【小説】Infante 323 黄金の枷(4)居住区
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Infante 323 黄金の枷(4)居住区
翌朝、マイアはアマリアと一緒に24の部屋の掃除に行くと言われた。朝食の給仕はマティルダ担当の日だった。
「どうして? 一人で四人分だと大変じゃないの?」
「ううん、食堂で朝食をとられるのはお二人だけよ」
「二人?」
「うん。ドン・アルフォンソとドンナ・マヌエラ。24はベッドで食べたいとかで寝室に運ばせているの。お昼は氣まぐれね。食堂に来ることもあるし、運ばせることもあるし」
「23は?」
「あの方はね、必要がない限り、出てこないのよね。朝もお昼も工房でとられるの。私たちは毎朝焼きたてのパンをお届けして、コーヒーやハムやチーズやジャムなど用意してほしいと言われた物を時々補充するだけ。対照的なご兄弟なのよね。24は全てのことに仕えてもらうのが好きで、23は必要以上に構われるのが嫌いなの」
「ふ~ん」
「じゃ、私いくわね。マイアは、24の所の掃除か、大変だと思うけれど頑張ってね」
マティルダはウィンクして部屋から出て行った。大変? マイアは首を傾げながら用具置き場で待つアマリアの所に急いだ。
「行きましょうか」
アマリアは掃除用具を用意して待っていた。自ら一番重い掃除機を持とうとしたので、マイアがそれを制して持つと「ありがとう」とにっこり笑った。
アマリアはまずマイアを鍵の置き場に連れて行った。
「こちらが23の所の鍵で、こちらが24。ドン・アルフォンソ、ドンナ・マヌエラ、それからメネゼスさんはそれぞれご自分でこの鍵を持っていらっしゃるけれど、他の人たちがあそこへ入る時にはここから鍵を持っていくの。必ずここにサインして、使ったらすぐに戻すこと。戻ったらまたサインしてね」
「はい」
「居住区に入ったら、すぐに内側から鍵をかけること」
「はい……」
なぜ鍵をかけなくちゃいけないのですか。その根本的な質問をしていいのかわからずマイアが戸惑っているのをアマリアは見て取った。
「あなたの訊きたいことはわかるわ。ご主人様と呼んでおきながら、囚人みたいに扱うのはなぜかって思うでしょう?」
マイアは頷いた。
「理由は私にもわからないの。でも、鍵をかけるのは、あそこに住む方が私たちの目を離した隙に逃げだしたりしないため。私たちは一階や三階で仕事をすることもあるけれど、あそこはとても広いので、どこにいらっしゃるのか把握できないことが多いのよ」
アマリアが連れて行った24の居住区は、大きな鉄格子と鍵のかかった入口がある以外は、インファンテ(王子)と呼ばれる人の住まいにふさわしい豪奢で贅沢な空間だった。上下三階に及び、三階は寝室と浴室、二階は居室で一階には高価な応接家具と書斎、中庭に出ることができた。広い庭には美しい花が咲き乱れ、洒落たガーデン・テーブルと椅子が置かれていた。
「このつくりは、ドン・アルフォンソやドンナ・マヌエラのお住まいとほとんど一緒よ」
アマリアはまず一階の応接室を片付けだした。ここは24が実質的に居間として使ってるらしく、大きな壁掛けディスプレイとスピーカーが設置されていた。その正面には白い革のソファセットと大理石のローテーブルが置かれていた。そして、衣類、雑誌、新聞、ゲーム機と思われるいくつもの機械、CD、DVD、たくさんのリモートコントロールなど、何もかもが出しっぱなしになっていた。マイアはアマリアがそれらを手際よくあるべき所へと収めていった後を拭き掃除をしながら追っていった。それから乾拭きと掃除機がけをした。庭と反対側の奥には小さなスポーツジムのようにトレーニングマシンのたくさん置かれた部屋があり、そこも片付けて掃除をした。
アマリアがどかした物を元に戻している間に、マイアはまだ手を付けていない書斎の中を覗き込んだ。テーブルの上にはデザイン用の筆記用具、マスキングテープ、製図用品などが見えた。素人ながらも絵を描くマイアは、その高価な用具一式を羨ましげに眺めた。もっとも机の上にあるデザイン画は、よく街の土産物屋で見かけるTシャツの図柄のように見えた。
「こちらは24の仕事場。大切な物があるので、ここは言われない限りノータッチでいいの」
アマリアがマイアの袖を引っ張った。マイアは頷いて、後に続いて二階の居間の掃除に移った。
二階は、一階ほどは使っていないらしく、掃除はかなり楽だった。拭き掃除をしている時に、何かを規則的に叩くような音が聞こえてきた。マイアは何だろうと思って、辺りを見回した。アマリアがそれに氣がついて微笑んだ。
「23の所から聞こえてくるのよ。靴をお作りになっていらっしゃるの」
「靴?」
「ええ、あの方は靴職人なの。24がデザイナー」
「働いていらっしゃるんですか?」
「ええ。そういう伝統なの」
変わった伝統だ。ご主人様が、働くんだ……。しかも、靴職人? マイアは首を傾げた。
マティルダが大変よとウィンクした意味が分かったのは、三階の掃除に入った時だった。階段を上がると、踊り場となっていて正面にドアがあった。
「おはようございます、メウ・セニョール。失礼してもよろしいでしょうか」
アマリアが礼儀正しくノックすると中から24の声がした。
「ああ、掃除に来たんだね」
ドアが開いて、24が顔を出した。イギリス風の千鳥格子のハンタースーツを着ている。建物の中にいるのに、どうしてこの人鳥打ち帽なんかかぶっているんだろうか。マイアは思った。
「おや、新入りちゃんも来たのか。なんて名前だったっけ」
「フェレイラ、マイア・フェレイラです、メウ・セニョール」
「そう、茶色い瞳が森の奥の神秘的で氣高い樫の樹を思わせるよ。僕は下に行って、新入りちゃんを歓迎する詩でも書こうかな。掃除が済んだら呼んでよ」
そう言って、かなり上機嫌で階段を降りていった。マイアは面食らって無言だったが、その様子を見てアマリアは必死で笑いをかみ殺した。
広い寝室だった。二メートルごとに、合計で五つの窓があった。全てに鉄格子が嵌まっているが、光が射し込んで明るかった。窓のない方の奥にドアがあり、そちらがバスルームだった。手前には作り付けになった大きなクローゼットがあり、八つのうち二つは扉が開いていて中から大量の衣類が見えていた。
床、キングサイズのベッド、ライティングデスクの前の椅子、ソファなど至る所に清潔に見える衣類が散らばっていた。
「今日お召しになる物を決める前に迷われたのね」
手慣れた様子でアマリアは服を拾いだすと、きちんと畳んだりハンガーにかけたりしてクローゼットに仕舞っていった。その時に中の様子を見てマイアは開いた口が塞がらなかった。デパートの洋服売場じゃあるまいし、こんなにどうするんだろう。
二人はどんどんと片付けていったが、言われた所を開けようとして、マイアは間違って隣の扉を開けてしまった。
「ひっ」
マイアは慌ててそこを閉めてアマリアの顔を見た。アマリアは中身を知っていたらしく、何も言わずに、肩をすくめた。それは手錠や革の鞭、ラテックス製のスーツにひと目でそれとわかる電動製品など、初な娘には刺激が強すぎる怪しげなコレクションの数々だった。
アマリアは全くそれには言及せずに、片付けを終えると、ベッドメイキングをマイアに教え、拭き掃除と掃除機かけ、さらにバスルームの掃除も一緒にした。いくつものガラスの大きな瓶に入ったバスソルトとバスキューブや巨大な香水瓶、ありとあらゆるブランドもののシャンプーとリンスなどがひしめいているバスルームの片付けと掃除もかなりの時間を要した。これで午前中はほぼ終わってしまう。24の居住区の毎日の掃除に二人の召使いが配置されている理由がわかった。
その日は、そのまま二人で洗濯をすることになっていたので、掃除中にあらゆる場所から集めてきた何日分かの洗濯物を持って居住区を後にした。マイアは洗濯室に入ってからアマリアに訊いた。
「あのものすごい量のお洋服、全部お一人のものなんですか」
アマリアはおかしそうに答えた。
「あれでも、少なくなった方なのよ。三年前までこの五倍くらいあって……」
「なんですって?」
「ある日、どうしてもあるジレをお召しになりたくてね。でも、見つからなくて」
「それで?」
「五日間、ぶっ通しでお探しになったの。そして、癇癪を起こされて……ほとんどのお衣装を一度処分されてしまわれたの。今あそこにあるのは、それから増えた分」
マイアはびっくりして目を丸くした。
「23の方は?」
「あの方は逆の意味で極端よね」
「というと?」
「同じ服しかお召しにならないの。もちろん毎日取り替えていらっしゃるけれど、デザインは全く一緒。とある職人が手作りしているところに定期的に注文するの。判で押したように。生活もそうよ。とても規則正しくて、きちんとしていらっしゃるけれど、とても距離を置かれていらしてね。お掃除中も全く話しかけてこられないし、難しい注文もなさらない。私たち召使いは楽だけれど、十年以上勤めていて、まだ五分以上続けて会話をしたこともないのも、なんだかねぇ」
そうなんだ。マイアはかつての少年の姿を思い出した。前はずいぶん氣さくに話しかけたのに、偏屈な人嫌いになっちゃったのかな
「23の所のお掃除は?」
「今日は、マティルダ。朝食の給仕の当番が、その後にすることになっているけれど、もう終わったと思うわ。明日はあなたね。今日のことを考えたら、嘘みたいに簡単だから安心して。散らかっているのは靴工房だけだけれど、あそこはノータッチでいいし、それ以外の所はきちんとしていて、すぐに終わるわ」
マイアは頷いた。
24の昨日着ていたジャケットをみていたアマリアはため息をついた。
「やだ、これ、本格的に染み抜きしなくちゃだめだわ。すぐにやらないと。マイア、一緒に行ってあげるつもりだったけれど手が離せなくなっちゃったから、一人で23の所に行って洗濯物を受け取ってきてちょうだい。あの方は受け取りにきましたと言えば無言でくださるだけだと思うから面倒はないわ」
マイアはアマリアから鍵を受け取ると23の居住区に向かって鉄の扉を開けた。言われたようにすぐに内側から鍵を閉めると小さい声で23を呼んだ。
「メウ・セニョール。洗濯物をいただけますか」
階下でしていた何かを打つような音が止むと、下から23が上がってきた。緑色のエプロンをしている。
「お前か」
「はい」
「悪いが、手が汚れているんだ、こっちにあるから取りにきてくれ」
「はい、メウ・セニョール」
一緒に下に降りて行こうとマイアが続くと、23は階段の途中で振り返って嫌な顔をした。
「おい。そんな風に呼ぶな」
アマリアの嘘つき。無言じゃないじゃない。
「え。なんと呼べばいいんですか」
「23」
「そんな風に呼んだら、ジョアナにもメネゼスさんにも怒られます」
「誰か他の人間がいる時はご主人様でも何とでも呼べ。だが、誰もいない時はやめてくれ」
「でも……理由を訊いてもいいですか」
「理由も何も、前はそんな風には話さなかったじゃないか、マイア」
マイアは彼が突然名前で呼んだのではっとした。この館に来てから、まだ一度も23とは話をしていなかったから、前と言うのは十二年前のあの時の事を言っているのだとわかった。
「……。私があの時の子だって、わかっていたの?」
「あまり変わっていないからな」
う……。どうせ、大人っぽく育っていませんよ……。
「確かに、あの時は図々しく友達みたいに話しかけたけれど、今は召使いだから立場をわきまえないとまずいでしょう?」
「俺はそんなに偉くないんだ。お前は召使いかもしれないが、俺だって一介の靴職人だ」
アマリアやマティルダが「必要以上に構われるのが嫌い」と言っていたのを、人嫌いという意味に取っていたけれど、もしかして王子様扱いが嫌なのかしら。
「本当にそんな風に呼んでもいいの?」
「よくなきゃ、わざわざ言わないよ。呼んでみろ。そうしたら次からはそんなに難しくないから」
「……。わかった……23」
ついに言ってしまった。すると彼は屈託なく笑った。あの時の笑顔と同じだった。マイアは彼の姿はすっかり大人になってしまっても、中身はあまり変わっていなかったのだと思った。
一階には、24の部屋にあったような応接家具やスポーツルームはなかった。巻いてある革が立ててある一画や、靴底などがたくさん積まれている棚、大量の靴型がぶら下がっている壁があった。奥には、鑿やハサミなどの工具、いくつもの糊のポット、ミシンが置かれている作業台があった。
「すごい。本当に靴工房だ」
「そりゃそうだよ。何だと思っていたんだ」
「え。だって、24の所は、あまり本格的にやっているって感じじゃなかったから、趣味の延長線なのかと……」
マイアはかなり失礼な事を言っていることに氣がついて口を押さえた。23は笑った。
「洗濯物は、そこにある。いつもそこに置いておくので、必要な時はここに取りにきてくれ」
彼の指差した所をみると、そこは小さなキッチンのようになっていて、シンクと小さい冷蔵庫と二つの丸い電気コンロがあった。小さい木の丸テーブルと椅子があり、その奥にラタン製の大きな籠があった。開けてみると、確かに彼が着ているのとまったく同じ服が三セットほど入っていた。マイアは籠ごと抱えて階段にむかった。
「これ、持っていくね。後でまた空の籠、持ってくるから」
そういうと、23は「ありがとう」といって作業台に戻った。抱えている籠からほのかにあの石鹸のような香りがした。
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準備が必要?
