【小説】夜のサーカスと赤銅色のヴァレンタイン
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夜のサーカスと赤銅色のヴァレンタイン
聖ヴァレンタインの公演。珍しく紅い薔薇を持つ道化師とのシングルブランコだったのは、ジュリアからステラへの贈り物だったのかもしれない。
公演が終わり舞台の点検をするヨナタンを、ステラがいつものように眩しそうに嬉しそうに見ていた。それを感じたヨナタンは思わず立ち上がって、彼女を見た。
十二年前の宵の事を思い出した。ステラの母親マリの経営する小さなバルで、ひっそりと食事をとっていた彼の側に、六歳になったばかりのステラがやってきた。輝く金髪と琥珀色の瞳に、ヨナタンは思わず息を飲んだ。ピッチーノ……。出会った日に喜びを隠せずに微笑みかけてきた天使のような少年もまた、輝くような金髪をしていた。ピッチーノと二度と逢う事が出来なくなって一年が経っていた。もう忘れたはずだった。だが、ステラの無邪氣な笑顔がヨナタンを想い出に引きずり戻した。ピッチーノ。天使のようなピッチーノ……。
「次に逢ったら赤い花をちょうだいね」
白い花を受け取ったステラはヨナタンに言った。翌日の興行で、みなに嗤われている道化師が氣の毒で泣きそうになっているステラに、ヨナタンは約束通り赤い花を差し出してしまった。その時のステラの笑顔。十年後にすっかり大きくなって現れたステラの溢れるばかりの愛情。
ステラにとって赤い花と白い花のおとぎ話が特別だったように、ヨナタンにとっても彼女の金の柔らかい髪と見返りを求めずに注がれる愛情は特別だった。もう届かない遠くの過去の投影だと自分に言い聞かせていたはずが、いつの間にかなくてはならない大事な存在に変わっていた。ピッチーノよりも大切になっていた。
言葉にするのは苦手だった。何かをしてやれる立場にあるわけでもない。だが、この聖ヴァレンタインの日に、彼女が喜ぶのは何かを形にする事だと思った。この花? 舞台に使った薔薇? そんなものでいいんだろうか。ヨナタンは舞台の袖の一輪挿しから薔薇を抜くとステラに向かって声を掛けようとした。
その時、ものすごい勢いでやってきたのはブルーノだった。
「おい、それをよこせ!」
そう言って薔薇をひったくると、何も言えないでいるヨナタンとステラをその場に残して去っていった。
「あ。行っちゃった……」
ステラはくすっと笑った。ヨナタンは困惑して言った。
「薔薇……。明日買いにいくよ」
ステラはその意味を感じてぱっと顔を輝かせた。
「いいの。もう、もらったから。白いのも、赤いのも、そして黄色いのも」
その屈託のない様子にヨナタンは救われたような氣もちになった。ヨナタンは黙ってステラの額に口づけた。
ブルーノが薔薇を必要としたのはもっと切実にだった。
公演が終わるとマッダレーナはプレゼント攻めになった。そんな光景はチルクス・ノッテではただの年中行事だった。去年もスターのマッダレーナはファンからの花やチョコレートに埋もれていたし、その前の年はジュリアがプレゼントに埋もれていた。それをどうと思った事なぞなかった。それに、マッダレーナはブルーノの恋人とは言えなかった。
いや、外から見たら、二人は恋人と言ってもよかったかもしれない。というのは、あの晩以来ブルーノはいつもマッダレーナのキャラバンで眠っていたから。でも、それは愛しあっているからというわけではなくて、肌寂しい女と事情のある男の利害が一致しただけだった。
あの晩の翌日、マッダレーナは全くいつもと変わりなかった。そのことに、ブルーノはほんの少しがっかりしたが当然だと思った。この女が愛しているのはあの男だ。何かを望んだわけでもなかった。でも、その晩、ロマーノがブルーノのキャラバンにやってきて、当然のように中に入ろうとした。ブルーノは何故だかとても理不尽だと思い、小さな声で「いや、今日は……」と抵抗した。
「なんだね。他に予定でもあるのかね」
そう畳み掛けるロマーノに、ブルーノは言葉に詰まったまま、昨夜泊ったキャラバンを見た。煙草を吸っていたマッダレーナと目が合った。彼女は煙草を投げ捨てると自分のキャラバンの扉を開けた。行ってしまいそうだったが、思い直したかのようにはっきりとした口調で言った。
「団長。あんたがそこに泊るのは勝手だけれど、ブルーノは今晩もここに泊るから」
ぽかんと口を開けて目をしばたたかせるロマーノの横をすり抜けて、ブルーノは女のもとに走った。それから毎晩、ブルーノは当たり前のようにマッダレーナのもとに泊る事になったのだ。
それだけのはずだった。なのに、マッダレーナが多くの男たちからの花やプレゼントに囲まれて、麗しい笑顔で礼を言っているのを見ているうちに、ブルーノはおかしな心持ちとなってきた。そんな嬉しそうな顔をするな。俺に見せない顔をするな。俺も、何かをあの女にあげなくては。といっても今から町に行っても花なんかどこにも残っていないだろう。そうだ、いつも通り舞台に紅い薔薇があるなら……! ブルーノは考える前に行動していた。ようやくまともな思考ができたのは、真っ赤な薔薇を手にして息を切らしながらマッダレーナの前に立った時だった。俺は、いったい何をしているのか?
マッダレーナは、彼の手にある紅い薔薇を見て、笑顔を消した。いつもの余裕のあるふざけた態度が、潮が引くように消え去った。
彼は震えた。突如として悟ったのだ。この紅い薔薇はあの道化師のもの、つまり、この女が心待ちにしているものではないか。奪い取った花、かすめ取った関係。
つい数日前の宵、絹糸のごとくつややかな赤銅色の長い髪が、明かり取りの窓から射し込む満月の柔らかな光に浮かび上がっていた。彼はその髪と額にそっと触れた。どこからか、何とも形容しがたい優しくて柔らかい想いが浮かび上がってきて、それがなんだかわからなくて彼は戸惑った。そして、ふいに違和感が起きた。それに触れている自分の手が白くないこと。楽園の住人の白い肌、あの道化師の持つ、透き通るような肌ではないことに。
お互いに、ただ空間を埋めるためだけの関係のはずだった。彼女の心がどこにあろうがどうでもよかったはずた。そう、彼女があの男を愛しているのは、はじめからわかっていた。では、これは何だ。
のろのろとした彼の思考の中に、はじめて閃光のように何かが浮き上がった。情熱の時間も、ふざけた語らいのひとときも、どうして彼のことを渇かせ続けたのか。本当に欲しかったのは、全く別のものだったのだ。欲望の満たされる歓びだけではなく、肌のぬくもりの中にまどろむ安らぎでもなく。どこかもっとずっと奥から湧きだす疼きがあった。舞台にあふれる光にも似た、攫みたくてもつかめない何か。闇に渦巻く灼熱の情念。薔薇は奪えてもそこまでだったのだ。彼女は、その花が欲しかっただろう。でも、この手によってではないのだ。
マッダレーナは、紅い薔薇を手にしたまま、所在なく立ちすくむブルーノを見て戸惑っていた。それは、彼が感じたように、その薔薇の所有の移管に関してではなかった。目の前にいる、今のところ最も親しい関係を持っている、つまり、ほぼ毎晩を共に過ごしている男の、かつて見たことのない佇まいを感じたからだった。屈強な体と、粗野な言動の内側に絶対に見つからないように隠していた、おそらく彼自身も知らないでいたのであろう、傷つきやすい無防備な魂が剥き出しになっていた。それを彼女は彼の瞳の中に見た。
彼女の中につむじ風が巻き起こった。小さなかがり火だったもの、柔らかく平和に点っていたものが轟々と燃え上がった。雷鳴にあたったように唐突に、彼女もまた自分の心を悟った。
けれど、絶望して女の心の動きに感づく余裕のなかったブルーノは、紅い花を取り落とすとそのまま走り去った。マッダレーナは、プレゼントの山の中からゆっくりと立ち上がって、彼のいた所まで歩くと薔薇を拾って香りをかぐと、そっと微笑んだ。
「ブルーノは?」
ステラが訊くと、マルコが指を宙に向けた。
「また、ポールに登っているの?」
ヨナタンが頷いた。ステラはそっとマッダレーナを見た。彼女はあまり関心もない様子で頬づえをついていた。目の前に小さなコップが置かれていて、紅い薔薇が刺さっていた。わざわざヨナタンから奪ったあの花、どうなったんだろう。ステラは後ろを振り返ったが、ブルーノが戻ってくる氣配はなかった。
「食べよう」
ルイージが言った。そっとしておいた方がいいこともあるのだ。みな頷いて、手を付け出した。マッダレーナを除いて。彼女は頬づえをついたまま、黙ってその場に座っていた。誰も食べろと勧めたりはしなかった。
いつもなら我慢出来なくなって降りてくる頃になっても、ブルーノはやってこなかった。片付け当番のマッテオが戸惑いながら、いまだに食事に手を付けていないマッダレーナの前に立った。彼女はひらひらと手を振った。
「あたしが責任を持って片付けるから、このままにしておいてよ」
「OK。じゃ、よろしく」
みな、共同キャラバンを出て行った。ダリオに頼んで、調理キャラバンに特別に入る許可をもらうと、マッダレーナは何度かシチューを温めた。何とも言えない香りが鼻をくすぐる。食べてしまいたくなる誘惑を押さえて、マッダレーナは待った。
もう諦めて、これを食べたら片付けて寝ようと思っていた、五回目の時に、ギシリと足音がした。
「ダリオ。なあ、俺は本当に食欲がないんだ。こんな遅くまで、待っていてくれて悪いけれど」
ブルーノは短くなってしまったロウソクと、二人分の食器と、テーブルの中央に置かれた紅い薔薇を見た。シチューの香りのする方を見ると、マッダレーナがお玉を持って立っていた。
「さっさと座りなさいよ。こっちはお腹ぺこぺこよ」
「待っていたのか? お前が」
マッダレーナは肩をすくめた。
「聖ヴァレンタインの夜のディナーはあんたと一緒に食べたかったの」
それからちらっと壁時計を見てから付け加えた。
「あと40分しか残っていないから、早くして」
ブルーノは何がなんだかわからないまま、怯えた表情で彼女を見た。なんて言った? 聖ヴァレンタインの夜を一緒に過ごしたかったって? それは、つまり、その……。
さっきまで、全くなかった食欲が急に存在を激しく主張しだした。
「せっかく美味しそうだったのに、すっかり煮詰まっちゃったわ。あんたのせいなんだから、ダリオに文句を言ったら承知しないわよ」
マッダレーナがお玉で彼のスープ皿に注ぎ終わるのを待つまでもなく、ブルーノは皿に覆いかぶさるようにして食べだした。右手にスプーン、左手にパンを持ってほぼ同時にかぶりついた。そのとんでもない行儀に、彼女は片眉を上げたが、ふふっと笑うと自分も食べだした。暖まってきたのはシチューのお陰だけではないだろう。
食事が終わる頃になると、マッダレーナは再び調理キャラバンに行って、お盆を持って帰ってきた。いくつものデザートがその上に載っていた。ブルーノは首を傾げる。マッダレーナはにっこり笑った。
「ほら、みんながあんたのためにとっておいたのよ。なんてみんなに愛されている人かしら。これがステラの、ルイージの、それからヨナタン、マッテオ……」
一つだけ自分の前に置くと、マッダレーナは残りのすべてのパンナ・コッタをブルーノの前に並べた。彼は上目遣いに彼女を見ると訊いた。
「お前のは、くれないのか?」
彼女は呆れて言った。
「これだけもらって、まだ足りないの?」
「他の全部食べていいから、お前のをよこせ」
マッダレーナは雪だるまも溶けてしまうほどの笑顔を見せると、自分の前の器とブルーノの前の器を取り替えた。ブルーノは手の甲で目を拭いながら、デザートをすくった。
共同キャラバンの影から、ぱたぱたと走り去ると、ステラは煙草を吹かしているヨナタンの所へ駆けていった。
「マッダレーナと一緒に、ドルチェ食べてる! 大丈夫みたい」
ヨナタンは、嬉しくて仕方ない様子のステラをちらっと見ると言った。
「覗き見はよくない趣味だな」
それから、いつものようにステラの前髪をくしゃっと乱した。
(初出:2014年1月 書き下ろし)
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【小説】夜のサーカスと赤錆色のアーチ - Featuring「物書きエスの気まぐれプロット」
scriviamo!の第六弾です。(ついでに、左紀さんの分と一緒にStellaにも出しちゃいます)
山西左紀さんは、人氣シリーズ「物書きエスの気まぐれプロット」と、当方の「夜のサーカス」ならびに「大道芸人たち Artistas callejeros」のコラボの掌編を書いてくださいました。本当にありがとうございます。
山西左紀さんの書いてくださった掌編 物書きエスの気まぐれプロット6
山西左紀さんは、小説書きのブロガーさんです。代表作の「シスカ」をはじめとして並行世界や宇宙を舞台にした独自の世界で展開する透明で悲しいほどに美しくけれど緻密な小説のイメージが強いですが、「絵夢」シリーズや今回の「エス」シリーズのようにふわっと軽やかで楽しい関西風味を入れてある作品も素敵です。普通は女性のもの書きがとても苦手とする機械関係の描写も得意で羨ましいです。
左紀さんのところのエスとうちのオリキャラのアントネッラのコラボははじめてではなくて、もう何度目かわからないほどになっています。この話を読んだことのない方のためにちょっと説明しますと、この二人はもともと独立したキャラです。でも、二人ともブログ上で小説を書いているという設定なので無理矢理にブロともになっていただき、交流していることになっています。今回の左紀さんの作品では、アントネッラが「scriviamo!」を企画し、エスがアントネッラの小説「Artistas callejeros」のキャラとコラボした、ということになっています。つまり実際の私と左紀さんの交流と同じようなものとお考えください。
そういうわけで、「物書きエスの気まぐれプロット」のメインキャラのエスと、劇中劇の登場人物コハクをお借りして、「夜のサーカス」の番外編を書いてみました。舞台は、アントネッラのいるイタリアのコモと劇中劇の方ではスペインのコルドバ、使ったキャラはカルちゃんです。(カルちゃんって誰? という方はお氣になさらずに。ただのおじさんということで)
番外編とはいえ「夜のサーカス」シリーズなので、表紙付きです。
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「夜のサーカス」番外編
夜のサーカスと赤錆色のアーチ - Featuring「物書きエスの気まぐれプロット」
——Special thanks to Yamanishi Saki-SAN

「あらあら。なんて面白い試みをしてくれるのかしら。さすがはエスね」
アントネッラはくすくす笑った。
一月のコモは、とても静かだ。クリスマスシーズンに別荘やホテルを訪ねていた人たちはみな家に帰り、スノップな隣人たちは暖かい南の島や、スイスやオーストリアのスキーリゾートへと出かけ、町のレストランも長期休暇に入る。
アントネッラにはサン・モリッツで一ヶ月過ごすような真似はもちろん、数日間マヨルカ島に留まるような金銭的余裕もなかったので、大人しく灰色にくたびれた湖を臨む彼女のヴィラの屋上で一月を過ごすことにしていた。今年、彼女がこの時期にここを離れない理由は他に二つあった。一つは、先日から関わっている「アデレールブルグ事件」がどうやら進展しそうな予感がすること。つまり、チルクス・ノッテのマッテオが新情報を持っていつ訪ねてくるかわからないことや、ドイツのシュタインマイヤー氏から連絡が入るかもしれないという事情があった。そして、もう一つは、趣味の小説ブログで自分で立ち上げた企画だった。「scriviamo!」と題し、ブログの友人たちに書いてもらった小説に返掌編を書いて交流するのだ。企画を始めてひと月、友人たちから数日ごとに新しい作品を提出してもらっているので、ネットの繋がらない所にはいけないのだ。
そして、今日受け取ったのは、ブログ上の親友エスの作品だった。エスは日本語で小説を書く日本人女性らしいが(詳しいプロフィールはお互いに知らない)、どういうわけかイタリア語も堪能で、小説を二カ国語で発表している。そして、アントネッラの小説もよく読んでくれている上、情報検索が上手くできないアントネッラを何度も助けてくれるなど、既にブログの交流の範囲を超えた付き合いになっていた。
エスが書いてきた小説は、先日発表された「コハクの街」の前日譚で、主人公のコハクがアントネッラの代表作「Artistas callejeros」のキャラクター、ヤスミンと邂逅する内容だった。アントネッラがコラボレーションで遊ぶのが好きだとわかっていて、わざわざ登場させてくれたのだろう。
「まあ、コハクは設計士候補生なの。そして、スペインのイスラム建築を見て、建築のスタイルに対して心境の変化が起こったのね」
アントネッラは、ベッドの代わりにデスクの上に吊る下げているハンモックによじ上り、しばらく静かに眠っているようなコモ湖を眺めながら考えていた。彼女が、数年前に訪れたアンダルシアのこと。掘り起こしていたのは「Artistas callejeros」を書くに至った、心の動き。美しいけれど古いものをどんどん壊していく現代消費世界に対する疑問なども。
それから、ハンモックから飛び降りて、乱雑なものに占領されてほんのわずかしかない足の踏み場に上手に着地すると、デスクの前に腰掛けてカタカタとキーボードを叩きはじめた。
また悪いクセだ。カルロスはひとり言をつぶやいた。先ほどからそこにいる女性が氣になってしかたがない。女性が彼の好みだと言うのではなかった。それは少女と表現する方がぴったり来る、いや、少し少年にも似通う中性的な部分もあり、カルロスがいつも惹かれるようなセクシーで若干悪いタイプとは正反対だった。カルロスが氣になっているのは、それが日本人のように見えたからだった。
見た所、その女性は困っているようには見えなかった。だが、問題がないわけでもなさそうだった。メスキータ、正確にはスペインアンダルシア州コルドバにある聖マリア大聖堂の中で、十五分も動かずに聖壇の方を見ているのだ。声を掛けようかどうか迷いながら横に立っていると、向こうがカルロスの視線に氣付いたようで、不思議そうに見てから小さく頭を下げた。
「不躾に失礼。でも、あまりに長く聖壇を見つめていらっしゃるのでどうなさったのかと思いまして」
カルロスは率直に英語で言ってから付け加えた。
「何かお手伝いできることがあったらいいのですが」
女性は知らない人に少々警戒していたようだが、それでも好奇心が勝ったらしくためらいがちに言った。
「その、勉強不足でよく知らないんですが、これはキリスト教の教会なんですよね? でも、当時敵だったイスラム教のモスクの装飾をそのまま使っているのはなぜなんですか?」
カルロスは小さく笑った。それが十五分も考え込むほどの内容ではないことはすぐにわかったので、この女性の心はもっと他にあるのだと思ったが、まずは彼女が話しかけることを許してくれたことが大事だった。
「いくら偏狭なカトリック教徒でも、これを壊すのは惜しいと思ったのでしょう。美しいと思いませんか?」
「ええ、とても」
「もともとここには教会が立っていたのです。八世紀にこの地を征服した後ウマイヤ朝はここを首都として、モスクを建設しました。十三世紀にカスティリャ王国がこの地を征服して以来、ここはモスクとしてではなく教会として使われるようになり、モスクの中心部にゴシックとルネサンスの折衷様式の礼拝堂を作ったのですよ」
