scriviamo! 2022のお報せ
scriviamo! 2013の作品はこちら
scriviamo! 2014の作品はこちら
scriviamo! 2015の作品はこちら
scriviamo! 2016の作品はこちら
scriviamo! 2017の作品はこちら
scriviamo! 2018の作品はこちら
scriviamo! 2019の作品はこちら
scriviamo! 2020の作品はこちら
scriviamo! 2021の作品はこちら
scriviamo! 2022の作品はこちら
「scriviamo!」というのはイタリア語で「一緒に書きましょう」という意味です。
私、八少女 夕もしくはこのブログに親近感を持ってくださるみなさま、ずっと飽きずにここを訪れてくださったたくさんの皆様と、作品または記事を通して交流しようという企画です。この企画、毎年年初に行ってきて、なんと今回で10回目を迎えました。創作関係ではないブログの方、コメントがはじめての普段は読み専門の方の参加も大歓迎です。過去の「scriviamo!」でも参加いただいたことがきっかけで親しくなってくださった方が何人もいらっしゃいます。特別にこの企画のために新しく何かを用意しなくても構いませんので、軽いお氣持ちでどうぞ。
では、参加要項です。(例年と一緒です)
ご自身のブログ又はサイトに下記のいずれかを記事にしてください。(もしくは既存の記事または作品のURLをご用意ください)
- - 短編まはた掌編小説(当ブログの既発表作品のキャラとのコラボも歓迎)
- - 定型詩(英語・ドイツ語・または日本語 / 短歌・俳句をふくむ)
- - 自由詩(英語・ドイツ語または日本語)
- - イラスト
- - 写真
- - エッセイ
- - Youtubeによる音楽と記事
- - 普通のテキストによる記事
このブログや、私八少女 夕、またはその作品に関係のある内容である必要はありません。テーマにばらつきがある方が好都合なので、それぞれのお得意なフィールドでどうぞ。そちらのブログ又はサイトの記事の方には、この企画への参加だと特に書く必要はありません。普段の記事と同じで結構です。書きたい方は書いてくださってもいいです。ここで使っているタグをお使いになっても構いません。
記事がアップされましたら、この記事へのコメント欄にURLと一緒に参加を表明してください。鍵コメでも構いません。「鍵コメ+詩(短歌・俳句)」の組み合わせに限り、コメント欄に直接作品を書いていただいても結構です。その場合は作品だけ、こちらのブログで公開することになりますのでご了承ください。(私に著作権は発生しません。そのことは明記します)
参加者の方の作品または記事に対して、私が「返歌」「返掌編」「返画像(絵は描けないので、フォトレタッチの画像です。念のため)」「返事」などを書き、当ブログで順次発表させていただきます。Youtubeの記事につきましては、イメージされる短編小説という形で返させていただきます。(参考:「十二ヶ月の歌シリーズ」)鍵コメで参加なさった方のお名前は出しませんが、作品は引用させていただくことがあります。
過去に発表済みの記事又は作品でも大丈夫です。(過去の「scriviamo!」参加作品は除きます)
また、「プランB」または「プランC」を選ぶこともできます。
「scriviamo! プランB」は、私が先に書いて、参加者の方がお返事(の作品。または記事など)を書く方式のことです。
「プランB」で参加したい方は、この記事のコメント欄に「プランBで参加希望」という旨と、お題やキャラクターやコラボなどご希望があればリクエストも明記してお申し込みください。
「プランB」でも、参加者の方の締め切り日は変わりませんので、お氣をつけ下さい。(つまり遅くなってから申し込むと、ご自分が書くことになる作品や記事の締切までの期間が短くなります)
「プランC」は「何でもいいといわれると、何を書いていいかわからない」という方のための「課題方式」です。
以下の課題に沿ったものを150字から5000字の範囲で書いてください。また、イラストやマンガでの表現もOKです。
*ご自分の既出のオリキャラを一人以上登場させる
メインキャラ or 脇役かは不問
キャラクターであれば人どころか生命体でなくてもOK
*季節は「春」
*飲み物を1つ以上登場させる
*「好きなもの」(人・動物・趣味など何でもOK)に関する記述を1つ以上登場させる
(注・私のキャラなどが出てくる必要はありません)
期間:作品のアップ(コメント欄への報告)は本日以降2022年2月28日までにお願いします。こちらで記事にする最終日は3月10日頃を予定しています。また、「プランB」でのご参加希望の方は、遅くとも1月31日(日)までに、その旨をこの記事のコメント欄にお知らせください。
皆様のご参加を心よりお待ちしています。
【注意事項】
小説には可能なかぎり掌編小説でお返ししますので、お寄せいただいてから1週間ほどお時間をいただきます。
小説以外のものをお寄せいただく場合で、返事の形態にご希望がある場合は、ご連絡いただければ幸いです。(小説を書いてほしい、エッセイで返してくれ、定型詩がいい、写真と文章がいい、イメージ画像がいいなど)。
ホメロスのような長大な詩、もしくは長編小説などを書いていただいた場合でも、こちらからは詩ではソネット(十四行定型詩)、小説の場合はおよそ3,000字~10,000字で返させていただきますのでご了承ください。
当ブログには未成年の方もいらっしゃっています。こちらから返します作品に関しましては、過度の性的描写や暴力は控えさせていただきます。
他の企画との同時参加も可能です。その場合は、それぞれの規定と締切をお守りいただくようにお願いいたします。当ブログのの締め切っていない別の企画(神話系お題シリーズなど)に同時参加するのも可能です。もちろん、私の参加していない他の(ブログ等)企画に提出するのもOKです。(もちろん、過去に何かの企画に提出した既存作品でも問題ありません。ただし、過去の「scriviamo!」参加作品は不可です)
なお、可能なかぎり、ご連絡をいただいた順に返させていただいていますが、準備の都合で若干の前後することがありますので、ご了承くださいませ。
この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。
read more
【小説】やっかいなことになる予感
今年最初の小説は、「scriviamo! 2022」の第1弾です。ダメ子さんは、今年もプランBでご参加くださいました。ありがとうございます! プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。お返しを考える時間も必要でしょうから、とりあえず早急にアップさせていただきました。
ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。
さて、「scriviamo!」では恒例化しているこのシリーズ、もともとはダメ子さんのところに出てくる、「チャラくんにチョコレートを渡せない後輩ちゃん」をネタに書かせていただいたものです。後輩ちゃんを勝手に名付けてしまったアーちゃんだけでなく、付き添いで勝手に出したつーちゃんまでも、いつの間にかダメ子さんの「ダメ鬱」のキャラクターに昇格させていただいています。あ、ダメ子さん、アーちゃんもつーちゃんも、フルネームはどうぞご自由につけてくださいね。
今回は、ムツリくんのヒミツ(?)に肉薄してみました。ほら、意外と経験豊富っていう、アレです。つーちゃんは、単なる耳年増系で経験は全く豊富でないので役不足かもしれないけれど、適当にグルグルさせてみました。
【参考】
私が書いた『今年こそは~バレンタイン大作戦』
ダメ子さんの描いてくださった『チョコレート』
ダメ子さんの描いてくださった『バレンタイン翌日』
私が書いた『恋のゆくえは大混戦』
ダメ子さんの「四角関係』
私が書いた『悩めるつーちゃん』
ダメ子さんの『お返し』
私が書いた『合同デート』
私が書いた『つーちゃん、プレゼントに悩む』
ダメ子さんの『お返しのお返し』
私の作品は新しいカテゴリーでまとめ読みできるようにしてみました。
『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ
「scriviamo! 2022」について
「scriviamo! 2022」の作品を全部読む
「scriviamo! 2021」の作品を全部読む
「scriviamo! 2020」の作品を全部読む
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
やっかいなことになる予感 - Featuring「ダメ子の鬱」
——Special thanks to Dameko-san
困ったなあ。私は、アーちゃんに持ち込まれた新たな問題に頭を抱えている。
1つ上の学年に、モテ先輩というめちゃくちゃモテる人がいる。カッコいいのは間違いないけれど、私もアーちゃんも、モテ先輩ファンクラブ(そんなものがあるのかどうかも知らないけれど)に入っているわけではないし、ましてや彼女になりたいとか狙うような野望はない。
私は、2.5次元のおもに北方系の美男子モデルへのオタ活が忙しいし、アーちゃんは、モテ先輩と同じクラスのチャラ先輩にずっと片想いをしているのだ。
でも、問題は、そのチャラ先輩が絶望的に鈍くて、アーちゃんの必死のアプローチをわかってくれないこと。それどころか、あがり症のアーちゃんがようやく手渡せたバレンタインのチョコを、なぜかモテ先輩宛だと思い込んでいることなのよね。
そのせいで、先輩のクラスやバスケ部では、アーちゃんが年下のくせに抜け駆けして、チャラ先輩まで使ってモテ先輩にすり寄っていると思っている女の先輩もいるとか。そんなこと、言われてもねぇ。
ここは、例によってムツリ先輩に相談して、クラブやクラスでのモテ先輩好きの方々の誤解を上手く解いてもらうしかないかな。って、なぜ私がこんなことばかりしているんだろう。アーちゃん、本人が言えばいいんだけれど、あの子はあがり症で、誰ともまともに会話できていないしなあ。
私は、クラブが終わりそうな時間を見計らって、帰宅するムツリ先輩を待ち伏せすることにした。いや、私は別に口実作って、ほぼ毎日ムツリ先輩に会おうとしているわけじゃないから。本当だってば。
まあ、ムツリ先輩、けっこうしっかりしているし、昨日渡したどうでもいいお礼も思いのほか喜んでくれたし、いい人なのは確かなのよね。
そう言えばあの時「俺も金髪に染めようかな」なんて言われて、びっくりだったな。「金髪が似合うのはあっちの美少年だけ」って話に持って行ってしまってちょっと傷つけちゃった感があるのよね。
全否定しちゃったのはまずかったかなあ。美少年ってジャンルじゃないのは確かだけれど、でも、カッコよくないっていう意味で言ったんじゃないし……。いや、私は、一体だれに言い訳しているのかしら。
あ、来た。アーちゃんのバレンタイン騒動以来、週に何度もムツリ先輩と会っているので、けっこう遠くからでも歩き方やシルエットがわかるようになったのが驚き。これは、ちょっと由々しき問題じゃない?
私が、声をかけようとしたとき、ずっと前方にいた女の人が、驚いた声を出した。
「あら! コクルの弟くん……えっと、兵くんだったよね。久しぶり~。私のこと、覚えているよね?」
「あ。はあ、もちろん……ご無沙汰しています」
ムツリ先輩が、立ち止まって軽く頭を下げている。
「イヤだあ。そんなかしこまって。タメ語で話してくれてもいいのよ。ほら、私たち、その……他人行儀にすべき仲ってわけでもないし、ねっ」
「いや。そういうわけには……」
聞き捨てならない会話が続くので、つい聞き耳を立ててしまう。台詞から考えると、あの
私は、電柱の影に隠れて2人の会話を聞いていた。2人は、こっちの方に歩いてきて、ひとつ手前の角で曲がって視界から消えた。2人一緒に歩いているというのか、あの女の人が、ムツリ先輩にまとわり付いていた感じだけれど、でも、先輩もまんざらでもないのか迷惑そうな感じではなかった。
私がいたことには氣づいていなかったと信じたいけれど……。いや、別に私は後ろめたいことがあるわけじゃないし、氣づかれてもいいんだよ。
肝心なムツリ先輩が女の人と一緒に帰ってしまったので、私は相談をあきらめて帰ることにした。
なんだかなあ……。アーちゃんの問題も棚上げだし、今日は、推しの記事が出ていると思われる雑誌をチェックしに書店に行く予定だったけれど、その氣も削がれちゃったなあ。
っていうか、どうして私は、こんなにガッカリしているのかな。ちょっとこれは、厄介なことになる予感がする。問題があるのはアーちゃんだけで、私はオブザーバーのはずだったんだけれどなあ。
(初出:2022年1月 書き下ろし)
この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。
read more
【小説】存在しないはずの緑
今日の小説「scriviamo! 2022」の第2弾です。山西 左紀さんも、プランBでご参加くださいました。ありがとうございます! プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。
山西左紀さんは、SFを得意としていらっしゃる創作ブロガーさん。お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人で、このscriviamo!も皆勤してくださっています。
今年は、私が先行ということで、何を書こうか悩んだのですが、サキさんに敬意を表して何かメカ系、またはSFっぽい作品が書けないかなと熟考しました。で、昨年書いた作品、慣れないのに頑張ってパイロットものを書いたので、その人物を再登場させることにしました。
とはいえ、昨年のストーリーとは、全く関係ないので、わざわざ読み返す必要はありません。今回の話、トンデモSFのように書いてありますが、一応すべて現実にあったとされている(真偽のほどは別として)話を元に書いています。その後の構想などはまるでない、書きっぱなしですけれど……
【参考】
私が書いた『忘れられた運び屋』
「scriviamo! 2022」について
「scriviamo! 2022」の作品を全部読む
「scriviamo! 2021」の作品を全部読む
「scriviamo! 2020」の作品を全部読む
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
存在しないはずの緑
——Special thanks to Yamanishi Saki-san
まったく。ロベルト・クレイのやつ、とんでもない仕事を紹介してくれたわね。ティーネはムカムカする思いを押さえ込みながら、計器をチェックした。
普段の仕事、セスナ172Bでリューデリッツから国内の地方農場へ堆積グアノを輸送するのは、大した緊張感も必要としない。かつて空軍で初の白人女性パイロットとして飛んでいたときと違い、半分寝ていても墜落はしないだろう。
だが、今日のフライトは、それとはわけが違う。キングエア300の航続仕様時の航続距離は3672 km。ニュージーランドのインバーカーギルから、南極のマクマード基地までの飛行距離は3499kmだ。そして、リューデリッツでポンコツ車を運転するときと違い、途中にも近隣にも「ガソリンスタンド」はない。
磁極に近すぎる飛行経路では磁気コンパスは使用できないので、計器飛行方式をとるしかない。一匹狼として自由に飛ぶことを好むティーネでも、背に腹は代えられない。長時間にわたる計器と目視、さらには運航情報官との絶え間ない通信で神経をすり減らしている。
それなのに、2人の乗客が次から次へと要求を振りかざし、無視するティーネとの板挟みになった乗務員がしつこく話しかけてくるのだった。
「観光は、現地に着いてからにするんですね」
「でも、航路の変更じゃなくて少し高度を下げるだけですよ。ここは鯨の群れが見える海域だと、お客様のご要望なんです」
「下げたら燃費が悪くなるんですよ。目的地に着く前にガス欠になってもいいの? あの客だけじゃなくて、あなたも海の藻屑だけど」
乗務員は、ムッとして大富豪とその愛人に説明するために後ろに戻っていった。
「聞いた通り愛想がないねえ。エルネスティーネ・クラインベック」
横に座る【グリーンマン】がせせら笑った。
ティーネは、ふんと鼻を鳴らした。どういうわけか【グリーンマン】と呼ばれているこの男は、ロベルト・クレイが紹介してきた自称冒険家だ。
海外における傷害未遂事件を起こして軍をクビになったティーネは、生活のためにペンギンの糞を輸送する仕事に甘んじている。その彼女に、復讐を兼ねた情報供与の話を持ち込んだのが、フリージャーナリストのクレイだ。彼女は、結局その話に乗った。すぐにも生活が変わるかと思っていたのに、クレイはのらりくらりと話をかわし、どういうわけか先にこのフライトを受けてくれないかと言ってきた。
