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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012

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Posted by 八少女 夕

【小説】赤いドアの向こう

今日の小説は『12か月の○○』シリーズの新作『12か月の店』1月分です。

今年は、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめていくつもりです。

トップバッターは、2019年の『十二ヶ月の歌 2』の12月の掌編『新しい年に希望を』で登場したチームです。今回出てくる志伸とリカに何があったのかは、今回は全く出てきませんが、氣になる方は前作をどうぞ。


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赤いドアの向こう

 店の名前は合っている。赤い看板には先の尖った猫耳みたいな絵とともに『Bar カラカル』と書いてある。なんだか想像していた店とは違うみたいだ。亮太は首を傾げた。

 彼の直属の上司が、本省に寄ってから直帰したのだが、終業間際に起こった案件で明日の朝に再び本省に出向くことになった。それで、家の近い亮太が書類を届けることになった。自宅まで行くのかと思ったら、用事があるからとこの店を指定してくれたので、途中下車で済んだのだ。

 亮太は、周りを見回した。駅から直通の、アーケードになった商店街は、乾物屋だの、瀬戸物屋だの、あまりおしゃれじゃない靴ばかり売っている店だの、下町の風情に満ちていた。少なくとも、あの濱野さんが下車するような駅には思えない。あの人なら、霞ヶ関の近辺か、六本木か、じゃなかったらご自宅に近い品川駅あたりか。

 亮太は、濱野志伸に憧れていた。本省では同期の中で一番に課長補佐になったというし、今年から出先機関としてきている県庁でも見かけよし、将来性よし、そして性格よしと、近年にないスーパーエリートとして女子職員の人氣を一身に集めている。彼女たちにいわせると唯一の欠点は、妻子持ちだということぐらいだそうだ。亮太には、その辺りのことはどうでもいいのだが、彼と一緒に仕事をしてきたこの8か月、仕事にやり甲斐を感じていた。

 亮太は、地元でこの駅前商店街のようなロケーションにはむしろなじみがあった。東京にもこういう場所があるんだなと、思った。新年の飾りは、松の内を過ぎて最初の瑞々しさと華やかさを失い、なんなとく惰性でそこに存在している。

 普段は特に感じないけれど、彼はその疲れた日常を苦々しく思う。年末のように疲弊することに理があるときは感じないのだが、つい1週間ほど前に新調されたばかりのはずの世界がこうだと、彼はわずかな失望を感じるのだ。それは、彼の周りの世界が全くリセットされておらず、彼もやはり以前と同じく3流の人生を歩き続けることを認識させられるからだ。いわゆる「ガラスの天井」の存在も、彼の思いを沈ませる。

 努力はしたけれど、希望した大学には入れなかった。卒業後、就職難のこのご時世で、それでも県庁に勤められることになったのはラッキーだけれど、有能でもなく、要領もよくないので、同期の中でも出世が早いとはいいがたい。つまり、濱野志伸とは正逆の存在だ。志伸は、それ以前の本省から来た課長とちがって、亮太を軽んじたり、人前で叱責したりすることはなく、たとえ数年の仮の職場でも熱心に仕事に取り組むだけでなく、部下の亮太が少しでも要領よく仕事ができるように時間をかけて教えてくれた。憧れたり感謝こそすれ、妬むような理由は何もない。

 それでも、ときどき、亮太は滅入るのだ。人間がみな同じなんて嘘だ。出来の違う人もいるし、世界の違う人だっている。志伸は、銀座や六本木などが似つかわしく、亮太は地元商店街が似合う、そんな人間なのだと。

 ともかく、この書類を渡さなくては。亮太は入り口を探した。

 階段を降りていくと、ドアの向こうはずいぶんと盛況のようだった。ドアの両脇に、たくさんのフラワーアレンジメントが飾ってある。亮太は『Bar カラカル』と書かれた真っ赤な扉をぐっと押す。

 中は、風船や紙テープで飾り立てられていて『祝・一周年』の横断幕が見えた。さほど広くない店内とはいえ、この早い時間なのにそこそこ混んでいる。

「いらっしゃーい」
派手な装いをした野太い声の男たちが、一斉に声をかけた。亮太は、再びギョッとした。なんだよ、ここ。

 亮太の戸惑った様子に目を留めた、客と思われる女性と並んで座っていた手前の男が立ち上がり近づいてきた。フルメイクをして、紫色のスパンコールのトップスを着こなしている。
「ウチは、初めてかしら」

「あ、あの……。今日、上司に言われて、書類を届けに……濱野志伸さんは……」
奥を覗くが、まだ来ていないようだ。男は、大きな口を開けて笑った。
「ああ、志伸ね。まだ来ていないわ。そこに座ってちょうだいよ」

「あら、佑輝。志伸が来るの?」
男と一緒に座っていた女性が訊いた。
「みたいね。1周年パーティーをすると言ったときには、来るとも来ないとも言っていなかったけれど。リカ、志伸とは久しぶりでしょ?」

 リカと呼ばれた女性は、鼻で笑ってから言った。
「そうね。感動の再会。じゃあ、このペースじゃダメだわ。もっと今のうちにガンガン飲んでおかなきゃ」

 亮太は、彼女がシャンパングラスを持ち上げてあっという間に空にしてしまったので驚いた。佑輝は、リカのグラスを満たした。リカは、亮太を手招きした。
「ここ、まだ座れるわよ。どうぞ」

 ゲイバー……なのかな、ここ。ほとんど男性客ばかりみたいだけれど、こんな風に馴染んでいる女性ってすごいな。怖々店内を見回している様子に、佑輝とリカは顔を見合わせて笑った。

「濱野さん……よくいらっしゃるんですか」
ゲイバー通いかあ。憧れの人のイメージがずいぶんと変わりそうだ。濱野志伸は、忘年会や新年会でも羽目を外さず、早く帰る。まだ乳飲み子のお子さんがいて、奥さんに負担をかけないように不必要な飲み会は避けているという噂を聞いていたのだ。

 そのトーンに氣がついたのか、佑輝はきれいに描いた眉を上げた。
「よく来るっていったら、ここにいるリカの方が常連よね。アタシたち、大学の同期なの」

 亮太は、はっとして色眼鏡で物事を決めつけかけた自分を恥じた。そうか、お友達なんだ。じゃあ、らしくない所でも行くよね。

 ドアが開いた。向こうに立っていたのは、濱野志伸だった。
「あ、濱野さん。お疲れ様です」

 だが、彼は亮太ではなくて、その横を見て硬直していた。
「リカ……」

 リカは、シャンパングラスを持ち上げた。
「久しぶり。元氣そうね」

 佑輝が、さっと近くに寄って「いらっしゃい」とコートを脱がせた。
「リカと、ここで遇うのは初めてだったわね。最近、2人ともよく来てくれているのに、今日まで遇わなかった方がびっくりよ」

 はっとしたように、志伸は佑輝に視線を戻し、持っていたショッパーを渡した。
「1周年、おめでとう」

「あら。クリュッグ、グランキュヴェ。どうもありがとう、嬉しいわ」
クリュッグのシャンパンは、『シャンパンの帝王』とも呼ばれ、豊かで芳醇な香りが特徴だが、値段も高い。亮太は、聞いたことはあるが、実物を見るのは生まれて初めてだった。さすが濱野さん。贈り物もゴージャスなんだなあ。

 佑輝は、押し戴くと、ちらっとリカを見て微笑んだ。

 リカは、ふっと笑った。
「まさか、被るとはねぇ。他の子たちもみんなこれだったりして」

「そんなわけないでしょ。他の子たちは、ドン・ペリ以外の銘柄を知っているかどうかも怪しいじゃない」
「ふふふ。そうかも。私も、志伸に教わって知ったの。でも、佑輝が、これを好きだって知ったのは、このお店に通い出してからよね。1年ってあっという間よね」

 それからリカは、戸惑ったように立ちすくむ志伸に声をかけた。
「この席にいらっしゃいよ。こちら、あなたをお待ちよ」

 それで、志伸ははっとして、亮太に軽く会釈をした。
「牧くん、すまなかったね。わざわざ寄ってくれてありがとう」

 亮太は、急いで書類を志伸に渡して頭を下げた。
「いえ。この駅は沿線なので、僕も助かりました」

「あら。じゃあ、これからどうぞごひいきに」
早速の営業に、亮太は戸惑いながら頷いた。

「さ、牧さんっていうの? これ、どうぞ」
佑輝がシャンパングラスを亮太に渡した。わあ、これって、さっきのめっちゃ高いシャンパンだったりして……。

 志伸は、硬い表情のまま、リカに会釈をした。
「元氣か」

 リカは、わずかにツンとしたさまを見せて「おかげさまで」と言った。その後で、ほんの少しだけ親しみやすい笑顔に切り替えて言った。
「日常が戻ってきている感じ。もうずいぶん経つし。そっちは、どう?」
「うん、それなりに忙しくしている。この店に来るのも久しぶりになってしまったし」

「そうよね。今晩、来てくれなかったら、どうしてやろうって思っていたわよ」
佑輝は笑った。

「他の子たちも、そろそろ来るんじゃない?」
リカが訊くと、佑輝は「たぶんね」と笑った。

 リカは、佑輝に顔を近づけて、楽しそうに笑う。志伸は、硬い表情をしたまま、グラスの泡を見ていた。亮太は、そんな志伸の様子をじっと眺めた。

 濱野志伸は、県庁での飲み会でもそういうところがあった。本省と違って、一時的にいるだけだから、距離をもって接しているのかと思っていたが、私的な集まりでもそうなのかと、少し驚いた。リカさんと、この女装の佑輝さんは、めちゃくちゃ砕けた付き合いをしているみたいなのに。

 リカさん、濱野さんと訳ありっぽいけれど、どうなんだろう。いや、さっき、決めつけはマズいって学習したばかりじゃないか。でも、なんかあまり長居しない方がよさそう。

「えっと、そろそろ失礼します。ごちそうさまでした。このお代は……」
亮太がいうと、志伸が手で制した。
「それは、僕が。今晩は、本当にありがとう」
 
「またのお越しをお待ちしていまぁす」
佑輝が、コートを着せてくれた。

「あの人、家に連れてきたことないわよね。新しい部下なの?」
リカが訊いている。ふうん。亮太は、まだちゃっかりと聞き耳を立てている。家に連れてきたことないって……ことは元カノかなんかなんだろうなあ。

 志伸は、淡々と答えた。
「ああ。4月から、僕は県庁に出向しているんだ」
「あら、そうなの。今のおうち天王洲でしょう? 遠いんじゃない?」
「1時間弱ぐらいかな。まあ、引っ越すほどは遠くないし……」

 それに、きっと2、3年くらいで本省に帰るんだろうし。亮太は心の中で先を続けた。

「じゃ、牧さん。またのお越しをお待ちしているわね〜」
佑輝の野太いのにやけに色っぽい声に送られて、亮太は店の外に出て階段を昇った。

 新年早々、なんかすごいところに来ちゃったなあ。亮太は、先ほど通り過ぎた鄙びた商店街を通り過ぎながら、ずいぶん時間が過ぎて何もかもが変わってしまったかのように感じた。実際には30分も経っていないのに。

 濱野志伸も、30分前に亮太が憧れていた超エリートとは少し違っている。ドラァグクイーンみたいな人と仲良くして鄙びた町のゲイバーに通っていたり、居心地悪そうに元カノみたいな人に押されている姿は、それまでの本省から来た世界の違うスーパー上司像と相容れない。

 何があったかなんて訊くのは無粋だろうなあ。もっとも、ここに通ったら、そのうちにわかったりするのかも。いやいや、何を考えているんだ、僕は。

 亮太は、志伸が意外とこの鄙びた商店街とマッチしているのかもしれないと思いながら、わずかにウキウキしたまま、駅に向かった。

(初出:2021年1月 書き下ろし)
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Category : 短編小説集・12か月の店
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】冬のパラダイス

今日の小説は『12か月の店』の2月分です。もう3月ですけれど。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

今回の舞台は『ニューヨークの異邦人たち』シリーズのたまり場《Sunrise Diner》です。もちろん働いているのはおなじみキャシー。そして、出てくるコンビはケニアで新婚生活をはじめたあの人たちです。


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【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む

霧の彼方から「霧の彼方から」を読む

「ニューヨークの異邦人たち」外伝集「ニューヨークの異邦人たち」




冬のパラダイス

 寒波のひどい朝は、出勤がとても憂鬱になるものだが、来てよかったとキャシーは思った。懐かしい友人が朝から訪ねてきてくれたのだ。
「びっくり。いつ着いたの? しばらく滞在?」

 ドアを開けてジョルジアを通してから入るグレッグの姿を見て、ずいぶんと夫らしくなったなとキャシーは思った。以前は、何をするのにもジョルジアの機嫌を損なわないかおどおどしているようなところがあったのだが、半年の新婚生活でジョルジアが自分の妻であることに慣れたのだろう。

 ジョルジアは、手慣れた様子でコートをハンガーに掛けながら答えた。
「6時に着いたのよ。荷物だけ置いて、まっすぐここに来たの」

 ニューヨーク、ロングアイランドのクイーンズとの境界のすぐ側の海岸を臨んで、大衆食堂《Sunrise Diner》がある。キャシーが新装開店のスタッフとしてこの店に勤めだして、3年半が経った。開店してすぐに朝食を食べる常連になってくれたジョルジアは、当時は近所に住んでいた。

 感じはいいのに、めったに口もきかず、いつもカウンターに1人で座っていた彼女が、他の常連たちと打ち解けだして、自然と輪の中に入っていけるようになるまで、しばらく時間が必要だった。それが、どうしたことだろう、1年後の秋に「アフリカで知り合った友人」を突然連れてきたかと思ったら、その1年後には、彼と結婚して、ケニアに移住すると言い出した。

 常連たちは、そのニュースを聞いてもひどくは驚かなかった。もちろん、キャシーも。むしろ、なぜあれから1年も「ただの友人」だと言い張っていたのか、みな理解できなかったのだ。

 4月の結婚式は、彼女の家族のたっての希望でニューヨークで行われたが、大きなホテルを貸し切りたいという兄の意向に断固反対して彼女たちがパーティー会場に選んだのが《Sunrise Diner》だった。家族の他、常連や、ジョルジアが専属フォトグラファーとして働く《アルファ・フォト・プレス》の社員たちが集まり、盛大かつアットホームなパーティーだった。

 キャシーはもちろん、夫のボブも招待された。アメリカ有数の富豪であるマッテオ・ダンジェロと、もとスーパーモデルのアレッサンドラ・ダンジェロのデュエットに合わせて、ダンスを踊るなどという経験は、そうそうできるものではない。もっとも、主役の2人は盛り上がりすぎに居心地が悪かったのか、パーティーの後半からは会場の隅に大人しく座っていたので、後から常連たちの語り草になった。

 その後、すぐに2人はケニアで新生活をはじめたのだが、ジョルジアはニューヨークでの住まいを完全には引き払わなかった。《アルファ・フォト・プレス》との契約で年に数ヶ月はニューヨーク暮らしをする必要があるので、同じフラットの、少し小さな部屋に引っ越して、渡米中の住まいを確保したのだ。

 また、グレッグも援助をしてもらっているプロジェクトの報告のため、年に1度ニューヨークに報告に行く契約を結んでいる。つまりこの夫婦は少なくとも年に1度ニューヨークに揃ってやってくるのだ。

 今どき報告なんてEメールで何でも済ませられるのだから、その契約は、引っ込み思案な2人をニューヨークまで引っ張り出したいマッテオ・ダンジェロの策略なのだろうとキャシーは思っている。そして、その第1回目が今回の渡米なのだろう。
 
「あら。手編み?」
キャシーは、グレッグがカウンターに置いた手袋に目を留めた。それは、グレーの毛糸をベースに、黄色や赤や緑の文様が編み込まれた、ゴム編みの大きなものだ。機械編みかもしれないと思うくらいに目はきちんと揃っているが、最近ではめったに見ない田舎っぽいデザインだ。彼のオーソドックスでシックなコートとマッチしていないし、ジョルジアやその家族が、こんな野暮ったい物を贈ることはないだろう。

 実際に、ジョルジアが外した手袋は、茶色いヌメ革に黒い革のラインが走っているもので、ダンジェロ兄妹の家族らしい洒落たチョイスだ。

 グレッグは「ああ」とだけ答えた。
「お母様の手編みなのよね」
ジョルジアが言い添えたので、キャシーはなるほどと思った。

「学生の頃にもらったんだ。アフリカに引っ越してから、1度もこの手の手袋を使う必要がなかったから、ここに虫食いの穴があった」
彼は右手袋の内側を見せた。確かに、繕った跡が見える。手袋のいらない生活ね。数年に1度、1週間ほどニューヨークに来るためだけならば、確かに新しいのを買う必要もないだろう。

「冬のニューヨークは初めてなの?」
キャシーが訊くと、グレッグは頷いた。
「ジョルジアから聞いていたから覚悟していたけれど、とても寒いね」

「僕が初めてここに来たときも、やっぱり冬だったけれど、あまりの寒さに仰天したものですよ」
いつもの窓際の席ではなく、やはりカウンターに座ったクライヴが言った。彼のイギリス的な美意識、つまりカウンターなどではなく、テーブル席で優雅に紅茶を飲む習慣も、今日のウインドー越しに襲ってくる冷氣には勝てなかったらしい。

 キャシーは黙って、ヴィクトリア朝のブルーウィロー・ティーポットに、安物のティーバッグをポンと入れた。このポットは、クライヴが店長を務めている骨董店から持ち込んで預けているのだ。彼のためにいちいち茶葉を用意してやることはないが、少なくともポットを熱湯で温めたり、沸騰させたお湯を入れてやるくらいのことはしている。そして、他の客とは違い、同柄のカップとソーサーに淹れて悦に入っているクライヴの伝票に「紅茶1」とかき込むのだ。

「で、新婚さんたちのご注文は?」
キャシーは、ジョルジアたちに顔を向けた。ジョルジアは、もう心に決めていたようで即答した。
「ホットチョコレート。『キャシー・スペシャル』で。こんなに寒いんですもの」

「それは、どんな飲み物?」
グレッグは、用心深く訊いた。かつて、キャシーに奨められて、とんでもない大きさのチョコレートサンデーが運ばれてきた衝撃を忘れていないのだろう。

「チリペッパーが入っているの。辛いのが苦手じゃなければ、いけると思う」
キャシーはウインクした。ジョルジアが続けた。
「とっても体が温まるのよ」

「じゃあ、僕にもそれをおねがいします」
グレッグが言った。

「はーい」
キャシーは、テキパキとチョコレートを用意した。

 オープンした当時、この《Sunrise Diner》で出すホットチョコレートは、粉末ココアに熱湯を入れる薄めのものだった。だが、常連にどういうわけだかヨーロッパからの移民の割合が多く、しかも、ホットチョコレートに関してはひと言もふた言もある輩が多かったおかげで、もう1つのホットチョコレートがメニューに登場することになった。ダーク系の固形チョコレートを刻んだものに熱いお湯と加熱したミルクを混ぜて作る、フランスやイタリアタイプだ。

 さらに、常連たちがあれこれと改良に腐心した結果、チリペッパー入りの《Sunrise Diner》特製ホットチョコレートが誕生したというわけだ。いまでも粉末ココア式のホットチョコレートもメニューにあるのだが、注文が入るのは圧倒的に『特製』だった。そして、常連はたいてい『キャシー・スペシャル』とそれを呼ぶのだ。

 グレッグは、厚手のカップが目の前に置かれるのをじっと眺めた。彼の知っている粉末ココア製の飲み物と違い、それは真っ黒なクリームのように見えた。キャシーはスチーマーで加熱したミルクをその上からかけてドリンクを完成した。隣でジョルジアがミルクとチョコレートをかき混ぜて飲みやすい粘度にしているのをまねてから、湯氣の上がるカップをそっと口元に運んだ。

