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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】麦わら帽子の夏

今週は「十二ヶ月のアクセサリー」八月分を発表します。八月のテーマは「帽子」です。

このキャラ、どこかで見たぞと氣になる方がいらっしゃるかもしれません。「十二ヶ月の野菜」の中にあった「あの子がくれた春の味」に出てきた林かのんが再登場しています。あの掌編のコメントで「どういうわけであの子がああいう所に嫁に行くことになったのか知りたい」というお声を幾つかいただきましたので、そのリクエストにお応えするつもりで書きました。


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麦わら帽子の夏

 大学の英語のクラスで初めて林かのんを見た時、あまりいい印象を持たなかった。

「おい。あの子、まるで人形みたいにかわいいぞ」
クラスメートの男どもの大半は、彼女のフリフリな洋服や、完璧に手入れされた長い髪、それに整った顔立ち、とくに形のいい唇に惹きつけられていた。

 だが、太一は大きな目をゆっくり伏せたり、妙に首を傾げたりする、思わせぶりな動作に演技臭いものを感じて「けっ」と思ったのだ。

 砂糖菓子かよ。何ひらひらしてんだよ。可愛ければ、いいってもんじゃない。

 太一が通うことになったのは、総合大学で様々な学部がある。一年生の間だけ共通の教養学を全ての学生が一緒に学ぶことになっている。例えば、英語の授業はいろいろな学部の学生がランダムにクラス分けされていた。

 太一の入った農学部には、女学生は少ない。ましてや林かのんのようなふわふわしたお嬢さんタイプは、まず見かけないだろう。千葉の農家で生まれ育った太一の周りには、これまでこんな風が吹いても泣きだしそうな女はいなかった。がっつり食べて、朝から晩まで畑で作業する母親に代表される骨太の女ばかりに囲まれていたのだ。

 それは、新学期が始まって一ヶ月ほど経ったてからだと思う。

「大崎くん。かのん、ここに座っても構わない?」
横をみると、林かのんが一人で立っていたので仰天した。隣の席は、確かに空いているが、なぜわざわざここに。振り向くと、トイレすらも集団で行く、ひっつき虫の女どもはまとめて後ろの席に座っていた。そして、その列にはもう空きはなかった。

 だが、林かのんと親しくなりたがっている野郎どもの隣はまだいくらでも空いているのに。それよりも、この女が、女の集団に尻尾を振らないで一人で行動したことのほうにもっと驚いた。

「いいけど、ここに座るとかなりの確率で当てられるぞ。教壇からちょうど目にはいる席だしさ」
「大丈夫。かのんね、ちゃんと予習しているもの」

 へえ。そりゃ、ご立派なことで。そもそも、なんだよ、その一人称。自分の名前を呼ぶの、痛々しいぞ。

「後ろの方、みんなおしゃべりしていてあまり授業に集中できないんだもの。先週、大崎くんは、ちゃんと聴いていたでしょう? だから、次はかのん、ここに座りたいなって思っていたの」

 それから、妙なことになった。彼女がひっついて来るようになったのだ。最初は、授業に集中できる席のために隣に座るのかと思っていた。変な女だとは思ったけれど、一理あると思ったので、それ以上のことは考えなかった。毎週のことだから、林かのんと付き合いたがっている男子学生たちからは妬まれたけれど、「知るか」と無視していたら、大したライバルではないとわかったのか相手にもされなくなった。

 太一は雑誌に出てくるみたいな格好をして、ナンパに血道をあげているような男たちとは、全く仲良くしたくなかったので、クラスの男にしろ女にしろ他の学生たちとつるまずに一人でいることにはまったく問題がなかった。ところが、別の授業に行こうと移動しようとすると、林かのんが一緒についてくることがあった。

「なんだよ」
「大崎くん、次の授業は西棟四階でしょう。かのん、三階で美学史だもの」
「あ、そうか」

 来るなというのも変なので、一緒に歩いたが、これでは周りにつきあっていると誤解されるじゃないかとちらっと思った。っていうか、誤解されてもいいのか、この女は。

「ねえ。大崎くん。農学部だから知っていると思うんだけれど」
「なんだ?」

「かのんね。夏休みに普段できないような仕事を体験するアルバイトをしようと思って、いろいろと探してみたの。そうしたら、地方の農家で住み込みで働くというのが結構あるんだけれど、まったく知らないところに行くのを親が心配して反対するの。大崎くん、知っているお家でそういうバイト探していないかしら」

 太一は、目を丸くした。こんなマシュマロ女が、農家でバイト? ありえん。
「いや、君さ。農家はきついぞ。そう簡単に……」

「かのんだって、それはちゃんとわかっているよ。ママもそう言って許してくれないけれど、そんな事言っていたら、いつまで経ってもやりたいことにチャレンジできないじゃない? 就職したら、きついなんて言っちゃいけなくなるのに」

 うん。まあ、正論だ。でもなあ、言いたくはないが、農業体験ができるという触れ込みで実は嫁探しをしていたなんて話も聞いたことがあるし、知らないところは奨められない。でも、知っている農家にこんな弱そうな女を紹介して、キツさに泣いて一日で辞められたりしたら、俺が叱られるじゃないか。

「あー、俺が紹介して、林が速攻で弱音を吐いても迷惑をかけずに済むところと言ったら、一つしか浮かばないな」
「どこ?」

「俺んち。オヤジの農園。千葉で野菜を作っているんだ。遠いけれど、絶対に日帰りできない距離じゃないし、泊まるならちゃんとうちの敷地に玄関も別の部屋がある。なんなら親父とお袋に訊いてみるけれど」

「本当? かのん、やってみたい。バイト代、安くても構わないから、是非お願い」
彼女は目を輝かせた。おいおい、いいのか、そんな安易に。いつもこの調子で色んな男のところにホイホイついて行っているんじゃないだろうな。太一は首を傾げた。

 そして夏休みになると、彼女は本当に大崎農園にやってきて、一ヶ月も住み込んだ。まさかフリフリのスカートでくるんじゃないだろうなと心配したが、一応、デニムでやってきたので安心した。もっとも、ベージュだの薄い水色だの、舐めているんじゃないかという色のジーンズで、Tシャツもやけに可愛いオシャレなヤツだった。もちろん、うちのような田舎では浮きまくっていた。

 どういうわけか、母親に妙に氣に入られ、作業中だけでなく、夜の食事の手伝いなどでもいつも一緒にいたし、初日からずっと近所で育ったみたいに馴染んでいた。そして、珍しい動物が来たみたいに、父親や近所のおじさんたち、それに他のバイト兄ちゃんたちからも可愛がられて、ものすごく重いものは持たされずに済んでいたようなので、可愛いというのは得だなと妙な感心をした太一だった。

 太一が驚いたことに、ふわふわしたイメージとは裏腹に、彼女は実によく働いた。ネギを引っこ抜く作業は見かけよりもきつい肉体労働だが彼女は「疲れた」などということは一言も言わなかった。それに綺麗にして並べて出荷用に箱詰めするときも、とても丁寧だけれど思いのほか機敏でバイトの中で一番早く父親を満足させる作業ができるようになった。

 UVケアに必死で日傘でもさすんじゃないかと思っていたが、日焼け止めは塗っているようだけれど、外での作業もまったく嫌がらずに、つばの大きい麦わら帽子を被って作業をしていた。

「林、大丈夫か。熱中症にならないように氣をつけろよ」
一緒の作業になった日に、太一は言った。

「かのんね。このくらい何ともないよ」
麦わら帽子の下で、いたずらっ子のように大きい瞳が輝いた。太一は、その笑顔にどきっとした。

 彼女がバイトを終える前の晩に、別れを惜しんだ両親や、近所のおじさんたち、それにバイトの若者達が集まって、大きな宴会をした。

 採れたての枝豆や、母親が得意な手作りこんにゃくのステーキなど、ビールによく合うつまみが多くて、ついみんなメーターが上がってしまう。林かのんの送別会のはずだが、ただの飲み会になって、当人が何度も台所と往復するようなことになっていた。

「本当によく頑張ってくれたな。よかったら、また来年も来てくれよな」
父親が、空になったビール瓶を片付けるために台所へ向かおうとする彼女を引き止めて隣に座らせ、酔いで真っ赤になりながら上機嫌で云っていた。太一が最初に電話で訊いたときは「女の子は即戦力にならないからなあ」なんて言っていたくせに。

「太一は、無愛想だけれど、よかったら引き続き仲良くしてやってくださいね」
母親が、なんだかドサクサに紛れてとんでもない事を頼んでいる。ところが林かのんはにこにこ笑って答えた。
「私の方こそ、ずっと仲良くしていただきたいです」

 なに言ってんだ? その言い方は、もっと誤解されるぞ! 太一は、ビールをどんどん注がれて酔っぱらい、ふらふらになった頭で林かのんに説教をした。
「そーいうふーにー、けいかいしんのー、ないげんどう、を、しているとー、あぶないから。なっ。わかってんのか」

 彼女がにこにこと笑っていたような氣がするが、なんと答えたのかの記憶は、ほとんどないまま翌日になってしまった。

 太一は、母親に厳命されて、近くの無人駅にかのんを見送りに行った。
「あー、一ヶ月ありがとう。林が思ったよりもずっとよく働いてくれて驚いたよ。親父達も感心していた。バイト代、少なくてごめんな。少し色をつけたみたいだけれど、それにしても少ないだろう」