こちらのお葬式、基本はキリスト教式で、神に祈ったり讃美歌を歌ったりするんですが、その途中で「Lebenslauf」っていうのを読み上げる慣例があるのです。一種の経歴です。いつ生まれて、どんな業績を残したか、って公式なものに加えて、子供の頃から何が好きで、それが人生にどんな影響を及ぼしたか、何を趣味としていたか、パートナーとはどんな楽しみを持っていたかというような。
それを聴いているうちに、「あれ、もし私が死んだら、誰がこれを作文するんだろう」と思ったのですよ。そうしたらものすごく困るだろうなって。
私がスイスにくるまでのことって、連れ合いも含めてスイスの人はほとんど知らない。業績も全く知らないです。話してはいるけれど、日本の固有名詞(大学名や会社名、業務内容など)、彼らにとってはどうでもいいじゃないですか。だから憶えていないはずです。
それに、私が生涯を通して情熱を注いでいたものって、小説書きと旅行なんですが、旅行はともかく小説の方は誰も読んだことがないからきっと外されるでしょうね。
それを考えると、自分で用意しておいた方がいいのかなと思っちゃうのです。こういうの、終活っていうんですかね。
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【小説】帰って来た夏

帰って来た夏
暑い。湿氣ている。蝉もうるさい。なんなのよ、この国は。宏美はムッとしながらバルコニーの日よけを降ろした。
「クーラーの効いた部屋で食べればいいのに」
冷やし素麺を父親と食べていた母親は呆れたが、「いいの」と押し切った手前、いまさら室内には戻れない。それに、母親は十分な量の冷やし素麺を用意したのだから、わざわざ違うものを食べることないのにと言ったがそれも無視した。
一刻も早く仕事と住む場所を見つけなくちゃ。六年ぶりの日本。これまでのような一週間程度の里帰りではなくて、出戻りだ。宏美が突然戻ってきて「別れた」と言ったとき、両親は驚いたけれどホッとしたような顔をした。それも数日のことで、まだ口には出さないけれど、これからどうするつもりだと顔が語りだしている。言われる前になんとかしなくちゃ。
でも、そんなに簡単に話は進まない。まずは仕事。引っ越しはその後。突然のことで、自分がどうしたいかもまだはっきりしていない。別れて本当によかったのかも。いや、他の選択があったわけではない。あっちの人に子供ができちゃったから。やれやれ。
最後に言いたかったことを全部言ってやった。あいつが大事にしていたワイングラス、投げてやろうと思ったけれど、できなかった。粉々にしたかったのに。それができたら、本当にヨーロッパに馴染んだ自分になれたように思う。でも、無理だった。その時に、もういいかなと思ってしまった。
ジュゼッペと別れ、イタリアを離れて日本へ帰って来たけれど、今日のランチはカプレーゼとバゲットだった。トマト、モツァレラチーズ、バジルを交互に並べて、オリーブオイルとバルサミコ酢、塩こしょうだけで味を付けたシンプルなサラダ。色がイタリア国旗と同じ組み合わせなので、母親は何か言いたそうな顔をした。べつに未だにかぶれているわけじゃないわよ。単にこれが好きなの。まあ、かぶれていないとは言えないけれど。
宏美はトマトが好きだった。365日の三度の食事に毎回出てきても構わないくらい好きだった。ジュゼッペが他の国の人間だったら、あんな簡単に結婚と移住を決心しなかったかもしれない。でも、イタリアはトマトの国だと思っていたので、素早く決めてしまったように思う。実際には、日本に出回っているトマトの方が美味しかったよう。だから、帰って来れたんだけれど。
「あ、本当に帰っているじゃん」
ガラスの引き戸から顔を出したのは史郎だった。史郎は高校の同級生でもあるが姻戚でもある。具体的には姉の義弟。つまり彼の兄と宏美の姉が結婚したのだ。
「ちょっと。何勝手に人の家に入ってきているのよ」
「勝手じゃねーよ。おばさんが、お前はバルコニーにいるっていうからさ」
「だいたい、なんで平日にこんなとこにいるのよ」
「あん? 遅番だもん」
彼は確かにシフト勤務をしていた。病院に勤めているけれど医者ではない。なんとか放射線技士っていったっけ。
「で、お前は何やってるんだ?」
「何って、お昼ご飯よ」
「このくそ暑い中で?」
「うるさいっ!」
イタリアとは何もかも違う。テラスにテーブルを出して、カプレーゼと赤ワインでランチ。そんなのあたりまえだったのに。まだ食べはじめてもいないのに、もう蚊に刺されて、さらには好奇の目に晒されている。まあ、氣まずいはずだった史郎との再会が、普通だったのはよかったけれど。
「イタリアなんて行くなよ」
いつもふざけている史郎が、ものすごい真面目な顔をして止めたのは昨日のことみたいだ。六年前の宏美はジュゼッペの甘いささやきに盲目になっていたので聴く耳をもたなかった。そのすぐあと、新婚旅行で買ったオーデコロンがまだ上から一割ぐらいしか空いていないのに、もう浮氣をされて大げんかになった時も、ジュゼッペの母親に息子は悪くないという趣旨のことを言われた時も、いつも史郎の言葉を思い出していた。
間違った決断をしたなんて思いたくなかった。今でもそうだ。必要な経験をして帰って来たのだと。イタリア語も喋れるようになったし、前よりも一人で何でもできるようになった。ちょっと年を食ってしまったから就職には難があるかもしれないけれど。
史郎は引き戸を閉めるとバルコニーの奥から折りたたみ椅子を持ってきて、どかっと座った。
「ワイングラス、もう一つ持ってこいよ。一人で飲むことないだろう?」
「出勤前なのに、いいの?」
「夕方までには醒めるって。いいから、早く。お前の帰国に乾杯しよ?」
宏美はぶつぶつ言いながら、台所に降りてワイングラスを持ってきた。何ドキドキしているんだろう、私。やっぱり、意識しちゃっているのかなあ。最後があれだったからなあ。
史郎に好かれているなんて夢にも思わなかったから、結婚すると言った時にプロポーズつきで止められてものすごくびっくりした。十年近くもそばにいたんだから、早く言ってくれれば考えないでもなかったのに。でも、あれから六年も経っているから、もう私のことはどうでもよくなったかもしれないし、彼女がいるのかもしれない。こんなに意識する必要はないと思うんだけれど。
宏美はいつものクセでワイングラスを太陽にかざし、指紋や汚れがないか確認する。一度ジュゼッペに汚れを指摘されて、それ以来いつも氣をつけていたのだ。それなのに「彼女は君みたいに細かいことにこだわらないから、一緒にいて心地いいんだ」と言われてしまった。浮氣をして子供を作られたことよりも、その心ない発言の方がずっとこたえた。
バルコニーに戻ると、ぴしっと蚊を叩いている音がした。
「あれ、グラスだけ? 俺の取り皿は?」
宏美を見て史郎はぬけぬけと言った。
「史郎がカプレーゼを食べるとは思わなかったから」
宏美はグラスを彼の前に置くと、再びキッチンに戻って小皿とカトラリー、それに紙ナフキンを持って戻ってきた。家の中はクーラーが効いていて涼しい。こうなると、なぜバルコニーにいなくてはいけないのか、自分でもわからなくなってきた。でも、史郎が待っているから、いっか。
戻ると彼は二人分のグラスの中に、ワインを注いでいた。
「昼間からワインを飲めるようになったんだな」
そう嫌味でもひがみでもないトーンで、たださらりと言った。
「史郎こそ、このサラダを食べようだなんて、どうしちゃったの?」
史郎はトマトが大嫌いで、何があろうと口にしなかった。だから、彼からされた突然のプロポーズを断るために、宏美はこう言ったのだ。
「私、トマトの食べられない人とは暮らせないもの」
もちろん、本心からそう思っていたわけではない。正直言って史郎には他にマイナスポイントがなかったのだ。超美形ってわけではないが、それはお互い様だし、性格もよくて氣も合った。単にそういう風に考えたことがなかったので、それに姻戚だから、一度もつき合う対象として考えたことがなかった。
史郎は、サラダを自分から取り分けた。トマトもたっぷり取っている。
「トマト、いつから食べられるようになったの?」
「六年前」
「どうやって?」
「死ぬほど悔しかったから、食べてみた。そしたら、思っていたほどまずくなかった」
それから宏美の目をまともに見て、ワイングラスを掲げた。
「お帰り」
彼女は少し黙っていたが、やがて口元をほころばせると、グラスを重ねて言った。
「ただいま」
帰って来てよかったなと、はじめて思った。この湿氣もうるさすぎる蝉の声も、それから、家族や史郎のあっさりした感情表現も、ようやく懐かしくしっくり自分に馴染んでくる。私、ここで、日本で、また頑張るんだ。
「ああ、ほんっとに、美味しいよ、日本のトマト」
宏美が幸せそうにつぶやく。史郎はテーブルの上のバルサミコ酢を持ち上げて不思議そうに眺めた。
「なんだこれ、やけに美味い」
「ああ、これね。最高級の黒い星付きなの。カプレーゼは、オリーブオイルとバルサミコ酢の品質でぐっと味が変わるのよね。でも、これ、日本では手に入らないかもな……」
史郎はふんと鼻を鳴らした。
「なくなったらそれまでさ。トマトには他の食べ方もあるからな。肉詰めとか棒棒鶏風とかさ」
そう言って、最高級バルサミコ酢を惜しげなく使いだした。そうだよね。使っちゃえ、使っちゃえ。宏美は笑って、自分も同じようにした。
(初出:2013年7月 書き下ろし)
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少しでも……とは思う

小説をブログで公開している人は、多かれ少なかれ「自分の小説を誰かが読んでくれたらいいなあ」と思っていると思います。私もその一人だからこそ公開しているわけで、それに加えて当然ながら「好きになってくれたらいいなあ」とも思っています。これが○十年ちかく作品を人目から隠してきた理由でもあるのです。公開して「けっ。こんなクズ」と言われたら立ち直れないと思っていたので。
このブログを開設したのは、(この話は何度か話しているかと思いますが知らない方もいらっしゃると思うので)もともと無料参加のできる商業誌「Seasons」に参加するにあたって、連絡先にあたるURLがなかったので何か作らなきゃと思ったからです。で、せっかく小説のブログを立ち上げたのだからと怖々と小説を公開しはじめたのです。
で、最初は、誰か読んでくれたんだろうか。拍手もコメントもなかったと思います。でも、「クズ」とも言われませんでした。まあ、訪問者も数人しかいなかったしほとんどが小説とは関係のない畑のブロガーさんでしたから、読んだ方そのものがいなかったのだと思います。それが、「大道芸人たち」の連載の途中ぐらいから、拍手やコメントなどの反応が出てきて、その前に発表した作品も遡って読んでくださる方も出てきました。その度に小躍りしましたよ。
