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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(11)君に起こる奇跡 - 4 -

「郷愁の丘」の続き、四回に分けた「君に起こる奇跡」の最後です。

ニューヨーク滞在最後の夜、パーティから一人逃げ帰ってしまったグレッグは《Sunrise Diner》に入っていきました。この人、はじめてのニューヨークでしたが、学会以外はいつもジョルジアとこの界隈でご飯を食べていただけなので、他の店をまったく知らない状態です。

キャシーのお薦めメニューは、大切なキャラを何回も快く貸してくださったTOM-Fさんへのお礼のつもりで書きました。きっとこういうのお好きじゃないかな~と思って。食べているメンバーが、あまり可愛くないのがなんですが(笑)よかったら、オリキャラをつれて《Sunrise Diner》に召し上がりにいらしてくださいね。

さて、まだ十一月ですが、キリがいいところでもあるし「郷愁の丘」本編の連載を中断します。ただし、十二月には関連する外伝を発表する予定です。どうぞお楽しみに。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(11)君に起こる奇跡 - 4 -

「あれ、独り?」
カウンターからキャシーが声を掛けた。彼は黙って頷くと、常連たちが好む入口近くではなく奥の小さいテーブルの方を見て「あそこに座っていいかい」と訊いた。

「なに陰氣な顔しているのよ」
メニューを持ってキャシーがテーブルまで来ると、彼は無言で肩をすくめた。

「ジョルジアは? 一緒にパーティに行ったんでしょ」
「まだダンジェロ氏たちと一緒にいるよ」

「喧嘩でもしたの?」
キャシーが訊くと彼は首を振った。

「もしかして彼女にはっきり振られたの?」
キャシーに真っ正面から切り込まれて、彼は自嘲的な笑みを漏らした。

「決定的な失恋なら半年以上前にしているよ。彼女にとって僕はただの友達だ。今さら……」

「じゃあ、どうしたって言うのよ。世界が終わったみたいな顔しちゃって」
「なんでもないよ。いつものことなんだ」

「いつものことって?」
「まったく期待していなかったわけじゃない。彼女と偶然再会して、一度あっただけの知り合いから友達になって……奇跡のようなことが起こる度に、今は無理でも、いつか、もしかしたらと思っていた」

「じゃあ、諦めたような事を言うのはやめなさいよ。前進あるのみでしょ?」
キャシーが快活に断言するのを、彼は眩しそうに見た。それからわずかに俯いて言葉を探した。

「彼女は、僕が彼女に似ているって言った。ケニアでは、僕はその言葉を半分信じていた。仕事の才能は別にして、僕みたいに、友達もいなくて、家族とも上手くいかなくて、社会からはみ出しているんだと」

 キャシーは、首を傾げた。彼は、口の端をゆがめてキャシーに頷いた。

「そうだよ。そんなのは完全な間違いだ。ここに来て、彼女には君やクレアやクライヴたちのような素晴らしい友達がたくさんいることを知った。彼女を心から愛している家族や、彼女の才能を最大限に生かしてくれるハドソン氏のような同僚のことも。彼女は僕なんかとはまるで違うんだ。ケニアで僕は彼女の愛する男にはなれなくても、一番の友達になろうと思った。家族や同僚の代わりに、なんでも話せる存在になろうと思った。でも、そういう存在はケニアなんて地の果てでなくても、ここニューヨークにたくさんいるんだ」

 キャシーは唇を尖らせた。
「だから何だって言うのよ」

「彼女には彼女の幸せがある。ふさわしい、誰もが羨むような男と知り合って、幸せの階段を昇っていく権利がある。彼女は素晴らしい人だからきっと上手くいく。そういうチャンスがめぐってきたことを彼女のために喜びたい。……でも、自分のわずかな希望が潰えていくのをのんびり眺めていられるほど僕は強くない。人生でどれだけ同じ事を繰り返してもやっぱり落ち込むんだ」

 それって、ジョルジアがパーティで誰かと恋に落ちたってこと? 信じがたいけれど、そうなのかしら? キャシーは、背中を丸めてメニューを開きもしないでじっと見つめているグレッグの様子に途方にくれた。

「そういうつらい氣持ちはわかるわよ。美味しいものを食べて元氣をだしなさいよ。今夜は私がおごってあげるから。ほら、選んで」

 彼は、メニューをゆっくりと開いた。だが、目がメニューの上を滑っているようだ。どうもまともに読んでいないらしい。まったく、しょうがないな。
「この特大バナナアイスクリームサンデーはどう? ニューヨークのいい思い出になるだろうから」

 彼は黙って頷いた。ほとんど聴いていないし、何が来るのかわかっているかも疑問だ。キャシーはため息をついて注文を入れると、カウンターに戻って他の客たちの皿を下げた。

 ドアの開く大きい音がしたので目を向けると、ジョルジアだった。見たこともないシックな装いだ。光沢のある緑のドレスと、暖かい黄色の外套がとてもエレガントで、キャシーは驚いた。うわ。ジョルジアがハイヒール。つまり、彼女はパーティ会場から飛んで来たわけね。グレッグを慰めたのは早計だったかな。

「私もパーティを嫌いなことを知っているのに、置いて帰るなんてひどいわ」
彼女は、まっすぐにグレッグのテーブルに近づいて行った。彼は、当惑して見上げた。

「どうしてここにいるってわかった?」
「ホテルに帰っていなかったから。あなたがいそうな所は他には思いつかなかったの」

 彼は、ためらいがちに訊いた。
「ミスター・クロンカイトに紹介してもらわなかったのか」

 ジョルジアは、首を振って彼の前に座った。
「だから帰ったの?」
「僕に起こった奇跡が、君にも起こったんだと思った。だから、君がこのチャンスを生かせるといいなと思った」

 彼女の表情は、とても優しくなった。
「マッテオは、私にあの人を紹介しようとしていたわけじゃないのよ。あなたとレイチェルの研究の話でしょう。それどころかマッテオとまともに話もしないで帰っちゃったじゃない。レイチェルは怒っていたわよ」

「彼は僕に援助してくれたりはしないだろう。君のお兄さんだと知っていたら、レイチェルの話に乗ったりはしなかった。君に迷惑をかけたくない。それに、彼も僕みたいなのが君の周りをウロチョロするのが不快みたいだ」

「そんなことないわ」
そう言うと、ジョルジアは彼女のiPhoneの画面をグレッグに向けた。数分前に届いたばかりのマッテオからのメールが表示されていた。

「契約書へのサインが欲しいから、明日の朝、もう一度彼を連れてくるように。信じられないよ。お前をパーティに連れてくることが出来るだけでなく、何もかも放り出させて後を追わさせることもできるなんて。しかも、僕が何ヶ月も恋焦がれている、あのボローニャ風ソースをこの広いニューヨークで滞在一日目にかすめとったんだぜ。見かけ通りのもの静かな男なんてことは絶対にないな」

「兄さん、あなたのことをとても氣にいっているみたいよ」
ジョルジアは、彼の潤んだ瞳を見つめた。

 彼が帰ったと知って、彼女は一瞬すらも迷わずにタクシー乗り場に急いでいた。一年以上もどうしても忘れることの出来なかった片想いの相手がその場にいて、知り合えたかもしれないという事実は、全く彼女を動かさなかった。彼女を支配していたひとつの恋は完全に終わっていたのだ。

