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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

ポルト旅行の戦利品

春の休暇を終えて、土曜日にまたスイスに戻ってきました。四度目のポルト旅行でしたが、今回は「Infante 323 黄金の枷」を書き終えて初めての旅行だったので、頭の中は完全に「そっちの世界」ばかりを追っていました。そして、買ってきたものも、「関連グッズ」ばかりに。といっても、作品そのものが「裏ポルト案内」になっているので、ここにあるものはどれも典型的なポルトガル土産ばかりです。

ポルト旅行戦利品

前回は大きなポートワインを二瓶も買ってきて重かったので、今回はそれは諦める代わりにいろいろと楽しいものを買い込んできました。

さて、右手の方にはCDが三枚。ファド歌手ドゥルス・ポンテスのベストアルバム、ドゥルス・ポンテスとエンリオ・モリコーネのコラボアルバム「focus」、そしてギターラの名手カルロス・ペレーデスのもっともよく売れているアルバム「Uma Guitarra com Gente Dentro」ですね。

現在は、カルロス・ペレーデスのCDを聴きながらこの記事を書いているのですが、ええ、買ってきてよかったと浸っております。もともとは19ユーロしていたものですが、最後の一枚で5ユーロのセールになっていました。もちろん「青い年」(「Infante 323 黄金の枷」で23が弾いていた曲です)も入っています。

今回買ってきた三枚のCDには、すでにiTuneストアで購入済みの作品がかなり入っているのですが、アレンジが違ったり、他の知らなかったけれど欲しかった作品が入っていたりして、現地で店員のおすすめに従って買ってよかったと幸せをかみしめています。

それと同時に、音楽の話だけではないのですが、スイスで調べながら書いたことが現地の人びと感覚とほとんど違っていなかったことがいろいろと確かめられて、ホッとしたロケハンでもありました。

ポルト旅行戦利品

さて、ポルトガル土産と言ったら「ポルトガロ」です。この黒い雄鶏は、「ポルトガル」と「ガロ(雄鶏)」の駄洒落ですが、わかりやすい土産物として、あちこちで使われています。私の小説ではまだ執筆中の「Filigrana 金細工の心」の主人公であるInfante 322(例のヴァイオリンを弾く23の感じの悪い叔父さんですね)の職業が、これを彩色することでして、その関連で欲しくなって買ってきました。ランチョンマットとそれからオリーブを出すときなどに使えるピック(楊枝)。

奥にはさりげなく石鹸が置かれています。そう、「Infante 323 黄金の枷」で、主人公が愛用している柑橘系の爽やかな石鹸。これですよ。無事に入手できました。一人で浮かれていて、傍目にはかなり怪しい私でしたが、いいんです。

雄鶏の後ろに見えているのはミニサイズのポートワインが二瓶。奥のはグラハムの2004年ものヴィンテージです。ちょっとお高かったので、これは私の誕生日用。手前は銘柄が「ドンナ・アントニア」だったので買ってきました。いいんです、独りよがりでも何でも。このドンナ・アントニアは、このメーカーの創始者で且つポートワインビジネスを始めた最初の女性。ちなみに私の小説の一キャラがこの名前になったのは単なる偶然です。

ポルト旅行戦利品

手前の金色のアクセサリーがフィリグラーナです。ハート形のペンダントは「ヴィアナのハート」といって、美人が多いことで有名なヴィアナで裕福な親が子供の婚礼道具として作成してきた金細工がポルトガル土産になったもの。金色ですが銀です。外伝の「午餐の後で」で彩洋さんのところの詩織にアントニアがプレゼントしたもの。もっと大きくて金で出来ているという設定ですが、イメージはこんな感じです。ついでにお揃いの指輪も買ってきました。

奥に見えているエスプレッソ・カップは「ハリポタ」でも有名なレロ書店(彩洋さんの『青の海、桜色の風 』にも登場)で買ったもの。

ちなみにスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラへ行ったときのお土産もありまして、小さいスーツケースはパンパンだったのです。サンティアゴではクッキーとチョコレートを買いました。これは試食をして美味しかったからですね。ポルトでは生菓子の方が美味しかったのですが、サンティアゴでは焼き菓子。これは義母の所へ行くのでしょう。



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「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物

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ドゥルス・ポンテスの歌の中から、ポルトガル讃歌になっているこの曲を。
Dulce Pontes "Fado Português"

Videoclip "Fado Português" (José Régio/Alain Oulman) in album "Caminhos"- Movieplay Portugal.
Directed by: David Productions (England)
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Posted by 八少女 夕

「私のサウダージ」

「Infante 323とポルトの世界」カテゴリーの記事です。オリジナル小説「Infante 323 黄金の枷」を書くにあたってイメージの構築に使った題材をこのカテゴリーに置いています。

今日は大好きなボサ・ノヴァの「Minha saudade」とその歌詞(ならびにその和訳)をご紹介しようと思います。


Walter Wanderley - Minha saudade

「Infante 323 黄金の枷」の作中にはファドも出てきませんが、ボサ・ノヴァの具体的な曲名なども全く出てきません。なんですが、ポルトガル語で歌われる代表的な大衆音楽として、どちらも書く時に大きな支えとなってくれているのです。

ファドは、ポルトガル本国で発達した大衆音楽ですが、ボサ・ノヴァはブラジルで発達した音楽で、使われる言葉も、それにトーンも全く違います。日本の音楽でも、演歌とJ-POPが全く違うテイストを持っているように。

通常は「郷愁」「望郷」などと訳されることの多い「サウダージ」という言葉は、ファドでも、ボサ・ノヴァでもよく使われます。今回の小説で使ったように「叶わない願い」「手に入らぬものへの憧れ」というような感情を表す時にも使われます。今回の場合は、ヒロイン、マイアの感情ですから、ファドよりもボサ・ノヴァ、それも伸びやかな小野リサの声がとてもよく合うなあと思って書いていました。残念ながら小野リサの動画は貼付けられないみたい(あってもロシアか中国のものばかりなので無理に貼るのはめておきます・笑)なので、テンポが好みのものを探してきました。

歌っている内容は切ない失恋なのですが、でも、演歌ではなく、怨歌でもなく、いい意味での軽やかさがある歌です。

Minha saudade
 
Minha saudade
É a saudade de você
Que não quis levar de mim
A saudade de você
E foi por isso
Que tão cedo me esqueceu
Mas eu tenho até hoje
A saudade de você
Eu já me acostumei
A viver sem teu amor
Mas só não consegui
Foi viver sem ter saudade
Minha saudade
É a saudade de você
Que não quis levar de mim
A saudade de você

Composição: João Donato / João Gilberto


私のサウダージ

私のサウダージ、あなたを想う心の痛み。
受けとめてもらえなかった、あなたへの想い。

あなたは私のことを簡単に忘れてしまった。
でも、私は今でもあなたのことを想い続けている。

もう慣れっこになってしまったの。
あなたに愛されることなく生きることに。
でも、想わずに生きることはどうしてもできなかった。

私のサウダージ、あなたを想う心の痛み。
受けとめてもらえなかった、あなたへの想い。





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【次回予告】「Infante 323 黄金の枷」 (14)喫茶店

 自分だけ街に行けるのは申し訳ないなと思った。彼は出て行けないのに。突然あの嵐の日の事を思い出した。彼は出て行けるんだ。私以外誰も知らないけれど! マイアは囁いた。

「ねえ。23、抜け出せるんだよね。抜け出しておいでよ。街で休憩していいって言われたの。喫茶店に一緒に行かない?」


用事で街へ出かけることになったマイアは、23に一緒に街へ行こうと持ちかけます。そして、23から驚くべきことを教えてもらうことになります。四月更新予定です。お楽しみに。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Infante 323 黄金の枷(13)秘密

月末の定番「Infante 323 黄金の枷」です。ちょうど私がポルトにいるのでタイムリーです。

それでですね。長いこと「出していいのか?」とためらっていた、例のシーンが来ちゃいました。いや、「入浴小説」ブログじゃないんですが、今月は多いですね。しかも、今回はいまいちシャレになっていません。でも、Stellaに出せるぐらいですし、大したことは起きませんので、過激な描写を期待されても困りますが。

月刊・Stella ステルラ 4.5月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


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あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(13)秘密

 その日、誰も朝から23の姿を見ていなかった。

 館の他の部分から23と24の住む格子の向こうを見る時、二階の居間しか見えない。厳重に管理されている鍵を使って二人の居住区へと入った者だけが一階と三階へ行き、二人が何をしているのか確認することができる。

 マイアはまず三階、それから二階を掃除して、それから一階にいるものと思って工房に来たが、23はいなかった。

 外は激しいにわか雨で稲妻が工房を青白く浮かび上がらせた。

 突然、後ろから小さな声がした。
「マイア……」

 彼女が振り向くと、そこにはずぶ濡れになった23がいて、人差し指を口に当てた。マイアはそっと彼に近づくと「どうしたの」と訊いた。

「頼みがある。誰にも氣づかれないように三階に行きたいんだ。それに、その後にもしてもらいたいことがある」

 23はひどく濡れているだけでなく泥だらけで、その動きは怪我をしているように見えた。

 マイアは頷くと、埃を払うフリをして二階の居間へ行き、格子の向こうには誰もいないのを確認して、階段の下の23にそっと合図をした。彼は靴を脱ぎ、音もなく上がってきて、三階へと消えた。マイアは素早く自分も三階に上がった。23はマイアの手を取って浴室に入り鍵をかけた。

「どうしたの。中庭にいたの?」
轟く雷鳴が館を震わせた。23はマイアの瞳をじっと見つめながら小さい声で言った。
「……。外にいたんだ」
「え?」

 23はバスタブに湯を張りはじめた。そしてマイアの耳に囁くように説明しだした。黒い髪から雫が滴っている。

「工房の奥に昔の脱出用に使われていたらしい、知られていない出入り口があるんだ。偶然見つけて、時々、誰にも見つからないように街に行っていた。もし、俺が外に出ていたことがわかったら、それを塞がれてしまう。お願いだ、この服を誰にも知られないように処分してほしい」
「急な雨だったものね。でも、どうして傘を買わなかったの? 雨の時は観光客用に店頭にでていたでしょう」

 23は首を振った。
「金を持っていないんだ」

 マイアは理解して、頷いた。それから、戸棚にしまってある彼の服や下着、タオルを取りに行くために浴室からそっと出た。

 狂ったように降る大粒の雨が窓に打ちつける激しい音がしていた。そして、稲妻が青白い閃光で部屋を照らし、窓の外の鉄格子をくっきりと浮かび上がらせた。平和な日常を打ち破る瞬間だと感じた。怖れよりもむしろ心が昂揚していた。

 秘密を打ち明けてくれたことが嬉しかった。23が、変わってきたというのはバックヤードで皆が言っていた。以前は使用人とは必要な事以外ほとんど話さなかったというのに、フィリペやミゲルとは時おり話し込むまで親しくなっていた。彼が皆に好かれていくのは嬉しかったが、自分だけ親しくしてもらっているのではなかったのかと、ほんの少し寂しかった。でも、こんなに大きな秘密は誰にでも話すわけはない。信頼されているのだ。

 クローゼットから衣類を素早く取り出した。フワフワのタオルと、かなり上手にアイロン掛けできたと自慢したいシャツを抱えて、再び浴室に飛び込んだ。そしてぎょっとしたことには、すでに23はバスタブに入っていた。

 な、何なの、この人。乙女の前で平然とお風呂に入るなんて! 泡がいっぱいで、また彼が入口に背を向けていたので何も見ずに済んだのが幸いだったが、時間とともに泡は消えてしまうだろう。真っ赤になってバスタブに背を向けると、汚れ破れてすらいる服を抱えた。

「タオルと下着と服、ここに置いたから。こっちの服はちゃんと見つからないように処分するから心配しないで……」

 慌てて出て行こうとするマイアに23は後ろから声を掛けた。
「待ってくれ、背中を見てほしい」

 はっとして振り向き彼の背中を見た。といっても、半分はカールした髪に隠れていた。マイアはバスタブに近づくと、そっとその髪をずらして、はっと息を飲んだ。赤く擦れて血がにじんでいた。背骨が変形して盛り上がってしまっている部分だった。その瘤のような背中を見て、マイアは自分がずっと勘違いしていたことを知った。ただの習慣的な猫背などではなかった。医学に疎いマイアは正式な病名を知らなかったが、くる病による脊椎後湾症だった。

「急いでいたので無理に狭い塀の間を通ったんだ。擦ってしまって、痛みがある。血が出るような怪我か?」
「うん。でも、お医者様に見せなきゃいけないほどの大怪我ではないから安心して。しみると思うけれど、消毒しておけば自然に治ると思う」
「そうか、よかった」

「化膿するかもしれないから、まずお湯だけで綺麗にするね」
マイアは清潔なハンドタオルを洗面台の温水で濡らして、丁寧に擦り傷をそっと洗った。彼の指示に従い、棚の中にあった消毒用アルコールで拭いてから絆創膏を貼った。「終わったよ」と言って泥と血で汚れた衣類を持って離れようとすると、背を向けたままひとり言のような小さな声で彼は言った。
「髪も洗ってくれるって、約束したじゃないか……」

 マイアは驚いて振り向いた。
「憶えていたの……?」

 彼の背中はもっと丸くなったように見えた。後ろを向いたままだったので表情は見えなかった。
「忘れる訳はないだろう」

「私、あの翌日に約束通り、石鹸持ってきたんだよ。でも、メネゼスさんにみつかっちゃった」
そう言うと、23は振り返った。
「知ってる。その戸棚、開けてごらん」

 彼女が洗面台の化粧戸棚を開けると、白いアラバスター製の石鹸箱が一つ入っていた。ふたを開けるとほとんど使い切ったようなすみれ色の石鹸が見えた。
「これ……」

「父が俺を罰するためにあそこに閉じこめた。でも、あの翌日に俺を心配した母が予定より早く館に戻してしまったんだ。何度も、わざと悪いことをしてあそこに閉じこめられるようにしたが、お前は二度と来なかった」
「来たくても来れなかったんだよ」
「わかってる。ずいぶん後になって、母が教えてくれた。お前の家族にも迷惑をかけたんだろう。すまない」

「23が悪いんじゃない。私がメネゼスさんに見つかるようなヘマさえしなかったら……」
彼は小さく笑った。
「ちゃんと約束通り、洗っただろう」

「こんなに素敵なバスルームがあるのに、なんであんなに汚くしていたの?」
マイアは父親のアパートメントの三部屋分よりも広い空間を見回した。扇形のバスタブは子供のころのマイア三姉妹が一緒に水浴びしても問題がないくらい広い。
「臍を曲げていたんだ。召使いもアントニアもみな24のことばかり褒めそやして面白くなかったんだろうな。それに噂されているのを聞いてしまって以来、背中を見られるのがイヤで風呂には入りたくなかった」

 マイアははっとした。たくさんの召使いに囲まれるこの暮らしで、産まれた時から召使いに世話をされてきた彼にとっては、使用人に肌を晒して入浴すること恥ではなかった。それよりもむしろ他の人と明らかに違う背中のゆがみを見られることの方を嫌っていたのだ。彼が使用人たちと関わろうとしないでいつも一人でいたのも、噂されてひどく傷ついたからに違いない。

 氣味悪がったり馬鹿にしたりしていないと、それどころか、背中がどうあっても好きだと思う心は全く変わらないと、できることならば言葉にして伝えたかった。友達としてならば、いや、使用人としてならば、それを言えたかもしれない。でも、マイアにとって23はもうただの友達でもご主人様でもなかった。

 いま以上に彼に近づくことはできなかった。空間と時間で量れば彼はとても近くにいた。けれどいくら近づいても、何も知らなかった友だちから何もかも心得ている使用人へとシフトしていくだけだ。ジョアナのように何もかも任せられる、けれど家族でも女でもない存在になってしまう。ドンナ・アントニアのような存在とは違うのだ。せめて十二年前にもっと親しくなれていたら。マイアは唇を噛んだ。

 けれど、先ほどの23の言葉を思い出して打ちひしがれた。あの頃、23はもうドンナ・アントニアを知っていたのだ。今ほど親しくなかった、むしろ当時はドンナ・アントニアと24の方が親しかったような口ぶりだったけれど、きっとだからこそ、当時から彼はあの美しい女性のことを見つめ続けていたに違いない。あの時に誰にも見つからずに、しつこく逢いに来れていたとしても、きっと今と変わりはなかっただろう。

