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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】翼があれば

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第八弾です。limeさんは、今年も素敵なイラストで参加してくださいました。

limeさんの描いてくださった『またもや天使』
『またもや天使』 by limeさん
このイラストの著作権はlimeさんにあります。無断使用は固くお断りいたします。

limeさんは、登場人物たちの心の機微を繊細かつ鮮やかに描くミステリーで人氣のブロガーさんです。各種公募企画で大賞をはじめとする受賞常連のすごい方です。穏やかで優しいお人柄に加えて、さらにこんなに絵も上手い。羨ましすぎる!

今回、scriviamo!参加用に出してくださったのは、ちょっとだけ脱いでいる(?)天使と蝶のイラストです。去年も私一人で七転八倒していたわりにみなさんはスラスラと素敵な作品を書かれていましたが、今年もすでに何名の方々がインスピレーションを受けて素晴らしい作品を発表なさっています。

で、他の方は自由参加ですが、私は何かを書かなくてはならないので「う〜ん」と悩みました。

もちろんあちらのコメント欄で盛り上がっていたナース服天使、という路線では書けません。(書いてもいいけれど、limeさんに絶交されるかもしれないし・笑)去年はふざけたストーリーでなんとかなりました(なっていないともいう)が、今年の天使はどちらかというと清楚でシリアス系なのでふざけておかえしするのはなし。しかも清楚なのに脱いでいるし。ここにかなり長くつまづいていましたね。「天使でなければ」「脱いでいなければ」って。

かといって、単に真面目に取り組んでもピンと来るストーリーにならなかったんですよ。私の作品って、あまり目立った色がないので、ごく正面からこの正統派で美しい絵に取り組むと、そのよさが台無しになるぼやぼやした感じの作品になってしまうんです。

じゃ、どうしようか、と思ってこうなりました。天使であること、脱いでいること、蝶がいること、そして、背景がああなっていること、全てを使ってみました。limeさん、みなさんが呆れる顔が今から目に浮かびます。すみません。今から謝っておきます。(毎年、毎年……orz)


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翼があれば
——Special thanks to lime-san


 若草がゆっくりと大地を埋め尽くし、柔らかな風が心地よく渡りはじめると、フラクシヌスは大きく広げた枝を微かに揺らした。停まっていた鳥たちは、わずかな間だけさえずりを止めたが、すぐにおしゃべりを再開した。

「ねえねえ。あなた初めてアフリカに行って戻ってきたんでしょう? 旅はどうだった?」
「どうってことはない、って言いたいところだけれど、大変だったなあ。去年の秋、ここを発ったところまではよかったけれど、ミラノのあたりでもうカスミ網に捕まりそうになったんだ」
「ああ、噂に聞くヤツね。南イタリアじゃないんだ、へえ」

「それから後も、ハプニングだらけ。でも、初めて見るものばかりで心躍ったなあ。フランスから来たコウノトリと仲良くなったんだぜ。それに、赤い湖でフラミンゴにもあったなあ。ところで、お前さんは?」
「私は、いつも通りこっちで越冬したわよ。雪が少なかったから、けっこう過ごしやすい冬だったなあ。あの山を越えたところに、美味しい餌を用意してくれるニンゲンがいてね。少し太っちゃった」

 フラクシヌスは、小鳥たちのさえずりに耳を傾けて、コウノトリやフラミンゴとはどんな鳥なのだろうかと想像した。赤い湖や山の向こうのニンゲンがどれほどここと違っているのだろうかと考えた。

 街はずれの小高い丘の上にたどり着き、大地の上に伸びをして小さな芽を出したあの日から、フラクシヌスはいつもここにいた。柔らかな緑色の芽はまっすぐに伸びて、やがて滑らかで青みかがった灰色の幹に変わった。それが分厚いたくさんヒビの入ったどっしりした幹に変わった頃には、大きく伸ばしたたくさんの枝には、たくさんの小鳥たちや虫たち、リスやヤマネなどが動き回るようになった。

 フラクシヌスは、そうやっていつも誰かの訪問を受けていたので、決して寂しくはなかったが、彼らがする噂話から、ここではない世界への憧れを募らせていた。

 夏が来ると、梢の葉はしっかりとしたものに変わり、暑い日差しを避けて立ち寄る動物や散歩の途中の人間などが、彼の根元で休みつつ新しい話を聞かせてくれるようになった。

 近頃の一番の楽しみは、黄金の髪の毛を持った優しい少女で、まどろむ小動物たちをアルトの優しい響きで歌いながら眠らせるのだった。

「ああ、私、本当にここが好きだわ。なんて美しい木陰なんでしょう。仕事も何もかも忘れて安らげるのはここだけよ」

 彼女は、誰に話しかけるでもなくよく呟いた。彼女のひとり言を耳にするのもフラクシヌスには楽しいひとときだった。

「本当に、私もあの鳥たちのように空を飛べたらねぇ。わずかな賃金と引き換えに、朝から晩まで工場で糸を紡いだりしないで、どこまでも自由に旅して行くのにねぇ」

 ああ、この娘も、私の同じ憧れを持っているんだ。翼を羽ばたかせて、世界の果てまで自由に飛んで行きたい。氷に閉ざされた光のカーテンのある国や、火を吹く怒りの山や、七色の湖のある谷間を探して飛んで行くことを夢見ている。そして、その願いをずっとここで、この私と共有してくれるのだ。

「お嬢さん、あなたは何を呟いているの?」
そこに来ていたのは、この間まで緑色の芋虫だった紫色の蝶だ。フラクシヌスの葉をたくさん食べて大きくなり、しばらく繭にこもったかと思うと、秋までには羽を持つ美しい姿に生まれ変わる。そして、仲間と一緒に隊列を組んで遠くの暖かい国まで飛んで行く。

「あら、きれいな蝶さん。まだ旅立たないの? 昨日、あなたのお仲間が隊列を組んでいたわよ」
「私は今朝、ようやく蝶になれたのよ。もう少し仲間が集まったら、私も旅立つわ。ところで、あなたは、何をおかしなことを言っているの?」

 紫の蝶は、ひらひらと娘の周りを飛んで、くすくすと笑った。

「笑うなんてひどいわ。私だって翼があったら、あなたのように飛んで行きたいのよ。でも、それが出来ないから、ため息が出ちゃうんじゃないの」

 すると蝶は娘の正面に戻ってきて、その瞳を覗き込んで言った。
「だから、おかしいのよ。あなただって飛んで行くことが出来るのに、何も試さないで文句ばかり言っているんですもの」

「飛んで行くことができる? どうやって? 私は貧乏な労働者で飛行機のチケットすら買えないのよ」
「チケットなんて必要ないわ。あなたにも翼があるのよ。知らないの?」

「翼が?」
「そうよ、服を脱いで、背中を湖に映してご覧なさい。翼が生えているのが見えるはずよ」

 娘が薄紅色の薄いワンピースを少し脱いで湖を覗き込むと、本当に白い一対の翼が現れた。彼女はひどく驚いて、触ったりくるくると回って確認したりした後に、本当に翼が動いて自分も空を飛べるのだということを納得した。

「なんて素敵なんでしょう。ねえ、蝶さん。あなたが南へ旅立つときまで、私に空を飛ぶ特訓をしてちょうだい。そうしたら、私もあなたと一緒に旅立つから」
「いいわ。じゃあ、すぐに始めましょう」

 嬉しそうに笑いながら、娘が紫の蝶と一緒に去ってしまうと、フラクシヌスは大きいため息をついた。

 娘は、彼の仲間ではなかった。鳥や蝶たちと同じように、翼を持って自由に飛んで行くことができる天使だった。彼はまた丘の上に取り残されて、小鳥たちのさえずりに耳を傾けた。

 夏が終わると、彼の枝にはたくさんの楕円形の種が用意された。新しい命を宿した、大地の実り。やがて何百年も生きる可能性を秘めた小さな、小さな、ユグドラシルの子孫。彼は旅立つ子供たちに、彼の憧れの全てを託した。空を飛び、遠くへと飛んで行けと。

 フラクシヌスの子供たち、セイヨウトネリコの種は、小さなヘリコプターのようにくるくると回りながら、風に運ばれて丘から森へ、森から平地へと飛んで行った。ある者は馬車の後に落ちて、隣町へと旅立った。また、別の種は、木こりたちの束ねた薪の間に着地して、都会への長い旅をはじめた。

 そして、フラクシヌスは、また長い生命のうちにめぐり来る厳しく白い冬を迎えるために、丘の上で眠りの準備に入った。

(初出:2017年1月 書き下ろし)


註・Fraxinus excelsiorは和名セイヨウトネリコ、英語ではアッシュ、ドイツ語ではエッシェンと呼ばれる大木になる広葉樹。成長が早い上、曲げやすくて衝撃にも強いので加工用木材としてよく使われる。燃料としても古くから使われていた有用な植物で、北欧神話の世界樹ユグドラシルはセイヨウトネリコである。秋になると楕円形の種がタケコプターのように飛来して行くのがよく見られる。

Fraxinus excelsior 4560
Fraxinus_excelsior, seeds
From Wikimedia Commons, the free media repository
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

新しいオモチャ買った

事情があって、またしてもカメラを買いました。

最初は一眼レフかミラーレス一眼にしようかと思っていたんですが、何かを撮ろうとする度にレンズを取り替えなくてはならないのは煩雑すぎますし、そもそも私の腕でまともな写真が撮れるようになるには相当な時間がかかるので、あきらめました。

それに、シャッターチャンスがあったらすぐに撮れるように常に持ち歩いていないといけないので、カメラと複数のレンズを持ち歩くのはどう考えても実用的ではありません。

とはいえ、これまで愛用していたOLYMPUSのSZ-31MRは、遠くを撮る分にはさほど違いがでないのですが、近くを撮るとどうもいまいち。これはセンサーの違いでどうしようもないようです。SZ-31MRは光学24倍ズームが撮れるという売りがあるのですが、そうなると反対にセンサーはたくさん搭載できないんだそうです。

で、高級コンデジに限定して、いろいろと検討した結果、SONYのDSC-RX100M3というカメラを購入しました。このシリーズでは2017年1月現在、最新モデルM5がでているんですが、値段と良くなった点を比較した結果、私には最新である必要はないと判断して2モデル前のものを買いました。

で、現在は、まだ慣れていないながらいろいろと撮る練習中。

雪山

遠景は、普通に見えますね。「おおっ。このカメラすごい!」という感動はあまりないかも。

オーソブッコ

でも、近くを撮ると全然違う! 練習し甲斐があります。
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Posted by 八少女 夕

【小説】穫りたてイワシと塩の華

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第七弾です。夢月亭清修さんは、めちゃくちゃ美味しそうなお魚小説(?)で参加してくださいました。ありがとうございます!

夢月亭清修さんの掌編小説『フィッシュ&ソルト』

清修さんは、小説とバス釣りのことを綴られているブロガーさんです。サラリーマン家業の傍ら小説家としてブログの他に幻創文庫と幻創文芸文庫でも作品を発表なさっていて、とても広いジャンルを書いていらっしゃいます。そして、文筆に劣らぬ情熱を傾けているのがバス釣りで、ブログにはお魚の話題もたくさん載っています。

今回書いてくださった小説も釣り人としての知識と想いが詰め込まれた、短いながらも心と胃袋の両方をつかむ作品でした。

お返しは、悩んだ末、「お魚&塩」を踏襲しました。でも、日本の釣りや魚のことをよく知らない私が書いてもあまりにも見劣りがするので、舞台を去年行った場所に持ってきました。そして、一応、清修さんの作品のもう一つのモチーフにもかすってあります。でも、同じ登場人物なのかどうかは決めていません。たまたま似た状況の他人である可能性も含めて「この人かなあ」と読んでいただければありがたいです。


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穫りたてイワシと塩の華
——Special thanks to Mugetutei Seishu-san


 カモメか、それともウミネコか。飛んで行く白く大きい鳥を眺めて尚子は海の街から来た人を想った。

 もう何年経つんだろう。なぜ、あの時違う選択をしなかったんだろう。全ては遅すぎる意味のない問いかけだと知りつつ、彼女は波の音に耳を傾けた。

 ここは日本から遠く離れたポルトガル、海の街アヴェイロ。時間だけでなく距離もまた、彼からははるかに離れている。そして人生の道も。

 大企業をやめて、ポルトガル製品を扱う小さな店を開いた友人に協力すると決めた時、家族も含めて多くの人が反対した。必要だったのは「応援するよ」のひと言だけだったけれど、それはほとんど聞こえなかった。

 彼のプロポーズを断ったのは、会社を辞める前だったけれど、彼の妻になったら一生の夢が叶うチャンスを失うと思っていたことも理由のひとつだった。

 でも、今ならわかる。きっと彼は私の夢を応援してくれただろう。暖かい、人の心のわかる人だった。

 夢いっぱいではじめた店は、案の定、簡単には軌道に載らなかった。いや、思った以上に上手くいっていたのに、肝心の共同経営者である友人に裏切られてしまった。裏切ったというのは、よくないいい方なのかもしれない。彼女には、金銭的に他の選択肢がなかったのだろうから。

 開店から一年もしないうちに、尚子に何も言わずに、友人は夜逃げに近い形で姿を消した。連帯保証人となっていたが故の借金と商品の支払いが全て尚子にのしかかった。それでも必死で歯を食いしばって働き、ようやく返済を済ませ、よく儲かっているとは言えないまでもそこそこの利益を出せるようになってきた。

 もちろん完全な休暇の旅行をするような金銭的余裕はないが、買い付けと言う名目で、大好きなポルトガルに来れるようになったことはありがたい。

 このバタバタの間は、恋愛どころではなくて、彼のプロポーズを断って以来、異性とは何の縁もない。

 だから、想いはいつも簡単に、あの頃に帰って行く。元氣かな。あれから十年近く経ってしまったから、今でも一人でいるはずはないよね。あんなにいい人だったもの、もう結婚して子供もいるんだろうなあ。

「海がお氣に召しましたか?」
尚子は、その声にはっとして振り向いた。隣町にある陶器の工場の持ち主であるノゲイラ氏に案内してもらってここにいたのをすっかり忘れていた。

「すみません。海岸に来たの、久しぶりなんです。島国に住んでいるのにおかしいですね」
「いいえ。僕もこんなに近いのに、ここまで来たのは久しぶりですよ。せっかくですから、工場に行く前に、ここでご飯にしましょう。その前に、よかったら運河のモリセイロに乗りませんか?」

 モリセイロは、ポルトガルのヴェニスと呼ばれるこの街アヴェイロを縦横に走る運河に浮かぶ伝統的な小舟だ。このカラフルでフォトジェニックなボートは、かつては運搬用に使われていたが、現在は観光客用のアトラクションになっている。運河からアールヌーボー様式の美しいファサードを持つ街並を見て回るのだ。

 尚子は喜んでこの申し出を受けた。街並は確かに美しかったけれど、目をみはるほどではないなと思った。もちろんノゲイラ氏にはそんなことは言わなかったけれど。それにあっという間に折り返してきてしまい、もう終わりなのかとすこしあっけなく思った。

 だが小舟は船着き場を通り過ぎて、海の方へと進んで行った。船頭がポルトガル語に続き、英語で説明する。

「あの先を見てご覧なさい。あの白い小山は、塩です。この地域で伝統的に作られている天日の塩田です。引き込んだ海水を天日で蒸発させて塩をつくるんです。かつては250ほども塩田があったのですが、現在は少なくなってしまいました。量は少ないですが、かつてと同様にここで作られる上質な塩は、有名です。英国王室にも納品されたんですよ」

 へえ。天日の塩。アヴェイロの塩って、はじめて聞いたけれど、日本にお土産に買って行こうかしら尚子は塩の小山の写真を撮った。

 ノゲイラ氏はモリセイロを降りて、運河沿いのレストランに彼女を案内して説明した。

「天日の塩には、二種類あるんです。ごく普通のもの、そして、塩の華フィオール・ドゥ・サル という大粒のものです。これは海水を蒸発させる時にその表面に出来る結晶だけを集めたもので、とても美味しいのですが、たくさんのミネラルが含まれているので真っ白ではないんです。かつては、輸出用には普通の白い塩がたくさん取引されていて、塩の華はむしろ国内の上流家庭で消費していました。色はともかく格段に美味しいので。でも、フランス製の塩の華がグルメの間でブームになってから、ここの塩の華のよさも見なおされたんですよ。食べてみましょうか」

 出てきたのは、イワシのグリル。山のようなご飯、大雑把にカットされたレタスとトマトと玉ねぎだけの飾りっけのないサラダ。ポルトガルでよく見る実に素朴な料理だ。穫りたての焼いたイワシの香りが胃袋を直撃した。

 肉を焼く香りも美味しそうだと思うけれど、魚の脂が焦げる香りは、もしかしたら日本人のDNAのどこかを刺激するのではないかと思う。わずかな焦げも、パリパリになって波打っている皮と破れから覗く身の放つ湯氣も、「早く食べて!」と尚子を誘っていた。

 ポルトガルは、ヨーロッパの中でも特にたくさん魚料理を食べる国だ。さらにお米をたくさん食べるところも日本人には馴染みやすい。ヨーロッパの他の国を旅行しているとたまに和食とまではいかなくても中華料理でも食べようかなと思うことがあるのだが、ポルトガルでは一度もそう感じたことがない。どこかに懐かしさを感じる馴染みのある味によく出会う。

「さあ。食べてご覧なさい。これが塩の華。この良さを生かすために、他にはなにも味を付けないんです」

 大粒の塩の塊は、真っ白ではないと言われていて想像していたものとは違って、十分に白い。パラパラとかけてそっとナイフを入れてフォークで掬った。イワシの香りがさらにふわっと広がる。遅れて運ばれたフォークから熱々のイワシの身が舌の上に載った。

 尚子は思わず瞼を閉じた。魚の味、香り、そして塩の何とも言えぬ複雑な旨味が、口の中で極彩色になって飛び回りダンスを踊っているよう。ああ。なんて美味しいんだろう。

 こんなに美味しい魚を食べたのは、いつ以来なんだろう。東京でも魚は食べていたけれど、スーパーのパックの切り身や、定食屋のそこそこの焼き魚ばかりを食べていたように思う。

 不意に彼のことを思い出した。彼は、海辺の街の出身で、自身も熱心な釣り人だった。魚については強いこだわりがあって、デートの時にも店は汚くても格別美味しい魚を食べさせるところに連れて行ってくれた。

 そうか、彼のプロポーズを断って以来なのね。

 ノゲイラ氏に見せてもらったアヴェイロの街。街を彩るアズレージョにも通じるポルトガルの素朴な陶器づくり。好きだったポルトガル雑貨の販売で生計を立てられるようになったこと。今の穏やかで幸せと言えるようになった生活を得るために、失ってしまった時間と暖かくて穏やかな人のことを考えた。

 彼が、この十年近い時間を幸せに生きているといいと思った。そして、どこかで、ここで食べているような五臓六腑に染み渡るように美味しい魚を、誰かと笑い合いながら食べていてほしいと願った。

「ナオコ、どうしました? イワシ、熱すぎましたか?」
涙ぐんでいる彼女のことをノゲイラ氏は不思議そうに見た。

 尚子は笑って首を振り、極上のイワシの塩焼きを残さず味わうためにフォークとナイフを持ち直した。

(初出:2017年1月 書き下ろし)

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Category : scriviamo! 2017
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】アプリコット色の猫

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第六弾です。たらこさんも、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

たらこさんは、四コママンガでひまわりシティーという架空の世界で起きる壮大な事件をいろいろと表現なさっていらっしゃる創作ブロガーさんです。「ひまわりシティーへようこそ!」の最終章を絶賛連載中です。

初参加の今回、いきなりのBプラン、なおかつご自分が描きやすくなるようなリクエストもなしという、前代未聞のチャレンジをなさっているので、全くフリーで書かせていただきました。しかも、普段ほとんど書かないファンタジー系。私が書きやすいファンタジーって、こういうのだなって改めて思いました。

せっかくたらこさんへのBプランなので、なんとなくキャバ嬢を絡めたくなってしまいました。いや、その、別にたらこさんがキャバクラ好きだと言いたいわけじゃありませんよ。ええ、そんなことは思っていませんとも。

で、書いていたらなぜか大幅に予定を越えて7000文字以上になってしまいました。これではいかんとどこかを削らねばと悩んだんですが、キャバクラ関連以外削るところがなかったので、削らずに長いままでいくことにしました。すみません。


【追記】
たらこさんが、素敵かつ笑える四コママンガでお返しを描いてくださいました!
たらこさんの描いてくださった 「アプリコット色の猫」



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アプリコット色の猫
——Special thanks to Tarako-san


 どこでおかしくなっちゃったのかなあ。姫子はバッグの奥をかき回しながら、考えた。

 今朝、ホテルでちゃんと持ちもの確認をしなかったから? あのホテルにエアコンがなくて、暑くて考えられなかったから? 安いホテルにしたのが悪かったの? そもそも夏のウィーンに来たのが悪いの? 