 もっと辛いのかと思ったが、チョコレートの甘い味だけを感じた。だが飲んでいるうちに、だんだん喉元にヒリヒリとした刺激が訪れてくる。それに氣がつく頃には、体がもうぽかぽかしている。
「なるほど。確かに、暖まるね」

「初めて来たときには、ぞっとしましたよ。なんだってこんな寒いところが大都会になったんだろうって」
クライヴは、紅茶を優雅に飲みながら言った。ケニアで育ったグレッグにしてみたら、ロンドンだって、十分に寒かったのだが、クライヴにとっては、大きな違いがあるらしい。

「早く春になって欲しい?」
ジョルジアが問いかけると、クライヴは大きく頷いた。

「ちょっと待ってよ。それは困るわ。冬を待ちかねていた人だって、ここにちゃんといるんですから」
キャシーが口を尖らせた。

 首を傾げるグレッグに、ジョルジアがそっと解説をした。
「キャシーは、アイススケートが好きなの。フィギュアの選手も顔負けってくらい、とても上手いのよ」

 キャシーは、肩をすくめた。
「ま、いまだにウォールマン・リンクで滑りながら、スカウトが来るのを待っている身だけどね」

 それは冗談なんだろうか、それとも本当に? グレッグは、どう反応していいのかわからなかったので、チョコレートのカップを口元に持っていき、チリペッパーの刺激を待つことにした。

「アリシア=ミホにも教えているの?」
ジョルジアが訊いた。キャシーの娘アリシア=ミホは、そろそろ5歳になる。彼女は母親の顔になり、重々しく頷いた。
「うん。ようやく1人で滑れるようになったの。滑るのが楽しくなってきた頃かな。もっとも動物園の方が好きみたいだけど」

「きみの子供時代とは違ってかい?」
クライヴが訊くと、キャシーは「そうねぇ」と考えた。

「私が子供の時は、動物園どころかウォールマン・リンクにも入れなかったもの。ママはシングルマザーで時間もお金もなかったしね。で、私は凍った家の近くの池で1人で滑っていたなあ。動物園とか、暖かい家でするゲームとか、そういう別の選択肢はなかったのよね。ま、おかげでスケートに夢中になれたんだから、それはそれでよかったのかも」

「こんなに寒いのに、そんなにしてまでよく滑ったねぇ」
クライヴは、ぞっとするという顔をして、紅茶を飲み干した。

「滑っていると、ワクワクしてくるの。スピンしているうちに、嫌なことも忘れちゃう。新しい技に成功したときは、天に昇る心地よ。こればっかりは子供の頃から変わらないなあ。それにね、スケートリンクと違って、ただの池はめちゃくちゃ寒くないと危険で滑れないの。だから、毎年もっともっと寒くしてって神様におねがいしたなあ」

「なんてお願いをするんですか! だから、こんなに寒いんじゃないでしょうね!」
クライヴの抗議に、その場の皆が楽しく笑った。

「寒くなると、嬉しくて、踊り出しちゃうけどなあ。冬のニューヨークは、パラダイスだよ」
キャシーは、譲らなかった。

「キャシーが、あんなに冬が好きなんて、意外だったな」
外に出てから、グレッグはつぶやいた。アフリカから来た彼には、この寒さはこたえるだろうなとジョルジアは思った。

 ジョルジア自身は、さほど冬は好きではない。スケートはもちろん、スキーにもほとんど行ったことがないから、長すぎる秋や、早すぎる春に文句を言いたくなったことなど1度もない。とはいえ、例えばクリスマスに30℃近くあるというのも、落ち着かない。また『キャシー・スペシャル』は、やはりとびきり寒い日に飲むほうがしっくりくる。

 海を見たいと言ったのはジョルジアだった。まだ低く弱い日差しが作り出す光を見たかったのだ。

 そして、彼女は、街路樹の枝に育った氷の結晶が煌めくのをそのままにはできなかった。しばらく時間を忘れてシャッターを切った。グレッグは、大人しく彼女が満足するまで待った。

「もういいのかい?」
振り向いて申し訳なさそうに見つめた彼女に、彼は微笑みながら問いかけた。

「ごめんなさい。つい夢中になってしまって」
「いいんだよ。ほんの5分くらいじゃないか。僕が君を忘れてしまった時間に比べたら……」
「あの時は、こんなに寒くなかったわ」

 暖かいフラットに戻ろうと歩き出したとき、ジョルジアは困ったように辺りを見回した。
「どうしたんだい?」
グレッグも、止まった。

「手袋。どこに落としたのかしら」
右手の手袋が見つからない。

「最後に見たのはどこかい?」
「《Sunrise Diner》で2つ揃っていたのは憶えているんだけれど」
「じゃあ、通った道を戻ろう。落ちているかもしれないし」
「そうね」
「せっかくだし『キャシー・スペシャル』をもう1杯飲もうよ」

 シャッターを押しているときには感じなかった冷たさが急に指を襲ってきた。ポケットがないデザインのコートは大失敗だったわ。彼女は所在なさげにストールに手を絡めた。

 グレッグは、近づいてくるとそっと彼女の凍えた手を握った。ウールの手袋が暖かく指先を包んだが、それがそのまま彼のコートのポケットにするりと収まった。ジョルジアは、必然的にとても近くなった彼の顔を見上げた。はにかんだ彼の瞳が、こんなことをしてもいいのかと確認するようにこちらを見ている。彼女は、微笑んだ。

 キャシー、あなたのいう通りね。冬のニューヨークは、パラダイスだわ。

(初出:2021年3月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】皇帝のガラクタと姫

今日の小説は『12か月の店』の3月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

今回の舞台は『ウィーンの森』です。静岡県の小さな街にあるウィーン風のこだわりカフェ、ということになっている店です。この話、もともとはシリーズ化する予定は皆無だったのですけれど、猫又がやって来たあたりからなんとなく使い勝手がよくなって時おり登場していますね。


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【参考】
「ウィーンの森」シリーズ



皇帝のガラクタと姫

 ひらひらと白い花片が舞っていくのを、真美は目で追った。あれはなんだろう。桜にしては早いから、桃かしら。

 子供の時に住んでいたこの地域は温暖で光に満ちている。以前から抱いていた真美の印象は、久しぶりにこの街で暮らしてさらに強くなった。東京も思っているほど寒くなかったのかもしれない。こまかく氣温を記録していたわけではない。けれど、真美が通っていたオフィスはビル風が強いと有名なところで冬の厳しさは格別だったし、春の訪れも花見の頃まではあまり感じなかった。

 結婚し住むことになった駅前のカフェの周りには高いビルはない。周りに柑橘類を植えている邸宅が多く、柔らかい陽光と実の暖色が近所一帯を視覚的に温めてくれている。カフェの裏手には白樺の林があり、その四季折々の表情も見飽きない。

 土曜日。いつもより少し寝坊をしてしまったので、わずかに後ろめたく思いつつ、布団を干した。護は、もちろんとっくに起きて、開店準備をしているはずだ。真美が昨夜遅くまで月曜日のプレゼン資料を作成していたのを知っているので、起こさずにそっと店にいったのだろう。

 つきあうことになってから、お互いに結婚の意思があることまではわりと早く明確になったのだが、それから具体的な話を決めるときに若干もたついた。護はこの店『ウィーンの森』の店長としての仕事をほぼ生きがいのように感じていたが、真美が東京の商社で任されていた仕事にやり甲斐を感じていることもよく理解していてくれた。

 実際に、真美は長距離通勤や単身赴任なども考えたが、最終的には退職して近くで再就職をする道を選んだ。『ウィーンの森』のスタッフとして働くという考えもあったのだが、護は反対した。それはいつでもできることだし、365日24時間ずっと一緒に居るよりも、お互いに自分の空間と時間、そして知りあいを持つほうがいいと。

 真美はなるほどと思った。この土地と店をずっと続けている護はともかく、17歳で東京に移住した真美にこの街の人々との付き合いはほとんどない。自分の世界を持ち、見聞を広めるのは大切なことだ。

 そんなわけで、真美は県内の少し大きな街の不動産会社に勤めている。土日は護の店を手伝うことも多いが、「休みの日はゆっくりしろ」と言ってくれるので、こちらは重役出勤になってしまうことが多い。

 洗濯や部屋の掃除をひと通り済ませてから階下に降りていった。コーヒーだけでなく、甘いケーキを焼くような香りがしている。店内を見回すと、いつも入り浸る近所のご老人たちの他、買い物帰りのようなご婦人方が楽しく話していた。

 そして、窓際に1人、非常に目立つ服装の女性が座っている。薄紫色のワンピースを白いレースとリボンが覆いつくしている。髪はきれいにセットされた縦ロールでヘアーバンドのように濃淡さまざまの紫の造花と白いレースが彩っている。あれは確か「姫ロリィタ」というジャンルの服装じゃないかしら。真美は思った。

 東京の原宿あたりにいれば、さほど珍しい服装ではないが、このあたりで電車に乗ればかなり注目の的になるだろう。だが、ウィーンのカフェをコンセプトにしたこの店ではそれなりに絵になる。

 白樺の木立に面した広い窓から入ってくる柔らかい陽光が彼女のワンピースや艶やかな髪に注がれ、おそらく化繊であろう衣服の人工的な輝きをもっと柔らかな印象に変えている。カフェのインテリア、柱や床も家具も濃い茶色だ。護は、エスプレッソメーカーからから食器に至るまで本場で使われているのと遜色のないこだわりの店作りをしていた。おそらくそれが彼女がここにやって来た理由でもあるのだろう。

 でも、1人なんだろうか。こういう人たちって、集まってお茶会をしたりするんだと思っていた。真美は、護がその女性のところに何かを運んでいくのを眺めた。

「お待たせいたしました。メランジェとカイザーシュマーレンです」
女性は、目の前に置かれた皿を見て硬直した。それから震える手で置かれたフォークとナイフに手を伸ばし掛けたので、護は軽く頭を下げて「どうぞごゆっくり」と言った。

 カウンターに戻って来ようとする護は、真美に氣がついて軽く笑った。真美も小さく「遅くなってごめん」と言った。ところがその言葉を遮るように、窓際の女性が「待ってください」と声をかけた。

 護は、戻って「いかがなさいましたか」と訊いた。

「あの、これ、どうしてこんなに崩れているんですか」
女性は、わずかに批難するようなトーンで言った。真美は遠くからだがその皿を見て、彼女の苦情ももっともだと思った。皿の上には、パンケーキをぐちゃぐちゃに潰したような欠片がたくさん置かれ、それに粉砂糖がかけられている。その横にガラスの器に入った赤い実のソースが添えられていた。

 護は、慌てた様子もなく答えた。
「カイザーシュマーレンをご注文なさるのは初めてですか?」
「はい」
「そうですか。シュマーレンというのは、ガラクタ、めちゃくちゃなものといった意味で、焼いたパンケーキを、あえてスプーンで崩して作るお菓子なのです」

 それを聞くと、女性ははっとして、恥じるように下を向いた。
「そうだったんですか。ごめんなさい、失礼なことを言って……」

 護は首を振った。
「見た目が特殊で、お客様のようなお申し出が多いので、あえてメニューには載せず、口頭でご注文いただいたお客様だけにお出ししているのです。どちらでこのメニューのことを耳になさいましたか」

 女性は、しばらく下を向いていたが、やがて顔を上げてから少し悲しそうに答えた。
「友だち……いいえ、知りあいに言われたんです。私にふさわしいお菓子があるからって」

 店内はシーンとしていた。おしゃべりに明け暮れていたご婦人方も、興味津々で成り行きを伺っている。

「私、ずっと友だちがいなくて。同級生たちと話も合わなくて。こういう服が好きって言ったら、みんな遠巻きにするようになってしまって。だから、普段は、この趣味のことは言わずに、ネットで同じ趣味の仲間を探したんです。でも、みんな都会にいて。行けない私はお茶会の話題にもついていけないんです。今日は、みんなウィーン風のカフェでお茶会をするっていうので、せめてここで同じように過ごそうと思って、どんなお菓子がいいかって訊いたら、これをすすめられて……」

 ウィーンのカフェっぽいお菓子といえば有名なザッハートルテやシフォンケーキ、若干マニアックだけれどピンクのプチケーキ・プンシュクラプフェンなどを思い浮かべるけれど、カイザーシュマーレンなどというデザートは初耳だった。真美は、そのネット上の「姫ロリィタ」仲間たちの意図がわからず戸惑った。

「遠くても、ようやく趣味の合う友だちができたと思っていました。年齢も離れているみたいだけれど、それでも受け入れてもらっているのかと。でも、私、歓迎されていなかったみたい」
それだけ言うと、彼女は悲しそうにカイザーシュマーレンを見つめた。

 護は、小さく首を振って答えた。
「そういうおつもりで薦めてくださったのではないかもしれませんよ」

 女性は不思議そうに護を見た。彼は、続けた。
「カイザーシュマーレンのカイザーとは、皇帝という意味なんです。このデザートの由来にはいくつか説があるのですが、一番有名なのは皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が氣に入ったからというものなんです。あの、シシィの愛称で知られるエリーザベトを皇后にした皇帝です。オーストリアでは、同様にしてつくられるシュマーレンの中でももっとも洗練されたデザートとして愛されています」

 彼女は、皿の中をじっと見つめた。明るいパステルイエローが粉砂糖の中から顔を見せ、甘い香りが漂ってきている。遠くで眺めながら真美はあれを食べてみたいと思った。

「ひと口だけでも召し上がってみてください。ウィーンでは何軒ものカフェでそれぞれのカイザーシュマーレンを食べましたが、こちらはそのどこにも負けない味だと自負している自信作です。日本の方の舌に合うように生地の甘さを控えめにして、ソースの方で甘さを調節できるようにしてあります」

 護の言葉に小さく頷くと、彼女はそっとフォークとナイフを手に取った。
「あ……」
小さい欠片はナイフを使うまでもなかった。それぞれは切るほど大きくないし、見た目は脆そうでもカラメリゼがきいているのでフォークからこぼれ落ちることもない。

 ひと口食べてみた彼女は少し顔を赤らめた。
「おいしい……」

 それから護を見て頭を下げた。
「食べもしないで、文句を言ってごめんなさい。とても美味しいし、それに、他のお菓子のように、食べるときに服を汚さないか、きれいに食べられるか心配しなくていいデザートなんですね」

 護は頷いた。
「お氣に召して嬉しいです。どうぞごゆっくり」

 カウンターに戻ってくる護を、ご婦人方が止めた。
「ねえ。私たちもあれを食べてみたいんだけれど」

 カウンターに戻ってきた護は真美に卵を出してくれと頼んだ。真美は、テキパキと冷蔵庫から卵を取りだした。

「そういえば、ザッハートルテ、大好きだけれど、フォークだけで切るのはけっこう難儀よね、かなり固いし」
真美が言うと、護は頷いた。
「君は、苦労していたよな、たしか」

 そういえば初めて食べたのはここ、高校生の時のことだ。ナイフを使わない横着をしてケーキの小片を飛ばしてしまった。そして、ジーンズにアプリコットジャムがベッタリとついた。真美は当時も今も、この店ではラフな格好しかしないので特に問題はなかったが、あんな素敵な格好をしていたら、そんな失敗は怖いだろうと思った。

 女性の着ている紫のワンピースもそうだが、「姫ロリィタ」のワンピースにはボリュームパニエが必須で、座るとスカートが机の真下まで広がることになる。加えてたくさんのレースやリボンがついているので、その分普通の服装よりもスカートを汚すことも多いのだろう。その点、カイザーシュマーレンならずっと食べやすいだろう。

「真美、これを頼む」
護は、できあがったカイザーシュマーレンを2つカウンターに置いた。それから自分も2皿持ち、ご婦人方のところに持って行く。真美はその皿を一緒に運びながら厨房奥に小さな皿が残っているのを見た。ひと言も口にしなかったのに味見用を用意してくれたのだろう。そんなに物欲しげな顔をしていたかしら。 

 はじめて食べたカイザーシュマーレン。中はふんわり外はカリッとして美味しい。真美はフレンチトーストなどを茶色く色づかせるのが好きだがいつも焦がして苦くしてしまう。こんな風にカリッとするまで焼くのは、単にレシピを見て作るだけでなく、かなり研究を重ねて作り込んだはずだと思った。

「真美。そんなに喜んでくれるのは嬉しいけれど、顔が緩みすぎだぞ」
厨房で堪能していると、そういいながら護は、コーヒーを淹れてくれた。

 食べ終わってから店内を見ると、ご婦人方が窓際の女性に話しかけていた。
「あなたのその服、とても綺麗ね。手作りなの?」
「えっと……。買ったものに少し自分で手を加えています。レースやリボンなどを……」
「まあ、そうなの。とても素敵よ」
「へえ。自分でなんて偉いわね。うちの娘は家庭科の宿題すら全部わたし任せなのよ。材料は、手芸用品のお店で買うのかしら」

 女性は、困ったように言った。
「私、この前引っ越してきたばかりで、この辺りのお店は知らないんです。前いたところは、大きい手芸屋さんも知っていたんですけれど……」
「あら。隣の駅だけれど、とても充実していて安いお店を知っているわよ。ちょっとまって、地図を書いてあげる」

 ほんの30分前までは完全に浮いていた「姫ロリィタ」ルックの女性は、すっかりご婦人方に可愛がられている。そして、彼女自身も打ち解けて自然な笑顔を見せるようになった。ご婦人方だけでなく、別の席のご老人グループも、見てはいけないものを怖々みるような態度はなくなり、遠くから見守っていた。

「このお店、そういうお衣装にはぴったりよね」
「はい。こういう素敵なカフェ、東京みたいな大都会じゃないとないんだと思っていました」
「うふふ。インテリアも、メニューも、店長がこだわっているからねぇ。本場ウィーンにいるみたいでしょう?」
「せっかくだから、写真を撮ってあげるわよ。同じ趣味のお友達に自慢するといいわ」

 真美はカウンターの後ろで護と顔を見合わせて笑った。この店は、彼の思い入れと研究の成果であると同時に、こうしてお客さんたちが支えてくれるので続けられているのだと思う。都会にあればもっとたくさんの人が足を運んでくれるかもしれないが、こんな風に客同士が楽しく触れ合うこともそうそうないだろう。

 ご老人方やご婦人方に続き、きっとこの「姫ロリィタ」ルックの女性も常連になってくれるだろう。もしかしたら、彼女が同じ趣味の人たちを連れてくるかもしれない。真美は、カイザーシュマーレンを正式にメニューに入れることを、護に提案しようと思った。

(初出:2021年3月 書き下ろし)

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カイザーシュマーレン、もっとぐちゃぐちゃのも散見しますが、だいたいこんな感じのお菓子です。
Kaiserschmarrn groß
Kobako, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons
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Category : 短編小説集・12か月の店
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】花のお江戸、ギヤマンに咲く徒桜

今日の小説は『12か月の店』の4月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

今回の舞台は『お食事処たかはし』です。といっても、『樋水龍神縁起』や『大道芸人たち Artistas callejeros』で登場した樋水村にある店ではなく、江戸にある同名の店という設定です。はい。今回は以前にリクエストにお応えして書いた冗談小説のチーム、隠密同心たちを登場させました。

この作品は、『大道芸人たち Artistas callejeros』の主要キャラたちが、隠密同心(のバイト?)をしているという設定で、篠笛のお蝶、三味線屋ヤス、手妻師麗音レネ 、異人役者稲架村はざむら 貴輝の4人を書いて遊んだのですが、今回は加えて「たかはし」の親子3人や、旗本嫡男の結城拓人、浪人の生馬真樹まで登場。ふざけた話になっています。

本編(『大道芸人たち Artistas callejeros』や『樋水龍神縁起』、『樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero』)とは、全く関係ありませんので、未読でも問題ないはずです。