 同じ金の腕輪を嵌めている。あのトリンダーデで逢った老婆も、マティルダも、この腕輪を嵌めている者は親戚だと言った。でも、私はボアヴィスタ通りに住む、ドンナの称号を持つ、そして誰もが振り返る美しい女性として生まれて来なかった。バックヤードに並んでいる、召使いたちの一人にしかなれなかった。背中を見て嗤った、彼の苦手な人たちの一人。

「背中、見ちゃってごめんね」
「服の上からだって隠せないんだ。抵抗しても状況は変えられない。これが自分なんだって受け入れるしかない」

「髪、今からでもよければ、洗うよ」
マイアがそう言うと、23はしばらく何も言わなかった。彼女はどうしたらいいのかわからなくて黙って立ち尽くしていた。やがて彼は後ろを向いたままシャンプーを差し出してきた。

 マイアは23の浸かっているバスタブの湯で手を湿らせて、シャンプーを泡立てた。石鹸と同じ爽やかな香りが広がった。余計なものを見ないで済むように彼の頭だけを見ながらそっと髪を洗った。

 ――髪も洗ってあげるね。十歳の少女の言葉は軽かった。それは庭の敷石を洗うことや縫いぐるみをきれいにするのと変わらなかった。その何げなくしてしまった約束を果たしているマイアは、誰よりも大切な人の頭に触れている。彼の命と想いを抱く特別な器。はじめて触れる彼の頭皮と黒髪。泡に輝く幾千もの虹。十歳のマイアだったら笑い声を上げて楽しく洗ったに違いない。社会階層の差も、恋も、何も知らなかった頃だったから。今は、ものも言わずにできるだけ優しく丁寧に指先を動かすだけだ。体中から溢れ出そうになる想いを堪えながら。こんなに近くにいるのに届かない、届けてはいけない想い。これが私のサウダージ。想うのを止められるならばとっくにそうしている。

 激しく高鳴る心臓の鼓動が彼の耳に聞こえているのではないかと思った。
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Tag : 小説 連載小説 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

サンティアゴ・デ・コンポステラ

一日ツアーでスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラに行って来ました。


巡礼で有名なスペインの北西端の街です。

ポルトからは車で二時間半くらいで行けるのですね。

夏にはたくさん巡礼者が来るのですが、まだ寒いので、大聖堂も空いていました。(満員ではない程度に)

感動するためには、やはり巡礼しなくてはならないようですね。最短100km歩くのです。ま、いつかは

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Posted by 八少女 夕

ポルトに来ています



今年で四回目になった春のポルト旅行中です。

これだけ来ていると、知り合いも多いし、地理感もできて、周るのが楽しいです(^^)

今年は作品のロケハンも兼ねているので、観ているモノがちょっと違うような。

詳しくは戻ってから記事にしますね。
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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 番外編 - 松江旅情(2)城のほとり

「オリキャラのオフ会 in 松江」第二弾です。四月八日の朝、四人は、旅館の朝ご飯を堪能した後に電車に乗って松江の街にやってきました。

あ、参加者の方への業務連絡です。玉造温泉の混浴が人氣でしたので、夜に千手院で夜桜を堪能した後に、また玉造温泉に戻って再び四人を月見沐浴させようと思います。ご希望の方は、どうぞ乱入してきてくださいね。また、私が書いていない時間、スポットでの目撃談も、どうぞご自由に書いてくださいませ。


オリキャラのオフ会
このアイコンはご自由にお使いください。

ちなみに、Artistas callejerosの四人組の外見描写、私の書いている中にはほとんど出てきません。目の色などを細かく知りたい方はこちらをどうぞ。視覚で知りたい方は下のユズキさんの描いてくださったイラストで。髪型など、完璧に再現してくださっていますので。服装も、このままということにしちゃいます。蝶子だけは、これに白っぽいスプリングコートを上に着ているかな。
「大道芸人たち」 by ユズキさん
このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない使用は固くお断りします。

【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ

「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む このブログで読む
縦書きPDF置き場「scribo ergo sum anex」へ行く 縦書きPDFで読む(別館に置いてあります)
あらすじと登場人物



大道芸人たち Artistas callejeros 番外編
 〜 松江旅情(2)城のほとり


「ちょっと、ブランベック。なに食べ歩きしているのよ」
蝶子は露骨に嫌な顔をした。レネは、たった今入ったばかりの和菓子店「石倉六角堂」で買いあさった和菓子のうち、どら焼きを開けて食べていた。

「お茶もなしによくそんな甘いものが食えるな」
稔も呆れている。ヴィルも今回は助け舟を出すつもりはないらしい。なんせ四人はつい今しがた、併設された簡易喫茶で練りきりと緑茶を堪能してきたばかりなのだ。

「こんなにおいしい和菓子は、僕たちの所では食べられないじゃないですか。放っておくと固くなっちゃうし、少しでもたくさん食べておかないと」
レネはふくれた。

「そんな姿をみたら、百年の恋も醒めちゃうわよ」
「ほっておいてください。見られて困るような人がここにいるわけないんですから」

 レネが、一つめを食べ終わって、さらに袋を探っている所を稔がつついた。
「おい。今の言葉、後悔すんなよ。ほらっ」

 レネは顔を上げて、稔が顎で示している方向を見て、ぽかんとした。
「……スズランの君……」

 蝶子とヴィルも、レネの視線を追った。道の向こう側、お城の堀に近い方向を、二人の外国人が歩いていた。一人は長い金髪に濃紺のスーツを身に着けた背の高い男性で、もう一人は桜色に薔薇の柄のフリルの多いドレスを着ている若い女性だった。

 その女性をもっとよく見て、ヴィルと蝶子にもレネが誰の事を言っているのかわかった。真珠色の長い髪に赤と青のオッドアイ。ロンドンで、レネがぽーっとなったという女性だろう。レネは彼女にもらったレースのハンカチを未だに大切にしているのだが、そのハンカチから薫っていたのが『リリー・オブ・ザ・バレー』の香水だった。

「ほらみろ。買い食いなんてするもんじゃないだろう」
稔が言うと、レネは恥ずかしげに出しかけていた二つ目のどら焼きを袋にしまった。

「どうした?」
ヴィルが、蝶子に訊いた。蝶子は、やはり少し驚いた様子で、女性の連れの方を見ていた。
「あの男性……」
「知ってんのか?」
稔が訊くと蝶子は頷いた。
「大英博物館で逢った人よ。へえ。『スズランの君』と知り合いだったのね」
「そういえば」と稔は首を傾げた。「あの時のサツ野郎と一緒じゃないんだな……」

「ロンドンで逢った人たちと、日本で再会か……。不思議なめぐり合わせだな」
ヴィルが言うと、レネが息巻いた。
「運命ですよ!」

 蝶子と稔は吹き出した。それから稔が訂正した。
「『縁』だろ。島根県は『縁の国』だからな」

 四人は、道路の向こうの二人に会釈をして通り過ぎた。ところで、あの人は私のことを憶えているのかしら? 蝶子はちらりと考えた。

* * *

 
 松江城の観光を始める前に、まず松江歴史館から観ることにした。武家屋敷のような建物で、松江城とその堀川の景色ともよくマッチしている。もともとは四家の重臣の屋敷のあった場所で、その中の松江藩家老朝日家長屋の一部が今も残り、松江市指定文化財となっている。歴史館にはこの建物や復元された木幡家茶室や日本庭園と企画展示室が上手に組み合わされている。

 展示室では、松江藩の概要、産業、城下町の暮らし、それに水とともにある松江の暮らしなどをコーナーごとに解説し、模型、絵巻風のパネルや鎧兜、陶器、その他の展示で日本語が読めないものも飽きずに見学できるようになっていた。

 ひと通り見学を終えて、出口に向かう途中、売店の側でレネが足を止めた。喫茶店があったのだ。蝶子が辛辣なひと言を言おうとした正にその時、横をドイツ語で話しながら二人組が通り過ぎた。

「先生。ついさっき和菓子屋で食べたばかりじゃないですか。いちいち和菓子を見る度に食べようとなさらないでください!」
「失敬なことをいうね、フラウ・ヤオトメ。この前に通った、少なくとも二軒の和菓子屋では立ち止まらなかったぞ」

 蝶子は吹き出した。首を傾げるレネと稔にヴィルが素早く通訳した。それを耳にして、二人組は立ち止まった。一人は太い眉に銀のラウンド髭を蓄え、細かいチェック柄のツイードの上着を着た厳格そうな外国人で、もう一人は首までの茶色く染めた髪を外側にカールさせ、臙脂色のスプリングコートを着た日本人女性。

「この街で、ドイツ語のわかる人に逢うとは思わなかったな」
と、紳士は握手の手を伸ばし、スイスに住むクリストフ・ヒルシュベルガー教授であると自己紹介をして、同行しているのが秘書のヤオトメ・ユウであると言った。

「お知り合いになれて光栄です。ヴィルフリード・エッシェンドルフです」
ヴィルは、手を伸ばし礼儀正しく挨拶をした後、続けて残りの三人を紹介した。

「せっかくですから、ここの喫茶店でお茶でもしませんか」
教授がそう言ったので、蝶子はまた笑いそうになったが、必死で堪えて喫茶店『きはる』に入った。日があたり暖かいので屋外の濡れ縁で、和菓子と緑茶を楽しんだ。

「この後は、どこに行かれるのですか?」
ユウが訊いた。蝶子は日本語で答えた。
「ここ以外は、まだ、和菓子屋にしか入っていないので、これからちゃんと観光する予定なんです。まずはお城に行って天守閣に登りたいなと思っています。それから、できれば堀川遊覧船にも乗りたいですし、武家屋敷や小泉八雲記念館にも行きたいなと思っているんですが、あまりたくさん観光したがらないガイジン軍団がいるんで、計画通りにいくかどうか……ユウさんは?」

「ええ、和菓子屋めぐりはそこそこにして、イングリッシュガーデンにいくか、神魂神社への参詣ついでに『風土記の丘』や黄泉比良坂に行くのもいいかなと」
「氣になる所、たくさんありますよね」
「ええ。でも、外国人連れだと……何に騒いでいるのかわかってもらえない部分もありますよね」
「確かに」
妙な所で意氣投合してしまった。

「でも、外せないのは宍道湖の夕陽を見て、千手院でしだれ桜を見ることでしょうか」
ユウが言うと、稔が頷いた。
「確かにそれは見逃せないな。じゃあ、後でまた逢うかもしれないな」

 和菓子も食べて、レネとヒルシュベルガー教授も満足したようなので、六人は松江歴史館を出て再会を約束して別れた。

「さあ、とにかくお城に行きましょう」
立派な門を通って、小高い丘を登っていく。
「やっと入口か。天守閣に行くのもさらに登るんだよな。覚悟しろよ」
稔が言う。

「あ、あそこでお団子を売っていますよ!」
レネの叫びを、三人は無視することにした。

(初出:2015年3月 書き下ろし)

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【参考】
松江歴史館
http://www.matsu-reki.jp
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Tag : 小説 連載小説 コラボ オリキャラのオフ会 地名系お題

Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(25)疑い

ラウラは、結婚式までの間グランドロンの王宮で、アニーだけに身近な世話をさせています。ほぼ敵国からの政略結婚とは言え、部屋の中でもヴェールを外さず、グランドロンの召使いを寄せ付けない様子は、やっぱり少し変ですよね。綻びは少しずつ……。

そして、今回、二人ほど新しい女性キャラクターが登場します。一人は宮廷奥総取締役の女官長。そして、もう一人が高級娼館のマダム。どちらも、この小説だけでなく、これから書こうかなと思っている続編でもう少し自由に動く予定の人物です。


「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(25)疑い


森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架 関連地図

「陛~下っ」
甘ったるい声がした。ハイデルベル夫人は反射的にきつい顔になって、声のした方を振り向いた。レオポルドは多少困ったように口端をゆがめた。
「ヴェロニカか。なんだ」

「『なんだ』は、ないでしょう? 花嫁様にご紹介いただけませんの?」
香水の匂いをまき散らしてデコルテが大きく開き、豊かな胸を強調したえび茶色のドレスをまとった女はその肉感的な厚い唇をゆっくりと閉じてみせた。ハイデルベル夫人は我慢できずに前に進み出た。
「恥を知りなさい。あなたみたいな女が未来の王妃の友情を勝ち得る可能性があるなんて思わないことね。つまみ出される前に消えなさい」

 女はまったく動じた様子もなかった。マダム・ベフロアの名で知られるヴェロニカは城下にルーヴラン風のインテリアの高級娼館《青き鱗粉》を経営している。彼女の一番の顧客は国王その人であり、定期的に何人もの女たちを派遣していた。だが、レオポルドは一人の娼婦を連続して呼ぶ事がなかったので、愛人のように振る舞える女はいなかった。その代わりに、派遣元のヴェロニカがかなり頻繁に出没しては愛人のごとく自由に振る舞っていたので、ハイデルベル夫人は腹に据えかねていた。そもそも、何がマダム・ベフロアだ。ここはグランドロンなのにルーヴランのような名前を名乗っているのが氣にくわない。その方が華やかで文化的だとでも言いたいのだろうか。

「あなたの意見なんかきいていませんわ、ハイデルベル夫人。陛下、まさか、結婚するからって、私たちの楽しい遊びをおやめになるわけじゃないでしょう?」

「ううむ。どうかな」
レオポルドの歯切れは悪い。二人の女は思わず顔を見合わせた。結婚するぐらいで、国王が女遊びをやめる可能性など欠片も考えていなかったからだ。王が即座に否定しなかった事にひどく驚いた。

 ベアーテ・ハイデルベル男爵夫人は、サンドロン侯爵の四女で王太后の従姉妹にあたる。女官として早いうちから後宮に務めたが、まじめで浮ついた所がないために早くから侍従長と王妃の両方に信頼され、前国王フェルディナンド三世が若いという反対意見にも拘らず宮廷奥総取締に取り立ててから二十年近く経っていた。現在の王太后である王妃だけでなく、社交の中心でもあったフェルディナンド三世の妹、フルーウールーウー伯爵夫人マリー=ルイーゼからも信頼が厚く、それゆえ今は亡き伯爵夫人を敬愛する現国王レオポルド二世もハイデルベル夫人を父王と同じように尊重していた。

 ハイデルベル夫人は、レオポルドが馬鹿げた女遊びをする事に大賛成だったわけではないが、自分が意見をしてやめさせるべき事だとは思っていなかった。国王は節度を持って遊びと政治を分けていたし、また、結婚相手をふさわしい姫君と決めていたのをわかっていたからだ。

 レオポルドは、多くの花嫁候補に対して非常に手厳しかった。センヴリ王国のイザベラ王女や、マレーシャル公国のクロディーヌ姫は、家柄も評判も悪くなかったにも拘らずさっさと断ってしまった。

 マリア=フェリシア姫はルーヴランの世襲王女で家柄と結婚で得られる領国が別格であり、さらに絶世の美女との評判も耳にしていたが、ハイデルベル夫人はこの話がまとまるとは夢にも思っていなかった。マリア=フェリシア姫の美しさ以外の資質についての噂は、あまりにも芳しくなかったし、レオポルドの普段の言動からしてそのような姫を生涯の伴侶に選ぶとは考えにくかったからだ。

 ところがレオポルドはルーヴランから戻ってきてすぐにマリア=フェリシア姫に正式の結婚申し込みをした。濃いヴェールに阻まれて、未だに姫の顔を見たことのないハイデルベル夫人は、噂のわがままで浅薄な王女がどうやってレオポルドの心を射止めたのかどうしても納得がいかなく、到着した花嫁に非常に強い警戒心を持っていた。

 しかも、この王女は新しく彼女に仕える事となったグランドロンの侍女たちを信用していなかった。親しく打ち解ける事がないばかりか、着替えや身支度の時にルーヴランから連れてきた侍女以外のものが同室する事を禁じたのだ。ハイデルベル夫人は侍女たちからの報告を受けて、すぐに表にいってレオポルドに報告した。

