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Posted by 八少女 夕

【小説】Infante 323 黄金の枷(8)小言

月末のStella用連載小説「Infante 323 黄金の枷」です。一ヶ月って、異様に速いなあ。

この作品を作る時に注意したのは、社会的に特殊な状況で育った人間を、自分の(社会的な)常識をもとにした行動をさせてはならないということでした。人間関係には適切な距離(空間上でも、感覚でも)がありますよね。その距離感は幼少の頃からの社会生活の中で培われるものなので、その社会生活を禁じられた人間はそれがよくわからないはずだと思ったのです。主人公が他人とまともに話もしなかったかと思えば、「いきなりそれか」になってしまうのは、そういうわけです。で、もちろんヒロインは大混乱。


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「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(8)小言

 マイアは考え事をしながらベッドメイキングをしていた。来たばかりの頃は、インファンテたちの巨大なベッドを整えるのは何よりも苦手な仕事だった。数日に一度シーツ類を完全にとりかえる時はまだいいのだが、一度眠った後のずれた布団やシーツでのベッドメイキングがうまくいかなかった。

 初日に24のところをアマリアがやっているのを見た時には簡単に見えたのに、23のところで一人でやったら変になってしまった。24のベッドと違って、23はかなり行儀よく寝ているように見えたにも関わらず。

 次に行った時には、23が待ち構えていた。
「いったいどうやったらあんなベッドメイキングになるんだ」
目の前でやらされて、ずれていたシーツをそのままマットレスの下に押し込もうとしたのを、まず止められた。
「そんな横着があるか。一度全部出して、上下左右をきちんとひっぱって中心線を整えてから押し込むんだ」

 23が実践してみせる方法を、確かにアマリアもやっていたように思う。23が続けてやってみせたのはその折り方だった。きちんと角を揃えて折り込まれたシーツはマットレスの下にきれいに収まった。

 目の前で動く23の姿を見て、マイアは変だなと思った。背中が丸いのだ。不自然に猫背に思える。いや、正確に言うと、変だなと思ったのはこれがはじめてではなかった。二日前、一階を掃除していた時にも思った。23は晴れている日は、休憩する度に中庭に出て行くのだが、上を見上げているのにまだ猫背に見えていた。しかし、わざわざ指摘すべきことにも思えなかったので、黙っていた。訊きたいことは他にあったのだ。

「なんで23、私たちの仕事のやり方みんな知っているの?」
「そりゃ、子供の頃からずっと目にしているからな。十六歳で靴の仕事を始めるまでは、毎日ヒマだったんだ」
「新しく入ってくる召使いに、いつもこうやって指導しているの?」
「するわけないだろう。お前みたいにめちゃくちゃな新人ははじめてだ」

 う。そうなんだ。マティルダは始めから上手にできたのかな。それにライサも。23はライサとはどんなことを話したんだろう。

 今日、23の指導の甲斐あってすっかり上手になったベッドメイキングをしながら考えていたのはライサのことだった。マイアはライサに一度も逢ったことがなかった。マリアが「いつか引き合わせるわ」と言っていたが、それは実現しなかった。ライサは二ヶ月働くと一週間帰れるのだと話していたという。「ドラガォンの館」と就労契約を結んだ時に、マイアもメネゼスから同じ事を言われていた。実際に、同僚たちは順番に休暇を取っていて、間もなくアマリアが出かけるところだった。

 ライサが休暇で戻ってきた時に、あえてマイアと逢いたがらなかったことの理由は想像できる。マリアは「お館であったことは一切話しちゃいけないって何も話してくれない」と言っていた。誓約に縛られて何も言わないつもりだったのだろう。でも、わざわざ引き合わされた金の腕輪をした娘に、黙りを決め込むのは難しい。だからライサはマリアの提案を断ったのだろう。

 ライサが最後に休暇で戻ってきたのは一年ほど前だった。もともと休暇以外でライサと連絡を取ることは不可能だったし、次にいつ帰ってくるという約束をして「ドラガォンの館」ヘと戻っていったわけではない。そうであっても一年も音沙汰がないのにマリアと家族に心配するなというのも無理な話だろう。帰って来ない理由を聞くために館に連絡しても「お話しすることはありません」と言われるだけだった。

 そのうちに「ドラガォンの館」が再び使用人を探しているという話が耳に入ってきた。マリアは銀行に勤めているのだが、それでもとにかく応募しようとした。けれど、ライサの推薦状を書いてくれたホームドクターに、私にも推薦状を書いてほしいと掛け合ったところ、即座に断られた。
「あそこは腕輪をしていることが就職の最低条件なんだよ」

 その話をマリアから聞いたマイアは自分の腕輪を見た。そしてマリアに言ったのだ。
「じゃあ、私が応募する。腕輪しているもの」

 23は「ライサのことをおおっぴらに嗅ぎ回るな」とマイアに忠告した。はじめはそれしか言ってくれなかったが、一昨日再び訊いたら、ライサがここで働いていたことはあっさりと認めた。いつまでここにいたのかとなおも問いつめると「一年くらい前だ」と答えた。今はどこにいるのかと訊くと「俺が答えると思っているのか」と訊き返された。思ってるから訊いているんだけれどな。

 ベッドメイキングが終わり、掃除機をかけ、バスルームもきれいにした。もともと散らかっていないから楽だとはいえ、やはり慣れたのだ。ずっと早く、上手に掃除ができるようになっていた。少しでも上手になると、23はきちんと褒めてくれた。それが嬉しくてマイアは言われたことをこなそうと努力した。一人ではこんなに早くいろいろなことが出来るようにならなかった。

 取り替えて洗濯室へと持っていくはずのシーツを抱えたマイアを24が呼び止めた。
「駒鳥の羽ばたきに関する詩を作った所なんだ。朗読するから聴かないか」

 またか。マイアは困ったなと思った。24の作る詩は前衛的すぎて、どう感想を述べていいのかわからないのだ。しかも、詩の話をしていたはずなのに、いつの間にか話題が服装のことに移っていたり、デザイン自慢にすり替わっていたりするのだ。しかし、24の仕事であるデザインと来たら、見事なまでに個性がない。つまり「インファンテは名をなすような仕事はしてはならない」と23の言っていた条件を立派に具現しているのだが、口が裂けてもそんなことはいえない。

 それにもましてマイアが苦手なのは、24がドン・アルフォンソや23の容姿を馬鹿にすることだった。ドン・アルフォンソは太っているけれど、心臓が悪くてスポーツはできないからだし、23はマイアにはちっとも醜くなかった。むしろ自分が美しいと言われたことがほとんどなかったために、美貌を鼻にかけている24に反感を持った。相槌は死んでも打ちたくないけれど、かといって反論するのも面倒だった。なんといっても、24もまたご主人様なのだから。

 そんなわけで、彼女は24が苦手になっていた。アマリアやマティルダのように上手にかわすことができなくて、マイアが戸惑っていると、そこに彼女がいるのを察知した23が「フェレイラ!」と怒りぎみに工房から上がってきた。

「あ、メウ・セニョール、なんでしょうか」
「なんだ、24と話をしているのか。失礼。終わったらこっちにも寄れ。いう事がある」
そういって、三階に上がっていってしまった。

「すみません、メウ・セニョール。またお小言を頂戴するみたいです。ちょっと行ってきます」
逃げだす口実を見つけたマイアはこれ幸いと24に言い訳をした。彼は肩をすくめた。
「君も大変だね、新人ちゃん。いいよ、行っておいで」

 23のところに入っていき、恐る恐る三階の踊り場から寝室を覗き込むと、昨日マイアがアイロンがけをした白いシャツを二枚、両手にもって仁王立ちしていた。
「なんだこのアイロンがけは。変な皺がいっぱいついているじゃないか」

 マイアは口を尖らせた。
「だって。こんなに襞のたくさんあるシャツ、アイロン掛けたことないんだもの」

 23は呆れた顔をした。それからマイアの抱えているシーツの山を眺めて言った。
「それをさっさと洗濯室に持っていけ。それから、そっちの仕事が終わったら、アイロン台を持ってここにもう一度来い」
「え?」
「こんなひどいアイロン掛けを見たら母は卒倒するぞ。特訓してやる」

 洗濯室に行って、その事を言うとその場にいたクリスティーナとジョアンは顔を見合わせてから、どっと笑った。
「ここはもういいから、すぐにアイロン台を持っていってらっしゃい」
クリスティーナは目元の涙を拭っている。そんなに笑わなくても……。そこまでひどいのかなあ、マイアは首を傾げつつ、アイロン台とアイロンを抱えて、再び23の居住区に行った。

「霧吹きはどこだ」
「あ。忘れてきちゃった」
「しょうがないな」
23は工房に行って、霧吹きを調達してきた。

「やってみろ」
「うん」

 マイアは、シャツをアイロン台に載せて霧を吹きかけた。
「近すぎる。一部分だけびしょ濡れだ」
「あ、そうか」

「ちょっと待て。いきなり身頃から掛けるヤツがあるか」
はじめから指摘が相次ぐ。
「どこから掛けるの?」
「細かいところから。襟や袖口だ」

 23は一つひとつ丁寧に説明した。襟を裏返し、端を引っ張りながらアイロンを滑らせる。皺の伸びた状態で表に返して、再び霧吹きで湿らせてから表の襟にアイロンを掛けると、ねじれもなく綺麗になる。袖口も同じ要領だが、マイアがボタンをかけたまま掛けようとしたのでまた止められた。

 袖を掛けることになった。裏返し、袖下の縫い目を両手で押さえてから伸ばし、手で皺を伸ばす。袖口から肩の方向にゆっくりとかけていく。
「そうだ。少し先を浮かせるように。アイロンは揺らさないでまっすぐに動かせ。おい、左できちんと押さえないと」

 突然、23はマイアの後ろに回った。左手で彼女の左手に重ねて肩山をきちんと押さえさせ、アイロンを誘導するように柄を持つマイアの右手にがっちりとした手のひらを重ねた。
「ほら、この左手でわずかに引っ張るようにして持つんだ」
声はマイアの右耳のすぐ後ろからした。背中は彼には触れていないのにわずかに暖かさを感じた。靴の型を取ってもらった時と同じだった。彼は淡々と説明をしているだけなのに、マイアは心臓が飛び出しそうなほど強い鼓動を感じている。まるで後ろから抱きすくめられているみたいだ。左手首の二つの腕輪が触れて小さい音がした。

 アイロンどころではなくなってしまい、上手く力が入らない。アイロンをほとんど動かしていないのを感じ取った23はため息をついた。
「お前、ちゃんと覚える氣はあるのか」
「あ、ごめんなさい」
マイアは恥じた。わざわざ教えてくれているのに、ドキドキしている場合じゃなかった。ポンポン言われるのはほんの少し腹立たしいが、23の言っていることは一々理にかなっている。

 午後にバックヤードに休憩にいくと、アマリアとマティルダはマイアが23にアイロンの特訓を受けたことをもう知っていた。クリスティーナが腹を抱えながら話してくれたのだと言う。
「で、どうだった?」
マティルダは絞りたてのオレンジジュースを飲みながら訊いた。

「あ、うん。みっちり絞られた。教えてもらった通りにやったら、嘘みたいに綺麗に仕上がったよ」
二人は顔を見合わせてから笑った。それからアマリアが不思議そうに言った。
「あの方はこれまで誰もそばに近づけなかったし、掃除やアイロンのことで誰かに小言を言うなんて事はほとんどなかったのにね」
「私、そんなに役立たずなんだ」

「そんなことないけれど、あの方が叱ってくださるからあなたは助かっているのよ」
「え? なんで?」
「だって、私たちのときは、ジョアナやメネゼスさんからこっぴどく叱られて、よく泣かされたもの。誰も手取り足取り教えてくれなかったから何度も怒られたし」
マティルダがぺろっと舌を出した。

 そういえば、ジョアナやメネゼスに叱られたことはまだなかったし、ドンナ・マヌエラの叱責を受けたこともなかった。23に言われっぱなしのマイアを見て、かなり手加減してくれているようだった。23に叱られるのがあまり嫌でなくなっていることは、アマリアたちには言えなかった。
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Tag : 小説 連載小説 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

【小説】パリ、イス、ウィーン、ニライカナイ、北海道、そして

50000Hit記念リクエスト掌編の第五弾です。ポール・ブリッツさんからいただいたお題は「パリ、イス、ウィーン、ニライカナイ、北海道、そして」でした。そして本当にこういうタイトルの作品も書いていただきました。ありがとうございます。

 ポールさんが書いてくださった作品: パリ、イス、ウィーン、ニライカナイ、北海道、そして

最初にタイトルを見たときは目を疑いました。「そ、そんなリクエスト、するか?」と。この地名は、常連の方はおわかりでしょうが、これまでにこの企画でいただいた地名を全部つっこんだものです。こういうタイトルで小説を書けと。しかも、ご本人がもう書いていらっしゃるから「じゃあ、自分で書いてみなよ」とは言えない(笑)もっとも、これは暴球攻撃というよりは、書けると思っているからしてくださったリクエストでしょうから、そのありがたいご評価に感謝するとともに「こんなお題も受付るらしいよ、だから戸惑っている人もどんどんリクエストしようね」という、援護射撃なのだと理解しております。

で、このお題ですので、質よりも返球の速さで行くことにしました。内容はどうしようもないので、一企画に一回しか使えない禁じ手を使ってあります。ですから、よい子のみなさんは、同じようなリクエストをしないでくださいますよう、お願いいたします。

なお、出てくるキャラは、以下の小説からの流用です。読まなくても意味は通じますが、読みたい方はのためにリンクをつけておきます。(ちなみに、ここのヤオトメ・ユウはフィクションのキャラです)


 教授の羨む優雅な午後
 ヨコハマの奇妙な午後

 50000Hit記念リクエストのご案内
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パリ、イス、ウィーン、ニライカナイ、北海道、そして

 チューリヒには霧が重く垂れ込めていたが、グラウビュンデン州にさしかかったあたりから真っ青な空が広がった。夏時間が終わったばかりだが、すでに初雪が降ったライン河沿いの高速道路を、華麗な運転テクニックを駆使しながら黒いアウディが南に向かって走っていた。この場合の華麗なテクニックというのは、どんなカーブや上り坂でも法定許容限度分きっちり超過したスピードで走るということだ。クリストフ・ヒルシュベルガー教授ほどの人物ともなると、スピード違反の証拠写真を撮られるなどというヘマはしない。

 ヒルシュベルガー教授は、チューリヒの大学で生理学の教鞭をとる重鎮で、今年55歳になる。若いころはさぞ美青年であったであろうと思える端正な横顔だが、太い眉に銀のラウンド髭を蓄えた姿は厳格そのもので取っ付きにくい。物言いも手厳しいため、大学では近寄りがたい人物として通っている。実際には、どちらかというと変わり者であり、型破りな言動に面食らうことはあるが、さほど怖い人物ではない。

「そうやって、横でぶつぶつ言うのはやめてくれないか」
助手席に座って窓の外を見ていた秘書であるヤオトメ・ユウは教授の批難でようやく自分が日本語のひとり言を音に出していたことに氣づいた。
「申しわけありません」

「また例のくだらない趣味かね」
「先生。くだらないとおっしゃるならば、一々私の作品をドイツ語に訳させて聞きたがるのをやめていただけませんか」
「私はあなたの雇い主として、あなたの公私にわたる思想活動を把握しておく必要があるのだ。それに、その趣味を通してあなたが社会や人生についてどのような考え方を持っているのかわかり、大変興味深い」

 ユウはため息をもらした。彼女は結婚してスイスに移住し、二年ほど前からヒルシュベルガー教授の個人秘書を勤めているのだが、日本にいた頃から休まずに小説を書き続けていた。現在の主な活動はブログを通してで、自分の自由時間を使っての執筆なので、教授にあれこれ言われる筋合いは全くないのだが、日本出張で彼に小説執筆のことが知れてしまって以来、作品を発表する度に彼のチェックが入り、辟易していた。

「前任のマリア・シュタイナーさんは青十字の広報誌でコラムを書いていらっしゃいますが、送ってこられる広報誌に目を通されることはないじゃありませんか」
ユウが反論すると、教授はユウの方を見てニッコリと笑った。
「禁酒団体にこの私が興味を持つと思うかね」
「そりゃ、思いませんけれど……」

 クリストフ・ヒルシュベルガー教授の行動規範が、見かけや態度とは大きく異なり、彼の個人的興味に大きく左右されていることは、彼と近しく接したことのある者ならば誰でも知っていた。とはいえ、彼がユウに対して女性としての強い興味を抱いているわけではないことははっきりしていた。彼女が日本人であることや日本文化に対してでもない。彼が固執しているのは、日本の食文化であった。

 今日、二人が向かっている先は、生理学の研究とは何の関係もなかった。アルプスを越えたイタリア側に新しいレストランができて、そこでコウベ・ビーフを食べさせてくれるという情報をキャッチした教授が、全ての予定をキャンセルして向かっているのだ。

「それで、今度は何を書くのに手間取っているのかね」
くだらないという割に、教授は出来上がった作品だけでなく、ユウの構想段階の作品に対するチェックも怠らない。彼女は厳しいコメントに滅入るのであまり話したくないのだが、時おり鋭いヒントをくれることもあるので、訊かれた時には正直に話すことにしていた。

「地名が入ったタイトルの作品を募集したんです。色々な方からリクエストを一時にいただいたんですが、どれをどんな作品にするか決めなくちゃいけなくて」
「どの地名なのか」

