【小説】ありがとうのかわりに
「scriviamo! 2017」の第十四弾です。けいさんは、毎年恒例の目撃シリーズで書いてくださいました。この作品は、当scriviamo! 2017の下のようにプランB(まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法)への返掌編にもなっています。ありがとうございました。
プランBで、拍手絡みの物語を、うちの「シェアハウス物語」とコラボでお願いしても良いですかね。それを受けて、私も掌編を描く。それのお返事掌編をまたいただく…B→B(A)→A混合サンドイッチ、みたいなの。
この二つ書けとおっしゃるうち、ひとつはちょうどブログトップのFC2拍手を1000カウント目にしてくださった記念掌編です。
けいさんの書いてくださった『とある飲み屋での一コマ(scriviamo! 2017)』
けいさん、実はどうも今、公私ともにscriviamo!どころではない状況みたいで、いま発表するのはどうかなと思ったんですが、こちらの事情(後が詰まっていて)で、空氣を全く読まない発表になってしまいました。ごめんなさい!
今回の掌編は、けいさんの掌編を受けて、前回私が書いた作品(『頑張っている人へ』)の続きということになっています。そっちをお読みになっていらっしゃらない方は、え〜と、たぶん話があまり通じないかもしれません。
今回は「シェアハウス物語」のオーナーにご登場いただいていますが、それと同時にけいさんの代表作とも言えるあの作品にもちょっと関連させていただきました。
で、けいさん……。大変みたいだけれど、頑張ってくださいね。応援しています。
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ありがとうのかわりに - Featuring「シェアハウス物語」
——Special thanks to Kei-san
東京は神田の目立たない路地に『でおにゅそす』はひっそりと立っている。ママと呼ばれる涼子が一人で切り盛りをするこの飲み屋は、二坪程度でカウンター席しかないが、そのアットホームさを好む常連客で毎夜そこそこ賑わっていた。
「いらっしゃいませ。あら、
涼子は現に微笑んだ。
「残念ながらね。でも、みんなここがとても氣にいったようで、近いうちにまた来たいらしいよ。その時には、またよろしく頼むよ」
シェアハウスのオーナーである現は、先日シェアハウスに住む国際色豊かな四人をこの店に連れてきたのだ。
今日は、会社が終わると一目散にやってきて現が来る頃には大抵でき上がっている西城と、少しは紳士的なのに西城にはハッシーと呼ばれてしまっている橋本が仲良く並んで座っていた。そして、カウンターの中には、涼子ママと、常連だがツケを払う代わりに料理を手伝う板前の源蔵がいた。
「よっ。現さん、この間は驚いたよ。あのガイジンさんたち、すごかったよねぇ」
西城は、あいかわらずろれつが回っていない。
「何がすごかったんですかい?」
あの時、一人だけ店にいなかった源蔵が訊いた。橋本が答えた。
「現さんのつれていらした人たち四人のうち三人が外国の人たちだったんですが、みなさん、日本語ぺらっぺらで、しかも鶴まで折っちゃって。日本人の僕たちよりも上手いのなんの……」
「それに、あのアジアのおねーちゃん! あの人形の折り紙はすごかったよなあ。アレを折り紙で折るなんて、目の前で見ていなければ信じられなかったよ」
涼子はもう少し説明を加えた。
「源さんも知っているでしょう、時々やってくる、小林千沙さん、あの方の従兄の方が闘病しているって話になって、だったらみんなで応援しようってことになって、あの夜、ここでみんなで鶴を折ったのよ」
現はその間にメニューをざっと検討して、まずヱビスビールを頼み、肴は適当に見つくろってほしいと頼んだ。源蔵がいる時は、料亭でしか食べられないような美しくも味わい深い、しかもメニューには載っていない一皿にめぐりあえることがあるからだ。
源蔵はそれを聞くと嬉しそうに、準備に取りかかった。現は、突き出しとして出された枝豆の小鉢に手を伸ばしながら訊いた。
「その後、どうなったんでしょうね」
涼子は微笑むと、カウンターから白い紙袋を取り出した。
「
現は「へえ」と言いながら紙袋の中を覗き込んだ。中には、赤と青のリボンで二重に蝶結びにして止めた、白い袋が五つ入っていた。そして、それぞれに付箋がついていた。
「ゲンさんへ、か。これが僕のだ」
彼は、一つを取り出した。残りの四つには「ワンさんへ」「ニコールさんへ」「ムーカイさんへ」「ソラさんへ」と書いてある。あの時、耳にしただけで漢字がわからなかったので全てカタカナなのだろう。ワンちゃんだけ「ちゃん」付けするのはまずいと悩んだんだろうな。うんうん。彼は笑った。
「西城さんたちももらったんですか?」
現が訊くと、二人は大きく頷いた。
「もちろんさ。俺っちたちは、千沙ちゃんが来た時にここにいたからさ、直接いただいちゃったって訳。開けてごらんよ」
中には透明のビニール袋に入ったカラフルなアイシングクッキーと、CDが入っていた。彼は取り出して眺めた。
ピンクや黄色や緑のきれいなアイシングのかかったクッキーは、全て紅葉の形をしていた。それはちょうどあの日ワンちゃんが折った拍手に見立てたたくさんの紅葉に因んだものなのだろう。
「小林さんの手作りですって。いただいたけれど、とっても美味しかったわ」
涼子が微笑んだ。
「それは嬉しいね。少し早いホワイトデーみたいなものかな。で、こちらは?」
彼はCDをひっくり返した。それはデータのディスクか何かを録音したもののようだった。
「それさ。例の闘病中の従兄が演奏したんだってよ」
西城が言った。
現は驚いて顔を上げた。橋本が頷いた。
「そうなんだってさ。先日、無事に放射線療法がひと息ついて、退院して自宅療養になったんだって」
涼子がその後を継いだ。
「あの皆さんからの折り紙がとても嬉しかったんですって。絶対に諦めない、頑張るって改めて思われたそうよ。それで退院してから小林さんと相談して、みなさんに何かお礼の氣持ちを伝えたいって思われたみたい。それで、ギターで大ファンであるスクランプシャスっていうバンドの曲を演奏して録音したんですって」
「歌は入っていなくてインストだけれど、すごいんだよ。俺たちもらったCD全部違う曲が入っていたんだ。だから現さんたちのとこのもたぶん全部違う曲だと思うぜ」
橋本は興奮気味だ。
「そうですか。僕のはなんだろう。あ、裏に書いてあるぞ『悠久の時』と『Eternity Blue』か。デビュー・アルバムからだね」
「あら、
「もちろんだよ。僕は自慢じゃないけれど、スクランプシャスのアルバムは全部持ってんだから」
現が言うと、皆は「へえ~」と顔を見合わせて頷いた。
「だれが『夢叶』をもらったのかな」
現が皆の顔を見回して訊くと、涼子は笑った。
「私たちじゃないわ。たぶんワンさんじゃないかしら。あの時、いつか折り紙作家になりたいっておっしゃっていたから」
「俺っちもそれに賭ける」
西城が真っ赤になりながら猪口を持ち上げた。
「宇宙かもしれないぞ。あいつもこれから叶える夢があるからな」
その現の言葉に、皆も笑って頷いた。
涼子が現のグラスにヱビスビールを注ぎ、源蔵が鯛の刺身を梅干しと紫蘇で和えた小鉢を置いた。
現はプレゼントを紙袋に戻すと、嬉しそうに泡が盛り上がったグラスを持ち上げた。
(初出:2017年2月 書き下ろし)
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- 【小説】その色鮮やかなひと口を -5 - (12.02.2017)
【小説】紅い羽根を持つ青い鳥
「scriviamo! 2017」の第十三弾です。
たおるさんは、素敵なイラストで参加してくださいました。ありがとうございます!
たおるさんの描いてくださったイラストと記事 『(scriviamo!参加作品)赤い鳥』

このイラストの著作権はたおるさんにあります。無断使用は固くお断りします。
たおるさんは、小説とイラスト・マンガのどれも自在にこなしてしまう創作ブロガーさん。切ない系や、ちょっぴりピリッとした掌編のイメージが強いのですが、胸キュン系の人物模様が面白い「ポーカーフェイスな日常」シリーズもここのところ読み始めさせていただいていて、このシリーズもかなり好きです。
さて、scriviamo!に初参加してくださった今回は、とあるアニメの主人公のイラストを描いてくださったのだそうです。きっと日本の方は「ああ、あの作品の彼ね!」っておわかりになるんだと思うのですが、私はもともとアニメをほとんど観ない上に二十年来の浦島太郎で「こ、これはどんな作品のどなたかな」と全くわからない状態でした。
それで構わないということなので、単純にこのイラストからイメージしたストーリーを書かせていただきました。ですから、元のアニメとは全く関係ないと思います。もしくはどこか被っているかもしれませんが、それは単なる偶然です(笑)
今回の話の中に名前だけ出てくる私の創作世界の既出キャラたち(大富豪イザーク・ベルンシュタイン、アメリカ人傭兵マイケル・ハースト、ハンガリー人エトヴェシュ・アレクサンドラ)は、単に匿名よりはいいかと思って出してみただけで、特に意味はありません(笑)出てくる作品を探す必要は皆無です。
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紅い羽根を持つ青い鳥
——Special thanks to Taoru san
「それで、調査結果はどうだったんだ。早く言ってくれ」
びくついているキースに、《赤ネクタイのジョー》は鼻で笑って答えた。
「先に調査費用を半分渡してくれ。そうしたら八割を話してやる。あんたがそれに満足したら、残りの半分と引き換えに決定的な資料を渡すよ」
《赤ネクタイのジョー》は、『調べ屋』だ。金さえ積めばどんなことでも調べてくれる。たとえ地球の裏側の政治情勢でも、その辺のマフィアが囲っている女のスカートの中のことでも、徹底的に調べ上げる。だが、その対価は大抵の依頼主にひどい頭痛を起こさせる程度に高かった。
舌打するとキースはコートの内ポケットから封筒を取り出して、《赤ネクタイのジョー》に渡した。彼は咥えた火のついていない煙草でその蓋を開けると、十分な厚みがあることを確認して自分のコートの内ポケットにしまおうとした。が、すっと一枚を取りだしてキースに返した。
「やれやれ。これはあんたが持ちかえるんだな。発信器つきの紙幣はいらないよ」
「くっ。もう見破るとは、さすがだな」
「あんたのボスはせこいからな。俺からよろしくと言っておけば、それを仕込み損ねたことを叱ったりなんかしないさ」
キースの属している組織では、直属の上司以外の顔を知る者はいない。どれだけ大きな組織なのか、そもそも何のための組織なのかもキース自身は把握していない。《赤ネクタイのジョー》は、ずいぶん昔に彼の上司のもとで働いていたことがあるらしいが、今はフリーだ。組織を抜けてやっていけるということが彼の能力を示している。少なくとも彼は十年以上も消されていなかった。
「ちなみに、あんたたちの邪魔をした奴らはあんたたちのような組織ではない。これが調査結果だ」
「なんだって? うちのビルにあんな大掛かりな妨害電波を仕掛け、しかもマカオのカジノの帰りではとんでもないカーチェイスを繰り広げたんだぜ。個人とその使用人だけであれだけの動きは無理だろう」
「何万人いてもクズばかり働いていることもあれば、たった数人でマフィアの向こうを張って利益をかっさらうことも出来るさ。ましてや、相手の財力はそこそこの国のGDP並だ」
「いったい誰なんだ」
「イザーク・ベルンシュタイン。名前くらいは知っているだろう、桁違いの大富豪さ。もっともあいつが担当しているのは金の捻出だけだ。実際に動いているのは傭兵でならしたアメリカ人と、美貌のハンガリー女だな。もっとも元締めが誰かは、俺の知ったことではない」
「やつらの狙いはなんだ」
「さあな。だが当面のターゲットは、あんた達と同じ幻の
ベリルから産出される元素ベリリウムは、アルミニウムの三分の二の重さしかない軽い元素だが、硬く強く融点も高い。原子炉の中で中性子の流れを制御する減速材として重要な役目を担うと同時に、少量で莫大なエネルギーに変換するのでロケットの燃料としても期待されている。
キースが上司から受けた使命は、ある死んだ男が発見した、未だ知られていない巨大なベリル鉱山の位置を発見することだ。
「俺が思うに、奴らの方が核心に迫っているな」
「なぜ」
「あんた達がこの日本で、いまだに中国人たちと交渉しているからさ。やつらは、もうアジアからは手を引いているぞ」
そういうと、《赤ネクタイのジョー》は胸ポケットから一枚の絵の映った写真を取り出した。それはおそらく十二世紀頃に描かれたと思われる絵で、想像上の鳥の姿だった。
「なんだ。あの死んだ男の持っていた絵じゃないか。これなら、俺たちはもうとっくに調べたぞ」
「ふん。じゃあ、知っているんだな、これが何か」
キースは馬鹿にして鼻を鳴らした。
「これは中国の想像上の生き物で鳳凰だろう。ヤツの使っていたコードネームが《フェニックス》だったので混乱したが、俺たちだって、いつまでもフェニックスにこだわって中東を探しているわけじゃないんだ 」
「そう。あんた達は鳳凰を捜している。在日中国人に頼んで中国でな。だが、知っているか。これは正確には鳳凰じゃない。
キースは首を傾げた。鳳凰じゃない?
「そうだ。これは、違う種類の鳥だ。いずれにしても想像上の動物だがな。なぜ想像上の動物かというと、どっちにしてもそれは中国にはいなかったからなのさ」
「じゃあ、あの死んだ男が見つけたって言うベリル鉱は、アジアにはないと?」
「ない。その証拠に、あのアメリカ人たちは、もうここを発った」
「じゃあ、どこに?」
「そのヒントはこの鳥にある。憶えているか、あの男のダイイング・メッセージ『紅い羽根を持つ青い鳥』そして、この幻獣、鸞。これと同じ特徴を持つ鳥が実際に存在するんだ。それも、神として崇められている国がある」
「なんだって? それはどこに?」
キースが身を乗り出した。《赤ネクタイのジョー》はにやりと笑って、煙草に火をつけた。深く吸い込み、それからふーっと吐き出した。
「残りの金を渡せ」
「なんだと! 情報が先だ」
せせら笑った《赤ネクタイのジョー》は懐から一枚の写真をとりだしたがキースには見せなかった。
「金を渡さないと、こうするぜ」
ゆっくりと写真を煙草に近づけていく、紅い火がゆっくりと写真の角に近づいていく。
「待て! わかったよ。ほら!」
キースは、もう一つの封筒を渡すと同時に、《赤ネクタイのジョー》の持つ写真をひったくった。
「こ、これは?」
それは輝く長い飾り尾を持つ青緑の鳥だった。胸の部分が真っ赤だ。
「その鳥は、ケツァールという。グアテマラの国鳥だ。35センチほどの鳥だが、尾を含めると1.2mにもなる。古代アステカでは農耕神ケツアルコアトルの使いとして珍重された。そして、決定的なことがある。アステカではエメラルドはケツァーリチリと呼ばれてケツアルコアトルと関連づけられていたんだ。もちろん知っていると思うがエメラルドは、ベリルの一種なのさ。ヤツが示唆していたのは、中国なんかじゃない。中米さ」
「くそっ。そうか! で、あんたはその鉱山の位置を突き止めたのか」
《赤ネクタイのジョー》は、笑って小さな封筒を渡した。
「急いだ方がいいぞ。アメリカ人とハンガリー人は、すでに48時間前に現地に入っている。じゃあな」
封筒をひったくるようにして、キースは車に飛びのって去っていった。
「ふん」
《赤ネクタイのジョー》は、踵を返し、反対方向の駅へと歩いていった。
彼は懐から再び煙草とライターを取り出した。ライターについている探知機が再び小さいシグナルを瞬かせた。
「しつこいヤツだ、まったく」
彼は、二度目にもらった封筒を開けると、発信装置の組み込まれた100ドル紙幣を取り出した。
「赤い羽の共同募金にご協力お願いしまあす」
駅前ではユニフォームを身につけた女子学生たちが一列に並んで叫んでいた。《赤ネクタイのジョー》は、彼女たちの差し出した募金箱に100ドル紙幣を入れた。
ぎょっとした顔をする少女に彼はニコリともせずに言った。
「あいにく日本円の持ち合わせはないんでね。銀行で両替してくれ」
「ありがとうございまぁす!」
最敬礼する女子学生たちからもらった赤い羽根を襟元に差して彼は立ち去りながら呟いた。
「紅い羽根を持つ青い鳥か。寄付なんぞ俺のガラじゃないが、たまにはいいだろう」
(初出:2017年2月 書き下ろし)
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【小説】黒色同盟、ついに立ち上がる
「scriviamo! 2017」の第十二弾です。
かじぺたさんは、写真と文章を使った記事で参加してくださいました。ありがとうございます!
