしい、などという文言は、単なる感想文に過ぎない。そんなことはどうでもいいのだ。肝心なのは、40年間続いた独裁体制が終焉に至った社会的背景だ。このレポートには、植民地戦争やソビエトやキューバからの独立支援について何も触れていないではないか。書き直すように」
項垂れて部屋に戻ったカルルシュは、いくつかの歴史書や百科事典を書斎に持ち込んだ。マヌエラが、掃除にやって来た時に、彼は書斎の机の上に何冊もの分厚い本を広げて、あちこちメモをとっていた。小さな文字で書かれたメモは散乱し、彼は、本をひっくり返しながら、書いたばかりのメモを探した。
「失礼します」
邪魔にならないように、小さな声で断ると、彼は驚いて立ち上がった。その時に一枚のメモが宙に浮き、それをとろうとした彼が反対に本にぶつかり、バタバタとあらゆるものが床に落ちた。百科事典、歴史書、レポート用紙、メモ用紙、その全てがごちゃごちゃに地面に伏せた。
マヌエラは、彼を助けるために近くに寄り、まずは貴重な本が傷んでないか確認しながら閉じて机に置いた。その間に彼は散乱した紙類を集めた。
「ごめんなさい、私が来なければ……」
彼はあわてて首を振り、レポート用紙やメモを机の上に置き、マヌエラの邪魔にならないように書斎から出た。
「いや。違う。僕こそ、申し訳ない。こんなに散らかしてしまうなんて……ここをきれいにしなくちゃいけないんだよね。どうぞ、終わらせてくれ」
彼女は、つとめて平静を保ち、手早く書斎の埃取りと拭き掃除を終わらせた。机の上のレポート用紙は、教師の入れたコメントで真っ赤になっており、ちらりと見えたメモ用紙の内容は、彼にドン・ペドロの叱責内容があまり頭に入っていないことを思わせる頼りない走り書きだった。
訊かれてもいないのに、何かを言ってはいけない。マヌエラは、見なかったことにして仕事を終え、書斎から出た。
「お待たせしてごめんなさい。終わったので、どうぞ」
彼は、もの言いたげな瞳で彼女を見た。
「革命……。かつて王国があって、独裁政治になって、それから、革命があった……。なのに、ここ竜のシステムはそのままだ。ここにも革命があればいいのに。……そうでなかったら、相応しくない者を排除してくれればいいのに」
マヌエラは、言葉に詰まった。プリンシペである彼が、やがて当主になる立場の人が、いうべきではない言葉だ。けれども、それを指摘して何になるだろう。彼自身がそれを誰よりもよくわかっている。ドラガォンのシステムには革命どころか、引退も譲位もない。彼は教育からも叱責からも逃れられない。そして、やがては教育などという生易しいシミュレーションではなく、現実の荒波に耐えなければならない立場にいる。心身共に弱く、覚悟も定まらない、俯きがちな青年が。
ため息をもらすと、彼は少し離れた所へ動き、小さな声でつぶやいた。
「僕のこと、みんながなんと呼んでいるか知っているか」
「いいえ」
「
「どうして、そんな……」
少なくともマヌエラは、誰かがそんな風に呼んだのを一度も聞いたことがなかった。
「僕の本当の父親は、『ガレリア・ド・パリ通りの館』にいるInfante321だ、彼が戯れに愛し、後に憎んだ女が僕の本当の母親だ。彼女と、母上、いやドイスの母親はほとんど同時に身籠り、ドイスの出産予定日の方が一ヶ月以上早かった。それなのに、僕の方が先に生まれた。本当のプリンシぺを押しのけてずる賢くこの地位を手に入れた」
「……でも、あなたはしようと思ってしたわけじゃないでしょう」
「もちろん。でも、父上は、我が子をインファンテにしてしまった憎むべき存在の僕を、長男として引き取らなければならなかったし、この僕に責任を持って教育をしなくてはならないんだ。それだけじゃない。口にしなくても誰もが思っている。ドイスの方がずっと当主になるにふさわしいって」
「そんな……」
「君だって思うだろう? 同じ頃に、同じ血の濃さで生まれてきたのに、彼は……そう、彼はまるで太陽みたいだ。本人そのものに力があって全てを惹きつけ輝いている。その存在を誰もが待ち望み、ありがたく思う。その一方で、僕ときたら……」
