【小説】バッカスからの招待状 -7- アイリッシュ・アフタヌーン
今回は、それと同時にもぐらさんの主催する「クリスマス・パーティ」に参加しようと思い、クリスマスバージョンで短めのものを書いてみました。(でも、あそこ用には長すぎるかなあ……うるうる)
スペシャルなので、主要人物がみな出てきて、さらに田中本人に関係のある話になっています。次回から、また彼はオブザーバーに戻ります。(たぶん)
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バッカスからの招待状 -7-
アイリッシュ・アフタヌーン
「こんばんは、田中さん、それに夏木さん」
大手町のとあるビルの地下にある小さなバー『Bacchus』のドアを開けて、久保すみれはいつも自分が座るカウンターの席が空いていることを確認してにっこりした。
「久保さん、いらっしゃいませ」
虹のような光沢のある小さな赤い球で飾られたクリスマスツリーの向こうから、田中の落ち着いた声がいつものようにすみれを迎えてくれる。
店主でバーテンダーでもある彼が歓迎してくれるのは客商売だから普通だろうが、それであっても嬉しかった。ここはすみれにとって最初で唯一の「馴染みのバー」なのだ。
カウンターの奥にいつも座っている客、夏木敏也のことは、この店から遠くないビルに勤めていること以外は何も知らない。すみれが『Bacchus』に来る日と決めている火曜日には、かなりの確率で来ているので、たいてい隣に座ってなんということはない話をする『Bacchus仲間』になっていた。そして彼は、すみれが来るまで鞄を隣の席に置いて、他の人にとられてしまわないようにしてくれているようだ。
彼女は、バッグから小さな包みを2つ取り出した。
「来週は、もうクリスマスなんて信じられる? わたし、今年何をしたのかなあ。ともあれ、ここに一年間通えたのは、居心地をよくしてくれたお二人のおかげなので、これ、どうぞ」
「私にですか。ありがとうございます」
「僕にもかい?」
田中に続き、夏木は嬉しそうに包みを開けた。
それはとあるブランドのハンカチーフで表裏の柄が違うのが特徴だった。それだけでなく形態安定でアイロンがけも楽だ。すみれは、この二人のどちらも独身であることを耳にしていたからこれを選んだ。
「へえ。こんな洒落て便利なハンカチがあるんだ。嬉しいなあ」
紺地に赤と白い細い縞が入り、裏は赤と白の縞が入っている。夏木はそれをヒラヒラさせながら喜んだ。
田中も浅葱色に白と紫の縞の入っているハンカチを有難く押し頂いた。大切に仕舞っているところに、ドアが開いたので、三人はそちらを向いた。薔薇のような紅いコートを着た、すみれがこれまで一度も見たことのない女性が立っていた。
「涼ちゃん!」
田中は、もう少しでハンカチの入った箱を落とすところだった。
田中が客に対して、さん付け以外で呼びかけたのを聞いたことのなかったすみれはとても驚いた。女性がにっこりと笑って「久しぶりね、佑二さん」と言ったので、思わず夏木と顔を見合わせた。
「どうしたんだ、お店は?」
田中は、すみれの横の席を女性に薦めた。彼女は颯爽とコートを脱いで入口のハンガーにかけてから、その席にやってきた。
「表の道で水道管の工事中に何か予想外のことが起こってしまったんですって。それで今夜は水道が使えなくなってしまって臨時休業。こんな稼ぎ時に、困っちゃう。でも、せっかく夜がフリーになったから、お邪魔しようと思ったのよ。何年ぶりかしら」
それから夏木とすみれに、微笑んで会釈をした。
田中は、女性におしぼりを渡しながら二人に言った。
「こちらは伊藤涼子さん。昔からの知り合いで、今は神田にお店を出す同業者なんです。涼ちゃん、こちらは夏木さんと久保さん、よくいらしてくださるお客様」
『知り合い』にしては親しそうだなと思ったけれど、そんなことを詮索するのは失礼だろうと思って、すみれは別のことを訊いた。
「神田のお店ですか?」
「はい。同業者といっても、こちらのような立派なお店ではなくて、二坪ほどの小さな和風の飲み屋なんです。『でおにゅそす』と言います。お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りくださいね」
すみれはこの『Bacchus』に来るまでバーに足を踏み入れたこともなかったが、和風の飲み屋はさらに遠い世界だった。大人の世界に足を踏み入れられるかと思うと、嬉しくて大きく頷いた。夏木も嬉しそうに頷いた。
彼らの様子を微笑ましく見てから、田中は涼子に訊いた。
「何を飲みたい? あの頃と同じ、ウイスキー・ソーダ?」
涼子は懐かしそうに微笑みながら答えた。
「それも悪くないけれど、外がとても寒かったから、よけい冷えそう。よかったら、ウイスキーを使って、何か冬らしい体の温まる飲み物を作ってくださらない?」
ほんの少し考えてから、田中は何かを思いついたように微笑んだ。
「アイリッシュ・アフタヌーンにしようか。暖かい紅茶をつかった飲み物だよ」
涼子だけでなく、すみれと夏木も興味深そうに田中を見た。彼はカウンターに緑色のラベルのタラモアデュー・ウイスキーを置いた。
「ウイスキーの中では、市場に出回っている量は少ないんだが、このアイリッシュ・ウイスキーは飲みやすいんだ。憶えているかわからないけれど、君にあのとき出したウイスキー・ソーダは、これで作ったんだ」
彼は紅茶を作ると、ウイスキーとアマレット、そしてグレナデンリキュールをグラスに入れてから香りが飛ばないようにそっと注ぎ、シナモンスティックを添えて涼子に出した。
「へえ。これがアイリッシュ・アフタヌーンっていうカクテルなの?」
すみれは身を乗り出して訊いた。
田中は笑って言った。
「便宜上、アイリッシュ・アフタヌーン、もしくはアイリッシュ・アフタヌーンティーと呼んでいますが、アイルランドでは特別な名前もないくらいありふれたの飲み物のようですよ」
「焼酎のお湯割みたいなものかな」
夏木もすみれごしに香り高い紅茶を覗き込んだ。
「お二人もこれになさいますか? 久保さんにはすこし薄くして」
田中が訊くと、二人は大きく頷いた。
田中は、すみれ用にはアルコールをずっと減らしたものを、アルコールを受け付けない体質の夏木にはグレナデンシロップを入れたものを出した。夏木の前に出てきたのは甘い紅茶でしかないのだが、女性二人のところから漂う香りで一緒に飲んでいる氣分が味わえる。
三人が湯氣を立てるグラスを持ち上げて乾杯をするのを眺めながら、田中は若かった頃のことを思い出していた。
いま夏木が座っている位置に、涼子の姉、田中の婚約者だった紀代子がいた。開店準備をしていた午後に三人でなんということもない話をしていた。涼子はウイスキー・ソーダを傾けながらよく笑った。