後ろに乗せているのはウィリアムズなる初老の大富豪と、その娘といってもおかしくない年齢の愛人。ありきたりの旅には飽きたので、南極に行きたいが、のんびりと観光船なんかには乗りたくない。それで、このキングエアをチャーターして、直接マクマード基地まで飛べというわけだ。
伝書鳩みたいな役割しか果たさない客室乗務員の他に、乗務員はティーネとこの【グリーンマン】だけだ。ロベルト・クレイの説明と書類上では、操縦士並びに整備士の資格を備えているのだが、先ほどから隣で話しているのを聞くと、どうも怪しい。もしかすると書類はねつ造なのかもしれない。
「あなたも鯨の観察をしたいっていうんじゃないでしょうね」
ティーネは皮肉で応戦した。
「いや。鯨になんか興味は無いさ」
「興味があるのは、支払い請求書ってこと? いくらピンハネしたのかしらないけれど」
男は、ちらりとティーネをみた。
「いや、君がいくらでこの仕事を受けたのか知らないけれど、ピンハネしたとしたら、ロベルト・クレイだろう。俺は、現金にはさほど興味が無くてね。どこでも使えるってもんではないからね。この飛行機に乗り込むまでに必要なだけしか受け取らなかったぜ」
ティーネは、何時間も計器と前方だけを見つめていた顔をまともに向けて【グリーンマン】を見つめた。この男、本当にイカれているのかしら。
「冒険にもお金は必要でしょう?」
「ああ、もちろん。だから、いつもそれなりに稼いださ。目的地に到達して、探しているものが見つからなければ、またゼロから稼ぐ、その繰り返しだ。君はちがうのか、エルネスティーネ・クラインベック」
「都会の遊覧飛行ならまだしも、こんな仕事をタダ同然で引き受けるなんてよほどの事情がなければね。それとも南極にどうしても行きたかったとか?」
ティーネは、半分冗談のつもりで言ったが、【グリーンマン】は驚いたように、彼女を見た。
「鋭いね。その通りだよ。それも、ロス島に行きたかったんだ。個人チャーター機でね。千載一遇のチャンスだ」
「なんですって?」
その時、後ろからウィリアムズの若い愛人がひょっこりと顔を出した。
「へえ。本当に女操縦士だわぁ。カッコいいわねぇ」
「客席に戻ってシートベルトをお締めください」
ティーネは、氷のように冷たい声音を使ったが、女は肉感的な唇をわずかにすぼめただけで、怯える様子も、指示に従うつもりも全くないらしかった。
「だってぇ。鯨も見られないなら、操縦を見るくらいしかやることないでしょ? あと2時間も海と空だけ見ているなんて退屈だもん」
「退屈でも、生きて帰れることの方が嬉しいでしょう。あなたも、あなたの大切な方も」
「帰る? ああ、そうか。まあ、彼はそうでしょうね」
ティーネは、計器から目を離して女の顔を見た。氣味が悪いほど整った顔立ちに過剰なほどの化粧をしている。口調や行動は軽薄な尻軽女のそれだが、赤みかがったグレーブラウンの瞳に得体の知れない強い輝きがある。
「長旅がいやなら、チリからフレイ基地に飛べばよかったのよ。あっちなら同じ南極でも2時間でつくのに」
ティーネは、計器に顔を戻して言った。
「そんな簡単な問題じゃないのよ。ロス島近辺を飛んでもらわなくちゃ困るんだもの」
彼女の言葉に、ティーネは片眉を上げた。おかしい。【グリーンマン】といい、この女といい。
「おっさんを放って置いていいのか? ジャシンタ」
【グリーンマン】が女に話しかけた。
ファーストネームで呼ばれても特別氣を悪くした様子もなく、女は笑った。
「いいのよ。いま、あのフライトアテンダントが必死で品を作っている最中。いいんじゃない? あの退屈なエビのDNAの話を笑って聞いていれば、高級レストランも、ダイヤの指輪も、毛皮のコートも手に入るんだし」
「エビのDNAですって?」
ティーネには話の行方が見えない。
「うふふ。ウィリアムズはね。博士号がほしいのよ。本人は金持ちの道楽じゃなくて、学問の世界にちゃんと名前を残したいんですって。だから、あたし、南極のエレバス山の近くの洞窟で、新種の生物のDNAがたくさん見つかったことを教えてあげたの。貧乏な研究者は、どんなに望んでもロス島には行けない。金だけは十分にある彼にとっては願ってもないチャンスでしょ」
ティーネは、好奇心に逆らえず、質問した。
「あなたが、それを彼に提案したのは、あなた自身がエレバス山に行きたいからってこと?」
「そうよ」
「あなたもなの? 【グリーンマン】」
「そうだ」
「ってことは、あなたたちは、もともと知りあいで、ここに来るために大富豪や、ジャーナリストに近づいてこの飛行をオーガナイズしたの?」
ジャシンタは、ティーネの耳元に真っ赤な唇を寄せて「その通り」と囁いた。
それから【グリーンマン】とジャシンタは目配せをした。【グリーンマン】がティーネに言った。
「南極旅行と言えばクルーズ船によるツアーばかりだ。なぜだと思う?」
「ニュージーランド航空の事故で航空会社と関係当局の安全姿勢が批判に晒されたからでしょう」
ティーネは眉1つ動かさずに言った。
いまから40年以上前の1979年、ニュージーランド航空のDC-10型機がエレバス山の山腹に墜落して、乗客と乗員合わせて250人以上の全員が死亡した。南極は白い大地と雲の下の散乱光によってホワイトアウトが起こりやすい。同じ事故はティーネの操縦するこのキングエアでも起こりうるのだ。
「それもあるが、それだけじゃない。ホイホイ極地を飛んでほしくない、他の理由もあるんだ。とくに、今のような誰もがスマートフォンで写真を撮ってはその場で全世界に披露してしまうような時代にはね」
「事故の日は、偶然ながら、アメリカの軍人リチャード・バードが人類初の南極点上空飛行に成功した50周年の記念日だったのだよ。そのバード少将は、他のことでも有名なのは知っているよね」
ティーネは、嫌な顔をした。
「私をからかうつもり? 地球空洞説の与太話ならお断りよ」
リチャード・バードは、人類初の北極点ならびに南極点に到達する偉業を成し遂げた英雄とされているが、奇妙な体験をし、地球の内部にある別世界に足を踏み入れたとオカルト界隈では信じられている人物だ。北極および南極におけるハイジャンプ作戦の最中に、あるはずのない緑地のある場所に迷い込んだとされている。それは、じつは空洞である地球内部であり、空には見慣れたものとは違う暗い太陽が輝く赤っぽい世界で、その折りに撮影したという写真も出回っている。
「南極や北極には、地底世界への門がある……。だから、バード少将は、北極からも、南極からも、あちら側に到達できた。ロマンのある話じゃない?」
ジャシンタは、笑いながら口をはさんだ。
【グリーンマン】は、ティーネが信じないことは織り込み済みという顔で口の端をゆがめると、こう付け加えた。
「じゃあ、与太話ついでに、こんなことを聞いたことはないか。12世紀のイギリスの話だ。洞窟の中から突然子供たちが現れた。その子供たちは、土地の言葉を全く理解することもできず、土地の食べ物も知らなかった。そして、何よりも奇妙なことは、頭から足の先まで、緑色をしていたというんだ」
「緑?」
「ああ、緑だ。その子供たちが数年して土地の言葉を覚えて語ったところによると、彼らがそれまでいた土地には、暮れることのない暗い太陽があり、朝焼けと夕焼けのような時間だけがずっと続いていたという」
ジャシンタが後を続けた。
「ほとんど同じような話が19世紀のスペインにもあるのよ。緑の肌の子供たちは、次第に周りの人間たちと同じような肌の色に変わったそうよ。こちら側の太陽の下で長く暮らしたから」
【グリーンマン】は、囁くような声になった。
「バード少将の体験したという話と、子供たちの証言に共通することがある。まるで夕焼けの中にいるような異世界。その中心で輝き続ける暗い太陽。そして、その世界とこの世を行き来するときに必ず通るのが、急な霧だ」
ティーネは、嫌な予感の中でその囁きを聞いた。報告では晴天のはずだった目的地一帯は、雲に覆われている。海の見えるうちに高度を下げて視界を確保しなくてはならない。雲に突入すればそれは霧の中にいるのと同じ状態になる。
マクマード基地と通信する。運行通信官の意見はティーネと一致していた。雲の薄い今のうちに高度を下げて雲の下に出る必要がある。ロス島はこの1時間ほどで完全な曇天に変わっていた。
「降下を開始します。座席に戻ってシートベルトを締めてください」
ジャシンタは、ニヤリと笑うとウィリアムズと客室乗務員にティーネの伝言を伝えるために後方座席に戻っていった。
隣に座る【グリーンマン】は、形だけでも副操縦士の責務を果たすつもりがあるのか、前方を見て座った。
降下が始まると、視界は乳白色に包まれた。ティーネがこれまで何度も経験した白い世界だ。幸い揺れの程度はライトマイナスで、大したことはない。空間識失調が起こるので、姿勢計を凝視して確認し続ける。2分もすれば雲の下に出るはずだ。
だが、乳白色の世界は、一向に晴れてくる様子がない。氷の粒が機体に激しく打ち付け、時おり雷鳴のような光が見える。
ティーネが望んでいたのは、海面の青と相まって、水色っぽく変わってくる雲の色だったが、周りの白い霧はどちらかというと薄桃色に変わってきた。
「え?」
思わず隣にいる【グリーンマン】の方を見た。
先ほどまでの、小馬鹿にするような様相はすっかり失せて、彼の瞳は下方に向けて爛々と輝いていた。
やがて、霧が晴れていくのがわかる。思ったよりもかかったが、無事に雲の下に出たのだとティーネは思った。だが、はっきりしていく眼下の様相に声にならない悲鳴を上げた。
下に見えているのは、海ではなかった。そして、ティーネが怖れていた40年以上前にDC-10型機が追突したエレバス山を抱く純白の大地でもなかった。まるで夕暮れのような赤い光に照らされた茶色い土地、濃い緑の森と川。南極の地にあるはずのない光景だった。
「ジャシンタ! 成功したぞ!」
【グリーンマン】が、大きな声を出した。
後ろから、客室乗務員の叫び声を無視して、ジャシンタが座席を離れて前方にやってきた。
「ついに、帰ってきたのね!」
ティーネは、震えながらも墜落しないように必死で操縦桿を掴んでいた。
「ここは、いったいどこなの? どうして南極に森があるの?」
「心配しなくていい、エルネスティーネ・クラインベック。君たちの身に危険は無いし、こちらの世界の技術なら、君たちをこの機体ごとマクマード基地に送り届けるのは造作も無いことだ」
急に、機体が一切の操作を受け付けなくなった。
「え? どうして!」
「落ち着いて。この飛行機の操縦は、この世界の、あなたたちの言葉でいうところの管制官が、引き継いだの。このまま、空港基地に自動で収納されるから、何も心配しなくていいのよ」
ジャシンタは、ティーネの耳元で囁いた。
「あなたたちは、いったい、何者なの?」
ティーネは、2人を代わる代わる見つめた。【グリーンマン】の濃い髭のせいで、今まで氣づいていなかったが、よく見ると2人は非常によく似た顔立ちをしている。アーモンドの形をしたグレーブラウンの瞳を抱く目、整った高い鼻梁、20代の初めのように見える肌なのに、何十年も世を渡ってきたかのような不遜な笑い方。
「さっき言ったでしょう? 19世紀にスペインで緑色の肌をした子供たちが、突然洞窟から現れたって。その子たちはね。間違えてあなたたちの世界に運ばれてしまったの。でも、その当時の原始的な技術では、簡単にここに帰ることはできなかったの。私たちは、チャンスを待ち続けるしかなかったのよ」
ジャシンタが、笑った。
「?!」
この2人は、それが自分たちだと言いたいのだろうか。でも、今は、21世紀だ。
「うん。そうなんだ。科学技術だけでなく、俺たちの寿命も、君たちとはずいぶんと違うみたいでね。これからのことは、心配しなくていい。無事に俺たちを送り届けてくれたんだから、君たちのことは丁重に歓迎するさ。こっちは、侵入者をことごとく敵視する君たちみたいに野蛮な姿勢を持たないんでね」
ティーネは、下唇を噛んだ。
ロベルト・クレイのヤツ。よくもこんな騒動に巻き込んでくれたわね。【グリーンマン】の言うことを100%信じるべき根拠は何もなかった。かといって、ティーネには、こんな異常事態に対応できる特殊能力は備わっていない。ついでにいうと他人の身の安全を守る余裕も全くないが、その辺を後部座席の2人が理解してくれるといいと願った。
このあと何が起こるにせよ、どうにかして生還するチャンスをうかがうしかない。
そう思った途端、グアノを輸送する退屈な日々がとても懐かしく脳裏に浮かんできた。人間とは実に勝手な生き物だと、ティーネはぼんやりと思った。
(初出:2022年1月 書き下ろし)
【小説】魔法少女、はじめることになりました
今日の小説「scriviamo! 2022」の第3弾です。あんこさんは今年も、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。
あんこさん(たらこさん)は、四コママンガでひまわりシティーという架空の世界で起きる壮大な事件をいろいろと表現なさっていらっしゃる創作ブロガーさんで、「ひまわりシティーへようこそ!」を改稿連載中です。「scriviamo!」にもよくご参加くださり、素敵なイラストなども描いてくださっています。
さて、今回もB、しかも先週のお申し出だったので、少々慌てて用意しました。なんせ締め切りまであと1か月ですからね。突貫工事でしたが、こんな感じの話になりました。主人公の兄には既視感があるかもしれません。『アプリコット色の猫』で登場したあの人です。でも、この話とは関係ないので別に読まなくてもいいです。
「scriviamo! 2022」について
「scriviamo! 2022」の作品を全部読む
「scriviamo! 2021」の作品を全部読む
「scriviamo! 2020」の作品を全部読む
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
魔法少女、はじめることになりました
——Special thanks to Anko-san
広香は、若干いら立った様相で狭い会議室を見回した。いったい、いつまで待たせるのよ。今日はタイムセールの時間にはミツバスーパーに入りたいんだけれどなあ。和牛の切り落としが40%オフになるのは、次はいつだかわからないもの。
広香は、小さな会社で経理を担当する、ギリギリ20代の事務員だ。地味で上等。堅実に生きていると言ってほしい。流行にはさほど左右されないタイプの黒っぽいスーツを愛用し、低めのヒールで商店街を闊歩している。要は、オシャレとも都会とも無縁。
こんな都心のテレビ局に来るのは初めてだし、今後もきっと来ないだろう。今日だって、兄さんに押しつけられなかったら来たくなかった。
広香の兄は、しょうもない男だ。仕事はすぐに辞めるし、その割にキャバクラ通いはやめないし、子供の頃から約束を守ったためしがないのに、競馬の予定だけは忘れることなく出かけていく。
広香が中学生だった頃、もらったお年玉をせっせと貯金していたのだが、勝手に解約して有馬記念につぎ込んだことがあった。見事にすべてをハズレ馬券にしてしまい、親戚中の非難を浴びた。一念発起して皐月賞で万馬券を当てたのだが、「他にも返すところがあるから」などと言って、7割ほどしか返してくれなかった。それでも「ちゃんと取り返した」と思い出をすり替えて吹聴している。
細かい性格の広香の方はまだ忘れていないが、兄はその後もあれこれ迷惑をかけすぎていて、いちいち詳細は記憶していないらしい。
今日、テレビ局にやって来たのも、その兄が勝手にエキストラに応募したからだ。ギャラが破格だったので応募したが、よく見たら女性限定だという。しかたなく広香の写真と適当なプロフィールで応募したら、なんと書類審査に合格してしまったんだそうな。頼み倒されて、しかたなく面接にだけは行くことにした。
待合室にされている会議室には、何人もの若い女性がいた。女性というよりは女の子といった方がいい。成人と思える年齢の子は見なかった。もしかして応募要項にティーンって書いてあったんじゃないの? どうして書類で落としてくれなかったんだろう。
少女たちは1人ずつ呼ばれて、面接室に入っていったが、皆出てくるとそのまま帰って行った。最後に残ったのは広香だけで、呼ばれてしかたなく面接官の待つ部屋に入っていった。
一礼して見ると、3人の男たちが顔を見合わせている。こっちが年増で場違いなのは書類の段階で知っていたでしょう。なんなのよ。
「ほう」
真ん中のえらそうな男が、まじまじと見つめた。
「これは、決まりですかね」
「大手プロから、横やりが入りませんかね」
「いや、これだけ似ていれば、誰も文句は言われないだろう」
広香は、何の話だろうと訝った。
「君、会社勤めということだけれど、来月からの撮影は大丈夫かね?」
「撮影ですか。1日くらいなら有休で何とかしますけれど、でも、さっきの子たちの方が適任なのでは? エキストラといっても、私は未経験ですよ」
広香は、落としてくれる方がありがたいと思って口にした。
「エキストラ? いやいや、レギュラーだよ。準主役みたいなもんだ」
「なんですって?」
「履歴書を見てすぐに君のマネジャーにも連絡しただろう? エキストラじゃなくて、メインキャストとしてオーディションを受けてほしいって」
マネジャーというのは、兄さんのことかしら。メインキャストって、なんの?