「あなたは、月なの?」
カルルシュは、首を振った。とても悲しそうに。
「いいや、僕は月じゃない。あんなに輝かしくて美しい存在じゃない。僕はきっと、月か、地球か、とにかく何かの影みたいなものだ。僕がおかしな所に立つせいで彼の姿が見えなくなる。それで、誰もがわかるんだ。ドイスは素晴らしい。『メウ・セニョール』と呼ばれて傅かれるのに相応しい、上に立つべき人間だって」
嫌みや恨みなどの混じっていない、純粋な言い方だった。他人事にも聞こえて、マヌエラは戸惑った。カルルシュは、彼女の言外の判断を感じたのか、とってつけたように笑顔を見せた。
「わかっているんだ。彼じゃなくて、僕こそあれこれできなくちゃダメな立場だってことは。でも、他に言いようがないんだ。彼は素晴らしい。頭脳や才能、それに容姿だけじゃなくて、人格も。この館にやって来て彼のことを知れば、誰でも一週間もかからずにそれをわかる。僕は、そんな彼を20年も知っているんだ」
「双子のように一緒に育ったんですよね」
マヌエラは、慎重に言葉を選んだ。彼は、少し悲しそうに笑った。
「そう、空間と時間的にはね。いつも一緒だった。幼い頃は、おなじおもちゃで遊び、同じ絵本を読み、一緒に絵を描いた。あの頃から、失敗をするのはいつも僕で、でも、彼はいつも、叱られる時でさえ一緒にいてくれた。ピアノだって……」
「ピアノ?」
「ああ。最初にピアノを習ったのは僕の方だったんだ。22が、ヴァイオリンを習い始めていて、僕も何かやりたいって。彼が、あっという間にヴァイオリンを弾けるようになったので、楽器なんて簡単だと思ったんだろうな。でも、全然上手く弾けない。先生が苛々するくらいに。1人で練習していると、見かねた22が一緒につきあってくれた。そうしたら、あっという間に彼のピアノが上手になってしまったんだ」
それでも、カルルシュは、努力を続ければいずれは自分にも素晴らしい演奏ができると思い、楽譜を譜面台に広げて新しい曲に挑もうとした。隣に立っていた22は、初めて見た譜面にもかかわらず、メロディを口ずさんだ。
「どうしてそんなことができるんだって訊いたんだ。五線譜の上にまばらに広がる音符は真っ黒な模様で、僕にはメロディは全然浮かばなかったから。そしたら、見ればそのまま音が浮かぶっていうんだ。僕は、右手と左手と同時にかって訊き返した。そしたらもちろんって言った。そして、持っている交響曲の譜面を見せてくれて、オーケストラの全てのパートが、譜面を見れば聴こえるって……」
マヌエラは驚いた。指揮者や作曲者が、そういうことができるのは知っていたけれど、楽器を習い始めたばかりの少年にそんなことができるとは思いもしなかったからだ。
カルルシュは、力なく笑った。
「それで、さすがの僕も才能の違いを痛感してね。音楽は諦めた……いや、音楽も……かな」
こんなに何もかも差をつけられてしまうことに、彼は怒りも嫉妬もおぼえないのだろうか。マヌエラは複雑な想いでカルルシュを見た。彼は、思い出に浸るように考えていた。
「彼に、何一つ敵わないことは、悲しくなかった。それは僕にとって当然のことだったんだ。母上が……」
「お母様?」
8年ほど前に館から去ったと聞かされたかのドンナ・ルシアのことだろう。
「いつも言っていた。ドイスはお前なんかとは違うと。記憶にある最初から、いつも。僕が何か意に染まぬことをしてしまうと、母上はとてもきつく叱った。罰だと言ってたくさんの書き取りをさせられたり、おやつを禁止されたりした。でも、つらくて泣いていると、いつも慰めてくれて、おやつを分けてくれたのはドイスだった」
ようやく彼女には、納得がいった。カルルシュにとって、22は妬むべきライバルではなくて、憧れ頼るべき唯一の存在だったのだ。
「ごめん。こんな事を言っても君を困らせるだけだよね。忘れてくれ」
マヌエラは、悲しみでいっぱいになって、カルルシュのそばに近づいた。
