【小説】そして、1000年後にも
トップバッターは、今年もこのブログでもっとも馴染みのあるグルーブArtistas callejerosです。テーマの建築は、ポン・デュ・ガールです。南フランス、ガルドン川に架かるローマ時代の水道橋です。
このストーリーは本編とはまったく関係がないので、本編をご存じない方でも問題なく読めます。あえて説明するならヨーロッパを大道芸をしながら旅している4人組です。

【参考】
![]() | 「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結) あらすじと登場人物 |
![]() | 「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部 あらすじと登場人物 |
大道芸人たち・外伝
そして、1000年後にも
陽光は柔らかく暖かいものの、弱々しい。ブドウの木はまだ眠っているようだし、地面の草の色もまだ生命の喜びを主張しては来ない。何よりも浮かれたバカンスを満喫する車とすれ違うことがまったくない。南仏の田舎道は、慎ましくひっそりとしている。
だが、国道100号線を走るこちらの車の内側がシンと静まりかえっているかといえば、そんなことはない。今日ハンドルを握るのはヴィルだ。助手席にはフランス語の標識に即座に反応できるという理由でレネが座ったが、そもそも迷うほどの分岐はほとんどなかった。
日本人2人組は、道を間違えてはならないという緊張もないためか、時に歌い、時に笑い、そうでなければ、ひきりなしに喋り続けていた。
「そういえば、今日のお昼に食べたあの料理、なんて名前だったかしら?」
レネの母親シュザンヌが作る料理は、素朴ながらどれも大変美味しいのだが、今日の昼食はいつもよりもさらに手がかかっていた。ひき肉を薄切り肉で包み、さらにベーコンでぐるりと取り巻いてからたこ糸で縛ってブイヨンで蒸し煮にしてあった。ワインにもよくあって、蝶子は氣に入ったらしい。
「メリー・ポピンズみたいな料理名だったよな?」
稔が適当なことを口にする。蝶子は呆れて軽く睨んだ。絶対に違うでしょう。
「ポーピエットですよ」
レネが振り返って言った。
「今日のは仔牛肉で作っていましたが、白身魚で包んだり、中身を野菜にしたり、いろいろなバリエーションがあるんですよ。煮るだけじゃなくて、焼いたり揚げたりすることもありますし」
「ああ、それそれ。美味かったよな。それに、あのチョコレートプリンも絶品だったよなあ」
普段あまり甘いものに興味を示さない稔がしみじみと言った。
バルセロナのモンテス氏の店での仕事を終えて、イタリアへと移る隙間時間に、4人はアヴィニョンのレネの両親を訪ねた。例のごとく大量のご馳走で歓待され、レネの父親のピエールとかなりのワイン瓶を空にした。それで、4人は今夜も大量に飲むであろうパスティスやその他の酒瓶、それに食糧を仕入れに行くことにした。そして、ついでに『ポン・デュ・ガール』に足を伸ばすことにしたのだ。
『ポン・デュ・ガール』は、ローマ時代に築かれたガルドン川に架かる水道橋だ。高さ49メートル、長さ275メートルのこの橋は、ローマ帝国の高度な土木技術が結集した名橋だ。レネの両親の家から30分少し車を走らせれば着くと聞いて、蝶子が買い出しのついでに行きたがったのだ。
世界遺産にも登録されたためか、駐車場と備えたビジターセンターがあり、そこで入場料を払う仕組みになっていた。ミュージアムの入館料も含んでいるので、橋を渡るだけにしては若干高いが、歴史的建造物の維持に必要なことは理解できる。
4人は、ミュージアムを観るかどうかは保留にして、とりあえず橋を見にいくことにした。センターを越えてしばらく歩くと行く手に橋が見えてくる。深い青空をバックに堂々と横たわるシルエットは思った以上に大きかった。
さらに近づくとその大きさはこちらを圧倒するばかりになる。黄色い石灰岩の巨石1つ1つを正確に切り出して積み上げている。これを、クレーンもない時代に作ったことに驚きを隠せない。
「こんなに高くて立派な橋を作ることになったのはどうして?」
「今のニームにあったローマの都市で水が不足して、ユゼスから水を引くことになったんです。それで、この川を渡る必要ができたんだそうです」
アヴィニョンの東にある水源地ユゼスから、ネマウスス、現在のニームまで水を引くためにはいくつもの難関があった。ユゼスとネマウススの間には高低差が12メートルしかなかったので、1キロメートルごとに平均34センチという傾斜を正確に計算し、時に地表を走らせ、時に地中を走らせつつも、幅1.2メートル、深さ1.8メートルの水路を全行程に統一させた。越えられぬ山を通すためにセルナックのトンネルが掘られた。そして、最大の難関がこの渓谷だった。ローマ人は、この難関を奇跡ともいえる建造物を使って克服したのだ。それが、ポン・デュ・ガールだった。
その3層のアーチ構造は、強度を保ちながら少ない材料で橋を高くする合理的な設計だ。それぞれのアーチは同じサイズに揃えられ、部分の石の大きさも統一されている。プレハブで建物を作るように、同じ大きさの部品を大量に作り一氣に建築する方法によって、ポン・デュ・ガールはわずか5年で完成したという。
3層構造と文字で読むと大したことがなく感じられても、実際に目にするとその大きさには圧倒される。49メートルとは、14階建てのビルに匹敵する高さなのだ。1つ6トンもの石を4万個も積み上げたのは、最上階を走る幅1メートルあまりの水路のためだが、その下を歩く人びとにも大きな助けとなり、ローマの土木技術の正確さと、当時の帝国の栄光を2000年経った今も伝えるのだ。
4人を含める観光客が自由に歩き回れるのは、19世紀にナポレオン3世が修復し加えられた最下アーチ上の拡張部分だ。ごく普通の橋であれば、ずいぶん広くて堂々としていると感じるのであろうが、古代ローマ時代の大きく太い橋脚がそびえ立つので、小さな部分のように錯覚してしまう。
水道のある上部は、予約をしたガイド付きツアーの客のみ上がれる。1日の人数制限もあり、思いついて行けるような所でもないらしい。
「子供の時に一度登りましたが、足がガクガクしました」
「ここも、高所恐怖症の人には十分怖いかもしれないわね」
眼下を流れるガルドン川は、紺碧というのがふさわしい深い青の水だ。周りの白っぽい岩石とのコントラストが美しい。
常に穏やかな流れではないガルドン川は、時には大きな濁流となって地域を脅かすこともあった。ポン・デュ・ガールが、長い歴史の中で修復・補強されながらも、現在もこのように立派に経っていることには畏怖すら感じる。それは、大きな水圧にも耐えるよう計算し尽くされた古代ローマの土木技術の賜だ。
「他の地域に大きな被害をもたらした2002年のガルドン川の増水と氾濫でも、この橋はびくともしなかったんですよ」
レネは、説明する。
「水道としての役割はとっくになくなりましたが、橋としては今でも現役ですし、それに、夏には、ここでピクニックをする人がたくさんいるんですよ。2000年前の建造物ですが、人びとの生活や楽しみからかけ離れていない存在なんです」
もちろん、1月はピクニックには寒く、河岸でたくさんの人が寛いでいるわけではなかった。
駐車場方向に戻る途中に、古いオリーブの木が目に入った。レネが3人をそちらに連れて行った。
「ずいぶん古い木ね」
蝶子がいうと、レネは片目を瞑った。
「単なる古い木じゃありません。樹齢1000年を越えているんです」
「ええっ?」
傍らに石碑がおいてある。その石碑自体が古くて半ば崩れたようになっているので、言われるまでそれが石碑だと氣がつかなかった。
Je suis né en l'an 908.
Je mesure 5 m de circonférence de tronc , 15 m de circonférence souche.
J'ai vécu, mon passé , jusqu'en 1985 dans une région aride et froide d'Espagne.
Le conseil général du Gard, passionné par mon âge et mon histoire m'a adopté avec deux de mes congénères.
J'ai été planté le 23 septembre 1988.
Je suis fier de participer au décor prestigieux et naturel du Pont du Gard.