「すみません。その話は、初耳です。そもそも何の番組なんですか?」
3人は、顔を見合わせた。まさかここまでやる氣の無い応募者だとは思わなかったのだろう。でも、怒られたって構わない。別に芸能界デビューしたいわけじゃないし。
右側のへなへなした感じの男が口を開いた。
「そうか。じゃ、説明しますよ。君は、ほしの美亞を知っていますよね」
広香は天井を見上げて、必死に記憶をたどった。ああ、確かあれ。アイドルグループの……。
「なんでしたっけ。ラクシュミー8とかいうグループのセンターの人?」
3人は、露骨に嫌な顔をした。左のぞんざいな感じの男が口をとがらす。
「サラスヴァーティ8だよ。それに去年いっぱいで卒業して、いまは女優だ」
「はあ。すみません」
「『2650年に1人の美少女』って呼ばれているんだ」
なんでそんな半端な数なんだろう?
「『マカリトオル以来はじめての国民的アイドル』とも呼ばれているんだぞ」
じゃあ、2650年に1人じゃないじゃない。
「とにかく、ほしの美亞のソロデビュー後はじめての主演番組なんだ。これが台本。ま、少し直しはあると思うけれど」
そういっていきなり手渡された分厚い冊子には、『らりるれ♡マジカルフェアリーズ』と書いてあった。
「あ~、これは、どういう……」
「まあ、魔法少女ものだね。5人の女の子がマジカルフェアリーズに変身して、悪の組織と戦うわけ。美亞が『愛のフェアリー♡ピンキーラブ』だ。2番手の『海のフェアリー♡オーシャンパール』には声優界のアイドル新城あやが出演して話題性も抜群。他にも『ひまわり69』出身の町田エミリが『森のフェアリー♡フォレスティ』、お笑い担当として太めの子役の山口小丸が『ミカンのフェアリー♡マンダリーノ』として出演することも決まっている」
そのメンバーで魔法少女の実写版ですか。まあ、好きに作ってくれていいんだけれど、それと私とどういう関係が……。広香は戸惑いながら3人の顔を眺めた。
「そしてだね。君には『雪のフェアリー♡ブラマンジェ』をやってもらいたいんだよ」
「は?」
広香は、思わず立ち上がった。冗談にしては手が込んでいる。でも、それはないだろう。
「話に上がっていたアイドルの子たち、みなティーンでしょ? 私はそんなに若くないし、そもそも芸能人じゃありませんし、なぜそんなおかしな発想になるんですか?」
真ん中のえらそうな小太り眼鏡が、両手を顎の下で組んで広香をじっと見て言った。
「スポンサーの要望でね。まあ、君が要望そのものってわけではないんだけれど、我々としては、他に選択肢がなくてねぇ」
「どういうことですか?」
「吉原澄乃を知っているね」
もちろん。私がリアルタイムで知っているのは、任侠ものの姐さん役で再ブレイクした後だけれど、私の両親の世代には清純派正統女優として絶大な人氣を誇った昭和の大女優だ。実は、小学生の頃の私のあだ名は「姐さん」だった。顔立ちや雰囲氣が吉原澄乃に似ているという理由でだ。
「一番の大口スポンサーの会長が、吉原澄乃の大ファンでね。どうしてもメインキャストとして出せといってきかないんだ。だが、いくら美人女優でも80歳に魔法少女はやらせられない。だが、ヒロインの祖母役などは絶対に受け入れられないと言うんだ」
「はあ」
「それで、無理に設定を作った。吉原澄乃が正義のマジカルフェアリーズの女王で、自分の後継者を探している。そして自らも魔法少女に変身して候補者たちの近くで選考に関わろうってわけだ。もちろん最終的に次期女王は美亞になるわけだが、吉原澄乃が化けている設定の魔法少女が必要になってね。会長お望みのミニスカ・シーンも作らなくちゃいけないし」
へなへなした男が続ける。
「君の、その昭和の教育ママ風の黒縁眼鏡姿の写真を見たときに、天の救いだと思ったンですよ。『二十四の瞳』を演じたときの吉原澄乃に瓜二つ! よく言われません?」
「まあ、それは言われることありますけれど」
この眼鏡は、女優に似せることを狙ったわけではなく、キャンペーンでこれだけ5割引になっていたから買ったんだけど。
「もしかして、エキストラ募集に、吉原澄乃似は優遇とかなんとか書きました?」
「募集では書かなかったけれど、君の履歴書見てからマネジャーさんに事情を話して、オーディション受けて出演に持ち込んでくれるならと、前金振り込んだよね? 」
あのクソ兄貴め〜。広香は、怒りでその場に倒れそうだった。よくも妹を売ったな。
ともかく返事を保留して会場の外に出て、すぐに兄に電話した。
「どういうことよ! いくら受け取ったのよ、さっさと返却しなさいよ」
「ああ、大丈夫。桜花賞にモチが出るんだ。あれと、ブラックキギョウ、まあ、かなりの大穴だけれど、当たれば各方面への借金完済だからさ。その賞金からお前にもきれいに返せるよ」
「全然大丈夫じゃないわよ! またするだけでしょ。キャバクラと競馬に、妹を売ったお金で通ってんじゃないわよ」
あまりのパワーワードに、道行く人たちがぎょっとしてこちらを見ている。広香は、少し声をひそめた。
「いい? もうじき三十路のいい歳して魔法少女になってミニスカ履いていたら、我が家の恥さらしは兄さんじゃなくって私になっちゃうでしょ! とにかく今すぐ帰るから、お金は耳を揃えて用意しておくこと!」
だが、広香は現金が残っていることはあまり期待していなかった。少なくとも間もなくあの兄とは30年の付き合いになるのだ。まとまった万札が手に入ったら、定期預金にしておくようなタイプではない。
でも、これからどうしよう。20代の終わりに魔法少女としてミニスカを履くようなトホホ案件にぶち当たるなんて、なんの罰ゲームだろう。
それが、年増の魔法少女『雪のフェアリー♡ブラマンジェ』誕生日だった。
(初出:2022年1月 書き下ろし)
【小説】動画配信!
今日の小説は「scriviamo! 2022」の第4弾です。ユズキさんは、サウンドノベルでご参加くださいました。ありがとうございます!
ユズキさんのサウンドノベル 「scriviamo! 2022 参加作品」
ユズキさんの記事「初サウンドノベル」
ユズキさんは、小説の一次創作やオリジナルのコミックを発表、それにイラストライターとしても活躍なさっているブロガーさんです。代表作であるファンタジー長編『片翼の召喚士-ReWork-』と、その続編『片翼の召喚士-sequel-』、そして、同じくアルファポリスで公開をはじめたばかりのパロディ漫画『片翼の召喚士if』などもとても素敵です。そして大変お忙しい中、私の小説にたくさんの素晴らしいイラストも描いてくださっています。
今回作ってくださったサウンドノベルも、既にたくさんイラストを描いてくださりコラボも幾度もしていただいた当ブログの『大道芸人たち Artistas callejeros』ものです。なんと、4人がコロナ禍でロックダウンにあい、外で稼げない代わりに動画配信をはじめるというもの。タイムリーな話題で面白く乗らせていただきました。動画配信、はじめるそうです。
「scriviamo! 2022」について
「scriviamo! 2022」の作品を全部読む
「scriviamo! 2021」の作品を全部読む
「scriviamo! 2020」の作品を全部読む
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
【参考】
![]() | 「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結) あらすじと登場人物 |
![]() | 「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部 あらすじと登場人物 |
大道芸人たち・外伝
動画配信!
——Special thanks to Yuzuki-san
「さて。やるとは決めたものの、どうやるかな」
稔は、チベッカ・ビールの瓶を傾けた。チベッカはバルセロナが本拠地Damm社のセルベッサ銘柄でお手頃価格な上、爽やかで飲みやすいのでここのところ稔が愛飲している。
「まあ、とりあえず配信用のチャンネルの登録はしましたよ。『La fiesta de los artistas callejeros』事務局名義で」
レネが、ブラウザの画面を指さした。
すでに何度目になるかわからないロックダウンで、大道芸も商売あがったり状態の4人は、暇を持て余していた。本来ならば、今ごろはカデラス氏の店で恒例のディナーショーで稼いでいるはずだったのだが、バルセロナ入りした途端に理不尽なロックダウンにあってしまったのだ。
「何度同じことすりゃ、氣が済むんだよ、まったく」
「ついこの間までは二酸化炭素排出を抑えて、氣候変動を止めるためのロックダウンでしたよね」
「その前は、例の疫病だろ? もういい加減にしてくれ」
「なんだかわからないけれど、人びともうんざりでしょうね。ロックダウンと、反ロックダウンデモの繰り返しって不毛だと思うんだけれど」
サロンに入って来た蝶子がため息交じりに言った。
「半年後のフィエスタだって開催できるか赤信号だし、こっちも本当にいい迷惑だよ」
稔が事務局長をつとめている『La fiesta de los artistas callejeros』、通称フィエスタは、世界中からの大道芸人たちが一堂に会する大道芸人たちの祭典だ。だが、国境が封鎖されたり、飛行機が突然飛ばなくなったり、入国する度にやたらと高額な検査を要求されるようになったりすると、大道芸人たちも簡単には来られない。観客ともなるとなおさらだ。
ロックダウンで仕事もなくなり、当面は滞在中のカルロスの屋敷で酒飲みに明け暮れるしかない4人は、とりあえず暇な時間を利用してフィエスタが現地で開催できない場合の代替案としてネット空間上でのフィエスタ開催を模索することにした。だが、それ以前に彼ら自身が動画配信サービスを利用したことすらない状態はまずいだろうということになり、動画配信にトライすることになったのだ。
チャンネル登録はしたものの、何を配信するかという話になるとまとまらない。
「1億回再生って、ホンキの目標かよ」
「あれはヴィルの渾身のジョークでしょ?」
「あれでジョーク?!」
蝶子は、片手に持っているグラスからシェリーを飲んだ。
「いきなり儲けようとしても、そうは問屋が卸さないでしょ。まずは私たちらしい映像で、他の動画配信とは違う部分をアピールする方がいいんじゃない?」
稔は、腕組みをしながら答える。
「俺たちらしいか。大道芸パフォーマンスや演奏はもちろん入れるとして、それだけでない売りになる映像もほしいよな」
「大道芸だけで勝負しないと、またテデスコが邪道だと怒るんじゃないですか?」
レネは心配そうに言った。
「いや、俺たちの大道芸だけでなく、フィエスタの魅力を伝える目的もあるからさ。ロックダウンがこのまま続けば、この動画チャンネル上でフィエスタを開催することになるだろうし、反対にその時期にはアンロックされていたら、このチャンネルが参加者や観客に来場を促進するような内容でもあるべきだろう? だったら、俺たちの大道芸だけのアピールじゃ困るんだよ」
レネは「なるほど」と頷いた。
「じゃあ、バルセロナの魅力を混ぜますか?」
「いいわね。私たちの現状を伝えるだけじゃなくて、アンロックされた場合は開催地のアピールにもなるしね」
「だけど、基本外出禁止なのに、どうすんだよ」
稔が口を尖らせた。
「買い出しがチャンスだ」
3人が顔を向けると、戸口にヴィルが立っている。手にはやはりチベッカの瓶を持っている。
ロックダウン中は、外出許可無く住居を離れることは許されていないが、週に2度ほどめぐってくる「買い出し外出許可」の時だけは別だ。基本的には、住居と買い出しをする店との往復しか許されていないが、外に出られることは間違いない。
「買い出し先をできるだけ遠い店にして、途中の光景を動画に収める」
「なるほど。できるだけ絵になる地域を通って買い出しに行くわけだ。スマホを掲げていると目立つし、警察に難癖つけられる可能性もあるので、機材をどうにかしたいな」
「だったら、これよ。こんなに小さいのに手ぶれ補正までついたアクションカメラ」
なにやら検索をしていた蝶子が示しているWEBサイトには、親指ほどの大きさの白いカメラを胸元につけて動いているモデルが映っている。アクションカメラの商品説明のようだ。
「へえ。小さくて軽い。ハンズフリーでも、手で持っても使える。軽く走ってもぶれない補正。いろいろな場所に固定してさまざまな角度から撮影可能か。この最後の機能は、パフォーマンスを撮るときにも上手く使えそうだな」
「しかも、この充実した機能なのにさほど高くないんですね」
「どう、ヴィル?」
「いいんじゃないか? ある程度の映像を貯めて、それを編集だな」
飲みながら4人はある程度のプランをまとめた。ロックダウンで街頭にはほとんど人がいないが、プロモーション的な観光地の映像を撮るにはかえって好都合だ。そして、同時進行でメインとなるパフォーマンスをこのカルロスの屋敷の敷地内で撮影し、最終的に別に録音した彼らの演奏と組み合わせる。
「よし、じゃあ、行動開始だ。お蝶、お前はギョロ目に穴場的な映りのいい場所を訊いてこい。ガウディだけじゃ芸が無いからな。ブラン・ベックはイネスさん情報をもらってきてくれ。ヴィルは、動画編集のコツやどうやって映える映像を撮るのかを少し研究しくれ。他にも必要な機材があったらまとめておいてくれよな。俺は、ここのでかい敷地内でどこを上手にパフォーマンスの背景に使えるか、ロケーション選定する。そして、行動中にどのパフォーマンスがいいか、曲はどれが映えるか各自考えておくこと。OK?」
稔は、何度も滞在してすっかり慣れたコルタドの館の中を散策した。改めてみると豪華だよな、ここ。
エントランスホールの白い大理石の床の真ん中に置かれた大理石の丸テーブルの上には赤い大きな花瓶が置かれ、いつもトロピカル調の艶やかな花が生けられている。白い天井には黒檀の柱が並行に張り巡らされて、同じ色の階段の手すりやドアがどっしりとした印象を強めている。
パブリック・エリアは天井が高く、大広間は外壁と同じ白と灰色の石の壁に黒檀の重厚な天井。壁面の多くが大理石アーチで修飾されており、下がるシャンデリアは真鍮製だ。普段使う食堂ですら、一般的日本家屋で育った稔には広すぎるくらいだ。
プライヴェート・エリアになっている2階と3階には大小合わせて20以上の部屋がある。稔が滞在の度に自室として使わせてもらっている部屋には、天蓋付きのダブルサイズのベッド、彫刻を施した木製のライティングビューローと椅子、ソファとローテーブル、それにワードローブの他に、とても高いのだろうなと思うアラベスク文様の陶製の壺を使ったランプが置かれている。
アラブ風のタイルで装飾された中庭には、六角形の噴水を中心にオレンジや椰子の木が植えられていて、初めて見たときはアルハンブラ宮殿かよとツッコんだものだ。
玄関と門の間は、内部が見えないようにちょっとした林のようになっていて歩くとけっこうな散歩になる。また裏庭の方はさらに広くて、数カ所の東屋やちょっとした植物園となっているエリアの他に、馬小屋や豚小屋などがあって、庭は稔の散歩コースになっていた。
どこを背景にしても絵になることは間違いない。だが、自分の家ではないし、場所が特定されないように細心の注意をしなくてはならないし、よからぬことを考える人に盗む価値のあるものがあると教えるようなことも避けなくてはならない。
東屋や中庭、それに階段の踊り場でのパフォーマンスは問題ないだろう。それに大広間ではかなり背景をぼかしたり、人物やピアノに寄ったりして、高そうな家財が映らないようなアングルにするか。
それに街を歩きながらの手品や演奏なども少し試してみるか。それだけじゃなくて、他に何かないかな……。
稔はいったん邸内に戻り、自分用と、書斎でPCに向かっているヴィル用に新しいチベッカの瓶を持っていった。
「撮影中に左右にカメラを動かすパンや、ズームをやたらとすると素人っぽいブレやおかしな動きになるので、多用しないほうがいいらしい。それに、何かを撮るときは1カット10秒くらいはとっておき後から編集する方がいいようだ」
「へえ。なるほど。他には?」
「1つの素材に対して、全体像のわかる『引き』と細部のわかる『寄り』の絵を撮っておき、編集でバランスよく出す。それから、自分たちの目線だけでなく、上から、斜めから、下からなどアングルを意識して素材を撮っておく必要があるな」