 いや、婚約破棄になって何もかも嫌になったせい? そもそも、キャバ嬢のバイトをしていたのが間違い? ううん、あの奨学金を返せるあてもないのに申し込んだのが悪かったの? っていうか、金持ちの娘に生まれてこなかったから?

 いや、落ち着こう。お財布は、どこかにあるはず。すられるほど人混みのところは歩いていないし、第一、こんなごちゃごちゃの鞄からお財布をするのはプロにも難しいはず。

「あ。あった」
キルティングのオレンジ色の財布は、お客さんにプレゼントしてもらったものの中で一番のお氣に入りで、これだけは転売しなかった。転売するような値段のものではなかったこともあるけれど、そういう問題ではない。大切な思い出が詰まっているのだ。

 姫子は、コーヒーの代金をつっけんどんな様子で待つ店員に払った。あ、これ最後の50ユーロ札だ。これからどうしようかなあ。

 姫子は勤めていた役所をクビになり、アパートも追い出されたので、荷物を処分して日本から逃げだしてきた。新婚旅行で行くはずだったウィーン。自暴自棄になって人生を諦める前に、ここだけは来てみたかった。でも、軍資金は底をついた。

 結婚したら、これまでの上手くいかない生活が全てリセットされて、白金や広尾で優雅にお茶の出来る日々が待っているんだと思っていた。ああいうちゃんとした人と結婚するなら、借金返済のためにキャバ嬢のバイトをしていたなんて言わない方がいいと思っていた。

「匿名で教えてくれた方がいましてね。興信所で調べてもらったんですよ」
あの人のお母さんが、とても冷たい目をして言った時、それでも一度でも結婚しようと思ったなら、少しはかばってくれるかと思ったんだけれど、避けるようにして帰っていったよね。

 公務員がバイトを、ましてや水商売の副業をしちゃダメなのはわかっていた。でも、あの給料で奨学金を返すのはどう考えても無理だった。

「ねえ、ちょっと」
日本語の声がしたので辺りを見回すと、誰もいない。つっけんどんな店員はもう別のテーブルに行っているし、隣のテーブルの熟年カップルは、熱々で二人の世界にどっぷり。こちらは存在していないかのような態度。ってことは、空耳かしら。

「ここだよ、ここ、ここ。下を見て」
また日本語なので、変だなと思って、足元を見た。

 猫がいた。つぶらな瞳をしたオレンジっぽい毛色の猫だ。何だっけなあ、この色。どっかで見た。ああ、今朝食べたアプリコットジャムの色だ。雑種かな。どこにでもいそうな普通の猫で、赤いコートを着ているわけでもないし、長靴も履いていない。それに見た感じでは人間の言葉は話してはいない。

「呼んだの、あなた?」
訊くと「みゃー」と短く鳴いた。

 馬鹿じゃないの、私。猫が日本語を話すわけないじゃない。空耳、空耳。姫子は、おつりを財布にしまうと、バッグにしまって出て行こうとした。するとまた声が聞こえた。
「ちょっと待ってよ。話は終わっていないんだから」

 姫子は、まじまじと猫を見た。
「今、呼んだの、本当にあなた? 本当なら、尻尾を三回振って」

 ゆらゆらゆら。尻尾が揺れた。へたりと椅子に座り直した姫子の膝に、その猫はストンと載って、ゆっくりと三回瞬きをした。それから頭の中にまた日本語が聞こえてきた。
「電車に乗ってフシュル湖へ行かないといけないんだ。協力してよ。お礼はちゃんとするからさ」

「フシュル湖? どこそれ? どうやって?」
幸い周りに日本語を解せる人がいないおかげで、変な目で見る人はいない。猫を可愛がっている無害な日本人観光客に見えるだろう。

「ザルツカンマーグートだよ。僕をペット用バスケットに入れてさ。バスケットはちゃんとあるんだ。上手くザルツブルグ行きの電車に乗せてくれたら、そこまででいい。お礼は最高のザルツブルグ観光を一日。どう?」
ザルツカンマーグートがどこにあるのかも知らない。でも、ザルツブルグは知っている。でも、今、観光させてもらって喜ぶような心境じゃないんだけれど。姫子は猫をじっと見つめた。

「一日観光はいいから、代わりに私の状況、少し変えてくれない? 私の人生詰んじゃっていて、いよいよ終わりにするかどうかってとこなのよ」

 猫は、一瞬だけ黙ってから、ヒゲを前足で弄びながら答えた。
「そんなの一介の猫には無理だよ」

 日本語テレパシーで喋っているくせに、都合が悪くなると「一介の猫」ですか。姫子はムッとした。そのまま彼女が立ち上がって払い落とされた猫は、慌てて言った。
「わかったよ。じゃあさ。あっちで僕としばらく一緒に暮らすといい。少なくとも人間の生活よりも面白おかしいぜ。会社に行ったりとか、税金の支払いとか、犬の散歩とか、そういう面倒なことは何もしなくていいんだ」

 姫子は、ちらっと考えた。心もとないけれど、どうせ路頭に迷うなら猫の世話になる方がいいかも。テレパシーが使えるなら魔法が使えるかもしれないし。

「そのザルツカンマーグートで、あなた、どんな所に住んでいるの?」
「小さめの城ってところかな。いくらでもいるヤマネを追いかけたり、鳥の羽根をむしったり、けっこういい暮らしをしていたんだぜ。でも、ここに連れてこられちゃってさ。早く帰りたいんだ」

 そのいい暮らしというのが、どうもネコ目線の意見で若干の不安はあるが、このままでは浮浪者となるのがほぼ確実なので、論議はしないことにした。

「でも、猫って、遠くに連れてこられても自力で歩いて帰るんじゃないの? 人間に頼んで連れて帰ってもらうなんてはじめて聞いたわ」
姫子は首を傾げた。猫は前足でヒゲをちょっと触ると上目遣いで言った。

「そりゃ時間がたっぷりあるならそうするさ。でも、僕は急いで帰らなくっちゃいけない事情があるんだ。協力するの、しないの? しないなら、他の人を……」

「え。するわよ。じゃ一緒に来て。荷物をホテルに取りに行くから。ところであなたのバスケットはどこにあるの?」
「そこの裏手さ、こっち」

 猫についていくと、カフェの裏手の暗い路地に、小さなプラスチックの猫移動用ケースが置いてあった。扉の部分が壊れている。
「これ、どうしたの」
「壊さないと出られなかったんだ。大丈夫だよ。電車の中ではペットらしくしているから」

 姫子はホテルに預けてあった全財産でもある小さな機内持ち込みサイズのスーツケースを受け取ると、猫についてウィーン中央駅に向かった。

「急いでよ。今日の電車がでちゃう」
電車の近くまで来ると、猫はちゃっかりとバスケットに収まって、飼い猫のフリをした。でも、姫子に指図する態度は一向に変わらない。

「あなた、なんで時刻表を知っているのよ」
「昨日と一昨日、上手く紛れ込めないかトライしたんだよ。でも、最近の電車は入口が電動で、高いところにあるボタンを押さなくちゃ開かないんだ」

 猫に案内されて、ザルツブルグに向かっている。細かいことは考えないに限る。ホテル暮らしをするお金はもうないんだし、猫でもなんでも頼らないと。

 電車が走り出すと、コンパートメントの扉を閉めてから、バスケットを椅子の上に置いた。猫は出てきて腰掛けると丁寧に顔を洗い始めた。

「ところで、ちゃんと説明してよ。なんでザルツカンマーグートからウィーンに来ることになったの? どうして急いで帰りたいの? どうして、私が助けてくれると思ったの?」
姫子は馬鹿馬鹿しいことを口にしているなあと思いながら立て続けに訊いた。

「僕は飼い主と賭けをしてね。彼の命が尽きるまでに僕が帰れることができれば僕はずっとあそこにいられる。それができなければウィーンの野良猫になるって。もうだめだと思ったけれど、君のアプリコット色のお財布を見て、ピンと来たんだ。この人が僕を連れ帰ってくれるってね。だから話しかけたんだよ」

 アプリコット色のお財布? ドキッとした。このお財布は、キャバクラであるお客さんが姫子にプレゼントしてくれたのだ。他の人がプレゼントしてくれたブランドものは、みなネットオークションで転売した。一円でも多く手にして返済に回したかったから。でも、そのお客さんは、姫子が奨学金の返済で困っているということを憶えていて、ブランド品の代わりにとても安いこのお財布の中にブランド品を買ってもおつりが来るだけのお金を入れてプレゼントしてくれたのだ。

「どうしてそんなによくしてくれるんですか?」
「全額返済してあげられるような甲斐性はないからね」

 そういって笑った彼は、キャバクラ通いをするお金が続かなかったらしく、やがて来なくなった。迷っていないでプライヴェートのメールを教えてあげればよかったなと思ったけれど、結局それっきりになってしまった。

 婚約した御曹司は、お金があって、私を救い上げてくれそうだった。でも、あのお客さんほどの真心も持っていなかったんだ。打算で結婚しようとした私もそれ以下の馬鹿だものね。姫子は考えた。

「でも、このお財布のことを知っているってことは、あなたのご主人は、あのお客さんなのかな?」
姫子がそう訊くと、猫は首を傾げた。
「なんのこと? 僕は仔猫の頃にその色をした古いお財布をオモチャにもらったんだ。僕と同じ色だからってね。それを思い出したんだよ」

 なんだ。そういうことか。

「飼い主は、年寄りで、病持ちで、もうそろそろアブナいんだって。だから、僕が死ぬまではつきあえないんだって。それで僕をウィーンに連れてきたんだ。帰りたいなら誰か信頼できる人に手伝ってもらえ、嫌ならウィーンの野良になれってね」

「猫のくせに、自由にしたくないの?」
「猫にだって、ホームが必要なんだよ。僕があそこに帰ったら、君だってあそこで自由にしていいんだ。時々、僕の世話はしなくちゃいけないけれど」

 それってねこまんまを作れってことかなあ。姫子は、窓の外の田園風景を眺めながら、それも悪くないかなと思った。

「ものすごくきれいなところなんだ。湖に光はキラキラしているし、大きな魚は撥ねているし、春にはレンゲや野菊やアプリコットの花が咲き乱れるんだ。ごちゃごちゃしたウィーンなんて目じゃないよ」

 へえ。ちょっとだけでもそういうところに暮らせたらいいなあ。姫子は思った。春までは無理としても、しばらく泊めてもらえないかな。飼い猫を届けるんだし。

 ザルツブルグでバスに乗り換えてフシュルまで行き、そこから歩いた。バスケットが邪魔なら捨てろと言われたけれど、ここまで持ってきたし、いつ必要になるかわからないし、軽いので持ち歩いた。

「急いでよ。早く!」
荷物がない身軽な猫にそう急かされて、姫子はふうふう言いながら上り坂を歩いた。途中から道は湖畔になり、輝く湖水が目を射た。

 ああ、本当だ。なんてきれいなところなんだろう。真っ青な湖、若緑の絨毯みたいな田園風景。揺れる木の葉に、落ち着いた緑の山並み。ウィーンも面白かったけれど、こんな静かで心洗われる風景ではなかった。それに蒸し暑かったウィーンと較べて、ずいぶんと爽やかだ。これならエアコンはいらないわよね。

 いつも東京の狭い六畳のワンルームアパートと、満員電車、灰色の役所、それにネオン街の往復しかしていなかったから、こんなに落ち着く光景に心うたれたのがいつ以来なのだかもう憶えていない。ここに来て、本当によかった。猫に急かされているとは言え。

 小走りで走っていた猫が、急にぴたっと止まった。それから、湖の方を眺めた。
「どうしたの?」
追いついた姫子が訊くと、項垂れて言った。
「もう急がなくていいよ。間に合わなかったんだ」

「ええっ。飼い主さんが死んじゃったの? なんでわかったの?」
猫は答えなかったが、再び歩き始めて、こんどはゆっくりと進んだ。それからひと言も話さなかったので、姫子は、さっきまで聴いていたのはもしかして自分の想像だったのかと思い始めた。

 やがて湖畔をそれてまた丘に登った猫は、果樹園のようなところを横切って、その中央にあるボロボロの小屋に向かって行った。え。ちょっと待って、さっき小さいお城って言わなかった? まさか猫のいうお城って、これ?

 小屋の前には、立派な車が三台ほど停まっていて、小屋の中からはドイツ語で話す声が聴こえていた。なんかお取り込み中みたいだな。私はどこかに隠れていた方がいいかも……。そう姫子が思った途端、開け放たれたドアの向こうにいた年配の女の人が大きな声を出して、姫子の方にやってきた。

 猫が姫子の足元にいて、姫子がバスケットを持っているので、猫を連れてきたのだと思ったのだろう。中にいた人たちも近寄ってきてみな口々に何かを言っている。ドイツ語なのでわからないけれど。

 小屋の中にはベッドがあって、亡くなったばかりと思われる老人が横たわっていた。猫は人間たちの足元を通り抜けて中に入り、そのベッドに飛び乗って、みゃーみゃーと鳴いた。それと入れ違いに出てきた眼鏡の男性が姫子に話しかけたが、言葉が通じないとわかると英語に切り替えて話しだした。

「あなたがあの猫を連れてきてくださったのですね」
「え。あ、はい。成り行きで……」

「そうですか。私は故人ケスラー氏の顧問弁護士トーマス・ウルリッヒです。こちらにいらっしゃるのは故人の息子のケスラー氏とその夫人です。奥にいて死亡診断書を書いているのがマイヤー医師です。あなたは?」
「あ~、日本人旅行者で永田姫子っていいます」

 名前を訊いたわりに、ケスラー夫妻とウルリッヒ弁護士の目は、なぜか姫子の持っている壊れたバスケットに釘付けになっていた。
「あなたは、この不明になっていた猫の事情をご存知ですか?」

 姫子は日本人らしく曖昧な笑顔を見せて肩をすくめた。猫から帰りたいと聞いたなんてことは言わない方がいいように思ったのだ。弁護士は深く頷くと話しだした。

「実は、故人には最近したためた遺言状がありましてね。古城を含めた全財産を慈善団体に譲るというものだったのです。もともとは、この果樹園小屋で暮らしたがる変わったご老人を息子さんたちが諌めたことが原因の諍いだったのですが、この遺言状が効力を持つと息子さんたちは全てを失うことになるんです」

「はあ」
それと猫がどう関係があるんだろう。

 弁護士は姫子の持っているバスケットに手を伸ばした。
「ちょっと見せていただきたいのですが、いいですか?」

 わからないまま頷くと、弁護士は壊れたバスケットの扉をどけて、中に手を伸ばした。床板をそっと動かすと、そこから立派な封筒が出てきた。
「あったぞ!」

 ケスラー夫妻が大喜びで、それを確認してから、姫子の手を握ってきた。
「ありがとう。あなたのおかげです」
姫子は、あいかわらず何がなんだかわからなかった。

 それから、古城に泊めてもらい、しばらく湖畔に滞在してわかったことには、バスケットに隠してあったあの封筒は全財産を慈善団体に寄付するとした遺言状よりも更に新しい、有効な遺言状だった。そして、遺産は元通りに息子夫婦が相続出来ることになった。

 ただし、あの果樹園と小屋だけは、バスケットを持って帰って来た人間に譲ると書いてあったので、なんと姫子がもらえることになった。さらに、息子夫婦は姫子が奨学金の残りを返済してもおつりが来るくらいのお礼をくれた。そして、姫子がこの村に住むことが出来るように面倒な手続きを全てしてくれた。

「あなたのおかげですもの」
「でも、どうしてあの方は果樹園小屋に住んでいたんですか?」
姫子は未だに納得がいかないままだった。

 ケスラー夫人は声を顰めた。
「それがね、お義父さまは、猫と意思疎通が出来るなんて言ったんです。主人はそれはナンセンスだと言って、売り言葉に買い言葉。それで、お義父様が家を出てしまわれて。帰って来いと主人が言っても猫と意思疎通が可能と認めなければ帰らないと言うし、主人も認めることは出来ないというし。そのうちに、あの猫と新しい遺言状を隠してきた、あの猫が誰かの助けを得て戻ってくるか、うちの主人が間違っていたと謝らない限りは、全財産は慈善団体に行くなんていいだして。しかも、どちらも折れないでいるうちに、お義父様があの日急逝なさってしまわれて、私たちは真っ青だったんですよ」

 姫子は、どうやって猫と一緒にここにたどり着いたかは言わなかった。ケスラー夫妻も追求してこなかった。ここはあやふやにしておくのが大人ってものだろう。

 こうして姫子は、猫と話せたおかげで新しい人生を始めることが出来た。かなりめちゃくちゃな結末だけれど、悪くない。

「とにかく、あなたのおかげで本当に私の人生、好転したのよ。どうもありがとう。果樹園の世話なんてどうやるのかわからないけれど、ケスラーさんたちが教えてくれるっていうから、きっとなんとかなるわよね」

 話しかけると、猫は大きく伸びをした。
「簡単だよ。水をやるのは、天の神様だし、授粉は蜂たちがやってくれるのさ。出来た木の実をもぐだけなんて、ネズミを狩ったりするほどの技術もいらないだろう」

 そういうものかな。なんか違うようにも思うけれど、これから家族になる猫だから、不要な喧嘩はしない方がいいだろう。そう思って、ふと思い出した。
「あなたの名前、訊いていなかったわね。なんていうの?」

 猫はきれいな瞳をくるくる回した。
「マリッレ。この木と同じだよ」

(初出:2017年1月 書き下ろし)

註・マリッレとはオーストリア方言でアプリコットのこと
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Posted by 八少女 夕

救い出してみたら

scriviamo! 2017、ありがたいことに続々とご参加いただいています。頑張って書いてお返ししていますが、あまりに小説が続いているので、今日は別の話題を。時間稼ぎとも言う?

お茶セット

日本に一時帰国していた10月のこと。実家に滞在しておりました。

朝、母が「燃えないゴミがあったら今出して」というので、玄関の前に出しにいったら、可愛いボーダー柄の瀬戸物が2つありました。

母に訊いてみたら、プリンか何かが入っていて、食べ終わったあとも洗ってしばらく使っていたのだけれど、場所もないしもういいかと思って処分することにしたというのです。

私は「う〜ん」と悩んでしまいました。他に何も持っていくものがないならばともかく、ものすごい量の(くだらないものも含めて)荷物をスイスに持ちかえるので、よけいなものは増やしたくない。

でも、この形と大きさがちょっとツボにはまったのです。

蕎麦猪口サイズの食器も欲しいなと思っていたのですが、それにちょうどいいものはまだ買えていませんでしたし、日本茶だけでなく紅茶などを入れても良さそう。なかなか使いでがありそうです。それで、最終的に氣にいらなかったら小さい植物の鉢にすればいいやと思って、持ち帰りの荷物に入れたのです。

で、帰って来たら、なんと一番お氣に入りのティーカップになってしまいました。

基本は、これにほうじ茶を入れて飲んでいるのですが、紅茶を入れたり、ジャスミンティーを入れたり、ミニサラダやポタージュを入れたり、使い道がいろいろあるじゃないですか。重ねて収納できるのもいいところ。

なかなかいいものをゲットしてきたぞとホクホクしている私です。
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Posted by 八少女 夕

【小説】頑張っている人へ

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第五弾です。けいさんも、まずはプランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

プランBで、拍手絡みの物語を、うちの「シェアハウス物語」とコラボでお願いしても良いですかね。それを受けて、私も掌編を描く。それのお返事掌編をまたいただく…B→B(A)→A混合サンドイッチ、みたいなの。


この二つ書けとおっしゃるうち、ひとつはちょうどブログトップのFC2拍手を1000カウント目にしてくださった記念掌編です。

けいさんは、私と同じく海外在住ですが、お住まいは地球の反対側、スイスから一番遠いオーストラリアです。だから、お逢いするのは生涯無理だと思っていたのですが、なんとブログのお友だちの中で一番最初にお逢いした方になったんです。オーストラリアは、見知らぬ人にもフレンドリーな人が多い国ですが、その社会に馴染んでいらっしゃるけいさんも例外でなくとてもフレンドリーで暖かいハートをお持ちの方。それだけでなく生涯に何度もないウルトラ長期休暇に長編小説を毎日書いたという、とてつもない努力家でいらっしゃいます。爪の垢を煎じて送っていただきたい~。

今回コラボご希望になった「シェアハウス物語」は昨年発表なさった作品で、大学生宇宙そらくんが暮らすことになったシェアハウスでのハートフルな人間模様です。

拍手がらみの話ということですのでどうしようかなと悩みましたが、「応援の拍手」で書くことにして、まず今回は折り紙アーティストのワンちゃんをメインにお借りしました。けいさん、ありがとうございます!