かじぺたさんの書いてくださった記事 『雅たちの宴(scriviamo! 2017に参加させて頂きますm(_ _)m)』
かじぺたさんは、旅のこと、日々のご飯のこと、ご家族のことなどを、楽しいエピソードを綴るブロガーさんで、その好奇心のおう盛な上、そして何事にも全力投球で望まれる方です。もっとも印象的だったのは、お正月の準備で徹夜をなさった件。今はもちろんのこと、日本にいたときもお正月の準備が紅白に間に合わなかったら、「ま、いっか」と一年延長していた私とは正反対だわ〜と感心しておりました。
さて、二回目の参加となった今回は、創作によるご参加ではなく、おそらく実際に起こったことを綴られている記事です。そうなんですよ、scriviamo!は創作でなくてもOKなんです。非創作カテゴリーのブロガー様たち、よかったら遠慮せずにご参加くださいませ。
で、お返しは、記事ではなくて掌編小説、さらにこの記事に関連したことがいいんだろうなあと思ったのです。こんな感じの若干ファンタジーな話になりました。
なお、今回のストーリーは、先にかじぺたさんの記事を読まれることを推奨いたします。そうしないと意味不明かも……。
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黒色同盟、ついに立ち上がる
——Special thanks to Kajipeta san
その家を窓から覗き込みながら、タンゴは「ちっ」と舌打した。また新しい案件だ。今日の会議で話し合わなくちゃ。
タンゴは誇り高き野良猫だ。真っ黒のつややかな毛並みが自慢。もちろん前足や後足などに白足袋を履いているような中途半端な黒さではなく、中世のヨーロッパにでもいたら真っ先に魔女裁判で薪の上に置かれたような完全な黒猫だ。
もちろん今は黒いからといって焼き殺されることはないが、普通に歩いているだけで
「いやだ、もう! 朝から黒猫が横切るなんて、縁起が悪い」
などど恨みがましく叫ばれることはよくある。自分を何様だと思っているんだ。お前の方が縁起が悪いぞ。
「よう、タンゴ。なにをそんなに急いでいるんだ?」
声を掛けてきたのは、カラスヘビだ。シマヘビなのだが、全身が黒くなるメラニスティックとして生まれてきたので、虹彩に至るまで黒い。タンゴと同様に黒色同盟の理事を務めている。
「会議の議題を一つ追加しなくちゃいけないんだ」
「なんだって? 今になって?」
「そうさ。捨て置けない案件を、たったいま目撃してしまったんだ」
「そうかい。もう広場にみんな集まっていると思うぜ」
太陽が黒松のてっぺんにさしかかった頃、黒色同盟の今年三回目の会議が開催される。議長は、持ち回りで今日は黒山羊のバアルだ。
「皆さん、ご静粛に。これより今年三回目の黒色同盟定例会議をはじめます。まずは出欠者の確認です。黒い皆さんはみんないらしていますか。白ヤギやシマリスなどの関係のない皆さんは、しばらく退席してください」
ガヤガヤとその場で移動する音がして、黒松広場には文字通り黒い生き物だけが残った。黒山羊バアル、黒猫タンゴやカラスヘビ以外にも、黒鳥のオディール、蜘蛛のブラック・ウィドー、カラスたちの代表ダミアン、黒い蛙のブフォ、その他たくさんの黒い動物たちが参加していた。議題は主に「黒いからといって排除されたり嫌われたりする理不尽について」である。
「静粛に。今週の理不尽事例の発表は……。ああ、まずオディールから」
バアルは黒い髭をゆらゆらと揺らして、優雅に座る黒鳥を指名した。
黒鳥はカモ科ハクチョウ属に分類されるオーストラリア固有種である。探しても無駄なことのたとえとして「黒い白鳥を探すようなもの」と慣用句で使われていたが、17世紀にオーストラリアで発見されてしまい、それ以来ことわざの意味が「常識を疑え」という意味に変わってしまったことでも有名だ。
「本日、私が申し上げたいのは、あのバカ王子の件です」
オディールはぷんすか怒って、黒松の下に据え付けられたステージによじ上ると、黒いチュチュをバタバタさせた。ああ、バレエ『白鳥の湖』の件ね。多くの参加者が「その話は知っているよ」という顔をした。
「いいですか。白鳥オデットに甘い言葉を囁いていたのに、後から私に結婚を申し込んだのは、私がオデットに化けて騙したからだっていうんですよ。自分が浮氣しただけなのに、ふざけやがって。私はちゃんと自分の黒い衣装で出かけていったのに。そして、私が悪魔の娘だっていうんです。ホント失礼しちゃう!」
すると、カラスヘビが木の上から吊り下がって来た。
「悪魔と言えば、俺もムカつく件があるよ。アダムとイブを騙したのは俺っちだって濡れ衣さ。ヘビは狡猾でした、とか書きやがったヤツがいて、その挿絵にはいつも俺っちみたいな黒ヘビが描き込まれる。それなのに、あの人間どもときたら白ヘビは神様の使いとか言っちゃって、抜け殻を財布に入れたりするんだぜ」
黒蜘蛛のブラック・ウィドーも糸を伝わってするするとステージに降りてきた。
「私は確かに交尾が終わるとオスを食べちゃいますけれど、それはオスも合意の上ですし、そもそも一度だって相手に保険をかけたことはないんですよ。それなのにあのがめつい人間の女たちと一緒にするなんてひどいと思います」
黒山羊のバアルは、角でガンガンとステージを叩き、議長を無視して勝手に発言する輩を牽制した。
「静粛に。ここにいるほとんどの同盟者諸君は、みな人間の『黒い生き物は縁起や心がけが悪い』という偏見による被害を受けているのだ。過去の事例はいいから、現在進行中で抗議変更すべき事例はないのかね!」
黒猫のタンゴは「はいはいっ!」と前足の肉球を高く持ち上げて発言許可を待った。
「なんだね。タンゴ。君が横切ると人間が不吉だと騒ぐ話は、わかっているから言わなくていいよ」
「違います。その話じゃありません。現在進行中の案件です」
その場に集まった真っ黒の集団は、一様にざわめいた。
「なんだって! 現在進行中?」
「たった今、あの角を曲がったところにある家で、由々しき事態を目撃したのであります」
「なんと。いったい何を見たというのかね」
「はい。僕はこの会議に遅刻しないように、近道をしてその家の窓の外を通っていました。リビングで一人の女が大量の折り鶴を前に何かを騒いでいました。よく聴くと『こんなに黒い折り鶴が!』って、いうんです。どうやら何かのお祝い事で手分けして折り鶴を作らせて取りまとめている時に、黒い紙で折ったものを発見、それが縁起が良くないので取り除いていた模様であります!」
「なんだって。それは、我々が迫害されている動かぬ証拠ではないか」
黒山羊バアルは立ち上がり、興奮して黒松の上によじ上った。
「ようやく動かぬ証拠の現場に立ち会えるというわけだな。しかも、すぐそこというのが素晴らしい。早速抗議に行こう」
「そうだそうだ! 不当差別反対!」
「黒を葬式に使うのを阻止せよ!」
「黒はハードロックとパンクの色!」
「イカスミスパゲティにもっと愛を!」
口々に叫ぶうちに、どうもおかしなスローガンに変わりつつあったが、みな興奮しているのでそれに氣づいていない者も多かった。
会議場に招集された黒色同盟日本支部会員資格を持つ58万6742匹の動物たちは、足並みを揃えて黒猫タンゴが目撃した折り鶴を選り分けていた女性の住む家へと向かった。あまりにたくさんの黒い動物が移動したので、あたりは真っ暗になって、近隣の人びとは何事が起こったのかとドキドキした。
「あそこです! あの家です。そしてあの窓から見てください!」
タンゴがぴょんと窓枠に飛びのると、先ほどまで折り鶴を選り分けていた女性は奥に引っ込んでしまっていて見当たらなかった。そして、五百羽以上はあった色とりどりの他の折り鶴がなくなった机の上に、小さくてかわいらしい黒い折り鶴が六、七匹、ちょこんと残っていた。
「ほ、ほらっ。あんな風に迫害されて! 他の折り鶴はなくなってしまいましたが、あんなところに黒いのだけが放置されています!」
「どれどれ。たしかに黒いのだけ残っているな……。では早速抗議行動を……」
その時、奥の部屋から女性の明るい声が聞こえてきた。
「ねえねえ、ちょっとこっちに来て見てみない? お祝いの折り鶴の山からしかたなく取り除いた黒い子たちだけれど……」
「なんだ? 黒い折り鶴がどうしたって?」
もっと奥から、優しそうな男性の声がした。
明るい女性の声は続けた。
「うん。それがね。とってもかわいいから、このまま我が家に飾っておこうかなって思うの。こういう風に並べると、素敵だね」
怒りの拳をあげていた黒色同盟の会員たちは、「あれ」と顔を見合わせた。
「迫害されていないじゃないか」
黒山羊バアルがいうと、タンゴはオロオロしながら頷いた。
「それどころか、他の折り鶴はまとめて持ち去られましたが、黒い折り鶴は永久保存してもらえるようですよ」
カラスヘビがとぐろを巻きながら言った。
「な~んだ。たまには僕たちも優遇されることがあるんだね」
「そうか~。そりゃ、よかったよかった」
すっかり氣をよくした黒い動物たちは、ウキウキした心持ちでその場から解散した。帰り道にもみな上機嫌で、普段は喧嘩を引っ掛ける相手である白いチンチラ猫や白馬などにも朗らかに挨拶する者まで現れた。
この一件があってから、しばらく黒色同盟の会議は開催されなかった。黒松広場は空いていることが多かったので、かわりに「灰色の動物たちをグレーゾーンから保護する会」の第一回総会が開催されるなど、近年にない様相を見せた。
黒猫のタンゴと言えば、例の家の窓を訪ねては大事にされている黒い折り鶴たちを眺めて喜んでいる日々を送っていたが、あまりにもしょっちゅう来るのでその家の二匹のコーギー犬にすっかり憶えられてしまい、時々ドッグフードを恵んでもらう仲になったらしい。
猫がドッグフードを食べるとどうなるのかについてはまだ黒色同盟では明らかにされていない。おそらく次の定例会では、例の黒い折り鶴たちの現状とともに、その件についても報告があると予想されている。
(初出:2017年2月 書き下ろし)
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わが魂のために

なんだかいかにも中二病的なタイトルですが。
二年くらい前に一時期、体重の増加が見過ごせないレベルになってきまして、ダイエットをした事がありました。
私は全人生を「痩せ形」で通してきたんですけれど、さすがにこの歳になるとお腹がぽっこりなってくるものなんですよ
で、「美魔女」として生きたいなどという野望はみじんも持っていないんですが、服全部を買替えなくちゃいけないというのは嫌だという身もふたもない理由で、とりあえずダイエットに励み、まずは体重が落ち、それから一年くらいかけて、お腹ぽっこりも解消してきて、真っ平らとはとても言えませんがなんとか三年前の水準に戻ったわけです。
それから、一応、毎日体重計に載り、さらには深夜のおやつを制限するなど、大したことのない努力だけは続けているわけなのです。
でも、時々は自分を甘やかすのです。
私はファッションモデルでもないし、そもそもファッションに興味もほとんどない、連れ合いも私の外見にははじめからほとんど期待しておらず、要するに健康で持っている服を引き続き着用できればいいわけで、そのために苦行をしたくはないわけです。
だからあまり厳しいダイエットルールを自らに課して、不満だらけの人生を過ごしたくないんです。
で、自分への言い訳代わりによく遣う言葉が「Für meine Seele」という言葉なんですね。直訳すると「わが魂のために」となります。「この深夜のチョコをひと口はルールを破っているんじゃないの。私の魂が欲しているの」みたいな感じで使っております。あ、これはドイツ語の慣用句とかではなくて、私が個人的に、ですよ。もちろん私だって、真面目にこんないい方をしているわけではなくて、「(苦笑)」がくっついたみたいな感じで口にするわけです。
上は、そんなひと口の「魂のお薬」の入った缶でございます。いちごみるくとか明治やグリコのチョコレートなどが入っています。

こちらは最高に美味しいスイスチョコLäderachのチョコ。友人へのプレゼントを買ったついでに自分用に購入したものです。これでしばらく幸せに頑張れそう。
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【小説】絶滅危惧種
「scriviamo! 2017」の第十一弾です。
大海彩洋さんは、『ピアニスト慎一』シリーズの番外編で参加してくださいました。ありがとうございます!
