【小説】君との約束 — あの湖の青さのように(1)
今回のオフ会では、基本的に正志視点で事が進みます。というわけで、正志が目撃していないサキさんの書いてくださったお話の続き部分は、後日に(どんな形かはまだ考え中)発表する事になります。
前回のオフ会(in 松江)での、素晴らしい設定に敬意を表して、例の日本酒が再登場します。cambrouseさん、勝手に設定を増やしました。お許しください。
オリキャラのオフ会 in 北海道の募集要項記事(大海彩洋さんのブログ)
私のところのチームの詳細設定など
君との約束 — あの湖の青さのように(1)
- Featuring「森の詩 Cantum Silvae」
「あれ。間違えたかな。こんな簡単な道なのに」
正志は首を傾げた。もう屈斜路湖が見えてきていいはずなのに、その氣配がない。ナビゲーターが引き返すように騒ぎだした。
「曲がり角、見落としちゃったのかしら。そろそろ暗くなってきたから。本当にごめんね。正志くん」
「だから、謝らなくていいってば。もともとの到着時間と大して変わっていないって」
昼前には札幌千歳空港に着く便を予約していたので、ゆっくりと観光をしながら六時間以上かけて屈斜路湖までドライブするつもりだった。千絵が夜勤明けとは聞いていた。そんな疲れることをして大丈夫かと言ったら「飛行機で少し眠れば大丈夫」というので、そのスケジュールにしたのだ。ところが、急患でバタバタして、羽田発札幌行の搭乗時間に間に合わなくなってしまった。それで搭乗便を変更してもらい、夕方の釧路行になんとか乗り込むことが出来た。
釧路からのドライブ時間はたったの一時間半ほど、途中で曲がるところはたったの二カ所。ナビケーターもついているのに道を間違うなんてみっともないな。正志は思ったが、千絵は飛行機に乗り遅れたせいだと謝ってばかりだ。
「でも……千歳空港に行けていたら慣れているセダンだったのに、釧路には七人乗りのミニバンしか残っていなかったし……もし、午前の飛行機に間に合っていれば……」
「だから、もう氣にするなよ。そもそも、後輩のパニックを放っておけなかったなんて、本当にお前らしい理由での遅刻じゃないか。疲れているはずなのに、ドライブ中も全然寝ないで、ずっと謝っているしさ」
「羽田の待合室で少し寝させてもらったたじゃない。せっかくの旅行のスタートがこんななのに、運転してくれる正志君の横で私がぐうぐう寝るなんて悪いわ」
「だからさ。そうやっていつも人のことばかり……うわぁっっ!」
正志は、ブレーキを強く踏み、車は急停車した。目の前を黄色っぽい塊が横切ったのだ。それは、慌てて道際の木立へと消えていった。
「い、今の……き、キツネだったよな?」
「……尻尾、ふわふわだったわね」
「う、ビビった~。轢かなくてよかったよ」
「本当にいるのね、キタキツネ。初日に見られるなんて思わなかったわ」
「おう。こういうラッキーもあるってことさ」
二人は笑って、それから五月蝿いナビゲーターの言う事をきいて、もと来た道を戻りだした。それから、今度は間違えずに52号線に入り、屈斜路湖を目指した。
二人が出会った北海道へもう一度一緒に行こう、その約束を果たしに来た。一年ぶりの北海道。二人がつき合って一年が経ったということになる。看護師である千絵の休みは不規則だから、週末ごとに逢えるわけではない。都内で清涼飲料水の営業をしている正志は残業や接待が多くて平日の夜に逢えることもあまりない。それでも、二人とも可能な限り機会を作り、逢える時間を大切にしてきた。
人のことを氣遣うあまり、いつも自分のことを二の次にしている千絵のことを、正志は時々じれったく思い、もっと自分を優先しろと言うけれど、実のところ彼が千絵のことで一番氣にいっているのは、そういう多少過ぎたお人好しな部分だ。それと同時に、時おり心配になる部分でもある。看護師は彼女の天職であると同時に、患者も同僚もそのつもりはなくてもそんな彼女を消耗させてしまうだろうから。
だから、「長い休みを取ると周りに迷惑をかける」という彼女を説得して、北海道旅行を企画したのだ。「約束だから」と強引に。ついでに、たまたま見つけた数日間牧場に滞在して働き、その仲間たちと帯広の花火大会を観に行くという企画にも申し込んだ。単純に観光して飲み食いしているだけより、二人で同じところで寝食を共にして働いたら、もっとお互いのことがわかるいいチャンスだと思ったから。千絵もそのアイデアを面白がってくれた。
札幌から牧場のある浦河まで直行してもよかったのだが、せっかく休みを取ったので、一度行ってみたかった屈斜路湖で屈斜路コタンの文化に触れることにした。本当は、札幌からのドライブの途中に去年の旅の目的だった、富良野在住の女性を訪ねてお土産を渡すつもりだったのだが、ルートを変更したので、明日、一日で北海道を半周する500km近いドライブになるが、美瑛、富良野を通って浦河まで行くことにしている。
半日遅れの北海道到着だったが、正志は半日無駄にしたとは思っていなかった。千絵が羽田に着いたらすぐに飛び立てるような都合のいい便には空きはなかったけれど、夕方のフライトを待つまでの間、二人でゆっくり食事をして、たくさん話もできた。待合室で椅子にもたれていたのが、いつの間にか彼の腕に額をもたれかけさせてきた千絵の寝顔を眺めたりしたのも、くすぐったいような嬉しい時間だった。そして、釧路からの一時間半のドライブも、青い空と目に鮮やかな沿道の緑、そして、どこまでも続く道を行くワクワクした心地が久しぶりでとても楽しかったのだ。
「お。あったぞ。あれが今晩の宿だ」
屈斜路湖畔に建てられた本物のアイヌ文化を楽しめるとうたっているプチホテルだ。アイヌ文様をインテリアに多用した客室や、アイヌの伝統に根ざす創作料理を出してくれたるだけでなく、ホテルのスタッフがアイヌ詞曲舞踊団に早変わりしてライブをしてくれることもあるらしい。
車を停めた時に、正志は、横に停めてあった赤いDUCATI696をちらりと見た。イタリア車か。へえ。綺麗に乗っているな。持ち主はどんな人だろう。そんな事を考えつつ、荷物を持ってホテルへと入っていった。
アイヌの民族衣装を身に着けた、笑顔の女性が迎え入れてくれた。チェックインがすむとやはりホッとする。なんだかんだいって長い一日だったからな。食事の前に風呂に入って、ゆっくりするか。
「屈斜路湖に面した混浴の露天風呂があるって聞いたんですけれど」
「コタンの湯ですね。ここからすぐのところです。もっとも今、やはりここにお泊りの外国の男性お二人が入っていますよ」
「あ~、俺たちは一緒に入ろうと思って水着を用意してきましたが、その二人は?」
「褌してますよ。外国の方は大抵そうなんですけれど、全裸は抵抗があるとおっしゃったので。さっき宿主が締めてあげました」
「そうですか」
正志は千絵の方をちらっと見たが、クスッと笑っていたので大丈夫だろうと思った。よく考えたら、若い女性であっても、千絵は看護師で男性患者の世話などもするのだから、褌を締めた男を見るのくらいどうということはないのであろう。それよりも、外国人か。言葉は通じるのかな。正志は戸惑った。
「ところでどこの国の方なんでしょうか。英語ですか?」
「さあ。それが、妙に流暢に日本語を話されるんですよ。ですから、会話には困らないと思います。もっとも、少し変わったところのあるお二人ですけれどね」
「そうなんですか?」
「ええ。どうも、大変コンサバティヴな伝統のある国からいらしたみたいで、テレビやエアコンのことなどをご存じないようなんです。でも、いい方々だと思いますよ。それと、アイヌのモシリライブをどうしても観たいとおっしゃるので、八時半から開催するんですよ。追加料金はお二人が払ってくださいましたので、必要ございません。よかったらそのお時間にシアターにお越し下さいね」
正志たちは部屋に荷物を置くと、宿の裏手の露天温泉風呂に向かった。
脱衣室は男女に分かれている。風呂の半分までは大きな岩で区切られているが、その先は混浴だ。
正志が入っていくと、確かに二人の先客がいた。一人は黒い長い髪をオールバックにしたがっちりとした男で、もう一人はもう少し背が低くて茶色くウェーブした肩までの髪の男だった。屈斜路湖の先に夕陽は沈んでしまったばかりのようで、わずかに残った薄紫の光が遠く対岸の稜線を浮かび上がらせていた。二人は、そちらを見ながら静かに外国語で話していた。
「おじゃまします」
正志が声を掛けると、二人は振り向いた。
「おお。遠慮はいらぬぞ。素晴らしい眺めが堪能できるいい湯だ」
髪の長い男が言った。妙に流暢だが、確かに変わった言葉遣いだ。正志は思った。
茶色い髪の男の目が、岩の向こうから表れた千絵に釘付けになった。彼女の水着は水色花柄のホルターネックタイプで、ブラの部分の下に大きいフリルがあるし、ボトムスも花柄のフリルがミニスカートのように覆っているので、ごく普通のビキニと比較すると大した露出ではないのだが、二人が顔を見合わせてやたらと嬉しそうな顔をしたので、正志はムッとする以前に先ほどの宿の女性の言っていた「コンサバティヴな伝統の国から来た」という言葉を思い出しておかしくなった。当の千絵の方は、そんな風に見られて居心地が悪かったのか、すぐに湯の中に入ってしまった。
「同じ宿に泊まっていると聞きました。俺は山口正志。彼女は白石千絵といいます。東京から来ました。日本語がとてもお上手ですが、日本にお住まいなんですか」
正志が言うと、二人とも首を振った。
「我々はグランドロン王国から来たのだ。余は国王のレオポルド、こちらはフルーヴルーウー伯爵マクシミリアンだ」
「こ、国王と伯爵?」
そんな国あったっけ、そう思いながら正志は二人の顔を見たが冗談を言っているようにも見えなかった。
「そ、そうなんですか。日本語はどちらで習われたんですか」
「習ったわけじゃないんです。これのおかげで聴き取ったり話したりが出来るというだけで」
マックスが手元の瓢箪を持ち上げてみせた。
「なんですか、それは」
「日本酒だ。知らないのか。出入り口で売っているが」
レオポルドが上機嫌で言った。
「出入り口って?」
「時代や空間を超えて旅をする時に通る道の出入り口だ。《シルヴァ》という大きい森と繋がっているのだ。この世界の入り口ではこの酒を買うように奨められているぞ」
「なんて銘柄の日本酒ですか?」
正志の勤める会社は酒類も扱っているが、そんな日本酒があることは知らなかった。聞き捨てならない。
「cambrouse酒造の『年代記』だ。『るじつきー』『ぴるに』『じーくふりーと』と三種類あって、我々は一番値の張る『るじつきー』を買って飲んでいるので、このように話が出来るのだ」
「他の二つだと、どうなるんですか?」
千絵も興味を持ったようで訊いてきた。
マックスがにこやかに答えた。
「相手の言っていることは、三つとも同じようにわかるのです。ただ、こちらの話す能力に差が出るらしいのです。『ぴるに』だと、どのようなことを話そうとしても、相手にはイーとしか聴こえないそうです」
なんだそりゃ。ショッカー仕様なのか? 正志は首を傾げた。
「もうひとつの『じーくふりーと』だと?」
「相手が返答に困るような爆弾発言を繰り返すそうだ」
レオポルドが答えた。正志と千絵は、顔を見合わせた。それは、まずい。
「それで、お二人は一番高いのを、お買いになったわけですね」
「そうだ。だが、『るじつきー』には現地の滞在費を十分まかなえる金額の小切手が一枚ついて来るのだ。だから結局はさほど高くないのさ」
「お国の通貨でお支払いになったんで?」
「通貨ではなくて、これで払いました」
マックスが、風呂の脇の岩の上に置いてある袋を開けてみせた。中には、大小様々の金塊が入っていた。
「! こ、これ、本物の金ですか?」
「ええ。かなり重いんですよ。あの小切手でもらえる紙幣が、あれほど軽くて価値があると知っていたら、こんなに持ってこなかったんですが」
「一体いくらの小切手だったんですか?」
「五百万円。適当な大きさの金塊がなかったので大きめので払ったら、おつり分も小切手に入れてくれたらしい。札幌に行った連れたちは歓楽街へ行くというので、三百万ほど渡して、残りを我々が持っているのだが、想定したよりも物価がずっと安くて、まだ全然使えていないのだ」
風呂から出て、食事の時に二人と再会することを約束して部屋に向かう途中、正志たちは二人連れの女性とすれ違った。一人は、黒い髪をきれいにボブカットに切り揃えているボーイッシュなイメージでおそらく千絵と同年代、もう一人はもう少し若そうで、艶やかな長い髪をポニーテールにして赤いリボンをつけているミニスカートの可愛い女性だった。
二人とも感じよく会釈をして、通り過ぎた。そして、向こうから歩いてくるレオポルドたちのことを見つけると、ポニーテールの女性が大きく手を振ってにこやかに訊いた。
「あ、デュランにマックス! お風呂はどうでしたか?」
マックスは妙に嬉しそうに答えた。
「ええ。とてもいいお湯でしたよ。こちらの奥方も一緒に入ったのですよ。お二人もお入りになればよかったのに」
ボブカットの女性は、素っけなく答えた。
「わたしたちは、宿の風呂に入りました。水着も持ってきていないし」
「そなたたちもフンドシを締めてもらえばいいではないか」
レオポルドが言うと、ポニーテールの女性だけでなく、会話を耳にしてしまった正志たちも吹き出した。
「そういうわけにはいきません。それにもうすぐに食事でしょう。ところで、その服、いつも着ているんですか?」
ボブカットの女性が指摘しているのは、レオポルドとマックスの着ている白い服のことだ。木綿でできたアイヌの民族衣装でカパラミプというのだと、当の二人に露天風呂を上がった後に更衣室で教えてもらった。切伏文様を施し刺繍もされている手のかかった服で、かなり高価だと思うが、なぜこの外国人二人が常に着ているのかわからない。
「我々の服装は目立つのでな。滞在国の民族衣装を着ていた方が少しは目立たぬであろう」
「いや、反対に、ものすごく目立ちますけれど」
正志が指摘したが、どうもこの二人は「目立つ」と言われると少し嬉しそうだった。結局、目立ちたいのか。
こうやって、正志たちも二人の女性と和やかに話をすることができたので、食事は宿のスタッフに頼んで六人一つのテーブルにしてもらった。
「自己紹介がまだでしたね。俺は、山口正志、東京で営業職に就いています。こちらは白石千絵、看護師です」
正志が改めて挨拶をすると、女性二人も笑顔で握手をした。
「はじめまして。私は
「ダンゴ? こんなにかわいいのに?」
千絵が驚くと、ダンゴはほんの少し顔を赤らめた。
「笹団子からの連想ですって。友達がつけてくれたんです」
そのいい方とはにかみ方がとても可愛らしかったので、正志と千絵は「なるほど」と、思った。ただの「友達」ではないらしい。
「ダンゴってなんですか?」
マックスが、ニコニコと訊いた。コトリは、わずかに微笑んで、目の前のきびで作られた「シト」という団子を指差した。
「これよ。こういう丸くて素朴なお菓子のこと」
「ほう。ということは、これもダンゴみたいなものだな。見かけは素朴だが、なかなか美味いもので、病みつきになってしまったのだ」
その言葉に横を見ると、レオポルドが部屋にあったジャガイモを発酵させたポッチェを持ち込んで食べていた。これから食事なのに、なぜそれをいま食べる……。正志は苦笑した。
「ところで、ダンゴさんたちは、なぜこの人の事をデュランって呼ぶんですか?」
正志はレオポルドを指差した。
「え? だって、そう自己紹介されましたよ。違うんですか?」
「違わないぞ。どちらも余の本当の名前だ。正式に全部名乗ると長いが、聴きたいか?」
「陛下、やめてください。聞き終わるまでに夜が明けます」
マックスがやんわりと制し、それからにこやかに続けた。
「城下に忍びで出かける時に、レオポルドと名乗られるとすぐに陛下だとわかっちゃうんですよ。それで、子供の頃から忍びのときはデュランと名乗られるのを常にしておられるのです。ちなみに、私はマックスという名前だと思って育ちましたので、親しい者の間では普段からマックスです」
「じゃあ、何故、我々には忍びのお名前をつかわなかったんですか?」
「先ほどまでデュランとマックスで通していたんだが、だんだんと民のフリをするのも面倒になってきてな。どっちにしても我々の事を知っている人間はここには居ない事がわかったしな」
「私も、陛下に対して敬語を使わず話すのに疲れてしまったんで、もう忍びはやめようかと、さっきお風呂の中で二人で話し合ったのですよ」
「ええ~。じゃ、私たちも陛下と伯爵って呼ばなくちゃダメ?」
ダンゴが可愛らしく口を尖らせる。
「そんな必要はありません。さっきまでと同じようにマックスと呼んでください」
「余の事もデュランでいいぞ」
「じゃ、そう呼びますね。コトリもそうするでしょ?」
「今さら変えるのも変だしね」
そのコトリの言葉を聞くと、レオポルドは若干嬉しそうだった。
料理が次々と運ばれてきた。エゾウグイ、アイヌ語名「パリモモ(口笛を吹く魚)」の活造りは、淡白だが甘味があり口の中でとろけるよう。それに凍らせた刺身「ルイペ(溶けた食べ物)」、ヒメマスの塩焼きなど屈斜路湖の幸が続く。行者ニンニクと豚を濃い味のたれでからめて作った「コタン丼」、おそらく肉と野菜のたっぷり入った味噌汁「カムオハウ」も美味しかった。菱の実「ペカンペ」を利用した和え物、味が濃くて美味しい舞茸、オオウバユリ「トゥレプ」を用いた粥「サヨ」など、日本人である正志たちもはじめてのアイヌ料理の美味さに六人ともしばし無言となった。
「ところで、お忍び旅の目的は?」
千絵が、酒をつぎながらマックスに訊いた。
「休暇です。しばらくきつい仕事をしていまして、それが無事に完了したので、打ち上げみたいなものでしょうか。みなさんは?」
マックスが訊き返すと、千絵はバックから一枚のチラシを取り出した。
「私たちはね、明日からここで働くのよ。たった数日間だけれど、自然と触れあいつつ、美味しいものを食べて、最後に花火を見せてくれるっていう、面白いツアーを見つけたの」

