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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

「ゴールデンウィークのご予定は?」

ゴールデンウィーク、ありません。日本じゃないので、まあ、それはいいです。17日からいちおう四連休もあることですし。

納得がいかないのは、明日のメーデー。なぜチューリヒはお休みなのに、うちの州は違うの? 州や市町村ごとに祝日が違うってのやめてくれません? それぞれの違う祝日を国民の祝日みたいにカレンダーに印刷するのもやめてほしいです。「ち。あの村だったら、今日は休みだったのに」と悔しい思いをするじゃありませんか。

こんにちは!FC2ブログトラックバックテーマ担当ほうじょうです。今日のテーマは「ゴールデンウィークのご予定は?」です。5月1日、2日は平日といえども、明日からは3連休1日2日も休んでどーんと大型連休を楽しむという方も��...
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Posted by 八少女 夕

進捗状況

なんとなく、ご心配をかけている方もいるみたいなので、進んでいないと騒いでいる小説の進捗状況を。

『第三回となった短編小説書いてみよう会』は、ルールがあり、それはもちろん実に常識的で理にかなったものなのですが、私のように単に書き散らしてきた人間は、そのあたりまえのことが出来ていなくて、あたふたしてしまうのです。

まず期日が決まっていること。これはなんとかなりそうです。締め切りは五月末ですが、今のところ第一稿の七割くらいまで来ているので、かなり大幅に手を入れても落とすことはなさそう。

もちろん問題は「何を提出するか」という方なんです。テーマの「町(または村)」に前半はともかく後半は上手く落ち着きそうなので少なくとも「やり直し」を命じられることはなさそう。こてんぱんに批評されるのはもとより覚悟の上での参加だからいいとしましょう。

で、字数制限。15,000文字までというルールがありまして、短編小説なんだから随分と緩く設定していただいた制限だと思うのですが、それでも「起承転結」「説明」「自分らしさ」を出すのに四苦八苦中です。今のところ10,000字で完結させるのを目標に書いています。ちょっと無理かなとも思うのですが。

内容は「二次創作も可」にひっかかるのか微妙なところですね。物語やアニメの二次創作ではないのですが、一応歴史ものでして、過去に実際に起こったことを追う形で書いています。史実だから曲げられないところと、読み手に冗長と思われないようにするところと、バランスをとらなくちゃなと思っています。

なんて書いていますが、実際に読んだらがっかりするようなものになっちゃうかも。ま、あと少し踏ん張ってみます。
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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち (11)グラナダ、 ザクロの樹

グラナダには二回行きましたが、やはり春先の方がよかったと思いました。超有名観光地に行っておいてなんですが、やはり美しいものは人ごみの中では見たくない、わがままな私なのです。
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(11)グラナダ、 ザクロの樹


「日本の方ですよね」
アルハンブラ宮殿の前で稼いで、休憩にペットボトルで水を飲んでいると、後ろから声がかかった。蝶子は何かと思って振り向いた。ずっとキャーキャーいって見ていた日本人観光客二人組だった。

「そうだけど?」
「やっぱり。もう一人の男性が三味線だったから、そうじゃないかと思ったんです。あの、お願いがあるんですけど」
「何?」
「あの、金髪の人と一緒の写真を撮りたいんです」

 稔は吹きだした。蝶子は眉一つ動かさずにドイツ語でヴィルに声をかけた。
「テデスコ。あなたと一緒に写真を撮りたいんですって」

 ヴィルは、これまた眉一つ動かさずに答えた。
「やだね」

 蝶子はにっこりと微笑んで日本人観光客に言った。
「ごめんなさいね。彼は写真に撮られるのが嫌いなんですって。勘弁してあげてくれる?」

 拒否されて悲しそうに未練たっぷりに立ち去る日本人二人を、レネは氣の毒そうに、稔はニヤニヤして、そして蝶子とヴィルは無表情に見送った。
「写真撮られるのが嫌いなのかよ、演劇をやってるくせに」
稔は面白がっていった。

「写真が嫌なんじゃない。パンダみたいに扱われるのは氣に入らん」
稔は大笑いした。レネはそれでも日本の女の子たちが氣の毒そうだった。

「心配しないでいいのよ。いい薬になるわ。そうじゃないと、あの子たち、同じような事をあちこちでやるでしょうから」
蝶子は容赦なかった。

 稔はあらためてヴィルの顔を見た。
「見慣れすぎてあたりまえになっていたけれど、確かに整っているよな。金髪碧眼だし、欠点がなさ過ぎる」
「ヒトラーが大喜びしそうな容姿じゃない? SS(親衛隊)の制服とか着せたら似合いそうよね」
レネはおろおろした。誉めていないどころかケンカを売っているとしか思えない言い草だ。

 ヴィルはぼそっと言った。
「あんただって、典型的なゲイシャ顔じゃないか」

 蝶子と稔は顔を見合わせた。
「そりゃ、誤解だよ。欧米人にはこれがオリエンタルな日本美人の典型かもしれないけれど、お蝶は俺たちにとってはどっちかっていうと渡来系だぜ」

「渡来系ってなんですか?」
「大陸から遷ってきた外国人の子孫みたいな顔ってことよ。目が細くて吊り上がっているからでしょ」

「じゃあ、典型的な日本の女の子ってどんな顔なんですか?」
レネが訊いた。稔はあっさりと答えた。
「さっきいた女の子たちみたいな顔だよ」

 レネは少しがっかりしたようだった。日本に行ったらパピヨンみたいに神秘的できれいな女性がたくさんいると思ったのに。

「あんたは純粋な日本人じゃないのか?」
ヴィルが訊いた。蝶子は切れ長の目を更に細めて言った。
「あなたがドイツ人であるのとおなじ程度には純粋よ。この顔は隔世遺伝の悪戯なの。両親も妹もこんな顔じゃないもの」

「お前、妹がいるんだ」
稔が訊いた。
「ええ、二つ年下でね。まともなの」

「まともって、どういう意味ですか?」
レネが不思議そうに訊いた。

「フルートなんかやりたがらないで、普通に結婚して、孫の顔を両親に見せたって事よ」
「ついでに大道芸人にもならなかったってことか?」
稔の言葉に蝶子は自虐的な高笑いをした。

「あんたがまともでなくてよかったよ」
ヴィルが無表情に言った。三人はそのらしくない感想に耳を疑ったが、蝶子はさらにらしくない最上級の笑顔を見せた。
「ありがとう」


「こんなにたくさん日本人をみたの久しぶりよね」
蝶子は稔に話しかけた。

「そうだな。バルセロナにもいたけれど、こんなに集中していなかったものな。パリは多かったぞ」

「ヤスもパリにいたことがあるんですか?」
レネが訊いた。

「ああ、四年半くらい前さ。シャンゼリゼとかエッフェル塔の下で稼いだな。でも、大道芸を始めたばっかりだったから、まだおどおどしていた」
「僕の職場と近かったわけですね。あの頃、僕は、シャンゼリゼから徒歩五分のクラブで働いていたんですよ」

「ニアミスだったのね。あの当時にもうArtistas callejerosを結成していたかもしれないってことよね」
蝶子が楽しそうに言った。

「それをいうなら、俺たちはもっと早くに会っているじゃないか」
稔は言った。

「どこで?」
レネは不思議そうに訊いた。

「あれ? 言っていなかったっけ? 俺たち大学で同じソルフェージュのクラスにいたんだ。コルシカ・フェリーの上でこいつを見つけた時にすぐにわかったよ。こいつは俺のこと覚えていなかったみたいだけど」


 その不名誉な発言は軽く無視して、蝶子はヴィルに話しかけた。
「テデスコと私もどこかでニアミスしているかもしれないわね。だってアウグスブルグに住んでいたらミュンヘンに来ることもあったでしょう?」
「そうだな」

 ヴィルは短く答えたが、本当はニアミスどころではなかった。蝶子はヴィルの父親の家にいて、逃げ出していなければ近いうちに未来の母親として紹介される予定だったのだから。


 アルハンブラ宮殿だけはどうしても観光したいと言い出したのは蝶子だった。予約制で、時間が来たら集まってツアーとして中に入ることが出来るシステムなので、予約時間の少し前まで稼いでいた。

 その日は終日曇っていたのだが、四人が宮殿内に入ったのと前後して、雲間から光が射しはじめた。アルハンブラ宮殿にはもちろんステンドグラスのようなものはない。しかし、太陽の光の作り出す陰影がなければ、この類い稀な建物の印象はがらりと変わってしまう。真夏のうだるような暑さの中に来るのも悪くないが、その時期にはタンクトップと短パンの旅行者が新宿の繁華街のごとく溢れ、グラナダが観光客ずれしたつまらない街にみえてしまう。オレンジがたわわに実る冬の終わりのこの時期は、そう考えると世界に誇るこの観光地を観るにはベストシーズンと言ってよかった。第一、四十度を超す真夏と較べて過ごしやすい氣候は、大道芸人たちに優しかった。

 王宮の数々のアーチや石柱に施された幾何学模様の漆喰細工は、ため息が出るほど美しかった。周りの観光客たちは必死でシャッターを押していたが、四人はカメラを持っていなかったので、自分の脳裏に焼き付けた。

 色々なところに行く。その思い出は、写真やTシャツにして残しておくことは出来ない。だから無駄な観光などしない、忘れたくないものはその瞬間を記憶に留める。それだけだ。けれど、四人がいつも共にいれば、それは共通の思い出となって残る。何年も経ってから、一緒にここに来たことを語り合える、そういう存在であることが今の四人にはとても大切だった。

 王宮の中で最も大きな『大使の間』と呼ばれる広間は、様々な国の使節の謁見や、儀式が行われた場所だという。天井から壁、下部のタイル、床に至るまでびっしりと細かなアラベスク模様の装飾とコーランの言葉が刻まれていた。そしてその先に行くと、稔ですら日本で写真をみたことのある有名な『ライオンの中庭』を囲んでハーレムが広がる。

「いいなあ。こんなところで、毎日美女に囲まれて過ごしていたんだ」
稔がぽつりと言った。レネは同じ感想を持ったが蝶子の前で言う勇氣がなかったので、黙って小さく頷いた。
 蝶子が笑い出した。
「馬鹿ね。女の数が増えるほど、問題が倍増するのに」
蝶子が二人になったときの状況を想像して、二人は首をすくめた。確かにそれは勘弁してほしいと稔は思った。

 蝶子は噴水の水音に耳を澄ませた。わずかなトレモロ。水に反射する光が遊ぶ。風が緩やかに渡っていく。かつてのハーレムの女たちが見たもの、感じたことに思いを馳せる。彼女たちは平和で幸せな時を過ごしたのだろうか。それとも、主の寵愛をめぐって落ち着かない日々を送っていたのだろうか。私のように逃げ出したものもいるのだろうか。

「ヤス。あとで、『アルハンブラの思い出』を弾いてよ」
稔はまかせとけという顔で頷いた。

 宿に戻る前に、近くの市場に買い出しにいき、ザクロを見つけた。蝶子が嬉しそうに手に取った。
「あら、まだあるのね。秋の果物だからもうないかと思ってたわ」
「これが、おしまいの時期なんでしょうね。せっかくだから買いましょうか」
レネが、オレンジと一緒にしてもらった。ついでに異国情緒たっぷりのアラブ人街の間を楽しみながら歩いていく。


「アンダルシアの中でも特にイスラムの名残を感じることが出来るんですね。イスラム世界に来たみたいです」
レネが言った。

 稔が同意した。
「けっこう近いんだよな、ヨーロッパと近東って。そのうちにそっちにも足を伸ばすか?」

「ここからアフリカも近いぞ」
ヴィルが言った。

「簡単に行けるの?」
蝶子が興味を示した。

「ジブラルタルやアルヘシラスからは、海の向こうにアフリカ大陸が見えるんだ。渡る先はスペイン領のセウタだから船に乗るのに面倒な手続きもない。行くか?」
「行ってみたいわ。あなたたちは、どう思う?」
蝶子はレネと稔にも訊いた。

