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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】夜のエッダ

実は、私は古代神話の類いがとても好きです。このお話の元になったのは「バルドルの死」という北欧神話です。もともとの神話とはかなりバルドルの印象が変えてしまってあります。私はみんなに愛される王子様のようなうさんくさいキャラに多少の反感があるのです。



ヴァルハラは光に覆われ、若草の匂いがあたりを満たしていた。いつもは宴にわく宮も今日はひっそりと静まり返っている。時折、フリッグ女神のすすり泣きやオーディン主神の漏らす溜め息、そして多くの神々や戦士が声をひそめて悲しげに語り合うのが聞こえた。ナンナはヴァドゲルミル河の岸辺に座り込み河の流れをうつろに眺めていた。光輝く神バルドルが死んでから一日が経った。バルドルはもう眼を開けない。ヤドリ木の小さな枝に貫かれて、珠の肌から真紅の血筋を滴らせ…。

ナンナは、バルドルの妃のナンナ女神は悲しみと、そして渦巻くほかの複雑な思いの中でヴァドゲルミルの流れに視線を任せていた。つと、魚の影が黒く走った。ナンナは怯えた。そして若草が力強く萌える岸辺の上に倒れ伏した。




オーディンの最愛の息子は光輝く清浄の神バルドルであり、彼はいつもヴァルハラにいて平和で満ち足りた日々を過ごしていたものだったが、最愛の娘はヴァドゲルミルの下流、人間界との接点、つまり戦場に身をおいていた。その名をブリュンヒルドといい、彼女がヴァルハラへ行くのは戦死した勇者をその宮へ送る時、つまりヴァルキューレとしてのつとめを果たす時だけであった。

ヴァルキューレたちはブリュンヒルドを女王と戴き、そして戦場に座る一人の神のもとに集まっていた。その神はオーディンとフリッグの間よりバルドルの双子の片割れとして生まれ出た。名をホズという。世界樹ユグドラシルが根付いてより倒れるまでこれほど似ぬ双子はなかったし、ないであろう。バルドルは光輝く金髪を柔らかに靡かせ、大空のような明るいブルーの瞳と薔薇色の唇を持ち、若い娘たちは彼の永遠の若さと美しさを讚え、恋し止まなかった。

一方、ホズは漆黒のまっすぐで細い髪を持ち、痩せて背は高く、瞼は開じられていた。ホズは生れながらにして物を見る能力を奪われた存在であった。彼は眼で物を見ることがない。だからこそ、運命を司る彼の役目は全うされていた。彼は常に戦場に座り、ヴァルキューレたちを遣わしては、死を迎えた勇士たちを舟に乗せヴァルハラへ送り込ませていた。彼自身は決して自らヴァルハラへ赴くことはなかった。彼はある意味で招かれざる客であったからだ。

ホズは口数の少ない内省的な性格だった。ヴァルキューレ達はほとんど彼と言葉を交わしたことがなかった。が、ブリュンヒルドだけは別だった。この勝ち気で美しいヴァルキューレの女王は沢山いる兄弟の中でもっともこの孤独な兄に親しみをもっていた。生まれたばかりの時からブリュンヒルドはこの兄の側にいたがった。ヴァルハラの神々に敬遠されてここで育つホズのもとに連れられて来た日、彼女はヴァルハラに帰るのを拒否し、それ以来二人でここで成長したのだった。これが、ブリュンヒルドがヴァルキューレとなったきっかけである。

ここには沢山のヴァルキューレ達がいたが、ヴァルキューレとなったきっかけは様々だった。女だてらに武装し戦って死んだためになった者、軍神の娘として生まれた者、それからナンナのように戦場に捨てられていたのを拾われてなった者もいた。ナンナを拾ったのは、ほかならぬブリュンヒルドだった。ナンナにとってブリュンヒルドは文字通り母親がわりだった。そのせいかナンナは他のヴァルキューレ達にくらべてホズのことも親しみをもっていた。

「まあ、雲雀が飛んでいきますわ」
ナンナは無邪気にホズの足許に座り込んで大空を見上げた。一年の半分以上が夜のこの国でやっと訪れる遅い春がナンナの最も好きな季節だった。ホズはかすかに微笑んで耳を澄ました。戦の合間のわずかなひとときだった。

「眩しいわ。フィヨルドに春の陽がキラキラ反射して…。何もかも新しくなる感じですわ」
「冬の間のおまえとは別人のようだな、ナンナ」
「ええ、だってあたし、冬は嫌いですの。寒くて、暗いんですもの」
ホズは雲雀の飛び去った方向へ顔を向けた。ナンナの明るい笑い声が空気に満ち、あたりが柔らかい光に埋まり、ホズの表情も和らいだ。

ブリュンヒルドはそんな二人を見て微笑んだ。ナンナは日に日に美しくなっていった。盲いたホズには、そのことはわからなかったが、ブリュンヒルドはいつの頃からか孤独なホズを慰められる唯一の希望としてナンナを見るようになっていった。

ブリュンヒルドがナンナにそうした期待を持つようになったのにはひとつの理由があった。ブリュンヒルドはヴァルキューレの女王にもはや自らがふさわしくないこと、近くここを追われて去るだろうことを予感していたのだった。

すべてはこのあいだの戦の時に変わってしまったのだった。あの時に会った一人の勇者とブリュンヒルドは一目で恋に落ちた。ブリュンヒルドは初めてホズの紡いだ運命に逆らった。ホズは勇者シグルドをオーディンのもとへ送るつもりだったのだ。だが、ブリュンヒルドはこの美しく逞しく勇敢な青年をすぐに死なせてしまうことが出来なかった。今まで一度だってそんなことはなかったのに。ヴァドゲルミルの舟に乗せる時にすばやくシグルドを列からはずし助けてしまったことは、どう考えてもヴァルキューレの女王の行為としてはふさわしくなかった。たとえまだ誰も気付いていないにしても。

「ナンナ」
ひとり舟に乗り、ブリュンヒルドはナンナを呼んだ。ナンナは無邪気に育て親の言葉に耳を傾けた。ブリュンヒルドは意を決して一気に話した。

「私はこれからヴァルハラヘ行きます。もう帰ってこれないと思うからあなたにお願いするわ。ホズのことを。あの人は私がいなくなったらあなたしか心を開ける人がいないの。私はそのことだけが心残りなの」

ナンナはあまりの驚きに一瞬言葉を失ったが、すぐに我にかえると説明を求めた。
「何故もう帰れないんですか。何があったのですか。ホズ様は知ってるんですか」
「誰もまだ知らないわ。何があったかはすぐにわかるわ。私はもうここにはいられないの。だから、お願いよ、ホズのこと。あなたにしか頼めないんだから」

その間に舟は静かにヴァドゲルミル河を滑りだす。ナンナは必死で追い掛けたが、それがブリュンヒルドの姿を見た最後になってしまった。


オーディンは最愛の娘の行状を烈火の如く怒った。フリッグ女神をはじめ皆が慌ててその怒りを沈めようとしたが、すべて徒労に終わった。オーディンはブリュンヒルドをスカティの森の城に閉じ込めて眠らせた。周りに火を廻らせ本当の勇者でなければそこへ辿り着けないようにしてしまった。

オーディンは、しかし、その勇者こそシグルドであることを知っていた。そのため、シグルドは名馬のグラニや名刀のグラムを手に入れることが出来たのだった。そのままうまくいけぱ、ブリュンヒルドは限りある命の間ではあるが、人間の娘としてあれほど望んだシグルドの妻となることが出来るはずだったのだ。


ヴァルハラでオーディンの意志にすら反して起こる不吉な運命にはいつも一人の神が関係していた。戯れから産まれし者…。巨人と神の血をひく大いなるはみ出し者と人は言う。なぜ神々を憎み禍いを呼ぶのかわからない。だが彼が来ると小さなヴァルハラの住人たちは蜘蛛の子のように散って行く。
「ロキが来た…!」

ロキは不可解だ。神々に禍をなすかと思えば、巨人達に立ち向かう神々の大いなる助け手となる。奸計に長け腰軽く、柔軟にして反逆者。醜い言葉はその口から泉のように湧き出る。

「ロキが来た…!」
バルドルは少し身を固くしながらこの招かれざる客を見た。ロキはバルドルを見ると、その整ってはいるが狡猾そうな顔を歪めて近付いて来た。
「これはこれは美しくも幸運に満ちたバルドル殿!今日は更にご機嫌麗しく!」

バルドルはこの厄介者の傍を早く離れたほうが得策だと知りつつも、尻尾をまいて逃げ出したなどと後で吹聴されるのだけはご免だと考えていた。

「君も元気みたいだね」
「こりや驚いた。世界の中心にいるバルドル殿がこのロキの健康を気遣うとはね。明日はこのヴァルハラに槍の雨が降りまさあ」

「相変らず口が悪いね。少しまともに人づきあいが出来ないのかな」
「人づきあいをおまえさんに指導されたくないね。なんせおまえさんは、あの誰とでも寝る売女のフレイヤに付き纏っていい返事を貰えないそうじやないか」
「驚いたな。何故おまえがそんなことを知っている。それにフレイヤを売女よぱわりするのは聞き捨てならないな。おまえと同じ巨人族出身じゃないか。もっとも比べ物にならないぐらい美しいがな。あれだけの女が人妻なのは惜しいものだ」

「人妻だろうと今までバルドル殿が気にしたことがありましたかね。バルドルに愛されれば女は尻尾を振る。フリッグのお気に入りの息子の行状に口を挟む命知らずはいない。バルドル殿はやりたい放題。まあ、あの唐変木の巨人にはそこらへんの予備知識はないから決闘ぐらいは覚悟するんですな。トールあたりに大袈裟な武器でも借りとくといいんじゃないですかね」
「物騒なことを言うなよ。そんなことを勧めるぐらいなら、もう少しましな提案をしてみろ。うまくあの別嬪との逢引を取りもってくれよ」

「さあねえ。夫もスカタンなら妻の方も顔ほど洗練されてないからね。それよりももっと耳寄りな情報があるんだがね。おまえさんが飛びつきそうなね」
「フレイヤより耳寄りな話があるもんか」

ロキは含み笑いをした。バルドルは背中に魚が走ったようにゾッとした。誰もがこんなロキの顔を見たことがある訳ではなかった。その時バルドルは、ロキの奸計にのせられて自滅した多くのヴァルハラの住人のことを思い出した。だが、バルドルは自分は他の誰とも違うと思い直した。天下のバルドルともあろう者が、チャンスを前にロキ如きを恐れて思うがままにならないなんて、どうして我慢ができよう!

「聞こうじやないか。それでおまえの条件は何なんだ」
「そうして俺の条件を訊いてしまったからには、もう後戻りはできないんだよ、バルドル」
「ああ、いいとも。何でも言ってみろ。そのかわりフレイヤとの逢引よりもつまらないことだったらおまえの首をへし折ってやる」

ロキはゆっくりと息を吸ってから左手をさしだした。バルドルは不審げに覗き込みおもわず息を飲んだ。ロキの左手の中には割れた鏡の破片があり、そこにはフレイヤに瓜二つの美女がほほえんでいた。バルドルにもそれがフレイヤではないことはすぐにわかった。フレイヤならば、そんなはにかんだ微笑みを見せるはずはなかったからだ。

「これは誰だ…」
「お気に召したかね」
「誰かと聞いてるんだ」
「これこそ真の美の女神、フレイヤ、あの売女のいかにも無垢な双子の妹だ」
「まさか。フレイヤに双子の妹が?」

「双子は不吉。その昔このロキ様に双子の片割れを戦場に捨ててくるように命じた神がいた。歴史は廻るもの、再び同じことを命じたのは今度はこのロキ様の親族の巨人様だった。だからこのロキ様はただ捨てるのではなく、不幸の種になるように同じ場所に捨ててきたのさ。そして乙女は知られる事なく美しく育ち、時は満ちた。さてロキがこんな情報を流すのを、まさか好意だとは思うまいね」
「もちろんだとも。何が目的だ」

「ひとつは、これからもちだす交換条件。もうひとつはあの売女が地団駄ふむ顔が見たいから」
「いいだろう。条件を言え。女の居所を教えてくれたら適えてやる」
「おまえの捕われの妹のブリュンヒルドをある王子が欲しがっている。運命をまげてその望みを適えてやるのだ」
「なっ…!」

バルドルの想像していた条件よりはるかに重大な交換条件だった。確かにオーディンの怒りを受けてヴァルハラからの永久追放を受けるこんな裏切りをやり果せるのは溺愛されているバルドルをおいて他にはいなかった。それを思った時、バルドルは優位に立ったと感じ、ロキヘの警戒をといた。このロキにだってバルドル様のご機嫌を取りながらお願いしなくてはいけないことがあるのか!

「ふん。なんとかしてやろう。じやあ女の居所を教えてもらおうか」
「名前はナンナ。おまえが大っ嫌いな兄の所にいるよ」

ロキは残念ながら、バルドルが思っているよりもすっと邪悪な計画を練っていたのだった。だが、幸運といえるのか、バルドルは最後までそのことに気付くことはなかった。ただ、ロキが思いも寄らず彼の兄ホズのことを口にした時、ふと、恐怖が彼の心に溢れた。バルドルはそれを幼少時の恐ろしい体験、思い出したくもない悪夢のせいだと思った。

たった一回、バルドルはホズに会った事がある。母の反対を恐れこっそりと戦場に来てみた幼い神はそこではじめて皆に打ち捨てられた兄に会った。双子だということが信じられない程自分とは異なった外見をしていたが、ブリュンヒルドが傍に座っていたためにすぐにわかった。ブリュンヒルドが惹かれた訳も同時にわかった。孤独な少年神は、バルドルがまだ子供時代の幸せを満喫していたのと同じ年月しか生きていなかったにも関らず、既に老人の心をもっていた。しかも、それでいながら体のまわりにみなぎる緊張とエネルギー、深い思慮、諦めとそれに対抗する竜のような黒い想いを絡ませ、それを沈黙というもっとも難しい表現方法で表すことのできる不思議な子供だった。

バルドルは子供らしい残酷さで彼に近付き、しなくてもいい事をいくつも彼の兄にした。ホズよりもブリュンヒルドがバルドルにくってかかり、ホズはむしろ憤る小さな妹を止めるのに必死にならなくてはならなかった。バルドルはついに真剣に腹をたて言ってはならない兄の肉体的欠陥に触れた。
「おまえのその見えない目が腐っているか見てやらあ。澄ました瞼を開けてみろ!」

そして、その日以来、バルドルは少しは用心深くなり、その証拠に念願の乙女の居場所を聞いて身震いした。七十匹の龍に守られた城に居ると言われてもこれほどの警戒はしなかったであろう。だが、結局はバルドルは生来の無鉄砲さを矯正する事などできない性質だった。そしてそれが愛すべきバルドルの魅力を更に増していたこともまた事実だった!


スカティの城で炎の林の中に眠っているブリュンヒルドは夢を見ていた。ブリュンヒルドは暗闇の中を走っていた。松明を掲げまっすぐに。だれも走り続けるブリュンヒルドを止めることができない。愛しいシグルドの手が触れ、見知らぬ男の手も触れたが、彼女は止まらなかった。それからニヤニヤと笑うロキの前を通り過ぎ、父のオーディンの見つめる前も彼女は行き過ぎた。そして静かなさざ波の音が聞こえてきた時、ふいにブリュンヒルドはこれが夢で、かつて自分が実際に見た事の再現だと気がついた。
(いったいどこで…?)

だが、それはちょうど目が覚める一時の鮮明な夢の記憶。ブリュンヒルドは、急に展開していく「人間の姫」としての短くも忙しい人生の幕開けに忙殺され、記憶を辿る暇をもたなかった。

開いた瞼の向こうにいたのは、誰でもないシグルドだった。シグルドの頬は紅潮し、ブリュンヒルドをみつめる眸には熱い想いがたぎっていた。それは燃えさかるまわりの炎だけのせいではなかった。ブリュンヒルドは、自分の恋の勝利に酔いしれた。自分もまた同じ眸を恋人に向けて。

ブリュンヒルドは熱いシグルドの腕にしっかりと包まれて城を出た。微かな記憶の中で知っている美しい馬が、城の外で待っていた。シグルドは、この天からの授かりもののグラニが自分以外の人間にこんなに親しげに近付くのを初めて見たので、驚くと同時に、自分が得た姫の尊さを更に強く実感した。それゆえ、名刀のグラムや名馬グラニと同じぐらい神聖で大切なこの姫を、その場で抱き締めて壊してしまいそうなほどの激情で想っていながらも、正式な婚礼を前に自分のものにすることを戒めた。

シグルドの国に着くまでには半月以上の旅が必要だった。毎晩、同じ天幕の同じ褥に横たわるブリュンヒルドの臈長けてしなやかな姿に、そしてシグルドを想うブリュンビルドの激しく本能的な苦しみに、シグルドは気も狂わんばかりの誘惑を感じたが、辛うじて、鞘から抜いて眩いばかりの光を放つグラムを二人の間に置くことによって耐え続けた。


「あれを見るがよい。あれがシグルドだ。ブリュンヒルドと生きるためには命すら惜しまぬ勇士。我々が手を貸そうとしているグンナルなど足許にも及ばぬ。さて、バルドル殿はどうやってあの二人を引き離し、約束を果たしてくれるのかな」

ロキは冷たく笑った。バルドルは、ただグンナルを美しく見せるといった簡単なことで事が運ぶはずもないのを見て取った。まもなく二人はグンナルの城へ到達する。なんとしてもここで二人を別れさせ、グンナルに約束の妻を与えねばならなかった。
「シグルドを殺してしまったらどうだろう」

バルドルの提案をロキははなから馬鹿にした。
「おまえさんは妹が人間になったからといって性格が変わるとでも言うのかね。厄介なのはあの女の誇り高くも強い性格なんだという事がどうして分からないのかねえ。ブリュンヒルドはシグルドが死んだらただ自害するだけさ」
「おまえの言う通りだな。さて、どうするか」

「もっと残酷な手を考えないとだめだ。ブリュンヒルドがグンナルと結婚するとしたら、彼女の強い意志で、そうさな、復響に燃えてでもしてもらうのだな」
「なんだって」
「シグルドヘの復讐ならぱするだろう?」
「シグルドの裏切りか。おまえらしい卑怯な手口だな、ロキ」
「手を下すのはおまえさんだよ、バルドル殿」

「いいだろう。シグルドが妹を裏切るようにしてみよう。どちらにしても今のあの男はブリュンヒルドを裏切るぐらいならオーディンにすら立ち向かいそうなほどに妹にいかれている。ちょうど私がナンナに夢中なように(だから、このバルドルの想いの方を私が優先しても悪いことはあるまい)。てっとり早いのは、妹の存在を一瞬でもこの男が忘れてしまえばいいのだ。そして、その前に美しい姫を差し出す。シグルドは、その姫と結婚してしまう」
「おあつらえ向きにだね、バルドル殿。ちょうどいい姫がいる。グンナルの妹で噂に高く誇り高い美女だ。名前は、グドルーン」
「では、この作戦はきっとうまくいく。なんせ忘却はこの私の得意技だ」


シグルドはグンナルの城につき、城主に一夜の宿を求めた。グンナルは、夢にまで見た美女がシグルドの後ろから顔を出したのを見て、何が何でも策略を成功させたいと願った。いささか身分にふさわしくない陰謀ではあったがそんな事はもはや少しも気にならなかった。シグルドとブリュンヒルドは何も知らすに運命の城に入った。
ロキはグンナルの母親に姿を変えて、バルドルの作った忘却の薬のたっぷり入った酒を寛ぐシグルドのもとに運んでいった。

「わざわざ恐れ入ります」
「お疲れが十分に癒えるよう、薬草を処方しております。どうぞ苦くとも一気にお飲み干しくださいませ」
そして、ロキはシグルドが薬を飲みほすのを確認すると満足して出て行った。

それから不思議なことがおこった。どういう訳かシグルドはブリュンヒルドに恋したこと、彼女を手に入れ自らの妻にしようとしたことをすっかりと忘れてしまった。シグルドはグンナルのためにかわりにブリュンヒルドを火の中から救い出し、そしてグンナルに渡したと思うようになってしまったのであった。そして、グドルーンと恋に落ち、あっという間に婚約をしてしまった。

ブリュンヒルドの方はなぜこの城に来てから、シグルドが一度も自分に会いに来てくれないのか、そして一夜の宿のはずがいつまでここに足止めされるのだろうと訝っていた。すると信じられないことにグンナルの妹グドルーンとシグルドが婚礼をあげるという話が聞こえてきた。

「そんな馬鹿なことがあるものか。あの人が一生を誓ったのはこの私。私は信じないわ。これは何かの誑かしに違いないもの」
ブリュンヒルドは部屋の扉を閉ざし、毎日求婚に来るグンナルに会おうともしなかった。

そうこうするうちに、シグルドとグドルーンの婚礼の夜になった。ブリュンヒルドは客人として上座に座らされ、朝からの盛大な祝いを青ざめて見ていた。花婿と何度か顔をあわせたが、あれほど自分を愛しているという確信のあった以前のシグルドとはうってかわり、ブリュンヒルドに対して挨拶する彼の表情からは、敬意以上の何かを感じることはできなかった。
(そんなはずはないわ。これは何かの間違いよ)

婚礼の宴がお開きになり、花嫁と花婿が新床をともにする時間になっても、ブリュンヒルドはひとりつぶやき統けた。涙を飲み込みながら、自室の冷たい褥で幾度も寝返りをうつうちに、ふいに部屋の外に誰かいることに気付いた。ブリュンヒルドはシグルドだと思った。あの婚礼はまやかしだったのだ。そして、彼はやはり私のものだったのだと。扉を開けるとそこには、シグルドの姿をした者が立っていた。ブリュンビルドはすぐに彼を部屋へ招き入れ、一夜を共にした。


朝になれば、術が解けてグンナルは元の姿に戻るだろう。すべてが首尾よくいったのを見届けて、バルドルは安心してナンナを口説くため戦場へ行った。灰色の戦場が薔薇色になるとはこの事だ。

はじめてナンナを見た時のバルドルもそうだったが、ナンナも、バルドルの様に美しい姿を見た事がなく、しかも、その神々しい人が自分に微笑みながら話しかけてきたので驚きたじろいで、どうしていいのかわからず、それでも今までの世界とすべてが変わってしまった。
(あんな方がこの世界にいらしたなんて…!)

