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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012

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Posted by 八少女 夕

【小説】秋深邂逅

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


「scriviamo! 2020」の第十弾、そしてラストの作品です。大海彩洋さんは、『オリキャラオフ会@豪華客船』の作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

 大海彩洋さんの書いてくださった『2019オリキャラオフ会・scrivimo!2020】そして船は行く~方舟のピアニストたち~ 』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。いろいろなことに造詣が深いのは、みなさんご存じだと思いますが、今回はピアノとピアノ曲に関する愛をたっぷりと詰め込んで、「何でもあり」の豪華客船に乗せてくださいました。そもそも主要キャラたちが「そんなふうに集まるのは本編ではないでしょ」な状態に大集合しているのですけれど、加えてお友達のブログのそうそうたるメンバーも乗っちゃっている「オリキャラのオフ会」です。

うちのチャラいピアニストもちゃっかり加わってすごいピアノに触らせていただいているようですが、さすがにこのストーリーに直接絡むのは無理だわ……。うちオフ会参加メンバーはほとんど逃げたした後だしなあ……。

というわけで、単純なオマージュ作品を書いてみました。このお返しの方法は、TOM−Fさんの作品には何回かしたことがありますが、彩洋さんへのお返しでは初めてかも? 

「船旅」「四人の演奏」「一人の女の過去」あたりを踏襲してあります。歴史的事実と「聊斎志異」に出てくるとある怪異譚もちゃっかり絡めてありますが、加えて私の未公開(黒歴史ともいう)作品由来の嘘八百も混在しています。こちらもオリキャラのオフ会と同じくアトラクタBだということで、ご容赦ください。

読む上では関係ありませんが、使ったメインの四人は、先日のエッセイにちらりと語った「黒歴史で抹殺した神仙もの」のキャラクターたちです。つまりワイヤーワークで空飛ぶ仙人だと思っていただいて結構です。今回用意した通名は、ガーネット、翡翠、アクアマリン、紫水晶の中国名で、これは石好きな彩洋さんへのサービス(笑)


「scriviamo! 2020」について
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秋深邂逅
——Special thanks to Oomi Sayo-san


 深まる秋の夜空に大きな月が煌々と輝いていた。出立より荒れ狂う波にひどく悩まされた航海で、このように凪いだ宵は初めてである。紅榴は箜篌くご を抱えて甲板に出た。遠く絹の道の最果てから伝わったとされる竪琴は、紅榴の指先を通し二十三本の弦から妙なる調べを繰り出す。

 紅榴と呼ばれるこの弾き手は、揚州出の高官という触れ込みである。まるで少年のように若く、ひどく赤みの強い髪を髷に結っているために露わになっている首がほっそりとしている。文人でありながら武術もなかなかの腕前である。大使と共に第一船に乗る晁衡大人からの推挙状を持っていたため、この船でも破格の扱いを受けている。なぜ本名ではなく紅榴と呼ばれるのか、また、どこで流暢な日本の言葉を身につけたのか、皆が訊いたが笑みを浮かべるのみで多くを語らなかった。

 蘇州黄泗浦を出て三日、遣唐使船四艘のうち二艘の姿は見えない。が、渡航が上手くいき阿児奈波に着けば消息も知れよう。

 紅榴のつま弾く箜篌の音は、近くを走行するもう一艘に届いているらしい。むせび泣く声がこちらにまで届いてくる。

「おそらく普照どのではないか。鑑真和上を日本にお連れできなかったことを嘆いておられるのだ」
顔を上げると、いつの間に側まで来たのか、翠玉が立っていた。紅榴は、「そうやもしれぬな」と口先だけで笑った。

 十九年の長きにわたり、日本で授戒を行うことのできる高僧を探し、苦労を重ねてきた普照にしてみれば、五度の失敗にもかかわらず、日本へ行こうとしてくれた鑑真を置いて日本へ帰らねばならぬことは耐えがたいに違いない。同じ志を持ち共に辛苦を耐えた栄叡は唐で客死し、鑑真和上と共に日本へと向かおうとした弟子の多くも波間に消えていった。ようやくやって来た遣唐使の船に鑑真を乗せることができたというのに、発覚を怖れた大使藤原清河が一行を降ろしてしまったのだ。

「ご存じないのはお氣の毒だが、あれだけ派手に嘆いてくれれば、清河殿は和上を密かにお連れしていることに氣付くまい。大伴様としてはありがたいのではないか」

 背の高く深緑の装束に身を固めた男は、持っていた縦長の包みを前に置いて紅榴の横に座った。絹の包みを取り去り現れたのは七弦琴だ。黒く漆塗りが施され金銀や螺鈿で装飾されている。

 翠玉と呼ばれるこの男もまた、謎に包まれている。太い眉の下に鋭い光を放つ切れ長の目を持つ剣士で、口髭の下の口元は一文字に結ばれ、長い髪は乱れ一つない。途中でこの船を襲った海賊どもを軽々と撃退したときですら、顔色一つ変えなかった。しかし、武門だけでなく風流にも通じているのか、七弦琴を嗜むらしい。紅榴は、この男と旧知の仲らしく現れた琴に驚きすらも示さなかった。

 二人が静かに演奏を繰り広げるところに現れたのは、二人の僧侶である。老いた一人は手に五絃琵琶を手にしている。

「これは海藍どの。あなたも加わっていただけますか」
翠玉は琴を少し引いて、僧の座る場所を作った。

「このような月夜に、ともにつま弾くことができるのは、願ってもないことでございます。仏のご加護ですな。ところで、こちらにおりますのは、私と同室で過ごしております常白殿です。鑑真和上と共に日本に向かわれるのです。紅榴どのの弾いておられた曲のことをお訊きしたいと仰せでしてな」

 紅榴は眉を上げて、壮年僧の顔を見た。思い詰めているのか、それとも怖ろしい思い出があるのか、わずかに震えている。

「先ほどそなたが弾いていた曲といえば……」
翠玉は、琴をつま弾いた。紅榴は、音色を絡ませながら答えた。
「……紫娘娘が我らに教えた曲だ」

「紫娘娘!」
常白の顔色は一層悪くなった。

「失礼ですが、あなた方は、どこかでその娘娘にお会いになったのですね」
その僧が震えながら訊くと、老僧海藍までがバチを手に合奏に加わった。
「その通り。そして、今そなたもな」

 船倉から誰かが簫笛を奏でながら上がってきた。淡い紫の薄物を纏った女だった。明るい月の光に照らされて、女の白い顔がくっきりと浮かび上がる。この世の者とも到底思えぬ美しさだ。