短編小説集『12か月の店』をまとめて読む 短編小説集『12か月の店』をまとめて読む

【参考】
半にゃライダー 危機一髪! 「ゲルマニクスの黄金」を追え



花のお江戸、ギヤマンに咲く徒桜

 障子の向こうにひと片、またひと片と散りゆく花が透けて見えた。もう春かと彼は傘張りの手を休めた。生類憐れみの令に対して疑念を抱いた藩主の酒の席でのひと言が、幕府の耳に入り改易蟄居を申しつけられた。家臣は職を失った。そのひとりであった生馬真樹はそのまま江戸に留まったが、再仕官は未だかなわず傘張りで日銭を稼ぐ日々だ。

「ちょいと、生馬さま。聞いておくれよ」
ガラリと引き戸を開けて入ってきたのは、「お食事処たかはし」の女将であるお摩利。

「どうなさいましたか。女将さん」
「どうしたも、こうしたも、うちの人がさ。岡っ引きにしょっ引かれてしまったのよ」
「なんと。ご亭主が? 一体どうしたんですか」

 お摩利は、あたりを見回してから土間の引き戸を閉め、それから袖口からそっと何か小さな桐箱を取りだした。
「どうやらこれのせいらしいんだけれど、私にもわけがわからないのさ」

 真樹は、それを受け取って開けた。絹の布団に薄紙に包まれた何かが載っている。注意深く薄紙を開くと、彼は息を飲み、まじまじと眺めた。

 それは小さな盃だった。よくある陶器や磁器などではなく、透明な硝子に桜の花が彫ってある。藩で進物授受の目録管理に関わったこともある彼は、それが時おり見るびいどろではないことをひと目で見て取った。

「これはどこで手に入れたものですか」
「あの人が、客から預かった物よ。一応、そんな物は預かっていないって言い張っているはずだけれど、拷問される前になんとか助け出したいのよ。ところで、これ、すごいお宝なの?」
「はい。おそらく長崎出島から持ち込まれた御禁制のギヤマンかと」
「ええっ。ただの珍しい盃じゃないの?」

 真樹は首を振った。
「ここを見てください。びいどろのような泡や濁りは全く混じっていない。透かせば女将さんのお顔がそのまま見えます。こんな薄い硝子は、長崎でも作れないはずです。それに、この桜です」

 白くこすったように桜の文様が掘られている。
「この桜がどうしたの?」
「まるで細筆で描いたかのように細かく表現されていますよね。金剛石のようにとても硬い物で根気よくこすってつけた文様でしょう」

 大名の宝蔵どころか、御上に献上されてもおかしくない一品だ。江戸下町の食事処の亭主が持っていたら、よからぬことをしたと疑われても無理はない。
「やだわ、どうしよう。あの人ったら、面倒な物を受け取ってしまったのね」
「一体だれが……」

「娘にご執心の結城様が持ってきたのよ」
お摩利は、真樹をちらりと眺めていった。真樹は、はっとして、お摩利の顔を見つめた。

 かつて江戸詰の頃は「お食事処たかはし」に足繁く通い、看板娘のお瑠水と親しくしていたのだが、浪人となって以来手元不如意でなかなか店に足を運ぶことができない。その間に、お瑠水に近づいていたのが旗本嫡男で評判の遊び人である結城拓人だった。

「うちの人や、娘を苦境から救ってくれるのは生馬様しかいないと思って来たのよ。後生だから、助けてくれないかしら」
摩利子は、真樹を見上げるようにして訊いた。

 真樹は、厳しい顔をして考えた。
「もちろん、お助けしたいのは、山々ですが、拙者ひとりでは……そうだ。もしかしたら彼らなら……」

「誰? アテがあるの?」
「ええ。とある四人組に伝手があります。異人役者の稲架村はざむら 貴輝はご存じですか」

「ええ。名前ぐらいなら。異人なのに達者に江戸言葉を話すって評判よね」
「拙者、彼にちょっとした貸しがあるんです。彼にはもう1つの稼業があって、岡っ引きの方にも顔が利くかもしれません。早速ご亭主のことを頼んでみます。ついでに、結城様や、このギヤマンのことについても訊いてみます。女将さんは、お店に戻ってください。お瑠水さんに何かあったら大変ですし」

「まあ。それは助かるわ。じゃあ、お願いね」
お摩利は、持っていれば獄門に連れて行かれるやもしれないギヤマンの盃を、体よく真樹に押しつけると急いで店に戻っていった。

* * *


 下町人情あふれる一角に「お食事処たかはし」はある。活きのいい魚と女将お摩利の話術に誘われて多くの常連で賑わう店だ。

 お蝶は、芸者のなりをして店に入ってきた。彼女は稲架村はざむら 貴輝と同じく隠密同心で、生馬真樹から話を聞き、「お食事処たかはし」の警護と情報収集のため派遣されてきたのだ。

「いらっしゃい」
「まだ早いけど、座ってもいいかしら」
「どうぞ」

 暖簾をくぐると、店には武士がひとりいる。その顔を見て、お蝶は呆れて思わず言った。
「ちょいと、結城の旦那! 何故ここにいるのよ。一体だれのせいで……」

「あれ! 篠笛のお蝶じゃないか。まずいな、もう話はそちらに上がってしまったのかい」
「当たり前よ。異人同心たちも呆れていたわよ。結城の旦那が、とんでもないことをしてくれたって」

「面目ない。まさかご亭主があれをこの辺に置いておくなんて夢にも思わなかったんだよ」
「町民にあれがどんなものかわかるわけないでしょう」

 結城は肩をすくめた。
「で。ご亭主は? それに、あのギヤマンはお蝶、君が持っているのかい? 頼むから返してくれよ」

「ご亭主は、いま内藤様預かりになったわ。あの御品は、ひとまず岡っ引きなんかじゃ手の出せないところに預けてきたし」

「内藤様というのは……」
心配そうなお摩利に、結城は片目を瞑って言った。
「隠密支配の内藤勘解由様だ。拙者の友人でもある。ご亭主が彼のところに居るなら、もう心配は要らないよ」

 お摩利は、ホッとした顔をした。そして、結城は、改めてお蝶に向き直った。
「で、あれを返してくれないと困るな。明後日には、あれをもって登城する予定で……」

 お蝶は、憤懣やる形無しというていで、どかっとその場に座った。
「旦那が、あれがなんなのか、そして、そもそもどういうことか説明してくれたらね」

「いや、うちのお殿様から、御上への献上品なんだけれど、あまりに珍しくてきれいだったので、ちょっとお瑠水ちゃんに見せてあげたかっただけなんだ。こんなにきれいな物を見せてくださるなんて、結城様、素敵! と靡いてくれるかもしれないし」

 お蝶とお摩利は、同時に大きくため息をついた。結城拓人は女誑しで名が通っている。普段は、玄人筋から秋波を送られて、次から次へと戯れの恋模様を繰り広げているのだが、靡かないと燃える質なのかこの店の看板娘であるお瑠水にしつこく言い寄っていた。

 根は悪くないらしく、身分の差をいいことに無理に召し上げるようなことをしないのはいいのだが、女子おなご の氣を引くために、献上品を持ち出して見せびらかすなど、浅薄にも程がある。

 お蝶は、呆れかえって首を振った。
「あいかわらず懲りないお方ですこと。では、あの盃をどこに預けたか教えてあげましょ。先ほど園城様のお屋敷まで出向いて、お殿様に事情を話して頭を下げてきたんですよ。未来の婿殿のお役罷免を避けるために、渋々御協力くださることになって。で、いまは真耶姫様の化粧箱の中。返してほしければ、姫に頭を下げるんですね」
「な、なんと!」

 拓人は青くなった。寺社奉行を務める園城聡道は、幕府の御奏者番でもある。つまり、将軍に謁見するとき、その取次を行ない、献上物を披露する役割を担う。さらにまずいことに、娘の真耶姫は当の結城拓人の許嫁。つまり、町娘の氣を引くために献上品を持ち出したことは、御奏者番の殿にも許嫁の姫にも露見した。

 おもしろそうに二人のやり取りを聞いていた女将お摩利は、お蝶のために徳利と盃を出した。
「お姉さん。うちの人を助けてくだすったお礼に、一献飲んでいってくださいな。もしかして、お姉さんが、生馬様のおっしゃっていた異人同心さまたちのお仲間では」

 お蝶はにっこり笑って、頭を抱える結城拓人の隣に腰掛けた。
「そうです。せっかくだから、ご馳走になりますね。まあ、このお酒とてもおいしい。結城様ったら、どうしてこのお店を私たちに教えてくださらなかったのよ」

「そんなことをしたら真耶どのに筒抜けではないか」
結城拓人は、がっくりと肩を落として、それでもしっかりお蝶の酌を受けて飲んでいる。

「おいお蝶、一向に帰ってこないかと思ったら、何を勝手にはじめているんだよ」
入り口からの声に一同が振り向くと、魚売りの扮装をした男と、もじゃもじゃ頭の異人がのぞき込んでいる。

「あら。ヤスったら、なんなの、そのなりは」
隠密同心である三味線屋のヤスが、魚屋の変装するのは珍しい。
「聞き込みの帰りだよ。ついでに行方をくらましている結城様を捜しに……って、なんだ、ここにいるのかよ」

「やあ。三味線屋と手妻師くんか。よかったら、憐れなことになった拙者を一緒に慰めてくれないか」
結城拓人は、憐れな声を出した。

「どうなさったんですか、結城様」
手妻師麗音と呼ばれる仏蘭西人も、気の毒そうに入ってきた。

「どうもこうも、拙者の失態をよりによって園城様と真耶どのに知られてしまったらしくってね。これから畳に頭をこすりつけて、お灸を据えられに行くことになったんだよ」

「そのぐらい、どうしたっていうのよ。あなた様の軽率な行為のせいで、こちらのご亭主がもう少しで拷問にかけられるところだったのよ」
お蝶は、冷たく言い放つ。

「へえ。じゃあ、俺たちの働きに感謝して、ご馳走してもらってもいいよな」
ヤスは、さっさと結城拓人の反対側に陣取った。お蝶に促されて麗音もおずおずと座る。
稲架村はざむらさん抜きで呑んじゃっていいんですか。後で怨まれますよ」

「へっちゃらさ。もうじき内藤様のところからこちらのご亭主をお連れする手はずになっているから」
ヤスがいうと、結城拓人は目をむいた。
「ということは、拙者が異人役者の分も酒代を出すってことか」
お蝶は、その通りと微笑んで頷いた。

「そうと決まったら、少し祝い肴を用意するわね」
お摩利は、たすき掛けをして、自慢の肴をいろいろと用意し始める。

 ほどなく、稲架村はざむらが、亭主をつれて店にやって来た。喜ぶお摩利はもちろん独逸人にも呑んでいくように奨める。

「ところで、肝心なお瑠水ちゃんは、どうして帰ってこないんだ?」
酒豪の四人組にたかられることを覚悟した結城拓人は、せめてひと目可愛い看板娘を見て目の保養をしたいと思った。

 お摩利は、その拓人に追い打ちをかけるように言った。
「今ごろ、生馬様のお宅に行っているでしょ。なんせ父親を窮状から救い出してくださった大恩人ですもの。それにあの子、前々から生馬様に夢中みたいだし」

 笑いでわく「お食事処たかはし」にも、風で運ばれた白い花片がふわりと舞い込んでいた。江戸には間違いなく春が訪れていた。
 
(初出:2021年4月 書き下ろし)

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まったくの蛇足ですが、作品に使ったガラス盃は、当時の日本では作っていなかったGlasritzen(グラスリッツェン)という、ヨーロッパ伝統の手彫りガラス工芸を想定しています。ダイヤモンド・ポイント彫りともいい、先端にダイヤモンドの付いた専用のペンで、ガラスの表面に細かい線や点などを彫刻する技法です。

当時の言葉でガラス製品を表したものには「ギヤマン」と「びいどろ」がありますが、日本で作られていたのは吹きガラスである「びいどろ」(硝子を意味するポルトガル語由来の言葉)でした。長崎出島を通して入ってくるヨーロッパ製のガラスはグラスリッツェンを施したものもあり、ダイヤモンドを意味するポルトガル語がなまって「ギヤマン」と呼ばれたそうです。
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Category : 短編小説集・12か月の店

Posted by 八少女 夕

【小説】楽園の異端者たち

今日の小説は『12か月の店』の5月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

今回の舞台はスイスのカンポ・ルドゥンツという小さな村にあるバー『dangerous liaison』です。トミーとステッフィという男性同士のカップルが経営するこの店は、いくつかの小説の舞台になっています。わりとお堅い田舎で、流れ者、周りに上手く馴染めない異国人などが居心地よく過ごせる憩いの場になっています。登場するレーナは、この店の従業員であるハンガリー人。「夢から醒めるための子守唄」の主人公です。


短編小説集『12か月の店』をまとめて読む 短編小説集『12か月の店』をまとめて読む

【参考】
夢から醒めるための子守唄



楽園の異端者たち

 カンポ・ルドゥンツ村に春が来るときは、ついでに初夏も一緒に連れてくる。つい先日に山が新雪にに覆われたばかりだというのに、南風フェーン が吹き下ろした谷は、突然鮮やかな花に埋まる。レンギョウと梨に続き、野生の桜が花開き、チェリープラム、そして満を期して林檎とライラックが蕾をほどくと、それはもう春ではなく夏の始まりになるのだ。

 レーナは、職場である『dangerous liaison』までの通勤路を変えてみた。せっかくなので、果樹がたくさん植えられている1本東側の小径を行くことにしたのだ。そういえば、この道を通るのは久しぶりだな。レーナは、鼻歌を歌いながら小石のごろつく自然道を降りてゆく。真冬のぬかるみと凍結を繰り返す時期には、この小径は通勤に向かない。外国人であるレーナは冬にこうした道を問題なく歩ける技能を習得できていないのだ。

 春になれば、この小径は美しい散歩道に変わる。特にこの時期の果樹園は、白い花の海のようでこの村で最も美しい光景のひとつだと思っていた。

 今日は、いつもより大きい荷物を抱えているので歩みはゆっくりだ。だがそれも悪くない。ぽかぽかと暖かい日差しの中、新緑の香りを吸い込みながら歩くこの時間は、早く終わってしまうにはもったいないから。

* * *


「あら。なんだかすごい顔をしているわよ」
ドアを開けて入ってきたレーナをちらりと眺めて、トミーは片眉を上げた。

「ねえ、トミー! あんなことって、許されると思う?」
レーナは、息を切らしながら、カウンターの雇い主の前に駆け寄った。抱えていた大きく平たい荷物をそっとカウンターの端に立てかけてから、スツールに座る。

「なんの話?」
「あの素晴らしい果樹園! あのきれいな景色がメチャメチャじゃない!」

「どういうこと? 今朝は果樹園はあったと思うけれど」
彼は、丁寧に磨いた爪に新色のマニキュアを塗りおえたところで、乾かすのに忙しく、レーナの剣幕には歩調を合わせない。

「果樹園は、変わらずにあるけれど、あの裏手の家よ。オーソドックスな家だったのに、おかしなバルコニーを増築しているし、庭の木は大量に切り倒されて、代わりにバラックみたいな山羊小屋が林立していたの」
「ああ、オッターの家ね」

 トミーは、したり顔で頷いた。果樹園に二方が囲まれる『椿邸』は、1900年代の初頭に建てられた邸宅だ。以前は、果樹園を含む広い土地全体を裕福な豪農が持っていたが、1950年代に果樹園と牧草地、いくつかの農園とともに売りに出され、『椿邸』は近くの電力会社の地元責任者の社宅として使われていた。それが、数年前に売りに出され、オットー・モーザーというよそ者が購入して住みだした。

 モーザー氏は、住みだして1か月もしないうちに改築に着手した。その大胆な改築はすぐにうるさい村人たちの非難の的となったが、彼は村人と上手くやっていこうとか、周りの光景との調和を大切にしようとかいった思考回路を一切持たないタイプの人間だった。「自分の土地と家をどう変えようと、俺の勝手だろう」と突っぱね、毅然として改築を続けた。その結果、『椿邸』はおかしなテラスを持つ不格好な家に変身し、その周りを醜い山羊小屋が取り囲む、村でも最も奇天烈な光景になっていた。

「あんた、あの小径を通ったの初めてなの?」
何を今さらという風情でトミーは怒り狂うレーナをなだめた。

「あの家、有名なの?」
「家っていうか、持ち主がね。あんたも接客したことあるじゃない」
「誰?」
「先週、あんたが憤慨していた、あの髭の男よ」

 そういわれて、レーナは思い出した。カウンターに座った太った髭の男は、常連たちと不毛な口論をしたあげく、ドアをたたき付けるようにして出ていった。その弾みにドアの上に掛けられていた絵が落ちて破損したのだ。

 レーナは、持ってきた包みを持ち上げて慎重に中身を開いた。それは、修理の終わった額縁だ。パートナーのホルヘが作業をしてくれたのだ。トミーは裏手から外してあった絵を持ってきて収めた。それには、オオハシとモンステラが描かれている。レーナがルガーノで見つけて店のインテリアデザインとぴったりだと大喜びして苦労して持ち帰ったものなのだ。

 ホルヘは、古木を用いた家具の製作と修理を生業としている。壊れたと嘆くレーナに「持って帰ってこい。来週にはまた掛けられるようにしてやる」と請け負ってくれた。約束通り、先ほど完成したこれを見て彼女は歓声をあげた。前はなんということはない平凡な額縁だったのだが、まるでアンティークのような味わいに変わっていた。

 破損したところをわかりにくくするために、全体に古木の破片を散りばめて暗いニスで覆った額縁に納まると、絵の貫禄はさらに増したように思えた。

「ドアの上に飾るのは少し待ちなさい。ちょっとやそっとでは落ちないようにステッフィに仕掛けをしてもらうから」
トミーはウインクをして言った。

 レーナは、この絵が落ちて、額縁が破損したときの怒りを思い出して肩をすくめた。
「あの人か。この村の住人だなんて知らなかったわ」
「めったに来ないからねぇ」

「オッターって呼ばれているの? よっぽど嫌われ者なのかしら」
レーナが口を尖らすと、トミーはひらひらと手を振った。
「さあ、それはどうかしら。ウマが合う、合わないはそれぞれあると思うけれど、嫌われ者ってことではないわよ。オッターは、単なる呼び名でしょ」

 オッターというのは毒蛇の一種を指す言葉だ。通常は喜ばしくない呼び名だろうが、少なくともトミーには自分からそう名乗ったのだ。もともとはオットーのもじりで、おそらく本人も面白がっているのだろう。平凡な名前よりも個性的な呼び名を喜ぶタイプの人間がいることをトミーはよく知っている。

 それにオットー・モーザーは、村人との口論もよくするが、かといって完全に孤立しているというわけでもない。四角四面なタイプの村人とはうまくいかないが、変わり者として有名なリュシアンや、無口な酪農家ハインリヒあたりとはそれなりに仲良くつきあっていることも知っている。
「ホルヘとも、それなりに上手くやっているんじゃなかったかしら。無骨者同士で」

 レーナは「えっ」と目をむいた。まさか自分の伴侶が仲良くしているとは思わなかったのだ。
「仲良くってほどでもないけれど、頼まれれば仕事も受けるだろうし、道で会えば挨拶くらいはするでしょうよ。ああいう導火線の短いタイプは、ラテン民族では珍しくないし、喧嘩しても根に持たずに数日経ったらケロリとしているタイプが多いの。あとでホルヘに訊いてみなさいよ」

 なるほどとレーナは思った。トミーも、そのパートナーのステッフィも、それにホルヘも、見た目や行動、村人とのいざこざなどから簡単に人となりを判じることがない。怒りっぽいから、外国人だから、セクシュアル・マイノリティだからといった、レッテルだけで門戸を閉ざされて嫌な思いをした当事者だからこそ、同じようにレッテル貼りをして簡単に壁を作らないようにしているのかもしれない。