「ウィーン、パリ ― イス、北海道、それにニライカナイの四つです」
「北海道は日本の北にある島だったな。最後のはなんだね」
「あ、沖縄の伝承にある異世界の名前です」

「ふむ。ウィーンと言えばトルテにコーヒー、それから『フィグルミュラー』のカツレツ、パリはいわゆるフランス料理もいいが、焼き栗が美味しい季節だな。北海道と言ったら、確か海の幸が……」
「先生。私はグルメ記事を書くわけではないんですが」
「まあ、いいではないか。ちなみに沖縄では何が食べられるのかね」

 この人はいつもこうなんだよなあ。ユウは胸の内でつぶやいた。
「なんでしょう。亜熱帯性の食材を利用した琉球料理ですね。すぐに思い浮かぶのは、豚肉を使ったソーキそばや、ちょっと苦い野菜を使ったゴーヤチャンプルーでしょうか。健康にいいらしくて沖縄では長寿の方も多いんですよ」

 教授は苦いと聞いて眉をひそめた。
「健康にいい料理か。私はどちらかというと……」
「わかっています。でも、美味しいと思いますよ。それに米軍基地が多い関係で、ステーキを食べさせるレストランが多いように思います」

「甘いものは」
「パッと思いだすのは、サーターアンダーギーというドーナツみたいなお菓子やちんすこうというクッキーのような味でしょうか。パイナップルも穫れるので、それをドライフルーツに加工したものも美味しいですね」

「ふむ。では、一度沖縄に出張するのも悪くないな」
そういう話だったかしら。ユウは首を傾げた。

「で、どんな話にするつもりかね」
教授が90度のカーブなのに全くスピードを落とさずにに華麗にターンしながら訊いた。あら、本題を憶えていたんだわ、とユウは思った。

「ええ、ウィーンの話は、レハールの『金と銀』とこの季節の色彩を絡めた話にしようと思っているんです」
「ふむ。グルメはどうするんだ」
「え? 入れなきゃダメですか」
「入れないのか?」

 そういわれると入れないわけにはいかないような……。
「では、カフェでケーキセットでも食べさせますか」
「舞台をカフェにしたらどうかね」
「はあ」

 教授はユウの冷たい視線にまったく構わずに続けた。
「イスは、ブルターニュ伝承の沈んだ街だな。あの辺りにはそば粉のクレープとシードルが……」
「先生。それはモン・サン・ミッシェルを舞台にした小説の時にもう書きました」
「ふむ。そうだったな。では、舞台はパリにするのが一番か」

 この人、意外と協力的だな、ユウは感心した。本当は、小説自分が書きたいんじゃないの? ユウの想いには構わず教授は続けた。

「北海道は、絶対にグルメを入れなさい」
「はあ。海鮮丼でも入れますか。海の親子丼といって、鮭といくらがたっぷり載っているご飯もあるんですよね。新鮮だから美味しいだろうなあ」
「取材旅行に行きたいんじゃないかね。なんなら、同行しようか」
「先生、つい先日、休暇で横浜に行ったばかりじゃないですか」

 教授は反省した様子もなく肩をすくめた。絶対この人、北海道でのシンポジウムはないかと騒ぎだすに違いない。ユウは思ったが、大学がまたしても旅費を出してくれるというならば、同行するのにやぶさかではなかった。

「ニライカナイはどうしましょうか」
自分の食欲を満たしてくれる可能性のない場所には全く興味のない教授はにべもなく言った。
「しらんね。架空の土地の話なら、SFでも書くがいい」
あ、そうか。それは考えてもいなかった。この調子なら、それぞれ何か書けそう。

「ところで、その地名のリクエストは、もう締め切ったのかね」
「いえ、まだですが何故でしょう」

「なに、私も一つリクエストしてみようかと思って」
「先生。くだらない趣味とおっしゃったのをお忘れですか」
「いや、忘れてはいないし、くだらないと思うが、いい氣分転換になるのでね」
そうですか。ひどい言われようだけれど、ここまで協力してもらっては断りにくいじゃない。ユウはぶつぶつと文句を言った。

「そして、どこの地名にしようかね。ものすごく書きにくい難しい地名がいいのだが……」
「そういう嫌がらせはやめてください」
「何故だ。こういう企画は、難しいものをこなしてこそ腕が上がるんだ。つべこべ言うのはやめなさい」
「う……。おっしゃる通りです。それで、どの地名になさるのですか」

「それは、コウベ・ビーフを堪能しながら考えよう。ほら、もうそろそろ到着だ。すっかりお腹がすいてしまったよ。朝一の講義も休講にすべきだったかね」
平然と言い放つヒルシュベルガー教授にうんざりしながら、ユウは窓の外を見やった。その途端に、お腹がキュルルと鳴った。

(初出:2014年10月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

所変われば……こんなカレー

小説連投もひと息ついた……といっても明後日も小説なんですけれどね(しかも、新たな難題もいただいていたりして)。で、今日はちょっとしたグルメネタでございます。

Riz Casimir

日本のカレーも、本来のインドカレーとは違う食べ物だから、あれこれ言うのもなんですが。

これは「ライス・カシミール」というスイスでよく出てくるカレーです。ご飯の上に、チキンのカレーソースと少なくともパイナップル、もうちょっと豪華だと色々なフルーツが載っています。

日本のカレーソースよりもかなり黄色いですよね。そして、このカレーが、全然辛くないんです。日本のお子様用カレーよりも辛くない。カレーを食べているという感じは全然しません。

でも、私は実は、インドカレーやタイカレーの中辛も食べられないのです。日本のカレーで言うと中辛が限界。だから、スイスで食べるカレー風味シチューみたいな「ライス・カシミール」でもOK。

ちなみに、私が自宅でカレーを作るときは、カレー・ルーが近所では買えないので、スパイスを炒める所から始めます。スパイスは、インド人にいただいた特別スパイスミックス(死ぬほど辛いのでたくさんは使えない)とガラム・マサラ、それにマドラス風カレー粉を私の勘でミックスしたもの。おいしいカレーを作る秘訣は、ニンニク・生姜・スパイスをものすごい量の油で炒める所にあります。油の量は半カップかそれ以上ですかね。それからタマネギ、塩、具材、トマト缶の順に入れていきます。水分が少ないときはスープも投入。一手間かかりますが、美味しいですよ。
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Posted by 八少女 夕

【小説】終焉の予感 — ニライカナイ

50000Hit記念リクエスト掌編の第四弾です。山西左紀さんからいただいたお題は「ニライカナイ」でした。そして素敵な作品も書いていただきました。ありがとうございます。

 左紀さんが書いてくださった作品: ニライカナイ

で、私の作品ですが。情けないことに「ニライカナイ」って何? という所から出発しました。なんと、沖縄にそんな伝承があったのですね。全く知りませんでした。お返しは、サキさんの小説っぽくしたいなと思ったのです。といっても私の書くものなので似ても似つかぬものになっちゃうことは始めからわかっていましたが。私の小説群の中でSFっぽいのはこれしかありません。以前書いた『終焉の予感』。あれの続きではなくて前日譚を書いてみました。「ニライカナイ」を使ったのは新しい設定ですが、キャラや設定は既に頭の中で固まっていたもの。上手く融合できたかな。

あ、現在いただいている50000Hitリクエストはこれで全て書きましたが、引き続き無期限で受け付けています。よかったらいつでもどうぞ!


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終焉の予感 — ニライカナイ

 暗い店内を、ヴィクトールは見回した。牛脂灯か。こういう地の果てには、まだ原始的なものが残っていたんだな。この街から、いや、全世界から、電灯が消えて半年が経っていた。

 半年前、直径300m程度の隕石が、海洋に浮かぶ島を直撃した。その衝撃は惑星規模の厄災を引き起こした。地震、津波、熱波による火事、粉塵による寒冷化の被害もひどかったが、人類にとって壊滅的な被害を及ぼしたのは、その衝突が引き起こした強い電磁パルスだった。全ての電子回路と半導体が損傷を受けて使えなくなった。携帯電話、コンピュータ、車、ビル、工場、交通機関、全てが麻痺した。発電所は停まり、浄水施設も機能停止した。

 各国、各大陸の政府も正常に機能しなくなった。最優先で非常用電源を用い、人類がじきに迎えるであろう次なる厄災に備えるべく手を打っているが、テレビもラジオも壊れ新聞も配達されなくなったため人びとの耳には噂話しか入ってこなかった。

 ヴィクトールは、その中ではもっとも多く情報を得ている人間の一人だった。職業はと訊かれれば「冒険家」と答えるのが常のこの男は、未開の地や密林で秘宝を見つける「探し屋」として名をあげていた。この数年間彼が取り組んでいたプロジェクトは伝説の永久エネルギー源、コードネーム《聖杯》を発見して持ち帰ることだった。

 《聖杯》は大陸を覆うほどの超エネルギーシェルターを動かすことのできる、理論的には唯一のエネルギー源で、それを狙っているのは彼の故郷であり雇い主でもある《旧大陸》だけではなかった。

 《旧大陸》《北大陸》《南大陸》《中大陸》《黒大陸》。人口爆発が、統制なくしては手に負えなくなることがはっきりした百年ほど前より、世界は五つの大陸に分かれ統括されるようになった。特別な許可証を持たない人間は、他の大陸へ渡航することすらも許されなかった。ヴィクトールがこの《南大陸》に入る許可証を得るのも大変だった。普段は許可証ぐらい自分のつてでなんとかするのだが、今回だけは依頼人経由で入手してもらう他はなかった。誰もが《聖杯》を狙っている。妨害がひどいということはすなわち、《聖杯》を手に入れられる可能性のある者として、彼がそれだけ知れ渡っているということだった。

 他大陸へ渡航する許可証の必要ない唯一の例外が、《コウモリ》と陰口を叩かれる《アキツシマ》の人びとだった。彼らは本来《旧大陸》に属する大きい群島に住んでいた。だが、半世紀ほど前にその島々を載せていた三つのプレートが崩壊し、全ての島が消滅した。生き残った一億一千万の難民を《旧大陸》だけで受け入れるのは不可能だったため、五大陸の合意の上、彼らだけは移動の自由が与えられ、望む大陸へと移住できるようになった。

 ヴィクトールの入ったこのバーの持ち主チバナは、《アキツシマ》だった。
「いらっしゃい」
チバナが、きたわね、という顔をした。ちょっと見ただけでは男か女かわからない妙に中性的な小男だ。いつも赤かピンクに近い色のものを身につけているので余計そう感じるのかもしれない。

 まっすぐに彼の前のカウンター席に座った。
「いつものテキーラを」
「あんたのためにとっておいたよ。あれも、もうなかなか手に入らなくなってね」
「工場が放棄されたのか」
「途中に電解プロセスが必要なんだって」

 チバナは氷の入っていないテキーラを彼の前に置いた。冷凍庫が動くはずはないのだから文句を言う客は居なかった。ヴィクトールもライムが入っていることに感謝しながら飲んだ。

「それで」
「来ているよ」
「本物なのか」
「どういうこと?」
「本物のアダシノ・キエなのか」
「それは、あんたがテストしてみればいいじゃない。あたしは、ここで以前に三度見ただけ。《南大陸》や《黒大陸》の連中が奪おうとしていたけれど、《北大陸》の連中が守りきっていたわ」

「護衛は」
「全滅みたいね。一人で困っている。あそこの隅よ」
チバナが目で示した奥の席をそっと見ると一人の女が寄る辺なく座っていた。ヴィクトールは思わず十字を切った。まったく場違いな女だった。密林どころか、街から一歩も出たことがないようなひ弱なタイプだ。

「あれか?」
「そうよ。見えないでしょう?」
「見えないどころか、数時間でお陀仏になっちまうんじゃないか」
「そう。肉体的なトレーニングまで手が回らなかったんでしょう」

 彼はもう少し情報を集めようとした。
「本当に一人なのか」
「当然でしょう。《北大陸》のリチャードソン総帥の秘蔵っ子で、最後の切り札よ。それが、護衛もなくあんな状態で居るんだから、本当にもう誰も残っていないのよ。でも、一人で居るのが分かるのも時間の問題ね。そうなったら、とんでもない争奪戦が始まるはずだわ」
「この世にたった一人しかいないんだからな」

 ヴィクトールの愛用の暗号解読マシーンも半年前の電磁ショックでの被害を受けた。十年以上かかけて用意したデータが全て消失し、暗号を解くのは不可能だった。それはどの「探し屋」も抱えている悩みだった。現在、暗号解読が可能なのは、外部データと電子回路を使わずに自身の脳だけで情報処理ができる特殊訓練を受けたサヴァンのみだ。アダシノ・キエの能力は、中でも群を抜いており、世界中のエージェントが欲しがっていた。彼はもう一度振り返って、店の片隅に寄る辺なく座る女を眺めた。精神的に不安定な挙動は特に見られない。人付き合いが良さそうにも見えないが。

「ところで、顔立ちから言うと、あんたと同じ《コウモリ》か?」
「さあ、どうかしら。可能性はあるわね。少なくとも遠い祖先はそうかも。名前はそうだから」
「あれは、本名なのか?」

 チバナはちらっとヴィクトールを見た。
「役所に届けられた名前という意味なら、そうなんじゃない」
「他にどんな意味があるんだ」
「帰属意識がない人間ってのはね、自分の存在そのものに違和感があるの。外側の自分と名前に嫌悪感を持ち自分だけしか知らない名前を持つことで心の平安を保とうとする者が多い。だから、あの子がアダシノ・キエ以外の本当の名前を持っていても、あたしは驚かないわ」
「あんたにも本当の名前があるのか」
「当然でしょう」

 それはなんだと訊いてみたかったが、答えないのは分かっていた。無駄な質問に使っている時間はなかった。
「このチャンスを作ってくれたあんたの狙いはなんだ」
「何を言っているのよ。あんたとあたしの仲でしょう」
「あんたが友情なんて甘い概念なんかで動くタマか」

「ふふん。分かっているでしょう。あたしにできるのは、《聖杯》がどの大陸に行くのかを正確に見極めることだけ」
「で、俺に賭けるってわけか」
「あんたが最有力なのは間違いない。でも、大穴もありえるわね。あたしは《旧大陸》と《北大陸》のどちらに行ってもいいのよ。見極めたら、そちらに行くんだから」
「たいした《コウモリ》だな」
ヴィクトールが軽蔑したように言うと、チバナは笑った。

「ニライカナイって、知っている?」
「いや。コウモリ語か?」
「イエスでもあるしノーでもあるわね。《アキツシマ》の支配民族じゃない民族の間で信じられていた場所なの。東の果て、海の底にあり、あたしたちが生まれてくる前にいたところで、死んでから帰るところ」

 彼はいつものノートブロックを取り出して、その聞いたことのない言葉を書き込んだ。ニライカナイ。
「あんたはその民族の出身なのか」
「ええ。でも、そんな区別はもう意味がないわね。わかるかしら。支配民族も被支配民族も居場所を失ったの。神々は、ニライカナイからやってきて、あたしたちに豊穣をもたらしてからまた帰って行くというけれど、かつては海と島という違いのあった双方が、今では海の底にあるの。この惑星に残された時間もわずかな今、大陸の所属も意味を失っている」

「何が言いたい」
「今のあたしはニライカナイにいるのと変わらない、死んでいるとは言わないけれど、生きる以前の状態でしょう。いくべき所に行って根を張って生きたいの。それがどこにあるのか見極めたいの」
そう言って、チバナは空になったヴィクトールのグラスをもう一度テキーラで満たした。

 ヴィクトールは立ち上がって言った。
「ようするに生き残れる場所ってことだろう。それは《旧大陸》さ。そうでなくてはならないんだ、俺にとっては。なんせ俺は《コウモリ》じゃないからな」

 店の一番奥に座っていた女は、近づいてくるヴィクトールを見て一瞬怯えた目をしたが、下唇を噛み、体を強ばらせて、まともに彼を見つめた。彼は、どっかりと彼女の前の椅子に座った。
「俺は、ヴィクトール・ベンソン。はじめまして、アダシノ・キエさん。チバナから聞いているだろう」

 キエは頷いた。
「私を《聖杯》のある神殿まで連れて行ってくれる人が居るって。あなたが《北大陸》のために働いているという証拠を見せていただけませんか」

 ヴィクトールは首を振った。
「隠してもしかたないから言うが、俺は《旧大陸》に雇われている」

 キエは眉をひそめた。
「私が協力すると思っているんですか」
「するさ」
「理由を言ってください」

 ヴィクトールはキエの瞳をじっと見つめて言った。
「あんたは一人では神殿まで辿りつくことはできない。《北大陸》のヤツでそれを助けられるヤツはいまこの辺りにはもういない。上のヤツらがそれに氣づいて、他のヤツらを送り込んでもここに到達するまで、数日から数週間かかる。その間、あんたは丸裸だ。あんた自身がよくわかっているはずだ」

 キエは眼を逸らした。彼は続けた。
「あんたのことは他の大陸のヤツら、全員が狙っている。《旧大陸》に雇われた俺以外のヤツも含めて。俺はあんたを人間的に扱い、あんたの意志を尊重するが、他のヤツがそうしてくれる可能性は低い。むしろ目的のために手段は選ばないだろう。あんたを拷問するか薬漬けにしてでも協力させようとする。いずれにしてもあんたは神殿に行くしかない。あんたが相手を出し抜いて《聖杯》を《北大陸》に持ち帰るためには、少なくとも五体満足でいなければならない。もちろん俺も簡単に渡すつもりはないが、それでも俺と行くのがあんたにとっての最良の選択だ。そうだろう」