「ねえ。みんなじゃないわ。少なくとも私は、あなたがどれだけ努力をして、苦しんでいるか、わかっている。努力しても結果が出なくて辛い氣持ちも、わかっているわ」
それを聞いて、カルルシュは顔を上げた。マヌエラの同情の浮かんだ顔をじっと見つめて、それから視線を落とした。
「ありがとう。ドイス以外で、そんな風に言ってくれたのは君1人だ」
赤みの増した彼の頬を彼女は見つめた。彼は、しばらく戸惑っていたが、やがて言いにくそうに口を開いた。
「マヌエラ……、あの、もし、僕が……君と……」
そこまで言われて、彼女は彼が愛を告白しようとしていることを察した。彼にまで想われていることに狼狽えた。22との距離を縮めたときのような、単純な嬉しさとは全く違っていた。彼女は、視線を落とした。
断ったら、もし自分が22と生きることを決めたこと、そして間もなくそれが現実となることを告げたら、彼はもっと傷つくだろうととっさに思った。だから、言わないでほしいと願った。
常に貶められてきたカルルシュはそれを敏感に感じ取ったのであろう。ひどく傷ついた顔をして口ごもった。
「ごめん。なんでもない。忘れてくれ」
マヌエラは苦しくて泣きたくなった。心が引き裂かれるようだった。
【小説】Usurpador 簒奪者(9)宣告
さて、このストーリーのメインとなる事件を語る回です。「そんなアホなことで……」と呆れるかもしれませんが、カルルシュの「うっかり」で何人かの運命が変わってしまいました。
サブタイトルになっている「宣告」について、前作未読の方のために少しだけ説明しますが、この作品群に出てくる《星のある子供たち》といわれる腕輪を填めた人々には、特別な掟があり、そのうちの一つに「《星のある子供たち》である男は、まだ誰にも選ばれていない《星のある子供たち》の女に、立会人の前で正式の文言による宣告をすることで、自分と一緒になることを強制できる」というものがあるのです。
前作の主人公23がヒロインであるマイアに発動したのもその正式な宣告でした。これは非人間的なので、現代では滅多に起こらないことになっています。ところが、この親子ときたら2代続けて宣告することになってしまったのでした。23は他に方法がなかったとは言え、それをしてしまったことでめっちゃ落ち込んでいました。なんせ母親に起こったことは、ある意味で、この一族のトラウマになっていましたし……。
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Usurpador 簒奪者(9)宣告
息苦しさに目を覚ました。暗闇の中に白い顔が浮かび上がった。眠っていた彼の上に、重みをかけてのしかかっていた。目を血走らせ、眉を吊り上げた、その凄惨な顔の女はドンナ・ルシアだった。同時に、その女の腕が自分の首にかかって締め付けているのもわかった。声は出ず、脳の周りにはち切れそうになった血管が集まり痛いほどに膨らんでいるのもどうする事も出来なかった。
なぜ、それほどまでに、僕が憎いのですか、母上。霞んでいく瞳、苦しくて恐ろしくて、抵抗する事も出来なかった。
カルルシュは、目を覚ました。13歳だったあの夜の夢を見た理由がわかった。首に痛みが残っている。脳の周りの痛みも、頭痛として残っている。ベッドの上にいて、サントス医師の顔が見えた。
「ご加減はいかがですか。メウ・セニョール」
「……死に損ねたのか」
「マヌエラが、すぐにあなた様を支えてくれたのですよ。そうでなければ、危ない所でした」
サントス医師の視線を追って顔を僅かに動かすと、ソファでぐったりとして顔を覆っているマヌエラが見えた。薄れていく意識の向こうで、彼女の悲鳴を聴いたのは間違いではなかったのだと思った。
22がマヌエラと愛し合っていることは、もはや公然の秘密だった。誰もがその日は近いと感じていた。彼らが当主ドン・ペドロに一緒になる許しを請い、インファンテ322の居住区がもはや独房ではなく、共に格子の向こうで暮らすことを望んだマヌエラとの愛の巣になる瞬間。