「ふーん。悪い人ではないってことね。それでも、あの家の周りは、ひどくない?」
レーナは、先ほど見た光景を思い出して、なおも食い下がった。

「少なくとも彼のデザイン的センスは、まったくあたしの趣味じゃないわ」
トミーも同意した。かつての『椿邸』は格別に美しい建物というわけではなく、どちらかと言えば平凡な家だったが、いまや非対称、非調和を目指した前衛アートのような姿に変貌している。それに切り倒された何本もの古木の切り株に登る山羊たちが織りなすアバンギャルドな光景が風光明媚を売りとしていた村の中で異彩を放っている。

* * *


 5月のカンポ・ルドゥンツ村は、生命力にあふれている。全ての樹木から一斉に萌え出でる若葉が真っ青な大空に向かってどんどんと空間を埋めていく。強い陽光が作り出す陰影を、南風フェーンがちらちらと揺らす。屋内にこもるのは大罪だと、枝にこぼれた新緑が手招きしている。

 翌日、再び同じ小径を通って『dangerous liaison』に向かうレーナは、再び『椿邸』の前にさしかかった。かなり手前から主張していた雄山羊の独特の臭いに肩をすくめ、せり出した不格好なバルコニーから眼をそらすために反対側を見やると、切り株に純白の仔山羊が登っていた。

「あら、可愛い」
思わずレーナが立ち止まると、心配したのか母山羊がメエエと鳴きながら、切り株とレーナの間に立ち塞がった。

「ハハハ、なにもせんだろう」
後ろからの声に驚いて振り向くと、家の戸口にオッターが座っていた。何かの作業をしているらしい。

「こんにちは」
相手はいちおう客なので、レーナは挨拶をした。刺々しさが出ないようにしなくちゃ。オッターの方は、彼女の意向など特に注目していないようだった。
「可愛いヤツだろう、つれていくかい?」

 レーナは、緊張していたのがバカみたいだと思った。数日前に店で大騒ぎを起こしたことも、村人にヒソヒソと悪口を言われていることも、彼の言動や行動にはまったく影響していないようだった。仔山羊は確かに可愛い。連れて行くわけはないけれど。

「悪いアイデアじゃないわね」
ジョークにジョークで答えると、それでレーナの中のわだかまりも溶けて消えてしまった。

 レーナが『dangerous liaison』の扉を開けると、トミーはいつものようにカウンターの向こうに座っていた。どこで入手するのか知らないけれど、この辺りのキオスクではみたこともない都会的な雑誌をめくっている。

「今日の機嫌はよさそうじゃない」
トミーはいつだって、見ていないようでレーナの変化を簡単に捉えてしまう。

「オッターに会ったの。ぜんぜん悪びれないのね、あの人」
レーナはカウンターに座り、頬杖をついた。

 トミーは、ふっと笑う。
「言ったでしょ」

 戸口を振り替えると、扉の上方に 絵が掛かっていた。ステッフィがちょっとやそっとでは落ちないように固定してくれたらしい。以前よりもずっと上等な絵画に見えるのは、ホルヘの匠技と飾られた位置がきちんとしているからだろう。

 オッターに対する憤りは、ほとんど消えてなくなっていた。

 いろいろな人がいる。うまく行く関係ばかりではない。社会全体の賛同を得られることばかりでもない。自分もそうだ。外国人ではみ出し者。でも、意見の相違はあろうと、喧嘩をしようと、近づきすぎず、排除もせずに、なんとなく許容し合うそんな空間がある。

 レーナは、「ま、いっか」と肩をすくめると、大好きな『dangerous liaison』を居心地よくするために、開店前の掃除をはじめた。

(初出:2021年5月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】その色鮮やかなひと口を -8 - 

今日の小説は『12か月の店』の6月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

今回の舞台は島根県の2つの店です。1つは松江にある和菓子店「石倉六角堂」。そして、もう1つは奥出雲樋水村にある「お食事処 たかはし」です。4月分の冗談作品と違いこちらが本来の「たかはし」です。つまり今回は『その色鮮やかなひと口を』と『樋水龍神縁起』のコラボということになりますね。『樋水龍神縁起』の方は、本編とは何の関係もないのでリンクはつけませんが、摩利子が氣になった方は別館に置いてある『樋水龍神縁起』本編に足をお運びくださいませ。

念のために書きますが、この作品で出てくる松江の「石倉六角堂」は実在しませんし、途中から出てくる樋水川、樋水村、そして樋水龍王神社も実在しません。樋水川のモデルは斐伊川なので、時おり実在の地名や神社ならびに施設が記述されていますが、創作のために混在していることをご了承ください。

そして、今回、どういうわけか予定の文字数(5000字)を大きくオーバーしております。すみません。

短編小説集『12か月の店』をまとめて読む 短編小説集『12か月の店』をまとめて読む

【参考】
その色鮮やかなひと口を シリーズ



その色鮮やかなひと口を -8 - 

 怜子は「晴れているなあ」と空を見上げた。梅雨が始まると憂鬱になるが、いつまでも始まらないと、それはそれで不安になる。今日から発売する6月の和菓子の紹介ポップを梅雨を意識して書いたのでなおさらだ。

 和三盆の打ち菓子が目立つようにディスプレーしたのは怜子自身だ。普段は置かない形に注目してほしいのだ。てるてる坊主やユーモラスなカタツムリ、それに紫陽花をイメージした菱形を4つ組み合わせた花。生菓子だと生々しく感じるカタツムリも、干菓子だと抵抗なく食べられるのが面白い。

 怜子は、できたての上生菓子をバックヤードから運んではショーケースに詰めていく。今月の上生菓子は三角形の水無月、若竹を模した鮮羹、練り切りは黄身餡を用いた枇杷と、赤紫のテッセン、そして紫陽花水饅頭。

 紫陽花水饅頭のアイデアは、怜子のアイデアをルドヴィコが実現してくれた自慢の商品だ。今までの年に作っていたものは細く麺状に絞った練り切りに青と紫の花弁を飾ったものや、ゼリーのような錦玉かんで覆って紫陽花を表していた。もちろんそれもも素敵だけれど、水饅頭もとても涼しげだ。ただの水饅頭だと少し地味で水無月と色合いが似てしまうが、怜子は白あんを葛で包み、上から紫陽花の花弁を飾るタイプを提案してみた。たくさんの花弁が置けない代わりに、ピンク、紫、青と色違いを用意した。

「あら、これ素敵ね」
ショーケースをのぞき込んでいた女性が言った。

「お待たせしました。どちらになさいますか」
怜子は、おしゃれな女性だなと思いながらその客を眺めた。怜子の母親と同年代にも見えるのだが、妙に垢抜けている。京紫に近い派手なシャツと黒いタイトスカート、それに黒いピンヒール。

「そうね。まずは今月届けていただく商品から……」
あ、個人のお客さんじゃないんだと怜子が思った途端、裏からルドヴィコが出てきた。

「あ、高橋様、いらっしゃいませ」
「ああ、マセットさん、いつもありがとう。今月も素敵ねえ。特にこの紫陽花の水饅頭、早速食べたくなっちゃったわ」

 ルドヴィコは、にっこりと笑った。
「ありがとうございます。これは、こちらの渡辺の案で作ったんですよ」

 高橋様と呼ばれた客は、怜子を見て満面の笑みを見せた。
「そうなのね。じゃあ、持ち帰る分はそれにしようかしら。それに、今月納品していただく分は、枇杷と若竹も入れてください。数量はいつもと同じで」
「かしこまりました。怜子さん、樋水村の『たかはし』様でお受けしてください」
ルドヴィコにいわれて、この方が奥出雲のあのお食事処の奥様なんだと納得した。

 半年ほど前から、週に1度「石倉六角堂」の和菓子をお届けするようになったお店だ。とくに有名でもない村なのだが、その店だけはメニューも店構えも妙に都会的センスにあふれているのだと、同僚たちが噂していた。ええっ、こんなオシャレな人があんな山奥に住んでいるってありえる?

「あら、このお干菓子、珍しい形ね」
高橋様は、怜子の書いた説明書きを読んでいる。

「はい。6月限定です。これまでは季節ごとに変えていたんですが、今月から毎月違う型で作ることにしたんです」
怜子が説明した。

「そうなの。シンプルだけれど季節感が出ていいわね。実はね、コーヒーと一緒に出すお砂糖代わりに和三盆を添えたらどうかなと思っているのよ。もしかして、うまく溶けないかしら?」

 ルドヴィコは頷いた。
「いいえ。その用途は考えたことがなかったんですが、大丈夫ですよ。和三盆糖に他の材料を加えた落雁と違い、打ち菓子の原材料は和三盆糖とねき蜜だけです。コーヒーなどに入れれば溶けます」

「ねき蜜ってなあに?」
「水飴と水を混ぜたものです」

「そう、じゃあ、お願いするわ。白と茶色のがいいわね。でも、このカタツムリや紫陽花もかわいいのよね……」
「では、白と茶だけで形はさまざまな物を作ってお届けしましょうか」

 高橋様は頷いた。
「そうしていただけると嬉しいわ。前はフランス産のちょっと高い砂糖を東京から取り寄せていたんだけれど、日本から撤退してしまったから、これからどんなお砂糖を出そうか考えていたところだったの」

 彼女が去った後、怜子はルドヴィコに話しかけた。
「あのお客さん、いつもあんなにスタイリッシュなの?」

 ルドヴィコはおかしそうに笑った。
「怜子さんが、そう訊くだろうと思っていました。ええ。いつもとても素敵ですね」

 怜子は、わずかに赤くなって恥じ入った。
「だって、あんなにおしゃれな人、このあたりでは珍しいよ。私、あんな高いピンヒール、テレビ以外で初めて見た。それなのに樋水川の奥地のお店だなんて」
「あの方はもともとは東京から移住してきたそうです。ご主人が樋水村の方だとおっしゃっていました」

 そういえば社長の奥様がお友達と行ったって……。インテリアもお料理もまるで都会か海外のお店みたいだったって絶賛していたっけ。怜子はあの人のお店ならあり得るなと思った。

「私、コーヒーのための砂糖なんて、考えたこともなかった。でも、フランス産の高いお砂糖を使ったり、和三盆をコーヒーに使ったり、こだわるとコーヒー1杯でも特別な感じがするよね」

「前回いらした時にも少しお話ししたんですが、あの方の和洋折衷のアイデア、とても勉強になります」
「え? ルドヴィコ、イタリア人なのに?」

「僕には日本人としての一般的な感覚がないので、意図せずにずれてしまっていることはあるかもしれません。でも、わかって敢えてずらすと意図しなかった場合よりも力づよい美しさが出るんですよ。こちらで皆さんに教わるように古来の伝統を学ぶこともとても大切と思っていますが、僕は異国のものを柔軟に取り入れる日本的な文化融合メソッドをも学びたいんです」

 なるほどねえ。怜子は頷いた。
「ねぇ。ルドヴィコ。だったら、その奥出雲のお食事処、行ってみない?」
「『たかはし』さんにですか?」
「うん。私、樋水村って行ったことないし、あの方のお店のお料理、とても美味しいなら行ってみたいもの。ものすごく高いのかなあ」

 ルドヴィコは笑った。
「ちょっとお値段が張ると聞いていますが、たまにはいいじゃないですか。よかったら今度のお休みに行きましょう」

* * *


 日曜日は、雨だった。予報は聞いてこなかったけれど、本格的に梅雨入りしたのかもとれないと怜子は思った。

 樋水村まではバスで50分ほどだ。道は基本的には樋水川に沿って登っていくが、時おり川辺を離れて街や小さな集落に寄っていく。河口近くでは鬱陶しい雨天だと感じていたのだが、家屋が途絶えて木々が鬱蒼と茂るようになると、木の葉に遮られるのか霧雨のような細かい雨粒だけが窓に触れるようになった。新緑が勢いよく芽吹く合間を水滴と風が通り抜けていく。

 奥出雲の主要な村で乗客は1人また1人と降りてゆき、次は終点の樋水村だ。車内には怜子とルドヴィコ、それから斜め前に座る老人だけが座っていた。

「ここは、あそこに似ていますね。志多備神社の……」
ルドヴィコは、考え深く言った。

「ああ、あのスダジイの巨樹のあった境内ね。ほんとだ。あの神社の外側は、どこにでもある田園風景だったのに、境内に入ってからガラリと感じが変わったわよね」

「もともと森林は世界のどこでも日常から切り離されて異界に入り込んだ感じがするものでした。少なくとも近世までは。でも、河川や道路を整備する必要のある公道の森林は、管理されて面白みのない林野になってしまうことが多く、こんな空氣を感じる場所は珍しくなってしまいました。樋水川は、下流は治水を積極的に行っているのに、このあたりは蛇行をそのままにしているんですね」

 ルドヴィコの言葉を受けて、老人は振り返ってにっと笑った。
「江戸時代からお上は何度かまっすぐにしようと頑張ったんだ。でも、龍王様のお氣に召さなかったんだな、結局元に戻っちまって、それでお役所も諦めたのさ。最後にやったのは戦前だよ。それ以来、ここをまっすぐにするのは税金の無駄だってことになったんだ」

「龍王様?」
怜子が訊ねると、老人は笑った。
「樋水川だよ。樋水龍王神社のご神体はこの樋水川なのさ。お前さんたち、ここに来るのは初めてかい?」
「はい。奥出雲は、多根自然博物館や絲原記念館までは来たことがあるんですけれど、樋水村は初めてです」

「そうかい。じゃあ、龍王様のところにお詣りしていくといい。それにしてもそちらの異人さん、立派な日本語話すねぇ。顔を見ないと日本人じゃないとわかんないぐらいだ」
老人はニコニコと頷いた。
「ありがとうございます。皆さんが丁寧に教えてくれるおかげです」

 怜子は、私は教えることなんてないよ、ルドヴィコの日本語も日本文化への造詣も、私が教えてもらうことの方が多いくらいだもの、と心の中でつぶやいた。

「こっちは長いのかい?」
「松江に来て6年です。その前は京都に2年ほどいました。日本語学校と和菓子の専門学校に行きました」

 すると老人は、わかったという顔をした。
「ああ、もしかして『たかはし』で始めた抹茶セットのお菓子作っている職人さんかい?」

「あ、和菓子を置いてくださっているの、ご存じですか? 私たち『石倉六角堂』に勤めていて、今日はせっかくなので『たかはし』さんでご飯食べてみたくて来たんです」

 怜子が言うと、老人はそうかそうかと頷いた。
「もちろん知っているさ。『たかはし』にはよく行くしね。先月の杜若の練りきり、美味かったね。あの紫と白と黄色の微妙な色の付け具合もよかったねぇ」

「ありがとうございます。この人のアイデアであのデザインにしたんです」
ルドヴィコは怜子を示した。

「そうかい。仲間うちでも評判よかったんだよ。君たちは、いいコンビなんだね」
ルドヴィコは、怜子も彼の菓子作りに寄与していることをことあるごとに表明してくれる。普段、賞賛されることのあまりない怜子にとっては、そうした状況は恥ずかしい一方でとても嬉しかった。

 バスは、茅葺きの小さな停留所の前に静かに停まった。ドアが開くと老人は運転手に礼を言って降りる。怜子とルドヴィコも続いた。バス停の50メートルほど先に樹木が色濃くなっている場所があり、老人はそちらにまっすぐ向かった。

 鬱蒼と茂った針葉樹林の間に氣づかぬほどの細い小径がある。いつの間にか上がった雨の雫でしっとりと濡れた石畳を老人はスタスタと通っていく。どこからか滝の音が響いてくる。2分ほど経つと唐突に林は終わり視界がが開けた。前方に音の源であった瀧と、こんな山奥には思いも寄らなかった立派な神社が見えた。村の家々は参道のように神社へ向かう石畳の道の左右に並んでいる。

「ええっ」
バス停の佇まいからもっと鄙びた村を想像していた怜子は思わず声を出してしまった。老人は、こうした反応には慣れているのか、クスッと笑った。ルドヴィコは、目を輝かせて瀧と立派な神社を眺めていた。日本オタクには堪えられない景色なのだろう。

「ほら、ここだ」
突然、老人が足を止めた。2人は神社に目を奪われたまま歩いていたのだが、指し示された方を見ると『お食事処 たかはし』という看板が目に入った。ランチセットは日替わりらしく扉の横の黒板に書いてある。島根牛のサイコロステーキも捨てがたいが、鯛のポワレのレモンバターソースという馴染みのない料理にも心が動く。

「ルドヴィコ。うわさ通り本当にオシャレなメニューだね。それに、全然高くないよ」
「そうですね。『おさがりスペシャル』って書いてありますが、何のことでしょう?」

「それは、撤下神饌てっかしんせん のことだよ。神社の供物、つまり神様が召し上がったものを分けていただくんだ。この村の飲食店では、龍王様のおさがりをこうして格安で提供するのだ。霊験あらたかだし、それに、摩利子さんの手にかかるとびっくりするくらい美味くなるんだよ」

 老人は、こう説明すると『たかはし』の扉を開いた。カランと音がする。
「摩利子さん、お客さんだよ」

 あの女性が2人を認めて笑顔になった。
「まあ、マセットさんたち! 来てくださったのね。ようこそ」

 そして、老人の方を見て頭を下げた。
「勝叔父さん、どうもありがとうございます。よかったらコーヒー飲んで行かれません?」
「そうしようかな。一はいるかい?」
「今、お社に行っています。お下がり品をいただきに。すぐ戻りますよ」

 老人は、ルドヴィコと怜子にニヤリと笑いかけた。
「実は、儂はこの摩利子さんの亭主、一の叔父なんだよ」

 店内は、白い壁と黒塗りの木材のシックなインテリアだった。カウンターの上に小さなふた付きのガラス円形ケースが置かれていて、中にはルドヴィコが作った上生菓子が飾られていた。怜子は嬉しくなって思わず歓声を上げた。

「とても評判いいのよ、『石倉六角堂』さんのお菓子。この和三盆も。ね、勝叔父さん」
コーヒーに和三盆を添えて運んできた摩利子が訊いた。

 高橋老人は、和三盆の打ち菓子をつまんで大きく頷いた。
「ああ、これもお宅の品だったのか。コーヒーにも入れるけれど、美味しくてついかじっちゃうんだよな。摩利子さん、せっかくだからコーヒーといっしょに、この異人さんの作った主菓子食べようかな。何がいいかな?」

 摩利子は、ケースを指して説明した。
「どれも美味しいけれど、今日のおすすめはこの紫陽花の水饅頭ね。そちらの渡辺さんのアイデアをマセットさんが形にしたんですって」
「じゃあ、それを」

 ルドヴィコと怜子は、鯛のポワレのランチを注文した。洒落た盛り付けに怜子は再び歓声を上げた。
「わあ、素敵。都会のフランス料理店みたい!」

「最近は、松江や出雲からもわざわざこの店目当てに来てくれる若い子も増えたんだよ。龍王様の参詣者も増えるし、儂らも鼻が高いよ」
高橋老人が言うと、摩利子はおかげさまでと笑った。

「こうした長い伝統のある村で革新的なお店のスタイルを始めるのは、勇氣がいりませんでしたか?」
ルドヴィコは摩利子に訊いた。

「そうね。はじめは様子を見ながら……だったかしら。もっとも、こちらは氣を遣っているつもりでも、何も知らずに大切な伝統を壊しかけたこともあったの。でも、ここにいる叔父さんをはじめとする村の人々がそれはまずいって教えてくれたから、それがストッパーにはなったかしら」

「儂らも、ここ出身の一がこれを始めたら止めたかもしれんが、東京から来た摩利子さんがすることだと頭ごなしには否定しないで、この程度なら悪くないと思い直すことも多かったね」
「だから、マセットさんが『石倉六角堂』さんに新風を起こすのも同じなんじゃないかしら」

「仲間と信頼し合って、そして、異邦人だからこその新風も取り入れて……ですね。たしかにそうかもしれない。怜子さん、どう思いますか?」
「うん。私もそう思う」

「伝統、伝統といっても、飛鳥時代から現代に至るまで、海外から入ってきたものをそれぞれ取り込んで現代の形にしてきたんだからなあ。新しい風を取り入れて少しずつ変わっていくこと自体が、日本古来の伝統的なやり方かもしれんな。儂らは、なかなか新しいことを取り入れられない石頭だけれど」

