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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012

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Posted by 八少女 夕

【小説】赤いドアの向こう

今日の小説は『12か月の○○』シリーズの新作『12か月の店』1月分です。

今年は、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめていくつもりです。

トップバッターは、2019年の『十二ヶ月の歌 2』の12月の掌編『新しい年に希望を』で登場したチームです。今回出てくる志伸とリカに何があったのかは、今回は全く出てきませんが、氣になる方は前作をどうぞ。


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赤いドアの向こう

 店の名前は合っている。赤い看板には先の尖った猫耳みたいな絵とともに『Bar カラカル』と書いてある。なんだか想像していた店とは違うみたいだ。亮太は首を傾げた。

 彼の直属の上司が、本省に寄ってから直帰したのだが、終業間際に起こった案件で明日の朝に再び本省に出向くことになった。それで、家の近い亮太が書類を届けることになった。自宅まで行くのかと思ったら、用事があるからとこの店を指定してくれたので、途中下車で済んだのだ。

 亮太は、周りを見回した。駅から直通の、アーケードになった商店街は、乾物屋だの、瀬戸物屋だの、あまりおしゃれじゃない靴ばかり売っている店だの、下町の風情に満ちていた。少なくとも、あの濱野さんが下車するような駅には思えない。あの人なら、霞ヶ関の近辺か、六本木か、じゃなかったらご自宅に近い品川駅あたりか。

 亮太は、濱野志伸に憧れていた。本省では同期の中で一番に課長補佐になったというし、今年から出先機関としてきている県庁でも見かけよし、将来性よし、そして性格よしと、近年にないスーパーエリートとして女子職員の人氣を一身に集めている。彼女たちにいわせると唯一の欠点は、妻子持ちだということぐらいだそうだ。亮太には、その辺りのことはどうでもいいのだが、彼と一緒に仕事をしてきたこの8か月、仕事にやり甲斐を感じていた。

 亮太は、地元でこの駅前商店街のようなロケーションにはむしろなじみがあった。東京にもこういう場所があるんだなと、思った。新年の飾りは、松の内を過ぎて最初の瑞々しさと華やかさを失い、なんなとく惰性でそこに存在している。

 普段は特に感じないけれど、彼はその疲れた日常を苦々しく思う。年末のように疲弊することに理があるときは感じないのだが、つい1週間ほど前に新調されたばかりのはずの世界がこうだと、彼はわずかな失望を感じるのだ。それは、彼の周りの世界が全くリセットされておらず、彼もやはり以前と同じく3流の人生を歩き続けることを認識させられるからだ。いわゆる「ガラスの天井」の存在も、彼の思いを沈ませる。

 努力はしたけれど、希望した大学には入れなかった。卒業後、就職難のこのご時世で、それでも県庁に勤められることになったのはラッキーだけれど、有能でもなく、要領もよくないので、同期の中でも出世が早いとはいいがたい。つまり、濱野志伸とは正逆の存在だ。志伸は、それ以前の本省から来た課長とちがって、亮太を軽んじたり、人前で叱責したりすることはなく、たとえ数年の仮の職場でも熱心に仕事に取り組むだけでなく、部下の亮太が少しでも要領よく仕事ができるように時間をかけて教えてくれた。憧れたり感謝こそすれ、妬むような理由は何もない。

 それでも、ときどき、亮太は滅入るのだ。人間がみな同じなんて嘘だ。出来の違う人もいるし、世界の違う人だっている。志伸は、銀座や六本木などが似つかわしく、亮太は地元商店街が似合う、そんな人間なのだと。

 ともかく、この書類を渡さなくては。亮太は入り口を探した。

 階段を降りていくと、ドアの向こうはずいぶんと盛況のようだった。ドアの両脇に、たくさんのフラワーアレンジメントが飾ってある。亮太は『Bar カラカル』と書かれた真っ赤な扉をぐっと押す。

 中は、風船や紙テープで飾り立てられていて『祝・一周年』の横断幕が見えた。さほど広くない店内とはいえ、この早い時間なのにそこそこ混んでいる。

「いらっしゃーい」
派手な装いをした野太い声の男たちが、一斉に声をかけた。亮太は、再びギョッとした。なんだよ、ここ。

 亮太の戸惑った様子に目を留めた、客と思われる女性と並んで座っていた手前の男が立ち上がり近づいてきた。フルメイクをして、紫色のスパンコールのトップスを着こなしている。
「ウチは、初めてかしら」

「あ、あの……。今日、上司に言われて、書類を届けに……濱野志伸さんは……」
奥を覗くが、まだ来ていないようだ。男は、大きな口を開けて笑った。
「ああ、志伸ね。まだ来ていないわ。そこに座ってちょうだいよ」

「あら、佑輝。志伸が来るの?」
男と一緒に座っていた女性が訊いた。
「みたいね。1周年パーティーをすると言ったときには、来るとも来ないとも言っていなかったけれど。リカ、志伸とは久しぶりでしょ?」

 リカと呼ばれた女性は、鼻で笑ってから言った。
「そうね。感動の再会。じゃあ、このペースじゃダメだわ。もっと今のうちにガンガン飲んでおかなきゃ」

 亮太は、彼女がシャンパングラスを持ち上げてあっという間に空にしてしまったので驚いた。佑輝は、リカのグラスを満たした。リカは、亮太を手招きした。
「ここ、まだ座れるわよ。どうぞ」

 ゲイバー……なのかな、ここ。ほとんど男性客ばかりみたいだけれど、こんな風に馴染んでいる女性ってすごいな。怖々店内を見回している様子に、佑輝とリカは顔を見合わせて笑った。

「濱野さん……よくいらっしゃるんですか」
ゲイバー通いかあ。憧れの人のイメージがずいぶんと変わりそうだ。濱野志伸は、忘年会や新年会でも羽目を外さず、早く帰る。まだ乳飲み子のお子さんがいて、奥さんに負担をかけないように不必要な飲み会は避けているという噂を聞いていたのだ。

 そのトーンに氣がついたのか、佑輝はきれいに描いた眉を上げた。
「よく来るっていったら、ここにいるリカの方が常連よね。アタシたち、大学の同期なの」

 亮太は、はっとして色眼鏡で物事を決めつけかけた自分を恥じた。そうか、お友達なんだ。じゃあ、らしくない所でも行くよね。

 ドアが開いた。向こうに立っていたのは、濱野志伸だった。
「あ、濱野さん。お疲れ様です」

 だが、彼は亮太ではなくて、その横を見て硬直していた。
「リカ……」

 リカは、シャンパングラスを持ち上げた。
「久しぶり。元氣そうね」

 佑輝が、さっと近くに寄って「いらっしゃい」とコートを脱がせた。
「リカと、ここで遇うのは初めてだったわね。最近、2人ともよく来てくれているのに、今日まで遇わなかった方がびっくりよ」