紀代子が黙って彼の元を去って、姿を消してしまってから、氣がつくと二十年以上が経っている。あの幸せだった時間も、それに続いた虚しく苦しかった日々も、ガラス瓶の中に封じ込められたかのように止まって、彼の心の奥にずっと眠っていた。彼は仕事に打ち込むことで、その思い出に背を向けてきた。
久しぶりに紀代子のことを考えても、以前のような突き刺すような痛みもやりきれない悲しみも、もう襲っては来なかった。
そういえば、涼子の姿を見たのもあの歳の暮れ以来だ。そんなに歳をとったようには見えないけれど、彼女も尖った感じがなくなり、柔らかく深みのある大人の女性になった。
彼は、タラモアデュー・ウイスキーの瓶をきゅっと閉めてから、棚に戻した。他の瓶の間に何げなく納まったその瓶は、照明の光を受けて煌めいた。毎年この季節になると飾るクリスマスツリーの赤い球にも、照明は同じ光を投げかけている。彼の城であるこの店は、平和なクリスマスと年末を迎えようとしていた。温かいカクテルから漂うまろやかな香りの中で。
彼は、ひとつ小さく息を吸い込んだ。いつもの接客する店主の心持ちに戻ると、彼の大切な客たちをもてなすために振り向いた。
アイリッシュ・アフタヌーン(Irish Afternoon)
アマレット:20ml
グレナデンリキュール:10ml
アイリッシュ・ウイスキー:20ml
シナモンスティック:1本
暖かい紅茶:適量
作成方法: アイリッシュ・ウイスキーとグレナデンリキュールとアマレットをグラスに入れた後、香りが飛ばないようにゆっくりと暖かい紅茶を入れて混ぜ合わせる。
(初出:2016年11月 書き下ろし)
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肉まんに再トライ

ずいぶん前に、手作り肉まんの話題をアップしたのですが、先日、再トライしてみました。
実は、日本に行った時に、製パン用の麺棒を購入してきたんですよ。もちろんスイスにも製パン用麺棒は売っていますが、巨大でしまう場所に困るので、買うのを躊躇していたんです。前回肉まんを作った時には、瓶を使ったんですがそれでは薄くするのに限界があり、いまいちな皮にしかなりませんでした。
で、日本で売っている「皮がくっつかない、空氣抜きもできる麺棒」を買ってきたんです。
それを使ったら、あらあら、ずいぶん簡単にきれいに伸ばせるじゃないですか。(あたりまえ)
包むのも簡単できれいにできましたよ。見かけがずっとよくなって美味しく感じられました。

実は、今回は怪我の功名で、前よりも美味しくできたことがもう一つありました。一般的なレシピはベーキングパンダーで作るものがほとんどなんですけれど、たまたま我が家ではベーキングパウダーを切らしていました。でもどうしても食べたくなってしまったので、わざわざネットで探してドライイーストで発酵するレシピを探したんです。
そうしたら、前よりもフカフカに蒸し上がったんです。大満足でした。
しょっちゅう作るものではないし、次回から我が家ではこうやって作ろうと思います。
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駅弁が好き
日本で安請け合いしてきたことがいろいろとたまっている上、向こうで全く書けなかった小説のためにいろいろとお尻に火がついています。
というわけで。今日は、こんな話でお茶を濁します。

時おり小説にも書いたりしているので、薄々バレているかもしれませんが、私は駅弁が好きです。
工夫を凝らした地方ごとの名物のお弁当もいいんですけれど、実はオーソドックスな幕の内系が一番好きかもしれません。
連れ合いに言われて氣がついたのですが、外国人はご飯やおかずが冷めているような食事はあまり好きじゃないらしいのですが、私自身はコンビニで「温めますか?」といわれてチンしてもらうお弁当よりも、冷めている駅弁の方が好きです。なぜだろう。
駅弁が好きなのは、高校生ぐらいの時に、東海道本線の鈍行で一人旅をした時の記憶が擦り込まれているからのように思います。熱海の祖母のところに一人で行ったんですよね。
海を眺めながら駅弁を食べるのがものすごい贅沢に思えたんですよ。
今回帰国した時も、何回か駅弁を食べたんですが、一度はこういう何でもない幕の内を食べました。死ぬまでにあと何回食べられるかなあ。ノスタルジーにあふれた食事です。
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【小説】最後の晩餐
いただいたリクエストはこちらでした。
舞台は、アフリカのどこか(夕さんのお気に入りの場所、もしくは書いてみたいけれど、まだ書いていない場所)。キーワードは最後の晩餐。
で、全く違う話を書いてもよかったんですが、ちょうどアフリカの話を書いている途中だったので、他の登場人物は頭の中にでてきませんでした(笑)というわけで、こんなお話になりました。
この作品の主人公を知らないと思われても、ご心配なく。(ほとんど)初登場ですから。それにしても、本当に何もかもネタバレになっているな。ま、いっか。
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郷愁の丘・外伝
最後の晩餐
そっとドアを押して、台所を覗き込んだ。埃っぽく、あいかわらずきちんと掃除のされていない室内は、どこか饐えた匂いがした。転がっている空の酒瓶の多くには埃がたまりだしていて、それが彼の母親が迎えにくる時も決してこの家の中に足を踏み入れたがらない理由のひとつだった。
それでもこれが見納めになるのかと思うと、この酒瓶ですら彼をセンチメンタルな心地にした。
「おじいちゃん?」
彼は、小さな声で祖父を呼んだ。答えはなく、彼は壁に新しくかかっている絵の人物と目が合ったような氣がして、思わず近寄った。
それは額にすら納まっていなかった。どこかの雑誌から鋏で乱雑に切り取ったペラリとした一枚の絵画の写真で、画鋲で直接壁に刺さっていた。ブルーグレーや褪色したオレンジ色の服を着た人物が何人もいて、食卓を囲んでいる。暗いグレーの天井や、元は白かったのだろうが薄汚れて見える壁、全体に色褪せてしまった色合いが、埃にまみれて疲れていくこのだらしない台所のうら寂しさと妙にマッチしていた。
食事中のようなのに、ある者は立ち上がり、大きな身振りで語り合い、もしくは恐慌をきたしていた。真ん中の人物と、その左側にいる人物だけは穏やかな顔をしているが、それが何を意味するかは彼にはわからなかった。
「それに氣がついたか、グレッグ」
声がしたので振り返ると、祖父が立っていた。あいかわらず汚れたシャツを着て、残り少ない髪はもじゃもじゃに乱れていた。
「おじいちゃん」
「それは『最後の晩餐』っていう絵なんだ。今日にふさわしいと思ってかけておいたのさ」
「これが? 誰の絵?」
「イタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチっていう有名な画家さ。キリストが磔にされる前の晩餐会の様子を示しているんだとさ」
そういいながら、祖父は戸棚からコンビーフ缶を取り出して開けた。洗ってある食器と、洗っていないと思われる調理器具がごちゃごちゃに置いてある山のようなところから、器用にフライパンを取り出すと、いくらか角度を変えながら眺めて、納得したように頷くとそのままコンロのところに持っていった。
グレッグ少年には、祖父が「洗わないでもそのまま使えそうだ」と判断したことがわかった。実際に同じように準備された焼きコンビーフを彼は既に何度も口にしていたが、とくにお腹が痛くなったこともなかったので、意見はいわないことにした。
最後の晩餐と言っても、祖父が彼に作る食事はいつもと一緒だった。スライスして焼いたコンビーフ、カットされたパンにマーマイトを塗る。運がよければ、生のトマトがカットされてついてくることもあった。それだけだ。
この祖父の息子とはとても思えない几帳面な父親は、滅多に料理はしなかったが、する時はきちんとしたステーキに、シャトー型に切った人参とジャガイモ、完璧な固さに茹でられているが鮮やかな色を失っていないインゲン豆などをきちんと用意した。英国風のミンスミートやキドニーパイが得意な母親も、料理以前に混沌の極みにある義父の台所を料理をするところだとは認めなかった。非常に仲が悪くどんな小さなことにも反発し合う夫婦だったが、グレゴリー・スコットの家で食事をすることだけは決してしないことで意見が一致していた。
だから、両親の離婚にともない、イギリスへと移住することになったグレッグ少年が、最後に祖父のところにお別れに行きたいと言った時には、二人とも馬鹿にしたような顔をした。
グレッグは、コンビーフを焼いている祖父の横に行き、片付けていない洗った食器の山から、そっと皿を二枚取ると、テーブルのところに持っていった。まずは、テーブルに載っている沢山のいらないもの、請求書や古いクリスマスカード、それに空になったグラスなどを片付けて、皿を二つ置くスペースを作らねばならなかった。それからカトラリーをなんとか二組見つけ出して、皿の脇に置いた。
固くなったパンと、きれいなグラスもみつけてテーブルに置いてから椅子に座り、壁の『最後の晩餐』を眺めた。
「この人たちもコンビーフを食べていたのかな」
そう訊くと祖父はゲラゲラ笑った。
「この時代にはまだ缶詰はなかっただろうよ。それはそれそうと、つい最近終わった修復で面白いことがわかったんだぞ」
祖父は、絵の近くにやってきて目で示した。
「ここにパンがあるだろう? 聖書では、キリストはユダヤ教の伝統的な過ぎ越しの祭を祝ったことになっているんだ。イーストの入っていないぺっちゃんこのパンと、子羊の丸焼きを食べる伝統なんだ。それなのに見てみろよ、このパンは膨らんでいるし、それに料理は子羊じゃなくて魚料理なんだとさ。この画家、自分の好きな料理を描いたのかもしれないぞ。伝統なんてクソ食らえってさ」
食事は、いつも通りに進んだ。祖父は安物のワインをたくさん傾けて、同じような話をろれつの回らない口調で繰り返した。
「それで。いつイギリスへ発つんだ」
「来週の月曜日。来月から、あっちの学校に通うんだって」
「そうか。ロンドンってのは面白いモノのある大都会だって言うからな」
「おじいちゃん。僕が行くのはバースってところだよ」
「そうか。そうだったな。ともかく、そこに行ったら、ケニアやじいちゃんのことなんてすぐに忘れてしまうさ」
少年が「そんなことはない」と言おうとした時に、電話が鳴った。話している様子から、それは祖父が最近懇意にしているアリトン家の後家だということがわかった。
「今、孫が来ているけれど、すぐに帰るから、後でそちらに寄るよ」
もうそろそろ帰ってほしいということなのかもしれないと思った。すぐに忘れてしまうのは僕じゃなくて……。グレッグは、バラバラになったコンビーフの塊が喉につかえそうになるのを、無理に水で流し込んだ。
母親の車がやってくるのを待ちながら、グレッグ少年と祖父は、夕陽が真っ赤に染める丘を眺めていた。アカシアの樹のシルエットを彼は瞳に焼き付けようとした。バースになんて行きたくない。いられるものならば、ずっとここにいたい。
でも、父親は彼を手元においておきたいとはまったく思っていないらしかった。母親も、話すのは「少しは愛想よくして、新しくお父さんになる人に嫌われないようにしてちょうだい」というようなことばかりだった。唯一彼を可愛がってくれたと感じられる祖父ですら、酒瓶やアリトン家の後家ほどの関心は持ってくれていない。ここには、僕のいられる場所なんてないんだ。
遠くから、母親の運転するシトローエンが砂埃を巻き上げて近づいてくる。
「来たな」
祖父は、少し感傷的な声を漏らすと、グレッグをぎゅっと抱きしめた。
「元氣で頑張れよ、小さいグレッグ」
「うん。おじいちゃん。さようなら」
こんばんは、グレッグ。
この間の手紙を送ったあと、ニューヨークはひどい悪天候に見舞われたのよ。ハリケーンがやってくるような季節じゃなかったので、とても驚いたわ。クライヴは、こんな恐ろしい嵐は初めてだって、彼のお店にも行かないで、ずっと《Sunrise Diner》でお茶ばかり飲んでいたから、クレアがとても怒ってしまって、彼のトレードマークの傘を取り上げてしまったの。おかしかったわ。あなたもアフリカに帰るまではずっとイギリスにいたのよね。ハリケーンみたいなひどい嵐は、想像もつかないかしら?
ケニアは今、少雨期だったわね。《郷愁の丘》にシマウマたちが戻ってくるのを想像して、また行きたくなってしまったわ。だから、次の休暇で、イタリアに行くのはやめて、またケニアに行く案も考えたのよ。
でも、あなたからの問い合わせに少しびっくりしているの。
レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』は、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラーチェ教会にあるのよ。そして、私の家族の故郷は、北イタリアなのでどちらにしてもミラノが基点になるの。もし、あなたも北イタリア旅行に興味があるのならば、私の休暇の時期をあなたの旅行に合わせてもいいのよ。
私のルーツ探しにはあまり興味がないかもしれないけれど、『最後の晩餐』の本物を見るチャンスだし、それ以外にもイタリアはアメリカともケニアともまったく違う文化と景色で、あなたを深く魅了すると思うわ。ウンブリア平原やフィレンツェにも、ダ・ヴィンチに縁の場所がたくさんあるの。きっとあなたにとっても有意義な旅になるはずよ。それに、あなたはイタリア料理をとても好きだったじゃない?