 演奏をしていた三人は、一様に手を止め、笛を吹く女に拱手礼をした。常白だけは、ガタガタと震えながらその場に立ちすくんでいた。

 女は吹き終えると緩やかに笛を放し、三人に一人一人深く抱拳揖礼をした。
「海藍上人、翠玉真人、そして、我が師、紅榴元君、お久しゅうございます」

「紫娘娘、頭をお上げください。あなたも、日本へと向かうおつもりとは存じ上げませんでした」
海藍が愉快な声で告げた。

「みなさまがこの船に乗られるのを知り、急ぎはせ参じました。お声がけいただけなかったことを、恨みに思いますわ」

 紅榴は箜篌をつま弾いた。
「そなたは泰山にて修行中と聞いた。我らが酔狂、鑑真和上の密航が発覚したときの安全弁の仕事などで邪魔するには忍びなかった」

「まあ。安全弁ですって?」
紫娘娘が大きく目を瞠る。

 翠玉が答えた。
「さよう。皇帝は、高僧鑑真を連れていくなら、道教を広めるのため道士も連れて行けと、難題を押しつけたそうだ。それで大使の清河殿は、皇帝からの正式な許可を得るのを諦めた。大伴古麻呂殿は、晁衡大人と謀り、一度降ろされた鑑真和上と弟子たちを密かにこの第二船に乗せた。それにあたり、我らは用心棒かつ役人に捕まった場合の申し開き用の道士として招聘されたというわけだ。ついでに日本の見学もできるしな」

 紫娘娘は鈴のような笑い声を上げた。
「でしたら尚更、お誘いくださらなくては。私はみなさまと違いかの蜻蛉洲あきつしま を見たことがないのでございます。加えて、この素晴らしき望月の宴に加わらせてくださらないなんて、あんまりですわ」

 そこまで言ってから、いまにも倒れんばかりに震えて立つ壮年僧を見て、艶やかに微笑んだ。
「私、紫石英と申します。どうぞお見知りおきを。……それとも」

 海を一陣の冷たい風が立った。紫娘娘の黒髪と薄絹がゆらりと泳ぎ、それに伴い牡丹の花のような芳香がただよった。
「紫葛巾と名乗った方が、よろしゅうございますか?」

 常白は、地面にひれ伏し叫んだ。
「許してくれぇ! 葛巾、許して……頼む、許してくれ……」 

 紫娘娘は、ひんやりとした眼差しを向けて立っていた。その口元にはうっすらと微笑みすら浮かべている。

 常白は、その顔を仰ぎ見る勇氣もないらしい。
「そなたを置いて逃げたのは、申し訳なかった。皇子さまに嫁ぐ予定の貴人と駆け落ちするなど、とんでもないことをしでかしてしまったと、恐ろしくてならなかったのだ」

 紅榴がおかしそうに口を開く。
「なるほど。娘娘を盗み出したあげく、破れ屋に置き去りにした日本からの進士受験生というのはこの男だったか」

 翠玉が、やはり口元だけで笑いながら琴をかき鳴らした。口を挟むつもりはないようだが、わざわざ唐までやってきた志も果たせず、見捨てた女の怒りを怖れて震える小人に呆れている様子が見て取れた。

「どうか祟らないでくれ。成仏して欲しい。……おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まにはんどま じんばら はらばりたや うん」
固く目を瞑り、真言を唱えて震えている。

 海藍上人は、笑いながら常白の肩をトントンと叩いた。
「心配せずとも良い。このお方は怨霊などではない。ここにいる紅榴どのの弟子にて我らが同志でもある。そなたごときに去られたぐらいで、命を落とすほど弱々しき女子ではない」

「ご上人、その言い様はあんまりでございます。あのとき私は悲しみと飢え苦しみで生きる望みを失っておりました。実際に通りかかった師がお救いくださらなければ、あのまま山中で朽ち果てていたはずでございます」
紫石英は、氷を吹くように告げて、ゆっくりとかつての愛しい男に近づいた。

「仏門に入ったのも、私の菩提を弔うためではありませんのでしょう」
「いや……その……」

「鑑真和上は、ご自身で費用を賄われてまで日本行きを決意しておられた」
海藍は、琵琶をかき鳴らす。

「渡航の禁を破ってまでな。……お側にいれば、日本に戻る機会に恵まれる」
紅榴が箜篌で加わり、翠玉も琴をつま弾きながら答えた。
「進士に受からず遣唐使船で大っぴらに帰国できぬ日本人には、唯一の手立てだろうな。元来望んでいなかった剃髪をしても」

 常白は、もはやきちんと立っていることもできなくて、紫娘娘から離れようとガタガタと震えながら船室の方へと這っていく。彼が退くと、彼女はゆっくりと歩みを進め、その距離はほとんど変わらない。月がゆっくりと歩むのと同じように、青白く浮かび上がった二人は移動していった。

 残った三人は、もう二人を見ることもなく和やかにそれぞれの楽器を構え、再び先ほどの曲を合奏し始めた。

 かつて二人が恋人同士であった唯一の満月に、微笑みながら共に奏でた曲が凪いだ海を渡っていく。もう一つの船で嘆く普照の泣き声と、許しを請う不実な常白のわめき声は、共に闇夜に消えていった。

 悲鳴と何かが階段を転げ落ちる大きな音がして、こちらの船の不快な声はピタリと止まった。船室の奥で、何事が起きたのかバタバタと駆け寄る音がしているが、紫娘娘は興味を失ったかのごとく身を翻し、合奏する三人の元へと戻ってきた。

 三人とも手は休めずに、女の方を見やった。紫娘娘は、ほんのわずかの微笑みを口に浮かべたが、何も言わずに簫笛を構えた。美しい音色が加わり、冴え渡る月は輝きを増したようだった。

 凪いだ地平線の彼方にわずかに黒い影が見える。鑑真和上が熱望した日本への玄関である阿児奈波は、もうさほど遠くないようだった。

(初出:2020年3月 書き下ろし)

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四人が弾いていた楽器は、正倉院に収められている楽器をもとに書いてみました。なお、現在の中国の五絃琵琶はバチを使わずに爪で弾くのですが、唐代はバチを使っていたということなので、その様に書きました。

当時の曲では全くないのですけれど、それぞれの楽器の音色を探しているうちに、この曲はどの楽器でも弾いている人が多いので、勝手に脳内イメージソングにしていました。「绿野仙踪」というのは「オズの魔法使い」って意味だそうです。同じ曲をあれこれ貼り付けても仕方ないので、ここでは笛バージョンを。

琵琶吟 又は《绿野仙踪》
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Category : 小説・紅凰翠龍
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】水上名月

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今日の小説は『12か月の楽器』の9月分です。このシリーズでは、楽器をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今回の選んだのは、月琴です。9月といったら月見の宴かなと思って。とはいえ、平安時代と中国の仙人のコラボ作品なので、若干イレギュラーな感じかも。現在の中国楽器としては月琴Yueqin中阮Zhongruanとは別の楽器として存在しているのですけれど、この時代には現在の中阮に似た阮咸という楽器が別名で月琴と呼ばれていたようです。

とくに読む必要はありませんが、今回の話に出てきた翠玉真人という(ワイヤーで空を飛ぶイメージの)仙人は、以前『秋深邂逅』という作品で書いた人です。


短編小説集『12か月の楽器』をまとめて読む 短編小説集『12か月の楽器』をまとめて読む



水上名月

 弾きはじめに、ためらうごとくに長い間をとった指は、ひとたび弦をかき鳴らすと、えもいわれぬ速さで走る。姉や妹が嗜みとして弾いていた箏や琴の音色は、退屈とは言わぬまでも生氣なく空に消え入るようであったが、今宵の客人の奏でる異国の旋律は、湖水に波をおこし月影を激しく揺らす。