 はっとしたように、志伸は佑輝に視線を戻し、持っていたショッパーを渡した。
「1周年、おめでとう」

「あら。クリュッグ、グランキュヴェ。どうもありがとう、嬉しいわ」
クリュッグのシャンパンは、『シャンパンの帝王』とも呼ばれ、豊かで芳醇な香りが特徴だが、値段も高い。亮太は、聞いたことはあるが、実物を見るのは生まれて初めてだった。さすが濱野さん。贈り物もゴージャスなんだなあ。

 佑輝は、押し戴くと、ちらっとリカを見て微笑んだ。

 リカは、ふっと笑った。
「まさか、被るとはねぇ。他の子たちもみんなこれだったりして」

「そんなわけないでしょ。他の子たちは、ドン・ペリ以外の銘柄を知っているかどうかも怪しいじゃない」
「ふふふ。そうかも。私も、志伸に教わって知ったの。でも、佑輝が、これを好きだって知ったのは、このお店に通い出してからよね。1年ってあっという間よね」

 それからリカは、戸惑ったように立ちすくむ志伸に声をかけた。
「この席にいらっしゃいよ。こちら、あなたをお待ちよ」

 それで、志伸ははっとして、亮太に軽く会釈をした。
「牧くん、すまなかったね。わざわざ寄ってくれてありがとう」

 亮太は、急いで書類を志伸に渡して頭を下げた。
「いえ。この駅は沿線なので、僕も助かりました」

「あら。じゃあ、これからどうぞごひいきに」
早速の営業に、亮太は戸惑いながら頷いた。

「さ、牧さんっていうの? これ、どうぞ」
佑輝がシャンパングラスを亮太に渡した。わあ、これって、さっきのめっちゃ高いシャンパンだったりして……。

 志伸は、硬い表情のまま、リカに会釈をした。
「元氣か」

 リカは、わずかにツンとしたさまを見せて「おかげさまで」と言った。その後で、ほんの少しだけ親しみやすい笑顔に切り替えて言った。
「日常が戻ってきている感じ。もうずいぶん経つし。そっちは、どう?」
「うん、それなりに忙しくしている。この店に来るのも久しぶりになってしまったし」

「そうよね。今晩、来てくれなかったら、どうしてやろうって思っていたわよ」
佑輝は笑った。

「他の子たちも、そろそろ来るんじゃない?」
リカが訊くと、佑輝は「たぶんね」と笑った。

 リカは、佑輝に顔を近づけて、楽しそうに笑う。志伸は、硬い表情をしたまま、グラスの泡を見ていた。亮太は、そんな志伸の様子をじっと眺めた。

 濱野志伸は、県庁での飲み会でもそういうところがあった。本省と違って、一時的にいるだけだから、距離をもって接しているのかと思っていたが、私的な集まりでもそうなのかと、少し驚いた。リカさんと、この女装の佑輝さんは、めちゃくちゃ砕けた付き合いをしているみたいなのに。

 リカさん、濱野さんと訳ありっぽいけれど、どうなんだろう。いや、さっき、決めつけはマズいって学習したばかりじゃないか。でも、なんかあまり長居しない方がよさそう。

「えっと、そろそろ失礼します。ごちそうさまでした。このお代は……」
亮太がいうと、志伸が手で制した。
「それは、僕が。今晩は、本当にありがとう」
 
「またのお越しをお待ちしていまぁす」
佑輝が、コートを着せてくれた。

「あの人、家に連れてきたことないわよね。新しい部下なの?」
リカが訊いている。ふうん。亮太は、まだちゃっかりと聞き耳を立てている。家に連れてきたことないって……ことは元カノかなんかなんだろうなあ。

 志伸は、淡々と答えた。
「ああ。4月から、僕は県庁に出向しているんだ」
「あら、そうなの。今のおうち天王洲でしょう? 遠いんじゃない?」
「1時間弱ぐらいかな。まあ、引っ越すほどは遠くないし……」

 それに、きっと2、3年くらいで本省に帰るんだろうし。亮太は心の中で先を続けた。

「じゃ、牧さん。またのお越しをお待ちしているわね〜」
佑輝の野太いのにやけに色っぽい声に送られて、亮太は店の外に出て階段を昇った。

 新年早々、なんかすごいところに来ちゃったなあ。亮太は、先ほど通り過ぎた鄙びた商店街を通り過ぎながら、ずいぶん時間が過ぎて何もかもが変わってしまったかのように感じた。実際には30分も経っていないのに。

 濱野志伸も、30分前に亮太が憧れていた超エリートとは少し違っている。ドラァグクイーンみたいな人と仲良くして鄙びた町のゲイバーに通っていたり、居心地悪そうに元カノみたいな人に押されている姿は、それまでの本省から来た世界の違うスーパー上司像と相容れない。

 何があったかなんて訊くのは無粋だろうなあ。もっとも、ここに通ったら、そのうちにわかったりするのかも。いやいや、何を考えているんだ、僕は。

 亮太は、志伸が意外とこの鄙びた商店街とマッチしているのかもしれないと思いながら、わずかにウキウキしたまま、駅に向かった。

(初出:2021年1月 書き下ろし)
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Category : 短編小説集・12か月の店
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】冬のパラダイス

今日の小説は『12か月の店』の2月分です。もう3月ですけれど。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

今回の舞台は『ニューヨークの異邦人たち』シリーズのたまり場《Sunrise Diner》です。もちろん働いているのはおなじみキャシー。そして、出てくるコンビはケニアで新婚生活をはじめたあの人たちです。


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【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む

霧の彼方から「霧の彼方から」を読む

「ニューヨークの異邦人たち」外伝集「ニューヨークの異邦人たち」




冬のパラダイス

 寒波のひどい朝は、出勤がとても憂鬱になるものだが、来てよかったとキャシーは思った。懐かしい友人が朝から訪ねてきてくれたのだ。
「びっくり。いつ着いたの? しばらく滞在?」

 ドアを開けてジョルジアを通してから入るグレッグの姿を見て、ずいぶんと夫らしくなったなとキャシーは思った。以前は、何をするのにもジョルジアの機嫌を損なわないかおどおどしているようなところがあったのだが、半年の新婚生活でジョルジアが自分の妻であることに慣れたのだろう。