 そう言いながらも、高橋老人はコーヒーと一緒に水饅頭を楽しんでいる。怜子とルドヴィコ、そして摩利子は思わず顔を見合わせて微笑んだ。

(初出:2021年6月 書き下ろし)
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Category : 短編小説集・12か月の店
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】天国のムース

今日の小説は『12か月の店』の7月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

今回の舞台は『黄金の枷』シリーズの舞台であるPの街にある『マジェスティック・カフェ』です。Pの街というのは、私が大好きなポルトがモデルで、『マジェスティック・カフェ』も実在する有名カフェをモデルにしています。

今回出てくる男性3人(うち1人は名前しか出したことがなかった)は、おもに外伝に出てくる、つまり、本編のストーリーにはほぼ関わらない人たちです。もちろんこの作品の内容も本編とは全く無関係です。

短編小説集『12か月の店』をまとめて読む 短編小説集『12か月の店』をまとめて読む

【参考】
小説・黄金の枷 外伝
「Infante 323 黄金の枷」『Infante 323 黄金の枷 』
『Usurpador 簒奪者』を読む『Usurpador 簒奪者』
『Filigrana 金細工の心』を読む『Filigrana 金細工の心』



黄金の枷・外伝
天国のムース 


 マヌエル・ロドリゲスは坂道を登り切ると汗を拭いた。この季節にサンタ・カタリーナ通りへ向かうのは苦手だ。それも、いつもの動きやすい服装ではなくて、修道士見習いらしく茶色い長衣を着てきたものだから暑さは格別だった。

 生まれ故郷に戻ってきて以来、彼は実に伸び伸びと働いていた。神学にも教会にも興味もないのに6年ほど前に信仰の道に入ったようなフリをしたのは、家業から逃れ海外に行ってみたかったからだ。だが、その苦肉の策を真に受けた親戚が猛烈な後押しをし、よりにもよってヴァチカンの教皇庁に行くことになってしまった。そして、頭の回転の速さが目にとまりエルカーノ枢機卿の個人秘書の1人にさせられてしまったのだ。もちろん彼がある特殊な家系の生まれであることも、この異常な抜擢と大いに関係があった。

 枢機卿には「早く終身誓願をして司教への道を歩め」との再三勧められていたが、「家業から逃れたいがための方便で神学生になっただけで、本当は妻帯も許されないような集団に興味はありません」とは言えず、のらりくらりと交わしていた。頃合いを見てカトリック教会から足を洗い、イタリアで同国人相手の観光業でも始めようかと思案していた頃、彼は生家が関わる組織に所属していた女性クリスティーナ・アルヴェスに出会った。

 すっかり彼女に心酔した彼は、彼女が組織の中枢部で働くことになったのを機に共に故郷に戻ることに決めた。それも、あれほどイヤで逃げだそうとしていた組織に深く関わる決意までして。とはいえ、クリスティーナには未だ仲間以上の関係に昇格させてもらえないし、教会にいろいろとしがらみもあるので、修道士見習いの身分のまま故郷の隣町の小さな教会で地域の独居老人の家を回り手助けをする仕事を続けている。

 今日、珍しく修道服を着込んでいるのは、よりにもよってエルカーノ枢機卿がPの街を訪問していて、マヌエルに逢いたいと連絡してきたのだ。訪問先の教会にでも行くのかと思ったら、呼び出された先は『マジェスティック・カフェ』だ。Pの街でおそらくもっとも有名で、つまり観光客が殺到するような店だ。なぜそんなところで。マヌエルは首を傾げた。もちろん、サン・ジョゼ・ダス・タイパス教会の奥で面会すれば、終生誓願はまだかとか、現在はどんな祈りを捧げているのかとか、あまり話題にしたくないことを延々と訊かれるのだろうから、カフェで30分ほど適当につきあって終わりに出来るのならばいうことはない。

 彼は、予定の時間よりも30分も早くそのカフェに着いた。観光客に好まれる美しい内装が有名なので、席に着くまで外で何十分も経って待つのが普通なのだが、まさかヴァチカンから来た枢機卿を観光客たちと一緒に並ばせるわけにもいかない。とはいえ、お忍びなので特別扱いはイヤだといわれたので、特別ルートで予約することもできない。つまり、彼が先に行って席についておく他はないのだ。面倒くさいなあ、あの赤い帽子を被って立っていてくれれば、みな一斉に席を譲ると思うんだけどなあ。

 大人しく並んでいると、テラス席の客にコーヒーを運んできた帰りのウェイターが「おや」とこちらを見た。
「ロドリゲスさんじゃないですか!」

 名札に「ジョゼ」とある。顔をよく見ると、知っている青年だった。マヌエルが担当地域でよく訪問している老婦人の孫娘と結婚した青年だ。たしか組織の当主夫人の幼なじみで、結婚祝いを贈ったのだが、それを老婦人と顔なじみのマヌエルが届ける役割をしたのだ。
「ああ、こちらにお勤めでしたか」
「ええ。その節は、どうもありがとうございました。今日は、おひとりでご利用ですか」

 マヌエルは首を振った。それから声をひそめて打ち明けた。
「実は、イタリアから枢機卿がお忍びできていましてね。並んで待たせるわけにはいかないので、こうして先に並ぶことになったんですよ」
「おや。そうですか。じゃあ、お2人さまのお席でいいんですね。奥が空いたらご案内しましょう」

 ジョゼ青年が店内に入って行く背中を見送っていると、通りから聴き慣れた声がした。
「おや、マヌエル。待ちきれずに早く来てしまったのは私だけではないようだね」

猊下スア・エミネンツァ ! もう来ちゃったんですか」
つい大声を出して、エルカーノ枢機卿に睨まれた。
「困るよ。今日はそんな呼び方をするなといっただろう」
「はあ、すみません」

 前後で並んでいる観光客たちのうち、呼びかけの意味がわかった者も多少はいるらしく、響めいていた。この居たたまれなさを何とかしてほしいと思ってすぐに、先ほどのウェイター、ジョゼが戻ってきて「ロドリゲスさん、どうぞ」と言ってくれた。列の前に並んでいた4人の女性たちは、イタリアから来たカトリック教徒だったらしく、恭しく頭を下げて通してくれた。順番がどうのこうのと絡まれることもなく先を譲ってもらえたのでマヌエルはほっとした。

 Pの街に住んでいながら、『マジェスティック・カフェ』に入ったのは3回目くらいだ。コーヒー1杯飲むのに、コインでは足りないような店に入る習慣がないからだが、たとえもっと経済的な値段だったとしても、この店にはなかなか入りにくい。20世紀の初頭に建てられたアールヌーボー様式の装飾が施された店内があまりにも華やかすぎて落ち着かないのだ。

 ピーチ色の壁、壁面に飾られた大きな鏡、マホガニーと漆喰の華々しい彫刻、そして古き良き時代を思わせる暖かいランプ。どれもが晴れがましすぎる。エルカーノ枢機卿は、マヌエルとは違う感性の持ち主らしく、当然といった佇まいで座っていた。普段ヴァチカンの宮殿やサン・ピエトロ大聖堂を職場として行き来している人だから、この程度の豪華さではなんとも思わないのだろう。

「久しぶりだね。先ほどファビオと話していたんだが、君は地道な活動を嫌がらずにやってくれて助かると言っていたぞ」

 帰国以来、彼の上司であるボルゲス司教には、目をかけてもらっているだけでなく便宜も図ってもらっている。マヌエルはサン・ジョゼ・ダス・タイパス教会付きの修道士見習いという立場だが、ボルゲス司教は彼と同じ役割を持つ家系の出身であり、マヌエルが教会の仕事の他にドラガォンの《監視人たち》中枢部としての仕事を行う後ろ盾にもなってくれているのだ。それゆえ、マヌエルは修道士見習いとしては異例ながら、Gの街の小さな分教会での閑職と、地域の老人たちを訪問する業務だけに従事し、宗教典礼の多くから解放されて通常は伸び伸びと暮らしていた。

 エルカーノ枢機卿は、この国の出身ではなくドラガォンとは直接的な関係はないが、役割上この秘密組織のことを知り、時に《監視人たち》中枢部の黒服やドンナという称号を持つ女性たちと面会をすることもあった。どうやら今回の来訪はドンナ・アントニアとの面会のためだったらしい。ヴァチカンにいた頃は、もちろんマヌエルがやって来た黒服ソアレスを人払いされた枢機卿の書斎に案内したものだ。だが、今回の来訪では幸いにも彼は蚊帳の外の存在でいられた。橋渡しをしたのはボルゲス司教だろう。

「それで。君は、いまだにそんな身分なのか。一体いつ終生誓願をするつもりかね」
あららら。この話題を結局出されたか。枢機卿はまだ彼が司祭になんかまったくなりたくないと思っていることを嗅ぎつけてくれないようだ。
「まあ、そのうちに……。それより、何を頼まれますか、ほら、お店の方が待っていますよ」

 会話の邪魔をしないように立つジョゼの方を示しながら、彼はメニューを開けてエスプレッソが5ユーロもすることに頭を抱えたい思いだった。いつもの立ち飲みカフェなら10杯飲めるな。

「うむ。このガラオンというのは何かね」
枢機卿は、ジョゼに対して英語を使った。

「そうですね。ラッテ・マッキャートみたいなものです」
「じゃあ、それにしよう。……それからデザートなんだが」

 枢機卿はしばらくメニューのデザートのページを眺めていたが、小さく唸りながら首を傾げた。
「おや、ここではなかったのかな」

「何がですか?」
「いや。いつだったか、この街に来たときに食べたムースが食べたかったんだが、それらしいものがないなと思ってね」

「どんなお味でしたか?」
ジョゼが訊いた。

「砕いたビスケットが敷いてあって」
枢機卿は考え考え言った。

「はあ」
「甘くて白いクリームと層になっていて……」

「それは……」
マヌエルはもしやと思う。

「それに、名前が確か天国のなんとかという……」
「「天国のクリームナタス・ド・セウ 」」
マヌエルとジョゼが同時に言った。

「おやおや。有名なデザートなのかね」
「そうですね。この国の人間ならたいてい知っていますね」
マヌエルは、枢機卿のニコニコとした顔を見ながら言った。

 ナタス・ド・セウは、砕いたビスケットと、コンデンスミルクを入れて泡立てた生クリームを交互に重ねて作るデザートだ。たいていは一番上の層に卵黄で作ったクリームが載る。

「そういえば、以前、メイコのところで美味しいのをいただいたっけ」
マヌエルが言うと、ジョゼは「ああ」という顔で頷いた。

「メイコというのは?」
「私の担当地域にお住まいの女性ですよ。よく訪問しているんです。で、この方の奥さんのお祖母さんです」
「ほう」
「そういえば、明日また訪問する予定になっていたっけ」

 それを聞くと、枢機卿は目を輝かし身を乗りだしてきた。
「訪問すると、そのデザートが出てきたりするのかね?」
「いや、そういうリクエストは、したことはないですけれど……」
「してみたらどうかね? なに、私は以前から、こちらでの君の仕事ぶりを見てみたいと思っていたのだよ」

 何、わけのわからないことを言い出すんだ。いきなり枢機卿なんかがやって来たらメイコが困惑するに決まっているじゃないか。同意を求めるつもりでジョゼの顔を見ると、彼は肩をすくめて言った。
「差し支えなければ、彼女に連絡しておきますよ。明日、猊下がいらっしゃるってことと、ナタス・ド・セウを作れるかを……」

 そんなことは申し訳ないからとマヌエルが止める前に枢機卿は立ち上がってジョゼの手を握りしめていた。
「それは嬉しいね。どうもありがとう、ぜひ頼むよ! 親切な君に神のお恵みがありますように!」

 遠くからそのやり取りを眺めていたジョゼの上司がコホンと咳をした。そこで3人は未だにこのカフェでの注文が済んでいなかったことに思い至った。
「あ〜、猊下、何を頼みますか」
「うむ。そうだな。明日のことは明日に任せて、今日もなにかこの国らしいデザートを頼もうか。君、この中でどれがこの国らしいかね?」

 ジョゼは、メニューの一部を指して答えた。
「このラバナーダスですね。英語ではフレンチ・トーストと呼ばれる類いのお菓子なんですが、シナモンのきいたシロップに浸してから作るんです」

 枢機卿は重々しく頷いた。
「では、それを頼もうか。それも、このタウニー・ポートワインとのセットで」
「かしこまりました。そちらはいかがなさいますか?」

 マヌエルは、メニューを閉じて返しながら言った。
「僕はエスプレッソシンバリーノ と、パステル・デ・ナタをひとつ」

 頭を下げてから奥へと去って行くジョゼの背中を見ながら、マヌエルはため息を1つついた。やれやれ。ここで30分くらいお茶を濁して逃げきろうと思っていたけれど、明日もこの人にひっつかれているのか。メイコの天国のクリームナタス・ド・セウ が食べられるのは嬉しいけれど、味わう余裕があるかなあ。

 マヌエルは居心地悪そうに地上の天国のような麗しい内装のカフェを見回した。

(初出:2021年7月 書き下ろし)
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Category : 短編小説集・12か月の店
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】夜のサーカスと淡黄色のパスタ

今日の小説は『12か月の店』の8月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

今回の舞台は少しイレギュラーで、定番の店ではありません。北イタリアの実際に私が行ったトラットリアをモデルに書いた話です。案内人は「夜のサーカス」のステラ&ヨナタンのコンビです。

短編小説集『12か月の店』をまとめて読む 短編小説集『12か月の店』をまとめて読む

【参考】

「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物

夜のサーカス 外伝


夜のサーカスと淡黄色のパスタ

 その村は、アペニン山あいのよくある佇まいで、特徴的な建造物もないため観光客も来ない。村はずれに小さなトラットリアがぽつりと建っているのだが、夕方ともなるとかなり遠くの村やあたりで一番大きい街の住民も含めてたくさんの客で賑わっている。

 ゴー&ミヨの星があるわけでもなければ、格別しゃれた料理がでてくるわけでもない。外観はどちらかというとくたびれており、テラスのテーブルや椅子は味氣ない樹脂製だ。客たちの服装も仕事着のまま出かけてきた風情、多くが知りあいらしくテーブルを跨いで挨拶が飛び交っていた。

 夕方の一刻、奥から腰の曲がった女性が出てきて、戸口の小さな丸椅子に座ることがある。実は、この女性の存在こそがこのトラットリアにこれほど客を集めているのだ。彼女は、店主の母親で今年で93歳になる。そしてかつてはこの地域の多くの女性が作っていた手打ちパスタを昔ながらの製法で作ることのできる唯一の存在なのだ。

「こんばんは、ノンナ・チェチーリア。私を覚えている?」
ポニーテールに結った金髪を揺らして語る少女をじっと見つめて、彼女は首を傾げた。

「あんたのことは覚えていないけれど、マリ・モンタネッリにそっくりだね。もしかして、あの小さかった娘かい?」

 少女は金色の瞳を輝かせて答えた。
「はい! 娘のステラです。前にここに来たの10年以上前でしたよね。お久しぶりです」

「そうかい。ずいぶんと大きくなったね。そんなに経ったのかねぇ。マリはどうしている? いまでもバルディにいるのかい?」
「はい。ずっとバルを続けています。今週からボッビオで興行だって言ったら、絶対にここに行けって。私、ノンナ・チェチーリアのトラットリアがこんなにボッビオに近いって知りませんでした。ママがノンナにぜひよろしくって」

 老女は「そうかい」と皺の深い顔をほころばせて、少女の横に立っている青年をチラッと見た。ステラは、急いで紹介した。
「あ、彼は一緒に興業で回っている仲間で、ヨナタンです」
「そうかい。どうぞよろしく」
チェチーリアは、礼儀正しく頭を下げた青年に会釈を返した。

「ところで、ステラ。興業って、何をしているんだい?」
「サーカスです。私、ブランコに乗っています」

「ああ。チルクス・ノッテとやらが来ていたね。お前さんがブランコ乗りになったとは驚いたね。こちらのお兄さんもブランコ乗りかい?」
「いいえ。僕は、道化師兼ジャグラーです。小さなボールを投げる芸をします」

「そうかい。あんた、イタリア人じゃないね。パスタは好きかい?」
「はい。イタリア料理はとてもおいしいと思います」

「ヨナタン。ここのパスタは、他で食べるパスタよりも何倍も美味しいの。びっくりすると思う」
そうステラが告げると、チェチーリアは楽しそうに笑った。

「おやおや。買いかぶってくれてありがとう。昔はこのあたりでも、家庭ですらどこでもあたしみたいにパスタを作っていたものだが、作るよりも買ってきた方が早いと、1人また1人と作る人は減り、ついにあたし1人になってしまってね」

 そう言っている横を、ウエーターや店主が次々とパスタの皿を持って厨房から出てきた。先客たちは湯氣を立てる淡黄色のパスタに早速取りかかっている。

 ステラとヨナタンも案内された席に座り、小さなメニューカードを見た。手打ちパスタのプリモ・ピアットはこの日は3種類だけで、平たいタリアテッレ、両方の端が細くなっているショートパスタのトロフィエ、そして小さな貝のようなオレキエッテだ。

 悩んだあげく、タリアテッレを魚介のトマトソースで、トロフィエをハーブのソースで頼み、前菜にはコッパやプロシュット、パンチェッタなどをチーズと共に盛り合わせてもらうことにした。こうした地方特産の薄切り燻製肉は、やはり食べずには帰れない。

 セコンド・ピアットも同時に頼むか悩んだが、おそらくパスタでお腹がいっぱいになってしまうと思うので、まずはそれだけにした。ワインはアルダの白、それにストッパの赤があったので、瓶では頼まず、それぞれグラスで頼んだ。ステラが公式にワインを飲めるようになってからまだ1年経っていないのだ。

「みんながさっさと外出してしまったのは残念だったな。美味しいトラットリアはないかとマルコたちは昨夜馬の世話もそこそこに街の探索をしていたよ」
ヨナタンは、静かに辺りを見回した。

 次から次へと車がやって来て、駐車場になっている空き地に入っていく。テーブルの違う客同士の親しい会話から、地元の常連客でいっぱいなのがわかる。それは、格別に美味しい店のサインだ。

 ステラはヨナタンの言葉に大きく頷くと、グリッシーニの袋を開いて、ポキッと折りながら口に運んだ。
「そうよね。ボッビオの興業で、ダリオがお休みでまかないのない日って、今夜と千秋楽だけだものね。でも、舞台の点検をしているヨナタンを待たないみんなが悪いのよ。私がママにこのお店の場所を訊いている間にいなくなっちゃったんだもの」

 でも、もしかしたら……。ステラは、ロウソクの灯にオレンジに照らされたヨナタンの端正な顔を見ながら思った。みんなは氣を利かせてくれたのかもしれない。だって、ヨナタンと2人っきりで食事をすることなんてほとんどないもの。みんなとの楽しい食事も好きだけれど、こんな風に2人でいるのって、ロマンティックだし、ドキドキする。

「おまたせ。魚介のタリアテッレと、ハーブのトロフィエだよ」
店主自らが湯氣を立てている大きなパスタの皿を2つ持ってテーブルに近づいてきた。パスタはテーブルの中央に置かれて、取り皿をトンとそれぞれの前に置く。
「お嬢ちゃん、どっちを頼むか悩んでいただろう? こうすれば両方楽しめるしな」
店主は、ステラにウインクした。

 あーあ。また子供扱いされてしまった。私、そんなに子供っぽいかなあ。ヨナタンの隣に立つにふさわしい、大人の女性を目指しているつもりなんだけれど。

「ステラ、取り皿を」
ヨナタンが微笑んだ。ステラが取り皿を持ち上げると、彼はタリアテッレをフォークに上手に巻き付けて彼女の取り皿に置いてくれた。大好きな海老がいくつもさせに載っていく。