すると、コトリとダンゴがびっくりして立ち上がった。
「ええっ。千絵さんたちも? 私たちも、その牧場に行く予定になっているの」
「なんだって。そりゃ、面白い偶然だな。じゃあ、明日からもしばらく一緒だな」
正志が言い、四人はしばらく盛り上がった。
レオポルドはマックスと、しばらく何か異国の言葉で話していたが、やがて言った。
「面白そうなので、我々も同行してもいいだろうか」
「え? いらっしゃいます? だったら、申し込まないと。今、電話して訊いてみますね」
千絵が、電話するその横で、正志はコトリたちと明日のルートについて話していた。
「うん、わかっている。無謀なんだけれど、今日寄れなかった富良野に行かなくちゃいけないんで、朝一で国道39号線を通って一日ドライブすることになっているんだ」
「それは、ちょっと大変ですね。私たちは、バイクですし、そんな無理は利かないので、直行します。向こうでお逢いしましょう」
「あ。表のDUCATI、君のなんだ! すごいな。その華奢な体で、あれに乗っちゃうんだ」
「あ、でも車体は161キロで軽い方なんですよ。燃料やオイルを入れても200Kgいかないはずです。アルミフレームも使っていますしね。かなり扱いやすいです」
「へえ。たしか80馬力くらいあったよね」
「ええ。加速は胸がすくようですよ。正志さんもバイクに乗るんですか?」
「昔ね。最後のはKawasaki Ninja 650R。マンション買うときに手放した。でも、いずれまた乗るかもね」
千絵は電話を切ると、にっこりと笑った。
「アイヌ文化に興味のある外国のゲストって言ったら、大歓迎ですって。明日、一緒に行きましょうね」
六人は、明日以降も続く親交と共同作業を喜んで、再び乾杯をした。食事の後には、スタッフたちがエンターテーナーに早変わりして、モシリ・ライブを開催してくれた。心の触れあう、縄文の精神をテーマにしたアイヌの舞台は圧倒的だった。
その興奮が醒めやらぬまま、六人はレオポルドたちの泊っている豪華な特別室「アイヌルーム」へ移動し、夜更けまで楽しく飲んで親交を深めた。
(続く)
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ロマンシュ語について
住んでいる私はもちろん、スイスの事が好きです何度も来ている方(私がお逢いするのはそんな方ばかり)には当然の事が、それ以外の方には著しく「?」なのですよね。
というわけで今日は、もう少しわかりやすくご説明する事にします。
まず、グラウビュンデン州について。下の地図で黄色く塗ってある位置にあります。あ、全体はスイスの地図です。スイスがどこにあるかなどの説明は、いいですよね(笑)

グラウビュンデン州はスイスの南東の端にあります。国境を接しているのは、オーストリア、リヒテンシュタイン、そしてイタリアです。
そして、下の地図はWikipediaから引っ張ってきました。
2000年時点のスイスの言語分布地図です。緑色がフランス語圏、オレンジがドイツ語圏、江戸紫がイタリア語圏、京紫がロマンシュ語圏です。ドイツ語とロマンシュ語が入り交じっている場所もあります。
四つの言語がスイスの公用語ですが、その四つを全ての地域で話しているのではなく、州ごとに決まった公用語があります。例えばチューリヒはドイツ語、ジュネーヴはフランス語、ティツィーノはイタリア語という具合に一つの事が多く、例外的に二つの言葉を公用語にしている州もあります。そして、グラウビュンデン州だけは例外中の例外。地図を見ていただくとわかるように、ドイツ語、イタリア語、そしてロマンシュ語を話す地域が含まれているので、公用語が三つあるのです。ロマンシュ語はスイスではこの州だけで話される言葉です。

By Marco Zanoli (sidonius 13:20, 18 June 2006 (UTC)) (Swiss Federal Statistical Office; census of 2000) [CC BY-SA 3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], via Wikimedia Commons
ロマンシュ語(もしくはレトロロマンシュ語)というのは、ラテン語から派生した言葉です。紀元一世紀ぐらいにこの辺りはローマの属州となり、ローマ帝国の版図すべての地域では公用語ラテン語を話すようになりました。でも、その後にゲルマン人がやってきて、現在のドイツ、オーストリア、スイスの一部はゲルマン化されたのです。そして、残りの部分の平地は、それぞれの支配した人びとの言語が優勢となり、イタリア語圏やフランス語圏ができたのです。でも、山の中で支配の及ばなかったところはラテン語が変化して独自の言語ロマンシュ語になったのです。ちなみに同じようにラテン語から独自の言語になった言葉(フランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語など)のことをロマンス諸語と総称します。
ロマンシュ語はスイス人口の0.5%ぐらいが話します。イタリア語に似ていると言えば似ていますが、まあ、イタリア語とスペイン語くらいの「似ている」かな。ドイツ語圏の人には全くわからない言葉ですが、イタリア語ができれば「なんとなくこんなこと言っているかな」と推測はできる感じですね。 もっとも、ドイツ語圏に支配されていて、長い間公文書などに使う公用語としてはドイツ語が使われてきたこともあり、かなりの語彙がドイツ語から流用されている事にも特徴があります。
イメージとしては、和語としての日本語にない新しい単語は外来語がそのまま取り入れられていますよね、あの感じです。例えば「テレビ」「パンナ・コッタ」みたいに。ああいう感じで、ラテン系の言語の中に突然ドイツ語の単語が入り交じるのです。
ロマンシュ語は絶滅の危機に瀕している言語です。子供たちは、全員ドイツ語とのバイリンガルですし、村を離れて都会に行けば話すのはドイツ語です。そこで結婚して家庭を作れば、その子孫はドイツ語を話す事になります。こうして年々ロマンシュ語を話せる人びとの数は減っており、州と連邦は危機感を持って組織的にその保護活動を進めています。
スイスの地理をご存知の方がロマンシュ語の分布をご覧になると、「ああ」とおわかりになるかと思いますが、基本的にアルプスの山の中の地域にあるのです。中央スイスに近い方の地域は、フォルダーライン河の流れるビュンデナーオーバーランドです。そしてオーストリアに近い方がエンガディン地方です。
この二つの地域は、過去にはあまり交流がなかったため、言葉はそれぞれの形で方言化しました。もちろんお互いに話は通じますが、共通ロマンシュ語(Rumantsch Grischun)を作る作業で大きな困難となっているのです。
ロマンシュ語をスイスの公用語として認め、保護しようとする動きが始まったのは、そんなに古い事ではありません。1938年にファシスト化したイタリアが、「住民がイタリア語を話す地域はみんなイタリア!」と領土拡大の侵略政策をとりはじめると「彼らが話しているのはイタリア語じゃない、独自言語だ」と、スイスはロマンシュ語を第四の公用語にしました。
実は、それまではかなり長い間「ロマンシュ語なんて話すな。ちゃんとドイツ語を話せ」と学校などではドイツ語を強要していたのです。これがロマンシュ語の人たちがイタリア語ではなくてドイツ語とバイリンガルになった理由でもあります。
そういう事情があり、ロマンシュ語はずっと方言としてだけ存在し、「公式ロマンシュ語」にあたるものが存在しませんでした。公式文書に書き記すべき文語がなかったのです。もちろんこれでは、学校でロマンシュ語を教えるのにも困ります。
共通ロマンシュ語(Rumantsch Grischun)を作る動きが本格的に始まったのは1970年代、そして、それが正式にグラウビュンデン州の公用語となったのは2001年です。現在はロマンシュ語の放送局もあります。でも、今でもまだ批判があったり、なかなか広まらないなどの問題が残っています。何故かと言うと、共通ロマンシュ語は各方言から少しずつ持ってきた言葉で出来ているのですが、そのせいで実際にその言葉で毎日話している人間が居ない、という逆説的な事になってしまうからです。エスペラント語のような感じでしょうか。人工言語というのは普及させるのは難しいのですね。ある程度の強制力とそれを日常的に使う一定数以上の人びと、そして十分な時間がないと、なかなか根付かないものです。NHK標準日本語や標準ドイツ語などのようにある方言が集権的に統制されて使われる事によってできた共通語の方が浸透しやすいのでしょうね。
このような特殊な言語ですので、イタリア語圏やフランス語圏で生まれ育った人がロマンシュ語を話せるという事はまずありません。(例外は、両親ともにロマンシュ語圏出身で、別の地域に移住しても家庭ではロマンシュ語で話し続けている場合)
他の地域のスイス人がロマンシュ語圏の人たちと会話をする時に使う言語は、ドイツ語か英語です。公用語が四つもあるにも関わらず、自国の人間と会話をする時には外国語を使わなくてはならない。このあたりは、日本の方にはとてもわかりにくい事情かもしれないですよね。
いずれ、もっと不思議な言語であるスイスジャーマン(スイス方言ドイツ語)についてもお話ししたいと思います。
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カンポ・ルドゥンツ村のひみつ
本日は、私の小説の中で時々出てくる架空の村についてちょっと説明を。