「なるほどね。平時と違ってなんども撮り直しにいけない分、こうした視点で準備しておくのは大切だな」
「購入したアクションカメラ1つだけでなく、同時にスマホやズームのあるコンデジカメラで撮るようにするか」
ビール瓶を渡すと、ヴィルは礼を言って受け取って飲んだ。彼は赤いラベルの『Xibeca』の字をじっと見つめた。
「これは、どういう意味なんだ?」
「カタルーニャ語でフクロウだってさ。前回の滞在の時、バルで知り合ったカタルーニャ人に奨められた。飲みやすい上に財布にも優しい値段ってのは嬉しいよな」
「これだけ何度もスペインに来ていたのに、それまで知らなかったんだから、探したら他にもこういう掘り出し物があるかもしれないな」
ヴィルの言葉に、稔ははたと思った。
「もしかして、これもいいアイデアじゃないか?」
「何がだ?」
その時、レネが息を切らして入って来た。
「僕、いまイネスさんと話していて思ったんですけれど……」
「なんだ、ブラン・ベック」
「僕と話しながら、イネスさん、ものすごい手際の良さでタパスを作っていたんです。それを見ていたらこういうのが映ったら、みんなスペインやバルセロナに来たくなるんじゃないかなって」
稔は、笑って立ち上がった。
「ちょうど俺もいま、このビールみたいに知られていない美味いものを映すのはどうかなって思っていた所なんだよ」
蝶子が入って来た。
「ねえ。市街地しか歩けないかと思っていたけれど、シウタデヤ公園を横切るように通れば、かなり絵になる映像が撮れそうよ。それに、そのあたりボルン地区のサンタ・カタリナ市場が閉鎖されていなければ、そこを目的地ににするといいかもって。カタルーニャ音楽堂のファサードなども上手く撮れるんじゃないかって」
「よし。じゃあ、次の買い出しの日にボルン地区に行こう。そこで撮影してくるバルセロナの風景。それに、このビールやワインやシェリー酒、それにイネスさんが作っているスペインらしい料理の数々などの映像と、この館のあちこちで撮る俺たちのパフォーマンスを組み合わせようぜ」
「ヤスの好きなイベリコの生ハムもな」
「甘いものも忘れないでくださいよ」
「いいわね。フィエスタに興味を持ってもらえるだけでなく、ロックダウンの鬱屈を忘れられて、これが終わったらバルセロナに絶対に行こうって思ってもらえる映像になりそう」
旅に対する憧れと、自由への讃美を映像に込める。それは、そもそも4人がこの長い旅をはじめた理由に繋がる。計画が楽しくなって、4人は改めて盃を重ねた。今夜もまたたくさん飲むことになりそうだ。
(初出:2022年2月 書き下ろし)
この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。
read more
【小説】鯉の椀
今日の小説は「scriviamo! 2022」の第5弾です。もぐらさんは、オリジナル作品の朗読で参加してくださいました。ありがとうございます!
もぐらさんの小説と朗読 『第613回 鯉のお椀』
もぐらさんは、オリジナル作品、青空文庫に入っている作品、そして創作ブロガーさんたちの作品を朗読して発表する活動をなさっているブロガーさんです。お一人、もしくはお二人で作品を朗読なさり、当ブログの作品もいくつも読んでくださっています。いつもとても長くて本当にご迷惑をおかけしています。
今年は完全オリジナル作品でご参加くださいました。日本の民話風の作品で、とても優しい結末の作品です。毎年のように貧乏神様が登場しています。今年はやめようかとも思ったとおっしゃいましたが、いらっしゃらないと寂しいなあと思うようになりましたよ!
お返しですが、去年までは平安時代の「樋水龍神縁起 東国放浪記」または『バッカスからの招待状』シリーズの話を書いてきましたが、今年は趣向を変えました。『ニューヨークの異邦人たち』シリーズから脇役たちが出てきました。もぐらさんは、ご存じないシリーズだと思いますが、単にニューヨークのアンティークショップが舞台だというだけですので、シリーズをわざわざチェックする必要はありませんよ!
「scriviamo! 2022」について
「scriviamo! 2022」の作品を全部読む
「scriviamo! 2021」の作品を全部読む
「scriviamo! 2020」の作品を全部読む
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
【参考】 (クレアとクライヴの出てくる話)
ニューヨークの英国人
それは、たぶん……
![]() | 「郷愁の丘」を読む |
![]() | 「ニューヨークの異邦人たち」 |
ニューヨークの異邦人たち・外伝
鯉の椀
——Special thanks to Mogura-san
灰色の空を見上げ、クレアはコートの襟とストールの位置を直して、再び歩き出した。ニューヨークの冬の厳しさには慣れない。北緯40度のニューヨークは北緯51度である故郷イギリスの首都のロンドンよりもずっと南に位置しているのに、冬の平均温度が7℃も低いのだ。
今日はまだマシだ。でも、冷え切らないうちに早く職場に戻ろうと思った。郵便局との往復はいい氣分転換になるが、この季節はあまり嬉しくない。
クレア・ダルトンが働くのはロンドンに本店を置く骨董店《ウェリントン商会》のニューヨーク支店だ。支店長であるクライヴ・マクミランに非常に『英国的』であることを見込まれてこの店で働き出してから1年が経ったところだ。本当は双子の姉の消息を確認したら英国に戻るつもりでいたのだが、クライヴの示した破格の待遇と、失業保険事務所の長い列に並ぶ憂鬱さとを秤にかけて、結局は異国に住むことを決めた。
その決定は特に間違ったとは思っていない。ニューヨークは、ぞっとするくらい寒いことを除けば、すぐに逃げ出したいと思うほどにひどい都会ではない。柔軟性のそこそこあるクレアにとってはなおさらだ。
歩き出そうと足を踏み出したところ、誰かが手を振っていることを視線の端で捉えて、クレアは横を見た。キャシーだ。
ダイナー《Sunrise Diner》は、クレアとクライヴのよく訪れる店だ。実のところ好みにうるさいクライヴが行きたがるとは到底思えないタイプの店だ。けばけばしい看板に、赤い合皮のソファーと黒いテーブルを基調としたフィフティーズのインテリアは、まったく『英国的』ではない。
だが、少々クセのあるクライヴをあるがままに受け入れてくれる懐の広いスタッフと常連客の存在は、彼にとっても心地よいのだろう。クレア自身はニューヨークらしいこの店がとても好きだ。とくに若いのに店で一番の古株として働くキャシーと話をするのが好きだった。
ガラスドアを開けて店に入り、クレアはキャシーに話しかけた。
「ハロー、キャシー。どうかしたの?」
カウンターで忙しく働くキャシーは、クレアに笑いかけた。
「ハロー。あのね、クライヴに頼まれていた件、ミホからの返信が来たの。帰りに届けようかと思っていたけれど、店が忙しくなってしまってそっちの閉店に間に合わないかもと思っていたのよ」
ああ、茶碗の件ね。クレアは頷いた。クライヴが先週、キャシーの元同僚の日本人女性に、入荷した磁器のことで手紙を送ってもらったのだ。
クレアは、返信を受け取ると「また来るわね」と挨拶して店の外に出た。クライヴはこの手紙を、今か今かと待っていたのだ。
5分ほど歩いて、クレアは《ウェリントン商会》に着いた。一見、狭くてどうということのない古道具屋に見えるが、実は店はL字型になっていて、表からは見えていない場所に立派なアンティーク家具や、ヴィクトリア朝時代の陶磁器などが品良く並んでいる。地下倉庫の他、クライヴの住居のある2階にも値の張る品をしまう部屋があり、クレアは3階の心地のいい部屋を格安で借りていた。
「ああ、お帰り、クレア。ご苦労様でした」
ドアを開けると、クライヴがすかさず礼を言った。この彼女の上司は変わったところは多々あるけれど、フェアさと礼儀正しさは評価すべき美点だと、クレアは常々思っていた。
「ただいま。帰りにキャシーに頼まれて、ミホからの手紙、預かってきたわ」
「おや。それはありがたいね。せっかくだから、お茶でもしながら一緒に返信を検討しましょう」
クライヴは、奥からスポードのブルー・ウィローのティーセットを持ってきて置いた。実は、2階には、貴重なジョージ4世時代のブルー・ウィローのティーセットが完璧な形で揃っているのだが、本物志向のクライヴでもさすがにそれで日々のお茶はしない。今ここにあるのは90年代に作られた復刻版だ。
クレアがお茶の用意をしている間に、クライヴは2階に行って、木箱を持ってきた。サイドテーブルの上で慎重に蓋を開けた。紫の
「これがそのジャパニーズ・イマリなのね」
クレアはサイドテーブルに置かれた椀を眺めた。
外側は底がブルー・ウィローと同じような薄い藍の鎖文様、上部は柿右衛門によくある赤と濃い藍色そして金彩による唐草文様で彩られている。内部は非常に細かな絵付けで、底面以外は藍と萌黄と赤の複雑な唐草文様で彩られている。底面中心は赤い波紋に囲まれた白い円形で、その内部は藍で波涛に大きな魚が1匹跳ね上がっている。
唐草文様のある上部にも魚の左右にあたる位置に円形に囲まれた部分があって、それぞれに人物が描かれている。向かって右側に太りたくさんの髭を蓄え立派な服を着た人物、左側は痩せて裸足に見える人物だ。
この茶碗は裕福なコレクターの遺品から見つかったのだが、17世紀末から18世紀初頭の古伊万里だということ以外わからず、入手のいきさつ示す書類も無かった。木箱に日本語で書かれたメモが入っていただけだ。遺産相続人は、皿や壺などには全く興味が無いだけでなく場所をとるし破損に留意するのが面倒なので、早々に他の出自のわかっているたくさんの陶磁器と一緒にまとめて《ウェリントン商会》に売った。
クライヴは、この茶碗を店頭に出す前に、日本語のメモや描かれているモチーフについてはっきりさせておきたいと思った。メモとモチーフについて、まず利害関係のない日本人に情報をもらってから、古伊万里の専門家に依頼するつもりだった。サンフランシスコ在住の美穂とは面識もあり、親切で正直であることがわかっているので、うってつけだった。それで、数日前にこの椀の写真とメモのコピーを添えて美穂に手紙を書いたのだ。
クライヴは、美穂からの返信を開き、クレアに読みきかせた。
「器の年代や、どのくらいの価値がある物なのかは、私にはわかりません。器に描かれている魚は鯉です。髭があるので鯉とわかります。そして、中国や日本では、鯉は立身出世につながるめでたい魚なのです。鯉が滝を遡って龍になったという伝説があります。中国や日本では龍は神獣です」
クレアは、そういえば日本人は鯉が好きで、とても高い色鮮やかな鯉を庭の池で飼うんだったわね、と考えた。
「メモについては?」
「ああ、書いてありますよ。それについては……少し奇妙だと書いてありますね」
美穂は、メモはこの茶碗が作られた由来を書いたものだと伝えた。通常こうした由来書は作られた当時の物が和紙と墨書きで用意されているのだが、メモは普通の紙にボールペンで書いたものだったので、少なくとも20世紀以降に用意されたのだろう。
「メモに書かれた内容を要約すると、鯉の左右の人物は、昔、小さな村にやって来て、幸運をもたらしてくれた神様たちだそうです。そこでは、神様たちに感謝して鯉モチーフの椀を作りつづけていたとか。その村の出身者が、九州の有田に移住して大成し、村の神様への感謝をこめてこの茶碗を作ったそうです」
「それのどこが奇妙なの? むしろありがちな由来じゃないかしら」
「うん。ミホによると、その神様の1人は幸運をもたらす神様だけれど、もう1人は貧乏をもたらす神様だと書いてあるんだそうです。貧乏をもたらす神様を祀るのは珍しいそうです」
「まあ、確かに少し変わっているわね。でも世界には、本来の姿とは違う様相で現れて、相手の外見で態度変える人間を試す民話がよくあるから……」
「ああ、クレア。君は実に聡明な人ですね。立派な聖人と、みすぼらしい存在が一緒に人びとの前に現れる話は、ヨーロッパにもよくありますからね」
「あれからどうなったの?」
キャシーが、朝食のパンケーキをカウンター越しに置いて、クレアに訊いた。
キャシーから美穂の手紙を受け取ってから、3日ほど経った。いつもは毎日のように《Sunrise Diner》で朝食をとるクレアだが、クライヴが出張だったので店から離れられず、このダイナーに座るのはあれ以来だ。
「クライヴが出張のついでに古伊万里の専門家に逢いにいったの。美穂からの返信が役に立ったみたいよ」
「どういう風に?」
「専門家は、あの茶碗が本当に18世紀初頭以前の古伊万里であるか、疑問だって見解だったんですって。中国あたりで適当に作ったコピーや、19世紀ぐらいに日本に憧れてヨーロッパで焼いた作品もいろいろとあるから」
「偽物扱い? だったら、クライヴは大損しちゃうってことよね」
「ええ。専門家が疑った理由の1つが、あの茶碗が当時の物よりも薄いのに、全く欠けない完璧な状態であること。それに、銘柄からわかった同じ作者に、同じ鯉のモチーフが見つかっていないことだったの」
「へえ。それで?」
「美穂が書いてくれた貧乏をもたらす神様の話をしたら、そこから専門家が調べてくれたの。そして、本当にその作家の故郷の村では、日本でも珍しい風習が残っているんですって。福をもたらす神様と、貧乏をもたらす神様を一緒に祀って、鯉モチーフの茶碗を作る伝統があるそうよ。その事実は業界では全く知られていないので、却って信憑性があるってことになったみたい。クライヴは、思っていた以上の価値があることが確定してとても嬉しそうよ」
キャシーは、「それはよかったわね」と言って、クレアにコーヒーのお代わりを入れた。クライヴとこの店に来るときは、つきあって彼の持ち込んだ立派なティーポットでミルクティーを飲むクレアだが、実はアメリカ式のコーヒーも好きで、1人の時は《Sunrise Diner》の定番の朝食を楽しんでいる。
「ところで、鯉の話だけれど」
キャシーは、言った。
「なあに?」
「本当に滝を遡ったりするのかなあ」
キャシーは、古代中国の伝説とやらに懐疑的だ。
「ああ、その伝説ね。専門家がいうには、本来中国の文献には、その魚が鯉だとはどこにも書いていなくって、たんに『竜門』という名前の激流のある場所を通り過ぎた魚は勢いがいいからラッキーだという記述が、あるだけなんですって。その話が遠く日本で変節したってことみたい。そもそも滝を登る魚なんていないんじゃないかしら」
クレアは薄いコーヒーを飲みながら、キャシーと笑い合った。
「いますよ」
声のする方を振り向くと、カウンターの端に座る茶色い肌をした青年が微笑んでいた。
キャシーとクレアは、同時に「本当に?」と口にして、笑った。
「ええ。私の故郷、ハワイにいるハゼの仲間、ノピリ・ロッククライミング・ゴビーっていうんですが、急な岩場の斜面をよじ登って行くんです」
「滝も登ってしまうの?」
キャシーの問いに、青年は頷いた。
「ええ。口の中と、腹部に吸盤があって、滝でも岩を噛むようにして登ってしまいます。そうすることで上流に向かい、下流で多い嵐の影響を避けることができるんです」
「まあ。すごいのね」
クレアは感心した。
「鯉のように大きい魚だと、難しいかもしれません。ノピリ・ロッククライミング・ゴビーは体長2.5センチくらいなので、滝の水量に逆らいながらもよじ登ることができるのかもしれませんね。それでも、よじ登る姿は、とても大変そうです」
そうよね。クレアは考えた。どこかで目撃された不思議は、こうして驚きを持って語り継がれるのだろう。ハワイの話が、ここニューヨークのダイナーで語られるように、中国の話は日本に伝わり、変わった神様たちの話とともに、数百年もの間、人びとの中で語られたのだろう。
そして、大切に作られただけでなく、何百年も割れないように人びとに大切に扱われた。はるばる世界を旅して、ニューヨーク《ウェリントン商会》のショーウインドーを飾ることになった運命も、この茶碗の幸運な歴史だ。
あの茶碗の未来の持ち主に、その不思議な巡り合わせを話してあげたいと、クレアは思った。
(初出:2022年2月 書き下ろし)
【小説】お茶漬けを食べながら
今日の小説は「scriviamo! 2022」の第6弾です。ポール・ブリッツさんは掌編でご参加くださいました。ありがとうございます!