そして、事実、彼は昨日の午餐が終わったときに、立ち去ろうとする父親ドン・ペドロを呼び止めたのだ。彼は、マヌエラに近づきその手を優しく取ると、当主に許しを請うために近づいた。
カルルシュにとっては、死の宣告にも等しい瞬間だった。ドイスに、青い星を持つ男に選ばれたその瞬間から、赤い星を持つマヌエラは永久に、やはり青い星を持つカルルシュには手の届かないところへと行く。どれほど愛しても、事態が変わろうとも、絶対に覆すことの出来ない掟だ。
もう2度と、夢を見る事も許されない。自分が求愛して受け入れてもらう夢も、それから同じように繰り返した彼女に宣告で強制する夢も。夜の暗闇の中で何度も繰り返した虚しい宣告の言葉ももう使うチャンスがなくなるのだ。
「《碧い星を5つ持つ竜の直系たる者が命ずる。紅い星2つを持つ娘、マヌエラ・サントスよ、余のもとに来たりて竜の血脈を繋げ》」
いつものひとり言のつもりだった。だが、彼は、3人が信じられないと言う顔をしながらこちらを眺めているのを見た。いったいどうしたんだろう。いつも僕の事なんか誰も見ないのに。
「嘘だろう……?」
22の顔が激しい憎悪に歪んだ。何かを続けて言おうとしているのを、彼の父親が制止した。それから、息子に負けないくらい憎しみのこもった目をしながら、低く妙に静かな声で言った。
「《碧い星を5つ持つ竜の直系たる余は、碧い星を5つ持つドン・カルルシュ、そなたの命令を承認する。竜の一族の義務を遂行せよ。紅い星2つを持つ娘、マヌエラ・サントスよ、ドン・カルルシュに従え。そなたには1年の猶予が与えられた》」
その時にカルルシュは、ようやく自分が本当に宣告をしてしまっていた事に氣がついた。あたりは白く遠ざかり、騒ぎが何も聞こえなくなって周りが回っているようだった。当のマヌエラの絶望に満ちた眼も、他の召使いたちの驚愕に満ちた顔も、彼に飛びかかろうとする22をアントニオが必死で止める姿も、まるで現実ではないように存在していた。
「なぜなんだ!」
22は暴れながら叫んでいた。
「まだ足りないのか! 名前も、人生も、夢まで取り上げて、それでもまだ足りないのか!」
カルルシュは、その言葉で我に返った。ドン・ペドロの合図で、ソアレスはマヌエラの腕を取って食堂から連れ出そうとした。それを見て22は絶叫した。
「離せ、アントニオ! 父上! あなたには心というものがないのか! マヌエラ、マヌエラ!」
「ドイス……」
マヌエラも泣きながら、無理矢理に格子の向こうへ押し込められる22に向かって手を伸ばした。
「父上……。私はなんてことを……」
カルルシュは椅子に崩れ落ちるように座り込むと、テーブルに突っ伏した。
ペドロはその息子を厳しく見つめた。
「撤回はできない。お前の義務を遂行しろ」
もっと早くに死んでいれば、あの時、彼を殺めようとした母親、いや、彼が母親だと信じていた女性が失敗していなければよかったのにと、彼は瞳を閉じた。
我が子である22をインファンテの宿命から救い出すために、彼女は手を穢そうと決心した。だが、その行為は、彼女の夫であるドン・ペドロに氣づかれてしまい、完遂する事が出来なかった。そして、彼は自分の妻を退けなければならなかった。プリンシペであるカルルシュに手を掛けようとした、ドラガォンで考えられる限り最も重い罪を犯した女は、当主夫人でありながら許されるはずはなかった。
僕は、ドイスからすべてを奪ったのだ。名前も、立場も、未来も、母親も、そして愛する女まで。
ドイスが大切だった。つらい館での子供時代で、ドイスだけが僕の光だった。それなのに、僕はドイスの人生と心を殺してしまった。ほんのわずかの不注意で、するはずではなかった宣告をしてしまった。
マヌエラは、22のとは別の居住区に閉じ込められた。そして、1年経つか、妊娠するか、それともカルルシュと正式に結婚するまでそこから出ることを許されなくなった。彼もまた、その居住区で寝泊まりすることになり、夜になるとそこへと案内された。顔を覆って泣いているマヌエラの横を通った。
