【小説】夜のサーカスと赤いリボン - Featuring 「物書きエスの気まぐれプロット」
本日発表する小説は、40,000Hit記念の第二弾で、山西左紀さんさからいただいたリクエストにお答えしています。いただいたお題は「ダンゴ(という左紀さんのオリキャラ)を使って何か」でした。サキさん、リクエストありがとうございました。
左紀さんの「ダンゴ」の出てくる小説 物書きエスの気まぐれプロット8(H1)
さて、こう来たからには、やっぱり「夜のサーカス」とのコラボでしょう。(どこがやっぱりなのか?)ご希望に添えたかどうかはちょっと疑問なのですが、少なくとも発表日にだけはこだわってみました。今日はサキさんのお誕生日です。だから、うちの看板キャラたちをかなりたくさん出演させて、作品を書いてみる事にしました。
サキさん、Happy Birthday! 健康で楽しい事のたくさんある一年となりますように。(追記:そして、オリキャラのエスも今日がお誕生日だそうです。おめでとうございます!)
「夜のサーカス」番外編
夜のサーカスと赤いリボン
- Featuring 「物書きエスの気まぐれプロット」

今日のアントネッラは挙動不審だった。もともと彼女は世間が期待するような挙動はあまりしていないのだが、いつもと違って今日はコモの町中にいたので、人眼を惹いた。彼女はあまがえる色の日本製バイクの前に立って、あっちから覗き込んだり、こっちから眺めたり、かれこれ十分もそのバイクの前にいた。
バイクの持ち主は、ちかくのバルでのんびりとコーヒーを楽しんでいたのだが、明らかにモーターサイクルファンとは違う様相の女が自分のバイクの前でウロウロしているので、不安になり、ずっとアントネッラの動きに注目していた。
さらに十分ほど眺めた後、アントネッラは自分に宣言した。
「これを書くのは、私には無理だわ」
アントネッラはブログで小説を書く友達エスからのリクエストを受けていた。お題は「ダンゴを使って、何か物語を書いてほしい」だった。ダンゴというのは、エスの小説に出てくる女の子だ。一体何の因果でそんなニックネームを頂戴する事になったのか、エスの小説ではまだ詳らかにはなっていない。そもそも「ダンゴ」とはどういうものなのか、イタリア人のアントネッラには今ひとつ理解できていない。辞書で調べるとコメの粉を原料とした球形のケーキのようなものという事なのだが、場合によってはジャガイモなど他の原材料でも作るし、鼻の形容にも使われるとあり、ますます何を指しているのかわからなくなった。しかし、エスの小説によると髪をポニーテールにした可愛い女の子のようなので、たぶん球形の食べ物と外形上の因果関係はないのであろう。
この他に、小説ではダンゴのボーイフレンドと予想される青年が出てきた。ケッチンというニックネームで、こちらはどの辞書にも出てこない単語だった。もっともアントネッラの検索能力は非常に低いので、日本語で「ケッチン」が意外と知られた単語である可能性もないわけではなかった。そのケッチンはかわいいダンゴの姿を褒める事もせずにバイクの事を話すのだが、この関連でアントネッラはコモの街にまでできてバイクを観察する事になったのだ。
バイクに関する小説を書く事を放棄したアントネッラは、そのまま湖畔沿いにゆっくりと歩き、書くはずだった自作小説「夜のサーカス」のことを考えた。「チルクス・ノッテ」というサーカス面白い題材を発見して、その人間模様を書いた長編小説をずっと温めてきたのだ。でも、その小説はお蔵入りになりそうだった。なぜならその主人公のモデルにあたる青年のことを好奇心から調べているうちに、意外な事実が明らかになりドイツ警察も巻き込んだ大事になってしまったからだ。アントネッラがこの小説を発表すれば、モデルとなった青年の事を書いていると多くの人にわかってしまう。それで泣く泣く原稿をくずかごに放り込んだばかりだったのだ。
「そうだ! だったら、せめてこの短編にはあの二人を出そう。それがいいわ」
アントネッラは急いで自分の部屋に戻ると、古いコンピュータの電源を入れて、あまり上手く入力できないキーボードを叩くようにして、作品を書き出した。
ステラはヨナタンと湖畔の道を歩いていた。この春のように穏やかな暖かい心持ちでの散歩だった。たくさんの言葉は必要ではなかった。キラキラと輝く湖水が世界を祝福しているようだった。ステラは高く結ったポニーテールを二つに分けてぎゅっと左右に引っ張った。キラキラ光る金髪をまとめたゴムが締まって、きもちまでも引き締まったように思えた。ステラはお氣に入りの赤いリボンをしていた。サーカス「チルクス・ノッテ」に入団して、最初のお給料で買った思い出の品だ。大好きなヨナタンが道化師の扮装をして掲げる紅い薔薇を思わせる色だった。
少し先の方に、小さな人だかりがてきていた。
「なんだろう。ヨナタン、行ってみない?」
青年は黙って微笑んだので、ステラはとても嬉しくなって駆け出した。
近づいてみると、そこには四人組の大道芸人がいて二人はフルートを、一人はギターを奏で、その真ん中で青年が見事なテノールで歌っていた。
「あ、この曲、知ってる……何だっけ……」
「ドリーゴのセレナーデ」
ステラの問いかけに、ヨナタンは小さな声で答えた。
「『百万長者の道化師』とも言うんですよね」
突然、横から東洋人風の女の子が口を挟んだ。ステラは「まあ!」という顔をしてヨナタンを見たが、その「まあ」に含みを感じたヨナタンは露骨にイヤな顔をした。
ステラは慌てたように、東洋人の女の子の方を向いて話しかけた。
「こんにちは。あなたは旅行中なの?」
女の子はにっこりと笑った。深緑と茶色のジャケットのポケットに両手を突っ込み、飾り氣のない少年のようないでたちで、セミロングの髪も無造作に後ろで束ねてあるだけだ。でも、笑うと形のいい唇の口角が上がって女の子らしくなる。微かに色のさしたふっくらとした頬が柔らかそうだ。
「日本から来たんです。ダンゴって、みんなに呼ばれています」
ステラは大きく握手をしてダンゴに笑いかけた。
「私はステラよ。こちらはヨナタン。私たち、サーカスで働いているのよ」
「わたし、あなたを知っています。昨夜、サーカスを観に行ったんです。あなたのあの演技、とても素敵だったわ。なんていうのかしら、あの演目……。布を体に巻き付けてそれを飛ぶみたいな……」
「エアリアル・ティシューって言うのよ。見てくれてありがとう。このヨナタンは、ジャグリングをしていた道化師なの」
ダンゴの差し出した手をヨナタンも握って微笑んだ。「道化師の曲にぴったりね」ダンゴがそういうとヨナタンは肩をすくめた。
「ダンゴは一人で旅をしているの?」
「そうなんです。でも、短い旅で、すぐに帰るんです」
「どうして?」
「とても大切な人の誕生日がすぐなの」
「まあ、おめでとう!」
「伝えます」
ダンゴはうつむいて小さく笑った。それからステラとヨナタンを眩しそうに見て、それから何度かとまどってから、ようやく口を開いた。
「お二人、とても仲がいいんですね」
ステラとヨナタンはびっくりしたように顔を見合わせたが、何でもないようにヨナタンが微笑むとステラはにっこりと笑って言った。
「そうなの。あのね、私がヨナタンの事を大好きでアタックしまくっているの。それをわかって、ヨナタンは優しいから一緒にいてくれるのよ」
それからダンゴの耳に口を近づけた。
「もしかして、ダンゴは誰かと仲良くしたいの?」
ダンゴはじっと下を向いた。そんなことは、自分では思っていなかったし、そう意図して訊いたわけでもなかった。でも、そういわれてみると、もしかしてステラに訊きたかったのはその事だったのかもしれないと思った。
ステラはとても嬉しそうに笑った。
「答えなくていいの。あのね。おまじないを教えてあげる。もしかして、ずっと後の事だけれど、だれかと仲良くしたくても勇氣が出ないようなことがあったら、つかうといいわ」
それからポニーテールに手を当てると、するっとサテンでできた赤いリボンをぬいた。
「ほら、綺麗でしょう。ミラノで買ったの。これをしているとね、とても可愛い女の子になれるの。大好きな人の前に立って、ほら見て、可愛いでしょうって言いたくなるのよ。赤はハートの色なの」
そういうと、さっとダンゴの髪の周りに赤いリボンをかけて、カチューシャのようにし、右の上の方に蝶結びをした。ダンゴの顔が、花が咲いたように明るくなった。ほらかわいい。ステラはにっこりと笑った。
「普段は男の子みたいでもいいの。でもね、この世にはセクシーできれいな女の人や、優しくてかわいい子がいっぱいいるでしょう? だから、いつも男の子みたいにしていると、男の子にとって透明になっちゃうの。だから、ここぞって時には可愛い女の子だよって、アピールしないと忘れられちゃう。ダンゴは足も綺麗だから、ミニスカートも似合うのよ」
ダンゴはびっくりして手を振った。ミニスカートなんて履こうと思った事もなかった。
ステラはダンゴの反応におかまいなしにどんどんと続けた。
「一度で氣がついてくれなくてもがっかりしないでね。なんどもなんどもしつこくアピールしたら、きっと氣づいてくれるから」
それを聞いて、ヨナタンはやれやれという風に天を仰いだ。ダンゴは本当なんだと思っておかしくなった。
「さあ、ダンゴの大事な人のお誕生日の前祝いをしてもらいましょう!」
ステラはダンゴの腕をとって、大道芸人たちの前に連れて行った。ヨナタンがギターケースの中に五ユーロ札をそっと置いた。ステラが四人の大道芸人たちに耳打ちすると、四人は大きく頷いて、演奏を始めた。
Tanti Auguri a te,
Tanti Auguri cara S,
Tanti Auguri a te!
Happy birthday to you.
Happy birthday to you.
Happy birthday dear サキさん.
Happy birthday to you!
(初出:2013年3月 書き下ろし)
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デジャヴを感じる方もいらっしゃるでしょう。「十二ヶ月の組曲」の十二月分「樹氷に鳴り響く聖譚曲」ででてきた沙羅の再登場です。登場人物のあり方については批判があるかもしれません。苛つく方もおありでしょう。そんなタイプも含めて人間という存在を描くのがこの「十二ヶ月の……」シリーズです。

思い出のコールスロー
はじめてそのキャベツを眼にした時は、何の冗談かと思った。小人の被っている帽子みたいに三角錐だった。普段買いにいっている有機農家のディノがつやつやの淡い緑をぽんと叩いた。
「ものすごく美味しいんだよ。たった今収穫したばかりさ。それに日本原産なんだよ」
そう言われたら買うしかない。でも、二人暮らしでこんなに大きなキャベツを消費しきれるんだろうか。沙羅は予想外に重くなった買い物バックを抱えるようにして歩いた。ヴェローナの郊外、街の喧噪から離れ、けれどざわめきが恋しくなればすぐに戻っていける絶妙な位置にある小さいヴィラはグイドーのお氣に入りだった。1800年代の終わりの建物は、最近のベコベコした建築と違い、どっしりとして美しく彼の鋭い審美眼に適った。天井が高く暖房効率が悪かったので、彼は居間と寝室を徹底的に改装したと話してくれた。それでも真冬ともなれば決して快適とは言いづらい。そういえば彼の離婚した妻が去ったのは、真冬だったと聞いている。
沙羅がこの家に越してきたのは一年と少し前、つまり今は二度目の冬が明けた所だった。一年以上もこの同居が続くとは自分でも思っていなかった。一緒に住もうというのは、彼のよくある氣まぐれだと思っていた。他人事のように考えてしまう自分にはどこか欠陥があるのかもしれない、沙羅は思った。
重たい玄関の扉を開けると誰に言うでもなく「ただいま」と言った。すると奥から「オカエリ」という声が聞こえた。グイドーはアトリエにいるものだと思っていたので沙羅は驚いた。彼は台所でワインを開けていた。
「おや、重そうだね」
すぐに戸口までやってきて沙羅の抱えている買い物鞄を受け取った。それから沙羅の頬に優しくキスをした。沙羅はこの習慣に慣れなかった。
つまり、あのモデルは帰ったのだろう。きちんと暖房のきくアトリエ。モデルが寒くないように、ここだけは断熱して改装し、二重窓にしたらしい。大きい窓から射し込む春の柔らかい陽射しに浮かび上がる若くて張りのある肉体をグイドーが細部にわたり観察をするとき、沙羅は頼まれもしないのに少し遠くまで買い物に出かける。画家とモデルという関係にしては不都合な奇妙な雑音を、二人が沙羅を氣にせずに発生させてもいいように。
たぶん、しばらくするとあのモデルは我が物顔でこの家に入り浸るようになるだろう。そして沙羅にここを出て行くようにと示唆するのだ。これまでもそういう事があった。沙羅は素直にそうすべきかと思うが、少なくともこれまではグイドーがモデルに出て行くように言い、そして二度とそのモデルは使われなかった。
沙羅はキッチンで料理を始める。先の尖った変わったキャベツは、外側の葉が丸まっていないので通常のキャベツより剥がしやすかった。イタリアで見るキャベツは、日本で馴染んでいたものよりもはるかに小振りで、外の葉だけを数枚剥がすのは困難だった。
「変わったキャベツだな」
グイドーがワインを飲みながら話しかけてくる。沙羅は微笑んで「知らなかったけれど日本原産なんですって」と言うと手早くキャベツをさっと茹でていった。ロールキャベツを作るのは何年ぶりだろう。グイドーに食べさせるのは少なくともはじめてのはずだった。
「それは日本料理?」
沙羅は笑って首を振った。
「フランスかどこかの家庭料理じゃないかしら。詳しくはわからないけれど、日本料理じゃない事だけは確かね」
「そうか。いい匂いだ。君みたいに料理のうまい女性と暮らせて僕は幸せだな」
モデルが帰ったあとのグイドーは、とても優しい。そんな必要はないのに。沙羅は彼と結婚していないのだから、彼の不実を責める立場ではないと思っている。それに、不実なのは彼だけではないのだ。どうして彼を責める事ができるだろうか。グイドーは沙羅に不実を知られている後ろめたさをもっているが、沙羅は知られていないから後ろめたい。それともグイドーは画家としての細やかな観察力ですべてを理解した上で、そのままの沙羅を受け止めているのかもしれない。
フィレンツェの美術専門学校で修復コースを終了する一ヶ月前に、沙羅はグイドー・バリオーニに出会った。ミラノのガッレリア・デイタリアでイロッリの印象的なオレンジを眺めている時に話しかけてきたのだ。コースを終了したら再び日本に戻るつもりだった。けれどグイドーはあっという間に沙羅にミラノでの仕事を見つけてきた。イタリアで仕事をしながら経験を積めるチャンスなど二度とめぐって来ないだろう。だから、彼女はそれに飛びついた。
そして、グイドーと逢う事も増えた。美術界に影響力を持つ壮年の画家が、日本の名もない修復師の卵に興味を持つとは思っていなかった。たとえ持ったとしても一時的なもので、それは便宜を図ってもらったからには果たすべき義務のように感じていた。彼に恥をかかせてはならないと。そして、あっさりと忘れてしまわれても当然だと思っていた。事実、グイドーはモデルだけでなく、多くの女性たちと華やかな浮ついた関係を持つ男だった。
だが、彼は沙羅とだけはいつまでも関係を持ちたがった。ベッドの中の関係だけでなく、郊外の農園に連れて行ったり、オペラへ同伴したり、もしくは夕暮れに自宅で単にワインを楽しむためだけに沙羅に声を掛けた。多くの女たちが沙羅を敵視したが、彼女が身を引こうとすればするほどグイドーはさらに近づいた。そして、更にヴェローナでのもっと待遇のいい仕事を紹介し、ヴィラで一緒に暮らそうと提案してきたのだった。女との同居は彼の離婚以来はじめてのことだった。
「どうして私なの?」
沙羅は訊いたことがある。彼と一緒に暮らしたい、関係を持っている女は他にたくさんいた。もっと美しい、もしくはもっと彼と釣り合う社会的地位のある女たちが。
グイドーは沙羅を抱きしめて言った。
「君のそういう所がいいんだ。僕を縛り付けようとしない。自由でいさせてくれる。男は海に出かける船みたいなものだ。どんな島にでも行きたいと強く願うんだ。だが、船はかならず自分の港に戻ってくる。君は僕の出会ったもっとも心地のいい港なんだ」
港、私には港はないのに……。沙羅は日本に想いを馳せた。ずっと好きだった人がいた。高校生の時から忘れる事ができなかった。だが彼は別の女性を選んだ。二十年も引きずったまま、誰ともつきあわず、誰からも求められずに、仕事に生きようとした。美術館で勤めた後、修復師として自立するためにイタリアに来たが、日本に戻ってどう生きたいか自分にも見えていなかった。どうでもよかった。
考えたくなかったから、彼の言葉を受け入れた。彼が「もういらない、出て行ってくれ」と言うまでの間、彼の生活のパートナーとして暮らしてみようと。
学会でスイスに来るので逢いたいと各務慎一が連絡してきたのは十二月だった。沙羅はサン・モリッツに行き、二十年ぶりに彼に逢った。逢うべきではなかったのに、逢いに行ってしまった。心のどこかでは願っていた。ずっと同じ想いだったのだと、これまでが間違っていたのだと、そう告げてくれる事を。
けれど、慎一は彼の家族のもとに帰って行った。グイドーの言葉が心に突き刺さる。「船はかならず自分の港に戻ってくる」そうなのだ。彼の港は、沙羅ではないのだ。二十年想おうとも、躯を重ねようとも、それを変える事はできない。沙羅の心は完全に方向を見失った。過去にも、未来にも踏み出す事ができないまま、日常に流されていた。それはこれまでと同じだった。
調理台の上の残ったキャベツを見た。こんなにたくさんどうしよう。トンカツの付け合せにもしないし……。大量に消費できるのは、他には……。
沙羅は日本から持ってきた、素材別に献立を決められる料理本を探した。あった。キャベツ、キャベツ。あ、コールスローがあった。千切りキャベツよりも日持ちがする上、かさが減って思ったよりもたくさん食べられる。これなら、グイドーも食べるに違いない。
コールスローサラダを好きになったのは、高校生の時によく行ったチキン専門のファーストフード店でだった。生徒会が終わった後に、メンバーでよく食べに行った。各務慎一がいた。姫こと今は慎一の妻となっている麻紀がいた。たくさんの懐かしいメンバーがいた。まだ、誰かが誰かとつき合うなどということもなく、ただワイワイと楽しんでいた。ワインなどではなくMサイズのオレンジジュースを飲みながら日が暮れるまでおしゃべりをした。チキンでベトベトになった指を舐めながら笑い転げた。
「これ、おいしいよ」
慎一が薦めてくれたコールスローサラダを食べたら美味しかった。それからは、高校を卒業してからも、そのファーストフードに行く時は必ずコールスローサラダを頼んだものだ。イタリアにはそのチェーンはないので、沙羅はもう何年もコールスローサラダを食べていなかった。
キャベツを千切りにする。人参を四角いチーズおろしの目の粗い方で削る。マヨネーズ、エクストラバージンオリーブオイル、白ワインビネガーのかわりにバルサミコ・ビアンコ、キャラウェイシード、そして塩こしょうを混ぜて馴染ませるだけ。とても簡単なサラダだ。作ってすぐよりも一日くらい置いた方が味がしみる。
グイドーが鼻歌を歌いながらロールキャベツの味見をしている。沙羅はテーブルの上にスープ皿とカトラリーをセットしていく。穏やかな一日がゆっくりと暮れて行く。沙羅はガラスのボールに蓋をして、思い出と一緒にコールスローサラダを冷蔵庫にしまった。
(初出:2013年3月 書き下ろし)
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【小説】夜のサーカスとミモザ色のそよ風
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夜のサーカスとミモザ色のそよ風
アントネッラはステラの姿を見てにっこりと微笑んだ。想像通り! 《イル・ロスポ》の描写も的確だったってことね。後ろで金髪を束ねていた。金色の瞳はただならぬ決意に煌めいていた。氣もちは逸っているのだが、初対面のアントネッラに対してはにかんだ様子が、桃色の口元に現れている。
「ようこそ。ステラ。あなたに会えてとても嬉しいわ」
コモ湖にはそろそろ春の氣配が訪れている。あちこちでミモザが砂糖菓子のように花ひらいている。
「こんにちは。アントネッラ。あの、あの……」
どこから話をしていいかわからないでいるステラに代わってマッテオが用件を切り出した。
「なあ、あんたの調べたこと、例の警察のオッサンとやり取りしてわかったことを、ステラに見せてやってくれよ。そしたら、こいつも納得すると思うんだ。あいつが絶対に自分が誰だか言わない理由は、今の僕にはわかんないけどさ。でも、このままじゃステラは生殺しだぜ?」
「存在しない人間とは結婚できないよ」
「僕とはもう関わらない方がいい」
ヨナタンはそう言ってステラと関わろうとしなくなってしまった。マッテオは、あいつは大切な人間にも言えない悪いことをしてきたに違いないと言い、ステラは、そんなはずはない、何か事情があるなら助けてあげたいと、藁にでもすがる思いでここにやってきたのだ。
「事情はわかったわ。まずは私にわかっていることを整理して説明するわね」
アントネッラは努めて理性的に説明を進めた。ただの推論は一切入れなかった。
「まず、この新聞の切り抜きをみてちょうだい」
アントネッラは黄ばんだ新聞の切り抜きをステラの前のテーブルにそっと置いた。
「両親を殺害後、罪の意識に耐えかねて自殺か? — ボーデン湖」
十二年前の六月の新聞記事はドイツ語だったので、ステラには読めなかったがアントネッラが訳して読み聞かせた。マッテオが、ほらみろと眉を上げた。
「イェルク・ミュラーという15歳の少年の両親は刺殺された。それから一人の少年が湖に飛び込んで行方不明になった。同乗していた男の証言から、この飛び込んだ少年がイェルク・ミュラーだということになっているけれど、そうだとすると納得のいかないことがいくつかあるの。それと同時に、あなたたちと一緒にいる道化師の青年が、その飛び込んだ少年じゃないかと思われるいくつかの根拠もあるの」
アントネッラはコンピュータの脇に積まれたバベルの塔のように不安定な書類の山の下の方から、器用に書類ばさみを引き抜くと、その中に入っていたイタリア語で書かれたメモといくつかのプリントアウトされた書類を見せた。一枚は十二年前の五月末から一ヶ月間のヨーロッパの各都市の天候、一枚はミラノ市エンターテーメント広報委員会の「今月の催し物一覧」で、チルクス・ノッテの名前が見えた。
「このミラノ興行の最中にあなたたちの団長がずぶ濡れで飢えていたヨナタンと名乗る少年をサーカスに連れ帰った。ところが、この一帯には少なくとも二週間以上雨は降っていなかった。そして、ボーデン湖で少年が消息を絶ったのは六月十一日。彼の年齢とも合うでしょう?」
「当時ヤツは十五歳と言ったってことだ。本当かどうかはわかんないけどさ」
「でも、そのイェルク・ミュラー少年じゃないって話は?」
「ええ、このメモをみてちょうだい。ミュラー少年は事件の四年前から、ミュンヘン郊外の伯爵家アデレールブルグ城に引き取られてそこで暮らしていたの。伯爵はミュラー少年より一つ年上なんだけれど、ボーデン湖事件の直後に伝染病で急死しているの」
アントネッラのメモには、元ドイツ警察にいたシュタインマイヤー氏から得た情報を整理した二人の少年の特徴が書かれていた。
「ゲオルク・フォン・アデレールブルク伯爵(若様、パリアッチオ)十六歳、ブルネットで鳶色の瞳。聡明でもの静か。イェルク・ミュラー(小さい若様、ピッチーノ)十五歳、金髪で青い瞳、明るく人なつこい性格。重度の知的障害あり」
「金髪で青い瞳。ヨナタンじゃない。ヨナタンは人殺しなんかじゃない」
ステラが憤慨すると、アントネッラはまあまあという顔をした。
「実はね。ボーデン湖遊覧船には匿名の目撃者がいてね。飛び込んだ少年は同乗者に拳銃で脅されていたというの。そして、その目撃者の情報によると少年はブルネットでしっかりした様子だったというのよ」
「つまり、イェルク少年の両親を殺したのは伯爵の方だってことだろう」
マッテオが口笛を吹くとアントネッラは彼を睨んだ。
「少年がミュラー夫妻を殺したと言われているのは、同乗した男の証言からでしょう。その男が少年を拳銃で脅していたとしたら、その証言は信用できないわ」
「なぜ、その男は逮捕されないんですか?」
「拳銃で脅していたというのは匿名の電話の情報だけ、同乗していた男は伯爵の伯父ミハエル・ツィンマーマンの腹心の部下。そして、伯爵の母、つまりツィンマーマンの妹であるアデレールブルグ夫人が伯爵は病死したと証言しているので立件できなかったらしいの」
アントネッラは一冊のドイツで発行された十二年前の社交雑誌を取り出した。
「これはね、少年伯爵が生前にたった一度だけ人びとの前に姿を現したときの写真なの。とあるパーティなんだけれどね。ちょっと遠いんだけれど、伯爵があなたの知っている人かどうかわかるかしら」
「……ヨナタン」
「確かに似てると言っちゃ似てるけど、遠目だし少年だよな」
そういうマッテオを制してステラははっきりと言った。
「私、十一年前にヨナタンと逢っているの。この写真は間違いなくヨナタンよ。嘘だと思うなら、団長やジュリアにも証言してもらえばいいわ」
「やっと証人ができたわ。あれはイェルク・ミュラーではなくてアデレールブルグ伯爵だった。つまり、ボッシュの証言、ミュラー少年が両親を殺して自首のために警察に行く途中だったってのは嘘で、伯爵殺害未遂だったのよ」
そういうとアントネッラはシュタインマイヤー氏に電話を始めた。
――でも、変ね。なぜ彼はよりにもよってヨナタンと名乗ったのかしら? 船に同乗して彼を殺そうとしたのはボッシュ。ヨナタン・ボッシュ……。
テントに戻る道すがら、ステラと並んで歩きながらマッテオは首を傾げている。
「やっぱり納得できないな。お城を持っている伯爵さまで、乗っ取られたんならなぜ自分で違うって言わないんだよ。殺されそうになった、殺人の濡れ衣を着せられたって言えばいいじゃないか」
それからステラの泣きそうな様子に目を留めた。
「なんだよ。さっきまでの勢いはどうしちゃったんだよ」
「ヨナタン、伯爵さまだったんだね」
「あん? お前がそうだって断言したんだろ」
「うん。間違いなく、ヨナタンだった。そして、だからヨナタン、結婚できないって言ったんだね」
「は?」
「パスポートのないままでは、結婚できない。でも、自分が誰かをはっきりさせて、パスポートをもらっても、お城の王子様がサーカスのブランコ乗りと結婚できるわけないものね。だから、だから……」
ジュリアは金切り声をあげた。
「ステラ! いい加減にしなさい! いったい何をしているの!」
ステラはデュエットの練習中だったが、まともに演技が出来なかった。集中しようと思っても想いは先ほど見た雑誌に戻っていく。ロココ調の美しい広間に佇む少年ヨナタン。きちっとした黒い背広を身につけて背筋を伸ばして立っていた。彼の後ろにはオーケストラが奏でているようだった。ヨナタンはいつもラジオでクラッシック音楽を聴いていた。彼はあの世界に属しているのだ。ここ、大衆が喜ぶテントのサーカスではない。
ネットに落ちた。ジュリアは金切り声で罵った。ステラはもう動けなくなって、泣き出した。何もかも終わりだ。子供の頃から、ヨナタンにふさわしくなりたくてここを目指してきたのに。そして、もうここ以外のどこにも行くことはできなくなってしまったのに。ヨナタンといつか上手くいくという夢は無惨に壊れてしまった。これからの人生、何を目指していけばいいのかわからない。
マッテオはネットに飛び降りてきて、ステラを慰めようとした。ステラが激しく泣いているすぐ脇を、鍛錬を終えたヨナタンが出口に向かって通り過ぎていった。ヨナタンはステラたちの方を見ようともしなかった。烈火の如く怒っていたジュリアもその冷淡な様子にぎょっとしたようだった。
マッテオはカッとなった。誰のせいなんだよ! 結局お前はステラを弄んだだけじゃないか。自分に害が及びそうになると、トカゲが尻尾を切るみたいに捨てやがって。彼はネットから飛び降りるとヨナタンを出口の手前で捕まえて胸ぐらをつかんだ。
「てめえだけは許せない!」
「僕は君には何もしていない」
「僕にじゃねえょ! ステラがあんなになったのはてめえのせいだ。わかっているんだろう」
「君には関係ないだろう」
「関係ないだって! すかしてんじゃないぞ。アデレールブルグの坊ちゃんだかなんだか知らないけれど」
その言葉を聞いた途端にヨナタンの表情が変わった。
「……今、なんて言った?」
ステラはぎょっとして泣くのをやめた。マッテオは勝ち誇ったように口の端を歪めた。
「ふふん。クールなフリもおしまいかよ。俺たちが何も知らないとタカをくくっているんだろ。アデレールブルグの伯爵さま……」
マッテオもステラもジュリアも全く予想していなかった事に、ヨナタンはマッテオに飛びかかった。
「どこでその名前を聞いたんだ!」
「なっ、なんだよ! 暴力反対!」
ヨナタンは全く聴かずに、マッテオを押し倒しその上に馬乗りになった。マッテオは鍛え抜かれた肉体をもち、そう簡単に組み敷かれたりする体力ではないのだが、突然のことで準備ができていなかった。それに、ブルーノと違って、マッテオはこれまで一度もヨナタンと取っ組み合いの喧嘩をした事がなかったので、ヨナタンにこれほどの力がある事を知らなかったのだ。そして、ヨナタンの剣幕はただ事ではなかった。
「言え! どこでその名前を知った!」
ステラはあわててネットから飛び降りると、二人の所に走っていった。
「ごめん。ヨナタン! マッテオを責めないで。私のせいなの。私が知りたがってアントネッラに頼んだの。お城のパーティでのヨナタンの写真見たの。それで、ヨナタンが殺されそうになったことも調べてくれて、警察と協力して、助けてくれるっていうの。だから、だから……」
ヨナタンはステラの言葉を聞いて、マッテオを放して立ち上がった。あれ以来、はじめてステラにまともに話しかけた。けれども剣幕は先程と同じで切羽詰まっていた。
「ステラ。そのアントネッラのところに連れて行ってくれ」
「ヨナタン?」
「今すぐ! 行かなくちゃいけないんだ。一刻も早く行かないと」
「どうして?」
「頼む。人の命がかかっているんだ……」
三人はぞっとして口をつぐむしかなかった。
アントネッラの小さな部屋は、いつもより片付けてあったが、それでも全員が入ることは叶わなかった。シュタインマイヤー氏がドイツから来ていた。ヨナタン、ステラとマッテオはともかくジュリア、双子、ブルーノ、マッダレーナまでが《イル・ロスポ》のトラックにちゃっかり乗って来ていた。
「ち。なんでお前らまでも来るんだよ」
マッテオがぶつくさ言う。
「だって、謎解きシーンを逃すのは悔しいじゃない」
マッダレーナが好奇心丸出しで言うと、双子たちも頷いた。
ただの物見塔でも、これだけの人数が集うには狭かったが、このアントネッラの居室にはほとんど足の踏み場がなく全員が中に入るのは至難の業だった。唯一客がまともに座れるのは古びたソファだけで、そこにはシュタインマイヤー氏が座っていた。《イル・ロスポ》はちゃっかりと窓辺の空間を確保し、あとにはほとんど立てる所はなかったのだが、さすがサーカスにいるメンバーで、どんなにわずかな足場でも、たとえそれがかなり身体を傾けないと立てない場所でも、まったく問題なく立つことができた。そして、これから起きることを固唾をのんで見守っていた。
「ようこそ。あなたがヨナタン、いいえ、ゲオルグ・フォン・アデレールブルグね。ようやく会えて嬉しいわ」
アントネッラが手を伸ばす。皆が息を飲む。道化師は背筋を伸ばし、挑戦するような目つきで手を伸ばした。
「違います。それは僕の名前ではありません。僕のことはヨナタンと呼んでくださればそれでいいんです」
「ねえ。もう、本当の事を隠す必要はないのよ」
「そうだ。君の安全は、この私が責任を持って……」
「あなたがシュタインマイヤーさんですね。もと警察にいらしたという……」
「そうだ、よろしく。さあ、訊かせてくれ。君は、あのイェルク・ミュラー少年が両親を殺害後に入水自殺をしたとされる事件の真相を知っているはずだ」
ヨナタンはそれを遮って言った。
「どうかその少年を行方不明の、おそらく死んだものにしておいてください」
「そうはいかない」
シュタインマイヤー氏は首を振った。
「いいかい。君は、可哀想なイェルク少年の両親殺しの冤罪を晴らしたくないのか。あの事件を立件できなかったことは私が退職するときの一番の心残りだったのだ。あの頃からの部下が今、ミュンヘンで動いているんだよ。そこのお嬢さんの証言でいま生きている君がゲオルグ・フォン・アデレールブルグであり、あれがイェルクを装った殺人事件だと立証できることになったので、実行犯としてヨナタン・ボッシュにようやく逮捕状が出てね」
ヨナタンは驚いてステラの顔を見た。ステラは自分がヨナタンの絶対にしてほしくないことをしてしまったことを知った。ああ、どうしよう。
「彼が逮捕されたと……?」
「もちろん、我々の最終的な目標はミハエル・ツィンマーマンを主犯として逮捕することだ」
「そんな。そんなことをしたら、アデレールブルグ夫人は。あの人の立場は……」
「ドロテア・アデレールブルグ伯爵夫人は、君のお母さんは……昨年亡くなったよ。心からお悔やみ申し上げる。もっとも彼女は、あの事件以来、ずっと生きていても死んでいるのと変わらない精神状態だった」
ヨナタンは、がっくりと頭を垂れた。顔を両手で覆い、しばらく何も言わなかった。ステラの胸は締め付けられた。私は、なんてことをしてしまったんだろう。こんな風にヨナタンを苦しめるなんて。
皆は辛抱強く待った。それは永遠にも思える時間だった。一番こらえ性のないマッテオが何か言おうとした時に、鳶色の髪をした青年は再び頭を上げた。窓辺から見えているミモザがわずかに揺れた。
「では、真実をお話しましょう。もう、隠しておく意味はなくなったのですから」
(初出:2014年3月 書き下ろし)
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旅行中ですが