彩洋さんの書いてくださった短編 『サバンナのバラード』
大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。年代が近い、物語を書いてきた長さが近い、ブランクがあったことも似ているなどなど「またシンクロしている!」と驚かされることの多い一方で、えらい違いもあり「ううむ、ちゃんと精進するとこれほどすごいものが書けるようになるのか」と唸らされてしまうことがとても多いのです。
今回書いていただいた作品とその本編に当たる「死と乙女」でも、私のよく書く「好きなクラッシック音楽をモチーフに」に挑戦されていらっしゃるのですが、「なんちゃってクラッシック好き」の私とまさに「えらい違い」な「これぞクラッシック音楽をモチーフにした小説!」が展開されています。
で、今回書いてくださったのは、またまた「偶然」同じモチーフ「女流写真家アフリカヘ行く」が重なった記念(?)に、彩洋さんのところの女流写真家ご一行と、うちの「郷愁の丘」チームとのコラボです。というわけで、こちらはその続きを……。
しかし! 大人の事情で「ジョルジア in アフリカ with グレッグ」は出せませんでした。出すとしたら「郷愁の丘」が終わったタイミングしかなくて、それはあまりにもネタバレなので却下。そして、せっかくゲスト(奈海、ネイサン、ソマリア人看護師の三名)に来ていただいているというのに、某おっさんは、これまた大人の事情で取りつく島もない態度……orz。彩洋さん、ごめんなさい。ここで簡単にネイサンたちと仲良しになれるようなキャラに変更すると、本編のプロット大崩壊なんです。
ということで、おそらく彩洋さんの予想と大きく違い、別のもっとフレンドリーなホストで歓待させていただきました。こっちは、たぶん五分で意氣投合すると思います。
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郷愁の丘・外伝
絶滅危惧種
——Special thanks to Oomi Sayo san
普段はあまり意見を言わない看護師がぼそっと言った。
「どうしてわざわざシマウマを観に行くの」
運転席で、それは当然な問いかけだなと彼は思った。アフリカのゲーム・サファリをする時に、シマウマを観るためだけに車を走らせたりする者はない。ライオンやチーターを探すついでに見たくなくても見えてしまうのが普通だからだ。
「見せてもらうのはただのシマウマじゃないんだよ。ね、スコット博士」
フランスから来た医師が彼に話しかけた。
「はい。これからお目にかけるのは、グレービー・シマウマです」
彼は後を振り返って答えた。彼の運転するランドクルーザーには、三人の客と一匹の犬が同乗している。助手席にはソマリア出身の看護師が座り、フランス人の医師と日本人の女性カメラマンは後部座席に座っている。そして、その後に踞るのは彼の愛犬であるローデシアン・リッジバック、ルーシーだ。
ネイサン・マレ医師は、撮影をしたがるに違いない奈海が助手席に座った方がいいと主張したのだが、ルーシーがソマリア人を執拗に威嚇するので、距離を開けるためにしかたなくその配置にしたのだ。
「よくあることなんだよ」
スコット博士がソマリア人に謝っているとき、ネイサンは奈海に耳打ちした。
「なにが?」
「アフリカの番犬は、黒人にひどく吠えることが多いんだ。別にそういう教育をしているわけじゃなくても。そして、多くの黒人は番犬が苦手になる。そうすると、それを感じとる犬はもっと吠えるんだ」
「でも、ルーシー、最初は私やあなたにもずいぶん吠えていたわよ」
「まあね。番犬として優秀ってことかな」
その説明を聞きながら彼は申しわけなさそうに言った。
「彼女は、ほぼ全ての初対面の人間にひどく吠えるんです」
「ってことは、例外的に吠えなかった人もいるってことかい?」
ネイサンが訊くと、彼は短く「ええ」とだけ答えた。
彼自身の父親であるジェームス・スコット博士でも、その恋人であるレイチェル・ムーア博士でもなく、そして二人の娘のマディでもない。初対面の人間にひどく吠え立てるルーシーがはじめからひどく尻尾を振って懐いたのは、半年ほど前に滞在したアメリカ人女性だった。
それは、やはり今日のようにマリンディの父親の別荘に滞在した時だった。彼の意思とは関係なく別荘に行くことになったのは今回と同じだったが、その女性は自分で招待したのだ。彼が誰かを招待したのはここ十年では彼女一人だけだった。そもそも、断られると思いながら誘ったのだが、彼女が意外にも簡単に招待に応じてくれたのだ。
その時たまたまその場にいた旅行エージェントを営む友人リチャード・アシュレイは、彼のことを誤解したようだった。しばらく逢わないうちにすっかり社交的になったのだと。実際には、あいかわらず人間との交流を可能な限り避けている。リチャードは、半年前に彼の人生の沙漠に突然訪れた夢のような二週間のことは知らないだろう。それとも、不器用なために何の成果も手にしなかった話がすでに面白おかしく伝わっているのかもしれない。
そもそもリチャードは、今回この三人の客を彼に紹介したわけではなかった。ホスピタリティにあふれ、時おりビジネスの範囲を大きく超えて客を歓待するリチャードは、彼に三人の客を見事に接待する能力があると思うほど楽天的ではなかった。
そうではなくて、この別荘を実質的にいつも使っている人懐こい夫婦に、三人のもてなしを依頼したのだった。つまり、マディとその夫であるイタリア人アウレリオ・ブラスだ。
アウレリオはオックスフォード時代から付き合いのあるリチャード・アシュレイの親友だ。彼が、リチャードを通じて性格の全く違う無口で人付き合いの下手なケニア出身の学生スコットに近づいたのは、大いなる下心があってのことだった。すなわち、一目惚れした彼の腹違いの妹と親しくなるための布石だ。
その甲斐あって、マデリン・ムーアと首尾よく結婚したアウレリオは、今では彼の義理の弟となってケニアに移住している。そして、イタリア系住民のコミュニティのあるマリンディの別荘でバカンスを楽しむことも多かったし、親友リチャードの依頼を愛想良く受けてその友人を歓待することも好んだ。だが、愛すべきアウレリオには、大きな欠点があった。肝心な時に決してその場にいないのだ。
今回もリチャードから紹介され、三人の客の受け入れを快諾したものの、ミラノでの商談の時間がずれ込み約束の日にケニアに戻って来ることが出来なかった。だが、別荘の本来の持ち主である義父ジェームス・スコット博士に代わりに接待をしろとは言えない。妻のマディは二人の子供を抱えていて簡単に250キロも移動できない。そこで急遽、鍵を持っているジェームスの息子であるヘンリーが呼びつけられたのだ。
「グレービー・シマウマって、普通のシマウマとどう違うの?」
日本人カメラマン奈海の声で彼は我に返った。シマウマの研究者である彼は、説明を始めた。
「グレービー・シマウマは、アフリカ全土でよく見られるサバンナシマウマ種よりも大型です。縞模様がよりはっきりしていますが、腹面には模様がありません。ケニア北部とエチオピア南部のみに生息しています」
「ずいぶん減っているんだろう?」
「はい。ワシントン条約のレッドデータでEN絶滅危惧種に指定されています。1970年代には15000頭ほどいたのですが、現在およそ2300頭ほどしか残っていません」
奈海は驚いた声を出した。
「そんなに減ってしまったの? どうして?」
「縞模様が格別にきれいで、毛皮のために乱獲されたんです。そして、家畜と水飲み場が重なったためにたくさん殺されました」
「今は保護されているんだろう?」
「ええ、捕獲や殺戮は禁止されていますしワシントン条約で保護されたためにここ数年の生息数は安定しています。でも、エチオピアが建設を予定している大型ダムが完成するとトゥルカナ湖の水位が大きく下がると予想されています。それで再び危機的な状況になると今から危惧されています」
ランドクルーザーは、アラワレ国立自然保護区に入ってから、ゆっくりと進んでいた。マリンディから130キロしか離れていないと聞いていたので、すぐに到着して簡単にシマウマが見られると思っていたが、すでに三時間が経っていて、いまだにヌーやトムソン・ガゼルなどしか目にしていなかった。
「ほら、いました」
彼は、言った。
「あ、本当ね」
ソマリア人が答えた。
「え? どこに?」
奈海は後部座席から目を凝らした。彼女にはシマウマの姿は見えていない。ネイサンが笑った。
「都会の人間には、まだ見えないよ」
「え?」
「サバンナに暮らす人間は視力が6.0なんてこともあるらしいよ。遠くを見慣れているからだろうな。十分くらいしたら君や僕にも見えてくるさ」
本当に十分以上してから、奈海にもシマウマが見えてきた。彼は生態や特徴などについて丁寧に説明してくれるが、奈海が満足する写真を撮れるほどには近づいてくれない。窓を開けてカメラを構えるがこの距離では満足のいくアングルにならない。
「もう少し車を近づけていただけませんか」
「これが限界です。これ以上近づくことは許可されていません。向こうから近づいてくればいいのですが」
「でも、周りには誰もいないし、僕たちはシマウマにとって危険じゃないから、いいだろう」
ネイサンは、奈海のために頼んだ。
「車で近づくのがダメなら、私、降りて歩いてもいいわ」
「近づくのも降りるのも不可です。彼らをストレスに晒すことになりますから。この規則は、あなたたちに問題が降り掛かるのを避けるためでもありますが、それ以上に生態系を守るためにあるんです」
警戒心の強いシマウマたちは、どれだけ待っていても近づいてこなかった。やがて彼は時計を見て言った。
「申しわけありませんが、時間切れです。もう帰らないと」
「まだ陽も高いし、少しスピードあげて戻ればいいんだし、あと一時間くらいはいいだろう? まだ彼女が撮りたいような写真は撮れていないんだ」
ネイサンがまた奈海のために頼んだが、彼は首を振った。
「この保護区内では時速40キロ以上を出すことは禁じられているんです。そして、夕方六時までに保護区の外に出ないと」
これまでのサファリで、こんなに融通の利かない事を言われたことはなかったので、ネイサンと奈海は顔を見合わせた。頼んでも無理だということは彼の口調からわかったので、大人しく引き下がった。
出かける前にパリに電話をかけていて出発が遅くなったことが悔やまれた。そう言ってくれれば、電話は帰ってからにしたのに。奈海は名残惜しい想いで遠ざかるグレービー・シマウマの群れを振り返った。
「ヘンリー!」
マリンディに戻ると、アウレリオと二人の子供たちと一緒に到着したマディが待ち構えていた。夫が三人の客たちに無礼を詫びつつ、リビングで賑やかに歓待している間、彼女は彼を台所に連れて行った。
「私たちの到着が遅くなって、三人の世話をあなたにさせたのは悪かったわ。でも、ヘンリー、あなた、まさかお客様にあれを食べさせたわけ?!」
彼女は、流しの側に置いてあるコンビーフの空き缶を指差した。
彼は肩をすくめた。
「僕にフルコースが作れると思っていたのかい」
「思っていないけれど、いくらなんでも!」
彼は首を振った。
「心配しなくても、焼きコンビーフを食べさせたわけじゃないよ。そうしようかと思っていたら、見かねたマレ先生があれとジャガイモでちゃんとした料理を作ってくれた」
「あきれた。マレ先生に料理させちゃったのね」
「だから、今夜は、まともに歓待してやってくれ。僕は、帰るから」
「食べていかないの?」
「今から帰れば、明日の朝の調査が出来る。それに、僕がここにいても場は盛り上がらないから」
マディは、居間にいる四人と子供たちがすっかり打ち解けて楽しい笑い声を上げているのを耳にした。そして、打ち解けにくい腹違いの兄との時間で三人が居たたまれない思いをしたのではないかと考えた。ヘンリーは決して悪い人ではない。ないんだけど……。
「そんなことないわ。それにあの日本女性、写真家だし、弾む話もあるんじゃないの?」
マディは、含みのあるいい方をしたが、彼は乗ってこなかった。
彼女は続けた。
「彼女と連絡取り続けているんでしょう? 行くって聞いたわよ、来月ニューヨークに」
「どういう意味だ」
「ママがあなたも行くって。あなたが海外の学会に行くなんて、珍しいことだもの。ミズ・カペッリに会うんでしょう?」
彼は首を振った。
「ニューヨーク学会に行くのは、レイチェルがスポンサーに紹介してくれるからだ。もしかしたら援助してもらえるかもしれないから。ミズ・カペッリは忙しいだろうし、押し掛けたら迷惑だから連絡していない」
「どうして?! せっかく再会できるチャンスなのに、この間、ずいぶん仲良くなったじゃないの」
マディは、よけいなおせっかいとわかっていながら言い募った。
彼は、答えずに彼女の瞳を見つめ返した。暗い後ろ向きな光だった。彼女は、よけいな事を言ったことを後悔した。上手くいっていたと思っていたのに……。
彼は、「じゃあ、これで」と言うと表で待つルーシーを連れて車に乗り込み去っていった。
人付き合いが下手な上、父親ともほとんど没交渉の彼のことを、マディと母親のレイチェルはいつも氣にかけていた。クリスマスや復活祭の食卓に招んだり、別荘での休暇に呼び出したり、学会でも声を掛けたり、彼が《郷愁の丘》に引きこもり続けないように心を砕いてきた。彼は、それを感謝し嫌がらずに出かけてくるが、自ら打ち解けることはまだ出来ない。
逢ってまだ三十分も立っていないのに、もう昔からの親友のように楽しそうに語り合うアウレリオとマレ医師たちの声を聴きながら、彼女はこの世と上手くやっていけない腹違いの兄と比較してため息をついた。
夫は彼女に近づくのに躊躇したり、迷惑だろうからと遠慮したりはしなかった。そして、それが彼女自身の幸せにつながった。だが、それをヘンリーに言っても助けにはならないだろう。彼はそういう人間ではないのだから。
彼女は両親や兄のように動物学者ではないから、学術的なことはわからない。でも、進化論で「絶滅した種は環境に適応できなかったから」と言われているのくらいは知っている。他の生物と同じく環境に適応できないために種を保存できない人間もいるのかもしれない。
彼女は頭を振ると、去っていった兄の愛するアメリカ人ではなく、パリから来た女流写真家と会話を楽しむべく居間へと向かった。
(初出:2017年2月 書き下ろし)
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ウルトラ乾燥に対抗して

子供の頃、祖母の手がしわしわなのを見てかわいそうだなと思ったことを記憶しています。その手の甲には、シミもたくさんあって、爪も当時の私の桜色の爪と違って白っぽくってざらついていました。
それから○十年。自分の手がどちらかというと祖母のものに近づくとは。まあ、そういうものです。我が家は肝臓の弱い家系なのですが、そのせいなのか祖母は身体のあちこちにシミがあり、氣にしていました。私の年齢はまだ当時の祖母と比較するとひと回りは若いから比較は出来ないかもしれませんが、手のシミはまだ「よく見るとひとつ2つ」程度。顔にはもっとありますけれど。
もっとも、乾燥しているせいか、ザラザラしてきて「これはまずい!」と思ったので、ここしばらくちゃんとケアしています。そう、それまではほとんど何のケアもしないでいたんです。
食器は主に食洗機で洗うので、手で洗うのはそれほど多くありませんが、実は手袋をしていません。ドイツのFloschという環境に優しい洗剤を使っているのですけれど、それのおかげか洗いものではほとんど手荒れをしないんです。
でも、冬になると、やはりとんでもなく乾燥しているせいか、かなりザラザラ。それに踵の肌荒れもひどくて。
で、この冬はL'Occitaneのハンドクリームを買ってきて毎日擦り込んでいます。シアバター入りで、なかなかいい感じです。
買うときに、ミニサイズにするか、このお徳用の大きさにするか迷ったんです。かなりお高いじゃないですか。結局大きい方を買ったので、使わないままに放置せずに、毎日せっせと塗っています。使わなくなるとすぐにまた荒れてきますから、とにかくなくなるまでせっせと塗ろうと思っています。その代わり、次のはポルトに行く時に空港で小さいのがいくつか入っているお徳用セットを買うつもりでいます。
子供の頃の肌に戻るわけではないですが、「冬だ、まずい状態だ」の手が、握手しても恥ずかしくないぐらいにはなりましたよ。
それに、踵です。とんでもなく荒れていたのが、「人間の踵」になってきました。まだ「女の子の踵」って訳ではないですけれど(笑)
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【小説】その色鮮やかなひと口を -5 -
「scriviamo! 2017」の第十弾です。
嬉しいことに今年もココうささんが、俳句で参加してくださいました。冬と春の二句です。ありがとうございます!