 キエはしばらく下を向いて考えていたが、ヴィクトールのいう事がもっともだと思ったようで、頷いてからもう一度彼の顔を見た。ほとんど黒く見える瞳に強い光が灯っている。根性はありそうだ、彼は思った。

「契約条件を教えてください」
「簡単だ。俺はあんたを神殿まで連れて行く、そのために必要な全ての助力をし、あんたを守る。あんたは、ここから神殿までの間にぶつかるはずの全ての暗号を解き、神殿で《聖杯》を取り出す」

「あなたが私に危害を与えないという保証は」
「証明はできないから信じてもらうしかない。あえていうなら、こんなところで契約を持ちかけていることだ。暴力や薬物を使うなら、もうとっくに実行している。俺にはあんたと行ってもらう以外の選択肢はないし、浪費する時間もない。俺は拷問や薬には詳しくないが、人間ってものを多少はわかっている。強制したり憎みあったりするよりも、好意的な人間関係を築く方がずっとエネルギー消耗が少なく時間短縮になる。だから俺はあんたに危害を加えるよりも好意的にするんだ」

「……納得しました」
「じゃあ、念のために三つの質問で、あんたの能力をテストさせてもらう。もしあんたが詐欺師か誇大妄想狂だったと後でわかっても、やり直す時間は俺にはないんでな」
「どうぞ」

 ヴィクトールは懐からいくつかの紙片を取り出した。一枚めの紙には二つの長い文字列が書かれている。彼が携帯マシンのテスト用に用意したもので、数年の時を経て黄ばんでいた。
「この文字列は暗号化されている。下にあるのが暗号化する前の文字列で、アルゴリズムは言えない。キーを解読してほしい」

 制限時間は15分だと言おうとした時に、キエは口を開いた。
「RSA、秘密鍵はM@rga1ete2987」

 彼は動きを止めた。彼の自慢の専用マシンで二時間半かかった演算だ。彼の卒業した大学のスーパーコンピュータなら三日はかかるはずだ。
「次はこれ。前近代的なメソッドを併用してある」

 キエはじっとそれを見た。彼はメモと鉛筆を差し出したが、彼女は見ていなかった。視点が定まらなくなっている。白目が見えた。ヴィクトールが眉をひそめた。が、それは二十秒くらいのことだった。

「ヴィジュネル暗号とシーザー式の併用ね、ケチュア語の『iskay chunka hoqniyoq』は21。これをシーザー式の鍵にしたのね。元の文字列はポルトガル語で『E nem lhe digo aonde eu fui cantar』」
ありえない。俺のテストでは15時間かかったのに。

「最後は、本物の俺たちが探している古代文明の暗号だ。こっちが書いてあるのが、あんたも知っている『密林の書』の暗号ページ。それから、俺が先日奥地でみつけた礎石にあった文字列……」
そう言ってから、ヴィクトールはふと不安になった。キエの尋常ではない解読のスピードに何かのトリックがあるのではないかと疑ったのだ。どこかと秘密裡に接続していて、連絡を取りあっているのではないかと。

 紙片を見せるのをしばらくためらった。それは実際に最初の砦に行ったヴィクトールだけが持っている情報であると同時に、他の「探し屋」に対する唯一のアドバンテージだった。これを今《北大陸》に知られたら、俺にチャンスはなくなる。彼は腹の中でつぶやいた。

 彼はもう一枚の別の紙をキエに見せた。
「この文字列が鍵かどうかは、俺にはわからん。次の砦のある位置を解読できるか」

 それを見たキエは眉をひそめた。『密林の書』の方は見ようともせず口を開いた。
「正しい情報をインプットしなければ解は得られません」

「試しもしないで間違った情報だとなぜわかる」
「ニライカナイ。これは砦にあった文字列ではなくて、チバナさんに聞いた言葉でしょう」

「あいつ、あんたにもその話をしたのか?」
「いいえ。でも、私も《アキツシマ》ですから」
「そうか。すまなかった。あまりに解読が速いんで不安になったんだ。あんたは俺を信用できるか」
「わかりません。今までそういう人は一人も居ませんでした」
「そうか。それでも契約するつもりはあるか」

 キエは黒い瞳を伏せた。暗号解読よりずっと長い時間をかけていたが、やがてまた彼の目を見た。
「連れて行ってください」

 ヴィクトールは頷いて、チバナのもとに戻り、もう一つのテキーラのグラスを持って戻ってきた。グラスを重ねて彼はここ数年のもっともポピュラーな乾杯の言葉を口にした。
「《聖杯》の救いに」

 キエは同じ言葉では答えなかった。
「《聖杯》で救われるなんて信じていません」

「では、なぜ行くんだ?」
「個人的な興味です。知りたいんです」
「何を」
「これまでしてきたこと、これからすること、生まれてきたこと、生きることに価値があるのかどうか」

 彼は彼女の目を見つめ返した。
「あんたは、いや、俺たちは、きっとその答えを得るよ」

(初出:2014年10月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】君との約束 — 北海道へ行こう

50000Hit記念リクエスト掌編の第三弾です。limeさんからいただいたお題は「北海道 」でした。そして、昨日、大好きな『NAGI』漫画を発表してくださいました。ありがとうございます。(題名が同じになったのは嬉しい偶然です)

 (おまけ漫画)『NAGI』-北海道ヘ行こう-

で、私の掌編ですが。北海道を舞台に、limeさんのお好きなミステリー仕立てにしたかったんですが……ダメでした。なんといってもトリックがね……。だから、すっぱりあきらめて、紀行ものにしました。途中で出てくる若干シリアスなエピソードは、知り合いの実話から着想を得て作ったフィクションです。でも、中身はどうしてか食いしん坊になるのが私のお約束。


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君との約束 — 北海道へ行こう

 北海道二泊三日旅行をしようと思ったのは、不純な動機だった。ラーメン、ジンギスカン鍋、カニ、イクラ、ウニ、ええと、それからなんだっけ。女なんか邪魔なだけ。友人の健児と男同士でがっつり食い倒れる……予定だった。

 それなのに、なんだよ、健児のヤツ。
「いやぁ、悪い。彼女がどうしても一緒に行きたいっていうからさ」
「はじめまして~。綾です。あーやって呼んでもいいよ。よろしくね」
縦ロールに赤いリボンのツインテール、白いミニスカートとピンクのブラウス、なんだよ、可愛いじゃないか。

「ついてくるのはいいけどさ。もともと予約してあったツインの部屋を明け渡すのはいいとして、何で俺が別途シングルを予約しなきゃいけないんだよ」
「悪い。それも出したいのは山々だけどさ。俺、マジ、金欠。こいつの航空券だけでもう今月ヤバくってさ。お前は、マンション持ちで金には余裕あるじゃん」

 くそう、お前がそうやって女にうつつを抜かしている分を、俺はローンにまわしているんだよっ。それに何が「あーやと呼んでもいい」だ。ふざけんな。ニコニコ笑ってもダメだぞ。

 でも、俺は押し切られて、ホテルの件もうやむやにされて、飛行機に乗ってしまった。ムカつくことに、俺があーやの短いスカートと、そこからにょっきりでている形のいい足を堪能できたのは千歳空港までだった。俺が見過ぎたのがいけなかったのか、俺がトイレに行っている間に二人でトンズラしてしまったからだ。

 千歳空港で、いきなり一人ぼっち。消えんなら、ツイン分の金を返してくれ! 俺はガッカリした。予約したホテルへ押し掛けて行って、文句を言ってもいいけれど、そこで争ったあと、楽しい旅行ができるような氣は全然しない。いいよ、計画変更。シングルもキャンセル。一人でだって旅は楽しめるんだ。

 札幌と函館観光の予定だった。でも、計画通りに行って、あの二人とバッタリなんていやだから、どこか他に行こう。到着ロビーを見回すと、目の前にレンタカーのカウンターがあった。免許証は、財布に入っているよな……。よし、こうなったら北海道をあてもなくドライブしてやる。

 カウンターの前は空いていた。先に着いた女がいたのだが、何かを迷っているかのごとく、ちゃんとカウンターの前に立たなかった。そして、俺を見ると黙って脇にどいた。

「いらっしゃいませ」
カウンターの美人がにこやかに笑った。

「ええと、三日間、借りたいんですが」
俺は言った。予約をしていないことがわかると、美人は車種と金額を調べて一番安いコンパクトタイプの在庫を調べてくれた。
「ああ、ありました。返却はここでいいですか。札幌市内にも出来ますが」
「いや、どこに行くか決めていないんだ。でも、その日に飛行機に乗るのは間違いないから……」

 手続きを済ませ、その場にあるソファに座って車の到着を待つように言われた。ふと横を見るとさっきの女が、まだそこにいた。ジーンズにベージュのカットソー、黒い小さな革のリュック。少し茶色がかった直毛を素っ気なく後ろで結んでいる。あまり地味なのでこれまで氣がつかなかったが、さっきのあーやと変わらないくらい若いようだ。

 俺に見られていることを悟った女は、その視線を避けるかと思ったのだが、反対に意を決したように話しかけてきた。
「あの……失礼ですけれど」

「はあ」
「先ほど、カウンターで行き先が決まっていないって、おっしゃっていましたが……」
「ああ、言いましたよ」
「では、レンタカー代をお支払いしますので、私を富良野に連れて行っていただけないでしょうか」

「はあ?」 
俺は女をまじまじと見つめた。彼女は冗談を言っているようには見えなかった。なんだ、なんだ?

「あのですね。若い女性が、そんな危険なことをするのはどうかと思いますよ。俺は見知らぬ人間で、とんでもない悪人かもしれないじゃないですか」
俺が説教を始めると、彼女は項垂れた。
「そう……ですよね。おっしゃる通りだと思います。ごめんなさい」

 おっしゃる通りって、俺は悪人じゃないぜ。ちょっと悔しくなった。
「一応、事情を伺ってもいいですか」

 彼女は顔を上げた。少し明るくなった表情を見て、ドキッとした。笑うと思いのほか可愛いじゃんか。
「どうしても今日、富良野に行きたくて、発作的に飛行機に乗ってきたんです。で、ここで免許証を忘れてきたことに氣がついて」

 俺は首を傾げた。
「でも、電車やバスもありますよ」
「わかっています。でも、私の行きたい所は普通の観光地じゃないので、レンタカーでないと行けないんです」

 カウンターの美人が、車のキーを持って近づいてきた。俺はちょっとだけ考えた。断ってもいいけれど、後味悪くなるよなあ。彼女は悲しそうに目を伏せた。う~ん、しょうがないなあ。
「わかりました。じゃあ、一緒に行きましょう、富良野へ」
「本当ですか?」

「ええ。レンタカー代は折半、それと、海鮮丼の大盛りを奢ってください」
俺がそういうと、彼女は満面の笑顔を見せた。
「ありがとうございます!」

 で、俺は見知らぬ地味子ちゃんと、ドライブすることになったというわけだ。レンタカーに乗り込み、慣れないコックピットやカーナビをひと通り確認してから、シートベルトを締めてとにかく富良野に向かって走り出した。

「ところで、俺は山口正志っていうんだけれど、君は?」
「あ、すみません、名乗り忘れていました。白石千絵といいます」

 道東自動車道に入るまでに、俺たちはお互いの素性を簡単に紹介した。俺は新宿区をメインに清涼飲料水の営業をやっていることや、三鷹に住んでいること、それから悪友の健児に逐電された情けない経過などを話した。

 千絵は横浜に住んでいて、職業は看護師だと言った。それから、黒い革リュックからそっと小さい箱を取り出した。
「悩んだんです。これを渡したら、ただ悲しませるだけかもしれないって」

 俺は、何がなんだかわからなかった。道は北海道のイメージ通り簡単そうで、64キロメートル直進だというので、彼女の話を詳しく聞くことにした。

「担当していた患者さんが二週間前に亡くなりました。ちょっと難しい手術を控えて入院なさったんですけれど、手術より前に容態が急変して」
「それは……。気の毒だったね」
「とっても痛くて苦しかったはずなのに、いつも明るくて、私たち看護師にも感謝の言葉を忘れない方でした。若い魅力的な男性なのに珍しいねって、同僚の中でもとても人氣があったんです」

 う……。そういう流れか。じゃあ、この親切でポイントを稼いで仲良くなる、なんてのはダメそう。俺は心の中で落胆した。
「で?」

「その方に頼まれたんです。ダイヤモンドつきの指輪を注文してほしいって」
「え? その、つまり……」
「ええ、プロポーズ用でしょうね。ある女性の誕生日に間に合わせてほしいって言われました。内側に日付と『with love』って入れてほしいと。富良野に送り届けたいから、それも手配してほしいって。そのことは私しか知りませんでした。驚かせたいから誰にも言うなって言われていたので」

 ってことは、この子とのロマンスの話じゃないのか?
「それで?」
「彼の容態が急変して亡くなった時、私は休暇でアメリカにいたんです。戻ってきたらもうすべてが終わっていて、私はご遺族にも逢えなかったんです」

 彼女は白いリボンのかかった水色の小さな箱を取り出した。
「迷いました。事情を話してキャンセルすることもできましたし、上司に相談もできました。でも、そうなったら事務的に処理されるだけだと思ったんです。誕生日に好きな人にサプライズのプレゼントをすることが彼の最後の願いだったと思うと、どうしてもそれはできなくて……」

「で、これからそれを届けようとしている?」
「ええ、今日がその女性の誕生日なんです。ずっと悩んでいました。もともとのプランのように彼の名前で送りつけたら、オカルトかと驚くだろうなとか、私がそこまでするといろいろと勘ぐられるんじゃないかとか、これを届けてしまったらその女性は生涯この指輪の重さに縛り付けられてしまうんじゃないかとか。そして、今日になってしまったんです」

「それで、居ても立ってもいられなくなって飛行機に飛び乗っちゃったんだ」
「はい」

 お人好しにも程がある。それだけその亡くなった男がいいヤツだったのかもしれないけれど。
「俺なら、遺族に電話するか上司に言って、さっさと話を終わらせるだろうけれど、それはあくまで本人を知らないから言えることだよな。わかったよ。とにかく、一緒にそこに行こう。男連れで来たら、きっと相手は勘ぐることもないだろうから、ちょうどいいだろう?」
「どうもありがとう。本当に助かります」

 七月の北海道のドライブらしい光景がずっと続いていた。青い空、白い雲、まっすぐな道に、左右は豊かな若緑。二時間ぐらいで、富良野に着いた。
「どうする? すぐにその彼女の家を探す?」
俺が訊くと、千絵はそっと腕時計を見た。
「お昼時になっちゃいましたね。山口さん、運転してお疲れでしょう。先に休んでご飯を食べませんか?」

 俺はその心遣いにちょっと感動した。健児とあーやカップルのエゴイズムにムカついた後だったから余計そう感じたんだと思うけれど。せっかくだから、有名な『ファーム富田』の併設レストランに入ることにした。

 ラベンダーの香りが、風に乗ってふわりと漂ってくる。なんていうのか、高校の時、クラスの女の子の襟元から漂ってきた石鹸の香りにぐらりと来た、あの感覚だ。いかん、いかん。そうじゃなくて。千絵は不純な俺と違って、純粋に花畑ファームに感動していた。
「なんていい香り。あ、あちらに花畑があるんですね……」

 俺はほんの少し残念そうな千絵に言った。
「もう、ここまで来ているんだし、少し花畑を楽しんでから行ってもいいんじゃないか? 飯を食ったら、少し観て行こうよ」
彼女の顔にはぱっと笑顔が花ひらいた。
「ええ、そうですよね。七月の富良野に来るなんて、そんなにしょっちゅうあることじゃないですもの」

 フードメニューはたいしたことがなく見えた。パスタかカレーか。俺はカレーに男爵コロッケがトッピングされた一皿を選んだ。千絵は普通のカレーを頼んだ。
「げっ。このコロッケ、激ウマだよ!」
花畑併設のカフェなんて、全く期待していなかったのに、やるじゃないか、北海道。

 千絵はホッとしたように笑った。
「よかったです」
「なんで?」
「だって、山口さんの旅行を台無しにしちゃったかなって思っていたので。観光らしいこと、まだしていませんよね」

 俺は、この子はいつもこうやって他人のことばかり心配しているのかなと思った。
「そんなことないって。北海道ドライブだってしたし、富良野の花畑なんて超有名観光地に来ているんだぜ。それに、友達にトンズラされて、一人で旅していたって楽しいことないよ。こうして道連れができたのは、ありがたいと思っているよ」
「本当ですか」
「うん。だから、その、山口さんってのと、ですます調、そろそろやめてくれるとありがたいんだけれど……」

 千絵は、えっ、というように瞳を見開いたあと、少し赤くなって頷いた。

 食事の後、俺たちは花畑を散歩した。すごい光景だった。ラベンダーの明るい紫、白いかすみ草、赤いやオレンジのポピー、あと、俺は名前を知らないピンクや青い花でできた帯が、虹のように整列してはるか彼方まで続いている。ラベンダーの香りはとても強くて、くらくらしてきそうだ。真っ青な空、嬉しそうな千絵の笑顔。俺は思わず携帯を構えて、鮮やかな花畑をバックに彼女の横顔を撮った。彼女は微笑んだ。

「山口くんも、撮る?」
俺はちょっと考えてから、そこを歩いていた観光客を捕まえて、千絵とのツーショットを撮ってもらった。それでもう、旅行の元が取れたような氣がした。