バルドルの名を開いた時、ナンナは更に驚いた。
(あの方がバルドルさま!ヴァルハラで一番尊くて皆に愛されているという、あのバルドルさま。ああそうよ。どうしてすぐにわからなかったのかしら。私がこんなにもあの方の事ばかり考えるようになってしまう前にどうして身分違いを諦められる様に、バルドルさまと気付けなかったのかしら)

「ナンナ。このごろ何かを想い悩んでいるね」
はっとして意識を戻すと、ナンナはいつものようにホズの足許に座っていたのだった。ホズの言葉は優しく暖かかったが、いくら無邪気なナンナでもこれぱかりはホズに相談するという訳にはいかなかった。

バルドルは何度もナンナの元にやって来た。そのたびにナンナはこの戦場に春が訪れ始めるあの心地良さを味わった。バルドルなしで今まで生きてこられたことが不思議でならなかった。そして、その想いが強ければ強いほど、ホズに対する後ろめたさも色濃くなっていくのであった。

「僕には妃がいない。今までそんな事を考えたこともなかった」
バルドルはナンナに話しかけた。ナンナは不安げにバルドルをみつめた。なんて美しいのだろう。なんとしてでも妻として貰いたい。

「君しか考えられないんだ。ヴァルハラに来て僕と暮らしてほしい」
ナンナの頬は紅潮し、幸せとそれからその後に押し寄せてきた複雑な想いが交錯し、しばらくは何も言えなかった。半時ほど経ってやっと言った。

「わたし、あなた様の妻になれるほどの者でもないし、それにここを離れるわけにも…」
「何を言っているんだ、僕と結婚するのがいやなのか?」
ナンナは激しく頭を振った。大粒の涙が白い頬を伝わった。

「ヴァルキューレの代わりなんていくらでもいる。僕の妻になってほしいのは君だけだ。問題があるなら教えてくれ。僕がなんとかする」
「ブリュンヒルド様に頼まれたんです。ホズ様の傍にいるようにって」
「ブリュンヒルド…!ホズ!」

バルドルは慄然とした。バルドルはホズを恐れていた。徹底的にホズの側に立つブリュンヒルドに忌々しさを感じていた。だからといって仮にも妹をあんな風に苦しめていいはずがないことも心の隅で知っていた。いま図らずもナンナの口から出た二人の名前にバルドルは逆上した。

「ホズの傍になんかいてはいけない!あいつの恐ろしさを君は知らないんだ!」
「恐ろしくなんかないですわ。人づきあいは苦手ですけれど、優しくていい方ですわ」
「君はわかっていない。どうしてもわかりたければ教えてやる。あいつに頼んでみろ。目を見せてくれってね。そうすれば君は二度とあいつのもとで暮らす気になんかならないだろうから」
ナンナはバルドルが何を言っているのかわからなかった。


「いやああああ!!!!」
錯乱したナンナをホズはなんとか宥めようとした。

ホズは瞼を開けて目を見せてくれと言うナンナの申し出に乗り気でなかった。子供の頃バルドルを激しく恐れさせた何かをナンナもまた見るのではないかと思ったからだった。

ホズにはわからなかった。母親に自分を捨てさせ、皆に疎まれる何が自分の目にあるのか。だが、ナンナはきかなかった。ナンナがここのところ変わってしまった事をホズは寂しく感じていた。だが、ナンナは生き生きとし、幸せそうで、ホズはナンナの願いを適えてやりたかった。できる事なら何であれ。

しかし、ナンナもまた、バルドルと同じ反応を見せ、ふらつき、怯え、激しく身を捩るとホズの腕から逃げ出した。

「いやああああ。助けて!いや!近よらないで!」
ホズはもうナンナに触れる事ができなかった。こんな風に拒絶されて、他に何ができるだろうか。ナンナは駆け出し、その先に待つバルドルの胸に駆け込んだ。


ヴァルハラで空前の婚礼の宴が催されている間、ヴァドゲルミルの下流に一人座っているホズの前を小さな舟が通った。その舟にのっていたのは、死出の装束に胸を血に染めたブリュンヒルドだった。

「ホズ…。黄泉へ行く前に一度あなたに会いたかった」
「何故おまえが死出の旅に…?」
「私は、裏切られ謀られたの。愛する人の腕で死んでもいいとまで思ったのに、目が覚めた時にいたのはあの人ではなかった。わたしはグンナルの妻にならなくてはならなかった。それでも心の隅にシグルドを持つ事に苦しんでいたある日、グドルーンからグンナルとシグルドの二人にだまされていたことを知らされた。だから私は復響のために夫を峻してシグルドを殺させたけれど、私にも恥はあるし、シグルドのいない世界に生き延びるほど未練もない。自ら命を断ちました。

でも死んでから私が誰だったのか思い出したの。わたしはオーディンの娘、あなたの妹ブリュンヒルド。それで気がついたの。父は私を罰するためにこんな苛酷な運命を用意するような人ではないわ。何かの悪意を持つ誰かが運命をねじ曲げたのよ。

私はあなたが心配だった。無事なあなたを見る事が出来てうれしいけれど、あなたは寂しそうだわ。ヴァルハラは随分と騒がしいみたいだし、何かあったの?」

ホズはブリュンヒルドのいない間に起こった事を簡単に話した。
「ナンナは、それきり戻らなかった。ナンナに何かをして欲しかったわけではない。ただ、傍にいてくれる事が慰めだった。息づかいを感じ、あの笑い声を聞き、静かに話をして一日が過ぎていく、当り前の日々がただ続いて欲しかっただけだ。ナンナは一体何を見たのだろう。あんなに頑固なまでに望んだ私の瞼の奥に何を見て恐れたのだろうか」

ホズはブリュンヒルドに向けて瞼を開いた。彼の妹がその深淵を見たのは二度目だった。ブリュンヒルドは、はじめから恐れたりはしなかった。ホズは他の人々のように瞼の向こうに眼を持っていなかった。ただ、深く深い暗闇が、永遠ともいえる深淵がその窓の向こうに続いているのだった。

「あの子には耐えられなかったのよ。この深い闇の中で孤独に向き合う事に。バルドルもそうだった。誰ひとりこの世でこの闇から逃れることはできないのに」

「おまえには何が見える、ブリュンヒルド」
「わたしは私自身を見たわ」

スカティの森の城で見た最後の夢を思い出しながらブリュンヒルドは言った。
「暗闇の中を自分の松明だけを掲げて一人で走っていく自分の姿を見たわ。シグルドもグンナルも父もロキでさえも影響することはできても私を止めることはできなかった。私自身を動かしていたのは私ひとりだった。そして、これから私は黄泉の国でシグルドをつかまえる。もう二度と離れないつもり。それでよかったのだと思っているわ。あなたの事は心残りだけれど、でも、あなたがいなくなったら、運命がきちんと紡ぎだされなくなってしまうもの。あなたを連れては行けないわ」

「自分自身を知ることもできない私の紡きだす運命など、むしろなくなっていってしまえばいい。規則や決まり事に縛られることなく、大きな混沌の中の複雑な絡み合いの中で導き出される自然の成り行きこそが、本当の運命というものなのではないのか」

「それでも、混沌があなたを飲み込むまでは、あなたは仕事を続けなくてはならないのだわ。私はシグルドを救うことで運命の流れを変えたつもりだったけれど、結局シグルドをこの手に掛けた。これもすべて紡がれた運命の流れに沿った事なのかもしれないわ」

ゆっくりとブリュンヒルドの舟は岸を離れていった。声は小さくなり、さざ波の音だけしか聞えなくなり、ホズはまた自分の持つ暗闇と同じ孤独の中に一人残された。誰もいなかった。


バルドルは幸せになったつもりでも、そうではなかった。ナンナはいつも怯えていた。ブリュンヒルドの死が伝えられた。ロキは姿を見せなかった。これほどまでにヴァルハラは平和で皆がバルドルとナンナの結婚を祝ったが、バルドルの気分は沈んでいた。母のフリッグ女神が、沈んでいるバルドルの様子を見兼ねて訊いても、バルドルは本当の悩みを口にすることはできなかった。

(俺には妹を永遠の黄泉の国に送り込む気持ちなんか、本当にこれっぽっちもなかったのに!)
「どう考えてもおかしいですよ。バルドル。悩みがあるならば、どうかこの母に教えておくれ」
「それは…」

バルドルは、嫌々ながら作り話をした。自分が殺されて死んでしまう夢を見て心が晴れないのだと。夢なんか気にするなどいう軽い返事を期待して。しかし、フリッグはこの夢を重大な示唆だと考えて早速このことはヴァルハラ中の一大事件となってしまった。

「全ての火、水、鉄及びあらゆる金属、石、大地、樹、病気、獣、鳥、毒、蛇にバルドルには指一本触れない事を誓わせよう」

フリッグの言葉の通り、万物は誓い、バルドルに対し決して害を加える事ができなくなった。それでもまだ沈んでいるバルドルを慰めるため、ヴァルハラの住人は誰からともなく、何にも傷付かないバルドルに対して切りつけたり、射かけたり、石を投げたりする遊びが行なわれた。バルドルは怪我ひとつ負うことはなかった。

「ほら、ご覧。推もおまえを殺したりはできないんだよ。みんなから誓いを取り付けたんだからね」
フリッグがさも嬉しそうに言った時、それを間いていた見慣れぬ女がそっと言った。

「本当に全てのものから誓いを取り付ける事なんてできたのですか」
「ああ、そうだよ。そういえば、ヴァルハラの西に生えてたヤドリ木だけはあまりに若くてその必要もなかったから誓いはとってないけどね」

そういってフリッグもまたバルドルの的あてゲームに興じだした。女は、素早くその場を離れるとロキの姿に戻り、早速そのヤドリ木を引っこ抜きに行った。それからその若木を丁寧に削って小さな小さな矢を作った。


「何故おまえさんは、ヴァルハラの楽しい遊びに加わらないのかい」
ロキはヴァドゲルミルの岸辺にひとり座るホズに近付いた。ホズはロキの方に顔を向けたが、黙っていた。
「ヴァルハラでは、バルドル殿の不死を祝って大騒ぎだ。誰もその妹が人間として不運の死を遂げたことに気もとめずにね」

「バルドルがブリュンヒルドの死に関ったわけではあるまい」
「おやおや。運命を司るホズ殿のご意見とも思えないね。バルドル殿は関係してるとも。花嫁を手に入れる為に妹をグンナル如きに売ってしまったんだから。だけど、そんな事はもはや何の助けにもなるまいね。万物はバルドルを傷付けない。もうあの神を裁く事はできないんだから」

「おまえの言う通りだ、ロキ。バルドルは幸せに生きていけぱいい」
「だからおまえさんもこんなところで想いにふけっていないで、遊びに加わったらどうかね」
「私は、ヴァルハラでは歓迎されないし、投げるものも何もない。第一、何かを投げようにもバルドルが見えないよ」

「このロキですら加われる遊びなのに、兄のおまえが加わらないなんて!バルドルへの敬意を示したまえよ、ホズ。投げるものなんか何でもいいんだ」

ロキはホズをヴァルハラへ案内すると、先程の矢を持たせて言った。
「いいか、こっちの方向だ。そうそう、いいぞ」

ヴァルハラは神々の笑い声に満ちていた。冗談を言いつつ遊びを楽しむバルドルの若く張りのある声。フリッグの弾んだ喜びの声。ホズは、ブリュンヒルドの事を思った。ナンナの笑い声の事を思い出した。そして、一瞬だけ、はじめてバルドルの事を憎いと思った。そして、小さなヤドリ木の矢がバルドルの心臓めがけてホズの手を離れた時、暗闇の中を混沌が自分めがけて覆いかぶさって来るのを感じた。




ナンナはヴァドゲルミル河の岸辺に座り込み、河の流れをうつろに眺めていた。バルドルがホズの投げた矢に一瞬にして命を奪われ、ロキが高笑いして逃げ去り、そしてホズも又、バルドル殺しの犯人として生を奪われてしまった今、ナンナの世界は何ひとつなくなってしまった。つと、魚の影が黒く走った。ナンナはその黒さにホズの目の奥にあった独りぼっちの自分を思い出した。あの時、崩れそうな自分を抱き締めて支えてくれたバルドルは、もはやいなかった。ブリュンヒルドもホズも。そして自分で産み出してしまった孤独に耐えられずに、ナンナは倒れ伏して二度と起きる事はなかった。ナンナもまた混沌に食われてしまったのだった。

(初出 :1996年8月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 神話系お題

Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち あらすじと登場人物

「大道芸人たち」は、2012年にこのブログでメインとして連載した長編小説です。スピンオフやコラボなどで、よく登場するので「なにそれ?」と興味を持たれる方があるかと思います。これから読んでみようと思われる方のために、いくつかのまとめ読みの形態をご用意しています。

このブログではじめからまとめて読む
FC2小説で読む
縦書きPDFで読む(scribe ergo sum: anex)



大道芸人たち Artistas callejeros

【あらすじ】
コルシカからイタリアへ渡るフェリーの中で、レネはフルートを奏でる美しい東洋人に出会う。声を掛けようとした時に先を越したのは、以前に会った事のある大道芸人。偶然にも二人の日本人は同じ音楽大学のクラスメイトだった。一人でいるよりも、一緒の方が便利なので、蝶子と稔、レネ、そしてミラノで出会ったヴィルの四人は一緒に大道芸をしながら旅をする事にする。

【登場人物】
◆四条蝶子(お蝶、パピヨン、マリポーサ、シュメッタリング)
 日本人、フルート奏者。ミュンヘンに留学していたが、エッシェンドルフ教授から逃げ出してきた。
◆安田稔 (ヤス)
 日本人、三味線およびギター奏者。数年前より失踪したままヨーロッパで大道芸人をしている。
◆レネ・ロウレンヴィル(ブラン・ベック)
 フランス人、手品師。パリで失業と失恋をし、傷心の旅に出た。
◆アーデルベルト・W・フォン・エッシェンドルフ(ヴィル、テデスコ)
 ドイツ人、演劇青年で、もとフルート奏者。父親の支配を嫌って失踪する。偶然逢った蝶子に自分の正体を知らせずに同行する。
◆カルロス・マリア・ガブリエル・コルタド(カルちゃん、ギョロ目、イダルゴ)
 裕福なスペイン人の実業家。蝶子に惚れ込んで四人を援助している。
◆ハインリヒ・R・フォン・エッシェンドルフ男爵(エッシェンドルフ教授、カイザー髭)
 ドイツ人、蝶子の恩師で元婚約者。アーデルベルトの父親。

参考:絵師様用 オリジナル小説のキャラ設定 「大道芸人たち」編
この小説のイラストを描いてくださる奇特な絵師様が参考にするためのキャラクター設定をまとめたものです。本編を読まなくても描けるように若干のネタバレが含まれています。お氣をつけ下さい。

【関連地図】
大道芸人たち第一部関連地図
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

魅力のこと。外側と、中身と

WEBサイト制作で一番大切なのは、見かけではなくて魅力的なコンテンツだとよくいわれる。どんなにかっこいいページを作っても、中身がなかったり、全然更新しないと、直にお客さんは来てくれなくなるってこと。

とはいえ、あまりに見かけが稚拙だと、どんなに中身が立派でも相手にしてもらえないのも事実。

結局、外見と中身のバランスがとても大切だってことなんだと思う。

小説も、人に読んでもらおうとすると、バランスに氣を配らなくてはいけない。言いたい事や、共感ポイントがある事はとても大切。何を伝えようとしているのか、もしくは、「ああ、こういう感情、わかる」と思ってもらえる何かが含まれていなくてはならないと思う。たとえちょっとでも。

その一方で、文章が読みやすいかとか、登場人物やストーリーに魅力があるかっていうのも外せないポイントだと思う。

ブログの小説は、読者もシビアだ。お金を出して買った本なら、少なくとも最後まで読もうとしてくれるだろうし、そうしたら「ずっとつまらなかったけれど、最後の一章ではまりました」みたいな逆転ホームランだってあるだろう。でも、ブログだと、一度面白くなかったら、もしくは退屈だったら、すぐに去られてしまう。そんな氣がする。誰だって、無限に時間があるわけではないし。

アクセス数の増加が目的になってしまうのは本末転倒だけれど、公開している以上、ただの自己満足でも意味がないと思う。高校生ぐらいならそれでも許されるけれど、これだけ長く書いていて、それはないだろうと自分でも思う。口コミでアクセス数が増えるくらい、魅力的な小説を生み出すのが目標。まだまだ精進する事はいっぱいある。
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Category : もの書きブログテーマ

Posted by 八少女 夕

毎日、訪問者リストを見て、どんな方が来てくださったのかチェックするんだけれど、みんなどこから私のブログを知るんだろう?
コミュニティで「小説アップしました」を書いた時には、それだなと思っていたんだけれど、まったく違うジャンルの方が?あれれ?小説を更新していた時より多い。
それと同時に、新着記事へ更新を知らせるっていうチェックをつけているけれど、どこに出るのかさっぱりわからない。それらしいところに、リンクが出ていた試しはない。

でも、来ていただけで嬉しいです。できるだけ定期的に更新しますので、またどうぞお越し下さい。
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Posted by 八少女 夕

棲み分け

ブログを開始してから、とりあえず二つのコミュニティに参加した。どっちも小説系。このブログはそういう趣旨で始めたから。

で、一応、「海外在住者」系のコミュニティも覗いたりしたのだけれど、結局参加しなかった。
海外生活に興味のある人は、オリジナル小説にはあまり興味がないだろうし、海外生活の情報をここで交換したいわけではないから。(でも、質問などのある方は、どうぞご遠慮なく。それも私の一部だし)

中にはネットの窓口はブログ一つしかないという方もいるだろうけれど、今は、ツイッターがあったり、SNSがあったり、個人のホームページもある。それぞれで同じ事を書くのは煩雑だから、適度に棲み分けているのだと思う。

小説に関係のない事は一切書かないわけではないけれど(トラックバックテーマとか書いているし)、基本はもの書きの私に興味を持ってくれた人が訪れてくれるような、そういうブログでありたいなと思っている。
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Posted by 八少女 夕

トラックバックテーマ 第1396回「お風呂は何分くらい入ってる?」

長いです。30分間は浸かっています。前は、イタリア語をお風呂の中で学習していたんだけれど、今はオリジナル小説の推敲をしています。

こんにちは!FC2ブログトラックバックテーマ担当の木村です今日のテーマは「お風呂は何分くらい入ってる?」です。寒い季節にサイコーにホッとできるひと時、お風呂タイム!あまり好きじゃない人もいるかもしれませんが��...
FC2 トラックバックテーマ:「お風呂は何分くらい入ってる?」



ま、お風呂の中でやんなくてもいいんでしょうけれど、毎日必ずとれるリラックスタイムなので、「これをやろう」ということに使えるんですよね。あと、同居人に邪魔されないし。

推敲はiPhoneに入れたePub形式をiBookで読みながらハイライトをつけていきます。イタリア語をやっていた時には、リンガフォンのテキストを読んでいましたっけ。

そういう日課が終わる頃には、すっかりふやけています。それからおもむろに、お風呂に入る本来の目的である体洗いなどをはじめるのです。たぶん、毛穴も開いているだろうというところで、きっと汚れも落ちやすくなっているのではないかしら。
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Posted by 八少女 夕

そろそろ…

ブログをはじめてそろそろ二週間。

最初は、用語もわからないし、何をどうしていいのかもわからなくてウロウロ。でも、せっかく小説専用のブログを立ち上げたんだからと、作品をアップして、コミュニティにもこわごわ書き込んだ。
連載を五日続けてしたら、毎日来てくださった方もいた。

で、毎日、その方たちのブログを訪問して、名前を見ただけで、どういうジャンルのブログで何を書いていらっしゃるのかもわかるようになり、親しみもわいてきたのだけれど…。

お近づきになる方法、もしくは、心地よい距離の取り方がわからない…。

相互リンクとかブロともには、早すぎるんだろうと思う。そういうのって、突然頼むのは失礼ですよね?とはいえ、メッセージ?「何この人?」と思われるかな?
でも、何もしなかったら、また、面識のない知らない人で縁がなくなっちゃうのかもなあ…。

ネット世代の人間じゃないもので、戸惑っています。
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Posted by 八少女 夕

トラックバックテーマ 第1395回「最近控えていること」

ベーコン…。ずっと食べていないなあ。

こんにちは!FC2ブログトラックバックテーマ担当藤本です今日のテーマは「最近控えていること」です。最近何かを控えてますか?なんでも食べすぎ、やりすぎはよくないっていいますよね私は最近お菓子をかなり控えてますなんとなくで控えていたのですがなかなか肌がよみがえってきたのを感じるととても嬉しくなりますにきびとかも減ってやっぱりお菓子もほどほどにしなくちゃ。。という気になりましたダイエットであったり、禁酒...
トラックバックテーマ 第1395回「最近控えていること」



同居人どのが、関節炎でして、「豚肉は控えるように」と言われたんですよね。
以前は常備していたベーコンを買わなくなってすでに二年くらい経つかなあ。たまに、脂身のぎっとりしたベーコンが食べたくなるんですよねぇ。カルボーナーラとか、アマトリチャーナとか、ベーコンないと「なんだかなあ」なパスタって多いんですよね。
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Posted by 八少女 夕

5000字

去年の終わり頃から、小説を書く時には各章を5000字で収めるようにしてる。短編も5000字以内で完結。

これには訳がある。友人に誘われて投稿を始めたのだが、そこの字数制限が5000字なのだ。

それまでは、自分の好きな物を好きに書きまくっていたので、5000字ってどのくらい?というのもわかっていなかった。エディタのScrivernerでは、字数を確認しながら書けるので、やってみたら「ええっ?まだ書き始めたばかりなのに、もう700字?」と困惑しまくり。

でも、やっているうちに収まるようになってきた。

SC2小説に登録して、このブログで公開した小説をあっちにも保存したのだけれど、あそこは区切りが2000字…。もっと短い。むりやり三分割して載せたけれど、読まされる方から考えると、5000字でも長過ぎるんだろうか。

これから連載しようとしている、長編小説、半端じゃなく長いんだけれど、どうしよう…。あまり長いとブログだと、読みにくいからSC2小説の方だけにしようかしら。目下悩んでいます。
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Posted by 八少女 夕

【小説】夢から醒めるための子守唄 (5)

連載の最終回です。五日間おつき合いくださいまして、ありがとうございました。カンポ・ルドゥンツ村の話は、今後もちょくちょく載せる予定です。また読みにきてください。




夢から醒めるための子守唄(ララバイ) - 5. 樹氷の朝

「あ~あ。せっかく急いで帰ってきたのに」
レーナはため息をついた。トミーは有機食料品店をレーナに任せて帰ろうとしていたが、荷物を詰める手を止めてこちらを向いた。
「何よ。あたし達はさっさと帰ってこいとも、すぐに出勤しろとも言わなかったでしょ」

「そういう意味じゃないわ。ホルヘよ」
トミーはにやりとして憂鬱そうなレーナの横に腰掛けた。
「何が問題なのよ」
「会いたかったとか、寂しかったとか、全然ないんだもの」

レーナはクリスマス・イヴの午後から車でハンガリーの母親の元に出かけた。例年はレーナは正月まで母親の元に滞在するのだが、ホルヘがアンドラには戻らずクリスマスの時期を一人で過ごすと知って、いても立ってもいられなかったのだ。ハンガリーに行かないことも考えたが、母親が一人で待っていることを思うと、とにかく行く他はなかった。それで、二十六日にはもう戻ってきたのだ。

