【小説】ある邂逅
トップバッターは、このブログでもっとも馴染みのあるグルーブArtistas callejerosです。テーマの楽器は、三味線なんだか、ギターなんだか……。どちらかに絞ることのできない稔の話なので、どっちでもいいですよね。時間軸が2つあって、ひとつは第2部で扱っている「現在」で、もう1つはArtistas callejerosを結成する4年も前、稔が失踪した年です。
また、三味線にお詳しい方々からのツッコミを受けそうな話ですが、素人が調べて書く限界ということでお許しください。

大道芸人たち・外伝
ある邂逅
バルセロナで過ごすいつものクリスマスシーズンは間もなく終わり、移動の時期が近づいている。仕事の合間に飲み騒ぐだけでなく、新しいレパートリーを準備する4人を見て、「そろそろこんな時期か」と思い出したカルロスとイネスは顔を見合わせて頷き、邪魔をしないようにそっとサロンの扉を閉めた。
コモ湖でまもなく始まるショーでは、南米の曲を中心にプログラムを組んでほしいとオーダーが来ていた。すでに何度かプログラムに入れたことのあるピアソラ、レネが歌うルンバ風にアレンジした『Abrazame』など慣れたレパートリーはあるが、せっかくだから新しい曲にも挑戦したいと一同の意見が一致した。
現在、稔が練習している『ブラジル風バッハ』は、20世紀ブラジルの作曲家エイトル・ヴィラ=ロボスの代表作だ。ブラジルの民俗音楽素材に基づき変奏や対位法的処理が行われる、楽器編成や演奏形態の異なる9つの楽曲集で、1930年から1945年までの間に書かれた。邦題としては『ブラジル風バッハ』で通用しているが、正確には『バッハ風でブラジル風の組曲(Bachianas Brasileiras)』という意味だ。
「第5番ね。そもそもギターとフルートの曲じゃなかったわよね?」
象眼細工のテーブルにおかれた楽譜をめくりながら蝶子が訊ねた。横からヴィルが答えた。
「ソプラノ独唱と8つのチェロのための作品だな。もっともギターとフルート用のアレンジは前に聴いたことがある」
「そう。じゃあ、これはあなたが吹く?」
「第4番のピアノアレンジの楽譜が、ここにあるんだけどな」
稔が遠くから聞きつけて口をはさんだ。ヴィルは肩をすくめて楽譜を受け取るためにそちらへと歩いて行った。
「わかったわよ」
蝶子は観念して、楽譜を読むために窓辺に向かった。レネは既におなじヴィラ=ロボスによる『感傷的なメロディ』を練習するために寝室にこもっていた。ソプラノのラブソングだがテノールで演奏されることもあるのだ。
稔にとってヴィラ=ロボスは、特別な存在だった。彼の優れたギター曲に昔から馴染みがあったことは当然だが、それ以上にパリ滞在が彼の作曲に大きな影響を及ぼしたことにも、ある種の強い共感を感じていた。
ブラジルから大志を抱いてパリにやって来た若きヴィラ=ロボスは、当時のサロンの重鎮であったジャン・コクトーに彼の音楽は「ドビュッシーやラヴェルのスタイルの物真似」であると決めつけられた。ヴィラ=ロボスからしてみれば、異国に憧れたフランス人作曲家の方が現代の言葉でいうところの「文化の盗用」だっただろう。だが、当時のパリでは、コクトーだけでなく聴衆もまた無名のブラジル人作曲などに、興味を示すことはなかった。さらには、当時のパリではシェーンベルクやストラヴィンスキーなどがクラシック界に激震を呼び起こし、ジャズやラクダイムが新しい物好きの聴衆を熱狂させていた。
そんな中、ヴィラ=ロボスは、どれほどの自負があってもこのままでは自分の音楽がヨーロッパで認められることは難しいと自覚しでブラジルに戻る。そして、若い頃から親しんだブラジルの民族音楽「ショーロ」をモチーフに『ショーロス』を完成させる。
原生林や、巨大な植物、華やかな鳥類や花と果実、荒々しく妖しい世界。パリの聴衆はその野性味に圧倒された。ヴィラ=ロボスは、洗練されたヨーロッパの技法に、パリの聴衆が求める異国的で野性的なブラジルの熱狂を織り込むことで、フランス人には表現できない南国の薫風を戦略的にヨーロッパに送り込んだ。彼は、パリで受けた冷たい歓待をバネに、自分の音楽のアイデンティティーの一面を表現したのだ。
ギターで弾く『ショーロス』の第1番は、稔のレパートリーに早くから入っている。穏やかで聴きやすい曲だ。だが、たとえばオーケストラで演奏される第10番などは、まさに『ブラジルの野生』という言葉がふさわしい荒々しさを伴っている。
一方、『ブラジル風バッハ』は、パリで世界的名声を得ると同時に、その強調しすぎたエキゾチックさゆえに故国ブラジルの現実から乖離していく音楽を、より自分の目指す音楽に回帰させていった作品だ。名声を手にして、奇をてらってパリの聴衆の氣を引くことよりも、自らの音を表現していった。そして、結局それが彼の代表作となった。
稔にとってパリは厳しい思い出の残る町だ。旅行を終えて日本に帰るはずだった彼が、帰りの航空チケットを破り捨てて放浪の生活をはじめてから、彼は不安と後悔に苛まれるばかりだった。大道芸人としての収入は多くなかったが、それをも切り詰めに切り詰めて可能な限りの余剰金を日本に送った。欺すつもりで受け取ったわけではなかったが返せずにいた300万円を、1日でも早く婚約者となっていた幼なじみに返さなくてはと思っていた。だが、そのめどは全く立たず、たった1人で苛立っていた。道行く人びとはことさら冷たく感じられ、腹一杯食べられることもぐっすりと眠れることもほとんどなかった。
自由を楽しむ余裕はほとんどなかった。何のために逃げたしたのかも、これからどうすべきかも、日銭稼ぎに追われて見えなくなっていた。人はみな独りであることを、この時ほど強く感じ続けたことはない。
稔は、パリである種の奇跡がおこったあの日のことを思い出しながらギターを弾いていた。
稔は、2日ほど前から問題を抱えていた。唯一の財産であり、生計を立てる手立てである三味線の皮が破けたのだ。
皮がいつかは破けることを全く想定していなかったわけではない。日本では湿氣の多い夏に皮が破けることが多かった。破けないようにゆるく張るといい音が出ないので、数年に一度張り替えるのは避けられない宿命のようなものだった。だが、持ってきていたのは練習用の犬皮三味線で、猫皮よりも強いものだったし、湿氣のはるかに少ないヨーロッパで、こんなに早く破れるとは想定していなかった。
弦が切れただけなら、他の弦楽器の弦をで代用するなどして何とかすることができたかもしれない。だが、皮を張るのは素人の自分には不可能だ。
浅草の実家にいるときとは違う。楽器屋に行っても張り替えを依頼することなどほぼ無理だろう。失踪し、浮浪者同然の生活をしている稔に、楽器を修理したり新しい別の楽器を買うような金はなかった。
数ヶ月前に、粉々に引き裂いてしまったのは帰りの航空券だけではなくて、楽器の張り替えや弦の替えを用意してくれた三味線を家業とする実家との繋がりそのものだった。稔は、行き倒れても飢え死にに向かおうとも、実家や友人に助けを求める権利を持たない存在になっていた。
修理ができないか試みたり、他の動物の皮が入手できないかうろついてみたりしたが、もちろんすべて徒労に終わった。三味線以外の方法で道行く人の氣を引こうとトライしたが、相手にもされなかった。今後も三味線がなければまともに稼ぐことはできないだろう。
空腹と不安で、じきにまともに立ち上がれなくなった。それまでも、十分に食べていたわけではなかったが、氣力で生き抜いていたようなものだった。それが失せて、彼は世界から切り離され、見放されたゴミの塊のようにしぼんでいった。
目の前を人びとが通り過ぎる。誰も彼に目を留めず、視界から消し去っていた。
わずかなにわか雨が降る。濡れて意識も遠くなりながら、それでも彼は習慣に従い、使い物にもならない楽器を濡らさないように身体を折って守っていた。
「何をしている」
同じように何度か聞こえた音が、自分にかけられた声だと認識するまでにしばらくかかった。稔は、うつろな瞳をようやく上げて、自分のすぐ近くに黒ずくめの誰かが立っていることを認識した。
「何も」
答えた稔の声は、まともな音量にはなっていなかったが、目の前の人物はそのようなことには頓着しないようだった。
「日本人か」
「そうだよ」
黒衣の男は、頷いた。それからわずかに間をおいてから言った。
「このまま、ここで寝てはならぬ。死ぬぞ」
「そうかもな。でも、他にどうしようもないんだ」
「なぜ」
「三味線の皮が破れちまったから」
そこまで言ってから、稔はこの説明でわかるわけがないだろうと思った。だが、きちんと説明する氣力はなかったし、それを可能にする語学力も不足していた。少なくともそれはフランス語ではなくて英語だったので、相手の言うことはだいたい間違いなくわかった。
「それがお前の問題なら、私と一緒に来なさい」
黒衣の男は言った。
普段の稔なら、こんな奇妙な相手にホイホイと着いていったりはしない。だが、今は万策尽きていたし、警察に連行されることですら今よりもマシだと考えていたので、ふらつきながらも立ち上がった。
黒衣の男は、たくさんは語らなかった。まるで稔などいないかのように歩いたが、稔が遅れると歩みを止めて待った。彼は、石畳の道をつつき進み、小さく暗い裏通りをいくつも曲がった。それから、小さなガラスドアのついている建物の前で止まった。
稔は、そのガラスドアの横に小さな木の表札がついているのを見た。達筆で読めないが、それはどう考えても漢字の崩し字だった。日本語か中国語かまではわからなかったが。
黒衣の男は、ガラスドアを押して中に入り、稔を通してからドアを閉めた。中には、陰氣な顔つきをしたベトナム人のような服装をした老人が座っていて、黒衣の男とフランス語で何かのやり取りをしている。黒衣の男は、店主に500ユーロ札を何枚か渡した。
稔が困惑していると、黒衣の男は振り向いて言った。
「楽器は、この男に任せなさい。数日かかるそうだ。この店の3階に小さな部屋があるので、修理が済むまでそこで休むといい」
「それは、願ってもないですが、俺は一文無しです」
「それはわかっている。いま前金は払ったし、お前が満足する修理が済んだら残りを払う約束をしているので、心配ない」
「でも、そんな大金を返せるアテは当分ないのですが」
「返してもらうのは金ではない」
なんだなんだ。魂とか言い出すんじゃないだろうな。まさかね。犯罪の片棒担ぎかな。稔は不安な面持ちで黒衣の男の顔を見た。
先ほどからずっと一緒にいるのに、そういえば顔をまともに見ていなかったと思った。それは、浅黒い肌に顎髭を蓄えたアラブ系か南欧人のような顔つきの男だった。
「何をお返しすればいいんですか」
「人助けのつもりなので、無理に返してもらおうとは思わぬが、もし、何かを私のためにしたいと思うなら、個人的な手助けをして欲しい」
「具体的には?」
「私は、読めない手紙を持っている。日本人が書いたものだ。プライバシーに関することなので、翻訳会社や私を知っている日本人には頼みたくない。その意味を英語に訳してもらえればありがたい」
狐につままれたような話だった。妖しげなベトナム人店主は、稔の破れた三味線をどこかへ持って行った。稔が滞在した3日間まったく同じような陰氣な顔つきのまま、会話を試みることも経過報告も全くしなかった。3度の食事だけはトレーに載せて部屋に運び込んでくれた。そして、最初の夕飯に添えて、黒衣の男の言っていた手紙のコピーがおかれていた。
それはありきたりで、どうということのないラブレターだった。それも、差出人も受取人も普通の日本人のようだ。何か深い意味があるのか、全くわからないが、これで三味線が直るのならどうでもいいと思いつつ翻訳した。
3日目の夜に、店主は食事と共に三味線の袋を持ってきた。食事もそっちのけで中を見るときちんと修理されていた。弾いてみると前よりもよく響く。期待していなかったが、ちゃんとした修理師がやってくれたようだ。
店主がフランス語で何かを短く言った。「カンガルー」という言葉しかわからなかった。猫でも犬でもなく、カンガルーの皮を張ったととうことなのかもしれない。稔は礼を言って、翻訳の終わった手紙を見せた。店主は初めて笑顔に近い表情を見せると、嬉々として手紙を受け取った。この翻訳と引き換えに相当な金銭が約束されているのかもしれない。
そして、それだけだった。稔は、翌日その店を引き払い、再び大道芸の生活に戻った。黒衣の男と会うことは二度となかった。
4年後にコルシカ島で蝶子とレネに出逢い、Artistas callejerosを結成した。ヴィルとも出逢い、4人でドミトリーに泊まりながら、楽しく稼ぐようになった。300万円も完済し、生きる意味を疑うほどに切り詰めて暮らす必要がなくなった。音は、小銭を得るための手段から、心の糧となる音楽になって戻ってきた。ずっと触れることもなかったクラシックギターが再び手元にやってきた。
稔にとって、パリは、本当に特別な街だった。日本に帰ることを拒否して旅をはじめた街。大道芸人としてのどん底を経験し、不思議な邂逅に救われた街。そのパリに対する愛憎が、ヴィラ=ロボスに対する共感を呼び起こす。
だから、稔はいつかはこの作品をレパートリーに取り入れたいと思い続けてきたのだ。第5番の『アリア』は、ヴィラ=ロボスの代表作と見なされることが多い。
あのパリのどん底生活をしていた頃、知らずに近くのクラブで勤めていたらしいレネ。ドイツでフルートと自由を望む心の葛藤に身を焼いていたらしい蝶子。そして、親の横暴から身を隠しながら演劇を道を目指していたヴィル。その3人がいま一緒に旅をしている。
現在使っているギターは、カルロスから譲り受けた名匠ドミンゴ・エステソ作だ。かつて稔が触ることすら夢見られなかった名品。
稔は、今年も、これからも、この生活が続くことを願いながら、練習を続けた。
(初出:2022年1月 書き下ろし)
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【小説】天使の歌う俺たちの島で
今回の主題に選んだのは、カリブ海の小さな島トリニダード・トバゴで生まれた楽器、俗に言う『スティール・ドラム』です。もともとがドラム缶だとは思えないような、澄んだ音を出すドラム。この音を聴くと、心は実際には行ったこともないカリブの海に飛んでいくようです。
ストーリーに伝説的なカリプソニアン、ロード・プリテンダーの『Human Race』の歌詞の一部をはさみました。陽氣なリズムと歌い方の中で政治問題を皮肉たっぷりにはさむ彼らの音楽は、誰かの都合で連れてこられて、厳しい労働に耐えながらこの島に根付いた人びとの抵抗であり、かつ誇りでもあるアイデンティティーの発露です。そして、スティール・ドラム『パン』もまた、おなじ誇りが詰まっている楽器です。「天使の歌声」と称される音色の奥に、そんなあれこれが潜むことを、この作品を書くにあたっていろいろと知りました。

天使の歌う俺たちの島で
エメラルドブルーの海。浜辺に遊ぶ波頭は真っ白だ。椰子の木は穏やかにそよぐ。遠くを観光客たちを乗せたボートが矢のようにラグーンを横切っていく。ビーチや船着き場からは離れているが、喧噪と全く無縁でいられるほどの距離ではない。振り向くとマングローブの林の向こうに背の高い椰子の林と鬱蒼たる木々に覆われた島の中央部が見える。
小さな島の北東、空港や島の首都であるスカボローからもっとも離れた街。ジョージは、スペイサイドで生まれ、他の土地で暮らしたこともない。海の見える裏庭に座り、ドラム缶を楽器へと加工していく。
マングローブに止まっていたソライロフウキンチョウが、その音に驚いて飛び立った。グレーと淡い青の羽を持つ15センチほどのこの鳥はカリブ海ではありふれているが、この島に居る固有種は地元ではブルージーンと呼ばれ、より深い青の羽色をしている。
島に居て、他の仲間と交わることが少ないと、世代を経るうちに何かが固定していくのだろう。
タニア。お前は、だから、ここから出ていきたいのか。
「あたしは、ちりちり頭で、こき使われるだけの人生を歩む子供は産みたくないの。あの国で産まれるだろうあたしの子供は、エキゾチックで美しい肌を持つと尊重されて、立派な教育も受けて、銀行家や弁護士やプロジェクトマネジャーとして成功するんだわ。そして、あの海辺のホテルで優雅にバカンスを楽しむのよ」
それは、お前の肉体に夢中になった、あのヒョロヒョロ男が吹き込んだんだお伽噺だろう。コンピューターのキーボードを叩くだけで、タロイモの袋を持ち上げることもできやしない頭でっかちな男。
朝から晩まで同じ仕事が繰り返される。ジョージも、地元の仲間たちも、ラグーンでのシュノーケルや、テラスでの朝食に縁はない。あるとしてもサービスを供給する側であって、バカンスを楽しむことはない。
ジョージは、ひたすら鉄球を打ち付けていた。ただのドラム缶は、正しく計測した上で半球形にたわませて、決まったところをくぼませることで、一般的に『スティール・ドラム』、トリニダード・トバゴでは『パン』と呼ばれる楽器となる。
すり鉢状に成形されたドラム缶の底面に音盤が配置されており、この音盤を先端にゴムを巻いたバチで叩くことにより音が発生する。
かつて労働力にするためにアフリカから奴隷が連れてこられた。彼らは厳しい労働の合間に故郷を懐かしみドラムを叩いて故郷の歌を歌った。19世紀半ばに宗主国イギリスは、反乱を怖れて太鼓など楽器の演奏を禁止した。それでも、歌や音楽を諦めなかった人びとは竹の棒を叩いていた。1937年にこの竹の棒も治安上の理由から禁止されると、人びとは代わりにドラム缶を叩くようになった。1939年にウインストン・サイモンが、その簡易打楽器を修理中に、叩く場所によって音が違っていることに偶然氣づき、『パン』のもととなる楽器が生まれた。現在では『20 世紀最後にして最大のアコースティック楽器発明』といわれ、トリニダード・トバゴの誇りとなっている。
ジョージは、『パン』制作職人として生計を立てている。骨の折れる力仕事であると同時に繊細さも必要とされる職人技だ。石油運搬の廃材であるドラム缶から「天使の歌声」にたとえられるほどの透明感のある倍音を出す楽器にするのだ。カリプソ音楽とともにカリブの風を世界に広げた立役者。ここトリニダード・トバゴで『パン』は1つ1つ手作りされている。
なあ、タニア。観光客であふれるバーの勤めをはじめたのも、お前の野心のためか。だが、ヨーロッパとやらがそんなにいいところならば、どうして奴らはここに押しかけるんだ。どうしてここを地上の天国だとため息を漏らすんだ。
ドラム缶は、45分ほど鉄球で叩きつけるとゆっくりとたわみはじめる。ここからが長い。ハンマーで叩くのだ。中華鍋のように深く滑らかな球面にする必要がある。どの部分も均等に叩き続けねばならない。時には反対側から叩く。経験に裏打ちされた氣の長い仕事だ。
視界に赤いものが目に入り、彼が目を上げると、先ほどブルージーンが止まっていたマングローブの枝に、黒い翼と尾を持つ真っ赤な鳥がいた。
「アカフウキンチョウ……。またか」
ソライロフウキンチョウと違い、この赤い鳥は本来ここにいるべきではない。アメリカ合衆国からメキシコ、アンデスのある南米の北西部へと渡る放浪者だ。名前もかつて分類されていたフウキンチョウ科のものを名乗っているが、現在ではショウジョウコウ科に分類し直されたと教えてくれたのは、タニアだ。つまり、あの女が結婚しようとしている金髪男の知識なのだろう。
赤い鳥というのは、旅を好むものなのか。トリニダード島でたくさんの観光客を惹きつけるスカーレット・アイビス。海を越えるオオグンカンドリ。アカフウキンチョウに似た見た目を持つベニタイランチョウ。
俺たちは、奴隷としてカリブに連れてこられた者たちの子孫だ。広大なアフリカの各地から集められて連れてこられた人びとは、お互いの言葉もわからず、その文化も尊重されなかった。混ざってしまった今では、どこに帰るべきなのかもわからない。お互いに意思疎通をし、苦しみと悲しみの中でも愉しみと笑いを分かち合うために、音楽と踊りがあった。それが、カリプソと『パン』の魂だ。
タニア。お前が産もうとしている、あの金髪男の子供は、もしかしたら俺たちほど黒い肌の色じゃないかもしれない。でも、お前自身が白人になるわけじゃないんだぜ。
俺は、『人権教育』とやらには詳しくないから、お前が主張する誰からも蔑まれない生活とやらを否定するつもりはない。でも、ここにバカンスに来るたくさんのイギリス人、ドイツ人、フランス人、その他のたくさんのヨーロッパの奴らが、アメリカ人観光客よりも俺たちを同じ『人類』に見做していると感じたことはない。お前の行きたがる「あの国」は存在しないユートピアだと思うぞ。
Take for instance in the animal creation
There is no such thing as pigmentation
We got black and white in horse, goat, and hog
And very often you could bounce up a brown-skin dog
How the hell you eating pork from the black-skin sow?