「賛成!」
稔が即座に言って、多数決の必要票を投じた。もちろんレネも賛成だった。
「セウタからモロッコに入るなら、フランス語ですからね。僕が役に立ちますよ」


その夜、稔は約束通り、『アルハンブラの思い出』を演奏した。
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Posted by 八少女 夕

咲いた、咲いた

林檎の木

先日の雪が嘘のように暖かくなり、私の大好きな林檎が花盛りです。

東北の方にはきっとおなじみの光景でしょうが、東京以外に住んだことがなかった私は、移住してはじめて本物の林檎の花を見ました。華やかでかわいいんですよ。

桜が幽玄で高雅な花だとしたら、林檎はまさに元気いっぱいなティーンエイジャーって感じ。底なしに明るくて幸福感にあふれている、そんな花です。
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Posted by 八少女 夕

「家では何をしてることが多い?」

え〜と、何って書いていることが一番多いかな。小説、ブログ、エッセイの仕事、メールやメッセージの返信等々、Macの前で書くことはいっぱいあります。

でも、私はいちおう主婦でもあるので、家事をしている時間も長いかな。働き手でもあるので、平日の昼間は家にいませんしね。旦那と、のんびりお茶したり、ワイン飲んだりすることもあるかな。ま、ふつーですよね。

こんにちは!FC2ブログトラックバックテーマ担当藤本です。今日のテーマは「家では何をしてることが多い?」です。みなさん家にいるとき特になにをしてますか?私は一切テレビを見ず、パソコンも見ずひたすら掃除をしていますw基本的に掃除が好きなのかあまりじっとすることはありません元気ないときやカリカリしちゃっているときの掃除がまたいいですとても気分転換にとてもいいですみなさんは主に家の中では何をされてますか...
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Posted by 八少女 夕

100拍手

ちょっと前のことになりますが、100拍手になって感無量でございました。先月、ブログを始めた時には考えもしなかった僥倖です。

実は、ブログを始めるのは、怖かったのです。誰も見てくれない、一度来たっきり二度と来てくれない、もしくは、批判だけしか来ないとか予想して、怯えていましたから。

でも、この二ヶ月弱で、素敵な出会いがたくさんありました。小説の勉強も沢山させていただきました。新しい挑戦に対する応援もいただきました。嬉しいことばかりでした。

そして、氣がついたら、100以上の拍手をいただいていました。すごく嬉しい。

これからも毎日続けていきます。末永くおつき合いいただけたら幸せです。みなさん、本当にありがとう。
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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち (10)バルセロナ、 フェリス ナビダー

「フェリス・ナビダー」と連呼する曲をご存知でしょうか? 私はスイスに来るまで全く知らなかったんですが、ヨーロッパで大昔に大ヒットした曲らしく、クリスマスが近づくとよく聴こえてきます。だから、私でもスペイン語で「メリークリスマス」をなんと言うのか知っているというわけです。
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(10)バルセロナ、 フェリス ナビダー



 パーティの準備のために、四人は広間をクリスマス風に飾り付けていた。巨大な樅の木に、ありとあらゆる飾りをつけていく。

「いいわねぇ。こういうのって」
四人の中で、クリスマスのいい思い出がたくさんあるのはレネ一人だった。

 蝶子は実家でぎくしゃくしていたし、クリスマスデートもした事がなかったので、こんなに楽しいクリスマスの雰囲氣は初めてだった。エッシェンドルフ教授の館では毎年盛大なクリスマスのパーティがあったが、堅苦しくて好きになれなかった。

 稔の生家では伝統を重んじるちゃきちゃきの江戸っ子の父親が馬鹿にするのでクリスマスなぞ祝った事がなかったし、ヨーロッパに来てからはずっと浮浪者同然でそれどころではなかった。

 ヴィルも両親の揃った暖かくて静かなドイツ伝統のクリスマスを祝った事がなかった。子供の頃は母親と簡単に祝い、ティーンエイジャーの頃は父親のパーティに無理矢理参加させられたが、端に立っているばかりでいい思い出はなかった。

 今年は四人にとって特別だった。Artistas callejerosを結成して初めてのクリスマスだ。それも、こんな豪華な館で、暖かい暖炉の側で迎える最高の。

 蝶子が上機嫌で『樅の木』を鼻歌を歌っている所に、稔は日本語で加わった。その訳は納得がいかないとレネがドイツ語の歌詞で参戦した。それを聴いて、三人は一斉に手を止めてレネを見た。

「な、なんですか。歌詞間違えましたか?」
「ちょっと、ブラン・ベック!そんないい声しているの、何で隠していたのよ!」
レネは透明で明るい見事なテノールだったのだ。

「え。歌えって言われなかったから…」
「すごいぞ。どこかでトレーニングしていたのか?」
ヴィルも梯子から降りてきた。
「いや、教会の合唱団にはずっと参加していたけれど、でもトレーニングなんてものは…」

 ヴィルはピアノの前に座り、『ホワイト・クリスマス』の伴奏を弾き出した。蝶子と稔に顎で促されて、レネはもじもじと歌いだした。惚れ惚れするいい声だった。

「ったく、爪を隠し過ぎだ」
稔がつぶやいた。ヴィルは、蝶子に加わるように言った。蝶子はセクシーなアルトで、自在に下のパートを引き受けた。蝶子に助けてもらってレネは嬉しそうに、もう少し自信を持って歌いだした。

「こりゃ、いいぞ!」
稔も、ギターの腹をドラムがわりに叩いて加わったので、ヴィルは即座に楽しげに転調した。やがて、アンサンブルは愉快なクリスマス・メドレーに変わった。



 パーティの当日、午前中は蝶子が台所でイネスを手伝い、男三人は薪や酒の瓶などを広間に運んだりセッティングをしたりして忙しく働いた。もちろん普段からの使用人の他に、この日は多くのヘルプが来ていたが、四人はお客様然として座っているつもりはなかった。夕方になると、ロッコ氏にもらった衣装に着替えた三人と、新調したあでやかな曙色のドレスに身を包んだ蝶子は広間でカルロスと早い乾杯をした。

「おお、なんという美しさだろう。マリポーサ。あなたは夜明けの荒野に立ちのぼる金星です」
蝶子の手にキスをするカルロスを見て、稔はどっちらけという顔をした。毎晩、酒を飲んで大騒ぎしている居候への言葉かよ。

 カルロスはさらに大仰に続けた。
「どうか、この私と一曲ダンスを踊ってくださいませんか?」
「喜んで」

「おい、お蝶、お前ダンスなんか踊れんのかよ」
驚く稔に、蝶子は勝ち誇ったように微笑んだ。
「一通りはね」

 それで、稔はギターで『真珠取りのタンゴ』を弾いてやった。二人は、コンチネンタル・タンゴを華麗に踊った。踊れるというのは嘘じゃないらしい。きちんと習ったようだ。

 カルロスは少し驚いて言った。
「見事ですね。もしかしてアルゼンチン・タンゴも踊れるんじゃないんですか?」
「多少は」
蝶子が自信満々のときの婉然とした微笑みを見せた。

 それで今度はヴィルがピアノの前に座ってピアソラの『ブエノスアイレスの冬』を弾きだした。

 カルロスのリードは見事だった。だが、蝶子も尋常でない上手さだった。おい!普通の日本人がどうやってアルゼンチン・タンゴなんか習得するんだよ!稔は目を剥いた。

 ヴィルにはちっとも不思議ではなかった。父親のエッシェンドルフ教授はアルゼンチン・タンゴの名手として有名だった。コンチネンタル・タンゴと違い、アルゼンチン・タンゴは男のリードだけでは上手く踊れない。蝶子のステップはそんなに難しいものではなかったが、完全に自分のものにしていた。

 ステップを踏むたびに、青白い炎が燃え上がる。その妖艶な表情が挑みかけ、切れのある動きの後に完璧なスタイルの脚がねっとりと振りもどる度に、危うさが漂う。いつもの崇拝者とわがままな日本人から、ゆっくりと運命の恋人に変容していく。

 スペイン語には空氣や雰囲氣をあらわす「アイレ」という言葉がある。それは色氣や粋という意味や、人生の喜びや悲しみを意味することもある。生きている人間の周りにまとわりつく目に見えないがそこにあるもの、蝶子とカルロスを包んでいるのはまぎれもなく情念のアイレだった。稔とレネは息を飲んでその踊りに釘付けになっていた。ヴィルのピアノもまた大きく影響され、音が変わっていく。

「あ、あの~、ドン・カルロス…」
間延びした声が入り口からして、五人は我に返った。カルロスの秘書のサンチェスが困った表情で立っていた。
「最初の、お客様がいらしたんですが…」
踊っている場合ではなかった。



「乾杯!」
「メリー、クリスマス、には早いかな?」
稔は日付を数えた。まだ三日くらいあるよな。

 蝶子はキリスト教でない日本人らしく答えた。
「別にいいんじゃないの?クリスマスパーティだし」

「スペイン語ではなんていうんでしょうね?」
レネの問いに、カルロスが答えた。
「フェリス・ナビダー、ですよ」
「じゃあ、フェリス・ナビダー!」
「フェリス・ナビダー!」
次々とグラスが重ねられた。

「カルちゃん、本当にありがとう。私こんなすてきなクリスマス経験したことないの」
「それは光栄ですね。私もあなたたちと祝うことのできる幸せをかみしめていますよ。実を言うと、もう長いことまじめに祈ったことがないんですが、あなたたちと毎年祝うことができるように神に祈ることにしましょう」

 カルロスは蝶子の頬にキスをした。蝶子は微笑んでキスを返し、それから、レネ、ヴィルの頬にも順番にキスをした。そういう習慣のない日本人の稔は目を丸くしていたが、蝶子はとても自然に稔の頬にもキスをした。稔はそれがちっとも嫌ではなかった。お蝶も俺もずいぶんガイジン化してきたもんだ。

 四人のショーはここでも喝采を浴びた。ショーの後には、カルロスの友人たちがひっきりなしにやってきてはカルロスに紹介を請うた。ミステリアスで美しい蝶子に言い寄りたがる男たちもいたが、カルロスが皆はねつけた。稔はその様子がおかしくてへらへらと笑った。

 だが、寄ってきたものの中には悪くない話もいくつかあった。その一つが、ロッコ氏のレストランのスペインバージョンで、マラガ市内に最高級のクラブの開店準備を進めているというカデラス氏の申し出だった。来年の四月のオープニングから一ヶ月ほど、働いてくれないかというのだった。

 稔は手慣れた様子でギャラの交渉に乗り出し、あっさりと宿泊と食事と酒込みの好条件を手に入れた。年明けにやはりひと月ほど頼みたいと言ってきたのはバルセロナのカタルニャ料理のレストランを持つモンテス氏だった。彼の雇っているピアニストがその時期はメキシコに休暇にいくのだ。稔が泊まるところの交渉をしたらカルロスが割って入り、バルセロナにいる間は宿泊と食事と酒はここ持ちだと言い張った。

 稔はこれまでの経験から十二月と一月がもっとも厳しい季節だと知っていたので、この二ヶ月をこの快適な館で過ごせ、年明けからは仕事も暖かい室内でできる、飛び上がって踊りだしたいほどだった。何よりもうれしいクリスマスプレゼントだった。
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

四月の末なのに…

雪を抱く林檎の木
降っちゃいましたよ、雪。もう一ヶ月以上もサマータイム実施しているのに、ここの所ずっと寒くて、天候も悪くて、でも、雪は降っていなかったんですけれどね〜。

こんなに積もっていますが、午後からは上がって、全部溶けました。来週は28℃まで上がるなんていわれているけど、本当かしら?着るものに困るんですよねぇ、こういうの。
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Posted by 八少女 夕

「携帯・スマホにストラップはつけてますか?」

つけていません。前のiPhone 3Gの時は、シリコンカバーをつけて無理矢理付けていましたが、4Sに機種変更した時点でやめました。iPhoneのスタイリッシュさがシリコンカバーで損なわれるのが嫌になったのと、定位置である鞄のポケットに入れる時にするっといかないのがその理由。ストラップ自体はどうでもいいのですが、落とさないように氣をつけて持つようにしています。

