【小説】いつもの腕時計
「郷愁の丘」がぶつぶつ切れるなあとお思いの方、すみません。でも、今回はあの世界の外伝になっています。主人公は初登場の人物なのですが、雇い主のほうがお馴染みの人物です。「郷愁の丘」のヒロインの兄ですね。もっとも、「郷愁の丘」をはじめとする「ニューヨークの異邦人たち」シリーズを全く知らない方も、問題なく読めるはずです。
ちなみに、同じ「十二ヶ月のアクセサリー」の六月分「それもまた奇跡」に出てきたブライアン・スミスも同じ会社の重役なので、名前だけ出してみました。

いつもの腕時計
彼は、入ってきた彼女の服装に対する賛辞を口にしたが、言おうとしたことの三分の一も言えないうちにもう遮られた。
「マッテオ、褒めてくださるのは大変嬉しいのですが、今朝は本当に時間がないんです」
セレスティン・ウェーリーは、ヘルサンジェル社の社長秘書だ。それも、非常に有能な秘書だった。しかも、社長夫人に収まろうという野望を持たずに仕事に全力を傾けてくれるという意味で稀有な存在だ。
会社の創立者であり最高経営責任者であるマッテオ・ダンジェロは有能かつ魅力的で氣さくな人物ではあるが、若き独身の億万長者であるため女性関係が派手で、その副作用として女性秘書が長く居着かないという悩みを抱えていた。
が、セレスティンがこの職を得てから九年、へサンジェル社の最高総務責任者であるブライアン・スミスは、やたらと入れ替わりの激しい社長秘書の面接をせずに済むようになった。
「天上の青」を意味するそのファーストネームは、極上のサファイアを思わせる濃いブルーの瞳から名付けられたと思われる。ダークブロンドの髪は垂らせばこれ以上ないほどに男性を魅了すると思われるが、いつもシニヨンにまとめていて、その隙のない様相と、シャープな服装、怜悧な視線でもって近づき難い印象を与えていた。
今日は、月曜日。マッテオは自由の女神が見える開放的な社長室の革張りの椅子にリラックスした姿勢で座り、ここ二日の予定を淀みなく説明しているセレスティンをニコニコと笑いながら眺めていた。今日の彼女は、シャープな襟の白いシャツに瞳によく合うセルリアンブルーのタイトスカート、それに少し感じ悪く見えるくらい鋭利な伊達眼鏡をかけている。
「マッテオ。大変申し訳ないのですが、少し真剣に聴いていただけませんか。私には二度説明する時間はありませんから」
「わかっているよ。でも、大丈夫。今、聴いた件はちゃんと用意ができているし、あとは直前まで忘れても五分前に君が促してくれるだろう」
「そういう訳にはいきませんの。なにしろ……」
そういって彼女は自分の左手首をちらっと見た。
「おや、今日はあの腕時計を忘れたのかい、セレ」
マッテオは、さも珍しいという顔つきで訊いた。当然だった。シンプルとはいえ、常に流行を意識した服や靴やアクセサリーを組み合わせて、日々目の保養をさせてくれるセレスティンが、何があろうと決して変えずに身につけているのがその金の腕時計だった。
彼女の持ち物にしては、少し安物に見える金メッキの外装、しかも今時ネジを毎日巻かなくてはならないアナログな時計だった。彼女は、この時計に大きな思い入れがあるらしかった。秘書となって一年経った時に、ふさわしい時計をプレゼントしようとマッテオが提案しても「これをつけていたいんです」とハッキリ断った。
セレスティンはため息をついた。
「どこに置き忘れたのか、見つからないんです」
「おや。金曜日には付けていただろう」
「ええ。少なくともディナーに向かう時には付けていたはずなのに」
「そうか。あれは確かお祖母さんからのプレゼントだったよね」
セレスティンはちらりと雇い主を見た。相変わらず細かいことを憶えているわね。
「ええ。小学校に上がった時にもらったんです。安物ですけれど、毎日ねじを巻いて時間を合わせればほとんど狂わずにこれまで動いてくれたのに。今日はスマートフォンで時間を管理していますが、慣れないのでいつものように細かくコントロールできないんです」
マッテオは頷いた。少し、他のことを考えていたが、会議が迫っていたのでいつまでも腕時計の話をしているわけにはいかなかった。
だが、彼はその時計を思わぬところで見ていたのだ。見覚えのある時計だと思っていたが、まさかセレスティン本人のものだとは思わなかったので素通りしてしまったが。
「思い出したぞ」
マッテオが呟いたのは、その日の夜、高級クラブ《赤い月》で席に着いたときだった。とある女優とディナーを楽しんだ後に立ち寄ったのだ。
「何を?」
女優は、綺麗にセットした赤毛の頭を、完璧な角度で傾げながら微笑んだ。
「何でもないんだ、マイ・スイートハート。おととい、ここで見たもののことを急に思い出したのさ。でも、大したことじゃない。それよりも、君の最新作での役作りについて聴かせてくれないか」
マッテオは、にっこりと微笑んだ。女優は、仕方ない人ねという顔をしてから、彼にとってはどうでもいい話を延々と語り始めた。それで、彼は思考を自由に使うことができた。
彼女が化粧室に消えたとき、彼は立ち上がり、バーのカウンターに向かった。
一昨日、スーツを着た男がそこに座り、金色の女ものの時計を目の前にぶら下げるようにして眺めていた。それから「ちっ。安物か」といいながらすぐ横にあった大きな陶製の鉢の中に投げ込んだのだ。妙な行動だったので記憶に残っていた。
そして、今から思うとあれはセレスティンの腕時計にそっくりだったような氣がしてならない。彼は、カウンターに立っている馴染みのバーテンダーに一言二言話しかけると、鉢の中を見てもらうことにした。
翌朝、マッテオはセレスティンが入ってくるなり予定を話し出したのを手で制して、口を開いた。
「その前に、少し個人的なことを訊いてもいいかな」
彼女は伊達メガネを冷たく光らせて答えた。
「いま必要なことでしょうか」
「忘れると困るから」
「では、どうぞ」
マッテオは、セレスティンの積み上げた書類の山を無造作に横に退けて、マホガニーのデスクの上で両手を組み、彼女を正面から見据えた。
「君は、例のテイラー君と、もう付き合っていないんだろう」
「ええ。たしかに、ジェフとは別れました。でも、それは三ヶ月前のことで、その後に《赤い月》でお会いした時に、ミスター・フェリックス・パークにお引き合わせしたと思いますけれど」
「ああ、そうだったね。で、そのパーク氏とも別れたのかな」
「……。ええ、金曜日のディナーで、別れましたけれど、それが何か」
マッテオは、極上の笑顔を見せながら言った。
「そうだと思ったよ」
「笑い話にしないでください。そもそも振られたのはあなたにも責任が有るんですから」
「ほう。それは驚いたね。なぜだい」