「『私は908年に生まれました。幹周りは5m、株の周りは15mです。1985年までスペインの乾燥した寒い地方に住んでいました。私の年齢と経歴に魅了されたガールの総評議会は、私を2人の同胞とともに養子として迎え入れ、1988年9月23日にここに植樹しました。ポン・デュ・ガールの格調高い自然環境の一端を担えることを誇りに思います』」
レネが、碑文を訳した。
「908年って、日本だと平安時代かしら?」
「確かそうだろ。ほら、菅原道真が遣唐使を廃止したのが894年だったよな」
「ヤスったら、よくそんな年号覚えているわね」
「平安時代だと、『鳴くよウグイス』とそれ以外は何も覚えちゃいないけどな」
4人はオリーブの木と、向こうに見えているポン・デュ・ガールを眺めた。
「こういうのからすると、俺たちの経験してきた数十年なんてのはほんの一瞬なんだろうなあ」
稔がしみじみと言った。
「そうね。人間というのは、ずいぶんとジタバタする生き物だって思っているかもしれないわね」
蝶子は、老木の周りを歩いて風にそよぐ枝を見上げた。
「新たな技術で何かを築き上げては、戦争をして壊しまくる。豊かになったり、貧しくなったり忙しいヤツらだと思うかもな」
ヴィルはポン・デュ・ガールの方を見て言った。
「僕が子供の頃と較べても観光客や地元民の様相は変わったけれど、この樹々とポン・デュ・ガールは全く変わらない。ただひたすら存在するって、それだけですごいことだと思いますよ」
人間がそれほど長く生きられないことはわかっている。いま、自分たちが親しんでいるほとんどの物質や文化も、1000年後には姿形もなくなっていることだろう。
それでも、何かは過去から残り、未来へと受け継がれていく。この古木やポン・デュ・ガールのように。
「1000年後のやつらも、同じようなことを思うのかなあ」
稔はポツリと言った。
「残っていたら、きっと思うわよ」
蝶子がいうと、レネは心配そうに言った。
「残りますかねぇ」
「俺は、現代の人類がよけいなことをしなければ、残ると思うな」
ヴィルは言った。
4人は、彼らと同じ時間ならびにその後の時間を生きる人類が、素晴らしい過去の遺産や生命を尊重し続けるように心から願いながら、再びレネの実家に戻っていった。
(初出:2023年1月 書き下ろし)
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【小説】黒い貴婦人
今月のテーマ建築は、カンボジアのコー・ケー遺跡です。同じクメール王朝による遺跡群ではアンコール・ワットやアンコール・トムの方が有名なのですが、もう少し見捨てられた感の強いマイナーな遺跡を探してここにたどり着きました。もちろんフィクションです。お間違いのなきよう。(そんなの当然って?)
なお、後半に登場したアメリカ人傭兵は『ヴァルキュリアの恋人たち』シリーズで『ブロンクスの類人猿』よばわりされている人ですが、まあ、誰でもよかったので出しただけで意味はありません。それにこの話もまたしてもオチなしです。すみません。

黒い貴婦人
香木の燻された煙が、湿った空氣に溶け込んでいく。ひどい頭痛のように感じられるのは、実際には痛みではなく、途絶えずに鳴り響く蝉の声だ。リュック・バルニエ博士は、ことさら神妙な顔をして老女を見つめた。
スレイチャハと呼ばれるこの醜い女は、シヴァ寺院の神官のような役割をしている。他の村民たちの絶対的な信頼を受け、この女が頭を縦に振らなければ、リュックの計画している保護計画を進めることは不可能だ。
村の長老と占い師の中間のような立場なのだろうが、中世フランスであれば、真っ先に薪の上に載せられて火をつけられたであろうと、リュックは表情に出さないように努めながら考えた。
ヒンドゥー教に改宗するつもりはまったくないが、それでも村民たちとともに煙をくゆらす細い香木を捧げ、リュックは恭しくスレイチャハに寺院の内部に散乱する神像の破片を持ち出すことの許可を願い出た。
コー・ケー遺跡は、カンボジアの一大観光地シェムリアップの北東120キロメートルに位置する遺跡群だ。80平方キロメートル以上の保護域の中に180を超える聖域が発見されている。そのうち、観光客が立ち入ることを許可されているのは20ほど、残りは深い熱帯雨林に埋もれ実態もいまだつまびらかになっていない。森には地雷の危険もあり調査は遅々として進まない。
10世紀の終わりにたった16年ほどクメール王朝の都とされたこの地は、当時はチョック・ガルヤ、またはリンガプーラと呼ばれていた。リンガは男性器を意味する石柱でシヴァ神の象徴だ。コー・ケーはアンコール遺跡群と違い、仏教と習合していない純粋なヒンドゥー教寺院だ。アンコール王朝7代目の王ジャヤーヴァルマン4世が出身地に遷都し、息子のハルシャーヴァルマン2世と共にこの地にヒンドゥー教を中心とする王都を作った。
アンコール王朝は、遺跡に見られる穏やかな微笑みとは相容れぬ王位簒奪と混乱の繰り返しで成り立っていた。簒奪者は実力で王位を手にすると、前国王の王妃や王女と結婚することでその正当性を主張したが、その度に己の実力を誇示し威光を確実なものとするために壮大な寺院を中心とした華麗な王都を建設した。
コー・ケー遺跡もまた、かつてはヒンドゥー教世界の乳海を模した巨大な
だが、再び遷都されて王権が届かなくなった後は、次第に廃れて忘れられていった。盗掘や、自然の驚異による破壊だけでなく、15世紀以降にシャム王朝に併合されてからの破壊、また、西欧諸国の植民地時代の美術品の無計画な持ち出しによって、遺跡はかつての詳細な状態がわからないまでに荒廃した。
彼らの祖先が大切に守ってきた寺院は仏教を信じる異国出身の王に破壊され、大切な神像もハイエナのような西洋人たちに持ち出され、狂信的なクメール・ルージュに打ち壊された。そして、荒廃した寺院の中を熱帯の植物たちが根や枝を蛇のようにくねらせて打ち砕いていく。
コー・ケー遺跡に限らず、カンボジアのクメール王朝による遺跡には謎が多い。これほど壮大で精巧な遺跡を短期間で作るには高度な技術者と多くの建設に関わった人間がいるはずだ。一説によると当時は35万人もの人びとが現在のアンコール遺跡群のあったあたりに住んでいたはずだという。
だが、そうした高度な文明の担い手たちは、どこへいってしまったのだろう。
ここコー・ケー遺跡でも、神々を拝む人びとは、神殿を覆い尽くす熱帯雨林の浸蝕から彼らの神像や神殿を守ることができない。つい最近まで内戦があり、文化遺産の保護どころか治安維持すらままならぬ状態だったカンボジアでは、政府とともに保護活動を進めているのは「アンコール世界遺産国際管理運営委員会」を中心とした国際的な支援チームだ。
リュックは、子供の頃にアンコール・ワットを紹介するテレビ番組でクメール王朝のことを知った。そして、残された仏像や王の肖像の微笑みに魅せられた。なんと謎めいた美しい微笑みだろう。それが今日の専門へと導いたのだ。これらの遺跡を破壊から守り、謎を解き明かしたい。若き学者として、彼は志を持ってこの地に赴任した。
西欧の先進的な技術とメソッドは、自分の情熱とともに、きっとこの国の文化遺産をあるべき姿に戻すのに役立つ。そう考えて彼は仕事に臨んだ。だが、実際に赴任してみて、彼の尊い仕事がさほど簡単に進まないことや、ものごとがそれほど単純ではないことにも氣づきはじめた。
クラチャップ寺院やクラハム寺院の修復のためには、一度倒壊した神像を搬出して工房で修復する必要がある。だが、世界遺産保護プロジェクトが国の許可を得て遺跡の一部を移動させることは、住民たちにとっては神を盗み出すことと見做されることもある。
リュックは、スレイチャハや村民たちがよそ者を信頼していないことを感じていた。遺跡を守りかつての威容を再現するための修復だと説明しても、信頼できない。かつて、彼らの神は「国を支配する者」によって否定され完膚なきまでに破壊された。熱帯雨林には多くの地雷が埋められ、人びとはいまだに恐怖と背中合わせで生きている。
スレイチャハは、平たく潰したような口調で呪文を唱え、丁寧に細い香木をリンガに備えた。それは根元から折れてしまっており、台座であった部分にもたせかけるように安置してある。