先日発表した「君を知ろう、日本を知ろう」や「リゼロッテと村の四季」をはじめ、私の短編・中編小説ににしつこいくらい出てくるのがカンポ・ルドゥンツ村。リナ姉ちゃんも、実はここに住んでいることになっています。
この村は、スイス、グラウビュンデン州の州都から車で20分程度のところにある村、という設定ですが、なんのことはない私が住んでいる村がモデルです。現代(リナ姉ちゃんのいるぐらいの今)の人口は900人程度、スーパーなどのない小さい村です。
山をもう少し登った先には日当りがいいために金持ちが家を建てたがるほぼ同じ規模のラシェンナという村、川をはさんだ向かいに人口3000人弱、いくつかのスーパーや急行の停まる駅もある村、サリスブリュッケがあります。この二つも、もちろん名前は変えてありますがほぼそのまんまのモデルの村が存在しています。
カンポ・ルドゥンツ村(ということはウチの村)は、18世紀くらいまではロマンシュ語圏だったのですが、今ではドイツ語圏になっています。プロテスタントの村で、村の中心に教会が一つあります。ライン河と支流のアルブラ川が合流する地点にあり、かつて(ナポレオンより前の時代まで)は「神の家同盟」という小さな同盟国に含まれていました。サリスブリュッケ(のモデルの村)は「灰色同盟」に属していたので、扱いとしては「よその国」だったのですね。
この辺りには、ドイツ語を話す人びと、ロマンシュ語を話す人びと(ドイツ語とのバイリンガル)、言葉はドイツ語だけれどちょっとよそ者的な「ヴァルサー」と言われる人たち、半分ジプシーみたいな「イェーニッシュ」などの、様々な人びとの他に、ドイツ人、オーストリア人、イタリア人のような外国人も住んでいます。これは、「リゼロッテと村の四季」の舞台である20世紀初頭もそうでしたし、今はもっと別の国の人間(例えば日本人とか・笑)もいて、入り乱れています。
この中でいろいろなドラマが生まれ、ついでに私の小説の題材もゴロゴロと落っこちていてくれるというわけです。
まだ日本に住んでいた大学生ぐらいの私は、一時イギリスに夢中になりました。当時、誰にも見せずにひとりで書いていた小説には、イギリスの田舎を舞台にしたものがいくつもあります。でも、地理も歴史もわかっていない(でも、調べるほど真剣ではなかったらしい)ので、ものすごく適当なんですね。好きだったエピソードやキャラもいたのですが、なかなか現在リライトしてまで表に出せるような厚みが出ないのです。で、「イギリスではなくてむしろカンポ・ルドゥンツ村の話にしてしまえばいいんじゃない」というところに行きついたのですよ。
「リゼロッテと村の四季」は、limeさんのイラストを出発点にした夢みがちな少女の成長と、かつてイギリスの架空の田舎で展開していたストーリーのリライト、そして、私の現在住んでいる地域の様々なファクターと歴史を三つ巴にして作っていこうとしている物語です。
まだ、生まれたばかりで行き先も定まっていませんが、大事に書いていこうと思っています。
カンポ・ルドゥンツ村とその住人たちの出て来る話
「歓喜の円舞曲(ロンド)」
「落葉松の交響曲(シンフォニー)」
「狩人たちの田園曲(パストラル)」
「夢から醒めるための子守唄」
「夜想曲」
「リナ姉ちゃんのいた頃」
「さよならなんて言えない」
「マメな食卓を」
「冷たいソフィー」
「パリ、イス、ウィーン、ニライカナイ、北海道、そして 」
「リゼロッテと村の四季」
「君を知ろう、日本を知ろう」
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【小説】君を知ろう、日本を知ろう
お題:「『八少女 夕』に密着取材!」
キャラ:複数ブログからの複数キャラ
(けいさん)
さて60000HIT企画のお題ですが、気遣い無用とのことですので「そばめし」でどうでしょうか?
そしてキャラはサキの作品から夕さんの気になる人物をお貸しします。
誰でもいいですよ(複数可)。
(サキさん)
けいさんのお題にお応えするために、こちらのキャラはヤオトメ・ユウ&クリストフ・ヒルシュベルガー教授です。正確にはヤオトメ・ユウと私はイコールではないのですが、違っているところには注釈をつけました。
密着取材ということ、それに複数のブログから複数のキャラというご指定なので、TOM-Fさんちのジャーナリスト、それから、けいさんもよくご存知の大海彩洋さんにもご協力をいただき、それにサキさんのキャラにも絡んでいただいてコラボにしました。
けいさんの「夢叶」からロジャー、TOM-Fさんの「天文部」シリーズからジョセフ(名前のみのご登場)、彩洋さんの「真シリーズ」から龍泉寺の住職。そして左紀さんの「絵夢の素敵な日常 」から榛名(すべて敬意を持って敬称略)をお借りしています。けいさんが「ロジャーの苗字、つけてもいいよ」おっしゃってくださったので、遠慮なくつけちゃいました。けいさん、お氣に召さなかったらおっしゃってくださいね。
ウルトラ長くなってしまったので、前後編にわけるつもりでしたが、「オリキャラのオフ会」作品もどんどん伸びて、このままでは新連載が始められないので、この作品は14500字相当、まとめてアップする事になりました。はじめにお詫びしておきます。
【参考】
教授の羨む優雅な午後
ヨコハマの奇妙な午後
パリ、イス、ウィーン、ニライカナイ、北海道、そして
君を知ろう、日本を知ろう
ううむ。これは、よくない事の前触れじゃないかしら。ユウは、嫌な予感に身を震わせた。バーゼルでの学会が滞りなく終了したら、久しぶりの休暇。その足で日本へと旅立つつもりだった。もちろん、一人で。日本に全く興味がない夫は既に南アフリカへと旅立っていたので、これからの三週間は誰にも邪魔されずに、ホームランド・ジャパンを満喫するはずだった……。
「それは、実に面白い偶然だね。フラウ・ヤオトメ」
立派な口髭をほころばせて、威厳たっぷりに微笑むのは、他でもないユウの上司、クリストフ・ヒルシュベルガー教授だ。上質のツイード・ジャケットをきちんと着て、完璧な振舞いと威厳ある態度を示すので、はじめて逢う人間は厳格な紳士だという印象を持つ。第一印象がいつも正しいとは限らない。
「私の休暇の行き先も、やはり日本でね。君の通訳やオーガナイズは、決して満点をあげられるものではないが、少なくとも私の好みをよくわかった上で手配を任せられるという意味では、これ以上のガイドはいないからね」
「お言葉ですが、先生。いったい私がいつ、休暇を先生のガイドとしてのボランティアに使うと申し上げたんでしょうか」
「まあまあ、いいではないか。前回のように、君一人ではとても泊れないホテルへのアップグレードや、日本ならではの最高級料理店に、私の財布であちこち行けるのは、悪い話ではないだろう」
「う……」
そう言われてしまうと、ぐうの音もでない。それに、断ってもどうせ引っ付いて来るのだ。こちらにも大した用事はないので、つきあって日本のグルメと、こぎれいなビジネスホテルのシングルルームを堪能できる方がいい。
その誘惑にうっかり負けてしまったので、ユウはヒルシュベルガー教授と並んでチューリヒ経由日本行きの飛行機に乗る事になった。
「この機内食には、まったくもって我慢がならん」
ヒルシュベルガー教授は、そういいながらもワインを二杯お替わりし、ソースのあまりかかっていないチキンだけでなくカラカラに乾いた米まで平らげた。
「なぜパンを食べないんだね」
「前に一度、申し上げたでしょう。私は主食の炭水化物を二つ重ねて食べるのはあまり好きではないんです。私だけでなく、多くの日本人がそうだと思うんですけれど。お米がついているのにパンは不要でしょう」
「だったら、私が」
そういうと教授は、ユウの返事も聞かずに彼女のトレーからパンとバターを取って食べはじめた。
ユウを挟んで教授と反対側、つまり窓側に座っていた青年が、身を乗り出してきた。
「失礼ですが、あなたは日本人で、しかもドイツ語がお話になれるのですね」
ユウは「はい」と答えて、その青年を見つめた。スイス方言のドイツ語を話した青年は、人懐こい微笑みを見せた。茶色い髪がドライヤーをあてているかのように綺麗になびき、ヘーゼルナッツ色の瞳が輝いていた。
「僕はバーゼルの新聞社に勤めているもので、ロジャー・カパウル(Roger Capaul)と言います。実は、ニューヨークのとある有名なジャーナリズムスクールの夏期講習に参加して、インタビューの具体的手法の実習中なんですよ。それでその講師が僕に課したレポートのテーマが『日本人への密着取材を通して日本という国を知る』なんです。たまたまこれから東京へ仕事で行き、その後に自分の休暇を利用して旅行をするつもりなので、向こうに行ってからどなたかに頼もうかと思っていたんです。が、つい先ほど待合室で会った人に、現地の日本人はあまり外国語を話したがらないと言われまして」
ユウは頷いた。外国語を話したがる日本人はいないわけではないだろうが、知らない外国人に「密着取材をさせてくれ」と言われて快諾する人はあまりいないだろう。いたとしても若干厄介なタイプである可能性が高い。
「あまり賢いメソッドとは言えませんね。バーゼルでお知り合いをつてに探して頼む方が早いと思いますけれど」
「僕もそう思いましたが、実は時間切れ間近でして。それで、もしご迷惑でなければ、このフライトの間だけでも、ご協力をいただけたらと……」
ユウは戸惑って、ヒルシュベルガー教授を見た。彼は、しっかり話は聴いていたが、まだ口を挟むときではない思っているらしく知らんぷりをしていた。
その時に、近くをフライトアテンダントが通りかかり「お飲物はいかがですか」とにこやかに聞いた。ロジャーは素早く言った。
「有料でも構わないのですが、普通よりもいい赤ワインなどはありますか?」
「ございます。2005年のボルドーで、先ほどファーストクラスのお客様のためにあけた特別なものがまだ半分ほど……」
「では、それをこちらのお二人分も含めて、三人分お願いします。クレジットカードは使えますよね」
その言葉を耳にした途端、ヒルシュベルガー教授は厳かにユウに宣言した。
「フラウ・ヤオトメ。先日、君はたしか日本では袖がこすれるとどうこうと、私に言っていたように思うが」
ユウは、ヒルシュベルガー教授がロジャーの懐柔作戦にあっさりと乗った事を感じて、軽蔑の眼を向けながら答えた。
「『袖触れあうも他生の縁』です。わかりました。協力すればいいんでしょう。ったく」
ロジャーは、作戦の成功が嬉しかったのか、にっこりとした。
ユウはロジャーの方に向かって口を開いた。
「まずは自己紹介しますね。私は、ヤオトメ・ユウと言います。東京出身の日本人で、14年前から夫の住むカンポ・ルドゥンツ村(注1)に住んでいます。職業は、ここにいるクリストフ・ヒルシュベルガー教授の秘書(注2)、それからサイドワークとして小説を書いています(注3)」
「ほう。小説ですか。ドイツ語で、それとも日本語で?」
「日本語のみです。半分趣味みたいなものですが、私のライフワークです」
「今回の日本行きもお仕事ですか?」
「いいえ、ただの休暇です。ボスがついてきてしまったのは予想外だったのですが」
ユウの嫌味など、全く意に介さない様子で、滅多に飲めないヴィンテージのボルドーをグラスで堪能しながら教授は威厳ある態度で頷いた。
ロジャーは、手元のタブレットに繋げたBluetoothキーボードを華麗に叩いて内容を打ち込んでいく。
「そうですか。では、東京以外にもいらっしゃるのですか?」
「京都と神戸に行くのだ」
教授が即答したので、そんな予定のなかったユウはムッとして雇い主、もとい『休暇の予備のお財布』を睨んだ。
「あの、それでしたら、その時の往復の電車だけでも同行させていただけませんか。道中に目にするものと、あなたのご意見を通して、日本を知る事が出来そうに思うんですが」
ユウは、ひっついてくる輩は一人でも二人でもさほど変わらないと思った。教授がまた口を開いた。
「道中一緒なら、どうせなら向こうでも一緒に廻ったらどうかね。私は構わんが」
ユウは、いったい誰の休暇で、誰の旅行なんだと思いつつ、諦めて同意した。絶対にどちらかに神戸牛をおごらせてやる。それに、大吟醸酒も飲むからね。
それから、不意に氣になり、ロジャーに訊いた。
「ところで、あなたにその課題を出した、ジャーナリズムスクールの講師、なぜ日本のことを?」
ロジャーは、肩をすくめた。
「何故かは、僕にもわかりません。彼には教え子の日本人がいて、よく彼女をジュネーヴに派遣したりしているんですよ。その関係でスイス人の僕には、日本の事でもと思ったのかな。もっとも、彼女に密着取材するなんて手っ取り早い方法はダメだって、最初に釘を刺されましたけれどね」
ユウは、どぎまぎした。どう考えても、その講師というのは……。
「う……。もしかして、その方、ニューヨーク在住で、お名前はクロンカイト氏……なんてことは……」
「ご存知なんですか? それは奇遇だ。こんど彼がスイスに来る時には、ぜひご一緒に……」
「い、いや。その、知り合いってわけではなくて。その、いろいろとあって、彼には大変申し訳のない事をした事があって……その禊がまだ済んでいないのよね……」
教授は口髭をゆがめて笑った。
「悪い事は出来ないね、フラウ・ヤオトメ」
だが、ロジャーは、別のことに食いついてきた。
「ミソギって、なんですか?」
ユウはぎょっとした。
「え? ああ、これも日本独特の思想と観念に基づいた言葉よね。もともとはね、日本固有の宗教である神道で、宗教行事の前に清らかな水で体を洗って綺麗にすることを禊っていうの。でも、それから転じて、一度罪を犯したり、失敗をしたり、醜態を晒しても、それを自ら認めてお詫びや償いをすることで『水に流して』もらって、再びまっさらな罪悪感のない状態で社会や被害を受けた人の前に出られるようになることを『禊を済ませる』って、言うのよね」
「シントー……なるほど」
彼のタブレットには、また大量の文字が打ち込まれていった。ユウはその手元の向こう、窓の外に広がっている、何時間も続くロシアの大地を眺めつつ、どんな旅になるのだろうかと考えた。
新幹線の中で、ロジャーが歓声を上げたのは、やはり向かい合わせになる三人掛け椅子だった。もちろんその前には、二列になって礼儀正しく待つ乗客たちの正に真ん前でドアを開き、秒単位の正確さで次々と出発する、スーパーエクスプレス新幹線に大袈裟な感嘆の声を上げた。
「いま君は、典型的な『はじめて日本に来た観光客』になっているぞ」
ヒルシュベルガー教授が、三度目の来日らしい余裕で笑ったが、ロジャーの興奮はまだおさまっていなかった。やたらと写真は撮っているが、どうやら被写体として魅力的なのは密着取材相手よりも日本の驚異の方らしく、はじめの頃に較べるとユウと教授の映っている写真はめっきりと減っているのだった。
「それで、お仕事の方は無事に終わったの?」
成田で一度別れてから、三日後の今朝、JR品川駅の新幹線改札口で再びロジャーと合流したのだ。
「ええ、おかげさまで。とある国際会議の取材だったんですが、昨夜、会社に原稿と写真を送りました。ほら、これですよ」
そう言って、タブレットでインターネット版の記事を見せてくれた。へえ、もう記事になっているんだ。あ、本当だ、名前が一番下に書いてある。へえ~、かっこいい。
「ですから、今日からは、楽しい休暇です。まあ、密着取材はしますけれど、せっかくだから日本を楽しみたいなって」
「そう。じゃあ、ここでは、何から話せばいい……」
「ああ~!」
突然、ロジャーが大声を上げたので、ユウと教授は面食らった。が、すぐに理由がわかった。日本晴れの真っ青な空の下、車窓に富士山が見えていたのだ。
ロジャーだけでなく、同じ車内にいた外国人たちは揃って、富士山の見える窓の方に駆け寄り、カメラを向けた。それを見て、日本人乗客たちは微笑みつつ、それぞれがスマートフォンを取り出してやはり写真を撮っていた。もちろんユウも一枚撮った。
「なんて雄大で素晴らしい姿なんだろう! それも、こうやって新幹線の中から簡単に見られるなんて!」
チューリヒからジュネーヴへ向かう特急からマッターホルンやユングフラウヨッホがついでのように見える事はない。ロジャーが旅をしたオーストラリアでも、エアーズロックことウルルに一番近い主要都市アリススプリングスまでは500キロあった。とても旅の途中に見る事の出来るものではなかった。
「冬の晴天だと、場所によっては東京からでも見えるのよ」
「ええっ。そうなんですか」
ロジャーが富士山の勇姿に興奮しているのとは対照的に、教授の方は、品川駅で一つに絞りきれずに三つ購入した駅弁の内、シュウマイ弁当にとりかかっていた。
「ところで、君のお父さんはグラウビュンデンの出身でフランス語圏で暮らしているのか? 珍しいな」
箸を休めることのないまま、教授はロジャーに話しかけた。
「ええ、その通りです。さすがですね」
ロジャーがそう答えたので、ユウは驚いて教授に訊いた。
「どうしてわかったんですか?」
「カパウルは典型的なロマンシュ語の苗字だからね。それなのにドイツ語の発音はロマンシュ語よりもフランス語訛りの方が強い。つまり、彼はフランス語圏で育ったと簡単に推測できるんだ」
ユウは感心した。スイスの言語事情というのは、なかなか複雑だ。公用語が四つあるが、誰もがすべてを理解できるわけではない。バーゼルはドイツ語圏だが、フランスとも国境を接している。英語、ドイツ語、フランス語を流暢に扱い、さらにはネイティヴでない限りは話せないロマンシュ語まで話せるスイス人というのは滅多にいないので、新聞社に勤めるにあたってロジャーは実に有利だろうと思った。
それに、この人なつこい笑顔もまた大きな武器になるだろう。ユウも、彼の与えられた課題にそこまで協力する必要はないだろうと思いつつ、この笑顔で質問されると、ついつい何でも答えたくなってしまう。
今日も既に、いろいろと聞き出されていた。
「そもそも、どうしてスイスに来ることになったんですか? スイスがお好きだったんですか?」
「いいえ、全然。スイスは、東京よりも寒そうだったから、全く興味がなかったのよね」
「じゃあ、どうして?」
「あ~、私、一人でアフリカ旅行をしたことがあるの。その時にたまたまスイス人の夫と知り合って。彼は日本には全く興味のないタイプでね。そういう人が日本に住むのは大変だし、仕事もないでしょ。だから、私がスイスに来るしかなかったわけ」
「アフリカ一人旅ですか。それまた思い切ったことをなさいましたね」
「まあね。大学で東洋史の専攻でエジプトやセネガルの民間伝承をちょっと齧ったりしたんで、その延長で」
「日本が恋しくなりませんか」
「う~ん。あまりならないですね」
「それはどうして? スイスの生活の方が合っているんですか」
「そうね。スイスの生活は嫌ではないわ。私、人に合わせるのがちょっと苦手なの。日本って国では、周りと合わせることはとても大切なのよね。もっとも、それが日本が恋しくならない理由ではないけれど」
「では、どんな理由があるのですか」
「日本のもの、情報が簡単に手に入るし、帰国するのもそんなに難しくないからかしら。私の曾々祖母は、ドイツ人で明治の初期に日本にお嫁に行ったのだけれど、生涯祖国に帰れなかったし、インターネットもテレビもなかったのよね。彼女に較べると、私はずっとお手軽な時代に異国に嫁いだと思うの」
「なるほどね」
そうやって、ロジャーの質問に答えている間に、教授は「幕の内弁当東海道」と「ヒレカツ弁当」も綺麗に平らげて、きちんと身支度を済ませてから、スイス製高級腕時計を眺めて厳かに宣言した。
「そろそろ京都につく頃だな」
既に、新幹線には二度乗っている教授は、新幹線の発着がスイス時計と同じくらい正確であることをさりげなくロジャーに示したのだ。
「え。もう? 500キロの距離をこの短時間で?」
「それが新幹線なのよ」
ユウは少しだけ自慢したくなった。
京都駅に着くと、教授は「約束の時間には、十分間に合いそうだ」と言った。
「約束の時間って、なんの?」
ロジャーが訊く。
「お昼ご飯っていう意味よ」
ユウが囁く。駅弁を三つ食べたあとなのに? ロジャーの顔に表れた疑問は、二人には黙殺された。
連れて行かれた先は、龍泉寺。お寺だ。レストランに行くんじゃないのか? ロジャーは首を傾げた。
入口で作務衣を来た若者に、ユウが約束があることを告げると、「伺っております」と言って奥へと消えた。そして、すぐに小柄な老僧侶が出てきた。黒い着物に紫の袈裟を身につけている。白い眉毛が長く、目が細いので、ロジャーは昔みた香港映画の仙人を思い出した。もちろん仙人と違って、その老人はワイヤーワークでいきなり空を飛んだりはしないようだったが。
「ようこそおいでくださった。おひさしぶりでございますな、ヒルシュベルガー先生。それに八少女さんも」
深々とお辞儀をすると、ユウは教授に住職の言葉を訳した。教授は、礼儀正しく彼に手を差し伸べた。
「ご無沙汰いたしております。チューリヒでのワークショップで素晴らしい講演をしていただいて以来ですね。またお目にかかれてこれほど嬉しいことはありません。いつかこちらへお邪魔させていただくという約束をようやく果たせました」
ユウは、教授の言葉を訳した後に、続けてロジャーを示して言った。
「ご紹介させてください。こちらは、バーゼルで新聞記者をなさっているロジャー・カパウルさんです。休暇を利用して、私に密着取材をしながら、日本という国を知ろうとなさっているのです。私のような日本にも外国にも属さないコウモリのような日本人を取材しているだけでは、日本の本質からはほど遠いので、ぜひ和尚さまから禅を通して日本のことをお教え頂けないかと思い連れてまいりました」
ユウの言葉に、和尚は細い目をさらに細めて笑った。
「ほ、ほ、ほ。仏の道には日本も外国もございません。禅の教えは誰もが知っている至極簡単なものでございます。己の内と向き合い、まっさらな心で、穏やかに生きる。たとえば、そろそろお昼で、お腹がすきましたでしょう。どうぞお上がりください」
ユウに訳されて、ヒルシュベルガー教授は、至極もっともだと言わんばかりに頷いた。ロジャーは、老僧の言葉に既に深い感銘を憶えたようで、目が輝いていた。
「はい。お邪魔いたします」
住職に案内されて三人は、奥の広間に向かった。そこは天井に見事な龍が描かれいる書院造の間で、四人分の膳が用意されていた。ロジャーは、キョロキョロと珍しそうに見回していたが、教授はわずかに咳払いをしてさっさと座るように促した。
始終にこやかな住職は、言った。
「難しいことはございません。一度の食事をすることでも、禅と日本に受け継がれてきた心のあり方を知ることが出来ましょう。本日は、私どもが通常食べる、飯、汁、香菜、平、膳皿、坪の一汁三菜に加えて、もてなしの心を込めて、猪口、中皿、箸洗代わり、麺を加えた二汁五菜の献立を用意させていただきました」
既にユウは全てを訳すことが出来なくなって適度に端折っているが、訳せたとしてもロジャーには全て憶えられたとは思えないのでいいことにした。
「これは美味しい。ベジタリアン料理というのがこれほど美味しいものだとは思いませんでした」
教授は感嘆した。
「そう。精進料理は、誤解されています。修行のために、美味しいものを諦めて不味さを我慢する食事というように。しかし、その考え方は禅の教えとはかけ離れています。いま目の前にある食材に手間をかけ、その持ち味を活かすように心を込めて調理する。そして、一度しかないこの食事に感謝しながらいただく。不味くなどなるはずがないのです」
「この胡麻和えも美味しいですね。胡桃に、胡瓜、椎茸、さくらんぼ、それにキウイも入っているんですね」
ユウの言葉に住職は頷く。
「