「あなたがお給料を上げてくださったので、彼の年収を超えてしまったんです。我慢がならないんですって。もちろん、それだけが理由ではないんでしょうけれど」
「そんなことを理由にするような男と付き合うのは時間の無駄だ。別れてよかったじゃないか」
「その通りだと思いますわ。でも、なぜそんなことをお訊きになるんですか」
「なに、いまフリーなら、僕と付き合わないか訊いて見ようと思ったのさ」
「セクシャルハラスメントで訴えられるのと、パワーハラスメントで訴えられるのだと、どちらがお好みですか」
「どうせなら両方だね。でも、君は、そんなことはしないさ、そうだろう?」
「あなたが、いつもの冗談の延長でおっしゃっているなら訴えたりしませんけれど。ともかく真平御免ですわ、マッテオ。あなたをめぐるあの華やかな女性陣との熾烈な争いに私が参戦するとでもお思いですか。そういうどうでもいいことをおっしゃる時間があったら、法務省への手紙に目を通していただきたいのですが」
「わかった、わかった。ちゃんと目を通すから、その前にもう一つだけ訊かせてくれ」
「どうぞ」
「君がなくしたという、あの腕時計だけれど、デザインが氣に入っていたのかい、それとも機能? 他の時計を買いに行く予定があるのかい?」
セレスティンは、意外そうに彼を見た後、首を振った。
「いいえ。センチメンタル・バリューですわ。思い出がつまっているし、人生のほとんどをあの時計と過ごしてきたので、ほかの時計がしたいとは思えなくて。安物で、周りの金メッキが剥げてきただけでなく、留め金が外れかけていたのでとっくに買い換えるべきだったのでしょうけれど……。仕事に支障をきたしますから、諦めて何かを買おうとはしているんです」
マッテオは頷くと言った。
「買う必要はないよ。仕事に必要なんだから、僕が用意してあげよう。それまでは、スマートフォンでやりくりしてくれ」
セレスティンは、じっと彼を見つめた。また何かを企んでいるみたい。でも、用意してくれるというなら頼んでしまおう。自分では、あの時計でないものを買うつもりになれないから。マッテオのプレゼントなら、納得することができるかもしれない。
マッテオが、誰かに何かをプレゼントする時は、必ず相手の好みを考え、ふさわしいものを贈っていた。成金と陰口を叩く人がいるのも知っていたが、単純に高価なもので人が喜ぶという傲慢な考え方をする人ではないのは、誰よりもセレスティンが知っていた。
「わかりました。お言葉に甘えさせていただきますわ。ところで、手紙に目を通していただけますでしょうか」
マッテオは悪戯っ子のような魅惑的な笑みを見せてから、最上級の敬意に溢れ、法務省の担当官が必死に粗探しをしても何一つ見つけられないように書かれた、セレスティンの最高傑作である手紙に目を走らせた。
それから五日後に、マッテオはいつもより少し遅れてオフィスに入った。ことさら丁寧に朝の挨拶をするセレスティンの様子を見て、内外からのたくさんの電話攻撃を雄々しく
ジャケットのポケットから、無造作に突っ込んであった濃紺の天鵞絨張りの箱を取り出して彼女に渡した。
「え?」
「約束の腕時計だよ。メッキ職人のところに受け取りに行ったんだけれど、十時まで開かなかったんだ」
メッキ職人? セレスティンは、意味がわからずに戸惑いながら、箱をおそるおそる開けた。そして、自分の目を疑った。愛用していた祖母のプレゼントの時計と全く同じデザインの時計だった。けれど、五番街の高級店で売っているものと遜色がないほど上質のコーティングがされていた。
「どうして……全く同じデザインの時計が? どうやってこのデザインを?」
マッテオは笑った。
「僕がそれを憶えていたと? まさか。種明かしをすると、これは例の君の時計さ。たまたま僕が見つけたというだけだ」
「見つけた? このオフィスにあったのですか?」
「いや、《赤い月》だよ。偶然、例のパーク氏がこれを捨てようとしたのを目にしてね。君が時計をなくしたと聞いてそれを思い出したんだ」
セレスティンははっとした。そういえば、別れ話をする前には確かにその時計をしていた。留め金が壊れかけていて、修理しないと落とすかもしれないと思ったのだ。そのあとのデートの惨めな展開に心を乱されたので、時計のことはその晩はもう思い出さなかったのだが。フェリックスが私の去った後にあの時計が落ちていたのを見つけたというわけね。
それでも、この時計の幸運なこと! 捨てられる現場に居合わせたのが、この時計の彼女にとっての価値を知っている数少ない人物だったというのだから。
「なんてお礼を言っていいのか、わかりませんわ、マッテオ。見つけた時計をそのまま渡していただけるだけでも飛び上がるほど喜んだでしょうに、なんだかものすごく素晴らしく変身していますわね」
「せっかくだから、ちょっと化粧直ししたんだ」
コーティングし直すときに、純金を使う事も出来たけれど、耐久性を考えて18金のホワイトゴールドにした。怜悧なセレスティンの美しさにふさわしい。金属アレルギーなどが出ないようにもっとも高価なパラジウム系コーティングにしてもらったのだが、メッキが剥がれやすくなるので、通常より多く丁寧に塗り重ねてもらった。
「ちょっとどころではないことぐらいは、わかりますわ。それにネジの部分も変わっていますけれど?」
前の時計と違っているのは外見だけではない。個人的に交流のある老いた時計師に頼み込み、重さを感じないマイクロローターを組み込んだ自動巻きに変えてもらったのだ。
「ああ、これからは毎朝自分で巻く必要はないよ。これは自動巻きだから」
一週間近くかかった理由がわかった。それに、おそらくスイス製の高級時計を購入するよりもずっと多くの費用がかかっている。セレスティンは、戸惑いながら訊いた。
「どうしてこんなに良くしてくださったんですか?」
マッテオは自信に満ちた太陽のような笑顔を見せた。
「君の大切にしている物を、二度と安物か、なんて言わせたくなかったんだ。さあ、セレ。これがあれば、またこれまでのように僕の時間管理を完璧にしてくれるんだろう?」
セレスティンは、腕時計を左手首につけた。うまく回っていなかった世界の歯車が、カチッと音を立ててあるべきところに収まった。彼女の才能を遺憾無く発揮することのできる世界だ。
セレスティン・ウェーリーは、ヘルサンジェル社経営最高責任者マッテオ・ダンジェロの最も有能な秘書として、その日の遅れていてる予定をうまく調整するために、その冷静で切れる頭脳を有効に使いだした。
(初出:2017年9月 書き下ろし)
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パンのお供(4)トマトペースト