「そんなに心配することはなかったのよ。うちのバーはね。訳あってクリスマスを一人で過ごす連中が谷中から集まってくるのよ。ホルヘだって毎年ここで楽しんでいるんだから」
トミーは楽しそうにレーナを挑発した。レーナはことさら肩を落とした。
「私は、たった二日離れていただけでも、死ぬほど寂しかったのになあ。やっぱり、私の片想いなのかなあ」
「何を言ってんのよ。もう同棲してひと月になるってのに」
「一緒に住んでいるカップルっていうより、ただの共同生活みたいなのよねぇ」

トミーは驚いて目を見開いた。
「まさか、あんたたち、浄い関係っていうの?」
「そういうわけではないけれど…」
「じゃあ、何が問題なのよ」
「愛しているとか、私がいなくちゃ生きていけないとか、そういう情熱が皆無なの。私、同情されているんじゃないかなあ。振り向いてくれないって、泣いちゃったし」

トミーは、悲しそうにけれども手は休めずに棚の整理をしていくレーナを頼もしそうに眺めた。
「あんたって、ホルヘの言っていた通りのお馬鹿さんね。陳腐な期待ばっかりして」
「トミーもそう思う?だからホルヘも呆れちゃうのかなあ」
「ラテンの男だからって、常に愛していると連呼するってもんじゃないのよ。あんたは面白くていい子だからいいことを教えてあげるわ」

レーナは振り向いて戸口に立つトミーの優しい笑顔を見た。
「ホルヘね。あんたがハンガリーに向かった夜、ずっとうわの空で五分おきに携帯を見ていたのよ。あんたが無事についたってメッセージを送ってくるまでね。あんたはもう少し男を観察する訓練が必要ね」
トミーが手を振って出て行った後、レーナは飛び上がって店中を駆け回った。もう少しで入ってきた老婦人とぶつかる所だった。


レーナは秋以来、ホルヘの所に泊まる頻度が増えたので引っ越しを考えていると伝えた。二人のフラットはカンポ・ルドゥンツ村でも反対側の端に在り二キロは離れていた。レーナの方が村の中心地に近かったが日当りは悪かった。ホルヘのフラットは村はずれに在ったが工房や『dangerous liaison』、そして二人が出会ったサービスエリアに近く、冬でも必ず日が当たった。

「何も他にフラットを借り直すことはないだろう。ここに住めばいい」
ホルヘの言葉にレーナは大喜びした。前のフラットの契約解除は三ヶ月後だったので、レーナは一度には引っ越さずに、徐々に荷物を運び込んでいた。そもそもホルヘのフラットはまったく整理がされておらず、二人で休みの日に片付けをしては場所を作らないとレーナの荷物を入れる場所がなかったのだ。

先週の日曜日は寝室の引き出しを一緒に整理した。
「これは?」
大量の女物のストッキングと洋服の共布だった。リタの物に違いない。ホルヘは捨てろと言った。いいのかなと思いつつ、まとめてゴミ袋につっこんでいると引き出しの一番後ろからビロード張の細長い箱が出てきた。開けてみると見事な真珠のちりばめられた腕時計だった。
「これは、捨てられないわ。ハイディガー夫人に私が返して来る?」
レーナはホルヘに腕時計を見せた。ホルヘは黙って受け取り、それを自分の靴下の入っている引き出しに無造作に突っ込んだ。

ここ数ヶ月でホルヘとリタの関係に変化が起きているのをレーナは感じ取っていた。リタは頻繁に『dangerous liaison』に来るようになった。そして鉢合わせしてもホルヘは逃げ出さなくなっていた。リタは艶やかで美しかった。リタが現われると店の男性客達は一斉に振り向き、物欲しそうな顔になった。リタはホルヘにことさら好意的な笑顔を見せた。二人の目が合うと見えない火花が散っているようにレーナには感じられた。その時には自分の存在は完全にホルヘの中から消えていると思った。リタは長くはいなかった。いつも迎えに来るラルフ・ハイディガーと一緒に去っていく。最後に必ず振り向きホルヘの目を見る。ホルヘは出て行く二人から目をそらし、必ず強い酒を注文した。


金曜日、レーナが出勤前にシャワーを遣おうとした時、工房に行く支度をしているホルヘは短く言った。
「今日は遅くなるから、食事はいらない。待たずに寝ていろ」

レーナは誰かと友人と会うのだろうと思って頷いた。シャワーから出て髪を拭いている時に、ドアの外でホルヘが電話で話しているのが聞こえた。
「それと、真珠の腕時計が出てきたんだが。…わかった、持っていく」
リタだ。ホルヘはリタに会うんだ。レーナは、ホルヘが出て行くまで洗面所のドアの向こうに隠れていた。その後、電話の通話番号履歴を電話帳と照らし合わせてハイディガー医師の自宅であることを確認して、ショックで泣いた。


きしみながら樹氷の育つ寒い夜、ホルヘは一人で『dangerous liaison』に向かった。店にはステッフィ一人しかいなかったので忙しそうだった。

「レーナはどうしたんだ?」
「具合が悪そうだったから帰した」
トミーならばもう少し詳しい情報が得られるのだが、ステッフィ相手ではそうはいかない。朝はそんな様子ではなかったのに、どうしたんだろう。

「正確に言うと、体の具合じゃなくて、悩みがあるみたいだった」
ステッフィが付け加えてレーナが食べるはずだったサンドイッチをポンとホルヘの前に出した。
「持って帰っていいか」
ホルヘはそういって立ち上がった。


フラットに戻ると、部屋は暗くレーナはもうベッドに入っていた。いくら何でもまだ早すぎる。ホルヘはサンドイッチを食卓に放り出すと寝室に入っていった。

「具合が悪いのか」
ホルヘが訊くとレーナは首を振った。

「あっちのフラットの契約解除するのやめようかな」
「なぜ」
「…。好きだから押し掛けたけど、ホルヘには迷惑だったんだよね」

ホルヘは女の勘の鋭さを見直した。レーナは具体的なことは何も言わなかった。ホルヘは彼女が知っていることを感じた。今日リタに会ったことも、リタに対するこの八年間の未練も。

「迷惑なんかじゃない」
ホルヘは服を脱ぐとベッドに入った。いつもの体臭と木の香りの他にほのかに香水が薫る。レーナは何も言わずに涙を流した。熱くなっていく躯と逆に心の奥に冷たい氷柱が育っていく。冬の冷氣はマイナス十℃を下回るともはや冷たいとは感じなくなる。それは痛みになる。そういう冷たさだった。今の二人は布一つにすら隔てられていないが、それは何の救いにもならない。

どうしようもなくリタに惹かれるホルヘを責めることはできない。それは自分自身を否定することになる。人を愛することは意見や理論では止められない。ホルヘが破滅へと向かうほどに愛した女なのだ。どうやって止められるというのだろう。

情熱の嵐は過ぎ去り、レーナの涙も乾いた。静かにベッドに横たわり、ホルヘはそっと言った。
「エレーナ。お前が出て行きたいなら俺には止めることはできない。だが、もう少し後にしてくれないか」

レーナは不思議そうにサイドランプに浮かび上がるホルヘの顔を見た。
「永遠にとは言わない。ほんの少しでいいんだ。俺が何かを変えれば、お前は残ってくれるのか」

レーナの思ってもいなかった言葉だった。歓びが溢れて来る。彼女はホルヘの胸に顔を埋めて言った。
「何も変えなくていい。そのままのあなたが好きだから」

彼はレーナの髪をゆっくりと梳きながら言った。
「俺は夢を見続けてきた。眠り、目が覚めると、今日も大切な女が側にいるという夢だ。一つの夢は醒めた。ようやくもう一つの夢を見ることができるようになったから。まだひと月じゃないか。まだ醒めるには早すぎる」
「じゃあ、よく眠れるように、私が子守唄を歌ってあげる」

レーナは、夏のサービスエリアのカフェでした『バードランドの子守唄』の話題を思い出していた。理想の恋人に出会えたら、二人でニューヨークに行ってジャズバー『バードランド』に行く。レーナの幼稚な夢ものがたり。季節はめぐり、ニューヨークはもう必要なくなった。


リタは寝室の大きな窓から冬の冷氣で瞬く谷の灯を眺めていた。カンポ・ルドゥンツ村のかつての我が家はあの光のどこかにある。ラシェンナ村でも有数の豪邸で高価な調度に囲まれシルクのガウンに包まれていても襲ってくる敗北感をどうすることもできなかった。ホルヘが再び自分を愛するためにここへ来てくれることを、どれほど待ち焦がれていたかリタははじめて知った。

ようやくやってきたホルヘが望んだのはリタ自身ではなく書類への署名だった。彼の望むサインを済ませた後、彼をこの寝室に誘うのは難しいことではなかった。リタはホルヘの好みを知り尽くしていたのであらかじめ身に付けたシルクの下着姿になり彼の理性を奪うとその服を一つずつ脱がせていった。彼はかつてのようにゆっくりとリタに触れた。八年ぶりの情熱が戻ってきたように二人は絡みあった。が、彼は突然彼女から離れると服を着た。

「どうしたの。ラルフは今日は帰ってこないわよ」
リタはホルヘの背中に絡み付いたが、彼は頭を振った。
「すまない。俺にはできない」
「なぜ」
「あいつが泣く姿が浮かぶんだ」
それだけ言って、ホルヘは出て行った。

リタはそのホルヘの背中を思い浮かべながら谷の灯を眺めていた。自分が信じていたものはどこにもなくなってしまった。リタは左腕の傷痕をゆっくりと撫でた。これが罰なのだとずっと信じていた。そうではなかった。もっと苦しい罰が待っていたのだ。私はホルヘの愛を失ってしまった。狂った永遠の愛。確実に手にしていた何よりも大切な歓びを、この豊かで満ち足りた物質的な暮らしと引き換えに捨ててしまったのだ。リタはむせび泣いた。


「あれ?買ったばかりの砂糖がない」
レーナは戸棚を覗き込んだ。

「すまない、工房に持っていったんだ」
ホルヘは皿をテーブルに揃えて答えた。土曜日の朝は二人ともゆっくりと朝食をとる。

「あら、そう。今日、ちょうど買い物に行くから大丈夫」
「サリスブリュッケに行くのか?」
「そうよ。何か用事がある?」
「これを書留で出してほしいんだ」
「わかったわ。カンポ・ルドゥンツの郵便局は土曜日は休みだものね。あれ、アンドラ?」
レーナはその表書きをひっくり返した。

「八年前に出すべきだった書類だ。離婚届だよ」
レーナは飛び上がった。ホルヘはコーヒーを二人のカップに注いだ。
「まだ成立していなかったの?」
「スイスで成立したさ。アンドラに届け出ていなかっただけだ。別に国に帰るわけでもなかったし、自分で望んだ離婚でもなかったから手続きする氣にならなかったんだ」

「急にその氣になったの?」
レーナは封筒を大切な宝物のように抱えた。
「これを出しておかないと再婚はできないんだ」
ホルヘがこともなげに答えた。また泣き出したぞ。彼は目の端でレーナの姿を捉えた。

サリスブリュッケへの道は冬は小一時間しか日が当たらない。きっとお化けのような樹氷が育っていることだろう。だが、今行けば冬至を境に再び育ち始めた太陽が、一筋の光を投げかけているはずだ。長くは残らない一瞬の輝きはダイヤモンドにも劣らない。

(初出 2012年1月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

小説用エディタ

私はMac派。エディタはScrivenerを使っています。フリーのものも探したんですが、使い勝手がこっちの方が良さそうだったので。

で、毎日書いたものを、一度ePub形式に落として、自分のiPhoneに入れます。これを会社の休み時間などに読み返して推敲の必要な所にハイライトを入れる、という方法を使っています。

出来上がったものを、ブログの場合はそのままコピペして、PDFにする時はテキストに落としてからInDesignに読み込んで、という事も自由自在にできるので、Scrivenerは本当に便利!Mac派でこれからエディタをどうしようかなあと思っていらっしゃる方には、おすすめですよ。
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Posted by 八少女 夕

【小説】夢から醒めるための子守唄 (4)

五回連載の四回目です。本文とは何の関係もありませんが、ハンガリーの姓名は私たちと同じ順番なんですよね。この物語の登場人物はみなドイツ語で会話している設定なので、そこまでこだわる事はなかったんですが、人物の性格から考えると、正しい順番で呼ぶだろうなと思ったのです。




夢から醒めるための子守唄(ララバイ) - 
4. 彩りの秋、ターニングポイント


レーナはいつものように頬杖をついて黙って仕事をするホルヘを眺めていた。火曜日の午後に、ホルヘの工房で彼の仕事を見守るのは、レーナにとって日曜日の教会のミサのように当たり前の習慣になっていた。といっても、レーナが教会に行くのは年に数回でしかないのだが。

白樺を使った椅子とホルヘは格闘していた。見かけは優雅で柔らかなフォルムだが、実際にはとても硬い木材なのだ。レーナは自分がここにいることも忘れられていると思っていたがそうではなかったらしい。

「悪いが、その引き出しに入っている錐を取ってくれないか」
ホルヘは椅子の足から目を離さずに言った。レーナは引き出しを開けてみたが錐はなかった。
「ないんだけど」
ホルヘは乗り出して引き出しを見た。他の引き出しや棚の上も見たが、錐はなかった。

「また、あいつだ」
そういうとホルヘは大股に工房から歩み出て、大きな音のしている隣の工場にむかって怒鳴りつけた。
「ジォン!俺の錐をどこにやった!必ず返せと何度言ったらわかるんだ」

隣から聞こえていた大きな騒音がぴたっと止んだかと思うと、ばたばたと走り込んで来る音がした。
「ごめんよ、フエンテス」

その男はやたらと背が高かった。タンクトップから露出した肩には日焼けした筋肉が盛り上がり、汗の匂いがした。セクシーな若いお兄さんだこと。しかし慌てて錐を引き出しに返す姿は、多少情けない。レーナはこれが話にきいていた鍛冶屋のジォンかと眺めた。

「あれ、可愛い子ちゃんがいるぞ。フエンテス、隅に置けないな」
ジォンは奥に座っているレーナに目を止めて口笛を吹いた。ホルヘはムッとした顔で答えた。
「下らないことを言うな。見学をしているただの友人だ」
「ふ~ん?じゃあ、今度俺がデートに誘っても怒らない?」
「勝手にしろ」

ジォンが出て行くと、レーナは目を潤ませてホルヘを睨んだ。ホルヘはそのレーナを見て言った。
「なんだ」
「どうしてあんな事を言うのよ。私の氣持ちを知っているくせに」

ホルヘは困ったようにため息をついた。
「まだそんな事を言っているのか」

「インターネットサイトの肩書きだけで男を探すなって言ったのはホルヘじゃない」
「だからって、なんで俺に惚れるんだ。俺は小児性愛嗜好者じゃないんだ。俺はお前の父親と変わらないだろう」
「ホルヘ、何歳なのよ」
「もうじき四十六になる」

それを聞いてレーナは勝ち誇ったように言った。
「じゃあ、私のお父さんは十三歳で私のお母さんを妊娠させた計算になるわよ。私たち、歳はそんなに離れていないんだわ」

ホルヘは目を剥いた。
「お前、三十歳を超しているのか?俺はまた、二十代初め、もしかしたら十代かもと…。そんな世間知らずの三十代があるか!」
「しかたないでしょう。そりゃ、私がちょっと頼りないのは確かだけど。とにかく私は子供じゃないのよ。だから、好きでいてもいいでしょう」

ホルヘはきっぱりと首を振った。
「いい加減にしろ。俺はお前の理想の恋人と正反対じゃないか。それに、俺なんかに関わると後悔することになるぞ」

「もういい」
レーナは鞄を取って工房から走り出た。前にもこういうことがあったが、やはり同じだった。ホルヘは追ってきてはくれない。だが、その後に冷たくなるわけではなかった。レーナの勤める『dangerous liaison』に来てはいつもと同じように話し、レーナの子供っぽい意見を皮肉に満ちた口元でたしなめた。火曜日に工房に遊びにいくことも特には禁じない。だからレーナは諦めきれなかった。

ホルヘとサービスエリアのカフェで知り合ったのは去年の秋だった。あの頃、インターネットの出会いサイトで理想の恋人を探していたレーナは、手厳しい意見をしたホルヘのことを忌々しく思っていた。けれど、彼を少しずつ知るようになり春には彼に好意を持ち始めた。皮肉っぽい所はあっても優しく、仕事の心配もしてくれたホルヘに、レーナはどんどん惹かれていった。そして、今や、もともとの理想はどこかに吹き飛んでしまった。私が探していた理想の相手って、あのラルフ・ハイディガー先生みたいなつまらない男じゃない。ホルヘのもと奥さん、えせカトリーヌ・ドヌーヴはどうしてホルヘを捨ててあんな男のもとに走ったのかなあ。私にはちっとも理解できない。レーナは首を傾げた。

去年の秋とは何もかも違って見える。今年の秋は当たり年だ。蓼の葉はこれ以上ないというほど赤く燃え立ち、菩提樹の黄色はいつにもまして濃かった。柔らかい日差しはヘーゼルナッツや白樺の暖かい色合いの葉に降り注ぎ、それらの色の競演がフェーンで異様に深まった紺碧の空に映えた。恋に悩むレーナの傷ついた心は、実に効果的に高揚した。


「あれ。あの女」
マルクスは並木道をぼんやりと歩くレーナの姿に目を留めた。

一緒に歩いていた学生時代の友人のジォンは驚いたようにマルクスを見た。
「あれ、『dangerous liaison』のレーナをお前も知ってんのか」
「へぇ、あそこに勤めてんのか。前にちょっとな」

ジォンはマルクスが出会いサイトでレーナを騙したことや、それがバレたために自分が妻に吊るし上げられて離婚寸前に追い込まれて、レーナを逆恨みしていることも知らなかった。それで悪友がレーナに別の興味を持っているのだと思って言った。

「可愛いけど、狙ってもダメだぜ。あの子、指物師のフエンテスに夢中で、俺も振られたんだ」
「へえ。あのフエンテスに?できてんのか?」
「いや。フエンテスは変な所は頑固なヤツだからな。いくら惚れられているからって無責任に食ったりはしないのさ。そういうところは憧れるよな。俺なら即いただいちゃうと思うけど」

それを聞いて、マルクスはにやりと笑った。あの女を痛い目に会わせてやるいいチャンスじゃないか。夜まで飲んでからジォンと別れた後、マルクスは自分の携帯の番号通知を使用不可にして、出会いサイト経由で会った時に知ったレーナの携帯電話にメッセージを送った。


「あら、ホルヘ、どうしたの?」
その夜『dangerous liaison』にやってきたホルヘに店番をしていたカウンターにいたトミーが声を掛けた。

「お前こそ、どうしたんだ。今日はレーナの日じゃなかったのか」
「何を言っているのよ。レーナはあんたにデートに誘ってもらったからって、あたしに交代を頼んできたのよ」
「俺とデート?何の冗談だ?」
「さっき、メッセージを見せてくれたわよ。ジャズのコンサートのチケットが手に入ったから、いつものサービスエリアのカフェに九時半に来いって。他には『バードランドの子守唄』がどうのこうのって書いてあったかな。Jって頭文字だけだったけど、あたしでもあんたからだと思ったわ。違うの?」
「違う。俺はそんなメッセージは送っていない。あいつは俺の携帯の番号を知っているのに…」
ホルヘは携帯を取り出すために上着を探った。

掛けようとした時にレーナからメッセージが入った。
「五分ほど遅れるけれど、すぐ行くから待っていて」

氣を利かせて、トミーはレーナに電話をかけてホルヘに渡した。一瞬、電話は呼びだし状態になったが、すぐにレーナが電話を切ってしまった。ホルヘがレーナにかけ直した時には電話は留守番状態になっていた。

「ちくしょう」
ホルヘは上着を取って立ち上がった。トミーは肩をすくめた。
「自分で電話を切ったのよ。五分後に向こうについたら自分が勘違いしていたことがわかるんじゃないの?Jがだれかはわかんないけれど」
「あいつに何かあったらどうするんだ。明らかに俺を装ってあいつをおびき出しているんだぞ」
「何かあったら?あんたの知ったことじゃないでしょう?どうせあんたは、あの子のあんたへの恋心には興味ないんだし。放っておきなさいよ」
「放っておけないんだ!」
そういって出て行ったホルヘを、トミーは片眉をあげて見送った。あらそう。そういうことなのね。


サービスエリアの光が見える森の出口で、走ってきたレーナは急に襲われた。あまりに突然のことで、しかも暗闇の中だったので、自分を襲っている男が自分を騙したハインツ・ミュラーを名乗っていた男だということに氣づくまでしばらくかかった。

「まんまと騙されたな。俺をひどい目に遭わせた報いを受けさせてやる」
「いや。離して!どうして?」
レーナは恐怖に駆られて、逃れようとした。けれどロープを用意して待っていたマルクスは、簡単にレーナの自由を奪い、森の中に連れ去ろうとした。レーナはまだサービスエリアにホルヘがいると思っていたので、ここからでは届かないとは思っていたが必死に助けを求めて叫んだ。

「静かにしろ、このクソ女」
怒りに駆られたマルクスはレーナの口を塞いだ。誰かがやってくる音がしたのだ。レーナもそれを感じたので、必死でマルクスの手に噛み付き、ひるんだ男の隙をついて助けを求めて再び叫んだ。

駆けてきた足音は、まっすぐ二人の方にやってきて、問答無用でマルクスに殴り掛かった。ホルヘだった。マルクスは応戦しようとしたが、普段スーパーの事務業務をしているマルクスが腕っ節でホルヘに敵うはずはなかった、しばらく殴り合った後、マルクスは簡単に伸びてしまった。

「ホルヘ…」
ショックで震えて泣いているレーナをホルヘは抱きしめた。
「マーレルネー・エレーナ。お前はどこまで馬鹿なんだ。なぜ、携帯の電源を切った」

暖かくて木の香りがした。安堵が躯の隅々にまで満ちて来る。レーナは泣きながら答えた。
「トミーが電話してきたの。せっかくのデートを邪魔されたくなかったの」

「なぜメッセージの差出人を確認しない。俺の携帯の番号は登録してあるはずだろう」
「だって、だって…。ホルヘが誘ってくれたと思ったんだもの。そうだったらいいって、振り向いてほしいっていつも思っていたから、違うなんて思いたくなかったんだもの」

「そんなだから、こんな下衆野郎に騙されるんだ。お前はナイーヴすぎる。本当に危なっかしい」
「やめてよ。わかっていても、こうやって優しくされたら、また期待しちゃうじゃない。もしかしたらいつかは振り向いてくれるかもって夢見ちゃうじゃない。もう、私のことは放っておいてよ」