こんにちは!FC2ブログトラックバックテーマ担当加瀬です。今日のテーマは「携帯・スマホにストラップはつけてますか?」です。最近は、携帯電話を持ってる人のほうが珍しいのではないかという位、街を歩いていてもスマートフォン片手に歩く方を見かける事が多いです…!実際、携帯ショップに行っても、スマートフォンを売り出しているので携帯電話を買う事の方が難しいのではないかと思います。そんな加瀬は、まだまだ携帯電話...
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Posted by 八少女 夕

季節を考えていなかった

連載中の「大道芸人たち」ですが。

なんか、思いっきりクリスマスになっちゃいましたね。書いていた時も全然シーズンじゃなかったんですが、連載を始める時に「このペースにして、クリスマスに、この章を公開しよう」とか、まるっきり考えていませんでした。秋から公開すればそうなったかも、と今さらながら思っているんですが、これから12月まで放置したら、誰も読んでくれなくなっちゃう。

しかたないので、完全に季節がずれまくったまま、週二回くらいのペースで公開していこうと思います。
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Posted by 八少女 夕

はまったかも…

「第三回目となった短編小説書いてみよう会」に勇んで参加表明をして、新しい短編小説の構想を立て始めたんですが。

締め切りまで六週間。で、ようやくテーマに沿ったお話を思いついて、これにしようって所まで来たわけです。

が。今まで書いていたものと違って、絵が簡単に浮かばないんですよ。舞台は紀元前○世紀の○・○○○。この人たち、何着てんだろう。どんな家に住んでるんだろう。だいたい、なんて名前が自然なんだっけ。主人公の名前が浮かばないぞ。そこら辺で足踏み状態。

で、かなり昔に読了したその民族に関する本を引っ張りだしてきて読み始めた所。テーマと締め切りがなければ、どんどん後回しになってお蔵入りになったことでしょうが、もはや引き返せません。なんとかせねば。Seasonsの夏号の原稿提出も迫っているし、うかうかしていられなくなりました。


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Posted by 八少女 夕

『第3回目となった短編小説書いてみよう会』参加中

自分 自身さん主催の『第3回目となった短編小説書いてみよう会』への参加を申し込みました。

お題は「町(村でも可)」。

参加者と作品へのリンク

 自分 自身さん 作品:夢ミ村
 紫木 凛音さん 作品:夜見祭
 栗栖 紗那さん 作品:工房の町エリーテ 前編 中編 後編
 鳥居 波浪さん 作品:不思議な町 ~路端の小さな物語~
 のりまきさん 作品:町並み
 ウゾさん 作品:俺達に赦されし地 赦されし永遠 前編 中編 後編
 山西 左紀さん 作品:2 5 4 前編  後編
 八少女 夕 作品:明日の故郷← ここをクリックすると、前書き・本編・後書きの順に表示されます。

【日程】
募集期間  4/20 ~ 5/20
グループ分け発表  5/21
作品提出締め切り  5/31
感想提出締め切り  6/10
参加者リンク貼り付け終了・第3回終了  6/30
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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち (9)アヴィニヨン、 レネの家族 - 2 -

アヴィニヨンの後編です。実際にはフランスのクリスマス市には行ったことがないんですが、楽しいだろうなあと思います。いつかはきっと。
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(9)アヴィニヨン、 レネの家族  後編


翌日、四人はレネの案内で、アヴィニヨンの街に行った。街の中心には、マルシェ・ド・ノエル(クリスマス市)が立っていた。六十ほどの小さな屋台がところ狭しと並んでいる。レネは母親に頼まれた乾燥果物や砂糖漬けなどを買った。

「プロヴァンスってクリスマスには何を食べるの?」
蝶子が訊いた。クリスマスと言えばイチゴケーキのイメージしかない稔も興味津々だった。

「村によって違うんですよね。海のそばでは魚、マグロとかタラなんかを食べます。でも、うちは内陸部なので魚は食べません。我が家ではシャポンという去勢雄鶏にクルイズというパスタ、それに大蒜とカルドンのベシャメルソースグラタンを食べます。それにブッシュ・ド・ノエルに、十三種類のデザート」
「ケーキの他に、十三種類のデザート?」
稔は耳を疑った。

「キリストと十二使徒を表しているんですよ。この地方の伝統なんです」
どうやら冗談を言っているのではないらしい。

市の真ん中にある噴水は寒さで凍っていた。バルセロナで買ったダウン入りコートが絶対的に必要になっていた。外でフルートを吹くのも三味線を弾くのも厳しい季節になっていた。稔が言っていたように、真冬に外で稼ぐのは事実上不可能だった。大都会の地下鉄ぐらいしか道はないだろう。カルロスやレネの両親の暖かい歓待があり、暖炉の火にあたりながらワインを飲んで大騒ぎのできる環境がなければ、暖かい家庭に帰る人を見ながら長い冬をしのぐのはとてもつらいことだったに違いない。



「テーブルには、3枚のテーブルクロスをかけます。その上に、三位一体を表す3本のロウソク、ヒイラギの葉と聖バルブの麦を飾ります。カレンドル・パンは中央に置きます。13種のデザートもテーブルに最初からセットします。テーブルに余白を残しちゃダメなんですよ。豊穣を意味しているんでね」

自家製のワイン、グラスに、お皿が隠れて見えなくなるほどにたくさんのせられる13種のデザートは、ポンプ・ア・ユイルというオリーブオイルとオレンジの花で風味付けしたパン、白いヌガーと黒いヌガー、4つの托鉢修道会を象徴するくるみ、アーモンド、イチジク、干しブドウ、その他にはヘーゼルナッツ、乾燥なつめ 、りんご、オレンジ、メロン、 チョコレート。

準備が整った頃に、シュザンヌが大きな雄鶏と、熱々の野菜グラタンをテーブルに持ってきて食卓が整った。ピエールがワインをそれぞれのグラスに注ぎ、二週間ほど早いクリスマス祝いが始まった。

「お前の誕生日も直だからな、一緒に祝ってしまえ」
ピエールはレネにウィンクした。

「え。ブラン・ベック、誕生日十二月なの?いつ?」
「二十日です」
「そりゃいいや。おめでとう」
稔がグラスを差し出した。全員が口々におめでとうと言いながらグラスを合わせていった。

レネは照れていた。
「まだ一週間あるじゃないですか。でも、ありがとう」

「いくつになるの?」
蝶子が訊いた。
「えっと、三十歳です」
「やっぱり年下だったわね。読みが当たったわ」
蝶子は稔にウィンクした。

「ええっ。チョウコさん、二十代の前半じゃないんですか?」
ピエールが驚愕した。

「日本人は若く見えるんだ。お蝶は現役だったろ?ってことは、いま三十二歳だな」
女性に歳を訊かない西洋の遠慮を無視して稔が平然とバラした。蝶子はちっとも氣にしていなかった。
「なったばかりよ」

「誕生日、過ぎちゃったんですか?」
レネが訊いた。
「ええ、十一月十八日」
「わあ、じゃあ、お祝いしなきゃ。おめでとう、パピヨン」
レネの音頭に合わせて、再び乾杯が始まった。

「ヤスは、現役じゃなかったの?」
「俺は一年目は共通一次で落ちたんだ。九月の末に三十三歳になったよ」

「ヴィルさんは?」
ピエールの問いに蝶子と稔は興味津々になった。ヴィルはまったく年齢不詳だったからだ。

「五月生まれで、ブラン・ベックと同じ歳だ」
「ええっ。年下かよ!一番落ち着いているのに」
稔が言った。

「アジアでは、年下のものは年上のものに服従するのよ。これからはお姉様といって従いなさい」
蝶子が言うと、ヴィルが即座に首を振った。
「俺たちはアジア人じゃないし、ヤスならまだしも、あんたに従うなんてまっぴらだ」
その場の全員が笑った。

鶏は柔らかくてジューシーだった。熱々の野菜グラタンに、焼きたてのカレンドル・パン。ピエール自慢のワインで何度も乾杯し、暖かいクリスマスの雰囲氣が広がった。

四人はいつも楽しく酒を飲んで騒いでいるが、今夜は特別に楽しかった。特にレネは本当に幸せそうだった。暖かい家庭というものが、どんな贅沢な暮らしにも勝ることを蝶子は実感した。エッシェンドルフの館のクリスマスパーティの食事は、最高の素材を使い、シェフが腕によりをかけたものだった。しかし、蝶子はクリスマスを待ったことなど一度もなかった。

夕食の後、ムスカの白ワインと一緒にケーキと十三種類のデザートを食べることになった。
「もう入らないよ」
稔が言ったが、ピエールは首を振った。
「ほんの一口でもいいから、全種類を食べなくちゃ。それが伝統なんですよ。これを食べない人には、とっておきのリキュールは出しませんよ」

全てを締めくくるのが、自家製のラタフィア(果実、植物の花や茎の浸出液から作るリキュール)だった。



アヴィニヨンを去る前に蝶子はどうしても橋の上に行きたいと言った。

「なんてことのない橋ですよ」
レネは言ったが、心なしか誇らしげに率先して案内した。

川の半ばで途切れている灰色の石橋を四人は歩いた。それから稔が思いついたように三味線を取り出して『アヴィニヨンの橋の上で』を弾いた。ほかの観光客が目を丸くしているのを尻目に、蝶子はレネやヴィルと交互に踊った。川の水分で霜が降りている石畳。足下がつるつるして転びそうになる。それをお互いに抱きとめ合いながら、ぐるぐると踊った。笑い声が満ちた。暖かかったのはダウンコートを着ているせいだけではなかった。
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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち (9)アヴィニヨン、 レネの家族 - 1 -

スペイン編といっておいて、例外的にフランスです。南フランスの典型的クリスマスはこんな感じらしいですよ。今回も長いので、今日と明日の二回に分けてアップさせてください。
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(9)アヴィニヨン、 レネの家族  前編


新年まで、ずっとバルセロナで稼ぐのも退屈だという話になった。どうせなら近場に移動して、クリスマスまでにここに戻って来ようかと話がまとまったのだ。問題は、どこに行くかということだった。

「行き先が多数決なのはよくわかっているんですけれど」
レネがおずおずと言い出した。

「どこか、どうしても行きたいところがあるの?ブラン・ベック」
蝶子が優しく訊いた。

「これからもっと南へ行くんだし…、アヴィニヨンにはもう戻れませんよね。」
「フランス、プロヴァンスか。ここからなら半日で戻れる。年内に行きたいのか?」
ヴィルが言った。

「橋のある所だよな?特別な思い入れがあるのか?」
稔が訊いた。レネはもじもじと、とても言いにくそうに答えた。
「僕の生まれた家があるんです…」

三人は一瞬黙ったが、一斉に笑い出した。
「わかったよ。そりゃ行きたいだろう。行こうぜ」
稔が言った。

蝶子はヴィルに言った。
「アウグスブルグには行かなくていいの?」
ヴィルは首を振った。
「俺の家族はいないんだ」

三人にはアウグスブルグにヴィルの家族がいないのか、ヴィルに全く家族がいないのかわからなかったが、ヴィルが何も付け加えなかったので、それ以上訊かなかった。少なくともレネのように帰りたがってないことは確かだった。

「じゃ、カルちゃんに頼まれたクリスマスパーティまでに戻ってくればいいじゃない。明日にでもアヴィニヨンに行きましょうよ。おうちは市内なの?」
「いいえ、十キロメートルくらい郊外です。でも、泊まるところの心配はしないでください」



バスを降りて、丘の上を目指してゆっくりと登っていると甲高い声が聞こえた。
「レネ、レネじゃない!まあ、まあ、まあ!」

足を止めて見上げると、丘の上にふくよかな女性の姿が見えた。
「母さん!」
レネが荷物を取り落として、そのまま丘の上までダッシュした。そして、母親と固く抱き合った。ヴィルがレネの荷物を拾って、ゆっくりと丘の上に向かった。三人が親子のもとに着いた時に、二人の興奮はようやく治まった。