You don't ask for white meat from the white-skin cow?
Well if the animals have equality
What the heck is the difference in you and me?
(From “Human Race” Lord Pretender)
例えば、動物について考えてみろよ。
色の違いによる差別なんてないだろう。
馬、山羊、豚にも黒と白がある。
褐色の肌の犬もよくいる。
あんたが黒皮の雌豚の肉を食べるとはどういう了見かい?
白い肌をした牛の白い肉は頼まないのか?
ふうん、もしどの動物も同じだっていうのなら
あんたと俺の一体どこが違うっていうんだ?
(ロード・プリテンダー ”人種”より 八少女 夕訳)
ジョージは、アカフウキンチョウから目を離すと、再びハンマーを振り上げ仕事を続けた。迷い鳥もその音に慌てて去って行っただろう。
午後はあっという間に過ぎていく。ドラム缶はようやく『パン』らしい形になってきた。ジョージは汗を拭いた。
「ジョージ」
顔を上げると、真っ赤なワンピースが目に飛び込んでくる。
「タニア」
子供の頃、この庭で一緒に駆け回っていた時には、こんな風に姿を見て息を呑んだり、目が離せなくなったりすることはなかった。大人になったら、もう一緒に遊ぶことも、オレンジジュースの速飲み競争をすることもなくなるなんてな。だが、そんなことを考えているのは俺だけか。ジョージは眼をそらす。
タニアは、近づいてくると「もうランチタイムよ」といって、持っていたバスケットから紙包みを取りだした。
「へえ。ダブルスか」
「揚げたてよ」
ダブルスは、トリニダード・トバゴでよく食べられているファーストフードだ。バッラと呼ばれる揚げパンにひよこ豆のカレーやピクルスを挟んだ物で、かつては朝食時にしかなかったものだが今では1日中屋台が見られるようになった。近くの海岸に屋台を出しているサム爺さんのダブルスは絶品だ。
ジョージは、小さな冷蔵庫からオレンジジュースを取りだして、2つのガラスのタンブラーに注いだ。タニアは、黙って戸棚を探りアンゴスチュラビターズの瓶を見つけると、それを両方のタンブラーに入れた。トリニダディアンの好むハーブ類の抽出液で、これを入れるとただのオレンジジュースも苦みが増してグレープフルーツのような複雑な味わいになる。この飲み方を、ティーンの頃から2人はしてきた。
ジョージは、まだ熱いダブルスにかぶりついた。複雑な香辛料の味わいが舌から喉の奥にまで広がる。それからひよこ豆の旨味とバッラの油分が朝からの労働で疲れた身体に新しいエネルギーを流し込んでくるようだ。
「美味いな」
「シャーロットヴィルに絶対的に足りないのは、なんといってもサムおじさんの屋台だわ」
そう言うと、タニアは油で汚れた指をなめてからオレンジジュースを飲んだ。ジョージは、その様相を横目で眺めながら、言うべきではないと思いつつも嫌みを口にした。
「ヨーロッパに行ったら、ますますサム爺さんの屋台からは遠ざかるだけだろう」
タニアは、ジョージの方を見ようともせず、むしろオレンジジュースのほとんどなくなったタンブラーを睨みつけたまま答えた。
「遠くなんかならないわ。当面は行かないもの」
ジョージは、おや、と思った。
「延期かよ。なんで」
「あの男、独身じゃなかったのよ。1週間遅れで妻がやって来たの。時間とエネルギーの無駄だったわ。本当に腹が立つ」
「3日前の話とはずいぶん違うじゃないか。もう婚約したみたいな言い方だったぞ」
「あんなに熱心に口説くんだもの。時間の問題だと思ったのよ。それに、カラルーを作ってあげたいって言ったら、『ぜひ、食べてみたい』って言ったのよ。結婚する意思があると思うじゃない」
カラルーは、タロイモの葉とオクラを唐辛子入りのココナツミルクでとろとろになるまで煮た料理で、トリニダディアン男性にとって「君のカラルーを食べたい」は求愛サインだ。
「カラルーにそんな意味があるなんて、ヨーロッパからの観光客にわかるかよ」
「そうかもね。でも、そんなことをいちいち口で説明するなんて、ロマンティックじゃないし、疲れるわ」
「島の男以外と結婚するってことは、そういうことだぜ。カラルーも、ダブルスも、アンゴスチュラビターズもないし、『パン』の鳴り響くカリプソも流れていない世界に住むんだろ」
タニアは、少し怯んでから挑むようにジョージを見て「そうよ」と言った。その勢いは、前ほど確信には満ちていなかった。
「カラルーなら、俺がいくらでも食うぜ」
ジョージは、庭の木を見ながらなんでもないように言った。ちょうどブルージーンが再び飛んできて停まったところだ。
タニアは、変な勢いで立ち上がり、真っ赤なスカートを翻して言った。
「モリーおばさんのカラルーに敵うわけないでしょ!」
ジョージは、肩をすくめた。
「母さんのカラルーはもう何年も食べていないよ」
タニアは、疑い深い目つきでジョージを見た。
もちろん、何年食べなくたって、母さんのカラルーの味を忘れるわけではない。でも、それとこれとは別の話だ。不味いカラルーだって、お前が不実な男に食わせるのは嫌だ。イライラする。ジョージは、ブルージーンの羽ばたきをみつめた。
「いつか、こんなちっぽけな島、出ていくんだから」
タニアは、飛び去るブルージーンの後ろ姿を見送った。
「いつまでも、そう言っているといいさ。思うのは自由だからな。でも、それはそれとして、俺にカラルーを食わせる予定も考えておけよ」
ジョージがたたみかけると、タニアは「まっぴらよ!」と叫びながら身を翻して立ち去った。顔が赤く見えるのは、ワンピースのせいだろうか。その後ろ姿は、迷い込んだアカフウキンチョウのようだ。
だけど、タニア。俺たちは、鳥のようには自由に飛んではいけない。国境だの、人種だの、金だの、その他たくさんの俺たちを阻むものが、そんなことはさせないというんだ。だから、命の危険を冒して、海の彼方のどこにあるのかわからぬ国を目指す代わりに、ここで『天使の歌』を響かせ、陽氣に歌い踊る方がいいことに氣づけよ。
熱いカーニバルがあり、魂を沸かせるカリプソのあるこの地で。年中心地よい風を運んでくる輝く海辺で。
(初出:2022年2月 書き下ろし)
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【小説】鱒
今回の主題に選んだのは、ヴァイオリンです。っていうか、ヴァイオリンを弾くあの人の登場っていうだけですけれど。
さて、シューベルトの『ます』こと『ピアノ五重奏曲 イ長調』には、個人的に強い思い入れがあります。父と共演することになったチェコのスメタナ弦楽四重奏団が、我が家に来てリハーサル演奏をしたんですよね。もう○十年前のことですけれど。自宅に飛び交うチェコ語のやり取りと、プロ中のプロの演奏。その時の印象がものすごく強く残っていて、聴く度にあの日のことを思い出すのです。

![]() | 「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
鱒
ドロレス・トラードは、丁寧に鱒をさばいた。彼女は『ボアヴィスタ通りの館』の料理をほぼひとりで引き受けている。17歳の時に『ドラガォンの館』で見習いをはじめたが、すぐにセンスを認められて20歳の時にはもう1人でメニューを決めることを許された。『ボアヴィスタ通りの館』の料理人が退職するにあたり、24歳という若さで異動して以来、ずっと『ボアヴィスタ通りの館』の料理人として働いている。
この館を含むドラガォンが所有する3つの屋敷で
彼ら『インファンテ』と呼ばれる男性は、個人名を持たず番号で呼ばれている。彼らは、法律上は生まれることも亡くなることもない、書類上は幽霊も同然な存在だが、毎日普通に食事をする生身の人間だ。ドロレスをはじめとする使用人たちは、すべてこの男性たちがどのような存在であるかを承知している。インファンテ自身も、ドロレスたち使用人のほとんども《星のある子供たち》と呼ばれる特殊な血筋の出身で特殊事情を理解しており、しかもこの勤めを始める前に沈黙の誓約を交わしている。
料理人として、ドロレスは幸運だった。
彼が、この屋敷に遷されたのは、ドロレスの異動から1年も経たない頃だった。おそらく、彼をここに遷すことを見越してドロレスを異動させたのだ。覚悟はしていたものの、はじめはとても緊張した。というのは22と呼ばれるインファンテ322は『ドラガォンの館』時代に、ドロレスが勤め始めてからただの1度すら正餐に顔を出さぬ頑なな人物として知れ渡っていたからだ。給仕や清掃で顔を合わせる使用人も必要なこと以外で言葉を交わしたことがないと言っていたし、ドラガォンを憎んでいると囁かれていた。
彼が、屋敷そのものには軟禁状態とはいえ、鉄格子の外に出て普通の生活を始めることになり、どんな暴君になるかわからなかった。『ボアヴィスタ通りの館』で使用人たちは戦々恐々として待った。だが、彼は『ガレリア・ド・パリ通りの館』で暮らすもう1人のインファンテと違い、全く手のかからぬ
だが、その問題も3年で解決した。やはりこの館に暮らすことになったインファンタ・アントニアが、彼の感情と好みを読み取ることができるようになり、彼の好みに合わせた食事を提案したり、2人がどの食事を格別氣に入ったかなどを告げてくれるようになったのだ、
今日のメニューを提案してくれたのも、アントニアだった。
「叔父様は、いまシューベルトの『ます』を好んで弾いていらっしゃるでしょう? だから、鱒はどうかしら? 叔父様、バター焼きをお好みだし」
ドロレスは、手を休めて2階から聞こえてくるヴァイオリンの音色に耳を傾けた。そういえば、この曲はずいぶん前にたくさん聴いたなと思う。ピアノのパートや、ヴァイオリンのパート、毎日変えてずいぶん長いこと練習していた記憶があるが、いつの間にか聞かなくなった。ここのところ、メウ・セニョールのご機嫌はかなりいい。機嫌がいいといっても、ドロレス自身に対する態度が変わるわけではない。だが、アントニアがリラックスして嬉しそうな表情を見せることが多いのだ。それは、ドロレスをはじめとする使用人たちには心地のいい状態だった。
彼女は、鼻歌を歌いながら、鱒に小麦粉をはたいた。
彼は、スピーカーから流れる曲に合わせてヴァイオリンを奏でていた。ベルリンフィルのソリストたちが、ピアノ、ヴィオラ、チェロおよびコントラバスのパートを演奏したフランツ・シューベルトの『ピアノ五重奏曲 イ長調』のCDは、数日前にアントニアが持ってきた。
第4楽章に歌曲『ます』の旋律を変奏曲として使っているため、『ます五重奏曲』としても知られているこの曲を、彼が練習し始めたのは、この屋敷に遷されてから2年ほど経った頃だった。その頃の彼は、発売されているCDや楽譜の購入を依頼することはあっても、それ以外の特殊な願いを頼むことはなかった。
彼は、存在しないことになっていた上、ドラガォンの中枢組織に必要以上の頼み事をしたくなかったので、常に1人で演奏をしていた。子供の頃から習ってある程度自由に弾くことのできるピアノとヴァイオリンの独奏曲を中心に弾いていたが、自ら録音することによりピアノ伴奏付きのヴァイオリン曲を練習することもあった。そして、やがて欲が出て、『ます』に挑戦しようとしたのだ。
彼はヴィオラとチェロの練習も始めた。だが、そこまでだった。パートごとに録音して合わせてみても、上手く合わなかった。テンポを合わせるだけでは、生きた曲にはならない。誰かとアイコンタクトをし息を合わせながら共に奏でることでしか、合奏はできない。それに氣がつくと、録音で作ったそれまでの2重奏すらも、まがい物にしか感じられなくなり全て処分してしまった。
今にして思えば、あれほど苛立ったのは、決してパートごとの録音が合わなかったからだけではない。彼が、独りであることを思い知らされることに耐えられなかったのだろう。
いま彼がヴァイオリンを奏でたいと思うとき、ピアノの伴奏者に困ることはない。彼が望むように弾いてくれる存在がいつも側にいる。アントニアは、意固地になった彼が邪険にし、頑なに拒否したにもかかわらず、10年以上の時間をかけて彼を心の牢獄から解放してくれた。共に奏で、食の好みを伝え、皮肉な冗談を口にすることもできるかけがえのない存在として、彼に寄り添い続けてくれている。
彼のかつての『ます』に関する挫折の話を知ったとき、アントニアは同情に満ちて受け答えをするような中途半端な態度は取らなかった。彼女は、伝手を使って彼の望む曲の『カラオケ』を準備するといいだしたのだ。
彼は、冗談なのだろうと思っていたので、忌憚なく希望を口にした。それが、バルセロナ管弦楽団のチャイコフスキーの『ピアノ協奏曲第1番』とスイスロマンド管弦楽団によるメンデルスゾーンの『バイオリン協奏曲』のCDを手にしてかなり驚いた。彼は、世界最高の演奏をバックに、ソリストとして弾く新しい歓びを知った。
そして、数日前にアントニアは『ます』のCDも持ってきた。ピアノパートのない演奏とヴァイオリンパートのない演奏の他に、そして、両方とも入っていないバージョンもがおさめられている。アントニアめ、自分も一緒に演るつもり満々だな。彼は密かに笑った。
だが、彼はいずれその願いを叶えてやろうと思っていることを早々に知らせてやるつもりは皆目無かった。いまは専らピアノパートの入っている演奏を使ってヴァイオリンパートを弾いている。
1819年、22歳だったフランツ・シューベルトは、支援者であり親しい友人でもあった歌手ヨハン・ミヒャエル・フォーグルの故郷であるオーストリア、シュタイアーを旅した。そこで知り合った裕福な鉱山長官パウムガルトナーは、アマチュアながら自らチェロを奏でるたいそうな音楽好きであった。彼は、シューベルトに氣に入っていた歌曲『ます』の旋律を使ったピアノ五重奏の作曲を依頼した。
パウムガルトナーが、自ら主催するコンサートで演奏するつもりだったので、ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスという通常と異なる編成になっており、加えて初演でパウムガルトナーが弾いたであろうチェロの見せ場がしっかりとある作品になっている。
通常のピアノ5重奏のごとくヴァイオリン2台の編成であれば、彼も2つのヴァイオリンパートを練習する必要があっただろうが、この曲では1つで済んでいる。ピアノパートは高音域での両手ユニゾンが多く、難易度が高いが、彼はすでに10年前に自在に弾けるようになっていた。アントニアも十分な時間をとって練習すれば問題なく弾けるようになるだろう、彼は考えた。
内氣で世渡りの上手くなかったシューベルトは、自ら作品を売り込んで歩くようなことが苦手だった。公演などで稼ぐこともあまりなかった彼は貧しく、フォーグルなどの支援者や友人たちが援助や作曲の斡旋をしてくれたことで、彼の名声は高まった。彼は、慕い、仕事を依頼してくれる人びとの願いに発奮して次々と名曲を書き上げた。アマチュア音楽家とはいえ、彼の歌曲を絶賛してくれたパウムガルトナーの依頼にも熱心に応え、素晴らしい作品を書き上げたのに、それで儲けようとは全く考えなかったのか、生前には出版もされなかった。
パウムガルトナーの願い通りに歌曲『ます』の旋律を用いた第4楽章は、この作品の中でもっとも有名だ。4つの変奏が、川を自由に泳ぐ鱒と、それを追い詰める釣り人との駆け引きを躍動的に表現している。歌曲は言葉による表現があるが、五重奏曲ではそれぞれの楽器が掛け合い、逃げては追い越すことで表現する。
彼は、録音されたピアノや他の弦楽器の音色を追いかけた。決して現実に顔を合わせて演奏をすることは叶わない合奏相手たちだが、顔も名前も知らされてはいないがだれかが空白のヴァイオリンパートを奏でることを期待して演奏した。独りで合わない合奏を繰り返していた頃とは、まるで違った演奏になる。
階下の音がして、アントニアが帰ってきたのがわかった。そろそろ昼食の時間か。彼は、先ほどから漂っている香りに意識を移した。
復活祭前の40日間は、肉断ちの習慣があるので、昼食は魚が中心だ。鱈や鮭が多いが、どうやら今日は焼き魚のようだ。バターが焦げる香ばしい薫りがする。
彼は、鱒のバター焼きのことを考えた。はたいた小麦粉がバターでカリッと焼かれ、ジャガイモやほうれん草が添えられる。『ドラガォンの館』でも何度か食べた記憶があるが、いまドロレスが作ってくれるものよりも焦げ目が少なくよくいうと上品な味付けだった。当時から彼は出されたものを残さずに食べていた。だが格別に鱒が好きだと思ったことはなかった。
この館で最初に鱒がでたときも、おそらく同じような焼き方だったと思う。だが、アントニアが共に暮らすようになってから、彼女がどのような焼き方を好むのかを察してドロレスと話し合い、いつの間にか今のような焼き方に変わった。
海辺の人びとが炭火でよく焼いてカリッとさせた鰯を好んで食べるように、ドロレス自身もほんのりとした焼き色の上品な1皿よりも小麦粉とバターでしっかりと焼き色をつけた鱒が好きだったそうだ。それが主人の好物であるとわかり、彼女は俄然やる氣になったらしい。
かつて、彼はたった独りだった。彼が拒否した世界に、彼を喜ばせる曲を奏でるものも、彼の好む料理に心を砕く人もいなかった。彼を取り巻く状況は、決して大きくは変化してはいない。彼はいまだに名前を持たぬインファンテで、どれだけ望もうと弦楽5重奏をすることはできない。
だが、彼は今、そのことに苦しみ絶望することはない。彼は、『ます』の第5楽章フィナーレの掛け合いを楽しんだ。彼は独りではなかった。この録音を用意してくれたアントニアをはじめとする人たちが、彼のためにこの曲を弾いてくれた人たちが、階下で彼の生活を支えてくれる人たちがいる。