大して上手じゃないけれど、簡単なイタリア語通訳ぐらいはできると思うわ。いい返事を聴かせてね。あなたの友達、ジョルジア
彼は、放心したように手紙を見つめていた。
ジョルジアへの手紙に『最後の晩餐』のことを書いたのは、イタリアヘ行くという彼女の言葉にセンチメンタルな想いを呼び起こされたからだ。今は亡き祖父が、壁に貼付けていた『最後の晩餐』の印刷された紙は、彼がケニアに戻ってきて祖父の遺産を相続した時にはとっくになくなっていた。
あの絵のことをずっと考えていたわけではない。だが、ここしばらくあれも何かの符号だったのかもしれないと考えていた。まったく何の因果もなかったイタリアという国にいつか行ってみたいと思いつづけていたのは、祖父との最後の思い出に端を発しているのかと。そして、偶然出会い、心に住み着いてしまった女性がただのアメリカ人ではなくて、イタリア文化を色濃く受け継いでいたことにも、ただの偶然では片付けられない何かを感じていた。
だから、彼女が次の旅行先に、祖父母の故郷をめぐることを考えていると書いて来た時に、「行けるものなら、僕もいつかイタリアに行ってみたい。でも、きっと夢で終わるんだろうから、代わりに、あの絵の小さなポスターか大きめの絵はがきを送ってくれないだろうか」と頼んでみたのだ。彼女の返事は彼の予想を大きく超えていた。
一緒に旅行を? そんな多くを望んだつもりはなかった。いつかイタリアを旅してみたいと書いた時には、共に行くことを夢見ながら彼女が訪れた場所を一人で辿ることを想像していただけだ。もちろん一緒に行きたい、彼女もそれを望んでくれるならば。
彼は、スケジュールを確認した。この秋には抜けることのできない大事な学会や会議などはない。調査の方はいない分だけ抜けてしまうが、毎年のことではないし諦めることができる。問題は費用だ。彼はどうしたら旅費が捻出できるか計算した。
それからアメリカ人ダンジェロ氏からの援助のことを思い出した。ジョルジアが、ダンジェロ氏の妹であると知った時は驚いたが、結局彼女の口添えがあったからこそ、地味な研究をする自分に助成金を出してもらえることになったのだ。
これまで、切り詰めて食べていくのが精一杯だったが、研究さえ続けられればいいと思っていたので、それ以外のことをする経済的余裕がないことを残念と思ったこともなかった。学会と関係のない純粋な休暇旅行など一度も行こうと考えたことがなかった。
けれど、もうその心配はしなくていいのだ。ダンジェロ氏から定期的に振り込まれる助成金で、生活費を削ることなく、不在時のシマウマ調査を他の人間に頼むこともできるし、二週間程度の休暇ヘ行く費用もある。
あの絵の実物を見に行くのだと、それも、心から大切に想う女性と一緒にイタリアに行くのだと知ったら、墓の下で眠る祖父はなんというだろうかと考えた。『最後の晩餐』にも描かれたイタリアのパンと、魚料理を食べて、その味を報告したら、彼は笑ってくれるだろうか。
彼は、ジョルジアに快諾の返事を書くために、自室のデスクに向かった。
(初出:2016年11月 書き下ろし)
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【動画】「郷愁の丘」プロモーション
来年のscriviamo!が終わったあたりから、ぼちぼち発表しようと思っている(もっとも第1回の部分はもう発表済みなんですけれど)のが「郷愁の丘」という作品です。「大道芸人たち」や「森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠」はどうしたというつっこみは置いておいて(笑)
「郷愁の丘」は、「ファインダーの向こうに」の続編にあたる短編集「ニューユークの異邦人たち」シリーズの番外編としていますが、「ファインダーの向こうに」の直接的な続編ともいえる作品で、舞台はニューヨークではなくてほとんどケニアになります。というわけで、こういう動画になりました。
制作は、いつものようにAppleのiMovieで、使った映像は、動画のラストにも書いてありますが、NHKクリエイティブ・ライブラリーのものです。ここには明記さえすれば自由に使える動画がたくさんあるのです。
いろいろと思わせぶりなことが書いてありますが、まあ、こういう話です。なぜネタバレを氣にしないのかというと、あらすじがネタバレするかどうかはまったく重要ではないから。まあ、私の小説は、みんなそんな感じですが。
そして、この時期にいきなりプロモーションをするのは、そうなんです。水曜日に発表する番外編が、本編を飛び越して思いっきりネタに触れているからなんですね。先に少しでも、こんな話だとお知らせしておこうかなと思いまして。
番外編、そして来年発表の本編、ともにどうぞよろしくお願いします。
参考
![]() | 「ファインダーの向こうに」を読む あらすじと登場人物 |
![]() | 「郷愁の丘」を読む(第1回のみ公開済み) あらすじと登場人物 |
![]() | 「ニューヨークの異邦人たち」 |
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エイランタイの飴

風邪をひくと言っても、人によって出やすい症状が違うと思います。私の場合、いつも長く苦しむのは、咳が止まらなくなることなんですね。夜寝る時もつらいですが、仕事中に突然止まらなくなるのもつらい。
そういうわけで、風邪を引いたらすぐにドロップを用意します。
日本から帰ってくるときの飛行機でちょっと風邪をもらったようで、今もドロップが必要なんですね。
で、手持ちのスイスではとても有名な会社(Ricola)のレモンバーム飴の箱を眺めていたら「ノンシュガー」だったんです。何の甘味料が入っているのかよく見たらアステルパームだったので「う〜ん」となりました。私はアステルパームよりはただの砂糖の方がいいと思っているので、別の飴を探しにいきました。
同じ会社でも、人工甘味料ではなくて砂糖を使ったものもあったのですが、私が普段買い物に行くMigrosというスーパーマーケットは、プライヴェートブランドを中心に商品を揃えていて、Ricolaはなかったのですが、ほぼ同じような飴があったので、それを買ってきました。(写真の奥の品)
そして、すぐ近くの棚に見かけない飴の袋を発見。「アイルランドの苔のタブレット」とあります。つまり、これ「エイランタイの飴」じゃないですか!