彼は、短く遺書をしたためた。自分が死ねば、ドイスは本来手にすべきだったものを全て取り戻すことが出来る。ドラガォンも相応しい跡継ぎの帰還を喜ぶだろうと。
それから、バスルームへ向かうとタオルをシャワーヘッド掛けに結びつけ、小さな椅子の上に立つと輪に首を通した。怖かった。目をつぶって勢いをつけて椅子を倒した。苦しくて痛くて激しく後悔したが、すぐに意識がなくなった。
そして、あの悪夢の後、目が覚めた。絶望の中にいながらも、あの音を聞いて駆けつけたマヌエラが彼の命を救ってくれたのだ。彼は、瞳を閉じた。
マヌエラがいてくれたら、人生が変わると、1人ではなくなると、思っていた。そんな事はすべきじゃなかった。1人でいるべきだったんだ。たぶん、みんなの幸せのためには、僕はもともと生まれてくるべきではなかった。なのに、どうして死ぬ事も出来ないんだろう。
【小説】Usurpador 簒奪者(10)決意
「うっかり」のせいで、自分の意思とは関係なくカルルシュの相手になってしまったマヌエラ。もともとは強制だった現実を、彼女は自分の意思で選び取ることになります。
現実に同じことがあるとして、たった2日でコロッと相手を変えるかと思う方があるかもしれませんね。私が思うに、マヌエラは始めから揺れていたのだと思います。人生には、あるものを得るために他方はどうしても捨てなくてはいけない場面があります。宣告は、どちらを選んでも後悔しただろう彼女に、一方の道に迷いなく進ませるための、大義名分を与えたのかもしれません。
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Usurpador 簒奪者(10)決意
宣告されたマヌエラが、掟に従い居住区に閉じ込められて2晩が過ぎた。はじめの晩にカルルシュが自死を試みた。一命は取り留めたものの、常に医師や召使いたちが行き来し続けていた。マヌエラは、特別に運び込んでもらった簡易寝台で夜を明かし、医師たちの指示に従い、弱っているカルルシュの世話をしてすごした。
鎮静剤によって眠りつづける彼を見て、マヌエラは複雑な想いに囚われていた。愛する男との未来を奪った彼への怒りや憎しみがないと言ったら嘘になる。けれども、彼が後悔し償いのために迷わず命を差し出したことは、彼女の怒りや悲しみの焰に大量の雨を降らせてわずかな熾り火にまで鎮火させてしまっていた。
それに、マヌエラは心底疲れていた。宣告から自殺騒ぎが立て続けに起き、居住区には常に誰かがバタバタと出入りしていた。本来ならば、宣告で意思に反した決定を強制された彼女を、館中の人々が氣を遣うはずだろうが、緊急事態でそのことは忘れ去られていた。ここから出ることの許されない彼女のために、朝昼晩の食事が運び込まれるが、それをゆっくり食べるような状況ではなかった。そもそも食欲もほとんどなかった。
厚い壁に遮られた隣の居住区には、22がいるはずだったが、その兆しは何も感じられなかった。彼が大きな声を出して抵抗したのは、彼女がここに閉じ込められるまでの事だった。その後に彼女は、常に誰かが忙しく出入りしている居住区の2階の出入り口には行かなかったし、そうでもしなければやはり居住区に閉じ込められている22と話すことは不可能だった。
3階の小さな部屋で用意された食事を終えると、彼女はカルルシュが横たわる寝室に戻り、ベッドの近くの小さな椅子に座った。その椅子は医師たちの邪魔にならないように、かなり後ろの壁際にあり、そこで彼女は痛み止めで朦朧としたカルルシュの顔を眺めていた。
やってくる召使いたち、監視人たち、そしてサントス医師や看護師たちは、これまでと同じようにカルルシュに丁寧に言葉をかけ、世話をしていたが、誰もがぎこちなかった。