「この人たちは…?」
母親の問いに、レネは眼鏡をとって涙を拭き、それから、嬉しそうに言った。
「僕の仲間なんだ。一緒に稼ぎながら旅をしているんだ」

三人はレネの母親を見て微笑んだ。レネにそっくりだった。ただし、ひょろ長いレネと対称的にまんまるだった。優しい笑顔で、突然連絡もなくやってきた一行を迷惑がりもしないで歓迎した。三人は自己紹介したが、レネの母親のシュザンヌは英語が話せなかった。ドイツ語も、もちろん日本語も。だが、そんなことはどうでもいいようだった。

レネの生家は、ベージュの壁が優しいイメージの、典型的なプロヴァンスの農家だった。広い庭があり、その先には眠りについた葡萄畑が広がっていた。家の中から、父親もでてきた。こちらは雰囲氣がレネにそっくりのひょろ長い手足の親父さんで、やはり暖かい人柄なのが一目で分かった。満面の笑みで突然帰ってきた息子の頭を小突き、仲間を歓迎した。父親のピエールはプロークンながら英語が話せた。

「もちろん、家に泊まっていってくださいよ。レネ、どのくらいいられるんだ?」
「クリスマスパーティまでにバルセロナに戻んなくちゃ行けないんだ。準備もあるから、そんなに長くはいられないよ。一週間くらいかな」
「そうか。じゃあ、また改めてゆっくり来るんだな。春から夏の方がいいだろうな」

「僕たち、居間かなんかで雑魚寝するから」
そういうレネに母親は厳しい顔で首を振った。
「こんなきれいなお嬢さんを雑魚寝させるなんて、なんてことをいうの?もちろん客間に泊まってもらうわよ」
「そっちの二人は、マリが使っていた部屋と元のお前の部屋がいいだろう。お前は居間か屋根裏部屋か好きな方を選べ」
「屋根裏は夏はいいけど今は寒いからな。居間にするよ」
「おい、ブラン・ベック。俺は別に個室でなくてもいいんだし、お前の元いた部屋で眠れよ」
「それもいいですね」
「なんだ、レネ。お前、ブラン・ベックなのか」
父親は大笑いした。



シュザンヌは、大はりきりで大きなパイを焼いた。蝶子はレネが突然家に帰りたくなった理由がとてもよくわかった。イネスの手料理とエンパナディーリャは、レネの胃袋を直撃して、暖かい両親のいるこの家への思慕を呼び起こしたのだ。レネの生家はワイン醸造を生業としていたので、四人の酒飲みの襲撃にもびくともしなかった。

「ブラン・ベックったら、失恋の痛手を癒すのになんでコルシカ島なんかに行ったのよ。ここの方がよっぽど効果的じゃない」
蝶子はにやにやして指摘した。

「そうだけど、ここに来ていたら、僕はArtistas callejerosに加われなかったじゃないですか」
レネが言うと稔がレネの頭を小突いた。
「よくやったよ。ブラン・ベック」

ピエールは、皆のグラスにワインを注ぎながら言った。
「旅にでるって話を聞いてから、時折届くハガキ以外、詳細がわからなかったから、心配していたんだぞ。電話ぐらいできるだろう」
「家に電話なんか、誰もしないんだよ。父さん」
レネは少しむくれた。

「いや、したけりゃすればいいじゃないか。俺が連絡しないのは、相手がいないからだよ」
稔が言った。

「ミノルさんとチョウコさんはヨーロッパにお長いんですか?」
ピエールが訊いた。

「俺は四年半です」
「私は七年」
「ああ、日本から一緒にいらしたんじゃないんですね」
「私たち、三人とも偶然同じ時期にコルシカ島にいて、そこでArtistas callejerosを結成したんです」
蝶子がにっこりと笑った。

「父さん。わるいけれど、そんなに質問しないでくれよ。僕たち、あれこれ過去のことを詮索しないって決まりがあるんだ」
レネがあわててフランス語で言った。ピエールは、肩をすくめた。
「まだ、過去のことなんて質問していないよ」

ピエールとシュザンヌには、これまで日本人の知り合いがいなかった。アヴィニヨンですれ違う観光客を見たことがあるだけだった。突然息子が二人も日本人を連れてきたのは事件と言ってもよかった。しかも、ドイツ人も一緒だ。レネと氣の合うドイツ人がこの世に存在するというのは信じられなかった。

一般的にドイツ人というのは、みな一様に強引で理詰めで意見を押し付けるので、観光地のフランス人は嫌っていた。レネは、ドイツ人の好きなことが苦手だった。つまり理路整然と意見を戦わせたり、ロボットの如く時間に正確に動いたり、集団で騒いだりするようなことができなかった。だから、子供の頃にはたった一人のドイツ人の友達もできなかった。しかし、このドイツ人とはうまくいっているようだった。ドイツ人と日本人はうまく行くだろう。第二次世界大戦も息がぴったりだったし。でも、レネとは、あり得ない組み合わせだ。一時的な仲間ではなく、ずっと一緒にいるようなことまで言っている。レネは一体、どうしたんだ?

けれど、二日ほど経つと、夫婦はレネがこの三人と一緒にいる理由がわかってきた。ブラン・ベックなどと呼ばれながらも嬉しそうにしているのも不思議ではなくなってきた。

レネは子供の頃から周りとうまくコミュニケーションできなかった。ありていに言えば、人が良すぎて簡単に利用されてしまうのだった。誰のことも好きになり、皆からコケにされる。傷つくが、それでも新たに誰かを好きになり、再び使われてしまう。親孝行で優しいが、ふがいないので叱ると、さらに傷ついて見る影もなくしおれてしまう。

この三人は、三人とも全く違う個性を持っていた。稔は公正に誠実にレネに接する。けれど上からではなく対等に、楽しく信頼を持って接する。蝶子は本当の蝶のように軽やかにレネをからかって回る。レネの人の良さや隙の多さをちくちくと刺して、それが結果として外部からレネが害を受けるのを防ぐことになっている。そして、無表情で無口なヴィルが、何故かレネを蝶子や外敵から守っているのだ。三人ともレネの知性と優しさを心から尊重しているのがわかる。

この三人といると、どれだけレネが心地いいか両親にはよくわかった。パリで、何人もの女や男にコケにされて、クリスマスやイースターの帰郷の度に涙を流していたことを思うと、大道芸人の旅だろうが、レネが離れたがらないのも当然に思えた。

「クリスマスにいられないなら、クリスマスのごちそうを早めに出すか。一週間あれば準備できるだろう?」
ピエールはシュザンヌに言った。彼女は大きく頷いた。明日から準備に入らなくてはならない、と固い決意を見せた。レネは顔を輝かせ、三人は何が始まるのかと顔を見合わせた。

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Posted by 八少女 夕

「作業するときに音楽は聴く?聴かない?」

聴きます。この話、タイムリー過ぎ。一昨日もこのテーマで書いていましたよね。

小説を書く時にBGMやマイ・サントラを用意しちゃうというのは、前回書いた通りですが、それ以外に例えば調理する時、移動する時、散歩する時なんかにも音楽聴いています。

昔はカセットのWalkman、MD、それからMP3プレーヤーになり、お財布を忘れても音楽は忘れなかった私は荷物が多くて困ったものですが、今はiPhoneで携帯とカメラとミュージックプレーヤーが兼用できるようになり身軽になりました。いつも手元にあれば、いつも音楽が聴ける。私にはとても重要なことなのです。

こんにちは!FC2ブログトラックバックテーマ担当ほうじょうです。今日のテーマは「作業するときに音楽は聴く?聴かない?」です。学校の勉強や仕事中、家で何か作業をしているときに音楽は聴きますか?音楽を聴いていた方がはかどるという人や、音楽があると逆に気が散ってしまうので無音ですという人、どちらもほうじょうの周りにいます。ほうじょうは作業中は音楽を聴くほうですが、文章を考えたりしないといけないときは、「...
トラックバックテーマ 第1417回「作業するときに音楽は聴く?聴かない?」

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Posted by 八少女 夕

「好きな漢字を教えてください!」

「響」かな。
「天」もいいかなと思っていたんですが、形の美しさと意味と日本語としての音を総合して考えると、これに落ち着きました。
ちなみに、サントリーのウィスキーの「響」。味も好きですが、ボトルがまた美しい。日本から帰国する時に、「響」と「山崎」のミニボトルがセットになったものを、成田の免税店で買いました。次回も絶対買うぞって、思っています。中身は、旦那にすぐに飲まれちゃうんですが、素敵なミニボトルは、私のもの。うふふふふ。

こんにちは!トラックバックテーマ担当の新村です今日のテーマは「好きな漢字を教えてください!」です!好きな漢字といっても、・形がかっこいいから好き・響きがいいから好き・キレイに書けるから好きといろいろあると思います漢字をバランスよく書くことが苦手な新村ですがなぜか「希」という字だけはキレイに書けますなので、私が好きな漢字は「希」です希望の「希」なんで、響きもいいですね皆さんはどうですか?この漢字が好...
トラックバックテーマ 第1415回「好きな漢字を教えてください!」

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Posted by 八少女 夕

幸い(?)観ていなかったので

聴きながら書いていた曲をBGM一覧として公開しているんですが。

その内に「おいっ、それは!」というのも書くようになると思います。ごく普通の日本在住の人なら「そりゃ、あのCMのイメージしかないよっ」とか「いや、あのドラマのイメージと小説、合ってないって」とか、思うかもしれません。

でも、私、日本で大ヒットしたドラマやアニメ、みなさんの頭にコピーがぐるぐる回るくらい有名なCM、どれも観ていないんですよ。だから、たぶん、曲を聴いても全く違う印象を持っているのかもしれませんね。

ここ一年くらいは、長編を書く時には、勝手にマイ・サントラ、作っています。そういう馬鹿な事する人、あまりいないかと思っていたら、他の方のブログのコメントで、似たような事をしていらっしゃる方を発見。嬉しくなりましたね。

みなさんが書いている時に聴いている曲も、機会があったら聴いてみたいですねぇ。
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Posted by 八少女 夕

小説書きのみなさんに訊いてみたい事

日々、こんなに多くの小説書きの皆さんと交流しているので、一度訊いてみたかった事をここで書きます。

コメントなどで批評があった場合、作品書き直しますか?