「壊して新しいものを作るのではなく……」
「そうですね。壊してなくしてしまうと、二度と同じものはできない。その価値をわかる人がいたことをありがたく思います。当時のキリスト教というのは、現在よりもずっと偏狭で容赦のないものだったのですが」
二人はゆっくりと広い建物の中を歩いた。「円柱の森」と言われるアーチ群には赤錆色とベージュの縞模様のほかには目立った装飾はなかった。だがその繰り返しは幻想的だった。天窓から射し込む光によって少しずつ陰影が起こり、近くと遠くのアーチが美しい模様のように目に焼き付いた。
聖壇の近くのアーチには白い聖母子像と聖人たちの彫像が配置されている。本来のモスクには絶対に存在しないものだが、光に浮かび上がる白い像は教義に縛られてお互いを攻撃しあってきた二つの宗教を超越していた。どちらかを否定するのではなく、また、どちらかの優位性を強調するのでもなく。
ステンドグラスから漏れてきた鮮やかな光が、縞模様のアーチにあたって揺らめいていた。ほんのわずかな陰影が呼び起こす強い印象。
メスキータから出ると、外はアンダルシアの強い光が眩しかった。カルロスはさてどうすべきかと思ったが、女性の方から話しかけてきた。
「あの、お差し支えなかったら、もう少しアンダルシアの建築のことを話していただけませんか?」
カルロスはニッコリと笑うと、頷いてメスキータの外壁装飾について説明していった。
「あなたは建築に興味をお持ちなんですか?」
「え、ええ。わたしは建築士の卵なんです。日本人でシバガキ・コハクと言います」
「そうですか。私はバルセロナに住んでいまして、カルロス・マリア・ガブリエル・コルタドと言います。やっぱり日本の方でしたね」
「やっぱりというのは?」
「私には親しくしている日本の友人がいましてね。それで、東洋人を見るとまず日本人かどうかと考えてしまうのですよ」
「それでわたしを見ていらしたのですね」
「ええ。もっとも、氣になったのはずいぶん長く考え込んでおられたので、何か問題がおありなのかなと思ったからなのです」
コハクは小さく息をつくと、わずかに首を傾げて黙っていた。カルロスは特に先を急がせなかったが、やがて彼女は自分で口を開いた。
「関わっていたプロジェクトから外された時に、なぜ受け入れられなかったのかわからなかったのです。所長はわたしの設計が実用的・画一的、面白みに欠けるって言いました。学校で習った時から一番大切にしていたのは、シンプルで実用的、そして請け負って作る人が実現しやすい設計で、さらに予算をクリアすることです。それは所長だって常々言っていたことです。それなのにいきなり面白みなんていわれても……」
カルロスはなるほどと頷いた。
「わたしの信念、間違っているんでしょうか」
コハクが思い詰めた様子で訊くと、カルロスは首を振った。
「そんなことはありません。私は実業家なのですが、実用性や予算を度外視したプランというものは決して上手くいかないものです。あなたの上司も、あなたにアルハンブラ宮殿の装飾やサクラダ・ファミリアのような建築を提案してほしいとおっしゃっているわけではないのだと思いますよ」
「だったら、どうして」
「それは、教えてもらうのではなく、あなたが考えるべきことなのです。ここに来たのは本当にいい選択でした。ご覧なさい」
そう言って、外壁の細かい装飾を指差した。ひとつひとつはシンプルな図形だが、組み合わせによって複雑になるアラブ式文様だった。アーチ型を重ねることでメスキータの内部の「円柱の森」を思わせた。
「壁という目的だけを考えればこれは全く不要です。省いても雨風をしのぐという目的は同じように果たせるでしょう。けれどもこの文様にはこの建物全体に共通の存在意義があるのです」
「それは?」
「祈りです。偉大なる神への畏敬の念です。それは彼らにとってはコストや手間をかけてでも表現しなくてはならないものだったのです。建物を造るよう命じたもの、設計者、工芸家一人一人が心を込めて実現し、そして、人びとはその想いのこもった仕事に驚異と敬意を抱いたことでしょう。その真心に七百年の時を経ても未だに人びとは打たれ、同じようにここに集うのです。もし、ここが何の変哲もない柱と屋根と壁だけの建物であったなら、人びとはさほど関心を示さなかったでしょう。そして、為政者が変わった時にあっさりと取り壊されてしまったのではないでしょうか。カスティリャの人びとは、これを作った一人一人の心を感じたからこそ、イスラム教の人びとの手によるものだとわかっていても、尊重し後世に残そうと、そして同じ場所で祈り続けようと決めたのではないでしょうか」
コハクはじっとカルロスの大きな目を見つめた。
「建物自身から感じられる存在意義……。使う者が感じる、作った者の心……」
それから大きく頷いた。
「そうですね。わたしは事業としての建築や建設の使用目的については真剣に考えていたのですが、空間としての建物の意義を見落としていたのかもしれません。まだもう少し旅を続けますので、よく考えてみようと思います」
カルロスは嬉しそうに頷いた。それから胸ポケットから名刺を取り出した。
「私は普段ここにいます。バルセロナの郊外です。もしバルセロナに寄ることがあったら、連絡をください。今、私の日本人の友人たちもしばらくは滞在していますのでね」
アントネッラは時計を見た。あらやだ。もう夜中の一時だわ。そろそろ寝なくちゃ。この最後の部分はもう少し練らないとダメね。なぜArtistas callejerosの仲間たちがバルセロナにいるのかはまだ内緒だし。ま、でも、いいかしら。お祭りの企画だから。
彼女はコンピュータの電源を落とすと、再び器用にハンモックによじ上って毛布をかけた。今夜はメスキータの夢が見られそうだった。
(初出:2013年1月 書き下ろし)
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山西左紀さんは、人氣シリーズ「物書きエスの気まぐれプロット」と、当方の「夜のサーカス」ならびに「大道芸人たち Artistas callejeros」のコラボの掌編を書いてくださいました。本当にありがとうございます。
山西左紀さんの書いてくださった掌編 物書きエスの気まぐれプロット6
山西左紀さんは、小説書きのブロガーさんです。代表作の「シスカ」をはじめとして並行世界や宇宙を舞台にした独自の世界で展開する透明で悲しいほどに美しくけれど緻密な小説のイメージが強いですが、「絵夢」シリーズや今回の「エス」シリーズのようにふわっと軽やかで楽しい関西風味を入れてある作品も素敵です。普通は女性のもの書きがとても苦手とする機械関係の描写も得意で羨ましいです。
左紀さんのところのエスとうちのオリキャラのアントネッラのコラボははじめてではなくて、もう何度目かわからないほどになっています。この話を読んだことのない方のためにちょっと説明しますと、この二人はもともと独立したキャラです。でも、二人ともブログ上で小説を書いているという設定なので無理矢理にブロともになっていただき、交流していることになっています。今回の左紀さんの作品では、アントネッラが「scriviamo!」を企画し、エスがアントネッラの小説「Artistas callejeros」のキャラとコラボした、ということになっています。つまり実際の私と左紀さんの交流と同じようなものとお考えください。
そういうわけで、「物書きエスの気まぐれプロット」のメインキャラのエスと、劇中劇の登場人物コハクをお借りして、「夜のサーカス」の番外編を書いてみました。舞台は、アントネッラのいるイタリアのコモと劇中劇の方ではスペインのコルドバ、使ったキャラはカルちゃんです。(カルちゃんって誰? という方はお氣になさらずに。ただのおじさんということで)
番外編とはいえ「夜のサーカス」シリーズなので、表紙付きです。
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「夜のサーカス」番外編
夜のサーカスと赤錆色のアーチ - Featuring「物書きエスの気まぐれプロット」
——Special thanks to Yamanishi Saki-SAN

「あらあら。なんて面白い試みをしてくれるのかしら。さすがはエスね」
アントネッラはくすくす笑った。
一月のコモは、とても静かだ。クリスマスシーズンに別荘やホテルを訪ねていた人たちはみな家に帰り、スノップな隣人たちは暖かい南の島や、スイスやオーストリアのスキーリゾートへと出かけ、町のレストランも長期休暇に入る。
アントネッラにはサン・モリッツで一ヶ月過ごすような真似はもちろん、数日間マヨルカ島に留まるような金銭的余裕もなかったので、大人しく灰色にくたびれた湖を臨む彼女のヴィラの屋上で一月を過ごすことにしていた。今年、彼女がこの時期にここを離れない理由は他に二つあった。一つは、先日から関わっている「アデレールブルグ事件」がどうやら進展しそうな予感がすること。つまり、チルクス・ノッテのマッテオが新情報を持っていつ訪ねてくるかわからないことや、ドイツのシュタインマイヤー氏から連絡が入るかもしれないという事情があった。そして、もう一つは、趣味の小説ブログで自分で立ち上げた企画だった。「scriviamo!」と題し、ブログの友人たちに書いてもらった小説に返掌編を書いて交流するのだ。企画を始めてひと月、友人たちから数日ごとに新しい作品を提出してもらっているので、ネットの繋がらない所にはいけないのだ。
そして、今日受け取ったのは、ブログ上の親友エスの作品だった。エスは日本語で小説を書く日本人女性らしいが(詳しいプロフィールはお互いに知らない)、どういうわけかイタリア語も堪能で、小説を二カ国語で発表している。そして、アントネッラの小説もよく読んでくれている上、情報検索が上手くできないアントネッラを何度も助けてくれるなど、既にブログの交流の範囲を超えた付き合いになっていた。
エスが書いてきた小説は、先日発表された「コハクの街」の前日譚で、主人公のコハクがアントネッラの代表作「Artistas callejeros」のキャラクター、ヤスミンと邂逅する内容だった。アントネッラがコラボレーションで遊ぶのが好きだとわかっていて、わざわざ登場させてくれたのだろう。
「まあ、コハクは設計士候補生なの。そして、スペインのイスラム建築を見て、建築のスタイルに対して心境の変化が起こったのね」
アントネッラは、ベッドの代わりにデスクの上に吊る下げているハンモックによじ上り、しばらく静かに眠っているようなコモ湖を眺めながら考えていた。彼女が、数年前に訪れたアンダルシアのこと。掘り起こしていたのは「Artistas callejeros」を書くに至った、心の動き。美しいけれど古いものをどんどん壊していく現代消費世界に対する疑問なども。
それから、ハンモックから飛び降りて、乱雑なものに占領されてほんのわずかしかない足の踏み場に上手に着地すると、デスクの前に腰掛けてカタカタとキーボードを叩きはじめた。
また悪いクセだ。カルロスはひとり言をつぶやいた。先ほどからそこにいる女性が氣になってしかたがない。女性が彼の好みだと言うのではなかった。それは少女と表現する方がぴったり来る、いや、少し少年にも似通う中性的な部分もあり、カルロスがいつも惹かれるようなセクシーで若干悪いタイプとは正反対だった。カルロスが氣になっているのは、それが日本人のように見えたからだった。
見た所、その女性は困っているようには見えなかった。だが、問題がないわけでもなさそうだった。メスキータ、正確にはスペインアンダルシア州コルドバにある聖マリア大聖堂の中で、十五分も動かずに聖壇の方を見ているのだ。声を掛けようかどうか迷いながら横に立っていると、向こうがカルロスの視線に氣付いたようで、不思議そうに見てから小さく頭を下げた。
「不躾に失礼。でも、あまりに長く聖壇を見つめていらっしゃるのでどうなさったのかと思いまして」
カルロスは率直に英語で言ってから付け加えた。
「何かお手伝いできることがあったらいいのですが」
女性は知らない人に少々警戒していたようだが、それでも好奇心が勝ったらしくためらいがちに言った。
「その、勉強不足でよく知らないんですが、これはキリスト教の教会なんですよね? でも、当時敵だったイスラム教のモスクの装飾をそのまま使っているのはなぜなんですか?」
カルロスは小さく笑った。それが十五分も考え込むほどの内容ではないことはすぐにわかったので、この女性の心はもっと他にあるのだと思ったが、まずは彼女が話しかけることを許してくれたことが大事だった。
「いくら偏狭なカトリック教徒でも、これを壊すのは惜しいと思ったのでしょう。美しいと思いませんか?」
「ええ、とても」
「もともとここには教会が立っていたのです。八世紀にこの地を征服した後ウマイヤ朝はここを首都として、モスクを建設しました。十三世紀にカスティリャ王国がこの地を征服して以来、ここはモスクとしてではなく教会として使われるようになり、モスクの中心部にゴシックとルネサンスの折衷様式の礼拝堂を作ったのですよ」
「壊して新しいものを作るのではなく……」
「そうですね。壊してなくしてしまうと、二度と同じものはできない。その価値をわかる人がいたことをありがたく思います。当時のキリスト教というのは、現在よりもずっと偏狭で容赦のないものだったのですが」
二人はゆっくりと広い建物の中を歩いた。「円柱の森」と言われるアーチ群には赤錆色とベージュの縞模様のほかには目立った装飾はなかった。だがその繰り返しは幻想的だった。天窓から射し込む光によって少しずつ陰影が起こり、近くと遠くのアーチが美しい模様のように目に焼き付いた。
聖壇の近くのアーチには白い聖母子像と聖人たちの彫像が配置されている。本来のモスクには絶対に存在しないものだが、光に浮かび上がる白い像は教義に縛られてお互いを攻撃しあってきた二つの宗教を超越していた。どちらかを否定するのではなく、また、どちらかの優位性を強調するのでもなく。
ステンドグラスから漏れてきた鮮やかな光が、縞模様のアーチにあたって揺らめいていた。ほんのわずかな陰影が呼び起こす強い印象。
メスキータから出ると、外はアンダルシアの強い光が眩しかった。カルロスはさてどうすべきかと思ったが、女性の方から話しかけてきた。
「あの、お差し支えなかったら、もう少しアンダルシアの建築のことを話していただけませんか?」
カルロスはニッコリと笑うと、頷いてメスキータの外壁装飾について説明していった。
「あなたは建築に興味をお持ちなんですか?」
「え、ええ。わたしは建築士の卵なんです。日本人でシバガキ・コハクと言います」
「そうですか。私はバルセロナに住んでいまして、カルロス・マリア・ガブリエル・コルタドと言います。やっぱり日本の方でしたね」
「やっぱりというのは?」
「私には親しくしている日本の友人がいましてね。それで、東洋人を見るとまず日本人かどうかと考えてしまうのですよ」
「それでわたしを見ていらしたのですね」
「ええ。もっとも、氣になったのはずいぶん長く考え込んでおられたので、何か問題がおありなのかなと思ったからなのです」
コハクは小さく息をつくと、わずかに首を傾げて黙っていた。カルロスは特に先を急がせなかったが、やがて彼女は自分で口を開いた。
「関わっていたプロジェクトから外された時に、なぜ受け入れられなかったのかわからなかったのです。所長はわたしの設計が実用的・画一的、面白みに欠けるって言いました。学校で習った時から一番大切にしていたのは、シンプルで実用的、そして請け負って作る人が実現しやすい設計で、さらに予算をクリアすることです。それは所長だって常々言っていたことです。それなのにいきなり面白みなんていわれても……」
カルロスはなるほどと頷いた。
「わたしの信念、間違っているんでしょうか」
コハクが思い詰めた様子で訊くと、カルロスは首を振った。
「そんなことはありません。私は実業家なのですが、実用性や予算を度外視したプランというものは決して上手くいかないものです。あなたの上司も、あなたにアルハンブラ宮殿の装飾やサクラダ・ファミリアのような建築を提案してほしいとおっしゃっているわけではないのだと思いますよ」
「だったら、どうして」
「それは、教えてもらうのではなく、あなたが考えるべきことなのです。ここに来たのは本当にいい選択でした。ご覧なさい」
そう言って、外壁の細かい装飾を指差した。ひとつひとつはシンプルな図形だが、組み合わせによって複雑になるアラブ式文様だった。アーチ型を重ねることでメスキータの内部の「円柱の森」を思わせた。
「壁という目的だけを考えればこれは全く不要です。省いても雨風をしのぐという目的は同じように果たせるでしょう。けれどもこの文様にはこの建物全体に共通の存在意義があるのです」
「それは?」
「祈りです。偉大なる神への畏敬の念です。それは彼らにとってはコストや手間をかけてでも表現しなくてはならないものだったのです。建物を造るよう命じたもの、設計者、工芸家一人一人が心を込めて実現し、そして、人びとはその想いのこもった仕事に驚異と敬意を抱いたことでしょう。その真心に七百年の時を経ても未だに人びとは打たれ、同じようにここに集うのです。もし、ここが何の変哲もない柱と屋根と壁だけの建物であったなら、人びとはさほど関心を示さなかったでしょう。そして、為政者が変わった時にあっさりと取り壊されてしまったのではないでしょうか。カスティリャの人びとは、これを作った一人一人の心を感じたからこそ、イスラム教の人びとの手によるものだとわかっていても、尊重し後世に残そうと、そして同じ場所で祈り続けようと決めたのではないでしょうか」
コハクはじっとカルロスの大きな目を見つめた。
「建物自身から感じられる存在意義……。使う者が感じる、作った者の心……」
それから大きく頷いた。
「そうですね。わたしは事業としての建築や建設の使用目的については真剣に考えていたのですが、空間としての建物の意義を見落としていたのかもしれません。まだもう少し旅を続けますので、よく考えてみようと思います」
カルロスは嬉しそうに頷いた。それから胸ポケットから名刺を取り出した。
「私は普段ここにいます。バルセロナの郊外です。もしバルセロナに寄ることがあったら、連絡をください。今、私の日本人の友人たちもしばらくは滞在していますのでね」
アントネッラは時計を見た。あらやだ。もう夜中の一時だわ。そろそろ寝なくちゃ。この最後の部分はもう少し練らないとダメね。なぜArtistas callejerosの仲間たちがバルセロナにいるのかはまだ内緒だし。ま、でも、いいかしら。お祭りの企画だから。
彼女はコンピュータの電源を落とすと、再び器用にハンモックによじ上って毛布をかけた。今夜はメスキータの夢が見られそうだった。
(初出:2013年1月 書き下ろし)
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【小説】大道芸人たち 番外編 〜 アンダルーサ - 祈り
「scriviamo! 2014」の第五弾です。limeさんは、うちのオリキャラ四条蝶子を描いてくださいました。ありがとうございます!