 ジョルジアは、手慣れた様子でコートをハンガーに掛けながら答えた。
「6時に着いたのよ。荷物だけ置いて、まっすぐここに来たの」

 ニューヨーク、ロングアイランドのクイーンズとの境界のすぐ側の海岸を臨んで、大衆食堂《Sunrise Diner》がある。キャシーが新装開店のスタッフとしてこの店に勤めだして、3年半が経った。開店してすぐに朝食を食べる常連になってくれたジョルジアは、当時は近所に住んでいた。

 感じはいいのに、めったに口もきかず、いつもカウンターに1人で座っていた彼女が、他の常連たちと打ち解けだして、自然と輪の中に入っていけるようになるまで、しばらく時間が必要だった。それが、どうしたことだろう、1年後の秋に「アフリカで知り合った友人」を突然連れてきたかと思ったら、その1年後には、彼と結婚して、ケニアに移住すると言い出した。

 常連たちは、そのニュースを聞いてもひどくは驚かなかった。もちろん、キャシーも。むしろ、なぜあれから1年も「ただの友人」だと言い張っていたのか、みな理解できなかったのだ。

 4月の結婚式は、彼女の家族のたっての希望でニューヨークで行われたが、大きなホテルを貸し切りたいという兄の意向に断固反対して彼女たちがパーティー会場に選んだのが《Sunrise Diner》だった。家族の他、常連や、ジョルジアが専属フォトグラファーとして働く《アルファ・フォト・プレス》の社員たちが集まり、盛大かつアットホームなパーティーだった。

 キャシーはもちろん、夫のボブも招待された。アメリカ有数の富豪であるマッテオ・ダンジェロと、もとスーパーモデルのアレッサンドラ・ダンジェロのデュエットに合わせて、ダンスを踊るなどという経験は、そうそうできるものではない。もっとも、主役の2人は盛り上がりすぎに居心地が悪かったのか、パーティーの後半からは会場の隅に大人しく座っていたので、後から常連たちの語り草になった。

 その後、すぐに2人はケニアで新生活をはじめたのだが、ジョルジアはニューヨークでの住まいを完全には引き払わなかった。《アルファ・フォト・プレス》との契約で年に数ヶ月はニューヨーク暮らしをする必要があるので、同じフラットの、少し小さな部屋に引っ越して、渡米中の住まいを確保したのだ。

 また、グレッグも援助をしてもらっているプロジェクトの報告のため、年に1度ニューヨークに報告に行く契約を結んでいる。つまりこの夫婦は少なくとも年に1度ニューヨークに揃ってやってくるのだ。

 今どき報告なんてEメールで何でも済ませられるのだから、その契約は、引っ込み思案な2人をニューヨークまで引っ張り出したいマッテオ・ダンジェロの策略なのだろうとキャシーは思っている。そして、その第1回目が今回の渡米なのだろう。
 
「あら。手編み?」
キャシーは、グレッグがカウンターに置いた手袋に目を留めた。それは、グレーの毛糸をベースに、黄色や赤や緑の文様が編み込まれた、ゴム編みの大きなものだ。機械編みかもしれないと思うくらいに目はきちんと揃っているが、最近ではめったに見ない田舎っぽいデザインだ。彼のオーソドックスでシックなコートとマッチしていないし、ジョルジアやその家族が、こんな野暮ったい物を贈ることはないだろう。

 実際に、ジョルジアが外した手袋は、茶色いヌメ革に黒い革のラインが走っているもので、ダンジェロ兄妹の家族らしい洒落たチョイスだ。

 グレッグは「ああ」とだけ答えた。
「お母様の手編みなのよね」
ジョルジアが言い添えたので、キャシーはなるほどと思った。

「学生の頃にもらったんだ。アフリカに引っ越してから、1度もこの手の手袋を使う必要がなかったから、ここに虫食いの穴があった」
彼は右手袋の内側を見せた。確かに、繕った跡が見える。手袋のいらない生活ね。数年に1度、1週間ほどニューヨークに来るためだけならば、確かに新しいのを買う必要もないだろう。

「冬のニューヨークは初めてなの?」
キャシーが訊くと、グレッグは頷いた。
「ジョルジアから聞いていたから覚悟していたけれど、とても寒いね」

「僕が初めてここに来たときも、やっぱり冬だったけれど、あまりの寒さに仰天したものですよ」
いつもの窓際の席ではなく、やはりカウンターに座ったクライヴが言った。彼のイギリス的な美意識、つまりカウンターなどではなく、テーブル席で優雅に紅茶を飲む習慣も、今日のウインドー越しに襲ってくる冷氣には勝てなかったらしい。

 キャシーは黙って、ヴィクトリア朝のブルーウィロー・ティーポットに、安物のティーバッグをポンと入れた。このポットは、クライヴが店長を務めている骨董店から持ち込んで預けているのだ。彼のためにいちいち茶葉を用意してやることはないが、少なくともポットを熱湯で温めたり、沸騰させたお湯を入れてやるくらいのことはしている。そして、他の客とは違い、同柄のカップとソーサーに淹れて悦に入っているクライヴの伝票に「紅茶1」とかき込むのだ。

「で、新婚さんたちのご注文は?」
キャシーは、ジョルジアたちに顔を向けた。ジョルジアは、もう心に決めていたようで即答した。
「ホットチョコレート。『キャシー・スペシャル』で。こんなに寒いんですもの」

「それは、どんな飲み物?」
グレッグは、用心深く訊いた。かつて、キャシーに奨められて、とんでもない大きさのチョコレートサンデーが運ばれてきた衝撃を忘れていないのだろう。

「チリペッパーが入っているの。辛いのが苦手じゃなければ、いけると思う」
キャシーはウインクした。ジョルジアが続けた。
「とっても体が温まるのよ」

「じゃあ、僕にもそれをおねがいします」
グレッグが言った。

「はーい」
キャシーは、テキパキとチョコレートを用意した。

 オープンした当時、この《Sunrise Diner》で出すホットチョコレートは、粉末ココアに熱湯を入れる薄めのものだった。だが、常連にどういうわけだかヨーロッパからの移民の割合が多く、しかも、ホットチョコレートに関してはひと言もふた言もある輩が多かったおかげで、もう1つのホットチョコレートがメニューに登場することになった。ダーク系の固形チョコレートを刻んだものに熱いお湯と加熱したミルクを混ぜて作る、フランスやイタリアタイプだ。

 さらに、常連たちがあれこれと改良に腐心した結果、チリペッパー入りの《Sunrise Diner》特製ホットチョコレートが誕生したというわけだ。いまでも粉末ココア式のホットチョコレートもメニューにあるのだが、注文が入るのは圧倒的に『特製』だった。そして、常連はたいてい『キャシー・スペシャル』とそれを呼ぶのだ。