 今宵、父の館では南の池に龍頭鷁首の舟を浮かべ月を愛でているはずだ。藤原中納言といえば、政の中心にいるとは言いがたいが、右大臣にも左大臣にも与することのない局外中立の風流人として争いに巻き込まれることを好まぬ小心の殿上人たちに慕われている。

 三郞良泰は、方違いでひとり山科の館に来ることになったが、父に請われてここに滞在する客人をもてなすことになった。父藤原中納言が、この客人を都の屋敷にではなく山科の別邸に招き入れたのには理由がある。

 この客人は青丹養者なる陰陽家であり、唐人である。陰陽家とは、官吏である陰陽師ではなく、私的需要を満たす技能者である。三郞は、父中納言より客人が異国の陰陽家と耳にして、言葉の通じぬ得体の知れぬ術士の相手などは難しいと慌てたが、実際に逢ってみて杞憂とわかった。言われなければ唐人であるとはわからぬほどこちらの言葉を話し、しかも三郞とさして代わらぬほど若い男であった。

 父中納言が、なにゆえこの男を秘密裏に厚遇して迎え入れているかを、三郞は知らなかった。だが、兄太郎良兼が左大臣の三の姫と右大臣の四の姫と同時に艶事を起こし苦境に立たされた折、奇妙なほど穏当な措置を得たのはこの男の力によるものではないかといわれていることだけは知っていた。

 今宵、客人は珍しく唐風の装いだ。幞頭ぼくとう なる被り物に、雲取文様を織り込んだ錆浅葱の盤領袍を身につけている。つま弾いているのは阮咸とも月琴ともいわれる丸い胴をもつ弦楽器だ。同じように丸い月がそろそろと天空を動き、湖上に冷たい光を投げかけている。

「青丹どの。貴殿がこのように風流なお手前をお持ちとは存じませんでした。これはなんという曲なのでしょうか」
「張九齢の『望月懐遠』につけられた曲のひとつだ。作曲者は知られていないが」
「それはどのような詩でございましょうか」

 客人は、幼子を眺めるような微笑み方をしてから、月を振り仰ぎよく通る声で吟じた。

海上生明月 天涯共此時
情人怨遙夜 竟夕起相思
滅燭憐光満 披衣覚露滋
不堪盈手贈 還寝夢佳期

張九齢『望月懐遠』

(意訳:
煌々と輝く月が海面より昇り、遠く離れた者が同じ月を共に仰ぎ見る
長き夜を恨めしく過ごし、ついには起きて互いに想う
灯を消してわずかな月光を愛でるが、着た衣は夜露に濡れている
月光を盃に満たし贈ることはできない、逢える日を夢見てまた寝よう)



 三郞は、直垂の胸のあたりを握り、水上の月が歪むのを見つめていた。その様子を見て取ると、客人は切れ長の眼をさらに細め、怜悧な表情には似合わぬほどの情感を込めて弦をかき鳴らした。三郎の心は、その音色に誘われ嵯峨の小さな寺に泳いでいた。

 黒方香で板間より天井までもが焚きしめられた小さな仏間。置かれた几帳の隙間より菊花の薫き物が漏れ出して、かの女の衣擦れが三郎を吸い寄せていた。到着するまではあれほど心急かされていたのに、その瞬、この禁を破れば取り返しのつかぬ事になるという予感におののいた。

 だが、几帳の奥にいたその女を引き寄せ、黒く底の見えぬ瞳をのぞき込んだときに、三郎の逡巡は吹き飛び、そのまま朝まで寝乱れてしまった。

 嵯峨の姫が、入内を控える身ということはわかっていた。だがあのたおやかな筆蹟と、心絞られる歌で誘われて三郎の分別は闇夜に紛れてしまった。

 まだ、事は世間には広く知られていない。だが、政争に巻き込まれることを何よりも嫌う父中納言は、今宵三郎を方違いとして寂しき山科の館に押し込めた。

 だが、父の裁決はまことに事を鎮めるのか。むしろ三郎の心に投げやりな思いと、執着の火を解き放っただけではないのか。

 胸元に忍ばせた香袋には、紙に包まれた長い髪が入っている。あの夜に二たびの逢瀬が許されないのならばとお互いに交わしたものだ。

「青丹どの」
三郞は、客人に呼びかけた。
「何か、三郎どの」

「貴殿は、ただの陰陽家ではないと聞いています。私と変わらぬほど若く見えるが、そもそも奈良の都の古より年もとらずにおられるとも。貴殿が玄宗皇帝の頃に我が国に来られたというのはまことですか」

 客人は、是とも否とも言わず、おかしそうに含み笑いをすると月琴を置いて二人の盃を満たした。
「それが貴殿の欲念と何か関わりがありましょうか」

「貴殿は、本当は青丹なる名ではないのでしょう? 唐からいらした異国びとであられることは間違いないのでしょう?」
三郎がなおも食い下がると、客人は口先だけで笑いながら盃を口に運んだ。

「さよう。本来の名は丁少秋と申します。が、かの地でもその名を知るものは少なく、往々にして翠玉と呼ばれました。その意味を知る、この地の誰かが青丹と呼び始めました。そして、晁衡大人に誘われ道を極める乾道として船に乗りこの地に降り立ったことはまことです」

 三郎は、息を呑んだ。晁衡という名が阿倍仲麻呂に唐で与えられた名だということぐらいは、かろうじて知っている。だがそれがまことだとしたら、目の前にいるこの男は少なくとも齢二百五十を越えている。もちろん奈良の都などという馬鹿げた噂に乗じて、陰陽家の経歴に箔をつけんとしているのかもしれぬ。あるいは、くだらぬ問いに益体もない答えで返しただけやもしれぬ。だが……。

「では、貴殿は仙丹を手に入れたのですか、翠玉どの」
身を乗りだして訊く三郎に翠玉は皮肉な笑みを消した。

 そして、再び盃を口に運ぶと静かに答えた。
「ひと粒、服用すれば、不老不死を得て天に昇る丸薬。それを手に入れて手早く仙境に達しようとは、秦の始皇帝以来、多くの権力者の願うところ。それがいまだに達せられておらぬのは、何故とお思いか」

「仙丹など存在しないということですか。それとも、かつての皇帝は不死には値しないということでしょうか」
三郎が問い返すと、翠玉は再び口元をほころばせた。

「さよう。丸薬ひとつでたどり着くような道ではござらぬ。また、権力を握ったままでその境地に達することはできませぬ。道は、手放すことによってのみ見つけられるのですから」

 月は、高く昇っていた。三郎は、池の上に揺らぐ月影をじっと睨んでいたが、やがて翠玉に向き直り口を開いた。
「私には、惜しい物など何もありませぬ。藤原の家は兄上が継ぐでしょうし、私には大した官位も未来の展望もありませぬ。これまで学問も武芸も一心不乱に精進して参りましたが、それが報われることもなさそうです。それどころか、父上らの足を引っ張る厄介者として、月夜の宴にも招かれぬさま。できることなら浮世を離れ、不老不死の仙境にいたりたいものです」