ドライトマトを手作りするというと、あまりこの言い方好きではないのですが「女子力が高い」みたいに思われるかもしれませんが、そんなことはありません。もともとは買いすぎたプチトマトがこのままでは腐ると思ったので、何とかしようと思って始めたものです。あ、今でも作るきっかけはそれかも。
それと、甘いかと思って買ってみたけれど、いまいちだったプチトマト、細かく切ってトマトソース代わりに料理に入れてもいいんですが、そもそもそういう時期は普通のトマトがあるので、やはり乾燥させてドライトマトにしてしまうのが一番です。
ドライトマトの作り方は天日干しとオーブンと二種類あるのですが、私は手っ取り早くオーブンで作る事の方が多いです。半分に切って天板に並べてオーブンに突っ込むのですね。あまり温度を高くすると焦げてしまうので注意が必要です。トマトは熱で糖度が増すらしく、半乾きの状態になった頃にはすでに美味しくなっています。
完全にドライトマトにして長期保存したい場合はちゃんと乾かさないとまずいのですが、私は全部トマトペーストにしてしまうので半乾きで十分です。あとは塩をしてオリーブオイルをひたひたに注ぎ、フードカッターなどで細かくするだけです。フードカッターがない場合はみじん切りかな……。私は面倒臭がり屋なので愛用のブラウン マルチクイックでガーっとやります。
ドライトマトなんか作るのは嫌だと思われる方も、市販のドライトマトを戻してでもいいから、是非一度試していただきたい味です。これがまた、美味しいんだ。私はバターに煩悩しているので、バターつけていますが、バターなしでも美味しいはずです。あと、フランスパンを薄くスライスしてガーリックをこすりつけてトーストした後にこれをのせたら、速攻でおしゃれなオードブルになります。騙されたと思って試してみてください。
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【小説】郷愁の丘(9)ニューヨークの風
前回は時系列でいうと、去年の夏に発表した外伝「花火の宵」のシーンの直後(七月)にあたると書きましたが、今回の話は、「scriviamo! 2017」で外伝として発表した「絶滅危惧種」の翌月にあたります。あの小説で、グレッグは「ミズ・カペッリには連絡していない」と会う予定もないようなことを言っていましたが、それではストーリーが進まないので、ちゃんと逢わせます。
今回は、前作「ファインダーの向こうに」で重要な役割を果たしたジョルジアを陰に日向に助ける編集者ベンジャミンの視点になっています。前作をご存知の人なら、彼の複雑な心境が理解できると思いますが、わからない場合も無視してノープロブレムです。ちなみにベンは妻帯者です。
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郷愁の丘(9)ニューヨークの風
《アルファ・フォト・プレス》の編集者であるベンジャミン・ハドソンは、クライアントを社の玄関まで送って、握手を交わした。彼が見えなくなると、仕事に戻ろうと身を翻し、受付横の売店で接客中の売り子ジェシーが手を振っているのに氣がついた。
「なんだ?」
「あー、うちの出版物のデータベースって、撮影者の名前で検索すると全部引っかかるんでしたっけ?」
「クレジットのある写真はひっかかるさ。誰の?」
「ミズ・カペッリです」
「ジョルジアなら、写真集を見つけるのは簡単だろ。雑誌の方は引っかかりすぎて反対に探しにくいぞ。『クオリティ』は特集で探せばいいが、『素材事典』は興味ないだろうし、『アルファ』もたった一枚入っていても引っかかっちゃうからなあ。彼女らしい作品を探しているなら、検索だけじゃなくて実際に中身を見てみないと」
「こちらのお客さんは、写真集はもう全てお持ちなんですよ。『クオリティ』の方はいま僕が手配したから……」
ずいぶん熱心なファンだな。会社まで赴くとは……。そう思って、初めてその客を観察し、ベンジャミンははっとした。
「失礼ですが、あなたはヘンリー・スコット博士ではありませんか?」
その男は、ぎょっとしたようにベンジャミンを見て、それから頷いた。
「そうですが、なぜ僕をご存知なんですか?」
「なぜって、あなたの写真がラストページにくる彼女の写真集の責了校正を昨夜遅くまでやっていたからですよ。この会社で編集長代理を務めているベンジャミン・ハドソンです。はじめまして」
半年前、アフリカ旅行から戻ったジョルジアは、写真集の編集会議で一枚のプリントアウトを見せた。
「ラストは、これにしたいの」
それは、他の写真と同じくライカで撮ったモノクロームだった。異質だったのは、写真の背景に暈けているが肉食獣に殺されたばかりとわかるシマウマの死体が映り込んでいたことだ。野生の世界の掟として受け入れつつも、親しんでいた若いシマウマの死に直面した男のやりきれなさを、その一枚の写真は見事に映し出していた。
ベンジャミンは、戸惑った。いい写真だとは思う。だが。
彼はずっと最終ページはジョセフ・クロンカイトを撮った例の墓地の写真にすべきだと強く主張していた。その写真を使わなければ、写真集は完全ではないとすら思っていた。
「撮影許可を得て撮った写真じゃないから使えるわけないでしょう」
彼女は、その写真が自分の作品と人生の中に占める位置を熟知した上でベンジャミンが提案しているのをわかっていても抵抗した。
彼が場を設定するのでクロンカイトに頼みにいくべきだと言っても、ジョルジアは決して首を縦に振らなかった。なぜこの写真が重要なのかを本人に知られたくなかったのだ。
「マッテオの海辺の写真でいいんじゃないかしら。あれもこのスタイルで写真集を出すきっかけになった写真だし」
彼女の心をとらえて人生を左右したニュースキャスターと、人生のほとんどを共に過ごした彼女の兄のどちらも、ベンジャミンにとっては納得のいく選択だった。ジョルジアの友人としてだけではなく、プロの編集者としても。どちらも有名人で、実に見栄えがする。だが、そのどちらかを置こうとしていた位置に突然見ず知らずの男の写真が飛び出した。しかも二人と比較して、その平凡な中年男はラストページにふさわしい華やかさに欠けていた。
「これは、誰?」
そう訊くと、ジョルジアは短く答えた。
「ヘンリー・スコット博士よ」
ジョルジアは、わずかに微笑んでいた。その微笑みにベンジャミンの心は騒いだ。いや、それはありえないだろう。クロンカイトとは似ても似つかぬ地味な中年男じゃないか! ベンジャミンは、昨夜その写真を複雑な思いで十分ちかく眺めていた。
その冴えない男が、なぜここにいるんだ?