泣きじゃくるレーナをホルヘはもっと強く抱きしめて、先程トミーに言った言葉を繰り返した。
「放っておけない。何をするかわからないから、目が離せない」
その言葉が嬉しくて、レーナはもっと激しく泣き出した。

ホルヘはレーナを立たせて、自分の上着を掛けてやった。それから伸びているマルクスを一瞥してから、レーナの肩を抱いて村の方へ戻りだした。

「フラットまで送るから」
「いやっ」
レーナは激しく頭を振った。
「何が嫌なんだ」
「怖いもの、一人にしないで」

ホルヘは冷えた秋の夜風に顔を向けて、大きくため息をついた。
「じゃあ、俺の所に来い。後悔しても知らないぞ」

レーナはますます泣きながら、ホルヘの腕にしがみついた。ホルヘは何でもないように静かに続けた。
「言っておくが、掃除なんかしていないからな」
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Posted by 八少女 夕

トラックバックテーマ 第1393回「何度ぐらいから寒い?暖かい?」

暖かく感じ出すのは、マイナス10℃!これには訳があります。

こんにちは!FC2ブログトラックバックテーマ担当ほうじょうです。今日のテーマは「何度ぐらいから寒い?暖かい?」です。ほうじょうは関西出身なのですが、ここ最近少し暖かくなってきた!やった~春だと思って春服を気合入れて買ったら、ここ最近また急に冷え込んで、突然雪のようなものが降ったりと結局買った春服が着られないでいますつい最近まで10度を越えていた日が続いたため、冷えそうな日に天気予報を見て「今日4度...
トラックバックテーマ 第1393回「何度ぐらいから寒い?暖かい?」



今年は日本も寒かったんですってね。ヨーロッパもシベリアからの寒波に襲われ、生まれてはじめてマイナス22℃というのを体験してしまいました。iPhoneでは-16℃って書いてあったから、「それなら経験あるもんね」と自転車で行ってしまい、凍死するかと思いました。

で、その寒さが弛んで「あれっ、今日は暖かいじゃない!」と思ったのがマイナス10℃だったというわけです。人間の温感は相対的ってお話でした。
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Posted by 八少女 夕

【小説】夢から醒めるための子守唄 (3)

五回連載の三回目です。スイスに来てから、実生活でよく、「この人どうしてこの生活をしていて幸せじゃないんだろう」と考える事があります。「夢から醒めるための子守唄」を書く動機になったのは、その疑問なのですが、書いてもまだ答えは出ません。




夢から醒めるための子守唄(ララバイ) - 
3. 葡萄棚のある風景


初雪に覆われた山肌が夕日に照らされてオレンジ色に輝いている。葡萄棚の葉はそろそろ枯れてえも言われぬグラデーションを見せ、色濃い実はたわわに垂れ下がっているが、いずれにしても食べられない。私はその代わりに、届いたばかりのマイエンフェルダーの赤をバカラのグラスに注ぎ、少し肌寒いこのテラスの夕暮れを楽しんでいる。

これが私の欲しかった生活だ。今日の午後はナディアとグローブス百貨店で買い物をした後に、ジムで少し汗を流した。明日のマッサージの後には、ネイルサロンの予約を入れてある。ナディアは少し羨ましそうに言った。
「私も、まったく働かない暮らしをしたいわ。明日は事務室に行かなくちゃ」
といっても、ナディアは週に一度、夫のヨナスの経営する会社の事務室で、多少の書類に目を通した後は秘書とコーヒーを飲むぐらいのことを仕事と呼んでいるのだ。私だってそのくらいなら退屈しのぎにいいと思う。そういったらナディアは同意した。

八年前はまったく違った。私がナディアの境遇を羨んでいたのだ。自分で選んだ道だったが、私は後悔していた。働いても無駄だった。あの程度の収入ではグローブスでの毎週の買い物なんて論外だった。新車も買えない。サン・ローランの新作を買うどころか、月末に請求書を払い終えると手元にはいくらも残らなかった。この私が週に四日も働いていたのに。

ホルヘが仕事をしなかったわけではない。彼はよく働いていた。残業代も休日出勤代も請求しないことには腹が立ったけれども、それでも彼は勤勉だった。職人があんなに貧乏だなんて考えたこともなかった。

大学を卒業した私は、たちの悪い仲間たちとヨーロッパの旅をして周った。カンヌで知り合ったプレイボーイたちも悪くなかったけれど、恋の遊び以上の対象にはなり得なかった。それに彼らは私たちをスイスの田舎者だと馬鹿にしていた。どんなに流行のファッションを身につけていても所詮は牛の匂いが消せない野暮な女たちだと。私たちはそんなふうに見下されるのはたまらなかった。

ホルヘは彼らとは何もかも正反対だった。誰があんなつまらない国に行こうと言い出したのか思い出せないけれど、私たちはスペインに向かう途中でアンドラに立ち寄ったのだ。何もない小さな国。おしゃれなものも、美味しいものも、まったく無縁だった。かといってミステリアスなわけでもない。そんな所で生まれ育ったホルヘには、私たちスイスのお転婆な女たちはまぶしく映ったに違いない。

彼の瞳はいつも強い光を宿していた。初めて会った日から。ナディアは言った。
「うさんくさそうな男ね。リタ、氣をつけなさい。あなたばかり見ているもの」

私はうさんくさいとは思わなかった。そう、いとも簡単に恋に落ちてしまった。私の周りにはまったくいなかったタイプの男だった。静かで鋼のように頑丈で、それでいて炎のように熱かった。仲間の全員が反対したけれど、私たちは聴く耳を持たなかった。アンドラの彼の家族もみな頭を振っていた。だから、彼はアンドラを離れてスイスにやってきた。私たちはお互いの恋のことしか見えていなかった。

結婚生活は幸福に始まった。私が何かと両親に援助を頼むことをホルヘは快く思っていなかったけれど、夫婦間の問題はそれだけだった。父の事業が失敗し、会社をたたんで両親がタイに移住するまでは。それから私の苦悩が始まった。自分たちの収入だけで生きていくことの厳しさを知ったのだ。

それからの十年の生活は私にとっては地獄だった。私は自分が怠惰だったとは思っていない。後にも先にもあんなに勤勉に、真面目に働いたことなんかない。ホルヘは彼なりに家事も手伝ってくれたし、私だけが苦労していたとはいわない。でも、一つだけ確かなことがある。彼はあれを貧乏だとは思っていなかった。私には耐えられなかったのに。

あれはナディアの新居に行った時のことだった。彼女はヨナスと一緒に最新式のキッチンやクールなバスルームを見せてまわった。私が羨ましさに涙をこらえるのに必死だった時、ヨナスの幼なじみだというラルフ・ハイディガーが隣で言ったのだ。

「素敵なインテリアだけれど、僕にはちょっと冷たすぎるな。そう思いませんか、リタさん」
私は、負け惜しみもあって、ラルフに同意した。

「どんなインテリアがお好みなんですか、ハイディガー先生」
ラルフは傷ついたように下を向き、それからためらいながら言った。
「ラルフと呼んでくださいませんか?」
その様子に、私は自分が既婚者であることも忘れて、頬を赤らめた。

それからラルフは、彼が建設中であるラシェンナ村の家について話し出した。彼は直線的なのっぺらぼうのインテリアは好みではないと言った。部屋のあちこちに曲線を持たせ、古木の梁や昔風の暖炉などを配置して暖かい家にしたいのだと言った。私はホルヘからの受け売りで古木についての知識は他の女よりはあったので、二人で時を忘れて理想のインテリアについて話し合った。私たちの趣味は完全に一致していた。美しくノスタルジックでありながら、完全に機能的でなくてはならない。

「素敵な計画ですわね。奥様が羨ましいわ」
「僕は、シングルなんです」
「まあ。信じられないわ」
「だから、よかったら、今度、業者とシステムキッチンの話をする時に、一緒に話を聴いて意見を言ってくれませんか。僕は、料理の方はあまりよくわからないし」

それが、この家に足を踏み入れる最初のきっかけになった。彼が、ここに葡萄棚を作るつもりだと言った時に、私はこの家に夢中になった。谷底のカンポ・ルドゥンツ村と違ってラシェンナは日がよく当たる。だからチューリヒやミュンヘンの裕福な人たちが別荘を持つのもこの谷では決まってこの村だ。私は、ホルヘと暮らす狭いフラットを抜け出して、この家で昔の仲間たちとパーティをしたり葡萄棚の下でワインを傾ける、その生活を夢想するようになった。


ベッドの中では、暗闇の中では、狭いフラットも日当りのいい豪邸もあまり関係がない。不思議なことに、ラルフとしゃれたインテリアの高価なベッドで、サテンの肌触りのいい布地の間でする行為は、みっともないほどに世俗的で陳腐だ。ホルヘが私に触れる時、それは神聖な儀式を思い起こさせた。彼の手がゆっくりと私の肌に触れていく。それは私の性的欲求を呼び起こすための技術ではなく、彼の欲望を満たすための行為でもなかった。彼は静かに私に触れる。女にではなく何か特別な、神秘的な宝物に触れているように。彼の手のひらが、指先が私の肌に触れる。それは、しかし、ゆっくりと私の内側から炎を呼び起こしていく。やがて私はホルヘに焼かれてしまう。どうしようもないほどの甘美な時間。この世に愛が存在すると確信できる瞬間。この人がいなくては生きていけないと思った。

ラルフとの行為でそんな風になったことは一度もない。本当にたったの一度も。


けれど、私は我慢ができなかった。仕事と請求書に追われる日々。月曜日の憂鬱。ナディアや他の友達に会う度に起こる羨望。私はこの葡萄棚のある家で、ゆったりと暮らしたかった。それが私だった。ラルフは私がいなくては生きていけないと言った。私も、惨めな生活は私らしくないと思った。だから、私はラルフを選んだ。ホルヘを傷つけることはわかっていた。でも、私はどこかで、彼が私を許してくれると思っていた。私はホルヘを愛していたし、彼も私を深く愛していることを知っていたから。そう、私はラルフの妻として、裕福で余裕のあるハイディガー夫人として愛人であるホルヘに愛されたかったのだ。



リタは、ゆっくりと目を閉じて、暖かい秋の夕日を浴びていた。肌に触れているのは谷を通り過ぎる風だけではなかった。忘れたはずの男の手のひらの感触が、よみがえっていた。「行くな」と言った低く絶望に満ちた声がリタを支配していた。激しい口論のあと、激情に駆られた男が持ち出したナイフを振りかざしたとき、リタはこれで死ぬのだと観念した。彼の愛のために死ぬのだと思った。心が震えた。オーガスムにも似ていた。死ぬほど愛される歓び。狂った忌々しい愛。永遠の狂おしい思慕。リタは目を閉じたまま自分の左腕をぎゅっとつかんだ。袖で覆われたそこには生涯消えない傷痕がある。それは愛の刻印なのだ。


葡萄の葉がひらりと落ちる。澄み切った谷の風が、ゆっくりと秋の輝きをカンポ・ルドゥンツ村へと届けていく。茜色にそまった雪山とフェーン雲。この風が終わったら、久しぶりに雨が降るかもしれない。葡萄はおしまいだ。狩りのシーズンが終わったので鹿料理も来年まではお預け。そろそろクリスマスの招待があちこちから届くようになるだろう。

「リタ。来週のパーティのワインを注文するんだが、希望はあるかい」
ラルフの声がした。リタは、現実に引き戻されて、居間へと入っていく。これが私の望んだ生活なのだからと。



「ねえ。それ、なんていう木?」
工房で、仕事に打ち込むホルヘの横で、じっと見つめていたレーナは訊いた。暖かい色合いの大きな木材はとても硬いらしく、わずかずつしか姿を変えていかない。確かめるように少しずつ木肌を撫でるホルヘのがっしりとした手をレーナはうっとりと眺めていた。邪魔をしないように、息を殺して。けれど、ホルヘが木肌を確かめるように撫でるその手つきがとても官能的で、そのまま黙っていることができなくなってしまったのだ。

「樫だよ」
そういって、彼は再び木肌をゆっくりと撫でた。この樫のねじれには、別の記憶と似通うものがあった。リタの暖かい柔らかい肌のことが脳裏によみがえった。弾力のある肌は手のひらに吸い付いた。背中から腋にかけてのくぼみはとりわけ繊細だった。彼は戸惑いながらため息をついた。もう長いことこの感覚は起こらなかったのに。それから、熱っぽく見つめているレーナの顔を見て、不意に、この女はベッドの中ではどんな風に変わるのだろうかと考えた。

何を考えているんだ。自分を戒める言葉を心の中でつぶやくと、ホルヘは水を飲むために立ち上がった。そろそろ商売女の所にでも行くべきだな。心のいらない欲望の処理のわずかな時間に、思い浮かべるのはどちらの女なのだろう。ホルヘは水を飲みながら、秋の谷風に耳を傾けていた。
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Posted by 八少女 夕

トラックバックテーマ 第1392回「何かを調べるときは携帯?パソコン?」

携帯っていうか、iPhoneなんですけどね。書いてみます。

こんにちは!トラックバックテーマ担当の新村です今日のテーマは「何かを調べるときは携帯?パソコン?」です!まぁ外で何か検索するとなると携帯電話になると思いますが最近はスマートフォンが多くなってきたので家でもパソ�...
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調べるもの、それから状況によって使い分けています。例えば、チューリヒにいて、帰宅する次の電車を知りたい、なんて時はもちろんiPhoneから調べます。現在位置から一番近いカフェはどこ、なんてのももちろんiPhone。

一方、もの書きの資料を集める時はMacから調べます。理由は、iPhoneからちまちま入力するのがあまり好きではないから。画面も大きくないと、大掛かりな調べものにはイライラのもと。
便利だと思うのは、MacとiPhoneを連携して使える事です。出先で調べて保存した住所録のデータを共有したり、Macで調べたものを、後で出先で必要とする時にはEvernoteに保存しておいたり。数年前には色々プリントアウトしたりしていたことを考えると隔世の感がありますね。
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Posted by 八少女 夕

【小説】夢から醒めるための子守唄 (2)

五回連載の二回目です。第一回と二日連続で恐縮ですが、アップしてしまおうと思います。中編小説では、回ごとにある程度の完結、つまり前後を読まなくてもなんとかついていけるように書こうとしますが、それでも限度がありますね。できれば第一回からお読みください。
カンポ・ルドゥンツ村シリーズの登場人物は個性強烈ですが、実はみなモデルがいます。小説を書くのにこれ以上の環境はないかも、時々そう思います。





夢から醒めるための子守唄(ララバイ) - 2. 『dangerous liaison』

こんなに暑い夜は、年に数度しかない。日中は三十五度にもなった。夜九時の今でも二十七度くらいあるに違いない。クラッカーに添えるディップを用意しながら、レーナはタンクトップの胸の辺りを引っ張って風を入れた。カウンターの端にはステッフィがいつもと全く変わらない様相で立っている。

カンポ・ルドゥンツ村にあるバー、『dangerous liaison』にレーナが勤めだして三週間が経っていた。そもそも、最初は併設されている有機食品店で雇われたのだ。二つの店は一組のカップルによって経営されていた。ステッフィとトミー、この小さな村でゲイのカップルがカミングアウトするのは珍しい。彼らは堂々としていた。インテリアもかかる音楽もアメリカのジャズをメインにしているのは、ハードボイルドの匂いのあるステッフィの趣味だが、皮肉に満ちた店の名前はトミーによる命名に違いなかった。

レーナがこの店で雇ってもらえたのは、このバーの常連であるホルヘの紹介があったからだ。急に辞めた店番の代りを探しているという話を聞き、「掃除婦よりは安定した仕事がある、年金も半分負担してくれる雇い主だ」と、いつも会うサービスエリアのカフェで提案してくれたのだ。

レーナは大喜びで飛びついた。店番は週一日半の仕事だったが、それでもそれまで六件の家庭から請け負っていた掃除の半分を辞めることができた。やがてレーナの回転の速い頭と信頼できる人柄を見込んだトミーが、時間が夜にもなるが、バーの方の手伝いもしてくれれば週四日の仕事になると言ってくれたので、レーナは残りの全ての掃除の仕事も辞めた。雇い主が一カ所ならば、時間のやりくりはもっと簡単になる。掃除の仕事は孤独で単調だったが、食料品店やバーでは二人の雇い主や客たちと会話ができて満足だった。

ステッフィは口数が極端に少なく、常にかけているサングラスの向こうの表情はほとんど読み取れないが的確なことを言う。トミーの方はあけすけによくしゃべるが心根が優しい。二人の人柄に惹かれて、谷中の、時には峠も越えてアウトローが集まり店は繁盛していた。

レーナは壁の時計を見た。今夜はホルヘは来ないのかもしれない。なんだかがっかり。レーナはポニーテールにしたブルネットの髪の束をぎゅっと二つにして引っ張った。ここで働き始めてから、ホルヘとはよく顔を合わせることになった。彼はいつも八時頃にやってきて、十時頃までゆっくりと飲んでいく。


「いらっしゃい」
ステッフィが、これ以上簡潔にできない口調で入口に向かって言った。
「ホルヘ!今夜はもう来ないのかと思っちゃった」
レーナは、ばたばたとカウンターを動き回り、グラスや小皿を用意した。
「急ぎの注文があったんだ」
「え?こんな時間まで働いていたの?」
レーナは言ったが、ステッフィはそんなことは珍しくないのにと思いつつホルヘの方を見た。残業代が出るわけではないが、彼は自分の仕事を納得がいくまでじっくりとやるのが好きだった。また、キリの悪い所でおしまいにするのも性に合っていなかった。夏場には夜九時まで明るいので、仕事を続けるのは何の苦にもならなかった。しかし、そういえば、ここしばらくホルヘはあまり残業をしていないようだった。

「はい。冷めちゃったから暖め直したわよ」
レーナは、ホルヘ用に作っておいた夕食を差し出した。本来その食事は、トミーやステッフィとレーナが食べるまかない用だった。「三人分も四人分も同じよ」とのトミーの言葉をいいことに、レーナはいつもホルヘの分も作り、あたりまえのように出してやった。無口なステッフィはもちろん小言の多いトミーも特に文句は言わなかった。ホルヘはこのバーの古い馴染み客というだけでなく、必要があれば店の棚を修理したりもしていたからだ。
「ありがとう」
いつものように淡々と礼を言ってホルヘはスパゲティを食べ始めた。

ドアが開いて、別の客が入ってきた。
「いらっしゃい。リタ」
ステッフィの声には驚きがこもっていた。レーナは思わず戸口を見た。あら。カトリーヌ・ドヌーヴ。四十代の頃の。それは田舎の村には珍しい洗練された女性だった。シニヨンにまとめた金髪はどちらかというと暖かい色で、アプリコット色の麻のスーツにぴったりだ。

「お久しぶり、ステッフィ。あら、珍しい人もいるじゃない」
リタとよばれた女性は、ホルヘに目を留めた。

「帰る」
ホルヘは、八割がた残っている皿をカウンター越しにステッフィに渡し、酒代を置いて立ち上がった。

「あら。追い出したみたいじゃない。私、三十分もいないから、後でまた来れば?」
リタは余裕たっぷりの笑顔で、足早に出て行くホルヘの後ろ姿に声を掛けた。実際に、彼女は二十分後に現われた立派な紳士と一緒に去ったが、ホルヘはその夜はもうやってこなかった。


「ねえ、ステッフィ、あの女性、誰?」
レーナが切り出すと、ステッフィは「そらきた」と言いたげにわずかに微笑みながら、角刈りの金髪を掻いた。
「さっき来た、ハイディガー医師の奥さんだよ。ラシェンナに住んでいる」
それ以上は、何を訊いても答えてくれそうにもなかったので、レーナは翌日に有機食品店の方でトミーに訊き直さなくてはならなかった。

トミーは爆笑した。
「絶対に訊くと思っていたわ。昨夜ステッフィがリタが来たって言っていたから」
「誰なんですか、あの人」
「ステッフィはなんて答えたのよ」
「ラシェンナ村のハイディガー先生の奥さん」
「その通りよ」
レーナは激昂した。
「絶対にそれだけじゃないでしょう。隠さなくてもいいじゃない」

トミーは爪の手入れをやめて、ちらっとレーナを眺めた。
「教えてあげてもいいけど、先に個人的なこと訊いていい?」
「何を?」
「あんたとホルヘってどういう関係?」

たじろぎ口をパクパクさせた後に、仕方なくレーナは答えた。
「と、友達…」
「それだけ?」
「私は、それ以上になりたくて、ホルヘはそれを知っていると思うけど、相手にされていないのよね…」

トミーは、はは~んという顔をして、うなだれるレーナを上から下まで見た。彼女はこざっぱりとした服装をし、清潔感はあるが、どうひいき目に見ても農家出身のあか抜けない学生のようにしか見えなかった。あえて女らしさを拒否しているとも思えないのだが、彼女にはほとんど色氣というものがなかった。リタの匂い立つような、年齢を重ねるごとに凄みを増していく艶やかさはおろか、トミーの持つ女らしさにも遠く及ばなかった。

「あたしがこれから言うことをね、誤解しないでほしいの。あたしは、ホルヘが大好き。ステッフィがいなかったら惚れちゃいそうなほどに。そして、あんたのことも、女の中ではかなり悪くないと思っているのよ。だからいうんだけど」

レーナはちらりとトミーを見た。鮮やかなアロハ風のシャツを着て、完璧に手入れされた爪の光る指先を優雅に振っているトミーは、いつもよりも真剣な顔をしていた。彼女は黙って次の言葉を待った。

「おもしろ半分や、軽い恋愛ごっこのつもりなら、ホルヘはおやめなさい」
「どうして」
「昨日、来たリタは、離婚前はフエンテス夫人だったの」
やっぱり。あの人がホルヘの別れた奥さんだったんだ。レーナは息を飲んだ。トミーはレーナが言葉を探している間に、さっさと続けた。

「彼女が、ホルヘのもとを去ろうとした時に、ちょっとした騒ぎになってね。刃傷沙汰になったんで、ホルヘは二週間ばかり刑務所に入らなくちゃならなかったのよ」

レーナは林檎の入っていた箱を取り落とした。トミーは肩をすくめて、林檎を拾い始めた。
「それ以来、彼にはステディな恋人はいないの。ま、氣持ちはわかるわ。できれば、それに懲りてこっちの世界に来てくれればいいんだけど、こればっかりはね」


その日は火曜日で午後は仕事がなかったので、普段ならば部屋の掃除をしてから買い物に行くのだが、レーナはそのつもりになれなかった。村のはずれの土手をサイクリングしていく。この土手の散歩道の先に、ホルヘと出会ったサービスエリアがある。たくさんの白樺が自生していて夏の強い日差しを上手に防いでくれるのだ。この夏は、いつも以上に美しかった。夜中になるとひとしきり雨が降り、その雨露が樹々をつやつやと輝かせる。真っ青な空が晴れ上がりわずかに雪の残った山の嶺を引き立たせる。鳥や蝶が自転車に向かっては追い越し、風とともに舞う。レーナは口を一文字に結んで、ひたすらペダルを漕いだ。溢れてくる言葉はとりとめもなかった。心の整理が上手くできなかった。自分が何にショックを受けているのかもはっきりしなかった。