 グレッグは、厚手のカップが目の前に置かれるのをじっと眺めた。彼の知っている粉末ココア製の飲み物と違い、それは真っ黒なクリームのように見えた。キャシーはスチーマーで加熱したミルクをその上からかけてドリンクを完成した。隣でジョルジアがミルクとチョコレートをかき混ぜて飲みやすい粘度にしているのをまねてから、湯氣の上がるカップをそっと口元に運んだ。

 もっと辛いのかと思ったが、チョコレートの甘い味だけを感じた。だが飲んでいるうちに、だんだん喉元にヒリヒリとした刺激が訪れてくる。それに氣がつく頃には、体がもうぽかぽかしている。
「なるほど。確かに、暖まるね」

「初めて来たときには、ぞっとしましたよ。なんだってこんな寒いところが大都会になったんだろうって」
クライヴは、紅茶を優雅に飲みながら言った。ケニアで育ったグレッグにしてみたら、ロンドンだって、十分に寒かったのだが、クライヴにとっては、大きな違いがあるらしい。

「早く春になって欲しい?」
ジョルジアが問いかけると、クライヴは大きく頷いた。

「ちょっと待ってよ。それは困るわ。冬を待ちかねていた人だって、ここにちゃんといるんですから」
キャシーが口を尖らせた。

 首を傾げるグレッグに、ジョルジアがそっと解説をした。
「キャシーは、アイススケートが好きなの。フィギュアの選手も顔負けってくらい、とても上手いのよ」

 キャシーは、肩をすくめた。
「ま、いまだにウォールマン・リンクで滑りながら、スカウトが来るのを待っている身だけどね」

 それは冗談なんだろうか、それとも本当に? グレッグは、どう反応していいのかわからなかったので、チョコレートのカップを口元に持っていき、チリペッパーの刺激を待つことにした。

「アリシア=ミホにも教えているの?」
ジョルジアが訊いた。キャシーの娘アリシア=ミホは、そろそろ5歳になる。彼女は母親の顔になり、重々しく頷いた。
「うん。ようやく1人で滑れるようになったの。滑るのが楽しくなってきた頃かな。もっとも動物園の方が好きみたいだけど」

「きみの子供時代とは違ってかい?」
クライヴが訊くと、キャシーは「そうねぇ」と考えた。

「私が子供の時は、動物園どころかウォールマン・リンクにも入れなかったもの。ママはシングルマザーで時間もお金もなかったしね。で、私は凍った家の近くの池で1人で滑っていたなあ。動物園とか、暖かい家でするゲームとか、そういう別の選択肢はなかったのよね。ま、おかげでスケートに夢中になれたんだから、それはそれでよかったのかも」

「こんなに寒いのに、そんなにしてまでよく滑ったねぇ」
クライヴは、ぞっとするという顔をして、紅茶を飲み干した。

「滑っていると、ワクワクしてくるの。スピンしているうちに、嫌なことも忘れちゃう。新しい技に成功したときは、天に昇る心地よ。こればっかりは子供の頃から変わらないなあ。それにね、スケートリンクと違って、ただの池はめちゃくちゃ寒くないと危険で滑れないの。だから、毎年もっともっと寒くしてって神様におねがいしたなあ」

「なんてお願いをするんですか! だから、こんなに寒いんじゃないでしょうね!」
クライヴの抗議に、その場の皆が楽しく笑った。

「寒くなると、嬉しくて、踊り出しちゃうけどなあ。冬のニューヨークは、パラダイスだよ」
キャシーは、譲らなかった。

「キャシーが、あんなに冬が好きなんて、意外だったな」
外に出てから、グレッグはつぶやいた。アフリカから来た彼には、この寒さはこたえるだろうなとジョルジアは思った。

 ジョルジア自身は、さほど冬は好きではない。スケートはもちろん、スキーにもほとんど行ったことがないから、長すぎる秋や、早すぎる春に文句を言いたくなったことなど1度もない。とはいえ、例えばクリスマスに30℃近くあるというのも、落ち着かない。また『キャシー・スペシャル』は、やはりとびきり寒い日に飲むほうがしっくりくる。

 海を見たいと言ったのはジョルジアだった。まだ低く弱い日差しが作り出す光を見たかったのだ。

 そして、彼女は、街路樹の枝に育った氷の結晶が煌めくのをそのままにはできなかった。しばらく時間を忘れてシャッターを切った。グレッグは、大人しく彼女が満足するまで待った。

「もういいのかい?」
振り向いて申し訳なさそうに見つめた彼女に、彼は微笑みながら問いかけた。

「ごめんなさい。つい夢中になってしまって」
「いいんだよ。ほんの5分くらいじゃないか。僕が君を忘れてしまった時間に比べたら……」
「あの時は、こんなに寒くなかったわ」

 暖かいフラットに戻ろうと歩き出したとき、ジョルジアは困ったように辺りを見回した。
「どうしたんだい?」
グレッグも、止まった。

「手袋。どこに落としたのかしら」
右手の手袋が見つからない。

「最後に見たのはどこかい?」
「《Sunrise Diner》で2つ揃っていたのは憶えているんだけれど」
「じゃあ、通った道を戻ろう。落ちているかもしれないし」
「そうね」
「せっかくだし『キャシー・スペシャル』をもう1杯飲もうよ」

 シャッターを押しているときには感じなかった冷たさが急に指を襲ってきた。ポケットがないデザインのコートは大失敗だったわ。彼女は所在なさげにストールに手を絡めた。

 グレッグは、近づいてくるとそっと彼女の凍えた手を握った。ウールの手袋が暖かく指先を包んだが、それがそのまま彼のコートのポケットにするりと収まった。ジョルジアは、必然的にとても近くなった彼の顔を見上げた。はにかんだ彼の瞳が、こんなことをしてもいいのかと確認するようにこちらを見ている。彼女は、微笑んだ。

 キャシー、あなたのいう通りね。冬のニューヨークは、パラダイスだわ。

(初出:2021年3月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】皇帝のガラクタと姫

今日の小説は『12か月の店』の3月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

今回の舞台は『ウィーンの森』です。静岡県の小さな街にあるウィーン風のこだわりカフェ、ということになっている店です。この話、もともとはシリーズ化する予定は皆無だったのですけれど、猫又がやって来たあたりからなんとなく使い勝手がよくなって時おり登場していますね。