ニエン・クマウ寺院。その名は『黒い貴婦人』を意味する。塔の表面がおそらくは山火事で焼かれて黒くなっていることに由来するといわれている。だが、もしかしたら山火事ではなくてクメール・ルージュ撲滅の焦土作戦で焰に晒された結果なのかもしれない。
リュックが、コー・ケー遺跡の調査に初めて参加したとき、前任の調査員は「ここは奇跡的に破壊を免れた」と説明した。だが、本尊であるリンガがこのように無惨な状態になっているのを「破壊を免れた」と表現することには疑問が残る。
このリンガを修復のために搬送することが最終目的だが、今日のところは散在する神像の破片の搬出に同意してもらい、信頼関係を築きたい。それに同意してもらうのもまた一苦労だ。
既に政府の主導する学術保護チームがプラサット・ダムレイやその他の遺跡群から瓦礫と区別もつかずにいた女神像やヤマ神像などを搬出し見事に復元したのだが、それらは現在博物館で展示され、倒壊を待つようなコー・ケー遺跡には戻されていない。その意味を理解してくれる住民たちもいるが、少なくともスレイチャハとその信奉者たちは、西洋人たちが政府と結託して彼らの神を盗み出していると感じているようだ。
ものすごいスピードで育つガジュマルやその他の植物、氣の遠くなるような湿氣、どこにあるかわからない地雷の数々。彼らの祖先の作った文化遺産を守るためには、早急に修復が必要だ。スレイチャハらが忌み嫌う観光客たちは、そのための費用を生み出す金の卵でもあり、修復した神像をクーラーの完備した博物館で展示することにも意味がある。そう伝えても、彼女らは決して納得しない。
「それで、次の修復ですが……」
片言のクメール語を使い、スレイチャハに話しかけようとすると、老女はそんな声などどこにもしなかったかのごとく無視した。そして、後ろの方を見て「トゥバゥン」と言った。
すると、信奉者である男たちを搔き分けてひとりの女が寺院の中に入ってきた。リュックは息を飲んだ。この辺りの村で、今まで1度も見たことのなかった女だ。若く、漆黒の美しい髪を後ろに長く伸ばしており、金糸の多い紫の上着と黒い長いスカートをはいている。そのスリットからしなやかで長い足が歩く度にリュックの眼を射る。
観光客に清涼飲料水を売りつけたり、村で農作業に明け暮れている類いの垢抜けない女とは明らかに一線を画している娘だ。娘から目を離せないでいるリュックを見て、スレイチャハは意地悪な微笑みを見せた。
「トゥバゥン。このフランスの学者さんはお疲れのようだ。あちらでもてなしてやっておくれ」
スレイチャハが言うと、娘はひと言も口をきかずにリュックの手を取り、その場から連れ出した。香木の香りがきつく、頭が割れるように痛い。
寺院から出た途端、蝉の鳴き声が倍ほどの音量で降り注ぐ。蒸し暑さと、日差しの暴力にリュックは目眩を感じた。
娘は、彼を半ば崩れた寺院の中に誘った。彼女に勧められるままに、崩れた石の1つに腰掛けて目を閉じた。彼女からは、スレイチャハが焚きしめていたのと同じ香木の強い匂いがしている。そして、その吐息が異様なほどに近くにあるのを感じて困惑した。
「その昔、『
娘が囁いたのはフランス語だと氣づいたのはしばらくしてからだった。リュックは、それすらもわからぬほどに混乱していた。
「そこで暮らすうちに、この地の出身の高僧ケオの噂を聞き、この世の悲喜についての教えを請うために彼の庵を訪ねました。そして、師に敬意を表するためにごく近くに寄ったので、師の身体のすべてくまなく知ることになりました」
リュックはぎょっとして女の顔を見た。具合が悪く相づちもまともに打てていなかったので、自分が何かを聞き違えたのかと思ったのだ。
トゥバゥンの顔は、不自然なほどにリュックの近くにあった。瞳は暗闇の中で漆黒に見える。艶やかな黒髪は、『黒い貴婦人』の容貌がこうではなかったのかと思わせる。
「そう。そして、ケオ師は還俗し、ニエン・クマウ王女と塔の中でいつまでも愛し合ったのです」
そう囁くと、トゥバゥンはリュックの理性をいとも簡単に崩壊させてみせた。
さして遠くない寺院で村民たちが祈りを捧げていることも、彼が仕事上で大切な交渉の途中であることも、リュックは半分以上忘れ去っていた。頭はまったく働かない。暑さと湿氣にやられたのか、それともまとわり付くような薫りの香木に何か仕掛けがあるのか。
「おい。バルニエ博士。おいったら」
氣がつくと、リュックは1人、寺院の瓦礫の上に横たわっていた。懐中電灯の光が眩しくて思わず手のひらで遮った。
「大丈夫か。宿舎で騒ぎになってんだけどよ」
ゆっくりと起き上がりながら、リュックは呻いた。
声の主がわかった。マイケル・ハーストだ。単なる宿舎の護衛としてだけでなく、地雷除去の経験もあるというので重宝されているアメリカ人傭兵だ。
辺りはすっかり暗くなっていて、蝉の声はもう聞こえない。代わりにカンタンの鳴き声がやかましい。
懐中電灯の灯に目が慣れてハーストの表情が見えた。いぶかしがっているようだ。視線を追うと、自分の上半身のボタンはすべて外され、胸が完全に露出している。視線をおろすと下半身はかろうじて露出を免れていた。いったい、どうなったんだ……。
「……。女は……?」
リュックは、辺りを見回した。ハーストは、目を細めて「やれやれ」という表情を見せた。
「ったく、あんたたちフランス人は、あいかわらずお盛んだな。こんなにボロいけどさ、ここは、一応あいつらの寺院なんだぜ。わかってんのか」
「いや、そういうんじゃない」
あわてて否定してみせた。
「はいはい」
ハーストは、リュックの弁解をまったく信じていないようだ。
「熱中症か、それとも、あの香木に酔ったのか。とにかく、午後から記憶がないんだ。……もしかして、大変な騒ぎになっているのか?」
リュックは、立ち上がるとシャツのボタンをはめて身支度をした。
「大変ってほどじゃないけどさ。あんたが、あの婆さんと交渉に行くと息巻いて出て行ってからちっとも帰ってこないから、何かあったんじゃないかって。女を買うなら、宿舎に戻ってから普通に村に行けよ。こんなところで夜に迷って、地雷だらけの密林に迷い込んだらバラバラになるぞ」
女としけ込んだと断定されてしまい、心外だったがそれ以上反論するつもりにもなれなかった。本当にそういうつもりではなかったのか、自分でも定かではない。
あの女、トゥバゥンは何者だったのだろう。あれだけのフランス語を話す女なら、本来通訳として皆に知られているはずだ。だが、見たことも聞いたこともなかった。まるで女の話していた『
リュックは、ふらつきながら寺院から出て宿舎に帰ろうと歩き出した。
「違う。こっちだ」
マイケル・ハーストに首元を掴まれた。
「俺が来なかったら、本当に明日になる前に死体になっていたかもな。何週間いようと、熱帯雨林に慣れたつもりにはなるな」
リュックは、ぞっとして周りを見回した。
ガジュマルが絡みつき、今にも崩れそうな寺院が目に入った。月明かりの中で、木々は昼よりもずっと邪悪に見えた。根は蠢き、絡みつき、その力で人間の作りだした文明という名の驕りを簡単に壊していく。
リュックは、スレイチャハとの交渉について考えた。具合が悪かったとはいえ、彼女の神事を途中で放り出して礼を尽くさなかった。また、あの女とのことを騒がれたらプロジェクト全体も止まってしまうかもしれない。いずれにしても、彼の立場は今朝までと較べてかなり危うくなっている。
神像の微笑が浮かび上がって見えた。それは、子供の頃にテレビで見たときのような穏やかで柔和な表情ではなかった。ガジュマルの根でじわじわと締め付ける密林の笑い声がどこからか響いてくるようだった。
(初出:2023年2月 書き下ろし)
【小説】漆喰が乾かぬうちに
今月のテーマは、スイス・エンガディン地方の典型的な壁面装飾スグラフィットです。本文でも説明がありますが、もっと詳しく知りたい方は追記をご覧ください。
