【小説】君の話をきかせてほしい
月に一度発表する読み切り短編集「十二ヶ月の野菜」の十二月分です。このシリーズは、野菜(食卓に上る植物)をモチーフに、いろいろな人生を切り取る読み切り短編集です。最終月に選んだテーマは「大根」です。冬の大事な食材。シンプルだけれど存在感のある野菜を最後に持ってきました。その分小説としての料理が大変でした。
去年初登場した『でおにゅそす』の涼子が登場しました。そして、客としてやってきた青年。読んでいくうちにデジャヴを感じるかもしれません。
とくに読む必要はありませんが、『Bacchus』の田中佑二と『でおにゅそす』の涼子を知らない方でお読みになりたい方のためにリンクを貼っておきます。
「バッカスからの招待状」シリーズ
「いつかは寄ってね」

君の話をきかせてほしい
吐く息が白くなるこの時期は、年の瀬を感じて誰もが早足になる。華やかな街の喧噪にどこが浮き足立った人たちが忘年会やクリスマス会食をはしごする。カウンター席しかない二坪ほどの小さな『でおにゅそす』もこの時期はかきいれ時だ。会食で飲み足りない男たちが、ほろ酔い加減で立ち寄り、涼子の笑顔と数杯の日本酒に満足して家路につく。
だが、その青年はそうしたほろ酔い加減はみじんも感じさせなかった。引き戸をためらいがちに開けて、小さな看板と手元のメモを見較べながら入ってきたので、誰かからの紹介なのだなと思った。実際、涼子の一度も見たことのない客だった。歳の頃は三十代半ばというところだろうか。
「いらっしゃいませ」
ちょうど多くの客が帰りほとんどの席が空いていたが、その青年の佇まいから彼女は騒ぐ常連たちから離れた入口に近い席を勧めた。青年は軽く会釈をしてトレンチコートを脱いだ。焦げ茶色のアラン編みのセーター。勤めの帰りではないらしい。
「何になさいますか」
おしぼりを手渡しながら涼子は訊いた。青年は戸惑いながら、カウンターに立っている小さなメニューを覗いた。
「では、日本酒を……どれがいいんだろう。詳しくないのでお任せします」
常連の西城が赤い顔をしてよろめきながら近づいてきた。
「兄ちゃん、見慣れない顔だね。この店を見つけたのはらぁっきぃってやつさ。せっかくだから『仁多米』にしなさい。ありゃ、美味いよ」
それから涼子に満面の笑顔を見せた。
「じゃあね、涼ちゃん。今日はかかあの誕生日だからさ、帰んなくっちゃいけないけど、また明日来るからさ」
その後に青年に酒臭い息を吹きかけて言った。
「楽しんでいきなよ。でも、涼ちゃんを誘惑しちゃダメだよ。俺らみんなのアイドルなんだから……」
青年は滅相もないと言いたげに首を振った。
「もう、西城さんったら、失礼だわ。若い方がこんなおばさんに興味持つわけないでしょう」
「涼ちゃんは、歳なんか関係なく綺麗だからさ。今日のクリスマス小紋もイカすよ」
黒地に南天模様の小紋に柊をあしらった名古屋帯を合わせた涼子のセンスをを褒めてから西城は出て行き、店の中には西城の近くに座っていた半従業員のような板前の源蔵と、青年だけになった。
涼子は少し困ったように笑った。
「ごめんなさいね。西城さん、いい方なんだけれど、ちょっと酔い過ぎているみたい」
「いいえ。とんでもない。あの方のおすすめのお酒をお願いします」
礼儀正しく青年は答えた。
涼子は小さいワイングラスに常温の日本酒を注いだ。
「このお酒ね。奥出雲にいる知り合いの方が送ってくださったの。こうして飲んでみてって」
青年は黙って頭を下げると、ワイングラスを持ち上げてそっと香りをかいだ。服装や佇まいには都会の匂いがないが、ワイングラスを傾ける姿は洗練されている。どの畑の人なのだろうといぶかった。そもそも誰がこの店に送り込んだのだろう。
青年の携帯電話がなった。礼儀正しく「失礼」と言うと青年は電話を受けた。
「あ、うん。そうか。まだ当分かかるんだね。いや、氣にしないでくれ。今、神田にいるんだ。……ああ、終わりそうになったら、電話してくれれば、またさっきの『Bacchus』へ行くから……」
涼子は目を丸くした。電話を切った青年をまじまじと見た。
「佑二さん、いえ、大手町『Bacchus』の田中さんが、ここを?」
青年は黙って頷いた。それからコートの内ポケットから、名刺を取り出してしばらく迷いつつ手元で遊ばせていた。それから、ゆっくりと顔を上げると、決心したようにその名刺を涼子に手渡した。
忘れもしない、佑二の筆跡が目に入った。
「涼ちゃん。身につまされる悩みを抱えたお客さんなんだ。よかったら女性の観点から君の意見を話してあげてくれないか。田中佑二」
瞬きをしながら言葉を探している涼子に、青年はもう一度頭を下げてから急いで言った。
「すみません。実は先ほど、『Bacchus』でつき合っている女性と飲んでいたんですが、彼女が急遽仕事で呼び出されて。それで一人で田中さんと話しているうちに、人生相談みたいなことをしてしまって。心配した田中さんが、ここへ行って女性の考えを訊いてみろって。本当に相談するつもりで来たわけではないんですが、待ち時間がかなりあってずっとあそこにいたら、忙しい田中さんにも迷惑だろうし、東京には滅多に来ないので、店もほとんど知らなくて……」
涼子は、ふっと笑った。
「ご飯は食べていらしたんですか?」
青年ははっとしたように顔を上げた。
「あ、いや、まだ……」
源蔵がすっと立って、涼子に話を聞いてやれと目配せをした。そして、カウンターに入って、簡単なつまみを用意しだした。涼子は小皿と割り箸を用意し、突き出しの蒟蒻と小松菜のごま油炒めを青年の前に置いてやった。青年は再び頭を下げた。
「それで。どちらからいらしたの?」
「静岡です。新幹線に乗るのも何年ぶりだろう。自分の街からほとんどでたことがなくて。東京がこんなに広くて華やかなのをすっかり忘れていました」
「いらしたのはその女性に逢うため?」
「はい。ずっと昔に東京に引越した女性で、数ヶ月前に再会してから、ほぼ毎週末に来てくれるんですが、たまには自分が逢いに来るべきだと思って」
「平日に?」
「僕も飲食店をやっていて、明日が定休日なんです。クリスマスはかきいれ時なんで、今日明日を逃したら当分は来られません。彼女は僕が来ると知って明日の有休を取ってくれたんですが、どうしても対処しなくてはいけないことができて、明日休むためにまた仕事に戻ることになって……」
涼子にも、青年の暗い顔の原因がこの女性に関することなのだろうと推測できた。でも、佑二さんの「身につまされる悩み」っていうのは何かしら。
青年はサーモンと白菜の和風ミルフィーユ仕立てをゆっくりと食べると、「仁多米」を味わうように飲み、目を閉じた。それからほうっと息をついた。
「美味しいですね。こういう味、本当に久しぶりだ。ほっとします」
この青年は疲れているのだと思った。
「お店は、洋食関係なの?」
涼子が訊くと青年は頷いた。
「カフェなんです。うちのあたりには、料理もケーキも、それからコーヒーの淹れ方までもこだわった本格的な店はなくて、かなり自負を持っているんですが、東京だと珍しくもなんともないですね」
「おつき合いなさっている方がそうおっしゃったの?」
「いいえ。彼女は、僕のやっていることを尊重してくれています。だから、仕事が忙しくて疲れていても来てくれるし、僕の方でたくさん時間が取れなくても文句も言わずに手伝ってくれます」
「羨ましいくらいに、お幸せに聞こえるけれど……違うの?」
青年はため息をもらした。
「ええ、そうですね」
涼子は源蔵と顔を見合わせた。青年はしばらく黙っていたが、グラスの透明な日本酒を揺らすのを止めて顔を上げた。
「東京は華やかですね。この時期に来るのは初めてなんですが、どこもイルミネーションが……」
「ああ、ここ数年、派手なイルミネーションが増えたねぇ。節電のなんとかっていう技術が発達してから、やけに増えたんじゃないか?」
「まあ源さんったら、LEDでしょう。そうね。そう言えば昔はこんなになかったわよね」
「華やかなライトに照らされたショーウィンドウに、高価で洒落た商品がたくさん並んでいて、彼女の着ているスーツも洗練されていて、なんだか自分だけ場違いな田舎者みたいだし、用意してきたプレゼントもつまらない子供騙しに思えてしまって……」
涼子ははっとした。源蔵もなるほどね、という顔をした。
「わかるな。俺もはじめて東京に来た時、氣後れしたしさ。だけどさ、悩むほどのことでもないと思うぜ?」
源蔵の言葉に青年は首を振った。
「そのことで悩んでいるわけじゃないんです」
「じゃあ、何を?」
涼子が訊くと青年は、困った顔をした。
「すみません、こんな湿っぽい話をして」
「氣にするなよ。王様の耳はロバの耳って言うじゃないか。田舎と違って、ここで話したことはどこにも伝わらないし、話せばすっきりするぞ」
源蔵の言葉に涼子も微笑んで頷いた。青年は観念したように口を開いた。
「ここに、東京に来るまでは、たぶん単純に浮かれていたんでしょうね。新しい関係やぬくもりに。彼女は僕よりずっと若くて、きれいで、それなのに僕を慕ってくれて。夢みたいだと思ったんです。いつもの世界が華やかで明るくなり、心も身体も満足して。このまま関係を進めていけばお互いに幸福になれると」
「違うの?」
涼子は、そっと手を伸ばして空になった小鉢を引っ込めた。源蔵は黙ってゆずの皮を削った。
「僕は一度結婚に失敗しているんです。前の時のことを思いだしました。はじめは朗らかだった妻が、しだいに笑わなくなって……。一緒にいても苛立ちと不満のぶつけあいになっていきました。あの時、僕は彼女の変化の原因が分からなかった。ここにいたくない、大阪に戻りたいという妻の言葉をわがままとしかとらえられなかった。大して儲からない店に固執するのは馬鹿げているとも言われました。確かに楽な暮らしはできないのですが、店に対する熱意は僕の存在意義そのもので、それを否定されてまで一緒にいられなかった」
涼子はじっと青年を見つめた。涼子の姉である紀代子が、田中佑二のもとを去って姿を消してしまった時、彼女も佑二も理解ができなかった。涼子はできることならば姉の立場になって『Bacchus』に全てを捧げる佑二を支えたかったから。佑二さんの「身につまされる悩み」っていうのはこれね……。
「今つき合っている女性は僕と店のことをよくわかっていて、きっとうまくやって行けるんじゃないかと思っていたんです。でも、この東京で颯爽と働く彼女の姿を見ていたら、これがこの女性の人生と生活なんだと、僕とはまるで違う世界に属している人なんだと感じました。僕が彼女に側にいてほしいと願い、あの小さなつまらない街に閉じこめたら、あの生き生きとした笑顔を奪うことになるのかもしれない。次第に不満だけがたまって、やがて別れた妻と同じように僕のことを嫌いになっていくのかもしれないと」
「私はそのお嬢さんと逢ったことがないからわからないけれど、仕事と東京での暮らしが人生を左右するほど大切だったら、週末ごとにあなたの所に通ったりしないと思うわ」
「でも……」
涼子はにっこり笑って青年の言葉を制した。
「確かに女ってね、仕事は仕事、愛は愛って分けられないの。全て一緒くたになってしまうのよね。もちろん全ての女性がそうだというつもりはないけれど」
「だとしたら……」
「あなたは男性だから、お仕事に関することは妥協できないんでしょう。お店を閉めてまで、彼女のために東京で暮らそうとは思わない。だから彼女に仕事を諦めてあなたの側に来てほしいと願うことは信じがたい苦痛を強いるように感じるんじゃないかしら。でも、私、きっと彼女はもっと簡単に幸福への道を見つけると思うわ」
涼子は大根の煮物を黙っている青年の前に置いた。
「ねえ、これを召し上がってご覧なさい。私ね、女って大根の煮物みたいなものだと思うの」
彼は訝しげに涼子を見たが、箸を取りすっと切れる柔らかい大根を口に入れた。出汁と醤油の沁みたジューシーな大根が舌の上で溶けていった。
「色は完全に染まってしまっているし、細胞の隅々まで出汁に浸かっている。それでも、出汁でもないしお醤油でもない、お大根そのものの味でしょう?」
青年は目を見開いた。それから、再び箸を動かして大根を口に入れた。涼子は続けた。
「お大根は淡白で、主張が少ないからどんな食材の邪魔もしないけれど、でも、あってもなくてもいいわけじゃないわ。たとえばおでんに入ってないなんて考えられないでしょう。ステーキやピッツァのような強い主張もないし、熱になるカロリーは少ない。その目的には向いていないわね。でも、食物繊維や消化酵素の働きで、消化を助けて胃もたれや胸焼けも解消してくれるとても優秀な野菜よ。どちらがいいというのではなくて役割が違うのね」
涼子は微笑んで続けた。
「女は本来とても柔軟なの。愛する人間に寄り添えるように、どんな形にでも姿を変えて、道を見つけることができる。でもね、それがあまりに自然なので、時おり男性はそれをその女性の本来の姿だと思ってしまうのね。あたり前なのだと思って意識しなくなってしまうの。そうやって認められなくなると、女のエネルギーは枯渇してしまって、もう合わせられなくなってしまう。男は女が変わったと思い、女はわかってもらえないと悩む。その心のずれを修復できないと、二人はどんどん離れていってしまうんだと思うわ」
青年はじっと涼子の顔を見た。彼女は安心させるように笑った。
「あなたはそのお嬢さんのことをちゃんと思いやっている。でも、言葉にするのをためらっていると、伝わらないわ。一生懸命やっていればわかるだろうなんて思わずに、あなたの想いを彼女に伝えてご覧なさい。どれだけ大切に思っているか、仕事のことも尊重したいと思っていること、側にいてくれたらいいと願っていることもね。彼女がどうしたいのかもちゃんと言葉にして訊いて、その上で、お互いに譲り合える所、妥協はできない点をすり合わせていけばいいのよ」
青年は頷きながら大根を噛みしめていた。
「今は二十一世紀だもの、いろいろな関係があっていいと思うの。男性に単身赴任があるように、女性にあってもいいでしょう。毎日出勤しなくてもいい働き方もあるし、別の仕事を見つけることもあるかもしれない。でも、全ての工夫は何があっても関係を保ちたいとお互いが意志を持つことから始まるんじゃないかしら。私はそう思うわ」
源蔵が笑った。
「涼ちゃん、いいこというねぇ。この人にここへ来いって言った、その『Bacchus』の田中さんとやら、よくわかっているんだねぇ」
涼子は口を尖らせた。
「とんでもないわ。佑二さんはもう少し女心を研究すべきよ。あの唐変木……」
そう言いながら、用事だけしか書かれていない田中の名刺を大切に懐にしまった。
源蔵は吹き出し、青年もようやく笑顔を見せた。折しも再び携帯電話が鳴り、彼は急いで「仁多米」を飲み干すと、アドバイスに心からの礼をいい、少し多めの代金を置いて立ち上がった。涼子は彼の迷いが晴れたことにほっとしながら訊いた。
「ところであなたのお店はどこにあるの。静岡に行くことがあったらぜひ寄りたいわ」
青年は嬉しそうに懐からコートから名刺を二枚取り出した。
「名乗るのが遅れてすみません。僕は吉崎護といいます。店は『ウィーンの森』といって、この駅のすぐ側です」
引き戸から立ち去る護の後ろ姿に、雪が舞いはじめた。少し早いクリスマス氣分。天も恋人たちのロマンスに加勢しているらしい。涼子と源蔵は嬉しそうに笑って、「仁多米」でもう一度乾杯をした。
(初出:2014年11月 書き下ろし)
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去年初登場した『でおにゅそす』の涼子が登場しました。そして、客としてやってきた青年。読んでいくうちにデジャヴを感じるかもしれません。
とくに読む必要はありませんが、『Bacchus』の田中佑二と『でおにゅそす』の涼子を知らない方でお読みになりたい方のためにリンクを貼っておきます。
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「いつかは寄ってね」

