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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】夜のサーカスと南瓜色の甘い宵

月刊・Stella ステルラ参加作品です。ハロウィンスペシャルで急遽書き下ろしたものですが、団長夫妻のこと、それから読者の皆様がやきもきしている主役の二人がでてきます。前回に続き、勝手に表紙をつけたつもりにしています。先日公開したフォトレタッチ作品です。
月刊・Stella ステルラ 11月号参加 掌編小説 連載 月刊・Stella ステルラ


あらすじと登場人物
「夜のサーカス」をはじめから読む




夜のサーカスと南瓜色の甘い宵

夜のサーカスと南瓜色の甘い宵

 オレンジに近い暖かい黄色のナフキンがしっかりと口の周りの汚れを取り去る。たっぷりとしたオリーブオイルのせいで、赤い口紅も一緒にナフキンについてしまった。まあ、いいわ。しみを落とすのは私ではないし。揚げカボチャのニンニク油マリネ。美味しい前菜だった事。ジュリアは空になった皿の上を眺めた。その奥には蝋燭が穏やかな焔をくゆらせている。ナフキンと同じ色のテーブルクロスのかかったテーブルの先には、その男が座っている。ジュリアの夫、ロマーノだ。馬の曲芸師として知られた男、そして、イタリアではそこそこ名を知られるようになってきたサーカス団「チルクス・ノッテ」の団長でもある。

 この男と結婚し、団長夫人としての地位を確立したので、彼女はこのような優雅な晩餐を楽しめるようになったのだ。そうでなければ、今ごろは共同キャラバンの中でブルーノやルイージなんかと一緒にまかない飯をかきこんでいた事だろう。サーカスのスターとして永らく「チルクス・ノッテ」に君臨したけれど、ただの団員としての共同生活には特別扱いは許されなかった。そういうものだし、今後もそうあるべきだ。ジュリアは給仕をするマルコをちらりと眺めた。茄子のスパゲッティ。ロマーノは、大して贅沢をしたがらない男だが、食事にだけはこだわりがあった。料理人として雇われているダリオは、安くてボリュームのたっぷりなまかない飯を作る腕前も大したものだが、それと平行して、レストランでも滅多に食べられないようなコースを用意する事が出来るのだった。

「セコンド・ピアットは鹿肉だよ、かわいい人」
ロマーノは、キャンティのグラスを掲げて微笑んだ。ジュリアもグラスを持ち上げて笑み返した。夫を心地よくすること、それは彼女の数少ない義務だった。それでいいのだ。ロマーノが私だけを愛しているかどうかなんて、どうでもいいこと。私には関わりのない事だから。

 テーブルの上の蝋燭は小さなカボチャをくりぬいた、ハロウィンのランタンに入っていた。今日は十月三十一日。アメリカから来た浮かれた商業主義がこのイタリアにも広がりつつあるけれど、私には関係ない。明後日の万霊節には、教会に行くでしょう。父親や母親、祖父母のため、教会に行くことを止める夫などいやしない。だから、私はこの日には一つの魂のために心置きなく祈る事が出来る。本当に生涯を共にしたかった、たった一人の男のため。

 ジュリアは、ちょうど今のステラぐらいの年齢から、ブランコ乗りとして働いていた。いくつかのサーカス団に勤めたが、芽が出たのはトマとコンビを組んでからだった。ナポリ出身の小柄なブランコ乗りは、怒りっぽくて、腹が立つと誰かれ構わず殴り掛かる困った性格だった。美しいジュリアにすぐに夢中になり、彼女が他の男に微笑みかけたりすると猛烈に嫉妬をした。それを鬱陶しく思った事もあるけれど、彼が突然いなくなってしまってから、どれほど自分が彼の束縛を必要としていたか理解したのだ。トマ。あなたは今どこにいるの?

 鹿肉の猟師風を食べ終えると、ジュリアはふうっと息をついた。明日と明後日は聖なる休みだ。つまり、興行は出来ない。だから、ロマーノは明日を移動の日に当てる事にした。興行収入のためだから仕方ないだろう。いずれにしてもジュリアはさほど信仰深い方ではなかった。むしろ明日教会に行けないということは、なおさら明後日教会に行くことが自然に映るだろう。トマの命日には、ジュリアは教会に行ったり、ことさら神妙にしたりはしなかった。ロマーノと食事をし、後援者達と逢う事があれば楽しく騒いだ。誰もが、さっさと次の利用可能な男に乗り換えた、現金な女と思っている。それのどこがいけないというのだろう。たった一人の男の事を胸に秘めているなんて、だれにも氣づかせる必要はない。そんなことは誰の役にも立たないのだ。

 
「ねえ。このカボチャの蝋燭、今日だけなの?」
ステラは、かわいい細工に目を輝かせた。共同キャラバンの長いテーブルの上にもそれは置かれていたのだ。

「いや、去年は一週間くらい、置きっぱなしだったよな」
エミーリオが問いかけると、ヨナタンが頷いた。マッダレーナはフォークの柄でカボチャ細工を軽く叩いて言った。
「ダリオって、本当にこういうデコレーションが好きよね。氣にいったなら、そう言ってあげなさいよ。これまであたし達、ほぼスルーしていたから」

「こんなにかわいいのに?」
「まかないの食事なんて、お腹にたまればそれでいいのよ」

 スパゲッティーを食べ終えると、マッダレーナはワインをくいっと飲み干して、早々に煙草を吸いに出て行った。エミーリオがそれに続く。ヨナタンも喫煙派だが、特に急いで行く氣はないらしかった。

 入団して以来の共同生活に、ステラはようやく慣れてきた。ステラは最年少で新米だったが、持ち前の人なつっこさで、ほどなく溶け込む事が出来た。ピエロのヨナタン、逆立ち男のブルーノ、ライオン使いのマッダレーナ。馬の世話と団長の下僕のような事をするマルコとエミーリオは双子だった。寡黙な綱渡り男ルイージや、おいしい食事を作ってくれるダリオなど、年配の仲間もいた。

 ヨナタンの側にいたい、それだけで入団テストを受けたステラだった。でも、チルクス・ノッテでの生活は、寝食を共にする仲間と上手くいかなければやっていけないのだと実感した。マッダレーナやブルーノのように、自分のやっている事に自信があって、相手に有無を言わせない強さがあればまだしも、ブランコ乗りとしてはまだ一人前とはいえないステラは、ここで敵を作りたくなかった。

 一番怒らせてはいけないのは、団長とジュリアだった。ジュリアは団長夫人というだけでなく、ステラのブランコ乗りの教師だった。実を言うと、ステラがかなりの倍率の応募者の中から新しいブランコ乗りに選ばれたのは、素人だったからだ。彼女はバレエと体操をずっと続けていたし、体操ではオリンピックの選考大会にも出場するほどの技術を持っていたが、ブランコ乗りをやった事はなかった。したがってジュリアが「こうしなさい」と言えば反論をせずに努力した。

 ジュリアは「六歳の時に、チルクス・ノッテのブランコを見て以来ずっとブランコ乗りになりたかった」というステラの応募動機を、自分に憧れての事だとよく理解していた。まさか、ピエロに追ってきてもらいたいからなんて、誰が思うだろう。もちろん、入団以来のステラの態度で、彼女がヨナタンにただの同僚以上の好意を寄せているのはすぐにわかったが、それもジュリアにとっては悪い事ではなかった。ロマーノに色目を使われるより、ずっといい。

 明日が移動の日なので、サルツァーナでの興行は今日の昼までだった。だから、チルクス・ノッテの仲間達は、いつもよりずっとのんびりとした夕食を楽しむ事が出来ているのだった。

「ねえ。今夜はハロウィンでしょ。あちこちで飾り付けしているんじゃないかなあ。明日は移動で忙しいし、今夜のうちに街の様子を見に行くのはどうかしら」
ステラはおずおずと提案してみた。ブルーノが馬鹿にした様子で鼻を鳴らす。
「アメリカの習慣だろ。何もやっていないさ」

「そうかなあ。この間、移動の時にちらっとみたけれど、ショーウィンドウには……」
ステラはなおも食い下がった。サルツァーナに来るのははじめてだったし、興行中にあった休みではジュリアがたくさんレッスンをつけたので、他の仲間達のように街の散策などにいく時間がなかったのだ。

 がっかりするステラを見てヨナタンは言った。
「腹ごなしに、少し散歩でもするか」

 ステラは目を輝かせた。ブルーノは意地悪く言った。
「俺も一緒に来ようか?」

 ステラは困ってもじもじした。本当はヨナタンと二人だけで行きたいけれど。ブルーノは笑って「け。正直な顔をしてらぁ」と言って、出て行ってしまった。

「言っておくけれど、この時間だから、どこも閉まっていると思うよ」
「そうよね。でも、街の中をちょっと歩ければ、それでいいの」

 石畳の道を歩いて行くと、だんだんと街の灯りが見えてきた。街灯に照らされてパステルカラーでとりどりに彩られたサルツァーナの街が幻想的に浮かび上がった。人々が酒を飲んで騒ぐ声が聞こえてくる。中心街に出たようだ。

「あっ。ほら。ハロウィンの飾り」
菓子屋のショウウィンドウは大きなカボチャのランタンと、箒にまたがる魔女のデコレーションがされてオレンジ色に浮かび上がっていた。駆けて行くステラを見て、ヨナタンは笑った。背伸びをしているが、まだ子供なんだな。

 もう九時近いというのに、その菓子屋はまだ店番がいて鍵もかかっていなかった。ヨナタンはステラの後を追って入って行くと、いくつかの菓子を手に取って店員の所に行った。
「これください」

 普段甘いものを食べないヨナタンがチョコレートやキャンディを買ったので、ステラは首を傾げた。ヨナタンは小さく笑って、菓子の袋をステラの手にポンと置くと、彼女の前髪をくしゃっと乱して言った。
「ほら、お菓子。だから、いたずらするなよ」

 完全に子供扱いされていると思ったけれど、ステラはそれでも顔が弛むのを止められなかった。
「今、食べていい?」
「いいけど、あとで歯を磨けよ」

 ステラは大きく頷くと、半透明の紙袋をそおっと開けた。あ、チョコレート・キャラメル。それにミント入りのチョコ。色とりどりの果汁入りキャンディもある。こんなにたくさん、大好きなものばかり。どれから食べよう?

「ヨナタンはいらないの?」
ヨナタンは少し考えてから、袋の中からキャラメルを一つとって食べた。
「甘いな。久しぶりだ、これを食べたの」

 そうね。とっても甘い。この街、大好き。ハロウィンも大好き。次に行く街でも、こうやって夜の散歩が出来るといいなあ。

 テント場に戻ってくると、煙草を吸っていたマッダレーナが声を掛けた。
「ステラ。今日の後片付け当番、あなただったんでしょ。やっていないって、ジュリアがおかんむりだったわよ」

 ステラは飛び上がった。まずいっ。浮かれててすっかり忘れていた。あわてて共同キャラバンに戻ると、ジュリアがマルコと一緒にテーブルクロスを畳んでいた。
「す、すみません! 忘れていました」

 ジュリアは息を切らすステラをじろっと睨んだ。
「どこに行っていたの」
「ちょっと、街まで……」

 手にはまだお菓子の入った袋を握りしめている。それを見てジュリアは拍子抜けした。何をやっているんだか。

「とにかく、ちゃんと片付けなさい。それから、そのお菓子を置きっぱなしにしない事ね。明日にはなくなっちゃうわよ」
そういって、ミント入りチョコレートを一つとって口に入れた。

 ステラは力強く頷いて、カボチャ色のテーブルクロスをどんどんと畳んだ。

(初出:2012年10月 書き下ろし)
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Category : 小説・夜のサーカス 外伝
Tag : 小説 連載小説 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

大事な日

九星に関心を持ったのは、15年くらい前からだったでしょうかね。

方位を氣にするようになったのです。自分が旅行が好きだということもあって、どうせいくなら吉方位をというような。これは単に自分のことです。人がどこに行こうが、それが凶方位だろうが、もしくは「ナンセンス言ってんじゃないよ」と言われようが、一切意見をしたりしないようにしています。というのは、この方位というものを見だすとたいていの人が友達や家族と旅行などに行けなくなってしまうからです。(私と旦那は吉方位が同じなので自分に都合のいい所をプランすればそれでOK)で、せっかく行くのに「そっちは大凶だから」などと言われるのは嫌じゃないですか。だから、私は他人の方位に関しては一切調べないことにしています。「見てください」ってのも断ります。本氣で知りたければ、いくらでもネットで調べられますしね。そのくらいの手間を惜しむ方はこんな面倒なことに手を出したりしない方がいいでしょう。

さて、前置きが長くなりましたが、そんなところから私は九星に関心を持つようになりました。それから芋づる式に陰陽五行やら四神相応にも興味を持つようになって、現在に至ります。まあ、だから何だというわけではないのですが。

で、今日なのですが、とても珍しい日なのですよ。六白金星が年、月、日と重なっています。それだけなら九年に一度は必ず起こるのですが、実は満月も重なっているのです。そして、私は六白金星生まれなのです。

龍に関する小説を書き出した時に、この日の事を知っていたわけではありません。けれど、実は誰かに教えてもらったわけでもないのです。自分で暦を見ていて、偶然見つけたのです。それが辰年だと氣がついた時には「げげっ」と思いました。891日後、つまり9×99日後に三碧木星が三つ重なる日が来ますが、これも自分で見つけました。満月ではありませんがお花祭りの日です。一人で「これは!」と唸りました。ほとんどプロットのできていた小説がここでぴたっとおさまりました。この二つの日に、特別なことを設定して小説を完成しました。今から二年ほど前のことです。

書いていた時には、この日を自分が迎えるのはずっと先だと思っていました。けれど、それは今日です。私は日本から遠く離れたスイスにいますが、この日がなぜ私にとって重要なのかご存知の方がすくなくとも数名は日本にいるのだと思うと、ものすごく感慨があります。

891日後にもこのブログを続けていられるといいなと思います。その時には、「あ、忘れていた」になっている可能性もありますね。あれからもたくさんの物語が生まれました。891日後はどうなっているのだろうと、楽しみでもあります。今夜が素晴らしい満月になりますように。

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Category : 樋水龍神縁起の世界

Posted by 八少女 夕

シヨン城のお話

つい先日、リクエスト置き場(ネタ提供のお願いともいう)を新設しまして、ウゾさんから早速リクエストをいただきました。ウゾさん、どうもありがとう。

早速 リクエストさせて 頂きます。
バイロンの詩集 「シヨンの囚人」 の舞台になった シヨン城 
其れと ムゼック城砦の時計塔等の スイスの建築物に付いての記事を
読みたいです。



で、まずは、シヨン城について。といっても、全然詳しくないんです。たぶんウゾさんと知っている事は同じ程度。旦那の生まれ故郷から帰ってくる時にバイクで横を通るので、何度も目にしているのですが、なんせ誰かが停まってくれないので写真もないじゃない! で、WikiMediaのフリー画像をリンクしておきますね。

Gustave Courbet - Le château de Chillon
Gustave Courbet [Public domain], via Wikimedia Commons

さて、おさらいしてみましょう。モントルーにあってレマン湖に浮かんでいるこのお城は現在のフランス、イタリア、スイスの一部にまたがるサヴォア王国のお城でした。その地下牢に修道院長フランソワ・ボニヴァールが六年間繋がれていたのです。それを19世紀にバイロンが「シヨンの囚人」という詩に謳って世界的に有名になった訳です。

もう少し掘り下げてみましょう。サヴォアは、ジュネーヴとは時々戦争なんかもしていた国です。いまでも、ジュネーヴではサヴォアの急襲をスープで撃退したという「エスカラード」のお祭りを毎年祝っています。で、ボニヴァールはジュネーヴの宗教改革と独立を支持したので捕まえられてしまったのです。それをベルンをはじめとするスイス連合軍が解放したのという宗教改革とスイス独立を象徴するお話なのですね。

スイス人のプロテスタントの方々は、カトリックと王制や貴族制が嫌いなので、宗教改革や抵抗してスイスが勝ったという話が大好き。「そんなに鬼の首を取ったように……」と思う事もあったり。まあ、そんなわけで、「シヨンの囚人」もその手のスイス人の大好きなストーリーである訳ですね。

とはいえ、私だけでなく、本当にお城を訪ねたというスイス人が周りに全然いないので(遠いんですよ、要するに)、中がどうなっているのかは謎です。たぶん、ボニヴァールが繋がれていた地下牢も見学出来ると思います。バイロンの肖像のついた「シヨンの囚人」ワインもここで買えるとか。周りには葡萄畑が広がっているので、きっと美味しいんだろうなと思います。

行った事のある方は、ぜひコメントで教えてくださいませ。
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Category : 美しいスイス
Tag : リクエスト

Posted by 八少女 夕

【小説】夜のサーカスと孔雀色のソファ

月刊・Stella ステルラ参加の二回目です。チルクス・ノッテの他の仲間達が、少しずつ顔を揃えます。今回登場するのはライオン使いのマッダレーナです。今月は、ハロウィンスペシャルでもう一本発表します。そちらはハロウィン当日の水曜日に発表しますね。
月刊・Stella ステルラ 11月号参加 掌編小説 連載 月刊・Stella ステルラ