「おかしいと思いませんか? 着替えの間、あの二人以外は同室できないんですよ。何か危険なものでも隠し持っていないとも言い切れませんよ。十分にご注意なされませ」

 王は笑って頷くだけだった。いったいどういうことなのだろう。他のことはともかくこの花嫁のことになると、どうも陛下の判断力は著しく低下している。ハイデルベル夫人も側に控えているフリッツ・ヘルマン大尉も思った。

「たとえ刃物を持っていようとも、あの細腕では余にかすり傷一つ追わせることは出来ない。それに……」
王はそれ以上は口にしなかった。
(あれと余の心は通いあっているのだ。国同士の仲がどうであろうとも……)

 ヴェロニカは王の居室から出て、いつものごとくプラプラしていた。怒りとも不安ともわからぬ感情に支配されていた。一つだけわかるのは、やってきた王女のことを過小評価し過ぎていたということだった。美貌だけれども浅薄でわがままな女だったのではないのか。

 王の愛人やそれに準ずる地位に就きたいと思ったことはない。王族貴族やそれに準ずる貴婦人と張り合うつもりも全くなかった。彼女は自分の力で築き上げてきた娼館《青き鱗粉》を誇りに思っていた。他の全てには決して超えられない階級の壁があるが、彼女の王国では誰もが同じだった。同じ欲望、同じ衝動、同じ鼓動。それを支配するのは、天におわす神と、人を惑わす悪魔の両方だった。人には決して逆らえない。その支配は何よりも誰よりも強いはずだった。

 ヴェロニカとにとって、レオポルドは最上の顧客であると同時に、一種の友情もしくは戦友に近い感情を共有する仲だった。ヴェロニカは、その口の堅さを王に示し信頼を勝ち得ていた。また、彼女は彼の必要とする情報を独特の方法で手に入れて、若い王の親政を補佐した。賢者ディミトリオスやヘルマン大尉が表の正式な面から補佐したのと同じように、彼女はレオポルドを裏の隠れた面から支えてきたという誇りがあった。賢者やフリッツ・ヘルマンと全く別の次元で、彼女はレオポルドの最大の理解者であると同時に、どの女にも負けない特別な地位を彼の心の中に占めていると感じていた。

 だが、ルーヴランからやってきたあの女は、突然、王の心の中に居座った。顔も見た事がなく、誰も逆らえない本能の焔でねじ伏せたわけでもなく、わずかな会話をしただけで。いったいどうやって。

 彼女はふと足を止めた。見慣れぬ娘が向こうからやってきたのだ。服装からすると侍女のようだが、服装がグランドロンのものと少し違う。袖の膨らみや腰の絞り方などがわずかに華やかに見えるのだ。ということは、あれがハイデルベル夫人の言っていた王女づきの侍女なのね。

 その娘はまだ半分子供のようだったが、妙な緊張が感じられた。何かを隠しているような印象だ。ヴェロニカとすれ違う時に下を向いて頭を下げた。腕の所に非常な力が入っている。手に持っているのは洗濯物のようだが見られないように抱えている。それは奇妙な行動だった。洗濯ものは専門の侍女が部屋に取りに行くはずだ。では何を洗おうとしているのだろうか。しかも、グランドロンの人間に知られないように。

 ヴェロニカは少し考えてから、女官たちの控えている部屋に向かった。普段ならできるだけ近寄りたくない、面倒な場所だが、今回は利害が一致するように思った。ハイデルベル夫人を呼んでもらおうとしたが、残念ながらもう退出したと言われた。ヴェロニカはハイデルベル夫人づきの侍女の中で一番口の堅そうなアナマリア・ペレイラを連れ出した。
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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 番外編 - 松江旅情(1)玉造温泉

「オリキャラのオフ会 in 松江」第一弾です。といっても、ちょっとまだプロローグ的です。日時は前泊から始まっていますし、場所は玉造温泉。でも、ちゃんと4月8日も入っているし、玉造温泉は松江市です(笑)

オリキャラのオフ会
このアイコンはご自由にお使いください。

今回のオフ会でも、結局この四人をメインに物語を組立てることにしました。物語と言っても、あまりストーリーもありませんけれど。前泊、朝、昼、宵くらいで松江市をうろつかせようかなと思っています。途中で、ほかのウチのオリキャラもいろいろと出てくると思いますが、それは適当に。他の方が書かれたものがあれば、それに合わせてどんどん動かしたいと思いますのでどうぞよろしくお願いします。臨機応変にね。あ、本文には書きませんでしたが、他の方達に目撃された時、四人はたぶん旅館の浴衣と半纏を着ていると思う……。

【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ

「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む このブログで読む
縦書きPDF置き場「scribo ergo sum anex」へ行く 縦書きPDFで読む(別館に置いてあります)
あらすじと登場人物



大道芸人たち Artistas callejeros 番外編
 〜 松江旅情(1)玉造温泉


「うわっ。こりゃ壮観だ」
稔は玉湯川の桜並木を見て叫んだ。四百本の桜が咲き乱れる様は壮観だ。夜はライトアップされる。
「きれいねぇ。やっぱり桜の時期の日本は外せないわね」
蝶子がうっとりする。

「この桜、すごいですね。花がこんなにぎっしりと詰まっている」
「なるほどな。日本の桜を見ろと、行ったヤツが口を揃える理由がわかったよ」
ガイジン二人もすっかり感心している。

 玉造温泉は、松江からJR山陰本線でおよそ十分のところにある温泉街だ。『枕草子』にも三名泉としてその名が登場し、歴史と格式がある。規模は大きいが、歓楽色がないうえ、料金設定も高めで数寄屋造りの高級旅館が多い。そのため、観光客ずれした場所を嫌うヴィルやレネを連れてくるにはもってこいだった。街のあちこちに、出雲の神話をモチーフにしたオブジェが建っている。

「まずは、今夜のお宿に行きましょうよ。温泉に浸かってゆっくりとして、明日、松江の観光に行くことでいいわよね」
蝶子が言うと、稔が付け加えた。
「宴会を忘れんなよ」

 島根県松江市玉湯町にある「玉造温泉 湯之助の宿 長楽園」は、明治元年創業の老舗だが、創業した長谷川家は奈良時代からこの地に住み、江戸時代より松江藩から「湯之助」の官職を申しつかり玉造温泉の差配・管理をしていた由緒ある家柄だ。

 そもそも玉造温泉は、奈良時代に開かれた日本最古の歴史を持つ温泉の一つで、大国主命とともに国造りをした少彦名命が発見したとの言い伝えもある。

「『ひとたび濯げば形容端正しく、再び浴すれば万の病ここぞとに除こる』って、出雲風土記に書いてあるんだって」
説明書きを読みながら、蝶子が頷く。
「なんですか、それは?」
もともと日本語はまったくわからないレネが首を傾げる。稔が砕いて英訳した。
「一回入ると美形になって、二回入ると病が治るってことじゃないか」
「僕も?」
レネが言うと、ヴィルは鼻で笑った。
「温泉に入っただけで、姿形が変わるわけないだろう」

「とにかく! ここに来たのは混浴ができるからなのよ」
蝶子が言うと、ガイジン二人は目を剥いた。
「こ、混浴? で、でも、日本のオンセンって……あの、その、すっぽんぽんで……」
レネが大いに狼狽えて、ヴィルは無表情ながらもムッとしたのがわかった。

「大丈夫だよ。混浴って言う場合は、本当の裸じゃないんだ」
稔がパンフレットを見せた。たしかに女性モデルが薄いバスタオルのようなものを巻いて温泉に入っている。
「前に日本に来た時、私だけ別のお風呂だったでしょう? 今度は絶対混浴温泉に行こうと思っていたの」
蝶子はすっかり乗り氣だった。一方、ヴィルはパンフレットに掲載された料理に興味を示した。
「ここでも、例の宴会か?」

 稔は大きく頷いた。
「そ。日本で旅館に泊まるとなると、必ず宴会食なんだ」
「日本酒、楽しみですねぇ」
レネも目を細める。

食事は、掘りごたつの座敷会場でだったが、自分たちの席に案内される時に他の客たちが既に食事をしている横を通った。

「お、おい。なんか可愛い三人組がいるぞ」
稔が蝶子を肘でつついた。見ると、二人ロングの長髪、一人はおかっぱの少女で、三人ともよく似ているので姉妹のようだ。稔は、一番年若いと思われるおかっぱの少女を見てにやけている。蝶子は肩をすくめた。
「あなたって、本当に結城さんと女の子の好みがダブっているわよね」
「いいじゃないか。結城と違って、こっちは見ているだけで実害はないぞ」
「まあね。あの子、未成年みたいだから、実害があっちゃ困るわよ」
「あの子たちも混浴温泉に行くのかなあ。断然楽しみになってきたぞ」

 蝶子は、ため息をついて通り過ぎた。案内された席の反対側には、やはり高校生と思われる三人組がいた。こちらは女の子ひとりと、男の子二人。そのうちの一人が元氣よくその場をしきっている。もう一人の男の子は、寡黙だ。どこか違和感があって、蝶子がもう一度よくその少年を見た。そして納得した。瞳が片方だけ碧かったのだ。へえ。珍しいもの見ちゃった。蝶子は心の中でつぶやいた。

 もっとも日本人二人、外国人二人の蝶子たちは、やはり周りの注目の的だった。特に隣の高校生たちが大人しくジュースを飲んでいるのに、次々と日本酒をオーダーしてよく飲むArtistas callejerosは、かなり浮いていたに違いない。

 島根和牛のステーキ、桜鯛や花烏賊のお造り、筍の土佐煮、白魚と穴子の桜花揚げ、その他たくさんの海の幸と山の幸を桜を多用した春らしい会席料理。
「日本の料理って、味だけでなくて、見た目も楽しむものなんですよね」
レネが言い、四人は頷きながらしみじみと味わう。
「これが終わったら、露天だ、露天」
やけにハイテンションな稔に蝶子は白い目を向ける。
「こんなに飲んで、お風呂で倒れないでよ」 

 水曜日の朝、蝶子は一人で朝風呂に向かった。昨夜、四人で露天風呂に来たが、いたのは彼らだけだった。
「ちぇ。せっかく日本の露天に来て、見れたのはお蝶だけかよ」
ブツブツ言っていた稔のことを思い出す、おかしくてしかたない。

 ふと見ると、昨日の三人組の女性が、仲良く並んで女湯に浸かっていた。あらぁ、いるじゃない。もっともここじゃ、ヤスが見るチャンスは皆無だったわね。

 蝶子は、巻物を身につけて、朝の露天風呂に向かった。冷たい風が氣持ちいい。ほのかに桜の香りのただよう春の露天で、今日のこれからのことを考えた。朝食の後、チェックアウトして松江に向かうのよね。美味しいものもたくさんあるし、観たいものもいろいろ。もっとも、ガイジン軍団は、あまり動きたがらないから、どうやって移動させるかがポイントよね。
 
 楽しい一日が始まった。

(初出:2015年3月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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【参考】
「玉造温泉 湯之助の宿 長楽園」のサイトです。行きたいけど、遠い……。
http://www.choraku.co.jp/onsen/ryugu.html
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(24)姫君到着

マックスが馬を走らせてグランドロンに向かっている頃、ラウラを連れた花嫁行列はグランドロンに到着しています。待っているのは、もちろんあの王様。

ラウラは敵地にアニーと二人取り残されます。一週間、ヴェールをつけたまま、なんとか見破られないようにしなくてはなりません。

既に何回かご紹介していますが、ユズキさんから、とても素敵なイラストを頂戴しています。詳しくは、こちらこちら

レオポルド by ユズキさん
このイラストの著作権はユズキさんにあります。無断転用は固くお断りします。

「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(24)姫君到着


森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架 関連地図

 グランドロンはルーヴランよりも夏の来るのが遅かった。一昨日、城を出る前に見た大きな栃の大木には大きな白い燭台のような花が咲き誇っていたが、ここでは蕾が固かった。しかし、夏は婚姻行列とともに到着したらしく、若緑の大きな葉の間から、突き刺すほどの強い光が射し込んでいた。

 ラウラはそっと衿の下に隠された十字架に手を当てた。他の全てはマリア=フェリシア姫の衣装だったが、これだけは彼女自身のものだった。愛を交わした後、帰ろうとするラウラを呼び止めマックスが微笑みながらそっとその首に掛けてくれたのだ。

 馬車が停まり、扉が恭しく開けられると、そこに立っていたのはルーヴランの従者たちではなかった。わずかに離れた所にアニーが立っている。それだけが唯一の心の支えだった。従者の助けで馬車を降りると、しっかりと面を上げてグランドロン城の正面階段を見上げた。顔を隠すヴェールの向こうに、壮麗な城が見えた。なんと美しい城だろう。淡いクリーム色の壁、白い大理石の彫刻、たくさんある窓はルーヴランのものよりも大きかった。

 正面階段は三十段ほどあるだろうか、その上に、ラウラは懐かしい人影を見た。赤いどっしりとした上着を着た、黒髪の青年王。その横には、あの時もぴったりと横にいたヘルマン大尉が控えている。この懐かしさと安堵感はどういうことなのだろう。彼女は訝った。七日もしないうちに、私はこの人に憎まれて処刑されるというのに。

 ラウラの心に、あの月の光の下での近しい会話が蘇る。頬に触れた暖かい手のひら。

「よくお越し下された。さぞ長旅で疲れたことであろう」
よく通る声で王は言う。その顔には隠しきれない喜びがあふれている。ラウラは目を伏せた。
「いいえ。徒歩で来たものの疲れを思えば、私など……」

 それを耳にしたアニーは、心の中で思った。姫君だったら、さぞ疲れたと大騒ぎしたでしょうね。

 姫君を連れてきたルーヴランの馬車行列がそれぞれ王とその花嫁に敬礼をしてからその場を離れていった。ラウラは脇に退いて佇んでいるアニーをちらりと見た。この小さな娘と自分を守っていたルーヴランの鎧は、全て消え去っていく。

 ザッカの約束など信じていなかった。彼らは二人を犠牲にするつもりだ。どんなことがあっても、この忠実な娘だけは婚礼の前に安全な場所に逃がさなくては。そのためには、婚礼の日までなんとか持ちこたえねばならない。

「震えているのか」
レオポルドが訊いた。ラウラは頷いた。
「はい。これまでずっと側にいたものたちが、急に去るとやはり心細く感じます」

 国王は笑った。
「率直でよい。心配するな。一週間後、我々の婚儀には、再びそなたの父である国王陛下の使者と貴族たちがこの宮廷にやってくる。そして、そのうちにそなたにとって近しく側にいるものとは、余とこの宮廷のグランドロン人となるだろう」

 最後の馬車が王宮前広場から去ると、レオポルドはそっとラウラの手を取った。
「さあ、ようこそ、そなたの新しい我が家へ」
二人が王宮へと入っていくと、ヘルマン大尉をはじめ並んでいた廷臣たちも二人に続いた。

 大広間に足を踏み入れ、ラウラは思わず息を飲んだ。広く天井がとても高かった。ルーヴの王宮のような金細工や細かな装飾はあまりなかった。まっすぐに天へ伸びる大きな大理石の柱は上部で鋭利な曲線を描き天窓に集合するようになっていた。計算し尽くされた光の魔術で、広間には荘厳な空氣が漂った。それは厳しくもあり、さらに輝かしくもあった。ルーヴの城が文化と芸術の勝利であるのならば、このヴェルドンの王城は力強さと正義の讃歌と言い表すことができた。強い軍隊。質実剛健。厳格でもあり実利的でもあった。

 ラウラはとんでもないところに来てしまったと感じた。この城を最上と考える人びとを簡単に騙すことなどできるのだろうか。美しいもの、そして楽しいものを追い求め、美食と狩りと贅沢な品々に囲まれたあの将校たちの率いる軍隊が、規律と厳格さに統率され、一分の隙も見せずにこの場に立ち並ぶ男たちに戦いを挑んで勝つことは可能なのだろうか。