「お待ちどうさま」
キャシーが運んできた大きなガラス鉢を見て、二人は固まった。

 それはバニラ、チョコレートとバナナのアイスが三球ずつ載っている上たっぷり生クリームを絞ったサンデーだった。その大きさときたら贅沢に四本使ったバナナが小さく見えるほどで、さらには胸焼けするほど沢山のホットチョコレートソースがかかっている。カロリーのことを考えたらどんな細身の女性でも憂鬱になる代物だった。

「一体何を食べようとしているのよ」
ジョルジアに言われて、彼は狼狽えてキャシーを見た。
「え、あの……」

「やっぱりね。何を注文しているかもわからないほど、心ここに在らずだったから。でも、私のおごりなんだから、ちゃんと全部食べてよ。ジョルジアも助けてあげなさいよ。この人がこんなにぼーっとしていたのはあなたのせいなんだし」
そう言って、キャシーはジョルジアの前にもスプーンとフォークを置いてウィンクをした。
 
 うん、きっとニューヨークの最高の思い出になるわね。キャシーは、サンデーを食べながらようやくいつもの穏やかな笑顔を取り戻したグレッグと、前よりもずっと幸せそうに笑うようになったジョルジアを見ながら満足げに微笑んだ。

 それからしばらくして、クレアたちが入ってきた。常連たちは、グレッグとジョルジアの周りに陣取った。特大バナナアイスクリームサンデーは、みるみる小さくなり、《Sunrise Diner》は明るい笑い声に満たされた。
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Posted by 八少女 夕

「樋水龍神縁起 東国放浪記 鬼の栖」を朗読していただきました

またまた嬉しいお知らせです。

いつも御世話になっているもぐらさんが、当ブログで不定期連載をしている「樋水龍神縁起 東国放浪記」から「鬼の栖」を朗読してくださいました。


 さとる文庫 「第398回 樋水龍神縁起 東国放浪記 鬼の栖」

もぐらさんは、「さとる文庫」というサイトで、オリジナル作品、青空文庫に入っている作品、そして創作ブロガーさんたちの作品を朗読して発表する活動をなさっているブロガーさんです。

今回朗読していただいた作品は今年の「scriviamo!」にご参加くださって寄せていただいた『だまされた貧乏神』に対する私のアンサーとして発表したものなのです。

いつものごとく長い作品なので、まさか朗読していただけるとは思っていなかったのですが、わざわざ作品上の季節と同じ秋になるのを待って発表してくださいました。サイト「さとる文庫」を拝見すると、ほかの皆さんの作品は大抵五分くらいで読めるようなのですが、私の作品を読んでいただくといつも二十分を超えてしまって、本当に申し訳ないです。

この作品には、もぐらさんの紡いでくださった物語を組み込んで書きました。もぐらさんは、語りで「格調高くなった」と持ち上げてくださいましたが、ええと、平安時代の言葉を混ぜているだけで、五割増しそれっぽくなって感じられるんですよね。大事な作品を壊さないように頑張ったつもりですが、いつも発表するまではご氣分を害されるんじゃないかとドキドキするのです。怒られなくてホッとしたのが昨日の事のようですが、あ、またもうじき「scriviamo!」の季節だ。また参加してくださるかな……。してくださると嬉しいけれど。

というわけで、いろいろな思いのある作品でもあります。

私は「自分の作品大好き」というかなり痛い傾向のある人間なのですが、さすがに世間の皆さんまでがそう思ってくださるほど周りが見えなくなっているわけではありません。そういう中で、わざわざ大変な時間と手間をかけて、朗読していただけるのは本当に嬉しいです。もぐらさん、どうもありがとうございました。

皆さんも、たくさんの素敵な作品を紹介なさっている「さとる文庫」にぜひいらしてみてください。




「樋水龍神縁起 東国放浪記」は才智に長けつつも慢心したために罪を犯した陰陽師が、贖罪に残りの人生を捧げる様を描いた平安時代の放浪譚です。現代のストーリー「樋水龍神縁起」の外伝になっていますが、単独でも読めますし、さらに毎話ほぼ読み切りのような形で書いています。まだお読みになった事がない方は、是非この機会にどうぞ。

「樋水龍神縁起 東国放浪記」をまとめて読む 「樋水龍神縁起 東国放浪記」をまとめて読む
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Posted by 八少女 夕

Macの環境を再整備中

先日、新しいMacを購入しました。といっても、新品ではありますが2014年のモデル。っていうか、Mac Miniにはここしばらく新しいモデルが出ていなくて。つい最近、またしばらくしたら出るとAppleから発表されたけれど、もう買っちゃったもの。

Mac Mini

新しくした理由は、ひとえに前のMac Mini (Late 2009モデル) はOSもメモリも、使えるとは言えかなり限界に近い状態だったこと。それに、一応Mac OSX Sierraを入れてはいたのだけれど、最新のHigh Sierraでは対象外になっていて、iOSがどんどんアップデートして行くとそのうちにシンクロできなくなるなどの問題が出て来そうだったということもあります。本当にどうにもならなくなってから買い直すよりも、早めにやっておかないと、色々とストップして苦悩することは、過去の経験でわかっているので、自分への誕生日祝いも兼ねて買い直したのです。

新しいMacはディスク容量もメモリも十分で、移行が無事に終わった今は、ものすごく快適に使えています。

そして、この機会に使えなくなっていたアプリなどを見直して、今後使う新しいシステムなどを考えています。

自分が使いなれていると、あまり世間の流れなどを調べたりしないのですが、いつの間にか愛用のアプリがサポート終了になっていたりするのです。

その内の一つがBentoというデータベースアプリで、私はこれ一つに役所や保険会社など宛の公式文章を保存したり、手紙用の宛名ラベルを印刷するのに使っていたりしたのですが、これもサポートがとっくに終了しているので早かれ遅かれ卒業しなくてはいけません。

色々と考えた挙句、宛名ラベルは年賀状にしか使っていないので、日本郵政の出している「はがきデザインキット2018」というアプリを導入しました。ハガキの正しい位置に郵便番号と住所を配置してくれるので、直接ハガキに印刷してしまう事にしたのです。そして文章の方は、Tap Formsというカード式データベースアプリを見つけて、Bentoのデータをインポートしました。使い勝手はほぼ同じ、いや、少し使いやすくなりました。

同様に、Macのメンテナンス用のOnyxというアプリを使ったり、FTPサーバの設定を変えたりしているうちに、あれもこれも全然動いていない事が発覚。調べたらもう長らく色々と変わっていて、動くはずなどない事がわかりました。これも新バージョンをダウンロードしたり、メンテナンスを済ませてきちんと動く状態にしたので一安心です。

さらに、私はAdobe CS5.5をいまだに愛用しているのですが、こちらもサポートが切れているのでいつ使えなくなるかわかりません。なので、Parallels Desktopというバーチャル環境を用意してくれるアプリケーションを買ってありました。新しいマシンでHDDやメモリに余裕ができたので、こちらもきちんと用意してバーチャル環境で動くようにしました。小説を縦書きPDFにするときに、InDesignが必要ですし、IllustratorやPhotoshopもせっかく高いお金を出して買ったので使えなくなるのは残念ですからね。
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(11)君に起こる奇跡 - 3 -