君の話をきかせてほしい
吐く息が白くなるこの時期は、年の瀬を感じて誰もが早足になる。華やかな街の喧噪にどこが浮き足立った人たちが忘年会やクリスマス会食をはしごする。カウンター席しかない二坪ほどの小さな『でおにゅそす』もこの時期はかきいれ時だ。会食で飲み足りない男たちが、ほろ酔い加減で立ち寄り、涼子の笑顔と数杯の日本酒に満足して家路につく。
だが、その青年はそうしたほろ酔い加減はみじんも感じさせなかった。引き戸をためらいがちに開けて、小さな看板と手元のメモを見較べながら入ってきたので、誰かからの紹介なのだなと思った。実際、涼子の一度も見たことのない客だった。歳の頃は三十代半ばというところだろうか。
「いらっしゃいませ」
ちょうど多くの客が帰りほとんどの席が空いていたが、その青年の佇まいから彼女は騒ぐ常連たちから離れた入口に近い席を勧めた。青年は軽く会釈をしてトレンチコートを脱いだ。焦げ茶色のアラン編みのセーター。勤めの帰りではないらしい。
「何になさいますか」
おしぼりを手渡しながら涼子は訊いた。青年は戸惑いながら、カウンターに立っている小さなメニューを覗いた。
「では、日本酒を……どれがいいんだろう。詳しくないのでお任せします」
常連の西城が赤い顔をしてよろめきながら近づいてきた。
「兄ちゃん、見慣れない顔だね。この店を見つけたのはらぁっきぃってやつさ。せっかくだから『仁多米』にしなさい。ありゃ、美味いよ」
それから涼子に満面の笑顔を見せた。
「じゃあね、涼ちゃん。今日はかかあの誕生日だからさ、帰んなくっちゃいけないけど、また明日来るからさ」
その後に青年に酒臭い息を吹きかけて言った。
「楽しんでいきなよ。でも、涼ちゃんを誘惑しちゃダメだよ。俺らみんなのアイドルなんだから……」
青年は滅相もないと言いたげに首を振った。
「もう、西城さんったら、失礼だわ。若い方がこんなおばさんに興味持つわけないでしょう」
「涼ちゃんは、歳なんか関係なく綺麗だからさ。今日のクリスマス小紋もイカすよ」
黒地に南天模様の小紋に柊をあしらった名古屋帯を合わせた涼子のセンスをを褒めてから西城は出て行き、店の中には西城の近くに座っていた半従業員のような板前の源蔵と、青年だけになった。
涼子は少し困ったように笑った。
「ごめんなさいね。西城さん、いい方なんだけれど、ちょっと酔い過ぎているみたい」
「いいえ。とんでもない。あの方のおすすめのお酒をお願いします」
礼儀正しく青年は答えた。
涼子は小さいワイングラスに常温の日本酒を注いだ。
「このお酒ね。奥出雲にいる知り合いの方が送ってくださったの。こうして飲んでみてって」
青年は黙って頭を下げると、ワイングラスを持ち上げてそっと香りをかいだ。服装や佇まいには都会の匂いがないが、ワイングラスを傾ける姿は洗練されている。どの畑の人なのだろうといぶかった。そもそも誰がこの店に送り込んだのだろう。
青年の携帯電話がなった。礼儀正しく「失礼」と言うと青年は電話を受けた。
「あ、うん。そうか。まだ当分かかるんだね。いや、氣にしないでくれ。今、神田にいるんだ。……ああ、終わりそうになったら、電話してくれれば、またさっきの『Bacchus』へ行くから……」
涼子は目を丸くした。電話を切った青年をまじまじと見た。
「佑二さん、いえ、大手町『Bacchus』の田中さんが、ここを?」
青年は黙って頷いた。それからコートの内ポケットから、名刺を取り出してしばらく迷いつつ手元で遊ばせていた。それから、ゆっくりと顔を上げると、決心したようにその名刺を涼子に手渡した。
忘れもしない、佑二の筆跡が目に入った。
「涼ちゃん。身につまされる悩みを抱えたお客さんなんだ。よかったら女性の観点から君の意見を話してあげてくれないか。田中佑二」
瞬きをしながら言葉を探している涼子に、青年はもう一度頭を下げてから急いで言った。
「すみません。実は先ほど、『Bacchus』でつき合っている女性と飲んでいたんですが、彼女が急遽仕事で呼び出されて。それで一人で田中さんと話しているうちに、人生相談みたいなことをしてしまって。心配した田中さんが、ここへ行って女性の考えを訊いてみろって。本当に相談するつもりで来たわけではないんですが、待ち時間がかなりあってずっとあそこにいたら、忙しい田中さんにも迷惑だろうし、東京には滅多に来ないので、店もほとんど知らなくて……」
涼子は、ふっと笑った。
「ご飯は食べていらしたんですか?」
青年ははっとしたように顔を上げた。
「あ、いや、まだ……」
源蔵がすっと立って、涼子に話を聞いてやれと目配せをした。そして、カウンターに入って、簡単なつまみを用意しだした。涼子は小皿と割り箸を用意し、突き出しの蒟蒻と小松菜のごま油炒めを青年の前に置いてやった。青年は再び頭を下げた。
「それで。どちらからいらしたの?」
「静岡です。新幹線に乗るのも何年ぶりだろう。自分の街からほとんどでたことがなくて。東京がこんなに広くて華やかなのをすっかり忘れていました」
「いらしたのはその女性に逢うため?」
「はい。ずっと昔に東京に引越した女性で、数ヶ月前に再会してから、ほぼ毎週末に来てくれるんですが、たまには自分が逢いに来るべきだと思って」
「平日に?」
「僕も飲食店をやっていて、明日が定休日なんです。クリスマスはかきいれ時なんで、今日明日を逃したら当分は来られません。彼女は僕が来ると知って明日の有休を取ってくれたんですが、どうしても対処しなくてはいけないことができて、明日休むためにまた仕事に戻ることになって……」
涼子にも、青年の暗い顔の原因がこの女性に関することなのだろうと推測できた。でも、佑二さんの「身につまされる悩み」っていうのは何かしら。
青年はサーモンと白菜の和風ミルフィーユ仕立てをゆっくりと食べると、「仁多米」を味わうように飲み、目を閉じた。それからほうっと息をついた。
「美味しいですね。こういう味、本当に久しぶりだ。ほっとします」
この青年は疲れているのだと思った。
「お店は、洋食関係なの?」
涼子が訊くと青年は頷いた。
「カフェなんです。うちのあたりには、料理もケーキも、それからコーヒーの淹れ方までもこだわった本格的な店はなくて、かなり自負を持っているんですが、東京だと珍しくもなんともないですね」
「おつき合いなさっている方がそうおっしゃったの?」
「いいえ。彼女は、僕のやっていることを尊重してくれています。だから、仕事が忙しくて疲れていても来てくれるし、僕の方でたくさん時間が取れなくても文句も言わずに手伝ってくれます」
「羨ましいくらいに、お幸せに聞こえるけれど……違うの?」
青年はため息をもらした。
「ええ、そうですね」
涼子は源蔵と顔を見合わせた。青年はしばらく黙っていたが、グラスの透明な日本酒を揺らすのを止めて顔を上げた。
「東京は華やかですね。この時期に来るのは初めてなんですが、どこもイルミネーションが……」
「ああ、ここ数年、派手なイルミネーションが増えたねぇ。節電のなんとかっていう技術が発達してから、やけに増えたんじゃないか?」
「まあ源さんったら、LEDでしょう。そうね。そう言えば昔はこんなになかったわよね」
「華やかなライトに照らされたショーウィンドウに、高価で洒落た商品がたくさん並んでいて、彼女の着ているスーツも洗練されていて、なんだか自分だけ場違いな田舎者みたいだし、用意してきたプレゼントもつまらない子供騙しに思えてしまって……」
涼子ははっとした。源蔵もなるほどね、という顔をした。
「わかるな。俺もはじめて東京に来た時、氣後れしたしさ。だけどさ、悩むほどのことでもないと思うぜ?」
源蔵の言葉に青年は首を振った。
「そのことで悩んでいるわけじゃないんです」
「じゃあ、何を?」
涼子が訊くと青年は、困った顔をした。
「すみません、こんな湿っぽい話をして」
「氣にするなよ。王様の耳はロバの耳って言うじゃないか。田舎と違って、ここで話したことはどこにも伝わらないし、話せばすっきりするぞ」
源蔵の言葉に涼子も微笑んで頷いた。青年は観念したように口を開いた。
「ここに、東京に来るまでは、たぶん単純に浮かれていたんでしょうね。新しい関係やぬくもりに。彼女は僕よりずっと若くて、きれいで、それなのに僕を慕ってくれて。夢みたいだと思ったんです。いつもの世界が華やかで明るくなり、心も身体も満足して。このまま関係を進めていけばお互いに幸福になれると」
「違うの?」
涼子は、そっと手を伸ばして空になった小鉢を引っ込めた。源蔵は黙ってゆずの皮を削った。
「僕は一度結婚に失敗しているんです。前の時のことを思いだしました。はじめは朗らかだった妻が、しだいに笑わなくなって……。一緒にいても苛立ちと不満のぶつけあいになっていきました。あの時、僕は彼女の変化の原因が分からなかった。ここにいたくない、大阪に戻りたいという妻の言葉をわがままとしかとらえられなかった。大して儲からない店に固執するのは馬鹿げているとも言われました。確かに楽な暮らしはできないのですが、店に対する熱意は僕の存在意義そのもので、それを否定されてまで一緒にいられなかった」
涼子はじっと青年を見つめた。涼子の姉である紀代子が、田中佑二のもとを去って姿を消してしまった時、彼女も佑二も理解ができなかった。涼子はできることならば姉の立場になって『Bacchus』に全てを捧げる佑二を支えたかったから。佑二さんの「身につまされる悩み」っていうのはこれね……。
「今つき合っている女性は僕と店のことをよくわかっていて、きっとうまくやって行けるんじゃないかと思っていたんです。でも、この東京で颯爽と働く彼女の姿を見ていたら、これがこの女性の人生と生活なんだと、僕とはまるで違う世界に属している人なんだと感じました。僕が彼女に側にいてほしいと願い、あの小さなつまらない街に閉じこめたら、あの生き生きとした笑顔を奪うことになるのかもしれない。次第に不満だけがたまって、やがて別れた妻と同じように僕のことを嫌いになっていくのかもしれないと」
「私はそのお嬢さんと逢ったことがないからわからないけれど、仕事と東京での暮らしが人生を左右するほど大切だったら、週末ごとにあなたの所に通ったりしないと思うわ」
「でも……」
涼子はにっこり笑って青年の言葉を制した。
「確かに女ってね、仕事は仕事、愛は愛って分けられないの。全て一緒くたになってしまうのよね。もちろん全ての女性がそうだというつもりはないけれど」
「だとしたら……」
「あなたは男性だから、お仕事に関することは妥協できないんでしょう。お店を閉めてまで、彼女のために東京で暮らそうとは思わない。だから彼女に仕事を諦めてあなたの側に来てほしいと願うことは信じがたい苦痛を強いるように感じるんじゃないかしら。でも、私、きっと彼女はもっと簡単に幸福への道を見つけると思うわ」
涼子は大根の煮物を黙っている青年の前に置いた。
「ねえ、これを召し上がってご覧なさい。私ね、女って大根の煮物みたいなものだと思うの」
彼は訝しげに涼子を見たが、箸を取りすっと切れる柔らかい大根を口に入れた。出汁と醤油の沁みたジューシーな大根が舌の上で溶けていった。
「色は完全に染まってしまっているし、細胞の隅々まで出汁に浸かっている。それでも、出汁でもないしお醤油でもない、お大根そのものの味でしょう?」
青年は目を見開いた。それから、再び箸を動かして大根を口に入れた。涼子は続けた。
「お大根は淡白で、主張が少ないからどんな食材の邪魔もしないけれど、でも、あってもなくてもいいわけじゃないわ。たとえばおでんに入ってないなんて考えられないでしょう。ステーキやピッツァのような強い主張もないし、熱になるカロリーは少ない。その目的には向いていないわね。でも、食物繊維や消化酵素の働きで、消化を助けて胃もたれや胸焼けも解消してくれるとても優秀な野菜よ。どちらがいいというのではなくて役割が違うのね」
涼子は微笑んで続けた。
「女は本来とても柔軟なの。愛する人間に寄り添えるように、どんな形にでも姿を変えて、道を見つけることができる。でもね、それがあまりに自然なので、時おり男性はそれをその女性の本来の姿だと思ってしまうのね。あたり前なのだと思って意識しなくなってしまうの。そうやって認められなくなると、女のエネルギーは枯渇してしまって、もう合わせられなくなってしまう。男は女が変わったと思い、女はわかってもらえないと悩む。その心のずれを修復できないと、二人はどんどん離れていってしまうんだと思うわ」
青年はじっと涼子の顔を見た。彼女は安心させるように笑った。
「あなたはそのお嬢さんのことをちゃんと思いやっている。でも、言葉にするのをためらっていると、伝わらないわ。一生懸命やっていればわかるだろうなんて思わずに、あなたの想いを彼女に伝えてご覧なさい。どれだけ大切に思っているか、仕事のことも尊重したいと思っていること、側にいてくれたらいいと願っていることもね。彼女がどうしたいのかもちゃんと言葉にして訊いて、その上で、お互いに譲り合える所、妥協はできない点をすり合わせていけばいいのよ」
青年は頷きながら大根を噛みしめていた。
「今は二十一世紀だもの、いろいろな関係があっていいと思うの。男性に単身赴任があるように、女性にあってもいいでしょう。毎日出勤しなくてもいい働き方もあるし、別の仕事を見つけることもあるかもしれない。でも、全ての工夫は何があっても関係を保ちたいとお互いが意志を持つことから始まるんじゃないかしら。私はそう思うわ」
源蔵が笑った。
「涼ちゃん、いいこというねぇ。この人にここへ来いって言った、その『Bacchus』の田中さんとやら、よくわかっているんだねぇ」
涼子は口を尖らせた。
「とんでもないわ。佑二さんはもう少し女心を研究すべきよ。あの唐変木……」
そう言いながら、用事だけしか書かれていない田中の名刺を大切に懐にしまった。
源蔵は吹き出し、青年もようやく笑顔を見せた。折しも再び携帯電話が鳴り、彼は急いで「仁多米」を飲み干すと、アドバイスに心からの礼をいい、少し多めの代金を置いて立ち上がった。涼子は彼の迷いが晴れたことにほっとしながら訊いた。
「ところであなたのお店はどこにあるの。静岡に行くことがあったらぜひ寄りたいわ」
青年は嬉しそうに懐からコートから名刺を二枚取り出した。
「名乗るのが遅れてすみません。僕は吉崎護といいます。店は『ウィーンの森』といって、この駅のすぐ側です」
引き戸から立ち去る護の後ろ姿に、雪が舞いはじめた。少し早いクリスマス氣分。天も恋人たちのロマンスに加勢しているらしい。涼子と源蔵は嬉しそうに笑って、「仁多米」でもう一度乾杯をした。
(初出:2014年11月 書き下ろし)
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とくに読む必要はありませんが、『Bacchus』の田中佑二と『でおにゅそす』の涼子を知らない方でお読みになりたい方のためにリンクを貼っておきます。
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「いつかは寄ってね」