ポルトの旅行中、サキさんのところのメイコやミクをお借りして新しいコラボの企画を立てる予定だったのですが。あ、一つ二つ新しいアイデアは仕入れたのですよ。でも、それ以外に、全く別の話がボウフラのように湧いて来て、ちょっと持て余しております。
元々、「夜のサーカス」が完結したら、五月からのStellaでは「バッカスからの招待状」を連載しようかと思っていたのです。
でも、どうしようかな。
今、生まれかけている話、長くなりそうなので、Stellaでお目見えしようかな。旅先でもこんな事考えている私、 困ったものですね。
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【小説】第二ボタンにさくら咲く
そして、テーマが合うので、先日「自由に使っていいですよ」とおっしゃっていただいたユズキさんの桜の絵で華やかにさせていただこうと思います。ユズキさん、どうもありがとうございます。
第二ボタンにさくら咲く
— Thanks for Shana-San

このイラストの著作権はユズキさんにあります。使用に関してはユズキさんの許可を取ってください。
桜が咲いてしまった。入学式ではなくて、卒業式に。今年は、例年になく早い。だが、それ以外は毎年と変わらない。三年間、この高校で学んだ子たちが、巣立って行く。嬉しいような、寂しいような。
「あおげば尊しわが師の恩、か」
歌いながら涙ぐんでいるあの子たちは、友達との別れは悲しんでいるようだが、歌詞に歌われている「師の恩」そのものはどうでもいいようだ。世話になりまくった担任はともかく、一介の国語教師の僕に何の感慨もないのは、まあ、しかたない。
僕は特に出番もなくてヒマだったので、講堂にずらっと並んだ卒業生を一人一人眺めていた。生徒会長を務めた沢田は答辞を読むので最前列にいる。妥当だな。お、やんちゃで有名だった川田の髪が黒く染まっている。就職したっていうのは本当だったらしい。その後ろには、ああ、モテ男の荘司だ。このあとの第二ボタン争奪戦が見物だろうな。
その斜め後ろには、後藤加代が座っていた。彼女も卒業だったかと思うと、少し胸が痛んだ。いや、もちろん教師の僕が高校生の彼女に邪な感情を持っているわけじゃない。だけどなあ。
本人に告白された事はないが、なぜか複数の人から加代が僕のファンだというようなことを聞かされていた。自慢じゃないが、六年の教師生活で僕が女生徒に憧れられた事はこれまで皆無だったし、これからもないだろう。体操で国体に出場経験がある体育教師の吉川や、憂いを含んだ横顔が腐女子に受けている数学の新城は、バレンタインデーでいつも大量のチョコをもらい、僕ら全くもらえない奴らにお裾分けをする余裕もある。だが、僕は背も高くないし、顔は十人なみ、教えているのも生徒の嫌がる古文と、モテる要素は皆無だ。
後藤加代は大人しいがしっかりとした印象の子で、成績もそこそこ優秀、クラスに上手く馴染めないでいた同級生を誘ってやるなど、クラス運営に頭を悩ませていた担任からも頼りにされている子だった。
変な噂は、加代が毎回古文だけ百点を取り続けたところからはじまった。古文の眉村に熱を上げているからだって。それから、「源氏物語」の現代語訳を買うとしたらどれがいいかと質問にやってきたり、クラスメイトの田中真知子の赤点の補習につき合って放課後残ったりしたもので、ますます噂が広まった。でも、バレンタインデーにチョコレートくれなかったし、ただの噂だろう。それでも、卒業してしまうのは残念だな。わりと可愛いし。いや、なんて事を考えているんだ。いかんいかん。
在校生の歌は悪くなかったし、沢田の答辞もなかなか立派だった。女の子たちは例によってすすり泣き、感動的に卒業式が締めくくられた後、講堂は空になった。
校庭は春のうららかな光に満ちていて、風で桜の花びらが黒い学ランや、ブレザーの上に散っていく。僕は校舎に戻る前に花見を兼ねて桜の並木を歩いた。そこから見える校庭の一部では、予想通り学年一のモテ男、テニス部の荘司が後輩たちに囲まれていた。プレゼント攻勢にあっているらしい。羨ましい事だ。
と、目の前の桜の陰に後藤加代がいた。何、こいつも荘司狙いだったか!
「卒業おめでとう。後藤、こんな所で何しているんだ?」
「あ、眉村先生。ありがとうございます。でも、大きな声立てないでくださいよ」
「いや、悪い。なんだ、荘司に用があるんじゃないのか」
そういうと加代は悪びれもせず肩をすくめて言った。
「ええ、第二ボタン、狙っている所です。ううむ、ちょっと形勢不利な感じ」
僕は著しくガッカリした。いや、加代とどうこうなりたいとかそういう事ではなくて、ブルータス、お前もかって心境だ。ま、冴えない国語教師に憧れてくれる女生徒なんているわけないよな。だが、そう思えば思うほど、ここでいい所を見せてやりたくなった。
「よし、先生に任せとけ」
「え?」
桜の陰に加代を残したまま、僕は果敢に荘司と女の子たちのもとに歩いていった。
「こらこら。君たち、何をしているんだね」
「あ、眉村センセー。やばっ」
女の子たちが慌てる。先日の職員会議で決定した卒業式のプレゼント禁止の現場を押さえられた後ろめたさがある。もちろん、この決定は年々華美になる卒業生へのプレゼントを抑止するためにしただけで、誰も本当に禁止しようなんて思ってもいない。だが、今回は、これを利用させてもらおう。
「はい。全部没収。荘司、お前は生徒指導室で説教つき」
「ええ〜!」
女の子たちの非難の声と荘司の不満そうな顔。そりゃそうだろう。
大人しくついてきつつも、荘司は僕に話しかける。
「眉村センセー、きついっすよ。ほら、あの子たちだって悪氣はないと思うし。それに、俺がなんで怒られるの?」
「うるさい。みせしめだ。それとも取引するか?」
「取引って、なんの?」
「無罪放免+このプレゼントも持ち帰ってもいい。その代わり、お前の第二ボタンをよこせ」
荘司はぎょっとしたように立ちすくんだ。
「センセー、ロリコンじゃなくて、もしかして、そっちのケがあるわけ?」
「バカっ! ロリコンでもなければ、男にも興味はないっ! 事情があって、お前の第二ボタンをとある女性のために狩る事になっただけだ!」
荘司は「はあ」と氣のない顔をしたが、無罪放免に加えて大量のプレゼントも戻って来ると知り、悪い取引ではないと思ったらしい。大人しく第二ボタンをブチッと引きちぎると僕のスーツのポケットにつっこみ、プレゼントの入った紙袋を奪うようにして走っていった。
呆然としたが、氣を取り直してポケットを探ると、ちゃんと糸のついたままの第二ボタンが入っていた。金色の安っぽいボタン。こんなもの、なんで女は欲しがるかなあ。
振り向くと桜の下で後藤加代が待っていた。花びらがひらひらと舞って、柔らかい黒髪が風に揺れていた。僕はゆっくりと歩み寄って、彼女のふっくらとした綺麗な手のひらに、戦利品のボタンをぽんと置いた。ありがとう、三年間だけでも、モテる教師になったような幻想を抱かせてくれて。これが僕にできる精一杯のお礼だ。
「ありがとう、先生! きっと、真知子、大喜びするわ。絶対無理だって泣いていたから、奪ってきてあげるって、約束しちゃったの」
そういうと、加代は手を振りながら走り去っていった。それだけの事で、僕は再び浮上した。我ながらしょうもないと思った。
いい人生送れよ。それに荘司みたいなチャラチャラしたのじゃなくて、いい男をみつけろよ! 桜は僕の心にも春を持ってきた。
(初出:2014年3月 書き下ろし)
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ポルトにいます

今年もポルトに来ています。予報では雨だと言われていた今日も降るには降りましたが、すぐに青空が広がって、傘を使わずに楽しめました。
今夜はファドを聴いて旅情に浸ります。
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美酒に酔うといっても

先日発表した小説「大道芸人たち 番外編 ~ 郷愁 - Su patria que ya no existe」の中でもちょっと触れたのですが、お酒の飲み方に日本とヨーロッパでは違いがあるように思うのです。
日本人である稔は、その日本式の飲み方とヨーロッパ式の飲み方を自然に使い分けている、つまりそれも彼の順応の一つとして描写したわけですが、私もそれを意識しています。
具体的にどう違うか。日本では酒は酔うために飲むもの、ヨーロッパでは楽しんでもいいが酔ってはならない、という意識を持って飲むものと大ざっぱに分けられると思います。ここで大雑把と言っているのは、当然ながら「全ての日本人」「全てのヨーロッパ人」とはくくれないからです。
ヨーロッパでは「酔っぱらう」というのは恥ずべき事に数えられます。例えば、東京の深夜、正体もなく酔っぱらったスーツを着た男性が路上に横たわっていたりしますが、それはあまり珍しい事とも言えないし、その男性がアルコール依存症で治療を必要とすると思う人は少ないでしょう。「まあ、酔っぱらいたい時もあるよね」と勝手に理解してあげてそっとしておく、それが日本の社会における酔っぱらいの地位ではないかと思います。
アルコールハラスメントのことがしばしば話題になるのも、そもそも日本人に「人を酔わせて何が悪い」と思う人が多いからだと思います。自分が酔っぱらうのを恥ずべき事だと考えているヨーロッパでは、それを人に強要するのはそうとう問題のある思考回路とみなされます。
だからといって日本人が恥ずべき精神構造を持っていると言いたいわけではないのです。なぜこうなってしまうのかというと、もともと日本人の多くはお酒に弱いのです。身体の中にはアルコールを分解する酵素があるのですが、その型が人によって違います。詳しい事は割愛しますが、酵素の方によってお酒の強い人と弱い人がいるのです。そして欧米人はほとんどが強いタイプで、日本人には弱いタイプが多いんだそうです。これは遺伝によって決まっているので、鍛えても酵素が増える事はないでしょう。
そういう弱い人が強い人と同じように飲むと酔ってしまう。でも、それは珍しい事ではないので日本では「酔っぱらってもしようがないよね」の認識が広まってしまったのだと思います。弱い人をほとんど見た事がない欧米人にしたら「あんなになるまで飲むなんて、どういうことだ」なんですよね。そうです、お酒に強い欧米人だって量が過ぎれば酔います。でも、そこまで飲むのはアルコール依存症かその予備軍でしかないわけです。
一杯や二杯のワインではまったく酔わないから、ランチにワインを飲むのも当たり前だし、ワインを一杯飲んで車の運転をするのも違法ではないのです。ただし、飲めない体質の人が飲んで運転するのは危険行為なので、そのばあいは自分で断るのが常識。そして、それを強要するような人もいません。
私はごく普通に飲める方ですが、ヨーロッパでは酔う前に自分で止めます。それは自宅でも同じ。ワインだと二杯か三杯まで。カクテルやウィスキーでも自分の状態を観察しながら、飲みます。日本に帰って、周りが酔って騒いでいる時には、そりゃ普通に飲みます。一人だけ醒めていても場違いなだけですから。ただし、誰かのお世話になるほどたくさんは飲みません。お世話してくれる人もいませんしね。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(2)森をゆく - 『シルヴァの丸太運び』
昨日の記事にも書きましたが、大量の固有名詞が出てきますが、それを逐一憶える努力は必要ないと思います。地名や国名については、毎回地図を貼付けますので、わからなくなったらそれを見れば十分かと思います。重要な固有名詞はしつこく出てきますので戻って探す必要はまずないでしょう。主要登場人物の紹介へのリンクも毎回付けますのでご安心ください。
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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(2)森をゆく - 『シルヴァの丸太運び』