「これは……プリンみたいですね」
でも、甘くない? ロジャーが首を傾げる。
「これは胡麻豆腐です。炒り胡麻、水、片栗粉で作ります。材料はこれだけですが、胡麻をここまで滑らかにするまでに半刻ほどかかります。雑念を捨て、一心に胡麻をすりあげる調理方法が禅の考えそのものと通じるので『精進料理の華』と呼ばれています。だし醤油、木の芽、わさびと味付けもシンプルですが、その僅かな香りと辛みが持ち味を活かしておりますでしょう」
香りの高い枝豆入り梅おこわ、夏野菜の天麩羅、ご汁風けんちん、メカブの酢の物、手打ちの蕎麦など、どれも美味しくて飽きがこなかった。肉が大好きな教授も、ジャパンな舞台に圧倒されているロジャーもその食事に夢中になった。
「
「そう。食事を大切にすることは、禅の心に適っているということだな」
厳かにヒルシュベルガー教授が宣言する。ユウは、まあ、そういわれればそうだけれど、あなたの場合は少し極端では……と思ったが、この素晴らしい精進料理と住職の禅の手ほどきを受けて感動の渦の中にいるロジャーのためにも、この場では黙っておこうと思った。
素晴らしいもてなしと、禅の心に感動し、すっかりお腹もいっぱいになったので、礼を言って退出しようとしたが、三人とも足がしびれて立てなくなるというみっともない経験をすることになった。給仕をしてくれた、あの作務衣の修行僧が、必死で笑いを堪えていた。
神戸で、三人を待っていてくれるのは、黒磯榛名という青年らしかった。
「どうやって、そうやって次から次へと日本在住の日本人と知り合いになるんですか?」
ユウが訊くと、ヒルシュベルガー教授は澄まして答えた。
「昔、香港で仲良くなった友人の子息だよ。友人はヴィンデミアトリックス家の執事をしていてね。今日は残念ながら時間が取れないので、かわりにハルナ君が迎えにきてくれて案内もしてくれるというんだ。悪い話じゃないだろう?」
「え? ヴィンデミアトリックス家って、あの有名な?」
ロジャーがぎょっとした。
「知っているの?」
ユウが訊くと、ロジャーはもちろんと言わんばかりに頷いた。
「というわけで、明日はおそらくヴィンデミアトリックス家も認める最高の味のレストランで神戸ビーフを食べることになるから、今日は対極な庶民の味に案内してもらうことになっているのだ」
教授が真面目な顔で言う。
また食べ物の話か。ユウは思ったが聞き流した。ここ数日の間で、彼の行動パターンを理解したロジャーもあっさりと受け流した。
京都での二泊旅行を堪能した後、三人は再び新幹線に乗って新神戸へと向かった。京都駅からわずか30分、京都駅に較べると簡素な印象の駅だが、新幹線の発着のためだけの駅なのでホームも上りと下りの二つだけであっさりしているのも当然だった。駅に直結しているホテルに泊る事になっているので、荷物を持たずに神戸の街に行けるのもありがたかった。
無事にチェックインをしてひと息ついた後に、ユウの部屋にフロントから電話があり、黒磯青年がやってきたことがわかった。ユウは、教授とロジャーの部屋に電話をして、エレベータの前で待ち合わせをし、一緒にフロントへと降りて行った。
フロントで待っていたのは、手足が長くすらっとした細身の青年だった。少し長めの黒髪、とても白い肌、そして大きな瞳が印象的だ。
「はじめまして。ようこそ、神戸へ。黒磯榛名です」
「お忙しいのに、ありがとうございます。八少女 夕です。こちらが、クリストフ・ヒルシュベルガー教授。そして、バーゼル在住の新聞記者で、ロジャー・カパウルさんです。今日は、どうぞよろしくお願いします。榛名さんは、ネイティヴではない外国人の話す英語はわかりますか?」
「簡単な英語でしたら。難しくなったら通訳をお願いできますか」
「わかりました。というわけで、これからはドイツ語じゃなくて、英語でよろしくお願いします」
ユウは二人のスイス人に宣言した。
二人のドイツ語を日本語に訳しつつ、日本語をドイツ語に訳すのは大変なのだ。日本人は、スイス人の話すぐらいの英語は大抵聴き取れるので、スイス人に英語で話してもらえれば、日本人が上手く表現できない言葉を英語やドイツ語に訳すだけで済み、ずっと楽になる。
「庶民的な神戸の味にご案内するようにと父から言われているのですが、地下鉄に乗って移動するのは問題ないですか?」
「もちろん」
「そうですか。では西神・山手線に乗って新長田駅までいって、そこから少し歩きます」
地下鉄に乗っている時から、ロジャーは少し不思議な顔をしていたが、新長田駅について歩き出してから、榛名に質問をした。
「京都で見た街並と比較すると、何もかもが新しいように見えますが、ここは新開発地域なのですか?」
榛名は、街並を見回して答えた。
「1995年に、とても大きい地震があって、この地域はとても大きい被害を受けたのです。この駅は全壊して、あの辺りは震災の後に起きた火災で一面の焼け野原になってしまったのです。いまご覧になっている新しい建物はそれ以降に再建されたものなのです」
「つい最近のことのように感じるが、あの大地震から二十年経っているのだな」
ヒルシュベルガー教授も周りを見回した。
阪神大震災のニュースのことを記憶している教授はもちろん、若いロジャーもコウベの地震については、知っていた。彼の住むバーゼルは地震がそれほど多くないスイスの中で、巨大地震によって街が全壊したという希有な歴史を持っている。1356年に起きたこの地震では、近隣30キロメートル以内の教会や城も倒壊するほどで、マグニチュード6.5であったといわれているが、7以上だったという研究すらある。
とはいえ、知っていて関心があるというのと、経験するのとでは大きな違いがあった。一行は、日本に到着してから、すでに二度は体感する大きさの地震にあっていたが、ロジャーは、ユウをはじめとして日本人たちがほとんど騒がないことにも強い印象を受けた。彼自身は地震や火山などの被害が考えにくい国に住んでいることをとても嬉しいと感じたからだ。
「もちろん、日本人だって、地震や、火山や、台風や、その他の自然災害にあわないことを願っているのよ。でも、いつ何か大きな自然災害が起こっても不思議はない、そういう感覚は誰もが持っていると思う。スイスにいるよりもずっと自然の驚異というものを身近に感じて暮らしているって氣がする」
ユウは、ロジャーに言った。榛名は、それに同意して頷いた。
「すっかりきれいになったのですね」
ユウは、榛名に言った。彼女は震災の数ヶ月後に、仕事のためにこの地域を訪れたことがある。震災直後ひどい状態ではなかったとはいえ、瓦礫が片付けられて何もなくなった街には、全てを失った虚しさが漂っていた。いま見る新長田は、その状態が嘘のように、きちんとした街になっていた。
「建物の再建や、地下鉄の再開などは、震災後に比較的早くに再開発が進んだらしいです。ですから、東日本大震災に較べると、街が綺麗になったのはとても早かったんですが、その後にテナントがなかなか決まらなかったり、人通りが震災前のレベルにはなかなか戻らないなど、未だに問題はたくさん残っているんです」
「そうなんですか。大変なんだな」
ロジャーは、言った。
榛名は、紺の暖簾に「お好み焼き」と白く染め抜かれた小さな店を指差しながら答えた。
「ええ、ですから僕は、三宮の繁華街にある店ではなくて、少し離れていてもこの店に来ようと思ったんです。こうやって、客を連れて来ることも、この地域の復興に少しでも役に立つかなと思って」
「お好み焼きとたこ焼きのお店ですか? 神戸なのに?」
ユウは不思議そうに榛名を見た。お好み焼きとたこ焼きと言うと、大阪名物という印象がある。榛名は笑った。
「この辺りは、日本でも有数のお好み焼きの激戦区です。だから美味いですよ。それに、この地域が発祥と言われる庶民の味があるんですよ」
あまり大きくない店内は茶色い木の壁、木の椅子に紺地の座布団とユウのイメージするお好み焼きやそのままのインテリアで、肉や醤油、ソースの焼ける香ばしい匂いに満ちていた。まだ昼前だが、座席はそこそこ埋まっていて、人氣店だというのがよくわかった。
「お、榛名君、いらっしゃい」
「こんにちは。今日は外国からのお客さん連れてきたんだ」
「それはそれは。その奥でいいかい?」
「黒磯さん、常連なんですね。予約はなさらなかったんですか?」
ユウが訊くと「ここは予約は受け付けない店なんですよ」と笑った。
彼は、生ビールを人数分頼んで、それから三人の全権を受けて食べ物を注文した。牛すじ肉とコンニャクを煮たぼっかけ入りのにくてん焼き、すじ焼き、貝焼き、だし汁に浸けて食べる明石焼、を注文してから「それにそばめしも」と言った。
「そばめし?」
一度も聞いたことのない名称に、ユウは訊き返した。
「ええ。そばめしです。これが長田発祥の庶民の味なんですよ」
「そばなんですか? それともご飯?」
「両方です。焼きそばとご飯を一緒に焼き付けたものです」
「ええっ?」
説明を訊いたヒルシュベルガー教授は、ユウにちくりと言った。
「君は、日本人は炭水化物を二つ一緒に食べるのは好きではないと言っていたね」
「う。それって嘘じゃないですよ。そんな組み合わせ、はじめて聞きました」
ユウが言うと、榛名は笑った。
「関東の方は、そばめしをご存じなくて、最初はそういう反応を示される方が多いですよ。騙されたと思って食べてみてください」
ロジャーはもちろん、ヒルシュベルガー教授もお好み焼きを食べるのは生まれてはじめてだった。
「これは?」
「スイスで言うオムレツみたいなもの」
ユウは答えた。
ドイツ語圏のスイスでは、オムレツというのは日本でいうオムレツとは違って、どちらかというとパンケーキに近く、ハムやチーズと一緒に食べる。卵と小麦粉の生地を円形に焼くというところは、似ている。
ユウは東京ではわざと、お好み焼きやもんじゃ焼きの店に教授を連れて行かなかった。もんじゃ焼きのどろっとした感じには、西洋人は抵抗があるだろうし、関西と違って店によって味のレベルに当たり外れがありすぎるからだ。
出てきたにくてん焼きをひと口食べて、その判断は正解だったと思った。これだけの味を東京で探すのはかなり難しかっただろう。すじ肉の味がじわっと来る。スイスのぼんやりとした肉の味とは大違いだ。はじめて見る不思議な食べ物に戸惑っていた二人のスイス人も、ひと口食べて以降の箸を動かすスピードが倍増した。
「うっわ~、おいしいですね」
そして、そばめしが出てきた。ご飯と細切れになった焼きそばが一緒くたになっている。こんな料理あり? 目を丸くするユウだったが、榛名の微笑みに促されてひと口食べてびっくりした。焼きそばと、焼き飯のおいしいところを一つにした料理と言うが、二つ合わさると倍ではなくもっと美味しくなるらしい。それに、ぎっしりと入ったすじ肉、それにお焦げの風味が絶妙だ。
「ここのそばめしは、油を一切使わないで、強火で仕上げるんです。自宅でやりたくてもちょっと出来ない味なんですよ。どうですか」
「……美味しい」
「炭水化物、二つだがね」
勝ち誇ったように教授は言い、彼女の目の前のそばめしを一瞬で全てかすめ取った。
「ちょっと、先生! 大人げないですよ」
二人の子供っぽい争いを見て、ロジャーと榛名は大笑いした。
「それで、日本のことはわかった?」
神戸に三日滞在した後、ユウは、帰りの新幹線の中でタブレットに忙しく何かを打ち込んでいるロジャーに訊いた。
彼は、しばらく考えていたが、やがて言った。
「まだ、まとまりませんね。歴史を感じる伝統の様式美、あちこちで見かけるキッチュな風物、この新幹線のような完璧なテクノロジーや、行き届いたサービスのこと、経済の仕組みのこと、震災のこと、それにあの和尚さんやハルナ、クロイソ氏、それにヴィンデミアトリックスの皆さんのホスピタリティなど、取り上げるテーマが多岐にわたっていて、印象もまちまちなんです。そもそもユウ、あなたのことも知れば知るほどわからなくなります」
「どうして?」
「日本と同じですよ。シンプルのようでいて、奥深い。私たちと似ているようで、想像を絶する違いもある。いろいろなものを受けとめる柔軟な成熟さがあるかと思えば、信じられないほど子供っぽい。これをレポートにしてクロンカイト氏に提出したら、結局何が言いたいんだと怒られそうです」
ユウは肩をすくめてから教授に訊いた。
「日本って、そんなにわかりにくいですか、先生?」
ヒルシュベルガー教授は、「神戸牛すきやき弁当」とおにぎりや沢山のおかずを楽しめる「六甲山縦走弁当」を食べ終え、壺に入った「ひっぱりだこ飯」に取りかかっているところだった。
「そんなことはない、大変わかりやすいよ。庶民的な味も、身代が傾くような高級料理店の味も、それぞれ違っていても、実に美味い。日本とは、そういう国だ」
「……。もう少し格調高くまとめられないんですか」
「そんな必要がどこにあるかね。どんなものでも、心を込めて大事に調理し、それを一人一人が美味しく食べる。それこそが禅の真髄だと、龍泉寺の和尚も言っていたではないか」
あれってそういう意味だったっけ、と首を傾げるユウとは対照的に、教授の言葉に深く感銘を受けたロジャーは、タブレットを鞄にしまい、側を通った車内販売の係員からビールと駅弁を買って食べだした。
ユウは、クロンカイト氏が読まされるレポートの内容を想像して、「氣の毒に」と小さくため息をついた。
(初出:2015年7月 書き下ろし)
注釈
- カンポ・ルドゥンツ村は、グラウビュンデン州にあるということになっている架空の村。リアル八少女 夕在住の村がモデルで、ここを舞台にした小説がたくさんある。
- この秘書というのは高橋月子さんが書いてくださった掌編の設定で、チューリヒ在住の生理学の権威クリストフ・ヒルシュベルガー教授はもちろんフィクション。リアル八少女 夕の職業はプログラマー。
- 高橋月子さんの書いてくれた小説の設定では、作家ヤオトメ・ユウの小説「夜のサーカス」は出版されていることになっているが、リアル八少女 夕の本は出版されていない。あたり前。
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オリキャラバトンをまたしても……
「オリキャラバトン (30問)」
- Q1 このバトンを回す人を指定してください。
- えっ。いきなり、それ? いつも通り、反応してくださる皆様、お願いします。
- Q2 自分の書いている小説やマンガなどのキャラクターを1挙げて下さい。
- また蝶子を選ぶと思ったでしょう。違うんだな。ヤオトメ・ユウにしておきます。
作者と同じ名前で、設定にもかなり同じところがあるんですけれど、完全なフィクションキャラです。私小説キャラは「絵梨」といって全く別にいます。ユウは、かならずクリストフ・ヒルシュベルガー教授と一緒に出てきます。 - Q3 Q2で挙げた人物の中には、いくつの物語が混じっていますか?また、何と言う物語ですか?
- これまでに4つ書いています。「教授の羨む優雅な午後」「ヨコハマの奇妙な午後」「パリ、イス、ウィーン、ニライカナイ、北海道、そして」「君を知ろう、日本を知ろう」(今週発表予定)
- Q4 自分として気に入っているキャラを3人まで挙げてください。
- レオポルド from 「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」
カルロス from 「大道芸人たち Artistas callejeros」
ニコラ(俺様ネコ) from 「タンスの上の俺様」「午睡から醒めて」「ホワイトデーのご相伴」
三人とも、深刻な状況になったり、ぐるぐる悩んだりする事のないタイプですね。主人公だと、読者をイライラさせるほどしょうもないことで嵌まっていたりする事も多く、それが書いているテーマに直結するからそうじゃなくちゃいけないんですけれど、そういうタイプが好きなのかと言われるとそうでもないんです。上の三人(っていうか二人と一匹)みたいな方が好きですよ、もちろん。 - Q5 思い入れのあるキャラクターは誰ですか?
- う。一人選ぶんですか。それは難しい。量産はしていても、それなりにそれぞれ思い入れはあるんです。でも、反対に「これだけは特別!」ってキャラがいないのかも。
- Q6 名づけに苦労したキャラクターとかいますか?
- 高橋瑠水 from 「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」
「瑠璃」と「ゆり」前作のヒロインをひきついで「るみ」という音はすぐに決まったんだけれど、漢字で悩んだのです。平仮名だと地の文に紛れるので漢字にしたかったのだけれど「留美」とか合わないと思ったので。最終的に自分の中では「瑠水」が一番ぴったりしたのだけれど、今度は読めないのではとぐるぐるしました。 - Q7 友達にしたいキャラクターは誰ですか?またその理由は?
- 安田稔 from 「大道芸人たち Artistas callejeros」。
明るくて面倒見がよく、人の苦しみもわかるから - Q8 恋人にしてもいいと思えるキャラクターは誰ですか?またその理由は?
- うう~ん。みんなクセがあってね……。一番は新堂朗(「樋水龍神縁起」)だけれど、それはあっちがお断りだろうし。その他の長編の主役はみんなこじれているしなあ。あ、朗もこじれているか。稔は、悪くないけれど、それこそ固くお断りされるな。可愛いタイプが好きなんですって。
- Q9 逆に、この二人をくっつけたらいい組み合わせだと思うのはありますか?
- 逆にもへったくれもないけれど、23とマイア 「Infante 323 黄金の枷」
だって、この二人ってお互いに特別だと思っているけれど、そういう風に思ってくれる人は他に居なさそう。「蓼食う虫も好き好き」って感じ? - Q10 皆で無人島に流れ着きました。最後まで生き残ってそうなのは誰でしょう?
- マイケル・ハースト(傭兵) from 「ヴァルキュリアの恋人たち」
脳みそまで筋肉で出来ているタイプです。某国の外人部隊に居て、壊れなかったくらいだし、無人島くらい何ともないかなと。あ、たぶん他のところの皆さんみたいに他人想いじゃないんで、その他の人たちを助けたり弔ったりしなさそう。 - Q11 【男子キャラのみ】バレンタインデー、チョコが多そうなのを3人挙げてください。
- 結城拓人(ピアニスト) from 「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」「大道芸人たち Artistas callejeros」
新堂朗(百貨店の人事部→禰宜) from 「樋水龍神縁起」
戸田雪彦(ハリウッドの俳優) from 「ヴァルキュリアの恋人たち」
ヴァレンタインにチョコもらったりするのって、現代以降の日本人だけですよね。そういうのを除外して、しかも「読者から」という形にしたら、レオポルドはいいところに来そうだけれど。 - Q12 【女子キャラのみ】いい奥さんになってそうなのは?
- 林かのん from 「あの子がくれた春の味」
お姫様キャラだったはずなのに、何故か農家の長男と結婚して、うまくいっているらしい。 - Q13 頭が良いのは誰ですか?
- アダシノ・キエ from 「終焉の予感」
頭がいいというのとは違うかもしれないけれど、暗号解読のできる尋常でないサヴァンです。 - Q14 では、逆に勉強出来ないのは?
- マリア=フェリシア姫 from 「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」
できないんだ、本当に。大国の次期女王なんだけれど。なんとかしようとも思っていないし。 - Q15 運動神経が良いのは誰ですか?
- マッテオ from 「夜のサーカス」
サーカスの面々はみんな運動神経いいと思うけれど、この人は体操の世界選手権でイタリア代表までいった人だから。 - Q16 では、逆に運動できないのは?
- 麻衣 from 「北斗七星に願いをこめて」
どんくさいタイプとして設定した女の子です。まあ、私の投影かな……。あ、現実の私には、あそこまで氣にしてくれる澄ちゃんみたいな女友達も、星野君みたいな都合のいい男友達も居なかったけれど。 - Q17 魔法使えちゃうんじゃないかっていうキャラクターは?
ファンタジー物語の場合は、魔力が一番強いキャラクターを挙げてください。 - 使えないに決まっているけれど、賢者ディミトリオス from 「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」
ほら、白髪で白い髭、長衣を着ているってだけで、魔法使えそうにみえるでしょ。
本当に使える(?)キャラも居ます。アロイージア(下にリンクあり)。もっとも正確には魔法じゃなくてポルター・ガイスト。幽霊だから。 - Q18 一番のお洒落さんは誰でしょうか。
- 広瀬(高橋)摩利子 from 「樋水龍神縁起」
この人も、読者受けからすると「明らかにヒロインを食ったキャラ」(私のところ、ほんとうにそんなのばっかり)でして、女性としてはお氣にいりキャラのひとり。でも、服がお洒落でステキなのかというとそっちではなくて、何にも妥協しないで極めちゃう性格のために、服装もお洒落になってしまった人かも。とにかく(ヒロインと反対で)ポジティヴの権化みたいな人でした。 - Q19 チキンなのは誰でしょうか。
- レネ・ロウレンヴィル from 「大道芸人たち Artistas callejeros」
でも、意外とみんなに愛されるレネなんだよなあ。 - Q20 逆に、大胆不敵で無鉄砲なのは誰でしょうか。
- リナ・グレーディク from 「リナ姉ちゃんのいた頃」
何をやるのかわからない爆弾娘。 - Q21 こんな容姿になりたい!というキャラクターはいますか?
- アレッサンドラ・ダンジェロ from 「ファインダーの向こうに」
まだ発表していない作品のサブキャラですが、「世界で最も稼ぐ五人のスーパーモデル」のうちの一人という設定で、モデルはジゼル・ブンチェン。そんな容姿になって何がしたいのかというような野望はない。っていうか、あんなに綺麗だと、それはそれで大変かも。 - Q22 貴方は学校に遅刻しそうです。あまりに間に合いそうにないので、食パンをくわえて走っています。曲がり角で誰かとぶつかりました。倒れこんだそこに、「大丈夫ですか?」と手を差し伸べてきました。
さて、誰ですか? - 団長ロマーノ from 「夜のサーカス」
妖しさ全開で、学校に行く氣、完全にそがれます。 - Q23 皆でバスに乗ってます。全員着席していて、もう席は空いていません。そこへ、明らかに腰の悪そうなおばあさんが乗ってきました。
真っ先に席を譲るのは誰でしょう? - 白石千絵 from 「君との約束 — 北海道へ行こう」
親切キャラの看護師です。 - Q24 お兄さん、お姉さん、妹、弟、お父さん、お母さんにしたいのは誰ですか?
兄:《ふざけたエステバン》ことエステバン・ペドロ・モントーヤ from 「夜想曲」
姉:涼子 from 「いつかは寄ってね」
弟:遊佐三貴 from 「リナ姉ちゃんのいた頃」
妹:リゼロッテ from 「リゼロッテと村の四季」
父:藤堂喬司 from 「おまえの存在」
母:《黄金の貴婦人》こと王妹マリー=ルイーゼ from 「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」
訊かれていないけれど、「こんな家族は嫌だ」で選ぶと
兄:24 from 「Infante 323 黄金の枷」。シリアスに嫌な理由もあるけれど、それだけでなく、何がいいたいのかさっぱりわからない詩を延々と朗誦し続ける困ったお方。
