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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012

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Posted by 八少女 夕

【小説】そして、1000年後にも

今日の小説は『12か月の○○』シリーズの新作『12か月の建築』1月分です。今年は、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめていくつもりです。

トップバッターは、今年もこのブログでもっとも馴染みのあるグルーブArtistas callejerosです。テーマの建築は、ポン・デュ・ガールです。南フランス、ガルドン川に架かるローマ時代の水道橋です。

このストーリーは本編とはまったく関係がないので、本編をご存じない方でも問題なく読めます。あえて説明するならヨーロッパを大道芸をしながら旅している4人組です。


短編小説集『12か月の建築』をまとめて読む 短編小説集『12か月の建築』をまとめて読む

【参考】
「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結)
あらすじと登場人物

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部
あらすじと登場人物




大道芸人たち・外伝
そして、1000年後にも


 陽光は柔らかく暖かいものの、弱々しい。ブドウの木はまだ眠っているようだし、地面の草の色もまだ生命の喜びを主張しては来ない。何よりも浮かれたバカンスを満喫する車とすれ違うことがまったくない。南仏の田舎道は、慎ましくひっそりとしている。

 だが、国道100号線を走るこちらの車の内側がシンと静まりかえっているかといえば、そんなことはない。今日ハンドルを握るのはヴィルだ。助手席にはフランス語の標識に即座に反応できるという理由でレネが座ったが、そもそも迷うほどの分岐はほとんどなかった。

 日本人2人組は、道を間違えてはならないという緊張もないためか、時に歌い、時に笑い、そうでなければ、ひきりなしに喋り続けていた。

「そういえば、今日のお昼に食べたあの料理、なんて名前だったかしら?」
レネの母親シュザンヌが作る料理は、素朴ながらどれも大変美味しいのだが、今日の昼食はいつもよりもさらに手がかかっていた。ひき肉を薄切り肉で包み、さらにベーコンでぐるりと取り巻いてからたこ糸で縛ってブイヨンで蒸し煮にしてあった。ワインにもよくあって、蝶子は氣に入ったらしい。

「メリー・ポピンズみたいな料理名だったよな?」
稔が適当なことを口にする。蝶子は呆れて軽く睨んだ。絶対に違うでしょう。

「ポーピエットですよ」
レネが振り返って言った。
「今日のは仔牛肉で作っていましたが、白身魚で包んだり、中身を野菜にしたり、いろいろなバリエーションがあるんですよ。煮るだけじゃなくて、焼いたり揚げたりすることもありますし」

「ああ、それそれ。美味かったよな。それに、あのチョコレートプリンも絶品だったよなあ」
普段あまり甘いものに興味を示さない稔がしみじみと言った。

 バルセロナのモンテス氏の店での仕事を終えて、イタリアへと移る隙間時間に、4人はアヴィニョンのレネの両親を訪ねた。例のごとく大量のご馳走で歓待され、レネの父親のピエールとかなりのワイン瓶を空にした。それで、4人は今夜も大量に飲むであろうパスティスやその他の酒瓶、それに食糧を仕入れに行くことにした。そして、ついでに『ポン・デュ・ガール』に足を伸ばすことにしたのだ。

 『ポン・デュ・ガール』は、ローマ時代に築かれたガルドン川に架かる水道橋だ。高さ49メートル、長さ275メートルのこの橋は、ローマ帝国の高度な土木技術が結集した名橋だ。レネの両親の家から30分少し車を走らせれば着くと聞いて、蝶子が買い出しのついでに行きたがったのだ。
 
 世界遺産にも登録されたためか、駐車場と備えたビジターセンターがあり、そこで入場料を払う仕組みになっていた。ミュージアムの入館料も含んでいるので、橋を渡るだけにしては若干高いが、歴史的建造物の維持に必要なことは理解できる。

 4人は、ミュージアムを観るかどうかは保留にして、とりあえず橋を見にいくことにした。センターを越えてしばらく歩くと行く手に橋が見えてくる。深い青空をバックに堂々と横たわるシルエットは思った以上に大きかった。

 さらに近づくとその大きさはこちらを圧倒するばかりになる。黄色い石灰岩の巨石1つ1つを正確に切り出して積み上げている。これを、クレーンもない時代に作ったことに驚きを隠せない。

「こんなに高くて立派な橋を作ることになったのはどうして?」

「今のニームにあったローマの都市で水が不足して、ユゼスから水を引くことになったんです。それで、この川を渡る必要ができたんだそうです」

 アヴィニョンの東にある水源地ユゼスから、ネマウスス、現在のニームまで水を引くためにはいくつもの難関があった。ユゼスとネマウススの間には高低差が12メートルしかなかったので、1キロメートルごとに平均34センチという傾斜を正確に計算し、時に地表を走らせ、時に地中を走らせつつも、幅1.2メートル、深さ1.8メートルの水路を全行程に統一させた。越えられぬ山を通すためにセルナックのトンネルが掘られた。そして、最大の難関がこの渓谷だった。ローマ人は、この難関を奇跡ともいえる建造物を使って克服したのだ。それが、ポン・デュ・ガールだった。

 その3層のアーチ構造は、強度を保ちながら少ない材料で橋を高くする合理的な設計だ。それぞれのアーチは同じサイズに揃えられ、部分の石の大きさも統一されている。プレハブで建物を作るように、同じ大きさの部品を大量に作り一氣に建築する方法によって、ポン・デュ・ガールはわずか5年で完成したという。

 3層構造と文字で読むと大したことがなく感じられても、実際に目にするとその大きさには圧倒される。49メートルとは、14階建てのビルに匹敵する高さなのだ。1つ6トンもの石を4万個も積み上げたのは、最上階を走る幅1メートルあまりの水路のためだが、その下を歩く人びとにも大きな助けとなり、ローマの土木技術の正確さと、当時の帝国の栄光を2000年経った今も伝えるのだ。

 4人を含める観光客が自由に歩き回れるのは、19世紀にナポレオン3世が修復し加えられた最下アーチ上の拡張部分だ。ごく普通の橋であれば、ずいぶん広くて堂々としていると感じるのであろうが、古代ローマ時代の大きく太い橋脚がそびえ立つので、小さな部分のように錯覚してしまう。

 水道のある上部は、予約をしたガイド付きツアーの客のみ上がれる。1日の人数制限もあり、思いついて行けるような所でもないらしい。

「子供の時に一度登りましたが、足がガクガクしました」
「ここも、高所恐怖症の人には十分怖いかもしれないわね」

 眼下を流れるガルドン川は、紺碧というのがふさわしい深い青の水だ。周りの白っぽい岩石とのコントラストが美しい。 

 常に穏やかな流れではないガルドン川は、時には大きな濁流となって地域を脅かすこともあった。ポン・デュ・ガールが、長い歴史の中で修復・補強されながらも、現在もこのように立派に経っていることには畏怖すら感じる。それは、大きな水圧にも耐えるよう計算し尽くされた古代ローマの土木技術の賜だ。

「他の地域に大きな被害をもたらした2002年のガルドン川の増水と氾濫でも、この橋はびくともしなかったんですよ」
レネは、説明する。

「水道としての役割はとっくになくなりましたが、橋としては今でも現役ですし、それに、夏には、ここでピクニックをする人がたくさんいるんですよ。2000年前の建造物ですが、人びとの生活や楽しみからかけ離れていない存在なんです」

 もちろん、1月はピクニックには寒く、河岸でたくさんの人が寛いでいるわけではなかった。

 駐車場方向に戻る途中に、古いオリーブの木が目に入った。レネが3人をそちらに連れて行った。

「ずいぶん古い木ね」
蝶子がいうと、レネは片目を瞑った。

「単なる古い木じゃありません。樹齢1000年を越えているんです」
「ええっ?」

 傍らに石碑がおいてある。その石碑自体が古くて半ば崩れたようになっているので、言われるまでそれが石碑だと氣がつかなかった。

Je suis né en l'an 908.
Je mesure 5 m de circonférence de tronc , 15 m de circonférence souche.
J'ai vécu, mon passé , jusqu'en 1985 dans une région aride et froide d'Espagne.
Le conseil général du Gard, passionné par mon âge et mon histoire m'a adopté avec deux de mes congénères.
J'ai été planté le 23 septembre 1988.
Je suis fier de participer au décor prestigieux et naturel du Pont du Gard.


「『私は908年に生まれました。幹周りは5m、株の周りは15mです。1985年までスペインの乾燥した寒い地方に住んでいました。私の年齢と経歴に魅了されたガールの総評議会は、私を2人の同胞とともに養子として迎え入れ、1988年9月23日にここに植樹しました。ポン・デュ・ガールの格調高い自然環境の一端を担えることを誇りに思います』」
レネが、碑文を訳した。

「908年って、日本だと平安時代かしら?」
「確かそうだろ。ほら、菅原道真が遣唐使を廃止したのが894年だったよな」
「ヤスったら、よくそんな年号覚えているわね」
「平安時代だと、『鳴くよウグイス』とそれ以外は何も覚えちゃいないけどな」

 4人はオリーブの木と、向こうに見えているポン・デュ・ガールを眺めた。

「こういうのからすると、俺たちの経験してきた数十年なんてのはほんの一瞬なんだろうなあ」
稔がしみじみと言った。

「そうね。人間というのは、ずいぶんとジタバタする生き物だって思っているかもしれないわね」
蝶子は、老木の周りを歩いて風にそよぐ枝を見上げた。

「新たな技術で何かを築き上げては、戦争をして壊しまくる。豊かになったり、貧しくなったり忙しいヤツらだと思うかもな」
ヴィルはポン・デュ・ガールの方を見て言った。

「僕が子供の頃と較べても観光客や地元民の様相は変わったけれど、この樹々とポン・デュ・ガールは全く変わらない。ただひたすら存在するって、それだけですごいことだと思いますよ」

 人間がそれほど長く生きられないことはわかっている。いま、自分たちが親しんでいるほとんどの物質や文化も、1000年後には姿形もなくなっていることだろう。

 それでも、何かは過去から残り、未来へと受け継がれていく。この古木やポン・デュ・ガールのように。

「1000年後のやつらも、同じようなことを思うのかなあ」
稔はポツリと言った。

「残っていたら、きっと思うわよ」
蝶子がいうと、レネは心配そうに言った。
「残りますかねぇ」

「俺は、現代の人類がよけいなことをしなければ、残ると思うな」
ヴィルは言った。

 4人は、彼らと同じ時間ならびにその後の時間を生きる人類が、素晴らしい過去の遺産や生命を尊重し続けるように心から願いながら、再びレネの実家に戻っていった。

(初出:2023年1月 書き下ろし)

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Pont du Gard, France - World Heritage Journeys
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Category : 短編小説集・12か月の建築
Tag : 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】黒い貴婦人

今日の小説は『12か月の建築』2月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマ建築は、カンボジアのコー・ケー遺跡です。同じクメール王朝による遺跡群ではアンコール・ワットやアンコール・トムの方が有名なのですが、もう少し見捨てられた感の強いマイナーな遺跡を探してここにたどり着きました。もちろんフィクションです。お間違いのなきよう。(そんなの当然って?)

なお、後半に登場したアメリカ人傭兵は『ヴァルキュリアの恋人たち』シリーズで『ブロンクスの類人猿』よばわりされている人ですが、まあ、誰でもよかったので出しただけで意味はありません。それにこの話もまたしてもオチなしです。すみません。


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黒い貴婦人

 香木の燻された煙が、湿った空氣に溶け込んでいく。ひどい頭痛のように感じられるのは、実際には痛みではなく、途絶えずに鳴り響く蝉の声だ。リュック・バルニエ博士は、ことさら神妙な顔をして老女を見つめた。

 スレイチャハと呼ばれるこの醜い女は、シヴァ寺院の神官のような役割をしている。他の村民たちの絶対的な信頼を受け、この女が頭を縦に振らなければ、リュックの計画している保護計画を進めることは不可能だ。

 村の長老と占い師の中間のような立場なのだろうが、中世フランスであれば、真っ先に薪の上に載せられて火をつけられたであろうと、リュックは表情に出さないように努めながら考えた。

 ヒンドゥー教に改宗するつもりはまったくないが、それでも村民たちとともに煙をくゆらす細い香木を捧げ、リュックは恭しくスレイチャハに寺院の内部に散乱する神像の破片を持ち出すことの許可を願い出た。

 コー・ケー遺跡は、カンボジアの一大観光地シェムリアップの北東120キロメートルに位置する遺跡群だ。80平方キロメートル以上の保護域の中に180を超える聖域が発見されている。そのうち、観光客が立ち入ることを許可されているのは20ほど、残りは深い熱帯雨林に埋もれ実態もいまだつまびらかになっていない。森には地雷の危険もあり調査は遅々として進まない。

 10世紀の終わりにたった16年ほどクメール王朝の都とされたこの地は、当時はチョック・ガルヤ、またはリンガプーラと呼ばれていた。リンガは男性器を意味する石柱でシヴァ神の象徴だ。コー・ケーはアンコール遺跡群と違い、仏教と習合していない純粋なヒンドゥー教寺院だ。アンコール王朝7代目の王ジャヤーヴァルマン4世が出身地に遷都し、息子のハルシャーヴァルマン2世と共にこの地にヒンドゥー教を中心とする王都を作った。

 アンコール王朝は、遺跡に見られる穏やかな微笑みとは相容れぬ王位簒奪と混乱の繰り返しで成り立っていた。簒奪者は実力で王位を手にすると、前国王の王妃や王女と結婚することでその正当性を主張したが、その度に己の実力を誇示し威光を確実なものとするために壮大な寺院を中心とした華麗な王都を建設した。

 コー・ケー遺跡もまた、かつてはヒンドゥー教世界の乳海を模した巨大な貯水池バライ「ラハール」周りに世界の中心である須弥山を模した巨大なピラミッドを持つプラサット・トム寺院をはじめとして、数多くの壮大な寺院を配置し、「ラハール」の水を使った灌漑農業で栄えていたという。

 だが、再び遷都されて王権が届かなくなった後は、次第に廃れて忘れられていった。盗掘や、自然の驚異による破壊だけでなく、15世紀以降にシャム王朝に併合されてからの破壊、また、西欧諸国の植民地時代の美術品の無計画な持ち出しによって、遺跡はかつての詳細な状態がわからないまでに荒廃した。

 彼らの祖先が大切に守ってきた寺院は仏教を信じる異国出身の王に破壊され、大切な神像もハイエナのような西洋人たちに持ち出され、狂信的なクメール・ルージュに打ち壊された。そして、荒廃した寺院の中を熱帯の植物たちが根や枝を蛇のようにくねらせて打ち砕いていく。

 コー・ケー遺跡に限らず、カンボジアのクメール王朝による遺跡には謎が多い。これほど壮大で精巧な遺跡を短期間で作るには高度な技術者と多くの建設に関わった人間がいるはずだ。一説によると当時は35万人もの人びとが現在のアンコール遺跡群のあったあたりに住んでいたはずだという。

 だが、そうした高度な文明の担い手たちは、どこへいってしまったのだろう。

 ここコー・ケー遺跡でも、神々を拝む人びとは、神殿を覆い尽くす熱帯雨林の浸蝕から彼らの神像や神殿を守ることができない。つい最近まで内戦があり、文化遺産の保護どころか治安維持すらままならぬ状態だったカンボジアでは、政府とともに保護活動を進めているのは「アンコール世界遺産国際管理運営委員会」を中心とした国際的な支援チームだ。

 リュックは、子供の頃にアンコール・ワットを紹介するテレビ番組でクメール王朝のことを知った。そして、残された仏像や王の肖像の微笑みに魅せられた。なんと謎めいた美しい微笑みだろう。それが今日の専門へと導いたのだ。これらの遺跡を破壊から守り、謎を解き明かしたい。若き学者として、彼は志を持ってこの地に赴任した。

 西欧の先進的な技術とメソッドは、自分の情熱とともに、きっとこの国の文化遺産をあるべき姿に戻すのに役立つ。そう考えて彼は仕事に臨んだ。だが、実際に赴任してみて、彼の尊い仕事がさほど簡単に進まないことや、ものごとがそれほど単純ではないことにも氣づきはじめた。

 クラチャップ寺院やクラハム寺院の修復のためには、一度倒壊した神像を搬出して工房で修復する必要がある。だが、世界遺産保護プロジェクトが国の許可を得て遺跡の一部を移動させることは、住民たちにとっては神を盗み出すことと見做されることもある。

 リュックは、スレイチャハや村民たちがよそ者を信頼していないことを感じていた。遺跡を守りかつての威容を再現するための修復だと説明しても、信頼できない。かつて、彼らの神は「国を支配する者」によって否定され完膚なきまでに破壊された。熱帯雨林には多くの地雷が埋められ、人びとはいまだに恐怖と背中合わせで生きている。

 スレイチャハは、平たく潰したような口調で呪文を唱え、丁寧に細い香木をリンガに備えた。それは根元から折れてしまっており、台座であった部分にもたせかけるように安置してある。

 ニエン・クマウ寺院。その名は『黒い貴婦人』を意味する。塔の表面がおそらくは山火事で焼かれて黒くなっていることに由来するといわれている。だが、もしかしたら山火事ではなくてクメール・ルージュ撲滅の焦土作戦で焰に晒された結果なのかもしれない。

 リュックが、コー・ケー遺跡の調査に初めて参加したとき、前任の調査員は「ここは奇跡的に破壊を免れた」と説明した。だが、本尊であるリンガがこのように無惨な状態になっているのを「破壊を免れた」と表現することには疑問が残る。

 このリンガを修復のために搬送することが最終目的だが、今日のところは散在する神像の破片の搬出に同意してもらい、信頼関係を築きたい。それに同意してもらうのもまた一苦労だ。

 既に政府の主導する学術保護チームがプラサット・ダムレイやその他の遺跡群から瓦礫と区別もつかずにいた女神像やヤマ神像などを搬出し見事に復元したのだが、それらは現在博物館で展示され、倒壊を待つようなコー・ケー遺跡には戻されていない。その意味を理解してくれる住民たちもいるが、少なくともスレイチャハとその信奉者たちは、西洋人たちが政府と結託して彼らの神を盗み出していると感じているようだ。

 ものすごいスピードで育つガジュマルやその他の植物、氣の遠くなるような湿氣、どこにあるかわからない地雷の数々。彼らの祖先の作った文化遺産を守るためには、早急に修復が必要だ。スレイチャハらが忌み嫌う観光客たちは、そのための費用を生み出す金の卵でもあり、修復した神像をクーラーの完備した博物館で展示することにも意味がある。そう伝えても、彼女らは決して納得しない。

「それで、次の修復ですが……」
片言のクメール語を使い、スレイチャハに話しかけようとすると、老女はそんな声などどこにもしなかったかのごとく無視した。そして、後ろの方を見て「トゥバゥン」と言った。

 すると、信奉者である男たちを搔き分けてひとりの女が寺院の中に入ってきた。リュックは息を飲んだ。この辺りの村で、今まで1度も見たことのなかった女だ。若く、漆黒の美しい髪を後ろに長く伸ばしており、金糸の多い紫の上着と黒い長いスカートをはいている。そのスリットからしなやかで長い足が歩く度にリュックの眼を射る。

 観光客に清涼飲料水を売りつけたり、村で農作業に明け暮れている類いの垢抜けない女とは明らかに一線を画している娘だ。娘から目を離せないでいるリュックを見て、スレイチャハは意地悪な微笑みを見せた。

「トゥバゥン。このフランスの学者さんはお疲れのようだ。あちらでもてなしてやっておくれ」
スレイチャハが言うと、娘はひと言も口をきかずにリュックの手を取り、その場から連れ出した。香木の香りがきつく、頭が割れるように痛い。

 寺院から出た途端、蝉の鳴き声が倍ほどの音量で降り注ぐ。蒸し暑さと、日差しの暴力にリュックは目眩を感じた。

 娘は、彼を半ば崩れた寺院の中に誘った。彼女に勧められるままに、崩れた石の1つに腰掛けて目を閉じた。彼女からは、スレイチャハが焚きしめていたのと同じ香木の強い匂いがしている。そして、その吐息が異様なほどに近くにあるのを感じて困惑した。

「その昔、『黒い貴婦人ニエン・クマウ』と呼ばれた王女が、この地に封じ込められたのです」
娘が囁いたのはフランス語だと氣づいたのはしばらくしてからだった。リュックは、それすらもわからぬほどに混乱していた。

「そこで暮らすうちに、この地の出身の高僧ケオの噂を聞き、この世の悲喜についての教えを請うために彼の庵を訪ねました。そして、師に敬意を表するためにごく近くに寄ったので、師の身体のすべてくまなく知ることになりました」

 リュックはぎょっとして女の顔を見た。具合が悪く相づちもまともに打てていなかったので、自分が何かを聞き違えたのかと思ったのだ。

 トゥバゥンの顔は、不自然なほどにリュックの近くにあった。瞳は暗闇の中で漆黒に見える。艶やかな黒髪は、『黒い貴婦人』の容貌がこうではなかったのかと思わせる。

「そう。そして、ケオ師は還俗し、ニエン・クマウ王女と塔の中でいつまでも愛し合ったのです」
そう囁くと、トゥバゥンはリュックの理性をいとも簡単に崩壊させてみせた。

 さして遠くない寺院で村民たちが祈りを捧げていることも、彼が仕事上で大切な交渉の途中であることも、リュックは半分以上忘れ去っていた。頭はまったく働かない。暑さと湿氣にやられたのか、それともまとわり付くような薫りの香木に何か仕掛けがあるのか。