最後の和音を勢いよく奏でると、彼は躊躇せずに階下に向かう。温かい食事を提供するタイミングを、ドロレスがやきもきしながら待っているだろうから。階下では、いつものメンバーが穏やかに彼を待ち受けていた。
(初出:2022年3月 書き下ろし)
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【小説】チャロナラン
今回の選んだ楽器は、ガムランの打楽器です。具体的にはウガールやガンサといった名前があるんですけれど、そう書いてもよくわからない方が多いかと思います。私もそうですし。
今回の実際の舞台は、バリ島ウブドのグヌン・ルバ寺院をイメージして書いています。ガムランにはいくつか種類があるのですけれど、今回はバリ島のガムラン、バリ島のヒンドゥー教に特化して書いたストーリーです。主人公の暮らす村についての具体的なモデルはありません。子供の頃に知ったバロン・ダンス、魔女ランダの伝説がいつもどこかに引っかかっていて、それをテーマに書いてみました。

チャロナラン
川のせせらぎが絶え間なく聞こえている。それよりも大きく主張しているのは虫の音、そして、風にそよぐ樹木の葉や蔓の微かな響き。祭祀に備えてガムランの演奏の練習をしているらしい。ウガールがガンサたちを引き連れて響きの綾を織りなしていく。そのどれからも発せられているという超高周波は、人の耳には聞こえなくとも肌から受け止められて、人をリラックスさせるのだという。
そうだとしたら、この島は平和に満ちているはずだ。悪の権化、ランダの出る幕などないはずではないか。
「君の歌声にも、特別な超高周波が含まれているに違いないよ。だから、僕の心はこれほどまでに揺さぶられるんだ」
ジャスティンの言葉を思い出し、メラニは顔をしかめた。ニームの葉のように苦い。
雨季は終わりかけている。4月のバリ島はまだ激しい雨が降ることも多い。だが、晴れ間の続く時間には湿氣がかなり減って、過ごしやすくなってきた。鬱蒼とバンヤンの木々に覆われた寺院。メラニは、7層の茅葺き屋根を持つメル塔を一瞥した。
さまざまな色相の緑と、石材の灰色、そして黒い茅葺きが、金箔で飾られた飾り絵や彫刻を際立たせている。
ガムラン合奏が少しずつ大きくなる。いったいどこで奏でているのだろう。メラニは見回した。
「この島には、目に見えぬ力が満ちている。大きな厄災が起こらぬように目を配り、もし起こってしまった場合は、その怒りを鎮めなくてはならない」
メラニは、子供の頃に故郷の村の
観光地のアトラクションとして演じられることの多い『レゴン・ダンス』などとは違い、チャロナラン劇は、本来は死者の寺ブラ・ダラムで演じられる宗教儀式だ。
かつて王妃であった魔女チャロナランが闇の権化ランダとなり、聖なるものの化身である聖獣バロンと化した聖者と戦う。だが、それは西欧によくある勧善懲悪の物語ではない。聖獣バロンが滅ぶことがないだけでなくランダもまた幾度でも蘇り、その戦いは永久に続く。ランダの面は、バロンの面と同じように丁重に寺院に安置される。
ランダは、ヒンドゥー教の女神ドゥルガーとも同一視されている。シヴァ神の妻で、神々の怒りの光から生まれ、アスラ神族を殲滅したとされる、戦いと破壊と血の女神だ。慈愛と美の化身であるパールヴァーティの裏面、恐怖・凶暴を顕す
子供の頃、メラニはなぜランダがシヴァ神の妻と同一視されるのかわからなかった。チャロナラン劇で見るランダは長い乱れた髪、舌と乳はだらんと垂れ下がり牙を見せる怪物のように醜い老婆の姿だ。邪悪な魔法を使い、子供を喰らい、村人を苦しめる存在が、ヒンドゥー教の最重要神の1人の妃とはとても思えなかったのだ。
でも、今のメラニは、子供の頃とは違う、もう少し多面的なものの見方ができるようになっている。
聖者ウンプー・バラダは、魔女チャロナランのとてつもない魔力にそのままでは対抗できないことを知り、息子にチャロナランの愛娘を誘惑するように命じた。娘婿に欺されて秘技を記した古文書ロンタールを奪われたチャロナランは怒り狂い聖者に戦いを挑んだ。ランダと化したチャロナランとバロンと化した聖者ウンプー・バラダの魔力は拮抗し、終わりのない激しい戦いがおこった。
メラニは、90%の島民がバリ・ヒンドゥー教を信じるバリ島において数少ないキリスト教徒の家庭に生まれた。オランダから移住してきた祖父の血は、すでにその容貌にはあまり痕跡を残して折らず、オランダ語もまったくわからない。キリスト教徒といっても、ヒンドゥーのカーストに属していないというだけで、キリスト教を信奉しているというわけでもない。周りの子供たちと同じ学校に通い、司祭たちの言葉を聴き、相互扶助活動ゴトンロヨンにも参加し、村社会の管理組織バンジャールの一員として暮らす普通のバリ島民だ。
でも、ジャスティンにとっては、ヒンドゥー教徒でないということは手っ取り早い存在だったのかもしれない。
「ガムランの高周波の影響について調べているんだ。調査に協力してほしい」
彼は、アメリカから来た神経心理学者で、超高周波の刺激と受容体としての皮膚について調べているといった。
観光客と変わらぬ程度の認識と伝手しか持たない彼は、どうしても地元の協力者が必要だった。メラニは、「恋人」の研究に協力することにはやぶさかでなかった。
聖なるチャロナラン劇によそ者を連れて行っただけなら、あれほどの非難を受けることにはならなかっただろう。でも、彼は研究に夢中になり、守らねばならぬ神への畏怖を怠った。神事である劇はダラム寺院の
それだけでも村でのメラニへの風当たりは強くなったけれど、それだけならば供物を捧げて神の怒りをほどくことも可能だったかもしれない。でも、彼は
パルミラ椰子の葉を加工して、板状にしたものに古代インドから伝わるカカウィン文字で記すロンタールは、古代より写経やラーマヤナ神話などの写本として受け継がれてきた。村のロンタールには、チャロナラン劇の演奏に関する秘技が書かれている。それをどうしても入手して論文の1次資料にしようと考えたらしい。
チャロナラン妃が絶望して悪の権化ランダに変貌したのは、娘婿が魔術秘技のロンタールを盗み出すのに最愛の娘が協力したからだという解釈がある。プダンタはロンタール盗難をこの故事と結びつけた。メラニは、許されざる悪事に手を貸して、村の平和の均衡を破った呪われた存在になった。
破れた均衡を取り繕うためには、大きな犠牲と祭りが伴われなくてはならなかった。それは、21世紀に生きるアメリカ人には単なる迷信であり、馬鹿げた騒動だった。写真を撮った後に、借りたロンタールを返した。それで十分だと彼は考えた。法に触れることなど何もしていないし、言いがかりをつけるなら許さないとまで言い放ったのだ。
彼が立ち去った後に、耐えがたい不調和だけが残った。メラニが村の非難の的となっていることを知りながら、彼は滞在を延ばす必要すら感じなかった。ほしいものは手に入れたのだ。録音と1次資料と。
「君の協力には感謝している。もし、ロスに遊びに来ることがあったら連絡してくれよ。観光案内くらいは喜んでするからさ」
ウガールを激しく打ち据える響きが空氣を震わせる。大地を這う
「お前の引き込んだ不均衡は、多くの犠牲と共に正しい儀式によって穴埋めされねばならぬ。村におこる天変地異と不作は神々の怒りが原因なのだから」
「面倒ごとに、旅行者の僕を巻き込まないでほしいな。くだらない伝統に愛想を尽かしたなら、都会に出ればいいだろう? こんな小さな島で、理不尽に耐えることはないさ」
サルンを揺らして供物を捧げていた娘たちも、スコールの氣配を察して消えていった。生ぬるい風がメラニの頬と髪を揺らす。ウガールの青銅の鍵盤が呼び起こす共鳴は、メラニの肌を通して身体の中を巡り、森に追われ、愛するものからも見捨てられてランダに変貌していったチャロナラン妃の絶望に共鳴した。
ぽつり、ぽつりと、水滴がメラニの髪、肩、そして、サルンを濡らす。雨が降り出した。人びとは残っていた観光客たちも慌てて去って行く。メラニは、ランダとバロンの石絵の前に立ちすくみ、ゆっくりとサンヒャン・ドゥダリの型をとり踊りだした。子供の頃に、神がかり状態となって奉納した踊り。ジャスティンたち欧米の研究者に言わせると、超高周波が肌から吸収されることによっておこるトランス状態に、彼女はもう陥ってはいかない。彼女の肌を刺しているのはスコールの雨粒矢で、彼女の心を覆うのは神への畏敬ではなく、行き場のない悲しみだ。
カーストの中にきちんと収まっていたわけではない。けれど、この島の世界観から完全に抜け出して、神々など存在しないと宣言することもできない。それはメラニ自身の存在をまき散らすほどの無理な否定だ。
ウガールの、ガンサの、クンダンの、レヨンの、ゴングの、ガムランの楽器のリズムと響きは、この島の生活の中にある。そして、メラニにとって、それは空氣や水や食物と同じように、生きていくことと切り離せない。生活は、食べて寝て、仕事をすることだけでは完結しない。ジャスティンの国では、人はそれでも問題なく生きられるのかもしれない。でも、ここでは、それだけではない。風と緑と祈りと響きが、生活の周りと、そして身体の内側に同時に存在しなくてはならない。
バンヤンの氣根がカーテンのように覆い被さり、聖なる寺院を暗いジャングルに変えてゆく。激しいスコールが街を、チャロナラン妃が追いやられた森に変えていく。その森では太古からの悪鬼が蠢く。その中で、メラニは踊っている。青銅の鍵盤の響きが彼女を突き刺し、激しい雨粒が彼女を叩くからだけではなく、彼女の内なる悲しみと恨みが内なるランダを呼び寄せるから。
バンヤンの大木の奥に、なにかが動いていた。白く大きな動物のような影。スコールの壁で実際にそれが動物なのか、それとも他の何かなのかはわからない。メラニは、聖獣バロンがそこにいるように感じた。怒りに駆られた女がランダに変わるとき、バロンが現れて世界の均衡を取り戻すのなら、ここにバロンが現れるのは理にかなっている氣がする。それで自分が浄化されてこの世から消え失せていくならそれでもいいと思った。
雨が止み、雲間より太陽が顔を出した。メラニは、踊りをやめて周りを見た。白い影を見た大木の方を見る。ランダに戦いを挑むバロンはそこにはいなかった。ガムランの練習も止んでいる。白い服を着た司祭が、そこに立っていた。
メラニは、頭を下げた。ここが故郷の村であれば、彼女は乱心しランダに変わった魔女だと断定されてもしかたなかった。ここではまだ彼女が巻き込まれた厄介ごとは、知られていないだろうと思った。
「均衡は、取り戻された。そうであろう?」
その見知らぬ司祭は、唐突に言った。メラニは面食らいながらも、言われたことに想いを向けた。
濡れながら踊っていたときの、どうすることもできない暗い想いは、消えていた。少なくとも、彼女は普通の人間の女であり、ランダに変貌したわけではなかった。そして、先ほど見た白い影もバロンではなくて、この司祭を雨越しに見たのであろう。
ガムランの演奏は終わっていた。バンヤンから垂れ下がる氣根のカーテンからは、まだ、雨雫がしたたり落ちていたが、先ほどの不穏な暗さではなく、陽の光に照らされて輝いていた。
メラニは、黙って司祭に頭を下げた。
彼女にとっては、この島で起きる全てに意味がある。生活も、地形も、寺院も、バンヤンやガジュマルの絡まる遺跡も、スコールも、伝説も、ヒンドゥーの教えや伝統祭祀も、そして、踊りやガムランの響きも、切り離してそれだけを語ることなどできない。測定し、分析し、そして論文にして、電子書架におさめる、ジャスティンたちの「研究」では解き明かすことができない「秘儀」をメラニは丹田の奥に抱えている。
メラニを覆っていた暗い雲が、晴れていく。ジャスティンがこの島を去り、彼がメラニを島から持ち出さなかったことで、そして、彼から切り離されることで、村の、そして島の均衡は取り戻されるのだ。スコールに洗い流されたのは
彼女は、村に帰るために、寺院を後にした。村に帰ったら、彼女をめぐる
(初出:2022年4月 書き下ろし)
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【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 端午の宴
今回の選んだ楽器は、琵琶です。『樋水龍神縁起 東国放浪記』のサブキャラ、夏姫が弾いています。琵琶というのはこの当時は、あまり女性らしい楽器とは思われていなかったようです。
今回の話、外伝にした方がいいかなとも思ったのですけれど、あとから探しにくくなるので、東国放浪記本編に組み込んでしまうことにします。


樋水龍神縁起 東国放浪記
端午の宴
弥栄丸は、高い空を見上げた。緑萌え、空高く、心地よい皐月であるが、忙しく氣の抜けない時季でもある。
丹後国の大領である渡辺家にて、弥栄丸は西の対の郎党として働いている。丹後守藤原殿は、まるで殿上人のような年中行事を行うことを好む。端午の節句の競馬も数年前から必ず行われるようになった。都では六衛府の武芸に優れた官人らが草原に馬を駆り、薬草や落ちた鹿の骨など、薬となる品を拾い集める行事だ。丹後守は、領地と音が重なるこの催しが縁起がよいと真似ぶことに決められたらしい。
いつもは西の対の姫君の警護ならびに用事のみを言いつけられている弥栄丸だが、この日だけは森を駆け回り騎馬の若君の代わりに落ちている角や薬草を拾いまくらねばならぬ。
西の対は、大領渡辺家の中で微妙な立ち位置にある。夏という姫君は、二年ほど前にこの屋敷に引き取られてきたお方だ。かつて殿様が見初めた湯女を北の方に隠れて大切にしていたのだが、数年前に流行病で亡くなってしまったのだ。そのまま観音寺に預けられていた姫君は、位の低い女の娘とは到底思えぬほど美しく成長し、殿様はこの美しさなら丹後守藤原様のご子息に差し上げられるのではないかと算盤をはじき、北の方を説得して屋敷に迎え入れたのだ。
そういう事情で、夏姫は後ろ盾もなくひとりで西の対に住んでいる。弥栄丸はその日から西の対で姫の世話をするように命じられたのだ。
この夏姫、まことに美しい姿形であることは違いないのだが、止ん事無い姫方とは異なった振る舞いをすることで、西の対で働く者たちの度肝を抜いてきた。御簾や几帳の後ろでしとやかに座っていることができず、すぐに庭に降りてきてしまう。侍女のサトや童女たちだけでなく、弥栄丸や老庭師にも臆することなく話しかけてきてしまう。
北の方や、義理の妹にあたる絢子姫のことも、身寄りのいない身によくしてくださる親切な方々と慕い、せっせと作った歌などを届けさせるが、あまれにあけすけで趣の感じられない歌風に面食らうのか、返事の熱意はあまり感じられない。サトや弥栄丸は、こうした夏姫の空回りを感じてはいるが、その無邪氣な心持ちを傷つけたくなく、できる限りの後押しをすべく心を砕いていた。
だから、競馬における若君助勢の折は、西の対の代表として力の限り走らねばならぬ。
北の対からは箏の琴の音が聞こえてくる。絢子姫が、端午の競馬の宴で披露する曲を練じているのであろう。夏姫は嬉々として割り当てられた琵琶を練じている。
「あたくしは、楽器などずっと手を抜いてきたから、箏の琴などはずっと弾けはしないでしょうね」
琵琶を奏じることになったのは、皆の思いやりからであると心から感謝している。
「見てごらんなさいよ。絢子からの返し文に、十三弦もある箏を練じるのだから、四弦の琵琶ほど速く上達せずとも怒らないでくださいねとあるわ。本当にそうね、あたくしには到底弾けぬ大変な楽器を練じている絢子は、とても才能があるんでしょうね」
北の方は、決して底意地のお悪い方ではないが……。弥栄丸は考える。だが、丹後守藤原様やご子息も耳にするこんな晴れ舞台で、箏の琴を絢子姫のみが弾かれるということは、殿様のお氣持ちとは異なり、北の方は絢子姫こそを藤原様のご子息に娶せたいとお考えなのではないかと。和琴ですらなく、女子らしさの感じられぬ琵琶を夏姫に勧めるところに、その想いを感じてしまうのだ。
「きっと今ごろは、文殊さまでもお囃子を練じているのでしょうね」
夏姫は、琵琶を弾く手を休めて、ぽつりと言った。弥栄丸ははっとした。
姫の母親は、若狭国小浜の濱醤醢醸造の娘だった。離縁された母親に連れられて丹後国に来たものの、生まれ育った若狭の海を懐かしみ夏姫を産んでから殿様に頼み、与謝の海の見える小さな家に住んでいた。渡辺の殿様にしても、北の方に悟られぬ遠さにあり、籠神社や文殊堂の参詣なる口実が得られるこの小さな家は真に便益にかなっていた。
「あたくし、よくお母様や観音寺の尼さまにお願いして、海に連れて行っていただいたのよ」
姫の声音は、どこか悲しげだ。
夏姫にとって、文殊堂や籠神社の歳時記を感じることのできない渡辺の屋敷での暮らしは、弥栄丸をはじめ誰もが思っているような目出度く有難き果報ではなく、心許なく取る方なき日々なのやもしれぬ。
宴は
この角を拾ったのは、偶然ではあったが弥栄丸だった。渡辺の殿様は、姫君が藤原様ご子息の目に留まることを願っているので、この成り行きに大いに喜んだ。
「でかしたぞ、弥栄丸。屋敷に戻ったら、そなたやサトにも酒を振る舞うからな」
弥栄丸は、頭を下げて、元の仕事に戻った。宴が終わるまで酒どころかご馳走を食べることもなく、夏姫の退出を待つのだ。姫を無事に屋敷の西の対に連れ帰らなくてはならない。
その夏姫もまた、食べるものも食べずに控えているのだろう。注目を浴びる宴の演奏に心騒いでいるに違いない。
「ああ。できることなら、誰も聴いていない宴の始まりに演じて、さっさと帰りたいわ」
昨夜の姫のつぶやきが蘇る。申し訳ないことになったな。だが、藤原様のご子息に娶せることが殿様の悲願なのだから、晴れやかな場で演じることは姫様のためなのだ。弥栄丸は自分に言い聞かせた。