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吐く息が白くなるこの時期は、年の瀬を感じて誰もが早足になる。華やかな街の喧噪にどこが浮き足立った人たちが忘年会やクリスマス会食をはしごする。カウンター席しかない二坪ほどの小さな『でおにゅそす』もこの時期はかきいれ時だ。会食で飲み足りない男たちが、ほろ酔い加減で立ち寄り、涼子の笑顔と数杯の日本酒に満足して家路につく。
だが、その青年はそうしたほろ酔い加減はみじんも感じさせなかった。引き戸をためらいがちに開けて、小さな看板と手元のメモを見較べながら入ってきたので、誰かからの紹介なのだなと思った。実際、涼子の一度も見たことのない客だった。歳の頃は三十代半ばというところだろうか。
「いらっしゃいませ」
ちょうど多くの客が帰りほとんどの席が空いていたが、その青年の佇まいから彼女は騒ぐ常連たちから離れた入口に近い席を勧めた。青年は軽く会釈をしてトレンチコートを脱いだ。焦げ茶色のアラン編みのセーター。勤めの帰りではないらしい。
「何になさいますか」
おしぼりを手渡しながら涼子は訊いた。青年は戸惑いながら、カウンターに立っている小さなメニューを覗いた。
「では、日本酒を……どれがいいんだろう。詳しくないのでお任せします」
常連の西城が赤い顔をしてよろめきながら近づいてきた。
「兄ちゃん、見慣れない顔だね。この店を見つけたのはらぁっきぃってやつさ。せっかくだから『仁多米』にしなさい。ありゃ、美味いよ」
それから涼子に満面の笑顔を見せた。
「じゃあね、涼ちゃん。今日はかかあの誕生日だからさ、帰んなくっちゃいけないけど、また明日来るからさ」
その後に青年に酒臭い息を吹きかけて言った。
「楽しんでいきなよ。でも、涼ちゃんを誘惑しちゃダメだよ。俺らみんなのアイドルなんだから……」
青年は滅相もないと言いたげに首を振った。
「もう、西城さんったら、失礼だわ。若い方がこんなおばさんに興味持つわけないでしょう」
「涼ちゃんは、歳なんか関係なく綺麗だからさ。今日のクリスマス小紋もイカすよ」
黒地に南天模様の小紋に柊をあしらった名古屋帯を合わせた涼子のセンスをを褒めてから西城は出て行き、店の中には西城の近くに座っていた半従業員のような板前の源蔵と、青年だけになった。
涼子は少し困ったように笑った。
「ごめんなさいね。西城さん、いい方なんだけれど、ちょっと酔い過ぎているみたい」
「いいえ。とんでもない。あの方のおすすめのお酒をお願いします」
礼儀正しく青年は答えた。
涼子は小さいワイングラスに常温の日本酒を注いだ。
「このお酒ね。奥出雲にいる知り合いの方が送ってくださったの。こうして飲んでみてって」
青年は黙って頭を下げると、ワイングラスを持ち上げてそっと香りをかいだ。服装や佇まいには都会の匂いがないが、ワイングラスを傾ける姿は洗練されている。どの畑の人なのだろうといぶかった。そもそも誰がこの店に送り込んだのだろう。
青年の携帯電話がなった。礼儀正しく「失礼」と言うと青年は電話を受けた。
「あ、うん。そうか。まだ当分かかるんだね。いや、氣にしないでくれ。今、神田にいるんだ。……ああ、終わりそうになったら、電話してくれれば、またさっきの『Bacchus』へ行くから……」
涼子は目を丸くした。電話を切った青年をまじまじと見た。
「佑二さん、いえ、大手町『Bacchus』の田中さんが、ここを?」
青年は黙って頷いた。それからコートの内ポケットから、名刺を取り出してしばらく迷いつつ手元で遊ばせていた。それから、ゆっくりと顔を上げると、決心したようにその名刺を涼子に手渡した。
忘れもしない、佑二の筆跡が目に入った。
「涼ちゃん。身につまされる悩みを抱えたお客さんなんだ。よかったら女性の観点から君の意見を話してあげてくれないか。田中佑二」
瞬きをしながら言葉を探している涼子に、青年はもう一度頭を下げてから急いで言った。
「すみません。実は先ほど、『Bacchus』でつき合っている女性と飲んでいたんですが、彼女が急遽仕事で呼び出されて。それで一人で田中さんと話しているうちに、人生相談みたいなことをしてしまって。心配した田中さんが、ここへ行って女性の考えを訊いてみろって。本当に相談するつもりで来たわけではないんですが、待ち時間がかなりあってずっとあそこにいたら、忙しい田中さんにも迷惑だろうし、東京には滅多に来ないので、店もほとんど知らなくて……」
涼子は、ふっと笑った。
「ご飯は食べていらしたんですか?」
青年ははっとしたように顔を上げた。
「あ、いや、まだ……」
源蔵がすっと立って、涼子に話を聞いてやれと目配せをした。そして、カウンターに入って、簡単なつまみを用意しだした。涼子は小皿と割り箸を用意し、突き出しの蒟蒻と小松菜のごま油炒めを青年の前に置いてやった。青年は再び頭を下げた。
「それで。どちらからいらしたの?」
「静岡です。新幹線に乗るのも何年ぶりだろう。自分の街からほとんどでたことがなくて。東京がこんなに広くて華やかなのをすっかり忘れていました」
「いらしたのはその女性に逢うため?」
「はい。ずっと昔に東京に引越した女性で、数ヶ月前に再会してから、ほぼ毎週末に来てくれるんですが、たまには自分が逢いに来るべきだと思って」
「平日に?」
「僕も飲食店をやっていて、明日が定休日なんです。クリスマスはかきいれ時なんで、今日明日を逃したら当分は来られません。彼女は僕が来ると知って明日の有休を取ってくれたんですが、どうしても対処しなくてはいけないことができて、明日休むためにまた仕事に戻ることになって……」
涼子にも、青年の暗い顔の原因がこの女性に関することなのだろうと推測できた。でも、佑二さんの「身につまされる悩み」っていうのは何かしら。
青年はサーモンと白菜の和風ミルフィーユ仕立てをゆっくりと食べると、「仁多米」を味わうように飲み、目を閉じた。それからほうっと息をついた。
「美味しいですね。こういう味、本当に久しぶりだ。ほっとします」
この青年は疲れているのだと思った。
「お店は、洋食関係なの?」
涼子が訊くと青年は頷いた。
「カフェなんです。うちのあたりには、料理もケーキも、それからコーヒーの淹れ方までもこだわった本格的な店はなくて、かなり自負を持っているんですが、東京だと珍しくもなんともないですね」
「おつき合いなさっている方がそうおっしゃったの?」
「いいえ。彼女は、僕のやっていることを尊重してくれています。だから、仕事が忙しくて疲れていても来てくれるし、僕の方でたくさん時間が取れなくても文句も言わずに手伝ってくれます」
「羨ましいくらいに、お幸せに聞こえるけれど……違うの?」
青年はため息をもらした。
「ええ、そうですね」
涼子は源蔵と顔を見合わせた。青年はしばらく黙っていたが、グラスの透明な日本酒を揺らすのを止めて顔を上げた。
「東京は華やかですね。この時期に来るのは初めてなんですが、どこもイルミネーションが……」
「ああ、ここ数年、派手なイルミネーションが増えたねぇ。節電のなんとかっていう技術が発達してから、やけに増えたんじゃないか?」
「まあ源さんったら、LEDでしょう。そうね。そう言えば昔はこんなになかったわよね」
「華やかなライトに照らされたショーウィンドウに、高価で洒落た商品がたくさん並んでいて、彼女の着ているスーツも洗練されていて、なんだか自分だけ場違いな田舎者みたいだし、用意してきたプレゼントもつまらない子供騙しに思えてしまって……」
涼子ははっとした。源蔵もなるほどね、という顔をした。
「わかるな。俺もはじめて東京に来た時、氣後れしたしさ。だけどさ、悩むほどのことでもないと思うぜ?」
源蔵の言葉に青年は首を振った。
「そのことで悩んでいるわけじゃないんです」
「じゃあ、何を?」
涼子が訊くと青年は、困った顔をした。
「すみません、こんな湿っぽい話をして」
「氣にするなよ。王様の耳はロバの耳って言うじゃないか。田舎と違って、ここで話したことはどこにも伝わらないし、話せばすっきりするぞ」
源蔵の言葉に涼子も微笑んで頷いた。青年は観念したように口を開いた。
「ここに、東京に来るまでは、たぶん単純に浮かれていたんでしょうね。新しい関係やぬくもりに。彼女は僕よりずっと若くて、きれいで、それなのに僕を慕ってくれて。夢みたいだと思ったんです。いつもの世界が華やかで明るくなり、心も身体も満足して。このまま関係を進めていけばお互いに幸福になれると」
「違うの?」
涼子は、そっと手を伸ばして空になった小鉢を引っ込めた。源蔵は黙ってゆずの皮を削った。
「僕は一度結婚に失敗しているんです。前の時のことを思いだしました。はじめは朗らかだった妻が、しだいに笑わなくなって……。一緒にいても苛立ちと不満のぶつけあいになっていきました。あの時、僕は彼女の変化の原因が分からなかった。ここにいたくない、大阪に戻りたいという妻の言葉をわがままとしかとらえられなかった。大して儲からない店に固執するのは馬鹿げているとも言われました。確かに楽な暮らしはできないのですが、店に対する熱意は僕の存在意義そのもので、それを否定されてまで一緒にいられなかった」
涼子はじっと青年を見つめた。涼子の姉である紀代子が、田中佑二のもとを去って姿を消してしまった時、彼女も佑二も理解ができなかった。涼子はできることならば姉の立場になって『Bacchus』に全てを捧げる佑二を支えたかったから。佑二さんの「身につまされる悩み」っていうのはこれね……。
「今つき合っている女性は僕と店のことをよくわかっていて、きっとうまくやって行けるんじゃないかと思っていたんです。でも、この東京で颯爽と働く彼女の姿を見ていたら、これがこの女性の人生と生活なんだと、僕とはまるで違う世界に属している人なんだと感じました。僕が彼女に側にいてほしいと願い、あの小さなつまらない街に閉じこめたら、あの生き生きとした笑顔を奪うことになるのかもしれない。次第に不満だけがたまって、やがて別れた妻と同じように僕のことを嫌いになっていくのかもしれないと」
「私はそのお嬢さんと逢ったことがないからわからないけれど、仕事と東京での暮らしが人生を左右するほど大切だったら、週末ごとにあなたの所に通ったりしないと思うわ」
「でも……」
涼子はにっこり笑って青年の言葉を制した。
「確かに女ってね、仕事は仕事、愛は愛って分けられないの。全て一緒くたになってしまうのよね。もちろん全ての女性がそうだというつもりはないけれど」
「だとしたら……」
「あなたは男性だから、お仕事に関することは妥協できないんでしょう。お店を閉めてまで、彼女のために東京で暮らそうとは思わない。だから彼女に仕事を諦めてあなたの側に来てほしいと願うことは信じがたい苦痛を強いるように感じるんじゃないかしら。でも、私、きっと彼女はもっと簡単に幸福への道を見つけると思うわ」
涼子は大根の煮物を黙っている青年の前に置いた。
「ねえ、これを召し上がってご覧なさい。私ね、女って大根の煮物みたいなものだと思うの」
彼は訝しげに涼子を見たが、箸を取りすっと切れる柔らかい大根を口に入れた。出汁と醤油の沁みたジューシーな大根が舌の上で溶けていった。
「色は完全に染まってしまっているし、細胞の隅々まで出汁に浸かっている。それでも、出汁でもないしお醤油でもない、お大根そのものの味でしょう?」
青年は目を見開いた。それから、再び箸を動かして大根を口に入れた。涼子は続けた。
「お大根は淡白で、主張が少ないからどんな食材の邪魔もしないけれど、でも、あってもなくてもいいわけじゃないわ。たとえばおでんに入ってないなんて考えられないでしょう。ステーキやピッツァのような強い主張もないし、熱になるカロリーは少ない。その目的には向いていないわね。でも、食物繊維や消化酵素の働きで、消化を助けて胃もたれや胸焼けも解消してくれるとても優秀な野菜よ。どちらがいいというのではなくて役割が違うのね」
涼子は微笑んで続けた。
「女は本来とても柔軟なの。愛する人間に寄り添えるように、どんな形にでも姿を変えて、道を見つけることができる。でもね、それがあまりに自然なので、時おり男性はそれをその女性の本来の姿だと思ってしまうのね。あたり前なのだと思って意識しなくなってしまうの。そうやって認められなくなると、女のエネルギーは枯渇してしまって、もう合わせられなくなってしまう。男は女が変わったと思い、女はわかってもらえないと悩む。その心のずれを修復できないと、二人はどんどん離れていってしまうんだと思うわ」
青年はじっと涼子の顔を見た。彼女は安心させるように笑った。
「あなたはそのお嬢さんのことをちゃんと思いやっている。でも、言葉にするのをためらっていると、伝わらないわ。一生懸命やっていればわかるだろうなんて思わずに、あなたの想いを彼女に伝えてご覧なさい。どれだけ大切に思っているか、仕事のことも尊重したいと思っていること、側にいてくれたらいいと願っていることもね。彼女がどうしたいのかもちゃんと言葉にして訊いて、その上で、お互いに譲り合える所、妥協はできない点をすり合わせていけばいいのよ」
青年は頷きながら大根を噛みしめていた。
「今は二十一世紀だもの、いろいろな関係があっていいと思うの。男性に単身赴任があるように、女性にあってもいいでしょう。毎日出勤しなくてもいい働き方もあるし、別の仕事を見つけることもあるかもしれない。でも、全ての工夫は何があっても関係を保ちたいとお互いが意志を持つことから始まるんじゃないかしら。私はそう思うわ」
源蔵が笑った。
「涼ちゃん、いいこというねぇ。この人にここへ来いって言った、その『Bacchus』の田中さんとやら、よくわかっているんだねぇ」
涼子は口を尖らせた。
「とんでもないわ。佑二さんはもう少し女心を研究すべきよ。あの唐変木……」
そう言いながら、用事だけしか書かれていない田中の名刺を大切に懐にしまった。
源蔵は吹き出し、青年もようやく笑顔を見せた。折しも再び携帯電話が鳴り、彼は急いで「仁多米」を飲み干すと、アドバイスに心からの礼をいい、少し多めの代金を置いて立ち上がった。涼子は彼の迷いが晴れたことにほっとしながら訊いた。
「ところであなたのお店はどこにあるの。静岡に行くことがあったらぜひ寄りたいわ」
青年は嬉しそうに懐からコートから名刺を二枚取り出した。
「名乗るのが遅れてすみません。僕は吉崎護といいます。店は『ウィーンの森』といって、この駅のすぐ側です」
引き戸から立ち去る護の後ろ姿に、雪が舞いはじめた。少し早いクリスマス氣分。天も恋人たちのロマンスに加勢しているらしい。涼子と源蔵は嬉しそうに笑って、「仁多米」でもう一度乾杯をした。
(初出:2014年11月 書き下ろし)
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うちのキャラを花にたとえてみました
他にもキャラいるんですが、あまりにも多くて収拾つかないんで、長編の主役に限定してみました。特に記述のない所は、たった今、私が選びましたが、読んでくださった方、イメージ合っています?(読んでなくて読んでみたい方は、作品一覧からどうぞ)
「大道芸人たち Artistas callejeros」
◆四条蝶子
長所:打たれ強い
短所:性格きつい
花:濃い紫のリラ(ヴィルがそう言った)
◆安田稔
長所:バランス感覚に富む
短所:行き当たりばったり
花:オレンジのガーベラ
◆レネ・ロウレンヴィル
長所:優しく知的
短所:惚れっぽく氣が弱い
花:アーモンドの花
◆アーデルベルト・ヴィルフリード・フォン・エッシェンドルフ
長所:正義感の塊
短所:いい方がきつい
花:黄水仙
「樋水龍神縁起」
◆早良ゆり
長所:まじめ
短所:受身
花:オニユリ
◆新堂朗
長所:己を知っている
短所:近付き難い
花:リンドウ
「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」
◆高橋瑠水
長所:正直
短所:流されすぎ
花:ストック
◆生馬真樹
長所:忍耐強い
短所:上手くいかなくなると後ろ向きに
花:梅
「夜のサーカス」
◆ステラ
長所:前向き
短所:向こう見ず
花:ヒマワリ
◆ヨナタン
長所:優しい
短所:頑固
花:飛燕草
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」
◆マックス・ティオフィロス
長所:知的で朗らか
短所:ちょっと無責任
花:黄色いチューリップ
◆ラウラ・ド・バギュ・グリ
長所:我慢強い
短所:自己否定強すぎ
花:ハマユウ
「Infante 323 黄金の枷」
◆Infante 323 (23)
長所:思慮ぶかく我慢強い
短所:諦めが早い
花:レモンの花
◆マイア・フェレイラ
長所:素直
短所:思慮が浅い
花:三色すみれ(自分で好きだと言うシーンがある)
本当は以上で終わりの記事のはずだったのだけれど、彩洋さんが「キャラのコンセプト」という記事をあげていらっしゃったので便乗して語っちゃうことにします。
小説を書くとき、乱暴に二つに分けると「登場人物のキャラクターがまずあって、そのキャラクターを活躍させるために生まれてくる話」というのと「話があってそれに必要な登場人物が配置される話」というのがあると思うんですよ。
私の場合はどっちが多いのかなと考えると、圧倒的に後者が多いように思います。そして、途中から登場人物たちへの愛着が生まれて、外伝やら続編で前者タイプが芋づる式に生まれてくる感じ。
そんなわけで、「このストーリーでこうするためにはこういうキャラでなくてはおかしい」と論理的に決めたりするもので、「この人は他の誰にも代えられない」というナンバーワンキャラにならないみたいです。つまり、自分の生み出したキャラへの深い愛着がほかの物書きさんたちと比較して薄いみたい。愛着がないわけではないのですが、実はいま書いているキャラへの愛が一番深く、次の執筆にかかると前の作品のキャラへの寵愛はあっさりと取り消されてしまう(笑)
書いている最中から「しょーがないな〜、この子ったら」とブツクサ言っているようなキャラも実はかなり多いかもしれません。
上に書き連ねたキャラの特徴を読んでいただくと「ロクでもないキャラばかり」と思われるかもしれませんが、私が書いているものの性格上、欠点のないキャラはありえません。むしろ欠点があるからこそ話がこじれ、それなりの起伏をもって進んでいくのですよね。
書いているうちは、やはり入り込んでいるので、そのキャラ(とくに主人公やヒロイン)を美化・弁護したくなってきます。たとえロクでもないことをしているとしても、誰だってなんらかの言い分があるじゃないですか。でも、その自己愛=キャラ愛が暴走すると共感が得られないと思うし、反対に、自分が好きになれないようなキャラを中心に据えても読者は誰も入り込めない、そう感じます。要はそのバランスが重要なんだろうなと思いますが、これが難しくて。時々、「ああ、これは読んでくださる方が引いているな」と発表が辛くなることも。
ま、引きまくられても、そのインパクトで作品で伝えようとしていることがわずかでも伝わればそれでいいんですけれど、どうなんでしょうね。ま、キャラだけを氣にいっていただければそれまたそれで嬉しいかな。(結局、結論はなに?!)
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(19)孤独な二人
マックスは旅籠「カササギの尾」でぐっすり眠っている頃ですが、ラウラは王女の衣装とヴェールを脱ぎ誰もいないはずの広間にやってきました。電灯などはなく月明かりだけが頼りの中世の夜。この舞台ならもっと萌え萌えシーンになってもいいはずなのに、ホントに地味だな、このヒロイン。
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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(19)孤独な二人

風がわずかに吹く夜だった。寝付かれずに、そっと部屋を抜け出してガランとした城の中を歩いた。誰にも邪魔されない深夜は、ラウラの時間だった。影としての勤めから抜け出して、本当の自分の顔に戻ることの出来る、数少ない瞬間だった。彼女はグランドロン王訪問の緊張がまもなく終わることを心から喜んでいた。
先程、王と踊った広間にも誰もいなかった。影としての生活は間もなく終わる。どこかの国王と踊るなどということはもう二度とないであろう。それは不思議な感覚だった。ずっと怖れていたグランドロン国王という怪物が、自分の手を取り腰に手を回し、広間を旋回した。きちんとしたリードであったが、決して強引ではなかった。
ラウラは混乱していた。マックス・ティオフィロスに対するような、純粋な信頼や思慕の氣持ちとは異なっていた。冷たく頭脳優秀な宰相ザッカに対する敬意とも違っていた。娼館の女たちといかがわしい遊びをする低俗な王と思っていたのに、その礼儀正しく理知的な会話に驚かされた。ラウラの国にとっては憎むべき敵、岩山のごとく征服すべき相手は、力強く自信に満ちているだけではなく、優しく暖かい手をしていた。
彼女はもう少し風にあたりたくて、バルコニーに向かった。戸はしっかりと閉まっていなかった。召使いが戸締まりを忘れたのか、いずれにしてもここは地上からはどうやっても届かない自然の要塞の上に浮かぶ広間なので、怖れずに外に出た。
半月の浮かぶのみの暗闇の中、誰かがそこに立っていた。それは先程の豪華な衣装ではないが、背格好からここにいるはずのない賓客その人だとすぐにわかった。レオポルド二世も、現われた女にすぐに氣づいた。
「……陛下」
その声で、グランドロン国王は、自分の花嫁候補が突然現われたことを知り、やはり驚いたようだった。
「そなたを呼んだつもりはなかったのだが」
「呼んだ?」
国王は、月の方に顔を向けてしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと言葉を探しながら再び口を開いた。
「国王というものは、不便な身分だと考えていたのだ。自分の花嫁候補とゆっくり話をしたくとも、周りに何十人もの廷臣や召使いが控えている。数回の食事での会話やダンスの合間に、何を知ることが出来るのだろうとね。そなたもそう思ったことはないか」
ラウラは、ゆっくりと言葉を選んで答えなければならなかった。王女の回答に聞こえるように。しかし、嘘はつきたくなかった。
「私が生まれて以来、自分の思うように行動できたことはありませんでした。誰もが生まれ持った役目を全うせねばならぬのなら、多少の不便は諦めるしかないのではないでしょうか」
暗闇の中で、王が笑うのが聞こえた。
「不思議だ。悪く思わないでいただきたい。余はそなたが聡明な女性だという期待はまったく持ってこなかったのだ。美しいという評判はもちろん聞いたが、いずれ女王になる身としては、容姿ばかりが評判になるのは悔しくはないか?」
「美しいと言われることは、女にとって何よりもの喜びなのです。それがたとえ身分を慮って水増しされた讃辞であろうとも」
そういうラウラの口調には、反対に美への関心はほとんどないような響きがあった。レオポルドはよく見えないのに、暗闇の中にうっすらと浮かび上がる女の表情をじっと見つめた。
マリア=フェリシア姫は美しい。ラウラはそれを誰よりもわかっていた。どんなドレスを着ても、はじめて見るときは女のラウラでもはっとするほどだった。けれど彼女はその美しさを羨ましいと思ったことはなかった。たとえ、もし姫の半分の美しさでもあれば、マックスの視線をわずかでもとどめておくことが出来ると知っていても。
彼女は王女にはなりたくなかった。ただ、ほんの少しでも敬意を払われ、世界を自分の思い通りにすることの出来る力がこの手に欲しいと思ったことはあった。ザッカに連れられて目にした城下の貧民街で饐えた臭いを放ちながら死を待っている男の目を見た時、塔から騎馬に蹴られている下働きの少年の姿を目にした時、姫の代わりに打ち据えられて流れ出る深紅の血が白薔薇の茂みを穢していった時、ラウラは本当の侯爵令嬢であったらどんなによかっただろうかと思った。
「美しいと賛美されることがそなたの望む全てなのか」
想いに沈んでいる時にその言葉を聞いたので、彼女は自分が姫の代わりを務めていることを一瞬忘れてしまった。
「いいえ! いいえ。私は美よりも力が欲しいのです」
「力?」
「貧しい人々は医者や食べ物を待っている。家畜は水場を求めている。それなのに私はこれほどまでに無力で……」
レオポルドはそっと手を伸ばして女の頬に触れた。彼女ははっとして、我を忘れたことを恥じた。
「そなたは余に似ている。余も王太子の時代に同じいらだちを感じていた。今も、したいことが全て出来るわけではないが、志は忘れていない。心配するな。そなたはいずれ女王になり無力ではなくなる」
彼女は言葉を見つけられずにいた。
「そなたは、もう一人ではない。人々はグランドロンとルーヴランは不倶戴天の敵だという。だが、そなたと余は同じ志を持つ友だ。そうではないか?」
ラウラは、ショックを受けて震えた。
「陛下……」
「余は、この話を九割がた断るつもりでここに来た。だが、断る前に一度、そなたのことをよく知りたかった。結婚しようと、敵味方に分かれようと、グランドロンとルーヴランは無関係でいられぬ。そなたと余は生涯関わり続ける存在だ。余は、神に感謝したい。ルーヴランを担う世襲王女がそなたであったことを」
ラウラは心の中で叫んだ。
(違うのです! 私は姫ではありません)
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「あなたのカラダ、堅い?柔らかい?」
ええと、ひと言で済みますね。硬いです。
子供の頃、バレエをやっていたことがあって、当時も「それにしちゃ」だったんですが、今はその面影もなく。
健康のためにも本当は柔軟体操などを定期的にやった方がいいと思うんですが、あまりやっていません。ストレッチというか、体を伸ばすようなことは一日に数回はしています。一日中コンピュータに向かっている仕事なので、体が強張りますしね。
こんにちは!FC2ブログトラックバックテーマ担当石内です。今日のテーマは「あなたのカラダ、堅い?柔らかい?」です。私は自分の腕で縄跳びができるくらい柔らかかったのですがなにも運動をしていないと、さすがに堅くなってきますね…今では、前屈でつま先に手をつけるのがやっとです堅いとケガをしやすくなるよ〜と言われたので最近は、お風呂あがりのストレッチを頑張っていますみなさんのカラダは、堅いほうですか?柔らか...
FC2 トラックバックテーマ:「あなたのカラダ、堅い?柔らかい?」
って、これだけの記事なので、昨日撮った写真を一つ。