「ううん。全然少なくないよ。それに、一ヶ月、大崎くんと一緒に過ごせて、とても楽しかったの。もし、嫌じゃなかったら、また来年も来たいな。それに、二学期もまた大学で仲良くしてくれると、かのん、とても嬉しい」

 彼女の言葉に、太一はまたしても目を丸くした。こいつ、こんなことを誰にでも言うとしたら天然すぎる。

 太一は、以前から一度訊いてみたかった事を口にした。
「なあ、林。君、なんで俺なんかについてくるんだ? もっと、ちやほやしてくれる男が、いくらでもアプローチしてきているだろ」

「う~ん。かのんね、たくさんプレゼントしてくれる人や、なんでもしてくれる人、ちょっと苦手なの。大崎くんは、かのんがいてもいなくてもどっちでもいいのに、話しかけるとちゃんと答えてくれるし、一緒にいて心地いいの。それにね……」
「それに?」

「ずっと仲の良かった友達がいたの。今は、離れてしまったんだけれど。いつも背筋をピンと伸ばしていて、他のみんなが一緒にサンドイッチを食べようと言っても、私は好きなカレーを食べるっていうような子だったの。そういうところが大好きだったの。大崎くん、彼女みたいなんだもの」

「ふ、ふーん。確かに俺もカレーは好きだけれど……」
太一は、そういう問題じゃないとわかっていつつも、ピントのずれた答えしか返せなかった。

「じゃあ、今度、かのんがとびっきり美味しいカレーを作るよ。大崎くん、うちに食べに来る?」

 麦わら帽子についているオーガンジーのオレンジのリボンが風に揺れた。帽子の下に、溢れている笑顔は、これまでに見たどんな女の子の笑顔よりも可愛らしかった。太一は、やられたと思った。

 夏が終わり新学期が始まるまで、麦わら帽子を見るたびに俺はこの笑顔を思い出して、おかしくなってしまいそうだ。太一は、昨日の酒がまだ抜けていないのかと、ぐるぐるする頭で考えつつ、黙って頷いた。

(初出:2017年8月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】いつもの腕時計

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

今週は「十二ヶ月のアクセサリー」九月分を発表します。九月のテーマは「時計」です。

「郷愁の丘」がぶつぶつ切れるなあとお思いの方、すみません。でも、今回はあの世界の外伝になっています。主人公は初登場の人物なのですが、雇い主のほうがお馴染みの人物です。「郷愁の丘」のヒロインの兄ですね。もっとも、「郷愁の丘」をはじめとする「ニューヨークの異邦人たち」シリーズを全く知らない方も、問題なく読めるはずです。

ちなみに、同じ「十二ヶ月のアクセサリー」の六月分「それもまた奇跡」に出てきたブライアン・スミスも同じ会社の重役なので、名前だけ出してみました。


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いつもの腕時計

 彼は、入ってきた彼女の服装に対する賛辞を口にしたが、言おうとしたことの三分の一も言えないうちにもう遮られた。
「マッテオ、褒めてくださるのは大変嬉しいのですが、今朝は本当に時間がないんです」

 セレスティン・ウェーリーは、ヘルサンジェル社の社長秘書だ。それも、非常に有能な秘書だった。しかも、社長夫人に収まろうという野望を持たずに仕事に全力を傾けてくれるという意味で稀有な存在だ。

 会社の創立者であり最高経営責任者であるマッテオ・ダンジェロは有能かつ魅力的で氣さくな人物ではあるが、若き独身の億万長者であるため女性関係が派手で、その副作用として女性秘書が長く居着かないという悩みを抱えていた。

 が、セレスティンがこの職を得てから九年、へサンジェル社の最高総務責任者であるブライアン・スミスは、やたらと入れ替わりの激しい社長秘書の面接をせずに済むようになった。

 「天上の青」を意味するそのファーストネームは、極上のサファイアを思わせる濃いブルーの瞳から名付けられたと思われる。ダークブロンドの髪は垂らせばこれ以上ないほどに男性を魅了すると思われるが、いつもシニヨンにまとめていて、その隙のない様相と、シャープな服装、怜悧な視線でもって近づき難い印象を与えていた。

 今日は、月曜日。マッテオは自由の女神が見える開放的な社長室の革張りの椅子にリラックスした姿勢で座り、ここ二日の予定を淀みなく説明しているセレスティンをニコニコと笑いながら眺めていた。今日の彼女は、シャープな襟の白いシャツに瞳によく合うセルリアンブルーのタイトスカート、それに少し感じ悪く見えるくらい鋭利な伊達眼鏡をかけている。

「マッテオ。大変申し訳ないのですが、少し真剣に聴いていただけませんか。私には二度説明する時間はありませんから」
「わかっているよ。でも、大丈夫。今、聴いた件はちゃんと用意ができているし、あとは直前まで忘れても五分前に君が促してくれるだろう」

「そういう訳にはいきませんの。なにしろ……」
そういって彼女は自分の左手首をちらっと見た。

「おや、今日はあの腕時計を忘れたのかい、セレ」
マッテオは、さも珍しいという顔つきで訊いた。当然だった。シンプルとはいえ、常に流行を意識した服や靴やアクセサリーを組み合わせて、日々目の保養をさせてくれるセレスティンが、何があろうと決して変えずに身につけているのがその金の腕時計だった。

 彼女の持ち物にしては、少し安物に見える金メッキの外装、しかも今時ネジを毎日巻かなくてはならないアナログな時計だった。彼女は、この時計に大きな思い入れがあるらしかった。秘書となって一年経った時に、ふさわしい時計をプレゼントしようとマッテオが提案しても「これをつけていたいんです」とハッキリ断った。

 セレスティンはため息をついた。
「どこに置き忘れたのか、見つからないんです」

「おや。金曜日には付けていただろう」
「ええ。少なくともディナーに向かう時には付けていたはずなのに」
「そうか。あれは確かお祖母さんからのプレゼントだったよね」

 セレスティンはちらりと雇い主を見た。相変わらず細かいことを憶えているわね。
「ええ。小学校に上がった時にもらったんです。安物ですけれど、毎日ねじを巻いて時間を合わせればほとんど狂わずにこれまで動いてくれたのに。今日はスマートフォンで時間を管理していますが、慣れないのでいつものように細かくコントロールできないんです」

 マッテオは頷いた。少し、他のことを考えていたが、会議が迫っていたのでいつまでも腕時計の話をしているわけにはいかなかった。

 だが、彼はその時計を思わぬところで見ていたのだ。見覚えのある時計だと思っていたが、まさかセレスティン本人のものだとは思わなかったので素通りしてしまったが。

「思い出したぞ」
マッテオが呟いたのは、その日の夜、高級クラブ《赤い月》で席に着いたときだった。とある女優とディナーを楽しんだ後に立ち寄ったのだ。

「何を?」
女優は、綺麗にセットした赤毛の頭を、完璧な角度で傾げながら微笑んだ。

「何でもないんだ、マイ・スイートハート。おととい、ここで見たもののことを急に思い出したのさ。でも、大したことじゃない。それよりも、君の最新作での役作りについて聴かせてくれないか」

 マッテオは、にっこりと微笑んだ。女優は、仕方ない人ねという顔をしてから、彼にとってはどうでもいい話を延々と語り始めた。それで、彼は思考を自由に使うことができた。

 彼女が化粧室に消えたとき、彼は立ち上がり、バーのカウンターに向かった。

 一昨日、スーツを着た男がそこに座り、金色の女ものの時計を目の前にぶら下げるようにして眺めていた。それから「ちっ。安物か」といいながらすぐ横にあった大きな陶製の鉢の中に投げ込んだのだ。妙な行動だったので記憶に残っていた。

 そして、今から思うとあれはセレスティンの腕時計にそっくりだったような氣がしてならない。彼は、カウンターに立っている馴染みのバーテンダーに一言二言話しかけると、鉢の中を見てもらうことにした。

* * *


 翌朝、マッテオはセレスティンが入ってくるなり予定を話し出したのを手で制して、口を開いた。
「その前に、少し個人的なことを訊いてもいいかな」

 彼女は伊達メガネを冷たく光らせて答えた。
「いま必要なことでしょうか」
「忘れると困るから」
「では、どうぞ」

 マッテオは、セレスティンの積み上げた書類の山を無造作に横に退けて、マホガニーのデスクの上で両手を組み、彼女を正面から見据えた。

「君は、例のテイラー君と、もう付き合っていないんだろう」
「ええ。たしかに、ジェフとは別れました。でも、それは三ヶ月前のことで、その後に《赤い月》でお会いした時に、ミスター・フェリックス・パークにお引き合わせしたと思いますけれど」

「ああ、そうだったね。で、そのパーク氏とも別れたのかな」
「……。ええ、金曜日のディナーで、別れましたけれど、それが何か」

 マッテオは、極上の笑顔を見せながら言った。
「そうだと思ったよ」
「笑い話にしないでください。そもそも振られたのはあなたにも責任が有るんですから」

「ほう。それは驚いたね。なぜだい」
「あなたがお給料を上げてくださったので、彼の年収を超えてしまったんです。我慢がならないんですって。もちろん、それだけが理由ではないんでしょうけれど」
「そんなことを理由にするような男と付き合うのは時間の無駄だ。別れてよかったじゃないか」
「その通りだと思いますわ。でも、なぜそんなことをお訊きになるんですか」