 それから、車に戻って、ナビに千絵が訪ねようとしている女性の住所を登録して、しばらく走った。確かにその一帯は観光名所がなく、土地勘のない俺たちが公共交通機関だけを使って訪れるのは難しそうだった。千絵はタクシーを見て、「あれを使えばよかった」と言ったけれど、俺としては一緒に来れてよかったと思っていた。もし彼女が一人で来ていたら、行き方が難しくて立ち止まる度に、「行くべきなのだろうか」という想いに負けてしまったかもしれない。俺がそれを告げると彼女は「そうね」と頷いた。

 隣の家と一キロくらい離れている丘の上にその家はあった。樹々に囲まれたログハウス。俺は表札を確認した。上田久美子と小さく書いてあった。
「ここだろ?」

 千絵は黙って頷いた。彼女は迷っていた。俺にもわかる。誰だってこんな重いプレゼントを渡したくない。だが、俺には亡くなった男の最後の願いやまだ逢っていない女性の心情よりも、たまたまそこで働いていたためにそのすべてを抱え込んでしまったおせっかいな女の子の重荷の方が心配だった。
「行こうぜ。今行かなかったら、その指輪、お前が生涯抱えることになるんだぜ」

 俺は千絵の返事を待たずに呼び鈴を押してしまった。

「はい?」
中からきれいな女性が出てきた。俺たちを見て不思議な顔をした。そりゃそうだ、全く面識がないんだから。俺がつつくと、千絵はようやくぺこりと頭を下げた。

「はじめまして。私、横浜の○○総合病院で看護師をしている白石千絵と言います」
そう千絵が言った途端、彼女の顔はさっと曇った。千絵は早口に俺にしたのと同じ話をして、水色の箱を差し出した。久美子さんは震えながらその箱を受け取って、それから白いリボンを外した。輝くダイヤモンドと、銀色の指輪の裏側に彫られた文字を読んで、彼女の目には涙がいっぱいたまった。
「馬鹿……」

 俺は、こんな風に愛情のこもった暖かい罵倒の言葉を聞いたことがなかった。それから彼女は千絵に向かって深く深く頭を下げた。「ありがとうございました。あなたのご親切、生涯忘れません」

 俺たちは、富良野かどこかでホテルを探すと言ったのだけれど、彼女は泊めてくれると言って訊かなかった。久美子さんが富良野の名産である豚肉でステーキを焼いてくれた。とれたての野菜もやけに美味かった。俺たちは、彼女の誕生日を富良野ワインで祝った。ダイニングに笑顔の男性の写真がかかっていた。俺がそれに目をやると、千絵が頷いた。久美子さんは指輪の箱を、その写真の前に置いた。

 翌日俺たちは、久美子さんの家を後にして、美瑛に足を伸ばした。「四季彩の丘」という7ヘクタールの花畑があって、これまた絶景だった。ヒマワリ、ケイトウ、ルピナス、金魚草、百日草、ラベンダー……。地平線まで続く広大な花畑を見ていたら、千歳空港でのむしゃくしゃした氣分はもうどこにも残っていなかった。
「こりゃ、すごいや」
「本当にきれいね。ふさわしい言葉が見つからないわ」

「そうだな。ここに連れてきてくれたことに、礼を言わなくちゃな」
「やだわ。お礼を言うのはこっちよ。久美子さんの涙を見て、来て本当によかったなって思ったの。山口君が後押ししてくれなかったら、きっと私、怖じけづいて帰っていたわ。本当にありがとう」

 今日の夕方の飛行機で帰るという千絵をもう一度千歳空港に送るために、俺はまたハンドルを握った。札幌で一人でもう一泊してもよかったけれど、健司たちとばったり会うのも嫌だったので、俺も予約を変更して、千絵と一緒に帰ることにした。搭乗手続きをしていると彼女は俺の顔を覗き込んだ。

「いいの? せっかくのお休みなのに」
「いいさ、あっ!」
俺は突然思いだして、ゲートの向こうの札幌を惜しげに振り返った。

「どうしたの?」
「カニとイクラを食べ損ねた」
そういうと、千絵ははっとした。
「ごめんなさい! 海鮮丼をごちそうするの、忘れていたわ!」

 それを聞いて、俺はにやりと笑った。
「約束は約束だから、また一緒に北海道に来て、ごちそうしてもらわなきゃな」

 千絵は、まあ、という顔をしたが、すぐにニッコリと笑って「そうするわね」と答えた。俺は腹の中でガッポーズをした。

(初出:2014年10月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 Paris - Ker Is

50000Hit記念リクエスト掌編の第二弾です。ウゾさんからいただいたお題は「パリ - イス 」でした。素敵な作品とも、ありがとうございます。

 ウゾさんが書いてくださった作品: パリ - イス

で、これまた難しいお題でした。題名指定って、単なるテーマ指定と違って、ものすごく大変なことが分かりました。二度とやらないと思います。

「パリ 椅子」でギャグにしてもよかったのですが、あえていただいたウゾさんの作品に寄せて、同じケルトの伝説イースを持ってきました。でも、同じものを書いてもしょうがないので、困ったときの「大道芸人たち」(しょーがないなあ……)本編が始まる数年前のお話で、あの人が登場です。パリだから。


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大道芸人たち Artistas callejeros 番外編
Paris - Ker Is


 男たちと女たちの妖しい上目遣いが紫とピンクのライトの光に染まっていた。肩や足が露出している女たちですら、その熱氣に喘いでいる。スーツを着こなした男たちは懐から白いハンカチを取り出して、時おり汗を拭わねばならなかった。

 週末でもないのにそのクラブは満員で、お互いの声がよく聴き取れないほどに騒がしかった。テーブルに置かれたカクテルグラスに注がれたギムレットが、ざわめきで揺れていた。この店は、パリ、モンマルトルにある高級クラブの中でも特に敷居が高く、団体の観光客などは一切入れない。

 レネ・ロウレンヴィルのようなしがない貧乏人がこの場にいるのは、もちろん仕事でだった。彼は駆け出しの手品師で、故郷のアヴィニヨンから出てきてからまだ一年も経っていなかった。普段は観光客の多い有名キャバレーの隣のクラブで前座を務めているのだが、今夜はこのクラブのマジシャンが高熱を出したというので、代打に送り込まれたのだ。

「こっちの舞台の前座はどうでもいいが、あっちに穴をあけるわけにはいかないからな」
オーナーは髭をねじった。
「そういう高級クラブでは、どんな手品が観客受けするんでしょうか」
レネはおどおど訊ねた。

 オーナーはナーバスになったレネを笑った。
「何だっていいんだよ。あそこの客は手品なんかまともに見ちゃいねえ。ビジネスをしているか、ラリっているか、それとも女を口説いているかだ。とくに《海の瞳のブリジット》を」

 オーナーの言葉は正しかった。レネの演技はおざなりな拍手で迎えられ、得意のリング演技は私語に邪魔された。観客の関心のない様子には落胆させられたが、退場のみやたらと大きな拍手をもらった。演技に集中していたレネですら、その時の人びとの興味の中心がどこにあるのかがわかった。舞台と反対側の奥に置かれたVIP用ソファーに案内された青いワンピースドレスの女性だった。

 ああ、では、あれが《海の瞳のブリジット》なんだ。数週間前に突然現れたという、パリ中の若い御曹司や成金たちが競って愛を求めている謎の美女。金箔入りのシャンペンを浴びるように飲み、プレゼントの宝石で身動きが取れないほどで、しかも、次々と求婚者を袖にして絶望の縁に追いやっているとオーナーが話していた。

* * *


 ブリジットは、膝丈ドレスの過剰なフリルを払ってソファーで足を組みなおした。それは少しずつ彩度の異なる青いオーガンジーを重ねた繊細なオーダーメードで、とくにマーメイド部分のフリルはデザイナーが三日もかけて何度もやり直させたこだわりの細部だったのだが、彼女は自分が美しく見えさえすれば、デザイナーや針子の努力などはどうでもよかった。

 彼女の周りには、その金糸のごとく光る豊かな髪に触れ、その青く輝く瞳を自分に向けさせようと、多くの男たちが面白おかしい話や、長く退屈な家系の話、それに金鉱山を買い取った話などをしていた。彼女は艶やかに笑って、一人一人を品定めしていた。仕事を終えたレネはその噂に違わぬ艶やかな様子に心奪われて、礼儀も忘れて近くへと歩み寄っていった。

 あら、見かけない顔ね。ああ、さっき手品をしていた芸人ね。どうりで黒いスーツがまったく似合っていないこと。でも、退屈しのぎにはいいかも。彼女はニッコリと笑いかけた。
「こっちにいらっしゃいよ、手品師さん。お仕事が終わったなら、ここで私を少し楽しませて」

 レネは、顔を赤らめてブリジットのソファの前にやってきた。新しいライバルにはなりえないと判断した男たちは、手足がひょろ長くもじゃもじゃ頭の手品師のことをあからさまに笑った。

 手品の用具は舞台裏に置いてきてしまったので、レネは常に内ポケットに入っているタロットカードを取り出した。レネが誰かを驚嘆させることのできるたった一つの特技、それがタロットカードによる占いだった。華麗な手さばきでカードを切る。右の手から左の手に移す時に、カードは一枚ずつ弧を描くように空を飛んだ。それがとても見事だったので、ブリジットの青い瞳は初めて感嘆に輝いた。

 レネが扇のように開いたカードの群れを彼女に差し出すと、男たちがどよめいた。不吉な予感がした。
「いけない、ブリジット……」

「何がいけないの。たかがカードじゃない」
「いや、そうだが……確かに、そうだが……」

 海のように青いドレスを纏い、黄金の髪を王冠のように戴いた美女は、挑むような目つきでカードに手を出した。銀色のマニキュアが震えている。レネは、自分でもいったい何が起こっているのかわからなかった。このクラブは暑すぎる。息苦しい。

「きゃあ!」
彼女はカードを投げ出した。「塔」のカードを。塔には、天からの稲妻があたり、二人の人間が落とされている。レネは彼女が「たかがカード」と言ったわりに、恐ろしく動揺しているのを不思議に思いながら、柔らかく不安を取り除くような解釈を口にしようとした。本当は、大アルカナカードの中でもっとも不吉なカードであるけれど。

 だが、ブリジットも取り巻きの男たちも、レネを見ていなかった。その後ろにいつの間にか立っていた一人の背の高い男に畏怖のまなざしを向けていた。

「ゼパル……。どうしてここに」
ブリジットが震えていた。レネは一歩退き、ゼパルと呼ばれた男をよく見た。背の高い男は撫で付けた漆黒の髪と暗く鋭い光を放つ瞳を持ち、黒いあごひげを蓄えていた。真っ赤な三揃えの上から真紅のマントを羽織っていた。先の尖った赤いエナメル質の靴を履いている。そして、その姿なのに、この熱氣に汗一つかかずに背筋を伸ばして立ち、ブリジットを見据えて低く言葉を発した。

「実にあなたらしいことだ。享楽を愛する淫らな人よ。だが、ここはあなたのための都ではない。迎えにきました」
「いやよ。私があんな所に戻ると思って?」
「それでも、あそこはあなたのために存在する城です。私はあなたの番人だ。どこへ逃げても地の果てまで追いかけて、あなたを連れ戻しましょう」

 レネはこの美しい女性は、どこか外国の囚われの姫君なのかと考えた。映画「ローマの休日」を地でいくように、わずかな自由を楽しんでいる所なのかと。その一方で、記憶の奥底で「これは知っている」と囁くものがあった。なんだったかな……。

「あっ」
レネは思い至った。全身赤い服を纏った男に心を奪われて水門の鍵を渡してしまった王女……。ブルターニュにあったという伝説の都イースには、夜な夜な貴公子たちと愛を交わす美しい王女がいた。そして、その都は神の怒りに触れて、いつまでも海の底に沈んでいるという。

「お前は誰だ! ブリジットは嫌だと言っているじゃないか」
取り巻きの男たちがいきり立ったが、赤装束の男は微動だにしなかった。レネはぞっとした。伝説での赤い服を来た貴公子は悪魔が化けていたから。いや、待てよ。あれはあくまで伝承だから、二十一世紀のパリで怯えることはないかな……。でも、これからケンカになるかもしれないから、ちょっと離れておこうかな……。

 巻き込まれる前に、愛用のカードを回収して去ろうとすると、「塔」のカードに目をやった真紅のゼパルは口を開いた。

「そう、かつて、悪徳の都は崩壊し、大きな災害が押し寄せた。ところで、人類は歴史に何かを学ぶことができたと思うか」
自分に向かって話しかけられていることを感じたレネは不安げに男を見上げた。彼はレネを見ておらず、酒に酔い、妖しげな薬剤を用い、淫らに騒ぐクラブの客たちを見回していた。それは、確かにヨハネ黙示録に描かれた滅ぼされるべき淫蕩のバビロンを彷彿とさせる風景ではあった。

 レネは人類とパリを救わねばならないような氣持になっておずおずと答えた。
「ここは、ちょっと騒がしいですが、パン屋は早起きをしておいしいパンを焼いていますし、僕の生家では、両親が心を込めて葡萄を作っていますよ。それに、教会にちゃんと通っている人も多いですし……」

 男はレネが自分を、最後の審判を下す恐ろしい天の使いか、イースを海の底に沈めた悪魔だと思っていると悟ったのだろう。思わせぶりに、にやっと笑った。それからおもむろに、ブリジットの方に手を伸ばすと、嫌がる彼女を軽々と肩の上に載せ、唖然とする人びとの間を巧妙にすり抜けて去っていった。

 取り巻きの男たちが、騎士道精神を発揮して真紅の男と抱えられた姫を追うとしたが、クラブの人混みに遮られてままならなかった。そして、男たちがクラブのドアから出ると、どういうわけか二人の姿は影も形もなかった。

* * *


 レネが、そのクラブで仕事をしたのはその一晩だけだったので、《海の瞳のブリジット》がその後どうなったのかはわからなかった。オーナーによると、あれから二度と現れていないそうだ。
「ったく、いい客寄せになったのにな。婚約者かなんかに見つかって連れ戻されたんだろうか」

 そうなのかもしれない。だがレネは、まだあの二人がケルトの異世界からやってきたとのではないかと疑っていた。伝説のイースの王女ダユはケルトの女神ダヌと同一視されているが、そのダヌと女神ブリギットも同一視されている。名前までもケルトっぽいんだよなあ。赤い悪魔、天の使い魔ゼパルが、快楽と淫蕩に満ちたパリの街に警告を与えにきたのではないかな。

 とはいえ、その街パリは、レネにとって日々のパン代を稼ぐ職場だった。つべこべ言っている余裕はなかった。ああ、神様。もしパリを沈めてイースを甦させるおつもりなら、もうしばらく、つまり、あと百年くらいお待ちください。レネは小さくつぶやくと、モンマルトルの派手なネオン街をもう一度見回した。

Pa vo beuzet Paris
Ec’h adsavo Ker Is

パリが海に飲み込まれるときは
イースの街が再び浮び上がるであろう


 
(初出:2014年10月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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今回のBGMというわけではないのですが、イースの伝説を下敷きにしたと言われているドビュッシーの「沈める大聖堂」です。海の底に沈む大聖堂では、誰もちゃんとした答唱をしないために終わらせることのできないミサが延々と続いているそうです。


Debussy: Préludes I - 10. La cathédrale engloutie (1909-1910)
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Posted by 八少女 夕

黄色い秋

前の記事が、50000Hit記念にいただいたリクエスト小説の第一弾でしたが、明日から二日ごとに、引き続き第四弾まで連投になります。(四つめは、まだ完成していないので間を空ける可能性もあります)今回は、一つめがなかなか降りてこない間に、四つもたまったのでちょっと焦りましたが、ようやくめどがついたのでひと安心です。引き続き無期限で受付けています。

というわけで、この週末は、三つの作品を書いていたので、みなさまのブログで読ませていただいた記事や小説へのコメントが遅れています。本日以降、順次書かせていただきますので、ご理解くださいませ。

また、小説連投のため、小説に興味のない方には大変申し訳ありませんが、次の小説でない記事は28日になります。ご了承くださいませ。



本日の本題は、久しぶりに「美しいスイス」カテゴリーです。

Albulapass

この写真は、上下とも昨日わたしの住む州で撮影したものです。上が我が家からアルブラ峠に向かう途中のもので、下はサン・モリッツ湖のもの。

前回の記事で発表した「ウィーンの森 — 金と銀のワルツ」にも登場させたように、私は秋の黄色く色づいた樹々という光景が好きで、時々作品に書き込んでいます。

ちなみに、昨日は連れ合いのSUZUKIで周ってきましたが、「落葉松の交響曲」という(私)小説で書いたそのままのルートでした。

Engadin

この光景は、毎年シーズンの終わり、つまり「バイク納め」の時に見る事になります。間もなく長く厳しい冬がくることが分かっているのですが、その前に世界がこれでもかと言いたげに美しく輝くのですよね。

かつて私は秋が嫌いでした。秋がというか、冬の訪れの予感が嫌だったのです。でも、今は秋を楽しむようになりました。その時々の嫌なことを思うのではなく、かけがえのない一瞬の美しさを楽しめるようになりました。この美しさは天からの贈り物ですよね。
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Posted by 八少女 夕

【小説】ウィーンの森 — 金と銀のワルツ

50000Hit記念リクエスト掌編の第一弾です。TOM-Fさんからいただいたお題は「ウィーンの森」でした。ありがとうございます。

うわぁ、どうしよう。大好きな街です。合計で三回行っています。この街を舞台に使っている作品群もあります。でも、なんかふさわしくないし、掌編にするのに面白くない。というわけで、新たな物語を作りました。あたり前ですが、ほぼフィクションです。でも、飛行機に置いていかれてウィーン半日観光が出来たのは、私の実体験をもとに書いています。そして、TOM-Fさんも好きだといいな、レハールの『金と銀』を使わせていただきました。