あまり説明臭くなるので書きませんでしたが、スイスの若者は進路がだいたい16歳前後で別れます。大学進学を目指す限られた子供たちをのぞき、義務教育を終えた子供たちは職業訓練を始めます。週に数日働いて少なめのお給料をもらうと同時に、週の残りの日は学校に行くというスタイルを数年続けると、職業訓練終了の証書がもらえて一人前の働き手として就職できるというしくみになっています。

漆喰が乾かぬうちに
ウルスラは、誰と帰路についたのだろう。テオは砂と石灰をかき混ぜながら考えた。3月も終わりに近づいたとはいえ、高地エンガディンの屋外は肌寒い。
だが、作業をするには適した日だ。数日にわたり晴れていなければならない。けれど、夏のように日差しが強すぎれば、漆喰は早く乾きすぎる。スグラフィットの外壁は、現在では高価な贅沢であり、失敗は許されない。職人見習いであるテオに、「今日は休みたい」と、申し出ることなど許されるはずはない。
昨夜は、村の若者たちが集まって過ごした。それは、テオにとっては、楽しかった子供時代のフィナーレのようなものだった。
3月1日には、伝統的な祭『チャランダマルツ』がある。かつての新年であった3月1日に、子供たちが首から提げたカウベルを鳴らしながら、冬の悪魔を追い払いつつ村を練り歩く。
現在では成人とは18歳と法律で決まっているけれど、かつては堅信式を境に子供時代が終わり、長ズボンをはいて大人の仲間入りをした。その伝統は、今でも残っていて、例えば飲酒や運転免許の取得などは法律上の成人を待つけれど、祭の参加での「大人」と「子供」の境は、堅信式を行う16歳前後に置かれている。
それは皆が一緒に通った村の学校を卒業して、それぞれの職業訓練を始める時期とも一致している。
去年の8月からスグラフィット塗装者としての職業訓練を始めたテオにとって、今年の『チャランダマルツ』は、最年長者、すなわち「参加する子供たち」として最後の年だった。
テオと同い年の8人が子供たちの代表として、村役場と打ち合わせを重ね、馬車を手配し、行列のルートを下見し、打ち上げ会場の準備もした。祭の最中は、小さい子供たちの面倒を見るのも上級生の役割だ。行列に遅れていないか、カウベルのベルトを上手くはめられない子供はいないか、合唱のときにきちんと並ベているか、確認して手伝ってやる。
祭が終わった後は、小学校の講堂を使ってダンスパーティーもした。テオは、音響係として、楽しいダンスで子供たちが楽しむのを見届けた。
昨夜は、8人の代表たちが集まって、打ち上げをした。それぞれが、はじめて夜遅くまで外出することを許され、14歳から許可されているビールで乾杯した。ハンスやチャッチェンは金曜日だからとベロベロになるまで飲んでいたが、テオは2杯ほどしか飲まなかった。今日、朝から働かなくてはならなかったからだ。
それで、11時には1人で家に帰った。本当はウルスラを送って行きたかった。
音響係だった3月1日のパーティーでは、ダンスに誘いたくてもできなかったから、せめて昨夜の打ち上げでは近くに座って、今より親密になりたいと思った。けれど、それも上手くいかなかった。酔っ払ったハンスとチャッチェンが大声でがなり立てるので、静かに話をすることなど不可能だったのだ。
ウルスラのことが氣になりだしたのは、去年の春だった。それまでは、ただの幼なじみで、子供の頃からいつも同じクラスにいた1人の少女に過ぎなかった。
テオは、1つ上の学年にいたゾエにずっと夢中だった。ゾエは華やかな少女で、タレントのクラウディア・シフによく似ていて、化粧やファッションも近かった。卒業後は村を離れて州都に行ってしまった。モデルとしてカレンダーで水着姿を披露するんだと噂が広がり、小さな村では大騒ぎになった。
テオは、スグラフィット塗装者としての職業訓練を始めるか、それとも他のもっと一般的な手工業を修行するために、州都に行くか迷っていた。ゾエが村を離れるとわかったときに、心の天秤は大きく州都に傾いた。
スグラフィットは16世紀ルネサンス期のイタリアで、そして後にドイツなどでも流行した壁の装飾技法で、2層の対照的な色の漆喰を塗り重ね、表面の方の層が完全に乾く前に掻き落として絵柄を浮き出す。スイスではグラウビュンデン州のエンガディン地方を中心に17世紀の半ば頃よりこの技法による壁面装飾を施した家が作られるようになった。
アルプス山脈の狭い谷の奥、今でこそ世界中の富豪たちがこぞって別荘をもつようになった地域も、かつてはヨーロッパの中でも富の集中が起こりにくい、比較的貧しい地域だった。
ヨーロッパの多くの都市部で建てられた石材を豪華に彫り込んだ装飾などは、この地域ではあまり見られない。それでも、素っ氣ない単色の壁ではなく、立体的に見える飾りを施したのだ。
角に凹凸のある意思を配置したかのように見える装飾、幾何学紋様と植物を組み合わせた窓枠、または立派な紋章や神話的世界を表現した絵巻風の飾りなど、それぞれが工夫を凝らした美しい家が建てられた。
モチーフは違っても、2層の色が共通しているので村全体のバランスが取れていて美しい。ペンキによる壁画と違い、スグラフィットで描かれた壁面装飾は、200年、時には300年も劣化することなく持つ。
だが、この装飾はフレスコ画と同じで、現場で職人が作業することによってしか生まれない。工場での大量生産はできないし、天候や氣温にも左右される、職人たちの経験と勘が物を言う世界だ。どの業界でも同じだが手工業の世界は常に後継者問題に悩まされている。
テオは、子供の頃から見慣れていたこの美しい技法の継承者としてこの谷で生きるか、それとも若者らしい自由を満喫できる他の仕事を探すかで揺れていた。最終的には、親方やスグラフィットの未来を案じる村の大人たちが半ば説得するような形で、彼の決意を固めさせた。州都に行ったゾエがよくない仲間と交際して学校をやめたらしいという噂もテオの心境に変化をもたらした。
スグラフィット塗装者としての職業訓練が決まった後、同級生の間では少しずつ親密さに変化が出てきた。テオはずっと村に残る。ハンスやチャッチェンは、サンモリッツで職業訓練を受けることが決まり、アンナは州立高校に進学する。
同級生の中で、一番目立たない地味な存在だったウルスラは、村のホテルで職業訓練をすることが決まり、週に2日の学校の日はテオと一緒に隣の村に行く。ほとんど話をすることもなかったのだが、それをきっかけに『チャランダマルツ』の準備でもよく話をするようになった。口数は少ないけれど、頼んだことは必ずしてくれるし、どんなに面倒なことを頼んでも文句を言うことがなかった。
3月1日の『チャランダマルツ』が終わってから、1か月近くテオは奇妙な感覚を感じていた。忙しくて煩わしかったはずの『チャランダマルツ』の準備が終わり、同級生たちと会うことがなくなった。仕事と学校だけの日々。時に親方に叱られながらも、漆喰の準備や工房で引っ掻く技法の訓練をしていた。
学校に行く日は、なんとなくウルスラの姿を探した。でも、先々週、彼女は風邪をひいて学校を休んだし、その後は学校が1週間の休暇になった。その間に、彼は落胆している自分を見つけて、驚いた。
だから、打ち上げで彼女に会うのが楽しみだった。ウルスラは、元氣になってそこにいたけれど、アンナやバルバラと話をしていて、またはテオがほかの人に話しかけられていてほとんど話ができなかった。
明日が早いからと、彼だけ帰るときに、ウルスラが何かを言いたそうにしていたのをテオは見たように思った。もしかしたら自分の思い過ごしかもしれないけれど……。テオは、少し落ち込んでいた。
「おい、テオ。聞いているのか」
親方が、呼んでいた。
「えっ。すみません」
テオは、親方が見ている手元を自分も見た。
「お前、配分間違えていないか。いくら何でも色が濃すぎるぞ」
確かにそれはほとんど真っ黒だった。
「すみません」
「昨夜は遅くまで飲んでいたのか」
親方は訊いた。小さい村のことだ。同級生が打ち上げをする話は、簡単に大人たちに伝わってしまう。
「いえ。11時には帰りました」
でも、このざまだ。テオはうなだれた。
「まあ、まだ塗っていないんだから、取り返しはつくさ。だがな。こういうときのやり直しには、長年の勘が必要なんだ。まだお前には無理だな。どけ」
そう言って、親方は石灰の粉を持ってテオが作っていた塗装混合物の色調整を始めた。
