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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012

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Posted by 八少女 夕

Filigrana 金細工の心 あらすじと登場人物

この作品は、ポルトガルのポルトをモデルにした街のとある館を舞台に進む小説群『黄金の枷』シリーズの第3作です。

【あらすじ】
 黄金の腕輪をはめた一族ドラガォン。当主の娘インファンタとして生まれたアントニアは、別宅に共に住む叔父との平穏な暮らしに波風が立ちはじめていることを感じる。

【登場人物】(年齢と説明は第1話時点でのもの)
◆ドンナ・アントニア(28歳)
 本作品のヒロイン。『ボアヴィスタ通りの館』に住む美貌の貴婦人。漆黒のまっすぐな長髪で印象的な水色の瞳を持つ。

◆Infante 322 [22][ドイス](50歳)
 本作品の主人公。『ドラガォンの館』の先代当主ドン・カルルシュの弟(実は従弟)でアントニアの叔父。『ボアヴィスタ通りの館』に軟禁状態となっている。雄鶏の形をした民芸品に彩色をする職人でもある。明るい茶色の髪に白髪が交じりだしている。海のような青い瞳。ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロを弾くことができる。

◆ライサ・モタ(26歳)
 『ドラガォンの館』に少なくとも2年ほど前まで召使いとして勤めていたが、現在は腕輪を外されて実家に戻されている。長い金髪と緑の瞳。優しく氣が弱い。かなり目立つ美人。若いころのドンナ・マヌエラと酷似している。

◆フランシスコ・ピニェイロ[チコ] (31歳)
 豪華客船で働くクラリネット奏者。縮れた短い黒髪と黒い瞳。

◆ドンナ・マヌエラ(51歳)
 『ドラガォンの館』の女主人。前当主ドン・カルルシュの妻で、ドン・アルフォンソやアントニアたちの母親。ブルネットに近い金髪にグレーの瞳が美しい貴婦人。

◆ドン・アルフォンソ = Infante 323 [23][トレース] (27歳)
 『ドラガォンの館』で格子の中に閉じこめられていたが、兄のアルフォンソの死に伴い、彼に代わって『ドラガォンの館』の当主となった。靴職人でもある。黒髪の巻き毛と濃茶の瞳を持つ。幼少期の脊椎港湾症により背が丸い。

◆マイア・フェレイラ(23歳)
 ドン・アルフォンソ(もと23)の婚約者。茶色くカールした長い髪。

◆ドン・アルフォンソ(享年29歳)
 重い心臓病で亡くなった『ドラガォンの館』のもと当主。アントニアたちの兄。

◆Infante 324 [24][クワトロ](25歳)
 金髪碧眼で背が高い美青年。『ドラガォンの館』で「ご主人様(meu senhor)」という呼びかけも含め、当主ドン・アルフォンソと全てにおいて同じ扱いを受けているが、常時鉄格子の向こうに閉じこめられている。口数が多くキザで芝居がかった言動をする。非常な洒落者。

◆アントニオ・メネゼス(55歳)
 『ドラガォンの館』の執事で、使用人を管理する。厳しく『ドラガォンの館』の掟に忠実。

◆ジョアナ・ダ・シルヴァ(50歳)
 『ドラガォンの館』の召使いの中で最年長であり、召使いの長でもある女性。厳しいが暖かい目で若い召使いたちをまとめる。

◆ペドロ・ソアレス
 《監視人たち》の中枢組織に属する青年。メネゼスの従兄弟。

◆マリア・モタ(25歳)
 ライサの血のつながらない妹。ブルネットが所々混じる金髪。茶色い瞳。

◆『ボアヴィスタ通りの館』の使用人
 ディニス・モラエス(34歳) - 《監視人たち》の一族出身
 チアゴ・マトス(24歳)
 シンチア・ロドリゲス(31歳)
 ルシア・ゴンサルヴィス(25歳)
 ドロレス・トラード(38歳) - 料理人

◆『ドラガォンの館』の使用人
アマリア・コスタ(35歳)
マティルダ・コエロ=メンデス(26歳)
ミゲル・メンデス=コエロ(29歳)
ジョアン・マルチェネイロ(25歳)
ホセ・ルイス・ペレイラ(28歳)
フィリペ・バプティスタ(32歳)
クラウディオ・ダ・ガマ(46歳) - 料理人
アンドレ・ブラス(37歳) - 料理人
マリオ・カヴァコ(39歳) - 運転手


【用語解説】
◆Filigrana(フィリグラーナ)
 ポルトガルの伝統工芸品で、非常に細い金銀の針金や小玉を使用して細工された貴金属品。様々な形状があるが純金製でハートの形をしたものが有名。聖遺物箱の装飾に用いられたり、民族衣装の装飾にもされる。ポルトガルでは娘の嫁入り道具として時間をかけてフィリグラーナを買い集めるという。

◆Infante
 スペイン語やポルトガル語で国王の長子(Príncipe)以外の男子をさす言葉。日本語では「王子」または「親王」と訳される。この作品では『ドラガォンの館』に幽閉状態になっている(または、幽閉状態になっていた)男性のこと。命名されることなく通番で呼ばれる。

◆黄金の腕輪
 この作品に出てくる登場人物の多くが左手首に嵌めている腕輪。本人には外すことができない。男性の付けている腕輪には青い石が、女性のものには赤い石がついている。その石の数は持ち主によって違う。ドン・アルフォンソは五つ、22と24及びアントニアは4つ、マイアは1つ。腕輪を付けている人間は《星のある子供たち》(Os Portadores da Estrela)と総称される。

◆《監視人たち》(Os Observadores)
 Pの街で普通に暮らしているが、《星のある子供たち》を監視して報告いる人たち。中枢組織があり、《星のある子供たち》が起こした問題があれば解決し修正している。

◆モデルとなった場所について
 作品のモデルはポルトガルのポルトとその対岸のガイア、ドウロ河である。それぞれ作品上ではPの街、Gの街、D河というように表記されている。また「ドラガォン(Dragãon)」はポルトガル語で竜の意味だが、ポルト市の象徴である。この作品は私によるフィクションで、現実のポルト市には『ドラガォンの館』も黄金の腕輪を付けられた一族も存在しないため、あえて頭文字で表記することにした。

この作品はフィクションです。実在の街、人物などとは関係ありません。

【プロモーション動画】

使用環境によって、何回か再生ボタンを押すか、全画面にしないと再生できない場合があるようです。その場合はこちら




【関連作品】
「Infante 323 黄金の枷」『Infante 323 黄金の枷 』をはじめから読む
あらすじと登場人物
『Usurpador 簒奪者』を読む『Usurpador 簒奪者』をはじめから読む
あらすじと登場人物
『黄金の枷』外伝

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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(1)新しい腕輪

今日から『Filigrana 金細工の心』の連載を開始します。本当は、123456Hitのリクエストをすべて発表してからと思っていたのですが、大人の事情で(単に書き終わらなかっただけ)こちらを先に上げます。

第2作『Usurpador 簒奪者』は主に30年ほど前の事情を取りあげていましたが、この作品は、第1作『Infante 323 黄金の枷 』の直接の続編という位置づけです。ただし、前作のヒロインだったマイアは、今回の記述を最後にヒロインの座を明け渡し、表舞台から引っ込みます。最後なので、サービス(誰への?)で、沐浴シーンです(笑)



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(1)新しい腕輪

 その夜、23の髪を洗っている時にマイアがふざけて突然腕を出した。23はとっさにそれをよけて脇にどいた。バスタブに落ちそうになったマイアを支えようとして、結果として23は大量の湯を跳ねさせてしまい、服を着たままのマイアはびしょ濡れになった。2人は顔を合わせて愉快に笑った。
「着替えてくるね」

 23は泡だらけの髪を指して「このまま?」と訊いた。
「だって、このままじゃ風邪引いちゃう」
マイアが重くまとわりつく服を見せると、23はマイアの腕を引っ張った。
「お前も一緒に入ればいいじゃないか」

 マイアは顔を真っ赤にして「えっ」と言った。彼にはマイアが今さら恥ずかしがる理由が全くわからないようだった。最終的に彼女も23のいう事に理を見出して、「後ろを向いていてね」と念を押してから、濡れた服を脱いで広いバスタブの23の横にそっと滑り込んだ。

「お風呂、2人で入るの、はじめてだね」
マイアがいうと、彼は彼女の肩に腕をまわしてそっと顔を近づけてきた。
「そういえばそうか」

 いつもよりずっと長くなってしまった入浴を終えて、その後、びしょびしょになっていた浴槽の周りを2人で笑いながらピカピカにしてから、ベッドに横になったのは11時近かった。

 23の胸にもたれかかるように眠っていたマイアは、彼が身を起こすのを感じて目を覚ました。
「どうしたの。私、重かった?」と目をこすりながら訊いた。

 23はマイアの唇に人差し指を置いて、それから部屋のずっと先にあるドアに向けて声を掛けた。
「何があった」

 するとドアの向こうからメネゼスの声がした。
「このような時間に誠に申しわけございません、メウ・セニョール。大変恐れ入りますが、至急お越しいただきたいのです」

「すぐに支度するので、待ってくれ」
そう言うと、23はベッドから出ると服を着て、ドアの方に向かった。途中で引き返してくるとマイアに言った。
「待たずに寝ていていい。遅くなるかもしれないから」

 それから耳に口を近づけてメネゼスに聞こえないように言った。
「寝間着は着ておいた方がいいぞ」

 マイアは真っ赤になって頷いた。23が出て行き、2人の足跡が階下へと消えていってから、マイアは急いで寝間着を着た。それからシーツをかぶりながら考えた。こんな時間にどうしたんだろう。今までこんなこと1度もなかったのに。窓の鉄格子から月の光が射し込んでいた。寝ていいと言われたけれど氣になるな。彼女は寝返りを打った。

 それでも、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。目が覚めたのは、階段を上がってくる2人の足音を聞いたからだ。
「朝、またお迎えに参ります」
「お前は何時に起きるんだ?」
「いつも通り5時に」
「では、6時に起こしにきてくれ」
「かしこまりました、メウ・セニョール」

「それから、朝一番で24とアントニアに知らせるように」
「かしこまりました」
「クリスティーナはしばらく業務から外してやってくれ。必要ならマイアに手伝いを」
「かしこまりました。朝、ミゲルに連絡をしてマティルダにも手伝いにきてもらうように手配いたします」
「そうしてくれ」
「おやすみなさいませ、メウ・セニョール」

 ドアが開き、23がしっかりした足取りで入ってきた。マイアは23の側のサイドテーブルの電灯をつけた。時計の文字盤が見えた。針は2時半を指していた。
「どうしたの」

 23は口を一文字に閉じたまま、サイドテーブルに鍵の束を置いた。マイアはひどく驚いた。彼が鍵を持つことを許されたことはなかったから。このような鍵の束をメネゼスがいつも使っていた。

 不安そうに見上げるマイアをじっと見つめると、23は服を着たまま突然ベッドに載ってきてマイアの胸に顔を埋めた。マイアは、えっ、こんな時間にするの、寝間着を着ろと自分で言ったのに、と思ったが、彼はそのまま肩をふるわせていた。やがて絞り出すような声が漏れてきた。
「アルフォンソ……アルフォンソ……」

 寝間着に涙が沁みた。マイアにも何があったのかわかった。ドン・アルフォンソが亡くなったのだ。とっさに彼女の右肩をつかんでいる23の左手首を見た。黄金の腕輪の手の甲の側、これまで何の飾りもなかった所に1つ青い石が増えていた。

 マイアは鍵の束の意味を理解した。23は、たった今ドン・アルフォンソになったのだと。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(2)悪夢

『Filigrana 金細工の心』の2回目です。

ええと。この回はR18指定すべきかなと思う内容なので、読みたくないという方はお氣を付けください。とはいえ、この記述をしないで書くのは、ぼんやりした話になってしまうので、あえてこうなりました。前作では、23がマイアにソフトに語るという形で説明した24のやっていたことが、少し具体的に記述されます。

ここまで具体的な描写は、今後ほとんどないと思いますので、ご安心を。



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あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(2)悪夢

「……ママ。ママ。かわいそうなママ……。あいつがあなたを苦しめているんだね」
その声はすぐ近くで聴こえた。終わりのない悪夢は彼女を休ませなかった。疼痛よりも針が近づいてくるその瞬間が怖かった。ベッドに縛り付けている手錠に電流を近づけてくる時の、狂った笑顔が恐ろしかった。どれほど懇願しても、絶対に逆らわないと誓っても彼は信用しなかった。声が出ないようにかまされた猿ぐつわに手をやり「このなめらかな肌に食い込む枷が美しい」と囁いた。

 乳房をねじ上げられ、苦痛に歪む顔を見て、青い瞳は輝いた。それから彼は欲望のままに、抵抗できない彼女に覆い被さり激しく腰を動かして囁いた。
「ああ、ママ。かわいそうな、ママ。あなたは、あいつに犯されて、苦しんでいる。いますぐに、僕があなたを救ってあげる。こうして、あなたの中からあいつの穢れた体液を搔き出してあげる……僕の存在で満たしてあげる……」

 その声が、次第に大きくなると、彼女の膨れ上がった腹がめきめきと割けて、中から血まみれの赤ん坊が顔を出した。口が裂けて、尖ったギザギザの歯を見せて奇声を発した。彼女は声にならない悲鳴をあげた。

 いつの間にか彼女は自由になっていて、必死で逃げた。暗闇の中、足が縺れ、何度も怪物につかまりそうになり、滑る足元によろけながら、彼女は走った。どこからか、ピアノの音色が響いてきた。彼女は、音のする方へと走る。そこへ辿りつければ、彼女は怪物から逃れられるのだと、そう信じて走った。

 彼女はベッドから起き上がった。体中が強張り、震えていた。喘息の発作のように激しく呼吸をしていた。ピアノの音色はしていなかった。

 汗でネグリジェは、ぐっしょりと濡れていた。ドアがノックされて、妹マリアの声が聞こえた。
「ライサ? どうかした? うなされていたみたいだけれど……」

 ライサは、息を継ぐと答えた。
「……夢を見たの。ごめんなさい、大丈夫」
「そう。わかったわ。おやすみなさい」

 マリアの足音が去り、隣の部屋のドアが閉められたのとを聞くと、ライサは首の付け根に手をやり、汗を拭った。夢……。夢だとわかるようになるまでにどれほどの時間が流れたか、彼女の記憶は欠けていた。ピアノの音色が彼女の救いとなったのもいつだったか憶えていない。

 あの悪夢は、かつては現実だった。彼女が愛し、自身で望んで一緒になった男が、もう1つの顔を見せたとき、その悪夢が始まったのだ。それがあまりにも長く続き、救いが見えなかったので、彼女の精神は現実と夢の境界を失った。肉体の痛みと精神の痛みは交錯してねじれた。胎内の奥深くに挿入された電動の器具が、彼女に快楽を強要しても、彼女には苦痛との違いを感じ取れなくなった。薬品が彼女の現実を壊した。昼と夜は逆転し、愛と憎しみも入れ替わった。

 悪夢は、常に彼女を襲い続け、それが終わる希望など持っていなかった。けれど、そのピアノの音が聴こえるようになって以来、明らかに何かが変わっていた。悪夢にインターバルが訪れるようになっていた。誰かが、優しく彼女の肌や髪を洗っていた。女性の明るい笑い声が近くですることもあった。食事に味がする。時には熱く、ライサは吐き出した。それを誰かが片付け、優しく口元を拭いてくれていた。それが悪夢の男とあまりにも違うのでライサは混乱した。

 やがて、彼女はベッドに座り、誰かが彼女に食事をさせてくれていることに氣がついた。そこはとても居心地がよかった。誰もが優しく、彼女を傷つけたりしなかった。どこからか、ピアノやヴァイオリンの音色がしていた。それを耳にしながら、ライサはここは安全な世界だとゆっくりと理解したのだ。

 それから、ある女性がよくベッドの側に座るようになった。その女性の落ち着いた声は、ライサには心地よく響いた。言葉の意味が分かるまでにはやはり長くかかった。長い心地のいい夢を見ているようだった。ゆっくりと、ぼやけていた画像のピントが合っていくように、ライサはその女性のいる心地いい夢が現実なのだとようやく信じられるようになった。その頃から、その女性にどこかで逢った事があるように思いだした。

「ライサ。今朝の氣分はどう?」
女性は、穏やかに訊く。親しげで優しい。それが自分の名前だと、ある朝、突然わかった。この人は、私に問いかけているのだ。そう思って、ライサは女性の顔を見た。彼女の表情が、つかの間、驚きに変わり、それから笑顔になった。
「ライサ?」

「あなたは……誰?」
ライサは、声を絞り出した。かすれていた。自分の声なのだと、後からわかるほど現実味がなかった。いや、しようと思った事が、できる事、声を出し質問したら、その通りに聞こえた事が驚きだった。

 女性は、微笑んだまま答えた。
「アントニアよ」

 アントニア? 知っている誰かの名前。どこで聞いたのだろう。アントニア。……ドンナ・アントニア……。

 突然、世界が回りだした。石造りの重厚な建物、どっしりとした家具、輝くシャンデリア。『ドラガォンの館』に集う、高貴なる一族。そして、恐ろしい悪夢。震えて泣き出しそうになるライサに、女性ははっとして、それから首を振った。
「心配しないで。あなたは、もう安全な所にいるの」

 その言葉が、ライサを現実に戻した。「安全な場所にいる」心で確認したがっていた言葉を、彼女が口にした。
「ここは……ここはどこ?」

 ライサが、『ドラガォンの館』から連れ出されて、アントニアの住む『ボアヴィスタ通りの館』で療養していることを理解するまでにはまだしばらくかかった。彼女の精神の混乱は、それほどに根深かった。だが、やがて彼女は、朝になり目が醒めると、必ず同じ場所にいて、悪夢が襲いかかってこなくなるという事を信じられるようになった。怖いのは夜眠っているときだけだった。そして、彼女を朝の安全な世界に導いてくれるピアノの音は、『ボアヴィスタ通りの館』で実際に奏でられているのを知る事となった。

 ライサは、ずっと同じ部屋にいた。彼女を世話してくれる使用人が、シンチアという名前で、ライサ自身と同じくドラガォンに雇われている存在である事も理解できるようになった。時々もっと若いルシアという女性が代わる事もあった。ライサは、自分でスプーンやフォークを持って食事をしたり、タオルで顔や手を拭く事もできるようになった。1人で浴室を使えるようになるまでは、もう少しかかったが、やがて、密室に1人でいても、眠らない限り悪夢は襲ってこない事が理解できるようになった。

 階下から聞こえてくるヴァイオリンとピアノの2重奏についてシンチアに質問した。
「ああ、あれはメウ・セニョールのヴァイオリンにドンナ・アントニアが伴奏なさっているのですよ」

「メウ・セニョール?」
その響きに彼女が怯えているのを見て、シンチアは、急いで言った。
「ドンナ・アントニアの叔父上です。亡くなられたドン・カルルシュの弟の Infante322です」

 それが24ではないとわかって、彼女は安堵した。それから、あのピアノを弾いていたのは、ドンナ・アントニアだったのねとひとり言をつぶやいた。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(3)出逢い

『Filigrana 金細工の心』の3回目です。

追記に動画を貼り付けておきましたが、今回主人公が弾いているベートーヴェンのピアノ曲『ロンド・ア・カプリッチョ ト長調』は奇妙な俗称がついています。『失われた小銭への怒り』と。これはベートーヴェン自身が付けたわけではないのですが、本来の題名よりもずっと有名になっています。そして、とても難曲なのだそうです。

少なくとも今回のシチュエーションで弾くような曲とは思えませんが、当の奏者はかなり皮肉っぽい性格。アントニアは「なぜこれをいま弾く」と心の中で突っ込んでいたに違いありません。



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Filigrana 金細工の心(3)出逢い

 ライサは追われ、必死で逃げていた。いつもの悪夢、血まみれの赤ん坊、そして、笑いながら彼女を犯す狂った金髪の男から。目が醒めて、暗闇の中に放り出された。彼女は、光と音を探した。それは夜で、彼女の求めるものはどこにもなかった。

 ピアノが聞こえなければ、彼女は安心できなかった。シンチアやルシアなど使用人たちもいなかった。ピアノの聞こえるところ、光の見えるところまで、彼女は逃げなくてはならなかった。彼女は、パニックに襲われ、ベッドから抜け出した。1度も出た事のない部屋から出て、階段を転げるようにして降りた。

 いくつかのドアを開けて周り、ようやく探しているものを見つけた。サロンの真ん中に、グランドピアノがあり、月光に浮かび上がっていた。彼女はそれに近づき蓋を開けて、めちゃくちゃに鍵盤を押した。みじめな不協和音が響くだけで、彼女を悪夢から救い出す、あの響きは創り出せなかった。

「こんな時間に、何をしている」
男の声がした。ライサが振り向くと、月の光の中に男が立っていた。明るい月の光に照らされて、柔らかく光沢のある髪が見えた。背の高いすっきりとした体格も。

 ライサは悲鳴を上げた。彼女が怖れている悪夢の男がここまで追いかけてきた。陽の光で見てもよく似ている2人を、暗闇の中で錯乱したライサが見分けられるはずはなかった。

「いや! やめて! 助けて!」
「私は、何もしない。落ち着きなさい」

 混乱したライサは、部屋の隅へと向かい泣き叫んだ。男の後ろから何人かの人々と共に飛び込んできた女性が側に駆け寄った。
「ライサ!」

 アントニアだった。現実の世界にいるはずの、彼女に安全を約束してくれる女性。ライサは、彼女に抱きついて泣き叫んだ。
「いや! 助けて! ピアノが聞こえない! ピアノが!」

 アントニアは、男に向かって叫んだ。
「叔父さま、何かを弾いてちょうだい」
「なんだって?」
「何でもいいから、弾いて! お願い!」

 彼は憮然とすると、ライサが倒した椅子を起こして座り、月の光の中で弾きだした。ベートーヴェンのピアノ曲『ロンド・ア・カプリッチョ ト長調』だ。このシチュエーションには唐突な、明るく軽快な曲だが、俗に『失われた小銭への怒り』と呼ばれているので、夜中にたたき起された上に野獣扱いをされた事への抗議も含まれているのかもしれないとアントニアは思った。

 アントニアの腕の中で、ライサは自分の耳を疑った。流れるようなトリル。力強く自信に満ちた連打。目の前で演奏されているのは、まさに彼女の望んでいた響きだった。ピアノの弾き手、ライサをいつも安全な現実の世界へ連れて行ってくれていた人物は、アントニアではなかった。この男だったのだ。

 やがて、それが誰だかわかった。彼女にトラウマを与えたインファンテ324ではなく、その叔父のインファンテ322、アントニアとともにこの館に住んでいる、もう一人の「メウ・セニョール」なのだと。

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Beethoven - Rondo 'Die wut  über den verlorenen groschen'
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(4)時間

『Filigrana 金細工の心』の4回目です。

まだ「(2)悪夢」で始まったライサの回想シーンが続いています。前回の更新へいただいたコメントで氣がついたのですが、このストーリー時間軸がやたらと前後するので混乱しますよね。これは、前作『Infante 323 黄金の枷 』でマイアが《ドラガォンの館》にやってくるよりもわずかに前くらいの時点です。妹マリアは1年近く連絡の取れないライサを心配し、代わりにマイアが勤めて素人探偵をしようとしたのが、あの話の導入でした。こんなことになっていたというわけです。



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Filigrana 金細工の心(4)時間

 理性と心は、同じ車につけられた両輪であったが、時にちぐはぐな動きをする。彼女を悪夢から救い出す、光であり命綱である響きを生み出す、彼女にとっては神からの使いにも等しい存在である人は、彼女の悪夢の源に似た姿形を持っていた。彼女は響きに近づきたかったが、全身がそれを拒んだ。すらりとした長身、明るい茶色の髪、森の奥の泉を思わせる青い瞳を、ライサは心底怖れた。

 彼は、容姿が似ているだけで、24とは明らかに違う人間だった。ずっと歳をとっていることだけではなかった。24のように自らの容姿のことに頓着しなかった。品のいいものを身につけていたが、最新流行の服を無制限に買わせることはなかったし、鏡の前で長時間過ごすこともなかった。芝居がかった動きも見せなかったし、何が言いたいのかさっぱりわからぬ詩を延々と朗読することもなかった。

 ムラのある性格の24と違って、几帳面で毎日のスケジュールは機械仕掛けのように正確だった。ライサは彼のピアノかヴァイオリンの響きで目を覚ました。朝食の後、彼は作業室と呼ばれる南の部屋で民芸品『バルセロスの雄鶏』に彩色する。昼食後は、音楽を聴くか、読書をするか、もしくはピアノかヴァイオリンを練習していた。

 24のように、甘い言葉で話しかけてくることもなかった。それどころか、ライサに近づこうともしなかった。初めて彼の姿を見た、あの深夜の翌朝、アントニアが彼女の手をとって、はじめて朝食の席に伴ったその時だけ、彼は大きな感情の変化を見せた。息を飲み、それからわずかに震えたように思った。けれど、それから彼は、大きく息をしてから何でもなかったかのように押し黙り、食事に集中した。

 近づこうとしたのは、ライサの方だった。アントニアが外出し、使用人たちも忙しく側にいない時、居間から聴こえてくるピアノの音色に惹かれて、何度も階段を降りた。それから、半分開かれているドアにもたれて、音色に耳を傾けた。音色は心に染み入ってきた。皮膚を通して、彼女の中へと入り込み、内側から光で満たした。彼女の中に巣食う穢れてただれた赤黒い細胞は、その光を注がれて透き通っていった。

 彼女は、ここにいて、この音に満たされていれば安心なのだと感じた。生まれたばかりの雛が、最初に目にした存在を親と信じて無条件についていくように、ライサの心は、光を求めて彼の奏でる音色を追った。その音に導かれてライサは目覚め、午後は希望に満ちて空を飛び、そして夕べの憩いを得た。

 それなのに、食事のたびに、彼の前に出ると身がすくむようだった。彼女を苦しめた男とは明らかに違う人なのに、その姿を見ると体中が凍り付く。青い瞳が向けられると、手が震えてカトラリーを何度も取り落とした。

「心配しないで。あなたは、こちらに戻ってきつつあるのよ」
アントニアが、そんなライサに優しく言った。

「あなたは、叔父さまのことを怖れないようになるわ。もう頭では理解しているでしょう、叔父さまは信用のできる素晴らしい人だと。あなたの意志とは無関係に反応してしまう体が、あなたのその考えに同意できるようになるまで、もう少しかかるかもしれない。でも、きっと時間の問題よ。あなたもそう思うでしょう?」

「ミニャ・セニョーラ。セニョールは、私の態度を不快に思っていらっしゃるんじゃないでしょうか。私、別室で食事しても……」
「だめよ。ライサ。これは、あなたの治療の一環なの。あなたを夢の世界に戻すわけには行かないの。わかるでしょう。叔父さまにはちゃんと伝えてあるから大丈夫よ」

 ライサは混乱していた。彼女にとって何よりも大切な存在、彼女の安全を約束してくれるその人には、どうしても嫌われたくなかった。不快にもさせたくなかった。尊敬し、感謝していることを伝えたかった。けれど、恐怖はいまだに彼女を支配していて、悪夢もまだ彼女を襲い続けていた。彼女が1度は愛し、共に幸せになれると信じた男が、豹変して彼女を襲った時の、それから、幾度となく恐怖に悶えて助けを求め続けた苦しみは彼女を縛り続けていた。

 彼女は、居間に続くドアにもたれかかり、ピアノの音色に耳を傾けながら、もっとこの音に近づきたいという強い願いと、恐ろしい悪魔の側からすぐにでも逃げだしたい衝動に引き裂かれながら震えていた。

 ゆっくりと両手を止めて、最後の和音の響きが消えるまでたっぷり5秒は使った後で、彼ははじめてライサに話しかけた。
「聴きたいのならば、入ってきなさい」

 その声は、不思議な力に満ちていた。美辞麗句を重ねに重ねた、24の空虚な言葉遣いと違い、装飾も何もないまっすぐな言葉だった。そして、それは命令形だった。ライサは『セニョール』の、彼女の主人であるインファンテの権能ある言葉に、逆らうことはできなかった。震えながらドアを押して中に入り、背を向けたドアにへばりつくように立って、彼を見た。

 青い瞳が、静かに怯えているライサを捉えた。彼はため息を1つつくと、鍵盤に目を戻し、ゆっくりとショパンを弾いた。

 それが、何度も繰り返されるうちに、彼女は、居間に入っていけるようになった。ライサの体を支配している頑固な恐怖もまた、この居間で音楽を奏でる男は、近づいても来なければ、彼女に危害を加えたりもしないことを渋々と認めて、彼女を自由にしだした。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(5)『グラン・パルティータ』-1-

『Filigrana 金細工の心』の5回目です。

まだ「(2)悪夢」で始まったライサの回想シーン、まだ続いています。最初の構想では、このライサの回想は、もっと後に出すつもりだったのですが、むしろこの方が事情がはっきりするのと、前作とのつながりが強いのでこうなりました。長いので切ったんですけれど、サブタイトルの曲、モーツァルトの『グラン・パルティータ』は、まだ出てきませんね。



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Filigrana 金細工の心(5)『グラン・パルティータ』 -1-

 1ヶ月ほどの間に、彼女は、ドアを離れて彼が奨めるソファに座ることができるようになった。食事の時にも、怯えてカトラリーを取り落とすこともなくなった。彼は彼女が1つひとつの段階を経ていくのに満足し、まずは皮肉に満ちた微笑を、それから少しずつ優しい笑顔を見せるようになった。その表情の変化は、ライサの彼に対する忠誠と思慕に拍車をかけた。

 逃げ惑いながら、ピアノの音を目指して走る目覚め以外に、まるで夢を見ていなかったかのように心地よく目覚めることもあった。そんな時でも、音色は常に彼女を光に導いてくれた。彼は、朝食前には練習中の曲ではなく完成し弾き慣れた曲だけを演奏する習慣があった。数日前に耳にして、彼女が特に好きだと口にした曲を、改めて弾いてくれることもあった。

 そんな時に、彼女は急いで起き上がり、シンチアたちの助けを借りずに洗面所へ向かい、急いで身支度をした。朝食の席に行き、彼とドンナ・アントニアのいる、明るい窓辺の席に座ることを思うと心が躍るのだ。

 まだ、うまく自分を表現することができず、俯きがちながらも、ライサの表情から怯えや恐怖が薄れ、信頼と安堵が戻ってきていることをアントニアは喜んだ。彼女は、ライサを刺激しないように、『ドラガォンの館』の話は一切しなかった。聞きたくない男のこと、思い出させるあの場所のことを、ライサは聞かずに済んだ。

 過去にあったすべてと、ライサは切り離されていた。それ以外の人生などなかったかのように、『ボアヴィスタ通りの館』の暮らしだけが、彼女を包んでいた。

 アントニアは、朝食が終わるとどこかに行くことが多かった。そんな時は、彼女は快活に言った。
「また後で会いましょう、ライサ」

 同じ言葉と笑顔が、彼女を安心させた。午前中は、シンチアやルシアの仕事を見ながら過ごしたり、アントニアが用意してくれた本などを読んで過ごすことが多かった。アントニアが戻らないときは、彼と2人で昼食を取る。彼は口数が少なく、アントニアのようにライサの答えやすい話題を振るような努力はしなかった。けれど、ワインの好みを訊いたり、アントニアの渡した本の内容に触れたり、ごく自然に会話をするようになった。

「メウ・セニョール。今朝の曲について教えてくださいませんか」
ライサの問いに、彼はわずかに笑って答えた。
「あれはモーツァルトだよ。ピアノソナタ ハ長調K545 だ。おそらくクラッシック音楽に全く興味がなくても1度はどこかできいたことがあるだろうな」

 その通りで、コンサートなどに行ったことがないライサでも、珍しくよく知っている曲だった。
「K545って、何を表す番号ですか?」

「ああ、ケッヘル番号といってね。モーツァルトの作品を、作曲された順に整理してつけた認識番号だ。19世紀のオーストリア生まれの音楽学者ケッヘルが作品の散逸を防ぐために整理したんだ。当時は、作曲者が自分で通し番号をつけるという概念そのものがなくてね。寡作な作曲者なら演奏記録などで後からでも調べられるだろうが、モーツァルトは多作だったから、後少しでも遅ければ、目録作りは不可能だったろうね」

「じゃあ、あの曲は545曲目なんですね」
「いや、そうではないだろうな。後の研究によってケッヘル番号は何度か改訂されていてね。たとえば最初のK1とした作品の前に後ほど4曲ほどみつかったので、K1a,、K1b、という具合に補助アルファベットをつけて表示することになった。それに、後から偽作だったことが分かった曲もみつかったので、ケッヘル番号だけで何曲目と判断することは難しいだろうな」

 それから、口の端だけで微かに笑うと言った。
「同じことを訊くんだな」

「え?」
ライサは、彼がどこか遠くを見るような目つきをしていることに氣がついた。だが、それは一瞬のことで、すぐに彼はそばに控えているモラエスに合図をした。

「はい。メウ・セニョール」
「今日のコーヒーは、サロンの方に運んでくれ」
「かしこまりました。デザートもそちらにお持ちしますか」
「いや。それはここでいい」

 モラエスは、ルシアに合図をし、彼女は2つのナタス・ド・セウを運んできた。
「ええと、確かこちらが……」
そういいながら、自信なさげにルシアは1つのグラスをライサの前に置いた。もう1つのグラスを前に、彼はルシアにいつものように礼を言った。同じデザートなのに、なぜルシアはあんなことを言ったのだろう。ライサは不思議に思った。

