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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】それもまた奇跡

今週は「十二ヶ月のアクセサリー」六月分を発表します。六月のテーマは「メダイ」です。「なんだそれ」と思われる方もあるかと思います。カトリックで使われるお守りのようなメダルのことです。

宗教的なもの、とくに「奇跡を起こすメダル」の話をするとアレルギー反応を示される方もあります。特に私がカトリックを公言しているので警戒なさる方もあるかもしれませんが、今回の話はとくに信仰心や奇跡とは関係のない話ですのでご安心ください。むしろどちらかというと「塞翁が馬」的なストーリーですね。

全く必要のない情報ですが、出てくる男性が勤めている「健康食品の会社」の社長は「郷愁の丘」のヒロインの兄、マッテオ・ダンジェロだという設定です。でも、この作品には出てきませんし、これはただの読み切りです(笑)


短編小説集「十二ヶ月のアクセサリー」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月のアクセサリー」をまとめて読む



それもまた奇跡

 ケイトは、行ったばかりのデパート、ボン・マルシェの方に戻った。その近くにある『奇跡のメダイのノートルダム教会』に寄ってくるように、トレイシーに懇願されていたことを思い出したのだ。

 彼女自身はカトリックではなく真面目なキリスト教徒とはお世辞にも言えなかったし、聖母出現だの、奇跡を起こすメダルなどというものはナンセンスだと思っていたが、それを信じて待っている人間のために、デパートの帰り道に寄るくらいのことを断るほど偏狭ではなかった。でも、くだらないと思っていたせいか、もう少しで忘れるところだった。

「何それ?」
パリに行くと話した時に、トレイシーがおずおずと口にした願いを耳にしたケイトは、何を買ってくればいいのか全く理解できなかったので問い直した。

「奇跡を起こすメダルよ。楕円形でね。表に聖母マリア像と『原罪無くして宿り給いし聖マリア、御身に寄り頼み奉るわれらのために祈り給え』って意味のフランス語が、裏には十字架とM、それにジーザスと聖母マリアの心臓が打出されているの。パリの教会で買う事ができるの」

「一つの教会でしか買えないの?」
「他のカトリックの教会で置いているところもあるかもしれないけれど、似ていて違うものとあなたは見分けがつかないでしょう? 道端で売っているものや、通販などだと偽物がほとんどよ。そもそも転売は禁止されているの。だから、本家の教会で買って来てほしいの」

 トレイシーは、現在入院中でパリに自ら行くことはできない。奇跡が必要なほどの重病でもないので、わざわざ家族が行くこともない。要するに親友が行くついでに欲しいと言ってみたのだろう。ケイトは、「わかったわ」と頷いた。

「ところで、その教会にそのメダイとやらは一種類しかないの?」
「いいえ。銀色だったり、ブルーだったり、いろいろとあるみたいだけれど、その教会で売っていればどれも本物だわ。このお金で買えるものを買ってきて。おつりはあなたにあげるから、好きなものを買ってね」

 彼女の手渡してくれたドル紙幣は、とっくにユーロに両替した。これで買って行かなかったら詐欺になってしまう。六月の日差しは刺すように強い。今日はとても暑い。何も考えずにタンクトップできてしまったけれど、その教会にこの格好で入れるかなあ。ケイトは先ほど暑くてしまったスカーフをカバンから取り出して、申しわけ程度に肩から羽織った。

 白い教会の門は、先ほど通り過ぎたところだった。中に入り、きょろきょろと見回した。熱心な信者なら教会で祈ってからメダイを買いに行くのだろうが、ケイトはそれを省略して売店に直行した。ボン・マルシェでの買い物にはあれほど時間をかけたのに、しかも、この後にスケジュールが詰まっているわけでもないのに、ひどい態度だ。敬虔なカトリックだった亡き祖母が知ったら、さぞ憤慨したことだろう。

 メダイはどこにありますかと訊く必要もなかった。壁際にたくさんぶら下がっていて、人びとが次々と買い求めていた。ケイトは近づいて見て驚いだ。一つ一つを結構な値段で売っているのかと思ったのだが、多いものは50個ほどがビニール袋にどさっと入っている。それでいて15ユーロほどの値段だから、ほぼ材料費だろう。最もいいものも一つ六ユーロなので、商売として売っているのではないようだ。

 ふーん。よくわからないけれど、とにかく買って帰ろう。

 トレイシーが身につけるように、一番高い一つ入りのものを一つ、それから彼女が他の人にプレゼントできるように大入袋を一つ買った。それに、信じていないのにどうかと思うが、試しに十個入りのものを自分用に買った。これはトレイシーから預かった金額ではなく、自分のお財布から出したつもりで。

 
* * *

 
 こんな踏んだり蹴ったりの旅は生まれて初めて。ケイトは心底腹を立ててシャルルドゴール空港のベンチにうずくまった。ケチがつき始めたのは、ボン・マルシェに行った水曜日からだ。

 ホテルに戻るとフロントの感じの悪い男に「さっさとチェックアウトしろ」と言われた。金曜日まで六泊する予約だから今日チェックアウトするはずはないと答えると、予約は三泊だけで昨夜までだという。

 そんなはずがあるかと予約確認書を見たら、どういうわけか本当に三泊分だけだった。慌ててインターネットで探してなんとか残りの三泊分の宿を確保したが、少し郊外で足の便が悪かった。そのせいで帰りの空港行きバスに乗り遅れた。

 次のバスで空港に向かうと、飛行機には乗れないという。まだチェックインは締め切っていないのになぜと問いただすと、ダブルブッキングでもう席がないという。次の便に代わりの席を用意してくれるというが、それでは乗り継ぎ便に間に合わなくなり、最終的には八時間も遅れることになった。

「はあ。本当に腹がたつ。こっちで八時間遅れるなら、まだパリ観光ができるのに」
ケイトは、使い切ろうと買い物をしてしまったために残り少ないユーロで、バゲットサンドイッチとオレンジジュースを買い、ゲート前のベンチで食べた。

 財布の中は、わずかなコインと、水曜日に買って財布に突っ込んだ『奇跡を起こすメダイ』だけが虚しい音を立てていた。
「そういえば、これを買いに行ったっけ。奇跡が起こるって言われたけれど、反対じゃない。礼拝堂に行かずにこれだけ買いに行ったのがいけなかったのかしら」
サンドイッチをかじりながら、ケイトはメダイをながめて首をかしげた。

「失礼。この席は空いていますか」
その声に振り向くと、スーツを着た小柄な男が立っていた。周りを見回すと、確かにもう空いているベンチはほとんどなく、ケイトは隣の席に置いていた彼女の手荷物を足ものとに置き直して「どうぞ」と言った。

 男は「ありがとう」と言って腰かけた。それからケイトの手元のメダイを見て話しかけた。
「カトリックですか」

「え。いいえ。母方の祖母はカトリックでしたが、私はプロテスタントで洗礼を受けています。もっとも、大人になってからは冠婚葬祭以外では一度も教会に行っていないかも。これは、友人に頼まれて買いに行ったついでに、つい自分用に買ってしまっただけ」
「どこで?」
「『奇跡のメダイのノートルダム教会』よ。他にもあるの?」

 男は身を乗り出してきた。
「ええ。同じデザインのものはあちこちの教会で売っています。けれど、いわゆる『奇跡を起こすメダイ』は、その教会で買ったものだけなんです。通信販売などはなく、しかもプレゼントは構わないが転売は禁止されていて、インターネットなどで売っているものでは奇跡は期待できないんです。では、あなたは本物を買われたんですね。羨ましい」

「あなたはカトリック? これを買いそびれたの?」
そうケイトが訊くと、男は頷いた。
「ええ。こちらにはビジネスで来て、昨日、やっと時間が空いたので買いに行ったんですが、教会が見つからなくて探している間に売店が閉まってしまったんですよ。闘病している母に頼まれたんですが、買えなくて残念です」

 ケイトは、それを聞くとカバンからビニール袋を取り出した。十個もいらないと思っていたところだったから。中から五個とりだすと、男に渡した。「どうぞ」

「え。そんなつもりではなかったんですが、本当にいいんですか? お支払いしますが、おいくらでしょうか」
「転売すると効果がなくなるんでしょう? 大した値段じゃなかったし、プレゼントするわ。お母さん、早く治るといいわね」

 男は、「ありがとう」と言って頭を下げた。
「お礼にご馳走させていただけませんか。目的地はニューヨークですか? それともどこかへ乗り継ぎですか?」

「ロサンゼルスまで行かなくちゃいけないの。実は、前の便にオーバーブッキングで乗れなくて、ニューヨークで四時間も待たなくちゃいけないの」

「でしたら、空港の近くのおいしいレストランにご案内しましょう。空港内よりもおいしいものが食べられますし」
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて遠慮なく」

「僕は、ブライアン・スミスと言います」
「私は、ケイト・アンダーソンよ。よろしく」

 搭乗の案内が始まった。ファーストクラスとビジネスクラスから先にと言われ、ケイトはブライアンが立ち上がったのを座ったまま見送った。
「エコノミーなんですか?」
「ええ」

「ちょっと待ってください」
ブライアンは、カウンターに行くと何かを係員と話してからケイトに来るように合図した。なんだろう?