弥栄丸は、懐から小さな護符を取りだした。紙包みの中には梵字で書かれた護符が入っている。昨夏、弥栄丸の家に滞在した子細ありげな陰陽師が、弥栄丸の頼みにこたえて書いてくれたものだ。
西の対の庭にある柘植の木に人型のようなものが浮かび上がり、夏姫が霍乱のような病に苦しんでいたのだが、その陰陽師が人型を見事に消し去り、姫の病もそれを境にすっかりよくなった。主はもちろんのこと、姫もその陰陽師の神通力に驚き感謝した。
その陰陽師は、大きな報酬も望まず、やがてまた旅立った。それに先んじて、滞在させてくれた礼をしたいという陰陽師に弥栄丸は願ったのだ。夏姫を守る護符をいただけないかと。彼は、いくつかの違う文字を書き、呪を掛けた。弥栄丸には意味はわからないが、曼荼羅を表した悉曇文字だ。
弥栄丸は、夏姫の待つ母屋の裏口にまわり、侍女のサトを呼んでもらった。
「弥栄丸。お疲れ様でした。もう、こちらで待機できるようになったのかい」
サトは、ほっとしたような顔をした。藤原様のお屋敷は、サトにも氣が張るのだろう。いつもののんびりした仲間だけでなく、北の方や絢子姫の侍女たちの間で肩身の狭い想いをしているので、弥栄丸が戻ってきてくれたことで少しは心強く思うのかもしれない。
「こちらに控えているので、何かあったらすぐにいってくれ。あと、昨夜渡し忘れたので、これを姫様に……」
「これは?」
「例の安達様にもらった護符の一つだよ。弁財天のお守りだ」
弁財天は、楽の才を授ける女神、もらった時は、この護符を夏姫が必要とするときがあるのかと思ったが、いまほどこれが必要になるときもないであろう。サトも大きく頷き、急いで姫のもとに向かった。
控えているほかの郎等たちが噂をしている。
「麗しいと評判の姫は、箏の琴かな」
「いや。どうも琵琶らしいぞ」
「なんでまた。琵琶なんて、
「じゃあ、箏を弾くのは誰なんだ」
「北の方の姫君のようだ。そちらのほうがもののあはれを解する姫なのやもしれぬな」
「北の方が、どちらかというと、そちらの姫を売り込みたいんだろう」
「いや、噂の姫に楽の才がないのではないか」
「止ん事無き方々は、うるさいことをいうが、俺はどちらかというときれいな姫の方がいいな」
「いずれにしても、俺らはおよびじゃないさ」
弥栄丸は、男たちから離れて庭を見た。野蒜の花が風に揺れている。宴の喧噪が、風に運ばれてきた。
勝手なことを言いたいものには言わせておけばいい。私は、姫様の日々のお幸せために尽くすのみだ。
弁財天が手にしているのも琵琶だ。姫様は、心安らかに立派に演じられるだろう。弥栄丸は、深く頷いた。
(初出:2022年5月 書き下ろし)
【小説】大地の鼓動
今回の選んだのは、楽器じゃありません、すみません。あえていうならアフリカンビートです。『ニューヨークの異邦人たち』シリーズのアフリカ組の登場です。
といっても、とくに過去の作品を読む必要はありません。固有名詞がわからなくても、飛ばしてノープロブレムです。

【参考】
![]() | 「郷愁の丘」を読む あらすじと登場人物 |
![]() | 「霧の彼方から」を読む あらすじと登場人物 |
![]() | 「ニューヨークの異邦人たち」 |
大地の鼓動
ナセラは、リズミカルに肩を揺すりながら、口元だけで何かをつぶやいていた。皿を洗うときも、緩やかに床を掃くときも、彼女はビートを刻んでいた。楽しそうに歌っているわけではない。誰かに聞かせようとしているのでもない。それは、クセのようなものだ。
ジョルジアは、そのような姿の人びとを他にも見たように思う。マリンディのガソリンスタンドで口笛を吹きながらレジを操作していた青年。ムティト・アンディのスーパーマーケットでモップがけをしていた老人。自然な動きだが、アメリカやヨーロッパではではあまり見ない。
寡黙なナセラは、ずっとジョルジアと目を合わせなかった。グレッグのところに手伝いに来ていたキクユ族の少女アマンダと違い、ジョルジアを敵視している様子もなかったので、人付き合いの苦手なタイプなのかもしれないと、あえて話しかけたりしないようにしていた。
ナセラは、マニャニにあるレイチェルの家の手伝いをしている。おそらくジョルジアがはじめてレイチェルの家を訪れたときにもいたのだろうが、記憶になかった。グレッグの父親であるジェームズ・スコット博士の臨終の時に、レイチェルやその娘マディの代わりに子供たちの世話や家族の食事の用意をしたのだが、その時にはじめてナセラと会話を交わした。といっても、掃除や洗濯に関する伝達をするぐらいで、個人的なことは何も話さなかった。
先週からマディとアウレリオ・ブラス夫妻が、2週間ほどイタリアに行くことになり、子供たちはレイチェルに預けられることになった。
レイチェルがケニア大学で講義をするため、ジョルジアは子守としてこの家にまた泊まりがけで手伝いに来た。前よりも長い時間ナセラと過ごすことになり、雑談もするようになった。そして、彼女がサンブル族出身であることを知った。といっても、ジョルジアはサンブル族を知らなかった。
「ここから近いところの
「いいえ。ずっと北です。ここからだと600キロくらいでしょうか」
「どうしてここに?」
ここは出稼ぎに行くような都会ではないし、使用人たちはたいてい地元の出身だ。
ナセラは、少しだけ言葉を探していたが、やがて言った。肩を揺すりながら。
「しばらくイギリスにいました。でも、帰りたくて。助けてくれた人が、マムの知りあいで、それでここに来ることになったんです」
マムというのは、女主人であるレイチェルのことだ。
「故郷に帰りたかったのではないの?」
ジョルジアは訊いた。ナセラは悲しそうに言った。
「サンブルの掟を破ったので、戻ったらどんな目に遭うかわかりませんから」
サンブル族は、マサイ族と同じマー語系牧畜民で、北部ケニアのサンブル自然保護区でウシやヤギ・ヒツジを飼養する牧畜業に加え、観光客からの現金収入を得て暮らしている。マサイ族同様に昔ながらの特殊な社会システムを維持している。サンブル族の社会は長老による支配が特徴だ。男性は、割礼までの少年、その後15年間にわたる
「イギリスでは、サンブル族社会が間違っていると言われました。ンカイなんてものはない。割礼は違法だ。女性は男性の所有物ではないって」
ナセラの言葉にジョルジアは首を傾げた。
「あなたもそうだと思ったから離れたのではないの?」
ケニアでは、割礼は既に違法だ。だが、サンブル族は男女とも割礼を強制する文化を頑なに保持している。長老が幼い少女を強引に性的虐待の対象にすることもあるにも関わらず、未割礼のままの出産があるとサンブルが呪いにかかると無理に中絶させる。それで母子とも命を失うことも少なくない。
だが、ナセラは俯きながら答えた。
「サンブルが間違っていると思ったことはありません。ンカイはあると思うし、全ての民族の正しさに合う法律が存在するはずもないと……。ただ、私がサンブルの正しさに耐えられなくて逃げ出したんです」
レイチェルは戻ってきたが、グレッグが迎えに来るのは明日なので、ジョルジアはもう一晩泊まった。子供たちが寝た後、ジョルジアはレイチェルにナセラのことを話した。
「そうなの。彼女は、まずマラルルにある保護施設に助けを求めて受け入れられたの。サンブル出身の女性が設立した施設なのよ。老人の慰み者にされそうになった少女や、割礼を嫌がる少女たちを保護しているの。そこの援助を受けて学校に通い、知り合った世界の女性の人権問題に取り組む私の友に提案されて、しばらくロンドンに行ったのよ。でも、ホームシックに耐えられなかったみたいで。それで、相談を受けた私が預かることにしたの」
「彼女も、そうした虐待を?」
レイチェルは首を振った。
「虐待ということではなかったみたい。サンブル族ってね。《ビーズの恋人》っていう、少し変わった習慣があるのよ」
「《ビーズの恋人》?」
「ええ。まず、前提知識なんだけれど、娘の結婚相手は、父親が決めるの。そして、相手は別の
ビーズを受け取った娘はそのビーズで巨大な首飾りをつくり身につける。 娘は恋人と小さな小屋を建てて夜を過ごす。
だが、それは結婚ではない。終わることが初めからわかっている。娘は父親から別のクランの見知らぬ男性と結婚することを一方的に宣告され、それが《ビーズの恋人》との関係の終了を意味する。
「それでね。ナセラは《ビーズの恋人》と離れたくなかったから、《スルメレイ》になろうとしていたらしいの」
「《スルメレイ》って?」
「普通は、結婚の直前に割礼するんだけれど、その前に自主的に割礼してしまう女性のこと。割礼と同時に既婚女性と同じ、父親の所有物ではない存在になり、独立して家を建てて住むこともできるみたいなの。でも、そうすると《ビーズの恋人》とは別れなくてはいけないんだけれど」
『離れたくないのに《スルメレイ》になろうとしたのにも理由があったんでしょうか」
「ええ。彼の子供を産むつもりだったみたい。割礼をしていない女性が子供を産むことはタブーなので、《ビーズの恋人》と子供ができてしまったら通常は中絶が強要されるんだけれど、出産前に割礼を施して《スルメレイ》になれば未婚の母にもなれるのよ。そうなると評判も落ちるので、縁談も滞るみたい。ナセラは、知らない男に嫁がされるよりは、恋人の近くで恋人の子供を育てることを望んでいたのよ」
ジョルジアは、ナセラに「サンブルが間違っている」と言った人の意図がよくわかった。欧米の女性ならそう言わないほうが稀だろう。
「でも、計画通りにいかなかったのですね?」
「ええ。父親が思ったよりも早く結婚を決めてしまったのですって」
ナセラには、大人しく結婚するか、逃げ出すかの選択しか与えられなかった。《ビーズの恋人》は、ナセラを心から愛していると言っていたけれど、サンブルの掟に逆らうことは何もしなかった。彼女は恋人を失い、間違っているとは思ったことのないサンブルという故郷も失った。
アフリカの女性たちは働き者だ。グレッグに連れて行ってもらって見たマサイ族の女性たちも、アメリカ育ちのジョルジアには考えられないほどの仕事を負担していた。重い水を運び、家を建て、子供と家畜の面倒をして、農作業をもする。男たちは、ビールを飲みながら座って会話をしているのに、女たちは休みなく動き続けている。
ナセラも、緩やかな動きながら休みなく働いていた。洗濯、皿洗い、床掃除の間、肩をゆすりながら口を動かしている。足下も揺れている。地面を緩やかに足踏みしている。歌い踊ることは、彼女にとって祝祭のような特別なことではなく、日常のことなのだろう。
サンブル社会を憎み否定しているのならば、逃げ出すことに成功したナセラを祝ってあげることができる。けれど、ナセラは、少なくともイギリスにいるよりもケニアに戻ることを願ったのだ。では、ここでは? 彼女は、ここにいることに幸せを見いだしているだろうか。
「ここでの暮らしは? 居心地がいいの?」
ジョルジアは、隣で皿洗いをするナセラに訊いてみた。ナセラは、鼻歌をやめてこちらを見た。不思議そうな顔をしている。
「いいです。マムはときどき厳しいですが、公正に扱ってくれますし、用意してくれた家も快適です」
「イギリスは、快適じゃなかったの?」
ナセラは、瞑想するように遠くを見つめた。沈黙が台所に降りて、手元のシャボン液が弾ける音が聞こえた。ジョルジアが、何かを言おうかと考えたとき、ナセラはその厚い唇をそっと開いた。
「大地から切り離されて戸惑いました」
「切り離されたって?」
ジョルジアには、ナセラの言わんとすることが飲み込めなかった。
「歩くところに、どこにも土がありません。アスファルトに遮られていました。公園に行けば土はありますけれど、とても遠かったです。クラクションや警笛、地下鉄の轟音など、右や左、上から下から、大きな音が唐突にきこえ、リズムが狂いました。風の音がかき消されて、川の水も滞っていました。騒音に満ちているのに、私が歌うと叱られました。歩くときや働くときは黙ってするものだと。精霊の声が聞こえなくなり、大地の鼓動も感じられなくなりました。それでしぼんで消えていきそうになったのです」
ジョルジアは、ナセラの足下を見た。今日も彼女は裸足だった。チョコレート色の足は底の部分だけが肌色をしている。その肌色の部分は、台所のひんやりとしたタイルを踏んでいる。
靴も履かずに歩く人びと。靴を買うお金もない貧しい人びとと憐れむのは私たちの勝手な思い込みだ。ジョルジアは感じた。ナセラも靴は持っている。それを脱いで大地に触れて歩いている。移動することや、美しい姿勢で歩くことに意味があると思っている西欧人の歩き方と違い、ゆっくりと大地を踏みしめながら歩く。彼らの価値観は、違うのだ。
肩を揺すりながら口を突き出し何かを歌い、緩やかに裸足で床を踏みながら動くナセラは、ツァボ国立公園に近いこの家で大地の鼓動を感じながら生きている。
ジョルジアは、ナセラ自体が楽器であり大地の鼓動の受信機なのだと思った。水に乏しい大地に根を生やしたアカシアの木は、過酷な日差しに苦情も述べずに立ちすくみ、負けることなく生き延び続ける。ナセラの刻むビートは、ひ弱な西欧の女性たちが泣き叫ぶような人生の悲哀に、楽天的な香りをつけて昇華させていく。
グレッグが、ここに帰ってきたのも、もしかして同じ理由なんだろうか? 生まれ故郷だったというだけでなく、ナセラと同じように、西欧世界における大地がアフリカのそれと全く違うことに馴染めなかったから。そして、私が故郷ではないのに、このアフリカの大地を懐かしく離れがたく感じるのも。
硬く冷たい世界には馴染めなかった者たちが立ち戻る大地には鼓動が脈打つ。子供たちの、女たちの、男たちの生活と歌と踊りを受け止め、それを打ち返してくるのだ。土ぼこりと灼熱の太陽と、呼応し合う手拍子と足踏みと歌とが、自分もまた地球という生命体の一部であることを教えてくれる。
(初出:2022年6月 書き下ろし)
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【小説】引き立て役ではなく
今回の選んだのは、ヴィオラです。でも、出てくるキャラはあのヴィオリストではありません。ちょっとくらい出そうかと思いましたが、蛇足なのでやめました。『大道芸人たち Artistas callejeros』や『樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero』を読まれた読者の方は、この作品の登場人物(男の2人)の苗字から「あれ?」とお氣づきになるかもしれません。関係はあります。1世代上ですけれど。
そして、この作品の会話だけに出てくるM.ブルッフの『ヴィオラと管弦楽のためのロマンス』は、下に参考として掲げた作品のメインイメージとして使った作品です。ただし、エピソード間には、全く関係はありません。

【参考】
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 ロマンスをあなたと
引き立て役ではなく
美登里は、待ち合わせ場所に現れた蘭を見て、あらまあと思った。こんなに全力でお洒落をした彼女を見るのは久しぶりだ。従姉は、子供の頃から見慣れている美登里ですら、ときどき見惚れてしまうようなところがある。
黒いジャケットスーツはヴェルサーチ。でも、プリントが裏地にあるから、わかる人にしかわからない。鮮やかな薔薇色のカトレア柄のプリントブラウスは、シャープな襟と柄の大きさにこだわりぬいたものだ。このブラウスを見つけるのに彼女がどのくらい時間をかけたのか知っているのは、美登里くらいだろう。
女子高の頃の蘭は、学内一の人氣を誇っていた。ショートカットで背が高く、切れ長の目許は涼しげだ。バレンタインデーには、持ちきれないほどのチョコレートを受け取り、毎年食べきるために美登里が協力しなければいけなかった。
本人は、自分に与えられた役割を自覚しているのか、人前では口数が少なくクールな様相だが、じつは面白くない親父ギャグをいうクセがあり、美登里に絶句される度にわずかに傷つく可愛いところもある。
それに、実は顔には出さないが非常に緊張している時は、声がいつもにまして低くハスキーになる。例えば、今日は相当緊張しているようだ。結城くんが一緒だからだろうか、それとも園城さんの方かしら。
美登里は、一緒に歩く蘭をすれ違う人たちがチラチラと見つめたり振り返ったりするのを見ながら考えた。おかしいのは、女性の方がより熱っぽく見つめることだ。中性的と言うよりは、むしろ宝塚の男役に近い雰囲氣を纏っているからだろう。彼女に言わせれば、高校を卒業したらその手のモテかたとは無縁になるつもりだったのらしいが、この調子では生涯こんな感じなのかもしれない。
今夜は、同じピアノ科の結城勝仁と指揮科の園城邦夫に誘われてコンサートに行くのだ。ツィンマーマンが来日していてブルッフの『クラリネットとヴィオラのための二重協奏曲』を演奏するのだ。同じピアノ科の結城勝仁が、チケットが4枚あると美登里に声をかけてきたのだが、一緒に行きたいのは声楽家の堂島蘭だということは、初めから予想できた。
華やかで交友関係の広い結城勝仁と真面目で物静かな園城邦夫が一緒にコンサートに行くような仲だということは、今回初めて知った。同じ高校出身らしい。性格はずいぶん違うようだが、氣が合うのだろう。
たぶん蘭と美登里も、こんな風に「意外な組み合わせ」と思われているのかもしれない。
「結城くんが、指揮科の園城さんと行くツィンマーマン、一緒にどうかって誘ってくれたんだけれど……」
美登里がおずおずと訊くと、蘭はいつもとは違う食いつき方で「行きたい!」と即答したのだ。蘭がヴィオラがメインのコンサートにそこまで熱心なはずもないので、きっと2人のどちらかを氣になっていたのだろう。
美登里は、そつの無い、悪い言い方をするとありきたりのワンピースを着ていた。蘭が演奏会で歌うとき、伴奏を頼まれる美登里はできるだけ目立たないワンピースを着る。どこか外出するときも、自分が素敵に見える服よりも、他の人たちがどんな服装の場合でも場違いにならないよう、目立たない服を選んでしまうのは癖になっていた。