ベルニナ峠のラゴ・デ・ビアンコ。湖は凍りはじめていました。スキー客もぼちぼち。あ、私は電車で通っただけです。
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ギターラ(ポルトガルギター)

今回、主人公23(インファンテ323)はギターラを弾いていました。ギターとは成り立ちも違うこの楽器、日本では一般にポルトガルギターと呼びますが、ポルトガル人はこの楽器をギターラと呼び、普通のクラッシクギターのことはヴィオラと呼ぶそうです。じゃ、ヴィオラのことは何と呼ぶのだろう?
で、このギターラなのですが、いわゆるギターと較べて華やかな音がするのですよ。形が違うから共鳴がちがうのかなと思っていましたが、それだけでなくて、弦が同じ音が二本ずつの6セット、合計12本あるらしいのです。で、同じ音を出す時に、わずかにずれるので、それが共鳴してあの華やかな音になるんですね。
ファドの演奏でもおなじみですが、ソロの楽器としても活躍しています。
で、上の写真ですが、ギターラの形だけでなく、主人公の外見のモデルになった人なのでここでご紹介。と言っても、ごく普通のギターラ奏者の方ですので、若干加工してぼやかしました。書いている本人としてはこんなイメージです。
この記事を読んで「Infante 323 黄金の枷」が読みたくなった方は……
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【次回予告】「Infante 323 黄金の枷」 (10)アヴェ・マリア
「しかし二ヶ月経ったら、休暇を与えなくてはなりません。この屋敷に留めることは不可能です。それとも、それまでに宣告を受けるとお考えですか?」
「まさか」
「それでは、いかがなさいますか」
超ド素人探偵、マイアの行動が、ドンナ・マヌエラの耳に入ります。彼女は何を想うのか。そして、某Tさんや某Lさんお待ちの(?)沐浴シーンその1が……。2014年12月末の更新予定です。お楽しみに。
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【小説】Infante 323 黄金の枷(9)ドンナ・アントニア
今回、ようやく重要人物が全部揃いました。ドンナ・アントニアはダブル・ヒロイン制で書くことを予定しているこの三部作の最後の小説『Filigrana 金細工の心』のヒロインの一人です。……なんですけれど。読んでくださっている方からブーイングが上がりそう。
![]() | 「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
Infante 323 黄金の枷(9)ドンナ・アントニア
マイアはピカピカになったバスルームを満足げに見回した。流しの二つの金色の水栓は曇りなく輝いていたし、鏡にも浴槽やタイルにも水滴一つ残っていなかった。オーク製の浴槽プラットフォームは丁寧に水拭きした。二面の壁から扇形に広がっている大きな浴槽の縁にオークと大理石を使った石鹸台があり、そこに白い石鹸がぽつんと載っていた。ああ、これの香りだ。マイアは23の側を通る時、それから洗濯物を扱う時に感じるほのかで爽やかな香りの源を発見した。開けたばかりらしくREAL SABOARIAという刻印が読めた。「本物の石鹸工場」かあ。どう考えても最高級品に決まっているのに飾りっけが全くないんだなあ。この居住区そのままね。
23の居住区の掃除は、24の所と較べて楽だった。散らかるほどのものを持っていなかったし、使ったものを掃除をする召使いの迷惑にならないように、自分で片付けているからだった。例外が靴工房で、ここだけは大量の靴型や革や道具があり乱雑というわけではないが、多くの物があって本人に言われない限り不可侵エリアのため、ほこりをかぶっている所もあった。
掃除にやってくる他の召使いたちは23とほとんど口をきいたこともなかったので、「今日は工房の方の埃をとってほしい」と言われたこともなかったらしいのだが、マイアは掃除の度に工房に降りてきて何かと話しかけるので頼みやすいらしかった。
「悪いが、そこの革置き場もやってくれないか」
「もちろん!」
前回は23が黙々と靴を叩いている音を聴きながら、丸めて立ててある革を少しずつ取り出して、掃除をしていった。自分が役に立っているのは誇らしかったし、終わると23がコーヒーを淹れてくれたのも嬉しかった。
それにしても、23の所の掃除をする時にどうしてこんなにウキウキするのだろう。三階と二階の掃除が終わり、一階の掃除をするために降りていく。仕事をしている彼が顔を上げて笑顔を見せるその瞬間、話しかけると手を休めて答えてくれること、普通の掃除が終わりもう少し話したいのになと思っていると別の用事を頼んでくれてもう少し側にいられること、そのすべてが何とも言えない歓びを伴っていた。
逢えなかった十二年間、マイアはずっと23のことを大切な仲間だと思っていた。腕輪を嵌めさせられている理不尽さを分かち合えるたった一人の大事な友達だと。ガッカリすることがある度に、心の中であの汚いけれど悲しい目をした少年に話しかけてきた。他の誰にわかってもらえなくても23だけはわかってくれると。それでいて、これは空想の中の友達に過ぎないのだと思ってもいた。たった一度会っただけの自分のことを憶えていてくれるかも怪しいと思っていた。トリンダーデの占いをする女に、青い宝石が四つ付いている腕輪をしているのはインファンテだと教えられてから、その想いはますます強くなった。召使いと贅沢に囲まれて、みすぼらしい女の子と話したことなど忘れてしまっているだろうと。
だから、23がちゃんと憶えていてくれたこと、あの時と同じように友達として話しかけてくれたことがとても嬉しかった。仕事のことを教えてくれ、靴を作ってくれ、それに、ライサのことを聞き回って館のなかで窮地に追いこまれるのを心配してくれた。空想の友達ではなくて、実在する大事な存在だった。ライサのことを心配する氣持ちもわかってくれると確信できた。たとえ言う事を禁じられているとしても。
この日はミシン周りを頼まれた。部品ひとつひとつを布で拭きながら、マイアは考え込んでいた。23の方を振り返りつつ、彼女はここしばらく言おうか悩んでいた問いを口にした。
「ねえ。ライサのこと、どうあっても、教えてくれないの?」
23は型紙を裁断する手を止めて、マイアの方をまともに見た。マイアは慎重にしなくてはならない作業の邪魔をしたことに氣がついて慌てた。
「あ、ごめんなさい」
それについては何も言わずに23は続けた。
「お前、俺のことを信用できるのか」
「え?」
「俺がお前を納得させるためだけに、でたらめを教えると思わないのか?」
「思わないよ」
「何故」
マイアにはその質問は想像もできなかった。マイアは23を100%信用していた。それは理屈ではなかった。十二年間話しかけ続けてきたたった一人の頼れる友達、23はその心の友が現実の人間としてそこになっている存在だったから。けれど、23にそう訊かれてマイアはその近さは自分だけが感じているものなのかと戸惑った。
「なぜって……。だって、あなたはいい人だもの。見ていればわかるよ。でたらめを言う人なら、とっくに言ったでしょう? それに、下手に嗅ぎ回ると追い出されるって忠告もしてくれたじゃない」
23はため息をついた。
「今は何も言えない」
「今は……?」
「約束する。言えるようになったら、教えてやる。だから、今は何もせずに待ってくれないか」
マイアはほっと息をついた。やっぱり、味方をしてくれるんだ。それだけでもよかった。でも……。
「でも、ライサが無事なのか、心配なの」
「わかっている。そのことは心配しなくていい。お前と同じようにライサのことを氣にかけている味方の所にいる。危険はない」
「本当に?」
「ああ、でも、お前やライサの妹が下手に動き回ったり探したりすると、《監視人たち》が彼女を別の所に遷す可能性がある。そうなったら、俺の所には情報も入らなくなるし安全の保証もできなくなるんだ」
マイアはしばらく下を向いて唇を噛んでいたが、やがて顔を上げた。
「わかった。私、あなたを信じる。そのかわり……」
「わかっている。時が来たら、必ず話す」
そう言って、彼は型紙裁断の作業に戻った。
掃除を済ませ、鉄格子に鍵をかけているところにメネゼスがやってきた。
「ああ、ちょうどよかった。セニョール323のところへ行って奥様の伝言を伝えてきなさい」
「なんと?」
「ドンナ・アントニアがおいでで、いま母屋三階の居間で奥様とお話中なのだ。セニョール323を呼んでくるようにと仰せだ」
「わかりました」
「よいか、伝言して鍵を開けるだけではなく、必ず居間までご一緒するように」
つまり、籠の鳥が逃げださないように注意しろって言っているわけね。マイアは心の中でつぶやいた。
マイアは再び鍵を開け閉めしてから、工房に降りて行き23を呼んだ。
「ドンナ・アントニアとおっしゃる方がお見えで、奥様の居間でお待ちだそうです。どうぞおいで下さいって」
23は肩をすくめた。
「いま手が離せないんだ。後でここに来るように、彼女に伝えてくれ」
彼女は頷くと、ドンナ・マヌエラの使っている居間へと向かった。城と言っても構わないこの大きな館で、当主であるドン・アルフォンソとその母親であるドンナ・マヌエラの生活空間である母屋の三階は、ジョアナとクリスティーナが掃除を担当していたので、マイアはあまり慣れていなかった。絨毯の敷かれた廊下にも十六世紀の中国の壺や、金箔の貼られた額に入った大きな風景画などがあり、床や壁に使われている石も高価な大理石だった。マイアは落ち着かない心持ちで居間へと急ぎ扉をノックした。
「ミニャ・セニョーラ。失礼します」
「どうぞ、お入りなさい」
コーヒーをサーブしていたメネゼスが少し驚いた顔をした。セニョール323はどうしたのだと顔が訴えていた。マイアは恐縮しながら言った。
「伝言を申し上げたのですが、『いま手が離せないので、後でここに来てほしい』と仰せでした」
ドンナ・マヌエラの隣に座っていた女性が声を立てて笑った。マイアははっとした。黒髪を高く結い上げているほっそりとした若い婦人で、赤と黒の鋭利なシルエットのワンピースを優雅に着こなしていた。黒い眉は細い三日月型に整えられていてきりっとしているが、水色の瞳がより柔らかな印象に変えている。マイアが今まで見たことのある女性の中でおそらく一番美しい完璧な容貌の持ち主だった。
「それなら今から行きましょう。案内してくださる?」
すっと立ち上がったその動きはとても優雅だった。マイアが見上げるほどに背が高いのは、履いている赤いハイヒールのせいでもあった。
メネゼスがマイアに言った。
「ご案内しなさい。ドンナ・アントニアがお出になる時までお前は扉のところで待機していなさい」
マイアは頷いた。
案内するまでもなく、ドンナ・アントニアは慣れた足取りで23の居住区に向かった。
「あなた、はじめてよね。新しく入ったの?」
「はい。フェレイラと申します」
「そう、よろしくね」
鍵を開けて扉を開くと、彼女は勝手知ったる様子で工房へ降りて行った。マイアは扉に再び鍵をかけた。ドンナ・アントニアが23に対してドンナ・マヌエラと同じように「メウ・トレース」と呼びかけた。
「待ちかねてたかしら?」
「わかりきったことを訊くな。アントニア」
23の親しげな声。二人は庭に行ってしまったらしく、後の会話は聞こえなかった。だが、しばらくするとギターラの音色が聞こえてきた。
その曲はマイアも知っていた。映画「青い年」のテーマ曲だ。彼がこんなに強い情念を込めて弾くなんて想像もしなかった。普段、マイアに小言を言ったり、靴を作っている23とは別人のようだった。澄んだ迷いのない音色だった。冬のドン・ルイス一世橋のてっぺんから眺めたPの街のようにくっきりとした美しさだった。はっきりとした言葉遣いの一つひとつ、飾りけのない装い、孤高の佇まいが音色と重なる。マイアは鉄格子をつかんだ。切なく美しい旋律に心が痛くなる。けれど、彼はただ一人の観客、ドンナ・アントニアのために弾いているのだ。
曲が終わってからしばらくしても、マイアは鉄格子に額を押し付けてギターラの余韻を感じ続けていた。どうしてこんなに苦しいんだろう。
二人の声が近づいてきた。階下の階段の近くにまで来ている。柔らかいドンナ・アントニアのささやきと、23の低いつぶやきがわずかに聞こえてくる。マイアはあわてて、まっすぐに立ち直した。二人は別れを惜しんでいるようだった。
「メウ・トレース。キスをしてくれないの?」
それからしばらくの間、二人の声が途絶えた。マイアはうつむいた。……そうだったんだ。体の中心、とても深いところに大きな石を抱えているようだった。
ずっとわからないフリをしてきた。けれど、とても重くなってしまい、もはやなかったことには出来なくなっていた。人を好きになるのって、こういうことだったんだ。「お父さんや妹たちが好き」「パステイス・デ・ナタは大好きだからいくつでも食べられる」「とてもきれいなこの街が好き」マイアが当たり前のように遣ってきた言葉と同じ「好き」だから、きっと甘くて楽しくて幸せな感情なのだと思っていた。全く違う。息ができない。締め付けられて動くことも出来ない。
直に二人は階段を上がってきて、鉄格子の前に立った。マイアは、鍵をまわしてドンナ・アントニアのために扉を開けた。その時にとてもきつく握りしめていたために手のひらに赤く鍵の痕がついてしまっていることに氣がついた。再び鍵をかけた時、23と目が合った。彼の表情には大きな変化は見られなかったが、悲しい瞳をしていると思った。
マイアは晩餐の給仕にもあたっていた。普段は朝食と午餐の給仕のみだが、ホセ・ルイスとクリスティーナが休暇なのだ。一緒に給仕を担当したフィリペとマティルダ、それにメネゼスはハラハラすることになった。マイアは水をつぐグラスとヴィーニョ・ヴェルデを注ぐグラスを間違えたし、野菜のスープをよそう時に皿に添えた自分の手にかけて火傷をしそうになった。ドン・アルフォンソに「今日はどうした」と指摘されて平謝りしたが、
一日が終わると、マイアはくたくただった。
「今日はどうしたの、マイア」
マティルダが部屋に戻ってから訊いた。
「なんでもない。でも、たくさん失敗しちゃった」
「どこか具合が悪いんじゃない?」
うん。胸が苦しい。マイアは無理に笑った。
「さっきまで、胃が痛かったの。でも、もう大丈夫。今日は、ドンナ・アントニアがいらしたり、奥様の居間に一人で行ったりと、はじめてのことが多かったから、疲れちゃったのかも」
「あら、ドンナ・アントニアにお逢いしたのね。いいなあ。私、あの方にものすごく憧れているのよね。お優しかったでしょう?」
「ええ、とても」
「ドンナ・アントニアは本当の貴婦人よね。ああいう方を見ると、やっぱりクラスってあるんだと思うわ」
マティルダが夢みるように言った。
「よくいらっしゃるの?」
「そうね。二週間に一度くらいかしら。もっと頻繁にいらっしゃることもあるけれど」
「遠くにお住まいなの?」
「いいえ。ボアヴィスタ通りのお屋敷ですって」
ボアヴィスタ通りはPの街でもっとも長い通りで、古い城塞カステロ・デ・ケージョまで続いている。有数の豪邸が建ち並ぶ場所だ。マイアが肩をすくめたのを見てマティルダは左手首の腕輪を見せて笑った。
「どっかに同じ血が流れていると言っても、えらい違いよね」
マイアは23のことを浮浪者の子供だと思っていた。でもそんなことはどうでもいい、あの子とはいい友達になれる。だって、私たちには同じ金の腕輪が嵌まっているから。彼がインファンテだったと知るまで、彼女はずっとそう思っていた。この館の中で腕輪は特別なものではなかった。23には腕輪をしていない人間の方がずっと珍しい存在なのだ。ドンナ・アントニアの手首にも金の腕輪は輝いていた。輝いていたのは腕輪だけではなかった。どちらかというと貧しい家庭で育ったマイアだからこそ、「女」と「貴婦人」の違いがわかる。名前だけの問題ではなかった。マティルダの言う通りだった。
あきらめなくてはいけない。あきらめるのは得意のはず。子供の頃から慣らされてきたもの。マイアは窓の外を眺めた。大きな月がD河の上に映っていた。23のために、この館に来たんじゃないもの。ライサのことに心を集中させよう。
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言葉と国境と国民
突然ですが海外で書類を書かされる時、「Nationality欄」に「Japan」と書くべきかそれとも「Japanese」にするべきか迷った経験はないでしょうか。国籍だから当然「日本人」で長いこと考え込むような問題ではありませんが、これが「Staatsangehörigkeit」とドイツ語になると私は毎回悩みます。
もうひとつ。Japaneseの訳語、すぐに思いつくのは「日本人」ですか、それとも「日本語」ですか。そして、それはどちらもあなた自身の属性ですか。つまりあなたは日本語を話す日本人ですか。
多くの日本の方はあまりこういうことを意識しないと思います。外国で暮らす日本国籍の方か、日本で生まれ育った外国人以外、「日本人は日本語を話すもので、さらに日本に住んでいる」場合が非常に多いからです。
スイスではこういうことをしばしば意識します。今日の記事は、一つの公用語とあまり国境の変更のなかった歴史を持つ日本の方には多少わかりにくいスイスの事情について書いてみます。
スイスの公用語は四つあります。ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語です。けれど、一人で四カ国語話せる人はほとんどいません。基本的に母国語は一つです。大抵の場合は一つの州に一つの公用語です。二つの公用語の州、そして、例外的に私の住むグラウビュンデン州だけ公用語が三つあります。しつこいですが、三か国語を全員がわかるのではなく、住んでいる市町村ごとにその言語が決まっているのです。
ロマンシュ語はグラウビュンデン州の限られた地域で話されている言語で、語学学校などで学ぶことも出来ないので、たとえばジュネーヴに生まれた人がロマンシュ語を話せるようになるのは、日本人が中国のミャオ族の言語を話せるようになるくらい珍しいことです。つまり、その地域に住まないと習得できません。
ロマンシュ語はイタリア語に近い語彙と、長い間ドイツ語圏の人びとに支配された歴史から文法や語彙の一部を受け継いでいるラテン語系の言葉です。しかも谷によってまったく違う方言で共通ロマンシュ語を作る作業も難航しました。一方、ロマンシュ語はそれ以外の地域の人には全くわからず、さらに長い間公用語としての地位が認められていなかったため、彼らはドイツ語を習得することが義務づけられてきました。だから大抵のロマンシュ語圏の人はドイツ語とのバイリンガルです。
さて、隣の州の人が自分にはわからない言葉で話すから、その人は外国人と同じでしょうか。国境の向こうに自分と同じ言葉を話すから、そっちのほうにシンパシィを感じるでしょうか。いいえ違うのです。
ドイツ語圏のスイス人とフランス語圏のスイス人の間には溝があると言います。(「ロシュティの溝」といいます)イタリア語圏のスイス人のことをドイツ語系やフランス語系は小馬鹿にしたりもします。それでも、彼らはドイツ人やオーストリア人やフランス人やイタリア人よりも別の言語圏のスイス人のことが好きだし、「俺たちはあいつら(外国人)とは違う」と思っているのです。
もっとも、外国の定義も日本ほど単純ではありません。歴史をみると、スイスのある地域はローマ帝国に属していたこともあるし、また別の地域はドイツ皇帝の支配下にありました。現在のイタリアの一部をスイスの州が持っていたこともありますし、建国が1291年と言っても、現在の国境と同じスイスになったのは1815年以降です。
あ、今のスイスは完全に独立しています。もっとも国土を囲んでいるEUに合わせなくちゃいけないこともあって、それが不満なスイス人もけっこう多いみたいです(笑)
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【小説】ブラウン・ポテトの秋
月に一度発表する読み切り短編集「十二ヶ月の野菜」の十一月分です。このシリーズは、野菜(食卓に上る植物)をモチーフに、いろいろな人生を切り取る読み切り短編集です。十一月のテーマは「ジャガイモ」です。ジャガイモは年間を通してありますけれど、冬にも地産地消できる数少ない食材の一つなので。
登場するのは「今年脚光を浴びた人」谷口美穂。去年書いた作品の一回きり登場のキャラのはずでしたが、scriviamo! 2014でポール・ブリッツさんに取り上げていただいてからどういうわけか起用が相次ぎました。で、まだ早いけれど、今年の総決算モードということで再登場。で、準レギュラーキャラの名前はポール・ブリッツさんからいただきました。
とくに読む必要はありませんが、「マンハッタンの日本人」を知らない方でお読みになりたい方のためにリンクを貼っておきます。
「マンハッタンの日本人」
「それでもまだここで 続・マンハッタンの日本人」
「花見をしたら 続々・マンハッタンの日本人」
「歩道橋に佇んで 続々々・マンハッタンの日本人」