 ケイトがカウンターに行くと、係員が彼女の搭乗券の提示を求めた。
「こちらのスミスさまのマイレージで、ビジネスクラスにアップグレードをいたしますね」
「え? そんな、悪いです」
「いいんですよ。どっちにしても、マイレージは使い切れないんですから」

 係員の計らいで、ブライアンの隣の席にしてもらい、ニューヨークまでのフライトで彼とずっと話すことになった。話は面白いし、感じのいい人だ。

 話しているうちに、彼は健康食品の販売で有名な会社の重役であることがわかった。ふ~ん。道理でマイレージを捨てちゃってもなんでもないわけだ。ケイトはちらりと彼の上質なスーツを眺めた。若いのにすごいなあ。エリートってやつかあ。パリに遊びに行くのに五年も旅費を貯めなくてはならないケイトとは、随分と違う世界に住んでいる。

「ロサンゼルス市内にお住まいなんですか? 実は、今度の土曜日にロスの母の家に行く予定なんですよ。もしお時間があったら一緒にいかがですか。メダイを譲ってくれたご本人に母は会いたがるはずですから」
ブライアンはニコニコと笑いかけた。

 ええっ。これっきり二度と会わないはずだと思っていたけれど、この人そうじゃないの? いやいや、失礼な想像をしちゃダメよね。こんなにお金持ちで有能そうで性格も良さげな人は、放っておいても女性が群がるだろうし。まあ、ものすごくかっこいいってわけじゃないけれど……。

「ええと。その日は、私もトレイシーに会ってメダイを渡す予定なんです。彼女は今月いっぱいUCLAのリハビリ科にいて、そこなら我が家からそんなに遠くないし、それに彼女はこれを待っていると思うので……」

 その後でもいいなら、という前にブライアンは身を乗り出してきた。
「UCLAメディカル・センター? トレイシーさんはそこに入院しているんですね。なんて奇遇なんだろう」

 あ。トレイシーのお見舞いにも行くのね。ま、そうだろうなぁ。それじゃ、きっと彼女に夢中になるな。男性は、みんなトレイシーみたいな美人が好きだし、ましてや入院中の儚い感じは破壊力抜群だもん。よけいな期待しないでよかった。うんうん。

 ケイトは、変に安心して、自分の幸運の取り分を大いに楽しむことにした。すなわち、このビジネスクラスのフライトと、ニューヨークのレストランでの豪勢なランチだ。五個全て足しても五ユーロに満たないメダルと引き換えのラッキーとしては、奇跡とまではいかないけれど十分お釣りがくるだろう。ホテルを追い出されたことやフライトの遅れを差し引いても。

 ブライアンが連れて行ってくれたのは、予想に反して高価そうに見えないイタリア・レストランだったが、何もかも信じられないくらいおいしかった。食事がまずいことで有名な空港界隈にこんなにおいしいレストランがあるなんて。さほど値もはりそうになかったので、ケイトは安心して食べたいものをオーダーした。おいしいワインに、もちろん終わりのドルチェまで。もっともその食事で一番よかったのは、ブライアンとの楽しくて興味深い会話だった。

* * *


「ケイト! 奇跡をありがとう」
土曜日に、約束通りにメディカル・センターへ行くと、トレイシーが待ち構えていた。

「トレイシー。私があれをちゃんと買えたって、どうしてわかるのよ」
ケイトは笑いながら、『奇跡を起こすメダイ』を鞄から取り出してトレイシーの透き通るように白い手のひらに置いた。

「だって、スミスさんが全部話してくれたもの。そしてね。私たち、おかげで婚約したの!」
トレイシーの発言に、ケイトはずっこけた。いくらなんでも展開が早すぎる。

「え? も、もう?」
「ふふ。私たち、ずっとお互いにいいなって思っていたのよ。でも、ケイトの冒険のおかげで、月曜日からずっと個人的に話をすることになって……」

 えっ、月曜日? ケイトは首を傾げた。
「ミスター・スミスったら、そんなにすぐにここに来たの?」

 トレイシーは、きょとんとしてから、笑い出した。
「ごめんなさい。説明不足だったわね。私の言っているのは、あなたが出会ったブライアン・スミスさんの弟のダニーのことよ。ここで療法士をしているの。そもそも、あの『奇跡を起こすメダイ』のことを教えてくれたのもダニーなの。あなたとお兄さんがパリで知り合って、しかもメダイを譲ってもらったと聞いて、翌日に興奮して話に来たのよ。それがきっかけで、私たち、お互いにいいなと思っていたことがわかって」

 ケイトは、なるほど、と思った。婚約したのは弟さんか。ケイトはうっとりするトレイシーのますます綺麗な横顔を眺めた。
「今週に入ってから、私の回復のめざましさに、先生たちも驚いているわよ。やはり『奇跡を起こすメダイ』なのね。ケイト、本当にありがとう」
いや、それはメダイのおかげというか、愛の力なんじゃ……。そういう無粋なことは、この際言わないほうがいいのかな。

「で。ミスター・ブライアン・スミスは、お見舞いに来たの?」
「いいえ。でも、昨日ダニーがあなたの来る時間を訊いてきたの。きっとブライアンはもうじき来るでしょうね。あなたにしては、妙に首尾よく彼を夢中にさせちゃったのね、ケイト」

 ええっ? なんの冗談?
「それはないと思うわよ。もう二度と会わないと思って、ガサツに食べて飲んじゃったし」

 トレイシーはウィンクをした。
「ダニーによると、彼はあなたのことを周りに全然いなかったナチュラルなタイプで、とても氣になるって言っていたんですって。そもそもあなた、新しい出会いなんて全然ないってこぼしていたじゃない。これもメダイの奇跡かもしれないわよ」

 あんなに真面目に祈っている人たちの信じているメダルで起こる奇跡が、こんなどうでもいいことのわけないじゃない! まあ、でもラッキーというのはどんな形でもうれしいけれど。

 病室の外でコツコツと靴音が近づいてきた。ノックの音が聞こえて、ケイトは、真っ赤になった。


(初出:2017年6月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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この小説で扱っている『奇跡を起こすメダイ』はこういうメダルです。(画像はWikimedia Commonsより)

Miraculous medal
By Xhienne (Own work) [GFDL, CC-BY-SA-3.0 or CC BY-SA 2.5-2.0-1.0], via Wikimedia Commons
Medal of the Immaculate Conception (aka Miraculous Medal), a medal created by Saint Catherine Labouré in response to a request from the Blessed Virgin Mary who allegedly appeared rue du Bac, Paris, in 1830. The message on the recto reads: "O Mary, conceived without sin, pray for us who have recourse to thee — 1830".
関連記事 (Category: 短編小説集・十二ヶ月のアクセサリー)
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Category : 短編小説集・十二ヶ月のアクセサリー
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】それもまた奇跡

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

今週は「十二ヶ月のアクセサリー」六月分を発表します。六月のテーマは「メダイ」です。「なんだそれ」と思われる方もあるかと思います。カトリックで使われるお守りのようなメダルのことです。

宗教的なもの、とくに「奇跡を起こすメダル」の話をするとアレルギー反応を示される方もあります。特に私がカトリックを公言しているので警戒なさる方もあるかもしれませんが、今回の話はとくに信仰心や奇跡とは関係のない話ですのでご安心ください。むしろどちらかというと「塞翁が馬」的なストーリーですね。

全く必要のない情報ですが、出てくる男性が勤めている「健康食品の会社」の社長は「郷愁の丘」のヒロインの兄、マッテオ・ダンジェロだという設定です。でも、この作品には出てきませんし、これはただの読み切りです(笑)


短編小説集「十二ヶ月のアクセサリー」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月のアクセサリー」をまとめて読む



それもまた奇跡

 ケイトは、行ったばかりのデパート、ボン・マルシェの方に戻った。その近くにある『奇跡のメダイのノートルダム教会』に寄ってくるように、トレイシーに懇願されていたことを思い出したのだ。

 彼女自身はカトリックではなく真面目なキリスト教徒とはお世辞にも言えなかったし、聖母出現だの、奇跡を起こすメダルなどというものはナンセンスだと思っていたが、それを信じて待っている人間のために、デパートの帰り道に寄るくらいのことを断るほど偏狭ではなかった。でも、くだらないと思っていたせいか、もう少しで忘れるところだった。

「何それ?」
パリに行くと話した時に、トレイシーがおずおずと口にした願いを耳にしたケイトは、何を買ってくればいいのか全く理解できなかったので問い直した。

「奇跡を起こすメダルよ。楕円形でね。表に聖母マリア像と『原罪無くして宿り給いし聖マリア、御身に寄り頼み奉るわれらのために祈り給え』って意味のフランス語が、裏には十字架とM、それにジーザスと聖母マリアの心臓が打出されているの。パリの教会で買う事ができるの」

「一つの教会でしか買えないの?」
「他のカトリックの教会で置いているところもあるかもしれないけれど、似ていて違うものとあなたは見分けがつかないでしょう? 道端で売っているものや、通販などだと偽物がほとんどよ。そもそも転売は禁止されているの。だから、本家の教会で買って来てほしいの」

 トレイシーは、現在入院中でパリに自ら行くことはできない。奇跡が必要なほどの重病でもないので、わざわざ家族が行くこともない。要するに親友が行くついでに欲しいと言ってみたのだろう。ケイトは、「わかったわ」と頷いた。

「ところで、その教会にそのメダイとやらは一種類しかないの?」
「いいえ。銀色だったり、ブルーだったり、いろいろとあるみたいだけれど、その教会で売っていればどれも本物だわ。このお金で買えるものを買ってきて。おつりはあなたにあげるから、好きなものを買ってね」

 彼女の手渡してくれたドル紙幣は、とっくにユーロに両替した。これで買って行かなかったら詐欺になってしまう。六月の日差しは刺すように強い。今日はとても暑い。何も考えずにタンクトップできてしまったけれど、その教会にこの格好で入れるかなあ。ケイトは先ほど暑くてしまったスカーフをカバンから取り出して、申しわけ程度に肩から羽織った。

 白い教会の門は、先ほど通り過ぎたところだった。中に入り、きょろきょろと見回した。熱心な信者なら教会で祈ってからメダイを買いに行くのだろうが、ケイトはそれを省略して売店に直行した。ボン・マルシェでの買い物にはあれほど時間をかけたのに、しかも、この後にスケジュールが詰まっているわけでもないのに、ひどい態度だ。敬虔なカトリックだった亡き祖母が知ったら、さぞ憤慨したことだろう。

 メダイはどこにありますかと訊く必要もなかった。壁際にたくさんぶら下がっていて、人びとが次々と買い求めていた。ケイトは近づいて見て驚いだ。一つ一つを結構な値段で売っているのかと思ったのだが、多いものは50個ほどがビニール袋にどさっと入っている。それでいて15ユーロほどの値段だから、ほぼ材料費だろう。最もいいものも一つ六ユーロなので、商売として売っているのではないようだ。