limeさんの描いてくださったイラスト『(雑記)scriviamo! 参加イラスト』

limeさんは、主にサスペンス小説を書かれるブロガーさんです。緻密な設定、魅力的な人物、丁寧でわかりやすい描写で発表される作品群はとても人氣が高くて、その二次創作専門ブログが存在するほどです。お知り合いになったのは比較的最近なのですが、あちこちのブログのコメント欄では既におなじみで、その優しくて的確なコメントから素敵な方だなあとずっと思っていました。いただくコメントで感じられる誠実なお人柄にも頭が下がります。そしてですね、それだけではなく、ご覧の通りイラストもセミプロ級。その才能の豊かさにはいつも驚かされてばかりの方なのです。
さて、描いていただいたのは、当ブログの一応看板小説となっている「大道芸人たち Artistas callejeros」のヒロインです。黄昏の中で少女と出会ったシーンからはすぐに物語が生まれて来ますよね。で、これにインスパイアされた掌編を書きました。舞台はどこでもいいということでしたので、私の好きなチンクェ・テッレにしてみました。例によって、出てきた音楽の方は、追記にて。
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
「scriviamo! 2014」について
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scrivianm! 2013」の作品を全部読む
大道芸人たち 番外編 〜 アンダルーサ - 祈り
——Special thanks to lime-san
お母さんは帰って来ない。陽射しが強いから。空氣が重いから。この街は小さな迷宮だ。お店とアパートを結ぶ細い路地をまっすぐ帰ることはしない。できるだけ回り道をするのだ。この新しい道は新しいひみつ。でも、きっと誰も興味を持たないだろう。
「パオラ。ここは子供の来る所じゃないよ」
そう言ったお母さんは、また違う人の首に腕を絡ませていた。お店は昼でも暗い。外にはキビキビと歩く観光客や、ランニングシャツ姿で魚を運ぶおじさんがいて、リンゴの値段をめぐって誰かが怒鳴りあっている。海に反射する光が眩しいし、カラフルな壁が明るくて、生き生きとしている。なのに、お母さんのいるお店だけは、みんなノロノロと動き、光から顔を背けていた。
お母さんは菓子パンを二つ手渡した。遅いお昼ご飯、もしくは晩ご飯を作ってくれるためにアパートに帰るつもりはないんだなと思った。角を曲がるまでにひとつ食べて、波止場で舟を見ながら二つ目を食べ終えた。あたしは海に手を浸して、ベトベトを洗った。おしまい。スカートで手を拭うと、冒険に出かけた。こっちの道はアパートに少しでも遠いかな。
ぐちゃぐちゃの部屋は湿っていて居心地が悪い。冷蔵庫の牛乳は腐っていたし、わずかなパンはひからびて崩れてしまった。それに、ワインの瓶が倒れていたせいであたしのお人形は紫色になってしまった。あの部屋に、いつもひとり。永遠に思える退屈な時間。あたしが神様にお願いするのはたったひとつ。早く大人になれますように。そうすればあそこに帰らなくていいもの。
一日はゆっくりと終わりに向かっていて、壁の色は少しずつ暖かい色に染まりだしている。その路地は少し寂しかった。騒がしい街から切り離されたようにぽつんと存在していて、奥に階段が見えた。甲高い楽器の音がしている。あ、あの人だ。階段に腰掛けて、フルートを吹いている女の人。速くて少し切ない曲だ。
目を閉じて、一心不乱に吹いている。黒い髪が音色に合わせて、ゆらゆらと揺れた。あたしが近づいてじっと見ていると、その人はふと目を上げた。それから、口から楽器を離してちらっとこちらを見た。彼女もあたしもしばらく何も言わなかった。少し困ったので訊いてみた。
「もう吹かないの?」
「あなたが私に何か用があるのかと思ったのよ」
「それ、なんていう曲なの?」
「エンリケ・グラナドスの『十二の舞曲』から『アンダルーサ』またの名を『祈り』」
その人は、どこか東洋から来たみたいだった。少しつり上がった目。ビー玉のように透明だった。上手に話しているけれど発音が外国人だ。
「あなたの国の音楽なの?」
「まさか。私は日本から来たの。これはスペイン人の曲よ」
「スペインも日本も外国ってことしかわからない。この街の外は知らないの」
女の人は、そっと乗り出して地面に指で地図を描いた。
「これがイタリア。あなたがいるのはここ、リオマッジョーレ。そして、これがスペイン。アンダルシアはこのへん」
あたしは身を乗り出した。そしたら、彼女はふっと笑って、少し優しい表情になった。
「遠くに行ってみたい?」
あたしは小さく頷いた。
「うん。行ってみたい。あなたはいろいろな国に行ったことがあるの?」
「ええ。旅して暮らしているの」
「本当に? どうやって?」
「これを吹いて。私は大道芸人なの」
「どうして誰もいない所で吹いているの?」
彼女は少しムッとしたように口をゆがめ、それから一度上の方を見てからあたしに視線を戻して白状した。
「練習しているの。上手く吹けなくて仲間に指摘されて悔しかったの。絶対に今日中にものにするんだから」
そういって、もう一度フルートを構えた。あたしは頷いて、階段に腰掛けた。先ほどのメロディーが、もう一度始めから流れてきた。どこがダメなのかなあ。こんなに綺麗なのに。
「あ、いたいた。パピヨン、探しましたよ」
声に振り向くと、もじゃもじゃ頭で眼鏡をかけた男の人が階段から降りて来た。彼女は返事もしないでフルートを吹き続けた。この人と喧嘩したの? 男の人はまいったな、というようにあたしの方を見て肩をすくめた。優しいお兄さんみたい。
キリのいいところにきたら、パピヨンと呼ばれた女の人はフルートを離してお兄さんの方を振り向いた。
「探して来いって言われたの、ブラン・ベック」
「いいえ。テデスコはヤスと楽譜の解釈でやりあっていて、僕ヒマだったんで」
「そう。私、このお嬢さんと一緒に広場に行って、ちょっと稼ぐ所を見せてあげようと思うんだけれど、あなたも来る? 道具持っている?」
「え、はい。カードだけですけれどね」
あたしはすっかり嬉しくなった。二人を連れて駅前の通りに連れて行った。このリオマッジョーレがチンクェ・テッレで一番大きい町といっても、人通りが多いのはここしかないから。
「パピヨン、ブラン・ベック、こっちにきて。あ、あたしの名前はパオラよ」
彼が戸惑った顔をした。一瞬、目を丸くさせた彼女はすぐに笑い出した。
「どうしたの?」
そう訊くと、彼が頭をかきながら説明してくれた。
「それ、僕の名前じゃないんだ。たよりないヤツっていう意味のあだ名なんだよ。僕はレネ。それから、この人は蝶子」
ふ~ん。本当に頼りない感じだけれどなあ。蝶子お姉さんよりもたどたどしいイタリア語だし。でも、レネお兄さんって呼ぶ方がいいんだね。
駅前通りにはギターを弾いている東洋人とパントマイムをしている金髪の人がいた。レネお兄さんが「あ」と言って、蝶子お姉さんはぷいっと横を向いた。でも、ギターを弾いていた人が、来い来いと手招きしたら、二人ともまっすぐそちらに歩いていった。
ギターが伴奏を始めると、蝶子お姉さんは躊躇せずにフルートを構え、あの曲を吹いた。海の香りがする。太陽の光がキラキラしている。この海の向こうにスペインがあって、アンダルシアもある。心が逸る。まだ行ったことのない所。お母さんの顔色を見ながら、この迷路みたいな町で生きなくてもいいのなら、あたしも旅をする人生を送りたいな。
人びとは足を止めて四人の演技を見ていた。ギターとフルート、カードの手品に、銅像のように佇むパントマイム、誰と喧嘩したのかわからないし、蝶子お姉さんのフルートのどこがまずかったのかもわからない。あたしには何もかも素敵に見える。周りの観光客たちや、町のおじさんたちもそう思ったみたいで、みな次々とお金を入れていった。
その曲が終わると、みんなは大きな拍手をした。コインもたくさん投げられた。
「よくなったじゃないか」
座ってポーズをとったままの金髪の男の人がぼそっと言ったら、蝶子お姉さんは、つかつかと歩み寄ると、その人の頭をばしっと叩いた。ギターのお兄さんとレネお兄さんはゲラゲラ笑った。
暗くなったので、観光客はひとりまた一人と減った。ギターのお兄さんが立ってお金の入ったギターの箱をバタンと閉じると、他の三人も芸を披露するのをやめた。残っていた観客は最後に拍手をしてからバラバラと立ち去った。
「どうやったら大道芸人になれるの?」
あたしはペットボトルから水を飲んでいる蝶子お姉さんに訊いた。彼女はもう少しで水を吹き出す所だった。げんこつで胸元を叩いてから答えた。
「なるのはそんなに難しくないけれど、憧れの職業としてはちょっと志が低くない?」
「あたし、自由になりたいの。いつ帰ってくるかわからないお母さんに頼って生きる生活、こりごりなの」
叫ぶみたいに、一氣に言葉が出てしまった。
それを聞いて、蝶子お姉さんはじっとあたしを見た。それからしゃがんで、あたしと同じ目の高さになって、あたしの頭を撫でながら言った。
「大丈夫よ。大人になるまではあっという間だから。それまでに、一人で生きられるだけの力を身につけなくちゃね。学校で勉強したり、スポーツを頑張ったり、いろいろな可能性を試してご覧なさい。どうやったら一番早く独り立ちできるか、何を人生の職業にしたいか、真剣に考えるのよ」
「お前、やけに熱入ってんだな」
ギターを弾いていたお兄さんが言った。蝶子お姉さんは振り向いて言った。
「だって、私の小さいときと同じなんだもの」
あたしは大きく頷いた。蝶子お姉さんがあたしと同じようだったと言うなら、あたしも大きくなったらこんな風に強くて素敵になれるのかもしれない。お姉さんはあの曲は『祈り』ともいうんだって言った。だったら、あたしは新しい祈りを加えることにした。早く強くて素敵な女性になれますように。
「それはそうと、そろそろ飯を食いにいくか」
ギターのお兄さんが言った。
「パオラ、お家は遠いの?」
蝶子お姉さんが訊いた。あたしは首を振って、それから下を向いた。
「どうしたのかい?」
レネお兄さんがかがんで訊いた。
「誰も帰って来ないし、食べるものもないもの」
四人は顔を見合わせた。
「お家の人、いないの?」
あたしはその通りの外れにある、お母さんがいるお店を指差した。
「お母さん、男の人と一緒だから、帰りたくないんだと思う」
蝶子お姉さんは黙って、お店に入っていったが、しばらくすると出てきた。
「この隣のお店で食べましょう。パオラ、一緒にいらっしゃい」
隣は、ジュゼッペおじさんの食堂だ。美味しい魚を食べられる。ときどき残りものを包んでくれる優しいおじさんだ。お母さんは、お店の扉からちらっと顔を出して、ジュゼッペおじさんとあたしをちらっと見た。
「遅くならずに帰るのよ」
それだけ言うと、またお店に入ってしまった。
ギターのお兄さんが言った。
「パオラ、好きなものを頼みな。腹一杯食っていいんだぞ。それから、俺は稔って言うんだけどな。こっちはヴィル」
そういって、水をコップに汲んでくれている金髪のお兄さんを指差した。
あたしは嬉しくなってカジキマグロを注文した。蝶子お姉さんが大笑いした。
「好物まで一緒なのね。私にもそれをお願い、それとリグーリア産のワイン」
「ヴェルメンティーノの白があるぞ。これにするか」
ヴィルお兄さんが言うと蝶子お姉さんはとても素敵に笑った。あれ、仲が悪いんじゃないんだぁ。
四人はグラスを合わせる時にあたしの顔を見て「サルーテ(君の健康に)!」と言ってくれた。あたしはカジキマグロを食べながら、こんなに楽しいことがあるなら、大人になるまで頑張って生きるのも悪くないなと思った。
(初出:2014年1月 書き下ろし)
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さて、描いていただいたのは、当ブログの一応看板小説となっている「大道芸人たち Artistas callejeros」のヒロインです。黄昏の中で少女と出会ったシーンからはすぐに物語が生まれて来ますよね。で、これにインスパイアされた掌編を書きました。舞台はどこでもいいということでしたので、私の好きなチンクェ・テッレにしてみました。例によって、出てきた音楽の方は、追記にて。
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そう言ったお母さんは、また違う人の首に腕を絡ませていた。お店は昼でも暗い。外にはキビキビと歩く観光客や、ランニングシャツ姿で魚を運ぶおじさんがいて、リンゴの値段をめぐって誰かが怒鳴りあっている。海に反射する光が眩しいし、カラフルな壁が明るくて、生き生きとしている。なのに、お母さんのいるお店だけは、みんなノロノロと動き、光から顔を背けていた。
お母さんは菓子パンを二つ手渡した。遅いお昼ご飯、もしくは晩ご飯を作ってくれるためにアパートに帰るつもりはないんだなと思った。角を曲がるまでにひとつ食べて、波止場で舟を見ながら二つ目を食べ終えた。あたしは海に手を浸して、ベトベトを洗った。おしまい。スカートで手を拭うと、冒険に出かけた。こっちの道はアパートに少しでも遠いかな。
ぐちゃぐちゃの部屋は湿っていて居心地が悪い。冷蔵庫の牛乳は腐っていたし、わずかなパンはひからびて崩れてしまった。それに、ワインの瓶が倒れていたせいであたしのお人形は紫色になってしまった。あの部屋に、いつもひとり。永遠に思える退屈な時間。あたしが神様にお願いするのはたったひとつ。早く大人になれますように。そうすればあそこに帰らなくていいもの。
一日はゆっくりと終わりに向かっていて、壁の色は少しずつ暖かい色に染まりだしている。その路地は少し寂しかった。騒がしい街から切り離されたようにぽつんと存在していて、奥に階段が見えた。甲高い楽器の音がしている。あ、あの人だ。階段に腰掛けて、フルートを吹いている女の人。速くて少し切ない曲だ。
目を閉じて、一心不乱に吹いている。黒い髪が音色に合わせて、ゆらゆらと揺れた。あたしが近づいてじっと見ていると、その人はふと目を上げた。それから、口から楽器を離してちらっとこちらを見た。彼女もあたしもしばらく何も言わなかった。少し困ったので訊いてみた。
「もう吹かないの?」
「あなたが私に何か用があるのかと思ったのよ」
「それ、なんていう曲なの?」
「エンリケ・グラナドスの『十二の舞曲』から『アンダルーサ』またの名を『祈り』」
その人は、どこか東洋から来たみたいだった。少しつり上がった目。ビー玉のように透明だった。上手に話しているけれど発音が外国人だ。
「あなたの国の音楽なの?」
「まさか。私は日本から来たの。これはスペイン人の曲よ」
「スペインも日本も外国ってことしかわからない。この街の外は知らないの」
女の人は、そっと乗り出して地面に指で地図を描いた。
「これがイタリア。あなたがいるのはここ、リオマッジョーレ。そして、これがスペイン。アンダルシアはこのへん」
あたしは身を乗り出した。そしたら、彼女はふっと笑って、少し優しい表情になった。
「遠くに行ってみたい?」
あたしは小さく頷いた。
「うん。行ってみたい。あなたはいろいろな国に行ったことがあるの?」
「ええ。旅して暮らしているの」
「本当に? どうやって?」
「これを吹いて。私は大道芸人なの」
「どうして誰もいない所で吹いているの?」
彼女は少しムッとしたように口をゆがめ、それから一度上の方を見てからあたしに視線を戻して白状した。
「練習しているの。上手く吹けなくて仲間に指摘されて悔しかったの。絶対に今日中にものにするんだから」
そういって、もう一度フルートを構えた。あたしは頷いて、階段に腰掛けた。先ほどのメロディーが、もう一度始めから流れてきた。どこがダメなのかなあ。こんなに綺麗なのに。
「あ、いたいた。パピヨン、探しましたよ」
声に振り向くと、もじゃもじゃ頭で眼鏡をかけた男の人が階段から降りて来た。彼女は返事もしないでフルートを吹き続けた。この人と喧嘩したの? 男の人はまいったな、というようにあたしの方を見て肩をすくめた。優しいお兄さんみたい。
キリのいいところにきたら、パピヨンと呼ばれた女の人はフルートを離してお兄さんの方を振り向いた。
「探して来いって言われたの、ブラン・ベック」
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「え、はい。カードだけですけれどね」
あたしはすっかり嬉しくなった。二人を連れて駅前の通りに連れて行った。このリオマッジョーレがチンクェ・テッレで一番大きい町といっても、人通りが多いのはここしかないから。
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「どうしたの?」
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ふ~ん。本当に頼りない感じだけれどなあ。蝶子お姉さんよりもたどたどしいイタリア語だし。でも、レネお兄さんって呼ぶ方がいいんだね。
駅前通りにはギターを弾いている東洋人とパントマイムをしている金髪の人がいた。レネお兄さんが「あ」と言って、蝶子お姉さんはぷいっと横を向いた。でも、ギターを弾いていた人が、来い来いと手招きしたら、二人ともまっすぐそちらに歩いていった。
ギターが伴奏を始めると、蝶子お姉さんは躊躇せずにフルートを構え、あの曲を吹いた。海の香りがする。太陽の光がキラキラしている。この海の向こうにスペインがあって、アンダルシアもある。心が逸る。まだ行ったことのない所。お母さんの顔色を見ながら、この迷路みたいな町で生きなくてもいいのなら、あたしも旅をする人生を送りたいな。
人びとは足を止めて四人の演技を見ていた。ギターとフルート、カードの手品に、銅像のように佇むパントマイム、誰と喧嘩したのかわからないし、蝶子お姉さんのフルートのどこがまずかったのかもわからない。あたしには何もかも素敵に見える。周りの観光客たちや、町のおじさんたちもそう思ったみたいで、みな次々とお金を入れていった。
その曲が終わると、みんなは大きな拍手をした。コインもたくさん投げられた。
「よくなったじゃないか」
座ってポーズをとったままの金髪の男の人がぼそっと言ったら、蝶子お姉さんは、つかつかと歩み寄ると、その人の頭をばしっと叩いた。ギターのお兄さんとレネお兄さんはゲラゲラ笑った。
暗くなったので、観光客はひとりまた一人と減った。ギターのお兄さんが立ってお金の入ったギターの箱をバタンと閉じると、他の三人も芸を披露するのをやめた。残っていた観客は最後に拍手をしてからバラバラと立ち去った。
「どうやったら大道芸人になれるの?」
あたしはペットボトルから水を飲んでいる蝶子お姉さんに訊いた。彼女はもう少しで水を吹き出す所だった。げんこつで胸元を叩いてから答えた。
「なるのはそんなに難しくないけれど、憧れの職業としてはちょっと志が低くない?」
「あたし、自由になりたいの。いつ帰ってくるかわからないお母さんに頼って生きる生活、こりごりなの」
叫ぶみたいに、一氣に言葉が出てしまった。
それを聞いて、蝶子お姉さんはじっとあたしを見た。それからしゃがんで、あたしと同じ目の高さになって、あたしの頭を撫でながら言った。
「大丈夫よ。大人になるまではあっという間だから。それまでに、一人で生きられるだけの力を身につけなくちゃね。学校で勉強したり、スポーツを頑張ったり、いろいろな可能性を試してご覧なさい。どうやったら一番早く独り立ちできるか、何を人生の職業にしたいか、真剣に考えるのよ」
「お前、やけに熱入ってんだな」
ギターを弾いていたお兄さんが言った。蝶子お姉さんは振り向いて言った。
「だって、私の小さいときと同じなんだもの」
あたしは大きく頷いた。蝶子お姉さんがあたしと同じようだったと言うなら、あたしも大きくなったらこんな風に強くて素敵になれるのかもしれない。お姉さんはあの曲は『祈り』ともいうんだって言った。だったら、あたしは新しい祈りを加えることにした。早く強くて素敵な女性になれますように。
「それはそうと、そろそろ飯を食いにいくか」
ギターのお兄さんが言った。
「パオラ、お家は遠いの?」
蝶子お姉さんが訊いた。あたしは首を振って、それから下を向いた。
「どうしたのかい?」
レネお兄さんがかがんで訊いた。
「誰も帰って来ないし、食べるものもないもの」
四人は顔を見合わせた。
「お家の人、いないの?」
あたしはその通りの外れにある、お母さんがいるお店を指差した。
「お母さん、男の人と一緒だから、帰りたくないんだと思う」
蝶子お姉さんは黙って、お店に入っていったが、しばらくすると出てきた。
「この隣のお店で食べましょう。パオラ、一緒にいらっしゃい」
隣は、ジュゼッペおじさんの食堂だ。美味しい魚を食べられる。ときどき残りものを包んでくれる優しいおじさんだ。お母さんは、お店の扉からちらっと顔を出して、ジュゼッペおじさんとあたしをちらっと見た。
「遅くならずに帰るのよ」
それだけ言うと、またお店に入ってしまった。
ギターのお兄さんが言った。
「パオラ、好きなものを頼みな。腹一杯食っていいんだぞ。それから、俺は稔って言うんだけどな。こっちはヴィル」
そういって、水をコップに汲んでくれている金髪のお兄さんを指差した。
あたしは嬉しくなってカジキマグロを注文した。蝶子お姉さんが大笑いした。
「好物まで一緒なのね。私にもそれをお願い、それとリグーリア産のワイン」
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ヴィルお兄さんが言うと蝶子お姉さんはとても素敵に笑った。あれ、仲が悪いんじゃないんだぁ。
四人はグラスを合わせる時にあたしの顔を見て「サルーテ(君の健康に)!」と言ってくれた。あたしはカジキマグロを食べながら、こんなに楽しいことがあるなら、大人になるまで頑張って生きるのも悪くないなと思った。
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【小説】彼と彼女と赤い背表紙と — 『息子へ』二次創作
「scriviamo! 2014」の第四弾です。ヒロハルさんは、息子さんに伝えたい人生を歩むための灯火、掌編集『息子へ』で参加してくださいました。ありがとうございます!