皆さんがとてもお優しいから、実のところ凹むようなコメントをいただいたことは一度もありません。むしろ、「そんなに褒めていただいていいんだろうか」というような恐れ多いコメントをいただくことの方が多いです。もちろん、そのことで「私の小説のクォリティって高いのね」と慢心するわけではありません。単純に厳しい批評が当然の所にまだ出て行っていないというだけだと判断するくらいの冷静さはまだ持ち合わせています。
でも、思っちゃうんですよ。わざわざそんな厳しい所に行く必要あるのかなと。
そりゃ、私も人間です。他のブログで一つの小説に100近い拍手があったり、賞賛のコメントがものすごい量あったりすると「羨ましい」と思わないではないです。それは最低でも100人の方が、もしくはコメントの数にあたる熱烈なファンがそのブログに日参して読んでいるからですよね。だから読んでいただく分母が少ない人はその結果にならないのが前提です。でも、その小説は、もちろんそれに値する素晴らしい内容だからこそ、そういう反応になるわけで、単純に同じ数の方に私の小説を読んでもらっても、そうはならないわけです。(あたりまえ)
例えば、素晴らしい小説を書く方が読んだ50人中50の拍手をもらうとしたら、私が50拍手をもらうためにはどのくらいの方に読んでもらわないといけないのか。想像するとくらくらしてきます。読んでくださる方の分母を少しでも増やすために、もっと努力すべきなのか。例えば、なんとか大賞にエントリーしたり、みなさんが切磋琢磨していらっしゃる小説サイトに登録すべきなのか。ちらっと考えるのですよ。
でもねぇ。今、幸福であることも大切だと思うんですよ。たとえみなさんが優しいからつき合ってくださるとしても、発表する度に少なくとも15人くらいの方が長文を読んでくださっているのがわかります。かつてはブログ拍手のランキングのほとんどが通常の記事だったのが、今は小説が半分以上になっていて、それから判断すると日々お忙しい中わたしの小説を読んでくださっている方がいつもではないにしろ30人近くいるらしいという事実、つき合ってくださる方が本当にいい方ばかりで心地いいこと、それに感謝でいっぱいで、幸せなんですよね。
で、現在の私は、努力の方向が間違っているのかもしれませんが、日常生活の中で小説とブログにかける時間と手間がMaxに近いのですよ。生活を支えるために働き、家事をこなし、その残った時間の中で趣味として使える時間の最大限を使っているのです。倒れるほどとは言いませんが、それなりに頑張ってもいるわけです。それを支えている一番のご褒美は、みなさんからいただいている反応なのです。(あ、しょうもない作品でもご意志に反してでも評価しろと言いたいわけではありません。当然ながら)ブログを始める前も書いていましたが、こんなすごい量ではなかったし。喜んでいただいていると感じるからまた書くわけです。それを「お前の書いているものはクズだ」と書く方がいるような大海原にわざわざ船出していく必要はないだろうと思っちゃうのです。
若いころと違って、思考も手法もかなり硬直してきています。いまから努力して書き方を改善できるかというとかなり難しい。運動などと違って、長時間の努力で飛躍的に改善できるものではありません。私の書くものは、ほとんどが私の人生と普段の思考に基づいて作られていますから、厳しいお言葉をいただいてもそう簡単には変えられないのです。そうなると大海原で大時化にあう危険を冒してまで新大陸を目指さんでもと、小人物な発想が……。
で、みみっちいながらも自分なりの唯一の努力がおつき合いしているブロガーさんとの交流だったりするわけです。特に「scriviamo!」は二ヶ月限定とはいえ労力と体力とド根性が必要。労力と効果が見合っているのか、もしくは需要と供給があるていど一致しているのかどうか、正直言ってわからないのですけれど。でも年々、このブログで発表する小説を読んでくださる方は増えているように思うので、多分効果はあると信じたい……。
なんて風に、ときおり悶々としていますが、どうなんでしょうね。大海原で頑張っていらっしゃる方々はどんな風に考えていらっしゃるのかなあと、ちらっと思った夏でした。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(11)城下 -2-
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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(11)城下 -2-

彼女は、ザッカが躊躇せずに向かう方へと付いていった。ひどい匂いはもっとひどくなる。ハエがやたらと飛んでいる。ハンスと呼ばれた老人は足を引きずっている。よく見るとその裸足の右足のくるぶしの辺りがひどく化膿してウジが湧いているのがわかった。
小路の向こうには、家はなかった。代わりにボロ板を寄せ集めたような醜い小屋が何十軒も押し合うように建っていた。本当は今にでも崩れてしまってもおかしくないほどに傷んでいるが、隣の同じような小屋の壁と支えあってようやく形状をとどめているのだった。ひどい匂いはますますひどくなったが、あまりにも長く嗅いでいたので彼女は既にほとんど辛さを感じなくなっていた。
それよりも目にしているものの方がずっと辛かった。多くの人たちがうずくまってこちらをぼんやりと見上げていた。体中にハエがたかっているが、それを追いもしなかった。ハンスのようにあちこちに傷があってそこに蛆がたかっている。空腹に何も考えられなくなった諦めきった表情。
ハンスとザッカは小路の奥の小屋の一つに入っていった。ラウラは思わず口元を手で塞いだ。それまでもひどい臭いだと思っていたが、これほどの強い悪臭ではなかった。深く息をしなければ倒れてしまいそうだったが、そうすればこの小屋に溢れる苦しさを体の中にいれる事になる。瞳を閉じて震えが止まるまでしばらくそうしていた。
ゆっくりと瞳を開けると、暗闇に慣れた目に恐ろしい光景が浮かび上がった。骨が浮き上がった痩せた女の遺体が寝台に横たわっていた。大きく開いた口からは歯がにょきっとはみ出していた。いくつもの歯が抜けてしまっているので、残った歯は牙のように見えた。体が妙な具合にねじれて事切れている所を見ると、決して楽な最後ではなかったのだろう。ガリガリの腕や顔にただれた斑点がたくさんあった。誰か仲間が閉じてやったのだろう、少なくとも瞼だけは閉じられていた。
「この聖なる塗油により、慈しみ深い主キリストが、聖霊の恵みであなたを助け、罪から解放してあなたを救い、起き上がらせてくださいますように」
ザッカは全く平然としてミリアムの遺体に聖油を塗り、聖句を唱えた。だがその声の深い響きから、ラウラは彼が周りの人びとが言うようなただの冷たい人間ではない事を感じた。彼はこの事態に何も感じないのではない。彼はこれに慣れているのだ。黙って目を閉じて立ち会うハンスも、ここにいる全ての人びとが、この生活を毎日続けているのだ。彼女は、取り乱したりせずにこの状況を直視しようと思った。
「どうお思いになりましたか」
暗い通路の中で、ザッカの声が響いた。
「ひどい、あまりにもひどい。知りませんでした。あんな風に苦しむ人たちがいるなんて。私のお城からいただいているお手当で何かできないのでしょうか」
カツンという靴の音がして彼が止まった。
「あなたのお手当で何かできる程度のことならば、私の報酬で事態を変えていますよ」
ラウラはうつむいた。ザッカが再び歩き出したので、ラウラも後を追った。
「国王陛下はこの事をご存知なのですか」
「ええ。私がお伝えしましたから。しかし、陛下は自らの目でご覧になったわけではない。それに、ひどい状態なのはあそこだけではない。ルーヴランの全ての貧民街をなんとかすることは、いまの財政では無理なのです」
「でも、せめてお医者様だけでも」
ザッカは足を止めた。そしてしばしの沈黙の後に答えた。
「彼らは貧民街になど絶対に足を踏み入れません。あそこに行くのは聖職者、しかも托鉢僧だけなのです」
ラウラは息を飲んだ。
ザッカは低い声で言った。
「バギュ・グリ殿」
「はい」
「あなたには勇氣がある。先ほどのあなたのしっかりとした態度には感銘を受けました」
「宰相様……」
「あの困難に直面することのできる貴人は多くありません。この壁の向こうでふやけたパンのような生活をしている人間は目が曇っているのです。国力の衰えも民の疲弊も見えなくなるのです」
「私にお手伝いできることがありましたら、何でもいたします。どんなことでも」
「それは頼もしい」
暗闇で表情は見えないが、ラウラはザッカが笑ったように感じた。
しばらく無言で歩いていたが、やがて彼は再び口を開いた。
「私がなぜ政治の世界に足を踏み入れたか、ご存知ですか」
「いいえ」
「神の家こそが、彼らを救うと信じて修道院に入りました。しかし、祈るだけでは何も変わらない。私は神が奇跡を起こすのを悠長に待つのはやめたのです」
「宰相様……」
「だが、この国を変えるためには決定的に金が足りないのです。王族のくだらない贅沢をやめさせて倹約しても、焼け石に水だ。この国は、もっとコンスタントに金を生み出す方法を考えねばならぬのです。グランドロンがあれほど大胆な改革ができるのは、国王の覇氣の問題だけではない。かの国はわが国よりもずっと富んでいる。それどころか、ルーヴランはここ百年の間に、金を生み出す土地をグランドロンに奪われた。マールも、ペイノードも! そして、それだけでは飽き足らずに我々の息の根を止めんと軍備を増強しているのです。そうなったら国中に先ほどあなたが見てきたような絶望の中で死んでいくものたちがあふれかえることになる」
ラウラは震えながらザッカの言葉を聞いていた。
「マールやペイ・ノードを奪い返す必要があると、グランドロンと戦争をしなくてはならないとお考えですか」
「ええ。だが、我々の状況を変えるには、失われたルーヴラン領を取り戻すだけでは足りない」
ザッカは厳かに言った。思い詰めた表情だった。彼女はとても不安になった。
そのまま僧衣を着た男は黙ってしばらく歩いた。ラウラが先ほどの話題は終わったのだと思い出した頃、突然彼は立ち止まって言った。窓から光が入ってきて、ザッカの表情が見えた。
「わがルーヴラン王国の宝の山がどこにあるかご存知ですか」
「宝の山?」
「十分な埋蔵量のある金山、豊富な鉄鉱石、そして、南へ向かう四輪車の通れる峠のある土地」
知識を試されていると思った。彼女の知るかぎり、ルーヴランにはそのような土地はなかった。
「そのようなルーヴランの土地を私は知りません。でも、グランドロン王国に属する国なら……」
《氷の宰相》は口先だけで笑った。
「その土地は?」
「フルーヴルーウー伯爵領……」
彼女は不安な面持ちでザッカを見つめた。