「アメリカにいらしていたとは知りませんでした。ここでジョルジアと会うお約束をしているんですか?」
スコット博士は、なんとか狼狽えている様子を隠そうとしていた。
「いや、たまたま学会で……。お忙しいでしょうから、ミズ・カペッリにはお知らせしていません」
「ちょっと待ってください。今日は出勤してくるはずだけれど、時間は指定していなくて」
そういうと、ベンジャミンは携帯電話を取り出してジョルジアにかけた。スコット博士が慌てている様子を視界に入れて、こりゃ思っていたより全然親しくなさそうだと心の中で呟いた。
「あ。ジョルジア? 《Sunrise Diner》にいるのか。いや、僕の用事じゃなくてさ、今、社の売店にスコット博士が来ているんだけれど……え、そうだよ、ケニアの、うん……あれ?」
ベンジャミンは、困ったように電話を見た。なんだ? なんで慌てて切っちゃったんだ?
「す、すみません。いま彼女、ここから五分くらいのダイナーで朝食をとっていたみたいなんですが、待っててと言って電話切ってしまって……おい、ジェシー、とりあえずここ半年の『アルファ』を全部持ってきて、お見せして」
ベンジャミンが、ジェシーに指示してから電話をかけ直そうと操作していると、メインエントランスでがたんという音がした。
三人が振り向くと、息を切らしているジョルジアがそこにいた。
「グレッグ……」
「ジョルジア」
彼女は、《Sunrise Diner》を飛び出して、何も考えずに走って来たらしく、スコット博士を見つめたまま、次の言葉が浮かばないようだった。彼は、自分の方からジョルジアの方へと急ぎ足で歩み寄って「すまない」と言った。
「どうして……」
「その、君の邪魔をするつもりじゃなかったんだ。ただ、せっかくニューヨークまで来たから、まだ持っていない君の写真を……」
「そうじゃなくて、どうして来るって報せてくれなかったの?」
「……。君の迷惑になると思ったんだ」
「そんなわけないでしょう。いつ着いたの?」
「今朝」
「どのくらい居るの?」
「一週間」
ベンジャミンは、二人の横を通って言った。
「ジョルジア、打ち合わせは今日でなくてもいいから。時間の空いた時に電話してくれ」
それからスコット博士に「よいご滞在を」と言って、オフィスへと帰っていった。刺々しさが出ないように、自分を抑えなくてはならなかった。
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天邪鬼をすこし控えようと思うわけ
私は人が群がっていることに「私も!」と駆けつけるのが好きではありません。混んでいるところを辛抱強く待って、譲り合いながら一瞬だけ楽しむというのが苦手なのです。たっぷりのんびりと楽しめないのだったら私の分は譲るから、と思ってしまうのです。
まだ知られていない素敵なスポット、まださほど売れていない劇団の公演、めちゃくちゃ対応が良くて美味しいのにガラガラのレストラン、お城なのに妙に安くてフレンドリーなホテルなど、素晴らしい事をほぼ独り占めが好きなのです。
といっても、趣向が特殊というわけではなく、一般受けするモノにけっこう胸キュンしたりしているので、単なる天邪鬼です。
この傾向は、芸術作品を観賞するチャンスにも影響しています。
例えば東京にいると、世界中のどこにいるよりも名画を見るチャンスが多かったりするじゃないですか。アルフォンス・ミュシャが来たり、フェルメールが世界中から集まってきたり。もちろん今はもう東京に住んでいないので観に行けないんですが、行けたとしても炎天下で何時間も行列をして観に行くことにうんざりしてしまうのです。
私はラファエロの絵画が大好きなので、ローマでも、フィレンツェでも、ウィーンでも、ドレスデンでも率先して観に行ってぼーっと何十分も絵の前に座っていたりします。でも、それが全部自分の住んでいる町に来たとしても、平日八時半の山手線の中みたいな混雑の中で、誰かの頭越しにまとめて観たくはないのです。別に絵画の方はどう観られても何も感じないに決っていますが、私はどうしても一対一で対峙したいと、くだらないこだわりに負けて、足を向けられないのですね。
さて、天邪鬼は音楽の好みでも影を投げかけているようです。
私が子供の頃、苦手なクラッシック音楽のラインアップはこんな感じでした。モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」「フィガロの結婚」、ベートーヴェンの「運命」「田園」「エリーゼのために」シューベルト「野ばら」「魔王」……。
どれも音楽の授業に出てくるウルトラ有名な曲ばかりです。そうやって聴かされすぎたイメージに辟易してしまっていたようなのですね。「運命」の最初のジャジャジャジーンが聞こえると、もうラジオのチャンネルを換えてしまう、そういうところがありました。
でも、よく考えると、私はその交響曲の全てを丁寧に聴き込んでいたわけではないのです。大人になってから改めて聴くと、ベートーヴェンの意図していた音の構成、完成度に改めて唸らされますから、単に有名だからと言って「けっ」と避けるのは馬鹿げているという事がわかります。
最初に書いた展覧会の話も、私のようにドレスデンだのウィーンだのに、国内旅行と同じような氣軽さで行ける場合はいいですが、これが生涯で最初で最後のチャンスだという場合は、たとえ山手線内のような混雑の中でも、印刷を見るよりは本物を見た方がいいのでしょうね。
「モナリザ」と「サモトラケのニケ」だけを駆け足で観るようなルーブル美術館の見方は嫌いだけれど、でも、「モナリザ」は絶対に観たくないというのは、天邪鬼を通り越して勿体ないと思います。正直言って「サモトラケのニケ」よりも「瀕死の奴隷」にグッと来た私ではありますが、名作と言われる芸術品には、なるほど素通りしない方がいい何かがあります。「有名だから観賞すべき」ではなくて「有名になるべくしてなった何か」を感じる事ができるから。だからこそ、押し合いへし合いの中では観賞したくないのですが。