あらすじと登場人物
「夜のサーカス」をはじめから読む




夜のサーカスと孔雀色のソファ

夜のサーカスと孔雀色のソファ


 暗転していた舞台が次第に明るくなる。円舞台の中央に緑色の何かが見える。明るくなるに従って、それが大きなレカミエ・ソファである事がわかる。滑らかなマホガニーの枠組みで薄緑地に鮮やかな孔雀色のペイズリー柄が浮き出ている豪華なものだ。ソファの曲がり足は獅子の前足の形になっているに違いないが、それを確認しようとする観客はいない。なぜならば、その足元に、本物の雄ライオンが寝そべっているからである。

 ソファの上も空ではない。なめかましい曲線を描いて女が横たわっている。光り輝く鱗のような孔雀色のドレスを身にまとい、黒い肘まであるシルク手袋をして、スリットからはみ出た長い足を組んでいる。観客からは女の顔は見えない。ただ、黒いシルクハットが見えているだけだ。

 女はシルクハットで顔を隠したまま、ゆっくりと8センチヒールを履いた足を高く大げさに交差させて、ライオンの前に立ち上がった。後ろを向くと左手に持った帽子をゆっくりと頭から外した。ストロベリー・ブロンドの豊かな髪が大きく開いた背中にはらりと流れ落ちる。右手がシルクハットから黒い鞭を取り出す。女が振り向き、鞭が空氣を切り裂いて振り落とされると、舞台に壮大なオーケストラのメロディが流れる。ライオンがそれを合図に立ち上がり、ソファに飛び上がって後ろ足だけで立ち上がる。《ライオン使いのマッダレーナ》の登場だ。

 ローマから始まった新しいシリーズの興行は、マッダレーナの再デビューと言ってもよかった。チルクス・ノッテがまわってくる度に来る観客の多くが、すでに《ライオン使いのマッダレーナ》の演技を目にしていた。彼女は、五年もチルクス・ノッテに属していた。だが、彼らは、かつて見たライオン使いの女と、今ここに現われた美女とが同一人物だとは簡単にはわからなかった。それほど、彼女のイメージは変わっていた。

 前回までの興行には、花形スターのブランコ乗り、ジュリアがいた。チルクス・ノッテの女帝は、自分よりも若く美しい女が脚光を浴びて賞賛を受ける事を頑強に拒んだ。マッダレーナは、薄化粧に灰色のつまらないパンタロン姿、シニヨンにしたひっつめ髪で、大した工夫もなくライオンに芸をさせる事しか許されなかった。
「この演目の要はライオンでしょ? あんたが目立っちゃ意味ないじゃない」

 けれど、ジュリアが引退し、チルクス・ノッテには新しい花形スターが必要だった。団長夫人となり、興行の収入が財布の厚さに直接影響するようになったジュリアもそれは認めざるを得なかった。そして、新米のブランコ乗りのステラには、新しいスターの役割をこなすのは到底無理だった。そう、どう考えても二十四歳のマッダレーナ以外に考えられなかった。彼女は、碧とも翠ともつかぬ、ガラス玉のような瞳を持っていた。柳のように細く形のいい眉、口角の上がった下唇が厚いなめかましい口元。妖艶で強烈な個性を持った女盛り。ライオンの陰に隠しておく必要などないのだ。

 さあ、私を見て。これが本当の私なの。マッダレーナは、これまでは禁じられていたセクシーな歩き方で舞台を横切る。マッダレーナの美しい動きに合わせて、雄ライオンは舞台を自在に飛び回り、逆立ちをし、玉乗りをした。マッダレーナはレカミエ・ソファの艶やかなマホガニーの肘掛け枠をなめかましい手つきでなで、その後ろから黒く長いキセルを左手に持って取り出す。天上から大きな輪がゆっくりと降りて来る。マッダレーナは長い仕掛けキセルを近づける。火種が輪に乗り移り、あっという間に焔が広がる。ライオンは、彼女の大切なヴァロローゾは、マッダレーナの凛とした鞭の音に合わせて、勇猛に火の輪をくぐってみせる。男の観客はその官能的なショーに、女と子供たちはライオンの見事な動きに大喝采を送る。新たなスターの誕生だった。

 マッダレーナは、ケニアで生まれ育った。彼女の父親が「アフリカの日々」に憧れて、マサイ・マラでライオン・ファームを経営する事にしたからだ。彼女は子供の頃からライオンの間で育った。まるでヨーロッパの子供たちが大きな飼い犬と仲良くするかのように、ライオンたちに囲まれて育った。一番仲が良かったのは、スワヒリ語で《勇者》を意味するジャスィリと名付けられた雄ライオンだった。彼は名前にふさわしく勇猛で美しかった。マッダレーナはジャスィリに抱きつき、背中に乗りその手から食べ物を与える事が出来た。

 しかし、彼女の幸福な少女時代はある日いきなり終わった。他ならぬジャスィリが父親と母親に襲いかかり、かみ殺してしまったのだ。突然、孤児になったマッダレーナはイタリアに戻る事になった。親戚の家をたらい回しにされたあげく、孤児院に預けられた。やがて自活して生活する事を強制されたとき、マッダレーナが選んだ職業は「ライオン使い」だった。それはとても自然な選択だった。というよりは、マッダレーナに出来るまともな仕事は、他にはなかったのだ。

 8年間、マッダレーナは何匹ものライオンを飼育した。しかし、ヴァロローゾほどしっくり来るパートナーははじめてだった。奇しくもジャスィリと同じく《勇者》を意味するイタリア語を名に持つライオンは、マッダレーナが遇ったどの人間の男よりも逞しく、精悍で、勇猛だった。

 ヴァロローゾは鞭など怖れていなかった。その証拠に、マッダレーナ以外の誰が鞭を振るっても、前足を上げたりなどしなかった。それどころか、反抗的で冷たい目を向けて唸る。鞭を振るった人間は、あわててマッダレーナの陰に逃げ込むしかなかった。彼は、自分の意志でマッダレーナに協力しているように見えた。彼女の演技にあわせて、前足を掲げ、ソファに駆け上がり、そして火の輪をくぐる。求めるのは、マッダレーナの信頼と、日々の丁寧な毛繕いだけ。ヴァロローゾは、マッダレーナと対等の存在だった。その最良のパートナーとこの瞬間をともに過ごせて彼女は、幸福だった。

 舞台がはねた後、マッダレーナは化粧を落として白いシャツとジーンズに着替え、舞台の裏に置かれたレカミエ・ソファにゆったりと腰掛けて煙草を吸った。勝利の味がする。長い髪をかきあげて顔を上げると、いつものように興行後の舞台の点検をしているヨナタンの姿が目に入った。
「あら、いやだ、いたの?」

 ヨナタンは、ちらっと彼女を見たが、すぐに目を舞台に戻した。
「ああ。驚かせたなら、すまない」

 マッダレーナは、くくっと笑って言った。
「別に。それはそうと、お礼を言わなくちゃね。ありがとう」

「何に対して?」
ヨナタンは大して関心がないように訊き返した。

「あなたが提案してくれた事に対してよ」
そもそも、団長やジュリアはマッダレーナを派手にセクシーにする事は考えていたが、こんな演目にする事は考えていなかった。さまざまな小道具を取り出す大道具も、単なる箱を用意するはずだった。

「もっとエレガントにした方がいい」
ふだん、演目の事には口を出さないヨナタンが、会議の時に珍しくはっきりと言ったのだ。夜会服のようなドレス。シルクハットと長い手袋、黒いキセル、そして豪華なギリシャ風のレカミエ・ソファ。その提案に団長たちは目を丸くしたが、確かに斬新で美しい演出だった。大道具小道具を用意するコストもほとんど変わらなかった。その提案は、大きな成功を収めたのだ。

 ヨナタンは、そんな当たり前の事、というような顔をして笑った。マッダレーナはソファに寝そべるようにして、妖艶な笑顔をヨナタンに向けた。
「どこからこんなアイデアがわいてきたの?」

 ヨナタンは短く答えた。
「人生で目にした色々なものから、ね」
「レカミエ・ソファなんて、どこで目にしたのよ」
ヨナタンは答えなかった。マッダレーナは、ふふん、とわかったような顔をして煙を吐いた。謎に満ちた過去のない男。十年くらい前に、突然団長が連れて来たっていうけれど、いったい何者なのかしらね。

「まあ、いいわ。ところで、明日のショーは、あのお嬢ちゃんの出番よね。また早朝からのリハーサルにつき合うんでしょ。早く寝なさいよ」

 彼はちらっと女を眺めると、何も言わずに点検に戻った。余計なお世話だと態度が語っていた。マッダレーナは、無言の非難などにへこたれるようなタイプではなかったので、再び煙を吐いて笑った。

 ロボットみたいに正確な日常を繰り返す、この謎の青年は実に興味深かった。マッダレーナは、どうやって攻略していこうかそれを考えると楽しくてならなかった。

 年増女の引退以来、すべてが上手くまわるようになって来たみたい。不遇の時代が続いたけれど、チルクス・ノッテからさっさと逃げ出さなくてよかったわ。マッダレーナは、テントを出ると煙草を投げ捨てて、大事なヴァロローゾの様子を見に歩いて行った。


(初出:2012年10月 書き下ろし)
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Tag : 小説 連載小説 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

ハロウィン記念にレタッチしてみた

いや、イラストが描ければいいんですけれど、無理なんで。

夜のサーカスと南瓜色の甘い宵


近くのアンティークショップのショウウィンドウに、カボチャとピエロの人形が飾られていましてね。水曜日に「ステルラ」11月号のハロウィンスペシャルを小説「夜のサーカス」でアップする予定なので、ひとりで「おお、それっぽいじゃん」と喜んでいたのですよ。

写真だけアップしてもよかったのですが、せっかくだから、小説の表紙にするつもりで、ちょっとPhotoshopで加工してみました。まあ、ほんのお遊び程度ですけれどね。よく考えたら、個人でPhotoshop買うなんて暴挙をしたんだから、もっと使わないとね。

追記の方に、もとの写真もアップしますので、加工前が見たい方はどうぞ。

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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ピエロとカボチャ、加工前 加工前

ステルラに出そうかなとも思ったのですが、イラストはあっても、フォトレタッチなんて部門はなかったので、とりあえずこのままにしておきます。
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Posted by 八少女 夕

イラスト描いていただきました

発売されたばかりの「Seasons 2012年秋号」。今回も短編小説を投稿させていただいたのですが、リアル友でもある、うたかたまほろさんがとても素敵なイラストを描いてくださったのです。

狩人たちの田園曲 -1-狩人たちの田園曲 -2-狩人たちの田園曲 -3-

今回書いた小説「狩人たちのパストラル」は、二人の老人の秋の一日。二人のなれそめである、60年前のそり祭りの思い出も含めて、本当に素敵なイラストを描いていただきました。

今回は、もう一人、主宰者のお一人落合朱美さんの源氏物語をテーマにした詩に幽玄なイラストも描かれています。さらに、まほろさんは小説も書かれる、本当に多才な方なのです。

そのまほろさんの作品、それから私が書いた小説・エッセイなどの載った「Seasons 2012年秋号」。興味のある方は、こちらからどうぞ。

うたかたまほろさんのブログ 「泡沫楽園」

ポエトリーカフェ武甲書店
Seasons 専用ブログ
太陽書房



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Tag : いただきもの

Posted by 八少女 夕

「あなたはキレイ派、かわいい派どちらが好き?」

「キレイ派、かわいい派どっちが好き」と言われても困るよなあ。これ、女の好みの話ですよね? 私、女だから「どうでもいい」だな。

男性に関して言えばどうなのかな。「醤油顔とソース顔のどっち」とか「肉食と草食どっち」って質問になるんでしょうか? 個人的に自分流にアレンジしていいなら「ゲルマン男とラテン男どっちが好き」かなあ。

で、私は、ラテン男派です。いや、一緒に暮らすとなると、ゲルマン系の方が明らかに苦労が少ないと思うんですが、それでもやっぱりラテンに惹かれますね。それも、屈託のない朗らかなラテンではなくて、ちょっと影のあるタイプ。俳優で言うと、アントニオ・バンデラスみたいなタイプに弱いです。やっぱり、男にはフェロモンがないと! あ、もちろん自分の事は棚に上げてますから。

こんにちは!FC2ブログトラックバックテーマ担当藤本です今日のテーマは「あなたはキレイ派、かわいい派どちらが好き?」です。皆さん、俗に「かわいい」と言われる人、「綺麗」と言われる人に分かれてるといわれておりますがどちらがお好きですか??わたしはかわいいなぁと思える方ももちろんたくさんいますがタイプでいいますと綺麗な方が好きです!自分に持っていないものをたくさん持っている感じがとても憧れますでも、か...
トラックバックテーマ 第1531回「あなたはキレイ派、かわいい派どちらが好き?」

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Posted by 八少女 夕

合唱バトンに答えてみた

この間の記事つながりで合唱経験ありとわかったぴゃす〜さんが作ったバトンを発見、いただいてきました! ぴゃす〜さんは、バトン作りに目覚められたようで、オペラのバトンなども作られたようです。これもそのうちに。

今回のバトンは、とても答えやすかったですよ〜。合唱経験のある方(某ゆささんとか)よかったらやってみてくださいね〜。


♪合唱好き集まれーバトン

Q1 さぁ、始めますよ?
A1 頑張ります
Q2 合唱暦はどのくらいですか?
A2 中学と高校と、それから教会の聖歌隊とぜんぶまとめて七年くらいでしょうか。今はやってません。
Q3 所属パートは何処ですか?
A3 ソプラノでした。今はもう高音が出ません。
Q4 所属している(た)所は混声ですか?それとも?
A4 中学は女声でしたがあとは混声
Q5 合唱曲で好きなジャンルは何ですか?
A5 ジャンルとかはないのですが、ハモるのが好きなのであまり前衛的でない方が。
Q6 ポリフォニーを歌ったことがありますか?
A6 う? ないかも。
Q7 どんな曲or作曲家を歌いましたか?
A7 日本の山田耕筰からラテン語のクリスマス典礼まで。あと、枢機卿来るってんで、仰々しいラテン語の典礼聖歌練習して歌ったなあ。
Q8 ア・カペラと伴奏付の曲ならどっちが好きですか?
A8 伴奏つき! パイプオルガンやオケつきは憧れます。歌ったことないけど。
Q9 好きな合唱団ってありますか?
A9 特にないかな。
Q10 好きな曲or作曲家はいますか?
A10 「季節へのまなざし」好きでしたね。作曲家なら、ベートーヴェン好き。歌ったことないけど。
Q11 挑戦してみたい曲or作曲家は何ですか?
A11 第九とか、モーツァルトのレクィエムとか。いや、声でないし、無理無理。
Q12 コンクールって出ましたか?
A12 Nコン出ました
Q13 結果はどうでしたか?
A13 高校一年のとき、全国大会行きました! あとは都大会どまりだったけれどいい思い出です。
Q14 コンクールで何か思い出はありますか?
A14 全国大会は都大会の録画をテレビで放映するだけだったので、先輩の家でみんなで見たことかな。
Q15 合唱をやっていて楽しかった思い出を教えてください。
A15 みんなで色々な歌を歌ったことかな。練習していたものではなくて、それ以外の曲を次々メドレーしたりして
Q16 逆に辛かった思い出も教えてください。
A16 腹筋体操。嫌いでした。実は集団生活も苦手なので合宿も嫌いでした
Q17 何かメッセージがありましたらお願いします。
A17 楽しかったです。合唱経験のある方、ぜひ受け取ってください!
関連記事 (Category: バトン(創作関連以外))
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Category : バトン(創作関連以外)

Posted by 八少女 夕

【小説】川のほとりの間奏曲(インテルメッツォ)

読み切り小説です。「十二ヶ月の組曲」の七月分。Seasonsの夏号で発表したものです。季節外れなのは、Seasons秋号が出るのを待っていたからです。



川のほとりの間奏曲(インテルメッツォ)

「おじちゃん、何してんの?」
幼い声がして、宏生は不審げに振り返った。川のほとりに小学校低学年くらいの少年が立っている。ちょうど宏生と猛がこの川の秘密の祠に例のボトルを隠したのと同じ年頃だった。

「なんだよ」
宏生は照れ隠しに少し威厳を持って立ち上がった。

「そこで何してんの?」
少年は首を傾げて繰り返した。それは奇妙だろう。川というには多少ささやかすぎるせせらぎに膝まで浸かって対岸の岩の間を探っている大人がいるのだ。

「ちょっとな、探し物をしているんだ。昔の宝物がまだあるか確かめたくてね」

 そうだ。この木だ。だいぶ大きくなっていたのでわからなかったが、この二つの幹が絡み合ったのを見て猛と友情の誓いを立てたのだった。その下には二人できちっと蓋をした岩のピラミッドはなかった。宏生は奥を覗き込んだ。祠と二人が呼んだ小さな洞穴は確かにそこにあり、その奥に手を突っ込んでみれば、そこには確かにガラスの瓶とおぼしき手触りがあった。