マヌエラは、そのぎこちなさをよく知っていた。これまでも、ここまであからさまではなかったが、誰もがカルルシュに対してある種の距離を持って接していた。どこかに「ここにいるべきではない相手」に仕方なく接している風情があった。マヌエラは、カルルシュがずつと感じてきた疎外感を、この2日ほど強く身をもって感じたことはなかった。たった2日でも、直接自分とは関係がないにもかかわらずこれほどまでに居たたまれない立場に、彼は当事者として20年も立っていたのだ。
そして、サントス医師の指示で、その日彼はベッドの上に起き上がり午後を過ごした。うつむきサントス医師の言葉を聞いていたが、「何かありましたら、マヌエラに伝えてください」という言葉で、はっとした。壁際に疲れた表情で座っている彼女を見つけ、申し訳なさげに項垂れた。
彼が起き上がっていることを聞いたのだろうか、騒動以来はじめて当主ドン・ペドロが居住区に入ってきて、いつもの威圧的な佇まいでカルルシュを見下ろした。その眼差しには、いつもの厳しさだけでなく、あからさまな憎しみもこもっていた。当主が、怒りを収めていないどころか、2日前よりももっと腹を立てていることがマヌエラにも伝わってきた。
「22にお前の遺書のことを話してきた」
ドン・ペドロは、カルルシュを冷たく見つめ言い放った。マヌエラは震えながら立った。
カルルシュが残した遺書を、彼女は読んでいなかった。首を吊ろうとした彼を支えて助けを呼び、そのまま大騒ぎの中で震えている間に、その遺書は然るべき相手の手に渡ったらしい。この2日の間に、伝え聞く情報でおおよその内容は耳に入っていた。彼は命と引き換えに、彼が望まずに奪ってしまった全てを22に返したかったのだ。
だが、その遺書すらも、ドン・ペドロをひどく怒らせているらしい。
「22はこう言った。『全てなんてありえない。ドラガォンの掟では、私は2度とマヌエラに触れられない。あの男が死んで、私がプリンシペに代わったとしても、私が血脈を繋ぐなんて期待されては困ります。私はあなたたちドラガォンには絶対に協力しない。血脈を繋ぎたければあなたたちでなんとかするんですね』」
カルルシュは黙っていた。苛立ちを募らせてペドロは吐き捨てた。
「いいか。お前は自分の引き起こしたことの責任をとるんだ。その女でも、他の女でもかまわん。必要なら医学の手を借りてもいい。血脈を繋げ。他に何もできなくても、そのくらいはできるだろう。それさえ済ませれば、死ぬなりなんなり、好きにするがいい」
なんてひどい……。マヌエラは、ドン・ペドロの非情さに震えた。自分を道具扱いされたことよりも、ただひたすらカルルシュへの彼の冷たい態度にショックを受けた。
マヌエラはカルルシュの顔を見た。青ざめて、その瞳にはいっぱいの涙がたまっていたが、育ての父親が腹立ち紛れに部屋の扉を叩き付けるように閉めて出て行っても、反論もせず、泣きわめくこともなく下唇をかみしめていた。
ゆっくりと身を起こすと、まだ立ち竦んだまま彼を見ているマヌエラの視線から身を隠すように背を向けた。
「嘲笑ってくれ」
彼女は、言葉を見つけられなかった。瞳を閉じて、わき上がってくる悲しみと憐憫を持て余した。
「長く生き過ぎたんだ。こんなことをひきおこす前に、出来損ないはさっさと死んでいればよかったんだ。謝罪なんか何の役にもたたないのはわかっている。だから、もし、それで君の氣が済むなら、僕が死ぬまで憎んで、罵倒して、嘲笑ってくれ」
肩を落として震えるその姿は、マヌエラの心を締め付けた。
カルルシュは、このシステムの被害者だ。彼は、マヌエラと22にだけはひどいことをしたかもしれないが、それ以外の全ては、彼に何の責任もない。彼を追い詰め、命を差し出そうとしても許さずに責め立てるドン・ペドロと周りの人々は、彼を苦しめるドラガォンのシステムそのものだ。マヌエラに将来の職業を諦めさせ、22の才能を腐らせる巨大で非情なシステム。いま目の前で震えているカルルシュは、権力に潰されかけている弱者だ。法の下の正義を学びたかった彼女には、それは許せることではなかった。いや、それに抵抗しないことで、自分も加害側に加担してしまうことが許せなかった。
彼女は彼の横にそっと腰かけると、その手をとって自分の唇の所に導いた。彼は訝しげに涙に濡れた瞳を向けた。