 ひと口スプーンを口に入れて、ライサは驚いた。この館で出されるデザートはいつもとても美味しいのだが、今日のデザートは衝撃的に甘かった。砂糖の量を間違えたのかと思うほどだ。思わず、彼の方を見ると、若干不思議そうにグラスを眺めていたが、何も言わずにそのままデザートを食べていた。

 ライサは、ルシアが置くべきデザートをとり違えたのだと思った。おそらく彼が食べるデザートだけが、通常のものより甘いのだ。彼女は、なんとか最後までそのデザートを食べ終えた。普段よりもずっとコーヒーが恋しかった。

「サロンに来なさい。コーヒーを飲みながら、モーツァルトを聴こう」
彼は立ち上がった。ライサは、コーヒーと聞いて迷わずそれに従った。
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【小説】Filigrana 金細工の心(5)『グラン・パルティータ』-2-

『Filigrana 金細工の心』の5回目『グラン・パルティータ』の2回目です。ライサの回想シーンは、まだ続いています。

これまで22の演奏を聴くだけだったのが、この日を境にCD鑑賞などにも同席するようになりました。今回出てきたモーツァルトの『グラン・パルティータ』は、後々再び出てくる曲です。私は、この曲を数年前まで知らなかったのですが、このストーリーの構想を立てていた頃に『クラシック100曲オムニバス』的なアルバムで聴き、使うことを思いつきました。

さて、少し長かったのですが、次回でライサの回想シーンは終了です。



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Filigrana 金細工の心(5)『グラン・パルティータ』 -2-

 普段の彼は、昼食の後はいつも1人でヴァイオリンかピアノの練習をする。ライサは部屋に戻って本を読みながらその音に浸った。午後も遅くなると、それまで部分的に練習していた曲を通しで弾き、その後に完成している曲をいくつも弾く。ライサはその頃にそっとサロンに近づくのが常だった。ドアの近くで立っているのを察した彼に呼ばれて、彼女はピアノの正面にあるソファに腰掛ける。

 だが、その日は昼食後にすぐにサロンに行くことになった。モラエスとルシアがアームチェアの前のローテーブルにコーヒーの準備を始めた。勧められて彼女はそこに座った。彼は、ガラス棚からCDを1枚取りだしてモラエスに渡し、それから、ライサの斜め横のアームチェアに腰掛けた。

 ライサの体に強い緊張が走った。彼とここまで接近したことはまだなかった。初めて会った深夜に24と取り違えたのは、月光ではっきりと見えなかったからでもあったが、明らかに他人だと分かっていても思い出さずにいられないほど、彼は彼女にトラウマを与えた男に似ている。今のライサには、加齢による変化、感情の表し方、周りの人との関わり方の違いをはっきりと見て取れる。それでも、彼女は体は意思に反してこわばった。

 彼は、ライサの反応を見て取ったが、何も言わなかった。モラエスがかけたCDが音を立てだした。

 ピアノかヴァイオリンの曲を聴くのだと思っていたが、それは管楽器の音で始まった。ライサは、目を見開いて彼を見た。彼は、その反応の変化に満足したようで、また以前と同じような口元だけの微笑を見せた。
「セレナード第10番 変ロ長調『グラン・パルティータ』というんだ。管楽合奏曲だよ。第6版のケッヘル目録では370aだが、初版のK361で表されることの方が多い作品だ」

 彼は、目を瞑り聴いていた。彼女が『ドラガォンの館』で働いていた頃、24は甘い言葉を囁きながらいつも彼女との距離を縮めようとした。それがあの恐怖の始まりだった。けれど、いま傍らにいるもう1人の、とてもよく似たインファンテは、彼女の存在を無視しているのではないが、何かを意図して近づいてくるという印象を一切与えなかった。自分の事も、ライサのことも何も語らず、ただ『グラン・パルティータ』に没頭している彼の様子に、ライサの緊張は少しずつほぐれていった。
 
 その日から、時おりサロンで同じように彼と食後の時間を過ごすようになった。夕方に彼自身の演奏を聴かせてもらう時には、黙って聴くのみだった。演奏後に彼と交わす会話も短く、曲目や作曲者の意図以外のことを話すことはなかった。だが、食後の時間は、性質が違う。彼が選ぶ曲は、ヴァイオリンやピアノが主役となる曲ばかりではなかった。たとえば管弦楽曲のように。

「ピアノやヴァイオリンの曲よりも、管弦楽の曲がお好きなんですか?」
ライサが聴くと、彼は「どちらも好きさ」と言ってからわずかに自嘲的な笑みを見せた。
「ただ、こちらは破れし夢へのノスタルジーというところかな」
「破れし夢?」

 彼は、CDのジャケットを見ながら言った。
「聴くだけでなく、演奏してみたい。その想いはピアノとヴァイオリンに留まらなかった。だが、1人で弾ける曲には限りがある。20代のはじめに、シューベルトの『ます』の5重奏に挑戦したことがある。ヴィオラとチェロまでは、なんとかそれらしく弾けるようになったので、パートごとに録音して合わせてみた。だが、上手くいかなかったんだ」

「どうしてですか?」
「演奏というのは、メトロノームのように、正確に速さを刻んでするものではないんだ。何人かが同時に息を合わせてこそ合奏が成り立つ。だが、私は5人に別れることはできないんだ」

 彼は、インファンテだった。Pの街の中で演奏家たちと合奏することも、不特定多数の人間と知り合いになることも許されていなかった。金銭的には、どんな贅沢でも要求できたが、それでも、世間的には『存在しない者』として生きる他はなかった。

「今は、だいぶマシになった。ピアノの2重奏も可能になり、ヴァイオリン・ソナタで伴奏をしてもらうこともできるようになった」 
ドンナ・アントニアのことだろうと、ライサは思った。

 かつて彼には、伴奏者も、観客もいなかったのだろう。心を揺さぶる美しいメロディーも、情熱ほとばしる弓遣いも、虚空に消えていただけだと思うと、ライサの心は痛んだ。彼女にとって苦しみしかなかったあの鉄格子で閉ざされた空間に、彼もまた閉じ込められていたのだ。

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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K. 361 Mozart Serenade No. 10 in B-flat major, III Adagio
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【小説】Filigrana 金細工の心(5)『グラン・パルティータ』-3-

『Filigrana 金細工の心』の5回目『グラン・パルティータ』の最終回です。ライサの回想シーンは、ここまでです。

第1作『Infante 323 黄金の枷 』の「(20)船旅」で、妹のマリア視点で語られているように、充分に回復したライサは家に戻り、3か月の世界旅行に招待されました。今回の後半部分は、その船旅が終わってすでにPの街に戻ってきてからです。



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Filigrana 金細工の心(5)『グラン・パルティータ』 -3-

 その苦悩を、今の彼は感じさせなかった。自嘲的に口の端をゆがめただけで、得ることのできない喝采も、演奏することのできなかった曲への執着をも手放し、録音されたものを観客として聴くことを受け入れていた。

 特に『グラン・パルティータ』は、彼のお氣に入りらしく、日を改めて何度もかけていた。第3曲のアダージオを聴くときに、決まって瞼を閉じてアームチェアの背にもたれかかった。その口元に優しい微笑が浮かび上がっている。ああ、本当にこの曲がお好きなんだわ……。ライサは、その彼の様子をじっと眺めた。

 レースカーテンがそよ風に揺れている。優しい木漏れ陽がアダージオに合わせたかのように、サロンに入ってきた。世界にはほかに誰もいない、2人だけでいるかのように感じた。つらいことも、苦しみも、境遇の差も、そして、過去も未来も何もない、平和で美しい時間が流れていた。

 永遠に思われた悪夢の時間を経験したからこそ、ライサにとってその至福は、なにものにも代えがたかった。愛されていると思いこみ有頂天になったかつてのライサは、相手が何を愛しどんな時間を好むかなど考えたこともなかった。相手を見つめて物言わずに座っているだけの、泣きたくなるような愛しい時間が、どれほど心を温かくするのか、ライサは生まれて初めて知った。

* * *


 ライサは、暗闇の中で窓からわずかに差し込む月光を眺めていた。彼女が目覚めてもピアノの音が響くことはもうない。サロンで、彼とドンナ・アントニアの息の合った演奏に耳を傾けることも、彼と2人でともにCDを聴くこともなかった。『ボアヴィスタ通りの館』で繰り返される、使用人たちにまるで貴婦人のように扱われた生活も、もう夢のように遠かった。

 生まれてからずっと彼女を縛り続けていた黄金の腕輪が外され、『ドラガォンの館』に勤める前まで住んでいた家に送り届けられた。《星のある子供たち》の存在も知らない、養父母とその娘マリアの住む家に。過去にあったすべてのことを口にしない新しい誓約だけが、彼女を苦しめたすべてとの訣別を約束し、かつ、わずかな名残そのものでもあった。

 ドラガォンからペドロ・ソアレスがやって来て、ドン・アルフォンソの決定を伝えたあの日、彼女はそれが何を意味するのかよく把握していなかった。養父母やマリアと再び会えるとは考えていなかったので、とても驚くと同時に嬉しかった。『ドラガォンの館』で起こったことに対する、当主ドン・アルフォンソの謝罪やそれに伴う特別措置についても、人ごとのように聞いていた。

 やがて、自分はいつまでもここにはいられないのだということに思い至った。セニョール322や、ドンナ・アントニアと違い、自分にはここで召使いに傅かれるべき理由は何もなく、充分に回復したなら出ていかなくてはならないのだと、いや、本来の職務、つまり『ドラガォンの館』の召使いとして雇われた本分を果たさねばならなかったのかと。

「本来ならば生涯外されることのない星2つの腕輪を、ドン・アルフォンソは例外として外されることを決定しました。これにより、ドラガォンとの雇用契約はもちろん、《星のある子供たち》としてのすべての制限からもあなたは自由になります。ただし、沈黙の誓約だけは生涯にわたり厳守いただきます」 

 ライサは、戸惑いながら頷いた。目の前に座るペドロ・ソアレスもまた男性であり、近くにいるだけで強い緊張ををもたらした。話を1秒でも早く終えてほしかった。養父母の家に戻る日程も、それからのことも、まるでエコーがかかったかのように遠くで響き、自分自身の人生に大きな変化が訪れていることをうまく認識できなかった。

 車に乗せられるときの優しいアントニアの抱擁も、シンチアとルシア、それにディニス・モラエスが遠くから微笑みながら別れを告げてくれた姿も記憶に残っているのに、セニョール322との別れのあいさつが思い出せない。

 開け放たれた窓から、白いレースカーテンが揺れて見えた。ヴァイオリンの音色が遠く響いた。ライサは、彼が窓辺に立ってくれることを強く望み、車窓からわずかに身を乗り出した。

 車は静かに走り出し、門が閉められた。『ボアヴィスタ通りの館』の水色の外壁が遠くなり、やがて視界から消えた。風が最後まで届けていてくれたヴァイオリンの音色も、やがて途切れた。

 養父母の家に車が乗り付けられ、妹のマリアが飛び出してきて抱きついたときも、ライサの心はまだこちら側の世界に戻ってきていなかった。朝の目覚めでピアノの響きを求め、午後のひとときや夕べの憩いにここにいるはずのない人びととの語らいを求めていた。

 それから半年近く経っても、彼女の心はまだどこかにたゆたっている。左手首の違和感はまだ消えない。もう存在しない黄金の腕輪のあった場所が、忘れ物を思い出させようとするかのように、主張している。目が覚める度に、聞こえるはずのないピアノに耳を傾け続けている。

 ライサは、月の光が戯れる窓辺を眺め、腕を交差して自らを抱きしめてベッドに座っていた。
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【小説】Filigrana 金細工の心(6)インファンテ -1-

『Filigrana 金細工の心』の6回目の前半です。前回まで、第1作『Infante 323 黄金の枷 』ヒロイン視点のプロローグ、長いライサ・モタの回想シーンと、主人公以外の人間の視点で綴られてきましたが、ようやく本人視点が登場します。

第2作『Usurpador 簒奪者』では、22視点の話は出てこなかったと思うのですが、外から見た彼の「できすぎ」っぷりに胡散臭いと感じられた読者が多かったように思います。この章では、「できすぎの坊ちゃん」として振る舞っていた彼が、激怒の末に引きこもりになってしまった過程が、綴られています。この章は、実はもっと後に置いてあったのですが、別に秘密にするようなことでもないので、先に持ってくることにしました。次週との2回にわけています。



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Filigrana 金細工の心(6)インファンテ -1-

 彼が初めて自らの進む道、つまりインファンテであることについてはっきりと意識したのは、12歳のある午後だった。まだ、彼と同い年の兄であるカルルシュとの間には大きな待遇の差はなかった。学ぶ時も食事をする時も、いつも一緒であり、彼にとってそれは当然のことだった。彼はドイスと呼ばれ、それが個人名とは違う番号の一部でしかないことを意識することはなかった。

 午餐や晩餐できちんと身支度して、両親、カルルシュと共に、食堂の立派なテーブルの前に座る時、わざわざ呼び出されてから現れて着席する者たちの存在も、特に自分の運命と関連付けて考えることはなかった。

 屋敷の中には、鉄格子で締め切られた居住区があり、そこにある男と、そして多くの場合、女が1人ともに住んでいた。女は1年経つといなくなり、またしばらく経つと別の女が同じ立場になる。会話をすることもなく、その場で食事をし、食後には召使いたちに付き添われて、また鉄格子の向こうへと戻っていった。

 その男は、たいてい席に着く前からもう酔っており、だらしない姿勢で椅子にもたれかかりながら杯を掲げて満たすように要求した。厳格な彼の両親は、男をほぼ無視して食事を進めた。その異質な男こそが、インファンテ321、つまり、当主ドン・ペドロのスペアとしてこの世に生を受けた男だった。

 その男と、選ばれてしかたなく居住区で暮らすことになった女とは、正餐に呼び出されても出てこないことがあった。2階の格子戸を開けて、召使いたちが正餐の時間だと呼び出すと、男は3階の寝室からろれつの回らない大声で「いま、いいところだからよ」と叫び、下品な笑い声を響かせた。その報告を耳にすると、ドン・ペドロは顔色も変えずに、ソアレスに目で指示を与え、執事は2人抜きで給仕をはじめた。正餐を食べ損ねた2人には、後ほど食事が運ばれることになっていた。

 その男こそが、カルルシュの本当の父親だと、いつだったか彼の母親ドンナ・ルシアが口走ったことがある。するとドン・ペドロは、厳しい目つきだけで妻をたしなめた。

 彼は、だらしなく粗暴なその男に、嫌悪感を持っていた。そして、男からも好意を持たれていないことを肌で感じていた。
「お高くとまってやがらあ。てめえは、立派な当主の跡継ぎだと思い込んでいるってわけだ」

 男は、彼のことをよくあざ笑った。何がそんなに彼を面白がらせているのか、幼かった頃の彼にはよく理解できなかった。

 だが、12歳のあの日、21は格子の向こうから彼を呼び止めて、彼の運命を告げたのだ。

 彼は、いつもよりもさらにひどく酔っていた。母親はこの男のことを「わがままな酔っ払い」としてあからさまな嫌悪感を示していた。だが、彼はそれをあからさまに態度に表すことは紳士的でないと自分を律していた。単純に関わらないようにしていただけだ。

「おい。おいったら。まだ、お高くとまってんのかよ。俺を見下しているみたいだが、お前、わかってねえな。お前は、俺と同じなんだぞ」

 彼は、はじめて足を止めて、まともに格子の向こうの男を見た。彼には純粋に理解できなかったのた。彼のどこがこの男と同じだというのだろう。だけが本当の父親かどうかは、彼にとってはそれまで重要なトピックではなかった。そうであっても、関係なく、彼はこの館で召使いたちに傅かれる者としての責任と誇りを持った者として、父親ドン・ペドロからの教えに従ってきたし、厳格な父親や執事のソアレス、そして、幾人かの教師たちを満足させる振る舞いと成果を常に出していた。眉をひそめられ、ため息をつかれるばかりの存在のこの男と、どこが同じなのか、全くわからなかった。

「興味が出たか」
「おっしゃる意味がわかりません」

 21は、大きくのけぞって笑った。杯を持つ手と反対の手で格子にしがみつかなければ、まっすぐ立っていられないほどにふらつき、頬と鼻の先は異様なほどに赤い。そして、濁った白目の細い瞳を細めて、彼の方をじっと見た。
「なんだ。やっぱり教えてもらってねえのか」
「何をですか」

「次に、この檻の中に閉じ込められるのは、お前さんだってことだよ」
21の言葉に、彼は深く息を飲み込み、意味をよく理解しようとした。それがどのくらいの時間だったのか、彼は憶えていない。だが、時間は、酔っ払った男には大した問題ではなかったらしい。

 彼は、その間にさまざまなことを考えた。21という男の呼び名に、彼の22という呼び名。父親とカルルシュの填めている腕輪に1つ多い青い石。何度か耳にした「あれだけの才能がおありなのに、なんてもったいない」という囁き。

 男は、その彼の思考を追うかのように、また、時には前を行きながら、彼はやがて格子の中に閉じ込められるインファンテだということを、杯の中の琥珀色の液体を喉に流し込む合間に語った。彼は、館の中にいる大人たちに確かめるまでもなく、この男が語っていることは真実なのだということを悟った。

 全てに合点がいった。なぜ母親がカルルシュを目の敵にするのか、カルルシュのできが悪い時になぜ他の人たちがそれと比較して彼を憐れむのか。それまでどう考えても理解できなかったことに、彼は答えを見いだした。わずか数日の誕生日の差で、才覚や適性などは関係なく、彼とカルルシュの運命は決まったのだ。

「……で、どうだ。そろそろ夢精でも始まるんじゃねえのか」

 彼は、ある種の嫌悪感を抱いて、21を見つめた。酔った男は、また高笑いをして、だらしなく緩んだ口元から臭い息を漏らしながら顔を近づけてきた。
「高尚なお坊ちゃんよ。俺を見下すのは勝手だがよ。お得意らしい法学も、ラテン語も、お前には必要ないんだよ。お前に求められているのは、俺がやっていることだけだ。女をベッドに引きずり込み、本能の赴くままにやりまくること。それだけさ、俺やお前の存在意義は」

 そんなはずはない。自らの生まれてきた意味が、そんなことだけにあるなんて。彼は心の中で叫んだ。僕は、たとえ同じ運命だとしても、あの人のようになるものか。

 彼は、自分が閉じ込められる運命に、雄々しく立ち向かおうとした。彼が、生まれてきた日に対して責任がないように、カルルシュにもその責任はない。彼を心から慕い信頼を寄せるカルルシュを、格子の向こうからでも支えられるように、きちんと勉強を続け、召使いたちに仕えてもらうに足る尊敬を勝ち得る『メウ・セニョール』になろうと決心した。

 だから、1年後に第2次性徴があらわれて、2週間後に居住区に遷るのだとドン・ペドロに告げられた時も、冷静に受け止めた。その時に、ショックを受けたのは、何も知らなかったカルルシュだった。
「まさか! なぜ、ドイスが閉じ込められるのですか?!」

 そのナイーヴな問いかけに、ドンナ・ルシアはもう我慢ができなかった。女主人としての誇りも務めも忘れ、憎しみを露わにしてカルルシュを罵倒した。ドン・ペドロは、珍しく声を荒げて妻を叱った。母親のヒステリーは、閉じ込められる当事者である彼をむしろ冷静にした。彼の心の準備はできていた。実の母親でありながら、ドンナ・ルシアの感情的な態度を、彼は好きではなかった。カルルシュに対する理不尽な叱咤にも、彼への身びいきが原因だと感じて、かえって嫌悪感を持っていた。

 彼は、母親を反面教師にし、父親のように冷静で有能な、人の上に立つのにふさわしい人間になろうと固く決意していた。何が起ころうと、紳士的にきちんと振る舞い、このようなことに声を荒げたりすまいと。

 だから、母親が、深夜にカルルシュを殺害するためにその寝室に忍び込んだこと、すぐに露見して遠ざけられた時にも、ショックを受けこそすれ、父親の決定に納得していた。それどころか、今後、たとえ格子の向こうで生きることになっても、これまで以上にカルルシュを支えて生きていこうと決心したぐらいなのだ。
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【小説】Filigrana 金細工の心(6)インファンテ -2-

『Filigrana 金細工の心』の6回目の後半です。主人公22が「できすぎ坊ちゃん」として生きることをやめ、引きこもりになってしまった日々のことを書いた章です。『Infante 323 黄金の枷 』の主人公23の視点で書かれた外伝『格子の向こうの響き』で、メチャクチャ感じ悪い態度で出てきた当時、彼はこんな状態でした。



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Filigrana 金細工の心(6)インファンテ -2-

 だが、理想と現実は同じではなかった。彼と入れ違いに居住区を出て、『ガレリア・ド・パリ通りの館』に遷されたインファンテ321とは、その後2度ほどしか会わなかったが、12歳のあの日に告げられたことは、何度も心をよぎった。自らの存在意義について。カルルシュとの立場の違いについて。

 彼は、高潔に、雄々しく生きようと努力した。何が起ころうと、カルルシュに当たったりするものかと。たとえ、やっていることが何の役に立たなくても、自暴自棄になったり、苛立ちを見せたりすることはすまいと。

 彼は、20歳になるまで、表向きはその態度を貫き、父親からも、カルルシュからも、召使いからも、尊敬と愛情を勝ち得たと信じ、心の中の虚しさを押し殺してしっかりと立っていた。その誇りと矜恃は、彼の表面に少しずつ漆喰のように層を作り、鎧となり彼自身を支えていた。

 音楽は、彼の心に翼を与えた。音色は、ドラガォンの宿命とは一切無縁なものとして彼の心を解放した。ピアノとヴァイオリンの音色は、彼の心の悩みや苦しみの細やかな襞までをも隠さずに、館の中を自由に駆け巡った。彼は、そうやって存在しない者として生きることを受け入れようとした。

 そして、彼はマヌエラに出会った。

 栗色に近い落ち着きのある金髪、明るい灰色の瞳、利発で優しい印象の微笑み。彼がそれまで夢想した、いかなる空想上の女神よりも美しい女性だった。そして、彼女は聡かった。その柔らかい印象に反して、自らの足で立ち人生の舵をとり、前進していくことを望む強い人だった。彼の魂に触れ、その高潔さをたたえ、さらに押さえつけている虚しさを理解し、彼の心の叫びである音色を聴き取る感性も持っていた。

 初めての恋に彼は夢中になった。そして、彼女と生きることが、理不尽な運命への埋め合わせとして天から与えられた人生の最後のピースなのだと思った。

 暖かい愛と知的な語らいのある生活、これまでに手にしたことのない満足があれば、彼は名もなく、名声も得られず、自らは何の決定も下すことのできない人生であっても、カルルシュのもとにあるドラガォンを支える存在しない1人として捧げることができると思った。もしかしたら、2人の愛の中で生まれてくる子供が、やがてドラガォンを率いていく存在になるのならば、その未来のために尽くすことも悪くないと思えた。それは、私情を滅しシステムのためにひたすら尽くす当主として生きる厳格な父親の意にも沿うのだと。

 だが、例の宣告が、全てを変えてしまった。彼を支え続けてきた理想のインファンテの石膏をも崩壊させてしまった。

 母親の体から出てくるまでの数日の違いで、彼の願う全てを手にしたカルルシュが、マヌエラをも横取りした。ドラガォンの掟を盾に、システムの厳格な運用を悪用して、彼女の心を得る努力もしないで。そのずるいやり方を、父親やシステムだけでなく、マヌエラ自身までが肯定した。

 憤りと嫉妬と憎しみに支配され、彼ではなくカルルシュに味方した全ての人間を恨み拒絶した。それは例外なく、彼の周りの全ての人間だった。『ドラガォンの館』には、システムよりも彼を優先してくれる、肉親も恋人も友人も、ただの一人もいなかったのだ。

 彼のそれまでの蓄積した想い、自分の中にあった不満と怒りは、溶岩のように流れ出て留まるところを知らなかった。

 彼は、それまで進んで被っていた全ての仮面を脱ぎ去った。彼はもう、理想のインファンテを演じることができなかった。システムへの復讐のため、システムにとって好ましくない態度をとり続けた。

 正餐には顔を出さず、父親やカルルシュ、そして《監視人たち》中枢部の黒服たちを無視し、誰かを選んで《星のある子供たち》の父親となることも拒んだ。文句を言われないよう、『バルセロスの雄鶏』を彩色する作業だけはこなし、居住区内に用意される食事を食べ、音楽を奏で、本を読み、ひとり日々を過ごした。

 そうやって月日が流れ、彼は結局思い知ることになった。彼が背を向けても、ドラガォンのシステムには何の影響もなかった。彼が支えなくても、父親ドン・ペドロの当主時代は当然のこと、その死後、カルルシュが当主になった後も、何ひとつ不都合がなかったのだ。

 カルルシュが当主になった時に、大きな混乱が起こるだろうと思っていた。無能で、優柔不断、虚弱なカルルシュに当主の役目がまともに務まるはずはないと、彼は思っていた。カルルシュを見下す母親ドンナ・ルシアに嫌悪感を持っていたはずなのに、彼自身が同じことを感じていたのだ。

 だが、ドラガォンは、ドン・ペドロがいた時と変わらずに存在した。以前から誰も彼には中枢で何が起こっているかを知らせてはくれなかったが、代替わりしてからもそれは同じだった。ひときわ優秀なマヌエラとアントニオ・メネゼスがカルルシュを助けていることは予想できた。それがわかっていても、何の問題も起こらないこと、「もし当主が彼でなければ」という反応が全く感じられないことに、密かに傷ついていた。

 時は過ぎた。もう誰も彼に何ひとつ期待をしなくなった。正餐のテーブルにつかなくなった彼の存在は、やがて忘れ去られた。ドン・ペドロの空いた席にはカルルシュが座り、やがて当主夫妻の4人の子供たちがそのテーブルを埋めた。新しく勤め始めた召使いたちは、かつての『理想的なインファンテ』を知らない。無表情に彼の居住区の掃除をし、1人で食べるテーブルの用意と給仕だけをする存在になった。

 彼は、自分で閉じこもったとはいえ、ひどい疎外感に苦しんだ。父親も、他の誰もが、背を向けた彼を責めもしなければ、困った様子もなく、何ひとつ彼に願ってこなかった。虚弱体質のはずのカルルシュが、当主としての務めを果たしただけでなく、4人もの子供をこの世に送り出したからだ。彼は、インファンテ321が言った「たった1つの存在意義」すら放棄した。それが、彼自身を蝕むとも思い至らずに。

 彼は、彼自身の行為で、当主のスペアから、生まれてくる必要すらなかった者に成り下がってしまった。

 瞳を閉じて、彼はひとり言をつぶやいた。カルルシュに全てを奪われたわけではない。初めから、彼など存在してもしなくても同じだったのだと。
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【小説】Filigrana 金細工の心(7)薔薇色

『Filigrana 金細工の心』の7回目です。ようやく本題って感じです。時系列も、もともとの「いま」に戻ってきました。プロローグの直後ですね。

いつもは大体2000字前後で切るんですが、うまく切れなかったのでこの章はそのままアップしました。



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あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(7)薔薇色

 彼は、外の光景をひと通り眺めてから窓辺を離れると、戸棚から段ボール箱を取り出した。中には、雄鶏の形をした小さな木製の板がぎっしりと入っていた。2階の陽のあたる角部屋を、彼は仕事部屋として使っていた。

 仕事。それが厳密には義務でないことを彼はよく知っている。彼に納期を告げる者はいなかった。1日に、週に、またはひと月に、どれだけの作業をこなすべきかを指示するものもいなかった。現在『ドラガォンの館』に住むインファンテがそうしているように、手を付けないままに放置できることもわかっていた。

 朝食の後に、定量の『バルセロスの雄鶏』を彩色するのは、35年近く欠かした事のない習慣だった。『バルセロスの雄鶏』は、カラフルに模様が塗られた雄鶏で、この国の最もポピュラーな土産物のひとつだ。大小様々の陶製の置物の他に、キーホールダー、マグネット、ワインのコルク栓の飾り、爪楊枝入れ、栓抜きなどにもなっている。この柄をモチーフにしたエプロンやテーブルセンター、布巾なども国中の土産物屋で売られている。

 多くは安価で、買って帰る旅人たちは、これを誰が彩色しているかなど意にも介さない。外国で低賃金の人びとの手で彩色されているか、どこかの村で内職されているか、そんなところだろうとぼんやりと思っているだろう。そして実際にもそうなのだが、少なくともそのうちのわずかは、この街で最も裕福な人びとが住むボアヴィス通りの、とりわけ立派な館の2階で作られているのだった。

 特に意味はないのだが、いつもの習慣で、本日の作業で作り上げようとする個数の未彩色の雄鶏を1つひとつ並べる。机の端から端まで、等間隔できっちりと。今日は木片だが、時にそれは陶器であることもある。だが、作家ものとなる大きい陶器の作業をすることはない。サインをすることも、「この職人のことを知りたい」と思わせるような作品を作ることも許されていないから。

 どのような色を塗るかの指示はない。彼が作るもので一番多いのは、典型的な黒地のものだが、今日は薔薇色の絵の具を取り出してきた。赤いとさかと区別がつかなくなるほど濃い色にしてはならない。彼は慎重に白を混ぜて色を作っていった。黄色いくちばし、足元はセルリアンブルーにしてみようと思った。赤いハートの模様、囲む白い点線、『バルセロスの雄鶏』には多くのパターンはない。その中でも彼は、自分の好みの色で様々な商品を生み出すのが好きだった。模様の一つひとつを機械のように、誰も検品をしたりはしないと知っていても、完璧に塗っていく。

 35年の月日は、正確な時間管理を可能にしていた。彼はいま予め並べた木片が『バルセロスの雄鶏』のキーホールダーとなるまでの時間を正確に予想する事ができた。午前中に全ての作業を終えると、着替えて昼食に向かうだろう。街から戻ってきたアントニアが、今日のニュースを告げてくれるに違いない。

 手は休まずに作業を続けるが、彼の心は時にその場を離れて自由に泳いだ。今日は、数ヶ月前までは同じように職人としての仕事をしていた甥の1人に意識が向かった。その男、インファンテ323は、実際には彼の甥ではなかった。兄カルルシュは、正確には彼の従兄であったから、甥とされている23も、正確には従甥じゅうせい だった。彼はこの青年に特別な親しみを持っていた。

 それはとても奇妙な事だった。この青年の弟インファンテ324の方がずっと彼自身に似ていて、23はむしろ彼が憎み続けたその父親によく似ていた。実際に、カルルシュの子供たちが幼かった頃は、23にひときわ厳しい視線を向けていた。だが、皮肉なもので、時とともに、3兄弟の中でこの青年がおそらく誰よりも彼の事を理解し、魂同士の共感を持つ事ができる存在だと感じるようになった。

「ギターラを習うって言っていたわ」
この館に勝手に足繁く通っていたティーンエイジャーの頃のアントニアが、23もまた音楽を奏でる同志になったと伝えた時に、彼は驚かなかった。むしろ今まで習いたいと言えなかったのかと驚いたくらいだ。

「あの子は、どこかあなたに似ているのかもしれないわね、叔父さま」
アントニアの言葉に、彼は皮肉っぽく笑ったが、どこかで彼女言葉は正しいのだと心が告げていた。

 23は靴職人だった。

 ある時、アントニアが1足の靴を持ってきた。彼の衣類や靴は、ふだん使用人が用意しておくので、新しいものが納品された時に意識する事はない。ましてやドラガォンの使用人がアントニアに預けて持ってこさせる事など考えられなかった。
「どうしたんだ」

 アントニアは、満面の笑顔でその靴を彼の前に置き「叔父さま、ぜひ履いてみて」と言った。履いてみて驚いた。いつもの靴に較べて革が柔らかく、もう1ヶ月以上も履いている靴のようにぴったりとフィットした。これまで履いていた靴も、熟練した親方が彼の足型に合わせて丁寧に作っていたのだから、それ以上と即座に感じられる靴があるなど考えた事もなかった。

「ビエラさんの所に行って、あなたの足型を受け取ってきたの。そして、トレースに作ってもらったの。どう? 履き心地よくない?」
「23だって?」
その時に彼は、甥が仕事に関しても彼と同じ姿勢でいる事を知ったのだ。そして、彼には才能があった。

 だが、彼は今、靴を作ることはほとんどないであろう。当主でもないアントニアが、あれだけの多く代わりを務めなくてはならないほど、ドラガォンの当主のこなすべき仕事は多い。亡くなった兄に代わって《ドン・アルフォンソ》となった青年には、靴を作る時間はほとんど残されていないはずだ。さらに言えば、ギターラを爪弾く時間はさらにないであろう。残念な事だ。彼は思った。