* * *


「おい。バルニエ博士。おいったら」

 氣がつくと、リュックは1人、寺院の瓦礫の上に横たわっていた。懐中電灯の光が眩しくて思わず手のひらで遮った。

「大丈夫か。宿舎で騒ぎになってんだけどよ」
ゆっくりと起き上がりながら、リュックは呻いた。

 声の主がわかった。マイケル・ハーストだ。単なる宿舎の護衛としてだけでなく、地雷除去の経験もあるというので重宝されているアメリカ人傭兵だ。

 辺りはすっかり暗くなっていて、蝉の声はもう聞こえない。代わりにカンタンの鳴き声がやかましい。

 懐中電灯の灯に目が慣れてハーストの表情が見えた。いぶかしがっているようだ。視線を追うと、自分の上半身のボタンはすべて外され、胸が完全に露出している。視線をおろすと下半身はかろうじて露出を免れていた。いったい、どうなったんだ……。

「……。女は……?」
リュックは、辺りを見回した。ハーストは、目を細めて「やれやれ」という表情を見せた。

「ったく、あんたたちフランス人は、あいかわらずお盛んだな。こんなにボロいけどさ、ここは、一応あいつらの寺院なんだぜ。わかってんのか」

「いや、そういうんじゃない」
あわてて否定してみせた。

「はいはい」
ハーストは、リュックの弁解をまったく信じていないようだ。

「熱中症か、それとも、あの香木に酔ったのか。とにかく、午後から記憶がないんだ。……もしかして、大変な騒ぎになっているのか?」
リュックは、立ち上がるとシャツのボタンをはめて身支度をした。

「大変ってほどじゃないけどさ。あんたが、あの婆さんと交渉に行くと息巻いて出て行ってからちっとも帰ってこないから、何かあったんじゃないかって。女を買うなら、宿舎に戻ってから普通に村に行けよ。こんなところで夜に迷って、地雷だらけの密林に迷い込んだらバラバラになるぞ」

 女としけ込んだと断定されてしまい、心外だったがそれ以上反論するつもりにもなれなかった。本当にそういうつもりではなかったのか、自分でも定かではない。

 あの女、トゥバゥンは何者だったのだろう。あれだけのフランス語を話す女なら、本来通訳として皆に知られているはずだ。だが、見たことも聞いたこともなかった。まるで女の話していた『黒い貴婦人ニエン・クマウ』の幽霊が現れたかのようだ。

 リュックは、ふらつきながら寺院から出て宿舎に帰ろうと歩き出した。

「違う。こっちだ」
マイケル・ハーストに首元を掴まれた。

「俺が来なかったら、本当に明日になる前に死体になっていたかもな。何週間いようと、熱帯雨林に慣れたつもりにはなるな」
リュックは、ぞっとして周りを見回した。

 ガジュマルが絡みつき、今にも崩れそうな寺院が目に入った。月明かりの中で、木々は昼よりもずっと邪悪に見えた。根は蠢き、絡みつき、その力で人間の作りだした文明という名の驕りを簡単に壊していく。

 リュックは、スレイチャハとの交渉について考えた。具合が悪かったとはいえ、彼女の神事を途中で放り出して礼を尽くさなかった。また、あの女とのことを騒がれたらプロジェクト全体も止まってしまうかもしれない。いずれにしても、彼の立場は今朝までと較べてかなり危うくなっている。

 神像の微笑が浮かび上がって見えた。それは、子供の頃にテレビで見たときのような穏やかで柔和な表情ではなかった。ガジュマルの根でじわじわと締め付ける密林の笑い声がどこからか響いてくるようだった。

(初出:2023年2月 書き下ろし)
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Category : 短編小説集・12か月の建築
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】漆喰が乾かぬうちに

今日の小説は『12か月の建築』3月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、スイス・エンガディン地方の典型的な壁面装飾スグラフィットです。本文でも説明がありますが、もっと詳しく知りたい方は追記をご覧ください。

あまり説明臭くなるので書きませんでしたが、スイスの若者は進路がだいたい16歳前後で別れます。大学進学を目指す限られた子供たちをのぞき、義務教育を終えた子供たちは職業訓練を始めます。週に数日働いて少なめのお給料をもらうと同時に、週の残りの日は学校に行くというスタイルを数年続けると、職業訓練終了の証書がもらえて一人前の働き手として就職できるというしくみになっています。


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漆喰が乾かぬうちに

 ウルスラは、誰と帰路についたのだろう。テオは砂と石灰をかき混ぜながら考えた。3月も終わりに近づいたとはいえ、高地エンガディンの屋外は肌寒い。

 だが、作業をするには適した日だ。数日にわたり晴れていなければならない。けれど、夏のように日差しが強すぎれば、漆喰は早く乾きすぎる。スグラフィットの外壁は、現在では高価な贅沢であり、失敗は許されない。職人見習いであるテオに、「今日は休みたい」と、申し出ることなど許されるはずはない。

 昨夜は、村の若者たちが集まって過ごした。それは、テオにとっては、楽しかった子供時代のフィナーレのようなものだった。

 3月1日には、伝統的な祭『チャランダマルツ』がある。かつての新年であった3月1日に、子供たちが首から提げたカウベルを鳴らしながら、冬の悪魔を追い払いつつ村を練り歩く。

 現在では成人とは18歳と法律で決まっているけれど、かつては堅信式を境に子供時代が終わり、長ズボンをはいて大人の仲間入りをした。その伝統は、今でも残っていて、例えば飲酒や運転免許の取得などは法律上の成人を待つけれど、祭の参加での「大人」と「子供」の境は、堅信式を行う16歳前後に置かれている。

 それは皆が一緒に通った村の学校を卒業して、それぞれの職業訓練を始める時期とも一致している。

 去年の8月からスグラフィット塗装者としての職業訓練を始めたテオにとって、今年の『チャランダマルツ』は、最年長者、すなわち「参加する子供たち」として最後の年だった。

 テオと同い年の8人が子供たちの代表として、村役場と打ち合わせを重ね、馬車を手配し、行列のルートを下見し、打ち上げ会場の準備もした。祭の最中は、小さい子供たちの面倒を見るのも上級生の役割だ。行列に遅れていないか、カウベルのベルトを上手くはめられない子供はいないか、合唱のときにきちんと並ベているか、確認して手伝ってやる。

 祭が終わった後は、小学校の講堂を使ってダンスパーティーもした。テオは、音響係として、楽しいダンスで子供たちが楽しむのを見届けた。

 昨夜は、8人の代表たちが集まって、打ち上げをした。それぞれが、はじめて夜遅くまで外出することを許され、14歳から許可されているビールで乾杯した。ハンスやチャッチェンは金曜日だからとベロベロになるまで飲んでいたが、テオは2杯ほどしか飲まなかった。今日、朝から働かなくてはならなかったからだ。

 それで、11時には1人で家に帰った。本当はウルスラを送って行きたかった。

 音響係だった3月1日のパーティーでは、ダンスに誘いたくてもできなかったから、せめて昨夜の打ち上げでは近くに座って、今より親密になりたいと思った。けれど、それも上手くいかなかった。酔っ払ったハンスとチャッチェンが大声でがなり立てるので、静かに話をすることなど不可能だったのだ。

 ウルスラのことが氣になりだしたのは、去年の春だった。それまでは、ただの幼なじみで、子供の頃からいつも同じクラスにいた1人の少女に過ぎなかった。

 テオは、1つ上の学年にいたゾエにずっと夢中だった。ゾエは華やかな少女で、タレントのクラウディア・シフによく似ていて、化粧やファッションも近かった。卒業後は村を離れて州都に行ってしまった。モデルとしてカレンダーで水着姿を披露するんだと噂が広がり、小さな村では大騒ぎになった。

 テオは、スグラフィット塗装者としての職業訓練を始めるか、それとも他のもっと一般的な手工業を修行するために、州都に行くか迷っていた。ゾエが村を離れるとわかったときに、心の天秤は大きく州都に傾いた。

 スグラフィットは16世紀ルネサンス期のイタリアで、そして後にドイツなどでも流行した壁の装飾技法で、2層の対照的な色の漆喰を塗り重ね、表面の方の層が完全に乾く前に掻き落として絵柄を浮き出す。スイスではグラウビュンデン州のエンガディン地方を中心に17世紀の半ば頃よりこの技法による壁面装飾を施した家が作られるようになった。

 アルプス山脈の狭い谷の奥、今でこそ世界中の富豪たちがこぞって別荘をもつようになった地域も、かつてはヨーロッパの中でも富の集中が起こりにくい、比較的貧しい地域だった。

 ヨーロッパの多くの都市部で建てられた石材を豪華に彫り込んだ装飾などは、この地域ではあまり見られない。それでも、素っ氣ない単色の壁ではなく、立体的に見える飾りを施したのだ。

 角に凹凸のある意思を配置したかのように見える装飾、幾何学紋様と植物を組み合わせた窓枠、または立派な紋章や神話的世界を表現した絵巻風の飾りなど、それぞれが工夫を凝らした美しい家が建てられた。

 モチーフは違っても、2層の色が共通しているので村全体のバランスが取れていて美しい。ペンキによる壁画と違い、スグラフィットで描かれた壁面装飾は、200年、時には300年も劣化することなく持つ。

 だが、この装飾はフレスコ画と同じで、現場で職人が作業することによってしか生まれない。工場での大量生産はできないし、天候や氣温にも左右される、職人たちの経験と勘が物を言う世界だ。どの業界でも同じだが手工業の世界は常に後継者問題に悩まされている。

 テオは、子供の頃から見慣れていたこの美しい技法の継承者としてこの谷で生きるか、それとも若者らしい自由を満喫できる他の仕事を探すかで揺れていた。最終的には、親方やスグラフィットの未来を案じる村の大人たちが半ば説得するような形で、彼の決意を固めさせた。州都に行ったゾエがよくない仲間と交際して学校をやめたらしいという噂もテオの心境に変化をもたらした。

 スグラフィット塗装者としての職業訓練が決まった後、同級生の間では少しずつ親密さに変化が出てきた。テオはずっと村に残る。ハンスやチャッチェンは、サンモリッツで職業訓練を受けることが決まり、アンナは州立高校に進学する。

 同級生の中で、一番目立たない地味な存在だったウルスラは、村のホテルで職業訓練をすることが決まり、週に2日の学校の日はテオと一緒に隣の村に行く。ほとんど話をすることもなかったのだが、それをきっかけに『チャランダマルツ』の準備でもよく話をするようになった。口数は少ないけれど、頼んだことは必ずしてくれるし、どんなに面倒なことを頼んでも文句を言うことがなかった。

 3月1日の『チャランダマルツ』が終わってから、1か月近くテオは奇妙な感覚を感じていた。忙しくて煩わしかったはずの『チャランダマルツ』の準備が終わり、同級生たちと会うことがなくなった。仕事と学校だけの日々。時に親方に叱られながらも、漆喰の準備や工房で引っ掻く技法の訓練をしていた。

 学校に行く日は、なんとなくウルスラの姿を探した。でも、先々週、彼女は風邪をひいて学校を休んだし、その後は学校が1週間の休暇になった。その間に、彼は落胆している自分を見つけて、驚いた。

 だから、打ち上げで彼女に会うのが楽しみだった。ウルスラは、元氣になってそこにいたけれど、アンナやバルバラと話をしていて、またはテオがほかの人に話しかけられていてほとんど話ができなかった。

 明日が早いからと、彼だけ帰るときに、ウルスラが何かを言いたそうにしていたのをテオは見たように思った。もしかしたら自分の思い過ごしかもしれないけれど……。テオは、少し落ち込んでいた。

「おい、テオ。聞いているのか」
親方が、呼んでいた。

「えっ。すみません」
テオは、親方が見ている手元を自分も見た。

「お前、配分間違えていないか。いくら何でも色が濃すぎるぞ」
確かにそれはほとんど真っ黒だった。
「すみません」

「昨夜は遅くまで飲んでいたのか」
親方は訊いた。小さい村のことだ。同級生が打ち上げをする話は、簡単に大人たちに伝わってしまう。

「いえ。11時には帰りました」
でも、このざまだ。テオはうなだれた。

「まあ、まだ塗っていないんだから、取り返しはつくさ。だがな。こういうときのやり直しには、長年の勘が必要なんだ。まだお前には無理だな。どけ」
そう言って、親方は石灰の粉を持ってテオが作っていた塗装混合物の色調整を始めた。

 石灰と砂、そして樽で保存されている秘伝の石灰クリームが適切な割合で混ざり、完璧な硬さの下地が用意されていく。

「さあ、行くぞ」
親方は、大きいバケツを持って村の中心へと向かった。泉のある広場の近くに今日の現場はある。壁面全部ではなくて、門構えの修復だ。

 不要な部分に漆喰がかからないように、プラスチックのフォイルとマスキングテープで保護をしていく。それから、バケツに入っている濃い灰色の漆喰を丁寧に塗っていく。

 午前中は瞬く間に過ぎた。幸い、漆喰は時間内にきれいに塗られた。午後の太陽が、かなり濃い灰色をゆっくりと乾かしていくだろう。今日と明日は雨が降らないだろうから、理想の色合いになるはずだ。

「さあ、少し遅くなったが飯の時間だ。帰っていいぞ」
バケツや塗装道具を工房に運び込んだところで、親方が言った。親方の自宅は工房の上で、女将さんが用意したスープの香りが漂っている。

「あ。今日は、うちには誰もいないんで……」
テオはパン屋でサンドイッチでも買うつもりで来た。

「なんだ。この時間にはもうサンドイッチは残っていないかもしれないぞ。うちで食っていくか?」
「いえ。だったらそこら辺で何かを食べます」

 テオは、頭を下げて工房から出た。もう1度村の中心部に戻ると、意を決してホテルのレストランに入っていった。

「あら。テオ!」
声に振り向くと、そうだったらいいなと想像していたとおり、ウルスラがいた。

「やあ。君も今日、出勤だったんだね」
彼が訊くと、ウルスラは頷いた。

「土日休みの仕事じゃないし……。でも、幸い今日は遅番だったの。テオは昼休み?」
ウルスラは不思議そうに訊いた。ランチタイムにテオがここに来たのは初めてだったから。

「うん。今日は、母さんが家にいないから、パン屋でサンドイッチを買うつもりだったんだけど、ちょっと遅くなっちゃったんだ。……スープかなんか、あるかな?」

 スープなら、さほど高くないだろう。そう思ってテオはテーブルに座った。ウルスラは、メニューを持ってきた。
「今日のスープは、春ネギのクリームスープよ。あと、お昼ごはん代わりなら、グラウビュンデン風大麦スープかしら?」

 テオは頷いて、メニューをウルスラに返した。
「腹持ちがいいからね。じゃあ、大麦スープを頼むよ。あと、ビールは……仕事中だからダメだな」

「じゃあ、リヴェラ?」
そう訊くウルスラに、彼は嬉しそうに頷いた。乳清から作られたノンアルコールドリンク、リヴェラはスイスではポピュラーだけれど、同級生の多くはコカコーラを好んだ。でも、テオがコーラではなくてリヴェラをいつも頼むことを彼女は憶えていたのだ。

 柔らかい春の陽光が差し込む窓辺に立つ彼女の栗色の髪の毛は艶やかに光っていた。民族衣装風のユニフォームも控えめなウルスラにはよく似合う。彼女は、リヴェラと、それからスープにつけるには少し多めのパンを運んできてくれた。

「昨夜は、遅かったのかい?」
テオが訊いた。

「12時ぐらいだったわ。みんなは、もう1軒行くって言ったけれど、私は帰ったの」
ウルスラは笑った。

「誰かに送ってもらった?」
すこしドキドキしながら訊くと、彼女は首を振った。
「まさか。男の子たち、あの調子で飲み続けて、自分面倒も見られなさそうだったわよ」

「そうか。じゃあ、僕がもう少し残って、送ってあげればよかったな」
そういうと、ウルスラは笑った。
「こんなに近いし、こんな田舎の村に危険があるわけないでしょう。……でも、そうね、次があったら送ってもらうわ。テオは、ひどく酔っ払ったりしないから安心だもの」

 ウルスラは、他の客たちの給仕があり、長居をせずに去って行った。それでもテオは幸福になって、大麦スープが運ばれてくるのを待った。

 テオは、先ほど塗ったばかりの塗装のことを考えた。下地の灰色が乾いたら、上から真っ白の漆喰を塗り重ねる。その漆喰が完全に乾く前に、金属で引っ掻くことで灰色の紋様が浮かび上がる。そうして出来上がるスグラフィットは、地味だけれども何世紀もの風雨に耐える美しい装飾になる。

 チューリヒや、ベルリンやミラノ、パリにあるような面白いことは何も起こらない村の日々は、退屈かもしれない。でも、スイスの他の州では見られない特別な風景と伝統を過去から受け継いで未来に受け渡す役目は、そうした大都会ではできないだろう。

 ウルスラが、スープを運んできた。素朴な田舎料理の湯氣が柔らかく彼女の周りを漂っている。村に残って、ここで生きていくことを選んだのは大正解みたいだ。

 テオは、今日塗った漆喰が乾く前に、彼女をデートに誘おうと決意した。

(初出:2023年3月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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スグラフィットについては、かつてこういう記事を執筆しました。

それからチャランダマルツについても記事を書いています。
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Category : 短編小説集・12か月の建築
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】やまとんちゅ、かーらやーに住む

今日の小説は『12か月の建築』4月分です。といっても、5月になってしまいましたが。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、沖縄県八重山地方の『かーらやー』(古民家)です。

石垣島には大学を卒業する年に1度だけ行きました。正直言って、あの美しい海と竹富島観光のことしか記憶にないのですけれど、今回の作品を書くためにあれこれ調べていたら興味深い事がたくさんあって「ずいぶんと勿体ないことをしたな」と反省しました。

当時印象に強く残っているのは、「石垣の近くに寄りすぎるな、ハブが潜んでいるかもしれないから」と言われたことです。今回、ハブに関する話が出てくるのも、その時の印象に引きずられているのかも。この話もオチはありません、あしからず。


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やまとんちゅ、かーらやーに住む

 赤茶の瓦に初夏うりずんの心地よい陽光が降り注いでいる。八重山伝統のこの手の家は『かーらやー』と呼ばれる。ちょこんと座ったシーサーは海を眺めている。その海からはずいぶんと離れている。

 沙織は、静かに縁側に座った。縁側からは海は見えない。外壁には門のようなものはなく、代わりに門の奥に石垣と同じ素材で作られた衝立ひんぷんが配置される。風の直撃を防ぎ、目隠しの役割も果たすが、人間に対しては単なる視覚的境界であって、侵入してこようとする他人を防ぐ事はできないだろう。

 沙織の前夫である亮太だったら、ここに住むことには大反対しただろう。彼は名護市内のマンション暮らしにすら耐えられなかった。

 そもそも沖縄県移住を提案して沙織を連れてきたのは亮太だった。そして、離婚とともに彼が内地に戻る時に、沙織が東京に帰ろうとしないことにひどく驚いていた。
「まさか、こんな所に住み続けるつもりか?」

 亮太にとって、沖縄移住はリゾート滞在の延長線だった。移住に伴う多くの問題を対処できるか、彼は考えてもいなかったらしい。

 半年にわたる強烈な湿氣、次々と襲い来る台風、賃金水準は低いのに、物価は東京並みどころか場合によっては高くつく。和食を食べられる店が少なく、面白いエンターテーメントも少ない。それらは、東京で少しネット検索すればわかることだったのに、亮太は本当に行き当たりばったりで移住を決めたのだ。

 だが、沙織もまた沖縄について亮太よりもわかっていたわけではない。東京を離れて美しい海のあるリゾート地で暮らせるのだと喜んでいたのだ。

 子供のいない若い夫婦として共稼ぎをしているが、沙織自身は移住で職探しをする必要はなかった。必要だったのはネット環境だけで、移住先の名護市でも問題なく仕事をすることができた。問題は亮太の方で、リゾートホテルで働く事のできた1年はよかったが、そのホテルが倒産してからはいくつかの仕事を渡り歩いた。

 仕事が変わる度に亮太はすさみ、沖縄に対する不満も積もっていった。

 沖縄うちなータイムと呼ばれる特殊な時間ルールもその1つだ。待ち合わせをして、5分前集合どころかぴったりにすら来ない。しかも長く待たせたことに対して謝ることもないと亮太は集まりの度に怒り狂うようになった。沙織にしてみれば、もう何年も沖縄時間を経験しているんだから、そんなことに目くじらを立てない方が楽なのにと思うが、そうはいかなかったらしい。

 少し遠くに飲みに行きたくても電車がないので行けない、お風呂に追い炊き機能がついていない、通販でものを頼むと送料が高すぎる、塩害で車が錆びた、治安が悪くヤンキーが多いなど、最後の方は毎日不満ばかり言っていた。沙織はそんな亮太にうんざりしていた。

 彼の浮氣が発覚した時に、沙織はすぐに離婚したいと言った。やり直したくなるほどの情が残っていなかった。亮太は「お前がそんなだから、他の女に安らぎを求めたくなったんだ」と言った。沙織の収入なしに賃料が払えなかったので、彼は東京に戻ることを決めた。

 沙織は反対に、沖縄本島を離れ石垣島に移住した。本土と較べて不便だし、人びとは閉鎖的だと忠告してくれる人もいたが、沙織はもともと引っ込み思案でエンターテーメントや物質的な便利さはさほど必要としないタイプだったので氣にしなかった。

 最初は石垣市に住んだが、1年ほど前に縁あって島の北寄り集落にある古民家を格安で借りるチャンスに恵まれた。

 折からの古民家ブームで、心地よく住める家はとてつもなく高い賃料だというのが常識となっている。けれど、沙織には偶然が味方した。

 亮太と離婚して戻した旧姓の宮里は、沖縄によくある姓だったので、あきらかに本土の人やまとんちゅなのに、沖縄の人うちなーんちゅのように処してくれる人がいたのだ。

 そしてもう1つは、沙織が亮太のように東京の生き方に固執しないで、島の人たちのやり方を受け入れ、仲間に入れてくれないことに関しては氣にせずに放置することができたからだ。しま言葉は永久にわからないだろうし、完全に島民として扱ってもらえることもないだろう。