夏の日差しは強かった。露出した肩がひりひりするほどに。やがてまわりはジャガイモの畑になった。その次は小麦畑だった。遠くに小さい教会が見える。高速道路に走る自動車の騒音が時折聞こえるが、暑いからか交通はまばらだった。牧草地に放し飼いにされた牛たちは、日差しを避けるように背の高い木の下に集まり、ゆったりと座っている。やがて、レーナはペダルを踏むのを止めた。風がわずかに触れて去っていく。しばらく、そうやって止まっていたが、ひとつ深呼吸をすると、彼女はいま来た道を引き返していった。カンポ・ルドゥンツ村に向かって。

長いサイクリングの後で、喉が渇いて疲れていたので、レーナはほとんど何も考えずにいつものようにサービスエリアのカフェに入っていった。そして、いつもの席にホルヘがいるのを見た。
「あ」

ホルヘは戸惑ったレーナの顔を見て、いつものように皮肉に満ちて口元をゆがめた。
「お前は、本当に考えていることが全部顔に出るんだな」

レーナは、半ば慌ててホルヘの前に座った。
「どういう意味よ」
「トミーに問いただしたんだろう。心配するな。いくら俺でも、誰かれ構わず刺してまわっているわけじゃないんだ。そんなに怯えなくてもいい」
「そんな心配なんかしていないわよ」

ホルヘはレーナの言葉をまったく信用していないというようにもっと口元をゆがめてコーヒーを飲んだ。それでレーナは言いつのった。
「違うわ。私がショックだったのは、その件じゃない」
「じゃあ、なんだ」

レーナは、ようやく言葉を見つけた。振り向いてくれないのは、あの人を忘れられないからでしょう。そりゃ、どうやっても敵いっこない人だものね。けれど、そんなことは言えなかった。それでとっさに別の言葉を口にしていた。
「私が金髪にしたら馬鹿にしたのに、ホルヘだって結局は金髪の人がいいんじゃない」
自分でも呆れるほど馬鹿馬鹿しく響いたが、もはや出てしまった言葉は取り戻せなかった。

ホルヘは一瞬、口をぽかんと開けていたが、次の瞬間に破顔して笑いだした。あまり笑いすぎて腹をよじることになった。そこまで笑われると、レーナは居心地が悪かった。やがて目尻から涙を拭って彼は言った。
「お前は、信じられん馬鹿だな。想像を絶するよ」
「悪かったわね」

散々な言われようだったが、それほど悪くはなかった。口の悪さも、カップを支えているごつごつした職人らしい手も、皮肉を言う時の歪んだ口元も、笑っている時の目元の皺も、数ヶ月前のレーナならば「やっぱり他の人にしよう」と思うための恰好の理由になっていたはずだった。それが、どうだろう。今では一つひとつが、もっと好きになる理由になっている。振り向いてくれなくたって、ただの友達だっていいじゃない。私は、この人といるとこんなに幸せなんだもの。

「急ぎの仕事は、終わったの?」
「まだだ。このコーヒーが終わったら、また工房に戻るよ」
「そんなに忙しくない時でいいから、ホルヘの仕事している所、見てみたいなあ」
レーナは煙に巻かれると覚悟して言ってみた。ホルヘは上機嫌で言った。
「邪魔をしないなら、いつ来ても構わないさ。なんなら、これから一緒に行くか?」
レーナは大喜びで立ち上がった。

二人はとりとめのない話をしながら、土手の道をホルヘの働いている工房に向かって歩いていった。もうじき五時だというのに、日はまだ高かった。白樺の木漏れ陽が揺らめく村の夏の日はまだまだ終わりそうになかった。
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Posted by 八少女 夕

【小説】夢から醒めるための子守唄 (1)

「短編集」の一つとして書き出したストーリーが、勝手にふくらんで形になった中編小説で、全部で五回の連載になります。カンポ・ルドゥンツ村は架空の地名ですが、私の住んでいる場所がモデルになっています。




夢から醒めるための子守唄(ララバイ) - 1. 春の始まり

レンギョウの花がほころび始めた。去年と同じ。その間に花が散って、葉が茂り、葉が落ちてから、雪の下で凍えた、つまり丸まる一年を経て、再び春がめぐってきたということだ。それなのに、私のやっていることは同じ。一年前と全く変わっていない。どうして私を探している白馬の王子様に巡り会えないんだろう。

もちろん同じ事を繰り返している訳じゃない。サイトも変えたし、プロフィール写真だって変えた。プロフェッサーやドクターだけじゃなくて、企業のマネジャーをしているって男にだって会ってみた。金髪に染めてみたら、アクセスは増えたけれど、だからって結果が変わる訳じゃなかった。どうしてなの?

レーナは腹立たしげにレンギョウの木立を睨みつけると、いつものカフェに入っていった。そこはカフェというよりは、高速道路のサービスエリアの一角なのだが、大きな駐車場のある幹線道路側の騒音が嘘のように、とても静かな村の散歩道に面したテラスがあり、レーナのお氣に入りの一角になっていた。道路が騒がしいという理由で、村人たちはほとんどやってこないのも彼女がよく利用する理由の一つだった。村人たちが嫌いなわけではない。でも、おしゃべり好きの彼らに好奇心一杯の目で見られるのは好きではない。見るなら、彼女が理想の姿になってから、つまり、理想の王子様の横にいる所を見てもらいたいのだ。だから、それまでは、この外国人ウェイトレスがひっきりなしに雇われるサービスエリアのカフェで誰にも知られないただの客としてくつろぎたかった。

レーナは草原が見渡せるテラスの席に座った。そして座った途端に、斜め前の席の男に氣がついた。やだわ、またあいつがいるじゃない。室内の席にすればよかった。それは、前にここで数回会ったことのある、たぶんポルトガルかスペイン出身の眉毛が濃く浅黒い男だった。皮肉めいた口元のゆがめては、本当に皮肉ばかりを言う。

「なんだ。また一人なのか」
次回来る時には食品コンツェルンのマネジャーと一緒だと、レーナが捨て台詞を吐いたのを忘れていないのだ。その「自称」マネジャーとレーナは二度会って、いい所までいったのだが、将来は立派な人と結婚したいという夢を口にした途端よそよそしくなり、連絡が来なくなった。レーナはロザンヌまで行って、会社で彼を探して話をしようとしたのだが、どういうわけだがその部署にはハインツ・ミュラーというマネジャーはいないと言われたのだ。どういう手違いなのだろう。レーナが登録しているインターネットサイトでは、経歴詐称はできないシステムのはずなのに。しかし、そういうわけでレーナは新しい白馬の王子様を求めて、再びプロフィールを公開しなくてはならなくなった所だったのだ。

「大きなお世話よ。あなただって、一人じゃない」
レーナはつんとして答えた。
「俺は次回は女連れだと言った憶えはないよ」
ニヤニヤした顔を見て、レーナは本当に腹が立った。

「あなたみたいな嫌味な男とつき合いたいって女なんかいないでしょうからね」
「女を釣る時だけ甘い言葉を遣う男に、馬鹿な女は寄っていくからな」
レーナは二週間前にこのカフェで、ハインツ・ミュラーがどれほど熱烈に自分を賛美したか、そらで憶えていた口説き文句を披露したのだ。その時この男はその文面に爆笑していたが、レーナはなんて失礼なと怒ったのだ。しかし、今になってみればこの男の言い分は、間違っていないようだった。悔しいが、少なくともハインツ・ミュラーに関しては正しいようだった。

「何故、髪の色を変えた」
男は席を立って、レーナの席にやってきて言った。
「だって、ブロンドの方がアクセスがいいんだもの」
「頭の悪い女だな。性的魅力をブロンドに感じる男は多くても、結婚相手を髪の色で決める訳はないだろう」
「あのね。結婚したいかどうかを考える以前に、会ってもらわなきゃしようがないでしょう?どっちの頭が悪いのよ」

赤毛のウェイトレスがやってきて、こほんと咳をした。レーナはカプチーノを頼んだ。ウェイトレスは黙って、男の伝票にカプチーノを書き足した。文句を言うかと思ったが、男は何も言わなかった。ウェイトレスが去った後、レーナはちらっと男を見て言った。
「私の分は払いますから」
男は払えとも、自分が払うとも言わなかった。

「そもそも何故インターネットで男を探しているんだ」
「そうでもしなきゃ、理想の男に会えないからよ」
「理想の男ね。医者か教授か経営者か。要するに金さえあればいいってことだな」
皮肉っぽい笑いにレーナは激昂した。
「それだけじゃないわ。この辺で私が知り合える男は、みんなレベルが低いんだもの。会話をしてもセックスかサッカーの話しかできないし」
「あんたは、そんなにレベルが高いのか?だったら大学の同窓生にでも紹介してもらえばいいだろう」
レーナは唇をかんだ。
「私だって労働者階級だって言いたいんでしょ。確かに、この国では掃除婦よ。でも、故郷ではインテリア・デザインを学んだんだから」

男はちらりとレーナを値踏みするように見た。
「東欧、ポーランドかルーマニアってところだな」
「ハンガリーです」
「どっちにしても、国で就職すれば掃除婦をしながらインターネットで男を探すこともないだろう」
「国にいても、まともな就職先なんかみつからないもの。あなただって、だから、スイスに来たんでしょう」
「俺は、ただの出稼ぎだ」
「ポルトガル、それともスペインかしら」
「アンドラだよ」
レーナは少しびっくりして男を見た。そんな国がどこかにあったわね。
「こんな小さな村にどうして来たの?」
「別れた妻がこの谷の出身だったんだ」
「あ~ら。奥さんに愛想つかされたのね」

男はじろりとレーナを見て、口をへの字に曲げて黙り込んだ。彼女は話題を変えることにした。
「何の仕事をしているの?」
「古木の加工だ。昔の梁だったような大きな木材を、家具に変えたりするんだ。故郷で木こりをしていたから、木に関わる仕事は馴染みがあったからな」
「面白いの?」
「ああ、時を経た巨木は、強い個性があって、二つと同じものはない。大量生産の家具を作るのとは違う。半分は芸術品をつくるようなものだ。しかし、芸術と違うのは、実際に日常で使える物をつくっていることだ。役に立たない装飾品ではない」

レーナは頬杖をついて、語る男の顔を見た。彼女の法則では、知的な仕事は興味深く、労働者階級のする仕事には面白いものなどは何もないはずだった。実際には、ノイバウアー教授やライマン先生が仕事のことについて語っていた時、正直、何を言っているのかよく理解できなかった。ハインツ・ミュラーはテトラ・パックにクリームを詰める技術について何かごちゃごちゃ言っていたが、どうでもよく響いた。でも、この人の話は、よくわかるし興味深い。どうもおかしい。よく知らない国、アンドラでは人々はどんな暮らしをしているのだろうか、どんな経緯でこの谷出身の女性と知り合ったんだろう。なんだか、訊いてみたいことがいっぱい出てきちゃったわ。


「あ、『バードランドの子守唄』」
レーナはラジオから流れて来る、サラ・ボーンの歌声に耳を傾けた。男は笑った。
「ジョージ・シアリングのスタンダードナンバーだな」
「そうなの?それ作曲者?詳しいのね。ジャズが好きなの?」
「嫌いじゃないが、詳しいわけでもない。たまたまこの名前は知っているのさ。俺も英語読みにしたらジョージだからな」
「じゃあ、ジョージじゃないのね。なんて言うの?」
「ホルヘ」
「ふ~ん。私はレーナよ」
「よろしく」
ホルヘは小さく笑った。

前よりも親しみがわいてきたので、レーナは勢いづいて語りかけた。
「私は、ニューヨークに行くのが夢なのよ。理想の恋人が見つかったら、一緒にこの歌の舞台になった『バードランド』ってジャズ・クラブに行くの」
ホルヘは呆れた顔をした。
「陳腐な夢ばかり見るんだな。ネットに、そんな馬鹿げたことを書いて男を誘っているんじゃないだろうな」
「どこがいけないのよ。共感してくれる素敵な男性がいるかもしれないじゃない」

ホルヘはレーナの無邪氣すぎる見解に心底イライラしているようだった。
「こいつは夢ばかり見ている間抜けな女だ、騙すのも簡単だと教えているようなもんじゃないか。いいか、冷静に考えろ。見かけがよくて、社会的地位があり、金もある独身の男が、インターネットで結婚相手を探すか。そういう男には、放っておいても女が群がっているんだよ」

レーナは唇をかんで、黙った。ホルヘの言っていることは理にかなっている。でも、まだ認める氣にはなれなかった。一度しかない人生を、よりよいものにするために努力をしているだけなのに、どうしてそんなことを言うのだろう。
「お前の探しているものは、ただの名刺に刷られた肩書きだ。肩書きと結婚したって人間は幸福にはなれない。金やステイタスで満足できる時間はほんの一瞬なんだ」

ホルヘはレーナの目を見て真剣に語りかけた。嫌味ばかり言う腹の立つ男だと思っていたのに、彼の瞳の中には繊細で暖かい思いやりが揺らめいている。
「髪の色を元に戻せ。金髪でなくちゃダメなんて言う男は、お前の心を理解することなんかできやしない」

レーナは、もしかしたらその通りかもしれないと答えようとした。しかし、その時ホルヘの後ろのかなり先の方に、いるはずのない人間の姿を目に留めて、何もかも忘れて立ち上がった。それはロザンヌにいるはずの、ハインツ・ミュラーだった。カジュアルな服は着ないんだとか言っていたくせに、革のジャケットを着て膝に穴の開いたジーンズを履いている。走って来るレーナを見て心底驚いたようだった。

「ミュラーさん、ドバイの会議から帰ったら連絡をくださるって言ったきりですよね」
「いや、その、ずっと仕事が詰まっていて、家にも帰るヒマがなくて…」
「どの仕事ですか。私、ロザンヌまで行って探したんですよ」

男が回答しようとしている時に、トイレから出てきた女が声を掛けてきた。
「お待たせ、マルクス。あら、お知り合い?」
マルクス。レーナは、大嘘つきの男を睨みつけると女性ににっこりと笑いかけて言った。
「いいえ。こんな人と知り合いじゃなくて、よかったわ」

怒りに燃えたレーナは、踵を返すと元のテーブルへと戻っていった。ホルヘには馬鹿にされるかもしれないが、話を聴いてもらうつもりだった。けれど、テーブルには誰もいなかった。伝票もなくなっていた。ホルヘはいなくなってしまったのだ。

レーナは黙って考えた。私は彼の話の最中に失礼とも言わずに席を立ったのだ。彼は真剣に私のことを心配して話していてくれたのに、全く省みもしなかった。レーナの態度に腹を立てて去ったのかもしれない。けれどレーナにはホルヘが傷ついたように感じられた。あの黒い瞳には、傷ついた過去を反映する臆病な光もきらめいていた。それとも、これも私のロマンチックな夢物語なのかしら。しばらく躊躇していたが、レーナは鞄をとって走り出した。なんでも構わない。少なくとも彼は、私がこの国で出会った、はじめて心からの友達になれそうな人だ。そのことを伝えなきゃ。


ホルヘのやってきた方向はレーナのフラットへの道とは反対側だった。レーナはホルヘを探して、今まで一度も行ったことのない、村の散歩道を駆けていった。道の両側の木々の若緑の葉が光に揺れて輝いていた。風は優しくレーナの髪をなびかせる。足下のタンポポの花が、風に踊るユキヤナギの小さな花びらが、春の喜びを謳歌していた。懐かしく嬉しいのに、一度も見たことのない風景だった。この村はこんなに美しかったのかしら。走っているせいか、心臓が高鳴る。

視線の先に、遠く一人で歩く黒髪の男の姿が見える。秘密めいた、残り雪のある森へと向かおうとしている。シジュウカラのさえずりがそこここに響く。ここだって、バードランドじゃない。レンギョウの花の茂みの横を走り過ぎながら、レーナは『バードランドの子守唄』を脳裏に浮かべる。世界が全く違って見える。春が始まったのだ。今までとは全く違う光り輝く季節が。
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Posted by 八少女 夕

あの日から一年

3月11日がやってくる。
あの日、私はもちろんスイスにいた。普段、勤務中は一切の私用を許さない社長が、わざわざ私を呼んで「日本に大きい地震が起こったらしいよ」と教えてくれた。私は、事の大きさを理解していなかった。「地震なら数日前もありましたし」
だが、ニュースの伝え方は尋常でなかった。巨大津波が来るという不正確な情報があり、震源がわからなかったので東京の母に電話したら、まったく通じなかった。姉も、姪も。
結局、家族全員が無事で、単に出先で帰宅難民となり、携帯が通じなかっただけとわかったのは、終業時間も近い頃だった。
翌日、土曜日、夫と一日テレビの前で、日本の映像を見ていた。とんでもないことが起こっている。本当に認識したのは、あの日だったと思う。

ハイチの大地震の一年後に、まだ瓦礫が山積みになっているのを見て、私たちは「あり得ないよね」と話し合った。日本ではそんな事はないと、思っていたから。
阪神大震災の後、たった一年で見事に姿を変えた神戸を見ていたので、「一年経ったら、きっとみんな片付いて、前を向いて行けるように変わっているはず」そう願っていた。震災当日の人々の行動や、ボランティアや募金にかける人々の情熱を見て。だから寄付もした。祈りもした。同じように復興に参加したくて。

でも、そんな簡単な事ではなかった。

瓦礫の受け入れ先になるかどうかで、自治体がもめている。まだたくさんの被災者の方々が、まともな暮らしに戻れていない。事故の起こった原子力発電所も、終息とはとても言えない状態で、人々は不安と悲しみと疑心暗鬼の中で逃げ場もなく暮らし続けている。

遠くにいる私たちはなんとでも言える。その事が、日本列島にいながら、一年経っても、元通りの日本になっていない事を見続けている人々をいらだたせる事もわかっている。だが、善意でも忍耐でもどうにもならない日本の状態は、私の心を重くする。HIROSHIMA以上に有名になってしまったFUKUSHIMAという地名に象徴される運命があるにもかかわらず、経済と利権を優先させるおかしな政策を許してしまう国民の奇妙な寛容さに、歯痒さを感じる。

そんな弱い国ではないはずだ。そんな情のない国ではないはずだ。そう思いつつも、私がここでできるのは結局見ているだけ。日本にいる多くの人たちと同じ。自分の中に不甲斐なさを感じる。たぶん3月11日がめぐってくる度に、そう思い続けるのだろう。

一年経って風化しつつある想いを新たにしたい。まだ東日本大震災は終わっていない。私も再び祈りと支援を新たにしよう。
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Posted by 八少女 夕

本末転倒?

ブログを始めるにあたって、いくつかのシステムを探した。無料で、使い勝手のいい所というゆるい基準だったが、最終的にFC2に決めたのは、やはりデザインの自由がたくさん利く事だと思う。

もちろんCSSからデザインまで全部自分でやれば、もっとオリジナルになる事はわかっているけれど、現在はそこまでかけている時間がないので、テンプレートやプラグインをお借りしている。

それでも、日々見ていると「ああしたい、ここももっと使いよくしたい」といじり出してしまう。他の方を訪問したら「あ、こんな事ができるんだ、どうやるんだろう」と広い管理画面の中を右往左往。

結局、傍目には大して変わっていない事で数時間を過ごし、氣が付けば、小説を書く時間がないまま就寝タイムになっていたりする。まったく本末転倒。
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Posted by 八少女 夕

すごく、うれしい

ブログ生活、新体験の連続ですね。昨日、コミュニティに「小説更新しました」を怯えながら書きました。これ書いて、全スルーされたら痛手だろうな、と思いつつ…。

帰宅後、おそるおそる、ログイン。あらあら。来てくださった方がいる!二度以上も訪問してくださった方もいる。うわあ、憧れのあの人も…。しかも小説に拍手が…。

自分でも小説を書く方は持論があって、色々読んでいるから目も肥えているはず。こんなに山のようにあるブログの中、忙しい生活の合間を縫って、訪問していただけたり、目を通してもらえたり、それから、拍手までしてもらったりって、大変な僥倖だって自分でもわかっています。

みなさん、ありがとう。
また、頑張ります。
近いうちに、また、アップしますので、その時もどうぞ懲りずにおつき合いくださいませ。
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Posted by 八少女 夕

【小説】沈丁花への詠唱(アリア)

これは今年書いたもの。毎月、一本ずつ書いている小説「十二ヶ月の組曲」のうちの一つです。




真由美は足を止めて振り返った。微かに風に乗って漂う香りは沈丁花に違いない。けれどその香りは記憶にあるものよりもずっと弱かった。
「どうしたの?」
ジャニーンが訊いた。真由美は上の空で答えた。
「この香り…。どこからするのかしら。ダフネの花だと思うけれど」

真由美は湖畔の遊歩道のたくさんの木立を見回して香りの源を探した。それはじきに見つかった。小さな木だった。日本の沈丁花よりもずっと小振りな薄桃色の四弁花がヒヤシンスのように縦に連なっていて、葉がほとんどついていない。香りもずっと弱い。しかし、真由美は目を細めてその木の前で立ちすくんだ。
「この花が好きなの?」
ジャニーンが訊いた。真由美は黙って頷いた。

北イタリアのマッジョーレ湖に面するリゾート地ストレーザは、スイスよりも早く春の兆しが訪れる。毎年椿の花の展覧会が開かれ、湖畔にはたくさんのヤシの木が立っている。そんな気候なので真由美の暮らすアルプス以北には見られない多くの南の植物がある。秋にきた時にギンモクセイが存在する事を知って幸せになったのもここだった。


真由美がザンクト・ガレンに住むようになって八年が経っていた。海外に住むこと自体は真由美には何の問題もなかった。日本の文化や食事にもさほど未練がなく、ホームシックにかかる事は全くなかった。けれど、この香りは奇襲だった。記憶や理性などよりもずっと下層の原始的な郷愁を直撃した。沈丁花は、真由美の子供時代と強く結びついている花だった。

子供の頃、時間の経つのは恐ろしくゆっくりだった。真由美は内氣で、彼女の属する世界、つまり小学校のクラスに上手く馴染めなかった。慎重に物事を進めればグズとなじられ、明るく振る舞おうと虚勢を張れば失敗して嗤われた。近所の中で私立の小学校に通っていたのは彼女一人だったので、帰宅後に遊べるような友人もいなかった。両親の仲が良くなくて、家の中は荒んでいたので、学校で起きた事を家庭で打ち明ける事もできなかった。夏はまだよかった。学校の帰りに近くの公園で時間をつぶす事ができた。だが、凍える冬には学校と家の往復だけをするしかなかった。ランドセルを背負って寄り道をできるような場所はなかったから。加えて真由美の手足は血の巡りが悪く、毎年しもやけで手足がパンパンに脹れた。一週間は長かった。一ヶ月は永遠のようだった。最も冬が厳しい二月に、突然漂ってくる香りが真由美には暗黒の世界の中での一筋の光のように感じられた。どれほど冬が長くつらくても、確実に春はやって来る。その吉報をもたらすもの、それが沈丁花だった。