ヒロハルさんの書いてくださった掌編「『息子へ』 其の三 自分のお宝を鑑定したくなったら」
ヒロハルさんはわりと最近お知り合いになったブロガーさんです。普段は、よき旦那さま、そして目に入れても痛くない息子さんのパパ。ブログではたくさんの小説を発表なさっていらっしゃいます。いくつか読ませていただいた作品には、暖かいお人柄がにじみ出て、等身大の人物に共感することが多いです。そして男性心理を研究中の私には、とても参考になります。
さて、お返しの掌編ですが、ヒロハルさんの作品の主人公と出てきた少女をお借りして二次創作しました。ただし、設定を壊さないように、もう一人関係キャラを作りその人物視点の話になっています。「宝の価値を誰かに決めてもらう必要はない」という、ヒロハルさんの息子さんへの教訓ともちょっとリンクする内容になっているかな……?
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彼と彼女と赤い背表紙と —『息子へ』二次創作
——Special thanks to Hiroharu-san
城戸朋美はきれいな少女だった。肌が白くて、まつげが長く、シャンプーのコマーシャルにちょうどいいような綺麗な黒い直毛。柔らかい焦げ茶色の瞳だけがいたずらっ子のように煌めいていた。静かで大人しい優しい子だったけれど、芯があって曲がったことが嫌いだった。高校三年生になった時のクラス替えで、同じ五組になった時は、私は朋美のことを知らなかった。最初の席順で隣になったのは、私が木下姓だったから。
友達になりたい、自分から強く思ったのは生まれてはじめてだった。教科書を開いて、すっと背中を伸ばしている姿、それとも、エネルギーを持て余して騒ぐ同級生を少し眩しそうに眺める瞳、その高潔な佇まいに私は魅せられた。ひと言も口をきかないうちに、私はこの少女に憧れを抱いてしまったのだ。
「わあ、かわいいお弁当ね。炒り卵の菜の花と、でんぶの桜の樹ね!」
お弁当の時間に、私はそんな風に話しかけた。自分で作ったのと訊くと、朋美は静かに微笑んだ。完璧。理想の美少女! 絶対に友達になろうと思った。そして、それはそんなに難しいことではなかった。隣の席だったし、二日くらい一緒にお弁当を食べているうちに、いつも一緒に行動する友達グループというのはなんとなく決まる。私は前からの友達のグループにさりげなく朋美を入れて、卒業するまでの一年間、同じ仲良しグループで居続けることに成功した。
そして、卒業しても時には彼女の家に行ってお喋りするくらいに、仲のいい友達ポジションにおさまったのだ。それは柔らかい光が射し込む穏やかな午後で、私たちは進路は別れたものの、お互いの未来について希望を持って語り合っていた。私は大好物のシューアイスを十個持っていったのだけれど、朋美のお母さんが買い物から帰ってきた時には六個に減っていた。
「こんにちは、佳代ちゃん。お祝いを言っていなかったわね、おめでとう、晴れて大学生ね」
「お邪魔しています。ありがとうございます」
「どこか遠くに行くって朋美が言っていたわね。どこなの?」
「仙台です。はじめての一人暮らしだから、親は心配しています」
「大丈夫よ。佳代ちゃんはしっかりしているもの」
朋美はそういってくれたけれど、私は遠くに一人で行くのが少し不安だった。親元を離れて、知らない土地で、朋美みたいに何でも話せる友達もいなくなって、やっていけるのかって。
朋美のお母さんは、娘そっくりの柔和な笑顔を見せて、娘の意見を後押ししてから「ごゆっくり」といって出て行こうとした。
「あ、忘れる所だった。朋美、これが届いていたわ」
そういって朋美に白い封筒を渡した。
綺麗な字で書かれた表書きを朋美は訝しげに見て、それから裏をひっくり返した。首を傾げているので、私は覗き込んだ。そして、その名前を見てどきっとした。それから努めて明るい声で言った。
「ああ、ヒロハル君だあ。朋美、これ、ラブレターだよ、きっと!」
朋美はびっくりしたように私を見た。
「佳代ちゃん、この人知っているの?」
もちろん知っていた。それは一年の時に私がヒロハル君と同じクラスにいたからだけではない。来たるべきものが来たのだ。ようやく。
朋美に崇拝者がいることを知っていたのは、私だけだったかもしれない。六組のヒロハル君に氣がついたのは夏だった。よく遠くから眺めていた。最初は偶然かなと思ったけれど、逢う度に立ち止まってこちらを見ているので、なんだろうなと思った。視線の先には朋美がいたので、私にはピンと来た。君、なかなかいい趣味をしているね、最初はそんな感じで秘かに応援していたのだ。
でも、ヒロハル君は全く行動を起こさなかった。何をやっているんだろう。朋美はヒロハル君の存在に氣付いた様子はない。夏祭り過ぎちゃったよ。もう秋だよ。文化祭も終わっちゃったよ。受験になっちゃうよ。そんな風に私はヤキモキしていた。誰にも言わずに。
何も言えないでいるヒロハル君のことをずっと見ていた。私も卒業したら離れていってしまう朋美を失いたくないと不安に思っていた。だから、それは一種の共感で、勝手に彼のきもちになってドキドキしたり、悲しんでいたりした。切ないバランスを欠いた心で逆観察していたのが、いつの間にか私自身にとってヒロハル君が特別な人になってしまった。
それに氣がついたのは、十二月だった。きっかけを逃して残ってしまった最後のイチョウの葉がひらひらと、弱まった陽射しの間を舞っていた。私は一人校門に向かって歩いていた。自転車置き場が遠くに見えた。赤い自転車に近づく朋美が遠くに見えた。そして、その近くにヒロハル君がいるのが見えた。彼が朋美の方に向き直っていた。私は息を飲んだ。だめ、言わないで……。
応援していたはずだったのに。胃の所にきゅうっとねじれるような感覚があった。それで私は思い知ったのだ。
もし、ヒロハル君が告白して、朋美がOKしたら……。二人がつき合うようになったら……。ヒロハル君は幸せで、朋美も幸せだろうけれど、私はこれまでのように朋美のことを大好きでいられるかな……。
だから、朋美がいつまでも氣付かないことを、ヒロハル君が勇氣を持たないでくれることを願っていた。そして、その時ヒロハル君が朋美に話しかけなかったから、その後も卒業式まで何もなかったから、安心していた。
でも、来たるべきときは来たんだね。白い封筒を見て思った。不自然にならないように頑張ったけれど、少し声が裏返って震えていたかもしれない。
朋美は黙って立つと、封筒をデスクの引き出しにしまった。
「読まないの?」
私が訊くと、小さく首を振って「後で」と言った。そう、朋美はそういう子なのだ。たとえ知らない人でも、丁寧に書かれた手紙を第三者の前で開封して内容を漏らしたりなんかしない。それで私は手紙が予想通りの内容だったか、ましてや朋美がどんな返事したかをも知ることが出来ず、つまり自分か失恋したかどうかもわからないまま仙台に旅立つことになったのだ。
私は高校の卒業アルバムを引っ越しの荷物に入れた。朋美と私の写真、ヒロハル君の緊張した顔、それに住所が載っている。彼が朋美にそうしたように、私も手紙を送ることが出来る。だから……。
でも、私は送らなかった。数年経って、朋美とヒロハル君がつき合わなかったことを知ってからも、私は何もしなかった。ヒロハル君の好みをよく知っていたから、告白するのは恥をかくだけみたいに思えたし、それに時間が経ってしまってからは、想いも薄れてしまったのだ。大学生活では新しい友だちができた。朋美のように秘かに憧れる人は他にはいなかったけれど、生涯つきあっていけるいい友達が何人もできた。それから就職して、恋もして、結婚もした。朋美との友情は、高校の時ほど密ではないけれど、ずっと続いている。
「なあ、佳代、小学校のも中学校のも大学の卒業アルバムも全部処分したくせに、なぜこれだけとっておくんだ?」
夫が年末の大掃除の時に訊いた。
「朋美の写真や住所が入っているもの」
「だって、朋美ちゃんは結婚して引越したし、今だってしょっちゅう逢っていていくらでも写真持っているじゃないか」
私にもわからない。ヒロハル君のことを今でも好きなわけではない。それにこの住所だって、もう有効ではないだろう。彼が振り絞った勇氣すら持たなかった私のノスタルジーは夫に説明してもわかってもらえないだろう。むしろ面倒を引き起こすだけだ。でも、私はこの卒業アルバムを処分したりはしない。
朋美はヒロハル君の手紙になんて返事をしたか言わなかったし、私も彼に対して持っていた想いのことだけは言ったことがない。もしかしたら朋美が何もかも知っていたのかもしれないと思うこともある。今となっては、笑い話にしてしまえるほど他愛もないことだけれども、当時の私たちにとってはどんな小さなことも神聖だったのだ。だから、私はこの話をずっと心の宝箱にしまっておくつもり。
朋美も私も、普通の大人になってしまった。変わってしまった。別に悪くなったわけではないけれど、純粋で無垢だったあの時代は今でも眩しくて愛おしい。赤いアルバムの背表紙に触れながら、私はどこか遠くにいるはずの彼の幸せを願った。
(初出:2014年1月 書き下ろし)
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「最愛オリキャラバトン」ですって
で、例によってTOM-Fさんがやっていて、左紀さんもやっていたバトンを頂戴して来ました。自分の所の最愛のオリキャラの紹介をせよというバトンです。誰でやろうか悩んだんですが、「最愛」というからには、この人(たち)で。「大道芸人たち Artistas callejeros」と並んで勝手に私が代表作だと思っている「樋水龍神縁起」の主人公です。実はこのブログではなくて、別館に隔離してあります。官能的表現が入っているため十八禁なので。ただ、官能小説ではありませんし、大した表現でもありませんので、それを期待して読まれるとつまらないかと思います。もちろんこのバトンは、十八禁ではありませんのでご安心ください。では、はじめます。

■最愛オリキャラバトン■
- 1.あなたの中で最愛のオリキャラを教えて下さい。性別と年齢、身長などもどうぞ!(複数可)
- いろいろいるんですが、最愛でしかもあまりご紹介していないキャラということで
『樋水龍神縁起』の主人公の新堂朗、前世として安達春昌をご紹介します。
性別はどちらも男性です。年齢ですか。ええと春昌は享年38歳、朗は享年(?)48歳です。この間は千年と話長いんで途中は省略です。
朗は身長は172cm。私にしては外見をものすごく細かく設定しています。以下は大学生のときの朗と初めて会った峯岸宮司による印象です。短く刈られた黒髪は剛そうだった。意志の強そうな下三白眼が濃いめの眉の下でじっとみつめる。まっすぐな鼻梁のはじめにわずかに隆起した剣鼻は意志の強さを示していたが、口の両端がわずかに上がりその湾曲が親しみやすかった。
背が高く引き締まった体の線は革のスーツで魅力的に見え、大学ではさぞもてるに違いないと思った。その一方で、うかつには近寄りがたい不思議な雰囲氣を持った青年だった。
肉体的な若さと精神的な落ち着きが同居している。自分の欲していることは全て理解している、そんな印象だ。少し切れ者過ぎる感じもした。今どきの大学生にはなかなかいないタイプだった。
しかし、朗はきわめて礼儀正しく挨拶をした。一方でたくさん語ることは苦手のようで、早々に切り上げようとしているのが見て取れた。“樋水龍神縁起 - 第二部 冬、玄武”より
春昌は160cmくらいでしょうか。平安時代の男性としてはそんなに低くないと思います。
外見は、ええと、朗とはあまり似ていません。お育ちはそれほど良くないので、公家風でもありません。ただ、絶世の美女が恋に落ちる程度にはそこそこの容姿だった模様。 - 2.そのキャラの性格的な特徴などを教えて下さい
- 朗は意志と自己克己が強く、自分の人生を努力で切り拓くタイプです。事情があって千年間の間に生まれ変わった記憶を全て保持しているため普通の人よりも知識の積み重ねが大きいです。
そのため賢く立ち回ることができるため切れ者とみなされています。多くは語りませんが、断定的なもののいい方、さらに多少古風な言葉遣いをするため、対話しているものは何となく反論がしにくくなってしまいます。
また、途中の生まれ変わりの時には全くありませんでしたが、安達春昌時代と新堂朗として生まれた時には、他の人間には見えないものが「見える者」で、さらに憑き物などを祓うことができます。
春昌は、若いころに「見える」能力を認められて陰陽寮に入りますが、生まれが低く後ろ盾がなかったために実力に似合う出世ができず、焦っていました。
能力を鼻にかけた傲慢さと、生まれの低さのコンプレックスがかなりこじれた性格にしました。そのわりに後先考えずに行動する浅薄なところもあり、千年にわたり罰を受けることになってしまいます。 - 3.そのキャラの血液型を教えて下さい
- 朗はAB型でしょう。安達春昌はO型かも。
- 4.そのキャラができた過程は?
- これ、言いたくなかったんですけれど。
もともとの妄想の始まりはとある歴史上の人物を使った有名小説でした。「春昌」の音でおわかりですよね。
で、母親がDVDをスイスに持ってきたので映画も観たんですけれど、なんかBLっぽくって嫌だったんですよ。あ、反BLって言うわけじゃないんですよ。単に主人公を演じる狂言師の所作などがすごく氣にいったのに、わざとBL好きに媚びているような作りばかりが目について納得がいかなかったのです。「ああいうんじゃなくて〜」と思いはじめるとですね、勝手に動き出しちゃうんですよ、私の場合。
そのうちに全然違う話と風貌の人物が生まれて来てしまい、いつの間にか全く関係のないオリジナルの話になったというわけです。
で、名前と職業だけがわずかに残っているわけです。もはや完全に別人だからどうでもいいんですけれど。 - 5.そのキャラの妄想段階と完成段階で大きく異なった点はありますか?
- まあ、いろいろありますが、なんといってもラストです。妄想の段階では、主人公は人間としてのハッピーエンドになるはずだったんですが。
ラストを変えないとダメだと決心したとき、冗談抜きで泣きました。(おいおい)
ちなみに龍王の設定は小説完成まで変わりませんでしたが、後に座談会やバトンでキャラ崩壊しました(笑) - 6.あなたにとってそのオリキャラが最愛である理由は?
- ええと。恥ずかしいけれど、朗みたいな人が理想なんです。現実の連れ合いとは似ても似つかないな。おかしいな。
- 7.そのキャラで気をつけている点はありますか?(幅広く)
- もう完結しちゃったので、何も。書いていた時には、そうですね。好きだからといって美化しすぎないようにしていました。あと、女の私が彼に限らず男を書く時には、女っぽくならないように頑張りましたが……。
- 8.そのキャラの好きな食べ物、普段の趣味は何ですか?
- サントリーのウィスキー山崎。摩利子の作るおつまみも好きらしい。普段は甘いものを食べないが、妻のゆりの作ったヴァレンタインのケーキはさりげなく二切れ食べていました。
趣味? ああ、バイク。Kawasakiの750ccに乗っています。
あ、春昌を忘れていた。鮎や柿が好きかも。趣味ね。滅多に京都から出られないのですが、お仕事で遠出をするのが好きだった模様。こちらは馬で駆けるのが好きです。 - 9.そのキャラの持つコンプレックスはありますか?(または忌まわしい過去)
- 春昌はコンプレックスの固まりでした。生まれが低くて、能力はあり努力するのに認められないと、良家の子息を妬みまくっていました。
そして、恋に落ちた樋水龍王神社の媛巫女瑠璃を盗んで死なせてしまってからは、千年にわたりその罪の意識に苦しめられることになりました。
朗は当然それを引きずっていますが、それよりも強いのは龍王に対する半負い目、半反逆心ですね。 - 10.そのキャラの特技と必殺技は何ですか?
- 二人ともおなじですが、いわゆる悪霊を祓うことができます。『氣剣の法』という呪法を用います。
いちおう陰陽師なんで、その辺のこと全般もできます。ちなみに朗の最後の職業は禰宜です。 - 11.そのキャラの寝相は良さそうですか?