 翠玉は、目を細めて三郎を見た。
「道の道は、世の者がゆく道とは異なる。貴殿が期待するような好ましい状態とは限らぬぞ」

「そのようなことをおっしゃらないでください。この中秋の宵に、貴殿とこうして月を眺めながら酒を酌み交わしていることは、ただの偶然には思えません。不二の身となる機が己の生に再びあるとも思えませぬ。どうか、この私を貴殿の弟子とし、その道をお示しください」

 翠玉は、手を不思議な具合に動かし、そのまま三郎の目のあたりで動かした。

 それと同時に、空は雲で覆われ、池の上の月影は消えて暗闇が広がった。ちゃぽんと魚が飛び跳ねる音がしたと思うと、すぐ目の前を青銀色の鱗が通り過ぎた。なんだこれは。三郎が目をこすると、目の前は水の中にいるようにゆがみ、大きな銀の鯉の背に翠玉がまたがってこちらに手を差し伸べているのが見えた。

 三郎は、これは翠玉の術なのだと理解して、迷わずその手を取り、巨大な鯉の背に、つまり翠玉の後ろにまたがった。

 鯉はぐんぐんと上昇していく。上の方には明るい光が差し込んでおり、ますます上がっていくとそれは大きな丸い月であることがわかった。不思議なことには、水の中にいるというのに、全く息苦しいことはなく、その澄んだ水は遠くまでが見渡せた。下方には京の街並みが広がり、御所や止ん事無き方々の屋敷、尊い寺社や鎮守の森や川がよく見えた。

「おっ母! 見て。竜が飛んでる!」
下方からの声に三郎は驚いた。しがみついている銀の鱗の持ち主を改めて見ると、鯉にしては胴がずっと長くなっており、いつの間にか魚の顔つきが角を持つ竜に変わっている。

「違うでしょう。月にかかる雲がそう見えるのよ」
「じゃあ、あの音は何?」
「さあ。お館で月見の宴をなさっているのでしょう」

 翠玉の奏でる『望月懐遠』の音色は、冷たい銀色の鱗のように京の町に降り注いでいる。青白い竜は、まっすぐに昇り、やがて子供と母親だけでなく、御所も寺社もまとめて小さな黒い塊になり山の合間に縮こまっていった。

「翠玉どの、どちらへ行かれるのですか」
「貴殿が、道を正しく見る事のできる高みに」

 煌々と照らす月光と『望月懐遠』。遠き山の漆黒を見るだに、嵯峨の姫の黒髪を思い起こされ、胸が締め付けられる。胸元をかきむしると、香袋の氣配はしっかりと感じられた。

 竜が近づいていくと、大きく輝かしい月は、大きな山の開口部であることがわかった。黄金のどろどろとした液体がぐつぐつと沸き返っていて煙が上がっている。これまで上に登っていると思っていたのが、山の火口に降りてきていたのだ。

 見れば、その液体の際に浮かび酒盛りをしている人びとが見える。黄丹や深紫の直衣を纏った殿上人のようだ。あり得ぬほどにひどく酔い、盃を投げ合って笑い転げていた。そして、その弾みでひとりの着た深蘇芳の裾が灼熱火に触れた。

 火はあっという間に燃え上がり、叫び声を上げる男を包んだまま灼熱火の中に引きずり込んだ。酒盛りをしている仲間らは、それを見てさもおかしそうに笑いながらさらに酒を注ぎ合った。
「これはよい。残った酒と肴は我らのもの。さあ、もっと飲もうぞ」

「なんてことだ。あれほどの尊き方々が、あのように浅ましい為業を」
三郎は、震えながら言った。翠玉は笑った。

 竜は、さらに火口に近づき、あまりの熱さと明るさで三郎は思わず目を伏せて翠玉にしがみついた。
「おやめください。このままでは、私どももあの火に飲まれまする」

 だが、翠玉は動じず、竜も速度を緩めなかった。地獄の灼熱火に包まれたと思った途端、ぐつぐつと煮えかえる音も、殿上人たちの笑い声も消え去り、静かな涼しい風が三郎に触れた。

 恐る恐る顔を上げると、竜は海の上を滑っていた。真下には煌々と輝く月が映し出されている。

「ここは何処なのですか。先ほどまでいた京の都は、そして、あの火の山は……」
三郎が問うと、翠玉は答えた。
「貴殿は今ここにいる。先ほどまでどこにいたのかなどと思い悩む必要はない」

 海原は恐ろしいほどに広く、月影以外はどこまでも続く凪いだ水面だけだった。見慣れた双岡や船岡山が、御所や護国寺の堂々たる緑釉瓦を抱いた屋根が、都のざわめきが、牛車のきしみが、扇を閉じる微かな音が、焚きしめた香の薫りが、全くどこにもなかった。

 唐の盤領袍を着て、聴き慣れぬ旋律にて月琴を奏で、青白い竜にまたがる異邦人以外に頼みになる者がいないことに、三郎は戦慄した。

「道の道は、己を極めるのみ。己以外を頼みにしてはならぬ。長く生きれば、父母や友はもとより、我が子やその子すらも年老いて先に鬼籍に入ろう。身につけし衣冠は擦りきれ、屋敷田畑は狐狸の住処となる。それを怖れるならば、この道を求めることは叶わぬ」

 三郎は、おのれの直衣を見た。色褪せすり切れて朽ちかけていた。震える手で香袋を取りだし、愛しき嵯峨の姫の髪を見て心を落ち着けようとした。だが、やはりすり切れた香袋の中から現れたのは長い白髪だった。

 悲鳴を上げて香袋を取り落とした。白髪とともに破れた香袋は海へと落ちていった。振り返った道士はわずかに笑った。

 竜は首を下げて海へと突き進んだ。風に飛ばされそうになった三郎は、瞼を固く閉じて翠玉の盤領袍にしがみついた。助けてくれ。どこでもいい、いつものどこかに帰りたい。屋敷でも、詰所でも、牛車の中でも、どこでもいい。

 風がおさまったように感じたので、三郎は恐る恐る瞼を開けた。目の前に、翠玉が向かい合って座っている。彼と三郎は、龍頭鷁首の舟に乗っていた。見回すと、そこは山科の屋敷の池だった。先ほどまで座っていたはずの釣殿には、高坏と蔀が見え、灯明や肴もそのままになっている。

 翠玉は何事もなかったのごとく『望月懐遠』を奏でている。三郎は、懐に手を当てた。香袋はそこにあった。直衣も香袋もすり切れてはおらず、すべてが三郎の慣れたこの世のものであった。

「私は……」
「道の道は、貴殿の考えているようなものではなかったであろう」

 三郎は大きくため息をついた。
「不老不死の道を究めれば、殿上人も私を尊び、父も私を認め、そして姫との縁も道が開けると思っておりました」

 翠玉は、それ以上何も言わなかった。だが、三郎には彼の言いたいことがわかった。この世の栄華を求めている者の進む道ではないのだと。

 舟は静かに釣殿へと向かった。満ちた月は池の上を青白く照らしていた。

(初出:2022年9月 書き下ろし)

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曲そのものは、作品と関係ないのですが、月琴の形と唐の装束がわかる動画があったので貼り付けておきます。

【古琴Guqin笛阮鼓】《天龙八部》印象曲·段誉篇| Chinese music‘Adventure of Dali Prince’〖琴笛阮鼓〗宋代装束复原Dress in Song Dynasty
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Category : 小説・紅凰翠龍
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】仙女の弟子と八宝茶

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


今日の小説は、「scriviamo! 2023」の第7弾です。津路 志士朗さんは、オリジナル掌編で参加してくださいました。ありがとうございます!