姉:リナ・グレーディク。振り回され続ける予感がするから。
弟:ニコラ(俺様ネコ)。下手な弟より、猫の方が可愛いとlimeさんのコメで書いてきたけれど、猫もいろいろで。
妹:マリア=フェリシア姫。性格悪すぎるし。
父:団長ロマーノ。怪しすぎるから。
母:莉絵 from 「午睡から醒めて」。ニコラ(俺様ネコ)の飼い主。もと病弱で可憐な少女ハッカーだったが、夫の文字通り献身的な愛でほぼ健康になった後は、テレビの前で五食昼寝付き専業主婦ライフを満喫。横に激しく成長中。馬車馬のごとく働かせている夫の心臓を狙っているという噂もある。- Q25 将来、グレてそうなのは?
- 各務彩花 from 「樹氷に鳴り響く聖譚曲(オラトリオ)」
って、名前しか出てきていない子だけれど、父親が浮氣している。しかも、まだ書いていないけれど、後にその浮氣相手に預けられる。私ならグレるな。 - Q26 ドラえもんに助けられてそうなのは?
- これはちょっと浮かばない。そんなのいましたっけ、うち。
- Q27 メイド服とか似合ってそうなのっている?
- マイア。メイドだし!
- Q28 「おはよう、起きて、早くしないと遅刻だよ!」
枕元で誰かがささやいてます。誰でしょう? - アロイージア(古城つきの幽霊) from 「ピアチェンツァ、古城の幽霊」
ただし、優しく起こしてあげるのは、マウリッツィオのみ。それ以外はポルターガイストで容赦なくたたき起す。さくっと起きないと、中世の甲冑、槍、斧などが降ってきます。ご注意ください。 - Q29 屋上からダイビングしても生きてそうなのは誰ですか?
- ヴィクトール・ベンソン from 「終焉の予感 — ニライカナイ」
世界の終焉も救えそうと期待される男。サバイバルタイプかなと。 - Q30 お疲れ様でした!最後に、それぞれのキャラに一言どうぞ!
- え? 全部に? 無理だよね。こんなにいるもの。ええと、みなさん、華やかなシーンが少なくてすみません。そういう小説を書くタイプじゃないんで……
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【小説】リゼロッテと村の四季(1)紫陽花いろの雨
(イラスト)雨の精はきっとロマンチスト★
本当は、limeさんのイラストにつけるとっても小さい話のはずだったんですが。なぜかどんどん設定が進んでいってしまい、現在登場人物リストに20人以上いる、長い話になってしまいそうな予感。もちろん、いますぐ連載をはじめたりはしません。本当のさわりだけです。「リナ姉ちゃんのいた頃」と同じように、不定期に時々書いていこうかなと思っています。どっちもスイスのカンポ・ルドゥンツ村の話ですが、あちらは現代の話、こちらは20世紀初頭、第一次世界大戦くらいまでの時期をイメージして書いています。
それに、これ子供の話なんですが。来月のアルファポリスの大賞に出す予定はありません。たぶん、最終的には全く児童文学とは関係のない話になりそうなんで。
リゼロッテと村の四季
(1)紫陽花いろの雨
涙雨のようだった。リゼロッテは、項垂れて庭の片隅へと向かった。彼女の細くて長い焦げ茶色の髪も、それを飾っている明るい茶色のサテンリボンも、しっとりと雨に濡れていた。ヘーファーマイアー嬢がオルタンスやグラッシィの話を好きでないのは知っていた。でも……。
「ええ。ハイトマンさん。こんなことを言うのは氣が引けるんですけれど、お嬢さんの体だけではなくて、一度、脳の方もお医者さんに診ていただいた方が……」
「なぜそんな事を言うのかね。あの子は、引っ込み思案ではあるが、至極まともに話をするではないか」
「ええ。でも、ご存知ではないでしょう。お嬢さんは、ガラス玉の妖精や、花の上の小さい娘さんと話ができるなんていうんですよ。もう二十世紀になったというのに!」
書斎で話をする父と、リゼロッテの教育を任されている家庭教師の会話を耳に挟んでしまったのは偶然だった。
「なに、あの子はふざけているだけだろう。でも、くだらないことは言わないように、言っておかねばならないな。人に信用されなくなるような言動は慎まないと。そういえば、あの子の母親も虚言癖があった」
父親は忌々しげに呟いた。
「そうでなくても、この辺りは無知蒙昧な野生の山羊と変わらない人たちが住んでいるんですもの。ほっておいたら、どんな迷信を吹き込まれるかわかりませんわ。つい先日まで、魔女狩りをしていたって話、聞きましたか? お嬢さんのお体が十分によくなられたら、一日も早くデュッセルドルフに戻るべきですわ」
「そうかもしれないな」
虚言……。花の上に妖精が住んでいると絵本を読みながら語ってくれたのは、リゼロッテの母親だった。国でまだ数人目の女医として、とても忙しく働いていたけれど、一日の終わりには、リゼロッテのベッドに来て抱きしめてくれた。
「あいつは、お前を捨てて、男とともにアメリカに行ってしまったのだ。もうお母さんのことは忘れなさい」
ある日、父親に突然言われた。それからリゼロッテには、絵本を読んでくれる人はいなくなった。
ある時、突然このスイスのカンポ・ルドゥンツ村に連れてこられた。リゼロッテの虚弱体質を改善するためだと言って。デュッセルドルフの屋敷よりも部屋数は少ないけれど、庭が広くて太陽の燦々と降り注ぐ、美しい家だ。
庭の一番奥に、紫陽花が植えてあって、夏のはじめになると、リゼロッテの顔ほどもある青い花を咲かせる。彼女は、その花に、美しい花の妖精がいるのではないかと思った。母親が読み聞かせてくれた絵本の中に沢山飛んでいたように。
そんなリゼロッテに、そっと話しかけてくれたのが、オルタンスだった。
艶やかな青い髪を持った、優しい妖精。リゼロッテは、いつだったか確かに彼女の声を聴いたと思った。姿もわずかな時間だけは見かけたように思う。
「なんて心地いい雨なんでしょう。リゼロッテ、あなたも一緒に水浴びしましょうよ」
でも、お母さんは、私に嘘を言っていたの? そして、私が、オルタンスと友達なのは、嘘つきの子供だからなの? オルタンス、あなたは本当にいるの? 答えてよ。
「オルタンスって誰だよ?」
突然生け垣から声がしたので、リゼロッテは飛び上がった。
声のした方を見ると、生け垣から、薄汚れた服を着た少年が顔を出していた。ごわごわの短い髪が乱れている。太い眉と、大きめの目が印象的な子だ。
「あなた、誰?」
「俺? ジオンって言うんだ。あっちの先の酪農場に住んでいる。あんたは?」
「私は、リゼロッテ。リゼロッテ・ハイトマンよ」
「ああ、《金持ちのシュヴァブ》のお嬢様ってのは、あんたか。確かにいい服着てるよな」
リゼロッテは、そんな不躾な事を言われたのははじめてだったので、面食らった。そもそも、彼女は子供と話をしたことがほとんどなかった。兄妹がいない上に、体が弱くて学校に行ったことがないので、子供と知り合う機会がほとんどなかったのだ。
とくに、この村に来てからは、子供と知り合う機会がなかった。ヨハンナ・ヘーファーマイアーは、この地方の方言を毛嫌いしており、お嬢様にそんなクセがついたら大変だと思っていたからだ。リゼロッテが館の外に出るのは、日曜日の礼拝のときだけで、しかもわざと、村の人びとのほとんどやってこない早朝にだった。
「それで、なんで泣いているんだ? オルタンスって誰?」
ジオンは、大きな瞳を見開いて訊いた。聴き取りにくい方言だけれど、その様子には、馬鹿にしたり、意地悪を言っている様子はなかったし、ヘーファーマイアー嬢のように眉をしかめてもいなかったので、リゼロッテは躊躇しながら答えた。
「……友達。紫陽花に住んでいる水色の女の子。でも、本当はそんな子、いないのかもしれないって思ったら悲しくなってしまって……」
ジオンは、首を傾げた。
「今は、いないだけかもしれないだろ? そういうヤツらは、いろいろと忙しいんだぜ」
「そうなの?」
「そうさ。クリスマスに、赤ちゃんキリストが来る(注1)って言うじゃないか。でも、全部の家に行くんだから忙しくて、だから、一度だって出くわしたことないだろう?」
「あ」
そういえば、「赤ちゃんのキリストがクリスマスに来る」というのは、母親だけでなく、父親もヘーファーマイアー嬢も口にしていた。だったら、オルタンスだって、やっぱりいるのかもしれない。
リゼロッテは泣くのをやめた。けれど、やはりどこか寂しそうな微笑みを見せた。紫陽花いろの雨がしっとりと二人に降り注ぐ。ジオンは、少し考えてからポケットに手をやった。
「そのオルタンスがいないと、寂しくて泣いちゃうなら、代わりにすごくいいものを置いていってやるよ。さっき見つけたんだ。雨じゃないと出てこないんだ。俺だって滅多に見たことのない、宝石みたいに綺麗な上物だぜ」
宝石みたい? リゼロッテは、薄汚れた少年から、そんな言葉が出てくるとは思わなかったので、目をみはった。彼は、ポケットから小さなブリキの缶を出した。そして、そっと蓋に手をやると言った。
「よし、手を出せ。氣をつけろよ。すぐ行っちまうから」
なにが? そう訝りながらも素直に出したリゼロッテの手のひらの上に、彼はそっと缶を逆さにした。冷たい感触がぴくっと触れた。鮮やかな、つややかな緑色。
それから、リゼロッテはびっくりして叫んだ。
「きゃーーーっ!」
その声に驚愕して、逃げ去ったのは、手のひらの上に置かれた小さなあまがえるだけではなくて、繁みから顔を出していたジオンもだった。
大騒ぎが起こって、すぐに探しにきたヘーファーマイアー嬢に館に連れて行かれたリゼロッテは、雨に濡れて風邪を引いたらどうするんだとか、粗野な村のこどもと話したりするからだとか、散々注意された。
父親は、あまりきつくは叱らなかったが、「妖精がいるというようなくだらないことを言ってはいけないよ」と諭した。
リゼロッテは、先ほどよりも、ずっと悲しい心持ちになっていた。
とても驚いて、叫んでしまったけれど、あのあまがえるは、そんなにきもちが悪かったわけではなかった。あのジオンという少年も、意地悪で蛙をくれたのではなくて、きっと本当にリゼロッテを慰めてくれるために自分の宝物を渡してくれたのだろう。それなのに、自分はすべてをめちゃくちゃにしてしまった。あの子には、嫌われてしまっただろう。
彼女は、部屋に戻ると、自分の宝箱の中を覗き込んだ。一度はいたと思った、もう一人の友達、ガラス玉おはじきの中に住む小さな女の子グラッシィもやはり姿を見せなかった。リゼロッテは、肩をふるわせて机に突っ伏した。
翌朝は、晴れ渡っていた。書き取りと、かけ算の課題が終わった後に、リゼロッテは庭にでることを許された。一番奥の紫陽花は、とても綺麗な青色で咲いていた。ジオンが首を突っ込んだために、その横の生け垣の下部がスカスカになっている。もう、来ないよね、きっと。リゼロッテは、悲しくその穴を眺めた。
ふと、濃いピンクの何かが目に留まった。屈んでみると、小さく束ねてあるアルペンローゼ(注2)だった。小さな紙がついていて、汚い字で「ごめん」とだけ書かれていた。しかも、綴りが間違っている。
リゼロッテは、ジオンからの贈り物を抱きしめた。紫陽花の青い花が風に揺れて話しかけた。
「よかったね! リゼロッテ!」
彼女は、今日は見えていない優しいオルタンスに微笑んで、アルペンローゼを抱きしめたまま、館へと戻っていった。
(初出:2015年7月 書き下ろし)
(注1)ドイツ語圏ヨーロッパでは、クリスマスにサンタクロース(サン・ニクラウス、来るのは12月6日)は来ない。25日の朝にやって来るのは生まれたばかりのキリスト。ただし、20世紀初頭のグラウビュンデン州では現在のようにクリスマスの朝、樅の木の下にプレゼントが用意されているという習慣は浸透していなかった。
(注2)アルペンローゼ(アルプスの薔薇という意味)はツツジ科の灌木でアルプスの高地に咲く。エーデルワイス、エンツィアンとともに「アルプス三大名花」と呼ばれている。
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リゼロッテと村の四季 あらすじと登場人物
ドイツ人の少女リゼロッテは、健康になるためにスイスの小さいカンポ・ルドゥンツ村にやってきた。彼女が、スイスの田舎で大人や仲間たちとの交流を通して、世界を理解していく様子を描く。
【登場人物】
(年齢は第一話時点のもの)
◆リゼロッテ(リロ)・ハイトマン(Liselotte Heitmann)11歳
紫がかった灰色の瞳。透き通るような白い肌にローズの唇。焦げ茶の長くて細い髪。ドイツで生まれたが病弱で医者に空氣のいいところで療養するように言われて、この村の館に住むことになった。
◆ジオン・カドゥフ(Gion Caduff)9歳
焦げ茶の瞳に、黒くて硬い髪。比較的短いが、ボサボサ。ずんぐりした体型で太い眉。農家の三男で薄汚れた服を着ている。勉強は苦手。
◆テオドール・ハイトマン(Theodor Heitmann)45歳
リゼロッテの父親。裕福な商人。医者の妻が、別の医者とアメリカに駆け落ちしたが、本人も忙しいのでリゼロッテの教育は使用人に任せっきりである。二ヶ月に一度くらい村に訪れ、リゼロッテと過ごす。女優のドロレス・ラングとつき合っている。スイスを田舎と馬鹿にしてTeodorと綴られるのを毛嫌いしている。
◆ハンス=ユルク・スピーザー(Hans-Jürg Spieser)13歳
村の子供たちのリーダー的存在。もの静かで優秀。ギムナジウムへの進学を勧められている。ブルネットで黒い瞳。背が高い。
◆ドーラ・カドゥフ(Dora Caduff)12歳
ジオンの姉。ちゃきちゃきしている。リゼロッテの面倒をよく見る。
◆マルク・モーザー(Marc Moser)12歳
小さい子供たちにつらくあたったり、ハンス=ユルクにつっかかる村の問題児。
[ハイトマン家の使用人たち]
◆ヨハンナ・ヘーファーマイアー(Johanna Höfermeyer)36歳
リゼロッテの家庭教師。
◆カロリーネ・エグリ(Caroline Egli)41歳
カンポ・ルドゥンツ村出身の家政婦。
◆ロルフ・エグリ(Rolf Egli)47歳
カロリーネの夫で、力仕事を請け負っている。
[カンポ・ルドゥンツ村の大人たち]
◆ヨーゼフ・チャルナー(Josef Tscharner)38歳
カンポ・ルドゥンツ村の牧師。
◆アナリース・チャルナー=スピーザー(Annalise Tscharner-Spieser)32歳
牧師夫人。ハンス=ユルクの叔母。
◆タニア・ギーシュ(Tania Gies)
美容師で豪快な姉さん。
◆パウル・モーザー(Paul Moser)
マルクの父親。イェーニッシュで村の鼻つまみ的存在。
◆マティアス&ベアトリス・カドゥフ
ジオンたちの両親。酪農家。ハイトマンのことを「金持ちのSchwab(シュヴァブ)」と言い放つ。
◆パウル・カドゥフ(Paul Caduff)18歳 & クルディン・カドゥフ(Curdin Caduff)17歳
ジオンたちの兄。
[カンポ・ルドゥンツ村の子供たち]
◆アネット・スピーザー(Anet Spieser)10歳
ハンス=ユルクの妹。おしゃま。
◆アドリアン・ブッフリ(Adrian Buchli)11歳
◆ルカ・ムッティ(Luca Mutti)8歳
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【小説】The 召還!
『異世界』でお願いしたいと思います。
(紗那さん)
ええと、お題は 『時間(または「時」に関連するものや、連想する何かなど)』
キャラは…もし可能であれば…こちらの世界の住人の誰か(人選、人数などは任意で…)を入れて頂けると…嬉しいです><;
(ふぉるてさん)
では、そうですねえ、お題というほどこだわらなくてもいいんですが、「植物」をどこかにいれてほしいな。
木でも草でも花でも。菌類でも(笑)←架空の植物でもいいです。
「ぼく夢」の博士が植物研究者ってことにちなんで。
そして、うちの玉城をどこかにちょろっと出してもらえたら、もうすごく喜びます^^
(limeさん)
このリクエストにお応えするために、「リナ姉ちゃんのいた頃」シリーズでおなじみのリナ・グレーディクと、彼女の友達でロンドン在住の東野恒樹をメインに据えました。そして無謀にも、異世界に無理矢理連れて行ってしまいました。
紗那さんの「まおー」からユーニス、ふぉるてさんの「ARCANA」からハゾルカドスとモンド、そしてlimeさんの「RIKU」から玉城(すべて敬意を持って敬称略)をお借りしています。
The 召還!
話が違う。東野恒樹は、ビッグベンの文字盤の長針にぶら下がりながら呟いた。
彼が、ロンドンに引越してきてから、一年以上が経つ。周りの日常会話が聴き取れるようになり、言いたいことの半分くらいは言えるようになった。友達もそれなりに出来た。
それなりでよかったはずが、友情を深める必要もない女と友達になってしまった。それが、この絶体絶命の一番の原因だ。
「おい! なんで俺がこんなアクションスターみたいな真似をしなくちゃいけないんだよっ! リナ!」
ロンドン名物、国会議事堂の時計塔であるビッグベンことエリザベス・タワーは、英国在住者であれば無料のツアーに参加することで登れることになっている。彼を訪ねてきたリナ・グレーディクはスイス人なので、無料ツアーには参加できない。それでも、どうしてもエリザベス・タワーに登るために、彼女は国会議員のなんとかさんと、ウェストミンスター寺院で主任なんとかをしているかんとかさんを動かした。恒樹とリナだけが、特別ツアーガイドのミスターXに引率されていく、というのも十分に怪しかったが、集合時間も尋常ではなかった。23時って、なんだよ。
暗闇の中、懐中電灯を頼りに階段を登っているのは、まるで泥棒ツアーみたいだったし、だいたい夜景以外何も見えなかった。謎のアジア系移民という趣のミスターXは、こっちの理解などおかまいなしに、ペラペラ喋りながらさっさと階段を登っていったが、こんな時にハイヒールのサンダルを履いてきたリナは、階段の隙間に踵が引っかかったとかで、あれこれ騒いだ。恒樹は、しかたなく戻った。
元々は美人とは言え、例のチェシャ猫みたいな口の大きい笑い顔が懐中電灯の光に浮かび上がって相当ブキミだった。「笑ってる場合じゃないだろ」とリナを引っ立てて、ミスターXの銭湯の中みたいに妙に響く声を追って登った。
それが、急に何も聞こえなくなった。
「あれっ? おい、俺たち、はぐれたのかもしれないぞ」
「そう? そこら辺にいるんじゃないの?」
「おいっ。そうやって勝手に動くなよっ。……って、わぁぁぁぁ」
急に足元が抜けたようになった。そして、氣がついたら、彼は世界で最も有名な時計の一つの長針にぶら下がっていた。
「きゃあっ。コーキ、大丈夫? ちょっと待って。そっちに行くから」
「おい、氣をつけろ。お前、そんなハイヒールで!」
「だって、靴脱ぐと、それはそれで危なさそうでしょ?」
こんな状況で、のんきなことを言うな! ともあれ、恒樹は文字盤の上のアーチの柱につかまりながら手を伸ばすリナに腕を伸ばした。二人とも必死で手を伸ばして、ようやく二人の手が届きそうになった時、リナのつかまっている柱にひびが入って少しだけ崩れ、彼女は支えを失った。
「え? きゃあああああ」
落っこちてきたリナの手を握っていた恒樹は、反動で長針から手を離してしまった。そのまま、二人は、真っ逆さまにビッグベンから、ロンドンの夜景へと落っこちていった。まるで007の映画みたいに。いや、こんな時に冗談言っている場合じゃないって。恒樹は、泣きそうになりながら考えた。どこだっていいから、ここでないところに居たいと。
「もうし、もうし……」
う~ん、なんだ? どこからか、間延びした声が聞こえてくる。恒樹は、そっと瞼を開いた。眩しかったので、すぐに一度閉じたが、その時に目にしたものがありえなかったので、額に手をかざしながら、もう一度怖々と瞼を開けた。
あ~、なんだこれは。一つ目。一つ目~?
恒樹はがばっと起き上がると、状況の確認をした。草むらに横たわっていた。周りは深い森というわけではないが、少なくともロンドンの国会議事堂の前にはないような緑豊かな場所だった。ただし、イギリスのどこにでもあるような、普通の控えめな植生ではなく、赤やピンクの派手な花があちこちに咲いている、妙にサイケデリックな森だった。だが、特に湿度が高いわけではなく、まるで大昔のチャチな映画セットみたいだ。
恒樹の横たわっていたすぐ側には、リナが横たわっている。氣絶ではない、俗にいう爆睡ってやつだ。百年の恋も醒めるような豪快な眠りっぷり。
そして、恐る恐る、先ほど見た珍妙なものを確認すべく、前に辛抱強く立っている男の顔を見た。鼻と、口と、その下の白いあご髭は普通だ。ただ、まん丸い目が一つだけ、真ん中についている。ありえん。とりあえず、俺の頭がどうかしちまったのか、確認するためにこいつを起こそう。
「おい、リナ! 起きろ!」
「うう~ん。眠いもん」
「寝ている場合じゃないって。お前、危機管理能力なさすぎ!」
「あん? うるさいなあ。睡眠不足は、美容の大敵……あれ? ここ、どこ?」
「知らん。なんか尋常じゃないことが起こったような……」
「ビッグベンから落ちたんじゃなかったっけ?」
「ああ、でも、天国にしちゃ、ここちょっと普通だぜ? それに、この人さ……」
リナは目をこすって、ようやく一つ目の男を見た。
「あれ?」
「おお、お目覚めかな。こんな所で二人で寝ているから、何かあったのかと思いましたんじゃ」
一つ目の男は、意外と親切らしい。
「あ~。あなた、誰?」
リナのヤツ、単刀直入だ、と恒樹は思った。一つ目の男は、笑顔を見せて言った。
「ユーニスというんじゃ。お前さんがたはどこから来たのかな」
「こんにちは、ユーニス。あたしはリナ。この人はコーキ。ちょっと前までロンドンにいたんだけれど、ここはどこかしら?」
「ここか。おそらくイースアイランドのどこかと思いますがの」
恒樹は、その語尾の自信のなさをとらえて詰め寄った。
「おそらくってなんだよ。確信はないのか?」
「十分ほど前に、魔王様と一緒にいたのは、間違いなくイースアイランドでしたからの。たまたま魔王様たちが視界に入っていないものの、まあ十中八九はまちがっていないかと」
「俺たちだって、少し前はロンドンにいたんだよ! そんな推論があてになるかよ」
リナは、まあまあと間に入った。
「別にイースアイランドとやらだって、不都合はないでしょ。そういうことにしておこうよ」
「リナ、お前なあ。現在位置がわかんなきゃ、帰り道だってわかんないだろ!」
リナは肩をすくめた。
「面白いから何でもいいじゃない。少し冒険していこうよ。これってイセカイショーカンってやつでしょ?」
「召還じゃねぇ! ただの迷子だろ」
リナは、恒樹の言葉をあっさり無視して、ユーニスの肩を馴れ馴れしく叩いた。
「じゃあ、とにかく一緒にこの森を出ない? うまく魔王様に出会えたら、私たちを送り返してって頼めばいいでしょ?」
「おっしゃることはもっともですの。では、行きましょうか」
歩き出そうとするユーニスとリナに向かって、恒樹は訊いた。
「そっちだって、確証はあんのか?」
リナは当然大きく首を振った。ユーニスは大きな一つ目をくるりと一回転させてから答えた。
「こちらから歩いてきましたからの。そのまま前方へ進もうかと」
「そうしたらもっと迷うだけじゃないのか?」
「じゃあ、あそこのお兄さんに訊いてみようよ」
リナが突然言った。お兄さん? ユーニスと恒樹は、怪訝な顔をしてリナの方を振り返った。リナが指差している先に、アマリリスに酷似している巨大な花が沢山咲いている異様に妖しい繁みがあり、そこから「痛って~」と頭を抱えながら、日本人とおぼしき男性が立ち上がっている所だった。