「そんなに、いいよ。ヨナタンの海老がなくなっちゃう」
「大丈夫。まだあるから」

 白ワインはあたりが軽くフルーティーな味わいだ。のどを過ぎたあたりにほんの少し甘みを感じる。冷たくて爽やかな飲み口が、一瞬だけ甘く情熱的な香りを放つ。水やジュースを飲むときのような安定した味に慣れているステラは、ある種のワインが持つこうした蜃気楼のような揺らぎを驚きと共に堪能した。

 グラスの向こうには、ロウソクの灯に照らされてヨナタンだけが見えた。すっかり暮れた夏の宵にグラスを傾けて座っている彼は、いつもよりわずかに謎めいて見えた。

 かつての大きな謎に包まれた道化師、何かから逃れ隠れ、いつか目の前から消えてしまうんじゃないかと心配されたパスポートを持たない青年のことをステラは思い出した。ここにいるのは、いまは正式に彼の名前の一部となったけれど、かつては一時的にそう呼ばせていた「ヨナタン」という仮面を被ったかの異国人と同じ人だ。

 ロウソクの灯と涼しい夏の宵の風は、こんな風にステラを不安にする。彼女はグラスを置くと、俯いてパスタに取りかかった。

「あ」
10年以上食べていなかったノンナ・チェチーリアの手打ちパスタの味わいが、彼女の余計な思考をいとも簡単に押しやった。滑らかな表面からは想像もつかないほどの弾力。抵抗を押し切って噛むと、閉じ込められていた水分と小麦の香りがじゅわっと解き放たれる。

「すごいな」
ヨナタンも一口食べてから驚いたように手元のパスタを眺めた。

「やっぱり、普通のパスタと全然違うって記憶は間違いじゃなかった! よかった。ヨナタンに氣に入ってもらえて」
ステラは満面の笑顔で言った。

「これまで美味しいパスタかどうかを判断したのは、ソースの味を基準にしていたんだな。でも、これは、もしかするとソースがなくても美味しいのかもしれない」
ヨナタンは、考え深く答えた。

「こういうパスタをこねたり打ったりするのはずいぶん力がいるんじゃないか?」
ヨナタンは、先ほどまでチェチーリアが座っていた小さな椅子を見やった。ステラは、頷く。
「うん。とても大変な作業だと思う」

「そうなんですよ。マンマも歳で疲れやすくなっていてね。提供できる量も減ってきているんですよ」
ワインを注いだり、空いた皿を下げたりしながら客席を回っている店主が、2人の会話を聞きつけて相づちを打った。

「じゃあ、食べられるうちに急いでまた来なくちゃ」
ステラがそう言うと、店主は笑った。
「みなそう思うらしくてね。提供量を少なくした途端、ますます繁盛するようになってしまったよ。マンマのやり方を継承させろってせっつく客も多いんだけれどねぇ……」

 機械化と効率の時代に、報酬も大したことのない重労働を習いたがる者は少ない。ステラやヨナタンも、サーカス芸人の生活をしているからよくわかる。努力と報酬が釣り合わない仕事は、後継者を見つけることが難しい。マンマ・チェチーリアは、報酬や社会的地位の代わりに客たちの笑顔を支えにこれまでパスタを打ってきたのだろう。おそらく70年以上も。

 その70年間に、イタリアはずいぶんと変わった。戦争は終わり、経済も成長した。スーパーマーケットに行き、わずかな金額を出せば、いくらでも大量生産のパスタが入手できるようになり、妻たちは専業主婦であることよりも外に出て働くことを選ぶようになった。子供たちはスマートフォーンやコンピュータを自在に操り、大人になったらミラノの中心で事務職に就き、わずかなリース価格で憧れの車を乗り回す未来を夢見ている。

 そして、見回せば、手打ちパスタで粉まみれになることを望む人びとはほとんどいなくなり、マンマ・チェチーリアの伝える、地域の女たちの継承してきた素朴で絶妙な味わいは消え去ろうとしている。

「私、チルクス・ノッテに入っていなかったら、パスタの修行をしたかも。そして、ママのバルで美味しいパスタを作る看板娘になっていたかも」
ステラはぽつりと言った。

 ヨナタンは、わずかに笑った。
「バレリーナや体操選手になる夢も持っていたんだろう?」

 確かに。それに、学校では高等学校に進学して、法学を学んだらどうかと先生に奨められた。ヨナタンに逢っていなかったら、何も考えずにその道を選んでいたかもしれない。

 思えば、ノンナ・チェチーリアのパスタを初めて食べて夢中になったのも、ヨナタンに出会って赤い花をもらうブランコ乗りになろうと思いついたのも、ほぼ同じ6歳ぐらいだった。1つの夢は10年のたゆまぬ努力の果てに実を結んだが、ノンナ・チェチーリアのパスタは、つい最近まで記憶の彼方にしまい込まれていた。

 きっと「パスタの達人をめざすもう1人のステラ」は、全く存在しなかったのだ。ステラは「その通りね」と項垂れた。

「大丈夫。僕がきっと」
隣からの声に振り向くと、そこにはオレキエッテをフォークに突き刺して掲げている中学生くらいの少年がウィンクしていた。

「その子は、うちの遠縁の子でね。学校帰りによく厨房でマンマの手伝いをしてくれているんですよ」
店主が相好を崩した。

「僕、このパスタ以外食べたくないもん。絶対に味を受け継いでみせるよ」
少年は目を閉じて、オレキエッテを幸せそうに食べた。

 ステラは、ヨナタンと顔を見合わせて笑った。大丈夫。きっとこの味は続いていく。
「この地域で興業するときは、必ず来なくちゃね」

「そうだな。僕たちの方も、店じまいされないように頑張らないと」
ヨナタンは赤ワインを飲みながら、真剣な眼差しを向けた。

 ステラは、頷いた。巡業サーカスもまた、昔ほどエンターテーメントの花形ではない。テレビやゲームなど、たくさんの楽しみのある人たちに、「またチルクス・ノッテに行ってみたい」と思ってもらえるクオリティーを保つのは容易ではない。でも、だからこそ大きなやり甲斐もあるのだ。

 自分の選んだ道をまっすぐ進もう。その横には、ヨナタンがいてくれるのだ。消えたり、いなくなったりしないで、一緒にこの道を行ってくれる。彼の言葉は、ステラを強くする。

 そして、舞台がはねたら、またヨナタンと一緒にここを訪れよう。
「まずは、このシーズンを成功させようね。千秋楽までうまくいったら、みんなで食べに来たいな」

(初出:2021年8月 書き下ろし)
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Category : 短編小説集・12か月の店
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 夕餉

今日の小説は『12か月の店』の9月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

今回の舞台は、さらにイレギュラーで、そもそもレストランではありません。若狭小浜にて従者次郎が病に倒れてしまい、たまたま面識のあった萱に救われ長期滞在することになりましたが、今回の舞台はその濱醤醢醸造元『室菱』です。平安時代の食生活をいろいろと調べて盛り込んでエピソードにしてみました。だからなんだというわけではないのですけれど。

というわけで、『樋水龍神縁起 東国放浪記』とはいえ、今回、主人公の春昌は出てきません。次郎回です。

短編小説集『12か月の店』をまとめて読む 短編小説集『12か月の店』をまとめて読む

【参考】
「樋水龍神縁起 東国放浪記」をまとめて読む 「樋水龍神縁起 東国放浪記」


樋水龍神縁起 東国放浪記
夕餉


 庇の向こうに桜の赤く染まった葉が風に舞っていった。まだ早すぎると思ってから、そうでもないと思い直した。暦の上ではとうに秋だが、陽の高いうちはわずかに動き回っても汗ばむ日が続いている。三根は盆に夕餉を載せて、次郎の小部屋に向かった。

 夏の始まりにこの地に足を向けた貴人とその従者は、これほど長く逗留するつもりではなかったらしい。だが、従者である次郎が瘧疾わらわやみ に罹り、とても主の世話をしながらあてのない旅をすることができなかったのだ。

 奥出雲で生まれ育った次郎は、瘧疾に罹るのは初めてだという。数日おきに高熱が出るこの病は、若狭国ではありふれたもので、子供の頃から幾度も罹っている三根はひと月半も寝込むようなことはもうない。次郎の主である安達春昌も、摂津国で生まれ育ったといい、瘧疾にはやはり子供の頃に幾度か罹っていたそうだ。なかなか治らぬ己の病で主を足止めしているだけでなく、見ず知らずの主従を客としてもてなすことになった『室菱』の若き女主人萱の迷惑を思い、次郎は事あるごとに床に頭を擦りつけて詫びた。

「そんなに、平伏しなくてもいいのよ、次郎さん」
三根は、次郎の看病役を務めてきたので、すっかり次郎と心やすくなっている。はじめは「次郎様」と呼んでいたのが、最近はふたりの時には敬語も忘れがちだ。

「萱様、樋水で媛巫女様にお目通りしたときに、なんだかすごい物をいただいたんですって。だから、媛巫女様のご縁の方の面倒を看るのは当たり前だっておっしゃっていたわよ」
「あれは、こちらが例祭で必要な姫川の御神酒をお譲りくださったお礼で……」

 そういいながら、次郎はかつての主人であった媛巫女瑠璃と萱の不可思議な邂逅について思いを巡らせ口ごもった。

 都からの使者や大社の神職とも滅多に会おうとしない媛巫女が、若狭からの平民である娘の来訪に心騒がせ、打診もされなかったのに神域の奥深く龍王神の住まう池前まで呼び寄せたのだ。そして、しばらく几帳の向こうで語らい、その時に神酒献上への返礼とは別に内々に玻璃珠を下賜をしたことを知っていた。

 媛巫女付の従者となってよりそのようなことはただの一度もなかったので、次郎は若狭『室菱』の女のことは忘れていなかった。

 次郎は、亡き媛巫女の最期の命に従い、安達春昌に命の終わるときまで付き従うこととなった。まさか自らが病に倒れるとは思いもしなかったが、その時に手を差し伸べてくれたのが他ならぬ萱だったことは亡き媛巫女の導きだろう。この間に萱は父の後を継ぎ元締めとなっていた。

 彷徨の間、貧しい家に露しのぎを請うことも多く、主人と同じ部屋の片隅にうずくまるを常としてきたので、小さいとはいえ自分だけに与えられた部屋でゆっくりと休むことが、許されざる贅沢に感じられる。一方で、客として遇される主人が彷徨の疲れを癒やす刻を持てたことを、次郎は媛巫女の采配と感じ、ありがたく受け止めてもいた。

 三根は、日に三度膳を運んでくれる。熱の出ない日には、次郎は起き上がり、春昌や馬の世話をしようとしたが、弱った体が言うことをきかない上、諸々の用事は『室菱』の家人たちが万事済ませてくれたので、諦めて熱はなくとも褥に横たわり、何かと世話を受けるままでいた。

 旅の間はまともな食事にありつけぬ事も多く、腹一杯食べられることは多くなかった。だが、三根の運んでくる膳の上には、病のために食が細っているのが無念なほど、十分な量が載っていた。ようやく起き上がり、余すことなく食べられるようになった。粥ではなく歯ごたえのある姫飯、根菜汁、小魚が二尾ほど、山菜などが並ぶ。それどころか、三根が酒の酌までしてくれるのだ。

「この姫飯には、白米ましらけのよね が入っているようだけれど、私ごときにそんな高価な飯を……」
次郎は、氣になっていたことを口にした。故郷の樋水龍王神社では、宮司とそのほか数人の上位神官のみが丁寧に杵つきした白米を食することができ、郎党だった次郎はヒエと粟、または固い玄米以外は口にしたことがなかった。献上品となる濱醤醢はまひしお の元締めたる醸造元とはいえ『室菱』で皆が米を食べているとは思えない。

「特別よ。なんてね、私たち使用人も病に伏せるときやお正月に食べさせてもらうの。萱様ご自身も、お正月以外は召し上がらないのに。萱様って、そういうお方なの」

 次郎は頷いた。萱は仕事には厳しいが、三根たちにとって優しい心根のいい主人であることをすでに感じていた。

 小皿に載った塩と醤醢を山菜に混ぜて姫飯に載せた。小さな茸がコリッと音を立て、そのあとに口の中になんとも言えぬ華やかな味わいが残る。なぜこのように美味なのだろう。無心に味わう次郎を見て、三根は誇らしげに笑いかけた。
「美味しいでしょう」

「ああ。これって何という名の山菜なのか? 格別な味がするんだが」
「蕨と蟒蛇うわばみ 草にワケ茸かな。でも、美味しく感じる秘密はその醤醢よ。天子様が絶対に切らさない若狭の濱醤醢の味、素晴らしいと思わない?」

 次郎は腰を抜かすかと思った。同じ大きさの壺に入った砂金ほどの価値があると言われている献上品だ。
「なんだって? それ程貴重な醢を私なんかに?!」

「心配しないで。献上品ではなくて、樽の底に残った滓をためて作ったものだから。でも、捨てるなんてもったいない味でしょう? 山菜や茸と組み合わせるとさらに美味しくなると見いだしたのは岩次爺さんなんですって」
「ワケ茸も、蟒蛇草もいくらでも食べたことがあるが、醤醢と組み合わせると上手くなるなんて不思議だな。こんなに美味くなるのならば、殿上人が欲しがるのも無理はないな」

 三根は不思議そうに次郎を見つめた。
「樋水の媛巫女様は、天子様の覚えめでたいお方だったんでしょ? 殿上人みたいなものを召し上がっていたんだと思ってたわ」

 次郎は首を振った。
「宮司様たちは、都の貴族と同じような立派な御膳を召し上がっていたけれどね。媛巫女様は、それをお断りになったんだ」
「まあ。わざと?」

 次郎は、好奇心丸出しな三根の問いに少し笑いつつ答えた。
「ああ。下賤のお生まれで舌が受け付けぬのでは、などと口さがなきことを言う者もあったけれど、媛巫女様は召し上がるものに、私どもとは違う何かを感じていらしたようだ。強飯に使われる白米ましらけのよね は、氣が途絶えているとおっしゃったんだ」
「氣?」

「やんごとなきお方たちの召し上がる白米ましらけのよねは、固い殻や糠を杵と臼を使って丁寧に取り除くだろう? 媛巫女様は、それを米の抜け殻とおっしゃっていた。私たちの食べるヒエや粟の雑穀に玄米を混ぜて姫飯にしたものには、それぞれの氣があふれているとおっしゃってね。それ以外は召し上がろうとなさらなかったんだ」

 三根は、目を見開いた。
「それって、もしかして、私たちの食べているものの方が、尊いかもしれないって事?」

 より尊いと言えるだろうか。宮司たちのために用意された御膳を見て、垂涎の思いをしたことは幾度もあった。貴重な濱醤醢を日々惜しげなく使っているだろうやんごとなきお方たちの食はさらに豊かで尊いだろう。

「まあ、そう一概には言えないけれどね。でも、例えば、媛巫女様は冬に咳逆しはぶき に罹られたこともなかったし、齲歯痛かめはのいたき に苦しまれたことも一度もなかった。宮司様たちは、繰り返しそうした不調に悩まされていて、媛巫女様が氣を整えて差し上げねばならぬ事も度々だった。だから、媛巫女様があえて望まれた御膳には、私にはわからない、何かの理があるのだと思う」

 三根は、考え深そうに頷いた。次郎は、面白い娘だと思った。

 かなり膨よかだ。食べることが好きなのであろう。だが、こまめに立ち回り仕事に骨を惜しまぬので、たくさん食べる必要もあるだろう。少領の屋敷から逃げ出してきたところを匿ってくれた萱に深い恩義を感じているとはいえ、普段の仕事にも加えて見ず知らずの病人の世話をするのは、骨の折れることに違いない。それでも迷惑さなどみじんも見せぬのは、決して当たり前のことではない。

「ねえ、次郎さん。あなたのご主人の安達様って何者なの?」
三根は、そろそろ訊いてもいいでしょう、という風情を醸し出した。

「萱様からの問いかい?」
次郎は用心深く問い返した。普段なら、旅先では常に春昌が宿主と話すときに同席するが、今滞在では、ほぼ常にここでひとり寝ているため、春昌が萱に何を話しているかを知らなかったのだ。

「いいえ。萱様は安達様の夕餉のお相手をしていらっしゃるから、知りたければご自分でお伺いすると思うわ。でも、そういうことを私たち使用人に話したりなさらない方だもの。でも、私だって知りたいのよ。あの方、絶対にやんごとない方でしょう、なぜ次郎さんと彷徨っていらっしゃるのかしら」

 次郎は、あけすけな好奇心に半ば呆れ、半ばその正直さに感心して三根を見つめた。
「やんごとないとも。殿上も許されたお方なんだ。でも、ここで言うことはできないけれど、ある事情で全てを捨てられたんだ」

「それって、樋水の媛巫女様と関係のあること?」
三根の核心に迫った問いに、主はもしや自分が病に伏している間にほぼ全てを語ってしまわれたのかと、次郎は訝った。これまでどのような旅先でも、主はそのような話はしなかったというのに。

「君は知りたがりだなあ。いつもそうなのかい?」
次郎が用心深くいうので、三根は口をとがらせた。
「そういうわけじゃないけれど……。ほら、安達様って素敵な方だし、萱様ととてもお似合いだと思うのよね。でも、ほら、どんな方かわからないを婿殿としてどうですかって、お薦めできないし」

「春昌様は……!」
媛巫女様の背の君だから、そんな不遜なことを言うな。そう言いかけて次郎は口をつぐんだ。

 その定めを選ばれたお二人を、宮司様の命令に従い引き裂こうとし、結果として命よりも大切に思っていた媛巫女様を殺めてしまった身の上だ。春昌様は、その己れの罪科を代わりに背負いながら彷徨い生きておられる。改めてそれを思い至り、大きくも苦しき悔の念が身を締め付ける。

「ちょいと、次郎さん、どうしたの? 大丈夫? ねえ、そんなにつらいこと訊いてしまったの? もう訊かないから、しっかりしてよ」
氣がつくと、頭を抱えてうずくまる次郎の背を、三根が当惑してさすっていた。

「す、すまない。つい動転してしまって……」
「何か、つらい事情があるのね。ごめんなさいね。私、すぐに思ったことを口にしてしまうの。それで、萱様にもよく叱られるの。でも、悪氣はまったくないのよ」
「ああ、わかっている。君はとても親切だし、主人の萱様のことをとても大切に思っているのもわかっているよ」

「次郎さん、ほら、もう少し食べて飲みなさいよ。早く元気になって、安達様に元通りお仕えするんでしょ」

 濱醤醢が醸し出す旨味は、全ての幸いを捨てたはずの次郎にも、舌から悦びを思い出させ、小さい杯に注がれる酒は五臓六腑に染みていくようだった。そして、目の前に座り酒を勧める三根は、朗らかだった。生まれ育った奥出雲の神域を出て初めて、次郎は居心地がいいと感じた。

(初出:2021年10月 書き下ろし)

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この作品は平安時代を舞台にしているのですが、基本は、本文だけで理解できる、もしくは「たぶんこんなもの」と想像できるようにと工夫して書いているつもりです。ただ、今回は聞き慣れないと思われる言葉がかなりあるので、ここにメモしておきます。

瘧疾わらわやみ
マラリア。マラリア原虫に感染した蚊が湿地で繁殖するため、特定の地域で猛威を振るう。日本でも奈良時代より流行の記録がある。『源氏物語』で光源氏が罹った病でもある。全国で発生していたが、とくに滋賀県、福井県あたりでは非常に患者が多かったとのこと。というわけで、若狭チームや摂津出身の春昌が何度も罹っていた一方、次郎が初めての罹患でダウンしてしまったという設定に好都合だった。

咳逆しはぶき
流行性感冒の一種。当時は「風邪」という言葉は、現在と違い中風や痛風などの神経性疾患を指していたとのこと。なので、季節性インフルエンザをイメージしてこちらの言葉を使ってみた。