「郷愁の丘」の続き、四回に分けた「君に起こる奇跡」の三回目です。

パーティには、学会の出席者の他にWWFの有名会員たちが出席していて、その一人であるジョルジアの兄マッテオに紹介してもらうために嫌いなパーティに仕方なくやってきたグレッグ。マッテオは、会場でとある有名人の存在に氣がつきました。著名なニュースキャスターです。前作をご存じない方のために申し上げますが、この方は私のキャラではなくTOM-Fさんからお借りしています。「ニューヨークの日本人」シリーズからのご縁で、私のこの小説の世界にかなり重要な役のゲストとしてご登場いただきました。TOM-Fさん、いつもありがとうございます。勝手にお借りするのは、今回が最後になると思います。

強敵登場に、グレッグはどうするのでしょう。って、いつもの得意技を発動するんですけれどね。今回は、この小説では数少ないグレッグ視点の描写になっています。彼が何をどう感じていたのか、今回と次回で少しわかることと思います。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(11)君に起こる奇跡 - 3 -

 レイチェルとグレッグはマッテオの視線を追った。グレッグははっとした。その男が誰だか知っていた。

 ジョセフ・クロンカイト。著名なジャーナリストだ。もっとも前から知っていたわけではない。ジョルジアが、恋に落ちてしまったと告白した時に初めて名前を知ったのだ。モンバサからマリンディに向かう車の中のことだった。彼女がアメリカに帰ったあと、ナイロビでニューズウィーク誌の表紙にその名前を見て買った。彼の写真と現在追っている環境問題が特集されていた。

 緻密な考え方と鋭い問題意識。弱者に対する優しい視点としっかりとした背景の感じられる正しさ。自ずと表れている品格。洗練された態度と、常に人から見られていることからくる完成された身のこなし。そこに載っていたのは誰もが認めざるを得ない人生の勝者だった。

 彼は、その雑誌を閉じると二度と開かなかった。自分とのあまりの違いにひどく打ちのめされ、その敗北感に耐えられなかったから。それでもその姿は脳裏に焼き付き、細部までも心に残っていた。

「いいところに。あれはかのジョセフ・クロンカイトだろう」
「まあ。そうよ。間違いないわ。例のCNNの環境プロジェクトで、野生動物保護も取り上げるつもりじゃないかしら」

「アフリカに関しては、ここのところ南のプロジェクトばかり取り上げられているんだよな。うまく東アフリカの話に関心を持ってもらって、君たちのプロジェクトを紹介してもらうようにしむけられたら最高じゃないか? たったの五分の放映でも、何万ドルの広告を打つかそれ以上の効果があるんだぜ。幸い一緒に歩いているのは僕が何年も広告を出しているヘルス番組のディレクターだ。さっそく紹介してもらおう。ジョルジア、早く帰ってこないかな。緑の妖精さんにも愛想を振る舞ってもらわなくちゃ」

 マッテオの言葉を聞いて、グレッグははっとした。彼は、ジョルジアが電話をするために出て行った戸口の方を見た。それから、辺りを払うような、有名人特有のオーラを放つジャーナリストを見た。心臓が引き絞られるようだった。

「彼女を見てきます」
それだけようやく口にすると、レイチェルとマッテオの側から離れた。

 彼は、人混みに紛れて入口の方へ向かうと、ほとんど口を付けていないワイングラスをボーイに返した。

 それからしばらく立ちすくんでいたが、懐から財布を取り出すとボーイに少し多めのチップを渡して言った。
「すまないが、あそこにいるマッテオ・ダンジェロ氏とその連れの女性たちに、ヘンリー・スコットは帰ったと伝えてくれないか。失礼を詫びていたと」
「かしこまりました。お伝えします」

* * *


 彼はタクシーを降りると、ホテルには入らずにアベニューを歩いていった。この一週間、何往復したことだろう。そのほとんどの時にジョルジアは彼の傍らにいた。

 そして、二時間ほど前には、やはりこのアベニューで、パーティに向かうために待ち合わせた彼女のいつもとは全く違う美しい装いに息を飲んだ。

 あの時、華やかで笑いに満ちた成功者たちの園が、彼とその美しい同伴者を歓迎しているかのような錯覚に彼は陥っていた。今まで閉ざされていた多くの門に、歓迎の花束が添えられて待ち迎えていたように感じたのだ。たった一人の女性が一緒に向かってくれているというだけで。

 ジョルジアと彼女の愛するクロンカイト氏が出会って親しくなっていくのを見るのが辛くて、彼はそのパーティから、結局彼には馴染めなかった華やかな世界から逃げだしてしまった。

 彼は、夜なのにネオンの光で明るい街を見回した。引っ切りなしに通り過ぎる車と、それに劣らずたくさんいる人びと。そびえ立ち、視界を遮る高いビル。それは彼の馴染んでいる世界とはあまりに違った光景だった。ナイロビやロンドンなど、都会は一度であっても彼にとって親しい場所ではなかったが、彼はこれまでそれを悲しいと思ったことはなかった。ニューヨークについてからつい先ほどまでも。だが、いま彼はこの街に馴染めないでいることを悲しく思った。

 このパーティでそつなく振る舞って立派な研究者であると認めてもらうことこそが、ニューヨークに来た一番の目的であったことを思い出した。ダンジェロ氏から援助をもらえるかもしれないという夢のような話を聞いた時に、もしかしたら人生は急に好転していくのものなのかもしれないと思った。

 が、礼も尽くさずに逃げだしてきてしまい、援助してもらえるチャンスは潰えただろう。それどころか、彼にしてみたら妹にまとわりつく男は、追い払うべき害虫のような存在でしかない。

 また、うまくいかなかった。彼は、ため息をもらした。あの時と同じだ。

 学生時代に奨学金がもらいたくて、担当教授のところに推薦してほしいと頼みにいった。

「君の方が優秀なのはわかっているよ。でも、マクホール君は本当に経済的に困っているんだよ。君には立派なお父さん、スコット先生がいるだろう?」

 確かに彼がオックスフォードで学ぶための援助を父はしてくれた。だが、それは十分でなかった。それを率直に話して送金の増額を頼めるような関係でないことを、彼は教授に言えなかった。

 苦学生として認められるには父親は有名すぎた。「君は恵まれている」そう言われても、彼の窮状は変わらなかった。それは今でも同じだ。

 だが有名な父親が悪いわけではない。推薦してくれなかった教授のせいでもなければ、ダンジェロ氏が悪いわけでもない。本当に優秀ならば、事情がどうであれ援助してくれる人は自ずと現れる。父やレイチェルはそうであったように。

 彼は、人生のほとんどの時間で馴染んだ敗北感を噛み締めながら歩いた。嫌いなパーティに行ってまで兄に口添えしてくれようとしたジョルジアの好意も無駄にした。彼女は呆れて自分を見放すだろう。いや、もう僕の存在など意識にもないかもしれないな。