「なに、いまフリーなら、僕と付き合わないか訊いて見ようと思ったのさ」
「セクシャルハラスメントで訴えられるのと、パワーハラスメントで訴えられるのだと、どちらがお好みですか」
「どうせなら両方だね。でも、君は、そんなことはしないさ、そうだろう?」

「あなたが、いつもの冗談の延長でおっしゃっているなら訴えたりしませんけれど。ともかく真平御免ですわ、マッテオ。あなたをめぐるあの華やかな女性陣との熾烈な争いに私が参戦するとでもお思いですか。そういうどうでもいいことをおっしゃる時間があったら、法務省への手紙に目を通していただきたいのですが」

「わかった、わかった。ちゃんと目を通すから、その前にもう一つだけ訊かせてくれ」
「どうぞ」
「君がなくしたという、あの腕時計だけれど、デザインが氣に入っていたのかい、それとも機能? 他の時計を買いに行く予定があるのかい?」

 セレスティンは、意外そうに彼を見た後、首を振った。
「いいえ。センチメンタル・バリューですわ。思い出がつまっているし、人生のほとんどをあの時計と過ごしてきたので、ほかの時計がしたいとは思えなくて。安物で、周りの金メッキが剥げてきただけでなく、留め金が外れかけていたのでとっくに買い換えるべきだったのでしょうけれど……。仕事に支障をきたしますから、諦めて何かを買おうとはしているんです」

 マッテオは頷くと言った。
「買う必要はないよ。仕事に必要なんだから、僕が用意してあげよう。それまでは、スマートフォンでやりくりしてくれ」

 セレスティンは、じっと彼を見つめた。また何かを企んでいるみたい。でも、用意してくれるというなら頼んでしまおう。自分では、あの時計でないものを買うつもりになれないから。マッテオのプレゼントなら、納得することができるかもしれない。

 マッテオが、誰かに何かをプレゼントする時は、必ず相手の好みを考え、ふさわしいものを贈っていた。成金と陰口を叩く人がいるのも知っていたが、単純に高価なもので人が喜ぶという傲慢な考え方をする人ではないのは、誰よりもセレスティンが知っていた。

「わかりました。お言葉に甘えさせていただきますわ。ところで、手紙に目を通していただけますでしょうか」

 マッテオは悪戯っ子のような魅惑的な笑みを見せてから、最上級の敬意に溢れ、法務省の担当官が必死に粗探しをしても何一つ見つけられないように書かれた、セレスティンの最高傑作である手紙に目を走らせた。

* * *


 それから五日後に、マッテオはいつもより少し遅れてオフィスに入った。ことさら丁寧に朝の挨拶をするセレスティンの様子を見て、内外からのたくさんの電話攻撃を雄々しく交わしてくれたのだろうと思った。嫌味の攻撃が始まる前に、これを渡してしまおう。

 ジャケットのポケットから、無造作に突っ込んであった濃紺の天鵞絨張りの箱を取り出して彼女に渡した。

「え?」
「約束の腕時計だよ。メッキ職人のところに受け取りに行ったんだけれど、十時まで開かなかったんだ」

 メッキ職人? セレスティンは、意味がわからずに戸惑いながら、箱をおそるおそる開けた。そして、自分の目を疑った。愛用していた祖母のプレゼントの時計と全く同じデザインの時計だった。けれど、五番街の高級店で売っているものと遜色がないほど上質のコーティングがされていた。

「どうして……全く同じデザインの時計が? どうやってこのデザインを?」
 マッテオは笑った。
「僕がそれを憶えていたと? まさか。種明かしをすると、これは例の君の時計さ。たまたま僕が見つけたというだけだ」

「見つけた? このオフィスにあったのですか?」
「いや、《赤い月》だよ。偶然、例のパーク氏がこれを捨てようとしたのを目にしてね。君が時計をなくしたと聞いてそれを思い出したんだ」

 セレスティンははっとした。そういえば、別れ話をする前には確かにその時計をしていた。留め金が壊れかけていて、修理しないと落とすかもしれないと思ったのだ。そのあとのデートの惨めな展開に心を乱されたので、時計のことはその晩はもう思い出さなかったのだが。フェリックスが私の去った後にあの時計が落ちていたのを見つけたというわけね。

 それでも、この時計の幸運なこと! 捨てられる現場に居合わせたのが、この時計の彼女にとっての価値を知っている数少ない人物だったというのだから。

「なんてお礼を言っていいのか、わかりませんわ、マッテオ。見つけた時計をそのまま渡していただけるだけでも飛び上がるほど喜んだでしょうに、なんだかものすごく素晴らしく変身していますわね」
「せっかくだから、ちょっと化粧直ししたんだ」

 コーティングし直すときに、純金を使う事も出来たけれど、耐久性を考えて18金のホワイトゴールドにした。怜悧なセレスティンの美しさにふさわしい。金属アレルギーなどが出ないようにもっとも高価なパラジウム系コーティングにしてもらったのだが、メッキが剥がれやすくなるので、通常より多く丁寧に塗り重ねてもらった。

「ちょっとどころではないことぐらいは、わかりますわ。それにネジの部分も変わっていますけれど?」

 前の時計と違っているのは外見だけではない。個人的に交流のある老いた時計師に頼み込み、重さを感じないマイクロローターを組み込んだ自動巻きに変えてもらったのだ。
「ああ、これからは毎朝自分で巻く必要はないよ。これは自動巻きだから」

 一週間近くかかった理由がわかった。それに、おそらくスイス製の高級時計を購入するよりもずっと多くの費用がかかっている。セレスティンは、戸惑いながら訊いた。
「どうしてこんなに良くしてくださったんですか?」

 マッテオは自信に満ちた太陽のような笑顔を見せた。
「君の大切にしている物を、二度と安物か、なんて言わせたくなかったんだ。さあ、セレ。これがあれば、またこれまでのように僕の時間管理を完璧にしてくれるんだろう?」

 セレスティンは、腕時計を左手首につけた。うまく回っていなかった世界の歯車が、カチッと音を立ててあるべきところに収まった。彼女の才能を遺憾無く発揮することのできる世界だ。  

 セレスティン・ウェーリーは、ヘルサンジェル社経営最高責任者マッテオ・ダンジェロの最も有能な秘書として、その日の遅れていてる予定をうまく調整するために、その冷静で切れる頭脳を有効に使いだした。

(初出:2017年9月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

【キャラクター紹介】番外編・子ども&未成年

またしてもキャラクター紹介の記事です。発表済みの作品や、まだ発表していない作品のキャラクターをちょこちょこっと紹介して、作品に親しみを持ってもらおうかな、という姑息な企画ですね。

以前、人間以外をまとめてやった事があるのですが、今回は子ども&未成年を集めてみました。と言っても、私の小説、後から育っちゃったりたりするんで、子どもだけって少ないかなあ。一応、現在時点で子ども形態しか登場していないキャラに限定してあります。(というわけで、マイアとか、23とか、瑠水などはここからは除外しました)


【基本情報】
 作品: 「夜のサーカス」
 名前: ステラ
 国籍: イタリア人
 居住地: イタリア
 年齢: 本編の登場時は16歳

「夜のサーカス」のヒロイン。サーカス「チルクス・ノッテ」でブランコ乗りを勤める少女。六歳の時に出会って運命の人と思い込んだ道化師ヨナタンの側に居たいというだけの理由でブランコ乗りを目指した。後先考えない「火の玉少女」だけれど、努力は人一倍する。

* * *


【基本情報】
 作品: 「リゼロッテと村の四季」
 名前: ジオン・カドゥフ
 国籍: スイス人(ロマンシュ系)
 居住地: カンポ・ルドゥンツ村
 年齢: 本編の登場時は9歳

ヒロイン・リゼロッテのカンポ・ルドゥンツ村での最初の友人。農家の子どもで、幼いながらも学校のないときはちゃんと働く。粗野で物怖じしないが、心根は優しい。ロマンシュ語とスイスドイツ語のバイリンガル。

* * *


【基本情報】
 作品: 「大道芸人たち Artistas callejeros 第二部」
 名前: パオラ
 国籍: イタリア人
 居住地: チンクェ・テッレ、リオマッジョーレ
 年齢: 登場時は6歳くらい?

「大道芸人たち」蝶子 by limeさん
このイラストの著作権はlimeさんにあります。無断利用は固くお断りします。

limeさんの描いてくださったイラストから生まれ、「アンダルーサ −祈り−」という外伝で登場した少女。第二部で重要な役目を負う事になった。母親に育児放棄されているが、周りの大人たちの親切で生き延びている。

* * *


【基本情報】
 作品: 「リナ姉ちゃんのいた頃」
 名前: 遊佐三貴
 国籍: 日本人
 居住地: 東京都目黒区
 年齢: 登場時は14歳だったかな?