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【参考】
「ウィーンの森」シリーズ



皇帝のガラクタと姫

 ひらひらと白い花片が舞っていくのを、真美は目で追った。あれはなんだろう。桜にしては早いから、桃かしら。

 子供の時に住んでいたこの地域は温暖で光に満ちている。以前から抱いていた真美の印象は、久しぶりにこの街で暮らしてさらに強くなった。東京も思っているほど寒くなかったのかもしれない。こまかく氣温を記録していたわけではない。けれど、真美が通っていたオフィスはビル風が強いと有名なところで冬の厳しさは格別だったし、春の訪れも花見の頃まではあまり感じなかった。

 結婚し住むことになった駅前のカフェの周りには高いビルはない。周りに柑橘類を植えている邸宅が多く、柔らかい陽光と実の暖色が近所一帯を視覚的に温めてくれている。カフェの裏手には白樺の林があり、その四季折々の表情も見飽きない。

 土曜日。いつもより少し寝坊をしてしまったので、わずかに後ろめたく思いつつ、布団を干した。護は、もちろんとっくに起きて、開店準備をしているはずだ。真美が昨夜遅くまで月曜日のプレゼン資料を作成していたのを知っているので、起こさずにそっと店にいったのだろう。

 つきあうことになってから、お互いに結婚の意思があることまではわりと早く明確になったのだが、それから具体的な話を決めるときに若干もたついた。護はこの店『ウィーンの森』の店長としての仕事をほぼ生きがいのように感じていたが、真美が東京の商社で任されていた仕事にやり甲斐を感じていることもよく理解していてくれた。

 実際に、真美は長距離通勤や単身赴任なども考えたが、最終的には退職して近くで再就職をする道を選んだ。『ウィーンの森』のスタッフとして働くという考えもあったのだが、護は反対した。それはいつでもできることだし、365日24時間ずっと一緒に居るよりも、お互いに自分の空間と時間、そして知りあいを持つほうがいいと。

 真美はなるほどと思った。この土地と店をずっと続けている護はともかく、17歳で東京に移住した真美にこの街の人々との付き合いはほとんどない。自分の世界を持ち、見聞を広めるのは大切なことだ。

 そんなわけで、真美は県内の少し大きな街の不動産会社に勤めている。土日は護の店を手伝うことも多いが、「休みの日はゆっくりしろ」と言ってくれるので、こちらは重役出勤になってしまうことが多い。

 洗濯や部屋の掃除をひと通り済ませてから階下に降りていった。コーヒーだけでなく、甘いケーキを焼くような香りがしている。店内を見回すと、いつも入り浸る近所のご老人たちの他、買い物帰りのようなご婦人方が楽しく話していた。

 そして、窓際に1人、非常に目立つ服装の女性が座っている。薄紫色のワンピースを白いレースとリボンが覆いつくしている。髪はきれいにセットされた縦ロールでヘアーバンドのように濃淡さまざまの紫の造花と白いレースが彩っている。あれは確か「姫ロリィタ」というジャンルの服装じゃないかしら。真美は思った。

 東京の原宿あたりにいれば、さほど珍しい服装ではないが、このあたりで電車に乗ればかなり注目の的になるだろう。だが、ウィーンのカフェをコンセプトにしたこの店ではそれなりに絵になる。

 白樺の木立に面した広い窓から入ってくる柔らかい陽光が彼女のワンピースや艶やかな髪に注がれ、おそらく化繊であろう衣服の人工的な輝きをもっと柔らかな印象に変えている。カフェのインテリア、柱や床も家具も濃い茶色だ。護は、エスプレッソメーカーからから食器に至るまで本場で使われているのと遜色のないこだわりの店作りをしていた。おそらくそれが彼女がここにやって来た理由でもあるのだろう。

 でも、1人なんだろうか。こういう人たちって、集まってお茶会をしたりするんだと思っていた。真美は、護がその女性のところに何かを運んでいくのを眺めた。

「お待たせいたしました。メランジェとカイザーシュマーレンです」
女性は、目の前に置かれた皿を見て硬直した。それから震える手で置かれたフォークとナイフに手を伸ばし掛けたので、護は軽く頭を下げて「どうぞごゆっくり」と言った。

 カウンターに戻って来ようとする護は、真美に氣がついて軽く笑った。真美も小さく「遅くなってごめん」と言った。ところがその言葉を遮るように、窓際の女性が「待ってください」と声をかけた。

 護は、戻って「いかがなさいましたか」と訊いた。

「あの、これ、どうしてこんなに崩れているんですか」
女性は、わずかに批難するようなトーンで言った。真美は遠くからだがその皿を見て、彼女の苦情ももっともだと思った。皿の上には、パンケーキをぐちゃぐちゃに潰したような欠片がたくさん置かれ、それに粉砂糖がかけられている。その横にガラスの器に入った赤い実のソースが添えられていた。

 護は、慌てた様子もなく答えた。
「カイザーシュマーレンをご注文なさるのは初めてですか?」
「はい」
「そうですか。シュマーレンというのは、ガラクタ、めちゃくちゃなものといった意味で、焼いたパンケーキを、あえてスプーンで崩して作るお菓子なのです」

 それを聞くと、女性ははっとして、恥じるように下を向いた。
「そうだったんですか。ごめんなさい、失礼なことを言って……」

 護は首を振った。
「見た目が特殊で、お客様のようなお申し出が多いので、あえてメニューには載せず、口頭でご注文いただいたお客様だけにお出ししているのです。どちらでこのメニューのことを耳になさいましたか」

 女性は、しばらく下を向いていたが、やがて顔を上げてから少し悲しそうに答えた。
「友だち……いいえ、知りあいに言われたんです。私にふさわしいお菓子があるからって」

 店内はシーンとしていた。おしゃべりに明け暮れていたご婦人方も、興味津々で成り行きを伺っている。

「私、ずっと友だちがいなくて。同級生たちと話も合わなくて。こういう服が好きって言ったら、みんな遠巻きにするようになってしまって。だから、普段は、この趣味のことは言わずに、ネットで同じ趣味の仲間を探したんです。でも、みんな都会にいて。行けない私はお茶会の話題にもついていけないんです。今日は、みんなウィーン風のカフェでお茶会をするっていうので、せめてここで同じように過ごそうと思って、どんなお菓子がいいかって訊いたら、これをすすめられて……」

 ウィーンのカフェっぽいお菓子といえば有名なザッハートルテやシフォンケーキ、若干マニアックだけれどピンクのプチケーキ・プンシュクラプフェンなどを思い浮かべるけれど、カイザーシュマーレンなどというデザートは初耳だった。真美は、そのネット上の「姫ロリィタ」仲間たちの意図がわからず戸惑った。

「遠くても、ようやく趣味の合う友だちができたと思っていました。年齢も離れているみたいだけれど、それでも受け入れてもらっているのかと。でも、私、歓迎されていなかったみたい」
それだけ言うと、彼女は悲しそうにカイザーシュマーレンを見つめた。