ココうささんの書いてくださった俳句
冬木立手より重なる影ありぬ あさこ
春の水分かれてもまた出会ひけり あさこ
この二句の著作権はココうささん(あさこさん)にあります。無断転載ならびに転用は固くお断りします。
ココうささんは、以前素晴らしい詩や俳句、揮毫を発表なさっていらっしゃいましたが、現在はブログをお持ちではありません。でも、今でもこのブログを訪ねてくださり、時々、お話ししてくださるんです。実生活と違って、ブログ上でのお付き合いは連絡先を知らない限り簡単に途切れてしまいますが、こうして交流が続くこと、本当に嬉しく思います。
そして、毎年のお約束になっていますが、一年間放置した二人をココうささんの俳句で動かさせていただきました。島根県松江市で和菓子職人になったイタリア人ルドヴィコと店でバイトをしている大学生怜子のストーリーです。年に一度という寡作の割になぜか展開が早いのですが、もう五年もこのままですからね。
【参考】この話をご存じない方のために同シリーズへのリンクをつけておきます。
その色鮮やかなひと口を
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その色鮮やかなひと口を -5 -
Inspired from 2 Haikus by Asako-San
——Special thanks to Kokousa san
二月だというのに、道には雪はほとんどなかった。まだ肌寒いが、枝の蕾のふくらみや、穏やかな陽の光に歌う小鳥のさえずりが、春はそう遠くないことを報せてくれる。
怜子は、運転席に座るルドヴィコに視線を移した。さほど空間の広くないレンタカーの中で、彼の頭と天井との空間はたくさんは残っていなかった。怜子は背の高い穏やかな青年の横顔に微笑みかけた。
「どうしましたか。怜子さん」
彼は、いつも通り流暢な日本語で語りかけた。怜子は「なんでもない」と言って窓の外に視線を戻した。
注文品を届けることがあるので、彼は仕事で運転することはあるが、プライヴェートでは一畑電鉄のバスや電車にのんびりと乗るのを好んでいた。でも、今日は、山口県との県境まで行かなくてはならず、交通の便が今ひとつなので車を借りたのだ。怜子は、彼とドライブしたことは一度くらいしかないので、妙にワクワクしていた。もっとも、怜子の両親のところに行く用事の方にもっとドキドキすべきなのだが、そちらの方はいまいちピンと来ていなかった。
そもそもの事の起こりは、二週間ほど前だった。怜子が将来のことでルドヴィコに相談を持ちかけたのだ。
「ゼミの指導をしてくれている助教授がね。恩師が教鞭をとっている京都の大学院を受けてみないかっておっしゃるの。どうしようかなあ」
「怜子さんは文学の研究を続けたいんですか?」
「う~ん。もっと研究したら面白いとは思うけれど、将来のこともあって考えちゃう。研究職に就きたいってことではないのよね。京都に行けば京阪神の大都会で仕事をする可能性が開けるとゼミ仲間は言うけれど、大学院卒ってよほど優秀じゃないと就職先ないし」
「怜子さん、都会で仕事したいんですか」
「私、島根県から出たことないもの。このままここで就職活動したら、井の中の蛙のままになるんじゃないかなあ。それでもいいれど、先生がせっかく奨めてくれるのは自分を試すチャンスかもしれないと思って。ルドヴィコはどう思う?」
「もし、こちらで就職活動をするとしたら、どんな所に勤めたいんですか?」
「とくに決めていないよ。私は特殊技能もないし、事務職かなあ。そもそも求人があるかしら」
「『石倉六角堂』にこのまま勤めるのは嫌なんですか?」
「いや、嫌じゃないけれど、私はバイトだもの。ルドヴィコみたいに和菓子職人としての技能があれば社長も正社員として採用してくれるけれど、バイトの正社員登用なんてないと思う」
彼は腕を組んで納得のいかない顔をしていたが、どうやら社長に打診してくれたらしい、翌日怜子は石倉夫人と社長に呼ばれた。
「怜ちゃん、ルドちゃんから聞いたんだけれど、卒業後にここで働くつもりはないの?」
石倉夫人に訊かれて怜子は驚いた。
「え。考えたことなかったです。去年、千絵さんも就職活動の時期に辞められたのを見ていたから、はじめから無理だと思っていて……」
「うちはそんなにたくさん正社員を雇えないし、一度雇ったら誰かが辞めるまでは新しく募集できないさ」
社長がいった。怜子は、ほら、そうだよね、と思いながら頷いた。
「だからね。怜ちゃんが卒業するまでは、少しキツいけれどバイトのシフトだけでなんとか凌ごうって去年、アルバイトを増員したのよ」
石倉夫人は夫の言葉を継いだ。
「え?」
怜子は、目を瞬かせて二人の顔を見た。その反応に二人は顔を見合わせた。
「ルド公は、何にも言っていないのか?」
「なにをですか?」
「困ったヤツだな」
社長はため息をもらした。それから、ばっと事務所の扉を開けると、奥の厨房にいるルドヴィコに向かって叫んだ。
「おい。ルド公! 俺から言ってしまうからな!」
奥から「どうぞ」という彼の声が聞こえると、社長は再びドアを閉めて、また怜子の前に座った。
「実はな。一年ぐらい前から具体的に話しているんだが、数年後にもう一軒支店を増やすつもりなんだ。新しい店は義家と真弓さんに任せるつもりでいる。そうなると、こっちでメインに作ってもらうのは佐藤とルド公になるだろ。で、真弓さんの代わりに昼夜関係なく働ける正社員がもう一人いるって話になったんだよ。そうしたらルド公が、自分の嫁じゃだめなのかといったんだよ」
「え?」
「その、ルドちゃんは、怜ちゃん、あなたが卒業したらお嫁さんになってもらって一緒にここでやっていくつもりだったの。もちろん私たちは大歓迎だけれど、彼ったら何も言っていなかったのね。まさか、こんな形で私たちから告げることになるとは夢にも思わなかったわ」
あまりに驚いて何も言えない怜子に、社長は言った。
「あいつの嫁になるかどうかは別として、もしここを辞めて県外に行くなり、他の職種に就職したいって場合は、三月までに返事をくれないか? その頃には、正社員の募集をかけなくてはならないし」
それで、その日の仕事から上がるとすぐにルドヴィコに詰め寄った。
「ルドヴィコ、わたし何も聞いていないよ!」
彼は、肩をすくめて言った。
「だから、近いうちに怜子さんのご両親の住む街に行こうって言ったじゃないですか。怜子さんが試験が終わってからがいいと言ったんですよ」
「うちの両親なんて、これと関係ないでしょう。……って、あれ? まさか……」
「そうですよ。『お嬢さんをください』って、ご挨拶をしないと」
「ええっ? でも、ルドヴィコ、まだ私にプロポーズしていないよ?」
「しましたよ。怜子さんOKしたでしょう」
「いつ?」
「先週、城山稲荷神社で」
「え? あ……あれ?!」
松江城の敷地内にある城山稲荷神社は千体もの石の狐がある不思議空間だ。店からもルドヴィコの住まいからもとても近いにも関わらず、この神社に一緒に行ったのはまだ三回目だった。石段を上るのが一苦労だからだ。
でも、その日は二人で久しぶりにお稲荷さんにお詣りして、かつて小泉八雲が愛したと言う耳の欠けた狐や幸福を運ぶ珠を持った狐を二人で探した。
「小泉八雲は通勤中にここをよく訪れたそうですよ。日本らしい幽玄な光景、当時二千体もあったお稲荷さんを見て、そして、それが全て神として信仰されているのを知り、ここは故郷とどれほど違った国なのだろうと驚いたでしょうね」
「そうだよね。私たち日本人でも、これだけ揃っているとすごいなあって思うもの。八雲、よく日本に帰化する決心がついたよね」
ルドヴィコは、怜子を見つめてにっこりと笑った。彼の後にある大きな樹から木漏れ日が射していた。
「彼は、日本とその文化を深く愛していたから、この国に居たいと思ったのでしょうね。でも、二度と故郷に戻らなくてもいい、ここにずっと居ようと決心させたのはセツの存在だと僕は信じます。この人が自分にとってのたった一人の人なのだと確信して、一緒に生涯を共にしようと思った。この松江で、僕もそういう人に逢えたことを神に感謝しています」
そう言って、彼は怜子の手を取った。
「怜子さん。僕たちも、これからこの街の四季を眺めながら、ずっと長い人生を歩いていきましょう」
葉を落とした大きな神樹の枝の影、背の高いルドヴィコの優しい影、そして繋がれた手のひらから伝わるぬくもりで、怜子の心は大きな安心感に満たされた。きっと小泉セツも、同じような確信を持って、異国の人と生涯を添い遂げようと思ったんだろうなと理解した。
「うん。ルドヴィコ。そうなるといいね」
そのとき、怜子は、「いずれ彼と結婚することとなるに違いない」と確信したのだ。でも、まさかあれがプロポーズそのものだったなんて!
「あんな抽象的ないい方じゃ、プロポーズされているんだかどうだかわからないよ!」
「なんですって。じゃあ、僕がどんなプロポーズをすると思っていたんですか?」
「え。花もって、膝まづいて、結婚してくださいってヤツ?」
ルドヴィコは「そんなベタなプロポーズは今どきイタリアでもしませんよ」と、大きなため息をついた。
そして、ようやく怜子の試験が終わったので、レンタカーで両親のもとへ行くことにしたのだ。
ナビゲーターに誘導されて、レンタカーは小さな谷間を走っていた。人通りの少ないのどかな田園風景がどこまでも続く。ルドヴィコは、車を停めて休憩をした。
「わあ。こんなところに、かわいい小川がある」
怜子は、道の脇から覗き込んだ。まだ残っている雪が溶けて、透明な滴をぽとり、ぽとりと川に注いでいた。
休みの日に、こうやってルドヴィコと二人でのんびりと過ごせるのは、とても自然で嬉しいことだった。そして、それはこれからの人生ずっと続くことなのだ。あたり前のようでいて、とても不思議。怜子は考えた。
「あ。来週、先生に京都の件、断らなくちゃ」
怜子が言うと、ルドヴィコは「断っていいんですか」と訊いた。
「だって、大学院で研究しても、将来には結びつかないよ。京都や大阪で就職する必要もなくなったし」
「井の中の蛙は嫌なんじゃないんですか」
そう言われると、いいんだろうかと考えてしまう。
「ルドヴィコも、イタリアから外の世界に出てみたかったの?」
怜子が訊くと、彼は彼女の方を見て笑った。
「イタリアの外じゃなくて、日本に行きたかったんですよ。夢の国でしたから。今ほど簡単に情報が手に入らなかったので、混乱しましたけれど、その分、早く行ってみたいと想いを募らせていました」
「何があると思っていたの?」
「子供の頃は、ポケモンとニンジャですよ。少し大きくなってからは伊藤若冲とドナルド・キーン」
怜子はすこしずっこけた。子供の頃と少し大きくなってからが、全然つながっていない。
「日本に到着してからは、もっとたくさんの情報に振り回されましたが、松江にたどり着いてようやく落ち着きました。日本には本当に何でもありますが、自分にとって大切なものは、自ら削ぎ取らないと見失ってしまう。日本古来の美学は、それを知るいい指針となりました」
怜子は、そうなのかなあと思いながら、田園風景を眺めた。確かにルドヴィコと私が両方とも大阪や東京にいたら絶対に出会えていなかっただろうし、お互いのよさに氣づく時間もなかっただろう。
「お茶室を初めて見たとき、ものすごく感動しました。家具と言えるものがほとんどなくて、畳の上に亭主と自分がいる。そして、お菓子とお茶がシンプルに出てきます。円形の窓から外の世界が見える。風の音、樹々のざわめき、鹿威しの音。わずかな音が静寂を際立たせる。僕に必要だったのはこの世界なんだと思いました。たくさん詰め込むのではなくて、不要なものを極限まで削ぎ取ったところに現れる世界。実際にはわずかな空間なのに無限の広がりを感じました。僕が日本に住もうと思った瞬間でした」
「だから、和菓子職人になろうと思ったの?」
「はい。小さな一つのお菓子の中に、季節ともてなしの心が詰まっている。伝統的であるのに、独創的で新しい。これこそ僕の探していたものだと思いました」
探していたものかあ。私はなにか探したのかな。探す前に、いつも向こうからやってきているみたいだからなあ。怜子はまた考え込んだ。
「怜子さん。京都で研究したいなら、行ってください。結婚は大学卒業後すぐでなくても構いませんし、お店で働かなくてもいいのですから」
怜子は、はっとして彼を見た。
ルドヴィコは、深い湖のような澄んだ瞳で見ていた。
「見てください。あそこで川の水は二手に分かれています。そして、少し離れてあそこでまた一つになっている。そしてどこを通ってもいつかは同じ海に流れていくんです。怜子さんがどちらに向かおうとも進む道に間違いはありません。したいと思うことを諦めずにしてください。僕はちゃんと待てますから」
怜子は、その時にはっきりとわかった。自分がどうしたいのか。川の水もキラキラと光りながら迷わずに海へと向かっている。彼女はしっかりとルドヴィコを見つめ返していった。
「私、卒業したらすぐに『石倉六角堂』で働く。井の中の蛙でもいい。都会には行かないし、他のことも探さない。だって、私にとって大事なことは、ここにあるんだもの」
彼はその言葉を聞くと笑顔になった。青いきれいな瞳が優しく煌めいていた。
怜子は、続けた。
「その代わりに、私ね、イタリア語を始めようと思うの」
「え?」
「だって、ルドヴィコの家族とも親戚になるんでしょう? 挨拶も出来ないんじゃ、困るもの」
彼は、目を見開いてから、嬉しそうに口を大きく開けて笑った。
「では、明日から特訓してあげましょう。鉄は熱いうちに打てって言いますからね。そして、遠からず行って僕の家族に引き合わせましょう」
(初出:2017年2月 書き下ろし)
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「scriviamo! 2017」の第十弾です。
嬉しいことに今年もココうささんが、俳句で参加してくださいました。冬と春の二句です。ありがとうございます!