 広間には楽人たちがいた。レオポルドが頷くと、控えていた侍従長が合図をし、楽人たちが『森の詩』を奏でだした。王は笑ってラウラの手を取り広間の中央へ向かった。

「また少し上手くなったな」
「何がでございますか」
「言葉と、それからこの踊りだ」

 ラウラは何と答えていいのかわからなかった。あれから一ヶ月、彼女は歓びに満ちてグランドロン語を習った。マックスの生まれ育った国の言葉、彼の話してくれるヴェルドンの様相、老師ディミトリオスの難解な哲学と知識に恵まれた彼の少年時代、旅で経験した時に面白おかしく時に物悲しい逸話。マックスの優しい語りに酔いながら、ラウラはグランドロン語の夢まで見た。そして、この『森の詩』のダンスも婚礼で姫が恥をかかぬようにと十日ほど前に再び練習したのだ。マックスの手に触れて、すぐ近くで踊る幸せをかみしめたのは昨日のことのようだった。ラウラが涙を浮かべたのはヴェールに遮られてもちろんレオポルドには悟られなかった。

 彼は上機嫌でラウラに話しかけた。
「そなたが結婚に承諾してくれたと聞いて、余は子供のように喜んだのだ。わかっているのか」

 ラウラは不思議に思って見上げた。
「グランドロンの国王陛下に申し込まれた結婚を断る国はございませんでしょう?」

 彼は当然だといいたげに頷いた。
「それはその通りだ。そもそも、そなたや余のような身分では、結婚相手に求められるのは家柄や政治にどのように役に立つかだけだ。実のところ外見や氣だての良さ、それに相性も考慮されることはない。だが、そういうものだとわかっていても、余は亡き父と王太后である母のような夫婦のあり方ではなく、ずっとあるべき結婚の鑑としてある夫婦の姿を思い描いていた」

「それは……?」
「今は亡き父の王妹マリー=ルイーゼとその夫のフロリアン・フォン・フルーヴルーウー伯爵だ。お互いに深い愛と信頼で結ばれ、尊敬し高めあっていた。残念ながらその幸福は数年しか続かず、伯爵は何者かに殺害され、叔母も失意のうちにこの世を去ったが」

「フルーヴルーウー伯爵……」
ラウラはその名を聞いて戦慄した。《氷の宰相》ザッカの指揮でルーヴランが、グランドロンから何を置いてでも奪おうとしているのは、金山と鉄鉱石、そして南へ向かう峠のあるフルーヴルーウー伯爵領だった。

「あの宵に決めたのだ」
ラウラは国王の言葉にはっとした。
「そなたと言葉を交わしたあの月の宵に。善き国王と女王であるだけでなく、お互いに信頼し尊敬しあえる伴侶になれると確信が持てたのだ。今まで多くの姫君と直接逢ったが、そなたのような相手は一人もいなかった。それがルーヴランの世襲王女なのだから、これ以上の幸運は望めないと思った」
「陛下……」

 広間に集う貴族たちが次々と踊りの輪に加わった。厳格に見えた広間も、華やかな衣装で踊る人びとで明るくなった。グランドロンは、ルーヴランとセンヴリの連合軍が攻めて来ることも知らず祝祭ムードに酔っていた。
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Posted by 八少女 夕

音楽による作品への誘い 2

今日は、既に発表した作品を紹介させていただく記事です。

数がとても多いので、目的別おすすめ作品などという記事でピックアップをしたりもしているのですが、「音楽による作品への誘い」記事に続き、元ネタとなった音楽に注目してご紹介していきたいと思います。「この作品はこの音楽のために書いた」という作品ですね。



◆ラフマニノフ ピアノ協奏曲第二番
樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero

この作品、かなりいろいろなクラッシック音楽が出てくるのですが、何よりも裏テーマがラフマニノフのコンチェルト第二番なのです。たぶん、最初から最後まで全てが好きと言い切れる協奏曲って、これだけじゃないかなあ。中学生の時に夢中になって以来、ずっと好きな曲。だから、作品の中でも特別な役目を持たせました。




◆M.ラヴェル 「La Valse」
ラ・ヴァルス

これは標題小説ですね。この曲が題名にまでなり、当然ながらこの曲が重要なモチーフになっている作品です。この曲にも一時狂いましたね。




◆レハール 「金と銀」
ウィーンの森 — 金と銀のワルツ
ウィーンというお題をいただいて書いた小説なのですが、ウィンナワルツの中で一番好きなこの曲をモチーフに書いてみました。晴れがましくて幸せな感じがして、ハッピーエンドにしたくなります。




◆クライスラー 「プニャーニの様式による前奏曲とアレグロ」
格子の向こうの響き

シーンにあわせて曲を探すのではなくて、音楽ありきで書いた小説。どうしてもこの曲に合う人物が欲しくて、とあるキャラクターをヴァイオリン弾きにしてしまいました。




◆J.C. Bach/Casadesus  Viola concerto in C minor
大道芸人たち 番外編 〜 Allegro molt energico

「大道芸人たち Artistas callejeros」と「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」の両方に重要な脇役として出てくる園城真耶というキャラクターがいます。彼女をもう少し掘り下げるために書いた作品で、なくてはならない役割を果たしたのがこのカサドシュのヴィオラ協奏曲。こういう曲を見つけると、短編が書きたくなるのです。

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Posted by 八少女 夕

【小説】ホワイトデーのご相伴

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


「scriviamo! 2015」の最後、第十八弾です。栗栖紗那さんは、ラノベのショートショートで参加してくださいました。ありがとうございます!

栗栖紗那さんの書いてくださった作品 『創作料理店のバレンタイン』
栗栖紗那さんの関連する作品 『創作料理店のとある一日』

栗栖紗那さんはラノベらしいラノベを書かれるブロガーさんです。ブログでの小説交流をはじめたもっとも古いお友だちの一人です。人氣作品「グランベル魔法街へようこそ」や「まおー」、わたしがよく絡ませていただく「Love Flavor」などたくさんの連載作品を安定のクオリティで書かれていらっしゃいます。最近はお忙しいようですが、それにもかかわらず、「scriviamo!」皆勤してくださいました。本当に感謝します。

さて、今回はとある料理店のデキるシェフと思われる青年と、看板娘でどうやら青年が夢中らしい少女が出てくる作品のバレンタインデーバージョンを書いてくださいました。ということで、このお二人をお借りして、このお話の後日譚、ホワイトデーのことをちょっと書いてみたくなりました。うちから登場させたキャラは、年に一度しか出てこない上から目線のあやつです。紗那さん、勝手にお二人をお借りしました。ありがとうございました。


「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



ホワイトデーのご相伴
「タンスの上の俺様」 2015 - Featuring『創作料理店の……』
——Special thanks to Kurisu Shana san


Oresama

 俺様は、食にはうるさい。そもそもニンゲンというのは、量や種類で言えば、とんでもないバリエーションを食べているのだが、その大半は屑だ。たとえば俺様のエサ係は、プラスチックのカップに入ったインスタントラーメンや、時間が経って冷えてしまった宅配ピザ、スーパーの特売で半額で手に入れた色の変わりはじめた果物など、見るからにおぞましいものを嬉々として口にしている。全くもって、なげかわしい。

 エサ係には、でっぷりと肥えてテレビの前のこたつに横たわっている「嫁」がいる。この女はエサ係よりはいいものを食べている。ただ、そのバランスが最悪だ。二時間並ばないと買えないなんとか屋のケーキをコーラで流し込むというのはいかがなものか。

 そんな二人の家庭では、俺様に提供される食事もあまり期待できないのはやむを得まい。添加物にまみれた安っぽく劣悪なものばかり食べているくせに、「キャットフードなんてどれでもいいじゃない、どうせ猫に味なんかわからないわよ」などという、とんでもないセリフが出てくるヤツらなのだ。

 俺様は、雨露をしのげ、体調を崩した時に医者に連れて行ってくれるヤツらへの最低限の礼儀だと心得ているので、週に四日ほどは、朝晩ともに大してうまくないキャットフードを食してやっている。だが、たまにはまともなものが食べたくなるので、いくつかの隠れ家を用意し、グルメとしての矜持を保っているのだ。

 今日は、さてと、どこにいこうかな。そうだ、あの店がいい。なかなか腕のいいシェフと、見かけは悪くないが、料理店の従業員としては致命的な欠点を持つ変わった娘がいる料理店だ。

 あの店にはじめて行ってやったのは、三ヶ月ほど前のことであった。いつもの冒険の帰りに雨が降ってきたので、濡れるのが苦手な俺様はとりあえず一番近くの軒先に入ったのだ。

「あれ。仔猫が来たぞ」
白い調理師の服を着た男が言った。俺様は、追い出されるのかと思ったので、「お前の勝手にはさせないぞ」光線を発しながら睨んでやった。

「なんか怒っているみたいだぞ。野良じゃなさそうだな。どこの家の猫なんだろう」
「ああ、これ、三丁目の莉絵さんちの俺様ネコだよ」
建物の中から出てきた娘が言うと、男は首を傾げた。
「俺様ネコ?」
「うん。本当は、なんだっけな、ええと、あ、そうそう、ニコラとかいう名前がついているんだけれど、あそこのご主人が俺様ネコって呼ぶと振り向くんだって」

 俺様は、しっかりと頭をもたげて、じっと見てやった。男は、俺様を追い出すつもりはないらしく、面白そうに腕を組んだ。娘は言った。
「お腹空いているのかもよ。ねこまんまかなんか、作ろうか」

「……お前が作るのか?」
「え? いくら私でも、ねこまんまくらいは完璧に作れるよ。ご飯でしょ、みそ汁でしょ、ソースに、わさびにケチャップ……あとなんだっけ?」

 お、おい。それは、エサ係の残りものよりもまずそうじゃないか! 俺様が好きなのは、サーモン・ムースとか、ストラスブルグ・パイとか、鯛のお造りとか、その手の高級食材なんだが。

「へえ。お前のねこまんまがロクでもない味だということは分ったらしいぞ。露骨に嫌な顔をしたからな。おい、俺様ネコさんとやら、氣にいったよ。こっちにおいで」
そういうと、男はレストランの中に俺様を招き入れて、かなり新鮮な白身魚の骨、それもまだかなりたくさんの身がついている状態で出してくれたのだ。

 それ以来、この店は俺様のお氣にいりとなったのだ。

「あれ、俺様ネコ、また来たのか? 今日は散歩か?」
散歩ではない。美味いものを適当に見つくろってくれ。ん? なぜ、菓子なんか作っているんだ。お前は製菓は守備外だと言っていなかったか?

「お。いつもの料理と違うのがわかるのか? そう、これはミニケーキだ。今日は、あいつがいないんで、ちょっと練習をしてみようかと思ったんだ。お前、ホワイトデーって知っているか?」

 バカにするな。知っているとも。エサ係が、嫁から「欲しいものはここに書いておいたから」とリストを渡されていた、あれだろう。エサ係は、何でも俺様に相談するからな。俺様はその度にきちんとしたアドバイスをしてやるのだが、あいつは頭が弱いらしくそれがわからない。大抵はアドバイスと違うことを実行して嫁に怒られるのだ。

 だが、この料理店の男の所では、リストは配られていないらしい。
「あいつがバレンタインデーに作ってくれた『あれ』は、そもそも人間の食えるような代物じゃなかったんだが、そうであっても心がこもっていたのは間違いないと思うんだ。だから、お返しもちゃんとした方がいいと思ってさ。慣れないケーキなんて作っているわけだ」

 男は、砂糖を水に溶かして白いアイシングを作った。それをケーキの上にかけていく。それが大半固まると金平糖とマジパンの葉っぱを手早くのせて飾り付けていく。ふむ。確かに綺麗だ。だが、俺様の腹は、それでは膨らまないんだ。

 男は俺様の興味のない様子を察したらしい。
「ケーキに興味あるわけないか。待ってくれ、ほら、これ。スモークサーモンがあるんだ。塩分がお前にはよくないかもしれないから、ほんの少しだぞ」

 おお、ノルウェー産のスモークサーモン。よくわかっているではないか。俺様は、慌てて全て食べてしまい、多少はしたなかったかなと思いつつも、丁寧に顔を洗った。それを見ていた男は、腕を組んで少し考えていた。

「そうだよな。何も世間に迎合して、甘いもので返さなくたっていいんだ。自分らしい味が一番なんだよな。ここは創作料理店なんだから、もう少しオリジナリティのある……」
それから、思いついたように「ああ、サーモンを使って……そうしよう」と勝手に頷いた。

 今日はこれ以上何も出てこないようなので、俺様は興味を失って戸口に向かった。
「なんだ。もう帰るのか。もし憶えていたら明後日、14日もここに来いよ。アイデアをくれたお礼だ。一緒にホワイトデーを祝おう」

* * *


 俺様の日常には、カレンダーなどというものはない。晴れているか雨が降っているか、それとも暑いか寒いか、それだけだ。だから、14日に来いなどと言いさえすれば、こちらが指折り数えて待つと思っては困る。それに俺様の指は折っても肉球までは届かないのだ。

 しかし、俺様が考えるまでもなく、エサ係が今日はホワイトデーだと教えてくれた。嫁に頼まれていた、タレントのなんとかがプロデュースしたバッグが手に入らなかったんだそうだ。どうせリストには十以上の希望が載っているんだ、一つくらい足りないからといって騒ぐこともないと思うが。

 俺様は、エサ係の悩みを無視して外に出た。今日は乾いたエサなど食うことはないだろう。あのレストランへ行ったら、なんかまともなものが用意されているはずだから。

 角を曲がると、戸口にいた娘が「あ! 本当に来た!」と手を振った。俺様を待っていたのか?

「へえ。本当にわかったんだ。猫に日付がわかるとは思わなかったな」
何を言う。俺様をただの猫だと思っているならそれは全くの見当違いというものだ。俺様は、そんじょそこらの猫とは違うのだ。どこがどう違うのかと訊かれても困るが。

 俺様は、当然のごとく店内に入って、中を見回した。俺様のエサはどこだ。

「ほら、見てみて。これ、わたしのために作ってくれたんだって」
テーブルの上に、ケーキのように見える物体が載っていた。しかし、それからはケーキよりもはるかに魅惑的な匂いがしていた。

 スモークサーモンが薔薇の花びらのようにデコレーションされている。俺様は、もうすこし良く見るためにテーブルの上に載った。葉のようにカットされているのはキュウリ、これには興味はない。ケーキ台のように見えたのは、わずかに穀粒の混じった円形の食パンを薄くカットしてさらに六等分して作ったサンドイッチを三段に重ねたものだった。それぞれ、サーモン、ターキー、それにチーズが挟まっている。

 俺様が毒味をしてやるために、前足を薔薇の形をしたスモークサーモンに伸ばすと、男はあわてて俺様を抱き上げた。

「これはこの娘の分だから。お前さんのはこっち」
そういうと、テーブルの下に俺様を置いた。そこには、ずっと小さいサイズのやはりケーキに見える物体が置いてあった。パンやキュウリなど俺様の興味のないものを取り除いた、ずっと美味そうなバージョンだった。

 ううむ。このまろやかなクリーム。最高級のバターに生クリームを混ぜて練ったに違いない。ターキーは、塩竈にしたのかな。ふっくらジューシーに仕上がっている。それにこのチーズは幻の最高級グリュイエール……。そして、もちろんノルウェー産サーモンたっぷり。

「お、おいっ! 何をするんだ」
その声に、ふとテーブルの上を見上げてみると、娘が彼女のサンドイッチにケチャップとソースをたっぷりかけていた。……なんてこった。この繊細な味付けを一瞬にしてめちゃくちゃにしたらしい。

「だって、こうしたほうが、味にメリハリがつくよ。俺様ネコもケチャップとソース、いる?」
いるか! 俺様は、余計なことをされるまえに急いで大事なご飯をかきこんだ。男は、少なくとも俺様までが味音痴ではなくてホッとしたらしい。

 だが、男よ。こんな味音痴にべた惚れなお前も、人のことは言えないぞ。そう思ったが、猫らしく余計なことはいわずに、顔を洗った。

(初出:2015年3月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

【小説】ホワイトデーのご相伴

scriviamo!


「scriviamo! 2015」の最後、第十八弾です。栗栖紗那さんは、ラノベのショートショートで参加してくださいました。ありがとうございます!