 それで十分なのだ。

 この家に住まわせてくれるのも、大家が沙織のことを格別に思ってというわけではない。この家に、仏壇があるからだ。

 先祖崇拝の風習の残る沖縄では仏壇のある家は小さくても本家の扱いだ。普段は沖縄本島や、市街地のある島の南部にそれぞれ住んでいても、旧暦の正月やお盆には家族がその家に集まる。しかし、普段は誰も住まない家は傷む。湿氣の多い沖縄はことさら家が傷みやすい。

 沙織は、石垣市のアパートに住んでいたときに、大家に自分の生まれた『かーらやー』に住むのはどうかと打診された。家賃はとても安い。トイレと風呂が母屋にはないがそれも氣にならない。

 沖縄の他の多くの古民家と同じように、この家の南側には、床の間のある一番座と仏間のある二番座がある。北側の裏座はプライヴェートな居住空間だ。日差しが入りにくいので日中でも少し暗いのだが、夏の蒸し暑い中でも比較的快適に暮らせる。

 名護のマンションや石垣市のアパートと比較して、この古民家はずっと過ごしやすい。琉球瓦は熱を反射し、断熱効果が高い。また丸い形と平たい形をした2種類の瓦を組み合わせ漆喰で固めてあるので雨漏りは一切せず台風の強風にも強い。木造家屋にこの特殊な屋根を組み合わせた平屋は、古くても頑丈で快適なのだ。

 年に数回、大家の家族が集まり、一番座と二番座で宴会をする。沙織はしばらく参加してもいいし、その時だけどこかに旅行することもある。最近のお氣に入りの過ごし方は、高価なリゾートホテルに滞在し、ビーチを眺めながらカクテルを飲むことだ。

 それ以外は、誰にも邪魔されることなくこの家で静かに暮らしている。近くにスーパーマーケットの類いはないので、必要に応じて10日に1度くらい南部の市街地に買い出しに行く。

 仕事をするために通信だけは整っていないと困るのだが、幸い光通信が通っている地域で、初期工事費を自分で持つと申し出たら、大家はあっさりと導入を許可してくれた。それどころか工事費も持ってくれたのだ。「息子たちが大賛成だというのでね」と。

 庭にはバナナの木が植わっているし、小さな畑もあって、沙織は生まれて初めて家庭菜園にも挑戦してみた。と、いっても自給自足を目指しているわけではなく、台風が続いてスーパーの棚が空になるときや、買い物に行くのが面倒なときに足しになればいいか程度の動機からだ。本土ではあまり見ない島野菜の方が手間がかからずに育つ。タマナーとも言われるシャキシャキしたキャベツ、スターフルーツみたいな変わった見た目のうりずん豆、エンツァイと呼ばれる空心菜、失敗の少ない島オクラなどの他、スーパーで買ってきて食べた豆苗やネギの残った苗部分を再生するのにも使っている。

 オシャレな服を買うような店はないが、そもそもリゾートホテルに行くときでもないとしゃれた服は必要ないので、新しく服を買う必要性も感じない。映画館や美術館などもないのだが、デートをする相手もいないので、特にそうした施設が必要にはならない。こんなライフスタイルであることを見抜いたので、大家もこの家に住むことを提案してきたのかもしれない。

 休みの日には、朝から散歩をするような氣軽さで海へと歩いていく。赤・黄・ピンクのハイビスカス。濃いピンクのブーゲンビリア、パパイヤやバナナの木。近所には、あたりまえのように南国の植物が植わっている。石垣やシーサーは青空に映えて、南国にいるんだなあとしみじみと幸せを感じる。

 今日はいつもと違い、4月なのに夏のような日差しだったので、昼に帰ることはやめて、1日をゆっくりと海辺で過ごした。夕焼けにオレンジに染まった家々や南洋の花を楽しみながら歩く帰路は、いつもとは違う美しさだ。
 
「ぱんな」
声がしたので振り返ると、背の高い男が沙織に話しかけていた。

「えっと……」
沙織の口調から、方言がわからないとわかったようで、男は言い直した。
「そっちに行かないでください。ハブの目撃情報があったので確認しているんです」

 沙織は驚いた。4月なのにもうハブ?
「ええっ。スプレー、まだ買っていない……」

 自宅に出てきた時の対策として、噴射するタイプの駆除スプレーを去年は大家が持ってきてくれたのだが、まだ一度もでたことがない上、まだ4月なので今年は油断して自分で用意するのを忘れていたのだ。

 男は、不思議そうに彼女を見てから訊いた。
「もしかして、この近くに住んでいるんですか?」

「ええ。この道の突き当たりの比嘉さんのお家を借りています。石垣は対策補修されていますが、衝立ひんぷんがあるので、もしかしたら入って来ちゃうんじゃないかしら」

 男は、振り返って坂の上を見た。
「あそこですよね。街灯が正面を照らしているので、まず大丈夫でしょう。でも、心配だったら、あとで駆除スプレーをお届けしましょうか」

 沙織は、大きく頷いた。
「そうしていただけたら、助かります。すみません」

 男は、笑った。
「氣にしないでください。じゃあ、お家まで一緒に行きましょう、私の後ろを歩いてきてください」

 沙織は、頭を下げた。ハブ駆除の専門家だろうか。夕方とはいえまだけっこう暑いのに、長袖長ズボンの作業着で全身をしっかり覆っている。

 手には捕獲器を持っているし、この人といるならハブが出てきてもなんとかしてくれそう。でも、もし現れても悲鳴を上げて蛇を刺激しないようにしなくちゃ。沙織の緊張がわかったのか、男は再び笑った。

「そんなに怖がらなくても道の真ん中を歩いていれば大丈夫ですよ。まだ十分明るいですし、向こうから出てくることはほとんどないでしょう」
「はい。もともと東京育ちで、それに一昨年までは市街地に住んでいたので、慣れていなくって。ハブがでることがちょっと怖いんです」

 家の前に来たので、少しホッとしながらいうと、男は頷いた。
「そのぐらいの方がいいんです。サトウキビ畑に入っていこうとしたり、夜にふらふらで歩くような油断をすると、ちょっと危険ですから。じゃあ、後でスプレー、お届けします。車の中にあるので、20分くらいですね」

 沙織が頭を下げて、確認をしつつ歩いていく男を見送っていると、隣家の伊良部のお婆さんが出てきた。
今晩はくよなーら

「くよなーら、伊良部さん」
まだ伊良部おばぁと呼ぶ勇氣は出ない。

 伊良部おばぁは首を伸ばして、道を観察しながら去って行く男の後ろ姿を見た。
「おや。……もうハブがでたんだね。暑かったからねぇ」

「あ、ご存じの方ですか」
「向かいの平良やんの孫だよ。昇っていうんだ。他の兄弟はやまなぐーだったけど、あの子だけはまいふなーだったでなー」

 沙織が「?」という顔を見せたので、彼女は「あなたわー本土の人やまとんちゅだもんなー」と笑った。

 伊良部おばぁは、慣れない標準語を探しながら、ゆっくりと話した。
「だっからよー、あの子は、やまとぅ言葉で『大人しい』だったかね。でも、肚が座っているから、ハブが襲ってきてもなんでもなく捕まえる。あの調子で嫁さんも捕まえられればいいのに、そうはいかないみたいだねぇ。わー、どうばぁ?」

 沙織は、滅相もないと首を振った。離婚のことは面倒なので話していない。だから、いい歳してこんなところでグズグズしている晩熟娘だと思われているのかもしれない。
「そんな……あちらに失礼ですし……」

 伊良部おばぁは、はははと笑った。この程度のことを真に受けるなとでも言いたげだ。どうもまだ会話の受け流しはうまく出来ない。

「あ、ほれ、これはたくさん作ったチャンプルーよ、召しあがれおいしょーり
「あ。いつもありがとうございます」

 今日も、いただいちゃった。島豆腐チャンプルー。沙織が作るのと格段違ったものは入っていないのに、伊良部おばぁが持ってきてくれるお惣菜は、なぜだかとっても美味しいのだ。

 沙織は、ハブのこともすっかり忘れて米を洗い出した。日が暮れて辺りは暗くなった。東京では見たことがなかったほどの満天の星空が、『かーらやー』の赤瓦の上に広がっているはずだ。この家にたどり着くまでの、いくつかの住まいを思い出して、ここほど心地がいいと感じた場所はなかったなと微笑んだ。

「すみません」
一番座の方から声が聞こえる。あ。さっきの人だ。スプレー缶、持ってきてくれたんだ。

 先ほどの男が、生真面目な様子で立っていた。手には駆除スプレーを持っている。

「すみません。本当に助かります。おいくらですか」
沙織が訊くと、彼は首を振った。
「お代はけっこうです。万が一、使うことがあったら、ここの名刺の代表に連絡してください」

 市の環境課の名刺で先ほど伊良部おばぁが言っていたとおり平良昇という名が印刷されていた。頭を軽く下げると、昇は去って行った。

 ハブ捕獲の専門家とは別に親しくならなくてもいいんだけれど、市のお役人がああいう感じで仕事熱心なのは好感が持てるなあと、沙織は考えた。

 伊良部おばぁのチャンプルーは、どうしてこんなにごはんが進むんだろう。豚肉の風味だけでなく今日は島タケノコも入っていて香り豊かな上歯ごたえも楽しい。

 母屋にはないトイレやお風呂、玄関も入り口の鍵もない『かーらやー』にいつの間にか故郷のようになれてしまったのと同様、八重山の味にもすっかり馴染んだ。台風と湿氣に悩まされ虫とハブに怯えることはあっても、美しい海と満天の星、南国の花や果物のあふれる島の暮らしは、とても心地よい。

 きっとこのままこの島に住み続けるんだろうな。沙織はぼんやりと考えながら、チャンプルーを口に運んだ。

(初出:2023年4月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】心の幾何学

今日の小説は『12か月の建築』5月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、モロッコの『リアド』とそれを彩るモザイク『ゼリージュ』です。

実は、モロッコはアフリカ大陸内のスペイン領セウタに行ったときに、半日ツアーで行ったことがあるだけなのです。なので、美しいリアド滞在はまだ未体験。めちゃくちゃ憧れているんですけれどね。


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心の幾何学

 ナナはスークを急いで横切った。この市場には、これまでに5度ほどしか訪れたことがない。観光客が土産物を探すマラケシュのスークなどと違い、観光客のさほど多くないこの町は、地元民の生活に即した品物のみが置かれ、大半が屋根のない露天だ。足下の乾いた埃っぽい土が舞い上がり、そこここに放置されたゴミを踏まずに進むことと、スリに注意することで神経をすり減らす。

 ベルナールが言うように、リアドに隠っていればいいのかもしれない。何かあったら、彼に対処してもらわなくてはならない。彼はため息をつきながら「だから、言っただろう」と子供を諭すように言うのだろう。

 でも、今日は『彼』に食事を振る舞うつもりなのだ。それにザタールがないなんて、あり得ないもの。ナナは、買ったスパイスを抱えて急いで帰路についた。

 ザタールはモロッコの万能ふりかけと言うべきミックススパイスで、塩、タイムの一種、白ごま、スーマックという赤い果実を乾燥させた粉などが入っている。肉を素焼きの壺で長時間煮込んだタンジーヤの付け合わせとして添えるパンはプレーンでもいいのだが、ナナはザタールをかけてから焼いたものが一番合うと思っていた。

 埃っぽく、灰色で、異国情緒もへったくれもない街角を、なんとか迷わずに進み、ナナはくたびれたピンクの壁がつづく一画の一番奥に向かった。それから、重い扉についた手の形をした取っ手を操作しながら解錠した。

 それまでの世界と、まったく違う光景が広がる。柔らかな円やくびれたカーブが優美なアーチ。透明ガラスと装飾が幻想的な陰影を作り出すランプ。細かい紋様のモザイクタイル。そして、金銀の刺繍で彩られた鮮やかな布の襞が織りなすオリエンタルな影。

 東京で過ごした子供の頃に読んだ「アラビアンナイト」の絵本にあった王宮さながらだ。フランスで知り合ったベルナールが「モロッコで暮らさないか」と誘ってきたときに想像していた世界そのものだ。

 大きな中庭を持つ古い邸宅を改装した宿泊施設として、日本をはじめとして世界の観光客にも人氣なリアドは、もともとはアラビア語で「邸宅」を意味する言葉だった。その意味で、ここもまたリアドには違いない。

 12世紀から15世紀に、レコンキスタが進むイベリア半島から逃げてきた有力者たちが建てたアンダルスとモロッコの建築様式が融合した邸宅の多くは、21世紀には観光客向けのエキゾチックな宿泊施設として生まれ変わった。

 このリアドも、かつてはそのブームに乗ろうと、水回りをはじめとして宿泊施設らしく改修されたが、マラケシュやフェズのように観光に適した町ではなかったので経営に行き詰まったらしい。ベルナールは、二束三文で売りに出されていたのを見つけたと自慢げに語った。

「僕はね。このリアドを完璧な状態に修復して『千夜一夜物語』の世界を再現したいんだ」

 パティオには、星形の噴水が置かれ、棕櫚やバナナの木が美しい木陰を作っている。2階はバルコニーがパティオを囲むようにあり、5つのテイストの違う部屋があった。

 ナナが使っている部屋は、ターコイズ・ブルーをテーマにした部屋で、とりわけバスルームの壁とタイルが美しかった。

 ベルナールに、モロッコ移住を提案されたとき、ナナは彼とここに住むのだと思っていた。実際には、常にここに住んでいるのはナナ1人で、ベルナールは年に2か月ほど滞在する以外は、月に3日ほど訪れるだけだった。

 パリにあるモロッコのインテリアを売る店は繁盛しており、彼はこれまで通りに2国を行き来して暮らすのだろう。

 彼が、電話で話している姿を見て、彼は離婚もしていなければ、ナナを正式なパートナーにしようとも思っていないことを知ってしまった。これは、日本でいうお妾さんにマンションを買い与えるのと変わらない事なのだと氣がつき、がっかりした。

 それは、日本で母親が受けていた扱いと同じだった。私生児だから、ハーフだからと受けた仕打ちには負けたくなかった。だから、フランスに渡り自分の力で生きていこうとした。けれども、フランスではナナは今度はアジア人として扱われた。1人前の仕事をさせてもらえなかったのは、人種差別のせいだとは思いたくなかったけれど、実力が無いと認めるのも悲しかった。しかも、結局、自分もまた愛人として囲われることになってしまった。

 日本やフランスに戻って、地を這うような生活をしながら独りで生きていく決意はまだつかない。このアラビアンナイトのような美しい鳥籠と、その外に広がる厳しい現実の世界の対比はナナを億劫にする。

 細やかな刺繍の施されたフクシアピンクのバブーシュを履く。ただのスリッパと違い、足にぴったりと寄り添う滑らかな革のひんやりとした肌触りが好きだ。足下には星や千鳥のように見えるタイルが敷き詰められている。何も知らなければただの床だが、ゼリージュ細工の仕事を知るナナは、足を踏み出すごとに畏敬の思いを抱き歩く。

 コンコンという、規則正しい音がする。ナナは、音のする方へと向かった。ホールの隅で、『彼』が働いている。ゼリージュ職人であるアリーだ。

 細かくカットしたタイルを組み合わせて、幾何学模様のモザイクを作り出す装飾をゼリージュと呼ぶ。古くからイスラム圏で広く使われていたゼリージュは、その膨大な手間から現在ではほぼモロッコだけに継承されている。

 白、黒、青、緑、黄、赤、茶の釉薬を塗って焼いた伝統的なタイルを、360種ほどもあるという決められた形に割っていく。組み合わせるときに、他のタイルとのあいだに隙間が出来ないように、それぞれを完璧な形にしていかなくてはならない。それは氣の遠くなるような作業だ。

 アリーは、そうした技術を継承した職人だ。ベルナールの依頼で、この邸宅の装飾を修復するために時おり通ってくる。

 ナナが、話をすることが一番多いのが、このアリーだ。掃除を請け負うファティマや、グロッサリーを搬入してくれるハッサンとも定期的に顔を合わすのだが、この2人は英語もフランス語も話さないため話し相手にはならない。

 ナナは、パティオの奥に設けられた木陰の読書スペースで本を読んで過ごすことが多い。日本にいたときには積ん読になっていた多くのシリーズものは、この木陰で何回か読破した。

「それは、中国語?」
そう訊かれて、顔を上げたのが、アリーとの最初のコンタクトだった。訛りはあるがフランス語だ。

「いいえ。日本語よ」
「ああ、君は日本人なのか」
「半分ね。でも、東京で生まれ育ったの。読むならフランス語よりも日本語が楽なのよ」
「そう。面白いね。本当に縦に読んでいくんだ。ああ、右から左に進むんだね」
「そうよ。アラビア語もそうよね」
「まあね。横方向にだけど」

 たわいない話だが、ベルナール以外の人と、ごく普通の会話をするのは久しぶりだった。単語だけでようやく意思疎通をするだけのファティマたち。買い物の時にフランス語が達者な売り子と話すこともあるが、ぼんやりしていると高いものを売りつけられたりスリに狙われたりするので世間話に興じることはほとんどない。

 アリーは、それ以来、籠の中の鳥のように暮らすナナにとってこの世界に向けたたった一つの窓のような存在だ。何かを売りつけるためではなく、雇用主として阿るわけでもなく、ただその空間と時間を共有する相手として接してくれる。そんな彼と話す時間を、ナナは心待ちにしている。

 それは、不思議な感覚だ。

 パリにいたとき、ナナはベルナールとの逢瀬を渇望していた。彼の妻よりも、ずっと彼を愛していると思っていたし、モロッコ行きを決めたときには愛の勝利に酔いしれた。4つ星ホテルの空調の効いた部屋での情交も、このリアドで格別に選んだターコイズ・ブルーの居室での睦みごとも、ベルナールとの強い想いと絆の当然の帰結だと感じていた。

 でも、いつの間にかベルナールに1日でも多く滞在してほしいという願いはなくなっていた。嫌いになったわけではないし、離婚するつもりがないことに対して怒っているわけでもない。ただ、彼の存在が、日々どんどんと希薄になっていくだけだ。

 ベルナールがやって来て、滞在するとき、ナナは彼を精一杯もてなす。店員が上得意客をもてなすように。覚えたモロッコ風の料理は、ベルナールを満腹にした。赤い部屋、オレンジの部屋、緑の部屋で楼閣に住む娼婦のように、彼を悦ばせた。それは、『アラビアンナイト』の世界に住まわせてくれる主人に対するナナの義務だと感じていた。

 そして、彼が去ると、ナナはどこか安堵している。再びひとりに戻ったことに。そして、中庭に響く静かな水音の向こうから聞こえてくるゼリージュ・タイルを作る規則正しい音に、心が震えるのだ。

 小さなタイルが組み合わされる。それは単なる装飾やパズルあそびではなく、自然を手本とした幾何学の魔法だ。シンメトリカルに広がる多様性。シンプルと複雑さの絶妙な組み合わせ。そして水の揺らめきや木漏れ日の揺らぎまでが計算され尽くしたかのように美しさを倍増する。

 大量生産があたりまえのこの時代においても、ゼリージュのタイルはすべて手作業で作られる。粘土を乾かし、釉薬を塗って焼いたタイルを1つ1つ蚤を使って小さなパーツに切り取っていく。ごく普通のセラミックタイルの300倍もの値段がすることに驚愕する人も多いが、この手作業を目で見たら納得するだろう。

 ゼリージュのタイルを使ったインテリアは、パリでは金持ちの贅沢だが、ここモロッコでは1000年以上も受け継がれてきた伝統であり、創造主たる神への讃美と感謝でもある。イスラム世界のほとんどで失われてしまったこの伝統を、モロッコのゼリージュ職人たちは黙々と受け継いできた。

 アリーの茶色い手が、なんでもないようにタイルを組み合わせ、それを固定していく。繊細な作業をしているようには見えないのに、出来上がったタイルの組み合わせは完璧だ。それは、自然の造形と似ている。1つ1つは好き勝手に育っているように見えるのに、光景となった時にはすべてのパーツがきちんと収まるべきところに収まり、調和し、美しく、畏敬を呼び起こす。

 ナナは、彼が働いているときには黙ってそれを見つめる。息を殺し、身動ぎもせずに、世界のパーツが正しい位置に納まっていくのを待つ。

 学生の時、図書館で「千夜一夜物語」の訳文を読んだことがある。后であるシェーラザードが1001夜にわたって夫である暴君に話をすることになったきっかけは、もともとシャフリヤール王の后が奴隷と浮気をしていたからだった。王の后となったのに、浮氣なんかしなければいいのにとその時は単純に思ったけれど、いまならその后たちに少し同情することができる。

 ここのように美しい、それとも、もっと煌びやかな王宮に閉じ込められた后は、ハーレムを戯れに巡回する夫君がいつやって来るのかも知らない日々を過ごしていたのではないだろうか。ちょうどナナにとってのベルナールと同じだ。そして、王は自分は自由に複数の女性を楽しみつつ、后が他の男に抱かれているのを見たら憤り、その首をはねた。そして、女性不信から生娘と結婚しては翌日に殺すということを繰り返したのだ。

 ナナは、絶えず聞こえている水音と、棕櫚の枝を揺らす風を感じながら、ひたすら働くアリーの手元を見ていた。アリーとの間に、后と奴隷との間に起こったような展開はない。おそらくアリーはナナに対して女性としての興味は持っていないだろう。ナナにしても、この感情をどう捉えるべきなのか、はっきりとした定義はできない。

 わかっていることは、今のナナにとって、訪れに心躍るのはもうベルナールではなくなっているという事実だ。

 アリーが仕事の合間の休息をとるとき、ナナは淹れたての甘いミントティーを持っていく。銀のティーポットから金彩の施された小さなガラスの器に熱いお茶を注ぐ。このポットの取っ手は素手で持つのは難しい。最初の時に、鍋つかみを持ってきてあたふたしていたら、アリーは笑って代わりに注いでくれた。それ以来、お茶を注ぐのはアリーだ。