ヒロイン・リナがホームステイする事になった家庭の次男。英会話教室に通っていて英語が少し話せるという理由で、ぶっとんだ彼女の面倒を看る羽目になる。常識人のため、よくオロオロする羽目になった。彼女のホームステイが終わった後も、交流を続けているらしい。

* * *


【基本情報】
 作品: 「パリでお前と」
 名前: アンジェリカ・ダ・シウバ=カペッリ
 国籍: アメリカ人
 居住地: ロサンジェルス
 年齢: 登場時は8歳

「ファインダーの向こうに」「郷愁の丘」のヒロイン、ジョルジアの姪。母親はスーパーモデルのアレッサンドラ・ダンジェロ、父親はプレミアリーグ所属のサッカー選手レアンドロ・ダ・シウバ。父親と母親が離婚後、母親と一緒に暮らしているが、複雑な家庭環境のため歳よりも大人びている。

理想の男性は、マッテオおじさん。ウルトラ甘やかされている。ジョルジアとも仲がいい。ジョルジアの買い物のアドバイスもしてあげる事がある。

* * *


【基本情報】
 作品: 「郷愁の丘」
 名前: マーガレット(メグ)&エンリコ・ブラス
 国籍: ケニア人
 居住地: ケニア中部ヴォイ
 年齢: 登場時は5歳と0歳

「郷愁の丘」の主人公、グレッグの姪と甥(正確には腹違いの妹の子ども)。母親は動物学者レイチェル・ムーア博士の娘マデリン(マディ)、父親はイタリア人実業家アウレリオ・ブラス。ストーリー中盤までエンリコは生まれていない。メグは、グレッグに懐いていないが、ジョルジアには即座に懐いた。そのおかげで後ろ向きな主人公たちが近づくきっかけができる。

エンリコの初登場は外伝「絶滅危惧種」ただし、この時は性別も名前も出てきていない。エンリコは男の子。アウレリオがイタリア系の名前を付けた。

ちなみにずっと後(とくに書く予定もないし)だが、上のアンジェリカと、メグ&エンリコは知り合うことになるはず。
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Tag : キャラクター紹介

Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(7)滞在と別れ - 3 -

「郷愁の丘」の続きです。「滞在と別れ」、三回に分けたラスト部分です。

実をいうと、ここまで書いてきた《郷愁の丘》での滞在時間よりも、今回発表する分での滞在時間のほうがずっと長いんですけれど、いつまでも細かく描写しても意味がないので具体的な描写はなく、すっ飛ばしています。

ジョルジアは、この旅行の大半を《郷愁の丘》で過ごしましたが、休暇が終わるのでニューヨークに帰らなくてはいけません。(当たり前ですね)

次回はニューヨークに帰ってからの続きですが、その前に「十二ヶ月のアクセサリー」と「バッカスからの招待状」が挟まりますので九月十三日の更新です。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(7)滞在と別れ - 3 -

《郷愁の丘》に滞在した二週間は、あまりにも早く過ぎ去った。

 ライカをいつも手元に置き、彼を撮り続けた。サバンナで、イクサの街で、一度は講師として働いている大学で講義している時も。それから、《郷愁の丘》で、柵を修理したり車の整備をしている姿も。厚い本を繰って何かを調べる真剣な表情。ワインのコルクを抜いている時のリラックスした笑顔。

 モノクロームのフィルムは全て使い切った。何度かここぞという瞬間に出会った。写真集に収める一枚という意味では、現像を待たずに手応えを感じていたが、あの墓地で感じた人生を変えるほどのシャッターチャンスとは思えなかった。少なくとも、彼女の魂の発露とは言いがたかった。

 グレッグは協力的で好意に満ちているのに、とても難しい被写体だった。何度か感じた「彼を捕らえた」勝利感は幻想だった。それは蜃気楼のように消えていく。シャッターを切った瞬間には間違いなくこれだと思うのに、指を離した時にはもう自信を失っていた。これほど自分に近いと感じるのに、それが何であるのかわからない。それは《郷愁の丘》も同じだった。

 朝は、世界が色の魔法で繰り返し魅了した。彼女は、早く起きてルーシーと散歩をするグレッグと合流するようになった。こちらを撮るためにはモノクロームではだめだとわかっていたが、頼りにならないコンパクトカメラは、部屋に置いたままだった。彼女の心をかき乱す色も、この丘に佇む一人の男のと忠実な犬の感情も、今の彼女とこのカメラでは映し出す事は出来ない。それだけはよくわかっていた。

 この《郷愁の丘》には、もっとずっと深く、慎重に探し当てねばならない啓示があった。深遠な秘密。「その名を助けを求めずお前だけの力で明らかにせよ。そうでなければ何ひとつ知る事は許されぬ」と明確に彼女に訴えかけてきた。

 それは、何でもない朝食の準備や、午後にハンモックの上でまどろむ穏やかな時間ですらも、常にジョルジアの中に点滅し、くすぶり続けた。

 魂の叫び。心の闕乏。それとも、ニューヨークではほとんど意識にも上らない、神という存在への讃美。力強くめぐる生命の神秘へ喝采。命あふれる惑星に佇むとても小さな間借り人である事の確認。《郷愁の丘》は、ジョルジアがこれまで経験した知覚をはるかに凌駕した特別な存在だった。頭脳で知り考えるのではなく、心と魂で感じる土地だった。

 自分がそうではない世界に属している事がぴんとこなかった。ナイロビで予定していた滞在を全てキャンセルし、帰る二日前まで二週間も《郷愁の丘》に滞在し続けたが、時は同じように機械的に進み、彼女は出発しなくてはならなかった。

 グレッグは、それまでと同じように淡々と、穏やかに最後の朝の散歩と朝食を共にした。特別な事は何も言わなかった。ジョルジアは、レイチェルの家で聴いた彼の告白が本当の事だったのか自信をなくしていた。

 いつものように礼儀正しく彼がランドクルーザーに彼女の荷物を運び込むと、ルーシーは嬉しそうに車に飛びのった。ジョルジアの心はそれほど弾んでいなかった。《郷愁の丘》に暇を告げることは、とても辛い事だった。明日、目が覚めても、朝焼けの中をグレッグやルーシーと散歩する事はないのだ。この二週間、ずっとあたり前のように続いた興味深い対話もこの午後からはひとり言になるのだ。

 駅に着くまで、彼の様子はずっと変わらなかった。穏やかで優しく心地いい態度。道の悪さからやたらと時間のかかるドライブも、今日ばかりはもっと長く続いてもいいのにと思えた。《郷愁の丘》へと続く寂しい自然道は終わり、舗装された道にたどり着いた時、駅を示す標識が表れた時、彼女は残念な氣持ちになった。

 そして、車は本当に駅についてしまった。
「なんとか間に合ったね。あと二十分ある」

 彼は、荷物を持ってホームまで来てくれた。
「ありがとう」
「途中で何か問題があったら、遠慮なく連絡してくれ」
「ええ。そうしたら、また《郷愁の丘》に泊めてくれる?」

 彼は、目を細めて「いつでも」と言った。

 電車が入ってくる。別れの時が迫っていた。ジョルジアはどんな風に彼と別れるのか戸惑った。

 彼女は親しくない人とハグをするのが苦手だった。ヨーロッパ式に頬にキスをされるのも、よほど親しい相手でないと緊張した。だから、普段仕事で会う人たちや単なる知人たちとは、握手をするのが一番ストレスなく感じるのだった。けれども、グレッグに対しては、ハグやキスも嫌だとは思わなかった。彼もそう望むのなら、それはとても自然なことだった。

 だが、彼は「じゃあ、さようなら」とだけ言った。握手すらしようとしなかった。レイチェルの家で怪我の手当をしてもらって以降、彼が一度も彼女に触れなかった事を、その時ジョルジアは始めて思い出した。

 彼とは対照的に、尻尾を振ったルーシーがしきりに彼女の手の甲を舐めて別れを告げた。
「さようなら、グレッグ。素晴らしい二週間だったわ。どうもありがとう」
車内に荷物を載せてくれて降りようとする彼に、ジョルジアは、万感の想いを込めて言った。

「僕こそ、礼を言うよ」
「何に対して?」
「僕のところに来てくれて。一緒に時を過ごしてくれて」
降りる後ろ姿だけで、表情は見えなかった。ジョルジアの心はまた締め付けられた。

「写真、現像したら送るわ。手紙も書くわね」
電車はゆっくりと走り始めた。彼女はホームのグレッグとルーシーに手を振った。
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Posted by 八少女 夕

Pfifferlinge(アンズタケ)もらった

今日はグルメ、それも「小さい秋みつけた」な話。(なんだそりゃ)

Pfifferlinge(アンズタケ)

先日、こんなキノコをいただきました。そろそろキノコ狩りのシーズンなんですね。スイスアルプスでは、秋になるとキノコを求めてハイカーたちのみならず、目の色を変えたイタリア人たちが押し寄せてきます。イタリア名物でもあるポルチーニ茸をスイスで狩りまくるというわけです。

キノコ狩りにはルールがあって、自治体によって違いますが一人あたり二キロまで、または三キロまでという制限がされています。それをこっそり二十キロくらい採ってしまって国境で見つかって没収なんてことも、毎年ニュースになります。

さて、頂いたのはPfifferlinge(アンズタケ)というキノコです。こちらもかなりお高いキノコで、私は店ではなかなか手がでません。今回はそれを500グラムも頂いてしまいました。

採りたてだったので、まだ土が付いていました。

お料理をする方はご存知だと思いますが、「キノコは水洗いをしちゃいけない」んですよ。美味しさが全て水に流れてしまい、更にとても水っぽくなるからです。栽培されたキノコならちょっと拭けばきれいになりますが、野生のキノコの場合は洗わずにきれいにするのは至難の技です。ブラシや紙ナフキンで一つ一つ丁寧に拭いていくのです。これが面倒臭い。

このキノコが我が家に回ってきたのも、おそらくこの面倒くささをしたくなかった人たちが、辞退したからだと思うのです。そうじゃなかったらこのキノコがたらい回しになんてなるはずないんです。

涙目になってきれいにしていたら、見かねた連れ合いがちょっとだけ手伝ってくれました。彼が受け取ってきた手前、私の逆鱗に触れるのが怖かったのかも?