たとえば、もともと私は現代芸術、現代建築というものは今ひとつわからない人で、ピカソでも「?」な作品が多いのですが、マドリッドで観た「ゲルニカ」には圧倒されました。あれほどの衝撃を感じた芸術作品は他にはあまりないので、ピカソがゲルニカへの攻撃について世の中に訴えかけようとした事を具現する能力の物凄さは、もはや天才という言葉しか浮かびません。
「有名だから嫌だ」「現代芸術だから嫌い」というのではなく、何を伝えようとしているのかを感じる事のできるモノ、そして、その訴えかけに共感できるモノは素直に素晴らしいと思うのです。
そんなこんなの考察を経て、今の私は、やはり天邪鬼のままではありますが、できる限り先入観による食わず嫌いに支配されないように心がけることにしています。それに、かつては「今見なくても(聴かなくても)そのうちに素晴らしいシチュエーションで経験できる機会が回ってくるかもしれないから、今はいいや」と思う事も多かったのですが、最近は「う〜ん、これを逃したらおそらく生涯なさそう」と感じる事が多くなってきていますので。
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【小説】郷愁の丘(8)往復書簡
そして今は夏。ムティト・アンディ駅で別れてから、現在に至るまでの二人の交流を、交わした手紙で表現しています。手紙によって取り巻く状況や時間の経過、それに心の動きを表現するという手法は、あまり得意ではないのですが、今回の二人は特殊な関係の上に思いっきり遠距離なので、うんうん唸りながら書きました。
いつもは四千字超えたら二つに切るんですが、今回は適度な長さに切れなかったので、まとめて掲載しています。
ところで、今回は時系列でいうと、去年の夏に発表した外伝「花火の宵」のシーンの直後にあたります。あちらを発表した時には、ジョルジアがどういう状態にあるのか知っているのは私一人だけだったのですが、本編を読んでからあちらを読むと、ちょっと「ふふふ。キャシー鋭い。なんか、あったのよ」「あ。兄ちゃん、いまひとつ分かっていないね」とニヤニヤできる、という趣向になっています。
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郷愁の丘(8)往復書簡
親愛なるジョルジア。
夏を楽しんでいるかい。君の手紙を読むとニューヨークの移り変わる季節を身近に感じるよ。独立記念日の花火は楽しそうだね。僕も花火は好きだ。野生動物たちにはストレスだから、本当は喜ぶべきじゃないんだけれど、どうしてもワクワクしてしまうんだ。
君の観察眼には驚いたよ。消印によく氣がついたね。そうだ。あの手紙を投函した日は、僕はヴォイにいたんだ。マディが産氣づいたんだけれど、例によってアウレリオがまた居なくなってしまい、レイチェルが駆けつけるまで病院で待機する事になったんだ。メグがぐずって大変だったよ。『ジョルジアはどこ』って言うんだ。参ったよ。
マディの第二子は男の子だったよ。エンリコって言うんだ。アウレリオはとても喜んで、サッカー選手にするって息巻いている。マディはとんでもないって言っているけれど。
いずれにしても乾季だったおかげで病院まで行くのも君が居た時ほどの時間がかからないので助かった。翌日は、講義があったから朝一で戻ったんだ。
先日の君の手紙を読んでから、研究とは全く別に「目が騙される事」についてしょっちゅう考えている。ここにいたとき、君は人間の目はわずかな色を感知してカラーとモノクロームの違いを見分けられると言っていたよね。そんなにわずかな差を見分けられる目でも、遠近法によって平面に描かれた絵は立体と感知してしまうってことだよね。色の違いには敏感でも、次元の違いには簡単に騙されるというのは興味深いな。
そう考えて、君の写真をもう一度眺めてみたら、本当にその通りだと思ったよ。でも、同じ写真でも、奥行きの感じ方は作品によって違うんだね。君の撮ったあのマサイの少女の写真は、笑顔に目がいって立体感そのものはあまり感じない。もちろん平面には見えないけれどね。でも、君が送ってくれたモノクロームで撮ったサバンナの写真、例の僕とガゼルが映っているものだけれど、あの写真にはものすごく距離を感じるんだ。近くに映っている僕と、それからサバンナとの。地平線が永遠の彼方にあるように感じる。光の加減なんだろうか、とても寂しい惑星にたった独りの人間として居るみたいだ。おかしいね。あの時、君が僕の隣に居たのに。
やはり、前に君が話していた、アリゾナの写真を見せてもらいたいな。大切な作品を覗き見るのは失礼かと思っていたけれど、君が沙漠で感じた事、サバンナと違いについても興味を惹かれるんだ。それとも、いつかその作品も《アルファ・フォト・プレス》から出版されるんだろうか。そうだとしたらもちろん購入するよ。それに、送ってくれるとしても本当に時間のある時でいいんだ。
とても忙しそうだけれど、身体を大切にしてくれ。そして、また氣が向いたら、新しいニュースを聞かせてほしい。別に今日何を食べたか、なんてことでもいいんだ。僕が君の手紙を読んでいると、ルーシーが喜んで寄ってくるよ。まるで君からだとわかっているみたいに。彼女に言葉が話せたらきっと「よろしく」って言うと思うから、ここに加えておくよ。じゃあ、また。君の友、グレッグ
彼からの手紙を読む時、ジョルジアは誰にも邪魔されない場所を探した。通信のほとんどを電子文書で送ることが可能になってから、彼女はほとんど手紙を書かないで過ごしていた。旅先で二言か三言挨拶を書いた葉書を書く事はあったが、それだけだった。だから、グレッグと文通をすることになるとは思ってもみなかった。
春のアフリカ旅行から戻ってすぐに、彼女は撮った写真を現像した。グレッグの写真で写真集に入れる予定の作品はいくつかあったが、その他にも自分だけで持っているのはもったいないと思うものがあった。ランプに灯をともしている時の半分影になっている優しい微笑や、サバンナで仲間からはぐれたガゼルを見つけた時の印象的な横顔。それに、ルーシーと無邪氣に遊んでいる姿は最高の出来で、少し大きく引き延ばして歓待に対する感謝の手紙に添えて送った。
十日ほどして彼から返事が届いた。彼の丁寧で小さい文字が便箋の上に行儀よく並んでいた。なんという事はない報告がいくつか書いてあったけれど、ちょうど《郷愁の丘》で飽きずに何時間も話した時のように興味深いトピックがあり、ジョルジアはすぐにまた返事を書いた。