そして、うちからは、あの店が再登場しています。


「いつかは寄ってね」をはじめから読むいつかは寄ってね


「scriviamo! 2017」について
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頑張っている人へ - Featuring「シェアハウス物語」
——Special thanks to Kei-san


 山から下りてくる道は、双方向とも一車線しかない細い道で、切り立った崖のおかげで実際の日暮れよりも早く暗くなる。

 千沙は、ゆっくりと中央線にあわせてハンドルを切り、ブレーキを踏まずにきれいにカーブした。それからすぐにトンネルが来た。コンクリートの壁、独特のオレンジの電灯、千沙は不意に思い出して少しだけ悲しくなった。

 時夫君。私はトンネルを普通に通れるようになったよ。あなたも頑張れるよね。

 時夫は、千沙の父方の従兄だ。同じ街で育ち、それから大学に入った時に埼玉に引越した。千沙が二年遅れてやはり東京の大学に進んでから四年間、下宿が比較的近かったので時おり逢った。とくに千沙が運転免許を取りたての頃、彼に頼んで高速や山道の運転の特訓をしてもらった。

「おい。そんなにブレーキを踏むなよ」
「だって、怖いんだもん」
「そんなことやると、後から衝突されるよ。もっとスムースに走らせなくちゃダメだ」
「わかっているよ」

 そして、トンネルに入ると千沙は速く走れなかった。
「なんでだよ」
「だって、壁にぶつかりそうなんだもん」

 トンネルの壁が車の左側を擦りそうな感じがしたのだ。そして、中央線の反対側には強い光を放つ対向車が向かってくる。上手くすれ違えるか不安になる。

「ぶつかるかよ。これまで走っていた道と同じ幅じゃないか。まっすぐ道の真ん中を見て、同じスピードで走れ」
「う、うん」

 時夫は、口は悪くても千沙にとっていい教師だった。根氣よく、粘り強く指導してくれた。だから、大学を卒業して就職する頃には、千沙は、上手とまではいかなくとも、少なくとも他人に迷惑をかけない程度には運転できるようになっていた。

* * *


 ようやく帰り着いたが、千沙は、車を駐車したあとにまっすぐにマンションには入らなかった。トンネルを過ぎた一時間ほど前からの、もの悲しい想いを誰もいない自宅には持ちかえりたくなかったのだ。

 東京は神田の目立たない路地に『でおにゅそす』はひっそりと立っている。ママと呼ばれる涼子が一人で切り盛りをするこの飲み屋は、二坪程度でカウンター席しかないが、開店してから五年ほどの間にそこそこの固定客が付き、暖かい家庭的な雰囲氣で満ちている。

「いらっしゃいませ。あら、小林さん。今日は少し遅かったかしら」
涼子は千沙に笑いかけた。

「秩父に出張だったの。この時間は、いっぱいね」
そう言って、カウンターを見回した。いつもの常連である西城や橋本の他に、始めて見る国際色豊かな客たちが四人ほど座っていて、その間の一席だけがかろうじて空いていた。

 その席の隣にいた黒髪の女性がにっこり笑って自分の椅子を動かした。どうぞ座ってくださいという意味だと思ったので、千沙は会釈してその席に向かった。

「ワンちゃん、もっとこっちに来ても大丈夫だよ」
肌の色が浅黒く、目の大きなアジア系の男が、意外に流暢な日本語で言った。ワンちゃんってことはこの人も日本人じゃないのかな、そう思いながら千沙は座った。

「今日はどうしますか?」
涼子が暖かいおしぼりを手渡してくれた。今日の装いは黒地に赤や黄土色の縦縞の入った縮緬の小紋だ。袖に手を添えて出す所作がきれいで、千沙はいつも感心する。こういう大人になるのが理想だけれど、いつになることやら。

「今日は、少し酔いたい氣分だから、最初っから熱燗にしてもいいですか」
千沙が言うと、涼子は目を丸くした。

「そうなの? 銘柄はどうしましょうか」
「う~ん、わからないけれど、飲みやすいのはどれかしら」
「そうねぇ。出羽桜の枯山水はどうかしら。三年醸造でわりとふっくらとした味わいだけれど」
千沙はこくりと頷いて、それを頼んだ。

 それまで賑やかに飲んでいた国際的なチームは、千沙に遠慮したのか、少し小声にして飲んでいた。

 一方、既に出来上がっている西城と橋本は、涼子が熱燗を用意しながら、カウンター越しに千沙への突き出しや小皿を置いている間に話しかけてきた。

「どうしたんだい、千沙ちゃん。酔いたい、だなんてさ」
「俺っちが、はっなしを聴いてあげよっか?」

「ちょっと、お二人とも、酔っぱらって小林さんに絡まないでくださいな」
涼子が嗜めると、二人とも赤い顔をして、滅相もないと慌てて手を振った。

 千沙は、笑って二人の方を見てから涼子に答えた。
「大丈夫ですよ。実はね、運転中に車の特訓をしてくれた従兄のことを思い出して、悲しくなっちゃったんです。その従兄ね、いまガンで闘病中なんです」

「まあ、そうなの? それは心配ね」
「仕事熱心のあまり、おかしいと氣づいてからもしばらく検査に行かなかったらしくて、ちょっと進んじゃっているみたいなんです。ほら、若いと早いって言うじゃないですか」

「そりゃあ、悲しくもなるよなあ」
「でもっ。希望っを、失っちゃ、ダメだよなっ。俺っちも、よくなるように、祈るからっさ」

 あらあら、ろれつが回っていない。この酔い方では、おそらく明日になったら何の話題をしていたかも憶えていないだろうなと思いつつも、千沙は微笑んだ。

「その従兄、私と違って優秀だったんです。子供の頃から努力家で、頑張りやで、私が何か出来ないと助けてくれたんですよ。車の運転もそうで、国から出てきた身内が他にいなかったこともあるんですけれど、下手な私にずいぶんとつきあってくれて。それを思い出したら、私は彼のために何も出来なあと、悲しくなっちゃって」

 千沙は、暖かい土色の猪口に浮かんだ枯山水の波紋を眺めながら言った。湯氣の暖かさ、涼子や常連たちの思いやりのある言葉にホッとする。

「そうね。きっとよくなるって信じて陰ながら応援することも、彼の力になるんじゃないかしら」
涼子がそういうと、西城と橋本も大きく頷いた。

「そうだよな。よしっ。俺っち、この箸袋で鶴を折るぞ。そうしたら、千羽鶴にしてさ……」
西城はそういいながら鶴を折りだしたが、手元が危うくて上手く折れていなかった。

「ええ。西城さん、それじゃ、やっこさんになっちゃいますよ」
「うるさいな、ハッシーは、黙って、一緒に折るんだよ。そのイトコを応援するんだってば」

 左側の二人の酔っぱらいに、千沙の意識はしばらく捉えられていたのだが、涼子の驚きの声で我に返った。
「まあ。なんて素敵なの!」

 千沙が、右側を向くと、隣に座ったワンちゃんと呼ばれた女性がどこからか取り出した小さい折り紙で、あっという間にいくつもの折り鶴を完成させていた。しかもそれだけでなく、赤、オレンジ、黄色などできれいな紅葉を折っていた。

「え。この短時間に?」
千沙は、その女性が取り組んでいる別の折り紙作品に目を奪われた。

 それは、追えないほどの速さで、しかも正確に織り込まれて、あっという間に人間のような形になっていった。その小さい人物は、腕を前に差し出して重ねている。

「拍手をしているみたい」
千沙は思わず呟いた。

 ワンちゃんはにっこりと頷いた。
「そうなの。これは拍手をしている人。応援の拍手。頑張っている人への」

 その人物像の周りで、紅葉もまるで小さな手のひらのよう。一緒に拍手をしているようだ。小さな折り鶴も羽ばたいて見える。

「さすがワンちゃん。すごいな。それ、今度のテツオリで、僕たちに教えて」
一番向こうにいた、日本人の若い青年が言った。

「テツオリ?」
千沙が訊くと、青年の隣に座っている青い目の女性がにっこり笑って答えた。
「私たちのシェアハウスで時々やる徹夜の折り紙教室のことなんです。こちらのワンちゃんにいろいろな折り紙を教えてもらうんです」

 ワンちゃんは、千沙に作品の数々を渡した。
「そちらの方の分と一緒に、これもその従兄さんに差し上げてください。ここにいるみんなで応援していますからって」

 千沙は、目頭が熱くなるのを感じながら頷いた。
「はい。彼はきっと喜ぶと思います。不屈の精神を持つ人だもの、きっと頑張ってくれると思います。私もめげずに応援します」

 どんなトンネルにも出口がある。どんな下手な運転も、練習すればそれなりになる。諦めて何もしない人が好くなることはないと教えてくれたのは、他ならぬ時夫だ。

 体調や病状は、努力とやる氣だけではどうにもならない部分もあるけれど、諦めたらお終いというのは同じ。好くなることを信じよう。応援することしか出来ないけれど、せめてそれだけは続けよう。

 週末は、ここにある全ての折り紙を持って彼を元氣づけるためにお見舞いにいこう。千沙は、熱燗を飲み干すと、自分も下手ながらも折り鶴を折るために、箸袋を広げた。

(初出:2017年1月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】黒髪を彩るために

scriviamo! 2017の途中なのですが、今日は別枠の小説を発表します。月に一度発表する読み切り短編集「十二ヶ月の……」シリーズ、去年は試験的に「四季の……」で年四回にしたんですが、今年は再び月一シリーズとして復活しました。今年は「十二ヶ月のアクセサリー」です。一月のテーマは和風に「つまみ簪」です。

短編小説集「十二ヶ月のアクセサリー」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月のアクセサリー」をまとめて読む



黒髪を彩るために

 紅、白、薄桃色。指の先の大きさにも満たない布のパーツを順番に並べていく。「つまみ」は、小さな絹を折ったパーツを組み合わせて簪や櫛飾りなどを作る、江戸時代から続く伝統工芸だ。

 折った布の曲線が外に出る丸つまみ。赤いちりめんのパーツを五つ使って梅の花。大きさを変えて咲き誇る紅白の梅の花をつくる。

 折り目を外側に尖らせる剣つまみは、たくさんの花弁にできるので、菊の花を作る。外側を華やかな曙色、わずかずつ白みの多い桃色の布を使ってグラデーションをつけていき、一番内側は純白にした。そして、枝垂れ梅のように紅白の花房さがりを垂らす。花の中心は小さな淡水パールで上品に留めた。

 できた。恵美は簪を外の光にかざして眺めた。

 かつて姉の初子が作っていたものとは違って、よく見ると糊がしみ出してしまっているところや、上手く折れていなくて左右対称でないところもあるのだけれど、こんな大作を一人で作ったのは初めてだから満足だった。

「簪、恵美ちゃんの成人式に間に合わせなくちゃね」
初子は、大学生だった恵美に優しく微笑んだ。

「そんなこといいから、休んでいてよ。一昨日退院したばかりなのに、もうこんなに根を詰めて」
恵美は慌てて言ったものだ。

 初子は身体が弱くて、いつも家にいた。大学に行くこともなかったし、就職もしなかった。家の中でできること、体力を使わなくていいことしかできなかったが、その分手先がとても器用で、手芸の類いは何でも出来た。

 通信教育で習ったつまみ細工にもその才能が遺憾なく発揮されたので、和装小物のメーカーに納品するようになった。

 大きいかまぼこ板のような木の板の上に薄く糊を伸ばす。ピンセットで器用に折った小さなちりめんや羽二重の布を手早く並べていく。そして、それを銀色のパーツの上に載せて美しい小さい花を完成させていく。つまみ細工はその繰り返しだ。辛抱強くて几帳面な初子にぴったりの仕事だった。

 恵美が成人式に振袖を着ることになると、大喜びで簪を作ってくれると言った。

 恵美は、大正ロマン風の振袖を買ってほしかった上、つまみ簪よりもオーガンジーなどで出来た洋風の飾りが欲しいと思っていたのであまり乗り氣ではなかった。両親が大喜びで「よかったわね」と言うのも面白くなかった。

 子供の頃から、両親の姉と自分への関心には差があるように感じていた。彼らは身体が弱くて入退院を繰り返していた娘を心配していたのだろう。運動会にも出られない、遠足にも行けない初子のことを「かわいそうにね」と慰め、国語や算数で優秀な成績をとると褒めちぎった。一方、健康だけれど成績もそこそこだった恵美は、褒めてもらった記憶もあまりないし、何事も二の次にされてきたと感じていた。それによく叱られた。

 恵美は初子のことを嫌いだったわけではない。少しは妬んだけれど、いつも優しく穏やかだった初子、苦しくてもけなげに耐えている姉のことを偉い人だと思っていた。それに、いつまでもそうやって一緒にいてくれるのだと思い込んでいた。

 でも、初子は恵美の成人式まで生きられなかった。つまみ簪も完成しなかった。

 成人式用に、好きな髪飾りを買ってくれると母親に言われたとき、恵美は首を振った。
「初子姉さんの作ってくれた簪をする」

「でも、あれは作りかけで、目立つところの花弁が欠けているわよ」
「いいの。あれをつけたいの」
恵美は泣きながら言った。他の髪飾りが欲しいなどと思ったりしなければよかった。姉さんに作ってくれたお礼も言えなかった。

 伝統工芸だから、レンガ色と抹茶色で幾何学的な模様のモダンな着物には合わないだろうと思っていたが、それは恵美の思い違いだった。初子は、若竹色と落ち着いたレンガ色のちりめんを使い、剣つまみの内側の花弁を黒にすることで、モダンなデザインの簪を作ってくれていた。

 行動範囲が狭まっている分、彼女の宇宙は小さなピンセットと細い指先から生み出されて自在に広がっていたのだ。恵美は、生きているうちにもっと姉と話して、その心の中の宇宙を覗けなかったことを後悔していた。偏狭で思い込みに縛られていたつまらない自分を悔やんだ。

 同級生たちはその簪を見て、変な顔をした。黙って目を見合わせてから、影でくすくす笑った。恵美は、姉の形見であることを誰にも言わなかった。それは、心ない同級生たちとの会話で穢されたくない神聖な思い出だった。人になんてわかってもらわなくていい。私の黒髪を美しく飾ってくれようと心をこめてくれた姉さんの想いがここに刺さっているんだからと。

 そして、その成人式からもうじき十五年が経つ。

「お母さん、ただいまー」
玄関の引き戸ががらりと開いた。恵美は、もうそんな時間かと驚いた。

「おかえりなさい、初音。あら、またそんなに汚して」
お転婆娘は、またどこかで泥だらけになってきたらしい。

「公園でちょっと滑り台に乗っただけだよ。でも砂場が湿っていたんだもん」
「公園に行くのは、一度帰ってランドセル置いて、着替えてからっていつも言っているでしょう、もう」
「ごめんなさい。忘れちゃった」

 恵美は初音の頭をそっと撫でた。両親が自分に対して感じいていたことを、今は理解できる。健康で元氣よく飛び回っていることは、どんなに有難いことだろうか。漢字の書き取りがバッテンだらけでも、何を着せてもすぐに泥だらけにしてしまっても。何度叱ってもいう事をきかないので、しょっちゅうは褒めないけれど、でも、愛しい娘であることには違いはないのだ。

「お母さん、これ作っていたの? きれいだね」
初音は、簪を覗き込む。

「ふふ。これは初ちゃんのよ」
「私の? 本当? 今もらっていいの?」
「あら、今オモチャにしちゃダメよ。初詣の時に、おきもの着るでしょう。その時にね」

「ふうん。そうか。マイコさんみたいにするんだものね。でも、お母さん。おきものはいいけれど、ぞうりはいたいから、きらい。ビーチサンダルはいちゃダメ?」
「う~ん。それは、いまいちだと思うなあ。でも、痛いのはつらいよね。写真撮らない時はそれでもいいかしら。少なくとも運動靴よりはいいわよね」

 せっかくの簪でばっちり可愛く決めようと思ったんだけれどなあ。カエルの子はカエルだからしかたないかなあ。

 恵美はため息をつくと、タンスの上の初子の写真を振り返った。姉は、昔と変わらずに優しく微笑んでいた。


(初出:2017年1月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】今年こそは〜バレンタイン大作戦

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第四弾です。ダメ子さんも、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

新しいプランができてる
じゃあ私も久しぶりに思い切ってBプランを注文しますです


ダメ子さんは、お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人です。かわいらしい絵柄と登場人物たちの強烈なキャラ、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。

せっかくなので「ダメ子の鬱」のたくさんのキャラたちのうち、ダメ子さんのクラスの男の子三人組、とくにチャラくんをお借りしてお話を書かせていただくことにしました。といっても、実際の主役は、一年に一度だけ出てくる、あの「後輩ちゃん」です。チャラくんはバレンタインデーのチョコを自分ももらいたいと思っているのですが、毎年この後輩ちゃんからのチョコを受け取り損ねているんです。

快くキャラをお貸しくださったダメ子さん、どうもありがとうございました。名前はダメ子さん式につけてみました。「あがり症のアーちゃん」と「付き添いのつーちゃん」です(笑)


【追記】
ダメ子さんが、バレンタインデーにあわせてお返しのマンガを描いてくださいました! アーちゃんのチョコの運命やいかに(笑) ダメ子さん、ありがとうございました!

ダメ子さんの描いてくださった「チョコレート」



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今年こそは〜バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」
——Special thanks to Dameko-san


 今日は例の日だ。2月14日、聖バレンタインデー。アーちゃんは、がたがた震えている。たかだか先輩にチョコを渡すだけなのにさ。

「ごめんね、つーちゃん。つきあわせて。でも、私一人だと、また去年の二の舞になっちゃう」

 アーちゃんは、とんでもないあがり症だ。昨日も授業で当てられて、現在形を過去完了に変えるだけの簡単な質問に答えられなかった。答えがわからなかったのではなくて、みんなの前で答えるというシチュエーションにパニックを起こしてしまったのだ。先生もいい加減アーちゃんがこういう子だって憶えりゃいいのに。

 そんなアーちゃんだけれど、意外と執念深い一面も持ち合わせていて、もう何年もとある先輩に懸想している。バスケ部のチャラ先輩だ。カッコ良くて女性の扱いの上手いモテ先輩ならわかるけれど、なんでチャラ先輩なんだろう。まあ、明るくてけっこう優しいところはあるけれどさ。

「前ね、今日みたいに授業で答えられなくて、クラスの男の子たちに下駄箱で嗤われたことがあるの。そこにチャラ先輩が通りかかってね。『かわいそうだから、やめろよ』って言ってくれたの」
「それ、いつの話?」
「えっと、中学のとき」

 何ぃ? そんな前のこと?
「もしかして、この高校を受験したのは……」
「うん。チャラ先輩がいたから。あ、それだけじゃないよ、偏差値もちょうどよかったし、家からもわりと近かったし」

 全然近くないじゃない。やっぱりこの子、変わってる。そんなに大好きなチャラ先輩に、告白が出来ないどころか、もう何年もバレンタインデーのチョコを渡しそびれているらしい。なにをやっているんだか。

 スイス産のクーベルチュール、70%カカオ、それにホワイトチョコレート。純国産のミルクチョコレートにとってもお高い生クリーム。彼女ったら、あれこれ買ってきて、レシピも調べて研究に余念がなかった。そして、なんとけっこうプロっぽい三色の生チョコを作ったのだ。

「わざわざ用意したんだから、あとは渡すだけじゃない。何で毎回失敗しているの?」

「だって、先輩、二年前は部活に来なかったの。去年は、ものすごく素敵なパッケージのチョコレートを食べながら『さすが、味も包装もまるでプロ並だよな』なんて言って通ったの。私のこんなチョコは受け取ってくれないかもと思ったら、渡せなくて」

 私はため息をついた。そんな事を言って食べているってことは、本命チョコのはずはないじゃない。でも、舞い上がっていて、そんなことを考える余裕がなかったんだろうな。

「わかった。さすがに一緒に行くってわけにはいかないけれど、途中まで一緒に行ってあげよう。どんなチョコにするの? パッケージもちょっと目立つものにするんだよ。義理っぽいものの中では目立つようにね」

 私がそういうと、アーちゃんはこくんと頷いた。
「ごめんね、つーちゃん。その日は他に用事ないの?」
「あ? 私は、そういうのは関係ないからさ。友チョコとか、義理チョコとか、そういう面倒くさいのも嫌いだからやらない宣言してあるし」

 というわけで、私は柄にもなく、きゃーきゃーいう女の子たちの集う体育館へと向かっているのだ。バレンタインでへの付き添い、この私が。チャンチャラおかしいけれど、これまた経験だろう。