 そういえば、正しいモロッコ風ミントティーの淹れ方を教えてくれたのもアリーだった。初めて持っていった午後、一口飲んでから黒目がちの瞳をナナに向けた。
「これ、どうやって淹れた?」

 ナナはポットを指さして答えた。
「お茶っ葉とミントを入れて、熱湯を注いだの」

 アリーは、彼女をキッチンに連れて行った。そして、正しい手順を見せてくれた。

 まずポットに茶葉を入れる。1人用ポットなら小さじ2杯。もう少し大きいポットは3杯だ。そこにやかんの熱湯をグラス1杯分だけ注ぎ、すぐにグラスに戻す。かなり濃いお茶だ。
「これはお茶のスピリットだから、あとでまた使う」

そして、浸る程度の熱湯を再びポットに入れるけれど、そのお茶は捨ててしまう。これを2度行う。
「これで苦みを取るんだ」

 そして、そこに大量のミント、小さじ大盛り3杯の砂糖、そして、とっておいた「お茶のスピリット」を入れてからお湯を注ぎ、それを中火にかける。そうやってお茶とミントをしっかりと煮出す。

 出来上がったお茶の底に砂糖が固まっているように思われたので、スプーンでかき混ぜようとしたら再び笑われた。
「こうするんだよ」

 彼は、そのままグラスにお茶を注いだ。少しずつポットを持ち上げ、最終的にはかなり高いところからお茶を注いでいる。そして、グラスに入ったお茶を再びポットに戻す。これを何度も繰り返すことで中の砂糖は均一に混じるらしい。

 それ以来、ナナは正しいモロッコ式ミントティーアツァイ・マグリビ を作るようになった。最初は抵抗があって砂糖を少なめにしていたけれど、アリーと一緒に飲むために彼に習った量を入れるようにしてみたら、苦みとのバランスがよくその強烈な甘さにも慣れてしまった。高いところからお茶を注ぐのでミントの香りが辺りに広がる。

 添えたデーツをかじりながら、しばらくさまざまなことを話して過ごす。
「日本でもお茶を飲むんだろう?」
「ええ。でも、お砂糖は入れないのよ」
「へえ」
「それに、いいお茶は、60℃ぐらいの温度で淹れて、苦みを出さないようにするの」

 同じ植物を使っていても、ミントティーと玉露は、まったく違う飲み物だ。ナナにとって障子と畳のある部屋で居住まいを正して飲む玉露は、もうとても遠い飲み物になってしまった。色鮮やかなゼリージュと中庭の棕櫚や椰子の木、噴水の水音と木漏れ日の中で飲むミントティーこそが、いまのナナの現実そのものだ。

 ティーグラスを持つアリーの茶色い手を見ながら、ナナはこの午後が永久に続けばいいのにと願う。共にいたい相手がベルナールでないことに思い至り、心の中で自分を嗤う。

 ベルナールにとって『千夜一夜物語』の具現であるリアド。経年で崩れていた細部を修復する魔法をかけに来るアリー。甘言と欺瞞の満ちた華やかな籠の中で王への忠誠を失った后の物語。人の心もまた小さなパーツで織りなされるモザイクだ。

 金彩の輝くグラスには今日もまた、なんと名付ければいいのかわからない強烈な甘さと苦さが満ちている。

(初出:2023年5月 書き下ろし)

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せっかくなのでゼリージュの作り方を紹介した動画を貼り付けておきますね。


FROM CLAY TO MOSAICS
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Category : 短編小説集・12か月の建築
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】水の祭典

今日の小説は『12か月の建築』6月分です。7月になってしまいましたけれど……すみません。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、オーストリアはザルツブルグにある『ヘルブルン宮殿』の『水の庭園(Wasserspiele)』です。

ザルツブルグに夏に行かれる方は、滞在を1日延ばしてでも行く価値がありますよ。私はザルツブルグには2度ほど行ったのですけれど、一番印象に残っているのは今は亡き母と回ったこのヘルブルン宮殿です。

今回のストーリーの2人はこちらの作品で登場させた既存のキャラクターです。顛末はこの作品にも触れていますので、前作は読まなくても全く構いません。


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水の祭典

 暑い。昨日は爽やかな初夏らしい、結婚式にはぴったりの天候だったけれど、今日はうって変わって、強い日差しに焼かれて焦げちゃいそう。

 ケイトは、隣を歩くブライアンのポロシャツ姿をチラリと見た。スーツでない彼を見るのは、もしかして初めてかもしれない。

 ブライアン・スミスは、昨日華燭の宴をあげたダニエル・スミスの兄だ。ということは、昨日からケイトの親友であるトレイシーの義兄になったということだ。

 よりにもよって、結婚式をオーストリアのザルツブルグで挙げたのは、トレイシーがザルツブルグで生まれ育ったからだ。でも、婚約パーティーはロスでしたから、ケイトがザルツブルグに招待されるとは思っていなかった。

「ねえ、トレイシー。大切なあなたの門出だもの、もちろん喜んで駆けつけたいのよ。でも、私、この間パリに行ったときにけっこうな貯金を使ってしまったし、正直言って経済的に厳しいの」

 そう言ったケイトにトレイシーはウインクして答えた。
「心配しないでよ、ケイト。あなたの旅費は、もちろんご招待よ。忘れているかもしれないけれど、あなたが私たちの恋のキューピットなのよ。それに、あなた、ブライアンのガールフレンドとして、スミス家の一員みたいなものじゃない?」

 ケイトは、後半の誤解にあわてて、前半の提案へのリアクションをし忘れた。
「私たち、そんな関係じゃないわよ?! 聞いていないの?」

「だって、デートしているんでしょ?」
トレイシーに訊かれて、ケイトは首を傾げた。
「デートなのかな? たしかに何回か誘われて食事には行ったわ。でも、別にそれ以上の進展はないし、女友達の1人なんじゃないかしら? ニューヨークにはちゃんとした恋人がいるかも」

 トレイシーは、ため息をついた。
「まだ、そんなところなの? ダニーには、あなたの話ばかりしているみたいなのに」

 ケイトは、ますます首を傾げた。ブライアンとは、話していてとても楽しい。ヘルサンジェル社の重役というアメリカン・ドリームの頂点にいるような存在のはずなのだが、時おり、その辺の中小事務所で働く平社員ではないかと思われるような空氣を醸し出す人だ。

 いつだったか、それが不思議で訊いたときに、彼は笑って頷いた。
「もともと僕は友達の仕事を手伝っていただけの、ふつうの労働者だったんだよ。だけど、その友達の進める事業がとんでもなく成功して、会社がやたらと大きくなってしまったんだ」

 ヘルサンジェル社は、健康食品を扱う大企業だが、その最高経営責任者であるマッテオ・ダンジェロと、広告に起用されたスーパーモデルである妹アレッサンドラ・ダンジェロのイメージが強すぎる。マッテオの華やかな生活は、有名人たちとの数々の浮名を含めてセレブのゴシップ誌にしょっちゅう紹介されている。

 一方で、最高総務責任者が誰であるかは、ゴシップ誌しか見ないような人たちはまず知らない。そして、それが、いまケイトの隣を歩いているブライアンなのだ。

 かつて、トレイシーからの頼まれごとが縁で、たまたまパリの空港でブライアンと知り合ったケイトだが、彼がロサンゼルスに来るときに食事に誘われるという付き合いが1年ほど続いている。つまりまだ両手で数えられるほどだ。

 彼が本当はもっとロスに来ているのか、または他の女性とも会っているのかも、ケイトは知らない。それを知る権利があるとも思っていない。まさか、トレイシーが言うように、彼が自分に夢中だなんて思うほどうぬぼれているわけではない。

「今日は、どこに行くの?」
ケイトはブライアンに訊いた。新婚夫婦の邪魔をするわけにはいかないし、トレイシーのオーストリアの友達とは親しくないので、自由時間を過ごすのはなんとなくブライアンと2人ということになった。

「トレイシーおすすめのヘルブルン宮殿だよ。今日みたいに暑い日にはぴったりだと思う」
ブライアンは言った。

 旧市街から見えている高台のホーエンザルツブルク城や、庭園のきれいなミラベル宮殿は挙式の前日にトレイシーやダニーの家族と一緒に見学したのだが、他にも宮殿があるとは知らなかった。
「たくさん宮殿があるのね」
「夏の離宮だそうだ。だから少し離れているんだね」

「誰の離宮? ハブスブルグ家の王様?」
「いや、ザルツブルグがオーストリアになったのは19世紀で、それまではドイツ支配下の大司教領だったんだ。だから、ヘルブルン宮殿を建てたのも大司教ってことになるね」
「お坊さんが、そんなにお金持っているの?」
「大司教といっても領主だし、それに、このマルクス・ジティクスって大司教はホーエンエムス伯だからもともと貴族だ。いまの宗教家のイメージとはちょっと違うんだろう」

 夏の離宮というからには、涼しい高地にでもあるのかしら。ケイトはブライアンに連れられるまま、市バスに乗った。かなり遠くなのかと思ったら、30分もかからずに目的地に着いたようだ。
「ここ?」

 なんでもないバス停かと思ったら、道の向こうに黄色い壁があり、「ヘルブルン宮殿入り口はこちら」という矢印が見えた。さすが宮殿の塀だけあって、そこから入り口まで暑い中かなり歩いたが、そこからは美しい庭園だったので、外を歩くときのような日差しの暴力は感じなかった。

「大丈夫? もう疲れてしまったかな。先に休むかい?」
ブライアンに訊かれて、ケイトは首を振った。いくら何でもそれほどヤワではない。
「いいえ。大丈夫よ。暑いけれど、もう夏ですものね。ああ、広い。こんなに大きな敷地のお城だったら、ザルツブルグの旧市街には入りきらないわよね」

 ブライアンは、目を細めて「そうだね」とケイトに笑いかけた。それから、ケイトが手にしているカメラを見て言った。
「それ、しまった方がいいかもしれないな。これを使って」

 彼が、ポケットからビニール袋を2つ3つ取りだして渡してきたので、ケイトは首を傾げた。
「これ、どうするの?」

「濡れたら困る電子機器があったら、それで保護しておいた方がいい」
ブライアンはそう言って、彼のスマートフォンもビニール袋で包んでポケットにしまい直した。

 ケイトは、これまでいくつかの噴水のある庭園を訪れたことがあるが、スマートフォンやカメラをビニール袋にしまうようなことはしなかった。ブライアンって、意外と大袈裟な人なのかしら?

 グループツアーの集合アナウンスがあり、「行こう」と言うブライアンに続いてケイトはグループに合流すべく進んだ。

 そして、案内人は宮殿の中ではなく一同を庭園へと導いた。

 さまざまな大理石の彫刻で飾られた広大な人工池が涼しげな水音をたてている。緑色の水には黒い大きな魚や鴨が泳いでいる。宮殿を向こうに見渡す池の傍らにオレンジの壁とさまざまな彫刻で飾られたローマ劇場と石テーブルや椅子のある広場があり、案内人はまずそこで止まった。

「ようこそ、ヘルブルン宮殿の水の庭園へ! 今日は、とても暑いのであなたたちはまさにぴったりの場所を訪れたというわけです。さまざまな噴水をお目にかける前に、『諸侯のテーブル』にお座りいただき、この庭園の歴史について簡単にご説明しましょう」
案内人はそう言って、参加者たちをテーブルの周りある8つの椅子にそれぞれ座らせた。

「この宮殿は、大司教マルクス・ジティクス・フォン・ホーエンエムスの依頼で、1613年から15年にかけてイタリアの建築家サンティーノ・ソラーリの設計で建設されました。後期ゴシック様式の素晴らしい建築の妙については、後の宮殿内ツアーでご説明するとして、まずは世界的に有名なこの庭園の仕掛け噴水についてお話ししましょう」

 案内人は、にっこりと笑って一同を見回した。
「実は、大司教マルクス・ジティクスは、ちょっと人の悪いところがあったようで、宮殿を訪れる客をびしょ濡れにして、驚き慌てるさまを眺める趣味があったようなのです……こんなふうに」

 そう言った途端、8人が座った席の真後ろの石畳から水が噴き出して、水のカーテンができた。
「きゃあっ」
実際には、動かなければ濡れないような絶妙の位置に水は噴き出しているのだが、びっくりして立ち上がった観光客はあっという間に濡れてしまった。

 ケイトも思わず身をひねって倒れそうになったが、さっとブライアンが腕を伸ばして庇ってくれたので、難を逃れた。

「ありがとう。あら、代わりに濡れてしまったのね、ごめんなさい」
ブライアンの腕と、ポロシャツの袖が濡れている。

「大したことはない。すぐに乾くよ。……次の仕掛けでもっと濡れるかもしれないけれど……」

 ケイトは、笑って訊いた。
「こういう風になるって、知っていたの?」
「具体的には知らなかったけれど、濡れる可能性があるとトレイシーが教えてくれたんだ」

 子供たちは喜んで、自ら水の中に飛び込んでいっている。大人たちは首をすくめて、水が止まるのを待った。無事に止まったので、席を立ち少し離れたが、とある観光客がしくみはどうなっているのかよく見ようと覗くと、今度は座っていた椅子からも噴水が噴き出して、その男はびしょ濡れになった。これらの不意打ちで、仕掛け噴水ツアーの観客たちはみな笑顔になり、一瞬で打ち解けた。

「この仕掛け噴水は、当時のシステムのままで、電動ポンプなどは一切使用されていません。世界的にももっともよく保存されたルネッサンス後期の技術の粋を、お楽しみください」

 園内に立ち並ぶ彫像たちは、よく見るとふざけた表情を持つものが多く、あかんべーをしているように見えるものもある。よく見るとその口の中には管があり、どうやらこれも噴水となっているようだ。

 続いて案内された人工鍾乳洞グロットには、水の中を動き回る龍やイルカ、舌を出し入れする悪魔像など、現代ではテーマパークでよく見られるような仕掛けがそこここにあった。

 ここでも、油断しているのをいいことに、高いところ、低いところから客たちが通り過ぎるのを狙ってピュッピュと水が吹き出してくる。

 外に出れば、先ほどは何もないと思っていた通路には水のアーチができており、ブライアンとケイトも笑いながらもはや濡れることを避けずに通り過ぎた。

 ギリシャ神話を題材にしたさまざまな仕掛けのある洞窟を通り、案内されたのは巨大なドールハウスのような機械劇場だ。3階建ての建物にオルゴール仕掛けのごとく現れる精巧な仕掛け人形たちが、圧巻だ。偉そうな男が頷き、労働者たちは樽を転がし、兵隊たちが行進し、熊は引き回されている。そして、やはり水力で自動演奏されるオルガンが楽しげな音楽を奏でる。

「見て。あそこ、踊っているわ」
「本当だ。そしてここでは、屠殺場面かな?」
ケイトとブライアンは、これらのバラエティ豊かな仕掛けのすべてが、全く電氣を使わない水力だけのカラクリだということにあらためて驚いた。

 そして、最後に案内されたのは、噴水の水圧で王冠が浮く仕掛け噴水だ。はじめはゆっくり持ち上げて、さほど高くなかったので油断していると、突然ものすごいスピードではるか頭上まで持ち上がる。水と光の相乗効果でとても幻想的で印象深い。

 洞窟の外に出ると、またしてもあちこちから水が飛んでくる。宮殿にかかっている鹿の頭部に至っては、角からも口からも四方八方に水が飛んでくる。

 ケイトは、こんな風にきゃあきゃあ言って楽しんだのは、本当に久しぶりだと思った。子供の時以来かもしれない。普段は礼儀正しくて物静かなブライアンも、大笑いして楽しんでいる。ふと氣がつくと、物理的に距離が近づいてしまった。

 バスを降りてこの宮殿まで歩いていたときには、2人の間にはもう1人が入れるくらいの距離があったのに、今はとても近くを歩いている。そして、それがとても自然に感じられた。

 これまでは、2人の仲をトレイシーに指摘されたら、いつも全否定していたけれど、もしかしたら私たちって本当にそういう仲になるのかも。

 そう思って、なんとなくブライアンの顔を見たら、彼もこちらを見て微笑んでいた。あちこち濡れて、少々情けない身だしなみになっているにもかかわらず、そんな彼がいつもよりも格好良く見えて、思わずケイトは顔を赤らめた。
 
(初出:2023年7月 書き下ろし)

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非常に興味深いシステムですので、よかったらこちらでご覧ください。直訳調ですが、日本語の字幕もつけられますよ。


Austria's 400-year-old gravity fountains still work perfectly
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Category : 短編小説集・12か月の建築
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】花咲く街角で

今日の小説は『12か月の建築』7月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。先週もこのシリーズでしたが、ここで発表しておかないと、また1月ずれちゃいそうなので。決してどっかの小説のヒロイン登場を勿体ぶっているわけではありません(笑)

今月のテーマは、フランスアルザス地方の家です。

実はですね。私の曾々祖母の故郷はストラスブールでして、かつて彼女の痕跡を捜しに旅をしたことがあるのです。こんな世界に住んでいたのかと感動してしまいました。それほどにこのアルザス地方は印象に残る場所でした。

今回の掌編の裏テーマは「人生の楽しみ方」です。忙しく真面目に生きているだけで、何かを忘れがちなのは私も同じ。ある人たちは、人生の楽しみ方をよく知っているように思います。


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花咲く街角で

 カスタード色のルノーからは、どこかオイルの焦げるような匂いがしている。ティボーからお香みたいな独特の香りがするのと同じで、エリカはすでに慣れてしまっていた。

 車にはほとんど興味が無くて、ポルシェとアルファロメオを間違えたことすらあるエリカはいまだにいま乗っているオンボロ車の車種が定かではない。ティボーは「カトルシュボ」と言っていたような氣はするが。少なくともティボー自身の名前は憶えたのだから、それでよしとしてほしい。

 ブリキのおもちゃのような車内装飾。赤い縞のシートは、今どきの車のように運転席と助手席が完全には独立していない。ティボーが右手を下に延ばすとき、はじめエリカは足にでも触られるのではないかと身構えたが、何のことはない、その位置にギアがあるだけだった。

 地平線まで続く葡萄畑からは、硫黄の香りが漂ってくる。昨夜の通り雨を輝かす朝の光が葡萄畑をわたる風とともにルノーの中を通り過ぎていく。泣きたくなるくらいの美しさだ。

 アルザスワイン街道をいつかは通ってみたいとは思っていたけれど、まさかこんな形で通ることになるとは思わなかった。朝からワインをがぶ飲みして、オンボロ車を運転する、首に変な入れ墨のあるちょっとジャンキーっぽい見知らぬ男に連れられて、エリカは『人生の延長試合』をはじめたところだ。

 コツコツと真面目に生きてきたつもりだった。小さな貿易会社の事務員として10年働き、慎ましく生活してきた。来年には5年同棲した男と結婚して、新婚旅行もするつもりだった。でも、なぜかその男と、職場でエリカが一番仲がよかったはずの同僚が「おめでた婚」をすることになっていた。しかも、大切に貯めた結婚資金の大半はいつの間にか消えて、エリカが彼に「貢いでいた」ことになっていた。

 それがわかってからしばらくの事は、もう思い出したくもない。半分自棄で身辺整理をして逃げ出してきた。新婚旅行に行くならと憧れていたコルマールで、人生を終えてやれと鼻息荒く飛び出してきた。その旅費ぐらいは残っていたから。

 そして、パリからTGVに乗ってコルマールまで着いた。噂に違わぬ素敵な街並みだったけれど、楽しそうな観光客たちを横に、「人生を終える場所」など見つからなかった。エリカは、華やかな町の中心部から離れ、ホテルの小さなバーでワインを飲みながらメソメソと泣いていた。

 その時に、隣でパスティスを飲んでいたのがティボーだった。
「なんで泣いているんだ?」

 エリカは、拙い英語で自分の悲劇を語ってみた。思ったほどの同情を得られた氣はしなかった。

 ティボーは、まるで「そんなことはフランスでは日常茶飯事だ」とでも言いたげな態度で頷き言った。
「せっかくこんないい時期にここに来たんだから、そんなにすぐに『おしまい』にすることはないよ。ワイン街道はみたのか? コルマール以外の村は?」

 エリカは、若干ムッとしながら「まだ」と答えた。ティボーは、にやっと笑って言った。
「じゃあ、明日からは『人生の延長試合』だ。ワイン街道で、アルザスワインをたらふく飲んで、それからもっと小さな村を見にいこう」

 これまでのエリカだったら、こんな怪しい男の誘いには乗らない。騙されてお金を巻き上げられるか、それに類したろくでもない事が待っていそうだ。でも、「死ぬに死ねない」状況で、さらにいうと帰国しても仕事も帰る場所もない現状では「その手の犯罪に巻き込まれるのもアリか」と思ってしまったのだ。

 そして、エリカはそのホテルを今朝チェックアウトして、このオンボロ車の助手席に座ることにしたのだ。小さな荷物は、後部座席にぽつんと載った。

「あなたって、何している人? 引退するって年齢じゃなさそうだけど」
エリカは、疑問に思っていたことを口にした。見かけから推察するに40代くらいに見える。もう少し上の世代に多いヒッピー的な長髪を後ろで結んでいる。入れ墨はサンスクリット語のようだけれど、どんな意味か訊くのはやめた。白人がクールだと思って入れる漢字タトゥーは、漢字文化圏の者が見ると情けないモノが多いので、サンスクリット語だけが例外ではないと思うから。

「俺? 詩人……かな。ま、他にもいろいろやっているけれどね」
うわ。やっぱり、ヤバそうな人かも。……ま、いっか。たかったり、騙したりしようにも、私にはほとんど何も残っていないし。

 なだらかな丘陵をいくつか登って、ルノーは小さな看板の出ている葡萄畑の傍らで停まった。ティボーは、懐から小さなビニール袋を取りだして、中に入っている紙で煙草の粉を巻いて火を点けた。