志士朗さんが書いてくださった「女神の登場はアールグレイの香りと共に。」

志士朗さんは、オリジナル小説と庭とご家族との微笑ましい日々を綴られる創作系ブロガーさんです。代表作の『エミオ神社の子獅子さん』がつい先日完結したばかりです。派生した郵便屋さんのシリーズで何度かあそばせていただいていますよね。

今回書いてくださった作品は、スーパーダーリンならぬスーパーハニーをテーマにしたハードボイルド。とても楽しい作品で一氣に読んでしまいました。

お返しですが、あちらの作品には絡めそうもないので、全く別の作品を書いてみました。テーマは志士朗さんの作品同様スーパーハニーです。ただし、中国のお話、お茶ももちろん中国のもの。下敷きにした怪談は「聊斎志異」からとってあります。


「scriviamo! 2023」について
「scriviamo! 2023」の作品を全部読む
「scriviamo! 2022」の作品を全部読む
「scriviamo! 2021」の作品を全部読む
「scriviamo! 2020」の作品を全部読む
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む

【参考】
今回の作品とは直接関係はないのですが、今回登場した紅榴を含む空飛ぶ仙人たちの登場する話はこちらです。
秋深邂逅
水上名月




仙女の弟子と八宝茶
——Special thanks to Shishiro-san


 朱洪然は福健のある村に住む若者で、童試の準備をしているが、後ろ盾もなく、また際だった頭脳もないため受かる見込みはない。妻の陳昭花は家事、畑仕事に加えて、近所の道士の手伝いまでして朱を支えていた。

 いつものように朱が昼から酒などを飲みながら、桃の花を眺めて唸っていた。
「桃の灼灼たる其の華……」

 陳氏は部屋をきれいに拭きながらその声を耳にしたので、通り過ぎるときに訂正した。
「桃の夭夭たる 灼灼たり其の華 之の子于き帰ぐ 其の室家に宜し」

 それを聞くと、朱は顔を真っ赤にして怒り、盃を投げ捨てると「こんな邪魔の入るところで勉強はできない」と叫び、出て行ってしまった。妻の陳氏の方が優秀だという近所の噂に苛ついていたからである。

 田舎ゆえ、近所に知られずに昼から酒などを嗜める店はない。やむを得ず、どこかで茶でも飲もうと道をずんずんと進んだ。

 しばらく行くと村のはずれにこれまで見かけなかった茶屋があった。新しい幟がはためいているが、誰も入っていないようだ。朱は中を覗いた。

「おいでなさいませ」
出てきたのは、皺だらけの老婆で、あけすけなニヤニヤ笑いをしている。

「ここは茶屋か。何か飲ませろ」
横柄に朱が命じると、婆はもみ手をしてから茶を持ってきた。

 それは、水の出入りのない沼のようなドロドロの黒緑色をしており、生臭い。朱は、茶碗を投げ捨てると、つばを吐きかけて地団駄を踏んだ。
「こんなひどい茶が飲めるか。なんのつもりだ!」

 婆が、茶碗を拾ってブツブツ言っていると、奥から衣擦れがして女が出てきた。立ち去りかけていた朱は、思わず立ち止まってそちらを見た。

 それは沈魚落雁または閉月羞花とはかくやと思われる美女だった。烏の濡れ羽のような漆黒の髪を長くたなびかせ、すらりとした優雅な柳腰をくねらせて茶を運んできた。

「このお茶をお飲みになりませんか。とても喉が渇いているんでしょう? あたくしが、手ずから飲ませてさし上げましてよ」

 婆の持ってきた茶とほとんど変わらないものだったにもかかわらず、朱は女に飲ませてもらえるのが嬉しくて、座って頷いた。

「この茶は水莽草すいぼうそうのお茶なんです。お勉強に明け暮れている貴方なら、何のお茶かわかりますわよね」
女は嬉しそうに笑うと、なんのことかわからないでいる朱の口にまずくて苦い茶を流し込んだ。

 女は、代金も取らずに朱を送り出した。ぼうっとしたまま家に戻った朱は、玄関でそのまま倒れてしまった。

老公あなた、いかがなさいましたか」
妻の陳氏が、あわてて出てきた。

「なんだかわからんが、水莽茶とやらを飲んでから、具合が悪い」
そういうと、そのまま息を引き取ってしまった。

 陳氏は、朱と違い水莽草が何を意味するのか知っていたので驚いた。

 この毒草を食べて死ぬと水莽鬼という幽霊になってしまい、他の水莽鬼が現れないと成仏できない。それで、水莽鬼は生きている人に水莽草を食べさせようと手を尽くすのである。

 陳氏は、急ぎ夫の亡骸を寝かせると、鬼にならないように御札を貼り、急ぎ馴染みの道士の元に急いだ。

「どうした、小昭花」
慌てて入ってきた陳氏を見て、道士は訊いた。

 かなり赤みの強い髪をしたこの人物は、数年前からこの庵に住み修行をしていることになっている。身の回りの世話に通う陳昭花の他には付き合いもないので知られていないが、実は単なる道士ではなく天仙女である。

「紅榴師、どうぞお助けくださいませ。夫が水莽鬼にされてしまいます」

 紅榴は、片眉を上げた。
「村はずれの水莽鬼に化かされたのか。お前のような立派な妻がいるのに、全くなっていないな、あの者は。もう、見限ってもよいのではないか」

「そうおっしゃいますが、それでもわが夫でございます。なんとかお助けいただけないでしょうか」
昭花は床に額をこすりつけて願った。

「しかたない。あの男を助けてやりたいとはみじんも思わぬが、お前が氣の毒ゆえ助けてやろう」

 そう告げると紅榴は陳昭花に墨書きの札をいくつか授けた。深く抱拳揖礼をしてから札を受け取った昭花は、そのまま夫の元に戻ろうと戸口を出ようとした。

「待ちなさい。これも持っていくとよい。あちらが茶で人を取り込むのならば、こちらも茶で対抗せねばな」
紅榴は、笑うと最新の愛弟子に包みを授けた。

* * *


 陳昭花が家に戻ると、そこは瘴氣で満ちていた。見ると家の中には夫の亡骸だけではなく、老婆と若い女の幽鬼がいる。殺した男を水莽鬼に変えようと長い爪で朱の亡骸の上を引っ掻いていた。