「そうです。初代フルーヴルーウー伯爵夫人が誰かはご存知ですよね」
「はい」
ラウラは養女で実際に血のつながりはないが、フルーヴルーウー伯爵夫人となったジュリアはバギュ・グリ侯爵令嬢だった。そして、夫のフルーヴルーウー伯爵は、伯爵位をグランドロン王から授けられたが、もともとはジュリアの馬丁でありルーヴラン生まれであった。
「あなたのお父上バギュ・グリ候は《男姫》ジュリアの弟であるバギュ・グリ候マクシミリアン一世から数えて六代目。フルーヴルーウー伯爵領を継ぐ資格は十分にあります。そして、現在、伯爵位は空位だ」
先代伯爵、フロリアン二世が不慮の死を遂げてから四半世紀が過ぎた。伯爵は毒殺されたのではないかと言われている。幼児であった伯爵の長男が伯爵位を継いだが、その新伯爵はそれから数日後に行方不明となった。
「表向きはどこかにいるはずの伯爵の代わりに前伯爵の叔母の婿ジロラモ・ゴーシュ子爵が代官として統治し、そして金山は王が直轄する形になっている」
ザッカは冷たい目をして髭をしごいた。
ラウラは青ざめた。
「どうなさるおつもりですか」
「奪回するのです。バギュ・グリのものはバギュ・グリに、ルーヴランのものはルーヴランにね」
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食べて飲んで、旅を楽しむ

この小説にはかなりの飲食シーンが組み込まれています。(この小説だけでなくて私の小説はいつもそうですが)
この小説の随所に私の大好きな街ポルトの紹介を組み込んでいるのですが、ポルト旅行の楽しみの一つがグルメなので、飲食シーンも勢い増えるというわけです。
それと同時に、何を食べて飲んでいるか、それもどんな風に、というのを観察すると、キャラクターの背景や性格も表現できると思うのです。どんなキャラなのかというのは小説を読んでいただきご自分で判断していただくとして(結局それか)、今回は出てくる「ドウロの赤」などというあっさりした表現の解説を。
「ボルドーの赤」と言えば、多くの方がフランスのボルドー地方で穫れた葡萄で作った赤ワインだとおわかりになると思います。この場合の「ドウロ」はポルトガル北部、スペインから流れてきてポルトで大西洋に流れ込むドウロ河流域で生産されたワインを意味します。
ちなみにポートワインも同じドウロ河流域で穫れた葡萄から生産されますが、普通のワインと違って酒精強化ワインでアルコール度数が高く甘味が強いのが特徴です。
食事の時に飲むのは普通のワインなので、「ドウロの赤」なのですね。これがまた美味しい。しかもポルトガル価格なのでとってもリーズナブルです。スイスでもドウロワインを見つけると喜んで買います。あまり見かけないんですけれど。

そして、作中の食事シーン、メインで食べていたのは「鴨のポートワインソース添え」
鴨にはオレンジなど少し甘い味付けが合うので、マデイラワインやポートワインのような酒精強化ワインを使ったソースがよく使われます。これまた美味しい。私もポルトに行くと二回か三回このメニューを頼んでしまいます。普段、鴨のお池で「かわいい」とか言っているくせに、これですよ。
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【小説】Infante 323 黄金の枷(3)午餐
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Infante 323 黄金の枷(3)午餐
あれから十二年が経っていた。自分も二十二歳になっているのだから、彼が少年のままであるはずはないと知っていたが、考えているのと目にするのは違った。あの時と同じなのは髪の色と瞳の色だけだった。その髪もジプシーの子供のように汚れて梳かしもせずにいた当時とは違って、たぶん肩ぐらいまであるだろう巻き毛をきっちりと後ろで縛っていた。太い眉、どちからというとがっちりとした顔の輪郭、そしてわずかに生やしている無精髭が、華奢で壊れそうだった悲しげな少年とは大きく違っていた。横を通るとき、わずかな香りがした。それは高級な石鹸か控えめな香水のようだった。
向かいに座っている24ことInfante 324は全く対照的な男性だった。まず背がずっと高い。体型もすらりとしている。三人の中で一番ドンナ・マヌエラに似ていて、青い瞳が印象的で端正な顔立ちだ。短い金髪を綺麗に撫で付けている。23は黒いパンツに白いひだの多いバンドカラーのドレスシャツというあっさりとした姿なのに較べて、24はいかにもイタリアのデザイナーものと思われるグレーのジャケットにピンク地に白い襟のカジュアルワイシャツを着崩して、ポケットにピンクのネッカチーフを入れていた。香水はアラミスのようだ。すこし量が多過ぎる。
二人が席に座ると、メネゼスが目で合図をし、アマリアがマイアの袖を引いた。前菜をバックヤードにとりに行くのだ。メネゼスが食前酒を注いでいた。
キッチンでマイアは目をぱちくりさせた。用意された四つの前菜の皿は同じ大きさだったが、盛られているチコリとスモークサーモンの量が全く違ったのだ。ミゲルがごく普通の量の皿と少量のを一つずつ持ち、残りのやたら多く盛られた皿と少ない皿を目で示した。
「こちらはドン・アルフォンソに、それからそちらの少量のは23にお出しして」
マイアはドン・アルフォンソの皿からチコリが落ちてしまうのではないかと心配しながら運んだ。なんとか無事に食堂まで運び、教えられた通りに出した。「どうぞ、メウ・セニョール(ご主人様)」と言うと、しゃがれた声で「ありがとう」と答えるのが聞こえた。フォークを持つのすら億劫に見え、その紫がかった顔はあきらかに健康を害しているように見えるのに、食欲は旺盛だった。
23にも「どうぞ、メウ・セニョール」と皿を出した。同じように「ありがとう」と言われた。低くて深い声だった。ドン・アルフォンソのようにすぐには食べず、しばらく冷えた白ワインを飲みながら、ドンナ・マヌエラと24の会話に耳を傾けていた。
「母上、今日のミサで使われた詩篇ですが、少々退屈でしたね」
「メウ・クワトロ、どういう意味ですか」
「『主は大いなる神で大いにほめたたえられるべきです。その大いなることは測りしることができません』繰り返しの文言ばかりですよ。僕だったら、もっと詩的な言葉を挟むなあ」
「メウ・クワトロ。聖書にけちをつけるような不遜なことは言うべきではありません」
「わかっていますよ、母上。単に僕の詩心がうずくのです。言葉は軽やかで美しいべきではありませんか。詩ならばなおさらです。その響きに心が飛べるようでなくては」
24の話し方は、まるで舞台でセリフを語る俳優のようだった。よく響くテノールのような声、朗々としてどう話し、どう振る舞えば注目が集まるのかを熟知していた。マイアは瞬きしながらふたりの会話に耳を傾けていたが、ふとミゲルが目で合図をしているのに氣がついた。いつの間にか、ドン・アルフォンソの皿も、23の皿も空になっていた。当主の皿はドレッシングやチコリが少し残っていたが、23の皿はパンで綺麗に拭われていた。そして、白ワインに戻っていた。マイアは二人の皿とカトラリーを下げた。
キッチンにミゲルと一緒に戻った。見ると24の皿は半分以上が残してあった。
「なぜ24のお皿も少量にしないの?」
「してほしいと言われないかぎり、勝手に少量にはできないさ。奥様と23はご要望で少なくしてあるんだ。あの二人は絶対に残さないな」
「へえ」
マイアはつぶやいた。
続いて食堂ではポットに入った野菜のスープがサーブされた。その間に、マイアとミゲルは再びキッチンに向かった。頃合いを見て用意された鴨のローストはいい香りをさせていた。ポートワインのソースが艶やかだ。ドンナ・マヌエラの皿は肉と付け合せの両方が少なめで、23のは今回は24と同じ量だった。ドン・アルフォンソのは倍量で、そんなに食べるからあんなに太るんだなとマイアは納得した。
鴨がサーブされた時に、23はドウロの赤を飲んでいた。マイアを見上げて何かを言いたそうにしていたが、ただ「ありがとう」とだけ言った。マイアは私を憶えていたのかなと考えたが、いずれにしてもあれは秘密だった。ここでおおっぴらに確認できるようなことではなかった。
十二年前、十歳だったマイアは時おりドラガォンの館の庭に忍び込んで夕陽を眺めていた。偶然知り合った少年は23と名乗った。そんな馬鹿な名前があるわけないと思っていたが、彼は嘘を言っていたわけではなかった。翌日も彼に逢うために忍び込んだのだが、あの冷えた石造りの家に彼はいなかった。それどころか、彼がぶら下がるようにして話しかけてきた足元の鉄格子のついた小さな窓から呼んでいるうちに、黒服の執事、今日メネゼスと紹介されたその人にみつかってしまったのだ。
それから、一週間も経たないうちにマイアの父親は引越すことになった。あまりにも突然のことでマイアも妹たちも不満を表明したが父は「しかたないんだ」というばかりだった。今の彼女にはわかっている。あの館にマイアがもう近づかないように、あの黒服の男たちが父親に引っ越しを強制したのだと。数年前に、再びレプーブリカ通りに住むようになってから、マイアは再びドラガォンの館に来てみたが、その時にはマイアが忍び込んだ生け垣はきちんとした塀になっていて犬一匹でも入り込めないようになっていた。
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ブイヤベース作ってみた

本当はシーフードカレーを作りたくてシーフードミックスを買ってきたんですが。つい、作ってしまいました、ブイヤベース。
「大道芸人たち」の中で、稔が蝶子に衝撃の事実(ヴィルの正体)を教えてもらうシーンで食べていたことをおぼえていらっしゃる方は……いないでしょうね。いいんです。本人の思い入れが強かった割には作ったことがなかったのですよ、実際には。
簡単でした。思ったんですが、この料理を日本で作ろうとすると、あらかじめ材料をいろいろと揃えなくてはならないので敷居が高いと思うんですが、我が家ではシーフード以外、全て我が家にあるものでできましたから、たぶん、こりゃ単なる家庭料理でしょう。簡単な上に、普通に美味しくできました。
例によって、みじん切りの工程にブラウンのマルチクイック(この記事を参照)を多用し、それとティファールの圧力鍋も使いました。
作り方はこんなでした。かなり多めのオリーブオイルでニンニクのみじん切りを炒め、セロリ、人参、タマネギ(全てみじん切り)も炒めます。ここでじっくり。白ワインを投入したあと、シーフードも投入。トマト缶とブイヨンとハーブ類とサフランを投入してから圧力鍋で5分加熱します。その間に残しておいたニンニクみじん切りとオリーブオイルとマヨネーズ、それからわずかなサフランでアーリオオーリオソースを作ります。おしまい。