ココうささんの書いてくださった俳句
冬木立手より重なる影ありぬ あさこ
春の水分かれてもまた出会ひけり あさこ
この二句の著作権はココうささん(あさこさん)にあります。無断転載ならびに転用は固くお断りします。
ココうささんは、以前素晴らしい詩や俳句、揮毫を発表なさっていらっしゃいましたが、現在はブログをお持ちではありません。でも、今でもこのブログを訪ねてくださり、時々、お話ししてくださるんです。実生活と違って、ブログ上でのお付き合いは連絡先を知らない限り簡単に途切れてしまいますが、こうして交流が続くこと、本当に嬉しく思います。
そして、毎年のお約束になっていますが、一年間放置した二人をココうささんの俳句で動かさせていただきました。島根県松江市で和菓子職人になったイタリア人ルドヴィコと店でバイトをしている大学生怜子のストーリーです。年に一度という寡作の割になぜか展開が早いのですが、もう五年もこのままですからね。
【参考】この話をご存じない方のために同シリーズへのリンクをつけておきます。
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その色鮮やかなひと口を -5 -
Inspired from 2 Haikus by Asako-San
——Special thanks to Kokousa san
二月だというのに、道には雪はほとんどなかった。まだ肌寒いが、枝の蕾のふくらみや、穏やかな陽の光に歌う小鳥のさえずりが、春はそう遠くないことを報せてくれる。
怜子は、運転席に座るルドヴィコに視線を移した。さほど空間の広くないレンタカーの中で、彼の頭と天井との空間はたくさんは残っていなかった。怜子は背の高い穏やかな青年の横顔に微笑みかけた。
「どうしましたか。怜子さん」
彼は、いつも通り流暢な日本語で語りかけた。怜子は「なんでもない」と言って窓の外に視線を戻した。
注文品を届けることがあるので、彼は仕事で運転することはあるが、プライヴェートでは一畑電鉄のバスや電車にのんびりと乗るのを好んでいた。でも、今日は、山口県との県境まで行かなくてはならず、交通の便が今ひとつなので車を借りたのだ。怜子は、彼とドライブしたことは一度くらいしかないので、妙にワクワクしていた。もっとも、怜子の両親のところに行く用事の方にもっとドキドキすべきなのだが、そちらの方はいまいちピンと来ていなかった。
そもそもの事の起こりは、二週間ほど前だった。怜子が将来のことでルドヴィコに相談を持ちかけたのだ。
「ゼミの指導をしてくれている助教授がね。恩師が教鞭をとっている京都の大学院を受けてみないかっておっしゃるの。どうしようかなあ」
「怜子さんは文学の研究を続けたいんですか?」
「う~ん。もっと研究したら面白いとは思うけれど、将来のこともあって考えちゃう。研究職に就きたいってことではないのよね。京都に行けば京阪神の大都会で仕事をする可能性が開けるとゼミ仲間は言うけれど、大学院卒ってよほど優秀じゃないと就職先ないし」
「怜子さん、都会で仕事したいんですか」
「私、島根県から出たことないもの。このままここで就職活動したら、井の中の蛙のままになるんじゃないかなあ。それでもいいれど、先生がせっかく奨めてくれるのは自分を試すチャンスかもしれないと思って。ルドヴィコはどう思う?」
「もし、こちらで就職活動をするとしたら、どんな所に勤めたいんですか?」
「とくに決めていないよ。私は特殊技能もないし、事務職かなあ。そもそも求人があるかしら」
「『石倉六角堂』にこのまま勤めるのは嫌なんですか?」
「いや、嫌じゃないけれど、私はバイトだもの。ルドヴィコみたいに和菓子職人としての技能があれば社長も正社員として採用してくれるけれど、バイトの正社員登用なんてないと思う」
彼は腕を組んで納得のいかない顔をしていたが、どうやら社長に打診してくれたらしい、翌日怜子は石倉夫人と社長に呼ばれた。
「怜ちゃん、ルドちゃんから聞いたんだけれど、卒業後にここで働くつもりはないの?」
石倉夫人に訊かれて怜子は驚いた。
「え。考えたことなかったです。去年、千絵さんも就職活動の時期に辞められたのを見ていたから、はじめから無理だと思っていて……」
「うちはそんなにたくさん正社員を雇えないし、一度雇ったら誰かが辞めるまでは新しく募集できないさ」
社長がいった。怜子は、ほら、そうだよね、と思いながら頷いた。
「だからね。怜ちゃんが卒業するまでは、少しキツいけれどバイトのシフトだけでなんとか凌ごうって去年、アルバイトを増員したのよ」
石倉夫人は夫の言葉を継いだ。
「え?」
怜子は、目を瞬かせて二人の顔を見た。その反応に二人は顔を見合わせた。
「ルド公は、何にも言っていないのか?」
「なにをですか?」
「困ったヤツだな」
社長はため息をもらした。それから、ばっと事務所の扉を開けると、奥の厨房にいるルドヴィコに向かって叫んだ。
「おい。ルド公! 俺から言ってしまうからな!」
奥から「どうぞ」という彼の声が聞こえると、社長は再びドアを閉めて、また怜子の前に座った。
「実はな。一年ぐらい前から具体的に話しているんだが、数年後にもう一軒支店を増やすつもりなんだ。新しい店は義家と真弓さんに任せるつもりでいる。そうなると、こっちでメインに作ってもらうのは佐藤とルド公になるだろ。で、真弓さんの代わりに昼夜関係なく働ける正社員がもう一人いるって話になったんだよ。そうしたらルド公が、自分の嫁じゃだめなのかといったんだよ」
「え?」
「その、ルドちゃんは、怜ちゃん、あなたが卒業したらお嫁さんになってもらって一緒にここでやっていくつもりだったの。もちろん私たちは大歓迎だけれど、彼ったら何も言っていなかったのね。まさか、こんな形で私たちから告げることになるとは夢にも思わなかったわ」
あまりに驚いて何も言えない怜子に、社長は言った。
「あいつの嫁になるかどうかは別として、もしここを辞めて県外に行くなり、他の職種に就職したいって場合は、三月までに返事をくれないか? その頃には、正社員の募集をかけなくてはならないし」
それで、その日の仕事から上がるとすぐにルドヴィコに詰め寄った。
「ルドヴィコ、わたし何も聞いていないよ!」
彼は、肩をすくめて言った。
「だから、近いうちに怜子さんのご両親の住む街に行こうって言ったじゃないですか。怜子さんが試験が終わってからがいいと言ったんですよ」
「うちの両親なんて、これと関係ないでしょう。……って、あれ? まさか……」
「そうですよ。『お嬢さんをください』って、ご挨拶をしないと」
「ええっ? でも、ルドヴィコ、まだ私にプロポーズしていないよ?」
「しましたよ。怜子さんOKしたでしょう」
「いつ?」
「先週、城山稲荷神社で」
「え? あ……あれ?!」
松江城の敷地内にある城山稲荷神社は千体もの石の狐がある不思議空間だ。店からもルドヴィコの住まいからもとても近いにも関わらず、この神社に一緒に行ったのはまだ三回目だった。石段を上るのが一苦労だからだ。
でも、その日は二人で久しぶりにお稲荷さんにお詣りして、かつて小泉八雲が愛したと言う耳の欠けた狐や幸福を運ぶ珠を持った狐を二人で探した。
「小泉八雲は通勤中にここをよく訪れたそうですよ。日本らしい幽玄な光景、当時二千体もあったお稲荷さんを見て、そして、それが全て神として信仰されているのを知り、ここは故郷とどれほど違った国なのだろうと驚いたでしょうね」
「そうだよね。私たち日本人でも、これだけ揃っているとすごいなあって思うもの。八雲、よく日本に帰化する決心がついたよね」
ルドヴィコは、怜子を見つめてにっこりと笑った。彼の後にある大きな樹から木漏れ日が射していた。
「彼は、日本とその文化を深く愛していたから、この国に居たいと思ったのでしょうね。でも、二度と故郷に戻らなくてもいい、ここにずっと居ようと決心させたのはセツの存在だと僕は信じます。この人が自分にとってのたった一人の人なのだと確信して、一緒に生涯を共にしようと思った。この松江で、僕もそういう人に逢えたことを神に感謝しています」
そう言って、彼は怜子の手を取った。
「怜子さん。僕たちも、これからこの街の四季を眺めながら、ずっと長い人生を歩いていきましょう」
葉を落とした大きな神樹の枝の影、背の高いルドヴィコの優しい影、そして繋がれた手のひらから伝わるぬくもりで、怜子の心は大きな安心感に満たされた。きっと小泉セツも、同じような確信を持って、異国の人と生涯を添い遂げようと思ったんだろうなと理解した。
「うん。ルドヴィコ。そうなるといいね」
そのとき、怜子は、「いずれ彼と結婚することとなるに違いない」と確信したのだ。でも、まさかあれがプロポーズそのものだったなんて!
「あんな抽象的ないい方じゃ、プロポーズされているんだかどうだかわからないよ!」
「なんですって。じゃあ、僕がどんなプロポーズをすると思っていたんですか?」
「え。花もって、膝まづいて、結婚してくださいってヤツ?」
ルドヴィコは「そんなベタなプロポーズは今どきイタリアでもしませんよ」と、大きなため息をついた。
そして、ようやく怜子の試験が終わったので、レンタカーで両親のもとへ行くことにしたのだ。
ナビゲーターに誘導されて、レンタカーは小さな谷間を走っていた。人通りの少ないのどかな田園風景がどこまでも続く。ルドヴィコは、車を停めて休憩をした。
「わあ。こんなところに、かわいい小川がある」
怜子は、道の脇から覗き込んだ。まだ残っている雪が溶けて、透明な滴をぽとり、ぽとりと川に注いでいた。
休みの日に、こうやってルドヴィコと二人でのんびりと過ごせるのは、とても自然で嬉しいことだった。そして、それはこれからの人生ずっと続くことなのだ。あたり前のようでいて、とても不思議。怜子は考えた。
「あ。来週、先生に京都の件、断らなくちゃ」
怜子が言うと、ルドヴィコは「断っていいんですか」と訊いた。
「だって、大学院で研究しても、将来には結びつかないよ。京都や大阪で就職する必要もなくなったし」
「井の中の蛙は嫌なんじゃないんですか」
そう言われると、いいんだろうかと考えてしまう。
「ルドヴィコも、イタリアから外の世界に出てみたかったの?」
怜子が訊くと、彼は彼女の方を見て笑った。
「イタリアの外じゃなくて、日本に行きたかったんですよ。夢の国でしたから。今ほど簡単に情報が手に入らなかったので、混乱しましたけれど、その分、早く行ってみたいと想いを募らせていました」
「何があると思っていたの?」
「子供の頃は、ポケモンとニンジャですよ。少し大きくなってからは伊藤若冲とドナルド・キーン」
怜子はすこしずっこけた。子供の頃と少し大きくなってからが、全然つながっていない。
「日本に到着してからは、もっとたくさんの情報に振り回されましたが、松江にたどり着いてようやく落ち着きました。日本には本当に何でもありますが、自分にとって大切なものは、自ら削ぎ取らないと見失ってしまう。日本古来の美学は、それを知るいい指針となりました」
怜子は、そうなのかなあと思いながら、田園風景を眺めた。確かにルドヴィコと私が両方とも大阪や東京にいたら絶対に出会えていなかっただろうし、お互いのよさに氣づく時間もなかっただろう。
「お茶室を初めて見たとき、ものすごく感動しました。家具と言えるものがほとんどなくて、畳の上に亭主と自分がいる。そして、お菓子とお茶がシンプルに出てきます。円形の窓から外の世界が見える。風の音、樹々のざわめき、鹿威しの音。わずかな音が静寂を際立たせる。僕に必要だったのはこの世界なんだと思いました。たくさん詰め込むのではなくて、不要なものを極限まで削ぎ取ったところに現れる世界。実際にはわずかな空間なのに無限の広がりを感じました。僕が日本に住もうと思った瞬間でした」
「だから、和菓子職人になろうと思ったの?」
「はい。小さな一つのお菓子の中に、季節ともてなしの心が詰まっている。伝統的であるのに、独創的で新しい。これこそ僕の探していたものだと思いました」
探していたものかあ。私はなにか探したのかな。探す前に、いつも向こうからやってきているみたいだからなあ。怜子はまた考え込んだ。
「怜子さん。京都で研究したいなら、行ってください。結婚は大学卒業後すぐでなくても構いませんし、お店で働かなくてもいいのですから」
怜子は、はっとして彼を見た。
ルドヴィコは、深い湖のような澄んだ瞳で見ていた。
「見てください。あそこで川の水は二手に分かれています。そして、少し離れてあそこでまた一つになっている。そしてどこを通ってもいつかは同じ海に流れていくんです。怜子さんがどちらに向かおうとも進む道に間違いはありません。したいと思うことを諦めずにしてください。僕はちゃんと待てますから」
怜子は、その時にはっきりとわかった。自分がどうしたいのか。川の水もキラキラと光りながら迷わずに海へと向かっている。彼女はしっかりとルドヴィコを見つめ返していった。
「私、卒業したらすぐに『石倉六角堂』で働く。井の中の蛙でもいい。都会には行かないし、他のことも探さない。だって、私にとって大事なことは、ここにあるんだもの」
彼はその言葉を聞くと笑顔になった。青いきれいな瞳が優しく煌めいていた。
怜子は、続けた。
「その代わりに、私ね、イタリア語を始めようと思うの」
「え?」
「だって、ルドヴィコの家族とも親戚になるんでしょう? 挨拶も出来ないんじゃ、困るもの」
彼は、目を見開いてから、嬉しそうに口を大きく開けて笑った。
「では、明日から特訓してあげましょう。鉄は熱いうちに打てって言いますからね。そして、遠からず行って僕の家族に引き合わせましょう」
(初出:2017年2月 書き下ろし)
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ミニカレーを食べた

連れ合いがアフリカに行っているので、和食だの中華だの、好きなものを食べ放題の私です。
こういう時のためにあるのが、11月に日本から買ってきた「お宝」の数々。今回お見せするのはレトルトのカレーなんですが、ミニサイズ。お茶碗一杯にちょうどいいサイズということなんです。
カレーは好きだけれど、辛いのは苦手。でも、お子様カレーは嫌な私には、このサイズは実に都合よくて幸せなひと時でした。
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【小説】バッカスからの招待状 -8- テキーラ・サンライズ
しばらくスペシャルバージョンが続きましたが、また田中はいつものオブザーバーに戻りました。今回の話は、ちょっと古い歌をモチーフにしたストーリーです。あの曲、ある年齢以上の皆さんは、きっとご存知ですよね(笑)
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バッカスからの招待状 -8-
テキーラ・サンライズ
その二人が入って来た時に、田中に長年酒場で働いている者の勘が働いた。険悪な顔はしていないし、会話がないわけでもなかった。だが、二人の間には不自然な空間があった。まるでお互いの間にアクリルの壁を置いているように。
大手町のビル街にひっそりと隠れるように営業している『Bacchus』には、一見の客よりも常連の方が多い。だが、この二人に見覚えはなかった。おそらく予定していた店が満席で闇雲に歩き回って見つけたのだろう。
店などはどうでもいいのだ。未来に大切にしたくなる思い出を作るつもりはないのだろうから。どうやって嫌な想いをせずに、不愉快な話題を終わらせることができるか、それだけに意識を集中しているのだろう。
二人は、奥のテーブル席に座った。田中は、話が進まないうちに急いで注文を取りに行った。彼らも話を聞かれたくはないだろうから。