 見れば、昭花が貼った鬼除け札はほとんど剥がされている。紫の顔をした夫も、胸をかきむしり御札を剥がそうとしていた。

「悪鬼ども。わが夫より離れよ」
昭花は剣を構え、鬼女たちに斬りかかる。

「こざかしい女め。人間の分際で我らに敵うと思うのか」
老女は、白髪を逆立て、血走った目に蛇のような舌をちらつかせて長い爪で昭花の喉を切り裂こうと飛びかかってきた。

 昭花は、紅榴元君の元で何年も修行しただけあり、軽々とそれを避けて後ろに飛び上がった。

 師が授けた封印の札を投げつけると、それは若い鬼女の口を塞ぎ、瘴氣が漏れてこなくなった。瘴氣は鬼女自身にも仇をなす毒を持つらしく、若い鬼女の動きが止まった。

 昭花は、老女にも御札を投げつけたが、こちらは長い爪でビリビリに裂いてしまった。老婆は高らかに笑うと、昭花に向かって飛びかかってきた。

「ぎぇ!」
瞬時に振り下ろされた昭花の剣が鬼婆の長い爪を切り取った。それこそがこの幽鬼の瘴氣の源であったので、瞬く間に老婆は干からびて、干し魚に変化して床に落ちた、

「おのれ、母上に何をする!」
ようやく御札を取り去って自由になった若い美女だった鬼が、姿を変えた。漆黒の髪は束になって持ち上がり、それぞれが毒蛇に変わった。口は耳まで広がり、獣のような牙がいくつも剥き出しになった。

 見るも恐ろしい鬼女だったが、昭花は臆さずに剣を構え、襲いかかってくる毒蛇を一匹ずつ切り落としていった。

 最後の蛇が落ちると、鬼女も断末魔のうめきをあげながら足下に倒れ、そのまま薄氣味悪い染みを残して消え去った。

 昭花が夫を見ると、紫色の顔をした水莽鬼として蘇った朱は、ガタガタと震えながら妻を見ていた。

老公あなた、これでもこの女の方がよろしゅうございますか」
昭花が訊くと、朱は首を横に何度も振った。

「美しい女だと思ったのに、あんなバケモノはごめんだ。助けてくれ。そんな物騒なもので、俺を斬らないでくれ」

「さようでございますか。では、私の淹れるお茶を飲んでくださいますか」
昭花は、水莽鬼としての瘴氣すら醸し出せぬ夫に詰め寄った。

「先ほどの茶みたいな、まずいものは飲みたくない」
朱はうそぶいた。

 夫の言い分には全く耳を貸さず、昭花は紅榴にもらった包みを開けて中の茶をとりだした。湯の中に入れると、それは白い菊のような花、龍眼、クコの実のほか、貴重な薬草を惜しげなく使った八宝茶だった。

 昭花に助けられて、その茶を飲んだ朱は、激しい咳をした。そして、水莽草の塊が口から飛び出してきた。蛇のように蠢くそれを、昭花は剣ですかさず斬った。

 しばらくすると、朱の顔色は普通の肌色に戻ってきて、そのまま彼は失神してしまった。直に大きないびきをかきだしたので、昭花には夫が人として息を吹き返したことがわかった。

 悪鬼どもの屍体や水莽草の残骸を片付け、部屋を浄めていると、どこからともなく紅榴が入って来た。

 大いびきをかいて寝ている朱を呆れたように眺めると、ため息をついていった。
「小昭花。そろそろこの男に愛想を尽かしてもいいのではないか。妾は間もなく泰山に戻る心づもりだ。そなたが望むなら連れて行くぞ。向こうで心ゆくまで修行して化仙するとよい」

 昭花は、師の言葉を噛みしめていたが、やがて言った。
「たいへん心惹かれるお言葉ですが、今しばらく夫に従うつもりでございます。また次にこのようなことがございましたら、その時は私も人としての契に縁がなかったと諦め、修行に励みたいと存じます」

 紅榴は頷いた。
「ならばしかたない。では、次にこの男が問題を起こしたら、潔く捨てて妾のもとに来るのだぞ。お前には見どころがあるからな」

 そのことがあってから数ヶ月は、朱が柄にもなく試験の準備に心を入れたと噂になった。だが、その後、酒に酔って村長の妻に言い寄ったためにひどく打ち据えられてから牢に入れられた。

 朱が半年後に牢から出てきたときには、家に妻の陳氏はいなかった。きれいに浄められた家には女が住んでいた痕跡は残っていなかった。朱の物を持ちだした様子はなく、金目のものも一切なくなっていなかった。

 卓の上には、いま淹れたばかりのような熱い八宝茶があった。陳氏の行方を知るものはいない。

(初出:2023年3月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

【小説】瑶池蟠桃

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

「scriviamo!」は終わっていないのですが、今日の小説は、植物をテーマに小さなストーリーを散りばめていく『12か月の植物』の3月分です。4月になっちゃったのであわてて。

3月のテーマは『桃』です。

桃源郷という言葉もあるように中国の楽園は西にあって桃の花が咲き乱れているというイメージ。アンズや桃はヒマラヤ原産ともいわれていて、パキスタンにある標高2500mのフンザ地方は現代の桃源郷といわれるほどアンズの栽培が盛んだそうです。しかもここの人たちは長寿で有名で、アンズの種を常食することが健康で長寿の秘訣なのかもといわれています。中国で語り継がれた不老長寿の仙桃伝説はこうした事実と関係があるのかも。

ところで、もともとは黒歴史から借用したこの仙人ものも、もう4作目。そろそろカテゴリー作るべきかしら。


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瑶池蟠桃

 河岸の向こうは、見渡す限り桃の花が咲いており、まるで薄紅色の雲のようだった。

 宋子墨は、丁氏にもらった呪符を確認した。この川にたどり着くまでに6枚を使い果たしており、残りの1枚で勅旨を為し遂げ長安に戻れるだろうかと思った。

 傾城傾国の美女と謳われた李夫人が病に倒れ、帰らぬ人となってから、皇帝は塞ぎ込むようになった。道士に妙薬を作らせ長寿を実現しようとしたが、それを燃やした煙の中に亡き夫人の姿を見てからは、病や死を怖れるようになった。

 西の果てに崑崙山あり。その高みに太妙天紫府化気西華金母元君、つまり西王母として知られる最高位の女仙の住む瑶池があると言われている。

 子墨は、李氏の遠い縁者として官位を得たが、李一族の栄華は心許ない状態にあった。早くに両親を亡くし、叔父の厄介になって育ったので居心地は悪く、一刻も早く出世したいと願っていた。

 共に育った叔父の娘、宋木蘭とは心を通わせていたが、もちろん同じ氏族での恋は許されるはずもなく、娘を皇帝の後宮に送り込もうとしている叔父の逆鱗に触れることがないように忍ぶしかなかった。

 生きて帰れるかもわからない西域崑崙山への旅、あるかどうかもわからぬ不老長寿の妙薬の探索を引き受けたのは、そうした事情があった。

 皇帝の重用する道士たちは、誰ひとりとしてこんな地の果てまで旅したことはなかったし、都中を駆け回って探した名のある道士たちも崑崙山のことは文献でしか見たことがないと言った。