プロは加熱したあとに野菜を漉すみたいですが、我が家では全部食べるのでこれだけです。今度また作ろうと思いましたよ。
あ、残り物がシーフードカレーに変身しました。これまた美味しかった〜。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(11)城下 -1-
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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(11)城下 -1-

「参りましょう」
ザッカは小屋の扉を開けると静かに外に出た。騒がしい小路の押し合いへし合いした小さな家の一角だった。一人の貧しそうな神父と未亡人のような服装の女が歩いていても、興味を持って立ち止まるものはない。埃っぽい小路をガラガラと荷台が通り過ぎ、人々は大きな声で語り合っている。活氣のある通りだった。
ラウラは道ゆく人の服装に目を留めた。埃っぽく擦りきれた少年たちの上着。彼らは靴を履いていなかった。女たちのスカーフやショールも色あせてくたびれていた。もう何年も同じものを使い続けているのだろう。後払いを懇願する声、商品の値段に文句を付ける輩、道の脇にうずくまるやせ細った老人。彼女は身震いした。
子供の頃、ラウラは城下で育った。いつもお腹をすかせていた。とくに両親が病に倒れ、収入が途絶えてからは、それはひどくなった。家に家主が怒鳴り込み、金目のものを奪い取っていった。
「お医者様を呼んでくるから」
そういう幼いラウラに母親は首を振った。
「無理だよ。お医者様はお金持ちの所にしかいかないのだから」
ほどなくして両親は相次いでこの世を去った。叔父と叔母がやってきて、そそくさと葬儀を済ませた後、家の中をかき回し残っていたわずかな金を持っていった。父親の肉屋はすぐに誰かの手に渡った。その人は叔父に何かを支払っていた。
葬儀の間だけは、叔父の所で一緒に食事をする事を許された。その家の子供になるのだと思っていた。しかし、叔父たちはラウラを養う余裕などないと言った。なんという心ない冷たい親戚なのだろうと、彼女は思っていた。
しかし、十二年ぶりに街の様相を見れば、叔父たちが必死だった事も理解できる。荒んだ街だ。あの塀の向こう側には、絹と羽毛に包まれた豊かな暮らしがある。先程まで彼女が身につけていた綾織りの緞子はこの人たちの何年分の収入の価値があるのだろうか。
水路の工事現場は、隠し扉のある家からほど遠くないところにあった。サン・マルティヌス広場を抜けてしばらく歩き、堀沿いに進むとやがて二十人ほどの男たちがわずかな肌着だけを身に着け、泥の中に半ば埋まりながら作業している場所に来た。その半分ほどの数の牛馬が、のろのろと荷を引いているが、水に足を取られてなかなか上手く行っていないのが見て取れた。お互いに声を掛けあいながら作業する男たちは、脇に積み上げられた岩石を組み合わせながら器用に新しい水路を作り出しているのだが、全て人力と牛馬の力によるもので、その進み方はゆっくりだった。
「これはザッカ殿」
一番大きな声を出していた男が宰相の姿を認めた。彼は、何かを相方の男に囁くと、彼らから離れてザッカとラウラの側まで歩いてきた。残った男たちは、そのまま作業を続けた。
「宮廷用の服を脱ぎ、そなたも泥の中で働く事になったのか、ウルバンよ」
ザッカは髭をしごきながら訊いた。
「へぇ。上から監督しているだけでは、なかなか指示が上手く伝わりませんで。それに今は、一人でも多くの力がいる。ここの工事が上手くいけば、先は少し楽になるはずですから。なんですか、今回は。遅れについての報告は昨日したはずですが」
「そのことではない。工事の遅れのことよりも、安全に氣を配れ。もし、ここが崩れて大事故でも起きると、熟練した作業員を多く失う事になる。そうなると工事はもっと遅れるからな」
水路の建設と言われて、ラウラはもっと簡単な作業を思い浮かべていた。先に土を堀り、水が入ってくるのはその後だと。ザッカの説明によるともちろんそうする場所もあるが、水路を作る時には、まず自然の地形を鑑みてもとの水系を利用し作業するというのだった。自分たちの工事に都合のいい乾いた場所に水路を造っても、何年かするうちに水が枯れてしまう事がある。それは大地に水のヘビの通っていない所に水を流そうとするからで、そうなると何年もかかった大きな工事が無駄になってしまう。だから、水路は必ず水のヘビの場所をわかっている専門家のプランに従うのだと。
「あの男は、この国で一番の『水のヘビ使い』なのですよ」
ザッカは、視察を終えてもと来た道を戻りながら、ラウラに事情を説明する時に多少詩的な言葉遣いをした。彼女は頷いた。今回迂回される水路はずっと山まで通すはずであった。工事は始まったばかりとは言え、これだけの工事をしながらのことだ、いったいいつになったら出来るというのだろう。
「心配ありませんよ。現在は専門知識が必要とされる工事なので、あれだけの人間でやっていますが、もう少し楽な局面では村から人足の供給を受けて一斉に作業させる事になっています」
「その人足たちとはどのような方々がなさるのでしょうか」
「普通は村の農民です。それに、力仕事を求めている人びとがいます。農家の次男坊、三男坊など、親の仕事を引き継げなくて手工業も手につけられなかった男たちが仕事を求めて集まってくるのです。そうした男たちには賃金を払い、農民たちの場合はこの作業と引き換えに年貢を減らすわけです」
それからしばらく言葉を切って、通りの向こう側をじっと見つめた。その奇妙な様子に、ラウラは首を傾げた。彼が言葉をつないだ。
「そう、仕事のないものには、手遅れになる前に仕事を与えなくてはならない。食べるものを買えなくなってからでは遅いのだ。貧しさは悲惨さを呼ぶ」
街が活氣に溢れているのに、その北の一角だけは人びとが近寄ろうとしないためにがら空きになっている空間があった。石畳の敷き詰められた灰色の一角だったが、人ひとりいない割に道は薄汚れて湿っぽかった。そしてその奥、ラウラからはよく見えないあたりにわずかに人の声のようなものが聞こえていた。
「あれは……」
彼女は戸惑ってザッカの顔を見た。
ザッカはしばらく黙っていたが、やがて髭をしごきながら言った。
「さよう、あなたはこの国の光の部分をよくご存知だ。であるならば、影の部分を見ていただくのも決して悪い事ではありますまい。悲惨な事に直面する勇氣はおありでしょうな」
彼女は不安に満ちてザッカの顔を見ていたが、彼はラウラの返事を待たずに歩き出した。
「こちらへ」
暗い通りを抜けると、全く違う光景が姿を現した。その通りはひどい悪臭がした。思わずラウラは両手で鼻と口を覆った。ザッカは口の端でわずかに笑った。
どこからともなくうめき声が聞こえる。
「あ、フランチェスコ様」
老いしわがれた声がし、振り向くと、よろよろとした薄汚れた老人がザッカの方に歩いてきていた。
「ハンスか、どうした」
ザッカはその男に声を掛けた。ラウラはフランチェスコというのがここでのザッカの偽名なのだと理解した。
「例のミリアムが昨日亡くなったんでさあ。三日ほど前に隠者のドメニコ様に終油の秘蹟をお願いしたんだが、お忙しくていまだにいらしていただけていないんで。このままでは腐りだしてしまいますわな」
「わかった。行こう」
それからラウラの方に向いて言った。
「奥方さま。申し訳ないが、ご同行願えませんか。辛いものをお見せする事になるかと思うが、あなたをこのままこの小路でお待たせする事は危険で出来ませぬのでな」
「わかりました」
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樋水龍神縁起 東国放浪記 あらすじと登場人物
【あらすじ】
時は平安時代。陰陽師安達春昌は、その地位を捨てて従者である次郎とともにあてのない放浪の旅をしている。彼らは、半ば物乞い、半ば呪医として、滞在先となる地位の低い人たちの生活を覆う影と向き合うのだった。
【登場人物】
◆安達春昌
本作の主人公。賤しい生まれながらも類い稀な才を認められて若くして陰陽寮で頭角を現した陰陽師であった。だが、傲慢さと思い上がりから、恋に落ちた聖なる媛巫女を盗み出して死なせてしまった。その贖罪のために、全てを捨てて放浪の旅をしている。鬼神の類をはっきりと見る能力に加え、天文学、薬草学の知識が豊富。滞在先では一夜の宿と食事の礼に、病人の治療をすることも多い。「樋水龍神縁起」本編の主人公の前世。
◆次郎
もとは樋水龍王神社の媛巫女つきの郎党だったが、媛巫女を盗み出した逆賊として春昌を討伐するために追っている時に誤って媛巫女を射殺してしまった。瀕死の瑠璃媛の遺言に従い、春昌を守るため従者として旅に付き従っている。生まれながらにして普通の人の目には見えないものをぼんやりと見る能力を授かっている。
◆媛巫女瑠璃
樋水龍王神の御巫であった。その類まれな神通力は都にも知られており、親王の病を癒した礼として神宝「青龍の勾玉」を下賜されたほどであった。安達春昌と恋に落ちて、自らを盗み出した彼の命を救うために身代わりとなって死ぬ。忠実な郎党の次郎に背の君である春昌を守るように遺言した。
◆萱
若狭国小浜にて献上品である濱醤醢を醸造する『室菱』の若き元締め。在りし日の瑠璃媛と面識があり、その縁で春昌と次郎を支える。
◆夏
丹後国の大領渡辺氏と湯女との間にできた娘。美しさを見込まれて屋敷に引き取られる。萱の従妹。
◆三根
『室菱』で働く娘。萱に大恩を感じている。
◆弥栄丸
大領渡辺氏に仕える下人。西の対にて夏姫の世話係をしている。
【特殊な用語】
◆樋水村(ひすいむら)
島根県奥出雲にある架空の村
◆樋水の龍王
樋水龍王神社の主神。樋水川(モデルは斐伊川)の神格化。樋水龍王神社にある龍王の池の深い瀧壺の底にとぐろを巻いているといわれている。また時おり姿を現すのを村の住人にはよく目撃されている。
◆青龍の勾玉
奴奈川比売が大国主命に輿入れをした時に糸魚川より出雲に贈られたと伝えられている神宝のうちの一つ。上代にその貴重さから一度朝廷に献上されたが、瑠璃媛が親王の命救った功で下賜された。今際の際の瑠璃媛に託されて春昌が肌身離さず持ち歩いている。
この作品はフィクションです。実在する地名、団体とは関係ありません。
【参考となる作品群】
樋水龍神縁起・外伝
(官能的表現はありません)
「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
官能的表現が一部含まれるため、成人の方に限られますが……「樋水龍神縁起」四部作(本編)は別館にPDFでご用意しています。

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黄色いのはいったい?