私はね、あからさまな「てにをは」の間違いとか、そういうものを自分で見つけた時、もしくは自分で「この言い回し意味不明」と氣づいた時は、その文節を訂正したりはしますが、それ以外はしないんですよね。プロットとか、性格や状況描写とか、「こういうエピソードはちょっと」とか言われても、もはや直しようがない所まで(30回先とか)書いちゃってから公開しているので、後から手を入れるのって難しいんですよ。

だから、批判をいただいた時、(みなさん、お優しいんで、今までお一人からしかもらっていないんですけれど)、次の作品の参考にさせていただくってことにして、公開している作品に大幅な手は入れません。ご批判は尤もだと思う部分があってもです。

でも、みなさんは、どうしていらっしゃるのかなあ。

ちょっと興味があるので、小説書きの方で、お時間がある方は、コメントの方、どうぞよろしくお願いしま〜す。

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

read more




何人かの方から、メッセージや拍手コメントいただきました。
結論から言うと、「書き直す」派はいないみたいですね。今後の参考でいいのかと、ちょっと心が軽くなりました。
こうしてご意見を伺えるだけでも、ブログはじめてよかったなと思います。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。

でも、このテンプレート、メッセージの位置が紛らわしいみたいで、ごめんなさい。先程、テンプレートをいじって、もう少しわかりやすくしました。
みなさんのご意見、まだ聞きたいです。お時間がある小説書きのみなさま、よかったら教えてください。
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Posted by 八少女 夕

「自分のホームページ作ってる?」

作っていますね。っていうか、ブログは今年デビューしたてだけれど、ホームページは、ええと、1997年か。あらぁ、「その年に生まれたし」って人もいるかも。

最初は全部、ただのHTMLで、CSSやJava Scriptを使えるようになったのはしばらく後でしたね。今は、PHPも使っているけれど、数年前からはModXを使うようになりました。

でも、どちらにしても、私のサイトは文章がメインなので、大した技術はいらないです。技術の品評会にはしたくないので、何を伝えたいかを考えて作っていますね。

とくにこのブログを開設してからは、コンセプトがはっきりしたので、こっちはもの書きの話、あっちはスイスに住んでいる個人的な話となりました。こっちは毎日記事をアップしているので、メインになりつつあるかも。

こんにちは!FC2ブログトラックバックテーマ担当の木村です今日のテーマは「自分のホームページ作ってる?」です。いまや誰もが気軽にネットで情報発信できる時代このテーマを読んでいる方はブログをお使いだとは思いま�...
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Posted by 八少女 夕

ここ数日、小説書いていませんね

週末、一日中、コンピュータの前にいて、ず〜っとキーボード叩いていたのに、肝心の小説が全然進んでいないのです。

先週から会社ではWin2台とMac1台を行ったり来たり。自宅では、普段はMac1台だけれど、昨日は久しぶりに3台も起動した。OS9のMac、もう持っている人少ないんだろうなあ。私も久しぶりの起動で戸惑いました。

で、何していたかというと、Seasonsの夏号のために、以前撮ったはずの写真を探していたのでした。我ながら「こんなのあったんだ!こりゃ、いいぞ」というのを見つけたのはいいけれど。あと、Seasonsの秋・冬号でコラボでイラスト描いてもらう予定で、その準備もちょっとしていたっけ。

それから、エッセイの仕事の文章書いて、写真も用意して。ブログの方も、新しい作品を一つアップしましたよね。「第三回 小説書いてみよう会」のお題が「春」だって言うから、ずっと発表していなかったものだけど、お題変更だというので、じゃ、出しちゃえってことで。

あと、ブロともになってもらった方を訪問して、小説の一氣読みとかもしていました。これはね、楽しかったし、とても勉強にもなりましたよ。まあ、同じようなものは死んでも書けないし、自分らしく書いていくしかないって認識した上での勉強だけど。

そんなこんなで、忙しくしていたんだけれど、どうも、小説が全然進んでいないんですよね。進んでいない理由は、忙しいから、ブログに夢中になっているからでもあるかもしれないけれど、とあるキャラが巧く動いてくれないからだと思います。動く時には、一日で10000字とか書いていた時もあったんだけど。ここのところ、本当に遅筆になっています。

困りましたね。
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Posted by 八少女 夕

【小説】桜のための鎮魂歌(レクイエム)

これも今年書いたもの。毎月、一本ずつ書いている小説「十二ヶ月の組曲」のうちの四月分です。




引きずっていたのは罪悪感だったのかもしれない。満開の桜はこれほど華やかなのに、咲く度に私は痛みを感じてきた。

この季節の東京はいつも意地の悪い風や雨が起こり、花冷えにもやきもきさせられる。近くの公園では、花見の席とりをしている幼さの抜けない青年が、ひとりスマートフォンを弄っていた。夜には、「早く終わらないかな」とぼんやりした表情のまま、ビールを傾けるのだろう。桜をまともに眺めたりなぞしないのだ、きっと。それでいい、桜に意味なんか持たせない方がいい。だらだらした青年が義務にかられてしかたなく座ったその桜は、見事なソメイヨシノの巨木だったが、その幹の下で誰かが和歌を詠もうが、ゲームに興じようが意に介していないようだった。

私にとって桜はもっと重い存在だ。父が亡くなってから、桜を見ることは常に追悼を意味した。それはずっと続くのだ。私が桜のない国に行くまで。


「ここしばらく、会っていないだろう。帰ってこないか」
父からの最後の電話は、こんな風だったと思う。私は、条件反射のごとく不快になった。

私は、両親は無条件に愛せるものだというナイーヴな同級生と一線を画していた。家庭を顧みなかった父、いつも家にいないのは仕事のためと言いながら、何度も不義を働き母親に憎まれていた男。自分にこの男の遺伝子が半分も含まれているのは許しがたい暴挙のように思われた。不潔で、小心な、やっかいもの。定年間近になって窓際に左遷され、最後の愛人に捨てられた。定年退職とともに母は離婚を申し出た。

「私がどんなに我慢していたか、あなたに思い知らせてやりたかった」
私は、そういった母親の味方をした。小さな背中を丸めて、アパートに引っ越した父親の後ろ姿を、あてつけがましい態度と軽蔑した。財産分与で買ったマンションに遷る母の引っ越しの手伝いをしながら、せいせいしたと言い放った。

「あら、ここから多摩川堤の桜並木が見えるのね」
母は、引っ越しの手を休めて言った。私はベランダに出て、春のそよ風を感じた。

「いいところねぇ。春にはお花見に来ようかな」
「桜ねぇ。お父さんが好きで、結婚前には季節になると花見デートしたのよね。結婚してからは一度もつれていってくれなかったけれど」
「へえ?桜の季節はいつも会社のお花見でお腹いっぱいって感じだったけどね」
「違うわよ。愛人を連れて行ってたのよ」
「あ~、やだ。だから、私は結婚したくないのよねぇ」

そう言ったけれど、愛人だけではないことを、私は知っていた。私には父親との花見の記憶が一度だけあったのだ。

まだ、私が小学生低学年の頃だった。どういう経緯で父と二人で散歩することになったのか憶えていいないが、私たちは当時住んでいた町の駅の裏の遊歩道を歩いていた。桜が満開の晴れた午後だった。

「見て、お父さん、すごい」
「ああ、綺麗だな。見てご覧、真っ青な空と桜だ。こんなに綺麗な景色は滅多にないよな」
「どうして、みんなは桜が咲くとお花見をするの?他の花の時にはしないのに」
「何故だろうな。桜は、こんなに綺麗だけれど、すぐに散ってしまうんだよ。いつなくなってしまうかわからないから、あるうちに眺めておきたいと思うんじゃないかな。父さんはそう思うよ」

しみじみと語った父親の手のひらは暖かかった。そうなんだと素直に思った幼い私は、まだ諸行無常の意味も盛者必衰の理もわかっていなかった。当時は素直に尊敬していた父親を数年も立たないうちに憎く、疎ましく思うようになることも知らなかった。


私は大学を出てから、広告代理店の総合職に就き、東京に引っ越し、休みもほとんどない忙しさの中で自己を確立していった。母のように我慢するだけの人生は送りたくない。だから、自分の食い扶持は稼いでみせる。結婚したくないわけではないが、どうしてもしたいわけではない、そう思って生きてきた。

二十代の頃は目が回るような忙しさだったが、ここ十年ほどは不況のせいもあり、また、マネージャ職に就いたこともあって、プライヴェートの時間も持てる程度には落ち着いてきた。対外的にはそれなりに成功し、都心に新築マンションを購入し、文化的にも経済的にも満足した生活をすることができるようになった。

ふとまわりを見回してみれば、友人はみな結婚して子供を持っていた。つき合った男たち、中には結婚を申し込んでくれた男もいたが、誰もがもう家庭を持っていた。最近は、既婚者にたまにちょっかいを出されるくらいしか浮いた話はないが、結局のところ私は結婚には向いていないのだと思う。母の苦労を見てきたせいだけではない。たぶん、私の中にある冷徹さが、家庭を持つには向かないのだと思った。


「忙しいのよ。磯子は遠いし、週末にしか行けないわ。何か用事があるの?」
電話をかけてきた父親に、私は冷たく答えた。

「いや、特に用事ってわけではないんだ。だが、母さんと別れて以来、お前とは十年近く会っていないし…」
「会って、どうしたいわけ?酒を酌み交わして、わかりあおうってわけじゃないでしょ?」

父親は多くは語らなかった。
「時間のある時に、会いにきておくれ。不意に来てもいいんだ。いつ来てもいいように、でかける時には、大家さんに伝言しておくからな」

声が前よりも弱々しく響いた。同情を買おうって戦略ね。何なのよ。私はイライラして電話を切った。もちろん行くつもりなど欠片もなかった。

それから、三ヶ月ほど経って、また桜の時期がめぐってきた。私は不意に父親の電話を思い出して、落ち着かなくなった。なぜ私が後ろめたさを感じなくちゃいけないわけ?寂しいなら今までの愛人たちに電話をして慰めてもらえばいいじゃない。そう思えば思うほど、いてもたってもいられなくなり、観念した私は、その土曜日に磯子行きの列車に乗った。

アパートに父親はいなかった。大家を探して訊いたら、中央病院に入院しているという。

「もう、あんまりよくないらしいんですよ。お嬢さんがいらしたんですね、よかった。何かあったらどなたにご連絡すればいいのかと、思案中でした」

私は驚いて病院に向かい、すっかり縮んでしまったような、顔の黄色い父親の姿に呆然とした。

「来てくれたのかい」
父親は、目を潤ませて言った。
「立派になったね…」

「いつから具合が悪かったの。言ってくれればよかったのに」
「忙しいって言っていたから…。三月は決算とかあるんだろう」

そんなに悪くなるのは、ひと月とかそう言う問題じゃないでしょう。私は言いかけたが、思い至った。そうだ、お父さんは会いにきてくれと言っていたじゃない。私が聴く耳を持たなかっただけだ。

「お前に謝りたかった。父親らしいことを、まったくしてやれなかった。結婚に対する夢も、父さんが壊してしまったんだろう?」

いまさら、そんなこと言わないでよ。急にそんないい父親面しないでよ。私は喉につっかえている物を必死で飲み込み、目をそらした。窓の下から桜の大樹が目に飛び込んできた。

「桜…」
「なんだ?」
「桜並木のことを思い出したの。それで、どうしているかなと思って」
私は、そっぽを向いたまま言った。父親の声が涙ぐんで聞こえた。
「憶えていたのか。まだ、小さい頃だったな。あの桜は、綺麗だったな…」

私は、また来ると言って、病室から早々に逃げ出した。

その年の桜は、当たり年だった。花がぎっしりと寄り添い、それぞれが生きる喜びを力の限りに謳った。一つひとつは白いのに、遠くから眺めるとうっすらとした桃色で、絹でできた輝く雲のようだった。そして桜を賛美するかのごとく、盛りの日々を紺碧の空が彩った。彼方に哀しみが透き通っていくような清浄な空だった。私は、病院に植えられた大樹の影から、父の病室を見上げてやり場のない感情をもてあました。私はお父さんを憎んでいたはずだ。ならば、この感情は何なのだろう。

彼はそれから半月も経たずに、この世を去った。私の中に大きな後悔だけを残して。それから、桜の季節がめぐってくる度に、私はあの時と同じ何かが喉にこみ上げてくるのを感じる。妻と愛人たちに見捨てられた、姑息でずるい小男。たった一人の実の娘に憎まれていた人生。けれど、彼を蔑むことができるほど、私は立派なのだろうか。一人で生きていけるようになること、都心のマンションに暮らすこと、男なんかに頼らない生き方。築き上げてきた全てが虚しく感じられる。


母は違った。失った二十五年を取り戻そうとするかのようにはじめた社交ダンスのサークルで、友人と、そして新しい伴侶まで見つけた。まじめで優しい人だそうだ。恥ずかしいから表立ったことはあまりしたくないけれど、親しい人を招待する披露の食事会には来てほしいと電話をしてきた。

「あなたも、いい加減にいい人探しなさいよ。仕事もいいけれどねぇ」
「私が一度も結婚していないのに、なんでお母さんは二度もするのよ」
私は呆れて、電話を切った。お祝い事の報告だったから、私の方の話はできなかった。

母が落ち着いてから、ゆっくりすればいいのだ。そのくらいの時間は残っているだろう。

私は、鏡を見る。黄色い顔。八年前に病院で見た父の病んだ顔とそっくりだ。三月は決算で忙しかったから、鏡をゆっくりと見ることもなかった。今日、ようやく予約が取れたので行ったというのに、医者はなぜもっと早く来なかったのかとなじった。