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「ったく、なんだよ。人の頭を思いっきり叩きやがって」
チェックのシャツを着たその青年は、屈んで何かを拾った。それは宝石が埋め込まれたかなり立派な杖のように見えた。
「大変失礼しました! あなた様の頭を叩くつもりは全くなかったのでございます!」
その声に、青年はぎょっとしたようだった。恒樹たち三人も、どこからその声が聞こえたのか周りを見回したが、他に人影はなかった。
「わたくしでございます。ここ、ここ」
青年は「わっ」と言って杖を投げ出した。
「っと。それはあまりに乱暴な!」
「つ、杖が喋った!」
これは面白いと、リナが走って青年と杖の所へと向かったので、恒樹とユーニスも巨大アマリリスの繁みへと急いだ。
「わたくしは、ハゾルカドスと申します。偉大なる魔法使いレイモンド・ディ・ナール様によって、このような特別の力を授かったものでございます」
杖がペラペラ喋るという状況には簡単に順応できない青年の代わりに、リナは杖を起こして訊いた。
「じゃ、あなたも魔法が使える?」
「え。いえ、魔法をお使いになるのはわがマスターでして……」
「そっか。じゃあ、その偉大なるご主人様を呼んでよ」
「はあ。で、でも、その……マスターはどうしてここにいないんだろう……それに、他の皆さんも、いったいどこに」
「なんだよ。魔法の杖も迷子かよ」
恒樹が呆れる。それから日本人に話しかけた。
「君、日本人だよな? 俺は東野恒樹、日本人。こっちは、リナ・グレーディク、スイス人。ロンドン観光中にどういうわけかこの謎の世界に飛ばされちまった様子。この一つ目のおっさんは、魔王様のお付きとやらでユーニスっていうんだってさ。で、君は?」
青年は、巨大アマリリスの繁みからようやく抜け出してくると、ぺこんと頭を下げた。
「玉城って言います。さっきまで熱を出して自宅で寝ていたはずなんですけれど、なんでこんな所にいるんだろう。ここ、ロンドンなんですか?」
「イースアイランドですじゃ!」
ユーニスが叫んだ。その横から杖のハゾルカドスが異議を唱えた。
「いいえ、ヴォールのはずです!」
「あ、どっちも証拠ないから信じなくていいと思う」
恒樹が宣言すると、それは全然慰めにならなかったらしく玉城は泣きそうな顔をした。
「いっぱい増えたけれど、あたしたち全員、役立たずの上に迷子ってこと?」
リナがのんびりと訊くと、ユーニスとハゾルカドスは揃ってため息をついた。
「ねえねえ。ここの花って、持ち帰ったりしてもいいのかな」
間延びしたリナの質問に、恒樹は首を傾げた。
「何をするつもりだよ」
「こんな大きいアマリリス見た事ないもの。持って帰って増やそうかなって」
「そういう無謀なことは、やめた方がよいの」
ユーニスがいうと、ハゾルカドスもカタカタ動いて同意した。
「ちょうどヴォールでは『ラシル・ジャルデミア』のご神木が500年に一度の花を咲かせているのです。何か特別なことが起こっているから、私どももこのような不可解なことの巻き込まれているのかもしれませぬ。この森の植物は、どれも奇妙ですから、触ったり抜いたりなどということはなさらない方が……」
リナは、こちらを向くと例のチェシャ猫のようなニッという笑いを見せて、右手を上げた。
「もう、抜いちゃった」
リナの右手に握られた巨大なアマリリスの下から、玉ねぎサイズの球根がブルブル震えて見えた。
「うわっ。こいつ、やっちまったよ」
恒樹が、後ずさるのと、球根が「ぎゃーーーー」とつんざく叫びをあげたのが同時だった。リナは、ぱっと手を離して、一目散に逃げだした。恒樹が続き、ユーニスも走り出した。
「お待ちください!」
杖のハゾルカドスは叫ぶと、腰を抜かして座り込んだ玉城の背中とシャツの間に飛び込んだ。玉城は、必死に立ち上がると、さっさとトンズラした三人を追った。
球根は走れなかったらしく、追ってこなかった。無事に逃げたとわかると、四人と杖は座り込んで息を整えた。
「お前さ、少し考えてから行動しろよ」
恒樹がいうと、ユーニスが同意した。
「とんでもないガールフレンドをお持ちですの」
「ちっ、違う! こいつは、俺のガールフレンドじゃない!」
「そんなに激しく否定しなくたっていいじゃない。ねぇ、タマキ? あ、これって、ファーストネーム?」
リナが訊くと、恒樹は「違うよな」と確認した。玉城は黙って首を振った。
「じゃあ、ファーストネームは、なんていうの?」
リナが訊いた。その途端、玉城は「わっ」と泣き出した。
「おい、お前、どうやらしちゃいけない質問をしたらしいぜ」
恒樹が言うと、リナは黙って肩をすくめた。
「それはそうと、無茶苦茶に走って逃げたので、さらに迷ってしまったようですの」
ユーニスが不安げに言った。先ほどよりも暗く、どうも森の奥に入ってしまったようだ。
「森の動物にでも案内してもらえるといいんだがな」
恒樹が腕を組んで考えているとハゾルカドスが、「あっ」と言った。
「なんですの。いい案でもありますかな」
「ええ。リスの知り合いがいるんです。モンドっていうんです。呼んでみましょうか」
そこで、四人と杖は、声を合わせて「リスのモンドさ~ん!」と呼んだ。恒樹と玉城は、「なんでこんな馬鹿げたことを」という思いを隠しきれなかったが、他に方法もなさそうなのでしかたなく一緒に叫んだ。
「あっしを呼んだでござんすか」
不意に足元から声がした。
「わぁっ!」
不意をつかれて恒樹が飛び上がった。ごく普通の茶色いリスがそこにいた。
「おひかえなすって!」
リスは片手を前に出して器用にも仁義を切り出した。
「生まれはアゼリス、育ちはルクト。生来ふわふわ根無し草、しがねぇ旅ガラス、風来坊のモンドってのぁ、あっしの事でござんす!」
「旅リスじゃないの?」
リナが話の腰を折るので恒樹が睨んだ。
「なあ、風来坊のモンドさんよ。この森には詳しいのかい?」
恒樹が、間髪入れずに本題に入った。
「まあ、全部をわかっているというわけじゃありやせんが、そこそこ」
「おお、じゃあ、出口はわかりますかの?」
ユーニスが訊くと、モンドはこくんと頷いた。
「やった! 連れて行って!」
リナが言うと、モンドは、先頭に立ってちょこちょこと歩き出した。
「あ、球根が叫ぶアマリリスの繁みは避けてくれるかな」
恒樹が注文を出した。
「構いやせんが、するってぇと、少し遠回りになりますぜ。火を吹く竜のいる池を泳ぐのと、九つの首のあるコブラの大群が待っている渓谷とどちらがお好みでやんすか」
リスが訊くと、四人と杖は揃って首を振った。
「アマリリスの繁みでいいです」
つい先ほど通った、巨大アマリリスの繁みでは、地面に転がった球根が「元に戻せ!」とうるさく叫ぶので、リナの代わりに玉城が球根を土の中に埋めた。
「どうもありがとっ」
リナは、玉城の頬にキスをして感謝を示したが、若干迷惑そうな顔をされた。さもあらんと恒樹は思った。
それから、サイケデリックな花園を通り、妖しげな道なき道を進んだ。
それから、太い蔓草が絡んでいるジャングルに入る時にリスは振り返った。
「腕時計をしている方はいやせんでしょうね」
「iPhoneがあるから時計は持っていないけれど、なんで?」
リナが訊いた。リスは蔓草を示して答えた。
「これは『時の蔓草』でやんす。時計の、時を刻む音がすると、途端にとんでもないスピードで育ちだすので、進むのがやっかいになりやんす」
「面白い草だね」
リナの言葉に、嫌な予感を持ったのか、ユーニスが続けた。
「この草が育ちだすと、ついでに時間の方も進み方が無茶苦茶になるんでの。出来れば、今は余計ないたずら心を起こさんで欲しいんじゃが、お若いの」
何かしたくても時計を持っていないもの、とリナがブツブツ言うのに安心しつつ、一行はただの蔓草にみえる『時の蔓草』の繁みを掻き分けて通り過ぎた。
突然目の前が開けた。
「さ、ここが森の出口でござんす!」
リスのモンドは、威張って宣言した。
四人と杖は、一瞬絶句した。確かに、森は唐突に終わっていた。目の前にはハワイのような真っ青な大海原と白砂のビーチが広がっていて、沢山のパラソルとリクライニングチェアが置いてあった。
「魔王様はどこだよ」
恒樹がユーニスに訊くと、一つ目の男は悲しげに首を振った。
「大魔法使いは?」
玉城が訊くと、杖も項垂れるようにしなった。
「ま、いっか。せっかくビーチがあるから、少し海水浴でも楽しもうよ」
のんきにリナが言うと、三人の男と杖は黙って彼女を睨んだ。
リスが言った。
「残念でござんすが、この海は泳ぐためのものではないざんす」
「じゃ、何のため?」
「テレポート・ステーションでござんすよ」
「なんだって?」
「あそこのリクライニングチェアに座って、目を閉じるんでやんす。太陽がちょうど傘の真ん中に来た時に、行きたい所を思い浮かべると、そこへテレポートするでやんす」
「早く言えよ!」
太陽は、かなり高く上がっている。一同は、慌ててリクライニングチェアへとダッシュした。
「ありがとう、リスさん!」
「お役に立ててようござんした!」
恒樹は、白と青のストライプのリクライニングチェアに座って、行きたい所はと考えた。ふと、日本にいる幼なじみの顔が浮かんだが、いま日本に出現したら、厄介なことになると思った。ロンドン、ロンドン。彼は、呟いた。
リナも一瞬、スイスに帰るか、それともかつてホームステイした東京のある家庭のことも考えたが、ロンドンにお氣に入りのスーツケースが置き去りになっていることを思い出して、ロンドンにしようと思った。
ユーニスは、どうやら魔王様の滞在先を呟いているようだった。
玉城にリクライニングチェアに横たえてもらった杖のハゾルカドスは「マスターのところへ帰らせてくださいませ」と呟いていた。
そして、玉城は「リク、今、助けにいくからね」と呟いた。
太陽は、ビーチの真上にやってきた。「お達者で!」というリスの声が聞こえたかと思ったら、傘の中心から白くて強い光が溢れ出て、恒樹には周りがまったく見えなくなった。ロンドン、ロンドン。あ、ビッグベンにいたんだよな、俺たち。
「なんでこうなるんだよっ!」
恒樹は、泣きそうになった。確かに彼はロンドンに戻ってきた。だが、彼はまだビッグベンの文字盤の長針にぶら下がったままだった。ヒュルルと風が強い。絶体絶命。
「えっ。やだ! コーキも、ここに戻ってきちゃったわけ?」
その声に、上を見ると、リナがいた。
「た、助けてくれっ」
「ちょっと待って、いいもの持ってきたから」
そう言うと、リナはポケットから緑色のものを取り出した。それはさっきのジャングルにあった、妙に太い蔓草だった。……ちょっと待てよ。確かあのリスは『時の蔓草』って、言ったよな。時計があるとヤバいとかなんとか……。恒樹は、巨大な時計の長針にぶら下がっているというのに。
リナは、それの片方をアーチに固く結びつけると、反対側を恒樹に投げてよこした。そんな短いものが届くかと思ったのもつかの間、それはぐんぐん伸びて、文字盤と針を覆いはじめた。あのリスの言う通りだった、ヤバいぞと思った。が、ちょうど足場にして、上へとよじ上るのに都合よかったので、リナへの文句は言わないことにした。
恒樹が無事に上のアーチに上がり、ひと息をついた頃には、ビッグベンはすっかりその巨大な蔓草で覆われていた。このままじゃ、まずいよなあと思ったが、とにかく急いで塔から降りることにした。ユーニスの言葉によると、この草のせいで、時間の進み方もめちゃくちゃになるらしいから、早くこの場を離れた方がいい。
実際に、上では真夜中だったはずなのに、なんとか下まで辿りついた頃には、夜がうっすらと明けはじめていた。
「あ~あ、朝になっちゃったかぁ」
リナが間延びした声で言うので、批難のコメントをしようと振り向くと、『時の蔓草』に覆われたビッグベンが目に入った。奇妙で大きな蔓草は、朝日を浴びて、溶けるように消えていく所だった。
安堵と疲れで、声もなく立ちすくむ恒樹に、リナは言った。
「ねえ、コーキ。私、お腹空いちゃった。この時間にご飯食べられるところ知ってる?」
恒樹は、先ほどよりずっと強い疲労感を感じつつ、何があっても懲りない変な女を振り返った。
(初出:2015年7月 書き下ろし)
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今後の予定について
久しぶりに、ブログのメニューを整理しようと右カラムの「カテゴリ」をぼーっと眺めていました。そして、カテゴリごとの記事数に着目してみたのです。
「長編小説」「短・中編小説」「Thanks!」とある中の「 scriviamo! 2013 」「 scriviamo! 2014」「 scriviamo! 2015 」というのが、小説です。(短いあらすじなどから俯瞰したい方は「作品一覧」をご覧ください)
で、見てみると「大道芸人たち Artistas callejeros」の記事数がダントツで多いです。本編だけで52あります。長い話だったんですね。加えて、外伝が25(2015年7月13日時点)って、本編の半分近くある! こんなに書いた記憶はないんですけれど(無責任な)。続いて多いのは「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」です。別館に隔離している「樋水龍神縁起」とその続編「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」も量としては「大道芸人たち」並になります。
2011年から2013年にかけて、私がどのくらい狂ったように書いていたのか、この数字を見るとわかります。この時期には「十二ヶ月の○○シリーズ」やそこから派生した二つの中編「夢から醒めるための子守唄」と「夜想曲」も書いています。これらの作品群を発表しているのがそれよりも後なので、たぶん今でも多作だと思われているでしょうが、実は今はほとんど書いていません。最後に狂ったように書いたのが、去年の四月と五月でしょうか。二ヶ月で「Infante 323 黄金の枷」を書き上げています。でも、その後は、ほとんど止まっていますね。
今は、短い話、必要に迫られて書くものがほとんどです。
一人で書いていた頃は、「これはいつ頃発表するので早く書かないとまずい」ということはありませんでした。書きたい時に書き、そうでなければ放置していられました。実際に十年近い空白期間があって、このボイド期には短編を二つくらいしか書いていません。
一氣に長編を書きたいときというのは、何かが溢れ出している状態です。「いま書き留めておかないと、どっか行っちゃう」という感覚ですね。強い衝動がないと、寝食も忘れてキーボードを叩くなんてことは出来ないのです、私は。知っているスイス人の職業作家は「毎日、数時間ずつコンピュータの前に座って書く」というスタイルを続けていらっしゃいましたが、なんだろう、プロはそうでなくてはいけないんだろうなと思いつつ、「そうなんだ〜」と思ってしまったんですね。ゼンマイ仕掛けの時計みたいに、ねじ巻いたら話がでて来るわけじゃないし、私には、書きたくても書けないときだってあるよなって。
そういう自分のことを知っているから、私は書き終わっていない長編の連載を始めることはしません。まあ、九割構想が固まっていて、半年分くらいストックがあれば見切り発車することはありますが(「夜のサーカス」と「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」がそうだった)、たとえば「大道芸人たち」の第二部をいつまでも公開しないのは、途中が大きく抜けているので、連載に間に合わないと困るからです。
反対にいうと、既に発表した作品数が多いので、これから無理して猛ペースで書く必要もないかなと思っています。必死で発表していたのは、「小説ブログ」を立ち上げておきながら読むものがあまりに少なくて恥ずかしかったからでもあります。毎日更新していて、そうしないとみんなに来てもらえなくなる、と思い込んでいた時もありました。でも、既にありすぎるくらいですから、もっとペースを落としても大丈夫だろうなと思うのです。例えば小説は月に二回程度、あとは設定秘話とか、その辺のものでもいいかな〜とか。
来年の話ですけれど「十二ヶ月の○○」シリーズを復活させようと思います。そして、「Infante 323 黄金の枷」の完結後に、何か定期的な連載をするかどうかは、現在考え中です。今年いっぱいに「大道芸人たち」の第二部が書き上がればそれを連載してもいいし、そうでなければほぼ読み切りになる「バッカスからの招待状」を書いてもいいかと思います。(時間稼ぎ?)
「黄金の枷」三部作の残りの「Usurpador 簒奪者」と「Filigrana 金細工の心」、それに「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」の続編、それからもちろん「大道芸人たち」の第二部を書き終えるのに、あとどのくらいかかるのか全く見えていませんが、少なくともこれだけは完結に持ち込みたいなと思っています。その他にも、いろいろと「書く書く詐欺」作品が転がっていますが、その辺りは、氣の向いたときで(笑)
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我関せず
ある六月の日曜日のこと、高速道路で同時に三つの交通事故が発生し、大変な渋滞になっていました。バイクにタンデムしていた我々を含めた少しでも道を知っている人たちは、高速道路から出て、一般道で少しでも早く行こうとしたのですが……。なんとちょうど家に帰る牛の群れがいました。
この国では、道を歩く家畜の群れがいたらとにかく大人しく待つしかないのです。