今年はやたらと早くに五匹生まれたっきりで、もう生まれないのかと思っていたら、例の通勤路にあるカモのお池でまた雛が孵っていました。
しかし、なぜか二匹だけ黄色い。同じ母親から同じ色の鴨が生まれるわけじゃないんだと、驚愕しています。
あ、「みにくいアヒルの子」式に一匹だけ不格好ということはありません。黄色い子もラブリー。茶色い子もラブリー。
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少し離れたくて
私が毎月参加している「月刊Stella」ですが、ここしばらく参加者が少なく寂しい状況で運営の藍樹さんもお困りのご様子です。参加の可能な方、何かで単発で発表する作品のある方、よかったらStellaの方にも出していただけないでしょうか。
参加方法はとても簡単で、専用タグを該当記事に貼付けて、URLを藍樹さんに『月刊Stella』コミュニティで報告するだけです。(詳しくはこの記事を参照してください 『月刊Stella 詳細記事』)(fc2の方のみですが、コミュニティは『月刊Stella』で検索できます。あ、管理画面の「コミュニケーション」項目をクリックするとコミュニティを検索・閲覧できます。わからない方は、このブログのコメ欄でも質問を受け付けます。ご遠慮なく)
もう一人の主催者スカイさんが現在受験でお休み中ですので、藍樹さんお一人で頑張っておられます。どうぞよろしくお願いします。
意味深なタイトルですが、深刻な話ではありません。ご心配なく。
一つの小説に心が入り過ぎていて、どうも逃れられない。なぜなんだろうと思ったら原因が分かりました。iPhoneのプレイリストですよ。ずっと「Infante 323 黄金の枷」用に編集したBGM集になっていました。そりゃ、切り替わりませんわ。試しに「樋水龍神縁起」用に変えたら、あっさり思考がそっちに流れました。私ってわかりやすすぎ。ここで「大道芸人たち」BGMに変えるのは危険。そっちを書いている時間は、今はない。
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」の仕上げにかなり差し支えているのですが、こっちが進まない原因も同じでした。だって、この小説はBGMがないんですよ。でも、今さらしょうがないので、頑張ってなしで書き終えようと思います。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(10)村、農耕とフェーデ
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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(10)村、農耕とフェーデ

「申し訳ない、訊きたい事があるんだが」
ヴァレーズ地方に入り、しばらく馬を歩かせていたマックスは、村の外れにある畑で農民らしき男に声を掛けた。振り向いた男に対し、縁なし帽を少し持ち上げて黙礼をした。この縁なし帽はには白い羽が飾ってあるが、宮廷に出入りする時にかぶるきちんとしたものではなく、酔狂な自由民に思える程度の質素なものを使っていた。
それでも、マックスの服装は男の身なりと比較してかなりよかった。宮廷や上流階級で教師としての仕事をする時、それからこうして一市民として人びとの間を歩いていく時、彼は常に自分を全く別の存在に感じた。時に彼は得体の知れない異国人であり、時にははるかに裕福なよそ者であり、時にはとるに足らない下層階級者だった。
ディミトリオスからは、いくつもの言葉、古今東西の古典、哲学者や為政者の考え方、地理や文化、数学や薬学など多くの知識を体系的に学んだ。それは本来ならばマックスのように若い青年が到底身につけられないほどの量で、ディミトリオスの体系だてたメソッドによってのみ可能な教育だった。けれど、老師のもとを離れて、この二年間に彼が旅と仕事で見聞きしたすべては、全く体系的ではなくまとまった意味をなしていないにも拘らず、彼の考え方と知識に深い影響を与えた。
僧と為政者は、全く違う考え方をした。彼らには全く違う種類の善悪や正義があった。手工業の職人と商人も全く違う考え方をした。彼らの誇りと怒りは全く違うものに向けられていた。そして町の人間と村の人びとも違っていた。
この二年間の幾度かの失敗から、彼は村を通る時にはどのような態度と服装をすべきかを知っていた。
「なんだね」
深い緑色の短い上着を着てつばのある帽子を目深に被った農夫は、あまり歓迎しているとは思えない様相で大儀そうに言った。
「ルーヴに向かっているんだが。この近くで夕暮れまでに宿屋のある町に辿りつけないかね」
「その馬を走らせりゃね」
マックスは肩をすくめた。
「馬が朝から脚を引きずっているんだ。まずは蹄鉄屋に行かないといけないようだ」
男は顎で村の方を示した。
「蹄鉄屋なら隣の村にいるが、あいつは飲んでいてね。今日はもう行っても無駄だよ。この村にも隣の村にも旅籠はないがね」
「だったら、この村でわずかな金と引き換えならよそ者を泊めてもいいという家を教えてくれないかね」
「どのくらいだね」
男がちらりと興味を持ったように見えたので、彼はあまり高くない旅籠で払った金額の三分の二の価格を口にした。すると男は口をへの字に曲げてから言った。
「馬に飼い葉をやらなくてはならないんだろう。それは別でいいのかね」
マックスは、少し考える振りをした。何もなければ、出る時には旅籠で払ったのよりも少し多い額を置いていくつもりだった。
このような無愛想な男にどうしてこんな嫁が来たのかと驚く、快活な女房は彼を見ても大して驚かなかった。どうやら、村のはずれに住んでいるこの男は、これまでにも何人もの旅人に宿屋代わりに寝床を提供してきたのだろう。
藁葺きの家は狭くて暗いだけでなく、床板が張っていなくて粘土で固めてあるだけのようだった。板張りの壁の隙間には苔が詰めてあるだけで、扉にも蝶番はなく革で止めてあった。春先とは言え、夜はこれでは相当寒いに違いないと、彼は思った。
「すみませんねえ。こんなものしかなくて」
女房は、蕪と青菜を脂身で煮たスープを木のボールに注いで言った。他には固そうなパンしかなかったから、今夜の食事はこれだけなのだろう。貧しいとは思っていたが、このあたりの暮らしは相当厳しいらしい。彼は黙って感謝を捧げて木製の匙でその薄いスープを掬った。
「去年はもっとましな生活を送れたんだが」
ジャコと名乗った農夫は、口ごもるように言った。
「去年は、センヴリもグランドロンもどちらかというと豊作だったようですが」
マックスは首を傾げていった。ルーヴランに入ってからアールヴァイルを通ってきた時も、さほど景気が悪いようには見えなかった。
ジャコはため息をついた。
「フェーデがあったんでね」
マックスは眉をひそめた。フェーデ(私闘)とは、ある者が別の者に権利を侵害され繰り返し抗議を申し立てても加害者が誠意を示さない時に、相手を協議の席につかせる被害者による一種の実力行使を意味する。具体的には私闘宣言をした後に相手の支配下にある土地を襲って略奪や放火などを行うのである。
この権利は、もちろん誰にでも認められていたわけではない。貴族身分や、武器の携帯を許された「名誉ある」自由民だけの特権であった。
「この村の領主はどなたなのですか」
「ジュールさまさ。陛下の森番の長として、狩り用の別荘と森林管理をしていてね。この地方ではもっとも羽振りのいいお方なんだ。だが、上の方に見せる顔と、下に向ける顔があまりに違うお方でね。森番たちやお抱えの騎士さまたちは一つや二つではない恨みを抱いているのだ」
「フェーデのためにこの村が襲われたのはこれが始めてじゃないんですよ」
女房もため息をついた。
「今回はジュールさまが、とある騎士の妹にひどい事をしてね。その誠意のない態度は、騎士殿にとっては腹に据えかねる事だったろうよ。部下にフェーデを起こされるなんて、しょうもない話になったのさ。だが、襲われて一年間分の働きに火をかけられる我々の身にもなっていただきたい。こんな目に遭っても、年貢の方はさっ引かれる事もなく持っていかれるんだ」
マックスは、惨い運命を心から憎く思った。貧しい暮らしの中で働き続ける事でしか生存できない人びとに何の罪があるというのだろう。
自由民(粉屋、大工、靴屋、革なめし工、織物工など)と違い、農業や牧畜に従事する小作たちはその土地に縛り付けられていた。自分の意志で他の領主に仕える事も許されず、生まれた時にその運命が決まる彼らは、名前こそ違えども奴隷と大して違わなかった。街に行って面白いことを探したり、隣の荘園の小作の娘と結婚したりする事はできなかった。不作やこの村でおこったような不幸でも、容赦なく年貢は取り立てられた。だが、それでも多くの人間は領主に反抗したり逃げたしたりしようとはしなかった。捕まえられてみせしめに殺されたりする事も怖れていたが、それ以上に他の生き方を知らなかったのだ。
腹にたまらない薄いスープとパン、隙間風で冷え込む寝床は、マックスの旅の中でもひときわ惨めな一泊のうちに数えられたが、翌朝その家をでる時に、彼は旅籠に三晩泊ったよりも少し多い額を渡してやった。本当はひと夏中の食料をまかなえるほどの金を置いて行くことも可能だったが、そんな事をすると生活のリズムを壊し、村での彼らの立場を難しい物にする。
「可能なら、これで少し精のつく物を買って食べなさい。この夏を乗り切る事ができるように」
昨日とはうってかわって、ペコペコと頭を下げるジャコと女房に礼を言うと、馬にまたがって彼は隣村の蹄鉄屋を目指して去っていった。
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陳腐?