 あの美しい姿のジョルジアに紹介されて、興味を持たない男がいるだろうか。きっとあのニュースキャスターは僕と同じように心を射抜かれるだろう。そして、僕が上手く表現できなかった賞賛の言葉を、とても効果的に伝えるだろう。ダンジェロ氏がそうしたみたいに。

 どんな恋だって実らないのは当然だ。想えば想うほど、何も言えなくなってしまうなんてティーンエイジャー以下だ。時間をかけて、ゆっくり伝えられればいいだなんて、笑い話にもならない。こんなスピードで世界が動いていく大都会に生きている女性相手に。

 いつの間にか《Sunrise Diner》の前に来ていた。グレッグは、オレンジに輝くネオンサインをしばらく見上げてから、扉を押して中に入った。

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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

ダイソンV8買っちゃった

自分の誕生日用に大きな買い物をする事は、珍しくないのですが、今年は二つ目……。でも、家事のために必要なものだから、いいということにしてもらいましょう。

ずっと欲しかったのが、ダイソンのコードレスクリーナーです。それをついに買ってしまいました。ハンドクリーナー兼用で、コード付きとかわらないくらいパワフルな便利な掃除機です。


New: Dyson V8 Cordless Vacuums - Official Dyson Video

我が家には階段はないのですが、それでもコードのある掃除機では使うのにストレスフルな場所が結構あったのです。

それで、十年以上前にE社製のコードレスクリーナーを買ったのですが、吸引力が全然足りなくて、ほとんど使い物にならなかったのです。「コードレスはだめか……」と諦めていたのですが、ネットでは「ダイソンのは吸引力がぜんぜん違う、高いけれど」とい評判を目にして「う〜ん、どうしようかなあ」と思っていたのです。ネットでは、もう一つとてもいいといわれるM社のコードレスクリーナーもありましたが、日本でしか売っていないものは、コードの形状が違うので充電できませんし、どうしようもありません。

そして、ネットで色々と調べる事数ヶ月。ダイソンには色々とモデルがあるのですが、我が家はフローリングが主ですので、ソフトクリーナーモーターヘッドといわれる、吸い込みパーツのあるものが欲しくなりました。スイスでそのパーツを買うとなると「Absolute」もしくは「Fluffy」といわれるシリーズになります。で、値段を比較したら、一つ前のモデル「V7」のソフトクリーナーモーターヘッドしかついていない「V7 Fluffy」と50CHF(5600円くらい)しか違わないのに、カーペット用のダイレクトドライブクリーナーヘッド、マットレスなどにもいいミニモーターヘッドなどがついていて、稼働時間も十分長い四十分の「Dyson V8 Absolute」を買うのが一番いいという結論になりました。(すみません、文字だと今ひとつ伝わりませんね。詳しくはダイソンのページを見てください)

そして、確かに高いんですけれど、日本のサイトでほぼ同じモデルの値段を見たら、「あれ? こっちではずっと安いぞ」。今月は、普段行っているスーパーで電化製品のポイントが十倍で、さらに「Dyson V8 Absolute」が20%オフ。つまり、買うなら今しかないという千載一遇のチャンスが巡って来たんです。結局480CHF(54700円ぐらい)で買えてしまいました。もちろん、掃除機としては少し高いですが、毎日使ってその便利さを実感しているので、納得の買い物でした。
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(11)君に起こる奇跡 - 2 -

「郷愁の丘」の続き、四回に分けた「君に起こる奇跡」の二回目です。

グレッグに引き合わせてくれようとしていた大富豪マッテオ・ダンジェロがジョルジアの兄だということを初めて知ったレイチェルとグレッグ。一方、マッテオも溺愛している妹がいつもとまったく違った態度をグレッグに示していることを見てとり興味を持ったようです。ジョルジアはマッテオにも何も話していませんでしたから。

横文字の名前を覚えるのが苦手という方のために、ここでもう一度解説しておきますが、ジェームス・スコット博士は、グレッグの父親(グレッグが十歳の時に離婚)でレイチェル・ムーア博士の恋人です。マディというのは、二人の間の娘で、グレッグの腹ちがいの妹です。そして、お忘れかもしれませんが、アマンダというのはジョルジアがグレッグとの仲を密かに疑っていたキクユ族の手伝いの少女ですね。

そして、最後に登場する人は……前作をお読みの方なら予想がつくかもしれませんね。すみません、わざとじゃないですけれど、今週はここでお預けです。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(11)君に起こる奇跡 - 2 -

 バーの方に二人が歩いていって、声が届かなくなるのを確認すると、マッテオはレイチェルの方に向き直って微笑んだ。
「レイチェル。どうして今まで教えてくれなかったんだい?」

「何を?」
「君が、ジョルジアのボーイフレンドを紹介してくれるってことをだよ」

「ねえ、マッテオ。私はジョルジアがあなたの妹だって本当に知らなかったのよ」
「ああ、そうか。彼女は君にも黙っていたんだね。彼は、ジェームスの息子だって言ったね」
「ええ」

「ジェームスから一度も息子が同じ畑にいるとは聞いたことがなかったので、今回の依頼メールを読んだ時にはずいぶん驚いたんだぜ」

「わかっているわ。実を言うと、今回の依頼も私が個人的にヘンリーに奨めたの。正直言って、ジェームスと彼は、あまり交流がないのよ。ケンカしているわけじゃないんだけれど、ヘンリーは人付き合いがあまり上手な方じゃないし。ジェームスも、彼のお母さんとひどく憎み合っていたので、離婚以来息子である彼ともずっと連絡を絶っていて、他人みたいな人間関係しか築いてこられなかったの。それもあって、いまさら自分から歩み寄りにくいみたい。でも、ジェームスとの親子関係の事情は別として、ヘンリーの研究は地味だけれど大きな意義があるの。こういう基礎研究はすぐに何かが返ってくるわけではないので皆なかなかスポンサーになってくれないの。彼は、自分から人脈を形成していくタイプではないし放っておいたら研究に生活費までつぎ込んで飢え死にしてしまうんじゃないかって心配だわ」

 マッテオはため息をついた。
「彼には、生活面で心配してくれるような人はいないのか。家事もなにもかも一人でやっているのか?」
「いいえ。簡単なことは出来るけれど、掃除・洗濯や簡単な炊事は、キクユ族の娘が通ってやっているわ。そういう使用人を雇うのは、ケニアではものすごく裕福でなくても普通のことなの」

「その娘っていうのは、もしかして……。その、詮索して悪いけれど……」
「いいえ。わかるわ。大切な妹さんが関係しているからよけい氣になるんでしょう? その心配はないと思うわ。あなたも見ていてわかったと思うけれど、彼はジョルジアに夢中なの。残念ながら友達の枠は超えられていないみたいだけれど」

 それから声を顰めて言った。
「そのアマンダという娘はね。実のところヘンリーの妻の座を狙っているの。でも、彼のことが好きなんじゃなくて、単に白人の奥様になって、使用人にいろいろとやらせて、好きなものを買ってもらう生活をしたいだけなのよ。本当に計算高い娘なのよ。ヘンリーもそれはわかっているわ。一度引っかからないようにしなさいって忠告したら、笑って言っていたもの、彼女には村に恋人がいてベタベタしているのを見たことがあるって」