 護は、小さく首を振って答えた。
「そういうおつもりで薦めてくださったのではないかもしれませんよ」

 女性は不思議そうに護を見た。彼は、続けた。
「カイザーシュマーレンのカイザーとは、皇帝という意味なんです。このデザートの由来にはいくつか説があるのですが、一番有名なのは皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が氣に入ったからというものなんです。あの、シシィの愛称で知られるエリーザベトを皇后にした皇帝です。オーストリアでは、同様にしてつくられるシュマーレンの中でももっとも洗練されたデザートとして愛されています」

 彼女は、皿の中をじっと見つめた。明るいパステルイエローが粉砂糖の中から顔を見せ、甘い香りが漂ってきている。遠くで眺めながら真美はあれを食べてみたいと思った。

「ひと口だけでも召し上がってみてください。ウィーンでは何軒ものカフェでそれぞれのカイザーシュマーレンを食べましたが、こちらはそのどこにも負けない味だと自負している自信作です。日本の方の舌に合うように生地の甘さを控えめにして、ソースの方で甘さを調節できるようにしてあります」

 護の言葉に小さく頷くと、彼女はそっとフォークとナイフを手に取った。
「あ……」
小さい欠片はナイフを使うまでもなかった。それぞれは切るほど大きくないし、見た目は脆そうでもカラメリゼがきいているのでフォークからこぼれ落ちることもない。

 ひと口食べてみた彼女は少し顔を赤らめた。
「おいしい……」

 それから護を見て頭を下げた。
「食べもしないで、文句を言ってごめんなさい。とても美味しいし、それに、他のお菓子のように、食べるときに服を汚さないか、きれいに食べられるか心配しなくていいデザートなんですね」

 護は頷いた。
「お氣に召して嬉しいです。どうぞごゆっくり」

 カウンターに戻ってくる護を、ご婦人方が止めた。
「ねえ。私たちもあれを食べてみたいんだけれど」

 カウンターに戻ってきた護は真美に卵を出してくれと頼んだ。真美は、テキパキと冷蔵庫から卵を取りだした。

「そういえば、ザッハートルテ、大好きだけれど、フォークだけで切るのはけっこう難儀よね、かなり固いし」
真美が言うと、護は頷いた。
「君は、苦労していたよな、たしか」

 そういえば初めて食べたのはここ、高校生の時のことだ。ナイフを使わない横着をしてケーキの小片を飛ばしてしまった。そして、ジーンズにアプリコットジャムがベッタリとついた。真美は当時も今も、この店ではラフな格好しかしないので特に問題はなかったが、あんな素敵な格好をしていたら、そんな失敗は怖いだろうと思った。

 女性の着ている紫のワンピースもそうだが、「姫ロリィタ」のワンピースにはボリュームパニエが必須で、座るとスカートが机の真下まで広がることになる。加えてたくさんのレースやリボンがついているので、その分普通の服装よりもスカートを汚すことも多いのだろう。その点、カイザーシュマーレンならずっと食べやすいだろう。

「真美、これを頼む」
護は、できあがったカイザーシュマーレンを2つカウンターに置いた。それから自分も2皿持ち、ご婦人方のところに持って行く。真美はその皿を一緒に運びながら厨房奥に小さな皿が残っているのを見た。ひと言も口にしなかったのに味見用を用意してくれたのだろう。そんなに物欲しげな顔をしていたかしら。 

 はじめて食べたカイザーシュマーレン。中はふんわり外はカリッとして美味しい。真美はフレンチトーストなどを茶色く色づかせるのが好きだがいつも焦がして苦くしてしまう。こんな風にカリッとするまで焼くのは、単にレシピを見て作るだけでなく、かなり研究を重ねて作り込んだはずだと思った。

「真美。そんなに喜んでくれるのは嬉しいけれど、顔が緩みすぎだぞ」
厨房で堪能していると、そういいながら護は、コーヒーを淹れてくれた。

 食べ終わってから店内を見ると、ご婦人方が窓際の女性に話しかけていた。
「あなたのその服、とても綺麗ね。手作りなの?」
「えっと……。買ったものに少し自分で手を加えています。レースやリボンなどを……」
「まあ、そうなの。とても素敵よ」
「へえ。自分でなんて偉いわね。うちの娘は家庭科の宿題すら全部わたし任せなのよ。材料は、手芸用品のお店で買うのかしら」

 女性は、困ったように言った。
「私、この前引っ越してきたばかりで、この辺りのお店は知らないんです。前いたところは、大きい手芸屋さんも知っていたんですけれど……」
「あら。隣の駅だけれど、とても充実していて安いお店を知っているわよ。ちょっとまって、地図を書いてあげる」

 ほんの30分前までは完全に浮いていた「姫ロリィタ」ルックの女性は、すっかりご婦人方に可愛がられている。そして、彼女自身も打ち解けて自然な笑顔を見せるようになった。ご婦人方だけでなく、別の席のご老人グループも、見てはいけないものを怖々みるような態度はなくなり、遠くから見守っていた。

「このお店、そういうお衣装にはぴったりよね」
「はい。こういう素敵なカフェ、東京みたいな大都会じゃないとないんだと思っていました」
「うふふ。インテリアも、メニューも、店長がこだわっているからねぇ。本場ウィーンにいるみたいでしょう?」
「せっかくだから、写真を撮ってあげるわよ。同じ趣味のお友達に自慢するといいわ」

 真美はカウンターの後ろで護と顔を見合わせて笑った。この店は、彼の思い入れと研究の成果であると同時に、こうしてお客さんたちが支えてくれるので続けられているのだと思う。都会にあればもっとたくさんの人が足を運んでくれるかもしれないが、こんな風に客同士が楽しく触れ合うこともそうそうないだろう。

 ご老人方やご婦人方に続き、きっとこの「姫ロリィタ」ルックの女性も常連になってくれるだろう。もしかしたら、彼女が同じ趣味の人たちを連れてくるかもしれない。真美は、カイザーシュマーレンを正式にメニューに入れることを、護に提案しようと思った。

(初出:2021年3月 書き下ろし)

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カイザーシュマーレン、もっとぐちゃぐちゃのも散見しますが、だいたいこんな感じのお菓子です。
Kaiserschmarrn groß
Kobako, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons
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Category : 短編小説集・12か月の店
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】花のお江戸、ギヤマンに咲く徒桜