石灰と砂、そして樽で保存されている秘伝の石灰クリームが適切な割合で混ざり、完璧な硬さの下地が用意されていく。
「さあ、行くぞ」
親方は、大きいバケツを持って村の中心へと向かった。泉のある広場の近くに今日の現場はある。壁面全部ではなくて、門構えの修復だ。
不要な部分に漆喰がかからないように、プラスチックのフォイルとマスキングテープで保護をしていく。それから、バケツに入っている濃い灰色の漆喰を丁寧に塗っていく。
午前中は瞬く間に過ぎた。幸い、漆喰は時間内にきれいに塗られた。午後の太陽が、かなり濃い灰色をゆっくりと乾かしていくだろう。今日と明日は雨が降らないだろうから、理想の色合いになるはずだ。
「さあ、少し遅くなったが飯の時間だ。帰っていいぞ」
バケツや塗装道具を工房に運び込んだところで、親方が言った。親方の自宅は工房の上で、女将さんが用意したスープの香りが漂っている。
「あ。今日は、うちには誰もいないんで……」
テオはパン屋でサンドイッチでも買うつもりで来た。
「なんだ。この時間にはもうサンドイッチは残っていないかもしれないぞ。うちで食っていくか?」
「いえ。だったらそこら辺で何かを食べます」
テオは、頭を下げて工房から出た。もう1度村の中心部に戻ると、意を決してホテルのレストランに入っていった。
「あら。テオ!」
声に振り向くと、そうだったらいいなと想像していたとおり、ウルスラがいた。
「やあ。君も今日、出勤だったんだね」
彼が訊くと、ウルスラは頷いた。
「土日休みの仕事じゃないし……。でも、幸い今日は遅番だったの。テオは昼休み?」
ウルスラは不思議そうに訊いた。ランチタイムにテオがここに来たのは初めてだったから。
「うん。今日は、母さんが家にいないから、パン屋でサンドイッチを買うつもりだったんだけど、ちょっと遅くなっちゃったんだ。……スープかなんか、あるかな?」
スープなら、さほど高くないだろう。そう思ってテオはテーブルに座った。ウルスラは、メニューを持ってきた。
「今日のスープは、春ネギのクリームスープよ。あと、お昼ごはん代わりなら、グラウビュンデン風大麦スープかしら?」
テオは頷いて、メニューをウルスラに返した。
「腹持ちがいいからね。じゃあ、大麦スープを頼むよ。あと、ビールは……仕事中だからダメだな」
「じゃあ、リヴェラ?」
そう訊くウルスラに、彼は嬉しそうに頷いた。乳清から作られたノンアルコールドリンク、リヴェラはスイスではポピュラーだけれど、同級生の多くはコカコーラを好んだ。でも、テオがコーラではなくてリヴェラをいつも頼むことを彼女は憶えていたのだ。
柔らかい春の陽光が差し込む窓辺に立つ彼女の栗色の髪の毛は艶やかに光っていた。民族衣装風のユニフォームも控えめなウルスラにはよく似合う。彼女は、リヴェラと、それからスープにつけるには少し多めのパンを運んできてくれた。
「昨夜は、遅かったのかい?」
テオが訊いた。
「12時ぐらいだったわ。みんなは、もう1軒行くって言ったけれど、私は帰ったの」
ウルスラは笑った。
「誰かに送ってもらった?」
すこしドキドキしながら訊くと、彼女は首を振った。
「まさか。男の子たち、あの調子で飲み続けて、自分面倒も見られなさそうだったわよ」
「そうか。じゃあ、僕がもう少し残って、送ってあげればよかったな」
そういうと、ウルスラは笑った。
「こんなに近いし、こんな田舎の村に危険があるわけないでしょう。……でも、そうね、次があったら送ってもらうわ。テオは、ひどく酔っ払ったりしないから安心だもの」
ウルスラは、他の客たちの給仕があり、長居をせずに去って行った。それでもテオは幸福になって、大麦スープが運ばれてくるのを待った。
テオは、先ほど塗ったばかりの塗装のことを考えた。下地の灰色が乾いたら、上から真っ白の漆喰を塗り重ねる。その漆喰が完全に乾く前に、金属で引っ掻くことで灰色の紋様が浮かび上がる。そうして出来上がるスグラフィットは、地味だけれども何世紀もの風雨に耐える美しい装飾になる。
チューリヒや、ベルリンやミラノ、パリにあるような面白いことは何も起こらない村の日々は、退屈かもしれない。でも、スイスの他の州では見られない特別な風景と伝統を過去から受け継いで未来に受け渡す役目は、そうした大都会ではできないだろう。
ウルスラが、スープを運んできた。素朴な田舎料理の湯氣が柔らかく彼女の周りを漂っている。村に残って、ここで生きていくことを選んだのは大正解みたいだ。
テオは、今日塗った漆喰が乾く前に、彼女をデートに誘おうと決意した。
(初出:2023年3月 書き下ろし)
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【小説】やまとんちゅ、かーらやーに住む
今月のテーマは、沖縄県八重山地方の『かーらやー』(古民家)です。
石垣島には大学を卒業する年に1度だけ行きました。正直言って、あの美しい海と竹富島観光のことしか記憶にないのですけれど、今回の作品を書くためにあれこれ調べていたら興味深い事がたくさんあって「ずいぶんと勿体ないことをしたな」と反省しました。
当時印象に強く残っているのは、「石垣の近くに寄りすぎるな、ハブが潜んでいるかもしれないから」と言われたことです。今回、ハブに関する話が出てくるのも、その時の印象に引きずられているのかも。この話もオチはありません、あしからず。

やまとんちゅ、かーらやーに住む
赤茶の瓦に
沙織は、静かに縁側に座った。縁側からは海は見えない。外壁には門のようなものはなく、代わりに門の奥に石垣と同じ素材で作られた
沙織の前夫である亮太だったら、ここに住むことには大反対しただろう。彼は名護市内のマンション暮らしにすら耐えられなかった。
そもそも沖縄県移住を提案して沙織を連れてきたのは亮太だった。そして、離婚とともに彼が内地に戻る時に、沙織が東京に帰ろうとしないことにひどく驚いていた。
「まさか、こんな所に住み続けるつもりか?」
亮太にとって、沖縄移住はリゾート滞在の延長線だった。移住に伴う多くの問題を対処できるか、彼は考えてもいなかったらしい。
半年にわたる強烈な湿氣、次々と襲い来る台風、賃金水準は低いのに、物価は東京並みどころか場合によっては高くつく。和食を食べられる店が少なく、面白いエンターテーメントも少ない。それらは、東京で少しネット検索すればわかることだったのに、亮太は本当に行き当たりばったりで移住を決めたのだ。
だが、沙織もまた沖縄について亮太よりもわかっていたわけではない。東京を離れて美しい海のあるリゾート地で暮らせるのだと喜んでいたのだ。
子供のいない若い夫婦として共稼ぎをしているが、沙織自身は移住で職探しをする必要はなかった。必要だったのはネット環境だけで、移住先の名護市でも問題なく仕事をすることができた。問題は亮太の方で、リゾートホテルで働く事のできた1年はよかったが、そのホテルが倒産してからはいくつかの仕事を渡り歩いた。
仕事が変わる度に亮太はすさみ、沖縄に対する不満も積もっていった。
少し遠くに飲みに行きたくても電車がないので行けない、お風呂に追い炊き機能がついていない、通販でものを頼むと送料が高すぎる、塩害で車が錆びた、治安が悪くヤンキーが多いなど、最後の方は毎日不満ばかり言っていた。沙織はそんな亮太にうんざりしていた。
彼の浮氣が発覚した時に、沙織はすぐに離婚したいと言った。やり直したくなるほどの情が残っていなかった。亮太は「お前がそんなだから、他の女に安らぎを求めたくなったんだ」と言った。沙織の収入なしに賃料が払えなかったので、彼は東京に戻ることを決めた。
沙織は反対に、沖縄本島を離れ石垣島に移住した。本土と較べて不便だし、人びとは閉鎖的だと忠告してくれる人もいたが、沙織はもともと引っ込み思案でエンターテーメントや物質的な便利さはさほど必要としないタイプだったので氣にしなかった。
最初は石垣市に住んだが、1年ほど前に縁あって島の北寄り集落にある古民家を格安で借りるチャンスに恵まれた。
折からの古民家ブームで、心地よく住める家はとてつもなく高い賃料だというのが常識となっている。けれど、沙織には偶然が味方した。