Pfifferlinge(アンズタケ)のパスタ

で、私は日本人なので、アンズタケのレシピなんて頭に入っているわけはありません。でも、以前食べた記憶を元に力技で作ってみました。

アンズタケは食べやすく切り、エシャロットのみじん切りとニンニクをオレーブオイルで炒めて香りが立ったたフライパンに投入します。火が通ってきたら白ワインをかけ、塩胡椒それにチキンスープの素で味を整えて生クリームを投入。タイムを散らしてパスタソースの出来上がりです。

パスタは以前買った栗の粉を使ったブレがリアの名産パスタを使ってみました。秋の味っぽくするために。味見ではなんか物足りないような氣もしましたが、食卓でパダーノ・チーズを振りかけたら、ばっちり。

美味しかったです。
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(7)滞在と別れ - 2 -

「郷愁の丘」の続きです。「滞在と別れ」の二回目です。

まるで当たり前のように滞在していますが、ジョルジア、要するにほとんど知らなかった人の家にずっといるのです。彼女は年に一度、たいてい三週間から一ヶ月の休暇をまとめて取ります。今回の旅は三週間ほどという設定で、アメリカを出発してからここに来るまでが一週間ほどでした。

少し退屈かもしれませんが、今回のパートには、このストーリー上では大切な会話が入っています。ただし、既に外伝でいくつか開示した情報が混じっているので、たいして目新しくないかもしれません。グレッグが事情を自分で語るのは、多分ここが初めてじゃないかと思います。

ジョルジア、写真撮っていないじゃん、というツッコミが今回も入りそうですが、撮るところの前で切ってしまいました。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(7)滞在と別れ - 2 -

 翌日、彼はジョルジアを連れてマサイの村に寄った。茨で出来たボマといわれる大きな円形の柵の中に牛の糞で作った小屋が何軒も建っている。マサイの集落はハエが非常に多い。牛とその糞による湿氣がハエを呼ぶのだ。けれども牛の糞自体はさほど臭うものではない。糞だと思わなければさほど氣持ちの悪いものでもない。

 かつて撮影で連れて行ってもらったマサイマラの集落よりも小さい上、商売氣が少なかった。あの時は無秩序に人びとが集まってきた。頼みもしないのに色とりどりのビーズで作った首飾りをかけて売りつけようとしたり、自分の子どもの写真を撮らせてチップをもらおうと手を差し出しながら近寄ってくる者もいた。だが、今回は幾人かの男たちが興味を持って近づいては来るものの、グレッグが話そうとしている長老よりも前に出てこようとするのは子どもたちだけだった。女たちはそれぞれの家で仕事を続けていた。

 小さい子どもたちはジョルジアの周りに集まり、めずらしそうにあちこちに触れた。あまり日焼けのしていない肌や短いけれども縮れていない艶のある髪に興味を持ち、小さな手で触れてきた。

 グレッグは、短くマサイ語で挨拶した。長老はそれに答えて重々しく何かを語った。
「なんていったの?」
「彼は誤解しているんだ。僕が恋人を連れてきたと思って」

 彼は長老に英語ではっきりと言った。
「違うんだ。この人はお客さんで、僕の恋人ではない」
 長老は動じた様子もなく、さらにマサイ語で何かを重々しく告げた。

「なんですって?」
ジョルジアは、訊いた。グレッグは、少し悲しげな瞳をしていた。しばらく何も言わなかったが、それから口を開いた。
「僕にもなんと言っているのかわからない」

 ジョルジアは、きっと彼は長老の言葉の意味はわかったのだろうと思った。でも、通訳するつもりはないのだ。強いれば、もっと彼を悲しませる事になるような氣がした。

 彼は、サバンナの水場について長老と話をしていた。長老は聴き取りにくい英語で重々しく告げた。
「心配ない。ここしばらく雨が多いので、我々は牛を遠くに連れて行く必要もない。シマウマの群れは今年は《骨の谷》で渡るだろう。あの川は幅が狭く渡るには好都合だが、おそらくいつもより多くワニも待ち受けている事だろう。お前も氣をつけなさい」

 《郷愁の丘》に戻り、ジョルジアは昨夜作っておいたシチューを温めた。普段作るなんということのない料理も、添えるものがパンではなくウガリ(白いコーンミール)になっただけでアフリカの料理らしくなる。テーブルの用意をしているグレッグに彼女は訊いた。

「シマウマの通り道を教えてもらいにいったのね」
「そう。彼らは経験豊かで、伝承による叡智も受け継いでいるから、僕の予測よりもずっと正確なんだ」

「ワニが多いって言っていたけれど」
「そうだね。シマウマやヌーたちは、一斉に川を渡るんだ。ワニはそれを待ち構えている。ワニが一頭を襲い食べている間に、他のものは川を渡り切る」

「そんな危険があっても、川を渡るのね」
「そうしなければ、ここが乾季で干上がってしまうからね。彼らはどうしても南に行かなくてはならないんだ」

「そして、雨季になるとまた戻ってくるのね」
「そうだ。そして、次々と子どもが誕生するんだ」

 食後に二人はワイングラスを持ってテラスに移動した。涼しくなった風が心地よく渡っていく。

「あなたはそのシマウマの外見を憶えてしまうんでしょう?」
「ああ。生まれてから立ち上がるまで見守っていると、特徴が頭に入ってしまう。それから毎日みて、生き延びている事にほっとしたりする」

 ジョルジアは微笑んでから、赤ワインのグラスを持ち上げた。生き延びたシマウマに乾杯して二人はワインを飲んだ。
「名前を付けたりするの?」
「いや。サイやライオンやゾウのようにはいかないな。星の数ほど生まれて、そのうちの多くがあっという間に死んでいく。もっとも一度名付けた事がある。もう二度とするまいと思ったよ」

「どうして?」
「名前を付けるというのは特別な行為だと思い知った。つけた途端に大きな思い入れが発生する。ハイエナやライオンに追われるのを助けたくなってしまうんだ。もちろんそんな事は許されないからしなかったけれど」

 特別な行為と聞いて、彼女は氣になっていた事を訊いてみようと思った。どうしてみなが呼ぶヘンリーではなくて、グレッグと呼んでほしいと言ったのか。
「ねえ。グレッグという名前には特別な思い入れがあるの?」

 彼は、グラスを置いて彼女を見た。
「祖父から受け継いだ名前なんだ」
「お祖父様っ子だったの?」

 彼はしばらく黙っていた。ジョルジアが他の話題を持ち出すべきかと考えていると、彼は立って中に入り、書斎からセピア色の写真の入った額を持ってきた。彼とどことなく似ている老人と、並んで座っている五歳くらいの少年が映っていた。

「これはあなたなの?」
「ああ」

 彼は、ジョルジアの隣に座って話しだした。
「父と母ははじめからとても折り合いが悪かった。母は生まれた僕に自分が望む名前を付けたがった。だから父は、母が候補にした名前の中で、あえてスコット家に代々伝わる名前ではないヘンリーを選んだ」

 ジョルジアは、何と言っていいのかわからないまま彼の話を聴いた。
「父は僕の曾祖父、彼の祖父のトマス・スコットを尊敬していたが、アルコールに弱く学者にならなかった自分の父親グレゴリー・スコットのことは尊敬していなかった。だからヘンリーなどと付けずに、自分の名前を付けろと彼が言うと、アルコール中毒の義父を毛嫌いしている妻への嫌がらせでそれをミドルネームにしたんだ」

 悲しそうな顔をしているジョルジアに、彼はいつものように穏やかに微笑んで首を振った。
「僕は、祖父が好きだった。両親が留守がちで友達もいなかった僕は、一人でいる事が多かったけれど、そんな僕のために彼は時間をとってくれた。彼は僕のことを『小さいグレッグ』と愛情を込めて呼んでくれた。母が父と離婚してイギリスへ引越したのは僕が十歳のときで、直接逢ったのはそれが最後になった。もっともずっと手紙を書いていたから関係が途切れたわけじゃなかったけれどね」

「お祖父さまは……」
「十三年前に亡くなった。僕を氣にかけてくれて、わざわざ遺言で僕にいくばくかのものを残してくれたんだ。だから僕はこの《郷愁の丘》を買うことが出来たんだ」

「そうだったの」
「両親が離婚する時に、母は養育費を要求した。するとそれを拒みたかった父は僕にDNA検査をさせたんだ。それで僕は間違いなく父の子供だと証明されて、大学にまで進めたけれど、同時に父親に我が子ではないと疑われていたことも知ってしまった。離れていたこともあり、僕は父にはどうしても必要がある時以外は、自分から話も出来なくなってしまった。父もクリスマスにすら連絡をよこさなくてね。それで祖父は亡くなるまで僕たちの関係を心配してくれたんだと思う。相続する時に、ケニアに戻ってきて弁護士の所で十五年ぶりに父に会った。イギリスではなくてケニアで研究をしたいとようやくその時に言えた。彼は少なくとも反対はしなかった」