 ふーん。よくわからないけれど、とにかく買って帰ろう。

 トレイシーが身につけるように、一番高い一つ入りのものを一つ、それから彼女が他の人にプレゼントできるように大入袋を一つ買った。それに、信じていないのにどうかと思うが、試しに十個入りのものを自分用に買った。これはトレイシーから預かった金額ではなく、自分のお財布から出したつもりで。

 
* * *

 
 こんな踏んだり蹴ったりの旅は生まれて初めて。ケイトは心底腹を立ててシャルルドゴール空港のベンチにうずくまった。ケチがつき始めたのは、ボン・マルシェに行った水曜日からだ。

 ホテルに戻るとフロントの感じの悪い男に「さっさとチェックアウトしろ」と言われた。金曜日まで六泊する予約だから今日チェックアウトするはずはないと答えると、予約は三泊だけで昨夜までだという。

 そんなはずがあるかと予約確認書を見たら、どういうわけか本当に三泊分だけだった。慌ててインターネットで探してなんとか残りの三泊分の宿を確保したが、少し郊外で足の便が悪かった。そのせいで帰りの空港行きバスに乗り遅れた。

 次のバスで空港に向かうと、飛行機には乗れないという。まだチェックインは締め切っていないのになぜと問いただすと、ダブルブッキングでもう席がないという。次の便に代わりの席を用意してくれるというが、それでは乗り継ぎ便に間に合わなくなり、最終的には八時間も遅れることになった。

「はあ。本当に腹がたつ。こっちで八時間遅れるなら、まだパリ観光ができるのに」
ケイトは、使い切ろうと買い物をしてしまったために残り少ないユーロで、バゲットサンドイッチとオレンジジュースを買い、ゲート前のベンチで食べた。

 財布の中は、わずかなコインと、水曜日に買って財布に突っ込んだ『奇跡を起こすメダイ』だけが虚しい音を立てていた。
「そういえば、これを買いに行ったっけ。奇跡が起こるって言われたけれど、反対じゃない。礼拝堂に行かずにこれだけ買いに行ったのがいけなかったのかしら」
サンドイッチをかじりながら、ケイトはメダイをながめて首をかしげた。

「失礼。この席は空いていますか」
その声に振り向くと、スーツを着た小柄な男が立っていた。周りを見回すと、確かにもう空いているベンチはほとんどなく、ケイトは隣の席に置いていた彼女の手荷物を足ものとに置き直して「どうぞ」と言った。

 男は「ありがとう」と言って腰かけた。それからケイトの手元のメダイを見て話しかけた。
「カトリックですか」

「え。いいえ。母方の祖母はカトリックでしたが、私はプロテスタントで洗礼を受けています。もっとも、大人になってからは冠婚葬祭以外では一度も教会に行っていないかも。これは、友人に頼まれて買いに行ったついでに、つい自分用に買ってしまっただけ」
「どこで?」
「『奇跡のメダイのノートルダム教会』よ。他にもあるの?」

 男は身を乗り出してきた。
「ええ。同じデザインのものはあちこちの教会で売っています。けれど、いわゆる『奇跡を起こすメダイ』は、その教会で買ったものだけなんです。通信販売などはなく、しかもプレゼントは構わないが転売は禁止されていて、インターネットなどで売っているものでは奇跡は期待できないんです。では、あなたは本物を買われたんですね。羨ましい」

「あなたはカトリック? これを買いそびれたの?」
そうケイトが訊くと、男は頷いた。
「ええ。こちらにはビジネスで来て、昨日、やっと時間が空いたので買いに行ったんですが、教会が見つからなくて探している間に売店が閉まってしまったんですよ。闘病している母に頼まれたんですが、買えなくて残念です」

 ケイトは、それを聞くとカバンからビニール袋を取り出した。十個もいらないと思っていたところだったから。中から五個とりだすと、男に渡した。「どうぞ」

「え。そんなつもりではなかったんですが、本当にいいんですか? お支払いしますが、おいくらでしょうか」
「転売すると効果がなくなるんでしょう? 大した値段じゃなかったし、プレゼントするわ。お母さん、早く治るといいわね」

 男は、「ありがとう」と言って頭を下げた。
「お礼にご馳走させていただけませんか。目的地はニューヨークですか? それともどこかへ乗り継ぎですか?」

「ロサンゼルスまで行かなくちゃいけないの。実は、前の便にオーバーブッキングで乗れなくて、ニューヨークで四時間も待たなくちゃいけないの」

「でしたら、空港の近くのおいしいレストランにご案内しましょう。空港内よりもおいしいものが食べられますし」
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて遠慮なく」

「僕は、ブライアン・スミスと言います」
「私は、ケイト・アンダーソンよ。よろしく」

 搭乗の案内が始まった。ファーストクラスとビジネスクラスから先にと言われ、ケイトはブライアンが立ち上がったのを座ったまま見送った。
「エコノミーなんですか?」
「ええ」

「ちょっと待ってください」
ブライアンは、カウンターに行くと何かを係員と話してからケイトに来るように合図した。なんだろう?

 ケイトがカウンターに行くと、係員が彼女の搭乗券の提示を求めた。
「こちらのスミスさまのマイレージで、ビジネスクラスにアップグレードをいたしますね」
「え? そんな、悪いです」
「いいんですよ。どっちにしても、マイレージは使い切れないんですから」

 係員の計らいで、ブライアンの隣の席にしてもらい、ニューヨークまでのフライトで彼とずっと話すことになった。話は面白いし、感じのいい人だ。

 話しているうちに、彼は健康食品の販売で有名な会社の重役であることがわかった。ふ~ん。道理でマイレージを捨てちゃってもなんでもないわけだ。ケイトはちらりと彼の上質なスーツを眺めた。若いのにすごいなあ。エリートってやつかあ。パリに遊びに行くのに五年も旅費を貯めなくてはならないケイトとは、随分と違う世界に住んでいる。

「ロサンゼルス市内にお住まいなんですか? 実は、今度の土曜日にロスの母の家に行く予定なんですよ。もしお時間があったら一緒にいかがですか。メダイを譲ってくれたご本人に母は会いたがるはずですから」
ブライアンはニコニコと笑いかけた。

 ええっ。これっきり二度と会わないはずだと思っていたけれど、この人そうじゃないの? いやいや、失礼な想像をしちゃダメよね。こんなにお金持ちで有能そうで性格も良さげな人は、放っておいても女性が群がるだろうし。まあ、ものすごくかっこいいってわけじゃないけれど……。

「ええと。その日は、私もトレイシーに会ってメダイを渡す予定なんです。彼女は今月いっぱいUCLAのリハビリ科にいて、そこなら我が家からそんなに遠くないし、それに彼女はこれを待っていると思うので……」

 その後でもいいなら、という前にブライアンは身を乗り出してきた。
「UCLAメディカル・センター? トレイシーさんはそこに入院しているんですね。なんて奇遇なんだろう」

 あ。トレイシーのお見舞いにも行くのね。ま、そうだろうなぁ。それじゃ、きっと彼女に夢中になるな。男性は、みんなトレイシーみたいな美人が好きだし、ましてや入院中の儚い感じは破壊力抜群だもん。よけいな期待しないでよかった。うんうん。

 ケイトは、変に安心して、自分の幸運の取り分を大いに楽しむことにした。すなわち、このビジネスクラスのフライトと、ニューヨークのレストランでの豪勢なランチだ。五個全て足しても五ユーロに満たないメダルと引き換えのラッキーとしては、奇跡とまではいかないけれど十分お釣りがくるだろう。ホテルを追い出されたことやフライトの遅れを差し引いても。

 ブライアンが連れて行ってくれたのは、予想に反して高価そうに見えないイタリア・レストランだったが、何もかも信じられないくらいおいしかった。食事がまずいことで有名な空港界隈にこんなにおいしいレストランがあるなんて。さほど値もはりそうになかったので、ケイトは安心して食べたいものをオーダーした。おいしいワインに、もちろん終わりのドルチェまで。もっともその食事で一番よかったのは、ブライアンとの楽しくて興味深い会話だった。

* * *


「ケイト! 奇跡をありがとう」
土曜日に、約束通りにメディカル・センターへ行くと、トレイシーが待ち構えていた。

「トレイシー。私があれをちゃんと買えたって、どうしてわかるのよ」
ケイトは笑いながら、『奇跡を起こすメダイ』を鞄から取り出してトレイシーの透き通るように白い手のひらに置いた。

「だって、スミスさんが全部話してくれたもの。そしてね。私たち、おかげで婚約したの!」
トレイシーの発言に、ケイトはずっこけた。いくらなんでも展開が早すぎる。

「え? も、もう?」
「ふふ。私たち、ずっとお互いにいいなって思っていたのよ。でも、ケイトの冒険のおかげで、月曜日からずっと個人的に話をすることになって……」

 えっ、月曜日? ケイトは首を傾げた。
「ミスター・スミスったら、そんなにすぐにここに来たの?」

 トレイシーは、きょとんとしてから、笑い出した。
「ごめんなさい。説明不足だったわね。私の言っているのは、あなたが出会ったブライアン・スミスさんの弟のダニーのことよ。ここで療法士をしているの。そもそも、あの『奇跡を起こすメダイ』のことを教えてくれたのもダニーなの。あなたとお兄さんがバリで知り合って、しかもメダイを譲ってもらったと聞いて、翌日に興奮して話に来たのよ。それがきっかけで、私たち、お互いにいいなと思っていたことがわかって」

 ケイトは、なるほど、と思った。婚約したのは弟さんか。ケイトはうっとりするトレイシーのますます綺麗な横顔を眺めた。
「今週に入ってから、私の回復のめざましさに、先生たちも驚いているわよ。やはり『奇跡を起こすメダイ』なのね。ケイト、本当にありがとう」
いや、それはメダイのおかげというか、愛の力なんじゃ……。そういう無粋なことは、この際言わないほうがいいのかな。