 不思議だった。彼の心にある青年への嫉妬、痛みは彼が想像したほど大きくは育たなかった。もっと羨んでもおかしくないはずだ。同じインファンテとしてこの世に生を受けたにも関わらず、23は彼がどれほど望んでも手にする事ができず、これからもできないであろう全てを手に入れた。名前と、自身の意志で館の外に出る自由と、愛する女と。だが、その事実は、彼の心をさほど波立たせなかった。あれほど兄を憎んだのと同じ自分とは思えぬ程、彼の心は静かになっていた。

 アントニア。彼は、心の中でつぶやいた。彼女がいなかったら、私は今でも悶え苦しんでいただろう。カルルシュへの憎しみと、マヌエラへの愛憎と、己の運命の厭わしさに。独りで音を奏でる事への怒りと、心を込めて仕事をしても報われないことの虚しさに焼かれていた事だろう。1人で食事をし、使用人たちに冷淡に接し、誰からも好かれない己のことを乾いた心で嘲笑っていただろう。

 アントニア。お前が私の心を解放したのだ。だが、私はお前の望むものを与えてやる事ができない。

 彼は薔薇色の木片を眺めながら、心の中で呟いた。そして、不意に、その色が昨日のアントニアの口紅の色であった事に思い当たった。新しく付けていたそれにいち早く氣づいていながら、彼女の期待している讃辞をわざとかけてやらなかったことが、彼の心をわずかに締め付けた。
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【小説】Filigrana 金細工の心(8)扉

『Filigrana 金細工の心』の8回目です。

このブログで発表している他の小説(例えば『大道芸人たち Artistas callejeros』など)でも、時おり語られますが、ヨーロッパのお菓子は、大きくて異様に甘いものが多いです。その中では、ポルトガルのお菓子は、大きさも甘さもわりと私好みのものが多いのですけれど、たまに「うわ。またこんなのに当たってしまった」というくらい激甘ものもあります。ただ、「蓼食う虫も好き好き」で歯がきしむほど甘いのが好きな人もいますから。

さて、以前ライサ視点の記述で、22が甘党であることがぼんやりと示されていましたが、ここでついにはっきりと出てきます。めっちゃ甘党。でも、素直ではないんです、この人。



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Filigrana 金細工の心(8)扉

 レイテ・クレームが彼の前に置かれた。濃厚なカスタードクリームの上をパリッとカラメル化した砂糖で覆ったこのデザートを彼は好んだ。

 目の前のアントニアが微笑むと、彼は「そんなに喜んでいるわけではない」という顔をわざと作った。

 アントニアが共に暮らしだすまで、代々の料理人たちは、彼の嗜好がわからなくて氣を揉んだものだ。彼は、食事に文句を付けるようなことは1度もなかった。実のところ、そんなことが許されていると思ったこともなかったのだ。

 20歳の時から、20年近く彼は1人で食事をしてきた。『ドラガォンの館』で格子の向こうに閉じこめられていた頃、そこから出られるのは、食堂で家族と共にする正餐の時だけだったが、あの日から彼はその場に同席するのを拒み通した。……カルルシュがマヌエラに宣告し、彼の幸福の蕾をむしり取ってしまったあの日。絶望に嘆いていたはずの、彼と人生を共にすると誓った女が、あっさり抵抗をやめてカルルシュの愛を受け入れてしまったあの日から。当主としての務めとはいえ、その全てを当然のごとく許した実父への失望と恨みが彼を蝕んだのもあの日からだった。

 カルルシュとマヌエラ、そして当主として父親が上品に食事をする場になど、何があろうとも同席したくなかった。彼の椅子の空虚さが、彼の抗議の証だった。だが、彼がその場に現れずとも、ドラガォンは何1つ滞りなく動いた。

 正餐には、やがてカルルシュとマヌエラの子供たちが加わるようになり、召使いたちもその場に彼がいないことに慣れてしまった。口に出さぬ彼の怒りと憤りが、絶望と憎しみに変わり、ただ時が流れた。

 毎回、召使いたちに呼ばれ出て行かずにいると、しばらくしてから召使いたちがやってきて、居住区の中にテーブルを整えた。彼はその召使いたちが持ってきた食事を食べた。1人で。

 機械的に「ありがとう」とは言ったが、味を好んだかどうかは1度も伝えたことがなかった。子供の頃も、厳格な父親に躾けられて、出されたものを残さないように、よけいな口はきかず静かに食べるようにしていたので、それが当然になっていた。

 『ボアヴィスタ通りの館』に遷ってからも、室内ではなく食堂で食べるようになったこと以外は何も変わらなかった。アントニアが食卓に同席するようになってからも、彼女が使用人たちと料理について話すのを他人ごとのように聞いているだけだった。

 だが、アントニアと暮らすようになってから数ヶ月経った頃、料理人のドロレス・トラードが失敗を繰り返したことがあった。後から聞けば彼女は人間関係で悩みを抱えていたらしいのだが、塩や砂糖の量を間違えた料理が週に何度も出された。

 その日、アントニアはレイテ・クレームをひと匙だけ口に入れると、給仕をしていた召使いに下げるように言った。
「さっきの鴨肉のソースが塩辛すぎたのは野菜で中和できたけれど、これは我慢できないわ」
砂糖が通常の倍は入っている。こんな甘いものを食べられるわけないじゃない。彼女の表情が語っている。

 召使いが恐縮して、彼が食べている器をも下げようとした。彼は、思わず皿を引いて、持っていかれないように器を守った。
「叔父さま。無理して召し上がる必要はないのよ。こんな甘いものを」
アントニアが言った。

 その時に、彼は初めて意識したのだ。彼はいつものレイテ・クレームよりもこの極甘味の方が好きであることを。

「私は、これでいい」
召使いとアントニアは顔を見合わせた。それから、彼女が恐る恐る訊いた。
「叔父さま、その味がお好きなの?」

 彼は、答えなかった。子供の頃、彼は食事について好みを口にすることを許されなかった。自分好みの味にわざわざ調理してくれることがあるなど、考えたこともなかった。自分の運命を呪い、食堂へ出て行かなくなってから、運ばれる食事は命を長らえるために供給される餌のような存在になった。彼は食事に喜びも怒りも何も感じなかった。そのことに、誰かが関心を持つとも思えなかった。

 だが、いま口にしているクリームを取り下げられるのは残念だった。甘くて濃厚な味。

 そのわずかな意思表示は、アントニアと使用人達に初めての希望の光を灯したらしかった。一切問題は起こさない代わりに、決して心を開かないインファンテ。何をすることで彼を喜ばせていいのか途方に暮れていた彼らは、ようやく彼の表情を変えさせることができたのだ。

 アントニアは、それから彼を喜ばせるために様々な菓子を買ってくるようになった。そして、彼はその誘惑に抵抗できなかった。こんなことで飼い慣らされてたまるかと思いながらも、手に取ってしまう。彼女は菓子に合うコーヒーや茶、それにヴィーニョ・ド・ポルトを絶妙に選んで微笑んだ。

 彼女は直に、虚勢を張っている彼のわずかな喜びの表情を、正確に見分けられるようになってしまった。そして、菓子だけではなく、食事で何を彼が好むのか、身につける物で何を心地よいと思っているのかを、彼に代わって館の使用人達に告げる役割を果たすようになった。

 それだけではなかった。ずっと1人で奏でるしかなかった彼の慰め、音楽においても彼女はますます彼の期待していなかった位置にたどり着きあった。

「お前がまともに弾ける日など来ない」
12年前に彼女のレッスンに苛立って冷たく言い放った彼自身の言葉を、彼が撤回しなくてはならないと思いだしてどのくらい経ったであろう。彼は、未だに謝罪と賞賛の言葉を口にしていなかった。「悪くない」程度の言葉を口にするのが精一杯だ。だが、彼女はその言葉に満足して微笑む。彼のヴァイオリンの伴奏をすることをこの上なく喜ぶ。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(9)哭くアルペジオ -1-

『Filigrana 金細工の心』の9回目です。少し長いので3回にわけますが、その1回目。

カルルシュとマヌエラ夫妻をはじめ、家族に無視を決め込んでいた22がなぜその娘アントニアと同居することになったか、その過程が語られる章です。

前半は、現在の話ですが、その後は12年前の、彼が『ボアヴィスタ通りの館』に遷されて半月ほど経った頃の話になります。実は、第1作で主人公23とヒロインのマイアが初めて出会ったのも、ほぼ同じ頃でした。『ドラガォンの館』で人々が抵抗を続ける23への対応に頭を悩ませている頃、アントニアもまたこんなことをやっていたというわけです。



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Filigrana 金細工の心(9)哭くアルペジオ -1-

 彼の1日は、規則正しく紡がれる。この館に遷されてから、召使いに起こされたことは1度もない。彼はひとりでに目を覚ます。部屋に併設されたバスルームで身支度をする。そして、自室の窓辺でヴァイオリンを奏でるか、サロンのピアノの前に座り朝の演奏を楽しむ。そして、召使いが朝食の用意ができたと呼びに来るときには、ほぼ必ず窓から外を眺めていた。

 朝食には、コーヒーと半トーストマイア・トラーダ の他に、日替わりで菓子が置かれる。これは、10年前よりアントニアの指示で用意されるようになったものだ。彼を喜ばせようと、彼女や使用人が心を砕いていることを知っていたが、彼は改めて礼を言ったり、嬉しそうに食べたりはしない。もちろん残したことは1度もなかった。

 午前中に『バルセロスの雄鶏』の彩色作業をし、午後はピアノかヴァイオリンを練習する。『ドラガォンの館』にいたティーンエイジャーの頃には、週に1度教師が呼ばれていたが、現在は1人で練習するだけだ。はじめは必ず音階や指運びの練習曲から始める。それもゆっくりと丁寧に弾く。引っかかったり、おかしな音色のするときは、いつもに増して練習を繰り返す。完璧に弾けないうちは、決して取りかかっている曲に移ったりしない。それは少年の頃から変わらぬ彼の練習スタイルだった。

 その練習中には、よく12年前のことが頭をよぎる。わずかな痛みが心を刺す。そんな必要はないのだと思っても、それは変わらない。同じ館に住み、彼に笑顔と信頼を向けている娘を憎むことができなくなった、彼にとっての転換期のことを、彼は忘れたことがない。現在、自分がたどる音階に、あの日の哭き叫ぶ響きが重なる。

* * *


 目が覚めたとき、ツェルニー740の50番が聞こえていた。哭きながら走りまわる右手と、暗い音で突き上げるように訴えかける左手。越えられない壁の前で、それでも諦めずに登ろうとする者の悲痛な叫びだ。

 彼は起き上がり、辺りがすっかり暗くなっていることに驚いた。重い頭。思考が未だはっきりしない。電灯を探り当て、明かりをつける。時計を見た。21時。

 午後に起こったことを思い出した。アントニアの口答えに彼が癇癪を起こしたことも。

 そもそも、アントニアは厚かましい押しかけ弟子だった。2週間前まで『ドラガォンの館』の居住区に住んでいた彼は、既に4年もの間、嫌々ながら彼女にピアノを教えていた。

 当主カルルシュとマヌエラ、その4人の子供たちは、同じ屋根の下に住んでいた。だが、彼らとの関わりを一切拒否した彼は、ただの1度も正餐に同席しなかった。年に3度、クリスマス、復活祭、聖ジョアンの祝日の礼拝だけは、ほぼ強要されるような形で礼拝堂に行き、2階のギャラリーに座った。

 4人の子供たちは、見る度に大きくなっていた。アントニアはことさら目立った。たった1人の女子だったから。遠目でしか見なかったが、カルルシュそっくりの漆黒の髪が忌々しく、関わりたくなかった。

 子供たちのうち、長子のアルフォンソと24は、ただの1度も近寄ってこなかった。23は、1度だけヴァイオリンを聴くために居住区の外で立っていたことがあるが、彼が冷たくあしらったので、2度とは近づいてこなかった。

 だが、アントニアだけは違った。彼がピアノを弾いているときに、ジョアナに鍵を開けさせて居住区に入り、1階にまでやって来たのだ。もちろん彼は追い返そうとした。だが、彼女は「聴きたいの」一点張りで出て行こうとしなかった。

 それが何度か繰り返され、彼は無視を決め込むことにした。下手に騒ぎ立てて、カルルシュやマヌエラまで居住区に入ってこられては迷惑だったから。

 ところが、1か月ほど経った頃、メネゼスが彼に新たな問題を持ち込んできた。アントニアが彼からピアノを習いたいと希望しているというのだ。他の教師を雇えと断ったが、アントニアはしつこかった。それで、彼は引き受けた。必要以上に厳しく当たれば、甘やかされた娘などすぐに音を上げてやめるだろうと思ったからだ。それが4年も続いてしまった。

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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(9)哭くアルペジオ -2-

『Filigrana 金細工の心』の9回目「哭くアルペジオ」の2回目です。

22は12年前、彼が新しい住まい『ボアヴィスタ通りの館』に遷されて半月ほど経ったある日のことを思い返しています。

しつこさに根負けして、それまで4年ほど、彼がピアノを教えていた、カルルシュとマヌエラの娘アントニア。ようやく逃れられたとホッとしていたのに、彼女は諦めていなかったようです。



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Filigrana 金細工の心(9)哭くアルペジオ -2-

 2週間前に、この役割は終わったはずだった。彼はこの『ボアヴィスタ通りの館』に移されたのだ。

 24年間も居住区に閉じ込められたあげくに、用済みとばかりに追いやられることには腹が立った。だが、自由に外には出られなくとも鉄格子の嵌まっていない住まいはありがたく、彼は心穏やかに暮らすつもりだった。少なくともあの一家にもう会わずに済むことが何よりも嬉しかった。

 それなのに、この午後、アントニアはこの館にまでやって来て、レッスンを続けると宣言した。彼は苛立った。

「私はもう、お前たちとは関わりたくない。これまでは、同じ屋根の下にいたのでしかたなく見てやったが、これからは違う。ピアノを続けたければ、他の教師を呼ぶようにお前の両親に頼め」

「他の先生なんてまっぴらよ。私は叔父様に習いたいの。叔父様より上手な《星のある子供たち》なんていないもの」

「教師なんて誰でもいいだろう。その程度で」
彼は、生意氣なアントニアのプライドを壊すためにあえて見下した態度をとった。

 彼女は、めげなかった。持ってきた楽譜を取り出すと、厚かましくも彼のピアノの譜面台にそれを置いた。
「ベートーヴェンの『月光』を弾きたいの」

「弾けるか。まずはまともに音階が弾けるようになってからいえ」
「ハノンの音階も、ツェルニーも、十分やったでしょう。そろそろ、ちゃんとした曲を教えてください」

 その言い方が、彼の癇に障った。
「音階や練習曲と馬鹿にしているが、お前のは、聞くに堪えない」
「そんなはずないわ。つっかえたことはないし、ちゃんと練習しているもの」

「つっかえないだけでは、音楽とは言えない。お前は片手でも完璧に弾けていない。両手では言うに及ばずだ。5分も弾かないうちに、もう手首が揺れてくるし、速さを変えるとどんどん崩れる。調を自在に変えることもできない。生意氣なことを言って好き勝手に弾きたいなら、ペコペコしてくれる他の教師に頼めばいいだろう」

「やるわ。ちゃんと練習しますから、これからも教えて。毎週、ここに来て習ってもいいでしょう? ハノンの40番、次までに完璧になるように、練習してきますから」

 彼は、怒りで震えた。強情な娘だ。私はお前たちになんか、関わりたくないといっているのに。
「無駄だ。ハノンだけじゃない。ツェルニー50番がまともになるまでは、絶対に教えない。帰れ」
「帰らないわ。今ここで弾きます。聴いていて教えてください」

「ふざけるな。お前の氣まぐれになんか付き合えるか。お前は、才能も心もないあの2人の娘だ。いくら教えたって、お前がまともに弾ける日など来ない。弾きたければ、勝手に弾け。満足したら帰れ」

 腹立ち紛れに言い放ち、彼は部屋を出た。

 彼女がハノンの40番の音階練習を順番に始めたのが聞こえたが、背を向けて自室に向かった。数十分でなんとかなるような課題ではない。自分でも意地の悪いことをいっていると思った。

 アントニアの弾く音階は、2階の彼の自室にも響き続けた。彼は、不正確で乱れのある指使いを聴き取り、鼻で笑った。完璧どころか、我慢ができる程度の演奏すらできないだろう。

 あの2人のただひとりの娘として、そして、ドラガォンのインファンタとして甘やかされてきた娘だ。完全に無視されることなど1度もなかったに違いない。20分も弾けば、モラエスあたりがやめるように提案し、すごすごと帰って行くだろう。

 彼は、手に入れたばかりの小説を読み始めた。午後の間に読み終えるだろう。文字を追うが、内容がいつものように頭には入ってこない。4分の1ほど進んだところで、彼は小説を読み続けるのを諦めて、栞を挟み本棚に戻した。

 アントニアは、まだしつこく弾き続けている。指使いがずいぶんと安定してきている。だが、まだまだ、到底満足できる状態ではない。彼は立ち上がり、本棚から画集を選び、またアームチェアに戻った。

 時おり、聞こえてくる音が途切れた。モラエスと話しているのだろう。彼は、階下で動きがあるのではないかと期待するが、やがて再び新しい練習曲が聞こえてくる。

 なんてしつこい女だ。彼は、自分がそうではないようなことを考えたことに対して自嘲する。

 彼もまた、頑固だった。音をあくまでも無視し続けた。

 夕方になれば、諦めてドラガォンに帰るだろう。これ以上、こうしてただ音階を聴いているのは耐えがたい。ひどい苛立ちと頭痛を抑えるため、バスルームにある戸棚へ向かい、めったに使わない鎮静剤を取りだした。これを飲んで寝てしまえば、もうあの音階に悩まされることもなくなる。私が寝ている間にあの娘は帰り、もう2度と煩わされることはなくなるだろう。

 彼は、薬を水で流し込み、ベッドに横たわった。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(9)哭くアルペジオ -3-

『Filigrana 金細工の心』の9回目「哭くアルペジオ」の最後です。

このエピソード、最初はハノンの音階だけを使って書いたのですけれど、後にツェルニー50番の最終曲が一番イメージに合ったので、変更しました。ピアノ曲としての難易度はものすごく難しいというわけではないようですが、それでも簡単じゃなさそうですよね。あ、音大受験レベルだそうです。ということは、アントニアのレベルもそのくらいってことかな?

さて、今年の小説更新は、これが最後です。今年も最後まで読んでくださり、どうもありがとうございました!



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Filigrana 金細工の心(9)哭くアルペジオ -3-

 頭が重い。最後の記憶をたぐり寄せ、暗くなるまで眠り続けていたことを理解した。彼は、ゆっくりと身を起こし、服装を整えた。なんてことだ。もう9時過ぎだ。そんなに寝てしまったのか。だが、あのツェルニーは?

 部屋を出ると、すぐにモラエスが上がってきた。
「メウ・セニョール。お目覚めですか」

「アントニアはまだいるのか」
「はい」
「まさか、あれからずっと弾き続けているのか」
「はい」
「なぜ止めなかった」
「お止めいたしました。それに、あなた様がお休みになっていらっしゃることも申し上げましたが……」

 頑としてやめなかった。そういうことか。
「食事はどうしたんだ」
「いらないとおっしゃいました。ドロレスはまだおりますので、すぐに用意させますが」

 彼は、立ち止まり、この屋敷のすべての使用人が振り回されていたことに思い至った。
「すまない。アントニアに何か簡単なものを頼む」

 それから、彼はサロンに向かい、扉を開けた。アルペジオは、一瞬やんだが、すぐに続けられた。長時間弾き続けたせいで、彼女の姿勢は崩れ、震えていた。しかし、それはもう彼女が「たかが練習曲」と名付けていたものとはかけ離れ、苦しみや慟哭を表現する音色になっていた。彼女の顔は泣いていなかったが、音色は哭き叫んでいた。囚われ決して出て行くことのできない絶望を載せて弾いた彼自身の音色に負けないほど強く想いを訴えかけていた。

「もういい。アントニア。十分だ」
彼女は、ゆっくりと手を動かすのをやめた。彼はピアノに近づいた。青ざめた少女の顔を見た。頬に涙の筋が見える。先ほどまでの我の強さは引き、表情には哀しみだけが強く表れていた。

 彼は、初めてきちんとこの少女の顔を見たと思った。カルルシュとマヌエラからそれぞれ受け継いだ形質ではなく。彼らへの怒りと憎しみゆえに目を背け続けてきた、2人とは同一ではない1人の人間の顔を初めて見つめた。もう4年も近くで見てきたのに、まったく氣がついていなかったのだが、この娘はとても美しいのだと初めて認識した。

「……よくなった。次回から『月光』をはじめよう。今日は、もう十分だ」
「はい」
予想に反して素直に返事をしたので、彼は内心ほっとした。

「もうこんな時間だ。ドロレスが、簡単なものを用意してくれるから食べなさい。その間に『ドラガォンの館』から運転手に迎えに来てもらうように手配しよう」
彼がそう言うと、アントニアは困ったように言った。

「今晩は、カヴァコは非番なの。明日早朝になんとかって司教を空港へ迎えに行くから」
入ってきたモラエスは、食堂の準備が整ったことを告げ、アントニアの言葉を引き継いだ。
「至急、他の者を手配させます。この時間ですから、非番の者はもう酒を飲んでしまっているかもしれません。少々お時間をいただきます」

「別に、地下鉄に乗って帰ってもいいのよ」
「とんでもありません。そういうわけには」
 
 彼は、モラエスとアントニアのやり取りを聴いて嘆息した。この館や『ドラガォンの館』の敷地内に入る許可のある者は限られている。現在ここにいる者で運転免許証を取得できるのは《監視人たち》の黒服であるモラエス1人だ。しかし、モラエスにはインファンテである彼を監視する義務がありすぐにここから離れることはできない。インファンタであるアントニアを1人地下鉄で帰すわけにもいかないので、使用人の誰かが同行し、またここに戻ることになるのだろう。彼の午睡のせいで、どんどん話が複雑になっている。

「アントニア。お前は、今晩帰宅しなくては困るのか」
彼は訊いた。

「いいえ。明日の午後に戻れば十分だけれど……」
アントニアは意外そうに答えた。

「では、モラエス。今夜はこの館に泊める手配をしてくれ。部屋ならいくらでも余っているのだから」
彼がそう告げると、モラエスは安堵の表情を見せ、アントニアは先ほどの様子が嘘のように喜びを見せた。

 食堂には、2人分の食事が用意された。2人は向かい合って座った。モラエスがヴィーニョ・ヴェルデの瓶を持って近づいてきたとき、彼はいつものように頷き、グラスに注いでもらうのを待った。それから、自分1人ではないことを思いだし戸惑ったように訊いた。
「酒はもう許されているのか」

 アントニアは、首を振った。
麦酒セルベッサ は許されたけれど、ワインは16歳になるまでダメなの。あと半年待たなくちゃ」

 彼は、モラエスに顔で指図した。モラエスは、彼女に好みの飲み物を訊いた。

 すべてのやり取りが、彼にとっては初めての経験だった。カルルシュがマヌエラに宣告してから、彼はずっと1人で食事をしてきた。召使いたちの形式的な質問に答えることはあっても、共に食事をしたり館に滞在したりする者のために、彼が判断をする必要は1度もなかった。

 詳細はすべて使用人たちがよくわかっている。どのような料理を出すか、どの部屋を準備しどう必要なものを揃えるか、彼が考える必要はない。アントニアの滞在を『ドラガォンの館』に報告することも言うまでもなくモラエスがやってくれる。だが、それでも、現在この館の主人に当たる存在が自分なのだと、彼は初めて認識した。それは、囚われ人でしかなかった2週間前とどれほど違った立場だろうか。

 アントニアの全身から喜びがあふれていた。先ほどの絶望的な音色との強烈な対比だった。どれほど冷たくあしらわれても、彼女は諦めなかった。『ドラガォンの館』では居住区に押しかけ、この館にも押しかけた。しかし、彼女に入り込めるのは、ピアノの前に座るときだけで、レッスンやスケジュール以外の話題をしたこともなかった。

 また、両親やなくなった祖父がどれほど辛抱強く待ち、正餐に出てくるように頼んでも決して同席することのなかった叔父が、はじめて一緒に食事をした相手が自分なのだという誇りも感じ取れた。

 それからアントニアは、時おり『ボアヴィスタ通りの館』に泊まるようになった。たとえば、近くのカーサ・ダ・ムジカ演奏会があったのでという理由で、今日は泊まるというような連絡があった。『ドラガォンの館』も遠くないのだからそんな必要は全くないのだが、この館は彼の持ち物ではないので、とくに異は唱えなかった。

 そのような時には、当然のように一緒に食事をするようになった。当主夫妻は、彼らと完全な断絶状態にある彼とごく普通の関係を保てる存在に娘がなったことを歓迎し、彼女の『ボアヴィスタ通りの館』滞在を決して止めなかった。

 18歳になり、Pの街にある6つの屋敷のうちのどこに住むか選択の自由を与えられたインファンタ・アントニアが、この屋敷に住むことを選んだときも、誰1人として驚かなかったし反対もしなかった。それは、彼自身も同じだった。

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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そういえば、紹介していなかったですね。下の動画がツェルニー50番作品740です。
一応、最終曲から再生するようにしてありますが、興味のある方ははじめから聞くことも可能。


Czerny Carl - The Art of Finger Dexterity 50 Studies for Piano op. 740 complete
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(10)迷宮

昨年末に一時休止した『Filigrana 金細工の心』の連載再開、10回目「迷宮」をお送りします。

はじめにお断りしておきますが、今回の更新、おそらく読んでくださる方にはドン引きされると思います。だから、開示をダラダラ引き延ばしていたわけではないんですけれど……。第1作のヒロイン、マイアはお子様だったのでこういう展開は全くなかったんですけれどねぇ。



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Filigrana 金細工の心(10)迷宮

 わずかな軋みが、彼の前頭葉に刻み付けられている。それは過去に確かに耳にしたものであるが、記憶の音なのかそれとも現在響いているものなのか、彼は確認したくなかった。

 あの時、アントニアは19歳だった。彼女がいつからその悪夢に迷い込んでしまったのか、彼は知らない。ただ、その夜、彼はその軋みで目を覚ました。好奇心など起こすべきではなかった。使用人たちが全て去り、誰もいないこの館の夜の時間、それから3千以上の夜を、いや、これからどれほどになるかわからぬ夜を、許されぬ幻影に苦しめられると知っていたら、彼は何も聞かなかったことにしてそのまま眠りについただろう。

 どこからか聴こえてくるのかを想像することは容易かった。若い娘にも生命の営みに関する衝動があることくらい知っていたし、そのままにしておけばよかったのだ。けれど、彼は足音を忍ばせて、彼女の部屋の前まで行ってしまった。そして、漏れてくる彼女の悩ましい声を耳にしてしまったのだ。アントニアは、彼を呼んでいた。

 その衝撃に、彼はしばし立ちすくんだ。それから、黙って踵を返した。だが、アントニアの部屋から漏れてくる声は突然止んだ。

 その夜のことを彼は口にしなかった。アントニアも話題にしなかった。けれど、それを秘め事にしてしまって以来、2人の間には従叔父と従姪の関係だけではなく、後ろめたく苦しい感情が常に流れることになった。彼は、アントニアが彼に対して何を願っているのかを知ってしまった。そしてアントニアは、それが一時の夢物語であるとも、新たに愛する男が出来たとも語る事はなかった。それどころか、次から次へと《監視人たち》が持ってくる、青い星を持つ貴公子たちとの出会いを片っ端から断った。

 彼の夢を支配していたのは、それまでマヌエラ1人だった。人生の中で唯一手が届きそうだった女神。彼女を腕の中に抱き、その柔らかい唇を夢中で吸った記憶、肌に触れることもなく、欲望を受け入れてもらうこともなかった彼女との愛の営みの続きを、彼は夢の中で幾度も続けた。

 格子の向こうから横目で眺めた彼女の腹が、少しずつ膨らんでいった時、彼は憎しみと嫉妬に苦しみながらも、夢で続けている彼の愛の衝動が彼女を孕ませているという想いからも自由になれなかった。アントニアは、そうして生まれてきたマヌエラの娘だった。現実には、憎み続けたカルルシュの血を引いた女であり、その一方で、彼の幻影の中での彼自身の娘でもあった。

 だが、その夜から、彼の夢は乱れた。彼の女神は、彼の愛し続けたマヌエラは、その柔らかい金髪と灰色の瞳で優しく彼を愛撫していたはずなのに、時には黒髪で彼を締め付け、挑むようにその水色の瞳で覗き込む。それがマヌエラではないと意識にのぼっても、彼はその夢から離れることができなかった。

 目が覚め、汗を拭き、シャワーで穢らわしい夢を洗い流す。普通に立って生活している時には、彼の夢はこのようにおぞましい罠は仕掛けてこなかった。目の前にいる美しい娘は常に彼の従姪であり、愛する女の娘だった。たとえ、彼を見つめるアントニアの水色の瞳に、叔父に対する愛をはるかに超えた強い想いを感じても、彼の心は動かなかった。

 それは、アントニアが若いからではなかった。その事を今の彼は、痛いほどわかっている。マヌエラ1人を憎みつつも変わらずに愛しているからでもない。ひとつの愛を信じる事のできた数ヶ月前に彼は戻りたかった。

 カルルシュがこの世を去った後も、彼がマヌエラを愛しその手を求める事は許されなかった。黄金の腕輪を嵌めていない男であれば、彼女の2人目の夫となる事が許されるが、彼はインファンテだった。そして、マヌエラだけでなく、どの黄金の腕輪を付けた女も、たった1人の《星のある子供たち》である男としか関係を持つ事を許されない。それが宣告1つで子供を産む事を強制され続ける悲劇から《星のある子供たち》である女を守るドラガォンの掟だった。

 彼が望めば、おそらくドラガォンはありとあらゆる彼の好みそうな《星のある子供たち》である女たちを彼に引き合わせただろう。そして、彼は、カルルシュの実の父親がそうしたように、次々と無垢な娘を楽しんでは放り出す事も許されたはずだ。だが、彼はそれを望まなかった。マヌエラにこだわったまま、1人でこの歳まで過ごした。血脈をつなぐ事を拒み、ただの1人の女にも触れようとしなかった。

 それなのに、マヌエラを失って以来はじめて興味を持ち、心と体の両方を得たいと願った娘もまた、1度《星のある子供たち》に選ばれた、彼が触れてはならない女だった。しかも、我が子であってもおかしくないアントニアよりもさらに若かった。

 ライサ・モタに惹かれている事に氣づいた時、彼はひどく混乱した。それが単なる欲情の対象ではなく、恋をしているのだと認めざるを得なくなったので、身勝手で残酷な己れに身震いした。彼のアントニアの想いに応えるつもりのないことに使ってきた理由は、全く意味をなさなかった。
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【小説】Filigrana 金細工の心(11)『Canto de Amor』 -1-

『Filigrana 金細工の心』の11回目「『Canto de Amor』」をお送りします。

自分でも反省しているんですが、この作品、時系列が前後に動きすぎ。起点は1つなんですけれど、多くのエピソードが過去の回想でなり立っているせいで、読者の方を振り回すことになってしまいました。で、今回発表する部分もそうで、アントニアがまだ少女だった頃の話です。彼女が頑固にピアノを弾き続けて泣いたエピソードと、成人となりちゃっかり22との同居を決定した時期の間の話です。

長めなので2回に切りました。



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Filigrana 金細工の心(11)『Canto de Amor』 -1-

 11年前のことだった。24が閉じ込められた年の初め。彼女は、その時17歳だった。まだ『ドラガォンの館』に住んでいた若きアントニアは、ギターラの響きに誘われて、しばらく23の居住区の前に立っていた。

 彼が、かつての叔父のように、格子の向こうに閉じこめられてから2年近くが経っていた。もともと家族にも使用人にも打ち解けなかった23は、閉じこめられその抵抗を封じられた事でさらに自分の殻に閉じこもるようになっていた。アントニアは、出してほしいと必死に訴えていた彼への助けになろうとしなかった事への後ろめたさもあって、晩餐で見かける時もほとんど目を合わさないようにしていた。

 ただ、愛すべき弟24が彼を茶化した発言をした時だけは、隣で静かに嗜めた。24は、天使のように笑って「ごめん、もうしないよ」と言うので、彼女はその愛らしさにすぐに許してしまった。それに彼女は、24も第2次性徴期がきたら23と同じ運命になる事を知っていたので秘かに心を痛めていたのだ。

 23が家族の中で1人だけ隔離されている事への心の痛みは、その時には緩和されるだろうと考えていた。けれどその数年間が、心を開く相手もいない23にとってどれほど過酷な地獄だったのか思い至るには、当時のアントニアはまだ若すぎた。23が表現しているのは、彼女が心惹かれていた叔父の言葉にしない叫びと同じものだという事にようやく氣がついたばかり、そんな時期だったのだ。

 家族の中で、22に近づけるのは、アントニア1人だった。それも、彼が望んだからではなく、彼女の強引な好意の押し付けに屈する形で、彼女が側にいる事を許可した、それだけだった。叔父が館にいた時に無理にピアノのレッスンを受けさせた延長線で、アントニアは週に2度か3度、『ボアヴィスタ通りの館』へ通っていた。