ポール・ブリッツさんの書いてくださった 『水飯』
ポール・ブリッツさんは、オリジナル小説と俳句、それに鋭い書評や愛に溢れた映画評論などを書いていらっしゃる創作系ブロガーさんです。毎年ポールさんのくださるお題は手加減なしで難しいんですけれど、今年も例に漏れず。「今年はダメかも」などとおっしゃりながら超剛速球。
ポールさんがくださったお題は、ホラーのショートショートです。結末というか、このお話をどう読むかは、読者の手に委ねられていると思うのです。私はこの作品に直接絡む勇氣はなく、かといってホラーを書く技術もなかったので、お返しには悩みました。
そして、決めたのが、ポールさんの作品の中で、氣になった台詞と題材を組み合わせて、全く別の関係のない話を書いてしまおうということでした。ですから、この話は、ポールさんのお話の解釈などではありませんよ。
「scriviamo! 2022」について
「scriviamo! 2022」の作品を全部読む
「scriviamo! 2021」の作品を全部読む
「scriviamo! 2020」の作品を全部読む
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
お茶漬けを食べながら
——Special thanks to Paul Blitz-san
目的の店は、既に閉店していた。鉄板の上でジュージューと音を立てるハンバーグステーキ、結局思い出だけになっちゃったか。
由香は、早起きしたのになと唇を噛みしめた。
休職してでも時間を作って、美味しいものを食べ尽くそうと決めたのは、例の布告が出てから2日後だった。公告から実施までたったの2か月しかないのはひどいと思ったが、文句を言ったり、抗議行動したりに費やす時間は無かった。
それは本当に寝耳に水だった。国際連合環境保護計画ならびに国際連合食糧保護機構の指導で、全世界で同時に100年間、人類の食生活を制限し地球環境の保全と回復を実施することになったというのだ。
来月1日より、世界中の人類が個人的な調理と食事を禁止される。生存に必要な栄養は、支給されるパックから摂ることとなる。サンプルを見たところ、小さめのレトルトパックに入った肌色のクリームで、エネルギー、タンパク質、油脂、ビタミン類、食物繊維、必須アミノ酸、ミネラルなどが、効率よく収まっているそうだ。
従来のような食事は厳禁といっても例外はある。環境保護基金に、100万米ドル相当の環境回復準備金を納めることで、同一家計内の家族は60日分の「調理または外食産業による従来形式の食事」が許可されることになっている。つまり、年間600万米ドル払う財力のある者たちは、これまでのように好きな物を食べて飲むことが可能だ。
もちろん、その様な大金を用意することのできない一般市民からは、反発と批判が湧き起こったが、各国の政府は申し合わせたかのように民衆を黙殺し、実施日が決定した。来月より由香のような一般市民は、死ぬまで合法的にまともな食事を楽しむことは許されなくなる。
先月は毎日のように起きていたデモも、今月に入ってからはまばらになった。デモに参加するなど、環境保全に非協力的な者には、数日分の栄養パック支給を停止するという政令が出されたからだ。来月になれば、全てが過去のことになるだろう。
由香のように、休職や退職をしてまで食べ歩きに精を出す者は多数派ではないが、少なくとも人びとの関心は「今日は何を食べるか」に集中した。
それは、外食産業に携わる人びとにとっても同じで、どうせ今月いっぱいで店を閉めることになるならと、既に店をたたみ新たな生業を始める準備をしたり、引退して食べ歩きに専心したりする経営者も多かった。由香が食べたかったハンバーグの店も、そうした理由で店を閉めてしまったらしかった。
ガッカリしている時間など無い。どんなに食べたくても、1日に食べられる量は限られている。食べておきたいものは無限にあった。
スーパーマーケットはいつも混んでいる。今までは1度だって買おうとしなかった和牛や、大きな鰻の蒲焼き、皮が軽くて絶妙なサイズと評判のクロワッサン、大ぶり車エビの天ぷら、宝石のようにフルーツが収まったゼリー、贈答用でしか買ったことのないマスクメロン。今月のエンゲル係数はどの家庭でも恐ろしく高くなっているに違いない。少なくとも由香は定期預金を解約して食べ納めの軍資金にした。
中には、今のうちにいろいろな食材を買ってどこかに隠し、後々裏取引で大きく儲けようとしている輩もいると聞いた。だが、そうした取引は厳しく罰せられるので、由香は売ることはもちろん、買うことにも批判的だ。少なくとも彼女は法律に背くようなことはしないつもりだ。合法な今のうちに食べ尽くして、あとは大人しく法に従う予定。
食べたいけれど、食べられない。由香はその苦悩をよく知っている。もちろんこれからのような深刻な制限ではないが。子供の頃、由香は自然派の母親にさまざまな食品を禁止されていた。
子供の頃は、友だちのお弁当を彩る赤いソーセージ、冷凍食品の唐揚げやコロッケを羨ましく眺めていた。キャラクター玩具のついたお菓子、きれいな色をしたゼリー、真っ赤な缶の清涼飲料水。欲しがる度に母は頭を振った。
「これに入っている合成着色料は発がん性があるの」
「増粘剤や安定剤の入っているような食品は、体によくないわ」
「香料や化学調味料でごまかされた味のものを食べていると、本物の味がわからなくなるわよ」
「こんな物を飲んだら、骨が溶けます」
それでも、まだ由香が小学生の頃はよかった。母親は、普通に肉や魚を調理していたから。だが、それから数年して母親は玄米菜食主義に凝りだした。
由香が忘れられないのは、母がそれまで持っていた料理本を全て捨てて、新しくいくつもの料理本を買ってきたことだ。それまでの料理本は、見ているだけでお腹がすいてくる美味しそうな写真が載っていたけれど、新しい本は地味な緑か茶色っぽい料理ばかりで、とてもおいしそうに見えなかった。実際に母親が作る料理は、その写真よりもさらに見栄えがいまいちで、味も薄いものばかりだった。
「なんか物足りないよ。たまにはお肉やお魚食べたいな」
由香がいうと、母はむきになっていった。
「動物性タンパク質は、分解されにくくて身体に負担がかかるの。このお豆腐の方が、良質のタンパク質だからこれを食べるのよ」
「でも、味が薄いよ。もう少し油で焼いてお醤油で焦がしたりとか……」
「そういう調理は身体に刺激が強すぎるのでダメです」
父親は、もともと仕事が忙しいといってあまり自宅で夕食を食べない人だったが、玄米菜食しか出なくなってからは、夕食にはほとんど帰宅しなくなった。昼食も夕食も好きなものを外で食べていたのだろう。たまに休みの日に、自宅で一緒に食卓を囲むこともあったが、それが口論のもとになることも多々あった。
「こんなものばかり食べて、力が出るわけないだろう」
「私は、あなたたちのためにやっているのよ」
おそらくそうだったのだろう。母親はいつも善意と生真面目さから、朝から晩まで家族のために心を砕いて丁寧な家事をしていた。
でも、由香は高校生になると母親に黙ってほしいものを買い食いするようになった。ちょうど父親がそうやっていたように。修学旅行で出てきた海の幸と山の幸を大いに楽しんだし、自動販売機でありとあらゆる砂糖と着色料まみれの清涼飲料水を買った。
家族のためにあれほど心を砕いた母親は、なにか必要な栄養素が足りなかったのか、数年で痩せ衰えて、身体を壊し、若くして亡くなった。
亡くなる前の数年間は、玄米菜食主義は返上し、体調のいいときは、由香と一緒に外食することもあった。由香の初任給で、一緒にしゃぶしゃぶを食べにいったのが最後の外食になった。奮発した和牛を「由香ちゃん、もっと食べなさい」と譲りつつも、美味しそうに食べていた姿が今でも脳裏に浮かぶ。
母が生きていたら、『食生活の制限』をどう思ったことだろう。彼女の繊細な心は、工場でパック詰めされた肌色のクリームを摂取するだけのディストピアに耐えられただろうか。
由香は、この際、母親のことは横に置いておこうと思った。食べ納めの日々を決意してから、由香が食べているのは、ほぼ全て母親が禁止したことのある食品ばかりだった。
大人になって、由香にもよくわかっている。精製された食品に問題があること、焼きすぎた食品に発がん性の恐れがあること、コンビニエンスストアで売っている食品に大量の食品添加物が使われていること、おもちゃやキャラクターが包装に描かれているからといって食品の味がよくなるわけではないこと。
母親のいっていたことの大半が正しく、彼女の「家族のためを思って」の信念が決して間違ってはいなかったことも理解しつつ、由香はそれを無視したひと月を過ごそうとしている。
身体に悪いことがなんだというのだろう。「そんな食べ方をしていたら身体を壊すわよ」という母親の言葉ももう意味をなさない。だってこの食べ方は、このひと月でおしまい、2度とはできないのだから。
ハンバーグステーキがダメだったので、豚骨ラーメンの店を目指したが遅かった。美味しい店は、同じように食べ納めに奔走している客たちが押しかけている。由香は、予定にはなかったが一番好きなファーストフード店に入ろうと思った。
ひと月はあっという間に過ぎ去った。この間に由香は3度の国内旅行もした。讃岐うどんを食べに高松へ行き、帰りに神戸でステーキと明石焼きを堪能した。北海道で海鮮丼と味噌ラーメンを食べた。九州では宮崎の地鶏や福岡の水炊き、そして鹿児島で黒豚とカンパチに加えて文旦も食べてきた。
望んだものを全て食べ尽くしたわけではないが、全ての食事を「後悔の無いように」という選択基準で選んだだけあり、バラエティに富んで好物ばかりの食卓だった。
残りはあと3日だが、由香は外食をやめて自炊をすることにした。2度と使うことのなくなる調理器具をこのまま錆びさせるのもどうかと思ったのだ。
今まで買ったこともない高い米を買ってきた。比内地鶏、鹿児島黒豚、それに鰻の蒲焼きも何とか入手できた。放し飼いで育てられた烏骨鶏の卵、有機農法の野菜も買ってみた。有機大豆を使った味噌、最高級品の本枯かつお節、国産丸大豆の天然醸造濃口醤油など、これまで買うことすら考えなかった高級調味料も揃えた。
最高の味を実現しようと思って大枚を叩いたものばかりだが、よく考えたら母親が口を酸っぱくして言っていた「いい食材」が揃っている。母には、夫の稼いでくる給料を食材ばかりに裂く自由もなかったし、今のように「2度と食べられないのだから」という大義名分もなかったので、こんな高級食材ばかりが揃うことはなかったけれど。
仕事をしていた頃は、丁寧に米をとぐことはあまりなかった。丁寧な暮らしなど半分バカにしていたし、調理して食べることは永遠に続く惰性の一部でしかなかった。
そういえば高校生の時、友だちと「最後の晩餐は何がいいか」って話題をしたことがあったな、米をとぎながら由香は思う。
雑誌に「アメリカの死刑囚の最後の食事は希望を通せる」という記事があり、多くの死刑囚がハンバーガーやピザ、フライドチキンなどを要望したことが書かれていた。それは、由香や友人の「最後に食べたい食事」とは違っていたので、自分なら何がいいかと話しあったのだ。
その時に、由香が選んだのは和牛のすき焼きだった。当時はちょうど母親が玄米菜食主義を貫いていた時期で、無性に美味しい肉が食べたかった。すき焼きならお肉も、しらたきも、白菜もお豆腐も入っているし、生卵やご飯も好きだし。
一方、友人が選んだのは、お茶漬けだった。
「なんでお茶漬け?」
由香が訊くと、友人は笑った。
「カレーにしようかとも思ったけれど、カレーなら刑務所で普通に出てくるかなと思って。でも、お茶漬けは出てこなさそうでしょ? 私、カレーとお茶漬けが好きなんだよ。ずっとそれだけでもいいってくらい」
由香は、米をとぐ手を止めて、冷蔵庫に向かった。先日見かけて買った紫蘇の実漬けのパックが入っている。1人暮らしをしてから初めて買ったその漬物は、母の大好物だった。
茶色い煮物ばかり作っていた時期も、玄米菜食主義に凝り固まっていた時期も、そして、身体を壊して病人食を食べるようになってからも、変わらずに母が好んでいたのはお茶漬けだった。主義を守るために意固地になっているときも、疲れたときも、うまく行かないときも、お茶漬けは常に母親の喉を通っていった。
由香自身も、仕事が忙しくて帰ってきて料理などしたくない日に、とりあえず冷やご飯に漬物や梅干しと海苔を載せてお茶漬けにすることをよくやっていた。
ふかふかのご飯が炊けて、由香はそっと茶碗によそうと、紫蘇の実漬けを載せた。新しいパリパリの海苔は湯氣に踊った。わずかに醤油をかけてから、煎茶を入れた。
サラサラと喉を通っていく白米とお茶は、由香を子供の頃の台所に連れて行った。母親の笑顔と優しい言葉が蘇る。
家族のためによい食事を作りながらうまく行かずに悩んだ母が泣きながら食べていた姿も。そうだ、あの頃の母親は、今の私と10歳も違わない年齢だったな。由香はぼんやりと思った。世界が私の手に余るように、あの時はお母さんの手にも余っていたのだろう。
悲しくてしかたない。試行錯誤を繰り返して、身体によいものを自分と家族のために食べさせようとしていた母親は、その努力の甲斐なくこの世を去った。由香もまた、精一杯の真面目さで暮らしてきたけれど、あと3日でささやかな楽しみすら永久に取りあげられる。
このひと月を狂ったように好きなものを食べることに費やしてきた。でも、不安と悲しみ、怒りはいつも胃の底に蹲っていた。
日本全国の美味で五感をしびれさすグルメの数々を暴食してもおさめることのできなかったなにかが、身体の中からあふれていく。由香は涙を流しながらお茶漬けを流し込んだ。紫蘇の実の香りとみじん切り大根の歯触りが、懐かしい。
人は、栄養素だけでは生きてはいけない。ファーストフードや、黒毛和牛、それに高級フレンチを食べなくても生きていけるかもしれないけれど、大金持ちでなければ、普通の食事がまったく許されないなんて、とことんフェアじゃない。
由香は、法を破る決意をした。買えるだけの米を隠し持とう。バレないように漬物にできるような野菜を栽培しよう。そして、月に1回はこっそりとお茶漬けを流し込んで生きていることを確認しよう。
それを決めた途端、急に晴れ晴れとした心持ちになった。腹の底から笑うと、買いためた他の食材をこの3日で食べ尽くすために、鍋の準備を始めた。
(初出:2022年2月 書き下ろし)
【小説】もち太とすあま。ー喫茶店に行くー
今日の小説は「scriviamo! 2022」の第7弾です。津路 志士朗さんはイラストと掌編でご参加くださいました。ありがとうございます!