「で。ミスター・ブライアン・スミスは、お見舞いに来たの?」
「いいえ。でも、昨日ダニーがあなたの来る時間を訊いてきたの。きっとブライアンはもうじき来るでしょうね。あなたにしては、妙に首尾よく彼を夢中にさせちゃったのね、ケイト」

 ええっ? なんの冗談?
「それはないと思うわよ。もう二度と会わないと思って、ガサツに食べて飲んじゃったし」

 トレイシーはウィンクをした。
「ダニーによると、彼はあなたのことを周りに全然いなかったナチュラルなタイプで、とても氣になるって言っていたんですって。そもそもあなた、新しい出会いなんて全然ないってこぼしていたじゃない。これもメダイの奇跡かもしれないわよ」

 あんなに真面目に祈っている人たちの信じているメダルで起こる奇跡が、こんなどうでもいいことのわけないじゃない! まあ、でもラッキーというのはどんな形でもうれしいけれど。

 病室の外でコツコツと靴音が近づいてきた。ノックの音が聞こえて、ケイトは、真っ赤になった。


(初出:2017年6月 書き下ろし)

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この小説で扱っている『奇跡を起こすメダイ』はこういうメダルです。(画像はWikimedia Commonsより)

Miraculous medal
By Xhienne (Own work) [GFDL, CC-BY-SA-3.0 or CC BY-SA 2.5-2.0-1.0], via Wikimedia Commons
Medal of the Immaculate Conception (aka Miraculous Medal), a medal created by Saint Catherine Labouré in response to a request from the Blessed Virgin Mary who allegedly appeared rue du Bac, Paris, in 1830. The message on the recto reads: "O Mary, conceived without sin, pray for us who have recourse to thee — 1830".
関連記事 (Category: 小説・NYの異邦人たち 外伝)
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Category : 小説・NYの異邦人たち 外伝

Posted by 八少女 夕

ピアチェンツァ、食の魅力

って、新作短編じゃありません。今日は、先日の休暇で出会った美味しい話。

イタリアはどこに行ってもそれぞれ自慢料理のあるところです。そして、世界が認める美味しさ。レストランの「あたり度」はスイスの比ではありません。スイスにも美味しいものはありますが、較べる相手が悪い(笑)食にかける情熱の違いは歴然です。

そして、私と連れ合いが今回廻ったピエモンテ州とエミリア=ロマーニャ州は、そのイタリアの中でもグルメの中のグルメがそろっているところです。ワイン、米、パスタ、チーズ、きのこ、狩猟肉などなど。

イタリア料理を語るときに決して外せないパルミジアーノ・レッジャーノチーズは、パルマやレッジョ・エミーリア産、世界三大ハムの一つプロシュット・ディ・パルマもパルマ産でその名前を戴いています。旅をしているときにずっと通っていたブドウ畑では、Colli Piacentini Gutturnio (赤)やColli Piacentini Ortrugo(白)などの素晴らしいワインが作られています。

これらを食べて飲まなくてどうします!

今回の旅ではいくつかのラッキーがあったのですが、そのうちの一つ。ボッビオの近くで見つけたB&B。実際の経営者が旅行中だったために、その息子さんが代わりにもてなして下さったのですが、これが僥倖以外の何物でもなかったのです。

ちなみに、ボッビオは、県都ピアチェンツァの南西にある小さな中世の街で、莫大な蔵書のある図書館があったことで有名で、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』のモデルにもなりました。なんですが、車でないと行けないせいか、日本人観光客にはまだ会ったことがない街です。B&Bはそこからさらに5キロくらい離れた、村というよりは集落というような場所にあります。GPSなしではたどり着けないような場所です。州はエミリア=ロマーニャで、県がピアチェンツア、そしてそれぞれの市町村の名前があるわけですが、これ以上細かく書いてもわからないと思うので、これまで。

さて、B&Bで我々の到着を待っていてくれたサンドロさんは、普段はボッビオでバーを経営している40歳のかっこいい兄ちゃん。(なぜか日本の「タトゥー」に憧れて横浜に何ヶ月か滞在して本物の彫物師に刺青を入れてもらったそうです。遠山の金さんもびっくりのすごい刺青で、見せてもらった時はギョッとしました)

で、あっというまに連れ合いと意氣投合して、自宅から持ち出してきたビールを二人で飲みまくりました。話題は文化のことから、政治までいろいろです。そして、晩ごはんを食べようにも、田舎の山の上で、連れ合いがだらだら飲み出しちゃったから、もうどこにもいけないな、こりゃ晩ごはん抜きかと思っていたら、歩いて十分くらいのところにピッツェリアがあるというのです。それにしてもすごい山だしどうしようかとごちょごちょ相談していたら、サンドロが「なんなら今から車で一緒に行く?」というので大喜びで連れていってもらいました。

で、ピッツァを頼むのかと思ったら、「この店に来たら、ピッツァよりもオススメがある」と教えてくれたのが生パスタです。手作り生パスタというのは製造にものすごく時間がかかるので、ピアチェンツァ界隈ではもう五人ほどしかできる人がいないのだとか。その一人、九十歳のおばあちゃんが作っている生パスタです。

生マッケローニの一皿

これがその生マッケローニとポルチーニ茸の一皿。もうね。アルデンテというのはこういうことなのね、というか今まで食べていたパスタは一体なんなの、という美味しさです。例えて言うなら冷凍の伸びきったうどんしか食べたことがなかった人が、はじめて本場の讃岐うどんを口にした時のような衝撃。しっかりとコシがあるのに、固くはなくて、もちっとしていて美味しい。余分な味付けは何もしていないだけに、素材の美味しさがぐぐっとひきたっていました。

前菜詰め合わせ

その前に、サンドロがパパッとオーダーしてくれたのが、この前菜取り合わせ。二種類のチーズスフレに、プロシュット・ディ・パルマ、コッパ、サラメッティ、プロシュット・クラテッロ。塩けが絶妙で本当に美味しいんです。

白ワインはOrtrugoというやはりピアチェンツアの二種類のワインを合わせて作ったもので、とても飲みやすいクセのないワインです。私が飲んだ白ワインの中で、おそらく上から五位以内に入る美味しさ。この組み合わせを、ボッビオへ向かう緑豊かな谷間を見ながら戸外で食べるのです。小さな村なのにレストランは満杯。近くの人たちが皆通ってきているわけです。

チョコレートムース

食後のデザートは、やはり手作りのチョコレートムース。こうなってくるとカロリーはとんでもないことになっていますが、構うものですか。こんなに美味しい体験は生涯にそうそうありませんし。

私たちだけでは絶対に味わえなかった、最高のディナー。こうした幸運も、見ず知らずの人と楽しくペラペラ喋る連れ合いのおかげでしょう。実は、このサンドロ、イタリア語しか喋らないのです。私も彼の話していることは八割がたはわかりますが、さすがに自分の言いたいことを全て表現するにはイタリア語の能力に限界があります。どうしても伝わらない分、連れ合いが通訳してくれているわけですが、「私はイタリア語わかんない」と拗ねていたらこういうラッキーにはありつけないなと思うのです。

もう何年も前になりますが、一念発起してしばらくイタリア語を独学しておいて本当に良かったと思いました。

ちなみに、サンドロ、なんどこっちが奢ると言っても、俺が招待するといってきかず。結局ご馳走になってしまいました。B&B70ユーロ、払ってもらった晩ごはんのお会計55ユーロ。翌日ワインはもらうは、連れ合いはビールを飲みまくるわ、それ大赤字じゃない……。一応、普通じゃありえない高額のチップは置いてきましたが、少し涼しくなったら高級スイスチョコでも送ろうかなと思っています。
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Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -10- マンハッタン

WEB月刊誌「Stella」参加作品「バッカスからの招待状」です。東京・大手町にある隠れ家のようなバー『Bacchus』。バーテンダー兼店主の田中佑二が迎える客たちのなんて事はない話をほぼ読み切りのような形でお届けしてます。

今回は、いつもと違って田中本人の過去に関わるストーリーになっています。前半の客・中野の視点と後半の常連・夏木の視点からは、どういう過去かはわからないようになっていますが、中野がマミと呼んでいる女性(本名・伊藤紀代子)と田中の過去について詳細を知りたい方は、「いつかは寄ってね」という掌編を覗いてみてください。


月刊・Stella ステルラ 6、7月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「バッカスからの招待状」をはじめから読む「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む
「いつかは寄ってね」をはじめから読む「いつかは寄ってね」をはじめからまとめて読む




バッカスからの招待状 -10- 
マンハッタン


「東京に行くなら、寄ってほしいところがあるの」
彼女はそう言った。

 理由を訊いても答えてくれないのはいつもと同じだ。彼女の秘密主義には慣れていた。出会ってから十七年、一緒に暮らして九年経つが、それは変わらない。

 中野は背筋を伸ばして歩いた。大手町のビル街。五年ぶりに訪れた日本だったが、少なくともアメリカに移住した十八年前以降、大手町に来た記憶はないので、おそらく二十年以上はこの界隈には足を踏み入れていないだろう。東京駅の様相がずいぶんと変わってしまったのにも驚いた。

 こんなに様変わりした街なら、彼女が言っていたバーはもうないかもしれないと思っていた。だが、少なくともそのビルは建て替えたりしていないらしく、その地下にバーがあるかどうかははっきりしないが、とにかく中に入ってみた。そして、言われていなければ見落とすほどの小さな紫のサインをみつけた。白い小さな文字が浮かび上がっている。『Bacchus』と。

 さて。まだなくなっていなかったら、入って酒を飲んで来いとだけ言われたが、一体どんな店なのだろう。

* * *


 入口が開いた。入ってきた客と、ちょうど目の合った夏木は、おや、と思った。中年のきちんとした紳士だが、佇まいにどことなく違和感がある。顔はアジア人だが、外国人だろうか。