それから、手紙の往復が始まった。ジョルジアは、彼の手紙を読み、彼に返信する時間を大切に思うようになった。それは、それまでジョルジアの身近にはなかった知的興奮、生活の彩り、それに、どこかときめきに似た感情を伴っていた。
こんにちは、グレッグ。
そろそろニューヨークの夏は終わるようだわ。ショートパンツやノースリーブの人たちも少なくなってきたみたい。この間、ものすごいにわか雨が降ったの。《郷愁の丘》の雨を思い出したわ。でも、そちらは乾季なのね。動物たちには厳しい季節なんでしょうね。あなたの所は大丈夫なの? 地下水も乾季には減ってしまうんでしょう? 水道水があるのってとてもありがたい事なのね。蛇口をひねる度にそう思うようになったわ。
メグに弟が出来たのね。今度はイタリア風の名前ね。どうか心からの祝福を伝えてちょうだい。ミスター・ブラスって、本当にいつも肝心な時にいなくなってしまうのね。あなたが駆けつけてくれて、ミセス・ブラスはさぞ安心したことでしょう。でも、寝不足で運転するのは危険よ。氣をつけて。
あなたが指摘してくれた、作品の奥行きの事、驚いたわ。自分で撮った写真なのにそんな風に見た事がなかったの。あなたが感じている奥行きは、二次元と三次元の違いではなくて、もしかしたら心象の奥行きのことなんじゃない? そして、それは作品の中に映っている物体だけでなく感情が映し出されていると感じてくれたんでしょう? それは、私があなたの中に見たものなのかしら。それとも、私の心の中にそれがあるの? もしかしたら作品を見ているあなたの中にあるものなのかもしれない。いずれにしても私は今回の写真集に使う写真の中で、心象を映し出したかったの。だから、あなたの感想は、最大の讃辞だと受け取らせてもらうわ。ありがとう。
例のアリゾナの写真が掲載された『クオリティ』誌、同封するわね。私が紙焼きした一枚を挟んでおくから、雑誌との違いについての感想もお願いね。
ところで、私の方も、あなたとの会話のおかげで違う見方をするようになっているわ。視野の話だけれど、前方に見えている物の他に、左右に動く物が見えていることを意識するようになったの。ニューヨークの街を歩いている時にも、往来の右や左で起こっている事が確かに情報としていつの間にかインプットされているのがわかるの。ただし、確かに真後ろで起こっている事は、目が前方についている私たちには見えないのね。今まで意識していなかったけれど、時おり後ろを振り返って安全確認をしていることを改めて感じたわ。後から襲われる危険のある都会に何世代も住んでいると、私たちの子孫の目の位置もシマウマのように横に移動していくのかもしれないわね。
今日、私が何を食べたか興味ある? 魚よ。休みで時間があったから、新鮮なヒラメを焼いて、野菜と一緒にビネグレットに漬けてみたの。私の両親は昔、漁師をしていたって話したわよね。だから、私、普通のニューヨーカーよりもたくさん魚を食べるの。かつて住んでいたノースフォークで穫れた魚を入手できたのよ。そういうチャンスに恵まれると、なつかしさで不思議な氣持ちになるの。あの村の事は、また今度じっくりと説明するわね。じゃあ、また。あなたの友達、ジョルジア
ここにいたら、あなたにも食べさせてあげるのに。
ジョルジアは、あまりにも自然にその考えが出てきた事に自分で驚いた。これまで彼女の生活に一緒に住む誰かの存在は全くなかった。両親や、兄もしくは妹は別として、誰かに手料理を振る舞う事もまずなかった。
《郷愁の丘》に滞在した二週間、ジョルジアは彼と生活を共にしていた。調理をし、食事をし、皿洗いや片付けを共にして、テーブルを動かし、床を掃き、愛犬ルーシーの世話をした。普段は自分一人しかいない生活空間を、そもそも彼一人の物であるはずのあの家を、二人で共有して同じ時間を過ごした。たくさんの話をして、一度も退屈だったり、煩わしいと感じた事がなかった。
おそらく二週間でなく、二ヶ月でも、二年でも、二十年でも、きっとこの人とは、一人でいるのと同じようにリラックスして、穏やかな時間を過ごせるのだろう。そして、一人でいるのよりもずっと楽しく興味深い日々を。
それから、距離の事を考えた。アメリカとケニアの。ニューヨークと《郷愁の丘》の。ジョルジアとグレッグのいびつな関係の。
二人の関係の危うさのことは、ジョルジア自身が誰よりもよくわかっていた。一緒に暮らすどころか、「再び逢いたい」という事すらも憚られる。そう言った途端に、恋愛関係を進めたいと思っているように響いてしまう。進めた方がいいのかもしれない。「友達」というレッテルはもはや彼女の中ではそぐわなくなっている。激しい恋のときめきはなくても、実の家族以上の近さを感じている人なのだ。それに、彼がレイチェルの家で告白した想いを引きずっているのならば、いつまでも友人関係に固執する事はひどく冷たく残酷な拒否になる。
一方で、彼が自分に恋をしたのは、真実を知らないからなのだと思った。友人の枠から外れて進めば、精神的なものだけでなく肉体的な交わりも避けられなくなる。彼女は、「醜い化け物」と呼ばれた肉体を晒す瞬間を怖れている。それはこれまで築き上げてきた全てを覆してしまうかもしれない。そうなった時に何が残るのだろうか。二人の間に。ジョルジア自身の中に。
極めて厄介な恋愛関係を介在させずに、ただ親しい人として、家族のように、彼に会う事ができたらいいのに。
ケニアはあまりにも遠い。《郷愁の丘》は地の果てにひっそりと隠れるように存在している。彼は来る日もサバンナでシマウマたちを観察している。「偶然」再会することははない。
ワイン片手に「近くまで来たから」と訪問し合うような距離にいたらどんなによかったことだろう。彼女は封筒に宛先を書きながら、ため息をついた。
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レマン湖へ
そして行ったのが、連れ合いの生まれ育ったフランス語圏の小さな村です。この村には、結婚してからしばらくはよく行ったのですが、私が働きだしてからは長期旅行は大抵海外なので、本当に久しぶりになりました。