 ああ、この香りだ。エリカは納得した。お香のようだと思ったのは、巻き煙草か。くたびれたアロハシャツに綿の7分丈パンツ、黒いビーチサンダル。肩の力の抜けた人だ。

 葡萄農家と少し話すと、葡萄棚で日陰になった石のテーブルとベンチに案内された。白ワインといくつかのチーズにクラッカーが出てきた。

「さあ、乾杯しよう」
ティボーは笑った。

「もうお酒? まだ9時にもなっていないのに」
エリカが言うと、ティボーと農園の女将は不思議そうな顔をした。

「朝と、夜で何が違うんだい?」
言われてみると、なぜ朝だと飲まないのか、よくわからない。ましてや人生を終わらせるつもり、もしくは『人生の延長試合』を生きているエリカには、さして重要な禁忌とは思えなかった。ええい、飲んじゃえ。

 飲みやすい白だ。甘すぎず、渋さもない。いくらでもいけそう。このカマンベールみたいなのとよく合うし。しかも、このバケット、パリッパリだ。美味しいなあ。こんなにきれいな場所でワインを飲んだ事って、これまでになかったかもしれない。誰かのグラスが空じゃないかと心配する必要もないし、ただ自分だけが楽しむためのワイン。最高だわ。

「ほら。まだ先は長いから、酔っ払いすぎないように。もう行くよ」
1杯だけ飲むと、意外にもティボーはさっさと立ち上がった。

 そして、ようやくエリカは氣がついたのだが、ティボーは『アルザスワイン街道』を通り、この先のいくつもの農園でさまざまなワインを飲み比べさせてくれるつもりらしい。

 フランス北東部を、北はマーレンハイムから南はタンまでヴォージュ山脈の麓の市町村を結ぶ170キロメートルを『アルザスワイン街道』と呼んでいる。アルザスワインの1000にものぼる生産者がこの地域にあり、試飲をしたり生産者から直接買ったりすることができる。

 そして、それだけでなく途中で通る村がいちいち美しい。

 壁の骨組みを木で造り、その間に石やレンガを入れて漆喰で固める「木骨造り」という中世ドイツの影響を色濃く残した様式の家々はカラフルな壁と飾られた花と相まっておとぎの国のようにかわいい。

 世界中にも伝統的な家屋を一部だけ残した歴史地区などはあるけれども、『アルザスワイン街道』は170キロメートルにわたり、通る村のほぼすべてがこのような様式の家で建てられているのだ。

 エリカは、ずっとコルマールやいくつかの有名な村の一部だけが、このような美しい外観なのだと思っていたので、とても驚いた。

「ああ、ここでコーヒーを飲まなくちゃ」
そう言ってティボーはなんでもないパン屋の前で車を停めた。

おはようモルゲ 、ティボー」
パン屋の女将が挨拶する。

「やあ。パン・オ・ショコラはあるかい?」
ティボーの問いに、女将はショーケースを自慢げに見せた。

 店の片隅の丸テーブルで、紙ナフキンで包んだだけのパン・オ・ショコラとコーヒーを渡された。何十もの層となった生地がサクッとした歯触りで口の中に広がる。固すぎず、でも、クリームではない板チョコがたっぷり入っている。
「うわ。ちょっと待って。これ、本当に美味しい……」

 店には次々と客が入ってきて、お互いに挨拶しながら他愛のないことを話している。ティボーともみな知り合いらしく、次々と会話が弾んでいた。ドイツ語に近い不思議な言葉、アルザス方言だ。

 たった1杯のコーヒーと、1つのパンを食べている間に、世界がいきなり社交的で優しくなったかのようだ。ここに逃げ出してくる前の生活では、休憩時間とはスマホをチェックしてトイレに行くぐらいの時間だった。この国に到着してからも、パリでは観光客に対しての事務的で冷たい扱いを受けていたように思う。

「コーヒータイムも、悪くないだろ?」
ティボーは、そんなエリカの考えを見透かしたかのようにウインクした。

 また車に乗って、葡萄畑の間を走っているときに、エリカは言った。
「私ね、朝からワインなんて飲んじゃいけないって思っていたけれど、そういうばコーヒータイムもコーヒーを飲むだけでみんなでおしゃべりすることは避けていたかも」

「どうして?」
「どうしてかしら。もちろん仕事中には決まった時間以上に休んじゃいけない決まりはあると思うんだけれど、休みの日は関係ないはずよね。でも、そういうものだと思い込んでいたのかも」

「今朝の時間の過ごし方はどう? 心地よい? それとも居心地悪い?」
ティボーは助手席のエリカを見て訊いた。

「新鮮で、そうね。とても心地よい驚きだと思うわ。午前中って、人生って、こんな風に楽しんでいいのかって」
「それならよかった」

 午前中に、ティボーに連れられて3軒の農家で白ワインを楽しんだ。太陽が高く上がるにつれて氣温はぐんぐんと上がり、アルコールはどんどん蒸発していった。1杯につき50ccもないとはいえ、運転するティボーがこんなに飲んでいるのは合法なのかどうか怪しい。だが、さすがフランス人というのか全く酔った感じはない。

「さあ。昼食の時間だ」
コルマールよりも南のエギスハイムに着いたとき、ティボーは言った。

 エリカは、言った。
「お昼は、私が払うわ」

 朝からエリカは1銭も払っていない。何度か財布を取り出したが、ティボーに人さし指を振って断られてしまったのだ。

 ティボーは、片眉をあげてニヤッと笑った。
「それは無理だな。レストランじゃないからね」

 どういうこと? ティボーは、観光客たちのように車を城壁の外の駐車場には停めず中に進めて村人が停めている駐車場に停めた。

 そして勝手知ったる足取りで小さな小路を進み、クリーム色の壁の家の外階段を登って行った。茶色い木のドアを解錠して中に入っていった。
「ようこそ。我が家へ」

 エリカは目を丸くした。ティボーの住む家?!

 外壁はクリーム色だったが、内壁は白かった。外壁と同じなのは木骨が台形に張り巡らされていることで、同じ色の古い木材の柱、同じくらい古そうな丸い木のテーブルと椅子、備え付けの家具類だった。天井も同じ木材で、丸いランプは取り付けてあるが、それ以外は「中世からこのまま」と言われても信じてしまいそうな佇まいだ。

 よく見るとキッチンにはガスコンロやオーブンもあるし、冷蔵庫もあるのだが、その冷蔵庫もどこのアンティークなんだろうと思うような古い50年代風外観で、先ほどまで乗っていたルノーを彷彿とさせた。

「まあ、座って」
そう言うと、部屋の片隅に置かれたレトロなラジオのスイッチを入れた。サクソフォンが心地よいラウンジ・ジャズがわずかな雑音とともに部屋に満ちる。

 それから、レモンを入れた緑の重いガラスコップを持ってきて、そこにミネラルウォーターを注いだ。

 彼はラジオに合わせて鼻歌を歌いながら、冷蔵庫から食材を取りだして木製のキッチン台に並べた。

「えーと、何か手伝えること、ある?」
エリカが訊くと、彼は「そうだね」と言って、テーブルに洗ってあるチシャを持ってきた。
「これを、このお皿に載せて」
「こんな感じ?」
「うん。それでいい」

 彼は、何かのパテをそのチシャの上に載せて、上からバルサミコ酢をかけた。それから、テーブルに冷えたワインボトルとグラスを持ってきた。
「ゲヴュルツトラミネールだよ。ちょっと癖のある料理に合うんだ。だから、前菜は鴨のパテにした」

 ティボーはグレーのテーブルマット、布ナフキン、カトラリーレストなどを慣れた手つきでセットしていき、あっという間にレストランのようなセッティングにしてしまった。

 グラスに琥珀色のゲヴュルツトラミネールが注がれた。なんともいえないフルーティーな香りがする。
「これ、何か薬草でも入っているの?」
「いや、そういう品種の葡萄なんだ」

 引き締まった辛口で、ワイン自体に強いアロマがあり癖が強いのだが、香辛料のきいた鴨のパテに驚くほどよく合う。
「意外ね。喧嘩しそうなのに、こんなに合うなんて」

 そして、もう1つ意外だったのは、ティボーが料理上手だったことだ。パテの次に、スズキの香草焼きをあっという間に作り、茹でポテトとほうれん草まで添えてあった。切るときに幸福な香りを漂わせたパリパリのバゲットは小さな籠の中で待っている。今度のワインはリースリング。
「もしかして、料理人でもあるの?」

 ティボーは、笑った。
「若い時にセネガルやモロッコを旅して回ったんだ。その時にそういう仕事をしたこともある。でも、それとは関係なく、食べるのは好きなんだ。毎回の食事は大いに楽しまないとね」

 エリカは、前に食事を楽しんだのはいつだったかと考えた。3回きちんと食べることは心がけていたつもりだったけれど、それは楽しかっただろうか。今朝、ホテルで出てきた朝食ですら「タダなのにもったいないから」食べたような氣がする。

 ティボーは、「デザートはテラスで食べよう」と言った。石の階段を登って、裏の庭側に小さなテラスがある。そこからはどこまでも続く葡萄畑を一望することができた。すぐ近くの建物の屋根に、コウノトリが巣を作り、カタカタと音を立てている。

 ビターオレンジのシャーベットに、エスプレッソコーヒー。とても簡単なデザートだけれど、こうやってゆったりと食べると本当に美味しいなあ。

「日本で使う漢字でね、忙しいって字は心を亡くすって書くの。私、もしかしてずっと心をなくしたまま生活していたのかもしれない」

 ひとり言のようなエリカの言葉に、ティボーは微笑んだ。
「今日、心を取り戻した?」

「わからないけれど、少なくとも何もかもがきれいで、美味しくて、楽しい。久しぶりだなあ、こういう氣持ち」

 空のグラスに、リースリングが新しく注がれる。窓枠から入ってくる優しい陽の光がグラスに反射する。
「じゃあ、わかるまで、ゆっくりと探せばいいよ」

「そうできたらいいけれど、お金もほぼ使い切っちゃったし、そうもいかないわよね」
エリカは、現実的に答えた。

「中途半端にあるからお金は足りないって感じるんだよ。全くなくても、実は何とかなるものさ」
「でも、今夜泊まるホテル代すら足りないかもしれないのよ」
「ほらね。ホテルに泊まろうと考えるから足りないのさ。……この階の部屋は空いているから使うといいよ」

 エリカは目を白黒させた。
「なんで? 知り合いでもなんでもない人をただで泊めても、あなたにメリット何もないじゃない?」

 ティボーは、肩をすくめた。
「僕は、世界中で、知り合いでもなんでもない人たちにしばらく住まわせてもらったし、助けてもらったよ。誰もメリットがあるないなんて言わなかった。誰かが困っていたら手を差し伸べて、楽しく時間を過ごせれば、それでいいんじゃないかな。それじゃ君の氣が引けて困るなら、家事を手伝ってくれればいいし、この村にしばらくいれば、簡単な仕事くらいは見つかるだろうし」

 エリカは、疑い深く食い下がった。
「でも、私、フランスの滞在許可もないし」

 ティボーは、ウインクした。
「そんなことは、いま氣にしなくてもいいんだよ。お金のことも。まずは、よく寝て、食べて、飲んで楽しむ事が先だ。それ以上のことは、あとからついてくる。いまは、この1杯を全力で楽しむんだ」

 エリカは、少し考えた上で、ワイングラスを持ち上げた。確かに、昨日あれだけ悩んだけれど「人生の終わらせ方」は見つからなかった。それよりも、無茶苦茶な『人生の延長試合』を続ける方が、なんとかなりそうな予感がする。

 生き方を少し変えてみたら、強敵みたいに思っていた人生とも、うまく折り合っていけるのかもかもしれない。

(初出:2023年7月 書き下ろし)

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Die schönsten Weindörfer im Elsass - Eguisheim an der Weinstrasse - Alsace
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Category : 短編小説集・12か月の建築
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】地の底から

今日の小説は『12か月の建築』8月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、トルコはカッパドキアにある古代の巨大地下都市デリンクユです。当時はそういう名前ではなかったとどこかで読んだので古い名前を使いました。

これは、実際にこういうことがあったという裏付けのある話ではありません。デリンクユのことを調べている間に、「これってどうやって暮らしていたんだろう」と想像が膨らみ、いつのまにか生まれてきてしまった話です。


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地の底から

 水面に月明かりが揺らめいている。セルマは静かに桶を浸した。痛いほどの冷たさを感じた。日中に外に出れば、怯えるほどの熱風に晒されるはずだが、この地底はアナトリア高原の厳しい夏とは無縁だ。少なくとも彼女はもう何か月も地上へは行っていない。

 セルマは、地下都市マラコペアの最下層に小さな部屋を与えられている。その役目を果たす時以外に彼女と関わろうとする者は非常に少ない。時おり、好奇心に駆られて話しかけてくる人はいる。しばらくの交流があり、やがて家族や友人たちに止められ、後ろめたそうに去って行く。いま、時おり訪れてくるファディルもいつかはそうなるのだろう。

 セルマは『水番』だ。地下都市マラコペアの最下層には地下水の泉がある。10以上ある同じような泉は、すべての階層の家族の命を支えている。この地下都市と地下通路で繋がっているほかの地下都市もまた、同じつくりになっている。この井戸は地上と地下の双方の住民のため使われており、地下都市にとっては、水汲みの井戸としてだけでなく、通氣口にもなっている。外界から空氣と光が差し込む唯一の場所だ。

 泉の周りに、入り組んだ細い通路や階段につながれた居住区が、互い違いに上下に存在する迷路のような構造になっており、セルマの暮らす最下層は地下8階にあたる。

 セルマや、他の井戸に住む『水番』は、上から降りてくる桶に水を汲み、それが引き上げられる前に少しだけ水を飲んでみせる。それが『水番』の勤めだ。外敵によって井戸に毒が投げ込まれれば、それは地下都市で生きるすべての家族の死を意味する。だから、『水番』が必要なのだ。

 地下都市マラコペアがいつ建設されたか、詳しいことは誰も知らない。主イエス・キリストが生まれる何百年も前の時代にヒッタイト人またはフリギア人が建設したという者もいるし、ペルシャ人たちは伝説のペルシャ王イマが建設した地下宮殿がここだと主張しているらしい。いずれにしても、大昔のことだ。

 キリスト教が急速に広がると同時に、それを問題視するローマ帝国では迫害も始まった。聖ステパノが最初に殉教してから120年ほど経った今、迫害を避けて移動してきた信者たちの多くがこのアナトリア高原の地下都市マラコペアにたどり着いた。

 もともとの地下都市の壁は硬くしっかりとしていたが、その奥の空氣に触れる前の火山岩層は脆く容易に掘り進められることがわかった。それで、人びとは単にここに隠れ住むだけではなく、地下都市を拡張させ、狭い通路と防御のための大人5人分ほどの重さのある引き扉を用意した。それどころか、敵が通ると背後に回り通路を閉じて行き止まりの空間に誘導する罠までも作った。

 住居だけでなく調理場、倉庫、家畜小屋、会堂、そして長らく地上へと戻ることのできないときのための墓所までが用意されている。

 祈りを捧げる信徒たちの歌声がわずかに響いてきた。ひときわ美しい声は『聖女』ペトロネッラだ。聖堂と呼ばれる十字型をした広い空間に彼らは集い、敬虔な祈りを捧げる。この地下都市に潜む数百家族のうち、明け方の礼拝で聖堂に常に集うのは司祭ヒエロニムスを中心とした数十人だけだ。

 ファディルは、その重要な人びとの1人だ。若く力強く、新しい通路を掘るための設計を任されている有能な若者で、いずれは有力な指導者の1人となるだろう。まだ独身で、青年たちの住居区画に住んでいる。

 井戸の1つ上の階層で水汲み窓に問題があったのを機に、セルマの仕事場兼居住場にやって来たが、それをきっかけにときどき話をするようになった。

 蔑まれる異教徒のセルマに対する公正な態度。朗らかで誠実な人柄、若々しく精悍な佇まい。セルマが密かに想いをよせるようになるのに時間はかからなかった。

 もちろん、願いが叶うことはないだろう。彼は『聖女』ペトロネッラの崇拝者のひとりだし、そうでなくても異教徒と関係を持つことは、彼や彼を取り立てた司祭ヒエロニムスの立場を悪くするだけだ。

 司祭ヒエロニムスは、何人かいる司祭たちの中では穏健派だ。同じ地下都市に潜む異教徒たちとの関わりを禁止しようとする厳格派たちをやんわりと抑えて、その必要性を唱えた。掘り進む通路を完成させるためには純粋な信者たちだけでは倍の時間がかかる。それに、現在『水番』となっているのは、みな異教徒たちだ。なぜなら、同じ信者の中に、理論的に犠牲者となりうる存在を出すわけにはいかないから。

 セルマの村とその周辺の地域は、ローマ帝国の税制に反対して壊滅させられた。生き延びるためには、キリスト教徒たちの力を借りて、この地下都市に住まわせてもらう他はなかった。男たちは人足となり、一部の女たちはキリスト教に帰依して共同体の一部になった。そうしなかった子供のいない女は、竈番になったり、『水番』になった。

 キリスト教徒たちは、異教徒たちを半ば奴隷化していることを信仰という名の大義名分で覆った。後ろためさを交流しないことでなかったものにしている。厳格派の司祭たちを支持する裕福な信徒たちは、『水番』や人足たちは、無料で安全と食糧を享受しているのだから彼らの奉仕を受け取るのは当然なのだと主張していた。

 久しぶりに穏健派の司祭であるヒエロニムスが、教会の中心となってからは、こうした異教徒たちへの冷たい扱いは、減ってきているかもしれない。

 ヒエロニムスを中心に……もしかすると本当の求心力を持っているのは、ペトロネッラなのかもしれない。

 セルマは、『聖女』ペトロネッラの整った清冽な横顔を思い浮かべた。聖ペトロの血を引く高貴な生まれだと、人びとがひれ伏し敬愛する若い女が、かつてエラという名で、セルマと同じ村でハシシの製造で身を立てていた少女だったと知る者はほとんどいない。

 ファディルは、セルマの言葉を信じなかった。
「言っていいことと悪いことがあるぞ。彼女は高潔で穢れなき魂そのままの顔かたちをしている。セルマ、妬みは君自身のためにならないよ」

 妬みか……。そうかもしれない。一番低い階層に、もっとも地上から遠い洞穴空間に潜み、賛美歌を聴いている。けれど、信徒たちのように、神の国の訪れを待っているわけではない。いつの日かローマ帝国の怒りを氣にせずに暮らせる日まで生き延びたい、それだけだ。

 桶に水を汲む度に、複雑な想いが渦巻く。地上を避けて地下都市マラコペアに隠るのは、教えを認めず迫害する人たちがいるからだ。毒を投げ入れるとしたら、それは教えを迫害する為政者の手の者たちであろう。だから、毒で死ぬとしたら殺害者はローマ帝国の手の者だ。

 それでも……。司祭ヒエロニムスも、『聖女』ペトロネッラも、他の信徒たち、そう、ファディルですら、毒を入れられた水で彼らの代わりに死ぬのは『水番』だとわかってその役目をさせているのだ。

 桶が降りてくる度に、数分後にも生き延びられていることを願いながら水を飲む。ここに来て以来、願いが叶わなかったことはまだない。だが、その幸運が続かなった同胞もいることを知っている。隣の泉で2か月前に起こった騒ぎの時には、しばらくセルマの泉に投げ込まれる桶の数がずっと増えた。

 あれ以来、信者たちは、食事の度に生命を賭けることを課されている『水番』たちともっと距離をとるようになった。誰が隣の泉に毒を入れたのか、本当に地上から投げ入れられたのか、それとも中に忍び込んだ敵がいるのではないかと、誰もが疑心暗鬼になった。そして、より疑われたのはやはり異教徒の住人たちだった。

 それぞれの井戸は離れており、人ひとりが身をかがめてやっと通れる狭い複雑な通路を通ってしか行き来できない。桶が投げ込まれたときにその場にいなくてはならない『水番』たちは、他の井戸へと向かうような時間的余裕はない。だから、セルマはほかの『水番』たちが、何を想っているかを確かめることはできない。全員が未だ生きているのかすら知らないのだ。

 地上には通じていない泉が1つだけある。地下都市マラコペアの中央にあり、聖堂の奥、普段は人びとが足を向けない墓所の先で、位の高い聖職者や有力者だけがその場所を知りいざという時のために守っている。すべての泉に毒が投げ入れられて飲み水が使い物にならなくなった場合のためだ。

 神とイエス・キリストを信じ、運命を共にする信仰共同体とはいえ、完全にすべての人びとを信じているわけではないのだ。2万人が暮らすことのできる巨大地下都市網、常に新しく掘り続けられる通路、信仰共同体の中の新たな上下関係が、また別の不信を呼び起こしている。

 異教徒たるセルマは、聖堂だけでなく他の人びとの部屋、ワインセラー、食堂などを訪れることは許されていない。

 共有スペースとなっている調理場を訪れることは許されている。床に埋められたタンドール竈で調理する調理場は、泉からさほど離れていない場所にそれぞれ設けられている。煙突から漏れる煙が外界から見えないように、調理は夜間だけに限られる。できたての肉やパンは、まず聖職者に、それから裕福な家族たちと順番に提供される。セルマはもう誰も訪れなくなった明け方に、そっと調理場を訪れ、黙って食事をする。

 司祭ヒエロニムスが聖書を朗読しているのを耳にしたのは、食事を終えて居住区に帰ろうとしたときだった。

 賛美歌の音色と、厳かな雰囲氣に心惹かれ、ロウソクの光を頼りに普段は向かわぬ聖堂への通路を通った。聖堂は地下都市の中でもっとも大きな空間を占めている。十字型をしており、天井や壁に壁画までが施されている。セルマはそっと聖堂脇の戸口の陰に座った。

もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは、もはや愛によって歩いているのではない。あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも、死なれたのである。それだから、あなたがたにとって良い事が、そしりの種にならぬようにしなさい。神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。

(ローマ人への手紙 14章15-17)