男たちは揃いのくすんだ赤い上着と黒い帽子、そして深緑のズボンを身に着けていた。その集団を目にしたのははじめてだった。『シルヴァの丸太運び』と呼ばれる男たちは、巨大なトウヒを切り出してはヴァリエラ川上流からサレア河に運ぶ専門の集団だった。男が両腕で抱えて手が届かぬ木を選び倒す。丁寧に樹皮を取り除き同じ長さの丸太にする。先に穴を穿つ。そして、力を合わせてヴァリエラ川に落とす。川に浮かぶ八本の丸太は穴に通された縄できつく結びつけられて筏が出来上がる。同じような筏が十二槽出来上がると、男たちはそれぞれ櫂になる棒を手に三人ずつ筏に乗り込み、そのままサレア河に合流するまでの舟旅が始まるのだ。
マックスがどこから来たのかもわからぬ馬の骨で、樹を切り出す作業にも全く役に立たなかったにも拘らず、『シルヴァの丸太運び』たちに受け入れてもらったのは、この舟旅が危険を伴い少しでも多くの男手を必要とするためだった。途中の急流では、ほんの少しの油断で大の男がいとも簡単に川に投げ出されるのだ。
《シルヴァ》は深い森だった。鬱蒼とした針葉樹が山肌から続いている。平地に馬で何日もかかる道のりを進むのは非効率だった。誰もいなければそうする他はないのだが、『シルヴァの丸太運び』とともに川の流れに乗れば、わずか一日でヴァリエラまで到達することができるのだ。
マックス・ティオフィロスが赤い上着を身に着けた年若い青年ステファノと意氣投合したのはエーゼルドルフ(ロバの村)というあまり麗しくない名前を持った小さな村の旅籠だった。彼よりもずっと上背があり、上着を脱いで現れた粗末なシャツからは盛り上がった筋肉のシルエットが浮かび上がった。大きく口を開けて笑いこの辺りの旅人としては豪快に注文した。といっても金持ちがするように上質の酒や柔らかい肉などは全く頼まず、単純に量が多かった。
「腹をすかせては大仕事はできないからな」
ステファノは明日から始まる『シルヴァの丸太運び』のために二日かけてここまでやっていたのだと言った。普段は木こりや雑役として働いている男たちは、ひとたび『シルヴァの丸太運び』が始まるとの連絡を受けると誇り高き赤い上着と黒い帽子を身につけて各地から集まってくるのだった。マックスは隣のテーブルにいたが、興味を持って話しかけているうちに、ステファノの方からテーブルを遷ってきた。そして、マックスがその晩の二人分の勘定を払う代わりに『シルヴァの丸太運び』に参加させてもらうことになったのだ。
彼は櫂となる棒を渡されステファノの乗る筏に同乗した。途中の急流では投げ出されそうになるのを必死でこらえながら怒号の飛び交う中を水と戦った。
「馬鹿野郎! 流れを読め! 力任せにやってもダメだ!」
「バランスを取れ! できないなら筏にしがみついてろ!」
「来たぞ! 渦だ! ほら、そこ!」
何度か大人しく川沿いに旅をすべきだったかと後悔したが、渦と戦い、投げ出された仲間を助け、自分も数回落ちてがっちりとした手にしがみついている間に自分が『シルヴァの丸太運び』でないことも、ついていけるか不安だったことも全て消え去った。
誰が何を支払うかや、社会的身分のことは、この激流の上では全て消え去る。誰をどのくらい長く知っているか、どんな人生を歩んでいるかも。そこに存在するのは力と信頼関係だけだ。この丸太がどのような城のどの部分に使われるかも関係なかった。ただ、力を合わせてやるべきことをやる、それだけだった。それが『シルヴァの丸太運び』の仕事だった。
夕方にヴァリエラで降ろしてもらい、わずか一日で昔からの友のごとくに親しんだステファノをはじめとする同舟の男たちに別れを告げた時には、マックスはこの運搬に関われたことを生涯の誇りと思うまでになっていた。筏にくくりつけられていた荷物は完膚なきまでに水浸しになっていたがそれすらも誇らしかった。
彼はヴァリエラで馬を調達して《シルヴァ》を進んだ。この辺りまで来ると栗や椎などの広葉樹が柔らかい光を織り込むようになる。下草や苔に覆われた足下は動き回る小動物の氣配を伝えて、常に騒がしい。鳥の飛び回る羽ばたきに混じって常に耳に届くのはまだ近くにあるせせらぎのリズムある飛沫の音だった。
マックスが進んでいるのは、深い森の奥ではなくて、ほんの周辺部に過ぎなかったのだが、それでも、それから二日にわたって人影は全く見られず、この世に人は自分一人ではなかったかと錯覚した。
グランドロンは広大な王国ではあったが、その五分の一の面積は森が占めていた。あまりに浩蕩なため、この地は古代よりほとんど未踏の地であった。人々は名も与えずに、単に森を意味する《シルヴァ》と呼び、どの領主の支配下にも入っていなかった。人々は狩猟をし、生活のために必要な樹木や木の実それからキノコを取りにいくが、それは森のわずかな周辺部で行われていた。《シルヴァ》に接していたのは、ルーヴラン王国に属するバギュ・グリ侯爵領、アールヴァイル伯爵領、ルーヴランの直轄地、いくつかの自由都市、未開の無法者の土地、そしてグランドロン王国の王都ヴェルドンならびに直轄地、ヴァリエラ公爵領、フルーヴルーウー伯爵領であった。
ヴェルドンを出て旅をはじめてから二年。老師に出て行く許しを請うた日のことを彼は昨日のことのように思い出した。
「まだ早い」
老師は言った。兄弟子たちが老師のもとから旅立ったのは、確かにもう少し歳を取ってからだった。だが、彼は十四年も師事してきて、兄弟子たちよりも知識にしろ経験にしろ勝っている自負があったのだ。
「年齢のことを仰せなのですか。私はもっと世界のことを知りたい。体力のある今こそ、精力的に世間を見て回るチャンスだと思われませんか」
老師を説得して、旅立つ許可をもらったものの、三年で戻って来いと言われて彼は不満を顔に表した。
「何故ですか」
「わしがいつまでも王に仕えると思っているのか。この老いぼれがくたばる前に、お前が王の補佐をし助けとなるように、どれだけ時間をかけて教育してきたと思っているのだ」
兄弟子の誰かが戻ればそれでいいではないかと思ったが、せっかくの旅出ちの許可を取り消されたくなかったので、それ以上は争わなかった。
マックスは森を進んだ。下草の中から突然現われて大木に駆け上るリス。馬が驚いて後ろ足で立ち上がった。彼は振り落とされぬように足踏みをしっかりと踏んだ。
「落ち着け。なんでもない」
彼は、馬をなだめながら、ふいに《ヴィラーゴ》ジュリアの伝説に思いを馳せた。百年前に伝説の男姫もこの森をこんな風に通ったのかもしれない。子供だったマックスにその伝説を話してくれたのは兄弟子だったか、使用人の誰かだったかもう憶えていない。
とある名のある侯爵家にはびっくりするほど美しいお姫様がいました。その姫様は女性の好きなことは全て嫌いで、男のような服を着て森をいつも駆け回っていました。そのため「男姫《ヴィラーゴ》」と呼ばれていたのです。姫君につけられていた馬丁ハンス=レギナルドは、目も覚めるほど美しく、侯爵家の全ての使用人の女たちから慕われてたくさんの浮き名を流していましたが、本当は《ヴィラーゴ》ジュリアに恋いこがれておりました。ある時、姫君がお城を抜け出して愛馬とともに失踪すると、姫君を追って森へと消えてゆきました。ジュリアは森を住処とするジプシーたちに加わり怪しい旅をしたあげく、ついにグランドロンへと辿り着きました。グランドロンで国王に取り立てられ辺境の領地と伯爵の位を授けられていたハンス=レギナルドはすぐに姫君に氣がつき、二人は結婚して幸福に暮らしました。
ジュリア by ユズキさん(このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない使用は固くお断りします)
大きくなってからマックスはそれが史実であることを知った。《ヴィラーゴ》ジュリアは、隣国ルーヴラン随一の侯国バギュ・グリの令嬢だった。本当にジプシーの一員になっていたかは知る由もないが、確かに令嬢は侯爵のもとを逃げ出して、グランドロンへと辿り着きフルーヴルーウー伯爵夫人となったのだ。
彼はその《ヴィラーゴ》と反対の方向へと馬を走らせていた。グランドロンからルーヴランへと。王家がグランドロンの言葉や風習をよく知る教師を探しているという情報を得たのは、センヴリ王国に属するヴォワーズ大司教領であったが、王都ルーヴへと最短距離で向かうには《シルヴァ》の真ん中を突っ切る必要があった。そんな危険なことをするものは一人もいない。それで、彼は心ならずも、一度祖国と故郷である王都ヴェルドンにわずかに足を踏み入れ、そこから《シルヴァ》を川沿いに進みながらルーヴランの王都を目指すことになったのだ。
二年ぶりのグランドロンであったが、彼は王都ヴェルドンでディミトリオスを訪ねることはしなかった。旅をする氣ままな生活を続けるうちに、マックスは老師との約束を守るつもりはなくなっていた。兄弟子たちと違って彼は望んで弟子入りしたわけではなかった。グランドロン王に対する忠誠心も大してなかった。そもそも、若い王とはまだ一度も近しく接見したこともなかった。自由に旅をする。新しい土地へ行き、珍しい街並や風景を楽しみ、土地の酒と食事を堪能する。これ以上の人生があるだろうか。行く先々で軽く恋を楽しむ。けれどそれが深刻で重いものに変わる前に、彼はさっさと新しい雇い主をみつけて旅立った。
ルーヴにもそれほど長くはいないであろう。だが、王家で働くことが出来れば、その後に新しい仕事先を見つけるのも容易になるに違いない。
小川の流れが速くなった。木漏れ日が反射して瑞々しい光を放ちながら飛沫が踊りゆく。若駒は飛ぶように駆け出し、下り坂の道を急いだ。コマドリが急に飛び立ち、強い光を放つ森の出口へと誘った。
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「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」について

中世ヨーロッパをモデルにした架空世界のストーリー、「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」の連載が始まりました。
「森の詩 Cantum Silvae」は、私が高校生ぐらいの時からずっと頭の中にあった世界です。当時はヨーロッパの歴史がきちんと頭の中に入っていたわけではありませんし、どの時代というのもかなり朧げでした。いま設定している時代よりかなり新しい時代をイメージしていたと思います。なのに出てくるモチーフは古代のものだったり、かなりメチャクチャでした。子供の脳内遊びでしたから……。
いま発表しているものは、高校生の時に作ったストーリーをそのまま書いているわけではありません。正式に執筆に入ったのは「大道芸人たち Artistas callejeros」を書き終わった後です。高校生の頃からずっと頭に居座っている世界の固有名詞と大枠のストーリーを使いつつも、現在の自分が見聞きしたもの、感じているものを織り込む形で新たに書き直しました。
発表したからにはどのように読んでくださっても、それは読者の自由だと思っていますが、いつもの私の書き方に慣れている方が読むとかなり困惑すると思われますので、先に少しだけ書いておきます。
この小説、次々と人物が登場しエピソードが展開しますが、「また新たな名前だ、憶えなきゃ」とか「これは何かの伏線だろうか」ということを考えながら読むと、最後まで読んで脱力する事と思います。現実の一人の人間が、人生を歩む時に、「この人は後々どんな役割を果たすのだろうか」とか「この出来事は先の出来事の伏線だろうか」とか、考えませんよね。一つひとつの経験がその人間の考え方や生き方に影響していくので、まったく関係がないと言い切る事も出来ませんが、物語の「あらすじ」として書き出すとしたら、ほとんどすべてが切り捨ててもいいエピソードです。
特に前半はどちらかというと、中世ヨーロッパの世界を章ごとにご紹介するような書き方です。「主人公たちはどうなるのか」というストーリーそのものは全く動きません。むしろ主人公たちと一緒に中世のヨーロッパを垣間みるように氣楽に読んでいただいて構いません。(ストーリーそのものは笑っちゃうほど簡単なひねりのないものです)
なお、地名や国名、それに登場人物な馴染みがなくて、「サレアを渡った」などと言われても困ると思いますので、毎回「今ここ」にあたる地図を付けておきます。理解するのの手助けになるよう手の内をみせてしまいますが、「グランドロン=ドイツ」「ルーヴラン=フランス」「サレア=ライン」と思っていただけるとわかりやすいと思います。架空の言葉や人名もドイツ語やフランス語、それからラテン語を意識して付けています。
この記事を読んで「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読みたくなった方へ
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【小説】大道芸人たち 番外編 〜 郷愁 - Su patria que ya no existe — 競艶「じゃわめぐ」
scriviamo!の第十六弾です。
大海彩洋さんは、最愛のキャラ真とうちの稔が三味線で競演する作品を書いてくださいました。ありがとうございます!
彩洋さんの書いてくださった小説『【真シリーズ・掌編】じゃわめぐ/三味線バトル』
彩洋さんはいろいろな小説を書いていらっしゃいますが、自他ともに認める代表作はなんといっても「真シリーズ」でしょう。これは一つの作品の題名ではなくて、五世代にわたる壮大な大河小説群です。その発端の人物であり、ご本人も最愛と公言していらっしゃる真は、他のブログの錚々たる人氣キャラのみなさんと競演はしていらっしゃいますが、好敵手としてここまで持ち上げていただいたのは稔が始めてでしょう。他の方のキャラよりもうちの稔が魅力的だったからではなく、ひとえに稔が三味線弾きだったからです。ありがたや。
しかしですね。私は三味線を弾くどころか、実はどんな楽器かもよくわかっていない素人。そして、彩洋さんは……。言うまでもないですね。上記の作品を読んでいただければ、おわかりいただけると思います。このお返しに、三味線の話を私が書けると思いますか? いや、書けまい。(漢語翻訳調)ええ、敵前逃亡とでもなんとでもおっしゃってください。無理なものは無理ですから。
もともとは「scriviamo!」のつもりで書きはじめたけれど別のものを出したから、とおっしゃっていたので無理してお返しを書く事もないかと思ったのですが、でも、ここまで魂の入った作品を書いていただいたら、そのままにできないじゃないですか。かといって、まだ私には真や竹流を彩洋さんが納得できるように書ける氣は全然しないので、もう一人のキャラ美南をお借りしました。美南は谷口美穂のエイリアスのような裏話もいただきましたので、話はそっちに行っています。はい、私の土俵に引きずり込みました。なお、お返しは五千字以内とか宣言したような記憶もどこかにありますが、すみません、大幅に超えております。
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
「scriviamo! 2014」について
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大道芸人たち 番外編
郷愁 - Su patria que ya no existe — 競艶「じゃわめぐ」
——Special thanks to Oomi Sayo-san
昨夜はすこし飲み過ぎたようだ。田酒は久しぶりだったし、真鱈の昆布〆めやばっけみそが出てきたから、ついつい盃が進んでしまった。美南には普段一緒に飲みにいく友達はいなかったし、ましてや津軽ことばが飛び交うような店に行くことはなかった。あの響きだけで、これほど簡単に心のタガが外れちゃうんだ……。しゃんとしないと、課長に怒られちゃう。
「成田君」
始業三分前に飛び込むと、藤田課長は不思議そうな顔をした。そうだろう。美南はいつも課長よりずっと早く出勤していたから。
「今日に限って、遅かったね。悪いけれど、今すぐ一緒に外出しなくちゃいけないんだが、大丈夫か」
「外出ですか?」
美南はあまり規模の大きくない清掃会社に勤めている。事務が半分、清掃の実動部隊としてが半分の仕事で、営業のような仕事はまだ任された事がない。営業に飛び回っている藤田課長と一緒に外出した事はなかった。ハンドバックを肩にかけて、急いで課長に従った。
「急で悪いんだけれどね。ちょっとイレギュラーな仕事が入りそうなんだ。それもちょっと変わっている件でね。一度きりの野外イベントの清掃プランなんだよ。僕が担当する事になりそうだが、手一杯なんでね、君にアシスタントを頼みたいんだ。君にもいい経験になるだろう」
藤田は電車の中で手早く説明した。
「どうして、イレギュラーなお仕事を無理していれる事にしたんですか?」
「話を持ってきたのがね、ちょっと有名な音楽マネージメント会社なんだ。君、園城真耶って知っている?」
「あ、はい。テレビによくでているヴィオラ奏者ですよね」
「うん。今回のイベントは彼女の紹介で、彼女のマネージメント会社が日本側の窓口なんだそうだ。それでさ、あれだけの大手だと、大きいコンサート会場やビルの定期清掃の受注に関連して来るんだよ。うちみたいな小さな会社には願ってもないコネだろう?」
「はあ。あの、今、日本側窓口っておっしゃいましたけれど……」
「うん。ヨーロッパに本部のある団体が、来年、大道芸人の祭典を東京で開催するらしいんだ。今日会うのは、その事務局」
ということは、会うのは外国人なんだろうか。美南は不安になった。課長が忙しいからって丸投げされて、外国人と自力でコンタクトしろと言われても困る。
新宿の高層ビル街にあるホテルの三階の小さい会議室に通された時、美南は「最悪」と思った。ドアを開けたとき、窓の外を眺めていたのはグレーのスーツをきっちりと着込んだ金髪の青年一人だった。二人がホテルの従業員に案内されて入ってくると、こちらを振り向いた。儀礼的に微笑んでいたが、青い瞳は突き刺すようで、恐ろしかった。典型的外国人だった。金髪で目が青くて、氣味が悪いくらい整った顔立ちだ。しかもその服装ときたらミラノの新作コレクションの品評会で発表しそうな感じだ。新作コレクションを実際に観た事はないけれど。
課長がしどろもどろの英語で挨拶をした。美南はぺこんと頭だけ下げた。外国人は流暢な英語で初対面の挨拶をした。はっきりとした発音だったので、美南にもその内容がわかった……ような氣がした。長い名前だ、アルティスタスなんとかの、なんとかドルフ。途中は聴きとりそびれた。誰かが遅れているって言ったかも?
「すみませんっ。遅れました!」
突然、日本語とバンっと言う音がして、扉から誰か飛び込んできた。藤田課長は心底ホッとした顔をした。その男はいちおうビジネスっぽい紺のスーツは着ているもの、金髪男と違ってどうも着慣れていないようで借りてきたみたいに見える。
「ああ、安田さまですね。昨日、電話でお話しいたしましたクリーン・グリーン株式会社の藤田です。それと、本日は部下を連れて参りました。成田美南です」
そういって、横を見た。当の美南は、入ってきた男をぽかんと口を開けて眺めていた。男も美南を見てびっくりしたようだった。
「あれっ。美南ちゃん……?」
それは、昨夜、津軽料理を出してくれる居酒屋で知り合った青年、安田稔だった。
「なんだ、ヤス。知っているのか」
金髪青年が訊くと、稔は頷いて英語で答えた。
「うん。昨夜、浅草で逢った子だ。いい声しているよ。フェスタに参加してもらいたいくらいだ」
「成田君? 知り合い?」
藤田課長が美南に囁いた。
「あ、たまたま昨夜知り合った方なんです」
「そりゃ、すごい偶然だ。これをご縁に、どうぞよろしくお願いします、安田さん、エッシェンドルフさん」
それから安田稔の通訳を介してもう一度正式に紹介しあい、仕事の全容を話し合う事になった。ここにいる二人はヨーロッパで大道芸人をしていて、仲間やパトロンと主催した「大道芸人の祭典」を開催するようになって三年目だということ。その事務局長を担当しているのが安田稔で、主に対外交渉を担当しているのが隣にいるエッシェンドルフという苗字のドイツ人であること。
「名前長いんで、ヴィルって呼べばいいから」
稔がウィンクして言った。
「世界各国からかなりの数の大道芸人たちが集まります。例年だと見学する側も国籍がかなり混じります。日本人の常識的な清掃プランだと、上手く回らない可能性があるんで、どちらかというと融通と小回りの効く会社がいいと話していたわけです」
稔とヴィルが会場プランを見せ、日程表とともに示した。稔さんが昨夜、野暮用で日本に来たって言っていたのは、これのためだったんだ。美南は納得した。
「美南ちゃん、せっかくだからまたプライヴェートで飲もうよ。こいつ、こんな怖そうな顔しているけれど、よく知り合えばいいヤツだからさ。特に酒が入ると」
打ち合わせが終わると、稔はヴィルを示して美南に提案した。
美南はその日の仕事が終わってから、もう一度、新宿に向かった。稔とヴィルとスペイン料理のレストランで会う事になっていた。今日はあまり飲まないようにしなくちゃ、美南は思った。
店の中を見回すと、二人はもう来ていて、こちらに向かって手を振った。それはレンガと石で装飾された半地下の店で、スペインのタブラオを模していた。奥には舞台があって、そこはアーチ上に装飾された柱で区切られていた。たぶんフラメンコを踊るのだろう、そこだけ木板が張られた床だった。いくつか椅子が置かれている。演奏者のものだろう。
「来てくれて、ありがとうな。美南ちゃん、日本酒はいける口だったけれど、ワインも好きかな? それともサングリアなんかのほうがいい?」
そういう稔はどうやら既にワインをヴィルと一緒に半分くらい空けていたようだった。
「あ、私もワインをいただきます。でも、昨日飲み過ぎちゃったみたいなので、今日は控えめに……」
そういうと、二人は目を見合わせた。
「そうだったな、いつもの俺たちのペースで飲ませたらまずいかもな。お蝶じゃないんだし」
稔はそういったが、彼らの飲むペースは、昨日の津軽料理の居酒屋とは違っていた。昨夜の居酒屋にいたメンバーは、大きな声を出して、赤くなりながらどんどんと盃を重ねていた。居酒屋で飲むというのはそういうことだ。そして、このスペイン料理屋でも隣の席にいる日本人たちはそれに近い状態で飲んでいる。けれど、稔とヴィルは飲んでいるのに酔っている様子がなかった。会話の声もあまり大きくならない。
稔がTシャツとジーンズになっていただけでなく、ヴィルもラフなシャツ姿に変わっていた。たったそれだけで先ほどとはずいぶん印象が変わって見えた。美南はここに来るまでヴィルを怖いと思っていたのだが、服装が変わっただけでその恐ろしさも半減したように思われた。
会議中と違って、稔はヴィルの言葉を日本語に訳さなかった。そして美南がわからないという顔をしないかぎり英語で話した。美南もはじめは日本語で稔に向かって話していたのだが、二人ともが自分に向かって英語で話すので、いつの間にか自分も英語を口にしはじめた。そんな事が可能だとは思ってもみなかった。通訳なしでも相手の言葉がわかるし、自分の話す英語も拙いながらもこの外国人に通じている。それは新鮮な驚きだった。私、英語、できるんだ。英語など絶対に話せないと思い込んでいたが、少なくとも六年は学校で学んだのだからこんな簡単な会話は理解できて当然なのだ。そうやって会話をしているうちに、ヴィルを怖いと思う氣持ちはどこにもなくなっていた。
拍手の音に顔を上げると、フラメンコダンサーとミュージシャンたちが入ってきていた。客たちが「おおーっ」と喜び拍手をする。
「あ、ちょっと行ってくる」
そういうと稔は立ちあがり、舞台の方に歩いていった。拍手が大きくなり、マイクの前に立っていた男とその隣にいたやはりギターを持った男が稔に頭を下げた。
「え。稔さん、弾くんですか?」
「ああ、ここのオーナーとはバルセロナのフェスタで知り合ってね。日本に来たら絶対に一度は弾きにきてほしいと頼まれていたよ」
ヴィルが美南のグラスにそっとワインを注いだ。
ダンサーたちは腰に手を当てて立っている。舞台にいた男がギターを奏でだすと、歌い手は手拍子を打ちはじめる。客の中にも手拍子をしている人たちがいる。このレストランのフラメンコショーは有名なのだろう。美南はフラメンコの舞台を生で観るのはははじめてだったので興味津々だ。
稔が加わり、派手な掛け合いになる。不思議な手拍子で、美南には間を取る事ができない。ダンサーたちが舞台の上で踊りだした。靴についた釘がびっくりするほどの音を出す。旋回し、睨みつけ、激しく打ち付ける。挑みかけてくる。男と女は戦っているようだ。歌い手とギターの弾き手も戦っている。津軽三味線の競演とは全く違う。何が違うのかと言われても答えられない。
はじめは楽しく活氣のある踊りだと思った。演奏もそうだった。だが、稔がソロを弾き、それに歌い手ともう一人のギタリストが覆い被さり、踊り手がもっと激しく踊りだすと、世界が少しずつ変わっていった。乾杯をして騒いでいた隣の席の客たちも押し黙った。