「そうか。そういうことなら、僕が彼の立場でも警戒するだろうな。出来心でも手を出すような真似はしないか」

「彼は、不器用すぎてため息がでるくらいなの。とても純粋なんだと思うし、悪いことだとは思わないけれど、このままじゃ永久に独り者だとマディもヤキモキしているわ。あなたの大切な妹のお相手としては物足りないと思うけれど、私たちは二人が上手くいったらいいのにって思っているわ」

「僕は彼女の交友関係を邪魔したりするつもりはないんだ。彼女ももうティーンエイジャーじゃないからね。いま彼女がつき合っている友人たちは、数は少ないけれど信用できる人ばかりだ。彼女の人を見る目については僕は全く心配していないよ。それに、君と彼女の両方が援助するに値するというなら、もちろん彼の研究だって応援するとも。成果が百年後にでることだって構いやしないさ。明日大金が転がり込むかどうかで援助を決定するのは、篤志とは言えないからね」

 彼は、グレッグが一人でこちらに戻ってくるのを見ながら、レイチェルに訊いた。
「ところで、なぜジョルジアは彼をグレッグと呼ぶんだい?」
「さあ、わからないわ。彼のミドルネームは、ジェームスの父親グレゴリーからもらったのだと思うわ。でも、彼は、たいていヘンリー・スコットとだけ名乗るし、私の知る限り、ジェームスを含めてみな彼をヘンリーと呼んでいるわよ」

 戻ってきたグレッグに、マッテオは訊いた。
「ジョルジアは?」

 グレッグは説明した。二人が、バーに着いたとき、ジョルジアのバッグからメッセージの着信音が響いたのだ。ベンジャミン・ハドソンからで資料のありかを電話で説明するために彼女は会場の外に出た。

「会社と連絡を取らなくてはならないそうで、電話をしてから来るそうです」
「そうでしたか。今、レイチェルとあなたへの援助の事を話していたのですがね。……と、あれ。あそこにいるのは……」

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Posted by 八少女 夕

もう11月

しょっちゅう同じことを書いているような氣がしますが、どうも「光陰矢の如し」が年々すごいことになっているような。かつては「矢の如し」なんて言っても「一週間は長いなあ」などと相対的に長かったり短かったりしたものですが、最近は関係なく、矢の速さどころかどんどん音速化して、光速化ももうすぐという感じです。

十一月は、私にとっては日本でいうと師走のような忙しい月になります。日本の家族へのクリスマスプレゼントを用意したり、年賀状のことを考えたり、来年のブログの運営の準備を始めたりと、やる事が色々とあるのです。そのぶん十二月の方が少しゆったりすることになります。

さて、このブログを運営してから五年半以上経ち、年間の予定もブログを中心に考えるようになりましたが、「昨日scriviamo!が終わったのに、もう年末じゃない」と考えるように。その間、「書く書く詐欺」の各作品は一向に進まず……すみません。

そして、そろそろ来年のことを発表しておこうかと思います。というのは、このブログの運営、半分以上が企画を中心に成り立っているようなものでして、毎年参加してくださってくださる方にも、少し早めにお報せしておく方がいいかなと。

こちらは一応小説ブログですので、小説の掲載についてだけは毎年予定を立てています。少なくともこれまではなんとか予定通りにこなせているので、来年もうまく行くといいなと思っています。来年は、定番の連載(「郷愁の丘」の完結後の連載は未定です)と「十二ヶ月の情景」の二本体制で運営して行こうと思います。

年末にもう一度ちゃんと細かいお報せの記事をあげますが、来年も「scriviamo!」を開催します。(ご存じない方は、過去の五回の「scriviamo!」をご覧ください)毎年ご参加くださっている常連の方も、いままで様子見だった方も、しばらくご無沙汰だわという方も、皆さまにご参加いただければ嬉しいです。

そして、おそらく「scriviamo!」開催中にカウンターの100,000Hitが来るのではないかと思います。普段でしたらスルーしますが、さすがにスルーするにはしのびない大台ですので、記念企画を別に立ち上げる予定です。詳しくはもう少し現実的になってからお報せしますが、「十二ヶ月の情景」の各月の作品を、皆様からのリクエストで書いていこうと思っています。ヒットしてからの先着順になりますが、こちらもこぞってご参加いただければ嬉しいです。

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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(11)君に起こる奇跡 - 1 -

「郷愁の丘」の続きです。グレッグの渡米について記述する最後の章「君に起こる奇跡」です。今回、三回に切るか、四回にするか悩んだのですが、結局四回に分けることにしました。大して長くないつもりだったのですが、結構字数がありました。

実は、今年の「郷愁の丘」本編の連載は、この「君に起こる奇跡」までとなります。来年もまた「scriviamo!」を開催予定なので、例年のようにみなさんにご参加をいただけると仮定すると、まるまる三ヶ月間「郷愁の丘」の連載がストップします。ただ、今年の終わりに関連する外伝が入りますし、ストーリーも同じように季節が飛ぶので、偶然ですがちょうどいい季節に再開することを予定しています。

さて、今回は、グレッグが兄マッテオに援助を頼むということを知ったジョルジアが、彼のために嫌いなパーティに一緒に出席することを決めたところです。このパーティ、男性ならタキシード、女性もドレスという格式高いドレスコードがあるので、普段デニムにTシャツ姿のジョルジアもちゃんと着飾って登場します。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(11)君に起こる奇跡 - 1 -

 約束より少し早くからホテルの前で待っていたグレッグは、何台目かのタクシーが停まり、知らない人たちが乗ったり降りたりするのを見るとはなしに眺めていた。ジョルジアは、車の中から彼に手を降ったが氣づいていないので、運転手に言って一度降りた。確かにいつもとは違うドレス姿だけれど、自分だってタキシードなんだから、そのくらい予想していてくれてもいいのに。ジョルジアはおかしくなって微笑んだ。彼は、手を振る彼女に氣づくと急いでこちらに寄ってきた。

 ジョルジアは光沢のある絹のシンプルなドレスを着ていた。フレンチスリーブのスレンダータイプでスクエアネックの胸元に大粒の真珠が品よく輝いている。同じ輝きのティアドロップ型のイヤリングも、耳元で揺れている。肌寒いので羽織っている暖かみのある黄色のコートは、長さもウエストの絞り具合もドレスにぴったりと合っていた。ヒールの高い絹のパンプスのせいで、いつもよりも背が高くなっている。

 彼は息を飲んで、何かを言おうとしてから口をつぐんだ。言葉を飲み込んでいる。もしくは思ったことを隠そうとしているように見えた。潤んだ瞳を見ながら、この表情をどこかで見たと思った。そして思い出した。《郷愁の丘》の彼の家で、あのボローニャ風ソースのスパゲティを出した時だ。でも、どうしたのかしら。

 ジョルジアは、自分のドレスを改めて見下ろして訊いた。
「どこか、おかしい?」

 彼は、慌てて答えた。
「そんなことないよ。素敵な色だ」

 ジョルジアは肩すかしを食らったように感じた。うんざりするほど褒めまくる兄マッテオに慣れてしまっていたからかもしれない。着飾ることは滅多になかったが、こんなに簡潔に服装を評価されたこともなかった。