- 朗はもちろんいいです。寝ていようが隙のないのが彼。春昌は、あまりよくないかも。瑠璃媛を蹴っ飛ばしたか?
- 12.そのキャラの好きな異性、または同性のタイプは?
- 春昌は瑠璃媛に一目惚れしたのだから面食いです。朗はめだたないゆり(瑠璃媛とゆりも生まれ変わりの同一人物です)と結ばれましたが、もともとは派手な美人とよくつき合っていた模様。
- 13.そのキャラが持つ「恋愛」に対する理想はありますか?
- 理想っていうか、千年にわたる因縁ですね。でも、瑠璃媛と春昌、ゆりと朗の因縁は龍王の差金かもしれないです。
- 14.そのキャラが結婚するとしたら何歳くらいになりそうですか?
- 春昌はいろいろな女房の所に通っておりましたが、正式な結婚はしないまま亡くなりました。
朗は37歳でゆりと結婚しています。(もはやネタバレもへったくれもないな) - 15.そのキャラの萌えポイントはどこ?または何?
- 朗は隙のない所。春昌は、う〜ん、私は萌えないけれど、苦悩する所かな? この人のことは、後日、何か書く氣でいるのでその時にもうちょっと魅力的にしてやらないとな〜。
- 16.もし現実にそのキャラが現れたらお願いしたいことは何?
- 春昌には「もう少し考えてから行動した方がいいと思うよ」と。
朗は、ええと、「一度一緒に飲みに連れて行ってください」かな。 - 17.出てきたオリキャラがあなたを見て思った第一印象は?
- う〜ん。私のことなんか目に入らないだろうな。どっちも。
- 18.オリキャラがあなたに一言!
- 春昌「君、煩悩が多いね」
- 19.オリキャラにこれだけはして欲しくないことは何?
- う〜ん。朗なら何をしてもカッコ良く見えちゃうような……。ああ、上司(タヌキ宮司や龍王)におべっかを使う所は見たくないかも。
春昌は、何をしてもいいよ。もともとカッコいいキャラじゃないし。(同一人物なのにこの差は) - 20.オリキャラに一言!
- ええと、ご希望に添えなくてすみませんでした。
- 21.最愛オリキャラを持つ人にバトンを回して下さい。
- よくわからないけれど、きっと彩洋さんはやってくれるに違いない。っていうか、もう既に準備中と見ました。まだでやってみたい方はご自由にどうぞ。
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【小説】リナ姉ちゃんのいた頃 -6- Featuring『ハロー ハロー ブループラネット』
「scriviamo! 2014」の第三弾です。ウゾさんは、うちのオリキャラ、リナ・グレーディクを「いかれた兄ちゃん」シリーズにラジオ出演させてくださいました。ありがとうございます!
ウゾさんの書いてくださった掌編『ハロー ハロー 乳製品の国よりスパイシーを込めて』
ウゾさんは中学生のブロガーさんなんですが、とてもそうは思えない深い掌編と異様な博識さで有名なお方です。この企画にも二年連続で参加くださっている他、普段からいろいろとお世話になっています。
お返しの掌編でも「いかれた兄ちゃん」に登場いただいていますが、この兄ちゃんの魅力はなんとしてでもウゾさんのブログで「ハロー ハロー」のシリーズで真の姿を読んでみてくださいね。
そして、「そもそもリナ・グレーディクって誰?」って方のために。「リナ姉ちゃんのいた頃」シリーズは、もともとウゾさんのリクエストから生まれた作品です。スイスからの交換留学生、リナ・グレーディクが突然ホームスティすることになった家の三男、中学生の遊佐三貴が右往左往する比較文化小説です。
「scriviamo! 2014」について
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リナ姉ちゃんのいた頃 -6-
Featuring『ハロー ハロー ブループラネット』
——Special thanks to Uzo-san
日本に来る交換留学生なんて、そんなに珍しい存在じゃないと思う。もちろん我が家にとっては青天の霹靂だったけれど。父さんが言うには、斉藤専務はこれまでに五人くらいの交換留学生をホームステイさせていたんだって。奥さんが高校生の時にアメリカに交換留学に行ってすごく楽しい滞在をしたんだって。だから少しでもお返しをしたくって、日本にはホームステイの受け入れ先が少ないからって率先して協力をしていたそう。そして、リナ姉ちゃんの名付け親ととても親しかったから、姉ちゃんが来るのを楽しみにしていたらしい。ところが姉ちゃんが来る直前になって、奥さんが入院することになり、急遽新たな受け入れ先として白羽の矢が立ったのが、部下である父さんだったんだそう。
リナ姉ちゃんの故郷はスイスのグラウビュンデン州、カンポ・ルドゥンツ村。人口2000人しかいなくて、牛や山羊が道端を歩いているような所らしい。そんな田舎にも日本からの交換留学生がいたんだって。だから、この1300万人も人の住んでいる東京に、いや、1億2700万の人口のこの日本にどれだけ交換留学生が来ているか、想像もつかない。
それなのに、なんで姉ちゃんがその代表としてラジオ局に招ばれるの?
姉ちゃんは朝から大騒ぎだった。例によって前夜からファッションショー。勝負服なので赤を着るんだって。その理屈はよくわからないけれど、逆三角形のシェイプがカッコいい赤地に黒でアクセントの入った革のジャケットとスカートにしたみたい。
「どうしよう。髪型が決まらない。新しいカットソー、買っておいてよかった! それにストッキング、蝶柄と孔雀の羽模様とどっちがカッコいいと思う?」
僕はため息をついてから指摘した。
「姉ちゃん。オンエアーされるって言っても、ラジオだからどんな格好をしていても視聴者には見えないよ」
「そんなこと、問題じゃないわ!」
じゃあ、どういう問題なのさ。
とにかく、僕は例によって姉ちゃんの日本語の通訳としてラジオ局まで同行することになった。いま一番クールなラジオ局「ブループラネット」に行けるんだ! 栄二兄ちゃんはものすごく羨ましそうで、僕の代わりに行きたがっていたけれど、兄ちゃんの高校で生徒会の大会があるので行けなかった。いちおう、これでも生徒会長だしと悔しそうだった。
僕は知らなかったけれど、東京にある「ブループラネット」は支局なんだって。なんで「地球支局」って書いてあるのか理解できないけれど、とにかく時間通りに僕と姉ちゃんはちょっとアバンギャルドなインテリアの建物に入っていった。リナ姉ちゃんはぶっ飛んだ性格だけれど、時間だけは厳守する。これはありがたいことだよね。
僕たちを迎えてくれた人たちは、日本人もいたけれど、外国人なんだかちょっとわかりかねるような微妙な顔立ちの人もいた。変な色のドウランを塗っている人もいたけれど、あれは何のコスプレなんだろう? 僕たちは「第一スタジオ」と日本語となんだかよくわからない記号みたいなのが書かれた部屋に連れて行かれた。ガラス越しに中で喋っている人を見ると、なんかすごいテンションだった。
「あれが今日のDJ、通称《いかれた兄ちゃん》だよ」
ディレクターが、呼びかけるのに差し障りがありそうな愛称をさらりと言った。僕はこれが冗談なのかどうか判断できなくて姉ちゃんを見たけれど、姉ちゃんはケラケラと笑っていた。いいのかなあ。
で、僕たちは音楽の間に短くDJ《いかれた兄ちゃん》と引き合わせてもらって、それからすぐにオンエアーとなった。
いつも姉ちゃんには驚かされる。絶対にあがったり、オロオロしたりしないんだね。そりゃ中学生の僕よりは年上だけれど、まだ16歳なのにどうしてこんなに肝が据わっているんだろう。
DJにどこから来たとか、なぜ日本にいるのとか話すのも堂々としている。だけど、なんで日本で一番氣にいった場所が100円ショップなんていうのかなあ。
次に姉ちゃんが話しているのは、日本人がスイスに関する話題でいつもハイジのことを持ち出すこと。うん、確かに。でもさ、姉ちゃんの住んでいるグラウビュンデン州ってハイジで有名なところじゃない。住んでいる谷は、ハイジのおじいさんの出身地だって教えてくれたじゃない。
「ヘィヘィヘィィィィ、キュートなエンジェルちゃん。視聴者から質問が来ているぜぃ。気が向いたら答えてやってくれぃベイベー」
そういってDJはFAXの紙を取り出した。
匿名希望 遊
斉藤専務ってどんな人だか知っていますか。あの人には逆らわない方がいいって噂を聞いたんですけれど、本当ですか
淡々と読み上げるDJの言葉を聞いて、僕はぎょっとした。「あの人には逆らわない方がいい」って言ったのは母さんだ。それを知っている「遊」ってまるで僕みたいじゃないか。ガラス越しだから近くには行けないけれど首を伸ばして紙を見る。げっ、あの金釘流の字は、栄二兄ちゃん! なんて質問するんだよっ。もし、斉藤専務がこの放送を聴いていたら……。いや、聴いているに決まっているじゃん! これを止めなかったら、後で父さんが専務に怒られる。そして、僕の来月のお小遣いはどうなる? 僕は必死でディレクターに食いついた。あんなことを答えさせないでって。
ディレクターは慌てて紙に、僕には全然読めない変な記号をいっぱい書いて、それをDJに振りかざした。それはなんらかの効用があったらしくDJは顔色を変えた。
「そうね。秘密と言うか。私もあまり知らないの。でもね…… そうね……」
リナ姉ちゃんが話そうとするのを彼が必死で止めている。でも、なんか変なこと言っているな。
「斉藤専務の代理人って人物から警告が送られてきた」
えええ。そんなこといったら、斉藤専務が悪者みたいに聞こえちゃうじゃない! やばい。どうしよう。
ああ、願わくは斉藤専務が腹痛でも起こしてトイレに籠っていてくれて、この放送を聴いていませんように! ダメかな。
胃が痛くなりそうな僕とは対照的にリナ姉ちゃんは終始ご機嫌だった。放送が終わってからDJとスタッフと一緒にオレンジジュースで乾杯して、出してもらったお菓子を楽しそうに食べていた。それから、ふとスタジオの片隅に積まれている「本日の提供 商品」という一角に目を向けた。僕もしょっちゅうコンビニにいくけれど、こんな変なパッケージのカレーはまだ見たことがない。ビキニ姿の小悪魔がカレーのパッケージを持っていて、そのパッケージの中にも同じ小悪魔がいて、それがずっと繰り返されるデザイン。それに相変わらず読めない記号がいっぱい。これどこの国の文字なんだろう。
でも、姉ちゃんは細かいことは氣にならないみたい。
「ねえ。このレトルトカレー、何味なの? 悪魔が笑っているけれど、そんなに辛いの? 持って帰っていい?」
「リナ姉ちゃんっ!」
「いいともさー。持ってけ、ドロボー」
DJはご機嫌だった。でもさ、姉ちゃん。いくらいいって言われたからって、50食分も持って帰るのはやめようよ。どうせ持てなくて僕に押し付けるんでしょ。
(初出:2014年1月 書き下ろし)
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「scriviamo! 2014」の第三弾です。ウゾさんは、うちのオリキャラ、リナ・グレーディクを「いかれた兄ちゃん」シリーズにラジオ出演させてくださいました。ありがとうございます!
ウゾさんの書いてくださった掌編『ハロー ハロー 乳製品の国よりスパイシーを込めて』
ウゾさんは中学生のブロガーさんなんですが、とてもそうは思えない深い掌編と異様な博識さで有名なお方です。この企画にも二年連続で参加くださっている他、普段からいろいろとお世話になっています。
お返しの掌編でも「いかれた兄ちゃん」に登場いただいていますが、この兄ちゃんの魅力はなんとしてでもウゾさんのブログで「ハロー ハロー」のシリーズで真の姿を読んでみてくださいね。
そして、「そもそもリナ・グレーディクって誰?」って方のために。「リナ姉ちゃんのいた頃」シリーズは、もともとウゾさんのリクエストから生まれた作品です。スイスからの交換留学生、リナ・グレーディクが突然ホームスティすることになった家の三男、中学生の遊佐三貴が右往左往する比較文化小説です。
「scriviamo! 2014」について
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Featuring『ハロー ハロー ブループラネット』
——Special thanks to Uzo-san
日本に来る交換留学生なんて、そんなに珍しい存在じゃないと思う。もちろん我が家にとっては青天の霹靂だったけれど。父さんが言うには、斉藤専務はこれまでに五人くらいの交換留学生をホームステイさせていたんだって。奥さんが高校生の時にアメリカに交換留学に行ってすごく楽しい滞在をしたんだって。だから少しでもお返しをしたくって、日本にはホームステイの受け入れ先が少ないからって率先して協力をしていたそう。そして、リナ姉ちゃんの名付け親ととても親しかったから、姉ちゃんが来るのを楽しみにしていたらしい。ところが姉ちゃんが来る直前になって、奥さんが入院することになり、急遽新たな受け入れ先として白羽の矢が立ったのが、部下である父さんだったんだそう。
リナ姉ちゃんの故郷はスイスのグラウビュンデン州、カンポ・ルドゥンツ村。人口2000人しかいなくて、牛や山羊が道端を歩いているような所らしい。そんな田舎にも日本からの交換留学生がいたんだって。だから、この1300万人も人の住んでいる東京に、いや、1億2700万の人口のこの日本にどれだけ交換留学生が来ているか、想像もつかない。
それなのに、なんで姉ちゃんがその代表としてラジオ局に招ばれるの?
姉ちゃんは朝から大騒ぎだった。例によって前夜からファッションショー。勝負服なので赤を着るんだって。その理屈はよくわからないけれど、逆三角形のシェイプがカッコいい赤地に黒でアクセントの入った革のジャケットとスカートにしたみたい。
「どうしよう。髪型が決まらない。新しいカットソー、買っておいてよかった! それにストッキング、蝶柄と孔雀の羽模様とどっちがカッコいいと思う?」
僕はため息をついてから指摘した。
「姉ちゃん。オンエアーされるって言っても、ラジオだからどんな格好をしていても視聴者には見えないよ」
「そんなこと、問題じゃないわ!」
じゃあ、どういう問題なのさ。
とにかく、僕は例によって姉ちゃんの日本語の通訳としてラジオ局まで同行することになった。いま一番クールなラジオ局「ブループラネット」に行けるんだ! 栄二兄ちゃんはものすごく羨ましそうで、僕の代わりに行きたがっていたけれど、兄ちゃんの高校で生徒会の大会があるので行けなかった。いちおう、これでも生徒会長だしと悔しそうだった。
僕は知らなかったけれど、東京にある「ブループラネット」は支局なんだって。なんで「地球支局」って書いてあるのか理解できないけれど、とにかく時間通りに僕と姉ちゃんはちょっとアバンギャルドなインテリアの建物に入っていった。リナ姉ちゃんはぶっ飛んだ性格だけれど、時間だけは厳守する。これはありがたいことだよね。
僕たちを迎えてくれた人たちは、日本人もいたけれど、外国人なんだかちょっとわかりかねるような微妙な顔立ちの人もいた。変な色のドウランを塗っている人もいたけれど、あれは何のコスプレなんだろう? 僕たちは「第一スタジオ」と日本語となんだかよくわからない記号みたいなのが書かれた部屋に連れて行かれた。ガラス越しに中で喋っている人を見ると、なんかすごいテンションだった。
「あれが今日のDJ、通称《いかれた兄ちゃん》だよ」
ディレクターが、呼びかけるのに差し障りがありそうな愛称をさらりと言った。僕はこれが冗談なのかどうか判断できなくて姉ちゃんを見たけれど、姉ちゃんはケラケラと笑っていた。いいのかなあ。
で、僕たちは音楽の間に短くDJ《いかれた兄ちゃん》と引き合わせてもらって、それからすぐにオンエアーとなった。
いつも姉ちゃんには驚かされる。絶対にあがったり、オロオロしたりしないんだね。そりゃ中学生の僕よりは年上だけれど、まだ16歳なのにどうしてこんなに肝が据わっているんだろう。
DJにどこから来たとか、なぜ日本にいるのとか話すのも堂々としている。だけど、なんで日本で一番氣にいった場所が100円ショップなんていうのかなあ。
次に姉ちゃんが話しているのは、日本人がスイスに関する話題でいつもハイジのことを持ち出すこと。うん、確かに。でもさ、姉ちゃんの住んでいるグラウビュンデン州ってハイジで有名なところじゃない。住んでいる谷は、ハイジのおじいさんの出身地だって教えてくれたじゃない。
「ヘィヘィヘィィィィ、キュートなエンジェルちゃん。視聴者から質問が来ているぜぃ。気が向いたら答えてやってくれぃベイベー」
そういってDJはFAXの紙を取り出した。
匿名希望 遊
斉藤専務ってどんな人だか知っていますか。あの人には逆らわない方がいいって噂を聞いたんですけれど、本当ですか
淡々と読み上げるDJの言葉を聞いて、僕はぎょっとした。「あの人には逆らわない方がいい」って言ったのは母さんだ。それを知っている「遊」ってまるで僕みたいじゃないか。ガラス越しだから近くには行けないけれど首を伸ばして紙を見る。げっ、あの金釘流の字は、栄二兄ちゃん! なんて質問するんだよっ。もし、斉藤専務がこの放送を聴いていたら……。いや、聴いているに決まっているじゃん! これを止めなかったら、後で父さんが専務に怒られる。そして、僕の来月のお小遣いはどうなる? 僕は必死でディレクターに食いついた。あんなことを答えさせないでって。
ディレクターは慌てて紙に、僕には全然読めない変な記号をいっぱい書いて、それをDJに振りかざした。それはなんらかの効用があったらしくDJは顔色を変えた。
「そうね。秘密と言うか。私もあまり知らないの。でもね…… そうね……」
リナ姉ちゃんが話そうとするのを彼が必死で止めている。でも、なんか変なこと言っているな。
「斉藤専務の代理人って人物から警告が送られてきた」
えええ。そんなこといったら、斉藤専務が悪者みたいに聞こえちゃうじゃない! やばい。どうしよう。
ああ、願わくは斉藤専務が腹痛でも起こしてトイレに籠っていてくれて、この放送を聴いていませんように! ダメかな。
胃が痛くなりそうな僕とは対照的にリナ姉ちゃんは終始ご機嫌だった。放送が終わってからDJとスタッフと一緒にオレンジジュースで乾杯して、出してもらったお菓子を楽しそうに食べていた。それから、ふとスタジオの片隅に積まれている「本日の提供 商品」という一角に目を向けた。僕もしょっちゅうコンビニにいくけれど、こんな変なパッケージのカレーはまだ見たことがない。ビキニ姿の小悪魔がカレーのパッケージを持っていて、そのパッケージの中にも同じ小悪魔がいて、それがずっと繰り返されるデザイン。それに相変わらず読めない記号がいっぱい。これどこの国の文字なんだろう。
でも、姉ちゃんは細かいことは氣にならないみたい。
「ねえ。このレトルトカレー、何味なの? 悪魔が笑っているけれど、そんなに辛いの? 持って帰っていい?」
「リナ姉ちゃんっ!」
「いいともさー。持ってけ、ドロボー」
DJはご機嫌だった。でもさ、姉ちゃん。いくらいいって言われたからって、50食分も持って帰るのはやめようよ。どうせ持てなくて僕に押し付けるんでしょ。
(初出:2014年1月 書き下ろし)
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数えてみたら
いままでこのブログと、別館に置いている小説だけで(まだ公開していないとか、昔のボツ小説のキャラは全て除いて)なんと267人いました。
というわけで並べてみようと思いますが、さすがに興味の全くない方の方が多いでしょうから、追記の方に畳んでおきます。このブログの小説を全部読破したという方はさすがにほとんどいらっしゃらないかと思いますが、かなりの作品を読んでくださっている奇特な方もいらっしゃいます。こうやって並べて、「憶えてる!」というキャラいますかね。脇キャラもかなり入っています。
脇キャラに適当な苗字をその場でつけることが多いのですが、けっこう被っている! 今後は氣をつけよう。他意はありません。近い知り合いのいない方の苗字を多用するクセがあるようです。
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【小説】君に捧げるメロディ — Featuring『ダメ子の鬱』
「scriviamo! 2014」の第二弾です。ダメ子さんは、うちのオリキャラ結城拓人と園城真耶を「ダメ子の鬱」に出演させてくださいました。ありがとうございます!