蘭と出かけるときは、なおさらだ。彼女は常に注目を集めるので、自分に似合う素晴らしい装いと完璧な立ち居振る舞いをするのだけれど、実はファッションそのものにはあまり詳しくないので、美登里が何を着ていても関心も持たないし話題にもならない。むしろ、美登里が蘭からの相談を受けて、彼女が求めるタイプの服装をどこで購入できるかをアドバイスしてあげることも多い。
今回のスーツが、蘭にとっての真剣勝負の服装だということを、美登里が氣がついたのはそのせいだ。たいていの男性は蘭に対して好意的に振る舞うから、どちらであっても難しい恋ではないだろうけれど、美登里にも全くいわなかったことを思うと、蘭にとってはよほど真剣な想いのようだ。できれば傷ついたりしないでほしい。うーん、モテモテの結城くんの方だったら、要注意かなあ。
「そのブラウス、本当にヴェルサーチのスーツにぴったりね。よく似合うよ」
美登里は話しかけつつ、横を歩く従姉の顔を見上げる。身長が高い上に、今日の蘭は、いつもよりも踵の高いヒールなのだ。
「コーデネイトはこーでねぇと……」
出た。定番のしょうもない親父ギャグ……。
「蘭。忠告するまでもないと思うけれど……」
「わかっているわよ。結城くんたちの前では、慎むから」
蘭は、より一層低い声を出した。コンサートホールの前に、既に待っていた青年2人が見えてきた。
「ああ、今夜は来てくれてありがとう」
そう言って、結城勝仁がチケットを2人に渡し、さりげなく蘭の隣に立った。成り行き上、園城邦夫が反対側、つまり美登里の隣に立った。
「こちらこそ、誘っていただけてお礼をいわなくちゃ。ツィンマーマンを生で聴くの、初めてよ。チケット取るの大変だったでしょう?」
蘭は、先ほどの親父ギャグを口にしたのと同じ人物とは思えぬほど、冷静な低い声で答えた。
「邦夫のおかげだよ。今日のコンマスと親しいんだ」
勝仁は、友の方を指した。
「そうなの?」
美登里が訊くと、邦夫は頷いた。
「高校の先輩なんだ」
チケットを切ってもらい入場したが、蘭は、ここでも注目を集めている。ロビーの華やかなシャンデリアの光の下で、ジャケットの上質な黒い照りと、ブラウスの薔薇色の艶やかさが際だった。
非日常的で、きれいな世界だなあ。美登里はシャンデリアを見上げた。音大に進んだとはいえ、才能あふれる一部のクラスメイトを知ったことで、美登里自身の技量は大したものではないと思い知らされている。将来コンサートピアニストとしてやっていく見通しは皆無で、このホールで演奏するようなこともきっとないだろう。もしかしたら、今のように蘭が常に伴奏者に指定していてくれることで、ここの舞台に立つ可能性がないわけではないけれど。
『クラリネットとヴィオラのための二重協奏曲』は、作曲者マックス・ブルッフの晩年1911年にクラリネット奏者として活躍していた息子マックス・フェリックス・ブルッフのために書かれた。生前はあまり評価されておらず、演奏される機会もあまりなかった曲だが、今日演奏するツィンマーマンやその他の名手たちによって取りあげられてから、しばしば演奏されるようになった。
よくあるヴァイオリンやピアノの協奏曲と違って、楽器自体がメジャーでないためか、それとも全体を通して流れる牧歌的でしっとりした音色のせいなのか、音楽大学に通う美登里ですらも初めて耳にする曲だ。
たとえば映画音楽などに多用されて、誰もが耳にしたことのあるような音楽とは違い、非常に心地のよいその音色はメロディーをいつでも口ずさめるような音楽とは違う。けれど、その旋律の美しさには心打たれる。それはとても心地よい。奇をてらった不協和音などたったの1つもなく、ヴィオラとクラリネットのどちらのよさも生かした作品だ。
重厚に始まる第1楽章、優しく夢見るような第2楽章、そして、華やかに高らかに歌い上げる第3楽章の全てをヴィオラとクラリネットが縦横に活躍し、オーケストラは魅力たっぷりにそれを支えている。
美登里は、すっかり魅了されて20分弱の曲の世界に浸った。ツィンマーマンの奏でる重厚で芯の強い音は美しいが、それはクラリネットをかすめさせることはない。ヴィオラの独奏演奏会に1度も行ったことのなかった美登里は、少し自分を恥じた。
休憩の間、何か飲もうという話になり、4人はロビーに出た。
「素晴らしかったね」
邦夫が、熱のこもった口調で言った。
「ええ。マックス・ブルッフって、こんなロマンティックな曲を書く人だったのね。……私、初めて聴いたんだけれど、もっと聴きたいわ」
美登里は、CDでも探すつもりでそう口にした。
「じゃあ、同じブルッフとヴィオラの曲で、『ヴィオラと管弦楽のためのロマンス』の演奏会が来月あるんだ。それも行く?」
邦夫がすかさず訊いたので、美登里は驚いた。これは4人でってことかしら?
彼女が、彼の真意を確かめようとしたときに「きゃっ」という鋭い声がして、2人は振り向いた。蘭が、変な姿勢で蹲っている。
「どうしたの、蘭?!」
美登里は慌てて駆け寄る。けれど、もっと蘭の近くにいた勝仁は、すぐに彼女を助け起こした。
「いたた……。ごめん、足をひねったみたい」
蘭は、痛みに顔をゆがめながら勝仁に助けられて、廊下のソファに腰掛けた。あっという間に、蘭の足首が腫れてきた。
「これはよくないな。救護室があるか訊いてこよう」
邦夫はすぐにロビーの係員を探しに側を離れた。美登里は、トイレに行ってハンカチを冷たい水で濡らして戻った。
蘭は、数歩歩くのも困難な様子だった。邦夫が戻ってきたが、救護室のようなものはないという情報をもたらしただけだった。
勝仁は、携帯電話ですぐにタクシーを呼んだ。
「このまま、医者に連れて行くよ」
蘭は「まだ後半があるのに悪いわ」と言ったが、勝仁は半ば強引に彼女を抱き上げた。焦った蘭が軽く悲鳴を上げる。
「園城、中村さんはよろしくな」
そういって、会場から出て行った。
「私も行った方がいいかも……」
当惑して美登里が言うと、邦生は肩をすくめた。
「全員の予定を変えさせたら、堂島さんが氣にするんじゃないかな」
言われてみればそうだ。美登里も行けば、邦夫も行かざるを得ないだろう。せっかくコンサートマスターに4枚も都合してもらったチケットなのに、無駄にさせたとなったらずっと1人でぐずぐす悩む蘭だということは、美登里がよくわかっていた。
「コンサートがはねたら、結城に電話して様子を訊こう」
休憩の終わりを告げるベルが鳴っている。美登里は頷いて、邦夫と共に客席に戻った。
後半のプログラムはドイツの作曲家テレマンの『ヴィオラ協奏曲 ト長調』を中心に組み立てられていた。クラシック音楽分野でもっとも多くの曲を作ったと作曲家としてギネスブックに載っているテレマンだが、ヴィオラのためのコンチェルトはひとつしか残っていない。
存命中には活躍したが、後世では時代におもね過ぎた音楽として軽んじられ、大バッハの栄光の影に沈んでしまったといわれるテレマンの作品だが、ヴィオラの落ち着いた音色がバロックの色調とよく合い、心地よい作品に仕上がっていた。とくに終曲の第4楽章はいかにもバロックという音運びなのに、かえって古さを感じさせないのはヴィオラの音色によるものなのかと思う。
コンサートが無事終わり、アンコールまでをしっかりと楽しんでから美登里と邦夫は会場を後にした。邦夫の携帯には既にメッセージが入っていて、既に病院での処置は終わり勝仁が蘭を自宅に送るから心配するなとあった。
美登里が蘭にかけるとすぐに出た。
「ごめんね、美登里、心配かけて。後半、楽しめた?」
「うん。大丈夫?」
「ええ。しばらく、安静にしていれば数日で歩けるようになるだろうって。慣れない高いヒールなんて履くんじゃなかったわ」
蘭の声は、あまり落ち込んでいるようには響かない。
「結城くんは?」
「ここまで送ってくれたけど、もう帰ったわ。彼には悪いことしちゃったなあ。お詫びに、今度ご馳走するって約束しちゃった。でも、痛いのとテンション上がって……つい……」
「何?」
「『ありがトウガラシ』が出ちゃったのよね。呆れているかも」
美登里は、脱力した。親父ギャグが出るくらいなら、落ち込み具合も問題ないだろう。
「蘭、大丈夫みたいです」
そう告げると、邦夫は微笑んだ。
「それはよかった。じゃあ、せっかくだから場所を変えて軽く食べながら、今夜の演奏会について話さないか?」
美登里は驚いた。私と? 蘭のナイト役を結城くんに取られてガッカリしているのだと思っていたのに。でも、美登里も、今夜の新たに知った音楽について語り合いたかった。
邦夫が連れて行ったのは、ドイツ風のダイニング・バーだった。軽く飲むためのおつまみ的なメニューもあれば、かなりしっかりと食べることもできる。飲み物もビールやワイン、それにソフトドリンクも豊富で、かといって居酒屋ほど軽く雑な感じもしなければ、騒がしくもない絶妙な店選びだ。それに、ドイツ音楽を聴いた後の余韻とも合う。
「音大に通っているのに呆れるかもしれないけれど、私、ヴィオラをこんなにちゃんと聴いたの、初めてだったの。いままで、とても失礼なイメージを抱いていたみたい」
美登里は正直に言った。
「そもそもヴィオラの演奏会自体が、全体的に少ないし、弦楽の身内や友人でもいない限り、なかなか聴くチャンスはないんじゃないかな」
邦夫は答えた。呆れている様子でもないし、美登里を慰めようと言っているわけでもないようだ。
「園城さんは、よく聴くの?」
「演奏会はよくというほどには行っていないかな。でも、CDはけっこう集めたよ。指揮法の勉強のためでもあるけれど、純粋にヴィオラやチェロの音が好きなんだ」
「ヴァイオリンよりも?」
美登里は、邦夫の顔を見つめた。彼は少し笑った。
「比較して、より好きと訊かれると、答えにくいけれど、そうだね。少し低めの音色で、普段は目立たないけれど、いったん表に出るとあれだけ存在感を増す、あの感じが好きなのかもしれないな」
低めの音。美登里は、それを聞いて少しだけ心がチクッとしたように思った。
「アルトの歌声もってこと?」
邦夫は、その言葉に心底驚いた顔をした。それから、ああ、という顔をした。
「君は、堂島さんのことを言っているのかい?」
「ええ。そういう意味なのかなって」
邦夫は笑った。
「全く意図していなかったけれど、ソプラノやテノールよりも、アルトやバリトンの歌声の方が、好きなのは間違いないな。でも、堂島さんは関係ないよ。それに、彼女に『普段目立たないけれど』は当てはまらないだろう?」
確かに。この話し方だと、蘭と親しくしたいから美登里に協力をして欲しいという意図もなさそうだ。どこかホッとしていた。蘭の本命が園城さんじゃないといいけれど。
「そうね。蘭は、大輪のカトレアだものね。あ、ごめんなさいね。私、ひがみ根性を出しちゃっていたかしら」
邦夫は不思議そうに美登里を見た。
「ひがみ根性って? 君たちは、掛け値もなしに、とても仲がいいだろう」
美登里は頷いた。
「ええ。仲がいいの。そして、私はみんなの知らないようなお茶目な面も含めて、本当に蘭のことが大好きなのよ。でも、私、まわりからいつも主役と引き立て役という風に扱われるのに慣れすぎて、何も言われる前からそうやって先回りしてしまうの。私は大輪のカトレアを引き立てる添え物のグリーンポジションだって。よく考えるととても嫌なひがみよね」
邦夫はなるほどという顔をした。
「わからないでもないよ。ちょうど僕と結城の関係みたいなものだから」
「園城さんでもそう思うことあるのね。なら、私では無理ないかな。ピアノでも、結城くんみたいに才能のある人とは違うし、子供の頃から蘭と比較されるのに慣れちゃったので、女性としての魅力を磨くのも嫌になってしまったし。だから、世界のその他大勢として慎ましく生きていこうと、地味な方に安心するようになってしまったの」
私ったら、なんてかわいげの無いことを口にしているんだろう。美登里は肩を落とした。こんな話、園城さんが聞きたいわけないじゃない。
邦夫は、ビールのグラスを置くと、しっかりと美登里を見た。
「結城の才能が抜きん出ているのは否定しないよ。あいつには、学内の全員が嫉妬してもおかしくないさ。でも、君のピアノにも、聴くものの心を打つ力があるし、それに女性としても、全く引き立て役ポジションじゃないよ」
彼女は、しばらく言葉が出なかった。何度か瞬きをしてから、ようやく言った。
「園城さん、私の、ピアノ……聴いたことあるの?」
邦夫は頷いた。
「堂島さんの最高の歌声を聴かせたいって、結城に前期発表会に連れて行かれたんだ。で、感想を訊かれて、君の伴奏がいかに好みかってことばかり答えて呆れられた。今回、僕に4人分のチケットを都合しろと厳命したのはあいつなんだ」
美登里は、胸が詰まったようになり、言葉もなく邦夫を見つめた。彼は、少し照れたように続けた。
「今日のヴィオラ、とてもよかっただろう? もし、嫌でなかったら、さっきも言ったブルッフの『ロマンス』一緒に聴きに行かないか」
美登里は、大きく頷いた。
(初出:2022年7月 書き下ろし)
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【小説】山の高みより
今回の選んだのは、ティバです。ご存じないですよね。少し前まで私も知りませんでしたから。ティバというのはアルプホルンの原型になったといわれる楽器の1つで、スイスで中世から牧畜のために使われていた管楽器です。現在のアルプホルンは、2m以上もあるので、とてもヤギを追いながら高山に持って行って吹くことなどできませんが、ティバはずっと実用的な楽器だったようです。
ちなみに、この楽器を8月に持ってきたのは、スイスの建国記念日(8月1日)の影響で、私にとってのアルプホルン系の音は8月と結びついているからなのです。

山の高みより
遠くに灰色の塊がわずかに見えてから15分も経っていなかった。雷雲は恐るべき速度で遠くの山嶺に襲いかかっている。白いヴェールが瞬く間に山肌を覆う。早苗は「これは来るかな」と小さくつぶやいた。
先ほどすれ違ったハイカーたちは、花を摘みながらのんきに下っていったが、もしかするとずぶ濡れになるかもしれない。こちらも人ごとではない。だが、あと5分も歩けば山小屋に着くだろう。そうすれば、少なくとも雨宿りはできるだろう。運がよければ。これは、雨雲との競争だ。
轟きはティンパニーを思い起こさせる。ああ、これだったんだろうかと早苗は思った。ヨハネス・ブラームスの交響曲第1番の第4楽章の始まり。きっとあのティンパニーはいま耳にしているのと同じ雷鳴だ。
ブラームスがアルプに親しみを持つ日々を過ごしていたか早苗は知らない。ウィーンの社交界の中で作曲を続ける偉大な芸術家は、行ったとしても旅行者としてだろう。ハンネスはそうじゃなかった。彼は、この山を日々見上げて育った。この山にもよく登り、祖父や父親から引き継がれた、いま早苗が持っているティバを吹いていた。
早苗は、ハンネスの願いを叶えるために、ひとりでこの山に登っている。この山の頂からティバを吹き鳴らすこと。次のティバの祭典『ティバダ』には加わることができないであろう彼と、もうじき博物館入りするかもしれない楽器に最後の栄誉を与えるために。吹くメロディは決めている。ブラームスが交響曲に書き込んだ旋律だ。
「山の高みより、谷の深きより、君に何千回も挨拶を送ろう
(Hoch auf’m Berg, tief im Tal, grüss ich dich viel tausendmal!)」
ティバは、アルプホルンの原型と言われる楽器の1つだ。スイス、グラウビュンデン州に伝わっていて、かつては放牧中の家畜を鼓舞したり、麓の村人や他の嶺にいる仲間と意思疎通を図るために使った道具であった。
携帯電話を誰もが持ち、麓へも車で楽に往復できるこの時代には、かつての用途で用いられることはもうない。
現代では、アルプホルンは観光産業を象徴する国民的楽器となった。3.5メートルもある巨大な角笛ゆえ演奏することも持ち運ぶこともなかなか難しい特殊な存在になっている。一方で、その原型であったティバや、中央スイスのビューヘルなどは、存在すらも知られぬマイナーな楽器としてその地域で細々と生きながらえている。
ティバは「
かつて牧夫たちが使っていたティバは木製だったが、現在では錫製のものがほとんどで、早苗も錫製の1.2メートルの楽器を愛用している。今日持ってきたのは、さらに短い1メートルのものだ。ハンネスから預かってきた。
ティバの音色は、外国人にとってはスイスらしさの象徴であるアルプホルンと同じに聞こえるらしいが、都会から来た同国人は「郵便バスかよ」という。郵便配達を兼ねてスイス中に路線が張り巡らされている黄色いバスでは、見通しの悪い山道などでホルンに近い4音によるクラクションを鳴らす。これは、かつてヨーロッパ中で郵便配達が角笛を使って到着を知らせていた時代の名残だ。
山からこの楽器を吹き鳴らすと、谷では、音色がどこから聞こえてくるのかはっきりしない。が、演奏技術や事前に合意した音の並び方から、演奏者を推測することが可能だ。かつてはそうやって谷を越えた別の村に危機などを速やかに知らせることができた。
現在では、個人の楽しみで吹くのがメインだ。もっとも10年ほど前からいくつかの村をシグナルのリレーでつなぐティバの祭典『ティバダ』が開催されており、それが愛好家たちのモチベーションの維持に繋がっている。
かつてはその存在さえ知らなかった楽器だが、早苗は同僚だったハンネスに誘われて『ティバダ』を見にいってから、ティバをよく練習するようになった。日本では、中学も高校でも吹奏楽部に所属していたので、音を出すまでにさほど苦労はしなかった。