 尊敬する『聖女』ペトロネッラの周りに集まる若い婦人たちや、彼女を賞賛しその手を望むファディルと若者たちは、その聖句に神妙に頷いているが、彼らは知らないのだ。

 セルマの生まれ故郷がまだローマ帝国に対して反旗を翻す前のことだ。地域には広大な麻畑が広がっていた。過酷な夏にも涼しく心地よい上質な衣服や丈夫な縄を作るのに重宝された作物だが、葉や花を燃すことで酩酊効果があることも知られていた。

 貧しい村人たちは、パイプ用の樹脂を作成して、秘密裏に売り現金収入を得ていた。セルマと同じ村の娘エラも、パイプ用樹脂を作り売っていた。美しくあまたの男性に対する影響力を自覚していた彼女は、ローマからの差配人の誘いを断らなかった。ローマでは珍味として珍重されるヤマネ肉をご馳走してやると言われて彼と何度も逢ったのだ。そして、差配は、何度かめの訪問の時に、村で麻の樹脂を作成して密売していることに氣がついた。

 差配人は、その地域の不正をローマに進言することで出世した。セルマの村だけでなく近隣の50ほどの村が争いに巻き込まれた。

 村が、ローマとの争いで荒廃し、彼女を崇拝していたたくさんの若い男たちが命を落としていたとき、エラは差配人によってとっくに安全な南部地域に逃されていた。それから、彼女の身に何があったのか、セルマも他の生き残った村人も知らない。再び彼女が姿を現したとき、そこにいたのは若い男を籠絡してほしいものを手に入れていたエラではなく、愛と慈しみに満ちたキリスト教徒の鏡のような『聖女』ペトロネッラだった。

 彼女を知る者はもうほとんどいない。そして、何を言おうと、『聖女』に狂信的な忠誠を誓う信者たちは、異教徒のセルマたちの言葉など一顧だにしない。エラは、それをよく知っている。美しい面に慈しみに満ちた微笑みをたたえて、妄言を語る異教徒すらを許す信仰深き態度を演じてみせる。

「あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない」
そう告げる聖書の言葉を、エラはどのような思いで聴いているのだろう。彼女が炙ったヤマネ肉と引き換えにして捨てた故郷の村はもうない。戦って死んでいった崇拝者たちも、人足として、あるいは『水番』として蔑まれつつ、時には命を失う不条理に耐えて生き延びるかつての同郷者たちを、偽りの特権の座から眺めるのはどんな心持ちなのだろう。

 聖堂の中心、司祭と共に会衆に向かって立っているエラは、戸口に潜むセルマに氣づき、挑戦するかのような冷たい視線を向けた。他の信者たち、司祭ヒエロニムスも氣づかぬほどのわずかな時、まったく違う立場になってしまったかつての同郷者たちは、瞳を交わした。

 司祭ヒエロニムスが、聖餐を記念する聖句を唱え出すと、『聖女』ペトロネッラは我にかえり、祭壇の脇に置かれた水差しを手に取った。その中のワインは、司祭ヒエロニムスが祝福することで聖水となったと信者たちにありがたがられている水から作られた。一方で、その水をセルマが汲んだおり、毒が入っていないか確かめた行為は考慮され感謝されることもない。

 ファディルが聖なるパンを捧げ持ち、水差しを持つ『聖女』ペトロネッラと並んで司祭の待つ祭壇へと運んでいった。ヒエロニムスの唱う聖句に合わせて信者たちが唱和する祈りの響きが聖堂に満ちた。悲しいほどに美しいハーモニーが、地底の聖域に響き渡る。

 信徒たちは、迫害にも負けぬ清らかな心と互いに対する善行という正しさを拠り所に、『聖女』と共に天国に入る鍵を手に入れようとしている。彼らが今や日々口にするすべての食物や飲み物に入る水に込められた、セルマの苦い想いは氣づかれることすらない。
 
(初出:2023年8月 書き下ろし)

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Respighi: Pini di Roma, P. 141 - II. Pini presso una catacomba

私にとっての「ローマ時代のキリスト教迫害」のイメージといったら、誰がなんといおうともこの曲なんですよ。今回の作品はこの曲のイメージから何となく生まれてきたものです。
* * *

デリンクユについて興味をお持ちの方は、こちらがわかりやすくて興味深かったです。

デリンクユ:かつて2万人が生活していた地下都市とは
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Posted by 八少女 夕

【小説】雷鳴の鳥

今日の小説は『12か月の建築』9月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、アフリカのジンバブエにある『グレート・ジンバブエ遺跡』です。私は1996年に、じっさいにこの遺跡を訪れています。

登場する人物は、いまのジンバブエがまだローデシアと呼ばれていた時代に実在した研究者たちです。


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雷鳴の鳥

 その鳥の小柄な身体には見合わぬ巨大な巣は、ついに屋根で覆われた。それから、シュモクドリは、人間の男性が載っても壊れないほどの強度ある巣の機能面だけでは満足せずに、2メートル以上もある目立つ巣をありとあらゆる装飾品で覆い始めた。カラフルな鳥の羽、草食動物たちから抜け落ちた角、ヘビの抜け殻、骨、イボ猪の牙、ヤマアラシの棘などが運ばれた。

 それらは、呪術師ウイッチドクター の呪具と似通っている。これがシュモクドリが魔法を使う存在だと信じられる根拠の1つとなっている。現地の言葉で『インプンドゥル』すなわち『雷鳴の鳥』と呼ばれる霊鳥は一般的にこのシュモクドリのことだと信じられている。

 伝説上の霊鳥は、白と黒の背の高い鳥で、魅力的な男性または女性に姿を変えることもできるし、生命にとって欠かすことのできない雨と水を呼び寄せる。実際のシュモクドリ(Scopus umbretta)は、ペリカン目シュモクドリ科シュモクドリ属の茶色い鳥だ。全長56~58センチ。カラスと変わらない。その名の通り、頭の後ろの飾り羽が少し突き出ていてハンマーのようだ。オスとメスには見かけ上の違いは比較的少なく、共同で非効率の極みと思えるほどの巨大な巣を作る。

 アフリカのサハラ以南、マダガスカル、アラビア半島南西部の浅い水瀬のあるあらゆる湿地帯に生息する。ペアで保持するテリトリーに留まり、渡りのように大きく移動することは少ない。繁殖しているかどうかに関わらず、年間3個から5個の巣を作り、そのうちの1つだけで雛を育てる。

 雛たちの多くは1年以上は生きられないが、生き延びた成鳥は時には20年も生きる。

 水辺に佇み、空の彼方を見つめるとき、人びとは呪術師たる雷鳴の鳥インプンドゥルが嵐を呼んでいるのだという。

 人を怖れず、マングローブ、水田、貯水池などにも巣を作り住むが、彼らを捕まえたり巣を壊して追い払おうとする者は少ない。雷鳴の鳥インプンドゥルの祟りで家に雷が落ちるような危険は冒さない。またこの鳥は南アフリカでは雨乞い師を意味するNjakaと呼ばれている。雨の前に大きな声で鳴くからだ。

* * *


 その遺構は、はるか昔にその地に建てられた脅威だった。1800年代にこの地を「未開の地」として蹂躙しにやって来た白人たちは、アフリカ大陸の南に巨大な遺跡を見いだした。1867年にドイツの狩猟家アダム・レンダーが「発見した」と言われる遺跡群は、実際にはすでに16世紀のポルトガル人たちによって記録されている。

 現地のショナ語でそれは「Zimbabwe ジンバブエ」と呼ばれていた。ポルトガル人ベガドは「裁判所を意味する」と報告しているが、現在ではこの言葉の意味については2つの説が有力である。「石の家」を意味するというものと、「尊敬される家々」という言葉に由来しているというものだ。鉄器時代の現地の人びとは、記録する文字を用いなかったので、当事者たちによる正確な由来を書いた文献は見つかっていない。

 この遺跡は、単なる「家々」という言葉で表現できるような規模ではない。最盛期には18000人が住んでいたと推測される、その驚くべきスケールと精密さが、逆に過去の偉大な創建者たちを本来賞賛を受けるべき名誉から遠ざけた。

 キャスリーンは、彼女の上司であるガルトルード・ケイトン=トンプソンが見せてくれた手紙を読んでため息をついた。それは、彼女たちの緻密で丁寧な論証に対して単に否定的だというだけでなく、明からさまな憎悪に満ちていた。ガルトルードは、「ナンセンスな内容だわ」と投げ出した。

 ローデシアをめぐる社会の目は、三重の意味で偏見に支配されていた。白色人種は黒色人種より優れているので植民地支配が正しいのだという立ち位置。オリエントやギリシャなどの過去の優れた文明文化が、彼ら白色人種たちに受け継がれているという曲解。そして、男性の仕事が女性のそれよりも常に優れているという驕り。ケイトン=トンプソン調査団が提示した報告は、そのすべてを根幹から揺るがす内容だった。

 1928年に英国アカデミーにローデシア、ムティリクウェ湖近くの遺跡の期限を調査するために招待されたケイトン=トンプソンは、この分野ではまだ珍しかった女性考古学者だ。第1次世界大戦中に海運省に勤務し、パリ講和会議にも出席したことのある彼女は、その後ロンドン大学で学び始め、マルタ島、エジプトなどの発掘調査で経験を積んだ後に、このアフリカ南部の謎の遺跡調査を依頼されたのだ。

 すでに19世紀にジェームズ・セオドア・ベントらによって発掘調査は行われていたが、この遺跡の起源についての全く誤った仮説を証明するためだけの杜撰な調査で、考古学者の間からも疑問が出ていたのだ。

 彼らの主張は簡単にいうとこうだった。
「下等なアフリカ人に、このような偉大な建築が可能なはずはない。これは過去の偉大な中近東の遺構に違いない」

 ソロモン王を訪ねたシバの女王国はここであった、もしくは、古代フェニキア人またはユダヤ人が築いた、アラビア人たちの黄金鉱山だったというような主張だ。

 20世紀初頭にデイヴィッド・ランダル・マッキーヴァーの調査では、それまでの調査隊が「取るに足りぬゴミ」として放置していた、現地人が現在も使うのとほぼ同じタイプの土器や、石造建築物の構造の調査から遺跡はショナ人など現地住民の手によるものだと結論づけたが、当時の権威たちはそれを認めなかった。

 こうした中で再調査を依頼されたケイトン=トンプソンが編成したのは、写真撮影で協力参加したキャスリーンを含め全員が女性の調査隊だった。これは、全く前例のないことだった。ケイトン=トンプソンは現代でも村人が使用している陶器やテラス造りの壁といった構造と比較することで、マッキーヴァー説を強く支持する調査結果を発表した。

 彼女が、他の調査隊と違ったのは、『谷の遺跡ヴァレー・コンプレックス』と『大囲壁グレート・エンクロージャー』について緻密なトレンチ調査を行い、層位学的研究法の見地から最下層までの層位と遺物を対応させた実測図とデータを提示して、後の研究者がデータを検証できるような報告書を作成するように努めたことだ。

 データが語っている。これはソロモン王の時代の遺跡ではない。アラビア人たち西アジアの人びとが建設したものでもない。後の放射性炭素年代測定でも、この遺跡は12世紀から15世紀に建設されたものであることが証明されている。

 遺跡は50以上の円形または楕円形の建造物の集合体で、3つに分けて分類されている。北側の自然丘陵を利用して作られた通称『丘上遺跡ヒル・コンプレックス』、その南部に広がる『谷の遺跡ヴァレー・コンプレックス』、そして巨大な楕円形の外壁をもった『大囲壁グレート・エンクロージャー』だ。

 何よりも「原住民には作れない」と偏見の対象となったのは、『グレート・エンクロージャー』で、1万5千トン以上の花崗岩を用い、漆喰などは使わずに精巧に積み上げてある。長径は89m、外壁の周囲の長さは244m、高さは11mで、外壁の基部の厚さは6mに達する。東側には高さ9mを超える円錐形の塔がそびえ立ち、おそらく祭祀的空間であったと考えられている。

 『ヴァレー・コンプレックス』は、首長の妻子たちの住居跡地だと考えられている。円形の壁を持つ住居が通路で結ばれた構造だ。鉄製のゴング、大量の食器や燭台、ビーズ、銅、子安貝などで作られた装飾品、犂や斧、儀礼用の青銅製槍などの他、中国製の陶磁器、西アジア製のガラス瓶まで出土しており、まだヨーロッパ人たちが大航海時代を迎える前に、彼らが遠隔地交易との豊富な金属加工で大いに栄えていた証拠となっている。

 『ヒル・コンプレックス』の東エンクロージャーには石組みのテラスが敷かれ、祭祀に関連する遺物が出土した。中でも最も重要だったのは、6体の滑石製の鳥彫像だ。似たものが『ヴァレー・コンプレックス』からも出土している。ショナ族の世界観では、鳥は天の霊界と地の俗界を往き来して仲介する使者であり、呪術師はその力を借りて雨乞いなどの儀式を行うために鳥を象った彫像を作ったと考えられている。

 キャスリーンは、『ヒル・コンプレックス』で作業をしていたときに、何度も襲ってきた雷雨のことを考えた。遠くに稲妻が煌めくと、次第に灰色の雲が青空を覆い隠していく。

 雷鳴の鳥インプンドゥルたるシュモクドリが甲高く鳴いて嵐を呼んでいる。

 西エンクロージャーは自然の巨石を利用し、花崗岩ブロックのと合わせて直径30メートル、高さ7メートルの巨大な建物に仕立てている。雷雨の激しさを知るキャスリーンは、急いでこの首長の政治統治の場だったと思われる建物に入っていくが、恐ろしげに首をすくめる。

 15世紀から今まで絶対に落ちてこなかったのだから、絶対に安全だとわかっていても、屋根となっている自然巨岩の危うげなバランスに強迫観念を感じてしまうのだ。だが、痛いほどに打ちつけるアフリカの夕立に打たれるよりは、ひとときこの岩の下で息をひそめる方がマシだった。

 すぐ近くで出土したジンバブエ・バードの黒く滑らかな立ち姿を思い浮かべた。なんという鳥を模した像なのか、キャスリーンもケイトン=トンプソンもはっきりとはわからない。ショナ族にとって重要なトーテムであるチャプング(ダルマワシ)またはフングウェ(サンショクウミワシ)だと考えられているが、どれも決め手に欠ける。

 そういえば手伝いに来ていた現地人ンゴニは雷鳴の鳥インプンドゥルではないかと言っていた。なんでもない姿をした格別強くもないシュモクドリだが、「鳥の中の王」と見做されているからだ。キャスリーンも、アフリカの各地でそう見做されていることについては知っている。
 
 大変な努力を持って作り上げられたシュモクドリの巣は、彼らだけが使うわけではない。空き家の巣はチョウゲンボウやワシミミズクなどほかの鳥たちや、ネズミやなど他の動物たちも利用する。中でもクロワシミミズクは巨大で怖れられ敬われている鳥だが、シュモクドリの巣の上に陣取り1日を過ごす姿が「猛禽が宮殿を守っている」とみなされ、「雷鳴の鳥インプンドゥルこそが実は鳥の中の王だからだ」という言い伝えを強化している。

 不思議な鳥だ。雨を呼び、稲妻を司る雷鳴の鳥インプンドゥル。巨大な巣を作り上げるシュモクドリ。理由も理解も、そして、首長たちが崇めた神像のモデルとしての地位も、もしかしたら彼らには必要ではないのかもしれない

* * *


 キャスリーン・ケニオンは1950年代にパレスチナ東部エリコの発掘調査を主導し20世紀でもっとも影響力のある考古学者と呼ばれるまでになった。後にオックスフォードのセントヒューズ大学長を務め、大英帝国勲章のデイムに除された。

 一方、グレート・ジンバブエ遺跡を発掘したときの上司であったガルトルード・ケイトン=トンプソンも、1934年に女性として初めてリバーズ賞を受賞し、1944年に王立人類学研究所の副所長にも選出された。46年にはハクスリー賞を受賞した。さらには東アフリカの英国歴史考古学学校の創設メンバーとなり、評議会の委員を10年間務めた後、名誉フェローに任命された。

 ローデシア時代は、偏見と政治的圧力により覆い隠された「グレート・ジンバブエ=アフリカ人建設説」は、脱植民地化独立運動の後、ジンバブエ共和国が成立すると「未だに謎に包まれている」という公式見解は取り消され、正式に認められるようになった。

 過去の偉大な建築物は、新しい国の精神的な支えの中心となり、国名もここから取られた。そして国旗にはジンバブエ・バードの1つが国のシンボルとしてデザインされた。それと同時に、この遺構を示す言葉は、「偉大な」という意味を込めて「グレート・ジンバブエ」と呼び区別されることになった。1986年にはユネスコ世界遺産に登録された。

 ローデシア時代の偏見と悪意に満ちた発掘調査のために、多くの部分が破壊・遺棄されたグレート・ジンバブエ遺跡の発掘調査はいまだに進められ、考古学的証拠や最近の調査結果により歴史的背景などについても少しずつ解明が進められている。

 古い権威と悪意のヴェールが取り除かれ、アフリカ第2の巨大遺跡グレート・ジンバブエ、1000年前のショナ族たちの栄光は陽の目を浴びた。一方、シュモクドリが巨大な巣作りに偏執的なほどの情熱を傾ける謎は、いまだに解明されていない。

(初出:2023年9月 書き下ろし)

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Great Zimbabwe National Monument (UNESCO/NHK)


Hamerkop
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Posted by 八少女 夕

【小説】完璧な美の中に

今日の小説は『12か月の建築』10月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、インドのタージ・マハルです。わたしはまだインドに行ったことがなく、この有名な霊廟も行ったことはないのです。なので、イメージはすべて動画を観ながら育てました。

ムガール帝国も、同じ「12か月の建築」で紹介したカンボジアのクメール王朝と同様、凄まじい権力争いで皇帝位を維持してきたらしいのですが、クメール王朝よりもっとすごいのは、実の兄弟を毎回皆殺しにして帝位に就いているってことなんですよね。そうした壮絶な背景のもと続いた王朝の最盛期とも言われる親子姉弟の愛憎をイメージしながら作られた物語です。

ちなみに両腕を切り取られた工匠の伝説は、おそらく史実ではないとされています。とはいえ、これまた興味深い人間関係を想像させたので、登場させてみました。


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完璧な美の中に

 赤砂石でできた正門建築の中に入るとアーチの向こうに白い大理石に覆われた「貴婦人の廟園」が浮かび上がる。ムガール帝国第6代皇帝アウラングゼーブは、ふと視線を隣の輿に乗る姉に向けた。

 長い確執の果て、再びその名誉を回復して帝国第一の貴婦人として遇することにした皇女ジャハーナーラー・ベーグムは、かつてと変わらぬ美しさと威厳を保っていた。

 幽閉されたまま失意のうちにこの世を去った父、第5代皇帝シャー・ジャハーンの最後の栄誉の完成を見るために、アウラングゼーブとジャハーナーラーは、この白亜の霊廟を訪れた。先帝の遺体は、伝統に従いアグラ城の壁を破り、ヤムナー川を渡る船に乗り、幽閉中に眺め続けたこの霊廟の地下玄室、誰よりも愛した妻の隣に葬られた。

 ここは、シャー・ジャハーンの妃アルジュマンド・バーヌー・ベーグムのために建立した墓廟である。「愛でられし王宮の光彩」を意味するムムターズ・マハルの称号を持つ彼女は、ヒジュラ歴1040年ズルカイダの月に、皇帝に伴われてデカンに遠征中に第14子である皇女ガウハーラーラー・ベーグムを産んだ後に産褥死した。

 彼女を深く愛した皇帝は、その遺言の1つに従い、「後世に残る墓廟」の建設を決めた。そして、霊廟、付随する4本の尖塔、向かい合うモスクと集会場、そして大楼門が完成するまでに17年、縁者の墓などの周囲付帯施設の完成まで含めれば22年という月日と、莫大な費用をかけて完成させた。

 母親が亡くなったとき、アウラングゼーブはまだ13歳だった。彼自身には母親との思い出はほとんどない。父親がフッラム皇子と呼ばれていた頃、祖父である皇帝ジャハーンギールに反乱を起こし敗北したために、2歳のアウラングゼーブは兄とともに人質としてジャハーンギールのもとに送られた。父が他の兄弟たちを殺害し皇帝となったために9歳の時に解放されたが、諸地方へ遠征する父皇帝に常に同行する母親と過ごす時間はほとんどなかった。

 姉と並んでここを訪れたのは初めてだ。50歳を超えても、10年近い幽閉を経ても変わらぬ美貌を保つジャハーナーラーの横顔には、ほとんど何の表情も浮かんでいない。

「姉上。父上の平和な崩御へのご尽力に感謝申し上げます」
そうアウラングゼーブが低い声で言うと、彼女ははじめて謎めいた微笑を見せた。

 病床の父を説得し、皇位を簒奪したアウラングゼーブを許すという文書に署名をさせることができたのは、彼女だけだった。

 誰よりも愛した長男ダラー・シコーの首を送りつけられ、その長兄を偏愛したことへの不平の手紙ばかりを送られ、個人の財産も取りあげられて上履きすら新調できぬ苦境に立たされた廃帝が、心の底から3男アウラングゼーブを許したかどうか、今となっては知る術もない。だが、アウラングゼーブにとっては、謀反を企てる臣下への牽制として、書面への署名こそが重要だった。

 彼自身も憎み続けた父が、自分を許すかどうかということは、大して重要ではなかった。横に並ぶ姉が、自分に対して昔と変わらぬ愛情を持ち続けているかも知りたくはなかった。父を愛し、ダラー・シコーをも愛した姉が、自分を完全に愛せるはずがない。

 それでも、スーフィズムに傾倒する姉は、家族の他の誰よりも彼の理想とするイスラム法による帝国支配の理解者だった。博学で有能、比類無き美貌、そして、親子兄弟姉妹間で幾たびも起こった裏切りと策略の合間を泳ぎ、誰の権能の下でもその地位を守り抜くしたたかさを持っている。ムガール帝国の皇女である彼女が、現在まで生き続けていることこそが、油断ならぬ女性である何よりもの証拠だ。