ダメ子さんの書いてくださったマンガ『コラボとか』
ダメ子さんの「ダメ子の鬱」はちょっとネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガです。かわいらしい絵柄と登場人物たちの強烈なキャラ、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーがクセになります。この世界に混ぜてもらえるなんて、ひゃっほう!
お返しは、この設定を丸々いただきまして、掌編を書きました。最後の方に拓人がどの女学生にぐらっときたかが出てきますよ。そして、出てきた音楽の方は、追記にて。
そして、「拓人と真耶って誰?」って方もいらっしゃいますよね。ええと、「大道芸人たち Artistas callejeros」や「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」に出てくるサブキャラなんですが、「大道芸人たち 外伝」なんかにもよく出てくるし、かといっていきなりこれ全部読んでから読めというわけにはいかないですよね。この辺にまとめてあります。ま、読まなくてもわかるかな。
「scriviamo! 2014」について
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
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君に捧げるメロディ — Featuring『ダメ子の鬱』
——Special thanks to Dameko-san
門松や正月飾りが片付けられると、街は急に物足りなくなる。クリスマス、年末とコンサートに終われ、親しい友人や家族とシャンパンで祝った年明けも過ぎ、忙しい時間が飛ぶように過ぎた後、演奏家たちにはつかの間の休息が許される。そう、二日、三日。そしてまた、リハーサルと本番に追われる日が追いかけてくる。
「それに、また撮影だろ?」
拓人が笑った。そう、撮影。初夏の新色、恋の予感だったかしら。口紅の新製品のポスターとCM撮影は明後日だ。まだ冬なんだけれど。それから、チャリティー番組の密着取材は拓人と一緒だ。
昨年は忙しくともウィーンのニューイヤーコンサートに行く時間もあったが、今年はそれどころではなかったので、日本にいた。スケジュールが合わず卒業以来出たことのなかった同窓会に、今年は偶然二人とも出られそうだったので、拓人と一緒に参加することにしたのだ。二人で来るならぜひ演奏してほしいと頼まれたので、真耶はヴィオラを持ってくることになった。
「それにしても、まだ早すぎるよ。夕方から出て来ればよかったな」
拓人が退屈した顔で言う。久しぶりに街に出るのだから早めにと言い出したのはそっちなのにと思ったが、退屈なのは真耶も同じだった。クリスマスと正月の商戦で疲れきってしまったのか、街はひっそりとして投げ売りになったセールのワゴン以外に見るものもなかった。二人はやけっぱちになって、あたりを闇雲に歩いたので、少々疲れてもいた。
「ずいぶん寒いわね。どこか時間をつぶす所を探さないと」
真耶がふと見ると、拓人は高校生たちを見ていた。
「地元の女の子たち、発見! 可愛いぞ」
「はいはい。またはじまった」
それは高校の正門前で、大きな看板がかかっている横だった。
「文化芸術鑑賞会 クラッシック音楽のひと時……ねえ」
「どうやら、あの子たちはこの高校の生徒みたいだね。なかなか悪くないんじゃないか?」
「こんな所でナンパしようってわけ? 児童福祉法違反で捕まるわよ」
「違うよ。悪くないって言ったのは、暇つぶしの方。この鑑賞会、二階席は一般にも公開しているらしいから」
「それは、失礼。無料のコンサートね。誰が演奏して、どんな曲目なのかによるわよね。あら、あの子なんていいじゃない、ちょっと訊いてくるわ」
そういうと、真耶は近くにいた男子生徒の方につかつかと歩み寄った。
拓人は肩をすくめた。
「人のことを言えるか。一番いい男をわざわざ選びやがって。お前こそ、捕まるぞ」
男子生徒は楽器らしきものを持っている真耶を見て演奏者の一人かと思ったようだったが、彼女はそれを否定し、首尾よくプログラムを手にして戻ってきた。それを見て拓人は少し意外そうに訊いた。
「なんだ、もういいのか?」
「いいのかって、出演者を確かめただけじゃない。あなたと一緒にしないでよ。相手は子供だし。それにああいうタイプはあなた一人で十分よ」
「それはどうも。でも、あの子、かなりの人気者みたいだぞ。お前と話しているだけで心配そうに見ている女の子たちがあんなに……」
「あらら、そうみたいね。それはそうと、この出演者、見てよ。こんなところで再会とはね」
「ん? げげ。このバリトンの田代裕幸って、あの……」
十年近く前だがつきあっていた真耶を振って去った男の名前を見て拓人は苦笑した。
「それにこのピアニストの名前も見て。沢口純……」
「誰だそれ?」
「また忘れたの? 以前わが家のパーティであなたに喧嘩を売ったあげく泥酔して帰っちゃった人でしょ」
「あ? あいつか。そりゃ、すごい組み合わせだ。どうする、寄ってく?」
「あれ以来あの人たちには全然会っていなかったもの、今どんな音を出しているのか氣にならない?」
「はいはい。じゃ、行きますか」
二人が話している所に、帽子をかぶった女生徒が近づいてきた。
「あ、あの、結城拓人さんに園城真耶さんですよね。サインいただいてもいいですか?」
「え。ちよちゃん、この人たち知っているの?」
遠巻きにしていた女の子たちも近づいてきた。
「え。もちろん。二人ともクラッシック界のスターだもの。それにほら、『冬のリップ・マジック』のコマーシャルにも……」
「ええ! あ、本当だ。あの人だ~」
よく知らなくても有名人だと聞けばサインをもらいたがる生徒たちに苦笑して二人は肩をすくめた。
「こんなところをまたあの沢口が見たら逆上するだろうな」
「さあ、どうかしらね」
多くの生徒は参加の強制されるクラッシック音楽鑑賞会を、つまらないと思い逃げだしたいと思っていたに違いない。けれど、観客席に(よく知らないながらも)その業界での有名人が来たというだけで生徒たちの会場に行く足並みは軽やかになった。生徒のいる一階席はきちんと定刻にいっぱいになり、一般に開放された二階席もそれなりに埋まった。
ところが、肝心の観賞会がなかなか始まらない。困ったように教師が走り回る音が聞こえて、生徒たちも浮き足立ってきた。
前方で教師と話をしていたのは先ほど真耶が話しかけた男子生徒とサインを最初にもらいに来たちよちゃんと呼ばれていた少女、それから数人の友人たちのようだった。それから教師に向かって二階席にいる拓人と真耶の方を示した。
それから、彼らが一緒に二階席にやってきて、教師が頭を下げた。
「はじめまして。お二人のお名前はよく存じ上げております。いらしていただき大変光栄です。私はこの高校で音楽教師をしております山田と申します。今回の観賞会の責任者なのですが、実は大変困った問題が持ち上がりまして」
真耶と拓人は顔を見合わせた。それから続きを促した。
「実は、田代さんと沢口さんは本日大阪からこの会場に直接駆けつけてくださる予定だったのですが、新幹線が停まっていて運転再開のめどが立たないでいるというのです。これだけ会場も埋まっているのですが、お詫びして中止にしようと話していた所、この生徒たちがどうしてもあなた方の演奏を一曲でも聴きたいと申しまして。突然で大変失礼なので、お断りになられるのを承知で、こうして参ったのですが」
「ほら、さっき『聴かせられなくて残念よ』って、言っていたから、もしかしたら弾いてくれるんじゃないかなって」
「茂手くん!」
教師が慌てて男子生徒を制したが、真耶は笑って言った。
「私はかまわないわよ。でも、拓人が伴奏してくれるかは……」
「するする。可愛い女の子たちの点数稼ぎたいし」
生徒たちは大歓声をあげた。真耶はヴィオラを持ち上げた。
「では、お引き受けしますわ。今夜演奏する予定で用意してきた曲でいいでしょうか」
「もちろんです」
山田はホッとした様子を隠せなかった。
同窓会のために準備してきたのはシューベルトの「アルペジオーネ・ソナタ」。アルペジオーネという六弦の古楽器のためのソナタだが、チェロやヴィオラで演奏される。拓人と真耶が二ヶ月に一度開催しているミニ・コンサートでも演奏することになっているので、広いホールで演奏するのは二人にとっても悪いことではなかった。哀愁あふれる美しい旋律で、コンサート受けはいい曲だが、普段クラッシック音楽に馴染みのない高校生たちには敷居が高い。それでクラッシック音楽に慣れさせるために、まずはフォーレの「夢のあとに」で反応を見、続いてクライスラーの「美しきロスマリン」を弾いた。どちらもCMなどでよく使われるので馴染みがあるはずだった。それからシューベルトを演奏したところ、生徒たちも慣れたようで熱心に聴いていた。
「悪くない反応だったな」
短い時間だったが、大きな拍手をもらい、主に女の子たちにサインをせがまれて拓人はかなりご機嫌だった。真耶もまんざらでもない様子で、サインをしたり楽器に興味を持った生徒たちと話をしてから、別れを言って同窓会の会場へと向かっていた。
「田代君と沢口氏に会えなかったのは残念だったけれど、楽しかったわ。あなたはなおさらでしょう? 好みの女の子もいたみたいだしね」
「ん? わかった? さて、どの子でしょう。一、ツインテールで胸の大きかった子。二、お前が例の茂手くんと話していた時に泣きそうな顔をしていた茶髪の子。三、僕たちのことを始めから知っていたちよちゃん」
拓人が茶化して訊いてきたので、真耶はにっこりと笑った。
「誤摩化してもダメよ。あなたのお目当てはね。その三人じゃなくて、みんなの後ろにいた、おかっぱ頭でピンクのマフラーの子」
「げっ。よく氣付いたな」
「当然でしょ。あなたの好みなんてお見通しよ。あの子、目もくりくりしていて、けっこう可愛いのに、いつも自信なさそうに下を向いていて、あなたのサインも欲しそうだったのにあきらめていたし」
「そ。あの子のために頑張って弾いたんだ。もしサインをねだりに来たら、絶対に名前を訊こうと思っていたのにな」
真耶はしょうもないという風に頭を振ると、肩をすくめる拓人を急がせて同窓会の会場であるホテルへと入っていった。
(初出:2014年1月 書き下ろし)
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ダメ子さんの書いてくださったマンガ『コラボとか』
ダメ子さんの「ダメ子の鬱」はちょっとネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガです。かわいらしい絵柄と登場人物たちの強烈なキャラ、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーがクセになります。この世界に混ぜてもらえるなんて、ひゃっほう!
お返しは、この設定を丸々いただきまして、掌編を書きました。最後の方に拓人がどの女学生にぐらっときたかが出てきますよ。そして、出てきた音楽の方は、追記にて。
そして、「拓人と真耶って誰?」って方もいらっしゃいますよね。ええと、「大道芸人たち Artistas callejeros」や「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」に出てくるサブキャラなんですが、「大道芸人たち 外伝」なんかにもよく出てくるし、かといっていきなりこれ全部読んでから読めというわけにはいかないですよね。この辺にまとめてあります。ま、読まなくてもわかるかな。
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門松や正月飾りが片付けられると、街は急に物足りなくなる。クリスマス、年末とコンサートに終われ、親しい友人や家族とシャンパンで祝った年明けも過ぎ、忙しい時間が飛ぶように過ぎた後、演奏家たちにはつかの間の休息が許される。そう、二日、三日。そしてまた、リハーサルと本番に追われる日が追いかけてくる。
「それに、また撮影だろ?」
拓人が笑った。そう、撮影。初夏の新色、恋の予感だったかしら。口紅の新製品のポスターとCM撮影は明後日だ。まだ冬なんだけれど。それから、チャリティー番組の密着取材は拓人と一緒だ。
昨年は忙しくともウィーンのニューイヤーコンサートに行く時間もあったが、今年はそれどころではなかったので、日本にいた。スケジュールが合わず卒業以来出たことのなかった同窓会に、今年は偶然二人とも出られそうだったので、拓人と一緒に参加することにしたのだ。二人で来るならぜひ演奏してほしいと頼まれたので、真耶はヴィオラを持ってくることになった。
「それにしても、まだ早すぎるよ。夕方から出て来ればよかったな」
拓人が退屈した顔で言う。久しぶりに街に出るのだから早めにと言い出したのはそっちなのにと思ったが、退屈なのは真耶も同じだった。クリスマスと正月の商戦で疲れきってしまったのか、街はひっそりとして投げ売りになったセールのワゴン以外に見るものもなかった。二人はやけっぱちになって、あたりを闇雲に歩いたので、少々疲れてもいた。
「ずいぶん寒いわね。どこか時間をつぶす所を探さないと」
真耶がふと見ると、拓人は高校生たちを見ていた。
「地元の女の子たち、発見! 可愛いぞ」
「はいはい。またはじまった」
それは高校の正門前で、大きな看板がかかっている横だった。
「文化芸術鑑賞会 クラッシック音楽のひと時……ねえ」
「どうやら、あの子たちはこの高校の生徒みたいだね。なかなか悪くないんじゃないか?」
「こんな所でナンパしようってわけ? 児童福祉法違反で捕まるわよ」
「違うよ。悪くないって言ったのは、暇つぶしの方。この鑑賞会、二階席は一般にも公開しているらしいから」
「それは、失礼。無料のコンサートね。誰が演奏して、どんな曲目なのかによるわよね。あら、あの子なんていいじゃない、ちょっと訊いてくるわ」
そういうと、真耶は近くにいた男子生徒の方につかつかと歩み寄った。
拓人は肩をすくめた。
「人のことを言えるか。一番いい男をわざわざ選びやがって。お前こそ、捕まるぞ」
男子生徒は楽器らしきものを持っている真耶を見て演奏者の一人かと思ったようだったが、彼女はそれを否定し、首尾よくプログラムを手にして戻ってきた。それを見て拓人は少し意外そうに訊いた。
「なんだ、もういいのか?」
「いいのかって、出演者を確かめただけじゃない。あなたと一緒にしないでよ。相手は子供だし。それにああいうタイプはあなた一人で十分よ」
「それはどうも。でも、あの子、かなりの人気者みたいだぞ。お前と話しているだけで心配そうに見ている女の子たちがあんなに……」
「あらら、そうみたいね。それはそうと、この出演者、見てよ。こんなところで再会とはね」
「ん? げげ。このバリトンの田代裕幸って、あの……」
十年近く前だがつきあっていた真耶を振って去った男の名前を見て拓人は苦笑した。
「それにこのピアニストの名前も見て。沢口純……」
「誰だそれ?」
「また忘れたの? 以前わが家のパーティであなたに喧嘩を売ったあげく泥酔して帰っちゃった人でしょ」
「あ? あいつか。そりゃ、すごい組み合わせだ。どうする、寄ってく?」
「あれ以来あの人たちには全然会っていなかったもの、今どんな音を出しているのか氣にならない?」
「はいはい。じゃ、行きますか」
二人が話している所に、帽子をかぶった女生徒が近づいてきた。
「あ、あの、結城拓人さんに園城真耶さんですよね。サインいただいてもいいですか?」
「え。ちよちゃん、この人たち知っているの?」
遠巻きにしていた女の子たちも近づいてきた。
「え。もちろん。二人ともクラッシック界のスターだもの。それにほら、『冬のリップ・マジック』のコマーシャルにも……」
「ええ! あ、本当だ。あの人だ~」
よく知らなくても有名人だと聞けばサインをもらいたがる生徒たちに苦笑して二人は肩をすくめた。
「こんなところをまたあの沢口が見たら逆上するだろうな」
「さあ、どうかしらね」
多くの生徒は参加の強制されるクラッシック音楽鑑賞会を、つまらないと思い逃げだしたいと思っていたに違いない。けれど、観客席に(よく知らないながらも)その業界での有名人が来たというだけで生徒たちの会場に行く足並みは軽やかになった。生徒のいる一階席はきちんと定刻にいっぱいになり、一般に開放された二階席もそれなりに埋まった。
ところが、肝心の観賞会がなかなか始まらない。困ったように教師が走り回る音が聞こえて、生徒たちも浮き足立ってきた。
前方で教師と話をしていたのは先ほど真耶が話しかけた男子生徒とサインを最初にもらいに来たちよちゃんと呼ばれていた少女、それから数人の友人たちのようだった。それから教師に向かって二階席にいる拓人と真耶の方を示した。
それから、彼らが一緒に二階席にやってきて、教師が頭を下げた。
「はじめまして。お二人のお名前はよく存じ上げております。いらしていただき大変光栄です。私はこの高校で音楽教師をしております山田と申します。今回の観賞会の責任者なのですが、実は大変困った問題が持ち上がりまして」
真耶と拓人は顔を見合わせた。それから続きを促した。
「実は、田代さんと沢口さんは本日大阪からこの会場に直接駆けつけてくださる予定だったのですが、新幹線が停まっていて運転再開のめどが立たないでいるというのです。これだけ会場も埋まっているのですが、お詫びして中止にしようと話していた所、この生徒たちがどうしてもあなた方の演奏を一曲でも聴きたいと申しまして。突然で大変失礼なので、お断りになられるのを承知で、こうして参ったのですが」
「ほら、さっき『聴かせられなくて残念よ』って、言っていたから、もしかしたら弾いてくれるんじゃないかなって」
「茂手くん!」
教師が慌てて男子生徒を制したが、真耶は笑って言った。
「私はかまわないわよ。でも、拓人が伴奏してくれるかは……」
「するする。可愛い女の子たちの点数稼ぎたいし」
生徒たちは大歓声をあげた。真耶はヴィオラを持ち上げた。
「では、お引き受けしますわ。今夜演奏する予定で用意してきた曲でいいでしょうか」
「もちろんです」
山田はホッとした様子を隠せなかった。
同窓会のために準備してきたのはシューベルトの「アルペジオーネ・ソナタ」。アルペジオーネという六弦の古楽器のためのソナタだが、チェロやヴィオラで演奏される。拓人と真耶が二ヶ月に一度開催しているミニ・コンサートでも演奏することになっているので、広いホールで演奏するのは二人にとっても悪いことではなかった。哀愁あふれる美しい旋律で、コンサート受けはいい曲だが、普段クラッシック音楽に馴染みのない高校生たちには敷居が高い。それでクラッシック音楽に慣れさせるために、まずはフォーレの「夢のあとに」で反応を見、続いてクライスラーの「美しきロスマリン」を弾いた。どちらもCMなどでよく使われるので馴染みがあるはずだった。それからシューベルトを演奏したところ、生徒たちも慣れたようで熱心に聴いていた。
「悪くない反応だったな」
短い時間だったが、大きな拍手をもらい、主に女の子たちにサインをせがまれて拓人はかなりご機嫌だった。真耶もまんざらでもない様子で、サインをしたり楽器に興味を持った生徒たちと話をしてから、別れを言って同窓会の会場へと向かっていた。
「田代君と沢口氏に会えなかったのは残念だったけれど、楽しかったわ。あなたはなおさらでしょう? 好みの女の子もいたみたいだしね」
「ん? わかった? さて、どの子でしょう。一、ツインテールで胸の大きかった子。二、お前が例の茂手くんと話していた時に泣きそうな顔をしていた茶髪の子。三、僕たちのことを始めから知っていたちよちゃん」
拓人が茶化して訊いてきたので、真耶はにっこりと笑った。
「誤摩化してもダメよ。あなたのお目当てはね。その三人じゃなくて、みんなの後ろにいた、おかっぱ頭でピンクのマフラーの子」
「げっ。よく氣付いたな」
「当然でしょ。あなたの好みなんてお見通しよ。あの子、目もくりくりしていて、けっこう可愛いのに、いつも自信なさそうに下を向いていて、あなたのサインも欲しそうだったのにあきらめていたし」
「そ。あの子のために頑張って弾いたんだ。もしサインをねだりに来たら、絶対に名前を訊こうと思っていたのにな」
真耶はしょうもないという風に頭を振ると、肩をすくめる拓人を急がせて同窓会の会場であるホテルへと入っていった。
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家庭で作れるトルコ料理

この写真、みかけはいまいちなんですが、私が最近凝っているトルコ料理シリーズなのですよ。
トルコ料理はフランス料理、中華料理と並んで世界三大料理と言われています。和食(ユネスコ世界遺産でしたっけ、おめでとう!)を差置いて、何ゆえと思うのですが、実際に食べてみると味が思ったほどエスニックではなく、とても食べやすくてバラエティに富んでいて、かなり日本人向けだと思うのです。
私とトルコ料理の出会いは、遠い昔、大学生のときでした。私、大学では東洋史(主にイスラム史)を専攻していまして、必然的にゼミの食事会などはイスラム系のレストランに行くことが多かったのです。大学三年生の春休みに訪れたイスタンブールで食べた、安くて美味しいトルコ料理も忘れられませんね。
とはいえ、この歳になるまで自分で作るチャンスってあまりなかったのです。で、前回の帰国の時に見つけた料理本「家庭で作れるトルコ料理」を姉がプレゼントしてくれたのを機に、スイスでも作れるかなと材料を探したのですよ。そしたらいやあ、田舎でも揃っちゃうんですね。むしろ東京にいるよりもいろいろと簡単に揃うみたいです。なんせイスラム系の移民多いですし。マクドナルドがない街にもケバブ屋さんありますし。
で、この写真を撮った晩につくったのは、白いチーズとヨーグルトのディップ、ハイダーリ。それから普通のピーマンの肉詰め、そしてブルグルというひきわり小麦を使ったピラフ。かなり簡単に作れて、とても美味しい! これからもかなりの頻度でこの本を使うことになりそうです。日本にある材料で作れるというのがふれこみの本ですので、日本でも作れますよ!