 店主でありバーテンダーでもある田中がいつものように穏やかに迎えた。
「いらっしゃいませ。カウンターと奥のお席、どちらがよろしいですか」

 田中が名前を呼ばないという事は、一見の客なのだろう。珍しい。この店は、なかなか見つけにくい場所にあり、新しい客の大半は、常連が連れてきて紹介するのだ。必然とほとんどの客の名前を一人で店を切り盛りしている田中が憶える事になる。夏木のように入り浸っていると、やはり、ほとんどの常連の名前を知る事になってしまう。

「一人ですから、カウンターでお願いします」
その日本語は、ごく普通のものだったので、夏木は外国人ではなかったのかと思った。なにが日本人と違うと思ったのかと考えると、姿勢と歩き方だった。

 おしぼりを受け取ると、その客は「ありがとう」とはっきりと口にした。その動作、答え方もどことなく慣れているものと違う。外国暮らしが長いのかもしれない。

 その客は、店を見回し、それから田中に訊いた。
「この店、随分昔からあるんですか」

「はい。来年、開業二十五周年を迎える予定です。途中で数回、手を入れましたが、基本的にはほとんど変わっていません。どなたからかご紹介でしょうか」

 彼は頷いた。
「パートナーが、東京に行くならこの店に行けと。彼女も少なくとも十七年は日本を離れているので、店がまだあるかどうかわからないと言っていました。変わらずにあったよと伝える事ができますね」

「外国にお住まいですか」
「ええ。ニューヨークに住んでいます」

 夏木は、田中の表情が一瞬強張ったのを見た。彼は、しかし、すぐにまた手を動かして、メニューを男に渡した。
「……その頃の女性のお客様で、アメリカですか。メニューをどうぞ。なにをお飲みになりますか」

 おや。紹介者のこと、これ以上、訊かないんだろうか。夏木は首を傾げた。

 男はメニューを広げて、各種の酒やカクテルが並んでいるのを見た。それから、顔を上げて自分を見ている夏木と目を合わせた。そして、笑って訊いた。
「ここでは、なにかお奨めはありますか?」

 夏木は肩をすくめた。彼は、アルコールを受け付けない体質で、酒は飲めないからだ。
「ここ、ワインやウイスキーなども揃ってますが、田中さんの作るカクテルは評判いいですよ。僕はお酒は弱いので、いつもノンアルコール・カクテルを作ってもらっています」

 男は頷くと、「じゃあ、僕もカクテルを」と言ってそのページを開いた。
「ああ、『カクテルの女王』があるぞ。僕の住んでいる街に因んで、これをお願いします」

 田中は頷いた。
「マンハッタンですね。かしこまりました。ライ・ウィスキー、カナディアン・ウイスキーのどちらになさいますか。バーボンや他のウイスキーでもできますが」

 彼は少し考えてから言った。
「バーボンで作っていただけませんか。そう言えば、彼女はいつもそうやって飲んでいたので」

 田中は、「そうですか」と小さく言うと、「かしこまりました」と言って後の棚からフォア・ローゼスを手にとった。他にもバーボンはあり、こういう状況では必ず確認する田中がその瓶を手にした事を夏木は彼らしくないなと思った。

「バーボンを使うなら、『バーボン・マンハッタン』と言わなくてはならないと言う方もあるそうですね。実を言うと、僕にはそこまで味の違いはわからないんですよ。彼女はいつも、そのフォア・ローゼスで作ってほしいとバーテンダーに頼んでいますね。もしかして、この店で憶えたのかな」

 田中は、何も言わずに、バーボン、ノイリー・プラット スイート、アンゴスチュラ・ビターズ をミキシング・グラスに入れてかき混ぜた。カクテル・グラスに注いで、マラスキーノ・チェリーを飾った。

 それから、いつものように丁寧な手つきで、男の前に置いた。
「どうぞ」

「さすがですね。彼女はいつもノイリー・プラットにしろと注文して、時おり誇り高いバーテンダーともめているんです。これはあなたのオリジナルなんですか?」
男は満足そうに頷くと、夏木に向けて少しグラスを持ち上げると飲んだ。

 田中は首を振った。
「いいえ。特にご指定がなければスイート・ベルモットはクセの少ないチンザノを使います。ただ、十五年以上前にこの店で、フォア・ローゼスのマンハッタンをご所望なさり、ずっとお見えになっていらっしゃらない方は一人しか思い当たりませんので、こちらのレシピでお作りしました」

「マミを憶えていらっしゃるんですね。僕はニューヨークで彼女と知り合ったので、日本にいたときの彼女のことは何も知らないです。彼女も全く昔の事は話したがらないので」
男は、ニコニコと笑いながら言った。

 田中は、少し間をあけてから答えた。
「大変失礼ながら、お名前は憶えておりません。そのお客様は、妹さんとご一緒によくいまそちらの夏木さんがいらっしゃる席にお掛けになっていらっしゃいました」

 夏木は、また「おや」と思った。二度目や三度目には必ず名前で呼んでくれる田中が、マンハッタンのように強い酒を頼み、しかも変わった注文をする常連の名前を憶えていないなんて事があるだろうか。

「ニューヨークに戻ったら、彼女に報告しよう。お店がまだちゃんと有っただけでなく、田中さんが憶えていてくれて、こだわりのマンハッタンを出してくれたってね」
「お元氣でいらっしゃると伺い、嬉しいです。どうぞ奥様に、よろしくお伝えください」

 その男は、上機嫌で帰って行った。夏木は、田中に訊いた。
「すごいですね。そんな昔の注文をよく憶えているものだ」

 田中は、少し遠い目をして答えた。
「先ほど、バーボンを使うなら、『バーボン・マンハッタン』と言わなくてはならないという人もいると、あの方はおっしゃっていたでしょう。あれを私も言ったんですよ。私もまだ若くて、頭でっかちでしたから」

「へえ?」
「レシピは、あくまで基本です。お客様にはそれぞれの好みがあります。好みに合わせてその方にとって一番おいしいカクテルを作るのが私の仕事であって、自分の知識を押し付ける必要はないのです。その事を教えてくださったのが、その方でした」

 それなのに、名前を憶えていない? そこまで考えてから、夏木ははっと思い当たった。

 僕の座る席って、例の『でおにゅそす』涼子さんも二十年以上前によく座っていたって……。もしかして、さっきの人の奥さんって、あの涼子さんのお姉さんなんじゃないか? 

 待てよ、田中さんは彼女の事を「涼ちゃん」と呼んでいた。それなのに、そのお姉さんの名前を知らないなんてありえない。ということは、田中さんは、もしかして誰だかわかっていて知らないフリをしていたんじゃ……。

 田中は、フォア・ローゼスとノイリー・プラットの瓶を棚に戻してから、振り向くと言った。
「夏木さん、『でおにゅそす』にいらっしゃったとおっしゃいましたよね」

「はい。この間、すみれさんと一緒に行きました。和風の飲み屋に一人で入るのは敷居が高いというので。素敵なお店でしたよ。田中さんにもいらしてほしいとおっしゃっていました」
「お互いに時間がなかなか合いませんので。ところで、近いうちに、またいらっしゃるご予定はありますか?」
「ああ、実は、今度の金曜日に行く予定なんです。近藤さんが僕たちが言った話を聞いて行きたかったと言うので」

 それを聞くと、田中は頷いて名刺を取り出してペンを走らせた。
「それでは、これを彼女に渡していただけませんか」

 夏木は、「わかりました」と言ってそれを受け取った。文字が上になっていたので、内容が読めた。

「涼ちゃん。今日、君のお姉さんのご主人と思われる方がいらしたよ。彼女が日本を離れた仔細をご存じないようだったので、細かい事は何も訊かなかったが、今はニューヨークで幸せに暮らしているようだった。田中佑二」

 お姉さんが、ニューヨークに住んでいる事を、涼子さんは知らないってことかな? 夏木は、田中の顔を見て、仔細を訊くべきか考えた。田中は、微笑んで「お願いします」と言った。それは、これ以上は触れないでほしいという意味に聞こえたので、その通りにする事にした。

 夏木は名詞を大事に自分の名刺入れに挟むと、頷いた。少なくとも酔っぱらって、これを渡す事を忘れてしまう事だけはない。飲めない体質も悪くないなと思った。

 お礼の代わりにと田中がごちそうしてくれるというので、彼は一番好きなサマー・デライトを注文した。

マンハッタン(Manhattan)
標準的なレシピ
ライ・ウイスキー、バーボン・ウイスキーまたはカナディアン・ウイスキー 2
スイート・ベルモット 1
アンゴスチュラ・ビターズ 数滴

作成方法: 
材料をミキシング・グラスに入れてステアする。
カクテル・グラスに注いでマラスキーノ・チェリーを飾る。




(初出:2017年6月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

北イタリアの夏

短い休暇を満喫してきました。750ccのバイクにタンデムで北イタリアを数カ所巡ってきました。

最初にマッジョーレ湖のリゾート、ピエモンテ州のストレーザで二泊。かつてのボッロメオ家の栄華を今に物語るボッロメオ三島の玄関口になっている街です。ここにはすでに10回くらい行っていて、いつも泊まるホテルの一家とも仲良しになっています。

「夜のサーカス」や「ヴィラ・エミーリオの落日」などの小説のインスピレーションを得たのもここなのですね。

それから、アペニン山脈のドライブをするためにピアチェンツァへ移動しました。滞在したのは、やはりすでに滞在したことのあるカステル・アルクアトとボッビオというともに中世の街です。今回は両方ともB&Bに滞在したのですが、どちらも予想外に興味深い宿でした。Booking.comで見つけたんですけれど、どちらも大きなツアー会社経由では絶対に泊まれないような特別な体験でした。詳しくはいずれまた。

あ、ボッビオやバルディ、ビゴレーノなどのアペニン山脈の小さな町は「夜のサーカス」や「森の詩 Cantum Silvae」それに「ピアチェンツァ、古城の幽霊」などいろいろな小説のインスピレーションのもとになっています。