「この花の仲間が日本にもあるの。春を告げる花なの」
真由美は、小さな声で言った。ジャニーンはさほど興味がなさそうに答えた。
「そう。いい香りだけれど、この花、毒があるのよね。子供のいる家庭は庭に植えないようにってよく言われているわ」
「スイスでも咲くの?寒すぎるんじゃなくて?」
「咲くわよ。ただし、一ヶ月半は後じゃないかしら。園芸の通販カタログに載っているわよ」
そういうと、コートの衿を重ねて、さっさと歩き始めた。ザンクト・ガレンより遥かに暖かいとはいえ、まだ二月なのだ。湖から風が吹いて来るとかなり寒い。ジャニーンは花をいつまでも見つめているよりは、地元の客で賑わうピッツァの店『パパゲッロ』のテーブルを確保する方がいいと思っているのだ。週末はいつも混むから。

ジャニーンは、かつて真由美と同じ職場にいた。スイスに来たばかりでドイツ語で上手く話せず、スイスの習慣を知らない真由美に英語で通訳をし、細やかに世話を焼いてくれた。当時はニュージーランドで知り合い結婚したダニエル以外の友人がいなかったので、ジャニーンのはきはきとした俊敏な態度は、異文化の中で子供時代に戻ったかのように引っ込み思案になった真由美の救いになった。三年後に、ジャニーンはもっといい条件の仕事を見つけて転職したが、それからも二人の友情は続いた。

「それで、この間話してくれた大人の彼とはどうなの?」
真由美は、自分の小学生時代の思い出から戻ってくるため、ジャニーンに話を振った。その途端にジャニーンの目には大粒の涙が溢れ出した。
「また、ダメになっちゃったの!」
う。またか。真由美はたじたじとなった。急に誘ってくれたので、何かニュースがあるとは思っていたけれど、こっちだったのね。この八年間、ダニエルとよく言えば平穏な日々を過ごしている真由美と対照的に、ジャニーンは半年に一人の割合で出会いと別れを繰り返していた。それも常にイタリア人かイタリア語圏出身の男で、たいていは男の心変わりで破局するのだ。真由美にはよくわからなかった。ジャニーンは魅力的だったし、親切で明るかった。イタリア語を話す男たちにはそれだけでは足りないのだろうか。どうして決まって他の女性に心を移してしまうのだろう。それとも、ダニエルも私が知らないだけで、心移りをしているのかなあ、知らぬが仏って言葉もあるわよねぇ。真由美は人ごとのように考えた。

ダニエルと結婚してスイスに移ってきてからの生活は、順風満帆と表現するのはどうかと思うが、それまでの人生と比較すると、文句を言う事は何もなかった。真由美は職場に向かうのも、家に帰るのも嫌ではなかった。さぞ寒くて大変だろうと思っていたスイスの冬は、東京にいるよりも過ごしやすかった。フラットも会社も壁が厚くセントラルヒーティング完備だった。どんなに寒い日でも暖かい室内では、ガウンひとつで歩き回る事ができた。成人してからは東京でも両手足にしもやけができる事は稀になっていたが、スイスでは全くならなかった。きちんとした手袋をはめ、滑らないように底のしっかりした冬用のブーツを履くために、手足の指が凍える事もなかったからだ。時間はあっという間に過ぎ去り、週末を待つ必要すらなくなった。だから冬の間に春を待ちわびることもほとんどなくなっていた。

『パパゲッロ』の馴染みのウェイターがピッツァを運んでくるのを待ち間に、真由美はジャニーンの嘆きに相づちを打ちながらも、いつの間にかドイツ語の会話から意識をそらし再び沈丁花の思い出に浸っていた。


あれはやはり小学生の時だった。六年生の卒業間近の頃だったかもしれない。理科の授業で先生は課題を出した。顕微鏡で氣孔を観察するので、それにちょうどいい葉を探してくるようにというものだった。顕微鏡で観るためにプレパラートを用意する。そのままでは光が通らないので、葉を引き裂き薄く透き通った部分を使うのだ。できるだけきれいにたくさん膜が剥がれるものがいい。今から校庭に行って探してきなさい、そう先生は言ったのだ。
生徒たちは、数人ずつ束になって校庭に出て行った。緑豊かな学校でたくさんの庭木が植えてあった。皆に馴染めていなかった真由美は、一人でクラスメイトが行こうとしない裏庭へと歩いていった。

沈丁花が香ってきた。真由美は、まっすぐにその茂みの方に行った。一人でも構わない、そう思って大好きな花の前でため息をついた。そして、とりあえず、先生に言われた事を忘れてはいないというしるしに、沈丁花の葉を一枚手に取った。そしてすぐに氣がついた。この葉が、まさに先生の求めていたプレパラートに最適な葉である事を。真由美はその葉を数枚ちぎって、すぐに理科教室に戻った。直に級友たちが戻ってきたが、彼らの持っていたのはアオキや椿などで、膜はあまり上手く剥がれなかった。真由美が作ったプレパラートが最高だと先生は褒めた。級友たちが驚いたように真由美を見て、ほんの少しだけ敬意が起こった。六年間も惨めだった小学校生活で、唯一持てた誇らしい瞬間だった。

真由美は、それから少しずつ変わった。明るいひょうきん者になる事ができなくても、他の者がしないことをして、地道な努力をする事でまわりの敬意を得る事はできるようになる。そんな風に言葉で理解していたわけではないが、肌で理解し、得意な学科でいい成績を取るようになった。人当たりよく他人と接する事ができるようになり、人とのつき合い方も少しずつ覚えた。小学生の時にいつも一人だったので一人になるのも問題なかった。そのどこか孤高な佇まいが、他の少女たちには好意的に見られるようになり、おかげで真由美の社会生活はどんどん改善したのだ。

真由美は沈丁花の花に、恩を感じていた。あの時、あの花が私を助けてくれたのだ、馬鹿馬鹿しいとは思いつつ、真由美はそういう想いをずっと抱えていた。ここ、ストレーザで再会した花は、その想いを鮮やかによみがえらせてくれた。

そういえばダニエルは「最初はミステリアスなところに惹かれた」と打ち明けた。本当はちっともミステリアスではなかったのだが、真由美は口数が少なく、友人と騒いで楽しむような事が苦手だったので、そう見えたのかもしれない。故郷から離れたヨーロッパに移住する事も大して苦にならなかった。かえって実家にしょっちゅう帰らずに住む事がありがたいほどだった。

この八年間に、ドイツ語環境に馴染み、仕事をまじめにこなす事で、真由美の社会生活は再び心地よいものになった。ダニエルともケンカぐらいはするが、もともとの常識の前提が違う事をお互いに意識しているので、誤解が起きないようにきちんと話し合う習慣ができて、いい関係が築けている。
真由美は若い頃に、子供時代には戻りたくない。これからこの地で生きる時間がどれほど早く過ぎ去り、あっという間に老齢期や死に近づいてしまうとしても、過去には戻りたくなかった。けれど、沈丁花の思い出には、ほんの少しのノスタルジーを感じた。

沈丁花。重宝された沈香のような香りと丁字のような花の形を持つからついた名前。花ことばは「栄光」「不滅」。真由美は、ダフネを自宅でも香らせる事ができるように、あとでジャニーンに園芸カタログを借りようと思った。でも、今はだめ。まじめに彼女の告白に耳を傾けなきゃ。
ジャニーンは涙をナフキンで拭い、左手のワイングラスから赤を飲み、右手に持ったグリッシーニをばりばりと食べている。ウェイターが二つのピッツァを持って近づいてきた。きっとこのピッツァが終わる頃には、彼女はすっきりとして次の恋を探すつもりになっていることだろう。

(初出 2012年1月 書き下ろし)
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Tag : 読み切り小説 小説

Posted by 八少女 夕

仕事と、書く事

「それ以外の事はしたくないから」と、言いきって集中する人がいて、それで大成しているのを妬むわけではないけれど、私は書くだけでは食べていけない。私は、物語を安心して書き続けられるように、仕事をし、家庭を快適に保ち、普通の社会生活もしている。衣食住が足りないと、物語を書くどころではなくなってしまうから。

ヨーロッパで外国人と結婚していると言っても、だれもが後藤久美子のようにお城で優雅な生活をしているわけではない。私は、生活のために働いている。最近、お小遣い程度は「もの書き」の仕事でもらえるようになったけれど、メインの仕事は「もの書き」ではない。 コンピュータの前に座って文字を書くのは同じだが、書いているものはスクリプト。感情や考えた事ではなく機能を書くのだ。

月曜日から金曜日まで、朝同じ時間に起きて、会社へ行く。PCを立ち上げる。決められた振舞いを機械がするための命令書を黙々と記述する。会社の帰りに、機械的思考に染まった脳みそを切り替えて、「お話」の続きに想いを馳せる。夕食の準備や掃除をしながら、やはり心はもう一つの世界を周っている。そして、Macの前に座り、脳の中にしかなかったものを現実世界に書き写す。

彼は「会社でも、家でも同じ事ばかりしている」と言う。日本語の読めないあなたには同じに見えるでしょうよ。でも、私には全然違う事。

「もの書き」だけで生活できるようになったら、どんなに素敵だろうと思う。でも、いまの私はそういう状況にない。だから、わずかな書く時間を大切にしたいと思う。仕事がある事もありがたいと思うので、勤務時間中は精一杯まじめに勤め、彼との生活もないがしろにしないようにしたいと思う。
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Posted by 八少女 夕

拍手をありがとう

昨日、最初の拍手をくださった方。どうもありがとう。

ほんの数日前に、ブログを始めたばかり。個人的な知り合いはまだいないから御祝儀ではなくて、共感してくれたんだと思うとものすごく嬉しかった。

コミュニティに参加して、どんな人たちが、どんな事を書いているんだろうと覗いてまわってみれば、何年分ものたくさんのエントリーがあり、たくさんのリンクがあって、拍手やブロとももたくさんのブログばかり。

コメントを書こうかなと思っても「こいつ、誰?」と思われるんじゃないかと尻込みしたりして。

でも、氣がつくと、いろいろな方が訪問してくれている。拍手もいただいたし、私も怖がらずに、コミュニケーションしてみようかな。手始めに、訪問してくださった方のサイトを覗き、トップに共感できるメッセージ見つけたので拍手してみた。

こういうの、悪くない。
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Posted by 八少女 夕

いつ書く?

以前は誰にも知られずに一人で書いてばかりいたので、好きな時に書く、つまり、時間のある時に書いていた。

で、今年になってから立て続けに先方に締め切りを明示されて、それに間に合わせるように書くということをした。で、まったく同じ締め切りのある人がどうしているかを、偶然知る機会もあったのだけれど…。

どうやら、私は早いらしい。

あんまり早くに出して、すぐに訂正したくなると困るからと、しばらく出さなかったとしても、すごく早く書き終えているらしい。

心配性なのかしら?でも、突然仕事が忙しくなって、書けなくなるかもしれないし、家庭に心配事ができてそれどころじゃなくなる可能性だってゼロじゃない。それを考えると、直前に慌てるよりも依頼が来て即書いちゃう方が余裕ができて安心じゃないのかなあ…と。

ただし、子供の頃は、全然違ったタイプだった。夏休みの最終日に、宿題にほとんど手がつけていなくて涙目になっていたっけ。あの頃に、今の半分の心配性があればよかったのに。
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Posted by 八少女 夕

クラッシック音楽

以前よりはだいぶ市民権を得た感のあるクラッシック。実家にはそこらへんのCDショップでは太刀打ちできないほど揃っていたので、「あれを聴きたい」と思えば父親のラックから頂戴して来れば済んだ。素晴らしい環境だったと思う。結婚して移住する時は、自分の好きな大量のCDを海を越えて持ち込んだ。

クラッシック音楽の中でも好きなのは器楽、交響曲の類い。物書きの時のBGMとしても、そのほうがいい。日本語でなくても歌詞があると脳が混乱するからだ。

標題音楽や、当時の作曲家の置かれた状況を考えながら正統の方法での聴き方もあるが、物書きのBGMにしてしまった後は、どちらかというとその作品のものになってしまう。もちろん、私一人の中でだけれど。例えるなら、「ツァラストラはかく語りき」を聴いて、多くの人が映画「2001年宇宙の旅」を思い浮かべてしまうような条件反射が起こる。

好きな音楽から物語が生まれる→書いている間はBGMになる→書き終わったらその作品のテーマ曲に変わっている

こういう変遷をとった、大好きな曲は数知れず。ほかのもの書きの皆さんも、こんなことをしているんだろうか。



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Posted by 八少女 夕

テーマについて

もともと、勝手に生まれてくる物語を書き留めるというスタンスで書いているのだけれど、それでも「いいたいこと」をどこかに持っていないと、ただの独りよがりのストーリーになってしまうという自戒の氣持ちは持っている。

でも、それは崇高なテーマである必要はない。一度、自分にとっての「愛」を突き詰めた長編四部作を書いたけれど、毎回そんなのを書いてはいられない。同じテーマで何本も書いても面白くないとも思う。だから、ごく普通の人間生活の中にある問題にスポットをあてる事が多い。

物書きの人間というのは、どこかに「言いたいこと」があるから、頼まれもしないのに書きまくるんだろうし、私にもその部分はあって、ここでは書かないけれど全ての作品に共通するテーマは自覚している。

小説を書いている人は山のようにいる。でも、見つめている日常生活は一人一人違う。だから、千差万別の物語が生まれてくるわけで。私の日常生活は、たぶん日本語でオリジナル小説を書いているアマチュア小説家の中でもかなり珍しい環境だ。私の日常生活で関わるほとんどは外国人だし、しかも単一民族ではない。ヨーロッパの生活、人々、考え方や生き方の違い、テーマには事欠かない。

自分らしい物語を紡ぐのにこれ以上の環境があるだろうか。
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Posted by 八少女 夕

【小説】羊のための鎮魂歌

シリーズ物の中では、楽しんで書いている、イギリス人オースティン氏と愛犬グルーバーものの第一作です。湖水地方は、また行きたい所です。




ジョン・ヘンリー・オースティン氏はどちらかといえば変わった人物といってよろしかった。その風貌は別にどうということのない、かといって見過ごしていいほど平凡でもない、わりときちんとした紳士だった。ロンドン動物園の近くの小さなフラットに、こざっぱりしたインテリアの中で彼の犬と二人きりで住んでいた。彼はとりたてて散らかす性質でもなかったので、週に一度掃除や買物に来てくれるマッコリー夫人はオースティン氏や彼の愛犬のグルーバーの暮らしぶりにけちをつけたりはしなかった。

実際、グルーバーが来るまではオースティン氏は物静かな、つまり無害な紳士と思われていただけで、変わっていると言われたことはなかった。彼が「どちらかといえば変わった人物」という評価を受けるようになったいきさつはこうである。

彼の母親が(若くして)亡くなると、オースティン氏はすぐに犬を貰いに保健所へ行った。(彼の質素で控え目な性質は、彼にあえて血統書付きの犬を買う気をおこさせなかった)彼の母親は大の犬嫌いで、決して犬を飼う事に同意しなかったのだが、オースティン氏自身といえば物心も付かぬうちからどうしても犬を飼いたいという欲求にかられていたのだった。

彼は犬の血統や種類には一切こだわりを持たなかったが、たった一つだけ重要と思う点があった。彼は賢い犬と暮らしたかったのである。そこで、オースティン氏は自分を見た時の犬の反応で飼う犬を決定しようと、少々変わった格好で保健所に赴いたのだった。

他の犬たちがワンワンキャンキャンと騒ぐ中、一頭だけ誹しげにオースティン氏を眺めていた犬がグルーバーだった。オースティン氏はその茶色くて、耳の垂れた雑種の小さな犬を家へ連れ帰った。が、その姿を見た隣人たちはびっくりして、可哀想にオースティンさんは頭がいかれちまったらしいよ、と話し合った。というのも、オースティン氏がメキシコ風のケープを纏い、頭にはピンクのボンボンを付け、スコットランド風のタータンチェックのスカートにギリシャ風のサンダルをはいて、情ない顔をした仔犬を連れて歩いていたからである。が、翌日いつも通りこざっぱりとしたスーツで身を包んだ彼の礼儀正しい挨拶を受けてほっとした隣人たちは、オースティンさんは実は変わり者だったのだと結論した。もちろんほっとした中にグルーバーが入っていた事は言うまでもない。

グルーバーが来た事をマッコリー夫人は歓迎した。夫人が犬好きであった事も確かだが、実をいうと掃除も楽になったからだった。オースティン氏は、それがリバティの布地を張ったソファーだろうと、十九世紀風のサイドテーブルだろうとお構いなしに煙草の灰を轍き散らしていたのだが、グルーバーは彼がボーっと煙を吐いているのを、黙って放っておくような犬ではなかったのだ。オースティン氏は、誰がこの家の主人なのかをはっきりさせようと何度か試みたが、ついに煙草はベランダでしか吸えないようにされてしまった。オースティン氏がそのことについてマッコリー夫人に相談すると、夫人までが即座にグルーバーの側についた。そのうえ、彼女はオースティン氏のコレクションである数々の灰皿をグルーバーが丁寧にもベランダに並べてしまった事に対しても、部屋中に散乱していた頃と比べると格段に掃除がしやすいと言って絶賛した。勢いよく全ての灰皿を夫人が洗っている間、
「どうしても吸いたい訳じゃないんだけどね」
そういってオースティン氏がみじめっぼくグルーバーを眺めると、一枚上手の同居人は無邪気な表情で尻尾を振って見せるのだ。

と、いう訳でオースティン氏はグルーバーと暮らすこととなった訳だが、実の所彼の楽しみといえぱ、ベランダで吸う煙草の他は、角のパブで飲むジンと、グルーバーを連れての公園の散歩、土曜日にたまに行くコンサートや、シーズン中に一番安い席で観戦するクリケットと、非常に地味なものだった。彼は無口で礼儀正しい紳士だったが、取りたてて面白おかしくもなかったので、日々は彼の回りで平凡に過ぎ行くのだった。彼自身そのことを不満に思った事はなかったが、たまにどうしても気分転換が必要になると、行った事もない土地へとふらっと出掛けたくなるのだった。

その日も、ふとオースティン氏は思った。少し北の方へ行ってみてはどうだろうかと。幸い今年は例年よりも暖かい。夏には観光客で様がわりしてしまう湖水地方も、この初春にはきっとすてきだろう。グルーバーも喜ぶに違いない。そこまで考えて満足したオースティン氏は煙草をくわえてライターを探した。と、グルーバーはすぐにやって来て非難がましくオースティン氏を見上げた。オースティン氏は観念してベランダへ向かいながら言った。
「おまえが気に入ることを考えていたんだがね」


次の週末に、オースティン氏はグルーバーと共にユーストン駅からグラスゴー行きの列車に乗りこんだ。乗り換えのオクスンホルムまで約三時間。楽しい旅の始まりだ。グルーバーはひたすら尻尾を振って窓の外とオースティン氏を代わる代わる見ている。オースティン氏も、にこにこ笑ってそのグルーバーを見ていたのだったが、途中駅で乗りこんで来た女性が斜め前に腰掛けるやいなや、少々威厳ある態度をとるようになった。というのは、その女性が素晴らしく美しかったからだった。黄金の穂麦のような豊かな髪。二つの純度の高いエメラルドでできた眸、カーマインレッドに縁取られた瑞々しくそれでいて涼しやかな唇。オースティン氏は窓に反射する彼女の姿をくまなく観察した。もっとトンネルがあればいいのにと、いつもと反対の事を考えたりしていた。グルーバーはそんなオースティン氏の態度の変化に少々戸惑ったが、やはり英国に住む者としての冷静さを失ったりはしなかった。

「羊が…」
女性はふと、夜の音楽のような声でオースティン氏に話し掛けるともなく言った。

「羊が…?」
オースティン氏は女性から話し掛ける許可をもらったと受け取って間き返した。
(グルーバーはもう少し様子を見るつもりらしかった)

「羊が…随分とたくさんいますわね」
オースティン氏は頷きながら初めて窓の外の羊に目を止めた。

「美しいところですわね、ここは…」
女性は目を細めてため息をついた。完璧な(完璧すぎる)クイーンズ・イングリッシュにオースティン氏は何か寂しげなものを感じ取った。

「羊のために…」
女性はひとりで続けた。

「羊のためにこの国が救われたという話を聞いた事がありますか」
「産業革命の事でしょうか」
言ってからオースティン氏は後悔した。女性は明らかにオースティン氏のこの散文的な答えに非難の目を向けていた。

羊は草を喰んでいる。オースティン氏は弁解の言葉を探して脳の中を掻き回した。適当なものが見付かる前に女性は続けた。

「羊はああやって草を食べてますわよね。人間がいろいろな事をやって忙しく生きている間も。そして、どんなに人間が望んでも、画策しても、あれほど平和にはなれませんわ」
「羊は受容の生き物だと間きました」
オースティン氏はグルーバーの小馬鹿にした目を避けながら言った。
「あらゆる生き物の中で、刃に喉を刺されるということまで受け入れてしまうのは羊だけだそうです」
「まあ。どんな状況でも受け入れてしまいますの?」
「そうきいています」
「知りませんでしたわ」
得意そうなオースティン氏を見てグルーバーは尻尾をびくっと振って見せた。

「ご旅行でいらしたのですか」
女性はオースティン氏の方に向き直って言った。

「はい。この愛犬グルーバーと一緒にね」
それからチャンスだと思って
「あなたは、ええと…」
「ダナー・コールレーンですわ。ミスター」
「失礼いたしました。僕はジョン・ヘンリー・オースティンと申します。ミス・コールレーンはやはりご旅行で?」
「旅行と言えない事もありませんわね」
コールレーン嬢はエレガントに瞳を伏せた。ミセスと訂正もせず。

「オクスンホルムで降りられるのですか」
オースティン氏は予定変更も辞さない覚悟で訊いてみた。

「ええ、ケンダルヘ行くつもりですの」
…湖水地方だ、万歳。オースティン氏はすっかり浮かれている。グルーバーは注意深い様子でコールレーン嬢を観察していた。

オースティン氏はふと気がついた。これまでのグルーバーだったら、とっくに相手に対する態度を決めててもいい頃だった。尻尾を振っているか、吠え立てるか、あるいは全く無視するか。オースティン氏のこれまでの経験によると、グルーバーはどちらかというとヒト科の動物の外見上の形質の相違には無関心な方であった。美人だからどう対処していいか迷ってるということは考えにくかった。…じゃ、何だ?