私たちの住むグラウビュンデン州から、ジュネーヴ州やヴォー州に行く方法はいくつかあります。方向は西に一直線なんですけれど、アルプス山脈がそびえているので、北に遠回りをするか、もしくは幾つかの峠を越えていくか選ぶ必要があります。楽なのは北回りですが、バイク乗りは山道が好きですし、連れ合いは高速の渋滞が大嫌いなので、チューリヒ経由なんてことはありえません。
まっすぐ西に向かい、フルカ峠などを経由してウリ州からヴァリス州に入ることもできますが、今回は往きはヌフェネン峠から、復路はシンプロン峠経由で、つまりどちらもイタリア語圏を通ってきました。そのほうが暖かかったということもあります。
紺碧の空が美しいヌフェネン峠。とても綺麗でしたが、やはり風が冷たくて長居は無用。秋ですね。ここで、イタリア語から再びドイツ語に戻り、ヴァリス州の途中までドイツ語の標識が続きます。

スイスは、ご存知のように公用語が四つあり、私の住んでいる州はそのうちの三つまでが公用語になっていますが、フランス語はそのうちに入っていません。使う機会が少ないので、私もまじめに習う氣がありません。スイスの西側三分の一ほどは、フランス語が公用語で、途中から標識も広告もフランス語オンリーになります。
それと同時に、人々の振る舞い、ライフスタイルもドイツ語圏とは大きく異なってきます。
レマン湖に沿ってなだらかな丘陵を覆う葡萄畑。美味しい白ワインやロゼが作られています。こののどかで開放的な景色は人々の生活様式にも影響を及ぼすようで、彼らはのんびりとワインを傾けながら何て事のないおしゃべりを楽しむことがドイツ語圏の人たちよりも好きな模様。外で隣人に遭っても「こんにちは!」と立ち止まって長々とおしゃべりをすることが多いようです。ドイツ語圏でも立ち話はするのですが、いちいち頬にキスをして楽しそうに話すフランス語圏の人たちと、割と硬い感じで真面目に会話をするドイツ語圏の人たちでは、会話の内容も雰囲氣もぜんぜん違うし、さらにいうと長さも違うのです。
ドイツ語圏の人たちはもっと時間に厳格で、十二時十五分前に長話をしている人などほとんど見ません。が、フランス語圏では昼食が十二時に始まらなくても関係ないと言う感じで長々と会話をしています。よく知らない人と簡単に友達になるのも、フランス語圏の人のほうが得意な模様。連れ合いは、今回も新しい友達を作ったみたいです。

で、私はフランス語の会話の大半はスルーしつつ、英語やドイツ語で話してくれる人とは会話を楽しみ、開放的な風景を楽しみ、のんびりと時間を過ごしました。夏は過ぎ去ってしまったようで、最高でも25度くらい。変な組み合わせですが、湖水浴場でラクレットを食べたりしましたよ。
本当は四泊するつもりで行ったのですが、土曜日から雨になるとの予報だったので一日早く帰宅しました。土曜日は本当に土砂降り。暖かい自宅でのんびりできてよかったです。
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【小説】バッカスからの招待状 -11- ラグリマ
今回は、Stellaの主催者であるスカイさんから「モンスター」というお題もいただいていたので、ものすごく強引にですが、モンスターの話題も混ぜてみました。
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バッカスからの招待状 -11-
ラグリマ
「スクォンクって知っている?」
連れの女性が、独り言のようにつぶやいた。それは、ここに着いた時から泣いてばかりいるもう一人の女性に話しかけたかのようであり、その一方で、斜め前に立っている田中に話しかけたようでもあった。
田中は泣いている女性の方を可能な限り見ないようにしていたので、この問いかけにどう反応しようか迷った。もちろん彼はスクォンクが何であるか、見当もつかなかった。スカンクの言い間違いとは思えなかったし、このいたたまれない状況にスカンクという単語は場違いでもあった。
大手町のビル街の中にあるバー『Bacchus』は、週の初めはさほど混んでいない。まだ、時間も早い。店主でありバーテンダーでもある田中は、この小さな店をほとんど一人で切り盛りしている。彼は、常連の客の名前をほとんど憶えているが、この女性はかつてある男性客に連れられて一度来ただけの客で名前は知らなかった。泣いている方は、初めてだ。
「なに……それ」
頭を上げた女性の顔が見えた。意外な事に化粧はほとんど崩れていない。田中は、おや、本当に号泣していたわけではないのかと思った。
連れの女性はそんな友人に慣れているのだろうか、特に表情も変えずに言った。
「架空のモンスター。イボや痣に覆われていて、いつも泣いているんだって」
すると泣いていた女性は真っ赤になって怒り出した。
「私がこんなに悲しんでいるのに、イボと痣のあるモンスター呼ばわりするなんて、どういうこと? 本当に冷たいわね! もういい。私帰る!」
バックと上着を掴むと、そんなハイヒールでどうやって飛ぶように歩けるのかわからないが、とにかくものすごいスピードでドアから出て行ってしまった。田中が呆然として見送ってから、もう一人の女性の方を見ると、彼女は小さく笑った。
「大丈夫よ。彼女の分もちゃんと払うから心配しないで」
「いえ、その心配をしているわけではありません。差し出がましいですが、追わなくてよろしいのですか」
女性は、首を振った。それから手元のレモン入りペリエのグラスを傾けた。
「いつものことよ。二週間もしたら、また新しい恋の話を聴かされるに決まっているの。失恋の悲しみなんて彼女にとってはルーティンみたいなもので、次の『運命の相手』に出会ったら、すぐに消滅してしまうのよ」
田中はその話題は避けたほうがいいと思ったので、グラスを片付けながら訊いた。
「先程のスクォンクという生き物について、もう少し教えていただけませんか」
「あら、興味がある? アメリカのどこかの森にいるんですって、異常なまでに内氣で常に涙を流しているんですって」
「ネッシーのように目撃譚があるのですか」