B&Bのわんこたち

こちらの二頭の犬は、ボッビオに近い方のB&Bのところで飼われていました。どういうわけだか好かれてしまって嬉しかったな。洋服は毛だらけになりましたが(笑)

マッジョーレ湖遠景

真っ青なマッジョーレ湖。とても印象的でもっと眺めていたかったのですが、この写真を撮ったあたりでバイクが急に不調になりました。エンジンがかからなくなると困るので、そのままスイスの我が家に直行することに。食事も休憩もせずにとばしてきたのでちょっと疲れましたが、予定より半日も早く家にたどり着き、夕方からはゆっくりとしています。

それにしても北イタリアは暑かったです。38度くらいありました。そして、夜も暑くて、さらに蚊にも悩まされました。今夜は涼しくて、蚊もいない、快適な夜を過ごせそうです。
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(5)朝焼けの家 - 3 -

「郷愁の丘(5)朝焼けの家」、三回に切った最終部分です。少し長くなってしまいましたが、四回に分けるほどの量ではなかったので、このまま行きます。

今回書いたうち写真集に関する部分は、前作を読まれた方には重複になるかと思いますが、前作を読んでいな方へのダイジェストとして書き加えました。

また、後半部分では、グレッグがモテない理由がいくつかでてきます。生真面目で堅いだけが理由ではないんですね。とくに七時間の件は、やったら大抵の女の子は怒って去りますって。悪氣は全くないんですけれど。ジョルジアは、ぜんぜんへっちゃらでしたが。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(5)朝焼けの家 - 3 -

 明らかにきちんと仕事をしていないにもかかわらず、アマンダが帰ってしまったので、ジョルジアは余計なこととは思ったが、彼女の感覚での「ちゃんとした掃除」をしてから道具をしまい、また読書に戻った。

 グレッグは、その間一度も出てこなかった。それどころか昼の時間を過ぎて、ジョルジアが愛犬ルーシーとひとしきり遊んだ後になっても。

 裏庭には建物のすぐ近くに二本の大きなガーデニアの樹があって、優しい木陰を作っていた。その間にはキャンバス地のハンモックが吊るされていて、グレッグは時おりそこで昼寝をするのだと言っていた。何時でも自由に使ってくれと言われたのを思い出したジョルジアは、その上で読書の続きをしたり、しばらくうとうとしたりしなから、時おり鍋の様子を見てのんびりと時間を過ごした。

 その間、たくさんの野鳥たちがテラスを訪れた。黄色、赤、青、目の周りに模様のある鳥や、尾の長い鳥もいた。さらには宝石のように金属的な照りのある青い鳥がやってきて、ジョルジアは一人歓声を上げた。ルーシーは嬉しそうに尻尾を振った。

 インターネットはなかった。電話もなかった。今どき見かけないような古風なテレビやラジオもあったが、その日は電波が弱いらしくて使い物にならなかった。台所の窓のあたりにくるとiPhoneでメールチェックをする事は可能だったが、インターネットを快適に見られるほどではなかった。昨夜ジョルジアがしたメールチェックをグレッグが意外そうに見ていたのがおかしかった。

「そうか。この位置ならデータ通信が出来るのか。僕は携帯電話しか使わないし、そちらはほとんど問題ないのだけれど、前にマディがここはメールチェックも出来ないと憤慨していたんだ」

「Eメールがないと困らない?」
ジョルジアは訊いた。

「週に一度は講義で大学に行くので、その時に通信しているよ。僕がその頻度でしかメールチェックをしないので、急ぎの人は携帯電話かSMSで連絡してくる。でも、ここでもメールチェックが出来るなら、いずれはスマートフォンに変えた方がいいかな」
グレッグは肩をすくめた。

「どうかしら。メールに追われずに済むのって、現代社会では特権みたいなものだから、このままでもいいのかもしれないわよ」
その自分の言葉を思い出したジョルジアは、笑ってエアプレーンモードに切り替えた。

 こんなに「何もせずに過ごした」のは何年ぶりだろう。ジョルジアは、そのつもりがなくても自分はニューヨーク式の秒刻みの生活に慣れすぎていたのだと思った。いろいろな写真のアイデアが頭の中を通り過ぎていく。必要だったのは、別の物を見ることではなかった。外部からの刺激を減らしてアイデアが自由に行き交うスペースを確保することだったのだ。

 彼女は、最終段階にきている新しい写真集の事を考えた。

 一年半前の十一月、ニューヨークのウッドローン墓地で起こった事が始まりだった。それはとある追悼詩に使う墓石の写真を撮る仕事で、普段は使っていなかったILFORD PAN Fのモノクロフィルムを入れたライカを構えていた。その時に偶然視界に入ってきた男の佇まいに、彼女は衝撃を受けた。そして、氣がついたら夢中でシャッターを切っていた。彼女は、それをきっかけにモノクロームで人物像を撮りはじめた。

 彼女がそのまま恋に落ちてしまった知り合ってもいない男、彼女を愛し導いてくれる兄や妹、よく行くダイナーのウェイトレスで今や最良の友になったキャシー、誰よりも親しい同僚であるベンジャミン、そして、その他に少しずつ勇氣を出して向き合い撮らせてもらった幾人かの知り合いたち。どの写真にも映っていたのは、人生の陰影だった。モデルとなった人びとの陰影であると同時に、それはジョルジア自身の心の襞でもあった。彼女が選び取った瞬間、彼女が見つけた光と影。

 この旅が終わった後に編集会議があり、これまで撮った中から新しい写真集で使う写真を選ぶことになっている。彼女が考えているどの写真にも自負があり、意味がある。けれども、何かが足りなかった。彼女の中で、誰かが訴えかけている。一番大切な私をお前は忘れている。もしくは、蓋をしてみなかった事にしようとしていると。ニューヨークでは、それが何だか彼女には皆目分からなかった。ここ《郷愁の丘》でもまだわからない。だが、声はずっと大きく、もしくは近くで囁くように聞こえた。

* * *


 ばたんと扉が開いた音がして、まるで転がるように彼はキッチンに入ってきた。あまりの勢いだったのでジョルジアは何かあったのかと心配した。
「どうしたの?」

「え。いや、その……君を放置したまま、半日以上も……」
「ああ、そんなこと。論文は進んだ?」

 ジョルジアは、鍋の蓋を取って中を覗き込んだ。スプーンですくって味を見ると満足して火を止めた。彼は、テーブルの前に立ちすくんだ。
「その香りで、我に返ったんだ。なんて美味しそうな匂いなんだろう、お腹が空いたなって。それで、時計を見たら……」

 キッチンの隅々に夕陽の赤い光線が柔らかく入り込んでいた。ジョルジアが湧かしたお湯にスパゲティを投入するのをじっと見つめながら、彼は項垂れた。
「本当に申し訳ない。こんなに時間が経っていたなんて」

 ルーシーが、その側にやってきて慰めるようにその手を舐めた。ジョルジアは、テーブルの上にサラダボウルと取り皿を並べた。
「飲み物は、どうしたらいいかしら?」

 グレッグは、あわてて戸棚から赤ワインを取り出した。彼が栓を開け、ジョルジアは、食器棚からグラスを二つ出した。それから、二人でテーブルに向かい合った。

「夢中になって時間を忘れてしまうこと、私にもよくあるの。アリゾナで脱水症状を起こしかけたこともあったわ。ほんの半時間くらいのつもりだったのに、四時間も撮っていたの」
「それは大変だったね。でも、今回はもっとひどいよ。こんな何もない所に君を七時間も放置したなんて」

 ジョルジアは、微笑んだ。
「ルーシーと遊んだし、あのハンモックの上で持ってきた小説を読み終えたのよ。それに我慢ができなくて、少し写真も撮ってしまったの。初めて来た所なのに、こんなにリラックスして楽しんだことないわ。おかげで新しい仕事のアイデアがたくさん浮かんできたのよ。それに、これも作れたし」

 ジョルジアは、アルデンテに茹で上がったスパゲティとボローニャ風ソースをスープ皿に形よく盛りつけた。渡そうとした時に、彼が黙ってこちらを見ているのに氣がついた。朝食の後、何も食べていなかったようだし空腹だろうとは思ったが、グレッグの瞳が潤んで見えるのを大丈夫かと訝った。
「具合が悪いの?」

 彼は、はっとして、それから首を振った。それからいつものようなはにかんだ表情をしてから小さな声で言った。
「君にこんな家庭的な一面があるなんて、考えたこともなかった」

 ジョルジアは、彼の前に皿を置いて答えた。
「それは食べてから判断した方がいいんじゃない? どうぞ召しあがれ」

 彼は、スパゲティを絡めたフォークを口に運ぶと、目を閉じてしばらく何も言わなかった。ジョルジアがしびれを切らして「どう?」と言いかけた時に、瞳を見せてため息をもらすように「美味しい」と言った。兄マッテオがこのパスタソースについて毎回並べる何百もの讃辞に較べると、拍子抜けするほどあっさりとした意見だったが、その口調は兄の賞賛に負けないほど深いものだったので、ジョルジアは満足した。

「どんな魔法を使ったのかい?」
彼は台所を見回した。料理は得意ではないから、最低限の調味料しか持っていない。アマンダが届けてくれた野菜も、昨日肉屋で一緒に買ったひき肉も、普段と全く同じで、特別なものは何ひとつない。訝るのも当然だった。ジョルジアは肩をすくめた。

「特になにも。ちょっと時間がかかるだけで普通のボローニャ風ソースと一緒よ。祖母に習ったの」
「イタリア系のアメリカ人は、みなこういうパスタソースを食べるのかい?」
「いいえ、そうでもないわ。みな忙しいもの。スーパーマーケットの出来合いのソースで食べる方が多いんじゃないかしら」

「君も?」
「そりゃよそで出てきたら食べるけれど、自分で作るならこうやって作るわ。家にいる日ってあるでしょう? 他のことをしながら作ればいいのよ。たくさん作って、余ったら冷凍して置くの。もっとも、兄にこれを作ったのがわかると、たいていすぐにやってきて食べちゃうんだけれど」