小説書くにあたって、登場人物のキャラクター設定も大事だし、テーマも大切ですが、ストーリーもとても大切だと思うのですよ。
なんですが。ストーリー、どうなんでしょう。
ブログ始めるまでは、いろいろな方の反応に触れなかったので、好き勝手に書いていて、「自分が好きならそれでいいや」だったんですけれど、ブログをはじめてコンスタントに読んでくださる奇特なお友だちに恵まれ、その反応を読んで驚くことになったわけです。「こういうのがウケるのか」って。
で、キャラクター設定は(好き嫌いは別として)わりとウケていて、ある程度独自のものを生み出せているみたいなんですけれど(っていうか、へんなキャラ多すぎ?)、それに住んでいる所や経歴の利で、設定に関してはかなりオリジナルと言っていいみたいなんですが、その分、ストーリーが今ひとつ、つまり、ありがちなものに偏っているじゃないかと。想像力が足りないのか、陳腐なものがもともと好みなのか、どうもベタな感じになっているような。それとも、ベタのままでいいのかなと、なんだかわからなくなってきました。
読み切り短編はいいんですよ(本当はよくないけど)。読んでくださる方も、週をまたいで期待したりしないじゃないですか。でも、連載ものだと「これだけ(一年以上)ひっぱっておいて、これかよ!」って、思うんじゃないかなあと。別に、もったいぶって「次回に乞うご期待」ってやっているわけではなくて、ブログという媒体の性質上、あまり長いと読む方もつらいだろうなあと思って切り、間を空けた連載になるわけです。でもねぇ。
「大道芸人たち」にしても「Dum Spiro Spero」にしても「夜のサーカス」にしても、行き着いた終着点で肩すかしを食らった方、多いんじゃないかしら。
自分としては、「こうなるしかない」と思ってストーリーを組立てているわけです。(しょうもないことに、自分で書いているもののことはけっこう好きなのです)そして、二次創作でもなければ、誰かと誰かのカップリングを楽しむためだけの目的におざなりにストーリーを付けるのではなくて、あくまでもそれがメインです。社会正義を問うような深いテーマを扱っているわけでもないし、今どきの言葉で言うと「萌える」題材を扱うわけでもないし。なのにその肝心のストーリーが陳腐なのっていかがなものかと。
それともストーリーってある程度普遍的なもので、設定がオリジナルなら、かえってベタな方が読む方としては安定していいのかなあ。う〜ん、本当にわからなくなってきました。わからないまま、結局、同じようなベタな話を書き続けるんだろうなあ。このブログで小説を読んだことのない方、そうなんです、そういう小説が置いてあるブログです。
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【小説】きみの笑顔がみたいから
今回の二人は、昨年登場した「ロメオとジュリエッタ」です。どんな話だか忘れてしまった方、読んでいない方も全く問題ありません。
読みたい方はこちらへ 「世界が僕たちに不都合ならば」

きみの笑顔がみたいから
ミラノは忙しい街だ。イタリアの他の地域が太陽とトマトとワインを楽しんでいる時にも、ミラノ人だけはせっせと働いていると言われている。実際に、ロメオの勤めているソヴィーノ照明事務所では、誰も彼もがワーカホリックのように見えた。ロメオ自身は、もう少し典型的イタリア人に近いと思っている。彼は照明の位置を二センチずつずらして、組み合わせの効果を百回も試すよりも、まだ明るいうちに帰ってワインを飲む方が好きだった。それはロメオが照明デザイナーではなくて、事務と経理を担当しているからでもあった。
それなのに、ロメオが恋に落ちてしまった女性は、国民全体がワーカホリックだと評判の日本人だった。珠理は同じ事務所で働く照明デザイナーだ。彼女の創り出す光はとても暖かく繊細だ。まるで彼女自身のようだった。
ロメオは楽しみにしていた八月の休暇をふいにしてしまった。夢破れて日本に帰ろうとした珠理を追って、ついうっかり日本へ行ってしまったのだ。そして、空港で珠理を捕まえて、ついでに日本を旅してきたのだが、そこで有給休暇を使い果たしてしまった。
でも彼は後悔していなかった。珠理はミラノに、そして、ソヴィーノ事務所に戻ってきてくれた。それだけではなくて、ロメオのアパートメントで暮らすことになったのだ。ソヴィーノは「わっはっは」と笑った。「お前もやる時はやるな」という意味である。
日本に追いかけていったぐらいで、ただの友達以下の関係から同棲相手へと昇格出来るとは自分でも思っていなかった。ただ、荷物が船便で日本に帰ってくるので、それを受け取らないと何も出来ないと渋る珠理を説得して、まだ海の上にある荷物が日本国内に着いたら即座にイタリアに返送してもらう手続きに行き、そこで転送先の住所が必要になったのでロメオの住所を書いたのだ。
とりあえずの新しい住所がロメオのアパートメントになり、それを何度も手続きのために書いている間に、珠理自身にとってもそれが自然になってしまった。同じ飛行機に乗って再びイタリアに向かう時も特にはっきりとした話をしなかったのだが、ミラノについてから直接ロメオのアパートメントに向かい、そのままなんとなく同居にこぎ着けてしまったのだった。
「今日は遅くなる?」
書類を引き出しにしまって退社の支度をしてから、ロメオは珠理のデスクの所に行って小さい声で訊いた。隣にいたマリオやアンドレアがニヤニヤ笑ったので、ロメオは珠理に申し訳ないことをしたと思った。
珠理はやはり小さい声で答えた。
「これをやってから帰りたいの。二時間くらい遅くなると思う」
「時間は氣にしなくていいよ。僕は買い物をしてから帰るよ」
ロメオはスーパーマーケットに寄るつもりでいつもの道を歩いた。角を曲がったら奥の広場に市場が立っていた。だったらスーパーマーケットに行くなんてもったいない。足を速めて市場にたどり着いた。
丸々太ったおばさんがオリーブを量り売りしていた。山盛りのペパロニが鮮やかだった。チーズ専門の屋台。レース編みのカーディガン、大量の靴下や下着、各種の帽子。彼は喧噪の中を黙々と歩いた。頭の中で、冷蔵庫には何があっただろうかと考える。主に料理をしているのは珠理だから、記憶はかなりあいまいだ。もともとロメオが作ることのできるメニューは限定されている。とにかく使い切れるだけの物を買えばいいか、そう思った。
「いらっしゃい」
「そのルッコラを一束ください」
「はいよ、他には?」
「いや、それでいい」
水牛のモツァレラとパルミジアーノの塊、それにヴァルテリーナの赤ワインを買い、それからやはりスーパーマーケットに寄ってピッツァの台を買った。
アパートはひんやりとしていた。ずっと一人で住んでいた部屋だ。何も思うはずはないのに、どういうわけだがガランとして感じられた。人と話すのが苦手で一人でいるとホッとすると思っていた。勢いで珠理と同居することになってしまったけれど、二人でいることに苦痛を感じるのではないかとこっそり思っていた。けれど、それは全く逆だった。珠理はこのアパートに昔から置きっぱなしになっていた置き時計か、あったことも忘れていたクッキー缶のようにすんなりとおさまり、部屋は全く狭くならなかったし、騒がしくなることもなかった。
言葉に慣れていないためかゆっくりとしたペースで、考えながら話す。かかっている音楽を黙って一緒に聴く。二人の間の沈黙は据わりが良い。無理して話す必要もなければ、いやいや耳を傾ける必要もない。ただ、優しく静かな時間が流れている。
ピッツァを焼くのは珠理が帰って来てからの方がいいだろう。でも、下準備はしておいた方がいい。そう考えたロメオはワインのコルクを抜いてデキャンタに移した。ピッツァ台を天板の上に広げ、ニンニクのみじん切り、窓辺に置いた鉢からオレガノ、ローズマリーを少しとってきて、細かくしてから載せた。オリーブオイルと黒こしょう。薄切りにしたモツァレラを散らす。今日はピッツァ・ビアンカにするのだ。
「ロメオは本当にイタリア人?」
初対面の人によく言われるセリフだ。あまりに口数が少ないから。故郷の家族や親戚と一緒に過ごしたがらないから。でも、彼だってトマトやピッツァが嫌いなわけではない、ごく普通のイタリア人と同じように。
小さいバルコニーに出た。夏至が近いのでまだ明るいが、風が出てきて涼しくなってきた。ロメオはテーブルクロスを一度外してぱっと叩いた。それから丁寧にセットした。ガラスに入ったロウソクとワインのデキャンタ、皿とワイングラス、カトラリーを持っていった。その時、玄関で音がした。
「ごめんね、ロメオ。遅くなっちゃった」
アパートにわずかに色彩が増したように感じた。珠理がこだわっている一センチか二センチか、その程度の照明の違いのようなわずかさで、何が違うのかと訊かれると答えられない変化。
「お帰り、珠理。すぐにご飯用意するよ」
オーブンを温めて、ピッツァを入れる。
「このまま? 真っ白ね」
珠理は珍しそうに眺める。
「うん。今日はピッツァ・ビアンカにしたんだ。でも、これで終わりじゃないから安心して」
ロメオは笑って珠理の頬にキスをすると、ルッコラを洗い、パルミジアーノを薄く削った。珠理はルッコラの水氣ををタオルで拭き取る役目を引き受けた。
「さあ、できた!」
パリパリに焼き上がったピッツァの上にルッコラとパルミジアーノをたっぷりと載せてロメオはバルコニーに急いだ。珠理はバルコニーの扉を開ける。
ロウソクの光が揺れている。空が少しずつオレンジになっていくのを珠理は目を細めて見守った。ロメオはその珠理を眩しそうに見ている。
「さあ、ピッツァが冷めないうちに」
「ありがとう、ロメオ。なんて素敵な夕方かしら」
「うん。きれいな夕焼けだよね」
そういうと珠理はまあという表情をした。
「夕焼けだけじゃないわ。帰って来たらこんなに素敵なテーブルが整っていて、ロマンティックで、それに美味しいピッツァがあって」
ロメオはそれに続けた。
「そして、向かいに君が座っているんだ」
二人は一緒に笑った。
ルッコラとパルミジアーノがわずかに風に揺れている。ほのかに胡麻のような薫りがする。シンプルなのに深い味わいで飽きない。人生の歓びもこれに近いのかもしれない。珠理がワイングラスを傾けながら微笑んでいる。二人にたくさんの言葉はいらない。
(初出:2013年7月 書き下ろし)
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なくては困るもの

この間、いちごババロアを作ってみました。例によってババロアの存在を知らなかった連れ合い。前にも作ったと思うんだけれど、それも忘れていたらしい。どっちがヨーロッパ人なんだか。
実は、ババロアは日本では作ったことがありませんでした。
その最大の理由は生クリームを泡立てるのが面倒くさかったから。いや、泡立てマシンは実家にあったのですが、生クリームを泡立てて、ゼラチンをふやかして、いちごピュレを作って砂糖と一緒に煮てと、工程がいくつもあると、狭い台所では作りにくかったのです。泡立てマシンってバランス悪くて泡立てた後に置いておくのが不安だし。

スイスの我が家の台所も決して広いわけではありませんが、日本では作らなかったけれどスイスでは作るもの、けっこう多いです。完全に自分の台所で使い勝手をよくしていることもありますが、その他に、簡単に作れる秘密兵器を手にしたからなのですよ。それがこれ、Braunのマルチクイックです。
ハンドミキサーではスイス製のバーミックスも有名で、私も一時使っていたのですが、途中で買い替えました。何が便利かというと、モーター部分が簡単に外れることなんです。モーター部分は重いのです。そして、重くてコードのついているものの先端に使用してソースや生クリームやピュレのついている状態の部品があると、ちょっとしたタイミングに置いておいた皿やボールが倒れて大災害になってしまうことがあります。また、洗いにくいんですよね。
据え置き型のスライサー・ミキサーの類いは大きくて場所をとるし、やはり洗いにくい。
このマルチクイックは、その全ての問題をクリアしているのです。ババロアも、ミキサー部品でいちごと砂糖のピュレを作り、それを火にかけている間に生クリームを泡立てます。モーター部分は使ったら即外して、定位置のマグカップに立てます。泡立て器の部品とミキサーは使い終わった時点で、さっと水で濯いでから食洗機に入れていきます。ふやかしたゼラチンをピュレに混ぜたら、あとは生クリームをそっと混ぜて器に移して冷蔵庫にしまうだけ。後の洗いものは鍋オンリー。簡単!