「お母様は?」
「バースにいる。こちらに戻ってから一度も逢っていない。クリスマスカードのやりとりはしているけれど」
「ケニアに戻って来たことがお氣に召さなかったの?」

「いや、僕が何をしようがさほど興味はないと思う。イギリスに戻ってしばらくは一緒に住んでいたけれど、僕が寄宿学校に入るとすぐに再婚して、新しい家庭を作った。あまり歓迎されないのがわかっていたので、休みの期間にもいつも寄宿舎に残っていたよ」

 胸が締め付けられるようだった。この人はなんて寂しい境遇で育ったんだろう。あまり裕福ではない漁師だったジョルジアの両親もほとんど家にいなかった。だが、彼女には歳の離れた兄マッテオと妹アレッサンドラがいた。妹二人を溺愛する兄の深い愛情、そして忙しくとも会える時には精一杯の愛情を注いでくれる両親の暖かさで、ジョルジアとアレッサンドラは常に幸福だった。

「父も母も、みなヘンリーと呼ぶ。でも、僕には祖父が呼んでくれた『小さいグレッグ』こそが本当の名前に思えるんだ」
「ええ。グレッグ。私もそう思うわ」
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Posted by 八少女 夕

夏の土曜日、やっていたことは

日本の皆様、大変暑いそうですね。こちらは、申し訳ないほど快適、といいたいところでしたが、ここ数日は涼しいというか、すでに寒いに近い領域。土曜日の午前十時に13℃って。八月ですよ、八月!

そんなこんなもあって、どこにも行かずに自宅にこもっていました。そして、ここ数日やっているのは、あいかわらずMacの番人なのですが、先週から少しいつもと違う事をしています。

以前もこのブログで少し書いたことがあると思うのですが、私の曾々祖母、つまり祖母の祖母は明治時代に日本に嫁いできたドイツ人なのです。で、しばらくはあったドイツの親戚との交流は、日本の敗戦、二度の世界大戦でドイツが負けて国の変わった地域のドイツ人が移住を余儀なくされたことで途絶え、現在どこにいるのかわからなくなっています。

私がスイスに来てから、せっかくドイツ語が話せるし、近くに住んでいるのだからと何度かこの失われた親戚を探せないかとトライしているのですが、いまだに果たせていません。

その捜索に、新しい展開が起きたのがこの月の初めです。

かつて電車で偶然知り合った方からの紹介で、ある親切な方の協力を得て、曾々祖母の両親のことがわかったのです。

もともとこの父親のことがわからなかったのは、出生時に両親が結婚していなかったせいで洗礼時の苗字が母親の旧姓だったから。そんなこと知るわけないし!

で、それがわかったのと、こういう事を調べるための特別なサイトの存在を知ったおかげで、芋づる式に曾々祖母の祖父母や姉妹のこともわかってきました。わかったはいいけれど、これまで聞いていたことと結構違っていて、わかればわかるほど検証が大変になりました。

なんで私、1850年代の、こういう手書きの読み難いアルファベットと夜な夜な格闘しているんだろう。

公文書

おかげで書かなくちゃいけない「十二ヶ月のアクセサリー」も「バッカスからの招待状」も全然手つかずのまま。これはまずいです。

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

read more


ちなみに先祖を調べるサイトというのはこれです。
基本的に細かい内容を見るためには、登録して会費を払わなくてはなりません。私はとりあえず一ヶ月分は払いました。継続するかは考え中。

ancestry.de
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(7)滞在と別れ - 1 -

一週あきましたが、再び「郷愁の丘」の続きです。この部分も少し長いので三回に分けます。

前作をお読みになっていらっしゃらない方のためにちょっと説明すると、ジョルジアは弱小出版社の専属カメラマンとして無名だったのですが、この前の年に世界中の子供の笑顔をテーマにした写真集『太陽の子供たち』が評判になり、『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』の一般投票部門で六位入賞という快挙を果たしています。現在は一般受けする子供の写真から離れてモノクロームで大人の写真を撮っています。



郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(7)滞在と別れ - 1 -

 また激しい雨が降った。彼女の心はサバンナへと向かった。稲光の中で浮かび上がるアカシアの樹とキリンのシルエット。シマウマのくっきりとした縞の上を伝って落ちる雨水。

 天の恵である雨は、けれどもその瞬間には厳しい自然の猛威であり、屋根どころか傘すら持たない動物たちの上に等しく降り注いでいる。彼女は、サバンナで見かけた生まれたばかりのガゼルやシマウマの子どもたちが怯えていないか考えた。彼らにとっては初めての雷雨なのだ。

 生まれてすぐに立ち上がり、母親の与える乳を満足に飲む前に危険を避けて移動する術を学ばされる小さな生き物たち。自然の厳しい掟の中で、それでも続いていく生命の環は神々しいほどに美しかった。

 それに較べれば、ニューヨークで彼女が一喜一憂している、写真集の売上や雑誌に載ったシリーズの評判などは、取るに足らない杞憂だった。そして、世界中の称賛を受ける妹と比較されることへの抵抗や、彼女や成功した兄が自由に泳いでいく社交界の海に近寄る事すら出来ない不甲斐なさもどうでもいいのだと思えた。

 そう思っていた《郷愁の丘》の彼のリビングに、よりにもよって彼女が『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』に受賞した特集号である写真誌《アルファ》があるのを見つけた時には、その皮肉に思わず笑った。表紙に映っているのは授賞式のために着飾っているジョルジア自身なのだ。

 彼女は、不意にレイチェルの家で知った事を思い出した。彼はジョルジアの写真集を全て購入していた。それにこの特集号の存在も知って、わざわざアメリカから取り寄せたに違いない。彼女が、知り合ってもいない有名ジャーナリストに恋をしてしまい、その著作やレポートの載っている雑誌を買って読んでいたのと全く同じように。

 ジョルジアはジョセフ・クロンカイトとの恋が実るとは露ほども考えなかった。彼の側に間もなく婚約が発表されるだろうと噂された美しい女性がいたこともあるが、それ以前に彼女には愛の成就は遠すぎる願いだった。

「君のような化け物を愛せる男などいるものか」

 かつて投げつけられた言葉は、彼女の世界を変えてしまった。息ができなくなるほどの苦しいショックを何ヶ月もかけて克服した後、生身の恋愛はもはや彼女とは無縁の壁の向こうの出来事に変わってしまっていた。それから十年も可能な限り人と関わらずに生きてきたので、それがあたり前になってしまい、恋をしても片想いのままで終わる以外の選択はなかった。

 この《郷愁の丘》に来る直前に知った、グレッグに女性として愛されていたという事実は、彼女に大きなショックを与えた。それなのに、何事もなかったかのような紳士的で穏やかな彼の態度に慣れて、彼女は既にその事実を忘れかけていた。《アルファ》の表紙に映った授賞式用に特別に装った彼女自身の姿は、いかにもその場にあるのが不自然な存在として目に映った。非現実的でまるでオーパーツのようだった。

 彼女が黙ってその表紙を眺めているのを見ながら、彼は言った。
「そういえば、まだちゃんと言っていなかったね。受賞、おめでとう」

 彼女は、はっと我に返った。彼はさっきまでと変わらない。友情に満ちて穏やかな教養高い紳士だった。この《郷愁の丘》に関する全て、生命と孤高と美しさと厳しさを秘めた世界の専門家として、つまり、彼女を強く惹き付ける全てを兼ね備えたまま、彼女を唯一困惑させる異性としての氣配を消してそこに存在していた。

 彼女は、そのたゆまぬ努力にはじめて意識を向けた。愛する人を前にしてあふれそうになる想いを常に隠す事は、彼女に可能だろうか? 可能だとしても、それは何と苦しいことであるか。もし、彼がその苦しい努力を、ただ彼女のために続けてくれているとしたら、それは何とありがたい事なのだろう。

 それとも、親しくなった事で、彼の幻想が打ち砕かれ、彼は努力すら必要とせずに想いを消したのだろうか。そう思えれば、負い目はなくなるのに、彼女はそれを信じたくなかった。どこかで彼の崇拝を手放したくないと思っている。彼にとって、誰よりも特別な存在で居続けたいと願っている。なんというエゴイスムだろう。

「賞をとれたのはあなたのおかげよ」
彼女は、自分の中のこの不穏な想いから眼を逸らすために、努めて明るく彼に話しかけた。
「どうして?」

「あの時撮ったマサイの女の子の笑顔が評判よくて、いくつかのメディアで取り上げられたの。それで『太陽の子供たち』の売上が予想外に上がったの。あなたが長老に交渉してくれなかったらあの写真は撮れなかったもの」

 彼は笑った。
「それを聞いて嬉しいよ。たしかにあれはいい写真だった。その場にいたのに、僕は彼女があんな表情をした瞬間に氣がつかなかったよ」
「あの子、どうしたのかしら」

「数ヶ月前に、あの集落を訪れたよ。赤ん坊を背負っていたな」
「まさか! あの子、まだ幼児だったじゃない」
「彼らの結婚は早いけれど、さすがにまだだろうな。生まれてすぐに親が婚約を決めるけれど、実際に女の子が結婚するのは十三歳から十五歳くらいなんだ。背負っていたのはたぶんあの子の兄弟だと思うよ」