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「ラ・ヴァルス」について
再掲するほどのものでもないので、いちおう、こちらにリンクだけをのせておきます。
【短編小説】ラ・ヴァルス
さて、この小説はモーリス・ラヴェルの管弦曲「ラ・ヴァルス」にインスパイアされて書いた小説です。そう、視覚からではなく聴覚から物語を生み出してばかりいる私の小説の書き方は特殊だとよく言われるのですが、クラッシック音楽にインスパイアされて物語を書くという手法を使いだしたのは、この小説が最初だったと思います。リンク先にも書いた通り、この小説はおよそ20年前に書いたものです。
よく考えるとめでたい新年の一本目としてふさわしいとは思えない結末ですが、まあ、それは毎年のことで。
こうなる原因は当時の私の人生観も影響しているのですが(今よりもかなり悲観的でした)、この曲の狂騒的なトーンが影響していることも確かです。
私はラヴェルが好きです。オーケストレーションの天才だと思います。他にも好きな曲はいくつもあるのですが、この曲は別格に好きです。何故かを説明するのかは難しいです。私の中に平和としか言いようのないものがあり、それと同時に狂ったように暴れ回る衝動があります。この曲とリズムはその双方を同時にかき回すのです。
「ラ・ヴァルス」とはフランス語でワルツのことです。小説の一番最初に引用した言葉は、この曲の楽譜に書かれたラヴェルの説明です。当時の私はウィーンを訪れたこともなかったし、ヨーロッパの宮殿というものをこの目で見たこともなかったのですが、「十八世紀の宮廷でワルツを踊る人びと」の幻影をこの曲でイメージしました。聴覚で感じるべきラヴェルの音楽を色彩の魔術だと感じるのは、このせいだと思います。ヨーロッパがもっと身近になりいくつもの十八世紀の宮殿を見た現在でも、そのイメージは、ほとんど変わっていません。
そして、小説の内容の方ですが、人生において「壁の花」でいなくてはならない存在の人間や、その心の痛みに対する感覚も未だに変わっていません。二十年前に書いた小説ではありますが、個人的にはいま自分が書くものとかけ離れていないかなと思います。技術的にも、内容も。要するに二十年間、進歩していないってことかもしれません。
Ravel: La Valse / Bernstein · Orchestre National de France
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【小説】それでもまだここで
「scriviamo! 2014」の第一弾です。ポール・ブリッツさんは、拙作『マンハッタンの日本人』 に想を得た掌編をとても短い時間で完成させてくださいました。ありがとうございます!
ポール・ブリッツさんの書いてくださった小説『歩く男』
ポール・ブリッツさんは、オリジナル掌編小説をほぼ毎日アップするという驚異的な創作系ブロガーさんです。その創作パワーにはいつも圧倒されています。そして、目の付け所がちょっとシニカルでいつもあっというような小説を書いていらっしゃいます。創作系としてはとても氣になる存在のお方です。
お返しの掌編小説は、「マンハッタンの日本人」の世界を再び。そして、自分で書いておきながら存在すらも忘れていたのにポール・ブリッツさんに掘り起こしてもらったあの人も登場……。
「scriviamo! 2014」について
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それでもまだここで — 『続・マンハッタンの日本人』
——Special thanks to Paul Blitz-san
今年のニューヨークは雪が多い。店の外は灰色に汚れた雪が通行の邪魔をしている。その上を新しい雪が降り、少なくとも新年らしい色に変えている。一月二日。美穂はため息をついた。日本だったらあと二日はこたつでのんびりと出来るのにな。その大衆食堂ダイナーにも多くの客は来なかった。昼時を過ぎて調理師も客も去り、誰もいなくなった店内で美穂は暇を持て余していた。茶色い古びたソファと安っぽいランプがこの店の格を表している。洗濯はしたもののどこか黄ばんだエプロンをしている自分も、同じ格なのだろうなと思った。
去年のお正月には、少なくともニューヨークの銀行で働くキャリアウーマンであるというのは嘘ではなかった。たとえ仕事の内容が単なる事務でも。五番街のオフィスで摩天楼を眺めながら朝食を食べて優越感に浸っていたものだ。
「人員整理が必要になってね。君は今週いっぱい働いて、それで終わりにしてくれ」
美穂は突然ニューヨークのもう一つの名物、失業者になってしまった。
生活の問題があると訴えた美穂に上司は冷たく言った。
「子供がいて、どこにも行けない人だって失業しているよ。君は独り者だし、国に帰ればけっこういい暮らしが出来るだろう?」
それは正論だ。それに日本みたいに、正社員をクビにするのが難しい国でないこともわかっていた。アメリカにいなくてはならない理由は特にない。でも、留学をいい成績で終えて、H-1Bビザ(特殊技能ビザ)を申請してもらって働けることになった時に、自分はアメリカでずっと暮らせるのだと思い込んだ。
けれど、美穂は移民ではなかった。会社が不要と言えば、その存在意義も吹き飛ぶ短期滞在者だった。日本に帰ればよいのかもしれない。絶対的に無条件で自分を受け入れてくれる国に。でも、帰ったらみんなが訊いてくるだろう。どうして帰ってきたの。向こうでは何をしていたの。自分が築いていたものが砂上の楼閣だったと言われたくなかった。口うるさい母親に、それみたことか、自分の間違いを認めて大人しく結婚相手でも探せと説教されるのがたまらなかった。
その結果が、このしがないダイナーでのウエイトレスへの転職だった。ビザはH-2A(季節労働者)に変わった。べつにどうでもいいけれど。
エプロンのポケットには、今年も母が送って来た近況が入っている。一年分大きくなった姪と甥が身につけているのは、ウォルマートで買ったセーター。去年のブルーミングデールズの服とは雲泥の差だ。せめてメイシーズで買えばよかったけれど、送料も考えるとそれは無理だった。彼らは同じように微笑んでいる。安物でも派手な色合いは彼らの氣にいったのだろう。卑屈に思うことなんかないのに。
ドアが開いて客が入ってきた。安物のジャケットを身につけた黒髪で特徴のない白人だった。
「ハロー」
美穂は反射的に口を開いた。日本語だと「いらっしゃいませ」と言う所だが、この国にはそれに当たる言葉がない。同僚のリサは何も言わないが、美穂はせめて何かを言いたくていつも「ハロー」と言う。
男は訝しげに美穂を眺めた。
「まさか」
「お食事ですか、それともお茶ですか」
美穂が訊くと、男ははっとして、少し下を向いていたが、やがて顔を上げた。
「スペシャルを。コーラで」
飲み物と料理を格安の値段で提供するメニューだった。このダイナーでは、「残飯整理」と陰で呼んでいるものだ。
美穂は、男が自分をチラチラと見るのに氣がついた。男には全く見覚えがなかった。いったいなんなのかしら。美穂が温めたポテトガレットと肉の大して入っていないシチューの皿、多少硬くなったパンとコーラを運ぶと、男は小さく「ありがとう」と言った。
それから、わずかの間を空けてから男は訊いた。
「君、去年の今ごろ、五番街にいなかったかい?」
美穂はびっくりしてステンレスの水差しを抱えたまま立ちすくんだ。
「どうしてご存知なんですか」
「憶えていなくても無理はないけれどね。去年、僕は君を道で追い越したんだ。失業中でね。外国人が国に帰ってくれればこっちに職が回ってくるのにって、思ったのさ。それから、しばらくしてなんとか仕事を見つけたんだけれど、今また元の木阿弥で求職中。去年のことを思い出しながら、労働省に行ったその帰りにここで君にまた会うなんて、いったいどんなめぐり合わせなんだろう」
美穂は戸惑ったまま、言葉を探した。ええと、これって「なんてすてきな偶然でしょう」ってシチュエーションなのかな、それとも「日本に帰っていなくってごめんなさい」ってことなのかな。少なくとも、今回も私には職があって、この人が失業者なのだとしたら……。
その想いを見透かしたように、男は頬杖をついて言った。
「訊いてもいい? なぜここで働いてまでアメリカに居続けたい?」
ダイナーには他には客もいなくて、忙しいのでまた別の機会に、と逃げることも出来ない。美穂は少し考えてから口を開いた。
「帰れないの」
「なぜ? 旅費がないってこと? それとも一度海外に出ると帰れない社会なのかい?」
美穂は首を振った。確かに大して金銭的余裕はないが、片道運賃くらいはなんとかなる。出戻ったら両親とくに母親にはいろいろ言われるだろうが、結局は受け入れてくれるだろう。仕事だって、現在の時給2.8ドルと較べたら、田舎でももっとましな給料がもらえるだろう。帰れないのではない、帰りたくないのだ。
「ニューヨークで一人で生きているってことだけが、私のプライドを支えているみたい。それがダメだったとわかったら、もう立ち直れなくなりそうなの」
「でも、ウェイトレスの仕事なら東京にでもあるだろう?」
「うん。本当は、銀行の事務の仕事だって、日本でしていたの。でも、ここに来れば、私はもっとすごい人間になれると思っていたの。もっと素敵な人とも出会えるって信じていたし」
「で?」
「私は私だったし、あまり知り合いもいない。恋も上手くいかなかったし、今は生活だけで手一杯でニューヨークを楽しむ余裕なんかないわね」
「僕はニューヨークで生まれ育ったんだ。成功者にはエキサイティングな街だけれど、そんな思いをしてまで居続けたいというのはわからないな。日本は生存が脅かされるような国じゃないだろう? むしろこの成功するのものたれ死にも自由にどうぞって国より、生きやすいんじゃないか?」
「そうね。言う通りかもしれない。戦争のある国から逃げてきたわけじゃない私が、こんなことを言ってしがみついているのは、滑稽かもしれない。でも、そうさせてしまうのがアメリカって国じゃない?」
男は黙って肩をすくめた。美穂は話題を変えてみることにした。
「どんな仕事を探しているの?」
男はパンと音を立てて、持っていた求人紙を叩いた。
「なんでもいいよ。最初は証券会社やアナリストなんてのも探したけれど、今はドラックストアの店員でもいいんだ。ホームレスじゃなければ」
美穂はそっとレジの脇の紙を指差してみた。
「キッチンスタッフ募集。詳細は店主まで」
いつのものだかわからない丸まった油汚れの着いた紙に汚い字で書かれている。男は目を丸くした。
「ここ、入れ替わりが早いの。だから、募集していない時にもこのままなんだって。でも、今は本当に探しているの。給料はロクでもないけれど、最後の手段にはいいかも」
男はもう一度肩をすくめた。
「考えてみるよ。他に何も見つからなかったらね……」
コインをかき集めてようやく代金を払うと、男は入ってきた時よりも少しだけ柔らかい表情で美穂に笑いかけた。
美穂は男が出て行った雪景色の街をしばらく見つめて、それから彼のきれいに食べきった皿と氷だけが残ったコーラのグラスを片付けた。あ、名前も訊かなかった。でも、またいつか会うかもしれないわよね。二度ある事は三度あるって言うし。
ニューヨークで迎える五度目の正月。美穂は今年がいい一年になるといいなと思った。
(初出:2014年1月 書き下ろし)
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ポール・ブリッツさんの書いてくださった小説『歩く男』
ポール・ブリッツさんは、オリジナル掌編小説をほぼ毎日アップするという驚異的な創作系ブロガーさんです。その創作パワーにはいつも圧倒されています。そして、目の付け所がちょっとシニカルでいつもあっというような小説を書いていらっしゃいます。創作系としてはとても氣になる存在のお方です。
お返しの掌編小説は、「マンハッタンの日本人」の世界を再び。そして、自分で書いておきながら存在すらも忘れていたのにポール・ブリッツさんに掘り起こしてもらったあの人も登場……。
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それでもまだここで — 『続・マンハッタンの日本人』
——Special thanks to Paul Blitz-san
今年のニューヨークは雪が多い。店の外は灰色に汚れた雪が通行の邪魔をしている。その上を新しい雪が降り、少なくとも新年らしい色に変えている。一月二日。美穂はため息をついた。日本だったらあと二日はこたつでのんびりと出来るのにな。その大衆食堂ダイナーにも多くの客は来なかった。昼時を過ぎて調理師も客も去り、誰もいなくなった店内で美穂は暇を持て余していた。茶色い古びたソファと安っぽいランプがこの店の格を表している。洗濯はしたもののどこか黄ばんだエプロンをしている自分も、同じ格なのだろうなと思った。
去年のお正月には、少なくともニューヨークの銀行で働くキャリアウーマンであるというのは嘘ではなかった。たとえ仕事の内容が単なる事務でも。五番街のオフィスで摩天楼を眺めながら朝食を食べて優越感に浸っていたものだ。
「人員整理が必要になってね。君は今週いっぱい働いて、それで終わりにしてくれ」
美穂は突然ニューヨークのもう一つの名物、失業者になってしまった。
生活の問題があると訴えた美穂に上司は冷たく言った。
「子供がいて、どこにも行けない人だって失業しているよ。君は独り者だし、国に帰ればけっこういい暮らしが出来るだろう?」
それは正論だ。それに日本みたいに、正社員をクビにするのが難しい国でないこともわかっていた。アメリカにいなくてはならない理由は特にない。でも、留学をいい成績で終えて、H-1Bビザ(特殊技能ビザ)を申請してもらって働けることになった時に、自分はアメリカでずっと暮らせるのだと思い込んだ。
けれど、美穂は移民ではなかった。会社が不要と言えば、その存在意義も吹き飛ぶ短期滞在者だった。日本に帰ればよいのかもしれない。絶対的に無条件で自分を受け入れてくれる国に。でも、帰ったらみんなが訊いてくるだろう。どうして帰ってきたの。向こうでは何をしていたの。自分が築いていたものが砂上の楼閣だったと言われたくなかった。口うるさい母親に、それみたことか、自分の間違いを認めて大人しく結婚相手でも探せと説教されるのがたまらなかった。
その結果が、このしがないダイナーでのウエイトレスへの転職だった。ビザはH-2A(季節労働者)に変わった。べつにどうでもいいけれど。
エプロンのポケットには、今年も母が送って来た近況が入っている。一年分大きくなった姪と甥が身につけているのは、ウォルマートで買ったセーター。去年のブルーミングデールズの服とは雲泥の差だ。せめてメイシーズで買えばよかったけれど、送料も考えるとそれは無理だった。彼らは同じように微笑んでいる。安物でも派手な色合いは彼らの氣にいったのだろう。卑屈に思うことなんかないのに。
ドアが開いて客が入ってきた。安物のジャケットを身につけた黒髪で特徴のない白人だった。
「ハロー」
美穂は反射的に口を開いた。日本語だと「いらっしゃいませ」と言う所だが、この国にはそれに当たる言葉がない。同僚のリサは何も言わないが、美穂はせめて何かを言いたくていつも「ハロー」と言う。
男は訝しげに美穂を眺めた。
「まさか」
「お食事ですか、それともお茶ですか」
美穂が訊くと、男ははっとして、少し下を向いていたが、やがて顔を上げた。
「スペシャルを。コーラで」
飲み物と料理を格安の値段で提供するメニューだった。このダイナーでは、「残飯整理」と陰で呼んでいるものだ。
美穂は、男が自分をチラチラと見るのに氣がついた。男には全く見覚えがなかった。いったいなんなのかしら。美穂が温めたポテトガレットと肉の大して入っていないシチューの皿、多少硬くなったパンとコーラを運ぶと、男は小さく「ありがとう」と言った。
それから、わずかの間を空けてから男は訊いた。
「君、去年の今ごろ、五番街にいなかったかい?」
美穂はびっくりしてステンレスの水差しを抱えたまま立ちすくんだ。
「どうしてご存知なんですか」
「憶えていなくても無理はないけれどね。去年、僕は君を道で追い越したんだ。失業中でね。外国人が国に帰ってくれればこっちに職が回ってくるのにって、思ったのさ。それから、しばらくしてなんとか仕事を見つけたんだけれど、今また元の木阿弥で求職中。去年のことを思い出しながら、労働省に行ったその帰りにここで君にまた会うなんて、いったいどんなめぐり合わせなんだろう」
美穂は戸惑ったまま、言葉を探した。ええと、これって「なんてすてきな偶然でしょう」ってシチュエーションなのかな、それとも「日本に帰っていなくってごめんなさい」ってことなのかな。少なくとも、今回も私には職があって、この人が失業者なのだとしたら……。
その想いを見透かしたように、男は頬杖をついて言った。
「訊いてもいい? なぜここで働いてまでアメリカに居続けたい?」
ダイナーには他には客もいなくて、忙しいのでまた別の機会に、と逃げることも出来ない。美穂は少し考えてから口を開いた。
「帰れないの」
「なぜ? 旅費がないってこと? それとも一度海外に出ると帰れない社会なのかい?」
美穂は首を振った。確かに大して金銭的余裕はないが、片道運賃くらいはなんとかなる。出戻ったら両親とくに母親にはいろいろ言われるだろうが、結局は受け入れてくれるだろう。仕事だって、現在の時給2.8ドルと較べたら、田舎でももっとましな給料がもらえるだろう。帰れないのではない、帰りたくないのだ。