「カリブ海っぽい、強いカクテルありますか」
女が田中に訊くと、男は眉をひそめたが何も言わなかった。
「そうですね。テキーラ・サンライズはいかがでしょうか。赤とオレンジの日の出のように見えるカクテルです」
「それにして。氣分は日の入りだけれど……」
「僕はオールドの水割りをお願いします」
男は女のコメントへの感想も、田中との会話をも拒否するような強い調子で注文した。田中は頷いて引き下がり、注文の品とポテトチップスを入れたボウルをできるだけ急いで持っていくとその場を離れた。
亜佐美はオレンジジュースの底に沈んでいる赤いグレナディンシロップを覗き込んだ。ゴブレットはわずかに汗をかき始めている。かき混ぜてそのきれいな層を壊すのを惜しむように、彼女はそっとストローを持ち上げてオレンジジュースだけをわずかに飲んだ。
「こうやってあなたと飲むのも今日でおしまいだね」
和彦は、先ほど田中に見せたのと同じような不愉快な表情を一瞬見せてから、自分の苛立ちを押さえ込むようにして答えた。
「あの財務省男との結婚を決めたのは、お前だろう」
「……ごめんね。私、もう疲れちゃったんだ」
「何に?」
「あなたを信じて待ち続けることに」
和彦は、握りこぶしに力を込めた。だが、その行為は何の解決にも結びつかなかった。
「僕が夢をあきらめても、財務省に今から入れるわけじゃない。お前に広尾の奥様ライフを約束するなんて無理だ。それどころか結婚する余裕すらない」
「私が楽な人生を選んだなんて思わないで。急に小学生の継母になるんだよ。あの子は全然懐きそうにないし、お姑さんもプライド高そうだから、大変そう」
「なぜそこまでして結婚したがるんだよ」
亜佐美は黙り込んだ。必要とされたということが嬉しかったのかもしれない。それとも、プロポーズの件を言えば、和彦が引き止めてくれると思いたかったのかもしれない。彼は不快そうにはしたけれど引き止めなかった。
「カリブ海、行きたかったな」
「なぜ過去形にするんだ。これからだって行けるだろう」
彼女は、瞼を閉じた。あなたと行きたかったんだよ。それに、もう憶えていないかな。まだ高校生だった頃ユーミンの『真夏の夜の夢』が大ヒットして、一緒に話したじゃない。こんな芝居がかった別れ話するわけないよねって。なのに私は、こんなに長く夢見続けたあなたとの関係にピリオドを打って、まるであの歌詞と同じような最後のデートをしているんだね。
サンライズじゃない。サンセット。私の人生の、真夏の夜の夢はおしまい。
二人は長くは留まらなかった。亜佐美がテキーラ・サンライズを飲み終わった頃には、水割りのグラスも空になった。そして、支払いを済ませると二人は田中の店から消えていった。
おや。田中は意外な思いで入ってきた二人を見つめた。常連たちのように細かいことを憶えていたわけではないが、不快な様子で出て行く客はあまりいないので、印象に残っていた。おそらく二度と来ないであろうと予想していたのだが、いい意味で裏切られた。
「間違いない。この店だよな」
「そうね。6年経ってもまったく変わっていないわね」
二人の表情はずっと穏やかになっていた。男の方には白髪が増え、カジュアルなジャケットの色合いも落ち着いていたが、以前よりも自信に満ちた様子が見て取れた。
女の方は、6年前とは違って全身黒衣だった。落ち着いて人妻らしい振舞いになっていた。
「カウンターいいですか」
男が訊いたので田中は「どこでもお好きな席にどうぞ」と答えた。
「どうぞ」
おしぼりとメニューを渡すと、女はおしぼりだけを受け取った。
「またテキーラ・サンライズをいただくわ」
それで田中は、この二人が別れ話をしていたカップルだったと思い出した。
「僕も同じ物を」
彼もまたメニューを受け取らなかった。
「それで、いつ発つの?」
「来週。落ち着いたら連絡先を報せるよ。メールでいいかい?」
「ええ。ドミニカ共和国かぁ。本当に和彦がカリブ海に行く夢を叶えるなんてね。医療機器会社に就職したって年賀状もらった時には諦めたんだと思っていたわ」
「理想と現実は違ってね。ODAって、場所やプロジェクトにもよりけりだけれど、政治家やゼネコンが癒着して、あっちのためになるどころか害にしかならない援助もあってさ。それで発想を変えて本音と建前が一致する民間企業の側から関わることにしたんだ」
「夢を諦めなかったあなたの粘り勝ちね。おめでとう」
「お前に振られてから、背水の陣みたいなつもりになっていたからな。それにしても驚いたな。お前の旦那が亡くなっていたなんて」
田中はその言葉を耳にして一瞬手を止めたが、動揺を顔に出すようなことはしなかった。亜佐美は下を向いて目を伏せたが、すぐに顔を上げた。
「そろそろ半年になるの。冷たいと思うかもしれないけれど、泣いているヒマなんかなかったから、かなり早く立ち直ったわ」
「まだ若いのに、何があったんだ?」
亜佐美は、田中がタンブラーを2つ置く間は黙っていたが、特に声のトーンを落とさずに言った。
「急性アルコール中毒。いろいろ重なったのよね。部下の女の子と遊んだつもりでいたら、リストカットされちゃってそれが表沙汰になったの。上層部はさわぐし、お姑さんともぶつかったの。それで、彼女が田舎に帰ってしまってからすこし心を病んでしまったのね」
「マジかよ」
「受験も大学も、財務省に入ってからもずっとトントン拍子で来た人でしょう。挫折したことがなかったから、ストレスに耐えられなかったみたい。和彦みたいに紆余曲折を経てきたほうが、しなやかで強くなるんじゃないかな」
「それは褒めてないぞ。ともかく、お前も大変だったんじゃないか?」
「そうでもないわ。事情が事情だけに、みな同情的でね。お姑さんもすっかり丸くなってしまったし、奈那子も……」
「それは?」
「ああ、彼の娘。もうすぐ大学に入学するのよ。早いわね」
「えっと、亜佐美が続けて面倒見るのか?」
「面倒見るっていうか、これまで家族だったし、これまで通りよ」
「その子の母親もいるんだろう?」
「母親が引き取らなかったから、慌てて再婚したんじゃない。今さら引き取るわけないでしょ。最初はぎこちなかったけれど、わりと上手くいっているのよ、私たち。継母と継子って言うより戦友みたいな感じかな。思春期でしょ、父親が若い女にうつつを抜かしていたのも許せなかったみたい」
「お前は?」
「う~ん。傷つかなかったといえば嘘になるけれど、でもねぇ」
亜佐美はタンブラーの中の朝焼け色をじっと眺めた。
「あの人、あんな風に人を好きになったの、初めてだったみたい。ずっと親に言われた通りの優等生レールを進んできて、初めてわけもわからずに感情に振り回されてしまったの。それをみていたら、かわいそうだなと思ったの。別れてくれと言われたら、出て行ってもいいとまで思っていたんだけどね」
和彦は呆れたように亜佐美を眺めた。
「おまえ、それは妻としては変だぞ」
「わかっているわよ。奈那子にもそう言われたわ。でも、今日私があなたと会っているのも、あの子にとっては不潔なんだろうな」
「いや、今日の俺たちは、ただ飲んでいるだけじゃないか」
「それでもよ。でも、いいの。奈那子に嫌われても、未亡人らしくないって世間の非難を受けても、あなたが日本を離れる前にどうしてももう一度逢いたかった。逢って、おめでとうって言いたかったの」
「これからどうするんだ?」
和彦はためらいがちに訊いた。
亜佐美は、ようやくストローに口を付けた。それから、笑顔を見せた。
「奈那子が下宿先に引越したら、あの家を売却して身の丈にあった部屋に遷ろうと思うの。奈那子の将来にいる分はちゃんと貯金してね。それから、仕事を見つけなきゃ。何もしないでいるには、いくらなんでもまだ若すぎるしね」
和彦は、決心したように言った。
「ドミニカ共和国に来るって選択肢も考慮に入れられる?」
亜佐美は驚いて彼を見た。
「本氣?」
彼は肩をすくめた。
「たった今の思いつきだけど、問題あるか? 奈那子ちゃんに嫌われるかな」
亜佐美は、タンブラーをじっと見つめた。あまり長いこと何も言わなかったので、和彦だけでなく、成り行きかから全てを聞く事になってしまった田中まではらはらした。
「新しい陽はまた昇るんだね」
彼女はそういうと、瞳を閉じてカクテルを飲んだ。
「今さら焦る必要もないでしょう? 一度、ドミニカ共和国に遊びにいくわね。カリブ海を眺めながら、またこのカクテルを飲みましょう。その時にまだ氣が変わっていなかったら、また提案して」
亜佐美の言葉に、和彦は明るい笑顔を見せた。
田中は、安心してグレナディン・シロップの瓶を棚に戻した。
テキーラ・サンライズ (Tequila Sunrise)
標準的なレシピ
テキーラ - 45ml
オレンジ・ジュース - 適量
グレナディン・シロップ - 2tsp
作成方法: テキーラ、オレンジ・ジュースをゴブレットに注ぎ、軽くステアする。
ゴブレットの縁から静かにグレナディン・シロップを注ぎ、底に沈める。
(初出:2017年2月 書き下ろし)
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【小説】赤スグリの実るころ
「scriviamo! 2017」の第九弾です。GTさんは、オリジナル小説で参加してくださいました。ありがとうございます!
GTさんの書いてくださった『クロスグリのパイ』
GTさんは、わりと最近知り合って、交流してくださるようになったブロガーさんです。熱烈な世界名作劇場のファンで、ファンサイトとしてレビューなどを書かれる傍ら、名作劇場作品の二次創作、それから同じテイストの一次創作も発表なさっています。
私のブログにいらしてくださったのは、おそらく「スイス」に反応してだと思われますが、正直言って「アルプスの少女ハイジ」ともかく、スイスを舞台にした他の名作劇場作品を全く知らなかった私ではお話にならなくて、おそらくこのブログから得る知識は0かと思いますが、にもかかわらず熱心に作品を読んでくださり感謝しています。
今回、はじめてのscriviamo!参加のために書きおろしてくださったのは、オリジナル作品で私の生半可な知識ではどこの国のお話か、どの時代なのかまではちょっとわからなかったのですが、名前などから類推するとアメリカかカナダなどの英語圏のような感じがします。おそらく架空の土地のお話ですね。
GTさんのおすきな世界名作劇場でよく題材にされるのは18から20世紀初頭のストーリー、主に児童文学を原作にしたものが多いと思うのですが、たまたま私が不定期に連載している「リゼロッテと村の四季」シリーズが、その頃の話ですので、この世界の話でお返しを書くことにしました。
ところがですね。これがまたかなり苦戦しました。その経緯は、長くなりますので別記事にしますが、時代背景ならびにいくつかのモチーフを重ならせて書いています。GTさんの作品と合わせてお読みになると、同じ時代背景、同じモチーフを使って書いても、私の作品が全く「かわいく」なくて、さらにいうと児童文学には全く不向きだということがよくわかります。でも、私らしい作品を全力で書くことがGTさんに対して敬意を表する一番の方法だと信じてアップさせていただきます。

「リゼロッテと村の四季」・外伝
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赤スグリの実るころ
——Special thanks to GT-san
つるつるの赤い果実を房から外す作業に、アナリースはかなりの時間をかけた。赤スグリのルビーのような赤がとても好きだ。両親の家の垣根のそばにある数本の木は、夏になるとこの艶やかな実がたわわに実り、優しい緑の葉と相まって目を楽しませてくれる。
そして、ヨーゼフ・チャルナーが、アナリースと新生活を始めるために買ったこの家にも、三本の赤スグリの木があって、彼女はやっと自由に出入りすることが出来るようになったので、熟れた実を集めていた。
たくさん摘んで大きめのボールにたっぷり入れた果実は、まるで無人島の洞窟に隠された海賊の財宝箱の中身のごとく秘密めいた輝きを放った。ひとつ二つと口に含むことはあるが、酸っぱくてもっと食べたくなることはない。赤スグリはジェリーにすることでその価値をはるかに増す。
日曜日の三つ編みパンに添えて、バターと一緒につけるのも美味しいが、ちょっとしたデザートに添えるのも色味ともにアクセントになっていい。それに、秋の狩猟シーズンには、洋梨のコンポートに赤スグリのジェリーを載せたものを付け合せに加える。
だから、彼女は庭の赤スグリを一粒も無駄にしたくなかった。彼もきっと喜んでくれるはずだわ。
「ちょっと。アナリース! あなた、何をやっているのよ」
入ってきたのは幼なじみで今は兄嫁であるマリアだ。
「何って、赤スグリのジェリーを作っているのよ」
「それは見たらわかるけれど、私が聞きたいのは、どうしてよりにもよって今そんなことをするのってこと。ヨーゼフは今日帰ってくるんでしょう? おめかししなくちゃいけないんじゃないの?」
アナリースは笑った。掛けてある黒いスタンドカラーの飾りの少ないブラウスに、縦縞のくるぶしまである広がりの少ないスカートを目で示すと、マリアはその質素で面白みのない服装にため息をもらした。
「なによこれ。ほとんど普段着と変わらないじゃない。ヨーゼフに会うのは何年ぶりだと思っているの? もっと美しく装わないと」
「どうして?」
「バーゼルは都会だからきれいな服を着た女性が多いに違いないわよ。そういう女性を見慣れているんだから、田舎娘は野暮ったいなって思われちゃうわ。流行っている膨らんだ袖のドレスは一枚もないの?」
アナリースは首を振った。
「きれいなドレスに興味がないと言ったら嘘になるけれど、ああいう服装をするためには布地が二倍も必要になるもの。私はそれだったら図書館の入場料にして、一冊でもたくさん本を読みたいの。先週ついにコンラート・フェルディナント・マイヤーの『女裁判官』が入ったのよ」
「なんですって。あなた、そんな本を読むの? あれって、確かスキャンダルになったんじゃない」
「そうよ。いけない? あれはカール大帝時代を題材にした歴史小説じゃない」
「でも、ほら、兄と妹の恋の話と、実のお母さんへの愛憎がモデルになっているって……」
「だから?」
「ヨーゼフは牧師になるひとだし、あなたは……」
「代理教師だから、牧師の婚約者だから、女だから、コンラート・フェルディナント・マイヤーを読んじゃいけないなんてナンセンスだわ」
アナリースはわずかに強い語調で言った。
マリアは、友の苛立ちを感じた。話題を変えた方がいいかもしれないと素早く考えた。
「それで、どうしてあなたは着替えもせずになぜジェリーなんて作っているのよ」
アナリースは、マリアの戸惑いを感じたので、少し恥じて俯いた。彼女は薪オーブンの上に置いてあったやかんをどかすと、赤スグリと砂糖を入れた鍋を置いて焦げないようにかき混ぜた。スグリからは紅いジュースがしみ出してきてやがてそれは固形物から液体に変わる。
「彼と約束したんだもの」
「これを?」
返事をする代わりに、アナリースは微笑んだ。
ヨーゼフと同じ教室で学んでいた頃、アナリースの成績はクラスで一番だった。彼女は知識欲と向学心に燃えて、大学に進み立派な教師になることを夢見ていた。彼女の成績がずば抜けてよかったにもかかわらず、彼女は大学に進むことも出来なかったし、中学校教師の資格をとるのがやっとだった。