その結果、こんな渋滞になっていました。小さくて見えにくいかもしれませんが、地平線までずっと車が並んでいるのです。文字通り「牛歩」のスピードで。

すごいのは、この状態でも牧童が焦ることが全くなかったことです。確かに焦っても家畜に早く歩いてもらうことは出来ません。無理して騒いで暴走でもされたら困るでしょう。でも、日本人の私は、この状況なら一番前の車の人に謝るそぶりを見せるとか、後ろを氣にするとか、オロオロすると思うんですよね。
でも、思ったんですよ。少しこういう風になりたいなって。
私は神経が図太い方なんですが、それでもいろいろとクヨクヨすることがあるんです。一喜一憂とでもいうのでしょうか。ブログのことでも、小説を発表すればその反応が氣になるし、別のブログでコメントを書き込むとお返事をいただくまで怒らせていないか心配するし、アルファポリスの大賞ものにエントリーした先月は毎日ドキドキしっぱなしでした。
かといって、「振り回されるのが嫌だから、全部やめちゃえ」という方向にはいかないし、基本的には「のど元過ぎれば熱さを忘れる」タイプで、簡単に平静さを取り戻すんですけれど。
スイスに移住してきてよかったなと思うことの一つに、日本ほど「周りの人がどう思うか」を氣にしなくていいということがあります。そうなんです。私は若干(じゃないか、かなり)変わり者なので、「みんなと同じ」ということをするのが苦痛なんです。なのに、やはり日本人なのか、どこかで人の目というのを常に意識しているのですね。
例えば、郵便局で窓口に一人しか人がいなくて、列が出来ているとします。こちらの人は、そうであっても窓口の担当者と平然と延々と話しているんですよ。それも業務ではない世間話までしていたりします。私は、出来るだけ手っ取り早く手続きを済ませて、おつりを財布にしまうのも窓口から離れてからしてしまうのです。後ろの人が窓口に立てるのにたった数秒しか違わないとしても。
まあ、あまり迷惑をかけまくるのはよくないですけれど、不必要に人の顔色を見てびくびくするのはよくないなあと常々思っているのです。この牧童ほどでなくてもいいんですけれど、もう少し「我関せず」の境地に至れたら楽だろうなあと思ってしまうわけです。
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【小説】ロマンスをあなたと
リクエストですが、「園城真耶」でお願いします。久しぶりに、彼女の鬼っぷり……もとい、神っぷりが見たいです(笑)
ということですので、思いっきり趣味に走らせていただくことにしました。舞台はウィーン。音楽はマックス・ブルッフ。そして、真耶と言ったら、セットは拓人(なんでといわれても困りますが)です。
途中で新聞記事上に日本人女性がでてきますが、TOM-Fさんのキャラを無断でお借りしています。50000Hitの時に「ウィーンの森」のお題で書いてくださった掌編、それにこの間のオフ会にも出てきている、TOM-Fさんのところの新ヒロインです。
あ、そもそも「真耶って誰?」「それからここに出て来る拓人ってのは?」って方もいらっしゃいますよね。「大道芸人たち Artistas callejeros」や「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」に出てくるサブキャラなんですが、「大道芸人たち 外伝」なんかにもよく出てきています。この辺にまとめてあります。ま、読まなくても大丈夫だと思います。
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編
ロマンスをあなたと
六月は、日本ではうっとうしい季節の代名詞だが、ここヨーロッパでは最も美しい季節のひとつに数えられる。特に今日のように太陽が燦々と降り注ぐ晴れた日に、葡萄棚が優しい影を作る屋外のレストランで休日を楽しむのは最高だ。
『音楽の都』ウィーンで、真耶がのんびりとホイリゲに腰掛けているのには理由があった。昨夜、楽友協会のホールでソリストとしての演奏をこなし、拍手喝采を受けた。その興奮と疲れから立ち直り、次の演奏の練習に入るまでの短い休息なのだ。
マックス・ブルッフの『ヴィオラと管弦楽のためのロマンス ヘ長調 作品85』は、日本ではもう何度も演奏していたが、海外で演奏するのははじめてだった。真耶の透き通った力強い響き、そして、冷静に弾いているように見えるのに激しい情熱を感じる弓使いは、屈指の名演を聴き慣れているウィーンっ子たち、それに手厳しい批評家たちをも唸らせた。
黄金に輝く大ホール。美しく着飾った紳士淑女たち。オレンジの綾織りの絹のドレスを着て強い光の中に立ちながら、真耶は見えていない客席に向かって彼女に弾ける最高の音を放った。それが、日本でもウィーンでも関係なかった。目指すものは全く同じだった。
そして、その客席の中に、彼が座っていることが、真耶の昂る神経に対してのある種の重しになった。二人で目指した同じ芸術。彼がピアノ協奏曲のソリストとして、客席に座る真耶の一歩前に出てみせれば、次の演奏会で、真耶がさらに先へと進んでみせる。そして、時には同じ舞台の上で音を絡ませ、共に走る。子供の頃からあたり前のように続けてきた道のりだ。
昨晩も、彼は真耶の音の呼びかけを耳にしたに違いない。そして、もし彼が忘れていなければ、彼女の奏でた音の中に、豪華絢爛な楽友協会大ホールとは違う、緑滴る小道での爽やかな風を感じたはずだ。小学生だった真耶と拓人が、あの夏に歩いた道。
結城拓人の父親は、軽井沢に別荘を持っていた。幼稚園の頃から、夏になると結城家は避暑で軽井沢へ行く。もちろん、別荘にもグランド・ピアノが置いてあり、拓人は夏の間も自宅と同じようにピアノ・レッスンをさせられた。
拓人の母親の従姉妹である真耶の母親は、毎年二週間ほど真耶を連れてその結城家の別荘へ行っていた。真耶自身は拓人と違い、放っておいても幾らでもレッスンをしたがった。当時真耶が習っていたのはヴァイオリンだった。
普段はレッスンをサボりたがる拓人も、一つ歳下の真耶に笑われるのが嫌で、彼女が来たときだけは毎朝狂ったようにレッスンをした。それで、安心した母親二人は連れ立ってショッピングに行くのだった。
あの日も、そうやって午前中を競うようにしてレッスンで過ごし、お互いの曲についてませた口調で批評し合った。その日の午後は、街に行って「夏期こどもミュージックワークショップ」に行くことになっていたが、母親たちは遠出をしていたので、二人で林を歩いて街まで行くことになっていた。
蒸し暑い東京の夏と違い、涼しい風が渡る美しい道だった。蝉の声に混じって、秋の虫の声もどこからか聞こえてくる。そして、遠くからエコーがかかったような鳥の鳴き声が聞こえていた。半ズボンを履いた11歳の拓人は紳士ぶって、真耶のヴァイオリンケースを持ってくれた。それから時おり「足元に氣をつけろよ」などと、兄のような口をきいた。
樹々の間から木漏れ陽が射し込んだ。風が爽やかに渡り、真耶のマンダリン・シャーベット色のワンピースと帽子のリボンが揺れた。
「あっ」
突如として強く吹いた風に、麦わら帽子が飛ばされて、真耶は少し林の奥へと追うことになった。拓人も慌ててついてきた。そして、今まで近づいたことのない木造の洋館の近くで帽子をつかまえた。
二人は、窓を見上げた。白いレースのカーテンが風になびき、開けはなれた窓から深い響きが聞こえてきたのだ。それが、マックス・ブルッフの『ヴィオラと管弦楽のためのロマンス』だった。それも、たぶん当時でもかなり珍しいレコードの特徴のある雑音の入った演奏だった。
「待たせてごめん!」
その声に我に返ると、待ち人がようやくこちらに向かってきていた。ベルリン公演が終わったあと、帰国の予定を変更して、昨夜ウィーンに駆けつけて聴いてくれた
「私も15分くらい前に来た所なの。だから、まだ何も頼んでいないから。それで、デートは終わったの?」
真耶は、拓人が荷物を置けるように自分の隣の椅子を少し動かした。
彼は少しふくれっ面をした。
「デートじゃないよ。後援会長。でも、さすが日本人だね。ここまで来たらブダペストにも行きたいって、たった三日の旅程なのに行っちゃったよ。あの歳なのに、元氣だよな。おかげでこっちはお相手する時間が少なくて済んだけれど」
「文句言わないの。今度の大阪公演のチケットも大量に捌いてくれるんでしょう?」
「まあね」
拓人は、真耶の前に座ると、荷物からドイツ語の新聞を取り出した。
「それより、ほら。ちゃんと買ってきたよ」
真耶は、それが昨日のマックス・ブルッフの批評のことだとわかっている。言われるページを開けてみると、タイトルからして悪くなかった。
「柔らかい動きの弓にのせて、ロマンスは躍動した……ね」
「美しき日本のヴィオリストは、我々に改めてヴィオラという楽器の奏でる控えめだが力強い主張を教えてくれた……。これは、あの辛口批評家のシュタインミュラーが書いたんだぜ。文句の付けようがなかったってことだろう?」
「どうかしら。後から演奏されたブルックナーの方も絶賛されているもの。辛口批評をやめただけなんじゃないの?」
「いずれにしたって、極東から来たヴィオラ奏者が褒められたんだ。立派なもんさ」
真耶は、その隣のページのサイエンス欄にも目をやった。
「あら、ここにも日本から来た女性が取り上げられているわよ」
拓人は、ウィンクをして言った。
「うん、じっくり読んだよ。美人の話は氣になるからね。そんな可愛い顔しているのに、なんとCERN(欧州原子核研究機構)で活躍している物理学者らしいぜ」
「CERNって、ジュネーヴでしょう? スイスで活躍する日本人が、なぜウィーンの新聞に?」
「ああ、そのイズミ・シュレーディンガー博士は、ウィーンで育ったらしいんだ。その真ん中あたりに書いてあった」
まあ、そうなの。同じ日に二人の日本人女性がウィーンの新聞に並んで載ったのが少し嬉しくて、真耶は新聞を大切にバッグにしまった。
ウェイトレスが、注文を訊きにやってきた。
「あれ、まだ全然メニューを見ていないや。ここは何が美味いんだろう?」
拓人が訊く。メニューを見せながら真耶は言った。
「この季節限定メニュー、アスパラガスのコルドンブルーって、美味しそうじゃない?」
「ああ、そうだな、それにしよう。ワインは?」
「白よね。これに合わせるとしたらどれがおすすめ?」
ウェイトレスは、フルーティで軽いGrüner Veltlinerを奨めた。ピカピカに磨かれたワイングラスに葡萄棚からの木漏れ陽が反射した。
拓人は、乾杯をしながら、葡萄棚を見回した。
「ここは氣持ちいいなあ。よく見つけたね」
「何を言っているのよ。ここに来たのははじめて?」
真耶は、首を傾げる拓人に笑いかけた。
「この店? 『
「ここはね、ベートーヴェンが第九を書いた家として有名なホイリゲなのよ。日本人がベートーヴェン巡礼にしょっちゅう来ているわよ」
「へえ。そうなんだ。確かに『田園』の着想を得たって言うハイリゲンシュタットだもんな。その向こうの『遺書の家』記念館は、ずいぶん前に一度行ったよ」
「でしょう? だから、ここにしようと思ったの」
拓人は、若干げんなりした顔をした。真耶のいう意味がわかったのだ。東京に帰ったら、次のミニ・コンサートで彼女が弾きたがっているのがベートーヴェンの『ロマンス 第二番』なのだ。もともとはヴァイオリンのための曲だが、一オクターブ下げてヴィオラで弾くバージョンを、拓人も氣にいっているのは確かだ。だが、昨日の今日で、もう次の曲の話か……。
「そういえば、昨日のも『ロマンス』だったな」
拓人は、ぽつりと言った。真耶は、周りの滴る新緑を見上げた。そうよ。あの時に聴いた曲だわ。
「ああ、そうだ。軽井沢、こんな感じだったよな」
拓人は、あたり前のごとく言った。憶えていたのね。真耶はニッコリと笑った。もちろん彼女は一度だって忘れたことはない。ヴァイオリンではなくてヴィオラを習いたいと突然言いだして、親を慌てさせたのは、あの洋館から聴こえてきたマックス・ブルッフの『ロマンス』が、きっかけだったから。
そして、あの時は、全く考えもしなかったことがある。兄妹のように憎まれ口をたたきながら育ち、どんなことも隠さずに話してきた親友でもある再従兄、音楽と芸術を極めるためにいつも共にいた戦友でもある目の前にいる男のことを、いつの間にか『ロマンス』と名のつく曲を奏でる時に心の中で想い描くようになったこと。
だが、そのことは口が裂けてもこの男には言うまいと思った。そんな事を言う必要はないのだ。ロマンスがあろうとも、なかろうとも、二人が同じ目的、一つの芸術のために生きていることは自明の理なのだから。彼女のロマンスは、常にその響きの中にある。そして彼は、いつもその真耶の傍らにいる。
二人の話題は、次第に来月のベートーヴェンの『ロマンス 第二番』の解釈へと移っていった。葡萄棚からの木漏れ陽は優しく煌めいていた。六月の爽やかな風がウィーンを渡っていった。
(初出:2015年7月 書き下ろし)
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料理本の話
まだ保護者と一緒に暮らしていて、例えばお母さんがいつもご飯を作ってくれるとか、もしくは飯炊き女もとい愛する奥様が愛情たっぷりの料理を作ってくださるとか、専属の料理人が居ない生活などしたことがないセレブであるとか、そういう状況にある方を除き、料理というのは生活の基本だと思います。
で、料理本なんか一冊も買ったことがない、自分の舌と誰かから習った腕だけを頼りに作っていらっしゃる方もいるでしょうし、料理本をみて作るという方もいると思います。私は、後者です。まあ、これだけ長くご飯を作っていれば、何もみないでも作れる料理もそこそこありますけれど、はじめて作る料理を舌と勘を頼りに作るようなことはしません。
こういうのって性格もありますが、でも、勘だけで作るとぶれが大きくて、新しい味との出会いも少なくなるように思うのです。
まずは、レシピ通りに作ってみる。そして、それから自分流にアレンジをしていく。(もしくは二度と作らない)それが私の流儀かなと思います。で、ドイツ語のレシピもないわけじゃないんですが、やはりよく使う料理本の大半は日本語のものなんです。今日は、愛用の料理本を一氣に公開しちゃおうと思います。