 宏生はそれを引っ張り出してみた。封印は切られていた。蓋は簡単に開き、逆さまにすると中から二つ三つのキャンディーの包み紙がひらりと落ちた。メンコ、プラモデル、ガラス玉、サッカー選手のカードは全てなくなっていた。キャンディーが食えたということは、ずっと昔に封印は破られていたってことだよな…。

 瓶の封印の近くに古く硬くなったガムがこびりついていた。子供の頃の猛の癖のまま。あの時にもう裏切られていたとは。昔の誓いを思い出して、当時の彼のよさを思い出そうとして来たのに。宏生は情けなさに泣きたくなった。

 実際に少年が見ていなかったら、声を上げて泣いたに違いなかった。七月は山奥とはいえやはり蒸し暑い。じっとりとにじむ汗がこめかみを伝わる。生暖かい風が渡っていく。蝉時雨にあわせて宏生は音を出さないように、しかし口を大きく開き全身で叫んだ。憤りの向かう先は風の中にしかなかった。

 幼なじみの猛と前後して東京に出て来た宏生は、疎遠になりつつもできるだけ猛とコンタクトを持ち続けようとした。向こうから連絡が来るときは、頼み事があるときか借金の申し込みばかりなのは残念だったが、宏生は子供の頃の誓いを守り通したつもりだった。

 あこがれの沙耶香とつき合うことができるようになった時も、最初に紹介した友達は猛だった。三年の交際を経てようやく給料三ヶ月分のプレゼントをするめどがつき、結婚を申し込んだ時に沙耶香は言った。
「ごめん。私、他に好きな人がいるの。その人と結婚するんだ」

 沙耶香が二年以上も猛と宏生の二人に二股をかけていたことを、宏生はそれまで知らなかった。


「おじちゃん。どうしたの?」
少年は、顔の向きによって猛に似ている所があったので、もう少しで宏生は怒りに任せて怒鳴りつけてしまいそうになったが、すぐに自制心を取り戻して、できるだけ平静に答えた。

「大切にしていたものを、信頼していた友達に取られるのって悔しくないか?」
「それは悔しいよ。誰かそんなことをしたの? そこにおじちゃんの宝物があったんだね?」
「そうさ。まあ、今となっては、それほど大切なものじゃないけれど、あの時は手放すのがとてもつらかった一番の宝物さ。二人の友情がいつまでも続くように、お互い一番の宝物を祠の神に捧げようって約束したんだ。だけど、あいつはそう言って僕を騙して、僕の宝物を手に入れたんだ」

「そんなひどいやつ、殴ってやりなよ。絶対に許しちゃダメだ」
少年は真剣に憤っていた。猛に似た顔でそんな事を言われるのは滑稽ですらあった。

「ありがとうよ。君がそう言ってくれて、ちょっと氣持ちが収まったよ」
そういって、ボトルを祠の中に放り込むと、せせらぎを渡って少年の側に行った。

「君、なんて名前? あ、僕は宏生っていんうだけどさ」
「僕は吉男だよ。宏生おじちゃん、どこから来たの?」
「東京さ。もっとも十年前はここに住んでいたんだけどな」
「ふ~ん。じゃあ、母ちゃんはおじちゃんを知っているかもね」

 君の母ちゃんって誰なんだ、と訊こうとした時、二人は遠くから吉男を呼ぶ女の声を聞いて黙った。声は近づいて来て、茂みの中から女が姿を現した。

「あ、母ちゃん!」
少年は女の腕に飛び込んだ。

「妙子……」
宏生は確かにその母親を知っていた。幼なじみの『みそっかすの妙子』だった。

「……。宏生君? まあ、びっくりしたわ。いつ帰って来たの?」
「たんなる週末の遠出さ。それより、妙子、結婚したんだ。おめでとう。知らなかった」

「していないわ」
妙子は少し悲しそうな笑顔を見せた。宏生はうろたえた。シングルマザーかよ、あの妙子が。


 妙子と吉男はその川の近くにある村はずれの小さな家に人目を避けるように住んでいた。吉男は妙子に叱られて、泥を落とすために風呂に入った。妙子は宏生に手ぬぐいを出してやり、彼が足を拭くのをじっと眺めていた。

「かわいいいい子じゃないか、吉男君」
「そうね。素直ないい子に育ってくれて、ありがたいって思っているわ」

「その、さっきはごめん。知らなかったから……」
 妙子は、お湯の沸いたやかんの火を止め、ほうじ茶を淹れて宏生に出すとまた食卓に座った。
「いいのよ。普通はそう思うでしょうから。陰口を叩かれることもあるけれど、私は吉男を産んで本当によかったと思っているわ」

「吉男君があの年齢ってことは、僕やほかのヤツらがここを離れる前後だろう?」
「……わかっているのでしょう? 似ているから」
妙子が目をそらしたので、宏生はようやく理解した。

「まさか猛の?」
そんなことがあるだろうか?

 妙子は三月生まれだったのでクラスで一番背が低かった。発達が遅かったためにクラスでの成績も芳しくなく、体育でも皆の遅れをとっていた。ドッジボールのような競技では、みな妙子と同じチームになるのを嫌がった。

 猛は『みそっかすの妙子』を一番いじめていた。宏生は妙子のことを時々氣の毒だと思うことがあっても、親友の猛に対する裏切りは許されないと思っていたので、手を差し伸べたりはしなかったのだ。そして、そのことに良心の呵責があった。

 まさかその猛と妙子がそんな仲だったとは夢にも思っていなかった。ここ一週間で宏生の世界は天地がひっくり返ったようだった。

「いじめられていたのは、好意の裏返しだったのかって、勝手に解釈して嬉しかったのよ。でも、猛君はただ女の体ってものに興味があっただけみたい」
妙子はいたって冷静に言った。

「あいつを好きだったのか?」
「あんまり優しくされたことがなかったから。でも、妊娠したとわかった途端に態度が変わったの。私がどうしても産みたいって言ったら、東京に逃げちゃった。でも、それでよかったのよ。あのままここにいられたら、絶対に堕ろさせられていたから」

妙子は猛がどうしているかを訊かなかった。宏生が猛の消息を知っているのはわかっているだろうに。

「今日は、ご両親の所に泊まっていくの?」
妙子は訊いた。

「いや、姉夫婦のアパートに泊まるんだ。ちょうど旅行中でいないから。自由にしていいけど素泊まりだからね、なんていわれちまったよ。氣楽でかえっていいけどね」
「じゃあ、うちでご飯食べていけば? 吉男が宏生君に東京のことをいろいろ訊きたいみたいだし」
妙子は言った。

 それはありがたい申し出だった。このあたりにはコンビニもなければ、
ファーストフードはおろか手軽なそば屋もない。両親には沙耶香のことを訊かれるのが嫌で帰郷を連絡していなかった。
「迷惑でないなら。実を言うとどうしようかと思っていたんだ」

「東京のレストランみたいな食事は期待しないでね」
そういうと妙子は手早く食事を作り始めた。手慣れていて綺麗な料理姿だった。『みそっかすの妙子』をきれいと思うなんて、自分がどうかしているのかと思った。けれど、沙耶香のような外見の華やかさと違って、妙子の生活に根ざした姿勢と動きは、もっと普遍的な美しさを持っていた。自分の母親も持っているような、優しく暖かい、ほっとする姿だ。

 妙子は、風呂から出て来た吉男が宏生のもとにお氣に入りの本を持って来て話しかけるのを見て微笑んだ。トントンという包丁の音、湯を沸かす音にリラックスした宏生は醤油のいい香りが漂ってくる台所で吉男と遊んだ。

「食事の前に、ちょっとこれを届けてくるから、吉男と待っていてくれる?」
妙子は、紙袋と小さな風呂敷を手に抱えて出て行った。

「どこに行ったんだろう?」
宏生が訊くと、吉男は答えた。
「田中のおじいちゃんだよ。いつも食事を届けに行くんだ」

 宏生は仰天した。田中のおじいちゃんというのは猛の祖父だった。宏生が子供の頃からこの川の近くに住んでいた。だからこそ幼い頃の猛と宏生は二人でここに秘密の遊び場を作ったのだ。だが、妙子が猛の祖父の面倒を看ている?

 じきに帰って来た妙子は、食べ終わった昨日の食器と洗濯物の入った紙袋を両手に抱えていた。

「田中のじいさんの面倒を看ているのか?」
「お家の方はみな村にはいないから。吉男もかわいがってもらっているし、どっちにしても料理も洗濯もするんだもの、二人分も三人分も変わらないでしょう?」

 吉男の前だから言わなかったが、田中のじいさんは吉男の曾祖父だった。自分をもてあそんで捨てた男の祖父の面倒を黙々と看る妙子の姿に、宏生は悲劇の主人公になったようなつもりでいた自分が恥ずかしくなった。

 三人で宏生がここ数年食べたこともなかった家庭的な和食を食べ、しばらく人生ゲームをした。それから、吉男は寝床に連れて行かれた。

「おじちゃん、明日も来てくれるよね? 約束してよ。じゃなきゃ、僕、寝られないよ」
妙子はたしなめたが、宏生は笑って約束してやった。

 吉男の寝室から戻ってくると、妙子はビールの缶を開けてグラスに注ぐと宏生に差し出した。
「ごめんなさいね。子守りをしに帰って来た訳じゃないのに。無理しなくていいのよ」
「いいんだ。いい思い出を探しに来て、残念なことを発見しちゃったばかりでくさっていたんだ。吉男君はすごくいい子だな。妙子も立派なお母さんになっていてびっくりしたよ」

 妙子は、はにかんで笑った。
「あの子、父親を知らないでしょう。学校のみんながお父さんに遊んでもらうのが羨ましくてしかたないのね。でも、私に言うと悪いって、子供心に我慢しているみたいなの。不憫だわ」
「猛に未練はないんだろう? 別の人と結婚しようとか、思わないのか?」

 妙子は呆れたように宏生を見つめた。
「宏生君ったら、ここは東京とは違うのよ。父なし子を産んだ女なんか、ほんとうの『みそっかす』だわ。後妻にももらってくれる人はいないわよ」

「生活はどうしているんだ」
「スーパーに務めているわ。大丈夫よ。何とかなっている。吉男が大きくなって、大学にでも行きたいなんて言われたら困るだろうけれど、今からそんな心配しても、しかたないじゃない?」
飲み慣れていないと思われるビールで少し赤くなった妙子は、笑った。

 蝉の声が激しく鳴り響く朝、川沿いのほこりっぽい道を、宏生は村はずれの小さな家に向かって歩いていた。子供の頃に猛と駆けっこをしながら来た道は、今でも変わらずに自然に溢れている。この道の行き着く先には秘密の祠がある。猛と一緒に隠した宝の山。宏生が大事にしていたものはことごとく猛に持っていかれてしまったが、この場所には猛が省みなくなった一人の老人と優しい親子が住んでいる。

 宏生は今度こそ妙子に優しくしてやりたいと思っていた。やりたかったけれどできなかったあの頃とは違う。猛も、他のはやし立てる同級生も、もうどこにもいない。来月にでも、また休みを取って、ここに帰ってこよう。吉男は夏休みだから、一緒に釣りにでも行こう。木漏れ日の眩しい道を彼は足早に歩いていった。

(初出:2012年7月 Seasons夏号)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

カボチャを語る

先日、カボチャの話をしたところ、どうやら皆様の関心が高いということがわかったので、再度取り上げてみました。

前回のあらすじ(どこがあらすじ?)
ヨーロッパのカボチャは日本のものほど美味しくない。だから、日本品種を作っている農家から買って食べています。おいしいよ。



で、じゃあ、ヨーロッパのカボチャってどんなの? オレンジだけど食べられるの? のようなご質問をいただいたので、まとめてお答えさせていただきましょう、というのが今回の記事の趣旨でございます。今回は、写真で図解!

カボチャはたくさんあるけれどこれは先日載せた屋台を別の角度から撮影したもの。小さいのは、単なるデコレーション用だが、でかければいいというものでもない。
栗の形のカボチャヨーロッパの品種を食べるならこれ。
これはオレンジでもまあまあ美味しい。サイズはハンドボール程度。甘いからデザート用として売っている。これでようやく日本の普通のカボチャ程度の甘味。
ひょうたんの形のカボチャひょうたん型
試さない方がいいかも。でも、変わってますよね。

追記・これ、最初に試したものがいまいちだったんですが、本来はとても甘くて美味しい品種でした! 二度目に食べたのはものすごく美味しかったです。形は妙ですが、普通のスイスのカボチャだったらこっちを買う方が美味しいかも!


オレンジの品種でも、皮はたいてい加熱すれば食べられます。つぶしてスープにする時などは、かえってオレンジの方が色が不氣味にならないので向いているかもしれません。



scribo ergo sumでは、皆様の記事リクエストを常時お受けしております。「こんな記事書いてね!」「こんなこと教えて」というリクエストがありましたら、いつでもここからどうぞ。

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Posted by 八少女 夕

Japanisch - 園芸のブーム

真っ赤な楓が秋の柔らかな日差しに揺れています。

日本の楓 in Switzerland

これはもちろん日本からの輸入種で、一般にJapanisch Ahorn、つまり日本の楓と呼ばれています。楓はこちらにもあるのですが赤くならないし、もちろんメープルシロップも採れない種のものしかなくて、まあ、そこら辺に生えているのですが、とくに注意が向けられる事もありません。氣がつくと葉っぱが落ちて冬眠に入っている。でも、日本種は鮮やかな紅葉を見せるので、近隣の注目を集めます。

田舎だけあって、園芸に命をかけている住民は多く、競ってエキゾチックな植物を植えたがります。で、人氣のあるものにはなぜかJapanischとついているものが多いのです。雪柳、木瓜、八重桜、藤、石楠花、小手鞠など。また、菖蒲や紫陽花など「日本の」とはついていなくても日本起源のものもよくみかけます。

もちろん、日本の庭園のような侘び寂び、菖蒲が八つ橋とセットになっているようなお約束もまるでないので、全く日本的ではないのですが、それでもこの楓の紅葉のように、きゅっと心を締め付けられる事があります。

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Posted by 八少女 夕

今後の予定

今日の記事は、どちらかというと自分のためのメモかも。

今後の小説の予定でも書き出してみようかなと。

【ブログでの発表予定】
・「十二ヶ月の組曲」(読み切り短編)の七月分、十一月分
・「大道芸人たち」チャプター5
・「夜想曲」六回連載
・「樋水龍神縁起 DUM SPIRO, SPERO」(長編)
・月刊ステルラ用に「夜のサーカス」連載

【執筆予定】
・「夜のサーカス」
・「Cantum Silvae 森の詩 -貴婦人の十字架-」
・「大道芸人たち」第二部
・「十二ヶ月の歌」
・「Leçon de géologie」

なんか、来年も忙しくなりそうです。全然、先は見えていないけれど、何とかなるでしょう。多分。
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Posted by 八少女 夕

大道芸人たちの見た風景 - 17 -

秋の光景ですね。

葡萄の秋

初夏の若葉のように整った、完璧な形ではなくて、まだらで、あちこちすり切れたり欠けたりしている、そういう不完全な、失われたわびしさを感じる、それが秋の光景です。そこが美しい。

この感覚は、本人がある程度は健康で幸せでないとこみ上げてきません。ちょうど今の四人のように。笑いながら楽しんでワインの瓶詰め作業をしている、電車で乾杯をしている、そんな時には秋は限りなく美しいものです。

チャプター4は穏やかに、幸福に終わりました。これをもって「Fin」としてしまってもいいぐらいに。しかし、まあ、「序破急」でいうところの「急」であるチャプター5をどうしてもくっつけたくなってしまった私です。しばらくインターバルが入りますが、チャプター5もどうぞおつき合いください。

この記事を読んで「大道芸人たち」を読みたくなった方は、こちらからどうぞ
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Category : 大道芸人たちの見た風景

Posted by 八少女 夕

かぼちゃな日々

まあ、世の中はハロウィンも近づいて、何となくスーパーがオレンジになってきたということで。
マイエンフェルトの屋台売り

最近、「極東のあの国の食べ物は美味いらしい」というのが、ようやく田舎の国スイスでも噂になってきたのか、日本の品種をあちこちで見かけるようになったのですよ。で、「日本の品種のカボチャ!」というふれこみで有機農家が作っていたりするわけです。

それはものすごい味の違いなのです。瓜とマスクメロンくらいの味の違いと言えばいいんでしょうか。結婚したての頃、旦那にね、カボチャのスープは好きかと訊いたのですよ。「大っ嫌い」が答えでした。ところが、日本の品種のカボチャで作ったスープ、まあ、ごく普通に皆さんが思い浮かべるようなスープを作って食べさせた所「これは何だ?」と訊くわけです。まさかカボチャだとは思わなかったようで。もちろん大好物になったわけです。ブラボー、日本。

最近、近くの有機農家が「鉄兜」という品種を作って売ってくれました。「北海道」というのも、現在私の手元に。さて、スープでしょ。カボチャのバイに、それからプリンかな? しばらくカボチャづくしになりそうです。
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Posted by 八少女 夕

その子に惚れたかも

九月末に髪を切ったのです(現在、ちょうどプロフィールイラストと同じくらいの長さです)が、素朴な疑問。どうして寝癖っていつも同じところにつくんだろう。長髪だと寝癖つかないから、忘れていました。そんなことはさておき、本日は「となりのブログで考えた」でございます。


まあ、こうやって毎日、色々な方のブログを訪問しているとですね。大抵の方はご自身の写真をもちろん載せられていない訳ですが、反対にご自慢のペットは沢山写真が載っている訳ですよ。

私は、もともと犬でも猫でも、いや、熊でも馬でもいいんですが、とにかくほ乳類は好きなのです。だから、どちらのブログに載っている子でも可愛いと思うんですよ。

でも、その中に、特別心惹かれる子がいましてね。他の飼い主さんに失礼なので、どこの何ちゃんかは申しませんが、いやはや、写真でこんなに可愛いなんて。実際に動いたら、飼い主だったら、そりゃとろけちゃうだろうなと思う訳です。そのブログ主さんは、ほぼ毎日いらしてくださる方なのですが、たとえいらっしゃらなくても、自分で観にいっちゃうくらい、氣になる存在なのです。

とはいえ、私自身はペットを飼う事はないでしょうね。動物が好きだからこそ、無責任な事をしたくないのです。私は旅が好きで、しょっちゅう出かけるので、その度に寂しい思いをさせる事も嫌だし、世話をいちいち誰かに頼むのも煩雑です。だから、隣人の飼い犬や飼い猫が、親しげに挨拶してくれるので満足しているつもりです。
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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 番外編 〜 ロンドンの休日 〜 featuring「フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス」

今回発表する小説は、このブログではおなじみの「大道芸人たち」の番外編です。ブログのお友だちTOM-Fさんとの初コラボ作品です。あちらのブログで現在連載中の「フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス」の主要登場人物三人(主役のエミリーちゃんとマイケル氏、そして私の一押しハノーヴァー公)と、「Artistas callejeros」のメンバーが、ロンドンで出会う夢の競演! 

「フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス」は、ロンドンを舞台に、スコットランドヤードの若きエリート刑事と、見かけも身分も手の届かぬ雲の上の少女が、猟奇的殺人事件を通してめぐり逢い行動を共にするローファンタジー小説です。超自然的な能力を操る集団が闘争するドキドキものの展開、手に汗を握るストーリー、ほどよいロマンス風味、イギリス好きなら見逃せない観光案内、あり得ないはずのロンドングルメ案内など、私のツボを押さえたお話で、毎回楽しみにしているのです。というわけで、三人にお会いしたくて、四人を無理矢理ロンドンへと派遣しちゃいました!(ついでに拓人の元カノも再登場……)

TOM-Fさんのブログからお越し下さいました皆様、こんにちは。三人のイメージを壊さないように頑張りました。当方の作品をお読みになった事のない方のために、ここに「大道芸人たち」のあらすじと登場人物へのリンクが貼付けてあります。

TOM-Fさん、競作の作業、とっても楽しかったですよね。いきなりの申し出に、快く承諾していただき、さらには共同作業がしやすいように、数々の準備を黙々としてくださって、本当にありがとうございました。おんぶにだっこで、呆れたでしょうが、これに懲りずに、またコラボしていただければ幸いです。


【小説】大道芸人たち あらすじと登場人物

同時発表:TOM-Fさんの「フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス」Chapter X ロンドンの休日(Layer-3, Overlook) featuring 「大道芸人たち Artistas callejeros」はこちらから



大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 ロンドンの休日 〜 
featuring「フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス」



「アーデルベルト、アーデルベルトじゃない? まあ、なんて偶然かしら」

ヴィルは、いつもの無表情のまま、ゆっくりと振り向いた。ロンドン・サウスエンドには、いくつかのフルートの工房がある。定休日で各々が自由に過ごしたこの日、ロンドン中心部で思いついて楽器店に入ったヴィルは、この地区の職人たちの噂を聞き、その足でとりあえずやってきたのだ。声を掛けたのは、その内の一つの工房から出てきた女だった。

「エヴェリン、あんたか」
それはミュンヘン大学でフルートを習っていた時代に一学年先輩だったエヴェリン・レイノルズだった。

「まあ。こんなところで再会するなんて。いつ、ロンドンに? どうしているの? あなたもフルートの調整に?」
畳み掛けられる質問に、ヴィルは苦笑した。

「ロンドンには仲間とちょっと寄っただけだ。俺はあんたも知っているように、もうフルートは吹いていない」
「だったら、どうしてここに?」
エヴェリンの疑問はもっともな事だった。

「ちょっと、観光中にここの噂を聞いたんだ。知り合いのフルートの事が氣になっていたから」
そう、調整が必要なのは、蝶子のフルートだ。その事は、本人がよくわかっているはずで、ヴィルがそれを氣にするのは全く余計なお世話だった。

「そう。その情報は、あたりよ。ここは、ロンドンで最も腕が良くて、良心的な職人たちが工房を持っているの。それと、私みたいに急いでいる人間にも、嫌な顔せずに対応してくれるの」
それは、いい事を聞いた。ヴィルは思った。ロンドンにはそう長く居るとは思えない。何日も待たされるようでは困る。

 エヴェリンが、まだいろいろと訊きたそうなので、それを封じるためにヴィルは特に興味もなかったが彼女の事を話題にした。
「あんたはどうしているんだ? 俺はあれから音楽界の事情には疎いんで、当然知っているべき名声についても知らないんだ。氣を悪くしないでくれ」

 エヴェリンは悲しそうに微笑んだ。
「ふふ。名声なんてないわ。私のキャリアの最高点は、あの時、あなたが優勝したあのコンクールで六位入賞したあの年だったのよ」

 ヴィルは余計な口を挟まなかった。

「ロンドンのオーケストラに二年ほど勤めたけれど、結局新しい人たちに座を明け渡す事になったわ。今は、ミュージカルのオケ・ボックスで吹いているの。しかたないわよね。職があるだけでもありがたいと思わなきゃ」
「そうか」

 エヴェリンは、この青年の無表情をありがたいと思った。この男はどんな時でも、大して感情を持たないのだ。下手に同情されるよりずっといい。

「あなたが、フルートをやめたって聞いた時、これで私に少しはチャンスが回ってくるかと思ったわ。でも、そんなものじゃなかった。上手い人が一人いなくなったからって、私の人生には大して変化はなかったんだわ」
「そうだな」

 ヴィルは、ぼんやりと蝶子のことを考えた。自分が父親の一番の弟子だったとしても、蝶子は父親の元でフルートを学んだだろう。そして、自分がいようといまいと、結局は自由を求めて父親の元を去っただろう。

 だが、もし蝶子がフルート界に戻ろうとするならば、かならず親父の目に留まる。その時には、俺と一緒にいる事は叶わないだろう。つまり、俺といる以上、蝶子の音楽に未来はないのだ。

 ヴィルは蝶子のフルートのきしんだ音色に苦痛を感じた。

 ヴィル本人は大道芸人として生きる根のない生活を心から愛していた。フルートをやめた事も、全く後悔していなかった。時おり蝶子に吹かせてもらう、フルートの音色を響かせるだけで完全に満足していた。名声も、金も、何もいらなかった。だが、あふれるばかりの野心とともに日本からやって来た愛する女の音楽をこのまま摘み取ってしまうのかと思うと、腹の底が捩じられるようだった。微妙な狂いが楽器に生じてくる。それは、道を往く観光客には聴き取れないほどわずかなものだ。だが、ヴィルにはわかる。蝶子はもちろん、稔にもわかるだろう。

 稔はいい。もし彼が望めば、彼は日本で再び三味線の活躍の場が与えられるだろう。あの卓越したギターにも、別のチャンスが待っているかもしれない。

 だが、蝶子は……。エッシェンドルフ教授と息子のヴィル、二人の男に愛されたがために、彼女の芸術は、行き場を失っている。彼女の音楽を誰よりも愛するヴィルにはそれが何よりもの苦痛だった。

「じゃあ、アーデルベルト、またいつか逢えるといいわね」
「ああ、エヴェリン、あんたもな。活躍を祈っているよ」
らしくない親切な言葉に、エヴェリンは首を傾げた。

 アーデルベルト・フォン・エッシェンドルフが立ち去ってからしばらくして、彼女は肝心な彼の事を訊きそびれた事を思い出して悔しがった。そういえば、数年前に聞いた噂では、エッシェンドルフ教授が、私と歳のほとんど変わらない日本人の生徒と結婚するって事だったわよね。新しい義母の事についても訊くべきだったのよ! ああ、失敗しちゃった!

※ ※ ※

 稔は、レネを拾いにハロッズに入って行った。高級デパートか。全く俺の趣味じゃないんだよな。でも、待ち合わせにわかる名前がそのくらいしかなかったんだ。
「ええと、カフェ・フロリアン、三階か……」

 ハードロック・カフェは楽しかった。ピカデリー・サーカスやロンドン塔ってのもなかなか面白かった。稔は以前一度ロンドンに来たことがあった。まだArtistas callejerosを結成する前で、手持ちの金に全く余裕がなかったので、観光らしい観光はまったくしてこなかった。特に入場料のかかるような観光は全然しなかった。

 蝶子が、大英博物館に行くと言った時には断った。
「俺、もう行ったんだ。あそこはタダだったからさ。それより、今度は二階建てバスに乗りたいんだ」

 公共バスの方がもっとお金がかかるのだ。稔は一日乗車券を買って、何度もバスに乗ったり降りたりしていた。

 あっという間に、待ち合わせの時間の一時間前になった。稔は二階建てバスで遊ぶのをやめて、ナイツブリッジに向かった。

(ハロッズかあ。ブラン・ベックのヤツ、こんなところで退屈してんじゃないのかなあ。本屋で待ち合わせればよかったんだよな、まったく)

 そうして、エレベータを待っていると、隣に男がすっと立った。きっちりとスーツを着こなした金髪碧眼の青年でいかにも英国紳士らしき礼儀正しい佇まいだった。だが、その男の醸し出す雰囲氣に、稔はさっと身構えた。

 サツだ、こいつ。それは四年間の浮浪者同然の生活で、自然と備わった野生の勘のようなものだった。稔は、すっと後ずさりをして、その男から離れた。

 なんて馬鹿げた振舞いなんだろう、稔は自嘲した。これじゃ、俺、まるで犯罪者じゃないか。稔は、現在はもちろん過去にも、警察を怖れなくてはならないことはしていなかった。公には。だが、あの四年間、遠藤陽子との結婚の約束を反古にして失踪し、ヴィザも住むところもない四年を過ごしていた間、ずっと犯罪者と同じ心持ちだった。そうだ、俺は、陽子が黙って受け入れて警察にいかなかったから犯罪者にはならなかったが、本当は結婚詐欺を働いて逃げている犯罪者だったのだ。

 詐欺男として警察に捕まるのが嫌だったのか、居場所がわかって日本に帰らなくてはならないのが嫌だったのか、はっきりしなかった。けれど、稔はいつも警察を怖れていた。それで、私服を着ていようと、完膚なきまでの紳士の姿であろうと、警官や刑事がどういう訳だかすぐにわかる特技を身につけてしまったのだ。そして、もう、怖れる理由がどこにもなくなった現在でも、その本能的な忌諱を発動してしまうのだった。

※ ※ ※

 蝶子は、大英博物館の大理石の床に静かにハイヒールの音を響かせていた。その冷ややかな音は、あたかも大聖堂の中にいるような敬虔で静謐な感覚を呼び起こす。

 ひとり静かに美術を鑑賞する。これは蝶子がイタリア時代から定休日に続けてきた習慣だった。他の三人はさほど美術館や博物館に興味がないので、これは一人を楽しむ時間と決めていた。

『エルギン・マーブル』展示スペースに入った時には、誰もいなかった。巨大な大理石の群像が圧倒する迫力で置かれているのを、蝶子は黙って見ていた。

 やはり、静かな靴音がして、誰かが入ってきたのを感じた。その音は、他の鑑賞者の邪魔をすまいとする心遣いにあふれていながら、しっかりとした自信を感じさせるものだった。蝶子は振り向いてはっとした。そこにいたのは実に質のいいスーツを身に着けた紳士だった。ウェーブのかかった金髪と、凍り付きそうな青い瞳、それは、蝶子が知っているある男には似ていなかった。けれど、あたりを威圧する佇まい、自分が誰だか、どれだけ重要な人物かよくわかっている人間の立ち姿がエッシェンドルフ教授を思い出させた。その記憶から目を逸らして『エルギン・マーブル』に意識を戻そうとした途端、突然の喧噪がすべてを中断した。

「あっ、これだ、これっ」
「銀行のコマーシャルで使われていたヤツだね。同じポーズしようぜ」
「チーズっ」
東洋人観光客だった。二人の目の前を遮るように写真を撮ると、ガヤガヤ話しながらさっさと去って行った無粋な若者たちに、蝶子は眉をひそめた。

 蝶子自身はカメラを持っていない。何かを撮影して、それだけで満足するような芸術の鑑賞をしないでいることを、蝶子はとても嬉しく思った。もちろん、それは所有するものの限られる大道芸人生活という制限があっての事だったが。

 ふと、紳士もその集団に眉をひそめていたのを目にし、蝶子はにっこりと微笑んだ。
「困ったものですわね」

 紳士は、表情を緩めて向き直った。
「本当に。マナーのなっていない者には、芸術を鑑賞する資格はない」
「全く同感ですわ。でも、幸い、あの手の人たちは長居はしません。静かになりましたから、これからゆっくりと鑑賞することにしましょう」

 二人は、ゆっくりと『エルギン・マーブル』を正面から見据える事の出来る、少し後ろの方へと移動した。
「申し遅れました。私は、アーサー・ウイリアム・ハノーヴァーといいます」
「四条蝶子です」

「エルギン・マーブルに興味がおありですか?」
ハノーヴァー氏の問いかけに、蝶子は小さく頷いた。
「ええ。一度観てみたいと思っていました。こんなに大きなものだったなんて。よくイギリスまで運んでこれたと思いますわ」

 相槌を打ってハノーヴァー氏は続けた。
「エルギン伯爵トマス・ブルースがパルテノン神殿から略奪してきたものだ、と言われています。いちおう時の領主であったセリム3世の許可はとったらしいが……まあ、略奪といっていいでしょう」

 ヨーロッパには、ロンドンやパリやローマには、そんなものばかりが残っている。蝶子は、この国のことをさぞ誇らしく思っているに違いないこの完膚なきまでの英国紳士を少しちゃかしてみたいいたずら心に駆られた。
「ギリシャに返却すべきものだとはお思いになりませんか?」

 彼は、怯んだ様子も、腹を立てた様子も見せなかった。ただ、少しだけ顎を撫でて考えてから口を開いた。
「もちろん、本来なら、パルテノン神殿と一体となった状態で評価されるべきものだ。しかし、あの時代のギリシャに放置していたら、もうとっくに崩れて風化し、ただの瓦礫となっていた事でしょう。ここに置いてあるかぎり、このレリーフは安泰です。芸術というものは、それにふさわしい所にあってこそ、その本来の輝きを放てるものだと思いませんか」

 蝶子は、はっとした。
「……。おっしゃる通りかもしれませんわね」

 虚をつかれたようだった。芸術はふさわしい所にあってこそ……。フルートをぎゅっと抱きしめる。もうとっくに調整に出していなくてはならないはずだった。大道芸人の暮らしでフルートは悲鳴を上げている。私たちの音楽も、路上で風化し、瓦礫と化してしまうのかもしれない。

 蝶子は、ふとこの紳士に、芸術のあるべき場所について、もっと訊きたくなった。言葉をまとめて声を掛けようとした時、紳士が不意に胸ポケットに触れて、携帯電話を取り出した。眉を顰めている。何か大切な用件なのだろう。

「貴女とは、もっと親交を深めたいところだが。あいにく、今日は時間の持ち合わせが少なくてね。じつに、残念だよ」
蝶子は落胆の表情を見せないように努めながら、微笑んだ。
「お話が出来て、光栄でした。閣下」

 なぜ、そんな敬称が出てしまったのか、自分でもわからなかった。しかし紳士は訂正せずに別れの言葉を口にするとゆっくりと出口に向かって歩いていった。答えは自分で見つけなくてはならないのだわ。蝶子はひとり言をつぶやいた。

※ ※ ※

 レネは、その頃、約束通りハロッズ三階の「Caffè Florian」の一角に座っていた。大好きな本屋巡りをした後、一足先に着いて甘いものを堪能しようとしたのだ。

 彼は、渡されたメニューを開いて目を疑った。嘘だろう? これって本当にポンド建てなの? ユーロにしてもこんなに高いなんてあり得ない。黒いスーツを着たウェイターが礼儀正しく、ただし馬鹿にした目でレネの慌てた様子を見下ろしていた。