今日の小説は『12か月の店』の4月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

今回の舞台は『お食事処たかはし』です。といっても、『樋水龍神縁起』や『大道芸人たち Artistas callejeros』で登場した樋水村にある店ではなく、江戸にある同名の店という設定です。はい。今回は以前にリクエストにお応えして書いた冗談小説のチーム、隠密同心たちを登場させました。

この作品は、『大道芸人たち Artistas callejeros』の主要キャラたちが、隠密同心(のバイト?)をしているという設定で、篠笛のお蝶、三味線屋ヤス、手妻師麗音レネ 、異人役者稲架村はざむら 貴輝の4人を書いて遊んだのですが、今回は加えて「たかはし」の親子3人や、旗本嫡男の結城拓人、浪人の生馬真樹まで登場。ふざけた話になっています。

本編(『大道芸人たち Artistas callejeros』や『樋水龍神縁起』、『樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero』)とは、全く関係ありませんので、未読でも問題ないはずです。


短編小説集『12か月の店』をまとめて読む 短編小説集『12か月の店』をまとめて読む

【参考】
半にゃライダー 危機一髪! 「ゲルマニクスの黄金」を追え



花のお江戸、ギヤマンに咲く徒桜

 障子の向こうにひと片、またひと片と散りゆく花が透けて見えた。もう春かと彼は傘張りの手を休めた。生類憐れみの令に対して疑念を抱いた藩主の酒の席でのひと言が、幕府の耳に入り改易蟄居を申しつけられた。家臣は職を失った。そのひとりであった生馬真樹はそのまま江戸に留まったが、再仕官は未だかなわず傘張りで日銭を稼ぐ日々だ。

「ちょいと、生馬さま。聞いておくれよ」
ガラリと引き戸を開けて入ってきたのは、「お食事処たかはし」の女将であるお摩利。

「どうなさいましたか。女将さん」
「どうしたも、こうしたも、うちの人がさ。岡っ引きにしょっ引かれてしまったのよ」
「なんと。ご亭主が? 一体どうしたんですか」

 お摩利は、あたりを見回してから土間の引き戸を閉め、それから袖口からそっと何か小さな桐箱を取りだした。
「どうやらこれのせいらしいんだけれど、私にもわけがわからないのさ」

 真樹は、それを受け取って開けた。絹の布団に薄紙に包まれた何かが載っている。注意深く薄紙を開くと、彼は息を飲み、まじまじと眺めた。

 それは小さな盃だった。よくある陶器や磁器などではなく、透明な硝子に桜の花が彫ってある。藩で進物授受の目録管理に関わったこともある彼は、それが時おり見るびいどろではないことをひと目で見て取った。

「これはどこで手に入れたものですか」
「あの人が、客から預かった物よ。一応、そんな物は預かっていないって言い張っているはずだけれど、拷問される前になんとか助け出したいのよ。ところで、これ、すごいお宝なの?」
「はい。おそらく長崎出島から持ち込まれた御禁制のギヤマンかと」
「ええっ。ただの珍しい盃じゃないの?」

 真樹は首を振った。
「ここを見てください。びいどろのような泡や濁りは全く混じっていない。透かせば女将さんのお顔がそのまま見えます。こんな薄い硝子は、長崎でも作れないはずです。それに、この桜です」

 白くこすったように桜の文様が掘られている。
「この桜がどうしたの?」
「まるで細筆で描いたかのように細かく表現されていますよね。金剛石のようにとても硬い物で根気よくこすってつけた文様でしょう」

 大名の宝蔵どころか、御上に献上されてもおかしくない一品だ。江戸下町の食事処の亭主が持っていたら、よからぬことをしたと疑われても無理はない。
「やだわ、どうしよう。あの人ったら、面倒な物を受け取ってしまったのね」
「一体だれが……」

「娘にご執心の結城様が持ってきたのよ」
お摩利は、真樹をちらりと眺めていった。真樹は、はっとして、お摩利の顔を見つめた。

 かつて江戸詰の頃は「お食事処たかはし」に足繁く通い、看板娘のお瑠水と親しくしていたのだが、浪人となって以来手元不如意でなかなか店に足を運ぶことができない。その間に、お瑠水に近づいていたのが旗本嫡男で評判の遊び人である結城拓人だった。

「うちの人や、娘を苦境から救ってくれるのは生馬様しかいないと思って来たのよ。後生だから、助けてくれないかしら」
摩利子は、真樹を見上げるようにして訊いた。

 真樹は、厳しい顔をして考えた。
「もちろん、お助けしたいのは、山々ですが、拙者ひとりでは……そうだ。もしかしたら彼らなら……」

「誰? アテがあるの?」
「ええ。とある四人組に伝手があります。異人役者の稲架村はざむら 貴輝はご存じですか」

「ええ。名前ぐらいなら。異人なのに達者に江戸言葉を話すって評判よね」
「拙者、彼にちょっとした貸しがあるんです。彼にはもう1つの稼業があって、岡っ引きの方にも顔が利くかもしれません。早速ご亭主のことを頼んでみます。ついでに、結城様や、このギヤマンのことについても訊いてみます。女将さんは、お店に戻ってください。お瑠水さんに何かあったら大変ですし」

「まあ。それは助かるわ。じゃあ、お願いね」
お摩利は、持っていれば獄門に連れて行かれるやもしれないギヤマンの盃を、体よく真樹に押しつけると急いで店に戻っていった。

* * *


 下町人情あふれる一角に「お食事処たかはし」はある。活きのいい魚と女将お摩利の話術に誘われて多くの常連で賑わう店だ。

 お蝶は、芸者のなりをして店に入ってきた。彼女は稲架村はざむら 貴輝と同じく隠密同心で、生馬真樹から話を聞き、「お食事処たかはし」の警護と情報収集のため派遣されてきたのだ。

「いらっしゃい」
「まだ早いけど、座ってもいいかしら」
「どうぞ」

 暖簾をくぐると、店には武士がひとりいる。その顔を見て、お蝶は呆れて思わず言った。
「ちょいと、結城の旦那! 何故ここにいるのよ。一体だれのせいで……」

「あれ! 篠笛のお蝶じゃないか。まずいな、もう話はそちらに上がってしまったのかい」
「当たり前よ。異人同心たちも呆れていたわよ。結城の旦那が、とんでもないことをしてくれたって」

「面目ない。まさかご亭主があれをこの辺に置いておくなんて夢にも思わなかったんだよ」
「町民にあれがどんなものかわかるわけないでしょう」

 結城は肩をすくめた。
「で。ご亭主は? それに、あのギヤマンはお蝶、君が持っているのかい? 頼むから返してくれよ」

「ご亭主は、いま内藤様預かりになったわ。あの御品は、ひとまず岡っ引きなんかじゃ手の出せないところに預けてきたし」

「内藤様というのは……」
心配そうなお摩利に、結城は片目を瞑って言った。
「隠密支配の内藤勘解由様だ。拙者の友人でもある。ご亭主が彼のところに居るなら、もう心配は要らないよ」