「お兄さんがいるのかい?」
「ええ、マンハッタンに住んでいるの。妹もいるわ。彼女はロサンゼルスに住んでいるの」
「そうか」

 彼はわずかに遠くを見るような目つきをした。ジョルジアは、彼が自分の家族のことを考えているのだと思った。
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Posted by 八少女 夕

またしても旅の途上

今年から有給休暇が一週間増えました。社長が太っ腹になったのではなくて、法律でそう決まっているのです。私は今年の夏に大台に載るのですが、その年齢になると年間五週間の有給休暇を与えることが義務付けられているのです。

で、休暇が増えたはいいのですが、今しか取得できるチャンスがなかったので、取ってしまうことにしました。六月の休暇というのは初めてです。実はヨーロッパでは一番美しい時期。まだ夏休みが始まっていないので子供づれも少なくホテルも見つけやすいのです。

何も考えすにふらっと旅をしています。今回の旅では、やはり「森の詩 Cantum Silvae トリネアの真珠」関係の構想の助けと取材になったらいいな、などと考えております。



というわけで、現在イタリアのストレーザにいます(^^)
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(5)朝焼けの家 - 2 -

「郷愁の丘(5)朝焼けの家」の第二回目です。

今回はじめてアマンダという女の子が登場します。要するにお手伝いさん的な仕事をしている女性ですが、こうした使用人を雇うのはわりと普通の事です。スイス辺りだと時給が高いので、大学講師で糊口を凌いでいる貧乏な研究者が使用人を雇うなんて不可能なのですが、それが出来てしまうのがアフリカなのかもしれません。

もっとも、グレッグは掃除くらいはできますが料理はさっぱりなので、こうした使用人もなしに一人で地の果てに暮らしているという設定は、ちょっと無理があるかもと思いました。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(5)朝焼けの家 - 2 -

 彼は朝食を用意していた。
「スクランブルエッグは、そこそこ普通に作れるんだ。目玉焼きだとあまり自信がないけれど……。どっちが好みかな?」
「お得意なスクランブルエッグをお願いするわ。それに、必要なら何かお手伝いするわよ」

 そして、二人で作った朝食をキッチンから運ぶと、ダイニングテーブルに向かい合って座り、朝食をとった。

 ジョルジアは、窓から見た朝焼けの魅力について話した。彼は、彼女の熱意に嬉しそうに耳を傾け、それから言った。
「ここは、マサイの言葉では《Ol-dóínyó olíyio》と呼ばれているんだ」
「どういう意味なの」

「隔離されて寂しい丘。世界に自分一人しかいないような心持ちになるからだろうね」
「《郷愁の丘》はロマンティックに響くけれど、マサイの呼び名にも一理あるわ」
「彼らは、僕らのような甘い言葉は使わないのかもしれない。もしくはもっと感受性が研ぎすまされていて、言葉による遊びはしたくないのかもしれない」

「あなたはマサイの言葉もわかるのね」
「いや、わかるというほどではない。簡単な挨拶は出来るけれど、彼らの言葉は難しいんだ」
「文法が?」
「それもあるけれど、僕たちの言語では全く違う概念に同じ単語をあてはめたりするので、何の話をしているのか理解するのが難しい。だから、結局は英語で話してもらうことになる」

「昨日のあの女の子もマサイ族なの?」
ジョルジアは、昨日ここに着いた時に、門の前で待っていた若い女性のことを考えた。ずっと大人しかったルーシーが、ものすごい勢いで吠えて、それは彼女が仕事を終えて去るまで続いた。その娘は忌々しそうにルーシーに舌打をして、それから、ジョルジアの事も睨みつけたようだった。

「いや、アマンダはキクユ族だ。ここから十キロくらいのところにキクユ族の集落があって、そこから通ってくる」
「十キロも歩いて?」
「ああ」
「大変なのね」

「実は、来てもらいたくて頼んだわけじゃないんだ。アマンダの家族が仕事を欲しいと言って来てね。断ってもいいんだけれど、よけいなトラブルを避けるために、来てもらっている。まあ、僕も家事が得意って訳ではないし」

 ジョルジアは、アマンダの緩慢な仕事ぶりを思い出した。拭き掃除も目についた所を少し触れるだけ、シンクに置かれていた食器類はずいぶんとたくさんの洗剤を使っていたわりに汚れが落ちきっておらず、ジョルジアは彼女が帰った後、食事を用意する時にそっと洗い直した。

 朝食の後、グレッグは戸惑いながらジョルジアに言った。
「申し訳ないが、できるだけ早くレイチェルに返さなくてはならない資料があるんだ。今日中に論文のその部分を確認したいんだけれど、しばらく君をひとり放置しても構わないだろうか」

「もちろんよ。私のことは氣にしないで。もし差し支えなかったら、勝手にお昼ご飯の用意をしていてもいい?」
「え。それは、申し訳ないな。でも、僕が用意しても大して美味しいものが作れるわけじゃないからお願いするかな……ここにある物は何でも自由に使っていい。わからなかったら訊いてくれれば……」
「火事にでもならない限り、ひとりでなんとかするわ。邪魔しないから安心して」

 一番近い街イクサまでは車で一時間近くかかる。ニューヨークでは、身近なもので足りないものがあれば徒歩で、大きい買い出しには車で十五分もあれば何でも揃う大型ショッピングセンターに行くことが出来る。だから、サバンナの真ん中に住むというのはちょっとしたサバイバル生活のように思える。彼はガスボンベや発電用のオイル、それに日常品の買い出しは大学に講義に行く時や用事があって街に出かける時にしていると言った。昨日も帰りがけにイクサの食料品店に寄って、何種類かの肉や卵を買った。スーパーマーケットと呼ぶにはずいぶんと小さな店だった。

 ジョルジアは、ひとまず冷蔵庫と貯蔵庫を調べた。思ったよりも充実している。野菜は、アマンダが届けてくれると言っていたが、こんなにたくさん持って十キロも歩くのは大変だろうなと思った。

 瓶詰めのスパイスの類いもいくつか発見した。これらは使った形跡もないが、古くても未開封なら問題はない。彼女の一番好きなパスタソースを作るのに足りないものはなかった。アフリカの強烈な日光を浴びて、トマトは十分に甘く熟している。

 それから三十分後には、ジョルジアは鍋の中でソースを煮込み始め、使った他の調理器具を洗い始めた。手際よくすべてを洗うと布巾で乾かして定位置に納め、台所の椅子に座って小説を読み始めた。

 そのすぐ後に、庭先でルーシーがものすごい勢いで吠えだした。どうしたんだろうとジョルジアは椅子から立ち上がって首を伸ばしたが、見えなかった。ガタッという音がしたので扉を見ると憮然とした顔でアマンダが立っていた。

「何をしているのよ」
彼女はツカツカと鍋に歩み寄ると、勝手にふたを開けた。
「何これ」
「パスタソースよ。イタリア料理なの」

 アマンダは、ジョルジアの答えに満足した様子はなく、乱暴に蓋を閉めると、シンク周りを見回した。全てが片付けられてやることはなくなっていた。

 それから裏から箒を持ってくると、乱暴に床を掃き始めた。ジョルジアの座っている下を掃く時に彼女の足にゴミがかかるような動きをしたが、彼女はさっと立ち上がって難を逃れた。
「お邪魔だったのね。終わるまで外で待ちましょうか」

「あんた、いつまでこの家にいるつもり?」
アマンダのトゲのあるいい方にジョルジアは戸惑った。
「数日はいると思うけれど」

 アマンダはもともと出ている唇を大きく突き出して、敵意を込めて睨むと雑巾をシンクに叩き付けて出て行った。ジョルジアは、もしかして、この娘はグレッグと雇用主と使用人以上の関係なのではないかと思った。

 その途端、胃のあたりがちくりとしたように感じた。彼女はグレッグのいる部屋の扉を見た。これは何なのだろう。それから彼女がずっと片想いをしているはずの男と彼が婚約するだろうと噂されていた美しい女性のことを思った。どちらも同じようにジョルジア自身の人生とは直接関わらないはずの関係。

 ジョルジアが、かつてそのジャーナリストと知り合う可能性があったパーティで、その日本人女性と一緒にいる姿を見かけたとき、彼女は苦しくて悲しかった。けれど、あの時、私は不快に思っただろうかと彼女は訝った。否、決して不快には思わなかった。ただ、自分が惨めで辛かっただけだ。

 一方、今の感情は何なのだろう。グレッグの想いに応えられないのならば、たとえどんな形にせよ彼に誰かがいることを喜ぶべきだろうに、どうして私はそれを嫌だと感じたのだろう。これは嫉妬なのかしら。だったらなぜ? 私は彼に惹かれ始めているんだろうか? ジョルジアは混乱したまま、しばらく廊下の奥を眺めていた。
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Posted by 八少女 夕

iPad mini が復活……

iPad mini 3

このブログによく来てくださる方は既にご存知かと思いますが、私は筋金入りのApple信者です。なんせ、90年代から現在にいたるまで買った全てのパーソナルコンピュタはMac。スマホ時代になってから買ったのもすべてiPhone。会社ではWindowsも使っていますから、特に食わず嫌いでもないのですが、一度も浮氣した事はありません。

これはたんにデザインが素敵だからというようなことではなくて、他社のコンピュータのマシンとOSごとに少しずつ違う操作を憶えるのが面倒だからだったりします。というようなApple談義は今日のテーマではありませんのでこれでおしまい。