と言ってもなんだかわからないかと思いますが、つい最近「雪降る谷の三十分」という小説を書く時に使った地衣類がエイランタイなんです。北欧の方ではパンにもしたりするらしいんですが、昔から解熱や腹痛などの民間薬として使われている有用な植物、というところまではそれでわかったんですけれど、現代のスイスでも民間薬として使われているとは思っていませんでした。
咳やのどの痛みに効くタブレットとして売られていました。エイランタイは苦いというのでこわごわですが、せっかくだからどんな味か知りたくて思って買ってきました。まだ咳は時々出ますし。
食べたら「なんだこれ。アニスキャンディじゃない」という味でした。原料を確認するとスペイン甘草も入っています。割合からするとエイランタイエキスよりもずっと多いんですね。抗酸化作用が強く、リコリス菓子というヨーロッパでは愛される黒いスパゲティみたいな妙なお菓子にも使われる植物です。アニス味はけっこう好まれるし、健康にいいと言うイメージもありますね。
そして、ずっと舐めていると、確かに最後の後味がちょっと苦いです。もっとも「良薬口に苦し、うわっ。まずっ」という類いの苦みではなく、「言われてみれば、ちょっと……」程度。うむ。これなら食べるのは苦にならないし、けっこう効果があるかもしれないと思いました。
そこにやってきたのが、連れ合いです。エイランタイの飴の袋を見て「わっ。なつかしい!」と叫びました。どうやら彼が子供の頃に、彼のお父さんがよく舐めていたようです。つまりかなり昔からある飴らしい。
小説を書いて、よくわからずに使った題材に興味を持ち……というパターンは時々あるんですが、今回はいいものを知ってしまった、とホクホクしています。
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【小説】ジョゼ、日本へ行く
ご希望の選択はこちらでした。
*現代日本
*薬用植物
*地元の代表的な酒/もしくは嗜好飲料
*城
*ひどい悪天候(嵐など)
*「黄金の枷」関係
「黄金の枷」シリーズの主要キャラたち、とくに「Infante 323 黄金の枷」の主人公たちは設定上、今回のリクエストの舞台である日本には来ることが出来ないので、同じシリーズのサイドストーリーになっているジョゼという青年の話の続きを書かせていただきました。できる限り、この作品の中でわかるように書かせていただきましたが、意味不明だったらすみません(orz)
このキャラは、山西左紀さんのところのミクというキャラクターと絡んでいるんですが、全然進展しないですね。新キャラを投入して引っ掻き回していますが、私の方にはまったく続きのイメージがありません(なんていい加減!)この恋路の続きは、サキさんに全権委任します。
【参考】
小説・黄金の枷 外伝
![]() | Infante 323 黄金の枷 |
黄金の枷・外伝
ジョゼ、日本へ行く
すごい雨だった。雨は上から下へと降るものだと思っていたが、この国では真横に降るらしい。それも笞で打つみたいに少し痛い。痛いのはもしかしたら風の方だったかもしれないが、そんな分析を悠長にしている余裕はなかった。目の前を立て看板が電柱から引き剥がされて飛んでいき、とんでもないスピードで別の電柱に激突するのを見たジョゼは、危険を告げる原始的なアラームが大脳辺縁系で明滅するのを感じてとにかく一番近いドアに飛び込んだ。
それは小さいけれど洒落たホテルのロビーで、静かな音楽とグロリオサを中心にした華やかな生花が高級な雰囲氣を醸し出していた。何人かの日本人がソファに座っていて、いつものようにスマートフォンを無言でいじっていた。
風と雨の音が遠くなると、そこには場違いな自分だけがいた。びっしょり濡れて命からがら逃げ込んできた人間など一人もいない。
「ジョゼ! いったいどうしたのよ」
エレクトラが、落ち着いたロビーの一画にあるソファに座って、薄い白磁でサーブされた日本茶と一緒にピンクの和菓子を食べていた。
ジョゼは、とある有名ポートワイン会社の企画した日本グルメ研修に、勤めるカフェから派遣された。彼が職場の中でも勉強熱心で向上心が強いウエイターであるからでもあったが、日本人とよく交流していて仕事中にも片言の日本語で観光客を喜ばせているのも選考上で有利に働いたに違いない。
彼は、日本に行けることを喜んだ。彼の給料と休みでは永久に行けないと思っていた遠くエキゾティックな国に行けるのだ。そしてその国は、なんと表現していいのかわからない複雑な想いを持っているある女性の故郷でもある。ああ、こんな言い方は卑怯だ。素直に好きな人と認めればいいのに。
話をややこしくしている相手が、目の前にいる。日本とは何の関係もないジョゼの同国人だ。幼なじみと言ってもいい。まあ、そこまで親しくもなかったんだけれど。
エレクトラ・フェレイラは、ジョゼとかつて同じクラスに通っていたマイアの妹だ。フェレイラ三姉妹とは学校ではよく会ったが、それはマイアの家族が引っ越すまでのことで、その後はずっと会っていなかった。ひょんなことから彼はマイアの家族が再び街の中心に戻ってきたことを知った。
快活で前向きな三女のエレクトラは、小さいお茶の専門店で働いている。ジョゼの働いているカフェのように有名ではないし、従業員も少ないのでいくら組合の抽選で当たったとはいえ、休みを都合して日本へ来るのは大変だったはずだ。それを言ったら彼女はにっこり笑って言った。
「だってジョゼが行くって知っていたもの。一緒に海外旅行に行くのはもっと親しくなる絶好のチャンスでしょう」
「え?」
「え、じゃあないでしょう。そんなぼんやりしているから、そんな歳にもなって恋人もいないのよ。マイアそっくり。もっともマイアだって、さっさと駒を進めたけれどね」
「あのマイアに恋人が?」
エレクトラは、人差し指を振って遮った。
「恋人じゃないわ、夫よ」
「なんだって?」
「しかも、もうじき子供も生まれるんですって」
「ええええええええ?」
「彼女、例の『ドラガォンの館』の当主と結婚しちゃったの。全く聞いていなかったから、のけぞったわ。私たちが知らされたのは結婚式の前日よ」
「マイアが?」
「あ。なんかの陰謀じゃないかって、今思ったでしょう」
「いや、そんなことは……」
「嘘。私も思ったわよ。でもね。結婚式でのマイアを見ていたら、なんだ、ただの恋愛結婚かって拍子抜けしちゃった。あの当主のどこがそんなにいいのかさっぱりわからないけれど、マイアったらものすごく嬉しそうだったもの」
「僕に知らせてもくれないなんて、ひどいな」
「仕方ないわよ。おかしな式だった上、それまでも、それからも、私たちですらマイアに会えないんだもの。妙な厳戒態勢で、私たちが結婚式に列席できただけで奇跡だってパパが言っていたわ」