 バスケ部のところに女どもが群がっているのは、どう考えてもモテ先輩狙いだろう。あんなにもらうチョコはどう処理しているんだろう。全部食べるわけないと思うんだけれど。女の私だって胸が悪くなるような量だもの。でも、目立つように処分したりするようなことはしないんだろうな。そう言うところは絶対に抜かりないタイプ。

 チャラ先輩は、そんなにもらうとは思えないから、いかにも本命チョコってパッケージのあれをもらったら、けっこう喜ぶと思うんだけれどな。アーちゃんは、かわいいし。

 もっとも男の人の「かわいい」と私たち女の思う「かわいい」って違うんだよね。男の人って、「よく見ると味がある」とか、「人の悪口を言わない性格のいい子」とか、「あがり症でも一生懸命」とか、そういうのはポイント加算しないみたい。むしろ「意外と胸がある」とか、「かわいいってのは顔のことでしょ」とか、「小悪魔でちょっとわがまま」とかさ。まあ、こういう分析をしている私は、男から見ても、女から見ても「かわいくない」のは間違いないけれど。

「つーちゃん、待って。私、ドキドキしてきた」
その声に我に返って振り向くと、アーちゃんが震えていた。まだ体育館にもたどり着いていないのに、もうこれか。これで一人で、先輩のところまで行けるんだろうか。

「いい、アーちゃん。あそこにモテ先輩と群がる女どもが見えるでしょ。あそこに行って彼女たちを掻き分けて先輩にそのチョコを渡すことを考えてご覧よ。どんなに大変だか。それに較べたら、ほら誰も群がっていないチャラ先輩のところにぴゅっと走っていって、『これ、どうぞ!』と手渡してくるだけなんて楽勝でしょ?」

 私は、チャラ先輩がムツリ先輩と二人で立っているのを見つけて指差した。二人は、どうやらモテ先輩がたくさんチョコをもらっているのを眺めながら羨ましく思っているようだ。
「これはチャンスだよ。自分も欲しいなあ、と思っている時に本命チョコを持って女の子が来てくれるんだよ。ほら、早く行っておいで」

 私の入れ知恵で、パッケージにはアーちゃんのクラスと名前が入っているカードが忍ばせてある。あがってひと言も話せなくても、チャラ先輩が興味を持ってくれたら自分から連絡してくれるはずだ。少なくともホワイトデーのお返しくらいは用意してくれるはず。……だよね。


 アーちゃんは、よろよろしながら体育館の方へと走っていく。えっ。何やってんの、そっちは方向が違うよ。

 彼女は、チャラ先輩の方にまっすぐ走っていかずに、モテ先輩の人だかりの方に迂回してしまった。人に紛れて見えないようにってことなのかもしれないけれど、それは誤解を呼ぶぞ。

 あらあらあら。あれはキツいバスケ部のマネージャーだ。モテ先輩とつきあっているって噂の。アーちゃんの持っているチョコを目ざとく見つけてなんか言っている。「抜け駆けする氣?」とかなんとか。

 アーちゃんは、慌てて謝りながら、モテ先輩の周りにいる女性たちから離れた。そして、動揺したせいか、その場に転んでしまった。私はぎょっとして、彼女の方に走っていった。

「アーちゃん、大丈夫?」
「う、うん」

 全然大丈夫じゃないみたい。膝が擦り剥けて血が出ている。手のひらからも出血している。
「わ。これ、まずいよ。保健室行こう」

 でも、アーちゃんは、自分よりもチョコの箱の惨状にショックを受けていた。
「つーちゃん、こんなになっちゃった」

 不器用なアーちゃんでもきれいに詰められるように、テトラ型のカートンにパステルカラーのハートを可愛くレイアウトして印刷したものを用意してあげたのだけれど、転んだ時のショックで角がひしゃげてしまっている。幸い中身は無傷のようだけれど。

「えっと、大丈夫?」
その声に見上げると、チャラ先輩とムツリ先輩だった。アーちゃんは、完璧に固まっている。

「だっ、大丈夫ですっ!」
彼女は、チョコの箱を後に隠して立ち上がった。
「わっ、私、保健室に行かなきゃ! し、失礼しますっ」

「あ、そのチョコ、モテにだろ? 僕たちが渡しておいてあげようか?」
チャラ先輩は、一部始終を見ていたらしく、覗き込むようにちらっと眺めながら言った。お。チャンス!

「え。いや。そうじゃないです! そ、それにもう、潰れちゃったから、渡せないし、捨てようかと……」
アーちゃんは、焦って意味不明なことを言っている。そうじゃなくて、これはチャラ先輩に持ってきたって言えって。

 パニックを起こしている彼女は、誤解を解くどころか、箱をよりにもよって私に押し付けて、ひょこひょこと校舎に向かって走っていった。ちょっと。これをどうしろって言うのよ。

 思いあまった私は、潰れた箱をチャラ先輩の手に押し付けた。
「これ、モテ先輩に渡したりしちゃダメですよ。 中身は大丈夫のはずだから、食べてくださいね!」
 
 あとはチャラ先輩がこれを開けて、中のカードをちゃんと読んでくれることを祈るのみ。中の生チョコが潰れていなければ、カードに必要な情報が全部書いてあるはずだから。

 ところでアーちゃんは「チャラ先輩へ」ってカードにちゃんと書いたのかな。今は、それを確かめようもない。私はアーちゃんを追わなくちゃいけないし。

 ああ、この私が加担したにもかかわらず、今年も前途多難だなあ。

(初出:2017年1月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

【写真】20枚の写真

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第三弾です。ポール・ブリッツさんは、引き続きプランBでのご参加もしてくださいました。プランBは、まず先に私が書き(描き)、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。下記のようなリクエストをいただいています。

「これはないだろう」というような無理難題をお待ち申し上げております。


SなんだかMなんだかよくわからないポールさんですが、どうやったら無理難題を出せるのか、しかも失礼にならないように。最初はいつだったか嫁に出したうちの美穂とポールさんところのポールに波風でも立てるかなどという案も考えたんですが、つまんなかったので却下。

というわけで、こちらが書く小説での挑戦はやめました。下に書くことを読んだ方は「ひどい」とお思いになるかもしれませんけれど、私だってやりたくて無理難題を考えだしているわけじゃないんですよ。あくまでもご希望なので(笑)


「scriviamo! 2017」について
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20枚の写真
——Special thanks to Paul Blitz-san


scriviamo!は、イラストや写真などでも参加できるので、それを使ってちょっと変わったお題を出したいと思います。

以前、66666Hit記念で、みなさまから募集した35個の名詞を使って小説を書いていただく企画をやったことがありますが、あれの写真編をやってみたいと思います。

下に表示されているのは、すべて私が撮った写真です。20枚あります。スイスのものもありますし、他の国のものもあります。

この写真のうち、少なくとも5枚を使って、その情景に上手く合うようなストーリーを作っていただきたいと思います。

写真には、純粋に写真に興味を持ってくださる方のために、下に説明文が添えてありますが、それがどこのものか、実際にどういうシチュエーションで撮ったものかは無視してくださってけっこうです。目で見た写真とストーリーがマッチしていればそれでOKです。順番ももちろん関係ありません。

もちろん20枚全部を使っても構いません。複数の作品にしていただいても構いません。(一篇に写真5枚以上は必須ですが)

写真の著作権は放棄しませんが、この企画で使う場合に限り、ご自由にダウンロードして作品に貼付けていただいてけっこうです。

ちなみに、ポールさん以外の方で「面白いから私もやりたい」と思われる方もどうぞご自由にご参戦ください。



scriviamo! 2017 Photos (1)
教会の祭壇です。聖母子像ですね。

scriviamo! 2017 Photos (2)
こちらはホテルのレストラン。

scriviamo! 2017 Photos (3)
八月になるとトウモロコシがぐんぐん育って、背の高さを超えると「夏も終わりだ」と実感することになります。

scriviamo! 2017 Photos (4)
昔の街並の残る旧市街は壁で囲まれていて、そこに入るのにこうした門を通っていくことが多いです。

scriviamo! 2017 Photos (5)
秋のエンガディンは金色に色づいた落葉松が印象的です。

scriviamo! 2017 Photos (6)
とある公園にて。黄葉の下でまどろむ彫像。何を夢見ているのでしょう。

scriviamo! 2017 Photos (7)
空港はいつもドラマの予感。長距離フライトがあまり好きではなくなった今でも、ここに来るのはやはりちょっぴりときめきます。

scriviamo! 2017 Photos (8)
雪の止んだ月夜。普段よりも幻想的な光ですね。

scriviamo! 2017 Photos (9)
ホテルのロビーにて。私たちの旅行では、ここでいろいろとドラマが生まれているのです。

scriviamo! 2017 Photos (10)
これもホテル。でも、立派なお屋敷もこういう感じなんじゃないかしら。

scriviamo! 2017 Photos (11)
ちょっと特殊な写真ですね。

scriviamo! 2017 Photos (12)
これはイタリアとの国境です。時おり誰もいません。フリーバス。

scriviamo! 2017 Photos (13)
これはマッジョーレ湖ですかね。南国の明るさにあふれた湖水です。

scriviamo! 2017 Photos (14)
時計博物館で撮った写真です。アンティークのものですけれど、自宅にあったらちょっとこわいなあ。

scriviamo! 2017 Photos (15)
これも冬の夜。なんてことのない光景ですけれど心うたれたのでパチリ。

scriviamo! 2017 Photos (16)
これはポルトで撮った写真。洗濯物は生活感あふれています。カラフルなところが氣にいりました。

scriviamo! 2017 Photos (17)
ポルトの夜景です。

scriviamo! 2017 Photos (18)
会社の近くにある教会の外にある彫刻。レンギョウの花の咲く季節ですね。

scriviamo! 2017 Photos (19)
イタリアとの国境に近いブレガリア地方にて。黄色いバスはこの辺りの唯一の公共交通機関です。

scriviamo! 2017 Photos (20)
我が家の近くにて。たまにこういう空の色が見られます。


【追記】
ポール・ブリッツさんがお名前のごとく稲妻スピードでお返しを書いてくださいました。しかも物足りないからとご自分でハードルをあげられたようです。ありがとうございました!

ポールさんの書いてくださった小説「キングも知らない


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Posted by 八少女 夕

【小説】異国の女と謎の訪問者

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第二弾です。ポール・ブリッツさんは、私の小説群に出てくる架空の村、カンポ・ルドゥンツ村の出てくるスパイ小説で参加してくださいました。

ポール・ブリッツさんの書いてくださった『カンポ・ルドゥンツの来訪者』

ポールさんは、オリジナル小説と俳句、それに鋭い書評や愛に溢れた映画評論などを書いていらっしゃる創作系ブロガーさんです。どうも、こういう企画は難しい挑戦をしないといけないとお思いになっているらしくて、毎年しょっぱなから大いにハードルをあげてくださるブログのお友だちです。でも、挑戦されたからと言って、応える方の技量には限りってモノが……。まあ、いいや。

いやー最近読んでいるスパイ小説が面白くって(^^)


この参加宣言と、あちらの小説のみなさんのコメントでは、私もスパイ小説でお返しすることを期待されているような氣もしますが、そう簡単に書けるわけないじゃないですか。しかも舞台がカンポ・ルドゥンツ村ですよ。何もないし。というわけで、こんな話になりました。例によって真相は「藪の中」です。なにが本当でなにが憶測なのか、謎の男は何しにきたのか、ポーランド人と、ロシア人は、スパイ小説とどう関わっているのかもしくは全然関わっていないのか、それは読者の想像にお任せします。

登場するトミーとリナは、去年のscriviamo!をはじめとして、私の小説では既におなじみのキャラなのですが、別に読まなくても大丈夫です。一応シリーズのリンクはつけておきますけれど……。


【参考】
「リナ姉ちゃんのいた頃」シリーズ
「酒場にて」

「scriviamo! 2017」について
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「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



異国の女と謎の訪問者
——Special thanks to Paul Blitz-san


 道は凍り付いている。育ち始めた霜は、結晶を大きくさせて、雪が降ったあとのようにあたりを白くしている。カンポ・ルドゥンツ村は、ライン河の東岸にある小さな村だ。小高い丘の上にある少し裕福な人たちの住む場所は別として、泉のある村の中心部には三ヶ月にわたり一度も陽の光が差さない。

 河向こうにあるサリス・ブリュッケと違い住民も少ないこの村は、冬の間はまるで死んだかのように人通りがない。かつては広場を囲んで三軒あった旅籠兼レストランのうち今も営業しているのは一軒のみで、他には村の中心部からかなり離れたところにバーとそれに隣接した有機食料品店があるだけだ。

「こんにちは、トミー!」
そのバーの扉を勢いよく開けて飛び込んできたのは、そんな寒村には全く似合わない派手な出立ちの娘だ。鮮やかな緑のコートは確か雑誌で見かけたバリーの新作だし、その下から現れた白いミニ丈のニットドレスは、どこのブランドかわからないけれど今年のトレンドであることは間違いない。黒いタイツに茶色いロングブーツのバランスもこだわりを感じさせる。それがわかるトミーだが、そんなことを容易く褒めてはやらないのが彼らしさだ。

「リナ。いつお外が春になったのよ」
「なっていないわよ。マイナス10℃ってところかな。寒かった~」
「だったら何でそんな恰好をしているのよ」
「だって今日はこういう氣分なんだもん」

 『dangerous liaison』は、コンサバティヴで過疎な寒村カンポ・ルドゥンツ村のはみ出しものが集うバーだ。ゲイのカップルであるステッフィとトミーが経営している。青とオレンジを基調とした南国風の室内装飾はこのあたりでは滅多にない派手なインテリアで、やってくる客もこの谷の半径三十キロ地点にいるはみ出しものばかりだった。

 この村に住むリナ・グレーディクもその一人で、週に二度ぐらいはこの店にやってきてトミーに新しいファッションを披露するのだった。

 カウンターの奥でクスっと笑う声がしたので顔を向けると、ノヴァコフスキー夫人で通っているイリーナが壁についたカラフルなシミのように座っていた。このバーの常連の中で最高齢だと思われ、正確な歳は誰も知らないがおそらく八十歳は超えているはずだ。夫のノヴァコフスキーは五十過ぎてから結婚してこの村に彼女を連れてきたが、彼が亡くなった後三十年ひとりで近くのアパートメントに住んでいる。

「あれ。一人? お客さん、帰ったの?」
リナは訊いた。

 前回この店にきた時に、常連である自動車工マルコが大騒ぎしていたのを耳にしていたのだ。
「おい。知っているか? ノヴァコフスキーの後家婆さんのところにボーイフレンドが来ているぞ! あの歳でやるよな」

「どんなヤツだ?」
「外国人だよ。顔立ちから言うと南欧の男かな。でも背はかなり高い。どこにでもいそうな老人だ」

 マルコの情報によると、村の中心にある旅籠に滞在しているということだった。そして、イリーナが彼を訪ねてきて二人で自宅に向かったのを目撃したレストランの常連たちが、驚きと興味を持って二人の関係についてあれこれ詮索して騒いでいたというわけだった。

「あの婆さんもポーランド人だったっけ」
「いや。確かロシア人だったはずだ。ティツィーノ州からやってきたらしく、イタリア語が達者なんだ」
「ああ。亡命貴族が多いんだよな。革命の時にごっそり持ち出した財宝でマッジョーレ湖のヴィラで優雅に暮らしている帰化者がいっぱいいるって話だ」
「そんな金持ちが、ヤン・ノヴァコフスキーみたいな貧乏人と結婚してこんな田舎に来るか」
「さあな。貴族の召使いの子弟ってのもいるだろう」

「そもそもヤン・ノヴァコフスキーは何でこの村に来たんだっけ?」
「ああ。ありゃ戦争捕虜だよ。フランスで従軍していたんだが、ドイツに投降するくらいなら、スイスに入った方がマシな扱いを受けるからって越境してきたんだ。で、戦後に村の娘と結婚して帰化したはずだ」
「なるほど。その娘が亡くなってから後添いに来たのがあのイリーナ婆さんってことだな」

「その婆さんが、今度は別の外国人をこの村に連れてくるってことか? はてはて。で、今度は何人かな」

 そんな噂が村の中心を駆け巡っていたのが四日ほど前だった。だが、村人の予想に反して、謎の南欧風の男は迎えにきた車に乗ってどこかへと去っていった。

 リナの質問は、村の噂がすでにバー『dangerous liaison』にまで広がっていることや、自分が村の好奇心の対象となっていることを示していたので、イリーナは笑った。銀髪を優雅に結った女性で、若いころと変わらずに魅力的で秘密めいた微笑みを見せる。未亡人となってからはいつも黒い服を身につけているが、纏っているスカーフが色とりどりで華やかだ。

「ええ。帰りましたよ。昨日ね」
それから、トミーにワインのお替わりを頼んだ。

 すぐに帰るつもりはないと判断したリナは、イリーナの隣に座った。
「イリーナの家族?」

 イリーナは首を降った。
「いいえ。友達よ。ペンフレンドね」
「ペンフレンド?」

「ええ。いつだったか州都のスーパーマーケットで、告知をみつけたの。キリル文字で書かれていたのよ。懐かしかったから近寄って見たらペンフレンド募集だったのよ。それで連絡して文通するようになったの。この歳になると、使わないと、すっかり忘れて使えなくなってしまうのよ」

 リナはカンパリソーダを飲みながらイリーナの顔を覗き込んだ。
「イリーナはポーランド人じゃなかったんだ」
「いいえ。私の両親はロシアの出身なのよ。革命から逃げてティツィーノ州に来たの。私はイタリア語圏スイスで生まれ育ったんですよ」

「でも、イリーナはずいぶんきれいなドイツ語を話すよ? どうやって覚えたの?」
「若いころにルガーノに住んでいたドイツの男爵のところで働いていましたからね」

「リナ。あんたはいろいろな事を不躾に訊きすぎるわよ」
トミーが注意した。リナは「ごめん」とは言ったが、反省している様子はなかった。

「いいのよ。変な噂を流されるよりは、訊いてくれた方がすっきりするわ」
イリーナはワインを飲んだ。

 それで、リナは勢いこんで更に訊いた。
「それで、文通をしていた友達が会いにきたのね?」

「そうよ。変わった人でね。ペンフレンドを募集しておきながら、応募してくる人間がいるとは思わなかったなんて書いてくるし、特に文通がしたかったわけでもないみたいだったの。単に婆さんの書いてくる田舎の日常が面白かったから、暇つぶしに時々手紙をくれたみたいね。だから、まさか逢いにくるとは夢にも思わなかったんだけれど」

「じゃあ、何で来たのかしらね?」
リナが訊くと、老女はおかしそうに笑った。
「オクローシカを食べたかったみたいね」

「何それ?」
リナとトミーが同時に訊いた。

 イリーナは笑って言った。
「冷たい野菜スープの一種よ。クワスという発酵飲料で作るの。私は母からクワスの作り方を習っていたので、パンと酵母で手作りしているんですよ。この前の手紙でその話を書いたら、一度訪問したいって書いて来てね。大都会ならペットボトル入りのクワスが専門店で買えると思うんだけれどねぇ」

「ああ、それはわかるわ。故郷を離れていると、なかなか手に入らない手作りの味が無性に恋しくなるのよね」
トミーが頷いた。

* * *


 その頃、村の中心にある旅籠のレストランでは、男たちがまさにイリーナ婆さんと謎の男の噂をしていた。

「俺は、あの男はにはどこかおかしいところがあるように思うんだ」
マルコが熱弁を振るっている。他の男たちはビールを飲みながら首を傾げた。
「どこが?」

「第一に、こんな何にもない村にいきなりやって来たかと思うと、へんな送迎の男たちと去っていっただろう」
「はい、はい。また始まった。お前、外国人とみるとすぐになんかの陰謀だと言い出すんだよな」

 マルコはムキになって続けた。
「おかしいのはそれだけじゃないぞ」
「なんだよ」
「あの顔さ。手は皺しわなのに、額や鼻にほとんど皺がなかった。あれは整形かもしれないぞ」

「へえ。そうなのかな」
「で、イリーナ婆さんのところに何の用だ?」
「諜報機関の奴らが、なんかの書類を受け渡しにきたとかさ。ロシアの亡命貴族とKGBの密会というのは面白い組み合わせだな。それとも亡きポーランド人の遺した第二次世界大戦の時の重要書類か」

 それを聞くと、ほかの男たちは馬鹿にした顔つきで眼を逸らすと、新しいビールを注文した。
「お前は、スパイ小説を読みすぎだ。そんなわけないだろう。寝言もいい加減にしろ。あの男はどうせ婆さんの家族か親戚か、そんなところさ」

(初出:2017年1月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】夜のサーカスと天空の大聖殿

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


今年最初の小説は、「scriviamo! 2017」の第一弾です。山西 左紀さんは、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。下記のようなリクエストをいただいています。