同じ病だった。医者は必ずしも死ぬわけではないということを回りくどく説明した。つまりチャンスがないわけではない、ということだ。若い分だけ進行が速いので予断は許さないとも言った。こんな時だけ若いと言われても嬉しくも何ともない。

これは罰なのだろうか。実の父親を憎み続けたことへの。願いを冷たくはねつけたことの。同じように孤独の中で、この世を去っていくことを、私は天の正義のように感じる。私に伴侶も子供もいないことや、母に新しい伴侶ができたことは、天からの配慮なのかもしれない。いや、もしかすると、これは父からの生前にできなかった娘への贈り物、つまり警告だったのかもしれない。同じ黄色い顔がなければ、私はずっと病院には行かなかっただろうから。

青く青い空にソメイヨシノが映えて、泣きたくなるほど美しい。こんなに華やかで、かつ、はかなげな花はない。今ある生を謳歌している。たとえ、心なき風にすぐに散らされてしまう身だとしても。

「きれいねぇ」
「今年も立派に咲いたよなあ」
人々のため息が耳に入る。

今年の桜を、私は安らかな氣持ちで眺めることができる。来年の桜を、もしかしたらあの時の父のように、私は見ることができないのかもしれない。それはあの医者にだってわからないだろう。けれど、私はだからこそ短い桜の季節を大切にすることができる。父が教えてくれたように。私は、ここで最後の追悼の花見をしよう。父と、いつ逝くかはわからないけれど、必ずいつかはこの世を去る私のための。

(初出 2012年3月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

「好きな和食料理は?」

卵豆腐、揚げ出し豆腐、天ぷら、それに穴子飯。鰻の蒲焼きも大好きで、極上の中トロも捨てがたく、すき焼きにも目がないですね。う〜む。食い意地が張っていますが、これらはみんな、三年に一度くらいしか食べられないのです。

スイスで同じものを作ろうとすれば、作れるんでしょうが、やっぱり違うんですよね。和食は日本で食べてこそ。次に帰国した時にも食べまくりますよ〜!

こんにちは!FC2ブログトラックバックテーマ担当加瀬です(^v^)/今日のテーマは「好きな和食料理は?」です。皆さんは、料理の種類ではどんな料理を食べる事が多いですか?加瀬の周りでは、圧倒的に洋食を食べる人が多いです。洋食は味も濃くて、「食べた!」という感じがしますが少々カロリーも気になったりしますよね…。加瀬は昔から和食が好きで、家で作る料理も和食が多いです!和食は食材の持ち味が存分に味わえて、...
トラックバックテーマ 第1412回「好きな和食料理は?」

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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち (8)バルセロナ、 エンパナディーリャの思い出

イタリアを離れて四人がやってきたのはバルセロナ郊外です。これからしばらくはスペインを旅する事になります。
あらすじと登場人物
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(8)バルセロナ、 エンパナディーリャの思い出


「やっと再会できましたね」
蝶子の頬に熱いキスをしてカルロスは言った。

稔は久しぶりにカルロスを見て、やっぱりギョロ目だと思った。記憶の中でこの巨大な目と濃い眉がデフォルメされてしまったのかと思っていたが、実物は記憶以上だった。

コモから、直に南スペインに向かうのでバルセロナにも立ち寄りたいと電話すると、カルロスは大喜びで、滞在中は彼の自宅に泊まれ、出来ればクリスマスと新年もここで迎えろと言った。

蝶子は耳を疑った。
「でも、それじゃ一ヶ月もいる事になっちゃうわ」
「一ヶ月どころか、ずっといていただいて構わないんですけれどね。まあ、あなたたちは自由が好きなんでしょうから、思うがままに出入りしていただいて構わないんですよ」

いったい何の因果でこんなに親切なのかよくわからないが、とにかく「四人で」向かうと伝えておいた。カルロスはバルセロナの駅に迎えをよこすと言っていたが、来てみたら本人が運転手と一緒に待っていた。

「ああ、では、こちらが新しいメンバーなんですね」
稔とレネに握手をした後、カルロスはヴィルに笑いかけた。稔が紹介した。
「そうだ、初対面だったね。ヴィルだ。俺たちはテデスコと呼んでいる。ドイツ人だから」
「よろしく」
ヴィルはいつも通りの無表情で握手をした。



カルロスは小さなバンに四人を案内した。運転手がドアを開けると、カルロスは蝶子の手を取ってバンに乗るのを助けた。稔は感心した。ラテン民族の女の扱いには敵わない。しかし、それに堂々と応える蝶子の女としてのスマートさは、そこらの日本人にはマネが出来ない。こいつ、いつからこんな風になったんだろう。

大学時代の蝶子は少なくともこんな風ではなかった。容貌や服装は大きく変わっていない。きつい性格も前とそんなに違いはない。だが、立ち居振る舞いが全く違う。

たとえば園城真耶は生まれたときからのお嬢様生活で、他のクラスメイトとは全く違う立ち居振る舞いをしていた。立ち方、歩き方、ものを取るときの手つき、驚いたときの振り向き方、全てが優雅で流れるようだった。

蝶子はそんな動きはしなかった。それで当時の蝶子の美しさが損なわれていると感じた事はなかったが、今の蝶子はあの当時の彼女とは較べものにならないほど洗練されている。その違いは歴然としている。蝶子は存在だけで当時よりずっと美しかった。それは動きなのだ。

稔が三味線を弾く時には、すっと姿勢がよくなる。それ以外の動きで三味線を弾く事は出来ない。その姿勢は稔の体に染み付いている。だから、蝶子がフルートを吹く時に洗練されて美しいのは当然だった。

けれど、稔は歩いているときや、食事をしているとき、または車に乗り込むときの動きなどまったく意に介さない。だが、蝶子にはその全てに洗練された怜悧な優雅さが備わっている。カルロスが大道芸人の女を姫君のように扱うのは、この蝶子の美しさにあるのだと稔は解釈した。

そこまで考えて、ふと、どこかでもこんなことを考えたぞ、と思った。それから目をドイツ人に動かした。

そうだ、こいつの動きだ。着古したジーンズを履いて、普通の町中のカフェで足を組んでいても、どこか稔やレネとは違う。

かつてそれに氣づいた時に、稔はよく観察した事がある。稔やレネの腰は、だらりと椅子の前方にあり、背中が椅子から離れて丸まっていたが、ヴィルはきっちりと椅子の背に深く腰掛けていた。稔の足は投げ出されていたが、ヴィルの組んだ足にはどこかまだ緊張があった。

違いはそれだけだった。だが、そのわずかの姿勢の違いが、明白にあか抜けた洗練を生む。普段は誰も目に留めないが、それがコモでのようにきちんとした服装を身に纏う時に大きな違いとして表れるのだ。

稔はふいに、確信を持った。こいつはただの庶民じゃないな。真耶や蝶子がどこかで身につけたような上流階級の躾をどこかで受けているに違いない。



四人もの風来坊に一ヶ月も泊まれと言うくらいだから、小さな家だとは思っていなかった。だが、それは家ではなかった。少なくとも稔や蝶子のような日本のごく普通の家庭に生まれたものにとってはそれは家と呼ぶようなものではなかった。城と呼びたい所だ。もちろんフランスやドイツの城のようには大きくない。しかし、単に館と呼ぶのは奥ゆかしすぎる。

門から直接建物が見えないというのも驚いたが、三階建ての建物に一目で二十室以上部屋があるのがわかったのにも目を白黒した。重厚な木のドアを開けて中に入ると、外見のシンプルな白っぽい石の造りと相反して、スペインらしい色使いのインテリアだ。エントランスの床は白い大理石、柱や階段の桟は濃い茶色の木だった。赤いアラベスク模様の絨毯が敷かれ、極楽鳥草や薄いオレンジの薔薇などが生けられた大きな花瓶が置かれている。

「あなた、何者なの?」
呆れて蝶子は訊いた。

「ただの実業家ですよ。ただ、この家と土地は先祖から受け継いだものです」

「イダルゴか」
ヴィルがつぶやいた。

「その通り」
カルロスは答えた。

稔は蝶子をつついて日本語で解説を求めた。
「イダルゴってなんだよ」
「郷士っていうんじゃなかったかしら、日本語では。土地を持っている下級貴族よ」
「ふ~ん。ある所にはあるんだな。ま、じゃ、ちょっと贅沢のおこぼれをいただくか」
稔はつぶやいた。



四人はそれぞれ客間をあてがわれた。蝶子は使っていいと言われた大きなバスルームに案内されてにっこりと笑った。なんて豪華なバスタブかしら。アラベスク模様の寄せ木造のついたてなど、無駄に装飾のある空間がとても氣に入った。

こんなに贅沢な建物にゲストとして滞在するのはミュンヘン以来だった。

エッシェンドルフ教授の館は、このカルロスの館に匹敵する大きさと贅沢な空間だった。彼もまた先祖伝来の広大な領地を持ち、本来、働く必要などない特権階級の一人だった。

彼の完璧主義のために館の調度は常に完全な状態に保たれていた。ドイツ式の緻密で優美な内装。使用人が必死に磨く真鍮の桟や取手。または塵ひとつなく掃除された室内。

蝶子は五年以上の時間をその館で過ごした。留学当初に借りた小さな学生用フラットは質実剛健そのもので不必要なものなど何もない空間だったので、教授のレッスンを受けるために最初にその館に行った時にはあまりの豪奢に落ち着きを失ったものだ。

しかし、直に蝶子はその館に慣れてしまった。学生用フラットには共用のシャワーしかなかったので、エッシェンドルフの館でバスタブに浸かったときの幸福感は何にも代え難いものに思われた。その記憶が、蝶子をバスルーム好きにした。今の蝶子は、バスルームよりも自由の方がはるかに大切である事を十分に自覚している。それでも、このように機会があれば最高の贅沢の一つとしてバスタイムを愉しむこともやぶさかではなかった。



「紹介するよ。普段、料理をしてくれるイネスだ」
カルロスが居間でくつろぐ四人の所に連れてきたのは丸まると太った優しそうな年配の女性だった。

代わる代わる握手をする四人に暖かく笑いかけてイネスは言った。
「何か食べられないものはありますか?」
四人は顔を見合わせた。

「何でも食べるよな?俺たち」
「そうよね。サルの脳みそとかじゃない限り」

「魚は食べられますか?」
日本人二人はにんまりと笑った。
「俺たち日本人だから。もちろん魚は喜んで食べるよ。イカもタコも海老も」

「そちらのお二人は?」
「自分では注文しないが、出てきたら食べる」
ヴィルがいうと、蝶子が意地の悪い顔をした。
「やっぱり北ヨーロッパ人はダメよねぇ。魚の美味しさを知らないなんて」
「出てきたら食べるって言っているだろう」

ムッとするヴィルの横で、いいにくそうにレネが打ち明けた。
「僕、魚は平氣だけれど、生のタマネギが苦手です。努力はしますけれど…」
「あら、それは私も苦手だわ」
蝶子がそういうと、ヴィルがほんの少し勝ち誇ったように眉を持ち上げた。