 その時、ウェイトレスに案内されて隣の席についた客があった。ウェイターがはっとしたようにそちらを見たので、レネも一緒に隣に座ったいい香りのするふわりとした布の方を見た。そして、目が釘付けになってしまった。それは少女だった。美しい乙女。しかし、それだけなら、この世にはいくらでもいる。そこに座っていたのは、どこにでもいるような美少女とは全く違っていた。

 まず、髪が艶やかな真珠の色だった。透き通るような肌と紅い瞳が次に目に入ったので、ああ、アルビノなんだと思った。ところが、ぶしつけなレネの視線に不審げにこちらを顔を振り向けたので、もう一つの瞳が見えた。海の底のように碧かった。オッドアイ! ネコは別として、レネは今まで本物の虹彩異色を見た事がなかった。隣に、そんな美少女がいる。ふわりとしたクリーム色のジャンパースカートから、花のようなほのかな薫りが漂っている。

「ミスター、ご注文はいかがいたしましょうか」
ちいさな咳払いに続いて、ウエイターが畳み掛けてきて、レネは慌てて目をメニューに戻した。
「あっ。では、コーヒーとティラミスを……」

 つい、そう答えてしまってから、レネは財布にいくら入っているか心配になった。ウェイターが去ると慌ててポケットを探る。隣の少女の視線が氣になり、ますます落ち着きがなくなった。でない、でない、この財布が。

「あっ」
そう思った時には財布の代わりに飛び出たカードが、床に散らばっていた。ウフィッツィ美術館の金箔入りタロットだ。

 彼女は慌ててカードを拾うレネをじっと見つめていた。集めるときの鮮やかな手つきが、ドジでひょろひょろしたダメ男に似合わない。カードはレネの手の中で生き物のように礼儀よく整列し、タララララと音を立てて、一つの束に収まった。

「ねぇ……」
どこからか声が聞こえたような氣がする。隣の美少女のあたりから。まさか。また僕の妄想かな。

 しかし、それは妄想ではなかった。少女はレネが聴こえなかったのかと思ったのか、もう少しはっきりと話しかけてきた。
「あなた占い師なの?」

 神様! 彼女が僕に話しかけている。ありがとうございます。このチャンスを大切にします。レネは嫌われないように、慎重に、真剣に答えた。
「いえ、本職は違うんですが、でも、占いもします。友だちにはいつも一枚だけ引いてもらいます。よくあたるって言われますよ」

 少女が、美しい紅い唇をほんの少し動かして微笑んだ。スカートの衣擦れがして、もっとこちらに向き直った。あ。自己紹介しなくちゃ。
「ああ、僕はレネ・ロウレンヴィルといいます」
少女は、はっきりと笑って答えた。
「わたしは、エリザベート・フォアエスターライヒよ。……一枚引かせてくれる?」

 レネは心から嬉しく思った。他のどんなこともレネは人並み以下だったが、カードの腕前だけは誰もが褒めてくれる。パピヨンですら、僕のカードは天下一品だって保証してくれるぐらいなんだから。

 レネは頷くとカードを切った。先程カードを拾ったときよりももっと早く、華麗だった。もちろん、このパールホワイトの髪と輝く二色の瞳を持つ美少女に自分をよく印象づけるためである。美しく輝く金箔押しのカードの扇が少女に差し出される。エリザベートの美しい指先が、微かに震えながら一枚のカードを抜き取った。ゆっくりと表に返される時の永遠にも思える時間。車輪が目に入る。おお。

「これは?」
「『運命の輪』。正位置ですね」
「どういう意味かしら?」
「どんなことも必然というカードです。必要な時に、必要なことが起こり、必要な時に必要な人と出会う」

 レネは、その後に「僕とあなたがここで出会った事も、運命ってことなんです」と続けようとした。この状況を利用するのではなく、これこそが運命なのだと思ったから。マドンナの天上の碧とカルメンの情熱の紅。二つの輝く瞳がふふっと優しく笑った。運命の女神がようやくレネに微笑みかけたかのように。

「失礼」
その無粋な、けれど完璧なマナーに則った声が聞こえて来たのはその瞬間であった。

 レネは、呆然と声の方を見た。この暑いのにきちっとジャケットを着込んだ若い青年だった。そして少女に話しかける。
「こちらの紳士は、おまえの知り合いなのか?」

「さあ、どうかしら」
 エリザベートがそう答えたので、青年は憤慨したように正面の席に腰を下ろした。
「すこし、話を聞きたい。あんた、エミリーとは、どういう関係なんだ」

 その剣幕があまりに激しいので、レネは少し腹が立った。イギリス人って、どいつもこいつも警官みたいだ。誰なんだろう、この人。それに……。
「エミリーって?」

※ ※ ※

 稔は、エレベーターを使いたくなかったので、わざわざ建物の反対側まで歩いてエスカレータを探した。ようやくお目当てのカフェにたどり着いた彼は、入り口で目を疑った。さっきのサツ野郎、こともあろうにブラン・ベックを尋問しているぞ。ってことは、あいつはあんまり優秀じゃないな。ブラン・ベックって犯罪を犯す、最後の人間ってヤツじゃないか。英語の文法風に言えば。

「とぼけるなよ。もしかして、あんた薔薇十字……」
そういって青年が立ち上がったとたん、テーブルが揺れて、ガチャンという甲高い音がした。

「あ」
レネの前にあった水の入ったグラスが、テーブルの上に倒れていた。呆然とするレネと青年が眺めている間にテーブルから零れ落ちた水は、レネの足にかかった。あちゃ~。稔は面白がって先行きを眺める。

 レネの隣に座っていた白い髪の少女がバッグからすばやくハンカチを取り出して差し出した。
「これを使って」

 警察関係と稔が見立てた青年は、慌てて倒れたコップをもとに戻した。少女はきつく非難した。
「ほんとうに、がさつで役立たずなひとね。この人とは、たまたま席が隣になったので、すこしお喋りしていただけよ」

 青年ははっとしたようだが、レネの方もがっかりした。たまたま隣になっただけ。この青年はエリザベート嬢とかなり親しそうだ。僕の運命の輪はどうなっちゃったんだろう。

「すまない、失礼をした」
 青年の謝罪に、レネは必死に作った笑顔で、いいですよ、と答えるしかなかった。

「それは、返してくれなくていいわ。ごめんなさいね」
そう言って、レネの手の中の濡れたハンカチを一瞥すると、エリザベートは軽い会釈をしてから、さっさと歩き出した。青年が慌てて後を追う。

 稔は、少女が自分の横を通る時に改めてその顔をちらりと見た。へぇ。こりゃブラン・ベックがぽうっとなる典型的なタイプだね。

「おい、どこに行くんだ」
追って来た青年も稔とすれ違う。出て行く二人を背中越しに一瞥してから、肩をすくめると稔は項垂れているレネのもとに歩いていった。

「なんだよ、ブラン・ベック。またかよ」
「なんて綺麗な人なんだろう、ヤス、見ました? あの瞳を」
「ん? ああ、もちろん。片っぽだけカラーコンタクト入れるなんて、自意識過剰の変な女だな。ありゃ、ギョロ目の別れたコブラ妻より厄介だぞ」
「なんて失礼な事を言うんです。あれは、オッドアイって言うんですよっ!」

※ ※ ※

「で? また記録更新しちゃったの?」
ドミトリーに戻ると、他の三人はもう戻っていた。蝶子は、一目でレネが再び失恋したのに氣がついた。蝶子の鋭い指摘にレネは肩を落とし、手に持っていた白いハンカチを見つめてため息をついた。

「もしかしたら、運命の女性だったかもしれないのに。でも、あの青年とはずいぶん親しそうだったから……」
「って、そのサツ野郎に尋問されていたじゃないか。ああいうのとは、関わらない方がいいって」
「どうしてヤスはそうやって勝手に決めつけるんですか」

 蝶子はレネが大切に握りしめている白いハンカチに手を伸ばした。
「ちょっと見せて」
「え。いいですよ。どうぞ」
彼女はその白い小さな布をそっと拡げた。

「ヤスの言う通りね。このハンカチの持ち主が、大道芸人と結ばれるとは思えないわ」
「どうしてですか?」

「見てご覧なさいよ。このレースの部分、手刺繍よ。ついているタグを見ると、スイスのザンクト・ガレンで作らせたものみたい。ま、350スイスフランは下らないわね。これを返さなくていいって言ったんでしょ。とんでもない大金持ちだわ。それに、この香水……」
「いい香りですよね。お花でしょうか」

「『リリー・オブ・ザ・バレー』よ。英国王室御用達フローリスのものじゃないかしら。鈴蘭は可憐に見えるけれど、猛毒があるんですって。触らぬ神に祟りなしっていうわよ」
レネががっかりし、稔は高らかに笑った。

「それはそうと、お前はどうしていたんだ?」
稔の質問に、蝶子の顔は少しだけ曇った。

「大英博物館に行ったのよ」
「つまんなかったのか?」
「そんなことないけれど、どうして?」
「なんか歯切れが悪いからさ」

 なめたらダメね。すっかり見透かされている。
「ちょっとね。出会った人に芸術の風化について言及されちゃったの」
それを聞いて、ヴィルの眉が動いた。彼はポケットから一枚のメモを取り出すと、蝶子に渡した。

 蝶子は、目を疑った。フルートの修理とチューニングの専門店の住所だった。
「どうしてわかったの?」
「たまたまだ。前から氣になっていた」

 蝶子は、肩をすくめて、それからいつもの笑顔になった。
「ありがとう、明日、行ってくるわ」

 稔が横から覗き込んだ。
「ふ~ん。サウスエンドか。じゃ、明日はこの近くで稼ぐか」

 四人は、それからいつもの通り、酒盛りを始めた。

(初出:2012年10月書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

「身に付ける物は何色が多い?」

あまり色が偏らないようにしているつもりです。月曜日は黄色、火曜日は赤という具合に色を変えていたりします。でも、何となく多くなるのは、最近は赤っぽい色かなあ。といっても少しワインがかった色。例のお氣に入りのアメリバッグと、愛車TOYOTA Yarisがともにそんな色で。

個人的に好きな色は、緑系の色。オリーブグリーンのような色も好きだし、ひわ色のような明るい緑も好きです。

自分で誂えたお氣に入りの正絹のきもの、一つは訪問着でもうひとつは小紋なのですが、どちらもひわ色です。訪問着の方が上品な感じに薄い色、小紋の方は、派手です(笑)スイスには、持ってきていません。クリーニングに不安があるので。だからこっちで着るのは化繊のシルックばかりです。


こんにちは!FC2ブログトラックバックテーマ担当加瀬です(^v^)/今日のテーマは「身に付ける物は何色が多い?」です。加瀬は、気がつけばいつも赤やピンク色のものを身に付けている気がします。携帯のカバーやマグカップ等も、赤、ピンクを自然とチョイスしている自分がいます。赤やピンクって、女の子らしい色で、女子力アップにもなる(と信じています)し、色そのものが自分に元気を取り戻してくれる気がするので、すす...
トラックバックテーマ 第1523回「身に付ける物は何色が多い?」

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Posted by 八少女 夕

【断片小説】「青龍時鐘」より

官能的な表現も若干含まれるために、fc2小説の方だけで公開している四部作、「樋水龍神縁起」の最終巻、「春、青龍」を本日公開します。(新月を待つので、会社から帰ったら)
この小説は扱っているテーマを完遂するために、当初予定していたラストを変更した唯一の作品です。設定がありがちだったり、現実離れした、私にとっては冒険の作品でしたが、扱っているテーマ、その結末については、いまだに「これしかなかった」と思っています。2012年の十月にこの小説を完全公開するプランをずっと温めてきました。無事に公開出来てほっとしています。ちょっとだけ断片小説として紹介しますね。


fc2小説「樋水龍神縁起 -第一部 夏、朱雀」
fc2小説「樋水龍神縁起 -第二部 冬、玄武」
fc2小説「樋水龍神縁起 -第三部 秋、白虎」
fc2小説「樋水龍神縁起 - 第四部 春、青龍」
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「樋水龍神縁起 第四部 春、青龍」--「青龍時鐘」より抜粋

 激しく降りしきる雨の中、石や砂利や木の枝などの上を引きずられて、ゆりの体は傷だらけになりあちらこちらから血がでていたが、陣痛の痛みの方がずっと大きく、ゆりは体がぼろぼろになるのも氣にしなかった。愚鈍で醜く価値もない肉体などどうでもよかった。やがてゆりは池に引き込まれた。溺れる恐怖に、岩に必死でしがみつき抵抗した。

 そして、そこが夫婦桜のすぐ下であることに氣がついた。雷雨に叩かれて花が無惨に散っていた。多くの葩は幹にまとわりついていた。根元からねじれて重なった二本の幹が、白く光りながら雨の中固く抱き合っているように見えた。

 ゆりははじめてこの樋水で泳いだ晩に濡れたまま朗に抱きしめられたことを思い出した。ゆりは突然悟った。私は、あのとき愛されていた。いつも私たちにはあの白い光があり、抱き合うと心が一つになった。

 Kawasakiで風を共に感じたこと、闇の中から引き上げてもらい疲れきった朗に強く抱きしめられたこと、キャンドルのゆらめくテーブルで「君を幸せにしたい」と言ってくれたこと、蝉時雨の降る丘の上ではじめて口づけされた時のこと、万感の想いを込めて翡翠の勾玉をつけてくれた時のこと、全てが一時に甦ってきた。

 一緒に馬に乗っていたのも、翡翠を渡したのも朗だった。子供の頃から深く愛し合っていた『夢のひと』は朗だった。この二本の桜のように、切り離せない強い絆で結ばれていた二人だった。春昌と朗は別の肉体を持っていたが、心は一つだった。そしてその一つの心が愛したのは、瑠璃媛やゆりという個別の肉体ではなく、たった一つの心だった。
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Posted by 八少女 夕

輝いていたあの頃

訪問させていただいた方の氣になる記事から、勝手に話を発展させてしまう記事シリーズ。久しぶりです、このフレーズ(笑)

今回取り上げさせていただくのは、尊敬してやまないゆささんの記事です。

今年もNコンこと、NHK全国学校音楽コンクールが無事に終わりましたねぇ♪
中学校の部の中継は毎年リアルタイムで観ております。ゆさは中学の頃に合唱部に所属していたので。

ゆさな日々 - 「友よ、もっと快い、歓喜に満ちた歌を歌おう。」 - 



ゆささん、Nコンの出身者なんですって。といっても、ご存じない方は「なんだそりゃ、生コンクリートの略?」とかお思いになるんじゃないかしら。Nコンと私が呼んでいるのは「NHK全国学校音楽コンクール」の事でございます。つまり合唱コンクールです。実は、私は中学と高校で合唱部に所属していたのです。不器用で楽器の演奏が出来ない私が唯一奏でられたのは、自分の声帯だけでございました。かつてはソプラノだったんですけれどね〜、今は高音部があまりでなくなってきちゃいましたね。ま、毎年、クリスマスのミサで声を張り上げるのが唯一の名残でございます。

高校一年の時に、我が高校の音楽部は歴代二番目の快挙を成し遂げました。(昭和○○年には優勝もしているのです)全国大会進出です。結果は四位でしたが、でも、テレビに映って、実は私は一年生なのにアップにもなってしまったのです。最初で最後のNHK出演。くすくす。

音楽部はかなり根性のいる部活でした。朝練、昼練(故に三時間目が終わると早弁)、放課後練と続き、もちろん夏休みも通い詰め。厳しい合宿もありましたね。歌っているだけでなくて腹筋体操など、今思えばけっこうスポ根も入っていました。まあ、部活にありがちないろいろもありましたが、とてもいい思い出です。

ゆささんが、この話題を取り上げていらっしゃって、狂喜乱舞ですよ。ゆささんは、歴史、古典、旅行と取り上げてくださる記事は、私のツボにはまるものばかり。その造詣ときたらもう深くて深くて、いつも楽しみに訪問しているのですが、こんなところに共通点が! 親しみがぐっと増してしまいます。
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Posted by 八少女 夕

田舎の人バトンやってみた

田舎暮らしに関するバトン、やってみました。いわれてみれば、確かに田舎ならではの事が多いです。そんなに数もなくって答えやすかったですね。、よかったら、どなたか受け取ってください〜。