美南がギターの演奏を聴いたのは始めてではない。けれど彼女がこれまで知っていたギターの演奏は、もっと軽やかで心地いいものだった。その軽やかさに、津軽三味線の響きとは違う、土の香りのしない都会の音だとの印象を持っていた。けれど、稔が奏でているこの音は、都会の洒落た世界とは全くかけ離れていた。それは楽しい音楽と踊りではなかった。どちらかというと苦しい世界だった。踊り手と専属ギタリストが休み、稔がソロで曲を奏でだすと、その苦しさはもっと強くなった。
奇妙な感覚だった。津軽の寒く凍える世界から生まれた響きは、腹の底から熱くなる。田酒が人びとを真っ赤に熾る炭のように酔わすのに似ている。けれど、アンダルシアの燃えるように熱い世界から生まれてきた音楽を奏でる稔の響きは、鉄の柱を抱くように黒く重くて冷たい。これはなんなのだろう。
「ドゥエンデだ」
戸惑っている美南を見透かしたように、ヴィルが言った。美南はわけがわからなくて、黙って青い目を見た。
「運命、神秘的で魅力的な何か。強い情念。英語にはきちんと訳せない。時には死に憧れるような暗さも伴うんだ」
美南は不安になって、稔を見た。稔はギターの世界に入り込んでいた。打据えるようにギターと戦っていた。昨日、美南の唄を優しく支えてくれた朗らかな男は、いつの間にか彼の殻の中へと入り込んでいた。
「君は、彼の三味線も聴いたんだろう?」
ヴィルが訊いた。美南は黙って頷いた。
「この音との違い、どう思う?」
この人も、違いを知っているんだ。美南は思った。
「明るくて、強くて、思いやりがあって、春の光が外に向かって放たれていくような音だったんです」
ヴィルは頷いた。それからワイングラスを覗き込むようにして語りだした。
「彼の中、その奥深くにはもともとドゥエンデがあった。俺の中にもあるように。ヤスと俺たちが出会ったとき、彼は三味線を弾いていた。まさに君が言うような思いやりのある暖かい音を出していた。今でもそうだ。彼は俺たちのリーダーで、バランス感覚に富み、暖かい。日本にいた頃からクラッシックギターを弾く事もできた。三味線と同じように優しく暖かい、朗らかな音を出していた。だが、彼はセビリアでフラメンコギターに出会った。ヒターノ、本物のジプシーが彼を新しい音に導いた。彼のドゥエンデに火をつけたんだ」
「あの……」
美南は困って口ごもった。ヴィルはワインを飲むと、稔の方を見て、それから再び美南の方に向き直った。
「東京をどう思う?」
「え?」
「俺は、この街にくるのは三度目だ。いい街だと思う。便利で、楽しくて、上手い物が食える、最高の酒も飲める。だが、この街は何度来ても、来る度に知らない街になっている。決して懐かしいいつもの街にはならない」
ヴィルがなぜそんな事を言いだしたのか美南にはわからなかったが、それは美南が常々感じている事でもあった。何年住んでも、決して親しい自分の街にはならない。冷たくはない、何でもある、誰でも受け入れてくれる。でも、ここはいつもよその街だった。
「ヤスは浅草で生まれた。ここはあいつの正真正銘の故郷だ。あいつを大切に想うたくさんの人間がいて、ここで将来を嘱望されて育った。あの三味線の音色はそうやって培われた。だが、あいつは自分に正直でいるために、それを捨ててしまったんだ」
「そうなんですか?」
「俺たちはみな、どこからか逃げだしてきたヤツの集まりなんだ」
ヴィルは始めて少し笑ったように見えた。
「仲間のもう一人の日本人は、これまで居心地のいい場所を知らなかった。彼女は、だからこそ居心地のいい場所を自ら作る事ができた。俺もそれに近いだろうな。もう一人は、もともと持っていた居心地のいい場所を決して手放さなかった」
美南は昨夜知り合ったもう一人の三味線弾き真が形容してくれた、稔たち四人組の大道芸人のことを思い浮かべていた。稔の他に、フルートを吹く日本人女性、手品をするフランス人の青年、そしてパントマイムをするドイツ人、ヴィル……。羨ましいほどに仲のいい自由な仲間たち。
ヴィルは全く表情を動かさずに淡々と続けた。
「ヤスは俺たちとは違う。自由への憧れと望郷に引き裂かれている。その裂け目からドゥエンデが顔を出すんだ。あいつは何も言わない。だが俺たちは音を聴きとる。肌で感じるんだ。可能ならば、あいつの故郷へと一緒に向かってやりたいとも思う。だがその故郷はもうないんだ」
「ないって、どういうことですか? ご家族がもういないんですか?」
「家族じゃない。居場所がないんだ。家族が、東京が、かつて彼がいたままの場所ではない。いない間に変貌してしまった」
ヴィルはボトルを傾けて美南のグラスに注ごうとしたが、いっこうに減っていないのを見て、最後の一滴まで自分のグラスに空けた。厚い淡緑色のグラスは再びリオハのティントの暗い色で満ちた。
「どんな場所もいつかは変わっていく。だが東京ほどのスピードで変貌する場所はまずない。環境が変わると人はそれに順応していく。日本人の順応の速さは尋常ではない。それは東京のように秒速で変わっていく環境でも有効なんだ。だから、あいつのいた世界はほとんど残っていない。俺のような異邦人ですら感じるんだ。あいつの故郷はもう存在しないんだと」
美南は昨日の三味線の競演と、稔の奏でていた自由で朗らかな音の事を考えた。それから青森の自分の家族の事を考えた。真っ白い雪を思い出した。雪に覆われて角のなくなった屋根や塀、囲炉裏で火が爆ぜる音、津軽言葉の柔らかい響き、待っていてくれる家族。
「みなみ、いづだかんだ帰って来いへ(いつでも帰っておいで)」
ここではない、ここにはない暖かさ。深い深い安心感。それを永遠に失う事を考えた。涙が出てきた。
「もうどこにもない故郷は三味線の音の中だけに存在し続けている。だからあいつの三味線はあれほどに暖かい。だがひとたびフラメンコギターを奏でれば寄る辺なき自由を愛するヒターノの魂はドゥエンデに向かうんだ」
大きな拍手の後に、再び手拍子が聞こえだした。歌い手はセビリジャーナスを朗々と歌い上げ、ダンサーたちは向かい合って旋回しだした。
「テデスコ、お前、美南ちゃんを泣かせたのか?」
顔を上げると、稔がテーブルの横に戻ってきていた。
「泣かせたのは俺じゃなくてあんただ」
ギターの音の事だと思ってホッとした様子の稔の前で、ヴィルは空になった瓶を振った。
「いない間に、酒は空けておいた」
「お、おいっ!」
「もう一本飲むか。あんたの好物のイベリコ豚もおごってやるよ。美南、君も好きなものを頼むといい」
ヴィルは、メニューを美南に渡した。
美南は紙ナフキンでそっと涙を拭うと、タパスを選びだした。
「そのヒヨコ豆とほうれん草を煮たのは美味いぜ。チョリソーも外せないかな。あと、イカスミのパエリヤはどう?」
稔が先ほどまでと同じ朗らかな様子で話しかける。
美南はメニューから目を離してためらいがちに口を開いた。
「稔さん。いま氣づいたんですけれど、浅草のご出身で、安田さんって、もしかして安田流の……?」
それを聞くと、稔もメニューから顔を上げて、不思議そうに美南を見た。それから屈託のない笑顔を見せて、きっぱりと首を振った。
「いや、俺は根なしの大道芸人さ」
(初出:2014年3月 書き下ろし)
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scriviamo!の第十六弾です。
大海彩洋さんは、最愛のキャラ真とうちの稔が三味線で競演する作品を書いてくださいました。ありがとうございます!
彩洋さんの書いてくださった小説『【真シリーズ・掌編】じゃわめぐ/三味線バトル』
彩洋さんはいろいろな小説を書いていらっしゃいますが、自他ともに認める代表作はなんといっても「真シリーズ」でしょう。これは一つの作品の題名ではなくて、五世代にわたる壮大な大河小説群です。その発端の人物であり、ご本人も最愛と公言していらっしゃる真は、他のブログの錚々たる人氣キャラのみなさんと競演はしていらっしゃいますが、好敵手としてここまで持ち上げていただいたのは稔が始めてでしょう。他の方のキャラよりもうちの稔が魅力的だったからではなく、ひとえに稔が三味線弾きだったからです。ありがたや。
しかしですね。私は三味線を弾くどころか、実はどんな楽器かもよくわかっていない素人。そして、彩洋さんは……。言うまでもないですね。上記の作品を読んでいただければ、おわかりいただけると思います。このお返しに、三味線の話を私が書けると思いますか? いや、書けまい。(漢語翻訳調)ええ、敵前逃亡とでもなんとでもおっしゃってください。無理なものは無理ですから。
もともとは「scriviamo!」のつもりで書きはじめたけれど別のものを出したから、とおっしゃっていたので無理してお返しを書く事もないかと思ったのですが、でも、ここまで魂の入った作品を書いていただいたら、そのままにできないじゃないですか。かといって、まだ私には真や竹流を彩洋さんが納得できるように書ける氣は全然しないので、もう一人のキャラ美南をお借りしました。美南は谷口美穂のエイリアスのような裏話もいただきましたので、話はそっちに行っています。はい、私の土俵に引きずり込みました。なお、お返しは五千字以内とか宣言したような記憶もどこかにありますが、すみません、大幅に超えております。
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


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大道芸人たち 番外編
郷愁 - Su patria que ya no existe — 競艶「じゃわめぐ」
——Special thanks to Oomi Sayo-san
昨夜はすこし飲み過ぎたようだ。田酒は久しぶりだったし、真鱈の昆布〆めやばっけみそが出てきたから、ついつい盃が進んでしまった。美南には普段一緒に飲みにいく友達はいなかったし、ましてや津軽ことばが飛び交うような店に行くことはなかった。あの響きだけで、これほど簡単に心のタガが外れちゃうんだ……。しゃんとしないと、課長に怒られちゃう。
「成田君」
始業三分前に飛び込むと、藤田課長は不思議そうな顔をした。そうだろう。美南はいつも課長よりずっと早く出勤していたから。
「今日に限って、遅かったね。悪いけれど、今すぐ一緒に外出しなくちゃいけないんだが、大丈夫か」
「外出ですか?」
美南はあまり規模の大きくない清掃会社に勤めている。事務が半分、清掃の実動部隊としてが半分の仕事で、営業のような仕事はまだ任された事がない。営業に飛び回っている藤田課長と一緒に外出した事はなかった。ハンドバックを肩にかけて、急いで課長に従った。
「急で悪いんだけれどね。ちょっとイレギュラーな仕事が入りそうなんだ。それもちょっと変わっている件でね。一度きりの野外イベントの清掃プランなんだよ。僕が担当する事になりそうだが、手一杯なんでね、君にアシスタントを頼みたいんだ。君にもいい経験になるだろう」
藤田は電車の中で手早く説明した。
「どうして、イレギュラーなお仕事を無理していれる事にしたんですか?」
「話を持ってきたのがね、ちょっと有名な音楽マネージメント会社なんだ。君、園城真耶って知っている?」
「あ、はい。テレビによくでているヴィオラ奏者ですよね」
「うん。今回のイベントは彼女の紹介で、彼女のマネージメント会社が日本側の窓口なんだそうだ。それでさ、あれだけの大手だと、大きいコンサート会場やビルの定期清掃の受注に関連して来るんだよ。うちみたいな小さな会社には願ってもないコネだろう?」
「はあ。あの、今、日本側窓口っておっしゃいましたけれど……」
「うん。ヨーロッパに本部のある団体が、来年、大道芸人の祭典を東京で開催するらしいんだ。今日会うのは、その事務局」
ということは、会うのは外国人なんだろうか。美南は不安になった。課長が忙しいからって丸投げされて、外国人と自力でコンタクトしろと言われても困る。
新宿の高層ビル街にあるホテルの三階の小さい会議室に通された時、美南は「最悪」と思った。ドアを開けたとき、窓の外を眺めていたのはグレーのスーツをきっちりと着込んだ金髪の青年一人だった。二人がホテルの従業員に案内されて入ってくると、こちらを振り向いた。儀礼的に微笑んでいたが、青い瞳は突き刺すようで、恐ろしかった。典型的外国人だった。金髪で目が青くて、氣味が悪いくらい整った顔立ちだ。しかもその服装ときたらミラノの新作コレクションの品評会で発表しそうな感じだ。新作コレクションを実際に観た事はないけれど。
課長がしどろもどろの英語で挨拶をした。美南はぺこんと頭だけ下げた。外国人は流暢な英語で初対面の挨拶をした。はっきりとした発音だったので、美南にもその内容がわかった……ような氣がした。長い名前だ、アルティスタスなんとかの、なんとかドルフ。途中は聴きとりそびれた。誰かが遅れているって言ったかも?
「すみませんっ。遅れました!」
突然、日本語とバンっと言う音がして、扉から誰か飛び込んできた。藤田課長は心底ホッとした顔をした。その男はいちおうビジネスっぽい紺のスーツは着ているもの、金髪男と違ってどうも着慣れていないようで借りてきたみたいに見える。
「ああ、安田さまですね。昨日、電話でお話しいたしましたクリーン・グリーン株式会社の藤田です。それと、本日は部下を連れて参りました。成田美南です」
そういって、横を見た。当の美南は、入ってきた男をぽかんと口を開けて眺めていた。男も美南を見てびっくりしたようだった。
「あれっ。美南ちゃん……?」
それは、昨夜、津軽料理を出してくれる居酒屋で知り合った青年、安田稔だった。
「なんだ、ヤス。知っているのか」
金髪青年が訊くと、稔は頷いて英語で答えた。
「うん。昨夜、浅草で逢った子だ。いい声しているよ。フェスタに参加してもらいたいくらいだ」
「成田君? 知り合い?」
藤田課長が美南に囁いた。
「あ、たまたま昨夜知り合った方なんです」
「そりゃ、すごい偶然だ。これをご縁に、どうぞよろしくお願いします、安田さん、エッシェンドルフさん」
それから安田稔の通訳を介してもう一度正式に紹介しあい、仕事の全容を話し合う事になった。ここにいる二人はヨーロッパで大道芸人をしていて、仲間やパトロンと主催した「大道芸人の祭典」を開催するようになって三年目だということ。その事務局長を担当しているのが安田稔で、主に対外交渉を担当しているのが隣にいるエッシェンドルフという苗字のドイツ人であること。
「名前長いんで、ヴィルって呼べばいいから」
稔がウィンクして言った。
「世界各国からかなりの数の大道芸人たちが集まります。例年だと見学する側も国籍がかなり混じります。日本人の常識的な清掃プランだと、上手く回らない可能性があるんで、どちらかというと融通と小回りの効く会社がいいと話していたわけです」
稔とヴィルが会場プランを見せ、日程表とともに示した。稔さんが昨夜、野暮用で日本に来たって言っていたのは、これのためだったんだ。美南は納得した。
「美南ちゃん、せっかくだからまたプライヴェートで飲もうよ。こいつ、こんな怖そうな顔しているけれど、よく知り合えばいいヤツだからさ。特に酒が入ると」
打ち合わせが終わると、稔はヴィルを示して美南に提案した。
美南はその日の仕事が終わってから、もう一度、新宿に向かった。稔とヴィルとスペイン料理のレストランで会う事になっていた。今日はあまり飲まないようにしなくちゃ、美南は思った。
店の中を見回すと、二人はもう来ていて、こちらに向かって手を振った。それはレンガと石で装飾された半地下の店で、スペインのタブラオを模していた。奥には舞台があって、そこはアーチ上に装飾された柱で区切られていた。たぶんフラメンコを踊るのだろう、そこだけ木板が張られた床だった。いくつか椅子が置かれている。演奏者のものだろう。
「来てくれて、ありがとうな。美南ちゃん、日本酒はいける口だったけれど、ワインも好きかな? それともサングリアなんかのほうがいい?」
そういう稔はどうやら既にワインをヴィルと一緒に半分くらい空けていたようだった。
「あ、私もワインをいただきます。でも、昨日飲み過ぎちゃったみたいなので、今日は控えめに……」
そういうと、二人は目を見合わせた。
「そうだったな、いつもの俺たちのペースで飲ませたらまずいかもな。お蝶じゃないんだし」
稔はそういったが、彼らの飲むペースは、昨日の津軽料理の居酒屋とは違っていた。昨夜の居酒屋にいたメンバーは、大きな声を出して、赤くなりながらどんどんと盃を重ねていた。居酒屋で飲むというのはそういうことだ。そして、このスペイン料理屋でも隣の席にいる日本人たちはそれに近い状態で飲んでいる。けれど、稔とヴィルは飲んでいるのに酔っている様子がなかった。会話の声もあまり大きくならない。
稔がTシャツとジーンズになっていただけでなく、ヴィルもラフなシャツ姿に変わっていた。たったそれだけで先ほどとはずいぶん印象が変わって見えた。美南はここに来るまでヴィルを怖いと思っていたのだが、服装が変わっただけでその恐ろしさも半減したように思われた。
会議中と違って、稔はヴィルの言葉を日本語に訳さなかった。そして美南がわからないという顔をしないかぎり英語で話した。美南もはじめは日本語で稔に向かって話していたのだが、二人ともが自分に向かって英語で話すので、いつの間にか自分も英語を口にしはじめた。そんな事が可能だとは思ってもみなかった。通訳なしでも相手の言葉がわかるし、自分の話す英語も拙いながらもこの外国人に通じている。それは新鮮な驚きだった。私、英語、できるんだ。英語など絶対に話せないと思い込んでいたが、少なくとも六年は学校で学んだのだからこんな簡単な会話は理解できて当然なのだ。そうやって会話をしているうちに、ヴィルを怖いと思う氣持ちはどこにもなくなっていた。
拍手の音に顔を上げると、フラメンコダンサーとミュージシャンたちが入ってきていた。客たちが「おおーっ」と喜び拍手をする。
「あ、ちょっと行ってくる」
そういうと稔は立ちあがり、舞台の方に歩いていった。拍手が大きくなり、マイクの前に立っていた男とその隣にいたやはりギターを持った男が稔に頭を下げた。
「え。稔さん、弾くんですか?」
「ああ、ここのオーナーとはバルセロナのフェスタで知り合ってね。日本に来たら絶対に一度は弾きにきてほしいと頼まれていたよ」
ヴィルが美南のグラスにそっとワインを注いだ。
ダンサーたちは腰に手を当てて立っている。舞台にいた男がギターを奏でだすと、歌い手は手拍子を打ちはじめる。客の中にも手拍子をしている人たちがいる。このレストランのフラメンコショーは有名なのだろう。美南はフラメンコの舞台を生で観るのはははじめてだったので興味津々だ。
稔が加わり、派手な掛け合いになる。不思議な手拍子で、美南には間を取る事ができない。ダンサーたちが舞台の上で踊りだした。靴についた釘がびっくりするほどの音を出す。旋回し、睨みつけ、激しく打ち付ける。挑みかけてくる。男と女は戦っているようだ。歌い手とギターの弾き手も戦っている。津軽三味線の競演とは全く違う。何が違うのかと言われても答えられない。
はじめは楽しく活氣のある踊りだと思った。演奏もそうだった。だが、稔がソロを弾き、それに歌い手ともう一人のギタリストが覆い被さり、踊り手がもっと激しく踊りだすと、世界が少しずつ変わっていった。乾杯をして騒いでいた隣の席の客たちも押し黙った。

美南がギターの演奏を聴いたのは始めてではない。けれど彼女がこれまで知っていたギターの演奏は、もっと軽やかで心地いいものだった。その軽やかさに、津軽三味線の響きとは違う、土の香りのしない都会の音だとの印象を持っていた。けれど、稔が奏でているこの音は、都会の洒落た世界とは全くかけ離れていた。それは楽しい音楽と踊りではなかった。どちらかというと苦しい世界だった。踊り手と専属ギタリストが休み、稔がソロで曲を奏でだすと、その苦しさはもっと強くなった。
奇妙な感覚だった。津軽の寒く凍える世界から生まれた響きは、腹の底から熱くなる。田酒が人びとを真っ赤に熾る炭のように酔わすのに似ている。けれど、アンダルシアの燃えるように熱い世界から生まれてきた音楽を奏でる稔の響きは、鉄の柱を抱くように黒く重くて冷たい。これはなんなのだろう。
「ドゥエンデだ」
戸惑っている美南を見透かしたように、ヴィルが言った。美南はわけがわからなくて、黙って青い目を見た。
「運命、神秘的で魅力的な何か。強い情念。英語にはきちんと訳せない。時には死に憧れるような暗さも伴うんだ」
美南は不安になって、稔を見た。稔はギターの世界に入り込んでいた。打据えるようにギターと戦っていた。昨日、美南の唄を優しく支えてくれた朗らかな男は、いつの間にか彼の殻の中へと入り込んでいた。
「君は、彼の三味線も聴いたんだろう?」
ヴィルが訊いた。美南は黙って頷いた。
「この音との違い、どう思う?」
この人も、違いを知っているんだ。美南は思った。
「明るくて、強くて、思いやりがあって、春の光が外に向かって放たれていくような音だったんです」
ヴィルは頷いた。それからワイングラスを覗き込むようにして語りだした。
「彼の中、その奥深くにはもともとドゥエンデがあった。俺の中にもあるように。ヤスと俺たちが出会ったとき、彼は三味線を弾いていた。まさに君が言うような思いやりのある暖かい音を出していた。今でもそうだ。彼は俺たちのリーダーで、バランス感覚に富み、暖かい。日本にいた頃からクラッシックギターを弾く事もできた。三味線と同じように優しく暖かい、朗らかな音を出していた。だが、彼はセビリアでフラメンコギターに出会った。ヒターノ、本物のジプシーが彼を新しい音に導いた。彼のドゥエンデに火をつけたんだ」
「あの……」
美南は困って口ごもった。ヴィルはワインを飲むと、稔の方を見て、それから再び美南の方に向き直った。
「東京をどう思う?」
「え?」
「俺は、この街にくるのは三度目だ。いい街だと思う。便利で、楽しくて、美味い物が食える、最高の酒も飲める。だが、この街は何度来ても、来る度に知らない街になっている。決して懐かしいいつもの街にはならない」
ヴィルがなぜそんな事を言いだしたのか美南にはわからなかったが、それは美南が常々感じている事でもあった。何年住んでも、決して親しい自分の街にはならない。冷たくはない、何でもある、誰でも受け入れてくれる。でも、ここはいつもよその街だった。
「ヤスは浅草で生まれた。ここはあいつの正真正銘の故郷だ。あいつを大切に想うたくさんの人間がいて、ここで将来を嘱望されて育った。あの三味線の音色はそうやって培われた。だが、あいつは自分に正直でいるために、それを捨ててしまったんだ」
「そうなんですか?」
「俺たちはみな、どこからか逃げだしてきたヤツの集まりなんだ」
ヴィルは始めて少し笑ったように見えた。
「仲間のもう一人の日本人は、これまで居心地のいい場所を知らなかった。彼女は、だからこそ居心地のいい場所を自ら作る事ができた。俺もそれに近いだろうな。もう一人は、もともと持っていた居心地のいい場所を決して手放さなかった」
美南は昨夜知り合ったもう一人の三味線弾き真が形容してくれた、稔たち四人組の大道芸人のことを思い浮かべていた。稔の他に、フルートを吹く日本人女性、手品をするフランス人の青年、そしてパントマイムをするドイツ人、ヴィル……。羨ましいほどに仲のいい自由な仲間たち。
ヴィルは全く表情を動かさずに淡々と続けた。
「ヤスは俺たちとは違う。自由への憧れと望郷に引き裂かれている。その裂け目からドゥエンデが顔を出すんだ。あいつは何も言わない。だが俺たちは音を聴きとる。肌で感じるんだ。可能ならば、あいつの故郷へと一緒に向かってやりたいとも思う。だがその故郷はもうないんだ」
「ないって、どういうことですか? ご家族がもういないんですか?」
「家族じゃない。居場所がないんだ。家族が、東京が、かつて彼がいたままの場所ではない。いない間に変貌してしまった」
ヴィルはボトルを傾けて美南のグラスに注ごうとしたが、いっこうに減っていないのを見て、最後の一滴まで自分のグラスに空けた。厚い淡緑色のグラスは再びリオハのティントの暗い色で満ちた。
「どんな場所もいつかは変わっていく。だが東京ほどのスピードで変貌する場所はまずない。環境が変わると人はそれに順応していく。日本人の順応の速さは尋常ではない。それは東京のように秒速で変わっていく環境でも有効なんだ。だから、あいつのいた世界はほとんど残っていない。俺のような異邦人ですら感じるんだ。あいつの故郷はもう存在しないんだと」
美南は昨日の三味線の競演と、稔の奏でていた自由で朗らかな音の事を考えた。それから青森の自分の家族の事を考えた。真っ白い雪を思い出した。雪に覆われて角のなくなった屋根や塀、囲炉裏で火が爆ぜる音、津軽言葉の柔らかい響き、待っていてくれる家族。
「みなみ、いづだかんだ帰って来いへ(いつでも帰っておいで)」
ここではない、ここにはない暖かさ。深い深い安心感。それを永遠に失う事を考えた。涙が出てきた。
「もうどこにもない故郷は三味線の音の中だけに存在し続けている。だからあいつの三味線はあれほどに暖かい。だがひとたびフラメンコギターを奏でれば寄る辺なき自由を愛するヒターノの魂はドゥエンデに向かうんだ」
大きな拍手の後に、再び手拍子が聞こえだした。歌い手はセビリジャーナスを朗々と歌い上げ、ダンサーたちは向かい合って旋回しだした。
「テデスコ、お前、美南ちゃんを泣かせたのか?」
顔を上げると、稔がテーブルの横に戻ってきていた。
「泣かせたのは俺じゃなくてあんただ」
ギターの音の事だと思ってホッとした様子の稔の前で、ヴィルは空になった瓶を振った。
「いない間に、酒は空けておいた」
「お、おいっ!」
「もう一本飲むか。あんたの好物のイベリコ豚もおごってやるよ。美南、君も好きなものを頼むといい」
ヴィルは、メニューを美南に渡した。
美南は紙ナフキンでそっと涙を拭うと、タパスを選びだした。
「そのヒヨコ豆とほうれん草を煮たのは美味いぜ。チョリソーも外せないかな。あと、イカスミのパエリヤはどう?」
稔が先ほどまでと同じ朗らかな様子で話しかける。
美南はメニューから目を離してためらいがちに口を開いた。
「稔さん。いま氣づいたんですけれど、浅草のご出身で、安田さんって、もしかして安田流の……?」
それを聞くと、稔もメニューから顔を上げて、不思議そうに美南を見た。それから屈託のない笑顔を見せて、きっぱりと首を振った。
「いや、俺は根なしの大道芸人さ」
(初出:2014年3月 書き下ろし)
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「価格交渉したことありますか?」
ありますよ。エジプトのカイロでオレンジを買ったんですけれど、その時に「エジプトでは交渉しなくちゃいけない」と頑張りました。一キロ買ったんですが「三ポンド」と言われたところを「一キロなんだから一ポンド!」とわけのわからない理屈で迫ったら、あっさり一ポンドにしてくれました。本当はもっと安かったのかも。
「大道芸人たち Artistas callejeros」の最初の方で、蝶子がイタリアでオレンジを値切るシーンがありますが、あれはこの経験を思い出しながら書きました。その直前に果物屋のオヤジにボラレたヴィルは、その後ずっとその事で仲間からからかわれ続けてましたね。
こんにちは!FC2トラックバックテーマ担当の西内です今日のテーマは「価格交渉したことありますか?」です。みなさん価格交渉ってしたことありますか?日本にいると、あまり機会がないと思うのですが海外旅行に行くとなると、絶対交渉しないと損するよ!なんて言われたりしますよね〜。日本語でもうまく交渉できないのに…海外で交渉するってすごいですよね!できないのは私だけでしょうか?笑なかには仕事で毎日のように交渉さ...
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(1)プロローグ 黒衣の貴婦人
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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(1)プロローグ、黒衣の貴婦人