栗栖紗那さんの書いてくださった作品 『創作料理店のバレンタイン』
栗栖紗那さんの関連する作品 『創作料理店のとある一日』

栗栖紗那さんはラノベらしいラノベを書かれるブロガーさんです。ブログでの小説交流をはじめたもっとも古いお友だちの一人です。人氣作品「グランベル魔法街へようこそ」や「まおー」、わたしがよく絡ませていただく「Love Flavor」などたくさんの連載作品を安定のクオリティで書かれていらっしゃいます。最近はお忙しいようですが、それにもかかわらず、「scriviamo!」皆勤してくださいました。本当に感謝します。

さて、今回はとある料理店のデキるシェフと思われる青年と、看板娘でどうやら青年が夢中らしい少女が出てくる作品のバレンタインデーバージョンを書いてくださいました。ということで、このお二人をお借りして、このお話の後日譚、ホワイトデーのことをちょっと書いてみたくなりました。うちから登場させたキャラは、年に一度しか出てこない上から目線のあやつです。紗那さん、勝手にお二人をお借りしました。ありがとうございました。


「scriviamo! 2015」について
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ホワイトデーのご相伴
「タンスの上の俺様」 2015 - Featuring『創作料理店の……』
——Special thanks to Kurisu Shana san


Oresama

 俺様は、食にはうるさい。そもそもニンゲンというのは、量や種類で言えば、とんでもないバリエーションを食べているのだが、その大半は屑だ。たとえば俺様のエサ係は、プラスチックのカップに入ったインスタントラーメンや、時間が経って冷えてしまった宅配ピザ、スーパーの特売で半額で手に入れた色の変わりはじめた果物など、見るからにおぞましいものを嬉々として口にしている。全くもって、なげかわしい。

 エサ係には、でっぷりと肥えてテレビの前のこたつに横たわっている「嫁」がいる。この女はエサ係よりはいいものを食べている。ただ、そのバランスが最悪だ。二時間並ばないと買えないなんとか屋のケーキをコーラで流し込むというのはいかがなものか。

 そんな二人の家庭では、俺様に提供される食事もあまり期待できないのはやむを得まい。添加物にまみれた安っぽく劣悪なものばかり食べているくせに、「キャットフードなんてどれでもいいじゃない、どうせ猫に味なんかわからないわよ」などという、とんでもないセリフが出てくるヤツらなのだ。

 俺様は、雨露をしのげ、体調を崩した時に医者に連れて行ってくれるヤツらへの最低限の礼儀だと心得ているので、週に四日ほどは、朝晩ともに大してうまくないキャットフードを食してやっている。だが、たまにはまともなものが食べたくなるので、いくつかの隠れ家を用意し、グルメとしての矜持を保っているのだ。

 今日は、さてと、どこにいこうかな。そうだ、あの店がいい。なかなか腕のいいシェフと、見かけは悪くないが、料理店の従業員としては致命的な欠点を持つ変わった娘がいる料理店だ。

 あの店にはじめて行ってやったのは、三ヶ月ほど前のことであった。いつもの冒険の帰りに雨が降ってきたので、濡れるのが苦手な俺様はとりあえず一番近くの軒先に入ったのだ。

「あれ。仔猫が来たぞ」
白い調理師の服を着た男が言った。俺様は、追い出されるのかと思ったので、「お前の勝手にはさせないぞ」光線を発しながら睨んでやった。

「なんか怒っているみたいだぞ。野良じゃなさそうだな。どこの家の猫なんだろう」
「ああ、これ、三丁目の莉絵さんちの俺様ネコだよ」
建物の中から出てきた娘が言うと、男は首を傾げた。
「俺様ネコ?」
「うん。本当は、なんだっけな、ええと、あ、そうそう、ニコラとかいう名前がついているんだけれど、あそこのご主人が俺様ネコって呼ぶと振り向くんだって」

 俺様は、しっかりと頭をもたげて、じっと見てやった。男は、俺様を追い出すつもりはないらしく、面白そうに腕を組んだ。娘は言った。
「お腹空いているのかもよ。ねこまんまかなんか、作ろうか」

「……お前が作るのか?」
「え? いくら私でも、ねこまんまくらいは完璧に作れるよ。ご飯でしょ、みそ汁でしょ、ソースに、わさびにケチャップ……あとなんだっけ?」

 お、おい。それは、エサ係の残りものよりもまずそうじゃないか! 俺様が好きなのは、サーモン・ムースとか、ストラスブルグ・パイとか、鯛のお造りとか、その手の高級食材なんだが。

「へえ。お前のねこまんまがロクでもない味だということは分ったらしいぞ。露骨に嫌な顔をしたからな。おい、俺様ネコさんとやら、氣にいったよ。こっちにおいで」
そういうと、男はレストランの中に俺様を招き入れて、かなり新鮮な白身魚の骨、それもまだかなりたくさんの身がついている状態で出してくれたのだ。

 それ以来、この店は俺様のお氣にいりとなったのだ。

「あれ、俺様ネコ、また来たのか? 今日は散歩か?」
散歩ではない。美味いものを適当に見つくろってくれ。ん? なぜ、菓子なんか作っているんだ。お前は製菓は守備外だと言っていなかったか?

「お。いつもの料理と違うのがわかるのか? そう、これはミニケーキだ。今日は、あいつがいないんで、ちょっと練習をしてみようかと思ったんだ。お前、ホワイトデーって知っているか?」

 バカにするな。知っているとも。エサ係が、嫁から「欲しいものはここに書いておいたから」とリストを渡されていた、あれだろう。エサ係は、何でも俺様に相談するからな。俺様はその度にきちんとしたアドバイスをしてやるのだが、あいつは頭が弱いらしくそれがわからない。大抵はアドバイスと違うことを実行して嫁に怒られるのだ。

 だが、この料理店の男の所では、リストは配られていないらしい。
「あいつがバレンタインデーに作ってくれた『あれ』は、そもそも人間の食えるような代物じゃなかったんだが、そうであっても心がこもっていたのは間違いないと思うんだ。だから、お返しもちゃんとした方がいいと思ってさ。慣れないケーキなんて作っているわけだ」

 男は、砂糖を水に溶かして白いアイシングを作った。それをケーキの上にかけていく。それが大半固まると金平糖とマジパンの葉っぱを手早くのせて飾り付けていく。ふむ。確かに綺麗だ。だが、俺様の腹は、それでは膨らまないんだ。

 男は俺様の興味のない様子を察したらしい。
「ケーキに興味あるわけないか。待ってくれ、ほら、これ。スモークサーモンがあるんだ。塩分がお前にはよくないかもしれないから、ほんの少しだぞ」

 おお、ノルウェー産のスモークサーモン。よくわかっているではないか。俺様は、慌てて全て食べてしまい、多少はしたなかったかなと思いつつも、丁寧に顔を洗った。それを見ていた男は、腕を組んで少し考えていた。

「そうだよな。何も世間に迎合して、甘いもので返さなくたっていいんだ。自分らしい味が一番なんだよな。ここは創作料理店なんだから、もう少しオリジナリティのある……」
それから、思いついたように「ああ、サーモンを使って……そうしよう」と勝手に頷いた。

 今日はこれ以上何も出てこないようなので、俺様は興味を失って戸口に向かった。
「なんだ。もう帰るのか。もし憶えていたら明後日、14日もここに来いよ。アイデアをくれたお礼だ。一緒にホワイトデーを祝おう」

* * *


 俺様の日常には、カレンダーなどというものはない。晴れているか雨が降っているか、それとも暑いか寒いか、それだけだ。だから、14日に来いなどと言いさえすれば、こちらが指折り数えて待つと思っては困る。それに俺様の指は折っても肉球までは届かないのだ。

 しかし、俺様が考えるまでもなく、エサ係が今日はホワイトデーだと教えてくれた。嫁に頼まれていた、タレントのなんとかがプロデュースしたバッグが手に入らなかったんだそうだ。どうせリストには十以上の希望が載っているんだ、一つくらい足りないからといって騒ぐこともないと思うが。

 俺様は、エサ係の悩みを無視して外に出た。今日は乾いたエサなど食うことはないだろう。あのレストランへ行ったら、なんかまともなものが用意されているはずだから。

 角を曲がると、戸口にいた娘が「あ! 本当に来た!」と手を振った。俺様を待っていたのか?

「へえ。本当にわかったんだ。猫に日付がわかるとは思わなかったな」
何を言う。俺様をただの猫だと思っているならそれは全くの見当違いというものだ。俺様は、そんじょそこらの猫とは違うのだ。どこがどう違うのかと訊かれても困るが。

 俺様は、当然のごとく店内に入って、中を見回した。俺様のエサはどこだ。

「ほら、見てみて。これ、わたしのために作ってくれたんだって」
テーブルの上に、ケーキのように見える物体が載っていた。しかし、それからはケーキよりもはるかに魅惑的な匂いがしていた。

 スモークサーモンが薔薇の花びらのようにデコレーションされている。俺様は、もうすこし良く見るためにテーブルの上に載った。葉のようにカットされているのはキュウリ、これには興味はない。ケーキ台のように見えたのは、わずかに穀粒の混じった円形の食パンを薄くカットしてさらに六等分して作ったサンドイッチを三段に重ねたものだった。それぞれ、サーモン、ターキー、それにチーズが挟まっている。

 俺様が毒味をしてやるために、前足を薔薇の形をしたスモークサーモンに伸ばすと、男はあわてて俺様を抱き上げた。

「これはこの娘の分だから。お前さんのはこっち」
そういうと、テーブルの下に俺様を置いた。そこには、ずっと小さいサイズのやはりケーキに見える物体が置いてあった。パンやキュウリなど俺様の興味のないものを取り除いた、ずっと美味そうなバージョンだった。

 ううむ。このまろやかなクリーム。最高級のバターに生クリームを混ぜて練ったに違いない。ターキーは、塩竈にしたのかな。ふっくらジューシーに仕上がっている。それにこのチーズは幻の最高級グリュイエール……。そして、もちろんノルウェー産サーモンたっぷり。

「お、おいっ! 何をするんだ」
その声に、ふとテーブルの上を見上げてみると、娘が彼女のサンドイッチにケチャップとソースをたっぷりかけていた。……なんてこった。この繊細な味付けを一瞬にしてめちゃくちゃにしたらしい。

「だって、こうしたほうが、味にメリハリがつくよ。俺様ネコもケチャップとソース、いる?」
いるか! 俺様は、余計なことをされるまえに急いで大事なご飯をかきこんだ。男は、少なくとも俺様までが味音痴ではなくてホッとしたらしい。

 だが、男よ。こんな味音痴にべた惚れなお前も、人のことは言えないぞ。そう思ったが、猫らしく余計なことはいわずに、顔を洗った。

(初出:2015年3月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

「今一番掃除・整理したい場所」

久しぶりにトラックバックテーマをしてみることにしました。「今一番掃除・整理したい場所」だそうです。

日本だと大掃除というのは年末にするものが最大だと思うのですが、ヨーロッパでは春先がメインなのです。イースターの前にピカピカにする。だから、今ごろからスーパーではお掃除用品がセールになるのですね(笑)

なぜクリスマス前じゃないのかというと、要は、窓磨きやら、外の掃除などが冬の間は実質的に不可能だからです。今冬のように暖かいとまあなんとかなりますが、マイナス15℃などが続いている時には、窓を磨こうと窓を濡らそうとすると即凍ってしまうわけです。だから「窓を綺麗にしたいんだけれど、春まで無理よね〜」と言い訳ができる。だからこの国って好き。(そういう問題じゃないのは、わかってます。すみません)

さて、本題に入ります。掃除・整理したい所は、たくさんあります。でも、一番といわれたら、それは私の心の中です。部屋が乱雑だから心が乱れているのか、心がぐちゃぐちゃだから部屋も乱れるのか。ニワトリと卵みたい。あ、一応、そこそこには片付いていますよ。我が家、ノーアポでやたらと人が訪れるんで、いつ誰かが来てもいいようにはなっているんです。もちろんスイスの他の家庭みたいに「ショールームか!」と言いたくなるほどは片付いていませんけれどね。

私の心の中が乱れているのは、八割方が小説のせいです。二割が実生活。しょーもないな。

小説部分でも、乱れる理由はわかっています。要するに同時連載が多すぎるんですよ。校正する度に違う世界観に入り、いちいち別のキャラクターに入り込んでいるので、めちゃくちゃになるんですね。

これは、私のブログ小説の発表方法とも関係があるのです。私が発表している長編小説は、どれも既に一度は完結しています。だから、基本的には、コピー&ペーストをしているだけなんです。そのために、ものすごい量を同時に公開することが可能になってしまっているんですね。物理的には大して大変なことはしていないのです。でも、発表直前にもう一度読み直したりするじゃないですか。前文を書いたりもするし。すると、精神はその世界に戻っていくんですね。書いていた時の精神状態に一瞬で変わるんです。

それに加えて、ほぼ「書いたら発表」に近い短編が途中に挟まります。こちらはさほど入り込みませんが、すぐに発表すると思うと、真剣に集中して書くので、やはり心の多くの部分を占めるわけです。

で、あれこれが同時進行になるんですね。基本的に、私は「ルンルン楽しい」という類いの小説は滅多に書きません。どちらかというと、悩む方の心理描写が多くなるわけです。傍観する場合も、どこかもの悲しさが漂う世界を描きます。それが、自分の心理状態に影響してくるわけです。こんなのを三つ同時に抱えていたりすると、無表情を装っていても、連れ合いに氣づかれたりするわけです。実生活で悩みがあるならかっこいいですけれど、小説でなんていうのはちょっと恥ずかしい(笑)

現在は、いろいろと引っ込みがつかない状態になってるので、半年くらいはこの「一人あれこれ」が続くはずなんですが、少なくとも「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」が完結したら、少しだけ発表に関しては整理したいと思っています。

なんて言っていても、次のが書き上がっちゃうと黙っていられなくて発表しちゃうんだよな……。本当に整理整頓できるのかしら。もはや自分で自分が信用できなくなってきています。

こんにちは!FC2ブログトラックバックテーマ担当の河本です今日のテーマは「今一番掃除・整理したい場所」です。だんだん暖かい日も増えてきて、冬の終わりを感じている今日この頃です春に向けて、新しい生活のための準備を始める方も多いのではないでしょうか?私は特に環境が変わるわけではありませんが、部屋が非常に汚くて、掃除したい気持ちでいっぱいです特にベッドの下普段使わないものを置いているのですが、久しぶりに...
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(23)逃走

お待たせしました。「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」の連載再開です。今日発表する分からがチャプター3、最後のパートになります。

ラウラと幸せな旅立ちをするつもりで、城を訪ねたマックス。思ってもいなかった事実を知りショックを受けます。ラウラは王女の代わりとして、既に出発してしまいました。久しぶりに「今ここマップ」が必要になりましたね。

なお、ユズキさんから、とても素敵なイラストを頂戴しています。詳しくは、こちらこちら

マックス by ユズキさん
このイラストの著作権はユズキさんにあります。無断転用は固くお断りします。

「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(23)逃走


森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架 関連地図

 前夜の可憐なラウラを思い浮かべながら、彼が城へと向かうと、様相が違っていた。マックスは一人の男がザッカとともに孔雀の間に入っていくのを見た。どこかで見たことのある男だった。ここにいるはずのない誰か。訝りながら西の棟へと愛する女を訪ねて行くと、信じられない光景を目にすることになった。開け放たれた紺青の間にいつもの通り馬鹿げた笑い声を響かせるマリア=フェリシア姫と女官たち。迎え出たエレインが呆然とする彼をダンス室へと誘導し、ラウラが身代わりとして輿入れしたことを告げたのだった。

 エレインはラウラとともにグランドロンに行ったアニーの親友で、彼女の他にラウラのマックスへの想いを知っていた数少ない味方だった。そしておそらく前夜のことも知っていたのだろう。
「何故、こんなばかげたことを。いつまで隠し通せると思っているのだ」
「長い必要はないのです。婚姻の日まで隠し通せれば。ああ、かわいそうなラウラ様、哀れなアニー……」

 彼は歯がみした。はじめからわかっていてもよかったのだ。《氷の宰相》イグナーツ・ザッカは、突然現われたレオポルド二世にラウラを世襲王女と偽って会わせた。はじめから身代わりを送り込むつもりだったからだ。あの時は断るから問題ないと言っていたのに、結局は婚儀が決まった。だが、ラウラがヴェールをしていたから、わからないであろうと言われた戯言を信じていた自分の愚かさに腹が立って仕方なかった。

 ラウラが泣きながら暇乞いに来た意味も深く考えなかった。マックスは帰ろうとする彼女の額に口づけをしながら言ったのだ。
「明日、婚礼行列が去ったら、城に君を訪ねる。一緒にこの国を出よう」