「でも、料理には入れてくださって構いませんわ。この人に食べてもらうから」
蝶子がヴィルを指した。
イネスは笑って、台所に姿を消した。

「彼女の料理は天下一品ですからね。きっと、苦手なものも克服できるようになるでしょう」
カルロスは言った。蝶子はカルロスを振り向いた。

「ねえ、でも、本当に迷惑だったら言ってね。あらかじめ言っておくけれど、私たちお酒飲んで大騒ぎするの」
「わかってますよ。酒蔵にすぐに案内しますか?」

「やだな。酒ぐらいは稼いで買ってくるよ」
稔が言った。他の三人も頷いた。カルロスは肩をすくめた。
「わたしも宴会に混ぜてもらうつもりですから」
蝶子は微笑んだ。



「さ、お茶にしましょう。スペインは夕食が遅いので、四時頃におやつを食べるんですよ」
イネスが声をかけた。

四人はカルロスと食堂に移った。黒檀のテーブルにコーヒーと揚げ物が用意されている。イネスがそれぞれの前の皿に一つずつ巨大な揚げ餃子にみえる菓子を置いて言った。

「エンパナディーリャって言うんですよ。たいていは塩味のものを入れておかずのようにするんですけれど、今日はアプリコットジャムを入れて揚げたんです」

最初に手をつけたのはレネだった。一口食べて、それを皿に置いて、それから眼鏡を取って泣き出した。全員がびっくりしてレネを見た。

「どうしたんだよ、ブラン・ベック」
向かいに座っていた稔が訊いた。

「こ、この味です。子供の頃、母さんが作ってくれたお菓子…」
「なんだよ。泣く事かよ」

レネは涙を拭って、語りだした。
「僕には、二つ年下の妹がいたんです。体が弱くて、外に遊びにいったりできなくて、遊び相手は僕だけでした。母さんはよく、これとそっくりのお菓子を作ってくれました。妹の大好物だったからです。僕もこのお菓子が大好きだったけれど、妹が欲しがるので我慢していつもあげてしまいました。父さんから妹はもう長く生きられないと言われていたからです」

レネの言葉に、コーヒーを飲んでいた他の三人は、手を止めた。レネは続けた。
「妹は、本当に長く生きられませんでした。かわいそうに、あんなに小さかったのに、苦しんで病院でチューブだらけになって…。母さんに、揚げ物のお菓子が食べたいと言って、でも、最後は力がなくって食べられなくって。妹が死んでから、母さんはずっと泣いてばかりいました。やっと少し元氣になってきた時に、その話をしたら、また母さんが泣いてしまって。僕はそれで母さんに食べたいからこのお菓子を作ってほしいと言えなくなってしまったんです。あれから二十年以上も、どこかでこれを食べたいと思っていたけれど…」

ヴィルが自分の皿に置かれていたエンパナディーリャをレネの皿に置いた。続いて稔と蝶子もほぼ同時にレネの皿めがけて自分の菓子を投げ込んだ。皿に並んだ四つのエンパナディーリャを見て、レネは再び泣き出した。今度は号泣だった。

イネスは呆れていった。
「まだ、ここにはこんなにあるんですよ。何もあなたたちがあげなくても」

けれど、その四つは他のエンパナディーリャとは違っていたのだ。三人が他の人間とは違うように。レネは泣きながら四つの菓子を平らげた。後でまたイネスにもらって食べた稔は、どうやったらこんなに大きくて甘くて脂っこいものを四つも食べられるんだと首を傾げた。



「来週、この館でクリスマスのパーティがあるんですよ。よかったら参加してください。あなた方のショーも披露してもらえると嬉しいですね」
カルロスの申し出に四人は喜んで同意した。

パーティに使う広間にはスタンウェイのグランド・ピアノがあった。それで、昼はバルセロナの街で稼ぎ、大量に酒を買ってきて、夜は広間で打ち合わせと称して音楽を奏で、手品を楽しみ、そして宴会をすることになってしまった。

もちろん、その他に三食イネスのスペイン料理にも舌鼓を打つ。

カルロスの言葉は嘘ではなかった。イネスの料理は絶品だった。地中海の幸、肥沃なスペインの山の幸が贅沢に、しかし、飽きのこない家庭的な味付けでこれでもかと出てくる。魚介類が苦手だったはずのヴィルでさえ、自分からお替わりをするほどだった。もちろん酒類は必須で、ペネデスの白ワイン、リオハのティント(赤ワイン)やシェリーを傾けながら食事を楽しんだ。蝶子のお氣に入りは赤ワインと炭酸飲料を半々にして作ったティント・デ・ベラーノというカクテルだった。

カルロスが仕事で館を留守にする時は、イネスがテーブルに座って四人と話をした。
「カルロス様は、皆さんがいつ見えるかと、本当に楽しみにしていらしたんですよ。私もどんな方々かと興味津々でした」

「カルちゃんは、こういう風来坊をしょっちゅうお館に引き入れているの?」
蝶子が訊く。
「めったにありませんね。でも、仕事やプライヴェートのお友だちが泊まりにくる事はよくあります。このお屋敷にはそもそも部屋がありすぎるんですよ。お一人だとお寂しいんじゃないですか」

「ギョロ目はずっと一人もんなんだ?」
稔はついにギョロ目と呼ぶ事にしてしまったが、誰も何も言わなかった。当のカルロスさえも。

「ご結婚を解消なさってから、五年ほどになられますが、あれから長く続いた方はまだいませんね。お忙しすぎるってこともあるんでしょうけれど、ご結婚には懲りていらっしゃるみたいで」
イネスはくっくと笑った。どんな奥さんだったのだろうと四人は想像をそれぞれめぐらせた。



バルセロナの街は活氣に溢れていた。もう相当寒かったので仕事をするのは十時から四時間ほどだったが、宿泊代を考えなくていいので相当の金額が酒類に費やされ、バンを買うための貯蓄を引いても、まだ十分な金額が手元に残った。コモのロッコ氏のレストランでも相当の余剰金ができた。これからの厳しい冬を乗り切るには運のいい状態と言ってよかった。

ロッコ氏は来年も同じ時期にまた働いてほしいと言った。そう言ってくれるのは有難かった。

四人は来年の事に思いを馳せた。それぞれが大道芸を始めた時には考えられないことだった。蝶子はコルシカフェリーの上で不安と寄る辺なさに心を悩ませていた。行くところも待っている人間もなかった。稔はいつ終わるとも知れない大金の返済と罪の意識に疲れていた。レネは仕事と恋人を同時に失い人生が嫌になっていた。ヴィルは父親から自由になりたかった。一度も見た事のない父親の婚約者が実行したように。

お互いに一人ではできなかったことが、Artistas callejerosとしてチームを組む事で可能になった。大道芸としても、また、トネッリ氏のバーやロッコ氏のレストランで展開したショーもその完成度の高さとお互いのプロ意識、そして友情のもたらす信頼関係で高い評価と報酬をもたらした。偶然の出会いがもたらしたカルロスのような親切な人間の助けで、このように贅沢で楽しい日々を送る事すら出来るようになった。

稔は去年の冬の事を考えていた。何回か安宿に泊まる金も稼ぎだせず、大都市の地下鉄で夜を過ごした。自分は何をしているのだろうと思った。日本に帰ろうにも航空券を買うなど不可能だった。夏の間に稼いだ余剰金はすべて遠藤陽子に送った。送っても送っても完済にはほど遠かった。なぜこんな事を続けているのか、わかってくれる人間はこの世の中にはいないと思った。生涯浮浪者のように生きるしかないと思っていた。それがどうしたことか。お城のような館で、美味いものを食べながら、仲間と酒宴の日々だ。バンを買って、みんなでヨーロッパ中をめぐろうと夢を語っている。高校生の時に夢を見ていたようにギターで生活費を稼いだりもしている。人生、先の事は本当にわからないものだ。諦めないで本当によかったと思う。
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Posted by 八少女 夕

どうでもいい悩み

連載中の長編小説「大道芸人たち Artistas callejeros」のイタリア編が終わり、いよいよ本格的に話が進んでくるスペイン編に入るのですが、ここでひとつ悩みが…。

作品中で、たま〜に名前の出てくる園城真耶と結城拓人という日本在住のキャラがいます。この二人が、その内に出てくるのですが、この二人、別の作品に出てきた人物なんですよね。で、そっちの話を公開した方がいいかなあということを、ぐるぐる考えている訳なのです。

FC2小説にでも、さくっと公開しちゃう、という手もあるのですが、ここでもう一つ悩みが。この二人が出てくる作品「樋水龍神縁起 Dum spiro, spero」は、それだけでも全然短編ではないのですが、実は、それ以前に書いたもっと長大な作品の番外編なんですよね…。で、その大もとの作品「樋水龍神縁起」は、どう考えてもブログでは公開できない…。長いだけでなく、大した描写ではないのですがR18だし。それに、この大もとの作品は、園城真耶たちとは全く関係がないので、そのためだけにここで公開するのも意味がないし。

さて、どうしよう。このまま、「樋水龍神縁起 Dum spiro, spero」なしで突っ切っちゃおうか、それとも一部公開でもした方がいいのか、ここ数日、馬鹿みたいに悩みまくっています。

ま、ほんとうにどうでもいい事なんでしょうけれど。
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Posted by 八少女 夕

テンプレート変更しました

以前からいらしてくださっていた方は、すぐにわかったかと思いますが(^_^;)、テンプレートを変更しました。

前のテンプレートもよかったんですが、どうも横幅が狭くて、小説を書くとやたらとスクロールしなくちゃいけないような感じがしていました。

このテンプレートはMDさんの作品で、本のようになっている所が小説のブログにぴったりだと思いお借りする事にしました。

若干のカスタマイズをしています。文字の大きさ、本文のフォントをセリフにしたこと、表示されていた画像をコメント化させてもらった事です。ブログの内容といま一つ合わなかったので変えたかったのですが、画像のカスタマイズするのは不可という事でしたので。

しばらくこのテンプレートで様子を見たいと思っています。
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Posted by 八少女 夕

「自分へのご褒美」

美味しいケーキや、ちょっと素敵な洋服、もしくは天然石のアクセサリーなどを購入します。もしくは、レストランでご飯を食べるかな。
スイスは、日本と違って外食が悲しくなるくらい高いんです。一回の外食で一週間分の食費が吹っ飛びます。だから、外食は滅多にしないし、する時には思い切り楽しみます。それが普段頑張っている自分へのご褒美を兼ねるんですね。

こんにちは!FC2ブログトラックバックテーマ担当ほうじょうです。今日のテーマは「自分へのご褒美」です。あなたは何かを達成したときのための「自分へのご褒美」って、何にすることが多いですか?あの試験に合格したらディズニーランドに遊びに行く!とか1時間掃除ができたらおやつを食べる!とか。もっと困難な目標の場合ご褒美をドドーンとでかいものに設定することもありますよね!ほうじょうは少し前のトラバテーマでも書...
トラックバックテーマ 第1411回「自分へのご褒美」

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Posted by 八少女 夕

『SEASONS-plus-』2012 春号が届きました

私も参加した『SEASONS-plus-』2012 春号が発売され、スイスの我が家に届きました。載った小説は、景月さまの素敵なフォトを表紙にしていただいています。中にはBJさまのフォトも。



今回もたくさんの作家の方が参加しています。
興味のある方、ご購入は、こちらからどうぞ。
ポエトリーカフェ武甲書店
太陽書房

いや、活字になると、嬉しいですね。もともとはこの冊子に投稿するのではじめたこのブログも、けっこう充実してきて、お友達も増え、氣がついたら1000カウント越えているし、小説ライフ、わくわくしてきています。

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Posted by 八少女 夕

小説と経験

経験のない事を書くのは心配だ。ネットで調べただけの上っ面な情報で書くと、簡単に足をすくわれるみっともない事を書いてしまう時もある。

とはいえ、自分で経験した事しか書かないのであれば、題材も限られてしまう。だから、経験の裏付けのあるしっかりした文章と、空想によるあやふやな文章を交えて書いていくしかない。

ただ、文章はそうそう簡単には巧くならないけれど、経験はどんどん積んでいける。私はたぶん、ネットで小説を公開している人間の中ではかなり歳を取っている方だと思う。

中学生の頃に書いていたものと、高校生の頃、大学の頃に書いていたもの、そして社会人になってから、国を離れてから書いたものはかなり違うものになっている。

王子様を夢見ていた年頃、世の中が汚らわしいと敏感になっていた頃、世の中をわかったようなつもりになっていた頃、それから、どうやって生きていくのか先が見えなくて焦っていた頃。恋をして、結婚もして、周りの死別や離別もたくさん目にして、黒と白とにはっきり分けられないことや、分ける必要もない事も学んできた。

結婚しているからこそ書けるものがある。結婚していなかった時代があったからこそ書けるものもある。日本で働いた経験があり、海外で働いた経験があるからこそ、もしくは女であるからこそ書けるものがある。子供だったが故に無力で苦しんだからこそ、現在、その思いから解放されているからこそ書けるものがある。