夕さんが気になる、或いは気に入ったサキのキャラとコラボしていただけたら 嬉しいです。


山西左紀さんは、色鮮やかな描写と緻密な設定のSFをはじめとした素晴らしい作品を書かれる方です。お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人で、このscriviamo!も皆勤してくださっています。

既に多くの作品でコラボさせていただいていますが、もっとも多いのが、「夜のサーカス」のキャラクターの一人であるアントネッラと、そのブログ友達になっていただいたサキさんの「物書きエスの気まぐれプロット」のエスというキャラクターとの競演です。

記念すべき初のプランBですから、やはりこの組み合わせで書きたいなと思いました。アントネッラとエスの交流の話、もしくは劇中劇形式になっているストーリーの話、どちらで遊んでいただけるのかも興味津々です。どんな形でお返事いただけるのか、いまからワクワクです。



「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物


「scriviamo! 2017」について
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



夜のサーカスと天空の大聖殿 - Featuring「物書きエスの気まぐれプロット」
——Special thanks to Yamanisi Saki-san


 風を切って雲の間を抜けていく時、《勇敢なる女戦士》ロジェスティラは、イポリトの首筋の茶色い羽毛に顔を埋めた。彼女の忠実な乗り物となったこの巨大なヒッポグリフは、そっと顔を向けて「大丈夫か」と伺うかのごとく黄金色の大きな瞳を動かした。

「怖くなんかないわ。これは武者震いよ。あの天空の大聖殿に近づくのは、お前のような神獣の助けを借りなくちゃ不可能だし、わが軍で《翼あるもの》の使い手は、いまや私一人ですもの。オルヴィエート様をお救いすることが出来るのは、お前と私しかいないんだわ」

 初めて目にした天空の大聖殿は、何と美しいことだろう! いくつもの尖塔がぎっしりとひしめき、針の山のように見えた。灰色と赤茶けた岩しか存在しない、人里離れた地の果てのごときヘロス山に、遠く離れたグラル山塊でしか産出しない青白い大理石をこれだけ運ぶ労力はどれだけのものだったのだろう。

 このように壮大な聖殿を建てても、祭司に集まる貴族たちも、祈りを捧げる民らも到達することは出来ない。五百年前の大噴火によってヘロサ新山が生まれた後、馬はもちろん、徒歩ですら近づくことが出来なくなったのだ。厳しい渓谷に阻まれたこの壮麗なヘロス大聖殿は秘密に守られて、何世紀にも渡り伝説で語られるだけの存在であった。

 ロジェスティラは、モルガントとの対決を思って下唇を噛んだ。将軍である皇孫オルヴィエートを欺き誘拐してこの大聖殿に立てこもっているのが、自分と子供時代を共に過ごした乳兄弟であることを知った時、彼女は「何かの間違いよ!」と叫んだ。けれども、それは間違いではなく、彼が邪悪な《闇の子たち》のために働いていることも疑う余地はなかった。

 いま彼女が躊躇すれば、高貴なるオルヴィエートの命やこの国の命運が失われるだけでなく、《光の子たち》の築き上げてきた世界そのものが崩壊してしまう。

「イポリト。氣をつけて。そろそろモルガントがお前の飛来を感じ取るはずよ。どんな攻撃を仕掛けてくるかわからないわ」

 ロジェスティラのささやきに、イポリトは「わかっている」と言いたげに振り向いた。「あなたこそ、振り落とされないように、お氣をつけなさい」そう言っているかのように瞬きをした。

 そして、イポリトは、ますます速度を上げて、稲光の中に浮かび上がる青白い要塞に向かって降りて行った。



「う~ん。どうも陳腐だわね」
アントネッラは、ため息をつくと、エスプレッソ用品の置いてある窓辺のテーブルに向かった。

 もちろん、そこまでのほぼ全ての地面には、本と書類の山や、二ヶ月ほど前に買ってきてまだショッピングバッグに入れたままになっているトイレットペーパーや洗剤やパスタ、彼女としてはきちんと積み上げてあると認識している衣類の入った木箱などが道を塞いでいるので、彼女はその間のわずかな空間を身体を横にしたり少し飛んだりしながら通らなくてはならない。これもまたいいエクササイズだわ、というのが彼女のいつものひとり言だった。

「さてさて。ファンタジーもののセオリーには、乗っ取っているんだけれど。謀略。主人公と敵対者の闘争。主人公によるヒロインの救出……これは立場が逆ね。敵対者の仮面が剥がれ、主人公の欠如が解消される。でもねぇ。なんだかどこかで聞いたような話になっちゃっているのよねぇ。どこかに、こう、パンチのあるひねりが欲しいわ」

 窓辺に辿りつくと、彼女は少し大きめのアイボリーの缶の蓋をがたがた言わせて開けた。中からは深煎りしたコーヒー豆が現れる。彼女はフランス製の四角い木箱のついたアンティークコーヒーミルに、その豆を入れて、ハンドルをひたすら回した。美味しいエスプレッソを淹れるためには極細挽きにしなくてはならないのだ。挽きたての魅惑的な香りが、彼女の部屋に満ちた。

「ロジェスティラのイメージは、やはりあのライオン使いのマッダレーナかしらね。愛する貴公子を救うために勇敢にも敵地に一人で乗り込む美しきヒロインですもの。容姿のところを書き足さなくちゃ。オルヴィエートは、よく電話してくるあの金髪の俳優にしておこうかな。でも、敵役モルガントの容姿はどうしようかしら。暗い感じで、でも、一見は悪者に見えないような容姿がいいのよね。あ、ヨナタンの容貌は悪くないわね」

 マキネッタの最下部に水を、その上にセットしたバスケットにきっちりと粉を詰めると、ポット部分をセットして直火にかけた。フリーズドライのインスタントコーヒーを使えば、こんな手間はいらないのだが、第一に、彼女はまっとうなエスプレッソを飲む時間を持てないほど人生に絶望してはいないし、第二に、こうした単純作業は創作に行き詰まった時の氣分転換に最高だと知っていたからだ。

「なんでファンタジーを書く企画に参加しちゃったのかしら。まったく書いたことのないジャンルなのに」
彼女は、マキネッタがコトコトと音を立てはじめたのを感じながら、窓の外に広がる真冬のコモ湖を眺めた。

「そもそも私、ファンタジーをまともに読んだこともないし、この系統の映画もほとんど観ていないし。でも、参加すると手を挙げちゃったからには、何かは完成させないと。ああ、困った」

 夏場は観光客を乗せて軽やかに横断する遊覧船が、手持ち無沙汰な様相で船着き場で揺れている。谷間の陽の光は弱く、どんよりと垂れ込めた灰色の雲の間から、わずかに光が射し込んで湖畔の家々を照らしている。

 少なくともエスプレッソが完成するまでは、窓辺でこの光景を眺めていられたのだが、無情にも完成してしまったので、彼女は素晴らしい香りとともにそのコーヒーを愛用のカップに注いで、またコンピュータの前に戻らざるを得なかった。

「そうだ。エスに彼女の進捗状況を訊いてみよう。彼女は、SFは得意だけれど、ファンタジーはあまり書いたことがないって言っていたから、同じように苦労しているかもしれないし」

 エスというのは、日本に住んでいるネット上の創作仲間だ。アントネッラがインターネット上で小説を公開しだしてから数年になるが、ごく初期の頃から交流をもち、お互いの小説について忌憚なく意見を交わしている。あまり情報処理のことに詳しくないアントネッラのかわりに、エスは調べ物をしてくれたりもする。とても頼りになる友人なのだ。

 今回の企画には、エスも同じように参加している。彼女のファンタジーについての意見を聞いたら、自分の作品に足りない「何か」の正体がわかるかもしれないと思ったのだ。

 アントネッラは、創作に使っているエディタを閉じると、チャットアプリを立ち上げて、ログイン画面が現れるのを待った。

 一瞬「保存しますか?」と訊く画面がでたように思ったが、普段ならキーを押したあとに続く「どのフォルダに保存しますか」と言う問いかけが出てこないことに氣がついた。チャットアプリに保存は関係ないから、保存すべきだったのは何だったのかしらと考えてから青ざめた。

 慌ててエディタの方をアクティヴにしようと試みたが、大人しく終了してしまったらしく、うんともすんとも言わない。

 チャットアプリのログイン画面がポップに輝くのを絶望的に眺めてから、アントネッラは乱雑に机の上に積み上げられた書類の山の中に突っ伏した。


(初出:2017年1月 書き下ろし)


【11.01.2017 追記】
サキさんが、あっという間に素晴らしい返掌編を書いてくださいました! さすがです。みなさまどうぞご一読を!

サキさんの作品 「物書きエスの気まぐれプロット(26)クリステラと暗黒の石




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Posted by 八少女 夕

【小説】夜のサーカスと天空の大聖殿

scriviamo!


今年最初の小説は、「scriviamo! 2017」の第一弾です。山西 左紀さんは、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。下記のようなリクエストをいただいています。

夕さんが気になる、或いは気に入ったサキのキャラとコラボしていただけたら 嬉しいです。


山西左紀さんは、色鮮やかな描写と緻密な設定のSFをはじめとした素晴らしい作品を書かれる方です。お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人で、このscriviamo!も皆勤してくださっています。

既に多くの作品でコラボさせていただいていますが、もっとも多いのが、「夜のサーカス」のキャラクターの一人であるアントネッラと、そのブログ友達になっていただいたサキさんの「物書きエスの気まぐれプロット」のエスというキャラクターとの競演です。

記念すべき初のプランBですから、やはりこの組み合わせで書きたいなと思いました。アントネッラとエスの交流の話、もしくは劇中劇形式になっているストーリーの話、どちらで遊んでいただけるのかも興味津々です。どんな形でお返事いただけるのか、いまからワクワクです。



「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物


「scriviamo! 2017」について
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



夜のサーカスと天空の大聖殿 - Featuring「物書きエスの気まぐれプロット」
——Special thanks to Yamanisi Saki-san


 風を切って雲の間を抜けていく時、《勇敢なる女戦士》ロジェスティラは、イポリトの首筋の茶色い羽毛に顔を埋めた。彼女の忠実な乗り物となったこの巨大なヒッポグリフは、そっと顔を向けて「大丈夫か」と伺うかのごとく黄金色の大きな瞳を動かした。

「怖くなんかないわ。これは武者震いよ。あの天空の大聖殿に近づくのは、お前のような神獣の助けを借りなくちゃ不可能だし、わが軍で《翼あるもの》の使い手は、いまや私一人ですもの。オルヴィエート様をお救いすることが出来るのは、お前と私しかいないんだわ」

 初めて目にした天空の大聖殿は、何と美しいことだろう! いくつもの尖塔がぎっしりとひしめき、針の山のように見えた。灰色と赤茶けた岩しか存在しない、人里離れた地の果てのごときヘロス山に、遠く離れたグラル山塊でしか産出しない青白い大理石をこれだけ運ぶ労力はどれだけのものだったのだろう。

 このように壮大な聖殿を建てても、祭司に集まる貴族たちも、祈りを捧げる民らも到達することは出来ない。五百年前の大噴火によってヘロサ新山が生まれた後、馬はもちろん、徒歩ですら近づくことが出来なくなったのだ。厳しい渓谷に阻まれたこの壮麗なヘロス大聖殿は秘密に守られて、何世紀にも渡り伝説で語られるだけの存在であった。

 ロジェスティラは、モルガントとの対決を思って下唇を噛んだ。将軍である皇孫オルヴィエートを欺き誘拐してこの大聖殿に立てこもっているのが、自分と子供時代を共に過ごした乳兄弟であることを知った時、彼女は「何かの間違いよ!」と叫んだ。けれども、それは間違いではなく、彼が邪悪な《闇の子たち》のために働いていることも疑う余地はなかった。

 いま彼女が躊躇すれば、高貴なるオルヴィエートの命やこの国の命運が失われるだけでなく、《光の子たち》の築き上げてきた世界そのものが崩壊してしまう。

「イポリト。氣をつけて。そろそろモルガントがお前の飛来を感じ取るはずよ。どんな攻撃を仕掛けてくるかわからないわ」

 ロジェスティラのささやきに、イポリトは「わかっている」と言いたげに振り向いた。「あなたこそ、振り落とされないように、お氣をつけなさい」そう言っているかのように瞬きをした。

 そして、イポリトは、ますます速度を上げて、稲光の中に浮かび上がる青白い要塞に向かって降りて行った。



「う~ん。どうも陳腐だわね」
アントネッラは、ため息をつくと、エスプレッソ用品の置いてある窓辺のテーブルに向かった。

 もちろん、そこまでのほぼ全ての地面には、本と書類の山や、二ヶ月ほど前に買ってきてまだショッピングバッグに入れたままになっているトイレットペーパーや洗剤やパスタ、彼女としてはきちんと積み上げてあると認識している衣類の入った木箱などが道を塞いでいるので、彼女はその間のわずかな空間を身体を横にしたり少し飛んだりしながら通らなくてはならない。これもまたいいエクササイズだわ、というのが彼女のいつものひとり言だった。

「さてさて。ファンタジーもののセオリーには、乗っ取っているんだけれど。謀略。主人公と敵対者の闘争。主人公によるヒロインの救出……これは立場が逆ね。敵対者の仮面が剥がれ、主人公の欠如が解消される。でもねぇ。なんだかどこかで聞いたような話になっちゃっているのよねぇ。どこかに、こう、パンチのあるひねりが欲しいわ」

 窓辺に辿りつくと、彼女は少し大きめのアイボリーの缶の蓋をがたがた言わせて開けた。中からは深煎りしたコーヒー豆が現れる。彼女はフランス製の四角い木箱のついたアンティークコーヒーミルに、その豆を入れて、ハンドルをひたすら回した。美味しいエスプレッソを淹れるためには極細挽きにしなくてはならないのだ。挽きたての魅惑的な香りが、彼女の部屋に満ちた。

「ロジェスティラのイメージは、やはりあのライオン使いのマッダレーナかしらね。愛する貴公子を救うために勇敢にも敵地に一人で乗り込む美しきヒロインですもの。容姿のところを書き足さなくちゃ。オルヴィエートは、よく電話してくるあの金髪の俳優にしておこうかな。でも、敵役モルガントの容姿はどうしようかしら。暗い感じで、でも、一見は悪者に見えないような容姿がいいのよね。あ、ヨナタンの容貌は悪くないわね」

 マキネッタの最下部に水を、その上にセットしたバスケットにきっちりと粉を詰めると、ポット部分をセットして直火にかけた。フリーズドライのインスタントコーヒーを使えば、こんな手間はいらないのだが、第一に、彼女はまっとうなエスプレッソを飲む時間を持てないほど人生に絶望してはいないし、第二に、こうした単純作業は創作に行き詰まった時の氣分転換に最高だと知っていたからだ。

「なんでファンタジーを書く企画に参加しちゃったのかしら。まったく書いたことのないジャンルなのに」
彼女は、マキネッタがコトコトと音を立てはじめたのを感じながら、窓の外に広がる真冬のコモ湖を眺めた。

「そもそも私、ファンタジーをまともに読んだこともないし、この系統の映画もほとんど観ていないし。でも、参加すると手を挙げちゃったからには、何かは完成させないと。ああ、困った」

 夏場は観光客を乗せて軽やかに横断する遊覧船が、手持ち無沙汰な様相で船着き場で揺れている。谷間の陽の光は弱く、どんよりと垂れ込めた灰色の雲の間から、わずかに光が射し込んで湖畔の家々を照らしている。

 少なくともエスプレッソが完成するまでは、窓辺でこの光景を眺めていられたのだが、無情にも完成してしまったので、彼女は素晴らしい香りとともにそのコーヒーを愛用のカップに注いで、またコンピュータの前に戻らざるを得なかった。

「そうだ。エスに彼女の進捗状況を訊いてみよう。彼女は、SFは得意だけれど、ファンタジーはあまり書いたことがないって言っていたから、同じように苦労しているかもしれないし」

 エスというのは、日本に住んでいるネット上の創作仲間だ。アントネッラがインターネット上で小説を公開しだしてから数年になるが、ごく初期の頃から交流をもち、お互いの小説について忌憚なく意見を交わしている。あまり情報処理のことに詳しくないアントネッラのかわりに、エスは調べ物をしてくれたりもする。とても頼りになる友人なのだ。

 今回の企画には、エスも同じように参加している。彼女のファンタジーについての意見を聞いたら、自分の作品に足りない「何か」の正体がわかるかもしれないと思ったのだ。

 アントネッラは、創作に使っているエディタを閉じると、チャットアプリを立ち上げて、ログイン画面が現れるのを待った。

 一瞬「保存しますか?」と訊く画面がでたように思ったが、普段ならキーを押したあとに続く「どのフォルダに保存しますか」と言う問いかけが出てこないことに氣がついた。チャットアプリに保存は関係ないから、保存すべきだったのは何だったのかしらと考えてから青ざめた。

 慌ててエディタの方をアクティヴにしようと試みたが、大人しく終了してしまったらしく、うんともすんとも言わない。

 チャットアプリのログイン画面がポップに輝くのを絶望的に眺めてから、アントネッラは乱雑に机の上に積み上げられた書類の山の中に突っ伏した。


(初出:2017年1月 書き下ろし)


【11.01.2017 追記】
サキさんが、あっという間に素晴らしい返掌編を書いてくださいました! さすがです。みなさまどうぞご一読を!

サキさんの作品 「物書きエスの気まぐれプロット(26)クリステラと暗黒の石


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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】異教の影

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。
scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第十五弾です。TOM-Fさんは、代表作『フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス』とうちの「森の詩 Cantum Silvae」のコラボ作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

TOM-Fさんの書いてくださった小説『ヴェーザーマルシュの好日』

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広く書かれるブログのお友だちです。音楽や趣味などで興味対象がいくつか重なっていて、それぞれの知識の豊富さに日頃から感心しまくっているのです。で、私は較べちゃうとあれこれとても浅くて恐縮なんですが、フィールドが近いとコラボがしやすく、これまでにたくさん遊んでいただいています。

今回コラボで書いていただいたのは、現実の某ドイツの都市の歴史と、某古代伝説、そしてTOM-Fさんのところの『フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス』の登場人物の出てくるお話の舞台に、当方の『森の詩 Cantum Silvae』の外伝エピソード(『王と白狼 Rex et Lupus albis』)を絡めたウルトラC小説でした。

いやあ、すごいんですよ。よく全部違和感なくまとめたなと感心してしまうんですけれど、それもすごくいい話になって完結しているんです。素晴らしいです。

でも、毎年のことながら「こ、これにどうお返ししろと……」とバッタリ倒れておりました。なんか、あちらの姫君が「森の詩 Cantum Silvae」の世界を旅していらっしゃるらしいので、なんとなく全然違う話は禁じられたみたいだし……。七転八倒。

で、すみません。天の邪鬼な作品になっちゃいました。TOM-Fさんのストーリーが愛と自由と正義の讃歌のような「いいお話」で、しかも綺麗にまとまっているのに、全部反対にしちゃいました。愛と正義を否定する、言っていることは意味不明、ゲストにとんでもない態度。なんというか全くもってアレです。

まあ、「森の詩 Cantum Silvae」らしいと言っちゃえば、らしいです。この世界の人たちは、その時代の枠を越えることはできないので。(象徴的に言えば、トマトどころか、フォークすらありません! 手づかみでお食事です)

TOM-Fさんの作品と揃えたのは、「ある実在する都市の観光案内」が入っていることです。この都市のモデルを知りたい方は「ムデハル様式 世界遺産」または「スペインのロメオとジュリエット」で検索してください。

そして、すみません。あちらの登場人物の従兄ということでご指名いただいた某兄ちゃんは完璧に役不足なので無視しました。せっかくなので、「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」の続編で登場する最重要新キャラをデビューさせていただきます。登場人物を知らないと思われた方、ご安心ください。知っている人はいません(笑)

で、TOM-Fさんのところの姫君(エミリーじゃなくてセシル系? このバージョンもそういう仕様なのかしら?)も、グランドロン王国ではなくずっと南までご足労願っています。舞台は、中世スペインをモデルにした架空の国、カンタリア王国です。


「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む
あらすじと登場人物


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森の詩 Cantum Silvae 外伝
異教の影 - Featuring「フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス」
——Special thanks to TOM-F-san


 その高級旅籠は、三階建でムデハル様式の豪奢な装飾が印象的だった。もし異国からこのカンタリアの地に足を踏み入れたばかりの者ならば、ここはいったいキリスト教の国なのか、それともサラセン人に支配されたタイファ諸国に紛れ込んでしまったのかと訝るところだ。

 これはサラセン人たちの技術を取り入れたカンタリア独特の建築様式で、その担い手の名を冠してムデハル様式と呼ばれていた。ムデハルとは、国土回復レコンキスタ が進むにつれて後退していくタイファ諸国に住んでいたムスリムたちのうち、技術の高さから残留を許された者のことである。レンガやタイル、寄せ木細工などを用いて幾何学模様を施したサラセン風の装飾が、異国にいるような錯覚を呼び起こす。