「そう。でも、小さな子供が兄弟の子守りをするのね。私の姪は、あの子より少し歳上だけれど子守りをするなんて考えられないわ」
「そうだね。あの子たちは欧米の子どもたちよりも早熟だ。六歳ぐらいから親の手伝いをするのが普通で、それはマサイ以外の部族でもそうだな。子供を背負ったまま十キロ近く歩いて学校に通う子もいるし、亡くなった母親の代わりに煮炊きをしているのをみた事もある」
「ここでは人生サイクルのスピードが私たちとは全く違うのね」

 彼は思い立ったように提案した。
「明日、マサイの村に行ってみるか? この近所の部族だから、あの子はいないけれど」
「いいの? 調査の件で行くんでしょう? よそ者がついて行ったら嫌がられない?」

 彼はじっとジョルジアをみてから言った。
「君なら大丈夫だ」
「どういうこと?」

「欧米の都会から来る人たちの中には、マサイ族を見せ物小屋のエンターテーナーのように扱う人たちがいる。飛び上がる所を写真に撮りたいとかね。彼らの生活の中に遠慮もなしに割り込んで、いますぐあれを見たい、これをしたいと要求するんだ。一部の部族は、既に観光客相手にショーをする事で生計を立てている人たちもいる。でも、僕が逢いに行く人たちは昔ながらの生活様式を守っていて、彼らのペースで誇りを持って生きている。君は、小銭を投げて、いいことをしてやっていると思うような傲慢な人じゃない。彼らの生活を尊重する事を知っている。だから、連れて行っても彼らは嫌がらないだろう」
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Posted by 八少女 夕

パンのお供(3)赤スグリのジェリー

真っ赤な自然の色、赤スグリのジェリー

今年の「scriviamo!」で題材にした赤スグリのジェリーを今年も作りました。英語で言うとレッドカラント、ドイツ語ではヨハネスベーレンと呼ぶ真っ赤な実は、毎年六月末から七月の頭に実ります。

この実は本当に宝石のように綺麗なんですけれど、かなり酸味が強くて、そのまま食べてもあまり美味しくありません。というわけで、ほぼ同量の砂糖と一緒に煮詰めてジェリーにします。

子供の頃、家の近くにアメリカ資本のスーパーマーケットがありました。そこには、今でいう明治屋にあるような舶来の高級食材が揃っていて、中を歩くとちょっと海外のスーパーに行ったような独特の洒落た雰囲氣を楽しむ事ができました。

で、スイスのHeroのジャムもありました。Heroのジャムは今の東京ならたいして珍しくないかもしれませんが、当時は滅多に見なかったように記憶しています。その一つがレッドカラントのジェリーでした。真っ赤なジェリーにナイフを入れてパンに載せると断面がキラキラして宝石みたいに見えましたっけ。

こちらに移住してからHeroのジャムは「どこにでもある普通のジャム」に格下げされてしまいましたが、ホテルの朝食などで赤スグリのジェリーをみるとやはり嬉々として手にしてしまいます。

赤スグリ、加熱中

自分で作るのもかなり簡単です。

同量の砂糖と一緒に混ぜながら加熱します。煮立ってからは絶対に混ぜないようにする事とレシピに書いてありました。八分沸騰させたら、ざるで濾します。この時に実を潰すと苦みが出て、さらに色が濁ってしまうそうです。あとは煮沸した瓶に詰めるだけ。簡単でしょう?

赤スグリは大量のペクチンを含むので砂糖だけで固まるというのですが、私が作ると大抵ゆるくなりすぎるのです。ペクチンを混ぜて固めるという方法もありますが、このゆるい状態だと、デザートソースなどにも使えるので、わざとこのままにしています。
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Posted by 八少女 夕

【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記  母の櫛

今週は「十二ヶ月のアクセサリー」七月分を発表します。七月のテーマは「櫛」です。

櫛はジャパニーズなものを書きたいと思っていたので、また例の放浪者に登場してもらうことにしました。「樋水龍神縁起 東国放浪記」の続きです。江戸時代の話にすれば完璧にアクセサリーになったんですが、平安時代ですからまたしても「これ、アクセサリーじゃないじゃん」になってしまいました。ま、いいや。「十二ヶ月の野菜」の時もかなり苦しい題材を使いまくりましたから、いまさら……。

今回の話、実は義理の妹姫も出そうと練っていたんですが、意味もなく長くなるので断念しました。本当は五千字で収めたかったのですが、止むを得ず少し長めです。すみません。


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樋水龍神縁起 東国放浪記
母の櫛


 それは、屋敷の庭では滅多に見ない大木であった。大人が抱えるほどの幹周りがあり、奥出雲の山深き神域で育った次郎ですらも見たことがないほど背の高い柘植は、おそらく樹齢何百年にもなろうかと思われた。屋敷を建てる遥か昔からここに立っていたのであろう。根元から複数の枝が絡み合うように育ち、一部は苔むしている。

 安達春昌と付き従う次郎は、丹後国を通り過ぎようとしていたところだった。一夜の宿を願ったのは村の外れの小さな家で、人好きのする若き主は弥栄丸といった。

「すると、あなた様は陰陽師でいらっしゃるんで?」
彼は昨夜、春昌に陰陽の心得があることに大きな関心を示した。

「かつては陰陽寮におりましたが、現在はお役目を辞し、この通りあてもなく旅をする身でございます」
春昌は、この旅で幾度となく繰り返した答えを口にした。弥栄丸は春昌が役目を辞した事情よりも氣にかかっていることがあったので、詳しい詮索をしなかった。

「実は、私めがお仕えしているお屋敷で、なんとも不思議なことが起きまして、困っているのでございます。先日、この辺りでは名の通った法師さまに見ていただいたのですが、どうも怪異は収まらず、殿様は、もっと神通力のあるお方に見ていただきたいと思っていらっしゃるのです。と申しましても、このような田舎ではなかなかそのような折もございませんで。ですから、都の陰陽師の方がここにおいでになったとわかったら、殿様は何をおいてでもお越しいただきたいと願うはずです」
「あなたがお仕えしていらっしゃるのは」

「はい。この郡の大領を務める渡辺様でございます。私めは従人として、お屋敷の中で姫君がお住いの西の対のお世話を申しつかっているのです。その寝殿の庭の柘植の古木に人型のようなものが浮かび上がってまいりまして、女房どもがひどく怖がっております。そして、お元氣だった姫君が病に臥すようになられたのです。もしや何者かが調伏でもしているのではと、お殿様は心配なされていらっしゃいます」

「姫君? お一人別棟にお住まいなのですか」
「はい。実は、この姫様は、北の方のお生みになった方ではなく、殿様のもとで湯女をしていた方がお生みになったのです。殿様は、北の方に隠れて長いことこの女を大切にしていたのですが、何年か前に流行り病で亡くなってしまわれました。姫君はそれから観音寺に預けられておりました。ところが、位の低い女の娘とは思えぬほど美しくお育ちになり、殿様がこの娘をこちらを狩場となさっておられる丹後守藤原様のご子息に差し上げたいとお思いになり、一年ほど前にお引取りになったのです」

「姫君のお身体に差し障りが起きたのは、それ以来なのですか」
「いいえ。床に臥すようになられたのは、ここ半年ほどです。殿様も北の方もご心配になられてお見舞いにいらしたり、心づくしのものをお届けになったり、なさっていらっしゃるのですが」

「そうですか」
春昌は頷いた。

「姫様をお助けいただければ、私めもありがたく思います。ほんにお優しい姫君でして。私のことも心安く弥栄丸と呼んで頼みにしてくださっているのです」

 そして、二人は翌日の昼過ぎにこの弥栄丸に連れられて、渡辺のお屋敷へと向かったのだった。
「お殿様から、ぜひお力添えをいただきたいとのことでございます。御礼はできる限りのことをさせていただきたいと仰せでした」
「何かお手伝いができるかわかりませぬが、まずはその柘植の木を拝見させていただきましょう」

 弥栄丸は春昌と次郎を屋敷へと案内した。西門から入ると件の大木はすぐに目に付いた。その根が庭の半分以上を占めていて、しかもよく見る柘植の木のように行儀良く育たず、太い幹が伏してから斜めに育っていた。大きく枝を広げておりそのためにその木の下は森の始まりのような暗さだった。西の対の寝殿に面した側面に、言われてみると確かに人型に見える文様が浮き出ていた。

「弥栄丸。都の陰陽師さまとは、そちらのお方か」
寝殿の縁側からの明るい声に振り向くと、菜種色の表地に萌黄の裏が美しい菖蒲襲を身につけた女性が御簾から出てきたところだった。

「これ。姫様! なりませぬ」
慌てて、侍女と思われる歳上の女が追いすがるが、姫君は履物を引っ掛けさっさと春昌のところまで進んできた。さほど位の高くない大領の娘とはいえ、とんでもない行為だ。次郎はあっけにとられた。

「安達春昌にございます」
春昌は深く礼をし、次郎もそれにならった。こんなはしたない姫君に国司のご子息を婿に迎えようというのは、無謀にもほどがあると次郎は心の内で思ったが、確かになかなかに美しい姫君で、しとやかに振る舞えば評判にもなろうと思った。