意外な情報にびっくりして、ジョゼは目の前の女の子に迫られているという妙な状況も、自分には好きな女性がいると告げることもすっかり意識から飛ばしてしまった。だから、最初にきっぱりと断るチャンスを失ってしまったのだ。それにエレクトラは、ものすごい美人というわけでもないが、表情が生き生きとしていて明るく、会話が楽しくて魅力的なので、好かれていることにジョゼが嬉しくないと言ったら嘘になった。
この旅に出て以来、エレクトラはことあるごとにジョゼと行動を共にしたがった。彼は、曖昧な態度を見せてはならないと思ったが、朝食の席がいつも一緒になってしまい、一緒に観光するときも二人で歩くことが増えて、周りも「あの二人」という扱いを始めているくらいなのだった。
「一体、何をしてきたのよ、そんなに濡れて」
「あの嵐でどうやったら濡れずに済むんだよ」
エレクトラは肩をすくめた。
「この台風の中、地下道を使わないなんて考えられないわ」
彼女が示した方向にはガラスの扉があり、人々が普通に出入りしていた。ホテルは地下道で地下鉄駅と結ばれていたのだ。ジョゼはがっかりした。
彼女はバッグからタオルを取り出すと、立ち上がって近づき、ジョゼの髪や肩のあたりを拭いた。
「日本では、水がポタポタしている男性は、いい男なんですって。文化の違いっておかしいと思っていたけれど、案外いい線ついているのかもしれないわね」
エレクトラの明るい茶色の瞳に間近で見つめられてそんなことを言われ、ジョゼはどきりとした。けれど、彼女はそれ以上思わせぶりなことは言わずにタオルを彼に押し付けるとにっこり笑って離れ、また美味しそうに日本茶を飲んだ。
「明日からは晴れるらしいわよ。金沢の観光のメインはお城とお庭みたいだから、晴れていないとね」
あの嵐はなんだったんだと呆れるような真っ青な晴天。台風一過というのだそうだ。 ジョゼは、まだ少し湿っているスニーカーに違和感を覚えつつ、電車に乗った。ただの電車ではない。スーパー・エクスプレス、シンカンセンだ。
「この北陸新幹線は、わりと最近開通したんですって。だから車両の設備は最新なのね」
エレクトラは、ジョゼの隣に当然のように座り、いつの間にか仕入れた情報を流した。彼は、ホテルや町中のカフェなどと同じように、この特急電車のトイレもまた暖かい便座とシャワーつきであることに氣づいていたので、なるほどそれでかと頷いた。
この国は不思議だ。千年以上前の建物や、禅や武道のような伝統を全く同じ姿で大切に継承しているかと思えば、どこへ行っても最新鋭のテクノロジーがあたり前のように備えてある。それは鉄道のホームに備えられた転落防止の扉であったり、妙にボタンの多いトイレの技術であったり、雨が降るとどこからか現れる傘にビニール袋を被せる機械であったりする。
クレジットカード状のカードにいくらかの金額を予めチャージして、改札にある機械にピタンとそのカードを押し付けるだけで、複数の交通機関間の面倒な乗り換えの精算も不要になるシステム。40階などという考えられない高層にあっという間に、しかも揺れもせずに運んでくれるエレベータ。
ありとあらゆる所に見られる使う側の利便を極限まで想定したテクノロジーと氣遣いは、この国では「あたりまえ」でしかないようだが、ジョゼたちには驚異だった。
それは、とても素晴らしいことだが、それがベースであると、「特別であること」「最高のクラスであること」を目指すものには、並ならぬ努力が必要となる。
ジョゼは、街で一二を争う有名カフェで働いていて、だから街でも最高のサービスを提供している自負があった。ただのウェイターとは違うつもりでいたけれど、この国からやってきた人にとっては、ファーストフードで働く学生の提供するサービスとなんら変わりがないだろう。
彼女は、ミュンヘンで彼のことを好きだと言った。あまりにもあっさりと言ったから、たぶん彼の期待したような意味ではないんだろう。知り合った時の小学生、弟みたいな少年。あれから月日は経って、背丈は追い越したけれど、年齢は追い越せないし、住んでいる世界もまるで違う。もともとはお金持ちのお嬢様だったとまで言われて、なんだか「高望みはやめろ。お前とは別の次元に住んでいる人だ」と天に言われたみたいだ。そして、彼女の故郷に来てみれば、理解が深まるどころか民族の違いがはっきりするばかり。
「なんでため息をついているの?」
エレクトラの問いにはっとして意識を戻した。「なんでもない」という事もできたけれど、彼はそうしなかった。
「この国と、僕たちの国って、大きな格差があるなって思ったんだ」
そういうと、彼女は眉をひとつ上げた。
「格差じゃないわ。違いでしょう。私は日本好きよ。旅行には最高の国じゃない。まあ、同化していくのは難しそうだから、住むにはどうかと思うけれど。結局のところ、物理的にも精神的にも、この国と人びとは私たちからは遠すぎるわよね」
台風は秋を連れてくるものらしい。それまでは夏のようなギラギラとした陽射しだったのに、嵐が過ぎた後は、真っ青な空が広がっているのに、どこか物悲しさのある柔らかい光に変わっていた。
金沢城の天守閣はもう残っていない。もっとも堂々たる門や立派な櫓、それに大きく整然としたたくさんの石垣があるので、エキゾティックなお城を見て回っている満足感はある。
何百年も前の日本人が、政治の中心とは離れた場所で、矜持と美意識を持って独自の文化を花咲かせた。それが「小さい京都」とも言われる金沢だ。同じ頃に、ジョゼの国では世界を自分たちのものにしようと海を渡り独自の文化と宗教を広めようとした。かつての栄誉は潰えて、没落した国の民は安い給料と生活不安をいつもどこかで感じている。
ジョゼたち一行は、金沢城を見学した後、隣接している兼六園を見学した。薔薇や百合や欄のような華やかな花は何ひとつないが、絶妙なバランスで配置された樹々と、自然を模した池、そして橋や灯籠や東屋など日本の建築がこれでもかと目を楽しませる。枯れて落ちていく葉も、柔らかい陽の光のもとで、最後の輝きを見せている。
「この赤い実は、
「こちらの黄色い花はツワブキといいます。茎と葉は火傷や打撲に対する湿布に使います。またお茶にすると解毒や熱冷ましにもなる薬用植物です」
ガイドが一つひとつ説明して回る花は、見過ごしてしまうほどの地味なものだが、どれも薬になる有用な植物ばかりだ。
「野草をただ生えさせておいたみたいに見えるのに、役に立つ花をいっぱい植えているのねぇ」
エレクトラが言った。
地味で何でもないように見えても、とても役に立つ花もある。そう考えると、没落した国の民、しがないウェイターでも、なんらかの役割はあるのかもしれない。それが
なんだかなあ。彼女の国に行ったら、いろいろな事がクリアに見えてくるかと思っていたのに、反対にますますわからなくなっちまった。ジョゼはこの旅に出てから20度目くらいになる深いため息をついた。
(初出:2016年11月 書き下ろし)
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そんなに買うな