 『ドラガォンの館』から出たにも関わらず、彼女から解放されなかった事を彼が嘆息したのか、それとも使用人以外の家族との縁が切れなかった事にホッとしたのか、叔父の乏しい表情から読みとる事はできなかった。だが、アントニアが2つの館を行き来して、その消息を伝える事は、叔父に会う事を拒否されている両親たちを安堵させた。22のわずかな変化、健康状態、それにどのような暮らしをしているのか、彼らは《監視人たち》や召使いからの報告以外でも知る事ができたから。

 だが、アントニアは、自分の行動があやふやであった己の心を、引き返せないところまで押し進めてしまった事を感じていた。ある種の同情、弟を救えなかった事に対する贖罪、両親と叔父との確執への好奇心、それら全てを超越する感情に彼女が堕ちていったのは、正にこの時期だったのだ。

 思えば、子供の頃から惹き付けられていたのはやはり、格子の向こうから響いてくる楽の音だった。いま、弟が響かせている、強く心に訴える叫びのような音色だった。この子はいつからこれほどの音を出すようになったのだろう。アントニアは訝った。ギターラを習いはじめてまだ1年と少ししか経っていないはずだ。

「ドンナ・アントニア?」
振り向くと、そこに立っていたのはジョアナだった。
「お入りになりますか?」

 彼女は、1度首を振った。けれど、思い返したように、ジョアナを見つめて言った。
「ええ。お願いするわ」
ジョアナは、黙って鍵を取りに行くと解錠してアントニアを入れた。それから再び鍵を閉めて頷いた。彼女は小さく礼をすると、階下へと降りて行った。

 ギターラの響きは、近づくことでずっと大きく華やかになった。けれど、そのどこかに隠しようのない痛みが溢れている。インファンテだから。もちろん、それだけではないだろう。だが、特殊な境遇は彼の想いを研ぎすました。1人で世界と折り合いを付けることを、彼に強要した。それがこの響きをもたらすのだと感じた。

 彼女は、まるで初めて見た知らない人のような心持ちで弟を見た。子供の頃は、それでも一緒に遊んだことがあったように思う。ただ、彼女はいつも愛らしく甘えてくる24と一緒に居て、ほとんど会話もしようとしないもう1人の弟のことは、考えることすらまれだった。

 音が止まった。23はアントニアを見ていた。訝っているのだろう。彼女自身にもよくわからなかった。どうしてここに来ようと思ったのか。
「続けて……」

 彼は黙って続きを弾きだした。それは、シューベルトの『エレンの歌第三番』、『シューベルトのアヴェ・マリア』として知られる曲だった。叔父のヴァイオリンと合わせるために、アントニアが『ボアヴィスタ通りの館』でのレッスンに通いだして直に習った曲だ。難しくない伴奏にも関わらず、叔父は簡単には満足してくれず、彼女は悔しさに何度も泣いた。だが、最終的にお互いに満足のいく演奏をした時、彼が初めてアントニアに笑いかけてくれた思い出の曲でもあった。口元をほころばす程度と言った方が正しいわずかなものであったけれど。

 弾き終わっても、彼女がものも言わずに瞳を閉じていたので、しばらく間をあけてから彼は最近よく練習していた『Canto de Amor(愛の歌)』を弾きはじめた。アントニアが自分に用があるのではないらしいと判断したのだ。

 けれど、短いその曲が終わると彼女は、目を瞑ったまま言った。
「恋をしたこと、ある?」

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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23が弾いていた曲はこちら。

Carlos Paredes - Canto de Amor

こちらは、ギターラバージョンが見つからなかったのでクラッシックギターバージョンで。

Ave Maria - Schubert (Michael Lucarelli, Classical guitar)
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(11)『Canto de Amor』 -2-

『Filigrana 金細工の心』の11回目「『Canto de Amor』」の後半をお送りします。

アントニアが17歳(つまり23は16歳ですね)の頃の回想の続きですね。23のギターラ、『愛の歌』という有名な曲を聴いて、「恋をしたこと、ある?」と訊いたのが前回の更新でした。



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Filigrana 金細工の心(11)『Canto de Amor』 -2-

 アントニアの問いに、弟は黙り込んだ。彼女ははっとして、瞼を上げた。自分のことにばかり意識がいっていたが、いつもひとりでいる23には、酷な質問をしてしまったのかと思ったのだ。

 だが、弟は、彼女をしばらく見つめた後で、意外な返事を返してきた。

「恋なのか、わからない」
「わからないって、どういうこと?」
「友だちのことを、とても大切に想っているだけなのかもしれない。よく夢にも出てくる」

「夢? 普段見かけるんじゃなくて?」
「この屋敷の中にはいない」
「いない? 想像の女の子? それとも雑誌や映像で見ただれか?」
「そんなんじゃない。それに、どうでもいいだろう? 俺は、ドラガォンが命じたままにここにいるし、何もしていない。そんなことを聞き出すために、わざわざ入ってきたのか?」

「そうじゃないわ。でも、ギターラの響きが、とても優しいだけでなくとても悲しく響いたから。私の心を代弁してくれるみたいで、もっと聴きたくて」
「……。恋に悩んでいるのは、お前なのか?」

 23にストレートに訊かれて、アントニアは戸惑った。ほとんど口もきいたことのない弟と、こんな話をするとは思ってもいなかったから。けれど、今、抱えきれないほどにまで膨れ上がっている彼女の重荷を分かち合ってもらえるのは、この弟しかいないとどこかで直感が告げていた。それで、ため息をつくと頷いた。

「あなたと違って、私はもっと自由なのに、どうしてこんなことになってしまったのかしら……」
「こんなこと? 《星のある子供たち》じゃない男?」
23が訊いた。アントニアは、彼が何を言っているのか一瞬わからなかった。けれど、すぐに彼の推測が至極まともだと氣がついた。

「だったら、まだよかったんだけれど」
「なぜ? 《星のある子供たち》なら、ドラガォンがいくらでも後押ししてくれるだろう? お前は、この館でも外でも好きな所に行けるんだし。それとも父上や母上が反対するような男なのか?」

 アントニアは、顔を手で覆い、震えだした。反対どころの次元ではない。彼は、近親者であるだけではない。母親のかつての恋人であり、憎みながらも今でも一途に想っている男なのだ。両親どころか、誰に打ち明ける事もできない。誰かに助力を求める事もできない。

「すまなかった。立ち入りすぎた」
23の謝罪を聞いて、彼女ははっと顔を上げた。弟は、恥じ入るように顔を背けていた。

 アントニアは、彼を混乱させてしまったのだと思った。こんな所に入り込んできて恋の話などをすれば、彼は話を聴いてもらいたいのかと思った事だろう。それなのに、何も言おうとしなくて、かえって彼に罪悪感を植え付けてしまったと。彼は、家族に頼られて、打ち明け話をされた事などなかっただろうから。

「そうじゃないの。ごめんなさい。私にもわからない。でも、わかってもらえるのはあなただけだと思ったの」
「24ではなくて? あんなに仲がいいのに」

 アントニアは、首を振った。
「あの子は、とても明るくていい子だけれど……」
「?」
「時々思うの。あの子は、私の事には興味がないんじゃないかって」
「なぜ?」

「あの子自身の幸福と楽しみに直結していない事には、すぐ興味を失ってしまうのね。話していても、急に話がそれてしまったり、そんなことよりって言われてしまったりするの。だから、深い事、哲学的な事、どうしようもない事などは、あの子に話しても、何の答えも返ってこないの」

 23は、肯定も否定もしなかったが、そのことで彼もそう思っているのだとわかった。
「アルフォンソは?」
「彼はダメよ。いつどんな形で、お母様やお父様、それにメネゼスたちに伝わってしまうかわからないし。それに、彼には話を聴く時間なんてないもの」

 彼は、自嘲するように笑った。確かに23は、いつも1人だから秘密が漏れる心配もないし、時間もたくさんあった。

「でも、だからここに来たわけじゃないわ。同じ音だと思ったから」
「何と?」
「叔父さまの出す音と」

 23は、瞳を閉じた。そして、記憶をたどっていた。
「よく階段に隠れて聴いた。すごい音だった。胸がかきむしられるみたいだった。近くに寄って、もっと聴かせてほしかった」
「そうなの?」

 アントニアを上目遣いに見ながら、彼は言った。
「お前が羨ましかった。彼にピアノを教えてもらっていたことが」

「どうして自分にも教えてほしいって言わなかったの?」
「もっと聴かせてほしいと言って断られた。だから、それ以上近づけなかった」

「私も、ものすごく邪険にされて、断られたわよ。でも、めげずにしつこく押し掛けたの。彼は根負けしたんだと思うわ」
「そうか。俺もそういう図々しさを持てばよかったんだな。もう、遅いけれど」

 23の言っている意味が、アントニアにはわかった。彼女は、『ボアヴィスタ通りの館』に押し掛けて行って、またピアノを習う事ができる。けれど、23はここからは出られないのだ。新しい世代のインファンテが同じように閉じこめられる日まで。
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【小説】Filigrana 金細工の心(12)『プレリュード』 -1-

『Filigrana 金細工の心』の12回目「『プレリュード』」です。

今回も冒頭と終わり以外は回想なのですが、わりと最近の話です。第1作『Infante 323 黄金の枷 』をお読みくださった方は、どこの話をしているのかすぐにおわかりになると思います。あの時、外野はこんな風にヤキモキしていた……という話でもあります。

この話も少し長いので2回にわけます。



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Filigrana 金細工の心(12)『プレリュード』 -1-

 季節外れの雪が窓の外を覆った。陽が差してきている。春の雪は儚い。午後には全て消えてしまうだろう。そう思いながら、彼は、冬のはじめの雪の朝のことを思い出していた。

* * *


 その朝、彼がシロティの『前奏曲』を弾いている所に、電話を終えたアントニアが黙って入ってきた。彼は、いつものように曲が終わるまでは振り向かなかった。弾き終えた後も、完全な沈黙が支配していたので、ようやくおかしいと思って彼は振り向いたのだった。
「どうした、アントニア。ドラガォンへ行くのか」

 彼女は、何とも言えない顔をしていた。嬉しそうでもなければ、悲劇的でもなかった。
「行くべきかどうか、わからないわ」

「なぜ」
彼が訊くと、彼女は戸惑いながらソファに腰掛けて、上目遣いに彼を見た。それを彼に告げるのが賢いことなのか訝るように。彼は、特に答えを急がせなかった。だが、新たに曲を弾こうとしなかったので、アントニアは観念して口を開いた。

「トレースが、宣告をしたんですって」

 彼は、黙って姪の顔を見た。不意に、彼の人生を変えてしまった恐ろしい瞬間の記憶が、彼の体の中を通り過ぎた。けれど、それは一瞬のことで、彼自身がショックを受けたと悟られることはなかったはずだ。それから、冷静になって考えた。あの23が、宣告だって? なぜそんなことを。

 アントニアは、ゆっくりと言葉を選んだ。
「昨夜の晩餐で、クワトロがトレースに口論を仕掛けたんですって。あの子が、トレースと一番仲良くしている例のマイアって子に宣告するとほのめかしたので、その場でトレースが……」

 そういうわけか。彼は、頷いた。

「それで」
「1晩経って、どうなったのか、まだわかっていないみたいで」
「正餐の時間になればわかるだろう。それとも、好奇心丸出しでお前が乗り込んでいくつもりか」
「そんなことできるわけないでしょう。あの子に拒絶されたら、トレースはどうなっちゃうのかしら。前よりもひどく引きこもってしまうかも」

「何がどうなろうと、娘は1年間は23の所にいるんだろう。一緒に暮らしているうちに、情も移るだろう。24みたいなことをしなければ」
「トレースがそんなことをするわけはないわ」
「なぜわかる。24があんなことをしたも、お前は最初は信じなかったじゃないか」

 アントニアは、黙ってうつむいた。叔父の言葉は正しかった。

 24は、ライサやその前に一緒になった女性を居住区内の1室に閉じ込め、他の誰かと会話をしないようにしていた。居住区の中は広く、出入り以外の多くのことについてインファンテ自身の裁量が優先されている。入室が禁じられた空間に押し込められ薬物も用いられれば、娘が被害に遭っていることを察知して助け出すことは容易ではなかった。

 ライサのSOSを察知したのは、反対側の居住区にいた23だった。24が窓を閉め忘れ、偶然に彼女の意識が戻った時に、助けを求める声を23が耳にしたことが発端だった。彼は唯一親しく話のできるアントニアに相談したが、はじめは彼女もそれを何かの間違いだろうと決めつけた。多少芝居がかったところはあるが、明るく愛らしい弟がそんなことをするとはとても信じられなかったのだ。

 24に怖ろしい2つ目の顔があることがわかるまでには、さらにひと月以上かかった。ライサが流産をし、処置が必要になったのだ。24はインファンテの存在を世間から隠すことを示唆して、巧みに居住区内での看護を主張したが、23の話を思い出したアントニアからの進言を受けたアルフォンソは、彼女を入院させた。数ヶ月もの間、精神を病むほどの虐待が見過ごされていたことが明らかになり、ドラガォンの中枢部はおののいた。

 ライサは、『ボアヴィスタの館』預かりとなり、1年以上の療養を経てから、腕輪を外されて実家に戻った。こんなことは2度とあってはならないことだが、絶対になくなるとは誰にも言えない。狡猾に歪んでしまった24もまた、非情なシステムの被害者なのだから。

 同じように意思に反して閉じ込められた23が、やはり精神をゆがめられていることも、多いにあり得ることだ。が、ライサの件にいち早く氣づき、彼女に助力を求めたその本人が、同じようなことをするとは思えなかった。それに、アントニアは『ドラガォンの館』でマイアに逢っていた。彼女の勘が正しければ、あれは弟の片想いではなかったはずだ。アントニアは、それ以上語らなかったが、表情はそう主張していた。

 彼は、訝りながら再び『前奏曲』を弾き始めた。アントニアが、傍らに立ち彼の指使いを眺めている。彼は、先ほどと同じように弾こうと意識しながら、そうではないことを感じている。ロシアの作曲家アレクサンドル・シロティがバッハの平均律から前奏曲をアレンジしたロ短調の作品で、原曲よりも憂いを感じる曲ながら、彼は淡々と弾くスタイルを好んでいた。だが、先ほどのニュースが彼の胸の中に、大きな石をそっと置いたようだ。

 ピアノの傍らに立つアントニア。憂いが表現上のものでしかなかった頃、同じ位置に立っていたのはマヌエラだった。30年前の宣告が、彼の人生を変えた。彼の人生は、あの日に終わったのだと思っていた。それ以後は、意義もなく、ただ生きながらえているだけだと。彼女が、別の人生を目指し強い意志と活力で歩み去った後、彼は彼女への想いを音にすまいと心を砕いた。それに成功したかどうか、彼にはわからない。
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【小説】Filigrana 金細工の心(12)『プレリュード』 -2-

『Filigrana 金細工の心』の12回目「『プレリュード』」の後編です。

シロティの『プレリュード』は、1度外伝『プレリュードでご紹介したことがあります。この外伝、今回のエピソード(回想部分)を受ける形で書いたものです。

後半がようやく物語上の『今』に戻ってきたところです。



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Filigrana 金細工の心(12)『プレリュード』 -2-

 あれから、どれほどの時間を鍵盤の前で過ごしたことだろう。歴史が繰り返すように、再び宣告が起こったことを耳にして、彼の心は再び血を流している。だが、当事者だった30年前の激痛とは違い、乾き空になったはずの感情の樽から無理に絞り出されてくる類いのわずかな滲み方だ。そして、マヌエラの代わりに脇に立っているのは、アントニアだ。あの2人の娘であり、かつては歓迎せず、罵倒してでも遠ざけようとした少女。それが、今はこうして傍らに立つことが誰よりも自然な存在になっている。

 彼の人生は、30年前には終わっていなかった。彼の心は、死にはしなかった。憎しみと怒りは彼を縛り続けることはなかった。彼は、生き、夢見、そして、新しく人を愛することすらした。彼は、静かに『前奏曲』を弾き終えると、感銘を受けてこの曲を習いたいと願うアントニアに「いいだろう」と答えた。

 その翌日、日曜日の礼拝を口実にアントニアは『ドラガォンの館』へと出かけていった。宣告がどのような事態を引き起こしているのか、知らずにいるのはたまらなかったのだろう。そして、帰ってくるなり外套も脱がずにサロンへ入ってきて、彼にふくれっ面を見せた。

「なんだ」
「心配して損したわ」
アントニアは、腹を立てているように見えた。

「23の件か?」
「そうよ。馬鹿馬鹿しいったら、ありゃしないわ」

 彼は、従姪が外套を脱ぎ、それを使用人たちに渡してひと息つくのを待った。目の前にコーヒーが置かれると、彼女は再び話しだした。
「あの子ったら、トレースにぴったりくっついて、何をするのも小さな声で質問しているのよ」

「それのどこがいけないんだ。召使いだった子が、いきなりあのような場に座らされたら、戸惑うだろう」
「それは、もちろん、その通りだわ。でも、トレースにナイフの置き方や、ワイングラスの持ち方なんかを指摘されているだけなのに、いちいち嬉しそうにされると目のやり場に困るじゃない」

 彼は、笑った。
「23もうれしそうだったか?」
「彼はあまり表には出していないけれどね。嬉しいに決まっているわよ。なんせこっちは、何ヶ月もずっとあの子のことばかり聴かされてきたんだから」
「そうか。それはよかった」

 形は宣告でも、2人が幸せな形で一緒になれたのならば、言う事はない。彼は、窓辺に立って外を見た。

 まだ子供だった23と、1度だけ近くで話をした事がある。カルルシュの子供時代にあまりにもよく似ていたので、マヌエラの子供たちの中で最も嫌悪感を持っていた。だが、あの子が、おそらく一番自分に近い魂を持っているのだと思った。人の暖かさに飢えながら、それを表に出すことのできなかった少年。彼が奏でた曲に涙を浮かべていた。この子は既にインファンテとしての苦悩を知っていると感じた。

 愛すべき素質をもっと多く兼ね備え、両親や使用人たちに愛される術を熟知していた24は、それが兄と境遇の差を生まなかったことに絶望したのだろうか。いつから彼の心があそこまで歪んだのか、誰も知らなかった。誰もが心を病んでいるのは23の方だと信じていた。だが、不思議なことに23は、今やドラガォンの唯一の救いとなった。

 マイアという娘が『ドラガォンの館』に勤めだしてから状況が一変したのは、アントニアからの報告を聞くだけの彼にもわかった。アルフォンソは病がちで若くとも当主としての風格を備えていた。23はその兄に代わるだけの素質は到底ないし、きちんとした人間関係も築けないと心配されていた。だが、その娘が現れてから彼は目覚ましく変わり、館の使用人たちと話せるようになり、無関心だった外界に興味を持つようになった。アントニアとも音楽のことだけでなく、《星のある子供たち》や《監視人たち》中枢部に関わる話題をも積極的にするようになった。

 アルフォンソが長く生きられないことを、ドラガォンは怖れていた。その後に来る破局を避けようともがいていた。状況は僅か数ヶ月で一変したのだ。何もできない、特別な所は何もないひとりの娘が現れただけで。

 23が道を見つけたことを、彼は心から祝福した。彼が真の幸福を手にしたことも。その一方で、誰にも見せない心の地下水の最も奥に、冷ややかな想いが流れる。僅かな妬み、苦しみ、彼が決して手にすることのできなかったものを、彼の魂の友である従甥がつかんだことを。彼は、マヌエラを得ることはできなかった。彼は、名前を持つことはない。彼は、何かを決定することのできる地位に就くこともない。

* * *


「叔父さま。そろそろ支度をなさったほうがいいわ」
彼はアントニアが側に立っていることに氣がついた。ずいぶんと長い間、想いに浸っていたらしい。彼女は胸に赤い薔薇のコサージュをつけた黒い絹のドレスを着ていた。

「あの日も雪が降っていたなと思ったのだよ」
「あの日って?」
「23が宣告をしたと聞いた日だ」

 アントニアは、少し驚いて彼を見つめた。
「さっき、私もそう思ったわ。あの時は、まだアルフォンソも……」
彼女は、涙をハンカチで押さえた。

「泣くな、アントニア。今日はお前にとっても大切な祝い事のある日なのだから」
彼は、優しく従姪の肩に手を置いた。それから礼服に着替えるためにサロンから出て行った。

 彼は、この館に住むことになってから、2度目に外出することになっていた。サン・ジョゼ・ダス・タイパス教会で行われる、ドラガォンの当主ドン・アルフォンソとドンナ・マイアとの結婚式に招待されているのだ。

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Emil Gilels plays the Prelude in B minor (Bach / Siloti)
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【小説】Filigrana 金細工の心(13)婚儀

『Filigrana 金細工の心』の13回目「婚儀」です。

といっても、めでたい描写はほぼゼロです。ドラガォンの当主の婚儀って、カルルシュとマヌエラ以来ですが、前回も今回もどこかに「まったくめでたくない」人がいて、それでも婚儀を急いで行うのは、そうすることで相手の女性を居住区監禁から解放するためだったりします。今回、婚儀に参列してはいるものの、むしろ墓参のような面持ちで座っているクリスティーナに関しては、ずいぶん前に外伝を書きました。あれは、このシーンを受けての話でした。

さて、そのあれこれからも蚊帳の外にいるのがインファンテたち。それでも列席は強制されています。今回は、いつもの更新字数よりも長いのですが、2回にわけるほどではなかったのでそのままアップしました。



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Filigrana 金細工の心(13)婚儀

 サン・ジョゼ・ダス・タイパス教会は、決して小さな教会ではないが、目を引くほど大きな教会でもない。おそらくこの街を観光目的で訪れる多くの外国人は、その名前すらも知らないだろう。ましてや、平日に多くの参列者もなく行われている結婚式に興味を示す人もない。

 非常に『ドラガォンの館』に近く、司教をはじめほとんどの関係者が《監視人たち》の家系で占められているとはいえ、当主の結婚式をこの教会で行った前例は過去に2件ほどしかない。だが、当主夫人となるドンナ・マイアの義父とその娘たちは、《星のある子供たち》ではない。彼らを招待するとなれば、『ドラガォンの館』の礼拝堂での挙式は不可能だった。

 家族にしてみれば、彼女が半年ほど音信不通になっていたこともあり、さまざまな不安を持っていた。知らせもしないで結婚したといわれれば、不審に思い不要な騒ぎを起こす心配もある。それで挙式には養父一家を招待し、ドンナ・マイアに本当に結婚の意思があることを見せる方がいいだろうというのが中枢組織幹部の判断だった。もちろん、当分家族には会えないことを知っている花嫁もひと目ぐらいは会いたいだろう。

 教会の内部は、白壁と灰色の柱を基調とした質素な作りで、金箔で飾った聖壇以外には目立つ装飾もない。ましてや、足下の大理石が一部新しくなり、そこにラテン語の碑文が彫られていることに目を留める者はほとんどない。だが、今日の結婚式に関わる一族にとって、その四角い大理石は非常に大きな意味を持っていた。《Et in Arcadia ego》。碑文にはそれだけ掘られている。

 本日、結婚式を挙げるのは、ドラガォンの当主だ。当主がどのような容姿を持つ者なのかを知る者はほとんどいない。ましてや、その住まいである『ドラガォンの館』に誰が住んでいるのかを正確に知る者も限られている。中には、生まれてきたことも、亡くなったことも、全く記録に残らぬまま、この世から姿を消す者もいる。

 彼は、アントニアに聞いていたその四角い石の置かれた位置を遠目に眺めた。すぐ横に座っているのが、クリスティーナ・アルヴェスなる女性なのだろう。まもなく腕輪を外されて自由になるという彼女が、再び訪れることができるように、アルフォンソはこの教会に埋められた。

 アルフォンソを最後に見たのも、やはりこの教会だった。彼の父親ドン・カルルシュの葬儀だ。今日と同じように2階のギャラリーに案内された彼は、今日のマヌエラやアントニアが占める、1階の最前列に座るアルフォンソを遠く眺めただけだった。内外からの有力者が参列していたが、だの葬儀ミサが行われただけで、故人との別れや親族のあいさつもなかった。参列者もみなそれを理解しており、ミサが終わった後は黙って立ち去った。

 彼もまた、閉じられた棺と、ヴェールで顔の隠れているマヌエラやアントニア、そしてあまり具合のよくなさそうなアルフォンソに近寄ることもないまま、また車に乗せられて『ボアヴィスタ通りの館』に戻った。

 これが最後かもしれないとは、特に思っていなかったが、再び会うことがあるとも期待していなかった。『ボアヴィスタ通りの館』に遷ってから、カルルシュの家族はそれほどに遠い存在になっていた。アントニアひとりを除いて。

 あの葬儀で2階のギャラリーに座らされたインファンテは3人だった。そのうちの1人は、今日は当主として1階で祭壇の前にいる。もう1人の、『ドラガォンの館』の居住区に残されているのは、いま彼の隣に座っている24だけだ。

 その24が、ペドロ・ソアレスに伴われてギャラリーに上がってきた時、彼はわずかに緊張した思いで見やった。5年前の葬儀の時には、決して感じなかった緊張感。それまでは、奇妙なほど彼自身に似ているとはいえ、全く思い入れのない誰かでしかなかった。かつて存在してもしなくても変わらなかったこの青年は、今は彼がよく知るライサを傷つけた加害者なのだ。

 彼は、不快感が表情に現れないように、骨を折った。その彼の努力に氣付いた様子もなく、24は階下の結婚式を食い入るように見つめていた。

 2階のギャラリーからは、そもそも花婿と花嫁の顔は見えない。彼にとってそれは大して重要なことではない。以前、見ることになったカルルシュとマヌエラの結婚式のように、激情を呼び起こす要素も、関心や好奇心すら彼は抱いていなかった。

 彼は隣に座る従甥が、まるでかつての自分のように憎しみを込めた表情で身を乗りだすのを訝りながら見つめた。マイアという娘に入れあげていたのは23だけで、24の方は未だにライサに執着しているというのが、アントニアから聞いた話だったが、だとしたらなぜ24がこの挙式にこんな表情をするのだろう。

 24は、彼の視線に氣がつき、ゆっくりと彼の方を見た。わずかに間を置いてから、囁くように言った。
「パパ。僕とあなたが、こうしてあいつに正統なる権利を奪われているのを見るのは悔しくないの」

 彼は、その言葉の意味を理解するのに苦労した。
「何の話だ」

 24は、確信に満ちた様子で、顔を寄せさらに声をひそめて続けた。
「あなたは、ママに僕を孕ませた。鉄格子の中に、ママを呼び寄せて。ママは、あなたに抱かれてどんな歓びの声を上げたの。あなたは、何度ママを突いて、僕をママの子宮に送り込んだの」

 彼は、衝撃を受けたが、すぐに従甥の想像の根拠を理解した。それほどに、2人の容姿は似通っていたからだ。彼は、ため息をつくと、囁き返した。
「大した想像力だ。立派な作家になれるぞ。私とマヌエラが逢い引きをできるほど、ドラガォンの《監視人たち》はぼんくらではない。お前と私が似ているのはただの隔世遺伝のいたずらだ」

「恥ずかしがる事も、隠す事もないよ、パパ。ママは、本当はあなたのものだもの。正統なドラガォンの世継ぎであるあなたの。あそこにいるあいつがママを犯して、奪ったんだ。そして、あいつは、僕から、正統なプリンシペから当主の座と自由とライサをかすめとった。花嫁だって。またしてもママを犯すんだ。そして、あいつの汚い精液をママの中に……」

 突如として22が立ち上がったので、控えていた8人の黒服《監視人たち》が身構えた。だが彼は、ベドロ・ソアレスに合図をすると、自分と24の間に座るように言った。もうたくさんだった。

 なぜこれほど壊れるまで、誰も氣がつかなかったんだ。24の精神は、父親と23、それに母親とライサを区別できなくなるほどに歪んでいる。ライサは、この狂った男と何ヶ月も監獄に閉じこめられ、傷めつけられたのか。彼の心は痛んだ。
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【小説】Filigrana 金細工の心(14)私を憎んでください

『Filigrana 金細工の心』の14回目「私を憎んでください」です。

前回のぶっ壊れた24の発言から、22は例の宣告後にたった1度だけマヌエラとまともに会話をしたときのことを回想しています。

今回も、いつもの更新字数よりも長いのですが、3000字なかったので1度でアップしました。



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あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(14)私を憎んでください

 24が夢想したような事は、1度もなかった。もちろん、彼はそれを待ち望み続けていた。マヌエラが、彼への思慕を押さえきれずに戻って来る事を。「カルルシュを愛した事はない、あなただけをまだ愛している」と言ってくれる事を。

 だが、それは彼の望みであって、真実ではなかった。彼女が、彼の許にやってきたのは、たった1度だけだった。瀕死のカルルシュに逢いにきてほしいと懇願したあの日だけ。彼への愛からではなく、夫のために。

* * *


 その2日程前から、『ボアヴィスタ通りの館』は非常に静かだった。召使いたちは当主の容態が非常に悪いと声をひそめて噂し、彼がいることに氣がつくと口を閉じて視線を落としていた。アントニアは朝早くから『ドラガォンの館』に赴きマヌエラに代わり仕事に奔走していた。

 アントニアは、毎晩「とても悪いの」と告げ彼の反応を見たが、彼は「そうか」と答えるだけで特に反応を見せなかった。カルルシュを憎んだことは間違いないし、許したつもりもない。だが、死にそうだからと喜ぶほど人の心のわからぬ化け物に成り下がったわけでもない。それに、容態が悪いのは、それを告げるアントニアの父親なのだから。

 その日も、彼はいつものように規則正しく過ごした。雄鶏の彩色。新しく挑戦していた曲の譜読み。そして、CDでシューマンを聴いた。夕食にもアントニアは戻らなかった。カルルシュを見舞うためにしばらく『ドラガォンの館』に留まるのかと、彼は思った。

 モラエスと若い召使いを残して、他の使用人は退出し、アントニアが戻らぬまま『ボアヴィスタ通りの館』は間もなく完全施錠されるのだろうと考え出した頃、車が到着した。彼もモラエスもアントニアが戻ったのだろうと思ったが、運転手のマリオ・カヴァコが連れてきたのはマヌエラだった。

「ミニャ・セニョーラ!」
「モラエス、ご苦労です。ドイスに話があって来ました。案内してください」

 玄関ホールから聞こえるマヌエラの声を聞いて彼は戦慄した。彼の存在と愛の誓いをゴミ箱に投げ込み、祭壇でカルルシュへの愛を誓って以来、彼女が「ドイス」と口にしたのを聞いたことはなかった。彼女が、いまここにいる。彼はもう居住区の鉄格子の中には居なかった。自らの意思で部屋を出て、階段の踊り場から外套も脱がずにモラエスと話している彼女をじっと眺めた。

 モラエスがまず彼に氣づき、その視線に誘導されてマヌエラもまた彼を見上げた。懐かしい灰色の瞳が、聡明で強い意志を持った視線が彼を捕らえた。

「ドイス」
「何の用だ」
「お願い。私と一緒に『ドラガォンの館』へ来てください」

 彼は、その場に立ちすくんだ。彼女は、そのまま階段を駆け上がった。
「なぜ」
「カルルシュが……うわごとで、あなたを呼んでいます。あの人は、他の何よりも、あなたを苦しめたことを氣に病んでいます。あれから、ずっとです」

 彼は顔をゆがめた。
「だから? 私にあの男の枕元に行き、お前のしたことは大したことではない、私はお前たち2人を祝福しているとでも、言わせるつもりか? お前は、当主夫人ならどんな命令にも従わせることが出来るとでも思っているのか」

「思っていないわ。あなたの憤りも苦しみも、許せない思いも帳消しにしてもらおうとは思っていません。でも、もう1度あなたの笑顔が見たいと、あの人はそれだけを願っているの。あなたの憎しみは、私が生涯1人で引き受けます。だから、だから、どうかカルルシュに逢ってあげて。あの人の魂を救ってあげて」

 マヌエラは、あいかわらず美しかったが、動きも振る舞いも全く違っていた。かつての誇り高く朗らかな、彼が愛し憧れた娘はもうどこにも居らず、彼の前に立つのはドンナ・マヌエラという名の、別の男の妻だった。
「お前は、あいつのためなら、私に懇願するんだな」

 彼は、マヌエラの願いをはねつけた。カルルシュと和解する最後のチャンスも自らの手で取り去った。そんな必要がどこにあると。

 マヌエラは、彼がどうしても説得に応じないとわかると、肩を落として帰って行った。

 カルルシュが亡くなったと知らされたのは、その翌日だった。本当にこの世からいなくなってしまったのだと理解するのは困難だった。喜びなどは、一切わき起こってこなかった。胸の奥に冷たい風が吹いた。父親が死んだときの感覚と似ていた。だが、あの時はカルルシュが当主になるという事実への憤りの方が大きく、その風を感じる余裕はほとんどなかった。

 アントニアは、その日のうちに目を赤くして戻ってきた。
 
 再び彼女に会うのは、1週間後だと思っていた。カルルシュの葬儀がサン・ジョゼ・ダス・タイパス教会で行われる。彼に参列を拒否する自由はなかった。彼の父親のドン・ペドロの葬儀の時と同様に、2階のギャラリーに座り儀式を眺め、母親の隣で涙を流す彼女を見いだすのだろうと。

 戻ってきたアントニアは、悲しみを大きく表そうとはしなかった。それをすれば、私が皮肉を言うとでも思っているのか。言うかもしれないが。彼は空虚な慰めの言葉をかけなかった。