まずは、私の料理のバイブルとも言える三冊を。川津幸子氏編集の「あ、おいしい」と「わ、かんたん」この二冊は、かなりボロボロになるくらいよく使っています。この方の推奨する料理レシピは、とにかくシンプルで美味しい。複雑な準備がなくて、誰にでも出来るのに間違いなく美味しくなる、絶対に失敗しない料理本です。
はじめて料理をやってみようかな、という方にはとにかくおすすめですね。
料理って、きちんとやると本当にきりがなくて、例えば西洋料理であれば、牛のテールを使って本格的スープストックをとるところからやろうとすると、いつまで経ってもご飯が出来ません。たまの祭日に作る男の趣味の料理、みたいなのでしたらそれでもいいんですけれど、毎日の晩ご飯に12時間もかかるブイヨンからは始められません。
でも、この二冊は、基本は押さえているけれど、簡単で、しかも「こんな料理が私にも作れる!」と思うくらい美味しくできるんです。だから、二十年近く愛用の本になったんだと思うんですよね。
もう一冊、井上絵美氏の「いい女が作るパパッとかっこいい料理」もかなり似ていますが、こちらは来客時のプレゼンテーションの参考にすることが多い本です。我が家では、誰かをお招きするとたいてい三品くらいのコース料理なんですけれど、それが苦にならないような料理の準備をこの本からずいぶんと学びました。

こちらの四冊は、調理法の観点から愛用している本。我が家には電子レンジがありません。その代わりオーブンは、週に五日くらい使います。オーブン専用のレシピ、それに圧力鍋は調理時間などが特殊なので専用の料理本が必要になります。
それに、普段働いていますので、まとめづくりや下準備はとても大切です。「魔法使いの台所」という本は、忙しい人でも丁寧で無駄のない料理が出来るアイデアがぎっしり入っていて、とても重宝している本です。急いでいても、添加物の多いインスタントものには頼りたくない。いつも同じ簡単料理ばかりでも飽きる。ある種の準備をしておくと、短時間でバラエティに富んだ料理ができるのですが、その基本をこの手の本で学ぶのですね。

旅行に行って、好きになった料理は作りたくなってしまう私。ノーアポの来客に、ぱぱっと作って酒の肴として出すことが多いのはスペインのタパス。それに、ポルトガル料理やトルコ料理は日本人の私の舌にも、スイス人の連れ合いの舌にも合うので、時々作っています。

連れ合いの関節炎をきっかけに、肉を食べ過ぎないようにすることを奨められて、野菜料理のレパートリーを増やそうといくつか買い集めたのがベジタリアン関係の料理本。そうでないものも混じっていますが、ここにあるものは、基本的に野菜をいかにメインとして美味しく食べられるかを極めた本ですね。

それに、姉が送ってくれたり自分で買ったりした、有名料理人の本。さすがに「確かに美味しい」というレシピがいろいろあって、「この料理はこの人のこのレシピ」とピンポイントで使うことが多いです。
たまにしか使わない本も入れるとこの倍近く料理本を持っていますし、インターネットでレシピを探して作ることもあります。さすがに全部は紹介しきれません。
私の連れ合い、それから、よく我が家にやってきてご飯を食べていく人たちは、私のことを料理上手だと思っています。が、私はそうではありません。(料理は嫌いではありませんが)単純に「この本のこのページに書いてある通りに作ると絶対に失敗しない」ということを知っているだけです。そういう間違いのない、しかも簡単な料理のたくさん書いてある本に出会えたのはラッキーだったと思っています。
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ポルトとガイア

遠くから見ると一つの街のように見えますが、ポルトはドウロ河の東岸だけ、橋を渡った先にある街はヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア(ガイア)です。
ポルトは、リスボンに次ぐポルトガル人口の二番目に多い都市ですが、第三位は実はガイアなのです。行政上はこうやって別れていますが、観光客にとってはガイアもポルトの一部みたいなものですね。

ガイアにはたくさんのポートワインの倉庫兼販売所が並んでいます。ポルト観光の目玉の一つで、多くの会社がショールームを持っていて、試飲と販売をしています。同じ世界観を使っているこの街の普通の住人、よく山西左紀さんのところのミクと共演させていただいているジョゼがよくポートワインの試飲に行っている倉庫街というのは、ここのことです。
この写真は、CALEM社の倉庫で、ここは一日に何回か試飲と倉庫を案内するツアーがあります。おすすめは、私も行った夜のファドを聴かせてくれるツアーですね。以前写真をお見せした、23の外見のモデルとなったギターラ奏者は、このファドツアーで弾いていた方でした。

ガイアの河岸からは、ポルトの美しい街並をみることが出来ます。かつてはポートワインを運んでいた小型平底帆船ラベロが観光用に浮かんでいて、とても絵になるので毎回ここで写真を撮ってしまいます。素人でも絵はがきのような写真が撮れるスポット。おすすめですよ!

河岸は、常にたくさんの観光客で賑わっていますが、ほんの一つ、小路を入っていくと、途端に誰もいない静かな空間になります。今回の作品中で、マイアが23とこの静かな一画を歩いたときのことを思い出していました。
この記事を読んで「Infante 323 黄金の枷」が読みたくなった方は……
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【次回予告】「Infante 323 黄金の枷」 (17)遠出
マイアは不安になった。ちょうど電車は県境へとさしかかっていた。国を離れたこともないが、県の外に出たことも一度もなかった。もし、《監視人たち》が私を追っているとしたらどうなるんだろう。ううん。ミゲルは《監視人たち》は絶対に危害を加えたりはしない、ただ見ているだけだって言ってた。だから、そんなに心配しなくても……。
休暇を一人で過ごしているマイアは、出来心を起こして電車に乗ってみます。D河(ドウロ河)沿いの葡萄畑でいっぱいの渓谷。生まれてはじめて街を離れるマイアを待っていたのは……。
来月末に発表予定です。お楽しみに!
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【小説】Infante 323 黄金の枷(16)休暇
長時間で土日の勤務もあり、さらに普段は許可なしでは館の外へも出られない生活をしているドラガォンの館の召使いたちには、二ヶ月に一度、一週間の休暇が与えられます。勤めだして二ヶ月。マイアもはじめての休暇をもらいます。このマイアの休暇の話は、今回を含めて三回にわけてお届けします。
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Infante 323 黄金の枷(16)休暇
「マイア、木曜日から一週間の休暇です。25日の朝からまた仕事なので、24日の夕方には戻ってきてください」
ジョアナに言われてマイアはびっくりした。
「休暇? でも、あれは二ヶ月経たないといただけないのでは?」
ジョアナは笑った。
「ええ、そうですよ。忘れたみたいですが、あなたは昨日で二ヶ月ちょうど働いたのですよ。慣れないことばかりだったでしょうが、よく頑張りました」
マイアはジョアナにほめてもらって嬉しくなった。もう二ヶ月経ったなんて、思いもしなかった。
「マイア、しつこいようだけれど、誓約を忘れないようにお願いしますね」
「はい」
洗濯物を取りにいくついでに、23に休暇のことを報告した。
「ずいぶん急だな。ああ、そうか。もう二ヶ月経ったんだな」
「うん。私も、びっくりしているよ」
「家族に会うのも久しぶりだろう。よかったな」
「うん。休暇の間、何をしようかなあ、考えてもいなかった」
23は笑った。マイアはふと思いついて意氣込んでいった。
「ねえ。23、休暇だったら、館に帰る時間を氣にしないでいいから、いつもより遠い所にも行けるよ。どこかに行かない?」
23は、マイアを見たが、すぐに首を振った。
「休暇中はたぶんお前の家の近くの《監視人たち》が観察をするだろう。怪しまれるような行動は避けた方がいい」
言われてみればその通りだった。マイアはひどくガッカリした。23は失望しているようには見えなかった。それまで作っていた靴を脇にどけると、作業台の引き出しから型紙を探し出した。忙しそうだなとマイアは思った。洗濯物の籠を持って退散することになった。落ち込んだように去っていくマイアの後ろ姿を、23はじっと見つめていた。
休暇の前日、掃除当番だったので三階と二階を急いで終わらせて工房に降りて行くと、23はいつものように作業をしていた。私が明日からいなくても、なんでもないんだろうな。埃をはたきながら、マイアは靴を仕上げている23の横顔を眺めた。
掃除機かけが終わり、コードをしまいながら、これが終わったらさようならを言わなきゃと思っていた。たった一週間なのに、私も大袈裟だな。
「できた」
その声でマイアは、顔を上げた。23はマイアに焦げ茶色のバルモラルタイプのウォーキングシューズを見せた。
「お前のだ」
「え?」
「休暇中は、街をたくさん歩くだろう。パンプスよりもこっちの方がいい」
「……。わざわざ、作ってくれたの?」
「パンプスを大切にしてくれているから。ほら、履いてみろ」
マイアは嬉しくて涙をこぼす寸前だった。膝まづいて調整をしてくれている、23の丸い背中をじっと見ていた。
「なあ、マイア」
23は革ひもを縛りながら言った。
「何?」
「俺は、俺のことを信じて今はマリアに何も言わないと約束してくれたお前のことを信じている」
ライサのことだ。メネゼスさんやジョアナが心配しているのも、そのことだ。
「23。わたし、約束を一度も破ったことがないほどいい子じゃないけれど、あなたとの約束だけは死んでも守るよ。マリアには休暇のことは言わないし、逢いにも行かない。だから、心配しないで」
23はマイアを見上げて微笑んだ。
「ありがとう。お前にだけは言っておく。ライサはボアヴィスタ通りにいる。アントニアの家だ」
「23……」
「あそこには《監視人たち》がうじゃうじゃいるはずだ」
「大丈夫だよ。わたし、あんな高級住宅街にいく用事は何もないもの。ウロウロしたりしない。教えてくれてありがとう」
立ち上がった23は、マイアの頭をぽんと叩いた。
「せっかくの休みだ。仕事のことは忘れて楽しんで来い」
忘れられるわけないじゃない。マイアは23を見つめた。
「6月24日、サン・ジョアンの日までか。いい時期に休みをもらったな。天候に恵まれるといいな」
マイアは飛び上がった。すっかり忘れていた。そうだ、サン・ジョアンの日!
「ねえ、23、前夜祭、行った事ないんでしょう? この街に住んでいてあれを見ないのはもったいないよ。それだけは一緒に行こうよ」
23は、しばらく答えなかった。即答しない所を見ると、心を動かされているのだろう。毎年のあの騒ぎは、鉄格子の窓の向こうから聞こえていて、行きたいと思っているに決まっている。一年に一度しかないのだ。一緒に行こうよ、行くって言って。
彼の瞳に諦めの色が灯った。それから静かに首を振った。マイアはその感情をよく知っていた。左手に金の腕輪をしている者が親しんでいる想い。「試しもしないで諦めるな」という人たちはわからないのだ。小さい子供の頃から、どれほど抵抗し、それが無駄だったと思い知らされ、多くのことを諦めさせられてきたかを。マイアはうつむいた。それでも諦めきれなかった。
「最初に待ち合わせたあのカフェに、夜の九時に行くから。もし、氣が変わったら来て、ね」
23は微笑んだ。
「いい休暇を」
朝早く、マティルダに短い別れを告げて、ドラガォンの館を出た。坂を上って、父親と妹たちの暮らす懐かしい我が家に戻った。
レプーブリカ通りは間口の狭い家がぎっしりと並ぶ区画で、マイアの父親と二人の妹とが三階のアパートメントに暮らしている。書店に勤める父親の給料は決して高くない。妹のセレーノは菓子屋に勤め、エレクトラはお茶の専門店で働いている。どちらもあまり給料は高くなく、独立してアパートメントに住むのは難しい。ギリギリ四部屋あるこの小さい空間で肩を寄せあって暮らすのが当然のように思っていた。
ドラガォンの館でマイアに割り当てられた部屋は、個室ですらなかったが、高い天井、広い室内、シンプルだけれどどっしりとした家具、そして窓から見渡せるD河の眺めがあり、マイアにはとても心地が良かった。それに召使いたちが仕事や休憩をするバックヤード、料理人たちの手伝いをする時におしゃべりもする厨房といる場所があちこちにあった。さらにマイアはこの家で三家族が暮らしているのよりもずっと広い空間に一人で住んでいる23の居住区に入り浸っていた。それに慣れた二ヶ月の後に我が家に戻ってみると、全てが狭苦しく、何よりも自分の存在がその空間をさらに圧迫しているように感じるのだった。
誓約はマイアを苦しめた。これまで父親と妹たちに隠しごとをしたことはなかった。する必要もなかった。《星のある子供たち》であることで、この家庭に負担をかけていると感じていたマイアは、いつも彼らに誠実であろうと努めてきた。それなのに今回だけは何も言うことができない。彼らがどんな仕事をしているのか、どんな所かと訊くのはとても自然なことなのに。
「何も話してはいけないの」
そう答えることで自分がとても冷たくて嫌な人間になったように感じる。これまでよりもずっと、腕輪が自分と家族の間の壁を作っているように感じた。
それだけではなかった。心の大部分を占めている悩みをマイアは妹たちに話して軽くすることができなかった。23その人が誓約で話すことを禁じられている事項の中に含まれるだけではなく、見込みがなくてもどうすることもできない今の状態を明るく前向きな妹たちに話すことができないのだ。進めと言われても、退けと言われても、自分が壊れてしまいそうだった。
妹たちと父親は優しいのに居場所がない。マイアは少し前に23と行った河向こうのワイン倉庫街を思い出していた。
河に面してたくさんの倉庫兼試飲所があった。たくさんの観光客が行き来して、にぎやかな一画だ。パラソルの下では人びとがポートワインとタパスを楽しんでいた。次々と到着するバスから降りてきた人びとは、試飲と購入のために大きなワイナリーへと吸い込まれていく。マイアには見慣れたGの街の観光街だった。けれど23にはそうではなかった。小さな鱈のコロッケが三つ載った小さな皿とSuper Bockビール。屋敷でクラウディオたちが作る洗練された料理とは正反対の庶民の楽しみが23には珍しそうだった。鋭く突き刺すような強い陽射しの中、23の笑顔も白くかすんでいるように思えた。
どうしてそちらに行ったのか憶えていないが、その後二人は一つ山側の通りを歩いた。そこは河沿いの賑やかな通りと正反対で、ほとんど誰も歩いていなかった。白い壁が強い陽射しを反射していた。前を歩く23の白いシャツ。丸い背中。マイアの心は急に締め付けられた。彼は壁に溶け込んでいなくなってしまいそうだった。
「待って。ねぇ、待って」
23は振り向いた。
「どうした?」
いつもの彼だった。ちゃんとした存在感があった。マイアは大きく息をした。
「なんでもない」
「何でもないようには見えないが」
マイアは肩を落とした。
「……消えちゃうかと思ったの」
それを聞いて23は笑った。
「消えたりしないさ」
消えそうだったのは、自分の方なのかもしれないとマイアは思った。あの午後に二人は一緒にいた。マイアとあそこにいた23はインファンテではなかったし、ドンナ・アントニアの恋人でもなかった。今、彼は元の居場所に戻り、物理的にも心も遠く離れていた。マイアはもとの世界にいる。ずっと当然だったレプーブリカ通りの小さなアパート暮らし。マイアにふさわしい狭い空間。それでいて拭うことのできない《星のある子供たち》であることの違和感。私はこの世界に一人ぼっち。マイアは言葉にして思った。マイアが浮かれていた23との時間は、叶わない夢、実体のない蜃気楼なのだと思った。
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