 突然思い出した。そうだあの男は、センヴリの王宮にいた男だ。宰相ベリオーニの側にいつもいた。今ルーヴランとセンヴリとがひそかに通じる理由は一つしかない。軍事同盟だ。偽王女との婚礼の隙を狙ってグランドロンに奇襲を仕掛けるつもりなのだ。ラウラとアニーを犠牲にして。

「ティオフィロス先生。国を出たはずのあなたがここでいったい何をなさっているんですかな」
その声に二人が振り返ると、そこには衛兵たちを従えた《氷の宰相》が立っていた。

 マックスは西の塔へと連行された。そこは、彼は知らなかったが昨日までラウラが幽閉されていた場所だった。窓がかなり上の方に一つしかないのを見て取った彼は閉じこめられてなるものかと抵抗したが、衛兵たちは槍の柄で殴り掛かり、倒れた彼を蹴った。これまでこの城で彼が受けていた敬意の欠片も示さなかった。そして、重い音を立てて扉が閉められた。

 衛兵たちは二人ずつ三交代で、寝ずの番をしていた。懐柔する余地も全くなさそうだった。余計な事をするよりはチャンスを待った方がいい、マックスははやる心を抑えながら出される食事をきちんと食べて体力の温存を図った。以前のように王侯貴族の相伴で食べていた食事ではなく、召使いたちが食べているような簡素な食事だったが、農民たちがようやく命をつないでいた薄い粥や、古くなりかけた肉とは違って、十分に食べられるものだった。この程度の扱いで堪えると思うなよ。マックスは心の中でつぶやいた。なんとか逃げる手だてがないか、彼が考えている間に二昼夜が過ぎた。

 変化が起きたのはその翌日の午後だった。交代する衛兵と食事を運ぶ侍女しか来なかった塔に、大きな物音がして何人かの人間がやってきた。多くの衛兵の数からすると、宰相でも来たのかと予想した。扉が開けられるとそこには果たしてザッカが立っていた。しかし、それだけではなく、バギュ・グリ侯爵の姿もあった。二人は衛兵たちをドアの近くに立たせて、盃を持った召使いジャックと一緒に彼の近くに寄ってきた。
「侯爵様! 宰相殿!」

 ザッカは髭をしごきながら上目遣いで言った。
「非常に残念ですな。何も知らないまま、ヴォワーズへと旅立っていてくだされば、あなた様に害を加えるつもりはなかったのです。優れた人材というものは、国を越えてのこの世の宝です。みすみすその命を絶つのは私にとっても苦しい決断なのですよ」

「侯爵様! この男のいうなりになって、奸計を押し進められたのか。たとえ血は繋がっていなくとも、ラウラはあなたの娘ではないですか。この王宮に仕え、その働きぶりであなたの家名をも高めた功労者である彼女に対しての父親としての報いがこれなのですか」
マックスは食って掛かった。

「何を言っているのかわからないね。わが娘ラウラはグランドロンへと嫁がれた王太女殿下の《学友》としての大役を終え、わが領地に戻り幸福に暮らしているのだ。いいかね。私も宰相殿も国王陛下も何の策略もしてはいない。城の記録にはバギュ・グリ候令嬢はつつがなくこの城を出た事だけが記されるのだ」

そこで《氷の宰相》が言葉を継いだ。
「そして、教師であったマックス・ティオフィロス殿もだよ」
彼は懐から小さな紙包みを取り出して、そっと広げた。白っぽい粉が現れた。召使いジャックが捧げ持った銀の盃を手にとり、それを入れてゆっくりと揺らしながら溶かして、ゆっくりと進み出た。
「さあ、これを飲んでいただきましょうか」

「それは……」
マックスは眉をひそめて、狼狽えた様子を見せた。ザッカは銀の盃を持つと、じっとその目を見つめて言った。
「叡智を尊び、わざわざギリシャ風に名乗られているあなたにふさわしい最後を。ギリシャではこの毒による死は永遠の不死に至る扉を開くと信じられていたそうではないですか」

 その時、バギュ・グリ候が《氷の宰相》を押しとどめた。
「神に身を捧げたあなたにそれはさせられない」
そういって盃を手に取ると自分が進み出てマックスの前に差し出した。彼はジャックが青ざめて震えているのを見た。
「さあ、観念して、これを飲むのだ。これは我々の情けだよ。死ぬまで飢えさせられたり、馬車に引き裂かれるような最後は迎えたくないであろう?」

 あざ笑う侯爵を睨みつけると、彼はその盃を受け取った。液体はぬるま湯のようで、盃は暖かかった。
「私はラウラと夫婦になる誓いを立てました。あなたは娘殺しだけでなく、婿殺しの罪をも背負って神の前に出る事になりますよ」

 侯爵は感銘を受けた様子もなく鼻で笑った。マックスはさらに青ざめるジャックを見た。それから侯爵とザッカを睨みつけると、その毒杯を一氣に呷った。ザッカが言った通り、ソクラテスを死に追いやった毒ニンジンだった。勝ったと思った。この量なら全く問題ない。十二歳の時に飲まされたものはもっと強かった。あの時の苦しみを思い出しながら、彼は苦悶に身を歪める振りをした。10分くらい待ってからゆっくりと手足の力が抜けるようにその場にうずくまった。それから時間をかけながら顔がひきつり、息ができない振りをした。ザッカと侯爵を睨みながら、その場で息絶えたように力を抜いた。

 《氷の宰相》は小さく十字を切った。侯爵は目の前で起こした殺人の罪にさすがに震えていたが、ザッカとジャックの手前ことさらしゃんと立ち、大きく息をつくと衛兵を従え踵を返して塔から出て行った。ザッカはジャックに刑死体置き場へと遺体を運ぶように言いつけて出て行った。

 ジャックは震えながらマックスの体に触れた。それから死体を引きずるような事はせずに、患った大切な人間を扱うように背負って、ゆっくりと階段を降りていった。ふらつきながら堪えきれずにすすり泣いているのがわかったので、彼はほんのわずかに指を動かしてジャックの上着をつついた。ジャックはびくっとして、自分の肩にもたれかかっている死体であるはずの男の顔を怖々と見た。小さくウィンクするとそのまま死んだフリを続けた。召使いは仰天したが声を上げたりはしなかった。再び死体のフリをしている男を背負い直すと、先ほどよりもしっかりとした足取りで階段を降りていった。

 城の最下層にある刑死した罪人たちの死体置き場まで来るとジャックはマックスをそっと床に降ろして急いで扉を閉めると「だんな様!」と言った。

 マックスはそっと起き上がるとジャックに耳打ちした。
「目立たぬ服装と行き倒れの死体を用意してくれぬか」
「はい。しかし、お体は大丈夫なのですか? 毒は……」
「なんともない。心配するな」

 ジャックは頷くと外へ出て行った。マックスはその暗い小さなあかりとりの窓しかない空間に残された。幸い現在はここに刑死体はないようだが、何ともいえないすえた臭いがしていた。少なくともこの場所には高貴なる方々は来ない。ジャックがうまくやってくれれば無事に逃げられるはずだ。わずかな時間も惜しくて、彼は自分の登城用の衣装を脱いで下着姿になった。

 二刻ほどしてジャックとマウロがやってきた。二人は一人の男の死体を運んできた。用意された町民の服をマックスが着て靴の紐を締めいてる間に、二人は死人に彼の衣装を着せて、ジャックが石で死体の顔を叩き判別が出来ないようにした。
「運んだ時に落としてこうなったと言っておきます。まず、誰も確認に来ないとは思いますが」

 それからマウロは後の事をジャックにまかせ、マックスを連れて使用人通路から城の外へ出た。林の近くの小さな小屋の外に一頭の馬がつながれていた。小屋から小さな背負い袋を持ってくると、マウロは中に入っているいくらかの食料と金を見せた。
「急いで用意できたのはこれだけでした。申しわけありません」
「十分だ。本当にありがとう。ラウラだけでなく、君の妹アニーも救えるよう、全力を尽くすよ」
「ありがとうございます。幸運をお祈りします」


 彼はもどかしげにまたがると、馬をグランドロンに向けた。戻るつもりのなかった祖国。義理すらも果たせていなかった恩師のもとに戻る恥ずかしさすらも感じなかった。どうしても王宮に行かなくてはならない。自分一人ではどうやってもラウラを救えない。

 彼の人生は常に自由への憧れで占められていた。ディミトリオスの厳しい指導に耐えたのも自由になるためだった。ようやく手に入れた誰にも束縛されない生活。国から国へ、街から街へと氣ままに遷り、自分の力だけで生きる。それが出来るようになってまだたったの二年だった。だが、今の彼にはその生活を失うこともなんでもなかった。

 ラウラ。だめだ。死なせたりなんかしない。待っていろ。

(追記: 3/9 一部を書き直しました)
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】さようならのかわりに

scriviamo!


「scriviamo! 2015」の第十七弾です。TOM-Fさんは、もう一度「マンハッタンの日本人」のための作品を書いてくださいました。ありがとうございます。

TOM-Fさんの書いてくださった『マイ・ディアレスト - サザンクロス・ジュエルボックス アフターストーリー』
TOM-Fさんの関連する小説: 
「天文部」シリーズ
『この星空の向こうに』-Featuring『マンハッタンの日本人』
『この星空の向こうに』第2話サザンクロス・ジュエルボックス -Featuring『マンハッタンの日本人』


今年の「scriviamo!」は、全く今までと違った盛り上がり方をしました。なぜモテるのかよくわからないヒロインの取り合いという、書いている本人が首を傾げる状況でした。TOM-Fさんも、たぶん「乗りかかった舟」というのか、半ば私に脅される形で、アタックするジョセフを書いてくださいました。

自分で「ぐらっときたほうに美穂をあげます」と、書いてしまい、死ぬほど後悔しました。実生活だって、こんなに悩んだことないのに、なぜ小説でこんなに悩むことに……。ええ、三角関係を煽るような真似は、もうしません。海より深く反省しました。

今回書いたこの作品が、私の書く「マンハッタンの日本人」シリーズの最終回です。皆さんご注目の「どっちを選んだか」には異論があることも承知です。みなさんの予想とどう違ったかにも興味があります。

それはともかく、この作品を、ここまで盛り上げてくださった、ポール・ブリッツさんとTOM-Fさんのお二人、そして《Cherry & Cherry》とキャシー誕生のきっかけをくださったウゾさん、それから一緒になって騒いでくださった読者のみなさまに心から御礼申し上げます。


【参考】
読まなくても話は通じるはずですが、まとめ読み出来るようにしてあります。
「マンハッタンの日本人」あらすじと登場人物
「マンハッタンの日本人」シリーズ

「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



「マンハッタンの日本人」シリーズ 13
さようならのかわりに
——Special thanks to Paul Blitz-san & TOM-F-san


 なんて明るいのだろう。美穂はワーナーセンターの入口で、ネオンの灯でまるで昼のように明るいマンハッタンを見回した。何年この街にいたんだろう。これが見納めなのかと思うと、不思議な心持ちがした。もう全部終わったんだよね。船便で送り出した荷物は、あっけないほど少なかった。あとは小さなスーツケースが一つだけ。アパートメントの解約は、キャシーがやってくれることになっている。

 《Cherry & Cherry》をオーナーは売ることにした。夜番のジェフとロイが引き抜かれて辞め、キャシーも妊娠して、ロングビーチのボブの両親の家の近くに引越すことになったのだ。以前から《Cherry & Cherry》を売るチャンスを待っていたオーナーは今だと判断したらしい。美穂には、《Star’s Diner》に戻るように言ったが、美穂は首を振った。

 ちょうど今そうなったのが、天の采配のように感じた。

 一週間前の夜、キャシーは浮かれて帰ってきた。ボブが子供ができたことを喜ぶなんて、夢にも思っていなかった。結婚することになったのも、それ以上の驚きだった。

 その日の午後、取材旅行に向かう前のジョセフ・クロンカイトが美穂にと言伝た薔薇の花束と手紙は、産婦人科に行く直前にアパートメントの机の上に置いて来た。美穂には「早くアパートメントに戻ってきなさいよ。驚くものが置いてあるわよ」とメールを打って。

 だから、二人でお互いの幸福を祝うつもりで、笑ってドアを開けたのだ。するとキッチンで美穂が泣いていた。そんなことは、夢にも考えていなかった。美穂の手元には、手紙があった。

「なんで泣いているの?」
キャシーは、ジョセフがプロポーズするのだと思っていた。紅い薔薇の花束の意味だって、それ以外にあるんだろうか。

 美穂は、ジョセフがプロポーズしたことを認めた。手紙には、取材旅行から戻ったら一緒に二人の故郷を訪ねる旅をしようと書いてあった。水曜日に用意をして待っていてほしいと。すぐに旅立てるように。それは、ポールがサンフランシスコに行くときに美穂に送ったメールの内容を彷彿とさせた。美穂が、愛の告白だと信じた旅立ちへの誘い。

「だったら、なぜ泣いているの?」
「あの時は、書いてなかった、あの時に言ってほしかった言葉が書いてあるんだもの」
――君を愛している。……これからの人生を、私とともに送ってほしい。

「よかったじゃない」
キャシーが言うと、美穂は、もっと激しく泣き出した。
「……わかってしまったんだもの。私は、ポールにそう言ってもらいたかったんだって」

 キャシーは、青ざめて立ちすくんだ。
「でも、ポールは言ってくれなかった。これからも言ってくれない。たぶん最初から、一度だって好きになってくれなかったんだよね。私は、ただの同僚でしかなかった。でも、だからといって、忘れられるわけじゃない。ジョセフは、こんなにいい人なのに、どうして私は……」

「ミスター・クロンカイトとは、結婚できないの?」
美穂は首を振った。
「できない。少なくとも、今はできない。だって、応えられないもの。あの人の優しさや、愛情に。ポールのことを考えながら、どうやっていい奥さんになれるの? そんなの不可能でしょう?」

 キャシーは、両掌を組んで、二つの親指を神経質に回していたが、やがて決心したように食器棚の小さな引き出しから封筒を取り出してきた。両手で顔を覆って泣いていた美穂は、机の上、自分の前に置かれた封筒に氣づき、不安げにキャシーを見上げた。

「すごく後悔した。隠したりすべきじゃなかったって。でも、もうやってしまって、これを知られたらミホは私を二度と信用してくれないと思ったから、渡せなかった。ごめんね、ミホ……」

 美穂は、裏返して、ポールの名前を見つけ、信じられないようにその封筒を見つめていた。それから、丁寧に封を切って中の航空券と手紙を取り出した。

 美穂は黙ってその手紙を読んでいたが、小さくため息をついて再び顔を手で覆った。
「遅すぎた?」
キャシーが訊くと、美穂は頷いた。キャシーは下唇を噛んで、椅子に座り込んだ。
「怒ってよ。殴ってもいいよ、ミホ……」

 美穂は、首を振った。それから、そっとポールの手紙をキャシーに見せた。
「同じだもの……。また、書いていないもの……」

 ポールの手紙には、二号店のオープンに招待したいということが書いてあった。ジョセフの手紙と違って、それはプロポーズではなくて招待状に過ぎなかった。航空券の日付は、この前の土曜日だった。美穂がジョセフのホームパーティを手伝った日だ。

「私が手紙を隠していたって、連絡してみたら?」
そう言うキャシーに美穂は首を振った。
「それが何になるの? もういいの。そろそろ前を向かなくちゃ」

 《Cherry & Cherry》の売却のことを知った美穂は、潮時だと思った。オーナーに「日本に帰ります」と決心を伝えた。それからの一週間で、全てが終わってしまった。ジョセフに断りの連絡をし、航空券を手配し、荷造りをした。そして、今夜がマンハッタンの夜景を見る最後の夜になってしまった。

 ゆっくりと五番街をめぐり、それからワーナーセンターの前に来た。足がいつかジョセフと待ち合わせをしたエスカレータの近くへと向かっていた。

 ジョセフには、逢って断りをいれることができなかった。彼はマンハッタンにいなかったし、旅行をキャンセルしてもらうためには、どれほど失礼だとわかっていても、電話をするしかなかった。そして、それっきりになってしまっていた。