ブラウン・ポテトの秋 続々々々・マンハッタンの日本人
3キロのジャガイモがふかし上がった。美穂はキッチンスタッフではないが、モーニングセットの準備でブラウン・ポテトを作るのは彼女の仕事になってしまっている。熱々のジャガイモの皮は自然と割れて剥がれているので取り除く。7ミリくらいの厚さに切っていく。
大きな鉄板にサラダ油とベーコンの細切れを入れてじっくりと油がでるまで炒めたら、薄切りの玉ねぎを入れてしんなりするまで炒める。それからジャガイモを加える。
バターを時々足して、鉄板にジャガイモを押し付けながらきれいな茶色に焦げるように炒めていく。この頃になるとキッチンはいい香りで満ちる。それを見計らったかのようにポールが入ってくる。
「おはよう、いい匂いだな」
「おはよう、ポール」
これが、毎朝のお決まりの挨拶になっている。
ダウンタウンにある《Star's Diner》のモーニングセットの目玉が、このブラウン・ポテトだ。ポールがこの店に勤めだして、一週間もしないうちにオーナーに訴えたのが、それまで出していたブラウン・ポテトのまずさだった。
「こんなまずいブラウン・ポテトに我慢できるニューヨーカーなんかいるものか。ブラウン・ポテトはニューヨーカーの心なんだ」
日本人である美穂には、ポールのその理屈は全くわからなかったが、確かに《Star's Diner》のブラウン・ポテトは大したことのない味だった。オーナーはその批判にぶち切れたのか、それとも納得したのかよくわからないが、突然ポールを「ブラウン・ポテト改善プロジェクト」の責任者に任命した。
ポールには一つの問題があった。ブラウン・ポテトに対する強い思い入れに匹敵するほどの料理の知識に欠けていたのだ。そして、プロジェクトをサポートするのは朝番のウェイトレスたちの仕事になったのだが、普段より早く来ることを好まないほかの女の子に上手く逃げられた結果、結局美穂にお鉢が回ってきたのだ。
「こればかりは、時間短縮ができないの。とにかくじっくりと焼き色をつけないと」
なぜ日本人の自分が生粋のニューヨーカーにブラウン・ポテトの作り方を教えなくてはいけないのかわからない。
美穂は作り方をポールに教えて、朝番を交代にしてもらおうとした事が何度かある。けれど、どうしても美穂が作るようにはならない。玉ねぎが黒焦げになるか、ジャガイモが黄色いままか、塩味がきつすぎるか、とにかく上手くいかなかった。
「証券を売るのは得意だったんだけれどね」
彼はごにょごにょと何かを言った。
結局、美穂が毎朝ブラウン・ポテトを作る代わりに、一時間早く上がっていいという許可を得て、「ブラウン・ポテト改善プロジェクト」の責任者代行に就任することで話は決着した。
少なくともポールの主張は間違っていなかった。ブラウン・ポテトが改善されてから《Star's Diner》でモーニングセットを食べていく客が明らかに増えたのだ。
「でも、これっぽっちの改善じゃダメなんだよな。もっとドラスティックな改革をしないと」
ポールは証券アナリストの目つきになって腕を組んだ。美穂は肩をすくめた。
美穂にとって、仕事とは上司に命じられたことをきちんとこなすことで、その経営方針に沿った小さな改革はしても、路線の変更など大きな改革とは無縁だと思っていたからだ。数ヶ月前に一人で始めたおしぼりサービスや、掃除の徹底、ブラウン・ポテトの変更に関わることはできても、改装プランやメニューの変更のような大きな変革はオーナーが考えるべきことだと思っていた。
でも、ポールはそう思わなかったのでオーナーに直訴した結果、突然彼は店長代理になった。実のところ店長が他店に引き抜かれていなくなってしまったばかりなので、ポールは実質的な店長になったのだ。代理と本物の店長との違いは給料だけだったが、それでも美穂たちとは大きな差がついた。
美穂も軽い嫉妬をおぼえたが、もっと前からいるスタッフたちはあからさまに不満を表明した。中でもキッチンを仕切っていたジョニーは、メニューを批判されたこともあって大きく反発した。確かにジョニーは本当に調理師免許を持っているのか疑問を持ちたくなるような腕なのだが、新参者であるポールがズケズケとそれを指摘するのは「和をもって尊しとする」美穂の日本的感覚には合わなかった。
「そんな事を言っていると、職場自体がなくなるぞ。お前は日本人だし料理のプロでもないけれど、ジョニーよりはよっぽどマシなんだから少し協力しろ」
ポールはかなり強く要請してきたが、実際の所、スタッフの中で反発しておらず改革に協力してくれそうなのは美穂一人だった。というよりは、言われるとノーと言えないだけなのだが。
ブラウン・ポテトの調理は佳境に入っていた。塩こしょうで味を整え、たっぷりのパセリを加える。ポールが清掃と設備の点検を済ませたころにようやくダイアナが出勤してきて、それとほぼ同時に最初の客たちが入ってくる。この瞬間から九時頃まで美穂たちの忙しい朝が始まる。
風が強い。クリスマス商戦は始まっている。五番街のOLでなくなって二度目のクリスマスが来る。最近は日本の家族にもほとんど連絡しなくなった。そろそろ甥と姪のクリスマスプレゼントを買いにいく時期だ。そのつもりになれない。そう言えば、買い物をしたり、美術館に行ったり、彼を探したりといったポジティヴな行動をここの所全然していない。美穂は枯葉がカサカサと音を立てて舞い踊る歩道橋の上でじっと立ち止まった。
故郷の吉田町で決まったばかりの語学留学に心をときめかせていた数年前のことを思いだした。肩パッドの入ったシャープなコートと革ブーツでニューヨークを颯爽と歩くのだと夢みていた。フリースのマフラーをダッフルコートに押し込んで、スニーカーにジーンズ姿で、ダウンタウンに住み着くなんて考えもしなかった。
「おい。せっかく早く上がったのに、こんなとこで何をしているんだ?」
その声に振り向くと、ポールが立っていた。ダイアナと一緒だ。二人は住んでいる所は全く違うので一緒に帰る理由はない。そうか、この二人、つき合っているのか。
「何って、ちょっと考え事」
「考えんなら、もっと暖かい所でしろよ。なんなら、僕らと一緒に飲みにいくか?」
ポールがそう言うと、ダイアナの表情が若干険しくなった。美穂はあわてて首を振った。
「今日は、いいわ。また今度……」
「そうか。じゃあな、また明日」
二人が行ってしまうと、美穂はため息をついて街の向こうを見た。なんだかなあ。私何をやっているのかな。鞄の中には、塩素で消毒したふきんとハンドタオルが入っている。もともとは当番制だっけれど、他の誰もがやらないのでこれを持ち帰って洗濯するのは美穂だけだ。
スーパーマーケットで安い食材を買って、一人で料理して一人で食べる。ウェイトレスの給料でできる贅沢は限られている。その食費を削って、日本の家族にプレゼントを贈る。送料も馬鹿にならない。
ポールのようにきちんと自己主張をして、リスクも怖れずに進んでいってこそ、サクセス・ストーリーも可能なのかもしれない。事務職でいい、ウェイトレスでいいと守りに入っている自分は、きっと大きな昇進などありえないのだろうし、ずっと時給2.8ドルのままなのかもしれないと思った。ポールが店長になった時に、「私も頑張っているんだから、時給を上げて」くらいの主張をすればよかったけれど、言えなかった。夕食の玉ねぎを刻みながら美穂はため息をついた。それからキッチンペーパーで涙を拭った。
鉄板のベーコンがジューと踊りだしたので、美穂は玉ねぎを投入してしんなりするまで炒めた。そして薄切りポテトを入れた。ブラウンになるまで根氣づよく、じっくりと炒める。いつもの朝の光景。彼女はモチベーションを上げようと鼻歌を歌う。Jポップのレパートリーが切れたので、フランク・シナトラまで持ち出した。
「おはよう、『マイ・ウェイ』か。いい声だな」
「おはよう、ポール」
美穂は、自分を鼓舞するために元氣に挨拶した。
「お。少し浮上したか」
その言葉で、落ち込みを悟られていたのかと、意外な思いがした。
「まあね」
ポールはブラウン・ポテトを一つつまみ上げて「あちっ」と言いながら口に放り込んだ。
「う~ん。これこれ。これこそニューヨーカーのブラウン・ポテトだ」
「ニューヨーカーのじゃないでしょ。ジャパニーズのだよ」
美穂が抗議すると、ポールはちらっとこっちを見て笑った。
「あん? はいはい、ニューヨークのジャパニーズ」
そのおどけた様子に美穂は笑ってしまった。ま、いっか。職場の居心地が悪くないだけでも。
ポールは美穂の方をまともに見て言った。
「心配すんなよ。お前が一人で頑張っているの、ちゃんとオーナーに伝えているし、時給を倍にしろって交渉中だからさ」
美穂はびっくりしてポールを見た。ポールはウィンクすると、『マイ・ウェイ』を歌いながら、モップを取りにバックヤードに入っていった。
(初出:2014年11月 書き下ろし)
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【小説】ブラウン・ポテトの秋
登場するのは「今年脚光を浴びた人」谷口美穂。去年書いた作品の一回きり登場のキャラのはずでしたが、scriviamo! 2014でポール・ブリッツさんに取り上げていただいてからどういうわけか起用が相次ぎました。で、まだ早いけれど、今年の総決算モードということで再登場。で、準レギュラーキャラの名前はポール・ブリッツさんからいただきました。
とくに読む必要はありませんが、「マンハッタンの日本人」を知らない方でお読みになりたい方のためにリンクを貼っておきます。
「マンハッタンの日本人」
「それでもまだここで 続・マンハッタンの日本人」
「花見をしたら 続々・マンハッタンの日本人」
「歩道橋に佇んで 続々々・マンハッタンの日本人」

ブラウン・ポテトの秋 続々々々・マンハッタンの日本人
3キロのジャガイモがふかし上がった。美穂はキッチンスタッフではないが、モーニングセットの準備でブラウン・ポテトを作るのは彼女の仕事になってしまっている。熱々のジャガイモの皮は自然と割れて剥がれているので取り除く。7ミリくらいの厚さに切っていく。
大きな鉄板にサラダ油とベーコンの細切れを入れてじっくりと油がでるまで炒めたら、薄切りの玉ねぎを入れてしんなりするまで炒める。それからジャガイモを加える。
バターを時々足して、鉄板にジャガイモを押し付けながらきれいな茶色に焦げるように炒めていく。この頃になるとキッチンはいい香りで満ちる。それを見計らったかのようにポールが入ってくる。
「おはよう、いい匂いだな」
「おはよう、ポール」
これが、毎朝のお決まりの挨拶になっている。
ダウンタウンにある《Star's Diner》のモーニングセットの目玉が、このブラウン・ポテトだ。ポールがこの店に勤めだして、一週間もしないうちにオーナーに訴えたのが、それまで出していたブラウン・ポテトのまずさだった。
「こんなまずいブラウン・ポテトに我慢できるニューヨーカーなんかいるものか。ブラウン・ポテトはニューヨーカーの心なんだ」
日本人である美穂には、ポールのその理屈は全くわからなかったが、確かに《Star's Diner》のブラウン・ポテトは大したことのない味だった。オーナーはその批判にぶち切れたのか、それとも納得したのかよくわからないが、突然ポールを「ブラウン・ポテト改善プロジェクト」の責任者に任命した。
ポールには一つの問題があった。ブラウン・ポテトに対する強い思い入れに匹敵するほどの料理の知識に欠けていたのだ。そして、プロジェクトをサポートするのは朝番のウェイトレスたちの仕事になったのだが、普段より早く来ることを好まないほかの女の子に上手く逃げられた結果、結局美穂にお鉢が回ってきたのだ。
「こればかりは、時間短縮ができないの。とにかくじっくりと焼き色をつけないと」
なぜ日本人の自分が生粋のニューヨーカーにブラウン・ポテトの作り方を教えなくてはいけないのかわからない。
美穂は作り方をポールに教えて、朝番を交代にしてもらおうとした事が何度かある。けれど、どうしても美穂が作るようにはならない。玉ねぎが黒焦げになるか、ジャガイモが黄色いままか、塩味がきつすぎるか、とにかく上手くいかなかった。
「証券を売るのは得意だったんだけれどね」
彼はごにょごにょと何かを言った。
結局、美穂が毎朝ブラウン・ポテトを作る代わりに、一時間早く上がっていいという許可を得て、「ブラウン・ポテト改善プロジェクト」の責任者代行に就任することで話は決着した。
少なくともポールの主張は間違っていなかった。ブラウン・ポテトが改善されてから《Star's Diner》でモーニングセットを食べていく客が明らかに増えたのだ。
「でも、これっぽっちの改善じゃダメなんだよな。もっとドラスティックな改革をしないと」
ポールは証券アナリストの目つきになって腕を組んだ。美穂は肩をすくめた。
美穂にとって、仕事とは上司に命じられたことをきちんとこなすことで、その経営方針に沿った小さな改革はしても、路線の変更など大きな改革とは無縁だと思っていたからだ。数ヶ月前に一人で始めたおしぼりサービスや、掃除の徹底、ブラウン・ポテトの変更に関わることはできても、改装プランやメニューの変更のような大きな変革はオーナーが考えるべきことだと思っていた。
でも、ポールはそう思わなかったのでオーナーに直訴した結果、突然彼は店長代理になった。実のところ店長が他店に引き抜かれていなくなってしまったばかりなので、ポールは実質的な店長になったのだ。代理と本物の店長との違いは給料だけだったが、それでも美穂たちとは大きな差がついた。
美穂も軽い嫉妬をおぼえたが、もっと前からいるスタッフたちはあからさまに不満を表明した。中でもキッチンを仕切っていたジョニーは、メニューを批判されたこともあって大きく反発した。確かにジョニーは本当に調理師免許を持っているのか疑問を持ちたくなるような腕なのだが、新参者であるポールがズケズケとそれを指摘するのは「和をもって尊しとする」美穂の日本的感覚には合わなかった。
「そんな事を言っていると、職場自体がなくなるぞ。お前は日本人だし料理のプロでもないけれど、ジョニーよりはよっぽどマシなんだから少し協力しろ」
ポールはかなり強く要請してきたが、実際の所、スタッフの中で反発しておらず改革に協力してくれそうなのは美穂一人だった。というよりは、言われるとノーと言えないだけなのだが。
ブラウン・ポテトの調理は佳境に入っていた。塩こしょうで味を整え、たっぷりのパセリを加える。ポールが清掃と設備の点検を済ませたころにようやくダイアナが出勤してきて、それとほぼ同時に最初の客たちが入ってくる。この瞬間から九時頃まで美穂たちの忙しい朝が始まる。
風が強い。クリスマス商戦は始まっている。五番街のOLでなくなって二度目のクリスマスが来る。最近は日本の家族にもほとんど連絡しなくなった。そろそろ甥と姪のクリスマスプレゼントを買いにいく時期だ。そのつもりになれない。そう言えば、買い物をしたり、美術館に行ったり、彼を探したりといったポジティヴな行動をここの所全然していない。美穂は枯葉がカサカサと音を立てて舞い踊る歩道橋の上でじっと立ち止まった。
故郷の吉田町で決まったばかりの語学留学に心をときめかせていた数年前のことを思いだした。肩パッドの入ったシャープなコートと革ブーツでニューヨークを颯爽と歩くのだと夢みていた。フリースのマフラーをダッフルコートに押し込んで、スニーカーにジーンズ姿で、ダウンタウンに住み着くなんて考えもしなかった。
「おい。せっかく早く上がったのに、こんなとこで何をしているんだ?」
その声に振り向くと、ポールが立っていた。ダイアナと一緒だ。二人は住んでいる所は全く違うので一緒に帰る理由はない。そうか、この二人、つき合っているのか。
「何って、ちょっと考え事」
「考えんなら、もっと暖かい所でしろよ。なんなら、僕らと一緒に飲みにいくか?」
ポールがそう言うと、ダイアナの表情が若干険しくなった。美穂はあわてて首を振った。
「今日は、いいわ。また今度……」
「そうか。じゃあな、また明日」
二人が行ってしまうと、美穂はため息をついて街の向こうを見た。なんだかなあ。私何をやっているのかな。鞄の中には、塩素で消毒したふきんとハンドタオルが入っている。もともとは当番制だっけれど、他の誰もがやらないのでこれを持ち帰って洗濯するのは美穂だけだ。
スーパーマーケットで安い食材を買って、一人で料理して一人で食べる。ウェイトレスの給料でできる贅沢は限られている。その食費を削って、日本の家族にプレゼントを贈る。送料も馬鹿にならない。
ポールのようにきちんと自己主張をして、リスクも怖れずに進んでいってこそ、サクセス・ストーリーも可能なのかもしれない。事務職でいい、ウェイトレスでいいと守りに入っている自分は、きっと大きな昇進などありえないのだろうし、ずっと時給2.8ドルのままなのかもしれないと思った。ポールが店長になった時に、「私も頑張っているんだから、時給を上げて」くらいの主張をすればよかったけれど、言えなかった。夕食の玉ねぎを刻みながら美穂はため息をついた。それからキッチンペーパーで涙を拭った。
鉄板のベーコンがジューと踊りだしたので、美穂は玉ねぎを投入してしんなりするまで炒めた。そして薄切りポテトを入れた。ブラウンになるまで根氣づよく、じっくりと炒める。いつもの朝の光景。彼女はモチベーションを上げようと鼻歌を歌う。Jポップのレパートリーが切れたので、フランク・シナトラまで持ち出した。
「おはよう、『マイ・ウェイ』か。いい声だな」
「おはよう、ポール」
美穂は、自分を鼓舞するために元氣に挨拶した。
「お。少し浮上したか」
その言葉で、落ち込みを悟られていたのかと、意外な思いがした。
「まあね」
ポールはブラウン・ポテトを一つつまみ上げて「あちっ」と言いながら口に放り込んだ。
「う~ん。これこれ。これこそニューヨーカーのブラウン・ポテトだ」
「ニューヨーカーのじゃないでしょ。ジャパニーズのだよ」
美穂が抗議すると、ポールはちらっとこっちを見て笑った。
「あん? はいはい、ニューヨークのジャパニーズ」
そのおどけた様子に美穂は笑ってしまった。ま、いっか。職場の居心地が悪くないだけでも。
ポールは美穂の方をまともに見て言った。
「心配すんなよ。お前が一人で頑張っているの、ちゃんとオーナーに伝えているし、時給を倍にしろって交渉中だからさ」
美穂はびっくりしてポールを見た。ポールはウィンクすると、『マイ・ウェイ』を歌いながら、モップを取りにバックヤードに入っていった。
(初出:2014年11月 書き下ろし)
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題名の話