「ちょっと失礼しますわ」
オースティン氏の思索を断ち切るようにコールレーン嬢は立ちあがり、車両のドアを出て行った。オースティン氏はもちろんのこと、グルーバーも又、英国に住む者として無関心を装うことを怠ったりはしなかった。

ところが、ダナー・コールレーン嬢は、それきり戻って来なかった。列車がオクスンホルムに着く頃になっても。
「どうしたんだろう。グルーバー」
「ヴァウ」
「ケンダルヘ行くと言っていたよな、確か」

列車はとうとうオクスンホルムの駅に静かに滑り込んだ。オースティン氏は意を決して自分のカバンとコートと帽子を取った。グルーバーも立ち上がった。オクスンホルムの駅は柔らかな光が差し込む、明るい駅だった。隣のホームには三面編成の古めかしい列車が慎ましやかに待っていた。湖水地方、ウィンダミアヘ向かう小さなその列車にオースティン氏はためらいながら乗った。あの目のさめるような黄金の髪をした女性の姿は見あたらなかった。

(彼女は、降りなかったんだろうか?)
オースティン氏はがっくりと肩を落として今にも壊れそうなビロード張りの席に腰を埋めた。グルーバーは何だかほっとした顔をしている。二十分ほど待ってから走り出したウィンダミア行の列車はじきにケンダルに到着した。湖水の見えるウィンダミアヘこのまま当初の目的通りに行こうかとも思ったが、列車はまるでオースティン氏とグルーバーが降りるのを待っているかのごとくなかなか発車しようとしない。

(…ええ、ケンダルヘ行くつもりですの…)
オースティン氏は立ち上がった。するとグルーバーはさっと列車の窓から降りてしまった。そこでオースティン氏も心を決めてドアを開けた。

ケンダルの小さな駅は、人影もまばらであった。無人の改札を抜け、行き交う人も少ない小さな町をオースティン氏とグルーバーはゆっくりと歩いた。町というにはあまりにも可愛らしく、すぐ近くは既に沢山の羊の姿があちらこちらに見える田園風景が広がっていた。オースティン氏はB&Bを探してゆっくりと歩いた。

犬と一緒でも構わないと言ってくれる宿はじきに見付かった。オースティン氏は宿の女主人に三日分の宿代を払い、簡単に荷物を整理すると、夕食には戻ると言ってグルーバーを連れて散歩に出掛けた。

陽射しは暖かく、緩やかに丘への道が続いていた。牧草地を区切る低い石垣。時折見かける家も、きらきら光る小川にかかる小さな橋も皆同じトーンの石で出来ていた。質素な造りの大地と対照的に瑠璃石で出来ているかのように深いブルーの空がダイナミックに広がっていた。

グルーバーは元気に駆け出した。いつもはよく出来た執事がふいに子供にかえったようだった。その姿を見て、オースティン氏はいつまでもコールレーン嬢の姿ばかり求めていては旅行が台無しになると思い直した。山も渓谷も、求めていた以上の美しさと静けさでオースティン氏を待っていたのだった。
(ロマンティックなことをむしよく考えていたのが間違いだったんだな)

しばらく行くとやはり石垣と同じ石で出来た大きな遺構に行き当たった。廃屋というには大きく、城跡というには小さすぎる。ただ、そこに有ることが妙にふさわしい不思議な存在感だった。

グルーバーはふと、先程コールレーン嬢に見せたのと同じような考え込む態度を見せた。オースティン氏がおやと思ったのもつかの間、グルーバーはさっさと丘を登って行ってしまった。丘の上は風が吹いていた。遥かにウィンダミア湖をのぞみ、平和の支配する穏やかな時間が眼下に広がっていた。羊の大軍はそれぞれに、けれど一定の軌跡に導かれるように緩やかな流れに添って移動して行く。

(…羊が随分と沢山いますわね…)
(…美しいところですわね、ここは…)
オースティン氏は列車の中ではぴんと来なかったコールレーン嬢の溜息のまじったような想いをはじめて実感した。同時に、この共感を味わえるあの女性に(ただの美女ではない、感性の研ぎ澄まされたコールレーン嬢に〉ぜひもう一度会いたくなった。

日が暮れてきたので宿に戻ると女主人のホークス夫人が温かいキドニーパイを出してくれた。
「随分歩いてらしったからおなかも空いたんじゃあ、ありません?」
「そういえばペコペコだ」
「湖水池方は初めての様ですね。いい所でしょう」
「ああ、本当に。でも、どうして初めてとわかったんですか?」
「なんとなくね。夕食の時間も忘れる程ここの風景が魅惑的だったんでしょう。初めての方は大抵そうなるからですよ」

オースティン氏は少し赤くなった。確かにダイニングに居るのはオースティン氏とグルーバーだけだった。そこでオースティン氏は名誉挽回に力をいれた。

「うん。このパイの味にもね。こんな美味いキドニーパイは初めてだ。ついに大英帝国もグルメヘの道を目指し始めたのかな」
「ここに泊ってくれるお客さんは皆そうおっしゃいますよ、ミスター。特に外国の人はね」
「へえ、外国のお客さんも多いんだ」
「多いとは言えませんがね。時折いらっしゃいますよ」

ホークス夫人は、オースティン氏がすっかり空にした皿と、同様なグルーバーの皿を片付けながら言った。マッコリー夫人同様ホークス夫人もまた、グルーバーの愛敬ある、しかし控え目で堅実な態度がおおいにお気に召したようだった。そして、その飼い主であるオースティン氏への評価も夕食に遅れるという行為の割には比較的高いものだったようだ。というのも、オースティン氏本人は伺い知れぬことながら、この日のホークス夫人の客の中でもっとも大きなデザートのプディングの一切れを食べた人類はオースティン氏だったからである。
(但し哺乳類の中では彼の友人が多少勝っていたが)


次の日も、オースティン氏は朝から昨日の丘に行って見ることにした。夕暮れの美しさもさることながら、こんな天気のいい朝の風景もぜひ見てみたいと思ったからだった。大英帝国の誇るブレックファーストもそこそこに(ただしこの朝食もまた絶品だった。自家製のブルーベリージャムも、程よい硬さのプレーンオムレツも、付け合わせの豆や塩辛すぎないベーコンも、そしてもちろん紅茶も)オースティン氏は宿を出た。

昨日と違って、わかった道のりは呆気ないほど短かった。随分と遠かったと思っていた例の遺構にもすぐに着いてしまった。オースティン氏は昨日よりも少し落ち着いてこの石づくりの廃墟を見てみることにした。

「昨日は気づかなかったけど随分激しく壊れてるなあ、グルーバー」
オースティン氏はほとんど土台しか残っていなかった裏側を見て言った。

「それに、これは煤だ。石造りの家なのに火災があったのかな」
だが、グルーバーはそれには応えず、急に別の部屋(のあった所)ヘと走って行ってしまった。
「グルーバー!」

グルーバーの吠え声を追ってオースティン氏が廊下を越えて一つの部屋に入った時、その部屋のもう一つの出口からスッと誰かが出て行った。
「あっ!」
オースティン氏は慌てて、その出口に走った。その外はまた廊下で、突き当たりには二階へは昇れない階段があるばかりだった。(いまや二階はなかったのだ)何処に行ったのか、オースティン氏の追った人物は影も形もなかった。
「そんなばかな…」
オースティン氏は、人物が消えた事よりも、一瞬だけ垣間見たその人物の後ろ姿にショックを受けていた。

「グルーバー、あれは…」
黄金の穂麦のような豊かな髪、上質のウールのフレアースカート、すらりとした背中。列車のドアへ消えていった後ろ姿。
「コールレーン嬢…」


「ああ、あそこにいったんですか」
昼に食事に戻ったオースティン氏は、矢も盾もたまらずホークス夫人に例の遺構について訊いた。ホークス夫人はしばらく黙っていたが、やがて、あたりを見回した。

「ここはね、オースティンさん。このケンダルには」
夫人の声はいつもからは考えられないほど小声になっていた。
「時おり密国者が来ていたんですよ」
「密国者?どこからの?」
「アイリッシュなまりのね」
「ああ、マン島経由の船が近くを通ってますよね」
「そうなんですよ。それがどうやらね、ヘイシャム行きの船に乗り込んだ物騒な方々がね、ウォルネイ島に一番近いところで海に飛び込んで、グランジ経由で英国に入っていたらしくて、このケンダルにもそうやって忍び込んだ密国者の根城あったんですよ」
「それがあの石造りの廃堀なのかい?」
「そうですよ。グラバー子爵の別荘だった事もある由緒あるお屋敷だったんですがね。子爵が破産して以来すっかり狐狸の住処みたいになってて都合がよかったんですかね」

「煤だらけで二階から上がなくなってた」
「それはもう、大変な騒ぎでしたよ。私ら田舎者はあんな大音響を産まれてからこのかた一回も聞いた事が無いでしょう。爆弾が一斉に爆発して二階から上は木端微塵ですよ。この世の終わりかと思って、慌ててお祈りを始めたのは多分あたしだけじゃありませんよ」

ホークス夫人の声は何時の間にかダイニング中に響きわたっていた。オースティン氏はひとりの客が、この話を熱心に聞いている事に気付いた。ホークス夫人は、オースティン氏の眼線でふと我にかえり、この話は少し尻切れとんぼで終わってしまった。

オースティン氏はさりげなく客の方を見た。ツイードのジャケットを堅苦しく着た中年の紳士だった。やはり、オースティン氏の事が気になるらしく、時折こちらを見ている。

午後になってオースティン氏は、もう一度グラバー子爵邸跡へ行ってみる事にした。あの場所に行けば、コールレーン嬢に会えるという不思議に強い確信があったのだ。先程はどこか近くにいて、ただオースティン氏がその存在を見過ごしたのだと。もう一度会ったら、ここがどんな事のあった所だか教えてあげよう。知らなかった事を教えてくれる旅の男に驚き、見直し、彼女は自分の事に関心をもってくれるだろう。

グルーバーは気が進まない様子だった。オースティン氏はグルーバーの事を大変気に入ってはいたが、グルーバーが時折毅然としてこうした分別ある態度を見せると、何が何でも自分に決定権があることをはっきりさせたいと感じるのだった。
「おまえにとってはコールレーン嬢も、スマトラの森の人もたいして違わないんだろうけど、それは絶対的に間違っているよ」

グルーバーは賢くも必要以上に逆らったりはしなかった。そういうわけで、オースティン氏は午後も午前中と同じ場所にいた。アイルランド紛争の拠点だと思うと、廃虚ながらもその場は重みをもって感じられた。

「オーステッドさんと言いましたっけ」
ふいに後ろから声がしてオースティン氏は振り返った。例の中年の男がいつの間にか立っていた。

「いえ、ジョン・ヘンリー・オースティンと申します。あなたは確か宿でお会いした…」
「はい、失礼致しました。私はジョセフ・マクホールと申します」
マクホール氏は控え目ながらも、しっかりとした意志を感じさせる紳士だった。眼鏡をかけ、白く整った歯並びが知的な印象だった。オースティン氏は気後れしまいと多少焦りながらマクホール氏をみつめた。

「後をつけるような真似をして申し訳ありません。ただ、あなたがここに興味をもっているようだったので」
「いけないことをしてしまったのでしょうか。私はただ、一介の旅人としてここに興味を持ったのですが」
「いえ、いけないなんて事は。私もそうですから」
「ここについて何かご存知なのですね。先ほどからそんな気がしていたのですが」
「お話ししてもいいが、私の知っている事にあなたの興味があるかどうか」
マクホール氏は眼鏡をずらして言った。少し遠い、悲しい眼をしながら。
「私のこれから話すことは政治の話というよりも、ひとりの人間の生き方の話なのです。そう思って聞いてくだされば、そして、この地を去る時に忘れていただけれぱ一番有り難い」
「忘れる?」
「そうです。何も話さずにここに近づかないでくれと言ってもあなたは納得しないでしょう。だから、一度話します。でも、あなたはお見受けしたところ紳士だ。私が忘れてほしいという意味がわかってくれると思う」

オースティン氏は妙な気持ちになった。マクホール氏はばつの悪そうなオースティン氏に構わずに話し出した。
「あなたはアルスターの事を何か知っていますか」
「アルスターというとUDA(アルスター防衛連盟)の?」
オースティン氏はホークス夫人の言葉を思い出しながら言った。
「至極もっともな反応だ!実に現代的だ!そして、核心をついている!」
マクホール氏は眼鏡を光らせた。

「そうですよ。オースティンさん。この場所と私の専門のケルト文明を結び付けるのは、散文的にも現在に至るアイルランド紛争なのですよ」
「専門というとあなたは学者なのですか」
オースティン氏はこれ以上この男にふさわしい職業はちょっと無いなと思いながら訊いた。
「ええ。でも、大学の教授のような立派な仕事をしているのではなくて、地方の小さな高校で教鞭を取る身です」
マクホール氏は少しはにかんだ。

「どうしてここが、ケルト文明やあなたと関係があるのですか」
「厳密に言うとアルスターの王の娘エーティーンの伝説を私は研究しているのです。アルスターというのはご存じかもしれませんが、北アイルランドにあった古代王国です。エーティーン伝説は簡単に言うと地母神の再生神話で、繰り返し生まれかわり人と女神の間を行き来するのです。多くの伝説でそうな様に大変な美女で、こんな風にたとえられています。

『彼女の髪は夏のあやめの花、あるいは磨いた純金の色だった。手は降ったばかりの雪の様に白く、頬は山ジギタリスのように赤かった。眉は甲虫のように黒く、歯は真珠の列、眼はヒヤシンスの青。エーティーンと比べるまでは誰でも美しく、エーティーンと比ベるまでは誰でも愛らしいブロンドだ』」
「見事なものだ。よくそらで言えますね」
オースティン氏は落ち着かない気分で言った。いま滔々と述べられた女神をまるで自分が知っているような気がして、伝説と現実の境めを見失った事を少し恥じながら。

「どういたしまして」
マクホール氏はさらりとオースティン氏の嫌みをかわして言った。
「古代のケルト人はもっと多くをそらで言えました。彼らは頭のなかに書庫を持っていたと言われていますからね」
「それで?ここが、その伝説の地なんですか」
「そうだとは言っていません。そうでないとも言えませんがね。だってストーンヘンジもランズエンドもケルト文明の残照だと世界中が認めているんですからね。ここだけケルト文明が及ばなかったとどうして断言できます?」
「…」

「いや、しかし、私がここにこだわるのはね、オースティンさん。私にとってのエーティーンが、ここで息たえたからですよ」
「エーティーンが?」
「ええ、ケルトの濃い血をひき、エーティーンの名にふさわしい美しさを持った少女でした。エーティーンとしてではなくむしろ、イケニのブーディカ、ローマ帝国に抵抗して戦ったあの女王のように死んだんですがね」
「戦って死んだ?」
「彼女は、IRA(アイルランド共和国軍)の工作員としてこのケンダルにやってきたんですよ」
「IRA!」
「本当のIRAだったかはともかく、この場所は密入国者たちの拠点でした。ここで仲間がおちあい、ロンドンに向かい市街で大掛かりなテロ活動を展開するばかりになっていたのです。彼女は、ただの工作員としてだけでなく、その生まれと美しさの両方を見込まれて、北アイルランド独立のシンボルとして、圧迫されたアイルランドの民の再生の象徴としてその後利用される事になっていたはずです」

「いつのことですか」
「もう十四年も前の事ですよ」
「あなたがその女性を知ったのは…」
「その時は気がつきませんでしたがね、彼女の人生の上では実に劇的な場面で出会ったのです。彼女が密入国してきたその夜、私は試験に失敗してやけっぱちになっていました。夜中に人目を避けて隠れ家を探す美女と死に場所を探していた青二才がこの丘でばったり会ったんですからね。彼女は妙にきちんとした英語を話したので、私にはすぐ外国人だとわかりました。それもものすごく訓練されたね。アイルランドから来たのだと分かったのは名前を聞いた時でした」
「名前…」
「本名かはわかりません。でも彼女はダナーと名乗ったのです」

「!ダナーですって?」
「そうです。ご存知ですか」
「いや、そんなはすは…」
「ダナーというのケルト神話の大地母神です。ケルトの神々はトゥアサー・デー・ダナン、つまりダナー女神の子供たちとされています。私はこの名前を聞いた瞬間に、試験の事を完全に忘れました。あの日彼女に会わなければ、死ぬことはとりやめていても、少なくとも研究はやめていたと思います。けれど目の前に、消え失せてしまったと信じていた生きた研究対象が出てきてしまえぱ、この研究を天職と信じてもおかしくはないでしょう」
「そうかもしれませんね」

「少し歩きましょうか」
マクホール氏はオースティン氏とグルーバーを連れて丘を登った。午後の穏やかな風が優しく頬を撫でる。オースティン氏は辛抱強くマクホール氏が続きを話し出すのを待った。

「彼女と会うことが出来たのはたった一週間だけでした。私が彼女の心を掴むことが可能かと思いはじめていた時に彼女は人生と使命の両方を終わらせてしまったのです。二人でこの丘に登り羊を見ました。彼女は泣いたのです。羊が故郷のと一緒だと言って。この国に、恨み続けてきたこの国に自分の愛した故郷と同じ羊がいるとは思ってもいなかったと言って」

「『人間が望んで、画策してもあんなに平和にはなれない』…」
「そう思ったのでしょうかね。彼女は悲しい目をするようになりました。時間がないと言って。そして、ついにあの前日に私に身の上を打明けたのです。古代アイルランドの血をひくものとして育てられた事、自由を抑圧された幼かった日々の事、差別を受け、仕事や土地を奪われ、尊厳までも踏みにじられ、イギリスを恨み、敵の首都をテロで破壊しクーデターを起こそうと言う人々の申し出に賛同したこと。そして二日後にはそれを実行する手筈になっていることも」
「でも、実行されなかった」
「そうです。彼女は実行させないために、隠れ家ごとふっ飛んでしまったのです。もしクーデターがおき、軍隊も出動するような事になれば、きっと被害を受けたであろうこの国と自分の国の両方の羊が、今までと同じように平和に生きていくために」

「それから、どうなったのですか」
「サッチャー政権がその年の七月に北アイルランド分権法案を発表して自治政府設置に向け動きだしました。少なくともそれを契機にここには再び武器が運び込まれることはなくなりました」
「あなたが忘れてほしいと言ったのは、この事件をなかったものとして彼女の名誉を守りたいという事なのですね」
「ええ、二国間のトップは当然知っていますし、その中でもう不問とされているこのテロ未遂事件が今さら公にされてしまうと、アイルランドにいるであろう彼女の家族や知人にも迷惑がかかると思います。私は彼女のためにそれを阻止したいのです。それに、彼女はIRAに所属していたと信じ、アイルランドの開放のためにここへ来ましたが、彼女を利用しようとしていた組織が実際何で、その本当の目的は何だったのかという事も私には分かりません」
「私は新聞記者ではありませんから安心してください」
「感謝します」
マクホール氏は小さく頭を下げた。

「私の時間はあの時に止まってしまいました。大字を卒業してすぐにここに移り住み、することといったら授業と、研究と、そしてこことの往復です。研究にはこの田舎では事欠きますし、村の中でも私は変わり者で通っています。ホークス夫人はよくしてくれますが知合いも少ないほうです。ただ、可笑しなことですが、ここにいればダナーの想いや悲しみを受けとめられ続ける様な気がしているのです」
「きっとそうだと思いますよ。私も彼女はここにすっと居ると思います。すぐ近くにね」

オースティン氏とマクホール氏はゆっくりと丘を降りた。途中でグルーバーがいないことに気づいたオーステイン氏はマクホール氏に先に帰ってもらうように頼んで愛犬を探しに行った。

「グルーバー!グルーバー!まったくどこにいっちゃったんだろう」
グラバー子爵邸跡を通り過ぎて、ふと気になって中を覗き込んだ時、ふいに聞えるはずのない声が聞こえて、ぎょっとしてオースティン氏は足を止めた。

「おまえは私の心持ちががわかる犬ね」
間違えるはすもない。コールレーン嬢はここにいるのだ。オースティン氏は震えた。
「あの列車でおまえが羊を見ていた眸に私は惹かれたの。人には決して感じられない自然との同一感に」
「ヴァウ」
「おまえの御主人は言っていたわ。羊はどんな状況でも受け入れるって。そうかもしれないわね。恐ろしいテロの結果起こる国の荒廃も自らの死も」
オースティン氏はゆっくりとその部屋に通じる戸口へと向かった。

「私は幼くて幸せだった頃、こことよく似た土地で過ごしたの。惨めだった都会での生活を忘れさせてくれたのがこの湖水地方だったわ。私は心から幸せになれたのよ。ここに来ただけで。そして、自分以外の人を大切に思うことも学んだわ。自分を幸せにしてくれる人や自分と利害の一致する人、そんな人だけが大切なのではないことを知ったのよ」

オースティン氏が部屋にゆっくりと入ると、グルーバーがそこに座っていた。そしてコールレーン嬢は微笑んでそこに立っていた。オースティン氏は震えている自分をなんとかしたかった。コールレーン嬢はどうみても生身の人間だった。竪琴も持っていなければ、翼も、頭の上の輪もなかった。

「私はここにいます。あなたや他の誰かがそれ望まなくても。オースティンさん。ここで、羊と一緒に生き続けたいのです」
「ミス・コールレーン、ああ、教えてください。あなたはいったい生きているのですか、それとも…」

しかし、コールレーン嬢は答えなかった。黙って微笑むとゆっくりと踵を返し、普通の人間と同じように戸口から出ていった。オースティン氏は追わなかった。彼女の正体を突き止めるような真似は、それこそマクホール氏の言っていた『紳士』としての行動にふさわしくないように思えたからだった。グルーバーも今度は吠え立てたりしなかった。

それきりオースティン氏とグルーバーは二度とコールレーン嬢に会うことはなかった。ホークス夫人の宿でマクホール氏に会ったときもオースティン氏は誰かに会ったとは言わなかった。三日間の休暇を何事もなく終えてオースティン氏とグルーバーは湖水地方を後にした。

帰りの列車の中からも羊たちが見えた。絨毯のように均一に広がる牧草地のなかを羊はのんびりと歩いていた。政治も、信条も、宗教さえ越えた平和のなかを。

オースティン氏は、もう一度コールレーン嬢の事を考えた。グルーバーは知っている様な気がした。マクホール氏は彼のダナーは死んだといった。言ったけれどそれは表向きなのかもしれない。あるいは、コールレーン嬢はマクホール氏のエーティーンとは別人なのかもしれない。それとも、オースティン氏の出会ったのはもう生きていない人だったのかもしれない。それとも幾度もうまれかわり、人と女神の間を行き来するエーティーンそのものだったのだろうか。その真相をヴェールの彼方に暈しておく事が、マクホール氏の、あの土地で年を重ねていく一人の純情な男のたったひとつの願いかもしれないと、オースティン氏は心の中で納得した。