(追記)TOM-Fさんが作品を発表してくださいました。それも、この作品に対するアンサー小説になっています。

 TOM-Fさんの作品 「ウィーンの森」

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ウィーンの森 — 金と銀のワルツ

 森というよりは、山なんだ。半日で観ようっていうのは無謀だったわね。ベートーヴェンが住んで『田園交響曲』の着想を得たというハイリゲンシュタット、ルドルフ皇太子の心中したマイヤーリンク、温泉保養地バーデン。『ウィーンの森』という名のテーマパークのような観光名所があるわけではないので、どこに行っていいのかわからないし、たぶん時間もそんなにない。

 クロアチア出張の帰りだった。ドブロブニクの空港でエンジントラブルがあって二時間の遅延があった。ウィーンについた時には乗り継ぎ便はもう東京に向かって飛び立ってしまった後だった。いますぐインドのボンベイ経由で帰るのと、一泊して明日直行便で帰るのとどちらがいいかと訊かれて、真美は迷うことなく一泊二食付きのウィーン滞在を選んだ。

 ウィーンは乗り継ぎだけのつもりだったから、観光地などは全く調べてこなかった。半日の自由時間を効率よく過ごすための情報は限られていた。でも、そんなことは構わない。真美はタブレットをバッグにしまうと、バスの窓から外を眺めた。

 バスはちょうど街の中心へとさしかかっていた。18世紀を思わせる重厚な建築群が連なっていた。街路の栃の樹から枯葉が車道に降り注ぐ。そして、その上を黒い馬車がゆっくりと通り過ぎていった。その向こうに音楽の教科書の表紙になっていたモーツァルトの像が見えた。嘘みたい。私、本当のウィーンにいるんだ。

 真美に一番近いウィーンはずっと日本の田舎町にあった。そこには十年以上行っていない。真美が十七歳の時に父親が東京に栄転したから。でも、まだ喫茶店『ウィーンの森』は変わらずに存在していて、人びとの憩いの場所になっていると風の便りに聞いている。

 真美は近所の青年、吉崎護になついていた。彼は母親の親友の息子で、学生時代に『ウィーンの森』でバイトをしていたのだが、学校を卒業後オーナーに店を任された。真美は、高校の帰りによく店に行き、ミルクのたっぷり入ったコーヒーを飲みながら、他愛もない話をした。

 それは、ウィーンのカフェハウスを模して、メニューにもウインナ・コーヒーではなくてアイシュペンナーと載せるようなこだわりの店だった。県内で唯一のドイツ系コンディトライからケーキを取り寄せていて、クーゲルホフやアプフェルシュトゥルーデル、そしてショコラーデ・トルテが真美にとっての馴染み深い菓子だった。

 銀のお盆に載ったコーヒーには必ずグラスに入った水が添えられていて、それだけで特別な飲み物になった。ウィンナ・ワルツのかかっている店内は、ただの喫茶店とは格の違う空間だった。真美には護もまた特別な存在だった。白いシャツと黒いパンツに、ワインカラーのエプロンをして、客たちににこやかに話しかける彼のことが大好きだった。

 道に面したドアと反対側には大きい窓と勝手口があり、その向こうには白樺の林があった。晩秋にはその葉は鮮やかな黄色に染まり、陽射しを受けて輝きながら舞い落ちていった。それはちょうどワルツに合わせて踊っているように見えた。

「ほら、あんまり見とれていると、コーヒーが冷めるぞ」
護が真美の側にやってきて、一緒に白樺の落葉を楽しんだ。
「うん。きれいねえ。秋っていいわね」
「ああ、俺も、この時期のこの光景が一番好きだな」
真美はカップを両手で包み込むようにして、香り高いコーヒーの湯氣を吸い込んだ。幸福が押し寄せてきた。

「落ち葉も踊っているね。ねえ。これ、なんて曲?」
「フランツ・レハールの『金と銀』だよ。ウィンナ・ワルツの代表的作品だな」

 秋の柔らかい光。黄葉の煌めき。『金と銀』……。

「いい曲ねぇ。これでダンスをするのね。ねえねえ、あれだよね。白いドレス着て、ティアラつけて宮殿で踊るの、デビュタントだっけ?」

 護はちらりと真美を見て答えた。 
「ああ、正月のオーペルンバルでやっているな」
「ねえねえ。私もデビュタントしたいな。護兄さん、一緒に行こうよ」

 真美がそういうと彼は笑った。
「そういうのは彼氏と行くもんだろう」

 彼女はふくれ面で答えた。
「私はもうじき16歳だよ。あと数年で大人の仲間入りだもん。そしたら、護兄さんの彼女にしてくれる?」

 彼はそれを笑い飛ばした。ジョークだということにされてしまった。

 それから一年もしないうちに護が結婚すると聞いて、真美は号泣した。その事実を認めまいと頑になり、披露パーティへの出席どころか『ウィーンの森』にすら行かなくなった。結婚式から帰って来た母親は「きれいなお嫁さんで、素晴らしいお式だったわ」と、報告した。心の整理がつく前に、父親の転勤で東京に越してきてしまい、それ以来護とは会っていない。

 あの当時の彼の歳になった今なら真美にもわかる。仕事の責任があり、日々の生活を全て自らコントロールしている今だって、ちゃんとした大人とは言えない。何もできないのにロマンスだけは一人前にできるつもりでいたあの頃の自分を思うと確かに笑い飛ばしたくなる。それと同時に、あれは彼なりの優しさだったのだと思う。子供の憧れを利用したりせずに、その未来を大切にしてくれた、責任感のある大人、護兄さんはそういう人だった。真美はウィーンの街並を眺めながら思った。

 空港の目の前にあるビジネスホテルに泊めてもらったのは正解だった。飛行機のチェックインまでの間、荷物を預けておき、身軽にウィーンの観光をすることができる。といっても時間がないので、たぶん二カ所ぐらいしか行けないだろう。森を諦めるとしたら……。決めた。カフェでショコラーデ・トルテを頼み、それから、よく映画でダンスシーンを撮影するシェーンブルン宮殿へ行こう。

 アール・デコの美しいカフェに入り、真美は案内された席に座った。金髪のウェイトレスが明らかに日本人観光客である真美の顔を見て、英語で「英語のメニューですか?」と訊いてきた。真美は黙って頷いた。コーヒーにミルクの入ったものがブラウナーで、泡立てたホットミルクの入ったエスプレッソがメランジェ。ウィーンのカフェの専門用語は今でもスラスラ出てくる。それで注文には「メランジェ……ショコラーデ・トルテ」と中途半端にドイツ語で頼んでしまった。ウェイトレスは、「お願いします」もまともに言えないのに一人でカフェに入ってくる日本人観光客に慣れているらしく、頷くとさっとメニューを持って奥へ行ってしまった。

 銀のお盆に、メランジェとグラスに入った水が載って出てきた。チョコレートケーキも、使われている食器も、『ウィーンの森』で護が出してくれたものとよく似ていた。ウェイトレスがそっけなく伝票をテーブルに置かれた銀の筒に丸めて突っ込み、去っていったのだけが違った。

「お待たせ」
そう言って護兄さんはいつも笑顔でお盆を置いてくれたよね。

 トラムに乗ってシェーンブルン宮殿まで行った。駅から門まで、そして門から宮殿までもそれなりの距離があり、大きい宮殿、さらにその後ろの広大な庭園を眺めただけで、これはゆっくり見ている時間などないとわかった。

 次の見学ツアーの出発は一時間後だった。それからのんびり見学などしていたら、また飛行機に乗り損ねてしまう。真美は宮殿内の見学を諦めて、庭園を歩くことにした。

 宮殿正面のフランス式庭園は、写真で何度も見たことがあった。たくさんの観光客が記念写真を撮っていた。真美は先ほどから感じ続けている違和感について想いをめぐらせた。ウィーンに、そう本物のウィーンにいて、何もかも想像していた通りなのに何かが違う。その何かの正体がつかめない。

 私はウィーンに何を期待していたのだろう。ここに何があると思っていたんだろう。ここは普通の都会。オーストリアの首都で、私のトランジット先。それだけ。それ以上を期待するのが間違っている。ここはこんなに美しいじゃない。

 庭園の中程まで歩いて、ふと横を見ると、広葉樹の木立が黄色に染まっていた。真美は思わず走り寄って、声をあげた。
「わあ」
宮殿の壁の色よりもひと回り鮮やかで深い色。なんてきれいなんだろう。真美は魅せられてその木立でできたアーチの中へと吸い込まれていった。

 黄色い枯葉が陽の光を受けながら舞い落ちていく。葉の裏に秋の陽射しがオレンジに透けている。葉と葉の間を抜けて差してくる木漏れ陽の中で、細かい土ぼこりが銀色に反射しながら舞っている。それは寂しい秋の風景ではなくて、華やかで美しい色彩の舞踏会だった。

 突然、真美の心の中に、レハールの『金と銀』が響いてきた。金管、弦楽、流れるハープ、それから輝きながらゆっくりと旋回していく木の葉たち。穏やかに語り合いながら歩いていくカップル。犬を連れて散歩をする老婦人、どこまでも続く黄色い木立のトンネル。

 そうか。私が見たかったのは、聴きたかったのは、そして行きたかったのは、あそこだったんだ。『ウィーンの森』の光景。金と銀のワルツ。「いつかは行きたい憧れの街」と言いながら、一度も本当のウィーンを訪れようとしなかったのは、だからだったのね。

 真美は彼がどれほどしつこく自分の心の奥に居座っていたのかに初めて氣がついた。初めての失恋から立ち直って、忘れて、全く違う人生を謳歌してきたはずだった。他の恋も普通にして、別れてを何度か繰り返した。護と彼らを比較したこともないと思っていた。友達の結婚式に招待されるたびに親からちくりと言われる「あなたもね」に「まだまだ仕事が楽しいし」と笑い飛ばしていても、彼のことは関係ないと自分に言い聞かせてきた。

 護が離婚したと耳にした時、反応しないようにしたのも、その後にも故郷に行こうとしなかったのも、全て自分の信じていたことと正反対だったのだ。私は意固地になっていただけだ。認めたくなかったから。まだ同じ夢を追っていることを。

 護兄さんにふさわしいパートナーになりたかった。一緒にこのウィーンでダンスを踊りたかった。もう、デビュタントにはとても加われない歳になってしまったし、それ自体が意味を持たなくなってしまったけれど。『ウィーンの森』で、そして、ここ本当のウィーンのカフェで注文したかったのはメランジェでもトルテでもなくて、彼の笑顔だったんだね。

 真美は不意にあの時にどうやっても立てなかったスタートラインに立っていることに氣がついた。相手にしてもらえなかった子供ではなくなっている。ちゃんと自立して仕事もしている。ウィーンにも一人で来られて、世界と自分の過去を分析もできるようになっている。今なら、護兄さんにもちゃんと一人の人間として向き合えるかもしれない。

 今度の休みには、久しぶりにあの街を訪れて『ウィーンの森』に行ってみよう。ウィーンに行ってきたことを彼に話してみよう。何かが始まるのか、それとも何かが終わるのかわからない。けれど、とにかく行ってみよう。私にとってのウィーンへ。真美はもう一度木の葉のダンスを見上げると、踵を返して空港へと戻っていった。
 
 
(初出:2014年10月 書き下ろし)

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超有名曲である『金と銀』は色々な演奏の動画があるのですが、ウィンナ・ワルツが映っているので、ちょっとポップスですがアンドレ・リュウのもので。


Andre Rieu - Gold und Silber 2011
Waltz op. 79 Gold and Silver, a composition by Franz Lehar
live from Vienna
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(16)隠せぬ想い

今回はヒロイン・ラウラの想いと、性格と、能力と、それから立場が全部詰まった章になりました。作中でマックスが提案した《強いもの較べ》は、特に中世にあったゲームというわけではありません。私が作った遊びです。ただ、出てくる言い回しは、実際のラテン語の諺などを使っています。「○○といいますが」というようなセリフの論理に「?」と思われても、これは諺なのだとスルーしてください。

今回はいつもだと二つに切る長さなんですが、上手く真ん中で切れなかったのでこのまま丸ごと一章をアップします。その代わりというわけではないのですが、来週は「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」はお休みです。


「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(16)隠せぬ想い


「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」関連地図

「赤くなってたわね」
マリア=フェリシアは馬鹿にして言った。ラウラは困ってうつむいた。

「よくわかっていないみたいだけれど、王家に出入りする教師は少なくとも男爵家の出身でなくてはいけないはずよ。つまり、あなたにはチャンスがないってわけ。もっともあの人、下等な趣味があるから、上手くいけば愛人ぐらいにはなれるかもね」
「いいえ、私は、そんな……」

 姫は高らかに笑った。新しい楽しみが出来たわ。あの軽薄教師をきりきり舞いさせれば、この腹立たしい娘を苦しめる事が出来る。鞭も悪くないけれど。

 ラウラは姫の言葉に傷ついたりはしなかった。初めて会ったその日から、王女は常に彼女を貶め馬鹿にした口調でしかものを言わなかった。彼女はそれに慣れていた。そして、その王女のことを多くの貴公子や女官たちが「なんて美しい方だろう」と褒めそやすことにも反発の思いや怒りを感じることもなかった。

 けれど、今日は違った。マックス・ティオフィロスが、ラウラの腰に手を回し、息がかかるほど近くに顔を寄せて踊った時に、彼女の胸は高鳴り、楽人たちの奏でる歌が永久に止まらなければいいと願った。けれど、それはとても短い時間だった。彼は、ステップを憶えた姫の手を取り優雅に踊った。自信に満ちて微笑む姫はいつもに増して美しかった。彼は姫がステップを間違えても叱ったりせずに、長い時間をかけて踊っていた。

 わかっている。どんな殿方も、姫の手を望むのだ。深夜まで予習と復習をする努力も、心を込めて仕事をすることも、姫の美しさ、華やかさ、ぎりぎりに魅惑的なわがままの前では何の価値もない。それは先生も同じなのだ。

 ラウラは毎日のマックスの授業を心待ちにしていた。たとえ、いつもほとんど話しかけてもらえず視線も合わせてもらえないにもかかわらず、わずかな会話にでも加われるようにとグランドロンの詩集を暗唱し、城に一冊だけあったディミトリオスの著作を読んだ。

 マックスは話す度にラウラのグランドロン語が飛躍的に上達していることに驚いたが、まさか難解で知られる老師の著作を原語で読むほどの努力を重ねているとは夢にも思わなかった。

 一方で、王女の一向に上達しないグランドロン語には危機感すら持っていた。グランドロン人どころか、外国人にもわかってしまうほどのお粗末さだ。これが知れ渡ったら彼の今後の仕事にも差し支える。彼は躍起になって姫の教育に時間をかけた。

「ねえ。書物で言葉を憶えるのって、とても退屈だわ。何かもっと面白い方法はないの」
マリア=フェリシア姫が言ったので、マックスは肩をすくめると本を閉じて言った。
「承知しました。では、本日はちょっとした言葉遊びをしてみましょう。お二人がどのくらいグランドロンの言葉をお使いになれるかもわかりますしね」

「どんな遊び?」
姫は少しだけ期待して首を傾いだ。こうしたちょっとした動きがとてもチャーミングだった。これまでの教師たちが怠惰でやる氣のない態度に強く文句を言えなかったのがよくわかるとマックスは心の中で思った。

「《強いもの較べ》というゲームです。お二人と私の三人で順番に、より強いものをグランドロン語であげていくだけのゲームです。なぜそれが強いのかもグランドロン語で説明してくださいね。それと、何にも増して強いことがわかっている天におわす神様だけは答えにしてはなりません。それ以外でしたら、ものでも概念でも全くかまいません、いいですね」

 大して面白そうでもないと思ったのか、姫は口を尖らせたがマックスはかまわずに続けた。
「では、このお菓子からはじめましょう。さあ、殿下、お菓子よりも強いものをあげてください」

「お菓子を作るのになくてはならないもの。それが砂糖です。だから砂糖の方がお菓子より強いのです」
このような単純な文章でも、慣れない外国語で述べるのは大変だった。まじめに言葉を学んでこなかった姫はカリカリしていた。

「その調子です。では、バギュ・グリ殿。どうですか」
彼の言葉に、ラウラはすぐに答えた。
「砂糖を運んでいく姿をよく見ますから、蟻は砂糖より強いでしょう」

 マリア=フェリシア姫は、言えるうちにと、急いで続けた。
「蟻なんか、刃で切っちゃえるでしょう。刃よ」

 彼は少し笑って続けた。
「火がなければ刃を溶接・鍛造することはできません。火がより強いでしょう」

 マックスに先を促されてラウラは続きを口にした。
「岩に火を近づけても燃やすことはできません。ですから岩の方が強いと言ってもかまわないでしょう」

 マックスに促されたけれども先を思いつかなかった姫はむすっと口を閉ざして横を向いた。マックスは姫に恥をかかせないように続きを自分で言った。
「一滴、また一滴と落ちる滴が岩に穴をあけることがあるのをご存知ですね。つまり水が岩よりも強いのです。どうですか、バギュ・グリ殿」

 ラウラは窓の外を少し見てから答えた。
「水をどんどん吸って自分の中に取り入れていく植物は水を支配しています。水はそれに逆らうことができません。ですから植物はもっと強いと思います」