 正門から出ると、アーチからは見えなかった4本の尖塔を従えた堂々とした霊廟と庭園が全貌を現す。強い陽光が、白亜の大理石に反射して見る者の眼を射る。そして、庭園のかなりの距離を進み、人の3倍近い高さの基壇の上に霊廟がそびえている。

 方形の四隅を切った八角形の建物は、どこから見ても同じように見える対称に作られている。

 さらに近寄れば、工匠たちが技術と芸術の粋を尽くした偉大なる細部が見えてくる。

 その廟は、単なる権力者の愛する妻の墓というだけでなく、「夫への愛を貫き、多くの子をなす偉業を成し遂げ、男性の聖戦と同義と見做される産褥によって命を失った」という理由で殉教した聖者として巡礼されるべき宗教施設としての性格も兼ね備えていた。

 建物はラージャスターン地方の白い大理石、ファテープル・シークリーの赤砂石で覆われ、ブンデールカンドのダイヤモンド、パンジャーブのジャスパー、スリランカのサファイア、中国の翡翠、エジプトのベリドット、ペルシャのアメシスト、アフガニスタンの瑠璃、アラビアの真珠と珊瑚など、既知の世界すべてから集められた宝石・宝玉がはめ込まれた。

 大理石に彫り込まれた唐草模様。貴石を使った象眼細工。シリアやペルシャの書家が刻んだクルアーンの聖句。トルコの設計師が指導した堂々たる丸屋根。

 入り口は、むしろ小さく見える。中に入れば、扉の蜂の巣構造から差し込む光が象眼細工を美しく照らす。輿から降りて、姉と共に霊廟に入ったアウラングゼーブは、内部をぐるりと見回した。

 母ムムターズ・マハルを讃える慰霊碑が完璧な八角形の2階建てドーム型の部屋の中央にある。そして、その脇に、シャー・ジャハーンの慰霊碑がひとまわり大きく作られた。

 ジャハーナーラーは、思わず息を飲んだ。

 アウラングゼーブはその姉の様子を見て、わずかに口髭の下で唇を歪ませた。
「誰よりも愛された母上の隣に眠られたこと、父上はさぞお喜びでしょう」

 その心にもない詭弁に、姉は反応しなかった。父はイスラムの伝統に従い、この霊廟に完全な対称性を持たせることを望んでいた。東西だけでなく南北にも対象にするために、ヤムナー川の対岸に黒いもう1つの霊廟を建てて、死後はそこに眠ることを切望していた。

 それに対し、アウラングゼーブは、黒い霊廟を建てることを拒否しただけでなく、母親の霊廟の心臓にあたる慰霊碑の空間に、父親の慰霊碑を無様な位置に割り込ませることで、その対称性を壊したのだ。

「そこにいるはウマーか」
アウラングゼーブの言葉に、ジャハーナーラーは足下に畏まる1人の工匠の姿を目に留めた。

「はい」
「ご苦労であった。いい仕事をした。父上の慰霊碑の象嵌は、母上のそれと見分けがつかぬほどの出来だ」

 ジャハーナーラーは工匠の顔をじっと見た。よく似た顔をどこかで見た記憶があった。

「この植物の象嵌をしてくれる腕のいい工匠がなかなかみつからなくてな」
弟帝の言葉に、皇女は眉をひそめた。

 この霊廟の建設は、多くの工匠たちを富ませた。厳格なスンニ派で、自身のためは決してこのような豪奢な墓を建てさせることはないであろう新帝が、今後はないであろう高額な工賃を払うとわかっているのに、この仕事を工匠たちが好まないとは考えにくい。

 姉が理由を理解していないことを見て取って、アウラングゼーブは付け加えた。
「忘れたか。父上が象嵌を施した工匠の両腕を切り取ったことを」

 ジャハーナーラーは、息を飲んだ。そうだ、あれはここの象嵌を担当した男だった。完璧な仕上がりに満足した父帝が、褒美を授けるために王宮に呼び出した日のことを彼女はまだ覚えていた。

 ペルシャの血の入ったその男は、母ムムターズ・マハルの祖父イティマード・ウッダウラが、ムガール帝国に移住する際に連れてきた職人らの出身だった。

「慰霊碑は、そなたが担当したと聞いた。見事な細工だった。どのような褒美を望むのか」
シャー・ジャハーンは問うた。ジャハーナーラーは、その時に既に父の言葉に潜む棘に氣がついていた。

「なにも。亡き王妃様は、まだお嬢様であられた頃、わたくしの細工を愛で褒めてくださいました。あの方のための慰霊碑を完成できただけで、わたくしは満足でございます」
男はまっすぐに皇帝を見つめ帰した。

 妻を悼むため、白い服しか身につけなくなった父と、やはり全身を白で包む工匠の目が合い、ジャハーナーラーは、2人のあいだに物言わぬ戦いがあることを感じた。皇帝は、彼が出会う前の妻を知る男に対して激しい怒りを感じ、そして、工匠は14人もの子を産ませ、戦地にも連れ回したがために産褥死させることになった皇帝の后への独占欲に無言の抗議をしていた。

 いや、それは、ジャハーナーラーの思い込みかもしれない。何があったか、今となっては誰にもわからない。

 覚えているのは、父帝が立ち上がって言ったことだ。
「では、余からの褒美を与えよう。両手を前に出せ」

 工匠の白い服は父が切り落とした両腕の鮮血に染まり、ジャハーナーラーはショックで氣を失った。

 彼女は、兄に話しかけられて畏まる工匠ウマーをもう1度見つめた。誰かに似ていると思ったのは、あの両腕を失った工匠だ。瞳に宿る強い光も、あの男のものそのままだった。

 あれから、20年近く経っている。ここにいる男は、もしかしたらあの男の身内なのかもしれない。弟アウラングゼーブは、あの事件の時には王宮にはいなかったから、あの男の顔を知らないのだろう。

「誰もが嫌がる仕事に完璧に応えてくれたことに礼を言う。褒美は望むままに取らせよう。もちろん腕を切り取ったりはせぬぞ」
アウラングゼーブは笑って言った。

 男は、深く頭を下げた。
「わたくしめも、『何も望まぬ』などとは申しませぬ。妻と子が路頭に迷わぬよう、わたくしめの働きに応じた褒賞をいただければ幸いです」
 
 男が退出した姿を見送り、アウラングゼーブは姉を振り返った。ジャハーナーラーは、憂いの混じった顔つきで、並ぶ父母の慰霊碑を見つめていた。

「姉上。私をひどい男とお思いか」
その声に振り向き、弟がこちらを見ていることに氣がついた。

「何に対して? すべての潜在的な父上の後継者たちを倒さねばならなかったことですか? それとも、父上に許すことを強要しても、あなた自身が父上を許さなかったことですか?」
「そのどちらも」

 彼女は首を振った。
「兄弟を皆殺しにして即位したのは、父上も同じ。家族でありながら、完全に愛することができないのも、あなただけではありません。このように大きく壮麗な霊廟を作って、なんになるのでしょう。父上と母上がこの世にもたらしたのは、争いと死ばかりではありませんか」

 アウラングゼーブは、わずかにホッとした表情を見せた。
「姉上。わたしは偽善者にはなりたくなかった。悼んでもいない父上のために似たような黒い霊廟を建て、財政を悪化させ民を疲弊させることよりも、神の意にかなうイスラム法シャリーアによる政治に力を入れたい。それをあなたにだけは伝えたかった」

 ジャハーナーラーは、弟帝が「托鉢僧ダルヴィーシュ 」「祈りを捧げる人ナマーズィー」とあだ名をつけられていることを思いだした。実際に彼は、曾祖父アクバル大帝以来の宗教融和政策をイスラム法シャリーアで統治するよう大きく転換したのだ。それを彼女もまた評価していた。

 皇女は、弟と別れ、霊廟から出て輿に乗った。振り向くと庭園の向こうに完璧な対称性を維持した白亜の霊廟が見える。帝国の権威を世に示し、イスラムの楽園をこの世に実現した完全な調和が広がって見える。

 その中心に、当の両親の眠る場所だけが、どうしても流しきれないわだかまりと同じように、深い沈黙の中、完全性からとり残されている。それは、彼女の弟に対する愛憎と同じであり、完全なイスラム精神に至れない自分自身の鏡でもある。

* * *


 ウマーは、黄金の入った袋を抱えて、帰路を急いだ。思っていたよりもずっと重かった。つらく苦しかった日々がようやく報われた。

 褒美をもらう代わりに両腕を失うことになった父親が、王宮で何をしでかしたのか知らない。家に運び込まれたとき、血を失いすぎて、父親はもう何かを語ることはできなかった。

 霊廟の象嵌が完成するまでの長い時間、彼の母親と子供たちがどれだけの者を犠牲にしてきたのか、父親は考えたのだろうかと、幾度も思った。働き盛りだった父親を失い、その後ウマーの一家は辛酸をなめた。

 彼は亡くなった父を悼む代わりに、その軽率さを憎み、やがて父が得るべきだった褒美を自分が代わりに得ることだけを励みにこれまで生きてきた。

 シャー・ジャハンの慰霊碑に彼は持てるすべての技術と知識を詰め込んだ。父親に報酬を与える代わりに、命を取った冷徹な皇帝は、我が子に幽閉され惨めな最後を遂げた。そして、彼に莫大な報酬を払ったのは、その簒奪者アウラングゼーブ帝だ。

 彼は、振り向き白亜の霊廟を見つめた。完璧な美が夕陽に浮かび上がる。その中心に、多くの聖句に囲まれて、2つの慰霊碑と2つの棺が眠っている。怒りと、無念と、許せぬ想いと、そして虚しさが、外からは誰にもわからぬような静けさのまま、ただ据わっている。
 
(初出:2023年10月 書き下ろし)

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India's Taj Mahal Is an Enduring Monument to Love | National Geographic
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Category : 短編小説集・12か月の建築

Posted by 八少女 夕

【小説】北の大天蓋の下で

今日の小説は『12か月の建築』11月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、北極圏に住むサーミ人の木造住宅ゴアティです。

子供の頃、『星のひとみ』という本を読んだ記憶があります。当時は「ラップランド」「ラップ人」という名称で紹介されていた北極圏に住む遊牧民族の民話を元にしたストーリーだったと思います。実は詳細はあまりよく憶えていないのですが、本来ならば死んでしまうような厳寒の中、放置された赤ん坊が数奇な運命に導かれて救われた所から始まる話でした。とはいえ、どう考えてもハッピーエンドではなくて、児童文学としては異色な作品だったので強く印象に残っています。

その印象が強かったので、今回のシリーズでもサーミ人のことを題材にすることを決めて調べはじめました。子供の頃に理解できなかったあの圧倒的に悲しい美しさについて、少しだけ理解が深まったような氣がします。


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北の大天蓋の下で

 シューラは、霜で覆われかかった下草を踏みしめた。彼女にとって幸いなことに、まだ雪が地域を覆い尽くす前で、数週間前に降ったのであろう雪の名残は、全く日の当たらない場所にのみ残っているだけだった。それは、ここが森の中であるからだった。平原は雪に覆われている。1日に数時間しか太陽の出ない11月の北極圏で、当てもなく歩き回るわけにはいかない。夕闇と共に氣温は急降下し、彼女の中で危険信号が点滅した。

 モスクワ発ムルマンスク行きのキエフ鉄道に乗ったのは3日前だ。いつも通りにスケジュールを優先するのであれば、空港に向かうべきだったし、たとえ自分の休暇を使うとしても本来ならばもう自宅に戻っていても、おかしくない時間だった。

 モスクワで大学を卒業し、順調にキャリアを重ねたアレクサンドラ・ダニーロヴナ・プーシキナは、ニッケルの買い付けで優位な条件を手にするためにミハエル・アルバキン氏と交渉を重ねた。ミーシャ、シューラと呼び合う信頼関係を手にしてようやくムルマンスクで会うことになったが、彼女は虫の知らせのように、どこかでアルバキン氏とは会えない予感がしていた。

 ムルマンスクは、ノルウェーとの国境に近い北極圏、コラ半島にある。シューラにとっては、母親から何度も聴かされた地名であったが、異国のロンドンやニューヨーク以上に遠い土地だった。祖父の生まれ故郷であるコラ半島に、1度も行ったことがなかったのは、考えれば奇妙なことだった。

 アルバキン氏が扱うニッケルは、ひどい環境災害を引き起こしたことで悪名高いノリリスク・ニッケルから調達しているという黒い噂があった。それでも他のどの会社よりも都合のいい見積もりは、シューラにとっては競合他社や社内のライバルたちとの戦いに勝つために魅力的だった。

 だが、もうアルバキン氏との交渉を考える必要も、環境問題に対して良心の呵責に堪えることもない。それ以前に明日の朝、シューラが生きている保証すらないのだ。

 モスクワの冬に慣れていたので、たまたま自分が乗るときに列車に何かが起こるなどと想像したこともなかった。突然の停車と、説明もない2時間の待機にシューラは苛立った。ブレーキの近くで凍結した氷柱が割れ、エンジンを傷つけたという情報はまわってきたものの、いつ回復するのかという説明はなかった。

 別の機関車が到着して、ようやく動き出した列車は次の駅で乗客を降ろしたものの、代替交通機関などの用意は無かった。白タクシーを手配して、先の駅まで行こうと交渉した。足下を見られないように、わざと高慢に振る舞ったのがよくなかったのかもしれない。

 途中で喫煙をしたいから、コーヒーでも飲める所で停めろと言ったら、運転手は何もない平原で急停車した。
「何よ。危ないじゃない」
「コーヒーの飲める所なんてねえよ。勝手に吸え」

 シューラは、煙草をくわえて火をつけようとしたら彼は怒り出した。
「ふざけんな。外で吸えよ」

 しかたなく、彼女は降りた。コートを着て、外に降り、寒いだろうとドアを閉めたところ、運転手は、急にアクセルを踏んで発進した。

 彼女は、あわてて罵声を飛ばしながら、そして、次に懇願しながら追いかけたが、車は戻ってこなかった。シューラの荷物をトランクに入れたまま、男は走り去ってしまった。

 はじめからシューラの荷物や金を狙っていたのかもしれない。身体に危害を加えられなかったのは幸いといえるのかもしれない。貴重品を入れたハンドバッグを持って車を降りたことも幸運だと思った。救援を呼ぼうとまずは警察に電話を試みたが、なんと圏外だった。

 しばらく歩けば駅や警察のある町にたどり着くだろうと甘い見通しでいたのも間違いだった。歩き出してからようやく、明るくなった広大な平原に1人でいることがわかった。2時間ほどでその日がもう傾きだしたが、その間、他の車どころか動物すらも側を通らなかった。

 あの男が警察に通報される心配もしなかったのはそのせいだった。町まで生きてたどり着くことはないと思ったのだろう。実際にそうなる可能性の方が高そうだ。

 このまま、何もない平原を歩くか、それとも暖を取るために森林へ進むかしばらく考えてから、シューラは森林を選んだ。ほんのわずかだが、女の歌声のようなものが聞こえていたからだ。

 深い緑の中を、こわごわ進むと、その歌声は少し大きくなった。言葉は全くわからないが、おそらくこのあたりに住むサーミ人のヨイク歌ではないかと思った。もし、ロシア語か英語が通じれば、近隣の村に連絡してもらい、助かるかもしれないと。

 シューラは、暗い木々の間を進み、突如として見えた光景に愕然とした。

 子供の頃、悪いことをすると母親はいつも脅した。
「ババ・ヤーガが迎えに来てあんたをバリバリ頭から食ってしまうよ!」

 その伝承の鬼婆は、鶏の足の上に載った木の小屋に住んでいると教えられた。今シューラが目にしているのは、まさにそんな小屋だった。4本の生えた木を柱として、その上に高床式の木の小屋が支えられている。柱となっている木の根が、まるで鶏の足そっくりだ。

 シューラが硬直しながら立っていると、その小屋の中から、誰かが出てきた。それは、ハバ・ヤーガのイメージの老婆ではなく、子供とはいえないが、大人ともいいがたい年齢の若い女性だった。

 黙って凝視しているシューラを見て、彼女も驚いたような表情を見せた。そして、何かわからない言葉を発した。

 これがさっき歌っていた人だと、シューラは思った。シューラに言葉がわかっていないのを見て取ると、彼女はノルウェー語で何かを言った。それも通じていないとわかると片言のロシア語で訊いた。
「あなたは誰? どうしてここにいるの?」

 シューラはホッとして、言った。
「わたしは、シューラ。犯罪にあって、放り出されたの。町へ行きたいの」

 少女は、少し考えてから首を振った。
「少なくとも、今夜は無理ね。ここには私しかいないし、この寒さであと30㎞は歩けないでしょう?」

「どこかに救援は呼べない?」
シューラがスマートフォンを取り出すと、少女は笑った。
「それ、まだ動くの?」

 そう言われて見ると、スマートフォンの電源は切れていた。氷点下の寒さと、圏外で見つからぬ電波を探す動作が電池を消耗させたのだろう。電池切れになっていたことに氣がついていなかった。

 シューラはそれでも食い下がった。
「あなたは携帯電話は持っていないの?」

 少女は首を振った。
「ここでは電化製品は役に立たないの」

 それから、手に持っていた革鞄を斜めがけにしてから高床式の家の扉を閉めると、梯子を伝わりながら降りてきた。そして、シューラの傍らに立った。
「今夜、町に行くのは無理よ。わたしはマリよ。ついていらっしゃい」

 シューラは、彼女の家には入れてくれないのかと思って落胆した。寒さに手足は強ばり、もうたくさんは歩けるとは思えなかった。マリは、ああという顔をしてから言った。
「心配しないで。すぐそこだから」

「ここは、あなたが寝泊まりする家じゃないの?」
「違うわ。これは倉庫なの。寝泊まりするのはゴアティよ」

 ゴアティが何を意味するのかはわからなかった。いつだったかテレビで見た、サーミ人が寝泊まりする布テントを想像した。その映像では、トナカイがソリを牽き、人びとは氷の上で焚き火をしていた記憶がある。ソリがあれば町まで連れて行ってもらえるかもしれない。

 木々の合間を少し歩くと、高さ4メートルほどの木の小屋が現れた。たくさんの丸太を円錐形に束ねてある。そして、隙間から緑色の苔や植物が顔を出していた。布テントでもなければ、人びともトナカイもいなかった。
「これが、ゴアティよ」

 マリは、丸太でできた扉を開けて、シューラに「どうぞ」と言った。

 近くで見ると丸太の骨組を土や木が覆っている。土にびっしりと苔が生えており、また覆った外側の木々から新芽が生えている。根のついた自然の木々や苔が絡み合い、補強と断熱効果があるようだ。

「ここで靴を脱いでちょうだい」
そう言うと、マリは毛皮でできたブーツを脱いだ。彼女は小さなフェルトの中履きを履いていて、シューラの薄いストッキング姿を見ると、奥から同じようなフェルトの履き物を持ってきて渡してくれた。

 中は15平方メートルくらいだろうか。中央に石の囲炉裏があり、炭が赤く熾っていた。奥の一部分にだけ、毛皮が敷かれているが、それ以外は非常に細い枝が敷き詰められていた。

 少女は、革鞄から薪を取り出すとそれを囲炉裏にくべて火を熾した。シューラは、待ち焦がれた火の暖かさに安堵の声を漏らした。

「座って」
マリは、囲炉裏の近くの場所を示した。シューラはコートのボタンを外し、肩から羽織るようにして火に当たった。それから、小屋の中を見回した。

 外側は生きている植物で覆われていたが、内側は滑らかに処理された丸太で組まれている。湾曲した大きな柱が2本、それをつなぐ太い丸太が全体を支える骨組みとなり、その骨組みに立てかけるように丸太が並べられている。丸太にはいくつかの枝が残されていて、それを骨組みに引っかけて全体がバラバラにならないようにしている。だから、縄や釘のようなものは一切見えないのに、しっかりと固定されている。

 不思議な小屋だ。中心に平たい石で組まれた炉と、鍋のようなものがあるだけで、棚やテーブル、椅子などの家具はない。かといって布テントほど簡易な作りではなく、外にあのように植物が育つのならば、新しい建物ではないだろう。
「古い建物なの?」

「そうね。たぶん200年くらいじゃないかしら。正確には知らないけれど」
「あなたはここに住んでいるの?」

「いいえ。でも、ここに来るときには使うわ。一族みんなのゴアティなの」
そういいながら、炉に鍋を掛けて湯を沸かした。

「サーミの人たちって、たくさんのトナカイを放牧したり、観光客たちに犬ぞりを見せて暮らしているんじゃないの?」

 無知な質問には、慣れているのだろう。苦笑しながら答えてくれた。
「たくさんトナカイを飼って放牧する人たちは山岳サーミっていうの。私たちはトナカイは飼うけれど小規模で主に森に住むので森林サーミって呼ばれている。ほかに湖や海岸に住む人たちもいて、彼らは漁業を営むのでトナカイは飼わないのよ。それに、今では都会に行って伝統とは関係のない仕事をしている人もたくさんいるわ」

 その話をしているうちに湯が沸いた。マリは手際よく、コーヒーを淹れ、パンを温め、それからトナカイの燻製肉を切り分けて渡してくれた。古い折りたたみナイフや食糧は、みな彼女の持ち歩いていた革鞄から出てくる。火の熾し方、トナカイの毛皮を敷き詰めて座り心地のよい場所も作る手際もいい。

「マリ、あなたはいくつなの?」
シューラはずっと疑問に思っていたことを訊いた。

「16歳よ」
印象は間違っていなかった。しかし、彼女の行動は、とても16歳のようには見えなかった。森の奥に1人で寝泊まりし、火を熾し、食べ物を用意し、寒さも孤独も怖れる様子がない。