 今でこそ国土回復レコンキスタ は絶対的正義の大義名分を得、「憎きサラセン人どもを神の名において駆逐する」と言う者もいるが、そもそもこのカンタリア半島では異教徒とキリスト教徒たちは永らく共存し、交流をする普通の隣国同士であった。文化的にも技術的にも優れていたのはタイファ側であったので、キリスト教諸国の商人たちはタイファ諸国の地ヴァンダリスへとこぞって買い付けにいったものだ。

 その旅籠に本日逗到着した一行は、ムデハル様式の建築が盛んなこの街サン・ペドロ・エル・トリーコに初めて逗留したので、豪奢に隙間なく飾られた壁や柱を珍しそうに見回した。その旅籠は、彼らの暮らす王宮よりも美しく彩られているようにさえ見えた。
「なんというところだ」

 ぽかんと口を開けて、周りを見回す太った青年とは対照的に、影のように控えている男は顔色一つ変えなかった。そして低い声で言った。
「殿下。お部屋の用意が済んだようでございます。どうぞあちらへ」
「ヴィダル。お前には、この光景は珍しくも何ともないのであろうが……」

 ヴィダルと呼ばれた黒髪で浅黒い顔の男は、嫌な顔をした。彼もこの街に来るのは初めてなのだ。「異教徒だ」「モロ(黒人)だ」と陰口を叩かれるのを毛嫌いしている彼は、母親の出身を示唆する王子の言葉に苛立ちを感じた。

 その様子を離れたところから眺めていた客が「くすっ」と笑った。ヴィダルは、そちらを鋭く一瞥した。宿屋の中だというのに灰色の外套を身につけたままで、そのフードを目深に被っている。声から女だと知ったが、それ以上のことはわからなかった。

 王子の安全を氣するヴィダルに宿屋の主人は「ヴェーザーマルシュのヘルマン商会の方です。正式な書き付けをお持ちですから物騒なお方ではないと思います」と耳打ちした。

 カンタリアの第二王子エルナンドとその一行は、旅をしていた。表向きは物見遊山ということになっていたが、彼らには別の目的があった。そのために、センヴリ王国に属するトリネア侯国、偉大なる山脈《ケールム・アルバ》を越えた北にあるグランドロン王国の王都ヴェルドン、そしてその西にあるルーヴラン王国の王都ルーヴにそれぞれ嫁いだカンタリア王家出身の女性たちを訪れるつもりであった。

 王都アルカンタラを出て以来、グアルディア、タラコンなど縁者の城に逗留してきたのだが、この一帯には逗留できる城はなく、山がちながらも比較的安全で王子の逗留にふさわしい旅籠のあるこの街に立ち寄ったのだ。

 この旅籠は決して小さくはないのだが、王家の紋章の入った華やかな鞍や馬鎧を施された馬に乗ったエルナンド王子、やはりそれぞれの紋章で馬や武具を飾り立てて付き従う十数名の騎士たち、そして護衛の従卒や小姓たちが入るとそれなりにいっぱいになったので、先客たちは早めに旅籠についておいてよかったと安堵した。

 食事は二階の大食堂で行われた。従卒や小姓などの身分の低い者は別だが、エルナンド王子と騎士たちは食堂の中心にある大きいテーブルに座った。物事を一人で決めるのが不得意な王子に常に付き従う《黒騎士》ヴィダルはいつものように、宿屋の者とすぐに話が出来るように一番端に座った。

 彼の斜め前には、先ほどの外套を着たままの商人が一人で座り、食事をしていた。ナイフを扱ったりフィンガーボールで洗う時に見える白く美しい手から、ヴィダルはこの女は意外と位の高い貴族なのではないだろうかと思った。

 だが、到着してからすでに浴びるほどの酒を飲み続けていた騎士たちは、その外套姿の方にしか目がいかなかったらしい。
「変わった女だ。なぜいつまでもその外套をとらぬのだ」
騎士の一人が言うと、その女は短く答えた。
「あまり人に見せたくない容姿だから。それに女の一人旅は、用心に越したことがないでしょう」

「女というのは氣の毒な生き物だな。己の醜さに囚われて旅籠ですら寛げぬとは」
「そんなに醜いなら、一人旅でもとくに問題はないであろう」
既に酔い始めた騎士たちは、口々に女を馬鹿にする言葉を吐き、ひどく笑い始めた。

 そして、ある者は、ヴィダルの方をちらりと見ながら言った。
「醜いというのならまだましさ。この世には恐ろしい魔女もいる。その美しさで男を籠絡し理性を奪う。外見が変わることもなく、この世の者ならぬ力でいつまでも男を支配し続ける悪魔がな」

 それまで騎士たちの嘲りに反応を見せなかった女が、低い声で呟きながら立ち上がった。
「黙って聴いておれば、このわたしを悪魔扱いして愚弄するつもりか。ずいぶんと勇氣のあることだな」

 ヴィダルは、女の口調にぎょっとして、その動きを遮るように立ち上がった。
「あの男が言っているのは、この私の母のことだ」
「お前の?」

 その時飲み過ぎた別の騎士が椅子から落ちて、地面に倒れ込んだ。騎士たちがどっと笑い、小姓たちが駆け寄って介抱する間、食堂にいた者たちの目はそちらに集中した。だが、ヴィダルは未だに自分を見ているらしい女に目を戻した。

「そうだ。カンタリア国王の愛妾だ。もちろん魔女でも悪魔でもなく普通に歳もとっている。だが、愚か者は自分と見かけの違う者を極端に怖れ、冷静に観察することも出来ぬのだ」
彼の苛立ちを隠さぬ口調に、女は興味を持ったようだった。

「なるほど。お前のその肌の色は母親譲りというわけか。そうか。港街で商人たちがお前の噂をしていたぞ。カンタリアの王子に付き添うサラセンの《黒騎士》がいるとな」
「サラセンでもモロでもない。かといって、正式に呼ばれる名前にも意味はない」

「意味がないのか」
「私がもらった名前は、私の欲しかったものではない。だが、構うものか。名前は自ら獲得してみせるのだから」

 女が顔をもっと上げ、ヴィダルをしっかりと見つめた。そのためにヴィダルの方からも初めてその女のフードに隠れていた顔が見えてぎょっとした。その手と同じように白い肌に、先ほど醜いとあざけった騎士ならば腰を抜かさんばかりの美貌を持った女だった。が、それよりもわずかに見えている髪が白銀であることと、赤と青の色の違う瞳の方に驚かされた。なるほど、この容姿ならば人に無防備に見せたくはないだろう。

 女はわずかに笑うと、座ってまたもとのように食事を取り出した。おそらくこの女の顔を見たのは彼一人だったのだろう。周りは彼らの会話に氣をとめていなかった。女はヴィダルの方を見もせずに低い声で続けた。
「その氣にいらぬ名前を名乗ってみろ」

 ヴィダルはわずかに苛つき答えた。
「それを知りたければ自分から名乗れ」

「ツヴァイ」
「それは人の子の名か。その立ち居振る舞いに言葉遣い、商人などではないな」

「名前に意味はないと自分で言わなかったか。が、知りたければ聴かせてやろう。セシル・ディ・エーデルワイス・エリザベート=ツヴァイ・ブリュンヒルデ・フォン・フランク。これで満足か。名乗れ」

「ヴィダル・デ・アルボケルケ・セニョーリオ・デ・ゴディア」
ヴィダルは苦虫を噛み潰したように言った。
「インファンテ・デ・カンタリアと名乗りたいということか」
 
 嫡出子ではないヴィダルは国王の血を受け継いでいてもカンタリア王家の一員として名乗ることは許されない。愛妾ムニラを溺愛するギジェルモ一世が、せめて貴族となれるようにアルボケルケ伯の養子にしてゴディア領主としたが、彼はその名に満足してはいなかった。だが、彼は女の問いに答えなかった。ひどく酔っぱらって狂騒のなかにいるとはいえ、その場にはあまりに多くの騎士たちがいたから。

「言いたくはないか。ところで、お前は、これも食べられるのか」
女が示しているのは、この地方の名産山の塩漬け肉ハモン・セラーノ だ。その横には、豚の血で作ったチョリソなどもあり、どちらもムスリムやユダヤ人などの異教徒は口にすることが出来ない禁忌品だ。

「もちろん、食べるさ。禁忌などに縛られるのはごめんだ」
彼はそう言ったが、宿の主人は彼の前に無難な川魚料理を出した。彼は塩漬け豚を彼にも出すように改めて頼まなくてはならなかった。女がクスリと笑う声を耳にして、彼は忌々しそうに見た。

「キリスト教徒に見えぬお前はこの地では生きにくいだろうが、異教徒の心は持たぬのだから、かの地に行ってもやはり生きにくいのかもしれんな」
「生きにくい? この世に生きやすいところなどあるものか。そういうお前はどうなのだ。商人のフリをしているのは、何かから逃げているのか」

 すると女は鈴のような笑い声を響かせた。
「わたしか。逃げる必要などない。ただ自由でいたいだけだ。この旅も大いに楽しんでいる。カンタリアの酒と食事は美味い」

 強い太陽の光を浴びた葡萄から作られたワインは、グランドロンやルーヴランで出来るものよりもずっと美味で、香辛料漬けにする必要がなかった。オリーブから絞られた油は、玉ねぎやニンニクを用いた料理の味を引き立てていた。山がちのこの地域は、清流で穫れる川魚、山岳地方の厳しい冬と涼しい夏が生み出す鮮やかな桃色の塩漬け豚も有名だった。さらに、残留者ムデハルが多いため、《ケールム・アルバ》以北ではほとんど食べられていない米、ヒヨコ豆やレンズ豆、アーモンド、ナツメヤシ、シナモンなど、特にアラブ由来の食材をたくさん使う料理が発達した。それらの珍しい食材が古来の食材と融合して、独特の食文化を築き上げていた。

* * *

 
 翌朝、王子たちの朝食は遅かった。深夜まで酒を飲んでいた騎士たちと王子がなかなか起きなかったからだ。ヴィダルはまた端の席に座って静かに朝食をとった。昨夜見た女は、とっくに朝食をとったのだろう、その場にはいなかった。

「ヴィダル。今日は一日この街でゆっくりするのだから、街の名所を案内してくれるよう、宿の主人に頼んでくれぬか」
王子の言葉に頷き、彼は宿の主人に街を見せてくれる人間を推薦してほしいと頼んだ。主人は二つ返事で、彼の舅が案内をすると言った。

 それはかなり歳のいった老人だったが、貴人たちに街を案内するのは慣れているらしく、よどみのない話し方で街の名所を手際よく説明してくれた。ムデハル様式の築物は街の至る所にあり、中でもサンタ・マリア大聖堂の塔、サン・マルティン教会とその塔の美しい装飾を技法の説明も交えて要領よく説明していった。そして、彼は次にサン・ペドロ教会に一行を案内した。

「この教会もムデハル様式の装飾で有名ですが、もっと有名なのは、ここに埋葬されているある恋人たちの悲しい物語なのです」
彼がもったいぶって説明すると、王子と騎士たちは一様に深い興味を示した。彼は一行を教会内部の二つの墓標が並んでいる一画へと案内した。

「いまから百年ほど前のことでした。この街に住んでいたイザベルという貴族の娘と、アラブの血を引く貧しいファンが恋仲になったのです。イザベルの父は二人の結婚を認めず、目障りなファンを厄介払いするために、法外な結納金を設定し五年以内にそれを用意できれば娘と結婚させると約束しました。ファンは唯一のチャンスにかけて、聖地奪回の戦いに身を投じ、五年後に莫大な戦利品を得て凱旋することが出来たました。ところが、イザベルは父親にファンが戦死したと言われたのを信じて既に他の男に嫁いでしまっていました。やっとの思いでイザベルのもとに忍び込んだファンのことを彼女は結婚した身だからと拒絶せざるを得なかったのです。彼は絶望によりその場で亡くなってしまいました。そして、彼を愛し続けていたイザベルもまた埋葬を待つ彼の遺体に口づけしたまま悲しみのあまり死んでしまったのです。その姿を発見した父親と街の人びとは、深く後悔して二人を哀れみ、この教会に共に埋葬しました」

 王子エルナンドは、懐から白いスダリウムを取り出し涙を拭いた。
「なんという悲しくも美しい話であろうか」

 騎士たちもまた、それぞれが想い人たちから贈られた愛の徴であるスダリウムを手にし、悲しい死んだ恋人たちのために涙を流した。だが、ヴィダルだけは醒めた目つきで墓標を見ているだけで何の感情も見せなかった。エルナンドは、ヴィダルのその様子をみると言った。
「お前はこの話に心動かされぬのか」

「心を動かされる? なぜ、私が」
「お前と同じ、サラセン人の血を引く男が、愛する女と引き裂かれたのだ。あの娘のことを思い出しただろう」
そう王子が言うと、《黒騎士》は笑った。

「あの娘とは、どの娘のことです。私は、女のために命を投げ出し、戦い、せっかく得た名声もそのままに悲しみ死んでしまうような愚かな男ではありません」

 エルナンドは首を振った。
「すくなくとも、何といったか……あのルシタニア出身の娘のことだけは愛していたのだと思っていたのだが。他の者のようにお前が悪魔のごとく血も涙もないモロだとは思わんが、時々疑問に思うぞ。神はそもそも、お前に魂を授けたのか?」

 ヴィダルは「さあ。私もそれを疑問に思っております」と答えて、教会の内部装飾の説明をする老人とそれに続く騎士たちの側を離れた。

 老人は、奥の聖壇の豪奢な装飾について滔々と説明をしていた。
「ご覧ください。神の意に適う者たちが命の危険を省みずに聖地を奪回するために戦った勇氣、次々とヴァンダルシアを我々キリスト教徒の手に取り戻したその偉業、神の意思が実現された歓びをこの聖壇の美しさは表現しているのです」

 彼は、幾何学文様と草花のモチーフの繰り返された鮮やかな壁面装飾を見上げた。明り取りの窓から入った光は、その見事な装飾にくっきりと陰影を作っていた。

「神の意ときたか」
女の声にぎょっとして横を見ると、いつの間にか昨夜の謎の女ツヴァイが立っていた。

「お前もここにいたのか」
「この街は面白い。神の栄光を賛美するのに、敵の様式をわざわざ用いるのだから」
女はおかしそうに笑う。

 ヴィダルは首を振った。
「大昔は知らんが、今のこの国で奴らが口にする、残忍な異教徒の追放だの、神の意だの、聖地奪回だのは、本音を覆い隠す言い訳だ。実際は領土拡大と経済的な動機で戦争をしているだけだ。そこでありがたがられている死んだ男も、そうやって手っ取り早く名声を得、大金を稼いだのだ。それなのに女に拒否されたくらいで死ぬとは何と愚かな」

 女は声を立てて笑った。
「それには違いない。だが、たった一人の相手ためにすべてを投げ打つほどの想いの強さがあったのだ。真の愛が人びとの心を打つからみな涙してここに集まるのだろう」

「他人の涙を絞るだけで本人には破滅でしかない愛など何になる。欲しいものを手にすることが出来ないならば、氣高い心や善良な魂なども無用の長物だ」
ヴィダルは拳を握りしめた。女は朗らかにいった。
「では、わたしは、お前がその手で何を掴むのか楽しみにしていよう、《黒騎士》よ」

 ヴィダルはその言葉に眉をひそめて、灰色の外套を纏った女の見えていない瞳を探した。
「ツヴァイ。お前は、一体何者なのだ」

 女は笑った。
「わたしが誰であれ、お前にとって意味はない、そうだろう?」

 それを聞くと、ヴィダルはやはり声を上げて笑った。
「その通りだ。たとえお前が商人であれ、高位の貴族であれ変わりはない。神の使いや、悪魔の化身であっても、同じことだ。この出会いで、私は己のしようとすることを変えたりはせぬ」

 彼は、射し込んだ光に照らされた祭壇の輝きを見ながら頷いた。

(初出:2017年3月 書き下ろし)

ヴィダル by うたかたまほろさん
このイラストの著作権はうたかたまほろさんにあります。無断使用は固くお断りします。


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Posted by 八少女 夕

【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記  鬼の栖

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scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第十六弾、最後の作品です。もぐらさんは、オリジナル作品の朗読で参加してくださいました。ありがとうございます!

もぐらさんの朗読してくださった作品『だまされた貧乏神』

もぐらさんは、オリジナル作品、青空文庫に入っている作品、そして創作ブロガーさんたちの作品を朗読して発表する活動をなさっているブロガーさんです。朗読というジャンルは、あちこちにあるようで、自作の詩を朗読なさっていらっしゃるブロガーさんの存在はずっと前より知っていたのですが、小説なども朗読なさるジャンルがあることを、私は去年の今ごろ、もぐらさんによって教えていただきました。

去年は他の方の作品をご朗読くださったのですが、今年はもぐらさんのオリジナル作品でのご参加でした。日本の民話を題材にした作品で、もぐらさんらしい、声の使い分けが素晴らしい、ニヤニヤして、最後はほうっとなる素敵な作品です。

さて、お返しですけれど、どうしようかなと悩みました。もぐらさんの作品に近い、ほっこり民話系の話が書けないかなと弄くり回してみたり、それとももぐらさんがお好きな「バッカスからの招待状」の系統はどうかなと思ったり。

でも、最後は、もともとのもぐらさんのお話をアレンジした、私らしい作品を書こうと決めました。これをやっちゃうと、どうやってもまたもぐらさんに朗読していただけなくなるんですが(長いし、朗読向けではなくなってしまうので)、今回は参加作品が朗読だったから、これでいいことにしようと思います。

それと。実は、このシリーズの話、今年書いてなかったから、どうしても書きたくなっちゃったんです。あ、シリーズへのリンクはつけておきますが、作品中に事情は全部書いてありますので、もぐらさんをはじめ、この作品群をご存じない方もあえて読む必要はありません。自らの慢心が引き起こしたカタストロフィのために都を離れ放浪している平安時代の陰陽師の話で毎回の読み切りになっています。

まったくの蛇足ですが、「貧乏神」は平安時代の言葉で「窮鬼」といいます。そして「福の神」のことはこの作品では「恵比寿神」と言い換えてあります。


【参考】
樋水龍神縁起 東国放浪記
樋水の媛巫女

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樋水龍神縁起 東国放浪記
鬼の栖
——Special thanks to Mogura-san


 ぽつりぽつりと雨が漏り、建て付けの悪い戸から隙間風が常に入り込む部屋で、次郎は三回目の朝を迎えた。その家は、里からわずかに離れており、馬がようやく濡れずに済むかどうかの廂があるだけの小屋で、次郎はこの家に宿を取らせてほしいと願うか、それとも更に五里ほど歩いてもう少しまともな家を探した方がいいか悩んだ。

 野分(台風)が近づいてきており、一刻も早く主人を屋根の下に案内したかったので、彼はこの里で唯一、見ず知らずの旅人を泊めてもいいと言ったこの家に決めたのだが、その判断を幾度も後悔していた。野分のせいで翌朝すぐに出立することが叶わなかったからだ。

 次郎は、出雲國、深い森に守られた神域である樋水龍王神社の膝元で生まれ育った。神社に仕える両親と同じように若くしてその郎党となった。そして、宮司から数えで五つにしかならぬ幼女である瑠璃媛に仕えるように命じられた。

 瑠璃媛はただの女童ではなく、千年に一度とも言える恐るべき霊力に長けた御巫みかんなぎ で、次郎はそれから十五年以上も敬愛する媛巫女を神のように崇めて仕えてきた。

 けれども、媛巫女瑠璃は、ある日京都からやってきた若き陰陽師と恋に落ちた。そして、その安達春昌は媛巫女を神社より盗み出して逃走した。神社の命を受けて盗人を討伐し、媛巫女を取り戻さんとした次郎は、春昌を守らんとした媛巫女を矢で射抜くことになってしまった。

 そして、媛巫女の最後の命令に従い、贖罪のために放浪する安達春昌に付き従い、帰るあてのない旅をしている。主人はいく先々で一夜の宿を乞い、求めに応じて人びとを苦しめる怪異を鎮めたり、その呪法と知識を用いて薬師を呼べぬ貧しき人びとを癒した。物乞いとさして変わらぬ心細い旅に終わりはなかった。

 時には、今回のごとく心沈む滞在をも忍ばなくてはならない。

 次郎は訝しく思った。この家は確かに貧しいが、これまで一夜の宿を乞うた家でもっとも悲惨な状態にあるわけではなかった。ほとんど水に近い粥しか食べられなかった家もあれば、火がおこせない家や、ひどい皮膚の病で直視できない者たちのところに滞在したこともあった。だが、この家にいた三日ほど一刻も早く出立したいと思ったことはなかった。