あなたは田舎の人ですか?バトン

Q1 いきなりだけど始めます!!
A1 頑張って答えますね。
Q2 ①,時々猟銃の発砲音が聞こえる
A2 はいはい。九月と十月は狩猟の月です。茶色い服で森に行かないように。撃たれちゃいます。
Q3 ②,近くにコンビニが無い
A3 っていうか、この国、コンビニありませんから。
Q4 ③,電車が1日数本
A4 一時間に二本。バスは一時間に一本。終電は八時。車ないとやっていけません。
Q5 ④,春にカメムシが大量発生する
A5 カメムシはそんなでもないけれど四年に一度くらい、黄金虫の一種が大量発生しますね。
Q6 ⑤,窓開けると虫が入ってくる
A6 牛が多いので、ハエは多いですね。あと夏の終わりからはアブが多くなります。
Q7 ⑥,夏の夜カーテンなどをかけないと窓に虫などがいっぱい
A7 そういうことはないけれど、夜は窓を閉めておかないと近所の猫や野生のイタチが……。
Q8 ⑦,水道水が飲める
A8 もちろん。その辺のミネラルウォーターよりおいしいです。
Q9 ⑧,アニメが最終回まで放送されない
A9 アニメ……。テレビ観てませんし。
Q10 ⑨,夏、田んぼから蛙の大合唱
A10 田んぼないな。初夏からずっと牧草地には秋っぽい虫が鳴きまくっています
Q11 ⑩,夜、外が暗すぎて怖い
A11 新月のときは真っ黒、満月だとびっくりするくらい明るいです。満天の星空ですよ。
Q12 これで終わりです!
A12 お、もう終わりですか。
Q13 ありがとうございました!!
A13 楽しかったです。よかったらどなたか田舎暮らしの方、受け取ってください。
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Posted by 八少女 夕

『SEASONS-plus-』2012 秋号

『SEASONS-plus-』2012 秋号の予約が開始されました。

Seasons 2012 Autumn

2008年夏に創刊された、詩・短編小説・イラスト・フォトで綴る季刊誌『SEASONS-plus-』。
詩、短編小説、ショートエッセイ、俳句、短歌、歌詞、イラスト、写真で綴る参加無料の商業誌です。
私の参加はこれで三回目となります。短編小説と写真、それにショートエッセイも投稿しています。前回は小説を大トリに掲載していただき、恐れ多いやら、もったいないやらでした。今回は、リアル友でもあるうたかたまほろさんが小説に素敵なイラストをつけてくださっています。

興味のある方、ご購入は、こちらからどうぞ。
ポエトリーカフェ武甲書店
専用ブログ
太陽書房
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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち (31)アヴィニヨン、 乾杯 -2-

ここに出てくるエピソードは、C. ボーランの『Sentimentale』を聴いていて、勝手に浮かんできたものです。この曲は死ぬほど好き。メニューカラムの「BGMを試し聴き」の所で試し聴きできます。残念ながら、ボーラン本人とランパルの演奏によるオリジナルではないのですが。私はボーランの作品はiTuneストアかアマゾンで買っています。

今日でチャプター4はおしまい。しばらくインターバルを挟みますが、その前に。来週の水曜日に、「大道芸人たち」の番外編をアップします。ちょいと特殊な趣向がありますので、お楽しみに!


あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(31)アヴィニヨン、乾杯 -2-


 定休日にヴィルと蝶子はボーランの『フルートとジャズ・ピアノ・トリオのための組曲』の『Sentimentale』を合わせていた。

 稔とレネは、出来たばかりの赤ワインを飲みながら聴いていた。
「マリがコルシカに引っ越すまでは、よく僕の歌の伴奏をこのピアノでしてくれたんだけど。それ以来、だれもこのピアノを弾いていなかったんですよね。調律、ずっとしていないみたいだけど……」
「あんまりしていないみたいだな。我慢できる限界ってとこかな」

 おや。珍しくお蝶が赤い顔をしているぞ。稔は思った。蝶子は苦しそうにフルートを吹いた事はほとんどなかったのだ。間奏のところまで来ると、蝶子はフルートを離して文句を言った。
「ちょっと。なんでそんなにゆっくり弾くのよ」

 ヴィルは黙って楽譜のテンポを示した。
「だけど、メロディのところを前奏よりも、そこまでテンポを落とす事ないでしょう」

「苦しそうだな。決められたテンポじゃ吹けないのか」
そのヴィルの言葉に、怒りでさらに赤くなった蝶子はフルートをぐっと差し出した。
「じゃあ、あなたが吹いてみなさいよっ」

 ヴィルは、きょとんとして、フルートを受け取った。蝶子はさっさとピアノの椅子に陣取って、伴奏をヴィルと同じようなテンポで弾きだした。稔とレネは、へえ、という顔をして成り行きを見守った。

 ヴィルはゆったりとフルートを構えて、同じメロディを吹き出した。蝶子は容赦せずに伴奏したが、ヴィルはそのゆっくりとした伴奏でも途切れずに、切々とメロディを奏でていった。蝶子のはキレのある華やかな音色だったが、ヴィルのは穏やかで暖かかった。優しくて心地よいテンポだった。

 その音色を聴いているうちに、また蝶子の顔が紅潮してきた。ヴィルはちっとも苦しそうには見えなかった。蝶子は先程と同じところで伴奏を止めた。稔が宣言した。
「テデスコの勝ち」

 フルートを黙って見ているヴィルから楽器を奪い取って蝶子が叫んだ。
「わかっているわよ!」

「どこに行くんですか?」
レネが出て行こうとする蝶子に声をかけた。
「あっちで一人で練習してくるの!」

 負けず嫌いなヤツだな。稔はニヤニヤと笑った。だがヴィルはぼそっと言った。
「その必要はない。俺が悪かった」

「同情してくれなくても結構よ」
「同情して言っているんじゃない。このテンポは本当にきつい」

「楽々と吹いていたじゃないか」
稔が言った。ヴィルは首を振った。
「長さは吹けても、蝶子みたいに繊細な表現は出来ていない。このテンポでは、吹くだけで精一杯だ。俺が悪かった。少しテンポを速くするよ」

 レネと稔は顔を見合わせた。蝶子は戻ってきて言った。
「あなたのテンポの方がいいのよ。私、練習して同じテンポで出来るようにする。最初は無理だと思うけれど、助けてよ」
「わかった。じゃあ、少しずつ長くしていこう」

 夕方に、ある程度形にした二人の演奏を聴いたピエールとシュザンヌは、なんてロマンティックで美しい調べなんだろうと、感動した。

「さすが愛し合っている二人の演奏は違うわね」
母親にそういわれたレネは、昼間のやり取りを思い出して、なんと返事をしていいのかわからなかった。


「げっ。弦が切れちまった!」
稔が叫んだ。蝶子が振り向くと三味線を抱えて珍しくうろたえている稔がいた。

「あら。替えの弦、ないの?」
「使い切っちまったんだ。前もこの弦だけ切れちまったから。くそっ。なんで日本に行った時に買っておかなかったんだろう。すっかり忘れていた」

「インターネットで注文できないの?」
「ギターの弦なら間違いなくできるけど、三味線はなあ。それに、この弦は特殊なんだ」

「前はどこで注文していたの?」
「……。お袋のところにいくらでもストックがあったから、自分で注文した事、ないや」

 蝶子は頭を抱えた。
「お母さんに、連絡して届けてもらいなさいよ。どうせこの間、涙の再会したんだし、いまさら隠れていなくてもいいんでしょ」
蝶子が言うと、稔は肩をすくめた。
「そういや、そうだな。でも、届くまで三味線弾けないぞ。それに、弦はどこに届けてもらえばいいんだよ」

 レネとヴィルが荷物をまとめて居間に入ってきたので、蝶子は英語に切り替えた。
「ここに、届けてもらいなさいよ。どうせ、これから行くコモではギターしか弾かないんだし、コモの後は、バロセロナのクリスマスパーティの前に、またここに戻ってきてブラン・ベックの誕生日を祝えばいいじゃない。それまで弾けないなら三味線も置いていけば」

 レネが歓びの叫びをあげながら、母親に誕生日にまた去勢鶏をはじめとするご馳走を用意しておくようにと頼みにいった。

「そうだな。そうするか」
稔は、三味線を袋にしまうと名残惜しそうに居間のピアノの陰に立てかけた。シャルル・ド・ゴール空港で逃げ出す事を決めたあの日から、これだけは絶対に手放さなかった楽器だった。手放すのは心もとなかった。でも、ここなら安心だから、稔は自分に言い聞かせた。

 四人の何かと増えた持ち物はコルタドの館に、またはこのレネの両親の家にと少しずつ増えている。それはヨーロッパという場所に少しずつおろし始めている彼らの根のようなものだった。

「じゃあ、一ヶ月後に」
四人は交互にピエールとシュザンヌとキスを交わし、幾度も振り向き、手を振りながら丘を降りていった。コモではロッコ氏がまた大げさに出迎えてくれる事だろう。

「あのテラスで、また大貧民しましょう」
レネが嬉しそうに言った。

「おう。今度は、お前ばかり大富豪にさせないからな」
稔も笑った。

 蝶子は電車に乗り込むと、さっそくモロッコで買ったティーグラスを四つ取り出した。ヴィルがピエールに餞別としてもらったヌーボーワインを鞄から出して栓を抜き、それぞれのグラスに注いだ。電車はゆっくりと動き出した。
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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち (31)アヴィニヨン、 乾杯 -1-

最近、有機ワインがマイ・ブームです。特別高いものではないのですが、飲んだ時に、喉に変な強い刺激がなくて、私にはとても飲みやすいように思います。もちろん、人によって好みがあるでしょうが。このアヴィニヨンの章でチャプター4はおしまいです。ちょっと長いので、今日と明日の二度にわけての更新です。

あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(31)アヴィニヨン、乾杯 -1-


 レネがおずおずとする時は、何か頼み事があることだとよくわかっているので、稔は発言を促した。
「それで? なんか話があるんだろ?」

 レネは言いにくそうに下を向いた。
「母さんの声が聞きたくて、電話しちゃったんです」

 蝶子が笑った。
「別にいいじゃない。どんどん電話すれば」

「はあ。それが、電話に出たのは父さんで」
「ピエールは元氣だったか?」
ヴィルが優しく訊いた。

「それが、腰を痛めたんだそうです。今は家中すごく忙しいので、休んでいる場合じゃないっていうんです。それで、僕、つい、帰って手伝うって言っちゃったんです」
ひどく後悔している様子だった。

「なんで、それがダメなんだよ。もちろん行って手伝うべきじゃないか」
稔が力強く言った。

「でも、みんなにどこかで待っていてもらわなくちゃいけないし……」
「なんで、どこかで待っていなきゃいけないのよ」
蝶子がウィンクした。ヴィルも続けた。
「全員で行って手伝えばいいだろう」

「決定だな。今夜、これから行くって、もう一度電話してこい」
稔が笑いながらレネに言った。レネは泣き笑いの変な表情のまま、電話に走った。三人は素早く荷物をまとめ始めた。


「すみませんねぇ。みなさんに手伝いに来させちゃって」
ピエールは難儀そうに椅子から立ち上がろうとしたので、蝶子があわてて止めた。
「また、お邪魔しますね。私たち、どんなことでもしますから、どんどん言いつけてくださいね」

「ブドウ畑、誰もいなかったみたいだけど……」
稔が首を傾げた。それを聞いてレネとピエールが二人で吹き出した。

「ブドウの収穫はとっくに終わったよ。今やっているのは醸造だ」
「もうじき二次発酵が終わるので、瓶詰めとかラベル張りなどの手作業が待っているんですよ」

 それを聞いて三人は若干嬉しそうな顔になった。瓶に詰めるってことは、ワインは出来上がったってことじゃないか。去年の十二月に飲んで以来、ここのワインをたっぷり飲める日をどれほど待っていたことか……。

「飲むのは構いませんが、作業中のワインを全部飲まないように注意してくださいよ。うちのブドウのだけでなく、他の農家に頼まれたものもありますんでね」
ピエールが笑った。

「どの農家も自分のところで醸造しているんじゃないの?」
「いえ、ブドウだけを栽培している農家の方が多いんですよ。で、うちで預かるのは、近所でも有機農法のブドウを栽培しているところのだけなんです。そうしないといくらうちが有機農法で作っていても樽に化学肥料の残りが混ざってしまったりしますからね」

 そういって、ピエールは妻のシュザンヌに合図をした。わかっていますよ、というようにシュザンヌはグラスとデキャンタに入ったワインを持ってきた。

「どうして、いつもデキャンタに移し替えるの? 私たちがすぐ飲んじゃうのに」
蝶子は前から疑問に思っていたことをぶつけてみた。空氣に触れさせるという意味ならしばらく前からコルクをあけるだけじゃダメなのかしら。

「うちのワインには酸化防止剤を加えないので、酸化防止のために瓶詰めの時に少し炭酸ガスを入れるんです。だから飲む前には空氣に広く触れさせてガスを抜くんですよ」
レネが説明した。

「それもほとんど必要ないようになってきたけれどね」
ピエールが説明した。

 以前は多くの農家が収穫量の増加ばかりに苦心してきたため、ブドウ自体が健康でなくブドウが元から含む自然の二酸化硫黄だけでは酸化や腐敗を止められなかった。けれど農薬の使用をやめ、収穫量が減るのを覚悟で健康なブドウ作りをし、土地に伝わる天然酵母だけで作るようにしてきたおかげで、土地のテロワールを持つ健康なワインが出来るようになってきたのである。

「周りの農家たちに賛同してもらうのにもずいぶん時間がかかったが、最近のうちのワインを飲むとじいさんが作っていたワインを思い出すなんていってくれる人たちも増えてね」
「昔はみんなこうやって作っていたんですものねぇ」
シュザンヌは笑って言ったが、きっとそういう選択をした夫の信念に協力していくのは簡単なことではなかったに違いない。収穫・生産量が落ち、味が以前とは違うとクレームをもらい、それでも信念に従ってワインを作ってきた両親のことをレネは誇りに思ってた。


「泊まる部屋は、この間と同じ準備をすればいいわよね」
そうシュザンヌが言った。レネは首を振ってフランス語で母親に言った。
「ヤスはマリのいた部屋で、僕はもとの部屋にする。で、そっちの二人を客間に泊めればいいから」

 それを聞いてピエールがにやりと笑った。
「ほう。そうなんですか」

 それで三人にもレネたちの会話の主旨がわかった。稔はつられてニヤニヤと笑い、蝶子はただにっこりと笑った。ヴィルは何の表情もみせなかった。シュザンヌは頷いて、部屋の準備をしに階段を上がっていった。

「それで、日本はどうだったんだ?」
ピエールはレネに訊いた。

「最高だったよ。自然がすばらしくて、風景がエキゾチックだったのはもちろんだけれど、人々がみんな親切で魅力的でね。いつかまた行きたいなあ」
「久しぶりの故郷だったんでしょう、満喫できましたか」

 稔はピエールの言葉に力強く頷いた。
「おかげさまで。本当は、俺のために無理して三人がついてきてくれたんですが、テデスコやブラン・ベックも氣に入ってくれたみたいなんで、ほっとしましたよ」

「チョウコさんも」
「そうですね。普段は帰らなくてもいいと思っていても、帰るとそれなりに感慨がありますわ。やっぱり祖国ですもの。それに、私の知らなかった日本もずいぶん発見したんですよ。彼らと一緒にいなかったらきっと生涯経験しなかったでしょうね」

「そうそう。前に話をしたマドモワゼル・真耶にもついに会ったんだよ。本当にきれいな人だったな」
「なんだ、レネ。お前、日本に行ってまで女性にぽーっとなっていたのか」

「僕だけじゃないよ、父さん。ヤスだって……」
「ほう。それでうまくいったんですか?」
ピエールが突っ込むと稔は笑って否定した。
「論外ですよ。すごくかわいい女性だったんですが、人妻でしたから」

「僕も望みなしだったよ、父さん。真耶にはすごくかっこいい音楽のパートナーがいてさ。他の男なんかには目もくれないって感じだったもの」

 ピエールは大笑いした。
「まあ、この場合だけは、うまくいかないほうがいいよ。お前に日本人と結婚して日本に移住すると言い出されてもこまるしな」


 翌日から四人は作業に参加した。やる事は単純だったので、慣れるとおしゃべりしながらの作業も可能だった。レネが樽から瓶にワインを注ぐ。稔がそれを受け取って炭酸ガスを注入する。コルクをしっかりと閉めるのはヴィルで、それを受け取った蝶子がラベルを貼って行く。出来上がった瓶がある程度たまると、男三人で運び出し、蝶子は備品をきちんと揃えたり、掃除をした。

「収穫の時は、村中総出でやるし、手伝いも結構くるんだが、この時期は毎年厳しいんだよなあ。」
ピエールはぼそっと言った。

「毎年手伝いにきていた、ニコラはどうしたの?」
レネが訊いた。

「あいつは、結婚してリヨンに引っ越したんだ。来年からどうしようかなあ」
「どうせ、十一月には毎年コモにいくんだ。その前にアヴィニヨンに立ち寄るってのも悪くないよな?」
稔が言った。レネは、嬉しそうに稔をみた。

「そうよね。私たちでよかったら、手伝いにきますわ」
蝶子の言葉に、ピエールは嬉しそうに頷いた。
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Posted by 八少女 夕

「Alegria」の歌詞を訳してみた

もうずいぶんと前から「中世ヨーロッパ風の長編書いている」だの、「題名は『貴婦人の十字架』で」だの、チラチラと開示している私ですが。いっこうに進んでおりません。鉄道にたとえると、特急の停まる駅全部と、急行の停まる駅8割くらいは書き終わったのですが、各駅停車の駅の部分がさっぱり。