「ニューヨークで一人で生きているってことだけが、私のプライドを支えているみたい。それがダメだったとわかったら、もう立ち直れなくなりそうなの」
「でも、ウェイトレスの仕事なら東京にでもあるだろう?」
「うん。本当は、銀行の事務の仕事だって、日本でしていたの。でも、ここに来れば、私はもっとすごい人間になれると思っていたの。もっと素敵な人とも出会えるって信じていたし」
「で?」
「私は私だったし、あまり知り合いもいない。恋も上手くいかなかったし、今は生活だけで手一杯でニューヨークを楽しむ余裕なんかないわね」
「僕はニューヨークで生まれ育ったんだ。成功者にはエキサイティングな街だけれど、そんな思いをしてまで居続けたいというのはわからないな。日本は生存が脅かされるような国じゃないだろう? むしろこの成功するのものたれ死にも自由にどうぞって国より、生きやすいんじゃないか?」
「そうね。言う通りかもしれない。戦争のある国から逃げてきたわけじゃない私が、こんなことを言ってしがみついているのは、滑稽かもしれない。でも、そうさせてしまうのがアメリカって国じゃない?」
男は黙って肩をすくめた。美穂は話題を変えてみることにした。
「どんな仕事を探しているの?」
男はパンと音を立てて、持っていた求人紙を叩いた。
「なんでもいいよ。最初は証券会社やアナリストなんてのも探したけれど、今はドラックストアの店員でもいいんだ。ホームレスじゃなければ」
美穂はそっとレジの脇の紙を指差してみた。
「キッチンスタッフ募集。詳細は店主まで」
いつのものだかわからない丸まった油汚れの着いた紙に汚い字で書かれている。男は目を丸くした。
「ここ、入れ替わりが早いの。だから、募集していない時にもこのままなんだって。でも、今は本当に探しているの。給料はロクでもないけれど、最後の手段にはいいかも」
男はもう一度肩をすくめた。
「考えてみるよ。他に何も見つからなかったらね……」
コインをかき集めてようやく代金を払うと、男は入ってきた時よりも少しだけ柔らかい表情で美穂に笑いかけた。
美穂は男が出て行った雪景色の街をしばらく見つめて、それから彼のきれいに食べきった皿と氷だけが残ったコーラのグラスを片付けた。あ、名前も訊かなかった。でも、またいつか会うかもしれないわよね。二度ある事は三度あるって言うし。
ニューヨークで迎える五度目の正月。美穂は今年がいい一年になるといいなと思った。
(初出:2014年1月 書き下ろし)
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神宮の話

実はですね。2010年に「樋水龍神縁起」本編の構想を始めるまで、私は神道や神社のことをほとんどわかっていませんでした。今でもわかっているわけではないのですが、当時よりはマシです。そして、「お勉強しながらの執筆」を通して、神社庁というものが存在し、日本の神社のヒエラルヒーのトップが伊勢にある神宮だということをようやく知ったのです。あ、「どんな教育をした親なんだ」と思われる方もおありでしょうから言い訳をさせていただきますと、我が家はカトリックなのですよ。
そして、そのヒエラルヒーがあるにも関わらず、どうもなんとなく完全には従っていない感じ、ご神体も別方向を向いているし、旧暦十月には日本中の神様を集めて会議なんかしちゃっている出雲大社に惚れ込んでしまって、出雲の話を勝手に書かせていただいたわけなのですが、それでも「トップは神宮なんだ」というのは頭の片隅にあったわけです。
で、「出雲はいずれまた行きたい」という想いはずっとあったものの、まだ一度も参拝したこともないくせに伊勢に行こうという発想は去年の夏ぐらいまで全くなかったのです。
どうして突然行く氣になったか、それはブログのお友だち、ゆささんの参拝の記事を読んだからなんですよね。
出雲の式年遷宮が終わったのは知っていましたが、伊勢の神宮も2013年だとはそれまで知りませんでした。日本にいたら知らないわけはないでしょうが、こっちにいたらそのニュースはほとんど入ってきませんから。そして、ゆささんの記事を読んで、「へえ、お伊勢さんってそうなっているんだ」と興味がムクムク。それで、母に「日本に行くときの旅行だけれど、出雲また行きたいと思っていたけれど、伊勢も式年遷宮なんだって?」と話したら「もうパンフレット集めちゃった」とすっかり乗り氣でおりました。それで、両方を参拝というかなり強引な旅行になったのです。
十月に30℃を記録したという日本、私が帰国した時にはもう涼しくなっていたとは言え、まだ十分に暖かかったのですが、この私が国内旅行を始めた日から急に氣温が下がり、しかも予想では毎日雨でした。でも、実際にひどく降られたのはこの伊勢参拝の日だけでした。
本来ならばこの日だけは晴れて欲しいと思うものでしょうが、実は私にとってはこの日雨だったのはラッキーだったようです。というのは私は人ごみが苦手。日本にいた時もそうでしたが、スイスの田舎暮らしでさらに拍車がかかって、ディズニーランドのような人ごみは耐えられないのです。でも、式年遷宮で秋の金曜日ともなるとどうやっても人が多くなるに決まっているではないですか。この日ももちろんたくさんの参拝客がいてバスもたくさんいたのですが、それでも他の日より少なかったみたいなのです。
そして、はじめての神宮参拝。
何度もこのブログで書いていますが、私には霊感のようなものはまったくありません。でも、空氣が違うんですよ。清浄という以外、適切な表現がみつからないのですが、天照大神のおわすという正宮だけでなくて、鳥居を入ったその境内そのものにぴーんと張りつめた清らかさを感じるのです。森のようになっている、たくさんの古木の一本一本から凊やかな氣が満ちてくるような。これは出雲大社の境内でも感じることですが、でも、ちょっと違うイメージもあります。伊勢の方が厳格な印象がありました。
ゆささんの記事や、母の用意しておいてくれたパンフレットでにわか勉強したので、まずは外宮、それから内宮と参拝しました。式年遷宮が終わったばかりなので、あたらしい宮とそれまでの宮が並んでいて、ああ、こうやって遷宮するんだと感心しつつ、メインのお宮を回っていきました。一日だけだったので、全部はとても無理です。125社もあるというのですから。
と、いいつつも、参拝が終わった後にはちゃっかりおはらい町とおかげ横町に行ってショッピングとグルメを楽しんでしまいました。え、いや、ここがメインだったなんてことは……決して……。
ええ、美味しかったし、楽しかったです。その話は、またいずれ。
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『オリキャラ対談バトン』を渡されちゃいました
で、左紀さんの所で対談していたお二人と縁の深いうちの子たちがご指名により登場しました。
さりげなく(?)作品紹介になっているはずです。よかったらお読みくださいませ。
まず司会をご紹介します。
「こんにちは。俺の名前は東野恒樹です。今日登場する二人と接点が多いオリキャラということでしゃしゃり出てきました。実はロンドン在住です。あ、訊いていませんか、すみません。では、本題に入ります」
【1.お互いを知っていますか?】
恒樹「最初の質問です。お互いのこと知ってる? って、馬鹿っぽい質問だな、これ」
キャラ1「知っているよね〜」
キャラ2「うん。もちろん」
キャラ1「だって、私たち一緒に暮らしているんだもの……」
キャラ2「ちょっと! その言い方は誤解を生むから! ホームステイってちゃんと言ってよ」
【2.知ってても知らなくても、互いに自己紹介してください。】
恒樹「だ、そうです。自己紹介して」
キャラ1「こんにちは。私はリナ・グレーディクです。スイス人で16歳。交換留学で日本に来ました〜」
キャラ2「僕は遊佐三貴、東京に住む中学生です。リナ姉ちゃんは家にホームステイしています」
恒樹「ちなみに、三貴君のお兄さんの栄二くんは、俺が日本にいた時の高校で一年後輩でした。その同じ高校には、栗栖紗那さんの作品「Love Flavor」のオリキャラが通っています」
リナ「私の話は?」
恒樹「あ、俺とリナは、ロンドンで偶然知り合ったんだよね。まさか栄二の家に行くとは思わなかったけれど」
リナ「ね〜。すごい偶然よね。ロンドン面白いから、また行きたいな」
恒樹「それよりも、作品名とか言わなくていいわけ?」
ミツ「あ、忘れていた! 『リナ姉ちゃんのいた頃』シリーズです。どうぞよろしく」
【3.お互いを初めて見た時の印象は?】
恒樹「さて、次の質問。お互いの第一印象を答えて。確か二人は成田空港で初対面したんだよね」
リナ「そうなの。迎えにきてくれたのよね。あの時のミツは怯えているみたいだったかな。でも、お父さんは全然英語を話せなくて、ミツが通訳してくれたからびっくりした。よくわからない英語だったけどね。最近はずいぶんマシになってきたけど」
ミツ「悪かったね。日本人が英語を学ぶのは、リナ姉ちゃんみたいな、似た言語の人が学ぶのと違って大変なんだよっ」
恒樹「で、君の方の第一印象は? リナをみてどう思った?」
ミツ「派手だなって。いや、今でも派手だけど。あと、すごい美少女が来たって思った」
リナ「今でも美少女でしょ」
ミツ「それを意識させないほどの破壊力がある……と思う」
【4.あなた達の共通点は?】
恒樹「共通点ってある?」
ミツ「ないです」
リナ「そんな断言することないでしょ!」
ミツ「あえていうなら未成年ってことくらいかな」
恒樹「英語が話せるってのは?」
リナ「そうそう。コーキもそうよね。ねえ、私、スコットランドにも行きたいんだけれど、連れて行ってくれる?」
恒樹「え? いいけど、ミツ君も来る?」
ミツ「え、いいんですか? ご迷惑じゃないかなあ」
恒樹「君、中学生なのにずいぶん氣を遣うんだね」
【5.共通の知り合いはいますか?】
恒樹「次の質問。共通の知り合いはいますかって、そりゃあいるよね。」
リナ「コーキでしょ。三羽がらすでしょ。コトリとヤキダマ(山西左紀さんのオリキャラ)でしょ。あと斉藤専務!」
ミツ「ちょっと待った。僕は斉藤専務は知らないんだけど。それは父さんの上司だよ」
リナ「まあまあ。そのうちにミツも知り合いになるから。あとねぇ、スイスの友達のドミニクが遊びに来たいって言ってるのよね。そのうちに来るかも〜」
ミツ「ええっ。なんか波瀾万丈の予感が……」
リナ「あとねぇ。100円ショップで会った女の子たち!」
ミツ「あ、紗夜先輩たち?」
(作者注・この女の子たちも栗栖紗那さんの「Love Flavor」からのみなさんです)
【6.共通の知り合いがいる場合,その人はあなた達にとってどんな存在ですか?】
恒樹「いっぱいあげられちゃったけど、どの知り合いについてでもいいや、どんな存在?」
リナ「斉藤専務はねぇ。パパの知り合いなんだけれど、困ったことがあったらいつでも相談してって言ってくれて、けっこうピンチを救ってくれたよね」
ミツ「あ、銀行事件とか、ツーリングにいかせてくれた件とかのこと? 確かに。知らない人だけど、いっぱい助けてもらっているや」
恒樹「コトリさんとヤキダマさんは?」
ミツ「とても親切で、面倒見のいいお二人です。コトリさんは、首都高の入口でヒッチハイクしていた見ず知らずのリナ姉ちゃんを連れてきてくれたし、二人でバイクのツーリングに連れて行ってくれたんですよ」
リナ「美味しいものも好きなのよ。連れて行ってくれる所どこでもすごく美味しいものが出てくるの」
ミツ「姉ちゃん、そこしか見ていないの(苦笑)」
恒樹「100円ショップの女の子ってのは?」
ミツ「紗夜さん、美汐さん、高音さんっていう先輩です。」
リナ「ミシオはドイツ語もペラペラだったよね。百均の攻略法をいろいろと教えてもらったんだー」
恒樹「ドイツ語で攻略するようなことかな……まあいいか、次いこう」
【7.最後の質問です。あなた達は仲良く出来そうですか?】
恒樹「仲はいいんだよね?」
リナ「いいよね?」
ミツ「え。も、もちろん。リナ姉ちゃんが来てから退屈することないし」
リナ「スイスにも絶対遊びに来てね」
ミツ「うん。まだ先の話だけれどね」
【8、関係が気になる人の居るサイトマスターさんに回して下さい。】
恒樹「というわけで、誰かにまわしてくれって」
リナ「まわせと言われても、他のサイトはあまり知らないのよね。サヤはどこのブログで会ったんだっけ?」(作者注・栗栖紗那さんのところですよ!)
ミツ「コトリさんとヤキダマさんから回ってきたから、あそこにはまわせないし。恒樹さん、誰かご存じないですか」
恒樹「え。だったら、蓮たち「Love Flavor」の面々……。あ、でも、栗栖紗那さんがOKしてくれたら、だけど。」
他にもなさりたい方がいらっしゃいましたら、ぜひどうぞ!
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scriviamo! 2014のお報せ
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「scriviamo!」というのはイタリア語で「一緒に書きましょう」という意味です。
私、八少女 夕もしくはこのブログに親近感を持ってくださるみなさま、ずっと飽きずにここを訪れてくださったたくさんの皆様と、作品または記事を通して交流しようという企画です。あ、創作関係ではないブログの方、コメントがはじめての普段は読み専門の方の参加も大歓迎です。昨年も、この「scriviamo!」がきっかけで親しくなってくださった方が何人もいらっしゃいます。特別にこの企画のために新しく何かを用意しなくても構いません、とにかくご参加くださいませ。
では、参加要項でございます。
ご自身のブログ又はサイトに下記のいずれかを記事にしてください。(もしくは既存の記事または作品のURLをご用意ください)
- - 短編まはた掌編小説(当ブログの既発表作品のキャラとのコラボも歓迎)
- - 定型詩(英語・ドイツ語・または日本語 / 短歌・俳句をふくむ)
- - 自由詩(英語・ドイツ語または日本語)
- - イラスト
- - 写真
- - エッセイ
- - Youtubeによる音楽と記事
- - 普通のテキストによる記事
このブログや、私八少女 夕、またはその作品に関係のある内容である必要はありません。テーマにばらつきがある方が好都合なので、それぞれのお得意なフィールドでどうぞ。そちらのブログ又はサイトの記事の方には、この企画への参加だと特に書く必要はありません。普段の記事と同じで結構です。書きたい方は書いてくださってもいいです。ここで使っているタグをお使いになっても構いません。
記事がアップされましたら、この記事へのコメント欄にURLと一緒に参加を表明してください。鍵コメでも構いません。「鍵コメ+詩」の組み合わせに限り、コメント欄に直接作品を書いていただいても結構です。その場合は作品だけ、こちらのブログで公開することになりますのでご了承ください。(私に著作権は発生しません。そのことは明記します)
参加者の方の作品または記事に対して、私が「返歌」「返掌編」「返イラスト(絵は描けないので、フォトレタッチの画像です。念のため)」「返事」などを書き、当ブログで順次発表させていただきます。Youtubeの記事につきましては、イメージされる短編小説という形で返させていただきます。(参考:「十二ヶ月の歌シリーズ」)鍵コメで参加なさった方のお名前は出しませんが、作品は引用させていただくことがあります。
過去に発表済みの記事又は作品でも大丈夫です。
期間:作品のアップ(とコメント欄への報告)は本日以降2014年2月28日までにお願いします。こちらで記事にする最終日は3月10日頃を予定しています。
皆様のご参加を心よりお待ちしています。
【注意事項】
小説には可能なかぎり掌編小説でお返ししますので、お寄せいただいてから一週間ほどお時間をいただきます。
小説以外のものをお寄せいただく場合で、返事の形態にご希望がある場合は、ご連絡いただければ幸いです。(小説を書いてほしい、エッセイで返してくれ、定型詩がいい、写真と文章がいい、イメージ画像がいいなど)。
ホメロスのような長大な詩、もしくは長編小説などを書いていただいた場合でも、こちらからは詩ではソネット(十四行定型詩)、小説の場合は5000字以内で返させていただきますのでご了承ください。
当ブログには未成年の方も多くいらっしゃっています。こちらから返します作品に関しましては、過度の性的描写や暴力は控えさせていただきます。
同時にStella参加作品にしていただいても構いません。その場合は、Stellaの規定と締切をお守りいただくようにお願いいたします。もちろん、私の参加していない他の企画に提出するのもOKです。(もちろん、過去に何かの企画に提出した既存作品でも問題ありません)
なお、可能なかぎり、ご連絡をいただいた順に返させていただいていますが、準備の都合で若干の前後することがありますので、ご了承くださいませ。
嫌がらせまたは広告収入目当の書き込みはご遠慮ください。
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明けましておめでとうございます

当ブログ scribo ergo sum 二回目のお正月を迎えました。スイスでも新年です。
今年も、小説をたくさん書いて、校正して、アップできたらいいと思います。そして訪問させていただく皆様のブログで小説、イラスト、記事その他を拝見させていただくのも楽しみにしています。旧年にも増して楽しい交流ができますように。
本年もscribo ergo sumをどうぞよろしくお願いします。
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