海外にでる覚悟があればもっと高等教育を受けることも可能だったかもしれない。そうであっても女性が大学に通うことは、まだ眉をひそめられることだった。ましてやこの国のこの州では、大学進学は不可能だった。女性は代理教員としてしか雇ってもらえないし、そういう将来しか望めない人間の学費を負担するのを村は拒否した。「学費の補助は、女性の趣味のためではなく、家計を支え国の将来を担う男性のために使われるべきだ」と。
彼女が女に生まれた理不尽さに涙していても、村の少女たちは「アナリースったら、本氣でそんな事を言っているの? 困った人ね」と頭を振るだけで氣持ちをくんではくれなかった。彼女たちにしてみれば、学校は出来れば行きたくないおぞましいところだったし、そもそも教育が人生の役に立つのかピンと来ないぐらいで、アナリースのことも校長先生になりたがっている権威欲の強い娘だと感じていたからだ。
唯一、彼女の悔しさを理解してくれたのが、ヨーゼフ・チャルナーだった。彼はもう幼いクラスメートではなく青年になりかけていたが、正直で真面目なところは子供の頃から変わらなかった。それに、彼は温かい心の持ち主で、アナリースも相応の敬意を持っていた。
「アナリース。君は、僕のことを怒っているんだろう?」
それは、日が高くて、青々とした牧草地からたくさんの色とりどりの野の花が風に揺れる初夏の夕方だった。丘を越えて自宅へと戻ろうとせっせと歩く彼女を後から追いかけてきたヨーゼフは、しばらく口をきかずにいたが、丘のてっぺんまで来ると話しだした。彼は秋からラテン語学校への進学が決まっていた。
「私が? あなたに怒ってどうなるっていうのよ」
そういいつつも、自分の声音に刺々しいものがあると彼女は感じた。ヨーゼフのせいで彼女が進学できないわけではない。でも、自分が通いたかった大学への道を歩みだした彼が、これまで一度だって試験で自分を負かしたことがないのを思わずにはいられなかった。
彼は、ラテン語とギリシャ語を習う。そして、ヘブライ語も。バーゼルヘ行き、神学科に籍を置くことになる。そして、やがて立派な牧師として尊敬を集めるようになるだろう。それにひきかえ、自分は、高等学校からチューリヒの教師養成セミナーに進むだろう。そして、病欠をしたり、兵役に行く教師の代わりに一日または数週間だけあちこちの教室に派遣されて、「女なら大人しく家で料理でもしていればいいものを」と陰口を叩かれる存在になるのだ。
「じゃあ、ちゃんと僕の目を見てくれよ」
ヨーゼフは真剣に言った。アナリースはため息をついた。
「ごめんなさい。あなたにむかっ腹を立てることじゃないのに。ねえ、イヴがアダムの脇腹の骨から作られた取るに足らない存在だってことは、どうやっても変えられないのかしら?」
ヨーゼフは首を振った。
「聖書を振りかざしてそういう事を言う人がいるのはわかっているよ。僕はそんなことは思わない。アダムとイヴはしらないけれど、少なくともアナリースがヨーゼフより優秀なのくらいはちゃんとわかっている」
「私は、そんな事を言いたいわけじゃ……」
「でも、それが事実だよ。だけど、アナリース。女性がとるに足りないなんて僕は思わないけれど、男性と女性が全く同じだとも言えないとも思っているんだ」
「つまり?」
「子供を産むのは女性にしか出来ない。女が子供を産んで育てている間に、男が森や野原で獲物を捕まえてくると役割分担ができて、それが今の社会につながったんじゃないかと思うんだ。もちろん、獲物を捕まえるのが得意な女性や、むしろ家で料理を作る方が得意な男性の存在は無視されてしまっているけれど。僕たちは世界を一日で変える事はできない。無視されるわずかな例外はつらいけれど、どうにかして世界と折り合って行くしかないんじゃないか」
彼女は瞳を閉じて、丘の上を渡る風を感じた。後にシニヨンにまとめた髪からこぼれた後れ毛が風にそよいだ。彼は、そんな彼女を黙って見つめていた。
「大丈夫よ。どんな形でも、理想的な教師になるように努力するもの。それに、学問や読書は、ずっと続けるつもりよ。大学に行って、校長先生の資格を取るだけが、教育に関わる唯一の道じゃないはずよね」
アナリースがそういうと、ヨーゼフは一歩前にでて大きく頷いた。
「僕もずっとそう思っていたんだ。ねえ、アナリース。君のその志、僕と一緒に完成させないかい?」
「あなたと? どうやって?」
彼は、真剣なまなざしで彼女を見つめた。
「僕は、いつかこの村に戻ってくる。この村の牧師として、村人たち、次の世代を担う子供たちの精神的な支えになる、とても重い責任を背負うことになる。一度だって君よりもいい成績を取れなかった、この頼りない僕が。だから、僕には支えが必要なんだ。思慮ぶかくて、氣高い精神にあふれた君みたいな女性が。そして、君も、牧師の妻としてならただの代理教師としてよりもずっと尊敬を集めて、さらに幅広く子供たちの教育に中心的な役割を果たすことが出来る。違うかい?」
彼女は、ぽかんとヨーゼフの顔を眺めていたが、氣を取り直すと言った。
「で、でも、牧師の妻って……その……結婚は好きな人とするものじゃないの?」
彼は肩をすくめた。
「僕は、君のことをかなり好きだけれど、ダメかな?」
アナリースは、真っ赤になって「そんなのはダメ」と言おうとしたけれど、どういうわけだか全くその言葉が出てこなかった。それで、ヨーゼフは勝手に納得して「そのつもりで大学に行くけれど、待っていてくれるね」と言った。
「そんなに待った後で、あなたに他に好きな人がいるから、結婚できないって言われたら、私もう結婚できなくなってしまうわ」
「わかっているよ。でも、僕は約束はちゃんと守る」
ヨーゼフは彼女の手をとった。
「僕は必死で勉強する。そして、学問だけでなく、村の牧師として必要になりそうなあらゆることを身につける。だから、君も僕を待っている間に、村の大人たちや女性たちに受け入れてもらえる牧師夫人目指して苦手なことにも挑戦してほしい。そうしたら、後は、ずっと一緒に理想を目指して歩いていこう」
彼の示唆していることは、なんとなくわかった。アナリースは、勉強は得意でも裁縫や料理はあまり得意ではなかったし、おしゃべりをする時間がもったいなくて村の娘たちとの付き合いに顔を出さないので浮いた存在になっていた。
「そうね。……何から始めようかしら」
彼は、優しく笑った。
「そうだな。たとえば、ほら、あそこにある赤スグリ。僕、あのジェリーがとても好きなんだ。子供の頃、三つ編みパンとあのジェリーを毎日食べられるように毎日日曜日にしてくださいってお祈りして父さんにこっぴどく怒られたことがあるんだよ」
「……。作り方、お母さんに習っておくわ」
あれから何度も夏と冬が過ぎた。赤スグリも何度も実った。アナリースは、もうジェリーを何も見なくても作れるようになっていた。
パン焼き日には、村のパン焼き釜にでかけ、娘たちと話をしながらパンの焼けるまでの時間を過ごした。村の泉で洗濯をする時も、年末に豚の腸詰めや燻製を作るときも村人たちと一緒に作業するようになった。
くだらない噂話だと思っていた会話が、時に人生の悲哀がこもり、時に哲学的な示唆に満ちた時間だということも知った。本や大学の教授からだけではなく、けたたましく笑ったり泣き言を言う村人からも学ぶことがたくさんあるのだと知った。
そして、アナリースは、家事が上手で人付き合いの上手い立派な娘だとの評判を勝ち得た。牧師となるチャルナーと婚約していることも、村人たちからの敬意を得る大きな要素になった。
それは静かな宵に、誰にも邪魔されずに本を読むことを許され、教師としての勉強を続けても誰にも非難されることのない心地よい立場だった。
赤スグリと砂糖を溶かした真っ赤な液体を、消毒したガラス瓶に詰めながら、首を傾げるマリアを前に、アナリースは微笑んだ。
「いいの。私がどんな装いをするよりも、あの人はこの瓶が並んでいるのを喜ぶのよ」
(初出:2017年2月 書き下ろし)
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- 【小説】春、いのち芽吹くとき (03.03.2016)
【小説】赤スグリの実るころ
「scriviamo! 2017」の第九弾です。GTさんは、オリジナル小説で参加してくださいました。ありがとうございます!
GTさんの書いてくださった『クロスグリのパイ』
GTさんは、わりと最近知り合って、交流してくださるようになったブロガーさんです。熱烈な世界名作劇場のファンで、ファンサイトとしてレビューなどを書かれる傍ら、名作劇場作品の二次創作、それから同じテイストの一次創作も発表なさっています。
私のブログにいらしてくださったのは、おそらく「スイス」に反応してだと思われますが、正直言って「アルプスの少女ハイジ」ともかく、スイスを舞台にした他の名作劇場作品を全く知らなかった私ではお話にならなくて、おそらくこのブログから得る知識は0かと思いますが、にもかかわらず熱心に作品を読んでくださり感謝しています。
今回、はじめてのscriviamo!参加のために書きおろしてくださったのは、オリジナル作品で私の生半可な知識ではどこの国のお話か、どの時代なのかまではちょっとわからなかったのですが、名前などから類推するとアメリカかカナダなどの英語圏のような感じがします。おそらく架空の土地のお話ですね。
GTさんのおすきな世界名作劇場でよく題材にされるのは18から20世紀初頭のストーリー、主に児童文学を原作にしたものが多いと思うのですが、たまたま私が不定期に連載している「リゼロッテと村の四季」シリーズが、その頃の話ですので、この世界の話でお返しを書くことにしました。
ところがですね。これがまたかなり苦戦しました。その経緯は、長くなりますので別記事にしますが、時代背景ならびにいくつかのモチーフを重ならせて書いています。GTさんの作品と合わせてお読みになると、同じ時代背景、同じモチーフを使って書いても、私の作品が全く「かわいく」なくて、さらにいうと児童文学には全く不向きだということがよくわかります。でも、私らしい作品を全力で書くことがGTさんに対して敬意を表する一番の方法だと信じてアップさせていただきます。

「リゼロッテと村の四季」・外伝
「scriviamo! 2017」について
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赤スグリの実るころ
——Special thanks to GT-san
つるつるの赤い果実を房から外す作業に、アナリースはかなりの時間をかけた。赤スグリのルビーのような赤がとても好きだ。両親の家の垣根のそばにある数本の木は、夏になるとこの艶やかな実がたわわに実り、優しい緑の葉と相まって目を楽しませてくれる。
そして、ヨーゼフ・チャルナーが、アナリースと新生活を始めるために買ったこの家にも、三本の赤スグリの木があって、彼女はやっと自由に出入りすることが出来るようになったので、熟れた実を集めていた。
たくさん摘んで大きめのボールにたっぷり入れた果実は、まるで無人島の洞窟に隠された海賊の財宝箱の中身のごとく秘密めいた輝きを放った。ひとつ二つと口に含むことはあるが、酸っぱくてもっと食べたくなることはない。赤スグリはジェリーにすることでその価値をはるかに増す。
日曜日の三つ編みパンに添えて、バターと一緒につけるのも美味しいが、ちょっとしたデザートに添えるのも色味ともにアクセントになっていい。それに、秋の狩猟シーズンには、洋梨のコンポートに赤スグリのジェリーを載せたものを付け合せに加える。
だから、彼女は庭の赤スグリを一粒も無駄にしたくなかった。彼もきっと喜んでくれるはずだわ。
「ちょっと。アナリース! あなた、何をやっているのよ」
入ってきたのは幼なじみで今は兄嫁であるマリアだ。
「何って、赤スグリのジェリーを作っているのよ」
「それは見たらわかるけれど、私が聞きたいのは、どうしてよりにもよって今そんなことをするのってこと。ヨーゼフは今日帰ってくるんでしょう? おめかししなくちゃいけないんじゃないの?」
アナリースは笑った。掛けてある黒いスタンドカラーの飾りの少ないブラウスに、縦縞のくるぶしまである広がりの少ないスカートを目で示すと、マリアはその質素で面白みのない服装にため息をもらした。
「なによこれ。ほとんど普段着と変わらないじゃない。ヨーゼフに会うのは何年ぶりだと思っているの? もっと美しく装わないと」
「どうして?」
「バーゼルは都会だからきれいな服を着た女性が多いに違いないわよ。そういう女性を見慣れているんだから、田舎娘は野暮ったいなって思われちゃうわ。流行っている膨らんだ袖のドレスは一枚もないの?」
アナリースは首を振った。
「きれいなドレスに興味がないと言ったら嘘になるけれど、ああいう服装をするためには布地が二倍も必要になるもの。私はそれだったら図書館の入場料にして、一冊でもたくさん本を読みたいの。先週ついにコンラート・フェルディナント・マイヤーの『女裁判官』が入ったのよ」
「なんですって。あなた、そんな本を読むの? あれって、確かスキャンダルになったんじゃない」
「そうよ。いけない? あれはカール大帝時代を題材にした歴史小説じゃない」
「でも、ほら、兄と妹の恋の話と、実のお母さんへの愛憎がモデルになっているって……」
「だから?」
「ヨーゼフは牧師になるひとだし、あなたは……」
「代理教師だから、牧師の婚約者だから、女だから、コンラート・フェルディナント・マイヤーを読んじゃいけないなんてナンセンスだわ」
アナリースはわずかに強い語調で言った。
マリアは、友の苛立ちを感じた。話題を変えた方がいいかもしれないと素早く考えた。
「それで、どうしてあなたは着替えもせずになぜジェリーなんて作っているのよ」
アナリースは、マリアの戸惑いを感じたので、少し恥じて俯いた。彼女は薪オーブンの上に置いてあったやかんをどかすと、赤スグリと砂糖を入れた鍋を置いて焦げないようにかき混ぜた。スグリからは紅いジュースがしみ出してきてやがてそれは固形物から液体に変わる。
「彼と約束したんだもの」
「これを?」
返事をする代わりに、アナリースは微笑んだ。
ヨーゼフと同じ教室で学んでいた頃、アナリースの成績はクラスで一番だった。彼女は知識欲と向学心に燃えて、大学に進み立派な教師になることを夢見ていた。彼女の成績がずば抜けてよかったにもかかわらず、彼女は大学に進むことも出来なかったし、中学校教師の資格をとるのがやっとだった。
海外にでる覚悟があればもっと高等教育を受けることも可能だったかもしれない。そうであっても女性が大学に通うことは、まだ眉をひそめられることだった。ましてやこの国のこの州では、大学進学は不可能だった。女性は代理教員としてしか雇ってもらえないし、そういう将来しか望めない人間の学費を負担するのを村は拒否した。「学費の補助は、女性の趣味のためではなく、家計を支え国の将来を担う男性のために使われるべきだ」と。
彼女が女に生まれた理不尽さに涙していても、村の少女たちは「アナリースったら、本氣でそんな事を言っているの? 困った人ね」と頭を振るだけで氣持ちをくんではくれなかった。彼女たちにしてみれば、学校は出来れば行きたくないおぞましいところだったし、そもそも教育が人生の役に立つのかピンと来ないぐらいで、アナリースのことも校長先生になりたがっている権威欲の強い娘だと感じていたからだ。
唯一、彼女の悔しさを理解してくれたのが、ヨーゼフ・チャルナーだった。彼はもう幼いクラスメートではなく青年になりかけていたが、正直で真面目なところは子供の頃から変わらなかった。それに、彼は温かい心の持ち主で、アナリースも相応の敬意を持っていた。
「アナリース。君は、僕のことを怒っているんだろう?」