なぜこうなったかというと、全然集中していないからなんですね。私の場合、小説は脳内映画で完結させて、実際の執筆は観たものを書き写す感覚で作るのですが、現在、脳内は色々な映画が同時上映中なのです。で、私は「貴婦人の十字架」のシアターでなくて、別の映画館についつい吸い寄せられて入ってしまっていると言うか。ま、それでもいいんですけれど。

で、どこのキャラが、いま激しく動き回っているかというと。自分でも予想外でしたが「夜のサーカス」の皆さんでございます。月刊ステルラは月刊だから、そんなに激しく動かなくてもいいんだけどな~。

で、Cirque Du Soleil のアルバム「Alegria」を「夜のサーカス」を書く時のイメージを練るために聴いているのですが。日本にいた時には、まったくわからなかった歌詞が、半分聴き取れるようになっていて、氣になって調べてみました。(もちろん全部聴き取れているわけではありません)

で、調べれば調べるほど、現在向かっている「夜のサーカス」のイメージにぴったりになってきたので、本氣で訳してみました。

以前は、こういう事をしても、自己満足で終わっていたのですが、こんなに苦労したし(この翻訳に使った時間、小説が三本くらい書けたかも……)、「夜のサーカス」は、私の小説の中では多くの方に読んでもらっているので、公開しちゃえと。

ええと、イタリア語とスペイン語は専門外なので(英語もですが)、間違いがあったらご指摘ください。あと、詩として耳に心地よく、また、日本語として意味が通るように、ちょっと意訳しています。ここからコピーして使うと、翻訳としては間違っている可能性がありますので、お氣をつけ下さい。

オリジナルの歌詞は下に貼付けました。どんな曲か聴きたい方は、メニューカラムの「BGMを試し聴き」で。(MixPodのサービスが終了してしまったので、動画を追記に貼付けました)「夜のサーカス」を読みたい方はこちらからどうぞ。


「ヴァイ・ヴェドライ」シルク・ド・ソレイユ - アルバム「アレグリア」より

お行き、私のかわいい子、行って観るのよ
お行き、私の小さな子、観にお行き

運なんかこれっぽっちもない所
もうこの心では行く事は出来ないから
おまえの足で月の上に行くのよ

ああ、我が子よ、お行き
大きな悲しみをいつも隠している
彼の微笑みを観にお行き
あの男の狂氣を観にいくのよ

狂氣

義のなき男の
狂氣
怖れなき戦士の
狂氣
天国で遊ぶ
生き生きとした子供は
戦士に殺された
大きな悲しみをいつも隠している
彼の微笑みを観にお行き
あの男の狂氣を観にいくのよ

狂氣

大きな悲しみをいつも隠している
彼の微笑みを観にお行き
あの男の狂氣を観にいくのよ

お行き、私のかわいい子、観にお行き
お行き、私の小さな子、観にお行き
ご覧

運なんかこれっぽっちもない所
もうこの心では行く事は出来ないから
おまえの足で月の上に行くのよ
ああ、我が子よ、お行き
大きな悲しみをいつも隠している
彼の微笑みを観にお行き
あの男の狂氣を観にいくのよ



「アレグリア」 シルク・ド・ソレイユ - アルバム「アレグリア」より

歓喜
生命の閃光のよう
歓喜
狂える雄叫びのよう
歓喜
罪びとが咆哮ぶよう
麗しく轟く疼み、こんなにはっきりと
猛り狂う愛のよう
歓喜
陶酔の旋風のよう

歓喜
私は生命の輝きが光を放つのを見た
歓喜
若き吟遊詩人が歌うのを聴いた
悦びと哀しみの
麗しく轟く叫び、これほど激しく
私の中には荒れ狂う愛がある
歓喜
心おどる神秘的な想い

歓喜
生命の閃光のよう
歓喜
狂える雄叫びのよう
歓喜
罪びとが咆哮ぶよう
麗しく轟く疼み、こんなにはっきりと
猛り狂う愛のよう
歓喜
陶酔の旋風のよう

歓喜
生命の閃光のよう
歓喜
嘆く道化師のよう
歓喜
狂った哀哭の
轟く雄叫びのよう
こんなにはっきりと
猛り狂う愛のよう
歓喜
幸福が押し寄せる

私の中には荒れ狂う愛がある
歓喜
心おどる神秘的な想い



「Vai Vedrai 」 - Cirque Du Soleil

Vai, vai bambino vai vedrai, vai

Vai, vai piccino vai vedrai, vai
Vedrai

Dove mancha la fortuna
Non si ca piu con il cuore
Ma coi piedi sulla luna
Oh mio fancillu(o) vedrai
Vai Vedrai che un sorriso
Nasconde spesso un gran' dolore
Vai Vedrai follia del uomo

Follia

Del uomo senza driturra vai
Follia
Del guerrier senza paura vai
Follia
Del bambino pien' divita
Che giocando al paradiso
Dal soldato fu ucciso
Mio fanciull(o) vedrai
Vai Vedrai che un sorriso
Nasconde spesso un gran' dolore
Vai Vedrai follia del uomo

Follia

Vai Vedrai che un sorriso
Nasconde spesso un gran' dolore
Vai Vedrai follia del uomo

Follia

Vai Vedrai che un sorriso
Nasconde spesso un gran' dolore
Vai Vedrai follia del uomo

Vai, vai bambino vai vedrai, vai

Vai, vai piccino vai vedrai, vai
Vedrai

Dove mancha la fortuna
Non si ca piu con il cuore
Ma coi piedi sulla luna
Oh mio fancillu(o) vedrai
Vai Vedrai che un sorriso
Nasconde spesso un gran' dolore
Vai Vedrai follia del uomo


「Alegria」 - Cirque Du Soleil

Alegria
Come un lampo di vita
Alegria
Come un pazzo gridar
Alegria
Del delittuoso grido
Bella ruggente pena, seren
Come la rabbia di amar
Alegria
Come un assalto di gioia

Alegria
I see a spark of life shining
Alegria
I hear a young minstrel sing
Alegria
Beautiful roaring scream
Of joy and sorrow, so extreme
There is a love in me raging
Alegria
A joyous, magical feeling

Alegria
Come un lampo di vita
Alegria
Come un pazzo gridar
Alegria
Del delittuoso grido
Bella ruggente pena, seren
Come la rabbia di amar
Alegria
Come un assalto di gioia
Del delittuoso grido
Bella ruggente pena, seren
Come la rabbia di amar
Allegria
Come un assalto di gioia

Alegría
Como la luz de la vida
Alegría
Como un payaso que grita
Alegría
Del estupendo grito
De la tristeza loca
Serena
Como la rabia de amar
Alegría
Como un asalto de felicidad
Del estupendo grito
De la tristeza loca
Serena
Como la rabia de amar
Alegría
Como un asalto de felicidad
There is a love in me raging
Alegría
A joyous, magical feeling


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Posted by 八少女 夕

「iPhone5、ゲットした?」

iPhone5、ゲットしません。何故なら、去年iPhone4Sに買い替えたんですもの。その前のが3Gでした。3年使ったんですが、さすがに最後は重すぎてまともに動かず。最新OSのインストールも出来ませんでしたしね。買い替えてからは、ほぼすべての面で満足しています。

本当は、去年買い替える時にちょっと迷ったんですよ。もう少し待てば画面サイズの大きいiPhone5がでるって噂になっていましたからね。でも、私にとってほしかった大きいサイズとは文庫本サイズ。(私、ほとんど電話をしないんです。片手で歩きながらメールも打ちませんし)

実際には、でたばかりのiPhone5は縦にちょっと長いだけ。一年待って、その間、3Gでイライラしたまま過ごさなくてよかったと思いました。

今回、いいなと思ったのはパノラマ写真の撮れる機能ですが、まあ、いずれはまた買い替える事になるでしょうからその時でいいでしょう。

現在、どうしても、というほど切実に欲しい機能はiPhone5にはありません。それは裏返せばiPhone4Sがそれほど満足度が高いってことなんですけれどね。

それよりも! ずっと氣になっているのが「iPad Mini」ですよ。
私が望んでいた「でかいiPhone」ってこれなんです。電話出来ないみたいなのが「ちっ」なんですけれど。電話が出来たら、電話はbluetoothのペンダント型ヘッドセットだけでやって、それでOKなんだけどな。何がいいって、iBookでPDFを読むとき、本を読んだり、インターネットのサイトを読む時に、目を凝らさなくて済むじゃないですか。私がiPhoneを何に使っているかがバレバレですが、そういうことなんです。


こんにちは!FC2ブログトラックバックテーマ担当加瀬です(^v^)/今日のテーマは「iPhone5、ゲットした?」です。みなさん、ついにiPhone5が発売になりましたね!今や現代人の必需品になっているスマートフォン。もう手に取られた方はいるのでしょうか…?加瀬はこの度初めてのスマホデビューを、このiPhone5で果たす予定です。買い替え時を今か今かと待っていたら、結構時が経ってしまっていました>...
FC2トラックバックテーマ  第1517回「iPhone5、ゲットした?」

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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち (30)ニース、 再会

プロヴァンスの明るい風景は心象風景にも影響すると思うのですよね。優しくて楽しい。日差しは強くても、決して過酷ではない、そこが南フランスの魅力です。

今週は事情により、二度目の「大道芸人たち」の更新をしています。


あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(30)ニース、 再会


 二人は二日後にやってきた。あまりいい立地とは言えなかったが、見つけやすいという理由で選んだ駅前の広場で稔とレネがのんびりと稼いでいると、列車から降りた観光客に混じって、二人は普通に歩いてきた。

「ハロー」
蝶子はこともなげに言った。まるで、ちょっと水を買いにいって戻ってきたかのような簡単さで。ヴィルも特に何も言わなかったし、稔もレネも大げさには喜ばなかった。もちろん稔の演奏は突如として元氣いっぱいになったし、レネは眼鏡をとって目をこすっていたのだが。

 蝶子とヴィルは、以前とほとんど変わらないように見えた。少なくともようやく想いの通じた恋人たちのようには全く見えなかった。

 いつも一緒にいる稔とレネにだけは感じられるわずかな変化もあった。たとえば、お互いにあだ名では呼ばなくなった。イタリアや日本にいた頃のような激しい舌戦も帰ってきた。蝶子は『外泊』を再開した。しかし、この『外泊』には稔もレネも反対しなかった。何も言わないが、もちろんヴィルもその晩はいなくなるのだ。

 二人が戻ってきて三日ほどは氣がつかなかったが、二人の薬指にはシンプルな銀の指輪が光っていた。ニースではいつも稔とレネの側にいるのだから、もちろんディーニュで買ったのだろう。

 蝶子はヴィルに対して不要な挑発をしなくなり、ヴィルが蝶子を苦しげに見つめることもなくなった。稔とレネは、憑き物が落ちたかのように心が軽くなった。どれほど二人の間の緊張が強まっていたのか、稔もレネも氣がついていなかったのだ。

 数日して、仕事だと言ってまたやってきたカルロスにもそれは簡単にわかったらしい。
「あれ。あの二人、うまくいったんですか?」
こっそりとカルロスが稔に訊いた。

「げ、ギョロ目、なんでわかるんだよ」
「そりゃ、わかりますよ。前回、バレンシアで会った時は、いやあ、息苦しかった。マタドールと雄牛の死闘みたいでしたからね」

 稔はそのたとえに大笑いした。それから、そういえばという風に付け加えた。
「あんたには氣の毒だけどな」
「私はそんなに心狭くありませんよ。いいレストラン、知っているんです。一緒に乾杯しましょう」

 サレヤ広場には毎日市場が立つ。月曜日は骨董市で、それ以外の曜日には花や野菜のマーケットだ。もともと観光客であふれかえっているニースの中でも、格別に人通りが多い。秋の柔らかい陽光の下、四人は楽しく稼いだ。

 蝶子は幸福をかみしめていた。何も失われなかった。Artistas callejerosは、前と同じに存在し続けた。稔もレネもヴィルも、前と同じように側にいた。それだけではない、これからは優しい青い目をした恋人がいつも側にいてくれるのだ。

 ニースに戻るまでの三時間半、ディーゼルで走る小さなプロヴァンス鉄道の車体が、右に左にと揺れる中、蝶子はヴィルにもたれかかって窓の外を眺めていた。往きは四人で不必要にしゃべりながら来た風景を、逆方向に二人で戻りながらほとんど口も利かずに人生の不思議について考えていた。赤や紫のえも言われぬ色の地層、飛び交う猛禽、蜂蜜色の壁の小さな家、川にかかる石橋、空に広がる天使の羽のような雲。蝶子はその雲を指差して、ヴィルに話しかけようとした。ヴィルは目を閉じて眠っていた。蝶子はヴィルが眠れた事を嬉しく思って微笑み、伸ばした自分の手に光る指輪に目を留めた。

 ディーニュの街を二人で歩いている時に、蝶子は宝石店のウィンドウの前で立ち止まった。目を惹いたのは大きなサファイアがついたネックレスだった。それは、エッシェンドルフ教授がかつて婚約のしるしとしてプレゼントするつもりだったネックレスに酷似していた。けれど、それを受け取る前に蝶子は逃げ出したのだ。ヴィルがその事を知っているはずはなかった。ヴィルは宝石にはほとんど興味がなかった。

「欲しいのか?」
ヴィルは困ったように蝶子に言った。贈りたくても、そのサファイアは大道芸人が買えるような値段ではなかった。

 蝶子は微笑んだ。
「いいえ。欲しいものはこれじゃないわ」
そういうと、ヴィルの手を取って、一緒に宝石店に入っていき、一緒に嵌める事のできるこの銀のペアリングをお互いにプレゼントしたのだ。約束の徴に。


 その朝、蝶子が目を醒ますと、隣には誰もいなかった。蝶子はすっかりうろたえて叫び声をあげた。その声を聞きつけて、洗面所のドアが開き、シェービングクリームが半分残ったままでヴィルが顔を出した。蝶子は勘違いで動揺したことを恥じて窓の方を向いて黙り込んだ。タオルでクリームを拭きながら、ヴィルがベッドに戻ってきた。顔を見られないように蝶子はシーツを被った。

「蝶子」
「何よ。髭、剃り終えていないんでしょ。続けなさいよ」

 ヴィルはシーツを剥いだ。
「やめてよ」

 蝶子は半泣きだった。ヴィルはその頬に優しく触れながら謝った。
「悪かった。俺はまたあんたの信頼を失う事をしたんだな。俺は、あんたが側にいてほしいと思っているなんて夢にも思っていなかった」

「平氣よ。ずっと独りだったもの。フルートさえ吹ければ、それでよかったのよ」
「俺もそうだった。自由にさえなれれば、それだけでよかった。自分が孤独である事すら知らなかった」

「行きたければ、行ってもいいのよ。私たちには、あなたを縛り付けることはできないもの」
蝶子は顔を見られないようにシーツを被って身をよじった。ヴィルはシーツの上から素直でない蝶子を抱きしめて言った。
「ニースだろうが、どこだろうが、あんたの行く所に一緒に行く。これから、ずっと一緒にいて、あんたの信頼を取り戻すよう努力する。約束する」

 蝶子は、それで泣き出したのだ。二人で買った指輪は、その約束の徴だった。
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Posted by 八少女 夕

ありがとう、しげちゃんさん

たくさんの大切なブログのお友だちの中で、とても特別な方がいます。「私の映画鑑賞」のしげちゃんさんです。ここにリンクを載せていますが、このリンクが有効なのもあと二日だけです。

ご存知の方も多いでしょうが、しげちゃんさんは、難病に苦しみながらも心を打つヒューマン映画の紹介記事をずっと更新し続けていらっしゃいました。映画を解説したブログやサイトはたくさんあります。でも、しげちゃんさんの文章は、ただのあらすじの紹介でもなければ、技術や背景といった知識の開示でもありませんでした。人間とは何か、人は人をどう愛する事ができるのか、人は何に苦しみ、何をもって慰めを得るのか、よく生きるとはどういうことか、切々と訴えかけてきました。

彼の文章は、その人柄そのものでした。

なぜその視線がそれほど暖かいのか、私は不思議に思ってきました。その秘密が、ここ一、二ヶ月のご自身の事を語られた記事で明らかになったように思います。しげちゃんさんは、ご自身の健康問題、大切な友人との別れ、暖かい本当の友人の励ましなどをたくさん経験なさっている方です。その人生経験が、地獄にも思えるつらい時間が、支えあった友情が、あの暖かく優しい文となって、たくさんの読者の心を打ったのだと思います。

しげちゃんさんは、ブログをお辞めになるそうです。かつて療養のために、一度中止なさるとおっしゃった時に、私は「残してほしい」とお願いしました。他の多くの人の期待に応えて、無理して戻ってきてくださったのを、とても嬉しく思っていました。でも、今回は、懇願するのは控えました。健康で問題のない私が、片手間にブログ更新するのと一緒にしてはいけません。今までどれほどの大変な思いで続けてこられたのか考えれば、これ以上のわがままは言えません。