亮太と離婚して戻した旧姓の宮里は、沖縄によくある姓だったので、あきらかに
そしてもう1つは、沙織が亮太のように東京の生き方に固執しないで、島の人たちのやり方を受け入れ、仲間に入れてくれないことに関しては氣にせずに放置することができたからだ。しま言葉は永久にわからないだろうし、完全に島民として扱ってもらえることもないだろう。
それで十分なのだ。
この家に住まわせてくれるのも、大家が沙織のことを格別に思ってというわけではない。この家に、仏壇があるからだ。
先祖崇拝の風習の残る沖縄では仏壇のある家は小さくても本家の扱いだ。普段は沖縄本島や、市街地のある島の南部にそれぞれ住んでいても、旧暦の正月やお盆には家族がその家に集まる。しかし、普段は誰も住まない家は傷む。湿氣の多い沖縄はことさら家が傷みやすい。
沙織は、石垣市のアパートに住んでいたときに、大家に自分の生まれた『かーらやー』に住むのはどうかと打診された。家賃はとても安い。トイレと風呂が母屋にはないがそれも氣にならない。
沖縄の他の多くの古民家と同じように、この家の南側には、床の間のある一番座と仏間のある二番座がある。北側の裏座はプライヴェートな居住空間だ。日差しが入りにくいので日中でも少し暗いのだが、夏の蒸し暑い中でも比較的快適に暮らせる。
名護のマンションや石垣市のアパートと比較して、この古民家はずっと過ごしやすい。琉球瓦は熱を反射し、断熱効果が高い。また丸い形と平たい形をした2種類の瓦を組み合わせ漆喰で固めてあるので雨漏りは一切せず台風の強風にも強い。木造家屋にこの特殊な屋根を組み合わせた平屋は、古くても頑丈で快適なのだ。
年に数回、大家の家族が集まり、一番座と二番座で宴会をする。沙織はしばらく参加してもいいし、その時だけどこかに旅行することもある。最近のお氣に入りの過ごし方は、高価なリゾートホテルに滞在し、ビーチを眺めながらカクテルを飲むことだ。
それ以外は、誰にも邪魔されることなくこの家で静かに暮らしている。近くにスーパーマーケットの類いはないので、必要に応じて10日に1度くらい南部の市街地に買い出しに行く。
仕事をするために通信だけは整っていないと困るのだが、幸い光通信が通っている地域で、初期工事費を自分で持つと申し出たら、大家はあっさりと導入を許可してくれた。それどころか工事費も持ってくれたのだ。「息子たちが大賛成だというのでね」と。
庭にはバナナの木が植わっているし、小さな畑もあって、沙織は生まれて初めて家庭菜園にも挑戦してみた。と、いっても自給自足を目指しているわけではなく、台風が続いてスーパーの棚が空になるときや、買い物に行くのが面倒なときに足しになればいいか程度の動機からだ。本土ではあまり見ない島野菜の方が手間がかからずに育つ。タマナーとも言われるシャキシャキしたキャベツ、スターフルーツみたいな変わった見た目のうりずん豆、エンツァイと呼ばれる空心菜、失敗の少ない島オクラなどの他、スーパーで買ってきて食べた豆苗やネギの残った苗部分を再生するのにも使っている。
オシャレな服を買うような店はないが、そもそもリゾートホテルに行くときでもないとしゃれた服は必要ないので、新しく服を買う必要性も感じない。映画館や美術館などもないのだが、デートをする相手もいないので、特にそうした施設が必要にはならない。こんなライフスタイルであることを見抜いたので、大家もこの家に住むことを提案してきたのかもしれない。
休みの日には、朝から散歩をするような氣軽さで海へと歩いていく。赤・黄・ピンクのハイビスカス。濃いピンクのブーゲンビリア、パパイヤやバナナの木。近所には、あたりまえのように南国の植物が植わっている。石垣やシーサーは青空に映えて、南国にいるんだなあとしみじみと幸せを感じる。
今日はいつもと違い、4月なのに夏のような日差しだったので、昼に帰ることはやめて、1日をゆっくりと海辺で過ごした。夕焼けにオレンジに染まった家々や南洋の花を楽しみながら歩く帰路は、いつもとは違う美しさだ。
「ぱんな」
声がしたので振り返ると、背の高い男が沙織に話しかけていた。
「えっと……」
沙織の口調から、方言がわからないとわかったようで、男は言い直した。
「そっちに行かないでください。ハブの目撃情報があったので確認しているんです」
沙織は驚いた。4月なのにもうハブ?
「ええっ。スプレー、まだ買っていない……」
自宅に出てきた時の対策として、噴射するタイプの駆除スプレーを去年は大家が持ってきてくれたのだが、まだ一度もでたことがない上、まだ4月なので今年は油断して自分で用意するのを忘れていたのだ。
男は、不思議そうに彼女を見てから訊いた。
「もしかして、この近くに住んでいるんですか?」
「ええ。この道の突き当たりの比嘉さんのお家を借りています。石垣は対策補修されていますが、
男は、振り返って坂の上を見た。
「あそこですよね。街灯が正面を照らしているので、まず大丈夫でしょう。でも、心配だったら、あとで駆除スプレーをお届けしましょうか」
沙織は、大きく頷いた。
「そうしていただけたら、助かります。すみません」
男は、笑った。
「氣にしないでください。じゃあ、お家まで一緒に行きましょう、私の後ろを歩いてきてください」
沙織は、頭を下げた。ハブ駆除の専門家だろうか。夕方とはいえまだけっこう暑いのに、長袖長ズボンの作業着で全身をしっかり覆っている。
手には捕獲器を持っているし、この人といるならハブが出てきてもなんとかしてくれそう。でも、もし現れても悲鳴を上げて蛇を刺激しないようにしなくちゃ。沙織の緊張がわかったのか、男は再び笑った。
「そんなに怖がらなくても道の真ん中を歩いていれば大丈夫ですよ。まだ十分明るいですし、向こうから出てくることはほとんどないでしょう」
「はい。もともと東京育ちで、それに一昨年までは市街地に住んでいたので、慣れていなくって。ハブがでることがちょっと怖いんです」
家の前に来たので、少しホッとしながらいうと、男は頷いた。
「そのぐらいの方がいいんです。サトウキビ畑に入っていこうとしたり、夜にふらふらで歩くような油断をすると、ちょっと危険ですから。じゃあ、後でスプレー、お届けします。車の中にあるので、20分くらいですね」
沙織が頭を下げて、確認をしつつ歩いていく男を見送っていると、隣家の伊良部のお婆さんが出てきた。
「
「くよなーら、伊良部さん」
まだ伊良部おばぁと呼ぶ勇氣は出ない。
伊良部おばぁは首を伸ばして、道を観察しながら去って行く男の後ろ姿を見た。
「おや。……もうハブがでたんだね。暑かったからねぇ」
「あ、ご存じの方ですか」
「向かいの平良やんの孫だよ。昇っていうんだ。他の兄弟はやまなぐーだったけど、あの子だけはまいふなーだったでなー」
沙織が「?」という顔を見せたので、彼女は「
伊良部おばぁは、慣れない標準語を探しながら、ゆっくりと話した。
「だっからよー、あの子は、やまとぅ言葉で『大人しい』だったかね。でも、肚が座っているから、ハブが襲ってきてもなんでもなく捕まえる。あの調子で嫁さんも捕まえられればいいのに、そうはいかないみたいだねぇ。わー、どうばぁ?」
沙織は、滅相もないと首を振った。離婚のことは面倒なので話していない。だから、いい歳してこんなところでグズグズしている晩熟娘だと思われているのかもしれない。
「そんな……あちらに失礼ですし……」
伊良部おばぁは、はははと笑った。この程度のことを真に受けるなとでも言いたげだ。どうもまだ会話の受け流しはうまく出来ない。
「あ、ほれ、これはたくさん作ったチャンプルーよ、
「あ。いつもありがとうございます」
今日も、いただいちゃった。島豆腐チャンプルー。沙織が作るのと格段違ったものは入っていないのに、伊良部おばぁが持ってきてくれるお惣菜は、なぜだかとっても美味しいのだ。
沙織は、ハブのこともすっかり忘れて米を洗い出した。日が暮れて辺りは暗くなった。東京では見たことがなかったほどの満天の星空が、『かーらやー』の赤瓦の上に広がっているはずだ。この家にたどり着くまでの、いくつかの住まいを思い出して、ここほど心地がいいと感じた場所はなかったなと微笑んだ。