 この家には年老いて痩せ細った父親と、年頃のぎすぎすとした娘が二人で住んでいた。父親は、近くの庄屋の家の下男として朝から晩まで懸命に働いていたが、生活は苦しく疲れて悲しげであった。

 娘は、口をへの字にむすび、眉間に皺を寄せて、その庄屋がいかに強欲で情けがない者であるかと罵り、貧しいためにろくなものも食べられないとことあるごとに不満を口にしていた。

「私だって、もっといい食事をお出ししたいんですよ。でも、そんなことどうやってもできません。魚を穫りに行きたくても、こんなひどい野分では到底無理です。それに、ずっとまともなものも食べていないから、こんなに痩せて力もありません。こんな姿では婿に来てくださる方だってありはしません。世には大きいお屋敷に住み、美味しいものを食べて、綺麗に着飾る姫君もいるというのに、本当に不公平だわ」

 そういいながら、すばやく春昌と次郎の持ち物を見回し、この滞在のあとに何を置いていってもらえるか値踏みした。ろくなものを持っていないとわかると、たちまちぞんざいな態度になったが、春昌に陰陽の心得があるとわかると再び猫なで声を出し、また少し丁寧な態度になって下がった。

 そんな娘の態度に次郎は落ち着かなかったが、春昌は特に何も言わずに野分が去るのを待っていた。

 三日目の朝に、ようやく嵐は過ぎ去り、外は再び紺碧の空の広がる美しい秋の景色が広がった。空氣はひんやりとし、野分の残した水滴が、樹々に反射してきらきらと輝いていた。いつの間にか、あちこちの葉が黄色くなりかけている。何と美しい朝であることか。くすんで暗く落ち着かないこの家にやっと暇を乞えると思うと、次郎の心も晴れ晴れとした。

 馬の世話を済ませ、男に暇乞いを願い出ると、旦那様に願いたいことがあると言った。それで次郎は主人にそれを取り次いだ。滞在した部屋で支度を済ませていた春昌のもとにやってきた男はひれ伏して、娘から聞いたことがあり、お力を添えていただけないかと恐る恐る頼んだ。

「飢え死にしそうな貧しさなのに、三日間もお泊めしたんですから、私どものために一肌脱いでいただきたいわ」
おそらく娘はそう言ったのであろう。次郎はその様相を想像しながら控えていた。

「旦那様は陰陽師であられると伺いました。私どものような貧しいものが、都の陰陽師の方とお近づきになっていただくことは本来ならありえませぬし、このように貧しいのでお支払いも出来ませぬが、どうやったら私どもがこの貧しさから抜け出して幸せになれるのか、わずかでもお知恵を拝借できませぬでしょうか」

「そなたの娘は、この貧しさを何のせいだと思っているのか?」
春昌は静かに訊いた。

「はい。娘は、この家には、富の袋に穴を空け、どれほど働いても人を幸せにしないようにする鬼が棲んでいると申すのです。私は誰かそのような者が部屋にいたのを見たことはございませぬが、娘は、鬼とはあたり前の人間のように目に見えるのではなく、陰陽師のような特別な人にしか見えないのだと申します。ですから、私は是非お伺いしてみたかったのでございます」

 春昌は、ため息をつくと言った。
「それは、窮鬼と呼ばれる存在のことです。古文書には、すだれ眉毛に金壷眼を持った痩せて青ざめた姿で、破れた渋団扇を手にしている老いた男の姿で現れたとあります」
「さようでございますか。娘が申すようにそのような鬼が私どもの暮らしに穴をあけるのでございましょうか」

 男の問いに、春昌はすぐに答えなかった。次郎は主人の瞳に、わずかの間、憐れみとも悲しみともつかぬ色が浮かぶのを見た。彼はだが再び口を開いた。

「ここに、窮鬼がいるのはまことです。窮鬼を完全に駆逐するのは容易いことではありません。私がお手伝いすれば家から出すことは出来ますが、二度と戻らぬようにすることはことはできませぬ」

 次郎は驚いた。傲慢と慢心を罰せられてこのような心もとない旅に出る宿命を背負ったとしても、春昌の陰陽師としての力が並ならぬことは、疑う余地もなかった。初めて樋水龍王神社にやってきた時は、右大臣に伴われ「いずれは陰陽頭になるかもしれぬお人だ」と聞かされていたし、神に選ばれた希有な力を持つ媛巫女も彼の才識に感服していた。それだけでなく、この旅の間に遭遇したあまたの怪異を、次郎の目の前で春昌は常にいとも容易く鎮めてきた。それなのにこの度のこの歯切れの悪さはいったいどうしたことであろうか。

 瑠璃媛や春昌のように、邪鬼を祓ったり穢れを清めたりすることはできなかったが、次郎もまたこの世ならぬものをぼんやりと見る事の出来る力を授かって生まれてきた。この家は風が吹きすさび、いかにも貧しく心沈むが、禍々しき物の怪が潜んでいる時のあの底知れぬ恐ろしさを感じることはなかった。類いまれなき陰陽師である主人が、どうしてそのような弱き鬼を退治することが出来ぬのであろうか。

「わずかでもお力をお借りすることが出来ましたら、私めは幸せなのです。娘も旦那様の呪術をその眼で見れば、これこれのことをしていただいたと、納得すると思います」
男はひれ伏した。

 次郎にもこの男の事情が飲み込めた。このまま二人を何もせずにこの家から出せば、あの娘は不甲斐ない父親をいつまでも責め立てるに違いない。

 春昌は「やってみましょう」と言い、娘の待つ竃のところへ行き、味噌があれば用意するように言った。

「味噌でございますか? ありますけれど、大切にしているのでございますが。でも、どうしても必要と言うのでしたら……」
娘は眉間の皺を更に深くして味噌の壷を渋々取り出した。それは大きな壺だった。貧しくて何もないからと味もついていない粥を出したくせに、こんなに味噌を隠していたのかと次郎は呆れた。

 春昌はわずかに味噌を紙にとり包むと、父親と娘についてくるように言った。そして、竃のある土間、父親と娘が寝ていた部屋、春昌たちが滞在した部屋を順に回ると、何かを梵語で呟きながら不思議な手つきで味噌を挟んだ紙を動かしつつ、天井、壁、床の近くを動かした。それから、その味噌を挟んだ紙を持ったまま、次郎に竃から松明に火をともして持つように命じ、全員で家の外に出て、近くの川まで歩いていった。

 野分が去った後のひんやりとした風がここちよく、あちこちの樹々に残った水滴が艶やかに煌めいていた。狂ったように打ちつけた雨風で家や馬が吹き飛ぶのではないかと一晩中惧れた後に、この世が持ちこたえていて、いま何事もなく外を歩けることに次郎の心は躍ったが、足元が悪くなっていることに不服をいう娘の横で、その喜びは半減した。

 歩きながら春昌は、父と娘にこんな話をした。
「聞くところによると、かつて摂津のとある峠で老夫婦が茶屋を営んでおりました。が、どれほど懸命に働いても店は繁盛しませんでした。調べてみると窮鬼がいることわかったそうです」

「ほらご覧なさい。やはり窮鬼がいると、貧乏になるんだわ。追い出したらきっと幸せになってお金もたまるようになるわよ」
娘は勝ち誇ったように言った。

「その夫婦は、窮鬼に聞こえるようにわざと『店が流行らないので時間があって心が豊かになりますね』と言って笑い合ったそうです。それを聞いて、心を豊かにされてたまるかと、窮鬼は店にたくさんの客を送り込みました。二人はこれ幸いと懸命に働き、ますます楽しそうにしていたため、窮鬼は更に勘違いして、もっと店を忙しくしました。そのために窮鬼はいつの間にか恵比寿神となってしまい、その店を豊かにし、幸せになった夫婦は、恵比寿神を大切に祀ったそうです」

 男は驚いて言った。
「窮鬼が恵比寿神に変わることもあるのですか。それに、窮鬼が家にいるままでも裕福になれるのですか」

 春昌は、川のほとりに立つと次郎から松明を受け取り、先ほどの味噌の挟まった紙に火をつけた。味噌の焦げる香ばしい匂いが立ちこめた。彼はそれを川に流してから三人を振り返り言った。

「窮鬼は古来、焼き味噌を好むと言われています。ですから、このように味噌の香りと呪禁にて連れ出し送り火とともに川に流すのです。けれど、連れ出すことの出来るものは、また入ってくることも出来ます。おそらく焼き味噌の匂いに釣られて、近いうちに」

 あれほど大きな壺に味噌を仕込むこの娘の普段の台所は窮鬼がさぞや好むに違いないと次郎は考えた。

「窮鬼を追い出すのではなく、ともに生きることも容易いことではありませんが、天に感謝し、他人を責めずに、常に朗らかでいることで、件の茶屋のように恵比寿神に変わっていただくこともできるでしょう」

 深く思うことがある様相の父親は、それを聞くと何度もお辞儀をして礼を言い、出立する二人を見送った。娘の方は、少し納得のいかない顔をしていたが、何も言わなかった。

 里が遠ざかり、見えなくなると、次郎は馬上の主人に話しかけた。
「春昌様、お伺いしてもいいでしょうか」

「なんだ、次郎」
春昌は、次郎が質問してくるのをわかっていたという顔つきで答えた。

「なぜあの大きな壺ごと味噌を家から出さなかったのでございますか? あれでは窮鬼を呼んでいるようなものではありませぬか」

 それを聞くと春昌は笑った。
「味噌が家にあろうとなかろうと、大した違いはない」

「え?」
合点のいかない次郎に春昌は問うた。

「そなた、あの家の窮鬼を見なかったのか?」
「すだれ眉毛に金壷眼の鬼でございますか。ただの一度も……私めには物の怪の姿はいつもぼんやりとしか見えませぬので不思議はありませんが」

「次郎。それは古書に載っている窮鬼の姿だ。窮鬼はそのような成りではないし、そもそも家に棲むものでもない」
「では、どこに?」

 春昌は、指で胸を指した。
「ここだ。あの手の鬼は人の心に棲む。そして、あの家では、あの娘の中に棲んでいるのだ。父親がどれほど懸命に働こうとも、つねに不平を言い、庄屋や他の人を責め、何かをする時には見返りを求め、持てるものに決して満足しない。あのような性根の者と共にいると、疲れ苦しくなり、生きる喜びは消え失せ、貧しさから抜け出せなくなる」

 次郎は「あ」と言って主人の顔を見た。春昌は頷いた。

「味噌を川に流すことは容易く出来よう。だが、父親が我が子を切って捨てることは出来ぬ。だから、窮鬼を退治するのは容易ではないと申したのだ。あの娘が、少しでも変わってくれればあの善良な男も少しは楽になるであろう。だが……」

 彼は、少し間を置いた。次郎は不安になって、主人の顔を見上げた。春昌は、野分で多くの葉が落ちてしまった秋の山道を進みながら、紺碧の空を見つめていた。彼の瞳は、その空ではなくどこか遠くを眺めていた。

「人の心に棲む鬼は、容易く追い出すことは出来ぬ。たとえ、わかっていても、切り落としてしまいたくとも、墓場まで抱えていかねばならぬこともあるのだ」

 次郎は、主人の憂いがあの娘ではなく、彼自身に向いているのだと思った。野分の過ぎた秋の美しい日にも、彼の心は晴れ渡ることを許されなかった。

(2017年3月書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

【小説】絶滅危惧種

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第十一弾です。

大海彩洋さんは、『ピアニスト慎一』シリーズの番外編で参加してくださいました。ありがとうございます!


彩洋さんの書いてくださった短編 『サバンナのバラード』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。年代が近い、物語を書いてきた長さが近い、ブランクがあったことも似ているなどなど「またシンクロしている!」と驚かされることの多い一方で、えらい違いもあり「ううむ、ちゃんと精進するとこれほどすごいものが書けるようになるのか」と唸らされてしまうことがとても多いのです。

今回書いていただいた作品とその本編に当たる「死と乙女」でも、私のよく書く「好きなクラッシック音楽をモチーフに」に挑戦されていらっしゃるのですが、「なんちゃってクラッシック好き」の私とまさに「えらい違い」な「これぞクラッシック音楽をモチーフにした小説!」が展開されています。

で、今回書いてくださったのは、またまた「偶然」同じモチーフ「女流写真家アフリカヘ行く」が重なった記念(?)に、彩洋さんのところの女流写真家ご一行と、うちの「郷愁の丘」チームとのコラボです。というわけで、こちらはその続きを……。

しかし! 大人の事情で「ジョルジア in アフリカ with グレッグ」は出せませんでした。出すとしたら「郷愁の丘」が終わったタイミングしかなくて、それはあまりにもネタバレなので却下。そして、せっかくゲストに来ていただいているというのに、某おっさんは、これまた大人の事情で取りつく島もない態度……orz。彩洋さん、ごめんなさい。ここで簡単にネイサンたちと仲良しになれるようなキャラに変更すると、本編のプロット大崩壊なんです。

ということで、おそらく彩洋さんの予想と大きく違い、別のもっとフレンドリーなホストで歓待させていただきました。こっちは、たぶん五分で意氣投合すると思います。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む(第1回のみ公開済み)
あらすじと登場人物


「scriviamo! 2017」について
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郷愁の丘・外伝
絶滅危惧種 
——Special thanks to Oomi Sayo san


 普段はあまり意見を言わない看護師がぼそっと言った。
「どうしてわざわざシマウマを観に行くの」

 運転席で、それは当然な問いかけだなと彼は思った。アフリカのゲーム・サファリをする時に、シマウマを観るためだけに車を走らせたりする者はない。ライオンやチーターを探すついでに見たくなくても見えてしまうのが普通だからだ。

「見せてもらうのはただのシマウマじゃないんだよ。ね、スコット博士」
フランスから来た医師が彼に話しかけた。

「はい。これからお目にかけるのは、グレービー・シマウマです」
彼は後を振り返って答えた。彼の運転するランドクルーザーには、三人の客と一匹の犬が同乗している。助手席にはソマリア出身の看護師が座り、フランス人の医師と日本人の女性カメラマンは後部座席に座っている。そして、その後に踞るのは彼の愛犬であるローデシアン・リッジバック、ルーシーだ。

 ネイサン・マレ医師は、撮影をしたがるに違いない奈海が助手席に座った方がいいと主張したのだが、ルーシーがソマリア人を執拗に威嚇するので、距離を開けるためにしかたなくその配置にしたのだ。

「よくあることなんだよ」
スコット博士がソマリア人に謝っているとき、ネイサンは奈海に耳打ちした。

「なにが?」
「アフリカの番犬は、黒人にひどく吠えることが多いんだ。別にそういう教育をしているわけじゃなくても。そして、多くの黒人は番犬が苦手になる。そうすると、それを感じとる犬はもっと吠えるんだ」
「でも、ルーシー、最初は私やあなたにもずいぶん吠えていたわよ」
「まあね。番犬として優秀ってことかな」

 その説明を聞きながら彼は申しわけなさそうに言った。
「彼女は、ほぼ全ての初対面の人間にひどく吠えるんです」

「ってことは、例外的に吠えなかった人もいるってことかい?」
ネイサンが訊くと、彼は短く「ええ」とだけ答えた。

 彼自身の父親であるジェームス・スコット博士でも、その恋人であるレイチェル・ムーア博士でもなく、そして二人の娘のマディでもない。初対面の人間にひどく吠え立てるルーシーがはじめからひどく尻尾を振って懐いたのは、半年ほど前に滞在したアメリカ人女性だった。

 それは、やはり今日のようにマリンディの父親の別荘に滞在した時だった。彼の意思とは関係なく別荘に行くことになったのは今回と同じだったが、その女性は自分で招待したのだ。彼が誰かを招待したのはここ十年では彼女一人だけだった。そもそも、断られると思いながら誘ったのだが、彼女が意外にも簡単に招待に応じてくれたのだ。

 その時たまたまその場にいた旅行エージェントを営む友人リチャード・アシュレイは、彼のことを誤解したようだった。しばらく逢わないうちにすっかり社交的になったのだと。実際には、あいかわらず人間との交流を可能な限り避けている。リチャードは、半年前に彼の人生の沙漠に突然訪れた夢のような二週間のことは知らないだろう。それとも、不器用なために何の成果も手にしなかった話がすでに面白おかしく伝わっているのかもしれない。

 そもそもリチャードは、今回この三人の客を彼に紹介したわけではなかった。ホスピタリティにあふれ、時おりビジネスの範囲を大きく超えて客を歓待するリチャードは、彼に三人の客を見事に接待する能力があると思うほど楽天的ではなかった。

 そうではなくて、この別荘を実質的にいつも使っている人懐こい夫婦に、三人のもてなしを依頼したのだった。つまり、マディとその夫であるイタリア人アウレリオ・ブラスだ。

 アウレリオはオックスフォード時代から付き合いのあるリチャード・アシュレイの親友だ。彼が、リチャードを通じて性格の全く違う無口で人付き合いの下手なケニア出身の学生スコットに近づいたのは、大いなる下心があってのことだった。すなわち、一目惚れした彼の腹違いの妹と親しくなるための布石だ。

 その甲斐あって、マデリン・ムーアと首尾よく結婚したアウレリオは、今では彼の義理の弟となってケニアに移住している。そして、イタリア系住民のコミュニティのあるマリンディの別荘でバカンスを楽しむことも多かったし、親友リチャードの依頼を愛想良く受けてその友人を歓待することも好んだ。だが、愛すべきアウレリオには、大きな欠点があった。肝心な時に決してその場にいないのだ。

 今回もリチャードから紹介され、三人の客の受け入れを快諾したものの、ミラノでの商談の時間がずれ込み約束の日にケニアに戻って来ることが出来なかった。だが、別荘の本来の持ち主である義父ジェームス・スコット博士に代わりに接待をしろとは言えない。妻のマディは二人の子供を抱えていて簡単に250キロも移動できない。そこで急遽、鍵を持っているジェームスの息子であるヘンリーが呼びつけられたのだ。

「グレービー・シマウマって、普通のシマウマとどう違うの?」
日本人カメラマン奈海の声で彼は我に返った。シマウマの研究者である彼は、説明を始めた。

「グレービー・シマウマは、アフリカ全土でよく見られるサバンナシマウマ種よりも大型です。縞模様がよりはっきりしていますが、腹面には模様がありません。ケニア北部とエチオピア南部のみに生息しています」

「ずいぶん減っているんだろう?」
「はい。ワシントン条約のレッドデータでEN絶滅危惧種に指定されています。1970年代には15000頭ほどいたのですが、現在およそ2300頭ほどしか残っていません」

 奈海は驚いた声を出した。
「そんなに減ってしまったの? どうして?」
「縞模様が格別にきれいで、毛皮のために乱獲されたんです。そして、家畜と水飲み場が重なったためにたくさん殺されました」

「今は保護されているんだろう?」
「ええ、捕獲や殺戮は禁止されていますしワシントン条約で保護されたためにここ数年の生息数は安定しています。でも、エチオピアが建設を予定している大型ダムが完成するとトゥルカナ湖の水位が大きく下がると予想されています。それで再び危機的な状況になると今から危惧されています」

 ランドクルーザーは、アラワレ国立自然保護区に入ってから、ゆっくりと進んでいた。マリンディから130キロしか離れていないと聞いていたので、すぐに到着して簡単にシマウマが見られると思っていたが、すでに三時間が経っていて、いまだにヌーやトムソン・ガゼルなどしか目にしていなかった。

「ほら、いました」
彼は、言った。
「あ、本当ね」
ソマリア人が答えた。

「え? どこに?」
奈海は後部座席から目を凝らした。彼女にはシマウマの姿は見えていない。ネイサンが笑った。
「都会の人間には、まだ見えないよ」
「え?」
「サバンナに暮らす人間は視力が6.0なんてこともあるらしいよ。遠くを見慣れているからだろうな。十分くらいしたら君や僕にも見えてくるさ」

 本当に十分以上してから、奈海にもシマウマが見えてきた。彼は生態や特徴などについて丁寧に説明してくれるが、奈海が満足する写真を撮れるほどには近づいてくれない。窓を開けてカメラを構えるがこの距離では満足のいくアングルにならない。

「もう少し車を近づけていただけませんか」
「これが限界です。これ以上近づくことは許可されていません。向こうから近づいてくればいいのですが」

「でも、周りには誰もいないし、僕たちはシマウマにとって危険じゃないから、いいだろう」
ネイサンは、奈海のために頼んだ。
「車で近づくのがダメなら、私、降りて歩いてもいいわ」

「近づくのも降りるのも不可です。彼らをストレスに晒すことになりますから。この規則は、あなたたちに問題が降り掛かるのを避けるためでもありますが、それ以上に生態系を守るためにあるんです」