「さあ。でも、あるから、そういう具体的な話が伝わるんじゃないのかしら。学名までついているそうよ。Lacrimacorpus dissolvensって言って、涙に溶けてしまう体って意味なんですって。怖がらせたりすると大泣きしてその涙で体が溶けてしまうから」
「ラクリマコルプス……ですか」
「悲しいことがあった時に、その話を思い出すの。涙で体が溶けてしまったら、辛いことから解放されていいなあなんて。そう望む人間が作り出した話なのかもしれないわね」
彼女は、伏し目がちにほとんど表情を変えずにペリエを飲んだ。先程の女性は、あまりにも大げさに泣き声をあげていたが、特に辛そうとは感じなかった。けれどこちらの女性は、どこか心配になるような心の重さが感じられた。
「涙にして流してしまうと楽になるのかもしれませんね。そうでなければ、話してしまえば忘れることができるのかもしれません。もしくは、ドリンクに溶かして飲み干してしまうのもいいかもしれませんよ」
女性は口の端だけで笑うと、ペリエのグラスを飲み干した。
「商売上手ね。せっかくだからこの会話にぴったりのお酒をいただきたいわ。溶けてしまわないように、外で泣き出してしまわないように、想いを溶かして飲み干してしまえるようなお酒を」
少し考えて、田中は緑色の瓶を取り出した。
「涙を意味するラクリマ、ラグリマという言葉を戴いたお酒は幾つかありますが、このポートワインはいかがでしょうか。白ワインよりもずっと甘いですが、デザートワインほどは甘くないので飲みやすいです」
グラスにそっと注ぐと、琥珀に近い白い液体の中を、わずかにゆらぐ模様が見えた。彼女は、それをゆっくりと口にして、しばらく何も言わずに味わっていたが、ゆっくりと頷いた。
「美味しい。不思議ね。辛すぎるのも、甘すぎるのも苦手だって、一言も言わなかったのに、どうしてわかったのかしら」
もちろん田中にそこまで見通す能力があるわけではない。ただこの女性の佇まいとこのラグリマの味のイメージが重なっただけだ。
「お氣に召して嬉しいです。どれほど素晴らしい評価の酒でも、お客様のお好みに合わなければ喜んではいただけませんから」
彼女は、グラスの縁を指先でそっとなぞった。
「そうね。人一倍努力したからといって、必ず報われるわけではないのよね。相手の好み次第で結果なんて簡単に変わる……。あ、ごめんなさいね。私、今日、少し落ち込んでいたので」
「そうではないかと思っていました」
「このお仕事も、大変なんでしょうね。人々の愚痴や不満ばかり聞かされてうんざりなんじゃない?」
田中は首を振った。
「積極的にお話しになる方もありますが、何もおっしゃらずに飲み込んでしまわれる方も多いのです。その分、グラスの中に溶かしてしまわれるのでしょうね」
彼女は、顔を上げて田中を見た。
「そう。言いたくても言えない人もたくさんいるのね。さっきの子のこと、私はちょっと羨ましく思っているの。泣いて騒いで、翌日にはアルコールが抜けるみたいに、悲しみも問題も消えてしまっている。そんな風に発散できたら、素敵ね。私はいつも一人でメソメソするだけ。スクォンクみたいにね」
それからしばらく黙っていたが思い切ったように訊いた。
「私をこの店に連れて来た人、憶えている?」
田中は頷いた。
「はい。お名前は存じあげませんが」
「よくこのお店に来るの?」
「いえ。あの時で三回めでしたが、あれからお見えになっていらっしゃいません」
彼女は、ほっと溜息をもらした。
「そう。だったら、安心してまたここに来られるわね」
カランと音がして、入り口のドアが開いた。田中は挨拶をした。
「夏木さん、こんばんは。今日はお早いですね」
「こんばんは、田中さん。今日は一番乗りを目指してきたのに、先をこされていたみたいだね」
夏木は肩をすくめて、女性に会釈をすると、カウンターの奥の自分の席と決めている位置に座った。
「名前を憶えてもらっているって、羨ましいわ」
彼女はそう言うと、グラスを持ち上げて夏木に笑いかけた。
「田中さんは、こっちが名乗ったら忘れずに、そう呼んでくれるんですよ。僕も、こんな風に馴染んでいるお店はここしかないんです。あ、僕は夏木敏也といいます」
「はじめまして、夏木さん。私は柴田雅美です。田中さんもどうぞよろしく」
田中は雅美に会釈した。
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします、柴田さん」
やがて、すみれや近藤も来店して、いつものようにカウンターに座った。程よい距離感を保ちつつ集う常連たちと会話を交わしているうちに、雅美を覆っていた重い憂いのヴェールが少しだけとれたように田中は感じた。
田中は『Bacchus』を、人々の心の交流の場にしたいと願ってきた。メニューに載っている飲食を提供するだけではなく、足を運ぶ人たちが悲しみを忘れ、喜びを増すような場にすることが理想だった。そのために知識を得、研鑽を重ねることで、素晴らしいバーテンダーになるのだと勢い込んでいたこともあった。
だが、月日が経ち、人生経験を重ね経営を続けるうちに、どんな人をも笑顔にするような魔法はないことがわかってきた。その一方で、通ってくれる常連たちが、彼の代わりに魔法を使ってくれることも知った。だから、誠実に働くこと、大切な客の一人一人をもてなすこと、彼らの居心地のいい場を提供することこそが、この店を彼の理想に近づける近道だと思うようになった。
柴田雅美も、この店の新しい仲間になるかもしれない。彼女がこの店に集う暖かい客たちに馴染むことで、件の怪物のように涙で溶けてしまう悲しみから解放されることを、田中は心から願った。
(初出:2017年9月 書き下ろし)
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マイリンゲン

イギリスから来ている叔母に会うためにマイリンゲンに来ました。
シャーロック・ホームズゆかりの街で、泊まったのもコナン・ドイルが滞在して構想を練ったところ。
今のように観光地化していなくて、雰囲氣があったのでしょうね。
雨のため電車で来たのでまったりとしていました。
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