暗い中、少年は燭台の灯火を頼りに、ゆっくりと廊下を進んでいた。盆に載せた飲み物をこぼさないようにするのは至難の業だった。こんな用事を頼まれるのははじめてだった。マックスが、この国一番の賢者といわれるディミトリオスの下僕としてこの家に来てから、まだ一週間しか経っていなかった。
なぜここに居るのか、いまだに納得がいっていなかった。どうして彼がここに来なくてはならなかったのか。両親はそれほど金銭に困窮していたのか。だが、彼には質問も口答えも許されていなかったので、黙って言われたことをこなすほかはなかった。そして、召使い頭に言いつけられた通りに、慣れない動きで一階のディミトリオスの書斎に向かっているのだった。
目指す部屋のドアから、わずかに牛脂灯による光が漏れている。密やかに話す声も聞こえてきた。
「このようなむさ苦しいところにおいでいただくとは」
それは主人のディミトリオスの声だった。
「そんなこと、氣にもなりません」
客は女らしい、マックスは思った。
「誰にも見られなかったでしょうな」
「見られたとしても、どうだというのでしょう。賢者のあなたにギリシャ語を学ぶことは禁じられていませんわ」
「奥方さま」
ディミトリオスの声には明らかな非難の調子がこもっていた。女はわずかに咳払いをしてから、少し反省したような声を出した。
「わかっています。でも、私の氣持ちはわかっていただけるでしょう? 八年も我慢したのです。どんなに苦しい昼と夜だったか、わかっていただけませんの?」
「さよう。しかし、もっと忍耐強くあらねばならないのです。おわかりでしょう。あなた様がこのようなことをお続けになるのであれば、私は計画を変更せねばなりませぬ」
「待ってください。お願い。後生です。どんなことをも忍びますから」
扉の前にとっくに着いていたのだが、いつノックをしていいのかわからなかった。だがその物音に氣づいた主人は短く咳をして貴婦人の注意を引いた。マックスは、今かとばかり短いノックをした。
「きたか。今、扉を開けるぞ」
主人の言葉に緊張して彼はまっすぐに立った。ドアが開いた。たっぷりとした灰色の長衣に身を包み、胸まで届く豊かな顎髭と真っ白い長髪の印象的なこの老人が立っていた。この館に連れてこられた日に会って以来、面と向かって主人の顔を見たのはまだ三回目だった。失敗はしたくない。
「お飲物を持ってきました」
「お持ちしました、だろう」
「あ、はい。すみません。お持ちしました」
主人は厳しい顔で立っていたので、マックスは今すぐにでも逃げ出したかった。しかし、主人は盆を受け取ってはくれずに、テーブルの方を示した。見ると向こう側にその女性が座っているのが見えた。
全身を黒で包んだ女性だった。顔には黒いヴェールがかかり、牛脂灯の灯りでははっきりとは見えなかったが、世間知らずの敬語もまともに使えない少年に怒るでもなくじっと黙って二人の会話に耳を傾けていた。
彼は盆をテーブルに運び、カップをカタカタいわせてようやくこぼさずに貴婦人の前に置いた。
「ど、どうぞ」
「ありがとう」
優しく暖かい声だった。
「ご苦労だったわね。これは好きかしら?」
そう言って、貴婦人はマックスが運んできたすみれの砂糖漬け菓子を示した。少年は、目を輝かせた。先程、飲み物を運ぶように言われて盆を渡され、一緒に載っているその高価な菓子を一目見たときから、せめて一口でも食べてみることが出来たらどんなにいいだろうかと思い続けていたのだ。
ディミトリオスは厳しい声で割って入った。
「奥方さま、それは困ります。他の使用人に示しがつきません」
マックスの顔が落胆に曇った。ディミトリオスはドアをきっちりと閉めて、それから目で貴婦人に合図をした。貴婦人は頷くと、ヴェールを外し、口元に人差し指をあてて、少年の顔を覗き込んだ。
少年の目にその顔がはっきりと見えた。真夏の空のように澄んだ青い瞳、金糸のように輝く髪、教会の聖母像のように美しい女性だった。その瞳がそっと微笑むと、彼の手に全ての砂糖菓子を載せてそっと手のひらを閉じさせた。そしてささやくように言った。
「誰にも見られないようにね」
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カレーを独り占め

上の写真はこの記事の本文とは関係なく、現在の我が家の近くの様子を。いやあ、春ですねぇ。これが咲くのは今年は早そうだから四月の末でしょうか。大好きなリンゴです。で、この下からがグルメのお話。

先月の事ですが、連れ合いがミラノの展示会を観に行ったのですよ。「一緒に来る?」と一応は誘われたんですが、お断りしました。私はバイクの後ろに乗るのは好きでも、あまりパーツなどには興味がないんですよね。それよりもscriviamo!で次々いただいていた作品に返掌編を書きたかったのです。
そして、鬼のいない日は、私は日本の味を楽しむと決めているのですよ。水炊きを作ったり、和定食みたいなものをつくったり、いろいろと楽しむのですが、この日はまず日本で前回の帰国の時にゲットしたこのレトルトカレーを開けてみる事にしたのです。
この極上牛たんカレー、レトルトとは言え800円近くするのです。でも、外食でカレーを食べる事を考えればそんなに高くないです。それにね。実家の近くで売っていたんですが、そのときたまたま楽天の優勝セールでお試し価格になっていたのですよ。で、二つ買ってきました。連れ合いと食べてもよかったんですが、きっとヤツにはわかるまい。だから一人の時の楽しみにしてみました。
いやあ、レトルトなんですけれど、美味しいですねぇ。味はオーソドックスでクセはありません。辛みもマイルドです。激辛の好きな方には物足りないかもしれません。でも、なんていうんでしょうか、日本のカレーのおいしさがぎゅっと凝縮された感じでした。
日本のカレーは世界の他の国で食べられるカレーとは違います。田舎住まいの私は当然ながらカレールーを入手できません。毎回カレー粉からそれっぽいカレーを試しているけれど、どうも日本のカレーにはならないのですよ。それはそれで美味しいのです。でも、やっぱり、こういう「ああ〜、これが日本のカレーだわ」というのを食べると、胃が喜ぶんですよね。日本人のDNAに擦り込まれているんでしょうか。
このにしきやの極上牛たんカレーは、その遺伝子が反応するような味です。ええ、本当に美味しかったです。
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Cantum Silvae - 貴婦人の十字架 あらすじと登場人物

このイラストはユズキさんからいただきました。著作権はユズキさんにあります。無断使用は固くお断りいたします。
【あらすじ】
教師として宮廷を渡り歩くマックスは、グランドロン王とルーヴラン王女の縁組みが進んでいるので、姫のグランドロン語の教師となるためにルーヴランの都ルーヴを目指す。ルーヴランの宮廷では王女の《学友》ラウラが自由に憧れながら過ごしていた。
【登場人物】(年齢は第二話時点のもの)
◆マックス・ティオフィロス(25歳)
グランドロン出身の教師。国一番の賢者ディミトリオスの一番年若い弟子。
◆ラウラ・ド・バギュ・グリ(20歳)
ルーヴランの最高級女官で王女に仕える《学友》。バギュ・グリ侯爵の養女。
◆マリア=フェリシア・ド・ストラス(19歳)
ルーヴラン王位継承者で絶世の美女。
◆レオポルド II・フォン・グラウリンゲン(29歳)
グランドロン王国の若き国王。
◆エクトール II・ド・ストラス
ルーヴラン国王。マリア=フェリシア姫の父。
◆イグナーツ・ザッカ
ルーヴラン王国の宰相。センヴリ出身のもと聖職者。「氷の宰相」の異名をもつ。
◆テオ・ディミトリオス
当代一の賢者でグランドロン王の王太子時代の教育係。現在は王政の相談役として親政をしくレオポルド二世を見守る。
◆アンリIII・ド・バギュ・グリ
バギュ・グリ侯爵。愛娘エリザベスを《学友》にしたくなかったので、孤児のラウラを養女にする。
◆アニー(15歳)
ラウラの忠実な侍女。平民出身でラウラに親近感を持つとともに心酔している。
◆フリッツ・ヘルマン大尉(31歳)
レオポルド一世の護衛を務める青年。
◆マウロ(20歳)
アニーの兄で、ルーヴ城で馬の世話をする青年。マックスに旅籠《カササギの尾》を紹介する。
◆ジャック(19歳)
ルーヴ城の召使いの青年。マウロの親友で、アニーの親友エレインの恋人。
【歴史上の人物&故人】
◆レオポルド I・フォン・グラウリンゲン
七代前のグランドロン国王。背が低く醜悪な容姿だったが、不屈の精神で版図を拡大した名君として歴史に名を残している。
◆ブランシュルーヴ・ド・ストラス
ルーヴラン王女でグランドロン王レオポルド一世の妻となる。絶世の美女で、容姿に自信のなかった夫に西の塔に幽閉されるが、後に開放されている。夫婦仲はとてもよく理想の国王夫妻として語り継がれる。
◆ジュリア・ド・バギュ・グリ
ルーヴラン王国に属するバギュ・グリ侯爵令嬢。母親の死後、ジプシーに加わって出奔し、ルーヴラン宮廷でブランシュルーヴ王女に仕えてから、その輿入れと同時にグランドロンへわたる。かつての馬丁で恋人でもあったフルーヴルーウー伯爵の夫人となる。
◆ハンス=レギナルド・フルーヴルーウー
もとはバギュ・グリ候に仕えていたジュリアの馬丁。ジュリアに続いて侯国から離れ、グランドロン国王レオポルド一世に仕えることになる《シルヴァ》の果ての未開の地を任されフルーヴルーウー辺境伯に任命される。
◆フロリアンII・フォン・フルーヴルーウー
先代フルーヴルーウー伯。何者かに毒殺される。
◆マリー=ルイーゼ・フォン・フルーヴルーウー(フォン・グラウリンゲン)
グランドロン先王フェルディナンドの最愛の妹。熱愛の末フルーヴルーウー伯フロリアン二世に嫁ぎ幸せに暮らしていたが、夫が毒殺され、伯爵位を継いだ二歳の一人息子も何者かによって連れ去られ、その帰還を待っていたが叶わず失意のうちにこの世を去る。
【用語】
◆《シルヴァ》
ルーヴラン、グランドロン、センヴリ各王国にはさまれた地に存在する広大な森。単純に森を意味する言葉。あまりに広大なため、そのほとんどが未開の地である。
◆《学友》
ルーヴランに特有の役職。王族と同じ事を学ぶが、その罰を代わりに受ける。
【関連作品】
(断片小説)森の詩 Cantum Silvae I - 姫君遁走より
(掌編小説)大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 ~ 森の詩 Cantum silvae
【関連地図】

【参考文献】
中世のヨーロッパの社会・制度・風俗・考え方などは、旅行などで知った事も入っていますが、基本的に下記の文献を参考に記述しています。
阿部 謹也 著 中世を旅する人びと―ヨーロッパ庶民生活点描 (ちくま学芸文庫)
阿部 謹也 著 中世の星の下で (ちくま学芸文庫)
J. & F. ギース 著 中世ヨーロッパの城の生活 (講談社学術文庫)
川原 温 著 中世ヨーロッパの都市世界 (世界史リブレット)
堀越 宏一 著 中世ヨーロッパの農村世界 (世界史リブレット)
F. ブロシャール、P. ペルラン、木村 尚三郎、 福井 芳男 著 城と騎士(カラーイラスト世界の生活史 8)
A. ラシネ 著 中世ヨーロッパの服装 (マールカラー文庫)
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- 【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(2)森をゆく - 『シルヴァの丸太運び』 (19.03.2014)
- 【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(1)プロローグ 黒衣の貴婦人 (12.03.2014)
イラスト制作用 オリジナル小説のキャラ設定 「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」編
【長編小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
【ストーリー】
教師として宮廷を渡り歩くマックスは、グランドロン王とルーヴラン王女の縁組みが進んでいるので、姫のグランドロン語の教師となるためにルーヴランの都ルーヴを目指す。ルーヴランの宮廷では王女の《学友》ラウラが自由に憧れながら過ごしていた。
【メインキャラクター】
◆マックス・ティオフィロス(25歳)
グランドロン出身の教師。国一番の賢者ディミトリオスの一番年若い弟子。
明るめの茶色い髪。首の辺りまでの長さで自然なウェーブがかかっている。瞳は茶色。
人当たりのいい優しい顔。きりっとした眉。
身長は160cm。当時としてはそこそこの長身。全体に細身。
服装の一例:
森を移動中:
グレーの飾りの少ない高襟シャツに茶色い上着。ぴったりとしたズボンに革靴。
ズック型の荷物は棒に括り付けられて担いでいる。
金持ちに見えないように質素な服装。
宮廷でのお勤め時:
袖の膨らんだ明るい青の上着。脛までの淡いクリーム色の麻のズボン。
白いシュミーズ、絹のタイツ、先の尖って反り返った靴など
◆ラウラ・ド・バギュ・グリ(20歳)
ルーヴランの最高級女官で王女に仕える《学友》。バギュ・グリ侯爵の養女。
冬の終わりの椎の葉の色、つまりグレーに近い色合いのブルネット。濃い茶色の瞳。
美しいといえないこともないが、印象が地味で寂しい感じ。華がない娘。
身長 153cm
服装の一例:
宮廷でのお勤め時:
首の付け根近くまで覆われた丸衿のワインカラーのドレス。
わずかに光沢のある綾織りで、細かい菩提樹の葉の柄。
肌の露出は最低限でつねに長袖。
長い髪はきっちりと後ろでまとめられ真珠の飾りの付いたネットで覆われている。
お忍びで街へいくとき:
濃紺の粗末なマントの下に、同じ洗い毛織物の粗末な飾りのないドレス。
◆マリア=フェリシア・ド・ストラス(19歳)
ルーヴラン王位継承者で絶世の美女。
燃え盛る炎のような輝く赤毛に明るい緑の瞳。
丸い白い顔にきりっとした小さめの鼻、赤く少し突き出た薄い唇。
太い眉や少し尖った顎は、生来の強情さを示している。
身長 156cm。
服装の一例:
明るい朱の地色に大柄のクレマチスの文様が浮かび上がるドレス。
金と緑をねじらせた縁飾りが広く露出したデコルテラインを強調。
美しい赤毛を強調するように三つ編みを両サイドに絡ませ長い髪を後ろに垂らす。
豪華な宝石を使った髪飾りをしている。
◆レオポルド II・フォン・グラウリンゲン(29歳)
グランドロン王国の若き国王。
漆黒のストレートの長髪をオールバックにして後ろで一つにまとめている。
太い眉に切れ長の黒い目。意志の強さを感じるがっちりとした体格。
身長 168cm。
服装の一例:
赤い豪奢な天鵞絨地に金糸で縁取られた長めの上着、
濃い緑色のぴったりとしたズボン、白いシュミーズ。
【脇役】
◆イグナーツ・ザッカ
ルーヴラン王国の宰相。センヴリ出身のもと聖職者。「氷の宰相」の異名をもつ。
身長 158cm。黒髪、茶色い瞳。口髭と顎髭をたくわえている。
常に黒い服のみを着ている。
◆テオ・ディミトリオス
当代一の賢者でグランドロン王の王太子時代の教育係。
現在は王政の相談役として親政をしくレオポルド二世を見守る。
身長150cm。長い白い髭と長髪。ゆったりとしたギリシャ風の服装を好む。
◆アニー(15歳)
ラウラの忠実な侍女。
暗めの金髪、青い瞳。身長148cm。薄緑の飾り少ないドレス。髪飾りもしていない。
◆フリッツ・ヘルマン大尉(31歳)
レオポルド一世の護衛を務める青年。
子供の頃から一緒にいるので親友に近いポジション。
身長160cm。明るい金髪、水色に近い青い瞳。
黒地に黄色いアクセントの入った短めの上着、黄色いズボン。革靴。
【舞台】
中世ヨーロッパをモデルにした架空世界。服装のイメージとしては14〜15世紀のイタリア並びにフランス辺りのファッションを念頭に置いていますが、小説ではあまり詳しくは出てきません。
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【小説】白菜のスープ
出てくる白菜のスープ、本当に簡単です。サルでも作れます。でも、連れ合いはこのスープを知りませんでした。冬の間、何を食べていたんでしょうね。この方たち。