齲歯痛かめはのいたき
虫歯のこと。糖質をたくさん食べていた貴族ほど虫歯に悩まされていたとのこと。お歯黒として知られる鉄漿には、虫歯を目立たせなくするだけでなく、虫歯の進行と痛みを止める効果もあったそう。『樋水龍神縁起』では、当時の成人女性の印であった鉄漿を神の域に居るとされた媛巫女瑠璃はしていなかったという設定なのだが、虫歯だらけでは困るので、1本もなかった設定にした。

◆醤醢
当時は、まだ醤油と味噌がなかったので、味付けは塩・酢・砂糖、そして穀物(醤になる)や肉類・魚類(醢になる)でつくった醤醢ひしおをまぜてつけていたとのこと。人間が感じる味は、動物性と植物性の旨味成分が合わさることでより強く感じられる。醤醢は旨味の塊。この作品の創作である醸造元『室菱』の濱醤醢は、新鮮な小鯛をつかって作る最高級の魚醬(塩辛のようなものを熟成させて濾過した調味料)。

◆姫飯
いまでいう「ご飯」。強飯は蒸篭でお米を蒸したおこわにちかいもので、姫飯は釜でご飯を炊いたもの。ただし、精米した白米を食べることができたのは貴族だけ。「貴族の食事の再現」に出てくる高く盛り付けたご飯は「強飯」で、精米しないとあれほど高くは盛り付けられない。なので貴族専用。平民は雑穀・玄米などを姫飯にするか、量を増やすために粥にして食べていたとのこと。

蟒蛇うわばみ
イラクサ科の多年草、タキナ、ミズナともいわれ、山菜として珍重される。

◆ワケ茸
ウスヒラタケのこと。世界中で食べられているヒラタケの一種で、薄めで小型、春から秋にかけて収穫できる。
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Category : 短編小説集・12か月の店
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】わたしの設定

今日の小説は『12か月の店』の10月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

今回の舞台は、東京神田の路地裏にひっそり佇む小さな飲み屋『でおにゅそす』です。語り手以外は、いつものメンバー、涼子と、半分従業員化している源蔵、そしていつも飲んだくれている西城と橋本。

私が生まれて初めて1人で入ったバーは一人旅をした金沢のホテルでした。涼子のモデルになったような綺麗な和服マダムが美味しい料理を出してくれました。今では海外のバーでも普通には入れるようになりましたが、あの初めてのドキドキ、思い出すなあ。

短編小説集『12か月の店』をまとめて読む 短編小説集『12か月の店』をまとめて読む

【参考】
「いつかは寄ってね」をはじめから読むいつかは寄ってね




わたしの設定

 あの店から神田駅までは、徒歩で8分……のはずだった。帰宅前に、趣味の古本屋巡りをしたことは間違っていないけれど、自分の地理的な勘を信じたのは大きな誤りだ。

 真知子は、方向音痴だ。それを自覚しているのに、今日はいつもと逆の順序で古本屋を巡ってしまった。それが敗因だ。いつもは最後に入る『流泉堂』の向かいにゲームやファンタジーの好きな読者をターゲットにした店があったと思ったからだ。

 真知子は、中学の養護教諭だ。今日の午後、2年生の佐藤裕太が、麦粒腫、脂腺の急性化膿性炎症でまぶたの一部が腫れる、俗に言うものもらいの相談に来た。応急処置として涙の成分に近い点眼液を差そうとして、首をかしげた。

「その右目……よね?」
少年の右目に上まぶたが腫れている。
「はい。これです」

「じゃあ、どうして左目に眼帯をしているの? そちらも、ものもらい?」
左目をあまり見ない黒い眼帯が覆っている。

「いや、こっちは何でもないっす」
少年は視線をそらした。

「じゃあ、点眼するから、そっちの眼帯は取って」
「あ。はあ。……でも、その……」
口ごもってから、彼は渋々と眼帯を外した。日焼けのあとが見える。外したがらなかった理由は、これか。真知子は納得した。黙々と点眼して、それから白い新しい眼帯を持ってきて右目につけようとした。

「あ。それ、しないとだめっすか?」
「触ったりすると、治らなくなるよ。明日になってまだ痛かったら、眼科に行った方がいいと思う」

 佐藤少年は困ったように、黒い眼帯を見ていた。
「そっちは、なんでもないんだから必要ないでしょう? なぜ、眼帯しているの?」
「えっと。魔眼が……」

 真知子は、理解した。厨二病か! そういう子が居るという話は、教諭仲間や、同業者のコミュニティーで聞いたことはあるけれど、本当にいるんだ。この子は、左目が魔眼だという設定で眼帯をしているのだろう。

 真知子は、声を潜めてささやいた。
「もしかして、隠さなくちゃ危険なわけ?」
「うん。普通の色の時は無害だけれど、魔眼がうずくと赤くなって、それで世界を焼き尽くすんだ」

「ああ、魔眼のバロールみたいな……」
真知子はつぶやいた。
「先生、知ってるの? それって、ええと……」

「学生時代に読んだケルト神話に出てきたのよ。佐藤君、もしかして、入学してからずっとその黒い眼帯していたの?」
「ううん。2年になってから。うちの親も、担任の石川っちも、もう取れって言わなくなったよ。今さら取るのはなあ」

 真知子は、全く危険のなさそうなごく普通の左目を見ながら、こんなことをしていると視力が落ちるぞと思った。かといって頭ごなしに叱り、登校拒否になったりするのも問題だ。
「とりあえず、魔眼は右側に移ったという設定にして、ものもらいが治るまでは右目を保護してちょうだい。触っちゃダメ」

 案外おとなしく右側に眼帯をされているので、もうひと押しと、ささやいた。
「佐々木先生がおっしゃっていたけれど、去年卒業した山口君の悪魔の力の宿った左手も、推薦入試の面接の時だけはやめた方がいいって話になって、その日だけは左手首に包帯巻くのはやめて左膝って設定にして行ったみたいよ」
「ほ、本当に?」

 同じ厨二病の先輩も、フレキシブルに設定を変えたという情報で、若干柔軟な対応を受け入れるつもりになったなら結構。
「手首の包帯くらいなら、とくに問題はないと思うけれど、私は魔眼じゃない方が視力のためにはいいと思うけれどなあ。一度、設定を見直してみてね」

 生徒の心に寄り添い、困ったときの逃げ場になるのも、養護教師、いわゆる『保健室の先生』の大切な仕事の1つだ。何かあったときに、相談しやすい役割であり続ける必要がある。「それは厨二病だから、さっさと現実を見なさい」と断定する役割は、他の指導教員が十分やってくれているはずだ。

 佐藤少年が、またやってきたときに、うまく話ができるように、昔読んだっきりのケルト系の知識を更新しておきたい、それが件の店から回ろうとしたきっかけだった。でも、慣れない道から帰宅しようとしたせいで案の定迷ってしまった。さらにいうと、そういう時に裏道を通ったりしてはいけないと知っているにもかかわらず、つい近道になるかもしれないと横道にそれてしまった。

 さて、ここはどこなんだろう。

 先ほどまでは、古本屋が建ち並んでいる界隈だったが、このあたりはどちらかというと飲食店が多い。といっても、たくさん立ち並んでいるわけではなく、細い小道を曲がる度にぽつぽつと見かける程度だ。

 路地の角を曲がると、白木の引き戸が目についた。のれんと同じ京紫に近い色をした小さめの看板に『でおにゅそす』と書いてある。奥から少人数の話し声と、出汁のいい香りが漏れてきて、真知子は足を止めた。

 赤提灯の店や騒がしい居酒屋には興味はなかった。でも、静かな小料理屋などには以前から入ってみたいと思っている。

 真知子は、20代の終わりかけだが、学生時代の友人たちとの飲み会以外でお酒を飲みに行ったことはない。興味はあるのだけれど、1人で入って歓迎されるのか、どうやって注文したらいいのか、今ひとつわからなくて入りにくいのだ。

 1度は通り過ぎたけれど、もう一度立ち止まった。佐藤君だって、『魔眼のバロール』として日々中学校に通っているっていうのに、いい歳した大人の私が興味のある飲食店にも入れないのってどんなものかしら。恥をかいたって、もう2度と来なければいいだけなんだし、入ってみよう。小さな店みたいだし、満席の可能性だってあるんだし。

 引き戸を開けてすぐに目についたのは、活けてあるコスモス。それから白木のカウンターの中に立つ芥子色の小紋の女性。2坪ほどの小さな店で、奥に2人の男性が座っていたが一斉にこちらを見た。

「いらっしゃいませ」
着物の女性が、心地よい笑顔で言った。客のうち、赤い顔をした男性が大きく手を振った。
「お。お姉さん、おいでおいで」

 真知子は、これは踵を返して出て行けないなと覚悟を決めた。こうなったら、私も、小料理屋なんて週に1度は入っていますという顔をした方がいいかなと、心の中で考えた。
「あの、1人ですけれど……」

「どうぞ、どこでもお好きな席で」
狭い店なので、空いている席はあと3つほどしかない。真知子は扉を閉めて入り口に近い席に座った。女性は、真知子が落ち着くのを待ってからおしぼりを手渡してくれた。

「お姉さん、ここは初めてかい? ここいい店だよ」
先ほども声をかけた、かなりできあがっている方の客が親しげに声をかけてきた。

「西城さん、びびらせちゃ、ダメだよ」
もう1人の男性がたしなめている。

「あ、いいえ」
真知子は、居酒屋に入って酔客に話しかけられるのは慣れているという設定で、何かしゃれたことを言おうとしたが、結局何も出てこなかった。

「何になさいますか」
女性は、小さめのメニューを手渡した。A5サイズの表紙は看板と同じ京紫で、『でおにゅそす』にあわせてワインカラーなのかなと、思った。日本酒やビールなどと並んでワインもあったが、真知子は好きな酒を見つけて微笑んだ。

「梅酒をお願いします。ロックにしていただいていいですか」
「ええ。お待ちくださいね」
「あと……」
真知子は、料理のページも見た。よかった、思ったほど高くない。これなら、晩ご飯として食べていけそう。とてもいい匂いでお腹すいちゃったし。

 梅酒ロックと、ごぼうのごま和えが出てきた。あ、お通しだ。真知子は心の中で頷いた。そうか、これは自動で出てくるのね。

「何か、お魚を……」
迷いながら真知子が言うと、女性は答えた。
「召し上がれないものはありますか?」
「特にないですけれど、でも、青魚より白身の魚が好きかなあ」

「そうですか。季節のお魚ですとさよりと、サンマと戻り鰹ですけれど、どれも青魚ね……」

「あれは? 源さんの穴子の煮おろし!」
もう1人の客がいうと、西城も頷いた。
「ああ、ハッシー、あれ大好きだよねぇ。あれは他にはちょっとない美味さだから当然かあ」

 真知子は穴子が好きなので、目を輝かせた。
「そうなんですか。じゃあ、ぜひ。それと、お豆腐のサラダに、最近お野菜が足りていないから、この季節野菜の盛り合わせを」

「かしこまりました。源さん、穴子の煮おろし、お願いしていい?」
女性が、少し奥を見ると、向こうから入ってきた高齢の男性がカウンターに入ってきた。

 ごぼうを口に入れたとき、ああ、このお店は当たりだと思った。素朴だけれど、絶妙な味付けのごま和えで、もうひと口食べたいと思わせる絶妙な量だ。豆腐のサラダも水菜とじゃこにほどよい柚の香の醤油がかかっていて上品だ。
「おいしい……」

「まあ、嬉しいわ」
女性は微笑んだ。受け答えが自然で素敵な人だなと真知子は思った。着物がよく似合う。子供の頃は、歳さえとれば大人になれると思っていたけれど、この人の年齢になっても自分はこんな大人の女性にはなれなっこない。「小料理屋にしょっちゅう入っている設定」なんぞをしている時点で論外だろう。

「な。いい店だろう? 何よりも素敵な涼子ママの店だしさ」
赤ら顔の客が話しかけてきた。持ち上げたグラスが揺れて、ビールが飛び出した。

「西城さん、ほら、また粗相して、涼子ママを困らせるなよ」
「おっと、これは、失礼」
2人はおしぼりでカウンターに飛び散ったビールを拭おうとする。

「いいのよ、私がするから。西城さんも、橋本さんも、そのままで」
涼子は大して慌てずに、西城の前の皿やグラスを片付けてから濡れたカウンターを拭った。小紋の袖を手で押さえながら、決して大きな音は立てずに動かす手の動きは優雅だ。おそらくこの西城という客が酔って粗相をするのは初めてではないのだろう。とはいえ、慌てることも、いらだちを見せることもなく、あっという間に場を綺麗に納めてしまうのは、なかなかできることではない。

 涼子に見とれていると、無口に調理をしていた男性がそっと真知子の前に五寸ほどの鉢を置いた。穴子がみぞれ煮のように大根おろしとともに出汁に浮かんでいる。三つ葉が目に鮮やかだ。
「あ。いただきます」

 ひと口含むと、ふわりとしたみぞれ大根に包まれていた穴子がなんとも言えないしっかりとした味わいで主張してきた。
「美味しい……。穴子の煮物って淡泊にしかならないんだと思っていました」

 涼子が微笑んだ。
「源さんのこだわりでね。先にしっかりと味をつけてから大根を入れるの。こういう味は、私には作れないのよね」

「僕ねぇ、実は穴子の煮おろしって、ここで初めて食べたんだよ。穴子はお寿司でしか食べたことなくて、煮物だって聞いて最初は要らないって言っちゃってさ。この西城さんが横で美味しそうに食べるのを見て、失敗したと思ったんだよねぇ」
橋本が、幸せそうに食べる真知子に話しかけてきた。

「そんなことあったっけ? すっかり忘れちゃったなあ」
西城は相変わらず上機嫌でビールを飲んでいる。

 カウンターの中の2人も、客の2人も、みな自然体でいる。真知子は、小料理屋に慣れている設定で振る舞うなどということが馬鹿らしく思えてきた。

「私、こういうお店に入るの初めてで、とても迷ったんですが、勇気出して入ってきてよかったです」

「おう。そうか! 初めてがここだなんて、ラッキーだよなあ」
西城が赤い顔をほころばせると橋本も頷きながら訊いた。
「本屋さんの帰りかい?」

 真知子の置いた荷物から本が何冊か覗いている。
「ええ。古本屋を巡るのが趣味で。でも、方向音痴で駅がどこかわからなくなってしまって」

「おや。じゃあ、涼子ママ、この店の場所を書いたカードをあげておかないと」
「そうね。是非またきていただきたいもの」

 看板と同じ京紫のカードに店名、住所とともに「伊藤涼子」と書いてあった。それをもらえたことがとても嬉しい。もちろん、また来るつもり。設定じゃなくて、本当にこの店に来慣れている客になろう。真知子は、カードを大切に財布にしまった。

(初出:2021年10月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】シャリバリの宵

今日の小説は『12か月の店』の11月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

今回の舞台は、『カササギの尾』です。といっても、この店がどこにあるかを憶えていらっしゃる読者はいないかと思います。『森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架』で、主人公マックスが、ルーヴラン王国の王都ルーヴで滞在した旅籠です。

この作品はヨーロッパの中世(1400年代)をイメージした話ですが、あくまで架空世界の話なので、細かいツッコミはなしでお願いします(といって逃げ道を作っている)。ルーヴランは当時のフランスをイメージした国で、『カササギの尾』はそんな感じの店だと思ってください。

今回主要登場人物は誰も出てきませんので、改めて本編などを読み返す必要はありません。でも、読みたい方のために下にリンクもつけておきます。

短編小説集『12か月の店』をまとめて読む 短編小説集『12か月の店』をまとめて読む

【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む
あらすじと登場人物

森の詩 Cantum Silvae 外伝



森の詩 Cantum Silvae 外伝
シャリバリの宵


 石畳に枯れ葉が舞い始めるようになると、午後早くに最後の光を投げかけたきり、通りには陽が差さなくなる。

 冬はもうそこまで来ている。聖マルティヌスの祝日がくれば本格的な冬だ。あちこちに支払いの準備をしなくてはならないが、客たちがこの日までにきちんとツケを払ってくれるかどうかは定かではない。だが、マリアンヌは、先のことを思い悩むのはやめようと思った。

 少なくとも、今宵の婚礼祝いは旅籠『カササギの尾』にとっては実入りの多い予約だった。

 ルーヴランの王都ルーヴの城下の中心部にサン・マルティヌス広場がある。一番大きな市場の立つ賑やかな界隈だ。『カササギの尾』はその広場からはさほど遠くないが、往来の埃っぽさや物騒な輩の心配をせずに落ち着けるほどよい裏道に建っていた。

 旅籠といえば、相手にしている客は旅人ばかりかと思われるが、実のところ地元の客や半年以上滞在する逗留客の方が圧倒的に多い。女将マリアンヌの人柄がついつい長居をしたくなる居酒屋にしているだけでなく、頑固親父の作る料理がやたらと美味いのだ。

 肉の扱いは天下一品で、豚のローストやガチョウの丸焼きを食べるために裕福な商人がわざわざ通うほどだ。それほど裕福でない民も、去勢鶏、鴨などが上手に煮込まれて深い味わいを出すスープや、豆の煮込みに舌鼓を打った。

 そういうわけで、『カササギの尾』は酒と料理を求める客でそこそこ賑わっている。

 さて、この晩には、婚礼を祝う客からの大人数の予約が入っていた。これは、あまりあることではない。というのは、大がかりな婚礼を祝うような裕福な客は酔客も来るような場に混じって祝うよりも、自宅に料理人を呼び寄せてもてなしを画するのが普通だからだ。また、貧しくて立派な婚礼を出せないような者たちは、多くの席を占めるような客を招待したりはしない。

 まことに予約をしてきたのはありきたりの客ではなかった。商売の上手いこと王都でも10本の指に入ると噂のバルニエという毛織物商だ。64歳になるこの男は、昨年に長年連れ添った妻を亡くし、皆が心を尽くして慰めの言葉を掛けていた。ところが、先月になって後添いをもらうと言い出して、周りを驚かせた。さらにその花嫁が17歳だというので、非難する声もあちこちから聞こえてきた。

 マリアンヌと亭主にとってはありがたい大口の客だが、そのような曰く付きの婚礼祝いを誰もが入ってこられる街の居酒屋で行うのは尋常ではない。何事もなく、無事に終わるといいけれど。マリアンヌは、心の中でつぶやいた。

 季節の幸をふんだんに使った料理が仕込まれている。鹿肉はローストされてからクミンやシナモンで香り付けをした生クリームソースで和え、雉肉はたっぷりのワインとともに煮込まれている。栗やクルミと組み合わされてテーブルに並ぶ予定だ。

 亭主に頼まれて、納屋の天井から干し肉の塊を取ってくるために店の裏手に向かうと、道の陰で誰かがひそひそと言い争いをしていた。そのようなことは、珍しくないので、マリアンヌは興味も持たずに通り過ぎようとした。

「おねがい、やめて。今夜はシュゼットの大切な婚礼なのよ」

 若い娘の言葉に、ぎょっとして立ち止まる。そっと陰から覗くと、どちらも若い男女だった。

「やめるもんか。こんな理不尽なこと……」
「でも、もう遅いわ。シュゼットのパパは支度金を受け取ってしまったもの」
「あの爺め! 金でシュゼットを買ったんだ」
「でも、彼女だって、素晴らしい花嫁衣装と装飾品に囲まれて、納得していたみたいよ」
「くそっ」

 マリアンヌは、やれやれと思った。何事もなく終わることはなさそうだ。願わくば、店の中で乱闘などだけは起こさないでほしい。だが、おそらく起こるであろう抗議行動シャリバリを未然に防ぐつもりもなかった。

 夕闇が辺りをすっかりと覆った頃、楽隊に伴われて一行が到着した。貴族などは含まれていないが、招かれた親戚や客は裕福なのだろう、それぞれに緞子や鮮やかな縁飾りのついた高価な祝祭服に身を包み、庶民の多いこの一角ではひときわ目を引いた。