今日の記事は、去年の日本里帰りの時に買ったiPad miniのことです。いや、スイスでも買えるんですよ、iPadは。ただ、ちょうどその時日本のAppleストアで整備済製品のiPad Mini 3 が売られていたんです。整備済製品とは例えば初期不良でAppleに帰って来た製品をちゃんと整備して売っている製品のことです。中古品を買うのと違ってほぼ新品なのに安いので、前もMacを買った事があるのです。

iPad Mini 3 はiPad シリーズの中ではなぜか扱われなくなってしまっています。そのせいか整備済製品としてもとてもお買い得でした。私のはWifiバージョンで容量は128GB。指紋認証もついているし、私のやりたい事にはこれで十分だったのです。

iPhoneは毎日持ち歩くのには便利ですが、ネットを見たり地図を見たりするには少し画面が小さくて不便です。ブログを見るのも。まあ、スマホ用テンプレートで見ればいいんでしょうが、ちょっと手間が多くなったりしてPC用テンプレートで見たい事もあるんですよね。たとえば旅の間などMacに長く触れないときは、iPhoneだけだとちょっと不便。でも、iPadは私には携帯するのにかさばり重すぎるんです。MacBook Airもあるので、iPadはいらないと。で、サイズとしてiPad Miniは理想的だったんですよね。実際に大満足で使っていました。

ところが、スイスに戻ってきてからしばらくして、調子がおかしくなってしまったのです。具体的に言うと、勝手に再起動を繰り返すのです。音楽を聴くぐらいで大してメモリーを食う事もしていないのに。それにブラウザSafariを起動するだけで死んだりします。

ネット検索すると、結構同じ症状に悩んでいる人が多く、書いてある解決法をいろいろと試しました。工場出荷状態にしてから再インストールも三回くらいはしましたが、全然治りません。

「う〜ん。もしかして、ハズレの端末を買っちゃったのかなあ。まだ保証期間内だけれど……」
大きな問題が一つありました。Appleストアの日本で買ったから、スイスではたぶん保証外。っていうか、この田舎だとAppleストアに持ち込むのも一苦労で、それで保証外だったら悲しい。

それで、最終手段に出ました。iOSの全ての不具合を解消するという「iCareFone」なるソフトウェアを購入して、修復させてみたのです。

ビンゴでした。本当に、あのどうにもならなかった再起動ループがぴったりと治まったのです。

そりゃ、お金はかかりましたけれど、自宅から一歩も出ないで話が済んだし、これからもiPhoneは買替え続けるので不具合があった時に安心だし、それにこのソフトウエアはiTuneを使わずにiBookのデータや写真などをやり取りできるなど便利な機能が満載なので、買ってよかったと思います。
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Posted by 八少女 夕

【小説】ありがとうのかわりに

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第十四弾です。けいさんは、毎年恒例の目撃シリーズで書いてくださいました。この作品は、当scriviamo! 2017の下のようにプランB(まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法)への返掌編にもなっています。ありがとうございました。

プランBで、拍手絡みの物語を、うちの「シェアハウス物語」とコラボでお願いしても良いですかね。それを受けて、私も掌編を描く。それのお返事掌編をまたいただく…B→B(A)→A混合サンドイッチ、みたいなの。


この二つ書けとおっしゃるうち、ひとつはちょうどブログトップのFC2拍手を1000カウント目にしてくださった記念掌編です。

けいさんの書いてくださった『とある飲み屋での一コマ(scriviamo! 2017)』

けいさん、実はどうも今、公私ともにscriviamo!どころではない状況みたいで、いま発表するのはどうかなと思ったんですが、こちらの事情(後が詰まっていて)で、空氣を全く読まない発表になってしまいました。ごめんなさい!

今回の掌編は、けいさんの掌編を受けて、前回私が書いた作品(『頑張っている人へ』)の続きということになっています。そっちをお読みになっていらっしゃらない方は、え〜と、たぶん話があまり通じないかもしれません。

今回は「シェアハウス物語」のオーナーにご登場いただいていますが、それと同時にけいさんの代表作とも言えるあの作品にもちょっと関連させていただきました。

で、けいさん……。大変みたいだけれど、頑張ってくださいね。応援しています。


「いつかは寄ってね」をはじめから読むいつかは寄ってね


「scriviamo! 2017」について
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



ありがとうのかわりに - Featuring「シェアハウス物語」
——Special thanks to Kei-san


 東京は神田の目立たない路地に『でおにゅそす』はひっそりと立っている。ママと呼ばれる涼子が一人で切り盛りをするこの飲み屋は、二坪程度でカウンター席しかないが、そのアットホームさを好む常連客で毎夜そこそこ賑わっていた。

「いらっしゃいませ。あら、葦埜御堂あしのみどうさん。今夜はお一人?」
涼子は現に微笑んだ。

「残念ながらね。でも、みんなここがとても氣にいったようで、近いうちにまた来たいらしいよ。その時には、またよろしく頼むよ」
シェアハウスのオーナーである現は、先日シェアハウスに住む国際色豊かな四人をこの店に連れてきたのだ。

 今日は、会社が終わると一目散にやってきて現が来る頃には大抵でき上がっている西城と、少しは紳士的なのに西城にはハッシーと呼ばれてしまっている橋本が仲良く並んで座っていた。そして、カウンターの中には、涼子ママと、常連だがツケを払う代わりに料理を手伝う板前の源蔵がいた。

「よっ。現さん、この間は驚いたよ。あのガイジンさんたち、すごかったよねぇ」
西城は、あいかわらずろれつが回っていない。

「何がすごかったんですかい?」
あの時、一人だけ店にいなかった源蔵が訊いた。橋本が答えた。
「現さんのつれていらした人たち四人のうち三人が外国の人たちだったんですが、みなさん、日本語ぺらっぺらで、しかも鶴まで折っちゃって。日本人の僕たちよりも上手いのなんの……」

「それに、あのアジアのおねーちゃん! あの人形の折り紙はすごかったよなあ。アレを折り紙で折るなんて、目の前で見ていなければ信じられなかったよ」

 涼子はもう少し説明を加えた。
「源さんも知っているでしょう、時々やってくる、小林千沙さん、あの方の従兄の方が闘病しているって話になって、だったらみんなで応援しようってことになって、あの夜、ここでみんなで鶴を折ったのよ」

 現はその間にメニューをざっと検討して、まずヱビスビールを頼み、肴は適当に見つくろってほしいと頼んだ。源蔵がいる時は、料亭でしか食べられないような美しくも味わい深い、しかもメニューには載っていない一皿にめぐりあえることがあるからだ。

 源蔵はそれを聞くと嬉しそうに、準備に取りかかった。現は、突き出しとして出された枝豆の小鉢に手を伸ばしながら訊いた。
「その後、どうなったんでしょうね」

 涼子は微笑むと、カウンターから白い紙袋を取り出した。
葦埜御堂あしのみどうさんがお見えになるのを待っていたのよ。実はね、四日くらい前だったかしら、小林さんがいらっしゃってね。これを、皆さんにって」

 現は「へえ」と言いながら紙袋の中を覗き込んだ。中には、赤と青のリボンで二重に蝶結びにして止めた、白い袋が五つ入っていた。そして、それぞれに付箋がついていた。

「ゲンさんへ、か。これが僕のだ」
彼は、一つを取り出した。残りの四つには「ワンさんへ」「ニコールさんへ」「ムーカイさんへ」「ソラさんへ」と書いてある。あの時、耳にしただけで漢字がわからなかったので全てカタカナなのだろう。ワンちゃんだけ「ちゃん」付けするのはまずいと悩んだんだろうな。うんうん。彼は笑った。

「西城さんたちももらったんですか?」
現が訊くと、二人は大きく頷いた。

「もちろんさ。俺っちたちは、千沙ちゃんが来た時にここにいたからさ、直接いただいちゃったって訳。開けてごらんよ」

 中には透明のビニール袋に入ったカラフルなアイシングクッキーと、CDが入っていた。彼は取り出して眺めた。

 ピンクや黄色や緑のきれいなアイシングのかかったクッキーは、全て紅葉の形をしていた。それはちょうどあの日ワンちゃんが折った拍手に見立てたたくさんの紅葉に因んだものなのだろう。

「小林さんの手作りですって。いただいたけれど、とっても美味しかったわ」
涼子が微笑んだ。

「それは嬉しいね。少し早いホワイトデーみたいなものかな。で、こちらは?」
彼はCDをひっくり返した。それはデータのディスクか何かを録音したもののようだった。

「それさ。例の闘病中の従兄が演奏したんだってよ」
西城が言った。

 現は驚いて顔を上げた。橋本が頷いた。
「そうなんだってさ。先日、無事に放射線療法がひと息ついて、退院して自宅療養になったんだって」

 涼子がその後を継いだ。
「あの皆さんからの折り紙がとても嬉しかったんですって。絶対に諦めない、頑張るって改めて思われたそうよ。それで退院してから小林さんと相談して、みなさんに何かお礼の氣持ちを伝えたいって思われたみたい。それで、ギターで大ファンであるスクランプシャスっていうバンドの曲を演奏して録音したんですって」

「歌は入っていなくてインストだけれど、すごいんだよ。俺たちもらったCD全部違う曲が入っていたんだ。だから現さんたちのとこのもたぶん全部違う曲だと思うぜ」
橋本は興奮気味だ。

「そうですか。僕のはなんだろう。あ、裏に書いてあるぞ『悠久の時』と『Eternity Blue』か。デビュー・アルバムからだね」
「あら、葦埜御堂あしのみどうさん、お詳しいのね」

「もちろんだよ。僕は自慢じゃないけれど、スクランプシャスのアルバムは全部持ってんだから」
現が言うと、皆は「へえ~」と顔を見合わせて頷いた。

「だれが『夢叶』をもらったのかな」
現が皆の顔を見回して訊くと、涼子は笑った。
「私たちじゃないわ。たぶんワンさんじゃないかしら。あの時、いつか折り紙作家になりたいっておっしゃっていたから」

「俺っちもそれに賭ける」
西城が真っ赤になりながら猪口を持ち上げた。

「宇宙かもしれないぞ。あいつもこれから叶える夢があるからな」
その現の言葉に、皆も笑って頷いた。

 涼子が現のグラスにヱビスビールを注ぎ、源蔵が鯛の刺身を梅干しと紫蘇で和えた小鉢を置いた。

 現はプレゼントを紙袋に戻すと、嬉しそうに泡が盛り上がったグラスを持ち上げた。

(初出:2017年2月 書き下ろし)

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