 マックスが頷いて同意すると、まったく詰まることなく答えるラウラに腹が立ったのか、姫が大きな声を出した。
「植物なんか必要ならいくらでも買えるわ。だから富よ」

 マックスは微笑んで続きを言った。
「友あるところにこそ富ありと言うではないですか。そうなると友情の方が強いと言ってもいいですよね、バギュ・グリ殿、続きをどうぞ」

 ラウラはマックスを見ていた。姫の答えは内容も情けないが、語順や使う単語もマックスが辛抱強く教え続けている宮廷で通用するグランドロン語からはほど遠かった。けれど、それに落胆した様子もなくにこやかに笑っている。もしかしたら、マックスにとっては姫の言葉は吟遊詩人の端麗な詩よりも心地よく響くのかもしれない。

 友情……。確かに富より力がある。富ではつなぎ止められない人も深い友情のためなら留まるだろう。たとえば姫との間にもっと友情と思える深い情交があったなら、ラウラは義務である姫の二十歳の誕生日を超えても、仕えようと思っただろう。かつてかの伝説の男姫ヴィラーゴ ジュリア・ド・バギュ・グリがグランドロンへと嫁ぐブランシュルーヴ王女に従って異国へと行ったように。けれど、姫とラウラの間には義務しかなかった。これまでの仕打ちを思えば、ザッカが口にしたように、いつまでも姫に仕える事など考えられない。

 けれど……。ラウラは知っている。たとえ冷たくされようと、無視されようと、その人のためにすべてを置いてでも駆けつけたくなる想いがある事を。決して報われないのだといわれても、変わる事のない強い想いを。彼女はしっかりとした態度で続きを口にした。
「愛はときに友情をも引き裂くと詩に詠われています。ですから愛の方が強いように思われます」

 王女は馬鹿にした口調で、けれど趣旨をを全く無視してルーヴランの言葉で吐き捨てた。
「愛なんて。王がほかの男と結婚しろといったらそれでおしまいでしょ。だから王権の方が強いに決まっているわ」

 マックスはその王女のいらだちをなだめるように、しかし、グランドロン語の授業であることを思い出させるべく言語を変えて言った。
「世界中の権力を握った王ですら、美しき女性には逆らえません。つまり美は王権にも勝りますかな」

 それはラウラにはひどくつらい言葉だった。マックスに目で続きを求められて彼女は下を向いた。何を言っても殿方の心をとらえている美に対するひがみにしか聞こえないだろうと思った。やがてうつむいたまま答えた。
「美しい薔薇も時間が経つと枯れてしぼんでいきます。老いは美よりも強いのかもしれません」

 マックスは深く頷いた。マックスはラウラが考えていたように、マリア=フェリシア姫の麗しさに惑わされていたわけではなかった。単に難しい生徒に授業を放棄させないためにご機嫌をとっていただけだった。その王女はへそを曲げてもうひと言もグランドロン語を話そうとはしなかった。口にしたくとも彼女の知識で使える単語が考えつかなかった。

 マックスは姫に解答を続けさせる事をあきらめた。ここから先は授業ではなかった。ラウラのグランドロン語はもっとずっと先をいっていたから。彼女のグランドロン語用法や知識ではなく、これまでほとんど氣に留めたこともなかった彼女の深く哲学的な想いに興味をそそられた。マールの「金色のベルタ」の哀れな後ろ姿が浮かんだ。神の家にいながら人生のほとんどを虚しく待ち、老いることだけに使ってしまった女。マックス自身にはその救いが考えつかなかった。この娘はなんと答えるのだろう。

「老いた人びとが傷つき苦しむのは、人びとに忘れ去られて省みられなくなることです。どうですか、バギュ・グリ殿。忘却よりも強いものをおっしゃれますか」

 ラウラははっとしてマックスを見た。マックスはゲームが始まった時のような朗らかな表情はしていなかった。この城の中で、省みられないことへの苦しみについてラウラほど考えている人間はわずかしかいなかった。ザッカがラウラに見せた恐ろしい貧民窟はこの城から見えるほど近い所にある。多くの人びとが、王国からも街の人びとからも忘れ去られ、なす術もなく死んでいこうとしている。彼女は「死」をあげようかと思った。哀れな貧しいミリアムの苦しみを終わらせたのは「死」だった。

 けれど、彼女は頭を振った。ラウラには全能の神がその絶望的な答えを求めているとは思えなかった。ザッカが彼女にあの貧民窟を見せた、本当は王女に理解させてこの国の未来を託したいと思ったのも、その答えのためではないと思った。親戚からも養父からも関心を示されず、この城の中で耐えて生きている自分が、省みられないことを乗り越えるために必要なのはどんなことだろうかと考えた。答えは一つしかなかった。

「赦しは魂を解放すると申します。ならば忘れ去られる苦しみからも解き放ちましょう。赦しです」

 彼もまた「死」という答えを思い描いていた。そして、ラウラがしばらく逡巡していた思考の内容を推し量ることはできなかった。だが、彼女が澄んだ瞳で言葉を選んだ時の佇まいに強い印象を憶えた。しばらく言葉を継げなかった。少し間を置いてから言った。

「それこそ真の貴婦人の回答です。あなたがこのゲームの勝者です」

 マリア=フェリシア姫は、不満に鼻を鳴らした。自分がグランドロン語でラウラに適わないだけならともかく、マックスがラウラに女性として最高の賞賛を与えたのは許しがたかった。貴婦人ですって? その子が卑しい肉屋の孤児だと教えてやりたい。しかし、今そんな発言をするのは、自分が貴婦人でない証明のようなものだったので、かろうじて発言を控えた。

 マックスは姫の態度にそろそろ苦言を呈すべきではないかと思った。いくらレオポルド二世がルーヴラン語に堪能だと言っても、グランドロンの豪胆な国王なのだ。この城の召使いのように、この美しいだけの姫の顔色を伺ってくれるとは思えない。それにラウラがめざましい進歩を見せたとしても、本来の生徒である姫の進歩がこの程度ではマックスの教師としての評判にも影響する。

「さて、王太女殿下には、申しわけございませんが、すこし罰を受けていただかなくてはなりませんね。授業の最中にルーヴラン語は使わないという決まりをこれで三度も破られましたから。どんな罰にしましょうかね……」

 そう言った途端、マリア=フェリシア姫はけたたましく笑い、ラウラが青ざめて、長い袖で覆われた左腕を押さえて後ずさった。マックスはそのどちらの反応もよく理解できなかった。いつも扉の所に控えていた無表情で何をするのかわからなかった男が、腰の所から鞭を取り出してラウラの方に近づいてきた。
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Category : 小説・貴婦人の十字架
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

この丘に

まず連絡事項です。ミニブログPIYOというのがありまして、「今日のひとこと」みたいなのを書くのに使っているんです。そこに匿名の鍵コメでコメントがいっぱい来たんですが、なんか微妙な内容でした。真面目に書いているのか、嘲笑っているのか。たぶん後者。でも、そうだとしたらヒマですよね。別にこちらが凹むわけでもなく、それを書くことによって書いた方に得があるわけでもなく。で、あちらはIPの特定やブロックの方法などが今のところわからないんで、コメ欄を閉じてみました。というわけでPIYOへのコメもこちらのブログのコメ欄へどうぞ。

で、今日の本題は、私の第二の故郷の話。


丘の上の教会

私は日本生まれで日本育ちの日本人です。今のところ日本国籍で。スイス人の連れ合いと結婚するためにここに移住して13年以上経ちました。

結婚とは、家族ではない見知らぬ人間と一緒に暮らし、その人と家族になっていくことです。一般に「三年もてばなんとかなる」「七年もてば後は大丈夫」などと言いますが、まあ、そういうものだと思います。三年ぐらいで自分が相手とその環境を知り、七年ぐらいの間に歩み寄れる所は歩み寄り、諦められる所は「どうでもいい」という境地に達する。それがなんとかなればあとは何十年も添い遂げられるんだろうなと思えるようになりました。

で、そうなると、私はここにずっといるんだなと。それまでは何をするにしても「でも、いつまでいるかわからないからな」と考えていたんですよ。それが、私の余生はこのスイスの、具体的にいうとこの村で送るのだなと思うようになってきたわけです。

この写真は、私の住まいの裏手にある丘です。この小さな教会には墓地があって、村人はここに埋葬されるのです。で、自分で思うわけです。ここかと。ここに骨を埋めるのかと。

いま現在、持病があるわけでもなく、だからなんらかの悲壮感があるわけでもないのです。ただ、ここか、そんな風に思うわけです。

家族も友達も日本にいるので、たまには里帰りするんです。で、それからスイスに「戻ってくる」のです。いまの私には「帰国」というのは日本に行くことでもあるのですが、スイスに帰ることでもあるのです。その割合がかなり後者に移ってきている、そんな状態です。

考えるのは日本語だし、読むものも日本語が一番楽です。日本人としての誇りもあるし、それをなくしたいとは思っていません。でも、関東の人間が関西に嫁いで、だんだん関西に馴染んでいくように、スイスのこの地が私の第二の故郷になっているのだなあと思うのです。
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Posted by 八少女 夕

【小説】あなたの幸せを願って

月に一度発表する読み切り短編集「十二ヶ月の野菜」の十月分です。このシリーズは、野菜(食卓に上る植物)をモチーフに、いろいろな人生を切り取る読み切り短編集です。十月のテーマは「南瓜」です。十月に南瓜ときたらハロウィンなんですが、わざと違うものにしてみました。

先日の休暇中に練った話なので、舞台は北イタリアの山の中です。


短編小説集「十二ヶ月の野菜」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の野菜」をまとめて読む



あなたの幸せを願って

 クラーラの家は、ボコボコする道をオンボロバスに揺られて30分も登った所にあった。彼女の他には、もともとは20家族くらいが常時住んでいたらしいが、今では夏の休暇用に貸し出している家が三軒あるだけになっている地域だ。冬の運行時間になるとバスも通らなくなってしまう。

 リーノの両親が今年最大の派手な喧嘩をして、母親がナポリに帰ってしまったので、彼はしばらく父親の妹であるクラーラの所に預けられることになった。はじめは妹のアーダと一緒に祖母に預けられたのだが、二人が喧嘩ばかりするので、祖母は二人一緒は勘弁してくれと父親に直談判したのだ。

 たしか三歳くらいの時に逢っているはずだが、彼は叔母のクラーラを憶えていなかった。

「あれは偏屈の変わり者だよ」
だいぶ前に母親がそういったので、リーノは氣味の悪い魔女のようなおばあさんが迎えにくるのかと思っていたが、母親よりもずっと若くみえた。茶色い髪を素っ気なく後ろで結び、飾りの全くないブラウスとスカート姿だった。リーノは叔母がまずまず氣にいった。

 クラーラに連れられてバスを降り、ほんの少し山道を登ると、山に抱かれるように小さな庭があって、いくつもの南瓜が実っていた。黄色いコスモスやエンドウ豆の仲間のようなピンクの花も風に揺れていた。その奥には、小さい石造りの家があって「さあ、ここよ」とクラーラは木の扉を開けた。

 白い壁の小さな台所はスープの匂いで満ちていた。今どき、薪オーブンで調理しているらしい。古ぼけた薄水色の木の棚のガラス窓に、いくつもの瓶詰めやジャムが見えた。リーノが物珍しさに興奮しているのを見て、クラーラは優しく笑った。

 クラーラはリーノを寝室に案内した。
「小さいけれど我慢してね」

 小さいなんて問題じゃなかった。リーノは自分一人の部屋を持ったことがなかった。これからどのくらいかはわからないけれど、この部屋を独り占めできるんだ。古い木の寝台、机と椅子に小さいタンス、そして、洗面器と水差しが置かれている。

「お腹がすいているでしょう。すぐにご飯にしましょうね」
クラーラは台所に戻ると鍋をかき回した。リーノは荷物をタンスにつっこむと、いそいそと台所に戻った。そして、クラーラについて彼の村で噂されている言葉について率直に訊いてみた。

「ねえ、角のある女コルヌータ って、なんのこと?」
リーノが訊くと、クラーラの手はぴたっと停まった。しばらくの不自然な間で、少年にも絶対に訊くべきでなかったことなのだとわかった。クラーラは甥の方を見て、ぎこちなく笑った。
「誰か他の人が幸せになったってこと。でも、他の人に、そんな言葉を遣っちゃダメよ。言っちゃいけない言葉の筆頭だわ」

 クラーラの説明では、リーノにはそれが悪い言葉のようには全く聞こえなかったが、この称号は、かなり悪いことなのだろうと思った。どうしてなんだろう。いい人に見えるのに。

 寝取られ女コルヌータ。クラーラはため息をついた。人里から離れていれば、嘲りの言葉を聞かないで済む。けれどそれが長くなると、それを受ける痛みを忘れてしまう。そして久しぶりのその言葉が彼女の胸を新たに抉るのだった。それが永久に続くのかと思うとがっかりする。けれど、彼女はリーノの前でその言葉を発した人びとも、それにリーノ自身にも悪意はないのだと自分に言い聞かせた。

「さあ、食べましょう」
パルミジアーノ・レッジャーノの塊と、薄くカットされたパン、それに鍋から注がれたオレンジ色のスープ。クラーラはリーノの前に腰掛けて微笑んだ。

 リーノは南瓜のスープはあまり好きじゃないんだと言い出せなかった。湯氣の向こうの微笑みを壊さないように、渋々スプーンを動かし、ふうふうと息を吹きかけてから観念してスープを口に運んだ。

「あ、美味しい」
彼がつぶやくと、クラーラの微笑みはぱっと笑顔になって花ひらいた。

 リーノが苦手だった、薄くてあまり味のないスープと違って、この南瓜のスープは濃厚だった。塩と胡椒でシンプルに味付けされているだけのようなのに、どちらも豊かに感じた。そして、それが甘味とコクを引き出している。タマネギの香りはするけれど、とても滑らかでどこに入っているのかも目には見えない。

「母さんの作る南瓜のスープと全然違うよ。こんなに美味しいの初めて食べた」
そういうと、クラーラは少し困ったような顔をした。義姉の料理にケチを付けるような会話はできないと思ったのかもしれない。わずかに論点をずらして回答した。
「少し甘味のある種類を植えてみたの。この南瓜は、評判いいのよ。明日、注文してくれた人たちに届けにいくから、一緒に行かない?」

 土曜日はいつもテレビでアニメを観るから行きたくないと答えそうになったけれど、この家には衛星チャンネルの映るテレビはありそうにもなかった。リーノは頷いた。一人で待っているなんて退屈だろうし、宿題をするよりは面白いだろう。

「クラーラは南瓜を売って暮らしているの?」
彼女はその質問に笑った。
「そうしたいけれど、それだけじゃ食べられないわ。翻訳の仕事をしているの」

「だったら、もっと都会に住めばいいのに。周りに誰もいない山の中って、つまらなくない?」
「つまらなくないわ。逢いたい人には自分から逢いに行けばいいし、逢いたくない人とは逢わなくてもいいもの。それに、幸せは周りがどんなだかとは関係ないの。幸せな人はどこにいても幸せなんだと思うわ」
彼女は微笑んだが、ほんの少し寂しそうに見えた。

 次の朝、新鮮な絞りたてのミルクと、焼きたてのパン、それに手作りのジャムの朝食が待っていた。
「このミルクどうしたの?」
「この上で放牧している、ジュゼッペおじいさんが、牛乳やクリームやチーズを売ってくださるのよ。そろそろ牛が里に帰ってしまうから、そうしたら村に買いに行かなくてはいけなくなってしまうけれどね」
「パンはクラーラが焼くの?」
リーノは薪のオーブンをちらっと眺めて訊いた。彼女は頷いた。

 このパンのために、きっと彼女はリーノよりもずっと早くに起きたのだ。畑仕事をして、牛乳を取りに行き、朝食を用意する。昨夜、トイレのために起きた時に、クラーラは自室で仕事をしていた。テレビやたくさんのお店がなくても、やることがないと暇を持て余しているわけではないのがわかった。

 朝食が終わってから、クラーラは小さなリヤカーを庭の裏手の小屋から出してきた。オレンジで小人の帽子のように尖っているもの、それにクリーム色の瓢箪のように見える南瓜がまず運び込まれた。それに小さくてとても食べられないように見えるミニ南瓜は、リーノがやっと抱えられるような大きめの籠に入れられてリヤカーに載せられた。

 ゆっくりと山道を下っていく間、クラーラはリーノのかけ算の暗唱につき合ってくれた。それから、月末にクラスでハロウィーンの催しがあると話したら、子供の頃に憶えた幽霊の出てくる詩を教えてくれた。

 バス停を通り過ぎて、しばらく歩くと数軒の家があった。「待っていたのよ。あなたの南瓜はお店で買うのよりもずっと美味しいから」と話しているのが聞こえた。リーノは自分のことのように嬉しくなった。

 少し軽くなったリヤカーを牽いて、さらに歩き大きな建物の門に着いた。「ホテル・アペニーノ」だった。クラーラはほっと息をついて汗を拭くと、裏手にまわってキッチンに通じる扉の呼び鈴を押した。中からは白い上着を着た学校を卒業したばかりのような若い青年が出てきた。
「ラッジさんですか。ああ、聞いています。南瓜ですよね。運び込むの手伝いますね」

 ニキビ面の青年は、リヤカーに残っていた全ての南瓜と籠に入ったデコレーション用のミニ南瓜をキッチンに運び込んだ。クラーラが納品済のサインをもらおうとすると、青年は頭をかいた。
「困ったな。僕はまだ見習いで、サインしちゃいけないって言われていて。シェフは、ついさっき急用で出かけちゃったので……。待っていてください、オーナーを呼んできますから」
そういうと、クラーラの様子も氣に留めずに、奥へと行ってしまった。