マルチクイックはほぼ毎日なんらかの形で活躍しています。サラダに入れる人参をみじん切りにしたり、マメをすりつぶしてスープにしたり、バナナミルクセーキを作ったり。昨日はスペインのディップ、ロメコスソースを作って新ジャガにつけて食べましたよ。使えば使うほど手放せなくなります。家事は楽しいばかりではなくて、仕事で疲れきっているときや、遅くなって早く食べたいときだってあります。そういうときにこそ、この手の便利な製品が大いに助けてくれるんですよね。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(9)氷の宰相
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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(9)氷の宰相

「あの、ラウラさま……」
マリア=フェリシア姫付きの召使いエレインが呼びかけた。ラウラはその戸惑った様子にすぐに氣がついた。
「どうしました?」
「その、宰相さまが、姫さまとラウラさまにお会いしたいと、おっしゃって使いをよこされたのですが……」
「姫が、なんとおっしゃったの?」
「その……。『氷は鍾乳洞にでもこもっていればいい、坊主に興味はない』と」
周りの召使いたちが思わず笑い声をもらしたが、ラウラがにこりともしなかったので慌てて咳払いをしてごまかした。
彼女はため息をついて、立ち上がった。
「わかりました。宰相殿はどちらに?」
「孔雀の間でお待ちです」
彼女は左腕に覆い布を被せると、宰相に会うために出て行った。
「ねえ。宰相さまが姫さまに何の御用があるんだと思う?」
アニーは親友であるエレインに問いかけた。エレインは首を傾げて答えた。
「わからないわ。でも、ここのところ、多いのよね。ヴァンクール様は一度だって姫様に会おうとなさらなかったのに」
アニーは口には出さなかったが、あの姫様に会ったって、国政の事なんかまるで関心がないのにと思っていた。さらに、亡くなられた前宰相ヴァンクールさまとは、ずいぶん違うやり方をなさるおつもりらしい、そう思った。
「お待たせいたしまして、申し訳ございません」
ラウラは、孔雀の間に入ると、窓から外を見ている黒衣の男に声を掛けた。男はゆっくりと振り向いた。
「これは、バギュ・グリ殿。つまり、姫はお見えにならないんですね」
「お見えになりません」
彼女は理由を言わなかった。嘘をついても、この鋭い男には通じない。
「構わないのですよ。どちらにしても、姫とはあなたとするようなディスカッションは期待できません。かといって、声をおかけしないわけにもいきませんからね」
彼女は顔色一つ変えずに口を開いた。
「姫や私とお話をなさる事が、どうして必要なんですか」
「姫は将来この国の女王となられる方です。ふさわしい判断力を持っていただく必要があります。それが出来ないのであれば、補佐をする方に正しい判断力を持っていただかねばなりません」
「私は姫が女王になる時に、ここにいるとは思いませんわ」
「なぜです?」
「あと一年で姫が二十歳になられると、私の役目は終わるからです。姫がその後も私を必要とされるとは思いません」
ラウラはマリア=フェリシア姫が鞭打つ楽しみを失ったあとも自分に側にいてほしいと思うほど好かれていない事をはっきりと自覚していた。そしてそれは残念な事ではなかった。現在のような暮らしはもう二度と出来ないだろうが、良家の子女の家庭教師や女官としての仕事ならいくらでも見つかるに違いない。少なくとも自分の力だけで生きていけるだけの教育を授かった事をありがたく思っていた。
「姫があなたになんとおっしゃったかはわかりませんが、少なくとも国王陛下はあなた以上の補佐の出来る女性を簡単に見つける事が出来るとは思っておられませんよ」
「補佐の女など必要ないではありませんか。たとえ、姫がすぐに戴冠せねばならない事になっても、あなた方、廷臣の皆様が実際の政治をなさるのでしょう」
ラウラは言葉を選びながら、真剣に答えた。
本当に女にしておくのは惜しい。《氷の宰相》は感心した。
先日、国庫の財政状況の改善について、姫の意見を伺った時にも、姫と他の女官たちが馬鹿にしたような顔で興味のなさを露呈したのに、ラウラだけは建設的で意味のある意見を口にした。もちろんザッカにしてみれば、理想に走りすぎた優しい意見に過ぎなかったのだが、少なくとも彼女は国庫にとって重要な意味を持つ通行税や関税の減少について知っていたし、タタム峠に至る《シルヴァ》を横切る道の整備でグランドロンに流れた商人たちを呼び戻せる可能性に言及した。他の女官たちは、タタム峠がどこにあるかもわかっていなかったのだ。
女たちは衣装と遊びにしか興味がない愚かな存在だと、ザッカは思ってきた。そのくせに、自分の利に関する事に関しては、後先を考えずに政治に口を出そうとする、厄介な存在だと。女には冷静に物事を判断する能力が欠けている。だが、この娘だけは別だった。大臣にも匹敵する知識と能力があるにもかかわらず、女である故に政治に関わる事はないと冷静に自分の立場をわきまえている。意見ははっきりというが、それを受け入れてもらえる余地があるとは思っていない。その冷静さを知って以来、ザッカは彼女に一目置くようになっていた。
「姫には、あなたが必要ですとも」
ザッカは不敵な笑みをもらした。彼女にはその意味が分からなかったが、問いただしたいとも思わなかった。
「私をお呼びになったのは、その話をなさりたいからではありませんのでしょう?」
「違います。今日は、聖カタリナ修道会の閉鎖について、姫とあなたのご意見について伺うつもりで参ったのですが……」
彼女が黙って宰相の次の言葉を待っていると、彼は考え込むような顔をして言葉を切った後、不意に言った。
「憶えていらっしゃいますか、前回、お話をした時に、水路の迂回の話をした事を」
「ええ、もちろんですわ。もうじき工事が始まるとおっしゃった事も」
ザッカはゆっくりと頷いた。
「そう。私はこれから非公式視察に行くつもりなのです。姫がおいでにならないなら好都合です。一緒に行きませんか」
ラウラは息を飲んだ。それから頷いた。
「ぜひ行きとうございます。でも……」
「でも、何ですか?」
「私も同行して人に知られずに視察が出来るのでしょうか」
ザッカは彼女の品はいいが贅沢な金刺繍のされたドレスを上から下までじろりと見て言った。
「その服装では無理ですな。目立たぬものを用意いたしましょう。二刻後に鐘楼に至る階段のところに一人でお越し下さい。くれぐれも他のものに見られぬように」
ラウラは黙って頷いた。
彼女が鐘楼の階段に着くと、ザッカはもう来ていた。彼は托鉢用の茶色い粗末な僧衣を着てフードを被っていた。彼の聖職者姿を見るのははじめてだった。いつもの冷たく残忍にすら思える彼の顔が、この服装をすると厳格で敬虔な神父に見えるのが不思議だった。
ラウラの姿を目に留めると、彼は階段の間近の床の文様を足で踏みながら不自然に手を伸ばして、少し遠くの壁を押した。今までただの壁だと思っていたところが、わずかな隙間をみせ、それは扉である事がわかった。
「ここを踏みながらでないと、開かない造りになっているのですよ」
その言葉に、ラウラは息を飲んで頷いた。
ザッカは彼女に牛脂灯を渡して言った。
「服を用意してあります。中で着替えて下さい。着替え終わったら、ノックをして下さい。私も入りますから」
ラウラは黙って頷いて、その扉から秘密の部屋に入った。牛脂灯の光では遠くまで見えなかったが、下へ向かう狭い階段があるのがわかった。閉まったドアの内側に、確かにドレスがかかっていた。ドレスもフード付きの外套も全て非常にくらい色で、暗闇の中では真っ黒に見えた。彼女はドレスを脱いで、その暗く荒い生地の服に着替えた。その服はラウラにはわずかに大きかったが着て不自然に感じるほどではなかった。彼女は手早く外套も身に着けると、扉をノックした。
静かに扉が開き、僧衣の男は黙って入ってきた。そして、何も言わずに扉を閉めると階段を降りていった。
これほど深い階段が、こんなところにあったとは! 十二年もこの城の中に住んでいたというのに、ラウラは知らなかった。これは、いざという時に秘密裡に城から出入りするための、この城の最高機密に違いなかった。階段を降りきると、石畳の暗い道が続いていた。そのトンネルの上部に時おり窓が見えた。といっても、それはほんのわずか穴が開いているに過ぎなかった。そこを通して、外界の音が漏れてくる。完全な静寂から、動物や鳥の鳴き声、樹々の間をわたる風の音、水音。
緩やかな下りとなった後、またしばらく完全な静寂に戻ったのは、内側の城壁の下を通っているに違いない。ほどなくして、窓の光が再び見えてきた。聞こえてくるのは騒がしい街の様相だった。人々の行き交う様子、行商の声、家畜の鳴き声、扉を開けたり荷車を動かす忙しい日常の物音だ。子供の頃には彼女自身も馴染んでいた城下の風景だった。
やがてトンネルはずっと狭くなり、行き止まりになった。ザッカはゆっくりと正面にある石を右側にずらした。そこに小さな取手があるのが見えた。彼が手前に引くと、壁は低い音を立てて横にスライドした。急に明るくなったので、ラウラは目をしばたいた。
目が慣れてくると、向こう側は小さな民家の狭い部屋である事がわかった。宰相の目に促されて彼女はその扉から向こう側へ出た。牛脂灯を吹き消してザッカは彼女に続き、ゆっくりと扉を閉めた。部屋の側から見ると、その扉は飾り棚で覆われていて、傍目にはそれとはわからなかった。
「驚きましたか」
ザッカは口先だけをゆがめて笑った。ラウラは頷いた。
「この通路は古いものなのですか」
「ええ。城の建築当初からあったのですよ。この通路の存在を知っているものは、ほんのわずかです。国王陛下や王太女殿下も知りません。特に、あの姫に報せたりしたら、どんなに愚かな理由で使われるかわかったものではありませんからね。いざという時のために極秘にしておかねばならないのです」
これはザッカからの口止めだった。それと同時に、宰相がマリア=フェリシア姫に対してどのような意見を持っているかの表明でもあり、大して尊敬も持っていない事をも示していた。ラウラは簡潔に答えた。
「わかりました」
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