ハンネス。もうずいぶん長い付き合いになるよね。ずっとただの同僚だったのが、ティバをきっかけに仕事以外でもよく会うようになって。いろいろな話も聞いてもらった。この国に来て、友達も少なかったし、本当に嬉しかったんだよ。あなたのことを話してくれるようになったのは最近だけれど。
本名がヨハネスだということを知ったのも最近だ。ハンネスという今どき珍しい古風な通り名は、消えかけている伝統の継承をするのだという彼の意思表示なのかもしれない。そういえば、彼は恋に関しても今どきの若者にはあり得ないほど古風だ。早苗は初めて聞いたときに耳を疑った。ティーンエイジャーになれば親が避妊の心配をするようなこの国で、秘めた想いを伝えもせず10年以上も隠し通しているなんて。私も人のことは言えないけれど。
下草を踏み分け、曲がりくねった根でできた天然の階段をいくつか登り鬱蒼とした老木の間を通ると、急に視界が開けた。すぐそこに山小屋が見えている。助かった。雨雲はもう早苗に追いついていて、ポツリ、またポツリと頭や上着を雨粒が規則正しく打ち始めた。
走ってなんとか山小屋に駆け込む。小屋内部の屋根を打つ雨音の激しさにかえって驚く。もうこんなに降っていたのかと。
「まあ、最後の瞬間に駆け込めて幸運だったわね!」
黒いエプロンを着けた女性が言った。早苗は、頭を下げた。この山小屋で常時働いているのは夫婦と外国人スタッフだけと聞いていた。方言のなまり方からこの人はスイス人だ。つまり、この人がコリーナさんなんだろう。
「ステッターさんですか。私……」
そう言うと、彼女はみなまで言わせなかった。
「あら。あなたがサナエね。ハンネスから聞いているわ。私がコリーナよ。よく来てくれたわね。いま、ブルーノも呼んでくるわ」
奥から現れた男性は、熊のように大きく、口の周りにしっかりと髭を蓄えていた。農家によく見るチェックのリンネルシャツを着ている。夫婦共にハンネスよりもひとまわりは上そうだ。
「ようこそ。なんでもこの山でティバを吹くんだって?」
「はい。本当はハンネス自身が来たかったと思うんですけれど」
そういうと夫婦も沈んだ表情になった。
「病院に入っているんだって?」
「はい。今年の『ティバダ』の参加は取り下げたんです。先週、お見舞いに行ったときにそう言っていました。ものすごく残念がっていて、それで成り行きで頼まれて、ここに来ました」
2人は頷いた。そして、早苗にテーブル席に座るように促し、何が飲みたいかと訊いた。ハンネスからの依頼でご馳走することになっていると。早苗は感謝してコーヒーを頼んだ。
外はひどい雷雨になっていた。閉じた雨戸の隙間からも稲光のフラッシュが山小屋に入ってくる。屋根を川のように水が流れ落ちていくのを感じる。突如、激しい音が加わる。屋根を打ち付ける小石のような音。雹だ。
「おやおや。これは外にいたら大変だったな」
雷雨に離れているのか、夫婦はさほど慌てていない。コーヒーを運ぶと、ブルーノは自分用にはビールの小瓶を持って早苗の前の席に座った。
「ハンネスはさ、小さな子供の頃から親父さんに連れられてここに来ていたよ。ティーンになってからはひとりでもよく来たなあ」
ブルーノは、感慨深げに言った。コリーナも頷いた。
「そうね。短いティバを持ってね」
「これですか?」
早苗はリュックの後ろに下げていたティバを見せた。
「そうね、そんな色とサイズだったのは間違いないわ。もっとも私たち、違うのを見せられても、わからないけれど」
早苗は頷いた。そうか、コリーナさんたちは、ティバには疎いんだ。それに、ハンネスの秘めた願いにもきっと氣がつくことはないのかもしれない。
見舞いに行ったとき、ハンネスは、唐突にこう言った。
「君は、クラシック音楽を聴くんだったね。ブラームスも?」
「そうね。シンフォニー1番は大好きよ」
そういうと、彼は、ぐっと身を乗りだしてきた。
「あの曲について、言われていることも、知っている?」
早苗は、一般的な知識を答えた。第4楽章の主題がアルプホルン由来であることや、有名なメロディーが敬愛するクララ・シューマンへの想いを込めたものと言われていることなどだ。
「山の高みより、谷の深きより、君に何千回も挨拶を送ろう」
クララ・シューマンの誕生日に、ブラームスはそう歌詞をつけてこの主題を贈った。
ハンネスは、考え込むように頷き、それから意を決して、早苗にこう言った。
「僕も、クララ・シューマンに挨拶したいんだ。山の高みから」
ここまで歩いてくる道すがら、早苗は以前にハンネスが打ち明けてくれた秘密の恋について考えていた。ずっと若い時から続いている想いがあると。その女性はとっくに結婚していて、自分の願いが叶う見込みはまったくないと。
わざわざブラームスと、クララ・シューマンに言及したのは、そういうことではないだろうか。14歳上のクララに対して、ブラームスが恋愛感情を抱いていたのではないかという話は有名だ。だが、彼はロベルト・シューマンに対しても深い尊敬を抱いており、ロベルトの死後も節度を守り続けたとされている。
「お。おさまったみたいだな」
ブルーノが言う。コリーナは立ち上がって、雨戸を開けた。強い日の光が差し込んできた。いつの間にか外は、快晴になっていた。
山の上に清冽な風が吹いている。雨雫を受けた針葉樹が太陽の光を受けて輝いている。早苗はティバを持ち、小屋の外に出た。山小屋の建つ草原の先は崖のように切り立った急斜面で、谷底までが一望の下だ。ハンネスの入院する病院はたぶんあのあたり。早苗は地形を見ながら考えた。
山の上からは、アルプス連峰が見渡せた。2000メートルを越すあたりから、山には樹木が生えなくなる。草原と灰色の岩石、夏でもわずかに残る雪とが稜線をくっきりと際立たせる。宇宙へと続く深い青空に大きな羊雲が悠々と渡っていく。
鋭い鳴き声をあげながら、鷹が旋回していく。高く登っていくその姿はまるで点のように小さい。見えている町の家々も、それなりの川幅だったはずのライン河も、大きく立派な大聖堂も、この山々や大空に比べれば、とても小さい。
ブラームスの交響曲第1番の第4楽章が、脳裏に蘇る。早苗はティバを構えて吹いた。澄み渡った空氣の中、音は谷に響き渡る。何百年もまえの牧夫たちがそうしたのと同じように、身体から漲る力が、音符やルールといった細かい決まり事から解放されて羽ばたいていく。
ハンネスは、ここに再び登り、彼を縛り付けるすべてから解放するこの響きを吹き鳴らしたいと願っているのかもしれない。
ブラームスがアルプホルンから着想して表現しようとしたものも、もしかするとこの開放感、この世界への讃美なのかもしれない。
実際のブラームスとクララの関係も、それどころかヨハネス・ブラームスがクララを本当に愛していたのかも、本当のところは、誰にもわかりはしない。それを興味本位で暴くことが必要だとは思わない。そして、ハンネスの願いの本質について、あれこれ詮索することも。
日本で交響曲を聴いていたとき、早苗はあれを楽器が作り出す芸術作品として捉えていた。それは東京で普段見かける日常生活の光景とはあまりにもかけ離れていて、コンサートホールまたはスピーカーの置かれた部屋の中で完結している抽象的な存在だった。
でも、今、早苗が目にしている世界は、ブラームスがオーケストラに表現させ、それを耳にする者の心に沸き起こる感情と一致する。彼は、この場にいたのだ。正確にこの地点という意味ではなく、アルプスのどこかで世界を見渡し、その崇高さに頭を下げたのだ。そして、この清冽な風の中で、敬愛する人に心の中で語りかけずにはいられなかったのだ。
「山の高みより、谷の深きより、君に何千回も挨拶を送ろう」
私たちの命は儚い。私たちの存在はとても小さい。それは、世の中の不公平な格差すら豆粒のように小さく遠いものにする。忙しい生活も、果たせぬ野望も、うまくいかぬ人間関係も、この壮大さ、崇高さの中では、取るにとりないことだと笑うことを可能にする。
ハンネス。私は、あなたのためにここにいるよ。
早苗は、この山から麓の病院にいる彼に聞こえることを願いながら彼女なりにティバを吹く。彼が、再び自らの足でここまで来ることができる力になることを祈りながら、彼女なりのシグナルを吹き鳴らす。
先ほどまでの雨雲はもうどこにもなく、天の青き深みと雨雫の輝く山肌に、ティバの奏でる挨拶が風に乗って羽ばたいていくのがわかった。
(初出:2022年8月 書き下ろし)
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【小説】水上名月
今回の選んだのは、月琴です。9月といったら月見の宴かなと思って。とはいえ、平安時代と中国の仙人のコラボ作品なので、若干イレギュラーな感じかも。現在の中国楽器としては
とくに読む必要はありませんが、今回の話に出てきた翠玉真人という(ワイヤーで空を飛ぶイメージの)仙人は、以前『秋深邂逅』という作品で書いた人です。

水上名月
弾きはじめに、ためらうごとくに長い間をとった指は、ひとたび弦をかき鳴らすと、えもいわれぬ速さで走る。姉や妹が嗜みとして弾いていた箏や琴の音色は、退屈とは言わぬまでも生氣なく空に消え入るようであったが、今宵の客人の奏でる異国の旋律は、湖水に波をおこし月影を激しく揺らす。
今宵、父の館では南の池に龍頭鷁首の舟を浮かべ月を愛でているはずだ。藤原中納言といえば、政の中心にいるとは言いがたいが、右大臣にも左大臣にも与することのない局外中立の風流人として争いに巻き込まれることを好まぬ小心の殿上人たちに慕われている。
三郞良泰は、方違いでひとり山科の館に来ることになったが、父に請われてここに滞在する客人をもてなすことになった。父藤原中納言が、この客人を都の屋敷にではなく山科の別邸に招き入れたのには理由がある。
この客人は青丹養者なる陰陽家であり、唐人である。陰陽家とは、官吏である陰陽師ではなく、私的需要を満たす技能者である。三郞は、父中納言より客人が異国の陰陽家と耳にして、言葉の通じぬ得体の知れぬ術士の相手などは難しいと慌てたが、実際に逢ってみて杞憂とわかった。言われなければ唐人であるとはわからぬほどこちらの言葉を話し、しかも三郞とさして代わらぬほど若い男であった。
父中納言が、なにゆえこの男を秘密裏に厚遇して迎え入れているかを、三郞は知らなかった。だが、兄太郎良兼が左大臣の三の姫と右大臣の四の姫と同時に艶事を起こし苦境に立たされた折、奇妙なほど穏当な措置を得たのはこの男の力によるものではないかといわれていることだけは知っていた。
今宵、客人は珍しく唐風の装いだ。
「青丹どの。貴殿がこのように風流なお手前をお持ちとは存じませんでした。これはなんという曲なのでしょうか」
「張九齢の『望月懐遠』につけられた曲のひとつだ。作曲者は知られていないが」
「それはどのような詩でございましょうか」
客人は、幼子を眺めるような微笑み方をしてから、月を振り仰ぎよく通る声で吟じた。
海上生明月 天涯共此時
情人怨遙夜 竟夕起相思
滅燭憐光満 披衣覚露滋
不堪盈手贈 還寝夢佳期張九齢『望月懐遠』
(意訳:
煌々と輝く月が海面より昇り、遠く離れた者が同じ月を共に仰ぎ見る
長き夜を恨めしく過ごし、ついには起きて互いに想う
灯を消してわずかな月光を愛でるが、着た衣は夜露に濡れている
月光を盃に満たし贈ることはできない、逢える日を夢見てまた寝よう)
三郞は、直垂の胸のあたりを握り、水上の月が歪むのを見つめていた。その様子を見て取ると、客人は切れ長の眼をさらに細め、怜悧な表情には似合わぬほどの情感を込めて弦をかき鳴らした。三郎の心は、その音色に誘われ嵯峨の小さな寺に泳いでいた。
黒方香で板間より天井までもが焚きしめられた小さな仏間。置かれた几帳の隙間より菊花の薫き物が漏れ出して、かの女の衣擦れが三郎を吸い寄せていた。到着するまではあれほど心急かされていたのに、その瞬、この禁を破れば取り返しのつかぬ事になるという予感におののいた。
だが、几帳の奥にいたその女を引き寄せ、黒く底の見えぬ瞳をのぞき込んだときに、三郎の逡巡は吹き飛び、そのまま朝まで寝乱れてしまった。
嵯峨の姫が、入内を控える身ということはわかっていた。だがあのたおやかな筆蹟と、心絞られる歌で誘われて三郎の分別は闇夜に紛れてしまった。
まだ、事は世間には広く知られていない。だが、政争に巻き込まれることを何よりも嫌う父中納言は、今宵三郎を方違いとして寂しき山科の館に押し込めた。
だが、父の裁決はまことに事を鎮めるのか。むしろ三郎の心に投げやりな思いと、執着の火を解き放っただけではないのか。
胸元に忍ばせた香袋には、紙に包まれた長い髪が入っている。あの夜に二たびの逢瀬が許されないのならばとお互いに交わしたものだ。
「青丹どの」
三郞は、客人に呼びかけた。
「何か、三郎どの」
「貴殿は、ただの陰陽家ではないと聞いています。私と変わらぬほど若く見えるが、そもそも奈良の都の古より年もとらずにおられるとも。貴殿が玄宗皇帝の頃に我が国に来られたというのはまことですか」
客人は、是とも否とも言わず、おかしそうに含み笑いをすると月琴を置いて二人の盃を満たした。
「それが貴殿の欲念と何か関わりがありましょうか」
「貴殿は、本当は青丹なる名ではないのでしょう? 唐からいらした異国びとであられることは間違いないのでしょう?」
三郎がなおも食い下がると、客人は口先だけで笑いながら盃を口に運んだ。
「さよう。本来の名は丁少秋と申します。が、かの地でもその名を知るものは少なく、往々にして翠玉と呼ばれました。その意味を知る、この地の誰かが青丹と呼び始めました。そして、晁衡大人に誘われ道を極める乾道として船に乗りこの地に降り立ったことはまことです」
三郎は、息を呑んだ。晁衡という名が阿倍仲麻呂に唐で与えられた名だということぐらいは、かろうじて知っている。だがそれがまことだとしたら、目の前にいるこの男は少なくとも齢二百五十を越えている。もちろん奈良の都などという馬鹿げた噂に乗じて、陰陽家の経歴に箔をつけんとしているのかもしれぬ。あるいは、くだらぬ問いに益体もない答えで返しただけやもしれぬ。だが……。
「では、貴殿は仙丹を手に入れたのですか、翠玉どの」
身を乗りだして訊く三郎に翠玉は皮肉な笑みを消した。
そして、再び盃を口に運ぶと静かに答えた。
「ひと粒、服用すれば、不老不死を得て天に昇る丸薬。それを手に入れて手早く仙境に達しようとは、秦の始皇帝以来、多くの権力者の願うところ。それがいまだに達せられておらぬのは、何故とお思いか」
「仙丹など存在しないということですか。それとも、かつての皇帝は不死には値しないということでしょうか」
三郎が問い返すと、翠玉は再び口元をほころばせた。
「さよう。丸薬ひとつでたどり着くような道ではござらぬ。また、権力を握ったままでその境地に達することはできませぬ。道は、手放すことによってのみ見つけられるのですから」
月は、高く昇っていた。三郎は、池の上に揺らぐ月影をじっと睨んでいたが、やがて翠玉に向き直り口を開いた。
「私には、惜しい物など何もありませぬ。藤原の家は兄上が継ぐでしょうし、私には大した官位も未来の展望もありませぬ。これまで学問も武芸も一心不乱に精進して参りましたが、それが報われることもなさそうです。それどころか、父上らの足を引っ張る厄介者として、月夜の宴にも招かれぬさま。できることなら浮世を離れ、不老不死の仙境にいたりたいものです」
翠玉は、目を細めて三郎を見た。
「道の道は、世の者がゆく道とは異なる。貴殿が期待するような好ましい状態とは限らぬぞ」
「そのようなことをおっしゃらないでください。この中秋の宵に、貴殿とこうして月を眺めながら酒を酌み交わしていることは、ただの偶然には思えません。不二の身となる機が己の生に再びあるとも思えませぬ。どうか、この私を貴殿の弟子とし、その道をお示しください」
翠玉は、手を不思議な具合に動かし、そのまま三郎の目のあたりで動かした。
それと同時に、空は雲で覆われ、池の上の月影は消えて暗闇が広がった。ちゃぽんと魚が飛び跳ねる音がしたと思うと、すぐ目の前を青銀色の鱗が通り過ぎた。なんだこれは。三郎が目をこすると、目の前は水の中にいるようにゆがみ、大きな銀の鯉の背に翠玉がまたがってこちらに手を差し伸べているのが見えた。
三郎は、これは翠玉の術なのだと理解して、迷わずその手を取り、巨大な鯉の背に、つまり翠玉の後ろにまたがった。
鯉はぐんぐんと上昇していく。上の方には明るい光が差し込んでおり、ますます上がっていくとそれは大きな丸い月であることがわかった。不思議なことには、水の中にいるというのに、全く息苦しいことはなく、その澄んだ水は遠くまでが見渡せた。下方には京の街並みが広がり、御所や止ん事無き方々の屋敷、尊い寺社や鎮守の森や川がよく見えた。
「おっ母! 見て。竜が飛んでる!」
下方からの声に三郎は驚いた。しがみついている銀の鱗の持ち主を改めて見ると、鯉にしては胴がずっと長くなっており、いつの間にか魚の顔つきが角を持つ竜に変わっている。
「違うでしょう。月にかかる雲がそう見えるのよ」
「じゃあ、あの音は何?」
「さあ。お館で月見の宴をなさっているのでしょう」
翠玉の奏でる『望月懐遠』の音色は、冷たい銀色の鱗のように京の町に降り注いでいる。青白い竜は、まっすぐに昇り、やがて子供と母親だけでなく、御所も寺社もまとめて小さな黒い塊になり山の合間に縮こまっていった。
「翠玉どの、どちらへ行かれるのですか」
「貴殿が、道を正しく見る事のできる高みに」
煌々と照らす月光と『望月懐遠』。遠き山の漆黒を見るだに、嵯峨の姫の黒髪を思い起こされ、胸が締め付けられる。胸元をかきむしると、香袋の氣配はしっかりと感じられた。
竜が近づいていくと、大きく輝かしい月は、大きな山の開口部であることがわかった。黄金のどろどろとした液体がぐつぐつと沸き返っていて煙が上がっている。これまで上に登っていると思っていたのが、山の火口に降りてきていたのだ。