 だが、勅旨を拝受してしまった以上、野獣に襲われようとも西の果てまで行かないわけにはいかなかった。手がかりもないまま、西へと向かったが、天水にたどり着いたとき、宿屋で知り合った不思議な道士がいた。

 まだその時は、立派な旅支度でたくさんの部下もいたので、静かで立派な宿屋に泊まることができていた。それゆえか、子墨の一行の他には、その若い道士しか泊まっておらず、夕食の時に話をする機会があったのだ。

「2月の末までに鄯善に入れば、普段はたどり着けぬ瑶池への道をみつけられるだろう。というのは、蟠桃会を目指してたくさんの神仙たちが集まってくるからだ。仙人たちを追い、満開の桃の花を見つけることができれば、王母娘娘のいる神泉苑は遠くないだろう」

 3月3日は西王母の誕辰であり、この日には神仙が瑶池に集まり蟠桃会を開催するといわれている。

 その不思議な道士は丁と名乗った。そして、子墨が自分の役割を話すべきか迷っている間に、子墨の素性から、勅旨の詳細まですべて言いあてられてしまったのだ。それで、子墨はこの道士は、これまでに会った道士たちとは違い、おそらく神仙であろうと思った。

 丁氏は、子墨の顔を見ながら言った。
「勅旨を捨てて逃げ出せば、そなたを監視している部下らによって命を失うだろう。このまま進めば、そなたの命は助かるが、部下らを失うだろう。そなたがこの旅を終えることができるように、呪符を書いてやろう。部下には見せぬように」

 そして、その言葉通りとなった。武威、酒泉と西に行くに従い、部下たちが1人またひとりと減っていったのだ。ある者は食あたりで残り、ある者は強盗と闘い、またある者は同行者同士の喧嘩で共倒れとなった。そして、楼蘭とも呼ばれる鄯善に着いた時には、彼は身の回りの世話をする下男すらも失い文字通りひとりとなっていた。

 丁氏にもらった呪符は旅のあいだ、何度も彼の命を救った。強盗に襲われて副官が血の海の中で息絶えていたときも、子墨は切れた衣服の下で呪符がすっぱりと切られていただけで済んだし、渡し舟に穴が開いてが転覆しかけたときにも呪符がいつの間にか穴を塞いでいた。6枚の呪符はそのように役割を終えて使い物にならなくなった。

 いま彼は丁氏が話していた満開の桃花の土地に到達しようとしていた。2日ほど前から、彼は空を飛ぶ神仙を幾度も目にした。言われていなければ鳥と見間違えてしまっただろうが、西王母の住む瑶池を探して、常に空を見上げていたので、奇妙なほど同じ方角へと飛ぶ影を見逃さなかった。

 その方角は、まるで死の砂漠とそれに続く恐れの渓谷に向かっているようだったので、同じ方向に進もうとする旅人はいなかった。だが、丁氏の言葉を信じて1日進むと、突然水流豊かな川と、その向こうに桃の花が咲き乱れる不思議な土地が目に入ってきたのだ。

 渡し守は物言わぬ老人で、向こう岸に着くまで全く彼を見なかったし、彼が降りるとあっという間に岸を離れた。
「あ……。帰りの舟はいつ……」

 こちらを全く見ずに去って行く渡し守をしばらく見ていたが、あきらめて振り向くと、いつ近づいたのか至近距離に3人が立っていた。真ん中にいるのは赤い服を着て焰のような色の髪をした女で、右にはやたらと頭の長い老人、左の黒鉄の鎧で武装した男が雷のような大声を出した。
「お前は何者で、何の用だ」

 彼は、ひれ伏して勅旨を差し出した。
「長安の都から参りました宋子墨と申します。太妙天紫府化気西華金母元君にわが皇帝へ不老長寿の妙薬を御下賜くださるようお願いに伺いました」

 長旅と途中で起こったいくつもの不愉快な出来事により立派だった箱は壊れ、剥き出しになった勅旨は汚れボロボロになっていた。ごく普通の役人などに見せれば、間違いなく偽物としてうち捨てられてしまうだろう。

 武装した男は、勅旨を受け取ると頭の長い老人に渡した。老人は開いてから頷き、女に向かって恭しく訊いた。
「確かに皇帝劉徹からの書状でございます」

 武装した男が不満げに遮った。
「しかしながら、このような小者を使いに出すなど王母娘娘を軽んじているのではありませぬか」

 老人もそれには同意見らしく、女を顧みた。
「いかがなさいますか、紅榴元君」

 紅榴は、じっと子墨を見つめて言った。
「勅旨だけではないな。強力な呪符も持っている。それに、この者を取り巻いている守護の呪術は、翠玉がかけたものであろう」

 老人ははっとして頷き、子墨の周りをじろじろと見て回った。
「いかにも。翠玉真人ならではですな。最低限の細さと長さなのに、このように隙の無い呪詛返し、久しぶりにこの目で見ましたわい。これを知らずにこの者を襲ったら、さぞひどい目に遭うのでしょうな」

「おい。お前、翠玉真人の知り合いか!」
武装した男が大声を出した。

「わかりませぬ。天水の宿屋で知り合い、これらの呪符をくださった丁氏と名乗られた道士にここまでの道を教えていただきました」
ひれ伏しながら、子墨は考えていた。では、あの丁氏が、皇帝が必死に探していた神仙、翠玉真人だったのかと。

 紅榴はさっと袖を振った。
「通してやれ」

「よろしいのですか。他の日ならともかく、本日は蟠桃会だというのに」
武装した男がまた大きな声を出した。

「翠玉が手助けしたと奏上すれば、王母娘娘もお許しくださるだろう。なんせ翠玉に仙道の手解きをしたのは娘娘なのだから」
「なんと! そうでしたか」
2人はそれを知らなかったようで、驚きかしこまった。

「ただし、神泉苑に入れる前に、もう少しましな格好にさせてやれ」
紅榴は笑った。

 子墨は、土の上に頭をこすりつけた。

 3月3日に開催される蟠桃会については、子墨も聞いたことがある。天界の瑶池に住む西王母は大きな桃園を持っている。そこには、平たく甘い蟠桃が実る3600本の桃の木がある。手前の1200本は3000年に1度熟し、これを食べた者は仙人になれ、中ほどの1200本は6000年に1度熟し、これを食べた者は長生不老が得られ、奥の1200本は9000年に1度熟し、これを食べた者は天地のあらん限り生き永らえるといわれている。

 3月3日には、西王母の誕辰を祝う宴会があり、高貴な神々や神仙たちが集う。7人の女仙が蟠桃園をまわって収穫した貴重な仙桃が客に配られ、共に食すという。もし、その言い伝えが真実ならば、その仙桃をひとつでも持ち帰れば皇帝の命を果たしたことになる。

 子墨は3人に続いて、花盛りの桃の苑を歩いていった。どの木も今が盛りと咲き誇っており、仙桃などは見当たらない。

 山のように仙桃があれば、1つ分けてもらえるのではないかと期待もできるが、人間の住むところと同じように、3月に桃はならないのかもしれない。そう思ってキョロキョロしていると、木々の間をときおり仙女たちが進んでいくのが見えた。そして、その1人が目に入ると子墨は思わず叫んだ。
「木蘭!」