マヌエラは静かに語りかけた。
「そんなことはしないわ、カルルシュ。あなたは1人じゃない。私があなたの味方になるから」
「マヌエラ?」
「あなたの運命の重みも、ドイスやドン・ペドロから受ける憎しみも、私と分け合いましょう」
彼は戸惑って、言葉を飲み込んだ。マヌエラは彼の喉に巻かれた包帯にそっと手をやり、哀れみに満ちた優しさでその溝をなぞった。
「どうして……。憎んでも憎みきれないだろう?」
「憎んでも、もう私たちは他の道には行けないのよ。憎みながらここににいても、お互いにつらいだけだわ。それに、こんなに追いつめられたあなたを、高みの見物をしながら嘲笑うなんてどうしてできるの。先に生まれてきたのも、体が弱いのも、あなたのせいじゃないのに。どうしてあなただけが全てを背負わなくてはならないの。どうしてあなただけが、皆に見捨てられなくてはならないの。そんなの悲しすぎるでしょう」
「マヌエラ……僕を哀れんでくれるのか」
マヌエラは微笑んで彼をそっと抱きしめた。彼は堪えきれず、声を上げて泣き出した。
「負けずに生きて。つらい時は、一緒に泣きましょう。私に助けられることは、なんでもするわ。叱られる時にも、一緒にいてあげるから」
カルルシュは、泣きながらマヌエラを抱きしめた。
彼女は心の中でつぶやいた。ドイス、許して。私はこの人の力になりたい。
【小説】Usurpador 簒奪者(11)燃えて消えゆく想い
また大きく時が動いて、マヌエラは我が子アルフォンソの病床にいます。全ての目撃者であるジョアナは、マヌエラたちと自分たちの運命が変わった若かりし日々のことについて記憶をたどります。
30年前に起こったことの物語はこれでおしまいですが、この話の因縁が第1作『Infante 323 黄金の枷 』の直接の続編でもある第3作『Filigrana 金細工の心』に引き継がれます。
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Usurpador 簒奪者(11)燃えて消えゆく想い
濃紺のゴブラン織りカーテンを締め切ってあるせいで、部屋はことさら暗く思われた。横たわる当主の具合が悪く、サントス医師は、しばらく泊まり込むことになるだろう。すぐ隣の部屋の準備を済ませた後、ジョアナは静かに戻り、控えめに報告を済ませた。
当主ドン・アルフォンソの顔色はいつもに増して悪く、食事のために起き上がることも出来なかった。それでも、彼はジョアナに礼を言うことを忘れなかった。その声は、聞き取れないほどにわずかなものだったが、彼が生まれた時からこの館で働き見守り続けてきた彼女にはよくわかった。
当主は、ベッドの脇に座る母親ドンナ・マヌエラに微笑みかけて、話の続きに戻った。
「父上が亡くなった日の事を思いだすのですよ」
マヌエラは、瞳を閉じた。ジョアナも、その日のことはよく憶えている。わずか5年ほど前のことだ。現当主と同じく身体の弱かった前当主は、同じように暗くカーテンを締め切った部屋でこの世を去った。
周りに揃った家族たち1人1人に、思いやりのこもった声をかけていた臨終のカルルシュは、しかし、意識が混濁すると、ずっと口にしなかった想いを漏らした。
「ドイス……。ドイス……。おもちゃも、絵本も……全部あげる……。だから、もう1度、笑ってよ……」
その心の叫びは、臨終に立ち会うことを拒んだ22には伝わらなかった。
カルルシュを支えて生きることを選び、結婚し、4人の子供の母親となったマヌエラを、22は裏切り者と罵倒し、2度と目を合わせようとしなかった。17年後、23が居住区に遷るのと入れ違いに『ボアヴィスタ通りの館』に遷されてからは、ジョアナが22と顔を合わせることはほとんどなくなった。
5年前、臨終のカルルシュのうわごとを耳にしたマヌエラは、いつものように娘のアントニアに伝言を頼むのではなく自ら『ボアヴィスタ通りの館』へ出かけ、22にこの部屋にきてくれるように懇願した。だが、彼女は虚しく1人で戻ってきた。