 平らではない石畳の狭い道は二輪馬車で乗り付けることは不可能なため、新郎バルニエをはじめ、みな徒歩でやってきた。唯一新婦だけは新郎が手綱を引く小さい馬に乗って登場した。

 新郎新婦の衣装は、さすが有力な毛織物商人の婚礼にふさわしい豪華なもので、花嫁は、胸元の大きく開いた胴着、裾や袖には不必要なまでに長い布がついていて、地面に引きずる形になっていた上、まるで貴族が被るような先のとがったヘニン帽に長いヴェールを垂らしたものを着用していた。新郎のバルニエはふくらはぎまで覆う豪華な刺繍を施したペリソンを着用し、その財力を誇示していた。

 一行はすでにどこかでもう飲み始めていたらしく、騒がしく酒臭かった。そして、席に着くと周りもはばからずに大声で祝い歌を歌いだした。

 マリアンヌや給仕は忙しく動き回り、酒や亭主が用意した料理を次々と配って回った。店の端に追いやられた常連たちは、その豪華な料理の数々を羨ましそうに眺めた。だが、バルニエは、ケチな性質らしく、その場の見知らぬ客たちに幸せの振る舞いをしようとは考えないようだった。

 男たちは狂ったように酒を飲み、しばらく経つと、亭主自慢の雉肉の煮込みの味が、おそらくわからないほどに酔ってきた。そうした男客たちは新婚夫妻を揶揄しながら卑猥な冗談を大声で話しだし、花嫁シュゼットと招かれた幾人かの奥方たちがいたたまれなさそうに身をすくめていた。

 すると、広場の方から騒がしいラッパや太鼓の音が響いてきた。そして、大きな声でシャリバリの歌をがなり立てているのも聞こえてきた。

「トゥラ、トゥラ、トゥラ!
年寄りが若い花嫁を買った。
金貨をちらつかせて、銀貨を投げつけて。
トゥラ、トゥラ、トゥラ!
強欲な父親のポケットからは支度金があふれ
宝石に目のくらんだ娘は、将来を約束した男を捨てた。
誰も知らないと思っても
天国の鍵を持ったお方と我らは知っている。
トゥラ、トゥラ、トゥラ!」

 仮面をつけた数十人もの若者たちが、雄牛の角笛を吹き、フライパン、鍋などを木べらで打ち鳴らしていた。一行は『カササギの尾』の前でピタリと止まり、婚礼を非難する歌をがなり立てた。

 目をまともに見開けないほどに酔ったバルニエや花嫁の父親らは、その騒ぎが彼らに向けられたシャリバリだとわかると、怒りで顔をさらに赤くし、若者たちを追い散らそうとした。しかし、酔いが回り立ち上がっただけでふらついて倒れる者もいた。花嫁シュゼットは反対に青くなり、下を向き恥辱に身を震わせた。

 儀礼的な抗議行進シャリバリが起こることを、マリアンヌは夕方から予想していた。年老いたやもめの早すぎる再婚、しかも相手は若い娘だ。こうした社会通念に合わない行為を非難し辱めという懲罰を与える伝統を、バルニエが予想していなかったことの方が意外だ。

 祝い酒の相伴にあずかれなかった常連たちや、騒ぎを聞きつけて集まってきた野次馬たちは、シャリバリ隊側の肩を持ち、これは面白いとはやし立てた。

 花嫁シュゼットは、不意に立ち上がると、長いヴェールのついたヘニン帽を脱ぎ捨てて、入り口に向かった。そして、シャリバリ隊の端の方でラッパを吹いていた男のところへ行くと、彼の仮面をぱっと剥ぎ取りその頬をひっぱたいた。

 それから花嫁は長い衣装の裾をたくし上げると、広場の方へと走り出した。叩かれた男は呆然としていたが、我に返ると彼女の背中を追い出した。

 マリアンヌには、その男こそが、夕方に裏道で話していた若者だとわかった。花嫁の捨てられた恋人なのだろう。

 年老いた花婿は、テーブルに手をつきながらやっとの事で立ち上がり、去って行く花嫁に対して怒鳴った。
「待て、シュゼット! どこへ行く!」

 だが、花嫁は夫の声には全く耳を貸さずに一同の視界からから消え去った。

 残されたシャリバリ隊と、野次馬たちはこの展開に大喜びで、ことさら騒音を出しながら非難の歌を繰り返した。

「トゥラ、トゥラ、トゥラ!
宝石に目のくらんだ娘は、将来を約束した男を捨てた。
誰も知らないと思っても
天国の鍵を持ったお方と我らは知っている。
トゥラ、トゥラ、トゥラ!
誰も知らないと思っても
天国の鍵を持ったお方と我らは知っている。
トゥラ、トゥラ、トゥラ!」

 さてさて。花嫁はどうするのだろう。たいそうな支度金を受け取り豪奢な婚礼をしてしまったからには、老人のもとを去ることは難しいだろう。だが、婚礼の祝いの宴から立ち去ったことを夫に責められ続けるのも辛いことだろう。このことはすぐに噂になるだろうから、老毛織物商は、王都の中心で物笑いの種になり、この婚姻を苦々しく思うことになるだろう。そして、花嫁の父親も十分に恥をかいた。

 マリアンヌは、この婚姻の幸福な行く末について懐疑的ながらも、実際にどうなるかについての予想はするまいと思った。そんなことをしても、彼女には何の利もないのだから。

 ただ、バルニエからこの宴の代金は一刻も早く取り立てなくてはならないと思っている。ケチをつけられて割引を要請されても一歩も引かない覚悟を固めていた。

 それに、おそらく今後は、このような宴の予約はなくなるであろう。今宵のシャリバリ騒動は、サン・マルティヌス広場界隈で長く語り継がれる笑い話になるだろうから。

 マリアンヌは、騒ぎに乗じてバルニエのテーブルから酒をかすめ取ろうとする常連たちをひっぱたきながら、ため息をついた。寒い風が吹く通りに、まだシャリバリ隊の騒がしい演奏が鳴り響いている。

 その晩、花嫁はついに戻らなかった。豪華なヘニン帽だけが、むなしく椅子の上に載っていた。

(初出:2021年11月 書き下ろし)
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【小説】バッカスからの招待状 -15- ブランデー・エッグノッグ

今日の小説は『12か月の店』の12月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

『12か月の店』のラストを飾る舞台は、『Bacchus』です。うちのブログで飲食店といったら、やはりここかなと思い12月まで待ちました。店主の田中はもちろん、常連3人組も登場です。なぜ下戸ばかりが……。

短編小説集『12か月の店』をまとめて読む 短編小説集『12か月の店』をまとめて読む

【参考】
「バッカスからの招待状」をはじめから読む「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む




バッカスからの招待状 -15- ブランデー・エッグノッグ

 店の奥に背の高い棚がある。小さな脚立に載って箱をいくつかとりだした。普段使わない季節の飾りは箱に詰めてしまってある。今年もカウンターにクリスマスツリーを飾る季節がやって来た。

 そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにあった。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と記してある。

 バーテンダーでもある田中佑二がほぼ1人で切り盛りするこの店には、目立たない立地ゆえ、クリスマスだと浮かれて入ってくるタイプの客はまずいない。だが、老若男女の常連たちは、店の装飾が変わることを歳時記のように捉えて話を弾ませる。

 田中は、ハロウィンが終わるやいなや街がクリスマスの飾り付けだらけになるのを静観し、自分の店は12月に入ってから飾りつけることを常としていた。

 カウンターの一番入り口に近い場所にツリーを据える。金と赤の2種類の小さい飾り玉をバランスよく吊していく。赤い飾り玉には、虹のような光沢がある。カウンターの角とテーブル席には小さいポインセチアを飾る。

 最後の鉢を奥の席に置いているときに、ドアが開いた。落ち着いたオーバーコート姿の年配男性が伺うように立っている。

「いらっしゃいませ」
「まだ準備中かな」
「いいえ、開店しております。どうぞお入りください」

「1人なんだが、いいかね?」
「もちろんです。テーブルとカウンターと、どちらがよろしいでしょうか」
「カウンターにしようかな、ここ、いいかね?」
 彼は、入り口に近い端の席を見ていた。初めての客がよく選ぶ席だ。コート掛けや出入口に近くて落ち着くのだろう。田中は頷いた。
「どうぞおかけください」

 田中は、彼がコートをハンガーに掛けて、カウンターの下に紙袋をしまい、座って落ち着くのを待ってからおしぼりとメニューを手渡した。
「どうぞ」

「ありがとう。……その、僕はこの手の店に入ったことがなくてね。勝手がわからないんだが」

 謙虚で率直な物言いには好感が持てる。
「そうですか。特別なルールはございません。お好きなお飲み物や肴をお選びください。また、こんな飲み物がほしいといったご要望をおっしゃっていただければ、お奨めのカクテルなどを提案させていただきます」
「そうか。じゃあ、ちょっとメニューを見せてもらうよ」
「どうぞごゆっくり」

 また入り口が開く音がした。朗らかな声がした。
「こんばんは」

「ああ、久保さん。いらっしゃいませ。今晩はお早いですね」
「そうなの。残業を頼まれる前に逃げ出してきちゃった。あ、夏木さんと近藤さんも、来たみたい」

 久保すみれの言葉通り、いつもの常連仲間が階段を降りてきた。この下戸3人組は、火曜日にはたいてい早くからここに集う。
「いらっしゃいませ。夏木さん、近藤さん」

「こんばんは。田中さん、皆さん。お、久保さんに負けたか」
夏木は、慣れた様子でコートを脱いでからカウンター席の奥、すみれが手招きするいつもの椅子に向かった。

「こんばんは、田中さん。ああ、ここの飾り付けが始まったか。クリスマスが近いもんなあ」 
近藤は、少し大仰な動きで中折れ帽を脱ぎ、コート掛の上に置いた。コートの下は相変わらずイタリアブランドの洒落たスーツを着こなしている。好んで座るほぼ真ん中のカウンター席に座ると、勿体ぶった様子で眼鏡を持ち上げた。

 すみれは、わずかに聞こえる程度に、クリスマスの定番ソングをハミングしながらメニューをめくった。
「あ。これにしようかなあ。『青い珊瑚礁』。クリスマスの飾り付けが始まるまで我慢していたし……」

 隣の夏木が「どれどれ」とのぞき込んだ。
「ああ、なるほど、きれいなクリスマスカラーだね」

 緑のペパーミントリキュール、赤いマラスキーノチェリーがカクテルグラスに沈み、まるで逆さクリスマスツリーだ。ジンベースなので、アルコール度数は高めだ。田中は静かに言った。
「お2人とも、そちらをいつものようにお作りしますか?」

 2人とも、ぱっと顔を上げて嬉しそうに頷いた。「いつものように」というのは、アルコールにあまり強くないすみれには、規定よりもずっと少ない量のジンを使い、1滴のアルコールも飲めない夏木用にはノンアルコールで作るということだ。

 近藤は笑いながら言った。
「じゃあ、僕は久保さんと同じバージョンで」

 近藤もまた、強いアルコールを受け付けない体質だ。田中は「かしこまりました」と頷いた。

 入り口近くに座る年配客は、若い常連客たちが楽しそうにカクテルを注文する様子をじっと見ていた。

「お決まりですか?」
田中が訊くと、彼は首を振った。
「いや、洋酒の名前はさっぱりわからなくてねぇ。さっきも行ったように、ここみたいなお店に無縁で生きてきたもんだから」

「私も、1年くらい前まではこういうお店、怖くては入れなかったんですよ。田中さんが親切なので、何でも質問できるようになって、すっかり図太くなりましたけれど」
すみれが話しかけた。

「僕も、アルコールが飲めないので、こういう店は敬遠していた口ですけれど、ここは居心地がよくて通っています」
夏木が続けた。

 年配の客は笑い返した。
「私が若かった頃、こういう店に入ることに、その……なんというか変に浮ついていてイヤだという想いがあって、頼まれても入ろうとしなかったんだよね。バブルが弾けてからは、こちらも経済的に苦しくてそれどころじゃなかったし、結局、来そびれたままこの歳になってしまってね」

「今日、ここに足を運んだのはどうしてですか?」
近藤の質問は、他の3人も訊いてみたいことだった。

「何だろうねえ。ああ、東京駅でクリスマスの買い物をして、昔のことを思いだしたんだよな。バブル時代につきあっていた女性が、クリスマスくらいバーでカクテルを飲むようなデートをしたいと言い出して、喧嘩して別れたんだよなあ。そんなことを考えながら歩いていたら、ここの看板が目に入ってね」

「僕は、反対の方向に肩肘張って失敗しましたよ。でも、今では、ここでだけはほっとひと息しながら寛げているなあ。ね、お2人さん?」
近藤が、それでもまだ十分にキザっぽいもの言いで問うと、慣れているすみれと夏木は頷いた。

「なぜ、あれっぽっちのことで意地になったんだろうなあ。まあ、それから彼女も誰かと結婚して幸せになったらしいですし、こちらも今ではそこそこの隠退生活にたどり着けましたからねえ。そんなわけで、過去にできなかったことや、しなかったことを、1つずつやり直しているんですよ」

 田中は先ほどこの客が百貨店の紙袋を大切そうに持っていたことを思い出した。
「クリスマスのお買い物にいらしたのですね」

「ああ。田舎に住む姉の孫がね、なんだかアニメのキャラクターに夢中らしくてね。東京駅の地下にあるショップで買ってきてほしいと頼まれたんだよ」

「あ、知っています。東京キャラクターストリートですよね」
すみれが頷いた。

「何だ、そりゃ?」
夏木が訊く。

「アニメやマンガの公式ショップがずらっと並んでいる商店街みたいなところなの」
「へえ? 知らなかったな。そういうものは、秋葉原にあるのかと思っていた。東京駅にねぇ」

「おや、この近くに勤めているのにあれを知らないのかい? ずいぶん前からあるよ」
近藤が若干からかうような調子で訊いた。夏木は口を尖らせる。
「僕は、日本橋駅を使うから、東京駅は新幹線に乗るときぐらいしか行かないし」

 年配客が、取りなすように行った。
「僕も全然知りませんでしたよ。丸の内側の地下は行ったことがあったんですが、八重洲側があんな風になっていたのには仰天しました。そもそも八重洲側に来ることはほとんどなくて」

 田中は言った。
「東京のことは、地方の方が案外よくご存じですよね」

「そうだな。姉は、僕を乗せるのが昔からうまくてね、田舎でもよくお使いに出されたものだけれど、その度に珍しい店などを知るきっかけになったよなあ。そういえば、ここもそうか。八重洲側に来なければ通らなかった道だし」
彼は、嬉しそうに言うとメニューを閉じ、田中を見て言った。
「ここはひとつ、姉にちなんだお酒でも見繕ってもらおうかな」

「それはいい。田中さんのお任せカクテルは、美味しいですよ。ま、僕のはノンアルコールだけれど」
夏木が笑う。

「何かお姉さまの思い出か、格別お好きなお味はありますか?」
田中は、少し身を乗りだして訊いた。

 年配客は、少し首をひねってから、はたと思いついたように顔を上げた。
「そうそう、寒い日は、風邪をひいたわけでもないのに予防よ、なんて言って卵酒を作ってくれたなあ。僕はあれが好きでね。卵をつかったお酒なんてありますか?」

 田中は頷いた。
「エッグノックという飲み物がございます。欧米では卵酒と同じように、寒い日や眠れない夜、それにクリスマスのマーケットなどで身体を温めるために飲まれているドリンクですが、ブランデーやラムなど各種のスピリッツを入れたカクテルとしてもよく飲まれています。お好みよっては、マデイラ酒やシェリーといった酒精強化ワインを使う場合もあれば、アドヴォカートという卵のリキュールで作る場合もございます」

 年配客は、頭をかいた。
「ブランデーやラムはわかるけれど、あとはよくわからないな。強くてもいいけれど、甘すぎない感じの、よくある感じで作ってもらおうかな」

「かしこまりました。それではブランデー・エッグノックをお作りしましょう」
田中はいくつかのブランデーをブレンドして作る、野性味が強くコクのあるアルマニャックの瓶を手に取った。

 ノン・アルコールの、または非常に弱いジンのカクテルグラスを持ち上げて、若い3人は「乾杯」と言った。

「今年も、何もしないまま1年通り過ぎちゃった感じね」
「健康で、この店に通えただけでも、大した偉業じゃないかい?」
「それは、言えるな」

 年配客は、カクテルを待つ間に、若者たちの様相を眺めていた。グループではなく、ここでよく会う常連客らしい。他の客を無視して騒ぐこともなく、かといって立ち入る様子もない。居酒屋などで見慣れたグループ客たちとも違うし、彼が毛嫌いしていたバブル時代によく見たスノッブなバーの常連客のイメージとも全く違う。

 カウンターでこの落ち着いたバーテンダーを囲みながら過ごす時間は、確かに心地よさそうだ。

「お待たせいたしました。ブランデー・エッグノックでございます」
淡黄色のタンブラーがすっと置かれる。これまでの彼なら「女コドモの好きそうな色だな」と言いそうなパステルカラーだが、姉に作ってもらった卵酒を思い出したので、妙に懐かしく心も躍った。

「あれ、暖かい」
カクテルというのは冷たいものだと思っていたので、思わず声が出た。

「冷たいブランデー・エッグノックをお出しすることが多いのですが、今回はお姉さまの思い出にちなみ、ホットでお作りしました。いかがでしょうか」

 湯氣にわずかにスモーキーで芳醇なブランデーの香りがする。会社勤めの頃、接待をした時にホテルで飲んだ高いブランデーのことを思い出した。無理してストレートで飲んだけれど、馴染みのない味と行き慣れない場に緊張して楽しむこともなかったな。

 だが、卵とホットミルクに包まれたこのブランデーの香りは、なかなかいい。我が家に居るときの懐かしさや温かさとは違うが、落ち着く。あえて言うなら、接待で飲んだブランデーは高層ビルで夜景を眺めるような場違いさを伴っていたが、このホットカクテルに隠れているブランデーは、古い民家で暖炉に暖まりながら座るような落ち着きをもたらす。

 ひと口、含むと見た目ほどの甘さはなく、ふんわりとした味わいに包まれながら、ブランデーのわずかな焰が喉を通過していく。
「これは、美味いね。卵酒は甘さが強く、大人になってから飲もうと思ったことはなかったし、ブランデーはストレートがさほど美味しいと思っていなかったから、これが最初で最後のつもりで注文したんだが、これなら冬はいつでも行けそうだ」 

 田中は「恐れ入ります」と微笑み、3人の客はわっと喜んだ。

「じゃあ、僕も次はそれにしてもらおうかな」
近藤が言うと、残りの2人も続く。

 バブルっぽの浮かれた客や小洒落た店が嫌いか。十分に洒落たバーのカウンターで、いまだにバブル期を継続している感のある言動の近藤を横で見ながら、年配客は心の中で笑った。そんなに毛嫌いする理由はどこにもなかったな。

 クリスマスに洒落たバーに行きたいと主張する昔の恋人は、レッテルに縛られた可哀想な女だと思っていた。だが、レッテルに縛られていたのは自分もそうだったのだ。楽しそうな若者を横目で見ながら思う。

 この冬は、ときどきここに来て、エッグノックで温まるのも悪くない。

ブランデー・エッグノッグ(brandy eggnog)
標準的なレシピ

ブランデー - 45ml
(うち15ml分をダーク・ラムにすることもあり)
シロップ - 1tsp
卵黄 - 1個
牛乳 - 適量
ナツメグ

作り方
1. 牛乳以外の材料をしっかりとシェイクする。
2. 氷を入れたタンブラーグラスに注ぎ、牛乳を加えてステアする。
3. ナツメグを使うときは仕上げに振る。



(初出:2021年12月 書き下ろし)
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