見れば、その液体の際に浮かび酒盛りをしている人びとが見える。黄丹や深紫の直衣を纏った殿上人のようだ。あり得ぬほどにひどく酔い、盃を投げ合って笑い転げていた。そして、その弾みでひとりの着た深蘇芳の裾が灼熱火に触れた。
火はあっという間に燃え上がり、叫び声を上げる男を包んだまま灼熱火の中に引きずり込んだ。酒盛りをしている仲間らは、それを見てさもおかしそうに笑いながらさらに酒を注ぎ合った。
「これはよい。残った酒と肴は我らのもの。さあ、もっと飲もうぞ」
「なんてことだ。あれほどの尊き方々が、あのように浅ましい為業を」
三郎は、震えながら言った。翠玉は笑った。
竜は、さらに火口に近づき、あまりの熱さと明るさで三郎は思わず目を伏せて翠玉にしがみついた。
「おやめください。このままでは、私どももあの火に飲まれまする」
だが、翠玉は動じず、竜も速度を緩めなかった。地獄の灼熱火に包まれたと思った途端、ぐつぐつと煮えかえる音も、殿上人たちの笑い声も消え去り、静かな涼しい風が三郎に触れた。
恐る恐る顔を上げると、竜は海の上を滑っていた。真下には煌々と輝く月が映し出されている。
「ここは何処なのですか。先ほどまでいた京の都は、そして、あの火の山は……」
三郎が問うと、翠玉は答えた。
「貴殿は今ここにいる。先ほどまでどこにいたのかなどと思い悩む必要はない」
海原は恐ろしいほどに広く、月影以外はどこまでも続く凪いだ水面だけだった。見慣れた双岡や船岡山が、御所や護国寺の堂々たる緑釉瓦を抱いた屋根が、都のざわめきが、牛車のきしみが、扇を閉じる微かな音が、焚きしめた香の薫りが、全くどこにもなかった。
唐の盤領袍を着て、聴き慣れぬ旋律にて月琴を奏で、青白い竜にまたがる異邦人以外に頼みになる者がいないことに、三郎は戦慄した。
「道の道は、己を極めるのみ。己以外を頼みにしてはならぬ。長く生きれば、父母や友はもとより、我が子やその子すらも年老いて先に鬼籍に入ろう。身につけし衣冠は擦りきれ、屋敷田畑は狐狸の住処となる。それを怖れるならば、この道を求めることは叶わぬ」
三郎は、おのれの直衣を見た。色褪せすり切れて朽ちかけていた。震える手で香袋を取りだし、愛しき嵯峨の姫の髪を見て心を落ち着けようとした。だが、やはりすり切れた香袋の中から現れたのは長い白髪だった。
悲鳴を上げて香袋を取り落とした。白髪とともに破れた香袋は海へと落ちていった。振り返った道士はわずかに笑った。
竜は首を下げて海へと突き進んだ。風に飛ばされそうになった三郎は、瞼を固く閉じて翠玉の盤領袍にしがみついた。助けてくれ。どこでもいい、いつものどこかに帰りたい。屋敷でも、詰所でも、牛車の中でも、どこでもいい。
風がおさまったように感じたので、三郎は恐る恐る瞼を開けた。目の前に、翠玉が向かい合って座っている。彼と三郎は、龍頭鷁首の舟に乗っていた。見回すと、そこは山科の屋敷の池だった。先ほどまで座っていたはずの釣殿には、高坏と蔀が見え、灯明や肴もそのままになっている。
翠玉は何事もなかったのごとく『望月懐遠』を奏でている。三郎は、懐に手を当てた。香袋はそこにあった。直衣も香袋もすり切れてはおらず、すべてが三郎の慣れたこの世のものであった。
「私は……」
「道の道は、貴殿の考えているようなものではなかったであろう」
三郎は大きくため息をついた。
「不老不死の道を究めれば、殿上人も私を尊び、父も私を認め、そして姫との縁も道が開けると思っておりました」
翠玉は、それ以上何も言わなかった。だが、三郎には彼の言いたいことがわかった。この世の栄華を求めている者の進む道ではないのだと。
舟は静かに釣殿へと向かった。満ちた月は池の上を青白く照らしていた。
(初出:2022年9月 書き下ろし)
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【小説】君を呼んでいる
今回の選んだのは、南米アンデス地方周辺で使われる弦楽器チャランゴです。最初、ケーナにしようかとも思ったのですけれど、舞台をボリビアにしたこと、それから使った曲のイメージからチャランゴの方が自然に感じたので、あえてこの小さな弦楽器にしました。
このストーリーの主題は、私がアンデスの人びとに感じるある種の「愁い」で、普段はペルーのフォルクローレなどによく感じるのですけれど、今回はあえてボリビアのポップス『Niña Camba(カンバの娘)』にスポットを当てて組み立てました。舞台に選んだのはチチカカ湖最大の島『太陽の島』です。

君を呼んでいる
アベルは、湖を見渡す段々畑の一角に座り、チャランゴを構えた。ギターと同じ祖先を持つであろう小さな弦楽器は、現代のギターよりはるかに小さく、南米アンデス地方の民族音楽に使われる。
ペルーとボリビアにまたがる湖チチカカ湖は、標高3810メートルという高地に存在する巨大湖というだけでなく、300万年以上前から存在する古代湖だ。このユニークな湖は、かのインカ帝国発祥地の伝説も持つが、おそらくそれ以前から聖地として地元の人の信仰対象となってきたと考えられている。
湖面にはトトラ葦の束を紐で縛って作ったバルサ舟が、観光客たちを乗せて滑っていく。古代から使われている伝統的な舟だが、初めて聞いた者は乗るのに若干躊躇するかもしれない。だが、同じトトラ葦で作った浮島にホテルが建ち人びとが暮らしているという情報を聞いた後は、たいてい安心して乗り込む。
アベルの住むこの島は、トトラによる浮島ではない。チチカカ湖最大の島である『太陽の島』だ。印象的な藍色の湖のほぼ中央にある。島の東側には港があり、カラフルな家屋と段々畑、そして、インカ時代の80近くの遺跡が残されている。
チャランゴの響きは、すぐ近くのオープンテラス・レストランに届き、観光客が首を伸ばして奏者を探している。アベルは、忙しく皿を運んでいるメルバも、この曲を耳にしたのだろうかと考えた。
それがどうしたというのだ。『カンバの娘』は、ボリビアの国民的フォルクローレだ。ありとあらゆるアーティストがこの曲を表現してきた。
Camba, yo sé que te llevo dentro
Porque mi canto y mis versos
Siempre te quieren nombrar
Niña, me llevo todos mis sueños
Me voy esta noche lejos
Donde te pueda olvidar
カンバのお嬢さん、君を心に閉じ込め運んでる
僕の歌と詩はいつだって君の名を呼んでいるのだから
お嬢さん、すべての夢を連れて
今夜、遠くへ行こう
どこか君を忘れられる場所へ
(César Espada『Niña Camba』 より 八少女 夕意訳)
『カンバ』は、アンデス高地に住む人びとを意味する『コージャ』に対して、低地に住む人びとを指す言葉だ。
典型的なコージャであるアベルとメルバは、一刻も早く所帯を持つよう周囲に期待されている。メルバは、真面目で働き者のいい娘だ。両親共に子供の頃からお互いによく知っている。鮮やかな民族衣装を纏い、仕事の後は家事手伝いだけでなく、現金収入のために刺繍や織物を作る。お互いの両親が持つ段々畑は、古代からの石垣に区切られて千年以上も変わらずに存在している。簡単には壊れない石垣は、この島の静かな堅牢さを象徴するかのようだ。
カンバの娘は、この土地で勤勉に働くことなどできはしない。彼らが怠惰だから(そうだと言い張る人もいるけれど)ではなくて、彼らは高地の暮らしには向かないのだ。
「きれいな湖ね」
緑の瞳を輝かせて、彼女はそう言った。フクシア色の都会的なワンピースを翻してチチカカ湖を振り返った。アベルは彼女が眩しかった。黒いピンヒールも、役に立たなそうに小さなハンドバッグも、彼の見慣れた島の人びと、よく来る観光客たちとも全く違って見えた。港に高そうなプライヴェートボートを乗り付けたのは、白いシャツ、白いパンツ、そして白い靴を履いたいけ好かない男で、馴れ馴れしく彼女の腰に手を回して何かを囁いていた。
彼女は、ひらりと身を躱し、秘密めいた笑みを見せてアベルに話しかけた。
「高台になっているレストランというのは近いの?」
それ以上の会話を交わしたわけではない。彼女は、白尽くめの男とメルバが給仕するレストランへ行った。2人が考えるレストランとは全く違ったようで、特に男の方が「キオスクかよ」と馬鹿にした発言をしたが、彼女のハイヒールで他のレストランまで行くのは無理と思ったのかとりあえずそこで食べたあげくチップも置かずに帰ったという。
もう1か月前のことだが、アベルの脳裏からはあの緑色の瞳が消えない。
チャランゴをかき鳴らすことが多くなった。他の曲を弾くこともあるが、氣がつくと『カンバの娘』の旋律に変わっていることが多い。農作業の合間のわずかな自由時間に何を弾こうが勝手だ。そして、それをメルバが耳にしていようがいまいが……。
輝く湖水が遮られたので顔を上げた。薄紫のスカートを着ているのは、予想通りメルバだった。黒目がちの瞳は、特に何もなくても常に悲しげだ。
「なんだ。今日の仕事は終わったのか」
アベルは、訊いた。
「ええ」
短く答えてから、メルバはもの言いたげに口を開いてはやめた。アベルは、若干イヤな心持ちになって、チャランゴをかき鳴らした。メルバは、結局何も言わなかった。
「メルバ。送っていくよ」
「どうして? あなたはまだ仕事中なんでしょう?」
「君の父さんに、高枝ハサミを貸してもらう約束なんだ」
「そう」
コムニダー・ユマニの村は、山へとひたすら登っていく石畳の道に沿って存在している。アベルはおそらく植民地時代とほとんど変わらない服装をしたメルバと共にやはりその時代と変わらぬ石畳を登っていった。
赤茶色の壁、乾いた道、赤道直下の太陽は照りつけるが、風は冷たい。村から眺める段々畑とチチカカ湖は広大で、揺るぎない。インカ帝国が興り、栄え、滅亡していった時間すらも変わらずにここに存在した光景だ。
人びとの服装はかつて盟主国に強制されてスペイン風のものになっても、飾りとして身につける民俗模様の織物、ベルトなどの小物に先祖たちの伝統が残る。
『太陽の島』はインカ帝国以前よりケチュア族ならびにアイマラ族の聖地だった。段々畑では通常この高度では到底栽培できないジャガイモやキヌア、トウモロコシが栽培可能だ。アルパカ、牛や豚、クイ(テンジクネズミの一種)も飼育されている。
「Ama Sua(盗むな)、Ama Llulla(嘘をつくな)、Ama Quella(怠けるな)」古来の戒めを守り、精を出して働く『コージャ』の民は、観光客たちが日帰りで立ち寄り、戯れに土産物を買い、また去って行く繰り返しを横目で眺めながら、数千年変わらぬ営みを続ける。
観光客が急いで選びやすいように、メルバやアベルたちが、仕事の合間に伝統色の濃い土産物を作成する。アルパカの毛織物やインカ柄の刺繍を施した雑貨、トトラ葦で小さなバルサ舟の模型も作る。
メルバは、自宅の扉を開けて「お父さん、いる?」と声をかけた。
「ああ。いるぞ」
「アベルが来たわ」
「ああ。いま行く。待っててもらってくれ」
暗い室内に目が慣れてきた。メルバは、アベルに座るように言い、台所の方へと消えた。アベルは、見るともなしに、織機にかかっている織りかけの布を見た。それから、ふと記憶をたぐり寄せた。以前、メルバが織っていたショールや、テーブルセンターなどと色合いが全く違う。
伝統的な織物はみなカラフルだ。赤、青、黄色、緑、紫、白、オレンジ、フクシア。それらの色を縞や模様にして鮮やかに織り上げる。そのカラフルさが当然となっているので、シンプルな色の組み合わせにむしろ目がいくほどだ。
メルバはかつて、ごく普通の鮮やかな色合いで織っていた。この家に来る度に、見慣れた色合いの布が常に織機にかかっていた。
いま目にしているのは、紫と黄色と白。向こうに積まれている布は青と白と赤。その色合いがおかしいわけではない。その組み合わせを見たことがないわけでもない。だが、メルバの心境の変化が氣になる。何かが……。
そして、氣がついた。緑とフクシアを避けているのだと。あのカンバの女を思いだすとき、彼はフクシア色のワンピースとあの印象的な緑の瞳を脳裏に描いている。そして、メルバが打ち消そうとしているのも、同じあの姿なのではないのかと。それとも、これは、カンバの娘に捉えられている僕の考えすぎなのか。そして、あの女にメルバが嫉妬を燃やしていると思いたがる僕の自意識過剰なのか……。
メルバがチチャモラーダを運んできた。トウモロコシ発酵飲料だが、ごく普通のチチャのようにアルコール分がない。おそらくこれから仕事に戻ると言ったからわざわざこれにしたのだろう。アベルは、グラスを受け取り、ほんのわずかを大地の女神に捧げるためにこぼしてから飲んだ。
「ありがとう。これ、織りだしたばかりか?」
できるだけ、さりげなく訊いたつもりだが、声に緊張が走っているのを上手く隠せなかった。メルバは、とくに氣にした様子もないように「ええ」とだけ言った。
「そうか。前に織っていたのと、色合いが変わったなと思って……」
なんのためにこんなことを言っているんだ、僕は。メルバは、そっと織機に触れて答えた。
「そうね。あなたが、そんなことに氣がつくとは思ってもいなかったわ」
メルバのお下げ髪が揺れているように感じた。
すぐに、メルバの父親が入ってきて、高枝ハサミを見せた。
「やあ、アベル。これでいいのかな」
「ありがとうございます。明日にはお返しできると思います」
「急がなくていいさ。次に必要になる時なんて、思い浮かばないしな。それより、コイツの方は、どうだ。あまり待たせると、織りまくる嫁入り道具で我が家が埋まっちまうんだが」
そう言って、明らかに前回来たときよりも増えている布の山を見せた。
アベルが、答えに詰まっているのを見て、メルバがイヤな顔をして答えた。
「お父さん、やめてよ。嫁入り道具にしようと織っているんじゃないわ。アベルだって土産物屋に売っているの知っているでしょう」
アベルは、急いで立ち上がると、高枝バサミを持って戸口に向かった。それから取って付けたように、もう1つの手に持っているチャランゴを見せながら、メルバとその父親に言った。
「遠からず、まともなセレナーデでも、練習してきます」
父親は、満足そうに笑った。メルバは、愁いを含んだ黒い瞳をそらし、なにも言わなかった。
アベルは、1人でもと来た道を畑に戻りながら、ため息をついた。アベルは、この島で数千年前の祖先たちと同じように生きていく。そうでない人たちと人生が絡み合うことはない。黒いハイヒールとフクシア色のワンピースを身につけた緑の瞳の娘も、プライヴェートボートを所有する白尽くめの男も、生涯にたった1度面白半分に訪れて、そして、青い湖面と遠い雪山に感嘆し、それから都会生活の面白さに戻りここを忘れていくだけだ。
アベルにもわかっている。あの緑の瞳が自分に向けられることはないことを。あの娘を想うことが何ひとつ生み出さないことを。それでも、チャランゴが奏でるのは同じメロディーで、アベルが彷徨うのは同じ幻影だ。忘れようとすれば、より想うことになる。湖に沈めようとすれば、犠牲になるのはあの娘のではなく、自らの心臓だ。
段々畑とチチカカ湖は広大で、揺るぎない。古代から変わらずに存在する奇跡の湖は、アベルの迷いやメルバの愁いを氣にも留めぬように、冷たく穏やかに広がっていた。
(初出:2022年10月 書き下ろし)
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【小説】バッカスからの招待状 -17- バラライカ
今回の選んだのは、ロシアの弦楽器バラライカです。舞台はおなじみ大手町のバー『Bacchus』です。
白状します。ロシアの楽器を選んだのはわざとではありません。楽器の名前のカクテル、バラライカしか見つからなかったのです。でも、少なくともこの店ではどんな世界情勢であっても皆が平和にお酒を飲んでいてほしいと思い、あえて火中の栗を拾うことにしました。

【参考】
![]() | 「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む |
バッカスからの招待状 -17- バラライカ
開店直後にその女性が入ってきたとき、いつものように「いらっしゃいませ」と口にしながら、田中は通じるだろうかと懸念した。彼女は背が高く、金髪で青い目をしている。氷の彫像のように、まったく表情筋を動かさないので、田中には日本語が通じるのかどうかの判断ができなかった。
そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにある。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と書かれている。
今夜は水曜日、バーテンダーであり店主でもある田中が1人の日だ。東京駅から遠くないので、外国人の客が来ないわけではないが、立地が立地だけに誰にもつれられずに1人で入ってくることは珍しい。田中も簡単な英語は話せるが、流暢というほどではない。他の言語であれば全く話せない。
「もう開店していますか」
イントネーションは違うものの、普通の日本語だった。そうとう話せるようだ。
「はい。お好きな席にどうぞ」
田中は、カウンター席とテーブル席を示した。彼女は、カウンター席の真ん中に座った。
「どうぞ」
「ありがとう」
田中の差し出したおしぼりを、わずかに頭をかしげながら受け取る。
カランと音をさせて、次の客が入ってきた。
「こんばんは。近藤さん」
「やあ、マスター。あれ、1番乗りじゃなかったか」
モデルか女優のような金髪美女を見て、彼は一瞬固まった。常にイタリアのブランドとすぐにわかるスーツに個性的な色のネクタイをしている近藤は、この店の常連の中でもとくに言動がキザだ。いつもなら、近藤がよく座る席に腰掛けている一見客に、何かいわなくても良さそうなひと言を口にするのだが、今日は調子が出ないようだ。