志士朗さんの書いてくださった「もち太とすあま。ー喫茶店に行くー」
志士朗さんは、オリジナル小説と庭とご家族との微笑ましい日々を綴られる創作系ブロガーさんです。
書いてくださった作品は、去年に引き続き可愛らしい2匹のハスキー犬のイラストと、一緒に発表してくださった掌編。志士朗さんがメインで執筆なさっていらっしゃる「子獅子さん」シリーズの賑やかなストーリー。話に出てくる作中作が2匹のハスキー犬、もち太とすあまを題材にした絵本です。メインキャラの郵便屋である加賀見さん作です。
さて、去年のお返しは、作中作『もち太とすあま。』の第2作が書かれたとしたらどんな感じかな〜、と思って書きましたが、今回もそのイメージで書かせていただきました。志士朗さんの作品では、リードだけという形で出てきた『もち太とすあま。ー喫茶店に行くー』という作品を妄想した掌編です。
「scriviamo! 2022」について
「scriviamo! 2022」の作品を全部読む
「scriviamo! 2021」の作品を全部読む
「scriviamo! 2020」の作品を全部読む
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
もち太とすあま。ー喫茶店に行くー
——Special thanks to Shishiro-san
はじめてウグイスが、じょうずにさえずった日のことでした。2匹のハスキー犬が野原を横切っていました。
1匹は少し大きく、青い首輪をしています。もう1匹は少し小さく、赤い首輪をしています。2匹ともふわふわな真っ白い毛に覆われていて、やわらかく美味しそうなお餅のようです。そして、だからなのか、もち太とすあまという名前なのでした。
「もち兄! 聞いた? 鳥が鳴いたよ、ホーホケキョって!」
すあまは、大きな声で言いました。
「うん。聞こえたよ。ついに春だねぇ」
もち太は、青く澄んだ空を見上げました。
「どうして春がかんけいあるのさ。鳥は冬にも夏にも鳴くよ」
すあまが唇を尖らせています。
「ウグイスは、春にだけああやってきれいにさえずるんだよ。だから『春告鳥』っていうんだ。おまえも来年からは、あのさえずりを聞くと、春が来たなって思うようになるさ」
「そんなこと、来年まで、おぼえていられないよ!」
小さいすあまには、世界にはふしぎでおもしろいことがいっぱいなのです。
今日も、2人はあたらしい冒険をする予定でした。いつも2匹に優しくしてくれる郵便屋さんが、喫茶店に連れて行ってくれるというのです。
喫茶店というのは、人間がときどき行くお店です。テーブルやいすが並んでいて、人間はそこでコーヒーや、オレンジジュースや、それにサンドイッチなどを食べるというのです。
いつだったか、近所の老犬ボジャーが喫茶店のことを話してくれました。ボジャーは、若かった頃に盲導犬という仕事をしていたので、バスや、駅や、スーパーマーケットなどにしょっちゅう出入りしていたそうなのです。そして、ご主人様と一緒に、喫茶店にも入ったことがあるのでした。
「そのコーヒーや、サンドイッチは、犬でも飲んだり食べたりできるの?」
すあまは、興味津々でボジャーに質問しました。おうちで、もち太とすあまは、ニンゲンと同じごはんは食べません。銀色のピカピカの器に入った水を飲み、こんもりと置かれたドッグフードを美味しく食べます。以前、すあまがニンゲンのごはんをすこし食べてしまったことがあるのですが、「しょっぱくてまずい!」と泣いてしまいました。
「いや、食べられんよ、喫茶店の食べ物と飲み物は人間用じゃからな。でも、ワシのためにいつも新しい水を出してくれたものさ。うちでは聞いたこともないような優しい音楽が流れていて、落ち着くところだったよ」
ボジャーは、遠い目をして言いました。
だから、昨日、郵便屋さんがもち太たちを喫茶店に誘ってくれたときも、どうしてなのかわかりませんでした。でも、好奇心いっぱいの2匹は、大喜びで「行きたい!」と言いました。野原は、いつでも好きなだけ駆け回ることができますが、町のお店には2匹だけでは入ることができないからです。
野原を横切って、丘の上の辻につくと、約束通りに郵便屋さんが来ていました。
「やあ、きたね。じゃあ、さっそく行こう」
それから郵便屋さんは、ポケットから細くてキラキラ光る2本の紐を取り出しました。
「申し訳ないけれど、喫茶店の入り口をくぐるときだけ、この紐を首輪につけさせてもらうよ。それがきまりなんでね」
もち太は、自由に跳ね回ることに慣れているので、びっくりしました。
「僕たち、紐で縛られて、外国に売りとばされちゃうの?!」
もち太が心配そうに訊くと、すあまは、いつだったか教わった童謡を歌いながら叫びました。
「がいこくだ、いじんさんにつれられて、どんぶらこだ!」
郵便屋さんは、おかしそうに笑いました。
「君たち、いろいろなことを知っているねぇ。でも、そんなおおげさなことじゃないんだ。中に入って、オーナーに紹介したらすぐに外すよ」
もち太は、少し考えました。郵便屋さんは、もち太たちの飼い主ともなかよしだし、前から知っているとても親切な人です。それに、もち太たちが病院に行かなくてはいけないとき、飼い主はもち太たちを籠に閉じ込めるのですが、うちに帰るとすぐに出してくれます。ニンゲンは、ときどきへんなことをしますが、きっとこんどもなにか理由があるのでしょう。せっかく喫茶店に連れて行ってくれるというのですから、ほんの少しの間は我慢しようと思いました。
「わかりました」
そうして、もち太はとすあまは、ふだんはしないのですが、紐につながれて郵便屋さんと町に入っていきました。
町には、人がたくさんいて、車もたくさん走っていました。ものすごい勢いで自転車が通り過ぎていったり、角を曲がったところでとてもうるさい音のする派手なお店が見えてきたりするたびに、すあまがそちらに走り出しそうになりました。
「あぶない! すあま!」
もち太が、いつものように叫びましたが、見ると郵便屋さんがじょうずに紐を引いて、すあまを止めていました。もち太はホッとして郵便屋さんの顔を見ると、郵便屋さんは優しくにっこりと笑いました。
「さあ、ついたよ」
角を曲がると、郵便屋さんは茶色い枠のドアをぎぃと押しました。
「いらっしゃいませ。ああ、加賀見さん、お待ちしていました。ワンちゃんたちも、ようこそ!」
眼鏡をかけてやせた男性が、嬉しそうに出迎えました。どうやら、もち太たちが来ることも、知っていたようです。
「こんにちは、もち太です」
「こんにちは、すあまだよ」
勝手がわからないので、とりあえず礼儀ただしくあいさつをしました。郵便屋さんがニコニコして、言いました。
「おお、自己紹介をしていますね。こちらがもち太くんで、こちらが弟のすあまくんです。君たち、このひとがこの喫茶店のオーナーだよ」
「ああ、そうですか。どうぞよろしく。さあ、加賀見さん、どうぞおかけください」
そう言うと、オーナーは郵便屋さんに水とメニューを持ってきました。
紐を外してもらった、もち太とすあまは、郵便屋さんとテーブルの間にちょこんと顔を出して、一緒にメニューをながめました。おいしそうな食べ物と飲み物の写真がたくさん並んでいます。色とりどりのサンドイッチや、パンケーキ、それにカレーライスのようなごはんものも見えます。
「何になさいますか」
「そうですね。私は簡単に。この美味しそうなパンと、チャイをいただきましょう」
「かしこまりました。では、ワンちゃんたちのと一緒にお出ししますね」
それを聞いてもち太は、首を傾げました。
「僕たちにも、何かでるの? あ、水? ボジャーが言っていたみたいに」
郵便屋さんは「ボジャーだって?」と訊き返しました。
「ボジャーだよ! ごしゅじんさまと喫茶店に行ったことのあるおじいちゃん犬だよ!」
すあまが元気よく説明しました。
「ボジャーは、盲導犬だったんです。それで、喫茶店では、ときどき犬用に水を出してくれると言っていました」
もち太は、補足しました。
「ほう。なるほどね。でも、今日は、水だけじゃなくてもっとたくさん出るよ。君たちに試食をして欲しいんだ」
「ししょく?」
「うん。オーナーは、犬といっしょに来られるお店を目指しているんだ。それで、人間用メニューだけでなく、犬用メニューを研究しているんだ。塩辛くなくて、犬には毒になる食品も入っていない特別メニューだよ。でも、それが美味しいかどうか、オーナーの犬だけでは判断しにくいので、食べてくれる犬を探していたんだ」
「でも、犬ならたくさんいるのに」
郵便屋さんは笑いました。
「そうだね。でも、僕のように君たちの言葉がわかる人間と知りあいの犬はあまりたくさんはいないんだ」
もち太は、なるほどと頷いた。ここのオーナーは、僕たちの言葉がわからないのか。
すぐにオーナーが、郵便屋さんにチャイとパンが2つ載ったお皿を運んできました。
どちらからも湯氣がでていていい匂いがしています。
「もっちもちのパンだよ! ぼくたちみたいだね!」
すあまは、青い目を輝かせて歌いました。
モッフモッフ モッフモッフ
モッフモッフのもち太だよ
フックフック フックフック
フックフックのすあまだよ
すあまは、椅子に飛び乗ると、短い前足を郵便屋さんのパンに伸ばしました。もち太は、慌てて叫びました。
「すあま、ダメだよ! それにさわっちゃダメ!」
その声に驚いたすあまは、ぐらりとバランスを崩して椅子から落ちました。ちゃんと床に着地しようとしたのですが、いつもの野原と違って、せまい喫茶店にはいくつも椅子があり、調子がくるいます。なんとか着地したものの、オーナーがピカピカに磨いた床の上をすーっと滑って入り口ちかくの雑誌が置いてある棚にぶつかりました。バサバサと音がして、すあまの上にたくさんの雑誌が落ちてきました。
「もち兄〜っ!!」
「すあま!」
まずは、もち太が駆けつけ、すぐに郵便屋さん、そして、奥で物音を聞いて何事かとオーナーも飛び出してきました。
郵便屋さんが、そっといくつかの雑誌をどけると、ひょこっとすあまが顔を出しました。
「だいじょうぶかい」
「えへへ。びっくりしちゃった」
笑っているすあまに代わり、もち太が困ったようにあたりを歩き回り、言いました。
「ごめんなさい。こんなメチャクチャにしてしまって」
郵便屋さんは、一緒に雑誌を手早くかたづけるオーナーに言いました。
「お兄ちゃん犬が弟に代わって謝っていますね」
「おや。そうですか。こんなのどうってことありませんよ。雑誌は壊れませんし。ほら、もう片付いた!」
「美味しそうなパンで、思わず前足がでてしまったんですかね。きもちはわかりますよ、とてもいい匂いですしね」
そう言われて、オーナーは嬉しそうに笑いました。
「おやおや。それでは、ワンちゃんのご飯を急いでだしましょう。いま、持ってきますよ」
厨房に入ったオーナーは、お盆にいくつかのお皿と、お椀を載せてすぐに戻ってきました。
「ほう。見た目には人間のメニューとあまり変わらないようですね」
郵便屋さんは、のぞき込んで言いました。
「そうですね。でも、ワンちゃん用ですから、口にしたら、加賀見さんには物足りないかもしれませんね」
「じゃあ、さっそくもち太くんとすあまくんに食べてもらいましょう。これはな普通の牛乳ですか?」
「いいえ。これは犬用のミルクです。乳糖をカットして、それぞれの年齢に必要な栄養を強化してあるんですよ」
「どうだい飲んでみるかい?」
郵便屋さんが2匹を見ると、もち太とすあまは喜んで尻尾を振りました。たくさん歩いたので、喉が渇いていたのです。すあまは、一氣にごくごくと飲んで、それから美味しそうな料理が並ぶお盆に鼻を伸ばしました。
「すあま!」
もち太が注意する前に、すあまの鼻は、もう人間が食べるハンバーグのようなひき肉だんごにタッチしていました。
「ああ、まずこれに惹かれましたか。これは、豆腐と合い挽き肉に野菜を混ぜたハンバーグです」
オーナーは、嬉しそうにメモをとっています。
「食べていいんだよ。もち太くんはどれがいいのかな?」
すあまが豆腐ハンバーグのお皿に覆い被さっているので、もち太は、氣になっていたオムライスのように見えるものに鼻を伸ばしました。
「ほう。これはなんですか?」
郵便屋さんの問いに、オーナーは嬉しそうに頷きます。
「合い挽きのミンチと野菜チャーハンを包んだワンちゃん用オムライスです。じつは、飼い主さんも当店の普通のオムライスを注文できる『ワンちゃんとお揃いセット』も企画しているんですよ。ただ、ワンちゃんがオムライスを好きかどうかがわからないので、ぜひ感想が知りたいですね」
食べてみて、もち太はとてもおいしいと思いました。
「ドッグフードも嫌いじゃないけれど、これ、とっても美味しいよ。僕、こういうのを食べられるなら、ここにまた来たいな」
もち太がハキハキと意見を言うと、お豆腐ハンバーグを食べ終えたすあまは、兄の絶賛するオムライスが食べたくなりました。
「ぼくも食べるよ! すあまも、オムライス!」
次々と出てくる試食品がどれもとてもおいしいので、2匹はとても幸せでした。たくさんの種類が出てくるので、ちょっとずつ食べた方がいいという郵便屋さんのアドバイスに、年上のもち太はしたがいましたが、すあまにはむずかしすぎたようです。どちらにしても2匹はお腹いっぱい、おいしい試作品を食べました。
いつも、ふっくらしたお餅のような2匹ですが、その日はいつもに増してまん丸になってしまい、郵便屋さんは、2匹のふくれたお腹が地面に触れてしまうのではないかと心配しなくてはなりませんでした。
でも、もち太とすあまは、とても幸せで、この喫茶店が大好きになりました。きっと他の犬たちも、この店がすきになるでしょう。
(初出:2022年3月 書き下ろし)
【小説】湖水地方紀行
今日の小説は「scriviamo! 2022」の第8弾です。TOM-Fさんは、新作の紀行文風小説でご参加いただきました。ありがとうございます!