それは、日が高くて、青々とした牧草地からたくさんの色とりどりの野の花が風に揺れる初夏の夕方だった。丘を越えて自宅へと戻ろうとせっせと歩く彼女を後から追いかけてきたヨーゼフは、しばらく口をきかずにいたが、丘のてっぺんまで来ると話しだした。彼は秋からラテン語学校への進学が決まっていた。
「私が? あなたに怒ってどうなるっていうのよ」
そういいつつも、自分の声音に刺々しいものがあると彼女は感じた。ヨーゼフのせいで彼女が進学できないわけではない。でも、自分が通いたかった大学への道を歩みだした彼が、これまで一度だって試験で自分を負かしたことがないのを思わずにはいられなかった。
彼は、ラテン語とギリシャ語を習う。そして、ヘブライ語も。バーゼルヘ行き、神学科に籍を置くことになる。そして、やがて立派な牧師として尊敬を集めるようになるだろう。それにひきかえ、自分は、高等学校からチューリヒの教師養成セミナーに進むだろう。そして、病欠をしたり、兵役に行く教師の代わりに一日または数週間だけあちこちの教室に派遣されて、「女なら大人しく家で料理でもしていればいいものを」と陰口を叩かれる存在になるのだ。
「じゃあ、ちゃんと僕の目を見てくれよ」
ヨーゼフは真剣に言った。アナリースはため息をついた。
「ごめんなさい。あなたにむかっ腹を立てることじゃないのに。ねえ、イヴがアダムの脇腹の骨から作られた取るに足らない存在だってことは、どうやっても変えられないのかしら?」
ヨーゼフは首を振った。
「聖書を振りかざしてそういう事を言う人がいるのはわかっているよ。僕はそんなことは思わない。アダムとイヴはしらないけれど、少なくともアナリースがヨーゼフより優秀なのくらいはちゃんとわかっている」
「私は、そんな事を言いたいわけじゃ……」
「でも、それが事実だよ。だけど、アナリース。女性がとるに足りないなんて僕は思わないけれど、男性と女性が全く同じだとも言えないとも思っているんだ」
「つまり?」
「子供を産むのは女性にしか出来ない。女が子供を産んで育てている間に、男が森や野原で獲物を捕まえてくると役割分担ができて、それが今の社会につながったんじゃないかと思うんだ。もちろん、獲物を捕まえるのが得意な女性や、むしろ家で料理を作る方が得意な男性の存在は無視されてしまっているけれど。僕たちは世界を一日で変える事はできない。無視されるわずかな例外はつらいけれど、どうにかして世界と折り合って行くしかないんじゃないか」
彼女は瞳を閉じて、丘の上を渡る風を感じた。後にシニヨンにまとめた髪からこぼれた後れ毛が風にそよいだ。彼は、そんな彼女を黙って見つめていた。
「大丈夫よ。どんな形でも、理想的な教師になるように努力するもの。それに、学問や読書は、ずっと続けるつもりよ。大学に行って、校長先生の資格を取るだけが、教育に関わる唯一の道じゃないはずよね」
アナリースがそういうと、ヨーゼフは一歩前にでて大きく頷いた。
「僕もずっとそう思っていたんだ。ねえ、アナリース。君のその志、僕と一緒に完成させないかい?」
「あなたと? どうやって?」
彼は、真剣なまなざしで彼女を見つめた。
「僕は、いつかこの村に戻ってくる。この村の牧師として、村人たち、次の世代を担う子供たちの精神的な支えになる、とても重い責任を背負うことになる。一度だって君よりもいい成績を取れなかった、この頼りない僕が。だから、僕には支えが必要なんだ。思慮ぶかくて、氣高い精神にあふれた君みたいな女性が。そして、君も、牧師の妻としてならただの代理教師としてよりもずっと尊敬を集めて、さらに幅広く子供たちの教育に中心的な役割を果たすことが出来る。違うかい?」
彼女は、ぽかんとヨーゼフの顔を眺めていたが、氣を取り直すと言った。
「で、でも、牧師の妻って……その……結婚は好きな人とするものじゃないの?」
彼は肩をすくめた。
「僕は、君のことをかなり好きだけれど、ダメかな?」
アナリースは、真っ赤になって「そんなのはダメ」と言おうとしたけれど、どういうわけだか全くその言葉が出てこなかった。それで、ヨーゼフは勝手に納得して「そのつもりで大学に行くけれど、待っていてくれるね」と言った。
「そんなに待った後で、あなたに他に好きな人がいるから、結婚できないって言われたら、私もう結婚できなくなってしまうわ」
「わかっているよ。でも、僕は約束はちゃんと守る」
ヨーゼフは彼女の手をとった。
「僕は必死で勉強する。そして、学問だけでなく、村の牧師として必要になりそうなあらゆることを身につける。だから、君も僕を待っている間に、村の大人たちや女性たちに受け入れてもらえる牧師夫人目指して苦手なことにも挑戦してほしい。そうしたら、後は、ずっと一緒に理想を目指して歩いていこう」
彼の示唆していることは、なんとなくわかった。アナリースは、勉強は得意でも裁縫や料理はあまり得意ではなかったし、おしゃべりをする時間がもったいなくて村の娘たちとの付き合いに顔を出さないので浮いた存在になっていた。
「そうね。……何から始めようかしら」
彼は、優しく笑った。
「そうだな。たとえば、ほら、あそこにある赤スグリ。僕、あのジェリーがとても好きなんだ。子供の頃、三つ編みパンとあのジェリーを毎日食べられるように毎日日曜日にしてくださいってお祈りして父さんにこっぴどく怒られたことがあるんだよ」
「……。作り方、お母さんに習っておくわ」
あれから何度も夏と冬が過ぎた。赤スグリも何度も実った。アナリースは、もうジェリーを何も見なくても作れるようになっていた。
パン焼き日には、村のパン焼き釜にでかけ、娘たちと話をしながらパンの焼けるまでの時間を過ごした。村の泉で洗濯をする時も、年末に豚の腸詰めや燻製を作るときも村人たちと一緒に作業するようになった。
くだらない噂話だと思っていた会話が、時に人生の悲哀がこもり、時に哲学的な示唆に満ちた時間だということも知った。本や大学の教授からだけではなく、けたたましく笑ったり泣き言を言う村人からも学ぶことがたくさんあるのだと知った。
そして、アナリースは、家事が上手で人付き合いの上手い立派な娘だとの評判を勝ち得た。牧師となるチャルナーと婚約していることも、村人たちからの敬意を得る大きな要素になった。
それは静かな宵に、誰にも邪魔されずに本を読むことを許され、教師としての勉強を続けても誰にも非難されることのない心地よい立場だった。
赤スグリと砂糖を溶かした真っ赤な液体を、消毒したガラス瓶に詰めながら、首を傾げるマリアを前に、アナリースは微笑んだ。
「いいの。私がどんな装いをするよりも、あの人はこの瓶が並んでいるのを喜ぶのよ」
(初出:2017年2月 書き下ろし)
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「赤スグリの実るころ」に見る私の小説

この小説はscriviamo!という私の主催している企画のなかの一篇です。この企画では、さまざまなブロガーの方が創作作品や記事で参加してくださったものに対して、私がお返事という形で主に掌編をお返しする企画なのですが、「赤スグリの実るころ」は、GTさんが書いてくださった作品へのお返しです。
この「赤スグリの実るころ」は、不定期で連載している「リゼロッテと村の四季」というシリーズの番外編で19世紀末から20世紀のスイス・グラウビュンデン州にある架空の村を舞台に話を展開させています。このカンポ・ルドゥンツ村は、私が現在住んでいる村がモデルです。そして、出てくるモチーフや風習などは、全て当時のものを調べたか人づてに聴き取ったことを反映させています。つまり、私の創作ではありますが、かなり実際の地理天候ならびに文化・歴史が反映された作品になると思います。
この作品を書くにあたって私が意図したのは、もちろん常に意識している私の創作テーマが根底に流れていますが、その上に現在96歳になるある歴史の生き証人から直接口頭で聴いたことを日本語の文章で残すことです。そして、その中にはおそらく日本人が日本で書こうとしても決して書けない内容がたくさん含まれています。私は日本人としては特別優秀な書き手ではありませんが、「日本語でこれを書けるのは世界に私一人だ」という題材を持っているラッキーな人間の一人だと思っています。
さて、話は元に戻ります。
「赤スグリの実るころ」を書いたのはGTさんへのお返しだと先ほど書きましたが、このGTさんは世界名作劇場の熱烈なファンでいらっしゃいます。そしてですね、私の周りにはこの世界名作劇場の熱烈なファン、またはそれに関わっていらっしゃる方がけっこういらっしゃるのです。どなたも並ならぬ情熱を傾けていらっしゃって、さらには児童文学にも強い関心をお持ちの方がいらっしゃいます。
なぜそういう方が私の周りに多いかというと、偏にマイエンフェルトのあるグラウビュンデン州に住んでいるから、必然と聖地巡礼をなさる方とのご縁ができるわけなんですね。
そして、私本人は、実はそのフィールドにとても弱い人間なんです。
もともとスイスに関する関心はゼロで、一生足を踏み入れなくても構わないと思っていました。「アルプスの少女ハイジ」のアニメも放映当時に見ただけですから詳細はほとんど憶えていません。その程度の関心しかなかったのです。その他のスイスを舞台にした名作劇場は存在すら知りませんでした。
実際に、名作劇場ファンの方、もしくは、関わっていらっしゃる方とお話しさせていただくと、その想いや情報の詳しさは驚くべきレベルです。一つの愛好ジャンルとして多くの人びとの中に完全に定着しているのですね。
愛されている作品群に共通するのは、もともと子供向けに作られたものであること、純粋で、努力を尊び、最終的に(大抵の場合は)優しくけなげな主人公たちが報われて、幸せな結末を迎える、そういう「いい作品」であることだと思います。また、子供には理解できないような複雑な人間関係や、どうすることも出来ない世の中の理不尽もほとんどでてきません。それはいい悪いではなく、そういうものです。
その世界は、実は、私の描き出すものとは少し、いいえ、まったく違う世界なのです。
なにが言いたいかというと、同じような舞台設定、同じような時代の小説を書いていても、表現する人間が意図するものによって全く違う中味になると言うあたり前のことなんですけれど、それが「スイスの田舎の子供たちの出てくる小説」とまとめてしまうと、どうもそれがなかなか見えにくいように思うのです。
スイスの児童文学っぽい小説には、ずっと手を出すつもりはなかったんですが、それをすることになったのは、上でも書いたように、ある方から口承で得たこの時代のこの世界の話を書き残すためにはこういう形が一番だと思ったからです。でも、やはりパッと見には同じタイプの小説に見えるかなと思ったんです。
それで、「赤スグリの実るころ」のあえてGTさんの書かれたモチーフを重ねてみました。重ねることでその違いが明らかになるようにです。うちのヒロイン・アナリースには、非常に可愛げのないところがあります。勉学のために旅立つ将来の夫となるヨーゼフの身を案じたり、「早く帰って来てね」と泣いたり、心をこめてて料理を振る舞うという女の子らしさ、GTさんの作品で見られたけなげなヒロインの姿はなく、むしろ正反対の女性像を持ってきました。
このエピソードは、既に私の頭の中にあったものですが、私は「これがアニメではなく実際のスイスの当時の女性だ」と言うために書いたわけではありません。作品に書かれた女性の権利についての記述はすべて当時のこの地域の常識だったことですが、「可愛い純粋なヒロイン」が存在しなかったということではないんです。
単純に、私の興味は、等身大の人間の心の動きに向いているということです。それもどちらかというとピュアで幸せな心の動きよりも、弱くてよどみ蠢く、けれど決して邪悪ではないごく普通の小市民の心の動きなのです。
「黄金の枷」シリーズの中でもテーマに据えていましたが、人間はその周りに据え付けられた社会慣例や因習、貧富の差や時代背景といった簡単に越えられない枠組みに捉えられています。物語を書く人の中には、魔法や持って生まれた才能、超人的努力、もしくはその枠組みそのものを見えなくすることで主人公が幸福を獲得していく、現実とは違うものを描き出したいと思われる方がいます。そして、そうした物語の需要の方が多いのもまた事実です。
私が書こうとする物語は、枠組みの中で苦悩する人間そのものなので、かならず枠組みがそのまま提示されます。平ったく言わせてもらうと、簡単に枠組みを克服されると、書くことがなくなってしまうんですよ。
ということを、なぜここで長々と語っているかと言いますと、世界名作劇場が好きでそのつながりでここにたどり着いた方は、「赤スグリの実るころ」を読んでおそらく戸惑われるだろうと思ったからです。
他の作品はともかく、「赤スグリの実るころ」ならびに「リゼロッテと村の四季」シリーズは、「きれいなスイスが好き」「世界名作劇場みたいな世界が好き」という方にはきっと肩すかしな小説になっているだろうなと、しみじみと感じたここ二週間でした。
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某キャラクターの風貌
つい先日、大海彩洋さんにscriviamo! 2017の参加作品を読ませていただいて、コメント欄でお話ししていて氣がついたんですけれど、「郷愁の丘」まだ主人公のひとりの風貌を描写していませんでしたね。っていうか、本編ではまだ登場していなくて、番外編「最後の晩餐」では本人目線だったので、描写するところがなかったんですけれど。
で、何もここで開示することもないとは思うんですけれど(小説を読んでもらえ、設定なんかいちいち語るなって、話もあって)、でも、隠すほどのことでもないし、しょっちゅう読んでくださる方に脳内イメージを植え付けてしまえ、ということで、私が頭に浮かべている風貌をここでお見せしちゃいます。
そう、「書きます」ではなくて、「見せます」なんですよ。下のYoutubeのジャケット絵、この方が私の中のヘンリー・G・スコット(グレッグ)のイメージなんです。表情も含めて。この方は、前にもご紹介しましたが、最近私が大好きなサン=プルーというフランスの作曲家です。
Le Départ
Album "Le Piano sous la Mer" (1972) by Christian Langlade a.k.a Saint-Preux.
Final
Album "La Passion" (1973) by Christian Langlade a.k.a Saint-Preux.
彩洋さんは、もっと若くてカッコいい男性をイメージされていたように思いますが、(あ、サン=プルーがカッコ良くないという意味ではなく!)身もふたもなく言うと「野暮ったくていまいち自信の無さそうなヒゲのおっさん」です。こういう人が、実は私の心の琴線に触れるんですよ。そういえば「黄金の枷」シリーズの23もヒゲ面だったな。べつに髭フェチでもないんですけれど、毎朝ブラウンの電動ひげ剃り機で完璧に剃っているようなエリートっぽい男性って、私の小説ではあまり表には出てこないようにも思います。そういえば、グレッグの対比として登場するためにまたしてもお借りしているTOM-Fさんのところの超有名ニュースキャスターは、きっと身だしなみを完璧に整えているエリートですよね。
上の二つは、単にサン=プルーの顔をお見せしたくて選んだ曲ですが、下は「郷愁の丘」のエンディングテーマとして、勝手にマイ・プレイリストに入れている曲です。
Saint-Preux: Le Piano d'Abigail 1ere partie
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