本文とは関係なく先日行ったルガーノ湖の秋の風景
中身の話は棚に上げて語りますが、題名は作品の顔です。本屋さんに並ぶプロの本の場合は装丁や表紙イラストなども大切ですが、私の発表している場では、そういうアイキャッチは不可能なので、タイトルがとても大切だと思うのです。とはいえ、「なんとなくかっこいい」題名をつけても作品の本質とかけ離れていたら意味はありませんし、自分の美意識やこだわりも疎かにできません。
特殊な作品(題名指定リクエストや神話系・地名系お題シリーズなど)を除いて、タイトルは後から付けます。「もうこれしかない!」というものもあれば、「違う」と思いつつもよりよいタイトルが浮かばないときもあります。
自分一人で書いていた時はたとえピンと来なくても「○○(仮題のつもり)」でずーっと放置というのもありでした。「それ、いったい何の関係があるのか」みたいな題でもツッコむ人はいませんでしたし。
ブログで小説を発表するようになってからは、そうはいきません。とはいえ、作品を書き上げてからタイトルを決定するまでにあまり時間がなくて、「まずい! タイトル決まらない。妥協だけれど、これでいいか」みたいな作品もちらほら。
たとえば「夜のサーカス」シリーズはもともとリクエストの短編「夜のサーカスと紅い薔薇」でした。単純に「チルクス・ノッテ」というサーカス団を考えついたのでそれの日本語訳を題名につけたのです。旅行中にiPhoneのメモ帳で書き、そのままアップしたので何も考えなかったんですが、どうやら「夜のサーカス」という商業作品があるみたいなんですね。たまに検索で紛れ込んできます。
主題とぴたりとはまって、題名としても、シリーズ物の総称としても、見苦しくないと自分で思うのは「樋水龍神縁起」と「大道芸人たち Artistas callejeros」の二つでしょうか。
中編や読み切りについては、「題名に心惹かれて」と読み出してくださる方もいらっしゃるので、「題名って大事!」と思うのですが、このあたりは大量生産があだになり、時おり自転車操業で慌ててつけているので「ごめんなさい!」と謝りたくなるようなものもあります。「十二ヶ月の○○」シリーズの半分くらいは、やっつけでつけてしまい、本当は変えたいのもあったりします。
『森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架』については幻の三部作『森の詩 Cantum Silvae』シリーズの二番目という位置づけに自分一人がこだわった結果、こういう題名になってしまいましたが、結局よくわからない題名になっているかも。でも、外伝を書く時には『貴婦人の十字架』は合わないので、むりに『森の詩 Cantum Silvae』をくっつけておいてよかったのかとも思いますが。
失敗したなあと思っているのは「Infante 323 黄金の枷」です。これは今年の三月に思いついて、五月末に連載を開始してしまったのですが、一作で完結するつもりが、その後に勝手に三部作になってしまい、残りの二つはまったく23の話じゃないんで、この題ではまずいのです。だから、これからメインタイトルを決めなくちゃいけない。でも、発表しない可能性もあるので(なんせまだ書き上がっていないし)そうなるとこのままでもいいしと、ぐるぐる悩んでいたりします。ちなみに『Usurpador 簒奪者』『Filigrana 金細工の心』とあわせて三部作になる予定。今のところ『ドラガォンの血族』ってのがシリーズ全体の仮題なんだけれど、なんか違う……。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(18)若き国王
で、これまで目立たなかったラウラにスポットライトがあたったことによって、激しく動揺している人が一名。波風が立ちはじめます。(いい加減、何か起こらないと退屈すぎ)
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森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(18)若き国王