TOM−Fさんの書いてくださった「鉄道行人~pilgrims of railway~」
TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。
「scriviamo!」には皆勤してくださり、毎回趣向を凝らした名作でご参加くださっています。今回書いてくださった作品は、『乗り鉄』としての知識と経験をフルに生かした紀行文的な小説だそうです。日本全国のほとんどの鉄道に1度は乗ったことがあるというものすごく情熱を持った鉄道ファンぶりは、以前から時おり記事にしてくださっていますが、小説として発表してくださるので乗り鉄としての鉄道愛とこだわった美文を同時に楽しめる作品になっています。どこまでが現実で、どこの部分が小説なのか曖昧な感じもいいのですよね。
とはいえ。私は作品を楽しむだけではダメで、お返しを書かなくちゃいけないんですよ。毎年毎年、全く違う方向から剛速球を投げていらっしゃるTOM−Fさん。今年はさすがにギブアップしたい想いに駆られましたけれど、そのせいでもう参加してくださらなくなったら困るし!
というわけで、苦肉の策でお返しすることにしました。TOM−Fさんに倣って「昔の電車の旅を使った小説」を書くことにしました。今回使っている絵梨というキャラクターですが、私が私小説を書くときに使います。私小説風の似たようなキャラは何人かいるのですが(真由美とか、ヤオトメ・ユウとか)、絵梨を使うときは(固有名詞以外は)ほぼ事実に基づいています。今回のエピソードに関しては100%事実に基づいています。なので、オチがありません。悪しからず。
「scriviamo! 2022」について
「scriviamo! 2022」の作品を全部読む
「scriviamo! 2021」の作品を全部読む
「scriviamo! 2020」の作品を全部読む
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
湖水地方紀行
——Special thanks to TOM−F-san
電光掲示板の数字を見て、アドレナリンが噴出した。その表現が的確とは思えないけれど、少なくとも「分泌」などというかわいらしい量ではない。時計を見ると9時43分。電光掲示板にあるグラスゴー行きの出発時刻は『09:45』と書かれ点滅していた。
ホームを確認し、猛ダッシュする。ふくらはぎがつりそうになるほど走ったのは何年ぶりだろう。車掌が笛を吹いていたけれど、古いタイプの車両は、手動でドアを開けるタイプだったので、なんとか乗り込むことができた。
早春で肌寒いくらいだったのに、ぐっしょり汗をかいた。むしろ冷や汗だったかもしれない。少なくとも窓口に並んで切符を買う必要が無かったのは幸運だった。ようやく行ける、憧れの湖水地方に。絵梨は、硬い座席に身を沈めて安堵のため息をついた。
大学4年になる前の春休み。絵梨は、ユーレイルパスを使って2か月間のヨーロッパ貧乏旅行をしていた。エジプトからトルコ、ギリシャ、イタリア、スペイン、フランスと周り、最後の目的地がイギリスだった。
旅の道連れは、大学1年以来の友人、雅美だ。基本的には一緒に行動するけれど、どうしても見たいことや訪れたい場所がマニアックである場合は、それぞれの好きなことをするために別行動しようということのできるありがたい存在だった。
とはいえ、2人が旅慣れて自立した大学生だったとはお世辞にも言えない。
10年以上経ってから、異国育ちのパートナー、リュシアンに出会い海外暮らしをすることになった絵梨だが、帰国子女でもなんでもなく、この当時の英語力は現在の20歳女子の平均を大きく下回っていたと思う。これは、謙遜でもなんでもなく、今から思うとあの英語力でよくぞ2か月間を乗り切れたものだと、つくづく感心してしまう。基本的に相手が何を言っているのかはほとんどわかっておらず、自分のいいたいことを相手に察してもらって、なんとか用を足していただけなのだ。
だから、絵梨は、日本で買ったガイドブックを頼りに行動した。日本で既に知っていたA地点からB地点に移動し、B地点の観光名所がガイドブックに書かれてあるとおりであることを確認して、ガイドブックよりもはるかに劣るアングルでカメラフィルムに収め、急いで次の地点に移動した。
それでも、彼女にとってはそれはとても自由で自主性に富んだ旅だった。パックツアーではなかったので、自分の行きたい場所を自分で決められた。食べるものも、眠る場所も、自分たちで決めていた。
この電車に乗ることを決めたのは昨夜だった。雅美が、趣味のSFに関する聖地巡礼をするというので、その方面に興味のない絵梨は、憧れの湖水地方に遠出をしようと思ったのだ。
ロンドン・ユーストン駅からは毎日電車が出ていて、3時間半ほどで『ピーター・ラビット』のふるさと、ウィンダミアに行ける。それが、愛用のガイドブックの小さな囲み記事で得た情報だった。片道3時間半なら、日帰りができる。10時頃にロンドンを発てば、向こうでかなりゆっくりしても夜の9時頃には帰ってこられるだろう。
朝から猛ダッシュをすることになったものの、無事に電車に座り、絵梨は満足だった。ペットボトルの水を飲みひと息つく。車窓には平原が見渡す限りの新緑で広がっていた。
世界の大都会であるロンドンからさほど遠くないのに、のどかな田園地帯があるのだ。これは、フランスを旅したときにも思った。東京育ちの絵梨には、この光景は驚くべきことだった。東京から東海道線に乗って車窓を眺める時、東京都と神奈川県の境など光景だけでわかることはない。どこまでいってもビルと民家が続くから。大都会とはそういうものだと思っていたし、ロンドンともなれば2時間ほど走ってもずっとビルだけが続くのだと思っていた。車窓の向こうに広がる光景はとても平坦だった。建物がないわけではないが、とても低い。路線上は最初の駅であるワットフォード・ジャンクションですら、駅の近くにはそれなりのビルや民家はあるものの、駅を出ればすぐにのどかな田園に戻る。
しばらくすると同じような車窓に飽きて、絵梨は持ってきた文庫本を読み出した。この暇つぶし用の小説は、この2か月で少なくとも6回は通読していたので、読まずとも内容は頭に入っていたのだが、かといって他にすることもない。もともと愛読書はボロボロになるまで何度も読むタイプなので、しばらくすると再び小説の中に没頭していた。
しばらくして、意識が現実に戻ってきた。というよりは、行儀よく座っていた周りの乗客たちがそわそわと立ったり何かを話したりしだしたからだ。それで氣がついたが、ずいぶんと長く停車している場所は駅ではなかった。
後ろの方から、車掌と思われる濃紺の制服を着た男性が歩いてきて、絵梨のすぐちかくの女性の呼びかけに立ち止まり答えていた。
耳を澄ませても、絵梨の英語力では会話のほとんどが聴き取れない。だが、女性が「いつ発車するのか」と問いかけたのに対して、車掌が「わかりません」と答えたのだけはわかった。わかりません? 何があったんだろう。
絵梨には、この状況にデジャヴがあった。つい10日ほど前のことだ。パリからTGVにのってブルターニュ地方に出かけたとき、いきなり停まった列車はうんともすんとも言わず、そのまま1時間以上待たされたのだ。1分遅れただけでも「申しわけございません」を連発する日本の鉄道に慣れていたので、高速鉄道が1時間止まったままで謝罪も振替もないことが信じられなかったが、その一方で、千載一遇の体験だと思っていた。
再び列車の遅延が起こったと知り、絵梨は「またか」と思ったが、どこかであそこまでひどい遅延がそうそう起こるはずがないと思っていた。だが、今回の遅延はそれをはるかに上回ることになった。絵梨と乗客たちは、そのまま2時間もそこで待たされることになったのだ。
乗り換え予定のオクセンホルム駅には13時には到着する予定だった。乗り換え予定時間までに昼食を買えないことを予想していたので、絵梨は簡単な菓子パンとオレンジジュースだけは持っていた。
待ち時間が30分を超えてから、乗客たちはいら立って騒ぎ出したが、1時間を超えると反対にみな大人しくなった。そして、その頃になると、社内販売のようなワゴンがどこからともなく現れて、スチロールカップ入りの紅茶を配りはじめた。
その当時、絵梨は学生で大したグルメを食べ歩いていたわけではなかったが、ロンドンの物価の高さとそれを払って得られる食事のまずさには、驚愕していた。そもそもトルコやスペイン、南フランスで安くてとても美味しいものをいくらでも食べられたので、イギリスにも同じレベルを期待していたのも間違いだった。そんなイギリスだが、紅茶だけはどこでどんな安物を飲んでもやたらと美味しいことにも注目していた。
絵梨は、子供の頃からミルクティーがあまり好きではなかった。薄くて甘ったるくて氣持ちの悪い味がする。それがミルクティーに関する絵梨の偏見だった。だが、2年前にパキスタンのイスラマバードで飲んだミルクティーがあまりにも美味しかったので、紅茶に対する認識を改めていた。
それから、イギリスでは必ずミルクティーを注文するようになった。ヨーロッパ大陸の他の国では、日本で飲む紅茶よりもさらに不味い紅茶しか飲めなかったので、コーヒーだけを飲んでいたが、イギリスではどこに行っても、どんな状況で飲む紅茶でも圧倒的に美味しい。後に、同じイギリスのティーバッグを持ち帰り日本やスイスで飲むことになったが、やはりイギリスやパキスタンで飲む紅茶ほどの美味しさは実現できない。これはもう、茶葉の種類や淹れ方以前に、水質が違うのではないかと思う。
ようやく動き出した電車が、オクセンホルム駅に着いたのは15時15分頃だった。上手い具合に、隣のホームにはウィンダミア駅行きが停まっていたので、ラッキーと喜びながら飛び乗った。だが、一向に出発する氣配がない。窓から乗りだして出発時刻を確認すると15時55分らしい。絵梨は落胆した。
車窓はすっかり湖水地方らしいのどかな風景になっていた。なだらかな緑の丘に羊の群れが見える。小さな林、そしてまた牧草地。白いっぽい壁に黒っぽい屋根の石造りの家、空積みと呼ばれるセメントを使わない壁も。ようやく、湖水地方に来られたと実感がこみ上げてきた。
少なくとも今度の列車は、不必要に停車することはなく、30分ほどでウィンダミアに到着した。当初の予定では、このウィンダミアから湖畔のボウネス、ベアトリクス・ポターの住んでいたニア・ソーリーなどを歩くつもりだったけれど、日帰りの身としては、帰りの電車に間に合うということが最優先だ。まずは何よりも駅のインフォメーションに行く。
21時に宿に戻れるような列車は、もう発車してしまった。ロンドンに22時20分につく電車が18時15分にある。ということは、湖水地方に滞在できるのは1時間ちょっと。ついでに、帰りの食糧を調達して電車に乗り込まなくては……。そう思って、駅に1つだけある小さなキオスク兼スーパーマーケットという風情の店の前を覗くと、閉店が17時と書いてある。つまり、今すぐ夕食を確保しないと、帰宅まで何も食べられなくなるかもしれないのだ。
絵梨は、急いでその店に入った。棚には興ざめなサンドイッチやスナックなどしかみあたらない。湖水地方の素敵なティールームで素朴な食事をしようと思っていたのに。そう思った絵梨は、それならとデリコーナーに行ってみた。小さなパイのようなものが見える。うーん、ミートパイかな。
それはステーキ&キドニーパイだった。コールスローサラダも購入する。
店の外に出たら、17時になっていた。他の村までのハイキングは不可能だとわかった。それどころかウィンダミアの町そのものをゆっくり散策する時間さえ無いだろう。湖まで行けても、時間までに帰ってこられなければ、大変なことになる。だったら、この駅の近くにいる方がいいだろう。
絵梨は、駅を出て町や湖方面には向かわず、近くの丘に登った。ハイキング道でもないのに、いつピーターラビットが横切ってもおかしくない美しさで、林を抜けて丘の上にでるとそこからウィンダミア湖がはるかに見えた。
少し早めに駅に戻り、トイレを利用してから家にハガキを送ろうかとポストを探した。ふと氣になってホームを覗いたら、なんと電車がいる。遅れては大変と再びダッシュして乗り込んだ。その電車は、時間よりも早く発車したのだ。またしても冷や汗をかくことになった。
帰りの車窓から、再び羊の群れを眺めた。夕闇のオレンジの光は、旅人をメランコリーにする。ピーターラビット博物館やそれに類するものは全く見られなかったけれど、少なくともこの美しい光景を満喫したのだから、来てよかったのよね。絵梨はつぶやいた。
オクセンホルム駅につき、乗り換えの電車を探した。そして、そこで再びガッカリする掲示を発見した。50分の遅延。だったら、もう少しウィンダミアにいたかったよ! 絵梨は、泣きそうになるのを堪えた。
21時頃に戻る予定といって出てきたのに、これは午前様になってしまうかも……。今度はそちらの心配をする羽目になった。いまならば、メッセージを送れば済むし、それどころか予定を変更して湖水地方に泊まると連絡することもできる。でも、当時は海外で使える携帯電話など、ただの大学生が持てる時代ではなかった。宿はB&Bで朝以外は宿泊者しかいない。つまり電話をしても雅美に連絡がつくのは明日になる可能性がある。
絵梨にできることは、遅れないように電車に乗り込むことと、夕食の時に一緒に飲む紅茶を買うことぐらいだった。ようやくやって来たロンドン行きに乗り込むと、時間のせいか行きよりもかなり空いていた。
とにかく、夕飯を食べることにした。ステーキ&キドニーパイを、つけてもらったプラスチック製フォークとナイフで苦労しながら切り、恐る恐る口に運んだ。控えめに言っても微妙な味だった。本来は温めて食べるものなのだろう。だから不味く感じるのか、それとも温めなかったから少しはマシだったのかは、現在に至るまで謎だ。とにかく、2度とステーキ&キドニーパイなるものを注文しようという氣にはならない味だった。
紅茶の蓋を開けて、流し込んだ。この国で紅茶が美味しいのは救いだ。絵梨は、それから紅茶とコールスローで食事を済ませた。
ユーストン駅についてホッとする間もなく、地下鉄駅に走る。地下鉄で宿屋の最寄り駅にたどり着けなければ、タクシーを使わなくてはならない。タクシーで宿までの行き先を説明するなんて無理! 幸い地下鉄はまだ走っていて、無事に最寄り駅までたどり着けたものの、終電だったらしく道に出た途端に後ろでシャッターを閉められた。
宿に戻ると、雅美は半分泣きそうな、そして、半分怒ったような顔で待っていた。それはそうだろう。相当心配させたに違いない。平謝りしながら、長い1日に起こったことを説明する羽目になった。
いわれているほどロンドンの治安は悪くないなんていうつもりはない。たまたま何も起こらなかっただけで、もしなにかの事件に巻き込まれていれば「そんな時間に外にいたなんてのが悪い」そういわれてしまう案件だと自分でも思った。
何らかの事件に巻き込まれた人も必ずしも治安をなめていたとは限らない。絵梨だって、よくわかっていなかっただけなのだ。
電車が時刻表とほぼ同じに走るということが、日本以外では決して当然ではないこと。だから、丸1日かけてとんぼ返りしなければならないような予定を立てるのが無謀だということを。
散々な1日だったけれど、それでもこの日見た湖水地方の美しい光景は、いまだに絵梨の脳裏に焼き付いている。簡単にはたどり着けなかった敗北の記憶が、他にもたくさん訪れた有名観光地とは違う、神聖で特別な地位を与えているのかもしれない。
(初出:2022年3月 書き下ろし)
【小説】バッカスからの招待状 -16- エイプリル・レイン
今日の小説は「scriviamo! 2022」の第9弾、ラストの作品です。大海彩洋さんは、大河ドラマ「真シリーズ」の第一世代と第二世代が交錯する作品で参加してくださいました。ありがとうございます!