スーツケースと大きめのボストンバッグに入った荷物。私が乗った飛行機では23キロの荷物2つまで預けて持ってくることができます。というわけで普段は船便で別送する荷物も全て一緒に飛ぶことにしたのです。ただし、さすがにこんなものは持てないので、実家から成田空港までは宅急便で、成田空港からはスイス国鉄のサービスも利用して、直接最寄り駅まで送ってもらったのです。そのおかげで荷物を受け取るのが日曜日の朝になったわけなんですが。

さて、無事に届いたウルトラ重い荷物を開けて、土産物を整理しました。
靴が増えています。今回はちょうど欲しかったショートブーツと「20キロ歩ける」というパンプスを購入してきました。こちらでも靴は買えるんですけれど、こういう至れり尽くせりな機能のある靴は、こちらでは見つけるのがちょっと難しいのです。
同様に文房具の類いで、こちらでは手に入らないようなもの、それに100円ショップの商品でこちらだとかなり高くつくものを買い込んでいます。洗濯ネットとか、小さめのトングなどですね。

食品もたくさん持ちこみました。数でいうとお菓子が多いですね。子供の頃に一度に買えなかったお菓子を大人買いしています。かなりノスタルジーが入っています。あ、コーヒービートは、連れ合いからのお願いで買ったものです。
ふりかけに、サンショウの粉、粉醤油。レトルトカレーやミニインスタントラーメンも。普段はそういうものは食べない(カレーは手作りする)のですが、たまに無性に食べたくなるのです。仁多米と仁多米で作ったお餅は重かったな。でも、しばらくは楽しめそうです。ここには写っていませんが、冬菇椎茸のスライスなども買ってきました。

今回は、器をたくさん買ってきてしまいました。九谷のミニ皿、蕎麦猪口ぐらいの大きさの器、それに茶器なのか盃なのかというサイズの器。これは、いくつか組み合わせてオードブルを盛る時に重宝するんですが、白磁のものと青い清水焼。無印良品では、お玉を立てておく器を。それにティファールの日本にしかない卵焼き器や、灰汁をとるお玉など日本のアイデア品をいろいろと。
買いすぎかなと思いますし、こうして並べるとすごいですが、日本には滅多に行かないし、金額も意外とささやかだし…いや、言い訳はやめよう。買いすぎです。orz
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またまたスイスです
遊び食べまくった日々は終わり、静かな我が家に無事戻りました。
しばらくは、片付けと、不在の間に連れ合いがやらかしてくれた我が家をちゃんとした状態に戻すこと、買ってきたものの整理、洗濯、調理などに忙殺される予定です。
日本滞在中は、皆様にたくさん遊んでいただき感謝しています。
これに懲りずに、また、ブログでのおつきあい、よろしくお願いします。
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小説「羊のための鎮魂歌」を紹介します
ブログ開設してすぐ、記事番号は6番ですから、お読みになった方はほとんどいないのではないかしら。
「羊のための鎮魂歌」
初出をご覧になるとお分かりいただけると思いますが、ものすごく過去に書いた作品です。
だから、書かれている時事も少し古いんですが、キャラクター(ひと組)はかなり自分で好きなのです。モチーフも趣味全開ですね。
このコンビの話はもう一本書いてあります。遠からずアップ予定です。
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御朱印をいただいて来ました

本当は流行りだからと始めるものではないのでしょうが、今回の旅で初めて御朱印をいただいてみました。
本当は写経をお納めした後でいただくものだったようですが、現在は寺社で幾らかお金をお納めすることで参拝の印である御朱印をいただけるようになっています。
義兄が仕事であちこち行くので集めているという話を聞き、最近よく訪問先の神社に参拝しているから、私もいただいてみようかなと思ったのです。
今回の旅で参拝した神社のうち、京都の神泉苑、金沢の尾山神社と金澤神社でいただいてきました。
似たような慣習はヨーロッパのサンチアゴ・デ・コンポステラ巡礼にもあって、スタンプラリーとは違いますが、いただいた印を眺めて、ああ、ここに巡礼したなと後に振り返るのですね。
今回は三つで終わりますが、次回またいただこうかなと思っています。
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日本国内旅行が終わりました

六甲、神戸、京都、金沢と、急ぎ足で巡った旅行が終わりました。
かなり歳をとってきた母の希望に応えるかたちで回ったのですが、母のノスタルジーだけでなく 私自身のそれとも重なりました。
金沢は以前一人で来たことがあるのですが、今回はお城と兼六園回りをメインに回って来ました。神社をいくつも参拝し、石垣などをじっくり観察して、人々の想いや匠や文化に注目してきました。

日本酒も忘れずに飲んで来ました。
詳しくはスイスに帰宅してからゆっくり語りますね。
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【小説】大道芸人たち 2 (6)ミュンヘン、鍵盤 -2-
さて、チャプター1のラストシーンです。プロモーション動画で使った言葉の一つがここで使われています。
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(6)ミュンヘン、鍵盤 -2-
ミラノで会った時、蝶子たちはすでにArtistas callejerosとして一つの集団になっていた。にも関わらず、ヴィルはいつもの疎外感を感じなかった。
学校で、エッシェンドルフの館で、劇団『カーター・マレーシュ』で、はじめて何かの集団に入っていく時、ヴィルはいつも複数の人間による関係性の出来上がった集団とそれに対峙する一人の自分という立ち位置を意識させられた。
だが、Artistas callejerosはまだ出来上がっていなかった。しかも性格のまったく違う日本人二人とフランス人という妙な構成員で、やっていることもバラバラだった。彼らはヴィルに対して集団としてではなく、ただの個人として対峙した。そして、集団として語る時には、はじめからヴィルも含めていた。
一枚の絵はがきが回ってきて、それぞれが何かを書いていた。自分がそれに加わるとは夢にも思っていなかったのに、蝶子は当然のようにそれをヴィルにも書かせた。
「いつもみんなで書いているんだもの」
コーヒースプーンを振り回しながらそう言った蝶子の姿をヴィルは今でもはっきりと思い出す事が出来る。