 兄妹のごとく共に育った従妹がかなり離れた木の下で働いており、彼は案内する3人を離れて木蘭のところに向かおうとした。

「そなたは何がしたいのだ、宋子墨」
紅榴が静かに、けれど威厳のある声で彼を止めた。
「王母娘娘に、その勅旨を渡したいのか。許しを得ずに仙桃を盗み出したいのか。それとも、あの見習いと逃げ出したいのか」

 子墨は、立ち止まり振り返った。ずっと黙っていたのに、彼の思っていたことはすべて紅榴にはわかっていたようだ。

「木蘭は、後宮に入ったのだとばかり……」
子墨は、再び少女の方へ顔を向けた。

「そう。そなたの従妹は後宮に送られた。だが、そなたはどうすることもできないと諦めたのではなかったか。手っ取り早く出世をするために、西域の旅を決めたのもそなたであろう」

 その通りだ。彼は恥じて下を向いた。せっかくこの女仙が西王母に会わせてくれるというのに、無為にするわけにはいかない。

 紅榴と2人の随仙は、桃林を通り過ぎ、立派な宮殿に入っていった。奥には見たこともないくらい広い大広間があり、その奥に黄金の衣装を纏った女神が座っていた。紅榴らは跪いた。子墨もあわててそれに倣った。

 紅榴が西王母に語りかけた。
「王母娘娘にご挨拶いたします」
「立ってよろしい」
「感謝します」

「そこに連れてきた人間は誰ですか」
「皇帝劉徹からの書状を持ってきた使者でございます。翠玉真人が手助けをしたようですので、追い返しませんでした」
「なるほど。書状をこちらに」

 勅旨が西王母に手渡され、女神は表情を変えることもなく、それを読んだ。
「老いず、死ぬこともなくなる妙薬がほしいと。それに値すると思っているのであろうか。紅姑、憶えておるか、あれは人間の時で1年ほど前のことであったか、共に長安に行ったのは」

 紅榴は、頷いた。
「はい、娘娘。かの皇帝が7日7晩にわたり道士たちに自らの長寿を願う祈祷を奉じさせたので、休めない道士たちを憐れまれて、降臨なされました。そして、蟠桃を皇帝に授けましたね」

 子墨は驚いた。そんな大がかりな祈祷をさせていたことを知らなかったからだ。だが、よく考えると、子墨が都を出立してからすでに2年が経っていた。
「それでは、皇帝はすでに不老長寿の仙桃を賜ったということですか」

 紅榴は頷いた。
「然り。だが、不老長寿の身になったわけではない」

「なぜでございますか?」
子墨は、さらに驚いた。西王母が自ら出向いて仙桃を賜ったのに、それで不老長寿にならなかったのでは、彼がここに来たことも全くの徒労だろう。

「絢爛たる輿に乗ったり、虎にまたがったりして行ったわけではない。どこにでもいる貧しい老女の装いで近づき、5つの仙桃を与えたのだ」
西王母が笑った。

「そして皇帝劉徹は、それを尊ばなかった。仙桃も傷のあるつまらぬ果実だと判断し、後宮の軽んじられている娘たちに与えてしまった。そなたが、先ほど見た少女もその1人だ」

 紅榴の言葉を聞いて、子墨は地面に両手をつき震えた。
「それでは、木蘭は知らずに化仙してしまったと……」

 紅榴は答えた。
「不老不死になったわけではないが、神通力を身につけた。自らの意思で後宮を抜け出した者、家族の元に戻った者、それから、仙姑としての修行を望んだ者がいる。だが、あの皇帝は目が曇り、仙桃を捨ててしまったことも、後宮の少女たちが消えてしまったことすら氣がついていないのだ」

「それでも勅旨を携え、長い旅に堪えてきたそなたの辛苦を思えば、このまま追い返すは氣の毒。本日は、みなに誕辰を祝ってもらう日、そなたに慶びを分けてやろう」
その西王母の言葉が終わらぬうちに、子墨の目の前に蟠桃が1つ現れた。

「翠玉の目に叶った者ならば、あの皇帝よりはこの蟠桃の価値がわかるであろう。この果実をどう使うかはそなた次第。都に持ち帰り皇帝に献上するもよし、不老長寿の桃として売り大金を手にするもよし、みずから食して仙道に進むもよし」

 思いも掛けない言葉をかけられて、子墨は戸惑った。両手の中に皇帝すら切望する貴重な仙桃がある。それを自らの自由にしていいなどということは考えたことすらなかった。自分に仙人になる可能性があることも1度たりとも考えたことはなかった。

 西王母の前から退出し、紅榴に案内されて再び桃の林を歩いた。仙女はわずかに笑って言った。
「仙道は、険しく難しい。能力に溺れて善行と修行を忘るれば、たやすく闇の底に沈む。身を清く保ち、人の脆さを許し、慈愛の心を持ち続けることではじめて堕ちずに進むことができる。それが難しいと思うならば、楽な方の道を奨めるぞ」

 子墨は、手元の仙桃をじっと見つめた。思っていた輝くような果物ではなく、どこにでもあるような小さな蟠桃だった。このような苦難の旅の末に入手した宝物には全く見えない。誰かに売りつけようとも、市場にある桃の値段以上の金を出す者はいないだろう。

 皇帝に献上しても、そこら辺の市場で買ってきたものだと疑われて、相手にされないか、もしくは詐欺師と糾弾されて命を落とすやもしれぬ。そうでなくても、無事に長安まで戻れる保証すらない。

 下男すらいなくなってしまった今、ひとり長安まで戻ることすら困難に思えた。

 しかし、だからといって安易に仙桃を食べることも空恐ろしく思われる。

 ふと、遠目に見た木蘭のことを思い出した。彼女が仙女となりこの瑶池に住んでいるというならば、僕も……。いや、そんな理由で、仙道に入る者がいるだろうか。紅榴仙姑が言っていたような、厳しい道に進む覚悟は全くないのに。

 いつの間にか彼は先ほどの河岸に立っていた。無口な渡し守が、当たり前のごとくそこに立っている。

 彼は、紅榴の方を向いて頭を下げた。
「ご案内いただきありがとうございました。……どうするか、帰り道に考えてみたいと思います」

 紅榴は、笑って言った。
「それはいい。その桃は人間の時間で30年ほどは腐らないので、じっくりと考えよ」

 舟は河岸を離れた。満開の桃の苑が遠ざかる。子墨は、答えのない問いをひたすら繰り返しながら、澄んだ青空を見つめた。

 不老長寿を願った皇帝劉徹は、後元2年69歳で崩御し孝武皇帝という諱が贈られた。後世には前漢の最大版図を築いた武帝として知られている。

 宋子墨の行方を史書は伝えていない。唐代に海藍上人として名を知られることになった神仙は同じ宋子墨という名であると伝わっているが、同一人物かどうかも不明である。 

(初出:2024年4月 書き下ろし)


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