大海彩洋さんの書いてくださった『あなたの止まり木に 』
大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。いろいろなことに造詣が深いのは、みなさんご存じの通りです。今回は大河小説「真シリーズ」のメインキャラの1人、ピアニストでもある相川慎一の凱旋コンサートにお出かけの方たちのお話を、当ブログの『バッカスからの招待状』の田中も行きつけているらしい喫茶店を舞台に語ってくださいました。
お返しどうしようか悩んだのですけれど、茜音は、『Bacchus』の常連になってくださっているということなので、素直にご来店お願いしました。たぶん、設定は壊していないはず。お酒、強いと踏んで書いちゃいました。まさか夏木たち下戸チームじゃないですよね? もしそうなら該当部分は書き直します……。(あ、『ゴッドファーザー』とかそれっぽい話が違う文脈だけれど入っているのはわざとです。私の好きな茜音の実のお父さんへのオマージュ)
そして、メインの話をどうしようか悩んだのですけれど、彩洋さんの今回のお話の大事なモチーフになっている「雨」と「借りた傘」をこちらでも使うことにしました。
「scriviamo! 2022」について
「scriviamo! 2022」の作品を全部読む
「scriviamo! 2021」の作品を全部読む
「scriviamo! 2020」の作品を全部読む
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
【参考】
![]() | 「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む |
バッカスからの招待状 -16- エイプリル・レイン
——Special thanks to Oomi Sayo-san
「高階さん、いらっしゃいませ」
田中は、意外に思いながら、心を込めて挨拶した。20時を回っていた。いつも彼女が好んで座る入り口近くのカウンター席はすでに塞がっていた。
そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにある。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と書かれている。
店主でありバーテンダーでもある田中は、奥のカウンター席に1人で座っている女性客に顔を向けた。
「井出さん、お隣、よろしいですか?」
「ええ。もちろん」
その快活な女性は、すでに彼女の鞄を隣の椅子から除いて自ら座る椅子の後ろにかけ直していた。
高階槇子は、会釈して空けてもらった席に向かった。
「この時間にお見えになるのは珍しいですね」
田中はおしぼりを渡し、それから、メニューを手に取って槇子の反応を待った。今日は、いつもとは違う注文をするかもしれないと考えたからだ。
槇子は、いつも開店直後にやって来て、1杯だけ『ゴッドマザー』を飲むとすぐに帰るのが常だった。よく来る客というわけでもない。年に4回も来れば多い方だ。だが、それが10年にも及んでいる。
「今日は、いかがなさいますか」
槇子は、メニューを持つ田中に手を伸ばした。
「そうね。今日は、メニューを見せていただこうかしら。急ぐ必要もないから、おつまみも……」
槇子の視線は、井出さんと呼ばれた若い女性の前にある生ハムとトマトの1皿に注がれた。
「あ。これ、美味しいですよ。このバルサミコ酢と絶妙にマッチして。私は次、桃モツァレラにしようかなあ」
井出茜音は、ウィンクした。
会計を済ませて出ていったばかりの客が戻ってきた。
「悪い、もう少しいさせてもらっていいかな」
その客のトレンチコートに雨の染みがいくつもついているのを見て、田中は訊いた。
「降ってきましたか?」
「ああ。今日降るって、予報だったっけ? まあ、でも、この調子だと、すぐに止むと思うんだ」
茜音は、鞄の中を確認してから安心したように言った。
「今日は、ちゃんと折りたたみ傘、持ってきたのよね」
「よかったですね」
槇子が答えると、茜音は少し明るく笑った。
ちょうど田中と目が合ったので、茜音はおどけるような口調を使った。
「たとえ持っていなくても、田中さんに置き傘を借りるのは? ほら、このあいだ会った、喫茶店でそんな話をしていたでしょう? 置き傘を貸すと、返すついでにまた来てくれるお客さんがいるって話」
田中はわずかに微笑むような表情を見せた。
「もちろんお貸ししますけれど、そうでなくても井出さんはこうしてお越しくださっていますよね」
向こうのカウンターで「あれぇ。よそで井出さんと会っているのかぁ?」などという茶化した声が上がるのを、田中は軽く流している。カウンターの常連たちが笑う声にはかまわずに、槇子が囁くように言った。
「傘は安易に借りない方がいいかもしれませんよ」
その声は、茜音にしか聞こえなかった。田中と他の常連たちが他愛のない会話を繰り広げている中、茜音は、槇子の翳った表情を見てやはり囁くように訊き返した。
「どうしてですか?」
「それだけじゃ済まなくなるかもしれないから」
「え?」
槇子は、にっこりと微笑んでから、田中に言った。
「私、この『エイプリル・レイン』をいただくわ。ちょうど今日にぴったりだもの。それから、まず、この方と同じトマトと生ハムをお願い」
田中は「かしこまりました」と答えた。『エイプリル・レイン』もまた『ゴッドマザー』と同じくウォッカベースのカクテルだ。
「娘がね。下宿生活を始めたので、急いで帰らなくてもよくなったの」
「ああ。大学は遠方でいらっしゃるんですね。お寂しくなったでしょう」
「そうね。12年前と同じ、1人暮らしに戻っただけなんだけれど、変な感じだわ。私、前はほんとうに1人暮らしをしていたのかしらって」
田中と話す槇子の会話をぼんやりと聞きながら、茜音は妙な顔をした。横目でそれを感じたのか、槇子は笑って話しかけた。
「勘定が合わない、でしょう?」
茜音は、無理には訊かないという意味の微笑を浮かべていた。槇子は続けた。
「言ったでしょう? 安易に傘を借りたりするものじゃないって。代わりに女の子を育てることになってしまったの」
茜音はますます、これ以上の事情を深く訊いていいのか戸惑った。彼女は職業上相手の話を引き出すことには長けているが、その卓越した能力をプライヴェートで使うことには慎重だ。
「あら。この曲……」
槇子は、そんな茜音をよそに店内でかかったボサノバ調の曲に耳を傾けた。
「ご存じの曲ですか?」
「ええ。アストラッド・ジルベルトの『The Gentle Rain』……。昔よく聴いたのよね。まるで、私と娘のことを歌っているようだったから」
私たちは2人ともこの世に迷い独りぼっち
優しい雨の中、一緒に歩きましょう
怖がらないで
あなたと手と手を取り合い
しばらくの間、あなたの愛する者になるから
Astrud Gilberto: Gentle Rain より
Written by: LUIZ BONFA, MATT DUBEY
意訳:八少女 夕
「傘を貸してくれた人の娘だったの。返しに行った時に出会ったの。突然、親を失って、途方に暮れて泣いていたの。行政に連絡して、そのまま忘れることもできたんだけれど、そのバタバタの時にもたまたまこの曲を聴いてしまって……」
「それで、引き取って育てたってことですか?」
目を丸くする茜音に、槇子は頷いた。
「成り行きでいきなりシングルマザーになってしまったの。でも、我が子を産んだり、イヤイヤ期を体験したりって経験をもつ友人たちに比べたら、ずいぶん楽な子育てだったのよ」
槇子は、『エイプリル・レイン』を置いた田中にも微笑みかけた。
「いつも『ゴッドマザー』をご注文なさっていたのは、それでだったのですか?」
「そうなの。初めてここのメニューであのカクテルを知って、私のためにあるような名前だなって、氣に入ってしまったの。もちろん美味しかったからだけれど」
「『ゴッドマザー』って、どんなカクテル?」
茜音が訊く。
「ウォツカとアマレットでつくります。スコッチウイスキーとアマレットで作る『ゴッドファーザー』のバリエーションの1つなんですが、ウォツカを使うことでアマレットの優しい甘みが生きるようになります」
「甘いの?」
「いいえ。甘めの薫りはしますが、味としてはすっきりとした味わいで、甘いお酒が苦手の方もよくお飲みになります」
「ちょっとアルコールが強いので、むしろ女性で手を出す人は少ないかもしれないわね」
槇子が言うと、田中も頷いた。
「井出さんなら問題はないかと思いますが」
茜音は、槇子の前の『エイプリル・レイン』にも興味を示した。
「それも強いんですか?」
「ええ。でも、ライムジュースも入っているから、『ゴッドマザー』ほどじゃないかもね。とても爽やかでいいわね、これ」
槇子が氣に入ったようなので、田中は微笑んだ。
「恐れ入ります」
茜音は、頷いた。
「じゃあ、私も次はそれをお願いします。新しい味を開拓したいし、今日にぴったりだもの」
「かしこまりました」
槇子は微笑んで、グラスを傾けた。新しい生活リズム、新しい味、新しい知りあい、そんな風に途切れずに続いていく生活。今までと違い、仕事帰りに好きなときにこの店を訪れることもできるのだという実感が押し寄せてくる。
12年前に突然生活が180度変わってしまったあの日から、無我夢中で走ってきた。見知らぬ少女を引き取り、シングルマザーとしての自覚や自信を見つけたり失ったりしながら、お互いになんとか心から家族と思える関係を築いてきた。
おかげで、色恋沙汰とは無縁な人生になってしまったが、その直前にあったことで若干懲りていたので、それも悪くなかったと思う。これで人生終わったわけでもないし、自分の時間を楽しむうちに何かがあればいいし、なくてもそれはそれで構わないと達観できるようになった。
12年前、槇子は仕事の帰りにたまたま近くを通ったので、連絡をせずに恋人のアパートを訪れた。連絡をせずに立ち寄ることをひどく嫌うことはわかっていたが、彼が傘を何本も持っていないことを知っていたので、借りた傘を早く返したかったのだ。いなければ、アパートのドアにかけておけばいいと思った。
でも、着いたらたくさんのパトカーがいて、彼の部屋に警察官が出入りしている。慌てて事情を訊きにいったら、部屋の中から子供の泣き声がするというので大家が通報したらしかった。
昨夜、繁華街で車に乗った男女が事故を起こし、2人とも死亡していた。運転していたのは子供の母親で、後に槇子の恋人の別居中の妻だったとわかった。助手席に乗っていたのが子供の父親である槇子の恋人だった。
子供をアパートに置いて、2人がどういう事情で事故を起こしたのか、明らかにはなっていない。2人が口論をしていたという目撃もあるが、意図的な無理心中なのか、単なる事故なのかも不明のままだ。
警察に何度も事情を訊かれ、ようやくわかったことに、槇子はどうやら恋人に欺されていたらしい。すくなくとも独身と嘘をつかれていた。
ショックや悔しさに泣いた。でも、怒りをぶつける相手がもうこの世にいない。それどころか、彼の娘のことを聞いたら、そちらの方がそれどころでは無い状態だった。引き取れる身寄りが無く、独りで生きられる年齢でもない。悲しみも不安も槇子どころではないだろう。
彼女の心配をしてやる義理も義務もないのだと言ってくるお節介もたくさんいた。それまた真実だった。でも、槇子が愛した男と時間を過ごしたあのアパートで、泣いていた少女のことが頭から離れなかった。
あなたの涙が私の頬に落ちる
まるで優しい雨のように温かい
おいで小さな子
あなたには私がいる
愛はとても甘くて悲しい
まるで優しい雨のよう
Astrud Gilberto: Gentle Rain より
Written by: LUIZ BONFA, MATT DUBEY
意訳:八少女 夕
彼の面影ではなく、愛娘として愛するようになるまで、思ったほどはかからなかった。むしろ、大人として巣立っていくのがこれほど寂しくなるとは、全く想像もしていなかった。
4月の雨は、優しくて悲しい。きっとそうなのだろう。槇子は微笑みながらグラスを傾けた。
エイプリル・レイン(April Rain)
標準的なレシピ
ウォッカ - 60ml
ドライベルモット - 15ml
フレッシュ・ライムジュース - 15ml
ライムの皮 (飾り用)
作り方
氷を入れたカクテルシェーカーに、ドライベルモット、ウォッカ、ライムジュースを入れる。
勢いよくシェイクする。
冷やしたカクテルグラスに氷を半分ほど入れ、濾す。
ライムの皮を飾りとして添える。
(初出:2022年4月 書き下ろし)
この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。
read more