「昨夜も戻れなかったし、今夜も戻るのが遅くなってごめんなさい」
「父親が死んだんだ。私は今夜お前が戻るとは思っていなかった。好きなだけあちらにいればいいだろう」

 アントニアは、彼の瞳を見つめてはっきりと言った。
「私は、叔父さまを1人にしたくなかったの」

「なぜ」
「叔父さま。お父様はあなたに酷いことをしたわ。あなたが私の両親や私たちを許せないことを、私は100%理解できるの。でも……それでも、あなたの心が今夜は痛むにちがいない、私はそう思ったの」

 彼は、皮肉たっぷりに反論しようと思った。だが、できなかった。

 アントニアの言っていることは正しかった。彼の故人に対する憎しみは、すでに枯渇していた。カルルシュに「お前をもう憎んではいない」と微笑んでやりたいとはみじんも思わなかったが、彼の心の中にある想いには、彼の人生の希望の光を奪い取った男への怒りはみつからなかった。その代わりに地下水のように暗く静かに流れているのは、彼に甘えてどんな時もぴったりと寄り添ってきた、あの心身共に弱く俯きがちな黒髪の少年への憐憫と、逝ってしまったことへの寂寥感だった。

 彼は、そっけなく身を翻すと、居間に向かいピアノの前に座った。アントニアは、少し遅れて入ってきて、扉の近くに佇んでいた。

 彼は、長い間、座っているだけで何も弾かなかった。それから、モーツァルトの「ああ、お母さん、あなたに申しましょう」変奏曲の主題の右手だけを弾きだした。

 アントニアは、左手は幼かった頃の父親が弾いたのだろうと感じた。とてもゆっくりとした演奏のあと、彼は左手も使って次々と変奏曲を弾いた。おそらく父親には弾けなかったであろう。だから、父親はきっと聴き入って賞賛していたに違いない。

 アントニアの想像は正しく、彼はカルルシュと仲の良かった頃のことを思い浮かべながら弾いていた。黒髪の少年の長かった苦しみは、終わったのだと思った。

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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モーツァルトの「ああ、お母さん、あなたに申しましょう」変奏曲は、一般には「キラキラ星変奏曲」として知られています。


Mozart: Twelve Variations in C on "Ah, vous dirai-je Maman", K.265
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【小説】Filigrana 金細工の心(15)《悲しみの姫君》 -1-

『Filigrana 金細工の心』の15回目「《悲しみの姫君》」です。

ようやく最後の重要人物が登場します。といっても、今年の「scriviamo!」で発表した外伝『酒場のピアニスト』でもう登場させてしまったので、ご存じの方も多いかと思います。第1作『Infante 323 黄金の枷 』では、伝聞で書かれていたライサとマリアの船旅の話も少し出てきます。

今回は、2回に切り、その前編です。



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Filigrana 金細工の心(15)《悲しみの姫君》 -1-

 サン・ベント駅の有名なアズレージョを見上げて、チコはジャケットの襟をきちんと直した。ここに、この街にあの人は住んでいるんだ。

 この街に個人的に来るのは初めてだった。1度だけ演奏会のためにバスに乗って来たことがある。あの頃、チコことフランシスコ・ピニェイロはこの国で3番目に大きい交響楽団の団員だった。

 劇場の改修だの、ユーロ危機だの、いろいろな理由が重なってチコはその職を失ったが、1番の原因はコンサート・マスターのセクハラを事務長に進言したことだと今でも思っている。あの2人は同じ穴の狢だと後から教えてくれたのはファゴットのジョアンだった。

 今は、豪華客船の楽団員として、港から港へと流れる生活だ。最初は面白かったけれど、港というのはどこも似たような感じで、世界旅行も5度も行けばもうお腹いっぱいだ。だが、代わり映えのしない船の中に居続けるよりはマシだと思って、港の酒場に行く。お客さんたちは何をしても構わないが、夜に仕事のある団員たちが泥酔するわけにはいかないので、酒場で紅茶を注文していやな顔をされたりする、そんな生活だ。

 でも、前々回の旅だけは別だった。あの人と一緒に世界一周をしたのだから。

 チコが噂の《悲しみの姫君》のことを認識したのは、船がこの国を発ってから2週間以上してからだった。1000室、定員2000人を収容する世界でも有数の巨大客船で最も高価なスイートは、チコと同じ国出身の若い姉妹が使っていた。

「へえ、あの特別スイートにね」
ベッドルーム、リビングルーム、ダイニングルーム、ジェットバスとシャワーつきのバスルーム、それにやたらと広いバルコニーのある一番いい客室だ。
「あれで世界一周となると、いったいいくらするんだ?」
「35万ユーロかな」
「はあっ? 100日で?」
チコの給料では30年飲まず食わずで働いても手が届かない。

「しかもそれだけじゃないんだ。この船の予定していた航路にお前の国は入っていなかったんだ」
「え?」
「しかもPの街は首都ですらないじゃないか。あの2人を乗せるためだけに、航路が変更されたんだよ」

「何者なんだ?」
チコはオットーに訊いた。

「わからない。お前こそ知っているかと思ったよ」
「同国者だからって? 知らないよ。名前もごく普通だな」
ライサとマリア・モタ。どこにでもいるような普通の名前だ。貴族や王族の子孫にも思えない。

 2人は対称的だった。背はマリアの方がわずかに低い。2人とも金髪だったが、ライサが柔らかく色の薄い北欧によく見られるタイプなのに対して、マリアはブルネットの混じる硬質の濃い金髪をシニヨンにしていた。選ぶ服もマリアはシャープでどちらかというとキャリアウーマンのように見えるものを好んだが、ライサはふんわりとしたワンピースを身に着けていることが多かった。

 客室が客室なので、メイン・ダイニングでの夕食にはイヴニング・ドレスで現われるることが多かったが、マリアは暖色系や黒で現代的なスタイルのドレスを好み、ライサは寒色系か薄いグレーでオーソドックスなスタイルが多かった。同様に、マリアはハキハキと他の乗客たちと会話をし、親交を深めていた。ライサは、マリアが無理に会話の輪に連れて行ったときだけ話をしたが、それ以外はほとんど黙っていた。

 その佇まいがあまりに違っていたので、いつしかスタッフの間ではマリアのことを《Lady Alegria 陽氣な姫君》、ライサのことを《Lady Triste 悲しみの姫君》と呼ぶようになっていた。

 モーツァルトの『セレナーデ第10番』、通称『グラン・パルティータ』を演奏した時、会場にはいつものビッグ・バンド音楽を聴きにくるよう客はほとんど来なくて、最上階のレストランでタキシードやイヴニング・ドレスで食事をしているような上流客がほとんどだった。それはつまり、客席はあまり埋まっていなかったということでもあった。

 《陽氣な姫君》マリアはそれまでも何回か見たことがあったが、ほとんど部屋から出てこないと噂されている《悲しみの姫君》ライサがはじめて演奏会にやってきたと、ホルンのオットーが耳打ちしてくれて、チコははじめてその姿に目をやった。

 濃紺のサテンのドレスに身を包み、薄いクリームのオーガンジーのショールを羽織ったライサは、まるで雲間からいま顔を出した深夜の月のようだった。案内係は当然のようにライサとマリアを一番いい正面の席に案内した。マリアは既に親しくなった他の乗客たちと楽しげに挨拶していたが、ライサは目を伏せてわずかに頭を下げ、それから座ってプログラムを熱心に眺めていた。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(15)《悲しみの姫君》 -2-

『Filigrana 金細工の心』の15回目「《悲しみの姫君》」の後編です。

おそらく大半の方はお忘れかと思いますが、ライサが興味を持ったモーツァルトの『グラン・パルティータ』こと『セレナード第10番 変ロ長調』は、ライサに22がCDで何度も聴かせた曲です。それまで必要最小限しか客室から外に出てこなかったライサは、これをきっかけにチコらクルーたちと交流を深めていくことになるのでした。



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Filigrana 金細工の心(15)《悲しみの姫君》 -2-

 その日、控え室が他のグループで塞がっていたため、チコは普段は舞台に持ち込まないケースを演奏中椅子の下に置くことになった。案の定、演奏後に忘れて退出してしまった。それで、観客たちがいなくなった頃を見計らって舞台に取りに戻ってきた。

 誰もいないと思って入って来たが、舞台の側に見覚えのある濃紺のドレスの後ろ姿を見つけて驚いた。《悲しみの姫君》だ。こんなところでどうしたんだろう。チコの入って来た物音に振り向いたライサは、戸惑ったように目を伏せた。チコは、やはり忘れ物かと思い、丁寧に訊いた。
「あの、何かなくされたのですか」

「いえ、そうではなくて……」
ライサは非常に落ち着きなく下を向いていたが、やがて、顔をあげて訊いた。
「あの、今日のと同じブログラム、またやる予定があるのでしょうか」

「え? 『ナハトムジーク』ですか?」
「いえ、そちらではなくて……」
「『グラン・パルティータ』ですか。演奏時間が50分と長いので観客受けによると言われていますけれど……」
「そうですか……」

「お好きなんですか?」
そう訊くと、ライサははっとして、それから小さく頷いた。

 チコのような一介のクラリネット吹きは、出番の合間にそっと華やかな乗客たちの社交を眺めるだけだった。ライサもマリアも、それから他の乗客たちも会話をすることもなければ、2度と逢うこともないはずだった。それなのにチコはこれからライサを訪れようとしているのだった。『グラン・パルティータ』が取り持ってくれた縁だった。

* * *


 チコは携帯電話を取り出した。アズレージョに満ちた広いパティオは、忙しく歩くビジネスマンや、物珍しそうに写真を撮る観光客でごった返している。チコは小さな呼び出し音に耳を澄ました。電話が繋がった。チコはドギマギしながら名前を呼んだ。
「ライサ?」

「残念ながら、私はマリアよ。あなたは?」
「あ、すみません。僕、チコ・ピニェイロです」
「チコって、あの船に乗っていた、クラリネットの?」
「ええ、そうです。あの時は、どうも。ライサはいますか」
「待っていて」

 それから、マリアの「ライサ! 船の上のボーイフレンドから電話よ」という声が聞こえて、彼は真っ赤になった。ボーイフレンドだなんてとんでもない。でも、絶対に手の届かない雲の上の人でもないということが嬉しかった。

* * *


 演奏仲間のオットーやポール、ジュリア、それからそのボーイフレンドでサブチーフパーサーのニックといった親しい仲間たちを誘って、自由時間にライサたちの特別船室を訪れるようになったのは、『グラン・パルティータ』の演奏会から間もなくだった。ライサはプールやカジノなどに出かけることもなく船室に閉じこもることが多かったので、マリアが心配してライサが唯一興味を持った演奏家たちに声を掛けたのだ。

 寄港地で素早くスーパーに走り、様々な食材を買い込んでは、特別室のキッチンで郷土料理を作り、土地のワインで乾杯をした。マリアは時々ルームサービスもとってくれた。
「あの堅苦しいメイン・ダイニング、私も疲れるの。だから、何回かに1度は、ここであなたたちと食べる方がいいわ」
マリアがウィンクをした。

バルコニーで潮風に当たっているライサに、チコはシャンパンにオレンジジュースを加えたミモザを作って持っていった。
「ありがとう」
「僕たち、騒がしすぎるんじゃないか。君のようなお姫様には下品さに我慢ならないこともあるんじゃないかい」

 ライサは首を振った。
「私はお姫様じゃないわ。この船室にふさわしいレディでもないの」

「でも、どうやって、こんなすごい特別室の代金を?」
ライサは答えなかった。海をみながらため息をついた。
「海外旅行をしてみたいと言っただけなの」

 詳しい理由を訊かないでほしいという響きがあった。チコはライサを困らせたくなかった。それで、海を眺めるライサと同じ方を、どこまでも続く大海原と遠くにぽつりと浮かぶいくつかの雲を黙って眺めていた。

 それは心地よい沈黙だった。ライサがいつもよりリラックスしているのがわかった。それから何かを考えているのが、おそらく大切な何かを思いだしているのを感じた。

「ねえ。チコ。また吹いてちょうだい。あの、アダージオを」
「アダージオって、『グラン・パルティータ』の?」
「ええ。もう一度聴きたいの」
「じゃあ、クラリネットを取りに行かなくちゃ」
「え」

 ライサはとても戸惑った顔をした。
「ごめんなさい。今すぐじゃなくていいの。わがままを言ってごめんなさい」

 チコは目を伏せたライサの横顔を見つめた。潮風が彼女の細い髪をゆっくりと泳がせていた。透き通るような肌はゆっくりと暮れはじめた夕陽の色に染まっていく。

「ライサ。それはわがままじゃないよ。僕は嬉しいんだ。君を笑顔に出来るものがダイヤモンドや毛皮だったら、僕にはどうすることも出来ない。でも、僕のクラリネットが君を幸せにできるなら、何時間でも吹くよ」

 ライサは不思議そうに彼を見た。
「あなたは、どうしてそんなに親切なの?」

 チコは笑った。
「なぜかな。僕だって、誰にでも親切なわけじゃないんだよ」
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【小説】Filigrana 金細工の心(16)再会 -1-

『Filigrana 金細工の心』の16回目「再会」をお送りします。

客船の楽団で働く青年チコは、故郷に戻ったつかの間の休みにPの街を訪れ、ライサに「街の案内をして欲しい」と電話で頼みます。もちろん案内というのは口実でライサに会いたいだけです。

いつもはだいたい2000字で切るのですが、内容的に中途半端だったので、もう少し長く、2回にわけることにしました。



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Filigrana 金細工の心(16)再会 -1-

 アリアドス通りを歩きながら、チコは空を見上げた。白い立派な建物が紺碧の空を強調している。なんて青さだろう。所どころの街路樹に咲くマグノリアの白と紫の花を見て春が来たなと思った。

 昨日の電話で約束を取り付けられたことが夢のようだった。でも、僕はこれからライサと逢うんだ。そう思うだけで駆け出したくなる。船旅の時と違って、ライサには断る何百もの方便があったはずだ。そもそも、たまたま同じ船に乗っていたというだけの誰かと逢わなくてはならない理由なんかない。逢いたいと思わないのならば。

 電話でのライサは、チコの連絡に歓声をあげたわけではなかった。だから、15分ほど話した後で、滞在中によかったら逢えないかと切り出したとき、よい返事をもらえるとは思っていなかった。

「1度、この街をゆっくり見てみたいと思っていたんだ。その、君が嫌でなかったら、案内してくれないかな」

 ライサは、少し考えてから言った。
「それはマリアの方が適任だと思うけれど……マリアは、平日は仕事で忙しいわね。私は、あまりちゃんと案内できないと思うけれど……」

「ツアーコンダクターの役割を期待しているわけじゃないよ」
「わかったわ」
その言葉を耳にして、彼はガッツポーズをして飛び上がった。

 彼女の氣の変わらぬうちに今日逢う約束を取り付けて、チコはアリアドス通りをこうして歩いているのだ。

 まだ若いマグノリアの木が、白と紫の花を咲かせていた。その若木の前に、アイボリーのワンピースを着たライサが立っていた。船の上で見たときよりも、長くなった髪を後ろで縛っているが、ワンピースもその金髪もゆらゆらと風に踊っていた。

「ライサ!」
駆けてくるチコを見つけて、ライサは笑顔を見せた。控えめで俯きがちな《悲しみの姫君》がそこに立っていた。

「ごめん。待たせてしまったのかい?」
「氣にしないで。早く着きすぎただけなの。まだ、約束の時間にもなっていないわ。久しぶりね、チコ」

「ああ、ライサ。久しぶりだ。今日は、時間をとってくれて、ありがとう」
チコは、右手を差し出した。ライサはびくっと動き、それから右手を自分の顎の下あたりに持ち上げて握ったり開いたりの動作をした。

 チコは、急いで右手を引っ込めていった。
「ごめん。すっかり忘れていたんだ、氣にしないでくれ」
 
 ライサは、船の上でも握手ができなかった。最初にオットーが自信満々に右手を差し出したのだが、彼女は銃でも向けられたかのように怯えて妹マリアの後ろに隠れたものだ。

 マリアが、あとで説明してくれた。
「ライサは、トラウマがあって男性には触れられないの。だから握手もキスも出来ないわよ」

 ライサは、チコの顔を見て、心からそう言っていることを見て取り、ホッとして頷いた。
「ごめんなさい。あなたと握手しても、悪いことが起こるわけじゃないって、頭ではわかっているんだけれど」
「うん。わかるよ。だってそうじゃなかったら、君は今日、ここに来てくれなかっただろう。さあ、行こうよ」

 チコに促されて、ライサは彼をまず河岸に連れて行った。坂道を降りていくあいだにいくつかのアンティークショップがあった。大きな手巻き式オルゴールを見て店主と3人であれこれと話した。

 ライサは表紙にクラリネットの絵の描かれた古い楽譜を見つけてチコに教えた。彼は驚いて手に取った。
「これ、モーツァルトの協奏曲だ。やあ、ずいぶん古いみたいだけれど、いい状態だね。買おう。『グラン・パルティータ』はないかな?」

 ライサははっとした。モーツァルトと聞いて、彼女もまた『グラン・パルティータ』のことを思い浮かべた。

 船の上でチコに奏でてもらった旋律はすぐに、彼女にとって聖域であるあのサロンにライサを導いた。レースのカーテンが揺れる窓辺、そして、アームチェアに座る人がクラリネットの音色に聴き入る姿。

 ライサが、『ボアヴィスタ通りの館』の主人セニョール を思い起こすとき、まず浮かび上がってくるのはアームチェアのひじ掛けに置かれた腕や組まれた足だ。それから、斜め上からピアノを弾く彼の後頭部や肩、そして魔法のように動く指先を見たことを思い出す。長いあいだ、彼女は恩人の顔を正面から見据えることができなかった。恐ろしい悪魔と非常によく似た端正な顔をライサはひどく怖れていた。

 それがいつからだろうか、遠くから、もしくは彼がドンナ・アントニアと言葉を交わしているとき、つまり彼女に意識を向けていないときに、彼の姿を見ずにはいられなくなった。白髪の交じりはじめた明るい茶色の髪も、海のように青い瞳も、演奏しているときに時おり浮かべる微笑みも、彼女を選んだもう1人の囚われ人とは何の繋がりもなくなり、御しがたく香り高い秘密を彼女の心の中に花開かせた。

 あるとき、ライサはその感情の意味を悟って愕然とした。ずっと悪夢から救い出してくれた恩人ゆえの崇拝だと思っていた。そして、主人セニョール 、つまり彼女とは違う世界と立場に居る人として尊んでいるのだと思っていた。年齢も離れすぎていて、考えたこともなかった。けれども、それは疑う余地のない感情だった。ライサが、これまで1度も感じたことのない、理性を無視して心の奥から沸き起こる甘い感情。

 ライサは、24を愛したことが1度もなかったのだと、ようやく氣がついた。恋が、人を愛することが、これほどまでに理屈も理性も超え、条件や成就の可能性といったファクターも全て忘れさせ、ただ泣きたくなるほどの愛おしさと強い心の痛みを呼び起こすものだとは知らなかった。

 いつだったか、彼はリストのエチュードを弾きながら、彼女を見て笑顔を見せた。一度も見たことがなかった少年のような明るい笑顔。いつもは、彼自身のために弾いている曲を同席を許されて聴かせてもらっていると恐縮していたが、その時だけはどうしてだか、彼が自分のためにその曲と笑顔を贈ってくれたと強く感じた。

 それはライサにとってこれまで感じたことのない高揚した想いだった。天からの贈り物、愛の至福。後に、そんなはずはないと心の中で否定したけれど、それでもあの時間の優しい暖かさが、いまでもライサをこの世界に留まらせている。崩れて風にさらわれそうになっている彼女を、彼の記憶だけが生かし続けている。

「逢いにきたりして、迷惑だったかな」
チコは、ぽつりと言った。ライサは、はっとして彼を見た。

「ごめんなさい」
どれだけ長いあいだセニョール322の思い出に浸っていたのだろう。彼女は小さなレストランの隅のテーブルにチコと向かい合って座っていた。何十分にもわたり、チコの問いかけにあやふやに答えて続けていたことを恥じて、彼女は頭を下げた。
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【小説】Filigrana 金細工の心(16)再会 -2-

『Filigrana 金細工の心』の16回目「再会」の後編をお送りします。

世界一周をする客船の楽団で働く青年チコは、故郷に戻っているわずかな時間にライサにプッシュをかけています。本人も成功するとは思っていないのですが、意外とトントンと話が進んでいる模様。

船酔いの話がでてきていますが、酔いやすい人は客船勤務は大変でしょうね。私は大きい船ならたいてい大丈夫ですが、1度だけひどい揺れでめちゃくちゃ酔いました。降りるときに船員に「この船、いつもこんなに揺れるんですか」と訊いたら「この航海がどんなにヤバい状態だったか、知らないってのはよかったね」と言われてしまいました。大時化だったらしいです。



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Filigrana 金細工の心(16)再会 -2-

「あやまらなくていいよ。ただ、わからなくなったんだ。君たちが『Pの街に来るときは連絡して』って言ったのが、社交辞令だったのなら、ノコノコ本当にやってきた僕が馬鹿だったんだよね」

 ライサは首を振った。その台詞を口にしたのはマリアだったけれど、昨夜電話でチコと話したときも、ライサは決して迷惑だと思わなかった。むしろ、嬉しかったのだ。あの旅を最後に彼女の生活から消えてしまった『グラン・パルティータ』の旋律が戻ってきたようで。

「社交辞令じゃないわ。昨日、渋ったのには理由があるの。私自身の欠陥のことを思ったの」
「それは?」

「その……、私ね。友達がいないの。学校の同級生や仕事の同僚のように、話すべき事があって話すのは大丈夫なんだけれど、そうじゃない人と、どうやって会話を続けたらいいのかわからなくて。だから、1人であなたに会ってどうしていいのかわからなくて」

「でも、ライサ、君は知っているよ」
「何を?」
「会話の続け方。船の上でも、今も、僕と普通に話しているじゃないか」
「……。話しているけれど、退屈させていない? それに、さっきみたいに、つい他の事を考えてしまったりして、呆れていない?」

 チコは、口元を横に引っ張ったような一文字にして、目を細めた。

 ライサは、不思議な女性だった。驚くほど綺麗なのに、いつも伏し目がちだ。何か失敗をしでかすのではないかと、びくびくと怯えている。それでいながら、チコに対しては飼い主にすり寄る仔犬のような信頼と親しみに溢れた目つきをする。だから、彼ももしかすると脈があるのではないかと思ってしまうのだ。

「退屈していないし、呆れてもいない。僕は、もう一度君に逢えて嬉しい。あの船旅が終わったら、それっきりになってしまってもおかしくなかったんだし」
「楽しい旅だったわね。ご飯を作ってもらったり、UNOをしたり、夕陽を見ながら演奏を聴いたり……」

 ライサの語る船旅の想い出は、チコとその仲間が、ライサたちのスイートに来て楽しんだときの事ばかりだった。VIPとしてもっと素晴らしい経験がたくさんあったはずなのに、彼女はその事をさほど楽しんではいなかったようだった。

「君は、本当にどこかのお姫様ではなかったんだ」
「違うわ。それにふさわしいことをしてきたわけでもないの。マリアがいなかったら、きっと部屋から一歩もでなかったでしょうね。でも、もう元のなんでもない身分に戻ったの。だから、こういうあまり高くないレストランしか来られないの」

 チコは、嬉しそうに笑った。テーブルも椅子もプラスチックで出来ていて、テーブルクロスは紙だ。その上に紙の広告入りランチョンマットが載って、紙ナフキンに包まれた軽いカトラリーが置かれている。それでも、明るい陽射しの中を浴びて、目の前のライサが穏やかな笑みを浮かべているだけで、チコにはここが天国のように感じられるのだった。
「僕は、こういう方が居心地がいいんだ」

 野菜のスープ、鱈と玉ねぎを卵とじにしたものとサラダの定食は、チコの財布にもストレスを与えなかった。

 チコは、この3か月間、船の上で体験したおかしな話を聞かせた。ライサははじめは控えめに、それからだんだんと打ち解けて笑うようになった。

「旅が好きだから客船の楽団員になったの?」
ライサは訊いた。

「いや。生活のためさ。でも、衣食住が約束されて、世界を見て回れる経験は悪くないと思って募集に飛びついたよ。船酔い体質だと向かないけれど、幸い僕はけっこうな揺れでもへっちゃらだったんだ。そういえば、君も船酔いには強かったよね」
「そうね。船に乗ったのは初めてだったのよ。だから、悪天候の日にマリアが具合が悪いって言い出したことの理由がしばらくわからなかったの。……つまり、私も船の上で仕事をするのに向いているってことかしら?」

 チコは、目を大きく見開いてライサを見た。
「もしかして、客船で働くことに興味があるのかい?」

「わからないわ。考えたこともなかったもの。でも、私は何の演奏もできないから、楽団員は無理ね。船室の清掃やレストランの従業員なら、経験もあるしできるかもしれないわ」
ライサの答えにチコは椅子から転げ落ちるかと思うくらい驚いた。35万ユーロの船室に泊まっていたご令嬢が、客室清掃やレストラン勤務の経験があるなんてことがあるだろうか。

 ライサは、チコの反応を見て、笑顔を見せた。
「お姫様じゃないって、言ったのに」

「うん。僕にとっては、お姫様ではない方がありがたいけれど……。でも、まさか君がそんな仕事にまで興味があるなんて、考えもしなかったんだ。もし、冗談じゃないなら……」
「もちろん冗談でいっているんじゃないわ」

「そうか。それなら真面目に答えるけれど、あの船は、常にいろいろな職の空きがあって募集を掛けるんだ。客室関係だけでも本当の清掃員から、洗濯関係、それに彼らを管理する人までいろいろさ。本当に興味があるなら、君に求人を知らせるよ。陸地でもいろいろな仕事を探しているだろうけれど、その中の1つの選択肢として考えてみるといい。僕としては、また一緒に船で過ごせたら嬉しいけどなあ」

 夢中になって語るチコに、ライサは静かに頷いた。

 あの船旅の間、ライサの人生の時間は止まっていた。次のステップに向かって行動を起こす必要はなかった。陸地にたどり着かなければ何もできないことが誰の目にも明らかだったから。ライサは、マリアやチコや、そしてチコの仲間たちと過ごした日々を懐かしく思いだした。新しい何もかもが怖いライサにとって、あの場は少なくとも『知っている空間』で、勇氣を振り絞れば入っていけるかもしれないと思えた。

 それに、チコがいる。彼は、かつては全く知らない誰かだった。でも、クラリネットで『グラン・パルティータ』の、あの旋律を奏でてくれた。その時から、彼はライサにとって信頼できる存在になっていた。彼女が惹かれてやまないたったひとりの人に繋がるとても大切なファクター。腕輪と縁のない世界に、ライサはこれまでそんな人を持たなかった。これからもそう簡単にそんな人には会えないだろう。

 腕輪と縁のない世界の大海で、行く当ても泳ぎ続ける自信もないライサには、チコの提案はまるでそっと投げてもらった浮き輪のように感じられた。

 けれど、まだその浮き輪にすぐに掴まるべきかどうか、ライサにはわからなかった。心の中に水色の壁の邸宅、2階の窓が見える。揺れるレースのカーテン。ライサが、既に何度か足を運んでいるボアヴィスタ通りの一画から見える光景だ。開け放たれた窓から、ピアノやヴァイオリンの音色が漏れてくる。

 チコは、夕方、彼女をアパートの階下まで送った。
「今日は、本当にありがとう。船の求人のことは、陸にいるうちに調べてみるよ。……それとは別に、その、もし嫌でなかったらだけど、明後日か明明後日、また会ってくれないかな」

 ライサは、何も答えずに瞬きをした。チコは、断られる前にと、急いで付け加えた。
「その……カーサ・ダ・ムジカに行ってみたいんだ。もしかしたら、案内してもらえるかと思って」

 ライサはわずかに間を空けてからつぶやいた。
「カーサ・ダ・ムジカ……ボアヴィスタ通りの……」

 それからの不思議な間に、チコが他にどんなことを言ったらもう1度逢ってもらえるだろうかと考えていると「わかったわ」という声が聞こえた。
「え?」
「私も中は入ったことがないのだけれど、それでもよかったら……時間はあるから私はいつでも……」
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【小説】Filigrana 金細工の心(17)《Et in Arcadia ego》 -1-

『Filigrana 金細工の心』の17回目「《Et in Arcadia ego》」をお送りします。

視点はアントニアに戻っています。前当主でありアントニアたちの父親であったカルルシュの実父はインファンテ321でした。この神経質で嫌な感じのインファンテについては既に何度か記述していますが、今回はカルルシュの実母も登場しています。

今回も切る場所で悩み、結局、2回にわけることにしました。



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Filigrana 金細工の心(17)《Et in Arcadia ego》 -1-

 ガレリア・ド・パリ通りから狭い路地を入ると、一番奥に陽の差さない小さい家がある。アントニアがそこへと歩いていくと、入口にパイプ椅子を置いて座っていた黒服の男が立って、頭を下げた。

「ご苦労でした、ソアレス。もう、終わったの?」
アントニアが問いかけると、ペドロ・ソアレスは、無言で頭を縦に振った。それから、先頭に立って、建物の中に彼女を案内した。

 入口はとても狭く見えたその家は、中に入ると本当は3軒分を1つにした広い空間であることがわかる。奥に中庭があり、そこには太陽の光が降り注いでいた。

 70を越したと思われる黒服の婦人が立っていて、足元の四角い石を眺めていた。その女は泣いている様子も、悲しんでいる様子も見せなかった。

「ごらんよ、アントニア。これっぽっちの石。まるで何もなかったかのようだ」
老婦人は、かがんで四角い石にそっと触れた。

 アントニアもまた、大きな悲しみは感じなかった。ここにいる老婦人が自分の実の祖母で、石の下に眠っているのが、祖父であることも、大きな感慨を呼び起こさなかった。彼には、嫌悪感すら持っていた。彼が石の下に眠ったことで、厭わしく思う罪悪感から解放されたのだ。

 だが、この四角い石、ひとりの人間が生きていたことすらかき消してしまう、ドラガォンの残酷な慣習に、彼女は悲しみを感じた。だがそれは、亡くなった祖父のためではなく、彼女の愛する男のための悲しみだ。こんな風にどうしようもなく、残酷なまでにエゴイストであることは、紛れもなく祖父の濃い血を受け継いだ証拠なのだと感じた。

 アントニアは、祖母アナ・トリンダーデとはじめて逢った、10か月ほど前のことを思い出した。

 その日、アントニアは、インファンテ321を訪ねた。ドラガォンの当主の名代として定期的に行われる訪問でもあったが、見舞いでもあった。彼は死にいたる病にかかっていた。医者の往診を受け可能な限りの処置はしてもらっても、決して入院することはない。彼には名前がなかったからだ。存在しないはずの男の住む家を訪ね、アントニアは「お祖父さま、ご機嫌はいかが」と呼びかけ「いいわけはないだろう」と悪態をつかれた。

 その男が今は亡き父カルルシュの本当の父親だった。

 半世紀前、先々代当主ドン・ペドロの妻ドンナ・ルシアと、インファンテ321に選ばれたアナは、ほぼ同時期に懐妊した。予定日はルシアが1ヶ月近く早かったにもかかわらず、先に産まれたのはアナの子供だった。

 アナが早く産氣づいたのが偶然だったのか、それとも祖父21がそうなるように何かをしたのか、アントニアは知らない。わずか数日違いで生まれてきた2人の男子。1人は伝統に基づき、5つ星のついた腕輪と名前をもらいドン・カルルシュとなった。そして、ドンナ・ルシアが産んだ息子は、4つ星の腕輪を持つインファンテ322となった。

「儂の人生で一番愉快だったのは、あいつらの子供が、儂と同じように閉じこめられることになったことだ。そして、あの傲慢な女が、館を追い出されたこともな」

 祖父は、神経質に高い声を出して笑った。アントニアは、黙って目を伏せた。ルシアが、我が子として育てることになったカルルシュを憎み続けたこと、そして、第2次性徴を迎えた22が閉じこめられるのに堪えられず、カルルシュを亡き者にしようとしたこと、それが発覚した時に当主だった夫は、妻を退けねばならなかったこと。その不幸な争いが、本来仲のよかった2人の少年を引き裂いてしまったこと。そして、生涯をインファンテとして過ごすことになった22の苦しみ。全てを知り、2人の苦しみを身近に見て、自らも運命に絡めとられているアントニアには、それは少しも愉快なことではなかった。

 だが、どうすることができただろう。愛する弟24が壊れていくのを姉としてどうすることもできなかったように、祖父が人格者になれなかったのもまた、インファンテとして産まれた不幸のせいでもあるのだから。

「アントニア。お前にこの女性を紹介したことがあったかね」
あの時、祖父は訊いた。てきぱきとコーヒーと菓子を用意して運んできた老婦人は、はじめて見る顔だった。腕輪をしているので、《監視人たち》が新しく雇った使用人なのかと思っていた。

「この女は、アナだ。カルルシュを産んだ後、館を出ていったお前の祖母だ」
老婦人は黙って微笑んだ。

「お祖母さま?」
アントニアは、驚いて老婦人を見つめた。

 子供が産まれた後、《星のある子供たち》である女には、選んだ男のもとに留まるか、それとも離れて自由になるか決める権利があった。だが、他の《星のある子供たち》を産んだ女と違って、我が子を、つまり星を5つ持つプリンシペであるカルルシュを連れて出て行くことは許されなかった。それでも彼女は出て行くことを望んだのだ。そして、《星のある子供たち》ではないトリンダーデ氏と結婚して幸せに暮らしていると聞いていた。