「すみません」
一番座の方から声が聞こえる。あ。さっきの人だ。スプレー缶、持ってきてくれたんだ。
先ほどの男が、生真面目な様子で立っていた。手には駆除スプレーを持っている。
「すみません。本当に助かります。おいくらですか」
沙織が訊くと、彼は首を振った。
「お代はけっこうです。万が一、使うことがあったら、ここの名刺の代表に連絡してください」
市の環境課の名刺で先ほど伊良部おばぁが言っていたとおり平良昇という名が印刷されていた。頭を軽く下げると、昇は去って行った。
ハブ捕獲の専門家とは別に親しくならなくてもいいんだけれど、市のお役人がああいう感じで仕事熱心なのは好感が持てるなあと、沙織は考えた。
伊良部おばぁのチャンプルーは、どうしてこんなにごはんが進むんだろう。豚肉の風味だけでなく今日は島タケノコも入っていて香り豊かな上歯ごたえも楽しい。
母屋にはないトイレやお風呂、玄関も入り口の鍵もない『かーらやー』にいつの間にか故郷のようになれてしまったのと同様、八重山の味にもすっかり馴染んだ。台風と湿氣に悩まされ虫とハブに怯えることはあっても、美しい海と満天の星、南国の花や果物のあふれる島の暮らしは、とても心地よい。
きっとこのままこの島に住み続けるんだろうな。沙織はぼんやりと考えながら、チャンプルーを口に運んだ。
(初出:2023年4月 書き下ろし)
【小説】心の幾何学
今月のテーマは、モロッコの『リアド』とそれを彩るモザイク『ゼリージュ』です。
実は、モロッコはアフリカ大陸内のスペイン領セウタに行ったときに、半日ツアーで行ったことがあるだけなのです。なので、美しいリアド滞在はまだ未体験。めちゃくちゃ憧れているんですけれどね。

心の幾何学
ナナはスークを急いで横切った。この市場には、これまでに5度ほどしか訪れたことがない。観光客が土産物を探すマラケシュのスークなどと違い、観光客のさほど多くないこの町は、地元民の生活に即した品物のみが置かれ、大半が屋根のない露天だ。足下の乾いた埃っぽい土が舞い上がり、そこここに放置されたゴミを踏まずに進むことと、スリに注意することで神経をすり減らす。
ベルナールが言うように、リアドに隠っていればいいのかもしれない。何かあったら、彼に対処してもらわなくてはならない。彼はため息をつきながら「だから、言っただろう」と子供を諭すように言うのだろう。
でも、今日は『彼』に食事を振る舞うつもりなのだ。それにザタールがないなんて、あり得ないもの。ナナは、買ったスパイスを抱えて急いで帰路についた。
ザタールはモロッコの万能ふりかけと言うべきミックススパイスで、塩、タイムの一種、白ごま、スーマックという赤い果実を乾燥させた粉などが入っている。肉を素焼きの壺で長時間煮込んだタンジーヤの付け合わせとして添えるパンはプレーンでもいいのだが、ナナはザタールをかけてから焼いたものが一番合うと思っていた。
埃っぽく、灰色で、異国情緒もへったくれもない街角を、なんとか迷わずに進み、ナナはくたびれたピンクの壁がつづく一画の一番奥に向かった。それから、重い扉についた手の形をした取っ手を操作しながら解錠した。
それまでの世界と、まったく違う光景が広がる。柔らかな円やくびれたカーブが優美なアーチ。透明ガラスと装飾が幻想的な陰影を作り出すランプ。細かい紋様のモザイクタイル。そして、金銀の刺繍で彩られた鮮やかな布の襞が織りなすオリエンタルな影。
東京で過ごした子供の頃に読んだ「アラビアンナイト」の絵本にあった王宮さながらだ。フランスで知り合ったベルナールが「モロッコで暮らさないか」と誘ってきたときに想像していた世界そのものだ。
大きな中庭を持つ古い邸宅を改装した宿泊施設として、日本をはじめとして世界の観光客にも人氣なリアドは、もともとはアラビア語で「邸宅」を意味する言葉だった。その意味で、ここもまたリアドには違いない。
12世紀から15世紀に、レコンキスタが進むイベリア半島から逃げてきた有力者たちが建てたアンダルスとモロッコの建築様式が融合した邸宅の多くは、21世紀には観光客向けのエキゾチックな宿泊施設として生まれ変わった。
このリアドも、かつてはそのブームに乗ろうと、水回りをはじめとして宿泊施設らしく改修されたが、マラケシュやフェズのように観光に適した町ではなかったので経営に行き詰まったらしい。ベルナールは、二束三文で売りに出されていたのを見つけたと自慢げに語った。
「僕はね。このリアドを完璧な状態に修復して『千夜一夜物語』の世界を再現したいんだ」
パティオには、星形の噴水が置かれ、棕櫚やバナナの木が美しい木陰を作っている。2階はバルコニーがパティオを囲むようにあり、5つのテイストの違う部屋があった。
ナナが使っている部屋は、ターコイズ・ブルーをテーマにした部屋で、とりわけバスルームの壁とタイルが美しかった。
ベルナールに、モロッコ移住を提案されたとき、ナナは彼とここに住むのだと思っていた。実際には、常にここに住んでいるのはナナ1人で、ベルナールは年に2か月ほど滞在する以外は、月に3日ほど訪れるだけだった。
パリにあるモロッコのインテリアを売る店は繁盛しており、彼はこれまで通りに2国を行き来して暮らすのだろう。
彼が、電話で話している姿を見て、彼は離婚もしていなければ、ナナを正式なパートナーにしようとも思っていないことを知ってしまった。これは、日本でいうお妾さんにマンションを買い与えるのと変わらない事なのだと氣がつき、がっかりした。
それは、日本で母親が受けていた扱いと同じだった。私生児だから、ハーフだからと受けた仕打ちには負けたくなかった。だから、フランスに渡り自分の力で生きていこうとした。けれども、フランスではナナは今度はアジア人として扱われた。1人前の仕事をさせてもらえなかったのは、人種差別のせいだとは思いたくなかったけれど、実力が無いと認めるのも悲しかった。しかも、結局、自分もまた愛人として囲われることになってしまった。
日本やフランスに戻って、地を這うような生活をしながら独りで生きていく決意はまだつかない。このアラビアンナイトのような美しい鳥籠と、その外に広がる厳しい現実の世界の対比はナナを億劫にする。
細やかな刺繍の施されたフクシアピンクのバブーシュを履く。ただのスリッパと違い、足にぴったりと寄り添う滑らかな革のひんやりとした肌触りが好きだ。足下には星や千鳥のように見えるタイルが敷き詰められている。何も知らなければただの床だが、ゼリージュ細工の仕事を知るナナは、足を踏み出すごとに畏敬の思いを抱き歩く。
コンコンという、規則正しい音がする。ナナは、音のする方へと向かった。ホールの隅で、『彼』が働いている。ゼリージュ職人であるアリーだ。
細かくカットしたタイルを組み合わせて、幾何学模様のモザイクを作り出す装飾をゼリージュと呼ぶ。古くからイスラム圏で広く使われていたゼリージュは、その膨大な手間から現在ではほぼモロッコだけに継承されている。
白、黒、青、緑、黄、赤、茶の釉薬を塗って焼いた伝統的なタイルを、360種ほどもあるという決められた形に割っていく。組み合わせるときに、他のタイルとのあいだに隙間が出来ないように、それぞれを完璧な形にしていかなくてはならない。それは氣の遠くなるような作業だ。
アリーは、そうした技術を継承した職人だ。ベルナールの依頼で、この邸宅の装飾を修復するために時おり通ってくる。
ナナが、話をすることが一番多いのが、このアリーだ。掃除を請け負うファティマや、グロッサリーを搬入してくれるハッサンとも定期的に顔を合わすのだが、この2人は英語もフランス語も話さないため話し相手にはならない。
ナナは、パティオの奥に設けられた木陰の読書スペースで本を読んで過ごすことが多い。日本にいたときには積ん読になっていた多くのシリーズものは、この木陰で何回か読破した。
「それは、中国語?」
そう訊かれて、顔を上げたのが、アリーとの最初のコンタクトだった。訛りはあるがフランス語だ。
「いいえ。日本語よ」
「ああ、君は日本人なのか」
「半分ね。でも、東京で生まれ育ったの。読むならフランス語よりも日本語が楽なのよ」