 今までずっと穏やかだったクラーラが、ひどく慌ててそわそわする様子を見て、リーノは不思議に思った。
「クラーラ、どうしたの?」

 その声で、我に返った彼女は、リーノに切羽詰まった様子で懇願した。
「ああ、リーノ、お願い。今の人とオーナーが戻ってきたら、この受領書にサインをもらってちょうだい。私は、門の所で待っているから」
「え?」

 押し付けられた受領書とペンを持ってぽかんとしている間に、クラーラは急いでリヤカーを牽いて出て行ってしまった。しかたなく彼はキッチンの片隅で青年たちを待った。

 ほどなくして青年が、立派な服装をした背の高い紳士と一緒に戻ってきた。
「あれ? ラッジさんは?」

 リーノは進み出て受領書とペンを差し出した。
「叔母は、リヤカーと先に出ました。サインをお願いします」

 ホテル・アペニーノのオーナーらしい紳士は、じっとリーノを見つめた。
「君は、ラッジさんの甥なのかい」
「はい。リーノ・ラッジです」
「そうか。確かに似ているな」

 彼は茶色い瞳の目を細めて少し寂しげに笑ってから、受領書に書かれたクラーラの字をじっと見つめてから、丁寧にサインをした。受け取ってからぺこりと頭を下げて出て行こうとするリーノにこう言った。
「叔母さんによろしく伝えてくれ。代金は今日中に振り込ませると……あ、待ってくれ」

 内ポケットから札入れを取り出すと、50ユーロを彼の手に握らせた。それは南瓜を運んできた労力に対するチップとしてはいくらなんでも多すぎるので、リーノも青年も目を丸くした。オーナーは、しかし、それには構わず、キッチンの中を見回して、テーブルセッティングのために用意された花籠から紅い薔薇を一本抜き取ってリーノに渡した。
「ラッジさんに……いや、クラーラに渡してくれ」

 ホテルの裏門で、リヤカーにもたれかかるように立っていたクラーラの横顔は憂いに満ちていた。
「ありがとう、リーノ。ごめんね」
そういう彼女に彼は50ユーロ札と、紅い薔薇を差し出した。
「よろしくって。代金は今日中に振り込ませるって」

 クラーラは困惑した顔をした。
「だって、これだけでもう代金を超えているわ……」
「でも、代金の話をした後にこれをくれたんだよ。それとこの花も」

 彼女は、50ユーロを返そうかと迷っていたようだったが、やがてため息をついてポケットにしまうと、紅い薔薇をリヤカーに引手の脇に差して歩き出した。

「ねえ、クラーラ。あのオーナー、知っているの?」
「どうして?」
「だって、ラッジさんにと言ってから、わざわざクラーラにって言い直したよ」

 風が吹いて、クラーラの茶色い髪はゆっくりと泳いだ。彼女の灰緑の瞳は、紅い薔薇を見ていた。それから、ゆっくりとリーノの方に視線を移すと、もとのように穏やかに微笑んだ。
「ええ。昔の友達なの。とても仲がよかったのよ。私ね、昔、あのホテルで部屋係として働いていたの。彼は、その時に一緒に働いていたウェイターだったの」

 リーノは首を傾げた。
「オーナーなのにウェイター?」
「オーナーのお嬢さんと結婚したのよ。今は二人でホテルを経営しているの」
「ふ~ん。クラーラが、あの人に逢いたくないのはどうして? 嫌いになったの?」

 リーノが訊くと、クラーラは首を振った。
「いいえ。嫌いじゃないわ。でも、逢わない方がいいの。あなたが面白いゲームをしている時に、同じゲームをしたくてもできない人がじっと見ていたら楽しめないでしょう。だから……」

 彼には、叔母がなぜ突然ゲームの話をしだしたのかよくわからなかった。そういえば妹のアーダとの最後の喧嘩のきっかけはゲームだった。妹は一緒に遊んでほしかったのに、リーノは邪魔をしないでほしかった。一日にゲームをしていいと許されているのは30分だけだったから。横でぐすぐすと泣くアーダ。ゲームに集中できなかったのは、それがうるさいからではなくて、心になにかが刺さるように神経をざらつかせるからだった。

 でも、いま思いだすのは、アーダの涙に濡れた瞳で、決してセーブしてリュックサックに入れて持ってきたゲームの続きをすることではなかった。あの時、遊んでやればよかったな。僕、もう、アーダとも、パパやママとも逢えないのかな。

 心細くなってクラーラの顔を見上げると、彼女は薔薇の花を見ていた。彼は、クラーラの瞳にずっと浮かび続けている寂しそうな光がなんだかわかったような氣がした。アーダのように泣きたくても、大人は泣けないのかな。

「クラーラ、僕、アーダのこと嫌いなわけじゃないんだ。あの時はわかんなかったんだよ。ゲームを楽しめるのは今だけで、アーダと遊ぶのはいつでもできると思っていたんだ」

 彼女は微笑みながらリーノの頭を撫でた。
「わかっているわ。アーダがそれをわかるにはまだ時間がかかると思うけれど」
「僕、アーダに絵を描いて、送ってあげようかな」
「そうね。そうするといいわ。絵が描けたら、一緒に郵便局に行きましょうね」

 リーノは南瓜とクラーラの絵を描いて、アーダに送った。返事の代わりにアーダからリーノの絵が送られてきて、彼は泣いてしまった。それからすぐにリーノは家に戻ることになった。母親がナポリから帰って来たのだ。クラーラと別れる時にもリーノは泣いた。彼女も目を赤くして「家族へのクリスマスプレゼントを買うときに使いなさい」と、あの50ユーロ札をくれた。

 普通の生活に戻って忙しくしていても、家で、スーパーで、南瓜を見かけると、リーノはクラーラの悲しい瞳とホテル・アペニーノのオーナーの渡した紅い薔薇を思いだす。

「誰か他の人が幸せになったってこと」彼女はそう言った。誰かとはあのオーナーのことなんだろうか。幸せのお礼にあの花とお金と、それからたくさんの注文をクラーラにくれたんだろうか。

 ずっとクラーラの側にいて元氣づけたいと思ったけれど、そうしたらアーダが泣いちゃう。僕もママやパパが恋しくてつらい。みんな幸せになるのって難しいなあ。リーノは母親の相変わらず薄くて美味しくない南瓜のスープを食べながら考えた。

 クラーラどうしているだろう。もう、あの薔薇は枯れちゃったかな。リーノは彼女へのクリスマスプレゼントに、紅い薔薇の刺繍のついたハンカチを買おうと思った。

(初出:2013年10月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(15)森の詩

作品タイトルと章のタイトルがかぶってしまった……。以前「大道芸人たち」のキャラを使ってこの作品のアピールをした事がありますが、その時にご紹介した「森の詩」がはじめて登場しました。もともとは三部作だった「森の詩 Cantum Silvae」で、この歌だけは必ずでてくるという設定でした。グランドロン王国の祝祭歌なんですね。もちろん、私の創作です。ラテン語がかなり怪しい……。

「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(15)森の詩


「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」関連地図

「どうして城に住まないわけ?」
マリア=フェリシアは少々いらだって訊いた。午後にお抱え商人が東の国からの絹の見本を持ってくるというので語学の時間を朝に変えたかったのに出来なかったからだ。

「城下町の事を親しく見聞きする事が出来ますのでね」
「そんなこと何の役に立つのよ」

 絹を見たい姫は、授業をさっさと切り上げさせてさっさと孔雀の間に行ってしまった。

 苦笑して羊皮紙をたたんでいるマックスの側に、そっとラウラが近づいてきた。
「先生は城下をくまなく歩かれていらっしゃるのですか」
おずおずと彼女は訊いた。

 教える事はいつでもすぐに覚え、知識も豊富なのに、いつも控えめでほとんど会話をしようとしないラウラが、敢えて質問をしにきた事をマックスは意外に思った。

「いいえ。まだ、くまなくというほどは。市場や職人街など活氣のある場所はほとんど行きましたが」
「あまり活氣のないところも……たとえば貧しい人たちのいるところは」

 マックスはラウラの顔をじっと見た。
「ええ。行きました。驚きましたね。あなたがあそこの事をご存知とは」

「いえ。よく知っているわけではないのです。でも……。どうなのでしょう。グランドロンでも貧しくてただ死を待つだけのような人々がたくさんいるのでしょうか」
ラウラは思い詰めたように訊いた。

 この娘は。マックスは、はじめて目立たない《学友》の、王女の影ではない、真の人間としての姿を感じた。今まで多くの貴族の令嬢を目にしてきた。義務やポーズとして貧しい者に幾ばくかの金を恵む事をたしなみとして実行した者はいたが、死を待つばかりの貧民たちの事で心を痛めているような娘は見た事がなかった。そもそも、彼女たちはそのような場に行くチャンスすらないのだ。

 けれど、この娘は、あそこを知っている。どういうきっかけで知る事になったのかわからないが、あの悲惨さに直面する勇氣もあるのだ。彼は思い悩む様子の彼女を力づけようと優しい目を向けた。

「バギュ・グリ殿。貧しい者たちはルーヴランだけでなく、グランドロンにもセンヴリにも、世界中のどこにでもいます。旱魃や疫病も繰り返しこの世のどこかを襲います。辛く悲しい事もなくなりはしません。けれど、各国の支配者たちは、少しずつですが彼らがただ惨めな死にだけ向かわないように努力を続けているのではないでしょうか。この国で、ザッカ殿が進められている治水事業のように。グランドロンでも、国王陛下は確かに貧しい人々の救済措置を進めています。ご安心ください」

「グランドロンの王様が?」
ラウラは意外だといわんばかりに目を見張った。マックスは笑った。やはり、この方には、我が王はよほどの悪者と思われているらしい。

* * *


 次の授業に、マックスは広間に移動し、楽人たちに同席するように頼んだ。ダンスのレッスンだった。

「これは『森の詩』と呼ばれるメロディでございます。グランドロンでは、新年、婚礼、それから夏至祭に、この曲に合わせて踊る習慣があります。王と王妃は公式の場で最初に踊ることになっていますので、なんとしてでも覚えていただく必要がございます」
マックスはリュートを抱えて、ゆっくりと歌いだした。

O, Musa magnam, concinite cantum silvae.
Ut Sibylla propheta, a hic vita expandam.
Rubrum phoenix fert lucem solis omnes supra.
Album unicornis tradere silentio ad terram.
Cum virgines data somnia in silvam,
pacatumque reget patriis virtutibus orbem.

おお、偉大なるミューズよ、森の詩を歌おう。
シヴィラの預言のごとく、ここに生命は広がる。
赤き不死鳥が陽の光を隅々まで届け、
白き一角獣は沈黙を大地に広げる。
乙女たちが森にて夢を紡ぐ時
平和が王国を支配する



 そのメロディをなぞりながら、楽人たちはゆっくりと演奏をはじめた。マックスはしばらく共に演奏していたが、満足のいく状態になると、自分は演奏するのをやめてリュートを脇に置き、ラウラの前に立った。伸ばした両手を繋ぎ、斜めに体をにじってお互いに対照的な方向にステップを踏み出す。反対にも踏んだ後、ゆっくりとお互いの周りを回る。

「そうです。その通り。次は反対に。私の腕の下を通って、はい、こちらへ」
彼の声が耳のすぐ側で聞こえる。繋がれた手に優しい暖かさを感じる。彼女の頬は紅潮した。

 彼は不思議そうにラウラを見た。何かを訴えかけるような瞳の輝きは、単なるダンスのレッスンにしては、大げさだった。彼女は、はっとしたようにうつむいた。それで、彼はようやく氣がついた。この娘は、男とダンスを踊った事などないのだろう。政治や歴史の話などをよどみなく語れても、恋愛に関してはまだ少女と変わらないのだ。こんなにうろたえている。

 この娘は、姫やこの場にいる若い侍女たちの多くよりも年上だが、恋愛に関してはもっと幼い少女のようなのではないかと思った。男に対して媚びたり、恋愛ゲームを楽しもうとしたりした事はないのではないだろうか。それは初でその手の駆け引きを知らないからというよりは、その隙のない様がずっと若い男たちを遠ざけてきたからだと思われた。

 ラウラに恋愛経験がなさそうなのは、彼女の特殊な事情が絡んでいるのだと理解していた。侯爵の実の娘ではない、《学友》となってからは、侯爵家にもよりつかないらしい孤独な娘との関係など、将来の邪魔にしかならないと誰もが思うのであろう。多少の野心のある宮廷の男たちなら、同じバギュ・グリ侯爵令嬢でもこの娘の妹である令嬢エリザベスに関心を示す。実際にエリザベスの方は、女官とは名ばかりで、毎日宮廷で男たちに囲まれて次々と恋の花を咲かせているとの噂を耳にしていた。

 ラウラが問題なく踊れるようになると、彼はその手を離して、マリア=フェリシア姫に向き直った。さてさて、こっちの方が問題だな。

「さて、姫君。ステップは覚えていただけたでしょうか」
「だいたいね」
そういうと姫はことさら華やかで美しい笑顔を、彼がはっとして、見入ってしまうような角度で花開かせた。楽人たちが、ずっと真剣に重厚に演奏を始めると、二人は広間の中央で踊りだした。

「そう。お上手です」
そういいながら、姫を見つめるマックスを、部屋の隅からラウラが憂いに満ちた目つきで追っていた。
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Posted by 八少女 夕

50000Hitの御礼とリクエストについて

訪問してくださるみなさまの親切に支えられて、当ブログ「scribo ergo sum」は50000Hitを迎えました。ありがとうございます。感謝でいっぱいです。

雨の日も、風の日も、いや、連休中であろうと、ムカつく記事があろうと、見捨てずにここを訪れてくださった方、そして、数だけは多い小説を丁寧に読んでくださる親切な方、素晴らしいイラストで文字だらけの殺風景な作品に彩りを加えてくださった方、交流の企画を立ち上げると参加して盛り上げてくださった方。ここまで来れたのは、みなさまの優しく暖かい訪問と交流のおかげです。これからも精進してまいりますので、懲りずにおつき合いいただけたらとても嬉しいです。

さて、恒例のキリ番記念リクエストですが、今回は少し大きいキリ番なので、既にプレ告知したように参加型のリクエストに限定してお願いしたいと思います。

すなわち、リクエストをしてくださる方も、私に出すお題と同じ題で何かを書いて(描いて)ご自身のブログで発表していただきたいのです。(ブログがない、鍵つきで公開できないなどの場合の対処法は「scriviamo!」での発表方法に準じるものとします)

お題は既に一度申し上げましたが、「お題で遊べる? 2014」の企画に合わせて、地名の入っているものでお願いしたいと思います。地名だけ(例:「江戸」)をご指定いただいても構いませんし、お題そのもの(例:「落葉のウィーンを旅して」)をご指定いただいても構いません。加えて、キャラをご指定いただくことやコラボ希望などもOKです。(公序良俗に著しく反する内容のリクエストは引き受けかねますのでご了承ください)

 * 地名の使い方の例はこの記事をどうぞ 「お題で遊べる? 2014

なお、私はお題をいただいてから基本的には十日前後(リクエストが続いた場合は、順次……)で掌編小説を発表すると思いますが、出題者の方は小説ではなくても構いません。イラスト、旅行記、雑記、何でもOKです。さらに、その記事をアップする期限はありません。ごゆっくりどうぞ(ただ、私がブログをやめるまでには、読みたいです……)

リクエストはこの記事のコメント欄からお申し出ください。

ご自身で書いていただく記事(作品含む)は、記事タイトルまたは作品タイトルに地名が入っているものであるならば、過去に発表したものでも構いません。

今回のリクエストは、ご自身も何かを書いていただくというハードルがあるため、人数制限ならびに当面のリクエスト期限はありません。この記事のコメント欄からいつでもお氣軽にどうぞ。
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Posted by 八少女 夕

ギターの話

まずは連絡事項です。まもなく当ブログの50000Hitが来そうですが、今回の記念リクエストは早い者勝ちではなく、人数制限や期限もありません。過ぎてからリクエスト要項を改めて記事にさせていただこうと思っています。狙っていらっしゃる方は、恐縮ですがその記事をお待ちくださいませ(笑)

さて、今日は、去年の五月に始めたギターの話でもしてみましょうか。


楽器演奏やその他を趣味としてなさっているブログのお友だちの記事を読むと、みなさんとても本格的にやっていらっしゃるんですが、クラッシックギターをはじめた私はいつまで経っても超初心者のままです。一年以上経っているのに、まだ初心者用の教則本をちんたらと進めています。ちゃんと習いに行った方がいいと知りつつ、まだ自習中。

習いにいくためには、ドイツ語を習っている先生をやめなくてはいけないのだけれど、この方は95歳の、歴史の生き証人のような方で、その話を聞ける貴重なチャンスを自ら退けてはいけないと思うから。平日のそれ以外の時間は仕事をしていて、東京のように休日や夜間好きな時に習えるチャンスが転がっているわけでもありません。だから、しばらくは自己流だけれど一人で勉強しています。

で、いろいろな練習曲を経て、ようやく「禁じられた遊び」の前半がまあまあ弾けるようになってきた程度の体たらくです。一年半近く経っているのに。後半を弾くには右手がまだちゃんと開かないし、セーハもちゃんと音が出ていない。並行して簡単なブレシャッネッロの「バルティータ」も弾きはじめていますが、まともな曲になるのはもう少し先そう。でも、期限があるわけでなし、のんびり練習しています。