「僕も、今日はカウンターにしようかな」
などと言いながら、女性の右横を1つ空けた席に腰掛けた。「今日は」もなにも、常にカウンターに腰掛けているのだからおかしな発言だが、慣れない外国人客がいて調子が狂っているのか、それとも女性に話しかけるきっかけなのかわからず、田中は様子を見ることにした。
「メニューをどうぞ」
田中が日本語だけで話しかけて、彼女が「ありがとう」と受け取ったのを見て、近藤は少しホッとしたようだった。
「近藤さんも、メニューをどうぞ」
「ああ、うん。いつものをまずもらおうかな。おつまみは、今日は何がいいかな」
「サラトガ・クーラーですね。かしこまりました。まずはこちらを」
田中は、つきだし代わりにサーモンとイクラのディル和えをそっと近藤の前に置いた。そして、女性の前に置く前に訊いた。
「お魚は召し上がれますか」
女性は、わずかに目を細めて答えた。
「ええ。もちろん。イクラは子供の頃から食べ慣れているもの」
「どちらのお国ですか?」
近藤がすかさず訊くと、女性は顔も向けずに「ロシアよ」と答えた。
なるほど、と田中は心の中でつぶやいた。このご時世、とくに本人に咎はなくとも、出身国を口にするだけで不快な対応をされることもあるのだろうと。
もっとも女性も、さすがにつっけんどんすぎると思ったのか、しっかりと顔を向けて言い直した。
「ヴォルガ河のほとり、ニジニ・ノヴゴロドから来たの」
田中は、それが広いロシアのどこにあるのか知らなかったが、近藤にはそうではなかったらしい。
「聖都キーテジからですか?」
これには、女性も驚いたらしい。それまで能面のようだった顔面が表情豊かになった。
「どうして知っているの? もちろんキーテジではないけれど、スヴェトロヤール湖の近くの出身なのよ」
近藤の顔に、はっきりとした余裕が表れて、いつものように少しキザっぽい口調で答えた。
「たまたま最近、リムスキー=コルサコフのオペラの評論を書いたんでね。田中マスター、キーテジってのはね、ロシアに伝わる、伝説の見えない都市なんだよ」
「そうなんですか。そのオペラは、その都市が舞台なのですね」
田中が訊くと、2人は同時に頷いた。
「キーテジに関する伝説と、別のフェヴローニヤという聖女伝説を組み合わせて1つのオペラにしたの」
女性が説明すると、近藤が続ける。
「色彩的な素晴らしいオーケストレーションに、民族楽器のバラライカを組み合わせた傑作なんだ」
「バラライカ……ですか」
田中がなるほど、というようにつぶやいた。
「あれ。マスター、バラライカを知っているんだ。すごいねぇ。けっこうマイナーな楽器だけど」
近藤が少し驚いたというように黒縁眼鏡の奥の目を細めた。女性も頷いている。
バラライカは、ロシアの民族楽器だ。三角錐形の共鳴胴を持つ弦楽器で、子供が抱えられるくらい小さな物から、大人の身長を超えるほど大きいものもある。カエデやトウヒを使った現代の楽器は澄んだ美しい音色を出す。
「いえ。楽器に詳しいのではなくて、その名前をもらったカクテルがあるんですよ」
田中は笑った。
「ああ、そうよね」
女性が笑う。
「へえ。どんなカクテル?」
近藤が訊く。
「サイドカーのバリエーションです。ベースがウォッカになっています」
田中が答える。
「久しぶりに飲んでみたいわ。それをお願いできる?」
女性が微笑んだ。
「かしこまりました」
田中はストリチナヤ・プレミアム・ウォッカの瓶を取り出した。高品質なピュアウォッカだ。ホワイトキュラソーとレモンジュースをシェイクして作るバラライカは、さっぱりした味わいが肝なので、特に希望を言われない限りはピュアウォッカで作る。
「バラライカが、ロシアの代表的な楽器として重宝されるようになったのは、わりと最近だって知っていた?」
女性は頬杖をついて訊いた。
「いつ頃ですか」
しっかりとシェイクしながら、田中が訊く。
「19世紀。それまでは旅芸人たちが使い安価だったことから、価値のない楽器とみなされていて、喧嘩の時に殴るのに使われていることもあったらしいわ」
田中は驚きの表情を見せた。
近藤が後を続けた。
「ペテルブルグの商人ワシーリー・アンドレーエフが楽器をもっと響くように改良して、オーケストラを編成し、その良さを知らしめることに成功したんだよね。それに、ニコライ・リムスキー=コルサコフが、『見えざる町キーテジと聖女フェヴローニャの物語』で用いるなどして、あの済んだ美しい音が世界に知れ渡ったと」
女性は、田中が「どうぞ」と前に置いた白いカクテルを見ながら言った。
「それに、なんといっても映画『ドクトル・ジバコ』ね」
「『ララのテーマ』! あれ抜きには語れないな」
近藤も同意する。
「このカクテルも、あの映画のヒットともに知られるようになったといわれています」
田中は、2人に微笑んだ。
「マスター、おすすめの肴は何かな。せっかくだから今晩はロシア繋がりで行きたいんだけど」
近藤が訊く。
「そうですね。塩漬けニシンをライ麦パンに載せたカナペ、角切り野菜をマヨネーズで和えたロシアンサラダなどでしょうか。ああ、そうだ、近藤さん、ビーツは召し上がれますか」
「うん。食べるよ」
「では、ピクルスを仕込んであるので、それをクリームチーズで和えたものはいかがですか」
近藤は頷いた。
「どれもいいね。みんなもらおう。……ええと、あなたは? 田中さんの作る肴はどれも美味しいですよ。よかったらご馳走します」
女性は、微笑んだ。
「聞いているだけでホームシックになりそう。じゃあ、喜んでご馳走になります」
それから、田中と近藤の顔を交互に見て言った。
「こちらのお店、お客さんを名前で呼んでいるのね。いいわねぇ」
「田中マスターは、お名前を言うとすぐに覚えてくれますよ。僕、2回目に来たのは2か月くらい経ってからだったんだけど、覚えてくれていたんで感激したんだよね」
「恐れ入ります」
女性はチャーミングに笑って言った。
「じゃあ、私もテストしようかしら。私、オルガ・バララエーヴァっていうの。次回、忘れずに呼んでね」
近藤が少し口をとがらした。
「それ、それほど難しくないじゃないですか」
「どうして?」
「だって、いまバラライカの話題をしたばかりで……」
「ああ、そうよね」
3人は笑った。
そうこうしているうちに、他の客も入ってきた。近藤とオルガに感化されたのか、その晩は、ウォッカ・ベースのカクテルを頼む客や、ロシア風のおつまみを見て珍しそうに注文する客が続き、なぜか「ロシア・ナイト」のようになってしまった。
リムスキー=コルサコフの『見えざる町キーテジと聖女フェヴローニャの物語』で題材にしたのは、異民族との戦いでこの世から姿を消してしまった中世の偉大な都市と、その犠牲になった人びとたちの物語だ。
オペラは、現世での栄華や民族間の戦いの虚しさを伝えようとしている。オルガの生まれ育ったスヴェトロヤール湖畔に聖なる街キーテジは、今も存在すると伝えられている。なくなったのではなくて、ただ見えなくなったのだと。
伝説によると、白い石の城壁、黄金の屋根を持ついくつもの教会や修道院、素晴らしい装飾を施した
戦いも悲しみも存在しなくなる最後の審判の日に、キーテジは再びその姿を現すようになるとヴォルガの人びとの間に伝えられている。
静かな宵に湖畔に立てば水の中に見えざる街が映し出されることがあるという。そして、夜更けに愁いに満ちた鐘の音がかすかに聞こえてくるのだと。
それは、バラライカの音色のように澄んでいるのだろうか。その幻影は、爽やかだけれども実は強いカクテルのように、すぐに人を酔わせるのだろうか。
戦いも悲しみもまだ満ちているこの世で、少なくとも今宵この店の中では、どの客たちも平和を願いつつ楽しんで欲しいと、田中は願った。
バラライカ(Balalaika)
標準的なレシピ
ウォッカ - 30ml
ホワイト・キュラソー - 15ml
レモンジュース - 15ml
作り方
材料をシェイクしてカクテル・グラスに注ぐ。
(初出:2022年11月 書き下ろし)
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【小説】鐘の音
今回の選んだのは、楽器というのはちょっと無理があるのですが、教会の鐘です。ヨーロッパの生活にとって、腕時計やスマホが普及した現代ですらかなり大切な存在なのですけれど、今回の作品の舞台に選んだ中世(実はここはフルーヴルーウー城下町。でも、マックスが領主様ではないです)ではもっと重要な存在でした。
ここに出てくる2人は、まだ未発表の私の妄想にだけある作品のカップルなのですが、12月分のためにイメージしていた『Carol of the Bells 』の世界観にちょうどはまったので、出してしまいました。かなり自己満足な世界観が炸裂していますが、お氣になさらずに。そして、これが今年発表する最後の小説になります。

鐘の音
鐘が鳴り響いている。その音は、屋内では考えられぬほどの力強い響きで降り注いでくる。そして、世界に語りかける。教会に集え、神を褒め称えよ、強き者も、弱き者も、すべてを救う神の御子を待ち望めと。
水飲み泉は街道に向かう門にほど近い町外れの一角にある。レーアは六角形の1つの面に背中をもたせかけて蹲っていた。
そこは、半年ほど前に彼女が高熱で倒れ、死にかけた場所だ。あの時と同じく、今の彼女にはどこにも居場所がなかった。
熱はないけれど、今度は真冬だった。昼でも冷たかった風が、日が暮れてからは切るように彼女を苛みはじめた。
昨夜を過ごしたアーケードは、風から守られていた。寒くて眠ることはできなかったが、動けなくなるほどのつらさではなかった。今朝、あそこから追い出されたときに、城壁の中でもう1度見かけたら棒で打ち据えると脅された。
昨夜、2日前に雇い入れられたばかりの屋敷で主に夜伽を強要され、逃れるためにレーアがついた嘘は功を奏した。
「私に触れない方がいいです。私は、犬の血を浴びました」
犬を殺すこと。それは、もっとも忌み嫌われる行為で、その血に触れた者に触れることも、同じ禁忌を犯したと見做され社会から抹殺される。
好色でも蚤のような心臓しか持たない男は、慌ててレーアを自由にしたが、すぐに屋敷から追い出された。たった2日で、彼女は仕事と住まいの両方を失った。
それ以前、夏から彼女がいた所は、暖かかった。《周辺民》と呼ばれる、忌み嫌われる人びとが住む一角で、貧しい人びとが住む小さく狭い家々がひしめく地域に、森に面した裏口を持つ奥深い仕事場を備えた比較的広い建物だった。
行き倒れていたレーアをその家に連れて行き、看病をして半年も住まわせてくれたジャンは、革なめし職人だった。この仕事に就く者は《周辺民》からも敬遠される。それは、もっとも禁忌とされたある種の動物の血液に直接触れるだけでなく、強い臭いを放つ溶液や糞尿で皮を煮るその工程が迷惑がられたからだ。
しかし、レーアは数日間は高熱で朦朧としていたので、誰に助けられたか意識していなかった。縁もゆかりもない病人の世話をし、根氣よくスープを飲ませ、回復した後も家事を引き受ける以外の見返りも求めずにそのまま住まわせてくれた人に対して、嫌悪感を持つことないまま、彼と親しくなった。
それは、本来なら教会がしてくれるはずの庇護だった。だが、それを待っていたら彼女は助からなかっただろう。たぶん、今いるこの水飲み泉の傍らで、とっくに息絶えていたはずだ。
ジャンが彼女を抱きおこした時も、教会の鐘は鳴り響いていた。それは日曜日で人びとが夕べの祈りを捧げるために賛美歌を歌っているのが聞こえた。
「おい。どうしたんだ」
レーアは、「水を」と頼んだ。
泉から汲んだ水を飲ませてくれた後で、彼は訊いた。
「家は、どこだ」
レーアは、首を振った。高熱で朦朧としていたけれど、どこにも行くあてがないことは忘れていなかった。ジャンは、彼女をそのままにはせずに、抱きかかえて自分の家に連れて行った。自分の寝床に寝かせて、1週間以上も看病してくれた。
それからの半年間は、レーアにとって幸福そのものだった。物心ついたときから義父とその後添いに奴隷のようにこき使われてきた彼女には、《周辺民》として忌み嫌われる人びとの中で生きることなどなんともなかった。
鐘は、こんなにも大きな音で鳴るものだっただろうか。誰も通らなくなった寂しい通りに、それは雨のように降り注いだ。
やがて、その響きは、いつの間にかこの半年間に聞いた、彼の言葉となった。
「お前、なんて名前だ」
「水、もっと飲むか?」
「腹、空いていないか?」
「こっちに来て、暖まれ」
煌びやかな教会の装飾や神父ら、立派な日曜日の衣装に身を包んだ紳士たちは、レーアには冷たかった。そうではなくて、忌み嫌われ、すえた臭いをさせて、教会墓地に埋めることすら拒否される、社会の隅に追いやられた存在が、彼女にとっての福音だった。
ジャンは、ぶっきらぼうだが優しかった。彼女は、生まれて初めて家事に対しての礼を言われた。作った食事は「美味い」と賛辞をもらった。冷たい泉で洗濯をすることも、大量の繕い物をすることも、ねぎらいや感謝の言葉をもらったことで、笑顔でできるようになった。対等に話をして、笑い合うことも、彼女には新鮮だった。誰かを好きになったのも初めてだった。
鐘は、容赦なく、彼女の聞きたくなかった言葉も思い出させた。
「行くな、マリア。……戻ってこい」
夜中に聞いた、起きているときには、決して悟らせなかった彼の願いは、レーアの儚い希望を打ち砕いた。
出て行きたいと望んだわけではない。けれど、彼の心の奥に住み続ける女性の影に、レーアは悟ったのだ。ここも、私の居場所ではないのだと。いずれ出て行くように言い渡される前に、ひとりで生きていく手立てを見つけなくてはならないと。
洗濯の時に逢う近所の女の1人タマラが、中央広場に店を構える商人の屋敷で洗濯女としての仕事を紹介してくれた。すぐに住み込みで来てくれと言われて、少し困った。こんなにすぐに、ジャンの元から去りたかったわけではなかったから。
ジャンは、タマラからその話を聞いて、ひどく怒った。それは、まったく想像もしなかった反応だった。レーアは、弁解もこれまでの感謝も口にすることを許されないまま、ジャンの家からたたき出された。
でも、その屋敷からもたった2日で追い出され、レーアは再び宿無しになった。
夏に、高熱に朦朧としながらこの街にたどり着いたとき、この水飲み泉に蹲っていたのは、少なくとも水を飲むことができたからだ。でも、今はもうこの泉では水を飲むことはできない。凍るから水が抜かれている。
なぜ、いつまでもここにいるのだろう。寒さを除けることも、水を飲むこともできない。あるのは、出会いの思い出だけだ。鐘と風の音を聴きながら、彼の声を思い出して、夜を過ごすのだろう。そして、きっと朝には目覚めることもないだろう。
それで、弔いでもまた鐘を鳴らすことを思い出した。
この世は、幸せに生まれついた豊かな者と、そうでない者とがいるが、誰にとっても等しく訪れるのが死だ。だから、レーアはこの音を聴くことを許されているのかもしれない。天が彼女に与えてくれる、分け隔てのない恵みがこれなのかと、彼女は聞きながら考えた。
だとしたら、彼の言葉を思い出しながら、どんな階層に生まれようとも変わりのない世界に行くのは、悪くない。
「……おい、ってば。聞こえないのか?」
こんな言葉、言われたことはなかったような。レーアは、ぼんやりと虚ろな瞳を上げた。影が星空を遮っている。
「……ジャン?」
かすれた声で訊くと、影はかがんで、彼の瞳が見えた。
「ここで何しているんだ?」
「……何も」
彼は、しばらく黙っていたが、拗ねたような声で言った。
「せっかくタマラが、俺のところに居たことを隠しておいてくれたのに、台無しにして追い出されたんだってな」
「ええ」
レーアは、そのまま彼の瞳を見つめていた。彼は、かまわず続けた。
「行くところがないなら、なんで帰ってこない。革なめしの所にいるより、凍え死にたいのか」
思いもよらない言葉にレーアは、首を振った。
「違う……。だって、2度と来るなって……」
ジャンは、ため息をついた。
「……そういえば、そんなこと言ったっけな。真に受けるな。とにかく、うちに来い。死ぬよりはいいだろ」
彼はそう言うと、踵を返して歩き出した。レーアがついてくるとわかりきっているように。
彼女は、立ち上がろうとして、そのまま前に倒れた。冷え切ってこわばった足は、まったく言うことをきかなかった。
彼は、振り向くと、戻ってきて「どうした」と訊いた。レーアが立てないのがわかると、「つかまれ」と言って彼女を抱き上げた。
「ごめんなさい」
うなだれる彼女に彼は答えた。
「せっかく助けたのに、ここで死なれたら腹が立つだろ。同じところだぞ」
鐘はまだ鳴り響いていた。風は同じように吹いていたが、それは彼女の命を終わらせるためではなく、鐘の音を遠くに届ける天の使いのみわざと変わっていた。
レーアは、ぐったりと頭を広い胸の中に埋めた。忘れがたい、あのどこか脳内を刺激する臭いがした。
かつてわずかに不快だった、それこそが革なめし職人をもっとも卑しい人びととして社会の片隅に追いやる独特の臭いを、レーアはこの上なく信頼できて安堵のできる徴として嗅いだ。
「前よりもずいぶん重くなったな」
息が少し切れているが、あいかわらずの皮肉が彼女を安堵させる。真剣な顔つきで怒鳴られ追い出されたときから止まらなかった悲しみが、風に散らされて消えていく。
鐘が鳴り響く。すべての人びとの上に。世間からも、教会からも見捨てられた、凍える2人の上にもこだまする。
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」ルカによる福音書 2: 13-14(新共同訳)
(初出:2022年1月 書き下ろし)
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