「この色のドレスを着たのは初めてなの。今年妹がくれようとした中で、一番シンプルで露出が少なかったからこれをもらったんだけれど」
「妹さんが、しょっちゅうドレスをくれるのかい?」
「ええ。ファッションの仕事をしていて、シーズンごとに沢山の服をとり替えるの。ほとんど着ていない服ばかりよ。おかげで私はほとんど買わずに済んで助かるわ。ドレスって高いし流行もすぐに変わってそんなに長く着られないから。男の人が羨ましい」

 彼は笑って自分の着ているタキシードを見た。
「確かにね。僕はずいぶん長いことこれを着ているよ。年に一度着るか着ないかだ。次の時に着られなくなると困るから太らないように氣をつけなくちゃいけないんだ」

 二人は同時に笑い出した。それから再びタクシーに乗って、会場に急いだ。

 レイチェルは既に来ていて、たくさんの友人に囲まれて談笑していたが、二人を見ると歓声を上げて近づいてきた。
「久しぶりね、ジョルジア。まあ、今日の装いはなんて綺麗なのかしら。あなたがとても美人なのは、ちゃんと氣づいていたわよ。あなたにこうしてまた逢えて本当に嬉しいのよ。マッテオと知り合いなんですって? 彼はもう来ていたわ。早速、彼にこのシャイな研究者を紹介しちゃいましょう」

 レイチェルは、人混みを上手にかき分けて、奥で主催者たちと談笑しているマッテオのもとに二人を連れて行った。レイチェルが手を振って声を掛けようとした時に、マッテオの方も氣がついてこちらに顔を向けた。そして、大きく驚いた様子を見せると、駆け寄ってきた。

「なんてことだ! ジョルジア! お前にここで逢えるなんて、僕は夢を見ているのか?!」

 それから、驚く周りの様子にも構わずに、固く抱きしめて頬にキスの雨を降らせた。いつもの事ながらジョルジアは少し困った。
「大袈裟よ、マッテオ。確かにちょっと久しぶりだけれど」

 あまりの親密ぶりに、レイチェルもグレッグも戸惑っているようだったので、彼女は慌てて言った。
「実は、マッテオは、私の兄なの」

「え? あなたたちが兄妹?」
「そう。僕の本名は、マッテオ・カペッリなんだ。僕には自慢の妹が二人いるんだよ」
満面の笑顔でそういうと、再び愛しそうにジョルジアを見つめて賞賛の言葉を発した。
 
「ああ。僕の愛しい妖精さん! 今宵はまた一段と美しいね! この緑はエル・グレコの絵で聖母が纏っていた色だね。本当にお前によく似合っているよ。もし天国に森があるとしたら、お前のように輝かしく優美な天使が待っているに違いないよ。それに、僕の贈った真珠を使ってくれているんだね。とても嬉しいよ」

 ジョルジアは、先ほどグレッグがドレスの同じ色についてたったひと言で済ませたことを思い出して、思わず笑った。

「ありがとう、兄さん。ところで、レイチェルから聞いていると思うけれど、私の大切な友達を紹介させて。グレッグ、ヘンリー・グレゴリー・スコット博士よ」

 そう言われて、マッテオは改めてその場に立ちすくんでいたグレッグに目を移した。彼は人懐こい笑顔を見せて歩み寄るとしっかりと握手をした。
「それでは、あなたがドクター・スコット・ジュニアですか。はじめまして。お逢いするのを楽しみにしていましたよ」

「はじめまして」
グレッグの声からは強い緊張が感じられた。マッテオの放つ圧倒的なパワーに氣後れしている。ジョルジアは、彼を力づけるために近くに立った。

「ニューヨークははじめてだそうですね。お氣に召しましたか?」
「はい。妹さんに、案内していただきました」

「そうなのか、ジョルジア? どこにお連れしたんだ?」
「ノースフォークの海岸よ。私たちの住んでいたところ。ああいうところは、ツアーの旅行じゃ見られないでしょう? この間、電話をもらった日よ」

 マッテオは「そうか」と嬉しそうに頷いたが、ふと思い出したように「あの日?」と言ってからグレッグの方を向いて片眉を上げた。

「ということは……あのボローニャ風ソースを食べてしまった急な客っていうのは、もしかしてあなたなんですか、スコット博士?」

 グレッグは戸惑いながら頷いた。
「はい。美味しかったです」

「美味しかった? もちろん美味しいに決まっていますが、そんな簡単な表現で、あのソースを?」
「マッテオ、やめてよ! そんなに食べたいなら、来週でもまた作って持っていくから……」

「ああ、ジョルジア。僕の小さなコックさん。お前の休日を僕のために無駄にさせるなんて出来ると思うのかい。なんせあのソースを作るのにお前を台所に縛り付けなくちゃいけない時間は八時間以上なんだから」

「八時間?! そんなに?」
グレッグが驚きの声を上げた。マッテオは、それを聞くと極上の微笑みを見せながら、グレッグに歩み寄った。

「まさか、あれがレトルトパックのパスタソースを温めるのと同じ手間で出来たと思っていたわけじゃないでしょうね。ノンナ直伝のあの味を作れるのは、このアメリカでは彼女だけなんですから。僕が行くニューヨーク最高のイタリアンレストランでも、あの愛に満ちた味は超えられないんですよ」

「い、いや、うちで作ってもらった時に時間がかかる事は聞いたんですが、まさかそんなに……」
「うち? まさか、あなたは、あれをもう二回も食べたなんて言うんじゃないでしょうね」
「兄さん! 本当にいい加減にして。たかがパスタソースのことで、グレッグに絡まないで」

 マッテオは、少し不思議そうに妹を一瞥すると、愛しげに微笑んで言った。
「わかったよ。僕の小さなカンノーロちゃん。これ以上、彼を嫉むとお前に嫌われてしまうな。そんなことになったら、僕は悲しみで死んでしまうよ。何を飲みたい? ボーイがいろいろと運んできてくれるけれど、僕のおすすめはあのバーにあるスーペル・トスカーナだな。一時間後にはもうなくなるぞ」

 ジョルジアは微笑むと、あっけにとられているレイチェルに向かって肩をすくめてみせてから、グレッグに言った。
「わかったわ。じゃあ、私たちもそのワインをもらってきましょう」
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Posted by 八少女 夕

少しずつ片付いてきた

今日はシンプルライフ……というか、どちらかというと住まいのお片づけメソッドのことを書いてみようと思います。

日本に暮らしていた最後の頃に一度熱心に信奉していたシンプルライフ。スイスに越してきたはじめの頃は、なんせたくさんのものを持ってこれなかったおかげで、何もしなくてもかなり「かっこいいシンプルライフ」を実現できていたのですが、同じところに二十年近く暮らしていると、いくらシンプルを目指していてもどんどんモノが増えていきます。

私はファッションにはほとんど興味がないので、ワードローブがパンパンになるということはほとんどないんですが、家事関係の便利品や、コンピュータ関係、それ日本などが色々とたまり、作業机の上や棚が「片付いているとは言えなくもないけれど、なんか掃除がしにくい」状態になっていました。完璧な汚部屋とちがって「まあ、これならいいか」程度だったのですが、それを少し改めたのです。