ご存知の方もいらっしゃいますが、私は両親ともクラッシックの音楽家の家庭で育ちました。当然ながら両親は私(と姉)に音楽をやらせようといろいろと骨を折り、高いレッスン代も払ってくれて先生の所に通わせてくれたのですが、結局初心者段階で抵抗してやめました。その私のやめたい理由を両親はどうしても理解できなかったようです。——音符が読めない。

大人になって自分の意志でギターをはじめて、あの頃の私の主張がただの怠け者のいいわけだったのか、自分でも関心があって、再び楽譜と真剣に向き合ったのです。でも当時とまったく、同じでした。私には大きなハンドキャップがある事がはっきりしたのです。楽譜が読めないんです。そりゃ、止まって下から線を数えて計算すればそれがどの音なのかわかりますよ。でも、それじゃ音はいつまで経っても出せないんです。

どうやら他の音楽をする人には、あの五線譜が「abcdef」と書いてあるかのようにパッと脳に伝達されるようなのですが、私にはベトナム文字やルーン文字のようにしか認識できないのです。一文字ずつ、どういう音を示す文字なのかを本で確認しているようではいつまで経っても音読できませんよね。私にとっての五線譜上の音符は、ああいう風にしか見えないのです。

どうやって弾いているかというと、昔と全く同じメソッド、完全に暗譜するのです。頭ではなくて手が憶えてしまうまで。子供の頃のピアノ教室で楽譜を見ながらのレッスンでは全然だめだったのに「じゃあ、ようやくできるようになったので暗譜でいってみましょう」といわれると、即座にできてしまい首を傾げられていたのを思いだしました。

そんなわけで、先生につくのも、別の意味で不安です。でも、これはプロになるためではなくて、定年後の趣味のためなので、自己流のままでいいかなとも思っています。

ところで、そんなわけで私はちゃんとした楽譜で弾くのを諦めてTAB譜を使っているのですが、これだと好きな曲の楽譜が簡単に手に入らないというハンディキャップがあります。わりと簡単そうに響くのでいつか弾きたいなと思っていた曲があって、そのTAB譜をネットで探しまくっていました。

それがついに見つかったのですよ。見つけるまでが大変でした。なぜならば、それはもともとギター曲ではなかったからです。ドメニコ・チマローザの鍵盤楽器用のソナタの中の一曲でした。だから「Domenico Cimarosa Guitar Sonata B Minor」と検索してもなかなか見つからなかったのですよ。でも、タダのTAB譜をなんとか見つけて無事ダウンロードできました。ちょっと嬉しかったです。

どんな曲かというと、こんな曲です。いつ弾けるようになるでしょうか。いや、この手の動きを見る限り、そんなに簡単ではなさそう(orz)

Larghetto Domenico Cimarosa, performed by Patricio Cadena Perez, guitarist and composer
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Posted by 八少女 夕

職人たちへのオマージュ

「Infante 323とポルトの世界」カテゴリーの記事です。オリジナル小説「Infante 323 黄金の枷」にはモデルとなったポルトの街が時々登場しますが、フィクションの部分と現実との混同を避けるためにあくまでも「Pの街」として書いています。そういうわけで、本文中には挿入できなかったポルトの写真をこのカテゴリーにてお見せしています。

小物屋のおじさん

主人公23(インファンテ323)を靴職人にしたのには理由があります。ポルトガルは手工業が盛んで、その質が高いことでも有名です。(あ、日本もそうですよね)

ヨーロッパの中で、ポルトガルという国は物価や人びとの平均賃金が比較的低めです。それに加えて真面目な人びとの氣質と出来上がってくる製品が良質であることが好まれて、ヨーロッパの他の国で販売する高級品をポルトガルで生産して輸入するということが、よくあるのです。

某国の有名百貨店で、その百貨店のロゴの入った高級品を買ったとして、その箱の裏をよく見てみると「Made in Portugal」と書いてあったりするのです。

ポルトガルの無名の靴職人が作った靴が、イタリアに運ばれて有名デザイナーの工房でロゴだけが刻印され、「Made in Italy」となり、その後三倍くらいの値段で売られているという話をポルトで聞きました。作中でアマリアがマイアに語っている話の元ネタです。最終加工をした国を「Made in XX」とする、というルールに基づいてそうなるらしいのですが、刻印以外は全てポルトガル製でもそうなるんですって。刻印がないだけで全く同じ靴が、ポルトガルに来ればとてもお買い得に手に入るというわけです。

靴修理のおじいさん

このおじいさんは、連れ合いの靴の修理をしてくれた方。言葉がほとんど通じなかったけれど、ちゃんとやってくれました。頑固一徹という感じで、最初は無愛想でしたが、最後ににっこり笑ってくれました。そして、仕事は完璧。ものすごい誇りを持ってやってくれます。お値段は、スイスでの四分の一くらいでしょうか。

作中で23がマイアに飲ませるコーヒーも、どこかの工場でロポットによって大量生産されているものではなくて、市内の店で豆のブレンドから焙煎まで自分たちでやっているという昔ながらのコーヒー豆専門店のことをテレビで見たのがヒント。テレビで紹介していたお店はポルトではなくてリスボンにありました。

23のいつも着ている洋服、使っている石鹸、その他どんなものでも、可能な限り地元の手工業をサポートする形で最高品質のものを用意させているという設定です。

名前のない靴職人を主人公にしたこの作品は、有名ではないけれど良質の製品を黙々と作り続けている世界中の職人たちへのオマージュでもあります。

この記事を読んで「Infante 323 黄金の枷」が読みたくなった方は……

「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物
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Posted by 八少女 夕

【小説】Infante 323 黄金の枷(7)靴

普通はStella用に月末の月一回発表する小説ですが、このブログのメイン小説デーが水曜日なので一日遅れました。「Infante 323 黄金の枷」です。今回からようやく本題に入りました。ちょっと恋愛小説っぽくなってくると同時に、読者のみなさまの「?」を二つ、23自身が回答しています。

月刊・Stella ステルラ 10月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(7)靴

「失礼します。洗濯物いただきにきました」
その午後、マイアはマティルダと一緒に洗濯当番に当たっていた。まず二人で24の所に行き、大量の衣類を集めた。23の方も持てそうだったので、その居住区に入っていった。

 階段を下りていこうとすると、23が作業を中断して自ら昇ってきた。
「フェレイラ、その前に、ちょっと来い。今日の掃除、なってないぞ」
厳しい声でマイアを三階の方に行くように促した。

「ええと、どこがまずかったんでしょうか、メウ・セニョール」
「いろいろ言いたいことはあるが、まずはバスルームだ」
マティルダは目で「先に行くね」と合図したので頷き、マイアは23に続いて昇っていった。

 バスルームに来ると洗面台を指差した。
「水滴が残っているし、付け根の所が拭けていない。このままにしておくと痕になるんだ。どうやって拭いたんだ、再現してみろ」
「ええと」
マイアは23に渡されたタオルで今朝やったとおりに蛇口をひと通り拭った。

「それじゃ付け根は触ってもいないじゃないか。よこせ」
そういって蛇口の周りにタオルを巻き付けて左右に交互に引っぱり付け根を磨いた。
「あ、そうか」

 納得したマイアが言われた通りにやっている時に小声で言った。
「ライサのことをおおっぴらに嗅ぎ回るな。すぐに追い出されるぞ」

 マイアは振り向いて彼を見た。23は人差し指を口に当てていた。
「知っているのね」
23は知っているとも知らないとも言わなかった。その時にはもうマイアの足下を見ていた。

「お前、いつも変な歩き方しているな」
「え?」

「歩く時になぜそんなにバタバタしているんだ。その靴、履き慣れていないのか」
「しょうがないでしょう。普段はもっと楽な靴だけど、このお館ではパンプスを履かなくちゃいけないんだもの。男の人にはわからないと思うけど、パンプスで歩くのって痛いんだから」
「見せてみろ」

 マイアは素直に片方脱いでみせた。その靴を見て、23は眉をしかめた。三センチヒールのソールが真っ平らな安物の靴だった。

 次の朝にアマリアが掃除に入った時に、23は後でマイアに来るように伝言した。
「また何かを怒られるのかなあ」
マイアは首を傾げながら行った。居住区に入り声をかけると彼は下から呼んだ。
「来たか。こっちに降りて来い」

 工房に行くと、23は作業をやめて床に置いた小さな箱の上に座った。その前には水を張ったバケツ、粘土に見える物を入れた箱が二つあった。さらにその前には椅子があってマイアにそこに座るように言った。彼女は怖々座った。

「靴下を脱いで足を出せ」
「え? 両方?」
「まずは右だけ」

 言われるままに椅子に座り、右の靴と靴下を脱いだ。彼はその足首とかかとを両手で持って粘土の上に移動させた。
「まず力を抜いて。俺が動かせるように。そう、この形のまま、ゆっくり下に降ろして……」
マイアの足は粘土にわずかに沈んだ。型を取っているのだ。

 粘土からマイアの右足をそっと引き上げると粘土を自分の後ろに移動させてバケツをマイアの前に動かし、粘土で汚れた足をそっと洗った。

 昨日からのきつい言葉や態度とは裏腹に、マイアの足を扱う23の手はとても丁寧で優しかった。冷たい粘土の感触、そっと洗ってくれる彼の手指にドキドキした。心臓がきゅうとねじられたようだった。

「あの……何をしているの」
23はなんでもないようにマイアの顔を見上げた。
「お前の靴を作る。そんなひどい靴を履いていたら、直に足がおかしくなる」
そう言って、タオルで彼女の右足を拭くと、左足も同じように型を取った。


「まあ、なんてうらやましい」
キッチンでジャガイモの皮を剥いている時に、その話をしたらアマリアは驚いて言った。
「ご主人様だから?」
マイアが訊くとアマリアは首を振った。
「それもそうだけれど、それよりも、作っていただく靴よ」
「?」

「23の作られる靴の一部はね、ノーブランドで街のちょっと有名な老舗の靴屋で売られているのだけれど、常連が待ち構えていて店頭に出すとすぐに売り切れてしまうの。それ以外はイタリアの有名デザイナーの所に送られて、そこでマークが刻印されてメイド・イン・イタリーのデザイナーブランドシューズになるのよ。評判が良いのでここ数年はそれぞれの靴型に合わせたオーダーメードの注文がほとんどなんだけれど、聞いたところによるとイタリアでの末端価格は1000ユーロを超しているらしいわ」
「ええ~」

「どんな成り行きで作っていただくことになったの?」
「……。私の靴がひどすぎて許せないって」
アマリアは思わず吹き出した。

 次に掃除に入った時に見ると、23はパンプスを作っていた。
「これ、お前のだぞ」

 たくさんの注文品を横においてマイアの靴を作ってくれているので「いいの」と訊くと23は笑った。
「俺たちインファンテは経済的には、働かなくてもいいんだ。でも、何もしていないでブラブラしていると腐るから働くことを奨励されている。そんな理由での仕事なので、絶対的な納期は設定されていない。どうしても俺の作る靴がほしいヤツは、待つしかない。だれもその靴職人がどこにいるのか知らないし、その職人を急がせることはできない。ドイツ人や日本人のようにせっかちな奴らが理由を訊くと、受け答えをするヤツはこう答える。イヤなら他の靴屋に行きなってね」

 楽しそうに靴を仕上げている彼を眺めながら、マイアは近くに寄った。
「ねえ。23、訊いてもいい?」
「何を」

「どうして番号の名前なの?」
23は顔を上げてマイアを見た。特に怒っているようにも見えなかったので、彼女はほっとした。

「番号の名前じゃない、番号なんだ。名前はない」
「23って名前じゃないの?」

「323というのはインファンテの通番だ。といってもインファンテ1がどの時代のどの当主の子だったかはわからない。いつ生まれていつ死んだかもわからないし、1の前に同じ境遇の人間がいたかどうかも知られていない。単に1から数えて323人めが俺というだけだ。ドラガォンのインファンテに関する記録は一切ないんだ。それに伝統的に名前はつけない」

「どうして?」
「存在していないから」

 マイアは口を尖らせた。
「存在しているよ。ここにいるじゃない」

 23は道具を横において、立ち上がるとエスプレッソマシンの所へ行ってコーヒーをセットした。シューッという音がして、コーヒーがカップに注がれた。マイアは23が二つ目のコーヒーを淹れるのを黙って見ていた。答えたくないのかな。けれど、彼はコーヒーをテーブルに置いて、目でマイアに座るように指示した。勤務中なんだけどな、そう思いながらもマイアは素直に座った。

「俺たちはね。番号で呼ばれてきた324人の男たちは、歴代当主のスペアなんだ」
「スペア?」

「食堂に飾ってある系図、変だと思わなかったか?」
「え?」

「何代になるのかも数えられないような長い間、ずっと直系の男子一人だけが続いている。兄弟姉妹もなければ、配偶者の名前もない。自然じゃないと思わないか」

 そう言われれば確かに。普通の家系図はもっと広がり、当主になるものは時々遡ったり、傍系に移ったりするのに、ドラガォンの家系図はずっと一本だけだった。

「当主の最初の男子は名付けられて星五つのプリンシペとなる。そして父親が死んだら当主になる。だが、その当主が子供を残す前に死んでしまったら? もしくはあちこちに、似たような相続権を持つ男子が散らばって争いだしたら? この家系が途絶えてしまうかもしれない。そのリスクを最小限にするためにプリンシペに完全に入れ替われるようなスペアを用意しているんだ。その子たちは同じ父親の血を引いているので、直系に間違いはない。もし当主が跡継ぎとなるプリンシペを作る前に死んだら、同世代のスペアと入れ替える。インファンテには生まれた順に番号がついていて、機械的に繰り上げるだけだ。争いも起きようがない。インファンテが当主やプリンシペの名前を引き継ぎ、その人間として生きるんだ」

「でも、そんなの変だよ。普通の家みたいに、次男、三男として普通に生きていてもお兄さんが亡くなった跡を継げるじゃない」
「そうだね。でも、他の家と違うことがある。この家系で何よりも大切なのは血脈を途絶えさせないことだ。それぞれの人間がどんなことを成し遂げるか、どんな人生を生きるかよりも、子孫を残すことの方が重要なんだ。いや、それだけが重要なんだ」

「あの家系図の最初の人の血を残しているの? 何者なの?」
「あの人じゃないよ。あれはたった五百年前の人じゃないか」
「たった……」
「あれは《監視人たち》のシステムも《星のある子供たち》の腕輪もちゃんと整い、この館ができた時の当主だ」

「じゃあ、一体誰の血脈なの?」
「知らない。それに、それはもう重要じゃない」
「なんで?」
「そんなことに関係なくシステムが作動しているからだ。誰の子孫だろうと関係なく、《星のある子供たち》には腕輪が嵌められ、この街から出て行けないように閉じこめられるんだ」

「濃い血脈を途絶えさせないためだけに?」
「そうだ」

 それから突然話題を変えた。
「このコーヒー、どうだ?」
「え。すごく美味しい。とてもいい香り。ここで挽いているの?」
「ああ、専門店から取り寄せてもらったんだ。このブレンドに辿りついたのは最近なんだ」
「どうして?」
「一人で飲んでいるとなかなか減らないんだ」

 マイアは不思議に思った。あれ、だっていま私と飲んでるのに。マティルダたちとは飲まないのかな。
「もしかして勤務中にこんなことしてちゃいけないのかしら」
「俺に頼まれて手伝っていたと言えばいいさ」

 
* * *


 出来上がった靴は、マイアがそれまで履いていたよりも一センチヒールが高いにも関わらず、どこも痛くなかった。足全体がぴったりと包み込まれ、土踏まずもぴったりと寄り添った。履いて立ったその瞬間だけでなく、歩いた時の全ての動きに靴はついてきた。

「23、すごいよ、この靴。パンプスなのに、どこも痛くない。歩いてもぴったりついてくる」
「しばらく履いていると、馴染んでくる。そうしたらもう一度調整しよう」

「ねえ、23。どうして靴を作ることになったの?」
「ん?」
「靴が好きだったの?」
「はじめから好きだったわけじゃない。習える仕事の中で、一番興味があったから。変か?」

「うん。お金持ちの子息が習う仕事のイメージと違う」
「どんな仕事がイメージ通りなんだ?」
「作家とか。音楽家、評論家、それに、画家やデザイナー」

 23は口先だけで笑った。
「そりゃ、全部ダメだ」
「ダメって?」

「この作品はだれが作ったのだろうと、疑問を持たせるようなものを作ることは許されていない」
「あ……」
「ラジオの部品を組立てる。服を縫う。プラリネを作る。それらを作るには時間と手間がかかり、誰かが完成させたことは意識していても、誰がやっているかは考えないだろう? 俺たちに許されているのはそういう仕事だ。叔父の322はニワトリの形をした木彫りのコルク飾りに彩色をしている。24は観光客用のTシャツや絵はがきをデザインしている。そして俺は靴を作る」

 その午後いつものように働いて、マイアは23が作ってくれた靴にとても驚いた。前の靴と全く違うのは履いた感触だけではなかった。今までは夜になると足が痛くて悲鳴を上げていたのに、まったく疲れていなかった。

 マイアは翌日の朝、礼を言うために工房に降りて行った。すると驚いたことに、二足目の靴ができていた。
「どうして二つも?」

23は呆れた顔をした。
「靴は毎日続けて履くな。ちゃんと休ませるんだ」

 マイアは23に言われるまでもなく、毎晩靴の手入れをした。こんな風に靴を大事に思ったことはなかった。靴が歩き方や姿勢、ひいては生き方にまで影響を及ぼすような存在なのだとはじめて理解した。
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