 お摩利は、ホッとした顔をした。そして、結城は、改めてお蝶に向き直った。
「で、あれを返してくれないと困るな。明後日には、あれをもって登城する予定で……」

 お蝶は、憤懣やる形無しというていで、どかっとその場に座った。
「旦那が、あれがなんなのか、そして、そもそもどういうことか説明してくれたらね」

「いや、うちのお殿様から、御上への献上品なんだけれど、あまりに珍しくてきれいだったので、ちょっとお瑠水ちゃんに見せてあげたかっただけなんだ。こんなにきれいな物を見せてくださるなんて、結城様、素敵! と靡いてくれるかもしれないし」

 お蝶とお摩利は、同時に大きくため息をついた。結城拓人は女誑しで名が通っている。普段は、玄人筋から秋波を送られて、次から次へと戯れの恋模様を繰り広げているのだが、靡かないと燃える質なのかこの店の看板娘であるお瑠水にしつこく言い寄っていた。

 根は悪くないらしく、身分の差をいいことに無理に召し上げるようなことをしないのはいいのだが、女子おなご の氣を引くために、献上品を持ち出して見せびらかすなど、浅薄にも程がある。

 お蝶は、呆れかえって首を振った。
「あいかわらず懲りないお方ですこと。では、あの盃をどこに預けたか教えてあげましょ。先ほど園城様のお屋敷まで出向いて、お殿様に事情を話して頭を下げてきたんですよ。未来の婿殿のお役罷免を避けるために、渋々御協力くださることになって。で、いまは真耶姫様の化粧箱の中。返してほしければ、姫に頭を下げるんですね」
「な、なんと!」

 拓人は青くなった。寺社奉行を務める園城聡道は、幕府の御奏者番でもある。つまり、将軍に謁見するとき、その取次を行ない、献上物を披露する役割を担う。さらにまずいことに、娘の真耶姫は当の結城拓人の許嫁。つまり、町娘の氣を引くために献上品を持ち出したことは、御奏者番の殿にも許嫁の姫にも露見した。

 おもしろそうに二人のやり取りを聞いていた女将お摩利は、お蝶のために徳利と盃を出した。
「お姉さん。うちの人を助けてくだすったお礼に、一献飲んでいってくださいな。もしかして、お姉さんが、生馬様のおっしゃっていた異人同心さまたちのお仲間では」

 お蝶はにっこり笑って、頭を抱える結城拓人の隣に腰掛けた。
「そうです。せっかくだから、ご馳走になりますね。まあ、このお酒とてもおいしい。結城様ったら、どうしてこのお店を私たちに教えてくださらなかったのよ」

「そんなことをしたら真耶どのに筒抜けではないか」
結城拓人は、がっくりと肩を落として、それでもしっかりお蝶の酌を受けて飲んでいる。

「おいお蝶、一向に帰ってこないかと思ったら、何を勝手にはじめているんだよ」
入り口からの声に一同が振り向くと、魚売りの扮装をした男と、もじゃもじゃ頭の異人がのぞき込んでいる。

「あら。ヤスったら、なんなの、そのなりは」
隠密同心である三味線屋のヤスが、魚屋の変装するのは珍しい。
「聞き込みの帰りだよ。ついでに行方をくらましている結城様を捜しに……って、なんだ、ここにいるのかよ」

「やあ。三味線屋と手妻師くんか。よかったら、憐れなことになった拙者を一緒に慰めてくれないか」
結城拓人は、憐れな声を出した。

「どうなさったんですか、結城様」
手妻師麗音と呼ばれる仏蘭西人も、気の毒そうに入ってきた。

「どうもこうも、拙者の失態をよりによって園城様と真耶どのに知られてしまったらしくってね。これから畳に頭をこすりつけて、お灸を据えられに行くことになったんだよ」

「そのぐらい、どうしたっていうのよ。あなた様の軽率な行為のせいで、こちらのご亭主がもう少しで拷問にかけられるところだったのよ」
お蝶は、冷たく言い放つ。

「へえ。じゃあ、俺たちの働きに感謝して、ご馳走してもらってもいいよな」
ヤスは、さっさと結城拓人の反対側に陣取った。お蝶に促されて麗音もおずおずと座る。
稲架村はざむらさん抜きで呑んじゃっていいんですか。後で怨まれますよ」

「へっちゃらさ。もうじき内藤様のところからこちらのご亭主をお連れする手はずになっているから」
ヤスがいうと、結城拓人は目をむいた。
「ということは、拙者が異人役者の分も酒代を出すってことか」
お蝶は、その通りと微笑んで頷いた。

「そうと決まったら、少し祝い肴を用意するわね」
お摩利は、たすき掛けをして、自慢の肴をいろいろと用意し始める。

 ほどなく、稲架村はざむらが、亭主をつれて店にやって来た。喜ぶお摩利はもちろん独逸人にも呑んでいくように奨める。

「ところで、肝心なお瑠水ちゃんは、どうして帰ってこないんだ?」
酒豪の四人組にたかられることを覚悟した結城拓人は、せめてひと目可愛い看板娘を見て目の保養をしたいと思った。

 お摩利は、その拓人に追い打ちをかけるように言った。
「今ごろ、生馬様のお宅に行っているでしょ。なんせ父親を窮状から救い出してくださった大恩人ですもの。それにあの子、前々から生馬様に夢中みたいだし」

 笑いでわく「お食事処たかはし」にも、風で運ばれた白い花片がふわりと舞い込んでいた。江戸には間違いなく春が訪れていた。
 
(初出:2021年4月 書き下ろし)

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まったくの蛇足ですが、作品に使ったガラス盃は、当時の日本では作っていなかったGlasritzen(グラスリッツェン)という、ヨーロッパ伝統の手彫りガラス工芸を想定しています。ダイヤモンド・ポイント彫りともいい、先端にダイヤモンドの付いた専用のペンで、ガラスの表面に細かい線や点などを彫刻する技法です。

当時の言葉でガラス製品を表したものには「ギヤマン」と「びいどろ」がありますが、日本で作られていたのは吹きガラスである「びいどろ」(硝子を意味するポルトガル語由来の言葉)でした。長崎出島を通して入ってくるヨーロッパ製のガラスはグラスリッツェンを施したものもあり、ダイヤモンドを意味するポルトガル語がなまって「ギヤマン」と呼ばれたそうです。
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