自分が誰かを隠したまま、蝶子に冷たくつっかかっていた自分を、彼女はすでに仲間だと認めていてくれた。稔やレネもそうだった。これほど居心地のいい場所はなかった。すきま風の吹くドミトリーに泊まろうと、真夏の蒸し暑い日にドウランや化繊の衣装がどれだけ不快であろうと、ミュンヘンやアウグスブルグに戻りたいと考えた事はなかった。
お互いの事が少しずつわかるにつれ、ヴィルはなぜ三人がこれほど心地いい仲間でいるのか理解できた。彼らは誰もが属していた社会から逃げ出してきたアウトローだった。心の痛みをよく知っていた。人の痛みに敏感だった。
父親の死によって自分の境遇が大きく変わった時に、人々の態度は大きく変わった。とるに足らない私生児と見下してきた上流社会の人々も、父親への忠誠から距離を持っていた使用人たちも、口もきいてくれようとしなかった学校の同級生たちも、ヴィルに対して好意的な態度に変わった。劇団の仲間たちは、少しだけ距離を置いた物言いになった。
けれど、三人だけはまったく変わらなかった。エッシェンドルフ教授の息子だとわかった時にも、三人はまったく態度を変えなかった。だから、これからも変わらないだろう。ヴィルは三人と一緒に幸せになりたかった。降ってわいた幸運を等しく分かち合いたかった。
稔とレネは時間があると英国庭園に行って稼いでいた。そして帰りに大量のビールやワインを買ってきた。
エッシェンドルフの領主として、ヴィルは三人に二度と大道芸をしなくてもいいと言う事も出来た。だが、稔やレネだけでなく蝶子もまた、エッシェンドルフの居候として怠惰な生活を送りたいという氣持ちはなかった。ヴィルは彼らの意思を尊重したかった。
それに、ゆっくりはしていられない。そろそろアヴィニヨンに手伝いにいかなくてはならない。それが終わればコモの仕事もある。ヴィルはロッティガー弁護士と秘書のマイヤーホフと連日のように打ち合わせをし、領地の管理や相続の手続きを進め、自分が不在になる間の準備を進めた。蝶子は、葬儀の片付けや残った礼状の発送をし、ミュラーやマリアンとも話し合って家内の今後の事について取り決めをした。
長い事離れていたとはいえヴィルはコンクールで優勝するほどのフルートの腕前であり、さらに男爵家を相続した名士でもある。相続の話を聞きつけた教授の年若い弟子からは、教授の代わりにレッスンを見てくれないかという話が次々と持ち込まれた。ヴィルは丁寧に断ったが、マイヤーホフは不満だった。
「アーデルベルト様、大道芸の方はおやめになって、ここで落ち着かれるおつもりはありませんか」
マイヤーホフはためらいがちに訊いた。あの変な日本人やフランス人と手を切ればいいのに、という期待も混じった質問であった。
「あんたは職を失わなければ、それでよかったんじゃないのか?」
「私のためではなくて、あなたの事を言っているのです。ふさわしい暮らしに戻られる頃ではありませんか」
「俺はもともとあんたよりずっと下の出自なんだ。ヤスやブラン・ベックと一緒に大道芸をしている方がずっとふさわしく感じるよ」
「あなたは、彼らとは一緒ではありません。ご自分が一番よくご存知のはずです」
ヴィルは首を振った。
「あんたが言っているのは、社交マナーや立ち居振る舞いの事だろう。俺が親父にいろいろ叩き込まれたから。俺が言っているのは外側の事じゃないんだ」
マイヤーホフはそれ以上の事を言わなかった。
アーデルベルトに関しては、今は亡きエッシェンドルフ教授とマイヤーホフの意見は完全に一致していた。あの怪我の後、アーデルベルトが大人しく館に戻ったことは誠に好ましかった。教授の跡継ぎとして腹を決め、上流階級の娘と結婚してこのエッシェンドルフを引き継いでいく事こそ、完璧な外見と立ち居振る舞い、そして豊かな芸術性を持つこの青年にふさわしい事と思っていた。
しかし、彼は父親と使用人たちを見事に欺き、再び逃げ出しただけでなく、マイヤーホフがどうしても教授の執心を快く思えなかったあの東洋の魔性の女と結婚してしまった。
今、アーデルベルトが新しい領主としてこの館に君臨する事は大歓迎だったが、彼の妻も、残りの変な大道芸人もできればいなくなってほしいというのがマイヤーホフの密かな願いだった。
「ヴィル」
蝶子が呼んだ。その呼び名は、長いこと彼のものではなく、子供の頃にもそう呼ばれた記憶もなかった。にもかかわらず、現在の彼には最も自分に近かった。
彼が生まれた時、父親はその存在を無視した。それで彼はヴィルフリード・シュトルツとして洗礼を受けた。しかし、マルガレーテ・シュトルツは諦めなかった。DNA鑑定の末、真の息子だという事実を突きつけられたハインリヒ・フォン・エッシェンドルフ男爵は、彼の名前を訂正させ、もう少しまともなファーストネームを登録させた。それ以来、誰もが彼をアーデルベルト・フォン・エッシェンドルフと呼んできた。名前を与えた母親までもがセカンドネームに成り下がったヴィルフリードの名を忘却の彼方に押しやった。
彼がはじめてヴィルフリード・シュトルツと名乗ったのは、劇団『カーター・マレーシュ』に入団する時だった。本名があまりにも大仰すぎて、出自がすぐにわかってしまうからだった。劇団員たちがいつの間にか使いだしたヴィルという愛称は、当時の彼にはずっと馴染みがなかったが、アーデルベルトではないという事実だけが彼には好ましかった。
ミラノで蝶子たちに会った時に、迷わずこの仮の名前を使ったのは、もちろん蝶子に自分がアーデルベルトである事を悟らせないためであった。だが、旅の間に各地で名乗る度に、蝶子が親しみを込めて呼ぶ度に、この名前はより自分に近くなった。アーデルベルトはほとんど消えかけていた。
ミュンヘンに戻った事で、アーデルベルトとしての社会性が再び現実のものになった。けれど、この二つはもはや相反するものでもなければ、どちらかだけが現実であるわけでもなかった。アーデルベルトという立派な背広を身に着けた、裸の魂がヴィルだった。
「マリアンとの打ち合わせは、終わったか」
ヴィルは蝶子に話しかけた。
「ええ、いつでも出かけられるわ」
アヴィニヨンに旅立つために今夜は荷造りが必要だったが、旅慣れた四人には大した時間は必要なかった。蝶子は、窓辺に立つヴィルのもとに歩み寄り、一緒に窓からミュンヘンの街並を眺めた。
「この風景を、あなたと眺めるなんてね」
蝶子の髪が風で踊っている。
ヴィルは不意にロンダの橋の上で、蝶子の横顔を見つめたときの事を思い出した。彼女が父親とミュンヘンの事を思い出しているのではないかと心を痛めたときの事を。
「不思議だな。運命ってやつは」
蝶子は、ヴィルの肩に頭を載せた。言葉による答えは必要なかった。孤独の中で同じ光景を眺めた二人は、いま家族としてここに立っている。ここは恐れるべき場所でもなく、戻ってくるべき家になった。旅立つ目的は逃走ではなくなった。
明日からのしばらくの不在の前に、もう一度あのピアノを弾いていこう。ヴィルは蝶子と一緒にサロンへと向かった。
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