「そう。幸せな結婚生活でした。子供たちや孫たちにも恵まれました。去年、夫は亡くなりましたがね。半年くらい前に、この方の病のことを聞いて、以来時折、ここに伺うことにしたんですよ」

 アントニアは、瞳を閉じた。我が子の側にいてやらなかったことを責める権利は、自分にはないのだと心の中で呟いた。たとえ館に残ったとしても、彼女がカルルシュを守ることはできなかっただろうから。実の父親はとことん無関心で、実母には見捨てられた。育ての父親は厳しく、育ての母親には憎まれた。そのことがカルルシュを卑屈な男にしたことは確かだが、すべてはアントニアが責めることのできない、それぞれの人生のドラマ上でのことだった。

 歳とって丸くなったとしても、祖父インファンテ321は傲慢、身勝手で、無責任な男だった。同じインファンテの運命を持つ叔父22、そして、アントニアの弟である23もまた、もっと高潔で誇り高く自己克己を怠らない尊敬すべき人格を持っている。過酷な運命は同じでも、育つ人格には差があった。そんな祖父21の下品でわがままな言動を知っているだけに、この男とともに生涯格子のむこうに閉じこめられることを選ぶ女がいるとは思えなかった。

 祖母は、自らの意志で選んだ相手と結婚し、子供や孫のいる幸せな家庭を築いた。もうドラガォンに関わる必要はなかったのに、少なくとも、死を待つだけの幽閉生活を続けるかつての相手に手を差し伸べた。だから、善良で優しい人に違いないのだ。心の中であっても、彼女の決断を裁いてはならない。アントニアは、そう自分に言い聞かせた。
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【小説】Filigrana 金細工の心(17)《Et in Arcadia ego》 -2-

『Filigrana 金細工の心』の17回目「《Et in Arcadia ego》」の後編をお送りします。

アントニアは祖母であるアナと共に葬儀すらもなく祖父インファンテ321の埋葬された場所に立つことになりました。第1作をお読みでない方のために書きますが、存在しないことになっているインファンテたちは、死後この小さな四角い石の下に埋められることになっています。



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Filigrana 金細工の心(17)《Et in Arcadia ego》 -2-

 それから、1年も経たずに、祖父は亡くなった。ペドロ・ソアレスをはじめとする《監視人たち》の報告から、彼らしく、最後まで不満と怒りを周りにぶつけ、傲慢で不幸な日々を過ごし、心の平和を持たないまま逝ったことを知った。祖母アナは、黙々と年老いた病人に寄り添い、彼の放つ怒りと不満の相手をし、最後は他の者たちよりは信頼されて、感謝の言葉も時折かけてもらっていたと聞いた。

 この家を訪れる時にいつも苛立ちを感じた、神経質に高い祖父の声が、今は全く聞こえない。ただ静かな陽の光が、中庭に射し込んでいる。喪服に身を包んだ祖母が触れいてる小さな石には、ラテン語が刻まれていた。《Et in Arcadia ego》(そして、わたし楽園アルカディア にすらいる)。アナグラムにすれば《I tego arcana dei》(私は神の秘密を埋めた)。存在しなかった者が、この石の下に眠っている。

「お祖母さま。心からお悔やみ申し上げます」

 アントニアの言葉に、アナは、黙って首を振った。

「何に対してだい。存在していない者が、もはやスペアとしての意味すらもなくなった者が、それでも生き続けなければならないことが、彼をあれほど苛つかせていたんだ」

 アントニアは息を呑んだ。おそらくその言葉は正しい。祖父は不快に振る舞う以外に存在を主張する術がなかったのだ。

「誰もがホッとしている。お前も、《監視人たち》も、そして私もだ。それでいいのだよ、アントニア。己の冷たさに対しても、システムの非情に対しても『なぜ』と考えてはならない。それは心を落ち込ませるだけだ。アントニア、私たちは、運命を受け入れて、運命と和解しなくてはならない。そうでなければ、私たちの心は苦しみから逃れられないのだから」

* * *


 アナとともに家を出、ガレリア・ド・パリ通りで待機していた車に乗った。それから、祖母を住まいへと届けると、運転手に『ドラガォンの館』へ行くように告げた。「ドン・アルフォンソ」に報告しなくてはならない。いや、報告自体は、ソアレスからメネゼスを通して逐一行われているはずだから、必要はないだろう。だが、祖母アナの言葉は、「トレース」に伝えたいと思った。

『なぜ』と考えてはならない―。
祖母の言葉は、アントニアに重くのしかかる。父親カルルシュや祖父21だけでなく、兄アルフォンソももうどこにもいない。ドラガォンの不調和は、いや、その言葉がふさわしくないとしたら「凪いだ海に立った波」は、いつの間にか始めからなかったかのように均されて見えなくなっている。病弱な当主やトレースはいなくなり、クワトロのもとで苦しんだ女たちもいなくなり、新しい世代の誕生を待つ希望だけが白い泡のように表を覆っている。

 その覆い隠された波の合間に、1つの愛がまた潰されてしまったことについて、アントニアは胸を痛める。あれもまた、ドラガォンの掟に則ったことだった。そうであっても、その決定の裏には自分の存在があり、妹の心を思う亡くなった兄の思いやりがある。残された自分は、その罪の意識を永久に持ち続けるのだろうかと思った。

『なぜ』と考えてはならない―。
もし彼女が、まだ誰からも選ばれていなければ。もし彼が、自分の想いをはっきりと口にしていれば。それとも、側にいるだけでよかったのかもしれない。自分がそうであるように。たとえ手は届かなくても。

 アントニアが、叔父22とライサの間に起きた心の異変を知ったのは、ちょうどアナと初めて逢った日だった。『ドラガォンの館』には、新しい召使いマイア・フェレイラが勤めはじめていて、弟23の様子にも明らかな変化があった頃だ。ライサが24の居住区から救い出され『ボアヴィスタ通りの館』に預けられてから1年近く経っていた。

 車から降りた時に、開けはなれた窓から聴こえてきたピアノのメロディにアントニアは驚いた。優しい旋律は、ずっと禁じられていた曲だった。

 数年前に、リストの『3つの演奏会用エチュード』の第3曲『ため息』を弾きたいと頼んだ時の、彼の苦悩の表情はずっとアントニアの心に刺さっていた。
「だめだ。あれは聴きたくない。2度と弾きたくもない。あの曲の話はしないでくれ」

 彼の見せる冷笑と憎しみには慣れていたアントニアが、まだ1度も見たことのなかった悲痛。すぐにわかった。これは、彼女の母マヌエラとの思い出がある曲なのだと。彼が幸せの絶頂にあった頃、彼が心から愛した女性との時間を呼び起こしてしまう旋律なのだと。

 一体なぜ、この曲を弾いているの、叔父さま。アントニアは、急いで玄関を通り、もどかしげに上着をモラエスに渡すと、階段を駆け上がり、居間へと急いだ。ドアは開かれていて、グランドピアノの前に腰掛けている22の姿が見えた。雪解け水が走りだすように、メロディは彼の指先からこぼれだしていた。優しく暖かく、とても繊細な響きだった。

 彼の表情は穏やかで、微笑んですらいた。その微笑みは時折、ピアノの傍らに立ち、扉に背を向けているライサに向けられていた。彼が女性に対してこんな風に微笑むとは、考えたこともなかった。それに、ライサが、彼女を苦しめた男によく似ているが故にあれほど怖れていた22に、ここまで近づいたのかという驚きもあった。

 この2人は、心を通わせているのだ。出会ってわずか数か月だというのに、アントニアが10年かけても果たせなかった以上に。彼を閉じこめていた、マヌエラという名の黄金の枷は、アントニアがいつかは自分の手で彼を自由にしてやりたいと思っていた牢獄は、自ずから開いて彼を自由にしていた。

 そして、それがアントニアの苦悩の始まりだった。愛する男を喜ばせること。それは彼女がこの10年間ずっと追究してきたことだった。彼女は、たとえどんな小さいことでも彼の願いを叶えたかった。決して自ら口にしない願いを見つけ出し、片っ端から叶えてみせることに、この上なき喜びを抱いていた。彼女は、彼のほしいものを即座に理解し、そして自らの2つの願いに引き裂かれた。
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【小説】Filigrana 金細工の心(18)カーサ・ダ・ムジカ -1-

『Filigrana 金細工の心』の18回目「カーサ・ダ・ムジカ」をお送りします。

話はライサとチコに戻っています。チコはライサにもう一度会ってもらうために、Pの街にある有名な音楽ホールへの案内を頼みました。そして、無事に2度目デートにこぎ着けました。

今回も2回に切ってお送りします。



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Filigrana 金細工の心(18)カーサ・ダ・ムジカ -1-

 その日もまた、素晴らしい快晴だった。チコはドキドキしながら、今度はライサのアパートの前まで彼女を迎えに行った。その一画を見回して、改めて不思議に思う。

 そこはチコに馴染みのある階層の人々が住んでいる一画だ。古い家のタイルは所どころ欠けているし、石畳には安価な菓子の包み紙が落ちている。錆びたバルコニーからはためく洗濯物もくたびれている。少なくともこの一画に住むほかの住人が、豪華客船の35万ユーロの客室に泊まることはないだろう。

 あの船旅が終わりに近づいた頃、ライサに夢中のチコに、仲間のオットーは言った。
「悪いことを言わないから、諦めろよ。多少の格差は愛で埋められるかも知れないけれど、このスイートと俺たちの船室の違いくらい、わかるだろ?」

 だからこそ、この庶民的な一画で彼女が暮らしていることを確認して、彼の心は躍った。諦める必要なんてない。今日だって、彼女は会ってくれるじゃないか。とはいえ、カーサ・ダ・ムジカへ行きたいと彼が言ったときの、一瞬の反応が気になった。時おり心を泳がせいてる彼女の様子は、チコにわずかな不安を抱かせた。

 妹のマリアにすら決して打ち明けないという秘密の向こうに、彼女は心を置いてきている。それが誰か特別な相手でないことを彼は祈った。

「ごめんなさい。待たせてしまった?」
声がして振り向くと、戸口にライサが立っていた。

「おはよう。いま来たところだよ。やあ、その服、船で着ていたね! とても君に似合っていて素敵だと、あの時から思っていたんだ」
それは水色と薄紫の半袖ワンピースで、ライサはその上に白いカーディガンを羽織っていた。

「ありがとう。あの旅で、たくさん洋服や装身具をもらったの。でも、ほとんど使わないし場所もないから大半をマリアが売ってくれたのよ。これは好きだったから残した数着のうちのひとつなの」

 ライサは、地下鉄駅にチコを案内した。タクシーを呼んだりすることがないのも、やはり庶民の感覚からだろう。とても優美な振る舞いと静かなもの言いなので、高価なドレスを身につければどこかの姫君と言われても誰も疑わないが、こうして同じような社会階級の地域で歩いているのも全く違和感がない。むしろ、時おり存在を疑ってしまうほど、この世から身を引いて見える。チコは、彼女が消えてしまうのではないかと、地下鉄の中でも何度もその姿を確かめた。

 もちろん、彼女は消えてしまったりはしなかった。カーサ・ダ・ムジカ駅で降りると、慣れた足取りで地上への出口へと向かった。1度もカーサ・ダ・ムジカに入ったことがないと言っていたが、この駅には慣れているようだ。そういえば通りの名前をすぐ口にしていたなと彼はおぼろげに思った。

 カーサ・ダ・ムジカは少し変わった外見をしているコンサートホールだ。旧市街が19世紀までの伝統的建築を残し、その調和に見慣れた人々には、その不均衡な現代建築は奇妙に感じられる。広い開放的な空間に巨大な四角い岩をドンと置き、その角を誰かが無造作に削り取ったようだ。

 しかし、いったん中に入ると無数の窓から入ってくる光が内部を美しく彩ることを緻密に計算して設計したことに感心することとなる。黄色や白い壁にガラスの間しきりから入り込むさまざまな光が内部を彩っている。日光の強さ、太陽の高度によって光と遊ぶように設けられたいくつものガラスのオブジェにさまざまな表情を見せる。平行でない直線で形成された不安定な空間と階段が続き、別世界に紛れ込んだかのような非現実的な印象を醸し出していた。

「圧巻だな。夜の演奏会のためだけに来たら、この素晴らしい光景は見られなかったな」
チコがいうと、ライサは頷いた。
「そうね。素晴らしいから1度は行ってみなさいとマリアが何度も言っていたわけがわかったわ」

 差し込む光がライサの横顔に当たっている。ワンピースの布の表面は白くぼやけて、彼女が輝いているかのように見えた。もう長いこと足を踏み入れていない、故郷の教会を思い出した。ステンドグラスから入った光が祭壇脇の聖母木像に届いていたのをぼんやりと眺めた幼い日々がそこに戻ってきたかのようだった。

 あの特別客室やシャンデリアの煌めく大広間で見た《悲しみの姫君》と、くたびれた洗濯物がはためく薄暗い街角に住む内氣な女性が、同じ女性だという事実にチコはどこかまだ納得がいっていなかったのだが、今ここに立つライサは、そうした社会的レッテルやいくつもの謎をすべて取り去り立ちすくんでいた。チコが惹かれてやまない、クリスタルガラスのように繊細で透明な彼女の存在感は、彼女がどこの誰かという社会的属性には関わりなかった。

 この人が誰でも構うものか。チコは、胸の奥でそっとつぶやいた。
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【小説】Filigrana 金細工の心(18)カーサ・ダ・ムジカ -2-

『Filigrana 金細工の心』の18回目「カーサ・ダ・ムジカ」の後編をお送りします。

ライサを2度目のデートに誘ったチコ。モデルにしたポルトのカーサ・ダ・ムジカ、まるで宇宙船の中かと思われるような独特の現代建築なのですが、コーヒーを飲んでいるテラスは、ポルトガルの伝統的なタイル・アズレージョが美しい、ほっとする空間になっています。チコは話しながら、ライサについて客船の旅で妹マリアに聞いた不思議な話を想起しています。ちなみに、リスボンの話題も出てきていますが、私はいったことがありません(泣)

このデートの話、まだまだ続きます。



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Filigrana 金細工の心(18)カーサ・ダ・ムジカ -2-

 2人は、上階の明るいテラスでコーヒーを飲んだ。ライサは訊いた。
「首都にも音楽ホールはあるでしょう? こういうホールはないの?」

「そうだね。サン・カルルシュ国立劇場は歴史的建築でもある劇場で格式が高いな。その他に最近はMEOアリーナなどでもよくオーケストラのコンサートをしているよ。まあ、ポップスのコンサートの方が多いと思うけれど。少なくともここのように音楽会でないときにも訪れてみたくなるところではないかな」

 そう言ってから、チコはライサが首都には行ったことがないのだと思い至った。
「サン・カルルシュ国立劇場の客席に座ってあの内装を視界に捕らえながら聴くのも格別だよ。行ってみたらどうだい?」
自分が陸の上に住んでいたらすぐにでも案内するのにと思った。

 ライサは、少しだけ顔を曇らせた。
「素敵だけれど、私は遠くには……」

 その答えの意味がよくわからなくてチコは「え?」と訊き返した。するとライサははっとしてから視線を自分の左手首に移した。チコは、それで船の上でライサの妹が教えてくれたことを思い出した。

「みて、ライサの左手首」
あの時マリアは、ささやくようにそう言った。甲板は室内よりもうるさくて、声はチコにしか届かなかった。

 ライサの左手首には何かで線を引いたような細い痕があった。
「あれね。腕輪の痕なの。日焼けせずに残った肌の色」

 おかしなことを言うなと思った。腕時計をしなくなった人に、そういう痕が残ることは知っているけれど、しばらくすればそこもまた日に焼けて目立たなくなるものだろう。マリアはそんなチコの考えを見過ごしたかのように微かに笑ってから続けた。
「私の記憶にある限り、常にライサには金の腕輪がつけられていたの。子供の頃からずっと」
「つけられていた? つけていたじゃなくて?」

 マリアは、じっとチコを見て、区切るようにはっきりと言った。
「つけられていたの。金具もないし、自分では、絶対に取れない腕輪よ。誰がそんな物をつけたのか、どうしてそれをつけているのかも、ずっと彼女は知らなかったの」

 チコは、マリアに訊いた。
「君のご両親も知らないのかい? 自分の娘に知らないヤツが取れない腕輪をつけたり外したりするなんてこと……」

 マリアは頷いた。
「両親は、私よりは知っていると思う。ライサは養女なの。彼女を引き取ったときにはもう腕輪はついていたし、彼女の成長の過程や、腕輪を交換しなくてはいけないときに仲介者と連絡をとったから。でも、その仲介者は、私の両親にはほとんど何も教えてくれなかったわ。引き取るときに、ライサには国内旅行すらさせないという契約書を書かされて、何年か経ってから両親がそれを変えようと交渉したことがあったの。その直後に、父の会社経営が急激に悪化して、私たちは休暇旅行なんてとても行けるような状況じゃなくなってしまったの。それから、ライサに関することで仲介者に何か文句を言うたびに両親は苦境に陥ることになって、それで2人は抵抗をやめたの」

 チコは、なんといっていいのかわからずマリアを見つめた。マリアはふっと笑った。
「そんな小説の陰謀みたいなことあるわけないって思っているでしょう? そうね。わたしもずっと、ただの偶然かもしれないって思っていたわ。でも、今は偶然だなんて思わない。証拠があるもの」
「証拠?」

 マリアは、大きなガラスの向こうの特別船室を目で示した。
「ねえ、チコ。どうして私たちがこんな豪華客船で旅をできるのか、知りたいって言ったわね。私も知らないけれど、でも、1つだけはっきりしていることがあるの。それは、あの腕輪をつけたり外したりできる人たちが、払ってくれたのよ」

 チコの心は、再び現実、優しく光の差し込むカーサ・ダ・ムジカのテラスに戻ってきた。目の前のテーブルに置かれたライサの左手首には、やはり黄金の腕輪などはついていない。そして、その痕も船の上で見たときよりもずっと薄くなっていた。

「いいえ。そうじゃないわ。もう、行こうと思えば、どこにも行けるんだったわ。行こうとしなかっただけで……」
ライサは左手首を見たまま、ぽつりとつぶやいた。

「そうだよ。だっても君は、あの船で世界旅行にも行ったんだよ」
「そうだったわね」

 チコは急いで付け加えた。
「いつか、サン・カルルシュ国立劇場にも一緒に行こうよ。ものすごくいい席はプレゼントできないけれど。もちろん、桟敷席にはしないつもりだけれど……」

 ライサは、顔を上げて微笑んだ。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(19)ボアヴィスタ通り -1-

『Filigrana 金細工の心』の19回目「ボアヴィスタ通り」をお送りします。

最初にポルトを訪れた時、2階建ての観光バスに乗って、街をぐるっと回りました。地理を把握し、観光名所と歴史を説明してくれる音声ガイドを聞きながら、お上りさんを満喫しました。そのバスに乗らなかったら旧市街の先がどうなっているのかも理解していなかったでしょう。ボアヴィスタ通りからマトジーニョス、フォスをぐるりと回るルートをなんどか通って、私の脳内「黄金の枷」マップを完成させていきました。ま、創作の世界ではあくまでPの街ですけれど。

今回も長いので、3回に分けて発表します。



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Filigrana 金細工の心(19)ボアヴィスタ通り -1-

 カーサ・デ・ムジカを出て、チコは考えた。さて、これからどうしようか。食事をするにもこの辺りには何もなさそうだ。彼女に訊こうと振り向くと、ライサは心あらぬ様相で佇んでいた。

 彼女は通りの向こうを見つめていた。たくさんの車が行き交っている大通りだ。ライサの眺めている方角は、街の中心部から離れていくが、有名な庭園や城などに歩いて行くには遠すぎる。彼女は何か特別な場所を探しているようにも見えなかったが、身を翻して街へと戻っていくのをためらっているようだった。

「少し、この通りを散歩してみるかい?」
チコが話しかけると、ライサははっとして彼の顔を見た。
「ごめんなさい。あの、こちらには、何もないんだけれど……」

「何もないからと言って、歩いちゃいけないわけじゃないんだろう?」
「そうね。じゃあ、少しだけ……」
ほっとしたように、彼女はやはり慣れた足取りでボアヴィスタ通りを左手に歩き出した。

 実際に、その通りは散歩道という感じではなかった。しばらくはビルばかりで街路樹も少なかった。やがて大きいホテルなどが見えてきたが、それも特に興味は引かなかった。10分ほど歩くと個人の屋敷が増えてきた。どれも非常に大きく富裕層のものだとわかる。庭木がたくさん植えられているので散歩をするときの目を楽しませるようになった。

「すごい家がたくさんあるな」
「ええ。ここは、19世紀あたりに裕福な人たちが好んでお屋敷を構えた界隈なんですって」

 ひときわ大きい門構えの屋敷があった。水色の外壁の大きな建物の周りに、大きい樹木が植えられ遮られて玄関などは見えないようになっている。見ると正面ゲートの脇に守衛室のようなものまであった。ライサは足を止めて家を見つめた。誰も見えなかったし、特に興味を引くようなものもなかったが、彼女はしばらく動かなかった。チコは、彼女はここに来たかったのだと悟った。

「知っている家?」
ライサは肯定も否定もしなかったが、懐かしさにあふれた目つきで1つの窓を見やった。
「あの窓から、ときどきピアノやヴァイオリンが聞こえてくるの」
「よく来るの?」

 ライサは悲しそうに俯いた。
「行きましょう。こちらには、観光するものはないから」

 もと来た道を戻り出したライサの背中を見ながら、チコはしばらく言葉を選んでいた。それを口にするのは自分と彼女のどちらにとってもいいことなのかどうか訝りながら。再びいくつものビルの前を通り過ぎ、カーサ・デ・ムジカが視界に入って来たときに彼はやはり口を開いた。
「観光には適していなくても、君にとっては大切な場所なんだろう? 僕は、そういう場所を歩くことを嬉しく思うよ」

 ライサは、足を止めてチコを見た。とても驚いている様子だった。
「どうして?」

 チコは、深く息をした。それから、ライサの顔をのぞき込むようにして言った。
「観光地としてのPの街に興味があるわけじゃないんだ。君の街をよく知りたいと思っただけだから。カーサ・デ・ムジカを見たかったのも、もちろん専門的興味もあるけれど、なによりも君と僕の共通の興味対象である音楽に関わる場所だからだよ。たまたまPの街に立ち寄ったなんて、口実だ。僕は、あれからずっと君に会いたかったんだ」
「チコ……。あの、私は……」

 チコは、困った様子のライサに笑ったまま首を振った。
「大丈夫、心配しないでくれ。君を困らせるつもりは全くない。僕は、君に何かの答えをもらおうとしているわけじゃないんだ」

 2人は、カーサ・デ・ムジカの向かいの公園に向かった。ボアヴィスタ通りを分断するこの緑園は一般に『ボアヴィスタのラウンドアバウト』と呼ばれている。中央にある45メートルの円柱がモウジーニョ・デ・アルブケルケ記念碑で、半島戦争においてこの国とそれを助けた国の象徴である獅子が、敵国の象徴の鷲を組み敷いている。オレンジ、椰子などの南国的な木立に心惹かれて、立ち寄る人も多い。

 2人は、空いているベンチに並んで腰掛けた。

「マリアが言うの。外に出て、たくさんの人と知り合って、楽しいことを知るべきだって。新しいことを試したり、知らない人と知り合ってみなければ、もっと心地よい生き方とは出会えないって。それは、その通りだと思うの。そうやって生きていかなくちゃいけないってことも」

 それから彼女は、木立の隙間から漏れてくるクラクションの音に顔を向けて、悲しそうに続けた。
「でも、世界はまるで、この通りのようだわ。エンジンを吹かした車がひっきりなしに走っているの。私は、通りに出られなくて眺めているばかりなの」

 たくさんの木立で覆われた緑園の外にあるラウンドアバウトを一巡して、たくさんの車が走っている。普段はあまり意識していないが、Pの街はこの国で2番目に大きい都会なのだ。活氣ある交通の流れを遮断する木立を見上げながら、チコは答えた。

「急ぐ必要はないし、無理する必要もないと思うよ。マリアのいうことに一理あるのも確かだ。でも、君の心が動かないことは、何一つしなくていい。君は、君の心を最優先していいんだ。君の人生なんだから」

「私の心……」
ライサは、無意識に左手首に触れた。

 彼女の心を無視して、あらゆる制約を課してきた黄金の腕輪はそこになかった。威圧される大きな館の中に、威厳を持って何をすべきか命ずる人たちももういなかった。鉄格子の向こうの美しい凶人も、安全を約束してくれた黒髪の麗人も、そして、夢の中でも現実でも求めて止まない音色を生み出す人も。

 彼女は、自分のしたいことを求めては来なかった。自らの人生も歩いては来なかった。提示された何かを受け取るか、もしくは与えられた恩寵に縋っていただけだった。

 自分自身を欺すことはできない。したいことは、わかっている。……メウ・セニョール。こんなにも、あなたに会いたいのです。

「君は君のままでいていいんだ。無理してほかの人のフリをしなくてもいいし、誰かを喜ばせなくてもいい。君がこうして時間をとってくれただけで、僕はとても幸せなんだよ。それ以上の贈り物は必要ないんだ」
「チコ」

「ね。すこし気が楽になっただろう?」
おどけたチコの笑顔を見てくすっと笑い、ライサは頷いた。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(19)ボアヴィスタ通り -2-

『Filigrana 金細工の心』の「ボアヴィスタ通り」3回にわけた2回目をお送りします。

チコという名前は、フランシスコの愛称なのですけれど、短くて覚えやすいので採用しました。フランシスコの愛称は他にもいろいろあって「シコ」はまだしも「パンチョ」もそうなんだそうです。どう変化するとそうなるんだろう。謎。私の小説、ときどき「名前が外国語で覚えられない」と言われることがあるので、じつはちょっと氣にしていたという話(笑)

さて、そのチコ、かなり劣勢ながらも一生懸命にライサに好印象を与えるべく奮闘しています。



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Filigrana 金細工の心(19)ボアヴィスタ通り -2-

「さて。また旧市街に戻って何かご馳走させてくれないかい?」
「どうしてご馳走してくれるの?」
「だって、カーサ・デ・ムジカに連れてきてくれたじゃないか」

「そんなこと……。私はただ……」
彼女の飲み込んだ言葉がわかるような氣がした。ただ、あの窓の下に行きたかったのだと。

「いいから。でも、いつかサン・カルルシュ国立劇場に案内するときは、君がご馳走してくれるだろう?」
チコは、ウインクをした。

 ライサは小さく笑った。いつか……。もし私が首都に行くことがあったら。その時チコがこの国にいたら。それはとても小さな可能性のように思える。でも、そんな約束を誰かとしたことは、これまで1度もなかった。

「じゃあ、とりあえずトリンダーデ広場まで行きましょうか」
ライサは、ベンチから立ち上がり、地下鉄駅の方向へと歩き出した。と、彼女の足下に土と苔にまみれた四角い大理石板があり、それを見なかった彼女は躓いた。

「危ない!」
 チコはとっさに手を差し出した。彼は彼女の腕をとり、ギリギリ転ばずに彼女は体勢を立て直した。

「なんでこんなところに……」
チコは訝りながらその奇妙な石版を振り返った。ずいぶん古いもののようで、苔の間からわずかにラテン語のようなものが刻んであるのが見えた。そちらに氣を取られていて、彼は何も考えずにライサの腕をしっかりと支えた。

 ライサは、びくっと震えた。彼女の硬直した動きを感じて、チコは思い出した。彼女が、男性に触れられるのを怖れ、握手すらできなかったことを。急いでその手を離して大きく後ずさり「すまない」と謝った。

 ライサは、真摯に謝りながらも、彼女の態度に傷ついている青年の横顔を見てたまらなくなった。そして、10センチも離れていてない彼のだらんと垂れた手のひらへと視線を移した。

 その視線の動きの途中で、ライサは悟った。先ほどチコに触れられた時、ライサは驚いたけれど、怖くはなかった。

 地獄から戻った後、ライサは男性に対する恐怖をコントロールする事が出来なかった。シンチアやルシアといった女性使用人たち、それどころか24の姉であるアントニアには触れられてもなんともないのに、ソアレスやモラエスたちが玄関や車からの乗り降りの際に当然のように差し出す手も、ライサは恐ろしくて触れられなかった。神のごとく崇拝していた22にすら、どうしても触れる事はできなかった。家に戻ってからも養父の近くに寄る事も出来なかった。

 けれど、たった今チコに支えられた時、彼女は驚いたけれども恐怖は感じなかった。ちょうど妹のマリアが手を握るように優しく柔らかい暖かさがそこにあった。

「チコ」
ライサが呼びかけると、俯いていた彼は顔を上げて不思議そうに彼女を見た。その声色があまりにも劇的だったから。ライサはゆっくりと手を伸ばして、チコの手のひらに触れた。

「触れられる……」
とても小さいひとり言のような呟きを聴きながら、チコははっとした。

 傷ついた自分の愚かさに心の中で毒づきながら、チコは今ライサに起こっている劇的な変化をなんとか理解しようとした。
「ライサ?」

「チコ。私、あなたに触れても大丈夫みたい……」
それを聞いて、チコは笑顔になった。

「うん、大丈夫だ。世界は終わらない。そうだろう?」
そういって、ライサの右手を取り握手をした。ライサはその手を凝視していたが、やがて口元をほころばせた。なんて美しい微笑みだろう。チコは思った。

* * *


 トリンダーデ広場から、再びアリアドス広場の方へ歩いていくと、小さいけれど心地の良さそうな食堂が目に入った。
「そういえば、数日前にここで食べたんだ。結構美味しかったよ」
「じゃあ、ここにしましょう」

 その店は、70年代風のインテリアで飾られた小さな店だ。観光客のノスタルジーを呼び起こすためにあえてこの手の装飾で飾り立てる新しい店と違い、色褪せた壁とすり切れた椅子の背、剥げかかったタイルが、改装をする余裕などなく数十年にわたって使われてきた店の歴史を感じさせる。

「今日の定食は何かな?」
数日前も対応した給仕にチコが訪ねると、彼は早口で答えた。
「肉ならミックスグリル、魚は鯛ですね」

 2人とも鯛と白ワインのグラスを頼んだ。すぐにレタスにトマトと輪切りの玉ねぎがついたサラダとパンの籠が運ばれてきた。ライサが紙のテーブルクロスや、薄っぺらく軽いカトラリーをごく当たり前の光景として受け入れていることをチコは視線の端で確認した。

 前回会ったときの食事で、それが問題なかったことを確認したはずなのに、やはり不安になってしまうのは、あの特別船室でもまったく違和感を持たせなかった彼女の佇まいにあるのかもしれない。

 マリアの堂々とした振る舞いは、銀行である程度責任のある仕事を任されている間に身につけたものだと理解できるけれど、ライサの身のこなしはそうした能動的な存在感ではなく、むしろその対極にあるように思われた。

 彼女は、上流社会に身を置いてこなかったのと同じように、チコに馴染みの深い庶民生活からもずっと間隔をとって接していたのではないだろうか。給仕に対しても、カーサ・ダ・ムジカで入場チケット売り場にいた女性に対しても、丁寧であるが距離をみせた。

 少なくともその距離感をいま自分に対して見せないことに、チコはほっとしていた。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(19)ボアヴィスタ通り -3-

『Filigrana 金細工の心』の「ボアヴィスタ通り」3回にわけた最後の部分をお送りします。

今回の話にチラッと出てくる豚の屠殺、スイスでも80年くらい前には普通に行われていたようです。1年かけて大切に育てた豚をクリスマス前に屠って、女たち総出でソーセージやハムを作ったんだそうです。いまでは、肉屋でもない一般家庭でソーセージやサラミを作ることもないし、広場で豚を殺して血まみれ、なんてこともありませんよ。

さて、チコとライサ、それぞれの思惑を抱え、語り合いつつ食事をしています。



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Filigrana 金細工の心(19)ボアヴィスタ通り -3-

「クラリネットは子供の時に始めたの?」
ライサは、チコの質問に答えるだけでなく質問をしてきた。興味を持ってもらえるのは嬉しいものだな。チコは笑顔になった。

「いや、結構遅くてティーンエイジャーも後半にさしかかっていたよ。ブラスバンドに参加することになってさ」
「まあ。どこで?」
「うちの村。12月にマタンサがあってね」

虐殺マタンサ ?」
「うん。いまはソーセージやハムを年中食べられるけれど、昔は1年間太らせた豚をクリスマスの前に屠殺する伝統があったらしいよ。で、その屠殺が祭りになっている村がけっこうあるんだ。うちの村もそうで、その日には聖母像を山車に乗せて練り歩き、ブラスバンドで景氣のいい曲を奏でるんだ。僕は屠殺要員に数えられるのがいやだったので、ブラスバンドの方に手を挙げたってわけ」

「いまでも昔ながらの屠殺をしているの?」
「うん、その日だけはね。でも、昔みたいにどの家庭でも用意した豚を屠殺して、女性陣が総出でハムソーセージを作るわけじゃないんだ。象徴的に何頭か屠殺して、あとはただのお祭りだね」