 警戒心の強いシマウマたちは、どれだけ待っていても近づいてこなかった。やがて彼は時計を見て言った。
「申しわけありませんが、時間切れです。もう帰らないと」

「まだ陽も高いし、少しスピードあげて戻ればいいんだし、あと一時間くらいはいいだろう? まだ彼女が撮りたいような写真は撮れていないんだ」
ネイサンがまた奈海のために頼んだが、彼は首を振った。

「この保護区内では時速40キロ以上を出すことは禁じられているんです。そして、夕方六時までに保護区の外に出ないと」

 これまでのサファリで、こんなに融通の利かない事を言われたことはなかったので、ネイサンと奈海は顔を見合わせた。頼んでも無理だということは彼の口調からわかったので、大人しく引き下がった。

 出かける前にパリに電話をかけていて出発が遅くなったことが悔やまれた。そう言ってくれれば、電話は帰ってからにしたのに。奈海は名残惜しい想いで遠ざかるグレービー・シマウマの群れを振り返った。

* * *


「ヘンリー!」
マリンディに戻ると、アウレリオと二人の子供たちと一緒に到着したマディが待ち構えていた。夫が三人の客たちに無礼を詫びつつ、リビングで賑やかに歓待している間、彼女は彼を台所に連れて行った。

「私たちの到着が遅くなって、三人の世話をあなたにさせたのは悪かったわ。でも、ヘンリー、あなた、まさかお客様にあれを食べさせたわけ?!」
彼女は、流しの側に置いてあるコンビーフの空き缶を指差した。

 彼は肩をすくめた。
「僕にフルコースが作れると思っていたのかい」
「思っていないけれど、いくらなんでも!」

 彼は首を振った。
「心配しなくても、焼きコンビーフを食べさせたわけじゃないよ。そうしようかと思っていたら、見かねたマレ先生があれとジャガイモでちゃんとした料理を作ってくれた」
「あきれた。マレ先生に料理させちゃったのね」

「だから、今夜は、まともに歓待してやってくれ。僕は、帰るから」
「食べていかないの?」
「今から帰れば、明日の朝の調査が出来る。それに、僕がここにいても場は盛り上がらないから」

 マディは、居間にいる四人と子供たちがすっかり打ち解けて楽しい笑い声を上げているのを耳にした。そして、打ち解けにくい腹違いの兄との時間で三人が居たたまれない思いをしたのではないかと考えた。ヘンリーは決して悪い人ではない。ないんだけど……。

「そんなことないわ。それにあの日本女性、写真家だし、弾む話もあるんじゃないの?」
マディは、含みのあるいい方をしたが、彼は乗ってこなかった。

 彼女は続けた。
「彼女と連絡取り続けているんでしょう? 行くって聞いたわよ、来月ニューヨークに」
「どういう意味だ」
「ママがあなたも行くって。あなたが海外の学会に行くなんて、珍しいことだもの。ミズ・カペッリに会うんでしょう?」

 彼は首を振った。
「ニューヨーク学会に行くのは、レイチェルがスポンサーに紹介してくれるからだ。もしかしたら援助してもらえるかもしれないから。ミズ・カペッリは忙しいだろうし、押し掛けたら迷惑だから連絡していない」

「どうして?! せっかく再会できるチャンスなのに、この間、ずいぶん仲良くなったじゃないの」
マディは、よけいなおせっかいとわかっていながら言い募った。

 彼は、答えずに彼女の瞳を見つめ返した。暗い後ろ向きな光だった。彼女は、よけいな事を言ったことを後悔した。上手くいっていたと思っていたのに……。

 彼は、「じゃあ、これで」と言うと表で待つルーシーを連れて車に乗り込み去っていった。

 人付き合いが下手な上、父親ともほとんど没交渉の彼のことを、マディと母親のレイチェルはいつも氣にかけていた。クリスマスや復活祭の食卓に招んだり、別荘での休暇に呼び出したり、学会でも声を掛けたり、彼が《郷愁の丘》に引きこもり続けないように心を砕いてきた。彼は、それを感謝し嫌がらずに出かけてくるが、自ら打ち解けることはまだ出来ない。

 逢ってまだ三十分も立っていないのに、もう昔からの親友のように楽しそうに語り合うアウレリオとマレ医師たちの声を聴きながら、彼女はこの世と上手くやっていけない腹違いの兄と比較してため息をついた。

 夫は彼女に近づくのに躊躇したり、迷惑だろうからと遠慮したりはしなかった。そして、それが彼女自身の幸せにつながった。だが、それをヘンリーに言っても助けにはならないだろう。彼はそういう人間ではないのだから。

 彼女は両親や兄のように動物学者ではないから、学術的なことはわからない。でも、進化論で「絶滅した種は環境に適応できなかったから」と言われているのくらいは知っている。他の生物と同じく環境に適応できないために種を保存できない人間もいるのかもしれない。

 彼女は頭を振ると、去っていった兄の愛するアメリカ人ではなく、パリから来た女流写真家と会話を楽しむべく居間へと向かった。

(初出:2017年2月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

【小説】頑張っている人へ

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scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第五弾です。けいさんも、まずはプランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

プランBで、拍手絡みの物語を、うちの「シェアハウス物語」とコラボでお願いしても良いですかね。それを受けて、私も掌編を描く。それのお返事掌編をまたいただく…B→B(A)→A混合サンドイッチ、みたいなの。


この二つ書けとおっしゃるうち、ひとつはちょうどブログトップのFC2拍手を1000カウント目にしてくださった記念掌編です。

けいさんは、私と同じく海外在住ですが、お住まいは地球の反対側、スイスから一番遠いオーストラリアです。だから、お逢いするのは生涯無理だと思っていたのですが、なんとブログのお友だちの中で一番最初にお逢いした方になったんです。オーストラリアは、見知らぬ人にもフレンドリーな人が多い国ですが、その社会に馴染んでいらっしゃるけいさんも例外でなくとてもフレンドリーで暖かいハートをお持ちの方。それだけでなく生涯に何度もないウルトラ長期休暇に長編小説を毎日書いたという、とてつもない努力家でいらっしゃいます。爪の垢を煎じて送っていただきたい~。

今回コラボご希望になった「シェアハウス物語」は昨年発表なさった作品で、大学生宇宙そらくんが暮らすことになったシェアハウスでのハートフルな人間模様です。

拍手がらみの話ということですのでどうしようかなと悩みましたが、「応援の拍手」で書くことにして、まず今回は折り紙アーティストのワンちゃんをメインにお借りしました。けいさん、ありがとうございます!

そして、うちからは、あの店が再登場しています。


「いつかは寄ってね」をはじめから読むいつかは寄ってね


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頑張っている人へ - Featuring「シェアハウス物語」
——Special thanks to Kei-san


 山から下りてくる道は、双方向とも一車線しかない細い道で、切り立った崖のおかげで実際の日暮れよりも早く暗くなる。

 千沙は、ゆっくりと中央線にあわせてハンドルを切り、ブレーキを踏まずにきれいにカーブした。それからすぐにトンネルが来た。コンクリートの壁、独特のオレンジの電灯、千沙は不意に思い出して少しだけ悲しくなった。

 時夫君。私はトンネルを普通に通れるようになったよ。あなたも頑張れるよね。

 時夫は、千沙の父方の従兄だ。同じ街で育ち、それから大学に入った時に埼玉に引越した。千沙が二年遅れてやはり東京の大学に進んでから四年間、下宿が比較的近かったので時おり逢った。とくに千沙が運転免許を取りたての頃、彼に頼んで高速や山道の運転の特訓をしてもらった。

「おい。そんなにブレーキを踏むなよ」
「だって、怖いんだもん」
「そんなことやると、後から衝突されるよ。もっとスムースに走らせなくちゃダメだ」
「わかっているよ」

 そして、トンネルに入ると千沙は速く走れなかった。
「なんでだよ」
「だって、壁にぶつかりそうなんだもん」

 トンネルの壁が車の左側を擦りそうな感じがしたのだ。そして、中央線の反対側には強い光を放つ対向車が向かってくる。上手くすれ違えるか不安になる。

「ぶつかるかよ。これまで走っていた道と同じ幅じゃないか。まっすぐ道の真ん中を見て、同じスピードで走れ」
「う、うん」

 時夫は、口は悪くても千沙にとっていい教師だった。根氣よく、粘り強く指導してくれた。だから、大学を卒業して就職する頃には、千沙は、上手とまではいかなくとも、少なくとも他人に迷惑をかけない程度には運転できるようになっていた。

* * *


 ようやく帰り着いたが、千沙は、車を駐車したあとにまっすぐにマンションには入らなかった。トンネルを過ぎた一時間ほど前からの、もの悲しい想いを誰もいない自宅には持ちかえりたくなかったのだ。

 東京は神田の目立たない路地に『でおにゅそす』はひっそりと立っている。ママと呼ばれる涼子が一人で切り盛りをするこの飲み屋は、二坪程度でカウンター席しかないが、開店してから五年ほどの間にそこそこの固定客が付き、暖かい家庭的な雰囲氣で満ちている。

「いらっしゃいませ。あら、小林さん。今日は少し遅かったかしら」
涼子は千沙に笑いかけた。

「秩父に出張だったの。この時間は、いっぱいね」
そう言って、カウンターを見回した。いつもの常連である西城や橋本の他に、始めて見る国際色豊かな客たちが四人ほど座っていて、その間の一席だけがかろうじて空いていた。

 その席の隣にいた黒髪の女性がにっこり笑って自分の椅子を動かした。どうぞ座ってくださいという意味だと思ったので、千沙は会釈してその席に向かった。

「ワンちゃん、もっとこっちに来ても大丈夫だよ」
肌の色が浅黒く、目の大きなアジア系の男が、意外に流暢な日本語で言った。ワンちゃんってことはこの人も日本人じゃないのかな、そう思いながら千沙は座った。

「今日はどうしますか?」
涼子が暖かいおしぼりを手渡してくれた。今日の装いは黒地に赤や黄土色の縦縞の入った縮緬の小紋だ。袖に手を添えて出す所作がきれいで、千沙はいつも感心する。こういう大人になるのが理想だけれど、いつになることやら。

「今日は、少し酔いたい氣分だから、最初っから熱燗にしてもいいですか」
千沙が言うと、涼子は目を丸くした。

「そうなの? 銘柄はどうしましょうか」
「う~ん、わからないけれど、飲みやすいのはどれかしら」
「そうねぇ。出羽桜の枯山水はどうかしら。三年醸造でわりとふっくらとした味わいだけれど」
千沙はこくりと頷いて、それを頼んだ。

 それまで賑やかに飲んでいた国際的なチームは、千沙に遠慮したのか、少し小声にして飲んでいた。

 一方、既に出来上がっている西城と橋本は、涼子が熱燗を用意しながら、カウンター越しに千沙への突き出しや小皿を置いている間に話しかけてきた。

「どうしたんだい、千沙ちゃん。酔いたい、だなんてさ」
「俺っちが、はっなしを聴いてあげよっか?」

「ちょっと、お二人とも、酔っぱらって小林さんに絡まないでくださいな」
涼子が嗜めると、二人とも赤い顔をして、滅相もないと慌てて手を振った。

 千沙は、笑って二人の方を見てから涼子に答えた。
「大丈夫ですよ。実はね、運転中に車の特訓をしてくれた従兄のことを思い出して、悲しくなっちゃったんです。その従兄ね、いまガンで闘病中なんです」

「まあ、そうなの? それは心配ね」
「仕事熱心のあまり、おかしいと氣づいてからもしばらく検査に行かなかったらしくて、ちょっと進んじゃっているみたいなんです。ほら、若いと早いって言うじゃないですか」

「そりゃあ、悲しくもなるよなあ」
「でもっ。希望っを、失っちゃ、ダメだよなっ。俺っちも、よくなるように、祈るからっさ」

 あらあら、ろれつが回っていない。この酔い方では、おそらく明日になったら何の話題をしていたかも憶えていないだろうなと思いつつも、千沙は微笑んだ。

「その従兄、私と違って優秀だったんです。子供の頃から努力家で、頑張りやで、私が何か出来ないと助けてくれたんですよ。車の運転もそうで、国から出てきた身内が他にいなかったこともあるんですけれど、下手な私にずいぶんとつきあってくれて。それを思い出したら、私は彼のために何も出来なあと、悲しくなっちゃって」

 千沙は、暖かい土色の猪口に浮かんだ枯山水の波紋を眺めながら言った。湯氣の暖かさ、涼子や常連たちの思いやりのある言葉にホッとする。

「そうね。きっとよくなるって信じて陰ながら応援することも、彼の力になるんじゃないかしら」
涼子がそういうと、西城と橋本も大きく頷いた。

「そうだよな。よしっ。俺っち、この箸袋で鶴を折るぞ。そうしたら、千羽鶴にしてさ……」
西城はそういいながら鶴を折りだしたが、手元が危うくて上手く折れていなかった。

「ええ。西城さん、それじゃ、やっこさんになっちゃいますよ」
「うるさいな、ハッシーは、黙って、一緒に折るんだよ。そのイトコを応援するんだってば」

 左側の二人の酔っぱらいに、千沙の意識はしばらく捉えられていたのだが、涼子の驚きの声で我に返った。
「まあ。なんて素敵なの!」

 千沙が、右側を向くと、隣に座ったワンちゃんと呼ばれた女性がどこからか取り出した小さい折り紙で、あっという間にいくつもの折り鶴を完成させていた。しかもそれだけでなく、赤、オレンジ、黄色などできれいな紅葉を折っていた。

「え。この短時間に?」
千沙は、その女性が取り組んでいる別の折り紙作品に目を奪われた。

 それは、追えないほどの速さで、しかも正確に織り込まれて、あっという間に人間のような形になっていった。その小さい人物は、腕を前に差し出して重ねている。

「拍手をしているみたい」
千沙は思わず呟いた。

 ワンちゃんはにっこりと頷いた。
「そうなの。これは拍手をしている人。応援の拍手。頑張っている人への」

 その人物像の周りで、紅葉もまるで小さな手のひらのよう。一緒に拍手をしているようだ。小さな折り鶴も羽ばたいて見える。

「さすがワンちゃん。すごいな。それ、今度のテツオリで、僕たちに教えて」
一番向こうにいた、日本人の若い青年が言った。

「テツオリ?」
千沙が訊くと、青年の隣に座っている青い目の女性がにっこり笑って答えた。
「私たちのシェアハウスで時々やる徹夜の折り紙教室のことなんです。こちらのワンちゃんにいろいろな折り紙を教えてもらうんです」

 ワンちゃんは、千沙に作品の数々を渡した。
「そちらの方の分と一緒に、これもその従兄さんに差し上げてください。ここにいるみんなで応援していますからって」

 千沙は、目頭が熱くなるのを感じながら頷いた。
「はい。彼はきっと喜ぶと思います。不屈の精神を持つ人だもの、きっと頑張ってくれると思います。私もめげずに応援します」

 どんなトンネルにも出口がある。どんな下手な運転も、練習すればそれなりになる。諦めて何もしない人が好くなることはないと教えてくれたのは、他ならぬ時夫だ。

 体調や病状は、努力とやる氣だけではどうにもならない部分もあるけれど、諦めたらお終いというのは同じ。好くなることを信じよう。応援することしか出来ないけれど、せめてそれだけは続けよう。

 週末は、ここにある全ての折り紙を持って彼を元氣づけるためにお見舞いにいこう。千沙は、熱燗を飲み干すと、自分も下手ながらも折り鶴を折るために、箸袋を広げた。

(初出:2017年1月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

ご挨拶

スイスでは旧年、このブログの読者のほとんどがお住まいの日本では新年というタイミングで、ご挨拶をさせていただこうと思います。

昨年(2015-2016年の年越し)までは、旧年と新年のご挨拶をそれぞれ別記事にしてご挨拶をしていたのですが、今年はひとつにまとめさせていただきます。そのココロは、一つには分けるほどの内容でもないですし、もうひとつは今年の年末年始はお客様がいて、元旦の夜までMacの前に座れないからでもあります。また、毎年ご丁寧に両方のご挨拶をコメント欄にしてくださる方もいらして、恐縮もしていました。

さて、ということで、2016年のことと2017年の抱負(?)をお伝えしようと思います。

【ブログの活動】

2016年は、かなり自転車操業的な創作活動ですが、下記のような作品を発表しました。

長編・大道芸人たち Artistas callejeros 第二部(チャプター1)
長編・Infante 323 黄金の枷(完結)
短編集・四季のまつり(完結)
中編・郷愁の丘(第1回のみ)
不定期連載・リゼロッテと村の四季
企画もの・scriviamo! 2016の作品群
77777Hit記念掌編(八作品)
80000Hit記念掌編(一作品)
その他、外伝やエイプリルフール作品など

10月から11月にかけての日本一時帰国と、その後のスイス生活に追われて秋から創作が今ひとつ進まなかったのですが、2017年はまた少しずつペースを戻していこうと思っています。

既に始まっている「scriviamo! 2017」、その後に「郷愁の丘」の連載、それが終わったら少しずつ「黄金の枷」シリーズの続編と「森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠」の方を開示していけたらいいなと思っています。またしても「発表するする詐欺」にならないように、氣をつけます(汗)

【実生活】
・ポルト旅行とウィーン旅行
2016年も懲りずにポルトに行きました。おそらく2017年も行きます。(とっくにホテルを予約しているあたり)ポルトという街も好きなんですが、向こうで出来た友達と「また来年会おうね」になっていて、行くのがあたり前になりつつあるんですね。いつまで続くかわからないですが、ずっとそうだといいなと思っていたりします。

ウィーン旅行は去年のロンドンで味をしめた「一日有休をくっつけた週末旅行」スタイル。日本でいうと週末香港旅行ぐらいのイメージでしょうか。短い旅ですが都会の楽しさをぎっしり詰め込んで満喫しました。こういう旅もまたしたいな。2017年にするかどうかはまだ決めていませんけれど。

2017年は、また連れ合いとの普通の遅い夏休み休暇を取ると思います。

・日本一時帰国とブログのお友だちとのオフ会

2016年の秋に、4週間日本に一時帰国しました。といっても、休んだのは三週間、途中で一週間日本から会社に遠隔操作で勤務しました。いつもよりもやれることがたくさんあったはずなんですけれど、結局逢いたい人に全部逢うというわけにもいかず、帰国したことを連絡しなかった方も何人もいます。

その一方で、時間と機会を無理矢理つくって(いただいて)お逢いしたのが、ブログのお友だちのみなさん。もともとはオーストラリアから同じ時期に一時帰国していたけいさんとお逢いすることになったのがきっかけでした。けいさんとのオフ会は、二人とも休み中だったこともあって半日以上に及ぶ長いものとなりましたが、話は尽きないし、楽しいし、オフ会というものへの敷居が一氣に下がりました。けいさん、ほんとうにありがとう!

ほかのブログのお友だちも「逢ってもいいよ」的な空氣を(リップサービスかもしれませんが)察知したので、国内旅行の滞在先の神戸の近くにお住まいとわかっていたブログのお友だちに打診したところ大海彩洋さん、TOM-Fさん、山西先さんが「逢ってやるか」と集まってくださいました。火曜日などという働く人泣かせのとんでもない曜日に、お仕事で大変なみなさんを呼びつける悪業にも関わらず、みなさん快く集まってくださり楽しい時間を過ごせて本当に嬉しかったです。

私は、どうもそうは見えないらしいんですが、人に逢う度にオタオタするんです。人に逢うのが嫌なのではなくて、「私と逢っても楽しくないんじゃないか」「話が進まなくて氣まずい想いをさせるんじゃないか」とあれこれ悩むタイプなのですよ。でも、オフ会でお逢いしてくださったみなさんは、そもそも普段私が考えていることを全部知っていらっしゃる方で、小説を書いていると言ってもドン引きされることもないし、それだけでなく実生活のお話を聴いていても興味深い。本当に時間の経つのが早くて嬉しい時間だったのですよね。

limeさんとは、お逢いできなかったんですが、何と両方のオフ会で電話をしてお邪魔をするという暴挙をして、でも、快く話してくださり感激でした。みなさん、本当にありがとうございました。

お逢いできなかった他の方からも「逢いたかったかも」とおっしゃっていただけて嬉しかったな。これは次の帰国の時にまた実現したいことですよね。

・ギター
ええと、まだやっています。前の年より更に牛歩ですけれど。実はギターを買替えて、ひと回り小さい楽器にしました。趣味で続けていくので、セーハが出来なくて悩むよりも、少しでも楽なものをと思って。思い切ってそうしてよかったと思っています。

・仕事と家庭
これは現状維持ですね。健康であることは本当に有難いことと思うことがいろいろとあって、周りと自分を大切にしつつ生活していこうと思っています。

そんなこんなで、慌ただしい年末年始ですが、このブログを訪れてくださるみなさま、おつき合いくださるブログのお友だちの2017年の健康とご多幸を心からお祈りして、新年のご挨拶に代えさせていただきます。

2017年もどうぞよろしくお願いいたします。
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