きっかけとなったのは、たまたまヘンナ染の情報を探していてたどり着いたこちらのブログでした。

 筆子ジャーナル

この筆子さん、私と同じく海外移住組のようです。私と違って徹底したミニマリストで、それに関する本なども出していらっしゃる専門家です。

片付け、ミニマリスト生活の他に、資源や健康に関する基本的な考え方も、私の実践しているものと近いものが多く、興味をもって足を運ぶようになりました。

片付けに関する記事はたくさんあるのですが、目に入った中で、アメリカのフライレディというお片付け指南サイトの情報をまとめたものがとてもわかりやすかったので、そこから読み始めました。

 筆子ジャーナル - アメリカのお片づけ指南サイト、フライレディに関する記事のまとめ

その第一歩が、ものすごくわかりやすくって「とにかく台所のシンクをピカピカにしなさい」というものなんです。本当にそれだけ。「そんなんで片付くわけないじゃん」と思うでしょう? 私も半信半疑だったのですが、それくらいなら別になんでもなくできるので実践してみました。

あ、それまでもシンクに汚れ物があったわけじゃないんですよ。基本は、シンクにはなにもない状態でした。ただ、べつにいちいちシンクの水分を拭き取ってピカピカにするところまでしていなかったのです。シンクは週に一度、クレンザーで磨いてピカピカにしていましたが、それ以外は流しっぱなしでした。これを、食事が終わる度にピカピカにするだけです。

これをやると、変化が出てくるんですよ。一度ピカピカにしたシンクに、また水滴をつけるのが嫌になるので、それまで食後の後片付けが何段階にもなっていて洗っては流し、片付けては流しとやっていたのが、すぐに完璧に終わらせるようになりました。

シンクがピカピカだと、どうもコンロ周りやテーブルも氣になるもので、それも食後すぐに片付けることに。そのうちに、食後の片付けに手間がかかるのは、余分なものがテーブルの上にあることだとわかり、不要なものをしまうことに。しまう場所のちゃんとしていなかったものがあることがわかり、収納場所に入っていたいらないものを処分することに。

という連鎖が起きて、なぜか台所もリビングも寝室もどんどん連鎖的に片付いてしまったのです。この間は、結局読んでいない日本語の本をかなり処分しましたし、同時に全然つかっていない増え過ぎの料理レシピ本も三割ほど退けました。これで、本を収納するスペースに余裕ができて、使ったらすぐしまうのも苦にならなくなったのです。

ああ、そうか、シンプルライフが理想なんていいながら、結局ずっと停滞していたのか、そんなふうに思いました。

そうやって物理的に片付け出したら、それ以外のいろいろなことも進むようにもなりました。デスクの上に積んでおいて処理を忘れた書類が数カ月後に出てくることもなくなりましたし、物事の優先順位もはっきりしてきました。イライラも減りました。

その一環で、ずっと買い換えたいと思っていたけれど、今のものがまだ使えるから勿体無いと無理して使いストレスになってたものがあることにも氣づきました。主に家電です。これらも少しずつ買い換えることにしました。不要なものをたくさん溜め込むのをやめて、その浮いたお金で欲しかったのに我慢していたものを買うほうがいいと思うようになったのです。その手始めが、新しいMacです。

筆子さんのミニマリスト生活には、まったく及びませんが、自分らしく快適な生活を送れるようになったので、とても嬉しいです。
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Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -12- カーディナル

WEB月刊誌「Stella」参加作品「バッカスからの招待状」です。東京・大手町にある隠れ家のようなバー『Bacchus』。バーテンダー兼店主の田中佑二が迎える客たちのなんて事はない話をほぼ読み切りのような形でお届けしてます。

今回は、今年最後の「Stella」参加作品で、かつボージョレ・ヌーヴォーの解禁に近い頃の発刊ということなので、ボージョレのワインとクリスマス(キリストの誕生日)にちなんだカクテルを題材に選んでみました。

なお、細かいことが氣になる方のモヤモヤをはじめから晴らすためにここに書かせていただきますが、一般に日本で発音されている「ボジョレー・ヌーボー」ともう一つ「ボージョレ・ヌーヴォー」の二つの単語を混在して記述しています。違いは、バーテンダーの田中は、本来のフランス語の発音を口にしているので「ボージョレ」「ヌーヴォー」で、客たちは日本語として一般的な「ボジョレー・ヌーボー」と口にしているという設定です。

なお、「Stella」に「バッカスからの招待状」で参加するのは、今回でお終いにしようと思っています。この作品を終わりにするというわけではなく、来年からは、「十二ヶ月の〇〇」シリーズと「Stella」参加作品を兼ねる方向で行こうと思っています。というわけで、「バッカスからの招待状」は、「scriviamo!」やキリ番など折々にリクエストしてくだされば、頑張って書きます。ご理解のほど、よろしくお願いします。


月刊・Stella ステルラ 10、11月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


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バッカスからの招待状 -12- 
カーディナル


 麻里亜は、偶然その店を見つけた。できるだけ人目につかないところで飲みたくて、会社の同僚たちがいつも向かう道と反対側を東京駅に向かって歩いた。

 そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにあった。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と書かれていた。

 仕事で失敗したことは、仕方ない。そんなことは年中あることだ。巷がボジョレー・ヌーボーの解禁で騒いでいるのも毎年のことで、目くじらをたてることでもない。フランスを忌々しい国だと思っているのは単なる逆恨みだということも麻里亜はきちんと自覚していた。

 要するに失恋しただけのことだ。ライバルが神様ではどうやっても勝ち目はない。まったく。

「いらっしゃいませ」
少し重めのドアを開けると、丁寧な挨拶の声がした。

 カウンターの四十くらいの年齢のオールバックの男性が挨拶をした。落ち着いた声だ。冷たくも親し過ぎもしない、入りやすい応対だった。麻里亜はほっとした。カウンターにサラリーマンと思われる客が数名、少し離れた奥のテーブル席には話し込んでいるカップルがいた。

「一人なんですが」
「カウンターと奥のお席とどちらがよろしいですか」

 麻里亜は、ほかの客たちと少し離れた入り口に近いカウンター席をちらっと見た。察したバーテンダーが「こちらですね」と言ってくれたので、ホッとしてコートを脱いだ。

 彼女が落ちついて座るのを待ってから、バーテンダーは微笑んでいるような柔らかい口元で「どうぞ」とおしぼりを渡してくれた。続いて渡されたメニューをゆっくりと開いた。

「田中さん、そういえば今日はボジョレー・ヌーボーの解禁日だったよね。せっかくだから飲みたいけれど、僕、ワインはあまり詳しくないんだよね。どうなの?」
カウンターの真ん中に座って居る洒落たスーツの男性が訊いた。

「近藤さんは、葡萄ジュースにしておいた方がいいんじゃないの」
もっと奥の席のロマンスグレーの客が笑った。

「あ、ひどいなあ。たしかにサラトガは強すぎたけれど、ワイン一杯くらいなら、大丈夫ですよ」
近藤は頭をかいた。

 バーテンダーの田中は、にっこりと微笑みながら、別になった白いメニューを近藤に手渡した。

「今年はヴィラージュ・ヌーヴォーでは、ドミニク・ローランのものと、ルイ・ラト、そしてルイ・ジャドのものをご用意しています。ヨーロッパの天候がワイン向けではなかったので全体に収穫量が少なく入手が困難でした。また、ヌーヴォーではないのですが、特に優れたワインを生産している村でできたクリュ・ボージョレも別にメニューに載せています。こちらはとても良い出来ですよ」