 さようならを言うために時間をとってもらうことなんてできない。そうでなくても、忙しい人なのだ。ましてや、私は彼を傷つけてしまったのだから。でも……。
  
 人波を遮るように立っていたが、やがてため息をついて端の方にどいた。それから、携帯電話を取り出してメールを打った。

――親愛なるジョセフ。私のためにしてくださった全てのことに対して心から感謝します。どこにいても、あなたの健康とさらなるご活躍を祈っています。ありがとうございました。美穂

 メールが送信されてから一分も経たないうちに、電話が鳴った。ジョセフ……。
「今、どこにいる」

 同じやり取りをここでしたな、そう美穂は思った。
「マンハッタンです」
「それは、想像していたよ。もう少し狭い範囲で、どこにいる?」
「ワーナーセンターの、あのエスカレータの所です」
素直に美穂は言った。「二分で行く」と言われて電話が切れた。

 逢うのは心が乱れると思ったが、きちんと挨拶ができると思うと、ほっとした。あんなにひどいことをしたのに、彼は少しも変わらない。美穂はぼんやりと考えた。

 エスカレータを降りてくるのだと思っていたが、彼は全く反対の方向からやってきた。
「危うく建物を出てしまう所だった。今夜は運がよかったんだな」
そう言うと、以前と全く変わらずに微笑んだ。美穂は申し訳なくて頭を下げた。

 マンダリン・オリエンタル・ホテルのラウンジから、素晴らしい夜景が見えた。星屑が煌めくように、今夜のマンハッタンは潤んで見えた。何を飲みたいかと訊かれてマンハッタンを注文した。これで最後だからというのもあったが、少し強い酒を飲んで、恥ずかしさを誤摩化してしまいたかったから。
「すみません。お時間をとっていただくことになってしまって」

 ジョセフは少しだけ辛そうに眉をしかめた。
「そんな風に、他人行儀にしないでくれないか。それでも、連絡してくれてありがとう」
「どうしてもお礼を言いたかったんです。もう、お逢いすることはできないと思いますし」
「どうして。君は、友人としてすらも私には逢いたくないのか?」

 美穂は、首を振った。
「いいえ。でも、日本は遠いですから」
「日本に帰るのか? いつ?」
「明日」
「どうして?」

 美穂は、答えるまでに長い時間をかけた。彼の目を見て話すことができなくて、オレンジ色のカクテルを見ていた。

「エンパイアステート・ビルディングに連れていってくださった時に、おっしゃいましたよね。『ニューヨークに好きな場所がたくさんできていた』って。私、長く居れば、そうなれるのかもしれないと思っていたんです。でも、今は、居ればいるほど、苦しくなる思い出ばかりが増えていくんです。どこに行っても、かつては好きだった場所が、楽しかったり幸せだった場所が、心を突き刺す悲しい場所に変わっているんです」

「彼との想い出の場所だから?」
「それもあります。でも、それだけではありません。一生懸命働いた場所も、キャシーと一緒に過ごした場所も、それに、あなたと歩いた場所も、全てです……」

 彼は、バーボンを飲む手を止めた。
「今、こうしているここも、辛い場所に加わるのか?」
「わかりません。いずれにしてもこの街には、もう二度と来ないでしょうから……」

 ジョセフはしばらく考えていたが、美穂の方を見て続けた。
「結局、彼には連絡しなかったのか?」
「これ以上悲しくなる必要もないと思って。それに、二度の誘いに返事もしなかった私のことを、彼は軽蔑していると思います。そんな女がずっと好きだったと言っても信じてくれないでしょう? もう、いいんです。日本で、全く違う文化と社会の中に埋もれれば、きっと忘れられると思います」
 
 ジョセフは、何も言わずにしばらくグラスを傾けていた。美穂は、無神経なことを言って、ジョセフにも軽蔑されたんだろうなと思い、悲しくなった。こうした話をすることができるのは、この人しか居なかったのだと今さらのように氣がついた。キャシーにも、他の誰にも、それどころか、日本の家族や友人にもいなかった。これからは、世界中に一人も居なくなってしまうのだと思った。自業自得だものね。

 その美穂の思考を遮るように、突然彼が言った。
「航空券をここに持っているか?」
「え? はい」

 美穂は、どうするつもりなのだろうと思いながら、バウチャーをジョセフに見せた。14時45分発ロサンジェルス経由羽田行ユナイテッド航空のチケットだ。ジョセフは、携帯電話を取り出したが、周りに人がいるのを見て、「失礼」と言ってから、席を外した。彼女は、ため息をつきながら、グラスの中のチェリーをぼんやりと眺めていた。

 十分ほどして、「待たせて済まなかった」と言いながらジョセフが戻ってきた。そして、バウチャーの上に、一枚のメモを載せて美穂に返した。
「予約を変更した。出発は午後ではなくて朝8時ちょうど。中継地はサンフランシスコで11時21分到着だ」
「え……」
「サンフランシスコ発羽田行きの出発時刻は19時45分。市内に行く時間はたっぷりとある」
「でも……私は、もう……」

 ジョセフは、美穂の言葉を遮った。
「私のために、行ってくれ。君がこんな状態では、私は君を諦めて未来を向くことはできない。わかるかい?」
「……」

「彼に逢いに行って、君の想いを正直に告げるんだ。そして、彼が何と返事をしたか、私に報せてほしい。優しさからの嘘ではなく事実をだよ、わかるね」
美穂は、ジョセフの瞳と、真剣で表情の読みにくい端正な顔を見て黙っていたが、やがて瞳を閉じて深く頷いた。

 彼は、最後にアパートメントまで美穂を送ってくれた。
「ありがとうございました。本当に申しわけありません」
「謝らないでくれ。君の幸せを願っている」
「……どうぞお元氣で。さようなら」

「さようならは言わない。約束を忘れないでくれ」
そう言うと、彼は美穂を抱きしめた。これまでのように、優しいものではなく、とてもきつく。彼の顔が美穂の額に強く押し付けられていた。美穂は、彼がどれほど長く、感情を押し殺してきたのかを感じて苦しくなった。彼の背中が、角を曲がって見えなくなると、美穂はまた悲しくなって泣いた。

* * *


 サンフランシスコは、やはり大都会だった。誰もがTシャツで歩いているわけでなければ、町中がビーチなわけでもなかった。アベニューの名前に聞き覚えがない、バスや地下鉄の車体の色が違う、坂が多く、ほんの少し太陽の光が強く感じられる。

 ニューヨークで機体故障による遅延があったため、招待状を頼りに美穂が彼の店を見つけられたのは午後二時を数分過ぎていた。その店は、暖かみのあるフォントで店名の書かれた木の看板を掲げたレストランで、イタリア国旗の三色を使った外壁が目立った。入口は閉じられていた。

「ランチ 11:00 - 14:00 ディナー 18:30 - 22:00」
美穂は、口に出してみた。遅すぎたんだ。ディナーまで待っていたら、搭乗時間に間に合わない。美穂は、泣きたくなった。ここまで来たのに。やっぱり、逢わない方がいいってことなのかな。美穂は、そのまま踵を返しかけたが、ジョセフとの約束を思い出した。ポールの返事を、知らせなくてはいけない。

 美穂は、携帯電話を取り出した。いつだったかポールに連絡をしようとして、勇氣がなくて切ってしまった番号が送信記録に残っているはず。彼は、あの時も折り返しかけてはくれなかった。だから美穂は、こんどこそはっきりとした答えだと思ったのだ。あの時に電話をしたから、それでも彼は新しいお店の開店にあわせて招待状をくれたのだろう。それにも行かなかったし、断りの連絡すらしなかった。それ以前に、サンフランシスコに誘ってくれた時にも、バス停にも行かなかった。彼はとても怒っているに違いない。それでも、迷っている時間はなかった。

 呼び出し音が鳴った。三回……五回、六回……九回、十回。出るのも嫌なのかな。それとも誰からかわからないから、出ないのかな。諦めた方が……。

「ハロー」
電話の向こうから、抑揚のない声がした。ポールの声だ、何ヶ月ぶりなんだろう。

「誰ですか?」
美穂が戸惑っていると、声は続いた。切られてしまう前に慌てて答えた。
「私、谷口美穂です」

 長い沈黙のあと、声のトーンが変わった。恐る恐る、確かめるかのように。
「……ミホ?」

 美穂は、急いで続けた。
「お休み時間に邪魔してごめんなさい。あなたと話をしたいからお店にきたんだけれど、夕方まで閉まっているというので……」
「どこに来たって?」
「え。あなたの、お店の前……」

 途端に、頭上でガタッという音がした。見上げると、窓の緑色の鎧戸が開けられて、そこからポールが顔を出した。「今、行くから」と言われて、電話が切られた。

 ものすごいドタドタとした音がして彼が降りてくるのがわかった。目の前のドアが開けられて、そこにポールがいた。彼は、最後に見た時よりも痩せて、少し歳をとったように見えた。けれど、美穂は、どれほど彼に逢いたかったのか、自分が正しく理解していなかったのだと感じた。この瞬間のためだけでも、ここにきてよかったのだと感じた。

 彼は震えていたが、やがて、笑顔を見せてぽつりと言った。
「……ようこそ」

* * *


「ご案内申し上げます。スイスインターナショナルエアラインLX 2723 便ジュネーヴ行きは、ただいまよりご搭乗の手続きを開始いたします。ファーストクラスならびにビジネスクラスのお客様はどうぞご搭乗カウンターにお越し下さいませ。繰り返します……」

 ゲートの近くに座っていた金髪の男性は、手元の手紙をもう一度眺めた。

親愛なるジョセフ。

あなたが、私のためにしてくださった助言と、ご助力には感謝してもしきれません。私は、あなたに取り返しのつかないほどひどいことをしました。許してほしいと、頼むこともできないほどに。でも、あなたはそれを恨むどころか、私にこれ以上ない最高の贈り物をくださいました。

あなたがわざわざ手配し直してくださった日本行きの航空券を、また無駄にすることになってしまいました。私はこれを、サンフランシスコの小さいイタリア料理店の二階で書いています。

マンハッタンは、私にとってもう悲しくて辛い場所ではなくなりました。懐かしくて逢いたい人に溢れ、優しく幸せな想い出のある大切な街になりました。全てあなたのおかげです。

あなたの人生がこれまで以上に輝かしいものとなることを心からお祈りしています。そして、ご活躍を陰ながら応援させてください。

さようならのかわりに、心からの尊敬を込めて 谷口美穂



 彼は手紙を丁寧にたたんで封筒に収め、胸ポケットにしまった。それから搭乗券とパスポートを右手に、左手にアタッシュケースを持ち、搭乗カウンターへと歩いていった。

 
(初出:2015年3月 書き下ろし)

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ここからは、「マンハッタンの日本人」の後書きです。この作品に後書きを書く日がくるなんて……、書きっぱなしの読み切りだったはずなのに、全部で13編も書いちゃいましたよ。自分でもでびっくり。

最初に伝えたいのは、この結末は悩みに悩んだ末の苦肉の策だということです。TOM-Fさんの書かれたジョセフのアタックが、ポール・ブリッツさんの書かれたポールのアタックよりも心を動かされなかったわけではないのです。

最終回を書く前に三つの結末をシミュレートしました。今回発表したパターン、どちらも選ばないパターン、そしてジョセフを選ぶパターンです。どちらも選ばないパターンを書いてもよかったんですが、それだといつまでも終わらない。書かされているお二人もですけれど、読者ももう「勘弁してよ」になるなと思ったのです。

そして、ジョセフを選ぶパターンも途中までは書いたのですが、ダメでした。実生活ではジョセフの属性はモテ要因ですし、この二人でどっちを選ぶかという局面では有利に働くはずなんですが、小説ではとっても不利なんですよ。何を書いても「結局、打算で選んだのね」になっちゃうじゃないですか。

実をいうと、ポールを選ぶ構想は、今回書いたこれしかなかったのですが、ジョセフを選ぶタイプの構想は三種類くらいありました。どこで心変わりをするかの違いで。その三つが、こうして書き終わった後も「こっちだってば!」と脳内で叛乱を起こしていたりします。こんな妙な小説はじめて……。

そして、このお二人がアタックを書いてくださる時に、どちらも美穂にではなく、「私に」失礼がないようにと、ものすごく紳士的に書くしかなかったのかなと思いました。その紳士的すぎるアプローチでは、二人の異なるキャラクターに大きな差は出しにくかったことと思います。ポールは長い時間を共にした親しさを武器にできなかったし、ジョセフはあれだけ近くにいたのに全然実力行使ができなかったのですよね。お氣を遣わせてしまって、すみませんでした。このひと言に尽きます。

でも、この作品を一緒に作り上げていただき、本当に嬉しかったです。これは、ポール・ブリッツさん、TOM-Fさんだけでなく、ウゾさんに対してもです。

氣づかれた方もいらっしゃるかと思いますが、昨年まで谷口美穂という一人のヒロインだった人物を、今年に入ってから二人に分けました。美穂とキャシーです。もともとあまり肯定的な面の多くなかった美穂がモテキャラになってしまったので、もともとの美穂らしさはキャシーが受け継ぎました。そのキャシーが生まれるきっかけを作ってくださったのがウゾさんです。

作品の途中でも書きましたが、どの方向に向かうのか全くわからない作品というのは今まで書いたことがありませんでした。その分、書いている自分がドキドキするという滅多にない経験をさせていただきました。

たぶん、こういうタイプの小説を書くことはもうないんじゃないかと思います。応援してくださった読者のみなさまにも心から御礼申し上げます。ありがとうございました。
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Category : scriviamo! 2015
Tag : 小説 連載小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」のイラストをいただきました

ものすごく浮かれています。ユズキさんが、とってもとっても素敵な、「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」のイラストを描いてくださったのですもの。

「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」by ユズキさん
このイラストの著作権はユズキさんにあります。無断使用は固くお断りいたします。

この小説は、昨年から連載していたのですが、今年に入ってから企画のために連載を中断していました。日曜日から連載再開、チャプター3が始まります。このタイミングで、ブログの誕生日お祝いも兼ねて描いてくださったのですが、ああ、どうしよう、感激を表す言葉が見つからないです。本当に、素敵ですよね!

この小説のメインキャラ三名をまさに私がイメージしている通りの姿と立ち位置で配置してくださったのです。下方左がヒロイン、ラウラ。私の小説にはあまりいない「耐えるヒロイン」です。そして、その右にいる青い服を着ているのが、主人公マックスです。ヒーローなのに残念ながら戦闘スペックはゼロ。どうやって絶体絶命のヒロインを救う氣なのか……。対照的にちょっと頼もしいのが、サブキャラなのに存在感を半端なく描いていただいた真ん中にいるレオポルド二世。王様です。ええ、正にこういう話なんです。

ラウラとマックスのアングルがさすがだなあと思います。ラウラの追いつめられている様子や、マックスも全然余裕がない状態で危険に飛び込んでいく様子がこれだけでわかりますよね。ああ、素晴らしい。

書いている本人は、頭の中にこういう姿形でというのがあるんですが、いくら頑張って描写してもやはり読者にはなかなか伝わりませんよね。この三人は、まさに私の頭の中とそっくりです。ですから、これからは皆様にも三人のイメージが定着するかな〜と、一人で喜んでいます。

これだけの詳細なイメージを再現してくださるのは、とても大変なことだったと思います。ユズキさん、本当にありがとうございました!

うって変わって、下でご紹介するのは、先日の「scriviamo! 2015」でユズキさんが書いてくださった、お伽噺風(?)掌編のイラスト。マックスがヴァルト画伯(@ユズキさん)のほのぼの画風によってファンシーイラストになりました。広大な森《シルヴァ》をずんずんと行く、「旅する傍観者」マックスの面目躍如です。あんまり嬉しかったので、こちらもいただいてきてしまいました。

マックス by ユズキさん
マックス by ユズキさん
この二枚のイラストの著作権はユズキさんにあります。無断使用は固くお断りいたします。

ユズキさん、本当にありがとうございました! 大切にします!