「そう。でもそのお祭りがきっかけで、生涯の職業を見つけたのね」
「そうだね。しばらくしてブラスバンドの大会に出ないかと誘われてさ」
「まあ。そこで入賞したとか?」

「いや、全然。でも、すごい演奏をたくさん聴いて夢中になったんだ。クラリネットでもあんな風に吹けるんだって驚いたよ。それで、クラシック音楽に興味をもって、親には呆れられたけれどその道に進みたいって宣言したんだ」
「まあ、そうなの。それで、大きな交響楽団に入れたってことは、大変な努力をしたってことでしょう?」
「まあね。アカデミーに入るために必死で練習したし、その後も毎日練習につぐ練習だったよ」

「楽器を弾く人たちは、どんなに上手でも、毎日長時間練習するのよね」
ライサが言った。
「そうだね。練習しないと、どんどん下手になるし、それに次に演奏する曲を形にしなくちゃいけないし。時間との闘いだよ。いまでもね」

「クラシックも、ビッグバンドも、それにジャズやボサノヴァも、全部吹けるなんてすごいわ」
「始まりがブラスバンドだったから、どれかでないとダメってことはないかな。君は、クラシックだけの方が好きかい?」

 ライサは、首を振った。
「そういうわけでは……。クラシック音楽を聴くようになったのは2年くらい前からで、あまり詳しくないの」

 チコは、笑った。
「まさか。『グラン・パルティータ』を知っている人が、詳しくないなんて」
「本当よ。聴かせてもらったから知っていただけで……」
「誰に?」

 ライサは、はっとしたようにチコを見た。それから、下を見て黙り込んだ。

 チコも、わかってきた。こういう反応をライサがするときには、絶対に答えが返ってこないことを。そして、その誰かがもしかしたらあの屋敷の窓の向こうにいるのかも知れない。

 チコは、あの窓のことを考えていた。水色の外壁に並ぶ白い窓は、どれも同じように見えた。チコの生活とはかけ離れた豪邸のたくさんの窓。その中にたった1つだけ彼女の足を止めさせる特別な窓がある。その窓は、他の窓と同じように閉じられていて、彼には何の情報も与えなかった。けれど、チコにははっきりとわかる。彼女の心は、チコと一緒に座っているレストランにはなく、あの窓の向こうにあるのだと。

 彼女をこの街から引き離したいと思った。あの水色の館や、ボアヴィスタ通りに簡単に近づけないように。

 彼は、先日のライサのひと言を真に受けているわけではなかった。職探しの中に客船での勤務も考えてもいいなどと。でも、それがあまりにも彼自身の願いの実現に都合のいい考えだったので、その話を具体化させたいという願いに取り憑かれていた。そしていま、それは単なる嬉しい可能性ではなくて、どうしても実現すべき使命のように思われてきた。

「これからは、教えてもらうのを待っているだけじゃだめなのよね」
彼女は、顔を上げて遠くを見るような瞳で言った。寂しく寄る辺ない顔つきだ。妹のマリアも、両親も力になろうとしているだろう。それでも、彼女がこうして自分の前でつぶやいているのに、素通りすることはできなかった。たとえそうした方が、自分に都合のいい筋運びに向く可能性が増えるとしても。

 チコは、鯛の皿を脇に除けると身を乗りだした。
「君は、何かを迷っているんだろう? そうなら、したいことにトライしたほうがいい。僕でよかったら、いつでも相談にのるよ」

 ライサは、チコを見てしばらく黙っていたが、小さな声で言った。
「無駄だとわかっていても?」

 チコは真面目に答えた。
「無駄かどうかは、試してみないとわからないだろう?」
「そうね……。どちらも……」

「どちらもって?」
「2つの正反対の方向があるの。どちらに向かえばいいのかわからないの。どちらも困難でうまく行くようには思えないの。1つは前にいた場所で、もう1つは全く新しい世界なの」

 チコは、少し考えた。
「もしかして、その全く新しい世界というのは、新しい仕事のことかな?」
「そうよ。何か仕事を見つけたいって、このあいだも話したでしょう?」
「うん。あの船の話もね。その……君が本氣で話しているとは思わなかったんだけれど、それでも素敵なプランに思えたから、僕はあれから考えたんだよ」

「本当に?」
「うん。サブチーフパーサーだったニックを覚えているかい? 彼、今年から陸に降りちゃって人事を担当することになったんだよ。君があれを冗談じゃないというなら、本当に彼に話をしてみようか」

 ライサは、目を瞠ってチコを見つめた。急に動き出した事態に戸惑っているようだ。

 チコは彼女を安心させるように言った。
「明後日、都で彼と会うんだ。僕の処遇に関する年に1度の面接なんだけど、ついでにどんな求人があるかどうか、訊いてくるよ。来週、また3か月の航海に出るけれど、サウサンプトンに行く前に、この街にまた来るよ。その時までに、君がどうしたいのか考えておいてくれ」
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(20)音色

もう9月だなんて、信じられません。早っ。今日は『Filigrana 金細工の心』の「音色」をお送りします。

久しぶりに『ボアヴィスタ通りの館』側に戻ってきました。今回は、アントニアの視点です。23の子供時代や何をどう感じていたかは、本編や外伝で幾度か記述していますが、アントニアの子供時代の彼女視点の話はもしかすると初めてかもしれませんね。

彼女が22に固執するようになった過程はこんな感じでした。



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Filigrana 金細工の心(20)音色

 記憶をたどると、彼はいつも彼女の視線の片隅に存在していた。なんと呼ばれる人なのかも知らず、タブーとして決して語られることのなかった存在だった頃から。午餐に出席を許されるようになった6歳の誕生日から、両親の座る席の向かいの、空いている席のことを不思議に思っていた。当主だった祖父ドン・ペドロを中心に、重々しい空氣をまとう午餐や礼拝は、普段の生活とは違い、子供の会話など一切許されなかった。何が起こっているのかの説明などもなかった。

 祖父と両親は、誰かがその席に着くのをしばらく待つ。その人物は決して出てこない。しばらく経つと祖父の合図と共にその席に準備された食器は取り下げられ食事が始まる。それは祖父が他界して父親が当主となった後も変わらなかった。

 食事に出てこないその人物は、しかし、確かに存在していた。居住区と呼ばれる格子の向こうに住み、特別な鍵で施錠された空間に住んでいる。年に3度、クリスマス、復活祭、そして、サン・ジョアンの祝日の礼拝は、普段の日曜日と異なり家族だけでなく全ての使用人が礼拝に集まる。家族が座る内陣の貴賓席ではなく2階の右側のギャラリーに、《監視人たち》幹部に付き添われてその人が座った。

 8歳のクリスマスにそのことに氣がついたアントニアは、それから彼の姿を見ることのできる機会に、礼拝に集中することもなく彼の姿を観察するようになった。

 金髪に近い明るい茶色の髪と青い瞳を持つ男は、アントニアの視線に氣付くと忌々しげに睨み返した。彼女は、じろじろと見たことを申し訳ないと思い眼をそらしたが、やはり好奇心に耐えられず彼を見てしまった。すらりと背が高く、彫刻のように端正な顔つき、そして、ギャラリーの左側、彼の正面にあるオルガンで奏者が讃美曲を奏でるときには、瞳を閉じて真剣に聴き入っている。その姿を彼女は絵画のように美しいと思った。

 やがて、館の中によく響いているピアノやヴァイオリンの音色を奏でているのが彼だと知った。

 その音は、彼女の心を締め付けた。胸の奥深くに、喉の裏側に、時に苦い痛みを滴らせ、またあるときは浮き上がるような柔らかい甘さをにじませた。居ても立ってもいられない感情に、彼女は戸惑った。それが何であるか、幼い彼女にはわからなかった。あの冷たい表情をした男がこれを弾いているとは、信じられなかった。

 アントニアを見るときの冷たく憎しみの籠もった瞳と、情熱的で痛烈な想いを叫ぶ音色が全く重ならず、彼女は混乱した。それが彼女の好奇心をさらに刺激した。

 あれは、12歳になる少し前のことだったろうか。復活祭の礼拝で、またギャラリーに立つ彼の姿を目で追った。いつものように醒めた様相で階下を眺めていると想像して見上げたのだが、その時だけは彼は全く違う表情をしていた。彼の視線を追うと、アントニアの母親マヌエラの姿があった。すぐ後ろから、父親のカルルシュが入ってきた。アントニアは再びギャラリーにいる彼を見上げた。いつもの冷たい表情に戻っていた。

 彼女は、衝撃を受けた。まだ子供で、彼が一瞬垣間見せた表情の意味を理解する知識はなかったが、彼がわずかに見せた表情は奏でる音色と一致したのだ。

 アントニアは、言葉ではなくもっと深い原始的な勘で、即座に理解した。家族との関わりを断固として拒否し、常に家族を憎み睨みつける姿は彼の本質ではないのだと。アントニアは、あの音を自分のものにしたいと思った。本当はその時に彼女はもう、愛の迷宮に紛れ込んでいたのだ。けれど、それを理解しないまま、彼女はピアノを彼に習いたいのだと思い込み、誰の意見も訊かずにそれを強要した。

 彼女は、その日から彼を追い回し、纏わり付き、ピアノを教えることを了承させた。彼が一番雄弁に物語る、言語の代わりとなるものを習得したかった。23と交代に居住区から出され『ボアヴィスタ通りの館』に遷った後も、彼を追った。共に食事をし、さまざまな話題を取りあげ、お互いのことをよく知るようになった。

 アントニアは、彼の唯一無二の理解者となった。彼が言葉にしなくても、彼の望むものを理解できるようになった。冷たく皮肉に満ちた言葉の裏に、彼自身も認めようとしない強い願いがあるのを、見て取ることができるようになった。

 憎しみと怒りの作り出した氷に閉じ込められたまま、行き場を失った深い愛が強く燃え続けていることも知っていた。母の受けた宣告後も18年にわたり、彼は愛する女と簒奪者が幸せな家族を作る現場から逃れられなかった。離れることが許されなかったために、その憎悪を増幅させた。長いあいだアントニアは、自分を見る彼の瞳に簒奪者の血を受け継いだ者への嫌悪感を感じつづけた。目の前に簒奪者の娘がいて記憶を更新したために彼の燃え盛る想いを閉じ込める憎悪の氷はさらに厚くなった。彼は、『ボアヴィスタ通りの館』に遷ってからも、自由になれなかった。

 アントニアは、彼にとって一番近い存在になることはできた。彼は、彼女を敵の娘としてではなく、共に暮らす家族として認めるようになった。その変化を感じたとき、どれほど彼女は嬉しかったことだろう。彼はアントニアを、彼女が望むような形では愛してくれない。だが、そうであっても、彼にとって近い存在なのだと感じることは無上の喜びだった。

 それほど近いゆえに、アントニアが一番はじめに知った変化は、彼女にとってもっとも残酷なものだった。

 彼を包む感情の氷を、外側から溶かし、核にいたる穴を開けて、燃えていた深い愛に外に出る機会を与えた光が生まれた。その光は内なる愛と混じり合い、色や形を変え新しい姿で燃えることができるようになった。

 その光を与えることができたのは、氣の遠くなるほどの時間と忍耐を経てようやく彼の側に居ることを許されたアントニアではなかった。

 驚くほど、彼の女神によく似た娘。深く傷ついた繊細な女。そして、彼を神のごとく慕う魂。

 すべて理に適っている。アントニアは、悲しく笑った。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(21)腕輪を外されて -1-

今日は『Filigrana 金細工の心』の「腕輪を外されて」をお送りします。

実は、水曜日なのに、更新(予約)をすっかり忘れていました。でも、まだギリギリセーフということで……。

『ボアヴィスタ通りの館』の中でグルグルしていたアントニアと、外でグルグルしていたライサ。ようやくその2人が再び顔を合わせます。

中途半端な長さだったので悩みましたが、2回にわけました。



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Filigrana 金細工の心(21)腕輪を外されて -1-

 アントニアは、居間の前を通る時に、彼が窓辺に立っているのを見た。この1年、以前に増して見られるようになった姿だ。

 ソアレスがやってきて、ライサが家に帰り、2度と24の許に戻れないように腕輪を外すドン・アルフォンソの決定を伝えた時、ライサ自身は純粋に安堵しているように見えた。彼女はいつも悪夢から自由になる事を望んでいた。ドラガォンと縁が切れること、2度と24に逢わずに済む事、その歓びはとても大きくて、それ以外の小さい事実に氣づく余裕はないように見えた。例えば、『ボアヴィスタ通りの館』にも2度と足を踏み入れられなくなる事もその1つだった。

 アントニアは、その事実にすぐに氣がつき、己の愁思が薄らぐのを感じた。そして、同じ夕方に叔父のヴァイオリンを聴いて、心を痛めた。ずっと心を占めていた疑惑は、確信に変わった。ライサからの一方通行の想いではなく、叔父もまたライサの存在を必要としていたのだと。

 だが、彼はいつもと変わらなかった。不満を表明したり、怒りを誰かにぶつける事もなかった。アントニアの母親、彼の永遠の恋人を失い、苦しみ、憎み、頑になったドラガォンでのあまりに長い時間の中で、彼は抵抗する事の無意味さを知ったのだろうか。それとも、心の中だけは誰にも邪魔されない事を悟り、沈黙の中に逃げ込んだのだろうか。

 館の外に、ライサが度々現れて、切ない瞳で窓を見上げるようになってから、そして、それに氣づいてから、彼は午後に窓辺に佇むことが増えた。窓から外を見るのは、インファンテである彼の少年の頃からの習慣だった。アントニアの弟、今は当主として館の外に行く事が出来るようになった23も、子供の頃からの習慣でいつも窓の外を見ている。

 だが、叔父の向かう窓は、今や1つだけになっていた。大通りの見渡せる居間の窓。木陰に隠れるように立つライサの姿を見る事の出来る場所。やがて彼は窓を開け放し、ヴァイオリンを奏でるかピアノを弾く。ライサがいる事をアントニアに告げる事もない。逢いたいと口にする事もない。だが、アントニアにはわかる。結ばれる事の出来る相手かどうか考えてから恋に落ちる事の出来る人などどこにもいない。逢えないとわかっているからと想いを断ち切る事などできないことも。

 アントニアは、黙って居間の前を通り過ぎた。階段を降りているときに、彼がピアノを弾きだした。リストの『ため息』だ。数ヶ月前に同じ曲を奏でるピアノの横にライサが立っていた。彼があふれ出る感情を指先に込めて走らせると、ライサは至福を噛みしめるかのように立ちすくんでいた。マヌエラとの記憶を昇華させ、新しい愛の歓びがこの曲を彼にとって特別にしている。模範的インファンテとして決して見せることのない、彼の行き場のない想いでその旋律はこの館を満たし、あふれ出て外に佇む娘の元へと向かっている。

 アントニアは大きく息をつくと階段を降り、それからモラエスにひと言声をかけると玄関に向かった。通りに出てみると、やはりライサがそこに立っていた。一緒に出てきたモラエスが、「どうぞ」といって門を開けた。その音で、はじめてライサは、アントニアの姿に目を留めた。
「ミニャ・セニョーラ……」
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(21)腕輪を外されて -2-

今日は『Filigrana 金細工の心』の「腕輪を外されて」の後編をお送りします。

屋敷の外でウロウロしていたライサと話すために『ボアヴィスタ通りの館』から出てきたアントニア。ライサの腕輪が外されて以来、はじめてのコンタクトになります。もちろんその間もライサはしっかりと監視はされていたわけですが……。



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Filigrana 金細工の心(21)腕輪を外されて -2-

 アントニアは、モラエスに小さな声で頼んだ。
「どこか静かなところで話したいわ」
「かしこまりました。ミニャ・セニョーラ」

 外部の者に聞かれたくない話をするには、このまま応接室に連れて行くのが一番早い。だが、腕輪を外されたライサは『ボアヴィスタ通りの館』に足を踏み入れることはできない。モラエスはすぐに小さなホテル・レストランの個室を手配し《監視人たち》中枢部から車を手配してくれた。助手席から降りてきたのはペドロ・ソアレスだ。アントニアは微笑みながら、怯えるライサの手を取り安心させた。

 そのレストランを、すでにアントニアは何度も使ったことがあった。ソアレスは、いつも《監視人たち》中枢組織幹部がそうするように、個室の片隅に座った。そこは、個室の入り口に近く、誰か近づいてくればすぐにわかりアントニアに目配せをすることが出来る位置だ。そして、もちろんアントニアとライサの会話をしっかりと聞くこともできる。

「久しぶりね。ライサ」
コーヒーをかき混ぜながら、彼女は微笑んだ。動揺したままのライサは、コーヒーをスプーンでかき回すのもやっとの様子でいた。
「ミニャ・セニョーラ。もうしわけありません。お屋敷の周りをウロウロしたりして……」

「謝る必要はないわ。あなたは禁じられたことは何もしていないもの。もちろんあの通りを自由に歩いていいのよ。どこで止まるのも、あなたの自由だわ」
「でも……」

 ライサは、困ったようにアントニアの顔を見た。ここに連れてこられたということは、問題視されているからだと思っている。実際は、中枢部ではこの行動についての議案はまだ1度も上がっていなかった。

 報告がきたのは、むしろ妹マリア・モタの言動に関するいくつかの報告書で、若干問題視すべき発言がいくつか見られるものの、その内容を吟味すると、むしろライサ・モタが沈黙の誓約を遵守していることが明らかになり、《監視人たち》中枢部ももとくに行動を起こさないと決定していた。

 アントニアは、いつもライサを安堵させる微笑みをみせたまま言った。
「心配しないで。ただ、あなたがあれからどうしているのか、せっかくだから聞きたかっただけなの。もう腕輪も外されたことだし、私たちとは2度と関わりたくないなら、はっきりそう言ってくれていいのよ。でも、あそこに来るということは、そういうわけでもないと思ったの」

 ライサは、ほんの少しだけ警戒を緩めたようだった。しばらく俯きながら言葉を探していたが、やがて、小さな声を出した。
「腕輪……子供の頃から、あれがなければいいと、ずっと思っていました」

 アントニアは、肯定も否定もせずに微笑んだ。ライサは左手首をそっと右手で触った。
「腕輪があるから、許されないことがたくさんあって、選択も狭まるんだと……。もし、《星のある子供たち》でなければ、好きなことをいくらでもできるんだと……。でも……」

「でも?」
「腕輪をしていることでできることは限られ、私はその範囲の狭い選択肢から何かを選んで生きることができました。いまは、何をしてもいいと言われて、あまりにも世界が広くて、何をしていいのかわからないんです。そして、ただ光のある方に走っていけばそれでよかった、あの夢の出口ばかりが思い出されるんです。セニョールの奏でるピアノやヴァイオリンのことを……」

 アントニアは、思いやりのこもった瞳を向けて頷いた。
「わかるわ。叔父様の音が、あなたにとってどれほど大切な存在であるかも、また聴きたいと思うことも、とてもよくわかるわ。普段は、どうしているの?」

「あの船旅をさせていただいたあと、しばらくは、外にも出ずに部屋でじっとしていました。いまは、仕事を探そうと思っているんですが、その……面接が怖くて、まだ……」
アントニアは、ライサがまだ男性に対する恐怖を克服できていないのだろうと推測した。無理もない。

「無理して仕事を探さないでも、あのクレジットカードを自由に使っていいのよ。でも、それがイヤならば、私たちが、女性しかいない職場をオーガナイズすることもできるわ。あなたがどうしたいか次第よ」
「そうですね……したい仕事、したいこと、考えると堂々めぐりになってしまうんです。いつも同じ場所しか浮かばなくて……」

 ライサは、しばらく口をつぐんでいたが、やがてぽつりと言った。
「腕輪をしたままならよかった……そんなことを思う日が来るなんて、思いもしませんでした」

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【小説】Filigrana 金細工の心(22)書斎

今日は『Filigrana 金細工の心』の「書斎」をお送りします。

前回、キャットファイトを期待されていた方々には驚かれてしまったアントニアですが、今回はさらに「あれれ」な行動に出ています。しかも、それが2度目だというのがこの章で明らかになります。

よく考えたら、この話もそろそろ終わりだなあ。次の連載の準備は、全く終わっていないんだけれど、どうなるのかしら……。



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あらすじと登場人物




Filigrana 金細工の心(22)書斎

 アントニアは、ドラガォンの当主の書斎に座っていた。表向きは現在と同じ名を持つここの主が、彼女の弟ではなくて兄だった頃、彼女は同じようにこうして座っていたことがある。兄アルフォンソは、影のように控え立つアントニオ・メネゼスに「母上にサントス先生からの手紙を手渡してほしい」と告げた。

 メネゼスは、一瞬の間を空けたが、特に何も言わずに手紙を受け取り頭を下げて部屋を出た。それは、手紙をマヌエラが読むときにほかの人に知られぬように配慮しろとの意にも受け取れたが、明らかに人払いであったと今のアントニアは思う。

 アントニアはインファンタとして生きてきた。《監視人たち》に知られずには、何ひとつできないことをよく理解していた。それは細やかな心の襞ですら例外ではなかった。

 アントニアは、当主ドン・アルフォンソが、自分の心を慮ってくれるなどみじんも期待していなかったので、彼の意図に思い至ったときには涙がこぼれた。それほどに、ドン・アルフォンソは、多くの決断と苦悩、そして、壊れそうな自らの体を奮い立たせる戦いの中で、周りに対する氣遣いを忘れなかった。それはアントニアに対する氣遣いだけではなく、耳にして黙っていることを役割上許されないメネゼスの心をも慮っての行動だっただろう。

 サントス医師からの手紙は、『ボアヴィスタ通りの館』で療養中のライサ・モタの健康状態に対する最終報告だった。すなわち、彼女の精神状態は可能な限りの回復をし、これ以上の治療でも迅速な回復は見込めないため、今後のことは当主ドン・アルフォンソの決定に委ねられた。

 ライサ・モタは、ドラガォンの掟に基づく1年間の拘束期間を終えていなかった。《青い星を持つ男》と一緒になった《赤い星を持つ女》は出産するか1年間の拘束期間を終了すれば、本人の意思で将来のことを決定することができた。だが、流産と精神疾患のために中断された期間は、その1年間に加算することはできない。当主が特に何も決定しなければ、彼女は掟により再び24の居住区に戻されて残りの拘束期間を過ごすことを強要される。アントニアがその場に呼ばれたのは、アルフォンソが最終決定の前に、直接ライサを身近で見ている妹の言葉を聞きたいからだろうと思っていた。

「サントス先生、それから『ボアヴィスタ通りの館』詰めのモラエスからも、おなじ報告が上がっている。お前もライサの健康状態に関する意見は相違ないか」
アントニアは頷いた。

「ええ。起きている間に錯乱することはもうないと思うわ。もちろん、この屋敷、とくにあそこでどう反応するかは、保証の限りではないけれど」

「心配するな。サントス先生の報告書にも、トラウマの元凶に近づけないことが大前提だとある。24の元に戻させる選択肢は、これで消すことができる」
「じゃあ、何が問題なの?」

「モラエスから《好ましくない兆し》の報告が上がっている」
アルフォンソは、淡々と口にした。アントニアは、視線をそらした。当然だ。しょっちゅう館を留守にするアントニアもわかるほどの変化を《監視人たち》中枢組織幹部であるモラエスが見逃すはずはない。

 《監視人たち》の報告内容は《兆し》と呼ばれる事実観察を列挙することで成り立っている。特に重要なのは、《青い星を持つ男》とまだ選ばれていない《赤い星を持つ女》が、好意を持って近づいていくことを意味する《好ましい兆し》と、掟に背く方向に向かう《好ましくない兆し》の2つだ。『ボアヴィスタ通りの館』で話題になる《好ましくない兆し》とは、インファンテ322とすでに選ばれた《赤い星を持つ女》ライサ・モタの接近のことだ。

「心配は要らないと思うわ。ライサが預けられて以来、24時間体制の監視になっているじゃない」
アントニアは、言葉を選んだ。

「《好ましくない兆し》そのものについては、否定しないんだな」
アルフォンソの口調にはっとして、アントニアは兄の顔を見た。
「……しないわ」

「では、やはり早く対処した方がいいだろうな」
アルフォンソの言葉に、アントニアは首を振った。
「どうして。叔父様は、あの性格ですもの。間違いを犯したりはなさらないわ。それに、ライサはどんな男性にも触れることができないのよ」

 アルフォンソはじっと妹の顔を見ていた。アントニアは、小さくつぶやいた。
「叔父様は、幸福なの。手は届かなくても、側に居て、同じ時間を過ごすだけでも、幸せなのよ。わかるでしょう、アルフォンソ」

「お前が、そう言うとはな」
アルフォンソはため息をついた。アントニアは、瞼を閉じた。
「しかたないじゃない。……私には、叔父様をあんな風に幸せにして差し上げられないのだから」 

「アントニア。もちろん私も叔父上の幸せを願っている。父上があの方にしたことを償いたいという思いもお前と同じだ。同様に、ライサに対しても24とシステムによって引き起こされた間違いを償いたいと願っている。……だが、私は、当主だ。贖罪のためにシステムをゆがめるつもりはない。わかってくれ」

* * *


 同じ場所に座って、アントニアは兄の言葉を考えていた。ドアが開き、弟のドン・アルフォンソが入ってきた。かつては後ろで1つに結んでいた髪を切り、兄と同じ上着を身につけるようになったとはいえ、23と呼ばれていた頃と変わらぬ足取りはアントニアをホッとさせる。
「すまない。待たせた」

「いいえ。忙しいのに無理して時間を作ってもらったのは私だもの。メネゼスは?」
アントニアは訝って訊いた。当主になって間もない弟と自分が2人きりで話をさせてもらえるとは思ってもいなかったからだ。

「24に呼ばれて行った。もっともすぐに戻って来るはずだから、急いだ方がいいぞ」
今度は偶然に味方してもらったのかと、アントニアは思った。

「聞かれても構わないと思って来たんだけれどね。ライサ・モタのことで話があるの。彼女に未だについている《監視人たち》から報告があったと思うんだけれど」
「ああ、『ボアヴィスタ通りの館』の外によく来ているらしいな。お前と話をしたと報告がきていたが、そのことか」
「ええ」

 兄アルフォンソが、あえてした決断をもう一度考え直してもらうよう、アントニアはもう1人のドン・アルフォンソである23に請いに来たのだ。
「『ボアヴィスタ通りの館』のルシアがまもなく結婚するのは知っているでしょう。それで、後任の候補について提案したいことがあるの」

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【小説】Filigrana 金細工の心(23)決断 -1-

今日は『Filigrana 金細工の心』の「決断」をお送りします。

今回は、姉に無理難題を相談されてしまった新当主、もと23がぐるぐるしています。でも、彼は決断を下す立場にあるのです。はっきりいって、インファンテのままでいた方が楽だったかもしれません。どちらにしても自分で決断できることなどほとんどなかったのですから。

今回は、2回に分けました。



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あらすじと登場人物




Filigrana 金細工の心(23)決断 -1-

 使い込まれた黒檀のデスクの上に、黒革の皿がある。その上に置かれた黒い万年筆は、当主の書斎であるこの部屋で、彼が居住区に閉じ込められたインファンテだった頃から使っていた唯一の物だ。この部屋に居るべき者として、彼はようやく違和感を感じなくなってきた。

 厳格な祖父ドン・ペドロが当主だった頃は、子供たちがこの部屋に足を踏み入れるなど、想像すらできなかった。父ドン・カルルシュが当主になってから、彼が居住区に閉じ込められるまでの5年ほどの間に、数回ほど足を踏み入れたことがあるが、ここに座る父は、いつもと異なり威圧感を醸し出しているように感じた。

 代々の当主が、その責務の重さに耐えながら数々の決して親切とは言えぬ決定を下してきたのがこの部屋のこの黒檀のデスクなのだ。

 彼は、当主として理想的とは言えぬであろう決定をすべきかどうかについて、考えをめぐらせている。

 ライサに、腕輪を再び付けて、『ボアヴィスタ通りの館』の使用人として雇う事自体は、いかなるドラガォンの掟にも反していない。彼の一存でそれは可能だ。だが、その後に何が起きるかを彼は容易に想像できた。

 彼女は既に24に選ばれた。お互いにどれほど想い合っていても《監視人たち》は、2人が一緒になる事を許さない。自制心の塊である誇り高き彼の叔父は、《監視人たち》に阻止されずとも、理性で衝動を押さえつけるだろう。それがどれほどの苦悩を叔父に強いるかを彼はわかっていた。

 亡くなった彼の兄が、ライサの腕輪を外したのも、おそらく同じ理由だったに違いない。

 今になってアントニアが、彼の幸福のためにライサの願いを彼に伝えてくるとは思っていなかった。姉は、長い時間をかけて手にした居場所を脅かす存在が取り除かれたことに安堵しているのだと思っていた。

 決して受け入れようとしない男の側に居るために、アントニアがありとあらゆる努力を続けてきたことを彼は知っている。親世代の因縁が絡む絶望的な場所に産み落とされてしまった自らの運命に、彼女は抗い戦い続けてきた。誰ひとりとして手助けできず、固唾を呑んで見守る中、彼女は少しずつ叔父の凍てついた心を溶かし信頼関係を築いてきた。女としての恋情の代わりに姪としての親愛を勝ち取り、彼の一番親しい者の椅子をようやく温めることができるようになった。

 それなのに、アントニアは自らその座を明け渡そうというのだ。ただ愛する男を喜ばせるためだけに。

 彼は、メネゼスに自ら2人と話をすると伝えた。叔父と、それからライサと。『ボアヴィスタ通りの館』にいるインファンテ322と話すことはともかく、当主自ら《星のある子供たち》でも《監視人たち》中枢組織幹部でもない者と会合を持つことは異例だ。だが、メネゼスは反対意見を口にすることはなく、スケジュールや場所の設定などをすぐに始めてくれた。

 自分が要注意人物であるインファンテではなく、すでに当主として扱われていることに、彼自身がわずかに戸惑った。メネゼスは、万全のバックアップ体制で彼を支えてくれる。その信頼が彼の甘さ、非情な当主としての責務よりも身内への優しい対応を願う想いに冷水を浴びかける。

 彼は、既に当主だった。彼の代わりに名もなき者として冷たい石の下に眠る兄に託された責務を果たさなくてはならない。

 彼の弟に恐怖のどん底に落とされて心身共に傷ついた娘の望みを許してやりたい。インファンテとしての苦悩を知る身として、そして、父親と母親の結婚で絶望の底につき落とされた叔父の人生最後になるであろうロマンスを、叶えてやりたい。彼にとって大切な理解者であり愛する姉である女を苦しめたくない。願えば願うほど、誰もが幸福になる解決策などない。

 彼は、迷ったまま『ボアヴィスタ通りの館』で叔父と面会することになった。

「お久しぶりです。叔父上」
「結婚式以来だ。さほど久しいというわけでもないだろう」

 父カルルシュは、この館に彼を訪れたことはなかった。亡くなったアルフォンソもだ。

「わざわざ、当主みずからが足を運ぶとは、めずらしい。何の用だ。世間話に来たわけではないだろう」
「いいえ。伺ったのは、ライサ・モタの件で叔父上のご意向を知りたいからです。腕輪を外され、《星のある子供たち》の義務から自由になったにもかかわらず、たびたびこの屋敷の前の通りに足を運ぶのが報告されています。叔父上もおそらくご存じかと思います」

 ライサの名前を聞いただけで、なぜこれほどに心が騒ぐのだ。彼は、心の中で毒づいた。目の前の従甥に動揺を悟られるのは絶対に嫌だった。
「窓から何回か見た。問題行動をしているのは見たことはないが、そうならばお前たちが勝手に処理すればいいだろう、いつものごとく」

 従甥は、「処理」という言葉を耳にすると、わずかに眼をそらし、それからしっかりと彼の方を見た。
「いいえ。これは叔父上のお心に関わることです。前々当主ドン・ペドロ、前当主ドン・カルルシュ、そして当代『ドン・アルフォンソ』と3世代によって翻弄されてきたあなたの人生とお心を、これ以上無視して掟遂行のためになにかを『処理』することを、私はしたくありません」

「大袈裟だな。さっさと話せ」
彼は、ため息をついた。
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【小説】Filigrana 金細工の心(23)決断 -2-

今日は『Filigrana 金細工の心』の「決断」の後編をお送りします。

23もといドン・アルフォンソが、異例ながら自分の決断の前に当事者である22を訪問しています。普段は、今回のようにストーリーの根幹となるシーンはだいたい最初に執筆に取りかかるのですが、どういうわけかこのシーンはかなりギリギリまで書きませんでした。どういう書き方がいいのか、結構悩んだ部分でもあります。

そういえば、今日も予約投稿に失敗しましたね。最近多いなあ、疲れているのかしら。



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あらすじと登場人物




Filigrana 金細工の心(23)決断 -2-

「先日、アントニアがライサ自身に彼女の近況と意向を訊きました。家に戻って以来、問題がないか、彼女がなぜここに戻ってきているのか」
「会ったことは、アントニアがその日のうちに告げてくれた。家族との問題はなさそうだ。生活もお前たちが保証するなら困窮することはないだろう」

「ライサは、就職を希望していますが、一番働きたい場所は、ここだと口にしました。それについて、アントニアはあなたに報告しましたか」
「いや。その話はしなかった。当然だろう、腕輪を外された以上、ここで働くことは不可能だ」