 ボジョレー・ヌーボーなんて嫌い。格別美味しいわけでもないのに、毎年みんなで大騒ぎして。フランスもブルゴーニュも嫌い。放っておいてもみんなが押しかける場所なんだから、わざわざ私の目に触れるところで宣伝しないでほしい。それにイエス・キリストだって。毎年世界中の人が誕生日をお祝いしてくれる人氣者なんだから、わざわざ極東の仏教国から私の大事な人を連れて行かなくてもいいじゃない。……わかっている。何もかも私の逆恨みだって。でも……。

 麻里亜は、首を伸ばして近藤が検討しているその白いメニューを見た。嫌いといいつつ、やはり氣になるのだ。彼はまもなくブルゴーニュへと旅立つ。どこまでも葡萄畑の続く村に住むと言っていたから、来年はきっとこうしたワインを飲むことになるのだろう。

「よろしかったら、こちらもご覧になりますか」
氣づいた田中が、その白いメニューを麻里亜にも渡してくれた。彼女は困ったように言った。
「私、あまりお酒は詳しくないんです。それに、ワインだけはあまり飲まなくって。ヌーボーとか、ヴィラージュって、何が違うんですか」

 ロマンスグレーが聞きつけて笑った。
「お。よく質問してくれた! 僕もそれを知りたかったんだ」

 田中は、いくつかのボトルをカウンターに置いた。
「そもそもボージョレというのはフランス、ソーヌ=エ=ロワール県とローヌ県にまたがるボージョレ地方で生産されているブルゴーニュワインの一種です。このこれ以外のコミューンで作られたワインはボージョレと名乗ることは許されていません。ヌーヴォーというのは新しいという意味で、新酒、つまり今年収穫された葡萄で作られたお酒です。通常ワインは秋の初めに葡萄を収穫して、発酵させた後にゆっくりと熟成させ、翌春に出荷するものですが、その年のワインの出来を確認するためにマセラシオン・カルボニックという特別な方法で三週間ほどで発酵させて作るのです。こうやって作られたボージョレワインは初めてを意味するプリムールという規格となります。一般に言われているヌーヴォーとは、こちらにあたります。ボージョレのプリムールの出荷日は、十一月の第三木曜日と決まっているので、毎年解禁日が話題になるのですね」

「今年ってことは、あまり発酵していないってことだろう。だから僕でも一杯くらいなら問題ないと思うんだ。でも、クリュ・ボジョレーにヌーボーはないのか。それは知らなかったな」
近藤が、ほかの人より詳しいよという雰囲氣を撒き散らしながら言った。

 ロマンスグレーは「また近藤さんがはじまった」という顔をしてから田中に訊いた。
「クリュ・ボジョレーってのは何かってところから頼むよ」

「はい。ボージョレ地方の96村の中でもとくに高品質の葡萄で作る46の村で作られる高品質のワインはボージョレ・ヴィラージュと言って区別します。このプリムールつまり新酒は、ボージョレ・ヴィラージュ・ヌーヴォーと言います。ボージョレ・ヴィラージュの中でも更に限定された地域22の村で作られるワインを特にクリュ・ボージョレと言います。このクリュ・ボージョレには、プリムールという規格が適用されないことになっているので、たとえ今年出来たお酒でもヌーヴォーとは呼ばないというわけです。でも、高品質のボージョレ・ワインであることには変わりはありません。むしろ他のボージョレよりもいいワインである故に稀少でかつ値段も張るのです」

 田中の説明は、わかりやすいのだけれど、結局何を頼むべきか麻里亜にはわからなくなってしまった。
「私は、解禁日には興味がないからヌーボーじゃなくて良いわ。でも、せっかくだからボジョレーワインを使って、飲みやすいカクテルを作ってもらえませんか」

 田中は優しく笑った。
「かしこまりました。例えば、カーディナルはいかがでしょうか」

「カーディナル?」
麻里亜はメニューを見た。

「はい。白ワインとカシスリキュールで作るキールというカクテルを赤ワインに変えたバリエーションです。特にボージョレワインを使うのが本格的だとおっしゃる方もあります。色が濃い赤になりますので、枢機卿を意味するカーディナルと呼ばれているのです」

 麻里亜は、はっとした。
「枢機卿って、カトリックのお坊さんよね」

「そうですね。教皇に次ぐ高位の聖職者ですね。赤いマントや帽子を身につける決まりがあるそうです」

 彼女は力なく笑った。
「実は、私の幼馴染が、カトリックの助祭になったの。もうじきフランスのブルゴーニュ地方に赴任するんですって。偶然とは思えないから、それを作っていただこうかしら」

 田中は、頷いて、よく冷やしてあるクレーム・ド・カシスの瓶を取り出した。
「はい。割合は如何なさいますか。カシスリキュールの割合が多くなるほど甘めになります」

「ワインらしさがわかるようにしていただけますか」
「かしこまりました」

 彼はクリュ・ボージョレであるサン・タムールとクレーム・ド・カシスを九対一の割合にして用意した。ヌーヴォーほど軽くはなく、キールを用意するときほど冷えてはいない。カクテル通の客であれば、文句が来るかもしれない作り方だった。

 けれど、麻里亜のわずかに憂いに満ちた表情から、彼は彼女が「そうあるべきカクテル」ではないものを注文したのだろうと感じた。洒落た見かけや、解禁日の話題性ではなく、手の届かないところへ行ってしまう人を想うためのもっと深い飲み物を。

「美味しい。昔、一度だけボジョレー・ヌーボーを飲んだことがあるんだけれど、全然美味しいって思わなかったの。全然違うのね」

「こちらは、ヌーヴォーとは違う醸造法で作り、熟成に五年ほどかけています。愛の聖人という意味なんです。本来はカクテルにはしないワインですが、おそらく、これが一番ふさわしいのではないかと思いました」

 麻里亜の目元に光るものがあった。が、それは田中以外には誰も氣づかないわずかなものだった。

 紅く深い色を彼女は見つめた。カーディナル。私には遠い世界でも、彼には馴染みのある名前なんだろうな。

 他の人に笑われても、決して曲げなかった彼の信念を理解しようと思った。詳しいことはわからなくても、彼の子供の頃から変わらない高い理想と志を応援しようと思った。秘めていた自分の想いの行き場がなくなったことを苦しむこともやめようと思った。

「愛の聖人か。赤はハートの色だものね。私、キリスト教も、ブルゴーニュも、ボジョレーも、みんな嫌いになるところだったけれど、おかげでカーディナルが、一番好きなカクテルになりそう」

 麻里亜は、今晩ここにきてよかったと、しみじみと思った。

カーディナル(Cardinal)
標準的なレシピ
赤ワイン : 4~ 9
カシス・リキュール:1

作成方法: ワイン・グラスに、赤ワインとカシス・リキュールを注ぎ、軽くステアする。
ゴブレットの縁から静かにグレナディン・シロップを注ぎ、底に沈める。


(初出:2016年11月 書き下ろし)
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