「あたくしは夏といいます。安達様。これは誠に禍々しいものですの? あたくしには、ちっとも恐いものには思えませんの。それにあたくしの病、いつもひどいわけではないのよ。例えば、今日はとてもいいの。あたくしなんかを呪詛しても、誰も得をしませんし、とてもそんな風には思えないのだけれど」
 
 夏姫は人懐こい笑顔を見せた。次郎は、確かにこのように朗らかで、誰にも分け隔てなく接する姫は、皆に好かれるであろうと思った。

「今から、調べてみようと存じます」
春昌も、珍しく柔らかい表情をして姫君に答えた。

 姫はにこにこと笑った。
「あたくしも見ていていいでしょう。ああ、今日はとても暑いわね。生絹すずしぎぬで、出てこれたらいいんだけれど、それだけはサトも許してくれないから、我慢しなくちゃ」

 それを聞いて次郎は真っ赤になった。生絹は袴の上に肌が透けて見える着物だけを身につける装束だ。彼がかつてお仕えしていた奥出雲樋水の媛巫女はもちろんそのようなだらしない姿をすることは決してなかったが、やんごとない女性は御簾のうちでそのような形をしていると、郎党仲間に教えてもらったことがあった。

「でも、これくらいはいいわよね」
そういうと、姫は懐から美しく彩色された櫛を取り出して長い髪をまとめ出した。そして、櫛を口に咥えるとまとめた髪をあっという間に紐で縛った。

「姫様!」
サトと呼ばれた侍女が姫君らしくない振る舞いをたしなめるが、夏姫は肩をすくめただけだった。

 その様を横目で捉えた春昌は、柘植の木を見るのをやめて、寝殿の縁側に控えているサトに訊いた。
「姫君の御患いはいかなるものなのですか」

 サトは、突然話しかけられて少し驚いたが、丁寧に答えた。
霍乱かくらんのように、悪しくなられます。また高い熱がでて、ひどい眠たさに襲われることもございます。他の皆様と同じものを召し上がられておりますが、姫君だけがお苦しみになり、暑さ寒さに拘らず悪しくなられます」

「左様でございますか。姫、大変失礼ですが、そちらを拝見してもよろしいでしょうか」

 姫は、何を言われたのか一瞬分からなかったようだったが、春昌が自分の櫛を見ているのがわかると笑った。
「これですか? きれいでしょう。 このお屋敷に来て、北の対の母上様と初お目見えした時に頂戴したあたくしの宝物なのです。悪しきものから身を守る尊い香木で作った珍しい櫛なのですって。確かに観音寺で焚いていたお香と同じ香りですわ。とても高価だとわかっているのですが、毎日使ってしまうのです」

 姫はその櫛を愛おしげに撫でてから春昌に渡した。彼は、その美しき櫛の背の部分の色が褪せているのを見た。
「恐れながら、あなた様はいつも先ほどのように髪をお結いになっておられるのではないですか」
「ええ、そうよ。わかっているわ。やんごとない姫君は自分で髪を結ったりしないって。でも、とても暑いのですもの。どなたもお見えにならない時には、つい昔のように装ってしまうの。たくさんの美しい装束をご用意くださった父上さまや母上さまに申し訳ないとは思っているのよ。でも、どうしてわかるの」

 春昌はやさしく微笑んだ。片時もじっとしていられそうもない、この愛すべき姫君を、はしたないと思いつつも周りが甘やかしてしまう様子が手に取るようにわかった。弥栄丸は傍で笑いをこらえている。

「髪を結うのは侍女の方にお任せいただけないのですね」
「それは無理よ。そんなことをしているのがわかったら、サトが叱られてしまうもの。私がいつの間にか勝手にこんな形をしているってことにしなくちゃいけないの」
「左様でございますか」

「安達様?」
弥栄丸は、春昌が姫と禍々しきものとは全く関係のない話をいつまでもしているように思われたので、不思議に思って口を挟んだ。春昌は、微笑んで櫛を姫君に返すと、弥栄丸と姫君に庭の柘植の木を示した。

「こちらに現れていますのは、姫君の御生母様の御魂でございます。お屋敷に上がられ、これまでとは全く違うお暮らしをなさっている姫様のことを心配なされているのでしょう。私に、姫様に形見の御品を身近にお使いいただきたいと訴えかけておられます。たとえば、お母様のお形見に柘植の櫛はございませんでしたか」

 姫は「あ」と言って、奥で控えている下女のサトを見た。
「この櫛をいただくまで使っていた、母上の櫛はどこにあったかしら」

「こちらの小箱にございます。ほら、このように」
サトは、道具箱から飾りの全くない柘植の櫛を取り出すと、一行のもとに持ってきた。春昌はそれを受け取ると、柘植の古木に近寄り、件の人型にあてて小さな声で呪禁を呟いてから、それを姫君に渡した。

「こちらの櫛を肌身離さずお使いくだいませ。そして、その美しき櫛は、特別の祭祀の折にサト殿に梳いていただくときだけお使いくださいませ。亡くなられたお母様の願いが叶い、その憂いが収まれば、姫様の病も治ることでしょう」

 それから、春昌は柘植の古木に近寄り、人型に両手を当てて呪禁を呟いた。次郎には、主人が木に何らかの氣を送り込んでいるのがわかった。春昌がその手を離すと、明らかに人型のようなものがあった木の幹には、よく見なければわからないような瘤があるだけになっていた。

「なんと! 法師様がどうすることもできなかった、あの人型が……」
「母上様のお心は、この屋敷を動けぬこの木を離れ、新たにそちらの櫛の方に宿っておられます。どうか、私の申し上げたことをお忘れになりませぬよう」

 夏姫は深く頷き、弥栄丸とサトは春昌の神通力に感銘を受けてひれ伏した。

* * *


 夏姫の父である渡辺の殿様から、新しく拝領した馬はこれまでの痩せ馬よりもしっかりと歩んだ。いただいた礼金の重みは久しくなかったほどで、次郎を憂いから解き放った。しばらくの間は宿を取るにも物乞いのような惨めな思いをせずに済む。

 その領地を出てしばらく森を歩き、ひどく歪んだ古木を見て、次郎はあの古い柘植の木のことを思い出した。

「春昌様。お伺いしてもよろしいでしょうか」
「なんだ、次郎」

「どうして柘植の櫛のことがおわかりになったのですか。あの老木に、私は何も見えなかったのでございますが」

 春昌は口元をわずかに歪めた。
「次郎。あれはただの木瘤だ。幹の氣の流れを変えて、乾いた樹皮を落としたのだ。あそこに母君の御魂が現れたり消えたりしたわけではない」

「なんと。では、母君の御魂が柘植の櫛を使うようにとおっしゃられたというのは……」
「あれが柘植の木だったので、思いついたまでのこと。弥栄丸殿の話では、御生母は湯女だったとのこと。あまり位の高くない女ならば高価な香木などではなく柘植の櫛を使うのが常であろう。その読みがあたったまでだ。私はあの姫があの香木の櫛以外の物を使ってくれればなんでもよかったのだ」

「なぜでございますか?」
「あの姫君が件の櫛を日々咥えているのを知ったからだ」
「え」

 まったく合点がいっていない次郎を、春昌は優しく見下ろした。次郎は、他の者には見えぬものを朧げに見る能力はあったが、陰陽道はもちろん本草の知識にも欠けており、春昌がどちらの知識を用いて人々の苦しみを取り除いているのか分からないことを知っていたからだ。

「あの櫛は、しきみの木から作られている。香りが良く珍重される木だが、口に含むと毒になる。熱が出て、眠たくなり、腹を下し反吐を吐く霍乱かくらんのごとき病となる。ちょうどあの姫君が苦しんでいたのと同じだ」

「なんですって。では、まさか北の方が、継子である姫君を亡き者にしようとしてあの櫛を贈ったということなのですか」

「それはわからぬ。北の方が、草木の知識に長けているとは思わぬ。そもそも姫君が口に櫛を咥えるとは、北の方のように位の高いお方は夢にも思わぬであろう。それを知っていた誰かの入れ知恵かもしれぬが、長く逗留せねばそれはわからぬ。余計なことを申せば、あの家に大きな諍いの種を蒔くことになる。私にわかっているのは、ひとつだ。樒の櫛を口に咥えるようなことは、すべきでない。あの姫が再び丈夫になれば、それでよいのだ。身寄りのなかった娘が、ようやく手にしたと喜んでいる家族との仲を不用意に裂く必要はあるまい」

 次郎は、主人の顔を改めて見上げた。聡く天賦の才に恵まれた方だと畏怖の心は持っていたが、どちらかというと冷たい心を持つ人なのだと思っていた。彼が神にも等しくあがめ敬愛してやまなかった亡き媛巫女が、なぜこの陰陽師を愛し背の君として付き従ったか長いこと理解できないでいた。

 媛巫女さまは、私めなどよりもずっと多くのことを瞬く間にご覧になったのだ。彼は心の中で呟いた。

 もっと効果的に毒の櫛のことを大領に話せば、ずっと多くの謝礼を手にすることもできたのに、春昌はそれを望まなかった。それよりも、一つの家族の和を壊さずに、問題のみを解決して姿を消すことを選んだ。

 彼は、この旅がどれほど辛く心細くとも、この主人に付き従っていくことを誇らしく思った。


(初出:2017年8月 書き下ろし)
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