宮廷はざわめいていた。
「それはどういうことだ!」
《氷の宰相》が取り乱したのを廷臣たちははじめて目にした。
「ですから、こちらに間もなくお見えになるのは、使者殿ではなく、グランドロン国王その人だというのです」
取り次ぎの伝令は、汗でびっしょりになっていた。ただの使者が来るにしては、あまりにも護衛の部隊が多いので、念のためにザッカが使者は何者なのかと確認させた所、もはや城下に入っているグランドロン側が伝えてきたのだ。
「うむ、それは困った」
ザッカは頭を振った。グランドロン国王レオポルド二世が来た理由はわからなかった。まさか姫本人の顔を見たいわけでもあるまい。姫は噂に違わず美しい。その点の心配はない。だが、わずかの時間でも言葉を交わせば、あの軽薄な人柄が知れる。あのマリア=フェリシア姫を目の前にして結婚したいと思う男などいないだろう。あの王は、すでに、センヴリ王国や、マレーシャル公国でも姫君を様々な口実をつけては袖にしてきているのだ。だからこそ、使者に姫を会わせるつもりもなかった。だがレオポルド二世が訪れているのにマリア=フェリシア姫が奥に引っ込んでいるわけにはいかない。
ザッカは副官であるのジュリアン・ブリエに言った。
「ベルモント夫人をここにお呼びして」
ブリエは、急いで宮廷奥総取締を勤める女官を呼びに行った。夫人は、息を弾ませてブリエとともに入ってきた。
「お呼びと伺いました。姫君のお召しかえの事で?」
「姫は、国王の滞在中は奥にいていただくように。バギュ・グリ殿に赤毛のカツラを用意しなさい。出来る限り濃いヴェールをし、顔が見えないようにしなさい。服は、もちろん長袖のものを」
夫人は震えた。
「ラウラに、姫の身代わりを……?」
「今の殿下にグランドロン王との社交の会話は不可能だ。語学力だけではない、話す内容そのものもだ。いいか、国王にこの縁談を断らせてはならぬ。断るのはこちらでなくてはならぬのだ」
彼女は震えつつも頷くと、急いで奥に戻っていった。
「宰相殿は氣でも違ったのですか? 私に王太女殿下のフリをせよとおっしゃるのですか?」
ラウラはベルモント夫人を見つめて身を震わせた。
「その通り。心配いりません。宰相殿もこのお話を破談にしたいみたいなの。ただ、姫の名誉にかけて、向こうから断られるような事があってはならないというのよ。姫は二ヶ月経っても、いまだにグランドロンの言葉での挨拶もおぼつかないでしょう。あちらの情勢も頭には入っていないし、国王と対等にお話をするなんて不可能だと、宰相殿は考えていらっしゃるの。まあ、お考えは間違っているとは言えませんよね。わかるでしょう、ラウラ。全てはあなたにかかっているの。とにかく、あちらに断る理由を与えない、無難な対応をしてほしいの」
ラウラは青ざめた顔で頷く他はなかった。
ルーヴラン国王エクトール二世が王女に対する侮辱とも取れるこのような提案を、なぜあっさり承諾したのかラウラにはわからなかったが、少なくとも彼はそのことに対するとまどいは全く見せなかった。ラウラが国王と手をつなぐのははじめてだった。広間に入る前に低い声で囁いた。
「頼むぞ、ラウラ」
「はい、陛下」
ラウラは公式の場で貴婦人が使う円錐型の帽子を冠りヴェールを顔の前にたらしていた。これまでにルーヴランが使った伝統的なヴェールは白く非常に薄い形式的なものだったが、今回は黒くてしかも編みが密で、ラウラ自身も周りの状況がはっきりとは見えていなかった。
国王に手を引かれて広間に入っていくこと自体、本来なら動揺して堂々とできそうもなかったが、ヴェールのせいで暗い廊下では一人ではしっかりと進めなかったので、エスコートされる歩みも自然になった。そして、広間の中心でグランドロン王に紹介されてその手を渡される時にも、不安に満ちた表情を見られるのではと怖れることもなかった。
明るい光のもとではラウラの方からはグランドロン王を見ることができた。背が高く、黒いまっすぐな髪を後ろで束ねている。赤いどっしりとした天鵞絨の上着は華やかな飾りと相まって非常に重いに違いないが、それを感じさせずに胸を張って立っている。濃い眉とはっきりとした鼻梁が目につく。
「マリア=フェリシア姫、お会いできて光栄です」
流暢なルーヴラン語の挨拶とは裏腹に、マリア=フェリシア姫を前にした時にどの男性もそうなる、驚きと賞賛のまなざし、そしてすぐにわかる心惹かれた様子を全く見せなかった。そして、それは当然のことだった。ヴェールのせいで目の前にいる相手の顔などは全く見えなかったし、見えたとしてもそこにいたのは姫ではなかったから。
「私こそ光栄でございます、陛下。遠くからようこそルーヴランにお越しくださいました」
ラウラがそういうと、レオポルドは少し意外そうに見た。
「流暢なグランドロン語だ。称賛に値します」
「はじめたばかりで拙く、失礼がございましたらお許しくださいませ」
ザッカの合図で楽士たちが円舞曲を奏ではじめた。広間の中心で、礼儀作法に則った一礼をすると、レオポルドとラウラは踊りはじめた。それを合図にルーヴラン国王夫妻、両国の臣下たちがゆっくりと踊りに加わった。
マックスは何かあった時に姫と国王の通訳をすることができるようにと、この謁見への同席を認められて広間の片隅に立っていた。だが、実際には通訳はまったく必要なかった。国王レオポルド二世はマックスと同じくらい自由にルーヴラン語を理解したし、ラウラのグランドロン語もこの程度なら全く困らないほどになっていることはわかっていたから。もちろん、マリア=フェリシア姫のグランドロン語であったなら、こうはいかなかったことははっきりしていた。
彼は召使いの差し出した盆から、銀の盃を受け取るとそれを飲みながら広間の踊りを見ていた。その視線の先には、いずれは仕えるようにと師匠に命ぜられた彼の君主と、ここ数ヶ月の日常生活で常に側にいる彼の生徒がいた。レオポルドの口元が定期的に動いているので、二人が踊りながら会話をしていることがわかる。何を話しているのだろうと思った。ベフロア娼館の女たちと遊んでいるうちに憶えた甘く心にもないささやきを、あの無垢な娘に告げたりしているのではないだろうか……。
そこまで考えて、はっと我に返った。そんなわけはない。わが王はあれを王女だと思っているのだ。ルーヴラン王国の未来と誰もが羨む美貌を兼ね備えた、政略の花嫁候補だと。だからといって、なぜそんなに近づかなくてはならないのか。
マックスはこれまで若き国王に対して親しみを持ってきたことはなかった。彼の安全のための実験係として苦しんだことに対して怒りを持ったことはなかった。どちらにしても彼がそんなことを知っていたはずはないから。ただレオポルド二世は鍛冶屋の次男だった彼には遠すぎる貴人だった。老師に「いずれは我に代わってお前があの方にお仕えするのだ」と何度言われても実感が湧かなかった。まともに言葉を交わしたこともなければ、興味を持ってもらったこともなかった。いつか自由になることだけを秘かに願い続けてきたマックスには親しくしてもらわなくても構わなかった。
だから、今レオポルドが誰と踊ろうが何も感じないはずだった。だが、このはっきりとした不快感はなんなのだろう。ようやく思い当たって、彼は愕然とした。相手がラウラだからだ。
なんてことだ。僕はあの娘に惹かれているらしい。そんなばかな。落ち着け。たぶんこれは単なる憐憫だ。あの娘の境遇が、毒の実験係に使われた自分のそれと重なるから……。マックスは盃をあおった。
曲が変わった。マックス自身が教えたグランドロン王国の舞踏祝祭曲『森の詩』のメロディだった。グランドロンからの一行は国王を含めて一様にこの歓迎に驚きの表情を見せた。レオポルドはそのままラウラと『森の詩』を踊りはじめた。ラウラはマックスに習ったようにきちんとステップを踏んだ。右へ、左へ、そして右に踏み出してお互いの周りを回る。ヴェールのすぐ近くにまでレオポルドの顔が近づいている。国王はまだラウラに話しかけている。マックスは顔を背けた。何に対してこれほど苛だっているのか説明ができなかった。そして、黒いヴェールの向こうで王女の替え玉にされた娘が何を考えているのかをも知ることはできなかった。
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鬼が笑うけど
この時期は年末年始のことを準備するのです。例えば日本の家族のクリスマスプレゼントを用意して送ったり、母親のために年賀状を作ったり、ついでに私の日本の方向けの年賀状つくったり。(そういえば来年は歳女だ)なぜそんなに早いのかというと、そうじゃないと間に合わないからなんですね。
さて、そういう訳で、この時期は自分の来年のことも考えます。と言っても、実生活では別に大きな変化はないので、考えるのは主にブログ活動=小説のこと。
今年の活動は、ちょっと失敗しました。長編小説を二本同時連載って、無謀でした。もちろん去年もメインの長編(「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」)とStella用長編(「夜のサーカス」)の二本同時ではあったので、大丈夫だと思ったんですが、「夜のサーカス」は一本一本が読み切りに近い作品だったので、両方読んでいらっしゃる方が飛ばすこともできたんですよ。でも「Infante 323 黄金の枷」は飛ばすとわからなくなってしまうタイプ。
それに加えて「十二ヶ月の野菜」に「scriviamo!」やキリ番企画などで単発掌編や番外編が多くて、自分でも「読まされる方はたまらんだろう」と思う事態になってしまいました。書いている本人は大して大変じゃないんですが、読まされる方の苦痛を考えると、まさに「いかがなものか」
で、2015年は少しブレーキをかけたいのですが、それがまた悩みどころなのです。ブログ三周年だから「scriviamo!」はまたやりたい。長編二つは間を空けると忘れられるので続行するしかない。ということは、ひっこめられるのは「十二ヶ月の○○」シリーズだけ。実をいうと、読み切りしか読まないという方もいらっしゃるので、このシリーズは続行したかったのですが、まあ、これだけ企画もので読み切りがあればいいかと。
それと、55555Hitは、いつ来るかで考えます。「scriviamo!」期間中(一月と二月)ならスルーさせてください。それ以外の時期の場合、最高五人までの方からお題またはキャラを募集してそれで一つの読み切りを書くことにします。(33333Hit記念作品と同じ形式です)
それでですね、ブログのお友だちのみなさんへのお願いは、また「scriviamo!」しますので、よかったら参加してくださいね、ということなんです。ということで、鬼が笑う来年の話でした。
参考:
scriviamo! 2013
scriviamo! 2014
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【小説】追憶のフーガ — ローマにて
彩洋さんが書いてくださった作品:
『【いきなり最終章】ローマのセレンディピティ(前篇) 』
『【いきなり最終章】ローマのセレンディピティ(中篇) 』
『【いきなり最終章】ローマのセレンディピティ(後篇) 』
彩洋さんの作品は、なんとご自身のライフワークと言ってもいい、一番大切な「真シリーズ」の最終章になっています。一世紀に及ぶ大河ドラマの集大成。す、すごい。そんな大事な作品をわざわざ書き下ろしてくださいました。あ、いや、もちろん私のためにではないでしょうけれど、でも、企画に合わせていま書いてくださったというのは、とても嬉しいです。
で、「ローマ」です。どうしようか悩んだのですよ。「大道芸人たち」は使い過ぎて新鮮みがいまいち。「夜のサーカス」でマッダレーナを主役にして「セレンディピティ」を書こうかなと思ったけれど、団長ロマーノが悪ふざけしちゃってふさわしくない。それとも若干ご縁がないとも言い切れない「ルドヴィコ+ロメオ」のイタリア人コンビも考えたのですが、彩洋さんがここまで大事な作品で書いてくださっているからには、あの二人じゃ役不足過ぎる。
で、こうなりました。人物は二人とも小者ですが、舞台だけは立派。サン・ピエトロ大聖堂です。彩洋さん家のヴォルテラ家に敬意をはらって。(あ、ニアミスはしているかもしれませんが、どなたともお逢いしていません)彩洋さんと同じ「まだ完結していないシリーズ物の全部終わった後の話」ただし、バリバリの主人公のお話であるあちらと違って、でてくるのは本編には入れられなかった枝葉エピソード+補足。シリーズは現在連載中の「Infante 323 黄金の枷」とその続編三部作で、出てくる女性は脇役の一人です。この作品を読んでいらっしゃらない方には「?」な部分がたくさんあると思います。読んでいらっしゃる方でもわからない部分があると思いますが、読み切りストーリーとしてはほとんど意味がないのであえてほとんどの説明を省きました。「そういうことらしい」と割り切ってお読みください。
50000Hit記念リクエストのご案内
50000Hit記念リクエスト作品を全て読む
「Infante 323 黄金の枷」をご存じない方のために
この作品は現在「月刊・Stella」用に連載している長編小説です。読みたい方はこちらからどうぞ
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追憶のフーガ — ローマにて
タラップを降りて周りを見回した。そこはイタリア、ローマだった。生まれ育った街、出て行くことを生涯禁じられていたはずの街を飛び立ち、何の問題もなくこうして異国に降り立ったことが信じられなかった。ここでも同じように呼吸ができて、黒服の男たちに止められることもなかった。後ろの乗客が控えめに咳をした。それで通行の邪魔をしていたことに氣がついた彼女は小声で謝ると、抱えて持つには多少重いが、海外旅行にしては少なすぎる荷物を持ち直した。
強い陽射しを遮るために左手を額にかざした。そこには、あるはずだったものがなくなっていた。本来だったら生涯外されることのなかったはずの黄金の腕輪の代わりに、彼女は日焼けに取り残された白い痕を見た。違和感が消えない。あれは、氣がついていなかったけれど、とても重かったのだ。当然だろう、黄金だったのだから。どこへ行くのも何をするのも完全な自由を手にした今、彼女を苛んでいるのは心細さだった。
ローマ市内に行くために交通機関を検討しようと、案内板を見上げた。タクシーは即座に却下した。エクスプレスも、彼女の金銭感覚には合わないように思った。彼女は財布の中に入っている黒いクレジットカードのことを思いだした。ローマ市内どころか、シチリアまでタクシーで行っても一向に困らないはずだった。けれど、彼女は微笑んでそのアイデアを打ち消した。
ふと視線を感じて横を見ると、先ほど彼女がタラップを降りる時にちょうど後ろにいた、若い青年がいた。どちらかと言えば貧相なタイプで、茶色い髪は少し伸び過ぎで、黒いシャツに灰色のジャケットはフランス資本のスーパーマーケットで揃えたような安物だった。
彼女と目が合ったので、青年は照れ隠しに笑った。少しの躊躇の後、彼は口を開いた。
「星、一つだったんですね」
彼女は反射的に青年の左手首を見た。この発言で、彼女には彼が「知っている人間」だということがわかった。黄金の腕輪はしておらず海外にいるということは、《監視人たち》の一人なのだろう。しかし、禁じられてはいないとは言え、《監視人たち》も街の外に出ることはほとんどないはずだ。この人はなぜローマにいるのだろう。
「すみません、唐突でしたね。僕は、マヌエル・ロドリゲス。神学生です」
差し出された手を握りながら、彼女はなるほどと思った。それならば、街を離れてローマに学びに行くこともあるだろう。彼らの家業でもある監視、それさえしていれば汗水たらして働かなくても生活できる結構な仕事を、あえてしたくない人間もいるのかもしれない。それとも、彼らは教会の中でも《星のある子供たち》を監視するのだろうか。
「クリスティーナ・アルヴェスです。名前もご存知かもしれないわね。あなたのこと、全く記憶にないから、《監視人たち》としてとてもいい仕事をしていたのね」
そういうと、マヌエルは鼻の所で黒ぶちの眼鏡を押し上げながら、参ったなというように笑った。
「僕、神学校の休みの時に数回だけ兄の代わりをしただけですから」
それから首を傾げて訊いた。
「ローマははじめてのようですね。よかったら市内までご一緒しましょうか」
クリスティーナは、少し考えてから頷いた。
「ええ、お願いするわ。アウレーリア通りってご存知かしら」
「なんですって。バチカンの真ん前じゃないですか。もちろん知っています。目的地までお届けしますよ」
クリスティーナはテルミニ駅からもたくさん歩くことになるのかなと思った。それともバスで。結局、タクシーとは縁がなさそうだ。
黄金の腕輪についていた赤い宝石の数が、一つではなくて二つだったと言ったら、どうなるのだろうかと思った。星一つでない限りは生涯外されることのない《星のある子供たち》の黄金の枷。《星のある子供たち》を生んだからではなく、一年経っても子供ができなかったからでもなく、特別な事情で腕輪を外されたことは、職務に忠実なごく普通の《監視人たち》には知られない方がいいに違いない。そう、私を自由にしてくれた彼のために。
「私をどこで監視したの?」
彼女は訊いてみた。答えないかもしれないと思いながら。
「二度はアリアドスの側で、それから先月、あの婚礼で……」
クリスティーナははっとした。それはドラガォンの館のすぐ側にあるサン・ジョゼ・ダス・タイパス教会で行われた結婚式に違いなかった。花嫁の家族は、ドラガォンの館の中に入ることが許されていないので、例外的にあそこで挙げたのだ。この青年がいたかどうかクリスティーナが氣に留めていなかったのも当然だった。彼女は婚礼も出席者も司祭や助祭も見ていなかった。彼女は、座った席の正に横の位置の床に、新しく設置された四角い石を見ていた。《Et in Arcadia ego》石にはただそれだけ刻まれていた。
その位置にその石が設置されたのは、おそらくクリスティーナのことを慮ってだったろう。もし、ドラガォンの館の敷地内にあれば、腕輪を外されたクリスティーナは二度と訪れることはできないだろうから。
名前はない。墓標だと氣づく者もない。始めから存在しなかった者が再び幻影に戻った、その記念。
「何かつらいことを思いださせてしまいましたか?」
声にはっとして、マヌエルの存在を思いだした。バスは高速道路に入った所だった。高速道路そのものは彼女の故郷にあるものとあまり変わらないのだなと思った。と言っても彼女が高速道路というものを通ったのは、今日が初めてだったのだが。
「ごめんなさい。初めて飛行機に乗って、少し疲れたみたい」
「そうですか。一時間近くかかりますので、少しお休みになっても構いませんよ。近くなったら起こしますから」
そう言ったマヌエルの方が、先にウトウトとしだした。頼りない人ね、笑ってクリスティーナは窓の外を眺めた。彼に逢ったのは偶然なのだろうか。それとも《監視人たち》は今でも私を監視しようとしているのだろうか。それから肩をすくめた。もし、そうだとしても、こんな抜けた人を選ぶわけはないわよね。
それから彼女は、幾年も前のことを思いだした。あの館でゆっくりと刻んだ時間、いつでも彼がいた。それは海辺の波のようだった。ゆっくりと押し寄せて、それから静かに帰っていく。フーガのように、追いかけては追い越していく。仕事のことを話すだけだった長い期間、それから、その外見と堂々とした態度からは想像もできない傷つきやすい魂を知ったこと。ゆっくりとその手が伸ばされて、戸惑い、諦め、潤んだ瞳だけが語る長い時が過ぎていった。
熱にうなされ、一人で消えていく恐怖に怯えていた彼を、この世につなぎ止めたくて必死でその手を握った。弱々しい力が、わずかな歓びにうち震えた。彼女にとって深く哀しくも歓びに満ちた日々の始まりだった。尊敬と親しみが、愛に変わった瞬間だった。
「愛されるというのは、幸せなものだな……」
彼の大きい手のひらを自分の頬に引き寄せて、頷いた。それもまたゆっくりと記憶の彼方に帰っていった。
「あれ。いつの間に……」
目の覚めたマヌエルを見て、クリスティーナは笑った。
「そろそろ着くんじゃないかしら」
マヌエルは眼鏡をかけ直して車窓を眺めた。
「ええ。もうすぐです。ホテルの近くまで行くバスにご案内しますね」
クリスティーナは、ふと思いついて訊いた。
「ねえ、サン・ピエトロ大聖堂を案内してくれない? 見所や歴史についてあなたはとても詳しいのでしょう」
マヌエルはすぐに首を縦に振った。
「喜んでご案内しますよ。実のところとても詳しいとは言えませんけれど、行き慣れていますし、母国語で説明を聞くのはあなたにとっても楽でしょうから」
クリスティーナのチェックインしたホテルを見て、マヌエルは目を丸くした。僕の記憶が確かならば、この女性はドラガォンの館の使用人だったはずだ。ここはかなり格の高い四つ星ホテルだ。クリスティーナは彼の考えを見透かしたように言った。
「ドラガォンからのボーナスみたいなものよ。でも、これからずっとこんな暮らしをしていくわけじゃないのよ」
あのクレジットカードをくれたということは、たぶん彼らは私にそうしてもいいと言っているのだろう。おあいにくさま。私がそんなに怠惰だと思ってくれては困るわ。クリスティーナは心の中でつぶやいた。
荷物を置きに部屋に入ると、花瓶にピンクと黄色のグラデーションになった薔薇の花束が生けてあるのが目に入った。私がこの色の薔薇が好きだと、彼はわざわざセニョールに伝えておいてくれたんだろうか。強い香りを吸い込み一本手にとろうとした。「いたっ」棘が指に刺さった。ドラガォンでは、使用人たちが丁寧に棘を取り除いて生けていた。そう、もう、ここはドラガォンではない。イタリアのローマにいるのだ。
血が流れる。痛みとその真紅が、クリスティーナに「まだ生きているのだ」と告げる。
ロビーに降りて行くと、マヌエルが所在なげに座っていた。クリスティーナが手を振ると、嬉しそうに立ち上がった。
「お待ちどうさま。部屋からサン・ピエトロ大聖堂のドームが見えたわ。本当にローマにいるのね」
彼女が言うと、マヌエルは微笑んだ。彼の荷物をフロントに預けて、二人はサン・ピエトロ大聖堂に向かった。
テレビで遠景をみたことがあったが、カトリックの総本山だけあってその壮大さはただ事ではなかった。彼女の街の「セ」という呼び名で親しまれている大聖堂や黄金の装飾で有名なサン・フランシスコ教会も壮大だと思っていたが、スケールが違った。そもそも四柱のドリス式列柱に囲まれた楕円形の広場からしてずっと広い。
「この列柱廊は、信者を優しく抱擁するように広げた腕のようになっているんです。あ、ここに立って見てください。四列の柱がぴったり重なって一柱のように見えるでしょう?」
マヌエルはゆっくりと歩きながら説明していった。13の聖人像の見えるファサード、教皇が祝福を与えるバルコニー、玄関廊の五つの扉、観光客たちが押し寄せていく中を、ゆっくりと大聖堂の中に向かって歩んでいく。
身廊に入ってすぐ右側に人だかりがしていた。クリスティーナはすぐにそれがなんだかわかった。ミケランジェロの「ピエタ像」だ。亡くなったキリストを腕に抱く聖母マリア像。若々しく穏やかで美しい嘆きの母は、クリスティーナを再び記憶の海に引き戻した。
彼が眠りについたあの夜、報せを訊いて駆けつけると、枕元で泣いていた彼の母親は立ち上がって彼女を抱きしめた。
「かわいそうな、クリスティーナ」
かわいそうなのは、あなたでしょう。息子を失っても、嫁でもない女の心を慮らなくてはならない。自由になることは許されず、願った人生を生きることも叶わない。それでも、優しく、強く、思いやりを失わない人。あなたが私の前を歩いてくれたから、私は不幸に溺れることがありませんでした。私のことを心配なさらないでください。私も泣くだけの人生を送ったりしません。彼の思い出を掘り返すだけに、残りの人生を費やすこともしないでしょう。
身廊を進みながら、マヌエルがいくつもの絵画やモザイク画を説明してくれた。参拝者が接吻していくために右足のすり減ってしまっているブロンズのペテロ像、そして、大きな天蓋に覆われた教皇の祭壇。
祭壇の真上のクーポラからは光が溢れていた。ルネサンスの最高傑作とはよく聞くものの、実際に立ってみるまではその意味がはっきりとはわからなかった。なんて美しいのだろう。人は、どれほどの時間をかけ、技量と知恵を振り絞って、天上の美というものを表現しようと試みたのだろう。そして、今、私はここに立ってそれを見ているのだ。
「すごいわね」
彼女のため息に、マヌエルは頷いた。
「とてつもない時間と労力。この豪華絢爛な建造物を作る費用を貧しい人に向ける方がずっと神の意に適うという人もいます。確かにそれにも一理あるんですが、それだけで片付けられない何かがあるんです。僕はこの驚異をこの目で見ることができてよかったと思うんですよ」
クリスティーナは黙って頷き、光を見ていた。マヌエルは横で続けた。
「ここは、僕には特別な所なんです。ずっとドラガォンと《監視人たち》のシステムについて悩み続けてきました」
彼女ははっとして、青年の横顔を見つめた。彼はペテロ像の方を見た。
「ローマ教皇は主イエス・キリストの精神的後継者として代々受け継がれてきた。そして、あなたたちが受け継いでいるのは同じ主の血だと聞いたことがあります」
「それはただの噂でしょう」
「ええ、その通り噂です。信憑性を確かめることもできないものを守るために、時代遅れで人権無視のシステムが動き続けている。僕は、システムの一部である《監視人たち》の家系に生まれて、不都合を押し付けられたあなたたちに苦痛を強いることの意味をずっと考えていました。そして結論はシステムから逃げだすことだったのです」
彼が「
「参ったな。バッハの『パッサカリアとフーガ ハ短調』ですね」
フーガ。イタリア語でもポルトガル語でも音楽用語の遁走曲以外に、逃走や脱出、脱落やこぼれ落ちることを意味する。クリスティーナは左手を見た。ここにいる二人はドラガォンのシステムから抜けだしている。特例によって、もしくは、意志によって。システムを離れたものは部外者だ。血脈が本当は何を意味するかわかったとしても、もはやその保存に対して何かをすることはできない。クリスティーナの左手首はとても軽くなった。その彼女を自由にしてくれた人は、自分自身は自由になることができないまま、システムに身を任せ、あの四角い石の下に眠っている。豪華な墓標もなく、功績を知られることもなく、存在を打ち消された。
石の上に書かれた銘文のアナグラムを思いだす。《I tego arcana dei》。『神の秘密を埋めた』
華やかなフーガの流れる、世界が驚嘆の目を向ける大聖堂。主イエス・キリストの後継者たちの偉大なる聖座。それはどれほど彼女の愛した男やその先祖または後に続く者たちの人生と異なっていることだろう。
《星のある子供たち》の存在に意味があるかはわからない。それは栄誉であるとも悲運であるとも言いきれない。世間の目から隠し通し、複雑怪奇で厳格なシステムを使ってまで残そうとした人たちの強い意志は今も働いている。そして、その厳格な網の間を通って、システムを動かす人たちの精一杯の優しさが、このクーポラから射し込む光のように暖かく人を包み込む。
「自由になって、幸せになってほしい。これは、彼の願いだった」
昨日、ドラガォンの当主が、書斎でそう言った。黒檀の机の上に、クリスティーナのパスポートと黒いクレジットカード、それから頼んであったローマへの航空券とホテルのバウチャーを静かに置いた。
「ありがとうございます。メウ・セニョール。そうするよう努力します。お世話になりました」
クリスティーナは、最後に微笑むことすらできた。
たくさんの思い出の詰まった館を、親しんだ仲間たちのもとを、振り返りもせずに出てきた。もう二度と足を踏み入れることはできない。けれど、それがなんだというのだろう。もう、彼はいないのだ。この世のどこにも存在しない。記憶は波のように寄せては帰っていく。そうして私は生き続けていく。この地球に住む他の全ての人びとと同じように。
ホテルに戻り、彼の荷物を受け取って、ロビーで別れを告げる時に彼女はもう一度右手を差し出した。
「一緒に来てもらってよかったわ。詳しくないなんて謙遜しすぎよ。トラベル・ガイドになればいいのに」
クリスティーナが言うと、マヌエルはあっさりと頷いた。
「ええ、実をいうと、それも考えているんです」
彼女はびっくりした。
「司祭になるんじゃないの?」
彼は首を振った。
「とんでもない。神学校に入ったのは《監視人たち》の仕事から離れるための単なる方便ですよ。それに……」
それから声を顰めた。
「妻帯も許されないような集団に興味はないんです」
クリスティーナは呆れた。かわいそうなご家族ね。
「あなたは、この旅の後、どうなさるのですか?」
マヌエルはためらいがちに訊いた。クリスティーナは微笑んだ。
「国に帰るわ。そして、仕事を探さなきゃ。血脈のためなんかじゃなくて、私自身の人生を探していくんだわ。あなたもそうでしょう?」
彼も微笑んだ。
「そうですね。でも、ドラガォンと全く関係のない、ここ、イタリアで暮らしていくのも悪くないと思っているんです。初日じゃわからないと思いますけれど、数日いてみたら、きっと僕のいう意味がわかるかもしれませんよ。もし、そうしたいと思ったら連絡をください。僕、力になれると思いますよ」
クリスティーナは明るく笑った。とんだ神学生ね。イタリアに馴染みすぎよ。強い陽射しが輝いていた。彼女の新しい人生は始まったばかりだった。
(初出:2014年11月 書き下ろし)
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夕飯がいらないくらい

先週の金曜日、ルガーノで開催されたピアノコンサートに行ったのですよ。ルガーノはアルプス山脈を越えたイタリア側のスイスの街。南国の香りがします。
で、お昼ご飯がとても重かったので、夕飯を食べる氣にはならず、コンサートまでの間をバーに行くことにしました。ルガーノに行くとたいてい行く「Tango」というバーです。車で行きましたが、その夜はホテル宿泊だったので安心して飲むことにしました。
選んだのは、甘くて軽い飲み口のヴィーノ・モスカートという白いワインの一種。連れ合いはビールを飲みました。