小説を書くのに全ての経験は必要ない。でも、深みを出すためには、歳を取っている事はマイナスにはならない、そう思う。
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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち (7)コモ、 湖畔の晩秋 -2-

イタリア編の最後になりますが、実際には今回四人がいるのはイタリア語圏のスイスです。絆が深まってきて、稔が(ぼかしながらですが)過去の事について語りだします。この後、四人はスペインへと向かいます。
あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(7)コモ、 湖畔の晩秋 -2-


ロッコ氏のレストランは月曜日が定休日なので、四人の休みも強制的に月曜日になった。その日はいい天氣だったのでロッコ氏に借りた車でドライブに出かけた。鮮やかな黄に色づいた白樺の林を抜け、モンテ・ビスビーノを通ってスイスのルガーノへ。車の好きな稔は運転するヴィルを羨ましそうに見た。

「ちくしょう。俺も免許証を持っていればなあ」
蝶子はヨーロッパの免許証を持っているのだ。

「ドイツで取得したの。IDカード代わりになるから、日本のにも書き換えられるといいんだけど、きっと無理よね」
助手席から後ろを振り向いて蝶子が言った。
「どうだろう。俺の日本の免許は、もう失効しちまっているだろうな。次に帰った時に、再申請すれば救えるかな」
稔は言った。

「海外でちゃんとしたヴィザがあればね」
「げ、そうか。俺たち、もしかして不法滞在?」
「そうよ。もしかしなくても不法滞在だわ」

蝶子の在留届はまだミュンヘンになっているはずだ。何か大使館から連絡が来る時には、エッシェンドルフの館に行ってしまうのだが、それを変更しようにもヴィザと新しい住所がない以上どうにもできない。稔にいたっては在留届すら提出していなかった。ヴィルとレネはヨーロッパにいる以上は何の問題もなかった。免許証もパスポートもヨーロッパ中でフリーパスだからだ。

「ヴィザの問題はなんとかしなくちゃいけないだろうなあ」
「そうね。私も来年にはヴィザが切れちゃうのよね」

レネは感心していった。
「やっぱり日本人ってまじめなんですねぇ」
「なんで?」
「ヨーロッパに何万人の不法滞在者がいると思います?だれもヴィザの問題なんか氣にしていませんよ」

「だってこれまでの人生、常に遵法でやってきたんだもの。そう簡単に変えられないわよねぇ」
「そうだな。お蝶は、日本に帰りたいと思わないのか」

「帰る所なんてないもの」
蝶子はぽつりと言った。

「留学前に、ドイツに送るもの以外、持ち物も全部処分したのよ。親には縁を切られちゃったし。それに、帰って仕事を探して新たに人生をはじめるには、ここで自由を謳歌しすぎちゃったわ」
「同じく。ま、もうちょっとしてから、考えようぜ。以前、一人でいた時には浮浪者同然だったけれど、Artistas callejerosを結成してから、いろいろ変わってきたしさ。そのうちにいい解決案が出るかもしれないぜ」

「そうね。あら、テデスコ、ルガーノはあっちって標識が出ていたわよ。どこに行くの?」
「モルコテ。小さな村だ」

「前にここに来た事があるんですか?」
レネが訊いた。

「六年くらい前に一度来た。湖畔の落ち着いたカフェもあるし、感じのいい小さなリストランテもある。ルガーノは後で行けばいいだろう?」
「もちろん。私ティツィーノは初めてなの。イタリアとずいぶん感じが違うわね」

「商業的な看板が急になくなったな」
「道も全然違う。舗装がちゃんとしている」
「ティツィネーゼはイタリア人と一緒にされるのを嫌がるそうですよ」
「国境一つ超えるだけで、ずいぶん違うのねぇ」



モルコテは小さなかわいい村だった。ルガーノ湖に張り出した半島の先端にあり、風光明媚で温暖なためヴィラやレストランが並び、アーケードにはかわいい土産物屋もある。四人は湖畔に張り出したカフェでアペリティフとして白ワインを頼んだ。晩秋でアルプスの連峰はすでに真っ白な雪で覆われているのに、この日は燦々と降り注ぐ太陽で思ったよりも寒くなかった。

「この白ワイン、美味しいわね。どこのかしら」
「エペス。ロザンヌの近くだ」
ヴィルが銘柄を見ながら言った。

「そこもいつか行こうぜ」
稔が言った。蝶子は嬉しそうに頷いた。ヴィルが続けた。
「秋に行くと、ワイナリーでたくさん試飲をさせてくれるらしい」

「それを言ったら、プロヴァンスだって行かないと」
レネがいうと、稔が言った。
「ドイツだってモーゼルがあるだろう?」

「行く所がたくさんあって忙しいわね」
蝶子は、レネと稔のグラスにワインを注いだ。
「俺には?」
ヴィルが訊くと、蝶子は車のキーを指差した。

「それとも帰りは私が運転する?」
「あんた運転上手いのか?」
「山道はまだ運転した事ないの」

レネと稔が青くなって懇願するような顔をヴィルに向けた。ヴィルはため息をついて、残りのワインを蝶子のグラスに注いだ。

「今は、いつも鉄道で移動しているけれど、四人だったら本当は車で移動した方が経済的だよなあ」
稔が言った。

「そうですよね。鉄道では行きにくい街にも行けるし、夏にはキャンプ場にも泊まれますしね」
レネも言った。蝶子も身を乗り出した。
「みんなでお金を貯めて、中古車を買うってのはどう?」

「賛成。どうせなら、キャンピングカーにするか?」
稔の提案に、ヴィルは首を振った。
「キャンピングカーは、ガソリンをやたらと食うし、速く走れないからいつも渋滞の先頭になる」
「げ。それはやだ」

「でも、ただの乗用車だと、いざという時に中で四人も眠れないわよね」
「だったらバンにしたらどうですか」

「それは悪くない。普通免許でも運転できるしな」
ヴィルも賛成した。

「じゃ、それまでに俺も免許証問題をなんとかしないとなあ。パスポートも近いうちに更新しないといけないし、頭が痛いなあ」

稔の言葉に蝶子もハンドバッグからパスポートを取り出して有効期限を確認した。
「私もあと一年ちょっとだわ」

「パスポートの更新は大使館ではできないんですか?」
レネが不思議そうに訊いた。

「またしてもヴィザ問題さ。ヴィザがない場合は戸籍謄本がいるんだよなあ」
「戸籍謄本って何ですか」
「ヨーロッパで言うと洗礼証明書みたいなものかしら?日本から送ってもらうわけにいかないの?」
「俺は失踪中なんだよ」
「あら。じゃあ、家族には頼めないわね。私もそうだわ。困ったわね。でも、委任状があれば家族でなくてもいいはずよ、確か。なんとかなるわよ」
蝶子は湖を見ながらワインを飲み干した。



リストランテでナッツソースのペンネを食べた。食後にはレネは栗のケーキを、蝶子はカシスのシャーベットを食べた。コーヒーを飲んだあと、ヴィルは車をルガーノに向かわせた。四人は腹ごなしに湖畔のプラタナスの並木道と石畳の街を散策した。

「やっぱりスイスだな…。駐車のマナーが違う」
稔がつぶやいた。レネも頷いた。
「ゴミや空き缶が落ちていませんね」

ショーウィンドウに吸い寄せられた蝶子がつぶやいた。
「ショッピングにもいいわね。このネックレス、すてきねぇ」
「値段をよく見ろ」
ヴィルに指摘されて、蝶子はゼロが予想より二つ多い事を認識して肩をすくめ、先を行った三人を追いかけた。パルマス広場でヴィルは地元民でにぎわうバーに入っていった。三人も続く。

蝶子はカンパリソーダを、レネはカーディナルを注文した。ジン・トニックを頼んで、稔が突然言った。
「ここは俺が払う」

「いったい、どうしたの?」
「もう、必死に金を貯める必要はなくなったんだ。たまにはお前らにご馳走したっていいだろう」
「何で俺が飲めない時にそれをやるんだ」
パナシェを注文したヴィルが言った。蝶子とレネは吹き出した。
「あ、そうか。テデスコにはまた別の時におごってやるからさ」

蝶子は時が来たと思った。にっこり笑いながら言った。
「そういえば、一般論だけど」
稔は、ほらきた、という顔をした。
「前から知りたかったの。多くの海外移民が故国に送金するのって、どうしてなのかしら」

レネは目を忙しなく動かして言葉を探し、ヴィルは俺は知らないぞという顔でパナシェを飲んだ。

「いろんな理由があるんじゃないか。ひと言ではまとめられないよ。大抵は単なる出稼ぎだろ。まあ、ちょっと特殊な例を挙げるならば…」
「挙げるのならば?」

「どっかでこんな話を聞いた事がある。ある男が故国でどうしても金が必要になったんだとさ」
「どのくらい?」
「三百万円」
「まあ、結構な額ね」
「そうだ。本人はそんな金は持っていなかった」

「それで?」
「ある女がその金を用意してくれたんだ。それはその女が結婚資金に長年こつこつと貯めた金だった」
「あら、大変なお金じゃない」
「そうさ。で、男はその女の望み通り、結婚する事を約束して、独身最後の貧乏旅行に出かけたんだとさ」

「それで?」
「男は帰らなかった」

蝶子はもう笑っていなかった。レネは泣きそうな顔をした。

「少なくともその男は送金して全額返したってことだろう」
ヴィルが言った。稔は黙って頷いた。

蝶子は稔の顔を覗き込んだ。
「その男は、その女に会いたくないの?」
「会いたくないんだ。悪い女じゃない。反対にものすごくいい女だ。真っ直ぐで、親切で、積極的で。でも、男はその女や家族や、社会的状況に囲い込まれていくのが、どうしても我慢できなかった。逃げ出したくてたまらなかった」

帰国の日に、シャルル・ド・ゴール空港で航空券を持って一時間も立ちすくんでいた。早くチェックインしなくてはならない。けれど、どうしても窓口に並ぶ氣にならなかった。建物を出て、空を見上げた。雲ひとつないコバルト色の空だった。こんな事をしてはいけない、帰らなくては、彼の良心は最後にそう思った。けれど彼の別の思いが良心に打ち勝った。彼は両手で航空券をつかみ、粉々に引き裂いた。原形をとどめなくなるまで何度も何度も。その紙吹雪が空に舞った。桜吹雪のようだった。ごめん、陽子。俺はお前の所には戻れない。どうしても嫌なんだ。

「その男は、私のよく知っている女に似ているのね」
蝶子は微笑んで言った。稔は訝しそうに訊いた。

「どんな女だよ」
「どこかの東洋人よ。あるドイツ人と結婚の約束をしていたの。そのドイツ人はその女のためにありとあらゆる事をしてくれたの。仕事の教育もしてくれたし、上流社会でのマナーも教えてくれたの。山のようにプレゼントも積んでくれたのよ。でも、女は自由になりたかったから、逃げ出しちゃったんだって」

稔は意味ありげに訊いた。
「もしかして、そのドイツ人はどっかの教授?」
「そうよ。ところで、おごってくれるって話だけど、もう一杯頼んでもいい?」

稔は笑って言った。
「好きなだけ頼め。お前らも遠慮しなくていいぞ」
ヴィルとレネも遠慮なく二杯目を注文した。
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Posted by 八少女 夕

「あなたは記憶力が良い?悪い?」

悪いです。特に人の顔と名前がなかなか一致しなくて。
ただ、一度憶えたら、ものすごくしつこく憶えています。夢中になっているものに対する集中度は高いので、それはよく憶えています。が、去るもの日々に疎し状態で、別のものに夢中になった時点で、さっさと座を受け渡すみたいです。

こんにちは!トラックバックテーマ担当の新村です今日のテーマは「あなたは記憶力が良い?悪い?」 です!みなさん、記憶力は良い方ですか??私はここ2、3年で大分低下してきました・・・先週一週間の晩御飯を思い出すの��...
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