白菜のスープ
親の仇であるみたいに白菜を刻んだ。宙、あんたは何もわかっていない。紗英は本来ならば1.5センチ幅に揃っているはずの、しかし、今日は0.8から2センチまでバラエティに富んだ幅をした白菜をざっと集めると鍋に入れた。冷蔵庫からベーコンを出してくる。これまた本来ならば1センチ幅に揃っていた方がいいのだが、やはりまばらになってしまったのを徹底的に無視して同じ鍋に突っ込んだ。そして、湧かしておいた熱湯を注いで、鍋を火にかけた。
「麻央ちゃん、なんていったっけ、生活提案で有名な料理研究家、あの人のファンらしくってさ。玄関にはアイビーのリースだろ、それに箸袋に茶色いフェルトにピンクのビーズのついた飾りがしてあってさ、あれこそ、お・も・て・な・しって感じだよなあ。で、ローストポークとか、季節の野菜の炒め物とか、料理もいちいち凝っていたけれど、最後に出てきたホワイトチョコレートクリームのケーキがバレンタインって感じでさ。女の子にあんな風にもてなしてもらえたのって始めてだし、超感激だよ」
宙があまりにもデレデレしているので、無性に腹が立った。
「それで。あんたは女の子の部屋に上がり込んで期待していた、当初の目的は達成したわけ?」
「おいっ。お前、そのオヤジみたいな身もふたもない言い方はよくないぞ。麻央ちゃんみたいにかわいげがないから、いつまでも次の男ができないんじゃないか」
何が麻央ちゃんよ。名前まで可愛いなんて本当に忌々しい。
宙のことは、彼がハイハイしている頃から知っていた。宙のお母さんは、「ちょっと遠くまでの買い物」とか「近くに高校時代の親友が来ていてね」とか、理由をつけてはまだ小学生だった宙を隣家に連れてきて数時間戻って来なかった。あの頃の紗英は中学に入ったばかりだったが、やはり出て行ったきりなかなか帰って来ない自分の母親の代わりに「お腹がすいた」と泣く弱虫少年の世話をしたものだ。
ところが、高校に入って背丈を追い越された頃から、宙は紗英を「お前」呼ばわりし、好き勝手なことを言うようになってきた。短大に入って、ようやく出来た紗英の彼にダメだしをし、どういうわけか二人の母親も宙の意見に同調した。そう言われると、思っていたほど素敵な人じゃないかもしれないと躊躇しだした。もっとも、紗英が幻滅して彼を振ったわけではなく、あっさり他の女の子に乗り換えられてしまったのだが。
それから三年過ぎて、紗英は社会人になり、宙は大学に入学が決まった。学ランを脱いで、今どき流行の若者っぽいシャツを着て表を行く姿は、それなりに格好いい。母親から「ヒロちゃん、ほんとうにモテるらしいわよ~」と聞かされると、はあ、そうですか、そうでしょうね、素直にそう思う。で、麻央ちゃんやら、優美ちゃんやらが、潤んだお目目でバレンタインのチョコを渡そうとあっちやこっちの角で待っているんだろう。
「塩野さんって、まじめだよね」
同僚が紗英を評して言う。それはつまり、大して褒める所がないという意味だと、紗英自身にもわかっている。地味な服装、平凡な頭脳、そこそこしか出来ない仕事、似た芸能人がすぐには浮かばない容姿。
わかっている。たとえ、そんな女でも、かわいげのある振舞いをすれば、たとえば玄関にアイビーを飾り、ホワイトチョコレートのクリームでケーキを作って、瞳にお星さまを光らせて見つめれば、喜んでくれる男がこの世の中のどこかにはいるかもしれないことぐらいは。でも、そう言うことが出来ないんだからしかたがない。
「ねえ、紗英さ、真剣に彼を作ろうとしないのは、もしかしてお隣のヒロシ君のこと、好きなんじゃないの?」
久美に指摘された時に、紗英は激しく首を振って否定した。
「あのね。あいつは私より三つも歳下だよ! 鼻たらしているヤツの世話をしていたんだよ! 全くそういう対象じゃないよ」
「そ~お? そりゃ、中学生一年生と小学四年生の差は大きいけどさ。いまや、ちゃんとしたイイ男じゃん。アタシ的には、ヒロシ君、大いにありだけどなあ」
紗英は勘弁してくれと思う。理想は社会人だ。大人で、言葉に思いやりがあり、紗英の知らないことに対して豊富な知識があって、すぐにホテルに行こうとか言いださない紳士。おお、宙と真逆じゃないのさ。別に大金持ちとか、一流企業に勤めていてほしいとか、そういう条件を出しているわけではない。でも、理想の人と出会えるような氣は全然しない。自分でも、誰かに指摘されなくても、自分に魅力がないと思うから。
そんなわけで、今年もチョコレートを贈る相手もないまま二月が過ぎていく。そのことにガッカリしたりするつもりはなかったけれど、宙にあんな風に言われるとすっかり憂鬱になる。バレンタインデーの「おもてなしランチ」なんて大嫌い。可愛い女の子なんて絶滅しちゃえばいい。
眼鏡が曇る。白菜とベーコンのスーブから出る湯気のせいか、それとも、情けない自分のせいなのかよくわからない。白菜とベーコンに火が入り、いい感じにくたっとなってきた。バターを落とし、塩こしょうで味を整える。あまりにも簡単なスープ。どうせ料理研究家提唱のおしゃれランチとは違うわよ。ふん。
「おい、おい、おいっ」
声がどこからかしている。紗英は眼鏡の曇りをとって、涙を拭い、もう一度眼鏡をかけると窓を開けた。キッチン窓の向こうは、宙の部屋だ。
「何よ」
「お前、何作ってんの」
「何って、白菜のスープよ」
「げっ。うそっ。食いたいっ。今からそっち行っていい?」
「なんで。あんた、麻央ちゃんの所でたらふく食べてきたんじゃないの」
「うるさい、今行く」
宙は二分で駆け上がってきた。いや、いちおう人の家なのに、勝手に上がるか。紗英は呆れる。
「なんなの、あんた」
「いや、俺、このスープに煩悩してんだよ」
「そういえば、あんたがめそめそ泣いている時によくこれ作ったよね」
「うるせー。黙って、よそえ」
「なに威張ってんの。自分で作ればいいじゃん。中学一年生にも作れた簡単なスープだよ」
「そうだけどさ。よくわかんね。ここでこうやって食うのが美味いんだよ」
わかんないヤツだな。そう思いつつも、紗英はちょっと嬉しそうにスープ皿にスープをよそう。スプーンを持って待っている宙は、泣き虫小学生の頃と変わらない瞳をしている。何にだかわからないけれど、紗英は「勝った」と思った。
(初出:2013年3月 書き下ろし)
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【断片小説】森の詩 Cantum Silvae I - 姫君遁走より
先日発表した「大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 森の詩 Cantum silvae」の作中作としてちょっと開示した「森の詩 Cantum Silvae I - 姫君遁走」の一部にユズキさんがとても素敵なイラストを描いてくださったのですよ。

このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない使用は固くお断りします。
ユズキさんの記事 「ジュリア姫」
先日開示した時は、さらにその一部だったので、もうちょっとお見せしたら驚かれました。ええ、とんでもないお姫様なんですよ、この人。そして、ユズキさんはわざわざ描き直してくださったのです。おわかりでしょうか、人物のタッチも違いますが、森も前とは違っているのです。ええ、現代の森ではなくて中世のもっと深くてミステリアスで時には残酷な世界にしてくださっているのです。(ぜひ大きくして細部をご覧になってくださいね)
このまま、皆さまにお見せしないで私一人だけのお宝にしておくのはもったいなさすぎる! そういうわけでユズキさんのイラストに大いに助けていただいて、「森の詩 Cantum Silvae」の世界にもう少しみなさまをお連れしたいと思います。
森の詩 Cantum Silvae I - 姫君遁走より
教皇ペテロ=ウルバヌス二世の御代、跡継のないクラウディオ三世の崩御によりルーヴラン王国には後継者争いが起こった。一人は姪のイザベラ王女の夫バギュ・グリ侯爵ハインリヒで、もう一人はクラウディオ三世の従兄弟にあたるストラス公オイゲンだった。二ヶ月に亘るいくつかの戦の後、ルーヴランはストラス公の支配する所となり、公はオイゲン一世として戴冠した。バギュ・グリ侯爵が憤死したために侯爵領を継ぐことになったのは、ハインリヒの腹違い弟のテオドールであった。「ひょうたんから駒」で侯爵の座が転がり込んで来たテオドールは、その豪胆で奇天烈な振舞から《型破り候》と呼ばれることとなった。
さて、この《型破り候》には跡継ぎのマクシミリアンの他に、その姉にあたる娘が居た。粗野な父親が若い日にストラス公オイゲンの従姉妹にあたるマリア姫に懸想して産ませた姫君だった。バギュ・グリの厄介者テオドールの妻などに成り下がったと両親に嘆かれたが、マリアは氣丈にテオドールに従い、従兄弟が国王となるにあたって上手く立ち回って侯爵夫人の座を手に入れた。娘のジュリアはこの母親から美貌、そして父親からは粗野で型破りな性格を受け継いでいた。
ジュリアは父親のバギュ・グリ侯爵が大嫌いだった。母親の侯爵夫人のことはもっと嫌いだった。うるさい乳母のメルヒルダは少しはマシだったが、これも好きとは言いがたかった。庭師や家庭教師は大して重要な輩ではなかったのでどうでもよかった。夕食の給仕をするアルベルトは巻き毛がかわいらしく氣にいらない訳ではなかった。もっとも十歳も年上の男をかわいらいしいという言い方があたっているかどうかは微妙だったが。
誰よりも嫌いなのは彼女の馬丁、ハンス=レギナルドだった。父侯爵のことは女の尻ばかり追い回しているから嫌いで、母侯爵夫人のことは冷たく高慢だから嫌いだった。メルヒルダにはやかましく小言ばかり言うという、これまたれっきとした理由があったが、この馬丁に対しては嫌う理由になんらかの説得力があるわけではなかった。
「馬丁のくせに名前を二つも持っているんだ」
「あたしよりも高い柵を越えてみせたんだ」
ジュリアはいかにも氣にいらないというように顔をしかめる。
以前、馬丁長が侯爵に伺いを立てたことがある。
「姫の馬丁をお変えになりますか」
侯爵はつまらなさそうに言った。
「あれは誰にも満足せんのだ。これ以上、わがままの相手を増やせというのか」
それからは誰も同じ提案をしなかった。
「ハンス=レギナルド!」
ジュリアは、つかつかと厩舎に踏み入ると怒鳴った。藁の影からハンス=レギナルドと召使いのクリスティーンが身を起こした。姫は冷たく一瞥すると
「ばからしい」
と、言った。
おろおろするクリスティーンを無視してジュリアは愛馬にまたがり、馬丁に言った。
「城下に行くわよ。供をおし」
「ですが、ジュリア様。母君のお許しが出ないでしょう」
「母上のお許しはもう永遠に出ないわよ。亡くなられたんだから」
クリスティーンはわっと泣き出した。看病の枕元を抜け出してハンス=レギナルドにキスをもらっている間に奥方様は亡くなられたのだ。
ジュリアはうんざりして召使い女を見ると、馬に鞭をくれて厩舎から飛び出した。馬丁は慌てて彼の馬に飛び乗り、わがままな姫君を追った。
「お待ちください」
ジュリアは待たず、柵を越え、森に入りどんどん走らせていく。ハンス=レギナルドの馬は次第に追いつき、やがて二頭の馬は並んだ。
「お前には負けないわよ」
「ジュリア様。私は競争をしたいのではありません」
「いつもそうなんだ」
「何故そういうお言葉をお遣いになるのです。何故そのような恰好をなさるのです」
ジュリアの男物の出立ちは城下にも知れ渡っていた。
「馬にドレスで乗ってどうするのよ」
「乗る姫君もおられるではないですか」
「あたしは散歩をしたいんじゃない」
「ジュリア様。どこまで行かれるのですか。奥方様のお側にいてさしあげなくてはならないとはお思いにならないのですか」
「いてどうするのさ。誰ももう側には居られないんだよ。母上は亡くなられた。マクシミリアンの名を呼んでね……」
ジュリアは急に馬を停めると方向を変えて走り出した。ハンス=レギナルドは後を追う。しばらくは無言のまま馬を走らせ、馬丁が追いつくと方向を変え、しばらくは追いかけっこが続いた。ついに、綱さばきのミスからジュリアは草むらに落ちた。
「ジュリア様!」
ハンス=レギナルドは馬から飛び降りて、姫君を助け起こした。痛みでしばらく動けなかった彼女は、それが薄らいでくると顔を上げ、じろりと馬丁を見た。
「本当に頭に来るわね。うちの女中と料理人の全てに愛を語ったその口で、偽りの心配の言葉を述べるんだから」
「偽りの心配などどうしてできましょう。それに、私はあなた様のお家の全ての使用人と恋をした訳ではありませんよ」
「この食わせ者。その整った顔と声で、君だけだとかなんとか迫るんだね。マリアの里帰りもお前が原因に違いないよ」
「とんでもない。私じゃありません。侯爵様です」
「ええ、父上だって。あの恥知らず。お前といい勝負だよ。誰をも本氣で愛したことなんかないんだ」
ハンス=レギナルドはジュリアの足や腕が折れていないか調べていたが、その言葉を聞くと顔を上げて主人の目を見た。
「では、あなた様はどうなのです。誰かを本氣で愛されたことがおありなのですか」
「反撃にでたわけ。いいえ、ないわ。あたしは愛なんか信じていない。父上は滑稽だし、クリスティーンたちも愚かにしか見えない。お前、その顔は何?」
「私に何を言わせたいのです」
「ええい、そうやるんだね、いつも。騙されないよ。他の女と一緒にするんでないよ」
風が森を通り抜け、木漏れ日はキラキラと輝いていた。ひんやりとした草むらに腰掛けてジュリアは馬丁が腕を自分の体に回して支えていることに氣づいた。ハンス=レギナルドの顔はすぐ近くにあった。
「もちろん、あなた様は違います」
「女中と一緒におしでないよ」
「いえ。身分に関係なく、そう、どこの姫君とだってあなた様は違います」
ジュリアはキラキラと光る若葉を見ながらうっすらと微笑んだが、すぐに厳しい顔をして馬丁に言いつけた。
「馬を探しておいで」
ハンス=レギナルドは木の幹にジュリアの背をもたれかけさせながら言った。
「私はかつて一人の女に恋をしました。日も夜もなくその女を愛しました。眠れぬ夜が続き、氣が狂うかと思いました。皮肉なことに、想いを遂げたどの女たちをも、あれほどに恋いこがれることはなかったですね」
そう言うと、二頭の馬の去った方向へと歩き出した。
ジュリアはきつい調子のまま問いかけた。
「お待ち。それはあたしの知っている娘なの?」
「あなた様ですよ」
ハンス=レギナルドは木の間に消えた。
ジュリアは少しの間ハンス=レギナルドの消えた方向を見ていたが、立ち上がるとその場を離れた。馬丁が二頭の馬と戻って来た時には探しようもなかった。
ジュリアは森を歩いていった。侯爵夫人の訃報が届けば、今日の祭りは中止になるだろうが、酒場一軒くらいは開いているだろう。
(やっと母上から自由になったのよ、これを祝わなくてどうするのよ)
侯爵夫人がジュリアを束縛するようになったのは、父親が候爵位を継いだ六年前のことだった。ジュリアはそのとき十二歳だった。ジュリアには父親が侯爵家の厄介者であろうと、侯爵様であろうとまったく関係なかったのだが、母は娘を以前のような野放図にしておくつもりはなかった。
加えてアルベルトのことがあった。ジュリアはアルベルトにキスをさせ、かわいそうな給仕は姫君に夢中になってしまった。無理もない。ジュリアは美しい。漆黒のまっすぐな髪。挑みかける瞳。血のように紅い唇。何ひとつ知らない故に、何ひとつ恐れなかった。ジュリアはキスをしてみたかったし、アルベルトならいいと思ったのだ。
侯爵夫人はちっともいいと思わず、父親の淫らな血がと騒ぎ立てた。そして、男の汚さや恋の愚かしさを説き続けた。ジュリアの美しさを懸念して、常に見張り、女らしく装うことを許さなかった。ジュリアはそれを受け入れ、母親の望む通りに育ったがその束縛を憎んでもいた。
ジュリアは行く手の樹木の間から煙を見た。ジプシー。聖アグネスの祭りだ。彼らは侯爵夫人の喪になんか服さないだろう。
森の空き地に数台の幌馬車が停まり、炎の周りでジプシーたちは踊っていた。ジュリアには誰も氣に留めずに、めいめいで歌ったり踊ったりしているので、少しずつ中に入っていった。やがて一人の老女がじっと見つめているのに氣がついた。
「バギュ・グリの姫さんが何の用かね?」
老女は言った。
「あたし、お前に会ったことないけれど」
「私らは何でも知っているよ」
「嘘ばっかり。私がなぜここに来たかわからないくせに」
「知っているともさ。お前は別れに来たんだよ」
「誰とさ」
「全てとね。まず、その男物の服をなんとかしよう。それでは踊っても楽しくないだろう」
「そうね。でも、こうしていないと男どもが寄ってくるのよ」
「悪いことじゃあるまい。寄ってくる男どもをあしらうのは、女の楽しい仕事さ。それともダンスもできない方がいいのかね」
「わかったわ。この服とはお別れしよう。私を変身させて」
老婆はジュリアを幌馬車に連れて行った。再びジュリアが出て来た時ジプシーたちはもはや彼女に無関心ではいられなかった。薄物を纏い、しなやかに歩み出る彼女は深夜の月のようだった。彼女は踊り始めた。その悩ましさは例えようもない。ジュリアにとってもこの夜は麻薬だった。踊りの恍惚。自分が誰かも忘れ、夢の中にいるように狂った。
深夜に老婆は緑色に透き通る液体を差し出した。
「これをお飲み。聖アグネス祭の今宵、お前さんは愛する男を夢に見るだろう」
ジュリアは口の端をゆがめて言った。
「あたしは誰も愛していないわよ。嫌いな男ばっかり」
「だからこそ、この薬が必要なんじゃ」
ジュリアは受け取って一息で飲んだ。強い酒だった。
翌朝、ジュリアは幌馬車から出て老婆を見つけるとひっぱたいた。
「何よ、あれ。あたしの体が動かないのをいいことに」
老婆はにやりと笑った。
「孫はお前さんに一目惚れしたのさ。だが、お前さんのためにもなっただろう。お前さんを抱いた男は孫じゃなかったはずだよ。愛している男は誰だったかね?」
「想像していた通りの男だったよ」
ジュリアは冷たく言い放った。
「よかったじゃないか」
「あんたの孫に言っておいて。二度とあんな真似はできないって」
「わかっているとも。昨晩、お前さんを抱きたかったのはあの子だけじゃないからね。あの子は幸運な方さね」
「ふん」
ジュリアは空き地から離れて森に入り、昨日ハンス=レギナルドと別れた所に行った。馬丁はジュリアをもたれかけさせたあの木の根元で眠っていた。彼女はハンス=レギナルドを叩いた。彼は目を醒ますと信じられないという顔で、薄物をまとい輝くように美しい主人を見つめた。
「お前、あたしを捜してたの?」
「ご無事だったんですね」
「お前だけなの、捜していたのは」
「私も命が惜しいので、お館には帰っていませんから」
馬が二頭近くの木に繋がれていた。
「そう。お前、あたしを好きだったと言ったね」
「はい」
「今はどうなの」
「今でも。誰と愛を語っても、いつも最後にその女はあなた様になってしまいます」
「ふうん。あたし、昨晩、ジプシーに抱かれたの」
「ジュリア様!」
ジュリアは楽しそうにハンス=レギナルドを見た。まったく見たことのない表情を彼はしていた。いや、かつて一度見たことがあったかもしれない。
「アルベルトとキスをした時にも、お前、あたしを好きだったのかい」
「あなた様にお会いした日からずっとです」
「そう。じゃあ、アルベルトの時から始めよう。私にキスをおし」
ジュリアは命令した。ハンス=レギナルドはぽかんとその主人を見ていた。
「ハンス=レギナルド。聞こえないの?」
ジュリアは自分からキスをした。
捜索の疲れと幸せな安堵でハンス=レギナルドが眠ってしまうと、ジュリアはそっと恋人の側を離れた。そして、愛馬を連れてジプシーの集団のもとに戻り、そのまま、国を出てしまった。
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【断片小説】森の詩 Cantum Silvae I - 姫君遁走より

このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない使用は固くお断りします。
ユズキさんの記事 「ジュリア姫」
先日開示した時は、さらにその一部だったので、もうちょっとお見せしたら驚かれました。ええ、とんでもないお姫様なんですよ、この人。そして、ユズキさんはわざわざ描き直してくださったのです。おわかりでしょうか、人物のタッチも違いますが、森も前とは違っているのです。ええ、現代の森ではなくて中世のもっと深くてミステリアスで時には残酷な世界にしてくださっているのです。(ぜひ大きくして細部をご覧になってくださいね)
このまま、皆さまにお見せしないで私一人だけのお宝にしておくのはもったいなさすぎる! そういうわけでユズキさんのイラストに大いに助けていただいて、「森の詩 Cantum Silvae」の世界にもう少しみなさまをお連れしたいと思います。
森の詩 Cantum Silvae I - 姫君遁走より
教皇ペテロ=ウルバヌス二世の御代、跡継のないクラウディオ三世の崩御によりルーヴラン王国には後継者争いが起こった。一人は姪のイザベラ王女の夫バギュ・グリ侯爵ハインリヒで、もう一人はクラウディオ三世の従兄弟にあたるストラス公オイゲンだった。二ヶ月に亘るいくつかの戦の後、ルーヴランはストラス公の支配する所となり、公はオイゲン一世として戴冠した。バギュ・グリ侯爵が憤死したために侯爵領を継ぐことになったのは、ハインリヒの腹違い弟のテオドールであった。「ひょうたんから駒」で侯爵の座が転がり込んで来たテオドールは、その豪胆で奇天烈な振舞から《型破り候》と呼ばれることとなった。
さて、この《型破り候》には跡継ぎのマクシミリアンの他に、その姉にあたる娘が居た。粗野な父親が若い日にストラス公オイゲンの従姉妹にあたるマリア姫に懸想して産ませた姫君だった。バギュ・グリの厄介者テオドールの妻などに成り下がったと両親に嘆かれたが、マリアは氣丈にテオドールに従い、従兄弟が国王となるにあたって上手く立ち回って侯爵夫人の座を手に入れた。娘のジュリアはこの母親から美貌、そして父親からは粗野で型破りな性格を受け継いでいた。
ジュリアは父親のバギュ・グリ侯爵が大嫌いだった。母親の侯爵夫人のことはもっと嫌いだった。うるさい乳母のメルヒルダは少しはマシだったが、これも好きとは言いがたかった。庭師や家庭教師は大して重要な輩ではなかったのでどうでもよかった。夕食の給仕をするアルベルトは巻き毛がかわいらしく氣にいらない訳ではなかった。もっとも十歳も年上の男をかわいらいしいという言い方があたっているかどうかは微妙だったが。
誰よりも嫌いなのは彼女の馬丁、ハンス=レギナルドだった。父侯爵のことは女の尻ばかり追い回しているから嫌いで、母侯爵夫人のことは冷たく高慢だから嫌いだった。メルヒルダにはやかましく小言ばかり言うという、これまたれっきとした理由があったが、この馬丁に対しては嫌う理由になんらかの説得力があるわけではなかった。
「馬丁のくせに名前を二つも持っているんだ」
「あたしよりも高い柵を越えてみせたんだ」
ジュリアはいかにも氣にいらないというように顔をしかめる。
以前、馬丁長が侯爵に伺いを立てたことがある。
「姫の馬丁をお変えになりますか」
侯爵はつまらなさそうに言った。
「あれは誰にも満足せんのだ。これ以上、わがままの相手を増やせというのか」
それからは誰も同じ提案をしなかった。
「ハンス=レギナルド!」
ジュリアは、つかつかと厩舎に踏み入ると怒鳴った。藁の影からハンス=レギナルドと召使いのクリスティーンが身を起こした。姫は冷たく一瞥すると
「ばからしい」
と、言った。
おろおろするクリスティーンを無視してジュリアは愛馬にまたがり、馬丁に言った。
「城下に行くわよ。供をおし」
「ですが、ジュリア様。母君のお許しが出ないでしょう」
「母上のお許しはもう永遠に出ないわよ。亡くなられたんだから」
クリスティーンはわっと泣き出した。看病の枕元を抜け出してハンス=レギナルドにキスをもらっている間に奥方様は亡くなられたのだ。
ジュリアはうんざりして召使い女を見ると、馬に鞭をくれて厩舎から飛び出した。馬丁は慌てて彼の馬に飛び乗り、わがままな姫君を追った。
「お待ちください」
ジュリアは待たず、柵を越え、森に入りどんどん走らせていく。ハンス=レギナルドの馬は次第に追いつき、やがて二頭の馬は並んだ。
「お前には負けないわよ」
「ジュリア様。私は競争をしたいのではありません」
「いつもそうなんだ」
「何故そういうお言葉をお遣いになるのです。何故そのような恰好をなさるのです」
ジュリアの男物の出立ちは城下にも知れ渡っていた。
「馬にドレスで乗ってどうするのよ」
「乗る姫君もおられるではないですか」
「あたしは散歩をしたいんじゃない」
「ジュリア様。どこまで行かれるのですか。奥方様のお側にいてさしあげなくてはならないとはお思いにならないのですか」
「いてどうするのさ。誰ももう側には居られないんだよ。母上は亡くなられた。マクシミリアンの名を呼んでね……」
ジュリアは急に馬を停めると方向を変えて走り出した。ハンス=レギナルドは後を追う。しばらくは無言のまま馬を走らせ、馬丁が追いつくと方向を変え、しばらくは追いかけっこが続いた。ついに、綱さばきのミスからジュリアは草むらに落ちた。
「ジュリア様!」
ハンス=レギナルドは馬から飛び降りて、姫君を助け起こした。痛みでしばらく動けなかった彼女は、それが薄らいでくると顔を上げ、じろりと馬丁を見た。
「本当に頭に来るわね。うちの女中と料理人の全てに愛を語ったその口で、偽りの心配の言葉を述べるんだから」
「偽りの心配などどうしてできましょう。それに、私はあなた様のお家の全ての使用人と恋をした訳ではありませんよ」
「この食わせ者。その整った顔と声で、君だけだとかなんとか迫るんだね。マリアの里帰りもお前が原因に違いないよ」
「とんでもない。私じゃありません。侯爵様です」
「ええ、父上だって。あの恥知らず。お前といい勝負だよ。誰をも本氣で愛したことなんかないんだ」
ハンス=レギナルドはジュリアの足や腕が折れていないか調べていたが、その言葉を聞くと顔を上げて主人の目を見た。
「では、あなた様はどうなのです。誰かを本氣で愛されたことがおありなのですか」
「反撃にでたわけ。いいえ、ないわ。あたしは愛なんか信じていない。父上は滑稽だし、クリスティーンたちも愚かにしか見えない。お前、その顔は何?」
「私に何を言わせたいのです」
「ええい、そうやるんだね、いつも。騙されないよ。他の女と一緒にするんでないよ」
風が森を通り抜け、木漏れ日はキラキラと輝いていた。ひんやりとした草むらに腰掛けてジュリアは馬丁が腕を自分の体に回して支えていることに氣づいた。ハンス=レギナルドの顔はすぐ近くにあった。
「もちろん、あなた様は違います」
「女中と一緒におしでないよ」
「いえ。身分に関係なく、そう、どこの姫君とだってあなた様は違います」
ジュリアはキラキラと光る若葉を見ながらうっすらと微笑んだが、すぐに厳しい顔をして馬丁に言いつけた。
「馬を探しておいで」
ハンス=レギナルドは木の幹にジュリアの背をもたれかけさせながら言った。
「私はかつて一人の女に恋をしました。日も夜もなくその女を愛しました。眠れぬ夜が続き、氣が狂うかと思いました。皮肉なことに、想いを遂げたどの女たちをも、あれほどに恋いこがれることはなかったですね」
そう言うと、二頭の馬の去った方向へと歩き出した。
ジュリアはきつい調子のまま問いかけた。
「お待ち。それはあたしの知っている娘なの?」
「あなた様ですよ」
ハンス=レギナルドは木の間に消えた。
ジュリアは少しの間ハンス=レギナルドの消えた方向を見ていたが、立ち上がるとその場を離れた。馬丁が二頭の馬と戻って来た時には探しようもなかった。
ジュリアは森を歩いていった。侯爵夫人の訃報が届けば、今日の祭りは中止になるだろうが、酒場一軒くらいは開いているだろう。
(やっと母上から自由になったのよ、これを祝わなくてどうするのよ)
侯爵夫人がジュリアを束縛するようになったのは、父親が候爵位を継いだ六年前のことだった。ジュリアはそのとき十二歳だった。ジュリアには父親が侯爵家の厄介者であろうと、侯爵様であろうとまったく関係なかったのだが、母は娘を以前のような野放図にしておくつもりはなかった。
加えてアルベルトのことがあった。ジュリアはアルベルトにキスをさせ、かわいそうな給仕は姫君に夢中になってしまった。無理もない。ジュリアは美しい。漆黒のまっすぐな髪。挑みかける瞳。血のように紅い唇。何ひとつ知らない故に、何ひとつ恐れなかった。ジュリアはキスをしてみたかったし、アルベルトならいいと思ったのだ。
侯爵夫人はちっともいいと思わず、父親の淫らな血がと騒ぎ立てた。そして、男の汚さや恋の愚かしさを説き続けた。ジュリアの美しさを懸念して、常に見張り、女らしく装うことを許さなかった。ジュリアはそれを受け入れ、母親の望む通りに育ったがその束縛を憎んでもいた。
ジュリアは行く手の樹木の間から煙を見た。ジプシー。聖アグネスの祭りだ。彼らは侯爵夫人の喪になんか服さないだろう。
森の空き地に数台の幌馬車が停まり、炎の周りでジプシーたちは踊っていた。ジュリアには誰も氣に留めずに、めいめいで歌ったり踊ったりしているので、少しずつ中に入っていった。やがて一人の老女がじっと見つめているのに氣がついた。
「バギュ・グリの姫さんが何の用かね?」
老女は言った。
「あたし、お前に会ったことないけれど」
「私らは何でも知っているよ」
「嘘ばっかり。私がなぜここに来たかわからないくせに」
「知っているともさ。お前は別れに来たんだよ」
「誰とさ」
「全てとね。まず、その男物の服をなんとかしよう。それでは踊っても楽しくないだろう」
「そうね。でも、こうしていないと男どもが寄ってくるのよ」
「悪いことじゃあるまい。寄ってくる男どもをあしらうのは、女の楽しい仕事さ。それともダンスもできない方がいいのかね」
「わかったわ。この服とはお別れしよう。私を変身させて」
老婆はジュリアを幌馬車に連れて行った。再びジュリアが出て来た時ジプシーたちはもはや彼女に無関心ではいられなかった。薄物を纏い、しなやかに歩み出る彼女は深夜の月のようだった。彼女は踊り始めた。その悩ましさは例えようもない。ジュリアにとってもこの夜は麻薬だった。踊りの恍惚。自分が誰かも忘れ、夢の中にいるように狂った。
深夜に老婆は緑色に透き通る液体を差し出した。
「これをお飲み。聖アグネス祭の今宵、お前さんは愛する男を夢に見るだろう」
ジュリアは口の端をゆがめて言った。
「あたしは誰も愛していないわよ。嫌いな男ばっかり」
「だからこそ、この薬が必要なんじゃ」
ジュリアは受け取って一息で飲んだ。強い酒だった。
翌朝、ジュリアは幌馬車から出て老婆を見つけるとひっぱたいた。
「何よ、あれ。あたしの体が動かないのをいいことに」
老婆はにやりと笑った。
「孫はお前さんに一目惚れしたのさ。だが、お前さんのためにもなっただろう。お前さんを抱いた男は孫じゃなかったはずだよ。愛している男は誰だったかね?」
「想像していた通りの男だったよ」
ジュリアは冷たく言い放った。
「よかったじゃないか」
「あんたの孫に言っておいて。二度とあんな真似はできないって」
「わかっているとも。昨晩、お前さんを抱きたかったのはあの子だけじゃないからね。あの子は幸運な方さね」
「ふん」
ジュリアは空き地から離れて森に入り、昨日ハンス=レギナルドと別れた所に行った。馬丁はジュリアをもたれかけさせたあの木の根元で眠っていた。彼女はハンス=レギナルドを叩いた。彼は目を醒ますと信じられないという顔で、薄物をまとい輝くように美しい主人を見つめた。
「お前、あたしを捜してたの?」
「ご無事だったんですね」
「お前だけなの、捜していたのは」
「私も命が惜しいので、お館には帰っていませんから」
馬が二頭近くの木に繋がれていた。
「そう。お前、あたしを好きだったと言ったね」
「はい」
「今はどうなの」
「今でも。誰と愛を語っても、いつも最後にその女はあなた様になってしまいます」
「ふうん。あたし、昨晩、ジプシーに抱かれたの」
「ジュリア様!」
ジュリアは楽しそうにハンス=レギナルドを見た。まったく見たことのない表情を彼はしていた。いや、かつて一度見たことがあったかもしれない。
「アルベルトとキスをした時にも、お前、あたしを好きだったのかい」
「あなた様にお会いした日からずっとです」
「そう。じゃあ、アルベルトの時から始めよう。私にキスをおし」
ジュリアは命令した。ハンス=レギナルドはぽかんとその主人を見ていた。
「ハンス=レギナルド。聞こえないの?」
ジュリアは自分からキスをした。
捜索の疲れと幸せな安堵でハンス=レギナルドが眠ってしまうと、ジュリアはそっと恋人の側を離れた。そして、愛馬を連れてジプシーの集団のもとに戻り、そのまま、国を出てしまった。
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【小説】Carnival —『青ワタと泡沫の花』二次創作
scriviamo!の第十五弾です。
玖絽さんは、 Stellaで連載中の「青ワタと泡沫の花 」の外伝を書いてくださいました。本当にありがとうございます。
玖絽さんの書いてくださった掌編 『閑話・ベルトランの思い出話 』
玖絽さんは、学生のブロガーさんで、主に小説とイラストを発表なさっていらっしゃいます。月間Stellaでも大変お世話になっています。『青ワタと泡沫の花』は、異界ファンタジーというのでしょうか、伝説上の生きものや精霊たちがごく自然に現れる世界をアムピトリテ号にて航海していく仲間たちのお話です。玖絽さんの水妖や精霊たちに対する深い知識を伺わせる作品で、彼らの登場はとても自然、いつの間にか引き込まれています。
今回、書いてくださったのは、私の大好きなキャラ、ベルトランという名前の妖精(アダロという種類)を登場させてくださった『青ワタと泡沫の花』外伝。再びベルトランに会えて、小躍りしてしまった私です。お返しは……。ちょっと趣向を変えました。玖絽さんからいただいた作品の二次創作で一人キャラをお借りしています。ちょうど現在盛り上がっているカーニヴァルをモチーフに、現実と異界の境界があいまいになる瞬間を書いてみました。精霊の王のお付きで出てきた連中がいますが、私の長編をいくつかお読みになった方は「ああ、あいつらか」と思われる事かと思います。もっとも彼らに深い意味はありませんので、ご存じない方はスルーしていただいて問題ありません。
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Carnival —『青ワタと泡沫の花』二次創作
——Special thanks to Kuro-SAN
サンバのリズムが聞こえてくる。老人は車椅子に身を沈めて往来の騒ぎに想いを馳せた。生まれ故郷は今は真冬のはずだった。二メートルにも及ぶ雪。出入り口が塞がれないように雪かきをしたその後に、春を待ち望みながらカーニヴァルの行列に参加したものだ。けれど、ここでは季節が逆になっている。わずかな布だけを身につけた小麦色の娘たちが、華やかなダチョウの羽で身を飾って朝まで踊り狂う真夏の夜が来る。
往来は紙吹雪が舞い春のようにカラフルだった。老いも若いも、仕事を放り出して、道へとくり出していく。老人の世話をしていた若い娘も「もういいから行っておいで」というと、いそいそと出て行った。
強い陽射しと重たい空氣。弱った彼には快適とは言えない暑さだった。天井のプロペラが軋みながらだるそうに回っている。彼はよく動かない車いすの舵を取って、なんとか窓辺に近づいた。行列が近づいてくる。彼は世界中を旅して、様々な国のカーニヴァルを見てきた。見てきたのはカーニヴァルだけではない。この世の不思議なものをたくさん見てきた。彼は学者だった。世界各地の精霊とその伝承にとりつかれて、たくさんの著作を残した。思い出も。
最初はただの言い伝えだと思っていた。精霊などこの世にいるはずはないと。けれど、インドでありえないことが起こって以来、彼の研究対象は伝承ではなくなった。彼は実際に精霊たちに遭う僥倖を得たのだ。
今でも思い出す。夜明けのヒマラヤ山脈が、ゆっくりと紫色に染まっていく。おかしな薬に惑わされて、三日ほど野を彷徨っていた彼は、新しい灼熱の一日が始まるのに怯えていた。身を切るように冷たい地面に光とともに、生温い風が送り込まれてくる。埃が舞いたち、彼は目をこすった。木立の間から、誰かがゆっくりと歩いてきた。華奢な立ち姿と背中まである黒い長い髪から、はじめは女だと思ったが、女である証の豊かな乳房のふくらみは見られず、かといって男であるとも断定しかねた。人とは思えぬほどに美しく、浅黒い肌は朝日に光っていた。
「死神か……。迎えにきたのか……」
呻く彼の前に音もなく立つと、その美しい者はそっと微笑んだ。
「お前の使命はまだ終わっていない」
「使命……?」
「我々を……、この地上から消え行く種族を書物の上に残す事……」
「お前は、誰だ……」
美しい者はその質問には答えなかった。ヒマラヤが暁色に染まりだした時、その背に扇のようにマラカイト色の羽が広がった。いくつもの瞳のような文様が、同時に学者を見つめていた。それで彼は目の前にいる美しい者が誰であるかわかった。マハーマーユーリー、孔雀の化身だった。この地に伝承が多く残ると聞いて訪れ、美しい壁画の数々に魅せられ、数ヶ月も滞在させたその本人が、突然目の前に現れたのだ。
「ここを発ち、お前の見聞きしたものを全て記しなさい。世界中を周り、空と陸と海の精霊たちを探すのだ。これをお前にやろう」
学者の手の中には、いつの間にかキラキラと輝く孔雀の羽が一本あった。
「これは……」
「この羽を使えば、お前はインクを使わずに書く事ができる。さあ、もう行きなさい。人の子に許された時は短く、精霊たちは世界中に散らばっている」
目を覚ますと、既に正午でうだるような暑さの中、彼の服は汗でぐっしょりと濡れていた。なんて夢を見たんだと頭を振りながら起き上がると、はらりと孔雀の羽が落ちた。マハーマーユーリー。彼は信じないわけにはいかなかった。その羽を使うと、本当にインクを使わなくてもスラスラと書く事ができた。
それからずっと旅をしていた。精霊がいると聞けばどんなに辺鄙な所にでも行った。陸と山の精霊を調べて、孔雀のペンで書き留めた。旅の途中に出会った写本師たちが、彼の原稿を写し取り、世界に広めてくれた。
彼はそれから港へ行き、船に乗せてもらった。沖に出た途端に嵐に巻き込まれ、船が難破してしまった。小さな板切れにしがみついて、もうこれで俺の人生も終わりかと覚悟をした時に、アダロという精霊が彼を助けてくれた。命を救ってくれたお礼に彼は例の孔雀の羽ペンをプレゼントした。それが彼の一番の宝だったから。命を救ってくれた人に、二番目や三番目の宝物を差し出すような事はできなかったから。
マハーマーユーリーはその事を怒らなかったのだろう。彼はその後もたくさんの精霊たちと出会い、孔雀の羽ペンなき後もそれを記す事ができた。彼は成功し、旅の資金を得て、また旅立ち、そして、ここに辿りついた。
地球の裏側。遠い遠い果て。彼の最後の使命が残っている。この地にカーニヴァルの黄昏、世界から忘れられかけている精霊たちの王が現れるというのだ。喧噪に紛れ、現実と非現実の境目が崩壊するオレンジの香りの夕暮れに、輝く山車に乗ってやってくる。その様子を書き留めたら、彼はようやく使命を果たして、眠りにつく事ができるだろう。
学者である老人は、震える手で窓の桟に触れた。日がゆっくりと傾いてくる。通りはダチョウの羽で着飾った、半裸の女たちの踊りを見る見物人たちでごったがえし、サンバのリズムと踊り狂う者たちのスパンコールの鳴らすしゃらしゃらという音でにぎやかだった。沼地のようなすえた匂いがし、くたびれた日常を脱ぎ捨ててつかの間の陶酔に狂う女たちが旋回していた。男たちは氣にいったダンサーたちを不道徳な世界へと引き込むために手を伸ばした。
子供らを空腹にさせてまで買い込んだ強い酒や、犯罪に手を染めた者どもが運ぶ粗悪な薬を使わずとも、今宵だけは人びとは大いに酔う事ができる。一年を耐えたのはこのたった一晩のためだった。人の世と現実の冷たさから離れて、存在しないはずの夢と狂喜の世界へと誰もが誘われているのだった。
だが、私にはその陶酔は必要ないのだ。老人は瞳を閉じた。私は一年に一晩だけでなく、望めばいつでも、もうひとつの世界へと渡っていけるのだから。
アダロが歌ってくれた詩を思い出す。いい歌だった。世界は素晴らしい精霊たちで満ちていた。精霊なんていないと、皆が馬鹿にするのを振り切って、この道を究めるのだと決めた事を誇りに思った。
人びとのざわめきが聞こえた。サンバではない、不思議な音楽が流れてきた。はるか遠くから。西からでもなければ東からでもない。南からでもなければ北からでもない。どこからかわからないがそれはゆっくりと近づいてくる。黄金の夕陽が学者の眼を射た、その瞬間に彼は行列を見た。
行列の一番前に四人の奏者がいた。黒髪の女と金髪の男は横笛を吹いていた。東洋人の男が、アダロの抱えていたようなリュートを爪弾いていた。いや、それは他の楽器だったのかもしれない。キラキラと輝く真珠貝の内側を破片にして、モザイク状にはめ込んだ弦楽器。どこかで聞き覚えのあるメロディだった。茶色い髪をしたひょろっとした男が、どこからそんないい声が出るのか驚くばかりのテノールで歌っていた。
アダロのメロディだ! あの精霊が爪弾いてくれた、あの歌だ。彼は男の歌う詞に耳を傾けた。それは素晴らしい韻律の完全なる定型詩だったが、はじめて聴く内容だった。南海の果ての嵐の夜。荒れ狂う波間を漂う頼りない板、それにしがみつく若き青年。まさか……、この歌詞は……。
テノールが紡ぎだす第二連は、トビウオたちに守られた角のある海の精霊が青年を救い出すところだった。岸辺にたどり着いた途端に、命の恩人に学術的な質問をする青年。若き学者と海の精霊の愉快な会話。これは私とあのアダロの出会いの歌だ!
第三連は悲しげに転調した。辛い別れ、孔雀の羽でできた魔法のペンが精霊に贈られる。二度と逢う事のできなくなったお互いに対する想い。なつかしく、優しい想いが五十年の時を渡る。
なんということだ。老人は涙を流した。
第四連は再び明るい調子になった。嵐にあったアダロを助けてくれた人間たちが、金の縁取りの本を見せてくれた事。その本にはアダロの挿絵とともに二人の出会いが語られていた事。『幸運のアダロに、礼を述べる』歓び踊る年若きアダロ……。
老学者は涙を拭いながら、歌に感謝した。これはあのアダロが贈ってくれた歌だ。この命が終わる前に、この歌を聴く事ができたなんて、何と幸せな事だろう。
四人の楽人の後ろには、華やかなサーカスの一団が続いていた。四頭の白い馬がぴったりと並んで歩き、真ん中の二頭の背にそれぞれの足を乗せて赤と青の派手な縞の上着を着た男が立っていた。その後ろには白い馬に乗り双子を左右に従えた妙齢の女が続く。棒の上に逆立ちしたまま歩く、褐色の肌の男が続いた。そして、七頭のライオンたちを従えた赤毛の女。仔ライオンと戯れながら白いレオタード姿の少女が、そして、若い青年が倒立や回転を繰り返しながら飛び跳ねている。そして、その後ろを行くのは八つのボールを器用にジャグリングしながら歩いていく道化師だ。
ああ、なんて華やかな行列なんだろう。その後ろに堂々と進む山車があった。人間のダンサーたちのけばけばしい山車と違って、それは真っ白な美しい羽で覆われていた。大きな天蓋に覆われていて、老学者からその中にいる人物が見えない。なんてことだ。若く元氣だった頃なら、階段を駆け下りて観に行く事ができるのに。ここまで来て、精霊の王の姿を見る事ができないのか?
窓の桟に震える両手でしがみついて身を乗り出した。どうかひと目でも、その姿をこの眼に……。老学者は小さくそう言った。
行列が止まった。山車を覆っていた真っ白な羽の天蓋がゆっくりと開いた。彼は一人のすらりとした立ち姿を眼にした。その人物の背中に、ゆっくりと扇のように羽が広がっていくのが見えた。真っ白い孔雀の羽。その外側にマラカイトグリーンと紺の輝く羽。そして、その外側にもう一度白い羽……。精霊の王を、老学者はよく知っていた。それは、インドで出会った時から全く変わらぬ姿のマハーマーユーリーだった。男とも女ともわからぬ美しい姿。浅黒い肌に漆黒の長い髪。精霊の王はゆっくりと窓の上の老学者を見上げて微笑んだ。
ジャスミンの香りが満ちた。人びとのため息がシャボン玉のように弾けた。アダロの歓びの歌が、サーカスの芸人たちが、馬とライオンと巨大な山車が、光の中で色あせて消えていった。一筋の強い光が、老学者の顔に当たった。それはまさに沈む瞬間の夕陽だった。
「あ!」
瞳をしばたたかせて、もう一度目を開けると、精霊の王とその従者たちは跡形もなく消えていた。
道にはサンバを踊る女たちと、彼女たちを求める観衆たちが狂ったように騒いでいた。だが、老人の手にはもう一度孔雀の羽が舞い落ちた。雪のように白い美しい羽だった。再び彼が物語を紡げるようにと渡された約束のペンだった。
(初出:2014年3月 書き下ろし)
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【小説】午睡から醒めて —「タンスの上の俺様 2014」
scriviamo!の第十四弾です。
篠原藍樹さんは、 Stellaでおなじみの異世界ファンタジー「アプリ・デイズ」の後日談を書いてくださいました。本当にありがとうございます。
篠原藍樹さんの書いてくださった掌編 『外伝アプリ企画参加用(?)』
篠原藍樹さんは、月間Stellaの発起人のお一人で、そちらでも大変お世話になっている高校生の小説書きブロガーさんです。いや、そろそろ高校卒業でしょうか。代表作の『アプリ・デイズ』は、ものすごい設定で唸りました。登場人物たちが高校などの日常世界を離れて戦うというところまでは他の小説でもあるでしょうが、未来小説らしくそれぞれの人間にアプリをインストールできる事になっていて、その世界観がワープロ時代に育った私には想像もできないデジタルな世界になっていまして。最近の高校生の脳みそはこんな風になっているのか! と、驚愕したものでした。
今回、書いてくださったのは、その「アプリ・デイズ」の後日談です。本編を離れて、ほのぼのとしたいい感じの主人公たちにほんわかさせていただきました。お返しをどうしようかと思いましたが、「アプリ・デイズ」の二次創作はどう考えても無理なので、トリビュート掌編にさせていただきました。藍樹さんの書いてくださった作品そのものがネタバレを含んでいますので、そのモチーフを使わせていただいています。本編をこれから読むおつもりの方はお氣をつけ下さい。登場するオリキャラがあまりにもパンチが弱いので、去年のscriviamo!の一番人氣キャラを配置しました。
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午睡から醒めて —「タンスの上の俺様 2014」
(Homage to『Appli Days』)
——Special thanks to Shinohara Aiki-SAN
日曜日の午後、僕はほんの少しだけソファに横になる。月曜日から金曜日までぎっしりと働き、土曜日は莉絵につきあって郊外のショッピングセンターまで買い出しにいく。様々な用事をしてくたくただ。のんびりと昼寝を楽しむこの時間だけは莉絵も文句は言わない。これはまずまず幸せと言ってもいいだろう。
夢の中では、白い長い髪の儚げな少女がそっと呼びかけていた。
「ごめんね……。わたし、どうしてもリュウ君ともう一度逢いたかった……」
オルナ……。僕は何度でも君の事を許すよ。大好きなんだ、君の事を……。美少女は僕の腕の中で震えている。その柔らかい髪は甘い香りとともに僕の鼻腔をくすぐり……。くすぐり……、く、くすぐったい……、あれ?
「はいはい。起きてよ~」
眼を開けると、顔のすぐ側に茶色い毛玉があった。僕はぎょっとしてソファーの背に飛び乗った。そして、その毛の塊をよく見た。仔猫だ。茶色のトラだ。しかも形相が悪い。ガンを付けている、というのが正しい表現かもしれない。オルナちゃんじゃない!
僕は高校生の時にあの名作「アプリ・デイズ」に出会った。篠原藍樹さんという高校生がブログで連載していた小説だ。高校生が書いたとは思えないほど完成された世界観、手に汗を握るストーリー、そして、永遠のヒロイン、オルナ・テトラ……。読みながら、僕は主人公の遠雁隆永に入り込み、そして主人公がしていないのにオルナに恋をした。儚くて壊れそうな白い美少女。
そして、僕は大学に進み、就職してから直に僕自身のオルナと出会った……はずだった。それがいま僕の目の前で、目つきの悪い仔猫を差し出している血色のいい莉絵だ。出会った時は、オルナちゃんの再来かと思うほど色が白く、はかなげで明日の命すら知れないと思われた。それが今は見る影も無い。病院に行かないでもいいのは、悪い事じゃないが。
「かわいいでしょ?」
莉絵はにっこりと微笑む。か、かわいい? 僕はその仔猫に睨まれているんだが……。
「連れて帰ってください、って箱に入っていたの。とてもそのままにしておけなくって」
要するに捨て猫か!
「ニコラって名前にしたから」
世帯主で、一家の大黒柱である僕の意見も聞かずに、この猫を飼う事だけでなく名前まで決定したらしい。しかも、ニコラなんてかわいい名前を付けてどうするんだ! こんなふてぶてしい猫、見た事ないぞ。まだ手のひらサイズなのに、みゃあと可愛く鳴きもせずに、ひたすらこれからお世話になる家の主人を睨みつけている。
莉絵にはこの猫がとても可愛く見えるらしかった。僕がかなり氣にいっていた、パンのおまけでついてきたシリアルボウルをさっと取り出すと、ミルクを入れてやり仔猫に飲ませてやっていた。小さい生きものに優しい所は、莉絵の利点だ。
莉絵が現われた時、僕は運命だと思った。ある時、アパートの郵便受けの前でウロウロしている美少女がいたのだ。そして、僕が郵便受けを開けようとすると「あ」と言った。
「え?」
「あ、あの……。私の指輪が、そこに入ってしまったんです」
「え?」
その時は、どうやったら見ず知らずの人間の郵便受けに指輪が入るシチュエーションになるのか、疑問を持って良さそうなものだったが、僕にはオルナちゃんが突然現れたようにしか思えなかった。実際に、莉絵は身体が弱く、そのために痩せ細り透き通るように白い肌をしていた。もちろん髪は黒かったけれど。僕は指輪を渡して、それから、自己紹介をして、デートにこぎ着けた。
莉絵が入院して、手術をしないと助からないという話を聞いた時には、彼女の命を助けるためには何でもすると叫んだ。莉絵にはいくつもの臓器疾患があって、特にその時は至急腎臓の移植をしなくては助からないと言われていた。そして、奇跡が起こった、と皆が思った。つき合っていたこの僕が、20万人に一人しかいないといわれている適合タイプだったからだ。もちろん僕は愛する莉絵、僕のオルナちゃんのために腎臓を一つ提供し、手術は成功した。彼女はすっかり健康になり、僕たちは結婚した。
莉絵がはじめから腎臓のために僕に近づいたことを知ったのは、結婚してからだった。彼女はスポーツもできないし、塾にも行かせてもらえない、ずっと自分の部屋にこもった生活をしてきた。コンピュータを操るスキルがそれで上がってしまい、ハッカーのような事までしていたらしい。僕の朝食を作ってくれる氣はさらさらない彼女だけれど、国の中央セクションにある健康診断データを閲覧するなんて高校生の頃から朝飯前だったらしい。そして、最適合の僕の存在を知ると、わざわざアパートにやってきて指輪を郵便受けに入れて僕を待っていたのだ。
まあ、でも、そんなに悪い事じゃなかった。彼女のいなかった僕が、夢にまで見たオルナちゃんの再来かと思うばかりの儚げな美少女の命を救い、結婚する事になったんだから。それに、「アプリ・デイズ」の主人公と違って、命を狙われたってわけじゃないからな。許すとか許さないとかいうほど悪い事をされたわけじゃないよな。
その後はめでたしめでたしと言っていいのかわからない。片方の腎臓を摘出して以来、どうも無理がきかなくなって痩せる一方の僕とは対照的に、莉絵は血色が良くなり、どんどんふくよかになった。毎日、昼ドラを見ながら五食は食べているらしい。まだ、心臓には問題があるらしいのに、いいのか? もっとも心臓ばかりは脳死の提供者がないかぎり手術できないから、莉絵は手術をあきらめているみたいだ。僕は彼女が不憫なので、パートに行かせたりしないで家でゆっくりできるようにしている。
どんどん食べて体重を増やしているのは莉絵だけではなかった。そのまま我が家に居着いたネコは、僕の大事なボウルを二つも占領して着実に大きくなってきている。莉絵はニコラと呼び続けているが、その名前に反応したことは一度もない。なんともまあ、態度のでかい仔猫で、いつもガンをつけているような目つきをしている。仔猫ならかわいらしく身体をくねらせたりすればいいものをそれもしない。たまに前足で顔を洗っている様子などはさすがに可愛いと思うが、それに見とれていると「何を見ているんだ」とでもいいたげにキッととこちらを睨む。