溝はあまりにも深く、時は無力だった。双子のように仲良く育った2人の少年は、もう2度とかつてように笑い合うことはなかった。
マヌエラは、その時のことを思い出したのだろう、聞き取れないほどの微かな声で言った。
「かわいそうなドイス……。かわいそうなカルルシュ」
それから我が子の頬にそっと手を触れて続けた。
「それに、かわいそうなアルフォンソ、かわいそうなクリスティーナ……」
ジョアナは、はっとして心を現実に戻した。非情なドラガォンの掟に遮られ、愛し合った2人が結ばれることの出来ない例は、22とマヌエラだけではなかった。
アルフォンソは間もなくくるであろう死を覚悟し、愛し合った娘と結婚しなかった。やがて代わりに当主アルフォンソとして生きることになる弟23に、決して触れることの出来ない妻を残さないように。新しい当主が自ら選んだ妻との間にドラガォンの《5つの青い星を持つ子》を残すこと。それはこの部屋にいる全て、ジョアナ自身を含めて、掟によって黄金の枷に囚われた《星のある子供たち》が、自らの想いを諦めてもサポートしなくてならないドラガォンの悲願だ。
「母上。私は幸せでしたよ。クリスティーナも、きっとこれから幸せをつかんでくれることでしょう」
当主は肩で苦しそうに息をしながらも、穏やかな口調で微笑みかけた。
「アルフォンソ」
マヌエラの背中を、ジョアナは見つめた。肩が震えていたが、彼女は取り乱すようなことはしなかった。ジョアナもまた、黙ってその場に立ちすくんだ。彼女の覚悟も、目の前の間もなくこの世を去ろうとしている若い当主がこの世に生まれたあの日にもう出来たのだ。
「ジョアナ。これはなんだ」
アントニオの手には、ジョアナの日記があった。昨晩、マヌエラの出産を控室で待ちながら書いていたのを、ドタバタでつい置きっぱなしにしてしまった。氣づいて朝一番で取りに来たが、その時にはもうなかったのだ。
「読んだの?」
「ああ。誰のものだかわからなかったからね。最初の方、誰が書いたかわかるまで読ませてもらった」
「そう」
受け取ろうと手を伸ばしたジョアナに対し、アントニオは首を振った。
「申し訳ないが、これをそのまま返すわけにはいかない」
「どうして?」
「君は誓約を忘れたのか」
ジョアナは首を傾げた。誓約が何かぐらいはわかっている。ここで起こったことを、外の人間に話したことは1度もないし、この日記を外の人間に見せるつもりも全くなかった。
「誓約を破ったりしていないわ。これは純粋な日記よ。個人的なものだし、いけないの?」
アントニオは頷いた。
「君が、これをよその人間に見せたりするような人でないことはよくわかっている。でも、君はたった数時間でもこれのことを忘れていたね。同じことが君の家で起こるかもしれない。それが起こってしまってからでは遅いんだ」
「持って帰ったりしないと言っても?」
「この館の中で存在を忘れることも許されないんだ。君は、この中にインファンテの存在について触れている。この記録を後世に残すことは許されない。たとえ、この館の中であっても」
アントニオが、どこまで読んだかジョアナにはわからなかった。彼女の彼に対する想い、フェルナンドの死、マヌエラをめぐるカルルシュとドイスの葛藤、すべてを次の世代の《星のある子供たち》と《監視人たち》にも知られずに置かなくてはならないことは、ジョアナにもわかった。
彼女は、この館の中で時間を過ごし、多くを目撃し、体験し、大切なものを得て、そして別の大切なものを失った。彼女は歳を重ねたのだ。それは記録してはならないものだった。アントニオは、いつものように落ち着いた低い声で言った。
「すべてを君の心の中に留めておくがいい。それは、誰にも禁じることはできない」
ジョアナは頷いた。薪の燃えている暖炉に視線を移した。
「燃やしてちょうだい」
アントニオも頷くと、彼女の手をその日記に添えさせた。彼女は力を込めて、それを火の中へと放り込む彼の手助けをした。
(初出:2020年6月 書き下ろし)