それだけでも大満足だったのですが、このバーでは自動的におつまみがたくさん出てくるのですよ。これはイタリア語圏のバーに共通していることですが、飲み物を頼むと自動的におつまみの出てくる所が多いです。いわない限り何も出てこない、もしくは注文しないといけないこともあるドイツ語圏とは違うのです。
何が出てくるかはそのバーによって違います。ポテトチップスやピーナツだけの所もありますし、わりと多いのはピッツァやオリーブ。しかも、どんどん出てきます。お会計はどうなるんだろうと心配になりますが、飲み物題しか請求されません。
で、この「Tango」のおつまみは、すでにおつまみの範囲を超えていて、軽食と言ってもいいボリュームでした。写真は二人分ですが、それにしても……。私たちは、カウンターに座っていて、このおつまみの他に目の前においてあるポテトチップスとピッツァも食べ放題状態でした。
このワイン一杯700円ぐらいでしたから、ものすごくお得だと思っちゃいました。もっとも、ここはお料理もとてもおいしいのですよ。次回はちゃんと食べにいきたいです。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(17)貴婦人の面影
間が空いたからといって、話がどーんと進むわけでもなく、未だにもどかしい展開ですが、来週から大きく動いていきますので、もうすこし我慢して読んでくださると嬉しいです。
![]() | このブログではじめからまとめて読む あらすじと登場人物 |
森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(17)貴婦人の面影
「許して下さい」
その言葉に、ラウラはびくっと身を強ばらせて恐る恐る振り向いた。誰かがくるとは思わず、安心して泣いていたのに。薔薇園の片隅はラウラの秘密の隠れ場所だった。
「……先生」
探してきてくれたのだろう。マックスの顔は青ざめていた。ラウラは慌てて涙を拭った。
「知らなかったで済まされる事ではない。あなたが姫の罰を受けさせられる事は聞かされていたのだから罰の話などすべきではなかったのだ。本当にすっかり忘れていたのです。それに、まさか侯爵令嬢のあなたに、あんな罰を……」
マックスは姫にグランドロンの物語を清書させるような罰を考えていた。だが、王女も周りの人間も、姫の罰は全てラウラが左腕を三十回鞭で打たれる事だと言った。マックスが罰を撤回すると言っても無駄だった。鞭を持った無表情の召使いは、まったく手加減せずにラウラの左腕、はじめて見た赤くただれている哀れな肌を鞭打った。まだ前の怪我が治りきっていない弱い肌は、既に一度目の鞭で切り裂かれ、《学友》は痛みに涙ぐみながら歯を食いしばった。
罰が終わると、すぐに忠実な召使いアニーが用意していた布でラウラの傷口を抑え、よろめく彼女を支えながら手入れのために別室へと連れて行った。姫はうっすらと笑いすら浮かべていた。マックスはその様子にぞっとした。ひどい。こんな女性が次期女王だなんて、とんでもない国だ。しかし、彼女は彼の国の后にもなる予定の女性なのだ。国に戻って国王に仕えよと言った老師の言葉をマックスは完全に忘れる事に決めた。
しかし、彼にはどうしても理解できなかった。ラウラは王女ではないが、少なくともバギュ・グリ侯爵令嬢ではないか。あんなにひどい事をどうして誰も止めないのだろう。
授業が終わったので、彼は退出してもよかったのだが、どうしてもラウラに謝りたくて城の中を探した。アニーは「どこにいらっしゃるのか、存じ上げません」と言った。そっとしてあげたいという思いやりがにじんだ言葉だった。マックスは、それを無視して先日ラウラを見かけたここへとやってきたのだ。
ラウラは何かきちんとした事を言おうとしたが、何も思いつかなかった。ため息をついて肩を落とし足元をじっと見つめた。
「先生。どこの国でも同じなのでしょうか。貴族に生まれてこなければ、どんな目にあっても耐えなくてはならないのでしょうか」
「バギュ・グリ殿?」
ラウラは首を振った。
「私は侯爵令嬢ではありません。城下の肉屋の娘として生を受けた者です。両親が流行病で亡くなった後、どの親戚からも引き取りを拒否された、みなし児です。ここに来るために形だけ侯爵さまの養女となったのです」
彼は驚いて、うつむきつぶやくラウラの姿をじっと見た。
「知られたくありませんでした。教わる資格などない、取るに足らない存在とお思いでしょうね」
彼は激しく頭を振った。
「出自が全てだと言うなら、僕こそ、あなたに教える資格などない。僕は鍛冶屋の次男だ」
ラウラは面を上げた。
「我が師は、出自など氣にしなかった。何を学び、何を得たか、それが全てだった。あなたもそうだ。肉屋で生まれようが、先祖に一人も貴族がいまいが、この宮廷のほとんどの者がわかっているはずだ。――あなたがこの国でも有数の貴婦人である事を」
彼はラウラの瞳を覗き込んだ。どうしてだかわからないが、言葉があふれてきた。
「僕は旅をしてきた。センヴリにも行った。ヴォワーズでも仕事をした。常に上流階級で、名家の子息や令嬢ばかりだった。だが、家柄だけが人を尊くするわけではない」
「貧しく生きるだけで精一杯の人びとが、天なる父の御心に叶う尊い生き方が出来ないのは確かだ。だが、それは生まれが低いからではない。それを証ししているのが、他ならぬあなたではありませんか」
彼の熱のこもった言葉に、ラウラは燃えるように痛む手首を一瞬忘れた。
「私はここに来るまで本当の貴婦人と呼ぶにふさわしい女性を一人しか知らなかった。僕の《黄金の貴婦人》に匹敵する方は一人もいなかったのだ」
「《黄金の貴婦人》……?」
「子供の時に数回だけ会った方だ。我が師を訪ねてこられた時に、お茶をお持ちしてお言葉をかけていただいた。優しくて美しくて、天国にいる聖母とはこのような方かと思ったものだ。一度、師のお供で宮廷に上がり、現在の王太后である女王陛下にお目通りした事もあるが、あの方と較べたら陛下は女官とも変わらなかった」
ラウラは遠い目で子供時代の思い出に浸るマックスをじっと見つめていた。彼は白いハンカチーフを取り出すと、包帯を通して血がにじみでてきたその左腕をそっと取ってゆっくりと傷にあてた。
「いけません。汚れますわ」
「氣の毒に。僕のせいで」
「先生のせいではありません。姫は、あれを見るのがお好きなのです。だから、先生でなければ他の方の前で、わざと罰しなくてはならないことをなさるでしょう」
「あなたは、こんな仕打ちにずっと一人で耐えてこられたのか」
答えずに彼女は遠くを見ていた。彼がその視線を追えば、それはどこまでも続く深い森《シルヴァ》へと向かっていた。
「バギュ・グリ殿?」
「……もう少しです。長くても、あと一年。もし姫のお輿入れが決まれば、もっと早くに、私は自由になれるのです」
「自由に?」
彼女はマックスの顔を見た。そして、自分が誰にも言わなかった望みをうかつにも口に出してしまった事を恥じてうつむいた。彼は答えを促さずに彼女の顔を見つめていた。その瞳は優しく自分は味方だと伝えているように思えた。鍛冶屋の息子だと言ったのもラウラを勇氣づけた。彼女は小さな声で続けた。
「姫がご結婚なさるか成人なされた時に、《学友》の役目は終わります。その時には、私はどの国に行っても通用する《正女官》のディプロマをこの手に頂ける事になっているのです。バギュ・グリ侯爵にご迷惑をかけることを怖れる必要もなく、姫からも離れて、自分以外の咎を責められる事もなく自由に生きられるのです――先生のように」
「私のように?」
「国から国へ、街から街へ、行きたい所へご自分の意志で旅をなさる。私もそんな風に生きたいのです」
マックスは微笑んだ。哀れに思ったのは失礼な事だったのかもしれないと心の中でつぶやいた。たおやかに見えて強い人だ。
「あなたはきっと自分の道を見つけるでしょう。今まで苦しんだ分、誰よりも幸せになってほしい」
ラウラはさっと顔を赤らめた。それから、物言いたげに上目遣いで彼を見た。けれど、彼女は何も言わなかった。
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コミュニケーションの力
あ、文ばっかりで殺風景なので写真入れましたが、本文とは無関係です。

ブログの活動をしていると、それを始める前には全く考えもしなかった世界が見えてきて、それがコミュニケーションというものを考えるきっかけになりました。
まず、この世界はとても狭いですよね。Aさんのブログのお友だちは、Bさんのお友だちでもある。Cさんのブログのコメント欄で数人で盛り上がるなんて事もあります。その交流を読んで、Bさんの別のお友だちがCさんのお友だちと仲良くなるなんてことも。
ごく普通の対面関係と同じで、誰とでも交流したくてそれが簡単にできる方もいれば、そうでない方もいる。交流の多さと本人のお城(人間性であったりブログの中身)に対する評価が必ず正比例するわけではありませんし、心から「交流はできることならばしたくない」と思っていらっしゃる方がいるのも事実です。だから、他の方がどのようにブログを運営しようと、それは自由だと思っています。
その一方で、交流にしろ、その裏にある本当の目的(例えば「私の小説を読んで」)にしろ、ある種の法則はあると思うのです。すなわち一方通行は難しいということです。
義務でない何かの社会的な発信、私の場合はブログやfacebookですが、そういうものをやっている人は強いにしろ弱いにしろ衝動や願いがあるはずです。「私のやっていることを知ってね」か「私のやっていることを評価してね」か、その両方か。
で、小説やオリジナルの文章がメインの場合、黙っていても人びとが殺到して大ファンになってくれるということはまずありません。絵と違って、文は一瞬で人の心をとらえられませんから。なんらかのアクションを起こすことによって「これを読んでみようかな」という氣にさせるしかないものです。で、そのアクションとは「なんとか大賞」への応募して受賞するような「作品勝負!」の方法と、友達を増やして読んでもらう「コミュニケーション利用」法がありますよね。私は前者は全くやっていないので、後者のみです。
よく意外だと言われますが、私は対人コミュニケーション力に欠けているタイプです。誰かと親しくなりたくてもなかなか話しかけられない、迷いに迷ってから「ま、いっか」と諦めて一人でいる方を選んでしまう、そういうところがあります。また、一人でいることにもあまり苦痛をおぼえないので余計その傾向が強まります。
またマメさに欠けるため「去る者は追わず」にもなりがちです。つまり、こちらからまんべんなく周りに目を配り、色々な方との関係を保つような社会性は持ち合わせていません。かといって、「連絡をくれない人は大切じゃない」と単純に思っているわけではありません。単純に、限られた時間で行うコミュニケーションはどうしても日々交流のある人が優先になってしまうということです。
私のブログは、現在小説の発表数が多すぎて、収拾がつかなくなってきています(だから来年の抱負は、それをどう収拾させるかという後ろ向きなものになってしまう)。それを律儀にほぼ全て読んでくださる方もいらして、大変恐縮しますがもちろんそういう方に対しては足を向けて寝られないと思うと同時に、たとえ寝る時間を削ってでもその方の書くものを読もうという氣になります。また、シリーズ物を続けて読んでくださる方に対しても、「えっ、この方読んでいてくださったんだ」という方に対しても、やはり、向かう姿勢が違ってきます。こういう心理的な部分に関しては「人類皆平等」は通用しません。
不思議なもので、最初は「作品を読んでくださって、コメントをくださったから」という理由で訪問して、作品を読みコメントをしていた方に対しても、そのままの義務・義理的な氣持ちのままでつき合い続けることはまずありません。同じ作品に対するコメントでも、それぞれの反応する場所や感じることが違うように、最終的にはそれぞれの方の作品を越えた人間としての部分に共感して、その方そのものを好きになり親しくなっていくように思うのです。
たとえば、日本のある地方で台風の大きい災害があったというニュースを目にすると、たとえネット上でしかお付き合いがない方だとしても、何年も交流のない学生時代の知人よりも日々交流しているブロガーさんの安否をまず氣遣うようになります。たぶん、いま私がどんな生活をしているかも、実際に面識のある人たちよりもブログのお友だちの方がずっと詳しいはずです。
そして書かれている作品についても、次第に義務や義理ではなくて本当に面白くて、世界観やキャラが好きになり、次が読みたくてしかたなくなってくる、そういうものだと思います。さらにいうと、商業出版されている書籍ならば絶対に買わないようなジャンルの作品でも、そういう形で親しくなった方の作品は好んで読むようになるのです。かといってそのジャンルに目覚めるというとのも違うように思います。相変わらずその手の本を買いたいとは思いませんので。
ブログに限らず日常生活のコミュニケーションについても同じことが言えます。
自分に問題があった時、話を聞いてほしいときにだけ連絡をしてくる人がいます。連絡してくるときは心に余裕などないときなので、私がいま何をしているかに対しても関心はありません。それでいて、大して親しいと思えない私に「誰も話をまともに聞いてくれない」と訴えるのです。
そういう方が、特別人間性に問題があるというわけではありません。ただ、そのコミュニケーションのし方が「私をみて」の一方に偏りすぎると、持ってもらえたかもしれない関心すらも失ってしまうのではないかと思うのです。
ということを含めて、コミュニケーションについてブログの交流を通して考察できたのは大きな収穫だったなと思いました。(とはいえ、私のコミュニケーション下手が改善されるわけでもないんですが)
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聖マルティニーの前に
この下からが、本日の本文です。

26日は10月最後の日曜日でした。この日は、サマータイムが終わって、通常時間に戻る日です。サマータイムの是非は別として、このタイミングは個人的に納得なのです。
日の出の時間がどんどん遅くなって、ちょうど家を出る頃が「まだ暗いんだよね」になってくるのがこのあたり。上の写真のように、家を出てちょうど日の出ですか、という感じになるのですね。これが、サマータイムが終わって、一時間遅く家を出られるようになると、またしばらくはお日様が出てから通勤できるようになります。
もちろん、その分日の入りは早くなるのです。で、これからクリスマスに向けて、「朝も真っ暗、帰るときも真っ暗」になっていくわけです。でも、それもクリスマスまで。そこから先は、また「どんどん明るくなるぞ」という希望の日々になります。

さて、この写真は、先週の木曜日の朝。雪が我が家にも降りました。このあたりの農民の間の言い伝えで「聖マルティニーの日(11月3日)の前にライン河底まで雪が降りたら、その冬は半分終わったも同然」というのがあります。雪が早く来ると、暖冬になりやすいらしいのですね。13年この辺りに住んでいますが、だいたいあたっています。
去年の初雪は10月10日で、言い伝えに違わず、とんでもない暖冬でした。ということは、今年も暖冬になるのかな。さて、どうなるでしょう。
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【小説】大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 風の音
scriviamo!の第十三弾です。
けいさんは、当ブログの55555Hitのお祝いも兼ねて「大道芸人たち Artistas callejeros」のあるシーンを別視点で目撃した作品を書いてくださいました。ありがとうございます!
けいさんの書いてくださった小説『旅人たちの一コマ (scriviamo! 2015)』
けいさんは、オーストラリア在住の小説を書くブロガーさん。心に響く素敵なキャラクターが溢れる、青春小説をお得意となさっていらっしゃいます。読後感の爽やかさと、ハートフル度は、ブログのお友だちの中でも群を抜いていらっしゃいます。雑記を読んでいても感じることですが、なんというのか、お人柄がにじみ出ているのです。まさにタイトル通り「憩」の場所なのですよね。2月12日に、40000Hitを迎えられました。おめでとうございます!
海外在住ということで、勝手に親しみを持ってそれを押し付けているのですが、それも嫌がらずにつき合ってくださっています。いつもありがとうございます。
さて、「scriviamo!」初参加のけいさんが書いてくださったのは、このブログで一番知名度が高い「大道芸人たち Artistas callejeros」に関連する作品。「●●が○○に△△した」あのシーンです。ってわかりませんよね。これです。自分でも好きなシーンなので、注目していただけて、さらにけいさんらしい優しい視線でリライトしていただけて感激です。端から見ると、そうなっていたんですね(笑)
というわけで、この目撃者を捕まえちゃうことにしました。折角なので、私もけいさんの作品の中で最初に読破した代表作「夢叶」を使わせていただくだけでなく、勝手にとあるキャラとコラボさせていただくことにしました。作品を読んでいる時から注目していた、あの人です。
なお、この作品には、「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(チャプター4)のネタバレが含まれています。大したネタバレではありませんし、すでに既読の方の間では既成事実となっているので「今さら」ですが、「まだ知りたくない!」という方がいらっしゃいましたら、お氣をつけ下さいませ。あ、あと「夢叶」もちょっとだけネタバレです、すみません!
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
【小説】大道芸人たち Artistas callejeros 番外編
風の音 - Featuring「夢叶」
——Special thanks to Kei san
ゆっくりと階段をひとつひとつ踏みしめて登った。心地よい風が耳元で秋だよと囁く。サン・ベノア自然地学保護区にある遊歩型美術館に行こうと口にしたのは蝶子だった。ここは、南仏プロヴァンス、ディーニュ・レ・バン。今ごろはニースで稼いでいるはずだった。実際に、稔とレネは今ごろどこかの広場で稼ぎながら待っていることだろう。
蝶子は、前を行くヴィルの背中を見上げた。青い空、赤い岩肌、オリーブ色の乾いた樹々。何と暖かく、心地よく美しく見えることだろう。この男の存在する世界。アンモナイトや恐竜の眠る、太古の秘密を抱くこの土地で、彼女は今を生きていることを感じる。迷う必要はなかった。苦しむこともなかった。これでいいのだと魂が告げるのだから。
彼が振り向いた。そして、蝶子が少し遅れているのを見て、手を差し出した。あたり前のごとく。昨日までは、見つめることしか出来なかった。諦め、去っていこうとすらした。彼もまた、迷いを取り去ったことを感じて、蝶子は手を伸ばした。二つの、銀の同じデザインの指輪が、強いプロヴァンスの光に輝いた。二人は、階段の曲がり角に立ち、赤茶色の屋根の並ぶディーニュの街を見下ろした。
風の音に耳を傾けた。
人生とは、何と不思議なものなのだろう。閉ざされていた扉が開かれた時の、思いもしなかった光景に心は踊る。フルートが吹ければそれでいい、ずっと一人でもかまわないと信じていた。世界は散文的で、生き抜くための環境に過ぎなかった。
だが、それは大きな間違いだった。蝶子は大切な仲間と出会い、そして愛する男とも出会った。風は告げる。美しく生きよと。世界は光に満ちている。そして優しく暖かい。
ヴィルが蝶子の向こう側、階段の先を見たので、彼女も振り向いた。そこには一人の青年が立っていて、信じられないという表情をしていた。蝶子はこの青年にはまったく見覚えがなかった。だが、それはいつものこと、彼女は関心のない人間の顔は全く憶えておらず、大学の同級生であった稔の顔すら忘れていたことを未だにいじられるくらいだから、逢ったことのある人だと言われても不思議はないと考えた。
「
「スイス人か」
「ええ。ドイツの方だとは思いませんでした」
二人の会話で、蝶子にも納得がいった。二人はドイツ語で話している。先ほどのはスイス・ジャーマンの挨拶なのだ。
「申し訳ないが、どこで逢ったんだろうか、大道芸をしている時に見ていたのか?」
そうヴィルが訊くと、青年は首を振った。
「いいえ。僕は昨日着いたばかりなんです。駅であなたたちをみかけました。はじめまして、僕はロジャーと言います」
ヴィルは無表情に頷き「ヴィルだ。よろしく」と言った。蝶子は、赤面もののシーンを見られていたことへの恥ずかしさは全く見せずににっこりと微笑むと、ヴィルとつないでいた手を離してロジャーと握手をした。
「蝶子よ。よろしく」
「ここは、素敵ですね」
青年は言った。
「プロヴァンスは、はじめてなのか?」
「ええ。バーゼルに住んでいるのに、休暇で南フランスへ行こうと思ったのは初めてなんですよ。隣町がフランスだというのに。ここは、まるで別世界だ」
「俺もプロヴァンスは好きだ。風通しが良くて、酒もうまい」
「南フランスがはじめてなら、普段はどこへ休暇に行っているの?」
蝶子が訊くと、ロジャーは笑った。
「遠い所ばかり。南アフリカ、カナダ、カンボジア、それに、休暇ではないけれど、学生時代にかなり長いことオーストラリアにもいたな。ここの赤い岩肌は、あの国を思い出させる……」
「エアーズロックかしら?」
蝶子が訊くとロジャーは頷いた。
「あなたは、日本人ですか?」
「ええ。日本人よ。どうして?」
「僕は、あそこで日本人と友達になったんだ。とてもいいヤツで、またいつか逢えたらいいと思っている。今、彼のことを思い出しながら、ここを歩いていたんです」
そういうと、彼は、小さく歌を口ずさみだした。蝶子とヴィルは、顔を見合わせた。それからヴィルが下のパートをハミングでなぞった。ロジャーは目を丸くして二人を見た。
「どうしてこの曲を?」
その曲は、ロジャーの日本の友人がエアーズロックで作曲したばかりだと聴かせてくれたオリジナル曲だった。なぜ南仏で出会った見知らぬ人たちが歌えるんだろう。
蝶子はウィンクした。
「それ、私たちのレパートリーにも入っているのよ。スクランプシャスの『The Sound of Wind』でしょ?」
スクランプシャスは、日本でとても人氣のあるバンドで、最近はアメリカでもじわじわと人氣が広がっている。ヨーロッパでも、ツアーが予定されているので、いずれはこちらでブレイクするだろう。日本に帰国した時に、稔が大喜びでデビューアルバム『Scrumptious』のCDと楽譜を買ってきたのだ。
「じゃあ、ショーゴは、デビューしたんですか? 夢を叶えたんですね?」
「ショーゴって、ボーカルの田島祥吾のことよね。ええ、彼は今や大スターよ」
ロジャーは、微笑んで大きく息をついた。
「ウルルで、彼は僕にこう言ったんですよ。『夢を誰かに話すと、その夢は叶う』って。本当だったんだ」
ロジャーは、ヘーゼルナッツ色の瞳を輝かせた。
「あんたも、彼に夢を話したのか?」
「ええ。『世界を駆けるジャーナリストになる』ってね。あの頃、僕はただの学生でしたが、今は、本当に新聞社に勤めている。まだ『世界の……』にはなっていないけれど、言われてみれば、少しずつ進んでいますね」
「じゃあ、きっと叶うわ。だって、ここで私たちに夢を話しているもの」
蝶子は、フルートを取り出すと、ディーニュの街へと降りてゆくプロヴァンスの風に向かって、『The Sound of Wind』を演奏しはじめた。ロジャーとヴィルがそのメロディを追う。通りかかった人たちも、微笑みながらその演奏に耳を傾けていた。
風は、地球をめぐっていた。アボリジニたちの聖地で生まれた歌が、世界をめぐり、南仏で出会う。秋の優しい光が、旅人たちを見つめている。ひと時の出会いを祝福しながら。
(初出:2015年2月 書き下ろし)
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