この記事を読んで「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読みたくなった方へ

「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物
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Tag : いただきもの

Posted by 八少女 夕

オリキャラのオフ会やりましょう

「scriviamo! 2015」残り二作品の発表が残っている時点で、「またかよ」かと思われるでしょうが、新企画のお知らせです。あ、この企画は、創作をなさる方専用企画です。


先日発表した「その色鮮やかなひと口を -3-」のコメ欄で、「私もここ(松江)を舞台に何か書きたい」とおっしゃった方が何名かいらしたので、先日からこれやったら面白いだろうなと思っていた企画を打ち上げさせていただきます。

オリキャラのオフ会
このアイコンはご自由にお使いください。

題して「オリキャラのオフ会」です。と言っても、飲食店に集合させるわけではありません。同じ日に特定の場所にオリキャラたちを集めて、ウロウロさせるだけ。それぞれの方が、好きなように短編(もちろん長編でも構いません)を書いてください。あ、マンガ・イラスト・詩などでも構いません。

当日、そこにいるとわかっているキャラたちと勝手にすれ違ったり、交流したり、ドロドロのドラマを展開してくださっても結構です。と言っても、誰が行くかわからないと、交流のしようもないでしょうから、参加してくださる方は、この記事のコメ欄に予め「うちはこのキャラが行くよ」と申し出てくださるといいかと思います。また、早く発表した方のキャラはそこにいるということですから、勝手にすれ違ったり、目撃したりしてくださいませ。

この企画、うまくいったら好きな方が幹事になっていただいてシリーズ化(神戸とか、京都とか、東京とか、ローマとか……)したいなと思うのですが、まずは一回目なので、私が幹事。で、独断と偏見で場所と日時を決定しました。

【日時】2015年4月8日(水)
【場所】島根県松江市
【お約束】観光名所を一カ所以上まわる、または、地域グルメを一点以上記述すること
【やってもOK】よそのブログのオリキャラたちとの交流、もしくは、すれ違い

【追加情報】参加者に好評につき4/8の夜は、玉造温泉の混浴大露天風呂で月見沐浴大宴会となりました。参加ご希望オリキャラ陣は各自移動のほどよろしくお願いします。宿泊費並びに宴会費用は樋水龍王神社持ちとなります。


日付は決まっていますが、これは作品を発表する締切ではありません。これより前に発表していただいても、ずっと後の発表でも構いません。単に、作品の設定上の日付です。

なぜこの日で、ここなのかというと、2015年4月8日は私が勝手に決めた「樋水龍神縁起の日」なので、その記念です。(TOM-Fさんのコメで思いつきました)(笑)

【追記】私の参加作品はこちら
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編   ~ 松江旅情
(1)玉造温泉
(2)城のほとり
(3)堀川めぐり
(4)さくら咲く宵に


なお、この日、島根県松江市をうろついていると思われるうちとブログのお友だちのオリキャラは下記の通りです。

ルドヴィコ&怜子、和菓子屋「石倉六角堂」のメンバー(松江市在住)
谷口美穂(雲南市吉田町出身)&キャシー&ジョルジア
Artistas callejeros(生まれていないけれど時空が曲がっているので参加)
ヤオトメ・ユウ&クリストフ・ヒルシュベルガー教授
俺様ネコ(ニコラ)
瑠水&真樹(TOM-Fさんの所で目撃していただきました)

お友だちのブログからの参加予定者です。(敬称略)

TOM-Fさんのところからの参加者
セシル・ディ・エーデルワイスとアーサー・ウイリアム・ハノーヴァー

山西左紀さんのところからの参加者
敷香シスカ &沙絵 &敦子 &洋子

ダメ子さんのところからの参加予定者
ダメ家三姉妹

大海彩洋さんのところからの参加者
享志・杉下さん・真 のハリポタトリオ&マコト(タケルも?)

けいさんのところからの参加者
満沢&ナオキ

limeさんのところからの参加者(目撃されちゃったキャラ)
リク&玉城&長谷川

cumbrousさんのところからの参加者(ただし4/9メイン)
カロル&ヘレナ・ルジツキー兄妹(松江城の夜桜見物)

ポール・ブリッツさんのところからの参加者
ポール

ふぉるてさんのところからの参加者(イラスト)
レイモンドとハゾルカドス(杖)



この他にも、ご希望があればどんなオリキャラ(下記の例外を除く)でも登場可能。うちのオリキャラに関してだけは、事前のお申し出は不要です。どうぞご自由にお使いくださいませ。うちのオリキャラではなく、他のブログのオリキャラを登場させたい場合は、それぞれ誘い合わせてくださいませ。

なお、この日は、樋水龍王神が根の道を開きますので、空間軸、時間軸ともに自由に行き来ができます。従って公共交通機関の予約やタイムマシン、どこでもドアなどの用意は必要ありません。あ、もちろんあえて公共交通機関やプライヴェートジェット機でいらしたい方はどうぞご自由に。

【注意事項】
登場できないオリキャラ
新堂朗&ゆり(安達春昌&瑠璃媛)
武内宮司、次郎

オプショナルツアーで島根県内(出雲・玉造温泉その他)を自由にまわっていただいて結構ですが、重要な神事がありますので、奥出雲樋水村には午後以降は足を踏み入れないようにお願いいたします。



この企画と「樋水龍神縁起」の関係、「なぜ2015年4月8日は樋水龍神縁起の日なの?」などはお氣になさらなくて構いません。もちろんこれのために「樋水龍神縁起」を読む必要もありません。でも、「どうしても氣になって眠れない」という方は、こちらからどうぞ。

「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物

官能的表現が一部含まれるため、成人の方に限られますが……「樋水龍神縁起」四部作(本編)は別館にPDFでご用意しています。
縦書きPDF置き場「scribo ergo sum anex」へ行く 縦書きPDFで読む(scribo ergo sum: anex)
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Tag : オリキャラのオフ会

Posted by 八少女 夕

【小説】Stand By Me

scriviamo!


「scriviamo! 2015」の第十六弾です。ポール・ブリッツさんは、「マンハッタンの日本人」を更に進めた作品を書いてくださいました。ありがとうございます。

ポール・ブリッツさんの書いてくださった『作る男』
ポール・ブリッツさんの関連する小説: 
『歩く男』
『食べる男』
『夢を買う男』
『待つ男』
『働く男』


「マンハッタンの日本人」シリーズ、こじれまくっていますが、そろそろ終息に向かっています。前回の「楔」の前書きで「より女心をぐらりとさせるアタックをして、私と読者の方々に『こっちだ!』と納得させた方に美穂をあげます」と宣言してしまいましたところ、ポール・ブリッツさん、TOM-Fさんお二人とも果敢に挑戦してくださることになりました。今回ポール・ブリッツさんが書いてくださったのが、ポールの求愛作戦。ついにポールが本氣をだして動いてくださいました。

今回書いたこの掌編は、ポールのアタックに対するアンサーではありません。単なるインターバルです。アンサーは、TOM-Fさんの掌編が発表されたあとに一つの短編の形をとらせていただきたいと思います。それまで少々お待ちください。なお、今回のストーリーは、キャシーの話です。この作品は、書いてくださった方のそれぞれの小説に合わせる形をとって書く特殊な執筆形態をとっていますが、そうであってもカテゴリーを通読して一つの作品となるようにしています。アンサーとしてではなく、私の小説としての「いいたいこと」を組み込むために、このパートが必要だと判断して書きました。今回に限って、R18スレスレ(っていうか、そのもの?)の記述があります。苦手な方はお氣をつけ下さい。

なお、この後は、TOM-Fさんの書かれるジョセフのアタックが発表される予定です。その後に、私が最終回を書いて、「マンハッタンの日本人」を完全に終わらせる予定です。というわけで、
これ以後に、TOM-Fさん以外の方がこのストーリーに関して書かれるものは完全スルーさせていただきますので、ご理解のほどよろしくお願いいたします。

【参考】
読まなくても話は通じるはずですが、まとめ読み出来るようにしてあります。
「マンハッタンの日本人」あらすじと登場人物
「マンハッタンの日本人」シリーズ

「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



「マンハッタンの日本人」シリーズ 12
Stand By Me


 帰ったら、美穂の様子がおかしかった。狭いキッチンのテーブルの前に座って、電源の入っていない携帯電話を見ながらじっと考え込んでいた。キャシーは、「早かったのね」と言いながら上着をハンガーに投げかけた。その時にくずかごの中に粉々になった紙を見つけた。何があったか予想はついたが、何も言わなかった。

 ジョセフ・クロンカイトのくそったれ。

 キャシーは、心の中で悪態をつくと、シャワーを浴びにいった。それから、ふたたびキッチンに顔を出すと「今夜は戻らないから」と声を掛けた。美穂がはっとして、彼女の方を見た。キャシーは、その視線を避けるように玄関を出た。

 美穂は、こんな時間に一人でアパートメントの外に出ることはない。それは、彼女には危険すぎる冒険だ。街角の至る所に、目つきが悪く、違法なものを売買している有色人種がたむろしている。古いレンガには、スプレーで落書きがされ、小便臭く、ゴミ箱の間をドブネズミが走るような地区だ。

 ジョセフ・クロンカイトが、紳士らしく彼女をこのアパートメントに送る度に、この世界に属する自分や、ここに甘んじなくてはならない美穂が、彼のクラスとは違うと認識するだろうと感じた。それでも、あの子がここから出て行けることを願っていた。

 さほど遠くない、似たようなレンガの建物に入っていく。薄い木の扉を激しくノックすると。「誰だ」という野太い声がした。

「あたしよ」
キャシーがいうと、すぐに扉が開けられた。中は煙草の煙で真っ白だった。キャシーよりもはるかに黒い肌をした、タンクトップを着た男が、にやりと笑っている。

「あたしよ、ボブ」
「わかっているよ、キャシー」
ボブは、キャシーを引き寄せると、タバコ臭い口を押し付けてきた。

「同居人と、なんかあったのか」
「ないわよ。全然ないわ。あの子は何も言わない。誰も責めない。一人で全部抱え込んでいるのよ。バカみたいに」

 男は、「シャワーを浴びて来たんだな」というと、有無をいわせずキャシーの服を脱がせて、押し倒した。

 彼女は、わずかな嫌悪感を押し殺して、体が熱くなるのを待った。これほど苛つく理由はわかっている。望んだことがうまく運ばないからだ。

 春の終わりに、ジョセフが美穂に関して質問してきた時に、キャシーは交換条件として、ポールのことを調べさせた。ポールが美穂のことを忘れて、新しい環境に馴染み、前向きに生きている証拠がほしかった。そうすればキャシーは美穂にはっきりという事ができた。「ほら、あんな男のことはすっぱり忘れて、前を向かなきゃ」と。

 ジョセフの持ってきた情報は、全く都合の悪いものだった。勝手にカリフォルニアなんか行っておきながら、しかも、あれから何ヶ月も連絡一つよこさないでおきながら、ポールには、妻どころか恋人の影すらなかった。しかも、狂ったように仕事をしているらしいが、一向に成果も出ていなかった。美穂がこれを知ったら、すぐにでもサンフランシスコに行くと言い出しかねない。そして、またしても、地を這う生活の続きだ。ニューヨークがサンフランシスコに変わるだけ。

 ジョセフ・クロンカイトが連れて行く摩天楼の高級レストランや、洗練されたマナーの人びとの間で、美穂が本当に心地よいかどうかはわからない。だが、美穂は少なくとも自分とは違うクラスにいるとキャシーは感じていた。一緒に住み、共に働き、過ごす時間が長ければ長いほど、その違いを感じる。こんな所にいるべき人間ではないのだ。

 彼女と働いていて、はじめて仕事が好きだと思えた。「いつか一緒に店を持とうね」そんな話もしたけれど、それが現実になるなんて思っていない。そんな風に、彼女を縛ることなんかできないと思っている。もうこの歳で、怪我もしたし、プロのスケート選手になれることもないだろう。あたしの人生には、どんでん返しがあるはずもない。だからこそ、美穂だけでも、こんな地の底から抜け出してほしいと願ったのだ。

「お前は、おかしな女だな。そんなにその同居人が好きなら、なぜ他の男とくっつけようとしたりするんだ」
ボブは笑いながら、キャシーの体を弄ぶ。彼女は、「くだらないことを言わないで」と、男の体に抱きついた。

「なぜ認めない? バイセクシュアルの女が嫌いだとは言っていないぜ」
「そういうんじゃないのよ。それだけだわ」

 こんな粗野な男には、わかりっこない。それに、あんたにも、ジョセフ・クロンカイト。女に必要なのは、公正なる真実なんかじゃない。そんなものは、あんたのジャーナリズム・スクールの教則本の中にでも大事にしまっておくべきだったのよ。

 あたしは夢が見たい。終わることのない夢。そして、腕が欲しい。強い腕。決して出て行くことのできない、下町の薄汚れた区画。どうやっても這い上がることのできない、食べていくのがやっとの貧しさ。このやりきれなさから、救い上げてくれるか、そうでなければ、願いを忘れさせてくれる強い腕が欲しい。

 生まれた時から、羽布団の中でぬくぬくと育ったやつらにはわからなくても、あたしたちと同じ最下層から這い上がったあんたにはわかると思っていた、ミスター・クロンカイト。美穂を救い出してという、あたしのメッセージが。

 ボブが、あたしを愛しているなんてお伽噺は信じていない。でも、この男は、少なくとも忘れさせる術を知っている。あたしがそれを必要とする時に、くだらない駆け引きもしない。首尾一貫して、同じ強さであたしをねじ伏せる。手に入らないものから、あたしの心を引き剥がす強い腕を持っている。だから、あたしは、いつもここに駆け込むのだ。

 キャシーは、ボブが本能に支配された動物に変わっていくのを感じながら、自分も全ての思考を追い出して動物に変わってしまおうとした。

 ことが終わった後も、抱きついたまま離れようとしないキャシーの頭を撫でながら、ボブは傍らの煙草の箱に手を伸ばし、一本咥えて火をつけ煙を吹き出した。狭くて暗い部屋に、通りの向こうのけばけばしいネオンの光が入ってくる。うっとうしい、湿った夜だ。

 キャシーは、項垂れていた美穂の横顔の夢を見た。

 朝早く、再びシャワーを浴びるために、アパートメントに戻った。美穂は、キャシーが戻ってくると、ほっとした顔をした。用意された朝食を食べてから、二人で《Cherry & Cherry》へと向かった。

 美穂が、いつものようにもブラウン・ポテトを調理する間、キャシーは店内を掃除して、開店準備をした。郵便受けを覗くと、少し大きい封筒が入っていた。《Star's Diner》から転送されてきたらしい。美穂宛だ。

 あたしたちのアパートメントの住所を知らない人って誰だろう。キャシーは、封筒を裏返して差出人を見た。

 ポール……。

 しばらくその封筒を見つめていたが、美穂には見せずに自分のバッグに入れた。

 美穂が、「Stand By Me」を小さな声で歌っているのが聞こえた。

(初出:2015年3月 書き下ろし)
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Tag : 小説 連載小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

三年無事に過ぎました

本日、三月二日をもって、当ブログ「scribo ergo sum」は開始から満三年を迎えました。

訪問していただき、作品を読んでいただき、そして、交流してくださった全てのみなさまに、心からの御礼を申し上げます。

仕事にしろ、結婚生活にしろ、「三年続けば」といいます。いろいろなことはあるけれど、ひとまずどうやったら山あり、谷ありをなんとか乗り越えられるか、何となくわかってくる、ということでしょうか。

私とこのブログも、走りすぎたり、はしゃぎすぎたり、時にはへこんで、試行錯誤でここまでやってきたように思います。小さなことに大騒ぎしたり、あれこれ企画を立てては遊んでいただいたり、いろいろありましたが、訪問してくださる方、交流していただく皆さんに支えられての三年間だったという事に尽きると思います。

最初は寂しかった「小説一覧」も最近は、たくさんスクロールできるようになってきました。三年前に発表した作品でも、今でも通読してくださる方がいらっしゃり、本当に嬉しいです。

ようやくひと息ついた「scriviamo!」。毎年「今回で終わりかな」と思っているのですが、今年も「来年も」とおっしゃってくださる方がいらして、やっててよかったなと思います。ブログのあり方や、小説の発表と交流のし方については、つい先日語ったばかりですのでこれ以上は控えますが、とにかく今は感謝の氣持ちと、そしてこれからも仲良くしていただけることを願って、お礼の言葉に代えさせていただきます。

小説の精進が必要なだけでなく、人間としてもまだまだ至らず、皆さんに教えていただくことの多い私です。また今日から、「scribo ergo sum」をどうぞよろしくお願いします。
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