だから、今は、ただひとこと、「ありがとう」と。

これからのしげちゃんさんの幸福とご快癒を心よりお祈りいたしております。もし、ネットサーフィンをする心身の余裕とお時間がありましたら、時おりいらしていただけると嬉しいです。

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Posted by 八少女 夕

【小説】祝いの栗

ブログのお友だち、栗栖紗那さんが10000Hitです。おめでとうございます! で、お祝いに掌編を贈らせていただくことになりました。紗那さんからのリクエストは

あ、でも、せっかくだからリクエストさせていただきます。
そうですね……『栗』もしくは『食欲の秋』のどちらか書きやすい方でお願いします。


で、『栗』+『10000のお祝い』で作ってみました。女主人公の名字を紗那さんからいただきました。構想20分、執筆一時間半、たった今、できたてのほやほやでございます。誤字脱字があったら、お許しくださいませ。


祝いの栗
ー 10000Hitのお祝いに栗栖紗那さんに捧ぐ ー


ピコンと鳴ったので、再びスマホに目をやる。今度は、中学校の同級生からのお祝いだ。うふ、ありがと。

「そのピコンピコン、止められないわけ?」
京子はイチゴショートケーキにぐさっとフォークを突き刺した。ここの一ピースはかなり大きいというのに、三分の一を一口で食べる勢いだ。歯に衣着せぬ批判は、幼なじみならではの特権だけれど、今日くらい勘弁してほしい。

「いいでしょ。一万顧客獲得なんて、そんなにある事じゃないんだし。みんなが祝ってくれるんだもの」
「あんたがfacebookで自慢したからでしょ」
「身もふたもない事いわないでよ。メールでも次々とお祝いが届いているのよ。やっぱり、つながっているって、いいわよねぇ」

ウエイトレスがようやく私の注文品を持ってきた。
「お待たせしました。モンブランとクリームソーダでございます」

京子はあからさまに眉をひそめた。
「いったいどういう組み合わせなのよ。氣でも違ったの?」
「う、うるさいわね。これは私のハレの日の組み合わせなの」

支店を任されて一年目、ようやく一万顧客を達成した。私にとっては過去最高の勝利だからといって、無理矢理京子を自由が丘の洋菓子店「モンブラン」に呼びつけたのだ。なんで居酒屋じゃないのかと訝られたが軽く無視した。

ここには最初のデートで征士が連れてきてくれたのだ。そもそも、このひどい組み合わせを注文したのは彼だった。
「子供の頃さ。祖父ちゃんが自由が丘に住んでいてさ。俺がちょっといい成績とったり、書道で賞穫ったりすると、ここに連れてきてくれたんだ。で、祖父ちゃんはモンブラン、俺がクリームソーダ頼んでさ。だから、俺は何か祝いたい時にはここにくるんだ」
「今日は、なんのお祝いなの?」
「もちろん、栗栖とつき合えた事だよ!」

大学の研究室で知り合った征士とは、卒業後もずっとつき合った。どちらかにいい事があった時は、必ずこの「モンブラン」に来て、モンブランとクリーム・ソーダで祝った。みんな、あのままゴールインするんだと思ってた。私も何となくそう思っていた。8年もつき合ったんだし。だけど、あいつは行ってしまった。


京子はちゃっちゃとショートケーキを片付けると、ブラックコーヒーを飲み干し、カチャンとソーサーに置いて畳み掛けてきた。
「で。あんた、顧客獲得一万はいいけど、その後、どうしてるのよ。新しい彼、みつけたの?」
ほら、きた。

「え。この一年は忙しくて……」
「そんなこと言っている場合? あんたね。もう三十なんだから、プロジェクトとか、顧客とか、そういう男をドン引きさせるうわごとばっかり言っていないで、ちゃんと彼を探しなよ」
「征士は、プロジェクトの事話しても、いつも応援してくれたよ」
「ふん。で? 今日のお祝いの嵐の中に、彼のメッセージはあるわけ?」

あるわけない。征士は私が支店を任された事も、顧客獲得にやっきになったことも知らないのだ。facebookの友だちですらない。だって……。

「どういうこと、それ?」
一年前、私はこの「モンブラン」のあの角の席で、征士をにらみつけた。
「だから、来月からシエラ・レオネに赴任するんだ」
「シエラ……? どこそれ」
「アフリカだよ」
「いきなり? 私に相談もなく決めちゃうわけ? ここに呼び出して別れ話ってこと?」
「誰が別れ話だって言ったよ。一緒に行かないかって、話だろ」
「ア・フ・リ・カ・に? 冗談でしょ? ロンドンやニューヨークならまだしも。それに、もしOKだとしても、来月って私のプロジェクトはどうなるわけ?」
「いや、だから、来月一緒に赴任しなくてもいいけどさ。でも、ほら、キリのいいところで……」
「キリのいいところで何よ。私がいつ結婚したら仕事を辞めたいって言った? ふざけないでよ」

私は、そのまま席を立ち、彼からのメールや電話を無視して、しばらく着信拒否にした。本当に怒っている事を理解させたかったから。けれど、彼はそのまま本当に行ってしまったのだ。

「あんたさ。終わった事は諦めて、さっさと次を探さなきゃ。花の命は短いんだし」
京子のいう事はまっとうだ。征士と仕事と天秤にかけて、私は速攻で仕事を選んでしまった。いや、本当はむかっ腹を立てていただけかもしれない。征士はずっと私の仕事を応援してくれていたはずなのに、いざとなったら「辞めて来い」みたいなことを言ったから。私にとって、仕事での成果はとっても大事だったのに。ああ、もう。今日は顧客一万のお祝いにここに来たのに。どうしてこんな事を考えてるのよ。

征士の向かった先、シエラ・レオネにだってE-Mailもfacebookもあるだろう。でも、彼が働いている場所は電氣が通っていない未開の地。携帯の電波だって入らないだろう。着任してすぐに彼からエアメールが届いて、その手の事が書いてあった。私はまだ怒っていたので、返事も書かなかった。それっきりだ。一年はあっという間だ。その間、彼がどう過ごしたのか知る由もない。私は誰ともつき合ったりしなかった。いい事があったら、いつもここに来たよ。

勝利の激甘モンブランとクリーム・ソーダが、なぜか苦く感じられた。続けて居酒屋に行こうと誘う京子に謝って別れ、私はマンションへと向かった。

仕方ないじゃない。ここには電車もあるし、コンビニもある。変な病氣になる心配もないし、それに卒業以来ずっと打ち込んできた仕事もある。仕事で成功したら、facebookの80人の友だちや、メル友たちがリアルタイムで祝ってくれる。ピコン。ほら、また。

マンションの郵便受けを覗く。あれ? このシンプルで薄い青い封筒……。エアメール? 裏返して、へたくそな字を見ただけで、心臓がドキドキしてくる。エレベーターを待つのももどかしく、私はすぐに封筒をこじ開けだす。なんで、こんなにがっちり糊付するのよ。

お〜い。どうしてる?
今日は、栗栖の誕生日だよな。おめでとう。
こっちは、秋なんて到底思えない暑さだけど、ドイツ人の同僚がいいもん見せてくれたんで、写真に撮ったよ。トチの実だ。ドイツにいる息子が拾ってパパにってプレゼントだってさ。「栗にそっくりじゃないか?」そう言ったらドイツ野郎は「当然だよ。ドイツ語では馬の栗っていうんだ」なんていいやがった。お前の誕生日に栗みたいなのが出てきたの、何かの縁かと思ってさ。仕事、頑張れよ。


トチの実



何よ。誕生日なんて一ヶ月以上前の事じゃない。どこがエアメールなのよ。それに、偽物の栗の写真を送るなんて、どういう神経しているの。私は征士の手紙を抱きしめた。

スマホがピコン、ピコンと鳴っている。涙を拭って、エアプレーン・モードにした。机に向かうと、便せんを探す。手紙なんか、ずっと書いていないから、なかなか見つからない。

(初出:2012年10月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 リクエスト

Posted by 八少女 夕

プロフィール画像、描いていただきました!

キルケさんにプロフィール画像を描いていただけないかと、お願いしてみたのです。もともと、ずっといいなあ、描いてほしいなあと思っていたのですが、お忙しいようだし、我慢していたのです。けれど、左紀さんがアルマクを描いてもらったのをみて、我慢出来なくなって、こわごわ依頼してみたのです。そしたら、快くOK。嬉しかったです。で、希望(スイスっぽい背景に、私をデフォルメしてと……)だけ告げて、ルンルンと待っていたのでした。

で、昨日、訪問したら、ええええええええええ〜。こ、こんなにかわいいイラストになっている。

プロフィール画像

観てくださいよ。実物はこんなに可愛くないですが、これが私だという事にしておいてください。そして、山も空も、光すらもほんとうにイメージ通りなんです。すごすぎです。

キルケさん、本当にありがとうございました。宝物にします。
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Tag : いただきもの

Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち (29)ディーニュ・レ・バン、 別れ

ディーニュ・レ・バンとは「温泉地のディーニュ」という意味です。ヨーロッパでは温泉地はたいてい保養地になっています。たぶん、だからニースからこの小さな街にわざわざ鉄道が敷設されたのでしょう。プロヴァンスを行く小さな列車。電車が、どこかここではないところに連れて行ってくれるのではないかと期待していたかつての子供はここにも一人います。

あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(29)ディーニュ・レ・バン、 別れ


 おもちゃのように小さな電車だった。ヴィルが子供の頃に憧れた、どこか知らない彼方へと連れて行ってくれる魔法の乗り物にしては、あまりに頼りなかった。父親と母親の呪縛を振り切ってから、いくらでもした電車の旅。ここではないどこかに行く事だけが心躍る歓びだった。あの頃は自由である事だけがヴィルの望むすべてだった。この街でヴィルがしようとしている事は、しかし、心躍る事でも望んでいる事でもなかった。

 小さな頼りない車体を眺めて、ヴィルは自分をあざ笑った。ここでないどこか。そんな所はどこにもない。チケットを買えば電車には乗れる。ただ、それだけのことだ。


 ニースから三時間以上、のんびりと走るローカル列車プロヴァンス鉄道の終点が、ローマ時代から続く温泉の街、ディーニュ・レ・バンだった。旧市街の中心にあるサン・ジェローム大聖堂は街と同じ赤みかがった石材で出来ている。鐘楼がプロヴァンスに特有の繊細な鉄細工で、遠くから見てもひときわ目立つ。曲がりくねった小さな道が商店街に続く、この大聖堂の前で四人はいつものように稼いだ。

 秋がはじまりまだ暖かくても日差しが弱くなっている。オリーブの葉は灰色がかった深緑に変わり、黄色く乾いた枯れ葉も時折強く吹く風に乗ってあたりに乾いた音を響かせた。

 食事の度におかれる透明なパスティス入りのグラス、カラフェから水を注ぐと途端に白く変わる魔法も、既に日常と化していた。アニスの香りも、夏のプロヴァンスのなくてはならない残り香だった。季節はゆっくりと変わっていく。

 稔が一人でバーに入ってゆき、パスティスを頼むと、カウンターの親父は小さいグラスをすっと差し出した。その後、レネが入ってきて、プロヴァンス方言で早口にパスティスを頼むと、もう少し大きいグラスに倍くらいの量が入って出てきた。

「なんで、こんなに違うんだよ」
納得のいかない稔がレネに訊くと、はじめてバーの親父は稔とレネが仲間だと氣づき、あわててレネに早口で弁解をした。

 レネは大笑いした。
「それ、外国人旅行者バージョンなんだそうです、今、僕と同じなのを用意してくれるそうです。今飲んでる分は、お詫びにサービスにしてくれますって、よかったですね」

 蝶子とヴィルが続いて後ろから入ってきて、その話を聞きつけた。蝶子が高笑いした。
「これで、ヤスもテデスコのお仲間じゃない」

 ミラノで出会った日に市場でヴィルがぼったくられていた時の話をしているのだ。稔はふくれた。レネも楽しそうに笑った。けれどヴィルは何も言わなかった。楽しそうにもしなかったし、腹を立てているようでもなかった。稔は「おや」と思った。ドイツ人の心はどこかここでない所を泳いでいるようだった。


 それから二日ほどして、再び稔はヴィルの様子に目を留めた。今度は仕事中だった。稔と蝶子が『日本メドレー』を演奏し終え、続いて蝶子がレネのリング演技の伴奏をはじめた時だった。水を飲みながらふと横目で見ると、ヴィルが目を閉じていた。蝶子のフルートに意識を集中しているようだった。それだけなら何とも思わなかっただろう。だが、その後ヴィルは目を開けて空を見上げた。そして、ずっと何かを考え込んでいた。仕事中にヴィルがそんなに長く上の空になった事はなかったので、いったいどうしたのだろうと稔は訝った。

 ヴィルは実行しようと考えていた。愛する女がおそらく望んでいる事を。それ以外、解釈のしようがなかった。浅草で心が通じたという確信を頼みに、彼女の行動を自分に都合良く解釈してみても、すぐに現実的な考えが彼の期待を打ち消した。あの時と違う。彼女はもうすべて知っているのだ。自分が誰であるかも、一年以上も信頼を裏切っていた事実も。バレンシアの月夜に、声を荒げる事すらせずに問いただした蝶子の冷たい表情。持て余している想いをどうする事も出来ない自分を責めるように繰り返される奇妙な挑発。彼女はもはや元の信頼のおける仲間に戻れない自分を、曖昧なまま側に置いておきたくないのだ。けれど、彼女はArtistas callejerosを尊重するが故に、こちらの自発的な決断を待っている。

 ヴィルは空を見上げて思った。どこに行くのでも構わない。ただ、Artistas callejerosの仲間たちと、ずっと旅を続けたかった。蝶子のフルートの音色と絡み合う音の世界を泳ぎ続けたかった。食べるのも、飲むのも、歩くのも、一人では味氣ない事だろう。

 一週間ほどのディーニュ滞在の後、ニースに戻る事になった。チケットを買おうとしていると、不意にヴィルが言った。
「俺はもう少しここにいる」

 三人は黙って、ドイツ人を見た。ヴィルはいつも通り無表情だった。だが稔はすぐに理解した。ヴィルにはもう限界だったのだ。正体を曝し、心も知れ渡っている。だが、彼には何も変えられない。日に日にひどくなる蝶子の挑発に堪え、このままArtistas callejerosに加わっているのは彼には残酷すぎる選択だった。

「でも、後から来るわよね」
蝶子は声を震わせた。

「俺の事は待たなくていい」
それは蝶子に対する決別の宣言だった。さすがナチスとSSを生んだ民族だ。こんな切ない話なのに、眉一つ動かしやしねえ。稔は感心した。ほらみろ、お蝶。お前はいじめすぎて猫を殺してしまったんだ。愚かな女め。

 翌日、三人はニース行きの電車に乗り込んでいた。重苦しい空氣が漂い、ほとんど誰も口を利かなかった。蝶子はことさら無表情だった。お、トカゲ女がテデスコ化してきたぞ。稔は腹の中でつぶやいた。

 車窓から何度もプラットフォームを覗いていたレネが叫んだ。
「あ、テデスコ!」

 稔と蝶子も窓から身を乗り出した。

「おい、乗れ!」
稔が叫んだ。だがヴィルは首を振った。見送りにきた、それだけのようだった。最後に一目だけ蝶子を見たかったに違いない。

 蝶子はそわそわとしていたが、ついに言った。
「私、降りる」

「えっ」
稔とレネが同時に絶句した。蝶子はハンドバックだけをつかむと、乗り込んでくる乗客をかきわけて必死で出口に向かった。

「おいっ。もう時間がないぞ!」
稔が叫んだが蝶子は降りる事しか考えていなかった。

 蝶子がプラットフォームに降りると同時に、ドアが閉まり施錠の音がした。ヴィルはさすがに驚いてこちらに走ってくる。

 稔は窓から蝶子に叫んだ。
「おい、お蝶、ニースで待っているからな!」
「ええ、待っていて。きっと二人で行くから!」

 電車は動き出した。ヴィルは蝶子の傍らに立った。そのヴィルを鬼のごとく睨みつけると騒音に負けないように蝶子は叫んだ。
「本氣の恋なんてまっぴらよ。それなのに、なんでよりにもよってあんたなのよ!」

 ヴィルは起こった奇跡を信じられないまま、列車が完全に過ぎ去るまで蝶子の泣きそうな美しい顔を見つめていた。それから、風に踊る蝶子の髪と頬の間にそっと手のひらを滑り込ませ、感無量の声にはまったくそぐわない、いつもの無表情で答えた。
「それはこっちの台詞だ」

 遠く車窓から覗く稔とレネには、二人が抱き合っている姿が小さく見えた。稔は顔をゆがめて窓の外を見ているレネの肩をポンと叩いて言った。
「泣くな、ブラン・ベック。今夜は俺がとことんつきあってやるからさ」
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