「そう。面白いね。本当に縦に読んでいくんだ。ああ、右から左に進むんだね」
「そうよ。アラビア語もそうよね」
「まあね。横方向にだけど」
たわいない話だが、ベルナール以外の人と、ごく普通の会話をするのは久しぶりだった。単語だけでようやく意思疎通をするだけのファティマたち。買い物の時にフランス語が達者な売り子と話すこともあるが、ぼんやりしていると高いものを売りつけられたりスリに狙われたりするので世間話に興じることはほとんどない。
アリーは、それ以来、籠の中の鳥のように暮らすナナにとってこの世界に向けたたった一つの窓のような存在だ。何かを売りつけるためではなく、雇用主として阿るわけでもなく、ただその空間と時間を共有する相手として接してくれる。そんな彼と話す時間を、ナナは心待ちにしている。
それは、不思議な感覚だ。
パリにいたとき、ナナはベルナールとの逢瀬を渇望していた。彼の妻よりも、ずっと彼を愛していると思っていたし、モロッコ行きを決めたときには愛の勝利に酔いしれた。4つ星ホテルの空調の効いた部屋での情交も、このリアドで格別に選んだターコイズ・ブルーの居室での睦みごとも、ベルナールとの強い想いと絆の当然の帰結だと感じていた。
でも、いつの間にかベルナールに1日でも多く滞在してほしいという願いはなくなっていた。嫌いになったわけではないし、離婚するつもりがないことに対して怒っているわけでもない。ただ、彼の存在が、日々どんどんと希薄になっていくだけだ。
ベルナールがやって来て、滞在するとき、ナナは彼を精一杯もてなす。店員が上得意客をもてなすように。覚えたモロッコ風の料理は、ベルナールを満腹にした。赤い部屋、オレンジの部屋、緑の部屋で楼閣に住む娼婦のように、彼を悦ばせた。それは、『アラビアンナイト』の世界に住まわせてくれる主人に対するナナの義務だと感じていた。
そして、彼が去ると、ナナはどこか安堵している。再びひとりに戻ったことに。そして、中庭に響く静かな水音の向こうから聞こえてくるゼリージュ・タイルを作る規則正しい音に、心が震えるのだ。
小さなタイルが組み合わされる。それは単なる装飾やパズルあそびではなく、自然を手本とした幾何学の魔法だ。シンメトリカルに広がる多様性。シンプルと複雑さの絶妙な組み合わせ。そして水の揺らめきや木漏れ日の揺らぎまでが計算され尽くしたかのように美しさを倍増する。
大量生産があたりまえのこの時代においても、ゼリージュのタイルはすべて手作業で作られる。粘土を乾かし、釉薬を塗って焼いたタイルを1つ1つ蚤を使って小さなパーツに切り取っていく。ごく普通のセラミックタイルの300倍もの値段がすることに驚愕する人も多いが、この手作業を目で見たら納得するだろう。
ゼリージュのタイルを使ったインテリアは、パリでは金持ちの贅沢だが、ここモロッコでは1000年以上も受け継がれてきた伝統であり、創造主たる神への讃美と感謝でもある。イスラム世界のほとんどで失われてしまったこの伝統を、モロッコのゼリージュ職人たちは黙々と受け継いできた。
アリーの茶色い手が、なんでもないようにタイルを組み合わせ、それを固定していく。繊細な作業をしているようには見えないのに、出来上がったタイルの組み合わせは完璧だ。それは、自然の造形と似ている。1つ1つは好き勝手に育っているように見えるのに、光景となった時にはすべてのパーツがきちんと収まるべきところに収まり、調和し、美しく、畏敬を呼び起こす。
ナナは、彼が働いているときには黙ってそれを見つめる。息を殺し、身動ぎもせずに、世界のパーツが正しい位置に納まっていくのを待つ。
学生の時、図書館で「千夜一夜物語」の訳文を読んだことがある。后であるシェーラザードが1001夜にわたって夫である暴君に話をすることになったきっかけは、もともとシャフリヤール王の后が奴隷と浮気をしていたからだった。王の后となったのに、浮氣なんかしなければいいのにとその時は単純に思ったけれど、いまならその后たちに少し同情することができる。
ここのように美しい、それとも、もっと煌びやかな王宮に閉じ込められた后は、ハーレムを戯れに巡回する夫君がいつやって来るのかも知らない日々を過ごしていたのではないだろうか。ちょうどナナにとってのベルナールと同じだ。そして、王は自分は自由に複数の女性を楽しみつつ、后が他の男に抱かれているのを見たら憤り、その首をはねた。そして、女性不信から生娘と結婚しては翌日に殺すということを繰り返したのだ。
ナナは、絶えず聞こえている水音と、棕櫚の枝を揺らす風を感じながら、ひたすら働くアリーの手元を見ていた。アリーとの間に、后と奴隷との間に起こったような展開はない。おそらくアリーはナナに対して女性としての興味は持っていないだろう。ナナにしても、この感情をどう捉えるべきなのか、はっきりとした定義はできない。
わかっていることは、今のナナにとって、訪れに心躍るのはもうベルナールではなくなっているという事実だ。
アリーが仕事の合間の休息をとるとき、ナナは淹れたての甘いミントティーを持っていく。銀のティーポットから金彩の施された小さなガラスの器に熱いお茶を注ぐ。このポットの取っ手は素手で持つのは難しい。最初の時に、鍋つかみを持ってきてあたふたしていたら、アリーは笑って代わりに注いでくれた。それ以来、お茶を注ぐのはアリーだ。
そういえば、正しいモロッコ風ミントティーの淹れ方を教えてくれたのもアリーだった。初めて持っていった午後、一口飲んでから黒目がちの瞳をナナに向けた。
「これ、どうやって淹れた?」
ナナはポットを指さして答えた。
「お茶っ葉とミントを入れて、熱湯を注いだの」
アリーは、彼女をキッチンに連れて行った。そして、正しい手順を見せてくれた。
まずポットに茶葉を入れる。1人用ポットなら小さじ2杯。もう少し大きいポットは3杯だ。そこにやかんの熱湯をグラス1杯分だけ注ぎ、すぐにグラスに戻す。かなり濃いお茶だ。
「これはお茶のスピリットだから、あとでまた使う」
そして、浸る程度の熱湯を再びポットに入れるけれど、そのお茶は捨ててしまう。これを2度行う。
「これで苦みを取るんだ」
そして、そこに大量のミント、小さじ大盛り3杯の砂糖、そして、とっておいた「お茶のスピリット」を入れてからお湯を注ぎ、それを中火にかける。そうやってお茶とミントをしっかりと煮出す。
出来上がったお茶の底に砂糖が固まっているように思われたので、スプーンでかき混ぜようとしたら再び笑われた。
「こうするんだよ」
彼は、そのままグラスにお茶を注いだ。少しずつポットを持ち上げ、最終的にはかなり高いところからお茶を注いでいる。そして、グラスに入ったお茶を再びポットに戻す。これを何度も繰り返すことで中の砂糖は均一に混じるらしい。
それ以来、ナナは正しい
添えたデーツをかじりながら、しばらくさまざまなことを話して過ごす。
「日本でもお茶を飲むんだろう?」
「ええ。でも、お砂糖は入れないのよ」
「へえ」
「それに、いいお茶は、60℃ぐらいの温度で淹れて、苦みを出さないようにするの」
同じ植物を使っていても、ミントティーと玉露は、まったく違う飲み物だ。ナナにとって障子と畳のある部屋で居住まいを正して飲む玉露は、もうとても遠い飲み物になってしまった。色鮮やかなゼリージュと中庭の棕櫚や椰子の木、噴水の水音と木漏れ日の中で飲むミントティーこそが、いまのナナの現実そのものだ。
ティーグラスを持つアリーの茶色い手を見ながら、ナナはこの午後が永久に続けばいいのにと願う。共にいたい相手がベルナールでないことに思い至り、心の中で自分を嗤う。
ベルナールにとって『千夜一夜物語』の具現であるリアド。経年で崩れていた細部を修復する魔法をかけに来るアリー。甘言と欺瞞の満ちた華やかな籠の中で王への忠誠を失った后の物語。人の心もまた小さなパーツで織りなされるモザイクだ。
金彩の輝くグラスには今日もまた、なんと名付ければいいのかわからない強烈な甘さと苦さが満ちている。
(初出:2023年5月 書き下ろし)
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