エサが欲しい時もかわいらしくにゃあにゃあ言ったりはしない。きちっと前足を揃えてボウルの前に座り、僕の顔を見る。その様子を見ると、急に悪い事をしたような氣になる。
「す、すみません。氣がつきませんで」
俺はあわててキッチンの戸棚に向かい、エサを用意するのだった。
「ニコラって感じじゃ絶対にないよなあ。なんでお前はそんなに高飛車なんだ。俺様って感じだぞ」
そういうと、ネコはこちらを向いた。今まで何度ニコラと呼んでも無視されていたので、その反応にはびっくりした。
「なんだよ。俺様っていわれて氣分を害したのか?」
やはり俺様というと反応する。変な猫だ。それ以来、僕はこいつを俺様ネコと秘かに呼ぶようになった。
そんな日曜日の午後だ。僕はつかの間の午睡を楽しみ、莉絵はリビングでこたつに寝そべりながらテレビを観ている。そして、俺様ネコは……、やべっ。コンピュータの前で遊んでいる。データでも消されたら大変だ。
「おいおい、そこはまずいから降りてくれよ」
画面には30近いブラウザの窓が開いていて、一番手前の入力フォームには意味不明の文字が大量に入力されていた。やっとの事で俺様ネコをキーボードの上から追い払うと、僕は椅子に座ってデスクトップを片付けだした。危ない、危ない。次に昼寝する前にはPCの電源を落とさないとダメだな。だから動物なんか飼うのは……。
開いていたブラウザは、どうやら僕や莉絵のブラウザ閲覧履歴が表示されているようだった。莉絵のヤツ、またこんなギャル服の通販を。げっ、エッチなサイトの履歴が残ってた! 莉絵に発見されなくてよかった。僕はあわてて一つひとつウィンドウを閉じていった。そして、あるページで手が止まった。
脳死時における臓器提供意思表示? 表示されているのは、僕が脳死になったら全ての臓器を提供するって申請をした確認画面。
(そ、そんな……。いつの間に)
臓器提供意思表示は生体認証キーによる本人確認が大前提だ。つまり、僕自身が入力するか、もしくはこのコンピュータに僕としてログインし、保存されている生体認証キーを使って入力しない限りこのデータベースに僕の名前が登録される事はないはずだ。それができるのは……。僕は、ちらっと開け放たれたドアからリビングの方に顔を向けた。馬鹿馬鹿しいコントに大笑いする、僕のオルナちゃんの声が聞こえてきた。
確かに僕は「アプリ・デイズ」の大ファンだよ。だけれど、ここまで一緒じゃなくてもいいんだけれどな……。
呆然とする僕に同情のスキンシップをするでもなく、俺様ネコは軽やかにコンピュータ・デスクから飛び降りると、ぴんと尻尾を立ててエサ用食器の前へと歩いていった。僕は、その姿を目で追った。
俺様ネコはしっかりと頭をもたげて、じっとこっちを見た。何もかも放り出して最優先で行かなくてはならない氣にさせる、あの高飛車な目つきで。僕は、臓器提供確認ページを閉じると、いそいそとキッチンに向かい戸棚からキャットフードを出してきて彼が待つ猫用食器の中に恭しく満たした。礼を言う氣配もなく食べる俺様ネコを見ながら、僕はこれからもこの家でのヒエラルヒーの最底辺に居続けるだろう事を理解した。
(初出:2014年3月 書き下ろし)
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scriviamo!の第十四弾です。
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篠原藍樹さんは、月間Stellaの発起人のお一人で、そちらでも大変お世話になっている高校生の小説書きブロガーさんです。いや、そろそろ高校卒業でしょうか。代表作の『アプリ・デイズ』は、ものすごい設定で唸りました。登場人物たちが高校などの日常世界を離れて戦うというところまでは他の小説でもあるでしょうが、未来小説らしくそれぞれの人間にアプリをインストールできる事になっていて、その世界観がワープロ時代に育った私には想像もできないデジタルな世界になっていまして。最近の高校生の脳みそはこんな風になっているのか! と、驚愕したものでした。
今回、書いてくださったのは、その「アプリ・デイズ」の後日談です。本編を離れて、ほのぼのとしたいい感じの主人公たちにほんわかさせていただきました。お返しをどうしようかと思いましたが、「アプリ・デイズ」の二次創作はどう考えても無理なので、トリビュート掌編にさせていただきました。藍樹さんの書いてくださった作品そのものがネタバレを含んでいますので、そのモチーフを使わせていただいています。本編をこれから読むおつもりの方はお氣をつけ下さい。登場するオリキャラがあまりにもパンチが弱いので、去年のscriviamo!の一番人氣キャラを配置しました。
「scriviamo! 2014」について
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午睡から醒めて —「タンスの上の俺様 2014」
(Homage to『Appli Days』)
——Special thanks to Shinohara Aiki-SAN
日曜日の午後、僕はほんの少しだけソファに横になる。月曜日から金曜日までぎっしりと働き、土曜日は莉絵につきあって郊外のショッピングセンターまで買い出しにいく。様々な用事をしてくたくただ。のんびりと昼寝を楽しむこの時間だけは莉絵も文句は言わない。これはまずまず幸せと言ってもいいだろう。
夢の中では、白い長い髪の儚げな少女がそっと呼びかけていた。
「ごめんね……。わたし、どうしてもリュウ君ともう一度逢いたかった……」
オルナ……。僕は何度でも君の事を許すよ。大好きなんだ、君の事を……。美少女は僕の腕の中で震えている。その柔らかい髪は甘い香りとともに僕の鼻腔をくすぐり……。くすぐり……、く、くすぐったい……、あれ?
「はいはい。起きてよ~」
眼を開けると、顔のすぐ側に茶色い毛玉があった。僕はぎょっとしてソファーの背に飛び乗った。そして、その毛の塊をよく見た。仔猫だ。茶色のトラだ。しかも形相が悪い。ガンを付けている、というのが正しい表現かもしれない。オルナちゃんじゃない!
僕は高校生の時にあの名作「アプリ・デイズ」に出会った。篠原藍樹さんという高校生がブログで連載していた小説だ。高校生が書いたとは思えないほど完成された世界観、手に汗を握るストーリー、そして、永遠のヒロイン、オルナ・テトラ……。読みながら、僕は主人公の遠雁隆永に入り込み、そして主人公がしていないのにオルナに恋をした。儚くて壊れそうな白い美少女。
そして、僕は大学に進み、就職してから直に僕自身のオルナと出会った……はずだった。それがいま僕の目の前で、目つきの悪い仔猫を差し出している血色のいい莉絵だ。出会った時は、オルナちゃんの再来かと思うほど色が白く、はかなげで明日の命すら知れないと思われた。それが今は見る影も無い。病院に行かないでもいいのは、悪い事じゃないが。
「かわいいでしょ?」
莉絵はにっこりと微笑む。か、かわいい? 僕はその仔猫に睨まれているんだが……。
「連れて帰ってください、って箱に入っていたの。とてもそのままにしておけなくって」
要するに捨て猫か!
「ニコラって名前にしたから」
世帯主で、一家の大黒柱である僕の意見も聞かずに、この猫を飼う事だけでなく名前まで決定したらしい。しかも、ニコラなんてかわいい名前を付けてどうするんだ! こんなふてぶてしい猫、見た事ないぞ。まだ手のひらサイズなのに、みゃあと可愛く鳴きもせずに、ひたすらこれからお世話になる家の主人を睨みつけている。
莉絵にはこの猫がとても可愛く見えるらしかった。僕がかなり氣にいっていた、パンのおまけでついてきたシリアルボウルをさっと取り出すと、ミルクを入れてやり仔猫に飲ませてやっていた。小さい生きものに優しい所は、莉絵の利点だ。
莉絵が現われた時、僕は運命だと思った。ある時、アパートの郵便受けの前でウロウロしている美少女がいたのだ。そして、僕が郵便受けを開けようとすると「あ」と言った。
「え?」
「あ、あの……。私の指輪が、そこに入ってしまったんです」
「え?」
その時は、どうやったら見ず知らずの人間の郵便受けに指輪が入るシチュエーションになるのか、疑問を持って良さそうなものだったが、僕にはオルナちゃんが突然現れたようにしか思えなかった。実際に、莉絵は身体が弱く、そのために痩せ細り透き通るように白い肌をしていた。もちろん髪は黒かったけれど。僕は指輪を渡して、それから、自己紹介をして、デートにこぎ着けた。
莉絵が入院して、手術をしないと助からないという話を聞いた時には、彼女の命を助けるためには何でもすると叫んだ。莉絵にはいくつもの臓器疾患があって、特にその時は至急腎臓の移植をしなくては助からないと言われていた。そして、奇跡が起こった、と皆が思った。つき合っていたこの僕が、20万人に一人しかいないといわれている適合タイプだったからだ。もちろん僕は愛する莉絵、僕のオルナちゃんのために腎臓を一つ提供し、手術は成功した。彼女はすっかり健康になり、僕たちは結婚した。
莉絵がはじめから腎臓のために僕に近づいたことを知ったのは、結婚してからだった。彼女はスポーツもできないし、塾にも行かせてもらえない、ずっと自分の部屋にこもった生活をしてきた。コンピュータを操るスキルがそれで上がってしまい、ハッカーのような事までしていたらしい。僕の朝食を作ってくれる氣はさらさらない彼女だけれど、国の中央セクションにある健康診断データを閲覧するなんて高校生の頃から朝飯前だったらしい。そして、最適合の僕の存在を知ると、わざわざアパートにやってきて指輪を郵便受けに入れて僕を待っていたのだ。
まあ、でも、そんなに悪い事じゃなかった。彼女のいなかった僕が、夢にまで見たオルナちゃんの再来かと思うばかりの儚げな美少女の命を救い、結婚する事になったんだから。それに、「アプリ・デイズ」の主人公と違って、命を狙われたってわけじゃないからな。許すとか許さないとかいうほど悪い事をされたわけじゃないよな。
その後はめでたしめでたしと言っていいのかわからない。片方の腎臓を摘出して以来、どうも無理がきかなくなって痩せる一方の僕とは対照的に、莉絵は血色が良くなり、どんどんふくよかになった。毎日、昼ドラを見ながら五食は食べているらしい。まだ、心臓には問題があるらしいのに、いいのか? もっとも心臓ばかりは脳死の提供者がないかぎり手術できないから、莉絵は手術をあきらめているみたいだ。僕は彼女が不憫なので、パートに行かせたりしないで家でゆっくりできるようにしている。
どんどん食べて体重を増やしているのは莉絵だけではなかった。そのまま我が家に居着いたネコは、僕の大事なボウルを二つも占領して着実に大きくなってきている。莉絵はニコラと呼び続けているが、その名前に反応したことは一度もない。なんともまあ、態度のでかい仔猫で、いつもガンをつけているような目つきをしている。仔猫ならかわいらしく身体をくねらせたりすればいいものをそれもしない。たまに前足で顔を洗っている様子などはさすがに可愛いと思うが、それに見とれていると「何を見ているんだ」とでもいいたげにキッととこちらを睨む。

エサが欲しい時もかわいらしくにゃあにゃあ言ったりはしない。きちっと前足を揃えてボウルの前に座り、僕の顔を見る。その様子を見ると、急に悪い事をしたような氣になる。
「す、すみません。氣がつきませんで」
俺はあわててキッチンの戸棚に向かい、エサを用意するのだった。
「ニコラって感じじゃ絶対にないよなあ。なんでお前はそんなに高飛車なんだ。俺様って感じだぞ」
そういうと、ネコはこちらを向いた。今まで何度ニコラと呼んでも無視されていたので、その反応にはびっくりした。
「なんだよ。俺様っていわれて氣分を害したのか?」
やはり俺様というと反応する。変な猫だ。それ以来、僕はこいつを俺様ネコと秘かに呼ぶようになった。
そんな日曜日の午後だ。僕はつかの間の午睡を楽しみ、莉絵はリビングでこたつに寝そべりながらテレビを観ている。そして、俺様ネコは……、やべっ。コンピュータの前で遊んでいる。データでも消されたら大変だ。
「おいおい、そこはまずいから降りてくれよ」
画面には30近いブラウザの窓が開いていて、一番手前の入力フォームには意味不明の文字が大量に入力されていた。やっとの事で俺様ネコをキーボードの上から追い払うと、僕は椅子に座ってデスクトップを片付けだした。危ない、危ない。次に昼寝する前にはPCの電源を落とさないとダメだな。だから動物なんか飼うのは……。
開いていたブラウザは、どうやら僕や莉絵のブラウザ閲覧履歴が表示されているようだった。莉絵のヤツ、またこんなギャル服の通販を。げっ、エッチなサイトの履歴が残ってた! 莉絵に発見されなくてよかった。僕はあわてて一つひとつウィンドウを閉じていった。そして、あるページで手が止まった。
脳死時における臓器提供意思表示? 表示されているのは、僕が脳死になったら全ての臓器を提供するって申請をした確認画面。
(そ、そんな……。いつの間に)
臓器提供意思表示は生体認証キーによる本人確認が大前提だ。つまり、僕自身が入力するか、もしくはこのコンピュータに僕としてログインし、保存されている生体認証キーを使って入力しない限りこのデータベースに僕の名前が登録される事はないはずだ。それができるのは……。僕は、ちらっと開け放たれたドアからリビングの方に顔を向けた。馬鹿馬鹿しいコントに大笑いする、僕のオルナちゃんの声が聞こえてきた。
確かに僕は「アプリ・デイズ」の大ファンだよ。だけれど、ここまで一緒じゃなくてもいいんだけれどな……。
呆然とする僕に同情のスキンシップをするでもなく、俺様ネコは軽やかにコンピュータ・デスクから飛び降りると、ぴんと尻尾を立ててエサ用食器の前へと歩いていった。僕は、その姿を目で追った。
俺様ネコはしっかりと頭をもたげて、じっとこっちを見た。何もかも放り出して最優先で行かなくてはならない氣にさせる、あの高飛車な目つきで。僕は、臓器提供確認ページを閉じると、いそいそとキッチンに向かい戸棚からキャットフードを出してきて彼が待つ猫用食器の中に恭しく満たした。礼を言う氣配もなく食べる俺様ネコを見ながら、僕はこれからもこの家でのヒエラルヒーの最底辺に居続けるだろう事を理解した。
(初出:2014年3月 書き下ろし)
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二年、続きましたね!

本日、三月二日をもって、当ブログ「scribo ergo sum」は開始から満二年を迎えました。
ここまで続けてくる事ができたのは、ひとえに日々訪問してくださるみなさまと、コメントやコラボや企画でかまってくださる方々のおかげです。篤く御礼申し上げます。
いやあ、あっという間でしたね。一年続くかと訝っていた一周年までも早かったんですが、それからの一年はまるで一ヶ月ぐらいの感覚でした。
二周年だから特に何かするという事はありません。というか、scriviamo! 2014そのものが周年企画(自分で忘れかけているあたり……)なのでした。今年も無事に受付期間が終了して、ホッとしています。手を上げてくださったけれど、まだ書き終わっていないとおっしゃる方、ご安心ください。既にお伺いしている方の分はずっとお待ちしておりますので。また、すでにいただいている藍樹さんと玖絽さんの作品に対しては明日から順次お返しを発表しますので、少々お待ちくださいませ。
来年再びscriviamo!を開催するかはまだ決めていません。もしかしたらちょっとルールを変えるか、他の形での交流にするかもしれません。
いずれにしても、ブログの方は少しずつ通常運転に戻していきます。ここしばらくできないでいた、みなさまの作品に対する感想も早く書きたいなと思いますし、写真や私の生活に関する普通の記事も復活させたいです。
scriviamo!の期間中に、プライヴェートの方で人生について深く考える事がありました。たまたま書いていた掌編ともリンクして、筆が重くなった(キーボードが、かな)事もありました。でも、思い直したのです。今この時間に私がこの世界に存在していたことを証するのは作品だけだし(まさにscribo ergo sum...)、このブログに何かの意味があるとしたら、たゆまずにみなさんと交流を続けている事そのものなんじゃないかなと。
この二年間に多くの交流のあったブログが、閉鎖なさったり、更新頻度が激減したり、交流が途絶えたなどの変化がありました。それぞれの方の人生、時間の使い方、誰と交流する事により時間を使いたいかという選択があります。寂しい事ではありますが、私はそのどれをも尊重したいと思っています。
私自身がいつまでこのブログが続けられるかわかりません。実をいうと八ヶ月ぐらい前に、「大道芸人たち」の第二部を発表し終えたらブログをやめようと思っていました。これを書くという事は、今はそう思っていないという事です。白紙状態です。もっと続けるかもしれないし、その前にやめるかもしれない。ただ、一つだけ思っている事があります。事故や健康問題など前もって予測できない事態は別ですが、自分の意志でブログをやめる時には、連載小説の完結まで責任をもって発表しようということです。
近日中に、「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」の連載を始めようと思っています。また、五月からはStella用にも新連載が始まります。そういうわけで、すくなくとも2014年中は、本人としてはブログをこれまで通り続けていく所存です。これからも、みなさまに構っていただけたらとても嬉しいです。
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変わっていること
自分の正直なきもちを綴っている友人が書いていたのですが、ずっとその友人には自己否定があって、「普通ではない事」イコール「悪い事」だったと。その具体例の中に恋愛の方向性などの話の他に「大和民族でない血が混じっていること」も入っていて、びっくりしてしまいました。
いや、その事実についてではないですよ。そうじゃなくてそのことが「自己否定に繋がる」ということ。というのは、私はまったく反対に感じてしまう人間だとそこで認識したからです。
私にも16分の一、外国人の血が混じっています。曾々祖母は当時の国籍ではドイツ人でしたが、ストラスブールの人でしたからドイツ人でもフランス人でもないアルザス人です。他の16分の15の血は日本人で、日本に生まれた日本人であることを誇りに思うと同時に、私はこのわずかなアルザスの血を誇りに思っています。明治の初期に二度と帰れないとわかっていて日本にまでノコノコと嫁いでいった変わり者の血だからです。
私にとって「変わっていること」「皆と同じでないこと」は常に自己肯定に繋がっていました。「偉い」「よりよい」ではなくて単純に「個性があるのはいいこと」という概念を鵜呑みにしていたみたいなんですよね。
もちろん日本には「出る杭は打たれる」「まわりの空氣を読む」というような概念があることはわかっています。それでも、人と違えば違うほど、それは私の利点だと勝手に思い込んでいたのです。私には世間一般的な物差しでは他の人より秀でている点は余りありません。だから少しでも自分のプラスポイントにしてしまえという、かなり自己中心的な思い込みですね。たぶんそうすることでしか、子供の頃の弱くて情けなくて力のない自分とその状況に耐えられなかったからなのかもしれません。
中学生のとき、グループの女の子たちが休み時間に一緒にトイレに行く習慣がありました。ある時から、私はそれを断りました。休み時間の度に用もないのにトイレに行きたくなかったからです。冗談みたいな話ですが、そんなことに勇氣がいたのです。それ以来、私は「あの子は少し変わっている」という評価を得るようになりました。それが今の明らかに平均的日本人とは違う人生に繋がっているように思います。
連れ合いは私に輪をかけた変わり者です。そして、彼もまた、変わっていることを全く根拠もなく誇っています。まさに「割れ鍋に綴じ蓋」です。二人とも世間一般的には「ああはなりたくない」なのかもしれません。
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