「また、いつか来よう、グルーバー」
グルーバーは凛々しくすっと首をたてて、窓の外の羊たちを見守っていた。


(初出 :1995年3月 同人誌「夜間飛行」第3号)
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Posted by 八少女 夕

【小説】ラ・ヴァルス

最初にオープンにするのは、1994年に同人誌で発表した短編です。一人で誰にも知られずに書いていた私が、覚悟を持って人目にさらした記念すべき作品なので、ここでも一本目として公開する事にします。




渦巻く雲の切れ目から、
ヴァルスを踊る人々の何組かがきらめいて見える。
雲は少しずつ散ってゆく。
旋回する人びとと群衆にみちた広大なホールが見える。
場面は次第に明るくなる。
シャンデリアの光は力強くさんさんときらめく。
一八五五年ごろの宮廷である。
         モーリス・ラヴェル「ラ・ヴァルス」


白いサテンのシューズを荷物に詰める時、雪羽はしばらく動けなかった。つやつやと光るその靴を彼女はもう四年も触っていなかった。汚れ防止のために貼ってあったセロテープをはがし、ヒールカバーをとると、それはまるで新品の様にきれいになった。雪羽は、だが、その霧の様に美しい靴を見ても幸せな気分になることはなかった。むしろ、想い出ゆえにこれからの幸せな旅行に不安を抱いた。雪羽は大学時代の競技ダンス部での辛い訓練とそれに伴わなかった成果の事を故意に記憶の底に沈めていた。ダンスなんか嫌いだと、口にこそ出しはしなかったが、人が
「大学でなんのクラブにいたの」
とか、
「昨日、テレビでダンス選手権やっていたね」
とか言ってくれる度に、口ごもり、力なく微笑んだ。それ以外にどうすることが出来るだろう。

雪羽は、決して一人では踊ることの出来ないスポーツの世界で相手を持たなかった。それはコンプレックスになり、もともとそう積極的でなかった彼女をより一層蝕んだ。単にダンスをやりたがる女性の人口が男性よりも多いというだけで、相手がいないということ自体が悪い事だったわけではない。ただ雪羽はほかの同じ境遇の多くの女性のようにすぐにやめていくチャンスに恵まれなかった。たまたま短大生のように二年で卒業する訳でもなく、また、大会運営に関る仕事を引き受けていたということもあって、自分が参加することもできない競技会での成績だけを皆が追及するクラブにずっと居続けたのだった。

雪羽はそのクラブに居ることが精神衛生上よくないことだと、その時すでに認識していたものの、何かを変えていこうだとか、それかできなけれぱせめて自分が変わっていこうといった強さを持たない人間だった。
大学を卒業してからも、雪羽はその想い出から逃げ、ダンスを踊れるというひとつの特技までも否定していた。だから彼女は、最後に買ったダンスシューズすら、戸棚の奥に今までしまいっぱなしだった。

(これをまた履く日が来るなんて、あの頃は思いもしなかった)
雪羽はゆっくりとそのすべすべとしたカーブをなぞった。今度は、相手がいる。この世で一番尊敬し、誰よりも側にいたいと思う人と、仕事とはいえ一緒にウィーンに行き、舞踏会にも出席するのだ。それなのにこの不安な気持ちはいったいどうしたことだろう。雪羽はいぶかった。もはや、幸せを幸せと受けとめられないほど、トラウマが闇に変わり、心に巣喰っているのだろうか。雪羽は突然に降ってわいたような幸運に影を感じるのだった。カタストロフィの法則にのっとり、幸運が訪れるのが急であればあるほど、想いの進むのが速ければ速いほど大きな落差でもって崩れて行きそうな気がするからであった。

そう信じていたからこそ、雪羽は心と裏腹に、東城に出来るだけ事務的に接するようにしていた。
恋をしても、その事を口にしたり、態度にあらわさなければ、それが実を結ぶことがないのは、雪羽もよくわかっていた。だが雪羽は気持ちを示すことで、いま現在よりも距離を置かれるようになる可能性の方を恐れた。
ダンスシューズを強く鞄に押し込み、雪羽はきっぱりとジッパーを閉じてしまった。


東城但は日本人に珍しいスマートな雰囲気を身につけた青年だった。燕尾服の似合うタイプだ。姿形もそうだが、何よりも顔を見ただけで分かる教養と、嫌味のないストレートな人柄が誰からも好かれた。したがって、多くの女性にとっては高嶺の花であり、しかもそうと知っても憧れずにいられないのだった。雪羽は自分もそんな女性の一人だと思っていた。仕事の関係で職場では一番彼に近いとはいえ、彼が見せようとはしない、私生活の中まで入り込めるとは到底思えなかったし、そうしたいとも思わなかった。

ただ、飛行機の隣の座席で眼を瞑り、静かな寝息をたてている東城を見ながら、この瞬間において、誰にも邪魔をされずに時間と空間を共有できることを感謝した。

雪羽はなかなか寝付かれなかった。星空の中を東城を見ながら飛んでいるという状況が、雪羽の体中に呪文を掛け、睡眠を拒否した。雪羽はイヤホンをつけ、ミュージックサービスのつまみを回した。クラッシック音楽のチャンネルでは、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」がゆっくりと始まったところだった。蠢くオーケストラのかなたから、ゆっくりとワルツのリズムが浮きあがってくる。はじめはそよ風のようにゆっくりと、次第に有無をいわせぬ強引さで、リズムは聴衆を別世界へと誘う。

閉じた眸の奥底で雪羽自身がワルツを踊っていた。イマジネーションの彼方で踊るワルツは妙に現実味を帯びていた。滑るようになめらかに旋回していくその感覚は雪羽にとって決して想像ではなかった。

雪羽は憶えていた。かつて練習会で踊ったステップ。スタジオに個人的に習いに行って、おどおどしながらならったルーティンをつづけて素晴らしく踊れた時のこと、どこから何処までが自分で、何処からが相手なのかわからなくなる程の不思議な一体感、そしてこれを恍惚というのだと悟った時の感覚。たった一瞬だけ許された雪羽へのダンスの世界への招待。けれど、雪羽はそれ以上ダンスの魅力を知ろうとはしなかった。ダンス部が実際にそうした以上に雪羽のほうがダンスを拒否し、スタジオへ習いに行くことも直にやめてしまった。

だが、あのワルツの感覚だけは雪羽の中に確かに息づいていた。「ラ・ヴァルス」の激しいオーケストラが絢爛なる舞踊を描き出す中を彼女は踊っている。廻っている。ステップを踏みしめている。狂喜とも思えるクライマックスの後、突然打ち切られたこの曲の世界から雪羽が戻って来るまでにしばらくかかった。それから、ふと横を見ると、先程と少しも変わらない静かな寝息をたてて、東城が眠っていた。そうか、と雪羽は急に気持ちの高波がおさまるのを感じた。哀しい愛しさだった。この人はここにいる。そしてここにわたしもいる。雪羽は自分の中で今まで暴れていたワルプギスの夜のよう感情と、今ここにある静かな愛情が同居する事に驚異を感じていた。星空は光の海を抱えて緩やかに広がっていった。小さな、本当に小さな存在に過ぎぬ飛行機は、永遠の静寂の中を幽かな跡を残しながらゆっくりと異国へ進んでいた。


「どこで舞踏会が開かれるか知ってるかい?」
東城は雪羽の顔を覗き込んだ。タクシーは初めて来たウィーンの街をまるでいつもの事のように通り過ぎ、雪羽たちをホテルまで連れてきてしまった。仕事で来ているからだろうか。それとも、東城が少しも不安がる必要のないほど自然に慣れた足取りでここまで連れて来てくれたからだろうか。

「さあ。大体、どうして舞踏会に出席するのかも知らないんだけど」
雪羽は出発まで忙しくて口に出来なかった問いかけがやっと出来る事にほっとしていた。雪羽たちの仕事は本来会社がこれから事業所を開設するウィーンの視察と契約、新しく仕入れる商品のメーカーとの打ち合わせをすることだった。出発の十日前になって、東城から
「確か、珠洲くんはダンスを踊れたよね?」
と訊かれて、滞在の最後の晩に私用で出席するというパーティの相手役を引き受けたものの、詳しい内容を今までききそびれていた。

「東城さんて、舞踏会に出席するようなつながりが海外にあるんですか?」
「ウィーンにだけだよ」
東城はほんの少し遠い眼をした様に見えた。
「昔住んでたからね」

初耳だった。雪羽は黙って東城の顔を見つめた。そして、まるで自分が大学のクラブの事を言われた時のような空気を感じ取り、それ以上訊くことが出来なかった。誰にも話そうとはしない過去を自分だけではなく、幸運の女神に溺愛されているような東城すらも持っているのかという事が雪羽には意外だった。雪羽は話題を舞踏会の開かれる場所についてへと戻した。

「シェーンブルン宮。十八世紀に建てられたハプスブルグ朝の夏の離宮だよ。六歳のモーツァルトがマリー・アントワネットの前で演奏した舞台だ」
「そんなすごいところで舞踏会を開くのは誰なんですか」
「市長だ。ただし、舞踏会は王宮でも頻繁に開かれるからね。そんなにすごい舞踏会じゃないんだ。市長の一家がある程度個人的な知合いを中心に呼んでるみたいだよ。僕はこっちにいた時に市長の息子のヨーゼフと親しくしてたんだ。それで、出張するって連絡したらどうしても来いって」
「私、東城さんがここに住んでたなんて知りませんでした。もし知っていたら、のこのこ一緒に舞踏会に行くなんて言わなかったわ」
「どうして」
「こちらにいくらだって、パートナーになってくれる女性がいるでしょうに。私がダンスが踊れるというのは、日本人の平均的な感覚で言っただけで、ウィーンの社交界でのレベルじゃ話が違うわ。東城さんに恥をかかせすに済むかなあ」
「大丈夫だよ。普通のパーティと一緒だよ。困らないように横にいてあげるし、話題が分からなかったら、ちゃんと解説してあげるから」
東城は笑った。

東城のドイツ語は思った通り見事なものだった。雪羽自身ある程度ドイツ語がわかるから今の部署にいるだけあって、ビジネスでは困らなかったものの、東城がメーカーの担当者相手にしていた雑談は向こうの学んだカント哲学の最近の学説についてだったので、雪羽にはちんぷんかんぷんだった。東城は食事の前に本屋へ行き、勧めてくれたという新刊を買っていた。

「仕事が忙しくて、しかも、その仕事が会社の歯車にしか感じられないような内容の時には、どんなに疲れていても、自分の時間を持って、足を地に付けられる本を読むことにしているんだ。バランスをとりたいからね」

雪羽には、彼の言っている意味がとてもよくわかった。バランス。自分という人間と、一社会人である事のバランス。頭と体の両方の疲れのバランス。どちらかに強く傾いている時に、もう片方を何も出来ない状態にしておくと、そのバランスはどんどん崩れ、やがて修復不可能なまでにどちらかだけの人間になってしまう。雪羽自身もずっとこう考えていたのだ。雪羽が彼に惹かれて止まないのは、容姿や有能さを差し引いても余りあまる、こうした考え方の近さだった。同時に、こうした時に、雪羽はひとつの希望を持つ。だが、その希望は確信へと変化することもなく、雪羽自身の手でいつも摘み取られた。五十センチ先を歩くコート姿の東城を見ながら、雪羽はその暖かい腕に顔を埋められたらどんなにいいだろうと思う。それを押しとどめるのもやはり雪羽なのだ。

舞踏会にでかける前、東城はドレス姿の雪羽にコートを着せてくれながら
「珠洲くんがこんなに綺麗だとは思わなかった」
と言った。そのいい方は、丁度会社の同僚が言う口調そのもので、内容からすれば有頂天になっても良いはずなのに、ここの数日いつも一緒でまるで特別な立場のような気のしていた雪羽は、自分が会社の同僚に過ぎない事を改めて認識して、少し哀しくなった。

(期待したり、諦めたり、こんな事はもうご免といつも思うのに、どうしてやめられないんだろう。ひとと関ることを嫌い、自分の中にこもることを納得したのならぱ、どうして一人で居ることに寂しさをおぼえるのだろう。ひとつひとつの出来ごとを当り前のように流していく事が出来れば少しは楽に生きられるのだろうか)

雪羽は燕尾服の上に颯爽とコートをはおっている東城の超然とした立姿をそっと見ながら、いや、そうではない、誰でも自分の中でそれぞれに想いを抱えて、でも人ともうまくやっていっているのだと思い直した。

(私は知らない事だけど、このひとにも過去の思い出と、現在に繋がるいろいろな蓄積と、そして、今だけの生活がある。一緒に居ればいるほどお互いの事を知ることは出来るけれど、それで距離が縮まるとは限らない)

ひとつだけ確かなことがあった。今晩、彼とワルツを踊ること。四年前の封印から解けたばかりの白いサテンのダンスシューズ。飛行機の中で感じた「ラ・ヴァルス」の絢爛な世界。ワルツ!薄い朱鷺色のドレス、白いサテンの手袋。確かにいつもより綺麗なはずなのに、雪羽の哀しさは消えなかった。カタストロフィがすぐそこまで来ている予感がした。あまりにも状況が完璧すぎたのだ。その思いはシェーンブルン宮殿に着いた時にもっと強くなった。ラヴェルの描写した「一八五五年ごろの宮廷」がそこに再現されていた。次々と集まってくる紳士淑女たち、ホールの彼方から高らかに響いて来るワルツのリズム。コートを預けたときに、雪羽は自分を守ってくれる世界そのものまでも渡してしまった様に心細く感じた。

東城はどうやら市長の息子のちょっとした知合いというだけではなかったようだ。広間に入った途端、東城と雪羽は大勢の若いカップルたちに取り囲まれたのだ。

「タダシ!いつウィーンヘ?」
「何でこっちに来たことを知らせてくれなかったんだ?」
「こちらのステキなお嬢さんは?」

雪羽は東城がこちらでこうした舞踏会に何度も出席するような社交生活をしてきたことを知った。しかも、会社で、日本でそうである以上に東城は皆に認められ、仲間として愛されていた。東城のとってくれたシャンパンをのみ、ほとんど意味のない微笑を振りまきながら、ドイツ語の会話を音楽のように聴き流し、雪羽は自分のことを訊くときの皆の態度が少し変だと感じていた。「マリエ」という単語が時折彼等の口から漏れた。やはり黒髪がいいのかという市長の息子ヨーゼフの言葉にも含みを感じた。

「どういう意味だか訊いてもいいですか」
「え」
東城は困ったように口ごもった。それで、雪羽は彼が知って欲しくないと思っている事について彼等が口にしたのだと気づいた。

雪羽はそれ以上訊こうとせずに話題を変えた。彼等も雪羽がドイツ語を理解して話せることにやっと気付いたらしく、それ以上意味深長なことは言わなかった。

それからたいした時間も経たずに彼等は東城と雪羽をダンスへと誘い、雪羽は東城の手に導かれてまばゆい光と熱気の中に進み出た。大きなダンスのうねりが二人とその友人のカップルを取り込み、悠々と流れていった。
東城は雪羽の踊ったことのある誰よりも上手にリードすることが出来た。雪羽の稚拙な技能を補って余り有るほどワルツに長けていた。だから、この東洋人のカップルはワルツの流れの中でひときわ目立ち、多くの人々の感嘆のため息と、羨望に満ちた女性達の青い視線を一身に受けて旋回していった。

雪羽にもワルツを楽しむ余裕ができて、他の女性たちのように右手でドレスの裾を持ち、そのシフォンが緩やかに舞うのを視線の隅に置きながらステップを踏んだ。それからふと、シャンデリアの眩しい光だけでない何かを感じ、東城を仰いだ。東城は、雪羽が驚いたことには、微笑みながら雪羽の顔を見ていて、眼が合っても視線をそらそうとはしなかった。

「上手いじゃないか」
雪羽は「ラ・ヴァルス」の恍惚に酔い、相手と自分の不思議な一体感に身を任せていた。東城の言葉が、ただのお世辞だとしても、今の雪羽には何のためらいもなく、笑顔で受けることができた。朱鷺色のドレスと白いサテンの靴が魔法を掛けてくれたかの様に、いつもの自分にはない自信がどこからともなく溢れてくるのだった。皆を追い越し、ヨーゼフ達仲間を従えて、広間の中央に来た時、高らかなクライマックスを迎えてワルツが終わった。
ワルツを一曲踊る間に、東城は完全に昔の仲間に戻り、雪羽も彼等の仲間に受け入れられ、自分自身も打解けていた。丁度あと一言何かを和やかに話せば、その輪が完成するといった雰囲気になったが、それは、雪羽本人も予期しなかった一瞬に打ち切られた。

ヨーゼフのパートナー、ヒルデガルトが
「あ」
といい、皆が彼女の視線を追った。広大な会場が一瞬全体で蠢いたように感じられた。ざわめきを超越し、全てを制するような厳かさで、品格と威厳の有る紳士にエスコートされた、素晴らしく目立つ女性が広間へと入って来た。シャンデリアの光を一身に受けてきらめく深紅と黒のドレス。高く結い上げた髪に輝くダイヤモンドのティアラ。その女性が真っ直ぐに自分たちの方へ歩いて来るのを見て、雪羽は驚いた。おもわず東城を見上げた雪羽は、彼の表情を見て取るやいなや、彼女こそ「マリエ」という名の人だと即座に理解した。

「男爵夫人、ようこそ」
ヨーゼフが恭しく彼女の両手にくちづけをした。居並ぶ若者はそれにならい、バートナーの女性らも尊敬をこめて彼女にお辞儀をしていった。そして、ついに東城が彼女の前に立った時、そして、東城と男爵夫人の視線がぶつかり、やがて、夫人の方から、
「タダシ…」
と、情感をこめた声で呼びかけたときに、雪羽はただ立ち竦むほかはなかった。

「あなたにもう一度会えるなんて思ってもいなかった」
「幸せそうだね」
東城は市長に挨拶をしている男爵の方を見て言った。
「ええ」
夫人は東城から視線を外さず言った。それから、ゆっくりと雪羽の方を向いた。雪羽は夫人の怜悧な美貌に射すくめられたように硬直してお辞儀をした。夫人は雪羽を見据えたままボーイの持ってきたベルベットのように紅いワインを受けとると一口飲み、それからゆっくりと東城に言った。
「あなたの今晩のパートナーなの?」
「ああ、珠洲雪羽嬢だ」
「そう」
マリエ男爵夫人はハンガリーの血筋を感じさせる気高い顔立ちだった。アラバスタのように白い肌に刻まれた灰色の眸は貴石を想わせ、深紅の唇はつややかで、やがて、その眸と唇がゆっくりと再び東城に向いて行き、
「あなたのパートナーが私以外の人間になるなんて想いもしなかったわ」
と、ため息を漏らした。雪羽はすぐにこの場から逃げ出してしまいたいと思ったが、それは出来なかった。

ワルツが始まろうとしていた。雪羽も他の誰もが、次のワルツの主役のカップルを知っていた。
誰かが雪羽にもダンスを申し込んだが、雪羽は疲れていると言って断わった。自分もワルツを楽しめぱいいのだと、心の何処かでもうひとり雪羽が鼓舞したが、そしてワルツを申し込んでくれた人にも悪いと思ったか、雪羽の心はもはや氷点にまで冷え込み、微笑んでステップを踏み出す力を残していなかった。

雪羽はうつむき、自分の足下に気付いた。右足のサテンがベルベットのように紅く染まっていた。弾かれるように夫人を見ようとすると、もはやワイングラスも持ってはいない夫人をエスコートして、東城がワルツの輪の中に溶けていく所だった。

雪羽はその場を離れた。紅く染まり、もう決して白くは戻らない靴。打ち砕かれた自信。たとえ、次の曲から東城がずっと踊ってくれようとも、二度とワルツを心から楽しむことはできないだろう。

広間の隅に立ち、心を沈めようとした。この感情には憶えがあった。クラブの最後の練習会で、
(もうこれからはこうして人が踊るのを惨めな気持ちで見なくてもいいんだ)
と、思った事。舞台は大学の教室からウィーンの宮殿に変わったものの、不思議な相似性をみせた。十八世紀の宮殿。一八五五年頃の宮廷。

リズムが揺れるたびに、視界はぼやけ、シャンデリアの光は輝きを増した。そして、マリエ男爵夫人も東城も、ヨーゼフ他のだれもかれも、ひとときの恍惚に自分の生活や、ままに為らぬ人生を忘れ、ひとつのヴァルスという生き物の一部になり、ホール自体が同調し、やがて踊りに加わっていない雪羽自身もその恍惚に飲み込まれていった。

(考えるのはよそう)
雪羽は宴の終わりを感じながらヴァルス輝きの美しさだけに酔おうとしていた。


(初出 : 1994年7月 同人誌「夜間飛行」第二号)
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Posted by 八少女 夕

トラックバックテーマ「一人で飲食店に入れる?」

ブログ初心者です。トラックバックの練習に書いてみる事にしました。


こんにちは!FC2ブログトラックバックテーマ担当の木村です。
今日のテーマは「一人で飲食店に入れる?」です。

いつからか「おひとりさま」なんて言葉が一般化してますが、
誰しも最初は敷居の高さを感じるであろう、一人での外食

なかなか一人では無理…という話を結構聞きます

私はあまり一人に抵抗が無い方で、
カフェやバー、居酒屋とか回転寿司なんかも一人で食べに行けちゃいます
こじ...
第1384回「一人で飲食店に入れる?」





一人飲食店。
まったく問題なしです。学生の頃から、一人ファーストフード程度のハードルの低いものは抵抗なくやっていました。
二十代の後半に、一人立ち食いソバデビューをして以来、大抵の店に抵抗はなく入れますね。

その後、金沢一人旅をした時に一人でバーに入り女将に注いでもらって日本酒ってのも経験しました。これは勇氣がいりましたね。

いまだにダメなのは、一人で牛丼屋で始発を待つ事かなあ。もっとも、歳とって終電なくなるまでの夜遊びなんて体が効かなくなったから、これを試す機会はきっとないでしょうね。
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Posted by 八少女 夕

もの書く時のBGM

せっかく開設したのだから、何か書いてみようと思う。

小説やその他の文章を書く時に、とても大切な要素がBGMっていうのは、私一人ではないと思う。私の場合は、ちょっと特殊かなと思うのは、どちらかというと構想を練る時に大きな役割を果たすこと。

その時々に夢中になっている音楽があって、それを聴いていると、感情が違う方向に動いていくんだけれど、それで構想中のストーリーが変わってしまう事すらある。

で、一つの話にかかっている時は、ほぼ常時、勝手に設定したテーマ音楽(集のこともある)をかけているので、書き終えて、その話から離れた後に、たまたまその音楽がかかると突然その世界に引き戻されたりもする。それで続編できちゃったりして。


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