 かつて目の前の男の兄である当主が、回復途上のライサの腕輪を外し、早々に家に戻した理由を彼は理解していた。

「外した腕輪を本人の希望で再びつけることには問題はありません。ルシアの代わりにここで働くことも問題はありません。もちろん、その場合にはかつてのように24時間体制の監視になりますが、それについてさえご理解いただければ……」

 彼は頭を振って遮った。
「お前は、もうドラガォンの運営の要であり、蚊帳の外のインファンテではない。《好ましくない兆し》について報告を受けているはずだが」
「はい。受けています。けれど、この屋敷では、まだ1度もレベル2以上の行動が見られたことがないことも知っています」

「そして、お前はそれを起こさせて、私が再び格子の中に押し込められるのを見たいのか?」
「まさか。私は、あなたがどんな方か存じています。あなたは、信じられぬほどの克己心でご自身を律し、私自身のインファンテとしての生き方の指針となってくださった。私は、ライサが再びあなたの側に来たとしても、何か憂慮すべき事態が起こるとは全く思っていません」

 彼は従甥の顔を見て口をつぐんだ。23が皮肉でも牽制でもなく、むしろナイーヴすぎるほどの信頼を込めて彼を見つめているのをしばらく観察した。彼は、崩れ落ちそうになる鎧を改めて着重ねなければならなかった。
「私は新しい世界でのライサの幸福を心から祈っている」

「叔父上。私は、あなたを自由にすることも、名前を差し上げることも、結婚を許可することもできません。だが、少なくとも、愛する人と同じ空間で年月を重ねるための手助けはできます。あなたが幸福になるためにできる限りのことをしたいと真剣に願っています」

「お前は、それが何を意味するのか、わかっているのか」
大きく表情を変えることもなかった。彼は、当主となったかつてのインファンテである青年を一瞥した。

「わかっているつもりです」
「だったら、私にそれは不可能であることがわかるだろう」

 口を一文字に結んでこちらを見る23の表情を見ながら、彼はこの男は似ていてもカルルシュとは違うなと改めて思った。それとも憎み続けたことで、彼はカルルシュの彼に向けた真摯な想いをなきものにしてしまったのかと思い返した。

 マヌエラ、お前は正しかったのかもしれない。お前はカルルシュを選び、次の世代を生み出した。この青年は、この澄んだ魂を持つ当主は、おそらくドラガォンにふさわしいのだろう。彼は瞳を閉じた。

 ライサの可憐で弱々しい笑顔がよぎった。共にソファに腰掛けて『グラン・パルティータ』を聴いたときの、暖かくくすぐったい想いが甦った。リストの『ため息』を微笑んで聴くマヌエラの姿が浮かび、その笑顔はライサとなってから消えていった。

 その向こうに、ずっと遠くに1人の女が立っている。肩をふるわせ、死刑宣告を待つように、憂いに満ちた瞳を見開いて、それでも目を背けずに彼を見ている。

「お前の姉は……」
彼は、再び瞼を開き、はっきりと口にした。
「私の大切なアントニアは……私を底のない孤独から救い出してくれた。ここに来て、私に寄り添い、共に奏で、わがままを言うことを教え、語り合う歓びを与えてくれた。私を絶望の檻から解放してくれたんだ」

「叔父上」
「お前は私に、そのアントニアの魂を私がかつていた地獄につきおとせというのか。あれほど長い時間を過ごさざるを得なかった、妬みと憎しみと孤独しかない檻の中に、私のこの手で押し込めろというのか。否、絶対に!」

 彼は、従甥が大きく息をして視線をそらすのを見つめた。これで終わりだ、ライサ。私はお前に至る綱を断ち切ってしまった。

「では……本当にそれでいいのですね」
黒い巻き毛が揺れた。彼はまだ苦しんでいるようだった。当主というのも辛い立場だなと、彼は心の中で笑った。

「23、いや、『ドン・アルフォンソ』」
彼は、毅然と語りかけた。
「はい」

「当主『ドン・アルフォンソ』は、すでにこの件について決断を下した。ライサ・モタの腕輪を外し、この館から遠ざけた。既に1度青い星を持つ男に選ばれた赤い星を持つ女が、間違いを犯すことがないように。決定はもう下したんだ。2度同じことに迷う必要はない、わかるか」

 亡くなった兄は、インファンテであった弟がこの決定で悩み苦しむことを知っていたに違いない。だから、はっきりとした決定を下してから逝ったのだ。新しい当主『ドン・アルフォンソ』となった青年は、22の言葉に青ざめて頷いた。

「あなたの人生を、苦しめてばかりの私たち親子について、心から陳謝します」
立ち上がった青年は、苦しげに呟いた。彼は、いつもの冷ややかな笑いを取り戻して答えた。

「ふん。そうとは限らないぞ。お前の祖父の言葉を借りるなら『勝負はまだついていない。油断するな』というところだな」
「叔父上?」
「お前の妻は身籠ったそうだが、男子が生まれるとは限らないし、《碧い星を5つ持つ者》を生ませることができるのはお前と24だけではないからな」
「……」

 当主は、太い眉をわずかに歪ませて、黒い瞳で彼を見つめた。驚きと感謝、それに同情と悲しみも混じっている複雑な表情だった。

 固い握手を交わして、若い青年は居間を出た。彼は、扉が閉められ、モラエスが当主を送って玄関へと向かうのを耳にした。会話が耳に入った。

「急ですまないが、この館の監視体制を再び24時間に変えなくてはならない」
「とおっしゃいますと、ライサ・モタが戻ってくることになったのですか?」

 それ以上の会話は聴こえなかったが、彼には会話の続きが想像できた。

「いいや。ライサ・モタが戻ってくることはない。監視対象は、インファンテ322とインファンタ・アントニアだ」
それを耳にするモラエスは、さぞ驚くに違いないが、喜ぶのだろう。とどのつまり、あの男も《監視人たち》中枢組織に属しているのだから。
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Tag : 小説 連載小説

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【小説】Filigrana 金細工の心(24)会見 -1-

今日は『Filigrana 金細工の心』の「会見」をお送りします。

23もといドン・アルフォンソは、22のもとを訪れて彼の意思を訊きました。そして、今度はライサと逢おうとしています。そして、ライサは、予定がバッティングしておりました……。間が悪いですね。

舞台に使ったホテルは同名のホテルをモデルにしています。

今回も2回に分けています。



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あらすじと登場人物




Filigrana 金細工の心(24)会見 -1-

 どうしてここを選んだのだろう。ライサは、周りを見回した。指定されたホテルは、カステル・サン・ジョアン・バティスタの裏手にあった。旧市街の中心にある『ドラガォンの館』からも、『ボアヴィスタ通りの館』からも歩くには遠い。これが既に答えなのかと思い心は沈むが、大きなヤシの木やクリーム色の外壁は暖かく、ライサを否定しているようには見えなかった。19世紀に建てられたこのホテルには、古き良き時代に人びとが避暑に来て賑わったはずだ。何よりも名前が彼女には親しみ深かった。『ホテル ボアヴィスタ』。

 木目調の床、明るい茶色で統一されたロビーには黒いソファが置かれていて、到着を告げると彼女はしばらくそこで待つようにいわれた。2分もしないうちに、彼女はレストランの一番奥の席へ案内された。

 チコは、どうしているだろう。マリアは彼女を待っている彼を見つけただろうか。約束を反故にしたことを、彼は腹立たしく思うだろう。昨夜、彼から電話がかかってきた時には、もちろん彼と会うつもりだったのだ。もし、先ほどのモラエスからの電話があと10分遅ければ、彼女はチコに逢うためにサン・ベント駅に向かっていたはずだ。これで彼との友情や交流は途絶えてしまうかもしれない。でも、モラエスの声を聞き、ドン・アルフォンソから面会を打診されたその瞬間に、ライサの心はこちらに飛んでいた。ボアヴィスタ通りに住む人たちの側に。

「何かお飲物は」
黒服の男が恭しく訊いた。ホテルのマネジャーのようだが、その服装が彼女に《監視人たち》中枢組織幹部を連想させて、縮こまりながら水を注文した。

 白い服を着たウェイターが、瓶詰めのミネラルウォーターとグラスを運んできた。ライサに興味を持ったのか、肝心の水を注ぐ時に彼女を見ていて、グラスから少しこぼれてしまった。平謝りする青年に「大丈夫です」と答えながら、彼女は、かつて『ドラガォンの館』で給仕をしていた時に、何度もワインを注ぐのに失敗したときの事を思い出した。2度と失敗するなときつく叱られた後に、それが呪縛のようになって、またしてもこぼしてしまったが、口もきいたことのなかったインファンテ323がかばってくれた。「すまない。俺が急に動いた」と言って。

 とても昔の事のように感じた。ライサが、厳格で冷たく思えるドラガォンの中で、人びとが優しくしようとしてくれる事を感じた最初の出来事だった。それから、彼女を教育していたジョアナや、感情などを持たないように思える執事メネゼス、美しく品のあるドンナ・マヌエラ、紫かがった顔をした当主ドン・アルフォンソ、彼らがやはりシステムに抵触しない限り示してくれる暖かさや優しさを少しずつ感じだしたのだ。

 けれど、ライサの瞳は濁っていて、明るく優しい美青年の虚像が放つ光に目をくらまされてしまった。地獄の日々の中で、ドラガォンの他の全ての僅かな優しさは掻き消え、彼女には思い出される事もなかった。彼女の救いと想いは、その地獄の中から再び光の中へと導いてくれた『ボアヴィスタ通りの館』に住む人へと流れ込み、『ドラガォンの館』の日々はただの悪夢としてだけ彼女の中に残った。

 グラスの下のテーブルクロスが濡れているのを眺めながら、彼女は、本当にこちらに戻ってきたのだと感じた。歪んで霞んでしまった精神がかつてのような状態に近づき、ようやく物事を単純な記憶として把握できるようになったのだと。それでも、『ドラガォンの館』に近づく事はまだできないと思った。

 左の手首を見る。かつてはあった黄金の腕輪がなくなっている。これは、絶対的な安全の保証のはずだった。2度と、あの館には入れない。だから、あそこへと連れて行かれずに済む、彼女の目に見える安心のはずだった。それなのに、彼女は、当主ドン・アルフォンソに逢って、もう1度腕輪を付けてほしいと頼もうとしているのだ。

「お見えになりました」
その声にはっとして顔を上げる。扉の向こうから、先ほどのマネジャーに案内されて、黒い服を来た男性が入ってきた。

 ライサは、自分の目を疑った。それは、彼女が逢うつもりでいたドン・アルフォンソ、紫の顔をして辛そうに歩く太った当主ではなかった。かつては長くて後ろで縛っていた巻き毛は短くなり、館にいた時は1度も見たことのない黒いジャケットを着ていたが、それ以外はあの頃と全く変わらない青年。あの館からは絶対に出られないインファンテ、ライサたちが23と呼んでいた男がそこにいた。

「メウ・セニョール……」
意味する事は1つだった。彼女の知っていたドン・アルフォンソは亡くなったのだ。そして、妹マリアの友達と結婚したのは、新しく当主となったこの青年だったのだ。
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(24)会見 -2-

今日は『Filigrana 金細工の心』の「会見」の2回に分けた後編をお送りします。

ライサと23もといドン・アルフォンソの会見です。この流れは、ここまで読んでくださった方にはもうすべて予想できているでしょうけれど、それでも書かないわけにはいきませんよね。そういう話ですから。

そういえば、クレジットカードのことを氣にしていらっしゃる読者の方も複数いたんですよね。今回その話も出てきます。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物




Filigrana 金細工の心(24)会見 -2-

「久しぶりだね、ライサ。元氣そうで、なによりだ」
彼は、手を差し伸べたが、思い出したかのように躊躇した。ライサが、男性を怖れて触れられるとパニックを起こすという報告は届いていただろうから。

 ライサは手を伸ばして、彼の右手を握った。彼が再び笑顔となり、優しく力が込められるのがわかったが、不安も恐怖も感じなかった。チコ、あなたのおかげね。ライサは、心の中でつぶやいた。

「遅くなりましたが、ご結婚、おめでとうございます」
ライサがそう言うと、彼は意外そうに眉を動かした後に、頷いて「ありがとう」と言った。必要最小限の言葉しか使わないところは変わっていないなと思った。

 この人が当主になるということも、結婚して家族を作るということも、まったく想像していなかった。動いていなかったのは、自分の時間だけで、世界はゆっくりと動いているのだと感じた。

 彼は、マネジャーに慣れた様子で、魚料理と白ワインを注文した。ライサの好みを訊く様子もスマートで、彼女を驚かせた。テーブルが整えられ、ワインが注がれると、彼はグラスを持ち上げた。グラスを合わせている時に、彼女は彼は本当に当主になってしまった、そして彼女はドラガォンの使用人ではなくなってしまったのだと感じた。

 ウェイターたちが部屋からいなくなると、ライサは、鞄の中から白い封筒を取り出して、彼の前に置いた。
「これをお返しします」

 彼は、それを開けると中に黒いクレジットカードが入っているのを見た。
「船旅以来、全く使っていないと報告を受けていたが、生活は問題ないのか」

「お給料がずっと振り込まれていましたし、そんなに使うこともなかったので。これから、また働こうと思います」
「そうか。アントニアから、君の希望については直接判断してほしいと言われたんだが」
彼は、単刀直入に本題に入った。

「君が再び『ドラガォンの館』では働きたくない事は理解している。『ドラガォンの館』に戻れば、君は最後に住んでいた場所に戻らざるを得なくなる。当主として私は同じ事を繰り返させないために、それは許可しない。だが、アントニアの報告では、君は我々との縁を切りたがっていないというが、本当か」

 ライサは、俯いた。それから、意を決して顔を上げると、口を開いた。
「『ボアヴィスタ通りの館』で、ルシアの代わりになる使用人を探していると聞きました。セニョール322やドンナ・アントニアのお世話をする人が足りていないのなら……」

 彼は、伏し目がちのライサをじっと見つめた。こういう表情は、本当に彼の母親によく似ていると思った。マヌエラに恋い焦がれ、憎しみながらも忘れられなかった叔父が、この娘の思慕に抗えないのはよくわかる。

 彼は、彼自身が妻となった女を待ち、恋い焦がれた永遠にも想われた時間の事を考えた。心を得ることはできなくても、見ていられるだけでもいいと願った日々の事を。幸福を手にする事のできなかった叔父の、絶望の日々、彼よりもずっと長く、これからも続くであろう苦悩を考えた。

 彼が、迷い、叔父に逢って、彼自身の希望を聞いたときの事も考えた。叔父の答えは、彼の本心からのものだっただろう。だが、叔父が若き日から彼を縛り付けてきた女神の呪縛を逃れ、この娘を愛し自分のものにしたいと願っているのもまた事実なのだ。

 だが、彼にできる事はなかった。ライサが24の求愛を受け入れて、格子の向こうへと入っていった時に、すでに22の希望は潰えたのだ。それを覆すことは、当主となった彼にもできなかった。彼は、全てを背負おうと思った。

「ライサ。君の処遇を私『当主アルフォンソ』は一度決定した。その決定を覆すにはそれなりの理由が必要なのだ。君に生活するに困らない金銭的援助、または解雇される心配のないドラガォンに関連する仕事を用意する事は全く問題はない。だが、『腕輪はもうつけられない』わかるね」

 ライサは、当主の顔を見た。悲しく同情に満ちた瞳が、非情な言葉に対して詫びている。彼女は、2度とあの館の中には入れないのだ。一緒に『グラン・パルティータ』を聴く事もできない。お茶を淹れてあげる事も、皮肉の混じった笑顔に接する事もできない。それは、冷たい決定だった。

「今朝、叔父上に逢ってきた」
彼は、言った。ライサは、はっとした。

「『新しい世界での君の幸福を心から祈っている』……彼からの伝言だ」

 ライサは、涙ぐんで頷いた。

 これは、あの方の意志なのだ。彼女は、言葉を心の中で噛み締めた。私の想いをわかった上での、あの方の答えなのだ。ここにいる当主や《監視人たち》の決定ではなくて。
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【小説】Filigrana 金細工の心(25)望まれた言葉

今日は『Filigrana 金細工の心』の「望まれた言葉」をお送りします。

前回は、当主『ドン・アルフォンソ』として23がライサと話をしましたが、今回の舞台は『ボアヴィスタ通りの館』に戻ってきました。屋敷を離れていたアントニアも戻ってきました。

この話も、本当にもうじき終わりですね。12月、小説どうしようかなあ……。『scriviamo!』もあるし、新連載を始めるのもなんですよね……。



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あらすじと登場人物




Filigrana 金細工の心(25)望まれた言葉

 窓から差し込む光はずいぶんと赤みを増した。大西洋に沈んでいくその前に、太陽は氣づかれないほどわずかな苛立ちの焰を燃え立たせ、そのほんのわずかがこの館のサロンにも入り込んでいた。

 きめ細やかに掃除され、きちんと整えられたこの館に、どうしようもなく不安でもの悲しい想いがよぎる黄昏刻だ。彼の変わらぬ端正な横顔にいかなる苦悶も表れていないにもかかわらず、アントニアはたまらなくなり両手で顔を覆った。

 今朝からこの午後いっぱいを、彼女は『ドラガォンの館』で打ち合わせをして過ごした。23が当主として彼と話す場に居てはならないと思った。そして、彼とライサの新しい生活の邪魔をしないように、『ドラガォンの館』でも、『ガレリア・ド・パリ通りの館』にでも、そのまま遷り住むことすら考えていたのだ。

 けれど、23は『ドラガォンの館』に戻ってくると、彼女とメネゼスに書斎に来るように命じ、ライサ・モタより返却されたクレジットカードの破棄の手続きと、ライサ・モタに元《星のある子供たち》としての可能な限りの支援を手配するように告げた。

 アントニアは、それで知ったのだ。彼が提案を拒否したことを。彼が望むものを差し出されても、受け取らなかったことを。愛する女から愛と信頼を寄せられながら暮らす可能性を絶ってしまったことを。

 マリオに『ボアヴィスタ通りの館』へ送り届けてもらった時には、我が家へ帰ってこれたという安堵感があったというのに、黄昏刻に窓の外を見る彼の横顔は、いつもと何1つ変わっていないにもかかわらず、苦しく悲壮に満ちて感じられ、彼女をひどく責め立てた。

 どうしていいのかわからない悲しみと後悔に襲われ、涙を止めることができなかった。泣きたいのは自分ではないはずなのになぜこんな騒ぎを起こしてしまうのか、自分でも不甲斐なかった。その場をそのまま立ち去ろうとしたが、その時に彼は窓辺を離れて歩み寄り、彼女を抱きしめた。

 優しく、我が子をなだめるように。

 子供の頃、彼に憧れて追い回した時、彼は決してそんなことはしてくれなかった。纏わり付く彼女に根負けしてピアノを教えてくれることになってからも、彼は厳しく他人行儀な態度を崩さなかった。共に暮らすようになり、時に笑顔を見せ、時に皮肉に満ちた軽口を叩いてくれるようになってからも、彼は彼女に身内としての愛情を向けることはなかった。

 彼に恋い焦がれるようになってから、どれほど彼女はその抱擁を欲したことだろう。

 けれど、アントニアは、抱擁を与えてくれる他の誰かではなく、たとえ冷たく他人行儀であっても彼と共にありたかった。父親を亡くした時、兄を失ったとき、彼女の悲しみは大きかったが、それでも彼の側に居られることで全てが帳消しになっていたのだ。

「ごめんなさい」
アントニアはくぐもった声を出した。

「なんだ」
「前におっしゃったわ。顔も見たくない、私となんか関わりたくないって」

 彼は笑った。
「そんなことを言ったこともあったな。お前の意図がわからなかった。何を好き好んで両親を憎み、一族中に持て余されている不要な人間につきまとうのか。追い返せば、すぐに『ドラガォンの館』に逃げ帰るかと思ったが、お前は私に負けずに頑固だった」

 アントニアは、彼を見上げた。
「大人しく尻尾を巻いて逃げ出すべきだったんだわ。……叔父様が本当に一緒に居たいのは、私ではないのでしょう」

 22はわずかに間をとったが、優しい抱擁に変わりはなかった。
「アントニア」
彼は囁いた。なんと優しい響きだろう。

 彼女は続けた。
「私がここにいなければ、アルフォンソはお父様の死後、お母様と叔父様が逢えるように取りはからったはずだわ。それが許されないとしても、ライサぐらいはずっとここに居続けられるようにしてくれたはず。私のせいで叔父さまはいつも幸せから遠ざけられている、そうでしょう?」

 22は瞳を閉じた。言ってやらなくてはならない。そうでなければこの娘は永久に苦しみ続けるだろう。彼はアントニアを強く抱きしめた。
「ここはおまえの、おまえだけの場所だ、アントニア」

 彼女は涙に濡れた瞳を向けた。22は微笑んで、彼女の額の乱れた黒髪をその長い指で優しく梳いた。
「私はお前を愛している。私のアントニア」

 不安に怯えた瞳は悲しげに潤んだ。
「小さな可愛い姪として?」
「小さな可愛い姪として」

 彼の言葉に、アントニアは睫毛を伏せた。彼は続けた。
「私のたった1人の友として。かけがえのない音楽のパートナーとして。そして夜に夢みる永遠の女神として」

 アントニアは弾かれたように、顔を上げた。怯えと期待にうち震えて、彼の言葉を待った。
「そうだ。お前を愛している。だから、ここは過去も、現在も、そして未来もお前だけの場所だ。誰に遠慮して苦しむ必要もない」
「叔父さま」

「だが、私の愛しいアントニア。お前は自由でいていいのだ。ここに居たいだけ居て、もしお前がいずれ誰か真実の伴侶となる相手に出会ったならば、私の愛に遠慮することなく自由に飛び立っていきなさい。お前にはその資格がある。これまでにお前が私の人生のためにしてくれたことは、私が残りの生涯で返せるすべての愛より大きいのだから」

 アントニアは、激しく泣きながら、22の胸にしがみついた。
「私はどこにも行かないわ。それが迷惑でないというならば、叔父さまの側にずっといるわ」

 彼はアントニアの暖かい涙がシャツにしみ込んでいくのを感じつつ、もう1度彼女を抱きしめた。

 そっと窓の方に目をやった。それから、すべての祈りと憧れ、己の人生に対する希望に終止符を打つかのように、その瞳を閉じた。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(26)スプリングソナタ -1-

今日は『Filigrana 金細工の心』の最終回「スプリングソナタ」をお送りします。

コメントで、ライサにすっぽかされたチコのことを何人かの方が書いていらっしゃいましたが、今日はそのチコの話です。

切るほどでもなかったのですけれど、時間差があるのと、後書きも書こうと思うので、前後の2回にわけます。今日は前編です



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Filigrana 金細工の心(26)スプリングソナタ -1-

「君が来たってことは、僕は振られたんだね」
チコは落胆を隠せない声で言った。平静を装おうとしているが、荷物を握っている左の拳が揺れていた。マリアはその拳から眼を逸らして、エンリケ航海王子のアズレージョを見た。黄昏の光の中で、それは現実の世界をひと瞬もの哀しい色に染めている。

 ライサは、昨夜電話でチコとここで会う約束をしていた。イギリスのサウサンプトンへ発つチコを空港で見送るという話を聞き、マリアは驚いたけれどそのライサの変化を喜んだ。それなのに、昼前にかかってきたモラエスという名前の男からの電話にでた後で、ライサは突然別の用事で出かけることになったと、マリアにチコの見送りの代わりを頼んできたのだ。

「イギリス行きの航空チケット、Pの街発にわざわざ変更してくれたんでしょう、あの子と会うために」
「そうさ。でも、彼女に頼まれてじゃなくて、僕が勝手にしたことだ」

「チコ……」
「いいんだ。わかっていたことだから。彼女の心がどこかその場にいない人の所にあることぐらい、いくら鈍感な僕だってわかる」
「でも、あなたはそれでもライサの力になってくれようとしたんでしょう」

 チコはマリアを睨みつけるようにして見た。
「それが、なんになるって言うんだ。彼女が動きたくないのなら、僕のことなんて存在していないも同然だと言うなら、何も出来やしない」

「それは違うわ」
「何が違うんだ」

 マリアはチコに視線を戻した。
「ライサは、あなたが知っているどの20代半ばの女性とも違うの。彼女は26歳だけれど、人との付き合いという意味では16歳みたいなものなの。そして、私の知っている限り、チコ、あなたがはじめてだったのよ、ライサが誰かのアプローチに反応して、自分の殻から出る方向に動き出したのは。そして、彼女はまだ迷っているの」
「迷っている?」

「家から離れていた2年半に何があったか、そして、いま彼女がどこにいて誰に逢いに行ったのか、私にはわからない。ライサの元雇用主が、なぜライサと私にあんなすごい旅をプレゼントしてくれたのかも、ライサが誰のことを想っているのかも。でも、彼女は知っているのよ。彼女が何をしようともその人と結ばれることは絶対にないって。その不幸を持て余しながら、彼女は道しるべを失っているの」

 チコは、黙ってマリアの顔を見た。彼女は声のトーンを落とした。
「あなたがもうライサのことにうんざりで、2度と関わりたくないと言うならしかたないわ。でも、もし、そうでないならば、彼女を見捨てないでほしいの」
「見捨てる? 今日、どうするかを決めたのはライサ自身だろう……」

「違うの。あの子はどうしていいのかわからないの。あの子は池に浮かぶ小舟としてしか生きてこなかった。それなのに突然大西洋のど真ん中に置き去りにされたの。何をしてもいい、誰を愛してもいい、その代わりあの池にだけは戻ってくるなと。彼女が大海原で頼れるのは、今のところあなたしかいないの。彼女にも、それはわかっているの。でも、あの子は池に戻れないかどうか迷っているうちに、あなたを永遠に失ってしまうということがどういうことなのか、まだわかっていないの」

 チコは、唇を噛んだ。それから、顔を上げて、マリアの目を見て答えた。
「もう行かなきゃ。今晩の飛行機に乗り遅れるわけにはいかないんだ」

 マリアは、視線を落とした。
「そうよね……。都合の良すぎるお願いよね……」

チコは首を振った。
「金曜日にサンミゲル島のポンタデルガダに寄港するんだ。着いたら彼女に電話するよ。少なくとも、友達として話を聴いてくれる相手がいるのはいいことだろう。それから……」

 チコは鞄から少し大きめの封筒を取りだした。
「僕たちの客船で、パーサーの職が次の航海の後に空くんだ。採用担当は、僕たちとUNOを一緒にしたあのニックで、もしライサがこの仕事に本当に興味があるならぜひ連絡してほしいって言っていた。これが応募用紙と必要な書類一覧だよ。彼女に渡してほしい」

 マリアはチコに抱きついて「ありがとう」と言った。チコは笑って、マリアと握手をして別れ、空港に向かうため地下鉄駅へと降りていった。
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【小説】Filigrana 金細工の心(26)スプリングソナタ -2-

今日は『Filigrana 金細工の心』の最終回「スプリングソナタ」の後編をお送りします。

サブタイトルとなっている『スプリングソナタ』は、本文中に出てくるベートーヴェンのピアノソナタのことです。後書きとともに追記でご紹介しています。



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Filigrana 金細工の心(26)スプリングソナタ -2-

 窓の外を眺めると、予想していた通り、彼女が立ってこちらを眺めていた。

 ライサが、きょう午後にこの街から去ることや、どこへ行こうとしているかを《監視人たち》は,もちろん把握していたが、それを彼に知らせる必要は全くなかった。だが、アントニアはそれでも、昨晩わざわざその話題を持ち出した。

 傍らには小さな旅行鞄がある。その取っ手に添える左手首に金の腕輪がないことを確認して、彼の心はわずかに痛んだ。

 23は、いや、当主ドン・アルフォンソは、わざわざ希望を訊きにきてくれたではないか。それだけでも十分に異例だったはずだ。自分で決めたことでもある。22は瞳を閉じた。

 これで最後かと思うとひどく感傷的になった。ライサ……。お前は私の想いを決して知ることがないだろう。

 それから想いを断ち切るために、大きく窓を開けた。そして窓を離れてヴァイオリンを手にとり力強く弓を引いた。明るく朗らかな響き。ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第5番ヘ長調『春』。

「珍しいのね、その曲を1人で弾きはじめるなんて」
アントニアがドアから顔を出した。外出するつもりらしい。この服装なら、私用だろう。

 大きな黒い縁どりをした白いつば広の帽子を斜めに被っている。白地に大きな黒い水玉のタイトなワンピース。下手をすると下品にしか見えない柄が、これほどエレガントに見えるとは。彼はわずかに眉を上げたが、賞賛の言葉は発しなかった。いつものごとく。

「そう思うならば、外出はやめて、ここに来て伴奏しなさい」

 アントニアは、この帽子を満足いく角度に傾けるために使った20分の努力のことをちらりと考えたが、引き止めてまで彼が一緒に演奏したがることは滅多にないことを思いだして、潔く帽子を脱いだ。ピアノの前に座ると、彼が時間をかけて教え込んだ、彼の信じる最高の演奏で鍵盤の上に指を滑らせた。

 自由に伸びやかに弓が踊る。象牙と黒檀の上を走る指先はその音色を追い、追い越して、笑って立ち止まる。2つの楽器が軽やかに楽しく会話を広げる。

 窓の外、どれほど近くても足を踏み入れられぬ、もう1つの世界に立ちすくみながら、ライサは2人の演奏を聴いていた。

 メウ・セニョール。人生の時計の針を戻すことが出来たなら、私はあなたの側で静かに暮らす人生だけを目指したことでしょう。でも、そうしたとしても、あなたが私を選んでくださることはないでしょう。あなたに2人のドンナ・アントニアは必要ないのだから。

 これからライサの生きていく世界はここではなく、世界中から集まったクルーが、世界各国から集まる乗客をもてなす、あの船だ。誰ひとりとしてこの街に、黄金の枷にとらわれた竜の一族が存在することを知らず、そのことが重要だとは思わないだろう。
 
 船の上で眺めた大海原とどこまでも続く空を思いだした。どこへ行っていいのかまったくわからないほど広い空間だった。黄金の腕輪のない世界にライサは立っていた。

 さようなら、メウ・セニョール。

 ピアノの響きは階段を駆け上がる。ヴァイオリンはそれを追い越し、勝利を宣言する。2つの音は絡み、笑い、幸せを誇っていた。自由に、何にも制限されずに。伝統も、血縁も、許されぬ愛も、運命も、音楽だけは縛ることが出来なかった。

 決して叶わぬそれぞれの愛を抱えた3つの魂が、空の彼方へと想いを羽ばたかせていく。春らしい高い空に、雲の彼方を目指して、その響きは消えていった。

(初出:2021年12月)

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Beethoven: Violin Sonata No. 5 in F Major, Op. 24 "Spring" - 1. Allegro

【後書き】
『Filigrana 金細工の心』、そして、2014年から7年かかって発表してきた「黄金の枷」3部作、これで完結です。永きにわたりご愛読いただいた皆様に心から御礼申し上げます。

第1作『Infante 323 黄金の枷 』のストーリーに意味を与えるために無理やり作りだした『ドラガォンのシステム』ですが、執筆中には私の中でそれは当然のごとく「在るもの」に変わっていきました。そして、23とマイアだけでなく、ストーリーに関わるほとんどの人物の人生と悲喜こもごもも、私の中に積もっていきました。それを黙って放置できずに、公開することにしたのが第2作『Usurpador 簒奪者』そして、『Filigrana 金細工の心』です。

『Infante 323 黄金の枷 』がわかりやすいハッピーエンドで終わったのと比較して、この2作の終わり方は完全なハッピーエンドにはなっていません。それぞれのあり方で、この3部作のメインテーマである『運命との和解』、ある人生をどう受け入れて生きていくかを示したつもりです。

 そして、運命を受け入れて生きているのは主人公たちだけではなく、たとえば《監視人たち》の代表格であるアントニオ・メネゼス、第1作では厳しい女性に見えたジョアナ、一方で23やアントニアの祖父であるインファンテ321のような正直なタイプ、そして、おそらく閉じ込められたまま幸せを知らずに人生を終わるだろう壊れた24、外伝で活躍したクリスティーナやエセ神父見習いマヌエルなども同様です。

 この作品で使った『ドラガォンのシステム』はかなり特殊で、読者の皆様を戸惑わせたようですが、最初にルールを明確に決めておいたので9年間の執筆期間にもぶれず書き終えることができました。

 この3部作を書くことができたのは、ポルトガルの街ポルトの存在があったからです。考えついてから、私にとっては生まれ育った日本と、ここスイスに次いで特別な場所になりました。本当は毎年行って、定年後はポルトガルに移住したいとまで思っていたのですが、昨年以来その願いが叶わないかもしれないと若干落ち込んでいます。でも、心の中で訪れるのはいつでも自由。現実とは違うドラガォンの存在するPの街には、なんの制限もなく行くことができます。

 そんなわけで、Pの街は、ドラガォンと同様にひっそりと目立たないように私の中に隠れることになります。つまり、これで『黄金の枷』シリーズの本編は終わりですが、リクエストや「scriviamo!」などで機会があれば、外伝としてまたお目にかけることがあるかもしれません。その日が来ることを願って後書きに代えさせていただきます。



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