「あなたたちの民族は、16歳でもこんな風に何でもできるの?」
シューラが訊くと、マリは不思議そうに見つめた。

「何でもできるわけじゃないわ。ひと晩くらい、問題なく過ごせるだけよ。子供の頃から、家族に習ってきたの。あなただって、あなたの家なら暖のとり方や、コーヒーの淹れ方に困ることはないでしょう?」
それはそうだ。

「こんなに人里離れたところに、1人でいるのって大変じゃない?」
そう訊くと、マリは少し笑った。
「1人になりたいから森にいるのよ。ずっと学校に通わなくてはいけなかった。ようやく1人で森に来られるようになったのよ」

 シューラは、心底驚いた。
「じゃあ、あなたはずっと1人でここにいるの?」

 マリは首を振った。
「残念ながらそうじゃないわ。普段は村で働いているの。2週間の休みで、森に来ているだけ。明日はもう少し南のゴアティに移る予定よ」

 つまり、マリは徒歩だけでこの森に来ているのだ。シューラは、彼女に出会えたことがとんでもない幸運だったことに今さらながら氣がついた。

「ずっと森にいられたらいいけれど、私たちの祖先のような暮らしは、難しいの。義務教育だの、税金だの、逃れられないことがたくさんあるから。納得がいかないことにも従わざるを得ないから」

「税金や社会保障費は、しかたないんじゃない? 安全を守るためであったり、病や老後に困らないためにひつようなことでしょう?」

 マリは、シューラをじっと見つめた。
「あなたは、ここで安全? 困っていない? 税金や社会保障費が、今あなたを助けてくれている? その仕組みここでは無効だけれど、私たちは、税金や社会保障費なんかなかった頃と同じことをして生きているわ。あなたたちの『保障』や『安全』が、ここには届かないのに、なぜそのための掛け金を払わなくちゃいけないの?」

 シューラは戸惑いながら言いつのった。
「でも、都会では、社会は全く違って機能しているのよ。警察は電話1つできてくれるし、病院にも近いの。暖かい家に住んで、珍しい美味しいものを食べられる。キャリアを重ねてお金を稼げば、最新流行のファッションに身を包んだり、海外旅行に行ったり……」

 マリは、首を振った。
「そうしたい人は、すればいいわ」

 それから、マリは焰を見ながら、ヨルクを歌い始めた。先ほど聴いたのと同じだ。意味はわからないが、何か特別な想いが込められているかのようだった。

 焰が揺らめき、火の粉と共に煙が上がっていく。小さな穴から煙は夜空に上っていく。冷たい北極圏の空がその煙を引き受けている。漆黒だと思ったのに、その穴からは緑色の光が揺らめいた。
「え?」

 マリは、立ち上がると身振りでシューラを外に誘った。コートを着て、ブーツを履いて急いで外に立つと、木々の切れ目に広がる空は、緑色のカーテンに覆われていた。オーロラだ。

 マリのヨルクに合わせるかのように、オーロラは波打ち煌めいた。風と、遠くを動く動物が揺らす木々の音が、ヨルクに絡みつきながら張り詰めた冷たさの中シューラの耳に届く。

 シューラは、震えた。真っ黒にそびえる森の木々と、風と、ゴアティから立ち上る煙は、マリのヨルクと同調して、北の大きな天蓋を讃美していた。横たわる世界は完璧で冷たく、シューラはどうしようもなく小さかった。

 順調に駆け上ったキャリアも、クリスマスシーズンの豪華な晩餐も、何もかもが儚く脆く虚飾に満ちていた。矮小で役に立たないのは、動かないスマートフォンや、駆けつけてくれない警察と同様、見下されないための傲慢な態度や、ニッケル調達をめぐる黒い噂に目を瞑る欺瞞を当然のことと思っていた自分自身だ。

 ゴアティの中に戻ってから、シューラはもう先ほどのように雄弁に都会生活の優位を主張できなかった。マリもまた、多くは語らなかった。

 用意してもらったトナカイの毛皮を敷き詰めた寝床に横たわりながら、暖かく燃える焚き火を見つめた。

 ババ・ヤーガの小屋のような倉庫にしまわれた薪や食糧、トナカイの皮や森の木々から作られた慎ましい調度、電氣も漆喰もないのに、まだ生きている植物に守られた暖かい夜。マリやその仲間たちが大切に思い、残したいと思っている暮らしのことを考えた。

 凍死する心配はなかったけれど、慣れないトナカイの毛皮の寝床では深くは眠れなかった。ずいぶんと時間が経ったように思ったが、北極圏の夜は長かった。すべての電子機器が動かないシューラには時刻を確かめる術はなかった。

 暗い中、マリが淹れてくれたコーヒーとともに朝食をとった。ボタン1つで出てくるカプセル式のコーヒーと違い、コーヒー豆を入れた小さな鍋が焚き火の上でコトコトと音を立てるのを待つ時間はとても長い。1週間前のシューラだったら、この時間は人生の無駄遣いに思えたことだろう。

 でも、今の彼女にはこの長い時間が必要だった。意味のわからないマリのヨルクも、トナカイに関する思い出話も、彼女の旅の拠点であるゴアティのある聞き慣れぬ地名の数々も、今のシューラには聴く時間がたっぷりあった。

「このカップ、素敵ね」
コーヒーの注がれた木製カップは手に馴染む形と、温かみのある木目がいい。

「ククサって言うの。白樺の木にできたコブで作るのよ。この大きさのコブができるまでには30年くらいかかるので、大量生産はできないの。だから、手に入ったら大切に使うのよ。たいていは贈り物ね」
マリは微笑んだ。シューラは「そう」と、改めて珍しそうに眺めた。

 マリによると、上手に移動していけば、3日後には町につけ、警察や電話といった彼女の必要な助けが得られるという。彼女は、それまで一緒にいて助けてくれると言ってくれた。シューラは、それで十分だと思っていた。アルバキン氏からのニッケルの買い付けは、もう望みがないだろうが、それがどうだというのだろう。社内での出世競争に遅れをとったことも、もう氣にならなかった。

 北極圏に広がるサーミたちが暮らす自然に支配された世界の大きさ、マリの助けを借りて生きて帰ることの奇跡を経験している意味の方がずっと重要だと感じる。

 天蓋に散らばる満天の星は、北極星の周りをゆっくりと動いていく。シューラはククサを両手で抱えて、コーヒーの香りを吸い込んだ。

(初出:2023年11月 書き下ろし)

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ストーリーに出てきたサーミの伝統歌謡ヨイクは、単なる歌ではなく自然と交流する儀式の一部でもあるようです。今回のストーリーはロシアのコタ半島を舞台にしましたが、サーミ人を国境で○○人と区分することはナンセンスなのかも。

Mari Boine - Gula Gula (Hear the voices of the foremothers) by Jan Helmer Olsen

【追記2】ゴアティの情報が見つかりにくいみたいなので、私が参考にした動画を貼り付けておきます。

Arctic ancestral survivalism: on extreme weather Sami wisdom
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Category : 短編小説集・12か月の建築
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】一陽来復

今年最後の小説は、『12か月の建築』12月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、パッラーディオ式建築です。16世紀の天才建築家アンドレア・パッラーディオの建築に触発された西欧にたくさんある建築で、おそらく名前は知らなくてもこの形式の建築はどなたでも1度は目にしたことがあるはずです。

建築をテーマにした小説集を書くにあたって、トリは絶対にこれにすると決めていました。現在のスイスで新しく建てられる建築は、残念ながらこの小説の主人公の選択とは真逆なのですが、ヨーロッパにはまだこの手の建築を愛して大切にする文化もあります。こうしたムーブメントはお金もかかるし、自分ではどうしようもないのですが、せめて小説で援護射撃をしたいと願いながら書きました。


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一陽来復

 ヴィオラはグラッソ・ホテルのポーチに立って、メレーラ谷を眺めた。その向こうの山々は、雪に覆われた鋭い剣先のようで、短い冬の太陽を反射して堂々とそびえ立っている。

 ポーチはローマの神殿を思わせる4本のイオニア式柱が支えるポルティコで、車寄せの機能も果たしている。わずかに茶色がかったサーモンピンクの壁と白い柱は、汚れが目立つという理由でヴェルナーが反対したが、この色でなくてはならないと確信していた。

 曾祖父レオナルド・グラッソが、故郷であるメレーラ村に建てたグラッソ・ホテルは、本来250メートルほど低い位置にあった村の中心地から離れていた。高速道路が開通する前で、どの車も村を通ったが、通りがかりの宿泊客が門を叩くのは、村のもう少し安い旅籠ばかりだった。

 村の中心から離れているというばかりでなく、その外観が「きっと宿泊料はとてつもなく高いに違いない」と思わせたのだろう。曾祖父と祖父の時代から経営は決して楽ではなかった。後を継いだ父と叔父もあまり商才はなかった。

 10年前に父が、そして昨年叔父が亡くなると、ヴィオラはホテル経営に関しての決断を迫られた。

 彼女に、改築と大手ホテルチェーンとの提携を持ちかけてきたのが、叔父の妻の連れ子でマネージメントにも永く関わってきたヴェルナーだった。
「今の流行はグレーの打ちっぱなしか、黒い御影石の、現代建築だよ。建て直すなら今しかない、そうだろ?」

 曾祖父がグラッソ・ホテルを建ててから、来年で100周年だ。つまり来年からは、歴史的建築物に認定され、大きな外見の変更は州の許可無くは不可能になる。

「こんな前時代な外見のホテル、誰が泊まろうと思うってんだ。ローマの神殿じゃあるまいし」
ヴェルナーは、焦っていたようだった。

 ヴィオラは、その彼の言い方に引っかかった。確かにポーチの柱、そして、その上に飾りとしてついている三角形の装飾にローマ神殿で見るニンフたちの群像のような浮き彫りが見える。けれど、それが古くさいという印象はまったく与えていない。

 むしろ70年代のインテリアや、周囲から浮いてしまう奇妙な形の建築、あるいは、一時期やたらと流行った白木を外壁に貼る建築が経年で黒ずんでいる様子などに比べると、100年近く前の建築でも普遍的な美しさを保っているように感じる。

「パッラーディオ式建築というのだよ」
子供の頃に祖父が教えてくれたのだが、どうしてもその言葉が思い出せなかった。それを思い出したきっかけは、カール・ジェンキンスの弦楽オーケストラのための作品『パッラーディオ』だった。どこかで聞いたタイトルだと思って調べたら、ルネサンス期の建築家にちなんでいるという。

 アンドレア・パッラーディオは16世紀イタリア・パドヴァ生まれの建築家だ。本名はアンドレーア・ディ・ピエトロ・デッラ・ゴンドーラ。彫刻家や絵描きが建築も手がけたのとは異なり、平面図を基本にして空間を設計した最初の専業建築家ともいわれる。ローマ時代の建築を取り入れたルネサンス建築は華やかで美しいだけでなく機能的で景観にも調和している。彼自身が設計した建築はすべて北イタリアにあるが、その影響は計り知れず、18世紀以降の英米の新古典主義建築家に多大な影響を与え、パラディアン・スタイルとして西欧の多くの大邸宅や公共機関の建築に取り入れられて現在まで残っている。

 ドリス式の柱、ロッジア、ドームなどイタリア・ルネサンス建築の基本的要素を継承しつつも、パッラーディオはそれらを洗練・簡素化してみせた。ローマ建築の装飾的要素も、建物の場所と機能とに適した革新的に取り入れている。

 もっとも有名なヴィチェンツァ郊外の『ラ・ロトンダ』は、円形ドームを備え、正方形のすべてのファサードに同じポルティコとイオニア式の円柱で支えられた三角形のペディメントが備えられた完全に対称的な建物だ。そして、それは敷地内や内部装飾が素晴らしいというだけではなく、ヴィチェンツァの景色と調和している。

 パッラーディオと彼の建築について調べだしてから、ヴィオラは曾祖父が非常なこだわりを持ってホテル・グラッソを建てたことに氣がついた。

 メレーラ村の中心地から離れたところに建てたのは、土地が安かったからではない。それは周りに他の建物がなく、独自の景観を保てるからだった。

 残念ながら、この村は山間にあり、ヴィチェンツァのようにどこまでも広がる農村地帯を見晴らせるわけではない。だから、『ラ・ロトンダ』のように4面すべてを同じファサードにする必要もなかった。

 とはいえ、100年前に曾祖父が思いもしていなかった事が起こった。

 人びとが当時よりもたくさんの電氣を必要とするようになり、水力発電のためにダムが建設されることになったのだ。そして、メレーラ村の中心地が人造湖の底に沈むことになった。

 反対運動があった十数年の後、多くの村人は多額の補償金を得てもっと便利な都会に移り住むことを選択した。最後まで反対していた村人たちは、補償金の他に、谷の反対側、以前よりも日当たりのいい200メートル標高の高い位置に、先祖代々の家や教会を移設することを約束させ、移住が完了した。

 ヴェルナーは、新しくできる新メレーラ村の近くに、都会的なフィットネス・リゾートを建てるべきだと強く主張した。同じ村に所属している以上、移築が必要となった場合、ヴィオラにも補償金を得る権利があった。それを元手に大改築をしろというのだ。
「僕の友人が、その手の設計を手がけているんだ。『カジノ&スパ・リゾート サンモリッツ』を知っているだろう? あのチームにいたんだぜ。あそこみたいな大理石だと高くつくけど、いまはわりと高級に見える模造石材も揃っているって言ったよ」

 そのリゾートは、10年ほど前に有名になったからよく憶えている。変形した台形を組み合わせた斬新な設計で、外壁すべてに黒い大理石を使おうとして論争の元になった。つまり景観に合わないというのだ。結局、外壁は白大理石に変更され、その代わりに内部が星空をイメージした黒いパネルで覆われた。カジノやブティックを備えたスパ・リゾートとして当時はよくホテル特集に取りあげられていたが、最近ではあまりいい噂を耳にしない。

 世界中からプライヴェート・ジェットで大富豪が集まるサンモリッツですら、そうしたリゾート施設の営業は厳しいということだ。ましてや、近くに空港や大きな列車駅もないメレーラ村に奇抜なリゾートホテルを建てて営業が軌道に乗るだろうか。

 ヴィオラが悩んでいると、ヴェルナーはこうも言った。
「彼なら、大きいホテルチェーンとの繋がりもあるよ。なんならチェーンの傘下に入ればいいんじゃないか?」

 ヴィオラは、ヴェルナーの顔をまじまじと見た。あたりのいい言葉の裏に、安易に経営の舵取りをして儲けたいという強欲さが浮かんでいた。

「ちょっと考えさせて」
ヴィオラはそう言って、その日は話を打ち切った。

 その時は、まだ眼下に間もなく湖に沈むメレーラ村が見えていた。

 12月のメレーラ渓谷は3時間ほどしか陽が射さない。だから、たいてい11月から12月半ばまでホテルは休業する。スキー場が開く時期でもあり、クリスマスシーズンに忘年会食の予約が入るので、その日から再び開業したが、平日で予約客は、2組ほどしかなかった。

 どうしたらいいんだろう。ヴェルナーの言うとおり、大手ホテルチェーンが経営に参画し、リゾートホテルとして宣伝してもらえば、いまより経営は楽かもしれない。でも、そうなったら、残るのはせいぜいグラッソ・ホテルという名前だけだ。曾祖父の愛したホテルはどこにもなくなってしまう。

 ヴェルナーは創業者レオナルド・グラッソもその息子のマルコ・グラッソも知らない。叔父がヴェルナーの母親と再婚したのは祖父マルコが亡くなった後だったし、そもそも叔父自身も10年前父が亡くなるまではメレーラ村にはほとんど足を踏み入れなかった。

 曾祖父や祖父がヴェルナーの提案を聞いたら真っ赤になって怒るだろう。心から愛したグラッソ・ホテルが、チェーン・ホテルの真っ赤なネオンサインで覆われる。そして、ルネッサンス式の均衡と調和とはなんの関係もない、台形を組み合わせた模造石材または曲線コンクリート外壁の建物にする。それは創業者親子にとっては冒涜に過ぎない破壊だろう。でも、経営に失敗したら、結果は同じになる。私がそうするか、どこかの外資がするかの違いしかない。

「どうしましたか」
声がしたので振り向くと、先ほどチェックインしたばかりの宿泊客ヨルディ氏が立っていた。彼は、昔から常連で、1年に1度、この時期に泊まりに来る。ヴィオラが経営者となってからは、はじめての滞在だ。

 ポルティコにはもう陽光はない。急激に寒くなっている中、ここに居続けると風邪をひくかもしれない。

「いえ。すみません。少し考え事をしていました。ロビーでアペリティフなどはいかがですか」
ヴィオラが訊くと、ヨルディ氏は笑って「そうですな」と言ってから、目を谷の向こう側の山に向けた。

「あなたのひいおじいさんも、よくここであちらを見ていましたね」
「曾祖父をご存じでしたか?!」

 ヨルディ氏は頷いた。
「ええ。かなりご高齢でしたから、もちろんもう引退なさっていらっしゃいましたが、現役の頃と同じようにホテルを歩き回り、隅々にまで氣を配られておられました。花瓶の花がしおれていれば抜き取り、新聞が乱雑に置かれていれば整えて。そして、私のような若造の客にも丁寧に話しかけてくれましたね。ここに来るのが楽しみでした」

 ヴィオラは目を細めた。曾祖父には直接教わらなかったが、祖父が口を酸っぱくして教えてくれたことは、曾祖父からのグラッソ・ホテルの伝統だったのだ。
「それで、毎年いらしてくださるのですね」

 ヨルディ氏は、頷いた。
「そうですな。それもあります。近年は、どのホテルもたいそう機能的になっていて、人びとの入れ替わりも激しい。毎年変わらずに会話を交わせるような場所はめっきり減りました。レストランで食事をしても、給仕をする人以外は顔も見せないのが普通になってしまいました。でも、ここは違う。私はあなたの曾おじいさん、お祖父さん、お父さん、叔父さん、そしてあなたと知り合い、滞在中に何度も話をし、食事の時も話しかけてくれ、そうしてとても親しく心地よく滞在させてもらっている。それが、ここに来る一番の理由であることは確かです。ただ……」

「ただ?」
ヴィオラが訊き返すと、ヨルディ氏は少し悪戯っぽい笑顔を見せた。

「私が冬に来る理由をご存じですか?」

「いいえ。夏には、南の方に行かれるのがお好きなのかと思っておりました」
ヴィオラが答えると彼は首を振った。

「実は、以前は必ず夏の休暇に泊まりに来ていたのですよ。でも、ある日、あなたの曾お祖父さんが教えてくれたのです」
そう言って彼は、向かいの山嶺を指さした。

 ヴィオラがその視線を追うと、『二剣岳』と呼ばれている雪冠を被った山頂があった。

「冬至の朝、あの2つの剣先の間から昇る朝日の光が、まっすぐこのホテルの正面に当たるのだと。そうなるように正確にこのホテルを建てたのだそうです。ですから、私は、毎年太陽の誕生日である冬至に、その朝陽の差し込むこのポルティコに佇むことにしたのですよ」

 ヴィオラは言葉を発することができなかった。ただ、老ヨルディ氏の穏やかな微笑みを見た。

 彼女は曾祖父からのメッセージを受け取ったように思った。経営がうまく行くかどうかはわからない。彼女の代でホテルを潰してしまうかもしれない。けれど、100周年までこの位置に残すことさえできれば、あとは歴史的建築物に認定されたグラッソ・ホテルは、国に守られてずっと冬至の一陽来復を受け続けることができる。

 そう心を決めたヴィオラを、ヴェルナーは翻意させることはできなかった。移築をしなかったグラッソ・ホテルは、補償金を得ることはなかった。だが、人造湖に沈むメレーラ村の話は、ニュースとなったし、村人たちが建物の移築を待つ間の仮住まいとしての特需もあり、ここ10年なかったほどの増収があった。ヴェルナーは去ったが、ほかの従業員たちはみな残ってくれた。

 そして、人造湖ができて初めての冬至がやってくる。

 暗いうちにロビーに降りてきたヴィオラは、正面の扉を開けた。日の出の少し前に、階段がきしみ、年老いているがしっかりとした足取りでヨルディ氏が降りてきたのがわかった。

 ポルティコの前には、昨年までとまったく違った光景が広がっている。

 メレーラ渓谷に新しく生まれたメレーラ湖は暗闇の中で静かに横たわっている。その湖を臨み堂々と建つグラッソ・ホテルは、次第に紫から紅色へと変わりゆく空と、雪を戴き厳しくも冷たくそびえる山嶺の荘厳さと見事に調和している。

 『二剣岳』から一筋の強い光が差し込み、それはちょうど正面玄関に立つヨルディ氏の後ろ姿を輝かせて、ヴィオラのもとにも届いた。ロビーが突如として白く輝き、優美な階段の奥まで明るく華やかな光に満ちた。

 曾祖父の作りだした理想の建築は、この光の魔法に誇らしげに顔を向けている。柱も桟も花台も、その他すべての細部にいたるまで、丹精込めて作り出されたグラッソ・ホテルは、100年経とうとも色褪せない美しさを放っていた。

 ゆっくりと正面玄関を出てポルティコに立つと、ヨルディ氏が振り向き微笑んだ。

 湖は青く輝き、グラッソ・ホテルの茶色がかったサーモンピンクの壁と白い柱を際立たせている。凍てつく空氣の中、ここにこの建物があるべき理由を静かに提示してくる。

 これでよかったんだわ。厨房や部屋係が仕事を始める音が、聞こえてきた。輝きをもう1度目に留めて、ヴィオラは仕事を続けるべくロビーへと戻った。

(初出:2023年12月 書き下ろし)

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パッラーディオの傑作と言われる『ラ・ロトンダ』に関する動画です。

Villa Almerico Capra "La Rotonda" - Vicenza - 4K

それから、私がパッラーディオについて調べるきっかけをくれた曲です。こちらも有名ですよね。

Jenkins: Palladio - 1. Allegretto (arr. for Strings Orchestra)
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